柔術家が異種格闘技武道と交流試合やったりストリートファイトやったり道場破りと戦ったり腕試しに来たストロンゲストマンと何でもありの戦いをやったりする非公式ファイト集

欧米では
柔術家は
ストロンゲストマン相手には格闘のノウハウを知らないド素人では実戦には勝てないという事実を実際に戦って実証し

異種格闘技武道相手にはグラウンド寝技を知らないと実戦には勝てないことを実際に戦って実証しています

欧米柔術家は日本人格闘家と違ってこういう面白い決闘方式の戦いを実践し
なおかつ
動画でアップしてくれている点が口先ばっかの詐欺師が達人として横行する日本とは違い面白いところです

日本でも岩倉豪さん以外もやってくれませんかね?



















| 未分類 | コメント(0)

日本ブラジリアン柔術連盟 JBJJF公式動画 ヒカルド・デラヒーバ杯 2016

日本ブラジリアン柔術連盟
JBJJF公認大会ヒカルド・デラヒーバ杯 2016 / Ricaldo De La Riva CUP 2016

| 未分類 | コメント(0)

柔術プリースト 259

Jiu Jitsu Priest #259

| 未分類 | コメント(0)

地上最強の生物チンパンジーと地上最強最悪の生物 暴力王ホモ・サピエンス 人類の暴力 一方で「ケダモノのような」という言い方は半分まちがっている。自分たちの集団内の大人を殺す行動と他集団の個体を殺す行動が見られるのは動物の中でもヒトとチンパンジーに限られ、ほかの種ではほとんど見られないからだ。しかも、ヒト(ホモ・サピエンス)はその攻撃性において、チンパンジーをはるかにしのぐ。












あなたはボノボ、それともチンパンジー? (朝日選書)
古市剛史
朝日新聞出版 (2013-12-10)
売り上げランキング: 67,354





http://fum2.jp/6345/

ヒトはなぜ殺すのか?
2016.02.03 |
学び
| 田中真知.
チンパンジー , ボノボ , 平和主義 , 戦争











LINEで送る
.



若いシングルマザーのもとに転がり込んだ男が、連れ子を虐待したあげく殺してしまう。あるいは、仲間内の人間を粛清したり、意見の異なる国や集団の人間をリンチしたり殺戮したりする。人間のこうした暴力性や残虐行為を、われわれはともすれば「ケダモノのような」と表現しがちだ。しかし、本当にそうだろうか?


ヒトは本当に「ケダモノ」なのか

じつは、これは半分正しい。一昔前までは動物行動学者のローレンツが『攻撃』で主張したように、同種間で殺し合いをするのは人間だけだといわれていた。だが、いまではライオンのような哺乳類、チンパンジーやニホンザルなどの霊長類にも子殺しが見られることがわかっている。

一方で「ケダモノのような」という言い方は半分まちがっている。自分たちの集団内の大人を殺す行動と他集団の個体を殺す行動が見られるのは動物の中でもヒトとチンパンジーに限られ、ほかの種ではほとんど見られないからだ。しかも、ヒト(ホモ・サピエンス)はその攻撃性において、チンパンジーをはるかにしのぐ。

暴力王ホモ・サピエンス

20万年ほど前にアフリカで誕生して以来、ホモ・サピエンスは、先住の原人や旧人と入れかわって現存する唯一の人類になった。それはチンパンジーと共通に持っている同種の他集団への攻撃性が、知能の発達や道具の使用によって飛躍的に強化されていったからだ。

同種間の殺戮は、なぜ起きるのか? 動物行動学の視点からすれば、それは自分の遺伝子を残すための手段にほかならない。霊長類の中でもヒトと並んで攻撃性の高いチンパンジーの場合、メスは5~6年の間に60日間程度しか発情しない。そのためメスをめぐるオス同士の争いは熾烈だ。自分の遺伝子を確実に残すためにオスは集団内の赤ん坊を殺して母親の発情を早めたり、他集団のオスを殺して発情中のメスと交尾したりするのだ。

しかし、殺すという行動には、殺す側もまた殺されるかもしれないというリスクが伴う。そこでべつの繁殖戦略を生み出したのがボノボだ。ボノボはチンパンジーとならんで系統的にヒトにもっとも近いが、子殺しや、他集団の個体への攻撃はほとんど見られない。

平和を愛するボノボ

『あなたはボノボ、それともチンパンジー?』(古市剛史・著/朝日新聞出版・刊)によると、ボノボのメスは妊娠に結びつかない「ニセの発情」によって、より多くのオスに交尾の機会を与え、抗争を抑制するとともに、集団のイニシアティブをとった。オス中心のチンパンジー社会が抗争や殺戮に彩られた緊張感の高い世界なのに対して、ボノボの社会はメス中心で平和主義的だ。また、メス同士が性器をこすりつけあう「ホカホカ」と呼ばれる行動も特徴である。繁殖を目的としない性行動が緊張の緩和につながっているのである。

では、ヒトはどうなのか。ヒトは逆にメスの発情期をなくすことによって特定のオス(男性)とペアになる仕組みをつくった。さらに性を核家族に閉じ込めるために「愛」という感情を発明した。これによって集団内の男性間の性的競合はある程度抑制された。しかし、現実には冒頭にあげたような子殺しもあれば、浮気もある。他集団への攻撃もなくならない。自国では他の家族の女性に手を出さない兵士が、戦地では豹変したりする。「長年にわたる乱婚的思考をコントロールするにはまだまだ不十分」なのだ。

ヒトの中のチンパンジーとボノボ

古市さんはそれを「ヒトの中のチンパンジー」という言い方で述べている。チンパンジーの繁殖システムである攻撃性や社会的知性をヒトもまた身につけている。それにくわえて知能の進化したヒトは「〈今のここの〉利益だけでなく、〈将来のあそこ〉の利益も想像できるようになっている」。チンパンジー的な攻撃性を遠い国との戦争など「今ここ」に限定されない利益のために発揮してきたのだ。

けれども、同時にヒトの中にはボノボも住んでいる。ゴリラやチンパンジーが大人になるとあまり遊ばなくなるのに対して、ボノボは大人になっても好奇心豊かに遊びつづける。ボノボは他集団と出会っても、メス同士のホカホカやオス同士のマウンティングといった挨拶行動のおかげで緊張が高まらない。戦いで優劣をつけるのではなく、お互い平等ということで和気藹々に収める。こうした平和主義を可能にしているのは、メスが集団のイニシアティブをになっていることと関係していると見られている。

戦争を起こすのはいつも男だといわれるが、霊長類学から見ても、それは正しい。そして、戦争を収める力が、おそらくは女性の行動にかかっていることもまちがいない。

(文:田中真知)





あなたはボノボ、それともチンパンジー? 類人猿に学ぶ融和の処方箋

著者:古市剛史
出版社:朝日新聞出版
系統的にヒトに最も近いチンパンジーとボノボ。チンパンジーは群れの中に激しい競争が存在し、攻撃性も強い。一方、ボノボは群れの内外で争いを避ける平和主義者だ。なぜこんな違いがあるのかの分析を通して、人類の起源と未来を考察する。

| 未分類 | コメント(0)

天皇制廃止論  天皇・安倍晋三・麻生太郎が親戚という独裁国家になっています。日本は、とても民主主義とは言えません。

天皇制批判の常識 (新書y)
小谷野 敦
洋泉社
売り上げランキング: 554,704



satou-thumb-530x51011.jpg
d2ab5ea0.jpg


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E7%9A%87%E5%88%B6%E5%BB%83%E6%AD%A2%E8%AB%96

天皇制廃止論





移動先: 案内、 検索


天皇制廃止論(てんのうせいはいしろん)は、日本の皇室(天皇制)を廃止すべきだとする主張。君主制廃止論の一つ。



目次 [非表示]
1 経緯 1.1 自由民権運動期
1.2 第一次世界大戦後
1.3 連合国占領期
1.4 連合国占領終結後

2 天皇廃止論について 2.1 憲法上の議論
2.2 共産主義と「天皇制」
2.3 部落解放運動

3 廃止論の種類 3.1 進歩派の観点からの廃止論
3.2 昭和天皇の戦争責任の追及
3.3 法の下の平等および人権との矛盾
3.4 封建制・身分制の名残への反発
3.5 平等性の観点
3.6 歳費の観点
3.7 宗教上の観点

4 法律上の問題
5 世論調査
6 脚注
7 関連項目
8 文献情報
9 外部リンク


経緯[編集]

自由民権運動期[編集]

Question book-4.svg この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(2015年4月)

日本において最初に君主制の廃止を論じたものは自由民権運動における「共和主義」的な主張である。ただし、後世の天皇制廃止論と違うのは幕藩体制に代わる専制的な権威に対する否定を目的とした主張であったこと、当時はまだ天皇を中心とした国家観が完成されておらず、未だ流動的な時期におけるものであったことである(したがって、「天皇制」という言葉がまだ存在していなかった時期に相当する)。

中江兆民の『三酔人経論問答』では、洋学紳士なる人物に、立憲制より民主制(共和制)の方が優れており、立憲制は君主の専制から脱出するための(途中駅の)「駅舎」に過ぎないといわしめた。ただし、兆民は「君民同治の社会」において、天皇と民権論とは矛盾しないとした。また、植木枝盛や馬場辰猪なども国家は君主制から立憲制を経て共和制に向かうとする説を唱えている。小田為綱によるとされる私擬憲法『憲法草稿評林』は国民投票によって皇帝(天皇)は廃立出来るとした。

天皇を「統治権総攬者」と位置づけた大日本帝国憲法の制定以後に大逆事件が起きる。この事件は社会主義・共産主義勢力を一掃しようとする当時の軍閥と検察(平沼騏一郎や山県有朋ら)によるフレームアップであったが、宮下太吉ら明治天皇暗殺計画については、計画に関わった四人は認めている。宮下らの暗殺計画によれば、天皇が死ぬということで、天皇は神でなく人間であるということ(現人神観否定)を目指したものだった[1]。なお宮下らの思想的指導者であった幸徳秋水は計画には関与していなかったが、かつて兆民とともに天皇制については否定してはいなかった。のち無政府主義から共産主義に到る思想を独自に再構成するなかで、天皇制廃止論に傾いていった。

大逆事件以降、天皇制そのものの是非を語ることは次第に禁忌となっていったが、坂野潤治は尾崎行雄の共和演説事件を自由民権運動時代の頃の共和制論議の時のように安易に共和制について触れたことが政治問題化したと唱えている[2]。

第一次世界大戦後[編集]

戦前、特に第一次世界大戦後における天皇制廃止論の原点というべきものは、日本共産党や講座派による二段階革命論である。これは天皇制をロシアの絶対君主制ツァーリズムになぞらえ、封建勢力である寄生地主とブルジョアジーの結合が天皇制を形作っているとし、ブルジョア革命の後に社会主義革命を起こすという理論であった。

しかし、当時大日本帝国憲法下では、天皇制廃止論を主張することは不敬罪、治安維持法違反等に該当することがあり、死刑になることもあったため、戦前には公然と議論することすらできない状態が続いていた。

