欧米で問題になった柔術キモノです GSPが着たキモノで有名ですね

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https://translate.google.co.jp/translate?hl=ja&sl=en&u=https://dynastyclothingstore.wordpress.com/2013/03/25/korean-zombie-to-gsp-you-wore-a-nazi-symbol-hayabusa-imperial-japanese-flag-gi/&prev=search


韓国のゾンビからGSPへ - 「あなたはナチスのシンボルを身に付けました」(はやぶさ帝国旗)


戦争犯罪や残虐行為を表す日本皇帝の旗を使った、ハヤブサの攻撃的なライジングサンジーのデザインを身に付けたジョルジュ・サンピエール
戦争犯罪や残虐行為を表す日本皇帝の旗を使った、ハヤブサの攻撃的なライジングサンジーのデザインを身に付けたジョルジュ・サンピエール

チャン・ソンジュンの「Facebook」に載っていたUFC 158での散歩中に、Hayabusaの "Rising Sun" gi(帝国の旗のデザイン)を着用したことに関する韓国のゾンビからGSPへの公開書簡。


"こんにちは、私の名前は韓国のチャン・チャンジョンです。 信じられないほどの選手としてあなたを好んでいる多くの韓国人の一人として、日本人の「ライジング・サン・フラッグ」の後にあなたのGIであなたを見るために、自分自身を含む多くの韓国ファンがショックを受けたことを伝えたい。 アジア人にとって、この旗は戦争犯罪の象徴であり、ドイツのHakenkreuzflaggeによく似ています。 知っていましたか? 私は望んでいない。

ナチスのように日本人も「軍国主義」の名の下に残虐行為をした。 彼らは巨大な氷山のちょっとした先端ですが、グーグルで行ったことを簡単に知ることができます(してください)。

さらに、日本政府は決して誠実な謝罪をしたことはなく、今日までにも多くの被害者が痛みを伴い、傷つきません。 しかし、多くの西洋人は、非常に多くの戦争犯罪や悲劇が起こったシンボルの後ろにデザインされた服を着るのが好きです。それはばかげています。

彼らのほとんどは軍国主義者ではないことは分かっています。 私は彼らの大部分が不当な侵略、拷問、虐殺などを認めないことを知っています。彼らはただ無知です。 多くの西洋人がこの悲劇的な事実を知らないのは残念です。 身に着けているライジングサンの衣装は、悪いことではないにしても、それにナチの印を付けた服を着るほど悪いです。

あなたは日本の武道の影響を受けているので、あなたは日本の旗の後ろにデザインされたヘッドバンドを身に着けているのです。 しかし、再び、巨大な「ライジングサン」は、あなたのGiに何か他のものを意味します。

多くの人々は、GSPは私が全く同意する歴史の中で最高のウェルター級戦闘機だと言います。 つまり、世界中のあなたのすべてのファンに大きな影響を与えます。 そして、私はあなたの身に着けている「戦争犯罪の象徴」が自分にとってはあまりにも悪い例だと信じています。

それで、あなたは何を考えますか? 次回も同じ衣装を着用したいですか? "

- チャン・ソンジュン

はやぶさが失敗する。
はやぶさが失敗する。

私たちはここDynastyで過去にMMAのフォーラムでこれについて話しましたが、多くの人々が私たちを信じていませんでした。 彼らは、私たちがそれを作っていると思っていたし、旗は他の国の旗と変わらなかった。 ついに、ゾンビのUFCのスーパースターが起きて、帝国旗の本当の意味を多くの人に知らせるようになった。

「真実セラム」:歴史の授業、南京大虐殺に関する短いミュージックビデオを必要とする人のために




そして、非常に目には第二次世界大戦中の日本の戦争犯罪や残虐行為に関する短いドキュメンタリーを開く:「旬ライジング」








私たちは王朝のように、多くのアメリカの衣類ブランドでこのようなフェチ、無知なデザイン、シンボルをたくさん見てきました。私たちはそれを購入した人には申し訳ありません。 だからこそ私たちは王朝を創造しました。なぜなら、私たちは物事を変えて世界中のコミュニティに信憑性をもたらすためです。 ダイナスティアイテムを購入したときに、あなたのスタイルが嫉妬していない限り、他人を怒らせる心配はありません!

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ちなみに玉砕モデルの柔術キモノ出してる鳥肌実とはこういった人物です



ヘイトスピーチを繰り返しているレイシストだってわけですな
レイシスト団体在特会と関わりのある人物ってだけで論外でしょ

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柔術プリースト264

Jiu Jitsu Priest #264

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玉砕モデル 柔術キモノ

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http://www.torihada.jp/product-page/30697a2c-c44c-6536-2d98-b28e4ef88d57

右翼タレント鳥肌実が出していたという限定モデルの柔術キモノです…
う~ん…
これ見て思ったんですが欧米にナチスデザイン KKKデザインの柔術キモノとかってあるんでしょうかね?

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柔術家 TARGINO の道場VT

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ルタリーブリエスポルチーバ強し! カーロスダニーロvs骨法 小柳津弘

小柳津弘(骨法)VSカーロスダニーロ(ルタリブレ)

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骨法・序章 他流試合B 1 より  カゼカムニエスのエキビジョン 中井祐樹vs阿部和也のエキビジョン(後に二人は師弟関係になります)  ホドリゴメディロスvs小柳津弘のスパーリング も収録

骨法・序章 他流試合B 1

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日本最大のメジャーMMAイベントRIZINとコラボ! 日本ブラジリアン柔術連盟公式イベントRIZIN FF JIU-JITSU OPEN

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MMAが史上最強であり柔術 柔道 ムエタイ ボクシング レスリング プロレス 空手 中国武術 合気 相撲 少林寺拳法 伝統武術 全ての格闘技 武道はMMAよりも遥かに弱い!  大沢ケンジのMMA原理主義!

http://ch.nicovideo.jp/dropkick/blomaga/ar1162953



【無料公開】MMA原理主義者が吠える!「MMAとキックや柔術が同格?」/大沢ケンジ



2016-12-27 00:00
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電子書籍















和術慧舟會HEARTS総帥にしてAmebaTV格闘技チャンネルで解説を務める大沢ケンジ師匠の格闘技談義! 今回のテーマは……高崎計三氏の那須川天心記事に噛み付いた!?



<参考記事>
【無料公開記事】RIZIN電撃参戦! 那須川天心はなぜ天才と呼ばれるのか?
http://ch.nicovideo.jp/dropkick/blomaga/ar1157314


【川尻vsクロン直前】アナタはまだ知らない! 本当に恐ろしいグレイシー一族!!
http://ch.nicovideo.jp/dropkick/blomaga/ar1151480



BABYMETALが「WWE/NXT」の大会テーマ曲に!  プロレスとヘビーメタルの相性とは?

http://ch.nicovideo.jp/dropkick/blomaga/ar1056523






大沢 年末のRIZINのカードはどう思います?


――人によって、興味があるカードと興味がないカードに分かれるなと思います。


大沢 ですよね〜。ボクも正直言って、こっちには興味はあるけど、あっちには興味がなかったりします(笑)。


――何が「あっち」で、どれが「こっち」なのかは察しがつきますけど(笑)。「こっち」にまるで興味がない人もいっぱいいますね。


大沢 でも、RIZINって「なんでこんなカードを組むんだ!」「アイツを出せ!」とか文句を言われがちな面もありますけど、いま現実的に使える選手を集めて、興味のあるカードを組んでると思うんですよね。


――ベストではないけど、ベターという感じで。


大沢 やっぱり興行としてはお客も視聴率も狙わなきゃいけないですし。じゃあRIZINだけがそういう路線かというと、ベラトールは完全に地上波向けですし、韓国のROAD FCなんかも狙いに走ってるところはありますよね。


――こないだのROAD FCのメインイベントは、右目に視聴障害を持つ50歳のアクションスターの試合でしたね。


大沢 UFCにしても最近の動向や関係者の話を聞いていると、ベラトールやRIZINっぽい感じになりそうじゃないですか。


――興行重視主義に傾いてますね。


大沢 名前のある選手は3カ月おきに試合を組んでくれるけど、そうじゃない選手はしばらく試合がなかったり。ドナルド・セラーニとかは人気があるからすぐに試合が組まれて。


――UFCもPPVが売れる選手、視聴率の数字を持ってる選手をプロデュースしていく方針に切り替えつつありますね。


大沢 これまでのUFCはMMAをスポーツ化するというロマンを抱えていたんですけど、新体制は芸能マネジメント会社がオーナーになったということで、ショービジネスとして捉えてるわけですよね。人気のある選手、華のある選手をどんどん使っていくんだろうなって。


――旧体制のときでも、キム・ドンヒョンが勝っても勝ってもチャンスをもらえないのは判定が多いだからって反省して、アグレッシブなスタイルに変えたくらいですからね。それがより顕著になるという。


大沢 だから興行が重要視されるのはRIZINに限った話じゃなくて。そこには団体によって程度が違ってくるけど、結局オリンピックスポーツだってテレビを意識したルールになっちゃうんですよ。柔道だってなんだってルールは変わってきてるじゃないですか。


――どの競技も見る側を意識してますね。


大沢 つまりルールを動かすか、選手を選ぶかの2択になってる。アマチュア競技は選手を選べないからルールで動かして、プロのほうがルールを動かさないで選手を選んでるってことですね。アマチュアだって求められる世界なんですよ、いまは。


――そうするとプロはただ勝つだけじゃなくて、そこに何かプラスアルファが求められるわけですね。そのプラスアルファは団体によって違ってくるけど、向いてる方向性は一緒で。


大沢 結局、誰かに評価されないとダメってことですよね。これは現役時代の自分にも強く言いたいけど(苦笑)、やっぱりただ勝つだけじゃダメなんだよなあ……って。とくにこれから先のMMAはその傾向が激しくなると感じてますよ。俺も関係者に「この選手、どうですかね?」って売り込みの話をするんですよ。でも、いまは外国のプロモーションでも、何か引っかかるものがないと日本人は難しいって言われますから。


――加藤(久輝)選手もジョー・シリングの相手としてベラトールに呼ばれたけど、そこでインパクトを残し続けたから継続参戦できてますね。


大沢 そういうチャンスにガツンと結果を残せるかどうかってことですよね。それは圧倒的な強さだけじゃなくて、キャラクターや試合内容でもいいですし……判定でも勝ちたいというなら、ほかに何かインパクトを与えないといけない。この職業で食わないつもりなら、ただ勝つだけでいいんですよ。でも「食わせてくれ!」「有名にしてくれ!」「メジャーなイベントに上げてくれ!」というなら求められますよね。


――「じゃあ、どんな試合をやってくれるのか?」と突きつけられるわけですね。


大沢 強さだけで食っていける時代はもう来ないし、この先はないぞ!ということですね。でも、いまはまだいいほうですよ。ボクは現役の一番いい時期って、日本の格闘技界は真冬だったんですよ。DREAMとか日本のメジャーイベントがなくなっていって、本当に怖かったですよね。当時はまったく食えませんでしたからね。


――川尻選手も将来が不安になったと言ってましたねぇ。


大沢 その当時と比べると、いまは多くの選手や試合を発信できる環境があるから、工夫次第だと思いますよね。たとえばいまはほとんどの団体がAbemaTVで流れますし。


――以前はライブ中継がほとんどなかったですね。


大沢 うまく利用できればチャンスですよね。そこはテレビタレントと同じで、変なアピールをやって大滑りする奴も出てくると思いますけど(笑)。格闘家なんですから、強くなきゃいけないのはあたりまえだけど、メジャーに上がりたいならプラスアルファはあたりまえってことですね。


――パウンド・フォー・パウンドと呼ばれるUFCフライ級王者デメトリウス・ジョンソンが一番稼いでるわけじゃないですし……。


大沢 逆に言えば、DJも強さだけであれだけ食えるんだって証ではありますから。コナー・マクレガーほどじゃないにしろ稼げるじゃないですか。飛び抜けて強ければUFCも放っておかないですよね。


――DJはPPVボーナスを含めると億はいってそうですし、強さも抜き出ればいいってことですよね。ファイトマネーの水準は上がってますし。


大沢 それに活躍して目立てば、日本人選手はRIZINにオファーされやすい。だからメジャーの舞台を目指してたり、今回年末のチャンスをもらった若手には、強いプロ意識を持って試合に臨んでほしいですよね。ただ勝つだけではその試合に勝っても、格闘技界では生き残れませんよ。凄い試合をやって、いっぱい稼いでくれ!(笑)。

――それでその年末RIZINの大予想を……。


大沢 (さえぎって)いや、その前に今回はどうしても声を大にして言いたいことがあるんですよ。



――なんですか?


大沢 Dropkickに那須川天心選手のRIZIN参戦の記事が載りましたよね。


――ライターの高崎(計三)さんが那須川天心の凄さを語るインタビューですね。


大沢 那須川選手を引っ張ってくるなんて、RIZINはとんでもない仕事をしましたよねぇ。これは凄いことですよ! 那須川選手はMMAというジャンルでも凄い可能性を秘めてるというか。だって18歳からMMAを始められるんですよ? ボクが始めたのは23歳ですし、ジム経営してわかるのは、いまでもMMAをやる人って遅めの年齢なんですよね。それでいて那須川選手はあの若さで超一流の打撃を身につけているし、身体能力も凄いじゃないですか。これでレスリングや柔術を学んだら、チャンピオンは夢じゃないと思います。



――年末のRIZINだけじゃなくて将来が楽しみなんですね。


大沢 焦らないでしっかり勉強してほしいですね。勝負強さもあって頭もいいから、キック無敗でMMAに転向してUFCで活躍しているスティーブ・トンプソンみたいになれますよ。


――なるほど。大沢さんの言いたいことは「那須川天心選手が楽しみだ!」という。


大沢 いや、違いますよ。ここから本番なんですけど……あの高崎さんの記事で「MMAはキックの上なのか」とか、橋本欽也さんがこの記事の感想として「柔術の世界王者とMMAのチャンピオンは同列なのに、なぜかMMAのチャンピオンの方が格上に語られる。例えばMMA王者がムンジアル出ても勝てないし逆もまた然り。柔術とMMA、キックとMMAも同じで別競技なんだからそこは尊重して欲しい」ってツイートしてたじゃないですか。賛同する読者の声も多いですよね。


――大沢さんも同意なんですね。


大沢 …………は? 



――は?


大沢 いやいや、冗談じゃない。MMAのチャンピオンが一番格上なんですよ!!(ドン)。


――ファッ!?


大沢 まことに申し訳ないんですけどぉ、MMAとほかの格闘技を同列に置いてもらっちゃあ、困りますよぉ!(ドンドン)。


――げ、げ、げ、原理主義者だあ!!!!!!!!!


大沢 MMA原理主義者ですよっ! これから読む人によって気分が悪くなることを言うかもしれませんけど、ちょっと聞いてください。


――うーん、師走に2週続けての原理主義者トーク……。


大沢 あのですね、多くの人間が格闘技を始める理由って「強くなりたい!」だと思うんですよ。そのために何か習おうとして、身近にあった格闘技がキックや柔術だったりする。もしくは、いきなりMMAだと難しそうだから、ほかの競技を選んだ人間が多かったと思うんですよね。


――以前はいまほどMMAのジムが多くなかったですね。


大沢 でもね、強くなろうと思ったら間違いなくMMAなんですよ!(ドンドン)。自分のことを話せば、キックや柔術とかほかの格闘技を選べる環境にはあったんですよ。でも、一番強くなりたいと思ったらMMAからは逃げられなかったんですよね。強くなりたいと思ったならば、いずれはMMAの世界に来なきゃいけないんですよ! それが格闘家の運命!!



――大沢さんにこうして怒鳴られて思い出しましたけど。1993年にUFCが始まったときは「ついに世界最強が決まるかもしれない!?」というワクワクがありましたねぇ。


大沢 そこなんですよっ! 



――“MMA幕府”が設立されたことで、世界中の格闘技がドンパチやっていた戦国時代の幕が降りたので平和ボケしてました。


大沢 UFCが始まったときのあのドキドキ感は忘れてないですよぉ。ノールールで誰が一番強いのかを見たかったんですから、結局格闘技がそこからは逃げられないんですよ。ルールがなければないほど、その格闘技が最強だと思ってますね。


――ノールールに一番近い格闘技がMMAだということですね。


大沢 最強を目指すならMMA。そこは自分の人生の中で決して揺らぐことはないですね。そうじゃなかったら、じゃあなんのためにMMAをやり始めたかわかんなくなっちゃうんですよ。ボクは高校時代、ボクシングが最強だと思ってたんですけど、UFCが出てきて「あ、最強はコッチだな」って考えを変えたんです。ボクシングのチャンピオンのほうがカネを稼いでるけど、自分の夢としては強くなりたいからMMAを選んだ。そのMMAがほかの競技と同列にされるのは、自分のやってきたことを否定されることと同じなんですよね。


――ほかの格闘競技がMMAの下だと思われたくない! という感情に共感はできませんか?


大沢 あー、そこはわかります。そこは競技の愛情やプライドですよね。


――それと、MMAに触って負けるとジャンルが汚れてしまう感覚もあると思うんですね。それはプロレスファンのトラウマとしても残ってるんですけど。


大沢 その気持ちは凄く理解できますね。初期UFCの頃から自分が信じたジャンルが軒並み倒されちゃった感覚を味わってきた人も多いですし、逆に柔術はあらゆる競技を倒して名を挙げましたよね。そこで「柔術が一番だ!」って誰もが思っていたら、MMAという自体の技術が洗練されていって、柔術すらも飲み込まれてしまったわけですけど。


――昔は競技vs競技でしたけど、いまはMMAというジャンルに飲み込まれてしまう。たとえばキックボクサーがMMAに出て勝っても、それはキックがMMAに勝ったという話にはならない厄介さがありますね。


大沢 いまはそうなっちゃいましたけど、ホイスがUFC1で簡単に負けていたら、柔術はここまで広まらなかったと思うんですよ。他競技をぶっ倒したから「柔術が最強!」というイメージが広まったわけじゃないですか。あのときの柔術は、ほかの格闘技と同列に扱っちゃダメだったんです。


――かつての空手やボクシングも最強という看板があったから求心力があったわけですし。


大沢 強くなりたいから空手やボクシングを始めただろうし、その話でいえば、いまはMMAが一番格上なんですよ。ほかの競技が楽しくて、そのジャンルで一番になりたいという人もいると思うんですね。最初から柔術をやりたくて始めた人が「柔術のチャンピオンとMMAのチャンピオンは同列だ」と主張するのはよくわかるんですよ。ただし、それはジャンルとして見ればの話ですよね。「強くなりたい」という理由で格闘技を始めた人間には「それは違う!」と言いたいです。そもそも格闘技をやる根本の理由を思い出してほしいですよ。さらにファン目線でいえば「誰が一番強いのか」という興味があって見てるわけですよね。細かい技術を見るよりも、根っこには「強いのは誰だ?」があるわけですから。ノールールに一番近いMMAを上に置くのは自然だと思うんですよね。


――MMAは格闘技の王様だと。


大沢 さらに言えばですよ。野球やサッカーは、何かしらの遊びにルールを付けてゲームやスポーツとして昇華されたものですよ。根本は遊びなんです。だからサッカーや野球のチャンピオンは同列と言えば同列。だけど、レスリングや柔道なんかは、そもそも昔の人間が生き残るためや、強くなるためには「ここの技術が重要なんじゃないの?」って細分化されていったもの。それぞれ技術が特化した先なんですよね。


――いわば局面型格闘技ですね。


大沢 全局面的な格闘技に目線を向きながら、それぞれ競技になっていった。いまは言ったのは根本的な話だから「いやいや、俺は違うよ。そんなつもりで格闘技をやってないよ」と言われたらそれまでなんですけども。強さは関係なく競技を始めた方は同列でいいですよ。でも、レスリング自体に興味を持って始めたならともかく「強くなりたい!」っていうことで格闘技を始めたなら、MMAのチャンピオンを目指さないといけないんですよ。わかります!?(ドン)。 


――この熱さ、90年代特有の匂いがする!(笑)。


大沢 もっと根本的な話をすれば、どんな動物でも競技として成立するのは、100メートル走とMMAですよ。足の速さにケンカ。


――要するに動物の本能ですね。


大沢 動物は野球とサッカーはやらないですけど、この2つの本能は生きていくためには重要。動物として本能を競う100メートル走とMMAは、すべての競技の中の王様だと思うんですよね。


――本能に訴えかけてくるものがある。そういえば、小学生のクラスの人気者は、足の早い奴とケンカの強い奴ですね(笑)。


大沢 そうそう、あとは頭の良い奴もですね。頭が良ければ相手を落ち着かせたり、ケンカを回避したりもできます。生き残るために必要な生存本能を計るもの、それは100メートル、頭の良さ、そして取っ組み合い。この3つがキング・オブ・イキモノですよ!


――キング・オブ・イキモノ(笑)。



大沢 もうひとつマラソンもありかなって思いますけど、動物はそんなに長く走る意味がないし、その瞬間を逃げ切れればいいですから。あと拳銃や道具を使い始めたら、それは戦争になるから(笑)。


――MMAはノールールじゃないだろうという反論があると思いますが……


大沢 目潰し、金的あり、噛みつき……ということですよね。仮に噛まれたり、耳を引き裂かれても戦えるって、もはや根性の世界じゃないですか。そんな根性を持ってる奴が何を習えば一番強くなるかと言えば………MMAなんですよ!(ドン)。


――そういえば、谷川貞治が「MMAファイターは戦国時代だと生き残れない!あっという間に殺される!!」とか言ってましたけど、ジョン・ジョーンズあたりが武装訓練したら戦国無双しそうですよね(笑)。



大沢 こんなに言いたい放題で申し訳ないですけど、シンプルに何が凄いのかは認めてくださいって話なんですよ。那須川選手にも「なんで格闘技を始めたの?」って聞きたいです。もしかしたらお父さんに言われて格闘技を始めたかもしれない。でも、強くなりたいという動機があったならば、ぜひMMAに来なよと言いたいですね。ルンピニーのチャンピオンを倒しちゃいましたし、キックでやることをやりつくしたならば。


――18歳でやることがほぼないって、おかしいんですけどね(笑)。


大沢 そんな那須川選手がいまMMAに来ても、そこそこレスリングができる日本人MMAファイターとやったら、まだMMAの経験がないですから、残念ですけど負けちゃうと思うんですね。キックボクシングで一番強いけど、MMAだとそれが現実じゃないですか。でも、那須川選手がこれからMMAを学んでいけば、最強になれる可能性は凄く高いわけです。もっともっと強くなってほしいですね。


――というわけで、ほかの競技の原理主義者の方、大沢さんへの挑戦をお待ちしております(笑)。




Dropkickメルマガ人気インタビューの一覧表。

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※以上参照終了

俺も大沢ケンジの考えに概ね同意です
だって競技柔術だけしか見ていなかったら俺だって柔術始めてないですもん
ヒクソンとかホイスとかヘンゾがプロレスラーとか空手家 ボクサー 柔道家 オリンピックレスラーぶっ倒したから始めたわけですしね

ただ
俺的にはMMAよりもVTが最強なんですよねぇ~
目つぶし 噛み付き 金的以外全て有りの文字通りの何でもあり

素手 ベアナックル 頭突きも有りの格闘技

今その想定の闘いの技術教えたり練習してんのって競技柔術家でもMMAの選手でもないんですよ
グレイシー一族だけでなんです
だから未だに柔術やってるわけなんで

それにベアナックルファイトのVTやっているときに当時のMMA 総合の人たちはVTの事を野蛮だの格闘技じゃないだの言って敬遠 逃げてたんですよ

そういうのもあって柔術を選択せざるを得なかったんですよね

あと衣服使ったノウハウは喧嘩の際に使えますしね

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JBJJF東京国際2016動画2

石黒遥希 女子アダルト青帯フェザー級&オープン


禿川尊法 アダルト茶帯ウルトラヘビー&オープン


女子アダルト紫帯オープンクラス


女子アダルト紫帯ルースター&ライト級


女子アダルト紫帯ライトフェザー級


マスター1茶帯ライトフェザー級阿部宏司 vs 片山師斉


マスター3茶帯ライトフェザー級


アダルト茶帯オープンクラス


アダルト茶帯階級別

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JBJJF東京国際2016動画

アダルト黒帯オープンクラス


アダルト黒帯ミディアムヘビー級


アダルト黒帯ライト級チャールズ・ガスパー vs 廣瀬貴行


アダルト黒帯ライトフェザー級 嶋田裕太 vs 大西巧之


マスター3黒帯ライトフェザー級 澤田真琴 vs 金古一朗

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柔術プリースト 263

Jiu Jitsu Priest #263

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元祖にして本家フランスの原作 アルセーヌ・ルパンと柔術 柔術家 レニエ vs ボクサー デュボワ  20世紀初頭のオールイン バーリートゥード 公開他流試合

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http://realize.txt-nifty.com/blog/2005/10/post_d377.html#search_word=柔術

ルパン:サヴァット




映画「ルパン」でルパンの父テオフラストは逮捕されようとしたとき憲兵相手に武術を使って脱出する。この武術は実はサヴァットらしい(字幕ではボクシングの先生となっていたが、クラリス母のセリフから「サヴァット」という単語が聞き取れる)
。その息子のルパンも結構肉体派で、同じくサヴァットを使っているようだ。ロマン・デュリスは「フランス式キックボクシングのサヴァット、イギリス式ボクシング、カンフーのトレーニングを受けた」とインタビューに答えている。

サヴァットはフランスの格闘技で結構荒っぽいものだったようだ。
イノサント・アカデミー:サバットとは何か?
http://www.bruceleejkd.com/jkd/aboutia/savate/savate.html
Japan Savate Club:サバットとは
http://www.savatejapan.com/savate/


現在、一般的に「サバット」と呼ばれているものは、
正式にはボックス・フランセーズ(フランス式ボクシング)といって、 古式サバットの一部に過ぎません。
元来サバットとは、離れた間合いでは武器(杖)を使い(=杖術:ラ・カン)
中間距離では手足による打撃を用い(=ボックス・フランセーズ)、
相手と接触した場合は投げ技を使う(=パリジャン・レスリング)という総合格闘技でした。
元々路上の喧嘩から生まれたため、 あらゆる状況に応じて最も効果的な技術が発達していったのです。



杖を使うといえば、映画のなかでルパンが無頼漢をステッキで撃退してたけど、実際のラ・キャン(ラ・カン)がどんなのか知らないのであれがそうなのか分からない。なおこのころのステッキは武器なので頑丈で重いらしい。いろいろ物騒だから。ってそんな街中を妊婦一人で歩かせるなー。アクションはテオフラストが一番カッコよかった。


原作「カリオストロ伯爵夫人」でも、テオフラストはボクシングとサヴァットの先生と言われている。でも邦訳では単にボクシングの先生と訳されている(ハヤカワ、創元、偕成社とも)。ルパンはその父からボクシングや体操などいといろ教わったと言っているのでサヴァットも習ったと思われる。というのは、「カリオストロ伯爵夫人」でルパンは水泳、ボクシング、レスリング、体操(軽業)、日本流武術(柔術か?)を身に付けていることが分かるが、このうち水泳以外は父から譲り受けたと明言されてるから。たとえば

「どうだ、見事な一撃だったろう?」とラウールは笑いながら言った。「亡き師テオフラスト・ルパン直伝の日本流武術さ。これでしばらくは夢見心地で、羊みたいにおとなしくなるだろうよ」(※ラウール=ルパン。ハヤカワ文庫)

とファザコンっぷりをアピールしてくれるのが楽しい。若さいっぱいだし。これらは身一つでできる武術ばかりなので、当然サヴァットも教わっていると推測できる。実戦では「緑の目の令嬢」でサヴァットを使って相手の胸を蹴り飛ばしている。そこでは“蹴合い術”と訳されている(創元推理文庫)。


また、「カリオスオトロの復讐」でもサヴァットが出てくる(引用は偕成社文庫)。

なんてことだ! スポーツマンか? いや、完璧な運動選手とでもいうか? なんといえばいいんだ? 一見、仕事しか頭にないような建築技師に見えるが、あの筋肉、神経、意思力、あの勇気と大胆さ。それにしても、人をひきつける男だな、あの若者は。柔術、ボクシングと蹴合いをもうすこし手ほどきしてやれば、すばらしく理想的な男に仕立てあげられるんだが。

フェリシアンのことが気に食わなかったはずなのに、“できる”男だと分かったらこれです。ていうか、柔術(日本流武術)、ボクシング、サヴァット、それ全部父から習った体術じゃないか!楽しいです、いろいろと。


追記。
DVD「ルパン コレクターズ・エディション」特典ディスクで、ドルー・スビーズ公爵とルパンの手合わせシーンの公爵が使うステッキ術は1900年代のステッキ術(音声ではラ・キャンといっていた)を元にしていると言っていました。

http://realize.txt-nifty.com/blog/2005/10/post_fe05.html#search_word=柔術

ルパン:柔術




映画「ルパン」では柔術は出てこないので原作のみ。

ルパンは「アルセーヌ・ルパンの脱獄」でガニマール相手に柔術を披露している。他に「カリオストロの復讐」でフェリシアンが柔術を使っている。興味深いことに、「アルセーヌ・ルパンの脱獄」(初出1906年)の時には日本という単語が前後に出て日本の武術だということが分かるようになっているのに、「カリオストロの復讐」(初出1935年)では柔術と言う言葉が単体で使われるようになっている。フランスへの浸透ぶりが見えるかのようだ。

この柔術(日本では柔道という言葉のほうが一般的)は嘉納治五郎によって1889年にフランスにもたらされたらしい。パリ万国博覧会、エッフェル塔の建設もこの年。ということでルパンが柔術を習得しておかしくはない。「カリオストロ伯爵夫人」でルパンがテオフラストから習ったと語った日本流武術が柔術だとすると、テオフラストから習ったとするには少し新しい(テオフラストが亡くなったのは1880年以前と推定される)。「アルセーヌ・ルパンの脱獄」では柔術が一般的になる前に日本の格闘技を教えてた、とあるし。でも、まあ、柔術としたいじゃないですか。だから柔術ということで決定!(私的には)

SportsClick 柔道
http://www.sportsclick.jp/judo/01/index32.html


フランスに於ける柔道普及の経緯についてですが、その基盤は、ひとえに我が日本人柔道家の苦労と努力によって形成されたと言えます。
 柔道の海外進出の歴史を紐解いて見ましょう。その最初の担い手は、明治22(1889)年10月15日、マルセイユに普及の第一歩を記した若き日の嘉納治五郎師範(当時満29歳)、その人でした。その後、普及の拠点はパリに移動しました。




興味深いページを見つけた。
フランス語になった日本語
http://www.geocities.jp/bourgognissimo/Bourgogne/1ARTL/BR_046_2.htm

このページによると、柔術(jiu-jitsu)の初出は1906年。柔道(Judo)の初出1931年よりかなり早い。そして、jiu-jitsuが出てくる「アルセーヌ・ルパンの脱獄」の初出は1906年1月!(むしろ初出をこの用例からとってる?) もちろんそれ以前に口頭では使われていたのだろうけれど当時最新の言葉だったことがわかる。嘉納氏が1889年に柔術を紹介しているからもっと早い用例があるかもしれない。それとも、別の名前で呼ばれていたのだろうか。「アルセーヌ・ルパンの脱獄」では警視庁でも柔術を採用していたとあるし、割と知られているように書かれていると思う。ちなみに空手の初出は1956年でルブランの死後。ルパンは空手を使っていない(※)。


じゃあ、ホームズのバリツは?と思うわけで。
バリツ - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%AA%E3%83%84

バリツとは、柔道(または柔術)のことであるというのが通説となっている。当時、バートン=ライト(E.W.Barton-Wright)という人が日本の柔術の技法を取り入れた護身術を"bartitsu"と名付けてロンドンで教えており、雑誌に記事を掲載していた。その雑誌にはドイルも小説を掲載していたので、ドイルがその記事を読んでいた可能性は高く、"baritsu"とは"bartitsu"の誤記であるとする説が有力である。

ということらしい。バリツの初出は1903年発表の「空き家の冒険」。バートン・ライトが記事を掲載していたのは1899年から3年間の間だそう。


□2006/05/23追記
※「空手」は原文には存在しないが、日本語訳では存在する。ハヤカワ文庫の「謎の旅行者(1-4)」より


片手で攻撃をかわし、もう一方の手で男の頚動脈に強烈な一撃を加える。いわゆる空手チョップという技だ。男は卒倒した。



この箇所の「空手チョップ」は実は原文では「頚動脈へのフック」となっている。どうして空手と訳したのだろう?と思っていたら、アルセーヌ・ルパンサイトを公開されている方のブログで頚動脈の発音「カロティード」と「カラテ」を掛けて訳しているとあって納得した。フランス語の原文で読んだ感想など書いてあるので参考になる。

ペレンナのアルセーヌ・ルパン・ブログ 《Le Mysterieux voyageur》を読み終えました。 samedi-20-mai
http://vingt.exblog.jp/2234523/

因みに偕成社文庫、岩波少年文庫でも「空手チョップ」、新潮文庫は「頸撃ち」と訳されていて、創元推理文庫はこの言葉を訳していない。ポプラ社文庫版も記述に省略があるが「空手」という言葉を使っている。

http://realize.txt-nifty.com/blog/2006/06/_2006328425_3a12.html#search_word=柔術
毎日新聞夕刊「夢枕獏の格闘塾」ルパン対ホームズ (2006年3月28日-4月25日)




「夢枕獏の格闘塾」というコラムはだいたい隔週ペースで連載しているようで、第47回から49回の3回に渡って「ルパン対ホームズ」を扱っていた。夢枕氏の「本朝無双格闘家列伝」を読んだことがあるけれど(面白かったです)、それと同じように、はっきりしてないところは好きに解釈して楽しんでしまおうというエッセイ。
•その1 柔道対柔術、達人の闘い(2006年3月28日付)
•その2 立ったまま“腕ひしぎ”を極める(同4月11日付)
•その3 第三者に無防備な寝技(同4月25日付)

内容はバリツとウデヒシギとルパン対ホームズについてというあたり。ルパンの関連作品はアルセーヌ・ルパンの脱獄(1-3)、金髪婦人(2-1)、ユダヤのランプ(2-2)。記述は創元推理文庫版を元にしている。格闘技についての知識が無いので描写についてはそのまま飲み込むしかないのだけど、面白く読ませてもらった。映画「ルパン」でテオフラストが相手の気をそらせ、みたいなことを言ってるのを思い出したかな。

□関連記事
ルパン:柔術


□2010/02/11
この連載は夢枕獏『薀蓄好きのための格闘噺』毎日新聞社、2007年で単行本化されています。
http://realize.txt-nifty.com/blog/2005/10/post_a2da.html
ルパン:フェンシング




サヴァットと違って映画「ルパン」のルパンが使えないのはフェンシング。クラリスの父を相手にしたとき正攻法でいかなかったのは、フェンシングをやったことが無かったからのようだ(せっかくだから遊んでやれ、ぐらいの気持ちはあったと思うけど)。ルパンは庶民の育ちだから当然といえば当然だし、似非貴族としての実績もおそらく無いと思う。ノベライズ本ではフェンシングは父に教わらなかったから身についていないことになっている。

これについて原作「カリオストロ伯爵夫人」を確認してみて疑問だったのは1.ルパンはフェンシングを教わったか。2.テオフラストはフェンシングの先生だったかの2つ。というのは、ルパンはクラリスに父は“体操、フェンシング、ボクシング”の先生だったと言っている。でもそのすぐ後父に教わったといっているのは“体操、ボクシング”で、「カリオストロ伯爵夫人」ではフェンシングは使わない。このころのルパンは武器(拳銃やナイフ。仕事用のナイフは持っていると思うが護身用ではないと思う)を持たないようにしているので、出番がなかったとも考えられる。でも、貴族育ちのクラリスに気を使った(見栄を張った)とも考えられる。(私の勝手な考えだけど、クラリスがただのクラリス・平民だったなら、南フランスからエトルタまで追いかけていかなかったと思う。)

原作のルパンは後にはサーベルでの決闘をしてるのでその頃までにはフェンシングを身に付けていることがわかる。
http://realize.txt-nifty.com/blog/2008/11/1---1-3-f5d8.html#search_word=柔術
腕ひしぎ(その1) - アルセーヌ・ルパンの脱獄(1-3)




アルセーヌ・ルパンは数種の格闘技を会得していることになっているが、最も早く出てくるのが柔術である。1906年に発表された「アルセーヌ・ルパンの脱獄(1-3)」において、柔術の技を披露する。


またジュウジツが知られていなかった時代に、パリでこの闘技を教えたのも、またアルセーヌ・ルパンだったらしい。(「強盗紳士ルパン」ハヤカワ・ポケット・ミステリ、中村真一郎訳、P57ー58)




 それから彼は、急に腹を立てて、男の首をしめて、押し倒そうとした。彼は五十歳だったが、まだ人並み以上の力を持っていた。ところが相手は、かなりわるい条件にあるように見えた。それに、もしこの男を連行することができたら、何という手柄になることだろう!
 闘争は長くつづかなかった。アルセーヌ・ルパンはほとんど抵抗しなかった。襲いかかるとすぐに、ガニマールは手をはなした。彼の右腕は力なく、だらりとたれ下っていた。
「オルフェーブル河岸でジュウドウを習っていたら」と、ルパンは言った。「この手は日本語でウデヒシギだってことがわかるだろうよ」(同P64ー65)



原文ではジュウジュツ/ジュウドウはjiu-jitsu、ウデヒシギはudi-shi-ghiと綴られている。このうちjiu-jitsuは今でも使われる表記なので問題はない。腕ひしぎがudi-shi-ghiとなるのか、という点は、フランス語はHを発音しないので、
/u-de-hi-shi-gi/→/u-de-i-shi-gi/→/udi-shi-ghi/
となってもおかしくはないと推測することはできる(あくまで仮定として)。ただ、なぜjiu-jitsuでudi-shi-ghiなのか気になっていた。


L'arrivee du jujitsu en France(仏語)…A
http://pagesperso-orange.fr/laurent.thomas/ffjj.htm

このページで、1905年に行われたレニエとデュボワによる異種格闘戦が紹介されているが、柔術家レニエが英語でアーム・ロック(arm-lock)、日本語で腕ひしぎ(udi-shi-ghi)という技で勝ったことが紹介されている。(後で指摘するときのために、このページをAと名づけておく)

このレニエ=デュボワ戦を紹介しているブログがある。

100年前のフランスの出来事 : 柔術家vs拳闘家
http://france100.exblog.jp/3743911/


デュボワはレ・ニエに素早く懐に飛び込まれ、足固めに押さえ込まれて優勢に立たれた。レ・ニエがデュボワを地面に押さえつけ、腕をひねると、彼はこらえきれずに「止めろ!」と叫んで試合を終了させねばならなかった。



腕をひねる…確かに腕ひしぎっぽい? さらに調べてみる価値がありそうに思えた。


Early Ju-jutsu: The Challenges by Graham Noble(英語)…B
http://www.dragon-tsunami.org/Dtimes/Pages/articlee.htm
同じ腕ひしぎでも、こちらはUde-shighiとなっている。

Historique - Club de Judo / Jujitsu DOJO OLYMPIC de Lyon(仏語)…C
http://www.judoclichy92asjj.com/pages/judo-histoire-du-judo-en-france.htm
今度は十字固め(JUJI-GATAME)だ。しかし案ずるに及ばず、腕ひしぎは現在「腕ひしぎ十字固め」と呼ばれているようなので、同じ技を指すのだろう。とはいえ、当時、腕ひしぎと言っていたのか、十字固めと言っていたのでは問題が違ってくる。ところでCのページでは、フランスの柔道史をKawaishi前とKawaishi後とで分けている。この日本人の名前「川石」で検索してみると、ずばりの本が見つかった。

吉田郁子「世界にかけた七色の帯 フランス柔道の父川石酒造之助伝」駿河台出版社、2004年
この本には、私が気になっていた情報がほぼ網羅されていた。この本で参照されているミシェル・ブルッス「柔道 その歴史その成功」1996年は、Aのページの参照本と同じと思われ、Aのページの下にある画像がレ=ニエの柔術道場の宣伝ポスターであることが分かる。

http://realize.txt-nifty.com/blog/2008/11/2-0761.html#search_word=柔術
腕ひしぎ(その2)




「世界にかけた七色の帯」によれば、当時、イギリスでバルトン=ライト(バートン・ライト)によって柔術を元にバルティツBartitsuが考案された。バルティツ・クラブに出向き、柔術の有効性を知ったフランス人にエドモン・デポネがいる。以下、なかなか知る機会のない内容だと思うので、少々長く引用する。(見やすくするため段落ごとに空行を入れた)


柔術の有効性を知ったデポネはパリに戻ると、グレコ・ローマン型のレスリング教師エルネスト・レニエに話を持ちかけ、デポネの出資で柔術の道場を開設する事にした。デポネがパリの目抜き通りシャンゼリゼに近いポンティウ街五十五番地に場所を定め、盛んな宣伝を繰り広げている間に、レニエはロンドンで柔術の拾得に励んだ。一九〇五年の秋、レスリング教師が柔術教師となって帰ってきてからは、さらに大がかりな宣伝で「日本式武術」の有効性を売り込んだ。あまりに派手な宣伝がレスリングやボクシングの教師たちの反感を買い、まもなくボクシング教師のジョルジュ・デュボワが試合を申し込んできた。デュボワは四〇歳、ボクシングを教え恐るべきボクサーとしても知られ、フェンシング教師でもあり、重量挙げでも一流という猛者である。身長一・六八メートル、体重七五キロ。一方レ=ニエ(ジウジツ教師になってからレニエは名前を日本人風にレ=ニエと分けて書いていた)は三十六歳で身長一・六五メートル、体重六三キロ。両者とも小柄な方で、体重においてややデュボワが勝っていた。デュボワは雑誌『体育』に寄稿して、「全く平然と我々の間接をひねりにヨーロッパにやてくる日本人」を皮肉り、ギリシャ、ローマ時代から二千年にわたって学んできた正統な格闘技が今や東洋の怪しげな技によってねじ伏せられようとしている、と憤慨する。


