ドロップキックインタビューより ヒクソングレイシーのマブダチ ダンイノサント派ジークンドーイントラクター中村頼永インタビュー ホリオングレイシー門下生茶帯?とのスパーリング

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http://ch.nicovideo.jp/dropkick/blomaga/ar1311713



運命のバリジャパ、安生道場破り、幻の長州戦真相――中村頼永インタビュー<ヒクソン来襲編>



2017-08-09 19:581

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大反響だったUSA修斗・中村頼永師父インタビュー前編! シューティング黎明期の知られざるエピソードが続々と披露されたが、後編となる今回はヒクソン来襲編! 渡米した中村師父がグレイシー一族と出会ったことが日本の格闘技界を大きく変えることになる……13000字のロングインタビューでお届けします!


<前回はコチラ>
「佐山先生に言われたんです。俺の影になってくれと」…中村頼永インタビュー<シューティング黎明編> http://ch.nicovideo.jp/dropkick/blomaga/ar1307583




――中村さんはアメリカではジークンドーの学校に通ったんですね。


中村 89年1月にアメリカに渡ったときに私がシューティングの人だと知った向こうの格闘技関係者から「グレイシー柔術という連中は誰にでも挑戦してくるから気をつけろ」と注意されたんですよ。



――喧嘩上等のヤバイ奴らだったんですね(笑)。



中村 「クレイジー柔術?」「そうなんだよ。クレイジーなんだよ」と(笑)。アルティメットの4年前のことですよ。


――まだバーリトゥードが知られてない時期ですね。


中村 佐山先生とは「バリツーズ」について話はしたことがあるんですけど。佐山先生が新日本プロレスにいた頃、イワン・ゴメスというブラジル人のバーリトゥードファイターが留学してたじゃないですか。ボクらは「バリツーズ」とはブラジルの格闘技という認識で「なんでもあり」を意味するとは思ってなかった。


――グレイシー柔術とはどういう出会いをしたんですか?



中村 ボクは2つの学校でジークンドーを習ってたんですけど、89年のある日、1つの学校のオーナーが「俺の知り合いにシュートレスリングを教えてくれないか?」って頼まれたんです。向こうではシューティングは射撃を意味するのでボクは普段「シュートレスリング」と呼んで説明していたんですね。その知り合いの人に2〜3時間丁寧にシューティングのグラウンド技術だけを教えていたら、最後にオーナーが「じゃあ2人でスパーリングをやってみて」って言われて。スパーしてみたら寝技がとにかくしつこかったんです。シューティングは当時寝技30秒ルールだったり、膠着したらブレイクで、積極的に速攻で極めないといけないからポジショニングの考えがなかったんですね。


――ポジションの概念が広まるのはUFC以降ですね。


中村 ポジションを取ってバランスを取って、ちょっとずつ崩して極めるのは30秒じゃとても足りないですから。でも、その人はいまで言うガードポジションを取ってジワジワと攻めてくる。「変わったペースで攻めてくるなあ……」と思いながら、ボクは相手の攻めをすべてブロックしてたんですよ。ボクたちも下から極める関節技のトレーニングをたくさんしてたので防御は知ってて。あのスパーはギじゃなくてTシャツでやったので、Tシャツを着た汗まみれのドロドロした戦いはボクのほうがうまかったので、最後は横四方固めをとってから手で肩を掴んで前腕で首を絞めたんですね。それで相手はタップ。



――そして、その相手の正体は……。


中村 じつはその人はホリオンの道場の黒帯のちょい前の人間で。当時のホリオンのところにはヒクソンもホイスもいますからね。


――知らないあいだにグレイシーの使い手とやらされていたんですね。


中村 そのオーナーは「誰と誰をやらせたら面白いか」みたいなことをやらせる人なんですよ。でも、やらせる前にボクのほうの種明かしをさせるのはね(笑)。こっちは相手が何をやるか知らないですから。


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アメリカでUSA修斗を立ち上げ、一時帰国した中村氏。佐山先生の顔もほころんでいる。


――グレイシーは当時は未知の格闘技ですもんね。それでよく勝ちましたねぇ。


中村 一本取ったことで何が起きたかというと、オーナーとダン・イノサント先生(ジークンドー最高師範)が評価してくれまして。アメリカの格闘技界隈でも話題になって、ボクが格闘技雑誌の表紙になっちゃったんですよね(笑)。


――日本から凄い格闘技がやってきた!と。


中村 巻頭特集もされて、アイドルみたいにピンナップになったり、シュートレスリングという技術本も出すことになったんです。向こうは実証すると認めてくれる人種なんですね。そこからボクのシュートレスリングのクラスにいろんな人が来るようになって、アルティメット出場前のホイスも見学に来たんですよ。


――メジャーデビューする前のホイス!