たとえば、特別高等警察を管掌する内務省警保局は日本反帝同盟[3]の「天皇制に対する反対運動」として「警察的軍事的天皇制反対」「朝鮮、台湾に於ける天皇制テロル反対」「天皇主義的ファシスト反対」などのスローガンがたことを調査し[4]、また、1933年2月4日の『反帝新聞』を「戦争と飢餓とテロの天皇制ファシズムに反対せよ」という記事によって発禁にしている [5]。

連合国占領期[編集]

「連合国軍占領下の日本」も参照

戦後の1945年10月4日、GHQは日本政府へ「政治的民事的及宗教的自由に対する制限の撤廃」という覚書(いわゆる「自由の指令」)を発した。この覚書は主要命題のひとつとして「皇室問題特にその存廃問題に関する自由なる討議」を含み、治安維持法など弾圧法令の撤廃、特別高等警察の廃止、また天皇制批判者を共産主義者と断じ処罰を明言した山崎巌内務大臣の罷免[6]などを指令している。

10月20日、トルーマン米国大統領が「天皇制の存廃は日本人民の民意によって決定されるべき」[7]と発言すると、日本国内の大手新聞はこれを紹介するとともに、以後天皇制の存廃についての記事や投書を多く掲載するようになった。なお、この問題について当時の『朝日新聞』の報道姿勢は中立、『読売新聞』は左派、『毎日新聞』は右派 であった[8]。

日本国内の大手新聞による天皇制論議は1946年1、2月を境に「天皇制の是非」から「天皇について」へと変化し、それすらも同年6月をもって後退していった。

一方、終戦直後、日本に対する諸外国の視線は厳しく、オーストラリアやアメリカの国民世論が天皇制廃止を支持していたほか、中国の蒋介石や孫科(孫文の息子)、イギリスのチャーチル、ソ連なども天皇制廃止を求めていた。

第二次世界大戦中からアメリカ国内では「天皇戦犯論」が高揚した。1945年6月初旬に実施されたギャラップ社の世論調査では、「戦後、日本国天皇をどうすべきであると考えるか?」との問いに対し、殺害・苦痛を強い餓死36%、処罰・国外追放24%、裁判に付し有罪ならば処罰10%、戦争犯罪人として処遇7%、不問・上級軍事指導者に責任有り4%、傀儡として利用3%、その他4%、意見無し12%との結果が出た(山極晃・中村政則編集『資料日本占領1 天皇制』大月書店)。1945年9月には上院で「天皇を戦争裁判にかけよ」と決議されるに至った。

これに対し、知日家のボナー・フェラーズ(英語版)准将の調査報告とマッカーサーの進言により「天皇制によって日本国民を統合し、間接統治をした方がアメリカの国益に適う」と、アメリカ政府は判断したため、天皇制はGHQによって存置された[9](昭和天皇の国内巡幸が大歓迎を受けたことも影響している)。ただし、天皇制に関して民主化を行う必要はあると判断し、皇室財産の凍結、不敬罪の廃止などを日本政府に求めたほか、新憲法によって天皇から統治権を剥奪し、天皇の権限を大幅に縮小することを求めた。

連合国占領終結後[編集]

戦後、日本国憲法によって思想・良心の自由、言論の自由が保障されているため、言論によって天皇制廃止論を主張することが罪に問われることはなくなった。

用語面としては、廃止論者は天皇、皇族の実名を名指しして呼ぶ他(目上の諱を避ける習慣である「避諱」は当然否定されることになるため。また皇族には姓がない)、実名をカタカナ表記する傾向が目に付く(「明仁」を「アキヒト」など)。

天皇や皇族の国内での行幸啓など訪問があった場合、訪問先の周辺で反天皇制的な集会(公道でのデモなど)が差し止めになることがある、天皇関連の本を持っていただけで職務質問されたなど、過剰警備による言論・表現・集会などの自由権が制限され、憲法に違反しているなどとされることがある。[要出典]

天皇廃止論について[編集]

憲法上の議論[編集]

天皇について規定した日本国憲法第1章と法の下の平等を定めた日本国憲法第14条が相反するとの主張がある一方で、憲法は天皇を明確に14条の例外として規定しているとの論が存在する。また、逆に「皇室にうまれてしまった」偶然により大幅な権利制限がなされる。当然市民に認められる権利が認められないのは14条の「門地」による差別ということができる[10]。

共産主義と「天皇制」[編集]

谷沢永一によれば、戦前「天皇制」という言葉はごく少数がひそかに使用する以外まったく日本国民に知られていなかった。この言葉は日本製ではなく1923年(大正12年)3月15日ソ連共産党が指導するコミンテルンから日本共産党(コミンテルン日本支部)にもたらしたもので、天皇制打倒、天皇制廃止を専一にめざす、天皇と皇室を憎みおとしめ呪う造語である。戦後になって、日本国民は「天皇制」という言葉を「赤旗」(昭和25年10月20日)により初めて知った。これと呼応するように「民主主義と天皇制はあいいれない」なる議論が発生した[11]という。

また中西輝政によれば、ソ連が天皇制廃止に強い執着を見せたのは、1927年のコミンテルンの日本共産党への指令(27テーゼ)以来、一貫していた「日本革命」を可能にする唯一の道は、ロシアと同様「帝制の打倒」がカギだ、という考えからであり、日本がアメリカ陣営に組み込まれても天皇制廃止だけは必ず実現させねば、というのがスターリンの執念であった、そこから戦後日本では左翼・左派勢力は一貫して、不自然なほど「反天皇」「反皇室」を叫び続けることになる[12]という。

部落解放運動[編集]

京都部落問題研究資料センター所長であった灘本昌久が公表した「部落解放に反天皇制は無用」論に対し、前身の京都部落史研究所所長であった師岡佑行は「徹頭徹尾間違っており日本共産党が綱領から『君主制の廃止』をはずすのと同じく時流におもねるものである。貴族あれば賤族あり[13]である。また天皇制の裏構造としての『救済幻想構造』があり、日本帝国主義のメカニズムの中では、辺境にあったり、疎外されていた人ほど、いったん信じると、天皇にたいする忠誠心や、天皇の下で我々も平等に扱われたいという、一体化願望を強くもつようになる。底辺にいるたとえば被差別部落民の中にも、熱狂的な天皇主義者が多かった」と批判した[14]。

廃止論の種類[編集]

Edit-find-replace.svg この節には独自研究が含まれているおそれがあります。問題箇所を検証し出典を追加して、記事の改善にご協力ください。議論はノートを参照してください。(2008年8月)

進歩派の観点からの廃止論[編集]

戦後の一時期、丸山真男らいわゆる戦後の進歩派は、ヨーロッパの市民革命思想への共感から、当面は天皇の政治的権能を縮小し、将来はフランスの共和制(ここでは第四共和制を指す)の議会制民主主義による象徴大統領制を実現すべきだと主張した。

また、高野岩三郎は天皇制を封建制の遺物であるとし、日本共和国憲法私案要綱を作成するなどした。

昭和天皇の戦争責任の追及[編集]

「昭和天皇の戦争責任」も参照

大日本帝国憲法において、天皇は「陸海軍を統帥す」と規定されていたことから、天皇に開戦・戦争遂行の責任を取らせるため、天皇制を廃止して共和制へ移行すべきとするものがある。

ただし、この種の意見は天皇制に対する批判と昭和天皇個人の戦争責任追及とを混同してしまうことが多く、必ずしも天皇制廃止論に結びつくものではない。そのため、1989年に昭和天皇が崩御し明仁親王が天皇に即位すると、昭和天皇の戦争責任追及とそれを根拠とした天皇制廃止論とが分離し、戦争責任論からの廃止論は下火になった。

また、朝鮮半島・中国においてはかつての日本の植民地支配や戦争が天皇大権によって遂行されたことから、天皇制が存続していることに反発する動きもある。

法の下の平等および人権との矛盾[編集]

「法の下の平等」および「人権」も参照

天皇および皇族は、職業選択の自由や居住移転の自由、言論の自由、信教の自由など自己決定権にかかわる多くの人権を制限されており[15]、また、プライバシーを侵害されることもあることから、これら非自然人的立場から解放するためにも天皇制そのものを廃止すべきだと主張する立場(この思想は天皇解放論とも呼ばれる)。

天皇・皇族はマスコミに追い回されて仮に嫌な思いをしても常に笑顔でいることが求められる(「アルカイック・スマイル」と表する)[独自研究?]。イギリス王室では王子はスパルタ教育のボーディングスクール、長じてはサンドハースト王立陸軍士官学校に入れられ、戦争の際は戦線に出ることが求められる。また、エリザベス女王は王位継承権第1位に決まったとき、人前で感情を露わにすること(声を出して笑ったり泣いたり)が禁じられたなどである(『世界ふしぎ発見』で扱われた)。

封建制・身分制の名残への反発[編集]

「封建制」および「身分制」も参照

制度をもって特定の家系および個人を敬意の対象とすることは個人崇拝の制度化である。大日本帝国憲法下での臣民とさほど変わらぬ位置に置くのと等しく、時にはそのために批判が行いにくい状況が発生する。また、皇室の家族制度のあり方は旧民法の家制度に象徴される家父長男系主義であり、伝統とはいえ両性の法的平等の理念になじまない。

日本国憲法において天皇の地位は「日本国及び国民統合の象徴」(第1条)であると規定されているが、この地位の継承に世襲を前提としている点は第14条と明確に矛盾している。ここから「天皇」という身分が世襲によって受け継がれることを疑問とする意見もある。部落解放同盟の指導者松本治一郎は「貴族あれば賤族あり。人間神をつくるために人間獣がつくられる」と主張した。

平等性の観点[編集]

国民が就職に苦労し、常に失業や給与削減の危険に脅かされているのに比べ、天皇や皇族が生まれながらにして一定の職務と生活水準とを保障されているのは不平等であり(極端な形の世襲の“国家公務員”)、また、皇室のためのみに存在する宮内庁は公務員の地位について定めた日本国憲法第15条違反であると批判する立場。

歳費の観点[編集]

毎年、皇族の生活資金や公務費、約1000人存在する宮内庁の職員(特に、天皇家固有の宗教儀式に携わる内廷関係者)の人件費、また皇居の維持補修費などに巨額の税金が投入されており、その点を税金の活用方法として有効でない・無駄であると批判する立場。

宗教上の観点[編集]