デュボウの挑戦はたちまちスポーツ新聞に大きく取り上げられ、パリじゅうの話題になる。試合の規則は簡単で「噛みつくこと、眼をつぶすこと、下腹部を傷つけること以外はすべて許される」というもの。場所の選定に苦労して何度か延期になったあげく、試合は一九〇五年十月二十六日、場所はパリの西九キロにある郊外の町クールブヴォワのヴェドリーヌ自動車工場の敷地内と決定した。前評判が高く、パリ市内では混乱が予想されるとして警察の許可がとれなかったのだ。試合は公園ではなく専門家だけが入場を許された。スポーツ新聞紙『野外生活La Vie au grand air』の写真が残っているが、一二メートル四方に網を張って作った広々としたリングを囲んで試合をのぞき込んでいる観客は、みなシルクハットか山高帽で正装した紳士たちで、そのなかに毛皮の襟巻きをした女性がちらほら。戦っているレ=ニエも上着を着ており、デュボワはジャケットに赤い手袋といういでたちであった。試合の経過を伝える自動車とスポーツの専門紙『自動車L'Aout』の記事によると「そこには五百人を越える招待客がいた! パリじゅうの著名なスポーツマンはみな顔を揃えている。ボクシングの花形選手が自動車レースの第一人者と並び、有名なフェンシング選手たちもリングのまわりにひしめき、スポーツ記者たちが全員勢揃いしていた……」という状況であった。


結果はあっけなく終わる。レ=ニエがデュボワを「腕ひしぎ」で押さえ込んで六秒で勝った。


「今や『ジウジツ』という言葉はまるで勝利のラッパのようにパリのいたるところで鳴り響いている。街でも、新聞紙上でも、ミュージックホールでも」とある新聞は報じた。レ=ニエのクラブにはパリの上流社会の人士が次々と登録した。(「世界にかけた七色の帯」P21ー22)



ボクシングの猛者をたった6秒で倒した。柔術(ジウジツと発音されていた)とレニエ=デュボワ戦の決め技「腕ひしぎ」は最新流行の話題だったのである。しかも、「今や『ジウジツ』という言葉はまるで勝利のラッパのようにパリのいたるところで鳴り響いている。街でも、新聞紙上でも、ミュージックホールでも」と報じたある新聞とは、Aのページに拠れば1906年1月14日付の「le sport Universel illustre」紙と思われるが、「アルセーヌ・ルパンの脱獄(1-3)」が掲載された「ジュ・セ・トゥ」12号の発行日は1906年1月15日なのだ。作者ルブランがいかに素早く反応し時流に乗っていたかが分かる。

なお、「野外生活(La Vie au grand air)」というのは、「ジュ・セ・トゥ」と同じ出版社の雑誌、つまり、ルパンシリーズの仕掛け人ピエール・ラフィットが創刊した雑誌(山田登世子「リゾート世紀末」によればスポーツ週刊誌)で、第1号(1898年)には他社から刊行されていたルブランの「これが翼だ」が再録されている。だからレニエ=デュボワ戦の資料はすぐ手に入る状況にあったはずである。


前→腕ひしぎ(その1)
次→腕ひしぎ(その3)
http://realize.txt-nifty.com/blog/2008/11/3-0ecb.html#search_word=柔術
腕ひしぎ(その3)




新たなスポーツとして脚光を浴びた柔術は、その後まもなく見捨てられてしまう。警察や軍隊の訓練の中と、見世物興行で細々と生き残ることになる。


しかし警察と軍隊においてジウジツへの関心はいき続けた。一九〇五年パリ警視総監は市内の犯罪が増え逮捕が困難になってきたのを憂慮して、警官にジウジツを習わせることを決定した。これは警官の活動に自転車及び潜水服が取り入れられたことに続く、社会の養成に基づいた決定であり期待も大きかった。ジウジツを体得している警官は強い、という観念が広まったのが何よりの収穫だった。(同P24)



これで、わざわざルパンが「オルフェーブル河岸」(パリ警視庁)を持ち出してきた理由が分かる。警察への採用に関しては次のような記録が残っているらしい。日本側の働きかけと、柔術の知名度が上がったこととが作用して採用される運びになったのだろう。


一九〇一年のパリの警察関係の記録によると、東京の検事総長がパリの警視庁を訪問した際に、フランスの警官の中にあまり体格が優れない者もいるのを見て、日本の警察で活用している技を披露して、フランスでも試みるように勧めた、とある。(同P20)



そして、


レ=ニエがロンドンで習った教師は天神真楊流であり、この頃のフランスにはまだ嘉納治五郎の柔道は普及していなかった。(同P25)



これも知りたかった。当時、有名無名の日本人が海を渡り、そのなかには古い柔術を伝える者もいたのだ。天神真楊流は嘉納治五郎が最初に入門し、講道館柔道の元になった柔術の一つである。腕ひしぎは天神真楊流から柔道に取り入れられた。

嘉納の最初の訪仏は1889年のマルセイユで、フランスにはすでに柔道を見聞した者もいたと思われるが、このときのムーブメントは柔術だった。嘉納の初期の訪仏がフランス柔道にどのような影響を与えたか詳しく分からないらしい。しかし、嘉納が教育者で、英語・ドイツ語が堪能、フランス語も理解できた文武両道の人だとは初めて知った(以前も目にしていたわけだが、意識して読まないと頭に入らないものである)。1906年にジウジツは優れた護身術だが本物のスポーツではないと宣言したクーベルタンは、嘉納に出会って柔道の有効さを認めることとなる。嘉納は1909年に国際オリンピック委員会の委員に選ばれている。

この後、フランスの柔道普及には低迷期が続き、再び柔道が花開こうとするのは1930年代のようだ。ラルースの辞書にはjiu-jitsuが1906年(Nouveau Larousse supplement)に、judoが1931年に採用されているらしい。フランスに渡った川石酒造之助は1935年に道場を開いた。その機を知ってか知らずか、ルパンシリーズでも柔術の言葉が再浮上する。1934年発表の「カリオストロの復讐(20)」においてである(以前の記事→ルパン:柔術)。柔術は他に「戯曲アルセーヌ・ルパン(3)」で登場する。(1908年初演。ただし、二次作品に近いと考える)

http://realize.txt-nifty.com/blog/2008/11/4-9c19.html#search_word=柔術
腕ひしぎ(その4)




気になっていた情報はほぼ分かったが、そうでないのが腕ひしぎは「udi-shi-ghi」かという点。こればかりは一次資料を当たらなければならないが、どうしようもない。フランス語の場合「e」は「ウ」と読むので避けたのかも知れない。フランス国立図書館のガリカで2005年10月27日付の新聞を調べたが、「フィガロ」紙と「プレス」紙でアーム・ロックという技名が見えるが、日本語の技名は出ていなかった。

面白いのが「プレス」の見出しである(記事前半部、記事後半部)。レ=ニエが日本人であるかのように見える。「プレス」では一面で扱い、ボクシングより柔術の名前が先に来ているのも独特だ。


柔術とボクシング
日本式勝利

午後のセンセーショナルな試合
教師デュボワ対日本人レ=ニエ
《アーム・ロック》技



1893年に刊行された天神真楊流の極意書では、同じ漢字(腕挫)で「ウデシキ」と読ませている。Bのサイトの「Ude-shighi」表記は「うでひしぎ」と「うでしき」との折衷のような感じもする。

近代デジタルライブラリー:天神真楊流柔術極意教授図解:140頁
http://kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=40075953&VOL_NUM=00000&KOMA=67&ITYPE=0
国立国会図書館 NDL-OPAC(書誌 詳細表示 ):天神真楊流柔術極意教授図解
http://opac.ndl.go.jp/recordid/000000493376/jpn
ソフトマインド - livedoor Wiki(ウィキ):天神真楊流柔術極意教授図解の目次
http://wiki.livedoor.jp/pg_gifu_dojoo/d/%c5%b7%bf%c0%bf%bf%cd%cc%ce%ae%bd%c0%bd%d1%b6%cb%b0%d5%b6%b5%bc%f8%bf%de%b2%f2%a4%ce%cc%dc%bc%a1


もう一点。ルパンがかけた技は「腕ひしぎ」か。これは柔道は全くの門外漢なので分からない。ルブランの描写が簡潔で、翻訳により解釈が違うのがまた混乱する。レ=ニエが使ったのは寝技で、ルパンは立ったまま使っているからレ=ニエの「腕ひしぎ」とは違うことは分かる。所謂時事ネタというやつで、どんな形の技であれ、「柔術」であり「腕ひしぎ」であることが肝心だったのだと思う。読者はレニエ=デュボワ戦を知っているわけだから、四角四面に技を披露する必要はないわけだ。

前半期のルパンシリーズの魅力の一つは、ベル・エポックと呼ばれる時代との同時代性にある。「アルセーヌ・ルパンの脱獄(1-3)」の発生を1900年頃と解釈するのは後の作品との兼ね合いで、むしろ初期短編は「今からほんのちょっと未来」を見据えて書かれていたのではないかと思っている。たとえば第1作でルパンは執筆当時にはまだ就航していない船の上に登場した(→未来の船・プロヴァンス号)。「ジュウジツが知られていなかった時代」というのは、今まさに柔術が脚光を浴びようとしている様を捉えた言葉だとも言える。

あるいは、


立ったまま、本来は寝技でかける”腕ひしぎ”を極めているあたり、ルパンも並の人間ではない。立ち技で極める”腕ひしぎ”もあることにはあり、最近でいうと、PRIDEで、桜庭がヘンゾ・グレイシーの腕を折ってしまったあの技が近いかもしれない。(夢枕獏の格闘塾第48回「ルパン対ホームズ その2」毎日新聞夕刊2006年4月11日。単行本「薀蓄好きのための格闘噺」に収録)



との意見もあるので、立ち技でもアリなのだろう。柔術の教師をやっていたことになっているのだから、ルパンが技を考案したと主張することもできる。


前→腕ひしぎ(その3)
次→腕ひしぎ(その5)
http://realize.txt-nifty.com/blog/2008/11/5-7ec2.html#search_word=柔術
腕ひしぎ(その5)




最後に、Bのページからレニエ=デュボワ戦の模様を紹介する。この試合の模様は元々レ=ニエの著書「柔術の秘密」(1905年刊行)に収録されたものらしい。以下は自動翻訳を元にしたもの。なお、フランス式ボクシングは足も使う。


「始め」の合図で、リングの反対の角を取った2人の選手はすばやく向かい合って動き、数秒間警戒を保ちながら、互いから2ヤード(約1.8メートル)の場所で止まりました。
最初にローキックで攻撃したのはジョルジュ・デュボワでした。 それはすぐに、相手の上で跳ねてそのウエストを差押えたレ=ニエによって回避されました。 彼が左手でデュボワの背中の筋肉を絞っている間、右のももの下に置かれたひざの打撃で、彼は後者を揺らしました。 デュボワはあおむけにどしんと落ちました。
レ=ニエは彼に続いて倒れ込み、のどを締め、デュボワの右手を差押えることができました。 そして、彼の背中に自分を引き渡して、彼は、頚動脈を絞るためにデュボワの首の上に脚を通しました。 これが完了していて、彼は乱暴に敵の腕の関節に対して引きました。 腕を脱臼できるほどのこの拘束がそのような痛みを引き起こしたので、デュボワは、1秒の何分の1の間抵抗しようとした後に、ひどい叫び声をあげて負けました。


彼は柔術のひどい固め技の1つ「腕ひしぎ」によって破られました。 試合は26秒続き、実際の戦いはたった6秒でした。
デュボワが大声で叫ぶのを聞くとすぐにレ=ニエが緩めた、このひどい拘束からジョルジュ・デュボワが開放されたとき、彼は立ち上がって柔術王者と握手しました。だれもが2人の選手に群がりました。
デュボワは「もっと上手くやりたかった」と言いました。「しかし、私が拘束から逃れるのは不可能だった。そのまま続いたなら、私の腕は藁のように折れただろう」




□参考文献
・吉田郁子「世界にかけた七色の帯 フランス柔道の父川石酒造之助伝」駿河台出版社、2004年
駿河台出版社:世界にかけた七色の帯
http://www.e-surugadai.com/cgi-local/suruga/disp_desc.cgi?type=other&isbn=4-411
Amazon.co.jp: 世界にかけた七色の帯―フランス柔道の父川石酒造之助伝 吉田 郁子 本
http://www.amazon.co.jp/dp/4411003589
・井上俊「武道の誕生」吉川弘文館、 2004年
・Emile Andre "100 Coups de jiu-jitsu" Flammarion, 1906
※ルパンシリーズの研究書
Jacques Derouard "Dictionnaire Arsene Lupin" Belles Lettres, 2001
でもレニエ=デュボワ戦が取り上げられているようだ。「Google ブック検索」で引っかかっただけなので詳細分からず。


□余談
「プレス」の記事には試合を観戦したモトノとタツケという二人の日本人の名前が出てくる。
検索してみると写真が見つかった。モトノ・イチロー氏と息子セイイチ、タツケ・S氏とアマリ・Z氏、モトノ夫人の3枚の写真がある。
10 1904 JAPAN PARIS ITCHIRO TATSUKE AMARI MOTONO PRINT
http://www.old-print.com/cgi-bin/item/LIL0904142

モトノ親子は本野一郎(もとのいちろう)と盛一(せいいち)だろう。本野は1901年12月からフランスに駐在していた。
本野一郎 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E9%87%8E%E4%B8%80%E9%83%8E
本野一郎
http://www.law.kyushu-u.ac.jp/~shichinohe/minpo/(67)_motono_ichiro.htm

タツケとアマリがTatsuke, ShishitaとAmari, Zojiと同一人物なら、田付七太(たつけしちた)と甘利造次のことかもしれない。
Min. Plen. Y Embajadores del Servicio Diplomatico Extranjero
http://archivo.minrel.cl/webrree.nsf/PagLisMinPlenEmbServDiplExtranj?OpenPage&Start=301&Count=1000&ExpandView&Click=
文官高等試験合格者一覧(田付七太・ブラジル大使)
http://homepage1.nifty.com/kitabatake/rekishi25.2.html
神戸大学 電子図書館システム:移民の国南米に日本商品の大市場(甘利造次・前ペルー領事)
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10016074&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1


前→腕ひしぎ(その4)

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レジェンド柔術家対決 テレㇾvsシャオリン 



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情報操作 新聞・テレビをはじめとする多くのメディアは、日々、世界中で起きている出来事をかいつまんで教えてくれる便利なものです。ビジネスの世界では、朝刊に掲載された内容を把握していることは常識とされますし、学校生活においても、流行しているテレビ番組や芸能人が話題の中心となることも多いでしょう。このように老若男女問わず、私たち市民の毎日の生活に深く浸透しているメディアですが、あまりにも慣れすぎてしまい、その本質は見えにくいのではないでしょうか。情報の受け手である市民が「メディアとはいったい何か。その目的は何か。どんな影響があるのか」と、メディアの本質について知っておくのは、生きる上で大きな知恵となります。なぜかといえば、メディアがさらなる巨大権力と化し、暴走しはじめたとしたら……。日本人は実際、メディアに踊らされて、過去に大きな戦争をしています。当時のメディアは明らかに暴走しました。被害にあったのは、メディアを信用し、何も知らなかった多くの市民です。現代において、仮にまたメディアが戦争以外にも何らかの方向に暴走をしはじめても、気がつかないことは十分に考えられます。どうして気がつかないのか……それは私たち市民の多くが、メディアの本質をまったく知らないからです。 「何も読まない者は、新聞しか読まない者より賢い。なぜなら、嘘を信じる者より真実に近いからだ。」


































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情報操作





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情報操作(じょうほうそうさ)とは与える情報(証言、記事、写真、映像)を制限したり、虚偽または虚偽にならない範囲で改変することによって、その情報を受け取った者が受ける印象や判断結果に影響を与えようとする行為。広い意味では、コマーシャルや比較広告などの商業活動も含んでいる。

第二次世界大戦ごろからラジオや映画などにより、効果的に行われるようになったが、行為自体は古くから行われている。かつてナチス党政権下のドイツが独裁者あるいは政党などの指揮の下、情報宣伝組織に行なわせたものが広く知られている。日中戦争時には大日本帝国と中国国民党や共産党などが情報戦の一環として行った。またニューヨークタイムズをはじめ、グラフ雑誌のライフなどの欧米の民間メディアも日中戦争を題材に盛んに情報の操作・加工に挑戦し、読者に大きな影響を与えた。それは、現在でも広く行われており、アメリカ(イラク戦争における侵攻理由が典型的)、中華人民共和国や朝鮮民主主義人民共和国が行っているものが広く知られている。独裁国家や戦時中における検閲は、例外なく情報操作を意図している。

日本やアメリカなど自由主義諸国では、政府のみならず、外国の影響エージェント、独自の目的を有する政治・宗教団体、非政府組織(NGO)、企業あるいは一個人ですら情報操作を行える環境にあり、情報操作は双方向性を帯びている。特にインターネットの普及で双方向性が増大している。

文化間の基準や常識の違いに対する不見識から意図せずに、また情報が流布される時間が遅れたり、情報そのものが不正確であったため結果的に起きる場合がある。





警視庁検閲課による検閲の様子(1938年(昭和13年))
情報操作を意図している対象によって手法は異なり、またある対象によって有効であるものが別の対象に有効であるというわけでもない。情報操作を行う人数と対象となる人数の大小によって、手法を変更する必要がある。数人で1人を対象とすれば、情報操作を行うのは容易であるし様々な手法が使える(マインド・コントロール、洗脳)が、逆に1人で集団を相手に行う際には、手法も限られ、より困難になることが多い。大衆・群衆を誘導する手法は古来詭弁術として発展したが、マス・コミュニケーションの成立により情報操作の技法は視覚や音響など、弁論以外の技術を包含するようになった。



目次 [非表示]
1概要1.1隠蔽・偽造工作、情報操作
1.2嫌がらせ・晒し行為
1.3一般市民への危害
1.4過去に圧殺された政治家
1.5政界

2情報操作の対象2.1個人
2.2グループ
2.3集団
2.4記者クラブ

3情報操作の手法
4対処
5危険性5.1直接の影響
5.2間接の影響

6関連書籍
7関連項目


概要[編集]

特に国内最大のマンモス大学は、マスコミ業界に数多くの人材を輩出していることから、テレビ局との太いパイプが構築されている。国家による民間団体の特権として、政治連盟あるいは民族派団体は、国とマスコミの長い関係性からテレビ局と密接に関わっている場合がある。その為、学校法人や民間団体の代表はテレビ局との個人的な深い関係があるとされる。

隠蔽・偽造工作、情報操作[編集]

国や組織にとって、都合の悪い情報があれば、隠蔽・ねつ造して、他へとなすりつける行為を過剰な演出や印象操作を加えながら日常的に行われている。例えば、国の宗教である神道(古神道ではない)やテレビ局(マスコミ)にとって都合の悪い情報が取り上げられていると、ニュース・バラエティ番組などでカンペや映像などの手法を駆使し、出演者または場面に都合の悪い部分だけを他の存在[1]になすりつけるような演出がされている場合がある。特に芸能人、専門家、アナウンサーは、殆ど本人は分からないまま演技をさせられている。

嫌がらせ・晒し行為[編集]

特に高学歴や有名人、障碍者、組織に対する場合が多い。難関大学の学生・卒業生、芸能人、政治家などのプライベートや醜聞を全国放送で晒す行為である。地方が攻撃の対象にされる場合も多い。

最近では、舛添要一、石原慎太郎、蓮舫、猪瀬直樹、宮崎謙介、上西小百合、ベッキー、ゲスの極み乙女、甘利明、奥田愛基、沢尻エリカなど、他にも数多くの著名人がいる。

一般市民への危害[編集]

ドラマ、ニュースなどの番組や映画に過剰な演出や印象操作を加えて攻撃する悪質行為である。テレビ局が個人情報を無断で放送しない限り、視聴者にはまったく分からない為、テレビ局側からすると一般市民に危害を与える有効な手段である。被害者は証拠がないので、警察は事件として取り扱えない為、ほとんどの場合、被害者側が泣き寝入りするケースが多い。昨今では、世田谷一家殺人事件の被害者が過剰な演出があったとして、某テレビ局はBPOに勧告を受けている。

過去に圧殺された政治家[編集]
田中角栄

政界[編集]

皇道派出身により、ほぼ組織された政治家は、最終学歴を他大学卒業に設定しておくことで、最終的な責任を最終学歴のほうへなすりつける方法がとられている。派閥あるいは一般市民に情報操作されていることが明るみになりそうになると、自傷するような演出がされたり、はぐらかすような演出がされるなど多く存在する。国会中継では、同じ皇道に所属していながら、実際は仲間ではない派閥の人間をあえて目立つ場所に座らせ、仲の良いフリをすることで、中継を見ている派閥の関係者から疑われないよう、皇道派の仲間たちによって演技が仕組まれている場合がある。

情報操作の対象[編集]

個人[編集]

個人を対象とした情報操作は、最も基礎的な情報操作であるが、逆に最も手法を一般化しにくい対象である。重要な影響力の高い人物に友好的な関係を作り、信頼関係を基に情報操作を行うのが基本である。報酬や賄賂のような金銭関係や組織内での上下関係、雇用関係など利用できる手法は様々である。脅迫や恐喝、暴力のような非合法な手法も有効である。実際の効果以上に過大評価されていることが多いが、性的関係を持つことも有効である。

信頼関係を構築すれば、対象に与える影響力は絶大である。虐待の被害者が、加害者の下に止まり続ける理由の1つに加害者による情報操作をあげることができる。個人の生死まで左右できる反面、別の個人による情報操作も同じ理由から効果的である。個人がグループ内で受ける情報操作は、バンドワゴン効果(衆人に訴える論証)などから個人に対する情報操作に対して、比較優位に機能することが多い。逆にそれ以上の大きな集団内で受ける情報操作は、メッセージが希薄になるため、比較劣位に機能する。しかし、対象にかける時間に多くの時間を割く必要があるため、全ての個人に対して行うことは不可能である。

グループ[編集]

2人以上の特定の共通点を持つグループを対象とした情報操作は、個人を対象とした情報操作と共通する点が多いが、いくつか異なる点もある。信頼関係の必要性や手法の大部分が個人に対するそれと同じであるが、グループ内の意見を左右するオピニオン・リーダーを包摂すればグループの意見を容易に変えることができるため、必要とされる時間は大幅に減少する。スピーチやポスター、手紙などで比較的容易に情報操作を行うことができる反面、グループが肥大化すると、相対的に影響力が減少する。

集団[編集]

複数のグループを含む集団は、情報操作の集大成と言えるが、個人やグループの手法が当てはまらない場合も多くある。例えば、性的関係で集団を情報操作するのは、不可能ではないものの大きな困難が伴う。一定の信頼関係は必要であるものの、過度の信頼性は意図しない方向への暴走を引き起こす可能性がある。情報操作の際には集団内からの検証に耐える必要があり、容易に見抜かれるものであれば、再び信頼を得ることは困難である。しかし、1人当たりに必要とする時間は、集団では0に近づく。30分のスピーチで情報操作を行う場合には、個人であれば、1時間かかっても2人しか対象に出来ない。グループであれば、集合させる会場に左右される。しかし、集団であれば、容易に数百万人を対象にすることができる。

テレビやラジオなどのマスメディアを活用すれば、その人数は爆発的に増加する。多くのマスメディアもまた一企業であるため、会社の利害及び経営方針、社風、株主や規制当局の意向等により情報操作が行われる可能性がある。これらマスメディアの編集方針による情報操作は偏向報道とされる。顕著なものは
やらせ報道
誘導的な質問をした後の回答のみを報道
長いインタビューの一部を切り貼りして、発言者の意図と異なる趣旨の内容に編集して報道(言質による報道)
根拠が薄弱なまま「○○の恐れがある」と不安のみを煽る報道
事実と異なる報道を行った後、その取り消しを行わない
アンケート対象の意図的な絞り込み、自由記述型にすべき回答欄を故意に多肢選択型にして結果を操作する
マスメディアやその支援者に都合の悪い事実を報道しない
情報源を「関係筋」として詳細を公開しない

等の手法が挙げられるがこれだけではない。これらの情報操作は言論統制が行われていない国々においても発生する可能性がある。

記者クラブ[編集]

「記者クラブ#発表報道と情報操作」も参照

日本では記者クラブを通じた情報操作が行われているとの主張がある。日本における省庁・地方公共団体・警察の記者会見は記者クラブ加盟マスメディアの出席しか認められていないことが多く、加盟社は記者室の独占使用などの便宜供与を受けていることが多い。このため発表側に批判的な報道を控えるようになり、情報操作に惑わされやすくなるというものである。記者が独自の情報の確認を怠っている場合に発生しやすい(発表報道)。例えば新聞記者であれば締め切りの時間は周知の事実であるため、詳細な検討ができないように時間を調節して発表することも行われている。

また、情報提供者が個人的に特定のジャーナリストに密かに情報を流すリーク(漏洩)という手法もある。リークは不確かな内部告発、ライバル攻撃などの特別の意図をもって行われることが多い。

情報操作の手法[編集]

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旧ソ連共産党の手法を例に挙げる。なお、これらの手法はソ連共産党に限らず、どのようなグループにおいても用いられ得る。
匿名の権威(ロシア語: Анонимный авторитет)「消息(信頼すべき)筋によれば…」等のフレーズで始まり、記事の内容に権威を与えることを目的とする。この「筋」の名前は決して明かされることは無い。日常会話(Будничный рассказ)暴力、殺人等、人々が否定的に受け取る情報をあたかも日常会話のように記述し、心理的習熟効果を発生させ、反応を麻痺させる。ハンガー・ストライキ(Голодовка)本来は抗議手段であるが、現代のハンガー・ストライキはマスコミと密接に連携して行われる。泥棒捕り(Держи вора)何らかの事件に対して批判・責任を問われる筈の人物が、他者に先駆けて事件を批判し、国民の怒りを他方向に向けさせる。撹乱(Забалтывание)大量の誹謗中傷を流し、事件そのものに対する関心を低下させる。いわゆる情報ノイズ。感情共鳴(Эмоциональный резонанс)デモや集会等における群集の扇動。群集を理性ではなく、感情レベルで反応させる。感情整列(эмоциональная подстройка)一定のシチュエーションを用意して、群集の感情を均一化させる。ブーメラン効果(Эффект бумеранга)国家権力により弾圧・迫害されることで、「自由の闘士」というイメージを作り出し、官営マスコミの報道を逆用する。ハレーション効果(Эффект ореола)政治家、芸能人等の著名人の横に並ぶことで自分の信用を高める。一次効果(Эффект первичности)最初に発信された情報は、後発の情報よりも優先され、信用されやすいという原理に基づく。プレゼンス効果(Эффект присутствия)事件現場から発信される情報は、人々に現実のものと受け取られやすい。臨場感を演出するために、しばしば、やらせが行われる。情報封鎖(Информационная блокада)軍事行動や刑事事件の際に情報の流通を制限又は停止させる(報道協定など)。情報支配と密接に関係しており、当局の一方的な情報が流される。中国・北朝鮮・ビルマ・イラクでは、国全体に情報封鎖がされている。またサウジアラビアは外国メディアの内政取材を一切許さない。仲介者の利用(Использование медиаторов)集団に対して情報操作を行うために、その集団のオピニオン・リーダーに狙いを定めて工作する。しばしば、オピニオン・リーダーは金品等で買収されることもある。分類表(Классификаторы)決まりきった単語、フレーズを使用することで、事件がどのようなものなのか分類してしまう。コメント(Комментарии)人々を一定の方向に誘導するために、事件に対する解釈を付け加える。事実確認(Констатация факта)一面的な事実を提示して、世論を誘導する。虚偽類似(Ложная аналогия)世論操作に都合の良い「原因-結果」の因果関係を作り出す。フィードバック(Обратная связь)予め特定の結論が得られるような質問を作成しておき、一般の視聴者の回答を受けて、視聴者全体の意見に偽装する。テレビの電話投票やネット投票等。側面迂回(Обход с фланга)主題とは無関係な記事の正確性を期して、記事全体の信憑性を高める。真実に紛れれば嘘の信憑性は高まる。注意転換(Отвлечение внимания)スローガン等を駆使して、世論の注意を別の方向に向けさせる。事件の目撃者(Очевидцы" события)事件の目撃者を証言させ、感情共鳴を引き起こすことを目的とする。目撃者は、しばしば、プロの俳優であることがある。歴史の書き換え(Переписывание истории)国家、民族全体に対する長期的な情報操作。観点の偏り(Перспектива)紛争の報道において、どちらか一方の主張のみを取り上げ、他者の立場を無視する。いわゆるスピン。反復(Повторение)同じフレーズを反復して、人々の記憶に刻み込ませる。すり替え(Подмена)否定的な意味を有する言葉を受け入れ易い言葉に置き換える婉曲的手法。たとえば、テロリストはレジスタンスとなり、略奪行為は抗議デモと報道される。半真実(Полуправда)虚偽の中に一面的な真実を織り交ぜ、記事全体を真実に見せかける。コントラストの原理(Принцип контраста)心理的に対照的な刺激を受けると、人間の知覚や認識に対比効果が出る。観測気球(Пробные шары)世論の反応を見るため、試験的な報道を流す。心理的ショック(Психологический шок)感情共鳴のピークを利用する。生々しい戦災や事件現場の映像が利用される。格付け(Рейтингование)例えば、選挙の立候補者の能力や当選の可能性等の格付けを行い、世論を誘導する。センセーショナリズム(Сенсационность)又は緊急性(срочность)緊急性を有する事件・事故の報道において、報道を一方的に飲み込ませる。アクセントの転移(Смещение акцентов)事実を改編することなく、強調点を転移して事実の意味を変えてしまう。連想の創出(Создание ассоциаций)隠喩、比喩を駆使して、敵対者に否定的な印象を与える。情報の波の創出(Создание информационной волны)情報の一次波を起こし、不特定多数による大規模な二次波を発生させる。いわゆるブログの炎上。問題の創出(Создание проблемы)記事のテーマを指向的に選別して、強調したい問題を提起する。脅威の創出(Создание угрозы)敵対者(反対意見)の危険性を強調して、よりましな(当局に好都合な)選択肢を選ばせる。社会的同意(Социальное одобрение)社会全体が報道の中の意見に同意しているような印象を与える。逆の手法(社会全体がその意見に不同意)は、社会的不同意。癒着提案(Сросшиеся предложения)互いに無関係な情報から一定の意味のある文章を作り上げる。これらの情報は個別的には事実であるが、組み合わせの結果、読者に誤った印象を与える。予告打撃(Упреждающий удар)世論の否定的反応を引き起こす政策を採る際、情報を事前にリークし、決定採択時までに世論の関心を低下させる。毒入りサンドウィッチ(Ядовитый сэндвич)序文と結論に否定的報道をおいて、肯定的な報道を挟み込み、肯定的な報道の意義を低下させる。逆の手法(肯定的報道で否定的報道を挟み込む)は、砂糖入りサンドウィッチ(Сахарный сэндвич)と呼ばれる。
対処[編集]

情報操作に対しては、様々な対抗手段がある。
情報源との意識的遮断テレビ、新聞等即時性の高い媒体の閲覧を一時的に停止し、書籍のみに目を向けるようにする。停止中は、物事の観察力が向上するが、時事問題に疎くなるという短所がある。専門的情報源の閲覧専門的な問題に関しては、その分野の専門家の著作等を読んだ方が良い。ただし、その専門家自身が既に情報操作の影響を受けている可能性もある。
危険性[編集]

危険性は大きく分けて情報操作の直接的な影響によるものと間接的な影響によるものに分けられる。

直接の影響[編集]

情報操作により誤った結論が導かれ、それに基づいて対象者が行動するというのは、情報操作の一番顕著な影響であり、危険性である。特定集団の利益になるため、情報操作が行われる場合は、より多数の集団の損失を伴うことが多く、情報の検証が欠かせない。しかし情報操作により、常に操作側の意図している通りに対象者が行動するわけではない。対象者の信頼が低い場合、情報操作を常に疑われるため、意図する方向と逆に行動する場合がある。

操作側にも情報操作の危険性が存在する。情報操作に成功したと認識された場合、実際には失敗していても情報操作を続けようとする可能性が高い。現実と内容の乖離が続くと、情報操作側が、操作しているはずの情報を事実だと認識し、行動するようになる場合がある。最終的には、客観的な事実を陰謀や党派的な主張、あるいは差別など主観的な論理から批判するようになる。

間接の影響[編集]

情報操作の成功、失敗に関わらず、後の検証で情報操作が発覚した場合には、一般的に操作側に対する信頼性が低下する。失った信頼性を取り戻すのは容易でなく、再度の発覚後は回復に必要な時間は大幅に増加する。このため、常に情報操作を行うのではなく、必要な時だけ行い、それ以外は避けて真実を報道し続けることが最も効果的な情報操作である。

情報操作の対象外である集団から、情報操作を認識することは比較的容易であり、多くの場合は双方に対する信頼性の低下という形で表れる。

関連書籍[編集]
川上和久『情報操作のトリック―その歴史と方法』 講談社、1994年5月。ISBN 4061492012
渡辺武達『テレビ―「やらせ」と「情報操作」』 三省堂、2001年3月。ISBN 438536060X
櫻井よしこ『GHQ作成の情報操作書「眞相箱」の呪縛を解く』 小学館、2002年7月。ISBN 4-09-402886-2
新藤健一『映像のトリック』 講談社、1986年2月。ISBN 4-06-148804-X

関連項目[編集]
言論統制
情報政治学
プロパガンダ
ダブルスピーク


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A8%98%E8%80%85%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%83%96#.E7.99.BA.E8.A1.A8.E5.A0.B1.E9.81.93.E3.81.A8.E6.83.85.E5.A0.B1.E6.93.8D.E4.BD.9C









記者クラブ





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記者クラブ(きしゃクラブ)は、公的機関や業界団体などの各組織を継続取材を目的とするために大手メディアが中心となって構成されている任意組織。英語では「kisha club」ないしは「kisha kurabu」と表記される。大手メディア以外の記者・ジャーナリストも加盟できる「プレスクラブ」(日本では、社団法人である日本記者クラブや、日本外国特派員協会などが該当)とは全く性格を異にし、日本独特のシステムと言われ、フリーランスなどに対し排他的であるとして近年、批判を受けている[1]。アメリカのホワイトハウスや連邦政府の官庁、国連本部などに似た組織が存在している。



目次 [非表示]
1 概要
2 組織 2.1 機能
2.2 構成員
2.3 閉鎖性
2.4 海外の「プレスクラブ」

3 取材活動
4 歴史 4.1 取材互助組織として発足
4.2 翼賛クラブ化
4.3 GHQの圧力
4.4 建前と実態の乖離
4.5 外国人記者からの批判
4.6 特権廃止と開放の動き
4.7 性格規定の変遷

5 記者クラブの利点と弊害 5.1 利点 5.1.1 加盟ニュース・メディアにとって
5.1.2 ニュース・ソースにとって

5.2 弊害 5.2.1 発表報道と情報操作
5.2.2 自主規制
5.2.3 情報源への肩入れ


6 憲法との関連
7 記者クラブ制度見直しの動き 7.1 首相官邸
7.2 政党 7.2.1 新生党
7.2.2 民主党
7.2.3 自由民主党

7.3 中央官庁
7.4 地方公共団体
7.5 業界・経済団体

8 記者証制度
9 日本以外の例 9.1 記者団
9.2 記者会見
9.3 ブリーフィング
9.4 記者室
9.5 アメリカの「記者クラブ」
9.6 韓国の「記者クラブ」

10 脚注
11 参考文献
12 関連項目


概要[編集]

日本新聞協会は、記者クラブの目的を「国民の『知る権利』と密接にかかわる」ものと定義している。しかし加盟社以外の記者会見参加を認めないケースがみられるほか、記者クラブをもつ組織が記者クラブ加盟社、所属記者以外の取材に消極姿勢を取るなど、記者クラブ以外のジャーナリストによる取材活動が差別されており、経済協力開発機構や欧州議会などから記者クラブの改善勧告を受けている。

公的機関はクラブに対し記者室を提供、光熱費なども負担しており、「便宜供与に当たるのでは」といった批判も出ている。また、官房機密費を使っての供与疑惑も持ち上がっている。

取材対象側から情報提供を安定して受ける結果、横並び意識になり、また記者の能力低下も懸念されている。

批判や問題が多いと判断した一部の政治家が1990年代から制度に切り込み、今日では首相官邸・中央省庁も記者会見をクラブ以外にも開放する試みが始まっている。しかし「それは見せかけだけで実際会見場に入って挙手してもまったく当ててもらえず質問すらさせてもらえないのが現状」との批判もある。

組織[編集]

記者クラブは法人としての登記が為されていない私的な組織で、主に大手メディアが構成する。日本には約800の記者クラブがあり[2]、中央省庁・国会・政党を初め、企業・業界団体、地方自治体の役場などに置かれている(詳細は記者クラブ一覧を参照)。ほとんどの記者クラブは庁舎内に専用の記者室を取材対象側から無償もしくは低額で割り当てられ、情報提供などを独占的に受けている。光熱費などの運営費も負担しないケースも多い。年間110億円、全国紙1社あたり数億円の負担を免れている[3]という(詳細は記者室を参照)。

記者はほとんどがクラブに常駐する。加盟報道機関が複数当番制で「幹事」社となってクラブの運営にあたる事が多い。情報は情報源の広報担当から幹事社に伝えられ調整され、幹事が件名や発表日時などその報道に関する約束事を記者室の「ボード」(黒板)に書く。黒板に書かれた約束事は「黒板協定」「クラブ協定」「しばり(縛り)」などと呼ばれ、加盟社が順守するべき約束事とみなされる(報道協定参照)[4][5]。欧米の記者発表で「エンバーゴ」と呼ばれる解禁日時付きの事前報道資料提供と同様である。

記者会見は、ほとんどがクラブ主催となっており参加者も加盟社に限られ、仮に加盟社でない記者が参加できても質問は出来ないことが批判を受けていたが、最近は開放の動きが進んでいる。中央官庁の大臣会見は省庁が主催するケースも多いが、記者クラブ主催の方が、記者クラブ外からの参加に柔軟な場合もある[6](詳細は記者会見を参照)。外務省などは広報対象が広範(海外メディアも含む)なため、もともと省が主催している。

省庁などの側は記者懇談会やぶら下がり取材、国会記者証(入館許可証)の交付などの対象を、記者クラブのメンバーに限って認めることが多い。

機能[編集]

日本新聞協会は記者クラブの機能を「公的情報の迅速・的確な報道」、「公権力の監視と情報公開の促進」、「誘拐報道協定など人命・人権にかかわる取材・報道上の調整」、「市民からの情報提供の共同の窓口」と定義している[7]。

構成員[編集]

記者クラブの構成員は主として大手メディアの記者である。日本新聞協会は「日本新聞協会加盟社とこれに準ずる報道機関から派遣された記者などで構成」されていると説明する[7]。しかし地方の月刊誌やコミュニティFM、ケーブルテレビ局などの加入は、地元の市政記者会(市役所記者クラブ)などで認められているだけである。また外国報道機関が加盟するクラブは少数にとどまる(新聞協会は「増えつつある」としている[7])。

加盟社の記者は新聞社やテレビ局であっても、ストレートニュース(主観や分析を交えず事実のみを記す記事)を中心とする通信社的仕事を行う[8]。そのため、担当する対象に常駐して取材を行っており、日本新聞協会も構成員の「継続的に取材」にこだわっている[7]。これは「ストレートは通信社、批評・解説はジャーナリスト」という世界の潮流とは、ずれており[8]、効率性の面からも賢くないほか、記者の分析眼が養いにくくなるなどの弊害もある。

閉鎖性[編集]

記者クラブは前述の通り、大手メディアが組織している。従って会員制と言えるが、大手以外のジャーナリストなどの入会は難しい。日本新聞協会は入会資格を「公権力の行使を監視するとともに、公的機関に真の情報公開を求めていく社会的責務」「報道という公共的な目的を共有」「記者クラブの運営に、一定の責任」「最も重要なのは、報道倫理の厳守」[7]と説明している。

実際に入会審査するのは各記者クラブだが、審査過程は不透明で、加盟社が1社でも反対すれば入会は認められず、新規参入が事実上阻害されている。外国メディアへの対応もこれと同じで、入会を巡って激しい交渉が行われた(詳細は外国人記者を参照)。クラブのその排他性から「情報カルテル」「談合」「護送船団方式」と表現されることもある[9]。取材源側が親睦団体の建前を利用し、「官報接待」などを行うことも多々ある[3]。

入会を希望するジャーナリストの中には、クラブの一員になりたいのではなく、記者会見で取材がしたいだけという者もおり[10]、記者クラブに代わる認定制度・会見制度を求める意見がある。

これまでOECDやEU議会などから記者クラブの改善勧告を受けているが、一貫して大手メディアは記者クラブに関する事柄を報道しないため、日本国民が記者クラブの持つ閉鎖性を知る機会が限られてしまっている[11]。

また、張り込み中は部外者からの質問に答えないなどの問題も多い。

海外の「プレスクラブ」[編集]

プレスクラブとは記者同士の親睦を深めるための私的な団体である。よく知られたものにアメリカのナショナル・プレスクラブや日本の日本記者クラブ、日本外国特派員協会などがあり[12]、そのほかの多くの国にも存在する。プレスクラブは自前の建物に娯楽設備などを用意し、勉強会や、ピクニックなどのイベントで国籍などにかかわらず記者としての交友を深める[13]のが目的である。

取材活動[編集]

記者クラブに詰めている記者が普段、出勤するのは取材機関の記者室である[2]。日中は常駐し、プレスリリースを待ったり記者会見や記者懇談会で話を聞き、必要があれば現場に取材に行く。夜になると「夜討・朝駆」(ようち・あさがけ)と呼ばれる、関係者への取材(対象者の自宅や訪問先が多い)を行う。

政治報道の場合、番記者が取材対象に一日中張り付く。移動中に取り囲んで、「ぶら下がり」という非公式な会見を行うという手法も取られる。

事件などのその性質によっては記者クラブの内部でも報道協定で取材を制限することもある[14]。

特に制度として確立しているのは身代金目的誘拐事件が発生した場合の誘拐報道協定である。犯人が「警察に通報すれば人質を殺害する」などと脅迫し、事件が報道されれば警察が捜査していることが犯人に露見し人質に危険が及ぶことから、報道を各社間の協定で控える[15]。また大きな事件、事故の関係者のところに多数の記者が集まる「集団的過熱取材」(メディアスクラム)が起きた場合に、地元の記者クラブなどが中心となって取材の自粛や制限を申し合わせることもある[16]。

上杉隆は著書で、それが顕著に表れているのが「メモ合わせ」であり、クラブに加盟している記者は別会社の記者同士であるにもかかわらず、取材メモを見せ合っていると主張している[17]。ただし同書は、「メモ合わせ」は政治家の声がよく聞き取れなかったときにその場にいた記者同士で語句を確認するためだともしている。2012年7月には読売新聞記者が取材メモを同じ記者クラブ所属の他社記者に誤ってメールで送信し、メモ内容を社外に流出させたために諭旨解雇処分となっており、取材メモは記者クラブ記者にとっても普通は厳秘である。この件では担当記者の他、編集局長が更迭、社会部長が降格などの処分を受ける事態になった[18]。

