神谷明は、俳優業と比較して、「権利料」が格段に低かった声優業の収入面に関して、自ら先頭に立って交渉していたといいます。本人としては、「後輩たちの生活向上のため」矢面に立つ覚悟で臨んだのでしょう。しかし結果的に、テレビ局や製作側と決裂する最悪の形となり、自分が降板することで責任を取ることになったようです。





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神谷明「名探偵コナン」の毛利小五郎声優の降板理由!現在も干されている?

神谷明
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神谷明「名探偵コナン」の毛利小五郎声優の降板理由!現在も干されている?
出典:http://laughy.jp

神谷明「名探偵コナン」の毛利小五郎声優の降板理由!現在も干されている?

神谷明が「名探偵コナン」の毛利小五郎役を降板した理由とは?

神谷明は、元祖美少年から、ロボット戦隊のヒーロー、かたや二枚目半?のスナイパーに、ニャロメ(平成版)と、シリアスからギャグまで七色の声を駆使して多くのファンを魅了してきた声優です。しかし、2009年に、国民的人気アニメ「名探偵コナン」の毛利小五郎役を突如降板させられたことをご存じでしょうか。



探偵役の毛利小五郎といえば、主人公コナンの謎解きになくてはならぬ大事な役どころ。この件に関して、神谷明は、「私の不徳の致すところ」と、はっきりとした理由を語らなかったことから、ファンの間ではさまざまな噂や憶測を呼んでいます。元来、「声優」という仕事は、今のように脚光を浴びた華やかなものではなく、売れない俳優が食べていくための「副業」という地味なイメージでした。

神谷明は、俳優業と比較して、「権利料」が格段に低かった声優業の収入面に関して、自ら先頭に立って交渉していたといいます。本人としては、「後輩たちの生活向上のため」矢面に立つ覚悟で臨んだのでしょう。しかし結果的に、テレビ局や製作側と決裂する最悪の形となり、自分が降板することで責任を取ることになったようです。

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神谷明は新人のギャラに関わって現在もまだ干されている?

神谷明本人が、「ナカイの窓」に出演して語った話によると、今の声優の収入は、一番下のランクで、1本30分として1万5千円。再放送の権利料を含めても2万7千円くらいで、相当キャリアを積まないと、昇給もできないのだとか。「自分たちが頑張らないと若い人たちが大変」と、毎回交渉を続けていた結果、「降板」になってしまった神谷明のその後はどうなのでしょう?

「干されてしまった」という噂は、本当なのでしょうか。神谷明は、現在、「冴羽商事」という事務所を立ち上げて、声優活動の他に、ナレーションや、司会業、講演会や、コンサートのマネージメントなどの仕事を手広くやっています。1946年生まれで御年70歳ですが、「冴羽商事」に掲載されている「冴羽コラム」(神谷明のコラム)を読む限りでは、「今日も朝からスケジュールで一杯です!」と、干されるどころか超エネルギッシュな様子。

ちなみに「冴羽商事」の名前は、北条司不朽の名作「シティハンター」から頂いたそうです。

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神谷明の声優代表作ランキング!声優経歴がスゴ過ぎる!

神谷明の46年にわたるスゴ過ぎる声優経歴と代表作とは?

神谷明は、1970年「劇団テアトル・エコー」の研究生時代に、伝説の魔女アニメ「魔法のマコちゃん」の千吉役でデビューしました。声優歴は、なんと46年という、スゴ過ぎる経歴を持つ神谷明ですが、初めて主演を勝ち取ったのは、デビュー3年後の1973年、「バビル二世」の浩一役でした。「ロプロ~ス!」「ポセイド~ン!」なる、神谷明の天下の宝刀「叫び」は、「バビル二世」で開花したのです。

その後、「ゲッターロボ」や「勇者ライディーン」などのロボットアニメの主人公役でも、「叫びの神谷」は健在。売れっ子になった一時期は、何本もの仕事を抱え、命の声を潰してしまった苦い経験もあるそうです。1980年代には、「キン肉マン」や「シティハンター」「北斗の拳」など、「週刊ジャンプ」に掲載された人気漫画が次々とアニメ化されて大ヒット。

この時期の作品は、神谷明の代表作となり、実力声優としての地位を不動にします。また、アニメの仕事だけでなく、007シリーズのボンド役で人気のピアース・ブロスナンの吹替も担当しており、ブロスナンの甘いマスクに神谷明の美声がぴったりマッチしていました。

神谷明の声優代表作人気ランキングには毛利小五郎も!

神谷明は、輝かしい声優歴を持ち、まさに百戦錬磨の声優ですが、彼の代表作で人気ランキングを付けるとしたら、何がトップにくるのでしょう。ネット上でのランキング1位は、神谷明の代表作である「シティハンター」の冴羽獠です。2位には、「北斗の拳」のケンシロウが選ばれました。

1位に選ばれた「シティハンター」の主人公・冴羽獠は、性格が二枚目からハードボイルド、三枚目と幅広く、神谷明自身も、「ケンシロウのシリアスさと、キン肉スグルのコミカルさの両方を受け入れてくれるから、自分にとって一番思い入れの強いキャラ」と語っています。

しかし、ランキングには、「名探偵コナン」の毛利小五郎役を推すファンも声も多数あり、今さらながら、降板になってしまったことが本当に惜しまれます。

神谷明は「元祖声優アイドル」の頃から筋金入りのチャレンジャーだった!

神谷明を語る上で忘れられないエピソードがあります。伝説の名作「宇宙戦艦ヤマト」が劇場公開され、空前の声優ブームが起こった1970年代後半のこと。当時のトップ声優の1人だった神谷明は、「元祖声優アイドル」として、人気絶頂期にありました。そんな声優ブームの真っ只中、神谷明は、突如TBSラジオの主婦向け生ワイド「こんにちは神谷明です」のパーソナリティとして登場し、ファンを唖然とさせます。

アニメとは無関係の上、神谷明の名前さえ知られていない主婦層に飛び込んだ彼の無謀な挑戦は、当時の声優界やファンから、多くの批判を浴びました。しかしながら神谷明は、「声優としての職業に胡坐をかきたくない」と、楽に稼げた声優の道を外れてまでも、記者並みの取材メモを作って果敢に挑んだそうです。

高卒後に一旦就職するも、演劇の道捨てがたく、再びアマチュア劇団に入団。食えるようになったのは30過ぎてからという苦労人、神谷明ならではの決断だったのでしょうが、それにしても、彼の意志の強さは昔から筋金入りではありました。これと決めたらテコでも動かない頑固さゆえに、相手から誤解を受けることはありますが、面倒見が良く、気遣いの人でもあるので多くの後輩声優から慕われています。

中でも名字が同じということで、「2人は親子なの?」と噂の出た、現「声優アイドル」神谷浩史は、神谷明を尊敬しており、ラジオで「僕のお父さん」との発言をしています。最近では表舞台の仕事が少ないように感じられる神谷明。70歳の今だからこそ演じられる「叫びの神谷復活!」を、ファンは心から熱望しています。

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人はなぜ格闘に魅せられるのか――大学教師がリングに上がって考える の著者 ジョナサン・ゴットシャルのMMAトレーニング動画

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世界最大のアマチュアMMA IMMAF

















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国際総合格闘技連盟





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国際総合格闘技連盟
International Mixed Martial Arts Federation


略称
IMMAF

設立年
2012年

設立者
オーガスト・ウォレン

種類
総合格闘技組織

本部
スウェーデンの旗 スウェーデン
ストックホルム

メンバー
59の国と地域

会長
ケリス・ブラウン

ウェブサイト
公式サイト

国際総合格闘技連盟(こくさいそうごうかくとうぎれんめい、英: International Mixed Martial Arts Federation、略称IMMAF)は、アマチュア総合格闘技を統括する組織。アマチュア総合格闘技世界選手権を開催している。59の国と地域が加盟している[1]。世界アマチュアMMA連盟とも。



目次 [非表示]
1 歴史
2 主催大会
3 加盟国 3.1 パンアメリカ
3.2 アジア
3.3 ヨーロッパ
3.4 オセアニア
3.5 アフリカ

4 脚注
5 外部リンク


歴史[編集]

2012年2月29日、スウェーデン総合格闘技連盟の会長オーガスト・ウォレンが創設した[2]。

2014年、FILAが主催していたアマチュア総合格闘技世界選手権が総合格闘技が認定競技から除外され打ち切られたため、同年からIMMAFが引き継いで開催した。

2015年5月26日、日本のアマチュア組織「日本MMA連盟」が加盟した[3][4]。

2015年7月2日、イギリス柔道連盟の前会長ケリス・ブラウンが新会長に就任した[5]。

2015年11月、ヨーロピアン・オープン選手権を初開催した。

主催大会[編集]
アマチュア総合格闘技世界選手権
アマチュア総合格闘技ヨーロピアン・オープン選手権
アマチュア総合格闘技アフリカ・オープン選手権

加盟国[編集]

加盟コミッションは以下の通り[6]。

パンアメリカ[編集]

バハマの旗 エンパイア・ミックスド・マーシャル・アーツ・バハマ
ブラジルの旗 ブラジルMMAアスレチック委員会
カナダの旗 カナディアン・コンバット・アライアンス
コロンビアの旗 コロンビア総合格闘技協会
エルサルバドルの旗 エルサルバドルキックボクシング&MMA連盟
パラグアイの旗 パラグアイキックボクシング&MMA連盟
トリニダード・トバゴの旗 トリニダード・トバゴ総合格闘技連盟
アメリカ合衆国の旗 全米総合格闘技連盟

アジア[編集]

バーレーンの旗 バーレーン総合格闘技連盟
インドの旗 全インド総合格闘技協会
日本の旗 日本MMA連盟
ヨルダンの旗 ヨルダン総合格闘技連盟
カザフスタンの旗 カザフスタン総合格闘技連盟
レバノンの旗 レバノンMMA委員会
マレーシアの旗 マレーシア総合格闘技協会
ネパールの旗 ネパール国立武術連盟
パキスタンの旗 ミックスド・マーシャル・アーツ・パキスタン
シンガポールの旗 シンガポール総合格闘技連盟
タジキスタンの旗 タジキスタン総合格闘技連盟
タイ王国の旗 タイ総合格闘技連盟

ヨーロッパ[編集]

オーストリアの旗 オーストリア総合格闘技連盟
アルバニアの旗 アルバニアフリーファイティング連盟
アゼルバイジャンの旗 アゼルバイジャン総合格闘技連盟
ベルギーの旗 ベルギー総合格闘技連盟
ブルガリアの旗 ブルガリア総合格闘技連盟
チェコの旗 チェコ総合格闘技協会
デンマークの旗 デンマーク総合格闘技連盟
エストニアの旗 エストニア総合格闘技連盟
フィンランドの旗 フィンランド総合格闘技連盟
フランスの旗 フランス総合格闘技コミッション
ドイツの旗 ドイツ総合格闘技連盟
ジョージア (国)の旗 ジョージア国内総合格闘技連盟
ギリシャの旗 ギリシャレスリングMMA
ハンガリーの旗 ハンガリープレミアムMMAリーグ
アイスランドの旗 保留中
北アイルランドの旗 アルスター・アマチュアMMA協会
アイルランドの旗 アイルランドアマチュアパンクラチオン協会
イタリアの旗 イタリアグラップリング&総合格闘技連盟
リトアニアの旗 リトアニア総合格闘技連盟
ルクセンブルクの旗 ルクセンブルクMMA連盟
ノルウェーの旗 ノルウェー総合格闘技連盟
ポーランドの旗 ポーランド総合格闘技連盟
ポルトガルの旗 ポルトガルMMAアスレチック委員会
ルーマニアの旗 ルーマニア総合格闘技連盟
ロシアの旗 ロシアMMA連盟
スペインの旗 スペインオリンピックレスリング連盟
スウェーデンの旗 スウェーデン総合格闘技連盟
スイスの旗 スイス総合格闘技連盟
チュニジアの旗 トルコ格闘技&自己防衛連盟
ウクライナの旗 全ウクライナ格闘技連盟
イギリスの旗 イギリスMMA連盟

オセアニア[編集]
オーストラリアの旗 オーストラリア総合格闘技連盟
ニュージーランドの旗 ニュージーランド総合格闘技連盟

アフリカ[編集]

カメルーンの旗 カメルーン総合格闘技ナショナルリーグ
エジプトの旗 エジプトMMA委員会
ガーナの旗 ガーナ総合格闘技連盟
モーリシャスの旗 モーリシャス総合格闘技連盟
セーシェルの旗 セーシェル総合格闘技協会
南アフリカ共和国の旗 ミックスド・マーシャル・アーツ南アフリカ

脚注[編集]

1.^ Members IMMAF公式サイト
2.^ About IMMAF IMMAF公式サイト
3.^ 【JML】総合格闘技での五輪参加を目指し世界組織に加盟 eFight 2015年5月26日
4.^ 日本MMA連盟 JMMAF発足! 酒井正和 オフィシャルブログ 「スマッシュの挑戦」 2015年5月26日
5.^ Recent Judo Chairman Kerrith Brown Appointed as IMMAF President IMMAF公式サイト
6.^ Members IMMAF公式サイト

外部リンク[編集]
IMMAF公式サイト

執筆の途中です この項目は、格闘技およびその選手に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ総合格闘技/PJキックボクシング/PJプロレスラー)。




カテゴリ: アマチュア総合格闘技団体
2012年設立

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%9E%E3%83%81%E3%83%A5%E3%82%A2%E7%B7%8F%E5%90%88%E6%A0%BC%E9%97%98%E6%8A%80%E4%B8%96%E7%95%8C%E9%81%B8%E6%89%8B%E6%A8%A9

アマチュア総合格闘技世界選手権





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アマチュア総合格闘技世界選手権


開始年
2011年

主催
国際総合格闘技連盟

サイト
公式サイト
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IMMAFアマチュア総合格闘技世界選手権(IMMAF World Championships of Amateur MMA)は、国際総合格闘技連盟(IMMAF)が主催するアマチュア総合格闘技の国際大会。男子9階級、女子4階級で実施されている。1か国につき1階級1名まで出場できる[1]。



目次 [非表示]
1 歴史
2 開催履歴
3 脚注
4 関連項目
5 外部リンク


歴史[編集]

2011年、FILAが第4回グラップリング世界選手権、第2回パンクラチオン世界選手権と同日にセルビアで初開催した[2]。

2014年、FILAの再編でグラップリング、総合格闘技が認定競技から除外され開催が打ち切られたが、同年から2012年に設立されたIMMAFが引き継いで開催した[3]。

2015年、アメリカ合衆国の総合格闘技団体「UFC」、アマチュア総合格闘技団体「Tuff-N-Uff」と提携し、UFCファイトパスでの放送を開始した[4][5]。

2017年、IMMAF主催となってからは7月の「UFCインターナショナル・ファイトウィーク」期間中にラスベガスで開催されていたが、11月にバーレーンで初開催される予定[6]。

開催履歴[編集]




大会名

開催年月日

開催地

7 IMMAFアマチュア総合格闘技世界選手権 2017年11月12日 - 11月19日 バーレーンの旗 首都県マナーマ
6 IMMAFアマチュア総合格闘技世界選手権 2016年7月4日 - 7月10日 アメリカ合衆国の旗 ネバダ州ラスベガス
5 IMMAFアマチュア総合格闘技世界選手権 2015年7月11日 - 7月6日 アメリカ合衆国の旗 ネバダ州ラスベガス
4 IMMAFアマチュア総合格闘技世界選手権 2014年6月29日 - 7月5日 アメリカ合衆国の旗 ネバダ州ラスベガス
3 FILAアマチュア総合格闘技世界選手権 2013年6月12日 - 6月15日 カナダの旗 オンタリオ州ロンドン
2 FILAアマチュア総合格闘技世界選手権 2012年11月15日 - 11月18日 ロシアの旗 モスクワ州ラメンスコエ
1 FILAアマチュア総合格闘技世界選手権 2011年9月29日 - 10月1日 セルビアの旗 ベオグラード

脚注[編集]

1.^ 「MMAはスポーツ」だと証明したい 世界MMA連盟CEOインタビュー(2) スポーツナビ 2015年10月29日
2.^ 【記録】グラップリング・パンクラチオン世界選手権 過去の日本選手成績 日本レスリング協会公式サイト 2012年10月18日
3.^ FILAグラップリング(関節技のあるレスリング)が存続へ 日本レスリング協会公式サイト 2013年11月2日
4.^ 【UFC & IMMAF】UFCがIMMAFとのパートナーシップを更新。世界大会がFight Passで視聴可能に MMAPLANET 2016年5月3日
5.^ TUFF-N-UFF IS PROMOTER FOR 2015 IMMAF WORLD CHAMPIONSHIPS SHERDOG 2015年3月26日
6.^ 2017 IMMAF WORLD CHAMPIONSHIPS IMMAF公式サイト

関連項目[編集]
レスリング世界選手権
グラップリング世界選手権
パンクラチオン世界選手権

外部リンク[編集]
IMMAF公式サイト

執筆の途中です この項目は、格闘技およびその選手に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ総合格闘技/PJキックボクシング/PJプロレスラー)。




カテゴリ: 世界選手権
総合格闘技の大会
UFC


https://sports.yahoo.co.jp/column/detail/201510280001-spnavi



総合格闘技を五輪種目にするために

世界MMA連盟CEOインタビュー
パンクラス
2015年10月28日(水) 12:00













「IMMAF」をご存じだろうか。正式名称は「International Mixed Martial Arts Federation」。UFCからもサポートを受ける世界最大のアマチュアMMA組織だ。翻訳すると世界MMA連盟となり、今年7月にはラスベガスで世界選手権を開催した。


 先日、このIMMAFのCEOであるデンサイン・ホワイト氏が来日。UFC JAPANを視察するとともに、総合格闘技団体パンクラスの酒井正和代表と旧交を温めた。


 聞けば、デンサインCEOはかつて柔道家として五輪に3度も出場したことがあるという。英国の英雄は、なぜMMAの世界組織の代表となったのか?


(聞き手:布施鋼治)

「MMAはスポーツ」だと証明したい 世界MMA連盟CEOインタビュー(2)



UFCからの要請で活動をスタート


世界MMA連盟「IMMAF」のデンサイン・ホワイトCEO(左)が来日。パンクラスの酒井正和代表(右)と旧交を温めた

世界MMA連盟「IMMAF」のデンサイン・ホワイトCEO(左)が来日。パンクラスの酒井正和代表(右)と旧交を温めた【布施鋼治】


──今年7月、ラスベガスで開催された世界選手権は大盛況だったと聞きました。


 29カ国から129名の参加がありました。カテゴリーは男子9階級、女子4階級です。パンクラスの酒井正和代表と初めて出会ったのもこの大会でした。そもそも日本はアジアの中でも最重要国なので、IMMAFにとっても日本は重要なパートナーと考えています。しかもアジアのマーケットは大きいので、酒井代表と一緒にやれるということは、われわれIMMAFにとっては大きなターニングポイントだと捉えています。


──現在の肩書はIMMAFのCEOと聞いております。就任した経緯は?


 昨年11月に「IMMAFのCEOになって欲しい」という打診を受けました。その2年前から組織は誕生していたけど、今後IMMAFがもっと発展していくために、あるいはもっと改革していくために自分の存在を求めたというのがきっかけです。


──プロフィールを見ると、過去3度も英国代表として五輪に出場するなどずっと柔道畑を歩んでいます(最高位は5位)。にもかかわらず、なぜMMAに興味を抱いたのですか?


 もともとIMMAFの代表はブラウンさんという方で、もともとは英国柔道連盟の要人だった。そうした中、以前からIMMAFのサポートをしているUFCから「もっとアマチュアの活動を活性化してほしい」という要請があった。そこで英国柔道連盟のチェアマンを11年間務めていた私に白羽の矢が立ったわけです。そこで当時のIMMAFの重役たちとも面接し、彼らの合意を得たうえでCEOに就任しました。



3カ年計画で組織を改革


──どうやって組織を改革しようという計画を立てたのですか?


 MMAをスポーツとして認知させよう。それがひとつの課題だと思っています。スポーツといえば、五輪。そこでIOC(国際オリンピック委員会)への働きかけが第一です。五輪種目になることがスポーツとしての認知を早める。


──しかし、一朝一夕で片づく問題ではありません。


 だからMMAのスポーツ化を推進させるためにやることはいっぱいあります。まずはコーポレート・ガバナンス(企業の不正行為の防止と競争力・収益力の向上を総合的にとらえ、長期的な企業価値の増大に向けた経営の仕組み)を整えていく。たとえばそれはアンチドーピングだったり、それに付随したメディカルの部分だったり、大会の開催計画だったりするわけです。


──今後の大会開催計画は?


 いまのところアメリカ、アフリカ、欧州、アジア、オセアニアの5大陸・地域の大会と世界選手権の開催を考えています。さらに参加選手による各階級のランキングを作成することも。そういったことを3カ年計画に基づいて細かく作っていく。IOCに一番近いところにスポーツコート(スポーツ仲裁裁判所)という組織があるけど、原則としてすべての競技の連盟が必ず加盟しなければならない。なので、IMMAFもスポーツの中のひとつとして、そこに加盟しようと思っています。そのためにはまずスポーツコートに事細かな3カ年計画を提出しなければなりません。



子供でも危険でないルール整備が必要


スポーツとして発展させるには子供でも危険でないルール整備などが必要となってくる

スポーツとして発展させるには子供でも危険でないルール整備などが必要となってくる【田栗かおる】


──現段階におけるIMMAFの課題は?


 MMAをスポーツとして分かってもらうための努力が足りなかったということでしょう。まずはレフェリーのあり方や資格、あるいはルールの整備ですね。そういったものをきちんと構築していかないといけない。現在私はそこに注意力を割いています。


──歴史のある競技なら指導要項が存在するのが当たり前。しかしながら、MMAにはまだそういった類のものが存在しません。


 MMAの場合、それまで各ジム、あるいは個人レベルでそれなりのトレーニング方法があった。でも、本当に世界的なスポーツだったら、世界の誰が見ても共通な指導方法があるべきでしょう。ルールもそうです。選手たちはどういうステップでテクニックを習得していくのか。コーチをやるにしても本当は資格が必要なのです。そういったレギュレーション(規則)がMMAにはなかったのです。


──耳の痛い話ですが、それが現実です。


 ルールの明確化も必要になってくるでしょう。さらにスポーツだったら、老若男女を問わずにできるものでなければいけない。


──しかし、子供にパウンドやヒジは危険すぎるのでは?


 やっぱりスポーツは子供もできるかどうかが重要な問題になってくる。現実問題として子供にやらせるとしたら、どういうルールでやらせたらいいのか。そういったところのレギュレーションも必要になってくるけど、私には柔道での実績があるので、それに基づいていろいろ考えているところです。子供をいきなりケージに入れて、パンチやアームバーをさせるべきではない。まだできてはいないけど、子供向けのMMAを始めるためのプログラムを作ろうと思っています。


──なるほど。


 柔道や空手は帯によってグレード(級・段)が分かれているけど、MMAも色による昇級制を考えたい。IMMAFはMMAというスポーツに対してしっかり責任を負う立場にありますからね。MMAというスポーツをやることで、それが安全なスポーツであるというレギュレーションを作っていかないといけない。



■プロフィール:デンサイン・ホワイト


1961年12月21日生まれ(53歳)

英国出身。12歳から柔道をスタート。84年のロス五輪から3度五輪に出場した。引退後、英国柔道連盟のチェアマンを11年間務める。現在はIMMAF CEO。英国在住。

https://sports.yahoo.co.jp/column/detail/201510290001-spnavi



「MMAはスポーツ」だと証明したい

世界MMA連盟CEOインタビュー(2)
パンクラス
2015年10月29日(木) 11:00













 スポーツとしてのMMA発展を願うIMMAF(International Mixed Martial Arts Federation)のデンサイン・ホワイトCEOは綿密に3カ年計画を立て、それを実行に移している。今年11月には英国で欧州選手権を開催するが、来春早々にはIMMAFに認可された日本のMMA組織──JMMAF(Japan Mixed Martial Arts Federation)協力のもと、日本でアジア選手権開催の青写真を描く。デンサインCEOに聞くアマチュアMMAの未来予想図──。

(聞き手:布施鋼治)

総合格闘技を五輪種目にするために 世界MMA連盟CEOインタビュー



統一ルール、指導方法などが必要


IMMAFのデンサインCEO(左)とパンクラスの審判部長で、JMMAFコミッショナーでもある梅木良則氏

IMMAFのデンサインCEO(左)とパンクラスの審判部長で、JMMAFコミッショナーでもある梅木良則氏【布施鋼治】


──デンサインCEOが長らく携わってきた柔道は五輪スポーツとして世界中で認知されています。対照的にMMAは一部ではいまだものすごく偏見を持っている人がいるし、中には大会の開催を禁止している国もあります。


 先週もフランスでロシア人のプロモーターがMMAの大会を強行開催して現地では大問題になりました。


──フランスではMMAの大会開催が禁止されていますからね。


 そうです。ノルウェーやアイスランドなど世界の中にはまだMMAを禁止している国がある。そういった国々には「MMAはストリートファイトの延長ではないのか」という偏見がある。そういった偏見を失くすためにはユニファイド(統一)ルールを明確化して、「MMAはスポーツ」ということを証明していきたい。そのためにはメディカル(医療体系)の整備も必要になってくるでしょう。大会があるごとにIMMAFが大会のメディカルをカバーする、つまりMMAがひとつのスポーツとして安全だということをプログラム化していく。それは指導方法にしても同じです。IMMAFが練習メニューを作り、それをプログラム化していく。世界中どこのジムにいっても、資格のある人が教えているようにしないといけない。



早急なプロ昇格は競技の発展にならない


──現在の加盟国は?


 50カ国が加盟しています。もうすぐ正式発表できると思いますけど、ロシアの加盟も決まっています。より多くの国々から、より多くの選手が参加することによって競技の質は上がっていく。大陸・地域選手権を開催する主催国は国のステータスが上がり、貢献度をアピールすることもできるようになるでしょう。ちなみにこの間の世界選手権もそうでしたけど、今後開催される大陸・地域選手権はすべてUFCファイトパス(UFCの登録制デジタル映像配信サービス)を通して160カ国に放送されることになります。そうすることでMMAをさらにスポーツとして認知させたい。


──UFCがIMMAFをサポートする理由は?


 UFCにとってIMMAFは新しいタレントを発掘する舞台なのです。例えば(今後設定される)IMMAFのランキングに入っている選手はいやがうえにもUFCがチェックしているので、プロデビューするチャンスを与えられやすい。


──プロとアマのボーダーは?


 そこです。IMMAFが大会を数多く開催したい理由のひとつとして、いまは世界中ですぐプロになってしまう選手があまりにも多すぎることがあげられます。結局実力が伴わなければ、プロに昇格してもすぐ負けて辞めてしまったりするケースも出てくる。つまり早急なプロ昇格は必ずしも競技の発展につながらない。そこでIMMAFとしては公式のレギュレーションがあるプログラム化された大会を定期的に開催していくことで、しっかりと実績を作ったアマチュアがプロに昇格するという流れを作りたいのです。個人的な考えですが、どんな選手でも少なくとも3〜4年のアマチュア経験は必要だと思います。そして、個々の実績を具体化させるために今後開催する大会ではポイント制を導入したい。実績に応じてポイントを与え、それに応じてランキングを作成するというシステムです。


──柔道の世界ランキングに似ていますね。


 その通りです。柔道のシステムをかなり踏襲しています。ただ、国際柔道連盟には200の加盟国があるけど、IMMAFはまだそこまでには至っていない。なので、今年11月、英国のバーミンガムで開催される欧州選手権は参加国をオープンにしたい。一応欧州という冠はついているけど、IMMAFの加盟国だったら、誰でも参加できるようにしたい。先の世界選手権は1カ国につき1階級1名までだったけど、今回はオープン選手権として1カ国1階級2名までOKにしたい。階級は先の世界選手権より女子で1階級増やす予定です。バーミングガムの大学の体育館で開催する予定ですが、現段階では200名以上の出場を見込んでいます。スムーズに大会を進行させるため、トリプルケージを使おうと思っています。



女子の盛り上がりにも注目


現在UFCではロンダ・ラウジー(左)を中心に女子の活躍も光っている

現在UFCではロンダ・ラウジー(左)を中心に女子の活躍も光っている【Getty Images】


──アジア選手権はいつ頃開催する予定?


 来年2〜3月にはやりたいですね。


──開催国は?


 日本です。もともとアジア圏には14カ国しかなく、IMMAFにはまだ4〜5カ国しか加盟していない。日本でアジア選手権をやることが、アジアにMMAを広めるいいきっかけになるんじゃないかと期待しています。日本にとっても自国で開催することで世界中の注目を集めることができる。日本からMMAを広めるいい機会になるでしょう。そもそもMMAは日本が発祥の地。柔道もそうだけど、海外の選手が日本の大会に出場して優勝したり、入賞したりするとものすごく名誉だし、評価されるんですよ。


──欧州選手権とそんなに間隔を空けずに開催する予定なんですね。


 IMMAFが開催する大会はそんなにインターバルを空けたくない。少なくとも11月に欧州選手権をやる時にはアジア選手権の開催告知をしたい。その方が参加者もスケジュールをとりやすいだろうし、裏方も大会の準備をしやすい。2〜3月というのはまだ企画段階の話ですけどね。


──現在UFCではロンダ・ラウジーを筆頭に女子が脚光を浴びています。その影響はアマチュアにも及んでいますか?


 IMMAFでも女子は盛り上がっていくでしょう。実際ラスベガスの世界選手権でも女子の試合はすごく良かった。通常格闘スポーツを広めていくためには時間を要するけど、女子MMAに関していえばロンダの人気がすごいので、女子の観客層の関心が増えているように思えます。


──ちなみにアマチュアの女子ファイターはどんな競技出身者が多い?


 やっぱり何らかの格闘技のキャリアがあったうえでMMAを始める人が多いですね。MMAを目指している選手のモチベーションのひとつとして、「プロがあるから」というのがある。柔道だとお金のためではなく、五輪に出ることが目標になっている。ロンダも柔道を続けていれば、もっと上のメダルを目指すことができたはず。ただ、実際柔道家時代の彼女の生活は困窮していて、MMAファイターになってからようやく成功を収めた。MMAはプロとしての目標を作りやすいのです。


 今回のインタビューを通して、デンサイン氏がMMAをスポーツとして捉え、いかに競技化していくかというところに腐心していることがよく分かった。その方法論は従来の格闘技界にはない、五輪種目である柔道をベースに考えていることも興味を引いた。純度の高いスポーツにするためには、既存の法則だけに則っていてはある一線を越えることはできない。


 また、来春にも日本でアジア大会を開催する計画を立てているという話は日本のみならず、アジア全域のアマチュアファイターにとって朗報だろう。これまではアマチュアの上位概念としてはプロしかなかったが、アジア大会を開催することで、アマチュアのさらにその先──国際地域大会や世界大会を目指すことができるようになる。


 ホスト国としての重責を担う日本にとっても、これほど大きなチャンスはない。アジア大会はアマチュアMMAのステータスをさらに高める可能性を秘めている。その運営を全面的にサポートするJMMAFにとっても、アジア大会の開催で世間にスポーツMMAをアピールする絶好の機会だ。いまやJMMAFは日本のアマチュアMMAの一大勢力になりつつあるが、アジア大会の開催をきっかけにさらに発展することができるか。


■プロフィール:デンサイン・ホワイト


1961年12月21日生まれ(53歳)

英国出身。12歳から柔道をスタート。84年のロス五輪から3度五輪に出場した。引退後、英国柔道連盟のチェアマンを11年間務める。現在はIMMAF CEO。英国在住。

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ストリートファイト動画 タックルでテイクダウンした方がまさかのノックアウト負け! テイクダウンした時に相手にギロチンされちゃった 頭を抱えられていたので  自分の頭をもろに打ってしまいましたね


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マニュエル・ベラスケス

日本のボクシングにおける死亡事故数


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%B0%E7%A6%8D

リング禍





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リング禍(リングか)とは、おもにボクシング・プロレスなど格闘技の試合に起因して競技者が深刻な負傷をしたり、死亡に至る事故を指す用語。



目次 [非表示]
1 概説
2 ボクシングにおけるリング禍 2.1 原因に対する指摘 2.1.1 階級別の死亡事故件数
2.1.2 ラウンド別の死亡事故件数

2.2 団体システムへの影響 2.2.1 3本ロープから4本ロープへ
2.2.2 15ラウンド制から12ラウンド制へ

2.3 防止策の検討 2.3.1 ヘッドギア
2.3.2 試合時間の短縮
2.3.3 スパーリング方法の見直し

2.4 日本での対策 2.4.1 日本関連の事例 2.4.1.1 JBC発足まで
2.4.1.2 JBC発足以降


2.5 日本国外のリング禍 2.5.1 日本国外の事例
2.5.2 米国における最初の死亡例

2.6 勝者の深刻な受傷例

3 プロレスにおけるリング禍 3.1 日本人選手のリング禍 3.1.1 練習中に死亡した事例
3.1.2 その他

3.2 日本国外でのリング禍

4 他の格闘技におけるリング禍
5 脚注
6 関連項目
7 外部リンク


概説[編集]

Question book-4.svg この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(2016年12月)

リング禍という言葉は、直接的な原因が試合行為にあり、競技者が死亡、または深刻な障害を負った場合に用いられる。

必ずしも負けた側がリング禍に至るとも限らず、試合の勝者がリング禍に至る場合もある。試合以外でも、スパーリングなどが原因で練習中、練習後に死亡する場合などもリング禍の一種と言える。

試合行為において脳挫傷、脳出血など頭部・頸部の受傷に至った場合、予後問題ないとしても引退は免れず事実上の選手生命の終了に等しい(日本では赤井英和の例が広く知られる)。通常、スポーツで競技の最中に競技者が引退を余儀なくされるような負傷をした場合は重大な事故であると言えるが、ボクシングでは脳挫傷など重体患者の発生自体が重大な事故として大きく報道されることは無い。

一般的に、スポーツにおける競技中の事故は、対象の負傷や生存の有無などの結果にかかわらず発生した段階で「事故」と認識、定義されるのに対して、リング禍とは過程ではなく、事後の結果が定義を決定する言葉であると言える。

ボクシングにおけるリング禍[編集]

ボクシングは相手の頭部を狙って殴る競技であるため他の打撃がある格闘技と比べても打撃が頭部へ集中する、そのため頭部を殴られた衝撃で脳出血などで死に至るリング禍が多発している。試合中にリング上で意識を失いリング禍に至る場合もあれば、KO、判定如何にかかわらず試合を終えた後に意識を失い、リング禍に至る例も多い。ほとんどのコミッションではボクサーへ試合前後の検査を実施しているものの突発性の高いリング禍の場合、直接的な予防は困難を極める。アメリカ合衆国の各州のコミッションでも、幾度と無く安全面での改革が行われているがリング禍は現在でも続いている。

ヘッドギアを装着して行うアマチュアボクシングやスパーリングは安全であると思われがちだが、ヘッドギアは擦り傷・切り傷・腫れを防ぐためのものであり、打撃から脳震盪や脳挫傷を防ぐためのものではないためアマチュアボクシングやスパーリングでもリング禍は起きている。文部科学省が平成24年7月にまとめた資料[1]によると、ボクシングは「学校運動部活動中に起きた死亡・重度障害事故」の競技種目別発生頻度(10万人当たりの発生件数)で1位の自転車(29.29件)に次ぎ、2位(18.13件)となっている。これは4位の柔道(4.8件)を大きく上回る発生頻度である。

今日、マスコミなどで事後に報道されるプロボクシングの試合でのリング禍以外にも練習中のスパーリングや、アマチュアの試合でもリング禍は世界的に発生している。また、直接的にどの試合が原因か分からなくとも、試合行為による蓄積的な悪影響で最終的にパンチドランカーになったり、失明など深刻な障害を持つに至った場合などもリング禍の一種であるという見方もできるが、それらが出来事としてのリング禍として社会的に認識されているとは言い難い。

原因に対する指摘[編集]

階級(体格、体重)とパンチの威力は比例関係にある。階級が重くなるほどダウンやKOの割合が高くなり試合が早いラウンドで終わることになる、逆に階級が軽くなるほど決定力は低下し試合が長引くことが多くなり、結果としてより多くのパンチを浴び続けることになる。

軽量級、中量級は重量級に比して明確にパンチの回転力で勝りパンチが相手に命中する回数が多くなる(例えば、世界戦においてラウンド中500発以上の有効打が記録されているのは全てミドル級(70kg)未満の試合であり、400発以上の有効打が記録されている試合も、20試合中15試合がミドル級(70kg)未満の試合である[2])。

日本では軽量級に競技人口が偏っているため軽量級で行われる試合が多い、そのため結果的に軽量級のリング禍がほとんどを占めているが、世界的に見れば競技人口の多いライト級やウェルター級近辺でのリング禍が多い。

階級別の死亡事故件数[編集]


フライ級以下

バンタム級

フェザー級

ライト級

ウェルター級

ミドル級

ライトヘビー級

ヘビー級

54人(8.0%) 67人(10.0%) 102人(15.2%) 127人(18.9%) 116人(17%) 93人(13.8%) 50人(7.4%) 53人(7.9%)

(マニュエル・ベラスケスのボクシング死亡事故集より)


パンチを頭部に浴び続けダメージが蓄積した試合中盤や終盤にリング禍が起こりやすいという指摘もあるがこれも統計から特にそのような傾向は見られない。

ラウンド別の死亡事故件数[編集]


1ラウンド

2ラウンド

3ラウンド

4ラウンド

5ラウンド

6ラウンド

7ラウンド

8ラウンド

9ラウンド

10ラウンド

11ラウンド

12ラウンド

13ラウンド

14ラウンド

15ラウンド

16ラウンド

16ラウンド以降

45人 62人 54人 82人 49人 95人 46人 71人 44人 92人 13人 35人 10人 10人 13人 9人 14人

パンチによる頭部への影響は打つ側と打たれる側の要素が複合するためリング禍の要因を特定するのは難しいとする見方も多い。

また、日本では1995年1月10日より健康管理面に配慮する目的で、試合数時間前の当日計量から前日計量へと変更になったが、これ以降にリング禍が急増していることから、前日計量実施でより無理な減量が可能になったことや、計量から試合までの時間が長くジム側が出場選手を監視できない故、計量後の暴飲暴食(アルコールの摂取も)をコントロールできないことも一因ではないかとの指摘もある。

団体システムへの影響[編集]

3本ロープから4本ロープへ[編集]

1962年3月24日、アメリカ・ニューヨークで行われた世界ウェルター級タイトルマッチでエミール・グリフィスに12ラウンドKO負けとなった王者ベニー・パレットが4月3日に死亡した。パレットは当時の3本ロープの間から半身を外へ出した格好で、剥き出しの鉄柱でしかなかった当時のコーナーポストとグリフィスのパンチに挟まれるようにして衝撃を受けており、これが直接のダメージを招いた原因とされた。世界王者として最初の死亡事故であった。この後、コーナーポストにはビニールカバーを施すことが義務付けられ、リングの3本ロープを4本ロープに増やすための指導が行われた[3]。

詳細は「パレット事件」を参照

15ラウンド制から12ラウンド制へ[編集]

1982年11月13日、アメリカ・ラスベガスで行われたWBA世界ライト級タイトルマッチで王者レイ・マンシーニに挑み、14ラウンドTKO負けを喫した金得九が試合後に倒れて脳死の診断を受け、4日後の11月17日に生命維持装置を外されて死亡した。金得九の死から3か月後には金得九の実母が自殺し、さらに翌年の7月には当該試合を裁いたレフェリーのリチャード・グリーネまで自殺してしまう。それらをマスコミが大々的に報道し一連の事柄が全米で社会的な注目を浴びたことなどが、1983年にWBCが世界戦を15ラウンド制から12ラウンド制へと変更する契機になった[3]。その後、WBCに追随する形で1987年にWBAが変更、以下IBFなどの世界王座認定団体も世界戦を12ラウンド制に変更した。

防止策の検討[編集]

ヘッドギア[編集]

谷諭、大橋元一郎、大槻穣治らによる研究では、回転加速度を伴う外力は、そうでない外力と比べて脳震盪を引き起こす傾向が強く、脳により多くのダメージを引き起こすとされている。ヘッドギアの着用は回転加速度の効果を強めるため、この点では脳へのダメージの回避に逆効果とされている[4]。また、国際ボクシング協会 (AIBA) の医療委員会委員長を務めるチャールズ・バトラーによれば、別の研究では精鋭男子 (Elite Men)のアマチュア選手においてヘッドギアを着用しないことによって脳震盪の発生が減ることを示唆するデータがあるという。さらにヘッドギア着用時には横の視界が悪くなることで頭部がより狙われやすくなるという見方もあり、これらのことからAIBAは2013年6月1日から精鋭男子選手の国際試合でのヘッドギア着用を禁止している。バトラーは、女子や若年選手は相手に脳震盪を起こさせるほどのパワーがない場合が多いため、切り傷防止用として引き続きヘッドギアを着用するべきだとしているが[5]、女子、ジュニア、ユース選手にも非着用のルールが順次適用される見込みである[6]。

試合時間の短縮[編集]

女子ボクシングの試合や一部興行の試合で行われているように1ラウンドの時間を通常の3分間よりも短い、アマチュアボクシングと同じ2分間にすることで試合時間の短縮を図り、頭部への負担を低減する試合形式もリング禍の可能性を減少させる方法のひとつである。しかし世界的には未だラウンド2分間の試合は広く行われているとは言えず、日本ボクシングコミッション(JBC)が統括する日本においてもリング禍による犠牲者や脳挫傷などの重体に至る選手が絶えない中、現在もプロボクシングの公式戦は全てラウンド3分間で行われている。

スパーリング方法の見直し[編集]

頭部を強打するようなスパーリングでは、ヘッドギアをつけていてもリング禍の可能性は試合と同等に存在する。スパーリングや試合行為などで頭部に打撃を被った後は、頭部に負担をかける行為を控え休息を取ることが望ましい。悪例としては練習の一環としてスパーリングを行い頭部に打撃を被った直後にサンドバッグを殴るなどの練習をした場合、スパーリングでの負担に加え、バッグを殴った際に発生する反動衝撃などの負荷が頭部にかかることにより、追加的に脳への負荷を増大させる可能性が考えられる。

選手や監督者は日頃の練習などでも細心の注意を払うことが望ましい。

最も現実的かつ確実なリング禍の防止法は、あらゆる点において選手が自主的に頭部へ負担をかける事自体を極力減らすことである(極論として頭部への攻撃禁止がある)。ボクサーにとっての究極的なリング禍の防止法は極力試合を、ボクシングを控えることだが、ボクシングファンはボクサーに対しより多く試合をすることを望んでおり、また、ボクサーがボクシングにおける地位を向上させるには当然、より多くの試合で勝利し評価を高めなければならない。

試合数だけでなく試合時間についても同様の構図が存在する。長い時間試合を見たいというファンの心理、およびそれに迎合する興行的観点から、興行の構成の中核にあたるような選手や人気選手が4回戦や6回戦といった短いラウンド数の試合を行うことは敬遠される。今日、一定の経験や実績を積んだボクサーは10ラウンド制の10回戦試合を行うのが常であり人気選手同士の試合では、たとえノンタイトル戦でも12ラウンドで行われる場合もある。

このようにボクシングファンのボクシングへの向き合い方はリング禍の防止努力からは対極に位置し、そうしたボクシングファンの要望を実現することで、プロボクシングビジネスが成り立っている。

また、WBAなどの世界王座認定団体では世界タイトル戦、下部タイトル戦、次期挑戦者決定戦など自団体に関連した特定の12回戦の判定でジャッジの採点による勝敗結果が不適切であると判断した場合、両選手に再戦の指令を出す場合があるが、選手の競技努力とは無関係な、ジャッジの採点の間違いという外的な理由で、最も苛酷で長い12ラウンドの試合を選手に行わせることは、リング禍防止の観点からいえば最悪の措置といえる。

日本での対策[編集]

1952年4月21日のJBC発足以降、日本のプロボクサーの試合中のダメージによる死亡事故は37件(2010年2月23日現在)[7]。プロボクシングの公式戦以外では、高校、大学の部活動での練習や試合中に発生したリング禍がしばしば報道される一方で、プロボクサーが脳挫傷などの重篤に至っても死亡しない限りはリング禍として報告されないことが多く、また外国人招聘選手が帰国後に死亡した場合も同様に報告されない。

1977年には日本での死亡事故が多発、世界的にリングの安全性が見直されることになり、WBAはそれまで中量級で使用していた6オンスグローブを大きめの8オンスへ変更するようルールを改定した。(6オンスグローブはその後も使用されることがあったが、1990年代始めに安全面への配慮という目的からWBCで廃止され、数年のうちにWBAが追従、JBCは1996年から移行し、2001年8月1日にルールを改定した。)また偶然のバッティング規定を新設し、3R以内に続行不能となった場合は引き分けとし、4R以降はその時点の採点表によるものとした[8]。

この後、1980年代には減少傾向にあったものの1990年代には再び急増し、1977年の試合によるものも含めて10名のプロボクサーが死亡した。1997年10月13日の日本スーパーフライ級王座決定戦での死亡事故を受け、同月末、JBCは緊急の健康管理委員会を開き、事故防止対策を協議した。

この健康管理委員会でまず争点となったのがスタンディングカウント制度で、WBA、WBCのルールではカウント8での試合続行により深刻な事態へ進行することを避けるため、すでに10年以上前に廃止されていた。日本でも試験的に廃止されたことがあったが、レフェリーからはストップのタイミング判断の際、観客の違和感以上に、ストップをかけられた側のボクサー・陣営から不満の訴えがあった場合のトラブルが懸念され、安全という観点からは逆効果との声もあり、スタンディングカウントをとるローカルルールが引き継がれていた。しかしJBCの小島茂事務局長(当時)がレフェリーを説得し、スタンディングカウント制度は1998年2月1日付で廃止されることが決まり、この日以降は選手控室にも告知された。加撃されたボクサーがロープに寄りかかり攻撃も防御もできない状態にあればレフェリーはダウンと裁定してカウントはせず、即座にTKOとして試合を停止することになった。

また、この1997年10月末の健康管理委員会では前日計量を当日計量へ戻すべきとの意見もあったが、再検討の結果、極力、世界と共通のルールとし、また体力回復に時間を長くとれるというメリットを重視して、既定通りの前日計量が続行された。ただし前日に正式な計量を行う他、統計をとるために便宜上行われていた当日計量を恒久的に実施することとなった[9]。

2009年には、1月28日の59.5kg契約8回戦で開頭・開腹手術を要する事故、3月21日の日本ミニマム級王座決定戦で死亡事故が起きたことを受け、4月14日、JBCと日本プロボクシング協会の合同で健康管理委員会が開かれ、再発防止策としてMRI検査の実施など5項目がルール化を検討されることになった[10][11]。また、2010年2月19日の50.0kg契約8回戦での死亡事故を受け、同じく合同の健康管理委員会で再発防止策が協議されている[12]。

日本関連の事例[編集]

1940年代にマニュエル・ベラスケスがボクシングにおける死亡事故のデータを収集し始め、その後も連綿と続く The Manuel Velazquez Collection によれば、1950年から2011年にかけて、東京で26件の死亡事故が起きており、世界で最もボクシングでの死亡事故が多い都市となっている[13]。日本関連で起こった事故には次のようなものがある[3]。タイトルマッチの記述においては煩雑になるのを避けるため、勝敗結果にかかわらず、対戦前の王者を「王者」として記載している。

JBC発足まで[編集]
1.1902年1月24日、横浜市でエキシビションマッチを披露したアフリカ系アメリカ人のアーネスト・パドモア(パドモアの階級は不明。ただし、相手はミドル級)が、数時間後に足の冷たさと痺れを訴え、病院へ送られたが処置のしようがなく、午前1時半に死亡。検視の結果、スポーツ心臓によるものであった[14]。
2.1930年8月29日、西宮市でフィリピン人選手ボビー・ウィルスに9RTKO負けした前日本ライト級王者小林信夫(帝拳)が翌月1日に死亡。日本関連選手で最初の死亡事故となった。
3.1940年11月13日、東京で日本大学の韓国人アマチュア選手が脳震盪を起こした後、死亡[15]。
4.1944年3月29日、今井清(第一)が死亡。
5.1947年11月30日、小宮信雄(埼玉)が死亡。
6.1948年1月29日、ライト級8回戦に判定負けした小山省吾(日新)が同年3月16日に死亡。

JBC発足以降[編集]

字下げのある行に記載した事故は、JBCが発表する過去の件数に含まれていないもの。アマチュア選手の他、JBCのボクサーライセンスを持たない国外のプロ選手や、プロテスト中の選手の事故、日本のプロ選手のスパーリング中の事故はカウントされていない。





The Manuel Velazquez Collection および日本ボクシングコミッションによる、日本のボクシングにおける死亡事故の発生件数。1952年から2013年までの各年度のアマチュア・プロ別の事故数と、1952年までに起きた6件の事故を含む累計。原因となった試合の翌年以降に死去した例は、試合が行われた年度に算入。1.1952年4月24日、寺田保(大星)が死亡。
2.1955年3月19日、名古屋市で10回戦に判定勝利した横井義春(松田)が同月22日に死亡。
3.1958年2月4日、国本士成(東亜)が死亡。
4.1964年8月16日、東京で6RKO負けした長谷川稔(田辺)が同月20日に死亡。
5.1966年8月18日、東京で8RKO負けした久保義実(新和)が死亡。 1.1967年8月24日、全日本選手権でポイント負けしたアマチュア選手が病院へ運ばれて手術を受けた後、脳内出血で死亡[16]。
2.1969年11月6日、前年度西日本ミドル級新人王の二宮盛一(大星)が、スパーリング中のダメージにより脳の外傷で死亡。ライスファイトは1969年3月30日に行われた札幌での6回戦(判定負け)であった[16]。
3.1970年3月5日、プロテストで顎への右フックでダウンを喫した17歳の選手が起き上がれず、脳内出血により開頭手術を受けたが、翌日に死亡[17][18]。

6.1973年1月26日、グアムでフィリピン人選手フレッド・ザヤスとのスーパーフェザー級10回戦に8RKO負けした直後に倒れた親川昇(野口)が翌日に死亡[19]。日本関連選手が国外試合で死亡したのは初めてであった。
7.1973年8月22日、渡辺人志(大川)が死亡。
8.1977年1月3日、木村孝仁(高橋)が死亡。
9.1977年1月28日、ムサシ後藤(熊本)が死亡。
10.1977年7月19日、成田利彦(協栄河合)が死亡。
11.1977年8月20日、水野雅之(松田)が試合で意識を失い、1996年5月10日に死亡。
12.1977年8月26日、大幸勝則(山田)が死亡。
13.1978年5月2日、東京で4回戦に2RKO勝利した大和克也(本庄)が翌月28日に死亡。
14.1978年10月13日、東京でライト級4回戦にKO負けした黒井俊明(ヨネクラ)が翌年8月18日に死亡。
15.1979年10月7日、内海修一(セキ)が死亡。
16.1981年8月4日、東京でフライ級4回戦に1RKO負けした浦山純人(角海老)が同月10日に死亡。
17.1982年10月19日、東京でスーパーバンタム級10回戦に9RKO負けした小林直樹(金子)が同月21日に死亡。
18.1984年1月7日、秋田市でライトフライ級10回戦に6RKO負けした木村功(センタースポーツ)が同月9日に死亡。
19.1986年5月9日、名古屋市でのプロデビュー戦で、フライ級4回戦の最終回に顔面への連打を受けてKO負けを喫した22歳の小林健二(角海老宝石)が、リング上で意識を失い、2日後に死亡。当時JBCの事務局長を務めていた小島茂によれば、前年度より脳の検診を実施するようになってから初の死亡事故であった[20]。
20.1987年6月24日、東京でジュニアウェルター級4回戦で3回KO負けした21歳の小沢真尚(全日本パブリック)が脳内出血で手術を受けたが、8月10日に肺炎を併発し、意識を回復することなく死亡が確認された[21][22]。
21.1990年6月14日、札幌市でバンタム級10回戦に10RKO負けした米坂淳(北海道)が試合後の控室で意識を失い、4日後に脳挫傷で死亡[23]。対戦相手は後のWBC世界バンタム級王者薬師寺保栄であった。
22.1991年12月1日、名古屋市でジュニアフェザー級10回戦に10RKO負けした勝又ミノル(高村)が意識を失い、脳の外傷で緊急手術を受けたが、昏睡状態に陥り、翌日に死亡[24][25]。 1.1992年5月16日、高校生のアマチュア選手がトーナメントの試合後にコーナーで倒れ、脳の外傷で死亡[16]。

23.1992年12月19日、大阪でライト級8回戦に7RKO負けした23歳の浜川泰治(アポロ)が意識を失い、翌月(1993年1月)7日に死亡[25][26]。
24.1995年9月5日、東京での日本バンタム級タイトルマッチにて王者川益設男に判定負けしたグレート金山(ワタナベ)が同月9日に死亡。日本タイトルマッチ史上初のリング禍となった。金山は同年2月28日、王者として川益の挑戦を受け、10回判定負けで王座陥落。しかし、その判定結果が物議を醸し、JBCは川益に対し再戦を命じていた。その再戦で起こった事故である。
25.1995年12月12日、スーパーライト級でTKO負けして昏睡状態にあった26歳の伊藤光幸(秋田松本)が脳内出血で死亡[27]。
26.1996年4月3日、大阪でフェザー級8回戦に判定勝利した中島徹也(ハラダ)が昏睡状態に陥り、意識の戻らないまま5年後の2001年12月2日に死亡。
27.1996年7月21日、鈴木敦(上滝)が死亡。
28.1997年2月10日、東京でスーパーライト級8回戦に判定引分となった24歳の平沼浩幸(松戸平沼)が控え室で倒れ、昏睡状態にあったが、脳内出血のため、同月24日に死亡した[28]。
29.1997年2月24日、東京でスーパーバンタム級8回戦に8RKO負けした都田俊宏(協栄)が2005年10月に死亡。
30.1997年10月13日、東京で日本スーパーフライ級王座決定戦に7RKO負けした大雅アキラ(協栄)が同月19日に死亡。
31.1998年10月12日、東京でスーパーバンタム級10回戦に9RKO負けした28歳の片桐賢(極東)が、開頭手術を受けたが昏睡状態に陥り、同月27日に死亡[29]。 1.2000年1月16日、17歳の高校生アマチュア選手が試合中に2度ダウンした後、猛攻撃を受けて意識を失って倒れ、病院に運ばれたが、脳の外傷により8日後に死亡[30]。
2.2001年10月24日、福岡県久留米大学のアマチュア選手竹森大樹がスパーリング中に急性硬膜下血腫となり翌月14日に死亡。

32.2002年3月24日、東京でのフライ級6回戦に判定負けした伊礼喜洋(八王子中屋)が翌月9日に死亡。 1.2002年12月9日、東京でバンタム級8回戦に6RKO負けしたタイ人選手ヨードシン・チュワタナが帰国後試合4日後に昏睡状態になり、2日後にバンコクの病院で死亡した。
2.2004年1月22日、埼玉で16歳の高校生アマチュア選手がスパーリング中に脳内出血で死亡した[30]。

33.2004年3月15日、東京でのスーパーバンタム級10回戦に0-2で判定負けした24歳の能登斉尚(フラッシュ赤羽)が翌日軽い頭痛を訴えて入院、安定していた容体が22日未明に急変し、硬膜下血腫で緊急手術を受けた後は意識不明のまま翌月2日に死亡した。試合後のコミッションドクターの検診では異常は認められなかった[31]。
34.2005年4月3日、大阪で日本スーパーフライ級王座の初防衛戦に10RKO負けした王者田中聖二(金沢)が同月15日に死亡、挑戦者は後のWBA世界スーパーフライ級王者名城信男であった。
35.2008年5月3日、東京でスーパーライト級6回戦に6RTKO負けした張飛(明石)が同月18日に死亡した。
36.2009年3月21日、東京で日本ミニマム級王座決定戦に10RKO負けした辻昌建(帝拳)が同月24日に死亡した。 1.2009年10月12日、福岡でスーパーバンタム級10回戦に10RTKO負けしたタイ人選手サーカイ・ジョッキージムが試合終了とともに意識を失い、急性硬膜下血腫により3時間後に福津市の病院で死亡した。

37.2010年2月19日、東京でフライ級8回戦に8RTKO負けした八巻裕一(野口)が急性硬膜下血腫により緊急手術を受けたが[32]、同月22日に死亡と判明した[7]。
38.2013年12月20日、東京でスーパーフライ級4回戦に4RTKO負けした21歳の岡田哲慎(ランド)が急性硬膜下出血により緊急手術を受けたが、翌2014年1月6日に死亡した[33]。岡田は空手など武道の経験はあったが、ボクシング経験は無くジム入門後7ヶ月の間に2度テストを受けプロテストに合格、この試合が岡田にとってデビュー戦であった[34]。

日本国外のリング禍[編集]

日本国外の事例[編集]

代表的な例として、世界タイトルマッチで起こった死亡事故に次のようなものがある[3]。煩雑になるのを避けるため、勝敗結果にかかわらず、対戦前の王者を「王者」として記載している。この他、2005年4月2日にアメリカ・デンバーで行われた女子アマチュアの選手権大会では、3RKO負けしたベッキー・ザーレンテスが試合中に意識を失い、数時間後に死亡した。これは認可試合で女子ボクサーが死亡した最初の事故となった。
1897年12月6日、ロンドンで行われた世界バンタム級タイトルマッチで王者ジミー・バリー(アメリカ)に20RKO負けしたウォルター・クルート(イギリス)が死亡。
1947年6月24日、クリーブランドで行われた世界ウェルター級タイトルマッチで王者シュガー・レイ・ロビンソン(アメリカ)に8RTKO負けしたジミー・ドイル(アメリカ)が死亡。
1962年3月24日、ニューヨークで行われた世界ウェルター級タイトルマッチでエミール・グリフィス(アメリカ領ヴァージン諸島)に12RKO負けした王者ベニー・パレット(キューバ)が上述の通り、同年4月3日に死亡。
1963年3月21日、ロサンゼルスで行われた世界フェザー級タイトルマッチでシュガー・ラモス(キューバ)に10RTKO負けした王者デビー・ムーア(アメリカ)が2日後の3月23日に死亡。
1980年9月19日、ロサンゼルスで行われたWBC世界バンタム級タイトルマッチで王者ルペ・ピントール(メキシコ)に12RKO負けした後、意識不明となったジョニー・オーエン(イギリス)が同年11月3日に死亡。
1982年11月13日、ラスベガスで行われたWBA世界ライト級タイトルマッチで王者レイ・マンシーニ(アメリカ)に14RKO負けした金得九(韓国)が上述の通り、4日後の11月17日に死亡。
1983年9月1日、ロサンゼルスで行われたWBC世界バンタム級王座決定戦(史上初の暫定王座決定戦)でアルベルト・ダビラ(アメリカ)に12RKO負けしたキコ・ベヒネス(メキシコ)が3日後の9月4日に死亡。
1995年5月6日、ラスベガスで行われたWBC世界スーパーフェザー級タイトルマッチで王者ガブリエル・ルエラス(アメリカ)に11RTKO負けしたジミー・ガルシア(コロンビア)が開頭手術後も意識不明のまま、同年5月19日に生命維持装置を外されて死亡。
1999年10月9日、ホセ・ルイス・バルブエナ(ベネズエラ)戦で10RTKO負けした元WBA世界スーパーバンタム級暫定王者カルロス・バレット(ベネズエラ)が、試合後に担架で運ばれ、同月12日死亡。
2002年6月22日、ラスベガスで行われたWBO世界スーパーフライ級タイトルマッチでフェルナンド・モンティエル(メキシコ)に6RTKO負けした王者ペドロ・アルカサール(パナマ)が2日後の6月24日早朝に意識不明となり、この日の午後、病院で死亡。
2005年9月17日、ラスベガスで行われたIBF世界ライト級タイトルマッチでヘスス・チャベス(メキシコ)に11RTKO負けした王者レバンダー・ジョンソン(アメリカ)が5日後の9月22日に死亡。
2007年12月25日、韓国で行われたWBOインターコンチネンタルフライ級タイトルマッチで王者崔堯森(韓国=元WBC世界ライトフライ級王者)が挑戦者ヘリ・アモル(インドネシア)に12回判定勝ちするが、試合終了直後のリング上で意識不明となり、9日後の2008年1月3日に死亡。
2013年1月26日、インドネシアで行われた試合で17歳のボクサー(3勝3敗1分)が8回TKO負けした直後にリング上で意識不明となり、数日後に脳溢血で病院にて死亡[35]。
2013年10月19日、メキシコで8回KO負けしたフランシスコ・レアルが頭開手術を受けるが3日後に死亡。レアルは前年の2012年3月31日にアメリカのテキサス州でエフゲニー・グラドビッチに10回TKO負けをして、リングから担架で運び出され病院に入院しており、レアルの健康面を考慮しアメリカではボクシングライセンスが停止されていた状態にあった[36]。
2013年11月16日、メキシコでホルヘ・アルセに8回KO負けしたホセ・カルモナが試合後に昏睡状態となり2度の脳手術を受ける。元々カルモナはアルセと試合予定ではなかったが、アルセと対戦予定だった選手2人が負傷したことで試合の5日前に急遽決まった試合であった[37]。
2014年5月、フィリピンで行われた試合で14歳のボクサーが2ラウンドにノックアウトされたあと病院へ運ばれるが到着前に死亡。亡くなったボクサーは1ラウンドに鼻血をだしドクターチェックを受けるが試合は続行され、2ラウンドにめまいを訴えレフェリーが試合をストップしたと伝えられている[38]。
イギリスで「ホワイトカラーボクシング」と呼ばれるセミプロの試合で、32歳の男性がリングを降りた後に意識を失い病院へ運ばれるが死亡。この試合はセミプロの団体であったためイギリスのコミッションの管轄下で運営されていなかった[39]。
2014年10月28日、南アフリカのヨハネスブルグで女子プロボクサーのPhindile Mwelaseが死亡。Phindile Mwelaseは2週間前の試合で6ラウンドKO負けした後こん睡状態に陥り病院に運ばれるが意識不明の状態が続いていた[40][41]。

米国における最初の死亡例[編集]

1842年9月13日、ニューヨーク州ウエストチェスター郡のヘイスティングス・オン・ハドソンで[42]約2000人の観衆が見守る中、英国人のクリストファー・リリーとアイルランド人のトマス・マッコイが[43][44]、119ラウンド[45][43][46]、2時間41分にわたって戦った[42][43][44][47]。この試合は1838年に制定されたロンドン・プライズリング・ルールズの下で行われた[43]。ライトヘビー級の試合とされるが[44]、リリーは23歳、140ポンドで、マッコイは20歳2か月、137ポンド(ともにスーパーライト級相当)。身長はリリーの方がマッコイよりも1インチ高かった[45]。自信のあったマッコイは、「勝利、さもなければ死」を意味する黒いハンカチをロープに結び付けていた[43][44]。

試合は13時に開始された。マッコイは初回に左耳から血を流し、5回に口を打たれてダウンした時には、何らかの反則を訴えている。7回には唇と首が血で染まっていた。この回、リリーの左を腹に受けてマッコイはダウンし、立ち上がると何らかの反則を訴え、ジャッジは同意。レフェリーもこれを認めた。各ラウンドの詳細な経過を記した Life and Battles of Yankee Sullivan では「ここで試合は終わるべきだった」とされているが、マッコイ陣営は寛大にもマッコイの反則勝ちを拒否して、試合の続行を要求した。15回にマッコイは鼠径部のあたりを打たれて反則打を訴え、ジャッジは再び同意。この時もマッコイ陣営はアドバンテージは要らないと言って反則勝ちの権利を放棄している[45]。マッコイは15、16回までは優勢だったが[42][43]、その後、形勢は不利になっていく。しかし、リリーが非常に冷静に試合を運ぶ一方で、マッコイはセコンドの制止もないままに入れ込んだ状態で戦い続け、63回を迎えて初めてセコンドから少しセーブするように指示を受けるが、その回もマッコイはラッシングを止めない[45]。70回にはマッコイの両目は黒く腫れ上がって左目は塞がり、唇もひどく腫れ上がり、胸に血が流れ落ち、息も絶え絶えで、構えながらも喉から血の塊を吐き出そうとしていた。76回になると試合はより凄惨なものになり、観客は停止を求めて叫んだが、マッコイは毎回リングに出て行った[45][43]。86回には、リリーがほぼ無傷で入場時とほぼ変わらない状態であったのに対し、マッコイの両目は塞がり、鼻は折れて潰れ、鼻からも口からも夥しい血を流していたにも関わらず、両者のセコンドは試合を続行させた。リリーは毎回マッコイからダウンを奪い、マッコイは鼻や口のみならず両目からも血が噴き出すようになっていた[42]。

89回には試合をプロモートしたリリー陣営のヤンキー・サリバンらが、「死ぬまでやらせてどうする? マッコイはもう勝てない」と試合を止めようとしたが、マッコイのセコンドについていたヘンリー・シャンフロイドは「まだ始まったばかりだ」と拒否[45][43]。マッコイは自分の血で喉を詰まらせ、塊を吐き出しながら、続行を求めた[43]。107回には、マッコイは窒息感に苦しむように腫れた舌を突き出して口を開いていた[45]。しかし、80度以上もダウンを奪われながらも、118回が終わるとマッコイはセコンドに「手当てしてくれ。そうすればまだやれる」と言い、次の119回を戦った[45][43]。120回が始まろうとする時、マッコイは動くことができず、15分足らずのうちに死亡した[42][48]。この結果、リリーが勝利[45][48]。検視結果では、血が肺に流れ込んだことによる溺死(窒息死)であった[43]。

1791年の Delaware Gazette 紙などでは、トマス・ダニエルがジェームズ・スミスとのベアナックル・ファイトで命を落としたことが簡単に記されているが[49]、一般的にはこのリリー対マッコイ戦が、米国における死亡事故の最初の記録とされている[43][46][44][47]。18人の関係者が騒乱罪や過失致死罪で逮捕・起訴され[43]、その後ベアナックル・ファイト、懸賞試合への批判が高まることになった[47]。

勝者の深刻な受傷例[編集]
1996年4月3日、日本の大阪で行われた安野一也と中島徹也のフェザー級8回戦で、判定勝ちした中島が試合後意識不明の重体となる。その後中島の意識は戻らず、2001年12月に死亡した。
2006年3月18日、アメリカのエヴァンズビルで行われたケビン・ペイン(en)とライアン・マラルドのウェルター級8回戦で判定2-1で勝利したペインがリング上から担架で病院へ搬送され、翌日に死亡。病院の検死官代表のアーニー・グローブスは外傷性脳出血が死因だと述べた。その後、ペインは試合前に周囲の人間に頭痛を訴えていたかもしれないが、コミッションドクターには一切の異変も告げなかったということが報告された[50]。
2007年12月25日、崔堯森とヘリ・アモルのWBOインターコンチネンタルフライ級タイトルマッチ12回戦で判定勝ちした崔が試合後意識不明の重体となる。2008年1月2日に脳死宣告をされ、翌1月3日に家族の要望で生命維持装置が外され死亡した。

プロレスにおけるリング禍[編集]

プロレスにおけるリング禍は、その競技の特性上などからマット禍という表現が用いられることも多い。

プロレスの場合、それぞれ投げ技・打撃技・関節技などお互いの技の攻防が中心であり、プロレスラーは身体を徹底的に鍛え抜き、「受身」の技術も含めて技による打撃・衝撃に耐えうる様に訓練していることや、試合中の選手相互の間合い、そして相手選手の身体に過剰な負担が掛かる危険な技は頻用しないという暗黙の了解によって、1980年代後半までは、試合中において選手生命に影響する深刻な受傷があったとしても、死亡に至る事故は非常に少なかった。

古くは、外国人でキラー・バディ・オースチンやオックス・ベーカーがリング禍を「起こした」側として有名であるが(オースチンの場合はフィクション[51])、こと昭和期の外国人レスラーに関する限り、オースチンやベーカーのほか、スタン・ハンセンによる「ブルーノ・サンマルチノ首折り事件」やキラー・コワルスキーによる「ユーコン・エリック耳そぎ事件」など死亡事故に至らずとも、(たとえ不測の事故であったとしても)起こした側の武勇伝という形で興行団体に商業的に利用されていたのがプロレス特有の業界事情ではある。

しかし、1990年代以降、全日本プロレスを中心としてより過激なパフォーマンスを求める方針として、受け身の取りにくい非常に危険な技が数多く考案され多用される風潮が強くなってきた。これらの過激な技の応酬によって身体へのダメージが着実に蓄積され、深刻な後遺症を与えることも少なくない。また、本来ならばリングに上がることは到底無理な健康状態であったにもかかわらず、団体の運営・興行上の都合や選手自身の経済面の問題などからリングに上がり技を受け続け、致命的な事故に繋がった可能性を考えなければならない事故例も見られる様になった。後述する三沢光晴の死亡事故についても「過激な技を長年受け続け、身体(特に首)へのダメージが深刻なまでに蓄積されていたにもかかわらず、ノア社長兼同団体のトップ選手としてリングに上がり続け、大きな負担の掛かる技を受けなければならなかった」ことを遠因の1つとして見る向きもある。

また、日本においては、小規模会場などで比較的容易に興行を行える様になり、道場やトレーニング機材を持たないなど充実した練習環境を持たないインディペンデント団体やプロモーションが乱立する様になった。練習に専念できる機会に乏しいために絶対的な練習量が足らず、受け身が取れない様な素人同然のレスラーが安易にリングに上がることも多々見られる。インディペンデント系以外の団体においても演出上、芸能人など本職のレスラー以外がリングに上がり戦う(ハッスルなど)などプロレスラーのボーダーレス化が進んだことで、予期せぬ事故が発生することもあり得る様になった。迅速な救命・救急措置に欠かせないリングドクターについても、資金面の問題などを理由に一部の大手団体以外は常駐しておらず、一部のレスラーやレフェリーなど関係者が救命術など講習する動きなどはあるものの、リング禍防止への取り組みは未だ鈍いのが現状である。

日本人選手のリング禍[編集]

日本国内のプロレス興行において、日本人選手が試合中の事故により死亡した事例は5例発生している。
1997年8月15日、プラム麻里子(JWP)が、広島市での試合中に尾崎魔弓のライガーボムを受けて意識不明となり、救急搬送され開頭手術を受けたが、翌16日、脳挫傷及び急性硬膜下血腫による急性脳腫脹のため死亡。日本プロレス史上初の試合中の事故による死亡事例となった。
1999年3月31日、門恵美子(アルシオン)が福岡市での試合中に吉田万里子にキーロックをかけていた際、自身の体を持ち上げられてそのまま側頭部からマットに落とされて意識不明となり、開頭手術を受けたが、9日後の4月9日、急性硬膜下血腫及び脳挫傷のため死亡。
2000年4月14日、福田雅一(新日本プロレス)が、宮城県気仙沼市での試合中に柴田勝頼のエルボーを受けて意識不明となり、開頭手術を受けたが、5日後の4月19日、急性硬膜下血腫のため死亡。日本における初の男子選手の試合中の事故による死亡事例。
2009年6月13日、三沢光晴(プロレスリング・ノア代表取締役兼選手)が、広島市での試合中に齋藤彰俊のバックドロップを受けて頸髄離断を発症、心肺停止状態となり病院へ搬送されたが同日夜、死亡。
2015年11月3日、グラン・ハマチ(フリー)が東京都足立区での試合後、体調不良を訴え、緊急搬送先の病院で死亡[52]。

練習中に死亡した事例[編集]

道場などでの練習中に死亡した事例も何例か発生している[53]。
1975年、全日本女子プロレスのオスカル一条が、道場での練習中に倒れ、死亡。
1995年1月27日、新日本プロレスの練習生が練習後に道場で倒れ、4日後に脳挫傷で死亡。
1997年7月、大日本プロレスの練習生が道場での練習中に倒れ、脳内出血で死亡。
2003年7月28日、ジャイアント落合(格闘家)が、プロレスデビューを目指してWJプロレス道場へ出稽古中に意識不明となり、開頭手術を受けたが、11日後の8月8日、急性硬膜下血腫の為死亡。
2008年10月18日、RofC我道會館の新人選手が新木場1stRINGで行われた合同練習内にて、練習に参加したレスラー同士でダブルインパクトの練習を行ったところ、技を受けた選手が後頭部から落下、頭から落ちて首の骨を折り、技を受けた選手は、事故から6日後の10月24日に死亡[54]。
2010年6月23日、アパッチプロレス軍の力丸が、練習中に意識不明となり病院に搬送、急性硬膜下血腫と診断。7月13日、肺動脈血栓塞症のため死亡[55]。
2011年12月16日、都内のジムで、「Happy Hour!!」においてプロレスデビューが内定していたソフトボール経験者の女子大生が、練習前のウォーミングアップ中に倒れて緊急搬送、脳卒中の疑いで手術。21日に容体が急変し、急性心不全で死亡[56]。

その他[編集]

また、試合中・練習中の事故で死亡には至らなかったものの、重度の後遺症を伴う深刻な受傷となり、引退表明こそしていないものの実質的にリタイア状態となっている事例もある。SWSにおける片山明(第4頸椎脱臼骨折)、FMWにおけるハヤブサ(頸椎損傷)、ZERO-ONEにおける星川尚浩(急性硬膜下血腫)の事故例などが相当する。

その一方で、全日本女子プロレスにおける北斗晶(首の骨折)、大日本プロレスにおける山川竜司(頭蓋骨骨折)、新日本プロレスにおけるザ・グレート・サスケ(頭蓋骨亀裂骨折、所属はみちのくプロレス)、新日本プロレスにおける高山善廣(脳梗塞、事実上のフリー)の事故例の様に、選手生命に影響しかねない傷病を負いながらも、休養とリハビリを挟んで復帰を果たした事例も見受けられる。

日本国外でのリング禍[編集]

主な事例を挙げる。
1971年6月13日、アルバート・トーレスが、アメリカ・ネブラスカ州オマハでの試合でオックス・ベーカーのパンチ攻撃を心臓部へ受け、3日後に死亡[57][58]。
1972年2月21日、ルーサー・リンゼイが、アメリカ・ノースカロライナ州シャーロットでの試合中に心臓発作を起こし、同日死亡[59]。
1972年8月1日、レイ・ガンケルが、アメリカ・ジョージア州アトランタでの試合でオックス・ベーカーのパンチ攻撃を心臓部へ受け、同日死亡[57]。
1978年6月30日、マイク・マーテルが、プエルトリコ・ポンセでの試合でホセ・ゴンザレスのパンチ攻撃を心臓部へ受け、同日死亡(ゴンザレスは1988年のブルーザー・ブロディ刺殺事件でも知られる)[60]。
1993年10月26日、オロが、メキシコ・メキシコシティでの試合中に倒れ、同日死亡(心臓発作、脳内出血など死因に諸説あり)。
2000年1月7日、ゲーリー・オブライトが、アメリカ・ペンシルベニア州ヘイゼルトンでの試合中に心臓発作を起こし、同日死亡。
2003年11月29日、ムーンドッグ・スポットが、アメリカ・テネシー州メンフィスでの試合中に心臓発作を起こし、同日死亡[61]。
2015年3月21日、ペロ・アグアヨ・ジュニアが、インディー団体であるWrestling in Tijuanaにてマニックと組んでレイ・ミステリオ & エクストリーム・タイガーとの対戦中にミステリオのドロップキックを喰らった際に受け身を取れずに頭部をロープへと強打。首の頚椎を損傷して逝去した[62]。

他の格闘技におけるリング禍[編集]

ボクシングと同様に頭部を殴打したり、ボクシングにはない腕以外による競技行為として頭部を蹴ることが認められている競技にムエタイ、空手、総合格闘技他、多数が存在するが、ボクシングと比較するとリング禍は発生し難い。ルールの差異による試合展開の違い、ラウンド数や試合時間の違い、競技行為の多様性による殴打の頻度の違いなど競技の差異による様々な発生差異の理由が存在するが、脳に衝撃を与え損傷させうる競技行為が行われる以上は、脳挫傷、リング禍の可能性は常に存在する。

日本国内では、キックボクシングで1件のリング禍が確認されている。正道会館の選手がキックボクシングの試合でKO負けを喫し死亡した。総合格闘技ではアマチュア修斗で1件確認されている。

海外の総合格闘技ではアメリカで4例、その他の国で6例のリング禍が確認されており[63]、1998年にウクライナの大会に出場したダグラス・デッジが試合の2日後に死亡した例や、韓国で2005年4月にGimme5という興行で総合格闘技の試合後に競技者が死亡した[64]例などがある。

相撲では投げの打ち合いで頭から落ちていくことがよくあるが(親方も「投げの打ち合いは手をつかずに顔から落ちろ」と教えることが多い)、髷によって頭が保護されており、少なくとも本場所中に頭部強打が直接の原因となって死亡した事例はない[65]。

脚注[編集]

1.^ “学校における体育活動中の事故防止について(報告書) 図 5-3. 中学校・高等学校での運動部活動における死亡・重度生涯事故 -競技種目別発生頻度-”. 文部科学省 (2012年7月). 2013年9月15日閲覧。
2.^ Record Book CompuBox Online
3.^ a b c d 死亡事故についての参考資料:
「ボクシング百科全書 - リング禍」『日本ボクシング年鑑2005』 ボクシング・マガジン編集部編、日本ボクシングコミッション/日本プロボクシング協会協力、ベースボール・マガジン社、2005年4月30日発行 ISBN 4-583-03849-6、188頁。
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6.^ Nitin Sharma (2012年3月13日). “Boxers can fight till 40: AIBA” (英語). The Indian Express 2012年3月15日閲覧。
7.^ a b 八巻裕一選手死亡 JBC設立後37例目の犠牲者 ボクシングニュース「Box-on!」 2010年2月23日閲覧
8.^ 1977年の事故後の動向についての参考資料:
芦沢清一 「特別読物 日本のリング変遷史〈III〉 昭和41年〜63年」『ワールド・ボクシング』7月号増刊、日本スポーツ出版社、1993年7月31日発行 共通雑誌コードT1009804071109 雑誌09804-7、128-129頁。
9.^ 1997年の事故後の動向についての参考資料:
芦沢清一 「スタンディングカウントの廃止と前日計量について」『ワールド・ボクシング』4月号増刊、日本スポーツ出版社、1998年4月10日発行 共通雑誌コードT1109804040751 雑誌09804-4、80-82頁。
10.^ ボクサーの死、根絶へ本腰 王座戦の悲劇きっかけ JBC(1/2ページ)・(2/2ページ) 朝日新聞 2009年7月1日閲覧
11.^ JBC・JPBA合同健康管理委員会を開催 日本ボクシングコミッション 2009年4月14日
12.^ JBC・JPBA合同健康管理委員会報告 日本ボクシングコミッション 2010年3月18日
13.^ Joseph R. Svinth (2011年10月). “Death under the Spotlight: The Manuel Velazquez Collection, 2011 – Table 9: Cities reporting six or more boxing deaths, 1950-2011”. EJMAS. p. 15. 2013年3月24日閲覧。
14.^ Fatal Prizefight – Yokohama Pugilist Died After Sparring With Jack Slavin The Morning Oregonian 1902年2月5日 p. 5 (英語)
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16.^ a b c Joseph Svinth Death under the Spotlight: The Manuel Velazquez Boxing Fatality Collection – The Data (pdf) Journal of Combative Sport 2011年 (英語)
17.^ Japanese Fighter Critical After KO St. Petersburg Times 1970年3月9日 p. 2C (英語)
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19.^ Japanese Boxer Dies 18 Hours After Collapsing The Press-Courier 1973年1月28日 p. 20 (英語)
20.^ Boxer dies The Times-News 1986年5月12日 p. 18 (英語)
21.^ 郡司信夫「日本」、『ボクシング・マガジン』5月号増刊(『日本ボクシング年鑑』 1988年版)、ベースボール・マガジン社、1988年5月15日、 p. 17。
22.^ Japanese boxer dies Manila Standard 1987年8月10日 p. 12 (英語)
23.^ 大池和幸 愚行、悲劇…引退も考えた 日刊スポーツ 2008年1月9日
24.^ ロイター Japanese Boxer Dies of Brain Injury ロサンゼルス・タイムズ 1991年12月3日 (英語)
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51.^ “Wrestler Profiles: "Killer" Buddy Austin”. Online World of Wrestling. 2011年3月27日閲覧。
52.^ “お知らせ”. 『黄金郷の風』 (2015年11月4日). 2015年11月4日 閲覧。
53.^ 新米プロレスラーの死亡事故相次ぐ - リアルライブ2012年01月06日閲覧。
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55.^ アパッチプロレス軍 - BATTLE SCHEDULE
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60.^ “Michel Martel: Forgotten great”. SLAM! Sports (October 11, 2004). 2011年12月21日閲覧。
61.^ “Moondog Spot dies during match”. SLAM! Sports (November 30, 2003). 2013年9月7日閲覧。
62.^ “Perro Aguayo Jr. passes away in Tijuana hospital after match last night (Updated)”. Wrestling Observer. 2015年3月21日閲覧。
63.^ 英語版ウィキペディアの「Fatalities in mixed martial arts contests」より
64.^ 試合は開始1分程で競技者の目の出血負傷により終了。競技者が試合後の控え室で目の治療を受ける最中に呼吸困難となり死亡した。死因は持病の心筋梗塞と公表され、持病を認識していながら予備検診を怠って試合に出すなど興行を主催した側の問題が報道された。競技中の事故ではなく、格闘に限らず他の激しい運動行為でも起こるこのような事例がリング禍に含まれるかどうかは見方が分かれている。
65.^ 張り手などで一時的な脳震盪を起こした例はある。

関連項目[編集]
パンチドランカー
マニュエル・ベラスケス
2008年10月18日のリング禍
意識障害 - Japan Coma Scale / Glasgow Coma Scale / Emergency Coma Scale




外部リンク[編集]
Death under the Spotlight The Manuel Velazquez Boxing Fatality Collection
BoxRecにおけるカテゴリー:リング禍で死亡したボクサー

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パンチドランカー





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パンチドランカー

Gatica1.png

分類および外部参照情報


診療科・
学術分野
精神医学

ICD-10
F07.81

DiseasesDB
11042

eMedicine
sports/113

パンチドランカー(dementia pugilistica、DPと略す)とは頭部への衝撃から生じる脳震盪を起因とする神経変性疾患及び認知症に似た症状を持つ進行性の脳障害疾患のこと。また、そのような状態にある人間を指す。ボクサーに多く見られる疾患であること、最初に見つかった発症者がボクサーだったことから、慢性ボクサー脳症、外傷性ボクサー脳症、拳闘家痴呆、慢性ボクシング外傷性脳損傷、パンチドランク症候群などの別称がある。最近の研究でボクサーだけでなくアメリカンフットボールやアイスホッケー、プロレスリング、その他打撃系格闘技など繰り返し頭部へ衝撃を受けることのあるコンタクトスポーツのアスリートにも発症することが分かり、慢性外傷性脳症と呼ばれるのが一般的になっている。

認知症や神経変性疾患とは脳内で実際に起こるメカニズムが違い、頭部(脳)への衝撃による外傷が発症の起因となるなど異なる疾患であるが、症状が似ている事に加え、死後に脳を解剖することによってしか最終的な診断ができないことから、これらの疾患と混同されることが非常に多い。

ボクシングをはじめてから平均して15年後ぐらいに発症する選手が多く、ボクサーの約20%が患っていると言われている[1]。



目次 [非表示]
1 要因
2 症状
3 対処法
4 予防法
5 研究
6 CTEと診断された事例 6.1 アメリカンフットボール
6.2 アイスホッケー
6.3 プロレスリング

7 疾患の疑いがある選手
8 フィクションでの使用例
9 脚注
10 関連項目


要因[編集]

頭部に強い衝撃を繰り返し受けることがパンチドランカーの危険因子になると一般的には考えられているが、頭部に衝撃を繰り返し受けている全てのアスリートが発症しているわけでは無く、2005年ごろから本格的な研究が始まったばかりの疾患ということもあり詳しいことはまだ判明しておらず、遺伝の可能性や被曝の程度など様々な研究調査が続けられている。

格闘技におけるダウンは、いわゆる脳震盪が最大の要因である。「震盪」とは、激しく揺り動かす・激しく揺れ動く、という意味で、脳震盪とは脳が頭蓋内で強く揺さぶられることを指す。脳震盪により、大脳表面と大脳辺縁系および脳幹部を結ぶ神経の軸が広い範囲で切断などの損傷を受けることで、ダウンが起こる。

ボクシングは他の格闘技と比べて頭部へダメージが集中するためパンチドランカーに陥り易いとされていて、実際2015年1月30日に発表された、米国クリーブランド・クリニックを中心とした研究グループが4年間に渡って収集分析した研究結果でも「ボクサーは総合格闘家と比べて、年齢にかかわりなく全般的に結果が悪く、ボクサーの脳容量は総合格闘家よりも小さく、知的に後れを取っていた」と実証された[2]。アルバータ大学が2015年11月に発表した、試合後に選手が義務付けられているメディカルチェックを10年分、総合格闘家1,181人、ボクサー550人を対象に再調査した結果でも、切り傷や捻挫などの軽症を負ったのはボクサーの49.8%に対して総合格闘家が59.4%と上回ったが、脳震盪や失神、骨折や目の損傷などの重症を負ったのは総合格闘家の4.2%に対してボクサーが7.2%と上回り同様に実証された[3][4]。その理由については、ボクシングは攻撃が許されている範囲が頭部と胴体に限定されているため、ルール的に頭部へダメージが集中しやすい構造となっており、関節技やローキックなど頭部以外へダメージが分散される他の格闘技よりも頭部のダメージの多くなっていることや、特にプロボクシングは勝利のために相手をノックアウトすることを狙う格闘技であり、興行という観点からも派手なノックアウト勝利を至上とする風潮が根強いためノックアウトを奪いやすい頭部への打撃が多いこと、ボクシングは試合時間(ラウンド数)が他の格闘技より長いためダメージが蓄積しやすいこと、などが指摘されている。

ボクシング、空手、キックボクシング(K-1)、総合格闘技、プロレスなどの格闘技選手に限らず、競技中に激しい衝突が起きるラグビー、アメリカンフットボールなどの選手、落馬事故によって頭部への受傷を経験した競馬の騎手、またスポーツ選手以外にも、爆風で飛ばされた兵士、家庭内暴力の被害者、ヘッドバンギングの経験者などにもパンチドランカーの症状が見られることがある。

症状[編集]

具体的な症状は以下の通りであるが、同様に脳の器質的障害に起因する認知症の症状などにも類似した各種障害や人格変化が現れることが往々にある。
頭痛・痺れ・身体の震え・吃音(どもり)・バランス感覚の喪失
認知障害(記憶障害・集中力障害・認識障害・遂行機能障害・判断力低下・混乱等)
人格変化(感情易変、暴力・暴言、攻撃性、幼稚、性的羞恥心の低下、多弁性・自発性・活動性の低下、病的嫉妬、被害妄想等)


ボストン大学医学部のロバート・キャントゥらによる研究では、慢性外傷性脳症の重症度について4段階のステージを設定している[1]。
ステージ1 頭痛
ステージ2 鬱、攻撃性、怒り、短期間の記憶障害
ステージ3 認知障害
ステージ4 本格的な認知症、パーキンソン病(体の震え、歩行障害)

脳内で起こる症状
前頭皮質、側頭皮質及び側頭葉の萎縮から来る、脳重量の減少。
側脳室と第三脳室の膨張がしばしばあり、稀な事例として第四脳室膨張が見られることもある。
青斑核及び黒質の蒼白。
嗅球、視床、乳頭体、脳幹、小脳の萎縮。
さらに病状が進んだ場合 海馬 、内嗅皮質、扁桃体の著しい萎縮が見られることがある。

選手生活を引退した後、数年経過して発症することが多い。これらの症状が悪化することによって社会生活だけでなく、日常の生活でさえ著しく困難になる場合もある。

対処法[編集]

パンチドランカーとその症状を避けるためには、周囲の証言を聞き出すことや定期的な脳の検査(脳室拡大および白質の瀰漫性萎縮)を続けることが必要不可欠である。どんな小さなサインも見過ごさないようにすることが、悪化させない最良の手段である。近年では、多くの格闘技団体で試合前後の脳の検査を義務付けている。

予防法[編集]

脳への影響は打撃による累計的な損傷量、つまりダメージの蓄積がもっとも警戒すべき点であるとされている。それゆえ選手・競技者としてのキャリアが豊富かつ長期に渡る者や、激しいファイトを特徴とした選手ほど細心の注意が求められることになる。 最大の予防法は、脳にダメージを与えないことである。とは言っても、格闘技を行う以上、頭部へ打撃を全く貰わないというのは難しい。ディフェンス能力を徹底して高めたり、スパーリングでは、全力で顔面を殴らない。ヘッドギアを必ず着用する。キャリアが長期になるほど危険であるので、引退の時期を誤らないように注意することも重要である。

研究[編集]

数多くのNFLスター選手を筆頭に、NHL選手、プロレスラー、MLS選手、ボクサーのミッキー・ウォードなどが死後、CTE研究のために脳を提供することを表明している。

CTEと診断された事例[編集]

現在のところ、技術的側面から生きている間の診断は不可能で、死後に脳を解剖することでしか最終的な診断ができない。

アメリカンフットボール[編集]

2005年にはじめてアメリカンフットボール選手の脳からCTEが発見される。CTEと診断された最も若いアメリカンフットボール経験者は17歳[5]。2013年1月までにアマチュアを含むアメリカンフットボール経験者50人の脳からCTEが確認されており、そのうち33人が元NFL選手[6]。2013年4月9日には約4200人の元NFL選手が脳震盪の危険性を隠していたとしてNFLを告訴している[7]。

アイスホッケー[編集]

2009年にはじめてアイスホッケーの選手の脳からCTEが発見される。他に有名選手を含んだ数人のNHL選手がCTEと診断されている。

プロレスリング[編集]

2007年、妻と子供を殺して自殺したWWEのプロレスラー、クリス・ベノワの脳からCTEが発見される。2009年、アンドリュー・マーチンの脳からCTEが発見される。

疾患の疑いがある選手[編集]
モハメド・アリ(ボクシング) パーキンソン症候群、体の震えや筋硬直、喋りと動作の緩慢を特徴とする神経変性疾患[8]。
シュガー・レイ・ロビンソン(ボクシング) アルツハイマー病[9]。
高橋ナオト(ボクシング) 著書「ボクシング中毒者」で告白。自転車で真っ直ぐ進むことが出来ず電柱にぶつかる、手の震えを抑えきれずにラーメンの汁をこぼしてしまう。
たこ八郎(ボクシング) 引退の原因となった。一時期二桁以上の文字すら記憶できなかった程の記憶障害や寝小便等の排泄障害にも悩まされたという。
佐竹雅昭(空手) - 著書「まっすぐに蹴る」で、日常生活も困難になっていたことを告白した。
前田宏行(ボクシング) 自らのブログで告白し、引退することを明言。
フロイド・パターソン(ボクシング) アルツハイマー病、妻の名前を覚えられないほどの記憶障害が原因でアスレチックコミッションを辞任[10]。
ゲーリー・グッドリッジ(K-1、総合格闘技) - 告白し、引退。自身の発言によると軽い認知障害があるといい、会話の途中で何を話していたか分からなくなるとしている。
ウィルフレド・ベニテス(ボクシング) 心神喪失状態。
ジェリー・クォーリー(ボクシング) アルツハイマー病、認知症、1983年にCTスキャン撮影で脳萎縮を確認。引退後、食事と着替えに介護者が必要となる。
マイク・クォーリー(ボクシング)
ジミー・エリス(ボクシング) アルツハイマー病、晩年は既に亡くなっていた妻をまだ生きていると思い込んでいた。
エミール・グリフィス(ボクシング) 晩年は全面的な介護が必要となった。
メルドリック・テーラー(ボクシング) 医学的理由でボクシングライセンスの交付を拒否され引退[11]。

引退後、テレビのインタビューで現役時代とは違い酷く吃った喋り方で話し現役時代を知る視聴者に大きな衝撃を与えた。
ジミー・ヤング(ボクシング) 自身の麻薬関連の裁判で慢性外傷性脳損傷であるとして減刑を求めた。
ボウ・ジャック(ボクシング) 重度の認知症。椅子に座りなにもない空中にひたすらパンチを繰り出していた。
アーニー・テレル(ボクシング) 認知症。
ウィリー・ペップ(ボクシング)
ボビー・チャコン(ボクシング)
レオン・スピンクス(ボクシング) 認知症。
フレディ・ローチ(ボクシング) パーキンソン病。

フィクションでの使用例[編集]
ロッキー5 - シルヴェスター・スタローン
あしたのジョー - 矢吹丈、カーロス・リベラ
はじめの一歩 - 猫田銀八、ラクーン・ボーイ、幕之内 一歩
がんばれ元気 - 海道卓
ボーイズ・オン・ザ・ラン - 鈴木
喧嘩商売 - マイルズ・バンバー
仮面ライダーオーズ/OOO - 岡村一樹
あいくるしい - 中川竜一
天上天下唯我独尊 - 安岡条二

脚注[編集]

1.^ a b “Chronic Traumatic Encephalopathy (Brain Damage)”. BOXING.com (2013年2月17日). 2013年6月26日閲覧。
2.^ “頭への衝撃で脳の処理速度が遅くなる、ボクサー1試合ごとに0.19%のペース「ボクサーの方が頭を打たれる」、脳が小さくなる原因に?”. MEDエッジ (2015年2月11日). 2015年3月2日閲覧。
3.^ “New study reveals that boxing leads to more serious injuries than MMA”. Bad Left Hook (2015年11月6日). 2015年11月20日閲覧。
4.^ “ボクシングと総合格闘技ではどちらがより過酷なのか:研究結果”. ライフハッカー (2015年11月20日). 2015年11月26日閲覧。
5.^ “Brain bank examines athletes' hard hits”. CNN.com (2012年1月27日). 2013年6月26日閲覧。
6.^ “故ジュニア・セーアウの脳に慢性外傷性脳症確認”. アメフトNewsJapan (2013年1月10日). 2013年6月26日閲覧。
7.^ “引退選手4,000人超参加の脳震とう訴訟、聴聞会開催”. アメフトNewsJapan (2013年4月9日). 2013年6月26日閲覧。
8.^ “He is simply ... The Greatest”. ESPN.com (2013--). 2013年6月26日閲覧。
9.^ “Bittersweet Twilight For Sugar”. SI.com (1987年7月13日). 2013年6月26日閲覧。
10.^ “Can medical technology save boxers from brain death?”. SALON.com (1999年5月1日). 2013年6月26日閲覧。
11.^ “Quitting Time”. SI.com (2002年6月3日). 2013年6月26日閲覧。

関連項目[編集]
ボクシング
リング禍
マニュエル・ベラスケス
認知症
アルツハイマー型認知症
パーキンソン病 - モハメド・アリやフレディ・ローチが罹患しているが、脳のダメージ蓄積が発症の直接の原因であるのかは不明。



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表 ·
話 ·
編 ·


スポーツ障害
頭・脳の障害
脳挫傷 - 脳震盪 - パンチドランカー

首の障害
外傷性頸部症候群 - バーナー症候群

肩の障害
ベネット損傷 - SLAP損傷 - 野球肩(三角筋炎 - 腱板炎 - リトルリーガーズショルダー) - 水泳肩 - テニス肩 - ゴルフ肩 - バレーボール肩 - バドミントン肩 - 投擲肩

上腕の障害
上腕二頭筋長頭腱炎

肘の障害
離断性骨軟骨炎 - 野球肘 - テニス肘 - ゴルフ肘 - 水泳肘 - 岩登り肘 - バドミントン肘 - 卓球肘 - 投擲肘

前腕の障害
コーレス骨折 - ボウリング腕

手の障害
腱鞘炎(ド・ケルバン病) - キーンベック病 - TFCC損傷

腰の障害
腰椎分離症 - 腰椎すべり症 - 椎間板ヘルニア - 梨状筋症候群 - 筋筋膜性腰痛 - 卓球腰 - サーフィン腰 - スノーボード腰 - サイクリング腰 - スキー腰

大腿の障害
大腿骨頭すべり症 - 筋断裂 - 肉離れ

膝の障害
離断性骨軟骨炎 - ランナー膝(オスグッド・シュラッター病 - 腸脛靭帯炎 - 棚障害 - 鵞足炎) - ジャンパー膝 - サッカー膝 - 平泳ぎ膝 - バレーボール膝 - バスケットボール膝 - テニス膝 - ジョギング膝 - ウォーキング膝 - サーフィン膝 - スノーボード膝 - 卓球膝 - スキー膝 - 膝蓋骨脱臼 - 半月板損傷 - 靭帯損傷(外側側副靭帯損傷 - 内側側副靭帯損傷 - 前十字靭帯損傷 - 後十字靭帯損傷) - 関節軟骨損傷

下腿の障害
シンスプリント(脛骨過労性骨膜炎) - コンパートメント症候群 - アキレス腱炎(アキレス腱周囲炎 - アキレス腱滑液包炎) - アキレス腱断裂

足の障害
フットボール足 - サッカー足 - フットサル足 - サイクリング足 - スケート足 - テニス足 - 足底筋膜炎 - 踵骨骨端症 - 捻挫 - モートン病

その他の障害
疲労骨折 - 筋痙攣 - イップス - ハンガーノック






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神経変性疾患
ボクシング用語
スポーツ障害
パーキンソン病

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マニュエル・ベラスケス





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曖昧さ回避 この項目では、反ボクシング活動家のマニュエル・ベラスケスについて説明しています。 楽器製作者のマヌエル・ベラスケスについては「マヌエル・ベラスケス」をご覧ください。
サッカー選手については「ホセ・マヌエル・ベラスケス」をご覧ください。


マニュエル・ベラスケス(Manuel Velazquez, 1904年12月6日 - 1994年1月)は20世紀の反ボクシング活動家、及びリング禍情報収集家。



目次 [非表示]
1 来歴
2 スポットライト下の死-マニュエル・ベラスケス ボクシング死亡事故集- 2.1 判明した死亡者数
2.2 年代別死亡者数
2.3 国別死亡者数
2.4 死亡事故が起きたラウンド
2.5 階級別死亡者数
2.6 死亡原因
2.7 死亡する兆候が現れた時間
2.8 年齢
2.9 その他

3 脚注
4 関連項目
5 外部リンク


来歴[編集]

フロリダ州タンパに生まれる。10歳の時に家族とともにイリノイ州シカゴに移住。

1920年、15歳の時に学校を中退、オークパークの鉄道会社の機関車の車庫で働き始める。19歳の時に州兵となりF大隊第131歩兵隊に配属される。

1924年から25年までの1年間兵役を務めた後タンパに戻り路面電車のオペレーターとなる。この時期にベラスケス自身もボクシングジムへ通っている。

1927年にニューヨークに移った後、地下鉄の案内係として働き始め、プロボクサーのピート・ネボと交友関係をもつようになる。

ネボは1936年に27歳でプロボクサーを引退、1週間に2、3試合戦ったこともあったという。ネボはキーウェストに移り住んだ1938年に、自分を"punchy"(パンチドランカーの意)と罵倒した男を暴行、傷害容疑で逮捕された。裁判所はネボはボクシングでの後遺症により精神的な責任能力が無いと判断し、9月1日に病院での生活を強制する判決を言い渡した。この一件の後、ベラスケスはボクシングの後遺症に関する情報を新聞記事から収集し始めた。反ボクシング活動として新聞社や連邦議会議員に手紙を送るなどしたが、そのほとんどは無視された。同年、多発性硬化症の為に地下鉄を退職。

病の為、既に歩行に杖を必要とする状態であったが1940年から政府役所の事務員として59年まで就労を続けた。

59年に引退した後、タンパの政府補助の施設で過ごし、後にアリゾナ、次に移ったグリーンヴィルで生涯を閉じるまで余生を送った。1994年1月没。89歳。

ベラスケスは死の直前、自身が集めた新聞記事の切り抜きなどボクシングでの事故に関する情報をまとめたファイルを、格闘技研究家のロバート・W・スミス(en)に送った。この調査集はスミスから90年代中期にジョセフ・R・スヴィンスに渡り、『Death under the Spotlight: The Manuel Velazquez Boxing Fatality Collection(スポットライト下の死-マニュエル・ベラスケス ボクシング死亡事故集-)』という題名で、スヴィンスと有志による調査と研究が現在でも続けられている。これはインターネット上に公開されており、世界中のボクシングに関する死亡事故の情報と統計が随時更新されている。

スポットライト下の死-マニュエル・ベラスケス ボクシング死亡事故集-[編集]

前述のとおり、ベラスケスの意思を継いだジョセフ・R・スヴィンスを中心に世界中の有志によって現在も情報収集・調査が続いているボクシング死亡事故資料である。ただし新聞の切り抜きやインターネットの記事などを頼りに手作業で収集している資料のため、実際に起ったリング禍を全て網羅しているわけではない。

判明した死亡者数[編集]


2000年7月

2001年12月

2004年1月

2005年5月

2006年4月

2006年12月

2007年11月

2011年10月

938人 1,101人 1,197人 1,255人 1,326人 1,344人 1,465人 1,865人

(過去に遡って判明した分も含む)

年代別死亡者数[編集]


1800年以前

1820年代

1830年代

1840年代

1850年代

1860年代

1870年代

1880年代

1890年代

1900年代

1910年代

1920年代

1930年代

1940年代

1950年代

1960年代

1970年代

1980年代

1990年代

2000年代

37人 42人 26人 28人 28人 27人 30人 41人 134人 112人 149人 223人 212人 123人 148人 117人 97人 83人 84人 103人

国別死亡者数[編集]


アメリカ

イギリス

オーストラリア

メキシコ

日本

フィリピン

南アフリカ

アルゼンチン

ニュージーランド

インドネシア

フランス

ドイツ

イタリア

キューバ

カナダ

スペイン

ベネズエラ

チリ

その他の国

871人 333人 155人 53人 47人 40人 36人 29人 28人 27人 25人 22人 16人 15人 14人 12人 12人 10人 120人

(以上は2011年10月までに判明した調査結果データから[1])

死亡事故が起きたラウンド[編集]
プロボクシング


1ラウンド

2ラウンド

3ラウンド

4ラウンド

5ラウンド

6ラウンド

7ラウンド

8ラウンド

9ラウンド

10ラウンド

11ラウンド

12ラウンド

13ラウンド

14ラウンド

15ラウンド

16ラウンド

16ラウンド以降

45人 62人 54人 82人 49人 95人 46人 71人 44人 92人 13人 35人 10人 10人 13人 9人 14人





プロボクシングにおける1890年から2007年11月までのラウンド別の死亡事故件数(上の表をグラフ化したもの)アマチュアボクシング


1ラウンド

2ラウンド

3ラウンド

4ラウンド

29人 49人 90人 11人

階級別死亡者数[編集]





アマチュアボクシング・プロボクシングにおける1920年から2007年11月までの階級別の死亡事故件数(左上の表をグラフ化したもの)

フライ級以下

バンタム級

フェザー級

ライト級

ウェルター級

ミドル級

ライトヘビー級

ヘビー級

54人(8.0%) 67人(10.0%) 102人(15.2%) 127人(18.9%) 116人(17%) 93人(13.8%) 50人(7.4%) 53人(7.9%)

死亡原因[編集]


首部を含む頭部の損傷

心臓発作

その他(内臓破裂等)

80% 12% 8%

死亡する兆候が現れた時間[編集]


リング上

リングを降りた後(控え室、帰宅後)

1週間以上経ってから

75% 20% 5%

年齢[編集]
プロボクシング 死亡平均年齢は23.1歳(最年少12歳、最高齢45歳)、1980年以降の死亡事故1335件中923件(68%)がプロボクサーが死亡した事例。
アマチュアボクシング 死亡平均年齢は20.5歳(最年少13歳、最高齢41歳)、1980年以降の死亡事故1335件中293件(22%)がアマチュアボクサーが死亡した事例。
トレーニング中 死亡平均年齢は23.5歳(最年少11歳、最高齢50歳)、1980年以降の死亡事故1335件中126件(9%)がトレーニング中(プロ55件、アマチュア71件)に死亡した事例。

その他[編集]
1890年以降に起きた死亡事故1335件のうち1230件(90.7%)が試合中のダメージを原因とした死亡事故、125件(9.2%)がトレーニング中の死亡事故。
1920年以降に起きた死亡事故のうち61件(5.4%)が勝った選手もしくは引き分けた選手が死亡した事例。
1732年以降に起きた死亡事故のうち何らかのタイトルマッチで死亡した事例は65件(4%)。
2000年以降に女子ボクサーが死亡した事例は2件。

(以上は2007年11月までに判明した調査結果データから[2][3]。)

脚注[編集]

1.^ “DEATH UNDER THE SPOTLIGHT: THE MANUEL VELAZQUEZ COLLECTION, 2011 (*PDF)”. Joseph R. Svinth (2011年10月). 2013年6月24日閲覧。
2.^ “DEATH UNDER THE SPOTLIGHT: THE MANUEL VELAZQUEZ COLLECTION A Presentation, 2007”. Joseph R. Svinth (2007年11月). 2013年6月24日閲覧。
3.^ “DEATH UNDER THE SPOTLIGHT: THE MANUEL VELAZQUEZ COLLECTION, 2007”. Joseph R. Svinth (2007年11月). 2013年6月24日閲覧。

関連項目[編集]
リング禍
パンチドランカー

外部リンク[編集]
スポットライト下の死-マニュエル・ベラスケス ボクシング死亡事故集-




カテゴリ: アメリカ合衆国のボクシングに関する人物
タンパ出身の人物
1904年生
1994年没

https://ja.wikipedia.org/wiki/2008%E5%B9%B410%E6%9C%8818%E6%97%A5%E3%81%AE%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%B0%E7%A6%8D

2008年10月18日のリング禍





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このページ名「2008年10月18日のリング禍」は暫定的なものです。(2009年10月)

2008年10月18日のリング禍(にせんはちねんじゅうがつじゅうはちにちのリングか)は、2008年10月18日に中小プロレス団体(インディー系)に所属する選手が練習中に死亡した事故(リング禍)。プロレスにおける問題が浮き彫りになった[1]。なお、この記事の名称は便宜上につけたものである。



目次 [非表示]
1 概要
2 問題点
3 その後
4 背景
5 脚注
6 外部リンク


概要[編集]

2008年10月18日、新木場1stRINGの貸しリングで佐野直を中心にインディー系のプロレスラー3団体による合同練習を行い、A(25歳)も練習に参加していた。その最中、Aの所属する団体の代表の菅原伊織と、同じ団体に所属するB(34歳)でダブルインパクトの練習を行うことになり、菅原がAを肩車して、BがコーナーポストからAをめがけてダイブした。この結果、Bのコーナーからのラリアットによって、Aは頭からまともにリングに落下。頸椎骨折による脳幹損傷という致命傷を受けたAはただちに病院へ運ばれたが、6日後の10月24日に死亡した[2]。

問題点[編集]

事故当時のAは平塚市に住む会社員であり、2008年4月に入門して8月にデビュー。試合経験は2度のみであった。Bも会社員であり、Aと同僚だった。所属団体は自前のリングを持っておらず、週に数回地元の柔道場へ集って畳の上で受身の練習や筋力トレーニングを行い、時折マットを持参して投げ技を練習する程度であった[1]。Aがリングを使って練習を行ったのは当日で3回目であり、入門以前に格闘技の経験もなかったため素人同然と言ってもよく、プロレスラーにとって重要な受身も出来ず、教わる機会もなかった[1]。

ダブルインパクトは合体技の1つで、片方がターゲットを肩車し、片方がコーナーポストからターゲットめがけてダイブしてラリアットをたたきつけるという物で、フィニッシュにも使われる大技であるが、それだけに危険性も高い。肩車をする選手には体勢を変えて、相手が受身を取りやすいよう落下させる配慮が必要になる。しかしAもBも技を掛けたことがなく、掛けられたこともなかった[1]。

その後[編集]

2009年2月、死去したAの遺族は佐野直、菅原伊織、Bを 業務上過失致死容疑で刑事告訴した(2011年3月に不起訴処分)[3]。

2010年8月27日、警視庁東京湾岸警察署は、技を掛けた2人を技術が未熟なのにもかかわらず危険な技を掛け、Aを死亡させた疑い、練習の責任者だったプロレスラーを安全管理を怠った疑いで過失致死容疑で書類送検した[4]。

背景[編集]

プロレスは、全体を統括する団体がなくライセンスが存在しない。このため、基本的な練習を行っていなくてもリングに上がって試合をすることができる。集客力のない弱小団体はチケットの売り手として選手を入団させている場合もある[1]。

受身もまともに取れない素人に対して危険なプロレス技を仕掛け、プロレス技の危険性を認識していない人間が指導をしていたことが今回の事件に繋がっており、起こるべくして起きたと考えられる。

ライセンス制については微妙な問題であり、ライセンス制のボクシングで、死亡事故が起きることは少なくない。また、ベテラン選手についても「アブドーラ・ザ・ブッチャーとテリー・ファンクが、現在のコンディションでライセンスを取れるかどうか怪しいからといって、彼らを強制的に引退させるなどということが可能なのか?」というように、ライセンス制に疑問の声が上がることがある。

脚注[編集]

[ヘルプ]

1.^ a b c d e 「会社員レスラー死亡 「実験台…起こるべくして起こった事故」」、産経新聞東京朝刊、2008年12月24日、第1社会面。
2.^ 「会社員レスラー死亡 今年10月 危険技で首強打 警視庁が捜査」、産経新聞東京朝刊、2008年12月24日、第1社会面。
3.^ 「プロレス練習で会社員死亡 団体代表ら書類送検へ」、中日新聞朝刊、2009年6月16日、社会面。
4.^ “死亡事故でプロレス団体代表らを書類送検”. ニッカンスポーツ・コム (2010年8月27日). 2013年9月15日閲覧。

外部リンク[編集]
由利大輔さん死亡事故の真実
新人プロレスラー 由利大輔さん 悲劇の事故死を追求する会




カテゴリ: 日本のプロレス
2008年の日本の事件
2008年の日本のスポーツ
江東区のスポーツ史
新木場
2008年10月

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頭を何度も強く打つと、脳容量が小さくなり、処理速度が遅くなることが分かった。  ボクサーと総合格闘家を対象に検証した結果だ。

http://archive.is/PCGI4


2015年2月11日 3:00 PM
ボクシング
総合格闘技

課題処理能力

頭への衝撃で脳の処理速度が遅くなる、ボクサー1試合ごとに0.19%のペース

「ボクサーの方が頭を打たれる」、脳が小さくなる原因に?
健康 / 予防 / 食事 / 遺伝子

















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イイネ!