天皇は日本神話や神道儀礼と不可分一体の関係にあることから、天皇を国家体制の一部とすることは日本国憲法で保障された政教分離や信教の自由に違反すると批判する立場。ちなみに、天皇という呼称は神道では「スメラノミコト」、「スメラギノミコト」とも呼び、「スメラ=統べる」、「ミコト=カミ」、つまり「統べるカミ=統治、君臨するカミ」、という意味である。以下、主要宗教毎の事例を記す。
仏教仏教を開祖釈迦はシャカ族の王子として生まれたが、厳格な身分制度に嘆き出家して覚りを開いてカースト制度を否定したことで知られる。そのことから、仏教徒の一部には天皇制に反対する者がいる。キリスト教弓削達(元フェリス女学院大学学長)、福田歓一らキリスト教徒の学識者によって天皇制廃止論が唱えられた。1927年創立のWatch Tower(日本燈台社:現在のものみの塔)の日本支部員の3名が1939年に召集され、「天皇は元来宇宙の創造主ヱホバに依り造られたる被造物にして、現在は悪魔の邪導下にある地上の一機関に過ぎざるが故に、天皇を尊崇し、天皇に忠誠を誓う等の意思は毛頭なき」ことなどを述べ、不敬罪に問われた[16]神道大本の「十二段返しの歌」という七五調の宣伝歌の四段目を右から左に読むと「綾部に天子を隠せり」、八段目を左から右に読むと「畏多くも、今の天子偽者なり」とあった。出口王仁三郎は不敬罪・治安維持法違反で起訴され、裁判では出口は関与を否定したが不敬罪で有罪となった。教団の綾部・亀岡の聖地はダイナマイトで破壊された。逮捕された信者のうち16名が拷問で死亡した。大本事件参照。イスラム教イスラーム教国、特にアラビア半島にはカリフ・スルタン・首長などと呼ばれる君主のもとで、いまだに選挙制度が導入されず、伝統的な専制君主制が続いている国が多い。しかしながら、昭和初期の日本の天皇との関連では、天皇は現人神とされたため、伝統的なスンナ・シーア派の教義に抵触していた。正統イスラームでは神が人間に具現化すると考えるのは異端であり冒涜的であると考えられており、個人を神に例えるのは罪の一つと考えられている[17]。戦中、日本がオランダ領東インドと英領マラヤ(大半がイスラム教徒)を占領していた頃、皇居の方角へ向かって拝む「東方遥拝」を強制したため、現地人の反発を招いた。
法律上の問題[編集]

天皇・皇族は憲法や法律上、国民とはやや異なった立場にある。

天皇が国民と比較して制限されているものとして憲法の基本的人権の規定の適用が考えられる。憲法の人権規定については制限されているといってよい。ただし、多くの場合、具体的に法律で制限されているわけではない。

天皇が国民であるかどうかについては憲法上の論争があるが、個人としての天皇について憲法は明文の規定を置いていない。したがって天皇の法的位置は解釈による。個人としての天皇の人権に法律上特例が認められることを憲法上理由付けるものの1つは天皇が象徴という特殊地位につくことであり、2つは皇位が世襲であることであり、3は個人としての天皇が象徴としての天皇と不可分だということである。一方で、個人としての天皇が国民と異ならないと解する見解もあり、この見解によれば憲法のいう国民の人権と自由を原則として享有する主体である。ただ、象徴担荷者または世襲制に伴う制約を受けることになる[18]。なお、住民登録は例外ではなく、千代田区民や港区民(赤坂御用地内の場合)として為されている。

天皇の「特権的」なものとしてまず考えられるのは生活と住居の保障が考えられる。現行憲法に規定された象徴担荷者としての名誉に相応しい額の歳費が国庫から支出されており、これは憲法上の規定から世襲的なものである。なお、天皇は納税の義務を免ぜられているというのは誤りである。不時の支出に備えて保有する資産や若干の貯金に対する利子や出版物の印税など個人資産の収入については所得税や住民税を納める。固定資産についてはいずれも国有財産である皇室用財産であるので課税されない[19]。昭和天皇の崩御に際して明仁親王(今上)は4億2,000万円の相続税を納めている[20]。

皇室典範21条の類推により訴追を受けないと解されている[21]。これによっては天皇の側から訴追する権利は失われない。

世論調査[編集]

日本国憲法公布・施行前の1946年5月27日の毎日新聞朝刊に結果が載った世論調査では、象徴天皇制への支持が85%であり[22]、終戦直後でも多くの国民が皇室の存続に賛成していた。

その後、メディア各社が行った世論調査の推移を見ると、1990年では「今の象徴天皇のままでよい」を回答に選んだ人の割合は73%だったとされ[23]、2000年には象徴天皇制を支持したのが8割とされ[24]、2002年には「(天皇は)今と同じ象徴でよい」を回答に選んだ人が86%だったとされる[25]。

NHKが2009年10月30日から11月1日に行った世論調査では、「天皇は現在と同じく象徴でよい」が82%、「天皇に政治的権限を与える」が6%であり、「天皇制は廃止する」は8%となっている[26]。

脚注[編集]
1.^ 神崎清『革命伝説』芳賀書店
2.^ 石井孝 『明治維新と自由民権』 有隣堂(原著1993年)。ISBN 4896601157。
3.^ 「反帝」は「反帝国主義」の略。共産党系の組織。後に弾圧されて解散。
4.^ 『昭和八年中に於ける社会運動の状況』 警保局、内務省(原著1934年)。「天皇制に対する反対運動」の項。
5.^ 小田切秀雄 『昭和書籍雑誌新聞発禁年表』中巻、明治文献資料刊行会(原著1981年)、p. 485。
6.^ 山崎は前日の3日に「これからも天皇制廃止を主張するものはすべて共産主義者と考え、治安維持法によって逮捕する」と発言した。
7.^ この発言は日本国憲法第1条に取り入れられた
8.^ 『産経新聞』の創刊は1958年のことである。「産経時事」から改題した。
9.^ 小室直樹によれば、アメリカは天皇の権威を20個師団に相当すると見ていたという
10.^ 中井多賀宏「ポケット図解最新憲法がよーくわかる本」秀和システム、P158
11.^ 谷沢『「天皇制」という呼称』(鷲田小彌太『昭和の思想家67人』PHP研究所P617)
12.^ 中西『日本人としてこれだけは知っておきたいこと』PHP研究所、P.181-182
13.^ 日本社会党委員長で部落解放運動に功績のあった松本治一郎の言葉。
14.^ 「反天皇制は部落解放の核心である」師岡佑行(京都部落問題研究資料センター通信Memento2003.7.25)[1]P.13その他
15.^ 皇后美智子がミッション系大学である聖心女子大学の卒業生という事で物議を醸した事もある。なお、ほとんどの宗教系学校は入学の際の入信を義務付けておらず、また信徒が入学するからといって優遇される事もない
16.^ 同調した信者53名は治安維持法で起訴され、同支部は宗教団体法により結社を禁止された。主幹者明石順三は懲役12年。蔵田雅彦「日本統治下朝鮮における灯台社の活動と弾圧事件」、『国際文化論集』第1巻、桃山学院大学、1990年3月、 pp. 109-122、 ISSN 09170219、2009年2月12日閲覧。および法政大学大原社会問題研究所「第四章 宗教運動」、『日本労働年鑑 特集版 太平洋戦争下の労働運動』、法政大学、1965年10月、2009年2月12日閲覧。を参照。
17.^ Philips, Abu Ameenah Bilal. The Fundamentals of Tawheed (Islamic Monotheism). Al-Hidaayah. ISBN 1898649405.
18.^ 「天皇の“おことば”について」浦田賢治(早稲田法学1963-5-15)[2] (PDF) P.31[3]
19.^ 国会議事録第114回参議院内閣委員会4号平成元年6月20日 宮尾盤宮内庁次長 発言番号251、253
20.^ 皇室の相続税課税については相続税法12条の非課税財産のうち第1号「皇室経済法第7条の規定により皇位とともに皇嗣が受けた物」すなわち「皇位とともに伝わるべき由緒あるもの」については非課税となっている。ただ、したがってその他の財産、例えば有価証券や預金などは一般私人の財産と同等の性質を持つものとして課税対象になる。これは天皇が皇室(宮家)の財産を相続する場合も同様で、昭和天皇についても、過去に貞明皇后あるいは秩父宮の相続に際して相続税の納税申告を行った。(国会議事録第114回衆議院法務委員会4号平成元年6月14日 野村興児大蔵省主税局税制第三課長 発言番号311)
21.^ 過去に政府委員による国会答弁として「…天皇につきましては訴追を受けないというようなことは、特別の規定はございませんが、皇室典範の摂政の二十一条「摂政は、その在任中、訴追されない。但し、これがため、訴追の権利は、害されない。」というのがございまして、天皇の場合は、当然そういうことから考えても訴追はされないという解釈でございます」(瓜生順良宮内庁次長)がある。第46回参議院内閣委員会29号(昭和39年5月7日)発言者番号21
22.^ “毎日新聞1946:新憲法の政府草案を歓迎 改憲論争、50年代に原形”. 毎日新聞. (2016年2月8日) 2016年5月3日閲覧。
23.^ 読売新聞1990年01月06日朝刊
24.^ 毎日新聞2000年9月。
25.^ 全国面接方式の世論調査。朝日新聞2002年12月22日。
26.^ “平成の皇室観”. NHK. 2012年5月20日閲覧。

関連項目[編集]
反皇室闘争 - 君主制廃止論
日本人民共和国憲法草案(日本共産党)
菊タブー
皇位簒奪

文献情報[編集]
竹田昭子 「アメリカの占領期メディア政策と放送 ―天皇制論議解禁―」『学苑』666号、1995年。
竹田昭子 「「天皇制論議」解禁とマスメディア ―新聞の天皇制論議―」『学苑』673号、1996年。
『教科書・日本国憲法』 一橋出版、2004年。教科書・日本国憲法 新訂版2007年 ISBN 4834833011
「制憲前後の天皇像――象徴天皇制の解釈における“連続性”と“断絶性”序説」横田耕一(『法政研究』第45巻第1号 1978年)[4]※横田喜三郎の法論について記述あり。

外部リンク[編集]
憲法に関するアンケート調査 調査報告書 (インターネット・アーカイブによる。以前自民党サイト内に掲載されていたもの)
「投書に現れた天皇制の批判」(十月分)朝日新聞研究室、1945年12月24日。
日本共産党綱領案 天皇制への共産党の基本的態度




カテゴリ: 天皇制
日本の思想史
共和主義

https://matome.naver.jp/odai/2143974419570489501




日本で天皇制廃止が主流に!民主主義を目指す動きが加速!貴族政治の終焉
日本において「天皇制を廃止する動き」が加速しています。2015年8月15日には、天皇制を廃止しよう!というデモが行われました。天皇制のような貴族システムを廃止して、フランスのような共和制、アメリカのような大統領制のような民主主義的システムを取るべきとの国民が増えています。

更新日: 2015年08月17日


misukiruさん









1

お気に入り

7167

view
お気に入り追加







■天皇を中心とする安倍晋三・麻生太郎の家系






日本のトップ3が親戚同士


出典
rapt-neo.com




日本のトップ3が親戚同士


天皇・安倍晋三・麻生太郎が親戚という独裁国家になっています。日本は、とても民主主義とは言えません。








親戚同士が貴族として癒着


出典
saigonojournalist.blogspot.com




親戚同士が貴族として癒着


天皇家を中心として、血縁で貴族が固まるスタイルが定着しています。







戦前に最強財閥だった天皇家!天皇家と政治家の癒着が凄すぎワロタwww - NAVER まとめ


http://matome.naver.jp/odai/2140436353168944501


天皇家は、戦前に4大財閥の10倍の資産を保有していたのは天皇家の秘密でもあります。財閥解体が行われた現在でも、天皇家の資産は隠されているとされていて、天皇家を中...