中村 当時はホイス・グレイシーと言われてもピンとこないですから「ああ、この人がグレイシー柔術の人なんだな」って感じで。向こうは「いつか戦うんじゃないか……」って青白い炎を燃やしてたんですよ。フレンドリーじゃないというか、あきらかにバリアを張ってるんです(笑)。


――ギラギラしてたんですね(笑)。



中村 そうこうしてるうちにヒクソンもやってきたんです。


――おお!


中村 ヒクソンはボクと同じ89年にブラジルからアメリカに渡っていて。アメリカの永住権を取るには何人かのサインが必要だったんですね。ボクのクラスに来てる生徒の中にはヒクソンの道場に通ってる子もいて、共通の知人がいたこともあって、イノサント先生がヒクソンの身元引受人の一人になってくれることになったんですよ。ダン・イノサント先生には確固たる地位がありますから。



――ヒクソンの身元引受人がイノサント先生。


中村 その御挨拶でヒクソンがイノサントアカデミーを訪れて、一緒にご飯を食べに行ったんですね。ヒクソンとはそこからの付き合いなんです。当時はまだチョンマゲ頭の冴えない兄ちゃんって感じですよ(笑)。強いんでしょうけど。



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日本来襲直前のヒクソン。名前を上げたいヒクソンはこの席で「第2回シューティング・オープントーナメント」(バーリトゥードジャパンに改称)参戦を持ちかけたという。

――その出会いがヒクソンの日本登場に繋がっていくわけですね。


中村 そうなんです。93年に織田無道さんがシューティングのスポンサーになって賞金を出してくれて第1回オープントーナメントをやるんですけど。それまでシューティングのリングは8角形だったのに6角形になったんです。なぜかというと、織田無道さんのマークが6角形なんですね。


――そんな理由が!(笑)。


・シューティングの賭けだったヒクソン招聘
・安生洋二道場破り映像公開の裏側
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※中村頼永先生とスパーした茶帯‥
う~ん
その頃のホリオンは簡単に帯を上げない事でも有名で
アメリカ人ではないんでわ?
となるとホリオンの道場のお手伝いをしていたブラジル人茶帯ということになります

考えられる人間としてまず一番に浮かんだのはカゼカムニエス
カゼカは柔術だけではなくジークンドーとフィリピン武術を学んでいてムエタイ レスリングも学ぶ実戦派
そしてもう一つ カゼカは佐山聡 中村頼永のシューティングを自身の教則ビデオで高評価していたんですよね
実際シューティングの足関節も教えてましたしね

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ホルモンから焼き肉へ       



 焼き肉でも食うか?となればたいていの方がニッコリいたします。美味しい上に幸福感がありますね。焼き肉は直火に網をかけて焼くんですが、この「網焼き方式」は、戦争前は日本にも朝鮮半島にも、どっちにもなかったんです。
 焼き肉の始まりは、太平洋戦争後まもなく、内臓を網焼きしたものから始まりました。それまで日本では、牛などの内臓を食べる習慣がなく、もったいなくも肥料に使うか、または捨ててたんですね。頑張って明治から肉を食べ始めた日本ですが、内臓の食べ方までは知らなかったんです。ごく一部地域では馬の内臓を食べてましたが、例外でした。
 大正12年、大阪の「北極星」という洋食屋さんが「ホルモン煮」として内臓料理を商標登録していますが、記録を抹消され検証は不可能だそうですが、「煮」と書いてるんですから、焼いていたとは思えない。いずれにせよ網焼き直火方式は確認できません。宮崎利雄『日本焼き肉物語』から。

野菜写真 和風ナムル
韓国料理は野菜とのバランスの良さに感心する。 和風のナムル

一方、朝鮮半島では、中国と関係が深く、当然ながら肉食大好きでして、食べ方もよく知っておりました。そうはいっても肉はぜいたく品、簡単に庶民の口に入ったわけではありませんが、ともあれ肉をズット食べ続けていました。その流れを汲む在日南北・朝鮮人のかたがた、内臓の食べ方を良くご存知で、日本で七輪に火をおこし、網で焼いて食べはじめていたんですね。誰も食べ方を知らず捨てていたくらいですから、安価に入手できた食材、美味しかったでしょうね。現在のホルモン焼きのように「内臓網焼き」が定着したのは、戦争中から戦後にかけての事らしいんです。戦前・戦中の在日の方々が日本で作り、日本に広めたホルモン焼きのルーツは「金達寿編者『金史良』作品集全」の小説に雰囲気がよく描かれているそうです。→宮塚利雄著『日本焼き肉物語』より。