横並び意識は報道機関にとっても都合がよい。特に新聞は戸別配達制度で部数が安定しており、取材コストを掛けて良い記事を書いても部数が伸びる見込みはない。よって取材は程々で良く[19]、特オチを避けて無難に過ごせば、エリートサラリーマンとして一生安泰である[19]。

公的機関では、記者クラブ以外に広報など便宜を積極的に図らないケースが多く、加盟社でないと十分に取材が行えない場合がある[13]。日本新聞協会は「記者クラブは公権力に情報公開を迫る組織として誕生した歴史がある」[7]とするが、十分な根拠を基にした対応ではないと言える。

歴史[編集]

取材互助組織として発足[編集]

日本の記者クラブの歴史は明治時代にはじまった。1890年(明治23年)、第1回帝国議会が開催されたが、議会側が示した新聞記者取材禁止の方針に対して、『時事新報』の記者が在京各社の議会担当に呼びかけ「議会出入記者団」を結成し、取材用傍聴席の確保や議事筆記の作成で協力を図った[20]。10月にはこれに全国の新聞社が合流し、名称を「共同新聞記者倶楽部」と改めた。しかし、実態は数人の記者のたまり場にすぎず、中級官僚に面会できる程度であった[12]。大正時代に入ると本格的な記者クラブがつくられた。昭和初期までに、取材の自由を勝ち取っていった[21]。この時期の記者クラブのほとんどは記者が個人個人で直接加入するものだった[22]。

翼賛クラブ化[編集]

しかし太平洋戦争が始まると記者クラブは変質することになる。まず、日米開戦前の 1941年5月、新聞統制機関「日本新聞連盟」が発足。11月28日、「新聞の戦時体制化」が決定され、日米開戦後に新聞連盟の設けた「記者会規約」により加盟は記者個人から会社単位となり、役所の発表を取材して右から左へ発表報道をおこなう翼賛クラブが1官公庁1クラブだけ認められた。取材組織として公認され、国家体制に組み込まれた記者クラブ制度が始まった[12]。記者クラブはだんだんと政府発表を政府の意向通りに報じる「御用クラブ」と化していき、東條内閣が倒れ、朝日新聞出身の緒方竹虎が国務大臣兼情報局総裁として小磯内閣に入閣し、新聞への検閲を緩めようとしたころには、検閲と自己規制で委縮した新聞には統制緩和を生かす力はもはや残っていなかった[22]。

GHQの圧力[編集]

戦後、GHQは記者クラブの解体を執拗にせまった。報道の自由や取材の自由を踏みにじる組織であるとして取材組織から世界一般の親睦団体への転換をせまった。これを受けて、1949年10月26日、 日本新聞協会は『記者クラブに関する方針』を作成した。記者クラブを「親睦社交を目的として組織するものとし取材上の問題にはいっさい関与せぬこと」と規定した。ジャパン・ロビーの圧力を受けてGHQは態度を軟化させ、公共機関に対しては記者室などの便宜供与をおこなうべきとする方針を取り、記者クラブは超法規的な措置として受け入れられた[21]。1958年(昭和33年)には、記者室の使用を許可する大蔵省管財局長の通達が出た。

建前と実態の乖離[編集]

記者クラブは親睦団体の建前のもと、戦争中と同じように取材組織としての活動を続けていたが、報道協定を巡って建前と実態の乖離が表面化した。役所は報道協定などによって報道制限や取材制限をもとめた。対して親睦団体は報道の自由や取材の自由を旨とした。1960年代までは報道協定が発覚すると除名処分をおこなっていたが、こういった対立の末1970年以降、記者クラブの指揮権を公然と認めるようになった[12]。このころからテレビやラジオも記者クラブ制度に加わっていった。 1978年、日本新聞協会は記者クラブの目的について「親睦」に加えて「相互の啓発」を挙げた(78年見解)[23][24]。

外国人記者からの批判[編集]

詳細は「外国人記者#外国人記者の排除と外圧」を参照

しかし、平成時代に入ると記者クラブ体制は見直しをせまられた。1990年代、バブル景気により日本経済の国際的影響力が増大し、外国人記者の活動が活発化してくると日本国内でも記者クラブに対する疑問の声が強まった[12][25]。 1992年、外務省の「霞クラブ」が外国人記者を正式会員として受け入れ[26]、1993年に日本新聞協会は、外国報道機関の記者について「原則として正会員の資格でクラブへの加入を認めるべきである」との見解を発表した[27]。 1995年には江藤隆美総務庁長官のオフレコ発言のリークが問題となり、翌1996年、新聞協会はオフレコ取材は重要な手段だが乱用すべきではなく「安易なオフレコ取材は厳に慎むべき」との見解を発表した[28]。

特権廃止と開放の動き[編集]

1996年、鎌倉市は記者クラブに属さない報道機関にも記者室と記者会見を開放した(ただし企業の広報誌、宗教団体の機関誌、政党機関誌は対象外) [29][30]。

こういった流れのなかで、記者クラブの既得権益は、親睦団体という建前では維持しにくくなった。1997年、日本新聞協会は記者クラブを「公的機関が保有する情報へのアクセスを容易にする『取材のための拠点』」と改めた(97年見解)[31][32]。

2001年、長野県が脱・記者クラブ宣言を行い特権廃止の動きは県レベルまで拡大した。

2002年、新聞協会は、記者クラブは「取材・報道のための自主的な組織」であるとの見解を出した[33]。2004年にはEUからの外圧によって、外国人記者の「記者証」制度が実質的に認められた。[要出典]しかし末端組織である、各記者クラブは抵抗を続けていた。記者クラブの閉鎖性・排他性・便宜供与は揺るがなかった。2009年、政権交代が起きて以降、記者会見オープン化が徐々に行われた。

2005年3月24日 - ライブドアがインターネットメディアとして初めて気象庁記者クラブに加盟を申請。しかし、2006年3月15日、前社長・堀江貴文が証券取引法違反で起訴されたことを理由に申請を出席者の全会一致で却下[34]。

2005年7月9日 - フリージャーナリスト(ルポライター)寺澤有と船川輝樹週刊現代副編集長が、警察庁とその記者クラブ加盟社15社を相手どり、警察庁庁舎内で行われる記者会見などに出席し質問することを妨害してはならないとの仮処分申請を東京地方裁判所、東京高等裁判所に申し立てるが棄却。最高裁判所に特別抗告している。

2010年3月4日 - 日本新聞労働組合連合(新聞労連)が記者クラブの全面開放をもとめる声明を発表[35][36]。

性格規定の変遷[編集]
大正から昭和10年代、「取材の自由を獲得する戦いの前線基地」[21]
1949年9月、GHQの警告
1949年10月28日、親睦機関 - 「記者クラブに関する編集委員会の方針」(49年方針)
1978年、親睦機関かつ若干の調整的役割 - 「記者クラブに関する日本新聞協会編集委員会の見解」(78年見解)

記者クラブの利点と弊害[編集]

ここでは日本における記者クラブに対して挙げられている利点と弊害を記述し、あるものについては事例を示す。

利点[編集]

記者クラブの弊害が指摘されて久しいが、それでも記者クラブが廃止されないのは、記者クラブにはメディア側およびニュースソース側にとって一定の利点があるからである。以下にあげる「利点」はそれぞれの立場にとっての利点であり、それがすなわち情報の受け手である国民にとっての利点となりうるかについては、別途考慮を要する。

加盟ニュース・メディアにとって[編集]
情報発表に消極的な公的機関に記者クラブが記者会見を求めて実現させてきたという歴史がある[21]。
「言論・報道の自由」と、国民の知る権利のために培われてきたシステムである[37]
公権力や政治家の取材拒否や差別に、個人ではなく団体として当たれる[12]。
情報公開の推進拠点[25]
公的機関がもつ第一次情報に密着取材して報道できる[38]
組織として取材機能を備え、情報源からのレクチャーや資料配布の窓口となり、ニュース・メディアにとって効率的な情報システムである。公的情報を迅速に報道できる[4]。
記者クラブ主催の記者会見は、クラブのペースで取材できる[12]。
無駄な競争が省ける。取材活動がスムーズにできる[12]。
研究会、見学会、勉強会など、単独ではむずかしい活動が可能になる[12]。

ニュース・ソースにとって[編集]
国民への積極的な情報開示と説明責任を果たす上で役立つ[39]
効率的な広報推進システムである。広報すべき情報を迅速に発表できる[4]。
効率的な発表ができ、手間が省ける。記者会見もスムーズに運営できる[12]。
公的組織と国民をつなぐ「コミュニケーションの回路」「情報ネットワーク」「国家の情報をプールするダム」としての役割を担っており、膨大な情報を蓄積、整理、報道する。記者クラブを廃止すれば、日本の情報システムが麻痺するだろう[40]。
記者クラブが廃止されれば、記者会見が開放されなかった場合、情報を出し渋る権力側を牽制する存在が失われ、国民の知る権利が損なわれる恐れがある(例えば、記者クラブがない労働基準監督署では、情報発信が殆どない[41])。

弊害[編集]
情報カルテルして、加盟報道機関が非加盟の組織やジャーナリストを排除する[42]。
閉鎖性と排他性。加盟報道機関にとっての利点は、そのまま、加盟したくてもできないメディアやジャーナリストにとっては不当な差別と受け止められる[4]。排他性はニュース・ソースの独占取材を助長する可能性がある[12]。
常駐、常時取材が前提となっており、これが可能な報道機関は限られる[21]。
首相や外相の外遊の際でも、記者クラブ主催の記者会見が開かれ、現地や海外のメディア、ジャーナリストは参加が制限される。結果、外遊での情報発信は、国内向けに制限される[11]。
報道協定が国民の「知る権利」を結果的に規制する可能性がある[4]。
記者クラブに頼るうちに、独自取材する力が低下する可能性がある[4]。
独自の取材活動が阻害される可能性がある[12]。
取材対象と癒着、一体化して、場合によっては「番記者」「ご注進」などの現象も起きている[42]。
情報源に近すぎるために、公的機関の動向監視というニュース・メディアの機能が失われる可能性がある[4]。
クラブの配置が固定化してしまい、時代のニーズにあわせた報道がしにくくなる。たとえば、労働事件が増えているのに労働基準監督署に記者クラブを置く動きが見られない[43]。

発表報道と情報操作[編集]
情報操作を目的とした金銭授受 1921年にガス会社がガスの値上げの承認のために、当時の東京市会の市議に贈賄工作を行ったが、その際、市役所や警視庁の記者クラブに詰めていた新聞記者にも贈賄工作が行われていたことが発覚し、世論から糾弾された(東京ガス疑獄事件)。

発表報道の横行 メディアが政府の政策を代弁し、政府の広報となっている。
警察及び検察が自らの捜査に有利な方向に情報操作を行い、メディアも調査報道に消極的なため、冤罪を生み易い(例:松本サリン事件、志布志事件、香川・坂出3人殺害事件、足利事件)。
池田信夫によると、警察記者クラブに多数の記者を常駐させることが日本の報道を犯罪報道中心にしているのではないかという[44]。ちなみに池田は元NHK報道局職員で、番組制作にも携わった。
フリージャーナリストの魚住昭は「官庁の集めた二次、三次情報をいかに早く取るかが仕事の7、8割を占めてしまうと、実際に世の中で起きていることを察知する感覚が鈍る。役人の論理が知らず知らず自分の中に入り込み『統治される側からの発想』がしにくくなる。自分はそうではないと思っていたが、フリーとなって5年、徐々に実感するようになった[45]」と述べている。
衆議院議員の河野太郎は(日本では)記者が政治家から食事をご馳走になるのは当たり前、政治家が外遊する際には同じホテルに泊まり「政治家と記者はよいお友達」になることがメディアでは「良い記者」とされている現状を指摘している[42]。
ニューヨーク・タイムズ東京支局長のファクラーは、「記者クラブは官僚機構と一体となり、その意向を無批判に伝え、国民をコントロールする役割を担ってきた。記者クラブと権力との馴れ合いが生まれており、その最大の被害者は日本の民主主義と日本国民である。」と述べている[11]。
主要メディアが報じる捜査情報について、「検察が記者クラブを通じておこなう『リーク』に依存している」と指摘されることがある[46][47][48]。また、検察側は自己に不都合と考えられる報道をおこなった加盟報道機関に対しては検察関連施設への「出入り禁止」措置を取ることがある[47]。西松建設事件に際しては、一部の加盟報道機関が西松建設から献金を受け取った政治家の1人である二階俊博の件についての記事を掲載したことに対し、取材拒否および東京地方検察庁への3週間の出入り禁止措置を取った[49][47]。この一件以後、加盟報道機関は検察および自民党に有利な報道をおこなうようになったといわれる[47]。また、検察は記者クラブに加盟していない報道機関による取材を拒否している[49]。


自主規制[編集]
記者自身による自主規制 1974年に「文藝春秋」が報じた「田中金脈問題」の場合、当時、この疑惑は以前から記者クラブ内では知られていた話にもかかわらず、ほとんどのマスコミが文藝春秋が記事化するまでこれを黙殺していた。
1999年、則定衛・東京高検検事長の女性問題を調査していた最高検次長検事が法務省内で複数の記者に対し「確かに浮気はあったかもしれないが、みんなそういうことを活力にしているんだ。この建物(法務省)の中の半分以上の検事はそう思っている」と発言。しかしこの発言はすぐには報道されず、2日後の紙面で『朝日新聞』と『西日本新聞』が記事にした。これを受けて他の新聞やテレビが報道した。朝日新聞、西日本新聞とも司法記者クラブに加盟している[50]。
記者クラブに加盟している記者は、別会社の記者同士であるにもかかわらず、取材メモを見せ合う「メモ合わせ」を行っているといわれる[51]。
2011年、2012年に首都圏で多発した原子力発電所反対デモのうちいくつかは国会議事堂前、首相官邸前で行われ、参加者が数万人に達したこともあったが、議事堂や官邸に常駐していた記者クラブの記者たちは横並びに黙殺して報道しなかった。また、フリージャーナリストが取材のために記者クラブが利用している国会記者会館の利用を申請したところ、既得権を理由に拒否され、フリージャーナリストという「身分」を蔑視さえされた[52]。
上記の上杉隆は、「記者クラブの記者たちは2011年の福島第一原子力発電所事故に際し、公式発表を書き写すだけでろくに質問もしないだけではなく、(当局に都合が悪い)質問をしようとしたフリージャーナリストたちを野次って黙らせようとさえした」逸話を紹介している[53]。さらに「既存のテレビ・新聞は、全く質問もしません。東京電力という、電事連のいわゆるスポンサーに気を遣って何一つ質問しないで、結果として半ば大本営発表のように、情報を出てくるのを止める、防衛するような状況です」「なんと2週間、私が質問するまで「プルトニウム」と言う単語を記者会見で訊いた記者は一人もいませんでした」と指摘した[54]。 しかし朝日新聞記者の奥山俊宏は、プルトニウムについて上杉が質問するより先に、朝日新聞経済部の記者が3月22日深夜の記者会見で「プルトニウムの測定はする必要はないんですか?」「定量的にデータを測定して説明するべきではないんですか?」と執拗に質問したと指摘している。[55] 東電の会見では大手メディアも含め、記者の厳しい質問ややりとりが続いていたことを、会見に自ら連日出ていた奥山が書籍にまとめ出版している(しかし、野次って黙らせようとしたことに関する記述はない)。[56]


情報源への肩入れ[編集]
積極的加担
2000年6月25日、首相官邸敷地内にある記者クラブ「内閣記者会」で『明日の記者会見についての私見』と題するメモが落ちているのが見つかった。このメモは2000年5月26日に行われた当時の首相・森喜朗の神の国発言の釈明会見で、記者側の追及をかわす方策を記した首相宛ての「指南書」とみられた。またこの問題をめぐっては主要週刊誌がその指南書を書いたメディア(NHK)を実名で取り上げたにも関わらず内閣記者会側はこの問題の真相究明には消極的だった。この指南書はNHKが記事出稿に使用する「5300」と呼ばれる端末内にある「連絡メール」の印刷様式と同じであった。また、NHKでしか使わない「民放」という表記があった。
2005年11月8日、放火事件で逮捕されたNHK大津放送局の記者が所属していた滋賀県警記者クラブを滋賀県警が家宅捜索した。しかし、情報源の秘匿が脅かされるとして危惧する意見も出た[57]。

憲法との関連[編集]

記者クラブ制度は憲法で保障されているとされる「国民の知る権利」を確保するために必要だとする意見がある。一方、政府や公共機関が記者クラブという特定の組織のみに情報を提供する事こそが「国民の知る権利」を侵害するもの(憲法に違反した行為)だとする意見がある。

国民の「知る権利」は憲法が保障しているとする憲法解釈にはほぼ異論はない。そのためこの問題は単に記者クラブ制度の良し悪しにとどまらない憲法に関わる問題でもある。記者クラブに加盟していないために取材が出来ない個人や組織が、権利侵害だとして国や公共機関を憲法違反で訴える可能性もある。

記者クラブ制度見直しの動き[編集]

多くの批判を受け1990年代から記者クラブの見直しが始まった。

首相官邸[編集]

「記者会見オープン化」も参照

2010年3月26日、内閣総理大臣の鳩山由紀夫は、記者クラブに属さない記者を記者会見に参加させた[58]。

政党[編集]

新生党[編集]

1994年、新生党代表幹事の小沢一郎が記者クラブ以外の雑誌社記者も会見に参加できるという当時では画期的な試みを行ったが、小沢とメディアとの対立などもあって途中で挫折に追い込まれた。

民主党[編集]

2002年、民主党幹事長の岡田克也がスポーツ紙や週刊誌や日本国外報道機関などのあらゆるメディアが会見に参加できる方式を導入した[59]。それまでは野党クラブ以外のメディアが会見に参加することができなかった。

自由民主党[編集]

2009年10月14日、自由民主党総裁・谷垣禎一は定例記者会見を、自民党の記者クラブである平河クラブ以外の日本国内外のあらゆるメディアやフリーランスの記者・カメラマンにも開放した。ただし、最初の質問権は平河クラブのみで、平河クラブの質問が一通りした後に、平河クラブ加盟社以外のフリーランスの記者も含めて質問出来る様になっている。会見所開放当初は熟慮したものではなかった[60]。

中央官庁[編集]

「記者会見オープン化」も参照

2004年3月30日、外務省は中央官庁・都道府県庁・警察などに対し、日本国外メディアの記者を会見に参加させるよう依頼する文書を発送した。

2009年9月16日、鳩山由紀夫内閣が成立した。外務省を皮切りに記者会見のオープン化が行われた。ネットメディアやフリーランス記者などが記者会見に出席し、質問できるようになった。

2010年(平成22年)4月現在、外務省や金融庁、法務省、総務省、内閣府の一部(行政刷新会議など)、環境省、首相官邸など14府省で行われている。ただし、依然記者クラブが主催権を持ち、大臣がオープン化を記者クラブに申し出る、記者クラブ主催の記者会見とは別にオープンな記者会見を始めるなど、オープン化の方法や程度はさまざまで、大臣が主催権を持つフルオープン化はまだ少ない。

鳩山内閣の閣僚による閣議後記者会見のオープン化度合いを調べるため、大学のウェブマガジン(早稲田大学大学院ジャーナリズム研究科の「Spork!」)の記者(大学院生)が参加出来るかを調べた記事によると、閣僚18人のうち7人の記者会見について、だれが主催者なのか、省庁と記者クラブで見解が一致していなかった。学生記者の参加は、18閣僚のうち13人について「報道の対価として収入を得ている職業報道人にあたらない」などの理由で拒否された。認められた5閣僚については、いずれも記者クラブが主催を主張する記者会見だった[61]。

地方公共団体[編集]

1996年4月、神奈川県鎌倉市は全国紙や地元紙の神奈川新聞など6社でつくる「鎌倉記者会」に市役所内の記者室を使わせるのを止め、その場所を市に登録した全ての報道機関が利用できる「広報メディアセンター」として開放した。当時の市長・竹内謙(元朝日新聞編集委員、元インターネット新聞JANJAN代表)の「一部の報道機関でつくる記者クラブが、税金で賄う市の施設を独占するのはおかしい」という考えによるものであった。

2001年5月15日、長野県知事の田中康夫は「脱・記者クラブ宣言」を発表し、記者クラブから記者室と記者会見の主催権を返上させた。

2001年6月8日、東京都は、都庁内の鍛冶橋・有楽記者クラブに対し、同年10月からクラブ及びスペースの使用料を支払うよう申し入れたが、後にこれを撤回し、光熱・水費と内線電話代に限って徴収することになった。また、石原慎太郎東京都知事は週刊誌や外国報道機関が会見に参加できないことについて疑問を呈している。

2006年3月14日、北海道は厳しい財政状況等を踏まえ新年度から「道政記者クラブ」に対し、光熱費・水道料金等約250万円の支払いを求めることを決めた。

2007年5月11日、東国原英夫宮崎県知事は定例記者会見で、「記者クラブという存在は、先進国では日本だけ」であると述べた上で、現行の県政記者クラブの在り方を見直すべきとの問題提起を行った。この直後、読売新聞など一部メディアでは否定的見解を表明した。

業界・経済団体[編集]

1993年6月、東京証券取引所記者クラブである「兜倶楽部」はこれまで加盟資格は日本の報道機関に限られていた規約を改正して、新たに「日本新聞協会加盟社に準ずる報道業務を営む外国報道機関」と付記し、事実上、日本国外報道機関にも門戸を開放した。

1999年3月、経団連機械クラブが廃止。この記者クラブは電機、造船、半導体、自動車など取材拠点として運営されていたが、家主の経団連側が退去を要求。報道側と発表主体企業側とでクラブ存続の方策が議論されたが、打開策が見つからないままクラブは消滅した。

この背景には、電機メーカー側はオープンな記者会見を行い、ニュースリリースもメールを利用していたので、クラブを使うメリットが少なかったからと言われている。一方、自動車業界はクラブを存続させるため、日本自動車工業会の中に「自動車産業記者会」を設置したが、朝日、読売、毎日、日経が参加を拒否し、事実上、記者クラブとして機能していない。

1999年7月、日本電信電話(NTT)の記者クラブ「葵クラブ」がNTTの再編に伴って廃止。葵クラブについてはかねてから一民間企業に記者クラブがあったことについての問題が指摘されていたが、NTT再編を機に報道各社で作る経済部長会が葵クラブを記者クラブとして認めないことで一致。一方、NTT側もクラブ加盟社以外の雑誌や日本国外メディアに記者室を開放する狙いからクラブの廃止を受け入れた。

記者証制度[編集]

日本以外の国でもジャーナリストを名乗れば誰もが自由に取材できる訳ではない。これは特に保安上の理由である。例えば、事前審査を行い、記者証を発行するなどの手続きが必要である。ただし、審査によって報道機関に所属していることが確認され、保安上の問題なしとされた場合は記者証が自動的に発行されるのが原則である。記者証を持っていれば、少なくとも公的機関の記者会見には出席できる。上杉隆は政府自らが記者の身分を確認しない現状の方が危険だと指摘している[62]。

日本以外の国では審査や登録の制度は窓口が1つで、いったん、記者と認められれば自由に取材することができる。日本のように、全国津々浦々に私的なクラブが乱立し、1つの記者クラブで記者と認められても、他の記者クラブでは認められないということはない。また、審査や登録には公的機関が関わっていることが多く、法律の枠内で運用されている。

アメリカ合衆国では、最近ではインターネットのブログでニュース報道を配信しているブロガーに記者証を発行し、話題になった。ウェブ上でニュース報道を配信しホワイトハウスから記者証を発行されていた保守系ニュースサイトの記者が違法ポルノサイトを運営、違法取引を行っていたことが発覚しセキュリティーチェックの不十分さが指摘された。

フランスでは、ジャーナリストであれば「プレスカード」が発行されるが、この発行を受ける場合はメディアの関係者とジャーナリストで作られている「プレスカード委員会」の審査を受けなければならない。また、この「プレスカード」によって大統領府(エリゼ宮)や各省庁の記者会見に参加することができる。

政府首脳の取材は保安上の理由で身元や身辺の調査などがある。ホワイトハウスでは「記者証」を発行してもらうためには厳重なセキュリティーチェックを受けなければならず[11]、また発行されるまでに数ヶ月程度時間がかかることもある。政府首脳とメディアの距離が非常に近いといわれていた北欧諸国でも、2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件以降は制限されるようになった[63]。

日本新聞協会は2004年から、外国人記者に限って「記者証」制度を認めつつある。しかし、末端の記者クラブがそれを認めるかどうか保証はない。

日本以外の例[編集]

記者団[編集]

上杉隆はその著書『記者クラブ崩壊』で、現在、記者クラブは日本とガボン、ジンバブエ[64]にしか存在しないとしているが、アメリカのホワイトハウスや連邦政府の官庁にも記者クラブのようなものがあるという担当記者の指摘がある[65]。ジンバブエでは政府の情報メディア委員会への登録が義務化されているという報道がある。[66]。

記者会見[編集]

日本以外では、記者会見は必要がある時のみ開催され、出来るだけ多くのメディアが参加出来るようにしている。[要出典]

ブリーフィング[編集]

日本には記者会見の他に記者懇談会やブリーフィング(背景事情説明)があり、記者クラブが独占している。アメリカ合衆国やイギリスでも同様のブリーフィングがあると言われている。

イギリスの首相官邸(ホワイトホール)では、以前は議会記者証を持った記者しか参加できないオフレコのブリーフィングが行われていた。チャーチルが第2次世界大戦中に始めたもので、非公式なリークによって報道を操る目的があったと言われる[要出典]。しかしトニー・ブレア政権以降は、フリー記者の参加が認められるようになり、オフレコも廃止された。

アメリカ合衆国のホワイトハウスでは、重大な発表が行われる場合のみ発表後の混乱を避けるため、特定の大手メディア(特にテレビ)記者を秘密裏に招集して、事前説明(ブリーフ)を行うと言われる[要出典]。

記者室[編集]

詳細は「記者室#日本以外」を参照

アメリカの「記者クラブ」[編集]

アメリカ合衆国にもホワイトハウス [67] 、連邦政府の官庁、国連本部などに大手メディア記者からなる記者団体がある。大手メディア記者は記者室の提供や優先的な取材機会などの便宜供与を受けている。

アメリカのホワイトハウス、国務省、ペンタゴン、連邦議会詰めの記者の団体の間では、ニューヨーク・タイムズやワシントン・ポストなど有力メディア記者が当局者から特別な便宜を受け、独占インタビューや特ダネを与えられている。ホワイトハウスのブリーフィング・ルームの60ある椅子は会社の名前が貼り付けてあり、最前列は通信社と大手テレビ、後方になるほど影響力の小さいメディアに割り振られる。大統領や国務長官の同行取材の飛行機内の席順も同様である[68]。

アメリカの記者クラブは常駐メディア各社のブースや机はあるが、日本の記者クラブのような休憩用のソファや冷蔵庫はない。代表取材のやり方などを調整することはあるが、取材上の取り決めや各社の協定を結ぶことはない[69]。

韓国の「記者クラブ」[編集]

韓国にも、最近まで日本とよく似た記者クラブ制度が存在した。だがインターネットと既存メディアの間で軋轢が表面化した結果、2003年、盧武鉉大統領が記者クラブ制度を廃止している。

脚注[編集]

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1.^ 原因は特定秘密保護法と記者クラブ制度――日本の言論自由度は世界59位週刊金曜日ニュース、2014年3月14日観覧
2.^ a b 『新現場から見た新聞学』第1部 第1節
3.^ a b 岩瀬『新聞が面白くない理由』
4.^ a b c d e f g 『新版 ジャーナリズムを学ぶ人のために』
5.^ 天野勝文、橋場義之『新版 現場から見た新聞学』 2002年 p.96
6.^ “大臣記者会見、だれが主催?省庁と記者クラブ、7閣僚で見解不一致 J-School院生の調査で判明”. 早稲田大学ジャーナリズムスクールウェブマガジンSpork! (早稲田大学ジャーナリズム大学院). (2010年2月16日) 2012年10月28日閲覧。
7.^ a b c d e f “記者クラブに関する日本新聞協会編集委員会の見解”. 日本新聞協会. 2010年4月24日閲覧。
8.^ a b 『ジャーナリズム崩壊』第1章 第1節
9.^ 『ジャーナリズム崩壊』第4章 第4節
10.^ 土肥義則 (2009年11月27日). “記者クラブを批判したら……最大の抵抗勢力が出てきた(4)”. Business Media 誠. 2010年4月26日閲覧。
11.^ a b c d 『ジャーナリズム崩壊』 182-183頁。
12.^ a b c d e f g h i j k l 『新聞学』 pp. 108-118
13.^ a b 『ジャーナリズム崩壊』第2章 第1節
14.^ 『ジャーナリズム崩壊』第1章 第5節
15.^ 平成12年警察白書 第1節 犯罪情勢の推移と刑事警察の50年
16.^ 「集団的過熱取材に関する日本新聞協会編集委員会の見解」 2001年12月6日第609回編集委員会
17.^ 『ジャーナリズム崩壊』 37-38頁。
18.^ “読売記者、取材メモを誤送信 諭旨退職処分に”. 朝日新聞デジタル (朝日新聞社). (2012年8月14日) 2012年10月28日閲覧。
19.^ a b 『新現場から見た新聞学』序章 第2節
20.^ 今西光男『新聞 資本と経営の昭和史』(朝日選書824)p.287
21.^ a b c d e 『岐路に立つ日本のジャーナリズム』P130-144
22.^ a b 今西光男『新聞 資本と経営の昭和史』(朝日選書824)287-291 朝日新聞社 2007年
23.^ 『新版 ジャーナリズムを学ぶ人のために』p.96
24.^ 記者クラブに関する日本新聞協会編集委員会の見解 - 1.目的と役割
25.^ a b 青木彰『新聞力』東京新聞出版局 2003年 pp.78-80
26.^ 『新版 ジャーナリズムを学ぶ人のために』p.111
27.^ 外国報道機関記者の記者クラブ加入に関する日本新聞協会編集委員会の見解
28.^ オフレコ問題に関する日本新聞協会編集委員会の見解
29.^ 『新版 ジャーナリズムを学ぶ人のために』p.99
30.^ 鎌倉市・広報メディアセンター
31.^ 『新版 ジャーナリズムを学ぶ人のために』p.102
32.^ 記者クラブに関する日本新聞協会編集委員会の見解 - 1.目的と役割
33.^ 記者クラブに関する日本新聞協会編集委員会の見解(第656回編集委員会)
34.^ 徳永裕介 (2006年3月15日). “LDニュースのクラブ加盟却下”. ライブドア・ニュース (ライブドア) 2008年11月21日閲覧。
35.^ “記者会見の全面開放宣言〜記者クラブ改革へ踏み出そう〜” (プレスリリース), 日本新聞労働組合連合, (2010年3月4日) 2010年3月4日閲覧。
36.^ “「記者会見は全面開放すべき」 新聞労連が大手マスコミに提言”. J-CASTニュース (ジェイ・キャスト). (2010年3月4日) 2010年3月4日閲覧。
37.^ 97年見解
38.^ 花岡信昭「記者クラブ制度批判は完全な誤りだ」日経BPネット2009年09月24日
39.^ 97年見解
40.^ 『日本型メディアシステムの興亡』
41.^ なぜ記者クラブが問題なのか
42.^ a b c 小林雅一 『隠すマスコミ、騙されるマスコミ』 文藝春秋〈文春新書〉(原著2003年5月)。ISBN 9784166603183。
43.^ 高田昌幸 (2010年8月15日). “タコつぼ化したジャーナリズム ── 特定記者クラブへの過剰配置が取材態勢の硬直化を招く”. 高田昌幸の「新聞社のデスク席から」. THE JOURNAL. 2012年1月3日閲覧。
44.^ 池田信夫 (2008年11月23日). “警察ネタの過剰”. 池田信夫 blog. 2008年12月7日閲覧。
45.^ 『朝日新聞』2001年5月26日
46.^ 青木理『国策捜査―暴走する特捜検察と餌食にされた人たち』(28-40頁)金曜日、2008年5月。ISBN 9784906605408
47.^ a b c d 「鳩山政権を挟撃する大メディアと官僚「霞ヶ関の笛」連合」、『SAPIO』第21巻第20号、小学館、2009年11月25日、 p.81。
48.^ “鈴木宗男氏「狙われたら誰でもやられる」”. 産経新聞. (2010年1月16日)
49.^ a b マーティン・ファックラー (2009年5月29日). “In Reporting a Scandal, the Media Are Accused of Just Listening” (英語). ニューヨーク・タイムズ 2010年1月3日閲覧。
50.^ 官公庁(東京地域) 記者クラブ一覧情報館
51.^ 『ジャーナリズム崩壊』 37-38頁。
52.^ 脱原発官邸前デモの絶好の取材場所巡り記者クラブ提訴される
53.^ 読売、日経記者が飛ばす野次の背景に「選民思想」と上杉隆氏
54.^ 鳩山由紀夫前主催勉強会 2011年4月6日 上杉隆公式ウェブサイト
55.^ 奥山俊宏 「[福島原発事故]マスコミ批判・記者批判を検証する」『Journalism』266号、朝日新聞社、2012年7月、88頁
56.^ 奥山俊宏 『ルポ東京電力 原発危機1カ月』 朝日新聞出版〈朝日新書〉、2011年6月30日
57.^ 粟野仁雄「滋賀県警の「ガサ」入れ ついに記者クラブまで」、『週刊金曜日』第582号、金曜日、2005年11月、2008年11月21日閲覧。
58.^ “鳩山内閣総理大臣記者会見” (プレスリリース), 首相官邸, (2010年3月26日) 2010年4月1日閲覧。
59.^ “記者クラブという「鎖国」制度 世界の笑いものだ”. J-CASTニュース (ジェイ・キャスト). (2008年12月30日) 2010年5月3日閲覧。
60.^ “自民総裁会見もオープン化 谷垣氏「熟慮したわけではない」”. J-CASTニュース (ジェイ・キャスト). (2009年10月14日) 2009年10月17日閲覧。
61.^ “大臣記者会見、だれが主催?省庁と記者クラブ、7閣僚で見解不一致 J-School院生の調査で判明”. 早稲田大学ジャーナリズムスクールウェブマガジンSpork! (早稲田大学ジャーナリズム大学院). (2010年2月16日) 2012年10月28日閲覧。
62.^ 井上理 (2009年9月17日). “鳩山内閣早くも公約違反? 隠れた官僚支配の温床壊せず”. 日経ビジネスオンライン. 日経BP社. pp. p. 3. 2009年9月17日閲覧。
63.^ 『ジャーナリズム崩壊』 176頁。
64.^ 『記者クラブ崩壊』P148
65.^ 佐々木伸 (1992). ホワイトハウスとメディア. 中央公論社. p. 147. ISBN 4-12-101071-X.
66.^ 横山仁美 (2008年9月8日). “抑圧下の記者クラブ シリーズ・ジンバブエ(1)”. asahi.com. 2010年5月6日閲覧。
67.^ フランスのテレビドキュメンタリー「近くて遠い大統領 〜ホワイトハウス記者のジレンマ〜」でホワイトハウス記者団や記者室の内部、米国の大手メディアが優先的に取材をしている様子が詳しく報じられた。このドキュメンタリーは日本でもNHKが放映した。
68.^ 佐々木伸 (1992). ホワイトハウスとメディア. 中央公論社. p. 147. ISBN 4-12-101071-X.
69.^ 佐々木伸 (1992). ホワイトハウスとメディア. 中央公論社. p. 147. ISBN 4-12-101071-X.

参考文献[編集]

出典は列挙するだけでなく、脚注などを用いてどの記述の情報源であるかを明記してください。記事の信頼性向上にご協力をお願いいたします。(2009年8月)
稲葉三千男ほか『新聞学 第三版』1995年 ISBN 978-4535581883
天野勝文ほか『岐路に立つ日本のジャーナリズム』1996年 ISBN 978-4535582156
岩瀬達哉 『新聞が面白くない理由』 講談社〈講談社文庫〉(原著2001年9月)。ISBN 9784062732857。
田村紀雄、林利隆(編) 『新版 ジャーナリズムを学ぶ人のために』世界思想社 新版版 1999年 ISBN 4790707881
村上玄一 『記者クラブって何だ!?』 同朋舎(原著2001年11月)。ISBN 9784810427271。
筑紫哲也 『ニュースキャスター』 集英社〈集英社新書〉(原著2002年6月)。ISBN 9784087201451。
筑紫哲也他 『職業としてのジャーナリスト―ジャーナリズムの条件〈1〉』 岩波書店、2005年2月。ISBN 978-4000263979
田中良紹 『メディア裏支配--語られざる巨大マスコミの暗闘史』 講談社(原著2005年3月)。ISBN 9784062128346。
柴山哲也 『日本型メディアシステムの興亡--瓦版からブログまで』 ミネルヴァ書房〈叢書・現代社会のフロンティア〉(原著2006年6月)。ISBN 9784623046089。
山田直樹他 『追跡!平成日本タブー大全 2』 宝島社、2006年10月。ISBN 978-4796650250
青木理 『国策捜査―暴走する特捜検察と餌食にされた人たち』 金曜日(原著2008年5月)。ISBN 9784906605408。
天野勝文、橋場義之『新現場から見た新聞学』2008年 ISBN 978-4762018770
上杉隆 『ジャーナリズム崩壊』 幻冬舎〈幻冬舎新書〉(原著2008年7月30日)。ISBN 9784344980884。
ローリー・アン フリーマン(著), 橋場 義之(訳)『記者クラブ―情報カルテル』緑風出版 2011年
マーティン・ファクラー『「本当のこと」を伝えない日本の新聞 』2012年 ISBN 978-4575153941

関連項目[編集]
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新聞・テレビをはじめとする多くのメディアは、日々、世界中で起きている出来事をかいつまんで教えてくれる便利なものです。ビジネスの世界では、朝刊に掲載された内容を把握していることは常識とされますし、学校生活においても、流行しているテレビ番組や芸能人が話題の中心となることも多いでしょう。

このように老若男女問わず、私たち市民の毎日の生活に深く浸透しているメディアですが、あまりにも慣れすぎてしまい、その本質は見えにくいのではないでしょうか。

情報の受け手である市民が「メディアとはいったい何か。その目的は何か。どんな影響があるのか」と、メディアの本質について知っておくのは、生きる上で大きな知恵となります。

なぜかといえば、メディアがさらなる巨大権力と化し、暴走しはじめたとしたら……。日本人は実際、メディアに踊らされて、過去に大きな戦争をしています。当時のメディアは明らかに暴走しました。被害にあったのは、メディアを信用し、何も知らなかった多くの市民です。

現代において、仮にまたメディアが戦争以外にも何らかの方向に暴走をしはじめても、気がつかないことは十分に考えられます。どうして気がつかないのか……それは私たち市民の多くが、メディアの本質をまったく知らないからです。

私たちの生活を守るのは私たち自身です。メディアについて一緒に考えてみませんか?