■日本の首相同士が親戚関係









出典
matome.naver.jp







日本の過去の首相が親戚関係という凄い家系図が見て取れます。







■靖国の反対デモが行われる






8月15日靖国反対運動


出典
livedoor.blogimg.jp




8月15日靖国反対運動


全国戦没者追悼式に反対しています。










3:34




YouTube


国家による「慰霊・追悼」を許すな!8.15 反靖国デモ










■天皇が広島原爆を肯定する発言






昭和天皇「広島原爆しかたなかった」と発言


出典
find-travel.jp




昭和天皇「広島原爆しかたなかった」と発言


アメリカに命を助けて貰ったからと言って、10万人以上が瞬時になくなった大虐殺を「仕方なかった」というのはあんまりです。










1:12




YouTube


昭和天皇「原爆投下はやむをえないことと、私は思ってます。」










戦前の天皇は国家元首で統治者、軍隊の最高司令者であったが、同時に日本最大、世界でも有数の資産家



出典
書評 吉田祐二著『天皇財閥―皇室による経済支配の構造』 最大の財閥・天皇家の海外進出における「経営判断ミス」 | ちきゅう座



















天皇家が保有していた株式は、日本銀行、横浜正金銀行、朝鮮銀行、台湾銀行、南満州鉄道、日本郵船、東京電燈、帝国ホテルなど。天皇家は日本最大の金融王であり、地主でもあった。



出典
書評 吉田祐二著『天皇財閥―皇室による経済支配の構造』 最大の財閥・天皇家の海外進出における「経営判断ミス」 | ちきゅう座



















■天皇を美化する洗脳教育






テレビ番組で洗脳「天皇の料理番」


出典
laughy.jp




テレビ番組で洗脳「天皇の料理番」


天皇が偉いようなテレビの洗脳教育







■戦前に大金持ちだった天皇財閥









出典
matome.naver.jp















戦前の日本において、天皇財閥を頂点とする財界ピラミッドが形成された。



出典
「天皇」という力の正体とは?(5)~天皇財閥を頂点とする財界ピラミッド - 金貸しは、国家を相手に金を貸す



















財閥への資本集中度は、1937年の22.6%→1946年には42.6%へ上昇。十四財閥(鮎川・住友・安田・浅野・日窒・大倉・古河・日曹・野村・森・中島・理研)が国家資本の半分を占める



出典
「天皇」という力の正体とは?(5)~天皇財閥を頂点とする財界ピラミッド - 金貸しは、国家を相手に金を貸す



















■一方で、国民の暮らしは困窮






大根をかじる子供


出典
ameblo.jp




大根をかじる子供


戦前では、農村部で食糧事情が悪くて、靴を買えない貧困家庭なども多くありました。








身売りされた女性たち


出典
matome.naver.jp




身売りされた女性たち


東北地方の貧しい地区などでは、戦後まで身売りが行われていました。




1

http://d.hatena.ne.jp/ajita/20100407/p1

2010-04-07 小谷野敦「天皇制批判の常識」面白いよ!



■[本の話題]小谷野敦「天皇制批判の常識」面白いよ! 小谷野敦「天皇制批判の常識」面白いよ!を含むブックマーク 小谷野敦「天皇制批判の常識」面白いよ!のブックマークコメントCommentsAdd Starumetenmorimori_68nmunstonedlove

天皇制批判の常識 (新書y)

天皇制批判の常識 (新書y)
作者: 小谷野敦
出版社/メーカー: 洋泉社
発売日: 2010/02/06
メディア: 新書
購入: 1人 クリック: 84回
この商品を含むブログ (13件) を見る


「なぜ天皇制廃止論なのかと言えば、人は生まれによって差別されるべきではない、と考えているからである。」という明快な論理に貫かれた本。


この明快な論理によって、天皇をめぐる日本論壇の左右を問わぬグダグダぶり、不誠実ぶりが炙り出される。


私は小谷野氏とは「嫌いな知識人」の好み?が合うこともあって、たいへん面白く読んだ。ただ、章立てをもう少し細かく、例えば第一章と第三章はそれぞれ二分割した方がよかったと思う。


以下、内容をざっとたぐっていくと……。


国にとって都合がいいのは適度に左翼な人という事実。


天皇は君主であると同時に宗教でもある。


近代「天皇制」以前に「天皇制」はなかった。近世の日本における天皇の認知度は1パーセント程度に過ぎなかった(小林よしのりへの再反論)。


本書は小林よしのり『ゴー宣 天皇論』へのまとまった(まっとうな)批判にもなっている。だから併せて読んだ方がいいかもね。


日本神話が一般に知られるようになったのは明治以後。国学者が万葉仮名を解読するまでは、そもそも古事記なんか誰も「読めなかった」。


で、天皇が続いたのは、やっぱ偶然じゃないの?(著者の結論)


日本の文学・文化を愛する者でも、別に「天皇を愛する」必要はないだろ(著者は現皇太子の生き方に敬意を払っているけど)。


光明皇后は事実上、易姓革命を起こしていた。


日本人は世界の君主制の実態について知らなすぎるYO!


天皇制を認める人には、差別を批判する権利はない。


卑怯な左翼、劣化する保守は許せん。体制に都合がいい「適度に左翼」な枠からは一歩も踏み出さず、「ちょっと冒険派」気取って処世術にたけた宮台某とか中島某とかな!


天皇制擁護はナショナリストの条件ではない。


尊王家は「ロイヤリスト」と呼ぶのが正しい。等々。


「日本ほどアイデンティティのはっきりした国はない。千五百年の歴史と文化を持ち、…いったい何を好んで、天皇制などという、明治以来の歴史しかないものにアイデンティティやら大きな物語やらを保証してもらわなければならないのか。」p113


これには、激しく同感だ。


ちょっと、追伸。


天皇を「現人神」に仕立て上げたのは真宗系の転向仏教徒知識人だった(神道家にはそんな難しいこと出来なかったんだYO!)を明らかにしたのは、何と皇學院大學の新田均。


『「現人神」「国家神道」という幻想asin:4569626548』(2003年 PHP研究所)がその成果だが、近代仏教の研究者はのきなみスルーした。*1


著者は新田の同著を高く評価している。これは我が意を得たり。天皇の歴史は仏教込みでないと大部分わからんし、近代の「天皇制」も実はそうなのだ。


天皇と神道信仰を不可分と強弁しながら仏教を無視する論者のおかしさは、著者も指摘している。このあたり、小谷野敦はかなりセンスがよい。


実は、新田均の『「現人神」…』以降の著書は読んでない。右派の運動サイドにどっぷり漬かっているようだが。神道と真宗という、対極にあるかの如き宗教の知られざる共犯関係に着目したことはもっと評価されてしかるべきだと思うんだけど。


てなわけで、個人的な怨恨こみで込み入った記述もあるが、「天皇制批判の常識」がコンパクトに過不足なくまとめられている本書はオススメです!

天皇制批判の常識 (新書y)

天皇制批判の常識 (新書y)
作者: 小谷野敦
出版社/メーカー: 洋泉社
発売日: 2010/02/06
メディア: 新書
購入: 1人 クリック: 84回
この商品を含むブログ (13件) を見る


ゴーマニズム宣言SPECIAL天皇論

ゴーマニズム宣言SPECIAL天皇論
作者: 小林よしのり
出版社/メーカー: 小学館
発売日: 2009/06/04
メディア: 単行本
購入: 23人 クリック: 169回
この商品を含むブログ (79件) を見る


「現人神」「国家神道」という幻想―近代日本を歪めた俗説を糺す。

「現人神」「国家神道」という幻想―近代日本を歪めた俗説を糺す。
作者: 新田均
出版社/メーカー: PHP研究所
発売日: 2003/02
メディア: 単行本
クリック: 20回
この商品を含むブログ (13件) を見る

| 未分類 | コメント(0)

兵隊やくざ 川西玲子の『兵隊やくざ』評は残念ながらピントのずれたものになっている。この第1作は有馬頼義の原作にあるエピソードをほとんど採用しているから、増村の近代性を指摘するのではなく、有馬や脚本家の菊島をまず評価しなければならない。慰安所の描写も原作ではもっと踏み込んだもので、女性にとっては映画以上に噴飯ものである。しかし、それが実態だったのだ。『兵隊やくざ』シリーズで描かれる慰安所の女性たちは内地へ帰っても希望なんか無い、流れた果ての満州だという言葉をよく話していて、それは決して肯定的に描かれているわけではない。1作目の音丸の不憫さは他の作品より大きいくらいである。それに、川西は『兵隊やくざ』の1作目しか見ていないようだ。慰安婦は従軍慰安婦が取りざたされる前から映画には当然のこととして描かれていた(鈴木清順監督『春婦伝』など)。「兵隊やくざ」の第3作には「ピーや」という隠語で呼ばれていた売春宿が前線にあったことが描かれている。


























http://www.asahi-net.or.jp/~hi2h-ikd/film/heitaiyakuza.htm

インターネット・エクスプローラーが文字化けしたら・・・・「表示」→「エンコード」→「自動識別」をしてみる



 勝新太郎  兵隊やくざ シリーズ              池田 博明 



これまでの映画日記で扱った作品データベース  



兵隊やくざ 続・兵隊やくざ 新・兵隊やくざ
兵隊やくざ 脱獄 兵隊やくざ 大脱走 兵隊やくざ 俺にまかせろ
兵隊やくざ 殴り込み 兵隊やくざ 強奪 新兵隊やくざ 火線




見た日と場所 作  品        感    想     (池田博明)
2010年1月6日


DVD 兵隊やくざ


大映
1965年
102分  「兵隊やくざ」第一作。製作・永田雅一、脚本・菊島隆三、監督・増村保造、撮影・小林節雄、音楽・山本直純。白黒映画。敵との戦闘はなく、兵隊どうしの制裁に明け暮れる、刑務所よりひどい関東軍の兵士たち。