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写真はイメージ。記事と直接の関係はありません。

写真はイメージ。記事と直接の関係はありません。


 頭を何度も強く打つと、脳容量が小さくなり、処理速度が遅くなることが分かった。

 ボクサーと総合格闘家を対象に検証した結果だ。

 米国クリーブランド・クリニックを中心とした研究グループが、ブリティッシュ・ジャーナル・オブ・スポーツ・メディシン誌で2015年1月30日に報告している。

131人を4年間調べる

 研究グループは、総合格闘技の選手131人、ボクサー93人、合計224人のプロ格闘家を対象として、脳を何度も打つことの影響を検証した。

 被験者は18歳から44歳で、半数は高校を卒業しておらず、半数は大学レベルの学力だった。プロ格闘家としての経歴は0年から24年で、平均4年。プロでの試合数は0回から101回で、1年あたりの平均は10回だった。

 被験者は試験開始時とその後の4年間、毎年、MRIで脳容量を量った。知力を評価するため、言語記憶、処理速度、細かい動作の能力、反応時間の試験も行った。また、戦歴の長さと激しさを組み合わせ、「暴露関連損傷スコア」も算出した。

脳容量が小さくなる

 その結果、スコアが高いほど脳容量、特に脳の中心部にある「視床」と「尾状核」が小さく、暴露関連損傷スコアが1つ増えるとどちらも0.8%減っていた。視床は大脳皮質のまとめ役のような部分で、さまざまな神経機能に影響を及ぼす部分である。

 脳容量が小さく、暴露関連損傷スコアが高いと、脳の処理速度が遅くなっていた。処理速度は1試合ごとに0.19%遅くなり、スコアが1つ増えると2.1%遅くなっていた。スコアが4の格闘家は0の格闘家と比べて、処理速度が8.8%遅かった。さらに、スコアが高いと認知異能障害のリスクも高かった。

 ボクサーは総合格闘家と比べて、年齢にかかわりなく全般的に結果が悪かった。ボクサーの脳容量は総合格闘家よりも小さく、知的に後れを取っていた。

 その理由はなぜか。「ボクサーの方が頭を打たれることが多いのが一番の原因だろう。総合格闘家は敵に脳震とうを起こさせてノックアウトするのではなく、レスリングや柔術のような別の技も使える」と研究者は分析している。

 痛いデータだ。

関連情報

Professional Fighters Brain Health Study. Repeated head blows linked to smaller brain volume and slower processing speeds. British Journal of Sports Medicine. 2015 Jan 30.

http://bjsm.bmj.com/content/early/2015/01/08/bjsports-2014-093877.full?g=w_bjsm_open_tab

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ヒクソングレイシー自身が推薦の動画も!ヒクソングレイシーから直接黒帯を与えた数少ない一人ルイス・ヘレディア先生のヒクソングレイシーの極意を伝授する教則DVD!





同じくエリオグレイシーから直接黒帯を与えられたペドロサワーのみならず

ヒクソングレイシー御大自身からも推薦の動画が配信されています

ヒクソンのノウハウはハッキリ言って競技柔術のものは愚か

他のグレイシー一族のノウハウとも違い

いわゆる歴代の剣聖 達人 武術の極意のようなちょっとした違いで全然違うものになる術でした

競技の柔術ではなく「グレイシー柔術」に関心のある人は必見のDVDじゃないでしょうか

そういえば教則DVDといえば

柔術が教則DVDや教則本 セミナーなどに需要が大変高く人が多く集まるのは言うまでもないですね(その辺はイサミなどの格闘技専門店で海外の柔術 ノーギ教則DVDがよく販売されていたりするのでよくわかると思います 増田俊也さんの本でも描かれてましたけど)

MMAは今やメジャープロスポーツののジャンルにまで昇りつめましたが

MMA競技人口そのものは柔術に比べるとごくごく少数なんだそうです

MMA有名王者がセミナーとか開いても人が集まらないとか

MMA教則DVDが柔術の教則ものと違って売れてないとか

要するにMMA いわゆる総合格闘技は見る側のスポーツとしてはメジャーになったものの

やる側の人口は柔術と違ってMMAは意外やそんなに伸びてはいないようです

橋本欣也&大沢ケンジの対談でも人口の差に話題が出ていましたが…

アメリカで教則ものをたくさん販売しているブドービデオのブドージェイクも柔術の教則ものは売れるけれども
MMAの教則ものは競技人口が少ないから売れないとハッキリ言っていましたし…

見る側のスポーツとしてはMMAは今や絶大な人気だけどやる側はヒジョーに希少だということでしょうか

意外です

柔術とMMAは両輪のように人気 人口を共に伸ばした間柄なだけに

MMAの人口が少ないのはどうしてもボクシングやムエタイ キックボクシングと同じく脳にダメージが残りやすい
頭部への打撃が認められた競技だからでしょうねぇ
ボクシングもムエタイ キックボクシングも競技人口は空手などに比べたら少ないですし
顔面パンチが許容された競技はどうしてもハードだから敷居が高くならざるをえないんでしょうねぇ

ちなみにテコンドーやフルコンタクトの空手でも頭部に打撃が認められている競技は引退後何十年も経ってパンチドランカー症状に悩まされるという人も出てくる可能性を否定できないんだとか
そう考えると格闘技やるのは脳への悪影響が起きる可能性が高いので本当はやんない方がいいのかもしんないですね

柔術 柔道の絞め技で落としたりする行為も脳への悪影響があるとハッキリ医学でも証明されているようですし

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伊丹十三監督の異色作「たんぽぽ」  日本映画界で類稀な奇才ぶりを発揮したのが、伊丹十三監督(1933~1997没、享年64才、不審死)です。 警察は、死因を‘飛び降り自殺’と発表しましたが、私は、間違いなく暴力団による暗殺と思っています。
















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http://cmovieshd.com/movie/tampopo/watch/

http://blog.oisiso.com/2012/06/post-938.html

映画『タンポポ』よりラーメンに関する部分のまとめ

たんぽぽらーめん

ある晴れた日、僕は一人の老人にともなわれてふらりと町へ出た。 老人はラーメン暦四十年。 これから僕に、ラーメンの正しい食べ方を伝授してくれるのだという。

僕:「先生、最初は、スープからでしょうか、それとも麺からでしょうか?」

老人:「最初はまず、ラーメンをよく見ます」

僕:「は、はい」

老人:「どんぶりの全容を、ラーメンの湯気を吸い込みながら、じみじみ鑑賞してください。 スープの表面にキラキラと浮かぶ無数の油の玉。 油に濡れて光るシナチク。 早くも黒々と湿り始めた海苔。 浮きつ沈みつしている輪切りのネギたち。 そして何よりも、これらの具の主役でありながら、ひっそりとひかえめにその身を沈めている三枚の焼き豚」

老人:「ではまず箸の先でですね、ラーメンの表面をならすというかなでるというかそういう動作をしてください」

僕:「これはどういう意味でしょうか?」

老人:「ラーメンに対する愛情の表現です」

僕:「ははぁー」

老人:「次に、箸の先を焼き豚のほうに向けてください」

僕:「ははぁーいきなり焼き豚から食べるわけですか?」

老人:「いやいや、この段階では触るだけです。 箸の先で焼き豚をいとおしむようにつつき、おもむろにつまみあげ、どんぶり右上方の位置に沈ませ加減に安置するのです。 そして、これが大切なところですが、この際心の中で詫びるようにつぶやいてほしいのです。 『あとでね』と」

ガン(渡辺謙):「なにが『あとでね』だよ。 ちくしょう、ひでえもんだな、こっちまでラーメン食いたくなってきちゃったじゃねーかよぉ」

ゴロー(山崎努):「まあガマンしろよ、あと二時間で着くじゃねえか、仕事終わってからゆっくり食いに行こうや」

ガン:「そーおー?」

ゴロー:「それより続き読みな」


老人:「さて、それではいよいよ麺から食べ始めます。 あ、このときですね、麺はすすりつつも、目はあくまでもしっかりと右上方の焼き豚に注いでおいてください。 それも、愛情のこもった視線を」

やがて老人は、シナチクを一本口中に投じてしばし味わい、それを飲み込むと、今度は麺をひとくち、そしてその麺がまだ口中にあるうちに、またシナチクを一本口中に投じる。ここではじめて老人はスープをすすった。 立て続けに合計三回。 それからおもむろに体をおこし、フーッとためいきをついた。 意を決したかのごとく、一枚目の焼き豚をつまみあげ、どんぶりの内壁にトーン、トーンと軽くたたきつけた。

僕:「先生、今の動作の意味は?」

老人:「なに、おつゆを切っただけです」

タンポポのラーメン

タンポポ(宮本信子):「そんなにヒドかったですか私のラーメン」

ゴロー:「いやあ、そういう意味で言ったんじゃないんだよ」

タンポポ:「お願いです正直に言ってください。 主人が亡くなってから私、見よう見まねでやってるんですけど、ぜんぜん自信がなくて、すごく不安なんです。 是非、お二人の意見聞かせてください。 どうでしょう、わたしのラーメン。

ゴロー:「うーんそうだねえ、まあ、まじめな味ではあるんだけど、元気がないというか、力がないというか」

ガン:「はっきりいってマズいです」

ラーメン屋の心がけ
•いらっしゃいを言うなら客の顔を見て言う。 さもなきゃ黙々と仕事をする。
•客が見てない時にすばやく客を観察する。 急いでいるのか腹が減っているのか、この店ははじめてか、ふらっと入ってきたのか、ウワサを聞いて来たのか、酒飲んだ後か、この店のラーメンに合うか。
•チャーシューをその場で切るのは良い事。 しかし厚けりゃいいというものではない。 2ミリ~3ミリにする。
•丼を渡す際も客の顔を見る。
•スープがすぐに飲めるのはおかしい。 熱くないラーメンはラーメンじゃない。
•旨いラーメンさえつくりゃ、客なんていくらでもいるわけだ。

悪いラーメン屋

動きに無駄が多い。 私語が多くて誰が注文したのかもわかんない。

スープは煮過ぎて豚骨の臭みが出ていて、豚の臭いを消すために入れた野菜も甘みが出すぎて嫌味。 丸みを出すための昆布もクドい。 背黒イワシはハラワタが臭くてラーメンスープには向かない。

麺は寝かせすぎてカンスイが芯まで染み込んでいて、食べるとカンスイの臭いがする。 雨の後はカンスイは少なめでよい。 チャーシューを茹ですぎてボール紙みたいな食感になっている。 シナチクは塩漬けでなく水煮を使っているから歯ごたえも風味もいまひとつ。

ラーメン食べるのはド素人。 素人にわからない味を作ってどうする。

良いラーメン屋

動きに無駄がなく、無言。 気合が客に伝わる。 客がどんぶりを離さない。 客が立つと、必ずどんぶりを見る。 スープはラーメンの命であり、ちゃんとスープを飲んでくれたかどうかを確認する。 客の細かいオーダーを全部覚える。

新生タンポポへ

味の基本線は綺麗に澄んだ醤油味のスープで、コッテリした迫力のあるコクを狙う。 具はチャーシューとシナチクとネギだけ。 メニューもラーメンとチャーシュー麺の二品で勝負する。

センセイ(加藤嘉)によるスープの指導

「いいですか、ラーメンというものは面白いもので、いい仕事をすればそれは必ずいい味になって帰ってきます。 これ忘れんでください」

「ではその、スープのイロハからおさらいします。 鶏はすぐに痛みますから新しい鶏をできるだけ早く使う。 鶏も豚も臭いが強いから一度熱湯で茹でて、あとよく水洗いをしてそれから使う。 野菜は丸ごと入れていいんです。 難しいのは火加減です」

「ダシができるためには十分強い火で、しかしくれぐれもこのようにグラグラ煮立たせんように。 煮立たせるとスープが濁ってしまいますからね。 そして何より大切なことは丹念にアクをとること」

ショーヘイ(桜金造)による麺のアップグレード

「ツルツルのシコシコでっしゃろ」

「麺っつうのはね、注文するときに厳密にレシピを決めて粉の配分から打ち方から全部指定せなあきまへんのや。 たとえばね、このトゥルトゥルするんは機械で生地を伸ばす時に一回ぐらい余分に圧延をかけてるんやないかなあと思うんですわ。 それに機械にかける前に生地の状態でしばらく寝かせてますね。 ただ、それをどの程度やってるのかその加減がわかりまへんのや。 カンスイもね、普通使うてるのとちょっとちゃうかもしれんなあ」

ビスケン(安岡力也)のネギソバ

「そんな悲しい顔すんなよタンポポ。 お前今、旨いもの作ってんだろ。 旨いもん作ってる時はよ、もっと幸せそうな顔しろよ。」

「ようし、じゃあなあ、俺のとっておきのレパートリー教えてやるよ。 まずな、ネギをハスに切んな。 チャーシューは細切りだ。 それを軽―く炒めて、ラーメンの中央に乗っけて、胡麻油をひとたらし。

以上伊丹十三の名作『たんぽぽ』よりラーメンに関する部分をまとめてみた。 何度観ても、いや素晴らしい映画である。

http://npn.co.jp/article/detail/19073161/

【不朽の名作】麺選びの部分が描写されていない、その一点だけが残念なラーメン映画「タンポポ」


まにあっく 2015年07月31日 12時09分








【不朽の名作】麺選びの部分が描写されていない、その一点だけが残念なラーメン映画「タンポポ」

 ラーメンというのは、もはや食べ物である前に得体のしれない何かになっていないだろうか? しょうゆ、塩、味噌という基本系から、とんこつ系、つけ麺、魚介系、油そば、家系ラーメン、喜多方ラーメン 、二郎インスパイヤ系など、様々なものに細分化し、本来ならば、お手軽なジャンクフードであるはずのものを、大の大人が大真面目に評論している。作る側も食べる側も、どこか狂気めいた熱量を持っている人も多く、普段ラーメンにそれほど思い入れがない人にどこか近寄りがたくなっている部分も多い。そんなラーメンのことを大真面目に論議する人々が面白いと思い、約30年前に映画のメインテーマとしてしまった作品がある。それが、今回紹介する、伊丹十三監督の第2作目(別名義合わせると3作目)として1985年に放映された『タンポポ』だ。

 この作品のメインは宮本信子演じる未亡人・タンポポのラーメン屋を、山崎努演じるタンクローリー車運転手のゴローら、ラーメンのスペシャリストたちが立て直す話となっている。予告編などでは「ラーメンウエスタン」というキャッチコピーが目を引いたが、まさにその通りで、映画『シェーン』など、人種差別的描写を減らした頃のウエスタンのような構図で、痛快でかつ笑える内容となっている。

 ラーメンに関する解説はかなり詳細になされており、店主の立ち居振る舞いから、スープ、麺、内装といったラーメン屋に必要な各要素を、それぞれのスペシャリストが細かく改善点を語っていく。その様子は大真面目すぎて笑ってしまうほどだ。最初に問題となる、店主の立ち居振る舞いの時点で、行列が出来ていても動きに無駄のある店は不味い店、客が食べ終わった後にスープを全部飲んでるか、さり気なく確認する店はいい店など、いいラーメン屋というのはどういったものかというのを細かく解説しており、かなり入念に調べていたことがうかがえる。

 スープの研究では、人気店のゴミ箱をあさってスープの内容物を調べるなど、かなりエグい描写もある。さすがにやり過ぎの気もするが、ここまでやらないまでも、ライバル店を調べる店というのは結構あるのではないだろうか。筆者が学生時代にアルバイトしていた地元のラーメン屋でも、偵察のようなことはよくやっていた。その場合スープの様子を確認するために、店のカウンターに座る前に、メニューを探すフリをしてスープの鍋をチラ見したり、カウンターにのれんがかかっている場合は、ワザと顔を厨房に突き出して注文するなどだ。ちなみに、昔にバイトしていた所が、醤油ラーメンがメインだった影響で、自分自身がアンチとんこつ派的なところもあり、この映画のとんこつ批判はよくぞいってくれたという思いもある。劇中でもゴローが指摘していたが、基本的にとんこつは、鍋に豚骨を放り込んで野菜と火力高めで一緒に煮込めばそれっぽいものが出来てしまうこともあり、野菜や昆布の香りで豚の臭いを隠す店などが、人気店であっても多い。当たり外れがとてもデカイのだ。「『こだわり』とかいうくらいならアク抜きくらいしろよ、豚臭すぎる」と思った時が何度もある。特に最近は、味が濃ければいいという幻想のもと、とんこつベースに醤油や塩、魚介などを混ぜてくる店も多いので、ハズレ率が極端に高い気がする。

 さらに、麺の話になると、「かん水」という言葉が頻繁に出てくる。劇中ではさも知って当然のように説明もはぶかれているが、このかん水とは、ラーメン用の麺を作る時に使うアルカリ塩水溶液で、かん水の分量次第で麺のコシやのど越が大きく変わってくる。一般に低かん水であればあるほど伸びやすいが、スープの味に絡みやすい麺が出来るといわれており、高かん水であるほどコシの強い麺が出来あがる。各ラーメン屋の店主は、手打ちではない限り、自分の店スープに合う麺を業者に発注するのだが、この作品では尺の都合か、麺選びの部分が描写されていない、その一点だけは残念な部分だ。

 内装に関しては、安岡力也演じるヤクザまがいの土建屋、ビスケンが、女性であるタンポポの背丈に合うような設計を試みる。さらに、この時に客のカウンターのスペースがラーメンを食べるにしては狭いと指摘し、大幅リフォームをするのだが、ここもラーメン屋にとっては、かなり重要ではないだろうか。おそらく伊丹監督自身も、狭く設計しすぎな店舗などをよく見ていたのだろう。こういった職業ごとの仕事に関する細かい描写は、後の伊丹作品の『マルサの女』や、『ミンボーの女』などでも見ることが出来る。

 さて、長々と劇中のラーメンについて扱ったが、実はこの作品にはもうひとつの側面がある。本編の幕間に入る寸劇がそれだ。これらのシーンでは役所広司扮する白スーツの男を始め、様々な人物の食に関する小話が展開される。正直、全く本編と関係ないので不要だと思うのだが、これらのシーンでは、性(もしくは生)や死と食に関する話が展開されており、本編とはまた違う生々しい食物に関連したエロ描写が見られるので、見方によっては、かなり面白い話となってはいる。個人的にはイマイチ乗りきれなかった感はあるが、笑える部分もあり、延々同じようなノリで進む本編の箸休め的要素にはなるかもしれない。あと、これらのシーンには日本人の食に関する挑み方に対しての皮肉も描かれており、この辺りは、後の伊丹作品である『スーパーの女』に通じるものがあるかもしれない。

 この映画を見るならば、昼飯時か、夕飯時に終わるように合わせて見ることをオススメする。詳細なラーメントークを受けて、きっと「ラーメン食べよう」と思うはずだ。まあ、映画から30年後の現在は、さらにラーメンのジャンルが細分化し、競争も過熱したことで、作中のようなオーソドックスな醤油ラーメンを探すのが難しくなっているかもしれないが…。

(斎藤雅道=毎週金曜日に掲載)

http://yansue.exblog.jp/21689816/


伊丹十三監督の異色作「たんぽぽ」  シネマの世界<第521話>


日本映画界で類稀な奇才ぶりを発揮したのが、伊丹十三監督(1933~1997没、享年64才、不審死)です。
警察は、死因を‘飛び降り自殺’と発表しましたが、私は、間違いなく暴力団による暗殺と思っています。

a0212807_263630.jpg
生前の伊丹監督は、様々な分野に造詣深くマルチな才能を発揮しました。
1984年マルチ才能人の伊丹十三は、「お葬式」で長編映画監督デビュー、その年の映画賞を総ナメにしa0212807_282536.png大ヒット映画になりました。
翌年の1985年、伊丹監督が、第2作目の作品として発表したのは、異色作「たんぽぽ」という‘ラーメンウエスタン’で、そのユーモア精神とパロディならびにギャグ満載のコメディ映画でした。
イタリア映画のマカロニウエスタンを元ネタに伊丹監督らしいマニヤックな演出で国内外の映画ファンを唸らせましたが、映画興行a0212807_291041.jpgとしては、成功しませんでした。
しかし、海外の映画ファンには、大好評で、とくにアメリカでは、日本映画としての興行成績が、歴代第2位という大ヒットでした。
この「タンポポ」を見たのが、きっかけで日本に興味を覚え来日する、実際東京でラーメン店を開く外国人もいたくらい大きな海外の反響でした。
アメリカの映画監督ジョン・ファヴロー(1966~ 俳優・プロデューサー)は、「たんぽぽ」からインスピレーションをa0212807_2114277.jpg得て新作を自主制作し映画「シェフ」を発表しました。
映画の本筋は、街の片隅にある寂れたラーメン屋にふらりと立ち寄ったタンクローリーの運転手(山崎努 1936~)と相棒(渡辺謙 1959~)が、女主人(宮本信子 1945~)を助け街一番のラーメン屋にして立ち去っていくというベタなストーリーながら、本筋と関係なく‘食のエピソード’のa0212807_2132132.jpgシークエンスを唐突に挿入、その斬新な構成と伊丹監督の自由自在な演出にただ脱帽です。
映画のエピソードをいくつか紹介すると、まず映画冒頭に登場する白服の男(役所広司 1956~)と情婦(黒田福美 1956~)の「食と性」で二人のエロチックなシーンは、口移しで生卵の黄身を崩さず何度もやりとりするカットなどポルノ真っ青なシーa0212807_214633.jpgンです。
海辺の若い海女(洞口依子 1965~)から買った生牡蠣を食べ、牡蠣殻で切った唇の血をその若い海女が唇を舐めるようにキスするシーンもエロチックです。
ラーメンの由緒正しい食べ方を教える老人(大友柳太朗 1912~1985)が、登場したり、高級レストランでスパゲッティの食べ方マナーを生徒に講義する先生(岡田茉莉a0212807_2144371.jpg子 1933~)の傍らでズズズッー、ズズズッーとスパゲッティを啜(すす)って食べる外国人(アンドレ・ルコント 1932~1999、「ルコント」オーナーパティシエ)いたり、顧客接待でフランス語メニューの読めない顧客と上司が、当たり障りのない料理や安いワインを注文するのに、フランス語は読めるが、空気の読めない新米社員は、高級料理や高級ワインを次々にオーダーするシーンなどゲラゲラ笑えます。
a0212807_2152556.jpg食の細いラーメン屋の息子にホームレスのシェフが、リストラされたレストランに夜忍び込み本物のオムライス(伊丹監督発案のレシピで現在このオムライスは日本橋「たいめいけん」の名物メニュー)を作って食べさせるシーン、アイスクリームをじっと見ている自然食だけの子供にタンクローリーの運転手が、自分のアイスクリームをあげるシーン、食品店の柔らかい商品だけ触り回る老婆(原泉 1905~1989)とそa0212807_216870.jpgれを見張る店長(津川雅彦 1940~)との追っかけっこ、有名大学教授を装うスリに北京ダックを奢(おご)りニセ投資話で騙そうとする詐欺師のエピソード、幼い子供たちを抱える男が、危篤の妻にどう声をかけて良いか分からずチャーハンを作らせるシーンなど悲喜交々のエピソードが、本筋に13話挿入されます。
a0212807_2164933.jpg映画のラスト‥クレジットロールの背景に映し出される「授乳」が、人間にとって最初の食事であり、これこそが、食の原点であるという伊丹監督のメッセージと私は、受け取りました。
エキストラと思われる公園で授乳する母親と赤ん坊の名前もちゃんと出演者クレジットにあり、さすが伊丹監督とその細やかな気配りに感心しました。
映画のサウンドトラックにさり気なくリストやマーラーを流す音楽センスもいいですねえ。

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治安維持法 特高の拷問による獄死者は194人、獄中病死者が1503人、逮捕者は数十万人



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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%BB%E5%AE%89%E7%B6%AD%E6%8C%81%E6%B3%95

治安維持法





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この記事には複数の問題があります。改善やノートページでの議論にご協力ください。
出典がまったく示されていないか不十分です。内容に関する文献や情報源が必要です。(2016年3月)

信頼性に問題があるかもしれない資料に基づいており、精度に欠けるかもしれません。(2016年3月)




治安維持法

日本国政府国章(準)
日本の法令

通称・略称
治維法

法令番号
昭和16年3月10日法律第54号

効力
廃止

種類
公法、刑事法

主な内容
国体変革・私有財産制否定を目的とする結社・運動の取締

関連法令
刑法、(旧)刑事訴訟法、破壊活動防止法

条文リンク
constitutional law
ウィキソース原文
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治安維持法(ちあんいじほう、昭和16年(1941年)3月10日法律第54号)は、国体(皇室)や私有財産制を否定する運動を取り締まることを目的として制定された日本の法律。当初は、1925年に大正14年4月22日法律第46号として制定され、1941年に全部改正された。

とくに共産主義革命運動の激化を懸念したものといわれているが、やがて宗教団体や、右翼活動、自由主義等、政府批判はすべて弾圧・粛清の対象となっていった。



目次 [非表示]
1 経緯 1.1 前身
1.2 法律制定
1.3 廃止

2 その歴史的役割
3 その後
4 その他
5 脚注 5.1 注釈
5.2 出典

6 関連項目
7 外部リンク


経緯[編集]

前身[編集]

1920年(大正9年)より、政府は治安警察法に代わる治安立法の制定に着手した。1917年(大正6年)のロシア革命による共産主義思想の拡大を脅威と見て企図されたといわれる。また、1921年(大正10年)4月、近藤栄蔵がコミンテルンから受け取った運動資金6500円(現在の価値で約1300万円)で芸者と豪遊し、怪しまれて捕まった事件があった。資金受領は合法であり、近藤は釈放されたが、政府は国際的な資金受領が行われていることを脅威とみて、これを取り締まろうとした。また、米騒動など、従来の共産主義・社会主義者とは無関係の暴動が起き、社会運動の大衆化が進んでいた。特定の「危険人物」を「特別要視察人」として監視すれば事足りるというこれまでの手法を見直そうとしたのである。

1921年(大正10年)8月、司法省は三宅正太郎らが中心となり、「治安維持ニ関スル件」の法案を完成し、緊急勅令での成立を企図した。しかし内容に緊急性が欠けていると内務省側の反論があり、1922年(大正11年)2月、過激社会運動取締法案として帝国議会に提出された。「無政府主義共産主義其ノ他ニ関シ朝憲ヲ紊乱」する結社や、その宣伝・勧誘を禁止しようというものだった。また、結社の集会に参加することも罪とされ、最高刑は懲役10年とされた。これらの内容は、平沼騏一郎などの司法官僚の意向が強く反映されていた。しかし、具体的な犯罪行為が無くては処罰できないのは「刑法の缺陥」(司法省政府委員・宮城長五郎の答弁)といった政府側の趣旨説明は、結社の自由そのものの否定であり、かえって反発を招いた。また、無政府主義や共産主義者の法的定義について、司法省は答弁することができなかった。さらに、「宣伝」の該当する範囲が広いため、濫用が懸念された。その結果、貴族院では法案の対象を「外国人又ハ本法施行区域外ニ在ル者ト連絡」する者に限定し、最高刑を3年にする修正案が可決したが、衆議院で廃案になった。

また、1923年(大正12年)に関東大震災後の混乱を受けて公布された緊急勅令 治安維持ノ為ニスル罰則ニ関スル件(大正12年勅令第403号)も前身の一つである。これは、治安維持法成立と引き替えに緊急勅令を廃止したことで、政府はその連続性を示している。

法律制定[編集]

1925年(大正14年)1月のソビエト連邦との国交樹立(日ソ基本条約)により、共産主義革命運動の激化が懸念されて、1925年(大正14年)4月22日に公布され、同年5月12日に施行[注釈 1]。

普通選挙法とほぼ同時に制定されたことから、飴と鞭の関係にもなぞらえられ、成人男性の普通選挙実施による政治運動の活発化を抑制する意図など、治安維持を理由として制定されたものと見られている。治安維持法は即時に効力を持ったが、普通選挙実施は1928年まで延期された。 法案は過激社会運動取締法案の実質的な修正案であったが、過激社会運動取締法案が廃案となったのに治安維持法は可決した。奥平康弘は、治安立法自体への反対は議会では少なく、法案の出来具合への批判が主流であり、その結果修正案として出された治安維持法への批判がしにくくなったからではないかとしている[3]。

ウィキソースに治安維持法中改正ノ件の緊急勅令の法文があります。

1928年(昭和3年)に緊急勅令「治安維持法中改正ノ件」(昭和3年6月29日勅令第129号)により、また太平洋戦争を目前にした1941年3月10日にはこれまでの全7条のものを全65条とする全部改正(昭和16年3月10日法律第54号)が行われた。

1925年(大正14年)法の規定では「国体ヲ変革シ又ハ私有財産制度ヲ否認スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シ又ハ情ヲ知リテ之ニ加入シタル者ハ十年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス」を主な内容とした。過激社会運動取締法案にあった「宣伝」への罰則は削除された。

1928年(昭和3年)改正の主な特徴としては
「国体変革」への厳罰化1925年(大正14年)法の構成要件を「国体変革」と「私有財産制度の否認」に分離し、前者に対して「国体ヲ変革スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シタル者又ハ結社ノ役員其ノ他指導者タル任務ニ従事シタル者ハ死刑又ハ無期若ハ五年以上ノ懲役若ハ禁錮」として最高刑を死刑としたこと。「為ニスル行為」の禁止「結社ノ目的遂行ノ為ニスル行為ヲ為シタル者ハ二年以上ノ有期ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス」として、「結社の目的遂行の為にする行為」を結社に実際に加入した者と同等の処罰をもって罰するとしたこと。改正手続面改正案が議会において審議未了となったものを、緊急勅令のかたちで強行改正したこと[4][5]。
があげられる。

1941年(昭和16年)法は同年5月15日に施行されたが、
「国体ノ変革」結社を支援する結社、「組織ヲ準備スルコトヲ目的」とする結社(準備結社)などを禁ずる規定を創設したこと。官憲により「準備行為」を行ったと判断されれば検挙されるため、事実上誰でも犯罪者にできるようになった。また、「宣伝」への罰則も復活した。刑事手続面従来法においては刑事訴訟法によるとされた刑事手続について、特別な(=官憲側にすれば簡便な)手続を導入したこと、例えば、本来判事の行うべき召喚拘引等を検事の権限としたこと、二審制としたこと、弁護人は「司法大臣ノ予メ定メタル弁護士ノ中ヨリ選任スベシ」として私選弁護人を禁じたこと等。予防拘禁制度刑の執行を終えて釈放すべきときに「更ニ同章ニ掲グル罪ヲ犯スノ虞アルコト顕著」と判断された場合、新たに開設された予防拘禁所にその者を拘禁できる(期間2年、ただし更新可能)としたこと。
を主な特徴とする。
検挙対象の拡大
 1935年から1936年にかけて、思想検事に関する予算減・人員減があった。 1937年6月の思想実務者会同で、東京地裁検事局の栗谷四郎が、検挙すべき対象がほとんど払底するという状況になっている状況を指摘し、特高警察と思想検察の存在意義が希薄化させるおそれが生じている事に危機感を表明した[6]。 そのため、あらたな取締対象の開拓がめざされていった。治安維持法は適用対象を拡大し、宗教団体、学術研究会(唯物論研究会)、芸術団体なども摘発されていった。

廃止[編集]

1945年(昭和20年)の敗戦後も同法の運用は継続され、むしろ迫り来る「共産革命」の危機に対処するため、断固適用する方針を取り続けた。同年9月26日に同法違反で服役していた哲学者の三木清が獄死している。10月3日には東久邇内閣の山崎巌内務大臣は、イギリス人記者のインタビューに答えて、「思想取締の秘密警察は現在なほ活動を続けてをり、反皇室的宣伝を行ふ共産主義者は容赦なく逮捕する」方針を明らかにした。

1945年8月下旬から9月上旬において、司法省では岸本義広検事正を中心に、今後の検察のあり方について話し合いを行い、天皇制が残る以上は治安維持法第一条を残すべきとの意見が出ていた[7]。ほか、岩田宙造司法大臣が政治犯の釈放を否定している。

1945年10月4日、GHQによる人権指令「政治的、公民的及び宗教的自由に対する制限の除去に関する司令部覚書」により廃止と山崎の罷免を要求された。東久邇内閣は両者を拒絶し総辞職、後継の幣原内閣によって10月15日『「ポツダム」宣言ノ受諾ニ伴ヒ発スル命令ニ基ク治安維持法廃止等(昭和20年勅令第575号)』により廃止された。また、特別高等警察も廃止を命じられた。

GHQから指示された人権指令には、10いくつかの法律が「廃止すべき法令」として列挙されていたが、実際には戦前の治安法規は85もあった。そのため日本政府は、すでに列挙されている10いくつかの法律は廃止せざるをえないが、そこに列挙されていない法律は意図的に見逃すことによって人権指令を無内容化し、最低限の実施で切り抜けようとした。そのため、たまたま見つかった治安警察法は廃止されたが、それ以外の法律は廃止リストに無かったため、その後も残されることになった[8]。

人権指令の実施にあたっては、GHQと内務省、司法省との間で折衝が行われている。治安維持法の廃止直後に「大衆運動ノ取締ニ関スル件」が閣議決定されて、GHQとの折衝の結果、治安維持法廃止の4日後に「大衆運動ノ取締ニ関スル件」が、新たな治安法規として登場している。この件について、GHQと日本政府はあうんの呼吸を持っていたとされる[9]。

治安維持法廃止から10日後の1945年10月26日に、内務省と司法省は共同の新聞発表を行い、朝鮮人や中国人などの「多衆運動に伴う各種犯罪」に対しては、「もっぱら既存法規をもって取締処分せんとするにすぎない」と発表し、社会不安が濃厚な社会状況に対しては、旧来の法令によって厳重な取締りを行うと宣言している。旧来の法令とは、人権指令で廃止を免れた暴力行為等処罰ニ関スル法律や、行政執行法、行政警察規則、警察犯処罰令、爆発物取締罰則などを指しており、戦前の治安法規の本体である治安維持法や治安警察法が廃止されたことを受けて、その周辺にあった治安法規が前面に出てくることになった。予防検束を可能にしていた行政執行法の適用は、1945年には27万人だったが、1946年には64万人に倍増している[10]。

戦前には法律として冬眠状態にあった爆発物取締罰則の活用が期待されるようになり、爆発物取締罰則の第一条が、GHQや日本政府に対する批判的な社会運動の取締りや、新たな「国体護持」の役割を、治安維持法などに代わる治安法規として担うことになった[11]。

その歴史的役割[編集]

当初、治安維持法制定の背景には、ロシア革命後に国際的に高まりつつあった共産主義活動を牽制する政府の意図があった。

そもそも当時の日本では、結社の自由には法律による制限があり、日本共産党は存在自体が非合法であった。また、普通選挙法とほぼセットの形で成立したのは、たとえ合法政党であっても無産政党の議会進出は脅威だと政府は見ていたからである。

後年、治安維持法が強化される過程で多くの活動家、運動家が弾圧・粛清され、小林多喜二などは取調べ中の拷問によって死亡した。ちなみに朝鮮共産党弾圧が適用第一号とされている(内地においては、京都学連事件が最初の適用例である)。

1930年代前半に、左翼運動が潰滅したため標的を失ったかにみえたが、以降は1935年(昭和10年)の大本教への適用(大本事件)など新宗教(政府の用語では「類似宗教」。似非宗教という意味)や極右組織、果ては民主主義者や自由主義者の取締りにも用いられ、必ずしも「国体変革」とは結びつかない反政府的言論への弾圧・粛清の根拠としても機能した。もっとも、奥平は右翼への適用は大本教の右翼活動を別にすれば無かったとしている[12]。

奥平康弘は1928年(昭和3年)改正で追加された「結社ノ目的遂行ノ為ニスル行為」の禁止規定が政権や公安警察にとって不都合なあらゆる現象・行動において「結社ノ目的遂行ノ為ニスル行為」の名目で同法を適用する根拠になったと指摘している[13]。不都合な相手ならば、ただ生きて呼吸していることでさえ「結社ノ目的遂行ノ為ニスル行為」と見なされ逮捕された。こうした弾圧は公安警察という組織の維持のために新しい取り締まり対象を用意することに迫られた結果という一面もあったといわれる。

また、治安維持法の被疑者への弁護にも弾圧・粛清の手が及んだ。三・一五事件の弁護人のリーダー格となった布施辰治は、大阪地方裁判所での弁護活動が「弁護士の体面を汚したもの」とされ、弁護士資格を剥奪された(当時は弁護士会ではなく、大審院の懲戒裁判所が剥奪の権限を持っていた)。さらに、1933年(昭和8年)9月13日、布施や上村進などの三・一五事件、四・一六事件の弁護士が逮捕され、前後して他の弁護士も逮捕された(日本労農弁護士団事件)。その結果、治安維持法被疑者への弁護は思想的に無縁とされた弁護人しか認められなくなり、1941年の法改正では、司法大臣の指定した官選弁護人しか認められなくなった。

治安維持法の下、1925年(大正14年)から1945年(昭和20年)の間に70,000人以上が逮捕され、その10パーセントだけが起訴された。日本本土での検挙者は約7万人(『文化評論』1976年臨時増刊号)、当時の植民地の朝鮮半島では民族の独立運動の弾圧に用い、2万3千人以上が検挙された。

日本内地では純粋な治安維持法違反で死刑判決を受けた人物はいない。ゾルゲ事件で起訴されたリヒャルト・ゾルゲと尾崎秀実は死刑となったが、罪状は国防保安法違反と治安維持法違反の観念的競合とされ、治安維持法より犯情の重い国防保安法違反の罪により処断、その所定刑中死刑が選択された。そこには、死刑よりも『転向』させることで実際の運動から離脱させるほうが効果的に運動全体を弱体化できるという当局の判断があったともされている。ゾルゲ事件では他にも多くの者が逮捕されたにもかかわらず死刑判決を受けたのはゾルゲと尾崎だけだった。戦後ゾルゲ事件を調査したチャールズ・ウィロビーはそれまで持っていた日本に対する認識からするとゾルゲ事件の多くの被告人に対する量刑があまりにも軽かったことに驚いている[14]。

とはいえ、小林多喜二や横浜事件被疑者4名の獄死に見られるように、量刑としては軽くても、拷問や虐待で命を落とした者が多数存在する。日本共産党発行の文化評論1976年臨時増刊号では、194人が取調べ中の拷問・私刑によって死亡し、更に1503人が獄中で病死したと記述されている。

さらに、外地ではこの限りではなく、朝鮮では45人が死刑執行されている[15]。それ以外の刑罰も、外地での方が重い傾向にあったとされる[16]。

その後[編集]

治安維持法を運用した特別高等警察を始めとして、警察関係者は多くが公職追放されたが、司法省関係者の追放は25名に留まった。池田克や正木亮など、思想検事として治安維持法を駆使した人物も、ほどなく司法界に復帰した。池田は追放解除後、最高裁判事にまでなっている。

1952年(昭和27年)公布の破壊活動防止法は「団体のためにする行為」禁止規定などが治安維持法に酷似していると反対派に指摘され、治安維持法の復活という批判を受けた。その後も、治安立法への批判に対して治安維持法の復活という論法は頻繁に使われている(通信傍受法(盗聴法)、共謀罪法案など)。

第二次世界大戦後は治安維持法については否定的な意見が主流といわれる。しかし、保守派の一部では、治安維持法擁護論もあり、また現在における必要性を主張する論者もいる。

1976年(昭和51年)1月27日、民社党の春日一幸が衆議院本会議で宮本顕治のリンチ殺人疑惑を取り上げた際、宮本の罪状の一つとして治安維持法違反をそのまま取り上げた。そこで、宮本の疑惑の真偽とは別に、春日は治安維持法を肯定しているのかと批判を受けた。

藤岡信勝は『諸君!』1996年4月号の「自由主義史観とはなにか」で「治安維持法などの治安立法は日本がソ連の破壊活動から自国を防衛する手段」と全面的に評価し、ソ連の手先と名指しされた日本共産党などから強い反発を受けた。中西輝政も『諸君!』『正論』などで、同様の主張を行っている(『諸君!』2007年9月号「国家情報論 21」。『正論』2006年9月号など)。

いずれも、反共主義の立場から「絶対悪としての共産主義」を滅ぼすためには当然の法律であったという肯定論である。

その他[編集]

1948年(昭和23年)に、韓国の刑法が制定される前に、左翼勢力と反対勢力を除去するために制定された韓国の国家保安法は、日本の治安維持法を母体としている[17]。

脚注[編集]

注釈[編集]

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1.^ 勅令により当時は日本の植民地であった朝鮮、台湾、樺太にも施行され[1][2]、独立運動も含めて内地同様の取り締まりを行った。

出典[編集]

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1.^ 治安維持法ヲ朝鮮、台湾及樺太ニ施行ス (勅令案)
2.^ 治安維持法ヲ朝鮮、台湾及樺太ニ施行スルノ件・御署名原本 (大正十四年・勅令第一七五号)
3.^ 奥平康弘『治安維持法小史』 岩波書店〈岩波現代文庫〉、2006年6月。ISBN 9784006001612 pp.55-56
4.^ これには、当時から憲法違反との指摘が根強かった。『安保法制の何が問題か』参照
5.^ 荻野富士夫 「解説:治安維持法成立「改正」史 Ⅲ 治安維持法の改悪―第二次治安維持法」『治安維持法関係資料集 第4巻』 新日本出版社、1996年3月25日、584-596頁。hdl:10252/4433。
6.^ 荻野富士夫 『思想検事』 岩波書店〈岩波新書〉、2000年9月。ISBN 9784004306894
7.^ 向江璋悦 『鬼検事』 法学書院 p.89~90
8.^ 荻野富士夫 『横浜事件と治安維持法』 樹花舎 p.211-213
9.^ 荻野富士夫 『横浜事件と治安維持法』 樹花舎 p.213
10.^ 荻野富士夫 『横浜事件と治安維持法』 樹花舎 p.213-214
11.^ 荻野富士夫 『横浜事件と治安維持法』 樹花舎 p.214-215
12.^ 前掲、奥平 pp.229-230
13.^ 前掲、奥平 pp.115-120
14.^ 『赤色スパイ団の全貌 : ゾルゲ事件』福田太郎訳、東西南北社刊、1953年
15.^ 水野直樹 「日本の朝鮮支配と治安維持法」
16.^ しんぶん赤旗 2006年9月20日号 「治安維持法で多くの朝鮮の人が死刑 本当ですか?」
17.^ 閔炳老「論説 韓国の国家保安法の過去、現在、そして未来-憲法裁判所の判決に対する批判的考察- (PDF) 」 、『比較法学』第33巻第1号、早稲田大学比較法研究所、1999年7月1日、 105-163頁、2015年3月22日閲覧。

関連項目[編集]

治安警察法
破壊活動防止法
憲兵
大政翼賛会
特別高等警察
テロリズム
反共主義
白色テロ
横浜事件
京都学連事件
予防拘禁
思想犯保護観察法
人民戦線事件
第二次大本事件
三宅正太郎
尼港事件
母べえ
蟹工船
新興俳句弾圧事件
小林多喜二
粛清
大粛清
反革命罪
モスクワ裁判


外部リンク[編集]

ウィキソースに治安維持法 (大正十四年法律第四十六号)の原文があります。
治安維持法 - アジア歴史資料センター
治安維持法閣議決定書 史料にみる日本の近代 国立国会図書館


http://www.designroomrune.com/magome/daypage/02/0220.html
































馬橋(東京杉並区)の家に帰ってきた小林多喜二の遺体を囲む人たち ※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用しました 出典:『小林多喜二(新潮日本文学アルバム)』



小林多喜二

小林多喜二


昭和8年2月20日(1933年。 84年前の2月20日)、 小林多喜二(29歳)が、特高警察に捕らえられ東京築地警察署(map→)に連行された後、同日19時45分に死亡しました。

警察は死因を心臓麻痺とし、「(警察には)何の手落ちもなかった」 と説明しました。 しかし、翌日遺族にもどされた多喜二の体は無惨に腫上がり、下半身は内出血でどす黒くなっていたのです。 明らかに警察で拷問を受けた痕ですが、警察を恐れて解剖を引き受ける病院がなかったといいます。彼の死を悼んで通夜、告別式を訪れた人たちもことごとく検束されました。

佐多稲子(29歳)は多喜二の遺体が戻された21日に駆けつけた一人で、その時のことを『二月二十日のあと』に書き、翌3月に発表。多喜二の亡骸にすがりついて慟哭する母セキの姿を描き出しました。 多喜二は苦労に苦労を重ねている母を「人力車へ乗せてやることばかりを考えていた」という親思いの子どもだったのです。

多喜二の死を知って、志賀直哉(50歳)が日記に書いています。

小林多喜二、二月二十日(世の誕生日)に捕へられ死す、警官に殺されたるらし、実に不愉快、一度きり会はぬが自分は小林よりよき印象をうけ好きなり、アンタンたる気持ちになる

多喜二は志賀を慕っており、高校在学中から手紙を書き続けました。昭和5年、5年半勤めた北海道拓殖銀行を依願退職という形で解雇された多喜二は、東京に出てきますが、同年、日本共産党に献金したという理由だけで逮捕されます。「治安維持法」があるとこういうことができてしまうのでしょう。翌昭和6年、保釈されて、奈良の志賀の家を訪ねています。多喜二は志賀の子どもの相手を良くし、志賀に対しても理屈っぽいことを言わないで終始和やかに過ごしたようです。多喜二には悲壮なイメージがつきまといますが、じつは、チャップリンや藤原義江(当時の人気歌手)のマネをして周りを笑わせるヒョウキンな一面がありました。志賀は、保釈中の多喜二を一晩家に泊めています。多喜二の死を知った後には、多喜二の母セキに慰めの手紙も書いています。

当時の警視庁特高部長は安倍 源基 げんき (のちに全国警友会連合会会長)で、その配下の、特高課長の毛利 基 もとい (のちに埼玉県警幹部)、特高係長の中川成夫(のちに滝野川区長<滝野川区は現在の東京都北区南部にあたる>、東映取締役)、警部の山県為三(のちにスエヒロを経営)の3人らが取り調べにあたったとのこと。安倍が特高部長だった昭和8年には、多喜二の他にも18名、取調べで死亡しています。

多喜二がどういった拷問を受けたかは、受けた本人が死んでしまったのではっきりしませんが(多喜二と一緒に捕まった詩人・今村恒夫からの聞き取りはある)、昭和3年3月15日からの共産主義者の大検挙(三・一五事件)のおりに警察が検束者に加えた拷問の様子を、多喜二自身が取材をもとにして、小説『一九二八年三月十五日』に書いています。似たような拷問があったのではないでしょうか。

・・・渡は×にされると、いきなりものも云はないで、後から(以下十行削除)手と足を硬直さして、空へのばした。ブルブルつとけいれんした。そして、次に彼は××失つてゐた。 ・・・(中略)・・・水をかけると、××ふきかへした。・・(中略)・・・「この野郎!」一人が渡の後から腕をまはしてよこして、×を×かゝつた。「この野郎一人ゐる為めに、小樽がうるさくて仕方がねエんだ。」
 それで渡はもう一度×を失つた。
 渡は××に来る度に、かういふものを「お×はりさん」と云つて、町では人達の、「安寧」と「幸福」と「正義」を守つて下さる偉い人のやうに思はれてゐることを考へて、何時でも苦笑した。・・・(中略)・・・彼は強烈な電気に触れたやうに(以下六十六字削除)大声で叫んだ。
「××、××──え、××──え!!」
それは竹刀、平手、鉄棒、細引でなぐられるよりひどく堪えた。・・・(中略)・・・××××毎に、渡の身体は跳ね上つた。
「えツ、何んだつて神経なんてありやがるんだ。」
渡は歯を食ひしばつたまま、ガクリと自分の頭が前へ折れたことを、××の何処かで××したと思つた・・・(小林多喜二『一九二八年三月十五日』より)

伏字や削除箇所があっても、警察官による拷問の凄まじさが伝わってきます。「三・一五事件」当日から、多喜二のいた北海道小樽でも200~300名が逮捕・検束され拷問を受けました。『一九二八年三月十五日』は事実にもとづいて書かれたもので、上の文の「渡」という人物は当時小樽合同労組組織部長の渡辺利右衛門がモデルになっています。当時は上のような伏字や削除がある形でしか世に出せませんでしたが、今は、岩波書店が出している版などで、多喜二が書いたままの形で『一九二八年三月十五日』を読むことができます。※上の引用箇所の伏字・削除箇所の復元→



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多喜二に限らず、戦前・戦中、当局の思想弾圧を受けた人はたくさんいます。

高見順

高見順


馬込作家に限っても、日本プロレタリア作家同盟の城南地区のキャップだった高見順(25歳)は、多喜二が死亡したのと同じ月に大森警察(map→)に拘留され、 「お前も小林のようになりたいのか」 と脅されながら拷問を受けました。 多喜二の死は、格好の見せしめになったのです。

間宮茂輔

間宮茂輔


やはり同年(昭和8年)、全協の中央部にいた間宮茂輔(34歳)も投獄され、拷問を受けました。 3年後に出獄した時は歩けないほど衰弱していたといいます。

この頃から非戦論者(共産主義者の中にも「革命的戦争」は肯定する人がいたと思われるが・・・)の弾圧が苛烈になるのは、十五年戦争の発端ともいわれる昭和6年9月18日勃発の満州事変が無関係でないでしょう。

社会運動だけでなく宗教運動も弾圧されました。当地(大田区糀谷)に拠点があった「日蓮会殉教衆青年党」は、法華経の中の「不惜身命ふしゃくしんみょう 」(命を顧みないで一心に打ちこむこと)を「死のう」と現代的に言い換えて、「死のう」と唱えながら行脚していたところ、神奈川県警の特高に拘束され、テロ団体と疑われて、棒で殴る、蹴る、煙草の火を押し付けるなどの拷問を受けました。女性党員には性的な拷問もあったといいます。 新聞は警察発表をうのみにして、「死のう団」(マスコミが「日蓮会殉教衆青年党」につけた蔑称)が政治家や他派宗教家の暗殺を計画しているとデタラメを報道してしまったようです。やはり昭和8年のことです。

創価学会も、昭和18年6月、牧口常三郎(初代会長。72歳)、戸田城聖じょうせい (2代会長。43歳)を含む幹部たちが、治安維持法と不敬罪で逮捕されて、牧口は昭和19年11月18日、獄死しています。創価学会会員は“治安維持法”の恐さが身に染みていることと思います。

市川正一

市川正一


多喜二の死の4年前(昭和4年)、日本共産党の大幹部・市川正一(当時37歳)が、当地(馬込)で大捕り物の末、逮捕されています。市川は、下獄して16年経った昭和20年3月、宮城刑務所で亡くなりますが、 身長168センチだった彼が死亡時は体重が31キロになっていたといいます。まだ53歳でしたが、刑務所は彼の死因を「老衰」としました。

戦前・戦中に思想犯としておよそ7万人が検挙され、その内拷問死した人は194名。 獄死した人は1,503人に上るといいます。



『小林多喜二(新潮日本文学アルバム)』 小林多喜二 『蟹工船 一九二八・三・一五 (岩波文庫) 』。発表当初、伏字・削除処理された箇所が復元されている*
『小林多喜二 (新潮日本文学アルバム)』 小林多喜二 『蟹工船 一九二八・三・一五 (岩波文庫) 』。発表当初、伏字・削除処理された箇所が復元されている

三浦綾子『母 (角川文庫) 』。多喜二の母セキの生涯 荻野富士夫『特高警察 (岩波新書) 』
三浦綾子『母 (角川文庫) 』。多喜二の母セキの生涯 荻野富士夫『特高警察 (岩波新書) 』

「いのちの記憶 -小林多喜二・二十九年の人生- [DVD]」。(北海道放送) 伊豆利彦『戦争と文学 ―いま、小林多喜二を読む』(白樺文学館多喜二ライブラリー)
「いのちの記憶 -小林多喜二・二十九年の人生- [DVD]」。(北海道放送) 伊豆利彦『戦争と文学 ―いま、小林多喜二を読む』(白樺文学館多喜二ライブラリー)


■ 馬込文学マラソン:
・ 志賀直哉の『暗夜行路』を読む→
・ 高見順の 『死の淵より』 を読む→
・ 間宮茂輔の 『あらがね』 を読む→
・ 佐多稲子の『水』を読む→

■ 参考文献:
●参考文献1: 「プロレタリア作家・小林多喜二の拷問死」(菊地正憲) ※『新潮45』 平成18年2月号 P.62-64 ●参考文献2:『小林多喜二(新潮日本文学アルバム)』 (昭和60年発行) P.81、P.94-96、P.108 ●参考文献3: 『志賀直哉(新潮日本文学アルバム)』(昭和59年発行) P.76、P.107 ●参考文献4: 『高見順 人と作品』 (石光葆 清水書院 昭和44年初版発行 昭和46年2刷参照) P.57 ●参考文献5:『六頭目の馬 ~間宮茂輔の生涯~』
 (間宮武 武蔵野書房 平成6年発行) P.179-193 ●参考文献6: 『不屈の知性 ~宮本百合子・市川正一・野呂栄太郎・河上肇の生涯』(小林榮三 新日本出版社 平成13年初版発行 平成13年2版参照) P.148 ●参考文献7:『凛として立つ(佐多稲子文学アルバム)』(菁柿堂 平成25年発行) P.74-75 ●参考文献8: 『昭和史発掘(5)』(松本清張 文藝春秋 昭和42年初版発行 昭和49年27刷参照)P.290-291 ●参考文献9: 「死のう団事件」※月刊「おとなりさん」(平成17年2月号 P.15~25 ハーツ&マインズ)

■ 参考サイト:
・ ウィキペディア/●小林多喜二(平成24年12月19日更新版)→ ●安倍源基(平成29年1月22日更新版)→ ●治安維持法(平成29年2月15日更新版) ●創価学会(平成29年2月18日更新版)→

・「蟹工船」日本丸から、21世紀の小林多喜二への手紙。/1933年3月15日 多喜二労農葬→

・ 日本共産党/●「しんぶん赤旗」2007年3月15日/小林多喜二の小説「一九二八年三月十五日」のモデルは?→ ●「しんぶん赤旗」2006年8月17日/小林多喜二らを虐殺した特高に勲章 本当ですか?→

※当ページの最終修正年月日
2017.5.1

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http://d.hatena.ne.jp/hokke-ookami/20131212/1386866289

2013-12-12



■[歴史][身辺雑記]治安維持法の犠牲者数について、大屋教授が忘れているか気づいていないことCommentsAdd StarNakanishiBedopurpleGl17flurrya-lex666GerardNakanishiBNakanishiBBUNTEN

問題は読解力か表現力か - 法華狼の日記に対して、大屋雄裕教授*1から下記ツイートが返ってきた。



@takehiroohya: ちなみに文化評論1976年臨時増刊号(日本共産党)によると、治安維持法で逮捕されて取調べ中に拷問・私刑によって死亡したのは194人だとのこと。 RT @hatenaidcall: id:hokke-ookamiさんから言及がありました URL

2013-12-13 00:12:55 via TweetDeck


@takehiroohya: 絶対的な数として少ないとか無視していいとか言う気はないけど、逮捕者ー起訴者=6万3千人と比べるとごく少数であり、やはりほとんどは起訴されず釈放されたとしか言えないだろう(その前に拷問されてる可能性はもちろんある)。またしても数字の否認か、という感じ。

2013-12-13 00:15:38 via TweetDeck


@takehiroohya: なおこの間に短いものですが原稿一つ書きました。「秘密と近代的統治:「特定秘密」の前に考えるべきこと」。詳細はいつも通り掲載されてからにしますが、アクセプトされて載ったらまた馬鹿が怒るんだろうなあ。

2013-12-13 00:19:28 via TweetDeck

大屋教授が参照している資料を持っていないので、どれほど治安維持法について詳細に書かれているかは知らない。誰がどのような数字を否認していると主張したいのかもわからない。


しかし、そもそも7万人という数字は送検者数であって逮捕者数ではないはずなのだ。せっかくだから日本共産党による説明を引こう。

治安維持法とはどんな法律だったか?


政府発表は治安維持法の送検者75,681人、起訴5,162人ですが、一連の治安法規も含めた逮捕者は数10万人、拷問・虐待による多数の死者が出ました。

つまり発端となった@SagamiNoriaki氏のツイートは不正確だったわけである。



@takehiroohya: 20年で7千人なら年間平均350人なので、現代における殺人の半分。結構レアでは。 RT @SagamiNoriaki 治安維持法は二十年の間に七万人が国内で検挙されたというひどさだが、起訴されたのはその十分の一だったという。案外と少ないなあと思ったが、七千人は普通に多いな…

2013-12-07 23:43:46 via Janetter for Android

SagamiNoriaki氏は後に逮捕者数が異なる説へ言及したツイートもしていたが*2、大屋教授は逮捕者数を過小評価していることに全く気づかなかったままらしい。

私へ反論するエントリで「ここで私の統計の読み方が違っているとかいう話なら健全な批判なのだが、もちろん法華狼氏の解釈は左斜め上に飛んでいくことになる」*3などと書いていたので、わざと細かな間違いを残したまま数字を操っているのではないかとすら疑っていたのだが。


むろん、虐殺された死者数を額面どおり受け取るのも危険である。

治安維持法の犠牲者は戦後どう扱われたの?


拷問で虐殺されたり獄死した人が194人、獄中で病死した人が1503人、逮捕された人は数十万人におよびます(治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟調べ)。

かつてアパルトヘイトを題材にした映画を見た時のことを思い出す。EDクレジットで流れる死者リストの少なくない数が、病死や事故死と表記されていた。もちろん記録された死因であり、実態をそのまま反映したものではない。だからこそ、国家権力が二度にわたって人格を殺したという痛みを感じた。今でも印象に残っている。



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*1:ツイッターアカウントは@takehiroohya。

*2:http://twitter.com/SagamiNoriaki/status/409521273237028865でのこと。ただし法政大学サイトのhttp://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/rn/senji2/rnsenji2-119.htmlに「被検挙者総数は八万人に近いと思われる」と書いているのを引いたツイートをRTし、それを最終見解にしたようだ。http://twitter.com/SagamiNoriaki/status/409523250725548032

*3:http://www.axis-cafe.net/weblog/t-ohya/archives/000926.html

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik4/2005-09-22/20050922faq12_01_0.html



2005年9月22日(木)「しんぶん赤旗」

治安維持法の犠牲者は戦後どう扱われたの?


 〈問い〉 戦前、戦争に反対して特高に拷問され命を落とした人が少なくないと聞きました。平和の礎(いしずえ)となった、こうした人びとをけっして忘れてはいけないと思います。治安維持法の犠牲者にたいして戦後、政府はどんな扱いをしたのですか?(愛知・一読者)



 〈答え〉 1925年施行の治安維持法は、太平洋戦争の敗戦後の45年10月に廃止されるまで、弾圧法として猛威をふるいました。拷問で虐殺されたり獄死した人が194人、獄中で病死した人が1503人、逮捕された人は数十万人におよびます(治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟調べ)。

 この法律は思想そのものを犯罪とし、天皇制をかえて国民主権の政治を願った日本共産党員には最高、死刑という重罰を科すものでした。また、活動に少しでも協力すれば犯罪とされ、宗教者や自由主義者も、弾圧の対象とされました。

 戦後、当然この法律は廃止されました。しかし、治安維持法で弾圧された犠牲者にたいしては「将来に向かってその刑の言渡を受けなかったものとみなす」とされただけで、なんの謝罪も損害補償もされませんでした。一方、拷問・虐殺に直接・間接に加わった特高たちは何の罪にも問われませんでした。

 ドイツやイタリアでは、第二次大戦時のナチス政権下の犠牲者や「反ファシスト政治犯」犠牲者に対しての国家賠償を早くに実施しています。戦争犠牲者に対する戦後補償は国際社会の常識です。日本弁護士連合会も「公式に謝罪をし、肉体的、精神的被害に関する補償を含めた慰謝の措置をとることが、侵害された人権の回復措置として必要不可欠である」と勧告しています。

 治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟は、1968年に当時の犠牲者や遺族、家族の人びとを中心に、設立されました。治安維持法の時代の実態やその教訓を学び、治安維持法など戦前の悪法で弾圧の被害をうけた犠牲者に国としての責任を認めさせ、謝罪させ、国家賠償をおこなう法律を制定するよう、運動をすすめています。その後、国家賠償要求同盟は、直接に被害をうけた人や親族の運動にとどまらず、ふたたび戦争と暗黒政治の復活を許さないためにたたかう多くの人たちが加入、犠牲者に対する国家賠償法の制定を要求する国会請願行動を毎年続けています。(喜)

 〔2005・9・22(木)〕

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik4/2006-03-15/20060315faq12_01_0.html



2006年3月15日(水)「しんぶん赤旗」

戦前も拷問は禁止されていたのでは?


 〈問い〉 「3月15日事件」後、特高の拷問虐殺がひどくなったそうですが、拷問は戦前の法律でも禁止されていたのでは? 戦前戦後の国会は多喜二の虐殺などにどう対応したのですか?(東京・一読者)



 〈答え〉 拷問を認めた制度は、徳川時代の幕府法令による「拷問法」を手直ししただけで、明治政府になってからもつづいていました。近代国家の警察として自白絶対必要主義を証拠主義に改め、拷問を禁止したのは1879年10月でした(太政官布告「拷問無用、右に関する法令は総て削除」)。この太政官布告と刑法による拷問の禁止は、法律的には敗戦後まで存続していました。

 しかし実際には、拷問は、日常茶飯事におこなわれていました。とくに1928年3月15日の共産党弾圧の後は、拷問の目的が自白強要だけでなく、小林多喜二や岩田義道のときのように、虐殺を目的にした行為に変質しました。戦前、特高の拷問で虐殺されたり獄死したりした人は194人、獄中で病死した人は1503人にのぼります(治安維持法国家賠償要求同盟調べ)。

 拷問・虐殺は、多くの記録や写真、証言で明白になっているのに警察・検察、裁判所、それに報道機関もグルになってその事実を握りつぶしました。〔35年4月5日、京都・西陣署での鰐淵清寅(21歳)の虐殺で警部補が「特別公務員暴行致死罪」で懲役2年(執行猶予2年)の判決をうけた。拷問虐殺をした人物が起訴され、有罪の判決をうけた例は戦前はこの一件だけとみられる〕

 特高警察は、多喜二虐殺のときは死因を科学的に追及されることを恐れ、遺体解剖を妨害し、岩田義道のときは、殺人罪で告訴した父母を検事局が脅かして告訴を取り下げさせています。

 国会では、戦前1929年2月8日に山本宣治代議士が、戦後76年1月30日に不破書記局長がそれぞれ政府を追及していますが、国民周知の拷問の事実を認めず、「承知していない」「答弁いたしたくない」(戦前は秋田内務次官、戦後は稲葉法相)とまったく同じ答弁をしています。

 戦後、日本国憲法は第36条に「公務員による拷問及び残虐な刑罰は、絶対にこれを禁ずる」と明記しました。これは戦争の惨禍につながった野蛮な弾圧を、ふたたび繰り返すまいという決意がこもったものです。しかし、戦後も特高的体質は引きつがれ、代用監獄が残り、自白強要のための拷問(不眠・絶食・殴打・長時間取り調べ等)例が多く知られています。

 この問題は、靖国問題と並び戦前をきちんと決着していない恥部ともいえるものです。(喜)

〔2006・3・15(水)〕


http://webcache.googleusercontent.com/search?q=cache:kYViFNNRfp4J:https://plaza.rakuten.co.jp/1492colon/diary/201308060000/&num=1&hl=ja&gl=jp&strip=1&vwsrc=0

2013.08.06
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治安維持法 (2)


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 今日は広島の原爆忌。安倍君の挨拶の虚しさが際立ちました。

 時々、戦争関係の記事を書いてみたいと思います。

 まず、「治安維持法」について。

 「ウィキペディア」を読みますと、「日本内地では純粋な治安維持法違反で死刑判決を受けた人物はいない。ゾルゲ事件で起訴されたリヒャルト・ゾルゲと尾崎秀実は死刑となったが、罪状は国防保安法違反と治安維持法違反の観念的競合とされ、治安維持法より犯情の重い国防保安法違反の罪により処断、その所定刑中死刑が選択された」と書いてあります。で、粗忽にここだけを引用して「治安維持法で死刑になった人間はいない」という主張がいまだに出てくるのですが、その下を見ると、「さらに、外地ではこの限りではなく、朝鮮では45人が死刑執行されている。それ以外の刑罰も、外地での方が重い傾向にあったとされる」と記してあります。当時朝鮮半島、そして1932年からは満州も実質的な植民地となるわけです。「日本国内」のわけです。

 「治安維持法の下、1925年(大正14年)から1945年(昭和20年)の間に70,000人以上が逮捕され、その10パーセントだけが起訴された。日本本土での検挙者は約7万人(『文化評論』1976年臨時増刊号)、当時の植民地の朝鮮半島では民族の独立運動の弾圧に用い、2万3千人以上が検挙された」

 「小林多喜二や横浜事件被疑者4名の獄死に見られるように、量刑としては軽くても、拷問や虐待で命を落とした者が多数存在する。日本共産党発行の文化評論1976年臨時増刊号では、194人が取調べ中の拷問・私刑によって死亡し、更に1503人が獄中で病死したと記述されている。」

 これが「治安維持法で死刑になった人間はいない」という事の実態です。

 さて、「ウィキ」のラストに「藤岡信勝は『諸君!』1996年4月号の「自由主義史観とはなにか」で「治安維持法などの治安立法は日本がソ連の破壊活動から自国を防衛する手段」と全面的に評価し、ソ連の手先と名指しされた日本共産党などから強い反発を受けた。中西輝政も『諸君!』『正論』などで、同様の主張を行っている(『諸君!』2007年9月号「国家情報論 21」。『正論』2006年9月号など)。いずれも、反共主義の立場から「絶対悪としての共産主義」を滅ぼすためには当然の法律であったという肯定論である」とあります。

 藤岡や中西といったまともな学者は誰も相手にしない連中の言説をそのまま引き写しているような人士もいるようですが、『治安維持法』(潮見俊隆 岩波新書)『特高警察』(荻野富士夫 岩波新書)『思想検事』(荻野富士夫 岩波新書)の三冊を読むと、中西と藤岡の言説のいい加減さが分かります。これは、「ウィキ」でもはっきり書いてあるのですが、まずは対象の拡大です。大本教をはじめとする宗教団体、さらには自由主義者、民主主義者への取り締まりにも治安維持法は使われています。これが、「共産主義を滅ぼすための法」なのでしょうか?

 1932年の『特高教科書』では、「特高警察を『いわゆる反国家運動、すなわち国家の政治的法律的存在を危うくせんとする運動の取り締まりを任務とするもの』と定義」しています。『特高警察』p58

 ここにさらに「国体の本義を護る」という「任務」が付け加えられて、「被疑者」の範囲は極めて恣意的にひろげられていくのです。

 さらに、上記の三冊が指摘しているのが、警察内部の功名争いです。検挙者にたいして当初はまだまだ自制(世論の動向、マスコミの報道などにより)していた拷問が戦中ともなりますと、まったくと言っていいほど歯止めがかからなくなります。

 彼らはもちろん口には「国体護持」を叫び、「共産主義者撲滅」を呼号しています。しかしその実態は昇進したいがためのなりふり構わぬ摘発とでっち上げです。

 「1920年代の警視庁特高課の特高係と労働係の確執、『横浜事件』の背景の一つといえる警視庁特高に対する神奈川県特高の異常な競争心などが想起される。また、1940年前後から、治安維持の主導権を巡って特高警察と経済警察(経済統制を取り締まる警察組織 引用者注)の対立も見られた。これらは警察内部での不協和音を生みつつ、それぞれがライバルより優位に立とうと活動に拍車をかけることになり、その結果として社会運動の抉り出しや国民生活・思想の監視と抑圧の度合いをさらに高めることとなった」『特高警察』p55

 そして最大の問題は、戦前・戦中と特高の仕事を職務としていた者、思想検事の職にあった者たちが、戦後、続々と復活していることです。

 まず特高関係者に批判の声が挙がりますが、内務省保安課長、検閲課長をはじめとして多くのものがGHQによる罷免を免れています。そして思想検事たちはその大半が見逃され、マスコミも追及もしていません。そして彼ら「生き残り組」は戦後の公安警察へと吸収されていくのです。「検察の中央に旧思想検事派が位置する」ことになります。『思想検事』p200

 彼らは当然のことながら戦前と戦中の自己の行為に対して自己弁護をくり返し、藤岡と同じように「共産主義を滅ぼすためには必要であった」という理由のもとに、「転向については『反共政策の具体的な成功として誇っても良い』『ジュリスト』1952年7月15日号」とまで言っているのです。『思想検事』p201



 日本は確かに8月15日を機として大きく変わりました。しかし、引き継がれた思想、人的に連続している面も多々あることを忘れてはならないと思います。

 日本は岸伸介が首相になり、その孫の安倍が首相になっている国であることを忘れてはなりません。

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九大柔道部ОB 寝技は仁木征輝門下にして立ち技は野村豊和門下のあこう堂さん主催 古流柔道動画 ルールは七大柔道ルールとのことです (※敬称略)







2017/06/06 に公開

嘉納治五郎ゆかりの灘高柔道場で開催(2017.5.13)。仁木先生提唱。(通称「仁木杯」)。完全決着の寝業というだけでなく、今や国際柔道では失われた古来の講道館柔道の投げ技も残す「古流柔道」としての高専柔道(七大学ルール)の団体戦です。7人制(基本)、試合時間は3~5分(適宜)。抜き勝負か点取り戦かも自由(※結局、点取り戦ばかりでした)、変則リーグ戦で対戦組み合わせも自由に行いました。動画冒頭の演武の箇所は長崎三菱柔道クラブとあこう堂の出場。それ以外はあこう堂の出場シーンです。あこう堂のカメラで撮影。一部のみ動画の無い箇所で、吹田柔術さんから提供の動画をつなげています。
<主催:あこう堂>
あこう堂ホームページ→http://accordsuma.grupo.jp/
あこう堂ブログ→http://blog.livedoor.jp/akoudou2008/
試合結果→http://blog.livedoor.jp/akoudou2008/%...

2017/06/06 に公開

嘉納治五郎ゆかりの灘高柔道場で開催(2017.5.13)。仁木先生提唱(通称「仁木杯」)。完全決着の寝業というだけでなく、今や国際柔道では失われた古来の講道館柔道の投げ技も残す「古流柔道」としての高専柔道(七大学ルール)の団体戦です。7人制(基本)、試合時間は3~5分(適宜)。抜き勝負か点取り戦かも自由(※結局、点取り戦ばかりでした)、変則リーグ戦で対戦組み合わせも自由に行いました。この動画は、吹田柔術、七大若手OBチーム、長崎三菱柔道クラブ、ねわざワールド阪神ほか、個人当日参戦の方など、あこう堂の選手以外の出場動画です。あこう堂で撮影のものと吹田柔術さん提供の動画からいい方を採用。一部は、両方の動画とも別角度の映像として残した箇所もあります。ただし撮影しておらず欠けている試合も多々あります。
<主催:あこう堂>
あこう堂ホームページ→http://accordsuma.grupo.jp/
あこう堂ブログ→http://blog.livedoor.jp/akoudou2008/

http://webhiden.jp/event/detail/2017_2.php

古流柔道祭2017 第一回神戸大会

柔術/体術

行事案内
柔道の祖・嘉納治五郎先生の生誕の地でもある神戸で、高専柔道ルールによる「古流柔道」大会を開催します。「高専柔道」は、現在の日本では七大学ルールとして一部の学生の試合に採用されているに過ぎません。そのため、一般の方には接する機会が少ないですが、決して過去の遺物ではなく、むしろその精神性・技術は、現代にこそ意義深いものです。このような機会を通じて柔道界の現状に一石を投じられれば意味のあることだと思います。微力ではありますが、学生時代の経験者だけでなく、興味のある方にも活躍、経験の場を提供することになり、現在、細々と継続している技術の継続・普及・発展にもつながれば幸いです。

ルール:高専柔道(七大学柔道)団体戦/参加資格:古流柔道愛好家
主催:古流柔道実験委員会(※あこう堂内:指令部/仁木征輝、弟子/畠山治樹)

◎募集要項(参加希望の方へ)
●1チーム7名前後をとりまとめA4用紙1枚に顔、名前、身長体重、一言紹介(柔道歴、段位、格闘技歴、趣味、抱負、チャームポイント?!など・・)をできればWord文書にしてメール等でご提出ください。保険加入時の名簿兼用。試合後に懇親会が実施される場合、自己紹介にも役立ちます。
●人数の多寡は不問。チーム構成を連合にしたり、対戦相手など調整できる場合もあります。1人でも、高齢な方でも、婦女子・中高生でも大丈夫なようにします。お問い合わせください。
●期限は、できれば3月中。遅くとも4月にはお願いします。できる限りギリギリでも当日でも受け入れますが、保険、名簿などが間に合わないことはご容赦ください。
●試合後の懇親会は検討します。参加希望→○アリ×ナシと、参加希望の人数も教えてください。
●参加費用:1チーム2000円ご負担下さい。会として加入する傷害保険費用の一部にあてます。
開催日時
平成29年(2017)5月13日(土)13時~17時(※18時)
開催地
会場:灘高柔道場(※念のため4月まで 王子スポーツセンター柔道場もキープ中)
費用
参加費用:1チーム2000円ご負担下さい。会として加入する傷害保険費用の一部にあてます。

詳細情報

団体名
古流柔道実験委員会
代表者名
古流柔道実験委員会(※あこう堂内:指令部/仁木征輝、弟子/畠山治樹)
申込・問合せ先
お問い合わせは下記URLまで。http://accordsuma.grupo.jp/free284860
HPアドレス
http://blog.livedoor.jp/akoudou2008/

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読売新聞 日本テレビ 正力松太郎 ナベツネの正体

http://www.jca.apc.org/~altmedka/yom.html



┃憎まれ愚痴総合案内┃  ┃木村書店┃『読売新聞・歴史検証』┃


電網木村書店 Web無料公開『読売新聞・歴史検証』


「特高の親玉」正力松太郎が読売に乗り込む背景には、王希天虐殺事件が潜んでいた!?
四分の三世紀を経て解明される驚愕のドラマの真相!!



1971年に完工した読売新聞の大手町本社屋(写真撮影:TH)

 カバー写真:王希天(中国人留学生僑日共済会会長)


はしがき


 本書の執筆に当たって心掛けたのは、ともかくこれ一冊を読めば、読売新聞(以下、読売)の歴史と特徴が一応分かる手頃な単行本ということである。

 読売を主要な題材とする単行本を書くのは、これで三度目になるが、読売だけを中心にすえて全面的に描くのは初めてである。しかも今回の執筆のきっかけは、前の二度の時とは違って、より一般的な事情である。読売が一九九四年一一月三日の紙面で「改憲論」を派手にぶち上げたからである。

『読売新聞・日本テレビ・グループ研究』(汐文社)を執筆したのは、その当時、わたし自身が日本テレビを相手に解雇撤回闘争中であって、相手の正体を明らかにする必要に迫られたからである。

『マスコミ大戦争/読売vsTBS』(汐文社)を執筆したのは、争議の解決後、四年目のことになる。中心テーマは、その年、一九九二年二月末に発生し、週刊誌種になった読売vsTBSの訴訟合戦である。バブル経済崩壊後に、疑惑の政商、佐川急便に土地を高値で買い取らせた読売の企業体質が、大手メディアにあるまじきことではないかという重大な疑問は、現在も残っている。

『読売新聞・日本テレビ・グループ研究』は、さきの事情により、本名ではなくペンネームで発表した。以後、『テレビ腐蝕検証』(汐文社、共著)、『NHK腐蝕研究』(同前)『読売グループ新総帥《小林与三次》研究』(鷹書房)などもペンネームで出した。

 争議が和解で解決したのちには、フリーの立場となったので、『マスコミ大戦争/読売vsTBS』『電波メディアの神話』(緑風出版)などのメディア論も、本名で発表している。本書では、それらの既発表の文章をも再構成し、書き直して収録しているので、その点、ご了承いただきたい。

 旧著『読売新聞・日本テレビ・グループ研究』の発表以後、すでに一六年を経ている。その後に出た新資料や、わたし自身が初めて存在を知った過去の資料も、意外に多い。個々の資料については、本文の中で逐次紹介する。最大かつドラマチックな新発見は、関東大震災直後に「鉛版削除」されていた読売の紙面の背後関係であった。極秘の検閲による「切抜き」が外務省外交史料館に、約七〇年間も「ひっそりと」眠っていた。わたし自身は、旧著の仕上げ段階でマイクロフィルムを検索した際に、その削除後の紙面を一応見ていたのだが、当時はその重要な意味が分からなかったのである。

 こともあろうに元警視庁警務部長の正力松太郎が、首都の名門紙、読売に乗りこむという異常事態の背後には、関東大震災後の中国人労働者とその指導者、王希天の虐殺、中国政府調査団の来日、日本政府の徹底的隠蔽工作という衝撃的事実が潜んでいたのだった。わたし自身は、この虐殺事件と隠蔽工作の歴史的事実と、その発掘の経過を、本書の最大の山場として位置づけた。そこにこそ、現在の読売だけではなく、日本のメディアの歴史的本質が象徴的に表現されていると思うのである。

[注記]……引用文中の[ ]内は本書の注です。引用文中の旧漢字および旧仮名遣いは、必要に応じて当用漢字、当用仮名遣いに改め、ルビを付します。引用文献は本文中にも略記し、詳しくは巻末の総合リストに、その他の参考書とともに記載しました。文中、敬称は略させていただきます。



目次 へ続く

『読売新聞・歴史検証』

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2003.11



読売新聞・歴史検証◆目次


はしがき

序章 「独裁」「押し売り」「世界一」
「読売改憲論批判」には「彼[敵]を知り」の基本戦略があるか 「新聞セールス近代化センター」を在京六社で設立の社告 巨大企業の自宅訪問と系列専売、生産と流通の双方支配は禁止 ピストル密輸のテキ屋「拡販団長」の身元を隠す大手紙報道 「出刃包丁の刃を相手に向けて刺せ」と指導したベテラン販売員
第一部「文学新聞」読売の最初の半世紀

  第一章 近代日本メディアの曙
準幕臣の江戸期文化人が創設した日本最古の大衆向け教養新聞 文学の薫りに満ちて銀座の一時代を築いた明治文化の華 国会開設の世論形成から社会主義の紹介に至る思想の激動期
  第二章 武家の商法による創業者時代の終り
本野子爵家の私有財産化した読売の古い経営体質の矛盾 「多数の新聞を操縦する事を得べし」と考えていた内務大臣 陸軍が機密費付きで右翼紙『国民新聞』から主筆を送り込む ストライキを構えて「軍閥」を追い払った読売現場の抵抗 首都東京で新聞がすべて発行停止の「世界でもまれな出来事」 革進会の屈服と正進会の再建のはざまに編集ストライキ 財閥による買収、全員解雇、「離散」の人間ドラマ
  第三章 屈辱の誓いに変質した「不偏不党」
絵入り小新聞(こしんぶん)だった朝日が議会傍聴筆記を付録に部数増大 政府官報局長と「極秘」同行で輪転機を購入した朝日の政治姿勢 米騒動と「朝憲紊乱罪」で脅かされた新聞史上最大の筆禍事件 朝日が権力に救命を懇願した日本版「カノッサの屈辱」誓約 大正日日の非喜劇を彩ったメディア梁山泊的人間関係 松山経営による読売中興の夢を破った関東大震災 朝日を仮想敵とみなして抜き返しを図った読売再生策の成功 プロレタリア文学の突破口となった読売の文芸欄 第二次護憲運動の山場で座長に推された読売社長の立場 「黄金の魔槌」に圧殺された大正デモクラシーの言論の自由
第二部「大正デモクラシー」圧殺の構図

  第四章 神話を自分で信じこんだワンマン
「僕ほど評判の悪い男はない」と蚊の鳴くような訴え 「創意の人」、実は「盗作専門」だった正力の晩年の我執 社史に偽りのあるメディアに真実の報道を求め得るか
  第五章 新聞業界が驚倒した画期的異常事態
第一声は「正力君、ここはポリのくるところじゃない」 「千古の美談」に祭り上げられた「軍資金」調達への疑問 最近なら「金丸システム」だった「番町会」への「食い込み」 「帝人事件」から「陰鬱なサムシング」の数々への疑惑の発展 「大きな支配する力を握って見たい」という珍しい本音の告白 CIA長官に匹敵!?「総監の幕僚長」お得意の「汚れ役」
  第六章 内務・警察高級官僚によるメディア支配
思想取締りを目的に内務省警保局図書課を拡張した大臣 言論の封殺に走った後進資本主義国日本の悲劇の分岐点 帝国主義政策のイデオローグだった初代台湾総督府民政長官 問答無用の裁判で「約一万二千人を『土匪』(ママ)として殺した」 「王道の旗を以て覇術を行う」インフラの「文装的武備」 「阿片漸禁」による「専売」で「百六十万円の収入増」立案 満鉄調査部を創設した初代総裁への登竜門にわだかまる疑惑 シベリア出兵で「強硬論」の外相と「言論機関との小波乱」 治安維持法の成立と「反ソ・反革命的キャンぺーン」の関係 「大調査機関設立の議」の建白から東京放送局初代総裁まで 明治維新の元勲、山県有朋の直系で、仏門出身の儒学者
  第七章 メディア支配の斬りこみ隊長
「蛮勇を揮った」ことを戦後も自慢話にしていた元「鬼警視」 「僕は我儘一杯に育ってきた」と自認する元「餓鬼大将」の正体 第一次共産党検挙の手柄をあせった特高の親玉の独裁性
  第八章 関東大震災に便乗した治安対策
陸軍将校、近衛兵、憲兵、警察官、自警団員、暴徒 「朝鮮人暴動説」を新聞記者を通じて意図的に流していた正力 東京の新聞の「朝鮮人暴動説」報道例の意外な発見 号外の秘密を抱いて墓場に入った元報知販売部長、務台光雄 「米騒動」と「三・一朝鮮独立運動」の影に怯える当局者 戒厳司令部で「やりましょう」と腕まくりした正力と虐殺 「社会主義者」の「監視」と「検束」を命令していた警視庁 「使命感すら感じていた」亀戸署長の暴走を弁護する正力
  第九章 虐殺者たちの国際的隠蔽工作
留学生で中華民国僑日共済会の会長、王希天の逆殺事件 「震災当時の新聞」による偶然の発掘から始まった再発掘 「相手は外国人だから国際問題」という理解の重大な意味 「まぼろしの読売社説」の劇的発見!分散して資料を温存か? 中国側の調査団は「陸軍の手で殺されたと思う」と語って帰国 九二四件の発売禁止・差押処分を大手紙の社史はほぼ無視 後藤内相が呼び掛けた「五大臣会議」で隠蔽工作を決定 「荒療治」を踏まえた「警備会議」と正力の「ニヤニヤ笑い」 戒厳令から治安維持法への一本道の上に見る正力の任務配置
第三部「換骨奪胎」メディア汚辱の半世紀

  第十章 没理想主義の新聞経営から戦犯への道
「エロとグロ」から「血しぶき」に走った正力と「言論弾圧」 「黄色主義」の直輸入で「騒音を立て」まくる堕落の先兵 「首切り浅右衛門」まで登場した読売記者の総入れ替え 暖房なし社屋の夜勤に「飲酒禁止」で「武力」を直接行使 「死屍の山を踏み越えて」読売を発展させた「進軍喇叭」 「君はアカだそうだな」と一発かます元鬼警視の人使い戦法 「警視庁人脈で固めたから読売は伸びた」と自慢した正力 震災後に大阪財界バックで朝毎が展開した乱売合戦への復讐
  第十一章 侵略戦争へと軍部を挑発した新聞の責任
「満州国の独立」を支持する日本全国一三二社の「共同宣言」 戦時体制で焼け太りした読売の不動産取得「脅迫」戦略 「競争でヒトラー礼讃」する呉越同舟の「醜態」ぶり アジア侵略の思想戦の先兵としての日本の大手メディア
  第十二章 敗戦後の「ケイレツ」生き残り戦略
「自らを罪するの弁」から「一斉に右へならへ」までの軌跡 「新聞自体が生きのびるため」の基本条件を棚に上げた議論 「社長……」と嗚咽しつつ、今度は米軍に妥協した戦後史 レッド・パージに先駆けた読売争議で三七名の解雇と退社
  第十三章「独裁主義」の継承者たち
「ワンマン正力」の後継者決定の七か月の骨肉の争い 「日本テレビ、粉飾決算」の爆弾犯人は誰だったのか 「円月殺法」答弁を自慢する元自治省事務次官の赤字決算 「はで」な警防で「絨毯爆撃を仮想」、「個人はない」と講義 最後の「独裁」継承者はフィクサー児玉誉士夫の小姓上がり 「公開質問状」に答えない読売広報部の大手メディア体質 政治思想経歴を詐称する元学生共産党細胞長の出世主義
あとがき

資 料


序章:「独裁」「押し売り」「世界一」

(序章-1)
「読売改憲論」批判には「彼(敵)を知り」の基本戦略があるか


 「読売改憲論」そのものについての議論は、すでに盛大に行われているので、本書の目的とはしない。本書が撃破すべき目標は、改憲論を唱える読売そのものである。効果的に撃破するためには、その相手の歴史的な検証による本質の把握が不可欠である。相手の真の正体が分からない戦いでは、勝利の展望は、とうてい見いだせないのである。

 ただし、ほかの大手メディアを持ち上げるつもりは、一切ない。むしろ、読売を批判すると同時に、日本の大手メディア全体の歴史的な問題点をも明らかにすることを望んでいる。新聞業界には、「読売ヨタモン、毎日マヤカシ、朝日エセ紳士」という起源不明の古いダジャレがある。この「ヨタモン」「マヤカシ」「エセ紳士」の、それぞれの性格は、比重が違うだけで各社、または各メディア系列に共通して伝わっているのではないだろうか。

 読売の場合はとくに、「ヨタモン」という形容だけでは不十分である。読売は、最初の半世紀を別として、「中興の祖」とされる正力松太郎の社長就任以後、戦前、戦後を通じて、今回の改憲論に見られるような、政治的策動に関しての度重なる前科者なのである。

 そのような読売の、露骨な政治的策動を可能にしてきた要因には、読売独特の「独裁主義」の「政治的スタンス」と、読売で特徴的に発達した「拡張販売」、ありていにいえば「押し売り」による「経済的基礎」の確保の伝統がある。これらの伝統は、「言論の自由」と相対立するものである。

 再度強調すると、本書の特徴的な狙いは、読売の「政治的スタンス」と「経済的基礎」への疑問提出にある。これまでの、いわゆるジャーナリストやジャーナリズム研究者による読売批判、またはジャーナリズム一般への批判には、記者個人向けの根性論が多い。ほとんどの場合、巨大メディアをめぐる経済学、政治学、歴史学などの視点が欠けている。それらの弱点を、いささかでも補いたいのである。

 以下、まずは、現状の問題点を整理してみたい。


(序章-2)
「新聞セールス近代化センター」を在京六社で設立の社告


 経済学的な問題としての「押し売り」は、実は、読売だけのことではない。

「赤信号、皆で渡れば怖くない」という類いの、新聞業界の宿年の難問、または歴史的恥部である。ひらたくいえば、たがいに激しい部数競争をくりひろげる大手紙全体が、いわば内々の共犯関係をむすぶ「独占の秘訣」である。業界の会合のたびごとに、「新聞販売正常化」のスローガンを掲げはするものの、実際には掛け声だけで無策のまま、「百年河清を待つ」のみなのである。

『日本新聞協会四十年史』では、「販売正常化への努力」の項に三二頁も費やしている。「不公正な販売競争を放置すれば新聞社の経営基盤を揺るがす事態を招来しかねない」という危機感にもとづいて、日本新聞協会は、一九七七年(昭52)五月二五日の理事会で「販売正常化委員会」の設置を決定し、翌日の第一回の委員会で「委員長に務台光雄理事(読売)を選出」している。

 ところが、この委員長が提案した「拡張材料の取り置きと使用の禁止」を含む「具体案」を、率先して踏みにじるのが、委員長の出身母体の読売なのである。同書には、以下、「読売新聞社のM[中型]洗剤使用問題」とか、「読売新聞社が新聞の『宣伝パンフレット』として、ルーブル美術館の複製画を額絵として購読勧誘に使用」した件とか、「中部読売新聞」の「大型拡材」とか、まるで泥棒が警官に化けたような漫画的な騒動が、つぎつぎに登場するのである。法的には「訪問販売法」の取締り対象にすれば一挙解決なのだが、「自主的に規制したいと要望し、法指定は見送られてきた」のである。しかも、この笑えない笑い話の実情を、監視し、世間に暴露する新聞は、どこにもないのだ。

 正直に告白すると、わたし自身、長年の考えの甘さを反省している。この問題の重要性を本格的に痛感しはじめたのは、実際には、フリーになってからのことなのである。それまでにも何度か、この問題をメディア批判の文章のなかで書いたことがあるが、その際には、まだまだ実感が不足していた。