昭和30年代前半、街頭テレビ第一号が登場しました。


2011 年 7 月 24 日、地上デジタル放送へ完全移行する予定となっていますが、緊急地震速報の場合、アナログ放送に比べて約 2 秒遅れることが明らかになっています。(写真:現在建設中の東京スカイツリー)






先にも「メディア」という言葉を多用しました。その意味はご存知だと思いますが、「メディアについて考える」前に、いま一度確認しておきます。

情報を伝達するための媒体(テレビ・新聞・雑誌・電話・手紙・広告・音楽・ラジオ・本・インターネットなど)を、メディアといいます。

しかし、多くの人がメディアという言葉から連想されるのは、特定の少数の送り手が不特定多数の受け手に対して情報を伝達する媒体ではないでしょうか。代表的なものは、新聞・テレビ・ラジオです。これらをマスメディアといいます。

今回は、数あるメディアのなかでも、多くの人にとってより身近な、新聞とテレビを中心に話を進めていきます。(以下、「マスメディア=新聞・テレビ」とします)






みなさんは、いま社会で起きていることを、どのようにして知りますか? 多くの場合、新聞・テレビから情報を得ているかもしれません。インターネットを活用している人も多いでしょう。では、正しい・間違っていると見極める価値観は、どのようにして作られていますか? 両親、家族、友人、また会社の上司から教わることもあるかもしれません。それは一見、マスメディアとは関係ないようにみえます。しかし、 自分は新聞・テレビをみていなくても、マスメディアが作り出した価値観は、周りの人々や社会の常識、または先人の教えとなって、人を介し広がっていきます。人とふれあうかぎり、その影響を免れることはできません。

それほど影響力が大きいにもかかわらず、新聞・テレビで流れる情報は、一方的に偏った情報や嘘や間違いも少なくありません。なぜ、こんなことが起きるのでしょうか。その原因のひとつには、大手マスメディアを腐敗させる構造的欠陥が考えられます。






 ― 記者クラブ制度 ― 

記者クラブという団体があります。この制度は、明治時代に帝国議会の取材を求める記者たちが結成したのが始まりとされる各地にある任意団体です。法的な制度ではないのですが、政府・警察などの公式発表を取材できるのは、この団体に属する大手新聞社とテレビ局の記者のみで、情報の独占をしています。最近、フリーの記者にも記者会見をオープンにする動きがありますが、まだまだ充分とはいえません。

また、記者クラブは、首相官邸、各省庁、警察署内に記者室を持ち、そこを毎日の活動拠点にして、持ちつ持たれつの馴れ合いの関係を政府・警察組織関係者と持っています。この構造が、権力を監視しなければいけない立場にある記者たちが、批判的な記事を書くことをむずかしくしている一因にもなっています。

さらに、各社の記者たちは、記者クラブでの取材後に、みんなで取材内容を確認して一致させます。これは、「メモ合わせ」と呼ばれます。このため、どこの新聞やテレビのニュースも、同じ内容になります(横並び報道)。

このように記者クラブ制度は、記事のネタを取りに行く時間や努力も省ける便利な構造として、大手マスメディアの既得権益となっています。



民主党は、 記者会見の開放 を開始。中央官庁では、 2009年9月に岡田外相、10月には亀井金融・郵政担当相、2010年1月には原口総務相、3月には鳩山内閣総理大臣などが記者会見を大手マスメディア各社の記者以外にもオープン。とはいえ、まだ記者クラブ制度が根強く残る省庁もあり、古い体質を見直すときにきています。






― スポンサー ―

テレビ局の事業収入は、そのほとんどを放送収入(広告収入)から得ています。つまり、CMです。一方、新聞社の場合においても、収益全体の約4割~5割が広告収入といわれ、かなりの割合を占めています。

あたりまえのことですが、スポンサーに依存するほど、自由な言論はできません。

また、スポンサーからの資金がなければ、テレビ局・新聞社とも継続できません。撤退されては困るので、スポンサーの事業内容を批判することや、意向に反する報道はできないのです。しかし、スポンサーの顔色を窺いながら、真実を伝えることなどできるでしょうか。

当然の結果として、数多くの番組が、高額なスポンサー料を払う大企業や資本家・権力者に都合のよいものばかりに偏ってしまいます。






― 大手広告代理店 ―

新聞・テレビ各社が気を使うのは、スポンサーだけではありません。

各企業の広告の依頼を一手に引き受けている一部の限られた大手広告代理店の存在があります。

大手広告代理店は、ありとあらゆるメディア関連企業に関与し、企業主催の公演、広報対策、オリンピック、ワールドカップといった大型イベント、さらに、選挙の際の政党広告、政治家のPR戦略なども手掛けています。

大手マスメディア各社以上に、巨大な権力となった大手広告代理店の意向に背くような内容を報じることなど到底できず、真相を追求するどころか、報道の自主規制さえしているのが現状です。また、大手マスメディア幹部社員の子息の多くが、大手広告代理店に入社していることから、馴れ合いの関係もみてとることができます。



電通は、 広告代理店として単体では世界で最大の売り上げを誇り、国内 2 位の 博報堂 の売上高の約 2 倍、 3 位の ADK の売上高の約 4 倍と、名実ともに日本最大の広告代理店となっています。(写真:電通汐留本社ビル)






しかし、巨大なシステムとなったマスメディアにもいま危機が訪れています。インターネットの登場以来、テレビの視聴率と新聞購読者数の低下は著しく、若者を中心に新聞・テレビをみない人が増えています。その影響として、広告収入が下がり、記事や番組の制作費が削減されて質が低下し、つまらなくなり、さらに新聞・テレビの人気が落ちていくという悪循環になっています。

マスメディアの衰退は、新聞・テレビの流す情報に異議を唱える人が増えている証拠ともいえます。「マスメディアは、何を伝え、何を伝えていないのか」それが、インターネットで調べてみると、一般市民の私たちにもまる見えだからです。インターネットで多様な情報を得ている人からしたら、新聞・テレビが一部の限られた情報しか伝えていないことは、一目瞭然です。

次に、時代によって新聞・テレビがどんな役割を果たしてきたか、日本のマスメディアの歴史をみていきます。歴史は、マスメディアの現在の体質を、きわめて客観的に教えてくれます。




政府インターネットテレビでは、総理や官房長官の記者会見を動画でみることができます。
( http://nettv.gov-online.go.jp/index.html  )






江戸時代には、瓦版(かわらばん)という新聞のような一枚刷り(木版)の雑誌のようなものがありました。おもに天変地異や大火、心中など時事性の高いものや政治以外の社会ニュースを伝えていましたが、明治に入ってからは、新聞にとって代わり衰退していきました。




近藤勇の晒し首の瓦版。






幕末の開国以来、居留外国人の間では英字新聞が発行されていましたが、日本語の新聞はまだありませんでした。というのも、幕府が出版物を厳重に規制し、新聞の編集・発行の知識と印刷技術がまだなかったからです。






戊辰戦争で、国内が混乱してくると全国で、「今、何が起きているのか」とニュースを求める声が高まると、英字新聞の発行に携わっていた人達や旧幕臣が、日本語の新聞を発行しはじめ、全国各地で新聞社が立ち上げられました。

もっとも早く発行された「中外新聞」(明治元年創刊)は、部数を急速に伸ばし(1500部)、その成功が後に続く新聞の発行を促したことから “ 日本近代新聞の祖 ” とみなされています。

当時の新聞発行者たちは、旧幕臣など幕府を支持する者が多かったため、記事の内容も薩長中心の藩閥政治を批判するものもありました。これは、新政府の怒りを買い、逮捕・投獄される者まで出ました。以降は政府の許可なしに新聞の発行は、一切禁止となり、生まれたばかりの新聞は、即壊滅、いったん社会から消えたのです。

翌明治2年に新政府は、「新聞紙印行条例」を発布し、検閲を受けることを条件に許可を得た新聞の発行を認めましたが、いずれも政府の顔色を窺うものになってしまったのです。この後、明治3年に創刊された「横浜毎日新聞」は、現代と同じ活版技術で印刷された、日本初の日刊新聞です。


『中外新聞』第一号 (明治元年)


『横浜毎日新聞』(明治3年)






同じく明治3年には、木戸孝允の出資により、『新聞雑誌』が発刊されました。また前島密は、明治4年に『郵便報知新聞』(現・報知新聞)を発行しました。 政治家が新聞を発行し、直接的に世論誘導をしていることが特徴です。これらの新聞には、新政府の広報としての機能のみが求められました。


木戸孝允は、幕末~明治初期に活躍した長州藩士。尊王攘夷派の中心人物で、西郷隆盛、大久保利通とともに「維新の三傑」と称せられます。彼は、 新聞が人民誘導に役立つと認識していました。

前島密は、幕末~明治に活躍した官僚、政治家。近代郵便制度の創設者の一人で、「郵便制度の父」と呼ばれています。






『新聞雑誌』


『郵便報知新聞』






自由民権運動が高まり、言論が活発化してくるとそれまで政府の御用新聞であった各紙も政府に批判的な記事を掲載するようになります。

そのような社会状況の中、明治8年には、 新聞・雑誌の反政府的言論活動を封ずるための「新聞紙条例」が制定されます。 その主な内容は、以下のものでした。

①発行を許可制とする。

②違反者には、罰金・懲役を課す。(社主、編集者、印刷者の権限・責任を個別に明示し、 違反時の罰則などを規定)

③記事に本名(住所・氏名)を明記することを原則とする。

④犯罪者(当時の法律下での犯罪)を庇う記事を禁ずる。

⑤政府の変壊・国家の転覆を論じる記事、人を教唆・扇動する記事の掲載を禁ずる。

これらは、さらに明治16年に改正・強化されると、全国で355紙あった新聞が199紙に激減し、俗に「新聞撲滅法」とよばれました。



『愛知絵入新聞』-官憲の弾圧と闘いながら自由民権を謳って明治20年に創刊。その過激さから発行停止処分を受けて翌年廃刊となりました。


『新愛知』-『愛知絵入新聞』の発行停止処分が解かれた後、新しく創刊されました。のちに『名古屋新聞』、『扶桑新聞』と合併し現在の『中日新聞』になっています。







大阪朝日新聞(明治11年創刊)は、当初、政府(伊藤博文など)と三井銀行が資金援助する御用新聞でした。明治14~26年までの間、政府から極秘の資金援助を受ける代わりに密約を結んでいました。

この密約の重要な点は、『大阪朝日新聞』が政府を表面的に弁護することはなく、「中立ヲ仮粧シテ」みせることでした。これは政府のきわめて巧妙な新聞政策で、当時「多事争論」といわれた様々な言論活動をうまく統制するために「中立」言論を育成し、新聞界での支配権を握るためのものでした。

また明治21年には、伊藤博文の腹心・伊東巳代治が、『東京日日新聞』(現・毎日新聞)を買収し、伊藤系長州閥の御用新聞となりました。



伊藤博文は、幕末の長州藩士で、明治期の政治家。 大日本帝国憲法 の起草に関わり、初代・第 5 代・第 7 代・第 10 代の 内閣総理大臣 を務めました。


伊東巳代治は、明治・大正・昭和期の官僚、政治家。 1892 年 、 第2 次伊藤内閣 では、 内閣書記官長 、 枢密院 書記官長、 1898 年 、 第 3 次伊藤内閣 では 農商務大臣 等を務めました。





『大阪朝日新聞』





『東京日日新聞』






一般の新聞読者の興味を引くものは、戦争報道のような大事件です。

日清戦争(明治27年-)と日露戦争(明治37年-)における戦争報道は、人々の興味を引き、その結果、発行部数を飛躍的に伸ばしました。これを機に新聞は、社会的地位を一気に上げ、マスメディアとしての地位を獲得します。

しかし、戦争報道で獲得した多くの読者を新聞記事に惹きつけておくためには、戦後にも一工夫が必要です。そこで、様々なアイデアが発行部数を維持・拡大するという営利目的で、実行に移されていきました。


『東洋日の出新聞』の
日露戦争報道





戦争のような大事件がないと、新聞はあまり売れません。そこで平時においてもよく売れるように、新聞各社は三面記事に脚色しはじめました。事件にドラマ性を持たせ報道したのです。

よくあった例は、若い男女の心中、強盗殺人事件などを取り上げ、悲劇のストーリー性を強調したり、犯行の残忍な描写をすることです。こうして、読者の興味を惹きつけました。これは、今でもよく日常的に使われている手法で、現代の私たちにとっては、ごくあたりまえの事件報道ですが、この頃から用いられてきた古典的な脚色技術です。

さらにこのような三面記事に用いられた手法は、政治・経済・戦争などの報道においても、応用されていくことになります。大事な情報を客観的に伝えたり、戦争の是非を問いかけたり、事件報道の与える社会的影響を考慮することは、すべてが売上アップのために犠牲にされていきました。

阿部定事件を報じる新聞





営利目的の企業化した大手新聞社は、記事を盛り上げるために、三面記事の脚色の他にも独自でイベントを作り出します。

新聞社が、自ら主催して報道する娯楽イベントには、囲碁・将棋などがありましたが、その中で最も代表的なものは、 朝日新聞社が主催した全国中等学校優勝野球大会(現・夏の高校野球)です。高校球児の熱いドラマから始まり、活躍した人気選手がプロ野球界へと、それを追い続ける息の長いファンを獲得する一大エンターテイメントとして成立しています。当時から精神主義、集団主義、勝利至上主義を基調とする「武士道野球」を推奨していました。

新聞社の報道する野球の試合は、「日本人にモラルを教化する道徳劇」である一方、運営する側からすれば、企画運営・経営・報道までを一手に担える巨大ビジネスなのです。


第一回大会 村山龍平・朝日新聞社主による始球式





- 決定打となる政府による言論弾圧  -

度重なる弾圧の末、政府の御用新聞と成り下がりながらも、生き残った大手新聞各社の中にも、ジャーナリストとして本来の役目を果たす記者たちの存在もありました。

大正7年、シベリア出兵を予期し、コメの買占めによって米価格が暴騰すると、怒った富山の漁村の主婦たちが大挙して米屋に押しかけ、打ちこわしを始めました。「米騒動」です。騒動はたちまち全国に広まり、東京・大阪・神戸などの都市では焼きうち、強奪の大暴動となり、警察のみならず軍隊までが出動しました。この米騒動の波及を恐れ、報道の禁止を命令した政府に対し、各新聞社が言論弾圧だとして反発しました。

政府は、批判的な記事(中国の故事に由来する ” 白虹 ” を引用した記事)を掲載した大阪朝日新聞を発行禁止・会社解散処分に追い込むため、裁判に厳しい態度で臨みました。 これを恐れた大阪朝日新聞は、二度と政府批判をしない、穏健妥当な報道に徹するという「不偏不党」を表明しました。その他の新聞各社も同様の「不偏不党」を掲げ、これ以降、政府を激しく追及するような言論は新聞界から影を潜めていきます。

この白虹事件は、「ジャーナリズムの死」ともいえる重大な出来事だったのです。



大阪朝日新聞社 村山龍平社長


言論弾圧によって、白紙部分のまま出版された米騒動記事






大戦中、各新聞社は、政府発表をそのまま掲載して、みずからも戦争を煽動するなどして、全国民に多大な犠牲を与えました。なかでも政府の公式見解である大本営発表を受けた新聞各社は、ミッドウェー海戦以降は、あからさまな虚偽報道を行うようになり、勝敗と正反対の発表さえ恒常的に行われました。また、ラジオ放送においても、戦時中のNHKが、戦意高揚目的の虚偽発表は864回にのぼります。 (中奥宏 『皇室報道と「敬語」』より)

そのため大本営発表といえば、今では、「内容を全く信用できない虚飾的な公式発表」の代名詞にもなっています。


焼夷弾の威力を虚偽報道。国民が逃げないように誘導しました。この報道を信じた大都市の人々は非難することなく、空襲の犠牲となったのです。

さらに大空襲後も被害を過少に虚偽報道。国民が逃げないように誘導しました。





大本営発表(1941年)


大本営発表の記事






多くの国民が貧困に苦しむ敗戦後においても、大手新聞各社は、戦時中の虚偽報道を反省することはありませんでした。

朝日新聞は、敗戦後当初、上層部はほとんど辞職しようとしませんでした。昭和20年8月の敗戦、3ヶ月後の11月にようやく、「国民と共に立たん」という社告を掲載し、社長以下重役が総辞職しましたが、数年後には、辞職したはずの村山社長は会長に復帰、さらにその後には社長にまで復帰して、昭和39年まで経営の実権を握りました。

また、読売新聞社では、当時社長であった正力松太郎が、GHQから戦犯容疑指名を受けた4ヶ月後にようやく辞任することを表明しました。しかし、昭和26年には、社長に復帰し、昭和44年まで経営の実権を握りました。虚偽の報道を続け、国民を欺き、戦争へと駆り立てながら、会社は潰れることなく、現在も存続しているのはなぜでしょうか。新聞社にまったく戦争責任に対する意識がないことは明らかです。

そして、戦争責任をとらない大手新聞各社が、戦後の日本において、テレビ局を設立していき、さらにマスメディアとしての力を獲得していきます。


昭和20年8月15日正午、天皇の肉声を放送する「玉音放送」で、日本の降伏が国民に告げられました。





敗戦後は、武器を持ったアメリカの進駐軍が日本全土に駐留し、治安の維持を確保していました。そして、昭和27年にGHQ(連合国総司令部)が撤退した後は、CIAなどのアメリカ政府の情報機関が代わって対日政策の主導権を握るようになりました。その情報機関が主導した日本支配計画として導入したものが、日本のテレビ放送でした。

ですから、日本のテレビ放送は、歴史の由来からすれば、アメリカによる「日本国民・支配装置」といえるものです。そのため、日本の当時のテレビシステムは、すべてアメリカ式のものが流用されています

当時のテレビ番組は、反共産主義的な内容や、アメリカが憧憬の的になることを促す内容が意図的に放映されていました。それは、進駐軍が撤退した後も、日本国民が、親米感情を持ち続け、当時脅威であった共産主義に感化されず、日本が親米国家であり続けるため、心理作戦として必要とされるものでした。






正史では、日本初の民放である日本テレビの創設は、「日本のテレビ放送の父」といわれる正力松太郎個人の功績とされてきました。



しかし、2000年に日本帝国政府情報公開法がアメリカで制定され、機密扱いとされてきた過去の重要書類が一般公開されました。早稲田大学教授・有馬哲夫氏は、アメリカに渡り、国立公文書館に眠っていた474ページにも及ぶ機密ファイルを調査し、 元警察官僚で、大物政治家の正力松太郎が、テレビを通じて親米世論を日本国内で形成するためにアメリカ政府の諜報機関であるCIAと協力関係にあったことを明らかにしました。 その内容は著書の『原発・正力・CIA』『日本テレビとCIA』に詳しく記されています。





GHQ・進駐軍撤退後に導入されたものが、日本のテレビ放送でした。米政府の政策として、武力統治から心理的統治へと移行しました。


正力松太郎は、日本の警察官僚、実業家、政治家。また、読売新聞社・社主も務め、同紙の部数拡大に成功しました。「テレビの父」、「プロ野球の父」、「原子力の父」と呼ばれているように、それぞれの導入を推進したことでも有名。昭和27年、日本テレビ初代社長就任。昭和31年、原子力委員会・初代委員長に就任。






対外諜報活動を行うアメリカ合衆国の情報機関の代表格が「CIA」です。CIAは、外国反米政権を倒すためのテロ組織を支援することや、外国の親米政党に対する秘密援助も行います。政府が公的に手を下せない “ 裏稼業 ” に関わっている組織です。そのため、「クーデターメーカー」とよばれることもあり、反米国家のイランなどからは、「テロ組織」に指定されています。

政治家、軍人、NPO活動家、宗教団体、留学生、芸能人、外国人など様々な身分・職業に偽装させたエージェントを世界各国に配置しているといわれます。末端のエージェント・職員は、自分の活動の目的の全容を開示されておらず、虚偽の説明を受けているようです。

CIAは、アメリカの覇権の維持拡大を最終目的として、外国の政府と同国内の反政府勢力の双方に介入し、政策決定をコントロールする巧みな手法を用います。どういうことか簡単にいうと、まずアメリカの支配対象国内に、あえて左翼・右翼・学生運動・宗教団体などの反米集団を育成します。そして、軍事介入ないし戦争のきっかけを作り出し、その後に支配体制を構築するという長期的な計画を世界各国で実行しています。これは、日本においても例外ではありません。

<日本政府中枢との関係>

日本占領期から、児玉誉士夫、笹川良一(右翼)、岸信介(首相)、緒方竹虎(自由党総裁)、辰巳栄一(元陸軍中将)、田中清玄(左翼)、などをエージェントとして、設立期の自民党にも活動資金を提供しました。ゆえに自民党には基本的に親CIA、またはエージェントが多いといわれます。(角間隆著『ドキュメント日商岩井』、川端治著『自民党 その表と裹』より )

日本の指定暴力団ともコネクションを持ち、左翼学生運動の資金提供にも関与しています。(森川哲郎著『日本疑獄史』より )また、国内の大手宗教団体への関与も指摘されています。

大手マスメディアでは、ほとんど出てくることがないCIA。ゆえに、その存在を知らない一般市民も多数いることでしょう。その事実は、受け入れがたいことかもしれません。しかし、早稲田大学教授・有馬哲夫氏は以下のように述べています。

「政府やスポンサーや圧力団体がメディアにいろいろ働きかけるのは、どこの国でも当たり前のことだ。一国の外交部門や情報機関ともなれば、少しでも自国に有利な世論を作り出すよう対象国のメディアを操作しようと全力を尽くすのは当然だ。この事実に衝撃を受ける日本人が今日いるとすれば、それは平和ボケというものだ」 -有馬哲夫著『原発・正力・CIA』より



CIA本部・バージニア州ラングレー


NHK解説員の柴田秀利が、CIAと正力松太郎の間で暗躍していました。



毎日新聞(2009年7月)に掲載の記事-CIAが、元朝日新聞主筆・自由党総裁であった緒方竹虎を首相にして、日本を自由に操る工作活動をしていた事実を報道しています。






さて、江戸時代から現代につづく、メディアの流れをみていきました。今回は、メディア史を簡単に理解するためのポイントだけをピックアップしました。細かいことを出せば、きりがありませんが、明治から昭和にかけて幾度にわたる言論弾圧を経て、段階的に今の企業の存続ばかりを考える体質が定着しました。

三面記事の脚色やイベントの主催にはじまり、戦時下の戦意高揚報道でさえ、新聞の売り上げをいかに伸ばすかという営利目的で行われてきました。つまり、権力を監視し、社会を正しい方向に導いていくという私たちが抱く「公正なマスメディア像」などは、生き残った大手新聞社には、ありえない幻想なのです。

むしろ、新聞という公的要素が強い媒体を、ときの政治家はうまく利用して、国民を思い通りに操ることばかりを考えてきました。新聞社は、政府とがっちり手を組んで、企業として繁栄してきました。戦中・戦後には、日々の食べものに苦労する国民に倹約を訴える一方で、新聞社は巨額の富を得ていました。

その大手新聞各社が、戦後のアメリカ統治下のもとでテレビ放送事業を創設しました。テレビ局は、新聞社の体質をそのまま受け継ぎ、権力者の御用機関として機能する一方で、さらなる利益を追求し、現在に至っています。

このように歴史を検証してみるとわかるように、大手マスメディア各社も他の企業と同じような一企業にすぎません。だから、「客観・中立・公正」な報道など、期待すべくもありません。「いくら、政府やスポンサーに頭が上がらないにしても、ニュースは事実を伝えているだろう」という人もいるかもしれません。しかし、よく考えてみてください。世論を操る側からすると、ニュースこそが一番利用したいものなのです。

戦後から続く、アメリカの影響下にある日本のマスメディア。敗戦後65年も経ち、アメリカによるマスメディアに対する影響を肌で感じる人は、少ないでしょう。

戦後当時のアメリカ政府・心理戦局文書には、こうあります。

「ニュース素材の提供は、いかにも作為的に行われていると日本人に気づかれないように細心の注意を払ってなされなければならない」

私たちが、すぐにそれとわかるような情報操作は、情報操作とはいえません。まさに想像もつかないほど自然に、巧妙になされていることでしょう。なぜなら、70年前、私たち日本人が、バケツリレーや竹槍訓練をしているときに、彼らはすでに核分裂の実験をしていたのですから。その差が、今も寸分変わらないはずだと想像するのは難しいかもしれません。その想像力のなさが、巧みな情報操作に気づくことを難しくしているのでしょう。

ちなみに、海外からのニュースは、すべて「ロイター通信」と「AP通信」という通信社から、国内大手マスメディア各社を通して、私たちの耳に届けられます。ロイター通信と日本のマスメディアの関係は、明治期から始まって、今に続いています。しかし、「ロイター通信」と「AP通信」という企業は、それぞれロスチャイルド家とロックフェラー家という一部の巨大財閥が所有する企業です。その情報が、彼らに都合のよい世論誘導に使われていないとは到底考えられません。
(ロスチャイルド家とロックフェラー家に関しては、THINKERのホームページ内にある「戦争について考える」をご参照ください)






新聞・テレビからの情報を判断する上で、もうひとつ注意したいのは、マスメディア各社などが実施する世論調査です。世論調査とは、無作為に選ばれたある一定数の人々から意見を収集し、世論の動向を調べる事をいいます。

政治家の発言や新聞記事やニュース番組において、まるで世論調査の結果が、民意であるかのような主張がしばしばみられます。しかし、世論調査には、実際の世論よりも誇張された傾向があると指摘されます。その原因となっているのが、「重ね聞き」「言い回し」問題です。

ある質問に対し、「わからない」と答えた回答者に対して、「あえて言えばどちらですか」と聞くことを「重ね聞き」といいます。これを行えば、より多くの回答者をYES NOにふりわけることができます。

また、例として「○○内閣」の支持・不支持を調べる際に、「○○“改造”内閣」の支持・不支持として質問することで、回答者にいいイメージを刷り込ませるなど、言葉を巧みに使って誘導することを「言い回し」といいます。

これらの手法が、あてにならない例として、2008年8月の内閣に関する世論調査があります。新聞大手3紙と日経によるもので、同じ時期に同じ調査方法で実施したにもかかわらず、各社の結果に最大で約20%の開きが出ました。

多くの人が、公正なデータだと信じている世論調査は、その報道を知った国民の考えをさらに誘導する二次的効力を持っています。 “ みんなと同じ ” であれば、安心する日本人の特性が働くからです。

世論調査を巧妙に利用して、世論誘導をしているなどと信じたくありませんが、過去(メディア史)をみる限り、そのように使われてきたことが多いのが現実です。世論調査は、鵜呑みにするのではなく、世論誘導に使われている可能性のあるものとして捉えるのが賢明でしょう。



世論調査は、電話によるRDD方式( コンピュータで乱数計算を基に、電話番号を発生させて電話をかける方式)が一般的ですが、従来の 固定電話 を対象として行なわれているので、 携帯電話 のみを所有する人や、固定電話を引かずに IP 電話 で済ませている人の回答が得られない点も問題とされています。






近年、テレビや新聞で、 “ BPO ” という言葉がよく持ち出されるようになりました。BPOは、「放送倫理・番組向上機構」という団体ですが、NHKと民放連、民放連加盟会員各社によって出資、組織されている任意団体です。視聴者の基本的人権を擁護するために設立されており、やらせ番組や人権侵害など、放送倫理に違反していないか調査し、勧告・見解しています。

視聴者である市民は、BPOのような団体があることで、テレビ業界に自浄作用があるようなクリーンな印象を持ちますし、日本のテレビ番組の質を確保してくれる存在に感じます。しかし、そもそも何を基準に、勧告・見解を示しているのか、非常に曖昧で、逆にBPOに指摘されなかった番組は、視聴者にとって何も問題がないように映ります。また逆に、視聴者に伝えなくてはいけないような重要な情報をマスメディアが意図的に伝えなかったときには、何のお咎めをするわけでもありません。

私たちは、北朝鮮の国営ニュース放送を目にするとき、「自由のない国とは、こういうものか」と、その誇張された偏向報道ぶりに違和感を感じます。しかし、私たちが得ている言論の自由とは、どれほどの自由でしょうか。

平均的な日本人の多くは、日本は言論の自由がある国だと思っています。しかし、マスメディアの世界には、決して口にしてはならない、いわゆる “ タブー ” が存在します。ニュース番組の出演者は本心をどこまで話すことが許されているでしょうか。あるコメンテーターは、朝の情報番組のコメントにまで、用意された台本があることを公言しています。番組を見ている私たち市民も、心のどこかで「テレビには本音と建前がある」と暗黙の了解をしているのではないでしょうか。

日本国憲法第21条にて、「言論の自由」は保障されていますが、もしかすると、私たちは「言論の自由」を得ていると錯覚しているだけかもしれません。それは本物の「言論の自由」ではなく、閉鎖的な国と比べたときにある「そこそこの自由」に過ぎないのです。



BPOは、 理事会、評議員会、事務局と三つの委員会( 放送倫理検証委員会 、 放送と人権等に関する権利に関する委員会 、 放送と青少年に関する委員会 )によって構成されています。






- テレビ・新聞は、私たちを幸せにしているか?  -

テレビ・新聞では、若くして偉大な成功をなしとげるアスリートが持ち上げられ、バラエティ番組ではセレブタレントや流行りのモデルが物欲をかきたて、グローバルに活躍している人が、「あなたももっとがんばりなさい」と声高にいいます。マスメディアでフィーチャーされる人をみて、その努力に勇気づけられることもあるでしょう。

しかし一方で、この不景気のさなか、必死で働いても生活が苦しい人々に対して、焦りや格差の実感をかき立てているのも、また事実ではないでしょうか。他人と自分を比較することを助長し、競争社会の歯車にすべての人を巻き込もうと、駆り立てている側面もあると感じざるを得ません。

そもそも私たちを生き苦しくするような情報や価値観ならいらないのです。もはや情報を得るだけならば、新聞・テレビである必要はないのですから。本来、さまざまな個性があることは自然で、テレビが押し付けてくる価値観がどんなものであれ、翻弄される必要は全くないのです。

ひとりひとりの人間が個性を持っていて違うように、人それぞれに幸せの形も違います。

テレビや新聞をみていて、自分が幸せでないのなら、見ない方がよいのです。
アメリカ第3代大統領のトーマス・ジェファーソンの言葉にこうあります。

- 「何も読まない者は、新聞しか読まない者より賢い。なぜなら、嘘を信じる者より真実に近いからだ。」






最近(2010年3月末現在)、原子力に関するニュースを目にする機会が多くなっていることに気づいていますか?

「2030年までのエネルギー政策の指針となる『エネルギー基本計画』の原案が明らかになった。二酸化炭素(CO2)の排出量を削減するために、十数基の原子力発電所を新増設することや稼働率のアップを明記……」(3月20日 時事通信)

また、CMや新聞広告で、「原子力発電は、リサイクル可能でCO2を出さないエネルギー」として、頻繁に宣伝されています。

また、過去に「核の密約があった」という報道も話題になりました。

地震大国の日本において、また世界で唯一の被爆国である日本において、原子力や核の話題が日常的になってきています。国防論という意味での核の保持を支持する意見もありますが、それでも安全性については十分に考慮し、慎重にならなくてはならない問題です。そして、原子力や核という言葉を頻繁に耳にすることで、ほんの少しずつかもしれないけれど、着実に戦争できる体制へと歩みを進めている可能性が否定できないことを危惧しています。

なぜなら、歴史をふりかえったとき、新聞は購読者数を伸ばそうと意図的に大衆が気づかないうちに準備を進め、世論を巧みに誘導し、戦争へ導き、戦争報道によって、企業として大成長してきた過去があります。つまり、 戦争が起きれば、大手マスメディア各社は儲かり、存続できるわけで、そのためマスメディアは右傾化しやすいといわれます。

いま、マスメディアは、存亡の危機に立たされています。異常なまでの原子力や核という言葉のオンパレードが、大手マスメディア各社による企業戦略と、武器やウランを買ってほしい外国からの圧力によるものではないかと、深く見極める必要があります。今後、新聞・テレビをみるうえで、ぜひとも注意してほしいこととして、最後に記しておきます。



参考文献:

『昭和史を動かしたアメリカ情報機関』有馬哲夫 平凡社新書

『メディア史を学ぶ人のために』有山輝雄 竹山祥子編 世界思想社

『日本テレビとCIA 発掘された「正力ファイル」』有馬哲夫 新潮社

『日本マスコミ「臆病」の構造 

なぜ真実が書けないのか』ベンジャミン・フルフォード 宝島社文庫

『輿論と世論 日本的民意の系譜学』佐藤卓己 新潮選書

『情報戦に勝つ技術』長谷川慶太郎 幻冬舎

『テレビは見てはいけない』苫米地英人 PHP新書

『原発・正力・CIA』有馬哲夫 新潮新書

『偽装報道を見抜け!世論を誘導するマスメディアの本質』高橋清隆 ナビ出版

『秘密のファイルCIAの対日工作 上・下』春名幹男 新潮文庫

『読んでびっくり・朝日新聞の太平洋戦争記事』安田将三 石橋孝太郎 リヨン社

インターネット百科事典『ウィキペディア』-日本の新聞・瓦版・新聞紙条例・阿部定・記者クラブ・正力松太郎・CIA

http://getnews.jp/archives/12086

http://diamond.jp/series/admin_change/10005/?page=7

http://home.owari.ne.jp/~fukuzawa/masmedia.htm

http://www.geocities.jp/yamamrhr/ProIKE0911-122.html 

http://mchd7w4hh.hp.infoseek.co.jp/html/dentsu_taboo.txt.htm



静岡県御前崎市にある浜岡原子力発電所は、 東海地震 の予想震源域にあり、活断層が直下にあるという説まで発表されており、またトラブルが多発していることなどから耐震性の不足が懸念されています。大きな事故があった場合、東海地方はもちろんのこと首都圏まで壊滅的な状況になると指摘されています。



Copyright (C) THINKER Question Authority










http://lite-ra.com/2016/11/post-2731.html

ASKA逮捕を事前予告して“見せ物”に! 清原逮捕に続く警視庁組対5課の情報操作とそれに乗っかるマスコミの手口



2016.11.28.


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asuka_01_141021.jpgASKAセルフカヴァーアルバム『12』(ユニバーサル・シグマ)
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 こんなことってありなのか。本日28日午後からマスコミが大騒ぎしているASKAの二度目の覚醒剤逮捕事件だが、その過程はかなり異例のものだった。何しろ、テレビ各局が逮捕状も出てない段階で一斉に、「ASKA元被告 逮捕へ」と報道したと思ったら、当のASKAが自分のブログで逮捕も覚醒剤の陽性反応も完全否定。その後、逮捕報道とASKAのブログの応酬が繰り広げられ、ASKAの自宅前にマスコミが集結。身柄確保の瞬間があらゆるメディアで実況中継されるという事態に発展したのである。

 結局、ASKAは午後10時前に警視庁に逮捕されたが、逮捕報道は明らかな前打ちであり、この一件は警察と、それに無批判に乗っかるマスコミの危うい体質を浮き彫りにしたといえるだろう。

 まず、経緯を説明しておこう。始まりは14時30分頃、NHK、そして共同通信が「歌手のASKA元被告逮捕へ。覚醒剤使用容疑」という速報を打ったことだった。これを受けて、放送中だった『情報ライブ ミヤネ屋』(読売テレビ)、『直撃LIVE グッディ!』(フジテレビ)、『ゴゴスマ GO GO! Smile!』(CBCテレビ)などのワイドショーが一斉にこのニュースに切り替え、大々的に報道を始めた。

 報道によると、ASKA元被告は先週25日の19時ごろ、「盗聴とか盗撮されている」と自ら110番通報。この時、ASKA元被告がろれつが回らない状態だったため、警視庁が尿検査を行った結果、覚醒剤の陽性反応が出たという。そして、各局とも警視庁記者クラブからの中継で「これから逮捕にいたる」と断定的に報じた。

 中でも『ミヤネ屋』は、宮根誠司が「覚せい剤使用の疑いで逮捕ですって」「また逮捕?」と、もうすでに逮捕されたかのようなトーンで解説していた。

 ところが、その少し後、14時50分過ぎになって、当のASKAがブログに「はいはい。みなさん。落ち着いて。」(原文ママ)と題して、こんなことを書き込んだのだ。

〈間違いですよ。詳しくは書けませんが、先日、僕の方から被害届を出したのです。被害の内容は想像してください。そしたら逆に疑われてしまいまして、尿検査を受けました。何の問題もありません。すべて、フライングのニュースです。これから弁護士と話します。〉
ASKAは、15時5分頃にも「陽性は、ありません。」「100%ありません。ASKA」と書き込み、さらに15時20分には『ミヤネ屋』が「警察への電話で人を信じられないといった発言をした」と解説したのを受けて、こんな反論をしたのだ。

〈「人が、信じられなくなっている」なんて電話はしてませんよ。Appleのアカウントを週に2回も乗っ取られ、インターネット、メールも一切出来なくなってしまいました。相手も特定できていたんで、直ぐに警察に電話もしました。「サイバーを紹介して下さい」と。それだけです。幻覚、幻聴など、まったくありません。〉

 各ワイドショーはこれに大慌てで、必死になって、自分たちの情報が正しいことを強調した。『グッディ!』は1回目のブログの後、安藤優子がブログを紹介した上で「(ASKAが)何の、問題もありませんということなので、もう一度ニュースについてお伝えした方がいいと思います」と、三田友梨佳アナウンサーにもう一度、逮捕に至る経緯説明を繰り返させ、「逮捕状が出ましたらならば、ASKA元被告の逮捕となっていきます。あまり時間がかからないのではないかという推測もなりたちますので、最新のニュースが入りましたならばまたお伝えします」と、あたかも番組が終わる前に逮捕があることをにおわせた。

 さらに、名指しで反論された『ミヤネ屋』では、宮根が「まだブログなどを打てる環境にあることですか」と驚いたものの、「これ一斉に報じられてるわけです。警察サイドが簡単にこんなものを流さないですよ」とASKAの反論を一蹴した。

 ようするに、マスコミはまだ逮捕されてもないのに、完全に「警察のお墨付きがあるから大丈夫」という姿勢だったのだ。だが、それもそのはず。今回の逮捕事前情報はリークというレベルでなく、ほとんど公式発表に近かったらしい。

「逮捕の前打ち報道というのはよくありますが、たいていはどこか一社だけにリークされるというのがパターン。ところが、今回はほぼ全社に情報が流され、すでに午後1時過ぎにはほとんどすべての社が、ASKAの自宅前に詰め掛けていた」(全国紙社会部記者)

 もちろん、その背景には、逮捕の瞬間を大々的に報道させて、見せしめのショーにしようという警視庁の狙いがあったという。

「ASKAを逮捕したのは、前回、そして清原和博を逮捕したのと同じ警視庁の組織犯罪対策5課なんです。5課は清原の時も事前に情報を流し、逮捕直前の姿を撮らせましたが、とにかく逮捕をマスコミにアピールしたがることで有名。警察に言わせると、クスリの危険性をアピールできるからということなんでしょうが、実際は組織のPRが目的ですよ。しかも、5課は清原逮捕がマスコミで大きな話題になったことに味をしめてどんどん調子に乗っていますからね。清原の時はこっそり情報をリークしただけでしたが、今回はマスコミに大々的に前打ちするのを許し、騒ぎを大きくしたということでしょう」(警察関係者)


 しかも、驚いたのは、警視庁がマスコミに前打ちさせた後に、ASKAをなかなか逮捕しなかったことだ。第一報の14時30分から捜査員がASKA宅に入る20時過ぎまで、実に6時間も放置していた。

「これも、逮捕を夜のニュースにあわせるために時間調整したようです」(前出・警察関係者)

 実は、この間、ASKAは自宅におらず、外出していた。何もなかったから良かったようなものの、そのまま逃亡していたり、あるいは自殺を図っていたとしたら、警視庁はどう責任をとるつもりなのか。

 公正な捜査や容疑者の安全な身柄確保よりも、自分たちの部署の功績をアピールしようというこの警視庁の姿勢は、捜査機関としては危険極まりない。

 しかも、問題なのはそのPR情報に無批判に乗っかるマスコミだ。まだ逮捕状も出ていない段階で、本人が否定しているのに、平気で「警察がそう言っているから」と開き直って、覚醒剤使用を決めつける。こういった姿勢が、多くの冤罪を生んできたのではないのか。

 おそらく明日のワイドショーは、ASKAの逮捕を大々的に取り上げ「覚醒剤はこわい」といったコメントがあふれるのだろう。しかし、覚醒剤よりも癒着して事件を平気で作り上げる警察とマスコミのほうがある意味、はるかに恐ろしいことを我々は認識すべきだろう。
(田部祥太)

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カムイ伝  日本の歴史の中でもっとも身分制度が厳しかった江戸時代における階級社会の矛盾,人が人を差別することの不条理,人が人から搾取することへの怒りというテーマに貫かれています



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http://www.marino.ne.jp/~rendaico/burakumondaico/kihonrikai.htm


444-411 部落差別問題の基本的理解

【部落問題の歴史認識その一、古代から幕藩体制期までの歩み】
 部落差別の由来をどこに求めるのか、ここから論を起こしたい。まず歴史的に次のように認識したい。洋の東西を問わず、階級社会の成立とともに賎視される人びとが発生している。古代ローマの奴隷、中世ヨーロッパの農奴、インドのカースト等はその例である。

 日本でも2・3世紀には奴碑が存在していたことが知れており、彼らは「奴隷」として社会の下層におかれ、賎しめられつつ酷使労働力として利用されていた。あるいは特殊技能労働により自存していた部分もあるやに思われる。

 古代国家が確立し、唐の律令制が取り入れられるにおよんで、賎民制度が成立した。

 7世紀から8世紀にかけて、天皇を頂点とする身分制度がつくられ、いわゆる平民身分は「良民」と「賎民」とに分けられ、更にその内部にさまざまの身分があった。賎民は「五賎」といって、官戸・陵戸・家人・公奴碑・私奴碑に分けられていた。また良民でも、品部(ともべ・しなべ)や雑戸(ざっこ)は一段低くみられていた。古代賎民制はすでに8世紀から動揺をはじめ、9世紀ごろから古代身分制が崩れはじめ、10世紀初めには律令制における奴碑身分も廃止された。

 中世賎民の出現は、古代賎民制の解体ののちにみられる。系譜的には古代賎民のあとをひく者もいたが、天災や飢饉、戦に敗れるなどの理由で新たに体制から流出した者、あるいは手工業者、物資の運搬・皮細工・染色・壁塗り・井戸掘りなどの経済活動に従事して商工業の発展に尽す者の一部も含まれていた。あるいは猿楽能、曲舞などの庶民芸能や造園業者や宗教者も含まれており、このような階層を総称して「非人」とよんでいる。

 このような人々の中には、銀閣寺の庭園を造ったと言われる善阿弥や仏像彫刻で有名な運慶など、日本の優れた文化をつくり出した人が多くいる。してみれば、「非人」=賎民とは断定し難い面があるように思われる。いずれにせよ、この頃の身分は非常に流動的であったところに特徴が認められる。

 これらが平安期にとくに厳しくなった「触穢思想」などの影響をうけ、死や血のけがれに触れるものに対して賎視が強くなった。清掃や死牛馬の処理、葬送、行刑執行等々の「清め(キヨメ)」の職種がこれに該当すると思われる。

 鎌倉末期になると、賎民も分化し、職業や領主関係などによって名称も異なってきた。犬神人・河原者・散所民・穢多・きよめ・坂の者・夙の者・声聞師などがそれである。中世賎民は厳しい差別をうけたが、身分間の移動がまったく不可能であったわけではない。

 ところが近世になると、検地や人別改めが行なわれ、身分によって居住地や職業までもが区別される支配体制が整備されることになった。豊臣秀吉の兵農分離・刀狩り令によって支配階級たる武士と被支配階級たる農工商との身分が分離された。更に、検地政策が、農民=百姓を土地持ちと持たざる者とに識別することとなった。

 「検地」とは、一筆(一枚の田)ごとに土地の広さを調べて、そこから獲れる米の石高やその土地の耕作者を決めて年貢を納める義務を課すことにあったが、この時土地の耕作者=本百姓政策を基本としたことにより、勢い本百姓ならざる百姓の階層分化を進めていくことになった。

 この過程で、一向一揆等々の体制反逆者たちが最下層へ落とし込められた形跡がある。

(私論.私見) 賎民制度と江戸期身分制における「えた・ひにん」制との繋がりについて

 問題は、こうした歴史的経緯における賎民制度と次に述べる江戸期身分制における「えた・ひにん」制との繋がりであろう。同一階層が横滑りで「えた・ひにん」化されたものなのか、新たな編成替えが為されたのか。
【部落問題の歴史認識その二、幕藩体制における部落差別の構造】
 江戸時代に入ると近世身分制が確立された。徳川幕藩体制は、武士階級が百姓を中心とする民衆から、苛酷な租税をしぼりとることによって成り立っていた。200万の武士が2800万人の民衆を支配するために、「士・農・工・商・えた・ひにん」という身分序列を設けた。この時、それぞれの身分がさらに細かな身分に分けられ、且つ中世賎民の一部が把握されなおされ、賎民身分として近世身分制の最下層におかれた。

 農本経済を基調にしていたこともあり、農民は武士の次の身分に位置付けられていた。その下に職人、商人を置き、更にその下に、「えた」、「ひにん」身分をつくった。「えた」と「ひにん」の身分差も巧妙にされていた。「えた」は、親子代々「えた」から抜けられず、「ひにん」はある一定の条件のもとでは「足洗い」をして、農・工・商のいずれかの身分にもどれるという仕組みにしていた。

 そのため、「えた」は身分が上挌だといって「ひにん」をさげすみ、「ひにん」はいつでも農・工・商にもどれるから自分たちの方が上だと考えて「えた」をさげすんだ。たがいに他人をさげすみあい、「自分たちの方がまだましだ」と思わせるという巧妙な制度であった。

 なお、身分によって居住区が分けられ、武士は「城下町の武家地」、町人は「町方(まちかた(城下町の町人屋敷地))」、百姓は「村・在方(ざいかた、農漁村の意味))」、「穢多」は「村・在方の特殊部落」、「非人」は「河原、その類(たぐい)」、「その他の雑賎民」は無宿人として相応のところという風に制限されることになった。

 この封建的身分制のもとでは、社会的地位や職業・財産などは原則として父系親族体系にもとづいて相続・世襲されることから、人びとは生まれながらにして出自と家柄によって社会的身分が決定された。そればかりではなく、居住区域・家屋様式・髪形・服装・職業・言語様式・教育などすべての生活様式や文化にわたっても、厳しい身分による差異が設けられた。