 満州の荒野に野ざらしの白骨死体で映画は始まる。満州北部の孫呉(ソンゴ)で、軍隊嫌いのインテリ上等兵・有田(田村高廣)はやくざ出身の初年兵・大宮貴三郎(勝新)の教育係を命ぜられる。准尉(内田朝雄)の考えでは彼の扱いには頭がいいヤツが必要だ、柔よく剛を制すだと言う。
 歩兵の大宮は、威張り散らして初年兵を殴る砲兵たちと浴場で大ゲンカをした。有田は浴場で倒れている裸の男たちの中から大宮を探して逃がす。翌日、砲兵の黒金伍長(北城寿太郎)が敬礼をしなかったと難癖をつけて、大宮を呼び出す。もと拳闘部の黒金の制裁は激しい。三年兵の有田は黒金が二年兵だと知ると、軍隊では年季(メンコの数)がモノを言うんだと命令口調になり、上官でもないお前の大宮への暴力は決闘だ、決闘は禁止されている、したがって大宮がお前を殴り返しても文句は言えないと説明、大宮は反撃に転じ、黒金の指の骨を折り、満足いくまで殴る・蹴る。大宮を止めた有田は黒金に、転んでケガをしたと申告させ、指の骨は大宮を殴ったためだと言わせる。
 師団演習が始まった。70kgの軍装を背負い、三日の強行軍だ。大宮は歩くのは不得意らしく途中で落伍、有田が付き添って夜になってようやく露営地に追い付く。ひとりで丘に登った有田は近くに来ている砲兵の黒金に会ってしまう。軍曹に昇進していた黒金は有田に「おまえは敬礼をしたが、敬礼をしなかったといっても誰も見ていない」と制裁を加える。そして、「大宮に朝6時に来いと言え」と帰す。有田がひどく怪我をしているのを見て大宮は事態を察する。
 翌朝、有田は班長・阿部(仲村隆)に頼んで三年兵を集めてもらう。案の定、黒金は大宮を集団リンチで制裁。歩兵の三年兵が二年兵の砲兵を止め、大宮は再び黒金の腕を折る。
 この事件で内務班は外出禁止の処分を受けた。ところが、いつのまにか大宮がいない。無断で外出したのだ。准尉は脱走したのだと怒る。有田は大宮のことは自分に任せてくれる約束だと、連れ帰ることを約束する。
 大宮は将校専用の芸者屋で音丸(淡路恵子)のところにいた。大宮は、内地へ帰っても誰も待っていない、給料ももらえる軍隊のほうがいいと脱走説を笑い飛ばす。
 大宮の処分保留を訴える有田に准尉は「お前が制裁を加えろ。みんなへの見せしめだ」と命令。殴られたことはあっても人を殴ったことのない有田は、大宮を竹刀で一発殴っただけで止めて去ってしまう。その後、准尉のもとに制裁を受けましたと報告に行った大宮は血だらけだった。准尉はよくやったと有田を褒める。大宮はレンガで自分の顔を殴ったのだ。唖然とする有田に浪花節の一節をうなる大宮。二人の結びつきは強くなる。
 そうこうするうちに大宮は一等兵になった。日本軍はアッツ島で玉砕し、ソ連がドイツに勝利、戦局はきびしくなる。除隊を心待ちにしていた有田は阿部から、除隊と同時に自分たちは召集されることになったと聞く。
 やけ酒を飲んで帰った有田は、炊事班から制裁を受けた初年兵・野木が脱走したことを知る。捜しに出た歩兵たち。大宮の呼び声にこたえるかのように荒野に銃声が響く。野木は銃をくわえて自殺していた。大宮は自分の声が野木を自殺させたと悩む。軍隊では弱いヤツは生き残れないんだ、気にするなと有田。野木の死体を見に来た憲兵(成田三樹夫)に死体を侮辱された大宮は怒る。
 野木の通夜だと言って、「いろは」の音丸の元に来た二人だが、ちっとも気勢が上がらない。音丸は胸を病んで死んだ女がいたと慰安婦の死を語る。ヘソ酒を提案する音丸。ヘソ酒?大宮はヘソ酒を説明する。しかし、それでも元気が出ない。満期も除隊もありゃしない。不幸な人間たちのはかない遊びである。大宮は「野木をなぐったのは誰だ」と炊事班に殴りこみをかける。
 有田が様子を見に行くと、不思議にも大宮は殴った炊事班の連中と酒をくみかわしていた。有田は大宮に班長・石神軍曹(早川雄三)が炊事場での乱闘を抑止するための計略だと教え、いろはの班長のなじみの女・みどり(滝英子)から砂糖など石神の横流しの実態を聞く。有田が情報を収集して班に帰ると、既に大宮は炊事場に呼ばれた後で、外で集団リンチを受けていた。有田は石神に「砂糖の横流しを暴くぞ」と脅す。石神は大宮と一対一の勝負をすると言う。石神と大宮の決闘が始まる。分が悪くなった石神はドスを手にする。大宮は有田から短刀を受け取る。斬り合いの後、手からドスを叩き落として大宮は完全に石神を殴り倒す。滝英子は、予告編では客を取り合う場面があるが、本篇には無くなっている。
 慰問団のなかに、大宮の昔の浪花節の師匠(山茶花究)がいた。大宮は組の親分が死んだこと、自分の身代りで刑務所に入った男の家族が貧乏していることを聞き、師匠に金を渡す。家族に届けてやって欲しいと。
 突然、舞台から一個大隊を選抜し南方へ送ることになる。選抜メンバーのなかに大宮もいた、有田は准尉に抗議するが、「クズの兵隊を出すのが慣例だ」と受付けられない。挙句に「天皇陛下の命令だ」と来た。有田から様子を聞いた大宮は師匠になにかを頼んだ。翌日、部隊を去る慰問団。トラックのなかに女装した八束(やつか)がいた。八束とともに大宮もいない。有田は「やつは脱走しません」と断言して探しに出る。
 大宮は音丸のところにいた。音丸は「ここから北には日本の女は三人しかいないそうよ」。有田が部屋に来る。大宮は「この町が気に入っている。俺は南方へは行かない」と答え、突然有田を殴り倒す。有田が意識を回復すると、阿部は大宮が有田上等兵と喧嘩になり、たたきのめしたと中隊長に自首したと告げる。中隊長は「部隊の恥になるような兵士は出せん」と判断、大宮は営倉に入っていると言う。南方への兵士は出発してしまった。大宮の七日間の懲罰が明けた日に師団参謀がやって来た。全部隊に動員令が出たのだ。ソ連との戦争が始まる。もはや玉砕あるのみだ。
 有田は「この戦争はダメだ、バカな将校の命令で死にたくない」。大宮は「とうとうこの時が来た。上等兵どのを助ける機会を待っていたんです。逃げましょう。拳銃、弁当、支那服等を、二丁用意して下さい。迷っている場合じゃないぞ」と立場が逆転する。音丸は着物を用意して「あたしの分まで生きて下さい」と二人に渡す。
 部隊の出発の日には、大雪が降った。列車はハルピンを過ぎ、そろそろ新疆に着こうかというとき、二人は行動を開始。途中で出会った憲兵を殴り倒す。二人は機関士を殴って脅し、連結器を外させる。後ろの列車は停止してしまうが、しょっちゅう止まってばかりいたので、兵隊たちは気がつかない。
 汽車は走る。大宮は「支那は広い、ヨーロッパと地続きだ」と前向きである。仲間たちはその後、レイテ島で全員戦死した。

          映画川柳「関東軍 鉄拳制裁で 日が暮れる」飛蜘 

【参考書】有馬頼義原作『兵隊やくざ』(光人社NF文庫)の「貴三郎一代」「裸の街」「歩く」「公用腕章」「おんな」「冬将軍隷下」「臍酒」「告白」「白夜」「賭ける」を脚色。

 川西玲子『映画が語る昭和史』(ランダムハウス講談社、2008)より、「末期の中国戦線を舞台に、戦争と軍隊のばかばかしさを全く違う形で描いた、ユニークな映画を二本おすすめしたい。「独立愚連隊(1959)と「兵隊やくざ」(1965)である。・・・・こういう娯楽映画が人気を得ていたのは、戦争体験者が社会の中核だったからである。このような映画を観ることで、辛くてアホらしかった軍隊生活を思い出し、鬱憤を晴らしていたのではないだろうか。
 暴力が過剰である上、慰安所の場面は女性から見ると実に腹立たしい。それでも映画として面白いし、メッセージも伝わってくる。人間の持つ二つの側面、知性と肉体を有田と大宮に担わせたところが秀逸。こういうところが増村保造の近代性だろう。それにしてもちょっと危ない映画をうまくつくる監督だった」

 川西玲子の『兵隊やくざ』評は残念ながらピントのずれたものになっている。この第1作は有馬頼義の原作にあるエピソードをほとんど採用しているから、増村の近代性を指摘するのではなく、有馬や脚本家の菊島をまず評価しなければならない。慰安所の描写も原作ではもっと踏み込んだもので、女性にとっては映画以上に噴飯ものである。しかし、それが実態だったのだ。『兵隊やくざ』シリーズで描かれる慰安所の女性たちは内地へ帰っても希望なんか無い、流れた果ての満州だという言葉をよく話していて、それは決して肯定的に描かれているわけではない。1作目の音丸の不憫さは他の作品より大きいくらいである。それに、川西は『兵隊やくざ』の1作目しか見ていないようだ。慰安婦は従軍慰安婦が取りざたされる前から映画には当然のこととして描かれていた(鈴木清順監督『春婦伝』など)。「兵隊やくざ」の第3作には「ピーや」という隠語で呼ばれていた売春宿が前線にあったことが描かれている。

 【追記】NHKの新会長・籾井勝人が就任会見で「従軍慰安婦は戦争をしているどこの国にもあった」と発言。これに関連して、神奈川新聞論説・特報(2014年2月5日)は林博史関東学院大教授のコメントを掲載。第二次大戦中に限れば「慰安婦制度があったのは日本とドイツだけ」「一般の売春とは異なる」「慰安婦制度は軍が組織的に女性を集め、公然と管理・運営したもの。日本軍の場合は海外への輸送まで軍の船やトラックを使った」。戦前には公娼制度があったが、これも既に反対運動が起こっていた。「1930年代には国際連盟も問題視し、日本政府は公娼廃止に乗り出した。その動きに逆らって導入されたのが慰安婦制度で、その制度を軍が組織した。当時から売春が当たり前だったわけではない」「強制連行の有無を論点にすること自体が誤っている」と指摘している。

 『RESPECT田中徳三』(シネ・ヌーヴォ、2006)より、田中徳三いわく、
 “勝新太郎という人は、「小さいときのガキ大将が、そのまま大きくなった人間や」とよく言われていますが(笑)、まさに、この「兵隊やくざ」の大宮はね、勝そのものですね。一番勝さんらしいと思った。やっててね。だからある意味では大宮貴三郎は、勝本人そのものやね。・・・・・それから演出やってて感じたのは、いつもはわりあい勝ちゃんのアイデアってうるさいんだけどね(笑)。この「兵隊やくざ」に限って、勝ちゃんのいろいろなアイデアが、結構、面白かったですね。”

 伊藤桂一『兵隊たちの陸軍史』(新潮文庫、2008。もとは1969年、番町書房刊)より、
 “(兵隊だった)六年六カ月の間、兵隊としての私は、敵--である中国軍と戦った、という意識より、味方--である日本軍の階級差と戦ってきたのだ、という意識の方が、はるかに強かった。陰湿にして不当な権力主義に、古参兵がいかに悩まされたかは、五年か六年隊務についた者は身にしみてわかっているはずである”(p.24)。伊藤は、敗戦時、上海にいた。中国本土での兵隊の生活を記録した貴重な報告で、いわば実録『兵隊やくざ』に相当する。