 自宅で仕事をするようになると、つまり、無い知恵を必死にしぼって文章を練るという仕事中なのに、いやでも時折、無遠慮に訪ねてくる新聞拡張販売員と接触せざるをえない。それも、なんと、少ない時期でも月に二度、三度の頻度なのである。本書では公平を期すために明言をしないが、わたしの場合には、従来の行き掛かりや友人関係の都合で宅配の新聞を選んでいる。職業柄、ほかの新聞も図書館で見るように努力している。拡張販売員の言動によって新聞の選択を左右されることはない。しかし、一般的に考えると、自宅や町の商店などで仕事をしている自営業者や、家事専門の主婦の場合には、拡張販売の影響が大きいにちがいない。試みに何人かに聞いてみたところ、やはり、そういう返事だった。だからこそ、あれだけの数の拡張販売員が飯を食えるのだ。

 問題は「実感」であるが、なにしろ、実に、しつこいのである。拡張販売員で、最初から「○○新聞ですが」などと名乗るものはいない。名乗れば、扉を開けずに断られる場合が多いのであろう。わたしも、当然、そうする。だから、拡張販売員は、いきなり扉をドンドンたたき、大声で、「△△さん!」と呼ばわるのである。わたしの方が心得て、「どちらさんですか」と聞いても、大部分の拡張販売員は身分を明らかにしない。「ご近所の□□ですが」などと、見え透いた嘘までついて粘る例さえある。二、三度聞くと、やっと「今、何新聞取ってますか」などという。わたしの場合は、一応は推薦する新聞を確かめた上で、「うちは決まってるから時間の無駄だよ」と、お引き取りを願っている。それでもまた、何度も何度も、別の拡張販売員が入れ替わり立ち代わり来るのである。

 普通の人の場合には、うるさいのに負けてしまう。新聞業界の申し合わせには違反するはずなのに、堂々と見せびらかす「拡材」につられ、ついつい某紙を何か月か取る契約申込書に署名捺印してしまうのではないだろうか。しかも、率先して言いたくはないことだが、わたしの知るかぎりでは、拡張販売員の人相風体は、後楽園の入り口などで見掛ける「ダフ屋」と、実に良く似通っているのである。わたしの場合、あまりにしつこいので、腹立ちまぎれに相手が勧める「××新聞」の批判をしたところ、「ふざけんな!」と怒鳴って、扉を蹴り飛ばしてから、やっと立ち去ったことさえある。普通なら、逆らいたくない相手であり、はっきりいえば、「月に一度は各家庭を必ず訪れる“ヤクザ拡張販売”」なのである。これが「押し売り」でなくて、何であろうか。

 ところが最近のこと、宅配の某大手紙に四段広告が出現した。朝日・産経・東京・日経・毎日・読売と、五十音順で在京六社の連名だから、一種の社告である。内容は「新聞セールス近代化センター」設立の挨拶で、設立目的は「訪問販売のトラブルを防ぐため」とある。「新聞セールスマン」は「新聞セールス証」という写真入りの身分証明書を「胸につけています」というのだが、そんなものは一度も見たことがない。しかも、写真の主、「新聞太郎」さんの顔は、テレヴィ・ドラマに出てくる張り切り新人記者のような、お坊ちゃん風の二枚目ときたものだ。これには、もう、吹き出さずにはいられなかった。

 一応、在京各社、新聞協会、公正取引委員会などから事情を聞いたが、「新聞セールス証」を所持する訪問販売員の実在状況は、「各地の報告」と称するだけで、雲をつかむような話でしかない。これは中身を偽る「虚偽広告」ではないのだろうか。

「訪問販売」については合法だと主張するのだろうが、他の業種の訪問販売員は、本当にピシッと上品に決めている。その比較だけでも、新聞業界のヤクザ度は語るに落ちるというべきであろう。しかも、この共同社告自体が、「自主規制」の失敗と「訪問販売のトラブル」頻発の告白になっている。


(序章-2)
「新聞セールス近代化センター」を在京六社で設立の社告


 経済学的な問題としての「押し売り」は、実は、読売だけのことではない。

「赤信号、皆で渡れば怖くない」という類いの、新聞業界の宿年の難問、または歴史的恥部である。ひらたくいえば、たがいに激しい部数競争をくりひろげる大手紙全体が、いわば内々の共犯関係をむすぶ「独占の秘訣」である。業界の会合のたびごとに、「新聞販売正常化」のスローガンを掲げはするものの、実際には掛け声だけで無策のまま、「百年河清を待つ」のみなのである。

『日本新聞協会四十年史』では、「販売正常化への努力」の項に三二頁も費やしている。「不公正な販売競争を放置すれば新聞社の経営基盤を揺るがす事態を招来しかねない」という危機感にもとづいて、日本新聞協会は、一九七七年(昭52)五月二五日の理事会で「販売正常化委員会」の設置を決定し、翌日の第一回の委員会で「委員長に務台光雄理事(読売)を選出」している。

 ところが、この委員長が提案した「拡張材料の取り置きと使用の禁止」を含む「具体案」を、率先して踏みにじるのが、委員長の出身母体の読売なのである。同書には、以下、「読売新聞社のM[中型]洗剤使用問題」とか、「読売新聞社が新聞の『宣伝パンフレット』として、ルーブル美術館の複製画を額絵として購読勧誘に使用」した件とか、「中部読売新聞」の「大型拡材」とか、まるで泥棒が警官に化けたような漫画的な騒動が、つぎつぎに登場するのである。法的には「訪問販売法」の取締り対象にすれば一挙解決なのだが、「自主的に規制したいと要望し、法指定は見送られてきた」のである。しかも、この笑えない笑い話の実情を、監視し、世間に暴露する新聞は、どこにもないのだ。

 正直に告白すると、わたし自身、長年の考えの甘さを反省している。この問題の重要性を本格的に痛感しはじめたのは、実際には、フリーになってからのことなのである。それまでにも何度か、この問題をメディア批判の文章のなかで書いたことがあるが、その際には、まだまだ実感が不足していた。

 自宅で仕事をするようになると、つまり、無い知恵を必死にしぼって文章を練るという仕事中なのに、いやでも時折、無遠慮に訪ねてくる新聞拡張販売員と接触せざるをえない。それも、なんと、少ない時期でも月に二度、三度の頻度なのである。本書では公平を期すために明言をしないが、わたしの場合には、従来の行き掛かりや友人関係の都合で宅配の新聞を選んでいる。職業柄、ほかの新聞も図書館で見るように努力している。拡張販売員の言動によって新聞の選択を左右されることはない。しかし、一般的に考えると、自宅や町の商店などで仕事をしている自営業者や、家事専門の主婦の場合には、拡張販売の影響が大きいにちがいない。試みに何人かに聞いてみたところ、やはり、そういう返事だった。だからこそ、あれだけの数の拡張販売員が飯を食えるのだ。

 問題は「実感」であるが、なにしろ、実に、しつこいのである。拡張販売員で、最初から「○○新聞ですが」などと名乗るものはいない。名乗れば、扉を開けずに断られる場合が多いのであろう。わたしも、当然、そうする。だから、拡張販売員は、いきなり扉をドンドンたたき、大声で、「△△さん!」と呼ばわるのである。わたしの方が心得て、「どちらさんですか」と聞いても、大部分の拡張販売員は身分を明らかにしない。「ご近所の□□ですが」などと、見え透いた嘘までついて粘る例さえある。二、三度聞くと、やっと「今、何新聞取ってますか」などという。わたしの場合は、一応は推薦する新聞を確かめた上で、「うちは決まってるから時間の無駄だよ」と、お引き取りを願っている。それでもまた、何度も何度も、別の拡張販売員が入れ替わり立ち代わり来るのである。

 普通の人の場合には、うるさいのに負けてしまう。新聞業界の申し合わせには違反するはずなのに、堂々と見せびらかす「拡材」につられ、ついつい某紙を何か月か取る契約申込書に署名捺印してしまうのではないだろうか。しかも、率先して言いたくはないことだが、わたしの知るかぎりでは、拡張販売員の人相風体は、後楽園の入り口などで見掛ける「ダフ屋」と、実に良く似通っているのである。わたしの場合、あまりにしつこいので、腹立ちまぎれに相手が勧める「××新聞」の批判をしたところ、「ふざけんな!」と怒鳴って、扉を蹴り飛ばしてから、やっと立ち去ったことさえある。普通なら、逆らいたくない相手であり、はっきりいえば、「月に一度は各家庭を必ず訪れる“ヤクザ拡張販売”」なのである。これが「押し売り」でなくて、何であろうか。

 ところが最近のこと、宅配の某大手紙に四段広告が出現した。朝日・産経・東京・日経・毎日・読売と、五十音順で在京六社の連名だから、一種の社告である。内容は「新聞セールス近代化センター」設立の挨拶で、設立目的は「訪問販売のトラブルを防ぐため」とある。「新聞セールスマン」は「新聞セールス証」という写真入りの身分証明書を「胸につけています」というのだが、そんなものは一度も見たことがない。しかも、写真の主、「新聞太郎」さんの顔は、テレヴィ・ドラマに出てくる張り切り新人記者のような、お坊ちゃん風の二枚目ときたものだ。これには、もう、吹き出さずにはいられなかった。

 一応、在京各社、新聞協会、公正取引委員会などから事情を聞いたが、「新聞セールス証」を所持する訪問販売員の実在状況は、「各地の報告」と称するだけで、雲をつかむような話でしかない。これは中身を偽る「虚偽広告」ではないのだろうか。

「訪問販売」については合法だと主張するのだろうが、他の業種の訪問販売員は、本当にピシッと上品に決めている。その比較だけでも、新聞業界のヤクザ度は語るに落ちるというべきであろう。しかも、この共同社告自体が、「自主規制」の失敗と「訪問販売のトラブル」頻発の告白になっている。


(序章-3)
巨大企業の自宅訪問と系列専売、生産と流通の双方支配は禁止


 わたしの考えでは、新聞にかぎらず、広告費を使える知名度の高い巨大企業の「訪問販売」は、全面的に禁止すべきである。昔からの行商は資本力のない庶民の緊急避難の生業なのである。

 あわせて提案するが、巨大企業の系列専売店制度をも禁止すべきなのである。日米自動車戦争の現状からも明らかなように、経済大国日本の「ケイレツ」販売は、自由競争の原理に反する鎖国の延長である。経済的弱者への自由競争の押しつけとは別の次元で、巨大企業による生産と流通の「ケイレツ」支配は、禁止されるべきである。本来ならば、そういうキャンペーンの先頭に立つべきメディアの業界に、この自覚が欠けているのは、いったいどうした理由によるものなのであろうか。

 同じ大手紙でも、記者の方は、ますますエリート化している。女性記者も少しは増えたが、ほとんどが男性で、お坊ちゃん風、背広にネクタイ、社旗を立てた高級乗用車に乗っている。中身は「インテリ・ヤクザ」だともいわれるが、一応、表面上は上品な業界のように見える。

 それなのに、なぜ、拡張販売員だけが、昔ながらのテキ屋風なのだろうか。

 詳しくいえば限りがない。要するに、新聞の拡張販売という仕事自体に、職業上の倫理の基礎となる近代的な合理性が欠けているのではないだろうか。事実経過から判断すると、すでに小手先のごまかしで済む問題ではなくなっている。「新聞セールス近代化センター」の社告の写真のような、社会人に成り立ての若者が志願したくなるような仕事ではないのだ。

 実感でいうと、以上のような「押し売り」の頻度、および押しの強さでは、何といっても読売がダントツである。さきに「扉を蹴り飛ばし」た例で、一応は遠慮して「××新聞」と記したのも、実は、読売だった。発行部数が増えれば、その分だけ新たな拡張販売に投ずる資金も増える。読売の「押し売り」頻度は加速する。世界最高の発行部数、一千万部突破とか何とかいうのは、この「押し売り」の成果の累積以外のなにものでもないと信ずる。


(序章-4)
ピストル密輸のテキ屋「拡販団長」の身元を隠す大手紙報道


「“ヤクザ拡張販売”とは失礼な!」とおおせられるかも知れないので、巻末資料リストに「ヤクザ拡張販売関係」の項を設けた。

 とりあえず一言すると、産経の拡張販売員が客の自宅に上がりこみ、購読を断わられてか、殺人事件を起こしたことさえもある。朝日の拡張販売団員同士の殺し合いもあった。

 この種の事件は週刊誌種とはなるが、なかなか大手紙の紙面には登場しない。ただし、十数年前には、極めつきの大型事件が表面化したため、その事件自体が大手紙に報道されたことがある。だが、その報道の仕方に、『週刊文春』(81・9・10)が噛みつき、つぎのような題の特集記事をのせた。

「なぜ新聞に一行も出ないのか/読売新聞拡販団長が/ピストル二〇〇丁密輸事件で逮捕」

 ただし、この特集記事の題の付け方や内容には若干の誇張があった。「新聞に一行も出ない」わけではなかった。数字にも誇張があった。

 たとえば朝日(81・9・2)の報道があったのだが、それによると、広域暴力団の住吉連合がアメリカからピストルを密輸した事件の第二次摘発が行われ、逮捕者は合計で二八名、押収したピストルは四三丁に達した。担当の警視庁捜査四課では、密輸されたピストルの総数について「百丁は越す」と見ているらしかった。

 ところが、この朝日記事では、たった一か所だが肝心要の点に、ボカシが掛かっていた。「新たに捕った」被疑者の肩書きのすべてが、たとえば「組長」とか「ポルノ雑誌販売」などのように具体的なのに、たった一人だけが、なぜか、ただの「会社役員矢野公久」となっていたのだ。

『週刊文春』の特集記事によると、この矢野は、「武蔵野総合企画社長」であり、この「会社」の実態は、読売の「城西地区」(杉並、中野、渋谷)を担当エリアとする「拡張販売団」だったのである。同人は同時に、テキ屋の池田会宮崎組でもナンバー・ツーだったという。逮捕の容疑は、「銃刀法・火薬取締法違反」であり、「自動式拳銃四丁と実弾二百発」を所持していたらしい。

 この件では、わたし自身も当時、関係者から追加取材をし、拙著『読売グループ新総帥《小林与三次》研究』(鷹書房)の末尾に書いた。ここでは結論だけをいうと、警視庁は一応、「会社役員」の身元を発表したのだが、警視庁詰め記者クラブの談合で、以上のような新聞発表の申し合わせになった。それに不満な記者が『週刊文春』に情報を流したのであろう。

 こういう大手紙間のしきたりについては、「マスコミ仁義」という表現もある。報知新聞の現場記者から常務取締役、相談役になった漆崎賢二は、『読売王国の新聞争議/報知10年戦争と読売人事の抗争』(日本ジャーナル出版)と題する著書のなかで、つぎのように指摘している。

「新聞というのは、同業の内部の問題になるべく触れないという仁義めいたものがある」

 報知では、一九六〇年代の後半から労資紛争が激化し、戦後の読売争議を上回る大争議が続いた。ところが、漆崎の表現によれば、「週刊誌もこれを取り上げたが、肝心の日刊紙は一切黙殺した」のである。


(序章-5)
「出刃包丁の刃を相手に向けて刺せ」と指導したベテラン販売員


「押し売り」問題に関して、読売の「歴史的検証」の一例を示しておこう。『巨怪伝/正力松太郎と影武者たちの一世紀』(佐野眞一、文藝春秋、以下『巨怪伝』)には、つぎのような証言がある。

「昭和三十二[一九五七]年の第一次岸内閣時代、国家公安委員長となった正力に目をかけられた元警視総監の秦野章によれば、正力は往時をふり返って、警視庁人脈で固めたから読売は伸びたんだ、とよく語っていたという」

 秦野の証言は、単に読売の社内の「固め」だけを意味するものではない。しかも、その「外回り」に関する部分の方が、現在につながる正力以後の読売の本質を物語っているといえよう。秦野は、つぎのようにも語っているのである。

「内勤だけじゃなく、外回りの販売にも警視庁の刑事あがりを使ったというんだな。あの当時は、“オイコラ警察”の時代だから、刑事あがりにスゴまれりゃ、新聞をとらざるをえない。そうやって片っぱしから拡張していったんだって、正力さんは自慢そうによく言っていたな」

 この正力の「自慢」話の相手の秦野は、警視庁では後輩であり、国家公安委員長としての当時の正力にとっては、その時期の部下に当たる警視総監である。身内の目下が相手だから気を許したのだろうが、なんともハレンチな、ご「自慢」ぶりではなかろうか。

『巨怪伝』が紹介する証言のなかには、つぎのような、「刑事あがり」の仕業だかヤクザそのものの仕業だか分からない不気味な拡張販売の実例もある。

「昭和八[一九三三]年に読売入りし、一貫して販売畑を歩いてきた読売新聞元専務の菅尾且夫によれば、ベテランの販売員たちは、景品の出刃包丁を客に見せるときは、必ず刃を相手にむけ畳に刺してみせろ、などという指導までしていたという」

 これでは、「押し売り」を通り越して、「恐喝罪」になるのではないだろうか。

 正力は一九六九年(昭44)に死んだ。その翌年から社長になったのは務台光雄である。務台が読売の営業局に入ったのは一九二九年[昭4]のことである。三年後の一九三二年、つまり、菅尾が入社する一年前には販売部長になっているから、「出刃包丁を畳に刺す」拡張販売は、務台の直接の管轄下で行なわれていたことになる。務台が、この話を知らないはずはない。

 だが当然、務台が社長の任期中に編集発行された読売の社史『読売新聞百年史』はもとより、務台個人の伝記『闘魂の人』(松本一郎、地産出版)や、『別冊新聞研究』(13号、81・10)の「聴きとり」に答えた九五頁にもわたる長文の回想記録、『新聞の鬼たち/小説務台光雄』などのいずれを見ても、「出刃包丁を畳に刺す」などという話は、まったく出てこない。もちろん、「読売と名がつけば白紙でも売ってみせる」と豪語したという伝説の持ち主でもあり、「販売の神様」の異名を取った務台のことだから、読売の拡張販売に関する自慢話が出ないわけはない。むしろ、どの資料でも、それが強調されている。一軒一軒、販売店を直接たずねて、頭を下げて、現地の実情を詳しく知る努力を重ねたという。聞くも涙、語るも涙の、苦労話の連続である。

 務台は、読売に移籍する直前まで、題号が現在のスポーツ紙に残る報知の販売部長だった。明治初年からの伝統に輝く政論紙の報知は、関東大震災で社屋が崩壊するまでは、東京で第一位の発行部数を誇っていた。その報知が震災を契機として、大阪の財界紙だった朝日と毎日から追い上げられ、急速に没落し始めた。落ち目の報知を内紛がらみで退社した務台にとって、新たな人生の目標はただただ、朝日と毎日を抜き返す新聞経営となった。正力とコンビを組んだ務台の拡張販売には、常識を越える異常な執念の業火を見るべきであろう。

 務台は、その晩年にも、演説をはじめたら一時間でも二時間でも大声を張り上げ続けるといわれた。細かい数字をつぎつぎに挙げて論ずる記憶力の良さを誇っていた。だが、その抜群の記憶力には、都合の悪いことは上手に削除する編集能力までが伴っていたというべきであろう。

 以上、前置きは最小限度にとどめ、読売そのものの歴史的概観を先行して描いてみよう。もちろん、本書の規模では、その全容を描き切ることは不可能である。とりあえず、つぎの第一部では、明治・大正期の歴史の転換期の曲がり角ごとに読売がたどった軌跡を描き、その特徴的な体質を、具体的に目に見えるようにしてみたい。

 読売の社史は、それがいかに汚辱と欺瞞に満ちているにせよ、それ自体、日本のメディア史、ひいては近現代史の、決定的に重要な核心部分をなしているのである。


第一部 「文学新聞」読売の最初の半世



1909年(明42)に完工した銀座の読売新聞社屋



 読売の社史『読売新聞百年史』などでは、その名が示すとおりに、「百年」も継続している読売の歴史を、みずから誇らしげに物語っている。

 だが、読売の場合には、たしかに同じ題号が続いてはいるものの、途中で経営の主体も中身も、まったくの別物に化けていたのである。読売の社史では、中興の祖たる「大正力」による「大読売」時代の開幕ということになっているが、こともあろうに、警視庁で悪名高い「特高」の親玉だった元警務部長が、権力の横暴をチェックするのが役割のメディアへの「乗りこみ」(本人の表現)を果たしたのである。これは世界のメディアの歴史にも類例を見ない暴挙であった。「乗っとり」以外のなにものでもなかった。

 もちろん、このことは秘密でも何でもなかった。新聞関係者には大筋の物語は伝わっていた。ただ、同業者に遠慮して、小声で語り続けられていたことも手伝ってか、そのことの持つ歴史的な意味は、まだ十分に解明されているとはいいがたい。

 読売が「乗っとり」の憂き目に会った一九二四年(大13)という年は、奇しくも創刊の一八七四年(明7)から数えてちょうど五〇年後になる。つまり、半世紀の節目である。この年の二月二五日に、時の政財界首脳の全面的なバックアップをえて読売を買収した元警視庁警務部長の正力松太郎が、翌日の二六日に、社長として実際の「乗りこみ」を果たしたのである。

 それまでの読売は、尾崎紅葉の『金色夜叉』の連載などの典型例で世間に名を知られており、「文学新聞」としての評判が高かった。正力乗りこみ以後の、「警察新聞」とまであざけられる「サツネタ」頼りの日本版「イエロー・ペイパー」とは、月とスッポンほどの違いがあった。

 その違いの質的な大きさと、政治的な意味を明確にするためには、まず、明治の初期の創刊以前にまでさかのぼる必要があるだろう。以下、簡略に紹介する。

 明治時代の新聞には大きく分けて、大衆紙の「小新聞」(こしんぶん)と、政論紙の「大新聞」(おおしんぶん)とがあった。大衆紙の歴史は、江戸時代の絵草子などからつながっている。政論紙の歴史の方は、それよりも浅く、幕末の政争までにさかのぼる程度である。

 幕末の政論紙の発行者は、おおむね、のちの明治維新政府となる「新政府派」と、江戸幕府を擁護する「佐幕派」に分類されている。「新政府派」の討幕軍は、一九六八年(慶4)四月一一日に江戸を占領し、軍政府に当たる鎮将府を設置した。当然、「佐幕派」への弾圧がはじまる。詳しくは、巻末リストに何冊かの関係書を収録したので、それらを参照していただきたい。

 同年六月八日には、太政官布告第四五一号によって、無許可新聞の発行が禁止となった。
 同年七月一七日、新政府は、江戸を東京に改名した。
 同年九月八日、慶応を明治に改元する。

『新聞の歴史/権力とのたたかい』(小糸忠吾、新潮選書)の表現によると、「天皇が東京にお着きになったのは、おくれて一〇月一三日であったが、東京にはその到着を報じる新聞がなかった」という状態だった。三世紀も続いた江戸幕府が倒れたのだから、ただでさえ世情は不安定になる。さらに情報不足ともなれば、民心は乱れに乱れる。そこで江戸城明け渡しの立て役者、元幕臣の勝海舟が、新政府に建言した。つぎの文章は、勝の建言の一部である。

「夜間は盗賊横行、無辜を切害し、老幼路上に倒れ死し、壮者は近郊に屯集し、強盗を事と致し候体、誠に見聞に不堪候」

 小糸によると、新政府は勝の建言にたいして、つぎのように反応した。

「この状態は、ニュース機関がないから生じたと悟った新政府は、[中略]外国の新聞法規を研究させた」

 以後、新政府は、新聞の発行を奨励する政策に転じるのだが、その一方で、熱心に統制もするという複雑な経過をたどる。以下では、奨励策と統制策の要点をこもごも、年表的に記すのみとする。

 一九六九年(明2)新聞紙印行条例を公布。発行許可制、事後検閲制。征韓国論などが当面の重要事項。
 一九七三年(明6)新聞紙条目公布。
 一九七五年(明8)新聞紙条例、讒謗(ざんぼう)律(皇族、官吏侮辱)公布。
 一八八一年(明14)国会開設詔勅。
 一八八三年(明16)改正新聞紙条例公布。

 このときの新聞紙条例「改正」の目玉は「第一四条」であるが、小糸によると、つぎの内容であった。

「内務卿(のち大臣)が新聞記事が治安妨害や風俗壊乱にあたると認めたときには、新聞の死刑を意味する発行禁止や発行停止を行政処分として行いうる」

『新聞学』(日本評論社)によると、「国会開設詔勅」が発せられて以後の新聞発行禁止・停止処分の状況は、次のようであった。

             発行禁止  発行停止    計

 一八八一年(明14)     〇    五八    五八
 一八八二年(明15)    一二    七〇    八二
 一八八三年(明16)     四    五二    五六
 一八八四年(明17)     四    三八    四二
 一八八五年(明18)     〇    二四    二四

 一八八七年(明20)保安条例公布 危険人物の東京からの追放と立入り禁止措置。新聞紙条例改正。発行許可主義から発行届出主義への形式的譲歩。

 一八八九年(明22)帝国憲法公布。「法律の範囲内」においての言論、著作、印行[印刷]、集会、結社の自由を承認。

 一八九七年(明30)新聞紙条例改正。内務大臣の発行禁止・停止行政処分権条項は廃止。

 この時期に「言論四法」と呼ばれたものに、新聞紙条例、出版条例、集会条例、保安条例[第八条に「天皇の緊急勅令」]がある。


第一章 近代日本メディアの曙

(第1章-1)
準幕臣の江戸期文化人が創設した日本最古の大衆向け教養新聞


 読売は、「俗談平話」を旨とする「小新聞」(こしんぶん)として、一八七四年(明7)の一月二日に創刊された。現存の三大紙のなかでは最も古い。

 ただし、この創刊年代の古さに関しては、異論がないわけではない。

「新」の字を頭にいただく新聞商売でありながら、骨董品と張り合って「古さ」を競うのも滑稽なのだが、現在の読売は当然のように、その「古さ」を強調している。正力以前の半世紀をも、後生大事に「社史」の神棚に飾っている。ふりかえってみれば、正力による「乗っとり」が起きたのは、その時すでに半世紀を経ていた読売の題号が、老舗のブランド(語源は家畜の焼き印)としての値打ちものだったからこそである。古さと「元祖」の争いはなにも、焼きいも屋や「万世一系」の天皇制だけの特権ではない。古今東西の人類史に共通の自己宣伝の基本である。とにもかくにも、「長年通用してきた」という実績の証明だけにはなるからである。

 そこで、一九七〇年代に「朝・毎・読」の三大紙が、一斉に創立百年の記念事業を競った時期に、毎日が超々ウルトラCのダッシュを決めて、読売を追い抜いてしまった。

 タイム・マシーンが出てくるSFばりの奇妙な話なのだが、これにも一応の根拠がある。

 どうしてかというと毎日は、読売より創刊の早い政論紙の『東京日日新聞』を一九一一年(明44)に合併していたので、そちらの創刊の一八七二年(明5)二月二一日を全体の創刊日に定めたのである。

 本体の大阪毎日の前身で政治新聞だった大阪日報の創刊日は一八七六年(明9)であり、大阪毎日への改題は一九八八年(明21)一一月二〇日である。しかも、『毎日新聞百年史』によると、大阪毎日の系統の各本社発行の号数は、六年後に「『大阪日報』を身代わり新聞に残して藩閥政府攻撃に立上がった『日本立憲政党新聞』のそれを継承している」というややこしさである。大阪毎日と東京日日の題号を毎日に統一したのは、一九四二年(昭17)になってからである。

 合併した相手の創刊日の方が古ければ、そちらを採用するのが業界のしきたりだとすれば、読売も報知(最初は郵便報知新聞)を合併している。こちらの創刊日は東京日日と同じ年の一八七二年(明5)六月一〇日である。しかし、読売は報知を別途、現存のスポーツ紙の題号として独立させており、報知の創刊日を自社の出発点とはしていない。

『毎日新聞百年史』に明記されているところによれば、合併当時の東京日日は「経営的には不振の一途をたどり、三菱でもすでにもてあます状態に至った」のである。委譲の「条件は、東京日日新聞の題号を存続すること以外何もなく」、ただ同然どころか逆に「名義維持に必要な費用」まで寄託されて引き取ったのである。ところが、「名義維持」の方は中途で放棄しておいて、「創刊日」だけはいただきというのだから、毎日側の「古さ」の強調の意図も、大いに「眉つば」ものである。

 朝日は、一九七九年(明12)一月二五日に大阪朝日として創刊されている。東京への進出に当たっては、一九八八年(明21)に自由党系の政治新聞、『めさまし新聞』を合併し、同じ年に東京朝日に改題している。全国の題号を朝日に統一したのは一九四〇年(昭15)になってからである。『めさまし新聞』は、一九八四年(明17)に『自由燈』の題号で創刊されている。朝日の場合には、毎日とは逆で、東京で合併した相手の『めさまし新聞』の創刊日の方が遅かったから、そちらを全体の創刊日に定めるなどということは起こるわけはない。

 読売の場合は、東京生え抜きで、題号が最初から同じままであった。一六一五年(元和元)大阪夏の陣以来とされる「よみうりかわら版」に因む命名であり、最初はその伝統を生かして読売屋(よみうりや)と呼ばれた売子が、鈴を鳴らして街角で売ったという。

 創始者の中心で初代社長の子安峻は、一八七〇年(明3)一二月八日に創刊され、日本最古の日刊紙とされる『横浜毎日新聞』の創刊者の一人でもあったし、やはり日本最古といわれる鉛活版印刷所、日就社の創立者でもあった。

 日就社は、子安らが編纂する『英和字彙』(じしゅう)(英和辞典)の刊行を第一次の計画として、一八七〇年(明3)四月、横浜元弁天町に設立された。その刊行終了後、東京の芝琴平町に移り、そこでさらに、創立当初からの目的の一つでもあった第二次計画の新聞発行に至ったのである。一九一七(大正6)年に社名が読売新聞社に変更されるまでは、日就社発行の読売新聞だった。印刷と新聞を同じ「プレス」という単語で表現する欧米の習慣で考えると、読売新聞社の「プレス」としての創立は、日就社が創立された一八七〇年(明3)四月にさかのぼることになる。

 子安峻は元岐阜大垣藩士である。同じく日就社を創始した仲間には、元佐賀藩士の本野盛亨、長崎の医者の養子の柴田昌吉がいた。三人ともに、薩摩や長州の出身者が主流を占めた明治維新政府の下では、下手をすれば反主流の失業インテリになる立場であった。ところが、この三人は幕末に洋学を志し、しかるべき実務経験をも積んでいた。明治維新政府の下に横浜で、子安と柴田は外務省翻訳官、本野は運上所事務取扱などの立場で合流し、共同の事業を計画したのである。

 読売を創刊する時点では、本野が外務省一等書記官としてロンドンに赴任しており、柴田は日就社の「出版方」を担当したから、読売の中心はもっぱら初代社長の子安であったといえる。子安は、幕末に大垣藩から江戸に派遣され、幕府の神奈川奉行(のちの裁判所)で翻訳方などを勤めていた。そこで同じ仕事のまま、新政府から「引き続き奉職」の辞令を受けている。いわば元準幕臣の出身である。薩長閥支配の明治維新政府の下で、東京の古くからの住民が読売に「江戸の香り」を覚えたとしても、それは偶然ではなかった。

 ただし、ここで「江戸の香り」という表現をしたのは、別に、薩長閥やら、大阪の財界を背景に進出した朝日や毎日への、「江戸っ子」の対抗意識に荷担する意味ではない。わたし自身は九州出身だから、九州弁の「田舎なまり」を嘲る「江戸っ子」気取りの俗物臭をも、存分に味わっている。歴史を客観的に見直すためには、「公方様のお足元」気取りの江戸っ子が、薩長閥の「田舎もん」や、がめつい大阪の「贅六」(ぜいろく)に対して抱いた実感を、知る必要があると思うだけである。

 子安峻らの人となりについては、旧著『読売新聞・日本テレビ・グループ研究』(汐文社)執筆の際、大いに興味を惹かれながらも、専門誌の資料探索にまで至らず、不十分さが気になっていた。果たせるかな、それ以前に「子安峻」に関する論文が『新聞研究』(52・8)に発表されていたことが分かった。わたしがそれを知ったのは、その論文が単行本の『日本ジャーナリズム史研究』(みすず書房)に収録されていたからである。著者の西田長壽(たけとし)はすでに故人であるが、巻末に記された略歴によると、一九三〇年から一九六四までの三四年間、東京大学法学部明治新聞雑誌文庫に勤務していた。子安についてまとめた文章の発表については、みずから、「古新聞の番人である私の義務」と表現している。書き出しは、つぎのようになっている。

「わが国の新聞の草創期の功労者を幾人か挙げるとすると、そのうちの一人として是非加えてもらいたいのが、この子安峻である。晩年不遇であったために、彼がわが国の文明の進歩にあずかった幾つかの事績も、彼の名とともに忘れられがちであることは、彼のために惜しいことである。もし彼が、明治十年代のはなやかさを持ち続けて、世を終わっていたとしたならば、新聞経営者としての彼の名も、朝日の村山龍平や、毎日の本山彦一等とともに今日の新聞人の胸に生きていたかも知れぬ。そこに人間の運命とでもいうものがあるのだろう」

 子安が中心になっていた「事績」は、貿易会社、貯蓄銀行、保険会社、日本銀行の設立から、能楽堂の建設などにまで至っていたようだ。まさに明治初期の民間の「元勲」とでもいうべき人物である。いわゆる「文明開化」の先導役だったのだ。「晩年不遇」については、「決定的な打撃は九州で経営していた炭礦事業の失敗とのことであるが、これについては語るべき資料に接していない」とある。新聞やその他の文化的事業における失敗ではないし、その不遇の晩年にも、『いさみ新聞』(のち『勇新聞』に改題)の発行で「捲土重来を期した」が、これも一二五号で廃刊になったという。新聞発行に対する想い入れが、人並み以上に強かったようだ。

 西田によれば、『故子安峻氏の略伝』には、つぎのような読売創刊の主旨が記されているという。

「氏尚以為く我国を開明に導かんと欲するには人智を開発すべき新聞紙無る可らずと因て英和字彙出版後は其活字を以て新聞紙を起こさんことを計画し明治七年に至りて始て我読売新聞を発刊せり」

 創設仲間の「本野盛亨の懐古談は、この点をやや具体的にしている」という。その要点は次のようである。

「当時人情風俗が極腐敗して居りましたから一番新聞を出して、それを改良しようといふ相談をしまして、忠臣義士烈貞女といふような、とに角善行ある者の事を俗談平話体に書いて、中以下の……以呂波さへ読める者には誰にも読めるやうにしたいと相談をきめました」

 以上のような主旨は、すべての漢字に「ルビ」を振るという工夫にも表われている。「忠臣義士烈貞女」の価値観の方については現在、いささか異議があるだろうが、「人情風俗」の「改良」を上からの号令や説教ではなくて、庶民レベルの「俗談平話体」で語ろうとした点に、子安の思想の基本がうかがえるような気がする。

『読売新聞百年史』の欄外に設けられた「子安俊」の項によると、一八七七年(明10)年に「外務少丞」を「退官し士族籍も返上」している。つまり、子安は、華族・士族・平民という明治維新から戦後まで続いた身分制度に反対だったのかもしれない。その一方で、所属の佐賀藩が幕末に新政府側に付いたという立場の本野の方は、子爵位を授けられ、華族になっている。


(第1章-2)
文学の香りに満ちて銀座の一時代を築いた明治文化の華


 読売の社史には、『読売新聞八十年史』、『読売新聞百年史』、『読売新聞百二十年史』の三種がある。以下、本書では、それぞれから、こもごも都合に応じて引用する。

 全体として見ると、それぞれが一冊の豪華本にまとめられているので、勢い、正力松太郎「乗りこみ」以前の歴史部分が縮小されていく傾向にある。ただし、長さだけにとどまらず、評価も変化している。『読売新聞八十年史』は、正力が社主として存命中に編集発行された。『読売新聞百年史』の方は、正力の没後、務台光雄社長時代のものである。正力も務台も、ともに独裁的権限をふるってたから、社史には、その影響が強く残っている。ところが面白いことに、一九五五年(昭30)という発行年度には、まだまだ戦後に起きた歴史感の民主化の影響が残っていたのであろうか、正力を必要以上に持ち上げる部分を除けば、『読売新聞八十年史』の方に、二一年後の一九七六年(昭51)に発行された『読売新聞百年史』よりも、生き生きした描写が多いのである。『読売新聞百二十年史』ともなれば縮小の度が激しくて、歴史部分の材料にはならない。現在の社長、ナベツネこと渡辺恒雄の独裁的編集によるものなので、問題点はのちに記す。

 さて、話を歴史に戻すと、読売は最初から東京の芝琴平町で発行され、その後、京橋に進出した。当時の町名は京橋だが、その後、銀座になっている。

 芝琴平町で最初は隔日刊二〇〇部で発行しはじめ、鈴を鳴らして街頭で売り歩いたのだが、『新聞販売百年史』によると、「紙面が大衆に認められるにつれ、部数も増え」、半年後には日刊になった。しかも、「なんと二万部の多きに達して大小新聞中、その発行部数はトップとなった。まさに驚異的な伸張というべきであろう」とまで特筆されている。部数のことだけではなくて、「小新聞の中でも読売新聞は社格も高く」と評価されている。さらに、この年には大阪にも販売店ができて、「一日ざっと六百枚を売った」とある。

 三年後の西南の役報道でも、読売は、号外三万部と他を圧倒し、本紙二万六〇〇部に達した。その翌年には、さらに二万二〇〇〇部と東京での最高記録を更新した。そこで銀座に新社屋を構えたのだから、読売の創刊時の経営政策は大成功だったといえよう。

『日本新聞百年史』では「新聞の黄金時代」という見出しを立てて、こう記している。

「いうまでもなく、銀座は今も昔も変らぬ首都東京の中心地である。“土一升に金一升”の高価な地代は相当の支出である。ほとんどが商売抜きで創刊され、収支のほども定かでなかった新聞社が、そろって銀座に集中してきたことは、よほど新聞社の経営に余力がついてきたことを証明しているようなものである。当時は、四千部も発行すれば新聞社の経営は楽にできたといわれた時代で、このとき東京日日新聞が七、八千部、朝野が一万部あまり、小新聞の読売は二万部をはるかに越えていたのだから、いわば新聞の黄金時代だったわけである」

 今とは桁こそ違うが、読売にはすでに明治初年、部数トップの「はなやか」な時代があったのだ。子安社長が実業界、社交界で華々しい活躍を繰り広げることができたのは、この初期の成功あればこそであった。

 だが、「新聞の黄金時代」は同時に、今にいたるメディア同士の競争時代の幕開けでもあった。読売は「俗談平話」を根本方針とする小新聞(こしんぶん)として出発し、それ以前からの政論をこととする大新聞(おおしんぶん)を追い上げた。西南の役、自由民権運動の嵐のなかで、小新聞も政論をまじえるようになる。一八七九年(明12)には、現在の社説に相当する「読売雑譚」(よみうりざふだん)という欄も設けられた。

 販売競争も激化した。部数は他紙とシーソーゲームを演ずるようになった。明治初期の「黄金時代」の終りは、読売にとってだけのことではなかった。一八八一(明14)年からは、新しい紙面競争の時代に入る。

『新聞販売百年史』では、つぎのような競争の激化を指摘する。

「明治一八年頃は『小新聞』で互いに競争して、読者の吸収に集中した時代で、互いに活字の改良、速報体制の確立をはじめ、小説挿絵の重視、題号の改良、逓送無料の配達等々と、苦心を重ねたものであった」

 この競争のなかで、一時は読売も読者を他紙に奪われるが、これを教訓にして「文学新聞」への道が開かれた。

 読売は一八八六年(明19)に、オネー作『鍛冶場の主人』の翻訳小説連載によって、定期読者の確保をはかった。これは、シェークスピア紹介で知られる坪内逍遥の発案だといわれている。読売はまた、のちに衆議院議員、文部大臣、貴族院議員、早稲田大学学長などとなる教育者の高田早苗を主筆に招いた。高田主筆は、坪内逍遥、尾崎紅葉、幸田露伴、森鴎外らにつぎつぎと執筆させた。熱海の名所、お宮の松に名を残す尾崎紅葉の『金色夜叉』は、読売の連載小説として成功したものである。『読売新聞八十年史』では、この時期を、つぎのように描いている。

「ここにおいて、その退勢をばん回しようとして試みたのが、明治二〇[一八八七]年の主筆高田早苗の招請であり、高田と坪内逍遥合作になる文学新聞としての発足であった。すなわち、坪内逍遥、尾崎紅葉、幸田露伴の三文豪が期せずして本社に集まり、それに森鴎外を加えて、小説では紅葉・露伴時代を、文芸評論では逍遥・鴎外時代を現出したのであった。

 紅葉の入社によって硯友社一派はことごとく本紙に筆をとり、本紙の小説、評論はいよいよ活況を呈し、ことに、明治三〇[一八九七]年一月、紅葉が力作『金色夜叉』を執筆するに及んで、読者はひでりに雨雲をのぞむが如く、読売の紅葉か、紅葉の読売かとまでいわれるに至り、ここに文学新聞としての評価は定まったのである」


(第1章-3)
国会開設の世論形成から社会主義の紹介に至る思想の激動期


『読売新聞八十年史』では、つぎのような「高級紙」化の努力をも強調している。

「高田主筆は、本紙を文学新聞として育成する一方、明治二三[一八九〇]年の国会開設を機として、憲法、国会に対する読者の啓発に自ら論陣を張り、落潮の本紙をして高尚な指導性を持ったものに改編し、大衆新聞から中流以上、特に知識階級に読者層を開拓した。この策は一応当って、本紙は一万五千部内外で第四、五位にあった」

 一八九八年(明31)以後には、文芸欄を含む社会部長に、島村抱月、徳田秋声という自然主義文学の中心人物が就任した。読売はさながら、自然主義文学の本部のごとくであったという。小杉天外の大胆な恋愛小説『魔風戀風』が連載された。正宗白鳥が日曜版の編集長となり、文芸評論にも筆をふるいはじめた。

 一九〇四年(明37)から翌五年にかけては、日露戦争が起きた。

 日露戦争の際には、『君死にたもうことなかれ』の詩で有名な与謝野晶子らのように、反戦の声をあげる文化人が多かった。開戦以前から主戦論に反対し、「非戦論」を掲げていた幸徳秋水、堺利彦らは「平民社」を結成した。反戦論者のトルストイをはじめとするロシア文学者への関心が、急速に高まったのも、そのような時代風潮の典型的な表われであった。トルストイ、チェホフ、プーシキンらに関する記事が、読売の文芸欄をにぎわし、ゴリキーの『コサックの少女』が徳田秋声訳で掲載された。

 その後、河上肇も読売に入社し、「千山万楼主人」のペンネームで『社会主義評論』を連載した。内容は、社会主義思想の歴史的説明にしかすぎなかったが、いわゆる“冬の時代”の開幕期のことだっただけに、大評判となった。『読売新聞百年史』によれば、のちの日本共産党初代委員長、堺利彦は、当時の読売の足立主筆への手紙のなかで、つぎのように記していた。

「読売の如き紙上において社会主義が評論せらるるは(とくに公平の態度をもって評論せらるるは)、われわれの深く感謝するところであります」

 読売で育った記者たちも健筆家ぞろいだった。当時の読売の内情そのものについても、上司小剣の『U新聞年代記』や青野季吉の『ある時代の群像』(のち『一九一九年』に改題)による具体的な描写が残されている。

 上司の文壇における交際範囲はひろく、そのなかには、のちに“冬の時代”の到来を画した「大逆事件」で死刑に処せられる運命の幸徳秋水もいた。大逆事件は、一九一〇年(明33)に告訴、翌年の判決で即処刑という、典型的な弾圧目的のデッチ上げ冤罪事件であった。中心的に狙われたのは社会主義的な運動と思想であったが、結果は当然のこととして自由な言論全体への弾圧につながり、メディアにも強い影響を与えることになった。

『U新聞年代記』では、渦中の幸徳から読売の編集局宛てに手紙が届いたときのことを、手紙の全文を引用しつつ、たんたんと記している。手紙の内容は、上司が幸徳の恋愛事件をモデルにした小説を書いたことに関するものだが、その終りはこうなっている。

「検事の方から控訴したから多分体刑になるだろう、入獄前に会って大いに語ろう。
 作者自身(手紙を卓上におき)『あゝア。……』[中略]
 政治部の若い記者『幸徳さんの手紙ですか。新聞の種になるようなもんじゃありませんか。
[中略]あの人は少年の時、小説家を目的にして上京したんですってね』」

 上司自身も、二〇代に堺利彦をたよって上京した文学青年で、平民社の一員でもあった。

「文学新聞」の伝統は以後二〇年近くつづいた。のちにプロレタリア文学で名を残す青野李吉は、大逆事件以後の一九一五年(大4)に入社する。このときすでに、第一次世界大戦(一九一四~一九一八年)が始まっていた。青野は私小説『一九一九年』のなかで、先輩記者の上司小剣を、Y社(読売)の編集長格の庄司という作中人物として描いている。青野は、上司をつぎのように観察していた。

「文学界におおきな地位を占めていて、早くから社会小説風の作風で、特色を発揮していた」

「何時も洗練された皮肉と、直截な観察で、人々を一段と高いところから見下している風があった」

 青野はまた、義一(自分)がY社(読売)に入った時の感想をも、詳しく記している。新聞社の仕事自体に「生きた社会に潜入する興味」を抱いてはいたが、読売に関してはそれだけではない。

「そういう一般的な理由の外に、Y[読売]社だけに関する特殊な理由があった。この社の新聞は、日本で唯一の文化主義の新聞で、たとえば文芸とか、科学とか、婦人問題とかいった方面に、特に長い間啓蒙的な努力を払ってきた。だから、Y[読売]新聞といえば、文芸学術の新聞として、一般に世間に知られていた。また事実、社の内部でも、そういった文化主義的な空気が、他のさまざまな、たとえば営利主義的な空気とか、卑俗なジャーナリズムの空気とかの間にあって、最も濃厚で、支配的であった。その文化主義的な伝統が、義一には直接の環境として、決して、快適でないものではなかったのだ。この新聞で仕事をすることが、何らか、日本の文化の発達といったものに奉仕する所以だと、まあそういった風に考えられたのだ」

 ここで実に面白いのは、「ジャーナリズム」の形容が「卑俗」となっていることだ。青野の時代には、「ジャーナリズム」が「日刊」「速報」の原意通りに解釈され、その「事件屋」的な底の浅さが軽蔑されていたのである。


第二章 武家の商法による創業者時代の終り

(第2章-1)
本野子爵家の私有財産化した読売の古い経営体質の矛盾


 だが、当時の世相も、ますます「速報」を求める方向を強めていた。

 速報ジャーナリズムの「卑俗」性を、もっとも端的に立証してくれるものに戦争報道があるが、日露戦争から第一次世界大戦、ロシア革命、シベリア出兵と、血なまぐさい大事件が相次いだ。新聞の体質を決定づける速報競争の風圧は、ますます勢いを強める。おりからさらに、大阪の「がめつい」財界によって育成された大阪朝日、大阪毎日が、東京に進出し、商業的な新聞経営競争を激化させていた。

 青野季吉の『一九一九年』の表現を借りると、当時の読売は、創始者一族の本野子爵家の「私有財産として」維持されていた。その古い体質のままでは、大阪朝日、大阪毎日の両紙などが「大資本で近代的な組織によってグングン発展して行く中に立って」、対抗しきれなくなっていた。青野の観察によると、読売は、子爵家初代の盛亨の「在世中に、すでに財政的に行詰まっていたのだが、子爵[二代目の一郎]は父からの遺業として、それを人手に渡すことをどうしても承知しなかった。で、子爵家の在世中は、ともかくもY[読売]新聞は、旧い経営の仕方と『旧い』編集の指導方針とによって、子爵家の半ば道楽仕事として、維持されていた」ということになる。

 ここで青野は「旧い」という形容詞にカッコを付けることによって、「編集の指導方針」の「古き良き時代」にたいする両面の相反する複雑な気持ちを表わそうとしている。読売の文学的・文化主義的、または進歩的伝統の裏側には、一見それとは矛盾するかのような一種の貴族趣味の「道楽仕事」という「旧い」体質の側面があったのだ。

 前掲の西岡長壽著『日本ジャーナリズム史研究』では、創業社長の子安が本野に社長を譲った時期のことについて、つぎのように評している。

「[子安は]そのときには官界を去っていた本野に社長の椅子を譲ったが、実権は高田[早苗]に譲ったのである。蓋し本野に子安ほどの経営手腕を期待することは無理であった。彼は出資者として社長の椅子にすわったにすぎず、その消極策はやがて明治四十年代の大沈衰期を招来するに至ったと考えられる」

 明治初期には最先端を走っていた読売が、明治末期には「大沈衰期」をむかえ、大正期には、すでに「旧い」といわれるようになる。それだけ世相の変化が激しかったのである。

 本野子爵家の二代目の兄弟の間のドラマにも、近代日本の矛盾と苦悩を象徴するかのような葛藤が潜んでいた。初代盛亨の長男として生まれた一郎と、その弟の英吉郎の対照的な関係について、青野は、つぎのように描いている。

「[一郎は]如何にもアンビシャスで、帝国主義日本の外交家として、R国[ロシア]に長く駐剳(ちゅうさつ)して、ツァーリズムを向うに廻して、おおきな手腕を振った。が、弟は、どちらかといえば万事に消極的で、思想的には、これこそ徹底したイギリス流の自由主義者であった」

 初代盛亨は、読売の社長を引き受ける前に、一時、イギリス駐在の外交官を勤めていた。英吉郎は、その名が示すように、父親のイギリス(漢字表記・英吉利)駐在時代にロンドンで生まれ、英語をマザー・タングとして育った。いまでいう帰国二世の走りである。

 長男の一郎は、モスクワ駐在のロシア大使だったので、家業の読売社長の椅子を、最初は従兄弟の高柳豊三郎、その没後には次男の英吉郎にゆずり、自分は初代社主となった。二人の兄弟は、すくなくとも表面上の性格を異にしていた。一郎の方は弟の英吉郎を「ボヘミヤンが……」とこきおろす。英吉郎は「[兄の一郎の]インペリアリズムは断じて不可!」といい続ける仲であった。

 一郎は、その後、外務大臣になるが、その時期の対外政策の最大の問題がシベリア出兵であった。一郎は軍部の強硬方針を支持する。だが、個人としての一郎自身の内部には、はげしい矛盾と葛藤がうずまいていたようである。青野の筆はそのことを、やはり「自由主義者」として評価されていた読売の論説委員、奥野七郎(作中人物は奥田)の談話として記録にとどめている。

 奥野は「外交係り」となって一郎の私設秘書役をしていた関係上、一郎の死の直前に、英吉郎との仲を取り持つべく、両人のあいだを往復した。一郎は、死に直面しながら、弟、英吉郎との握手を求めていた。奥野には極秘裏に、日本の社会主義運動がどれだけ進んでいるかをたずねた。

 作中人物の奥田(奥野)は義一(青野)にたいして、つぎのように語る。

「子爵も、死ぬ前には、よほど変わっていたよ。ある日、側の人を遠ざけて、僕に小さな声で尋ねるんじゃ。日本のソシアリスト・ムーヴメントはどれだけ進んでいるかって、ね。僕は、この人がそんなことを考えているのかと思って、内心びっくりしたよ。僕はそんな方面は一向わからないが、近代思想というのが社会主義運動の機関紙として出ているといって聞かせたら、それをすぐ初号から取揃えてくれというんじゃ。そこで庄司君[上司小剣]がその雑誌の主幹の堤利彦[堺利彦]を知っているので、雑誌を揃えて貰うと、子爵は二、三日つづけて僕に読ませて、熱心に聞いていたよ。あの人は長い間、R国[ロシア]などへ行っていたので、死ぬ間際になって、日本のそういう方面が強く意識に上ってきたのだろうな」

 一郎を蝕んでいた病気は胃癌であった。シベリア出兵の是非をめぐっては、国会で糾弾を受けながらも強硬論をつらぬき、一方では、鎮痛剤で胃の痛みを押さえていたという。一九一八(大7)年八月二〇日に実施されたシベリア出兵を目前にして、四月二三日には外相を辞任した。一郎が五七歳で死んだのは、シベリア出兵の直後の九月一一日のことだった。その間の病床に伏していながらの一郎の心のもがきには、まさに鬼気迫るものを覚える。

 しかもこの時期、二人の兄弟はともに病魔に犯されていた。英吉郎の方は腎臓病だった。青野によれば、二人は死の直前に、奥野の取り持ちで無言の握手を交わしたとあるが、英吉郎が、やはり五五歳の若さで死んだのは、シベリア出兵実施直前の七月一一日であった。

 シベリア出兵実施の八月二〇日をはさんで、政界と言論界の一角に座を占めていた本野子爵家の二代目の二人の兄弟は、親譲りの家業の読売の財政的危機を解決できぬまま病み疲れて、相次ぐ死を迎えたのである。

「売家と唐様で書く三代目」という江戸川柳そのままに、読売は、創業者一族の手を離れて人手に渡る運命にあった。


(第2章-2)
「多数の新聞を操縦する事を得べし」と考えていた内務大臣


 シベリア出兵問題は、しかも、本野子爵家の二人の兄弟の間の思想的相剋にとどまらなかった。本野家の「遺業」としての読売そのものも、日露戦争から第一次大戦、シベリア出兵などをめぐる世論の荒波にもまれ抜いていた。それも紙面作りの問題だけではなくて、経営本体の買収さわぎという、致命的な暴風雨に相次いで見舞われていたのである。

 読売が長年の積もる財政危機を抱えていることは、世間周知の事実だった。加えて、日露戦争から第一次世界大戦、ロシア革命、それに対する日本のシベリア出兵、などなどをめぐる国際的および国内的な世論の激動期の到来である。読売には権力筋の買収さわぎがつづいた。それも当時の最高権力が直々の動きを見せたのだ。

 最初の買収話には、当時の内務大臣、のちの首相の原敬が加わっており、『原敬日記』にもことの次第が記されている。海軍出身の首相、山本権兵衛が読売買収の意欲を見せたのだ。『読売新聞百年史』では、本野子爵家時代の最後に長男の一郎が経営困難に陥った読売の買収交渉を行った経過を、つぎのように記している。

「山本権兵衛首相の本社買収話が出たのも、このような本社の内部事情を反映してのことだった。『原敬日記』(5)内相篇 大正二[一九一三]年十月六日の項につぎのようにある。

『山本(権兵衛首相)の内話に、松方より読売新聞を買収しては如何(価格十万円)、而して金は差向き或る実業家に云い付け出金せしめ、跡にて如何にかせば可ならんとの相談を受けたるに付、勘考すべしと云い置きたるが如何すべきやとの相談に付、余は夫れは不可なり、読売新聞を中央新聞位になすにも尚ほ二、三十万を要すべし、無益の事なり、二、三十万あらば多数の新聞を操縦する事を得べしと云えり。然るに山本はタイムスの如き大新聞を作るが為めに百万円以上も資金を作るを要す。松方に聞けば宮中にても出し得ると云ふに付試に渡辺宮相に話せしに、渡辺は例の通のお世辞にて夫れは国家の為め必要とあらば如何様にもなし得べしと返答せしが、渡辺の言には注意を要する次第なりとて未決の様なりしも、考案中にてもあらんかと思ふ』

[中略]しかし、結局、原内相の反対、渡辺宮相の態度の微妙さ、新聞社としての立地条件などで話はまとまらなかったのである」

 文中の「松方」は、薩摩出身の明治維新の元勲、松方正義(一八三五~一九二四)のことである。大蔵大臣の経歴が抜群に長い。首相にも二度なっているが、その際、二度とも大蔵大臣を兼任している。一九二二年に公爵となり、国葬で葬られた。

 つまり、山本首相は、明治以来の日本の国家財政の裏の裏を知りつくした曲者の、元大蔵大臣にそそのかされて、読売をイギリスの「タイムス」のような国論を左右する大新聞に仕立て上げ、自己の政権維持に利用しようと考えていたわけである。これにたいして、みずからも大阪毎日社長の経験を持つ原が、新聞業界のことならおれにまかせろとばかりに、「二、三十万あらば多数の新聞を操縦する事を得べし」と答えたのである。松方はさらに、新聞社買収資金の出所として「宮中」、つまり天皇家まで考えていた。山本首相自身も、改めて渡辺宮相に打診している。

 山本権兵衛(一八五二~一九三三)は、「長州の陸軍」と並び立つ「薩摩の海軍」の象徴的人物で、海軍閥と薩摩閥の中心をなしていた。海軍大将、伯爵である。政党としては政友会をバックにしていた。

 原敬(たかし、一八五六~一九二一)は、盛岡藩の重臣の次男に生れた。郵便報知新聞の記者から大東日報の主筆をへて外務次官になった経歴の持主であり、その後にまた大阪毎日から請われて当時では破格の高給で三年間の契約社長に就任したことさえある。押しも押されぬ新聞界の出身である。

 原は、一九〇〇年(明33)の政友会結成に参加し、のち総裁となる。一九一八年(大7)には、衆議院に議席はあるが爵位のない立場では初の首相となったので、一般には「平民宰相」として歓迎された。ただし、東京駅頭で暗殺されるという最期をとげたのは、買収、汚職の相次ぐ腐敗政治への庶民の怒りの反映である。金がほしいものには金を、地位がほしいものには地位を、女がほしいものには女を、というのが原の内輪のスローガンとして知られている。政友会という政党と、明治維新以来の藩閥、貴族院の最大会派「研究会」を結びつけるという、政治理念無視の力学が、原の権力主義の本性であった。


(第2章-3)
陸軍が機密費付きで右翼紙『国民新聞』から主筆を送り込む


 海軍がらみの買収話はこわれたが、つぎには陸軍が乗り出してきた。今度は話だけでは終わらずに、紙面にも具体的な影響が表われた。

 わたしはこの時期の海軍や陸軍による乗っとり工作を、のちの警察官僚、正力松太郎乗りこみに先立つ前奏曲の一つとして位置づける。実力派の海軍、陸軍にひきつづき、ひと呼吸置いたあとに、全国の警察組織を配下とする最高官庁の内務省勢力による首都東京の名門紙乗っとり工作が行われたのである。これはまさに、日本のメディアの歴史を画する容易ならぬ決定的重大事態だったというべきであろう。

『読売新聞百年史』には陸軍乗りこみの事情が、つぎのように遠慮がちに記されている。

「経済的テコ入れをして世論操縦に本社を利用しようとする陸軍、本野家の財政だけでは支えきれなくなった本社の窮乏ゆえに、軍の援助を受け入れようと模索する一郎」

 この点では、『読売新聞八十年史』の方が、さらに具体的な記述になっている。

「この時、シベリアの事態はいよいよ切迫し、軍部はどうしても新聞世論を出兵賛成にもっていく必要に迫られて、各新聞社に対し積極的に働きかけてきた。経営不如意の読売も、その例外ではあり得ず、前社主本野外相は社の財政状態を知っており、また、閣内における出兵論の主張者として、これを拒む理由もなかった。すなわち、軍部の背後勢力が、その宣伝機関として読売を利用しようとし、陸軍の機密費を注ぎ込んでいるとうわさされたのは、必ずしもうわさだけではなかった。かくて軍部の触角は読売社内にまで及び、社説や編集が、ともすれば精彩を欠くようになった。出兵自重論から『シベリア出兵は得策なり』の社説に急変し、さらに『出兵の得失及び緩急』と題して、『一日も早く出兵すべし』と主張するにいたったのである」

 陸軍は機密費を出しただけではなかった。

 主筆には、国民新聞で編集長をしていた伊達源一郎が就任した。国民新聞には右翼紙としての定評があった。社長の徳富素峰は、のちに大日本言論報国会の会長となり、戦争犯罪人に指名されるという経歴の、もっとも代表的な右翼言論人である。日露戦争の開戦以前から対ロシア主戦論の急先鋒だったし、『読売新聞八十年史』によれば、読売の論調変化に関しては自社の紙面で、「[シベリア]出兵に和して痛快な論説を展開し、『外相たる本野子爵のごときは、あたかも素見に合し、すこぶる共鳴するところ』と述べ」ていた。読売内部のシベリア出兵促進論者への励ましのエールである。

 伊達は、その上に、陸軍大将田中義一が操縦していた帝国青年会の幹事でもあった。伊達は国民新聞から子飼いの記者を何人か引き連れてきたが、そのなかには軍部関係者もいた。

『読売新聞百年史』でも伊達主筆が果たした役割について、つぎのように記している。

「伊達が主筆となると、秋月のそれまでの苦衷などどこ吹く風と、シベリア出兵論は調子を高めていく。それは八月二日のシベリア出兵宣言に合わせるごとくに、である。[中略]

 秋月も伊達が主筆になってからは、得意の筆も意欲を失い、シベリア問題も米問題も、その論壇発言は精彩を欠く。[中略]社長就任からちょうど一年、一二月になって間もなく風邪をこじらせて肺炎となり、大磯に引きこもった」

 引用文中の秋月は英吉郎に代わった社長だが、根っからの文人で経営能力には弱点があった。『読売新聞百年史』では、こう記している。

「そのころの読売の経営状態は、ますます難渋を加え、窮迫の一歩手前ともいうべき状態であった。部数は公称五万部であったが、実数は三万部台に落ちていたのである。社長秋月は論壇に立てこもって、新聞の経営面は理事石黒景文に一任して顧みなかったから、財政の窮乏はひしひしと迫り、社員の月給の一部払いが続くようになった」

 この状況につけこんで、陸軍とその背後勢力は、本気で読売の経営乗っ取りを策していた。

 青野の『一九一九年』にも、当然、伊達が登場してくる。作中人物の伊井である。

「新主筆の伊井[伊達]は、小肥りの脂ぎった男で、始終ものにおびえてでもいるかのように、体を小刻みに動かして、キョトキョトしていた」

 経済部長、政治部長、社会部長、すべての重要ポストが伊達の配下に握られた。

「そのほか毎日のように、編集室に新しい記者が現われたが、その新しい記者たちは、あたかも占領地に乗り込むような、得意さと、横柄さとを平気で振りまいていた。

 義一[青野]は、毎日のように新しい記者を紹介されても、その人物そのものには、ほとんど無関心であったが、ただ一度、胸を衝きあげるような不快さを覚えた事があった。『春野さん』と伊井[伊達]主筆はなれなれしい声で、愛嬌笑いをしながら、机につっぷして仕事をしている義一の肩を軽くたたいていった。

『こんど入った小竹君です』

 義一は、顔をあげた瞬間、思わず眼を見張った。小竹というのは陸軍のスパイとして早い頃から朝鮮の僻地で活動していた人間で、朝鮮の若い人達の間に何かの『運動』の計画があると、それに積極的に参加して、結局はその『不逞鮮人』を根こそぎサーベルと鎖の下へ引渡す、プロボケーターの役目を演じていた。かの『万歳』運動の時など、小竹の活躍はすばらしいものであったといわれた」

 当時の日本で「万歳」運動と呼ばれたのは、現在の南北朝鮮でともに最大の反日独立運動として記念されている「三・一朝鮮独立運動」のことである。

 一九一九年(大8)三月一日、ソウル、平壌などの主要都市で正午から一斉に、集会で独立宣言を朗読したのち、日本による併合以前の大韓帝国時代の太韓旗を振りながら「独立万歳」を高唱する街頭デモ行進が行われた。三月中旬には、朝鮮全土が反日独立運動のるつぼと化した。日本の警察、憲兵、正規軍は総掛かりで鎮圧に当たった。諸資料の数字には若干の相違があるが、運動全体の参加者は約二〇〇万人、死者約七〇〇〇人、負傷者約一万六〇〇〇人、逮捕者約四万七〇〇〇人、内起訴約一万人などと推計されている。

 小竹という作中人物については、本当に実物が存在したのかどうかについて、ほかに資料が見当たらないので、確言はできない。「三・一朝鮮独立運動」の中にまで潜りこんで挑発者の役割を果たした人物が、当時の読売に入社していたというのが事実であれば、まさに「事実は小説よりも奇なり」の典型ではないだろうか。

 しかも、読売を取り巻く内外情勢は、さらに一触即発の危機をはらんでいた。


(第2章-4)
ストライキを構えて「軍閥」を追い払った読売現場の抵抗


 陸軍による読売乗っ取りは、いったん阻止された。だが、それを阻止した力は、いったい何だったのだろうか。

 その底辺にはまず、明治以来の読売の歴史を支えてきた現場の、新聞人としての心意気があったのではないだろうか。当時の読売社内で展開された人間ドラマの一端を、渦中にあった上司小剣や青野季吉らの描写からうかがってみよう。なお、フィクションが情報源に加わるせいもあってか、各種資料に記された人物の肩書きに多少の食い違いがあるが、状況全体の理解に支障はない。

『U新聞社年代記』で、伊達源一郎の登場と、その後の経過について描く上司の皮肉な筆さばきは、一段とさえわたっている。上司はまず、みずからが受けた新人事の影響を描く。

「伊達源一郎という好箇のゼントルマンが編集局長として入社するに及び、作者[上司]の編集長代理は解かれて、相談役となった」

 この「好箇のゼントルマン」とか、このあとの引用にも出てくる「温和な好紳士」とか「好紳士」などという表現は、一見、青野の「小肥りの脂ぎった男」といった描写とは矛盾するように思えるであろう。だがここにも、上司の用語としては目一杯の皮肉がこもっているのである。つまり、「紳士」とは、文筆の何たるかをまったく解さない「俗物」の意にほかならない。上司自身も、この俗物の登場と同時に、いまでいう「窓際左遷」の目に会っているのだ。つぎのような『読売新聞百年史』の記述の仕方は、現在の読売自体ですらが、伊達を俗物視していることを物語っている。

「たとえば、伊達主筆は、読売新聞が文学新聞のように世間から思われているのはケシカランという。では、これから軍事小説でも載せますかね、と上司編集長。それそれその軍事小説に限る、外へ頼まんで君一つ皮切りにやってくれ、と伊達はまともに受ける。皮肉屋の上司が、いっそ小説なんてよしたらどうです――と、これでどうやら軍事小説は実現しないですんだ、と青野は書いている」

 社内情勢の展開と、それにたいする上司自身の個人的心境は、つぎのようであった。

「伊達編集局長は温和な好紳士だが、前に関係した○○[国民]新聞から連れて来た二、三人中に事を好むものがあり、U新聞は創立以来、初めて編集部内に二派対立を見るようなことになった。作者はもちろん、そのいずれにも偏せず、冷然として機会あれば罷めたいと希っていた」

 このあたりの上司の描写の仕方は、まさに、さきに紹介した青野の人物評の通りである。上司には、「いつも洗練された皮肉と、直截な観察で、人々を一段と高いところから見下している風」があるのだ。しかし、つぎの経過に見られるように、上司は、決して「冷然」としていたばかりではない。

「さて、U社編集局内部的訌争はいよいよ劇しく、その中心と見るべき新社会部長が、部下の青野季吉、市川正一等五名を馘首した。いづれも作者の編集長代理時代に入社した比較的古参の俊秀である。義侠心に充ちた外務係の奥野が憤然として抗議したが駄目。結局奥野も辞職とまで突き詰まった。奥野は作者に相談した。作者もちょっと義侠心めいたものを起こし、それにこれは退社の好機会だと思って、奥野につづいて辞職を申し出た。スルと作者の辞職は許されないで、これはまたどうしたことか、一旦馘首した青野、市川等の五人が忽ち復社してきた。

 青野(作者に向い)『妙なことになって、戻って来ましたよ』

 市川(同じく)『ところが、なんにも用がないんで、こうして遊んでいるんです』

 と、にやにや笑っている。全く妙なことになったもんだ。作者の辞職申出が、そんなに力があろうとは思わなかった。何にしても好紳士の伊達が気の毒である。直系部下の小細工に因るとはいえ、馘首も復職も皆この人の責任で行われたのだ。不面目な事である」

 上司が描く「U社編集局内部的訌争」の底辺には、編集部門のストライキ計画があった。ストライキ自体は、一部の裏切りの発生によって参加者リストが伊達の手に渡ったり、印刷部門に様子見の雰囲気があったりしたため、強力な切り崩しを受けて失敗した。しかし、論説委員で「外務係」、最近の役職でいえば外信局長クラスに当たり、さきにも紹介したように本野一郎の「私設秘書役」でもあった奥野と、前編集長代理の上司という二人の生え抜きの実力者が、辞職を決意するまでの同調ぶりを示したわけである。

『読売新聞百年史』の方では、この経過を「上司や論説担当の奥野七郎らのとりなしで青野と市川は閉門の刑を受けた」と記している。上司と奥野の「辞職申出」は、結果として「とりなし」の取り引き材料の役を果たしたといえるのではないだろうか。

『読売新聞百年史』はさらに、『文芸』(55・11)誌上での青野自身の戦後の談話から、つぎのような引用をしている。文中の『 』内は、当時の会社側の発言である。

「『月給はやるから社へ来るな』――争議は負けだ。何もしないで金をもらうのはいやだ。何か仕事をする――『社へ来るのは困る』――一定の時間だけ行って一定の仕事をして帰る――『それならいい。だが、二階の編集室へ行っちゃいかん。三階へ来い。それも一日おきくらいに来い』――それで何をするんだ――『外国の新聞雑誌を読んで、新聞記事になる原稿を出せ。載せる載せないは別だ』――それでは嫌だ。必ず載っけろ。ぼくらはつまらないものを記事なんかにしないから載せるべきだ――『じゃ、君たちのために欄を設けてやる。何でもいいから紹介記事を書け。君たちの意見はいかん』」

 さらにこの間の経過を『読売新聞百年史』は、つぎのようにまとめている。

「“閉門の刑”で結末をつけた争議は一見文化主義派の負けのように見えたが、軍閥を背景とする伊達一派にも読売制圧のむずかしさを知らしめて、財政援助という名の体のいい読売買収計画は一応挫折した」

 たしかにストライキそのものは不発に終わったようだが、結果として、陸軍もしくは右翼による読売乗っ取りも決して成功はしなかった。だが、以上のような読売の社内事情だけで、乗っ取り失敗の原因の十分な説明になるだろうか。陸軍を先頭とする勢力が読売乗っ取りをあきらめた背景には、さらに深い事情がひそんでいたのではないだろうか。

 社内的な背景にはまず、編集部門に呼応する可能性を秘めた印刷部門の組織があった。読売で編集部門と印刷部門の共闘関係が成立した場合には、さらにその闘いが首都東京ばかりではなく、全国的に燃え広がる可能性さえあった。すくなくとも体制側は、その危機を感じ取っていたはずである。

 まずはその状況を、渦中にあった青野自身の筆になる『サラリーマン恐怖時代』(先進社)からうかがってみよう。青野は、そのころの生活状態を、つぎのように記している。

「当時の月給二三円は、既に妻帯していた私にとって、かろうじて米塩の資たるにとどまっていた。東京の郊外に、たった二間切りの貸家を借りて、一日約一〇時間を社に勤めて、帰って来れば貧しい晩餐と、一日の頭脳的、肉体的の疲労があるばかりである。しかもこれが、この社会が私に与えてくれた唯一の『生きる場所』だったのである」

 かれはまた、みずからのサラリーマンとしての『漠然とした開眼』への三つの事件をあげている。

 その第一は、読売創立以来といわれる老校正係の突然の死であった。肺をわずらい、新聞社の塵埃と喧騒のなかで死んだ老人の遺族にたいして、会社がしたことは、半年分の月給を支払い、遺児を給仕に採用することだけだった。第二は、東京の新聞のほとんどを数日間発行停止にした印刷工のストライキだった。そして第三が、みずからも職を賭してたたかうことになる編集ストライキ、もしくは、その闘争の原因となる軍閥の乗り込みであった。

 ここでもっとも重要な問題は、「編集ストライキ」の計画以前に、「印刷工のストライキ」があり、「東京の新聞のほとんどを数日間発行停止にした」という経過である。

『一九一九年』にも、編集と印刷現場の協力関係について、生々しい体験が記されている。印刷工の組織の方には、その年の八月のクビキリまで出たストライキに編集が協力せず、むしろ、スト破りに走ったことへのしこりがあったらしい。また、市川や青野らが計画していた編集ストライキには「軍閥反対」の色彩が強く、待遇改善は二の次というイチかバチか的な要素があったため、様子を見る感じもあったようだ。

 もちろん、印刷工の方の組織にしても、「軍閥」の専横を憎む気持ちには変わりはなかった。市川らの協力要請を受けてのち、いろいろと激励している。『一九一九年』には、つぎのような場面が描かれている。

「いちばん年嵩の石見は、骨張った顔に人のよい微笑をたたえて、そこらにいる記者達をいたわるようにいった。

『いよいよおっ始めたら、ぐずぐずしてちゃだめですぜ。主筆に辞職を迫るなら迫るで、出ようによっては、相手と刺しちがえるくらいの覚悟がなくちゃ。[中略]まったく伊井[伊達]さんの遣り方は、無茶だなあ。母の看病に国へ帰っているものを追討にするなんて、工場だったら、それだけでみんなが承知しやしませんよ』」

 どうやら、仲間の記者が一人、「母の看病に国へ帰っている」間に解雇されたらしいのである。


(第2章-5)
首都東京で新聞がすべて発行停止の「世界でもまれな出来事」


『読売新聞八十年史』では、この時期の読売の社内状況を、つぎのように描いている。

「軍部から財政的援助をうけ、宣伝機関として動くようになると、文学新聞の看板が邪魔になり、この伝統をつぶそうとする傾向が、伊達主筆とその一派に強くなり、かくして伝統を守ろうとする社員との対立が、深刻になって来た。また、そのころは日本の思想史上の転換期で、左翼思想や共産主義運動が、各新聞社内にも自然発生的にはいりこんできて、読売は、その最先端のようにみられた。

 伊達一派の軍国主義的な色彩が濃厚となり、伝統派を次第に圧迫して行くと、伝統派はこれに対抗して、ストライキ計画の運動を展開した。読売新聞の文化的伝統を擁護する建前と、軍国主義と戦うという趣旨からであったが、工場従業員の無政府主義的な黒色同盟の支持が得られないために、ストライキの計画は失敗に帰した。その運動の中心人物は、社会部の青野李吉と市川正一であったが、ストライキ失敗後、青野はプロ文学運動に、市川は共産主義運動に走った」

 ただし、この一見ドラマチックな要約的説明には、いくつかの間違い、および誤解を招きかねない記述の不十分さがある。

 第一に、最後の部分では、青野と市川が「ストライキ失敗後」、ただちに別方向に「走った」かのようになっているが、そんなに簡単な経過ではないことをのちにのべる。

 第二の方が重大な問題をはらむのだが、まず、青野が影響を受けた「印刷工のストライキ」については、なぜか、まったく無視している。つぎには、当時の読売の「工場従業員」の組織の名称と評価が、かなり不正確である。旧著『読売新聞・日本テレビ・グループ』を執筆した当時には、「工場従業員の無政府主義的な黒色同盟」という不気味な記述の仕方が気になりながらも、そこまでの資料探索をしなかった。さいわいなことに旧著出版の翌年の一九八〇年、日本新聞労働組合連合の編集による『新聞労働運動の歴史』が発行された。

 そこには、一九二二年ごろの新聞印刷労働者の組織の「新聞工組合正進会」(「正進会」)、および一般印刷労働者の組織の「活版印刷工組合信友会」(「信友会」)について、つぎのような記述がある。

「そのころの労働組合運動は、いわゆるアナ対ボルの抗争を起こしていたが、そのなかで正進会は信友会とともに、アナーキストの大杉栄らの影響でアナルコ・サンジカリズム(無政府主義的労働組合主義)の傾向を強め、二二年九月に大阪でひらかれた労働組合総連合の創立大会で総同盟系の『中央集権的合同』に反対して『自由連合』を主張した」

 つまり、「無政府主義的」という評価は、一九二二年ごろに関するかぎり、一応の根拠がありそうだ。しかし、読売への伊達一派の乗りこみは、それより三年前の一九一九年のことである。その当時にストライキを闘った組織の名称は「正進会」ではなくて、「新聞印刷工組合革進会」(「革進会」)であった。

 その一方、「黒色同盟」という名称は、『新聞労働運動の歴史』のどこにもでてこない。『読売新聞百年史』の方にもないし、こちらでは「革進会」と「正進会」と記している。『読売新聞八十年史』執筆の中心は読売記者の高木健夫だったというから、「黒色同盟」は読売の社内で言い伝えられた通称、またはもしかすると、悪口に類する仇名だったのかもしれない。

 なお、『読売新聞八十年史』では「工場従業員」とし、『新聞労働運動の歴史』では「印刷労働者」としたり、「印刷工」としたり、「工員」としたりして、ともに当時の用語のみの使用を避けたがっている。いわゆる差別用語の感触があるからなのだろうか。本書では基本的に「印刷工」という用語を採用するが、その理由は単純であって、当時の当事者自身が使用していたからである。

『新聞労働運動の歴史』で「新聞史上最初の労働組合」と評価する「革進会」が結成されたのは、一九一九年(大8)六月一七日で、当初の会員は六一三人、在京の新聞「一六社印刷工約一六〇〇人のほぼ三八%が加入した」とある。会長に選任された横山勝太郎は「弁護士で憲政会代議士」であり、顧問に選任された加藤勘十は戦後の社会党代議士だが、当時は憲政会「院外団の扇動家」であった。「革進会の性格は、まだ階級闘争を目指すものではなく、[中略]彼らに政治的代弁を託すのが選任のねらいだった」という評価である。

 要求と闘争の具体例は、東京日日新聞の場合、「(1)最低給料二八円の八割増給、(2)八時間二部制・週休制の採用、(3)一五名の増員を要求して」おり、回答期限の前日に「サボタージュを決行、翌朝刊の一部を発行不能とし、給料六割増、週休と八時間制をかち取った」とある。

 経営者側は、従来からの協議機関「東京新聞協会」を招集した。「共同歩調を力説」する各社は対策機関「新聞連盟」を急設し、一二社が「罷業[ストライキ]の場合は共同休刊[同盟休刊ともいった]」するという盟約に仮調印した。革進会が「同盟罷業」の方針を決定すると、結果として一六社の全社が「同盟休刊」に参加した。

『新聞労働運動の歴史』には、つぎのように記されている。

「これによって、首都東京で新聞がまったく発行されないという、未曾有の事態が四日間つづくことになる。これは当時、世界的にもまれな出来事であった」

「同盟休刊の契約書」には、「違反社への違約金一〇万円や罷業工員の解雇が約定されていた。これにより、『毎夕』を除く各社のスト工員には、七月三一日夜解雇通知が速達で発送されていた」という。


(第2章-6)
革進会の屈服と正進会の再建のはざまに編集ストライキ


 争議の結果は、『新聞労働運動の歴史』によると、「各社別にあらためて採用者を決定し、賃金は各社ごとに生活保持に必要な額を増額する」といったもので、革進会側の「屈服」だという評価である。「各社の被解雇者は少数の活動家だけに止まった」とあるが、その人数は明確ではない。革進会自体は、その直後の九月二一日に解散したが、「一二月九日には『新聞工組合正進会』と名称をあらためて再建された」とある。再建後の正進会は、さらにねばりづよい闘いを展開している。

 以上のような経過から見ると、読売の編集ストライキ計画に印刷部門が呼応しなかった理由のひとつとして、印刷側の組織事情があったと考えられる。編集ストライキ計画が立てられたのは「秋」となっているが、その時期には、革進会が解散状態だったのである。

 だが、こうしたもろもろの事情があったからといって、編集ストライキ計画が、まったく孤立したものだったといえるのだろうか。すくなくとも権力側は、そうは見ていなかったはずである。火種が残っているかぎり、印刷部門にも、再び新たな爆発が起きると判断していたのではないだろうか。

 時の権力はすでにこの前年、のちにのべる「米騒動」報道と「白虹事件」という、これまた日本の新聞史上最大の危機を経験していた。しかも以下のように、「白虹事件」で収拾役を果たしたばかりの原敬首相(元大阪毎日社長)が、この革進会の同盟罷業の際にも動いていたことが確かなのだ。

『新聞労働運動の歴史』によれば、「調停」に至る経過には、つぎのように警視総監が「羽織・袴を着けて来場」するなど、実に、ものものしい状況があった。

「[一九一九年]八月一日朝、解雇通知を受けた革進会員六〇〇余人は豪雨のなかを日本橋の常盤木倶楽部に集まり、加藤顧問を議長に全員協議会をひらいた。事態収拾を横山会長と加藤顧問へ一任するとの提案がはかられたとき、警視総監岡喜八郎が羽織・袴を着けて来場し、発言を求めて、『おそれ多くも宸襟(しんきん)を悩まし奉り恐懼(く)にたえない。一刻も早く争議を円満に解決するよう一同の善処を望む』と述べた。かねて新聞争議を憂慮していた原首相が、その前日に警保局長川村竹治と岡総監をよび、『新聞社対職工の関係に過ぎざるも政府として捨置き難きには……穏かに職工に注意し又新聞社にも好意的態度を取りて調停を試むべし』(『原敬日記』第五巻、福村出版)と直接指示したためであった。事態収拾を満場一致で任された横山と加藤は、(1)明二日からの発行を条件に全員復職、(2)賃金は『時事』の要求(六五円)を基準にする、との二条件で岡総監に調停を要請した」

 新聞連盟の回答は、「連盟は革進会を認めず、横山氏を全権と認めない」という前提に立つものだった。みずから求めた調停の結果が、この前提条件の下における「屈服」であってみれば、敗北感は残る。革進会の解散は、やむをえない「一歩後退」だったのかもしれない。

 このストライキまたは「同盟罷業」の歴史に関しては、実に面白い発見があったのだが、その面白さを倍加するのは、それを記録していたのが、なんと、『読売新聞百二十年史』だったことである。

 この事件以後に読売の主筆となり、革命後のロシアに潜入して行方不明となる名物記者、大庭景秋は、『日本及日本人』(19・8・15)に、つぎのような痛烈な批判を記していた。

「紡績会社の同盟罷工[ストライキ]、炭坑の同盟罷工の場合には、さかんに罷業を正当とし、職工に同情をしながら、それがいったん新聞社に及んだ時に、手の裏をひるがえすように、にわかにいわゆる資本家態度を丸出しにしてはばかる所のないことは、それが天下の言論機関たる新聞紙が、人をあざむき、兼ねて己をあざむくものである」

 とにもかくにも、陸軍、または軍閥が、読売乗っ取りをあきらめるにいたったのは、このような状況下のことであった。


(第2章-7)
財閥による買収、全員解雇、「離散」の人間ドラマ


 陸軍が去ったあとに現われたのは財界であった。

 読売の持ち主の本野子爵家は、この争議ののちに、読売の経営権を工業倶楽部の財界人による匿名組合に売り渡したのである。本野家の二代目の二人の兄弟が相次いで亡くなったのちのことで、売り主は、若い当主で二代目社主の本野盛一だった。

 新社長には元東京朝日編集長、松山忠二郎が決まっていた。

 この当時の経営権売り渡しは、労働組合を持たない従業員にとって、いったん「全員解雇」を意味していた。松山忠二郎が新社長になる際にも、そのつぎに正力松太郎が新社長になる際にも、ことは同様であった。新社長は、旧従業員の再雇用と不採用を独断で決定できる力関係にあった。

 青野は『一九一九年』のなかで記者仲間の報告として、つぎのように記している。

「手廻しがいいじゃないか。A[朝日]新聞の主筆のあのK[松山]という『名士』が主筆で乗込んで来ることに、ほぼ確定しているそうだよ。K[松山]は札つきの財閥の御用記者で、社員の酷使と、専断と、買収で『名士』になっているんだからね。今度こそ、僕等はヒドイ目を見るだろうって、今からみんな縮み上っているよ。何でもこれは進藤の口から出たってことだが、K[松山]がやって来たら最後、こないだのストライキの加盟者と、凱旋行列の油虫組をキレイさっぱり掃き出すことに定っているというんだ」

「凱旋行列の油虫組」とは、伊達が連れこんだ記者たちのことである。喧嘩両成敗とでもいおうか、面倒な連中はすべてお払い箱という処置である。『読売新聞八十年史』では、「この変転に際し、読売調が深く身にしみていた古い社員の多くは離散していった」などと、いかにも当人たちが自由意思で退社したかのような記述をしている。これでは、きれいごとにすぎる。

『読売新聞百年史』の方では、つぎのように若干くわしくなっている。

「三階の本野子爵の油絵のかかった広間に集まった社員は、石黒[理事]から『手をつくしたが一応社は解散する。軽少だが手当にできるかぎりのことをした』とのあいさつを受けて、給料一か月分と三か月ほどの退職金を渡されて、本野家経営の読売との別れとなった」

 要するに、いったん会社を解散するということにして、会社解散全員解雇の形式を取ったのである。労働契約自体が、まだあいまいな時代であるから、そのあとで、再雇用されるか否かは新社長のオボシメシ次第となる。

 上司小剣の『U新聞社年代記』の筆運びは、この終末にいたって、さらに突きはなした冷静さをたたえる。

「U社[読売]が次の持ち主へ、本野家の後室と若年の若主人とから売り渡された時、丁度妓楼の売買に際する遊女の地位にあるような社員たちが、だいぶ騒いだそうだが、作者はもう罷めた積もりで、出社しなかったので、何も知らぬ。騒ぎのあったという翌日、馴染みの深い銀座一丁目の角屋敷の三階に、『前U社残務取扱室』の札を貼った扉をノックし、旧理事石黒から退職手当を貰った」

 上司は、そこまできたついでに文芸部ものぞいてみるが、「周囲には知った顔と知らぬ顔の交錯」という状況であった。この上司の一見突きはなしたような描写の中に、「騒ぎ」という言葉がある。上司は、この「騒ぎ」を聞きつけて心配し、様子を見に行ったのではないだろうか。「騒ぎ」の実情を知る手掛かりは、今のところこれ以外にはない。

 青野や市川は、もちろんのこと、再雇用のあてのない組に属していた。青野は『サラリーマン恐怖時代』のなかで、「その後私は、やはりサラリーマンとしての生活を送らざるを得なかった」と記している。

 事実、青野は市川とともに、国際通信社の記者となった。国際通信社は、明治の財界の巨頭として名高い渋谷栄一が中心となって、一九一四年(大3)に創立したものであるから、当時はまだ発足以来五年目である。青野は『文芸』(55・11)の対談で、つぎのように追想している。

「進んで堺さんたちの中にはいって社会運動をする、ということも考えない。市川は市川で、これもボンヤリしてるんだ。[中略]その時分にスタンダールの『赤と黒』を読んでいた。あれはフランス語もできるんだ」

 しかし、ひとたび資本の刃で無慈悲に解雇されるという異常な人生の経験の傷を受けたからには、いやでも体内に発酵する新しい衝動を覚えざるをえない。青野も市川も、そのまま国際通信社での、サラリーマン生活に甘んずる人生を送ることはできなかった。『読売新聞八十年史』で至極簡単に「ストライキ計画の失敗後、青野はプロ文学運動に、市川は共産主義運動に走った」と記していた経過の裏には、さらに複雑で生臭い人間ドラマが展開されていたのである。

 市川は、その後、創立されたばかりの日本共産党(当初はコミンテルン日本支部)の中央委員となり、コミンテルン第六回大会に代表として派遣された。一九二九年(昭4)の通称四・一六事件で一斉検挙にかかり、獄中一六年、敗戦直前に宮城刑務所で病死した。

 市川の公判法廷での陳述は、そのまま『日本共産党闘争小史』として古典になっている。推理作家として知られる三好徹は、やはり元読売記者であるが、推理小説ではない異色作『日本の赤い星』のなかで、市川の獄中記を描いている。市川は、紙も筆も与えられない獄中で、ひとり脳裏に文章をまとめ、うす暗い刑事法廷でたんたんと陳述したようだ。

 市川はまた、日本共産党の歴史の中で、宮本顕二現議長とともに「獄中非転向」の闘士として偶像視されてきた。ところが最近になって、日本共産党の中央機関紙『赤旗』の敏腕記者、下里正樹が突如として除名処分になるという事件をきっかけに、市川の獄中供述のガリ版刷り「聴取書」の存在が広く世間に知れ渡った。『諸君』(95・10)の下里の文章によると、市川は、ベテラン特高刑事の厳しい拷問に耐えかねて、コミンテルンとの秘密の連絡ルートなどを、詳しく供述していたようである。日本共産党の内部事情もあって、この「聴取書」は長らく埋もれていた。下里は、自分が苦労して入手していた「聴取書」を材料に、文学同人誌『弘前民主文学』に一文を寄稿し、日本共産党の中央委員会から「規律違反」に問われた。査問を受けた下里によれば、その際、日本共産党の中央委員会は、この「聴取書」が「ニセモノ」だと主張していたという。市川の人生最後の悲劇の周辺には、まだまだ深い霧が立ちこめているようだ。

 さて、話を読売に戻すと、面白いことに、青野の筆では友人の記者が「札つきの財閥の御用記者」と報告するほどの前評判だった松山忠二郎も、読売の立て直しに成功はするものの、やがては財界の期待を裏切るのである。

 なぜかといえば、それはまず、世相の反映であろう。読売のお家騒動ドラマのつぎの一幕は、その前に、すでにふれた「米騒動」報道と「白虹事件」などの、当時の日本の新聞界をめぐるより壮大なドラマを要約紹介することによって、より分かりやすくなるであろう。この章で垣間見た読売の社内紛争も、当然といえば当然のことながら、その大規模な日本の近代史とメディアの世界全体の、画期的な動乱の一部として展開されていたのである。


第三章 屈辱の誓いに変質した「不偏不党」

(第3章-1)
絵入り小新聞だった朝日が議会傍聴筆記を付録に部数増大


 一九一九年(大8)に財界の匿名組合が読売を買収したときに、新社長として就任した松山忠二郎は、元東京朝日編集局長だった。松山は、社長の村山龍平以下の東西朝日首脳陣のほとんどが退社のやむなきにいたるという、日本の新聞史上最大の筆禍、「白虹貫日事件」または略して「白虹事件」に立場上連座して、浪人中の身だったのである。

 前項で紹介した青野の『一九一九年』の友人の報告のなかには、「K[松山]は札つきの財閥の御用記者」という表現があった。はたして真相はどうだったのだろうか。

 別の立場からの評価と比較してみよう。『伝記正力松太郎』という講談社発行の単行本は、読売による合併以前の元報知で社会部長だった御手洗辰雄の筆になるものである。わたしは、この本を「正力講談」の典型だと評価している。

「文は人なり」という。文章には人格が表われる。御手洗は、報知が没落しはじめたころに退社して独立し、文藝春秋に「政界夜話」などを寄稿していた。その後、日本の支配下にあった朝鮮で、『京城日報』の副社長に就任する。その際、同時代の『現代新聞批判』(36・10・1)には、「時の新聞人/御手洗辰雄論」が載った。かなり手厳しい批判の文章である。要点だけ書き抜いてみよう。

「京城日報の副社長になった御手洗辰雄は総督南の乾児[子分]である。[中略]彼がそれからそれからと縁故を手繰って相当深く政界に食い入っていたことは事実だ。[中略]御用新聞の番頭など俺はいやだなどという生意気は言わない。[中略]文章の方面でも抜群、平凡無能な日本の新聞記者群の間では、まあ鶴群の一鶴位の褒め言葉はくれてやってもいい方だろう。しかし、彼の踏んでいるような途は、本当は新聞記者の邪道なのだ

 要するに「遊泳術」が上手で、典型的な御用記者といったところだ。戦後も、調子の良い万能型評論家として、さまざまなメディアに登場していた。

 その御手洗が、旧友の正力の提灯持ちとして書いた『伝記正力松太郎』では、松山を、つぎのように描いている。

「東京朝日の経済部長として東京の実業家に信用を博していた」

 この御手洗の表現は、松山への「ほめことば」といっても良いだろう。青野の友人の「札つきの財界の御用記者」という「けなしことば」とは、うらおもての関係で呼応し合っていることになる。

 松山は、典型的な日本の近代的新聞エリートの一人である。早稲田大学の前身、東京専門学校政治科を卒業後、東京経済雑誌を経て東京朝日に入社した。一八九八年(明31)には、アメリカに特派されてコロンビア大学に留学し、帰国後は財政経済記者として論壇をにぎわした。

 退社の原因になった「白虹事件」の火元は、本家の大阪朝日の記事にあった。現在のような紙面電送の技術はない時代だから、東西の記事編集は別作業である。東京朝日の編集局長としての松山個人には、直接の監督責任はなかった。それなのに、なぜ、大阪朝日だけでなく東京朝日の編集局長までが連座させられたのであろうか

 そこで、松山個人の評価以前に考える必要があるのは、東西の朝日という当時では最先端の、全国紙体制が持つ政治的な影響力である。その際、「白虹事件」発生の遠因は「輪転機」にあり、というのがわたしの考え方である。何をまた「風が吹けば桶屋が儲かる」式の話を、と思われるかもしれないが、わたしがこういうのは、「出る釘は打たれる」という意味でもある。当時の朝日が権力に狙われた理由の中心には、朝日が高速輪転印刷機の導入に先駆け、東京と大阪を拠点に全国紙体制の先陣を切っていたという事実があった。それゆえに朝日の政治的影響力が大きかったという意味である。この技術革新によるメディアの巨大化現象の重要性に、とくに目を向ける必要があると考えるのである。

 わたしの考えでは、高速輪転印刷機や最新鋭の電子機器などという二〇世紀の高額巨大設備の発達こそが、新聞社、ラディオ放送局、テレヴィ放送局のようなマスメディアの運命の基本的決定権を握っていた。高額の資金、巨大な設備、多数の従業員を必要とし、それゆえに、収入の大半を日常的に広告費に依存し、事実上、財界を最大のスポンサーとせざるをえないマスメディアの出現、これこそが明治時代と、それ以後の日本の言論のありかたを左右する基本的な条件であった。新聞業界の場合にはさらに、輪転印刷機の導入とともに急速に用紙の使用量が増大したことによって、製紙業界との関係が深まった。この関係はのちに、「用紙統制」の名の下に行われた新聞統合政策にもつながる。

 日本で輪転印刷機を最初に導入したのは朝日である。

 東京朝日では一八九〇年(明23)九月二七日以降、数回にわたって、大阪朝日では同年一一月二二日以降、やはり数回にわたって、つぎのような書き出しの社告を掲載した。

「愛読者諸君
 帝国議会開設の期来り。是れ政治上に於て最大機会なり。[中略]乃ち知る。我が新聞事業伸張の必要迫れるを、何を以て之に応ぜん

 朝日が「何を以て之に応」じたのかというと、当時の世界でも最新鋭の技術導入である。日本で初めて開設される議会の「傍聴筆記」の新聞付録こそが、「社告」による宣伝の目玉商品だった。朝日は、その特別付録を即日大量印刷するために、フランス製のマリノニ輪転印刷機を一台だけ購入し、それも本家の大阪朝日ではなくて議会に近い東京朝日の方に設置したのである。極秘裏に準備されたこの速報印刷体制の発表は、『朝日新聞の九十年』によれば、「同業各社に強烈な衝撃を与えた」という。

『日本新聞通史』(新泉社)では、この朝日の輪転機による印刷体制の導入を、つぎのように評価している。

「従来の平盤ロール機は、一時間に四ページ新聞千五百枚の印刷能力しかなかったのに、朝日のこの二枚がけ機は『八ページ掛にて実際は三万部印刷』(十一月二十日社告)だったので、能力は二十倍、まさに新聞印刷上の革命であった

 マリノニを一台しか購入しなかったのは、それだけ高額だったからだが、前年には新橋と神戸間に東海道線が全通し、新聞の配達体制にも革命が起きていた。東京で印刷された新聞付録の議事録は、名古屋、大阪、神戸と、東海道沿線には即日配達できるようになっていた。

 すでに本書の冒頭に紹介したように、日本の新聞は、明治から大正前期(一八六八~一九一八頃)まで、ほぼ二種類に分れていた。現存の大手紙の代表格である朝日・読売はともに大衆紙の小新聞(こしんぶん)、毎日は政論紙の大新聞(おおしんぶん)を出発点としている。だが、小新聞も二〇世紀に入ってからは徐々に、政論も加える総合紙に転じ、中新聞という表現もでたりして、両者の境界は定かではなくなっていた。朝日と毎日は大阪の財界をバックとする点で共通していたが、両者ともに首都東京への進出をも果たし、一九一〇年代半ばの高速輪転機導入にも先駆けて、急速に発行部数をふやした。

 輪転機による日本の新聞の高速印刷体制の最初が、朝日のマリノニ採用である。『朝日新聞の九十年』の表現によれば、本家の大阪朝日は「最も大衆に親しまれていた絵入り新聞としてスタートを切った」のだが、創業一一年にして、マリノニで印刷する議会「傍聴筆記」を付録として読者拡大を狙うという戦術で、全国的な総合紙のトップクラスに踊りでたのである。


(第3章-2)
政府官報局長と「極秘」同行で輪転機を購入した朝日の政治姿勢


 だが、ここで注目しておくべきことは、当時の朝日の経営トップの政治姿勢であろう。『朝日新聞の九十年』では「極秘に高橋官報局長と同行」という小見出しつきで、マリノニ購入の経過についての、つぎのような秘話を明かしてる。

「政府は、いよいよ国会開設ともなれば詳細な議事録を翌日の官報に掲載しなければならず、これまでの印刷機では心もとないとして、官報局に命じて諸外国の印刷機械を調査させた結果、輪転印刷機を最適と見てこれを購入することに決め、官報局長高橋健三をフランスに特派することになった。村山社長は、高橋の渡欧の目的を知り、直ちに輪転機の購入を決意し、高橋に依頼して大朝社員津田寅治郎を同行させた。本社の輪転機購入は全く秘密のうちに運ばれ、[中略]命令書が津田に与えられた」

 以上の記述だけだから、朝日の村山社長が「高橋の渡欧の目的を知」った経過については定かではない。大蔵省詰め記者へのリークなのかもしれないが、明らかに朝日は、高級官僚と結託した抜け駆けを策している。「秘密のうちに運ばれ」た輪転機購入が、「同業各社に強烈な衝撃を与えた」という当時の業界事情を考慮に入れてみれば、これは本来なら、一大政治問題だったのではないだろうか。朝日の経営陣の尻には、「政商」のブランドが、すでに深く刻印されていたというべきであろう。

 以後、一九一〇年代半ばには各社とも、さらに高速で高価な輪転機を導入するようになった。

 ということは同時に印刷部数の数十倍への増大を意味したし、設備投資に見合う新読者獲得競争の一層の激化につながった。新聞社全体の規模も大きくならざるをえず、各社ともコンクリート製の新社屋を競って建造するようになった。以下、『朝日新聞の九十年』と『毎日新聞百年史』によって、その状況を簡単に紹介する。

 朝日の場合は、大阪朝日が一九一六年(大5)一一月二〇日に、「近代ルネサンス・耐震耐火・鉄筋コンクリートの四階造り」の新社屋を完成した。

 毎日の場合は、買収した東京日日の社屋が工場を残して焼失したため、一九一七年(大6)三月に「鉄筋コンクリート三階建ての新社屋」を新築し、同時に大阪本社の新築を準備中だと発表した。大阪の「鉄筋コンクリート、地上五階、地下一階」の新社屋が完成したのは一九二二年(大11)三月一四日のことである。

『戦争とジャーナリズム』(茶本繁正、三一書房)では、この状況を、つぎのように記している。

「第一次大戦を契機として、新聞は木鐸型から報道型に変わり、近代的報道体制を確立した。

 印刷機も明治のころ輸入したマリノニ機が旧型化し、かわって高速輪転機が登場した。印刷能力も時速二万五〇〇〇部だったのが、一八万部ぐらいにスピードアップ。機械の新鋭化とともに、印刷した紙面もきれいに鮮明になった。[中略]

 新聞はこうして戦争を機に大衆化し、さらに肥大化した。また、時流はマスコミの勢力分野を微妙に変化させていて、第一次大戦まえまでは二流であった『東京朝日』『東京日日』[大阪毎日系]の両紙を、一流に押しあげていた。

 大戦をバネとして、当時の新聞がどのくらい伸張したか、資本の変化はつぎのとおりである。

       大正七[一九一七]年   大正一五[一九二五]年
 報知新聞    匿名組合      →  一一〇万円(株式)
 中外新聞    一〇万円(株式)  →  一五〇万円(株式)
 時事新報    一〇万円(合名)  →  四五〇万円(株式)
 都新聞     個人        →  一三〇万円(株式)
 大阪毎日    六〇万円(合資)  →  四〇〇万円(株式)
 大阪朝日    五〇万円(合資)  →  五〇〇万円(株式)」