 これらの生活様式や文化の差異は、日常の社会関係において身分の違いを目にみえる形で表示し識別しうる標識として、身分制の維持のために重要な意味をもっていた。また身分社会においては、親族体系が地位の相続や世襲に関して重要な意味をもつために、結婚についても異なる身分間の通婚は規制された。
 
 近世の封建制度下の身分制の最底辺におかれた「穢多」は集団的に閉じ込められ、賎民職業として主として畜産食肉業、皮革職業に従事した。ケモノを殺したり、皮を剥ぎ、それを加工したりするので「皮多(かわた)」とも云われた。領主に皮革を納めるかわりに、死んだ牛や馬をひきとり処理する特権(斃牛馬処理権)を認められたほか、皮革業を行なうための作業場として屋敷地をあたえられたり、年貢を免除されたりすることも多かった。

 しかしこれらはいずれも、賎民としての身分と結びついた権利であり、日常生活のうえでは賎民身分としてさまざまな厳しい差別をうけた。しかも特権をもっていた者は一部にかぎられており、多くの人は農業、皮革加工業、日雇い賃かせぎなど雑多な仕事で生計をたてていた。

 領主によっては、「えた」身分の者を罪科人の処刑や牢番、役人の下で警備や犯罪者の逮捕など警察組織の手先としてつかい、分裂支配の手段として利用したところもあり、「長吏」とも呼ばれた。通説として、幕府の分断統治、反目政策とみなされている。

 中世の社会はまだ流動的で、賎民でもその身分から逃れることも不可能ではなかったし、近世封建制のもとで新たに「えた」身分におとされた者も少なくはなかった。
 
 徳川幕府時代の封建的身分秩序は「士農工商、エタ非人」制に貫かれていた。徳川中期には賎民身分に対する差別はますます厳しくなり、風俗規制や、「穢多狩り」といって原住地をはなれ都市に流れこんだ者を捕らえることさえも行なわれた。穢多・非人が領主の賎民支配の中核になった。その他にも雑多な賎民が存在していた。加賀藩の藤内、山陰の「はちや」などは地域的な特色があるが、茶筅・さいく・夙の者・「はちたたき」などが広範に存在していた。
【部落問題の歴史認識その三、幕藩体制下での部落民の抵抗と幕府の対応史】
 「えた」身分の人たちは、こうした差別と貧困に泣き寝入りしていたわけではない。1856(安政3)年の渋染一揆に代表されるように、幕末に近づくにつれて「えた」身分の人びとも、差別と貧困に抵抗して立ちあがり、身分差別撤廃のたたかいを展開していった。幕末期にはこうした闘いの火の手が次々と挙がっており、次第に幕藩権力に抵抗する運動へと激化した。

 1749(寛延2)年の姫路藩の全藩一揆、1782年(天明2)年の和泉北部54カ村の千原騒動、1823(文政6)年の紀州北部280カ村7万人の百姓一揆などのときには部落民が一般百姓一揆に加わって幕藩権力をおびやかしている。1804(文化11)年から1855年(安政3)年にかけて丹波篠山藩において本村の隷属下にあった皮多村が、分村独立運動を50年間にわたって闘い、願意を貫いた闘争もある。1806年(文化3)年豊後杵築藩での部落民に「浅黄半襟」を強要したことに対し、成功しなかったものの、領外に2カ月も立ち退いての闘争もある。

 1837(天保8)年の「大塩平八郎の乱」のとき、この決起に部落民も参加している。

 渋染一揆はその貴重な史実である。時に、1855(安政2).12月、池田藩(現在の岡山)は財政改善のため29条にわたる倹約令を出したが、最後の5カ条の「別段御触書」の内容が「部落の者は無紋にして渋染(しぶぞめ)の衣服以外は着てはならない」というものであり、被差別部落民はこの差別法令の撤回を要求してたちあがった。1856(安政3).1月から6月中旬までの間、53ヶ村の代表が何回も会合を開き相談をし、その過程では村によって考え方に微妙な相違が見られたにもかかわらず最終的には約1500名の部落民が強訴している。6.13日に集結し、15日に嘆願書を池田藩筆頭家老・伊木若狭(いぎわかさ)に渡し、再吟味するとの約束を勝ち取った。8月に、別段御触書は取り下げさせることに成功しているが、調印だけはするようにとのことになった。この闘いの代償もまた大きかった。1857(安政4).5月判決が出され、12名が投獄された。内6名が病死、2年後に残りの6名が釈放された。投獄中、厳しい拷問を受けている。すべての部落民に14日間の外出禁止が課せられてもいる。

 1866年(慶応2)の長州再征のときなどに、幕府・長州藩とも脱賤を切望する部落民に対し、平民にしようという条件で部落民に動員をかけ事実上協力を取り付けている。長州では、幕末に民衆による軍隊がつくられ、そのなかに部落の人びとからなる「維新団」、「一新組」が組織され、幕府による2回めの「長州征伐」のときには、芸州口(げいしゅうぐち)のたたかいなどで奮闘している。こうした解放への胎動が、「解放令」を生みだす原動力となる。

 いよいよ幕末動乱期になると、幕藩体制否定の反封建思想が高揚するとともに、外国からの平等権的啓蒙思想(天賦人権説)が広まった。また識者のなかには社会政策の上からも、部落解放策を唱える者が出てきた。1868(慶応4・明治1)年、幕府は江戸浅草の“えた”頭弾左衛門とその手下60人余を平民にしている。
【部落問題の歴史認識その四、明治維新による新秩序】
 明治維新は、封建社会から資本主義社会へ移行する近代日本の出発点となった。明治政府は近代的中央集権国家体制を目指し、政治、経済、教育のあらゆる分野の制度改革を進めた。これを俗に「文明開化政策」と云う。明治維新によって「四民平等」がとなえられ、近世身分制は廃止されることになった。

 明治新政府は、徳川幕藩体制の桎梏的な諸制限を廃止していった。1871(明治4)年に太政官布告で「賎民解放令」が出され、「エタ・非人」制度を法的には廃止し、法律や制度のうえでの身分差別はなくなった。「解放令」は、四民平等の近代社会を建設していくことを宣明しており、差別的な呼称の廃止、職業の自由を認めたという点では、画期的な意義をもっていた。

 「解放令」の発令によって、部落大衆は長年にわたる差別から解放されると期待して狂喜したが、一般国民は、自分らは部落民と同じ社会身分におとされ、結婚をはじめ社会慣習・生活様式などすべて同格にされると恐れて、解放政策反対の大規模な一揆をおこした。中国・四国・近畿・北九州地域に勃発し、政府はこの鎮圧に苦慮した。

 しかし、翌1872(明治5)年わが国で最初の近代的な戸籍といわれる「壬申戸籍」がつくられた。この戸籍には、旧身分や職業、壇那寺、犯罪歴や病歴などのほか、家柄を示す族称欄が設けられていた。部落の人びとについて「旧えた」とか、「新平民」とか付記されていた。戸籍法では、従前戸籍の公開が原則とされていたので、この「壬申戸籍」は1968年(昭和43年)包装封印されるまで、他人の戸籍簿を閲覧したり、戸籍謄(抄)本を取ったりすることができた。

 こうしたことから判明するように、「賎民解放令」は宣言にのみとどまった。「エタ・非人」の生活環境諸条件は相変わらずそのままであったので何ら実効性を伴わなかった。

 他方で、天皇を中心とする専制的な政治を強めていき、天皇制国家秩序の中での新身分秩序として「皇族、華族、士族、平民、新平民」制を定めたので、身分差別構造が形を変えて続いていくことになった。出目や家柄を尊重し、それによって人びとを差別する前近代的な価値観や慣習も根強く残存し、「エタ・非人」制は近代社会の仕組みのなかで特殊部落として差別されていくことになった。

 明治政府のこの二面的政策により賎民身分に対する差別はなくならなかった。これを「半ば封建的な政治、経済、社会の遺制的仕組み」と理解すべきか、明治維新後の「資本制社会の新たな差別の仕組み」と見なすかで議論が分かれている。分析すべきは、近代資本主義の発展の中で、部落差別が強化されたのか緩和されたのか、新たな差別構造として存続したのか漸次解消方向へ向かったのか等々であるが、さほど精査されていない。「部落住民の困窮をより一層強めることになった」という見方もある。

 いずれにせよ、富国強兵政策遂行上、低賃金労働力の供給元として部落差別が再生産されたことは疑いない。その構造は、第一に、民衆に経済的・政治的・文化的な低さをがまんさせ、低い生活を維持させるために必要でした。これが部落差別の経済的存在意義である。第二に、民衆の不満のはけ口を部落民にむけさせ、民衆同士を分裂させる役割をはたした。これが部落差別の政治的存在意義である、と云われている。
【部落問題の歴史認識その五、近代部落解放運動の歩み】
 1877年(明治10)代の自由民権期に入ると、部落のなかには板垣退助指導の自由党に加入したりして部落解放運動を始めたり、中江兆民のような自由民権論者のなかに部落解放を唱える人物もでてきた。

 明治中期になって、福本日南の『樊噌夢物語』(1886刊)や柳瀬勁介の『社会外の社会穢多非人』(1901刊)のように、部落民を日本の海外発展の市場獲得の先兵にしようという論もでてきた。島崎藤村の『破戒』(1906刊)の主人公・瀬川丑松が部落差別に耐えきれずアメリカのテキサスに旅立つのも、こうした時代環境にあったからであろう。

 政府の無策によって、部落の有力者は、自主的な部落改善運動をおこした。1893年(明治26)の和歌山県の青年進徳会、翌々年の大阪での中野三憲らの勤倹貯蓄会、その翌年,岡山県での三好伊平次らの修身会・青年会などがそれであり、1902年(明治35)の岡山県の三好伊平次らの備作平民会、またその翌年,全国的規模の大日本同胞融和会、1912年(大正1)の奈良県を中心とした大和同志会、その翌々年の帝国公道会など、部落改善運動(部落の自粛をとくに強調)が勃興し、融和運動を主張してきた。

 大正期になると、折からの大正デモクラシーの高揚に伴い、1913年に民俗学者柳田国男の「所謂特殊部落の種類」(国家学会雑誌)、1919年(大正8)喜田貞吉『民族と歴史』(特殊部落研究号)などに部落問題が学者らに注目されるようになった。1910年(明治43)、いわゆる大逆事件がおこったが、このころから政府も部落対策を講じてきた。しかし治安維持と救貧策の見地からの慈善的恩恵的な行政施策であった。さらに部落の自主的な改善運動がおこってきたが、政府は十分に改善施策を助成し促進することをしなかった。

 1917(大正6)年、奈良県橿原市の畝傍(うねび)山のふもとにあった洞(ほら)部落が神武天皇陵を見おろしているから恐れおおいということで、強制的に移転させられている。戦前の軍国主義時代、解放運動の父・松本治一郎が叫んだ「貴族あれば賤族あり」ということばは、みごとにこのことを示している。

 1918年(大正7)夏、米騒動が勃発して、部落民の蜂起が激しかったことがわかって、政府は部落問題の重要性を認識した。ついで1920年(大正9)奈良県南葛城郡掖上村柏原での燕会の創設から、1922年3月京都岡崎公会堂で全国水平社が創立された。全国水平社は政府の融和事業を排撃し、人間の尊重を基礎とし、団結して自らの行動によって絶対の解放を期し、もって人の世に熱と光を与えることを目的とした。

 水平社運動の初期の段階は、差別したものに対する徹底した糾弾闘争で、1923年の奈良県都村における水平社対国粋会との流血事件、群馬県世良田村の自警団との事件、26年の福岡連隊事件などとつづいた。しかし運動の激化に伴い、闘争のあり方に内部分裂がおこり、折からのアナ・ボルの対立が水平社運動にも波及し、政治的な労農闘争と連携していく運動となった。

 これに対して1928年(昭和3)の三・一五事件、翌年の四・一六事件といった共産党弾圧事件に水平社幹部も多く検挙され、折からの昭和恐慌の荒波にあって、水平社運動も沈滞した。1933年(昭和8),水平社は勤労大衆の階級的連携を強化するとともに,部落委員会活動をおこし、不況のなかで部落大衆の経済的・文化的要求を、組織を通して行政に要望していこう、という運動に転じた。これが折からの高松地方裁判所の差別判決閾争と重なり、水平社運動をもりあげた。水平社は政府が1936年(昭和11)から始めた「融和事業完成10カ年計画」に批判的であったが、太平洋戦争の勃発で、しだいに国策順応に傾斜していった。
 
 こうして、融和運動は水平社運動へ結実していったものの、その水平社運動もジグザグし、いわゆる「絶対主義的天皇制、寄生地主制、家父長制的家族制度」の中で、部落の差別的な実態や一般住民との断絶状態はそのままに温存された。大きな解決の条件は第二次世界大戦後をまたなければならなかった。
【部落問題の歴史認識その六、戦後部落解放運動の歩み】
 敗戦後、米欧型民主主義が導入され、戦後憲法の策定、明治期につくられた華族制度の廃止が為され、部落差別は法的に解消された。新憲法には、戦争放棄の宣言とともに、「すべて国民は、法の下に平等であって、 人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において差別されない」(第14条)とうたわれていた。また第11条では基本的人権、第25条では最低生活権を有することも明文化されていた。 しかし、これを実効的にさせる為の諸施策につき行政当局が自ら進んで為すことは無かった。これを促すのが戦後の部落解放運動の主潮となる。1946(昭和21).2.1日、旧水平社を中心に部落解放全国委員会が結成される。
【部落差別の起源について】
 一般に職業起源説から把握されているが、「歴史的事実にも合わない誤った俗説」として否定する見解もある。意図的に社会政策的に作り出されたとする「政治起源説」もあるが、具体的にどういう判断に基づいていたのかとなるとはっきりしない。「身分は社会発展の一定の段階で生みだされ、これを封建権力が制度化した」と言い換えても同じである。
【部落差別の定義】
 以上を受けて以下「部落差別の定義」をしておこうと思う。次のように云えるのではなかろうか。「人種や民族の違い、出身や職業の違い、性の違いなどの違いを理由に、基本的人権である権利を奪い、政治、経済、文化等の生活全般にわたって、社会的に不利益な扱いをすることが差別であり、とりわけ、被差別部落(同和地区)の出身であることを理由に行なわれる差別が部落差別と云う」、「部落民とは、近世の封建的身分制の士農工商秩序の下で、これらの身分とは分離させられ最下位におかれた賎民で、その主要な部分を占めていたエタ身分に属していた階層を云う。この階層は集団的に閉じ込められたことにより特殊部落を形成することになった。衣・職・住等生活のあらゆる面で厳しい規制を受け、排外された。更に、その下位に特殊部落とは又異なる非人層も存在した。明治維新後、士農工商秩序は解体されたが、この特殊部落は残存され、引き続き経済的・社会的・文化的に低位な生活を余儀なくされた」、「戦後の新憲法の発布と共に法的には解体されたが、社会生活上根強く残存され部落解放運動が要請される所以となった。1965年に出された内閣同和対策審議会答申では『同和問題とは、人類普遍の原理である人間の自由と平等に関する問題であり、日本国憲法によって保障された基本的人権にかかわる課題である』」ことを明らかにしている 」。
【「ケガレ意識」に纏わる部落差別】
 封建時代の斃牛馬処理との関連から生み出されたものであるが、「差別観念を生み支える感性的諸条件」に「貴賎意識、ケガレ、ヨゴレ意識」がある(部落に対する蝕穢思想)。

 この差別感は現在急速に薄れてきている。戦後社会の民主化と経済発展、技術革新により、環境が衛生化したことにより、物質的基礎が改善されたことによる。

 同族意識

 本家・分家などの家系譜を同じくす驩ニ々(同族団)の間における祖先伝来の家産の共同所有や管理、生活や農業の相互扶助、祖先の共同祭祀などにもとづく集団結合の意識と、その内部における本家・分家間の上下関係の意識のことです。歴史的には前近代的な性格をもつ社会結合の原理です。明治維新後も、農村を中心に同族的な結合や意識が根づよく残されていましたが、第二次世界大戦後は、家父長制的家族制度の解体とも相まって急速に弱まりました。しかし、長い差別の歴史のなかで居住の自由を実質的に制限され、「部落外」との通婚を妨げられてきた部落においては、都市・農村をとわず今日においてもなお一部に、同族的な結合や意識が相対的に強く残存しており、部落民を地区にしばりつけ、地区内の民主化を妨げる要因となっているだけでなく、部落排外主義的な考え方を生みだしやすい温床ともなっています。
【同和運動について】
 戦後、部落解放運動は「同和問題」として立ち現れてきている。戦後の憲法秩序に沿う形で特殊部落の一般市民化が要請されることになり、これを「同和」と称した。その後、大衆社会の出現と共に「同和」はかなり進んでいるが、その認識を廻って、部落差別問題は日共系の「急速に解消論」と解放同盟系の「根強く残存論」の二派の見解が対立している。

 日共系は次のように述べている。「部落解放の課題とは、封建的身分差別からの解放という本来的にはブルジョア民主主義の課題であり、資本主義的な搾取・収奪からの解放ではありません。したがって、独占資本の横暴な専制的支配に対し、自由と民主主義を守り発展させる運動を拡大・強化させていくならば、部落問題の解決は資本主義の枠内でも実現させることができます」。 

 内閣同和対策審議会答申は次のように述べている。「いわゆる同和問題とは、日本社会の歴史的発展の過程において形成された身分階層構造に基づく差別により、日本国民の一部の集団が経済的・社会的・文化的に低位の状態におかれ、現代社会においても、なおいちじるしく基本的人権を侵害され、特に、近代社会の原理として何人にも保障されている市民的権利と自由とを完全に保障されていないという、もっとも深刻にして重大な社会問題である」。

 また、答申の前文では次のように、部落問題解決の責任が国にあり、国民的課題であることが高らかに歌われています。「いうまでもなく同和問題は人類普遍の原理である人間の自由と平等に関する問題であり、日本国憲法によって保障された基本的人権にかかわる課題である。従って、審議会はこれを未解決に放置することは断じて許されないことであり、その早急な解決こそ国の責務であるとの認識に立って対策の探求に努力した」。

 さらに、答申第3部の「同和対策の具体案」のなかでは、同和行政は、部落問題が解決されるまで総合的・抜本的に実施されなければならないことを、以下のように明確に指摘しています。「けれども現時点における同和対策は、日本国憲法に基づいて行なわれるものであって、より積極的な意義をもつものである。その点では、同和行政は、基本的には国の責任において当然行うべき行政であって、過渡的な特殊行政でもなければ、行政外の行政でもない。部落差別が現存するかぎりこの行政は積極的に推進されなければならない。したがって、同和対策は、生活環境の改善、社会福祉の充実、産業職業の安定、教育文化の向上および基本的人権の擁護等を内容とする総合対策出なければならないのである」。
【特殊部落の現況】
 特殊部落の現況は次の通り。「被差別部落(未解放部落)」、「同和地区」、「対象地域」、あるいは単に「部落」といわれることもある。総務庁の1993(平成6)年調査によると、全国に6000地区が確認され、そのうち法的施策の対象である同和地区数は4603、世帯数・人口を把握しえた部落の数は4443地区で、同和関係世帯数は約30万世帯(地区全体は約74万世帯)、同和関係人口は約89万人(地区全体は約216万人)となっている。部落の数は特に近畿、中国などの西日本に多く、内訳は、中国23.1% 近畿21.9% 四国14.8% 関東13.7% 中部7.5%。関西では大都市の中の大型部落。関東では少数散在型。現在は混在が進みつつある。

 部落の居住環境や生活実態は、旧身分の残りものともかかわって極めて劣悪な状態におかれていたが、1969(昭和44)年以来、同和対策事業特別措置法、地域改善対策特別措置法および地域改善財特法にもとづいて行政上の特別措置がとられ、同和行政が以前とは比較にならないほど前進している。

(私論.私見)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%A0%E3%82%A4%E4%BC%9D








カムイ伝





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『カムイ伝』(カムイでん)は、白土三平による日本の長編劇画。1964年から1971年まで『月刊漫画ガロ』に連載された。連載中、『週刊少年サンデー』(小学館)に『カムイ外伝』を不定期連載している。1982年から1987年まで『ビッグコミック』(小学館)誌上に『カムイ外伝 第二部』を連載、そして同誌上に1988年から2000年まで『カムイ伝 第二部』が発表された。『カムイ伝 第三部』の発表は未定。『カムイ外伝』は別項目を参照。



目次 [非表示]
1 作品内容 1.1 第一部
1.2 第二部
1.3 第三部

2 登場人物(第一部) 2.1 日置藩武士
2.2 浪人
2.3 百姓
2.4 非人
2.5 忍者
2.6 商人
2.7 その他の人物

3 その他
4 脚注
5 関連項目
6 外部リンク


作品内容[編集]

江戸時代の様々な階級の人間の視点から重層的に紡ぎ上げられた物語となっている。名脇役が数多く登場する壮大なスケールのこの物語は、1964年の連載開始から40年以上経過しながら未だ完結しておらず、白土自身も漫画家生活の大半をこの作品に費やしていることから、白土のライフワークとも言われる。

第一部[編集]
発表『月刊漫画ガロ』1964年12月号から1971年7月号までの全74回単行本1967年:ゴールデンコミックス『カムイ伝』全21巻1979年:旧小学館文庫『カムイ伝』全15巻1982年:小学館豪華愛蔵版『カムイ伝』全4巻1988年:小学館叢書『カムイ伝』全15巻1995年:小学館文庫『カムイ伝』全15巻2005年:ビッグコミックススペシャル『カムイ伝全集[第一部]』全15巻
「カムイ」とは主人公である忍者、およびサブストーリーとして語られる狼の名前である。主にカムイ(非人)、正助(農民)、竜之進(武士)という三者三様の若者を中心に物語は展開されてゆくが、非人のカムイは物語の進展にともない傍観者的になり、農民の正助が物語の中心になっていく。江戸時代初頭の架空の藩を舞台に展開され、主人公もまた架空の人物である。百姓道具の発案を作中の架空の人物にさせていることや、作品の発表された時代背景により「穢多」「非人」身分を全て「非人」に統一しているなど、フィクション的要素も多い。旧来の漫画にはみられない様々な群像が入り乱れる骨太のストーリーが高く評価され、時代小説に比しても遜色ない漫画路線の礎を築いたとされる。それは「ヴィジュアルは映画を凌ぎ、ストーリーは小説を越えた」というかつてのキャッチコピーにもみて取れる。

白土はこの作品連載のために「赤目プロダクション」を設立。『カムイ伝』前半のペン入れを小島剛夕が[1]、後半のペン入れを白土の弟である岡本鉄二がそれぞれ担当した。物語中盤において画風に少し変化が感じられるのはそのためである(明確ではないが、全15巻型単行本では第10巻第四章辺りから)。作品の最後に『カムイ伝』は全三部作であると述べられるが、これは当初から決まっていたことである[2]。

第二部[編集]
発表『ビッグコミック』1988年5月10日号から2000年4月10日号までの全168回単行本1989年:ゴールデンコミックス『カムイ伝[第二部]』全22巻※連載の途中までを収録1999年:ビッグコミックスワイド『カムイ伝[第二部]』全10巻※ゴールデンコミックス第20巻までの内容2006年:ビッグコミックススペシャル『カムイ伝全集[第二部]』全12巻
基本的に第一部の続きの世界を描いている。ただし、第一部と作中の年号がかぶっていることなど、一部矛盾する点もある。第二部においては、藩の場所をある程度の地域に定めており、歴史上の人物を多く中心においた構造になっている。また、作品に執筆当時の時代の風潮を大きく取り入れる作者であるとされ、例えばマルクス主義に対する時代の評価などが、第一部と第二部の間に大きく変化をもたらしているとの見方もある。

第二部においては岡本鉄二が一貫して作画を行なっており、作画者としてもクレジットされている。なお、「カムイ伝 第二部』は連載中に完結しておらず、単行本(二種)も最後まで収録されないまま続刊の発行を中止。2006年発行の単行本『カムイ伝全集[第二部]』第12巻に初めて連載分の最後まで全てが収録され、さらにラストの5枚が追加され完結となった。

第三部[編集]

構想は進んでいるが、発表は未定。

登場人物(第一部)[編集]
カムイ(弟)物語序盤の主人公。身分上最下層とされる「夙谷」と呼ばれる非人部落の出身だが、物乞いに甘んじる部落の連中を嫌って、自由と誇りを求め単身で生きようとする。百姓小頭たちによって非人の子供が殺され、復讐のため立ち上がったが、あっけなく捕らわれ斬首の刑に処せられた。容姿端麗で熱血漢。カムイ(兄)死んだはずのカムイが再び姿を現したことで、カムイに双子の兄がいることが判明する。以後、兄カムイがシリーズを通しての主人公となる。容姿は弟カムイと瓜二つで、弟に比べ冷静沈着。喧騒を嫌い、特に騒がしい女を毛嫌いしている節がある。強くなることが唯一の自由だと信じ、その信念が自らを忍の道へと導く。類まれな身体能力と洞察力で数々の秘術を体得し、忍者としての才能を開花させた。ときに鏡 隼人(かがみ はやと)という美剣士に変装することもある。正助(しょうすけ)花巻村の下人の出身で、カムイの姉であるナナ(非人)の夫となる。また、自身も父が下人で母は非人という生い立ちである。勤勉で利口な上、慈悲深い性格から仲間内の信頼が厚い。のちに本百姓となり農民の生産力を高め、全ての百姓・非人の生活経済を向上させ平等な世界を築こうと人々を導く。第一部において中心となる人物。草加 竜之進(くさか りゅうのしん)日置藩の次席家老の嫡子。若くして剣の腕が立ち、周囲から前途有望と目されていたが、橘軍太夫との勢力争いに巻き込まれ負傷。さらに家老である父・草加勘兵衛が失脚、一門すべて殲滅され失意に堕ちる。父の遺言に従い自らは脱藩し、浪人の身となり復讐の機を狙うが失敗し、一角とともに非人に身をやつす。ここで苔丸に出会い、さまざまな矛盾に目覚め成長していく。才色兼備で誠実な青年剣士。
日置藩武士[編集]
笹 一角(ささ いっかく)日置藩剣法指南役で竜之進の師匠。道場破りに来た水無月右近に勝負で負け、剣客としての誇りを失い脱藩。露木鉄山(剣豪)のもとで修行を積み、右近への復讐を誓っていたが、橘軍太夫の策により弟の笹兵庫が切腹したことを知り、一門の復讐を果たすべく武士の本能に目覚めた。橘 軍太夫(たちばな ぐんだゆう)日置藩の目付役。野心家で藩の実権を握ろうと企んでおり、ことあるごとに領主に甘言を弄する。都合の悪い相手に対して徹底的に排他的な行動を取る、謀略に長けた男。竜之進や一角たちの仇役。三角を嫌っているが、上下関係を理解しているので表面上は従っているフリをしている。日置藩改易後、元藩士らに切腹するよう要求され自害。橘 一馬(たちばな かずま)橘軍太夫の嫡子。若いころ、竜之進に試合で負け、さらにカムイに右足を切断されて以来、堕落の一途をたどっていたが、叔父の橘玄蕃の荒療治で魔剣・無人流の使い手となる。日置藩の改易と軍太夫の死をきっかけに浪人の身となった。三角 重太夫(みすみ じゅうだゆう)日置藩城代家老。橘軍太夫と地位権力を争う。徹底した現実主義者で、利益のある方に転ぶ。橘軍太夫よりは長期的な視野を持ち、農民に対しては多少の理解があり、正助を高く評価しているが、上下関係はしっかりと示すべきとの価値観を持つ。日置弾正の死後、隣領望月藩から養子に入って新藩主になった若君に藩の秘密を明かし、無礼討ちにあう。橘 玄蕃(たちばな げんば)橘軍太夫の実弟。無人流(むにりゅう)と呼ばれる魔剣の使い手で、初見の時に竜之進に決闘を申し出るも、カムイの邪魔が入り返り討ちにされた。軍太夫の懐刀として悪行を繰り返す残忍な男。日置藩の秘密を探るため手風に挑むが、返り討ちにあい顔を焼かれる。後に一馬とともに竜之進に挑むが敗れて両足を切断される。日置 弾正(ひおき だんじょう)日置藩領主。暗愚で軍太夫の甘言に乗り、藩の重鎮である草加一門を殲滅させるなど失政を重ねているが、徳川家康の出生の秘密を握っているので幕府も手が出せない。草加 十兵衛(くさか じゅうべえ)草加勘兵衛の従兄。草加一門の討伐隊に加わるが、実は勘兵衛の頼みで放浪中の竜之進を援助するため裏切ったふりをしていた。後、事情を知らぬ竜之進に討たれる。宝 監物(たから けんもつ)日置藩江戸家老。三角重太夫と共に藩の秘密を握る。日置藩改易の際に切腹の沙汰が下るが、その前に陰腹を切った。
浪人[編集]
水無月 右近(みなづき うこん)浪人剣士。道場破りにおいて一角を倒すほどの剣客。非人頭の横目に挑まれ、左足を切断された。己の誇りをかけ強い相手を探しながら旅を続けていたが、武士の生きざまに疑問を覚え刀を捨てる。アテナに想いを寄せている。露木 鉄山(つゆき てつざん)剣豪。未熟だったカムイに剣術を教えた最初の師匠。大きな秘密を知る忍者を斬ったことで、自身もまた大きな秘密を知る事件に関わった人物として忍者衆に斬られ最期を遂げた。アテナ露木鉄山の娘で、薙刀の名手。笹一角に想いを寄せており、仇討ちに燃える一角の後を追うようになる。父の死後は青木鉄人(剣豪)のもとに身を寄せていたが、そのうち水無月右近や松林剣風と行動をともにする。一角の死後は仏門に入り尼となった。松林 剣風(まつばやし けんぷう)松林蝙也斎の実弟で、天下一の抜刀術使い。無益な闘いを避ける賢明な男。竜之進が代官になっている時に刀を捨て百姓暮らしになる。堂面 六左(どうめん ろくさ)元島津藩士。不見流を遣う剣士。浪人して後、困窮していたところを日置藩江戸家老の宝監物に腕を買われ日置藩士となる。笹一角と対峙し、一角の右手の親指を切り落とす。青木 鉄人(あおき てつじん)アテナを養子にした老道場主で剣豪として名高い。道場にはアテナや竜之進が稽古をした他、カムイも下働きをしていたことがある。カムイはこの時にアテナの薙刀をヒントに鍛錬し、見たものは必ず死ぬと噂されるほどの「変移抜刀霞切り」という技を編み出す。
百姓[編集]
権(ごん)花巻村の農民の息子で、大柄で力の強い男。正助と共に活動し、正助の試みを支えてきた人物。正助と同じように人々の生活向上を考えるようになるが、段々と正助に頼り過ぎる人々を見て、もし正助が死んだらどうするのかという危機感から、自分自身も強くなろうと成長して行く。小六(ころく)花巻村の農民。娘のオミネを日置藩領主の側女にするための策略にはまり潰れ百姓となった挙句、凌辱されたオミネは自殺。侮辱されたと激昂する領主は、オミネの死体を切り刻み野ざらしにしてしまう。それを見た小六は発狂してしまい、以後、正助が養うようになる。オミネ小六の娘。竜之進の恋人であり、正助が密かに恋焦がれる女性であったが、日置藩領主に凌辱されたことを苦に入水自殺してしまう。その後非人達の手により火葬され、骨だけになった姿を見た竜之進は絶望のあまり号泣した。正助は頭蓋骨をほら穴に安置し、後に身を隠すため非人になりすました竜之進は正助に案内され、日置藩こそ真の敵であると認識し直した。花巻村 庄屋(はなまきむら しょうや)花巻村の庄屋。当初は正助を忌み嫌っていたが、利用する価値があると分かると途端に支えるようになった。農民と武士という関係の中では、武士寄りの発言をする。役人の言いなりで農民からの支持はそれほど無い。竹間沢村 庄屋(ちくまざわむら しょうや)竹間沢村の庄屋。正助に読み書きを教える。正助の良き理解者であり支持者だが、武士からの圧力に抵抗するほどの力は持たない。ダンズリ正助の父で、花巻村の下人。村一番足の速い男。当初は非人を差別していたが、正助の影響で改心してゆく。息子を信頼し、弾圧に屈しない強い意志を持っており、百姓に禁じられている読み書きを、正助が花巻村庄屋に見つかった時に自分で指を数本切り落としている。シブタレ花巻村の農民。密告により父を失った過去を持っている。農民の行動を監視し何かあると直ちに代官等に密告する嫌われ者だったが、正助の影響で次第に農民の立場に目覚めていく。苔丸(こけまる)玉手村の下人。蚕を飼って生計を立てていたが、一揆を起こし失敗したことから人相を変えるため顔に傷を付けて非人に身をやつし「スダレ」とあだ名されるようになる。正助の最大の理解者の1人であり支持者。五郎(ごろう)竹間沢村の農民で末っ子でガキ大将。権達とは少年時代からのケンカ友達。権と違い末っ子なので一人娘のアケミの婿に強引になった。アケミ花巻村の百姓代、武助の一人娘。百姓の中では多少読み書きが出来、正助を色仕掛けで落とそうとする気の強い女。権とは相思相愛だったがそれぞれ長男と一人娘のため家の存続のために結ばれず、五郎を婿に迎えることとなった。最初は五郎とは仲が悪かったが、のちに仲の良い夫婦になる。
非人[編集]
横目(よこめ)日置藩一帯の部落を仕切っている非人頭。橘軍太夫の手先となり、非人でありながら庄屋並みの高待遇を受けている。カムイに一目置いており、自分の配下にしたがっているが結局は拒まれ、あげくカムイと対峙した際に重傷を負った。鎖鎌の使い手で武術者。サエサ横目の娘。カムイの強さに惚れており、その情熱のあまり自らも忍者となった。諜報活動を行いながら神出鬼没のカムイを追い続けている。父・横目からカムイを諦めるよう諭されるが、まったく聞く耳を持たない。キギス横目の下人。自らの立場上、サエサを「おじょうさん」と呼んでいるが、実のところ横目の嫡子であり、サエサの兄であった。そうとは知らないサエサに片目を抉り取られてしまう。カムイの姉ナナを崇拝しており、武士の手先となり非人や百姓たちの仲を裂こうとする横目に不信感を抱くようになる。タブテ夙谷部落の非人で、カムイを崇拝していた。後に仁太夫(にだゆう)と名乗り、江戸こじきの大頭になってからは日置藩の非人に大きな力を行使するようになる。弥助(やすけ)カムイの父で、夙谷部落の小頭。罪人の処刑や牛馬の死体処理など、人が嫌う仕事を請け負う部落民の掟に従いながら生きている。妻を亡くし、男手一つで子供を養っていたが、息子のカムイ(弟)が処刑されるなど、過酷な日々を過ごす。ナナカムイの姉であり、正助の妻。正助との愛をつらぬき結ばれるが、厳しい身分差別のため正式な妻としては認められていない。正助を信じ、厳しい現実に耐え忍びながら生きている。カサグレ無人流の達人。橘一馬を川底から拾い、無人流をスパルタ教育で覚えさせた。かたわであり非人でもあったため、自分から世に出るのではなく自身の分身として成長させた人物がどのようになるかを生き甲斐にしていた。玄蕃の師匠でもあるが拳銃で撃たれてしまう。竜之進にも密かに無人流を教えていた。
忍者[編集]
赤目(あかめ)伊賀忍者でありカムイの師匠。作者に『怪物的な忍び』と語らせるほどの凄腕だったが、非情になりきれぬ己を悟って「抜け忍」となり、忍びの掟によりカムイをはじめとする忍者衆から追われる羽目に。しかし天才忍者と評されるカムイでさえ赤目を倒すことはできなかった。普段は夢屋の番頭の市(いち)と名乗って生活している。搦の手風(からみのてぶり)幕府隠密団の小頭。カムイを窮地に追い込むほどの技を持つ凄腕忍者。日置藩の謎を追いつつ、カムイ抹殺の命を受け暗躍していたが、のちに嫌々ながらカムイの協力者にならざるを得ない立場に追い込まれてしまう。風のトエラ(しなどのトエラ)カムイの兄弟子で、十種の忍術を会得する伊賀忍者。「山陰(やまかげ)」という技を得意とする。忍の掟に翻弄される下忍という自らの立場に疑問を持ち、抜け忍となってしまう。カムイと互角に渡り合えるほどの凄腕。百舌の爺(もずのじい)表向き日置藩鷹匠で忍びの里への連絡員でもある。カムイはここから忍びの世界に入り、犬番として日置藩の鷹狩りに参加することもある。
商人[編集]
夢屋 七兵衛(ゆめや しちべえ)資本力で階級社会の楔さえも越えようとするスケールの大きな商人。流刑に処されていたとき赤目と出会い、己の頭脳と彼の行動力を柱にして資本の拡大を図っていく。赤目と2人だけのときは、「七さん市さん」と呼び合っている。蔵屋(くらや)日置藩の御用商人。莫大な利益を上げるが、途中から経営に失敗し、大きな赤字を出した。そして資本が無くなったため、農民の生産物を安値で買い叩こうとしたが、暴動が起きた。運上金などの献金も日置藩に出来なくなったため、徐々に力を弱める。後に夢屋と市場を争って負ける。最後は日置藩の藩札政策失敗の責任を全てなすりつけられ、打ち首にされた。大蔵屋(おおくらや)夢屋の代理商人。夢屋の名前を出さずして日置藩が生み出す利益を吸い上げようとした。仮に失敗しても、大蔵屋に全ての責任を押し付け、夢屋は無傷であろうとした。イタミ屋(イタミや)日置藩改易後に開業し百姓が開いた市を手中に収めたり代官などに媚を売ったりするあくどい商人。実は夢屋の隠し番頭。
その他の人物[編集]
山丈(やまじょう)山深くに住む野人化した大男。まだ幼きカムイを抱きかかえ「カムイ!」と歓喜の雄叫びを上げた。クシロ海を愛する漁民の青年。漁師の伝統を廃し企業化しようとする夢屋に敵意を抱いており、「金は人を腐らせる」として武士や商人を嫌っている。その頑固すぎる強い意志は、時に愛する人を失うことにもなった。キクという娘と相思相愛の仲。キク流人の娘で隠れキリシタン。夢屋の養女。漁師が起こした一揆をかばい自ら捕縛されるが、後にクシロに救出される。他のキリスト教徒を救うため苦渋の決断のすえ踏み絵を行った。聖母マリアの再来とさえ言われた心美しき女性。
その他[編集]
しりあがり寿がオマージュとして自身の作品の中で、『カムイ伝』を想起させるキャラクターや台詞をパロディ化してしばしば引用している。
「ストリートファイターII」に登場するバルログというキャラクターの必殺技「イズナ・ドロップ」は、カムイの「飯綱落とし」をトレースしており、技の形態も全く同じものである。その後も多くの対戦型格闘ゲームで「空中で相手に抱きついたまま地面に落下して相手の頭を地面に叩きつける技」の名前として使用されている。
手塚治虫原作の劇場用アニメ「クレオパトラ」にカムイがゲスト出演している。

脚注[編集]
1.^ 「ダ・ヴィンチ」2005年10月号(メディアファクトリー)196-199頁
2.^ 「日本読書新聞」1965年9月6日号(日本読書新聞社)

関連項目[編集]
部落問題
唯物史観
唯物弁証法
唯物論
COM (雑誌)
火の鳥

外部リンク[編集]
小学館特別サイト「カムイ伝から見える日本」
松岡正剛『カムイ伝』書評

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私的漫画世界

白戸三平のすべてがここに凝縮されている

Home | 私的漫画世界 | カムイ伝




カムイ伝の系譜

白土三平(1932年生 )はプロレタリア画家の岡本唐貴を父にもち,妹は絵本作家の岡本颯子,弟の岡本鉄二は「赤目プロ」で作画を担当しています。紙芝居,貸本屋,前衛誌,劇画の世界を歩んできた,日本の漫画界の巨人です。

1960年代には「忍者武芸帳 影丸伝」,「サスケ」,「ワタリ」,「カムイ伝」など忍者を題材とした作品で人気を博しました。特に「忍者武芸帳 影丸伝」は貸本屋時代のヒット作であり,カムイ伝がなければ氏の代表作となるほどの高い評価を得ています。

一方,カムイ伝はまちがいなく白土の代表作であり,執筆開始から半世紀近くが経過しても完結していない氏のライフワークとなっています。「カムイ伝」とは忍者カムイを主人公とする物語ですが,作品世界を共有する下記の作品の集合体ということができます。




タイトル

執筆時期

連載誌

単行本

カムイ伝 第一部 1964-1971年 月刊漫画ガロ 21巻
カムイ外伝 第一部 1964-1971年(不定期) 少年サンデー 3巻
カムイ外伝 第二部 1982-1987年 ビッグコミック 17巻
カムイ伝 第二部 1988-2000年 ビッグコミック 22巻
カムイ伝 第三部 発表未定 ■ ■


作者の白土三平は32歳の頃から「カムイ伝 第一部」の執筆を開始しており,その後の漫画家人生の大半をカムイ関連の作品に費やしています。白土はカムイ伝の執筆を開始する前から3部作になることを明言しています。

第一部が終了(1971年)してから第二部が開始(1988年)されるまでの17年間は漫画家としてもっとも充実しているはずの時期ですので,ここが空白期間となったのは大きな痛手となっており,氏の年齢を考えると第三部が実現するかどうかは不透明です。

とはいうものの,カムイ伝が壮大なテーマをもって本当に輝いていたのは「カムイ伝 第一部」ということになります。私としては「カムイ伝」は第一部で完結してもなんら違和感はありません。

第一部には日本の歴史の中でもっとも身分制度が厳しかった江戸時代における階級社会の矛盾,人が人を差別することの不条理,人が人から搾取することへの怒りというテーマに貫かれていますが,それでは第二部のテーマは何かと問われると答えようがありません。

第二部では江戸時代の歴史の中で登場人物を動かしているだけに見えるのは私だけでしょうか。第一部と第二部は体裁は類似していてもまったく異質の作品なのです。カムイ伝から社会の抱えている様ような矛盾や社会の底辺で懸命に生きる人々の姿を取り去ると,後には娯楽作品としての評価しか残りません。

「カムイ外伝」は「カムイ伝」の重いテーマから脱け出し,抜け忍となってからのカムイが追っ手と繰り広げる秘術を駆使した戦いであり,カムイと社会との関わりを描いた娯楽作品となっています。外伝は最初からそのために作られたものですからまったく違和感はありません。

それに対して「カムイ伝」の本作はあくまでも白土氏が描こうとした重いテーマで進めて欲しかったと考えます。残念ながら白土氏が17年間苦吟しても第二部の重いテーマは見つけ出せなかったように感じます。それは,多くの人たちが指摘しているように日本社会の思想的変動によるものが大きいと考えます。