2010年1月7日


DVD 続・兵隊やくざ


大映
1965年
91分  シリーズ第二作。前作で機関車で脱走を図った二人の続篇。脚本はこれ以降、舟橋和郎に変わった。監督・田中徳三。音楽・小杉太一郎、撮影・武田千吉郎。音楽や撮影は一定しないが、さすが大映で、どの作品も水準以上。田中徳三監督作品には、ところどころ、ゆるい息抜きやお笑いの場面がある。この作品では芦屋雁之助・小雁の登場場面がそれに当たる。
 第一作は有田上等兵の語りがところどころに入っていたが、この作品では途中から大宮の語りに代わる。映画の観客に話しかける形だが、この構成は成功しているとは言えない。物語を手早く進行させるためのその場しのぎの措置でしかなかった。
 機関車は途中の線路が爆破され脱線し、雪の荒野に投げだされる二人。ふと気がつくと美人の看護婦がいる。奉天の陸軍病院だ。二人ともなんとか命をとりとめたのだ。大宮は看護婦の緒方恭子(小山明子)に惚れる。
 憲兵伍長の取り調べがあったが、有田は大宮と二人で警備役として前に来たが、いつのまにか列車が離れてしまったのだと主張する。客車が離れたために、部隊は爆破を逃れて助かったわけだし、敵による損害を過少評価したい関東軍はこの事件を極秘扱いとする。やがて、原隊復帰・除隊のはずが、北支の4242部隊に転属を命ぜられる。退院直前に大宮は緒方恭子に「あなたの毛を下さい」と無心する。翌日、こっそり紙に包んだものを落として渡す恭子だった。大宮は小躍りして喜ぶ。
 二人は九龍関の隊長・多久島中尉(須賀不二男)の部隊に配属される。訓練という名目の苛酷な演習がある。
 大宮が一番風呂にこっそり入っていると、三中隊の軍曹たち(芦屋雁之助・小雁)がやって来る。勝手に大宮を上官と思い込み、背中を流したり・・・正体がわかる前に風呂場を出たものの、忘れ物から大宮は一等兵だということが分かってしまう。
 大宮は三中隊による制裁を受ける。有田が止めに入って、大宮は反撃。有田は三中隊の目をくらますために、大宮を乙官上がりの八木曹長(上野山功一)や岩波曹長(睦五郎)の当番兵に推す。当番兵は将校の生活係である。急に大宮のナレーションに変わる。八木と岩波の花札博打に加わり、金をもうける大宮。
 大宮は恭子宛てのラブレターの代筆を有田に頼む。岩波の相手で芸者・染子(水谷良重)が官舎に来る。裸の染子の背中を流したり、愛欲場面を隣室で聞かされたりした大宮ははね起きて慰安所へ駆けつける。夕食時間の後は下士官だけしか受け付けない規則だが、そんな規則は破るに限る。なじみの芸者と部屋に上がる。  
 翌日、木村初年兵が脱走する事件が起こる。岩波が捜索で外出中の官舎に、染子が八木曹長を訪ねてくる。染子は岩波を嫌っていて、八木が好きなのだった。驚く大宮。そこへ、木村を捕えたと岩波が帰って来て・・・ひと悶着。岩波は染子を「売春婦」よばわりする。押し入れに染子を匿った大宮は当番兵を首になってしまった。
 部隊はゲリラが潜む部落を攻めるが、既に村民は逃亡した後で、病人の老人と看病するクーニャンしか残っていなかった。隊長は老人を取り調べもせず、パーロだと決めつけ、初年兵に突き殺させろと命ずる。岩波曹長が初年兵に命ずると、有田が抗議する。パーロだという証拠が無い、老人はただの病人だ、国際法では捕虜は丁重に扱うべしと定められている、たった一人の無実な村人を殺して全中国人を敵に回すのは損なはずと。岩波は怒る、「おまえ、反軍思想だな。構わん、(初年兵に)殺れ!」。有田「(初年兵に)無謀な命令に従う必要はない!」。八木が仲裁に入り、隊長は命令を変更して、捕虜は納屋に監禁された。
 大宮は有田に感心するが、有田は「このままではすまないぞ」と警戒する。案の定、有田は黒住兵長(五味龍太郎)や古兵達に制裁を受ける。大宮は有田の仇打ちとばかりに黒住以下全員を相手に大げんか、隊長が命令したことを知って、大宮は八木のもとで隊長を糾弾する。しかし八木はそんなことをしたら有田の立場が悪くなる、制裁を受けたため有田は軍法会議を免れそうだと諭す。隊長がクーニャンを呼ぶ段取りをしているのを聞き、大宮は見張り番を殴り倒して、二人を逃がしてしまう。大宮はケガをして外で寝ている有田と一緒に星空を見上げる。静かな夜である。有田「軍隊がなければお前という男と出会うこともなかったな。お前は自然で自由な人間だ」。捕虜が逃げたと騒ぎになるが、間もなく初めての敵襲だ。戦闘の最中に岩波は背後から八木を撃つ。
 敵が去った後で、重営倉の懲罰をくらった有田、捕虜の見張りだった兵隊たちも重営倉の懲罰を受けた。食事を運ぶ大宮は東京大空襲があったという話をする。1945年3月である。有田は八木が背中から心臓を撃たれていると大宮に話す。撃ったのは八木と反目していた岩波だろう、岩波の拳銃の銃弾を調べる必要があると二人。大宮はきっと証拠を手に入れてみせると決意する。八木の死体は火葬に付された。官舎で霊を弔うからと岩波は大宮を呼ぶ。官舎に染子も呼ばれていた。染子は「帰る。誰にも惚れやしない。兵隊なんか大嫌いだ」と言うが、岩波は嫉妬で怒り、染子に「坊主になれ」と無理を言う。二人が争っている間に大宮は岩波の拳銃を取る。
 数日後、救護のトラックがぬかるみにはまったとの連絡が届く。救出に駆け付けた大宮らはトラックを押す。トラックから降りてきたのは緒方看護婦だった。張りきった大宮は一人でトラックを押し上げる(これはちょっと無理な、出来過ぎの逸話だ)。緒方看護婦は隊長に弟の四郎に会わせて欲しいと頼む。隊長は営倉に入っている四郎に会わせるには特別な配慮がいると勿体をつける。有田が営倉を出た。大宮は隊長が恭子を犯そうとするのを止め、隊長を殴り倒す。恭子を弟に会わせるものの、早くも手が回り、岩波や下士官たちに囲まれる二人。有田は軍法会議にかけると息巻く岩波に「おまえこそ軍法会議だ」と証拠の銃弾を示す。狼狽する岩波。暴れ回った二人は部屋から出て赤十字のトラックを奪い、緒方看護婦を営倉前で拾って逃走する。機銃もトラックにはあまり効果がなかった。
 途中で緒方看護婦を下して、二人が乗ったトラックは走り去った。

        映画川柳「上官の 理不尽な命に 従うな」飛蜘 

【参考書】『RESPECT田中徳三』(シネ・ヌーヴォ、2006)より、田中徳三いわく、
 “有馬さんの原作は一作目でほとんど使ってるんです。だからこの二作目って、完全にオリジナルなんです。”
2010年1月7日


DVD 新・兵隊やくざ

大映
1966年
85分  シリーズ第三作。脚本・舟橋和郎、監督・田中徳三。音楽・鏑木創、撮影・中川芳久。嵯峨三智子が出演しているので楽しみ。

 ガス欠で止まるトラック。トラックを捨てて歩く二人。突然、パーロ(中国人ゲリラ)たちに襲撃されるが、日本軍も来て銃撃戦となる。廃屋に隠れて難を逃れる。
 二人は斥候に出たところをパーロに襲撃されたと言い訳する。既に彼らのいた4242部隊は前線に出てしまった。新しい中隊に編入されたが、隼という異名をもつ鬼部隊だった。
 起床ラッパが鳴ったが、有田は腹痛、大宮は頭がおかしいと理由をつけて練兵をズル休み。そこへ古参兵が来て治療と称して大宮を殴る。途中から大宮が反撃。分隊全員がケガをして、練兵休になった。どうせ休みだと風呂に行く大宮。有田は憲兵が見回りに来たのを見て、便所へ立つ。そのまま有田は風呂で裸の大宮に告げ、二人で逃げ出す。荒野の途中で会った中国人の衣服をはぎ取る。そのまま、貨車で天津(テンシン)へ逃げ、潜行。
 しかし、金が尽きた。軍隊で衛兵の豊後(藤岡琢也)に接近、話しているところへ隊長がやって来た。とっさにを大宮は「我々は芸人、俺は浪花節語りでこっちは三味線弾き」とウソをつく。慰問目的で食べ物にありついた二人の側へ豊後がやって来て、「お前ら兵隊だろ。兵隊は独特な臭いがするんや」。豊後は将校たちが好き勝手に軍用品を横流しして私腹を肥やしているのに腹を立てていた。二人に盗みの勧誘に来たのだ。夜に巡回中、倉庫の錠を開いておく。そこへ侵入して砂糖を横流ししようという計画だ。作業の途中で見張りの少尉に見つかってしまう。分け前をやるから黙っていろと脅した。翌日、少尉は取り分を取りに来たが、額が少ないと不平を言う。脅しをかけてくる少尉に対し、有田は「出るところへ出してもらおう」、将校たちが軍用物資の横流しをしているのを逆に暴くゾと脅す。
 芸者遊びをしても有田は気分が乗らない。芸者のなかにひときわ目立つ桃子(嵯峨美智子)がいる。店は朝鮮人の根上(遠藤達雄)が経営している「竜宮」。憲兵が呼ぶと女たちは皆、憲兵の方へ行ってしまう。むくれる大宮に根上はちょっと面白いところと、賭博場へ案内する。
 最初はついて勝ちまくったが途中からは負け続け。とうとうスッカラカンになり、根上から借りた金も採られ、拳銃まで賭けて取られてしまう。
 借金のかたに竜宮で働くことになる。洗濯や清掃、日当はたったの30銭だ。大宮は桃子から、賭博場へ誘いこんで金を巻き上げるのはいつもの手口だと説明される。女たちと食事をしながら、一日10人以上客を取らないと一食抜かされる等とあこぎな話を聞かされて、大宮は義憤にかられる。いっそまとめて「女たちを足抜きさせる」ことになる。夜、店を抜け出し、一晩歩き続けて荒野へ逃げた女たち。途中で、有田は「ここで解散だ。自由だ」と宣言するが、女たちはこんなところで放り出されても困る、竜宮へ帰るしかないと不満を言う。大宮は「ピーヤ(兵隊相手の売春宿)をやりませんか」と提案、女たちは喜ぶが、有田はいやだと意地を張る。しかし、大宮の「大将がダメだと言ったら、オレには出来ない」との言葉に負けて、有田と大宮はピーヤ「いろは」を開店。女たちに給金も渡して経営は順調だったが、竜宮の連中が来て有田を殴り、店を壊して行く。泥棒よばわりされた有田は女たちの借金分はもう元を取ったはず、それ以上働かせていたんだからもう十分だと抗弁する。留守だった大宮には明朝8時一対一で勝負と呼びだしがかかる。
 朝、新しいサラシを腹に巻いて出かける大宮。現場で待っていたのは根上だけではない。介添え(神田隆)役だが、実は憲兵隊の隊長、大宮の後を追って来た有田も介添えを申し出る。拳銃を向ける隊長をかわしたところへ、青柳憲兵(成田三樹夫)が来る。根上と隊長は逃げる。憲兵を誤魔化したものの、どうも仕組まれた芝居ではないか。
 その後、竜宮の連中はやって来なかった。いっときの平和が来る。豊後は桃子を一万人にひとりという掘り出しものだと言う。有田は「兵隊は靖国に祀られるが、女たちはこきつかわれて死んでいく」と女たちに情が移って来たと言う。
 大宮は桃子に夜這いをかける。桃子も大宮が好きだと答える。確かに桃子は最高だった。豊後は有田と同意見で、「そら、結婚せなあかんで。そうしないと他の女にしめしがつかん」と助言する。大宮「結婚てのはどうやる?」。豊後には坊主上がりの上州(玉川良一)という友人がいた。この男に坊主代りをさせて三々九度の儀式を行う。晴れて二人は夫婦となるが、「永遠に一緒」などというのは大宮の性に合わない。簡易結婚式の後、有田は妙に孤独を感じた。そこへ大宮が妻を一人にして有田のもとに来る。大宮「上等兵どのの世話は自分がします」と言う。
 青柳憲兵が来る。二人が脱走兵であることの調べはついているが、まだ捕縛するつもりはないらしい。そこへ、豊後が来て憲兵にからむ。豊後が「あのことを知っているぞ」と言うと、青柳は表情を変えて帰っていった。豊後は「青柳は女と男を殺している」と話す。その夜、暗闇で豊後が撃たれて殺された。二人は青柳の犯行を疑うが。証拠がない。
 店での豊後の葬儀の席に青柳も来た。青柳は有田に落ち合う場所を伝える。犯行の確証をつかんでいない。
 大宮は有田に同行するというが、有田は断る。有田は「俺のやりかたでやる。そんなに俺が信用できんのか」と怒る。有田が去った後、逡巡する大宮を桃子が「私のことはいいから、行きなさい」と諭す。
 青柳の取引は「ひとり五千、二人で一万」の口止め料を出せということだった。そんな金はない。断ると有田と大宮は憲兵たちから激しい拷問を受ける。このままでは死ぬ、有田は隊長に「差しで話がしたい」と申し出て、いったん拷問を辞めさせる。有田は「隊長の賭博や阿片など不正を暴露する、青柳の犯罪を訴える」と説くが、隊長は「釈放しろ」と伝えて、収監。有田は釈放というのは「冷たくなって出るんだ」と教える。青柳が手錠の鍵をはずして油断したとき、大宮が青柳の腕を締め上げる。二人は獄舎を出て、隊長室に殴り込み。手瑠弾も使って憲兵隊を大混乱させる。
 サイドカーに飛び乗って憲兵隊所を脱出。次に続くのだった。