(第3章-3)
米騒動と「朝憲紊乱罪」で脅かされた新聞史上最大の筆禍事件


 この時期に起きたのが、日本新聞史上最大の筆禍といわれる「白虹貫日事件」、または省略して「白虹事件」である。政治的背景はあとまわしにして、まずこの事件のあらすじだけを紹介しよう。

 一九一八年(大7)八月、シベリア出兵を当てこむ買占めによって米の値段が暴騰した。怒った富山県の漁村の主婦たちが大挙して米屋に押しかけ、打ちこわしをはじめた。火の手は、たちまち全国に広がり、東京・大阪・神戸などの都市では焼きうち、強奪の大暴動となり、警察のみならず軍隊までが出動した。いわゆる米騒動である。

 時の寺内内閣は暴動拡大防止を理由に八月一四日、米騒動に関する一切の新聞報道を禁止した。新聞社側は東西呼応して、「禁止令の解除」および「政府の引責辞職」を要求し、記者大会を開いた。『朝日新聞の九十年』によれば、八月二五日に開かれた関西記者大会には、九州からの出席もふくめて八六社の代表一六六名が参加し、それぞれ口をきわめて政府を弾劾した。

 大阪朝日のその日の夕刊には大会の記事が掲載されたが、その中に問題の「白虹」という言葉があった。

「『白虹日を貫けり』と昔の人が呟いた不吉な兆しが[中略]人々の頭に電の様に閃く」という文脈であるが、漢文で「白虹貫日」と記す中国の故事は、「革命」を意味していたのである。しかも、その一節の前には、つぎのような字句があった。

「我が大日本帝国は、今や怖ろしい最後の審判の日が近づいているのではないか」

 寺内首相は一挙反撃に転じた。朝日新聞の報道を「朝憲紊乱罪」(天皇制国家の基本法を乱す罪)という当時最大の罪にも当たるとし、新聞紙法違反により、これも最強力の罰則である「発行禁止処分」、つまりは廃業、会社解散にいたる処分で脅かした。

 寺内内閣でシベリア出兵を推進した外務大臣は、すでに見たように読売の社主、本野一郎であった。本野が病で倒れたのちには、それまで内務大臣だった後藤新平が、外務大臣に転じた。この後藤新平という名前は、ぜひ記憶しておいてほしい。本書の第二部では、ほとんど主人公並みとなる。

 検事局は、問題の記事の執筆者、大西利夫記者と編集兼発行人の山口信雄を起訴し、各六月の禁固のうえに朝日新聞の発行禁止処分を求刑した。右翼のボスの組織である大同団結浪人会は、朝日新聞を「非国民」と断じて、その処分に関して司法権を監視すると決議した。

 朝日新聞の村山社長は、当局にたいして監督不行届きを陳謝し、社内の粛正を誓ったが、新聞社からの帰途、中之島公園内で数名の暴漢におそわれた。乗っていた人力車は転覆し、村山は暴漢に杖でなぐられたのちに「代天誅国賊」と記した布切れを首にむすばれ、石灯籠にしばりつけられた。おそった暴漢たちは、人力車の車夫が姿を消しているのに気づいて警察への通報をおそれ、「檄文/皇国青年会」と記した印刷物数百枚などを現場に残して逃走したが、その後の調べによると黒龍会の所属であった。

 寺内内閣は九月に入ると倒れ、原敬が首相兼法相となった。原はすでに、読売の買収話やストライキの件で登場しているが、元大阪毎日社長などの経歴の押しも押されぬ新聞界出身であった。だからかえって新聞操縦術にも長けていたといえるだろう。村山は原を訪れて寛大な処置をもとめ、編集首脳とともに自分も辞任した。結果として朝日新聞は「発行禁止」、つまりは廃業をまぬかれた。一件落着を記す『原敬日記』には、ことの次第が詳しくつづられている。

 原は新社長の上野理一を電報で呼びよせ、「鈴木司法次官立会にて」決意をたしかめ、起訴された社員にたいして判決には控訴しないよう説得することまで約束させたのである。この会談の三日後にあたる一二月四日に、二人の被告はともに「禁固二月」を言い渡されたが控訴せず、朝日新聞は発行禁止処分を受けなかった。

『朝日新聞の九十年』では、この判決とその後の経過を、つぎのように簡略に記している。

「心配された発行禁止はなく、禁固刑にしても求刑よりははるかに軽かった。山口・大西ともに控訴せず、一審判決に服した」

 ところが、同書発行の八年後には、問題の記事の執筆者、大西利夫記者が、『別冊新聞研究』(5号、77・10)の「聴きとり」に答えて、たった四文字の「控訴せず」に閉じ込められていた真相を、詳しく物語った。そのためもあってか、さらに一四年後に出た『朝日新聞社史/大正昭和戦前編』では、「大西記者の進退」のゴシック見出し項目を設けている。しかし、そこでも話は、社側に都合の良いきれいごとに終わっている。『別冊新聞研究』の大西自身の、実感のこもった回想とくらべると、大違いであり、まさに「朝日エセ紳士」の面目躍如たる編集ぶりである。とくに重要なニュアンスが違っていたり、脱落している重要部分を本人談から要約すると、つぎのようである。

 西村天囚編集長は、判決当日に大西を呼んだ。理由は何もいわずに、「本社は服罪することに決めましたから、そのつもりで」といい渡した。大西は、「頭ごなしにいいよったんで、ぼくとしては非常にしゃくにさわったんです」という。だが、その日は「おだやかに引きさがり」、翌日、「友人に託して社へ辞表を出し、『朝日新聞』は服罪されたがよい(そのために編集兼発行人がある)、私は私の言い分があるから、別の立場で善処すると言い送りました」。すると社側は「あわてたらしい」、「金で説得です。『金三千円出す』と言うんです。[中略]人をバカにしてやがると思いました。もとより金なんか私には論外のことで、耳をかすはずもなく、控訴の手続きを急いでいると、間にいろいろな人が入ってきて話があり」、「身体は社で引きうける」などの「話になってきたんで」、「そこまでいうてくれるなら[中略]ということで服罪したんです」。

 結局、冬場の寒い刑務所で「禁固二月」に服した大西は、釈放の翌日に辞表をだした。「あとの身のことはご心配くださるな。お金なんかもいりません……浪花節のヤクザ仁義ですな……」と大西は語る。そこで社側は「喜んで」、「問題の金三千円を退職金として」支給した。大西はその後、松竹に入り、専属作者、演劇評論家となる。

「聴きとり」の終わり際の質問に答えて、大西は、つぎのように厳しく長年の想いを語る。

「――白虹事件というのは、日本の言論史の上でかなり大きな意味をもっておりまして、『朝日』もこれから変わりますし、他の新聞も、うっかりしたことは書けん、というように……。

 そうなんです。その時の『朝日』のあわて方もひどかったんです。天下の操觚(そうこ)者[言論機関]を以って任じ一世を指導するかのように見えた大朝日も権力にうちひしがれて、見るも無残な状態になる有様を私、見たような気がして、余計ニヒリスティックになるんです。世の中のことすべていざという時には、こんなものか、というのが若い頭にピシと入った。これはいまだに入っています」


(第3章-4)
朝日が権力に救命を懇願した日本版「カノッサの屈辱」誓約


 さて、話は少し前に戻るが、判決を直前に控えて大阪朝日は紙面(18・12・1)で、「本紙の違反事件を報じ、併せて本社の本領を宣明す」と題する長文の宣言を発表していた。これを原敬は日記の中で、「紙上に全く方針を一変する旨並に改革の次第も記載して世上に告白した」ものと評価している。ありていにいえば、畳に額をこすりつけて許しを乞うたわけである。

 この詫び状を象徴する用語、「不偏不党」が、これまた「朝日エセ紳士」の姿勢を典型的に示している。さらには、さきの中西の言葉通りに、現在に至るまでの日本のメディアの基本姿勢を決定づけてしまった。具体的には事件後の十一月十五日にさだめた「大阪朝日・東京朝日新聞に共通すべき編輯綱領」「四則」の内、三項の書きだし部分である。前段をなす「四則」の一項には「皇基を護り」とうたわれていた。「不偏不党」に始まる第三項の全文は、つぎのようなものである。

「不偏不党の地に立ちて、公平無私の心を持し、正義人道に本(ママ)きて、評論の穏健妥当、報道の確実敏速を期する事」

 つまり、文脈全体としての意味は、「穏健妥当」な報道の約束でもあった。しかも、「本紙の違反事件を報じ、併せて本社の本領を宣明す」という宣言のなかでは、「この綱領四則は、今日新たに制定せし者に非ず。……先輩等の語り継ぎ言い伝えつつ実行し来れる不文律」とし、「是れ我社が従来の不文律を明文に著はして、以て永遠の実行を期する所以なり」としたのである。実際には「不文律」どころか、『朝日新聞の九十年』によれば、執筆者の西村天囚が直後に「先輩」たちから「さんざんにつるしあげられ」ている。いわば言葉巧みに自社の歴史まで曲げる「詫状」の作文であった。

「不偏不党」の「詫状」への批判の声は、もちろん、朝日の関係者以外からも挙がった。ただし、この経過は、「不偏不党」の四文字の字句だけの解釈では理解しがたい。

 日本という国家は「ことだまのさきはうくに」である。用語いじりと、意味のすりかえは日常茶飯事である。もともと、「不偏不党」という言葉自体には、時の権力への屈服という意味はない。むしろ逆の意味で使われていた場合もあった。

『萬朝報』(よろずちょうほう)を創立した黒岩涙香(本名は周六)が唱えた「不偏不党主義」の場合には、明治中期に大新聞が一斉に政党機関紙化したのに対抗して、「鶏口たるも牛後たるなかれ」の精神を唱え、独立独歩を宣言したものである。反政府的言動において、黒岩は、一歩もゆずることはなかった。

 その一方で、「不偏不党」という用語が、何かにつけて新聞への政治的圧力として投げ掛けられる傾向もあった。明治の新聞先覚者の一人で、政友会の代議士から『福岡日日』(現西日本新聞)の社長に転じて中興の祖となった征矢野半弥の場合には、政治的圧力としての「不偏不党」への批判を明確にしており、みずから「偏理偏党」を唱えていた。

 ただし、黒岩涙香の没年は一九二〇年(大9)であり、「白虹事件」が起きた一九一八年にはまだ存命中であったが、病没の直前でもあり、すでに新聞人としての活躍は終わっていた。征矢野の没年は一九一二年(明45)であるから、「白虹事件」が起きたときには、もうこの世にいなかった。

「白虹事件」の時代的背景をのべればきりがないが、シベリア出兵の契機は一九一七年のロシア革命である。日本の国内にも急速に革命的な気分がひろがっていた。朝日新聞だけではなく、自由主義的ないしは社会主義的な論調があふれ、のちに「大正デモクラシー」とよばれる世相が見られた。シベリア出兵には反対の論調をはる新聞が多く、大阪朝日はその急先鋒であった。政府は、発売禁止で対抗し、出兵がせまった七月三十日には全国で六十もの新聞が発売禁止となっていたのである。

 一方にはその逆に、シベリア出兵につづいて大陸侵略を拡大しようとする流れも強まっていた。村山社長をおそった暴漢が所属する黒龍会は、「黒龍江」(アムール)にちなむ命名からもあきらかなように、中国大陸侵略の先兵をもって自認する右翼暴力団体であった。朝日新聞への一斉攻撃には、かねてからの狙いが潜んでいたに違いない。

 こうした事実経過からみると、朝日の綱領が採用した「不偏不党」の場合には、征矢野半弥が批判したような「政治的圧力」に屈するニュアンスが濃厚である。存亡の危機に直面した新聞社がひざを屈して、政府批判を控えるからと誓い、救命を哀願した詫び状以外のなにものでもなかった。ヨーロッパでは「カノッサの屈辱」が、ローマ教会と王権の争いを象徴する歴史的事件として語りつがれているが、それに匹敵する日本の大手メディア「痛恨の屈辱」事件だったのである。

 以後の経過から見ても日本の大手メディアは、軍国主義、侵略戦争への協力になだれを打って馳せ参じている。「不偏不党」を誓約した朝日を先頭とする大手新聞社は、以後、それに類する「公正中立」だの、「客観報道」だの、「現実主義」だのという自己弁護、自己欺瞞の言葉いじりによって、報道姿勢を歪め、結局は読者をだまし続けてきた。

 ところが戦後になって再び、この「不偏不党」が吟味不十分なまま、新しい「朝日新聞綱領」に盛りこまれてしまった。なぜだろうか。『朝日新聞社史』(大正・昭和・戦前編)によれば、起草者の一人、笠信太郎は、つぎのように回想している。

「あれこれと書いては消し、消しては書いて、頭をひねくり回したあげくの果てに、文句までも同じの『不偏不党の地に立って』ということに帰ってしまった」

 つまり善意に解釈しても、新聞記者流のいわゆる美文調の言葉えらびの結果にすぎず、理論的な厳密さなどを期待するのが無理だといわざるをえない代物なのだ。「新」朝日新聞綱領は短いので、まずはその全文を紹介しておこう。

一、不偏不党の地に立って言論の自由を貫き、民主国家の完成と世界平和の確立に寄与す。
一、正義人道に基いて国民の幸福に献身し、一切の不法と暴力を排して腐敗と闘う。
一、真実を公正敏速に報道し、評論は進歩的精神を持してその中正を期す。
一、常に寛容の心を忘れず、品位と責任を重んじ、清新にして重厚の風をたっとぶ。

 さて、一番決定的なのは、この「新」綱領がつくられた一九五二年(昭27)という時期の問題である。本書でも、のちに読売争議からレッド・パージにいたる状況を紹介するが、この時期すでに日本の歴史は、戦後反動期に入っていたのである。

 それどころか「新」綱領起草の中心となった笠信太郎は、戦前のいわゆる昭和維新に際して、国家総動員を準備した革新官僚らと呼応し、経済評論で名を売った記者であり、まさに戦争犯罪人の一人として裁かれてしかるべき人物だった。笠信太郎の第一線への復活は、それ自体がレッド・パージによるドンデン返し、「逆コース」の象徴であった。そのころには同時に、「国民と共に起たん」(45・11・7)の宣言で「罪を天下に謝せんがため」に「総辞職」したはずの「村山社長」らの公職追放さえ解除されていた。『朝日新聞の九十年』によれば、会長として復帰した村山は、この「新」綱領について、「あくまでも旧綱領に盛られた朝日新聞の伝統的精神を生かしたもの」とか、「強調したもの」と語っていたのである。

 現在の朝日新聞綱領は、「新」どころか「旧」そのままであり、「戦後反動」または当時の流行語でいえば「複古調」にほかならなかった。

 なお、笠信太郎は、一九六〇年に日米安全保障条約改訂が強行された時期に、論説主幹の地位にあった。六月一五日の流血の惨事に際してだされた在京七社名義の「共同宣言/暴力を排し、議会主義を守れ」は、地方紙を含めて四八社が掲載するところとなった。この宣言は、「そのよってきたるゆえんは別として」というレトリックで、議会外の大衆行動を「暴力」として印象づけ、五百名の警官隊を議会内に導入した岸内閣の強行採決の方は、免罪にする役割を果たした。朝日・毎日・読売の三社首脳が起草したものであって、その中心にも「美文家」の笠信太郎がいた。


(3章-5)
大正日日の非喜劇を彩ったメディア梁山泊的人間関係


「白虹事件」に引きつづいて、もうひとつの悲劇的、または、見方によっては大正時代風に喜劇的で、かつ牧歌的な幕間狂言が演じられていた。しかも、この幕間狂言には、その後の読売につながる当時の日本の新聞人の、生臭い人間関係のドラマが織りこまれていたのである。

 幕間の悲劇の舞台、または喜劇の主人公は、八か月のはかない大輪の花を咲かせた『大正日日新聞』である。大正日日は、その名の通りに大正ジャーナリズムの典型であり、「時代の申し子」であった。そこに展開された人間ドラマに光を当てる試みによって、当時のメディア事情だけでなく、その後の日本の大手メディア支配構造に押された刻印が、すこしは具体的な姿形を見せてくれるのではないだろうかと思う。

 大正日日は一九一九年(大8)一一月二五日、大阪で創刊され、八ヵ月後に会社解散で廃刊となった。最大の出資者の勝本忠兵衛は、第一次大戦中に続出した鉄成金の一人であった。二〇〇万円という資本金がそれまで最大だった朝日の一五〇万円よりも多いため、「日本一の大新聞」を呼号した。社長にかつがれたのは貴族院議員の藤村義朗だった。大株主の中には、元首相細川護煕の祖父、細川護立がいた。元熊本藩主の家柄の侯爵、つまりは大殿様である。

 勝本は営業局長となったが、新聞経営はズブのしろうとである。ではなぜ、しろうとの勝本が大金を投じて新聞経営に乗りだしたかというと、直接のきっかけは前年に起きた大阪朝日の「白虹事件」だったのである。

「白虹事件」に連座して東京朝日編集局長を辞任した松山は、読売に入り、一九一九年(大正8)一〇月一日の紙面で社長就任を発表している。ところが、その後二ヵ月を経ずして大阪で創刊された大正日日の実質的なトップである主筆兼専務は、「白虹事件」の火元、大阪朝日の編集長を辞任した鳥居素川だった。鳥居は、元熊本藩士の家柄であるから、細川侯爵は主筋に当る。

「白虹事件」の退社組には鳥居だけではなく、当時の大記者として名を知られていた大阪朝日退社の丸山幹治、稲原勝治、花田大五郎(比露思)、東京朝日退社の宮部敬治がいた。さらには読売解雇組からは青野李吉、報知からは戦後に社会党委員長になる経済記者、鈴木茂三郎や、徳光衣城らの名のある記者が一斉に馳せ参じたというから、これはまさに大正日本のメディア梁山泊(りょうざんぱく)とでもいうべき言論の砦だったのではないだろうか。

『日本新聞百年史』では、この編集局を「第一級の陣容」とし、「さらにワシントンとロンドンに最初から特派員を置いて特電を打たせたのであるから、その紙面は第一号から優秀なものであった」と評価している。資金は豊富で、「朝・毎も及ばぬ豪華な設備を整え」、編集陣は第一級だった。それなのになぜ「日本一の大新聞」の夢は幻に終わったのであろうか。

 たしかに紙面は優秀でも、新聞経営の能力、とくに販売面には弱点があったようである。主筆兼専務として実務の中心に座ったはずの鳥居は、文章にかけては当代屈指の大記者ではあったが、小切手も使い方さえ知らなかったという。鳥居とともに大阪朝日から退社し、大正日日の最後まで行動をともにした伊豆富人は、『別冊新聞研究』(4号、77・4)の「聴きとり」に答えて、当時の内情を語っている。鳥居自身にも、「感情の激する前に事業はない」というような気ままな性格があったらしい。いわゆる武家の商法である。

 船成金、貴族院議員、大殿様の寄り合い世帯に加えての武家商法だから、まとまりは良くない。

 そういう内部の弱点に加えて、外部からは、商売仲間というよりも商売「敵」からの新参いじめがあった。大正日日がたったの八ヵ月で廃刊にまで追いこまれた決定的な原因は、先発の同業者、大阪朝日(大朝)と大阪毎日(大毎)の連合軍によるに徹底的な業務妨害にあったようだ。『日本新聞百年史』では、まさに日本新聞販売戦国史のトップクラスの大事件として、つぎのような有様を描いている。

「社外では、大朝、大毎両社が提携して極力この新聞の発展を妨げた。平素、仲の悪い両社も、共通の敵出現となって手を握ったわけである。

 第一に電話の架設から電力の引き込みまで妨害して工事のはかどりを妨げた。新聞社の印刷工員は普通の工場の工員では役に立たぬ。どうしても二百人くらいの工員を集めねばならぬが両社から引き抜こうとしても事前に手が打ってあって歯が立たない。

 両社の販売店には厳命して大正日日の取り次ぎを禁じ、いやおうなく新規販売店の設置に巨額の経費を投じさせる。京都、神戸、和歌山などの隣接地には深夜、新聞専用電車を運転しているが、当局を圧迫して大正日日だけは積ませない。しかたなく毎夜トラックの特便をもって各方面に発送せねばならぬ始末である。四国行きの新聞は船のデッキ貨物となっている。大正日日の梱包は毎夜のように海中に投げこませてしまう。大広告主に向かっては、おどして大正日日への広告契約を妨げるなど至れりつくせりの妨害ぶりであった。

 これがため二百万円の資本金は二、三ヵ月後には一文も残らず、新聞代、広告料金も前記の次第で、内外の妨害からほとんど入金はない。両社の横暴に反感をもつ大阪市民は熱烈に大正日日を支持したので、取りあえず百万円の増資を計画、勝本が五十万円を負担することになったが運悪く戦後の恐慌が襲い財界は倒産続出、中でも鉄と船は最もひどい打撃を受け勝本も一夜こじき同様となり五十万円の資金どころではなくなった」

 かくして創刊数か月をもって、出資者去り、社長去り、主筆兼専務の鳥居素川も退社し、ついに八か月で会社解散の憂き目を見ることになった。

 大正日日の攻防戦には、しかし、さらに奥深い政治的な圧力、官憲の暗躍をにおわせるものがある。妨害工作の内容を項目別に点検すると、「電話」、つまりは当時は逓信省の管轄下にあった業務とか、公共事業的性格のある「電力」業務とかで「妨害して」いる。「新聞専用電車」の件では「当局を圧迫して」いる。大広告主を「おどして」いる。とうてい大阪朝日と大阪毎日の両新聞社だけの仕業とは思われない要素がある。大阪の官界、財界あげての圧力と見られるふしがある。

 大正日日の紙面を一応めくって見たところ、政権批判あり、ストライキ報道あり、まさに大正デモクラシーの典型のようであった。とくに政治的に重要なのは、(男子)普通選挙の即時実施を求める論調である。

「白虹事件」のために大阪朝日での筆を折られた大記者たちが、思う存分に筆をふるっていたのではないだろうか。ところがそれを、当の大阪朝日が、日頃は商売敵の大阪毎日と連合して、あらゆる非合法手段を駆使してまでたたきつぶしにかかったのである。

 なお、以上のような大正日日との異常極まりない「販売競争」の次第は、朝日・毎日の社史にはまったく記されていないことを付記しておく。朝日の社史は、「白虹事件」で退社した先輩のその後についても、『朝日新聞の九十年』にはまったく記さず、『朝日新聞社史』で、やっと取り上げたという冷たさである。背後には、お定まりの醜い派閥争いがあったのである。

 ところが、それより先に出ていた『読売新聞百年史』の方には、松山が「編集の陣容を強化」するに当たって朝日退社の仲間を迎えたため、簡略ながら、つぎのように記されていた。

「松山が朝日新聞の編集局長を退いたのは[中略]「白虹事件」が原因だった。[中略]大阪朝日の編集局長鳥居素川とともに東西の論陣を動かしていた責任をとったのである。この時、東西朝日の編集陣は大量に退社したが、その中から大庭柯公、稲原勝治、伊藤義藏、細井肇、村田懋麿らが松山のもとにはせ参じた。[中略]花田比露思、丸山幹治、宮部敬治らも、松山とともに朝日を退社した後、鳥居素川を中心とした大正日日新聞の創刊に参画していたが、一年たたぬ間に解散したため、松山のもとに加わった」

『読売新聞百年史』では、かれらが「歴史ある読売を舞台に理想的な新聞をつくる決意に燃えていた」と記しているが、これはあながち手前味噌の記述ではあるまい。それ以上に大変な、大正期メディア人間たちのドラマだったのではなかっただろうか。仮にもせよ、一時は「朝憲紊乱罪」によって廃刊に追いこまれかけた朝日の東西編集局から、当時名のある大記者たちが続々と、一時は二手に分れながらも、最後には「文学新聞」の伝統に輝く読売の再建に結集してしまったのだ。これではまるで、大阪の大正日日に築かれ始めた梁山泊がさらに求心力を強め、首都東京に移動したがごとき観があるではないか。

 以上のような、いわば「読売梁山泊」論は、わたしの知るかぎりでは旧著『読売新聞・日本テレビ・グループ研究』で、初めて展開したものである。『巨怪伝』ではさらに、つぎのような直接的証言を記録している。

「大正八年六月に読売入りした望月百合子は、正力時代以前の読売を知る数少ない証人である。アナーキスト石川三四郎の娘で、平成六[一九九四]年九十四歳になるその望月によれば、大正日日新聞の残党が入社してきたとたん、読売の社内は急に生き生きした雰囲気にかわったという」


(第3章-6)
松山経営による読売中興の夢を破った関東大震災


 そのころの東京で「三大新聞」と呼ばれていたのは、発行部数で約三六万の報知新聞、ともに約三〇万前後の時事新報、国民新聞であった。大阪を本拠とする東京朝日と、大阪毎日の傘下にある東京日日が、それぞれ約二〇数万の第二グループとなり、先頭の第一グループを追い上げていた。読売は、そのあとの第三グループのなかでドンジリ争いをしている状態だった。

 松山忠二郎の読売経営は四年四ヵ月であるが、部数では三万部前後まで落ちていたものを、関東大震災前には一三万部にまで伸ばした。東京朝日と東京日日の、第二グループに接近しつつあったのである。

 読売の社史はいずれも、この時期を順調な発展として描いている。すでに紹介したように、東京制圧をねらう朝日、毎日が、それぞれ新鋭の高速輪転機を導入し、大型の新社屋建造を競う時期である。それらの強敵に歯向かって販売競争を繰り広げながら、読売再生の道を切り開いたのだから、松山の読売経営は決して失敗どころではなかった。

 念願の新社屋も、貸し事務所付き一〇階建て、新聞専用は六階までの総合計画として発表されていた。一九二三年(大12)八月一九日には、第一期工事で完成した三階建て新館への移転が始まっていた。そこへ関東大震災が襲いかかったのである。

『読売新聞百年史』では、つぎのように記している。

「大正十二年九月一日、その日に新社屋の新築落成記念祝賀会が、丸の内の東京会館で催されることになっていた。

 ちょうどその六時間前、午前十一時五十八分、大震災は突如関東を襲い、大火災は東京、横浜を中心に関東地方を大惨劇に中にたたき込んだ」

 関東大震災という不測の事態さえ発生しなければ、読売の歴史はまったく別の方向へ発展していたであろう。松山には、その後に正力松太郎が得た「中興の祖」という評価が与えられていたに違いない。もちろん、その場合には、元警視庁警務部長の正力が読売に「乗りこむ」などという異常事態は、絶対に起こりえようがなかった。

 ただし、松山を社長にすえた財界、または日本の当時の支配層の目から見ると、松山の経営姿勢は期待を裏切るものだったであろう。というのはこの時期、読売の紙面はまたしても「文学新聞」としての伝統を復活し、婦人運動やプロレタリア文学運動にまで発表の機会を与えてしまうのであった。

 どうしてそうなったかという疑問に対しては、松山個人の性格によるところもあるだろうが、そのことだけを考えても回答は得られないだろう。新聞は「社会の窓」にたとえられたりするが、確かに、そういう側面を持っている。よほど特殊な思想傾向の持主が独裁的な経営権限を握るなら別だが、普通の新聞人が一般読者の好みを普通に意識して紙面を作るとすれば、その紙面は同時代の社会を反映せざるを得ないのである。

 松山が読売社長だった一九一九年から一九二四年という時期は、すでに見たような「大正デモクラシー」の高揚期であった。なお、この「大正デモクラシー」という用語は後年になって作られたものである。その時代の最中に精一杯のはたらきをしていた人々は、決して大正期だけの「あだばな」で終りを告げるつもりではなかったに違いない。

 だが、日本の近代における最初の民主主義の短い春は、同時に、ファッシズムへの暴力的な雪崩れの襲来の季節でもあった。当時の世界の近代国家に、全体的な規模で展開されていた政治ドラマの一幕が、未成熟な日本の社会をも襲ったのである。「白虹事件」はそのひとつの頂点であった。

 大正デモクラシーの時期区分や歴史用語としての適確性については諸説あるが、大正年号の一九一二年(大1)から一九二六(大15、昭1)を中心とし、特にロシア革命の翌年で第一次大戦が終った一九一八年に時代の転換点を見ることに関しては、ほぼ異論はないようである。

 政治的に目立つ成果は一九二五年(大14)の(男子)普通選挙法実現であるが、注目すべきことには、同時に悪名高い治安維持法も成立している。

 メディアの世界では同年、半官半民の社団法人東京放送局が発足し、のちに大阪・名古屋との合同によって日本放送協会の独占体制が確立する。経済学では一九二〇年前後を日本のいわゆる帝国主義、または国家独占資本主義の確立、具体的には国家権力と独占資本の癒着関係が深まった時期としている。

 このような世界規模の革命、または民主主義とファッシズムの激突期に際して、日本の大手メディアは、ただ単に被害者にとどまっていたばかりではない。抵抗もしているが、みずから積極的に体制側に荷担する場合も多かった。それだけ矛盾に満ちた時代だったのである。だから、松山の読売経営そのものだけを追ってみても、時代の必然的な流れはつかみにくい。その前に、当時のメディアの全体像を押えておく必要がある。その意味で本書では、松山の読売経営を見る前に「白虹事件」と、それに続く「大正日日」の幕間狂言を紹介したのである。

 松山は決して独裁型の新聞経営者ではなかった。以上のような時代の大波に揺られながら、読売の再生と発展に八方手をつくして、着実な成功を収めた。だが、不幸にして、最後には予測すべくもなかった関東大震災を契機として、奈落の底にたたき落とされてしまったのである。

 以下、松山が正力に取って代わられる原因が、決して新聞経営の能力によるものではなっかったことを確認するために、再び読売自身の社史の記述に沿って、松山経営の読売の有様を要約してみよう。


(第3章-7)
朝日を仮想敵とみなして抜き返しを図った読売再生策の成功


 松山の経歴自体は、すでに紹介したように、まさしく、専門家としてのジャーナリストのキャリア組とでもいえそうなものである。新聞エリート中のエリートである。そのうえに、当時もっとも近代的、資本主義的経営といわれた朝日で、経済記者から東京の編集長という十分すぎるほどの経験をつんできた。

 読売についても、朝日にいた当時から販売競争の相手方として、長所も弱点も研究しつくしてきたはずである。当時の朝日は、みずからの大阪方式の商法を発展させると同時に、東京の名門紙と対抗しながら、読売の文学新聞としての社風をも学び取っていた。朝日はすでに、二葉亭四迷や夏目漱石を入社させ、二葉亭の名作『其面影』や『平凡』、漱石の『虞美人草』、『三四郎』から、絶筆となった『明暗』にいたるまでの全作品を連載していた。

『読売新聞百年史』では、松山時代の読売が「朝日新聞を仮想敵とみなし、特に政治、経済、外交記事に主力を注いだ」としている。

 松山は、一九一九年(大8)一〇月一日の紙面で、読売の社長就任を発表すると同時に、つぎのような「新経営の読売新聞」と題する抱負をのせた。

「創刊以来四五年、半世紀に近い年月、本紙が果して来た歴史を論じ、従来の“穏健”の特色を保つと同時に多面“機敏”の実を挙ぐ、また、“趣味的”“家庭的”なるに加えて“実務的”“社会的”たらんことを期する」

 かなり欲張った抱負であるが、すでに紹介したように、松山は、「白虹事件」で大阪と東京の朝日を退社した有力な記者たちを確保している。さらにその他の各紙からも有力な記者たちが移籍してきた。読売の元主筆で早稲田大学新聞科の創設主任教授だった五来素川をも、再び論説委員に迎えた。

 五来は、東京帝大仏政治科を出て読売に入社し、一九〇四年(明37)に特別通信員の肩書きでパリに派遣され、ソルボンヌ大学に学び、ついでベルリンで政治学を修めた。その間、“在巴里”として、『白野弁十郎』(シラノ・ド・ベルジュラック)の翻訳脚本を掲載したこともある。明治の日本の新聞エリートとしては松山と良い勝負である。かつての主筆時代にはフィガロ紙をまねて「よみうり婦人付録」を創設し、与謝野昌子らを入社させたこともある。『読売新聞百年史』でも、当時のかれが「社勢のばん回にも寄与した」と評している。

 しかし、その一方で、五来の入社は、かつての対露主戦論の国粋主義者、中井錦城主筆の勧めによるものであったし、五来自身も『読売新聞八十年史』によれば「善人であり詩人肌の熱情漢であったが、国粋主義的な思想の持ち主であった」という。当時の社長の本野英吉郎や編集顧問の秋月左都夫らとは対立し、ついには、社長を椅子ごと突きとばしたり殴ったりという暴力沙汰を起こしたため、主筆在任八か月で退社のやむなきにいたっていた。

 松山は、この五来をはじめ、思想傾向をとわずに有能で外国通の人物を集めた。外交記事の強化は時代の要請であった。「仮想敵」の朝日に対抗するためには、通信網の整備も急務であった。『読売新聞百年史』では、つぎのように記している。

「横浜、大阪に加えて、千葉、静岡、宇都宮、浦和に支局を開設、国外は京城、北京、上海、ニューヨーク、ワシントン、サンフランシスコ、ロンドン、パリに特派員または通信員を常置するなど、順次海外特通網をひろげていった」

 これだけのことを一挙にやるには、それなりの資金も必要であったが、松山のうしろには資本金一〇〇万円を準備した日本工業倶楽部の匿名組合がついていた。その後援によって松山は、三〇万円で読売の経営権を入手し、追加資金も得ていたのであった。


(第3章-8)
プロレタリア文学の突破口となった読売の文芸欄


 第一次世界大戦以後の日本経済は、さきに大正日日の出資者の倒産に見たような戦後恐慌に見舞われたりしたものの、全体としては史上空前の発展期を迎えていた。

 当時の「円」は一ドルが約二円で、やはり国際的に強くなっていた。軍事面でも、日本は世界の大国のひとつにのし上がっていた。背伸びの部分も多かったが、そんな状況下で新聞エリートたちも、大いに持てる能力を発揮することができたのである。

 松山はさらに強気になり、社長就任の二か月後には広告料の値上げに踏み切ったりした。営業部長になった五味秀也は、ロサンジェルスで新聞を経営した経験の持ち主だったが、アメリカ式の近代経営方式を取りいれ、将来の新社屋計画を練った。そのほかにも、漢字のルビの廃止、漢字制限、口語体への切りかえ、輪転機の高速化、電信局開設、電話の増設、販売配達網の整備など、あらゆる面での体制強化がはかられた。

 記事内容では、言論擁護の論陣をはる一方、「よみうり婦人付録」を「よみうり婦人欄」と改めた。与謝野昌子、山川菊枝、山田わか、高梨高子、平塚明子の五人を特別寄稿家とし、婦人記者を朝鮮、中国に派遣して通信を連載し、特集や臨時付録などの婦人向け企画を組んだ。

 三万部前後にまで落ち込んでいた読売の部数を、わずか四年で一三万部に押し上げることができたのは、以上のような努力の積み重ねによってであった。『伝記正力松太郎』でも、読売が「高い品位と厚い信用を文化人の間に持ち続け」ていたという評価をしている。「文学新聞」の伝統の新たなよみがえりといっても良いだろう。

 だが、この時期の日本文学には新興文学の一つとして、プロレタリア文学運動が生まれていた。読売は、この新しい文学の潮流が発展するうえで、大きな舞台を提供することになったのである。

 ただし、読売の社史は、この特筆すべき現象の評価に関して、動揺を繰り返している。『読売新聞百年史』では、なんと驚くべきことに「プロレタリア」という用語を抹殺してしまっている。そして本文ではなくて、欄外に、「階級文学是非ににぎわう文芸欄」というベタ・ゴシックによる小見出しの小項目を立てている。いわゆる「こぼれ話」の取り扱い方である。この欄外の項目は、活字も一段と小さく、人物紹介などの脚注的な記事を配している部分であって、いわば傍論の形式である。

『読売新聞八十年史』でのプロレタリア文学運動の取り扱い方は、『読売新聞百年史』とは、まさに天と地のちがいである。長さも本文で約三頁分ある。第四編第六章の六項のうち、「四」の項が「読売文芸欄の新人発掘」となっていて、その大部分がプロレタリア文学に関わるものとなっている。しかも、つぎのように、読売が果たした役割を大いに誇ってもいる。

「日本にプロレタリア文学なるものが台頭したのは、大正一〇[一九二一]年から一一年にかけてであった。もうそのころには朝日、東日、時事、国民などにも文芸欄ないしは学芸欄が設けられ、文芸記事は読売の独占ではなかったのであるが、読売の文芸欄をして特色あらしめたものは、実に、無名新人の登用であった。新興文学への紙面の開放であった。他紙の文芸欄が既成文壇にその場を提供していたのに対し、若いプロレタリア文学運動は、読売新聞にその突破口を見つけたのであった。これをいいかえれば、プロレタリア文学運動に火をつけたのは、読売新聞の文芸欄だったのである。

[中略]読売新聞に『第四階級の芸術』という新しい言葉が現われると、これが一つのきっかけとなって『第四階級の文学』または『労働文学』というものが、文壇の片すみに多望先鋭な映像を投げて来たのであった。[中略]関東大震災直前には、プロレタリア文学運動は、その第一期の発展期に入り、ついにブルジョアジャーナリズムは、競ってこの新文学に門戸を開放するようになった。これらの期間における日本の文壇は、すこぶる多事であったが、この時代に最も勇敢にプロレタリア文学のために、その舞台と機会を与えたものは、わが読売新聞であった。これは読売新聞の持つ、長い文学的伝統の一つの現われでもあったのである」

 もちろん、読売の文芸欄をプロレタリア文学一本槍で埋めつくしたわけではない。文学新聞としての読売の失地回復のために、「清新性こそが文芸復興の旗印だ」と主張し、いわば読売ルネッサンスを期して新人発掘の方針を掲げたのである。読売は、この方針の下に、無名の新人の作品を大胆に掲載していった。そのような新興文学の中心が、関東大震災の直前まではプロレタリア文学だったのだ。

 読売の文芸復興を支えた編集陣には、松山が招聘した「白虹事件」退社組もいた。だが、当時の読売には、松山経営の直前の印刷ゼネストや編集ストライキ計画を経験した記者たちも残っていた。その伝統の伏流水をも思い見る必要があるだろう。さすがに編集ストライキ計画の中心者たちの再雇用はなかったのだが、青野季吉は、プロレタリア文学の旗手として読売紙上でのカムバックを果たす。青野はこの時期に、秋田雨雀、村松正俊らとともにプロレタリア文学運動の機関誌『種蒔く人』を創刊していたのである。

 一九二〇年(大9)一〇月には、文芸部長の柴田勝衛が、「第四階級の芸術は可能か」という著名人のアンケートを求めた。

 一九二一年(大10)には、林房雄らが社会文芸研究会を結成した。平林初之輔は唯物史観にもとづくプロレタリア文学の理論、『第四階級の文学』を発表した。青野らの『種蒔く人』の創刊は、この年のことである。

 一九二二年(大11)元旦の読売は、新年特集として、有島武郎の「第四階級の芸術、其の芽生えと伸展を期す」を載せ、大論争をまきおこした。

 この年に読売の文芸欄に掲載された関係論文の主要なものは、つぎのとおりである。

 長谷川如是閑「第四階級の芸術」四回連載。
 平林初之輔「種蒔く人に望む」三回連載。
 宮島資夫「第四階級の文学」五回連載。
 青野季吉「知識人の現実批判」四回連載。
 前田河広一郎「本年文壇前半期の階級闘争批判」四回連載。
 安成二郎「社会文学とは何だ」、「文学に階級はない」
 本間久雄「本年の文芸評論壇、階級文学是非の帰結」

 この最後の本間の論文は、一年の論争全体を回顧するものであるが、そこでつぎのような重要な時代背景を反映する指摘が行われている。

「本年の前半は階級文芸の是非が論じられたが、後半は是非を越えて、階級文学を支える無産階級教化の問題へ移り、さらに来年の課題になった」

 この「無産階級教化の問題」は、すでに三年前の一九一九年(大8)にはじまる普通選挙運動と深い関係にあった。つまり、政治問題でもあった。(男子)普通選挙法は一九二五年(大14)に成立するが、大正デモクラシーの一つの重要な成果といっても良い性格を持っていた。読売の文芸欄に「その突破口を見つけた」と評されるプロレタリア文学運動には、そのような同時進行的な政治課題とむすびつく側面があったのである。

『読売新聞八十年史』では、この項の最後で、その後の変化について、「プロレタリア文学も、関東大震災による社会的変動に大打撃をうけ」たという、いかにも奇妙な表現をしている。「関東大震災による社会的変動」とは、いったい何かという問いを発する必要があるだろう。読売における「変動」は、松山経営の終了であった。真の原因は、天災ではなくて、人災にあった。社長が、松山から正力に交替したことによって、「若いプロレタリア文学運動は」、「その突破口を」失ったのである。

 松山自身については、これまた『読売新聞百年史』では欄外の小項目の扱いであるが、「松山忠二郎」という見出しの人物紹介がある。読売を去ったのち、「しばらく閑地にあったが昭和6[一九三一]年2月満州日報社長となり、9[一九三四]年2月まで在任」とある。結局、松山は、根っからの新聞人だったのだろう。思想の違いはどうあれ、「白虹事件」退社組の記者仲間を見捨てることはできずに多数採用した。読者の期待に応える紙面改善には積極的にならざるを得なかった。読者の多くも、また、大正デモクラシーを支えたインテリ層だったのだ。


(第3章-9)
第二次護憲運動の山場で座長に推された読売社長の立場


(男子)普通選挙の即時実施は、大正時代後期の政治的対決の焦点であった。

 だとすれば体制側が、この政治論議の勢いを弱めようとするのは、水が低い方に流れるのと同じように法則的であった。すでに紹介したように、朝日・毎日の連合軍があらゆる手段を駆使して廃刊に追い込んだ大正日日の紙面でも、(男子)普通選挙の即時実施に関する激しい論調が見られた。

 ところが、大阪でその大正日日の紙面を担っていた記者たちが、つぎには首都東京で松山経営の読売に新たなメディア梁山泊を築きつつあったのだとしたら、当時の日本の体制側にとって、こんなに危険なことがほかにあっただろうか。かれらの目には、当時の読売が「アカに乗っとられた」ように見えたのではないだろうか。この推測の当否については、のちに別の角度から検討しなおす。

 ともあれ、この状況下、一九二三年(大12)九月一日という運命の日に、読売の夢の新社屋は激震におそわれ、大火になめつくされた。読売の停刊は四日間、以後、二ページ、四ページ、六ページ、そして八ページに戻ったのは八〇日ぶりのことだったという。

『読売新聞百年史』によれば、その際、「東京市中の日刊紙十七種のうち、焼け残ったのは丸の内にあった東京日日新聞[大阪毎日が買収済み]、報知新聞と内幸町にあった都新聞[現東京中日]の三紙」のみであった。もちろん、活字ケースは倒れ、電気やガスも止まっていたが、復興の速度は全焼の場合の比ではない。

 東京日日は社屋が残っただけでない。東京朝日と同様に大阪が本拠になっていた。以上の基本条件の下に、震災後の新しい読者獲得競争は熾烈をきわめた。『読売新聞百年史』では、松山時代の章の最後の一区切りで、つぎのように記している。

「ひところ十三万を突破する読者を獲得した松山経営もこの年の暮れには五万を割るとうわさが流れるようになった。日本工業倶楽部の出資の夢も断たれ、古い伝統の上に新しい経営をとの松山のユメはついえ去った。明治七年の創刊から五十年の歴史をもつ本社は、さらに強力な人物を待望せざるを得なくなっていた」

 さて、この記述のみが「さらに強力な人物」の登場、すなわち正力松太郎による「躍進」の第二部への導入になっているのである。だが、正力が経営権を獲得するのは翌年の二月二五日である。その間、丸々六か月、または丸々半年の期間については、なぜか突如、社史の記述がほとんど空白になっている。実は、ここにこそ、読売の社史の最大の問題点が潜んでいるのである。

 たとえば、震災後の執筆者として名をとどめている著名人のなかには、戦後日本の、いわゆる左翼運動でも指導的立場にあった江口渙、藤森成吉、宮本百合子らがいた。紙面の傾向の問題は、震災後の世相、政治の大混乱のなかで、非常に緊迫した関係をはらんでいたはずなのであるが、その経過が、ほとんど無視されているのだ。

 経営面の問題点についても、社史の記述は、非常にあいまいである。

 同時代の新聞業界の基本資料、『日本新聞年鑑』(一九二四年版)には、この間の事情が、つぎのように要約されている。

「もちろん、松山社長は東西に奔走した。この歴史あり、特色ある新聞を復興せしむるは自己の使命であるとなし、工業倶楽部、日本倶楽部等の実業家に連日の会見を重ね、ようやくにして、その諒解を得るにいたるや、突如として社長更迭の幕は、切って落とされたのである」

 つまり財界筋は、震災の被害に苦しむ松山の東奔西走の要請に応えて、一度は財政援助に踏み切ろうと相談をまとめたのである。ところが、ある日突然に、冷たく突き放してしまったのである。

 当時の読売記者の証言もある。『別冊新聞研究』(8号、79・3)には、正力の乗りこみ以前から読売の販売部にいた大角盛美の回想が載っている。インタヴュアーが、つぎのように質問する。

「松山さんが『読売』から手を引かれたいきさつについて何かご存知のことはありませんか」

 大角のこたえは、つぎのように明確である。

「問題は社の復興費だったんですね。それができないんですよ。松山さんを後援していた番町会の方から出ないんですよ。出ないというより出さないんですよ。松山さんをおっぽって、手離したほうがよいという実業界のほうの人の話で、結局金が出ない」

 文中の「番町会」については、のちに詳しく紹介する。ともかく大角は、もう一度、つぎのようにも語っている。

「松山さんの出した復興費の要求をあの実業界の五人か六人が入れなかったんですよ」

 つまり、重要な決定権をにぎっていたのは、「番町会」の「五人か六人」であった。なぜ彼らは「復興費」を松山に「出さな」かったのであろうか。のちにこの「五人か六人」の重要人物の横顔を紹介するが、『読売新聞百年史』の記述は、そのもっとも肝心な経過を無視している。

 ところが面白いことには、『読売新聞百年史』そのものが同時に、松山「社長更迭」への「突然」の圧力を暗示する状況の一つを収録してくれている。『読売新聞百年史』の欄外には、震災の翌年、一九二四年(大13)一月二一日付けの社説の写真版と、つぎのような解説がある。

「[三面は]四段抜き見出し『清浦内閣を倒壊し、併せて非立憲内閣の出現を根絶せよ』という社説で、全面うめられた。[中略]

 筆者は花田比露思(大五郎)、『民意を代表する衆議院を無視した組閣は憲政の本義に反する。清浦内閣の倒壊をもって足れりとせず斯くの如き非立憲内閣の出現する諸原因を根絶せねばならない』と、元老の責任、貴族院の役割など論じきたり、ついに一ページに及ぶ。

 二月五日上野精養軒に開かれた護憲全国記者大会に集まる者、記者、代議士ら三百余人。松山忠二郎が座長に推され、震災後の本社復興に骨肉を削りながら、なお烈々の闘志をみせた。これを第二次護憲運動と称する」

 この社説の見出しを、より正確に記すと、つぎのようになっている。

「清浦内閣を倒壊し併せて非立憲内閣の出現を根絶せよ/今日の政局を訓致せしものは誰ぞ/床次氏一派の謬想を破れ」

 床次とは「誰ぞ」という説明が必要であろう。床次(とこなみ)竹二郎はのちにも本書に登場するが、当時の内務大臣だった。つまり、読売は社説で、首相の首のすげかえを要求しているだけでなく、その首相の内閣が憲法に違反していると主張し、憲法違反の政局の黒幕が内務大臣の床次だと名指しで攻撃していたのである。内務省は、新聞などの言論機関を統制する監督官庁である。このことの持つ意味を、ここで強調しておきたい。

 第一次護憲運動では「憲政擁護・閥族打破」のスローガンで、大正の初めに長州閥の桂太郎内閣と薩摩閥の山本権兵衛内閣に対決し、辞職に追いこんでいる。その直後には、すでに「白虹事件」で紹介した一九一八年(大7)の寺内内閣シベリア出兵に端を発する「言論擁護内閣糾弾」の大波がある。それらの闘いの先頭には当時、常に新聞人の姿があった。松山が座長に推された第二次護憲運動の集会の模様には、いかにもそれらの運動の復活を思わせるものがある。

「白虹事件」の原因となった大阪の「言論擁護内閣糾弾」記者大会では、大阪毎日の本山彦一社長が座長に推され、大阪朝日の上野精一社長が冒頭あいさつをしていた。同じ位置づけの役割を読売の松山が首都東京で果たすとなれば、体制の危機を意識する支配層が黙って見過ごすわけはないだろう。ましてや、読売の社説で「憲法違反の政局の黒幕」と名指しで批判された内務大臣こそが、「天皇制警察国家」といわれた当時の大日本帝国の国内の治安をつかさどる暴力装置の長であってみれば、何が起きても不思議ではなかった。

『読売新聞百年史』で、いかにも「待望」の人物であるかのごとくに描く正力が登場するのは、とりあえず、こういう状況下のことであった。ところが面白いことに、同じく提灯持ちの『伝記正力松太郎』を執筆した御手洗辰雄ですらが、『日本新聞百年史』には、つぎのように記していた。

「この日、同業朝日の夕刊短評には『読売新聞遂に正力松太郎の手に落つ、嗚呼(ああ)』と出ていた。それほど不人気、まさに四面楚歌である」


(第3章-10)
「黄金の魔槌」に圧殺された大正デモクラシーの言論の自由


 実際には、同時代の新聞人が直後に発した論評は、単なる「不人気」などという生ぬるいものではなかったようである。たとえば、同年に発行された『日本新聞年鑑』の一九二四年版が引用している『新聞及新聞記者』(24・3・1)の記事には、つぎのような絶叫型の激しい怒りの声がある。

「黄金の魔槌は、東京新聞界の高貴なる伝統を、打ち壊しつつある。無垢の処女は、一片の人肉として、公売台上に血の涙を絞りつつある。憤りなくして、これを見聞きするものは、純粋の新聞マンではない」

 しかも、「その最たるは読売である」という認識と、かなり詳しい状況の告発さえもが、『日本新聞年鑑』の一九二四年版には残されているのだ。

 それなのになぜか、こうした当時の新聞人の肉声は、これまでの新聞関係の類書に現われていなかった。不思議なことなのだが、この件でわたしは、大変に驚くべき経験をしてしまったのである。

 旧著『読売新聞・日本テレビ・グループ』を執筆した際、わたしは当然の基礎作業として、新聞業界の基本資料ともいうべき『日本新聞年鑑』に当たった。そこで、当時の版に、すでに一部を紹介したような、それまでの類書がまったくふれていなかった記述を発見したのである。

 わたしの考えをハッキリいえば、それまでの類書は、なぜかすべて、日本の新聞の歴史を論ずる上で、決定的に重要な同時代資料をまったく無視し続けていた。意図的か否かは分からない。もしかすると、わたしが抱いていたような問題意識が、これまでの研究では完全に欠けていたのだろうか。こういう決定的資料の存在に、誰も気付かなかったということは、考えにくいのである。これから改めて要約紹介する『日本新聞年鑑』の当時の版を発見するのは、そんなに難しい作業ではなかった。

 まず最初には国会図書館で資料検索をした。すると当時の版がない。つぎの調査対象は常識的に考えると当該の業界筋である。新聞業界には業者団体の新聞協会がある。わたしは放送問題を調べるときには民間放送連盟の資料室を何度も利用していたから、わざわざ頭をしぼって考えるまでもないことだった。国会図書館になければ新聞協会に足を向けるのが当然だと感じた。永田町の国会図書館から新聞協会が入っている内幸町のプレスセンターまでは、地下鉄でたった一駅である。来たり、見たり、発見せり、などと力むほどのこともない。すべてが、その日のうちに済んでしまった。こんなに簡単な資料探索はなかった。その後、あらためて類書を比較検討してみた。推測によると、どうやら、それまでは、関東大震災の直後の新聞戦争の真相について、業界の社史類の記述を越えて深く追及しようと試みたメディアの研究者は、誰もいなかったらしいのである。それとも、こういう部分はアカデミズムの聖域となり、さらに踏みこむ研究は事実上、タブーとなっていたのだろうか。

『日本新聞年鑑』一九二四年版では、読売、やまと、萬朝報、国民の主要四紙の経営変動の陰に政財界からの「巨額」の資金の動きがあると論評し、こう続けていた。

「しかし、その最たるは読売である。[中略]これらの悲しむべき実例を、ほとんど一時に見聞きした斯界従業員は、これ実に、新聞の資本化であり堕落であり、黙過すべからざる罪悪であると叫び、[中略]諸家の批判は大体において、新聞の悪資本化を攻撃するに一致した」

 読売、やまと、萬朝報、国民の四紙は、主張の違いこそあれ、いずれも東京新聞界の名門であった。朝日と毎日は、もともと大阪の財界紙出身であった。朝日は、すでに見たように、「白虹事件」で権力の懲罰を受けると直ちに萎縮して、生え抜きの記者を解雇し、あまつさえ、その記者たちが拠り所にした大正日日を目の敵にして毎日と連合し、手段をえらばずに、つぶしにかかるような本性を隠し持っていた。「宵越しの銭」は持たない「べらんめえ」言論の担い手として、江戸以来の気風を誇りにしてきた東京生え抜きの名門紙が、朝日や毎日並に「悪資本化」されるということは、ついに、ほとんどすべての有力紙が財界と権力、国家独占資本の手に握られることにほかならなかった。

 さらにこの『日本新聞年鑑』には、同じ年の雑誌『新聞及新聞記者』三月一日号の記事が、一ページにわたって引用されている。すでにその一部を紹介したが、そのほかの主要な主張は、つぎのようなものである。

「それ(政党化)よりも怖ろしいのは、資本化の悪魔である」

「『金さえあれば誰でも新聞を経営してよろしい』……この思想こそは大悪魔なのだ」

「没理想の資本家は、実際新聞の大敵、新聞事業の悪魔である」

「悪魔を引きいれて、新聞界を堕落せしめんよりは、切腹して果てるを士とする」

 これらは、きわめて強烈で、しかも政治的な、新聞関係者自身による現状批判だったのではないだろうか。以上のような「悪資本化」の実際の経過についても、『日本新聞年鑑』の一九二四年版と翌年の一九二五年版で、連続して取り上げている。読売の場合についても若干の具体的な記述がある。しかし、読売の場合は複雑なので、のちに詳しく検討しながら紹介し直す。

 ここでは一九二四年版に記された「やまとの新背景」の主要部分を紹介することによって、「悪資本化」の経済的および政治的背景をうかがってみたい。

「やまと」も読売と同じく関東大震災で壊滅した。立て直しの副社長として、「巨額」の再建資金を背景とした前東京日日政治部副部長の田中朝吉が就任し、経営の実権を握った。東京日日は、大阪毎日に買収された出店である。震災の被害がなかった大阪の財界を背景とする毎日が、その出店からさらに別の首都東京生え抜きの名門紙に、自社人脈を送りこんでいるわけである。そこで、「やまとの新背景」の記事ではさらに、つぎのような財政的内幕を推測する。

「この交渉は、きわめて迅速に行われたため、一時世間に種々の風評を生み、田中君背後の出資者を、あるいは後藤子爵なりと推し、あるいは田中陸軍大将なりとし、あるいはまた政友本党を代表する床次竹二郎氏なりといい、しかして多数者は薩派をその金穴なりと信じ、その額についても一〇万円と称し、あるいは二〇万円と噂した。しかし、それはのちに、三井系の山本条太郎氏なるべしとの想像、もっとも力をしむるにいたった」

 さてさて、大変な化け物屋敷になってしまった。当否は別として、ともかく、ここに名がでてきた人物なり集団なりは、当時の常識として、新聞の買収支配に動いても不思議ではないと思われていたのである。なかでも「床次竹二郎」は、さきに紹介したように、護憲全国記者大会を論じた読売の社説で、「床次氏の謬見を破れ」と名指しで攻撃されていた現職の内務大臣その人であった。「後藤子爵」とは、前内務大臣の後藤新平のことである。

 このように後藤新平「前」内務大臣と、床次竹二郎「現」内務大臣とが、ともに首都東京の新聞支配の陰の人物として声高に噂されている日本新聞戦争の真っ直中で、読売への正力松太郎「前」警視庁警務部長の「乗りこみ」が行われたのである。

 内務省や警視庁の新聞との関係などについては、つぎの第二部で詳しく紹介する。一般に良く知られている組織名称は「特高警察」であろうが、これは俗称である。正力は、「特高係」を配下とする「高等課長」をも経験し、その際、日本共産党の第一次検挙の指揮を取っている。つまり、こともあろうに、言論弾圧の最前線部隊である「特高」の親玉だった人物が、半世紀の歴史を持つ名門マスメディアの社長に天下ったことになるのだ。これと比較できるような異常事態が、ほかの国の歴史で起きたことがあるのだろうか。

 日本は後発資本主義国である。現在のG7の仲間のような欧米の先進資本主義諸国にくらべると、特殊に遅れた条件、または、それゆえに特殊な高速栽培で急場に間に合わせた無理な条件に立脚していることは疑いない。巨大メディア、読売グループの存在も、その一つなのかもしれない。この事態の異常さを徹底的に究明することなしには、日本の新聞、またはメディアの歴史も現状も、まったく理解し得ないのではないだろうか。

 そこで、つぎの第二部では、当時の読売をめぐる状況を、さらに詳しく検討し直してみたい。


第二部「大正デモクラシー」圧殺の構図


関東大震災の「虐殺煽動」=「隠蔽工作」コンビ



正力松太郎          後藤新平

詳しい説明は、(第5章-6)CIA長官に匹敵!?「総監の幕僚長」お得意の「汚れ役」



『読売新聞百年史』では「躍進」と形容する正力「乗りこみ」以後の時代を、わたしは「汚辱の半世紀」と呼ぶ。

 正確には、一九二四年(大13)から一九六九年(昭44)までの四六年間である。以後もなお、この「汚辱」の惰性としての独裁主義支配の時代がつづき、ついには半世紀を越えている。現状は、歴史用語を借りれば「植民地時代の継続」である。だが、いずれは侵略者の一族とその郎党の末裔は追放され、「文学新聞」の伝統が回復されなければならないのである。

「植民地」とか「侵略」とは大袈裟すぎるという意見もあるだろう。だが、わたしが「乗りこみ」などと表現しているのは、すでに注記した通り、ご当人、正力の用語そのままなのである。

 のちに詳しく紹介するが、正力は読売の社長として初出社した日の朝、「これから乗りこむんだ」と武者ぶるいしていた。手元の国語辞典の「のりこむ」の項には、「乗物の中にはいる」という本来の意味に加えて「敵地に……」の用例が示されている。当然、第二の意味である。

 当時の正力にとって、読売は「敵地」にほかならなかったのである。これから逐次論証していくことになるが、正力は、政財界から与えられた巨額の資金を懐にして、単身敵地に「乗りこみ」、暴力的に征服し、邪魔になる著名記者たちを追放し、元警察官をふくむ腹心の味方を引きいれた。「文学新聞」読売を、こともあろうに言論統制機関たる内務省の植民地として押さえ込み、特高警察を強化しつつあった当時の天皇制警察国家、大日本帝国の支配下に組みいれ、侵略戦争の思想的武器に作り変えたのである。その状態が基本的に改まっていない以上、読売は「植民地」であり、「侵略」の継続と規定するほかはない。

 正力の警視庁時代の武勇伝も、必要な程度に紹介する。正力は、米騒動の鎮圧などの際に、群衆の真っ直中に突っ込んで単身壇上に踊り出たりしている。しかも本人みずから、その経過を何度も講談調で語って、大いに自慢している。いわば「鬼面人を驚かす」戦法で、相手を威圧するのが正力の得意とするところであった。正力は、読売への乗りこみでも、この戦法を用いている。

 そもそも読売で、正力時代にいったい何が「躍進」したというのであろうか。

 中身よりも部数の競争をあおった。下品な煽情ジャーナリズムを率先して採用した。正業をはずれたヤクザを「拡販団」に組みいれた。正力以後の読売は、戸別訪問の脅し商法を駆使する専売システムによって、新聞産業全体の堕落を加速させただけなのではないだろうか。正力時代の読売販売店が行っていた「脅し商法」については、すでに本書の序章で、その驚くべき実例を紹介したところである。

 正力は戦後、GHQからA級戦争犯罪人に指名され、巣鴨刑務所に入った。ほかの大手紙の首脳部の戦争責任も決して軽くはないが、A級戦争犯罪人に指名されて下獄した日本の新聞経営者は、正力だけである。残念ながら、この際もまた正力は生き残った。そればかりか正力は公職追放解除後に、新聞ばかりではなく、それに加えて、新らしいメディアのテレヴィまでをも支配下に収めることになったのである。わたし自身が正力の実物を直接見ることができたのは、日本テレビの廊下であった。

 正力個人に関する資料も増えた。すでに紹介済みの佐野眞一著『巨怪伝』は、四〇〇字詰め原稿にして約二〇〇〇枚という超大著である。巻末には、詳しい「主要参考・引用文献」のリストがある。その「読売新聞論」の項には、拙著『読売新聞・日本テレビ・グループ研究』『マスコミ大戦争/読売vsTBS』『読売グループ新総帥《小林与三次》研究』の三冊が収録されている。本文中でも、「元日本テレビ社員木村愛二」の説として、正力が語っていた「後藤[新平元内務大臣]との“美談”は、[中略]意図的に流布されていった」という可能性を指摘してくれている。

 わたしは、旧著執筆の当時から、読売グループ批判が様々な角度から展開されることを願っていた。そのために、旧著の『読売新聞・日本テレビ・グループ研究』では九頁の資料リストを作成していた。本文中でも、読みにくさを覚悟しつつ、引用文献の頁数を記入しておいた。

 当時のわたしは、ものかきを本業にしてはいなかっただけでなく、匿名で書かざるをえない立場だった。だから、そうやって手掛かりを残しておけば、プロのものかきが資料を活用しやすくなるだろうと考えた。わたしには日本テレビの調査部資料室に勤務した経験もある。資料探索の手掛かりを残すことの重要性については、もともと、一応の考えを持っていた。匿名で発表した旧著は、意外に多くのものかきによって活用された。たまには、出典を明記しない引用者も現われはしたが、あえてそのことを問題にしようとも思わず、活用されたことに満足していた。しかし、残念なことには、わたしが紹介した資料をこえて、さらに深く真相を追う作業には、なかなか接することができなかった。ある場合には逆に内容が薄まっていた。

『巨怪伝』は、それらの、ふりかえって見れば一五年間もつづいた欲求不満の歳月の憂さを、一挙に吹き飛ばしてくれる大労作であった。著者自身が「あとがき」で、「完成までに足かけ九年かかった」とか、「途中で何度も投げ出したくなるような苦しい作業だった」などと記している。わたしとは視点が違うところも多いが、実証の積み重ねについては他の追随を許さないものがある。多くの場合、より鋭く過去の真相の深みに迫っている。

 わたしには現在、佐野と比較できるだけの資料を収集する時間はない。しかし、佐野とはいささか違う視点から同じ資料を検討し直すことによって、さらに新たな、わたしの方からの恩返し、または抜き返しが可能な部分も多々ある。そのほかの資料の検討をも含めて、わたしなりに当時のメディアが置かれていた状況を、再構成してみる。

 この第二部の役割は、いわば、第三部「汚辱の半世紀」への入り口の説明書きである。

 すでに本書の「はしがき」にも記したように、最大の山場は、中国人指導者、王希天の虐殺事件である。この事件こそが、読売への正力「乗りこみ」の直接的動機だったという可能性が、非常に高いのである。以下、読売新聞そのものからは、しばらく離れるが、その理由はお分かりいただけると信ずる。読売が一種の植民地侵略の犠牲に選ばれるに至った時期の、政治的な背景と力関係を明確にしておかなければ、それ以後の読売の歴史は理解しがたいし、侵略をはねかえす独立回復の闘いの展望も、はっきりとは見えてこないと思う。


第四章 神話を自分で信じこんだワンマン

(第4章-1)
「僕ほど評判の悪い男はない」と蚊の鳴くような訴え


 いわゆる公認の歴史に嘘が多いのは、今に始まったことではない。神話や伝説と公認の歴史との間の違いは、実際上、ほんのわずかなものでしかない。社史もそのひとつであるが、読売の場合には、正力個人が積極的に誇大な自己宣伝をする性格だったために、ほとんど嘘ばかりと思って調べ直さないと、大変な誤りを犯すことになる。

 わたし自身は、日本テレビに入社したてのころ、廊下で何度か、「あの」柱のように垂直な姿勢のままソロリソロリと歩く怪老人とすれちがい、何度か道をゆずったことがある。のちに事情を紹介するが、正力は、刀の切り傷で首筋を曲げる事が不可能になっていたのである。

 そのころの日本テレビでは、正力のことを「ワンマン」と呼んでいた。戦後の政界で「ワンマン」の名をほしいままにしたのは、吉田茂であった。正力のこのあだなは、そのセコハンである。戦前の読売では「ヘソ松」と呼ばれていたという。いつもチョッキの下からワイシャツがはみでていて、ヘソが見える感じだったからだそうだ。戦後の日本テレビでは、そういう「元気」な姿は見られなかった。肉体的には、もはや、枯れ木同然の感じだった。

 この第二部では、当然、人並み以上に元気そのものだった当時の、前警視庁警務部長、正力松太郎の読売「乗りこみ」の経過を、徹底的に疑って追及することになる。すでに帰したように、旧著『読売新聞・日本テレビ・グループ研究』以来、わたしは、正力の伝記の類いを「正力講談」と呼んでいる。江戸川柳の「講釈師、見てきたような嘘を言い」という意味の「講談」のことである。

 ところが、有り難いことに、その後、この種の「講談」作りの仕掛け人の一人が、まさに正力の墓石を暴き立てるような本を出した。「見てきたような嘘」批判についての、絶好の裏打ちが得られたのである。

 わたしは、その本が出たときに日本テレビを相手取る解雇反対闘争中だった。わたしの場合、解雇反対闘争が組合の全面支援をえていたこともあり、実質的に社内の出入りは自由であった。ペンネームで書いた旧著『読売新聞・日本テレビ・グループ研究』については、わたしが執筆者だということを確信する先輩や同僚が何人もいた。そういう先輩の一人が社内某所で、ある日、いささか興奮ぎみに、こう耳打ちしてくれたのである。

「柴田さんも本を出したよ。やっぱり噂通りだったね。これは、正力に対する徹底した恨み節だぜ。君とは立場が一八〇度違うけど、これは君にも参考になるよ」

 先輩がそういいながら、そっと手渡してくれたメモを頼りに、わたしは早速、その本を注文した。

 本の題名は『戦後マスコミ回遊記』(中央公論社)で、著者の柴田秀利は、元日本テレビの専務取締役だが、すでに故人である。

 わたし自身は柴田と、何度か廊下で違ったり、団体交渉の場で一、二度ほど顔を合わせた程度の関係でしかなかった。柴田は、団体交渉に出席するのは嫌いだったようで、発言の記憶はない。噂は色々と耳にしていた。おおまかにいうと、元陸軍特務将校の切れ者で、正力の懐刀といったところだった。専務のつぎには、社長の座を実力を勝ち取るかと見えていた。ところがなぜか、正力の晩年に続いたゴタゴタ人事にまぎれて、いつの間にか、姿を消してしまった。もっぱらの観測は、よくある話で、実力がありすぎるのが、かえってつまずきの原因になったようだ。自分の息子に跡を継がせようとするワンマンの正力が、実力のありすぎるナンバーツーの柴田を追い出したらしいのである。

 すでに紹介した『巨怪伝』は、柴田の『戦後マスコミ回遊記』を全面的に組みこんでいる。それだけではなく、柴田自身からも直接くわしく取材した話を加えている。『巨怪伝』の表現を借りると、柴田は、「正力松太郎によって歴史から抹殺された人々」の内の一人である。戦後のテレヴィ関係に限れば、そこでの筆頭格と評価しても良いだろう。

 柴田は、正力のたっての願いに応えて、『テレビと正力』という本を講談社から発行させた。表面上の著者は室伏高信になっている。室伏は、戦前にベストセラー『文明の没落』を発表し、その後は埋もれていた評論家である。だが、表題通りの第一部、「テレビと正力」の部分は柴田の口述筆記によるものであり、第二部だけが、室伏自身が書きためていた「マスコミ論」であった。『戦後マスコミ回遊記』には「この本の由来」が、つぎのように記されている。

「ある日、正力が私と二人きりの時、『実は僕ほど政界、財界を通じて、誤解され、評判の悪い男はないんだ。これでは日本テレビを成功させるためにも、思わしくないから、何とかこの際、君の手で……』と神妙な態度で申し出た」

 柴田はさらに、正力が「蚊の鳴くような声で訴えた」とも表現している。あの傲岸不遜の典型のような正力が、年下で部下の柴田に「神妙な態度で申し出た」り、「蚊の鳴くような声で訴え」る姿などというものは、およそ想像しがたい。しかし、前後の事情を考慮すると、論理的にはうなずけるのである。

『テレビと正力』の内容については、柴田自身が、つぎのような反省の弁を記している。

「よく読んでもらえば分かる通り、テレビ発足から、成功の目処の付くまで、創意工夫のすべては正力の発案であり、功績であるとして、彼を時代のヒーローに仕立て上げてある。[中略]そうしたことが、その後輩出したテレビ史や正力史に、さらに一層巧みに誇張され広く流布されているのを見て、責任の大半は私にあるとはいえ、笑止に堪えないことが多い」


(第4章-2)
「創意の人」、実は「盗作専門」だった正力の晩年の我執


 読売や日本テレビの社史も、まさしくその伝である。柴田は、具体的な「仕立て上げ」とその「誇張」の例を、詳しく指摘している。この手の正力講談のなかでも、いちばん典型的なのが、「街頭テレビの発案者」の問題であろう。

 日本テレビは、発足当初、電波がとどく関東一円に約二〇〇台の街頭テレビを設置した。

 この独特のアイデアの成功による予想以上の観衆動員が、経営開始後七か月で黒字に転ずることを可能にした決定的条件であった。受信台数によってではなくて、時には一台に一万人以上も群がった街頭テレビの観衆という、受信人数で計算できる宣伝効果によって、広告収入が、うなぎのぼりに上昇したからである。先輩国のアメリカでは、トップを切ったNBCが黒字を出すまでに四年以上かかっていた。NBCの親会社RCAはテレビ受像機のメイカーだったから、受像機販売の利益をNBCにつぎこんで、この四年をしのぎ切った。日本テレビは、その四年の記録を、たったの七か月へと大幅に更新したのである。

『戦後マスコミ回遊記』には「黒字転化で世界新記録」というゴシック小見出しが立っている。その次の小見出しが「街頭テレビの発案者」である。

 その項目で柴田は、「『開局四周年に当たりて』と題し、全社員を集めて行った正力社長の演説」の一部を紹介する。正力は、「街頭テレビ成功の秘訣を得々として語り、これがなかったら、広告はとれなかったと力説した上で、『こういう分かり切った原則をだれも考えつかなかった。手柄話をするようだけど、この平凡な原則を考え出したのは、私だった』と大見栄を切った」のである。これを聞いた途端に、実情を詳しく知る柴田は「あっけにとられた」。しかし、正力は「以来、どこへ行ってもそれを吹聴してやまなかった」のである。

 真相はといえば正力自身、この演説の直前に当たる一九五五年(昭30)に「世界読書力財団」のスピアー会長宛てに出した手紙の中で、このアイデアをアメリカ人の技師、ホールステッドから教えられたと明記し、感謝の意を表明している。手紙の文章は、もしかすると柴田の代筆なのかもしれないのだが、そこには、つぎのように記されていた。

「日本でテレビ計画を始めたときから、本社はホールステッド氏の技術指導を仰いできた。[中略]中でも当地でテレビ経営に成功した一番の理由は、彼に教わった大型テレビ受像機による街頭テレビのアイデアであった」

 同様の趣旨の記事が『リーダーズ・ダイジェスト』に掲載されていた。そこで柴田は、その記事を正力に示す。

「たまりかねて私はさきにふれたリーダーズ・ダイジェストを彼に読ませた。ここに掲載されたホールステッドの伝記を読めば、多少は遠慮するかと期待した。しかし偉大な成功者となった彼には、もはや時すでに遅しであった。あきれたことに、私を呼びつけて怒鳴り出した。

『これはいったい何じゃ。街頭テレビを考え出したのは、おれじゃないか。直ちに抗議したまえ。撤回しなかったら告訴するぞ、といってやりたまえ。これは重大問題だ』

『それは無茶ですよ。教えてくれたのは、彼じゃないですか!!』

『違う。これは後々の歴史にとって、一番肝腎なことだ。断じて許せん』

 もうこうなったら、手のつけようがない。恥かしくて、そんな抗議文など、書けるわけがない。黙殺するしかなかった」

 柴田は正力と、戦争末期の読売時代から付かず離れずの関係にあった。日本テレビの創設の前後から、正力が完全におかしくなる晩年までは、いちばん身近にいた側近中の側近、いわば正力天皇の総参謀長格の人物である。その柴田の遺作が、これまた、正力の人格を完全に葬り去るものなのである。不徳の至りというほかはない。

 晩年の正力への最大のごますり言葉は、「創意の人」であった。しかし、『巨怪伝』では、このほかにも、いくつもの「盗作専門」の実例を並べている。いちいち紹介するのは避けるが、あとは推して知るべしというべきであろう。


(第4章-3)
社史に偽りのあるメディアに真実の報道を求め得るか


 人の評価は「棺を覆ってから定まる」というが、正力が死んでから七年後にでた『読売新聞百年史』でも、まだまだ、正力が読売の社長に「推薦」されたとか、「新聞経営の話に乗り気になった」とか、いかにも自然な成り行きに見せようとしている。この種の提灯持ち作文が、いつまで世間に通用するのだろうか。

 前章で紹介した『日本新聞百年史』での元報知記者、御手洗の次の文章を、もう一度、ここでも繰り返してみよう。

「この日、同業朝日の夕刊短評には『読売新聞遂に正力松太郎の手に落つ、烏呼[ああ]』と出ていた。それほど不人気、まさに四面楚歌である」

「それほど不人気」だった正力を、『読売新聞百年史』では、いかにも期待の救世主であったかのように描いている。これでは言論機関の社史としての評価には値しない。それとも現在の読売そのものが言論機関の名に値しないという方が適切なのだろうか。新聞は部数が増えれば、それで良いというものではない。歴史書として通用させたければ、たとえ相手が国家元首であろうとも、その国家拡大の業績如何にかかわりなく、事実を正確に記さなければならない。その意味では、正力の生存中に露骨な提灯持ちで編集された『読売新聞八十年史』も、正力の死後に編集された『読売新聞百年史』も、最新の『読売新聞百二十年史』も、まったくの「私史」、または古代中国流の「王朝史」としてしか評価できない。何時の日か、全面的に書き改められるべきである。

 正力の社長就任に話を戻すと、当時も現在も世間常識として、新聞経営の立て直しに最適な人物は、新聞人として実績が確かな人物である。むしろ、新聞業界には普通の業界よりも、そういう意見が通りやすい特殊性があるといった方が良いだろう。

 読売に限っての特殊事情があるわけでもない。読売自身の歴史に例を取ってみれば、本野家から買収したときの財界匿名組合が、朝日の元編集長、松山を社長にすえた経過が、その典型例である。

 務台自身は、正力の死後に、同じ副社長で正力の娘婿の小林与三次と対抗しながら、社長の地位を確保した。『読売新聞百年史』そのものを編集する以前に出た務台光雄社長自身の伝記、『闘魂の人』には、その時の事情説明が、「友人の助言」として、つぎのように記されている。

「小林さんは官界から新聞界に入ってまだ二、三年しか経っていないではないか」

 つまり務台は、「友人の助言」という形式で、経験豊な自分の方が、新聞社の社長として相応しかったと主張しているのである。

 のちに詳しく事情を紹介するが、正力は、戦後にA級戦犯の指名を受けて社長を辞任した。その後の公職追放以来の経過や放送法の建て前もあって、読売の社長の地位に戻るのは都合が悪かった。

 そこで、追放解除以後にも読売に社長を置かずに、自分は「社主」を称するという異例の人事によって、独裁権限をふるっていた。晩年には務台と、娘婿で元自治省事務次官の小林与三次を、同格の副社長に置いて互いに牽制し合わせ、拮抗関係を保たせるという、いかにも独裁者らしい人事配置をしていた。この拮抗関係を破って務台が読売社長、小林が日本テレビ社長という新しい勢力バランスを築くまでには、関係の財界人をまじえる七か月もの暗闘がつづいた。そのときに務台が決定的な武器としたのが、この「新聞界に入ってまだ二、三年」という小林の経歴の評価だったのである。

 以上のような関係資料の矛盾した状況は、正力自身が生存中にみずからの伝説作りに執念を燃したという特殊事情によって、ほかの人物の場合よりもさらに複雑になっている。なかでもとくに複雑怪奇なのが、読売に乗りこんだときの事情である。

 以下では、芥川龍之介の短編小説『藪の中』のように、語り手ごとに順序を追って、このときの事情を一つ一つ聞き直す形式で、その矛盾点を明らかにしていく。


第五章 新聞業界が驚倒した画期的異常事態

(第5章-1)
第一声は「正力君、ここはポリのくるところじゃない」


「社長松山忠二郎君の引退するととともに、前警視庁警務部長正力松太郎君の、かわって同社長に就任した一事は、ひさしく読売新聞の復興の遅々たるをいぶかしんでいた斯界(しかい)をして、大いに驚倒せしめるものがあった」

 これが、『日本新聞年鑑』(24年版)による正力社長出現への「斯界」、つまり、新聞業界の評価である。おそらく当時の平均的認識だったのであろう。

 読売の経営の変化は、当時の新聞界の最大の話題だったはずだ。同年鑑では「読売の社長更迭」、「整理と社員不安」、「悪資本家の非難」という三つの見出しを使い、三ページにわたる記事で読売を中心的に取り上げている。社長の「交代」とせず、「更迭」として、いかにも背後の強権の圧力をにおわせる表現をしているところにも、新聞人仲間だった松山への肩入れの感情が、にじみ出ているようだ。

 最初に批判のまないたにのせる『伝記正力松太郎』は、すでに何度か指摘したように、御手洗辰雄が正力の提灯持ちで書いた本である。

 御手洗の提灯の持ち方には、講談に特有の乱暴な特色がある。というよりも、描く対象の正力自身が本当に「乱暴者」だったから、その特徴を逆手に取る以外に提灯の持ちようがなかったのかもしれない。利用の仕方によっては、正力の乱暴さを立証する同時代人の証言記録にもなりうるものだ。

 もしかすると、御手洗には「ふたごころ」があったのではないだろうか、という興味さえわく。御手洗は、読売に合併吸収される以前の報知の記者だったし、関東大震災の時期には社会部長にまでなっていた。新聞界では正力の大先輩に当たる。しかも報知は、小新聞(こしんぶん)の読売より二年前に郵便報知として発足した大新聞(おおしんぶん)である。当然、報知人は、読売を見下す気位の高さを誇っていた。関東大震災以前には、東京で第一位の発行部数を誇っていた。御手洗にも、そんな元報知記者としてのプライドがあったはずなのである。もちろん、関東大震災前後の新聞事情をも肌身にしみて味わっている。

 だから御手洗は、すくなくとも、『読売新聞百年史』のような不自然な脚色はしていない。一応は世間常識に従って、前警視庁警務部長の新聞界への乗り込みという、異常事態にたいする新聞人の反感を描いている。その反感に満ちた新聞人たちを相手にまわして、正力がいかに勇敢に戦ったかという描き方をしている。扇子をたたくような講談調で巧みに提灯を持っているのだ。しかも興味深いことに、この『伝記正力松太郎』は、同じく大提灯持ちの私史、『読売新聞八十年史』と同じ年に刊行されていて、記述にも共通点がおおいのである。

「正力君、ここはポリのくるところじゃない。生意気だよ、君が社長だなんて。帰れ帰れ」

 これが、乗り込みの当日、正力に向けられた最初の声であった。正力が読売の社内に入っても、誰も相手にしようとしないので、机のうえに立ち上がって強引に就任演説を始めたのである。御手洗は、その日の朝、読売へ向かう前の正力の姿を、目撃証人からの聞き伝えとして、つぎのように記している。

「その後、死んだ後藤圀彦が、筆者に物語ったことがある。いよいよ乗りこむ日の朝、工業倶楽部で河合良成と三人で会ったが、『いよいよこれから乗りこむんだ』といった時の正力の顔は、さすがに緊張して、あの太々しい男が武者振い(ママ)しておった、と」

 この朝の出陣前に正力が会っていたという後藤と河合は、正力の東京帝大時代からの友人で、ともに財界人だった。会合場所の日本工業倶楽部の会館は、いまもなお昔の姿で東京駅の丸の内北口にあり、経済団体のなかでも主に労務対策を任務とする日経連が事務所を置いている。第一次世界大戦後の一九一八年(大7)六月、戦争景気の勢いを駆ってつくられたものである。『財界奥の院』(新日本新書)では、つぎのように描写している。

「当時としては豪華をきわめた大建築で、『資本家御殿』とよばれていた」

『伝記正力松太郎』では、この「資本家御殿」を出た正力が、単身、読売に乗りこんだようになっている。その単独行動は、その日の朝だけのこととしては本当なのかもしれない。ただし、それ以前の警視庁時代の正力の単身乗りこみに関していえば、多数の部下を率いて群衆の規制に向かい、衆目の前で単身突入したのである。決してまったくの単独行動ではない。読売に乗りこんだときにも、旧部下にそれとなく身辺警護を頼んでいた可能性がある。というのは、御手洗が、つぎのような事実経過をも指摘しているからである。

 正力は社長就任の直後に、「社務の統轄をする総務局長には警視庁で当時特高課長であった小林光政、庶務部長には警視庁警部庄田良」を、「販売部長には警視庁捜査係長をしていた武藤哲哉」を任命するという、「腹心をもって固めるやり方」をとった。「これがため新聞界では、読売もとうとう警察に乗っ取られ、警察新聞になって終うのかと嘆声やら悪口やらが出た」のである。



(第5章-2)
「千古の美談」に祭り上げられた「軍資金」調達への疑問


 さて、疑いもなく正力は、「資本家御殿」で財界人の友人たちの見送りを受けたのち、「いざ鬼が島へ」とばかりに、東京駅をはさんで反対側の銀座にある読売を目指して出立したのである。

「資本家御殿」が持つ最大の力、または武器は、「カネ」にほかならない。軍事用語になおせば「軍資金」であり、その供給場所こそが「資本家御殿」だったのである。では、そのときの正力の懐には、どれほどの「軍資金」が供給されていたのだろうか。

 数ある正力講談のなかでも、もっとも複雑なのが、この「軍資金」、または普通の経済用語でいえば「経営立て直し資金」の、金額と供給源の問題である。

 資金を大別すると、当面の経営権買取りなどの手当をするための短期資金と、その後の設備更新、新規投資などの長期資金とがある。総額を一時に供給する必要はないから、乗りこみ当初に正力が懐にしていた金額は、短期資金の範囲内であろう。

 ところがまず正力講談では、その短期と長期の「軍資金」の区分を明確にしない。または、わざと単純化して、「桃太郎の吉備団子」めかした物語の粉飾の小道具にしてしまっている。ただし、そのやり方は、素人だましの口先のごまかしでしかない。

 読売はいまでも同業他社と比較して、経理内容が未公開、不明確な点で際立っているが、当時のこととなるとなおさらで、まったく公開の経理資料がない。そこにつけこんで正力自身が、針小棒大のデッチ上げ「美談」を吹きまくった。さらに、その裏を取ろうともしない読売という「新聞社」を先頭とする大手メディアが、つぎつぎに、それを忠実になぞるデマ宣伝をくり広げてきた。メディア業界には、この種の現象を「活字の独り歩き」と呼ぶ習慣があるが、この表現には責任逃れのごまかしが潜んでいる。活字が勝手に歩くわけはないのだ。

 第一の責任は、最初の嘘の裏を取って論破する努力を放棄した大手メディアにある。読売のように、メディア自身が嘘を製造している場合には、無責任というよりも犯罪だというべきであろう。第二に、そのつぎとか、つぎのつぎとかの大手メディアも、何々によればという注釈すらつけない。まさに、「講釈師見てきたような嘘を言い」つづけるのだ。最大手出版社の講談社が発行した『伝記正力松太郎』の正力講談などは、そのひとつの典型である。

 旧著の『読売新聞・日本テレビ・グループ研究』を準備した際には、自力で可能なかぎりの資料を収集したが、そのなかで資金問題にふれていたものは、ほんのわずかだった。すでに紹介したような社史や年鑑だけである。その後に出版され、わたしの旧著以上に資料収集の手間をかけたと思われる『巨怪伝』ですらも、旧著の範囲内の資料で論じている。おそらく、これ以上の資料の発見を期待するのは無理なのではないだろうか。

 しかし、それらのわずかな資料によるだけでも、正力講談などの矛盾点は明確に立証できる。政界を背景とした財界資金の投入の状況も、かなりの程度、裏づけがえられるのである。以下では、わかりやすくするために、いちばん金額がすくない『伝記正力松太郎』の正力講談から出発する。そこから徐々に矛盾点をあきらかにし、「藪の中」の真相にせまっていく。

 正力自身の発言は、戦中戦後に万能評論家として著名だった大宅壮一が編集した『悪戦苦闘』と題する談話集のなかに収められている。そこで正力は、当座の資金一〇万円のみを後藤新平[前内務大臣]から借りたとし、これを「千古の美談」だと語っている。「千古」などという、こけおどしの漢語で人を威圧するのも、正力の得意の戦法のひとつであるが、「千古」には、「おおむかし」の原意から「永遠」の意味までがある。つまり、「永遠の美談」として自分の死後にも伝わることを、ひそかに期待していたのであろう。

『悪戦苦闘』の発行は一九五二年である。三年後の一九五五年に発行された『伝記正力松太郎』では、講釈師の御手洗が、これをさらに大袈裟に脚色する。まず、ゴシック文字の小見出しが「経営資金三万四千円也」となっている。いかにもすべての「立て直し資金」のようである。その計算がつぎのように劇的に示される。

「正力は組合の指図通り、十万円のなかから松山に退職金五万円、退職社員の慰労金として一万六千円を渡し、二人は引継ぎの契約書に調印した。正力の手に残った金は、三万四千円也である。これで半潰れの読売新聞に乗込もうというのだから、大胆であった。大胆というより、正力の心中はむしろ悲愴であった」

 パ、パン、パン、パン、と扇子の音が響きそうな名調子だが、これが元報知社会部長の評論家、御手洗の文章である。御手洗は正力の同時代人だから、歴史学などでは「業界の、ジャーナリストの、同時代人の証言」などとして二重にも三重にも貴重視されそうである。ところが、同じ御手洗は三〇年ほど前のこと、現職の報知社会部長の肩書きで、すでに何度か引用した『日本新聞年鑑』(24年版)に「震災後の記録的奮闘」という記事を執筆していた。その同じ年鑑にはすでに、正力が乗りこんだ当時の読売の資金問題について、つぎのように記されていたのだ。

「正力は東株[現在の東京証券取引所]の理事河合良成と親友であり、河合氏の口添えによって、東株理事長郷誠之介を通じ、郷氏の義兄川崎八郎右衛門君より十七万円、岳父安楽兼道[元警視総監]氏を通じて不動貯金の牧野元次郎氏から数万円、旧出資者たる中島久万吉氏等より数万円、合わせて最低三十万円をつくり、これをたずさえて入社したと、新聞研究所報は伝えている」

 続いて翌年の同年鑑にも、「読売の資本系統」という記事があり、そこにはつぎのように記されている。

「従来百万円の資本金であった読売も、正力社長の就任後、実業家方面から約七十万円の出費あり、同社の事業に好意と同情をよする人びとのなかには、安楽兼道氏をはじめ、牧野元一(ママ)郎、神戸蜂一、小池国三、藤原銀次郎、伊東米次郎、郷誠之介の諸氏に、三井三菱の諸系統が数えられるから、資力に心配はないらしい」

 しかも、「経営ぶりは、正力新社長の入社以来、一変して派手になった」とある。

 奇妙な点は、金額の相違だけではない。同時代の客観的な物的証拠として、もっとも価値の高い同年鑑には、正力自身が、その主の死後、社長室に遺影まで掲げて語りはじめたという、一〇万円の「千古の美談」で名高い「後藤新平」の名は、まったく現われないのである。

 はてさて、『伝記正力松太郎』と『日本新聞年鑑』(24、25年版)の、どちらを取るべきであろうか。ところが、この選択に迷う必要はまったくないのである。『伝記正力松太郎』と同じ年のすこしあとに出た『読売新聞八十年史』には、すでに、つぎのように記されていたのである。

「正力社長は本社譲り受けの際、後藤新平から融通を受けた十万円のうち五万円を松山前社長個人に、一万六千円を松山とともに退社する一三人に退職手当として支給し、残金わずか三万四千円をもって本社の経営に乗出した。もちろんこれだけの金で足りるわけはなく、財界有力者が改めて匿名組合をつくり、約六十万円の資金を供出した。

 出資者は、正力自身の四口をはじめとして、三井七万五千円、三菱五万円、安田四万円、小倉正恒(住友)、藤原銀次郎、川崎八郎右衛門、根津嘉一郎、浅野総一郎、山口喜一郎、松永安左衛門、益田次郎、原邦造、大谷光明などで、一口二万五千円であった」

「正力自身の四口」は「一口二万五〇〇〇円」で計算すると、ちょうど一〇万円になる。どうやら正力は、この四口分の一〇万円を後藤新平から借りたと称していたようである。

 だがなぜか正力は、のちに「千古の美談」として大袈裟すぎるほどに語るこの貸し主の名を、最初は秘密にしていたらしい。秘密にしていたのでなければ、『日本新聞年鑑』(24、25年版)の読売に関する記事にも、かならず載っていたはずなのである。後藤新平の名は、いささかでも、もれ聞こえていれば、無視されるはずはなかった。のちにくわしく紹介するが、ともかく前内務大臣であった。すでに紹介したように『日本新聞年鑑』(24年版)の記事、「やまとの新背景」でも、「田中君背後の出資者を、あるいは後藤子爵なりと推し」という具合に、疑惑の背景人物のトップに挙げられていたのである。

「千古の美談」の真相追及は、わたし自身が旧著『読売新聞・日本テレビ・グループ研究』で、初めて詳しく行なった。最大の特徴は、すべての情報の最後の出口が、正力の口以外にないという点である。嘘でも本当でも、「美談」とやらを都合が悪い時は秘密にしたり、状況が変わると大声で宣伝したりするという、そのエゲツなさにこそ、この「美談」の特徴を見るべきであろう。


(第5章-3)
最近なら「金丸システム」だった「番町会」への「食い込み」


 すでに紹介したように、元読売販売部員の大角盛美は、『別冊新聞研究』(8号、79・3)の「聴きとり」に答えて、次のように語っていた。

「問題は社の復興費だったんですね。それができないんですよ。松山さんを後援していた番町会の方から出ないんですよ。出ないというより出さないんですよ」

 大角の回顧談では、読売を本野子爵家から買い取った財界の「匿名組合」と、「番町会」とが完全に同一視されている。ところが、なんと、読売の社史には、「番町会」の「バ」の字も出てこないのである。まるっきり、「いない、いない、バー」なのである。

 その一方で、最新かつ最大の正力松太郎の評伝『巨怪伝』では、これも逆に、なんと、一〇頁にもわたって、正力と「番町会」の関係が記されている。「番町会」と読売の関係は、当時、秘密でも何でもなかった。公然と語られ、報道されていたスキャンダルである。それに続く「正力襲撃事件」、または「東京日日丸中販売部長事件」を、その余波として考えれば、『巨怪伝』の記述は全部で一九頁になる。この落差は、いかにも大きすぎるのである。

 そこで、「番町会」そのものを紹介する前に、もうひとつの戦前の第三者による同時代の証言として、『現代新聞批判』の記事から、当時の新聞業界の「番町会」と正力の関係に対する認識の程度を探ってみよう。まず最初に、『現代新聞批判』そのものを改めて紹介する。

『現代新聞批判』は、一九三三年(昭8)から一〇年間にわたって、大阪で月二回、各月の一日と一五日に発行されていたタブロイド版の新聞である。

 発行部数は約五百部と少ないが、当時の新聞関係者の間では内々に、質の高い批判紙として珍重されていたようである。復刻版がでたのは、つい最近、一九九五年八月のことである。なかには、戦前の読売を批判したり、または内情を伝える記事が、全部で五〇ばかりあった。「創刊の辞」にはこうある。

「現代新聞批判は現代のヂ(ママ)ャーナリズムに厳正なる批判を加え、その純化と向上を図るために創刊された」

 原版の収集に当たった立教大学教授、門奈直樹は、「戦時下、ある小型ジャーナリズムの抵抗/『現代新聞批判』とその周辺」と題する解説を執筆している。それによると、『現代新聞批判』の「編集発行人・太田梶太」は、「『大阪朝日』を諭旨戒告処分に等しく、依願退社させられた」という経歴の人物である。太田は朝日の社内で、戦後に読売の労組委員長となる鈴木東民や、ゾルゲ事件に連座する運命の尾崎秀実、森恭三らとともに「新聞研究会」を組織していたという。太田とともに編集の中心となった住谷悦治は、それ以前に同志社大学の教授になっていたが、一九三三年(昭8)に、京都大学を舞台とする「滝川事件の余波を受けて大学を追放された」のだという。住谷は戦後、同志社に返り咲き、総長となっている。

 門奈が収録した森恭三の追悼文によると、「当時、各新聞社の幹部たちは太田さんの筆を恐れ、若い記者たちは、痛快がって愛読した」という。大手紙の著名記者たちが、ある場合には署名入りで、ある場合には匿名で、この「小型ジャーナリズムの抵抗」に参加していたようである。

 正力と「番町会」の関係について、『現代新聞批判』では、まさに歯に衣きせぬ率直な表現でズバズバ書いている。以下、要点だけを紹介しよう。

「東京の二流紙と経営の玄人素人」(36・6・1)では、「読売がかくまでに猛進出し、また報知が一歩一歩後退したか」という理由のひとつとして、読売の経営資金の出所を、つぎのようにチクチク皮肉っている。

「正力にしてみれば、どうせ金は番町会辺から貢いで貰っているのであるから、そう金にケチケチする必要がいささかもない。それよりも威勢のよい新聞を作りあげて、多数の読者を獲得さえしておけば、マサカの場合、番町会のために大いに役立つのである。番町会としても、天下の利権を独占しようと企む強か者揃いであるから、読売に五万や十万の金を注ぎ込むことを屁の糞とも思ってはいないだろう。それよりも読売を利用して如何に番町会を有利にカムフラージュせしむるかにあるらしい。[中略]正力には番町会との腐れ縁が禍して、とにかく陰鬱(いんさん)なサムシングが付き纏(まと)っている」

「読売新聞論(二)」(36・8・15)では、つぎのような関係を指摘している。

「彼はいつの間にかしっかりと番町会に食い込んでいた。警視庁の役人だったことは言うまでもない。[中略]役人時代に握って置いたネタが番町会食込みに口を利いたであろうことは容易に想像がつく」 さて、問題の「番町会」であるが、この会については、すでに『巨怪伝』以前に何冊もの、いわゆる疑獄史ものの著作に詳しい記述がある。わたしも旧著で簡単に記した。最近の例でいえば疑惑の「金丸システム」のような巨大な利権集団だった。

 本書は正力の評伝ではないから、詳しくは『巨怪伝』などにゆずる。読売の資金源の暗さを暗示する程度に限って、戦前の「金丸システム」の有様を紹介するにとどめる。『巨怪伝』では、つぎのように要領良く説明している。

「番町会というのは、正力はじめ若手実業家が毎月一回、財界の大立者の郷誠之助を囲んで集まる親睦会で、発足は大正十二[一九二三]年の二月だった。会の名は郷の私邸があった麹町番町からとられた。メンバーは中島久万吉、河合良成、後藤圀彦など正力の読売買収資金を工面した日本工業倶楽部匿名組合の面々のほか、伊藤忠商事の創業者の伊藤忠兵衛、渋沢栄一の秘書から実業界に打って出て、戦後は岸内閣の運輸大臣となった永野護、同じ山梨県出身の根津嘉一郎に認められて実業界入りし、戦後は桜田武、永野重雄、永野成夫とともに『財界四天王』と呼ばれた小林中などがおり、番町会のメンバーのなかには、「この顔ぶれだけで内閣ができるな』と、冗談めかしていう者さえいた」『巨怪伝』には、番町会の設営役だった生き証人、古江政彦の証言が記録されている。古江は、郷の秘書役、後藤圀彦の書生であった。その証言には、つぎのような実感溢れる部分がある。

「あの当時、番町会の勢いは大変なもので、会社を合併するにも、番町会に図らんとできん、郷さんのうちに相談にこなければ大臣にもなれん、といわれていた。事実、その通りだった。[中略]正力さんも、番町会あっての正力だった。番町会で人脈を広げなければ、読売もあれほど伸びなかっただろう。あの人がきているのは玄関先の靴をみればすぐにわかった。いつも汚い靴を乱雑にぬぎ捨てたままだった」


(第5章-4)
「帝人事件」から「陰鬱なサムシング」の数々への疑惑の発展


 番町会は、しかし、決して天下無敵ではなかった。福田諭吉が創設した政論紙の時事新報が、一九三四年(昭9)初頭から、実名入りの大キャンペーン連載「番町会をあばく」を始めた。番町会は正力の提案を受けて、いったん告訴の方針を決めたが、それを断行できなかった。

 前出の生き証人、古江の最近の表現を借りれば、「番町会というのは、佐川急便以上に、叩けばホコリの出るところだった」のである。時事がキャンペーンを開始して三か月後には、番町会が深く関わっていた著名な大疑獄、帝人事件で、帝人株買取りの関係者として河合良成、永野護、中島久万吉らが検挙された。正力も背任幇助の嫌疑で地検に召喚され、市ヶ谷刑務所に収監された。事件そのものは、四年もかかって「無罪」判決となるが、正力が株取引で巨額の利益を得ていた事実に関しては、様々な証言が残されている。

 さて、さきに紹介した『現代新聞批判』(34・6・1)の記事には、つぎのような意味深長な文句があった。

「正力には番町会との腐れ縁が禍して、とにかく陰鬱なサムシングが付き纏っている」

「陰鬱なサムシング」とは何だろうか。もしかして、はっきりとは言いにくい問題だったのだろうか。そうではないのである。むしろまったく逆で、当時の読者には、一言の説明の必要がないほどの大事件が起きていたのである。

 先頭に立って「番町会をあばく」の大キャンペーン記事を連載していた時事新報の社長、武藤山治が、その年の三月九日、大船の自宅から出たばかりの裏道で襲われ、書生と一緒に五連発のコルト拳銃で殺された。犯人の失業者、福島信吉も、なぜか、その場で自殺した。ただし、自殺した「ことになっている」と付け加えるべきなのかもしれない。殺人現場の目撃者は誰も現われなかったのである。

 当然、当時も、番町会の背後関係を疑う議論が、あらゆる場で広がった。疑惑報道もなされたし、検察当局も番町会関係者を召喚して事情聴取した。番町会の河合と弁護士の清水が、事件の三日前に犯人の福島と会ったことを認めた。おそらく、会ったことだけは認めざるを得ない材料を、検察が握っていたのだろう。だが、捜査は、なぜか、途中で打ち切られてしまった。

 本書のテーマ上、いちばん興味深いのは、時事新報の武藤が「番町会をあばく」の大キャンペーンをはじめた個人的動機である。『巨怪伝』によると、それがどうやら、競争相手として急速にのし上がってきた正力経営の読売の、資金源への疑惑にあったらしいのである。