「カムイ伝 第一部」のメインテーマは反差別,反権力,村落コミューンであり,それぞれのテーマの具現者がカムイ(非人),草加竜之進(武士),正助(農民)という優れた個人でした。

彼らはそれぞれの役割を果たすことにより物語は進展していきますが,第一部の最後ではそれぞれに与えられたメインテーマに挫折しており,捲土重来を期すことになります。

私などは第二部も権力と対峙して人間の権利を取り戻す闘いがテーマになると思っていましたが,白土は日本社会の左翼思想の退潮が読者をしてそのようなテーマを消化できないという危惧を抱かせたのではと推測します。

確かに1960年代の学生運動の盛り上がりは1970年代に入ると急速にしぼみ,終焉してしまいます。「カムイ伝 第一部」が終了したのはちょうどその頃であり,そのような変化と軌を一にして白土三平作品の愛読者は激減したという報告もあります。1960年代の白土三平ブームは学生運動の終焉とともに終わりを迎えることになったのです。

社会的背景の変化を目の当たりにして,自身の社会思想をカムイ伝の中で語ってきた白土氏が容易に第二部の構想に着手できなかったのは当然であり,その苦吟の深さはいかほどかと考えます。第二部の構想が具体化しないまま白土氏は「神話シリーズ」,「カムイ外伝」に歩を進めます。

このような事情から私は(第三部を見ずに断定するのことはできないにしても)「カムイ伝 第一部」には白土三平の思想と苦悩と才能がすべてが凝縮されているので,ここで完結してもてよいと考えるわけです。以後,カムイ伝=第一部として扱っていきます。

「カムイ伝」の特徴はなんといっても物語の密度にあります。通常の漫画単行本でしたら1日あれば21巻は楽に読み通すことはことはできます。しかし,「カムイ伝」はその2-3倍の時間をかけないと内容をちゃんと理解することはできません。「カムイ伝」の物語密度はそのくらい高いものなのです。

発表当時は月刊誌の「ガロ」に掲載されていましたので,読者はストーリーを追うのに相当苦労したであろうと想像できます。「反権力」,「反差別」,「農村コミューン」を題材とし,しかも大変な密度の物語を発表できたのはひとえに「ガロ」という媒体があったおかげであり,この雑誌があってはじめて「カムイ伝」は可能であったのです。

月刊誌「ガロ」は1964年に貸本漫画の出版などで知られていた編集者・長井勝一により創刊されました。「ガロ」は「カムイ伝」の発表媒体であったとともに,斜陽化していた貸本漫画家の活躍の場を提供していました。また,商業誌にはなじめない作品を描く新人も受け入れていた前衛誌でした。

読者層は大学生以上の年代であり,商業性よりも作品のオリジナリティを重視する姿勢は,多くの優れた作品を生み出しています。しかし,看板作品である「カムイ伝」が1971年に終了するとガロの発行部数はしだいに落ち込んでいき,1990年には青林堂からツァイトに経営譲渡されています。60年代と70年代を共に駆け抜けた「カムイ伝」と「ガロ」は時代のある部分を写す鏡のようなようなものでした。

カムイ伝が始まった1964年前後は白土がもっとも多様な作品を発表していた時期にあたります。1961年には「シートン動物記」,「赤目」,「真田剣流」,「サスケ」を完結させ,1962年には氏のもう一つの傑作である「忍者武芸帳」を完結させています。

カムイ伝が開始されてからも並行して「ワタリ」,「風魔」,「カムイ外伝(少年サンデー版)」を発表しています。この時期の白土氏は超多忙であり,作品制作のため1964年に「赤目プロダクション」を設立しています。

このような分業体制により多くの作品をこなすことができました。プロダクションの設立は漫画家個人と出版社の力関係に限界を感じていた白土氏がその改善を目指したという側面もあります。

カムイ伝も「赤目プロダクション」による分業体制で制作されています。前半のペン入れは小島剛夕が,後半のペン入れは白土氏の弟の岡本鉄二がそれぞれ担当しています。そのため,単行本の13巻あたりからは作画が変化しています。

カムイとは

カムイは神威などとも表現され,「神を意味するアイヌ語」とされていますが,必ずしも私たちの考えている絶対的な超越者を意味するものではありません。近代以前のアイヌの人々の宗教観はアミニズムであり,生物・無生物を問わずすべてのもの,あるいは自然現象(地震,津波,疫病など)の中に「ラマッ」と呼ばれる精霊が宿っていると考えていました。

アイヌの人々は世界を「人間の住むところ(アイヌモシリ)」と「精霊の住むところ(カムイモシリ)」に分けて理解していました。アイヌモシリのラマッは何らかの役割をもってやって来ており,その役割を果たすと再びカムイモシリに戻ると考えていました。日本語の精霊に相当するアイヌの言葉は「ラマッ」ですから,カムイに相当する日本語は思い当たりません。

私は北海道出身ですので「カムイ」という言葉は小さなころから知っていましたが,北海道以外の日本人がこの言葉を知るようになったのは「カムイ伝」によるところが大きいことでしょう。この特異な響きをもつ言葉は作品中では双子の兄弟とシロオオカミの名前として使用されています。

どちらの場合も命名者は山丈(やまじょう)という山に棲む巨人です。山丈は大きな感銘を受けたときに「カムイ」と口走ります。夙谷(しゅくだに)に現れた山丈は幼児から握り飯を差し出され,幼児を抱き上げて「カムイ」と口にします(第1巻)。

猟師の犬たちに追い詰められたシロオオカミは断崖を背にして犬と闘い全滅させます。これを見た山丈が「カムイ」と叫び,彼に向かって手を合わせます(第4巻)。

物語の最終盤には日置大一揆があり武士と戦う一揆衆を後押しするように山丈が「カムイ…オオーッ」と叫びます(第19巻)。作品中には「人のこころの強さ,美しさ,豊かさに喜びと尊敬の感動があるとすれば,この叫びは一つのものとなる」と解説されています。

「カムイ伝」を白土三平のもう一つの代表作とされる「忍者武芸帳」と比較すると,エンターテインメント要素が可能な限りそぎ落とされ,徳川幕藩体制下で様ような矛盾に突き当たりながらも,懸命に生きていこうとする人々の姿が克明に描かれています。

「忍者武芸帳」では一つの集団として描かれていた農民を「カムイ伝」では個人のレベルまで掘り下げて,圧倒的なリアリティと物語の重厚感を紡ぎ出しています。

物語のタイトルとなっている「カムイ」は忍者カムイとシロオオカミだけではなく権力や差別に立ち向かっていく多くの人々の象徴となっています。言いかえると物語の中には多くの「カムイ」が存在し,新しい人間社会を目指す彼らの苦悩と行動を描き出すことが「カムイ伝」の最大のテーマとなっていると考えます。

差別の構図

カムイ伝の作品世界は人間の世界の物語と狼の世界の物語が並行するという特殊な形態をとっています。なぜ,作者はサブストリートしてシロオオカミを登場させたかを考えると,この作品のテーマの一つである「差別」の本質が見えてきます。

同じときに生まれた数匹の子どものうち一匹だけは毛色が白でした。残りのものは本来の茶系統の毛色であり,兄弟の中で早くもシロオオカミに対する差別が生じます。

このような差別が動物の世界で実際に起こりうるのかどうかという点については疑問が残りますが,作者としては動物の世界でも異質のものは差別され,それは人間の世界と同じだということなのでしょう。

実際,古代インドでは中央アジアから侵入していきた印欧語族のアーリア人が先住民族のドラヴィダ人を隷属化あるいは駆逐してガンジス川流域を支配するようになりました。彼らは自然現象を神々として崇拝する宗教を持っており,その聖典「リグ・ヴェーダ(神々の讃歌)」の中に「ヴァルナ」およびそれに基づく職業階級制度(ヴァルナ・ジャーティ)を記しています。

「ヴァルナ」はそのものずばり「色」を意味しており,肌の色を基準とした階級制度となっています。最大の目的は色の白いアーリア人と褐色の先住民族を識別することでした。ヴァルナが大まかな概念であることに対して「ジャーティ」は内婚と職業選択に関するものであり,2,000とも3,000ともいわれるジャーティはかならずいずれかのヴァルナに属することになります。

このような社会慣習を総称してポルトガル人は「カースト」と呼ぶようになり,その言葉は現在まで使用されています。しかし,本来の階級を決める要素は「ヴァルナ」なのです。人間は作者のいうオオカミと同様に肌の色で差別を行い,肌の色が同じ集団でも,社会慣習的な差別を定着化しています。

日本の中世には河原に住み牛馬を殺して皮を剥ぐ仕事をしていた職業集団が穢れているとして「穢多(エタ)」と差別されています。しかし,支配階級であった武士にとっては馬具や甲冑の材料として欠かせない皮革製品を生産させるために賎民のまま一定の優遇をしたようです。

江戸時代になると支配体制の安定化と経済的必要性から食糧生産と皮革生産は職業として固定化する必要が生じ,士農工商という職業階級制度を制定し,その下に賎民身分として「穢多」,「非人」を定着化させています。

つまり,他の階級との婚姻を禁止することにより身分の定着化が図られています。それはインドの「ヴァルナ・ジャーティ」の内婚制度,職業制度と結びつくものです。

カムイ伝における非人の身分は「穢多」に相当します。江戸時代の「非人」は固定的な賎民身分ではなく,平民が非人になることも非人が平民に戻ることもあったとされています。しかし,おそらく作者は「穢多」という差別用語を使用するのにためらいがあり,「非人」という言葉で代表させたのではと推測します。

ただし,「穢多」を差別する意識は支配階級が意図的に作り出したものではなく被支配階級(平民,大多数は農民)の中から自然発生的に生じたもののようです。支配階級は社会の安定化と身分制度を正当化するため,人々のもつ差別意識を利用したと考えます。もちろん,支配階級にとっては農民と切り離された賎民階級は人々の分断支配の手段として利用できたという側面もあります。

私自身も「エタ」という活字を初めて目にしたのは住井すゑさんの「橋のない川」でした。この著書の中には被支配階級であった人々が新平民となった人たちに対する抜きがたい差別意識が赤裸々に描かれています。まさしく,差別意識は私たち自身の心の中から生まれてくるものなのです。

カムイ伝の中では非人(穢多)は支配階級の都合により社会の最底辺の階級とされており,農業は禁止され,平民との結婚も禁止されているという設定となっています。これは支配,被支配という構図に基づく階級闘争の立場から必要な視点でした。

しかし,繰り返しになりますが,差別意識の源泉は支配されている人々のこころの中にもあることを私たちは認識しなければなりません。このような差別意識は現代にも引き継がれており,社会的弱者や異質なものを貶める意識につながっています。

白土は江戸時代における階級社会の矛盾,人が人を差別することの不条理の象徴として日置藩の秘密をもってきています。カムイと公儀隠密の「搦の手風(からみのてぶり)」は徳川家康が「ささらもの(簓者・筅者)」出身であることを証明する古文書を見つけ出します。

賎民出身の徳川宗家を頂点とする身分制度は矛盾そのものであり,逆にいうと身分制度は支配階級の都合により制度化されたものであることを明示しています。同時に高貴な身分や高貴な血筋も人為的に作りだされたことになります。白土は直接的な表現はしていませんが,高貴な血筋を敬うこころと差別を生み出すこころは同質のものだと言いたいのだと私は解釈しています。

この江戸徳川体制の根本的矛盾を知った人々の運命は明らかです。カムイと搦の手風は自分の身を守るために抜け忍にならざるをえず,新領主に日置藩の秘密を言上した城代家老の三角重太夫は惨殺されます。

新藩主は松平伊豆守に家康の出自に関する秘密文書を送り届けますが,当然のように口封じのため事故にみせかけて暗殺されます。松平伊豆守は誰にも相談することなく秘密文書を燃やし,徳川体制の矛盾は闇の中に消えていきます。

カムイ伝の世界

カムイ伝の主人公に相当するのは「非人のカムイ」,「下人の正助」,「次席家老の嫡男・草加竜之進」という三人の若者と「シロオオカミ」と考えるべきす。ただし,彼ら以外にも社会の矛盾や差別と闘った多くの人々が描かれており,彼らはすべてこの作品の主人公ということもできます。上にあげた3人と1匹は登場回数が多いので主人公に相当するという表現をさせてもらいました。

物語の時期は江戸時代の前期,舞台となるのは架空の日置藩です。カムイ(非人),正助(下人),竜之進(武士)という三人のすぐれた若者が徳川の幕藩体制の礎石となっている身分制度と関わり合いをもちながら自分の生きる道を模索していきます。

また,人間社会の外にあっては「カムイ」と呼ばれる突然変異のシロオオカミがハンディキャップにもめげず,強く生き抜いていくサブストーリーもこの作品の一つのテーマとなっています。さらに,彼らを取り巻く大勢の人々の生き方が重層的に描かれており,「大河小説」と呼ぶべき体裁をもっています。

そのような人々の生き方の総体が「カムイ伝」となっており,たとえあらすじでもストーリーを書き連ねることはとてもできません。そこで,登場人物の何人かに焦点をあてて,物語中で果たした役割を書くことにします。それにより,「カムイ伝」がどのような物語であったかを類推していただきたいと思います。



■ ■ ■ カムイ ■ ■ ■


カムイは一卵性双生児の兄弟であり,弟は物語序盤の主人公となっています。物乞いに甘んじる非人社会から脱け出すため,夙谷非人部落を出て単身で生活するようになり,非人部落の若者たちのリーダーとなります。しかし,百姓との諍いにより人を傷つけることとなり,斬首の刑に処せられます。

荼毘に付された彼の頭骨を拾い上げた兄は弟の犬死を嘆きます。カムイ兄は強くなるため剣を修行し,さらに忍者の道に入ります。厳しい訓練の結果,カムイは一流の忍者になりますが,組織の中にあってはまったく自由はありません。

与えられた任務を命がけで遂行する存在となった自分の生き方に大きな疑問をもつようになります。特に抜け忍となり多くの追っ手を殺害した自分の兄弟弟子である「風のトエラ」の殺害を命じられたとき,さらには師匠の「赤目」の殺害を命じられたときは任務遂行に大きなとまどいを感じることになります。

そして,カムイ自身もそのような立場に追いやられることになります。公儀隠密集団は土井大炊頭(利勝)の遺言から外様大名である日置藩にはなにか大きな秘密が隠されていると推定し,その探索をカムイに命じます。

カムイは日置藩の江戸屋敷と城代家老宅の池で飼育されている多くの亀の中から餌付けにより識別された特別の亀を見つけ出します。二匹の亀の甲羅の内側には金で文字が彫り込んであり,上の句と下の句を合わせると「風鳴りに眠れる六蔵のうちに有りて日を仰げば乱(あや)立ちぬ」となります。

この句の謎を解いてカムイは日置藩の秘密にたどりつきます。それは徳川家康の出自に関する古文書であり,家康が賤民の出自であることを証明するものでした。徳川幕藩体制の礎石を崩すような重大な秘密を知ることとなり,そのまま報告すれば(秘密を守るため)自分が抹殺されることになります。残された道はただ一つ,組織から抜けることしかありません。カムイは組織を抜け,抜け忍として公儀隠密から狙われる存在となります。



■ ■ ■ 正助 ■ ■ ■


正助は花巻村の庄屋の下人となっているダンズリの息子です。江戸時代の農民階級の下人は名主や庄屋などの有力者に隷属する階層の人々です。下人の歴史は古く,平安中期に遡ります。当時は家に隷属する人々でしたが,江戸時代になると家内隷属型ではなく年季奉公のような形態となってきています。

物語の中では花巻村の庄屋宅では家に隷属している人々とされており,「めったに嫁ももらえない」という表現がありますが,それでは下人は一代限りとなりあとが続きません。おそらく,下人身分でも婚姻があり,次の世代も親と同じように家に隷属する身分となるようです。

正助はものごころがついたときから母を知りません。若いときダンズリは行き倒れの若い娘を助け,結婚します。しかし,正助が生まれたとき女は自分が非人であることを打ち明けます。非人などと血を結んでしまったことに怒ったダンズリは女を責め,彼女は首をつります。

正助がこの事実を知ったのはずっと後のことですが,身分制度などにとらわれない性格に育ちます。それは父親が下人として牛馬のように使役させられてきたことを見てきたことによります。

少年となった正助は非人部落のスダレ(苔丸)やナナと親しく交流するようになります。正助は伊集院により学問を教わり,神童と言わしめています。庄屋の帳簿なども読むことができるようになり,虫干しのとき年貢の割り付け帳の不正を読み取り,写しを作成します。

百姓の読み書きは禁じられていますので,本を読んでいたことを知られた正助は庄屋にムチで打たれます。しかし,正助は割り付け帳のことを持ち出し,難を逃れます。庄屋は自分の不正の証拠を取り戻すため小さな田と本百姓の身分と引き換えに写しを返すように取引をもちかけます。こうして正助は本百姓になることができました。

正助が取り組んだのはこの地域では初めてのワタの栽培でした。百人手間といわれたワタ栽培の成功は商人の夢屋の注意を引くことになります。正助は農機具の発明などを通して村の若者のリーダーに成長します。

正助は非人の娘ナナ(カムイの姉)と実質婚となります。正助の理想は新田開発と新作物により非人を含め村全体を豊かにすることです。村では若者組が組織され,新しい形態の村落コミューンが形成されます。少年時代からの友人のゴンは若者組のサブリーダーとして活躍し,非人部落のスダレ(苔丸)もそれをサポートします。

新田開発により非人部落との交流も活発化しますが,それは支配階級にとって好ましいものではなく地域の非人を束ねる横目を通して分断工作が行われます。それでも正助の描いた村落コミューンは次第に現実の姿となっていきます。

しかし,藩札の発行により商品作物の取引はピンチとなります。自分たちの生産物は領内でしか通用しない紙になってしまうのです。しかも,藩札の乱発により諸物価は天井知らずに上がることになります。

そんなとき,天候不順による飢饉が村を襲います。餓死するよりは一揆で闘おうとする竜之進や苔丸に対して正助は逃散の道を選択します。人々は各地の職場で働くことになります。

日置藩の秘密が幕閣の手により処分されたことにより,幕府は日置藩を取りつぶし天領とします。逃散していた人々は元の村の戻り農業を開始します。新代官には笹一角(実は竜之進)が就任し,百姓と力を合わせて新しい村づくりを目指します。

しかし,夢屋は幕閣に手を回し,代官を更迭し,この地域の商品作物の独占を図ろうとします。幕府名代の検地を機に「日置大一揆」が勃発します。一揆の首謀者となった正助は領内の百姓を組織して名代に検地十万日延期の証文を書かせます。

一揆は成功しますが,苔丸を除く首謀者は京都所司代に送られ過酷な拷問を受けます。これに耐え,江戸の白州で正助は「百姓なくしてこの国はない」と絶叫します。しかし,百姓たちの死を賭した叫びは支配者には届くことはありません。ひとり正助は舌を切断され,花巻村に戻されます。正助が裏切って自分だけが助かったと誤解した村人はしゃべることのできない正助に石を投げ,打ちかかります。



■ ■ ■ 草加竜之進 ■ ■ ■


竜之進は日置藩の次席家老草勘兵衛の嫡子です。恵まれた環境で育ち,剣技を磨いています。藩主がお蔵役方を変えることに次席家老が反対したことによりうらみを買い,果し合いの名目で暗殺されそうになり左手の指の一部を失います。しかし,百姓女オミネが藩主に夜伽を命じられて自害したことにより,左手の不自由を克服した剣技を編み出します。

日置藩の台所は火の車であり,暗愚な藩主は目付の橘軍太夫の甘言により草加一門を誅殺して所領を没収することに同意します。竜之進は姦計により主君の顔に傷をつけてしまいます。これにより草加家が取り潰しとなり一門は誅殺されることになりますが,勘兵衛は御一門払いの真相を見抜き,その前に竜之進を勘当します。これにより,竜之進は生き残ることになります。

竜之進は笹一角とともに軍太夫に対する復讐の機会を狙います。参勤交代で江戸表に出立する藩主の行列に切り込み,鉄砲で撃たれ,危ういところをカムイに救われます。竜之進と一角は非人部落に身を隠すことになり,百姓や非人の置かれている境遇を知ることにより,階級制度の矛盾に目覚めていきます。

竜之進と一角は時期をみて江戸に脱出します。竜之進の仇は橘軍大夫でしたが,暗愚な藩主が領民を苦しめていることから殺害しようと江戸屋敷に滞在中の領主の動向を探ります。振袖火事の混乱の中で二人は藩主に迫りますが,カムイに阻止され,竜之進は重傷を負います。

カムイは日置藩の秘密を探るため藩主を死なせるわけにはいかないという事情があります。傷の癒えた竜之進は一角ともに日置藩に戻り,百姓仕事に精を出します。しかし,一角はそのような生活に藩主殺害の決意が鈍るのを恐れ,竜之進とたもとを分かち,江戸に出立します。

竜之進は恐るべき無人流の使い手である橘玄蕃と対決することになります。竜之進は敗れ,危ういところを小六に扮したカムイに救われます。竜之進はその後,無人流を使うカサグレに出会いこの恐ろしい剣技を会得することになります。

竜之進はかってこの地を支配していた豪族の流れをくむ木の間党に身を寄せ,悪徳商人や大庄屋を襲い,その金を人々に分け与えます。飢饉が日置藩を襲ったとき竜之進と苔丸は一揆を主張しますが,正助は逃散を選択します。

竜之進は木の間党に裏切られ捕縛され江戸送りとなります。江戸の白州では藩主を殺害した笹一角が草加竜之進と名乗り,取り調べを受けており,彼の口から藩主殺害が明らかになったことから日置藩はお取り潰しとなり,関係者は処分されることになりました。一角は打ち首を拒否し,武士としての最後を遂げます。

これにより竜之進は笹一角として天領となった日置の代官として赴任することになります。竜之進は日置の地に戻った百姓とともに農村の復興を目指し,多くの成果をあげます。しかし,夢屋が幕閣に手を回し,この地域の商品作物の独占を図ろうとします。竜之進は罷免され,新代官により入牢となります。日置大一揆のときに竜之進は赤目により救い出されます。

優れた資質をもったカムイ,正助,竜之進の三人の若者はそれぞれ反差別,反権力,村落コミューンを実現するために最大限の努力をしますが,権力あるいは権力と結びついた政商によりその夢を断たれます。

第一部の終了時はまさに死屍累々といった状態であり,徳川幕藩体制の重しは個人的な努力ではまったく変革できないと知らされた第一部の状況からどのように第二部につなげていくかは皆目見当がつかない状況でした。

作者自身もあとがきで「いまやっとカムイ伝三部作のうち第一部が終わったところだ。しかし,物語の真のテーマはいまだに現れていない。何と不可解なことであろう」と述べています。

実際,登場人物の大半が死んでしまうという第一部の結末から第二部の壮大な物語を発展させるためにはそれに倍するエネルギーが必要になります。これは白土氏の才能をもってしてもあまりにもハードルの高い仕事であったと思います。白土氏はなにをもってカムイ伝は三部作になると明言したのかは知る由もありませんが,個人的には第一部でも十分に作者の描きたかったものが出ていると考えます。



作品データ
作者 : 白土三平(1932年生)
著作時期 : 1964年-1971年
単行本数 : 全21巻
発表雑誌 : ガロ

作者の他の作品
忍者武芸帳(1959年-1962年)
サスケ(1961年-1966年)
忍法秘話(1963-1965年)
ワタリ(1965年-1966年)
カムイ伝第二部(1988年-2000年)
カムイ外伝(1982年-1987年)

主要登場人物

カムイ(弟)

物語序盤の主人公,非人部落の出身,物乞いに甘んじる部落の人々とは異なり,自由と誇りを求め単身で生きようとする。部落の子どもを罰するため木の枝から吊るして死亡させた百姓の家に押し入ったため捕らわれ,斬首の刑に処せられた。

カムイ(兄)

弟の死後に登場した一卵性双生児の兄であり物語の主人公となる。弟と同様に自由と誇りを求め,強くなるため剣を修行し,さらに忍びの世界に入る。師匠であった赤目が抜け忍となったことに大きな影響を受ける。日置藩の秘密を突き止めたことにより,組織を抜けることになる。

正助

花巻村の下人の息子,母親は非人の出身であり正助を生んだ後,事情を打ち明け自害している。非常に聡明で勤勉であり,下人の身でありながら若者たちのリーダーとなっていく。本百姓となり,若者組を率いて非人を含めた豊かな村づくりを目指す。

草加 竜之進

日置藩の次席家老草加勘兵衛の嫡子,若くして剣の才能を開花させる。橘軍太夫の姦計により草加家が取り潰しとなり一門は誅殺される。父親に勘当されたため生き残ることになり,橘軍太夫に対する復讐の機会を狙う。





カムイ伝・第二部

第二部も動物の世界と人間の世界が並行して描かれています。動物の世界ではニホンザルのコミュニティにおけるボスの地位を巡る血みどろの闘争が描かれています。サルの群れと対立する野犬の群れでもリーダーをめぐる争いがあり,こちらは外来種のグレートデンが圧倒的な力の差によりボスの座につきます。しかし,この二つの勢力はシロオオカミに率いられる狼群や人間の世界とはほとんど関わり合いをもちません。

人間の世界では一転して江戸と千葉が物語の舞台となり,動物の世界と同様に権力闘争が描かれています。第一部から引き続いて登場するのはカムイ,正助,竜之進と代官の錦丹波だけです。旧日置藩のとなりの望月藩では望月佐渡守が兄の所領を手中に収めようと画策しています。佐渡守とじっこんの幕府大老酒井忠清は将軍家の権力を牛耳ろうと姦策を弄しています。

このように第二部は動物の世界も人間の世界も「権力闘争」が描かれており,第一部の「階級闘争」とはまったく趣の異なる展開となっています。そのような権力闘争の一方に竜之進やカムイが加担する形となるストリーは個人的にはどうしてそうなるのと思わざるを得ません。


カムイ外伝


真田剣流

「忍者旋風」,「真田剣流」,「風魔」と続く風魔三部作の第2作目です。執筆時期は1961-1964年です。おそらく貸本屋時代の作品でしょう。白土三平の作品集は70年代の小学館漫画文庫で収集しました。しかし,文庫本のサイズは老眼になると読むのは困難であり,手放してしまいました。真田剣流だけは欲しいと思っていたら,最近,ブックオフで入手できました。しかも続編の風魔も一緒に手に入りとても幸せな気持ちになりました。

関ヶ原の戦いで徳川方が勝利を収めたものの,まだ徳川幕府体制が盤石と云えない時代の物語です。家康の懐刀と呼ばれて天海の指示で「暗夜軒」は「丑三の術」を駆使して豊臣恩顧大名を次々と暗殺していきます。この不思議な術の謎ときが物語のテーマとなっています。

作品のタイトルとなっている「真田剣流」とは真田忍群が使用する複数の秘太刀のことをいいます。この秘太刀と「丑三の術」を記した人物は明国から派遣された暗殺者であり,船の難破により一時期真田家に世話になり真田忍群に秘太刀を伝えます。その後,事故で記憶を失い風魔の表の首領となっています。彼の一人娘・桔梗は真田忍群や風魔と行動をともにして丑三の謎を解こうとします。


風魔

「忍者旋風」,「真田剣流」,「風魔」と続く風魔三部作の第3作目です。執筆時期は1965-1966年です。おそらくこれも貸本屋時代の作品でしょう。物語は風魔が中心となります。この一族は「風魔の小太郎」に率いられ,全国の忍びの生活と権利を守るための組織と説明されています。つまり,忍びの者の労働組合のようなものです。

この風魔に対抗しようと服部半蔵の影武者・犬丸半蔵が新たな忍者集団を組織しようとします。このもくろみは失敗します。犬丸半蔵は次に「猿飛の一族」を風魔に対抗させようとして,これも失敗します。最後には犬丸半蔵自身が風魔の首領に化けて組織を乗っ取ろうと画策します。

この作品では「風魔の小太郎」の二人の息子である「太郎」と「二階堂主水」が活躍します。二階堂主水の「心の一方」は瞬間催眠法であり複数の人物が同時にかかることが可能かどうかは議論のあるところです。また,犬丸半蔵の元で活躍した忍犬シジマの悲しい末路も描かれています。


赤目

「赤目」というタイトルの作品はいくつかありますが,この作品に登場するのはウサギです。「赤目」というからには「メラニン色素」を作れないため毛色は白,眼球にも色素がないため内部の血管の色が透けて見えるため赤色になります。このように遺伝子の欠損により「メラニン色素」を作ることのできないものを「アルビノ」といいます。

ペッとして飼われているウサギの多くは「アルビノ」ですのでウサギの眼は赤いと思われていますが,実際にはノウサギの毛は茶色であり,眼は黒や茶色となっています。ノウサギは保護色のため白い冬毛をまといますが,それでも眼の色は変わりません。

この作品ではノウサギを赤目と呼んでおり,残忍な領主により妻を惨殺された農民が僧に扮して赤目のたたりを人々に信じ込ませ,食物連鎖を利用して遂には一揆を成功させます。

http://1000ya.isis.ne.jp/1139.html


白土三平





カムイ伝




小学館叢書 1988~1989


ISBN:4091878512
















 山丈(やまじょう)という巨人が「カムイ!」と一声吠えて去っていく。日置藩と花巻村と夙谷(しゅくだに)の日々。そこに3人の少年がいた。

 正助はダンズリが非人の女に生ませた子だ。足が速く、身軽な少年に育っていた。けれども、小六が目付の橘軍太夫の策謀にあって下人(げにん)の身分に落とされ、その娘のオミネが領主に犯されて自害してしまったのがくやしい。小六はそれがもとで発狂していた。正助はそういう境遇に甘んじていることに腹をたて、下人を脱して本百姓になることを決意する。
 草加竜之進は日置藩の次席家老の嫡子で、笹一角のもとで剣法修行にあけくれている。橘軍太夫の子の一馬を御前試合で破ったのが自慢だったが、領主の日置弾正の巻狩りに加わったとき、誤ってオミネの腿を矢で射った。それを謝りに小六を訪ねるうちにオミネを好きになる。そのオミネは領主に犯されて自害する。竜之進は怒りをおぼえるが、計略にはまって逃亡せざるをえなくなる。小六は白痴に近いようだが、哭きいさちるスサノオのようだ。
 あるとき領主が参勤交代で江戸に向かうと聞いた竜之進は、軍太夫を倒すために行列に切りこんだ。笹一角が応じ、事態は混乱。そこへカムイがあらわれて竜之進と一角の髷を切り、かれらを夙谷の非人部落に連れていく。
 3人目のカムイは正助や竜之進よりまだ小さい少年である。夙谷に非人として住む弥助の子であるが、生まれてまもなく河原にいた山丈に握り飯をあげたことで、みんなからカムイと呼ばれていた。物乞いに甘んじる部落の連中を嫌って、単身で生きようとする。そこにはカムイとほぼ同じころに生まれた白狼の姿がいつもつきまとう。このオオカミもカムイと呼ばれた。


 3人の少年がすべて臑に傷をもって出揃うところまでが『カムイ伝』の序曲になる。いったいどのように物語が進むのか、まったくわからない。やがて正助は本百姓になり、竜之進は剣を磨き、カムイは忍者になるのだが、しばらく進むとほかにも重要な脇役が何人も出てくるのがわかる。登場人物はべらぼうに多い。全巻で300人をこすだろう。
 たとえば、花巻村には正助の親友になるゴンと、ゴンに思いを寄せる明美がいる。カムイは双子らしかったが、一人は死んだ。姉にナナがいる。枯木屋敷に住む横目は軍太夫の部下で、忍法の素養をもっている。手下にキギスがいて、その横目の一人娘のサエサがカムイに心を寄せていた。飛礫(つぶて)がうまい少年タブテもカムイに従いたい。水無月右近は丹下左膳めいた素浪人で、故あって横目とカムイの両方を打倒しようとしている。さらに花巻村には密告屋のシブタレが、玉手村に一身に繭を育てる苔丸がいる。苔丸は物語の最後まで生き残る。
 こうした面々がのちに日置藩で百姓一揆が勃発するときに、複雑相互にからみあう。偶発的にそうなっていくのではない。身分と村落という社会がそうさせる。『カムイ伝』は「分」の社会哲学がマンガになったのである。

 では物語はどう進んで、どのような結末を迎えたかというと、これはいまもって未完の作品なのだ。話はまったく終わっていない。未完とはいえ、いまぼくの手元にある小学館叢書版では第15巻まで続く。マンガや劇画ではめずらしくはないけれど、かなりの長編である。
 それなのに白土三平は1971年の「ガロ」に、「いまやっと『カムイ伝』三部作のうち、第一部が終わったところだ」と書いた。それどころか、そのあとに「物語の真のテーマはいまだに現れていない。なんと不可解なことであろう」と自分で書き加えた。本人に「なんと不可解なこと」と言われては、われわれは対応を失うばかりである。

 そもそも『カムイ伝』が前衛マンガ誌ともいうべき「ガロ」に始まったのが1964年で、それから8年にわたって連載がえんえん続き、その後は全15巻のシリーズ本にもなったのに(新書判では21巻になる)、やっと第一部が終わったというだけなのだ。それでも当時はその継続がすぐに期待されたのだが、待てども待てども再開の気配もなく、やっと17年後の1988年に今度は「ビッグコミック」にその場を移して(そのときはもう「ガロ」は終刊していた)、『カムイ伝』第二部が再開された。
 あまりに長い中断で、こんな例は唯一、埴谷雄高の『死霊』がおもいあわされる程度だが、白土三平は埴谷のように中断や遅筆を自慢しなかったし、その理由を叙述もしなかった。黙って再開した。ところがその第二部も2000年に中断され、いまなおそのままになっている。いま作者は74歳くらいだろうから、はたして完結するのかどうか、どんな予断も許されない。

 いったいこのような作品をどう扱ったらよいのか。白土三平の思想と才能を褒めちぎるだけなら、おそらく『忍者武芸帳』のほうがいいだろう。影丸伝説の一大叙事詩ともいうべきこの作品は、1959年から1962年まで3年にわたって貸本文化のなかで彗星のごとく輝いた長編だった(単行本で全16巻になる)。
 すでに戦後日本マンガ史の金字塔という評価も定まっている。大島渚によって映画化もされた。その後の忍者マンガや忍法小説の原型は、すべて『忍者武芸帳』のなかにある(忍者ブームはその前から小説にもマンガにもあった)。時代も永禄7年(1564)から天正10年(1582)のあいだに限定されていて(信長時代)、前半は奥州の最上(もがみ)領だけが舞台になっている。『カムイ伝』にくらべるとストーリーも格段にわかりやすく、影丸の正体を追うという読者の関心にも焦点がある。ぼくは2度読んだが、2度とも堪能できた。影一族と明智十人衆の熾烈な攻防のなか、百姓たちの闘争の烽火がしだいに立ち上がっていく構成には、まったく破綻がない。

 しかし、白土三平はやっぱり『カムイ伝』なのだ。これほど日本のマンガ作品のなかで悪戦苦闘をした作品はないし、作者が全力を傾注して、なおその作品に打ちのめされていった作品もない。
 壁をつくりながらそれに攀じ登り、作者がその壁を相手に格闘したままなのだ。
 『忍者武芸帳』も百姓一揆をテーマにしたが、そこにはまだしもアレクサンドル・デュマがいた。エンタテイメントがあった。影丸はヒーローだった。『カムイ伝』はデュマじゃない。カムイもヒーローじゃない。『カムイ伝』の白土三平はいわばジュール・ミシュレやフェルディナンド・セリーヌやアントニオ・ネグリなのである。
 いや、そのような比喩では語れない。『カムイ伝』は70年代以降の日本の社会思想の変転そのものであり、その変転を全体小説のごとくに収容しようとした白土三平の、壮絶きわまりない社会思想実験の軌跡なのである。
 未完だし、それも三部作のまだ半分も進んでいないというのだから、その実験の評価を"確定"するわけにはいかないが、それでも今日の体たらくの日本に、1964年に構想した物語が壮大なスケールをもって解体し、蘇生し、また異常な食風景になっていく過程を見ることは、やはりだれかが引き受けていかなければならないことなのだろうとおもわれる。

 白土三平については、以前から四方田犬彦がすぐれたクリティックをしつづけてきた。2004年にはその決定版ともいうべき書き下ろし750枚の『白土三平論』も上梓した。四方田こそは『カムイ伝』解体神話と蘇生伝説の本気のウォッチャーであるだろう。
 なにしろ四方田は『サスケ』を読んで、10歳のときに微塵隠れの術をいろいろ試した少年だった。それから40年、ずうっと白土三平のマンガを読み、その背景の文脈に目を凝らしてきた。白土三平において柳田国男や南方熊楠を、白土三平において大島渚と中上健次を、白土三平においてゴダールと大岡昇平を考えてきたのだ。四方田を借りないで、白土について何が書けるものかというところだ。しかも四方田は今後は『甲賀武芸帳』の石丸少年に倣って茸についての書物を執筆するのが老後の夢だというのだから、これは何をか言わんやなのだ。

 四方田ほどではないけれど、白土三平に伴走してきた読者はそうとうにいたはずである。とくに60年代後半から70年代前半までは、白土は社会思想をマンガにできる教祖ですらあった。
 たとえばその一例だが、『白土三平論』によると1967年に「サンデー毎日」が「いい感じのする日本人」を選んだらしいのだが、そのとき吉永小百合・宇野重吉・大江健三郎を押さえて白土がダントツの1位になった(なぜ宇野重吉がベスト3にはいったのかはわからない)。
 これは60年代後半にいかに白土ブームが日本列島を覆っていたかということで、しかも新左翼系や学生や知識人のみならず一般の劇画ファンまでもが、まだ階級意識とか唯物史観とか差別問題をヴィヴィッドなものとしてうけとめていたことをあらわす指標のひとつになっていた。白土を見るには、まずこのことを出発点にする必要がある。
 ところが『カムイ伝』第一部が終わった1971年には、四方田によると白土の劇画を読んでいたのは一握りに激減していたという。70年安保と全共闘運動の終焉とともに、白土ブームはあっけなく終わってしまったのだ。燻し銀のように光っていた白土の「抵抗の道徳」やそれにもとづく「コミューン幻想」に、あっというまに無責任な終止符が打たれてしまったのだ。

 その後のことは明々白々で、日本マルクス主義の退嬰と学生左翼の撤退とともに白土はまったく読まれなくなった。劇画ブームはマンガ一般のブームとなり、少女マンガや少年コミックや大人マンガやギャグ・マンガが流行し、アニメとゲーム・キャラのほかは手塚治虫の再来ばかりが何度も取り沙汰されることになったのだ。
 そのあいだ、白土についてはわずかに解放出版社から中尾健次の『「カムイ伝」のすゝめ』が刊行された程度だったのである。
 四方田や中尾の分析を借りながら、今夜は往時の白土三平の格闘をビデオ早送りしてみたい。

 白土劇画の基本には一貫して「忍者」と「差別」と「村落コミューン」という問題の生き方が流れている。すでに最初のヒット作品『甲賀武芸帳』で忍者の日々を描いたのはむろんだが、老いた牧十馬という銃術家にコミューンをつくらせていた。このような発想が白土の初期から芽生えていたことは、白土の生い立ちにも関係がある。
 白土は1932年に岡本唐貴の三男に生まれた。岡本唐貴は知る人ぞ知る、左翼の道を歩みつづけてきた画家で、プロレタリア美術の歴史では必ずその名をのこしてきた社会活動家でもあった。
 1923年に二科展に入選し、作家やアナキストや美術家たちの「アクション」同人となり、1925年には村山知義と読売新聞で紙上論争したりした(村山と父親が酒を酌み交わして議論していたのを、白土はよく憶えているという)。その後は「人間集団主義」を唱えて絵画の復活をめざし、さらに「モニュメンタリズム」を提案すると、20年代後半には社会主義リアリズムにも日本プロレタリア美術家同盟にも加担した。このころ黒澤明が岡本唐貴の指導で絵を習っている。岡本の油絵と黒澤のコンテを比較すると、かなり似通ったものがある。
 戦後になると岡本は日本共産党にも入り、親ソ連派の活動を開始していった。日本アンデパンダント展に連続出品するかたわら、1967年には松山文雄と『日本プロレタリア美術史』を執筆した。

 そんな父のもとに白土は育ったのである。ちなみに妹の岡本颯子は150冊もの著書がある絵本作家になっている。
 さて、ここに決定的な経緯がひそんでいた。その岡本一家が戦時中の1944年、長野県の真田村に疎開したのだ。2年間ほどの疎開だったようだが、白土三平はそこで中学校(いまの松代高校)に通い、近くの真田信綱を祀った信綱神社や真田幸村の菩提寺で遊んだ。紀州九度山の真田幸村の拠点ではなく、そこに真田家が出身したほうの拠点だ。のちにそこ(いまは上田市真田町)を訪れた四方田によると、かつての真田村こそは「忍者と差別と村落の原型」を白土三平にインプリンティングした土地だったにちがいないと感じたという。

 白土がマンガ家になった経緯にもふれておかなくてはならない。東京に戻ってきた岡本一家の日々、16歳の白土が紙芝居にかかわったことが特筆される。唐貴の友人の作画家の金野新一や加太こうじに出会い、「なかよし会」「ともだち会」といった紙芝居づくりの会に加わったのだ。白土は『ミスターともちゃん』『カチグリ・カッチャン』などの紙芝居をつくった。
 1952年、20歳になった白土は紙芝居を描くかたわら、指人形劇団の太郎座にもかかわった。学校などをまわり、それなりの意欲も示したようだが、太郎座は解散した。それとともに紙芝居が急速に衰えていった。1957年、白土は春子と結婚し、旧知の牧かずまのアシスタントをしながら、いよいよマンガを描くようになる。『こがらし剣士』がデビュー作だ。
 このころ白土の生涯を決する長井勝一と会った。長井は当時は貸本をプロデュースする日本漫画社にいたが、のちに「ガロ」を創刊する。あの長井だ。長井に出会って白土は貸本マンガにとりくんだ。それが『嵐の忍者』や『甲賀武芸帳』である。
 ついで長井が三洋社をおこすと、白土はそこから『忍者武芸帳』を刊行しはじめた。それが1959年のこと、「少年サンデー」「少年マガジン」が創刊された年だ。ついでにいえばこの年には「週刊現代」「週刊文春」「朝日ジャーナル」「朝日ソノラマ」も創刊された。水原弘の「黒い花びら」が大ヒットし、長嶋が天覧試合の阪神戦でサヨナラホームランを打った。日本が敗戦後の15年をへて、ついにメディア爆発した年である。
 それからのことは省略するが、1961年に『シートン動物記』『赤目』『真田剣流』『サスケ』が、1962年に『忍者武芸帳』を完結すると、『少年剣士宮本武蔵』(四方田はこれが中断されたことを惜しんでいる)が、翌年には『ざしきわらし』『鬼』『スガルの死』が発表され、1964年に「ガロ」に『カムイ伝』が鳴り物入りで連載開始されたのである。
 途中、赤目プロが組織されて、『ワタリ』『風魔』『カムイ外伝』などが連載されるけれど、大島渚によって『忍者武芸帳』が映画化され、「サンデー毎日」で第1位の日本人になった1967年以降は、すべての連載をおえて『カムイ伝』だけにとりくんだ。