カルビ
 太平洋戦争が終り日本は大変な食糧難に見舞われます。餓死者が一千万人・・・といわれたほどで実際かなり犠牲者が出ました。特に敗戦の年(1945年)は、冷害と台風で大凶作、そんな中で牛やブタなどの内臓は捨てておりまして、屠畜場から入手できる内臓が①「ちゃんと食べられる事」そして②「非常に美味しい」との情報は、日本人社会にあっという間に広まったはずでしょうね。「食べられるものは何でも!」という人々に、もつ焼きを教え、おいしく頂く詳細を伝授したのは、在日の方々でした。その結果、多くの日本人への貴重な栄養源となりました。内臓は、新鮮なことが第一条件ですが、屠畜場から入手していた内蔵(トンチャン)を従来どおり入手、七輪からモウモウと煙をあげ、

商売として人々に食べさせることになりました。みな飢えていましたから大変な人気、川崎や上野あたりで盛んだったといわれております。
 
 なお、ホルモンとは、放るもの(捨てるもの)がなまって→ホルモンとの説はたぶん誤解です。ビタミンとかホルモンとか、医学用語からが正解かと。このホルモン、つまり獣肉はヒトの免疫力を高めるとか。宮塚利雄氏の『日本焼き肉物語』に次のように紹介されてます。
 <伝染病にかかれば、日頃、栄養が悪いので死ぬ率は高かったが、朝鮮の女工はあまり死ななかったねぇ。今考えると、食べ物が違っていたからだろう。日本の女工はよくてもタクアンや目刺しくらいだが、朝鮮人の女工はブタや牛のモツ(臓物)を買ってきて、煮て食べていたから栄養がよかった。牛やブタのモツは今でこそ売り物になっているが、当時は捨てるか、畠(はたけ)の肥料にしていた。そんなものだから、貰いにいけばただでくれて、朝鮮人の女工は食べる事ができたのだろうが、それが結果的には、伝染病にかかっても日本の女工に比べて死亡率が低くなって現れたのだろうね。>「金賛汀・方鮮「風の慟哭―在日朝鮮人女工の生活と歴史」田畑書店昭和55年」
 
 <休みの日は月に二回でしたが、その日は2銭か3銭のお金で、天ぷらのような揚げ物を売る店で、野菜の揚げ物などを二つ三つ買って(中略)お金もないので、遊びに行くところもないから、同僚と一緒に浜辺に行ったのです。そんな時、鶏肉屋さんで、鳥の足の部分や内臓の捨てる部分を貰ってきて、浜辺で火をたき、鍋にそれらの「モツ」をいれて煮て食べたりもしました。会社の食事では、肉類は絶対に出ませんでしたので、そんな物で栄養を補給したんです。>金賛汀 『朝鮮人女工のうた』岩波書店 昭和57年 宮塚利雄『日本焼き肉物語』より転載。マーヴィン・ハリスというアメリカの文化人類学者が、ヒトの免疫力を高めるには肉食が有効と説いていますが、この説を実証するようなお話です。食の知恵は大事なんですね。
ロース
 話は重複しますが朝鮮半島には、原則として、肉を直火であぶって食べる習慣はなかったといわれます。あちらの家庭料理は前の日から肉をタレに漬け込み、真っ黒くなったところをフライパンなどで炒めます。これを「プルコギ」といいました。これに対し網で焼く方式は、前述のように戦争中と戦後、日本のいわゆる朝鮮部落で始まり、日本中に爆発的に広がったもの。戦後は商売でしたから、日本人の口にあう工夫も考えられました。ポイントは日本人客の依頼で始めた、ツケダレだそうです。すき焼きのように、漬け汁がないと日本人は落ち着かないらしい。口内を火傷したりする。それでは・・・と店のご主人が、コチジャンなどをベースに、その場その場でタレを作ってくれたそうです。これで「旨い!」といっそう評判になったとか。