 翌年の一九三五年(昭10)二月二二日、今度は正力が襲われた。読売本社に入るところを、背後から日本刀で首筋を切られた。番町会の「バ」の字も出てこない『読売新聞百年史』といえども、この事件だけは無視するわけにはいかない。「正力遭難にも屈せず」の見出しで、読売の診療所で「医者を呼べ」と命じた正力の「バイタリティー」を、おおげさにたたえたりしている。犯人の長崎勝助は右翼団体「武神会」の会員だったが、この背景も、やはり、大変な疑惑だらけだった。『読売新聞百年史』では、つぎのように簡略に記している。

「武神会会長の熱田佐ほか数十人が取り調べを受けたが、結局単独犯ということで、長崎は傷害罪で懲役三年となった。事件そのものは落着したが、激烈をきわめた新聞販売合戦のさ中でもあり、業界にはいろいろうわさが飛んだ。熱田が東日関係から金をもらったこと、東日販売部長丸中一保がその後行方不明となり、伊豆山中で白骨死体で発見されたことなどが、うわさに輪をかけた。それほど、当時の販売競争はものすごかったし、読売の伸びっぷりは目についていたのである」

 白骨死体の発見後、事件は再び東京日日への恐喝事件として審理され、熱田には懲役六か月の判決が下った。『巨怪伝』では六頁も費やしている丸中事件を、これ以上要約紹介するのは不可能である。要は、読売が仕掛ける「販売競争」の結果が、これだけ「陰鬱なサムシング」を世上に撒き散らしていたということである。

 番町会のボスだった郷誠之助は男爵の位を得て、戦争中の一九四二年(昭17)に死んだ。しかし、番町会の伝統は、戦後の政財界にも引き継がれた。戦後の自由党結成、吉田茂首相の実現については、児玉誉士夫の通称「児玉機関」など、怪しげな様々の資金源が取り沙汰されているが、一九五二年(昭27)に初版が発行された『この自由党』(復刻版、晩聲社)の前編「民衆なき政治」には、「悪名高き番町会」の見出しがあり、つぎのように記されている。

「日本貿易会会長中島久万吉氏も吉田の遠縁に当っており、[中略]かつて郷誠之助男爵をとりまいて財界を荒らしまわった悪名天下に高い『番町会』のメンバーである。彼は第一次吉田内閣以来、吉田の経済顧問として、同じく番町会の、産業復興営団会長長崎英造を推薦し、すでにこのころから吉田の周辺に、永野護、河合良成、さらに大政翼賛会の前田米蔵、大麻唯男ら番町会のお歴々が戦後勢力として大きな発言権をもつようになったのである。[中略]永野護の弟重雄が経済安定本部次長から富士製鉄の社長におさまり、今や財界にゆるぎない地位をきずいたのも、このグループの力を示すものである」

 この内、永野護は、「昭和の妖怪」の異名を取った岸信介の指南役だったといわれている。岸内閣では運輸大臣になり、岸とともにインドネシア賠償疑獄の主となった。戦後処理の賠償の中に一〇隻の船があり、その内の九隻が、永野が関係する木下商店の扱いだったのである。この件は関係書にくわしいが、うやむやのまま検挙にはいたらなかった。正力との関係では、永野護が関東レース倶楽部の取締役、弟の重雄が日本テレビ創立時からの社外取締役であった。


(第5章-5)
「大きな支配する力を握って見たい」という珍しい本音の告白


 正力の読売乗りこみの背景には、以上のように、数多くの疑惑の人物が潜んでいる。かれらの正体を追及することによって、事態の深層は、より鮮明に浮かび上がってくるであろう。前内務大臣の後藤新平などは、数多い疑惑の背景人物の象徴的存在である。

 以下、資金源以外にも数多い乗りこみ物語の矛盾を指摘しながら、同時に、疑惑の人物名と、その位置づけを整理してみよう。

 およそ物語には「発端」がなければならない。犯罪でいえば「動機」である。正力講談では、疑惑の背景をぼかすために、なぜか突然、正力自身が読売の経営に意欲を抱いたという筋書きを組み立てている。それが「発端」であり、「動機」であるというのだ。

 なぜ読売が候補に上がったかという理由について、『伝記正力松太郎』では、つぎのように説明している。

「どうせ新聞をやるのなら、少しでも格のいい、信用のある新聞がいいし、あまり上級の新聞を手放す筈はないが、読売は当時ひどい経営難だったから、もし手に入るなら、この方がいい」

 実にあいまいな理由である。講釈師の御手洗自身が、これだけでは説得力に欠けると感じたものか、「少し話がうま過ぎてタナボタのようだが」と付け加えているほどである。

 なぜ新聞経営を志したかという理由となると、さらにあいまいである。

『読売新聞百年史』では、まず、正力が「虎の門事件」で懲戒免官になった事情を記している。事件そのものは著名だから、本書では、以下のように簡単な経過のみを記す。

 関東大震災の年の暮れ、一九二三年(大12)一二月二七日、のちの昭和天皇となる当時の皇太子、裕仁が、摂政の宮として大正天皇の代理で開院式に出席するため、自動車で議会に向かう途上、虎の門を通過中に仕込み銃で狙撃された。裕仁は無事で、犯人の難波大助は、その場で逮捕された。『読売新聞百年史』の記述から、その後の経過の要点だけを抜きだすと、つぎのようになる。

「事件当時、正力は警視庁警務部長の要職にあった。警衛の責任者として、正力は警視総監湯浅倉平らとともに、即日辞表を出していたが、年のあけた大正十三年一月七日、懲戒免官となった」

「大正十三年二月になって、匿名組合の郷誠之助に、正力の友人である後藤圀彦、河合良成の二人が『正力を読売の社長にしたらどうだろうか』と推薦した。郷も賛成して正力を呼び、『君もどうせ政界に出るんだろうから、新聞をやったらどうか。ちょうど読売が売りものに出ている。資金は三井、三菱から十万円出させる』と話した。

 たまたま、この年一月二十六日、摂政殿下[裕仁]のご結婚式があり、正力の懲戒免官は特赦となっていた。官界復帰の道は開けたのだが、本人にその意思はなく、それかといって実業界に行く気もしなかったので、新聞経営の話に乗り気になった」

 さて、最大の問題点は最後のくだりの「特赦」である。すでにも記したように、佐野眞一が『巨怪伝』で「元日本テレビ社員木村愛二」の説として紹介してくれた『マスコミ大戦争/読売vsTBS』でのわたしの主張は、この「特赦」の評価を、もっとも重要な根拠としている。中心部分は、つぎのようになっていた。

「虎の門事件というのは、時の皇太子兼摂政、のちの昭和天皇が虎の門で日本人青年から仕込み銃で射たれたという一大不祥事件だから、関係者一同が連座しただけである。正力は翌年の一月二六日、他ならぬ皇太子の結婚を機に『特赦』となった。つまりこれで、官界への復帰は可能となっていたのであって、せっかく警務部長まで昇りつめていた正力松太郎が、まったく未経験の新聞経営に乗り出す必然性は、非常に弱いのである」

 さらに具体な根拠を追加すると、ほかならぬ『読売新聞百年史』にも、重要な欄外記事がある。「特赦」の直後の二月一一日、読売の紙面には「私設総監正力さん」の見出しがあった。問題の欄外記事の主要部分は、つぎのようである。

「この記事によると、正力の敏腕ぶりは“正力の警視庁”とまでいわれたほど。浪人中でも、心酔する若手連は相変わらず相談ごとをもち込む。正力の身のふり方については、総選挙出馬のうわさもあるが、本人は『断じて出やせん』と否定。警視庁の一幹部は『やっぱり本領を発揮する官職につくのだね。[中略]目下はゆうゆうとして私設総監が適任だろう』という……。

 こんな消息記事ののんびりした扱いを見ると、わずか半月後の正力の読売入りは、夢にも考えられていないようだ」

 つまり、「私設総監」などという、現職の警視総監をないがしろにしているといわれかねない表現で、「正力の身のふり方」が、警視庁内で論じられていたことになる。すでに警務部長まで昇りつめた正力は、警視総監への最短距離にせまっていた。特赦になった以上、警視総監から、さらには内務省の警保局長などをねらう高級官僚コースに戻るだろうという予測が、警視庁内でも当然のこととして取り沙汰されていたのである。

 正力の経歴は、のちに詳しく紹介する。とりあえず、この時期までの経過を見ると、ただただがむしゃらな出世欲を、むき出しにしたまま走っているだけである。およそ、言論を通じて理想を求めるなどとという、文人的性格があったとは考え難いのである。

 その点では佐野眞一が、「珍しく本音を語っている」と『巨怪伝』で評価する正力の発言がある。出所は、『現代ジャアナリズム論』所収の、「昭和初期の文芸評論家の杉山平助との対談」だが、引用されているのは、つぎのような部分である。

「杉山 新聞をやり初めたときには、何か理想でもあったのですか。

 正力 そういう抱負とか云うものは持ち合わさないんで、ただ単純に考えていたのですよ。うすうすながら、これからの人間は、筆の力か、弁論の力か、金の力のいずれかに拠らねばならないと考えていた。そこで新聞によって、世の中を覚醒しようとも考えていなかったが、ただ筆の力を認めていたわけです(中略)。

 杉山 そうすると、あなたが新聞を始められたのはさしあたり明瞭な理想もないが、とにかく大きな支配する力を握って見たい。そして、それを握ってから、何かを行おうというんですね。

 正力 まあ、そうです。

 杉山 そこらは既成政党首領なぞと同じですね。とにかく党員を獲得して、力を握らなければならん、というのに似た考えで、まず新聞の紙数を増やそうと努力なさるわけですね。

正力 そうです。その通り」

 この対談の流れから判断すると、正力は、杉山の「何か理想でもあったのですか」という、いかにもぶっきらぼうな質問の仕方に、気合い負けしているようだ。正力が得意の柔道でいえば、いきなり股下に潜り込まれたような、気味の悪い状態に陥ったのではないかと思える。まるで「持ち合わせ」のない「理想」などというシロモノを、さらに追及されるのではないかという潜在的な恐怖感が先立って、正力の全身から不意に力が抜けてしまったのではないだろうか。

 佐野は、この正力の「本音」を「没理想家ぶり」と評している。いわゆる右か左かの思想傾向は別として、正力には、新聞の発行に人生を賭けるような理想家肌の物好きな性格は、まるでなかったのだ。

 しかも、当時の新聞経営は、経済的に極めて不安定だった。資金の出所となる財界の目から見れば、いわゆる「金食い虫」であった。その側面から見ると、実際のところ、財界の友人たちが正力に新聞経営を「推薦」したのだという「正力講談」の説明は、これまた極めて疑わしくなるのである。『読売新聞八十年史』の方の、つぎのような記述を見ると、「期待」どころか、むしろ、大いに心配している。

「藤原も正力の経営手腕には相当不安を持っていたらしく、当時出資者の会合ではこのことがよく話題に上り、出資者の結論は、『警視庁の敏腕家が新聞界で切れるかどうか、新聞事業は一種特別だから期待するとえらい目に会うかも知れん』というのがおちであった」

 文中の「藤原」は、読売の匿名組合の「正力」監督責任者の一人となった王子製紙社長、藤原銀次郎のことである。藤原は、ただ単に「えらい目に会うかも知れん」と心配しただけではなかった。「正力が社長になると、藤原銀次郎は、『君は新聞のことはわからないから大毎から支配人を入れよう』といい出した」のである。

 この話は正力が断るが、藤原の本拠地、王子製紙の会計部員だった安達祐四郎が、読売の会計主任に入っている。要するに財界人たちは、正力の経営能力をほとんど信用していなかったのである。『読売新聞八十年史』では、そのほかにも、財界の有力者が毎月の第三金曜日に集まる「三金会」で、読売の経営的側面の議論をしていたと記している。『読売新聞八十年史』では、「三金会」を、単に読売の匿名組合のメンバーが集まるものという形で表現しているが、そこに集まる彼らこそは、当時の財界の押しも押されぬリーダーたちだったのである。

 とくに藤原銀次郎と正力の関係については、『巨怪伝』に、当時を知る生き証人の証言が記録されている。「大正八[一九一九]年に読売入りし、後にラジオ部長となった阿利資之」は、「正力が乗り込んできたときの読売を知る唯一の証人である。平成六[一九九四]年九十八歳になるその阿利によれば、この当時の本当の社主は藤原銀次郎だといわれていたという」のである。正力の存命中に発行された『読売新聞八十年史』にも、「新たに郷誠之助と藤原銀次郎が監督することになった」と記されている。何を監督するのかといえば、正力の読売経営である。郷は、すでに本書でも、「番町会」の会場となった麹町番町の邸宅の主として登場している。現在ならば東京証券取引所理事長の立場で、日本の独占再編成を指導していたという、まさに財界の若手実力派の中心人物である。

 番町会でもかれらは一緒だったが、実際には、警視庁官房主事時代から、正力と郷ら財界人との深い関係が続いていた。しかも、その人脈の広がりには、陰の部分があった。


(第5章-6)
CIA長官に匹敵!?「総監の幕僚長」お得意の「汚れ役」


 正力が、以上のような財界のリーダーたちと知り合ったのは、警視庁の官房主事兼高等課長という職責にあった時代である。官房主事という官職には、重要な陰の部分の任務があった。まずは正力自身の『悪戦苦闘』における自慢話から紹介しよう。

「僕が警視庁の官房主事時代の[中略]仕事はもっぱら政党と貴族院を操縦することだった。だから大いに待合政治をやったんだ。[中略]あの時の機密費は三千円だった。ハドソンの車を一台持っておるし、大したものだよ」

 機密費や専用車は別としても、「もっぱら政党と貴族院を操縦する」とは、いかにも話が大きすぎる。一応、眉にツバをつけておこう。御手洗辰雄の『伝記正力松太郎』の方では、正力が貴族院議員の組織、「研究会」で重宝がられたとし、つぎのように記している。

「研究会幹部の相談相手のようになり、少数の幹部の時には会議の席に出て意見を述べるようなことさえあるようになった」

 御手洗はさらに、官房主事の立場を、つぎのようにくわしく描きだしている。

「官房主事は総監の幕僚長として、あらゆる機密に参画するが、それよりもこの地位は政治警察の中心として、すこぶる重要な役割をもっていた。政治情報の収集はもとより、思想関係・労働関係・朝鮮関係・外事係などから直接政治家の操縦もやり、重要法案の難航する時など、反対派の説得までやるのである。高等警察というのがそれで、特高というのはその中の思想や文化関係を担当する、特別高等係のことである。総監のすることは何でも知っておらねばならず、また政府の政策遂行をよく心得て、内閣書記官長・内務大臣・警保局長と直接連絡し、与党の幹事長ともむろん密接につながっていなければならない。官等や地位は低いが、仕事そのものは内閣の政策や運命に関与する大事なことばかりである。当時官房主事の機密費は月三千円、ハドソンの専用車一台をもち、その点では大臣待遇だった。議員の歳費が二千円、内閣の機密費が十万円の時代だから、どれ程重視されておったか分かる」

 この御手洗の本を、本書ではすでに「正力講談」に分類している。そのまますべて鵜呑みにするわけにはいかない。だが、『日本の政治警察』(新日本新書)の著者、大野達三も、政治警察と天皇周辺との間にいくつかの直接ルートがあったとした上で、つぎのように記している。

「絶対主義的天皇制が確立して以後になると、政治警察活動はもう一段、総理大臣をとびこえて枢密院議長あるいは元老と直結し、天皇の組閣下命に重要な役割を果すようになった」

 こちらの説明の方が、「総理大臣をとびこえて枢密院議長あるいは元老と直結し」、その上には「天皇」しかないところまで権力中枢に近づくのだから、正力講談よりも機密の程度が高い。ただし、この場合の「政治警察」は、御手洗がいう「内閣書記官長・内務大臣・警保局長」クラスの位置づけである。官房主事は、それ以下の事務局または実働部隊の長である。

「直結」とか「直接ルート」とかいう機密情報の収集方法は、江戸時代の「お庭番」制度と同様である。重要情報の独占は、伝統的な最高権力者の知恵である。官僚機構の上下関係を十二分に活用しながらも、同時に、官僚の裏切りを防ぎ、支配の根幹をにぎりつづけるためには、直属の情報組織を維持しなければならないのだ。「情報は力」である。実際の「お庭番」として、天皇または側近に直接上奏したのは、「内閣書記官長・内務大臣」あたりであろう。その中間には「宮相」もいたはずである。

 官房主事の立場から、逆にこの「直接ルート」を上にたどると、「警視総監・警保局長・内務大臣」になる。

 正力が官房主事として関東大震災に直面したとき、震災の翌日の九月二日から内務大臣に再任したのが、後藤新平である。正力の弁によると、「後藤の大風呂敷がきらいで地方転出を願い出た」そうだが、結局は親しくなっている。「直接ルート」の関係だったようだ。その後の状況は、正力自身が『悪戦苦闘』で語るところによれば、つぎのようである。

「そこで、僕は警務部長になった。これがまた不思議なことに、後藤さんという人は官制なんてまったく眼中にないから、警務部長の俺を呼びつけて、政治関係のことをやらせる。『それは権限が違います。警務部長の仕事ではありません』といっても、受付けてくれん。そうこうしているうちに、後藤という人は、俺が考えておるのと違うなと判ってきた。判ってきたから、こっちは本気になっちゃったし、ますます後藤さんの信用を受けるようになった」

 つまり、正力は、官房主事から警務部長の時代を通じて、後藤と「直接ルート」でつながっていたらしいのだ。ただし、そのつながり方には、いささかニュアンスの違う別の裏話の証言も残されている。

 正力の富山四高時代からの友人に、品川主計がいる。読売の仕事まで手伝った仲だ。長期の友人関係というものは、どちらかが馬鹿になれないと続かないといわれるが、品川は正力とは対照的な実直型の性格だったようである。上司への売りこみも下手だったのだろう。いったん内務省から外に出たこともある。内務省内の昇級では正力に追い抜かれ、三代あとの官房主事になった。品川は回想録『叛骨の人生』(恒文社)の中で、つぎのように語っている。

「正力君は、後藤新平内務大臣に非常に信用があった。何故かというと、彼は貴族院の操縦がうまかった。貴族院の操縦がうまいということは、貴族院の有力な誰かと手を握るということです。私が官房主事になってみると、すぐ、水野直さんという子爵から『ちょっと来てくれないか』と言われて行ったことがあります。その時、水野さんは、病床に寝ていました。そして『ひとつ君に頼みがある。近衛公爵の私行を調べて呉れ』との話でした。私は、『犯罪ならばだが私行の類を調べることは、私には出来ません』と言ってことわった。それでそれっきり水野さんとはお別れになりましたがね。

 これで初めて判ったんです。正力君は水野さんのそうした類の頼みを受けてやっていたから、貴族院操縦の腕を揮うことができた。水野さんという人は研究会を動かしていた人です。だから、貴族院を操縦するためには、そういう依頼も引受けてやっていなければ出来ないのですね。私の行き方は、少し違う訳で、どっちが良いかは判りませんが、私としては無能と言われても自分のやり方に満足しているのです」

 つまり、実直な品川は、本来の職務にはずれた水野の頼みを拒否した。結果は「水野さんとはお別れ」だけで、どこからも別に咎められてはいない。引き受けなくても、職務怠慢を問われる性質の仕事ではなかったからであろう。

 後藤が正力を「非常に信用」したという実績の中身は、簡単にいうと、官僚としての一種の背任行為である。警察官の職務を外れ、違法にも配下の警察機構を私立探偵並の「素行調査」に無断使用し、有力者の党利党略または私利私略に奉仕したのだ。いわゆる「汚れ役」、ダーティーワーク以外のなにものでもない。「操縦」とはいっても、自分の方が、たとえば水野の要請に応えて下働きをしていただけで、実際には自分が水野に操縦される「汚れ役の手先」だったのである。

 経歴の表面だけから見れば、品川主計は、正力と同郷・同学・同業の女房役、まさに終生の友の典型である。その品川が、こういう裏話を残すというところに、正力の「人徳」評価への最後の本音があるのではないだろうか。

 御手洗によれば、正力は「財界」との交渉窓口の役割も果たしていた。相手の団体の名称は「公正会」であった。御手洗は、つぎのように記している。

「公正会とも近付いたが、ここでは郷が一人ズバ抜けた存在で、正力は郷だけを相手にし、郷もまた正力が決して嘘をいわず、政府のため忠実に働いているのを見て、信頼して何事も打ち明けた」

 形容詞の評価は別として、正力はすでにここで、財界の中心人物、郷と親しくなっている。その時の郷は、すでに、松山経営の読売に出資する匿名組合の中心人物でもあった。

 以上のような各界の「操縦」に当たって、正力は、警察機構の情報収集能力をも十二分に活用したにちがいない。しかも、それとは別に「機密費は月三千円」もあったが、この金額は、もっと多かったという可能性もある。

 というのは、さきの品川主計が警視庁警視の頃に当たるが、『日本の暗黒/実録・特別高等警察』(3)(新日本出版社)の中での回想によると、品川は、関東大震災直後の「治安対策上の緊急出費」として、大蔵大臣から直接「ポンと一万二千円の機密費」を受け取っている。東京府の予算からも「年間五万」の機密費が出ていたが、前任者が「五万の借金まで作っていた」ので、「翌年の府会予算で倍額の十万円の機密費を取った」。「共産党対策に必要だということを口実」にして「各所におねだり」した機密費で、「赤坂から芸者を引き、囲い者にする」官房主事もいたという。品川自身は、機密費として受けとった「四千円のうち二千円は、私の使い走りをやってくれる人間や、庁内に出入りする情報運びの浪人連中にわたした」と語っている。

 正力の場合には、いわば「仕事の鬼」の出世主義的性格が強かったから、機密費は主としてスパイの確保に使用されていたのではないだろうか。警視庁時代には、別に浮いた話はないようである。

 以上が正力の陰の人脈の秘密であるが、その中心には、正力が「千古の美談」を語り、その死後に社長室に遺影を掲げた主の、元内務大臣、後藤新平がいた。

 正力は、後藤の人脈の末席に連なっていたにすぎない。副首相格の内務大臣と警視庁官房主事、またはその後の警務部長という立場とでは、かなりの距離がある。後藤の生前には、正力を後藤の人脈に数える論評はなかったようである。数多い後藤の伝記類にも、正力の名は出てこないし、『吾等が知れる後藤新平伯』(東洋協会、29刊)という題の、親しい知人、友人、後輩の回想集にも、正力は登場しない。正力の読売「乗りこみ」から数えて、ちょうど一一年後に出た『経済往来』(37・3)の記事、「正力松太郎と読売新聞」では、郷誠之助らを正力の「資金網」と指摘したのち、つぎのような皮肉を飛ばしていた。

「読売新聞社長室には一枚の人物写真が掲げてある、これ郷誠之助かと思いのほか、後藤新平子[子爵]の肖像だ。正力は後藤内相の下に警視庁警務部長であった。虎の門事件で懲戒免官となり内相も共に野に下ったとは言え、後藤系の人物として正力を数える人は稀 (まれ)である。しかも永田秀次郎、松木幹一郎、前田多門、岩永祐吉、鶴見祐輔など、いわゆる後藤系の人達に共通なある特徴が、正力にはまるで欠けている。第一、文化人でない。第二、八方美人でない。第三、インテリ型でない。第四、闘争心が余りに強すぎる。第五、線が太すぎる。数えて行けば、違ったところがあり過ぎるどころか、一から十まで違っているのだ」

 だが、以上のような強烈な皮肉とともに、この記事では、つぎのような後藤の元秘書、佐藤安之助の秘話をも記してる。

「後藤が北京の旅舎にあったとき、東京の秘書役、松本幹一郎に暗号電報を打つことを命じた。電文は『いま帰るべきか否か、正力に聞け』という内容なので、佐藤はこれを見て始めて正力の怪物なるに驚いたという」

 この話は、正力が読売社長になってから三年後、一九二七年(昭2)のことである。後藤は、正力の最前線情報を珍重していたのであろう。こうした極秘の関係をも含めて、正力の読売「乗りこみ」の背後に後藤の黒い影がちらつくのは、まぎれもない事実なのである。

 正力による「千古の美談」宣伝は、もとより、読売の社長室に後藤の遺影を飾るだけでは終わらなかった。正力は、あらゆる手段で、死人に口なしの後藤の威光を独占しようと努めた。『読売新聞八十年史』の写真版頁には、後藤の写真と、正力の肖像画の写真とが、左右に向き合うように並べられており、その上の、「美談に芽生え感謝に実を結んだ『大読売』」と題する一文が、以後の区分、自称『大読売』時代への導入部となっている。この一文によれば、正力は、「故伯の生地岩手県水沢に後藤伯記念公民館を建設寄贈してその厚恩にむくいた」のである。面白いことに、ここでは、「相識ることいまだ日の浅かった正力のために伯が」、「千古の美談」の「十万円」を都合したという文脈になっている。さきのような、「後藤系の人物として正力を数える人は稀である」などという皮肉が、少しは通じて、物語の修正を迫られていたのではないだろうか。

 この二人の肖像写真は、版権のトラブルを避けるために、位置関係をそのままにして縮尺した絵とし、若干の説明を付した上で、本書の第二部の内扉に配しておいた。


 面白いことに、『読売新聞八十年史』の本文には、「千古の美談」の苦心の筋書きを裏切る部分がある。正力を持ち上げるために、重要な黒幕の一人、藤原銀次郎の「後藤伯[伯爵]追慕講演会」での発言を引用しているのだが、つぎの文脈は、「千古の美談」の順序とは真反対の、ことの発端の事実関係の証明になってしまっている。

「後藤伯は、新聞事業の経営等に適当な人がどこにいるか誰にも判らない際に、官僚畑の中から正力社長の如き千里の馬を見い出した。後藤伯の非常に偉い識見であります」

 藤原は後藤を、古代中国、周王朝時代の馬の鑑定の名人、「伯楽」にたとえている。この「千古のお世辞」への感激があまりにも強かったために、正力は、自作の「千古の美談」との矛盾に気付かず、『読売新聞八十年史』への収録を命令してしまったのではないだろうか。

 とにもかくにも、「千古の美談」の主、後藤新平その人の正体の解明こそが、まずは、世紀の謎を解く最初の鍵である


第六章 内務・警察高級官僚によるメディア支配

(第6章-1)
思想取締りを目的に内務省警保局図書課を拡張した大臣


 後藤新平という個人を論ずる以前に、内務省の構成と権限の強大さを知る必要がある。

 内務省は、一口に「天皇制警察国家」とよばれる当時の大日本帝国の最高官庁だった。現在の政府や行政官庁の実態とくらべれば、その権力の強さには、まさに月とスッポンほどのちがいがあった。

 内務省が入っていた建物は、現在も、そのまま残っている。桜田門の警視庁と隣り合っており、国家公安委員会、警察庁などが入っている。鉄筋コンクリート造りの壁は、長い歳月を経てかなり薄汚れているが、その正面の玄関口をくぐって見ると、いきなり階段を昇る構造になっている。西洋式の宮殿風とでもいえばいいのだろうか、いかにも威張りくさって庶民を見下す構造である。

『日本の政治警察』(大野達三、新日本新書)では、つぎのように要約説明している。

「[内務省は]要するに内政にかかわるいっさいの行政権を一手ににぎっている中央官庁であった。[中略]おしなべて現在の国家公安委員会と警察庁・公安調査庁・消防庁・自治省・厚生省・労働省・建設省・農林省の一部・法務省の一部がより集まって内務省という一官庁になっていたといえる。全国の知事と高級官僚は内務官僚が任命されて派遣された。地方行政は市町村議会の監督権までふくめて内務省が一手ににぎっていた。土木、建築、治山、治水、消防交通、検閲出版、著作権、選挙、労働および小作争議の調停、営業許可、伝染病予防、神社管理、社会福祉、保険、出入国管理なども内務省の権限内のものであった。それに加えて、天皇制官僚である内務(警察)官僚閥は、議会にたいしても独自性をもち、法律にかわる緊急勅令権と警察命令権をもって自由にその権限と機構をひろげることができ、さらに警察機構をにぎっていたのだから、その権力の大きさは想像に絶するものがあった」

 この強大な内務省の中核には、権力の暴力装置としては世界最強を誇った警察があり、さらには悪名高い「特高」が設置されていた。「特高」こと高等課特高係の設置は、すでに見た大逆事件の年、一九一一年(明44)である。それがさらに特別高等部に昇格し、「特高ルート」とよばれる特別な指揮系統に編成されていった。

 新聞の統制などの言論弾圧の専門機関としては、特高のなかに検閲課があり、さらには全国の警察機構を一手ににぎる内務省警保局のなかに図書課が設けられていた。図書課の方がいわゆる本省に当たる。特高のなかの検閲課は出先機関であった。

 戦後に元内務官僚OB組織が編集した『内務省史』には、つぎのように記されている。

「地方で発行される新聞等については、その地の都道府県庁の特別高等警察課(検閲課)で検閲して、問題になる点だけを電話で本省に照会して指示を仰ぎ、係が係長たる事務官または検閲官の意見を聞き即答することが例であった」

 内務省本省の図書課は、ロシア革命への対応を意識して拡張されたが、そのときの内務大臣こそが後藤新平であった。後藤自身の報告の要旨が『内務大臣訓話集』に収められている。一九一七年(大6)九月、ロシア革命の進行中に開かれた警察部長会議の席上で、後藤は思想取締の要点をのべ、「臨時議会の議決を経て図書課の拡張を行なえり」と報告していた。同時に後藤は、警視庁の人員増強を求めた。当時の六〇〇〇名が六年後には一万二〇〇〇名に倍増された。特高は同時期とくに、一二名から八〇名へと約七倍に増えた。


(第6章-2)
言論の封殺に走った後進資本主義国日本の悲劇の分岐点


 わたしはこの時期に、日本の近代史の悲劇的分岐点を見る。内務省警保局図書課などという、いかにもかびくさい名称の役所が拡張され、以後の日本の言論を封殺する最高権限を握ってしまったのだ。さらに軍閥が、内務省の背後から暴走を開始した。

 読売がたどった軌跡も、この悲劇の暴走のわだちに沿って理解すべきであろう。その意味で、当時の言論の自由と基本的な政治路線の関わりを、簡単に見てみよう。

 たとえば『近代日本の軌跡』(4)(吉川弘文館)には、「大正デモクラシーと知識人」という項目がある。

 そこではまず、この時期における知識階層の増大を指摘している。つぎには「出版ジャーナリズムの増大」という小見出しがある。「増大」を示す基本資料は、内務省作成の(秘)報告である。内務省警保局は『我国に於けるデモクラシーの思潮』という報告のなかで、「国民教育の普及と新聞雑誌の勢力の増大とに依り、所謂自由思想の如き漸次内発的のものになりつつあるを忘るべからず」と警告していた。当然すぎることながら、さらに注目しておくべきことは、つぎのような状況把握の作業が行われていたという、歴史的事実経過である。

「内務省警保局『(秘)最近出版物の傾向と取締状況』(一九二二年五月調べ)により、新聞(一月四回以上発行のもの)、雑誌(一月三回以下のもの)、単行本の統計をみると、つぎのような増加を見せているのである。
新聞  一九一五年(大4)・六〇〇種、一九一七年・六六六種、一九一八年・七八九種、一九二〇年・八四〇種、一九二二年三月現在・九〇八種。
雑誌  一九一五年(大4)・一〇四〇種、一九一八年・一四四二種、一九一九年・一七五一種、一九二〇年・一八六二種、一九二二年三月現在・二二三六種。
単行本(思想問題・労働問題を論じた主なもの)  一九一七年(大6)・二一種、一九一八年・四九種、一九一九年・一九〇種、一九二〇年・二二〇種」
 右に示された年度の数字のなかで、とくに注意しておきたいのは「一九一九年」である。すでに本稿では、元読売記者のプロレタリア作家、青野季吉の小説の題名として、この年度が登場していた。だが、ほかならぬ『大正デモクラシー』(松尾尊兌、岩波書店)という題名の概説書では、日本国内の「民本主義」の議論の重要な焦点として、「朝鮮問題」、つまりは植民地支配政策への関心の高揚の度合いを、つぎのように指摘しているのである。

「『大阪朝日新聞』の社説のうち、朝鮮問題を主題としたものは、一九一九(大正八)年のは一一、その翌年には八を数える。中国論はそれぞれ五四と五一であり、いぜんとして言論界の関心が主として中国に向けられていることがわかるが、これまでの六年間にわずか朝鮮論が六篇しかなかったことを思えば、朝鮮への関心が異常に強まったことがわかる。これはいうまでもなく、一九一九年三月に勃発した朝鮮独立闘争三・一運動により喚起されたものである。三・一運動こそが、『併合』いらいはじめて、朝鮮問題を国民的討論の場に上せたといって過言でない」

 いわゆる大正デモクラシーの時代の言論の主題は、その時代に応じた複雑さをはらんでいた。複雑さをもたらした最大の原因は、国際政治の状況変化にあった。一九一四年から一九一八年にかけての第一次世界大戦を契機として、国際政治の矛盾が一気に爆発していた。とりわけ重要な矛盾の焦点は、植民地の帝国主義支配政策にあった。

 一九一七年のロシア革命の結果、旧ロシア帝国の領域では、それまでの帝国主義支配がソヴィエト連邦という新しい枠組みに変化した。旧植民地は、連邦内の共和国という政治的形式を取ることになった。さまざまな問題点はあるが、いわゆる「社会主義」の歴史的評価までを本書で論ずるわけにはいかないので、この程度の表現にとどめておく。

 一九一八年のヴェルサイユ講和会議では、アメリカのウィルソン大統領が、「民族自決」の原則を提唱した。後発資本主義国のアメリカは、北アメリカ大陸の西部を制圧し、さらにメキシコやスペインから着々と新領土を奪い取っていた。そのアメリカが、今日の「自由化」にいたる「新植民地主義」または「経済侵略」の路線を敷くために、旧帝国主義列強にたいして植民地放棄、「民族自決」による独立承認、経済的相互乗り入れを迫りはじめたのである。

 かくして国際政治には、大きく分けて三つの岐路が生ずる。第一は、いわゆる社会主義、第二は、民族自決の承認、第三は、旧帝国主義支配の維持である。

 このような国際政治の状況のなかで、日本は、「欧州大戦」の呼び名もある第一次世界大戦で欧米列強が相争う最中の一九一五年に、火事場泥棒よろしく近隣のドイツ植民地を奪い、中国に対しては「二一ヵ条」の要求を突きつけた。一九一八年にはシベリアに出兵した。その一方の足元で、一九一九年に「三・一朝鮮独立運動」が起きたのである。

 日本の支配層の国際政治上での選択は、さきの第三の「旧帝国主義支配の維持」どころか、さらにそれを突き抜けていた。後発帝国主義国とはいえ、時代錯誤もはなはだしい侵略の拡大であった。

 当時の日本には、果たして、それ以外の選択の道が残されていなかったのだろうか。

 たとえば前出の『大正デモクラシー』でも、中野正剛や、大阪朝日の記者だった緒方竹虎、東洋経済新報の石橋湛山などの諸説を、比較しながら紹介している。朝鮮問題に関して要約すると、中野は「帝国憲法下の平等待遇」、緒方は「日本帝国主義の利益にそった形での朝鮮の独立」を主張し、石橋は「朝鮮放棄にふみ切った」のである。

 石橋、または東洋経済新報は、満州放棄、二一ヵ条要求反対、シベリア出兵反対に引きつづく「首尾一貫した朝鮮論」を展開していた。先の三つの岐路の選択でいうと、第二の「民族自決の承認」路線の選択であって、決して第一の「いわゆる社会主義」路線の選択ではない。アメリカと同様の、資本主義的かつ経済侵略的帝国主義の範囲内の思想である。しかも、当時の世界の大勢を見れば、最大の植民地支配国のイギリスですらが、自治から漸進的独立の許容へと支配政策の変更をせまられていた。石橋らの主張は、決して過激にすぎるものではなかったのである。そのことのなによりの証明は、植民地のない現在の日本の新植民地主義的、または経済侵略的な「大国」の状況にほかならない。

 内務省警保局図書課による民主的言論の封殺は、「反共」を旗印にかかげながら、実際には、日本の国内政治の議論だけではなく、あらゆる国際的な政治路線選択の議論をも、すべて不可能にしてしまった。その結果が、第三の路線すら突き抜ける決定的に愚かで、悲劇的な国際路線選択への暴走を招いたのである。

 このもっとも決定的な日本の近代史の悲劇的分岐点において、世論を左右する言論機関の役割は、ことさらに重要になっていた。その時に、言論統制の権限を一手に握る最高官庁の長たる内務大臣だったのが、後藤新平なのである。


(第6章-3)
帝国主義政策のイデオローグだった初代台湾総督府民政長官


 後藤新平(一八五七~一九二九)は、岩手県水沢市の小藩出身で、同藩出身の有名な幕末の蘭学者、高野長英の親族である。そのような血筋の縁もあってか比較的に国際的視野がひろく、日本の帝国主義確立時代の代表的政治家として位置づけられている。

 あだなは「大風呂敷」だった。大仕事にかかわった実績もあるが、ハッタリを利かせる面も強かったのであろう。政治的な最高位は、ともに副首相格の外務大臣、内務大臣である。晩年には伯爵の位をえた。本書では数ある評伝のなかから、後藤の政治的業績の特徴とメディアの関係を中心にして、ごく一部のみを要約紹介する。

 内務大臣としての後藤とメディアの関係を考える上で、もっとも参考になるのは先輩の原敬であろう。原と新聞の関係については、すでに、海軍による読売買収工作の際の内務大臣として紹介した。原は、その頃に、「二、三十万あらば多数の新聞を操縦する事を得べし」と考えていた。首相になった原は、朝日を謝らせて「白虹事件」収拾の実績を挙げた。内務大臣の職務には、当然、世論操作なりメディア統制なりが含まれているが、大臣の個人的資質も大いに影響があるだろう。

 後藤の場合には、衛生部門とはいえ内務省の一角での経験を経て、さらに大規模な海外植民地経営に従事し、再び内務省とその人脈を掌握するにいたっている。いわば、「山に入り、山を出づるものにして、初めて山を知る」ということわざ通りの内務省内外の体験をしたのちに、古巣のトップに踊りでたのである。後藤の世論操作、メディア統制には、やはり、当時の水準を抜く意識的な熟練性があったと考えるべきであろう。

 後藤は、須賀川医学校を卒業して医師となり、愛知県立病院長を経て内務省に入る。一八九二年には、現在ならば厚生省の事務次官に当たる衛生局長になった。その間、三〇代前半にはドイツで医学を学ぶが、当時のドイツは、その中心をなすプロイセンがナポレオン三世のフランスをやぶって、こともあろうに、敵地のパリの王宮で皇帝の戴冠式を行い、念願の統一ドイツ帝国の建国を宣言したばかりである。いかにも侵略的な、武力を誇る風潮の国柄であった。

 伝記の『後藤新平』(1)~(4)は、死後に、後藤新平伯伝記編纂会が各界有志によってつくられ、女婿の鶴見祐輔(一八八五~一九七三)が編著者となって作成したものである。その(1)によると、ドイツでの経験が後藤の政治家としての後半生を定めるものであった。ドイツ留学中のエピソードの紹介によると、後藤は、医学上の研究よりもむしろ、おりから進行中だった統一ドイツ帝国におけるビスマルクの国家建設に影響を受けるところが大だったようである。しかも、本人の弁によるとビスマルクから直接、つぎのようにいわれたというのである。

「君は医者というよりも、どうも政治に携わるべき人物に見える」

 なにしろあだ名が「大風呂敷」だから、いちいち本人のいうことを鵜呑みにするわけにもいかないが、帰国後の後藤は事実、近代政治家としての道を歩む。

 後藤は、明治型の閥族政治を改革する実務主義的な近代政治家となった。しかし、それは同時に、おりからの大日本帝国の海外侵略を効率的に推進する役回りを担うことでもあった。

 以下、今後の研究のために、主要な資料を紹介しつつ、後藤の正体に迫ってみたい。

 数多い評伝のなかには、著者などの詳細は不明だが、『新領土開拓と後藤新平』という題名の本もあったようである。本人の講演録には『日本植民政策一斑』とか『日本膨脹論』といった物騒な題名のものもある。この二つの講演録については、その合本が国会図書館にあった。『日本膨脹論』だけの初版は講談社から出ていたようだが、同じ講談社から出た後藤の別の著作『政治の倫理化』の背表紙の広告欄に、「たちまち九版、徳富蘇峰激賞」などと書き立てられている。内容は、なんと、年齢的にも時代的にも後輩のヒトラーが顔負けするほどの、バリバリの日本民族優秀説である。


(第6章-4)
問答無用の裁判で「約一万二千人を『土匪(ママ)』として殺した」


 これまでに流布されている説によると、一八九五年に終わった日清戦争後、陸軍の帰還兵士約二三万人の検疫事務を、内務省衛生局長として担当した際、後藤が時の陸軍次官、児玉源太郎から、その行政的手腕を見込まれたということになっている。しかし、のちほど示すように後藤自身が同時に、別ルートで台湾問題の「意見書」売りこみを図っている。それはともかく、台湾総督になった児玉は一八九八年、弱冠四二歳の後藤を台湾総督府民政局長に抜擢した。のち改制で同長官となる。

 日清戦争で勝利した日本は、一八九五年に清国から台湾を「割譲」で獲得した。

 児玉の台湾総督は第四代目で、後藤が民政長官になったのは、「割譲」から数えて三年目のことである。だが、最初の三年間の台湾支配は、激しい武力抵抗との戦いだけに明け暮れ、出費がかさむばかりなので、日本の帝国議会内でも「売却論」が出る状況だった。

 実際には条約締結以後に、台湾占領の植民地戦争が始まったのである。台湾の住民は「割譲」を認めず、アジアで最初の共和国とされる「台湾民主国」の樹立を宣言して、日本の支配に抵抗した。同共和国の崩壊後にも各地でゲリラ的抗戦がつづいた。「割譲」後の三年間で三代の総督が交替したことだけを見ても、その戦いの激しさがわかるであろう。三代目の総督は乃木希典であった。乃木の戦略は失敗つづきだった。乃木は、その後にも日露戦争の二〇三高地攻めで失敗につぐ失敗を重ね、児玉源太郎に後始末を付けてもらっている。台湾でも同じ経過をたどっていたのだ。児玉総督と後藤民政長官のコンビによる約八年間の植民地統治と経営は、実質的に初代の作業だったといって差し支えない。民政長官の職制に関するかぎりでは、途中で改制されたため、名実ともに後藤が初代である。

 後藤の台湾支配の実態については、『世界大百科事典』(平凡社)でも執筆者の戴国煇(非表示の場合:火偏に軍)らが、「あめとむちを併用した辣腕(らつわん政治」だったという厳しい批判を加えている。後藤は、地主などの上流層を宴会政治で籠絡(ろうらく)した。その一方で抗日ゲリラを、問答無用の「判決による死刑」に追いこむ政策を取った。裁判の管轄区域と無関係に「臨時法院」を設置できる「匪徒刑罰例」を行使したのである。この条例は後藤が着任する以前の一九八六年に制定されたものであるが、第一審だけで終審となってしまう。形式的な手続きだけで合法性を装うという、ない方がましな完全なごまかしの法律であった。『台湾支配と日本人/日清戦争一〇〇年』(又吉盛清、同時代社)によると、後藤は「警察権力の拡大強化」をはかっている。「後藤が民政長官に就任した一八九八年からの「四年間の鎮圧で、わかっているだけでも一万一千九百五十人の台湾人が葬り去られた」のである。警察の実態は軍隊と同様であった。「民政」は「警察軍支配」と同義語である。

『岩波講座/近代日本と植民地』(4)によると、後藤自身が「五年間に約一万二〇〇〇人を『土匪』として殺した」と語っていたそうである。この数字は前書とほぼ一致している、同書(2)によれば、「ゲリラ的抵抗を、『招降』の式場でだまし討ちにするなどあらゆる術策を用いて、ほぼ鎮圧し終えたのが一九〇二年(明治三五)であった」というのである。「辣腕」を通り越す「悪辣(あくらつ)さ」なのである。

「成功」と評価されている経済政策は、殖産局長に、現在の五千円札に刷り込まれている農業経済学および植民地経済学者の新渡戸稲造(一八六二~一九三三)を迎えて、砂糖、樟脳、茶、米、木材などの産業開発を振興した結果である。『岩波講座/近代日本と植民地』(4)でも、新渡戸を「帝国主義擁護者」と評している。『日本植民地研究史論』(浅田喬二、未来社)には、さらに詳しい「新渡戸稲造の植民論」の章がある。


(第6章-5)
「王道の旗を以て覇術を行う」インフラの「文装的武備」


『後藤新平』(1)では、当然のこととはいえ、後藤の台湾統治を大変な成功として持ち上げている。後藤の植民地支配政策の根本的な思想については、さらに深い批判的研究が必要であろう。植民地のインフラ整備を単純に「善」と評価するのは、短絡的欺瞞の典型である。

 たとえば一九九五年一一月にも、村山内閣の江藤総務庁長官が、「朝鮮で日本がいいこともした」という趣旨の放言をした結果、辞任に至った。原因は、当然、戦後日本の「官学的」な近現代史教育の欠陥にある。しかし、この種の傲慢かつ幼稚な主張は、日本の海外侵略の先頭に立つ理論的指導者だった後藤新平の主張とは、完全に矛盾するのである。

 後藤は、台湾総督府初代民政長官を皮切りに、以後、満鉄初代総裁、外務大臣、内務大臣などを歴任した。植民地政策の総合参謀本部、満鉄調査部をも創設した。元満鉄調査部員、伊藤武雄の談話集『満鉄に生きて』(勁草書房)などにも詳しいが、『後藤新平』(2)では、第二章「満鉄総裁」に第五節「文装的武備」を立てている。

 後藤は、教育設備を含めた「植民地政策の間接設備」を「文装的武備」と呼び、これを「文化侵略」や「文装的侵略」の同義語とし、「王道の旗を以て覇術を行う」ものとしていた。「文装的武備」は後藤独特の造語である。後藤はこれを「軍装的武備」と対比している。軍部との対抗関係を意識する造語であったが、「いったん緩急あれば武断的行動を助くるの便」として位置づけている。「文装」は、武力による支配と補い合う関係に相違ないのである。後藤はさらに、「帝国に帰依せしむる」には「人間の弱点に乗ずる」必要があるとし、「弁護士と医者程この人生の弱点に乗じていくものはない」とか、「人の迷いの起こったところ、窮したところがその弱点である。宗教の如きすでにそうである」などと、そのものズバリの表現をしていた。

 後藤は持論を「生物学の原理」として語っている。他の官僚の「文学的」または「法学的」な弱点を、持ち前の医学を基礎とした「科学的政策」で衝くのが、後藤の得意の論法であった。『台湾統治救急案』における「調査研究」の重視については、『岩波講座/近代日本と植民地』(3)の注釈にも、つぎのような経過が記されている。

「後藤新平は岡松参太郎(京都帝国大学教授)を招き、大規模な台湾旧慣調査を実施した。その一連の調査研究成果は日本の近代中国研究、植民政策、法制史、文化人類学の発展の基礎をつくることになる」

 このような調査研究重視の姿勢は、のちに記す満鉄調査部や「大調査機関設立の議」の建白へとつながる。『満鉄に生きて』の中で伊藤武雄は、つぎのように回想している。

「旧慣調査については、後藤新平の文化センスと一般に理解されていますが、そもそもの発案者は大内丑之助という人の創案でした。この人物は日清戦争のはじまるすこし前、ドイツに留学。ドイツの植民政策について勉強し、その奥義を究めるため、植民の実務機関にはいり、実際的事務に携わってみたこともあるという経歴の持主で、帰国後、明治三一年、台湾の民政長官に赴任しようとしていた後藤新平に面会を求め、植民政策のあるべき姿について説き及ぶこと数時間。後藤はかれを台湾に随行することになった人だそうです。その船中『植民行政意見』として脱稿。後藤に提案した意見書中に、植民地統治に、その土地の旧慣調査の欠くべからざるゆえんが委曲をつくし、その具体的方法にまで及んで書きつらねてあったとのこと。後藤はこれにしたがい台湾に着くと、京都大学教授岡松参太郎をよんで、土地調査事業にさきだって旧慣制度の調査を委嘱することにしました」

 後藤はのちに、この大内丑之助と岡松参太郎を満鉄に呼びよせている。後藤の場合、「生物学の原理」の提唱とか「旧慣」調査研究の重視とかは、決して現地住民の生命や意志の尊重を意味するものではなかった。要するに、「彼[敵]を知り」という孫子の兵法にもとづく、戦いの勝利への原則にしかすぎなかったのである。


(第6章-6)
「阿片漸禁」による「専売」で「百六十万円の収入増」立案


 さらに重大な問題が、巧みに隠蔽または偽装されたまま、最近まで事実上、アカデミズムに無視されてきた。後藤らは台湾の産業開発に先んじて阿片専売による巨利を企み、成功していたのである。

 阿片の吸飲は日本国内では厳禁だった。中国本土でも禁止運動が広がっていた。それを知りながら、後藤は、台湾では阿片を禁止せずに「漸禁」の専売政策を実施し、「医療用」に専売したのである。「漸禁」の名による阿片許可の政策は、財政目的だけではなくて、現地人を阿片漬けにし、反抗を押さえる目的をも合わせ持っていた。イギリスと中国の阿片戦争の例を引くまでもなく、阿片は歴史的に、植民地支配の根幹としての役割を果たしてきたのである。

 しかも後藤は、実は、一般に流布されている経歴の説明とは違って、いきなり「民政局長」に任命されたのではなかった。その二年前の一九八六年に「台湾総督府衛生顧問」になっていたのである。そうなった理由は、そのさらに前年の一九八五年、内務省衛生局時代に、内務大臣と首相兼台湾事務局総裁という立場の伊藤博文に対して、大変な長文の「台湾島阿片制度施行に関する意見書」を提出していたからであった。

 後藤がまとめた阿片「漸禁」政策は、実は、かれの創意になるものではなかった。すでに台湾総督府の前任者から、阿片を厳禁すると、現地の反抗を押さえられないという意見が上がっていた。

 現地の中国人社会の実情は、本来の台湾人に阿片を売り付けることで成り立っているような、一種の植民地型の経済支配であった。さきに記したように、「地主などの上流層を宴会政治で籠絡した」と表される警察型の支配政策は、現在も日本国内で続いている警察と暴力団の馴れ合いのようなものである。「上流層」には、阿片窟のボスや、暗黒街の帝王などが含まれていたに違いない。

 後藤の上にいた伊藤博文は、権力政治家としても帝国主義者としても、さらに筋金入りの先輩だった。『後藤新平』(1)には、なぜか記されていないのだが、発見できた限りでもっとも古い評伝、『後藤新平論』によると、一九八六年に後藤は、伊藤博文や台湾の二代目の総督、桂太郎らに随行して台湾に渡っている。同年に「台湾総督府衛生顧問」となり、その二年後に、台湾総督府民政局長に任命されるという順序である。

 もう一つ、やはり鶴見の『後藤新平』より古い評伝、『後藤新平一代記』によると、後藤は、台湾の阿片問題以前に児玉の紹介で伊藤と会い、『日本新王道論』と題する政策を提言している。台湾の阿片「漸禁」政策については、大蔵大臣や文部大臣らの有力閣僚の猛反対があった。そこで伊藤が、旧知の内務省衛生局長の後藤の、実務家としての献策を入れるという陣立てで、閣内の反対意見を押さえ込んだというのが、ことの真相なのではないだろうか。

 伊藤博文(一八四一~一九〇九)は、長州閥の長老であるが、一八八二年にドイツ帝国統一以前のプロイセンで憲法や諸制度の調査に当たっている。その点でも後藤の先輩である。伊藤は、首相として日清戦争を推進し、元老として日露戦争をバックアップした。韓国統監府の初代統監として保護国化、併合を強行し、ハルビン駅頭で韓国の独立運動家、安重根に撃たれて死んだ。安重根は、現在の南北朝鮮で最高の英雄として尊敬されている。拡張主義者の伊藤が後藤の献策を入れる形で、台湾の阿片「漸禁」政策を強引に決定したという経過の裏には、日露戦争の戦費をユダヤ財閥のロスチャイルド家に仰いだような、日本帝国主義の戦争経済の懐勘定が潜んでいたという疑いが濃厚である。

 阿片問題は、台湾支配のための政策、および財源として決定的な重要性を持っていた。『後藤新平』(1)には、ご都合主義の持ち上げであるが、非常に詳しい記述がある。「台湾の阿片問題」の項は、二四頁にもおよんでいる。当人側の基本資料にさえ、それだけの材料があるのに、なぜか類書には阿片問題が記されていないことが多いので、その点を、ここで厳しく指摘しておく。

 たとえば『岩波講座/近代日本と植民地』(3)では、後藤が台湾に渡る以前に『台湾統治救急案』をまとめていた経過を記している。さらには、後藤の植民地経営の根本に「社会資本整備」があったことを、その後の満鉄経営、東京市長としての都市計画などとの関連で考察している。だが、そこには、「阿片」問題ばかりではなく、「文装的武備」論の指摘も皆無である。これでは到底、批判的研究とはいいがたい。非常にアカデミックに見える岩波書店編集の「講座」にも、江藤総務庁長官流の「いいこともした」放言を許す「官学」の限界が、典型的に見られるのである。

 短い記述にもかかわらず、後藤と阿片専売の関係を明確に指摘しているのは、在野の研究者、木元茂夫がまとめた『「アジア侵略の一〇〇年/日清戦争からPKO派兵まで』(社会評論社)である。同書では、さきに記した長文の「台湾島阿片制度施行に関する意見書」を、つぎのように要約紹介している。

「阿片輸入税は、八十万円にものぼるもので、その需要の巨額なことがわかる。これを政府の専売とし、禁止税の意味で、この輸入税額に三倍の価格を加え、阿片特許薬舗で、政府より発行の通帳持参の者に、喫烟用として売渡すことにすれば、漸次その需要者を減らし、青年子弟をして、その悪習に陥ることを防ぐことに効果があり、国庫はさらに百六十万円の収入を増加することができる」

 当時の台湾で消費されていた阿片は、ほとんどが輸入品であった。そこで「阿片輸入税」によるピンハネ増大の案を練ったわけである。後藤の案では、この収益は、すべて医療関係に役立てるべきであって、他の行政費に回せば「弊害を生ずる」となっていた。だが、その原則が守られたかどうかは保障の限りではない。

 最近の例を引けば、湾岸戦争への拠出金の場合にも、日本が出した分は軍事目的ではないという趣旨の国会答弁があった。国力と釣り合わない軍事費を支出する独裁国への「平和産業向けODA」供与についての疑問もある。元来、貨幣とは、あらゆる商品と交換できるからこそ貨幣なのである。実際の行財政の財布は、どの国でも、どの植民地でも、一つである。子供だましの答弁が押し通せるのは、議会と称する議論なしで時代遅れの芝居小屋の中だけにしてほしいものである。

 しかも後藤は、その後、日本国内でも阿片の原料が採れるケシの栽培を試みている。『戦争と日本阿片小史』(すばる書房)は、「阿片王」と呼ばれた二反長音蔵の息子で、児童文学者の二反長半が執筆し、「いまわの際」に校正までを終えたという痛恨のドキュメントである。そこには、「後藤の後援で、日本では殆ど栽培不可能とされたケシ栽培阿片製造に成功」した経過が描かれている。

 後藤らが創始した日本の「阿片漸禁政策」は、台湾から満州、蒙疆(内蒙古)、中国本土、東南アジアへと広がった。そこでの阿片収入は、医療関係どころか、ほぼ公然と軍の機密費、占領地の行政費にまで充当された。「専売」の制限も無視された。蘆溝橋事件の際の現地軍参謀、池田純久が書いた『陸軍葬儀委員長』には、「阿片の商標日の丸」という項がある。日本人の「一旗組」が「治外法権を楯に日の丸の国旗を掲げて公然と阿片を売って」いたので、現地の中国人が「阿片の商標」だと思い込み、憎くつき阿片屋の旗を焼き捨てたっつもりで、国際紛争が頻発したというのである。この間の事情および原資料は、『日中アヘン戦争』(江口圭一、岩波新書)に詳しい。

 一〇年間の台湾統治で評価を高めた後藤は、八年後の一九〇六年、南満州鉄道株式会社(満鉄)の初代総裁に就任した。こちらも日本の植民地経営の事業としては、当時最大の規模のものであった。後藤は、台湾、満州と、相次ぐ難関の植民地経営で実績を挙げたことになる。

 さて、このような近代的帝国主義の先駆者の一人として、後藤は、メディアの操作、統制をどう考え、どう実行していたのであろうか。

 後藤は、少なくとも台湾総督府の当時から、新聞の「操縦」をかなり重視していた。政治的経歴の出発点ともいえる台湾総督府民政局長時代について、鶴見は、『後藤新平』(2)に、「新聞政策」という項目を立てている。

 後藤は台湾で、新聞記者を「シラミ」よばわりした。しかし、一方で喧嘩をふっかけながらも、「多分の調和を持ち、人を操縦するコツを心得ていた」というのである。新聞記者が決定的な情報源の権力者に弱いのは、決して今に始まったことではない。後藤は記者を操縦しながら、台湾にあった長州系と薩摩系の二紙を合併し、『台湾日日新報』という総督府の機関紙に仕立て上げた。『後藤新平』(2)には、つぎのように記されている。

「伯の新聞利用は、ひとり台湾の新聞のみに止まらなかった。伯はひそかに人を内地に派して、常に内地の新聞を操縦せしめ、一方、中央政局の機密を内報せしむるとともに、他方、台湾統治に関する世論の喚起に努めた。その如何なる機略によれるものかは、今にいたって分明ではない」

 後藤の台湾植民地経営に関しては、その「新聞利用」の実態と効果、その後の影響などをも、さらに詳しく調査し、総合的に分析する必要があるだろう。「新聞利用」の仕方は、当然、「我田引水」だったに違いないのである。前出の『後藤新平論』には、つぎのようなことが記されている。

「後藤男[男爵]は民政長官、満鉄総裁たりし時代、多少の機密費を新聞記者に融通して、洋行さしたり文章を書かしたりした事がある」


(第6章-7)
満鉄調査部を創設した初代総裁への登竜門にわだかまる疑惑


 後藤の「新聞利用」には、当然、自分自身の業績の「成功」売りこみがあったに違いない。台湾島民の反抗の鎮圧や産業開発で評価を高めた後藤は、八年後の一九〇六年、南満州鉄道株式会社(満鉄)の初代総裁に就任することになる。

 満鉄は、日露戦争の最大の戦果であり、当時の日本の大陸侵略の最前線基地であった。その規模については、以後、敗戦までの四〇年間に、一万二千キロの線路が敷設されるにいたったことのみを指摘するにとどめる。この距離は、一九八〇年代の民営分割以前の国鉄の総路線の約半分である。

 後藤が満鉄総裁に就任した経過についても、重大な謎、または疑惑が残されている。児玉源太郎大将を主人公とする小説『天辺の椅子』(古川薫、毎日新聞社)は、毎日が連載したものを一九九二年に単行本にまとめたものである。そこには、児玉の「急死」の周辺にいた後藤の姿が描かれている。

 児玉源太郎は当時まだ台湾総督を兼ねていたし、後藤はその部下の民政長官だった。日露戦争で勝利した直後、実際の指揮をとった児玉のもとに、後藤は児玉の許可もえずに現場視察と称して現われ、のちに「満州経営概論」をまとめて示す。凱旋将軍の児玉は、ときの政権主流がたくらむ満州の露骨な植民地化に反対を表明し、政権主流との対立を深めていた。後藤の「満州経営概論」にも反対で、後藤の出しゃばりに不快の念を隠さなかった。

 後藤は児玉が急死する前夜、児玉邸で三時間も話し合っている。急死の原因としては暗殺説もささやかれた。『天辺の椅子』の描写は、元医師、後藤の動きに疑問をなげかけるものである。少なくとも後藤は、三時間の訪問の直後、気分がすぐれないと家族に訴えていた児玉に薬をとどけている。翌朝、児玉の死が判明すると、後藤は、家族を追い払うようにして、捜査活動めいたことをした。だがこれが事実だとすれば、いかにもおかしな行動の経過ではないのだろうか。もしも暗殺、毒殺だったのだとしたら、直前に身近にいた後藤は、最大の容疑者だったはずだ。

 後藤がとどけた薬は、いったい何だったのだろうか。証拠湮滅の疑いもある。元医師であったとしても、当時の立場は児玉の直接の部下であり、台湾総督府民政長官である。犯罪捜査めいたことは警察にゆだね、死因の確認などの作業は、かかりつけの主治医か警察医にまかせるのが筋だったのではないだろうか。

 満鉄の初代総裁となった後藤は、満鉄の機関紙として『満洲日日新聞』を創刊したが、英文欄を設けるなど他民族の存在を視野に入れた工夫をしている。

 調査機能の強化にも執念を燃やした。日本の海外侵略史に名高い満鉄調査部は、後藤の就任の翌年の一九〇七年に創設された。この調査部創設はまさに、台湾統治以来の後藤の「文装的武備」論が築いたピラミッドの頂点である。

 首都東京の丸の内にも満鉄の支社があった。満州の植民地経営で生み出される巨万の富を基礎に、その後の中国大陸全体への侵略の準備としての調査活動が、満州の本社と丸の内のビルの中の支社、現地出先機関の総力を駆使して、着々と進行したのである。満鉄調査部は実質的に、日本の植民地政策全体への指導機関の役割を担っていた。もっとも正確な記録に即しているらしい『回想満鉄調査部』(野々村一雄、勁草書房)によると、最大時のスタッフ実在数は二三四五名である。予算は一〇〇〇万円に達した。調査報告のなかには「支那抗戦力調査」などという物騒な題名のものもあった。


(第6章-8)
シベリア出兵で「強硬論」の外相と「言論機関との小波乱」


 満鉄総裁就任から二年後の一九〇八年(明41)、後藤は桂太郎内閣の逓信大臣兼鉄道院総裁になる。一九一六年(大5)には寺内正毅内閣の内務大臣、つづいて外務大臣となる。

 後藤が外務大臣になったのは一九一八年(大7)である。この年の夏の盛り、八月二〇日には、シベリア出兵が実施されている。

 一九一八年という年は、本書ですでに記した本野子爵家支配の読売の終末の年でもある。胃癌に侵されていた本野一郎は、この年の四月二三日に外相を辞任したのであった。

 つまり後藤は寺内内閣で、はじめは本野一郎と閣僚の仲の内務大臣となった。ついで本野辞任の跡を継いで、その辞任の同日付けで外相に横すべりし、シベリア出兵の方針を決定して、軍船を送り出したのである。後藤はもとより対外侵略の積極論者であったが、内務大臣の期間中にかぎっていえば、自重論をとなえていた。ただし、その自重の内容は政治的調整の必要性にすぎなかった。アメリカが日本の独走を警戒していたことを配慮しただけである。国際的な合意は、その後、日本軍が主導権をにぎる「連合出兵」の形式を採用することで成立した。以後、後藤はむしろ、本野前外相に劣らぬ「強硬な出兵論者」の本音をあらわにしたのである。その間の事情は『シベリア出兵/革命と干渉一九一七~一九二二』(原暉之、筑摩書房)に詳しい。

 シベリア出兵の是非を争う言論戦は、まさに国論を二分するものだった。内務、外務と、ひきつづき閣僚の立場にあった後藤は、この時期、メディア操縦に秘術の限りをつくしたに違いない。台湾、満州の二大植民地を舞台とした合計一〇年の経験と人脈は、大いに生かされたことであろう。

 日本がシベリア出兵に示した熱心さは、国際的にも「進出の意図あり」との疑惑をかき立てたが、それを裏打ちする証言記録がある。後藤が最初の内務大臣の時に請われて内務次官を勤め、その後に自身も内務大臣となった水野錬太郎は、後藤の没年に追悼の意味で出版された『吾等が知れる後藤新平伯』(東洋協会)に、「後藤伯と予」と題する談話を寄せている。そこで水野は、後藤から「満蒙シベリア開発策」を示されたとし、つぎのように語っている。

「それは満蒙、シベリア方面に朝鮮人を扶植し、以て日本の経済的拡張の途をシベリア方面に開かれんとするのである。伯はこれについて具体的計画を立て、数字的調査までもせられたのである。その案の成るや、一日、田健治郎君、石塚英蔵君、内田嘉吉君及び自分の如き植民地経営に経験あり、意見ある人を自邸に呼ばれて、この調査の書類を示され、批評を求められたことがあった。のみならずその意見を加藤高明伯[当時の首相]に提示して、年々八千万円の支出を要求したのである」

 後藤はまた、すでに桂内閣の逓信大臣時代から、内閣擁護の記者団づくりを画策している。その際、後藤が目を付けたのは、関西の財界を背景資本として東京に進出していた朝日と毎日であった。『後藤新平伝』(3)には、朝日と毎日を中心に新聞全体の支配を企んでいた後藤の姿が、つぎのように描かれている。

「伯は大新聞の連盟によって、健全なる与論の作興に貢献せんとし、しばしば秘書の菊池忠三郎を下阪せしめて、大阪朝日新聞と大阪毎日新聞とを説かしめた。菊池の直接交渉したのは、大阪毎日新聞社長本山彦一で、本山から菊池に送った書翰七通がある」

 本山の書翰の中には、朝日と毎日が中心となって近畿地方の各紙をまとめた事実や、その二大紙の連合が各紙にあたえる影響が語られている。ここで使われている「大新聞」という用語は、かつての政論紙の「おおしんぶん」の意味ではない。現在の「大手紙」と同じ意味である。この「大新聞の連盟」に関する記述からだけでも、後藤新平の「新聞利用」の基本構想は、容易に読み取ることができるのではないだろうか。つまり、実に平凡かつオーソドックスな手法である。いくつかの有力紙をまとめて押さえることにより、新聞界全体を規制しようという中央集権的支配の狙いであった。

 朝日と毎日が輪転機の導入、高速化、巨大化の先頭を切っていた事情は、すでに本書で指摘した通りである。新聞業界の「生物学」的実態について、後藤ほどに鋭く先を読んでいた人物は、数少なかったのではないだろうか。その十数年後の一九一九年から翌年にかけて、朝日と毎日の連合軍が新参ものの大正日日を、ありとあらゆる手段で廃刊に追いこんだ事実をも、この際、想い起こしたい。

 後藤は、「新聞利用」を容易にする組織の名称まで考えていた。「新聞連盟」である。ただし、この後藤の構想の実現は、まだ時期尚早だったのであろうか。『後藤新平伝』(3)では、つぎのように記している。

「機遂に熟せずして、新聞連盟の事は中絶するに至ったのである」

 一九一六年(大5)に内務大臣になった後藤は、その翌年にロシア革命の余波を浴びることになる。いかにも宿命的な歳月のめぐりあわせである。『後藤新平伝』(3)には、そのものズバリ、「言論取締」の項目が現われる。その冒頭は、つぎのようである。

「当時内相として伯の苦心したことの一つは、言論取締の問題であった。けだし寺内内閣の成立した大正五年から翌六年にかけては、日本における社会思想の転換期であった。一方には戦時の好況により来る社会運動の抬頭有り、他方には欧米各国における民衆解放運動の影響あり。自然我国における思想の急激に変化し、従ってこれが取締の責任者たる内相として、伯は容易ならざる困難を経験しなければならなかった。殊に社会一般の民衆的大潮と、首相寺内並びに元老山県の保守思想の中間に介在して、伯の立場は、相当に苦しいものであった」

 後藤は、一九一八年(大7)四月二三日に外相になる。その直後、『後藤新平伝』(3)で鶴見が「言論機関との小波乱」と題する事件が起きた。

 外相に就任してまだ一か月にもならない五月一四日の夜、後藤は、地方長官会議に参加した長官一同を外相官邸に招いた。地方長官会議とは、当時、県知事などをすべて直接任命する権限を持っていた内務省が主催する会議である。おそらく、この五月一四日の会議を招集したのは、内相だった時期の後藤なのであろう。後藤は、この後にも山本権兵衛内閣で内相に再任されるが、外相時代にも内務省への院政を敷いていたきらいがある。

 後藤は、外相官邸における晩餐の席上、地方長官たちを前にして、国際情勢とそれに相応する国内での任務について、一席ぶち上げたのである。その演説のなかには、言論界批判とともに、明白に内相の縄張りに属する取締強化についての発言があった。

 この発言にたいして、外務省記者団の「霞倶楽部」が、後藤に抗議を申し入れた。ところが後藤は、「大臣の訓話に関し新聞記者より指図を受くべき筋合いなしと称して、頑として譲らなかった」のである。さらに記者団が抗議すると、後藤は、「外務省内霞倶楽部の部屋の使用を禁止し、かつ外務省の情報を一切、この霞倶楽部所属記者に与えずと告げた」のである。

「外務省内霞倶楽部の部屋」なるものは、日本独特の官庁お抱え記者クラブ制度の原型である。現在も続く「発表報道システム」の悪弊の根源でしかない。そこで後藤は、いわば飼い殺しの記者たちから「飼い犬に手を噛まれる」ような思いをしたご主人の立場で、怒って記者たちを追い出してしまったわけである。『後藤新平伝』(3)によれば、この抗争はますます激化の一途をたどった。もしもこのときに、日本の新聞記者たちが決然として立ち上がって取材源からの独立を宣言し、自前の記者クラブ建設をはじめていれば、日本の言論史にはいささかの変化が生まれたのかもしれない。しかし、残念ながらそれどころか、逆に、各社の幹部で構成する「春秋会」が出番を求め、霞倶楽部所属の記者たちは抗争の主導権を失ってしまったのである。

 仲裁者も現われた。結果は、言論圧迫の意図なしという後藤の弁明により、事態収拾ということになっている。しかし、『後藤新平伝』(3)に収録されている後藤の釈明演説によると、新聞記者といえども国家の指導監督の外に立つものではないとか、問題になった訓示の相手は指導的立場の官吏であるとかの趣旨が盛られている。後藤自身の主張としては、決して筋を曲げてはいないのである。


(第6章-9)
治安維持法の成立と「反ソ・反革命的キャンぺーン」の関係


 以上のような五月一四日の夜以降の「言論機関との小波乱」の背景には、八月二〇日実施されるシベリア出兵問題があった。さらにその八月以後には、シベリア出兵を当てこむ米の買い占めに端を発する米騒動が、富山の漁村から全国に広がった。

 後藤は緊急に米騒動対策を進言しているが、言論問題についての基本姿勢は、つぎのようである。「言論機関の取締を厳重にし思想の険悪に向うを防禦すべきこと」

 米騒動の直接的な原因は、まさに後藤自身が「強硬な出兵論」を張って実施したシベリア出兵にあった。ところが後藤はこのように、何らの反省の色も示さないばかりか、逆に居直って、この時は外務大臣なのに内務省の仕事に立ち入り、「思想の険悪に向うを防禦すべき」であるという側面に、論点をすりかえている。後藤の「進言」はさらに具体的に、以下のように厳粛に展開されている。

「言論機関すなわち新聞紙雑誌の取締は、当局の至難とするところ、しかも憲政治下にありて、最も尊重すべき機関なるは、もちろんといえども、現に、今次の騒擾に関する誇張なる記事報道が、如何に国民思想に悪影響をおよぼしたるかを見るときは、真に寒心にたえざるものあり。当局の取締にして、今少し早く、かつ厳なりしならんにはの遺憾は、誰人も直覚せざるものなかるべし」

 シベリア出兵と新聞の関係は、本書でもすでに、陸軍による読売乗っ取りの動きなどを、いささか記した。朝日の方は東西呼応して、反対の論陣を張りつづけていた。

『巨怪伝』では、そのころ後藤に養われていた政治浪人の肥田理吉が、大阪朝日を米騒動の元凶とする報告を作成していたことや、大阪朝日と後藤とがまさに犬猿の仲だったという事実を指摘している。さらに重大なのは、つぎの証言である。

「大正五年に大阪朝日に入社した金親不二男によれば、白虹事件[中略]の裏には、後藤の大阪朝日に対する私怨がからんでいたという」

 軍事的にみれば、シベリア出兵は完全な失敗に終わっている。その中途で寺内内閣は総辞職した。しかし後藤は、その後、シベリア出兵中にもう一度、山本内閣で内相に就任している。後藤は、いわば、さきの「進言」を、みずから先頭に立って実施しつづけたのである。後藤は、しかも、一九二三年に、中国にいたソ連の全権大使、ヨッフェを日本に呼びよせ、「後藤=ヨッフェ会談」と通称される私的会談を行い、これをのちの一九二五年に締結された「日ソ基本条約」への予備交渉につないでいる。後藤だけでなく、当時の日本の体制側指導者たちは、「ころんでもただでは起きない」したたかさを発揮したのではないだろうか。

 というのはまず、以上のような居直りの延長線上で、国内的には「白虹事件」で東西の全朝日を屈服させ、状況逆転による「言論取締」の強化という、決定的な成果を挙げたことになっているからである。しかも、それ以上に重要なことは、日ソ基本条約の締結によって最後の北サハリンからの撤兵が完了する以前の一九二五年(大14)に、日本国内で悪名高い治安維持法が成立したという歴史的経過である。

 この間の「言論取締」の実態は、それだけで一つの大研究を必要とするものであろう。とりあえず紹介しておくと、『日ソ政治外交史/ロシア革命と治安維持法』(小林幸男、有斐閣)では、この間に日本国内で展開された「反ソ・反革命的キャンペーン」の効果に注目している。その結論の要約は、次のようである。

「日ソ国交開始に先立って、一九二五年二月、突如提案された治安維持法が、余り大きな反対運動もなく成立した要因のなかに、国民大衆の脳裏になお根深く浸透していた『尼港事件』カンパニアによる反ソ・反革命の悪感情が底辺に根強く横たわっていたことを見すごすべきではなかろう」

 引用文中の「尼港事件」とは、北サハリンの対岸にある港湾都市ニコラエフスクで、日本軍のだまし討ちにあって捕らえられていた革命派が、獄を破って逃亡を企てた際、市街に放火し、一部の日本人殺害を行った事件である。当時の日本の大手メディアは、前半の経過をことさらに無視し、「邦人全員虐殺」の主旨で数字的にも誇大な煽情的キャンペーンを展開した。同書では、その具体例を詳しく紹介している。

 さらに歴史評価の土俵をひろげれば、「尼港事件」報道だけではなく、シベリア出兵自体が「反ソ・反革命的キャンペーン」の中心的活動だったのである。もちろん、当時の日本の支配層が、そこまでの計算を立てていたという意味ではない。だが、結果から見れば逆に、シベリア出兵という陽動作戦を展開しながら、それをテコにして、本命の日本国内における思想統制に成功を収めたという評価もできなくはないのである。

 なお、シベリア出兵との関係からも、正力の読売乗りこみを位置づけておこう。

 すでに何度もその年度を記したが、正力が読売社長に就任した一九二四年は、シベリア出兵の完全な撤兵が行われる一九二五年の前年に当たっていた。つまり、国際外交上の政策を評価するならば、日本政府のシベリア出兵強硬論は大失敗だったという議論が新聞紙上でも沸騰していても、不思議ではない時期だったのである。

 たとえば、『日本戦争外史/従軍記者』(全日本新聞連盟)という題の、「戦後二〇周年記念」の巨大な豪華本がある。戦後も良いところの一九六五年に出版されながら、いかにも時代錯誤な文章が頻出するしろものなのだが、そこにおいてさえ、「欧州大戦とシベリア出兵」の項の最後の落ちは、つぎのようになっている。

「寄席の落語家をして、『シベリアシッパイ』といわしめたシベリア出兵は、皇軍の光輝ある歴史に、ぬぐうことのできない汚点を記した海外派兵であった」

 落語の種にまでされた政府当局、またはその背後に控える権力中枢にとって、メディア対策は必死の課題だったに違いない。その最中に、松山は財界の匿名組合から、読売経営の地震災害復興費を拒絶されたのである。そこで『巨怪伝』では、つぎのように論を進めている。

「松山をさらに苦境におとしいれたのは、関東大震災後の第二次山本内閣の内相に後藤新平が就任したことだった」

 なぜかというと、すでにのべたように寺内内閣の当時、後藤は内相から外相に転じてシベリア出兵強行を主張していた。その時に朝日は東西で、出兵反対の論陣を張りつづけていたのである。大阪朝日の鳥居素川、東京朝日の松山忠二郎、この二人の編集局長は相呼応して、後藤と鋭く対決した。『朝日新聞社史/大正昭和戦前編』でも、「シベリア出兵反対では『西に素川、東に哲堂[松山の号]あり』といわれた間柄だった」としている。

 すでに「白虹事件」の項で紹介した問題の記事の執筆者、大西利夫も、前出の『別冊新聞研究』(5号、77・10)で、当時の取材の模様を語っている。大西は総選挙のおりに、鳥居素川から「内相の後藤が大阪に来る。邪魔せい」と命令された。後藤の外出中に宿の部屋に忍びこみ、地元の警察部長などの訪問客の名刺を写しとっては、それを「いやがらせ」の記事にした。「泥棒ですわな」と語り、「かなりゆきすぎもあった」と認めている。

 当時の読売には、すでに紹介したように、朝日を「白虹事件」で追われた残党が集まっていた。結果から見れば明らかなように、松山が正力から受けとった読売の経営権買収費には、松山自身をも含む「白虹事件」残党組の「追放料」が加算されていたことになる。

 そこでたとえば、結果として再び追放の目に会った「白虹事件」残党組の一人、花田大五郎は、『別冊新聞研究』(2号、76・4)の「聴きとり」にたいして、つぎのように語っているのである。

「正力君は後藤新平から金をもらって読売を買ったんです。後藤新平はあれで復讐したようなものです」


(第6章-10)
「大調査機関設立の議」の建白から東京放送局初代総裁まで


 一九一九年(大8)、後藤は、寺内内閣の総辞職を機会に欧米視察の旅にでた。訪問先は、アメリカ、イギリス、フランス、スイス、オランダであった。

 シベリア出兵を強行した寺内内閣は総辞職したが、この時期にはまだ、問題のシベリア出兵そのものは泥沼の継続戦のままだった。その最中に、「前外相」の後藤が、シベリアでは日本軍とともに「連合出兵」の戦線を形成してきた欧米諸国を「視察」したのである。

 翌々年の一九二一年にもまだシベリア出兵は泥沼の継続戦だったが、日本工業倶楽部を中心とする「英米視察実業団」二四名が組織された。後藤の個人的な欧米視察は、この実業団に先駆けるものであった。両者の関係は定かではない。だが、国際および国内の状況からして、かれらの念頭にあった緊急の課題が、ロシア革命とシベリア出兵、さらにはそれ以後の政策展開に関わるものであったことは、想像に難くない。

『後藤新平』(4)によると、後藤は、欧米視察から帰国するやいなや、「大調査機関設立の議」の建白書を一気に書き上げ、政府に提出した。

「調査の範囲」の第6項には「労働問題」、第7項には「危険思想、各種の社会思想、国家観念ならびにこれに対する国家の対策」が挙げられている。

 この後藤の「大風呂敷」は、すぐには実現しなかった。現在の実例で示せば、アメリカのCIA(中央情報局)のような強力な組織を設立せよという構想である。その後の日本で実現したのは、後藤自身が創設した満鉄調査部の機能拡充と、一九三一年(昭6)の外務省・陸軍省・海軍省の三省連絡会、ついで内閣情報委員会、情報部、情報省である。

 アメリカを相手取った戦争で「日本は情報戦に敗れた」という議論がある。もちろん、敗因はそれだけではなくて、戦争計画そのものが無謀この上なかったからなのだが、後藤が戦後まで生きていれば、「あの構想がすぐに採用されていれば……」と語ったのではないだろうか。

 情報戦にはもうひとつ、組織以上に重要な電波技術の問題がある。電波技術の発達と関連機器の生産、普及に決定的な役割を果たしたのは、戦前にはラディオ、戦後にはテレヴィであった。

 後藤は、ラディオ放送についても、逓信大臣、内務大臣、東京市長と、さまざまな部署でかかわりを持ち、日本最初の放送局、「社団法人東京放送局」の初代総裁に就任していた。この件では、後藤と正力松太郎との協力関係も確かめられており、もしかすると正力の読売乗りこみの強引さの裏には、新聞=ラディオの両メディア支配の企みが、合わせ隠されていたのではないか、という疑いさえあるのである。

 正力とラディオの関係は、旧著『読売新聞・日本テレビグループ研究』で詳しく論証した。近著の『電波メディアの神話』にも記した。「番町会」グループの利権などもからむ複雑な経過である。

 とりあえず指摘しておきたいことは、当時、ラディオの発足が既存の新聞社の利権争いとなり、政治問題化していたことである。日本の場合、ラディオ免許出願が始まったのは一九二二年であり、各種利権の調整を経て社団法人東京放送局への一本化が決定したのは一九二四年の年末である。正力の読売乗りこみは、利権調整が山場を迎えていた一九二四年の二月であった。

 後藤はまず、逓信省電気試験所で無線電話(ラジオ放送)の実験がはじまった翌年の一九〇八年に逓信大臣兼鉄道院総裁に就任している。外務大臣と内務大臣をへたのち、東京市長となるが、『電気研究所四十年史』(東京都電気研究所編)によると、後藤は、そこで一九二一年には財界から百万円の寄附をえて、電気研究所と付属の電気博物館、電気図書館を建設した。電気研究所には、アメリカのジェネラル・エレクトリック社製の「放送機」を購入して設置した。この「放送機」こそが、日本最初のラディオ試験放送電波を発射したのである。一九五一年版の『日本放送史』では訳語が異なるが、社団法人東京放送局の理事会は、「東京市所有の無線電信電話機」の「臨時借用」方針を決定し、これを実施している。

 とりあえず、以上のような新聞、情報の世界との関係だけを考えても、後藤新平の「如何なる機略によれるものかは、今にいたって分明でない」というたぐいの動きが、正力の読売乗りこみの背後になかったと想像するのは非常に困難であり、「生物学」的に観察すると、なおさらに不自然である。

 しかも、もう一人、時の首相さえもが、内務大臣経験者であり、意外にも、奥深い権謀術数をよくする人物であった


(第6章-11)
明治維新の元勲、山県有朋の直系で、仏門出身の儒学者


 清浦奎吾(一八五〇~一九四二)、晩年に伯爵、一九四一年(昭16)に東条英機を首相に推す重臣会議に出席したのが、最後の政治活動として記録されている。

 この清浦が、虎の門事件で引責辞職した山本権兵衛のあとをつぎ、一九二四年(大13)一月七日から六月一一日まで、わずか一五七日という半年にも満たない短命内閣を組織していた。その間に、正力の読売乗りこみが果たされ、しかも、のちになっての正力の自慢話によると、郷社長に正力専務という体制で、民間のラディオ放送株式会社が発足しかけたというのである。

『読売新聞百年史』では、この間の事情をつぎのように記している。

「正力は後藤新平伯を動かし、財界を味方にして、後藤から当時の逓信大臣藤村義朗をくどいてもらった。時の政府、清浦奎吾内閣も『もし正力の力で、有力な競願五社を統一できるなら免許を考えよう……』というところまで折れてきた」

 ただし、認可直前に清浦内閣は倒れてしまった。翌年には、公益法人の東京・名古屋・大阪放送局の設立、翌々年には日本放送協会への統一、という経過をたどる。この間の動きは、大変にあわただしいのである。

 清浦内閣は当時「貴族院内閣」と呼ばれていた。すでに紹介したように、松山経営の最終末期の読売の紙面では、「閥族」支配、「非立憲内閣」の典型、政党政治に逆行する反動内閣として、第二次護憲運動の倒閣の対象となっていた。一九二四年(大13)一月二一日付け読売社説の四段抜き見出しは、つぎのようであった。

「清浦内閣を倒壊し、併せて非立憲内閣の出現を根絶せよ」

 清浦その人は、さほど有名な歴史上の人物ではない。しかし、それだけにかえって、明治・大正期の内務行政の化身そのもののような観がある人物なのである。

 特徴がないわけではない。仏門出身で、儒学者として世に出たといえば、士族出身の元尊王志士や元軍人が多かった明治の政治家の中では、珍しい部類であろう。政治的には、明治維新の元勲、元老、長州閥、閥族、老狗などの呼び名の典型、山県有朋(一八三八~一九二二)の直系とされている。行政的には、山県が確立した陸軍、内務、司法の三分野のうち、内務と司法の継承者として評価されてきた。山県の死後には、天皇の最高諮問機関としての枢密院議長の地位をも引き継いでいる。それまでも枢密院の副議長だった。

 著書には、一八九九年(明32)発行の『明治法制史』がある。

 官職の経歴は司法省ではじまっている。司法省所属の検事から、内務省に転じて警保局長になる。その後、司法大臣、内務大臣兼農商務大臣、枢密顧問官、二度の首相という経歴だから、戦前の警察と司法の一体だった関係を、一身で表わしているような人物である。

 以上のような経歴の、いわば元老山県有朋の陰の半身とでもいうべき清浦が、二度までもショート・リリーフの組閣を命ぜられたのは、大正期の政治状況の不安定さを象徴的する事態だったといえよう。

 一度目は、海軍大臣がえられずに組閣が失敗し、「流産内閣」とか、鰻の蒲焼の匂いだけかいだという意味で、「鰻香(まんこう)内閣」などとあざけられた。これが一九一四年(大3)、海軍が中心のシーメンス汚職事件で海軍出身の山本権兵衛内閣が総辞職したあとのことである。ショート・リリーフに立って、ボロ負け先発投手の仲間内の海軍から忌避されたのだから、何とも運のない初投手の無投球首相である。

 二度目は、今度も同じ山本権兵衛内閣が虎の門事件で引責総辞職したあとのことだから、よくよく薩摩、または海軍閥の山本の尻拭いに縁があるらしい。一九二四年一月のことだから、山県はすでに死に、清浦自身は、天皇の最高顧問という組織的位置づけの、枢密院議長の立場であった。「貴族院内閣」とよばれたのは、貴族院議員を中心に閣僚を選んだからである。虎の門事件の後始末という特別な事態だったこともあり、さすがに今度は海軍の忌避はなかったが、さきにも記した通りの一五七日の短命内閣だった。最後のとどめは、衆議院選挙で護憲を旗印にした「護憲三派」に多数を制されたことである。

 しかし、短命は清浦内閣だけのことではなかった。大正年間には安定政権はほとんどない。一四年ほどの間に一一の内閣が組織されたが、三年以上続いたのは原敬内閣だけで、これも最後は原敬その人の暗殺で終わっている。二年以上は大隈重信内閣、二年弱が寺内正毅内閣だが、第一次世界大戦、シベリア出兵、米騒動と、国際的動乱、国内的混乱の絶え間がなかった。

 このような動乱と混乱の時代、しかも、人心ゆれうごく思想変革期の真っただ中で、資本主義社会の真の支配者たる財界の大立者たちは、いかなる政権を必要としていたのであろうか。

 明治維新の元勲、元老が、カイライの天皇を擁して絶対的権力をふるった時代は、明治とともに去りつつあった。藩閥、軍閥、官僚閥、貴族院閥などによる閥族政治とよばれて、厳しい批判の的になりつつあった。議会とは名のみで、憲法にも記されていない元老会議と枢密院が、天皇の顧問という資格で政治の骨格を定めえていた時代は、もう終りになるかに見えた。新しい支配体制が求められていた。政党政治への移行が提唱され、具体化もされたが、これも順調には進まなかった。政友会で議席の多数を占めて政権を握ったのが原敬だが、原の政党政治は旧来の閥族との妥協の産物でしかなかった。旧来の閥族政治への「非立憲」的な揺り戻しがつづく状況下、明治の元勲たちの意志を継ぐ最後の仕方なしの受け皿こそが、清浦奎吾だったのではないだろうか。

 清浦の人となりを探る手がかりとしては、『子爵清浦奎吾伝』と『伯爵清浦奎吾伝』(徳富蘇峰監修)、および本人の講話をまとめた『奎堂夜話』がある。これらの中から、新聞に関係する部分を抜き出してみよう。

 清浦が内務省の警保局長、今でいうならば警察庁長官の立場にあったとき、すでに本書第一部の冒頭でふれた保安条例が公布された。

 一八八七年(明20)に公布された保安条例の目的は、民権派の言論の圧殺にあった。おりから政治論議の焦点になっていた条約改正問題で、民権派の政府批判が再燃していたのである。政府は、保安条例をふりかざすことによって、東京から危険人物を追放し、立ち入りを禁ずることができるようになった。その直後には逆に、新聞紙条例を改正して、発行許可制を届出制に緩和したりしている。いわゆるアメとムチの新聞支配のねらいである。

 保安条例は、しかも、極秘裏に準備された。警視庁が芝公園で忘年会を開くという偽装までして、一挙に反対派を検束し、市外に追放したのである。そのときの清浦警保局長の活躍について、『子爵清浦奎吾伝』(日本魂社)では、つぎのように興奮ぎみに持ち上げている。

「警保局長としての手腕を要したこともちろんである。異常な場合には、異常な人材を要するのである。彼の得意時代は、こうした騒々しい時代だったのである」

 だが清浦は、決して暴れ者というばかりではなかった。もともとは仏門出身の儒学者上がりである。むしろ、陰に回ってメディアを統制する方が、肌に合っていたのではないだろうか。保安条例公布後の一八九一年(明24)には、ヨーロッパの新聞通信事業を視察し、帰国後に「東京通信社」を設立している。『伯爵清浦奎吾伝』(伯爵清浦奎吾伝編纂所)には、このときの事情についての本人の談話が収録されている。正力元警務部長の読売乗りこみは、ここで「あの頃」とされている時代から三分の一世紀ほどへだたっているのだが、合わせて読みくらべてみると、いささかギクリとする話なのである。

「あの頃までは、まだ新聞の通信社は少なかった。二つ位あったかと記憶する。[中略]政府の趣旨が誤りつたえられて、政府の不利になることがあるから、一つ通信社をおこして、その弊を除き、正確なる材料を提供したいものだというのが、警保局長としての私の意見であった。[中略]当時警保局でやっていた警官練習所に大分県から選抜入所せしめられていた警部で、五十嵐光彰というのがいて、これが思いのほか、漢学の力もあり、文章も立つというので、あれにやらせたらどうかということになり、五十嵐を辞職させてやらせることにした。もちろん、経費も警保局の方で助けていたし、随分、公平にやっていたが、新聞社側からは、やっぱり御用通信だというような批評もあった」

 この『東京通信社』の実態および実績はよく分からない。わたしの知る限りでは、『日本マス・コミュニケーション史』に、「警保局長清浦奎吾が政府の命令で『東京通信社』を創設した」と記されているのみである。経過だけを押さえておくと、抜き打ちの保安条例公布で「危険人物」を一挙に検束し、市外に追放したのちに、官費で助ける「御用通信」社を設立したのである。のちの『同盟通信社』への一本化につながる発想と実践が、すでに明治時代に存在したわけである。

 警保局長という地位は、現在ならば警察庁長官に当たる現場の最高指揮官である。そういう現場の経験を持つ清浦が、約三分の一世紀後に、首相の立場でメディアの状況を見下ろしていたのである。その胸中には、いかなる策謀が渦巻いていたのであろうか。メディア操作について、清浦が何を考えていたかを明確に示す資料はない。だが、その基本姿勢は、晩年の講話をまとめた『奎堂夜話』(今日の問題社)からも、明白に読み取れるのである。

 たとえば、「国民思想統一の要」と題する講話は、「明治の元勲」の衣鉢を継ぐ教えである。清浦自身は、その「遺訓」を受けた経過を、つぎのように重々しく解説する。

「山県公は、いうまでもなく、明治の元勲で、文官としても、また武将としても、国家のために、維新以来、非常に力をつくした方である。山県公が、なくなられる前々年であったが、わたしに、最後の書簡をおくられた。それは、絶筆というべきものであるが、これも、この場合参考になると思うから、肝要なところだけをのべてみよう」

 山県の書簡の内容は、つぎのように「(要領)」としてまとめられている。

「『欧州大戦終了後は、全世界にわたり、物質上、非常な変化をきたすべく、しかして、この競争は、東亜の天地を中心として、襲来いたすべきものと信ずる。また、その競争は、政治上、経済上、直接間接、種々の形式をもってあらわれ、列強、東亜の天地に、覇を争うにあたりては、帝国の地位は、戦後に起るべき大颶風の衝にあたると、覚悟しなければならぬ。この強風怒濤にむかっては、挙国一致、人心を結合して、国家の基礎を、鞏固ならしむる覚悟が、必要である。しかれども、これを実行するのは、容易なことではない。実に想うてここにいたれば、帝国の前途は憂慮にたえない次第である。老兄もまた御同感と信ずる。同志とともに、憂国の志士をかたらい、将来ますます帝国の光輝を、発揚せらるること、切望にたえない』(要領)」

 この「遺訓」のキーワードは、二度までも出てくる「競争」であり、「覇を争う」であり、その目的のために「挙国一致」することである。このキーワードの配列が示す通りの方向に「国民思想統一」を図った結果は、すでに、あまりにも明らかになりすぎている。さきにも簡略に指摘したが、歴史的分岐点における最悪の選択、「旧帝国主義支配の維持」すらを突き抜ける侵略の拡大であった。日中一五年戦争であり、アジア太平洋戦争であり、最後には、「国体護持」だけのために「神風特攻隊」を発進し、お返しに二発の核爆弾の投下までを招く敗戦であった。

 新聞業界も「挙国一致」の先頭を切り、「国民思想統一」のための要の役割を果たした。業界をまとめる団体は、現在と名称を同じくする「日本新聞協会」であった。『伯爵清浦奎吾伝』の「通信新聞事業に盡力」という項目には、つぎのように記されている。

「日本の新聞、通信事業が異常の発達をとげた今日において、伯が全国新聞、通信社を網羅し、かしこくも東久邇殿下を奉戴して、日本における同業団体の最大組織たる日本新聞協会の会長に就任したことも、決して偶然ではなかった」

 つまり、ここに、かつて後藤新平が画策し、その伝記には、「機遂に熟せずして、新聞連盟の事は中絶するに至ったのである」と記されていた「新聞利用」の政治構想が、名前こそ違え、元首相を会長に奉戴しつつ実現したのである。

 そこで、また話を本来の主人公の読売に戻すと、正力松太郎は、読売乗りこみの二年後、一九二六年(大15)三月一五日に歌舞伎座を買い切って、「社長就任披露の大祝賀会」を開いた。『読売新聞八十年史』によれば、正力はそこで、三〇〇〇名の各界名士を前にして「新聞報国への固い決意を開陳した」のである。「激励、祝辞」をのべた「各界の代表」のなかには「首相若槻礼次郎、新聞協会会長清浦奎吾」と並んで、「後藤新平」の名も連ねられている。


第七章 メディア支配の斬りこみ隊長

(第7章-1)
「蛮勇を揮った」ことを戦後も自慢話にしていた元「鬼警視」


 さて、以上のような当時の国際および国内の政治状況を念頭に置いた上で、正力松太郎とは果たして何者かという問いに、いま一度、あらためて答え直す必要がある。

 この設問にたいしては、さまざまな角度からの描写、説明、分析、解釈などがありうるだろう。

 わたしがもっとも重視したい「正力像」は、以上に紹介したような当時の内務官僚OBたちの目から見たものである。なぜかといえば、読売に乗りこんだ当時の正力は、前警視庁警務部長であり、すでに一定の評価をえた社会的存在である。順序からいえば、警視総監就任を目前にしていた。そういう社会的存在としての正力に、新たな役割が振り当てられたのだという視点から、読売乗りこみを考えるべきではないのだろうか。

 将棋にたとえれば、乱戦状態の局面で相手方の布陣のすきを狙い、ピシリと打ちこむ「横っ飛び」の桂馬のような役割である。おそらく正力は、少なくとも飛車ぐらいの実力があると自認していたであろう。本人にしてみれば不満な役割だったのかもしれない。だが、当時の局面からすれば、正力という駒の活用は、かれら内務官僚OBたちにとって、いわば「最後の奥の手」だったのではないだろうか。

 正力には、そのように嘱目されるだけの、乱戦向きの強力な現場指揮官らしい実績があった。どの点がとくに嘱目されていたかといえば、つぎのような本人の自慢話のとおりの「蛮勇」ぶりであった。以下は、本人の談話による『悪戦苦闘』物語中の「米騒動鎮圧」の巻、「日比谷公園は音楽堂」の場の一節である。

「わたしは当時三三、四歳で鼻息の荒い時でありましたから、[中略]わたしが先頭に立ち六十余名の巡査を一団として、猛然群衆を突破して音楽堂にかけ上がり、幹部を突き落とし、あるいは検束しました。それは非常な勢いらしかったのです。この原庭警察署は当時から武道が盛んでありましたから、その巡査が、わたしや署長の指揮の下に、薄暗くて顔の見えぬのに乗じ、随分わたしとともに、蛮勇を揮ったものであります」

 この『悪戦苦闘』という単行本は、一九五二年(昭27)に、万能型の評論家として当時名高かった大宅壮一の編集という形式で発行されている。大宅壮一自身が執筆した正力評も添えられているから、編著といってもいいだろう。わたしが「正力講談」として分類する単行本のなかでは、いちばん古いものである。

 しかも、『悪戦苦闘』が発行された一九五二年という時期には、特別な意味がある。日本の歴史上では、四月二八日にサンフランシスコ講和条約が発行し、日本が曲りなりにも独立を回復した年である。『読売新聞百年史』では、この単独講和による状況を「名実ともに独立国となった」と記しているが、それは当時の読売が現在の改憲論とおなじような政治姿勢で、積極的に、単独講和推進論の紙面を構成していたことの延長線上での評価にほかならない。いわゆる「手前味噌」である。

 読売と正力にとっての一九五二年は、それゆえにまず、単独講和推進論の勝利の年であった。つぎに単独講和は、実質的な日米同盟の形成と戦犯の公職追放解除を意味した。正力自身は、のちに紹介する事情によって、少し早目の前年、一九五一年八月六日に追放令解除となっていた。その事情の一端がまた、読売と正力にとっての一九五二年を特別の年にしている。正力は、公職追放中からアメリカ直結のテレヴィ放送網の建設を提唱していた。正力を社長とする日本テレビ放送網株式会社は、一九五二年七月三一日の深夜一一時四〇分に、日本の第一号のテレヴィ放送免許を獲得したのである。

 ついでながら面白いことに、『読売新聞百年史』には「逆コースに挑む」という読売の紙面評価の項目がある。そこでは「公職追放解除」の全体像を、つぎのように位置づけているのである。

「追放解除は、すでに二十五[一九五〇]年十、十一月の両月、一万九十人に対し行われ、そのうち元軍人らは創設まもない警察予備隊に入隊した。さらに二十六年六月から講和発効の二十七年四月二十八日までには各界の追放者二十一万余が全員解除された。彼等は『戦犯・追放』という肩書きを一つ増やし、胸を張って“社会復帰”したのであった。このことは軍国主義者、超国家主義者としての個人の復権ばかりでなく、その思想内容の復権も意味するもので、逆コース風潮の芽生えとなった」

 単純に読むと、これが本当に読売の社史の一節かと疑いたくなるであろう。ところがまず、この『読売新聞百年史』は正力の死後に、当時の務台社長の業績を最大限に評価する姿勢で編集されたのである。該当の「逆コースに挑む」の項では、一九五一年一一月二日から始めた連載記事、「逆コース」の内容を紹介している。当時の読売では、副社長の務台が中心になっていた。同書の表現によれば、正力が社主に「推挙」されて「公式」の復帰を果たすのは、三年後の一九五四年(昭29)七月七日のことであった。務台自身は、正力の追放解除と読売への復帰を望んではいなかったのである。

 正力は、当然、当時の読売の紙面に欠かさず目を通していたにちがいない。だとすると正力は、自分の公職追放解除以後に開始された「逆コース」批判の連載記事を横目でにらみながら、まさに「苦虫をかみつぶす」思いをしていたのではないだろうか。

『悪戦苦闘』という本は、以上の事実経過に照らして評価するならば、いかにも正力らしい、乱暴で「ドス」の利いた「ムショ」帰り風の「社会復帰」宣言である。読売の記事の文句を借りるならば、「個人の復権ばかりでなく、その思想内容の復権」の宣言でもあった。内容はすべて、まさにその典型で、戦前の行為についての反省の色はサラサラない。