        映画川柳「嫁御にも 束縛されない 自由人」飛蜘 

 嵯峨美智子は飛びぬけて色香を発散しているが、展開にはやや納得のいかないところがある。女たちが全員すぐに脱走に賛成すること、青柳の行動が不可解なままであること。今作は軍隊内部というより、街中へ出た二人の行動が描かれる。

【参考書】原作の有馬頼義『続・兵隊やくざ』(光人社NF文庫)より「潜入」「梁山泊」を脚色。
 『RESPECT田中徳三』(シネ・ヌーヴォ、2006)より、田中徳三いわく、
 “これは原作がある程度あるんです。・・・・この作品では藤岡琢也さん、この軽妙さがね。それから成田三樹夫の個性のある芝居。” 

2009年12月28日


GYAO配信
兵隊やくざ脱獄

大映
1966年
86分
 勝新の「兵隊やくざ」シリーズ第4作。監督・森一生。白黒映画。痛快な傑作だった。「兵隊やくざ」シリーズを見ていなかった不明を恥じる。なぜいまどき話題にならないのか不思議なほどの面白さ。原作は有馬頼義。脚色は舟橋和郎。撮影は今井ひろし。編集は谷口登司夫、美術は太田誠一、助監督は大洲斉。
 殴られても蹴られても不撓不屈の反抗精神の塊で、酒と女が大好きという、大宮一等兵カツシンの、どこか愛嬌のある不敵さが痛快。『警視K』のガッツ警視もおんなじでしたね。「兵隊やくざ」は1965年には2本、1966年には3本、1967年には2本、1968年に1本、1972年(東宝)で1本製作されている。森一生監督はこれ一本だけ。田中徳三監督作品が多い。第1作は増村保造監督。

 爆走するサイドカーの車輪。大宮一等兵(カツシン)と有田上等兵(田村高廣)の二人は脱走したのだ。しかし、泥に車輪をとられて止まり、追手に捕われてしまう。二人は奉天の関東軍の陸軍刑務所に入れられた。獄則130ケ条の規則づめに最初から反抗する大宮。殴られても石のようにツラが厚いので、殴った方の手が痛むほどだ。大宮は看守(の椎名伍長:五味龍太郎)に反抗し昼食を削られる。盗みで入獄していた26号・沢村上等兵(田中邦衛)は大宮に飯を分けてくれた。看守に賄賂を渡し沢村は罪を免除され、前線に送られていった。
 有田と大宮はどうせ銃殺ならと脱獄を計る。水道管を壊してその騒ぎを利用し、脱出。だが門衛に気づかれ、線路脇で捕ってしまった。銃殺刑を覚悟した二人だったが、法務官が有田の大学時代の友人・永井中尉(中谷一郎)だったため、生命を救われた。有田は大宮も一緒に助けてくれと強く頼む。有田は一等兵に降等され、脱走しない条件で満州のソ満国境へ送られた。
 途中でいやな客から逃れて列車に逃げ込んできた珠子(小川真由美)を助ける大宮。
 ソ連相手の前線で沢村を見つけた二人は、再会を喜び合ったが、ここでも班長の佐々木軍曹(草薙幸二郎)に睨まれる。軍曹は初年兵教育から叩き直してやると兵隊をしぼる。大宮が言う軍人勅諭がデタラメなので、殴られる場面がある。二人が料亭“花月"で珠子と会っていると、佐々木が来て「ここは将校用の店だ、珠子は俺の女だ」と二人を追い返す。大宮は部屋の外から軍曹に土を浴びせかける。
 沢村が夜間、ヒスイを隠しているところを大宮に見つかる。沢村は、満人との交換で手に入れたもので、内地へ帰るときの足しにするのだと言う。大宮は秘密にすることを誓う。
 物見台からロシアの女兵士を探す大宮。有田は大宮の能天気さにあきれる。佐々木班長は川辺でカモを撃って来る者を募る。ソ連兵が機銃を向けている川辺へ行こうというものはいない。班長は大宮に水を向ける。負けず嫌いの大宮は自分が行くと答える。そして、代わりに外泊を許可してくれと頼む。有田は大宮を止めるが、大宮は自分には弾が当たらないと危険な任務を引きうける。有田「ヤクザの弾とソ連兵の弾はちがうんだ」。大宮はソ連兵に機銃で撃たれるが、なんとか弾に当たらず、撃ったカモを持ち帰る。班長は扱いにくい部下の死を期待していたが、約束通り「珠子に会ってはいかん」という条件で、外泊を許す。大宮が花月亭に行くと珠子らほとんどの女たちは将校宿舎へ出ていて、店には病気で休んでいた八重子(森下昌子)だけだった。

 その夜、沢村は班長に呼ばれ、花月亭へ大宮の偵察に行けと命ぜられる。しかし、外へ出た沢村を途中で呼びとめた班長は隠し持っているヒスイをよこせと迫る。逃げようとする沢村を班長は撃ち殺す。銃声を聞いた有田たちに、班長は沢村が敵前逃亡を計ったために銃殺したと説明。班長が家族のために戦死扱いにするとした沢村の死体を中隊まで運ぶ役目を言いつかった有田は、花月亭から帰る大宮と途中で会う。
 大宮は沢村が隠していたヒスイが失くなっていることに疑念を抱いた。二人は珠子のもとで沢村の通夜をやる。有田は内地へ帰りたいという想いを話すが、流れ流れて北の果てまでやって来た珠子は内地に未練はないという。珠子は、班長がヒスイを持っている兵隊がいるという話をしていたことを思い出す。
 風呂に入る班長の背中を流す大宮は、班長が首から下げているお守りにヒスイが入っているとにらむ。その夜、午前3時に班長を襲撃する計画を立てた二人。あいにく1945年8月9日午前3時、ソ連の猛攻が始まった。
 いの一番に逃げ出す班長。二人も花月亭へ乗り込む。班長は珠子を無理やり連れ出して逃げようとしていた。班長を殴り倒す大宮、「軍法会議も将校もありゃしない」。気を取り直して銃を取ろうとする班長を有田が撃ち殺す。「どうせソ連兵に殺られるんだ」。
 人々が殺到する列車は、走らない。代わりにトラックが出る。珠子をトラックに乗せようとするも、許可証が無いとダメだと断られる。有田は連絡将校にヒスイを渡し、許可証をもらい、珠子に渡す。有田は、トラックで逃げようとしている将校たちを銃で脅して降ろし、大宮に階級章をはぎ取らせる。そして、トラックに一般の市民を乗せる。大宮も珠子とキスをしながらトラックに乗って、出発。少し走ったところで大宮は有田を残してきたことを思い出す。珠子が止めるのも聞かず、トラックからすべり降りた大宮は走って戻る。街の入り口で銃を構えて見送っていた有田のもとへ帰るのだった。「完」

 他の出演者は野口大尉(島田龍三)、衛兵司令(守田学)、現場監督風の男(水原浩一)、憲兵軍曹(浜田雄史)、不審番(越川一)、将校A(藤川準)、将校B(志賀明)、森野上等兵(黒木英男) 。

        映画川柳「殴ったら その手が痛む 石のツラ」飛蜘   

【参考書】森一生『森一生 映画旅』(草思社、1989)より、森一生の言葉、
 “丸亀港から出航して、北支へ行きました。・・・当時、北支などもう占領したように言ってましたけど、全然占領してないんですよね。占領してたのは点だけですよね。都市の。どこの城を持ってるというだけですから。だから、そこへ行くときにはすぐ襲撃されますよ。ゲリラに。
 ・・・・ぼくは自分が死ぬとは全然思わなかったです。俺は弾が当らんと思ってましたからね。・・・・ぼくは終戦伍長なんですよ。三年おって上等兵。こんな上がらんやつないですよ。大学出て。・・・むしろ認められんようにしていましたから。・・・・見習い士官か将校になってかえって死んでますよ。
 ・・・・実際、ずいぶんありましたよ、脱走したのが。ただ、それはやっぱり『悪名』や『兵隊やくざ』は本当のことを描いてないですね。あれでは、当時の逃げるということがどんなにひどいことかは、わからんでしょうな。結局、危なくない範囲内の娯楽みたいなもんですね、『悪名』や『兵隊やくざ』は。実際にやったら、なんともいえんぐらい、むごずらしいものでしょうな、脱走ということは。”  

 原作の有馬頼親『続・兵隊やくざ』(光人社NF文庫)では、「翡翠(ヒスイ)」という章があり、豊後がヒスイを持っていて佐々木軍曹に殺される。

2009年12月29日

GYAO配信 兵隊やくざ大脱走

大映
1966年
80分
 勝新の「兵隊やくざ」シリーズ第5作。監督・田中徳三。白黒映画。脚本は舟橋和郎。撮影は武田千吉郎。音楽は鏑木創。編集・美術など第4作とは異なるスタッフ。田中徳三は抒情味のある画面を撮る。