 忍者と村落コミューンに異様な関心を集中させてきた白土三平について、あらかたの背景がこれでわかったとおもうが、これを『カムイ伝』のその後の物語の展開にかぶせてみると、さらに興味深いことがあきらかになってくる。
 1967年のことは先に書いたが、このとき白土はあまりの苛酷な仕事ぶりで体を壊した。継続中の連載は何本もあるし、頼まれた単発も何本もある。多忙をきわめた白土は房総半島に引っ越して静養し、そこから連載を次々に完結させて『カムイ伝』だけにとりくむようにした。その後、白土は今日にいたるまでずっと房総を離れていない。何度か転地しながら漁村と海を体に滲みこませている。
 このことが『カムイ伝』の次の展開に反映されたのだ。すなわち日置藩の海側の漁師町の五代木がクローズアップされた。白土は『忍者武芸帳』のときもそうだったのだが、猛烈に学習をしながら物語の背景と細部をつくっていくタイプのマンガ家である。一揆や差別問題や徳川社会史についても、その知識と洞察はしだいに濃くなっていく。
 同様に、自身の環境や業界や政治経済状況との相互関係にも真摯にとりくんだ。いいかえれば、それらを正直に作品にとりこんだ。房総への転居は、こうして『カムイ伝』の第2幕に影響をもたらした。
 かくて『カムイ伝』は最初の転換を見せていく。能でいうなら「破」が始まっていく。そこに、日置藩に隠されていた恐るべき秘密があるらしいことがあかるみに出て、カムイたちの忍者群がその探求にさしかかるという裏のプロットが動き出す。

 物語は正助が念願の本百姓となって、花巻村で綿の栽培に成功するところから、農村社会の「理想」の準備に入る。農機具を改良し、旱魃にそなえて井戸を掘り、肥料の人糞を蓄えるために公衆便所をつくり、子供たちには勉強会をつくる。若者組もできあがってきた。
 正助は新田開発の許可をとり、理想に燃える。江戸に行っていた竜之進も振袖火事をきっかけに戻ってきて(だいたいの時代がわかるとおもう)、これを手伝っていた。ところが、日置藩は藩札の発行によって財政テクニックを弄するばかりで、花巻村の綿と新田もその藩札によって買い叩かれてしまう。モノはカネに負けるのだ。徳川資本主義とでもいうべきものに、正助の理想は蹂躙されるのだ。
 抜け目のない商人の夢屋七兵衛が暗躍しているとも伝えられてきた。栽培や開発にかかわってきた百姓たちは怒りはじめた。正助は一揆の扇動者としてお上に睨まれるようになっていく。
 カムイのほうはといえば、「夙の三郎」という名で忍者になって、鷹匠の百舌兵衛(もずべい)の配下にいる。忍(しのび)の掟は厳しく、おいそれと勝手なことはできない。風のトエラが抜けたときは、忍者頭からその殺害を命じられた。赤目も抜忍になっていた。カムイは赤目を追わされ、さらに一揆の扇動者の正助の暗殺を言い渡された。忍者はテロリストでもある。
 しかし赤目には逆襲され、さらに夢屋の手によって助けられてしまう。カムイは任務を果たせない。こうしてカムイも忍者社会のなかで追いつめられていく。

 ここで、物語はいったん日置藩が秘めているという謎の解明に焦点が移る。そもそも外様(とざま)の小藩がろくな経営もできず問題ばかりおこしているのに取り潰されないことには、何かの裏の事情があるはずだったのである。
 この秘密を解くため、公儀隠密の搦(からみ)の手風(てぶり)は日置に入って、寺社の過去帳や日置領見聞録などを調べはじめた。どうも日置藩には亀にまつわる怪事件が多い。亀を食べて斬られた者たちが何人もいるし、鼈甲師も不審な死をとげている。蔵六屋敷の名をもつ城代家老の屋敷の池には亀が無数に飼われている。蔵六とは亀の異称であった。
 一方、カムイも変身して美粧の鏡隼人として、その秘密を解こうとしていた。カムイにのこされた道は任務で成果を見せるか、抜忍になるか、どちらかなのだ。心ならずも二人は力を出し合い、競べあいしながら、秘密に迫る。風鳴りの谷で妖しく光る亀の甲羅を割ると、内側が黄金になっている甲羅には文字が読めた。和歌の上の句である。さらにもう一匹の亀を捜しあて、甲羅の内側をこじあけると、はたして黄金の中に下の句がある。合せてみると「風鳴りに眠れる六蔵のうちに有りて日を仰げば乱(あや)立ちぬ」というメッセージだった。
 大凧をつかっての上空からの地形スポットの確定がおこなわれた(こうした忍者の道具立ては以前から白土の独壇場で、そのような場面のたびにコマ外に詳細な解説がつく)。狙い定めた地点に突風によって姿をあらわしたのは、蔵六神という巨大な石碑である。その中に古文書が隠されていた。そこにはなんと大御所徳川家康が「ささらもの」(簓者・筅者)であることが暴露されていた。


 家康が卑賎の出身であるとは、これまで何度も議論されてきた"偽史の定番"ともいうべきもので、古くは村岡融軒から八切止夫まで、新しくは南條範夫から隆慶一郎まで、たびたび議論され、たびたび小説や映画のフィクションに応用されてきた。白土三平がどのようにしてこの偽史に関心をもったかはわからないが、これは『カムイ伝』のストーリーの隠れた要になっている。
 しかし、白土はこの家康賎民説をおもしろがったのではなかった。幕藩体制としての体制社会とそこに支配される日置藩と、任務を遂行する忍者たちの宿命とを、ぐるりとつないで構造的な矛盾を露呈させるようにするために、この謎をもちこんだ。『カムイ伝』はその全編が身分制度に対する強烈な問いであり、ということはその身分制度をつくりだした徳川社会システムそのものが問われているのだ。
 カムイはその身分制度のなかで非人扱いされることを嫌い、あえて忍者になった青年である。忍者がどいうものかは、すでに白土の父の好敵手であった村山知義が『忍びの者』でもあきらかにしている。ぼくも第929夜にそのあらましを書いておいた。

 忍びの任務は秘密の任務である。それゆえ秘密の任務の対象がさらに大きな秘密にかかわるのなら、大なる秘密と小なる秘密は暗闇で激突するか(その両者の暗闇での闘いを描写してきたのが日本の忍者ものである)、あるいは大なる秘密が小なる秘密を食べ尽くすか、互いにドグラマグラになるかということになる。
 カムイも与えられた任務を遂行していけば、その天下の秩序を律する身分制度とどこかでぶつかっていくしかなかった。とくに幕府の秘密を暴けば、徳川幕府そのものが解体しかねない。それでは少年カムイがもともと願った身分制度の超越はおこせない。全体が捩れて変容するだけなのだ。

 四方田は、このように設定された家康賤民の秘密は「それ自体が閉じられ自己完結していると信じられた世界を、内側から解体させていくような醜聞であり、幾何学に譬えていうならば、クラインの壷に開けられた小さな穴」になっていると指摘した。
 つまり『カムイ伝』は支配と被支配、差別と被差別のあいだを抉(えぐ)るために、そこに百姓一揆が隆起していくプロセスと、忍者が任務を遂行することによって抜け忍として自身の立場を喪失していくプロセスとを、二重にも三重にも多重にも組み回して掘りこんでいった物語なのであるが、そのどの一点にも全体の矛盾が噴き出るように仕組んだ物語でもあったのである。
 白土はその数多くの一点を束ねる最大の一点に、徳川幕府最大のスキャンダルをもってきた。それならこれは一点が崩れれば全体が崩壊しかねないという物語構造なのである。
 しかし社会の総体というものは、たとえどのような政変や戦争がおころうと、そのまま変節をくりかえして生きながらえるようになっている。それを登場人物たちや白土三平自身がどのように受けとめられるのか。人間はどう受けとめるのか。このあとの『カムイ伝』はそこを白土自身が挑戦していくという恰好をとる。壮絶な試みだといっていい。

 白土はそこでひとまず、社会のいかような変化も切り抜ける男を導入した。夢屋七兵衛だ。数百人にのぼる登場人物のなかで、唯一出自があきらかではない人物で、それゆえ身分社会からも挟み撃ちになってはいない。赤目とともに御蔵島から島抜けをして、房総の浜辺で江戸勧進頭の仁太夫に拾われ、乞食たちのあいだで頭角をあらわした人物だ。
 盆送りの川に流された野菜に目をつけて、これをさっさと漬物にして大儲けをするような商才の持ち主だ。カネさえあればどんな事態も切り抜けられるという、今日ならば金融株式主義者の典型である。
 これを悪徳商人にしてしまうなら、つまらない。そんなお定まりの時代劇を白土は書こうとはおもわない。そうではなく、理想に挫折する者たちが続出するなかで、一人、ひょっとして理想をものにする人物の危険な可能性として夢屋七兵衛は選ばれたのだ。
 案の定、赤目はこの夢屋に身を任せ、ひとつ運試しをしようかとおもう。夢屋は五代木に質屋を開いてカツオ船を入手して、漁民を低賃金で働かせて儲けると、材木や贋札づくりにまで手を出した。どんな権力にも対応するドライフール(猫かぶりの道化)なのである。けれども赤目はさすがにその貪欲につきあいきれない。

 かくて物語はしだいに「破」から「急」に移っていく。残された主人公はもはや個人ではなくなっている。農民そのものであり、村人そのものである。
 いや、自然と生活をかかえた村落そのものだ。白土はそこをこそ描きたくて、ここまで物語を引っ張ってきた。
 だからこのあとは忍者間の抗争は退いていく。暗闇の暗闘は白昼の激闘に変わっていく。個々の取引や権謀術数も脇のプロットに変わっていく。そのかわり正助やゴンや苔丸と百姓たちが真ん中で立ち上がり、困難に直面し、そして白昼に挫折する。それでへこたれるわけにはいかない。時代に拮抗し、状況を変革する力をそのプロセスで獲得しなければならない。
 そのうち日置藩そのものにも危機がやってきて、お取り潰しの瀬戸際に立つ。幕府以外はどこもかしこも同じ宿命なのである。そういうときには、新たなロールプレーも現出される。なかで、竜之進が木の間党を率いてゲリラ活動を展開するというのがめざましい企図になるのだが、白土はその成功すらおぼつかないものに描こうとする。
 物語は急速に、どの場面でも矛盾を見せていく。そこへ自然の猛威も加わってくる。材木の過剰伐採は大雨によって地滑りとなり、クマザサの急成長は野ネズミの大量発生を促した。白土が『赤目』や『サスケ』で何度か描いてきた食物連鎖に由来する異変は、『カムイ伝』でもくりかえし人間を襲うのだ。むろんオゾンホールや環境ホルモンの問題までは予告されていないけれど、村人たちが土中の寝地蔵をもって雨乞いにあたるエピソードには、石をぶつけられて沈んでいく地蔵の微笑として、おそらく今日のテレビ・ドキュメンタリーの手法に似たものを感じさせよう。

 結局、洪水が日置藩の全域に飢饉をもたらした。人事をこえる災害が人事を激発させたのである。食えなくなった百姓は打ち壊しをはじめるが、それによって犠牲者が出ることを恐れた正助は打ち壊しに反対し、苔丸や竜之進と意見対立してしまう。
 そこへ隣の望月藩の一揆衆がなだれこむ。ぐずぐずしていた村人たちに代わって、隣からフリーライダーがなだれこんだのだ。いわば難民がなだれこんだのだ。日置の村々は大混乱になる。正助は夢屋の力を借りて一揆衆たちをアグリ銅山に送りこみ、なんとか危機一髪をしのぐのだが、苔丸は苔丸で夙谷の非人たちに故郷を捨てることを促し、自分は現地に留まることを決意する。正助は失業者の群れを救いたい。
 しかし事態はとまらない。ここについに「逃散」という大量エクソダスがおこる。徳川社会での最も悲劇的な出来事だ。もはや内部改革の手が尽きるのだ。これがおこれば村はカラッポだ。大半は日置を捨て、江戸大森の海苔養殖場に移っていくことになった。しょせん村民は供給をもたらしてくれるところへ移動する需要者なのである。流民なのである。そんなことはマルクスを借りるまでもなく、徳川の貧困な村落のすべてにおこったことだった。

 日置藩は取り潰された。天領になった。それまでの努力はこういう首尾なのである。藩主はそれも知らず、松平伊豆守に家康の秘密を書いた文書を必死で送りとどけ、自身の延命のカードにしようと試みた。だが、伊豆守はその文書を庭先であっさり燃やし、徳川幕府最大の出自の秘密をふたたび封印することになる。藩主も口を封じられて殺される。
 それでどうなるかといえば、村々がやっといっときの小康をとりもどすなか、新たな代官として錦丹波がやってきて、新たな火種をつくり、ここについに百姓の最後の一揆が巻き起こるのだ。『カムイ伝』にはすでに数十回におよぶ大小の一揆が描かれてきたのだが、これは140ページを費やしての最大の一揆である。あれこれの理屈による反乱ではない。妥当すべき権力に向かって革命をするのでもない。カタストロフィに似た反乱、いや理由なき氾濫なのだ。こういうものを描かせては、白土はさすがにその徹底したリアリズムは圧倒的である。徳川社会と人間の欲望と倫理の矛盾を描いて余すところがない。
 このような描写は手塚治虫にはないものだ。なぜならそこにはいっさいのドラマトゥルギーがないからだ。白土自身が村々の隅々を写しとる数台の同時カメラとなったドキュメンタリー本体なのである。数台のレンズをもったガルシア・マルケスが白土一人の手持ちカメラとなったのだ。

 一揆は大勝利におわった。しかし一揆の首謀者はこの社会では公儀に背いた犯罪者なのである。正助やゴンたち30人は京都の二条屋敷に護送され、次々に拷問を受ける。けれども正助はすべては江戸の大白州で申し上げたいと言って屈しない。ゴンは壮絶な最期をとげ、残りの二十数名も死んでいった。
 もはやいっさいの努力は無駄におわったのかもしれない。『カムイ伝』全15巻が物語ってきたものの存在証明は、こうなれば正助が江戸北町奉行の白州で何を陳述できるのかにかかるだけだった。しかし正助が言い得たことは、百姓こそが田畑を守る者であるということと、こんな状況ではいつまでたっても一揆が絶えないということと、「民なくして国もなく、我らなくして日本国はありえない!」と絶叫することだけだったのである。
 これが『カムイ伝』全15巻の、白土三平のいう第一部のすべての結末なのである。そうだとしたら、これは巨大な挫折と壮絶な幻滅の物語であるとしかいいようがない。いったいテーマはどこにあったのか。いや、この不透明に雪崩れていった事態そのものがテーマだったのだ。そうだったのだろうか。そうだったのだ。それ以上の説明ができないように、『カムイ伝』はいったん終わったのだ。なんといっても作者自身が第一部をおえた時点で、「物語の真のテーマはいまだに現れていない。なんと不可解なことであろう」と書いたのだ。


 なんとも陰惨である。なんともやりきれない。むろん白土自身がこの結末にたじろいだにちがいない。
 それなら1988年にやっと再開された第二部は、この挫折と幻滅を補うものかといえば、実はぼくはまだその詳細を読みこんでいないのだが、ざっと読んでみたかぎりは、まったく別の様相を呈している。もはや白土独特の農本主義的な農民社会の描写はそこになく、むしろ職人や本草学や民間信仰や、さらには洋学が浮上して、新たな社会状況に対応する人間の姿が活写されている。それとともに幕府の体制側の矛盾についに手がおよんでいる。
 これならば物語は、たとえていうならアレクセイ・トルストイをこえる大長編として期待がもてそうなのだが、最初にも書いたように、これまたいまは中断されたままなのだ。まさに白土三平自身が物語と化していて、社会の揺動の波間にふたたび絶句しているかのようなのだ。なんだか、今日の日本社会を寓意しているような沈黙だ。

 白土三平とは何だったのか。非ハリウッド、非ディズニー、非手塚治虫。ここまでは白土三平のファンならずとも気がつくことである。反差別、反搾取、反権力。これは白土三平ならずとも、すでに社会思想が訴えてきたことだ。
 しかし、白土三平はこれらの「非」や「反」にとどまらなかったのではないかと、ぼくは感じている。白土三平は日本の「聖と賤」の秘密を描かざるをえないところまで展出してしまっていて、それなのに徳川社会の村落にとどまらざるをえなくなった矛盾に喘いだのだ。それは浅草弾左衛門がついにその役割を明治に入って放棄することで、近代社会に突入していかざるをえなかった宿命に似た宿命を、白土三平が背負ったということなのである。「絶対矛盾の自己同一」に向かうしかないところへ投企してしまったのに、それを天皇や祭祀や仏教社会に向けないことによって背負ったのだ。
 もしそうだとすれば、白土三平は真の意味での「負」のマンガ家なのである。「非」や「反」を超えたマンガ家なのだ。それを知るには白土三平が『カムイ伝』の筆を折ってから描きつづけた神話シリーズに目を向けなければならない。そこには「火の鳥」が一匹とて飛んでないはずである。




附記¶白土三平の作品はたいてい新書か文庫で読めるが、いま書店にはあまり出回ってはいないかもしれない。版元か古本屋に注文するのが早い。『カムイ伝』も『忍者武芸帳』も本書のシリーズをはじめ、小学館ビックコミックス版、小学館文庫版がある。『カムイ外伝』は『カムイ伝』とはまったく別の読み切りシリーズ。四方田犬彦『白土三平論』は作品社、中尾健次『「カムイ伝」のすすめ』は解放出版社。「ガロ」については長井勝一『「ガロ」編集長』(筑摩書房)を。

http://www.bea.hi-ho.ne.jp/good-luck/freedom/kamuiden.html

「カムイ伝」  白土 三平  【小学館】
カムイ伝 子供のころには,「サスケ」とか「赤影」とかいった忍者ものの漫画や映画・テレビ番組があり,私はそういったものが結構好きだった。
 「カムイ伝」を書店で8年ぐらい前に見つけ買った。この本にはもちろん忍者の色々な術や剣法などもふんだんに盛り込まれているのだが、読み進んでいくと,この本が江戸時代の被差別民衆の生きようと、百姓(農民)を支配するために幕府や藩がとった悪辣な手段をイメージ化しながら、部落問題を訴えることを一つのテーマとしているのだということが分かってくる。(2002年7月)



(第一巻P100より)
 もし,みなさんが人間としての正当な要求を無視され,おしつぶされてしまったとしたら,どのように憤慨し,かつ悲しむことになるだろう!!今日,人間社会は高度に発展し,いよいよ,人々にとって生活は喜びとならなけらばならないはずであるのに,事実は逆である。
 この物語も,寛永の末から寛文年間に至る30年間の歴史の中から,喜びの生活を求めて,そこから少しでも前へ進もうとした人々の生活をうきぼりにしてみた。
(中略)
この物語の舞台である徳川封建社会をえがくには,その根本的矛盾を支えている要素・・身分制度という権力によってつくられた差別政策を通してみればその本質を明らかにすることができる。
(第一巻P296より)
 カムイのように,差別され,社会の最低辺におさえつけられた人間が,そこからぬけだそうとするには,当時にあっては,個人的な飛躍しかなかったろう。今のみなさんなら,おそらく,仲間と手を組んで,共に,自分たちの境遇をかえようとするだろう。
(中略)
 その夢とはどんなものだろう。まずしい社会においては,夢もまずしくなることがおそろしい。まずしい社会においては,小さな夢のために,大きなことをしなけらばならない。われわれの祖先も,そして現代のわれわれもそのまずしい社会に生きている。そして,この物語の主人公たち・・カムイ,正助,竜之進らも,結局小さなことのために,大きなことをしてきえていったのである。しかし,人々のあとには,人々が続き,そして,今,われわれがあるのである。


3つの場面を引用して見ていきます。カムイ伝より 3つの場面に
■ 江戸時代の被差別民衆と農民たちの関係
■ 幕府や藩の分裂支配のイメージがよく分かる場面
■ 農民と被差別民衆が手を取り合って、同じ田畑を作ることができるようになった場面。

 おそらく今の部落史研究からすると、この物語の歴史的考証については、疑問のあるところはあるのだろう。が、差別とはどんなもので、権力をもつものの考えはどのようなものなのか、ということをイメージで示してくれるとてもよい漫画である。今回全15巻を読み直して、あらたに怒りを感じながら、「なんで正助が・・!」「カムイはどうなった?」と少し終わり方にも疑問を感じるところはあるが、作者の意図や意気とさまざまな知識、表現力には、「さすが!」と言いたい。

http://www.bea.hi-ho.ne.jp/good-luck/freedom/kamuiden2.html

「カムイ伝」  白土 三平 【小学館】より引用


■ まず,江戸時代の被差別民衆と農民たちの関係を見ていきたい。
 これと同じよう に容器を別にするというような場面が映画『橋のない川』にもあったように思う。どちらも怒りに震える.
 この場面に登場している正助は,この物語でたいへん大きな役割を持っている。とても正義感が強く,勇気と知恵をあわせ持っている。彼の才覚と働くものの社会を作るための努力は,徐々に実を結び,物語が進むにつれ,彼の住む花巻の村と周辺の村々の人々を変えていく。
 ここにあるように正助は農民身分でも庄屋に隷属する下人である。正助をなぐる父親ダンズリだが,彼にも被差別民衆にかかわる秘密があった。
もう少し先をいうと,正助は,夙谷に住む被差別民衆のナナさんと結ばれる。しかし,当時の身分を越えた二人の愛には,数々の困難が待ち受けている。


■ つぎに,幕府や藩の分裂支配のイメージがよく分かる場面を2つを引用する。
 『自然にやつら みずから互いにいがみあうようにしむける』
・・というような罠が本当に悪辣に敷かれていく。
人の幸せをなんだと思っているんだ!
 百姓 一揆などの首謀者は、その要求が聞き入れられても徹底的に調べられ(実は拷問)、厳しく処罰された。
 この場面は、首謀者たちが牢の中で自殺し、その遺体が家族には返されず、「非人渡し」になり、被差別身分の人たちがその遺体を、村人の前に引きずりながら歩かされているところである。
こういった役割や一揆の鎮圧、処刑などを被差別民衆がやらされる場面が数々この物語に登場する。


■ 農民と被差別民衆が手を取り合って、同じ田畑を作ることができるようになった場面。
 『うんだ。もう非人も下人もねえ。』
といいながら仲良く非人の頭と田ををおこしている人物が、一番最初に引用した場面の正助の父ダンズリであることに注目してください。
 農民の子どもと被差別民衆の子どもが手をつなぎ、一緒に遊んでいる。
 P296の引用の「小さな夢」かも知れない。でもこのため何人の命をかけた犠牲者がいたことか。しかもこの「小さな夢」-本当は大きな究極の夢かも知れない-は、実現されたかと思うと、まだまだ先にこれまた悪辣な手段によってくずされようとしていく。
 最後の正助の、微妙な表情は今の喜びとその先の起こるであろう困難を表しているのではないだろうか。


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1984年のUWF 22 リアルファイトより

現在の真剣勝負をうたうプロレスでも 真剣勝負らしさのニオイただよわせるプロレスにすぎない(中略)

俺のプロレスとの 闘い はまだ続きそうだ

というのも 未だにプロレスと真剣勝負を同格に扱うマスコミが存在し 何も知らないで だまされる ファンがいるからだ

イギリスやアメリカでは プロレスというのは エキビジョン とうたわなければ興業を打てない

プロレスとはそういったものなんだし エキビジョンとさえうたってくれれば 俺はプロレスを認めるさ

(中略)向こうは 受けることを最大の目的としているんだ

おもしろくて当たり前だよ

だけど それと未完成の俺達を比べられたんじゃ 俺達の立場がない

(佐山聡 フルコンタクトKARATE 1989年10月号)

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本場中国 本家少林寺の少林僧のストリートファイト動画 やっぱ功夫映画 拳児みたいにはいかんねぇ‥ 現実は… 俺自身はブルースリーも拳児も好きなんだけどさ…



現実はファンタジーと違ってこんなザマなんすけどどうよ?
山田英司先生?

周囲が止め 邪魔に入ってファイトどころじゃないというんが多少はあったにせよ‥

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『ザ レイプ オブ ナンキン』(日本語訳)『南京での強姦』
  
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投稿者 全文 日時 2000 年 5 月 09 日 09:54:58:

回答先: 『ザ レイプ オブ ナンキン』(日本語訳)【2】 恐怖の六週間 投稿者 全文 日時 2000 年 5 月 09 日 09:54:10:

『ザ レイプ オブ ナンキン』(日本語訳)『南京での強姦』

次に日本人が女性たちに犯した行為に注意を向けてみます。
 南京で日本軍第114番隊の元兵士であったタココロコウゾウは供述しています。「女性たちは本当に苦しみを受けていました。若かろうが年老いていようが、全女性たちは強姦される運命から逃れることは出来ませんでした。我々は多くの女たちを捕らえるために江口から街の通りや村に石炭トラックを差し向けました。そして15人から20人の女たちを、兵士たちの性的交際と虐待のために割り当てました。」
 生き残った日本退役軍人たちによると、軍部は基本的に敵の女性たちを強姦することを禁じていたと主張しています。しかし強姦禁止規則を心の底から守らない日本軍事文化と迷信が兵士の中に深く根付けられて留まっていました。多くの兵士たちが、処女を強姦すると戦闘でもっと強力な力が得られ、被害者たちの陰毛でお守りを作って身につけると、病気や怪我をしない不思議な力が持てると信じていました。
 強姦を禁じている軍の方針に対して、兵士たちは被害者たちを強姦後に殺害することで明るみにでないようにしました。ドキュメント映像「天皇の名において」の会見で元日本兵のアズマシロウは、率直に南京での強姦と殺人の過程について話しています。

まず最初に我々は「ピカンカン」という変な言葉をよく使いました。「ピ」は「尻」という意味で、「カンカン」は「見ろ」という意味です。「ピカンカン」は「女の足を開いてみよう。」という意味です。中国人女性たちは下着を着けておらず代わりにヒモをくくりつけたズボンをはかされていました。ベルトは着けておらず、我々がヒモを引くと尻をさらすという仕掛けになっていました。ピカンカンをして、じっと見つめ、しばらくした後に「風呂に入る絶好の日だ。」という様なことを言って我々は彼女たちを強姦して回しました。強姦されるだけならまだましでした。まだましだと言うのはよくない言い方かもしれませんが我々は常に彼女たちを刺し殺しました。なぜなら死人に口なしだからです。

 タココロコウゾウはこの問題を話すアズマの無骨さに共に参加しています。彼は供述しています。「同じく我々も強姦後に彼女たちを殺しました。あの女性たちは一度、行かすと逃げ出したでしょう。だから後ろから彼女たちを「バンッ」と撃って、全てを終わらせました。」生き残った退役軍人たちによると、大半の兵士たちはこの行為に対して僅かな罪悪感しか感じていなかったそうです。「おそらく我々は強姦する時は彼女たちを女性と見ていたが、殺害する時はブタの様なものとして考えていました。」とアズマは書いています。
 さらにこの性質は下級兵士だけに限られていたことではありませんでした。全階級の士官たちも兵士のこの乱行を黙認していました。(年長者の将官で日本6番師団長のタニヒサオでさえも、後に南京で20数人の女性を強姦した有罪判決を受けています。)士官たちの中には街中での集団強姦を薦めただけでなく、犯罪証拠を残さないように後で女性たちを殺しておけと指示していた者もいました。「彼女たちに金を払うか、強姦後、どこかわからない所で殺しておけ。」とある士官は部下に告げたそうです。


『マツイイワネの到着』

この殺害や強姦は、12月17日にまだ病気の完治していないマツイイワネが儀式パレードのために街へ入城すると一時静かに治まりました。一連の結核が回復した後に彼は海軍汽艇で川を上り、南京東側の山門にある三重アーチ道を車でくぐって到着しました。そして彼は東京の皇居へ向く栗材邸宅を置き、国民ラジオ放送会社を通じて天皇のために「天国の偉大な野戦陸軍元帥、万歳!」と万歳三唱を唱えました。そして入念に死体が片付けられ、喝采を送る何千人もの兵士たちが両側に並ぶ大通りを進み、夕方に祝宴予定のある街北部のメトロポリタンホテルへ到着しました。
 この祝宴会中にマツイは南京で何か恐ろしい事態が発生しているのではないかと気付いたようだと記録書には示されています。当日の夕方に彼は職員相談所へ電話をして、全ての不必要な軍隊を街の外へ移動する指令を出しました。その翌日に西洋諸国のニュースメディアが、日本軍はマツイに対して南京残虐行為の全真相を隠すために大がかりな隠蔽工作を実施したと報告しました。
 マツイは街の中に強姦や殺人や略奪が充満している範囲を理解し始めると、失望し、狼狽しました。1937年12月18日に彼はある市民補佐官に告げました。「今となって私はこの街で最も嘆かわしい事態が発生していることに気付いた。私は南京から逃げた多くの中国人の友人たちの気持ちや感情と、これからの両国間の将来を考えると意気消沈する。私は残念で、もはやこの勝利を喜ぶ気分にはなれないだろう。」さらに彼はその日の朝刊新聞に公開した声明に後悔の気配を表しました。「私は個人的にこの悲劇を申し訳なく感じているが、日本陸軍は中国が懺悔しない限り前進し続けなくてはならない。今、この冬という季節はじっくり考える時間を与えてくれる。私は100万人の無実の人々へ深く弔慰を捧げる。」
 その後、日本司令部が催した侵攻中の戦死日本兵の葬儀の時に、マツイは、大地に立っている300人の士官や連隊長や他の者たちに街での乱行に対しての叱責をしました。日本通信員だった松本は筆跡しています。「かつて彼がこの時ほど士官たちを痛烈に叱咤したことはありませんでした。その場にいた士官の中に天皇家の親王が含まれているにもかかわらず叱咤したこのマツイの振る舞いを軍部は信じられませんでした。」
 12月19日の日曜日、マツイは街の外にあるアサカの司令本部へ移動し、後日に上海に戻る駆逐艦へ乗りました。しかしそこで彼はたぶん自暴自棄になって衝撃的な行動を行ないました。彼は心配事をニューヨークタイムズ新聞に打ち明けた上に、アメリカ人通信員に「今日の日本軍はおそらく世界で最も無秩序な軍隊だろう。」と告げました。さらにこの月に、彼はアサカ親王の参謀長官へも大胆な伝言を送りました。それには「不法行為がまだ続けられているという噂を聞いています。しかしアサカ親王が我々の司令官なので、特に軍の規則と道徳は、さらにきびしく手入れされていることと思います。不始末を起こす者は誰であれ厳しく処罰して下さい。」と記述されていました。
 翌年正月になってもマツイはまだ南京で日本兵の犯した行為に狼狽していました。祝杯の席で彼は日本外交官に打ち明けています。「私の部下たちは非常に誤った残念なことを犯してしまった。」
 しかし強姦は引き続き行われました。殺人は引き続き行われました。マツイには止める能力がありませんでした。マツイはこの短期の南京訪問中に仲間たちの前で涙を流したと、それから数年後に語ったそうです。「追悼儀式後に私は直ちに上級士官たちを集めて彼らの前で怒りの涙を流した。アサカ親王とヤナガワ中将の両名もそこにいた.......。私は兵士の残虐行為によって全てが失われたと彼らに告げた。信じられるか?それでも兵士たちは私を見て笑みを浮かべていた。」


『慰安婦たち:南京の証言』

そして最も異様で重大なことは、南京の大規模な強姦事件に対する西洋諸国からの大きな抗議に対して日本政府がとった対応方法でした。日本最高司令部は兵士たちの行動を抑制したり、処罰したりするよりも、地下に巨大な軍事売春システムを創り上げました。何百人、何千人に上る女性たちがアジア全域に渡り、包囲網の中に引き込まれました。中央大学名誉史学教授ヨシミヨシアキは述べています。「中国中部地域にいた日本派遣軍はこの時期に慰安婦施設を設立する指令を出しました。なぜなら日本は南京の戦闘中に日本兵が犯した大規模な強姦事件を中国やアメリカ合衆国やヨーロッパ諸国に酷評されることを恐れていました。」
 計画は率直に進められました。約80,000人?200,000人の女性たちがおびき寄せられたり、購入されたり、誘拐されて連行されました。これらの女性たちの大半は韓国の日本人居留地からの女性でしたが、中には中国や台湾やフィリピンやインドネシアなどからの女性たちも含まれていました。日本軍はこの売春システムで一般女性たちへの無作法な強姦発生率が減少し、国際批評が少なくなると考えていました。またこれには、コンドーム使用で伝染する性病を抑制したり、戦闘前線での長い兵役に対する兵士たちへの報酬という考えも含まれていました。もちろん後に世界がこの計画を知った後も、日本政府はこの責任を承認せず、帝国政府ではなく民間事業が戦時中のこの軍用売春宿を経営していたと何十年間にも渡って主張しています。しかし1991年にヨシミヨシアキが日本防衛庁から「軍用売春宿への女性たちの補充について」と題された書類を発見しました。書類の中には日本最高司令部のリーダーたちの個人印が押されて、日本が統治していた中国内の領域内で軍隊が女性の強姦を止めるために出した「性的慰安設備」の緊急建設の指令物件が含まれていました。
 1938年には最初の公認慰安施設が南京近郊で開設されました。女性にせよ、彼女たちの「施設」にせよ、「慰安」という言葉を使っていたのは滑稽なことです。温泉を思い起こさせるこの慰安施設は、リュートをかき鳴らし、男たちを洗い、指圧マッサージを与える美しい芸者たちを連想して創設されました。しかしこの売春宿の現実の状態は、文明人たちの大半が想像にも及ばない汚らしいものでした。これらの数え切れない大勢の女性たち(日本人たちは「公共トイレ」と彼女たちを呼んでいました。)は自分自身の運命に対して、常に命がけでした。病気や殺害されて死んだ者たちも大勢いました。生き残った女性たちも残りの人生を恥辱や孤立、不妊や健康を害されて苦しみました。大半の被害者たちが女性に対して純潔が理想とされている文化の国の出身者だったので、生き残った女性たちでさえも、ごく最近になるまで大半が恥と愚弄に直面することを恐れ、戦後になってもこれらの体験を語りませんでした。アジアの儒教(特に韓国儒教)では、女性が貞操の純潔を保つことは命よりも大切だとされており、どんな女性であれ、この様な墜落した体験をして生き続けて自殺を犯さないことは社会への侮辱だという信仰を永続しています。それゆえに慰安婦たちが沈黙を破り、彼女たちの被害に対する損害賠償金を日本政府に要求するまで半世紀という期間が過ぎ去ってしまいました。


『南京:裏にある動機』

それでは当時、南京にいた日本人たちの心理状態は一体どうだったのでしょう?ライフル銃や銃剣を手渡され、この様な虐殺行為に駆り立てられた10才代の日本兵たちの心理の内側には一体、何が存在したのでしょうか?
 多くの学者たちはこの疑問に取り組み、そして解答することはほぼ不可能だと答えています。「Japan at War: An Oral History」を妻ハルコと共に執筆したセオドアクックは南京大虐殺の残虐行為が理解しがたいことを認めています。彼は日本国内で起きた内部戦争の歴史上には、この虐殺と酷似するものはなく、どちらかと言えば日本の歴史よりもモンゴルの一時期に見られる都会大衆へ対する意図的な破壊や虐殺に類似していると語っています。南京における日本人のたちの心理状態を考察すると、まるで「ブラックホール」を眺めているようだと彼は言っています。
 多くの人々は名高い日本人の素晴らしい礼儀正しさや行儀良さと南京での野蛮行為を一致させることは難しいと語っています。しかしある特定の軍事専門家たちの中には、これら表面上の二つの違う性質は実は絡み合っていると考えている者たちもいます。昔の侍たちはかつて何世紀にも渡り、農民たちが質問に対して礼儀正しく答えられなければ、彼らの首を切り落とすという厳格な力にとりつかれていたことを彼らは指摘しています。あるアメリカ軍事情報部員は第二次世界大戦中の日本文化についてこう書いています。「今日、礼儀正しく答えることに対する日本人の考えは質問者たちを満足させています。礼儀正しく答えることが日本人の国民性だということに驚きませんか?」
 また日本人が戦時中に行なった虐殺行為は、日本文化の中にあると考えている専門家もいます。「The Chrysanthemum and the Sword」の作者であるアメリカ人類学者のラスベネディクトによると、日本社会内にある道徳的な義務理念は全般的なものでなく、局部的に挙げられて解釈されているものが多く、故に日本人は簡単に外国の土壌を破壊することが出来るのだろうと書いています。また別の専門家たちは日本の信仰宗教がキリスト教の性質と違うところを指摘しています。キリスト教は全人類は兄弟であり、万物は神の概念の中に創造されているとしているのに対し、日本の神道は天皇とその子孫だけが神の概念として創られています。この専門家たちはこの様な相違を引用して、洗練された文化は種族的な核心だけを残し、種族内の個人が負う義務は部外者の持つものとは全く異なるようになると結論を出しています。
 しかしこの宗教の推定論には二つの本質的な無理があります。この推定には「この信仰宗教を美徳とする日本人は当然、西洋文化よりも非人道的で、異なった基準を持つ人々に審査される必要があり(これに関して私は無責任で、あつかましい様に見受けられます。)、キリスト教文化がどう言う訳か南京大虐殺の様な虐殺を犯す可能性が少ない。」という考え方が含まれています。しかし熱心なキリスト教国であるドイツのナチスは1930年代から1940年代にかけて、ドイツの魂を奪い、悪魔的に人々を変えて、敵国へ宣戦布告し、その結果、この地球上でかつて起きたことのない人類に対する最悪の犯罪事例を生み出しました。。
 この千年代の歴史を振り返ってみても、民族や文化が戦争虐待を独占したことがないことははっきりしています。文明化の化粧板は非常に薄く、特に戦争の圧迫によって簡単にはがされてしまいます。
 それでは南京という街で毎日の様に実行された底冷えのする残虐行為は一体どの様に説明することができるのでしょうか?大半の者が刑務所内や処刑隊の前で消滅してしまい、たとえ生き残っても法からの逃亡者として余生を 過ごしているナチスと違い、多くの日本人戦犯たちは日本政府の保護の下で今も平和と快楽の中に生きています。それゆえに彼らの存在は国際裁判から報復される心配をせずに、第二次世界大戦中の虐殺についての知識や感想の一瞥を作家たちやジャーナリストたちに語ることが出来る数少ない人々です。
 ここに伝えておくべきことがあります。日本兵は単純に中国の戦闘で冷酷になったのではなく、中国人の戦闘員や非戦闘員を殺害する任務に対して冷酷になったと語った元日本兵がいます。事実、ゲームや儀式による様々な虐殺方法は、兵士たちが無抵抗の人々を殺すことを本能的に無感覚になるように日本軍によって考案されたものでした。
 例えば死刑を実行する際、日本兵たちは日本人記者たちに囲まれて、まるでスポーツイベントの様な殺人競技に参加されられました。最も悪名高い記事がJapan Advertiserの12月7日号に「中国人100人斬り大接戦の少尉たち」と見出しに書かれて発行されています。

日本軍が南京を完全制覇する前に、どちらが最初に中国人100人斬りを達成できるかという個人的な刀の一騎討ちが行なわれた。友好試合を行うKuyung駐留の片桐部隊の両少尉、ムカイトシアキ少尉とノダタケシ少尉は大半の者の首を斬り落として接戦の最終局面に入った。日曜日(12月5日)...... アサヒによる「点数」はムカイ少尉89、ノダ少尉78。

一週間後、どちらが最初に100点を越えたか決定出来なかったので、彼らは目標を150に上げたという記事が発行されました。 Japan Advertiser には記述されています。「ムカイ少尉の刀の刃が競技でわずかに損傷した。これについて彼は中国人をヘルメットごと真っ二つに斬った結果だと説明した。そして試合は「おもしろい。」と言っていた。」
 この様な虐殺は南京周辺だけに限られて行なわれた訳ではありませんでした。むしろこの虐殺方法は戦時中に中国にいた日本兵たちの殺人感度を減らす典型的な練習行事の一つでした。元日本兵タジマ(匿名)による次の証言には驚かされるものがあります。

ある日、オノ中尉が我々に言いました。「おまえたちはまだ人を殺したことがないので本日は殺人演習を行うことにする。おまえたちは中国人を人間として考えずに、ただの犬か猫以下のものだと考えるようにしろ。勇気を出せ!では殺人演習に志願する者は一歩前に出ろ。」
 誰も動きませんでした。すると中尉は逆上しました。
「憶病者!」彼は叫びました。「誰一人として日本兵と呼べるのにふさわしい者はいないのか?誰も志願する者はいないのか?それでは私が指名することにする。」そして彼は名前を大声で叫び始めました。「オタニ、フクカワ、ウエノ、タジマ(どうしよう。俺もか!)」 
 私は震える手で自分の銃剣装着銃を持ち上げ、ほとんどヒステリックに罵声を浴びせる中尉の指示に従い、一人の中国人に向かってゆっくり歩きました。彼は自分で掘った墓穴の窪地のそばで恐怖におそわれて立ちすくんでいました。内心で私は許しを乞いながら、目をつむり、耳に入る中尉の罵声を閉ざし、すくんでいる中国人を銃剣で突き刺しました。再び目を開けると中国人は窪地の中に前のめりに落ちていきました。「人を殺してしまった!人を殺してしまった!」と私は心の中で叫びました。

新しく来た兵士たちが恐怖することは当然の衝動でした。ある未熟な新兵グループの日本戦時回顧録には、市民グループを死に追いやる拷問を熟練兵士がしているのを目撃した時の衝撃をどうしても隠し通せなかったと記述されています。新兵たちの司令官はこの様な反応を熟知しており、日記をつけています。「新しく来た兵士たちはいつもこうだが、すぐに同じことを彼ら自身も行なう様になる。」
 これは新しく来た士官たちにとっても同じことでした。退役軍人トミナガショウゾウは自分が潔白な若者から殺人機械へと変化したことをはっきり記憶しています。トミナガは広島から第39番師団の第232番連隊に派遣された当時、陸軍士官学校出身の中尉でした。トミナガは彼の指揮下におかれた部下たちに自己紹介をする際に戸惑ったことを覚えています。「彼らは邪悪な目をしていました。彼らの目は人間ではなく獅子か虎のようでした。」
 前線でトミナガと他の新士官候補者たちは戦争の試練に堅固に耐えるための強化訓練を受けました。教官が監獄の中にいる細く痩せ衰えた中国人を指差して言いました。「こいつらはおまえたちの精神力を試験する生材料だ。」それから毎日のように教官は彼らに生きている捕虜たちの頭の斬り落とし方と銃剣の刺し方を教え込みました。