 話を「米騒動鎮圧」の巻にもどすと、「日比谷公園は音楽堂」の場につづいて、「日本橋は米穀取引所」の場が演じられる。もともと米の値段の暴騰が直接原因の騒動だから、東京でも、この米穀取引所への襲撃は本命の山場である。

 ここでも正力は、米穀取引所を襲っていた群衆に突入して、中心人物を逮捕する。ところがそのとき、投石が正力の頭に当たり、血が流れ落ちた。頭の傷というものは、軽くても傷口が裂けやすくて、かなりの血が吹きでるものである。ただでさえ人目につく事態なのだが、そのときの正力は、夏用の白の制服を着ていた。頭から流れ落ちた血は、正力の白服を赤く染めた。正力は、その状態を知りながら、わざとアーク灯の真下に立って、群衆をにらみつけたという。この勢いに押されて群衆は散るのであるが、大宅壮一は、このような正力の戦法を、つぎのように評している。

「このコツが彼の人生の後半部でも、舞台と扮装こそ異なれ、巧みな演出が行われて行くのである。これは彼の天性から出ていると共に、ある程度意識的、計画的になされていたらしい」


(第7章-2)
「僕は我儘一杯に育ってきた」と自認する元「餓鬼大将」の正体


 これまでの正力講談では、もっぱら柔道の修行が、正力の人となりを語る最初の材料になっていた。

 京都で行われた三高との対抗試合で、四高の大将、副将につぐ三将の位置にあった無段の正力が、三高の大将を奇襲の巴投げで倒し、逆転勝利を勝ち取ったのである。大学時代も柔道に熱中したという。そこから「豪腕」という形容が選ばれるようになる。

『巨怪伝』には、本人が語った子供時代が出てくる。すでに紹介済みの『現代ジャアナリズム』に収められている文芸評論家、杉山平助との対談の一部である。『巨怪伝』の著者、佐野が、「子供時代の思い出と健康法」と呼ぶ部分の引用は、つぎのようである。

「杉山 土木請負業の息子は、僕の友達にも二三ありますが、一体に素朴で、餓鬼大将気分が濃厚で、気っぷのいいところなど、共通点がありますね。

 正力 僕も子供時分から、いつも餓鬼大将だったから、煩悶もなかったですね。

 杉山 所が、いつかのお話で共鳴なさった日蓮は、アレで中々若い時には煩悶のあった人ですが。

 正力 僕には煩悶は全くないですね。僕は我儘一杯に育って来たから」

 このように「我儘一杯に育って来た」ことを自認する正力松太郎は、名前はまるで長男のようだが、実際には、男三人女七人の兄弟姉妹のなかで五番目に生まれた次男だった。『巨怪伝』によれば、生家は、「こんもりと茂った森のなかに石垣をめぐらせ、庄川のほとりにそそりたっている。黒々とした瓦が屋根に波打つ広壮な屋敷」であり、そこには「印半纒(しるしばんてん)の人足が何十人となく出入りしていた」のである。

 正力の祖父の庄助は、庄川の氾濫を防いだ功績によって、奉行から名字帯刀を許された。正力の名字は、庄助が古い橋の杭を抜くために工夫した「正力輪」という金具に由来している。

 以上のような材料だけでは、まだ、「豪腕」とか「傍若無人」とか、またはさきに紹介したような本人談の「蛮勇」の形容の範囲内にとどまるであろう。本物の戦国講談の「岩見重太郎」並の「豪傑」と比較して、かえっていわゆる悪名を高めてしまう場合も出てくるだろう。だが、人間の本性は、自分自身が危急存亡の際に立たされたときに、もっとも正直に明らかになるものである。正力は、そのような場合に果たして、いわゆる豪傑らしい「泰然自若」とした態度を取ることができたのであろうか。

 一九四五年(昭20)一一月一〇日、第一次読売争議の山場で、全国新聞通信従業員組合同盟主催の「読売新聞闘争応援大会」終了後、約千名のデモ行進が読売本社に向かった。そのときの正力の狼狽ぶりが、『読売争議(一九四五・四六年)』(御茶の水書房)に記録されている。この本には、著者である東京大学社会科学研究所の助教授(当時)、山本潔の「聴き取り調査」が含まれている。以下は山本が、元読売従組員の綿引邦農夫から直接聴き取った証言にもとづいて、文章を構成したものである。

「正力は、『「共産党が来るぞ」という通報にあわてふためき』、『下駄箱に頭を突っ込んで尻を出していた』、そして配下に注意されて避難した」

 山本は、この状況について、「この時、正力は本能的に生命の危険を感じ、一時的に錯乱状態におちいっていたに相違ない」と判断する。判断の論拠は、御手洗辰雄の『伝記正力松太郎』の記述に求めており、つぎのように注釈を加えている。

「では、正力松太郎は、何故にそれほどまでに共産党を恐れなければならなかったのか。それは、一九二三年(大正一二年)、正力の警視庁官房主事時代、猪股津南雄宅にスパイの按摩を送り込み、猪股家捜索 → 早稲田大学の研究室捜査 → 第一回共産党検挙を指揮したからであった。そしてこの直後の大震災下の虐殺事件ともからんで、一部の共産党員の間で正力襲撃計画が立てられ、正力は『共産党に襲われた夢を見てうなされ』るような過去があったからである。したがって、戦後はじめて、共産党系のリーダーの指導するデモ隊が、読売新聞社におしよせつつあるという知らせを聞いたとき、正力の脳裏をかすめたものは、人民裁判によって殺される己の姿ではなかったろうか。正力が、一時、正常な判断力を失ったのも、もっともなことである」

 山本のいう通りに、正力は長い間、無意識下にもせよ、共産党員からの報復を恐れ、悪夢に悩まされていたようである。晩年の『週刊文春』(65・4・19)での大屋壮一との対談でも。「ぼくは夢をみた。殺しにこられた夢ですよ」と語っている。その悪夢が現実になると感じた瞬間に、白昼、しかも人前で「頭隠して尻隠さず」の典型的錯乱状態をさらけ出してしまったのだろう。それは確かに、一般人、または当時までの軍隊用語の「地方人」ならば、「もっともなこと」として笑って許される状況だったのかもしれない。

 正力の場合には、育ちから見ても、長年の経歴から見ても、豪傑のはずだった。本人も、人並優れた胆力の持ち主のように振る舞ってきた。この時、正力は六〇歳である。その後も、健康の秘訣を「人を食う」ことと称していたくらいだから、まだまだボケ現象が出る年ではない。この直後にA級戦犯に指名されて巣鴨入りするのだが、戦犯の容疑としては、紙面で戦争をあおり、若者を戦場に送り、最後には特攻隊に志願させたような責任も、すべて問われなければならない立場だった。死の予感で錯乱状態に陥ることが許される立場ではなかった。

 以上のような事実経過を考慮に入れると、正力が自称していた「蛮勇」の正体は、非常に怪しげなものに見えてくる。最初の「餓鬼大将」時代には、「親方」の父親という、地元の絶対的権威が背後に控えていた。警視庁時代には、それこそ「親方日の丸」の旗の下である。人目には派手に映る「単身突入」という芸当の場合、相手は、武術の心得のない烏合の衆である。正力の背後には、日頃から日課の柔道や剣道で鍛え上げた警察官の大部隊がいた。正力の「蛮勇」は、いわば、「衆を頼む」類いのものにすぎなかったのではないのだろうか。


(第7章-3)
第一次共産党検挙の手柄をあせった特高の親玉の独裁性


 以上のような「人となり」に関する情報を念頭においた上で、米騒動以後の正力の経歴を見直し、正力の性格を再度検討してみよう。ただし本書の主題は正力個人ではないから、検討の範囲は、以後の正力の読売「乗りこみ」と、新聞経営の特徴を理解しやすくするための、ごく一部の事例紹介にとどめざるをえない。

 すでに記したように、わたし自身が直接経験した日本テレビ時代の正力の社内での呼び名は「ワンマン」であった。戦前からの読売経営についても、正力の「独裁」という理解が定式化している。一応、戦前の同時代資料としてタブロイド新聞の『現代新聞批判』を参照すると、この理解は完全に一致している。同紙の一九三五年(昭10)一一月一日号では、関西進出に関する「読売恐るべし」という記事で、正力の経営を「独裁主義」と表現している。同じく一九三七年(昭12)二月一五日号では、二・二六事件直後の後継内閣誤報号外に関する「政変と読売号外問題」という記事で、「正力独裁機構」とか「正力独裁社長」と表現している。

 本人自身も、「読売を築き上げるまで」という『日本評論』(36・1)への寄稿の中で、つぎのように明言していた。

「私が新聞社に対して独裁主義を採っていることは、今更いうまでもなく御存じのことであろう。独裁主義を採る以上はその弊害もすでに覚悟している。独断専行がともすればやり過ぎにならぬとも限らぬ。しかし、凡そ伸びゆくものにとって、新聞と何たるの区別を問わず、独裁主義の適用は当然のことではないか」

 ここまで明言されてしまえば、最早、何をかいわんやである。およそ、言論の自由とはほど遠い発想の持ち主だったのである。

 このような正力の「独裁」的性格は、餓鬼大将時代を下敷きにしながら、社会人になって以後の警視庁時代に、ますます強化されたにちがいない。日本の警察機構の上意下達型の特徴については、とくに論ずるまでもないことであろう。ドイツのゲシュタポ、ソ連のゲ・ペ・ウーに勝るとも劣らぬ日本の戦前の警察は、単に独裁型だけでだけはでなく、暴力支配型の人材によって支えられていた。

 この日本の戦前の警察機構のなかでは、米騒動で発揮した正力の「蛮勇」ぶりこそが、まさに「勲章もの」であった。米騒動の鎮圧活動で「功績抜群」と評価された正力は、天皇の名において勲六等の叙勲を受け、瑞宝章を授けられた。このとき三三歳である。そのときの得意ぶりたるや想像を絶する。

 それまでの経歴は、一八八五年(明18)生まれで、東京帝国大学法科大学独語科卒業が一九一一年(明44)である。二六歳の大卒だから、落第の多い方だ。しかも、卒業年度までには高等文官試験に合格できていない。翌年に内閣統計局にもぐりこみ、やっと高等文官試験に合格してから、一九一三年(大2)六月に警視庁に入っている。

 そこからは戦前の高級官僚コースだから、普通の昇進順序でも出世は早い。ただちに警部となり、翌年には警視、日本橋堀留署長となる。一九一七年には第一方面監察官となり、この立場で一九一八年の米騒動を迎えた。

 米騒動で勲章をもらった以後は、さらに昇進の速度が早まる。

 翌年、一九一九年には刑事課長である。この立場で、一九二〇年の普通選挙大会の取締り、東京市電ストの鎮圧などに当たっている。その翌年の一九二一年には、警視庁でナンバー・ツーの位置とされる官房主事になり、高等課長を兼任した。まだ三六歳である。本人自身が『週刊文春』(65・4・19)で、その出世の早さを、「わたしほど進級の早いのはいません」と自慢している。

 一九二三年(大12)、官房主事になってから二年目の六月五日に、第一次共産党検挙が行われた。総合的な指揮を取ったのは正力であった。配下の主力部隊は、正力が課長を兼務する高等課所属の特高係刑事である。『伝記正力松太郎』などでは、正力が、いかにも手際良くスパイを放ち、押収した証拠書類を吟味し、機敏な一斉検挙を遂行したかのように描き出している。

 だが、この件でも、実務を担当した検事の証言、『塩見李彦回想録』が残されている。

 塩見の回想によると、正力がスパイ工作で、日本共産党の規約と創立大会の議事録を入手し、おりから腰痛で自宅静養中の塩野に、その内容を読んで起訴ができるかどうかを判断してほしいと頼みこんだのである。塩野は、それを精読して、治安警察法の条項にふれると判断した。当時はまだ治安維持法は成立していなかったが、治安警察法によっても、秘密結社の結成には六か月から一年の禁固刑が課せられるのであった。塩野は、つぎのように回想している。

「早速正力官房主事へ電話で、見込みありと通知したので、正力主事は車を飛ばし余丁町の私宅に来た。余は起訴可能であり、当然起訴すべきものだと説明したので正力主事は大喜びで、直ちに警保局長の官舎に行って説明して貰いたいと言う。病中ゆえ背負われ家を出で一緒に自動車で局長官舎にゆき、これを報告した」

 さらに検事局に二人で行って検事正らに検討させ、翌朝六時に一斉検挙の方針を決めた。ところが、「絶対秘密を厳命して置いたにも拘わらず。翌朝暁新聞号外が出たのは意外だった」。なぜかというと、帰宅途上の新聞記者が警視庁の近くを通ったところ、「窓々に煌々(こうこう)と電灯がついているので、何事かと警視庁に行って見ると自動車の勢揃い、家宅捜査だと言う話で、自ら漏洩(ろうえい)して仕舞ったのであった」。

 いかにも正力らしい乱暴さである。そのため塩野によれば、「被告の中には寝床でこの号外を見た者もあったろう」という状況で、「逃亡した幹部もあった。慶応大学の野坂参三、早稲田大学の大山郁夫は、この検挙を巧みにのがれて、その後まもなく亡命」するという結果を招いた。

 もちろん、いかに乱暴ではあっても、この一斉検挙の強行には絶大な効果があった。共産党ばかりではなく、多くの反体制的な組織が活動困難に追いこまれた。正力の杜撰ながら強引きわまりない特高戦法は、実質的な思想犯逮捕を実現しており、いわば治安維持法の先取りをなしている。

 共産党一斉検挙は、歴史的には大逆事件の系譜である。明治の大逆事件、大正の共産党一斉検挙は、昭和のファッシズムへの序曲であった。その意味では、正力は、ファッシズムの推進の先頭に立って、「独裁」的な「蛮勇」をふるったのである。


第八章 関東大震災に便乗した治安対策

(第8章-1)
陸軍将校、近衛兵、憲兵、警察官、自警団員、暴徒


 正力が指揮した第一次共産党検挙が行われたのは、一九二三年(大12)六月五日である。

 それから三か月も経たない九月一日には、関東大震災が襲ってきた。このときの警視庁の実質的な現場指揮者は、やはり正力であった。この一九二三年という年は、日本全体にとっても正力個人にとっても激動の年であった。若干重複するが、もう一度、月日と主要な経過を整理し、問題点と特徴を明確にしておきたい。

 六月五日に、第一次共産党検挙が行われた。この時、正力は官房主事兼高等課長だった。

 九月一日に、関東大震災が起きた。正力の立場は前とおなじだった。

 一二月二七日には、虎の門事件が起きた。この時、正力は警務部長だった。

 虎の門事件の際、警備に関して正力は、警視総監につぐ地位の実質的最高責任者である。警視総監の湯浅倉平とともに即刻辞表を提出し、翌年一月七日に懲戒免官となった。ただし、同じ一月二六日には裕仁の結婚で特赦となっている。

 以上の三つの重大事件を並べて見なおすと、第一次共産党検挙と虎の門事件の背景には、明らかに、国際および国内の政治的激動が反映している。その両重大事件の中間に起きた関東大震災は、当時の技術では予測しがたい空前絶後の天災であるが、この不慮の事態を舞台にして、これまた空前絶後で、しかも、その国際的および国内的な政治的影響がさらに大きい人災が発生した。朝鮮人・中国人・社会主義者の大量虐殺事件である。

 さて、以上のように改めて日程を整理してみたのは、ほかでもない。本書の主題と、関東大震災における朝鮮人・中国人・社会主義者の大量虐殺事件との間に、重大な因果関係があると確信するからである。のちほど詳しく紹介するが、最近まで、ほとんど知られていなかった歴史的事実が、明らかになっているのだ。そこで以下、順序を追って、虐殺、報道、言論弾圧から、正力の読売乗りこみへと、その因果関係を解き明かしてみたい。

 どの虐殺事件においても明らかなことは、無抵抗の犠牲者を、陸軍将校、近衛兵、憲兵、警察官、自警団員、暴徒らが、一方的に打ち殺したという事実関係である。正力は、当然、秩序維持の責任を問われる立場にあった。正力と虐殺事件の関係、正力の立場上の責任などについては、これまでにも多数の著述がある。


(第8章-2)
「朝鮮人暴動説」を新聞記者を通じて意図的に流していた正力


 正力自身も『悪戦苦闘』のなかで、つぎのように弁明している。

「朝鮮人来襲の虚報には警視庁も失敗しました。警視庁当局者として誠に面目なき次第です」

 これだけを読むと、いかにも素直なわび方のように聞こえるが、本当に単なる「失敗」だったのだろうか。以下では、わたし自身が旧著『読売新聞・日本テレビ・グループ研究』執筆に当たって参考にした資料に加えて、それ以後に出版された新資料をも紹介する。いくつかの重要な指摘を要約しながら、正力と虐殺事件の関係の真相にせまってみる。

 興味深いことには、ほかならぬ正力が「ワンマン」として君臨していた当時の一九六〇年に、読売新聞社が発行した『日本の歴史』第一二巻には、「朝鮮人暴動説」の出所が、近衛第一師団から関東戒厳令司令官への報告の内容として、つぎのように記されていた。

「市内一般の秩序維持のための〇〇〇の好意的宣伝に出づるもの」

 この報告によれば、「朝鮮人暴動説」の出所は伏せ字の「〇〇〇」である。伏せ字の解読は、虫食いの古文書研究などでは欠かせない技術である。論理的な解明は不可能ではない。ここではまず、情報発信の理由は「市内一般の秩序維持」であり、それが「好意的宣伝」として伝えられたという評価なのである。「市内一般の秩序維持」を任務とする組織となれば、「警察」と考えるのが普通である。さらには、そのための情報を「好意的宣伝」として、近衛第一師団、つまりは天皇の身辺警護を本務とする軍の組織に伝えるとなると、その組織自体の権威も高くなければ筋が通らない。字数が正しいと仮定すると、三字だから「警察」では短すぎるし、「官房主事」「警視総監」では長すぎる。「警視庁」「警保局」「内務省」なら、どれでもピッタリ収まる。

 詳しい研究は数多い。『歴史の真実/関東大震災と朝鮮虐殺』(現代史出版会)の資料編によれば、すくなくとも震災の翌日の九月二日午後八時二〇分には、船橋の海軍無線送信所から、「付近鮮人不穏の噂」の打電がはじまっている。

 翌日の九月三日午前八時以降には、「内務省警保局長」から全国の「各地方長官宛」に、つぎのような電文が打たれた。

「東京付近の震災を利用し、朝鮮人は各地に放火し、不逞の目的を遂行せんとし、現に東京市内において、爆弾を所持し、石油を注ぎて、放火するものあり、すでに東京府下には、一部戒厳令を施行したるが故に、各地において、充分周密なる視察を加え、鮮人の行動に対しては厳密なる取締を加えられたし」

 正力の『悪戦苦闘』における弁解は、「朝鮮人来襲の虚報には警視庁も失敗しました」となっていた。では、この「虚報」と正力の関係、「失敗」の経過は、どのようだったのだろうか。

 記録に残る限りでは、正力自身が「虚報」と表現した「朝鮮人来襲」の噂を一番最初に、メディアを通じて意識的に広めようとしたのは、なんと、正力自身なのである。

 シャンソン歌手、石井好子の父親としても名高かった自民党の大物、故石井光次郎は、関東大震災の当時、朝日新聞の営業局長だった。石井は内務省の出身であり、元内務官僚の新聞人としては正力の先達である。震災当日の一日夜、焼け出された朝日の社員たちは、帝国ホテルに臨時編集部を構えた。ところが食料がまったくない。石井の伝記『回想八十八年』(カルチャー出版社)には、つぎのように記されている。

「記者の一人を、警視庁に情勢を聞きにやらせた。当時、正力松太郎が官房主事だった。

『正力君の所へ行って、情勢を聞いてこい。それと同時に、食い物と飲み物が、あそこには集まっているに違いないから、持てるだけもらってこい[中略]』といいつけた。それで、幸いにも、食い物と飲み物が確保できた。ところが、帰って来た者の報告では、正力君から、『朝鮮人がむほんを起こしているといううわさがあるから、各自、気をつけろということを、君たち記者が回るときに、あっちこっちで触れてくれ』と頼まれたということであった」

 ところが、その場に居合わせた当時の朝日の専務、下村海南が、「それはおかしい」と断言した、予測不可能な地震の当日に暴動を起こす予定を立てるはずはない、というのが下村の論拠だった。下村は台湾総督府民政長官を経験している。植民地や朝鮮人問題には詳しい。そこで、石井によると、「他の新聞社の連中は触れて回ったが」、朝日は下村の「流言飛語に決まっている」という制止にしたがったというのである。


(第8章-3)
東京の新聞の「朝鮮人暴動説」報道例の意外な発見


 ただし、石井の回想通りに、朝日が「朝鮮人暴動説」報道を抑制したのかどうかについては、いささか疑問がある。内務省筋が流した「朝鮮人暴動説」は、全国各地の新聞で報道された。

『大阪朝日』は九月四日、「神戸に於ける某無線電信で三日傍受したところによると」、という書き出しで、さきの船橋送信所発電とほぼ同じ内容の記事を載せた。『朝日新聞社史/大正・昭和戦前編』には、震災後の東京朝日と大阪朝日の協力関係について、非常に詳しい記述があるが、なぜか、大阪朝日が「朝鮮人暴動説」をそのまま報道した事実にふれていない。『大阪朝日』ほかの実例は、『現代史資料(6)関東大震災と朝鮮人』に多数収録されている。この基本資料を無視する朝日の姿勢には、厳しく疑問を呈したい。

 東京の新聞でも、同じ報道が流されたはずなのであるが、現物は残っていないようである。わたしが目にした限りの関東大震災関係の著述には、東京の新聞の「朝鮮人暴動説」の報道例は記されていなかった。念のためにわたし自身も直接調べたが、地震発生の九月二日から四日までの新聞資料は、実物を保存している東京大学新聞研究所(現社会情報研究所)にも、国会図書館のマイクロフィルムにも、まったく残されていなかった。

 たしかに地震後の混乱もあったに違いないが、そのために資料収集が不可能だったとは考えにくい。報知、東京日日(現毎日)、都(現東京)のように、活字ケースが倒れた程度で、地震の被害が軽い社もあった。各社とも、あらゆる手をつくして何十万部もの新聞を発行していたのである。各社は保存していたはずだから、九月一日から四日までの東京の新聞の実物が、まるでないというのはおかしい。戒厳令下の言論統制などの結果、抹殺されてしまった可能性が高い。

 ところが意外なことに、『日本マス・コミュニケーション史』(山本文雄編著、東海大学出版会)には、新聞報道の「混乱」の「最もよい例」として、「九月三日付けの『報知』の号外」の「全文」が紹介されていた。要点はつぎのようである。

「東京の鮮人は三五名づつ昨二日、手を配り市内随所に放火したる模様にて、その筋に捕らわれし者約百名」

「程ヶ谷方面において鮮人約二百名徒党を組み、一日来の震災を機として暴動を起こし、同地青年団在郷軍人は防御に当たり、鮮人側に十余名の死傷者」

 同書の編著者で、当時は東海大学教授の山本文雄に、直接教えを乞うたところ、この号外の現物はないが、出典は『新聞生活三十年』であるという。

 実物は国会図書館にあった。著書の斉藤久治は当時の報知販売部員だった。同書には、新聞学院における「販売学の講演」にもとづくものと記されている。発行は一九三二年(昭7)である。のちの読売社長、務台光雄は元報知販売部長で、同時代人だから、この二人は旧知の仲だったに違いない。ところが、この二人が残した記録は、肝心のところで、いささか食い違いを見せるのである。


(第8章-4)
号外の秘密を抱いて墓場に入った元報知販売部長、務台光雄


 務台の伝記『闘魂の人/人間務台と読売新聞』(地産出版、以下『闘魂の人』)には、務台が、震災直後から一週間ほど社の講堂で寝泊まりしたことやら、その奮闘ぶりが克明に描き出されている。「活字が崩れてしまったので、大きい活字を使って、号外のような新聞を、四日には出すところまでこぎつけた」ということになっている。ところが、『新聞生活三十年』には、「写真1」のような「九月一日」付けの報知号外のトップ見出し部分のみが印刷されているのである。「四日」と「一日」とでは、この緊急事態に際しては大変な相違がある。




写真1 『新聞生活三十年』より



 謎を解く鍵の一つは、まず、『別冊新聞研究』((4)、77・3)掲載、「太田さんの思い出」という題の、務台自身の名による文章である。そこでは、「直ちに手刷り号外の発行を行う一方、本格的新聞の発行に着手、まず必要なのは用紙だ」となっている。地震で電気がこないから、輪転機が動かせない。輪転機用の巻紙もない。だが、活字を組んでインクを塗れば、「手刷り」印刷は可能だった。しかも、「手刷り」には、もう一つの手段があった。

 さきの『新聞生活三十年』を出典とする「朝鮮人暴動説」の号外は九月三日付けだが、「写真2」のようなガリ版印刷である。本文中には、「汗だくになって号外を謄写版に刷る」という作業状況が記されている。





写真2 『新聞生活三十年』より



 務台のフトコロ刀といわれた元中部読売新聞社長、竹井博友の著書、『執念』(大自然出版局)によると、電気がこないので九月九日まで、「四谷の米屋からさがしてきたガス・エンジンでマリノニ輪転機を動かして」いたという。普段よりは印刷能力が低かったので、手刷りやガリ版印刷で補ったのであろう。晩年の務台から直接取材したという『新聞の鬼たち/小説務台光雄(むたいみつお)』(大下英治、光文社)では、震災当日に「手刷り」と「謄写版」の号外を出した事を認めている。つまり、務台自身が、段々と真相の告白に迫っていたのだ。

 もう一つの手段は、近県の印刷所の借用である。斉藤久治の表現によれば、「報知特有の快速自動車ケース号(最大時速一時間百五十哩)」で前橋の地方紙に原稿を届け、九月七日までに、「数十万枚を東京に発、送し、市内の読者に配ることに成功した」という。

 さて、そこからが一編の歴史サスペンスを感じさせるところである。『新聞生活三十年』の本文には、問題の号外の文章は復原されていない。そのほかにも本文には、「朝鮮人暴動説」報道に関しての記述はまったくないのである。

 「写真2」は同書の実物大(WEB上の注:87ミリ×53ミリ)である。もともとのガリ版が乱筆の上に、かなりかすれている。しかも、極端に縮尺されているから、拡大鏡で一字一字書き写してみなければ、判読できない状態である。結果から見て断言できるのは、「写真2」のガリ版号外が、『新聞生活三十年』の本文の記述を裏切っているということである。奇妙な話のようだが、当時の言論状況を考えれば、真相は意外に簡単なことかもしれない。著者の斉藤が、手元に秘蔵していたガリ版号外の内容を後世に伝えるために、検閲の目を逃れやすいように判読しがたい状態の写真版にして、印刷の段階で、すべりこませたのかもしれないのである。

 わたしは、このガリ版号外の件を『噂の真相』(80・7)に書いた。読売の役員室に電話をして務台自身の証言を求めたが、返事のないまま務台は死んでしまった。あの時代の人々には、この種の秘密を墓場まで抱いていく例が多いようだ。残念なことである


(第8章-5)
「米騒動」と「三・一朝鮮独立運動」の影に怯える当局者


「朝鮮人来襲の虚報」または「朝鮮人暴動説」の発端については、発生地帯の研究などもあるが、いまだに決定的な証拠が明らかではない。軍関係者が積極的に情報を売りこんでいたという報告もある。民間の「流言」が先行していた可能性も、完全には否定できない。しかし、その場合でも、すでにいくつかの研究が明らかにしているように、それ以前から頻発していた警察発表「サツネタ」報道が、その感情的な下地を用意していたのである。いわゆる「不逞鮮人」に関する過剰で煽情的な報道は、四年前の一九一九年三月一日にはじまる「三・一運動」以来、日本国内に氾濫していた。

 しかも、仮に出発点が「虚報」や「流言」だったとしても、本来ならばデマを取り締まるべき立場の内務省・警察関係者が、それを積極的に広めたという事実は否定しようもない。「失敗」で済む話ではないのである。

 さきに紹介した「内務省警保局長出」電文の打電の状況については、「船橋海軍無線送信所長/大森良三大尉記録」という文書も残されている。歴史学者、松尾尊兌の論文「関東大震災下の朝鮮人虐殺事件(上)」(『思想』93・9)によると、大森大尉は、「朝鮮人襲来の報におびえて、法典村長を通じて召集した自警団に対し四日夜、『諸君ノ最良ナル手段ト報国的精神トニヨリ該敵ノ殲滅ニ努メラレ度シ』と訓示したために現実に殺害事件を惹起せしめ」たのである。

 九月二日午後八時以降と、一応時間を限定すれば、「噂」「流言」、または「好意的宣伝」を積極的に流布していたのは、うたがいもなく内務省筋だったのである。

 なお、さきの船橋発の電文例でも、すでに「戒厳令」という用語が出てくる。「戒厳」は、帝国憲法第一四条および戒厳令にもとづき、天皇の宣告によって成立するものだった。前出の『歴史の真実/関東大震災と朝鮮人虐殺』では、この経過をつぎのように要約している。

「一日夜半には、内相官邸の中庭で、内田康哉臨時首相のもとに閣議がひらかれ、非常徴発令と臨時震災救護事務局官制とが起草された。これらは戒厳に関する勅令とともに二日午前八時からの閣議で決定され、午前中に摂政の裁可を得て公布の運びとなったのである」

 前出の松尾論文「関東大震災下の朝鮮人虐殺事件(上)」によると、この戒厳令公布の手続きは、「枢密院の議を経ない」もので「厳密にいえば違法行為である」という。ただし、このような閣議から裁可の経過は、表面上の形式であって、警視庁は直ちに軍の出動を求め、それに応じて軍も「非常警備」の名目で出動を開始し、戒厳令の発布をも同時に建言していた。

 戒厳令には「敵」が必要だった。警察と軍の首脳部の念頭に、一致して直ちにひらめいていたのは、一九一八年の米騒動と一九一九年の三・一朝鮮独立運動の際の鎮圧活動であったに違いない。

 首脳部とは誰かといえば、おりから山本権兵衛内閣の組閣準備中であり、臨時内閣に留任のままの内相、水野錬太郎は、米騒動当時の内相だった。その後、水野は、三・一朝鮮独立運動に対処するために、朝鮮総督府政務総監に転じた。

 震災当時の警視総監、赤池濃は、水野の朝鮮赴任の際、朝鮮総督府の警務部長として水野に同行し、一九一九年九月二日、水野とともに朝鮮独立運動派から抗議の爆弾を浴びていた。

 震災発生の九月一日、東京の軍組織を統括する東京衛戍司令官代理だった第一師団長、石光真臣は、水野と赤池が爆弾を浴びた当時の朝鮮で、憲兵司令官を勤めていた。

 つまり、震災直後の東京で「市内一般の秩序維持」に当たる組織の長としての、内相、警視総監、東京衛戍司令官代理の三人までもが、朝鮮独立運動派から浴びせられた爆弾について、共通の強い恐怖の記憶を抱いていたことになる。さらに軍関係者の方の脳裏には、二一か条の要求に反発する中国人へのいらだちが潜んでいたにちがいない。

 その下で、警視庁の実働部隊の指揮権をにぎる官房主事、正力は、第一次共産党検挙の血刀を下げたままの状態だった。正力自身にも、朝鮮総督府への転任の打診を受けた経験がある。

 かれらの念頭の「仮想敵」を総合して列挙すると、朝鮮人、中国人、日本人の共産党員または社会主義者となる。


(第8章-6)
戒厳司令部で「やりましょう」と腕まくりした正力と虐殺


 戒厳司令部の正式な設置は、形式上、震災発生の翌日の午前中の「裁可」以後のことになる。だが、震災発生直後から、実質的な戒厳体制が取られたに違いない。前出の松尾論文「関東大震災下の朝鮮人虐殺事件(上)」には、当時の戒厳司令部の参謀だった森五六が一九六二年一一月二一日に語った回想談話の内容が、つぎのように紹介されている。

「当時の戒厳司令部参謀森五六氏は、正力松太郎警視庁官房主事が、腕まくりして司令部を訪れ『こうなったらやりましょう』といきまき、阿部信行参謀をして『正力は気がちがったのではないか』といわしめたと語っている」

 文中の「阿部信行参謀」は、当時の参謀本部総務部長で、のちに首相となった。これらの戒厳司令部の軍参謀の目前で、腕まくりした正力が「やりましょう」といきまいたのは、どういう意図を示す行為だったのであろうか。正力はいったい、どういう仕事を「やろう」としていたのだろうか。「気がちがったのではないか」という阿部の感想からしても、その後に発生した、朝鮮人、中国人、社会主義者の大量「保護」と、それにともなう虐殺だったと考えるのが、いちばん自然ではないだろうか。森五六元参謀の回想には、この意味深長な正力発言がなされた日時の特定がない。だが、「やりましょう」という表現は、明確に、まだ行為がはじまる以前の発言であることを意味している。だから、戒厳司令部設置前後の、非常に早い時点での発言であると推測できる。警察と軍隊は震災発生の直後から、「保護」と称する事実上の予備検束を開始していた。その検束作業が大量虐殺行動につながったのである


(第8章-7)
社会主義者」の「監視」と「検束」を命令していた警視庁


 関東大震災後の虐殺事件では、直接の殺人犯を二種類に分けて考える必要がある。

 第一の種類は、いわゆる「流言」「噂」または「情報操作」にあおられて、朝鮮人や中国人を無差別に殺した一般の自警団員などの民衆である。前項で検討した材料から判断すれば、虐殺を煽ったのは正力ほかの警察官であり、こちらの方がより悪質な間接殺人犯である。背後には日本の最高権力の意思が働いていた。

 同じ中国人の殺害でも、のちにくわしくふれる王希天のような指導者の場合には、ハッキリと「指名手配」のような形で拉致監禁され、しかも、職業軍人の手で殺されている。日頃から敵視していた相手を、地震騒ぎに乗じて殺したことが明らかである。朝鮮人についても同じような実例があったのかもしれない。社会主義者の虐殺に関与したのは、明白に、警察と軍隊だけであった。これらの、相手を特定した虐殺の関与者が、第二の種類の職業的な直接的な殺人犯である。その罪は第一の種類の場合よりもはるかに重いし、所属組織の上層部の機関責任をも厳しく問う必要がある。上層部による事後の隠蔽工作は、さらに重大かつ悪質な政治犯罪である。

 正力らが犯した政治犯罪を明確にするために、虐殺事件の問題点を整理してみよう。

 中国人指導者の王希天や日本人の社会主義者の場合には、かれらが警察と軍の手で虐殺されたのは、いったん警察に「指名手配」のような形で拉致監禁されたのちのことである。警察の方では、軍に身柄を引き渡せば殺す可能性があるということを、十分承知の上で引き渡している。軍の方が虐殺業務の下請けなのである。当時の制度では、戒厳令のあるなしにかかわらず、市内秩序維持に関するかぎりでは警視庁の要請で軍が動くのであった。全体の指揮の責任は、警視庁にあった。警視庁と戒厳司令部の連絡に当たっていたのは、官房主事の正力であった。

『巨怪伝』では、つぎのような経過を指摘している。

「九月五日、警視庁は正力官房主事と馬場警務部長名で、『社会主義者の所在を確実につかみ、その動きを監視せよ』という通牒を出した。さらに十一日には、正力官房主事名で、『社会主義者に対する監視を厳にし、公安を害する恐れあると判断した者に対しては、容赦なく検束せよ』という命令が発せられた」

 これによると、「社会主義者」の「監視」または「検束」に関する警視庁の公式の指示は、九月五日以後のことのようである。ところが、「亀戸事件」の犠牲者、南葛労働組合の指導者、川合義虎ら八名の社会主義者が亀戸署に拉致監禁されたのは、それ以前の「三日午後十時ごろ」なのである。


(第8章-8)
「使命感すら感じていた」亀戸署長の暴走を弁護する正力


『関東大震災と王希天事件/もうひとつの虐殺秘史』(田原洋、三一書房、以下『関東大震災と王希天事件』)では、川合義虎ら八名の社会主義者が近衛騎兵によって虐殺された「亀戸事件」の経過を細部にわたり、「時系列にしたがって検分」している。

 かれら八名の社会主義者が「三日午後十時ごろ、理由も何もなく、狙い打ちで検束されてしまった」時点では、十一日の「検束」命令どころか、五日の「監視」通牒さえ出ていなかったのである。

 亀戸署管内では、別途、それに先立って、中国人大量虐殺の「大島事件」と、反抗的な自警団員四名をリンチ処刑した「第一次亀戸事件」も発生している。署長の古森繁高は、社会主義者らの生命を奪うことに「使命感すら感じていた」という点で、「人後に落ちない男」であった。古森は、「朝鮮人暴動説」が伝えられるや否や、自ら先頭に立ってサイドカーを駆使して管内を駆け巡り、「二夜で千三百余人検束」し、「演武場、小使室、事務室まで仮留置場にした」のである。

 社会主義者の検束に当たって古森が「とびついた」のは、「三日午後四時、首都警備の頂点に立つ一人、第一師団司令官石光真臣」が発した「訓令」の、つぎのような部分であった。

「鮮人ハ、必ズシモ不逞者ノミニアラズ、之ヲ悪用セントスル日本人アルヲ忘ルベカラズ」

 つまり、社会主義者が朝鮮人の「暴動」を「悪用」する可能性があるから、注意しろという意味である。

『20世紀を動かした人々』(講談社)所収の「正力松太郎」(高木教典)には、正力が亀戸事件について語った当時の新聞談話が収録されているが、つぎのような説明ぶりで、古森署長の行動の後追い弁護になっている。

「実際、二日、三日の亀戸一帯は、今にも暴動が起るという不安な空気が充満し、二日夜も古森署長は部下の警官を集めて決死の命令を下す程、あたかも無警察の状態で、思想団、自警団が横行していたそうで、軍隊の力を頼んで治安維持を保つべく、ついにこうしたことになったのであるが、今回の事件はまったく法に触れて刺殺されたものである。警官が手を下したか否かは、僕としては、軍隊と協力、暴行者を留置場外に引き出したことは事実であるが、刺殺には絶対関与していないと信ずる」

 この新聞談話から、社会主義者にかかわる部分を抜き出して、検討してみよう。

 まずは、「思想団」が「横行していたそうで」というが、そのような事実があったと主張する歴史書は皆無である。つぎには、「法に触れて刺殺」と断定していうが、せいぜいのところ、留置場のなかで抗議の大声を挙げたり、物音を立てたぐらいのことであって、そのどこがどういう「法に触れ」たのかの説明がまったくない。「暴行者を留置場外に引き出したことは事実」としているが、これも同じ趣旨である。正力はいったい、どの行動を指して「暴行」だと断定しているのだろうか。

 最後の問題は、「[警察側が]刺殺には絶対関与していないと信ずる」という部分にある。正力としては、虐殺の責任を「軍隊」になすりつけ、監督責任を逃れたかったのであろう。だが、すでに指摘したように、当時の制度では警視庁の要請で軍が動くのであった。

『関東大震災と王希天事件』には、古森署長がみずからしたためた「第一次亀戸事件」に関する報告が収録されている。警視庁が編集した『大正大震火災誌』からの引用である。引き渡しの理由は、「兵器ヲ用ウルニアラザレバ之ヲ鎮圧シガタキヲ認メ」たからだとなっている。古森は、「兵器」による「鎮圧」を予測しつつ、または希望しつつ、反抗的な自警団員四名を軍に引き渡したのだ。結果は、違法なリンチ処刑だった。

 この四名の自警団員の場合は、道路で日本刀を持って通行人を検問していた。警官が検問の中止を勧告したところ、「怒って日本刀で切りかかった」のだそうである。本人たちは、警察が流した「朝鮮人暴動説」に踊らされていたわけだから、中止勧告が不本意だったのだろう。留置場内で警察の悪口を並べ、「さあ殺せ」とわめいたりしたようである。「結局、軍・警察の処置は妥当と認められ、四人は死に損となった」とあるが、リンチ処刑が「横行」するような「無警察」状態を演出したのは、いったいどちらの方なのだろうか。

 しかも、『関東大震災と王希天事件』ではさらに、この四日夜の「第一次亀戸事件」を、川合義虎ら八名の社会主義者の虐殺、いわゆる「亀戸事件」への導火線になったのではないかと示唆している。反抗的な自警団員四名の引き渡し以後、留置場内は「前にもまして騒然となった」のである。そこで「古森は、ついに五日午前三時」、川合らを騎兵隊に引き渡した。同書では時系列の記述の最後を、つぎのように結んでいる。

「古森は『失態』を告発する恐れのある川合らを抹殺した。両次亀戸事件の犠牲者十四人の死体は、こっそり大島八丁目に運ばれ、多くの虐殺死体にまぎれて焼却された」

 同書はまた、この「両次亀戸事件」に、中国人指導者王希天虐殺事件と大杉栄ら虐殺事件に共通する「パターン」を指摘する。「法にしばられる警察は、自ら手を下さずとも、戒厳令下で異常な使命感と功名心に燃え狂っている中下級軍人を、ちょっとそそのかすだけで、目的をとげることができた」のである。


第九章 虐殺者たちの国際的隠蔽工作

(第9章-1)
留学生で中華民国僑日共済会の会長、王希天の逆殺事件


 さらに重大な問題は、すでに何度か記した在日中国人の指導者、王希天の虐殺事件であった。

 ここで「さらに重大な問題」と記した意味には、虐殺そのものとは別の側面も含まれている。この事件は、読売の紙面が輪転機にかける鉛版の段階で削除されるという事態を招いていた。つまり、この事件は、本書の主題の読売の歴史に、深い影を落としているのだ。

 元警視庁警務部長が、こともあろうに首都の名門紙に「乗りこむ」という事態は、一種の政治犯罪を予測させる。だが、およそ重大な犯罪の背景には、間接的または一般的な状況だけではなくて、直接的な契機、または引くに引けない特殊な動機があるものである。とくに、一応は正常な社会人として通用してきた人物を「重大な犯罪」に駆り立てるためには、それだけ強力で衝動的な動機が必要である。わたしは、この事件の真相を知ることによって初めて、長年の、もどかしい想いの疑問の核心部分に達したと感じる。読売の紙面の鉛版削除という稀有な事態を招いたこの事件こそが、正力の読売「乗りこみ」という、これまた稀有な事態の直接的な動機だと、確信するに至ったのである。

 関東大震災と朝鮮人・社会主義者の虐殺の関係は一応、一般にも広く知られている。

 だが、虐殺の被害者の中でも「中国人」の三文字は、これまで付け足りのようだった。とくに知られていなかったのは、王希天虐殺事件そのものと、その国際的な重要性であった。中華民国僑日共済会の会長という指導的立場にあった中国人留学生、王希天は、陸軍将校から斬殺されていた。「行方不明」と発表されていた王希天の捜査、調査活動は、当時の政界、言論界を揺るがす国際的な大事件に発展していたのである。

 一九九五年には、さまざまな角度から日本の戦後五〇年が問われた。試みに、その年の暮れの集まりで会った在日朝鮮人の研究者と、駐日特派員の中国系ジャーナリストに、「王希天虐殺事件を知っていますか」という質問を向けてみた。案の定、二人とも、まったく知らなかった。詳しく話すと、真剣な表情で耳を傾けてくれたのちに、「大変に貴重な情報を教えていただき、ありがとうございました」と、ていねいにお礼をいわれた。その後、何人かの日本人ジャーナリストにも同じ質問を向けてみたが、やはり、王希天の名を知っている人は非常に少ない。ただし、わたし自身も数か月前に知ったばかりで、自慢などできる立場ではなかった。「五十歩百歩」そのものである。

 王希天が代表としてノミネートされる中国人の大量虐殺事件については、いまから七三年前の一九二三年(大正12)、関東大震災の直後に、中国政府が派遣した調査団が訪日している。日本政府が対応に苦慮した国際的大事件である。ではなぜ、そんな大事件が、いまだに広くどころか専門家にさえ知られていないのだろうか。

 中心的な理由は簡単である。当時、日本政府首脳が「徹底的に隠蔽」の方針を決定し、全国の警察組織を総動員して、新聞雑誌(放送は発足前)報道をほぼ完全に押さえこんだからである。基本的には、そのままの言論封鎖状況が続いているのだ。

 王希天は、関東大震災の直後、亀戸署に留置されたのち陸軍に引き渡され、以後、警視庁や陸軍の公式発表では「行方不明」となっていた。陸軍当局も、当時は警視庁官房主事兼高等課長の正力松太郎を実質的責任者とする警視庁も、王希天殺害の事実を知りながら、国際的追及の最中、必死になって、ひた隠しにしていた。実際には王希天は、陸軍の野戦重砲第三旅団砲兵第一連隊の将校たちにだまされて連れ出され、背後から軍刀で切り殺されて、切り刻まれて川に捨てられていた。事件そのものは、当時の日中の力関係を反映し、最後には、賠償問題さえうやむやのままに葬り去られた。

 象徴的なドラマは、「支那(ママ)人惨害事件」と題する読売新聞(23・11・7)の社説および関連記事の周辺に展開された。同社説(別掲)と記事をそのまま載せた地方向けの早版は、少部数だが輪転機で刷り出され、発送まで済んでいたのだが、急遽、検閲で不許可、発売禁止となり、各地で押収されたのである。同時に、その問題の紙面には、「写真3、4」のような鉛版段階での削除という稀有の処置が取られた。




写真3



写真4




 関係資料は十数点ある。戦後最初の大手メディア報道は、毎日新聞(75・8・28夕)の「『王希天事件』真相に手掛かり/一兵士の日記公開/『誘い出して将校が切る』」だが、同記事の段階ではまだ、王希天殺害についての証言は、所属部隊の一兵士の「伝聞」にしかすぎない。以後、日本の研究者、ジャーナリストらの招きで、王希天の遺児が来日した際に、数件の報道があった。しかし、残念ながら、それらの報道の中には、当時の言論弾圧状況の紹介がなかった。

 専門雑誌の記事、少部数の単行本、断片的なマスコミ報道、それだけでは世間一般どころか普通の企業ジャーナリストの目にさえ、「事件は存在しない」と同様である。わたしが湾岸戦争以来、「マスコミ・ブラックアウト」と名付けている現象である。王希天事件の場合には、この現象が意識的かつ政治的に作り出され、しかも、約四分の三世紀にもわたって続いていることになる。


(第9章-2)
「震災当時の新聞」による偶然の発掘から始まった再発見


 おおげさなようだが、わたし自身も、この問題に関する「マスコミ・ブラックアウト」の被害者の一人である。というのは、旧著『読売新聞・日本テレビ・グループ研究』執筆の際、わたしは王希天について何も知らなかった。正力と関東大震災後の虐殺事件の関係を調べるために、何冊かの関係書に当たったが、そこには王希天のことは書いてなかった。実際には、すでにそのころ、雑誌論文や何冊かの単行本に、王希天に関する研究が発表されはじめていたのだが、わたしの資料探索は、そこまで達していなかったのである。

 旧著の発表後にも、つぎつぎと新たな資料が発表されていた。

 前出の『関東大震災と王希天事件』の終章の題は「事件発掘史」となっているが、それによれば、王希天に関して戦後に最初の国内論文が発表されたのは一九七二年である。

 関西大学講師の松岡文平は、『千里山文学論集』(8号)に「関東大震災と在日中国人」を発表した。その研究の発端の説明は、「震災当時の新聞に、王の『行方不明』が大きく報じられているのに疑問を抱き」始めたからとなっている。つまり、当時の新聞を調べていたら、偶然、「王希天」というキーワードに突き当たったわけである。

 一九七五年に出版された『歴史の真実/関東大震災と朝鮮人虐殺』(現代史出版会)には、松岡論文を米軍押収資料など裏付け、さらに発展させた横浜市立大学教授、今井清一の研究が収められている。だが、その時点では、王希天虐殺の事実については、つぎのような推測の範囲にとどまっている。「野重[野戦重砲第三旅団砲兵]第一連隊の将校が、おそらく旅団司令部の意もうけて人に知られない時間と場所とを選んで殺害したのであろう」

 『甘粕大尉』の著者、角田房子は、一九七九年に同書の中公文庫版の「付記」として、つぎのように記している。

「『甘粕大尉』執筆中私は、関東大震災直後のドサクサの中で惨殺された王奇天を調べたが、努力の甲斐もなく確かな資料を見つけることが出来なかった。

 本書初版は昭和五十[一九七五]年七月二十五日に出版された。それから一ヵ月後、八月二十八日の『毎日新聞』夕刊に『「王奇天事件』真相に手掛り/一兵士の日記公開』という記事と、王奇天の経歴が発表された。関連記事は九月一日夕刊にもあった」

 角田は「希」を「奇」と誤記している。わたしの旧著、『読売新聞・日本テレビ・グループ研究』(汐文社、79刊)は、この『甘粕大尉』の「付記」が書かれたのと同じ年の、一九七九年に出版されている。そのころまでは、こんな状況だったのである。

 さきの毎日報道から七年後、『関東大震災と王希天事件』の著者、田原洋(よう)は、王希天を殺した本人の「K中尉」こと、元砲兵中尉(のち大佐)の垣内八州男を探し当てた。垣内は、拉致された王希天の「後ろから一刀を浴びせた」ことを認める。「[殺害を指示した佐々木大尉]は、上から命令を受けておったと思います。……後で、王希天が人望家であったと聞いて……驚きました。可哀そうなことをしたと……[殺害現場の]中川の鉄橋を渡るとき、いつも思い出しましたよ」、などと、その後の心境を、ポツリ、ポツリと告白する。

『将軍の遺言/遠藤三郎日記』(宮武剛、毎日新聞社、86刊)は、毎日新聞の連載記事をまとめたものである。のちに紹介するが、遠藤は当時、垣内中尉の直属上官だった。

 つい最近の一九九三年に発行された『震災下の中国人虐殺/中国人労働者と王希天はなぜ殺されたか』(仁木ふみ子、青木書店、以下『震災下の中国人虐殺』)には、「日本側資料について」の項目がある。それによると、「軍関係資料」の内、参謀本部関係は米軍による接収以前に処分されており、防衛庁戦史資料室には皆無である。警視庁関係は米軍に接収され、現在は国会図書館と早稲田大学で一部のマイクロフィルムを見ることができる。一部の、しかし、きわめて貴重な資料が、外務省外交史料館に、「一目につかない工夫をして保存」されていたようである。

『関東大震災/中国人大虐殺』(岩波ブックレット、91刊)の著者でもある仁木ふみ子は、以上のような資料探索の結果、ついに、外務省外交資料館に眠っていた「まぼろしの読売新聞社説」までを発見した。

 これだけの材料が揃っているのを知ったとき、とりわけ、「まぼろしの読売新聞社説」の「発見」について、最初に『巨怪伝』の記述を目にしたとき、徐々に、そしてなお徐々に徐々に、長年の疑問と戦慄の想いが、わたしの胸の奥底からこみ上げ、背筋を走り、全身に広がり始めた。これらの発見は、わたし自身にとっても、大変な半生のドラマの一部だったのである。


(第9章-3)
「相手は外国人だから国際問題」という理解の重大な意味


 以上の資料に接するより一六年前、旧著『読売新聞・日本テレビ・グループ研究』の仕上げの段階で、わたしは一応、国会図書館のマイクロ・フィルムで当時の読売の記事を検索していたのである。そこには明らかに、輪転機にかける鉛版の段階での削除と見られる紙面があった。だが、その時には、それ以上の詳しい追及をする時間の余裕がなかった。そこで旧著では、「なお、読売新聞の紙面そのものの細部にわたる調査も必要である」という心覚えを残し、つぎの点だけを中間報告として記しておいたのである。

「実物をみると、関東大震災の記事に、相当量の、鉛版段階における全面削除がみられる。一部の残存文字から察するに、震災時の朝鮮人、社会主義者に関する記事であることに間違いない」

 ところが、「間違いない」と断定的に書いた記事内容の推測は、不十分であった。まずは「中国人」が抜けていた。拡大した「写真5」で見れば、全面を削り取られた一九二三年一一月七日の読売記事の残存文字のなかには、明らかにルビ付きで「王希天氏(おう き てん し)」とあるのだが、その意味が、当時のわたしには分からなかった。その左隣の、やはりルビ付きの「震災當(しん さい たう)時鮮人(せん じん)」の方だけに気を取られて、王希天を朝鮮人だと思い込んでしまったのである。残念といえば残念だが、わたしは、長年の戦慄の想いに終止符を打ち、この訂正と調査不足の告白を余儀なくしてくれた諸氏の研究に感謝する。




写真5




『関東大震災と王希天事件』の著者、田原洋の場合には、わたしとはまったく逆で、偶然の機会に王希天事件の存在を知り、それから追跡取材を開始した。

 念のために田原本人にも直接聞いて確かめたが、田原は別の用向きで、元陸軍中将の遠藤三郎と会った。話がたまたま関東大震災当時におよび、遠藤が、当時は大尉で、江東地区の第一線の中隊長だったと語った。田原が「大杉栄が殺されましたね」と相槌を打つと、遠藤は意外なことを語りだした。

 正確を期すために、田原の著書の方から引用すると、遠藤は、「大杉栄どころじゃない。もっと大変な(虐殺)事件があったんだ」と言い出した。「オーキテンという支那人(原文傍点有り)労働者の親玉を、私の部隊のヤツが殺(ヤ)ってしまった。朝鮮人(原文傍点付有り)とちがって、相手は外国人だから、国際問題になりそうなところを、ようやくのことで隠蔽(いんぺい)したんだ」

 文中の支那人(原文傍点有り)と朝鮮人(原文傍点有り)の傍点は、田原が付けたものである。遠藤が育った時代の用語そのままだから、別に他意はないと思う。最大の問題は「相手は外国人」の部分にある。

 わたしの場合、この部分を自分のワープロで入力した時に、初めて、その意味の重大さに気付いた。それまでの頭の中では、「朝鮮人・中国人・社会主義者」を、関東大震災の際の「虐殺被害者」という項目で一括して考えていたのである。「虐殺」を告発する立場の人々の多くは、わたしと同じ錯誤に陥っている可能性が高いと思う。ところが、立場が違えば、同じ物が別の角度から見える。時の権力の頭の中では、「朝鮮人・中国人・社会主義者」の三者は、まったく別の項目で整理されていたのである。とくに「中国人」は、別扱いの「外国人」だった。監督官庁としても外務省が加わるから、行政上では決定的な違いが出てくる。

 震災時の朝鮮人の大量虐殺事件も、もちろん重大であるし、国際的にも非難を浴びた。しかし、当時の国際法の秩序からいえば、植民地保有とその支配自体は非合法ではない。許しがたいことではあるにしても、いわゆる欧米列強の帝国主義国を中心とする国際外交上で考えるかぎりでは、日本人の社会主義者の虐殺問題と同様の国内問題である。ところが、中国人の虐殺となると、当然のことながら、明確に外国人の虐殺であり、国際外交上の問題とならざるをえない。だから遠藤は、「大杉栄どころじゃない」と語ったのである。

 しかも、当時の日本は、満鉄の利権拡大を中心に、中国東北部への侵略の意図を露骨にしていた。第一次世界大戦中の一九一五年(大4)には、火事場泥棒で奪った旧ドイツ領の青島に増兵を送って威圧を加えながら、対中国二一ヵ条要求を突き付け、その内の一六ヵ条を承認させていた。中国の内部での反日運動も高まっていたし、国際的な批判も日を追って増大していた。だから、「中国人指導者・王希天」の虐殺は、現在の日本人が感じるよりも、はるかに重大な国際問題だったのである。

 その後の資料探索で、田原は読売の紙面の削除を知り、紙面の検索をしている。田原は、事前に、その削除された紙面の執筆者が、中国通の著名記者、小村俊三郎だということまで知っていた。「中国問題に詳しい小村俊三郎」については、『読売新聞百年史』にも非常に簡単ながら、その「入社」が、松山社長時代の項に記録されている。それだけのキャリアが認められる人物だったのである。しかし、削除された紙面の内容については、まだ、残存文字という手掛りしかない。田原は、非常に残念そうに、つぎのように記していた。

「削除された記事は、いまとなっては復原の方法はない。『読売』のバックナンバーは、削られた白紙のままだし、小村も記録は残していない」

 田原はさらに、つぎのような想像を付け加えていた。

「そこで推測するしかないが、この記事の筆者は小村俊三郎記者であった。彼は期するところがあって、ある“過激な”記事を書こうとした。検閲にかけたのでは通りっこないから、何らかの策を使って『鉛版』をとり、ともかく早版を刷り出すところまでは行った。が、いよいよ近郊版を刷ろうとしたところで誰かにストップをかけられてしまった。鉛版工のベテランが、指定された記事に削り(のみを使う)を入れる。……と、そのとき、小村が必死の形相で近より『ここだけ削り残してくれ』と耳打ちする。あるいは何らかの方法で、小村の“頼み”が伝えられた。残せといった文字は『王希天』の三文字であった。この三文字が残っていれば、何が書かれていたか、およその察しはつくのである」

 田原の想像は、おそらく「当たらずといえども遠からず」であろう。さきにも記したし、「写真3」で明らかなように三文字のみではないが、「王希天氏(おう き てん し)」と「震災當(しん さい たう)時鮮人(せん じん)」という決定的に重要なキーワードだけが、なぜか明瞭に残っているのだ。とうてい偶然の結果とは思えない。戒厳令が敷かれていた当時のことだから、その鉛版がはまっていた輪転機の側には、警察官、それもかなり重要な地位の検閲のベテランが、にらみを利かせていたのではないだろうか。そうだとすれば、まさに、その目の前で、緊迫の鉛版削りのドラマが展開されていたことになる。

 この想像のドラマの緊迫感が、わたしの全身に、いい知れぬ戦慄を走らせるのだ。


(第9章-4)
「まぼろしの読売社説」の劇的発見!分散して資料を温存か?


 さて、それだけのドラマを秘めた削除紙面の実物が、また、なんとも劇的なことには、その後に発見されたのである。削除は二か所にわたっていて、二面は社説、五面は関連記事であった。「写真6、7」の「要保存/発売禁止トナレル読売新聞切抜」がそれである。





写真6



写真7



 発見者の仁木は、元日教組婦人部長である。会ってみると、かつてのいかめしい肩書きとは違って、優しい教師そのままの気さくな人柄だった。「定年後に時間ができて、ただただシラミ潰しに探し回っただけのことですから……」と、静かにほほ笑む。とくに事前にお願いしたのでもないのに、貴重この上もない発見資料のコピーをも用意してくれていた。わたしは、それを押し頂いて、発見の経過をうかがった。

 仁木は、『震災下の中国人虐殺』の中で、つぎのように記している。

「これは『要保存、発売禁止となれる読売新聞切抜』と墨書されて、外務省外交資料館にひっそりとしまわれていたのであった」

 この「ひっそりと」という表現の裏にも、おそらく大変な戦慄の人間ドラマが潜んでいたようなのである。仁木は、「人目につかない工夫をして保存」されていたという表現もしている。くわしくは同書を参照していただきたい。何か所にも分かれて外務省外交資料館の資料管理状況が記されている。とりあえず簡略に要約紹介すると、「書類を分散させて一見関係なさそうな項目の下に配列し」てあったのである。最後には、つぎのように謎を解く鍵の人名が出てくる。

「だれがこのような文書配列をしたのであろうか。事件の結末に何とも納得できなかった一青年事務官が、歴史の検証の日に備えて、暗号のように分散させ保管したのではなかったか。かれの名は多分守島伍郎である。後の駐ソ大使、戦後は自由党代議士一期。日本国連協会専務理事、善隣学生会館理事長をつとめ、一九七〇年、七〇歳で亡くなった」

 田原によれば、守島は、「同じ外交出身のワンマン吉田茂(一八七八~一九六七)とは一定の距離を保ち、『オレは社会党から出てもおかしくはない』と語ることもあった」という。いわゆるリベラル派であろう。


(第9章-5)
中国側の調査団は「陸軍の手で殺されたと思う」と語って帰国


 さて、以上はまだ、王希天虐殺事件をめぐる緊迫のドラマの導入部にしかすぎない。もう一度、物語の主人公を紹介し直し、この事件の国際的および国内的な位置付け、引いては歴史的な意味を確認し直したい。

 王希天は、当時はエリートの留学生で、その後に満州国がデッチ上げられる中国東北部の吉林省から来日していた。推定二七歳。東京中華留日キリスト教青年会の幹事、および中華民国僑日共済会の会長という指導的立場にあった。



1948年、東京にて、前列右から周恩来、王希天
写真提供:仁木ふみ子




 事件発生当時においても、日本国内の報道よりも中国での報道の方が早かった。『中華日報』(23・10・17)の社説では、「共済会長王希天が警察に捕らわれたまま行方不明」という事態を「故意の隠蔽」と疑い、「軍、警察の手」によって「殺された」可能性を指摘していた。仁木はさらに、王希天の出身地、長春、吉林省の新聞、『大東日報』(23・11・1)の記事から、つぎのような憤激の呼び掛けの部分を紹介している。

「本件発生につき考うるに彼等は吾に人類の一分子と認めざる方法を試みたるものなり。吾々もし放任し、彼等を問罪せず黙認せば吾々は人間にあらざるなり。同胞起きて醒めよ」

 情報源は、捜索に当たった王希天の友人の留学生や、震災発生後、上海に送還された中国人労働者たちだった。上海や吉林省などの現地の憤激を背景にして、北京政府も調査団を日本に派遣した。日本側当局は事実の隠蔽に終始したが、中国側代表団は帰国する前に日本の外務省書記官に対して、「王希天は大杉栄同様陸軍の手で殺されたと思う」と語っていた。

『震災下の中国人虐殺』では、「まぼろしの読売新聞社説」という小見出しを立てて、つぎのように指摘している。

「十一月七日、『読売新聞』の朝刊は発売禁止となり、二面の社説と五面の記事を削りとって、この部分は空白のまま発行された。政府に強烈なインパクトを与えたといわれる『まぼろしの読売社説』は復原すると次のようである」

 以下、二面の社説、「支那人(ママ)惨害事件」の全文は、巻末(367頁・WEB版(15)資料)に小活字で紹介する。とりあえず要約すると、「惨害」の犠牲者を「総数三百人くらい」としている。「支那人労働者の間に設けられた僑日共済会の元会長王希天も亀戸署に留置された以後生死不明となった事実」を指摘し、「重大なる外交問題」の真相を明らかにしないのは、「一大失態」だと論じている。

 結論部分は、「本事件に対する政府の責任は他の朝鮮事件、甘粕事件同様、我が陸軍においてその大部分を負担すべきはずである。[中略]故に吾人は我が国民の名において最後にこれをその陸軍に忠言する」となっている。

 仁木は、この「まぼろしの読売新聞社説」を、つぎのように評価している。

「戒厳令下の執筆であるが、実に堂々たる論調である。[中略]一本の筆に正義を託す記者魂が厳然とそこに立つ」

 同時に鉛版から削除された五面の記事は、「支那政府を代表し抗議委員が来朝する/王氏外百余名の虐殺事件につき精査の上正式に外務省へ抗議申込/我態度を疑う公使館」という三段大見出しで、本文約八〇行である。これは、もしかするとわたしの新発見なのかもしれないが、削除された二面の社説の下のベタ記事を眺めていたら、「虐殺調査委員/支那から派遣する」という本文七行の「北京四日国際発」電が残っていた。いずれも記事の本文では「調査委員」または「特別委員」となっているのに、見出しで「抗議委員」または「虐殺調査委員」と表現している。社説の題にも「惨害」とある。当時の読売新聞のデスクの、この事件に対する判断基準が伝わってくるような気がする。

 読売の全面削除された社説は当然、王希天その人と中国側の動きを知り、その惨殺の事実を知るか、またはその事実にせまりつつあったジャーナリストの存在を示している。

 全面削除の社説を執筆した小村俊三郎(一八七二~一九三三)は、「外務省一等通訳官退職後、東京朝日、読売、東京日日など各新聞社で中国問題を論評、硬骨漢として知られる中国通第一人者」だった。王希天事件については、その後も独自の調査を続け、外務省に「支那人被害の実情踏査記事」と題する報告書を提出している。

 しかもこの小村俊三郎は、日露戦争後のポーツマス条約締結で有名な小村寿太郎と、祖父同士が兄弟の再従兄弟の関係にあった。いわば名家の出でもあるし、もともと東京の主要名門紙に寄稿するコラムニストなのだから、顔も広い。政府筋が個人的に攻撃すれば逆効果を生み出しかねない。当時の松山社長時代の読売には、そういう人材が集まっていたのである。

『巨怪伝』では、当時の読売の報道姿勢を、つぎのように指摘している。

「大杉栄殺害の事実を、時事と並んでいち早く号外で報じたことにも示されるように、関東大震災下に起きた一連の虐殺事件の真相と、政府の責任を最も鋭く追及したのが読売新聞だった」

 もしかすると、内務省関係者は、田原が想像したような、「王希天」の三文字をかすかに残す印刷現場でのひそかな抵抗のドラマにも気付いて、警戒の念を高めていたのかもしれないのである。


(第9章-6)
九二四件の発売禁止・差押処分を大手紙の社史はほぼ無視


 さて、ここで愕然とせざるをえないのは、日本の三大新聞、朝日・毎日・読売、すべての社史に、ほぼ共通する実情である。王希天虐殺事件はもとより、関東大震災下の言論弾圧に関しての記述が、あまりにもお粗末なのである。

 まずは前項の「まぼろしの読売社説」の件であるが、『読売新聞百二十年史』を最新とする読売の社史には、たったの一行の記述もない。それどころか、関東大震災後に報道規制があったことすら、まったく記されていない。改めて呆れはしたが、読売のことだから、さもありなんと諦めた。

 毎日新聞はどうかというと、『毎日新聞七十年』にはまったく記載がないが、最新の『毎日新聞百年史』には、つぎのように記されている。

「新聞は“大杉栄殺し”を直感したが、戒厳令下、報道の自由はなかった」

 ただし、これだけでは、陸軍憲兵隊による社会主義者大杉栄の一家惨殺事件のみが、報道規制の対象になったかのような、誤解が生れかねない。「王希天」の三文字はもとより、「朝鮮人」という単語も、「中国人」という単語もない。

 朝日の場合も、『朝日新聞の九十年』には確かに、「惨禍の中で特報や号外を連発」の見出しはある。「『大阪朝日』数十万部を増刷して、船と汽車で東京に送」ったことなどの奮闘の経過は、八頁にもわたって克明に記されている。だがやはり、報道規制の「キ」の字も出てこないのである。

 朝日は『百年史』を発行せずに、「百年史編修委員会」名で、創立から数えると一一一年目に当る一九九〇年から『朝日新聞社史』全四巻の社内版発行を開始し、一九九五年から全巻を市販している。本文六五九頁の第二巻、『朝日新聞社史/大正昭和戦前編』には、つぎのように記されている。

「震災直後の流言からおこった社会主義者や朝鮮人の陰謀騒ぎで多数が殺された事件の実態は、九月二日に出された戒厳令によって報道が差し止められ、東朝[東京朝日]は十月二日になってその一部の報道が許された」

 ここでかろうじて「朝鮮人」という単語が、報道差し止めとの関係で登場する。しかし、「中国人」も「王希天」もない。

 この状況は、いかにも不自然であり、不都合なのである。国際的にも評判の「横並び」方式による隠蔽工作が、いまだに継続されているのではないかとさえ思えるのである。

 歴史的な資料がなかったわけではない。さきに挙げたほかにも、たとえば、『歴史の真実/関東大震災と朝鮮人虐殺』(現代史出版会、75刊)では、これらの一連の虐殺事件に関する「ジャーナリズムの沈黙と右傾化」と、それを促進した権力の「強圧」を指摘している。出典として『災害誌』(改造社編)などを挙げており、当時の新聞統制の模様を、つぎのように要約している。

「甘粕事件、内鮮人殺害、自警団暴挙に関する差止事項を掲げた日刊新聞で、発売頒布を禁止されたものは、寺内内閣当時の米騒動の際における処分に比すべきものと見られ、新聞紙の差押えが、十一月頃まで殆ど三十以上に及び、一新聞紙の差押えが優に二十万枚に達したものがあった」

 ただし、ここにも「中国人」が登場しないという弱点があるし、さらには、この数字でも実は、まだまだ控え目だったようなのである。おそらく、ここでいわれている「米騒動の際における処分に比すべきもの」という水準をはるかに越えていたに違いない。日本の言論弾圧の歴史上、最大規模の問題として根本的な見直しをせよ、日本のメディア史の研究をやり直すべきだと、強調せざるをえないのである。

『関東大震災と王希天事件』の著者、田原は、当時の内務省警保局図書課の秘密報告を入手し、「表1」の「(秘)震災に関する記事に依り発売禁止並びに差押処分に付せられたる新聞件数調」を作成している。「総件数」は、なんと、さきの『災害誌』の「三十以上」という数字を一桁以上も上回り、「九二四件」に達しているのである。その内、「亀戸警察署刺殺事件に関する記事」(王希天行方不明記事を含む)と分類されているものだけでも、「三〇件」である。





表1「関東大震災と王希天事件より」

拡大表 左 右


(第9章-7)
後藤内相が呼び掛けた「五大臣会議」で隠蔽工作を決定


 これだけの言論弾圧を行った当時の内務大臣は、いったい誰だったのであろうか。

 おりから新内閣の組閣中で、関東大震災発生の九月一日までは留任中の水野錬太郎(一八六八~一九四九)、二日からは再任の後藤新平(一八五七~一九二九)だった。つまり、内務大臣としては水野の先輩に当る後藤が、この激動の際に、二度目の要職を引き受けていたのである。

 後藤が果たした役割については、『歴史の真実/関東大震災と朝鮮人虐殺』に、つぎのように記されている。

「一〇月中旬に王希天の行方不明が報道され、同二〇日に中国代理公使から王の殺害について抗議をうけると、日本政府も対策の検討をすすめた。内務省当局では大島事件、王希天事件を両者とも隠蔽する意見で、一一月七日には閣議のあと後藤内相、伊集院彦吉外相、平沼騏一郎法相、田中陸相、それに山本首相も加わって協議したうえ、『徹底的に隠蔽するの外なし』と決定し、中国がわとの応対方法については警備会議に協議させることになった」

 この「閣議のあと」の「協議」については、『関東大震災と王希天事件』にも『震災下の中国人虐殺』にも、さらに詳しい記述がある。内務省や外務省の関係者の記録が残されているからである。「協議」の場は「五大臣会議」と通称されている。

 本稿の立場から見て、もっとも重要なことは、この「五大臣会議」が行われた「一一月七日」という日付である。つまり、「まぼろしの読売社説」を掲載した少部数の早版が、輪転機で刷り出されてしまい、その後に急遽、鉛版が削られた日付なのである。日付の一致は偶然どころではない。これこそが「協議」開催の原因であることを示す明白な記録が、すでにたっぷりと発掘されているのである。

 閣議後に協議を呼び掛けたのは後藤である。だが、内務大臣の後藤が「五大臣会議」を発案したという経過の裏には、なにやら、ご都合主義の謀略的な臭気がただよう。

 本来の建て前からいえば、内務省は、犯罪を捜査し、処罰すべき主務官庁である。ところが後藤個人は、すでに簡略に紹介したように、外務大臣時代に推進したシベリア出兵とそれに続く米騒動に際して、外務省の霞倶楽部の記者たちと紛争を起こしたり、報道取締りの先頭に立ったりしていた。メディア界の進歩的勢力とは激しい対立関係にあった。すでに紹介したように「新聞連盟」結成工作、ただし時期尚早で実らず、などの「新聞利用」なり「新聞操縦」政策を展開していた。ラディオ放送の支配に関する構想をも抱いていたはずである。後藤は、しかも、首相の座を狙う最短距離にいた。その機会に備えて、メディア界の敵対分子を排除したいと腹の底で願っていた可能性は、非常に高い。当の読売社説の内容自体も重大な問題ではあったが、それを逆手を取って政府部内の主導権を握り、一挙に、かねてからの狙いを実現しようと図ったのではないだろうか。

 政府部内の主導権を握る上では、王希天の虐殺事件は絶好の材料だった。後藤と田中陸相とは不仲だったというし、外務省は国際世論上、日頃から言論統制には消極的だった。ところが、この際、後藤と相性の悪い陸軍は加害者であり、被告の立場である。外務省は国際世論対策で四苦八苦である。いまこそ特高の親玉、内務官僚の出番であった。


(第9章-8)
「荒療治」を踏まえた「警備会議」と正力の「ニヤニヤ笑い」


『関東大震災と王希天事件』では、関係者が残したメモ類を多数収録している。その日の午後五時から開かれた「警備会議」の冒頭で、岡田警保局長は、つぎのような発言をした。

「本日、急に五大臣会議を開いたのは、今朝の『読売』のためであります。相手の出方を待つ姿勢で、政府がふらふらしていると、新聞に対する取締まりも徹底を欠くし、むずかしい。今朝は、危いところで削除 → 白紙のまま発行という荒療治になってしまったが、今後は隠蔽の方針も定まったことであるし、お互いに緊密なる連携のもとに、ことを進めたいと思うので、よろしくご協力をお願いします」

 早版地区に送られた少部数の「削除前」の読売は、配達直前に押収されていた。「五大臣会議」の決定は、あくまでも政府段階での正式決定であって、内務省はすでに隠蔽工作を実施していた。検閲の実務担当者たちは、「まぼろしの読売社説」を目にした時、冷汗三斗の思いだったに違いないのである。

「警備会議」は、実務担当者による実行手段の相談の場である。そこには、なんと、小村寿太郎の長男の小村欣一が、外務省情報部次長の立場で参加していた。読売社説の執筆者、小村俊三郎は、東京高等師範学校に在学中、寿太郎の邸宅に書生として住み、この欣一の家庭教師をしていた。岡田警保局長が、小村たちに事情を話して隠蔽の「諒解を求むる」という方針を報告すると、欣一は、小村たちについて、「主義上の運動者」だから「諒解を求ることすこぶる困難なるべし」という意見をのべ、「考慮を要する」と注意した。

 いやはや、こうなると最早、何ともものすごい接近戦である。敵味方入り乱れての白兵戦の様相である。関係者たちは、上を下への大騒ぎ、という感じがしてくる。

 警視総監の湯浅倉平は「すこぶる沈痛なる態度」であった。以下、関係者のカナまじりのメモに残された湯浅の「熱心説述」を、ひらがなで読みやすいようにしてみよう。

「本件は、本官のいまだ際会せざる重大問題なり。本件は実在の事件なれば、これを隠蔽するためには、あるいは新聞、言論または集会の取締をなすにつきても、事実においてある種の『クーデター』を行うこととなる義にて、誠に心苦しき次第なり。また本件は必ず議会の問題となるべきところ、その際には秘密会議を求め得べきも、少くとも事前あらかじめ各派領袖の諒解を求めおく必要あり。

 さればとて、本件の隠蔽または摘発、いずれが国家のため得策なるかは、自分としては確信これ無く、政府において隠蔽と決定したる以上、もちろんこの方針を体し、最善の努力をなすべきも、自分の苦衷は諸君において十分推察されたし」

 この「苦衷」を訴えた警視総監、湯浅倉平は、その後、正力松太郎とともに虎の門事件で責任を追って即日辞任届けを提出し、のち懲戒免官、恩赦となる。警視総監になる以前に岡山県知事、貴族院議員になっていた。虎の門事件の恩赦以後には、宮内相、内相となっている。

 湯浅の発言のあとには、「北京政府が派遣する調査団および民間調査団の調査にどう対処するか、新聞取締などが話題」になった。新聞取締に関する警保局長の提案は、つぎのようであった。

「適当の機会に主なる新聞代表者を招致し、大島町事件は厳密調査を遂げたるも、結局事実判明せず、ついては事実不明なるにかかわらず揣摩(しま)憶測して無根の記事を掲載するにおいては、厳重取締をなすべき旨を告げ、もって暗に発売禁止の意をほのめかせば、効果あるべし」

 この発言内容には、当時の言論弾圧の実情が露骨に表れている。警保局長はさらに、「新聞取締の必要上、戒厳令撤廃の延期」まで提案したが、これには同意者が少く、そのままとなった。

 この時にはまだ官房主事兼高等課長だった正力松太郎は、職責からいえば、当然、右の「警備会議」に出席しているはずであるが、以上に挙げた資料の「警備会議」の発言者の中には、正力の名はない。まだ位が低いのである。もちろん、研究者たちは、正力の存在を十二分に意識してきた。

 田原は、遠藤元中将から直接の証言を得て、詳しい経過を記している。

 正力は、遠藤を警視庁に呼び出していた。「ニヤニヤ笑いを浮かべ」ながら、「聞き込みも一応終わっています」などと脅しを入れた。すでに後藤と「五大臣会議」の間にただよう「臭気」を指摘したが、この件で、正力または内務省勢力は、陸軍と対等に取り引きができるネタを握ったわけである。その強みが正力の顔に表われていたのではないだろうか。田原はさらに、その後の読売への正力の乗りこみと、小村俊三郎の退社との因果関係をも指摘している。

『将軍の遺書』の方には、つぎのような日記添付「メモ用紙」部分の記載がある。

「佐々木兵吉大尉、第三旅団長の許可を得て、王希天のみをもらい受け、中川堤防上にてK[垣内]中尉、その首を切り死がいを中川に流す。[中略]正力警備課長[警視庁官房主事の誤記]は、その秘密を察知ありしが如きも深く追及せず」

 以上、概略の紹介にとどめるが、いやはや、驚くべき本音の記録の連続である。これらの発言記録を発見したときの、田原ら先行研究者の興奮が、じかに伝わってくるような気がするのである。

 事件の翌年、一九二四年(大13)二月二六日に、正力は読売「乗りこみ」を果たす。

 同年一〇月四日、読売記者の安成二郎は、築地の料亭で開かれた前編集長千葉亀雄の慰労会での会話を、あとでメモし、「記憶のために」と注記しておいた。本人が三六年後に自宅で再発見したこのメモは、『自由思想』(60・10)に発表された。内容のほとんどは、大杉栄ら虐殺事件の関係であるが、その最後の短い(三)は、つぎのようになっている。

「(王希天はどうしたんでせう、軍隊では無いでせうが……)と千葉氏が言うと、正力氏は(王希天か、ハハハ)と笑って何も言はなかった」

 この正力の「ハハハ」という笑い声は、どういう響きのものだったのだろうか。壮年期の正力の声については、『経済往来』(10・3)に、「男性的で丸みがあり、声量があって曇りがない」と記されている。六尺豊かの大男が、柔道で鍛え、警官隊を指揮してきたのだったから、それだけの迫力のある声だったに違いない。だが、「虐殺」の話題で出た「ハハハ」という笑い声には、いわゆる「地獄の高笑い」のような、真相を知りつつとぼける不気味さが、漂っていたのではないだろうか。


(第9章-9)
戒厳令から治安維持法への一本道の上に見る正力の任務配置


 軍や警察当局が恐れていたのは、新聞報道の内容や新聞そのものだけではなかった。小村欣一の発言にもあったように、「主義上の運動者」の動きもあった。すでに「警備会議」の「話題」にものぼっていた「民間調査団」がある。そこには、読売の小村記者以外に、東京日日(毎日系)、大阪毎日、東京朝日の記者が参加していた。かれらは中国から来日した宗教家の調査団と接触する一方、吉野作造邸で協議をしていた。北京政府が派遣した調査団も、吉野作造邸に立ち寄っていた。

 吉野作造(一八七九~一九三三)は、東大法科卒で、同大教授として政治史を講義していた。デモクラシーを「民本主義」と訳したことでも知られている。東大新人会の総帥でもあり、いわゆる大正デモクラシーの理論的主柱ともいうべき存在であった。後日談になるが、関東大震災の翌年に当たる一九二四年(大13)には、朝日新聞社論説顧問に迎えられ、五か月あまりで退社した。退社の原因は、「五ヶ条のご誓文は明治政府の悲鳴」という講演内容などを、右翼団体が「不敬罪」として告発したためである。『朝日新聞の九十年』でも、退社の経過について、「検察当局の意向もあり」と記している。「不敬罪」の告発自体は不起訴となったが、この件でも朝日は「白虹事件」の時と同様、右翼と検察のチームプレーに屈服したのである。

 さて、以上のような状況を背景にしながら、強権の発動による王希天虐殺事件の隠蔽工作が行われたのだが、それはまず戒厳令下にはじまっている。戒厳令は約二か月半も続いた。解除は一一月一六日である。『歴史の真実/関東大震災と朝鮮人虐殺』では、戒厳令の解除後に「かわって憲兵が大増強され、警察官もまたピストルまで配備された上に増員された」と指摘する。

 戒厳令下、および以後の虐殺問題報道の全体像をも、調べ直す必要があるだろう。田原は、王希天虐殺事件の隠蔽工作と大杉殺害事件の関係を、つぎのように示唆する。

「王希天事件は『行方不明』扱いで、十月十七日から二十日にかけて、各紙に掲載された。『殺害』をにおわせる記述は厳重にチェックされたので、さりげない震災エピソード風に受けとめられ、やがて“関係者”以外には忘れられた。大杉栄殺害事件で、甘粕らがスケープゴートとなった意味は、単に『犯人』を買って出ただけでなく、報道操作の陽動作戦に必要な犠牲バントとしての役割もあったのである」

 大杉栄殺害事件の軍法会議の進行は、非常に早かった。戒厳令下の一〇月八日に第一回、以後、一一月一六日、一七日、二一日の四回で結審となり、一二月八日には、甘粕に懲役一〇年などの判決が出ている。この間の新聞報道は、シベリア出兵以来の「反ソ」キャンペーンとも呼応している。社会主義者への世間一般の反感をも土台にして、甘粕らに同情的な風潮さえ作り出したようである。

 その後、甘粕はたったの三年で釈放され、満州国の黒幕となる。緊急事態を根拠にして公布された「治安維持勅令」は、そのまま法律化され、翌々年の一九二五年(大14)に制定される治安維持法への橋渡しの役割を果たした。このようなドサクサまぎれの突貫工事によって、外にはシベリア出兵、内には米騒動、関東大震災という人災、天災のはさみうちの混乱のなかで、昭和日本の憲兵・警察支配、治安維持法体制は完成を見たのである。

 わたしは、正力の読売「乗りこみ」を、以上の政治状況と深くかかわりながら企まれた一大政治謀略に相違ないと確信している。

 さらにさかのぼれば、当時の読売が「出る釘は打たれる」のたとえ通りの襲撃目標に選ばれた理由には、まさに日本のメディア史の矛盾を象徴するような典型的経過があったというべきであろう。

 第一の理由は、その明治初年以来の歴史的ブランドである。第二の理由は、「白虹事件」残党を中心に形成されつつあった大正デモクラシーの「メディア梁山泊」としての位置づけである。最後の第三の理由、すなわち、「まぼろしの読売社説」をめぐるオロドオドロの衝撃ドラマは、それらの歴史的経過の必然的な帰結であった。読売は、日本の歴史の悲劇的なターニング・ポイントにおいて、右旋回を強要する不作法なパートナー、正力松太郎の、「汚い靴」のかかとに踏みにじられたのである。

 日本の最高権力と、それに追随する勢力は、関東大震災という天災を契機として、大量の中国人とその指導者を虐殺し、卑劣にも、その事実の徹底的な隠蔽を図った。この虐殺と隠蔽工作とは共に、以後ますます拡大される中国大陸侵略への狼煙の役割を果たした。

 正力社長就任以後の読売新聞は、最左翼から急速に右旋回し、「中道」の朝日・毎日をも、さらに右へ引き寄せ、死なばもろとも、おりからのアジア太平洋全域侵略への思想的先兵となった。正力の読売「乗りこみ」は、いいかえれば、この地獄の戦線拡大への坂道を転げ落ちようとしている日本にとって、雪だるまを突き落とす最初の、指のひと押しの位置づけだったのではないだろうか。

 正力本人は、戦後にA級戦犯として巣鴨入りした。だが、この時も、アメリカの世界政策上の措置によって、その罪は裁かれずに終わってしまった。今こそ改めて、多数の中国人労働者と王希天の虐殺事件とその報道状況とを、日本のジャーナリズムの歴史の中央に位置づけ直し、事実関係を確認し直すべきなのではないだろうか。自社の歴史を正確に記して過去を反省するか否かは、また、メディア企業の決定的な試金石でもあろう。

 わたしは一応、読売新聞広報部に電話をした。本書に記したような事実を読売新聞は把握しているか、今後の社史などで明らかにする予定があるか、などを問いただした。しかし、「お答えすべき筋のことではないと思う」という、番犬の唸り声のような返事だけだったので、この件について、本書を「公開質問状」とすると告げた。


第三部「換骨奪胎」メディア汚辱の半世紀



デパート「プランタン」に衣替えした銀座の旧本社屋
(1945年の大空襲で被災、1947年復旧)
写真撮影:T.H.




 以上のような第二部の「入り口」を通って、話は再び、正力の読売「乗りこみ」の時点に戻る。

 元読売販売部員、大角盛美は、『別冊新聞研究/聴きとりでつづる新聞史』(8号、79・3)のインタヴュアーの「聴きとり」質問にたいして、以下のように答えていた。

「――正力さんが『読売』を買いとられたときの『読売』の部数はどれくらいなんですか。

 当時は、なんぼあったかな、六~七万あったかな。

 ――そんなにあったんですか。

 あったでしょう。地方と市内と両方ですから、六、七万はありましたね。その当時最高の新聞が三十万前後、『読売』も、地方もやってましたから、そのぐらいはあったでしょうね。

 ――それは有代部数ですか。

 有代部数です。

 ――『読売』の社史(読売新聞八十年史)によると、四万と書いてありますが。

 あの『読売新聞八十年史』という社史はね、非常に松山さん時代のことを悪く書いていますよ。極端にいってますよ。当時『読売』は東京都内だけでも四万位もあったでしょう。直営店を持ってますからね、だから、そんな少ないことはないですよ」

 大角は、報知、読売、朝日と、東京の主要紙三社の販売を経験している。朝日から系列下の九州タイムズと埼玉新聞に出向したこともある。戦争中の新聞共販時代には、日本新聞配給会に出向している。つまり、全国的な新聞販売の、戦前から戦後にかけての舞台裏の実情を総合的に知る点では、ベテラン中のベテランの生き証人だといえよう。読売には正力の乗りこみ以前に入社している。読売から朝日に移籍したきっかけは、正力との販売政策上の意見の対立だという。読売の販売部で、正力の乗りこみ以前と以後を経験したわけだが、とくに興味深いのは、大角が報知から読売に移籍した理由である。

 報知は当時、発行部数約三〇万で、東京紙のトップを切っていた。全国的な直営店設置でも他紙に先駆けていた。だが、直営店方式も、「ある程度までくると、そのうち具合がわるくなってきた」。そうなった理由は、「人の関係、その他の関係」だと大角は語る。どの商売にも、微妙な内部事情があるものだ。販売競争の激化につれて、報知の上層部は「売り捌き」と呼ばれる共販店の方式をも研究しなおす必要にせまられ、大角に密命を託した。

「『どこへ行くんです』と言ったら、『大きいところ、『朝日』とか『東日』じゃまずいから、ひとつ『読売』へ行ってきてくれないか』と、というのが震災の少し前です。[中略]その当時でも、そういうものは受け入れるわけはないんだから、『読売』には伏せて行った」

 つまり、大角は今でいう「産業スパイ」として、意図的に読売の販売部に潜入したのである。その役割からしても、大角が記憶するデータの信頼度は高いといえよう。

『読売新聞八十年史』にも、『読売新聞百年史』にも、大角が語ったような「非常に松山さん時代のことを悪く書いていますよ。極端にいってますよ」という部分が、何か所もあるにちがいない。正力講談型の著作ともなれば、なおさらのことである。

 もとより問題は数字だけにとどまらない。内容にも、多くのごまかしがあるし、さらにさぐれば、背後に隠されていた重大な政治的謀略が浮かびあがってくる場合もある。そういう事情を念頭においたうえで、正力の読売乗りこみ以後の状況を見直してみよう。

 正力の読売乗りこみは、単に一つの新聞を支配するだけでは終わらなかった。当初からラディオの支配のための布石を兼ねていた可能性があるし、その勢いは、戦後のテレヴィ支配へとつながっていった。少なくとも結果として、新聞、ラディオ、テレヴィという、現代の巨大メディアの中心構造が、正力を先兵とする勢力によって支配されるようになったのだ。


第十章 没理想主義の新聞経営から戦犯への道

(第10章-1)
「エロとグロ」から「血しぶき」に走った正力と「言論弾圧」


 読売の社史類における正力時代の描写の中でも、一番許しがたいごまかしは、正力が積極的に推進した「黄色主義」、イエロー・ジャーナリズム、煽情主義的かつ好戦的報道の、歴史的評価である。

 まず最初に、同時代の論評を紹介しておこう。すでに詳しく紹介済みのタブロイド新聞、『現代新聞批判』には、三回連載の「読売新聞論」や「『読売』時代と黄色主義」などの読売批判記事が何度も掲載されている。

 同紙の記事、「官界や実業家から新聞に転向の人々」(35・4・1)では、正力を「最も恵まれている」部類に入れつつ、「柄は決して上品ではないようだ」と評価している。「上品ではない」のは、個人の人柄のことだけではない。社長の人柄は、当然、すぐに紙面に表われる。「東京新聞評論(七)」(36・6・1)では、非常に分かりやすく「読売のエロ・グロ」と題して読売を痛烈に批判し、「正力の反省を促したい」と論じている。

 この記事が発表された一九三六年(昭11)という年は、二月二六日に首都東京で千数百人の陸軍部隊が反乱に動員されるという空前絶後の重大事件、いわゆる「二・二六事件」が発生した年である。

 時代背景の前後を見渡すと、一九三二年(昭7)三月一日の満州国デッチ上げから数えて四年後、ドイツでヒトラー政権が成立してから三年後になる。一九三一年(昭6)九月一八日の満州事変勃発から「日中一五年戦争」がはじまったとする時代区分によれば、開戦後五年目の「戦争中」になる。いずれにしても、まさに「昭和の動乱」のまっただなかである。

 二・二六事件では、反乱部隊の一部が「反軍的」だと評価する朝日新聞をおそって、活字ケースをひっくりかえした。その程度の、そこらの町のチンピラがやらかしそうな、お粗末極まる襲撃ぶりでしかなかったのだが、それでも、『現代新聞批判』(36・3・15)に「二・二六事件報道で腰を抜かした読売」などと題する記事が現われる事態が発生した。同記事によると、読売は「渡辺教育総監横死」の号外発行で「別に深い考えもなく」二・二六事件報道の先鞭をつけたのに、たちまち、つぎのような状態に陥ってしまったのである。

「その後になって東朝が襲撃されたと聞いて、読売の編集局はすっかり縮み上がった。早まって号外を出したから〇〇軍[伏せ字]は押し寄せて来るだろうというので、整理部の連中などは仕事が手につかず、逃げ道ばかり考えていたそうだ。[中略]正力松頚を切られた一度の経験で怖じ気ついたのであるか。さりとは腰抜けの沙汰である」

 さて、このように殺伐な時代背景を考えながら読むと、「読売のエロ・グロ」(36・6・1)と題する批判記事には、かなり腰のすわった見識の高さがうかがえるように思える。記事の冒頭はまず、つぎのようである。

「読売新聞社長正力松太郎は、新聞を売るにはエロとグロでゆくのが一番だと言ったそうだが、驚異的発展を遂げたと言われる読売のその発展の動因のひとつとしてそのエロ・グロ主義を看過することは出来ない」

 なお、『巨怪伝』には、これより八年前の一九二七年[昭2]当時のことが、つぎのように描かれている。

「昭和二年、正力は社会面に早くもヌード写真を載せ、江湖の読者の度肝を抜いた。当時正力は、『新聞の生命はグロチックとエロテスクとセセーションだ』と胸をそらして語り、心ある人々から『正力という男は英語の使い方も知らないのか』と失笑を買った」

 文中の「グロチックとエロテスク」は「エロチックとグロテスク」の語尾変化の取り違えであり、「セセーション」は日本式のカタカナ表記では「センセーション」となるところである。おそらく正力は、読売乗りこみの直後に顧問として迎えた元東京毎夕新聞主幹、小野瀬不二人の口癖を、そのまま得意気に真似して間違えたのであろう。小野瀬は若い頃にアメリカの新聞社ではたらき、帰国後、二六新報と東京毎夕に入り、アメリカ仕込みの斬新な見出しのつけ方で名を馳せた。

 なお、東京毎夕は「エロ・グロ・ナンセンス」新聞の代表だったが、関東大震災を契機に没落した。

 話を「読売のエロ・グロ」批判記事に戻すと、そこでは、以上のような読売の紙面作りの経過を、つぎのように簡潔に指摘し、かつ適切に批判している。

「読売はアメリカのいわゆる黄色紙(イエローペーパー)の行き方を完全に模倣している。徹底したセンセーショナリズム……それが読売の身上であると言っていい。新聞が商品である以上、売れることを第一義としなければならないのは言うまでもない、売るためには大衆の嗜好に投ずる事を考えなければならない、正力のエロ・グロ主義はここから生れて来るのである」

 だが、ここまでは当然すぎるほど当然の一般的批判である。この「読売のエロ・グロ」批判記事の本領が発揮されているのは、むしろ、つぎのような伏せ字まじりの部分であろう。

「一方、読売の発展には時勢もあずかって力がある。大正四、五[一九一五、六]年頃から力強い台頭を見せて来た日本の大衆運動は遂に〇〇主義[伏せ字]の運動にまで発展して、大正の末から昭和の初頭にかけて、それは頂点に達したかの観があったが、政府の徹底的弾圧とこれに伴うファシズムの進出とは、大衆から言論の自由を奪い去った。政府の極端な取締と某方面のテロリズムとが言論界を戦慄させた。新聞はもはや真面目な議論や主張を掲載することを許されなくなった。彼等のペンは去勢され歪められた。こうした時代には大衆は虚無的となり、退廃的となり、怯懦となり、自堕落となる。大衆の文化生活の水準は全面的に低下する。そして彼等の嗜好はエロティシズムやグロテスクネスに堕する。これは日本に限ったことではない。こうした社会情勢のもたらす必然的現象である。

 こうした時勢を洞察したのか或いは盲目滅法のまぐれ当りかは判らないが、とにかく思い切ったエロ・グロ主義で乗り出して来たのが読売である」

 匿名の筆者「X・Y・Z」は、さらに、「調子に乗った昨今の読売は毎夕式あくどさに堕していないかどうか」と問いかけ、「深く正力の反省」をうながす。以上のような辛口批評の最後の締めくくりは、つぎのような強烈な皮肉になっていた。

「読売に対して、いまさら品位を保てとか、政治に興味を持てとか、外電を充実しろとか、難きを強いるほど筆者は野暮ではないつもりだが、読売の将来のために、注意して置きたいのは、エロ・グロにも種切れがあり限界があるものだということだ。そして今にしてこの行き詰まりの打開策を講ずるにあらざれば、豪勇正力も衣川の弁慶坊主のようにエロ・グロの七つ道具を背負ったまま、みぢめな立往生をしなければなるまい」

 ただし残念ながら、この「X・Y・Z」の最後の皮肉な「立往生」の予言だけは外れてしまった。「エロ・グロの七つ道具」のつぎには、本物の武器が縦横に振り回される「戦争」が控えていた。戦争報道こそが煽情主義報道の極致であった。読売は、当然、命がけの戦場(煽情と同音)報道に一路邁進する。記者たちにはミニ版「大和魂」の「読売魂」が吹きこまれた。『読売新聞百年史』では、恥ずかし気もなく「“読売魂”の前線記者」という項目を立てて、自社の記者たちの数多い「戦死」「絶命」「重傷」の取材活動を描いている。

 元読売記者、宮本太郎は、『回想の読売争議/あるジャーナリストの人生』(新日本出版社)の中で、つぎのように語っている。

「敵兵を斬って血しぶきのあがった写真が紙面に出たことがあります。前線へ出て、危険な場所に行かなければ、そういう写真は撮れない。そういう形で戦意をあおったわけです」

 正力の読売経営を論ずる上でもっとも重要な基本姿勢は、それが「言論弾圧」にはじまり、「エロ・グロ」に徹し、ついには「好戦」報道の先頭に立つという、俗悪煽情主義の、それもとくに最悪の典型だったことを、どれだけ明確に指摘しうるかどうかである。「エロ・グロ」路線を犯罪と仮定するなら、その犯罪行為に踏み切った動機は、直接的には拡張販売競争であった。しかし、その真の目的は、権力支配にあった。すでに紹介したように、そのことを正力自身が評論家、杉山平助との対談で、素直に「そうです」と認めていた。「大きな支配する力を握って見たい」ので、「まず新聞の紙数を増やそうと努力」したのである。


(第10章-2)
「黄色主義」の直輸入で「騒音を立て」まくる堕落の先兵


 正力時代の読売が率先して採用した「黄色主義」には、アメリカのハースト系新聞という原型があった。これについてもまた、同時代にこれだけの批判があったのだという意味で、もう一つ別の『現代新聞批判』の記事、「『読売』時代と黄色主義」(36・11・1)の一部を引用しておこう。

「黄色新聞主義とは何か、そこには無論学問的なむつかしい定義などあるはずはない。黄色新聞主義の元祖は何人もお馴染のウィリアム・ランドルフ・ハーストで、彼は北米合衆国内に二十二に及ぶ新聞と十二種類の雑誌を経営し、そのほか通信社、映画フィルム会社、無電送信所等を支配する世界的新聞企業家である。彼の新聞経営方針は周知の如く発行部数第一主義で、そのためには何事をも実行し、何物をも恐れぬことであった。彼は新聞を一枚でも多く売るという目的のためだけでかつては米西戦争を激発し、最近では排日を唱導し、日ソ開戦説を流布している。[中略]

『読者をつかまえろ! そのためには出来るだけ大きな騒音を立てろ』、これがハーストの新聞製作上のコツであったが、騒音を立てることは読売の最も得意とするところ[中略]。

 多分、ハースト系外電を採用しているのであろう。足もとから爆弾でも破裂するかと思われるような『本社特電』が毎日紙面に跳躍するのが読売である。『スターリンの死亡説』や当局発表の『ソ連の不当越境』や『支那の暴虐ぶり』を最もセンセーショナルに報ずるのも読売である」

「黄色主義」の典型のひとつに、「サツネタ」頼りの煽情主義報道がある。「サツネタ」の確保に関するかぎり、警察に強いコネを持つ正力社長の読売は格段の優位を誇ることができた。

 すでに紹介したように、『伝記正力松太郎』にさえ、「警察新聞になって終うのかとの嘆声やら悪口やらが出た」という当時の実情がしるされている。「警察新聞」と「黄色主義」の間には、硬派で行くか軟派で行くかの差しかなかった。正力は、軟派の「サツネタ」煽情主義を採用した。最近の「オウム真理教」事件報道などの、いわゆる「総ジャーナリズム」型報道につながるような、下品で、押しつけがましい、これでもかこれでもかの紙面作りが横行しはじめた。

 大きな見出しと写真を多用する三面記事の増大は、当然、その分野の紙面の増大となる。この傾向は、読売の他の分野の紙面に、どのような影響をあたえたのであろうか。いきおい他の紙面は、広さはもとより、質的にも圧迫されざるをえない。

『現代新聞批判』(36・1・15)には、「読売の紙面を評す」という長文の記事が掲載されている。その副題は「文芸欄衰弱の兆」となっている。正力乗りこみから一二年後の論評なのだが、そこにもまだ、「読売の文芸欄にはそうはいってもまだ、過去の伝統的な味は残っている。他の新聞に比べて確にその文芸欄は、特色をとどめている」という評価がある。ところが同時に、つぎのように批判される状態も生れていたのである。