 現在、ソウルあたりでも焼き肉が煙を上げて焼かれています。網焼き方式は、一応、日本から逆輸入食文化ですが、すっかり定着したとか。東京のコリアン・タウンなどで韓国家庭料理店などが大人気ですが、筆者は野菜とのバランスなどの工夫に感心させられます。 そのかわり外見はあまり気にしないようです。親しくなった店主から「身体にいいから食べてけ!」とは何回もいわれましたが「美味しいから・・・」というのは記憶にない。そっちは二の次らしいんです。同じことなんですけど医食同源でしょうね。
 次第に食糧事情が良くなってきますと、精肉も供されるようになります。そんな中で漬け汁が工夫されてゆきます。また漬け汁の市販も始まりまして、例えばエバラ食品では「焼き肉のタレ」その後、モランボンから発売された「ジャン」などは本格的でして、ちょうどホットプレートの普及と重なり、日本の一般家庭に焼き肉を広め、産業として育ってゆきます。
 一時、日本国内で、在日の方々が南と北とで政治的にもめた時期がありました。それまではホルモン焼きか朝鮮料理だったところへ「朝鮮の名は使いたくない!」と「韓国料理」に変えちゃった。普通の肉だとホルモン焼きじゃあないし、冷麺だとどうなるんだろう?日本人客には何が何だかさっぱりわかりませんで、売り上げも低迷します。ここで、朝鮮系と韓国系との間で話し合いが。「火で焼いた肉、だからプルコギでいいじゃないか、日本語に訳すと『焼き肉』じゃないか?」と「焼き肉」に落ち着いたそうです。これが昭和40年代の事でして「焼き肉」という言葉は、あんがい新しいのでありました。

 焼き肉がこれほど広まった理由のひとつに、今では当たり前となった無煙ロースターの研究開発があります。以前は、煙モウモウのなか、ベタベタと張りついてくる油脂に耐えながら食べておりましたが、女性客や家族連れにはチョット難しい。この問題を、無煙ロースターが見事に解決、煙や脂飛沫がほとんどなくなりました。 

焼き肉コンロ 焼き肉では火も大事だそうです。都市ガスは水素が燃えるため、肉が水っぽくなる。プロパンガスだと、ガス漏れ対策の匂いが駄目。やはり木炭が一番、それも備長炭が最適との事です。最近は高層ビルなどに焼き肉店が。ガスが使用禁止ですから、電気によるセラミック加熱が研究されているそうです。2004年から2005年にかけ、BSE問題でアメリカの牛肉が輸入禁止になり、結果として「牛丼」や「タン」が不足しました。筆者の推理では、10年も経過すると「あれは何だったんだろう?」ということになるな・・・というのが今回の主張であります。

 さて焼き肉の歴史を整理しますと、●誰も内臓を食べなかった日本→在日の食文化(さっさと食べていた)→戦後の食糧難→「炭火で焼くホルモン焼きと漬け汁」セットを在日の人々の工夫で全国に広める。→焼き鳥(実はブタの臓物)などへ展開。→食糧事情の好転→精肉も扱うように。→朝鮮料理・韓国料理の政治対立→料理名を「焼き肉」に統一。→ツケダレの研究開発・市販始まる。→ホットプレート普及→家庭にも広まる→無煙ロースターの開発普及→・家族連れや女性も焼き肉店へ。→韓国が日本から「焼き肉」逆輸入。→最初は日本からの観光客用→次第に韓国一般へも。→和牛、備長炭など次第に高級化。→輸入牛肉で価格が手ごろに→さらに一般化。

 上記がおおざっぱな流れですが、今から25年前ころの焼肉屋は雰囲気が暗く、どっちかといえば上品とはいえない雰囲気でしたが、現在はすっかり変わりまして、美味しいもの大好きのかたがたで賑わっております。キムチなど「何でこんな妙な食べ物があるのか?」と不思議に思ったんですが、食べてみると美味。あっという間に全国のスーパーに。ほとんどが、すっきりとしたインテリア、盛り付けの店になりました。戦後の一時期、内臓の食べ方を教えた方々に感謝しつつ、美味い物は美味い。美味しければ何でも受け入れちゃう日本、それも何処か日本風に変えちゃう。カルビでの一杯は美味いですねえ・・・筆者は焼酎お湯割りとともにが好みであります。

牛タン  最後に野瀬泰申氏による『食品サンプル観察学序説』三五館刊から笑える話を。大阪の食文化は立って飲食するのが特徴で、たとえば「呑む」にしても「立ち呑み」が盛んでして、加えて「朝から呑んでかまへん文化」というのがあるそうで。大阪駅環状線プラットフォームの上で早朝から立ち呑みするそうですが、焼き肉にも立ち食いがあるとか。①千日前(せんにちまえ)②十三(じゅうそう)に二軒、立ち食い焼き肉店を確認したと。一個の七輪(カンテキ)を四、五人が共同使用するとか。何しろ狭いですから境界線問題が発生?と心配になるんですが、トラブルはないとか。野瀬氏によれば「マージャン賭博のイカサマに『仏壇返し』というテクニックがあるそうですが、

「焼き肉の裏ワザ師逮捕!。上肉と並肉を瞬時に入れ替え。」というのもまだ報告されていないそうです。タイトルは難しそうですが、実は笑える一冊、お勧めです。

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