最終日に我々は試験の現場へ連れていかれました。24人の捕虜たちが手を後ろで縛られてしゃがんでいました。彼らは目隠しをされて、その近くには大きな穴が掘られていました(縦10m、幅2m、深さ3m以上)。全連隊長や大隊長や歩兵中隊長が整理されて並べられている椅子に座っていました。タナカ中尉が連隊長へおじぎをすると、「開始しろ。」と告げられました。彼は雑用義務兵に窪地の端へ捕虜を引っ張り出す指令を出しました。抵抗した捕虜が蹴り上げられていました。そして最終的に引きずり出されて、ひざまづかされました。タナカは我々に向きを変え、我々一人一人の顔をじっくり見ました。「この様に頭は斬り落とすのだ。」と彼は言い、軍刀を鞘から抜きました。そしてバケツから水をすくい上げて刀の両面に注ぎ、水が流れ落ちると、それを長い弧を描いて持ち上げ、捕虜の後ろ側で足場を安定させて叫びながら捕虜の頭を斬り落としました。「や!」。頭は1m以上飛び、血が二つの分かれた体から噴水のように吹き出し、穴の中にまき散らされました。
 この眺めは呼吸が出来なく感じるぐらいおそろしかったです。

 しかし、このトミナガショウゾウも徐々に殺人を学びました。そして殺人が熟達すればするほど、部下たちがもはや邪悪な目をしていると感じなくなりました。彼にとり虐殺することは、ありふれた任務の一つになり、陳腐化していきました。彼はこの体験を振り返って書いています。「我々は彼らにこの様なことをしました。家の中にいた善良な息子たち、善良な父親たち、善良な兄たちを前に連れてきてお互いに殺し合わせました。人間が殺人鬼に変わっていました。誰であれ3ヶ月以内には殺人鬼に変わっていました。」
 日本兵の中には、個人の命は自分自身のものも含めて全て無価値であり、天皇の捧げるものだと教えられていたので、殺人を犯すことは簡単だと認識している者もいました。南京で虐殺の一連を目撃したアズマシロウは私への手紙の中で仲間たちの行動についてのしっかりとした意見を述べています。京都府福知山で実施された第20番歩兵連隊の2年間におよぶ訓練中に、彼は「忠誠は山よりも重い。我々の命は羽根よりも軽い。」と教えられました。兵士にとり、最高に名誉なことは戦争中に死んで帰ることであり、天皇のために死ぬことは最高な栄誉であり、敵に生きたまま捕らえられることは最大の恥辱だと教えられたそうです。アズマは書いています。「自分の命が重要でないの なら敵の命はさらに重要でないように必然的になりました.......。この哲学は我々に敵を見下さし、ついには捕虜たちの虐殺と最低の病気治療を行なう方向へと導きました。」
 会見後の会見で南京大虐殺を行なった日本退役軍人たちは正直に当時の自責の念の欠如や犯罪感覚や無力な市民への拷問の体験などについて報告しました。ナガトミハクドは陥ちた街で感じたことを率直に話しています。

私は積み重ねられた何千人、何万人という虐殺遺体を片付けながら小道に沿ってトラックを運転していました。車を止め、中国人捕虜グループを後ろの荷台から野良犬の群れが死体にかじりついている通りに降ろしました。そして日本人士官が私の精神力を試そうと提案しました。彼は刀を鞘から抜き、刃につばを吐き、突如、我々の前にかがんでいる中国少年の首に向かってそれを力強く振り落としました。頭はきれいに斬り落とされて向こう側に転落し、残った肉体は前屈みに倒れ、血が首から二つの噴水となって吹き出しました。士官は私に土産として故郷へその首を持って帰るように薦めました。私は彼の刀を受け取り、人々を殺し始めると誇り高く微笑んでいたことを記憶しています。

 6年近く精神がさまよった後にナガトミは変わりました。日本で医者になり、待合室には自責の念を唱える廟を作っています。患者たちは彼の南京での裁判や、犯した犯罪の完全告白などをビデオテープを通じて見ることが出来ます。この穏やかで寛容な振る舞いの医者が、かつて無情な殺人者だったとはとても思えず、この恐怖の過去と一致するところは全くありませんでした。
ナガトミは言っています。「ほとんど知られていませんが、日本兵の中には赤ん坊を銃剣で突き刺して、まだ生きている状態で沸騰するポットの中に投げ入れた者もいました。彼らは12才から80才にまでおよぶ女性たちを強姦し、そして性欲を満たさなくなると彼女たちを殺しました。私は200人以上に上る人々を斬首したり、餓死させたり、焼き殺したり、生きたまま埋めて全員、殺害しました。野獣に成り変わり、この様なことを犯したことは恐ろしいことです。私が犯したことを説明する言葉が本当に見つかりません。私は正真正銘の悪魔でした。」

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マシャード兄弟の教則動画 この頃はヒーガンも太ってなくてセルフディフェンス教えてるんですよねぇ 当時はメチャカッコよかったんですよ



当時
雑誌の企画で平直行先生 西良典先生 船木誠勝 ウエインシャムロックと

ヒーガン ジャンジャック ジョンがスパーして

平さんたち日本の有名人格闘家4人をボコボコに極めまくったんですよねぇ

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日本語解説付き公式動画 シュレック関根vsブランドンヴェラ

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ブラック企業大賞2016 エイジス  電通   ドン・キホーテ  プリントパック  関西電力  佐川急便  サトレストランシステムズ  宗教法人 仁和寺  ディスグランデ介護株式会社(「茶話本舗」FC企業)   日本郵便株式会社

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2016年12月1日木曜日




第5回 ブラック企業大賞2016 ノミネート企業&選定理由






第5回 ブラック企業大賞2016

  ノミネート企業&選定理由




1.株式会社エイジス


2.株式会社 電通


3.株式会社 ドン・キホーテ


4.株式会社プリントパック


5.関西電力株式会社


6.佐川急便株式会社


7.サトレストランシステムズ株式会社


8.宗教法人 仁和寺


9.ディスグランデ介護株式会社(「茶話本舗」FC企業)


10.日本郵便株式会社

(50音順)

★ウェブ投票はこちらから













ノミネート理由







1.株式会社エイジス

千葉県千葉市に本社を置き、JASDAQにも上場する棚卸し代行業者。

スーパー、コンビニ、ドラッグストアなど小売店を顧客とし、同社ホームページによれば連結売上高218億2900万円 (2015年3月31日現在)、従業員数686名(2016年3月末現在)、全国に直営50拠点、FC36拠点(同)を擁する。

同社は2016年5月19日、違法な長時間労働を行っていたとして千葉労働局から是正勧告を受け、同日厚生労働省により社名を公開された。

同省の発表によれば、エイジスでは4カ所の営業所で合計63人の従業員が月100時間を超える残業を違法にさせられており、1ケ月あたりの時間外労働が最長で197時間におよぶケースもあった。

厚労省では2015 年5月から、複数の事業場で違法な長時間労働を行う企業に対しては、都道府県労働局長が是正指導をした上で、企業名を公表するとの方針を決定。エイジスの事件は実際に公表された全国初のケースとなった。







2.株式会社 電通

同社は広告代理店として日本において最大手企業である。

2015年12月25日、24歳の新入社員・高橋まつりさんが長時間労働の末に自殺した。その後、労働基準監督署は、これを過労によるものとして、労災として認定した。時間外労働が月105時間であったという。

これに加えて、「はたらきたくない 1日の睡眠時間2時間はレベルが高すぎる。」など、彼女が残した過酷な労働実態を示すツイートの数々も明らかとなった。加えて上司によるパワハラを疑わせる書き込みまで残っていた。

電通では、「殺されても放すな、目的完遂までは……」などの『鬼十則』に象徴される経営側の精神訓の下、13年前には入社2年目の男性社員の自殺が過労死と認定され、3年前にも30歳の男性社員の病死が過労死と認定されている。

こうした状況下、電通は十分な改善策を実施しなかった。厚生労働省は10月に抜き打ちで電通本社への強制捜査を実施し、労働時間を正直に申告させず過少報告させる組織的な体質も浮かび上がっている。




3.株式会社 ドン・キホーテ

同社は関東地方を中心にディスカウントストアを展開する企業である。

2016年1月28日、東京労働局は、同社と店舗を担当する支社長や店長ら計8人を、東京都内の店舗で従業員に違法な長時間労働をさせたとして、労基法違反容疑で東京地検に書類送検した。36協定で定めた時間外労働の上限である「3か月で120時間」を超えて、最長415時間45分もの時間外労働をさせた疑い。

親会社のドンキホーテホールディングスは、「深くおわび申し上げる。グループ全体で労務管理に関する指導が不足していた」旨のコメントを発表した。

2016年11月9日、ドン・キホーテ社は、2014年10月~2015年4月の間、都内3店舗の従業員4人に対し違法に時間外労働をさせたとして東京簡易裁判所から略式命令が出され、罰金50万円を納付した(支社長ら8人は不起訴処分)。







4.株式会社プリントパック

同社は印刷サービスを行う企業である。

2010年3月、入社1カ月半の新入社員(当時26歳)が印刷機に巻き込まれて死亡した。全印総連京都地連によれば、当時会社は、この悲惨な死を業務遅延の理由として「機械の不具合」と発表した。同社では過密労働で離職率も高く、自らも月80時間前後の「過労死ライン」と見られる残業を繰り返していた労働者が、2013年に組合(全印総連ユニオン京・プリントパック京都分会)を結成した。

これに対し会社は、組合員に対して配転を命じ、残業時間の長さを会社への貢献度と査定して組合員に対し昇給差別や夏季・年末一時金などのボーナスを支給しないなどの扱いをした。

同労働組合が京都府労働委員会に救済を申し立てたところ、2016年7月19日、府労委は、同社による労働組合への不当労働行為を認め、賃金や賞与の差額を支払うよう命じた。

なお、同社は、この命令を不服として中央労働委員会へ再審査を申し立てている。







5.関西電力株式会社

関西電力株式会社は、近畿地方などを営業区域とする電力会社である。

2016年4月20日、高浜原発1、2号機の運転延長申請を担当していた管理職の男性が自殺しているのが見つかった。報道によると、男性は技術系管理職で、原子力規制委員会へ提出する工事計画を担当。日々、規制委の対応に追われ、同年1月には1ヶ月の残業時間が100時間を超えるようになり、2月には200時間、3月以降は都内のホテルに滞在しながら業務に当たるようになっていた。なお、男性は労働時間規制が一部適用除外される「管理監督者」であった。

男性が亡くなったのは、審査が「合格」となった当日。男性が担当していた高浜原発1、2号機は、2015年7月7日の期限までに審査手続きを終えなければ廃炉が濃厚だったといわれており、男性に大きな重圧がかかっていたと見られる。

労働基準監督署は、男性の自殺は長時間労働による過労が原因だったとして労災と認定した。







6.佐川急便株式会社

同社は主に運送事業を行う企業である。

2010年3月、佐川急便に入社した男性は、東北支社仙台店(現南東北支店仙台営業所)で経理などを担当。2011年12月にうつ病の診断を受け、同月26日に自宅において制服姿で首をつって自殺。2012年2月、遺族は仙台労基署に労災の申請をしたが、同年12月には不支給処分となる。その後、訴訟が提起された。

2016年10月27日の仙台地裁判決によると、男性は直属の上司から日常的に仕事のミスで注意を受け、自殺する直前にはエアガンで撃たれたり、つばを吐きかけられたりする暴行や嫌がらせを受けていた。SNSにもその旨を投稿、自らのスマートフォンにも「色々頑張ってみたけどやっぱりダメでした。薬を飲んでも、励ましてもらっても、病気の事を訴えても理解してもらえませんでした」と書き残していた。

上司はうつ病になり「退職したい」と訴える男性に「そんなの関係ない。迷惑かけられて大変だった」と残務処理を指示していた。

判決は一連の行為を「社会通念上認められる範囲を逸脱した暴行または嫌がらせ行為」とし、うつ病発症は業務上のものであると認めた。







7.サトレストランシステムズ株式会社

大阪市中央区に本社を置き、「和食さと」「すし半」「さん天」などの飲食店を全国展開する東証一部上場企業。

報道によれば、同社では2008年4月から15年11月までに長時間労働や残業代の未払いなどで、全国の労働基準監督署から18回にわたる指導を受けてきたが、度重なる指導にも関わらず改善が見られなかったことから、2015年12月、大阪労働局の過重労働撲滅特別対策班(かとく)が強制捜査に踏み切った。

 また16年9月には、本社と大阪府内の4店の従業員計7人に三六協定を大幅に超過する残業をさせ、さらにその割増賃金の一部が未払いだった労働基準法違反(32条<労働時間>、37条<時間外、休日及び深夜の割増賃金>)の容疑で、法人としての同社のほか、同社の事業推進部長や店長など計5人が大阪地検に書類送検された。

 なお同社ではかとくの強制捜査を受け15年12月に調査委員会を発足させており、その結果判明した約650人の従業員に対する総額4億円あまり(2014~15年分。立件された分も含む)の未払賃金も払ったという。







8.宗教法人 仁和寺

京都市右京区にある真言宗御室派の総本山寺院。1994年には世界文化遺産にも登録されている。

2013年、仁和寺が境内で運営する宿坊「御室会館」の元料理長の男性(判決時58歳)が、長時間労働により精神疾患を発症したとして、同寺を相手取り慰謝料や未払賃金の支払いを求めて提訴。2016年4月12日、京都地裁は男性の訴えを認め合計約4200万円の支払いを命じた(仁和寺は控訴せず判決確定)。

男性は2004年12月に料理人として仁和寺に正規採用され、翌2005年から料理長として調理や献立作成などを担当。しかし、2011年春頃からの時間外労働がほぼ毎月140時間以上で、多い月では240時間以上、年間の勤務日数が356日(うち349日は連続して出勤)という「極めて過酷な長時間労働」(判決文より)を強いられた。

男性は2012年8月に抑うつ神経症と診断(2013年7月労災認定)され休職を余儀なくされたが、この間仁和寺は、「料理長は管理監督者である」との理由で、男性に支払うべき時間外手当・休日手当を払っていなかった。







9.ディスグランデ介護株式会社(「茶話本舗」FC企業)

大手デイサービス企業である株式会社日本介護福祉グループが運営する「夜間ケア付き小規模デイサービス」事業である「茶話本舗」のフランチャイズ店舗(ディスグランデ介護株式会社)に労働基準監督署から是正勧告が出された。是正勧告の内容は、茶話本舗で働く女性に対する賃金未払いや休憩をとらせなかったことである。この女性を支援する「介護・保育ユニオン」によれば、未払い賃金はおよそ74万円になるという。

 同ユニオンに相談した女性によると、人手が少なく、日勤では10人近い利用者を2人で見ることもあるため、利用者の入浴や排泄があれば、1人で残りの利用者に対応しなければならない。そのため勤務中はまともに休憩を取ることができなかった。夜勤は1人体制で、呼び出しもあるため十分な仮眠を取れず、日中できなかった事務作業を行なっていた。

このように、実際には休憩はなかったにもかかわらず毎日1〜2時間ほどが「休憩時間」として労働時間から引かれていた。







10.日本郵便株式会社

同社は郵便事業の運営と郵便局の運営を行う企業である。

勤務していた男性(当時41歳)は2011年4月から福岡県飯塚市の郵便局に勤め、6月からうつ病などで休職。12月に販売用の年賀はがきを受け取るため局を訪れた際、駐車場に止めた車内で心疾患のため死亡した。

男性の遺族は、死亡したのは上司のパワーハラスメントによるストレスが原因だとして、同社に1億円の損害賠償を求め提訴。2016年10月26日、福岡高裁で判決が言い渡され、死亡とパワハラの因果関係は認めなかったが、裁判所は、局長が同年5月の面談で「いつやめてもらってもいいぐらいだ」と発言したことなどをパワハラと認定し、男性のうつ症状悪化との因果関係を認め、同社に330万円(1審では220万円)の支払いを命じた。

郵便職場では、2016年10月に愛知県新城市の郵便局課長の遺族が、部下からのパワハラによる自殺として提訴しているほか、さいたま新都心郵便局ではパワハラ飛び降り自殺として妻が2013年に提訴した事件が和解で決着しているなど、パワハラに関する問題が多数指摘されている。

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ああ野麦峠 富国強兵政策に押しつぶされていった無数の娘たちの哀しい青春を描く、戦後ノンフィクションの名作! 工女たちは、朝の5時から夜の10時まで休みもほとんどなく過酷な労働に従事しました。工場では、蒸し暑さと、さなぎの異臭が漂う中で、少女達が一生懸命、額に汗をしながら繭から絹糸を紡いでいた。苛酷な労働のために、結核などの病気にかかったり、自ら命を絶つ者も後を絶たなかったという。













あゝ野麦峠 ある製糸工女哀史 (角川文庫)
山本 茂実
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http://www6.plala.or.jp/ebisunosato/nomugi.htm

明治~大正時代、信州へ糸ひき稼ぎに行った飛騨の若い娘達が吹雪の中を命がけで通った野麦街道の難所、標高1672mの野麦峠。かつて13歳前後の娘達が列をなしてこの峠を越え、岡谷、諏訪の製糸工場へと向かいました。故郷へ帰る年の暮れには、雪の降り積もる険しい道中で、郷里の親に会うことも出来ず死んでいった娘たちも数多い。この峠には「お助け茶屋」と呼ばれる茶屋があり、旅人は疲れた体を休め、クマザサの生い茂る峠を信州へ、飛騨へと下っていった。ノンフィクション「ああ野麦峠」で知られ、女工哀史を語るうえで悲しい物語を秘めた所なのです。1979年(昭54)、映画「ああ野麦峠」(監督 山本薩夫 主演 大竹しのぶ 新日本映画・東宝配給 )が製作され、日本中を沸かせました。

 明治時代の生糸の生産は、当時の輸出総額の3分の1をささえていました。現金収入の少なかった飛騨の農家では、12歳そこそこの娘達が、野麦峠を越えて信州の製糸工場へ「糸ひき」として働きに行きました。そして、大みそかに持ち帰る糸ひきのお金は、飛騨の人々には、なくてはならない大切な収入になっていました。年の暮れから正月にかけての借金を返すためにも、あてにされたお金だったと言われています。

2月も半ばを過ぎると、信州へ働きに行く古川周辺の娘達は古川の八ツ三旅館に1泊し、次の日高山で、あちこちの村々から集まってきた人達と一緒になりました。宿屋の前には、山一・山二・片倉組・小松組などの岡谷の製糸工場の社名を書いた看板や高張り提灯が立ち、娘を送ってきた親と子の別れがいつまでも続きました。


「ええか、しんぼうするんやぞ。ためらっていってこいよ。(気をつけて行きなさい)」
「ツォッツァマ(お父さん)も病気しなれんなよ。(病気にかからないように)」

 娘は泣き、見送る親たちも涙をこらえて別れを惜しみました。
 そして、何百、何千という女工が列をつくり、お互いに励まし合いながら、雪深い野麦峠を越えて信州へ旅立っていきました。


信州の工場では、わずかの賃金で、しかも1日に13~14時間という長い時間働かされ、病気になっても休ませてもらえないくらい、厳しい生活だったそうです。さらに女工の寄宿舎には逃げ帰ると困るので、鉄のさんがはめられていました。
 当時、実際に働きに行ってみえた明治生まれの人達に話を聞いてみました。

「雪が降ってくりゃ、野麦峠には銭が降ると思って行け。と親にいわれたんやぜな」(明治15年生)

「おりだち(私たち)は、こんで(これで)飛騨とも別れるんやな、ツォッツァマ(お父さん)、カカサマ(お母さん)、まめでおってくれよ(元気でいて下さい)。といって、飛騨と信州の境で、みんなでしがみついて泣いたんやぜな」

「13のとき、岡谷の山共製糸というとこへ7年契約で入ってな。姉4人といっしょで、姉はみんな百円工女やったもんで、オリ(私)も負けんように働いたもんやさ。みんなで稼いだ銭で、ツォッツァマ(お父さん)は毎年田んぼを買いなたと思うんやさ。たしか、あのころ1反(10アール)で100円か 150円くらいやと思うけどな」(明治24年生)

「岡谷の大和製糸へ14のときから8年の間、野麦峠を越えて通ったんやぜな。入ったときゃ10円、2年目は25円、3年目には45円、8年目にはたしか95円もらったと思うけどな。そのほかに、賞与として1円、2円、3円、5円などを毎年ちょっとずつもらったんやさ」(明治31年生)

以上の話しでもわかるように、1年間働いて100円もらえる人は優秀な人で、だれでも1日も早く100円工女になれることを願っていました。

こうした涙ぐましい女工達の働きによって、国は生糸の輸出を増やし、娘を出した農家では、現金収入を得ることができたのです。(参照 郷土古川より)

当時の百円の価値はどれくらいだったのでしょうか?
百円あれば家が建つといわれたほどでした。米一升が、12銭3厘・酒一升が20銭。(明治33年・100銭で1円) 当時の農家は、貧しくて白米は食べられず、ヒエや粟が混じった飯を食べていた。

どれくらいの人が糸ひき稼ぎにいったのでしょうか?
資料によると、旧山田村(神岡町)では300戸あるうち、560人が行った。一軒で2,3人のところもあった。国府村では、458名(明治43年)。ひとつの村でこれだけの数であるので、飛騨全体では凄い数になると思われるが、他の地域では当時のそうした記録が残っていない。

 女工哀史は粗悪な食事、長時間労働、低賃金が定説になっているが、飛騨関係の工女は食事が悪かった・低賃金だったと答えたものはいなかった。長時間労働についても苦しかったと答えたのはわずか3%だけで、後の大部分は「それでも家の仕事より楽だった」と答えている。それもそのはず、家にいたらもっと長時間、重労働をしなければ食っていけなかった。
(ああ野麦峠より)もっと詳しく知りたい




製糸業をささえた、飛騨のおしん達

http://www6.plala.or.jp/ebisunosato/nomugi2.htm

 「ああ野麦峠」は、、昭和43年(1968)朝日新聞社から出された山本茂実のルポルタ-ジュ。製糸工場の女工さんだった明治生まれのお年寄り達に、聞き取り調査したものを本にまとめた。故郷を前に野麦峠で死んだ若き製糸工女みね。富国強兵政策に押しつぶされていった無数の娘たちの哀しい青春を描く、戦後ノンフィクションの名作!

 明治から大正にかけて、外貨を稼ぐ手だては、生糸でした。養蚕が日本を支えていた時代、その陰では10代、20代のうら若き製糸工女たちの悲惨な生活がありました。

 諏訪地方には豊富な水のおかげもあり、製糸工場が集中していました。周辺農村部から集められた大半の少女達は、山深い飛騨の山中の村々から連れてこられた貧しい農家の子供達であった。多くの少女達が半ば身売り同然の形で年季奉公に出されたのだった。工女たちは、朝の5時から夜の10時まで休みもほとんどなく過酷な労働に従事しました。工場では、蒸し暑さと、さなぎの異臭が漂う中で、少女達が一生懸命、額に汗をしながら繭から絹糸を紡いでいた。苛酷な労働のために、結核などの病気にかかったり、自ら命を絶つ者も後を絶たなかったという。

(以下 ああ野麦峠より抜粋)

      工場づとめは監獄づとめ
           金のくさりがないばかり

      籠の鳥より監獄よりも
           製糸づとめはなおつらい


 工場の寄宿には厳重に鉄の桟がはめられていた。逃げた工女があれば監視員はいっせいに馬で四方にとび、各街道、峠、後には各駅をおさえ、たちまちつかまって引きもどされる、それは文字通りの監獄であった。
 「それでも行かずばならない。そういうもんじゃと思って歯を食いしばって、みんなのあとについていったのでございます」(明治23年生)


 当時、百円といえば大変な大金だった。百円工女になることは彼女たちの誇りだった。だからこそ、無理をしてでも百円工女になるよう頑張った。しかし、そんな頑張りもつかの間のこと。重労働に疲れ、いつしか体は病気にむしばまれ、廃人同様となって工場の片隅に捨て置かれるようになってしまった。

 
ああ飛騨が見える  (ああ野麦峠より抜粋)

明治42年11月20日午後2時、野麦峠の頂上で一人の飛騨の工女が息を引きとった。名は政井みね、二十歳、信州平野村山一林組の工女である。またその病女を背板にのせて峠の上までかつぎ上げて来た男は、岐阜県吉城郡河合村角川の政井辰次郎(31)、死んだ工女の兄であった。

 角川といえば高山からまだ七、八里(約30キロ)、奥越中(富山)との国境に近い、宮川沿いの小さな部落である。ここから岡谷まで七つの峠と30数里の険しい山道を、辰次郎は宿にも泊らず夜も休みなしに歩き通して、たった2日で岡谷の山一林組工場にたどりついた。
 「ミネビョウキスグヒキトレ」という工場からの電報を受取ったからである。
辰次郎は病室へ入ったとたん、はっとして立ちすくんだ。美人と騒がれ、百円工女ともてはやされた妹みねの面影はすでにどこにもなかった。やつれはててみるかげもなく、どうしてこんな体で十日前まで働けたのか信じられないほどだった。病名は腹膜炎、重態であった。工場では辰次郎を事務所に呼んで十円札一枚を握らせると、早くここを連れだしてくれとせきたてた。工場内から死人を出したくないからである。辰次郎はむっとして何かいいかけたが、さっき言ったみねの言葉を思い出してじっとこらえて引きさがった。
  
 「兄さ、何も言ってくれるな」
  みねはそう言って合掌した。飛騨へ帰って静かに死にたがっているのだと辰次郎はすぐ察した。みねはそういう女だった。準備して来た背板に板を打ちつけ座ぶとんを敷き、その上に妹を後ろ向きに坐らせ、ひもで体を結えて工場からしょい出した。作業中で仲間の見送りもなく、ひっそりと裏門から出た。辰次郎は悲しさ、くやしさに声をあげて泣き叫びたい気持をじっとこらえて、ただ下を向いて歩いた。しかし、みねは後ろ向きに負われたままの姿で、工場のほうに合掌していた。その時、

 「おお 帰るのか、しっかりしていけよ、元気になってまたこいよ」
  あとを追ってきた門番のじいさんが一人だけ泣いて見送ってくれた。
 「おじさん、お世話になりました」
 「元気になってまた来いよ、心しっかりもってな」

  二人はお互いに見えなくなるまで合掌していた。辰次郎はこの門番の言葉にやっと救われた思いで歩き始めた。それはこの岡谷に来て初めて聞く人間らしい言葉だったからだある。彼は、松本の病院へ入院させるつもりで駅前の飛騨屋旅館に一泊した。この旅館の経営者中谷初太郎は辰次郎たちと同郷の河合村角川出身者で、その彼も一緒になって、みねに入院することを勧めたが、飛騨へ帰るというみねの気持は変らなかった

  しかたなし辰次郎はまたそこもしょい出して、いよいよ野麦街道を新村、波田、赤松、島々、稲核、奈川渡、黒川渡、寄合渡、川浦と幾夜も重ねて、野麦峠の頂上にたどりついたのが11月20日の午後であった。
  その間みねはほとんど何もたべず、峠にかかって苦しくなると、つぶやくように念仏をとなえていた。峠の茶屋に休んでそばがゆと甘酒を買ってやったが、みねはそれにも口をつけず、

 「アー飛騨が見える、飛騨が見える」と喜んでいたと思ったら、
                  まもなく持っていたソバがゆの茶わんを落して、力なくそこにくずれた。
 「みね、どうした、しっかりしろ」、辰次郎が驚いて抱きおこした時はすでにこと切れていた。

 「みねは飛騨を一目みて死にたかったのであろう」、そういって辰次郎は六十年も昔のことを思いだして、大きなこぶしで瞼を押え声をたてて泣いていた。当時の彼の衝撃が想像される。

<政井みねの墓>
実存した政井みねの墓は、河合村角川(つのがわ)にある専勝寺の真裏にあります。(河合小学校の隣)
地元の方がなさるのでしょうか、このお墓だけにきれいな花が供えてありました
みねの妹「ふよ」も糸ひき稼ぎに行きました。その後病気で帰り、長い病の後同じ腹膜炎で亡くなりました。

 当時は、今のように健康保険があるわけでなく医者代は高く、せっかく稼いだ少しばかりの金はたちまち消えてしまう。よほど重症にならない限り、医者にかかるということをしなかった。結核は不治の病とされ、村の年寄り衆は病気で帰る工女に出会うと生きているのにすでに仏に向かうように合唱して見送ったという。

工女千人について23人という高率の死亡推計があり、その7割が結核という。



 野麦の雪は赤く染まった  (ああ野麦峠より抜粋)

次の日はいよいよ野麦峠にかかる。
  山沿いの道は、降りつもった雪の上にほそぼそと続いていた。乗鞍に源を発する益田川の源流なのであろうか、急傾斜の谷をななめに通っているこの道は、夏は快適な峠道なのに、吹雪になるとがらりとようすが変って、二月三月の残雪ころは堅い氷の刃となり、権太という野麦のボッカ(荷負稼業の人)でさえ足を踏みはずして死んだという〈権太アラシ〉の難所と変る。

 「工女衆がよく落ちた谷はこの辺でございます。みんな帯をといてつなぎ合わせておろしてやり、それでやっと救いあげたこともございました。峠の地蔵様が笹原の中に立っているのはその付近で、あの谷はどれだけ多くの工女の命をのんだか知れません。わしらは先の人に離れないようにヒモで体を結び合わせ、峠の地蔵様に念仏をとなえながら一足一足命がけでついていったのでございます」(明治15年生)

 その女の悲鳴が野麦の谷々に響きわたり、峠の地蔵様はそれを黙って見守っていた。パンツもなかった明治のこと、腰巻きのすそは凍ってガラスの破片のようになり、女のモモは切れて血が流れ、ワラジをいくら取り替えてもたびは凍り、足は凍傷にふくれ、宿についてもすぐ火にあたることはできなかった。「野麦峠の雪は赤く染まった」とよく聞くが、それは腰巻きの染料が雪に溶けたものであることがあとでわかったが、そればかりでなく、この女たちの足から流れた血も混じっていたことであろう。

 峠の寒さは手足ばかりでなく、ワシは目玉が凍みてしまい、長いこと目医者に通いました。こんなことならいっそくるんじゃなかったとその時は思いましたが、ワシが糸ひきが好きでしたからまた何年も行きました。(明治25年生)

 野麦を越えるときは、この辺の衆はみんな水さかずきをして出たもんです。何しろ野麦の雪が赤く染まったという話を年寄りからよく聞いた。(明治35年生)
 
 やんちゃな吹雪にあっても、大勢でお助け茶屋にも入れず、表にむしろを敷いて野宿したそんなひどいことが三度ありました。(明治15年生)

 何百、何千という工女がお互いに体をひもや帯で結んで、大きな声で励まし合い、念仏を唱えながら峠を越えていくのを見た。なかでも、十二、三の少女をねえさんたちがかばいながら、吹雪の中を行く姿は悲壮なものだった。工女たちは家に帰りたいの一念で、幾千という足で踏み固めて通り抜けてしまうが、そうでなかったらあんな吹雪の峠は、いくら頑強な男でも通れるものではなかった。(明治14年生)

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橋本欣也 グレイシー悪役バッシングの時代にブチ切れる! 90年代から2000年代 グレイシー一族とかブラジル人格闘家って悪役扱いだったんですよねぇ 特にエリオ派グレイシーは八百長プロレスショーを絶対にやらないから日本のプロレスマスゴミとプオタから攻撃の対象によくされて あの時代温厚だった俺もJR駅の街頭TVでリングス見てたら柔術家とかブラジル人が悪役扱いされてブチ切れて街頭テレビに向かってぶっ殺す!発言してたらすぐ近くにいて大喜びして見ていたリングスオタ 前田信者らしきプオタがビビッて勘違いしたのか近くのJR職員に通報しようとしてたら職員は冷静にTVに向かって言ったんでしょと相手にされてなくてマジで笑えたわ












http://ch.nicovideo.jp/dropkick/blomaga/ar1151480



Dropkick

【川尻vsクロン直前】アナタはまだ知らない! 本当に恐ろしいグレイシー一族!!



2016-12-07 16:43
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大晦日RIZINで実現する川尻達也vsクロン・グレイシー!あらためて説明するまでもなくクロンは「400戦無敗」ヒクソンの息子であり、柔術やグラップリングではさすがグレイシーの血を受け継ぐ男として天才的な実力を見せつけている。90年代からゼロゼロ年代前半頃まで繰り広げられた「プロレスvsグレイシー」の争いによって日本ではどうしても悪役扱いをされてしまっているグレイシー一族。その魅力と恐ろしさをブラジリアン柔術黒帯にして柔術専門ライターの橋本欽也氏に語っていただいた。グレイシーだけはガチなんです!(聞き手/ジャン斉藤)

イラストレーター・アカツキ@buchosenさんによる昭和プロレスあるある4コマ漫画「味のプロレス」出張版付きでお届けします!





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【スポーツの闇】日本人柔術家が衝撃提言!? 「日本人格闘家はどんどんドーピングしたほうがいい!」
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――クロン・グレイシーが所英男を破り、大晦日に川尻達也と対戦しますが、以前大好評だったグレイシー一族語りをあらためてお願いします!



欽也 俺ね、MMAって見ないんですよ。何一つ見ない。


――ブラジリアン柔術黒帯なのに?


欽也 そういう柔術家は多いと思う。でも、クロン・グレイシーのMMAだけは見るんですよ。これがビビアーノ・フェルナンデスのMMAだったら見ないですよ。


――ビビアーノもブラジリアン柔術の実績がありますよね?


欽也 ビビアーノは柔術のワールドチャンピオンだけど、地上波で試合が流れていても見ないなあ。


――でも、クロンのMMAだったら見ると。


欽也 それくらい柔術家にとってグレイシーは特別なんだよ。


――以前も説明してもらいましたけど、グレイシー柔術とブラジリアン柔術は別物なんですよね?


欽也 ブラジリアン柔術のルーツはグレイシー柔術なんだけど、UFCを始めたホリオン・グレイシーが「グレイシー柔術」の商標登録をしちゃって、たとえグレイシーいえども「グレイシー柔術」を名乗れなくなってしまった。そこで困ったカーロス・グレイシー・ジュニアが「ブラジリアン柔術」という名前を商標登録して、コンペティション(競技)として柔術をやりだした。いまグレイシー柔術を名乗れるのはカルフォルニアのトーランスにあるグレイシー柔術アカデミーだけ。そこではホリオンと、その息子のヒーロン、ヘナーが指導しているんだけどね。


――商標権の違いだけではなく、技術も違うんですよね。


欽也 グレイシー柔術はセルフディフェンスがベーシックなんだけど、ブラジリアン柔術黒帯の俺でも知らない技術が、あの道場にはあるんだよ。


――そこでしか学べない技術! 


欽也 そのヒーロンやヘナーが「ヒクソンからはまだまだ学ぶところがある」と崇めちゃうんだから。


――幻想あるなあ。


欽也 最近の格闘技ファンはグレイシーに幻想は抱いてないけど、90年代は凄かったじゃない?


――あの頃ってマスコミ同士のイデオロギー戦争が激しかったじゃないですか。格闘技マスコミは過剰にグレイシーを持ち上げるし、プロレスマスコミは過剰にバッシングするしで。ちょうどいいグレイシー評がなかったと思うんですね。


欽也 昔は佐藤ルミナや中井(祐樹)先生も「プロレスがなんだ!」ってボロクソ言っていたところにグレイシーが現れて、プロレスラーに勝ってグレイシーの名前を上げていったでしょ。UFCでホイスの活躍を見て柔術を始めた人たちからすれば痛快な出来事なんだけど。逆にプロレスファンからすれば、グレイシーハンターとしてPRIDEで活躍する桜庭和志が面白かったはずだよね。


――プロレス側からすると、グレイシーはワガママやりたい放題の大ヒールの扱いで。


欽也 俺はね、つい最近まで桜庭和志大嫌いだったんだよ!


――えっ、いつまで引きずってるんですか!(笑)。



欽也 こないだある仕事の件で初めて桜庭さんに会ったんですけど。「会うのがイヤだなあ」って思うくらい大嫌いで。桜庭さんは柔術をリスペクトしてる感じがしなかったし……。


――でも、会ったんですね。


欽也 思いのたけをぶちまけましたよ!


――熱い!(笑)。


欽也 だってあの当時のプロレスに対するドロドロした思いってあるじゃん。たとえば新日本プロレスのリングで、武藤敬司がルタリブレのペドロ・オタービオをポコポコパンチで殴って勝っちゃったことがあったでしょ?


――現場で見て大爆笑しました(笑)。


欽也 ルタリブレ最強のひとりだったオタービオにそんなことをやらせるなよ……って残念で残念で。


――暗黒・新日本時代のトラウマから「格闘技はプロレスを食い物にするな!」とか言われるんですけど、じつはプロレスが格闘技を食い物にしてきた歴史のほうが長いんですよね。


欽也 そんな試合をちょっと前の新日本でやりかねなかったでしょ? ダニエル・グレイシーvs中邑真輔。「グレイシーを名乗る人間にオタービオみたいな目に遭わせないでくれ……」って祈る思いでしたよ!


――ククククク。


欽也 笑い事じゃないよ!(ドン)。そのことを桜庭さんに30分近く話したんだよ。


――桜庭さん、とばっちりですよ!(笑)。


欽也 桜庭さんは笑ってましたけど、こっちは真剣も真剣だから。最後は握手してツーショット写真を撮らせていただきました。


――ああ、無事に和解(笑)。


欽也 一方的にこっちがプンスカしてただけで、和解ではないけどさ(笑)。それくらい俺たちにとってグレイシーは特別な存在なんですよ。柔術をやってる人からすればグレイシーはスーパースター。プロレスファンからすればリスペクトじゃなくて蔑む対象かもしれないけど。


――そこはクッキリと分かれますよね。


欽也 でも、グレイシー一族がいなかったらブラジリアン柔術が世界中に広まっていないし、それこそMMA自体もなかったでしょ。「ない」とは言わないけど、かなり違ったものになってましたよね。


――お言葉ですが、「前田日明のおかげで総合格闘技がある説」をブンブン振り回す狂信的なプロレスファンも存在します。


欽也 それもおかしいよねっ!(怒)。


――ハハハハハハ!


欽也 プロレスファンはちょっとおかしいよ! 俺もプロレスファンでもあるんだけどさ(笑)。UFC以前の話を言えば、ブラジルにはバーリトゥードがあって、日本には佐山サトルのシューティング(修斗)があった。何もなかったアメリカでUFCが始まって、日本やブラジルの格闘家たちが集まってきてドンパチやり始めたわけでしょ。そういう意味では日本の総合格闘技は佐山サトルが始まりだと思うけど。


――グレイシーがいなかったらMMAは競技として確立しなかったでしょうね。ただ、UWFがなかったらここまで総合格闘技の人気は日本で出なかったとも思うんですよ。UWFは総合に重厚な物語性を持ち込みましたし、そこでグレイシーはプロレスの敵役として扱われて。


欽也 凄く誤解されてると思う。


――ヒクソンの親友・桜井章一の弟子であるボクでさえ、ヒクソンは胡散臭いと思ってましたし(笑)。

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作/アカツキ



欽也 ヒクソンの全盛期って“神話の世界”なんですよ。どういうことかというと、1回目のヒクソンvs高田は98年だったけど、あのときのヒクソンって40歳手前でしょ。ヒクソンの全盛期って80年代なんだよ。


――スポーツ科学が発達したいまならまだしも、あの当時の40歳手前ってアスリートとしては終わってますよね。


欽也 中井先生とやったときが賞味期限ギリギリかな。賞味期限ギリギリのときに日本デビューを果たして、グレイシーが強いところを見せたんですよ。


――船木誠勝戦の危うさは賞味期限切れを感じますね。それでも日本では全試合一本勝ちなんですから。


欽也 その後、息子ホクソンの死によって、引退を決意したことは、ヒクソンの中では辻褄が合ってると思う。「逃げた、逃げない」の話じゃないんだよ!(ドン)。


――本当はあと1試合やってから引退するはずが、ホクソンの死から立ち直ることができずに……という。


欽也 やる気はあったんだよ。ヒクソンが「ヒョードルにも勝てる」と言ったときみんな「ホントかよ?」って思ったでしょ。でも、ヒクソンならそう思うだろうなあ、と。

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――ボクもあの発言を聞いたときは笑った側なんですけど、「本当にあったヒクソンの凄い話」を聞くと、あながちハッタリじゃないかもなって。


欽也 ホントにヤバイんだよ、ヒクソンってさ。石井慧がMMA転向前にアンドレ・ガウバォンと柔術スパーをやったけど歯が立たなかった。まあまあ、それはアンドレ・ガウバォンは柔術世界王者だから当たり前なんだけど。そのガウバォンがヒクソンにマウントを取られて返せなかった光景をみんなが目撃してるんだから!


――柔術世界王者を子供扱い! パウロ・フィリオも柔術でヒクソンにボコボコにされたとか……。


欽也 歳を取ってそれだからね。だから最強だったときのヒョードルと、最強だったときのヒクソンがもしやったら、ヒクソンが勝っちゃうと思う。それは俺が柔術をやってるからヒクソン贔屓かもしれないけど。


――あと“不良番長”としてのヒクソンも好きなんですよね。ウゴ・デュアルチとのビーチファイトや道場マッチ、道場破りに来た安生洋二を返り討ちにした件とか。


欽也 あのね、90年代に柔術をやってた人たちはギャングばっかりですよ。クロンもかなりのワルだけど、ディアス兄弟とマブダチっていうのはグレイシーとして正統派なんですよ(笑)。 

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柔術プリースト 261

Jiu Jitsu Priest #261

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高槻柔術の東義和先生とホシャ柔術のホジェリオクリスト先生の試合動画がアップされています

12分25秒辺りから私がお世話になっている高槻柔術の東義和先生と

ホシャ柔術のホジェリオクリスト先生との試合動画がアップされています
東先生
序盤Xガードからスイープに成功をし上手く三角をディフェンスしていましたが
流石はホジェリオクリスト先生
上手くアームバーに連係して一本勝ち!
今回で東先生は連続一本負けですね…
相手は正直 国内のアダルト黒帯でもフツーに優勝できるような人だけにきつい…
黒帯は魑魅魍魎の世界だけに単に試合に出るだけでも俺なら心が折れそうです…
Jiu Jitsu Priest #260

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