「正力社長は発行部数の増大に意を注いでいる。そして文芸欄の衰弱を自ら画策する。これがヂャーナリズムの公道だろうか」

 おなじく『現代新聞批判』の連載記事、「読売新聞論(三)」(34・9・1)では、「読売の政治面の貧弱さは、お話にならない」とバッサリ切られている。

 新聞ばかりではなくて、いわゆるメディアの仕事というものは、世間一般の認識以上に手工業的な個人作業に頼っている。新聞の場合には、記者個人の思想、教養、体力、技術などが重要な構成要素になっている。おなじく「読売新聞論(三)」では、「読売新聞には穴が多いが政治部と匹敵する大穴は外報部だ」としている。その「大穴」の外報に例を取って、記者の資質の問題を考えてみよう。つぎのような同論評の読売の外報にたいする歯切れのいい批判は、現在にも通用するものである。

「外報は筆先の小器用だけではつとまらない。少しばかり語学が達者な位ではつとまるものではない。国際政治に対する細緻な頭の働きと透徹した批判力とがなければならない。ひとり読売に限らず、日本の新聞が国際問題となるとボロを出すのは、頭の記者がいないからだ。『新聞記者は足で書く』ということをよく言うが、頭のない記者が足をすりこ木にして飛びまわっても何もなるものではない。日本の新聞が、この言葉を文字通りに解釈して、記者をやたら飛びまわらせることばかりを考え、頭の養生をさせないのは非常な誤りだ」

 正力乗りこみ以前の読売の外報、または国際問題ともなれば、まず第一に挙げるべきは、中国問題の専門家として論説陣に加わっていた小村俊三郎であろう。小村は、正力乗りこみと同時に退社していた。というよりもむしろ、すでに記したように正力が読売に乗りこんだ理由のひとつが、中国人指導者、王希天の「行方不明」(実はすでに陸軍が虐殺)を追及する小村らの追放、言論封殺にあったのだという確信を、わたしは深めているのである。

「黄色主義」と「言論弾圧」の相互関係を考えるならば、本項で紹介した読売の「文芸欄衰弱」「政治面の貧弱」「大穴は外報」などは、むしろ、確信犯正力の意図に沿った紙面作りの状況だと判断することもできる。


(第10章-3)
「首切り浅右衛門」まで登場した読売記者の総入れ替え


 かつての「文学新聞」から「黄色主義」への転換は、読売の紙面を、それまでとはまるで正反対の性格に作り変えることにほかならなかった。それは同時に、総入れ替えに近い大量のベテラン記者クビキリ、追放を意味した。では正力は、小村らのベテラン記者たちを追放するために、どのような手段を取ったのであろうか。

『読売新聞八十年史』によれば、出資者による匿名組合代表の藤原銀次郎が正力にたいして、つぎのように指示したことになっている。

「松山に五万円やってくれ、そのかわりに君が入社して使いにくい人間がいれば、松山に処置させるから」

 正力と松山は工業倶楽部において、匿名組合代表の郷誠之助、藤原銀次郎、中島久万吉らの立ち会いの下で、読売の経営権についての「譲渡契約書」を結んでいる。『読売新聞八十年史』によれば、正力は、「調印の際、松山社長に五万円、松山について去る一三人に合計一万六〇〇〇円の退職手当を支給する事を承諾した」のである。

 この経過について、いくつかの正力講談では、松山が正力の社長就任を妨害したとし、自分が居座ろうとして辞表のとりまとめなどの画策をしたかのように描いている。旧著『読売新聞・日本テレビ・グループ研究』では、それらの正力側の主張の矛盾を明らかにするために、かなりの手間をかけ、紙数をついやした。本書では、『別冊新聞研究』(2号、76・4)から、当時の読売記者、花田大五郎の、つぎのような証言を紹介するにとどめる。

「――[前略]松山さんと正力さんが交替するというその前の晩、松山さんが正力さんに会って、花田さんをはじめ、現役の部局長の辞表を全部とりまとめて正力さんの前に出して、『「読売」の部局長は君のような警察官の前歴のある者の下では働かないといって、この通り辞表を出している」といったそうですが、その前に部局長が集まって辞表を出すというようなことがあったんでしょうか……[中略]

 松山君も、そうやって辞表を出すようになったので、私どもも自然にやめたんです。おそらく松山君の手元に辞表を出すなどということはなかったんじゃないかと思います。

 今のようなことは正力君がいいだしたんでしょう。『正力松太郎』という著述かなにかに……。

 ――読売の社史にも、御手洗辰雄さんの『伝記正力松太郎』にもそう書いてあります。

 御手洗君には、私が大分にいる時、会ったことがありますが、あれも門外漢です。

 ――正力さんの方からそういう話がでたということでしょうか。

 そうです。私はそう信じます。だから松山君との交渉もどこまでが本当だかわからないですよ。松山君は没落してしまっていますからね。あとは正力にとられたんですから……。だからその話はどこまで信用していいかわからんですよ。

 ――松山さんがそういうかけひきをするということは、ありうる話でしょうか。

 いや、私はそれも信じませんね[後略]」

 ともかく、花田らの元朝日「白虹事件」残党組は、松山と行動をともにし、一斉に辞職したようである。正力の方から留任を要請したり、昇格を交換条件にしてつなぎ止めた幹部クラスの記者たちもいる。だが、その部分の話はあとにまわして、一斉辞職につづく大量クビキリの手口を見てみよう。『読売新聞百年史』には、つぎのように記されている。

「正力がまず手をつけたのは、むだや不正をなくすこと、人員整理などによる徹底的な経費の削減だった。正力入社後、数か月して入った半沢玉城が整理に当たったが社会部員をわずか十人以下にするほどの大ナタをふるった。そのかわり、整理が一段落すると、自ら責任をとるかのように、あっさり退社した」

 文中の「半沢玉城」という人物は、『読売新聞百年史』でも『読売新聞八十年史』でも、まったく何の説明もなしに登場して編集長に就任し、たちまちにして去って行く。やったことは、「人助け」とは正反対の「首切り浅右衛門」型の荒業だが、話の筋の方は、沓掛時次郎のような流れ者の人情ヤクザ物語そっくりである。または、「一件落着」後に風の中を一人立ち去る「用心棒」そのままの怪人物である。読売の社史にはゴツイ顔の写真が印刷されているし、正力乗りこみの翌年の『新聞年鑑』にも、編集長解任の記事に名が出ているから、決して幽霊ではない。だが、仮にもせよ編集長だったのに、明治から大正期にかけての主な記者なら必ず載っているはずの『明治新聞雑誌関係者略伝』には、その名は見当たらない。記者としての評価は低い人物だったのではないだろうか。

『読売新聞八十年史』の方には、半沢のクビキリの手口の一つが、つぎのように記されている。

「半沢はたいして役に立ちそうにない比較的高給で老朽の記者を、編集局付きとして仕事を与えなかったから、いたたまれなくなって、自然に退社を申出ることとなり、人員整理は予想以上に順調に進んだ」

 さらには、「不正摘発」に名を借りる恐怖政治が敷かれた。

 営業局長兼広告部長の桜井貢の場合には、正力自身が連れてきた新任幹部だったが、使い込みをしていたらしい。『読売新聞八十年史』には、桜井ほかの「不正発見」「解雇」「告発」パターンが、つぎのように四件が記されている。

「正力は、直ちに桜井を解雇するとともにこれを告発してしまった」

「今度は中村販売部長の不正が発覚した。正力社長は、もちろん間髪をいれずにこれも告発した」

「これで不正は絶えるかと思われたが、またしても販売部員某が不正をやり、これも告発された」

「また突如として広告部次長の中村が社金五千円を横領した事件が発覚した。[中略]告発されたと知った中村は、自らの悪事を恥じ、青酸カリ自殺をとげた」

 正力の存命中に発行された『読売新聞八十年史』では、この告発の「正しさ」が延々と強調されているが、正力死後の務台社長時代に発行された『読売新聞百年史』では、次のようになっている。

「社長が社員を告訴するというこのやり方に、社の内外ともびっくりした」

 この方が世間常識というものであろう。


(第10章-4)
暖房なし社屋の夜勤に「飲酒禁止」で「武力」を直接行使


 元読売社会部記者の高木健夫は、著書『新聞記者一代』(慶昌堂)のなかで、正力が読売を支配した手口をいくつか紹介している。その一つに、夜勤者への飲酒の禁止があった。

 当時の読売の社屋は、半分バラック風で、暖房といえば火鉢だけであった。その上に、隙間風が入る。朝刊印刷のギリギリまで記事の新しさを競う商売だから、夜勤は記者の宿命である。寒さをこらえるにも限度がある。そこで、つぎのような事態が発生した。

「新聞記者が、酒をのんで仕事ができなかったら一人前じゃねェや……とわたしたちは、社長の命令に、ひそかな職業的抵抗(レジスタンス)をこころみていたものである。勤務中は酒をのんではいかん、などと、正力社長もわけのわからぬことをいうもんだ。酒をのんだって仕事をやりゃァ、いいじゃないねェか、手めェの金で飲む酒だ……というのが、わたしたちの気持ちであった。[中略]

 そのようなある夜の一〇時ごろのことだ。玉虫社会部長は、おでん屋でいっぱいひっかけて、社会部のデスクへ上がってきた。クツを卓の上に投げ出して、ふゥーと熟柿くさい息をはいた。顔がゆでだこのように赤い。

『ちェ、社長がなんだっていうんだ、べらぼうめ』

 と、社会部長が管を巻きはじめたところへ、そのうしろに社長があらわれた。みんな固唾(かたず)をのんでいると、騎虎の、……いや、酔虎の勢いで、背中に眼をもたぬ社会部長は、

『手前の金で、手前が勝手に酒を飲むのが、何で悪いンんだ。そんなことをいう権利が、社長にあってたまるか』

 とやりだした。そのとたんに、玉虫さんは、あっというまに身体を宙につり下げられてしまった。正力社長がむんずと右手をのばして、玉虫さんのエリ首をつかまえて持ち上げたのだ。正力社長の『武力』についてはかねがね承知していたものの、その現実をまのあたりにしたのは、これがはじめてだった。手足をバタバタさせ、目を白黒させている玉虫社会部長を、正力社長はまるで魚をつかんだような格好でズルズルと階段まで引きずってゆくと、そのまま三階から下へ放り出した。

 わたしたちは、びっくりして、階段下にノビているであろう社会部長のところへ駆け下りてみると、かれは腰をさすりながら起き上がり、

『オラァやめる。うん、やめる』といいながら、円タクに乗って帰ってしまった」

 玉虫は、別名のユーモア作家、寺尾幸夫として世間に名の通った人物であった。こんな目に会いながらも、玉虫社会部長は、なぜか、なかなかやめないのである。『新聞記者一代』には後日談もあり、相当な人物でもあったようだ。


(第10章-5)
「死屍の山を踏み越えて」読売を発展させた「進軍喇叭」


 数ある『現代新聞批判』の記事のなかでも、正力による読売経営に関してもっとも手厳しいのは、匿名筆者「X・Y・Z」による「何が読売新聞を発展させたか」(35・7・1)であろう。

 同記事の論評は、正力の名による「現代新聞論」という雑誌記事への批判という形式で展開されている。書き出しは、つぎのようになっている。

「七月号の『経済往来』に正力松太郎の『現代新聞論』というものが載っている。正力は文章など書ける柄ではないから、いづれ誰かの代筆だろうが、はなはだつまらぬ内容のものである」

 なぜ「つまらぬ」かというと、「読売をかくまでに発展させた[中略]ほんとうの原因について少しも触れていない」からである。なお、この『現代新聞批判』の用語としての「発展」には、「部数の増大」という意味しかない。念のために、わたし自身も国会図書館のマイクロフィルムで、この記事を探し出して読んでみた。確かに、はなはだ「つまらぬ内容」であった。

「X・Y・Z」によれば、正力は「彼の親分後藤新平」や「例の番町会、藤原銀次郎等へ方々の金穴を漁りまくって資金をつくった。この資金をつくる手腕を彼が持っていたということは読売新聞発展の第一の原因としてあげなければならない。そしてこうした金穴と結びつくだけの因縁をつくり得たのは、警視庁の高官だった彼の昔の地位が物を言ったのである」

 ただし、この「読売新聞発展の第一の原因」についての論評は、まず最初の軽いジャブといった程度のものである。「X・Y・Z」が、正力名の「つまらぬ」論文、「現代新聞論」を逆手に取って、ここぞとばかりに加えたかったボディブロウは、つぎの「第二の原因」の告発のようである。いささか長い引用になるが、これまた非常に歯切れがいい。今から六〇年ほど前の大先輩の読売批判の切れ味を、存分に味わっていただきたい。

「第二の原因は、日本の経済的危機である。ドイツの経済的危機は、ヒトラーの台頭に拍車をかけたというが、日本の経済恐慌は正力松太郎に幸いした。労働市場にはインテリの失業者が氾濫した。正力は失業線を彷徨している優秀な新聞記者を、思い切って雇い入れることが出来た。彼のことだから遠慮会釈なく叩きに叩いて安く買った。そしてこれらの記者の尻っぺたを、彼自らひっぱたいて働かせた。哀れなるインテリどもは、その痩せ脛をけっぱって、東朝や東日の記者どもの三人分位の仕事を一人でやった。身体の弱いものはバタバタ倒れた。何にせよ読売の社屋という奴は、外部から瞥見しただけでも大抵想像のつくように、とても狭隘で不潔で、厳密に検査されたら当然工場法にひっかかる代物だ。その中で普通の人間の三人前を安月給で働かせられるのだから、倒れるのは当然だ。多くは呼吸器の疾患でやられた。しかし、幾人死のうと正力は痛痒を感じなかった。労働市場にはより安くて優秀なのがウヨウヨしているのである。代わりを買って来さえすればよいのだ」

 正力名の論文では、「三原山噴火口探検」とか、「浅間山噴火口」の撮影とか、「尼寺の秘密を探るべく頭を丸坊主に剃った婦人記者」とかを、「忠実なる社員の献身的努力」の実例として「賛美」していたらしい。その正力の「おだて」政策を「X・Y・Z」は、「ほめるのはタダ」とくさす。

 最後のまとめは、つぎのようにさらに強烈に高鳴っていく。

「要するに読売の発展の原因は上述の二つにつきる。別段正力松太郎に摩訶不思議な神通力があったわけではない。経済恐慌がつづき非常時が継続する限り、そしてそのために労働者や俸給生活者の陣営が沈滞し切って、賃金や俸給値上げの要求などが起らず、輝ける日本の労働組合の指導者が、ジューネーヴの労働会議で日本のソーシャルダムピングを否定したりしている時勢の続く限り、正力松太郎は万歳であり、読売は発展するであろう。但しその薄ぎたない編集室や工場に働いている連中は続々と血を吐いて倒れるだろう。その死屍の山を踏み越えて正力松太郎は進軍喇叭を吹きならすのだ。補充兵にはこと欠かない。

 見よ、労働市場には失業インテリが氾濫している。正力万歳! 読売万歳!」


(第10章-6)
「君はアカだそうだな」と一発かます元鬼警視の人使い戦法


 話を正力の読売乗りこみ当初に戻すと、その時にはまだ新人採用の時間的な余裕はない。むしろ正力は、それ以前からのベテラン記者の協力をえなければならなかった。とくに重要なのは、読売の現場を掌握するための編集局長ほかの幹部の確保であった。

 読売の社史や正力講談によると、正力はまず、それまでは社会部長兼文芸部長だった千葉亀雄にねらいを定めた。まずは留任を要請し、その後に編集局長就任を承諾させたのである。この昔話の出所は正力自身の回想以外にはありえないのだが、千葉に留任を承諾させる経過の描写には、すさまじいばかりの執念が立ちこめている。読売乗りこみの当日の午前一時、正力は、大森にある千葉の自宅に押しかけ、四時までかかって千葉を口説き落としたというのだ。

 この深夜に行われた「留任要請」の、三時間にもわたる押し問答の具体的な内容は、どの資料にも記されていない。それは本当に、正力自身が簡略に伝えているような、単純な人情話だったのだろうか。大いに疑惑をかき立てられる状況なのだが、まずは周辺の情報を整理してみよう。

 前出の元読売記者、花田大五郎は、『別冊新聞研究』(2号、76・4)の「聴きとり」に答えて、千葉亀雄の留任をめぐる事情を、つぎのように語っている。

「[千葉君は]社会部長兼文芸部長でした。後に正力松太郎がのりこんできたときに、われわれはやめたが、千葉君だけはやめなかったですよ。そのことを千葉君はずっと気にしていましたね。『自分もやめるべきであったけれども、ひきとめられて残ってしまった』といっていましたね」

『巨怪伝』では当人の次男、泰二から、つぎのような証言を引きだしている。

「千葉亀雄からそのときのことを聞かされた次男の泰二によれば、千葉は読売に残る気はさらさらなかったが、正力ともあろう人から直談判され、つい情にほだされ、急場だけという条件で引きうけたと、生前よく語っていたという」

 千葉亀雄への留任要請はたしかに、あらゆる資料が示す通りに「急場だけ」の、まさにその場しのぎの人事でしかなかったようである。正力は最初、編集局長には、国民新聞編集局次長の石川六郎を予定していた。ところが、『読売新聞八十年史』によると、その石川さえ「資本家の走く[狗]になるのはいやだ」というので、正力が説得を断念したという。右翼紙として名高い国民新聞の編集局次長さえもが、こうまでハッキリと皮肉たっぷりに語って、正力の要請を拒絶するような状況だったのである。

『読売新聞八十年史』によると、正力はその返事を受けるとすぐに、ストライキ状態の読売からいったん出て、再び千葉の自宅に走った。編集局長就任を要請すると、千葉は、「残ると決心した以上、何をやっても同じですから、お引き受けしましょう」と承諾した。これが決め手となって、以下、次長クラスには部長へ昇格という条件で留任を約束させ、やっとその日の新聞発行の体制を維持できたという。

 それでは、千葉の方には、正力の要請に答えることは「資本家の走狗になる」ことだという認識がなかったのであろうか。

 当時は読売の一記者だった作家、子母沢寛は、『二丁目角の物語』(文芸春秋新社)のなかで、千葉亀雄のことを書いている。それによると千葉は、「正力などという警察官吏の下で働く気はありません」といいつつ、ヒゲをひっぱっていた。つまり、千葉は、正力の前歴を強調しつつ、あらかじめ部下にも辞意を表明していたのである。

 読売の社会部長という立場であれば、「警察官吏」としての正力にたいする認識は、一番深かったはずである。しかも、時はまさに関東大震災の直後である。正力が震災下の虐殺で果たした役割への数々の疑惑について、何も千葉が知らないわけはない。むしろ、人一倍、詳しかったはずである。

 というのは、『読売新聞八十年史』には( )内に、つぎのように記されているからである。この( )内の記入部分は、同書にいくつか出てくるのだが、前後の文脈から考えると、草稿に対する正力本人の説明を付け加えたような感じである。

「なぜ正力が千葉を固執したか。正力が警視庁で活躍していた当時、時事新報が正力のことを書いたことがあった。それはすこぶる正しい批判だったので筆者を調べると千葉亀雄とわかり、さらに千葉の人柄を聞いてみると、非常に正しい男だということであった。それを記憶していたからであった」

 時事新報でも千葉は社会部長であった。千葉は、すでに文芸評論家としても知られていた。正力の要請に対して最初は、「実は家を建てたので雑誌社から相当金を借りているし、これを機会に売文業に移ろうかと思っています」という理由で断ったことになっている。つまり、独立した方が収入が増えるという状況にあったのだ。それだけの実力を蓄え、しかも、すでにそれ以前に正力への批判記事を執筆していた千葉が、関東大震災下に「鉛版削除」までを経験した読売の社会部長の座にありながら、正力らが震災下の虐殺事件で果たした役割について、強い疑問を抱いていなかったはずはない。その一端は、すでに紹介したように、その後、自らの退任の慰労会の席上で、正力に直接、「王希天はどうしたのでせう」という鋭い質問を、最後に投げ掛けた事実にも表われている。

 さきの( )内の文章を取って見ても、千葉が正力について「正しい批判」の筆者であるためには、そういう記事を作成するのに必要な程度の知識を持っていなければならない。千葉自身が「正力などという警察官吏」と語っていた人物の正体に関する批判的な情報を、かなりの程度には収集していたということになるのである。その千葉がなぜ翻意したのであろうか。その後の生涯を通じて「ずっと気にして」いなければならないような、いわば最悪の選択を、なぜしてしまったのであろうか。

 つぎに気になるのは、「正力が千葉を固執した」本当の腹の内である。たとえば『伝記正力松太郎』では、その理由を、つぎのように記している。

「千葉は社会部長として、その温厚な人柄で社内の人望を集めていたから、千葉を口説き落とせば社内は静まると見た。例の如き正力の中央突破である」

 いかにもありそうな話である。もっともな説明に聞こえる。しかし、千葉が執筆した記事を、正力が素直に「正しい」と感じたというのは、果たして本当のことなのだろうか。「筆者を調べ」たというのも、正力が現職の警視庁高官の時代の仕事だから、おだやかな話ではない。本当は、痛いところを突かれたので怒った正力が、筆者に効果的な脅しを入れる目的で、どこかに弱みはないかと部下に内偵させたのではないだろうか。もしかすると、そのとき正力は、いざという時に千葉に脅しを入れることができるような、何らかの弱みをにぎったのではないのだろうか。

 深夜の、それも三時間にもわたる「留任要請」などという行為は、冤罪の告白さえ「落とし」てしまうような、デカ長部屋の尋問技術を思い出させる。シツコク、シツコク、あくまでシツコク、手持ちの材料を小出しに使って、元鬼警視の正力がネチネチと、かたくなに留任を拒む千葉にゆすりをかける有様が、アリアリと想像できるような気がする。

 こういうと、わたしが千葉の人格を疑っているかのように取られるかもしれない。だが、それはむしろ逆なのである。正力の「手持ちの材料」の一例として、すぐに思いつくのは、務台光雄が正力とはじめて会ったときの話である。務台は、『別冊新聞研究』(13号、81・10)の「聴きとり」に答えて、つぎのように語っている。

「初対面ですよ。すると『君はアカだそうだな』というんです。私は何かわからんから笑っていた。そうすると『君のことを「報知」へ照会したんだ』というんです」

 務台は、報知を退社する原因になった内紛の際に、地方の販売店からの納金を本社に収めないという「納金不納同盟」に関係し、報知の上層部からはその「首謀者」と見られていたという。務台の説明では、それが「アカ」といわれる理由だったようである。その真相はともかくとして、正力はさらに、つぎのような発言をしたというのである。

「いや、アカでもいいんだよ。そのくらいの元気がないといかん」

 正力が、その後に読売で採用した社員のなかには、それこそ本物の「アカ」経験者が多数いた。その独特の人事政策が、戦後の読売争議が激化した原因のひとつに数えられているほどである。

 学生時代に何らかの運動に参加して逮捕され、獄中で転向を誓ったりしたものを、その前歴を承知の上で安く採用する。これが、正力の人使い戦法だった。警視庁での経験から、いわゆる左翼には知的に優秀な人材が多いことを、正力は良く知っていた。当然のことだが、当時のことだから現在以上に、「アカ」のレッテルを一度貼られれば、就職はむずかしかった。それどころか、特高刑事が仕事先や家庭にまでズカズカ入りこんで、いやがらせをしていた時代である。そういう「アカ」の若者の弱味を十分に知りつくした上で、自分の目の届く場所で「アカ」を安く使いこなしていたのが、元鬼警視の正力なのである。

『読売新聞百年史』の欄外説明には、千葉が「早大高師部を中退、苦学で国民英学会を出た」とある。時事新報から読売に移ったのは、松山社長時代に引き抜かれたからである。この経歴には、「アカ」経験の可能性が潜んでいるような気がするのである。

 第一次共産党検挙後の世相の中で、しかもその検挙の主役だった正力本人から、ラウドスピーカーに「奴はアカだ」といいふらされでもしたら、ほかでも仕事が探せなくなる。たとえ独立の「売文業」であっても、雑誌社が逃げる可能性が高くなる。だから、「君はアカだそうだな」という最初のジャブ、または正力得意の柔道の押しは、かなり胸にこたえるはずだ。その一方で、「いや、アカでもいいんだよ。そのくらいの元気がないといかん」といって、軽く手元にたぐりよせる。これが正力の常套手段だったのではないだろうか。

 正力の読売経営に「幸いした」労働市場は、一般的な「失業」と特殊で人為的な「アカ」の二重構造になっていた。わたしのアレンジによる前項の「進軍喇叭」の変奏曲は、つぎのようになる。

「見よ! 労働市場には正力自身が警視庁時代の弾圧で作りだした失業アカが氾濫している。正力万歳! 読売万歳!」


(第10章-7)
「警視庁人脈で固めたから読売は伸びた」と自慢した正力


「失業インテリ」や「アカ」の反抗を防ぎながら、安くこき使うためには、それなりに社内の労務支配体制をも強化しておかなければならない。

『伝記正力松太郎』では、正力が、「社務の統括をする総務局長には警視庁で当時特高課長であった小林光政、庶務部長には警視庁警部庄田良」を、「販売部長には警視庁捜査係長をしていた武藤哲哉」を任命するという具合に、いわゆる本社機能の中心部分を「腹心をもって固めるやり方」をとったとしている。そのほかにも、警視庁以来の秘書役だった橋本道淳、警視庁巡査からたたき上げて香川県知事にもなったことのある高橋雄豺、「説教強盗」こと妻木松吉の逮捕で知られる元警視庁刑事の梅野幾松などの警視庁出身者を、つぎつぎに引き入れた。

 以上の最後の「梅野幾松」は、わたしがいた当時の日本テレビでも、正力の側に必ず控えていた。身辺警護の忍者といった雰囲気の小柄な老人であった。日本テレビには、ほかにも何人かの元警察官がいた。その内の一人は労働組合のある職場の委員に選ばれていたが、当時は執行委員のわたしの耳元で、「木村さん、元警察官を信用してはいけませんよ」とささやいたことがある。「わたしたちは組合の会議や行動をすべて会社に報告しなければならないんです。昔からのしがらみで、逃げることはできないんですよ」というのであった。

 もちろん、元警察官のすべてがそうだと断言する気はない。だが、読売に乗りこんだ当時の正力が、社内の要所要所に配置した元部下から常に社内情報をえて、労務支配を有利に進めていたであろうことは想像にかたくない。

 読売における元警察官の活用については、すでに本稿の冒頭で、つぎのような『巨怪伝』に収録されている証言を紹介した。

「昭和三十二[一九五七]年の第一次岸内閣時代、国家公安委員長となった正力に目をかけられた元警視総監の秦野章によれば、正力は往時をふり返って、警視庁人脈で固めたから読売は伸びたんだ、とよく語っていたという」

 秦野の証言は、さらにつぎのように続いていた。

「販売にも警視庁の刑事あがりを使ったというんだな。あの当時は、“オイコラ警察”の時代だから、刑事あがりにスゴまれりゃ、新聞をとらざるをえない。そうやって片っぱしから拡張していったんだって、正力さんは自慢そうによく言っていたな」

『巨怪伝』が紹介する証言のなかには、つぎのような恐喝まがいの話まであった。

「ベテランの販売員たちは、景品の出刃包丁を客に見せるときは、必ず刃を相手にむけ畳に刺してみせろ、などという指導までしていた」

 すでに何度も引用した同時代のタブロイド新聞、『現代新聞批判』には、なぜか、ここまでのドギツイ真相暴露記事が見当たらない。「読売恐るべし/高をくくった朝毎幹部/手遅れながら対策に腐心」(35・11・1)などと題する記事はあったが、そこでも、「読売は大阪二紙天領の地へどしどし進出し、すでに全関西で四万三、四千の紙をさばいている」というような実情の理由を、「販売店に対する操縦なども実に手に入ったもの」と評価している程度である。

 実情をいえば、「刑事あがり」とまではいかないとしても、各紙がそれぞれ競争で、これも現在につながるヤクザ拡張販売を展開していた。『現代新聞批判』といえども、やはり一種の業界紙である。これも現在と同様の新聞業界全体の共通の恥部には、あえて触れるのを避けたのではないだろうか。


(第10章-8)
震災後に大阪財界バックで朝毎が展開した乱売合戦への復讐


 読売のヤクザ拡張販売には、手前勝手の理屈を立てる「根拠」があった。たとえていえば日清戦争後の遼東半島領有への「三国干渉」を、「屈辱」として「復讐」を誓ったような「根拠」である。

 関東大震災後、社屋が倒れずに新聞発行ができたのは、報知、東京日日(毎日系)、都(現東京)の三社だけだった。報知も震災前の約三六万部を、二年後には約五〇万部に伸ばした。ところが同時期、東京日日だけではなく、社屋が倒壊した東京朝日も、ともに二〇数万部だった部数を約六〇万部に伸ばした。大阪出身の朝毎両社が報知を抜き、東京で一、二位を争うようになったのである。

 朝日は大阪で印刷した新聞を東京に運び、発行遅れを理由にして、一円の定価を八〇銭に切り下げた。いわゆるダンピング商法である。資本力のある大手企業が、定価を下げて大量生産の商品を市場に溢れさせれば、それだけで中小企業は競争に負けて潰れる。現在では、もっとも悪質な商法として禁止されている。朝日からダンピングの安売り乱売合戦を仕掛けられた他社は、仕方なしに、これにならった。朝毎には、地震の被害を受けなかった大阪財界のバックがある。その上に朝毎は、地図、名画、福引き券などを景品に付ける拡張競争を、遠慮なしに展開した。

 関東大震災の二年後、一九二五年(大14)には、ともに部数を二倍以上に伸ばして一、二位を争う朝毎両社が共同戦線を形成し、さらに東京紙の追い落としを謀った。

『新聞販売百年史』では、この有様を、「定価販売即行会の創立とその活動」という項目以下、四二頁にわたり、くわしく記録している。東京で一、二位を占めた両社は、自社の専売店を中心とする有力販売店を集めて「定価販売即行会」を結成させた。発行部数が一、二位の両社が手を組んだのだから、当然、専売店、共売店の違いを問わず、新聞販売店全体への支配力は絶大である。

 今度は逆に定価を一円に戻し、他社が応じない場合には「非売の決議」を実行に移すという強硬手段を決めた。結果として、報知は九〇銭に戻して部数が急落した。時事新報は意地を張って下げ戻しを拒否し、採算を度外視した専売店設立に走ったが、「非売」の血祭りに上げられて、以後、急速に転落した。

「販売の神様」といわれた務台光雄が、報知を辞めて読売に移るに至った事情の背景には、以上のような朝毎両社の共同戦線による報知ほか東京紙追い落としの歴史があった。務台には、強い復讐の念があったのである。

 務台の性格については、ごく身近にいた部下の元販売部員、大浦章郎の証言がある。大浦は、戦後の一九四九年に東大を卒業して読売に入社し、拡張販売の現場から、販売局次長、中部読売専務などを経験した。引退後、業界紙の『新聞之新聞』に「私史・販売現場33年」と題する回想録を連載しているが、そのなかで何度も、務台の激しい行動と性格にふれている。連載の11回(92・5・19)では、つぎのように語っている。

「務台さんは日ごろ何かにつけ『刺し違える』という言葉を使っていた。私が次長になってからも何かあると、販売幹部を集めては熱を込めて『刺し違えてやる』といっていた」

 相手は誰かというと、日本国の総理大臣であったりもした。現在の大手町の敷地は国有地だったのだが、その獲得の際に時の総理大臣、佐藤栄作は、なかなか首を縦に振らなかった。そのころ務台は、「すごい顔で“佐藤総理を相手に”そいう言葉を使って我々に訴えていた」というのだ。大浦は、その務台の言葉に、「ドスを呑(の)んだようなド迫力がこもっていた」と表現している。

 これはまるで「ヤクザそこのけ」の強引さではないだろうか。「刺し違えてやる」という言葉や、「ドスを呑(の)んだようなド迫力」が、決して「気迫」だけのものではなかった例証としては、『巨怪伝』にも、つぎのような直接の証言記録がある。以下の引用文中の「武藤」とは、戦後の読売争議で途中から組合を裏切って経営の実権をにぎり、務台の読売復帰を妨害した武藤三徳のことである。

「武藤は読売退社後、昭和二十七[一九五二]年と三十五[一九六〇]年の衆議院選に、郷里の岡山から立ち、二度とも落選するが、そのときの選挙戦を手伝った郷里の後輩の野村高根によれば、務台は武藤に本当に匕首(あいくち)を突き付けかかったことがあるという。

『武藤さんは昭和四十七[一九七二]年に五十九歳で亡くなりましたが、葬儀には務台さんも出席されました。そのとき務台さんから、武藤さんの自宅で直接対決したことがあったことを聞きました。務台さんは本当に刃ものをもって武藤さんに会い、いざとなれば、それを抜く覚悟だったそうです。ところが、そこに、まだ小さかった武藤さんの子供が出てきたので、さすがに刃ものを抜くことはできなかったと言ってました』」

 このように正力乗りこみ以後の読売は、まさに「勇将の下に弱卒なし」というのもいささか上品すぎるほどの、文化果つるところだった。前近代的であり、独裁主義的であり、まるでヤクザの世界そのままだったのである。

 敗戦直後の読売争議はもとより、一九六〇年代以後の報知争議、日本テレビ争議を通じて、徐々に時代に合わせて若干の軟化はするものの、戦前からの独裁的な暴力支配の伝統は、決して途絶えることはなかった。


第十一章 侵略戦争へと軍部を挑発した新聞の責任

(第11章-1)
「満州国の独立」を支持する日本全国一二〇社の「共同宣言」



 正力の読売経営は商売としては成功しているが、質の評価では明らかに低下した。「文学新聞」どころか「読売ヨタモン」への電車道である。アメリカの真似をしたイエロー・ジャーナリズムの採用は、正力の没理想主義経営の必然的な結果であった。

 ともかく下品な新聞になった。警察とのコネは最強だったから、いわゆる「サツネタ」のどぎつい犯罪報道で、何度もスクープを放った。プロ野球チームの結成は、一面で、高校野球の主催で朝日に遅れを取ったための巻き返し策でもあったが、やはりアメリカの真似に相違ない。「二頁増大ラディオ(その後の表記は「ラヂオ」)版の特設」に先駆けたことなどは、商売上手の自慢にはなっても、教養人からは見下されたものである。

 好戦的な戦争報道は、最も積極的に奨励された。「売れる」からである。読売は、満州事変がはじまると、それまでは控えていた夕刊の発行に踏み切った。正力は、その決断に際して、めずらしく夜も寝られないほど悩んだというが、いかにも正力らしく、人員増なしの「読売魂」の強要による業務量倍加であった。拡大された紙面は、当然、「満蒙の権益を守れ」という好戦的な怒号で埋めつくされるようになった。もちろんそのころには、戦争協力報道は読売だけのことではなくなっていた。

 正力以後、最初は社説もなおざりにされ、出たり出なかったりだった。象徴的な「社説」として注目すべきなのは、一九三一年(昭和6)一一月二六日からの常設で復活した時の最初のものである。

 その社説の題は、しかも、まるで官報そのまま、「強く正しく国策を遂行せよ」であった。満州事変以後の日本を非難する国際世論への猛反撃である。「日本の権益は武力によってでも確保しなければならない」とし、「国際連盟の問題についても、日本の主張が通らなければ脱退もやむを得ない」という趣旨の主張であった。

 翌年の一九三二年(昭和7)一二月一九日には、さらに進んで、おなじ趣旨の文章が、「満州国の独立」を支持する「共同宣言」に発展する。この「共同宣言」は、読売だけではなく、全国で一三二の新聞に掲載された。現在のガリヴァー広告代理店、「電通」の前身、「日本電報通信社」を筆頭とする大手メディア挙げての「共同宣言」である。この恐るべき大手メディアの共犯による罪状は、意外に世間に知られていないので、以下、全文を紹介しよう。ただし、漢字の一部は当用漢字に改め、当用漢字がないか現在通用しないものは、ひらがなに代える。



「共同宣言

 満州の政治的安定は、極東の平和を維持する絶対の条件である。しかして満州国の独立とその健全なる発達とは、同地域を安定せしむる唯一最善の途である。東洋平和の保全を自己の崇高なる使命と信じ、かつそこに最大の利害を有する日本が、国民を挙げて満州国を支援するの決意をなしたことは、まことに理の当然といはねばならない。いな、ひとり日本のみならず、真に世界の平和を希求する文明諸国は、ひとしく満州国を承認し、かつその成長に協力する義務ありといふも過言ではないのである。

 しかるに国際連盟の諸国中には、今なほ満州の現実に関する研究を欠き、従って東洋平和の随一の方途を認識しないものがある。われ等は、かかる国々の理解を全からしめんことを、わが当局者に要望すると共に、いやしくも満州国の厳然たる存立を危うするが如き解決策は、たとひいかなる背景において提起さるるを問わず、断じて受諾すべきものに非ざることを日本言論機関の名においてここに明確に声明するものである。

  昭和七年十二月十九日

             日本電報通信社  報知新聞社    東京日日新聞社
             東京朝日新聞社  中外商業新聞社  大阪毎日新聞社
             大阪朝日新聞社  読売新聞社    国民新聞社
             都新聞社     時事新報社    新聞連合社
                               外百廿社(イロハ順)」

(第11章-2)
戦時体制で焼け太りした読売の不動産取得「脅迫」戦略


『別冊東洋経済新報』(52・3)所収記事「日本の内幕」によると、正力は、旧読売の専売店地方組織「読売七日会」が巣鴨プリズンからの出所を祝って箱根で開いた歓迎会の席上で、つぎのような迷文句の自慢話をした。

「新聞ほどもうかる事業は、世の中に二つとない、戦争中といえども、公定価格でもうかったのは、新聞だけであった」

 事実、読売はとくに、昭和の戦時体制の下で大躍進をとげた。一九三八年(昭13)から始まる新聞統合の時期には、新聞用紙制限令によって一県一紙化を強制した国策以後、業界全体が、「表2」のような急激に変化した。





表2『現代の新聞』より



 読売は、朝日と毎日と並んで、三大中央紙の独占的地位を固めただけでなく、さらには九州日報、山陰新聞、長崎日日新聞、静岡新報、樺太新聞、小樽新聞、大阪新聞を、次々に傘下に収めた。一九四一年(昭16)の日米開戦直前には、かつての名門紙ながら赤字転落中の報知を安値で買収するのに成功した。

 その間、正力が冷や汗三斗の場面もあったようだ。正力のバックは何といっても内務省である。内務省と陸軍省の間には縄張り争いが絶えなかった。戦時体制の強化に正比例して、陸軍省の報道担当の権限は強まっていた。『現代新聞批判』(40・9・15)の「新聞界“時の人”/正力松太郎(一)」と題する記事の冒頭部分は、つぎのようになっていた。

「新体制準備委員の言論代表は、同盟古野、朝日緒方、東日高石、読売正力の四人ときまった[中略]が、読売の近来の発展からして当然ではあろうけれども、発表された刹那には一寸意外な感がしないでもなかった。[中略]

 陸軍省の記者クラブが問題を起こしたことがあった。その時係の役人が『新聞なんか東京に二つもあれば十分じゃないか』といったそうであるが、その時正力氏はこれを聞いて、すこぶる慌てたということである。もし東京に三つもあれば……といったとすれば、彼は慌てなかったに相違ないが、二つとすれば、それが朝日と東日[毎日系]であるにきまっている」

 この状況下での報知の買収は、当時の新聞用紙制限令による用紙の割り当て数、三〇万部の権利取得を含んでいた。務台光雄はそのとき正力から、かつての古巣だった報知の経営実権を任された。

『別冊新聞研究』(13号、81・10)の「聴きとり」で務台は、つぎのように語っている。

「昭和十六年ですから、紙は割当制で、その権利だけでも大したものです」

 買収の経過は非常に複雑なのだが、ごく簡単にいうと、当時の報知の持ち主は講談社の野間清治だった。社長は、戦後日本の保守陣営の政界黒幕として悪名をとどろかせた三木武吉で、正力と旧知の臭い仲だった。業績悪化につけこんだ読売は、社長の三木なら株を安く買い占められると計算して、「将を射んとすれば、まず馬を射よ」とばかりに三木を買収した。同時代の『現代新聞批判』(41・9・15)トップ記事「現下の新聞統合問題」では、正力が「報知の株を闇取引で買占めた」としている。さまざまな駆け引きを経て、「結局、全株式を額面の百十万で買った」というのが、務台の説明である。務台はさらに実質的な資産価値を、つぎのように評価する。

「当時の『報知』の資産は有楽町に一千余坪の土地と鉄筋二千坪の建物、それよりも三十万部の新聞用紙の受給権で、これは金では評価できない、何百万円にも相当するかけがえのない宝であります。[中略]これが、その後、特に終戦後、『読売』のために大きなプラスになったのです。例えば戦中戦後の用紙の統制時代の配給量百五十六万部に『報知』の三十万部が加算されたこと、さらに機械は別としても、現在『そごう』に貸してある土地、建物など戦後の『読売』発展に大きな貢献をしております」

 報知の旧社屋跡は、現在、有楽町駅西側のデパート「そごう」になっているが、建物全体の正式名称は「読売会館」である。読売ホールなどの施設もあり、当然、読売の所有物である。

 ことについでに、その後の読売の土地政策の歴史を整理しておくと、現在の大手町本社屋への移転以前の旧本社屋だった銀座のビルも、やはりデパートのプランタンに貸している。これらの賃貸用の不動産は、「株式会社よみうり」(読売興業が改名)の所有になっている。ところが、「株式会社よみうり」の代表番号に電話を掛けると「ハイ、巨人軍です」と応答されるという関係になっている。つまり、不動産とプロ野球チームという確実な収入源が、知る人ぞ知る読売グループの隠れパワーなのである。

 三大紙で比較すれば、朝日は有楽町の旧本社敷地を朝日新聞社の直接所有として残している。別に読売の真似をしたとは認めたくないだろうが、西武デパート(阪急デパートとの双子ビル)に貸している。毎日は赤字倒産しかけて、有楽町の旧本社敷地を売り払い、旧リーダーズダイジェスト、現在は三和銀行の支配下にある管理会社のビルの共同所有者となった。移転後にも再び赤字が増大したが、今度は売る土地さえない。再建会社になったりして、発行部数の上でも読売や朝日の半分以下と、大きく引き離されている。この側面だけから見れば、現在までのところ、記事の中身はともかく発行部数では、所有地を上手に活用している新聞系列の方に経営上の軍配が上がっていることになる。

 読売が現在の大手町本社の敷地を獲得した経過については、旧著『読売新聞・日本テレビ・グループ研究』にも簡略に記した。

 務台光雄の伝記『闘魂の人』では、なんと三三頁もついやして、元国有地だった敷地を獲得した経過を、詳しく講談調で語っている。決定時の首相佐藤栄作にも「脅迫」といわれながら、強引に払い下げを受けるにいたるまでの自慢話である。当時は同じ副社長の立場だった小林与三次も、務台と一緒に佐藤栄作と会っている。現社長で当時は政治部記者だった渡辺恒雄も陰で動いたという。読売は「五百万の読者を代表している」のだというのが、「脅迫者」こと務台の弁であった。

 さて、話を戦前に戻すと、戦時体制下の新聞統合で「朝・毎・読」の全国三大紙体制が確立した。その「うまみ」をたっぷり吸収したからこそ、三大紙は、戦後の米軍占領下でも生き残り、さらに肥え太ったのである。読売の場合はとくに、部数に関する限りではあるが、この三大紙のドンジリからトップに踊りでた。

 このような時代に生き延び、生き残った新聞商法の根本には、いわゆる「機を見るに敏な」経営政策がなければならない。戦時体制ともなれば、その経営政策のなかでも、とくに重要なのが政治的な立ち回り方であった。

 新聞統合政策は、内閣情報局と内務省を主務官庁として進められた。『新聞史話』(内川芳美、社会思想社)によれば、「具体的な統合実施過程では、各都道府県知事および警察部長、特高課長が指揮をとった」のである。

 口実はどうあれ、新聞統合政策は、だれの目にも明らかな言論統制の手段であったが、新聞用紙制限令の場合には、実際に、その証拠となる文書さえ発見されている。『現代史資料』(みすず書房)41巻所収の資料、「新聞指導方策について」は、内閣の専用罫紙にタイプされた高級官僚の提言である。そこで最善とされているのは、「新聞の営業部門を掣肘する方法」である。具体的には、「用紙供給権」を情報部が握ることであり、さらには、「新聞社収入の半額以上を賄う広告収入に容喙する」ことまでが提案されていた。日付は一九四〇年(昭15)二月、日米開戦の一年一〇か月前のことである。


(第11章-3)
「競争でヒトラー礼讃」する呉越同舟の「醜態」ぶり


 新聞が、この状況下で生き延び、あるいはむしろ巨大化するためには、紙面の工夫も必要であった。読者に違和感を持たせないように気をつけながら、政府または実力官庁の意図するところへの迎合を、たくみに演出する紙面作りの技術が求められる。その典型のひとつとして、日独防共協定から日独伊三国同盟、いわゆるファッシズムの枢軸国同盟が形成されていく時代の、新聞紙面における「ヒトラー」の評価の仕方を見てみよう。

 戦後の民主化闘争で編集の主導権をにぎった読売従業員組合は、退陣要求に応じようとしない正力に対抗して、紙面で正力批判を展開した。敗戦の年の一一月六日には、「熱狂的なナチ崇拝者/本社民主化闘争/迷夢深し正力氏」と題する三段見出しの記事を載せた。内容には、戦時中の正力のヒトラー崇拝演説の暴露などもあったが、中心的な話題は、正力が、ナチ党大会に日本の産業界を代表して出席した藤原銀次郎に、ヒトラーへの土産として川端龍子作「潮騒」のつづれ織り緞子[どんす]作りの壁掛けを託し、その模造品を読売本社の本堂に掲げていたという事実にあった。『読売新聞八十年史』では、この経過の弁明にやっきとなっている。「この記事には大変誤りがある。事実はこうである」とはいうものの、なんのことはない、「国民代表としての藤原を、ヒットラーをして重く扱わせたい、それには然るべきみやげ物を持たせたいというのが正力の考え」だったというだけなのだから、なにをかいわんやである。

「ヒトラー崇拝演説」の方については、すでに紹介済みの『悪戦苦闘』のなかで、正力自身が、公職追放解除で最早時効というつもりであろうか、いかにも堂々と、ヒトラーの演説を引用しながら語った自分の戦前の演説を、つぎのように掲げているのである。

「ドイツのヒトラーは、その自叙伝において、『マルクス主義者は自己の経験によって、強き意志の価値をよく知っておるから、彼等の運動は意志の強きものを警戒して、これに非難攻撃の十字砲火を浴びせるが、意志の弱きものは役に立たぬが妨害にもならぬから、これを賞め、ことに頭脳明晰なるも意志の弱きものは大いに推賞して、たくみに大衆に食いいり、つぎからつぎへと地歩を獲得していくのである』とのべておりますが、まことに適切なる観察であります。頭脳明晰なるも意志の弱きものは、なんら役に立つことなく、恐るべきは意志の強きものであります」

 だが、時局への迎合もあってヒトラー崇拝に走ったのは、読売だけではなかった。同時代の『現代新聞批判』(36・12・15)には、「競争でヒトラー礼讃/東朝と読売の醜態」と題する記事が載っているのだ。短文なので、全部紹介しよう。

「日独防共協定はドイツのファシズムを日本に輸入することになりはせぬかとの懸念を国民に与えている。ファシズムは日本の国体とは相容れざるものだということは、軍部の代表者もしばしば声明した。だから日本ではファシズムを誰も歓迎していないはずである。然るに国体と相容れないはずのファシズムの旗が日本国旗と交叉されているのを見ると、日本国民は異様な感情と恐怖とを感ずる。日本の日の丸の中に逆まんじの気味悪い印をくっつけずにはおかないような不敬不忠の徒があらわれはせぬかということを恐れるのである。

 日本国民がこんな感情に捉われているときに、十二月十日の東朝の十六面に『ヒトラーのサイン』という随筆が載っている。筆者は橋爪檳瑯(びんろう)子という聞いたこともない名前であるが、彼がヒトラーから自署入りの写真を貰ったことを得意気に、そして限りなく有りがたがって書いているのである。その文章は飛びきりまずいが、書いていることはヒトラー礼讃だ。この筆者はサインマニアではないかと思われるが、書いていることはヒトラー主義の宣伝である。ヒトラーを礼讃する随筆など、気の利いた奴は誰も書きはしないから、檳瑯樹だか、しゅろ樹だかを狩り出したものだろうが、日独協定の提灯もちにこうまでして苦労しなければならぬことを思うと、転落の『朝日』に同情に堪えない。

 もっとおかしいのは、『読売』である。読売は十二月九日の朝刊二面に、藤沢親雄にヒトラー主義の礼讃を書かせている。『読売』には反ヒトラーの急先鋒鈴木東民がいるから、これで帳消しにするつもりかもしれないが、それならそれで、もっと気の利いた提灯持ちを探したらどうか。藤沢の神がかりは有名なものだ。現に『読売』に書いているものだって一向に要領を得ない。これはさすがに読売社内でも問題になっているとのことだ。『躍進読売』などと言っているが、やはり成り上がりものは、素性が争われないもので、時々こうした地金を出す。提灯にしても、ちと要領良くやってはどうか。あえて『読売』のため苦言を呈する」

 文中の「鈴木東民」は、正力が安く買い入れた「アカ」の一人で、戦後には、読売従業員組合の組合長、つづいて新聞通信単一労組の副委員長兼読売支部委員長となった。

 鈴木は、読売に入社する以前に、朝日の契約記者としてドイツに渡り、現地からフリー記者としてヒトラー台頭の時代のドイツの状況を日本の新聞雑誌に寄稿し続けていた。読売では外報部長となるが、次第に軍からにらまれ、休職の形で、戦争中は郷里の宮城県の田舎で晴耕雨読の隠遁生活を送っていた。

 反ナチの論陣を張っていた鈴木が、読売からはみ出して行くのと反比例して、読売の紙面はヒトラー礼讃の度を高めたようである。日米開戦直前の『現代新聞批判』(41・10・1)の「読売新聞に与う」と題する記事には、読売の身びいきな外電報道の誤りに対する皮肉たっぷりの、つぎのような批判がある。

「独ソ開戦当初、独軍の電撃的勝利を信じた読売が、最初から出鱈目極まる報道をかかげ、果たしてこれが信頼すべきソースから出たかと疑われる『ニュース』(六、七年前の読売は、外電と称して実は編集室の机上でニュースをつくりあげると噂されたものだ!)を満載し、独軍の進路を示すヤリを地図の上で、モスクワの近所まで突き出し、あとで独軍の進撃がはかばかしくないことがわかってから引っこみがつかなくなったことは天下周知の事実であり、昭和年代のお笑い草であった」

 ニュースのデッチ上げは、単なる「噂」ではなかった。これより三年前の『現代新聞批判』(38・9・15)には、「創作記者に罰棒転勤/読売虚報事件処分」という長文の記事が載っていた。なぜ長文なのかというと、この虚報事件そのものは、いわゆる氷山の一角にしかすぎず、読売では立回りさえ上手ならデッチ上げ記事を「社報で賞賛」され、「押しも押されぬ大記者に成り上がり」も可能だという複雑な文脈だからである。「福井特派員は不運と云えば云える」というこの事件と、その処分の有様は、つぎの通りである。

「“大阪支局員福井三郎君罰棒に処し転勤を命ず”こんな掲示が読売新聞社編集局の掲示場に高々と貼り出されて、さすが心臓の強い読売新聞の記者諸君のド胆をもいささかヒヤリとさせた。全くこの社始まって以来の掲示である。

 これはもちろん、揚子江上英米軍艦訪問記の“創作者”を遇した道ではなく、海軍当局から訂正を申込まれる様なヘマをやった未熟記者に対する処分であるに違いない。が何にしても、新聞記事は創作するのが練達堪能の記者とされ、やがて幹部に出世する大道であるかの様な感銘を、今まで幾多の例で見せつけられて来た読売の若い記者諸君を戸惑わせた処分であり、掲示であったに違いない」

 日本テレビには、開局当初の一九六〇年代、非常にヤクザっぽい元読売記者が何人かいた。その内の一人で報道局長まで昇りつめたのが、故・福井三郎であった。同名異人かもしれないが、あのガラガラ声で吠えまくっていた「サブチャン」ならば、それくらいのことはやっていそうな気がする。

 だが、酒をおごってもらったこともあるからいうわけではないが、結構愛嬌者だった「サブチャン」の“創作”「揚子江上英米軍艦訪問記」よりも、「独軍の電撃的勝利」報道の方が、歴史的な罪は重いのではないだろうか。

 というのは、先に紹介した読売の「出鱈目極まる報道」批判より一か月前の『現代新聞批判』(41・9・1)でも、やはり、読売の「独軍の電撃的勝利」報道を批判している。そこでは、「赤軍全面的崩壊の徴がまだ存在しない」とし、「独軍は優勢ではあるが、しかし喧伝されたような短期間に戦略的勝利を得るほど圧倒的な優勢さではなかったようだ」と判断している。しかも、九月からは「寒くなる」こと、つまりはロシア伝来の最大最強の援軍、冬将軍の到来を告げているからだ。この判断は当たっていた。すでに明らかになっていることだが、日本の軍部は、独ソ戦線の膠着状態についての情報を得ていながら、一般国民ばかりか天皇までもだまして真珠湾奇襲攻撃を急いだのである。

 一か月にたった二回しか発行できないタブロイド新聞が、ほぼ正確に分析していた独ソ戦線の状況を、なぜ、天下の大新聞ともあろうものが、誤って報道していたのだろうか。『現代新聞批判』(41・10・1)では、さらにつぎのような厳しい「警告」を発していた。

「本紙は前々号において読売のこの虚構極まる報道ぶりをとりあげ、それが盟邦に対する同情よりも、むしろ陋劣(ろうれつ)なる営利主義に基くものなる点を指摘するとともに、国民を惑わす罪の大なる所以を説いて警告を与えた」

 その前々号の『現代新聞批判』(41・9・1)には、社会批評家としても著名な元新聞記者、日本人では『トム・ソウヤーの冒険』の著者として知られるアメリカのマーク・トウェーンの、つぎのような至言がのっていた。

「真実が靴の紐を結ばぬうちに、虚偽のニュースは世界を一周してしまう」

 この、無線通信の黎明期に発せられたマーク・トウェーンの至言を前にして、内心ギクリせずにいられるジャーナリストが、現在でも、果たして何人いるのだろうか。

 ガセネタ報道まじりの侵略戦争への協力は、しかし、日本の大手メディア全体の共通の仕事だった。戦局の進展とともに、「朝・毎・読」の横並び現象も進む。『現代新聞批判』にも読売単独の批判記事が影を潜め、「帝都三大新聞の醜状」(41・11・1)といったような批判が増えていく。正力が前述のように「新体制準備委員の言論代表」という立場となれたのは、このような共通の「醜状」を呈する同業者仲間と肩を並べてのことであった。すでに紹介した「読売ヨタモン、毎日マヤカシ、朝日エセ紳士」という起源不明の古いダジャレの成立は、もしかすると、このころのことだったのかも知れない。「ヨタ」には「ヨタ記事」という語源もありそうだ。「デッチ上げ記事」の意味である。

 正力自身の戦争中の政治的経歴を、『読売争議(一九四五・四六年)』から要約紹介しておこう。

 東条内閣の推薦で貴族院議員となった。倒閣で実現しなかったものの東条内閣の最後の改造で内務大臣就任の交渉を受けて受諾した。小磯内閣で「軍閥支持の功績によって言論界を代表して内閣顧問」となった。軍閥の御用政治団体、「翼政会および後の大日本政治会において幹部」だった。

 最後には、「敗戦処理内閣への入閣を運動した」という事実さえあるようだ。


(第11章-4)
アジア侵略の思想戦の先兵としての日本の大手メディア


 戦争中に日本のメディアが果たした役割については、あの「大本営発表!」のNHKラディオ「臨時ニュース」の記憶が、いちばん強烈である。

 わたし自身は、敗戦まで中国の首都、北京で、北支那開発公社に徴用された父親の家族の一員として育った。まだ国民学校の低学年生で、新聞を読む習慣はなかったから、その頃の家庭では付けっ放しだったラディオ放送や、時折見た映画の影響力についての実感が強い。

 ラディオの海外放送についても、いかにも後藤新平らしい「大風呂敷」型の侵略的発想が先行していた。東京放送局の初代総裁に就任早々、後藤は「東洋大放送局」の設置を提案していた。『後藤新平伝』には、この経過が、つぎのように記されている。

「伯の総裁としての方針は、かくして着々と実現した。しかしここに最も重大なる事項にして、しかも遂に実施に至らず中止されたものがある。それは東洋大放送局の設置案であった。

 伯は東洋の文化を開発する目的を以て、満州及び北支を圏内とする大放送局を設置し、しかしてその創設費はもちろん、年々の維持費は日本における放送事業の収益中よりこれを支弁すべしと主張したのである」

 映像メディアでは満州での映画作りもあった。だが、本書では、それらと並行しながら、同じくアジア侵略の思想戦の先兵としての役割を果たした大手新聞の、「海外侵略」ぶりを探る手掛かりの資料についてだけ、一言しておきたい。

 すでに本書でも、元読売社長の松山忠二郎が『満州日報』社長に、元報知社会部長の御手洗辰雄が『京城日報』副社長に、それぞれ就任していた事実を記した。

 務台光雄の伝記『闘魂の人』には、読売が『ビルマ新聞』に派遣されていた当時の思い出が記されている。務台は、占領地の日本軍当局から「将官待遇」を受けた。「一方に命がけの生活があり、一方に豪華な生活がありで務台には懐しい思い出になっている」というのだ。

 どれだけ占領地での生活が「豪華」だったのかという判断の基準としては、フィリピンのマニラ支局にいた社会部記者、のちの副社長、原四郎が、『別冊新聞研究』(25号、89・3)の「聴きとり」に答えて、つぎのように正直に語っている。

「――当時は日本よりもマニラの方が生活はよかったんじゃないですか。

 ええ、よかった。まだ物資はあったしね。ウイスキーなんかもいっぱいあったし何でもあった。あんないい時はなかったですね」

 原は、読売のマニラ支局から『ビルマ新聞』に移る。しかし、その頃には、「これはもう、ひどかった。日本が逃げ出す末期で、[中略]物はない、まことに惨澹たるもの」だったという。務台のビルマでの「豪華な生活」の結末は、現地経済の崩壊に終わっていたのだ。ただし、務台の能弁の記録には、『ビルマ新聞』による思想侵略戦争への反省は、一言も記されていない。

 大手新聞社系列による海外メディア支配は、朝鮮、満州、中国全土へと広がった。

 一九四二年(昭17)一〇月には、「南方占領地域」に関して、陸軍が「新聞政策要領」を各社に発した。前出『日本戦争外史/従軍記者』の表現を借りれば、「地域別に新聞発行業務を割りあてた」のである。「通告」の内容は、次のようであった。

「一、南方における本邦新聞は『朝日』、『毎日(東日)』、『読売』の三新聞ならびに同盟通信社および数新聞社の合同提携によるものとして現地軍の管理下にこれが経営を行わしめる。

 二、現地に設立されるべき新聞社の担当地域は、(イ)『朝日』はジャワ方面、(ロ)『毎日(東日)』はフィリピン方面、(ハ)『読売』はビルマ方面、(ニ)同盟通信社その他の提携による新聞社はマラヤ、シンガポール、スマトラ、北ボルネオである。

 三、南方における既存邦字新聞は逐次前記四社に包括せしめられる。

 四、各種の土語新聞その他外字新聞の指導運営は現地軍で決定するか、あるいはこれを独立せしめ、または前項邦字新聞をして運営に当らしめるなど各地域の実情にもとづき処理する。

 五、内地新聞社の総支局もしくは通信部の設置については、陸軍省で統制する」

 同年一二月には、海軍も、『朝日』にボルネオ、『毎日』にセレベス、『読売』にセラムを、それぞれ担当地域として割り当てた。

 この『日本戦争外史/従軍記者』には、「セラム新聞社長兼バリ新聞社長」として現地に派遣された梅津八重蔵の回想録、「大東亜戦争下における南方新聞設営余話」が収録されている。初代社長に任命された村上正雄以下一四名が乗船を潜水艦に襲われて「撃沈し、戦死をとげた」ため、梅津が後任に指名される。ところが、またもや梅津らの乗船も潜水艦に襲われ、「五日間、救命ボートに揺られながら、漂流をつづける」という具合だった。

 そこで物語は、筆者の梅津いわく、「道草を食った話」から始まる。最後には捕虜物語となるが、いささかでも思想侵略の反省を示す実感のこもった部分だけを紹介すると、つぎのようである。

「占領中日本軍にいじめられた町の青年たちが、『バッキャロー』(馬鹿野郎)と、自分たちが日本の兵隊にいわれた言葉を、私たちにぶっつけて来たことも何回かあったが、あまりいい気持ちではなかった。[中略]自分たちが新聞記者であることも、南方で新聞を発行していたことも一切おもてに出さないようにつとめ、一般商社員のような顔をしていた。というのは、もし新聞記者であることが英印軍の当局にわかれば、戦犯として収容所から連れ出され、軍事裁判にかけられることがないとはいえないという予感がしたからであった」

『読売新聞百年史』でも、「南方地域で新聞発行」「悪条件下でビルマ新聞の創刊」「犠牲者十四人を出したセラム新聞」と三つの項目を立てて、九頁にわたる詳しい経過を記している。セラム新聞の項目には、梅津八重蔵も登場している。しかし、さきのような「思想侵略」の実感のこもった部分は、まったく出てこない。逆に、「深まったビルマとの友情」とか、「現地人から慕われ」たとか、我田引水の「涙ぐましい」物語に終始しているのである。

 それどころか、写真版の頁には、「暴戻(ぼうれい)・米英に対して宣戦布告/畏大詔渙発」で一面を埋めた読売の本紙(41・12・9)と、やはり一面を「慶祝ビルマ国建国/ビルマ国・堂々独立を宣言」で埋めた『ビルマ新聞』の紙面を、見開きで飾っている。これは、密かな「務台王朝史」でしかない。

 ほかにも日本人側の苦労話はあるが、現地に与えた被害や侵略行為の反省はゼロである。さきに紹介した『日本戦争外史/従軍記者』は、『読売新聞百年史』より一二年も前に発行されている。梅津の回想録、「大東亜戦争下における南方新聞設営余話」が、『読売新聞百年史』の執筆者たちの目にふれなかったとは考えにくいのだが、わたしがもっとも興味を抱いたような反省的な記述の部分は、まったく見当たらない。

 もしも、梅津の回想がなかったとしても、反省は、当然の作業なのではないだろうか。反省が欠如した社史、『読売新聞百年史』の存在そのものが、読売の社内でいまだに大東亜共栄圏思想が継続しているという事実の、なによりの証明になっている。

 なお、『週刊金曜日』にも四回の連載記事、「大新聞・通信社によるアジア侵略」(浅野健一、95・9・1~22)が発表されている。現地で使われた側の記者たちからの批判には、やはり、胸をえぐられるような鋭さがある。読売ばかりではなく、他の大手紙、通信社(同盟通信は、戦後、共同通信と時事通信に分割された)、および同盟通信と提携した各地方紙の社史も、こうした批判に応えて、全面的に書き改められるべきである。


第十二章 敗戦後の「ケイレツ」生き残り戦略

(第12章-1)
「自らを罪するの弁」から「一斉に右へならへ」までの軌跡


 大手メディアの戦争責任と戦後五〇年を語る場合、問題があるのは読売だけではない。

 日本の大手メディアは全体として、天皇制とともに、いやむしろ、それよりも巧妙に戦争責任を回避し、敗戦後の混乱を生き延び、今や国際語の「ケイレツ」支配を拡大し続けた。最大の秘訣は、各社それなりの「民主化」の許容と、さらにはそれと裏腹の関係のレッド・パージによる後始末の成功であった。読売の場合には他社に先駆けて二度の争議を経ている。正力に反旗をひるがえした労組の中心的な幹部や記者たちのほとんどは、すでにレッド・パージ以前から社外に追い払われていた。

 敗戦直後の戦争責任追及の社内外の世論のなかで、毎日社長の奥村信太郎が八月末に自主退社したのを皮切りに、朝日の村山長挙ら四〇社の新聞社長が、次々に退陣した。ただし、この「退陣」には、「少なくとも表面上は」という留保をつけ加えておいた方が正確であろう。結果を見れば、株主の地位に変化はなかったし、多くの経営陣が、その後の「逆コース」時代に地位を回復しているからだ。

 その後といっても、敗戦から数えてたったの四年後の一九四九年から一九五〇年にかけて、レッド・パージの嵐が日本全土を吹きまくった。それとはまったく逆に、一九五〇年から戦犯の公職追放解除が始まり、裏部屋に隠れ住んでいた旧新聞経営者は続々と元の重役室に戻ったのである。

 アメリカ人記者、マーク・ゲインは、『ニッポン日記』で、その頃の日本の新聞経営者が「一斉に右へならえ」をしたと皮肉っている。

 戦後の新聞の「反省」の経過については、元毎日新聞記者、前坂俊之の『戦争と新聞1926-1935』などに、注目すべき分析が見られる。新聞の企業ジャーナリストだった立場の筆者による新聞の戦争責任追及としては、かなり踏みこんだ鋭い批判をふくんでいる。それを土台にして、わたしの「反省」批判の視点を整理してみたい。

 朝日が敗戦直後の八月二三日に発表した「自らを罪するの弁」、一一月七日の社告「国民と共に起たん」などが、「反省」の典型である。それらは、前坂も批判するように、まことに不十分なものであった。

 わたしの批判は、結論からいうとさらに厳しくなる。起草の中心になった記者や、労組活動家などの個人的な思いとは別に、それらは、「米占領軍の支配下で自社の存続を図る苦しまぎれの集団的意思の表われでしかなかった」というのが、わたしの結論である。

「反省」の関係者が悪質な嘘つきだったというつもりではない。当然のことながら、記者も人間である。特別の資質が備わっているわけではない。むしろ、普通の人間だということを強調しておきたい。その人間の弱さというものについては、わたし自身も、戦後も二七年後から一六年にわたって経験した解雇反対闘争の過程で、つくづく味わってきたのである。

 本当に皆が「新聞が犯した罪」について心から反省していたのであれば、ただちに自社の解散を決議し、それをあらゆる手段に訴えて実行すべきだったのである。実際に個人的な実行におよんだ事実としては、元朝日記者、むの・たけじの「たいまつ」発行などのいくつかの例証がある。だが、むののようないわゆる「馬鹿正直」な記者は、ごくごくの少数派であった。大多数は、「自社維持」、つまりは自分と家族の「生計維持」の本音を、潜在意識の奥底に押しこんで、きれいごとの「言葉の羅列」にすがりついていたのではないだろうか。だから、レッド・パージの雷鳴が轟いた途端に、即席の組織と友情は、もろくも崩れ去ったのである。


(第12章-2)
「新聞自体が生きのびるため」の基本条件を棚に上げた議論


 当時の日本の有力紙の記者たちは、戦争協力に走ったメディアの右傾化の根本原因を、知らないわけではなかった。前坂は、朝日で戦前の東亜部、戦後の外報部長、専務取締役を経験した秦正流の発言を引用しているが、その核心部分は、つぎのようである。

「新聞が、どうして戦争協力に走ってしまったか。それは新聞自体が生きのびるためであった」

 前坂はさらに、同じく朝日で戦前は編集局長、主筆、転じて情報局総裁を経験した緒方竹虎の、戦後になってからの、次のような「大新聞がなぜ敗北したか」の弁明を引用している。

「私はもし、主張のために新聞を発行するのならば週刊紙でなくてはだめだ、というのが、その時に得た結論だった。大新聞は正にその反対であった。一回の発売禁止によって数万円の損をかもす。それに米国と違って暴力の直接行動に実に弱い。

 こうかつな暴力団は新聞社の弱点は広告にありと広告主を脅し、朝日新聞から広告をボイコットさせようとした。広告主としてはいうまでもなく、とんだ迷惑であり、もちろんその尻は新聞に来ざるを得ない。重役会はここに到ってわけもなく無条件降伏である」

 前坂は、この弁明にたいして、「それならば、もっと販売力の弱い地方紙の『福岡日日』[後出、現『西日本新聞』]の抵抗はどう説明できるのだろうか」と批判しているが、この点に関しては若干の異論がある。

 この緒方の弁明には、たしかに、小器用で「こずるい」メディア人の逃げ口上の、典型を思わせるものがある。しかし、これは以外に正直な本音なのではないだろうか。

 まずは、中央紙と地方紙では、政治的な位置づけがおおいに異なる。むしろ、わたしは、地方からの草の根民主主義に反撃が弱かったことの方に、日本の近代の底の浅さを見るべきだと思う。

 つぎに、当時の地方紙は、新聞統合政策の結果、県域内でのシェアの拡大ができた。競争相手がなくなり、経営が安定していた。

 もちろん、一県一紙体制で生き残るためには、政治的な妥協も必要だったにちがいないだろうが、『福岡日日』の場合にはとくに、伝統的な地盤が強固だった。すでに朝日の「白虹事件」と「不偏不党」宣言に関する項目でふれたように、『福岡日日』の中興の祖とされる征矢野半弥は、政友会の代議士でもあった。地元では県政友会の指導者だった。征矢野は、社の方針として「偏理偏党」を掲げ、政論紙としての位置づけを明確に宣言していた。部数拡大、ひいては広告収入増大のために一喜一憂する「大新聞」とは、伝統的な経営方針がまるで異なっていたのである。

 さらには、頑固一徹をよしとする九州人の心意気もある。当時の『福岡日日』の副社長、菊竹六鼓による「五・一五事件」批判や「議会政治の擁護」の論戦には、まだまだ、それなりの地元の支えがあったのだ。しかも、その菊竹ですらが、前坂も認めるように「満州事変では満蒙権益論を支持する」という程度の、やはり、国際的に見れば手前勝手な侵略思想の持ち主でしかなかったのである。

 あえていえば、当時の企業ジャーナリスト全体の水準をも、この際、改めて問い直す必要があるだろう。前坂は、戦後に辞任した毎日社長、奥村信太郎の「お家大事」の弁明を批判して、「言論機関としての使命の放棄ではないだろうか」と問いかけている。だが、この種の批判は、実は、ないものねだりではないのだろうか。かれらのような「経営者」たちに、「使命感」などが、もともと少しでもあったのだろうか。

 それ以前の毎日社長だった本山がすでに公然と、「新聞は商品である」と唱えていた。もとをただせば、毎日も朝日も、江戸っ子からいわせれば「贅六(ぜいろく)新聞」の出であって、新聞記者のほとんどが「言論人」を潜称する「官報的情報」の運び手であり、単なる「商売人」でしかなかったのだ。現在でも、その種の自称ジャーナリストは、そこらじゅうにウヨウヨしているではないか。ジャーナリズムという一見偉そうな用語自体も、もとを糾せば、古代ローマでカエサルが創始した官報の中の「ディウルナ」(日刊)という単語に発し、「速報性」の意味しか持たないのである。

 命を賭けても守り抜くという覚悟を抱けるほどの、自信のある主義主張がなかったからこそ、戦前の「大新聞」の記者たちは、簡単に暴力に屈してしまったのである。過去の宗教家や、一揆の指導者とくらべてみれば、戦前の企業ジャーナリストの精神的な弱さは明白である。その弱さの、もうひとつの表われは、労働組合はおろか、記者の横のつながりとしての親睦団体すら結成できなかったことだ。この弱さは、第一部で紹介した読売記者の最初のストライキの失敗以来、まったく克服された気配はない。戦後五〇年の現在でさえも、まだまだ「五十歩百歩」の実情である。要するに「殿様の成れの果て」のままなのだ。


(第12章-3)
「社長……」と嗚咽しつつ、今度は米軍に妥協した戦後史


 話を「大新聞」の戦争責任に戻すと、秦と緒方が一致して認めているのは、「大新聞」が生き延びるために「妥協」したということである。その「妥協」の習性は、しかも、緒方の弁明を突き詰めると、最早、当時ですら、決定的に癒しがたい基本的体質だったのである。

 そのことを十分に承知していたはずの「賢明なる」大新聞記者たちが、なぜまた戦後に再び、その大新聞の解散を主張せず、逆に、その存続のために言葉の上だけで「自らを罪」し、かつ「国民とともに起たん」と語ったのか、いや、結果としてにせよ無知な読者を「諞(かた)って」しまったのか。そして、今に至るも、本格的な責任を取ろうとしていないのか。言葉はきついが、ここに、これまでの戦後新聞論でまったく無視、ないしは軽視されてきた問題点が潜んでいる。

 まず第一に、記者は、同時に「社員」でもあった。すでに指摘したように「たったの四年後」には、占領軍の命令をむしろ願ってもない奇貨として、大新聞経営者たちはレッドパージに協力した。その際、大多数の大手メディアの社員たちは沈黙し、妥協し、服従し、あるいは敵前逃亡している。

 戦後の未熟な労働組合や政党の活動にも、かなりの問題点があったに違いない。いわゆる左翼の指導者のなかにも鼻持ちならない権力主義者が多いことは、今に始まったことではない。わたし自身も、労働組合などで、さまざまの役職を経験している。失敗も欠陥も多々ある自分自身をもサンプルとして、わが「裸のサル」の権力志向の本能の衝突を、つぶさに観察してきた。「ホモ・サピエンス」を自称する「裸のサル」にとって、我執の衝突は避けがたい宿命なのかもしれない。結局のところ、皆が皆、わが身の安全確保が第一番になってくるものだ。最後の選択は、現実との妥協である。「白虹事件」の渦中にあった中西記者が、「世の中のことはすべていざという時には、こんなものか」という想いが「ピシと頭に入った」と語っているのは、この意味である。今後のためにも、この集団的な妥協の習性を軽視してはならない。二度あることは三度あるのである。

 第二の論点の方が、実は、さらに重大である。

 大新聞の記者であったればこそ、かれらは、日本の降伏に先立つこと三か月前のドイツの降伏の結果、ドイツでは、すべての既存のメディアが廃止されていたことを、十分に承知していた。わたしはここで、「はずだ」という表現を、あえて使わない。わたしの知るかぎりでは、これまでに発表された新聞の戦後史のなかで、この極秘情報にふれて「反省」の経過を論じた例はない。自社の生死にかかわる重要情報が無視されるわけはないのだが、それを無視したままの、きれいごとの戦後史が語られ続けてきたのである。

 確実な情報源は外国の短波放送であった。これまでにも関係者にはよく知られていた事実だが、ごく最近の報道例を紹介しよう。

「実は新聞社の多くは、外国の短波放送を傍受していた。傍受はもちろん、違法行為だった」と記すのは、毎日の「新聞と戦争」シリーズの51回(95・9・24)である。

「毎日はこれを『便所通信』と呼んだ。傍受室が女子トイレを改造したものだったからである。[中略]受信機は七台、八人のスタッフが交代で、英、仏、独、ソ連、トルコ、オーストリア、中国などのラジオ放送を聴取していた。[中略]重要な情報は幹部に上げられた」

『読売新聞百年史』にも、短波放送傍受の話は出てくるが、大同小異なので割愛する。

 この他にも、中立国だったポルトガルの首都リスボンには、日本の各大手メディアの駐在員が残っていた。リスボン情報は、さまざまなルートで日本に送られていた。一般読者、または一般国民が知らないだけの話で、新聞社の幹部や、そこから「ご注進」の情報を獲得する日本の支配層は、枢軸国の仲間だったイタリアやドイツで起きた状況の報告を毎日のように受けとり、分析し、日本の敗戦に際に備えて対策を練っていた。一番重要だったのはもちろんのこと、「国体護持」の条件だった。それが新聞社の段階では「自社維持」の条件だったのである。

 とりわけ決定的な判断材料となる情報は、もう一度、念のためにいうが、「三か月前のドイツの降伏の結果、ドイツでは、すべての既存のメディアが廃止された」ことであった。

 では、当時の日本で、この処置を回避するためには、いかなる手段が必要だったのであろうか。

 日本の支配層、および新聞社幹部、記者たちは、連合軍の中心がアメリカであり、そのアメリカは資本主義国で、民主主義を看板にしながらも反共だということを十分に承知していた。占領軍の支配下では、素早く「親米」かつ「民主主義」の看板を掲げ、状況によれば「反共」の旗ふりも辞さない。もちろん、そこまでの完全な合意が社内で成熟していたというつもりはない。相手のアメリカ様の腹が、底の底まで読めるわけはない。ある程度までは出たとこ勝負の覚悟が必要だったであろう。

 昭和天皇裕仁が、「象徴」だとか「戦争放棄」だとかを素早く了承し、あまつさえ「沖縄を二五年か五〇年占領してくれ」とまでマッカーサーに頼んだのは、決して個人的な思いつきではあり得ない。重臣たちとの相談ずくの「国体護持」条件であった。それと同様に、暗黙の了解、阿吽(あうん)の呼吸をもふくみながら、新聞各社の「自社維持」条件が準備されるに至ったと見るべきであろう。

「民主化」は、やむをえない条件であった。新聞社の幹部ともなれば、国際的な動向は百も承知の上だったのである。別の表現をすれば、いわゆる「許容範囲」の要求であった。

 この状況をもっとも端的に示すのは、「民主化」闘争が二度の解雇争議にまで発展した読売の場合である。正力への退職要求を決定した社員大会の代表、鈴木東民ら五名は逆に退社を命じられた。最高闘争委員会と従業員組合が結成され、鈴木が闘争委員長および組合長に選出された。

 争議が始まり、「生産管理闘争」という戦術が採用された。正力は、争議に突入した最高闘争委員会の内、鈴木と、闘争委員だが解雇組ではない志賀重義、鴇(とき)沢幸治の三人を指名して会談する。正力が示した解決私案には、「一段落したら、自分は社長を退き取締役会長になる」とあった。即時退職は絶対条件だったから、三人とも同意できない。『反骨/鈴木東民の生涯』によれば、この時に、もっとも戦闘的な鈴木でさえも、正力私案を拒否しつつ、つぎのように発言している。

「要は進駐軍の統治下で、読売新聞をどう維持してゆくかにある。われわれの考えでは読売が旧体制を持続するかぎり、何らかの重圧が進駐軍司令部から加えられるものと思われる。従ってこの難局を切り抜けるため、一応社長が引退の形式をとる必要があると思う」

 鈴木の発言には、とにもかくにも正力の退職を実現すれば、という戦術的なニュアンスがあったのかもしれない。闘争委員の鴇沢には、戦争中に企画局航空部長として軍に協力した過去もある。もっとも妥協的な立場だったようであるが、つぎのように正力に訴えて、最後には「嗚咽(おえつ)」している。

「このようなことを社長に申すのは情において忍びませんが、読売新聞を可愛いと思うなら、この際、引退してしばらく辛抱して下さい。そのうち必ず復活のときがきます。いまは大きな変動のときです。[中略]このところを理解してくれませんか、社長……」

 正力は、素早く、このような闘争委員会側、または社員側の弱腰を見抜いたのではないだろうか。同書によれば、正力は、鴇沢の「嗚咽」を聞いたのち、「気をとり直したのか、いつもの調子にもどった」のであり、つぎのように宣言して会談を決裂させたのである。

「戦争に敗けたために日本の資本主義制度は崩れかけている。労働者を増長させておいては、資本家が滅びてしまう。おれは日本の資本家を守るため、あくまで闘うつもりだ」

 正力らは、粘れるだけ粘り、最後には主導権を握り直した。大新聞各社の「民主化」の根底には、このような基本的条件が共通して横たわっていたに相違ない。

 戦後日本のいわゆる「民主的改革」のなかには、この種の実例が多い。新聞と隣接する放送については、敗戦の翌年の一九四六年に「放送委員会」が発足した。「放送行政全般を管掌」するというのが設立の趣旨だったが、新会長推薦のほかには何の業績ものこさずに消滅してしまった。関係者の評価は微妙に分かれているが、「旧協会独占方式を生き残らせるために適当に利用された」とする憲法学者、奥平康弘による『戦後改革』(3)「政治過程」所収の論文「放送法制の再編成/その準備過程」の指摘が、もっとも核心を突いているようだ。アメリカ政府は、かなり以前から、日本支配の方式を研究していたのである。マッカーサーのGHQには、メディア対策の専門家がいたし、日本側からのご機嫌伺いも常時行われていたのである。

 先頭に立った「戦後民主化」闘争の元闘士たちは、わたしの結論には不満であろう。だが、結果を見れば明らかなように、新聞各社とNHKの「自社維持」が成就し、日米同盟の下地が固まった途端に、「民主化」は中止され、レッド・パージという「走狗煮らる」の状況が生まれたのである。


(第12章-4)
レッド・パージに先駆けた読売争議で三七名の解雇と退社


 読売の場合には、正力独裁の通称「正力商店」だったから、下相談も、暗黙の了解も、阿吽の呼吸による合意の形成も、すべて実らなかった。

 読売争議の経過については、旧著『読売新聞・日本テレビ・グループ研究』(汐文社、一九七九)で、それまでに入手できた資料をもとに簡略にまとめてみた。ところが、その後、すでに一六年が経過した。それ以前の出版も含めると、社史以外の主要な単行本だけでも、列挙すると、つぎのような状況となっている。

(1)『戦後危機における労働争議/読売争議』(東京大学社会科学研究所、一九七二)

(2)『読売争議/ 1945-1946』(増田太助、亜紀書房、一九七六)

(3)『読売争議/一九四五・一九四六』(山本潔、御茶の水書房、一九七八)

(4)『レッド・パージ』(梶谷善久編著、図書出版社、一九八〇)

(5)『戦後マスコミ回遊記』(柴田秀利、中央公論社、一九八五)

(6)『反骨/鈴木東民の生涯』(鎌田慧、講談社、一九八九)

(7)『回想の読売争議/あるジャーナリストの人生』(宮本太郎、新日本出版社、一九九四)

 以上の単行本の著者の立場は、様々に相違している。当然、内容にも主張にも相違がある。ある場合には、真反対である。

 (1)と(3)は同一人物によるもので、(2)を基本資料にしている。つまり、(1)(2)(3)の内容には共通性がある。山本潔は、すでに本書でも記したが、研究者である。増田太助は、争議当時の読売支部書記長で、解雇され、和解で退職した。争議中から日本共産党に所属し、その後、日本共産党東京都委員会委員長となるが、(7)の表現によれば、「反党活動」で「除名処分」になっている。

 (4)の編著者、梶谷善久は、朝日の社員で通称「第三組合」の全朝日労組委員長だった。レッド・パージ組では、梶谷と、同書第四章「朝日新聞」の執筆者で、おなじく全朝日労組書記長だった小原正男の二人だけが、裁判闘争勝利、および職場復帰の経験者である。勝訴の基本的理由は、「共産党員ではない」ことの立証にあった。同書第六章「読売新聞」の執筆者、滝沢正樹は、読売から解雇されて闘い、和解で依願退社した経験の持ち主であるが、第一次および第二次の読売争議の経験者ではない。

 (5)の柴田秀利は、読売で最初から労組に加盟せず、務台光雄、正力松太郎、吉田茂、GHQなどと連絡を取って動いた。本人の記すところによれば、電車のなかで「代々木党本部の部長格」の元報知記者を「首魁」とする元読売争議団のメンバーから、「大声で」罵倒され、殴る、蹴る、はなはだしくは「下顎へ来る靴蹴り」の目に会った。

 (6)の著者、鎌田慧は、作家であり、鈴木東民とは同郷の関係にある。鈴木については、すでに何度も記したが、最高闘争委員会委員長および読売従業員組合の組合長として、第一次争議の中心となり、その後、新聞通信単一労組の副委員長兼読売支部委員長になる。二度目の解雇の際には、第二次争議団の幹部から外され、和解、退職した。その間、一時、日本共産党に所属したが、参議院選挙で当選の可能性のない地方区候補を回され、離党し、無所属で釜石市長になった。

 (7)の宮本太郎は、争議以前から日本共産党に所属し、回想談の当時も現在も日本共産党の中央委員である。

 以上のような相異なる立場の著者、または主人公の、それぞれの経過説明と主張のすべてを吟味するには、長時間の推敲と大幅な紙数が必要である。稿を改めるしかない。とりあえず本書では、以下、簡単に争議の経過を要約紹介するにとどめる。

 読売の場合、他社とは事情が違った。正力は、自分が身を引けば、それで終りだと感じていたに違いない。局長以上の総退陣を要求する社員大会に対抗して、正力は逆に居直り、中心になった記者五名の解雇を申し渡したのである。

 この五名解雇が第一次争議の発端であるが、その途中で正力がA級戦犯に指名されて巣鴨プリズン入りが決ったため、「正力の推薦する馬場恒吾氏を社長」とするなどの交換条件で解雇も撤回され、いったんは収まった。ここまでは、解雇後に急遽結成された従業員組合と支援労組側の一応の勝利である。勢いを駆った各労組は、NHKを含む日本新聞通信労働組合(新聞通信単一)という個人加盟の産業別単一組織を結成し、各企業にはその支部を結成するに至った。

 第二次争議の発端は、GHQ新聞課長バーコフ少佐によるプレスコード拡大解釈であるが、すでにアメリカの日本占領政策には決定的な変化が生じつつあった。

 極東国際軍事裁判(東京裁判)の法廷報道などの読売記事に、GHQが「プレスコード違反」の名目で処分を匂わし、それと呼応した馬場社長らは、「GHQの意志」と「編集権の確立」を理由に組合の読売支部委員長以下六名に退社を求めた。組合側がストライキで抗議し、職場を守ろうとすると、務台光雄らは「販売店有志」二百数十名を動員して実力による読売乗っ取りを策した。組合がさらに抵抗して社屋を防衛すると、務台らは警察の出動を要請した。警察が動かないと見るとGHQにMPの出動を依頼し、それであわてた丸の内署が、こん棒とピストルで武装した約五百名の警官隊を読売新聞社に入れ、スクラムを組んで輪転機を守る現場労働者を、殴る、蹴る、血だらけにして排除した。組合側は「軍閥の重圧下にも見られなかった言語に絶する暴虐」と記している。

 以後約四ヵ月、ロックアウトされた争議団四百余名は読売の社外で闘ったが、政治情勢は逆風に向かっていた。新聞通信労組がストライキをかけて取り組んだ「十月闘争」は失敗に終わり、結局、中心幹部合計で三七名の解雇と退社を条件に残りが復職という屈伏を強いられた。復職者は、すでに社内で組織されていた御用組織、「新」従業員組合への「統一」を強要された。以後、読売の「新」従業員組合の活動は、ほとんど会社側に押えられつづけとなる。争議解決の翌年には、二・一ゼネストのマッカーサー指令による中止という全国的な敗北が待ち受けていた。

 他の新聞通信単一企業支部も一九四九年から一九五〇年にかけてのレッド・パージ前後に四分五裂し、再び企業別従業員組合に戻ってしまった。新聞通信へのレッド・パージは合計で七〇四名、他産業の平均解雇率〇・三八%を大幅に上回る二・三五%であり、最も解雇率が高かった。おもなところは、NHK一一九名、朝日一〇四名、毎日四九名、中国三六名、共同三五名、北海道三五名、読売三四名というのが公式発表であるが、読売の場合は第二次争議での退社三七名を加えると計七一名が職場から排除されたことになる。

 読売争議、一〇月闘争、二・一ゼネスト、レッド・パージという、相次ぐ戦後労働運動史の敗北の根底には、主体的力量の不足に加えて、米占領軍にたいする日本共産党の「解放軍規定」などの誤りの影響があった。マッカーサーはすでに、日本に進駐する以前のフィリピンで、ソ連につながる抗日ゲリラ集団の抹殺を開始していた。ソ連またはコミンフォルムは、その事実にもとづく警告を、日本共産党に対して発していなかった。レッド・パージ以後に後追いで発した「解放軍規定」批判は、日本共産党を分裂させる程の混乱を招いた。

 以上に略記したような戦後読売争議の経過は、正力自身の我執の強さもさることながら、正力とその腹心たちの階級的性格を知らずには理解しがたいものである。正力自身が、他の退陣した「新聞人出身」の新聞社社長たちと自分は違うということを、広言しているほどだった。正力は、敗戦にともなう左翼の「暴動」を予期していた。『読売争議(一九四五・四六年)』で引用されている本人の手紙の文句によれば、「これを鎮圧出来るのは警察出身の俺しかいない」と考えていた。正力は決して、新聞人でも言論人でも文化人でもなかった。いざとなれば正体を現わして暴力を振るう側にいた。読売乗りこみ当日に「帰れ帰れ」と連呼された「ポリ公」稼業から足を洗う気は、さらさらなかったのである。事実、本人自身が死ぬまで、警視庁OBの黒幕として振る舞っていた。

 A級戦犯容疑者として巣鴨プリズンに収容された正力は、わずか一年八ヵ月のちの一九四七年(昭22)八月に釈放された。当分は他の主要新聞経営者たちと一緒に公職追放の身であったが、読売関東倶楽部を創設して競馬場を二つも経営した。

 この間、『読売新聞百年史』で「名実ともに」とか「完全な独立」などと、押しつけがましく記す事態が経過した。読売は社是として、問題の「単独講和」推進の論調を張り続けたのであった。現在の憲法改正案問題とも共通する読売の本性の表われである。

 同時期に正力は、テレヴィをやるから追放を解除せよとアメリカに向けて要請し、日本テレビ放送網の初代社長、のち会長となった。マスメディアの集中支配を排除するための放送法上の兼任禁止の建前もあって、読売新聞社では社長に戻らず、かといって別の社長を任命もせず、社主になった。

 実際には、双方でのワンマン支配には何らの変化もなかったから、この時すでに、放送法の「集中支配排除」の建前は、元内務省・警察高級官僚の「汚い靴」で、足蹴にされていたのである。


第十三章「独裁主義」の継承者たち

(第13章-1)
「ワンマン正力」の後継者決定の七か月の骨肉の争い


 正力没後の読売の社長は、務台、小林、渡辺と、すでに三代を経ている。

 いずれの場合も、読売の経営上では個人的な独創を生みだすことができなかった。すべて正力の延長線上の亜流に終始している。部数のうえでは、三大紙の順序が「読・朝・毎」に逆転したが、それも従来のままのヤクザ拡張販売の結果だ。事実上の「押し売り」によるガリヴァー化であって、何ら自慢の種にはならない。

 読売は、戦時体制下で「中央紙」の位置を確保した。しかし、朝毎と並ぶ「全国紙」となるためには、戦後に、関西の大阪本社、九州の西部本社など、各地への進出拠点を築く必要があった。だが、それらの経過は、本書の目的とする読売の歴史的本質の解明とは、とくに関係がないので省く。マスメディアとしての最大の問題点は、かつて青野李吉が「文化主義的」と形容した明治初期以来の伝統が破壊された状態のまま、正力が「武力」で築いた「独裁主義」の伝統の方が、そのまま継承されていることである。「独裁主義」は、「言論の自由」と決定的に相対立する概念である。

 正力の我執が、晩年になってますます露骨に発揮された経過については、『巨怪伝』に詳しい。衆議院議員、科学技術庁長官としての原子力発電導入、首相就任への妄念、などなどである。本書では、読売グループに関係する部分のみの、簡略な経過、結果と問題点を指摘するにとどめる。

 読売の紙面にも、日本テレビの画面にも、「正力コーナー」とか「お召し列車」と陰口された正力持ち上げ報道が毎度登場した。紙面と画面の露骨な私物化であり、公共の電波を免許をえて使用する放送の場合には違法の疑いが濃厚であった。

 正力は晩年、親族による後継の配置を急いだ。長男の亨は、日本テレビの副社長にした。妾腹の異母弟、武は、日本テレビに入れて審議室長という役職を特設し、つぎには取締役にした。長女の婿の小林与三次は、読売の副社長にした。この三人の内、小林だけは一応、元自治省事務次官という経歴だから、それなりの世間的な実力の評価があった。血のつながる二人の息子には、さしたる実績はなく、むしろ逆の評価しかなかった。亨の場合にはとくに、関係者の危惧の念が強かった。巨人軍オーナーとして優勝の際にテレヴィ放送する短いスピーチだけが、人前にさらされる機会であったが、しゃっちょこばってしゃべる内容には繰り返しが多くて、いつ終わるのかと関係者をいつもはらはらさせていたのである。わたしたち一般社員は、亨と武の二人の「御曹司」の、何ともチグハグな姿を日本テレビの廊下で見かけては、顔を見合わせて肩をすくめているほかなかった。

 労働組合だけが唯一の批判の砦だった。正力が死んだ時期には、わたしは執行委員だった。だが、労働組合と名乗ってはいっても、日本の労働組合全体に共通する「社員組合」の限界を越えることは、非常にむずかしかった。

 たとえば、正力の晩年の誇大妄想的大失敗とされる事業のひとつに、新宿の通称「正力タワー計画」があった。死の前年には、ホテル・ニューオータニで関係者四〇〇〇人を集める起工披露宴まで開かれていた。総工費は二〇〇億円とも二五〇億円ともいわれていた。東京タワーを上回る規模という宣伝であったが、だれの目にも無駄で無茶な計画であったし、建設責任者に長男の亨を任命したことにも陰口が絶えなかった。だが、労働組合の執行部が、この衆目一致の無謀な計画にたいして、反対とまでは明言できずに、とりあえず疑問を呈する方針提案を決定するまでにさえ、なんとも重苦しい議論を経なければならなかった。ましてや、後継者人事を公然と批判するのは、到底無理であった。正力の死後にも、労組執行委員会の中心人物に、「死者を鞭打つなかれ」という圧力がかかってきた。「ワンマン正力」の鎖は、それほど重かったのである。

 正力が死んだのは、一九六九年(昭44)一〇月九日である。

 後継人事決定の結果の方からさきにいうと、長男の亨は、日本テレビで平取締役に降格された。読売の方では社主、読売興業社長、巨人軍オーナーという、肩書きだけの神棚に祭り上げられ、読売経営の実権を奪われてしまった。「正力タワー計画」は中止となった。異母弟の武は、日本テレビでは非常勤取締役に降格され、よみうりランド常務取締役という閑職に遠ざけられた。読売社長には務台光雄、日本テレビ社長には小林与三次が就任したが、これらの人事が決定したのは、翌年の一九七〇年(昭45)五月二九日になってからであって、正力の死後、七か月半を経ていた。

 この七か月半の間に、何が起きたのであろうか。

 務台の自伝のような半生記、『闘魂の人』には、「日本テレビの社長」人事の経過について、つぎのように記されている。

「副社長正力亨が社長になるというのが常識であった。正力松太郎と生前親しかった河合良成、石坂泰三といった財界人も、はじめはそう考えていた。[中略]日本テレビの社長は読売から求めなければならない。一番いいのは正力亨で、これなら故正力松太郎の意思にも添い、いろいろの意味でもいいのだが、万一のことを考えなければならない」

 正力の「意思」が遺言書として残されていたか否かについては、何の証拠もない。だが、務台が、こういう回りくどい釈明をしなければならなかったこと自体が、何らかの形での「意思」の表明があったことの証明であろう。では、正力の「意思」でもあり、「財界人」の「常識」でもあった亨の日本テレビ社長就任が実現しなかった理由は、何であろうか。

 まずは、正力の後継者たちの仲は、どういう本音の関係にあったのだろうか。

 すでに紹介済みの元中部読売専務、大浦章郎は、「私史・販売現場33年」の「番外編」(94・3・10)で、つぎのように記している。

「恐らく務台さんも販売幹部には本音が出るのだろう。さすがに正力さんには『さん』づけだったが、彼は[中略]、小林[与三次]が、[中略]あるいは[正力]亨(とおる)が、と呼び捨てで批判していた」

 大浦の回想にも、かれ自身の「本音」がうかがえる部分が多い。務台に代表される紙面内容と関係がない競争のための拡張販売競争には、「本当に情けない気がして涙が出た」とまで記している。その想いが、引退後の、意外な真相告白の底辺に流れているのではないだろうか。

 務台は、気性の強さでは、だれにも引けを取らない方だった。正力とも衝突を繰り返していた。読売を大きくしたのは自分だという自負もある。正力松太郎本人は別格としても、新聞経営の実績がない娘婿や息子たちにまで遠慮する気は、さらさらなかったのであろう。むしろ、正力の読売グループ私物化を、苦々しく思っていたに違いない

 日本テレビの社長人事よりも重要なのは、本体の読売の社長人事であるが、こちらの方に関しても、正力の「意思」を伝える材料は、何も残されていなかったのであろうか。

 読売の社長の座は、すでに記したように「空席」のままだった。正力社主の下には、務台と小林が同じ副社長の立場で、販売と編集を分担する形になっていた。日本テレビの社長人事で、副社長だった亨が社長になるのが財界人の「常識」だというのなら、読売の社長人事の場合にも、当然、副社長だった務台か小林のどちらかが社長になるのが、やはり「常識」であろう。

 問題は、二人の内のどちらに正力の「意思」があったかである。正力と務台との長年の奇妙な対抗関係、および正力が内心、務台の実力を恐れていたらしいことなどを考慮に入れれば、正力の「意思」は娘婿の小林にあったとする方が自然である。務台がいったん社長になれば、読売は正力家のものではなくなってしまう可能性が高かったのだ。

 九年後のことになるが、企業の内幕物を専門とする『経済界』(79・4・24)が、「読売の社内事情に詳しい関係者」の発言だという形で、つぎのような裏話をのせた。

「正力さんは後任に小林さんを決めていた。[中略]業界の長老が両氏の間に分け入って、務台氏が当座の三期六年をやって、その後に小林氏にまかせるということで収めたんです」

 つまり、正力の「意思」は小林の読売社長就任にあったが、務台が一向に譲る気配を見せないので、「業界の長老」が調整役を買って出たという話の筋書きになる。これも、よくある裏話のような気がする。しかし、正力の「意思」があったにしても、肝心の小林の方に、そこまでのギリギリのにらみ合いを半年ほど続けて、対決をせまるだけの実力と迫力があっただろうか。

 元読売社会部記者、三田和夫は、正力の生前から『軍事研究』誌に「読売新聞の内幕」を連載中だった。正力が死んで二か月後に発表した『正力松太郎の死の後にくるもの』と題する単行本のなかで、三田は、いわゆる「禅譲」型の予測をしていた。

 三田はまず、読売における務台の「事実上の“社長”」としての、ゆるぎない実績と位置づけを強調する。さらに重要な要素としては、当時、進行中の大手町の読売新社屋計画があった。三田は、この務台の主導権の下に進められていた計画を踏まえて、つぎのように指摘していた。

「さらにまた、小林側にしてみても、務台と覇を競うべき、何の必然もないのである。現時点で、務台を追放してみても、なんのメリットがあるのだろうか。務台を排してでも、社長の地位につかねばならぬ年齢と健康ではない。まして、新社屋の資金、二百億の金繰りなどは、務台を措いて、誰になし得よう。新聞界に日の浅い小林には、到底無理なことである。[中略]新社屋完成は二年後。務台に花をもたせて、ポスト・ムタイの構想を描くのに、小林にとって、三年、五年を待つのは、少しの難事ではあるまい」

 もちろん、事態の進展状況は、もっとドロドロしたものだった可能性がある。だが、どうやら、結果から判断すると、三田の予測が一番現実的だったようだ。むしろ、務台と小林の二人の脳裏では、共通の問題に関する危険信号が、チカチカと音を立てていた可能性が高い。それは三田が、つぎのように記している「問題」である。

「問題は、日本テレビである。正力なきあとに“正力コンツェルン”から、脱落し、あるいは離反するものは、日本テレビに違いない」

 日本テレビは「ワンマン正力」の独裁的支配下にあった。だが、あまりにも正力個人の独裁性が強かったために、かえって読売色が薄かった。三田も、つぎのように書いていた。

「読売で十五・三六%の株をもち、正力一家三人が重役に列していながら、日テレ全体の雰囲気は、全く冷たくよそよそしくて、読売人や報知人にとっては、他人の家である」

 常任の重役や主要幹部は、ほとんどが日本テレビ育ちであった。その日本テレビを、たとえ筋からいえば「常識」とはいえ、正力直系の亨が社長で、武が取締役または昇格して常務取締役とか専務取締役という体制にしてしまったら、結果として、取り巻きの手中に落ちる。日本テレビ育ちの放送のベテランに牛耳られてしまう。本当に「他人の家」になってしまうという不安があったようだ。

 七か月半後の後継者決定の陰には、どうやら、務台と小林の二人のにらみ合い以上に、読売グループの行く末に関する懸念と骨肉の争いが潜んでいたようなのである。しかも、その懸念と争いを解決する上で、結果としてにせよ、日本テレビの経営が抱えていた時限爆弾が役立ったのだから、事態はまさに複雑怪奇であった。


(第13章-2)
「日本テレビ、粉飾決算」の爆弾犯人は誰だったのか


 正力が死んだのは、一九六九年(昭44)一〇月九日、木曜日である。その三日後の一〇月一二日、日曜日の朝刊で日経が「日本テレビ、粉飾決算」という三段見出しのスクープを放った。読売以外の各紙は翌一三日、月曜日の朝刊で後追い報道をした。

 日経の記事は、「大蔵省によると、[中略]の事実があることが、一一日、明らかになった」という書き方である。典型的な「リーク記事」の形式になっている。公式の記者会見発表がなかったことは、他社の後追いの仕方からも明らかだが、大蔵省のだれが語ったのかは不明である。さらにいえば、本当に大蔵省が情報源だったのかどうかも疑わしい。むしろ逆に、内密に情報をえた記者、または組織が、大蔵省の担当者に垂れこんだのかもしれないのである。

 以上の日付に、それぞれ曜日をしるしたのは、日程にもとづいて経過が示す意味を考えるためである。当時の官庁は土曜日が半ドンだった。木曜日に「ワンマン正力」が死んで、翌日の金曜日と半ドンの土曜日、この丸二日そこそこの日程で「日本テレビ、粉飾決算」という爆弾が、突然破裂したのである。だれが考えても、おかしかった。

 まず最初は「粉飾」の内容であるが、映画放映権の残高を過大に評価していたもので、金額は約一一億円である。当時の日本テレビの資産勘定には、帳簿上でも約四五億円の別途積立金など約六七億円もの自己資金の内部留保があった。購入時の取得価格のまま帳簿に記載される土地の含み資産だけでも、約八〇億円あった。建物、設備、機材は、目一杯の減価償却をしていたから、この分の含み資産も巨額なものであった。証券取引所関係者は、「粉飾」分を差し引いても最優良会社と評価していた。産経の一〇月一三日付夕刊には、東京証券取引所証券部長、菊池八郎の、つぎのような談話がのっていた。

「同社は自己資本が六七億円ぐらいある。一一億円ぐらいの粉飾を出すくらいなら、なぜ自己資本で消さなかったのか理解に苦しむ。内容の悪い会社ではないので、上場廃止などということはできないと思う」

 それでは、なぜ専門家が「理解に苦しむ」ような「粉飾」をしたかといえば、第一には、どうやら、日頃からの「ワンマン正力」への報告方式に、原因があったらしいのである。

 極秘中の極秘の問題なので、直接の証言までは得られなかったが、正力には、期末の決算報告以前に、経常利益の状況を会社創立以来の通算グラフで示していたらしい。その際、担当者は、たとえその期が黒字であっても、黒字の矢印の上昇カーヴが鈍っていた場合には、厳しい「尋問」に耐えなければならない。相手は元鬼警視である。それが怖さに担当者は、ついつい不良資産の処理を先に延ばし、数字をいじる。その積み重ねが数年間で約一一億円になったというのだ。

 第二の理由としては、当時、新宿の「正力タワー」資金調達の一環として、資本金を一二億円から二五億円に増資する計画があり、その許可を大蔵省に申請中だった。増資の内の一億円分は時価発行を予定していた。それが成功すれば、時価で約二億七四〇〇万円になるから、合計で約一四億七四〇〇万円の現金が日本テレビに入る勘定だった。

 その後、わたしは、当時の日本テレビの経理担当取締役から直接、彼自身がかかわった経過についての証言を得た。彼はもともと、たたき上げの職人型経理マンであった。当時の決算書を見て、これは粉飾に当たると考え、監査役に進言したというのである。

 日経の継続報道、一〇月一六日の記事には、「この“事件”の発端は、投書といわれている」とあった。やはり、大蔵省の調査で「明らかになった」のではないようなのである。では、だれが「投書」をしたのだろうか。それとも、「投書」という話にも作意があったのだろうか。

「投書」または「意図的暴露」の主については、諸説が流れた。だが、決定的な証拠や証言はない。ことの性質上、極秘裏に行われた情報リークであることだけは間違いない。一番の説得力があるのは、結果、または効果から推測して、務台が爆弾犯人の背後にいたとする説である。務台は当時、日本テレビでは社外取締役だったが、正力を除けば、読売グループにおける最高の実力者である。数字には滅法強いことで有名だし、正力と対等にやり合える唯一の人物であった。わたしが直接証言をえた元経理担当取締役が、監査役に進言したとして、その監査役がだれかに相談するとすれば、まず筆頭に数えられるのは務台である。

 務台自身の「粉飾決算」にたいする評価は、伝記『闘魂の人』によると、つぎのようであった。

「大体日本テレビは、粉飾をしなければならないような危ない会社ではない。[中略]経済的には問題のない会社で、問題になるのは経営者の会社経営の姿勢であった」

 こう考えていた務台に、日本テレビの監査役が相談したと仮定して考えてみよう。この極秘情報の爆弾を入手した務台は、そのとき、日本テレビの社長後継人事と同時に、その後継者の亨が責任者に任命された「正力タワー計画」の資金調達への懸念、いや実は、それどころか、最強力手段をもってしても阻止したいほどの強い反対意見を抱いていたに違いないのである。大手町の読売新社屋建設に必要とされる約二〇〇億円と真っ向から競合する日本テレビの資金調達は、読売グループ全体を危機に追いこみかねなかったのだ。

 人事決定後の回想になるが、務台の伝記『闘魂の人』には、「粉飾」と連結する人事問題についての当時の務台の心境が、つぎのように記されている。

「正力亨が日本テレビの副社長に就任したのは四三[一九六八]年一一月で、粉飾決算は四四[一九六九]年一〇月だから、在職約一年後のできごとである。副社長だから最高責任はとってないし、決算報告にもタッチしていない。実際上の責任はないわけだが、しかし事情を知らない第三者から見ると、責任がないとはいい切れない。そのような意見がいろいろ出て来た。副社長がそのまま副社長でいるならともかく、社長になるのはどうか、というのである。また何といっても正力亨は読売新聞の象徴であるから、傷つけるような結果になってはいけないという配慮も生まれた」

 この、いかにも慎重に言葉を選んだ文章は、さきに紹介した元読売販売部員、大浦章郎の回想を思いだしながら、もう一度、読みなおしてみるべきであろう。務台は陰では、その「読売新聞の象徴」を、「亨が、と呼びすてで批判していた」のである。

 とにもかくにも、正力の死後に突如炸裂した「粉飾」爆弾は、結果として、後継人事と「正力タワー計画」資金調達とに関して、その双方の懸念を一挙に解決する切り札となった。


(第13章-3)
「円月殺法」答弁を自慢する元自治省事務次官の赤字決算


 日本テレビの「粉飾決算」は、その後にも、もうひとつ別の目的で、爆弾もしくは煙幕弾として巧みに利用された。

 しかも、何ともおかしなことには、いったん数年分の「有価証券訂正届け出書」提出によって、さかのぼって処理されたはずの「約一一億円の不良資産」が、再び、「当期費用」として浮上したのである。

 社長に就任した小林は、猛然と、「赤字会社」宣伝を展開した。目的は、いわずと知れた経費節減、人減らし、下請けへのしわよせ、などなどの、いわゆる「合理化」にほかならなかった。新社員採用は、以後一〇年間も中止された。八年後には、社員総数の約五分の一に当たる約三〇〇名が減り、その一方で、総工費約一三〇億円の新社屋が建設された。

 この問題の経過については、旧著『読売新聞・日本テレビ・グループ研究』で、いささか詳しくふれた。本書の主題は、日本テレビではなくて読売にあるので、その後に読売の社長(現会長)となった小林の、人となりの理解を助ける程度にとどめる。

 正力が死んで、粉飾騒ぎが起き、小林が社長に就任するまでの期間、わたしは民放労連日本テレビ労組の執行委員だった。その後は、所属職場の編成局広報部、のち調査部の職場委員を勤めると同時に、わたし自身が執行委員時代に粉飾決算問題に対処する目的で専門委員会として組織した経営分析委員会に加わって、調査、分析、情報宣伝の活動を続けていた。小林の矛盾だらけの「赤字会社」宣伝にたいしても、ただちに分析を行い、各種の組合情報ルートを通じて直ちに反撃を開始した。

 ところが、この手の会社側の宣伝には、やはり、一種の魔力が潜んでいた。わが身大事の習性が強い普通のサラリーマンにとって、いまや世界語の「カイシャ」の危機という言葉には、強烈なインパクトがあるようだった。なかなか、その影響による不安を解消し切れないかった。

 さきにふれたように、当時の日本テレビには、約四五億円の別途積立金ほか約六七億円の自己資本と、約八〇億円以上の土地などの含み資産があった。資本金は一二億円だから、一般の基準から見れば「超々優良会社」であった。しかも、当時の日本テレビの専務取締役の保田が、日経の「粉飾決算」スクープ報道の直後にラジオ・テレビ記者クラブで発表した際、この「約四五億円の別途積立金と約八〇億円の含み資産」の件を説明し、そのことは広く報道されている。保田は要するに、日本テレビは決して赤字会社ではないと主張し、約一一億円の不良資産というのは、単なる会計処理上の問題にすぎないと明言したわけである。

 さきに引用した東京証券取引所の証券部長、菊池八郎も、「なぜ自己資本で消さなかったのか理解に苦しむ」と語っていた。つまり、一方では、過去の何年かにわたる年度別の損益計算書で、映画放映権の減価償却を費用に追加して利益を数億円づつ減額訂正し、同時に、貸借対照表に記載されている「別途積立金」の約四五億円から総計で約一一億円を引いて、約三二億円に訂正するだけでよかったのである。事実、日本テレビは、直ちに大蔵省に、過去数年間分の「有価証券訂正届け出書」を提出した。その結果、額面一億円の時価発行を除いて、一二億円から二四億円への倍額増資が許可された。この大蔵省による増資許可は、日本テレビが資産的に優良会社だったことの、何よりの証明である。

 労資間の団体交渉の席上でも、日本テレビの会社側は労働組合に頭を下げ、同訂正届け出書のコピーを手渡し、以後に予想される事態への対応に協力を求めてきた。

 ところが、その後に社長に就任した小林は、「赤字会社」宣伝を強調する勢いを駆って、再び、手品のような決算処理を行なったのである。

 この手品の仕掛けそのものは至極簡単だった。さかのぼって帳簿上処理したはずの「約一一億円の不良資産」を、再び二度に分けて、損益計算書の年度内の「当期費用」として落とし、無理やりに、二期の経常赤字決算を作り出したわけである。この「当期費用」という決算処理の仕方は、普通に考えても論理的におかしいし、明らかに会計原則違反であった。絶対に、その期の費用ではないからである。

 しかも、日本テレビはすでに大蔵省に平謝りし、過去数年間にさかのぼった「有価証券訂正届け出書」を提出していた。つまり、大蔵省への提出資料上では、約一一億円の不良資産は処理済みのはずであった。新しい年度別決算は、「有価証券訂正届け出書」の存在を無視したものであった。明らかに、それらの過去の提出資料と矛盾をきたすのである。本来なら大蔵省当局が再度「違法」と認定し、訂正を求めるべきところであった。

 労働組合は東京都労働委員会で、この「作られた赤字会社宣伝」を、思想攻撃であると主張した。その後に発生した組合員昇格差別や処分、解雇などの不当労働行為を行なうための、前段をなす思想攻撃だと位置づけたのである。わたし自身も組合側の補佐人という資格で、二度の審問の合計六時間にわたる会社側証人への主尋問を担当した。別途、会計学専門の明治大学教授、山口孝にも、組合側証人として鑑定書を提出の上、三時間にわたる証言をしてもらった。

 東京都労働委員会への提訴事件そのものは、和解で解決した。そのため、この会計処理問題についての第三者機関の判定は下っていない。だが、組合側は、審問廷における組合側主張の圧倒的な優位性が、和解に至った力関係に反映したと判断している。たとえば、以上のような東京都労働委員会での審問が行われた直後のこと、日本テレビ開局二四周年の記念式典演説で、小林は突然、何の脈絡もなしに、つぎのように語ったのである。以下は、『社報日本テレビ』(77・9・20)に再録された通りの文章である。

「いま決算に使われているあのバランスシート、貸借対照表とか損益計算書とかいうものは間違っている。もう明瞭に間違っている」

 この発言は、まるでヤケッパチとしか取れない。では、小林自身が会計原則をまるで知らなかったのかといえば、まったく逆であった。自治省では財務局長を経て事務次官になっている。日本テレビでは、社長就任直後から役人風の「行財政」という用語を振り回し、周囲の経理関係者たちを「何も知らぬ民間人」扱いにしていたのであった。

 大蔵省との関係では、小林が自治省事務次官の「最長不倒距離」を誇る点に、その秘密を求める説がある。というのは、一般にも知られる閣議の終了後には、各官僚組織の最高責任者である各省事務次官の連絡会議が開かれるのである。事務次官の「最長不倒距離」とは、事務次官連絡会議の「牢名主」役の長さをも示すことになる。しかも、小林の場合には、次女恵子の夫、佐藤謙が大蔵官僚であり、その仲人の近藤道生は元大蔵省銀行局長であった。

 小林が、官僚の経歴を誇っていた例証として、日本テレビの会社創立二五周年を記念して発行した社史『大衆とともに二五年』には、つぎのような小林の発言がのっている。

「私はよくいっているんです。人間は役人を一度やらんといかん、商売を一度やらんといかん、いまひとつは選挙を一度やらんといかん。この三つをやらなかったら、偉そうなことをいっても、人間社会のほんとうのことがわからない。ここに来て、そう思うようになった」

 まるで「元官僚にあらざれば人にあらず」なのであるが、「この三つ」に関して、小林は、義父の正力を超えることができなかった。正力は、この「三つ」を、とにもかくにもやってのけた。新聞やテレビの仕事を「商売」と呼ぶのには反発する向きも多いだろうが、これが小林の本音の評価なのだろう。それはともかく、この発言の時期にはまだ、小林は、富山三区の正力の地盤を継いで衆議院選に立候補する意欲を示していた。だが、ついに立候補は実現せず、その後には、脳梗塞で二度の発作を経験し、読売会長としての座も形ばかりの状態である。

 日本テレヴィの経営では、小林は、何かにつけて義父の正力の名を出した。実際にも、正力の読売乗りこみの際の労務政策を真似た。読売からヤクザ型元記者の腹心を引き入れては、つぎつぎと専務や常務に据えた。伝票チェックによる「不正摘発」の恐怖政治を敷いた。夜間業務の多い制作職場では、「午前一〇時出勤」を命令する墨字のポスター張り出す、などなどであった。

 小林がひそかに、義父の正力よりも自分の方がすぐれていると思っていたらしいものに、国会答弁技術がある。元自治省事務次官の経歴は、高級官僚の世界での最高位を極めたということを意味する。小林はおそらく、正力よりもはるかに行政法などにくわしかったのであろう。ということは逆にいうと、議員や国民を巧妙にだます法網くぐりなどは、お手のものということでもある。

『財界』(76・4・1)の対談では、ホストの高橋圭三から、「国会での答弁は非常に素晴らしかったと聞いてますが」などとおだてられ、ついつい、つぎのような自慢のド本音を披露している。

「こっちのほうが、よけい物も知っておるし、ツボも知っておるけれども、どうにかして言葉尻をとらえられんで、うめえこと片づけれるかということしか、答えるほうは考えていないんだよ[中略]。うまいことそらし、かわし答弁やるんだよ(笑い)。最後には、こっちも、何を言うたかわからなくなる」

 このあとは、「圭三/小林流″円月殺法″ですね(笑)」となる

 わたしが読者に確認しておいてほしいのは、こういうことを平気で語って、しかも笑う元高級官僚が、日本テレビと読売新聞の社長だったのだということなのである。


(第13章-4)
「はで」な警防で「絨毯爆撃を仮想」、「個人はない」と講義


 小林は本来、庶民的な生まれと育ちだった。『巨怪伝』では、正力松太郎の生家のありさまを描いたのち、つぎのように記している。
  
「その対岸には、のちに正力の長女梅子の婿となる小林與三次の生家が残っている。要塞のような正力家の屋敷に比べ、庄川の水べりのすぐそばに建つ小林の生家は見るからに貧相だった。その対照的な光景は、当主を“おやっさん”(親方)と呼ぶ、印半纏(しるしばんてん)の人足が何十人となく出入りしていた正力家の羽ぶりのよさと、その正力家の土建資材を運ぶイカダ船の船頭に過ぎなかった小林の父との境遇の違いを、残酷なまでに見せつけている。小林與三次の足の裏の皮が今でも厚いのは、子供の頃イカダ乗りの手伝いをした名残である」

 しかし、庶民的な生まれと育ちだからといって、かならずしも庶民の味方になるとはかぎらない。「末は博士か大臣か」とばかりに、子供の頃から競争心を煽る明治以後の日本式学校教育の結果、猛勉強で「立身出世」街道を突っ走らされた元「平民」の方が、かえって出世欲の強い権力主義者になる場合も多かった。貧農の息子から身を起こした維新の元老、伊藤博文が、その祖型である。

 小林は、一九二三年(大2)に生まれ、一九三六年(昭11)三月に東京帝大法学部を卒業し、同年四月に内務省地方局に採用された。

 内務省は、全国の道府県知事の任命権を持ち、地方局はその全体を統括していた。小林は、中央官僚の身分で若殿様並の地方回りをする。熊本県警務課長兼警察訓練所長、京都府警防課長を経て、当時特設された興亜院の事務官に転出し、再び内務省の地方局に戻り、そこで敗戦を迎えた。

 戦後は、内務省監察官、職員課長、選挙課長、行政課長を歴任し、内務省解体後には建設省文書課長を経て、自治省行政部長、財政局長、事務次官となった。

 天下り先は住宅金融公庫で、そこの副総裁となった。いわずとしれた「高額退職金稼ぎ」の気楽な名誉職である。そのころから小林は、自治省の外郭団体が発行する『自治時報』(のち『地方自治』に改題)に「自治雑記」という題の回想録を連載している。

 以下、とくに注記がない「 」内の記述は、この「自治雑記」からの引用である。くわしくは旧著『読売グループ新総帥《小林与三次》研究』を参照されたい。本書では、さきにのべた通り、「人となりの理解を助ける程度」の特徴的な経歴と発言の紹介にとどめざるをえない。

 京都府時代について本人は、「わりとはでに警防課長の仕事をしていた」と自認する。小林が京都府の警防課長になったのは、大学を出てからたったの四年目で、一九四〇年(昭15)、日米開戦の前年のことである。「警防」には、現在の消防庁の仕事がふくまれていた。「消防」と「防空」は連結していた。小林は、サーベルを下げ、軍服まがいの征服で「防空演習」の指揮を取った。小林が自ら「はで」だったと語るのは、その種の活動が地方紙に写真入りで報道されたりしたからのようである。しかも、それだけではなく、つぎのような恐るべき積極性をも発揮している。

「京都府の地図などをひろげ、いろいろな状況を想定して、矩形の紙を図上に置き、いわゆる絨毯爆撃を仮想しながら、作戦を練った。[中略]国民防空に関する何点かの意見書をしたためて、内務省の防空局に送ったことがある」

 小林の「意見書」なるものが、防空局とやらで、いかに検討されたものかはまったく分からない。だが、その数年後の日本全土で、この種の気違いじみた世間知らずの官僚の指導によって、灯火管制、防空壕、防空頭巾、バケツ・リレーなどによるまったく無駄な抵抗がつづいた。東京大空襲の大被害にも懲りずに、国体護持だけのために降伏を引き延ばし、ついには人類史上初の核爆弾の投下さえ招いたのである。

 信濃毎日の桐生悠々が問題の「関東防空大演習を嗤う」を発表したのは、小林の「意見書」提出より七年前、一九三三年(昭7)八月一一日のことである。「爪の垢でも煎じて飲ませたい」とは、まさにこのような場合のための言葉であろう。

 小林の「はで」な京都府警防課長時代は一年未満だった。おなじ一九四〇年(昭15)の内に、興亜院文化部の事務官に引き抜かれているからだ。本人によれば、「藪から棒」の話だったというのだが、「地方庁勤めの若輩者にとっては、中央政府の交流人事」という出世の糸口でもあった。だから、「即座に、引き受けた。そして、対支文化政策という新しい職務に胸をふくらませた」のである。

 興亜院は、外務、大蔵、陸軍、海軍の各大臣を副総裁とする「対支機関」として、一九三八年(昭13)に設置された。勅令の「興亜院官制」が『官報』に記載されている。事務官は「専任十八人」、身分は「奏任」と定められていた。官僚コースとしては栄転である。

 小林は、そこでの仕事の内容を、「大陸にゆく学校教員のための講習会に、出て喋りもした」とか、「現地には、中支と北支蒙疆を、十日あまりの旅だったが、一度ずつ訪ねた」などと語っている。小林の回想では、訪問した現地での興亜院の業務内容がまったく省かれているのだが、興亜院という「対支機関」が設置された経過の核心部分は、この見慣れない難しい文字の「蒙疆」にあった。内蒙古などともいわれる広い地域なのだが、ここに極めて重要な農作物が大量に栽培されていた。その未熟な実から阿片の原料が採れる罌粟(けし)である。くわしくは、すでに後藤新平の項目で紹介した『日中アヘン戦争』ほかの資料にゆずる。

 ありていにいえば、興亜院は、外務、大蔵、陸軍、海軍の間の、大陸利権争奪戦を調整する中央フィクサー官庁であった。阿片の売買による莫大な利益は、満州ほかの現地傀儡政権の維持にも当てられたが、同時に軍の機密費の源泉にもなった。興亜院の実務の中心に座る総務長官兼文化部長、つまりは小林の直属上司は、南京大虐殺を起こした派遣軍の司令官として有名な柳川平助中将であった。

 小林が、以上のような興亜院の実態について、まったく小耳にもはさんでいなかったということは、およそ想像しがたい。小林も、やはり、先輩たちと同様に、墓場まで秘密を抱いて行くのだろうか。

 さて、興亜院時代にすでに「中央政府」に戻っていた小林は、その後、古巣の内務省地方局の行政課に事務官として復帰し、ここで二年先輩の鈴木俊一(前都知事)と机を並べる。本人の回想では、地方制度の改正案の原案作成が主な仕事だったようになっているが、国会図書館の著者別目録で探してみたところ、内務省自治振興中央会発行の『部落会町内会指導叢書第一二集』というのがでてきた。発行者による趣旨説明は、つぎのようになっている。

「本輯は昭和一八[一九四三]年六月本会主催の部落会町内会庁府県指導者講習会に於ける、内務事務官小林與三次氏講義の『地方制度の改正』に関する速記内容を収録し、更に同氏の『町内会部落会等の法制化に就いて』の記述を併録したるもの、時局下隣保護組織指導上の参考として広く此等の関係者に頒つ次第である」

 つまり小林は、かの悪名高いトントントンカラリンの「隣組」の「庁府県」、現在でいえば都道府県の指導者教育の講師を勤めていたのである。その実物のハイライトは、次のようなものであった。「これは私が今更申上げる迄もなく、日本の国柄というものの根本から自治というものを考えなければ、問題にならないのであります。日本の根本の国柄については、今更申上げる必要もないのでありますが、要するに万世一系の天皇の御統治、これが根本でありまして、御統治に対する国民の翼賛、これが他の反面なのであります。つまり御統治と翼賛、これが日本の国を構成している根本の大義であります。申上げるまでもなく、日本国民というか、自治体も国家の中にある日本国民の団体でありますが、この日本人の本質、それは団体と個人とを問わず、日本人の本質は何処にあるかといいますと、いうまでもなく、個人自体の幸福とか、発展というものは何の意味もない。全国における個人が集まって、個人の最大限利益を目的として国家を構成するという考え方は、初めから、わが国においては考えられぬのであります。いかにすれば日本人として翼賛の大義をまっとうできるか、それが全体としての日本人の目的であり、全貌であります。これは、いうまでもないことと思います。日本の国には、つまり、個人はおらぬ、簡単にいえば公民しかおらぬ、大御宝[おおみたから・天皇の所有物]があるだけで、個人はない。天皇の御統治を仰いで、翼賛の大義に、生れ、生き、死ぬる臣民しかおらぬ、外国のいわゆる個人は、日本には存在しないのであります」

 何のことはない。「地方自治」の名において、自治の本来の意義を否定し、さらには個人の幸福追及の権利までも否定しているのである。最後のくだりなどは、まさに絶叫調である。回想では、以上のような演説の内容を具体的には記さずに、つぎのように弁解している。

「いささか冷や汗ものである。自治翼賛論とでもいうか、皇国自治論とでもいうか、そのようなものを一生懸命になってやっている」

 ただし、どこが「冷や汗もの」なのか、誤りを反省しているのかどうかは、まさに「円月殺法」の流儀でもあろうか、さっぱり分からない。文脈から判断すると、「地方制度の権威者」が「聞いておられた」ことに「恐縮」して見せつつ、実は、そういう権威者を前にして講演した過去を誇っているようにも取れるのである。

 小林は、その後、敗戦直前の一九四五年(昭20)四月一日に公布された「内鮮台一体化」の法改正の立案を担当した。この法改正は、「平等化」を名目にして、朝鮮と台湾の住民を本国並の徴兵制および「直接国税」金一五円の納付義務の対象とすることを目的としていた。その際の仕事ぶりについて小林、「当時としては豪華な差入れに舌鼓打ちながら、いかにも冥加に尽きる法案審議に従事した」と語っている。

 最近では戦後五〇年を契機として、日本の戦争責任に関する報道検証が行われているが、つぎのような小林の、関係資料「湮滅作戦」参加の実績をも指摘しておきたい。

「改正法の一件書類は、敗戦直後、いよいよ占領軍が本土に進駐してくるというときに、他の戦争関係書類とともに、焼却してしまった。全くつまらぬことをしたものと、後悔されてならないのだが、内務省の庭先で、戦敗れて、くろぐろと重くかぶさった夜空に、赤々と焔をあげながら、書類を焼いたものである」

 同時期、「地方局の事務官が手分けして」全国各地の「総監府」に飛び、「終戦応急処理方針を地方に徹底させ」たのであるが、小林は、正力の存命中に読売で、東北と北海道を担当して、「無料パスをあてがわれ」、その任務を果たしている。各地方の総監に直接口頭で伝えられた「終戦応急処理方針」のなかには、おそらく相当量の「戦争関係書類」焼却命令が含まれていたにちがいない。

「戦争関係書類」の抹殺作業で手を汚した元内務官僚が、戦後五〇年を経ていまだに、最大発行部数を誇る新聞社の会長の地位にあり、その読売が、憲法改正案を紙面で提案しているというのが、まぎれもない現代日本の実情なのである。

 小林自身の回想の中には、戦争中の言動についての反省はいささかも見られない。戦後の自治省行政部長時代には、町村合併の音頭取りをしたが、その際に「天皇・皇后両陛下の行幸を仰ぎたかった」などと語り、年来の夢が実現しなかったことを残念がっている始末である。

 戦争責任問題についての小林の見解は、つぎのような典型的なものである。

「わが国は、侵略戦争の遂行者、戦敗国として、史上拭い得ない汚名を浴びているのであるが、この大東亜戦争を含む第二次世界大戦は、結果的であるにせよ、国際的に、植民地開放の絶大な意義を持っている。完膚なきまでに敗れながらも、日本やドイツが、驚嘆すべき発展を遂げ、自由を持つことができるのも、この大戦で、自由な平和的発展の開放的環境が国際的にできたからである」


(第13章-5)
最後の「独裁」継承者はフィクサー児玉誉士夫の小姓上がり


 読売の現社長、ナベツネこと渡辺恒雄は、小林が読売の副社長に転じた時期には、まだ政治部次長だった。それ以後の渡辺の急速な昇格ぶりは、「社会部帝国」といわれて久しい読売の体質にも、根本的な変革をきたすものだった。

 務台が会長として存命中には、務台会長と小林社長の主導権争いが噂になったりした。渡辺は、二人の間を上手に泳いでいると伝えられた。だが、大筋としては、渡辺を引き上げたのは小林だといえるであろう。

 ところが驚いたことには、渡辺が社長になってから編纂した『読売新聞百二十年史』には、「小林社長時代」の章がないのだ。務台が社長から会長の時代を「大手町時代」とし、その中に、たった一頁だけ、「務台・小林体制」を記すという構成になっている。その一方で、自分の社長就任以来の経過には、「一千万部の巨歩」と題する第五章に一一八頁も割いている。そこには、「社論の確立」などという時代錯誤な、いきがりの文章が溢れかえっている。『読売新聞百二十年史』が発表された時期には、小林は二度の脳梗塞の発作を経ていた。渡辺が小林を窓際扱いにしているという噂は高かったが、この最新の社史を見れば、その冷淡さは明瞭である。まさに『新王朝史』の構成である。

 小林が日本テレビ社長を経て読売社長に返り咲いたのち、渡辺は、政治部長から論説委員長へと急上昇した。政治部が人事的に優遇され始め、紙面でも政治面が優先されるようになった。このような結果の表われの一つとして、大阪読売で編集局次長の地位にあった社会部出身の黒田清が、定年以前に退社した。黒田は、その後、『黒田ジャーナル』を砦として『窓友新聞』を発行し続け、公然と読売を批判している。現・渡辺王朝は、従来の「社会部帝国」の主導権を剥奪した上に成り立つ、恐怖の新独裁支配体制である。

 すでに紹介済みの元読売社会部記者、三田和夫の『正力松太郎の死後にくるもの』には、「小林副社長“モウベン”中」という項目があった。小林は、正力の存命中に読売で、渡辺ら「若手」を集めて「勉強会」を開いていたというのだ。現日本テレビ社長の氏家斉一郎も、この「勉強会」の定例メンバーだったが、当時は経済部次長だった。

 小林はいったい、どのような魂胆で、渡辺と氏家を「勉強会」に引き入れたのだろうか。

 当時の読売では、販売を中心とする業務部門に務台、編集部門に読売伝統の「社会部帝国」出身の原四郎という、強力な実力者による住み分けが定着していた。その上の社長が空位でワンマン社主、正力が超然と君臨していたのである。

 自治省事務次官として国会答弁に立ったこともある小林のことだから、読売の政治部記者とは当時から面識があったに違いない。小林が、読売の編集部では二流の地位にあった政治部や経済部の記者を味方に引き入れようとしたのは、自然の成り行きだったのかもしれない。だが、よりにもよって渡辺と氏家の二人を重用したというのは、考えられる限りでの最悪の選択であった。

 かれら二人の読売記者の名前が、初めて世間に取り沙汰されるようになったのは、悪名高いフィクサー児玉誉士夫との怪しげな関係によってであった。かれら二人と児玉は、さらに、これもやはり悪名高い元「青年将校」こと中曽根康弘と結びついていた。新聞記者、フィクサー、政治家のトライアングルである。この典型的な政界の黒幕マシーンは、かなり前から続いていたようである。

 具体的な暴露のきっかけとなったのは、うやむやのままに葬られた政界疑獄、九頭竜(くずりゅう)ダム事件である。この事件は、一九六五年からの国会審議に登場している。石川達三の『金環蝕』の題材ともなり、同名で映画化までされた一大スキャンダルである。多くの疑獄関係書に、詳しい経過が記されている。

 政界の表舞台では、“マッチ・ポンプ”の異名を取った衆議院議員の田中彰治が暗躍した。陰には、十五年の人生を賭けた被害者がいた。水底に没する鉱山の経営者、緒方克行は、補償問題の調整を依頼するたびに、政界の黒い霧に包まれる。一九七六年に出版された『権力の陰謀』(現代史出版会)は、その緒方の告発の記録である。

 この出版のタイミングが、また、偶然にしては絶妙すぎた。児玉誉士夫というキーパーソンが、メガトン級の政界疑獄、ロッキード事件の主役として世間の注目を浴びていた最中だったのである。しかも、「ロッキード旋風の中で、『権力と陰謀』という本が話題を呼んでいる」という囲み付きのリードで最初に書き立てたのが、競争相手の朝日が出版する『週刊朝日』(76・3・26)だったから、なおさらに世間は耳をそば立てた。

 緒方は、「政界の黒幕として名高い児玉誉士夫氏を訪ねた」。児玉の返事は、「何とか調停してみましょう。すでにこの問題に携わるメンバーも決めてあります。中曽根(康弘)さんを中心として、読売政治部の渡辺恒雄君、同じ経済部の氏家斉一郎君に働いてもらいます」というものであり、運動費は一千万円請求された。緒方は一週間かかって一千万円を調達し、児玉邸に届けるが、その時には、「二人の記者も呼ばれていた」。結局、この調停は成立せず、児玉、中曽根、渡辺、氏家の同席の場で、一千万円は返却された。

 調停が成立しなかった背景には、中曽根の親分だった河野一郎の急死という事情もからんでいたのではないかと推測されている。さきの『週刊朝日』では、つぎのように追い討ちを掛けていた。

「調停が成功しなかったからと、預かった一千万円をそっくり返すあたりは、なかなかのものだが、児玉が急に手を引いた裏に、何か、“取り引き”めいたものがなかったかどうか」

 九頭竜ダム事件は、当時のメディア報道をにぎわした。かなりドギツイ、中心的な政治疑獄事件であった。問題のダム工事の「不正入札」には、時の首相池田勇人の政治資金調達がからんでいた。政界紙『マスコミ』には、「中部電力の九頭竜ダムの建設業者指名をめぐって建設業者が池田内閣に巨額の政治献金を行った」という趣旨の暴露記事が発表されていた。

 これほどの事件への怪しげな関係を暴露されながら、なぜ渡辺と氏家は、読売にとどまることができたのだろうか。この状態は、実は、かなりの異常現象なのである。

 新聞記者が、この種の、取材とは直接の範囲をはみ出た関係を結ぶことを、新聞業界では、「社外活動」と呼んでいる。暴露された場合には、社の名誉にかかわる不都合なことなのである。読売の場合でも、すでに紹介した元読売社会部の敏腕記者、三田和夫と、同じく遠藤美佐雄が、取材の延長線上で犯した「社外活動」の責任を取って退社している。ことの経過はそれぞれ、三田和夫著『最後の事件記者』(実業之日本社)、遠藤美佐雄著『大人になれない事件記者』(森脇文庫)のなかで克明に告白されている。

 渡辺と氏家が行なった「社外活動」は、その二人の先輩記者の例に比べれば、はるかに重く、犯罪的といえる性質のものだった。ところがこのとき、渡辺は、いささかの反省の弁をも述べようともせず、逆に、居直ったのである。

『現代』(80・9)誌上では、つぎのように記していた。

「時が時だけに、彼は苦しい立場に置かれた。『渡辺が辞表を出した』という噂も社内外に広がった。彼は、毎日、デスクに座って政治部中をにらみつけていたという。“われ健在なり”と誇示するためだろうか」

 いわゆる「ケツまくり」である。ドスを地面に突き立てて、もろ肌脱ぎ、「さあ、殺すなら殺せ!」という感じである。「まるでヤクザ」どころか、ヤクザが顔負けするほどのパフォーマンスぶりではないだろうか。この時期の状況については、各誌に種々な風評が載っている。同じ読売でも、伝統を誇る社会部帝国の記者たちは、二人の社外活動と居直りに対しての厳しい批判を隠さなかったようである。その時の積もる恨みが、渡辺が主流に踊り出てからの、報復人事となって表われたという説もあるほどだ。

 渡辺には、しかし、「ケツまくり」の効果について、確かな計算があったのではないだろうか。読売自体にも一蓮託生の疑いがある。渡辺の口から、地獄への道連れとばかりに、暴露されては困る事情が沢山あったに違いないのだ。

 渡辺自身は、さまざまな場で、事実関係についての弁明を試みている。たとえば自社発行の『週刊読売』(76・4・3)では「“魔女狩り”的報道に答える」と題して、自筆の弁明をしている。「その後著名になった会社調停工作事件のような話は聞いたことがない」とか、「調停工作スタッフ」とされたことを「我々にとって許せぬ侮辱だから、同書の出版社に抗議中だ」などと、しきりに息巻いている。しかし、実際には口先だけで、裁判に訴えてもいないし、その後に「同書」を引用した数多い雑誌、単行本に対しても沈黙を守ったままなのである。

 渡辺の事実関係についての弁明は、語るに落ちるの典型である。この「“魔女狩り”的報道に答える」という自筆の文章そのもののなかでも、「児玉は、一般的会食などの際、突然見知らぬ人を連れてくることが、一、二度あった」とし、『権力の陰謀』の著者を「突然短時間、紹介されたのではないかと思う」としている。著者の緒方克行と、児玉邸で会った事実は認めざるをえないのである。その上での逃げ口上でしかないのだ。ところが、その直後に、つぎのような文章が続くのである。

「私は、電発も通産省も知らぬので、経済部の氏家記者に調査を頼んだが、中曽根代議士を本件で補佐したこともない。氏家記者の話では、この“被害者”の言い分はかなり誇張されており、ニュース価値もないし、政治家や新聞記者などが介入すべきものではなく、民事訴訟で損害賠償を要求すべき筋のものだ、とのことだった。児玉にも、その旨告げて、以来何らの協力もしなかった」

 この経過について渡辺は、同時期に発行された『週刊新潮』(76・4・1)で、「その間、金銭の授受があったことも知らなかった。ボクも児玉に利用されたんだ」という弁解を組み立てている。怪しげな弁解だが、それならそれで少なくとも、「利用され」てしまったことの結果責任は負わなければならないだろう。

 渡辺は、しかも、この事件の発覚以前に、自社発行の『週刊読売』(74・8・3/24)誌上で、二度にわたる「ゲスト/児玉誉士夫」との「水爆インタビュー」に、「きき手/渡辺恒雄」として登場している。最近流行のヤクザがデカイ面で大手メディアに登場する「ハレンチ報道」の走りであるが、渡辺は解説部長の肩書きで、「決して表に出たことのなかった」“黒幕”の引き出し成功を、署名のリード記事にしている。相手の正体を知らずに「利用された」などと弁解できる立場ではない。


(第13章-6)
「公開質問状」に答えない読売広報部の大手メディア体質


 一九九二年三月初旬には、読売から佐川急便への土地売却に関するTBSの疑惑報道が、訴訟騒ぎに発展して週刊誌種にもなった。この報道をめぐる訴訟合戦をきっかけに、わたしは急遽、ブックレット型の『マスコミ大戦争/読売VSTBS』を書き上げ、その秋に発表した。本の形式も、夏場の執筆という異常事態も、訴訟の進行状況に合わせたものであった。

 それまでにも様々な資料を収集していたが、できれば事実関係についての本人の主張をも確かめ、合わせて紹介したかった。そこで、読売には同年七月初旬にまず電話をし、予備折衝として七月一〇日に読売新聞本社で山室広報部長と面談し、「八月一杯」という期限を切って、渡辺への直接取材を申し入れた。

 別れ際に山室は、「ご参考までに……」といいいながら『女性自身』(92・7・21)を手渡してくれた。暗に、こういう記事を書く気なら会見は実現できるかも、と匂わせる雰囲気であった。

 帰りの電車の中でめくってみると、「シリース人間No.1193」「大いに吠える!/僕の放言実行人生」という題で、「まさにアッパレ!」とまで渡辺を持ち上げている。これぞ「まさにアッパレ」な提灯記事の典型だった。わたしは「なめられたものだ」と一人苦笑したが、山室には旧著ほかのわたしの文章を提供しておいたので、その内容を見たせいかどうか、その後の読売の対応は変化した。

 当方が希望した期限では日程がとれないという理由で、渡辺への直接取材は断わられた。山室広報部長は、質問項目を詳しく書いてくれれば渡辺に取りつぐなり、代わりに自分が答えるなりしようという。だが、まさか天皇への質問ではあるまいし、それでは話にならないと、今度はこちらから断った。そして、完成した本そのものを、読売新聞への「公開質問状」とする旨を伝えた。

 山室からは、その後再び、「その本の中で公開質問に答えることはできないか」と問い合せがあったが、「それでは公開質問にならない。必要があれば読売が別に公開の場で回答すべきだ」と伝え、再度、断った。「回答もしくは公開論争の場所は、裁判所であっても構わない。受けて立つ」と明言し、完成した本は、直接、山室に手渡したが、以後、何の反応も得ていない。


(第13章-7)
政治思想経歴を詐称する元学生共産党細胞長の出世主義


 渡辺にはさらに、若い頃からの悪名がある。この件に関しても嘘の付き放題なので、右の公開質問状の内容に含めておいた。

 戦後日本の大手メディア右傾化では、フジ・サンケイ・グループが「露払い」の役割を果たした。新聞界では、朝日と毎日に比較して読売と産経を右寄りとし、「二極分解」と評している。だが、老舗の読売が露骨な右寄り紙面を作り始める以前に、自民党は産経新聞に肩入れし、企業購読依頼の推薦状を出したりしている。

 興味深いことには、潰れかけだった産経新聞に財界が公然と資金を拠出して送りこみ、“参詣残酷物語”を仕掛けた故水野成夫も、その後継者の故鹿内信隆も、元日本共産党員だったし、それゆえにこそかえって露骨な「反共」独裁者だった。元共産党員に財界が直接ひもをつけて利用する「反共」独裁が、戦後の財界によるメディア干渉の特徴の一つだともいえる。「反共」独裁者の典型ヒトラーが、共産党からの裏切り者を重用したという話もある。その故智にならったものか、それとも「毒を以て毒を制す」の格言通りの法則的な人事なのか、非常に興味深い歴史上の経験である。

 渡辺の場合は、大学卒業後、すぐに読売に入社した生え抜きだから、財界からの送りこみ経営者ではない。だが、あとの二点、つまり、元共産党員、および露骨な「反共」独裁者という性格では、故水野成夫と故鹿内信隆の二人の先輩と共通している。

 渡辺は、敗戦直前に旧東京帝大文学部哲学科に入った。学徒動員で中断後、まだ旧制のままの文学部哲学科に戻った。名前だけは途中から新制大学の東大に変わるが、すでに学部に進学したのちのことだから、内容に変わりはない。敗戦の翌年、一九四六年には日本共産党員となり、東大学生細胞の細胞長となる。これと同時に、東大新人会の創立者となったというのが、一応の「思想経歴」である。

 先の『女性自身』には、東大新人会の仲間の一人の回想談が載っている。「同じ新聞社に入ったら二人で社長になるわけにはいかんから、別々のところに行こう」というのが渡辺の就職先決定の際の提案であった。その他の証言をも勘案すると、一見左翼風の学生時代を送ってはいたものの、それは口先だけのことであって、実際には出世主義のかたまりだったというのが、本当のところだ。

 日本共産党入党、たちまち脱党という経歴も、当時の出世主義的な青年の一つの典型である。敗戦直後には、ソ連は赫々たる戦勝国であり、社会主義の「祖国」であった。少数野党の日本共産党でさえも、新しい未来権力の栄光を放っていた。

 ソ連を中心とする世界共産主義運動も欠陥だらけだった。日本共産党自身も、非合法からの急速な再建途上のこの時期について、当時のトップ、徳田球一書記長に「家父長的」な自己中心主義の傾向が見られたとし、さきのような米占領軍の「解放軍規定」以外にも、指導体制や方針にも多くの誤りがあったことを認めている。中国の解放区、延安からソ連を回って帰国して救国の英雄のように迎えられ、首相にまで擬せられた野坂参三元議長についても、つい最近の死の直前に、「同志」をスターリンの銃殺隊に引き渡した過去が明らかになった。スターリニズムや中国の文化大革命などの権力闘争の犠牲者も多数いる。さらにさかのぼれば、フランス革命のギロチン恐怖政治の歴史もあった。

 しかし、だからといって方向転換の果てに、逆に大企業の社長を目指すなどというのは、本末転倒もいいところであり、人間の底が浅い証拠である。

 しかも、渡辺は、この青年時代の思想経歴と活動に関して、都合のいい自己宣伝をしている。はっきりいえば、政治思想経歴の詐称に当たるのだ。

『女性自身』編集部に聞くと、くだんの提灯記事「大いに吠える!/僕の放言実行人生」は、何人かの取材と資料収集によって、アンカーと呼ばれる執筆専門の記者が仕上げる方式の、典型的な週刊誌特集である。だから文責がだれにあるのかは定かではないが、渡辺が取材記者に会っているのは確かだ。「 」内は本人の発言に添ったものという形式である。山室広報部長は、わたしにも「会見できた場合にはゲラを見せてくれ」と注文をつけた。だから、この『女性自身』の記事の場合にも、本人もしくは読売側の検閲を経た可能性が強い。共産党との関係にふれる部分はなぜか「 」でくくられてはいないのだが、次のようになっている。

「共産党とも、自主的な学生運動を行なえる組織を目指して戦前にあった東大新人会を復活したことによって、あっさり訣別」

 この「訣別」の件を、これまた提灯持ち型の単行本、『読売王国/世界一の情報集団の野望』(講談社)の「渡辺恒雄という男」という項で見ると、以下のようになっている。

「マルクシズムには人間の自由がないという認識から、組織と個人の関係はいかにあるべきかを考え、そこからいわゆる『主体性論争』が活発に行われるようになった。この動きが共産党を刺激する。渡辺は当時、共産党東大細胞の委員長だったが、先んじて共産党を離れ、それを知った共産党は慌てて渡辺らを除名処分にして面子を保った。[中略]こうして生れたのが再建新人会である。[中略]渡辺が幹事に就任した」

 そのほかにも、たとえば『現代』(80・9)では、「スパイの嫌疑を受けて除名された」という解釈に立つ執筆者の質問に対して、渡辺の方が、「共産党は、人を除名する時、すぐスパイだといいますからね」と答えたことになっている。この返事の仕方は「話をそらす」という感じである。『文藝春秋』(84・1)では、「追い討ちをかけるようにして渡辺、中村の除名を党として決定、翌年一月六日付の『アカハタ』紙上で二人が警察のスパイだったと書きたて、反革命分子としての烙印をおしたのである」と記している。ところが、国会図書館に収められている『アカハタ』には、その前後の号までいくら見ても、そんな記事はないのである。いずれも物的証拠資料の裏づけを欠く文章ばかりである。果たして真相はいかに、という興味を抱かざるを得ない。

 そこで、もう一方の当事者の、日本共産党本部にも当時の事情を照会してみた。なかなか返事がないので、あきらめかけていたところ、執筆中だった旧著『マスコミ大戦争/読売vsTBS』の出稿直前、一九九二年八月末になって連絡がはいり、中央委員会常任幹部会委員の小林栄三が会見に応じてくれた。小林は、東大で渡辺の二年後輩に当り、渡辺の処遇が激論になった当時の共産党東大細胞の会議にも出席していたという。

 小林の思い出話のほかにも、当時の『日本共産党決定・報告集』や『アカハタ』記事などの資料コピーも沢山提供してもらえた。全体の経過はかなり複雑なのだが、本書では、思い切って簡略化せざるをえない。

 読売争議の項で記したように、渡辺が共産党に入った年の一九四六年には、すでに第二次読売争議が敗北している。新聞通信単一労組や電気産業労組(電産)が中心となって呼び掛けた一〇月ゼネストも挫折した。アメリカとソ連の関係は、すでに冷戦状態を明確にしていた。翌年の一九四七年には、「反共ドクトリン」として知られるトルーマン大統領の年頭教書が発表された。二・一ゼネストがマッカーサーの直接干渉で失敗に終わった。

 左派労組の全国組織である産別会議の足下では、のちの総評(社会党支持)につながる民主化同盟が動き始めていた。渡辺らは、この民主化同盟と連絡を取りつつ、青年共産同盟(現在の民主青年同盟の前身)の強化を呼びかける共産党中央の方針に反対し、一九四七年九月以降、東大新人会の「再建」を始めた。この「再建」活動には、東大細胞の指導部が少なくとも表面上は賛成をしていたようだが、党中央はもとより東大細胞が所属する中部地区委員会にも東京地方委員会にも相談なしに行われていた。

 しかも渡辺は、この活動資金五千円を、元日本共産党幹部で、日本共産党側からは「裏切り者」とされていることで有名な三田村四郎から受け取っていた。渡辺に同調する仲間の一人に中村がいた。かれらの活動に反対する党員が直接の連絡を取った結果、当時は中央の統制委員会の責任者だった宮本顕治(現議長)も参加する細胞総会が開かれた。

『日本共産党決定・報告集』(人民科学社)によると、席上、中村や渡辺らの行為が「重大な規律違反であるということはほとんど満場一致で認められた」。ところが、除名処分に関しては「賛成二七、反対二六、棄権が三というような状態であった」。「除名処分に反対した人たちの意見を調べてみると、事実は除名にあたいするが、しかしながらその当時は組織も弱かった、指導部の人たちも関係しておったのであるから情状をくんでやって、離党をすすめればよいという」状態であった。

 さらには、『アカハタ』(48・1・6)によると、「こんなわかりきった規律違反に対して、なぜ相当な数の人々が反対するかというと、もし除名して新人会の運動に圧迫を加えるなら党や細胞のいろいろなことをバクロするというすてぜりふを中村、渡辺がのこしたので、要するに後難をおそれたこと」が指摘されていた。そこで、共産党の東京地方委員会は、「まちがった考えを細胞の半分くらいの人がもっていたのでは、党のいう、鉄の規律も、意志とおこないの統一もたもてない」という理由で一九四七年一二月一六日、「東大細胞の解散、全員の再登録を決定し」、東大細胞に通告した。

 小林の説明によると、このときの「細胞の解散」という処置は、当時の規約にもとづいたものであったという。渡辺らはその際、「再登録」を申し出なかったわけである。日本共産党の党内文書では「除名」と記されているが、明らかに普通の除名処分とは異なる。特殊ケースのようである。

 新人会については、その後の『アカハタ』(48・2・7)報道によると、一九四八年一月三〇日に「総会をひらき、約八〇名が出席して、会の今後の方針を協議したが、大衆討議の結果、非民主的ボス性を除去することになり、渡辺、中村は脱退した」とある。

 以上のような共産党側の経過説明に対して、本当は渡辺本人の口から反論を聞きたいところだが、前述のように直接取材は成立しなかった。だが、幸いなことに、小林は、『資料学生運動』(三一書房)に収録されている渡辺自身の文章のコピーも提供してくれた。

 渡辺自身が書いた「東大細胞解散に関する手記」は、「〈始動〉48・3・1」から再録されたものであり、かなりの長文である。弁明の数々を紹介すれば切りがない。渡辺は意外にも素直に「私は新人会財政部として若干の寄附を三田村氏から得た」とか、「その際我々は同氏が党の転向者でもあるので、旧指導部員の諸君と相談しその賛成を得た」という書き方で、三田村から金を貰った事実を認めている。

 三田村の裏切りは有名である。関係者の間で、その名を知らぬものはいなかった。その後も三田村は財界の意を受けて、「三田村労研」の名で労働組合の御用化工作を続けていた。わたしが民放労連日本テレビ労組の執行委員だった時代にも、三田村労研が、民放の会社派組合を集める御用組織、通称「第二民放労連」作りを画策中だという情報が入った。連れ立って三田村の事務所に抗議行動に押しかけたことがある。

 渡辺の弁明は、まさに「だだっ子」なみのお粗末さである。子供ではあるまいし、三田村の金がどこから出ているのかを知らぬ存ぜぬで通るわけがない。渡辺らの活動は最初から思想的にも腐っていたのだ。

 日本共産党との関係では、「新人会の発展は極左派の諸君の猛烈な反対と妨害を受け、私は代々木に喚問され、十人近くの極左派の諸君の取りまき罵倒する中で宮本中央委員、山辺統制委員に詰問」されたなどと記している。この「極左派」という用語に、特段の意味があるのである。当時は最近の状況と違って、共産党以外に「極左派」と呼ばれる集団があったわけではない。ところが、渡辺らが起草した「新人会綱領」には「公式的極左主義を克服し」という部分がある。これが渡辺らの常日頃の言動からして、日本共産党の方針への批判を明らかにしたものであり、分派活動の証明と見なされたというのだ。

 なお、この渡辺自身の「手記」の中には、「沖□和□君」「荒□新□君」などと「一部伏せ字」を気取った部分がある。これなどは同級生や関係者が読めば、だれのことかは一目瞭然であろう。「党や細胞のいろいろなことをバクロするというすてぜりふ」を渡辺らが口にしたという『アカハタ』報道には、根拠がありそうな気がする。当時の共産党は、戦前のような非合法ではなくなったものの、まだ公然と個人名を名乗って活動するのには危険があった。レッドパージ以後の戦後反動期ともなれば、なおさらのことで、就職にも差支えがあったはずだ。

 美文調の、論理的には非常に分りにくい「手記」の最後は、次のようになっていた。

「私は党内党外の真摯な青年諸君の批判と審判を待つのみである」

 わたしは再び、本書を公開質問状として読売に提示する。直接取材、または対決によって、渡辺社長自身の口から、事実経過の確認を得たい。


あとがき


 読売vsTBSの訴訟合戦そのものは、わたしの予測通りに、裁判所の職権和解で終った。

 TBS側は「表現方法に誤りがあった」とだけ認め、読売の顔を立てたのだが、読売は紙面(95・1・14)で「覆されたTBS側主張」などと、デカデカ大見出しの「手前味噌」報道をした。しかし、TBSの関係者は現在でも、「取材した事実には確信を持っている」と明言する。

 TBSが取材でえた情報によれば、読売が佐川急便に売った六三〇坪の土地の当時の相場は約一五八億円、読売新聞が大阪市に届け出た売買価格は約二〇二億円である。佐川急便会長、佐川清の肉声談話によれば二六〇億円で売ったことになっている。この数字をTBSは撤回していない。

「渡辺社長は、[中略]今回のわたしどもの記者の取材にたいしては、佐川だからといってなんでも報道するのは『魔女狩りだ』と語気を強め、そして、ここで申し上げるのははばかられるような言葉をいわれたそうです。記者は『一生の間に、こんなに沢山罵詈雑言を浴びたことはなかった』とこぼしております」というのが、TBS「ニュース23」のキャスター、筑紫哲也のコメントである。

「こんなに沢山罵詈雑言」の真相に関しては、「チンピラ!」とか「貴様なんか殺してやる!」というのがナベツネこと渡辺恒雄社長の常用語だという情報があった。これについても、わたしは、拙著『マスコミ大戦争/読売vsTBS』の中で読売への公開質問の主要題目として明記し、本人からの回答を求めたが、返事はない。ある雑誌記者は、「ナベツネにインタヴューしたときには、ファッシズムを感じた」と語っている。ことが自分自身の問題ともなると、さらに本性がむきだしになるのではないだろうか。

「魔女狩り」という台詞は、前にも出てきた。児玉フィクサーとの疑惑を突かれた際にも、渡辺は、これを使っている。これが渡辺の「哲学」的学識の一端なのであろうか。渡辺の居直りは、ヨーロッパ中世の「魔女狩り」の歴史を歪めて利用している。まさに犯罪的な悪質さである。

 おりから政府は、一九九六年度予算案に、「住宅専門金融会社」(住専)のバブル処理費、六七五〇億円の支出を盛りこみ、これに反発する世論が沸騰中である。バブル崩壊後、こともあろうに政界疑惑の中心的存在だった佐川急便に自社の土地を売った企業、それが現在の読売なのである。そんな汚れたメディアに、疑惑企業やバブル処理の政財界の批判ができるはずがない。

 かつてはNHKが、「電波が空中に消え失せる」のを良いことにして、一般視聴者からの批判を「小石のごとく無視する」といわれた。たとえ短期間であろうとも、多数派の大衆を「大本営発表」でだましおおせ、「聖戦」を継続することができれば、それで与えられた任務は果たせるのだ。

 それこそが大手メディアのデマゴギー的本質の露骨な表われであろう。読売も、渡辺自身も、そういう姿勢の世渡りを続ける気なら、こちらは「一寸の虫にも五分の魂」または「点滴岩をもうがつ」という精神で、いずれ必ず勝利する「歴史の真実」を、書き続けるまでのことである。

 昨年は戦後五〇年だったが、今年からも毎日を、日本のメディア検証の本番と心得ている。

 一九九五年一月五日
                                木村 愛二


資料


資料「まぼろしの読売社説」(23・11・7)

   支那(ママ)人惨害事件

     一、

 朝鮮人及びこれに伴うて我が日本人まで殺傷を被るものがあった事件は、大杉其他の暴殺事件と共に、日本民族の歴史に一大汚点を印すべきものであることは、繰返して此に言うまでもない。然るに朝鮮人以外に多数の支那人が同様の惨害を被っている事実があることは、それよりも大なる遺憾事である。しかもその事件の発生以後二ヵ月を経る今日まで我が政府は何らこれに関する事実をも将(は)たこれに対する態度をも明らかにしていない。吾人はなるべく我が政府が自発的に行動をとらん事を希望して今日に至ったが、国民の立場として何時(いつ)までもこれを黙視するわけにはゆかぬ。

     二、

 大地震の当時及びその以後、京浜地方に於て日本人のために惨害を被った支那人は、総数三百人くらいにのぼるであろうとの事である。就中(なかんずく)最も著大に最も残虐な事実は、九月五日府下南葛飾郡大島町の支那人労働者合宿所において多数の支那人が何者にか鏖殺(おうさつ)され、また同月九日右支那人労働者の間に設けられた僑日共済会の元会長王希天も亀戸署に留置された以後生死不明となったという事実である。これらの事実は主として支那人側、就中我が政府の保護を受けて上海に送還された被害者中の生存者から漏泄(ろうせつ)されたものである。したがってその内、どの点までが事実であるかはなお明確でないが、とにかく多数の支那人が惨害を被って生死不明である事は事実である。

     三、

 しかして右大島町の惨事は九月五日から九日前後までの間に起こり、今日に至るまで既に二ヵ月を経過している。右の事実はこれを人道上、国際上より観(み)、就中我と善隣の誼(よし)みある支那との関係であるだけ、重大なる外交問題であることは言を俟(ま)たぬ所であるが、退いてこれを我が国内における司法警察の眼より観ても、同様に否むしろそれ以上に重大なる内政問題である。しかるに右重大事件が先ず相手国の支那において問題とせられるまで、我が内務及び司法の官憲は果してその知識を有していたか否かをも疑われ、乃至既に支那において問題とされた今日までなおその真相を明らかにしないという事実のあるのは実に一大失態である。

     四、

 本事件は内政関係は鮮人(ママ)事件、甘粕事件と同一の原則に依り、あくまで厳正なる司法権の発動を待ち、もって我が国内の法律秩序を維持回復する意義に於いて最も重大である。同時にその外交関係はその事実を事実と認めて男らしくこれに面して立ち、出来得るだけ自ら進んで真相を明かにし、その犯行に対してはあくまで法の厳正なる適用を行い、もって内自らその罪責を糾正し、それによって、対支那政府と国民とに謝するの外はない。幸いに支那政府国民は今回の惨害が天変地異と相伴うて起こった不幸の出来事であるのに対し、多少の寛仮(かんか)と諒恕(りょうじょ)とをば有し、就中心ある者はこれによって震災以後折角(せっかく)湧起した両国の好感を根本から破壊することのないようにと考えていてくれるものすらあるようである。

     五、

 吾人は本事件のため内外に向って困難の間に立たしめられた内務並びに外務の当局に対し十分にその苦心を諒とする。蓋(けだ)しおよそ国民の中に起った事柄は先ずその国民自身が根本の責任を負うべきものであるからである。さりながら政府当局者としては、もちろんその当面の責任をば免れぬ。しかして本事件に対する政府の責任は他の朝鮮(ママ)事件、甘粕事件同様、我が陸軍においてその大部分を負担すべきはずである。何となれば、これらの事件は、すべて戒厳令下に起った事柄であるからである。もし陸軍にして司法内務並びに外務の当局者と十分なる協調を保ち、共同の事件調査と責任分担をなさざる限り、司法内務は行きづまりとなり、外務は立往生となるの外ない。しからばその結果、最後の責任は我が国民自身が直接にこれを負担せねばならぬことになる。故に吾人は我が国民の名において最後にこれをその陸軍に忠言する。

(仁木注……九月五日は九月三日の誤植)


主要参考資料

(新聞は本文に記載。とくに重要な資料に限り、各関係項目に重複記載)


(1) 新聞・ジャーナリズム関係一般(国際)

『報道・権力・金/岐路に立つ新聞』(ジャン・シュヴーベル、井上日雄・鈴木博訳、サイマル出版会、1968)
『新聞の危機/その病理性と未来性』(ピエール・ルパップ、勝岡宣訳、サイマル出版会、1972)
『世論操作』(ハーバート・I・シラー、斉藤文男訳、青木書店、1979)
『第四の権力/深まるジャーナリズムの危機』(ジャン=ルイ・セルバン=シュレベール、岡山隆・勝俣誠訳、日本経済新聞社、1978)
『世界の新聞・通信社』(小糸忠吾、理想出版社、マスメディア・シリーズ 5.6、I「激動の第三世界と大国のマスメディア」1980、II「超大国・米国・ソ連のマスメディア」1981)
『メディアの権力』(1)~(3)(D.ハルバースタム、筑紫哲也ほか訳、サイマル出版会、1983)
『ヨーロッパの新聞』(上下、江尻進ほか、日本新聞協会、新聞文庫/世界の新聞シリーズ2、3、1983)
『新訂アメリカの新聞』(橋本正邦、日本新聞協会、新聞文庫/世界の新聞シリーズ1、1988)
『ドラムから衛星まで/ニュースの歴史』(ミッチェル・スティーヴンス、笹井常三/引野剛司訳、心交社、1990)
『イエロー・キッズ/アメリカ大衆新聞の夜明け』(ジョイス・ミルトン、仙名紀訳、文藝春秋、1992)
『ジャーナリズムの倫理』(マイケル・クロネンウェッター、渡辺武達訳、新紀元社、1993)
『アメリカ・ジャーナリズム』(下山進、丸善ライブラリー146、1995)

(2) 新聞・ジャーナリズム関係一般(国内)

『日本新聞年鑑』(新聞研究所、1924, 1925年版)
『日本新聞発達史』(五月書房、1982復刻版、小野秀雄、大阪毎日・東京日日、初版1936)
『日本新聞百年史』(日本新聞百年史刊行会、1960)
『日本戦争外史/従軍記者』(全日本新聞連盟、1965)
『新聞史話』(内川芳美、社会思想社、1967)
『経済評論』「新聞産業の経済分析」(高木教典、「(1)全国紙と地方紙の競争と集中」1967.07,「(2)販売競争と広告収入」同10,「(3)新聞産業における技術革新・合理化」同11)
『マス・コミ産業』(改訂増補版、瓜生忠夫、法政大学出版局、1968)
『新聞販売百年史』(日本新聞販売協会、1969)
『日本新聞通史』(春原昭彦、新泉社、1969)
『日本マス・コミュニケーション史』(山本文雄編著、東海大学出版会、1970)
『現代史資料(41)』「マスメディア統制/新聞指導方策について」(内川芳美編、みすず書房、1975)
『知識人・言論弾圧の記録/昭和史の発掘』(黒田秀俊、白石書店、1976)
『新聞の秘密』清水勝人、日本評論社、1978)
『ジャーナリズム』(新井直之、東洋経済新報社、1979)
『新聞戦後史』(新井直之、双柿舎、1979)
『桐生悠々自伝/新装版』(太田雅夫、現代ジャーナリズム社、1980)
『宝石』「『新聞の正義』の裏側/告発レポート=大新聞よ、また庶民を欺くのか!?」(千田夏光、1980.10)
『創』「大新聞社の80年代戦略を撃て!!」(1980.10)
『新聞の犯した戦争責任』(池田一之、経済往来社、1981)
『宝石』「新聞自滅の道」(内藤国夫、1981.10)
『戦争とジャーナリズム』上下(茶本繁正、三一書房、1984)
『戦時下の新聞・放送』(宮本吉夫、エフエム東京、シリーズ昭和裏面史3、1984)
『明治新聞雑誌関係者略伝』(宮武外骨/西田長壽、みすず書房、明治大正言論資料集(20)、1985)
『日本軍占領下のシンガポール』(新聞・放送の項あり、許雲樵・蔡史君編著、田中宏・福永平和訳、青木書店、1986)
『本邦新聞の起源』(新版、鈴木秀三郎、ぺりかん社、1987)
『戦時下のジャーナリズム』(高橋隆治、新日本出版社、1987)
『かわら版物語/江戸時代マスコミの歴史』(新装版、小野秀雄、雄山閣、雄山閣Books(23)、1988)
『日本ジャーナリズム史研究』(西田長壽、みすず書房、1989)
『物語・萬朝報』(高橋康雄、日本経済新聞社、1989)
『兵は凶器なり/戦争と新聞 1926-1935』(前坂俊之、社会思想社、1989)
『現代の新聞』(桂敬一、岩波新書、1990)
『言論死して国ついに亡ぶ/戦争と新聞 1936-1945』(前坂俊之、社会思想社、1991)
『新聞の歴史/権力とのたたかい』(小糸忠吾、新潮選書、1992)
『報道協定/日本マスコミの緩慢な自死』(丸山昇、第三書館、1992)
『徳富蘇峰と国民新聞』(有山輝雄、吉川弘文館、1992)
『メディアの迷走/誇りなき報道が国を亡ぼす』(粕谷一希、PHP研究所、1993)
『メディアの曙/明治開国期の新聞・出版物語』(高橋康雄、日本経済新聞社、1994)
『新聞学』(第3版、稲葉三千男ほか編、日本評論社、1995)
『涙香外伝』(伊藤秀雄、三一書房、1995)
『現代新聞批判』(1)~(7)「解説・総目次・索引」(現代新聞批判社刊の復刻版、門奈直樹、不二出版、1995)
『一九四五年/マニラ新聞/ある毎日新聞記者の終章』(南條岳彦、草思社、1995)
『新聞が日本をダメにした/太平洋戦争煽動の構図』(石田收、現代書林、1995)
『週刊金曜日』「大新聞・通信社によるアジア侵略」(1)~(4)(浅野健一、1995.09.01~22)

(3) 読売以外の大手紙の社史、歴史関係

『毎日新聞七十年』(毎日新聞社、1952)
『日本経済新聞九十年史』(日本経済新聞社、1966)
『朝日新聞の九十年』(朝日新聞社、1969)
『毎日新聞百年史』(毎日新聞社、1974)
『「毎日新聞」研究』(日本ジャーナリスト会議編、汐文社、1977)
『別冊新聞研究』「伊豆富人談」((4)1977.03 )
『別冊新聞研究』「大西利夫談」((5)1977.10 )
『或る戦後史/『朝日新聞』の軌跡』(田中哲也、汐文社、1978)
『新聞販売概史』(新聞販売協会、1979)
『新聞労働運動の歴史』(新聞労連編、大月書店、1980)
『私の朝日新聞社史』(森恭三、田畑書店、1981)
『朝日新聞労働組合史』(朝日新聞労働組合、1982)
『日本新聞協会四十年史』(日本新聞協会、1986)
『日本経済新聞 110年史』(日本経済新聞社、1986)
『毎日新聞の源流/江戸から明治/情報革命を読む』(今吉賢一郎、毎日新聞社、1988)
『朝日新聞社史』(朝日新聞社、1995、社内版は(1)明治編1990、(2)大正・昭和戦前編1991、(3)昭和戦後編1994、(4)資料編1995)
『ドキュメント産経新聞私史』(高山尚武、青木書店、1993)

(4) 読売関係

『一九一九年』(日本評論社、再版1947、『ある青春の群像』改題、青野李吉、新興芸術社、初版1930)
『サラリーマン恐怖時代』(青野李吉、先進社、1930)
『日本共産党闘争小史』(市川正一、大月書店、1954、初版1932)
『U新聞社年代記』(上司小剣、中央公論社、1934)
『新聞太平記』(赤沼三郎、雄鶏社、1950)
『新聞太平記』(御手洗辰雄、鱒書房、1952)
『東洋経済新報別冊』「読売新聞と元社長」(進藤光治、1952.03)
『読売新聞八十年史』(読売新聞社、1955)
『読売新聞風雲録』(原四郎編、鱒書房、1955)
『文芸』「『社会主義』より『プロレタリア』へ」(青野李吉対談、1955.11)
『最後の事件記者』(三田和夫、実業之日本社、1958)
『大人になれない事件記者』遠藤美佐雄、森脇文庫、1959)
『新聞記者一代』(高木健夫、慶昌堂、1962)
『二丁目角の物語』(子母沢寛、文藝春秋新社、1963)
『現代の眼』「読売新聞の内幕」(三田和夫、1965.09)
『週刊文春』「配置を終えた“大正力”一族勢力分布図』(1969.03.03)
『軍事研究』「読売新聞の内幕」(三田和夫、1969.06~12)
『財界』「正力御曹司、読売新聞社主に就任の事情」(1970.06.15)
『日本の赤い星』(三好徹、講談社、1973)
『読売新聞・風雲の紳士録』(高木健夫、読売新聞社、1974)
『早く高く勝利を/報知闘争の記録』報知系三単組共闘会議編、労働旬報社、1976)
『読売新聞百年史』(資料編含む、読売新聞社、1976)
『別冊新聞研究』「花田大五郎談」((2)1976.04 )
『創』「マスコミ再編の仕掛人・『読売新聞社』研究」(清水正三、1976.06)
『現代』「生き残り宰相・岸信介(9)インドネシア賠償の内幕」(岩川隆、1976.09)
『現代』「日本一の解剖/読売新聞と務台光雄を裸にする」(グループ915、1978.03)
『読売王国の新聞争議/報知10年戦争と読売人事の抗争』(漆崎賢二、日本ジャーナル出版、1979)
『現代』「最強の読売グループをゆるがす重大事態」(グループ915、1979.02)
『別冊新聞研究』「大角盛美談」((8)1979.03)
『創』「世界一読売のトップを狙う実力者群像」(小田桐誠、1980.10)
『創』「新聞界の変貌と多様化」(1981.10)
『週刊現代』「情報帝国『読売』の超力と野望」(1)~(5)(真鍋繁樹、1982.05.01~06.05)
『読売新聞ヒラ記者25年』(遊佐雄彦、幸洋出版、1983)
『現代』「『世界一の情報集団』を剥ぐ/巨人軍と読売王国の野望」(1)~(3)(上之郷利昭、1983.09 ~12)
『読売王国/世界一の情報集団の野望』(上之郷利昭、講談社、1984)
『創』「“情報帝国”読売・日本テレビグループの全貌」(1984.04)
『噂の真相』「内部抗争が囁かれる読売グループを覆う暗雲の数々」(近藤純、1986.09)
『別冊新聞研究』「原四郎談」(1989.03)
『読売梁山伯の記者たち』(三田和夫、紀尾井書房、1991)
『読売新聞百二十年史』(読売新聞社、1994)
『諸君』「日本共産党最後の『偶像』が墜ちた」(下里正樹、1995.10)

(5) 戦後読売争議関係

『敗戦秘史・戦争責任覚え書』(長文連、自由書房、1946)
『自傳點描』(馬場恒吾、東西文明社、1952)
『特集文藝春秋』「血戦!読売ストライキ」(鈴木東民、1956.12)
『労働運動史研究』「第一次読売争議史」(増田太助、労働旬報社、53号、1970)
『労働運動研究』「読売争議の真相」(1946年に『真相』誌で掲載禁止の原稿、『真相』編集部、労働運動研究所、1971.01)
『労働運動史研究』「第二次読売争議史」上下(増田太助、労働旬報社、54号1972、55・56合併号1973)
『戦後危機における労働争議/読売争議』(東京大学社会科学研究所、資料第6集、1972)
『戦後労働運動史』(斉藤一郎、社会評論社、1974)
『読売争議/1945-1946』(増山太助、亜紀書房、1976)
『読売争議(一九四五・一九四六)』(山本潔、お茶の水書房、戦後労働運動史論第2巻、1978)
『レッド・パージ』(梶谷善久編著、図書出版社、1980)
『一九五〇年七月二八日/朝日新聞社のレッドパージ証言録』(朝日新聞社レッドパージ証言録刊行委員会編、晩聲社、1981)
『戦後マスコミ回遊記』(柴田秀利、中央公論社、1985)
『反骨/鈴木東民の生涯』(鎌田慧、講談社、1989)
『回想の読売争議/あるジャーナリストの人生』(宮本太郎談、新日本出版社、1994)

(6) ヤクザ拡張販売関係

『新聞研究』「拡張戦と新聞販売店/ある販売店の実態調査」」(岩倉誠一、1955.06)
『マスコミ』「日本新聞界とABC運動」(1960.07)
『週刊ポスト』「新聞戦争の驚くべき裏側/罵詈雑言を浴びせ合う朝日・読売の大新聞の良識」(1976.05.14)
『マスコミひょうろん』「販売正常化のできないウラの事情』(長江治夫、1976.09)
『現代』「ブロック・地方10紙vs全国紙の血みどろ抗争」(新井直之・グループ915、1978.01)
『世界』「新聞をめぐる競争と法」(正田彬、1978.09)
『現代』「大新聞拡売競争を逆手にとろう」(片岡正己、1979.12)
『週刊文春』「新聞販売戦争追及」(1)~(3)(1980.03.06~20)
『週刊文春』「『インテリが作り、ゴロツキが売る』を実証した朝日新聞拡張団『共和会』刺殺事件」(1980.08.21)
『週刊文春』「購読を断ったら『信用毀損』と内容証明をつきつけられた朝日新聞読者」(1980.09.04)
『週刊現代』「激突必至!『朝日新聞築地移転』で爆発する紙面拡販の大戦争」(1980.09.04)
『週刊文春』「元朝日新聞小堀拡販団小堀恒光社長が告白する『新聞の恥部』」(1)~(3)(1980.10.16~30)
『宝石』「新聞販売の構造腐敗を衝く!」(1)~(3)(内藤国夫、1081.05,07,10)
『週刊現代』「読売vs朝日戦争従軍レポート」(1)~(4)(小板橋二郎、1981.07.16~08.20)
『総合ジャーナリズム研究』「公取委の『調査』と新聞業界正常化」(清水勝人、1981夏)
『週刊文春』「なぜ新聞に一行も出ないのか/読売新聞拡販団長が/ピストル二〇〇丁密輸で逮捕!」(1981.09.10)
『現代』「マスコミの帝王小林与三次の『新聞戦争』宣言」(生田忠秀、1981.10)
『週刊ポスト』「朝日vs読売/仁義なき拡販戦争に住民のこの“見識”」(1981.10.02)
『週刊現代』「朝日・読売・毎日ほか/まだ紙面拡販で勝負する大新聞のトクな買い方研究」(1981.12.03)
『宝石』「読売・朝日“正常化”の大激論」(内藤国夫、1982.01)

(7) 内務省・警察関係

『内務省史』(1)~(4)(大霞会編、地方財務協会、1971)
『子爵清浦奎吾伝』(後藤武夫、日本魂社、1924)
『警察部長会議における内務省大臣訓話要旨集』内務省警保局、1927)
『伯爵清浦奎吾伝』上下(井上正明、伯爵清浦奎吾伝刊行会、1935)
『奎堂夜話』(清浦奎吾談、日本青年協会編、今日の問題社、1938)
『官庁物語』(東京新聞社、1958)
『文藝春秋』「再編成する旧内務官僚」(松本清張、1964.01)
『松本清張』全集(31)「警察官僚論」(松本清張、文藝春秋、1973)
『日本の政治警察』(大野達三、新日本新書、1973)
『警備公安警察の素顔』(大野達三、新日本新書、1988)

(8) 後藤新平関係

『後藤新平論』(山口四郎、統一社、1919)
『後藤新平一代記』(澤田謙、平凡社、1929)
『吾等の知れる後藤新平伯』(東洋協会、1929)
『後藤新平』(1)~(4)(鶴見祐輔編著、後藤新平伯伝記編纂会、1937)
『政治の倫理化』(後藤新平、大日本雄弁会講談社、1926)
『日本植民政策一斑/日本膨脹論』(後藤新平、日本評論社、1944)
『満鉄に生きて』伊藤武雄、勁草書房、1964)
『関東軍/在満陸軍の独走』(島田俊彦、中央公論社、中央新書、1965)
『現代史資料』(31)~(33)「満鉄」(1)~(3)(みすず書房、1966~1967)
『「大東亜共栄圏」の形成と崩壊』(小林英夫、御茶の水書房、1975)
『実録満鉄調査部』(草柳大蔵、朝日新聞社、1979)
『満鉄調査部とアジア』(原覺天、世界書院、1986)
『回想満鉄調査部』(野々村一雄、勁草書房、1986)
『私と満州国』(武藤富男、文藝春秋、1988)
『満州近現代史』(王魁喜・常城・李鴻文・朱建華、志賀勝訳、現代企画室、1988)
『日本植民地研究史論』(浅田喬二、未来社、1990)
『天辺の椅子』(古川薫、毎日新聞社、1992)
『アジア侵略の100年/日清戦争からPKO派兵まで』(木元茂夫、社会評論社、1994)
『台湾支配と日本人/日清戦争 100年』(又吉盛清、同時代社、1994)

(9) 阿片政策関係

『支那阿片問題解決意見』(大内丑之助、1917)
『蒙疆ニ於ケル罌粟阿片』(蒙古自治邦政府経済部、1943)
『陸軍葬儀委員長/支那事変から東京裁判まで』「阿片の商標日の丸」(池田純久、日本出版協同、1953)
『人物往来』「麻薬と戦争/日中戦争の秘密兵器」(山内三郎、1965.09)
『戦争と日本阿片史』(二反長半、すばる書房、1977)
『十五年戦争史序説』「もう一つのアヘン戦争」(黒羽清隆、三省堂、1979)
『皇軍“阿片”謀略』(千田夏光、汐文社、1980)
『台湾統治と阿片問題』(劉明修、山川出版、1983)
『阿片と大砲/陸軍昭和通商の七年』(山本常雄、PMC出版、1985)
『資料日中戦争期阿片政策』(江口圭一編、岩波新書店、1985)
『続・現代史資料 阿片問題』(岡田芳政ほか編、みすず書房、1986)
『続・現代史資料月報』「阿片戦争と私の体験」(岡田芳政、1986.06)
『日中アヘン戦争』(江口圭一、岩波新書、1988)

(10) 関東大震災関係
『大正大震火災誌』(改造社、1924)
『大正大震火災誌』(警視庁編、1925)
『新聞生活三十年』(斉藤久治、新聞通信社、1932)
『日本の歴史』(12)『岡田章雄ほか編、読売新聞社、1960)
『関東大震災における朝鮮人虐殺の真相と実態』李珍桂、朝鮮大学校、1963)
『現代史資料』(6)「関東大震災と朝鮮人」(姜徳相・琴乗洞編、みすず書房、1963)
『思想』「関東大震災下の朝鮮人虐殺事件」(松尾尊兌、上1963.09、下1964.02)
『関東大震災』(中島陽一郎、雄山閣、1973)
『歴史の真実/関東大震災と朝鮮人虐殺』(関東大震災五十周年朝鮮人犠牲者追悼行事実行委員会編、現代史出版会、1975)
『甘粕大尉』(角田房子、中公文庫、1979、初版1975)
『別冊新聞研究』「石井光次郎談」((5)1977.10 )
『関東大震災と王希天事件/もうひとつの虐殺秘史』(田原洋、三一書房、1982)
『将軍の遺言/遠藤三郎日記』(宮武剛、毎日新聞社、1986)
『亀戸事件/隠された権力犯罪』(加藤文三、大月書店、1991)
『関東大震災/中国人大虐殺』(仁木ふみ子、岩波ブックレッNo.217,1991)
『震災下の中国人虐殺/中国人労働者と王希天はなぜ殺されたか』(仁木ふみ子、青木書店、1993)
『ドキュメント関東大震災』(現代史の会編、草風館、1993)
(11) その他の歴史的背景関係等

『原敬日記』(1)~(9)(原敬、乾元社、1950)
『この自由党』(復刻1976、前編・民衆なき政治「幻の地下帝国シリーズ I」、後編・祖国なき政治「幻の地下帝国シリーズ II」、板垣進助、晩聲社、初版1952)
『回顧八十年』藤原銀次郎述、下田将美、河出市民文庫、1953)
『スキャンダル』(岡倉古志郎、光文社、1957)
『ニッポン日記』(マーク・ゲイン、井本威夫訳、筑摩書房、1963)
『財界奥の院』(大野達三、新日本出版社、1967)
『知られざる支配者たち』(大野達三、新日本新書、1967)
『自民党疑獄史』(現代政治問題研究会編、現代評論社、1973)
『疑獄 100年史』(松本清張編、読売新聞社、1977)
『日本の地下人脈』(岩川隆、光文社、1983)
『日ソ政治外交史/ロシア革命と治安維持法』(小林幸男、有斐閣、1985)
『中国からみた日本近代史』(劉恵吾・劉学照、横山宏章訳、1987)
『十五年戦争史』(1)~(4)(藤原彰・今井清一編、青木書店、1988~1989)
『シベリア出兵/革命と干渉 1917-1922』(原暉之、筑摩書房、1989)
『日本近代史の虚像と実像』(1)~(4)(藤原彰・今井清一・宇野俊一・粟屋憲太郎編、大月書店、1989~1990)
『日本同時代史』(1)~(5)(歴史学研究会編、青木書店、1990~1991)
『極東共和国の興亡』(上田秀明、アイペックプレス、1990)
『岩波講座/近代日本と植民地』(2)~(4)(大江志乃夫ほか、岩波書店、1992~1993)
『近代日本の軌跡』(3)「日清・日露戦争」(4)「大正デモクラシー」((3)井口和起編、(4)金原左門編、吉川弘文館、1994)
『大正デモクラシー』(松尾尊兌、岩波書店、同時代ライブラリー、1994)
『GHQ検閲官』(甲斐弦、葦書房、1995)

(12) 正力松太郎関係

『経済往来』「正力松太郎と読売新聞」(赤井清一、1930.03)
『近世日本社会運動史』(菊池次郎、白揚社、1934)
『現代ジャアナリズム論』(杉山平助、白揚社、1935)
『経済往来』「現代新聞論』(正力松太郎、1935.07)
『日本評論』「読売を築き上げるまで」正力松太郎、1936.01)
『文藝春秋』「新聞人第一歩』(正力松太郎、1937.01)
『日本評論』「正力松太郎」(O.S.A.,1940.07)
『笹川良一の見た巣鴨の表情/戦犯戦中秘話』(笹川良一述、櫻洋一郎編、大阪文化人書房、1949)
『ダイヤモンド』「気焔万丈」(正力松太郎対談、1951.02.21)
『悪戦苦闘』(正力松太郎談および上記「気焔万丈」、大宅壮一編、早川書房、1952)
『東洋経済新報別冊』「読売新聞と元社長」(進藤光治、1952.03)
『伝記正力松太郎』(御手洗辰雄、講談社、1955)
『塩野李彦回想録』(松坂廣政代表編集、非売品、1958)
『テレビと正力』(室伏高信、講談社、1958)
『創意の人』(片柳忠男、オリオン社、1961)
『20世紀を動かした人々』(15)「マスメディアの先駆者」「正力松太郎」(高木教典、講談社、1963)
『創意の人/正力松太郎言行録』(片柳忠男、オリオン社、1964)
『プロ野球の父・正力松太郎』(五十野公一、鶴書房、1966)
『週刊文春』「大宅壮一人物料理教室/世界一が好きな大風呂敷の中身」(正力松太郎対談、1965.04.19)
『正力松太郎の死後にくるもの』(三田和夫、創魂出版、1969)
『叛骨の人生』品川主計、恒文社、1975)
『回想八十八年』(石井光次郎、カルチャー出版、1976)
『週刊文春』「ニューヨークタイムズ『正力松太郎はCIA関係者』を追って浮かび上がってきた事実」(1976.04.22)
『サンデー毎日』「疑惑のCIA](1976.04.25)
『宝石』「読売新聞から社主『正力家』の消える日」(広瀬仁紀、79.7)
『日本の暗黒/実録・特別高等警察第3部/虎徹幻想』(森村誠一・下里正樹・宮原一雄、1991)
『巨怪伝/正力松太郎と影武者たちの一世紀』(佐野眞一、文藝春秋、1994)

(13) 務台光雄関係

『執念』(武井博友、大自然出版局、1971)
『闘魂の人/人間務台と読売新聞』(松本一郎、地産出版、1974)
『現代』「読売新聞と務台光雄を裸にする」(グループ915、1978.03)
『経済界』「“務台留任”で固まった?読売新聞トップ交代の真相」(秋場良宣、1979.04.24)
『現代』「全マスコミをまきこむ朝日グループvs読売グループ大戦争の内幕」(結城三郎、1979.12)
『現代』「務台光雄と渡辺誠毅の新戦争」(片岡正己、1980.11)
『別冊新聞研究』「務台光雄談」(1981.10 )
『新聞の鬼たち/小説務台光雄(むたいみつお)』(光文社文庫、1994、大下英治、初出『月刊宝石』1982.09~1983.08)

(14) 小林与三次関係

『部落町内会指導叢書第一二集/地方制度の改正』(小林与三次、内務省地方局自治振興中央会、1944)
『自治研究』「自治省の発足をめぐって」(小林与三次、1960.07)
『自治運営第十二章』(小林与三次、学陽書房、1963)「自治雑記」(小林与三次、『自治時報』1964.01~『地方自治』1965.5~連載35回)
『財界』「国会の“遊論”をなげく小林与三次の“憂論”」(小林与三次対談、ホスト高橋圭三、1976.04.01)
『中央公論』「行革の幻影か/内務省の復活」(生田忠秀、1981.06)
『現代』「小さな政府『私の提案』」(小林与三次談、1981.07)
『現代の眼』「小林与三次/正力ファミリーに食い込んだ内務官僚上りの辣腕」(石井清司、1981.10)
『財界』「“世界一新聞”読売新聞の新社長/小林与三次という男」(針木康雄、1982.01)
『日中関係と外政機構の研究/大正・昭和期』「興亜院設置問題」(馬場明、原書房、1983)

(15) 渡辺恒雄関係

『日本共産党決定・報告集』(人民科学社、1948)
『資料学生運動1』(三一書房、1968)
『週刊読売』「水爆インタビュー/怪物・児玉誉士夫が初めて明かす大角~三福戦争の内幕」(渡辺恒雄対談、1974.08.03)
『週刊読売』「水爆インタビュー/ゲスト児玉誉士夫氏/天皇陛下に右翼の怪物があえて“四つの直言”」(渡辺恒雄対談、1974.08.24)
『権力の陰謀』(緒方克行、現代史出版会、1976)
『週刊朝日』「これが黒幕(くろまく)・児玉誉士夫の手口だ!!/『高官』実名入り手記『権力の陰謀』が明かすその実態」(1976.03.26)
『週刊ポスト』「噂の大物新聞記者を狼狽させるロッキード事件の新局面」(1976.03.26)
『週刊新潮』「ポルノ俳優に特攻体当たりされた『憂国の士』児玉の凋落ぶり」(1976.4.1)
『週刊文春』「読売新聞政治部長渡辺恒雄氏“大実力記者”が黒幕の工作員と名指されて/ライバル社の『週刊朝日』に掲載された児玉との深い関係」(1976.4.1)
『週刊読売』「“魔女狩り”的報道に答える/私の見た児玉誉士夫」(渡辺恒雄、1976.4.3)
『現代』「渡辺恒雄/読売新常務の多彩な履歴」(片岡正己、1980.09)
『宝石』「渡辺恒雄読売新聞専務論説委員長の中曽根総理への密着度』(大下英治、1983.09)
『文藝春秋』「読売新聞専務渡辺恒雄の本籍は『政治』である」(杉山隆男、1984.01)
『噂の真相』「中曽根危機で注目される読売ナベツネ路線の『内情』と『行方』」(岡田賢吉、1987.6)
『小説・政界陰の仕掛人』「最後の派閥記者/渡辺恒雄」(大下英治、角川書店、1990)
『読売梁山泊の記者(ぶんや)たち』(三田和夫、紀尾井書房、1991)
『週刊朝日』「不可解???/ 200億/火の車佐川急便がナベツネ読売の土地を買ったワケ」(1992.03.06)
『サンデー毎日』「TBSが『告発』した読売新聞の『土地疑惑』」(1992.03.08)
『週刊新潮』「『読売』『TBS』名誉戦争の大トバッチリ」(1992.03.12)
『週刊朝日』「プロ野球を人質にした読売ナベツネの“暴投”」(1992.03.13)
『朝日ジャーナル』「座談会/ジャーナリズムを衰退させた『ナベツネの恐怖政治』」(1992.03.13)
『フォーカス』「面白くなった『TBS 』vs『読売』大抗争の見所』」(1992.03.13)
『創』「新聞・放送・雑誌記者匿名座談会/佐川急便事件マスコミ報道合戦の舞台裏」(1992.04)
『週刊新潮』「対『読売』戦争で敏腕記者に裏切られた『TBS』」(1992.04.16)
『月刊民放』「記者の質向上をめざし取材開始/佐川疑惑と『報道特集』/調査報道の手法で功奏す」、(TBS社会部デスク・川邊克朗、1992.05)
『噂の真相』「佐川急便に群がった読売を中心としたマスコミの不浄度を剥ぐ!」(同誌特別取材班、1992.05)
『朝日ジャーナル』「どこまで許される?政治家への『疑惑報道』」(1992.05.29)
『マスコミ市民』「佐川と読売・巨額土地取引にみる読売新聞渡辺恒雄社長の本質」(佐久間準、1992.06)
『女性自身』「大いに吠える!僕の放言人生」(文/加藤賢治、取材/堀ノ内雅一、1992.07.21)
『噂の真相』「読売新聞の首領渡辺恒雄の黒い人脈と疑惑を追跡!」(同誌特別取材班、1992.08)

(16) 広告関係

『砦にひるがえる旗/正路喜社闘争この六年』(全国一般正路喜社労組編、「正路喜社闘争」共闘委員会、1967)
『日本広告産業発達史研究』(中瀬寿一、法律文化社、1968)
『広告解体新書/その深部からのレポート』(末次静二編、風濤社、1975)
『日本広告発達史』上下(内川芳美編、電通、上1976、下1980)
『語りつぐ昭和広告証言史』(渋谷重光、宣伝会議選書、1978)
『創』「変貌する広告戦略の行方」(1981.07)

(17) 放送関係一般

『逓信事業史』(4)(逓信省、1940)
『ラジオ産業廿年史』(岩間政雄編、無線合同新聞社事業部、1944)
『電気研究所二十五年史』(東京都電気研究所、1950)
『日本無線史』(7)(電波監理委員会、1951)
『日本放送史』(日本放送協会、1951、文中、一九五一年版)
『東洋経済新報別冊』「揺らぐ電波王国NHK」(間郁夫、1952.03)
『逓信史話』上(逓信外史刊行会、1961)
『民間放送十年史』(日本民間放送連盟、1961)
『燃えろ!アンテナ/放送の現状と未来像/第一回放送研究集会の記録』(中村紀一編、七曜社、1963)
『電気研究所四十年史』(東京都電気研究所、1964)
『日本放送史』(日本放送協会、1965、文中、一九六五年版)
『東京放送のあゆみ』(東京放送、1965)
『インサイドレポート/知られざる放送/この黒い現実を告発する』(波野拓郎、現代書房、1966)
『世界のテレビジョン』(ウィルソン・P.ディザード、津川秀夫訳、現代ジャーナリズム出版会、1968)
『映像の帝国/アメリカ・テレビ現代史』(エリック・バーナウ、岩崎昶訳、サイマル出版会、1970)
『放送法制の再編成/その準備過程』(奥平康弘、東京大学出版会、『戦後改革』(3)「政治過程」所収、1974)
『放送五十年史』(資料編別冊、日本放送協会、1977)
『放送の五十年/昭和とともに』(NHK編、日本放送協会、1977)
『資料・占領下の放送立法』(放送法制立法過程研究会編、東京大学出版会、1980)
『放送戦後史』(松田浩、双柿舎、上「知られざるその軌跡」1980、下「操作とジャーナリズム」1981)
『民間放送三十年史』(日本民間放送連盟、1981)
『創』「巨大メディア=テレビ世界の翳り」(1981.06)
『NHK戦時海外放送』(海外放送研究グループ編纂、原書房、1982)
『戦時下の新聞・放送』(前出(2)項参照、1984)
『民放労働運動の歴史』(1)~(3)(民放労連・民放労働運動史編纂委員会、1990)

(18) 日本テレビ関係
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『週刊読売』「アメリカの話題/テレヴィ国ニッポン/日本テレヴィ放送網会社」(ローレンス・レヴィ、1951.12.21)
『財界』「粉飾決算の後遺症に悩む日本テレビ」(1972.03.15)
『全貌』「明日火を吹くか日本テレビの内幕」(1972.04)
『放送レポート』「日テレ『覇権主義』にブレーキ」(1975.08)
『わが放送白書』(松本幸輝久、三信図書、1976)
『マスコミ市民』「読売の日テレ電波支配のカラクリ」(日本テレビ報道局匿名、1977.01)
『大衆とともに25年』(写真集別冊、日本テレビ放送網(株)、1978)
『マスコミ市民』「新聞の拡材にラジオが使われた!?/読売新聞のラジオ関東のっとり大作戦批判」(高野涼、1978.03)
『マスコミひょうろん』「オール読売右翼タカ派体質“無反省の証明”」(武村兼二、1979.03)
『人と日本』「NTV“新宿大移動”への布石」(志賀信夫、1979.03)
『戦後マスコミ回遊記』(前出(5)項参照、1985)

(19) 関係拙著・拙文

『読売新聞・日本テレビ・グループ研究』(筆名・征矢野仁、汐文社、1979)
『テレビ腐蝕検証』(テレビ文化研究会、第三部担当・木村愛二、汐文社、1980)
『NHK腐蝕研究』(筆名・徳永正樹、汐文社、1981)
『噂の真相』「マスコミ報道と大地震の危険な関係/関東大震災において『報知新聞』と務台光雄が果たした知られざる犯罪からの教訓」(筆名・徳永正樹、1980.07)
『創』(前出)「巨大メディア=テレビ世界の翳り」(「NHK民放電波利権肥大症の腐れ骨」筆名・徳永正樹、1981.06)
『創』(前出)「変貌する広告戦略の行方/広告代理店vsマス・メディアの主導権抗争」(筆名・徳永正樹、1981.07)
『創』(前出)「新聞界の変貌と多様化/読売新聞・小林新社長の野望」(筆名・征矢野仁、1981.10)
『読売グループ新総帥《小林与三次》研究』(筆名・征矢野仁、鷹書房、1982)
『噂の真相』「発覚した朝日・読売野合軍のテレビ占領計画の陰謀」(筆名・征矢野仁、1982.07)
『噂の真相』「ブラウン管には映らない日本テレビ元“実力専務”上子俊秋の憤死の墓碑銘」(筆名・征矢野仁、1982.08)
『噂の真相』「一年間の空席が埋まった日本テレビ新社長の前途多難な椅子」(筆名・征矢野仁、1982.09)
『噂の真相』「『ニューメディア電波談合戦線異状なし』新聞報道の戦慄すべき裏面」(筆名・征矢野仁、1982.10)
『噂の真相』「“直角警察内閣”の機関紙と化した読売グループの野望と危機」(筆名・征矢野仁、1983.02)
『創』(前出)「“情報帝国”読売・日本テレビグループの全貌」(「内務官僚によるメディア支配の構造」筆名・征矢野仁、「日本テレビの超々高利潤を支える秘密と特殊人脈」筆名・徳永正樹、1984.04)
『噂の真相』「戦後秘史/伏せられ続けた日本帝国軍の中国『阿片戦略』の詳報」(木村愛二、1989.05)
『最高裁長官殺人事件』(阿片問題を含む政治サスペンス、木村愛二、汐文社、1991)
『マスコミ大戦争/読売vsTBS』(木村愛二、汐文社、1992)
『中曽根vs中・竹・小/佐川疑獄と国際エネルギー利権抗争』(木村愛二、汐文社、1993)
『電波メディアの神話』(木村愛二、緑風出版、1994)

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世界最大の柔術イベント ムンジアル2017 その2















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世界最大の柔術イベント ムンジアル2017










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JBJJF東日本マスター2017




















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柔術プリースト 286

Jiu Jitsu Priest #286

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手塚治虫が描いた「在日」 サンミリオンコミックス版 空気の底

空気の底 (1978年) (Sun million comics)
手塚 治虫
朝日ソノラマ
売り上げランキング: 136,266


http://michaelgoraku.blog22.fc2.com/blog-entry-1000.html


手塚治虫/サンミリオンコミックス版空気の底<上・下>
CATEGORY漫画
COMMENT2



空気の底表紙



空気の底で蠢くちっぽけな人間たちの世界!
息が詰まるような日々の暮らしの中で、若者たちの満たされぬ愛と、やり場のない怒りが、しだいに人々を追い詰めていく!
問題作を多数収録した、異色の短編集!

◆手塚治虫漫画全集掲載のあとがき


プレイコミックの発刊当時、カスタムコミックとして月一回連作したのがこのシリーズです。
このシリーズの前に三回、それから連載中に一回、「空気の底」と関係のない読み切りを描いていますが、従来出版されていた二冊組みの単行本では、これらもすべて混ぜてしまっています。まあそのくらいシリーズには種種雑多な内容の作品がふくまれていて、タイトルの名も漠然としたものです。
しかしぼくは、この短編のどれもが大好きなものです。それぞれに熱をこめ、工夫をこらして描きあげたつもりです。優にひとつひとつが長編になり得る要素をもっています。
当時は虫プロの末期で、いろいろ多難な時代でしたが、そんなに暗いムードでもなく、よくひきしまった味が出せたものだと思います。
他の青年ものとちがい、秋田書店の本は肩をはらずに描けたので、そこらが幸いしたのでしょう。

◆重く暗いテーマを扱った珠玉の短篇集
記念すべき1000記事目は漫画の神様、手塚治虫の作品をレビュー!!
厳密にはこれまでにバラバラだった記事を一つに統合したりしてきたため、ブログにある記事数自体は936なんですけれども、1000記事作成してきたのは事実だし別にいいよね(小声)

本書「空気の底」は前述のあとがきにもあるように、プレイコミックという雑誌に連載された手塚治虫の短編作品群。
短篇集「空気の底」は今現在も何度も底本を変えて刊行されておりますが、今回は1972年、73年に始めて単行本化されたサンミリオンコミックス版を紹介したいと思います。
このバージョンをずっと探してたんだ……!

上記あとがきの『「空気の底」と関係のない読み切り』というのは、週刊ポストに掲載された「バイパスの夜」、漫画サンデー掲載の「嚢」、サンデー毎日読物専科に掲載された「一族参上」、小説サンデー毎日掲載の「現地調査」「蛸の足」「ながい窖」の事を指しています。
特に「ながい窖」は今現在は封印作品であり、1978年の改訂版(こちらもサンミリオンコミックス)の時点で早くも収録作品から削除されてしまった作品。


サンミリオンコミックス版空気の底改訂版
こちらがサンミリオンコミックス改訂版の空気の底
通販で探そうと思っている人はこれと間違えないように注意!
「ながい窖」のみならず「嚢」を除いたサンデー関係の掲載作品が削除され、
その代わり下巻に「大暴走」が収録されている

そのため今「ながい窖」を読むためには当時の小説サンデー毎日、もしくはこのサンミリオンコミックス版の下巻を入手するしか無かったのです。
行きつけの古本屋にて上下巻セットでまさかの1050円で入手できたんで、封印作品「ながい窖」を含めた本書収録作品をさっそく紹介だ!
どれも傑作揃いだよ!

■ジョーを訪ねた男

ジョーを訪ねた男




ベトナム戦争で戦死した黒人兵のジョーの臓器をもらって生き延びたオハラ隊長は、南部の出身で、人種差別主義者だった。 彼は、自分の体内に黒人の臓器がある事を秘密にするために、その事を知っているジョーの家族をハーレムに訪ねるが……

黒人差別を扱った短編作品。
主人公の白人、オハラ隊長はそれはもう悪辣な人種差別主義者であるのですが、そんな彼が戦場で重傷を負い、医師の手で部下であった黒人の