 ソ連が攻撃をして満州の戦線は一触即発だった。朝倉隊は玉砕を覚悟の戦車壕掘りを命ぜられていた。兵隊どうしの花札でイカサマを見破った大宮。大げんかになる。修羅場になりそうなときに全員手紙を書けとの命令。家族にあてる遺書である。有田上等兵(田村高廣)は字の書けない大宮二等兵(勝新)のために、遺書となる手紙を書いてやった。
 大宮は偵察に出たときに慰問団の親子を救うが、男の子に変装していたのは若い娘・弥生(安田道代)だった。
 兵隊の好奇の目の前で弥生は「さくら」や「会津磐梯山」などを歌う。歌に浮かれて踊りだす大宮。
 納屋の弥生に会いに行った大宮は将校たちに殴られるが、最初は殴られていた大宮、途中から反撃に転じ、相手をぶちのめす。有田が止めに入る。
 准尉は列車に乗せる条件で将校に娘を抱かせるよう父親に命ずる。弥生は生きるために承諾する。一方、弥生のことが気がかりな大宮はヨウカンを持って夜中に納屋に行く。見張りの将校を殴り倒し、准尉を殴って外の柵にしばりつける。弥生に「自分も夜ばいに来たんだ」と告白する大宮。弥生は「ここにいてもいいのよ」と言うが、大宮は自分の寝床に戻る。翌朝、朝食の途中で准尉に呼ばれた大宮は三人にリンチを受ける。有田が体長に連絡して、体長が助けに入る。体長は慰問団の父娘を列車まで送る任務を大宮に与える。
 列車が出発しかけたとき、父娘は大宮を一緒に内地へ帰ろうと誘う。迷う大宮、しかし友だちを置いてはいけない。大宮が誘いを断って部隊へ戻ると、ソ連軍の攻撃を受け部隊は全滅していた。死体の山のなか、有田を探す大宮。
 爆風に飛ばされた有田は生きていた。生き残った二人は南へ向かう。途中でゲリラの攻撃を受けるがゲリラが集めた武器庫で将校の服を手に入れた二人は日本軍の将校に化けることにする。
 有田中尉と大宮少尉となった二人は柳田大尉(内田朝雄)率いる部隊にもぐりこむ。質疑で化けの皮がはがれそうになる大宮。学徒兵に花札を教えたり、対戦車攻撃を教える羽目になるも、勝てるわけがないと昼寝を決め込んで、かえって部下の信頼を得る。
 もと憲兵の身分を隠して上等兵になっている青柳(成田三樹夫)が二人の正体を知って接近してくる。朝鮮を経由して逃げる計画に加担してくれというのだ。有田は断る。
 翌日、斥候に出た大宮は北満開拓団の老人に出会う。サンカタンに病人や女、子供が取り残されているから助けてくれというのだ。有田が老人を伴って大尉に交渉する。しかし、大尉は撤退作戦に支障をきたすと断る。有田は食い下がる。困っている同胞を見捨てていいのか。トラック1台と下士官5名、自分と大宮で開拓団民避難の任務をやり遂げるという。大尉はしぶしぶ承諾する。
 選ばれた5人のなかに青柳も入っていた。トラックの荷台で青柳はトラックを乗っ取り、朝鮮へ逃げようと提案する。最初は疑心暗鬼だった兵隊たち(伊達三郎ら)も、有田らがニセ将校と聞いて意を決した。くぼみに車を取られて空回り、いったん降りて押し、くぼみを脱した直後に、有田らに銃を突きつける。青柳の行為に大宮は怒り、二人は争い、大宮が青柳を刺しそうになる。それを有田が止めて、いかにも自分たちはニセ将校だが、諸君の家族と同じ同胞を救う任務は成し遂げたいと主張する。共感したみんなは行動を共にする。青柳も連れて行く。
 サンカタンで病人と幼児をトラックに乗せる。学齢児童と大人は歩く。バショウまで50kmの道のりだ。途中で共産ゲリラの襲撃を受け、青柳が死亡する。「こんど生まれてくるときも又、悪党さ」という言葉を遺して。
 夜間の行軍もあって無事にバショウに到着することができそうだ。「完」。

        映画川柳「満州の 荒野を歩く 思い出に」飛蜘  

2010年1月
8日


DVD
兵隊やくざ 俺にまかせろ

大映
1967年
89分
 シリーズ第六作。脚本・高岩肇、監督・田中徳三。撮影・宗川信夫、音楽・鏑木創。
 昭和二十年北満。前作のラストで軍隊に戻ってしまった二人は、特攻訓練をきびしく指導する岩兼曹長(内田良平)の木崎独立部隊に入っていた。孟家屯付近である。部隊長(須賀不二男)と田沼参謀(渡辺文雄)は、徐々に南方に対応する作戦に変更しなければならないとの命令を受けていた。田沼は中国人の密偵・趙を使っていた。趙はゲリラは撤退気味だと報告する。
 兵舎の大宮に会いに来る木崎隊の三人と殴り合う大宮。部隊長は孟家屯付近で襲撃を受けたという情報を受け、趙からの情報と異なるのを気にする。
 物干し場で下着が一枚多いのに気付いた竹内(酒井修)は一枚を懐に入れる。その後、盗みの調べが入る。鉄拳制裁が始まり、大宮は自分が盗んだと申告するが、有田は目撃兵がおどおどしているのに気付き、「盗んだのがそっちのほうが先らしい」と喝破する。竹内は自分が盗んだと言うがもはや紛糾してしまい、名誉が傷ついた岩兼は怒る。岩兼は大宮と外に出て、「軍律なし」の約束で殴り合う。ところが、参謀に止められる。私闘は禁止だ。「上官を殴るとは」と大宮が処分されそうになるので、岩兼は弁護する。しかし、田沼は耳を貸さない。怒った大宮は田沼の参謀憲章をむしり取ったため、なおさら罪が重くなる。重営倉である。
 田沼と小学校で同級生だった有田は大宮を許してくれと依頼するが、田沼は「私情を捨てること」こそが出世には大切だと主張する。有田は貴様は野元きぬ子を捨て、中将の娘と結婚、きぬ子は自殺した、そんな都合のいい私情があるもんか」と非難するが、田沼は「公私混同はしない」と強硬だ。
 有田は営倉の大宮にタバコを差し入れ、さらに缶詰を差し入れして落としてしまい、見張りに発見され、自分も営倉入り。わざと入ったのである。
 一方、部隊には孟家屯(モウカトン)から緊急連絡。敵襲だという。田沼は2個分隊で行かせると主張する。隊長は1個大隊でも大変だと言うが田沼は耳を貸さない。岩兼部隊に命令を告げる。田沼は密偵にも部隊の動きを伝える。岩兼は密偵なんかに軍を動きを伝えるのはと懸念を表明するが、田沼は問答無用だ。後の展開で田沼はこの密偵の裏切りを計算していたことが分かる。二人も営倉から出され、木崎部隊へ入る。
 トラックで進行中、敵が鏡で連絡し合っているのを目撃。完全に動きが読まれているようだ。馬ですれ違った農夫も無線機を隠して運んでいた。運転手の横井が撃たれ、野火で火葬した。
 周りは敵でいっぱいだ。有田は「田沼を幼な友達だからと信じた俺が悪い」と話すが、大宮は「くよくよしないでのんびりいきましょう」と前向きだ。街にはまだ慰安所があった。今日で閉所、最後の晩だった。大宮は第1作の音丸の妹分(長谷川待子)と部屋に上がる。「さらばラバウルよ」の歌声が聞こえる。
 翌日、トラックで移動中に民家付近から襲撃され、防戦。民家には傷ついた女・秀蘭(渚まゆみ)が隠れていた。女は日本語が分からないらしい。岩兼は運転出来る大宮にトラックで女を町へ送らせる。有田も一緒だ。途中で女は熱を出す。弾が入ったままだからだ。このままでは死ぬ。有田と大宮は女の弾を抜く。しばらくして、ゲリラに襲われ、有田は崖から追い落とされる。大宮はゲリラに捕われる。秀蘭は趙の妹だった。彼ら兄妹の両親は日本軍に殺された。一方、前線でも、もと時計工の竹内(酒井修)は時計の修理に余念がない。大宮が運転したトラックが発見されたという情報が岩兼隊の野口通信士に入り、彼は投降したかと疑う。
 有田はゲリラに捕われた。大宮のもとへ秀蘭が来てロウソクを消す。いよいよ死刑の宣告かと覚悟する大宮に、秀蘭は「あなたの思い通りにして下さい」と話す。日本語ができたんだ!目覚めると、枕元に匂い袋があり、「もう二度と会えないでしょう。孟家屯には行かないで下さい」と書かれた手紙が置いてあった。しかし、大宮には字が読めない。外へ出るとゲリラは出発してもういなかった。荒野で有田は木に逆さに吊るされていた。有田を救出して大宮は義侠心のあった岩兼懐かしさに孟家屯に行く。
 岩兼はトーチカにたてこもって防戦していた。大宮と有田は後方からゲリラを撃つ。
 景徳珍の大岡部隊が無事集合したことが参謀のもとに入る。岩兼部隊の動きは敵の攻撃を誘導するための偽装だったのだ。援軍を投入せず、死守せよとの命令に首をかしげ、さらに大岡部隊集結を知って、岩兼は利用されたことに気づく。「俺たちを囮にしたんだ」と。
 やがて、岩兼も銃撃で倒れた。二人がやっとトーチカ内に駆け付ける。死に際に岩兼は「敵と闘って死ぬのは本望だが、味方に騙されるのは御免だ」と言う。
 トラックで二人は景徳珍に向かう参謀の車を待ち伏せ、田沼を殴って、荒野に置き去りにする。

        映画川柳「最期まで 直した時計が 爆風に」飛蜘

 前作で、既に満州はほとんど負け戦さ。軍隊の規律もゆるんで、二人は脱走していたので、本作の話には無理がある。

2010年1月8日


DVD 兵隊やくざ殴り込み


大映
1967年
89分  シリーズ第七作。脚本・笠原良三と東条正年、監督・田中徳三。撮影・武田千吉郎、音楽・鏑木創。

 二人が居候している部隊の分隊長(伊達三郎)に大宮と水巻は郵便物受領を命ぜられる。郵便物の中に大宮宛てがあり、字の読めない大宮はきっと梅香からの手紙だろうと水巻に読んでもらう。軍旗室の前だったので通りがかった香月少尉(細川俊之)に制裁されるが、水巻をかばった大宮は香月に戦友をかばったことをほめられる。上官からほめられたことのない大宮は香月に一目おく。分隊へ戻る途中で糧食を取りに行った黒磯一等兵(丸井太郎)に会った大宮は見張りの班長を気絶させ、油を奪い、池へダイナマイトを放り込ませて魚を捕り、天ぷらにする。上官に見つかるが分け前をやる約束。食事時間にみんなで魚を食べるが、有田は臭いが変だと食べない。点呼があるが、有田の分まで食べた大宮は腹痛。腹下しで便所にかけこむ。次々に兵隊たちも同様に。有田は油がヒマシ油だったと推定する。混雑する便所の使用区分でトラブル。 
 連隊は軍旗に敬礼。大宮「(軍旗がみすぼらしいので)ハタ作る布がない」、日本もおしまいだと感ずる。相撲大会で大宮が勝っている。決勝戦の途中で女郎たちがやって来る。女のなかに明美(野川由美子)がいる。ヨソ見をしていた行司役の赤池曹長(南道郎)は大宮が負けたと判定、それを香月少尉が正して大宮の優勝と決まる。大宮は優勝でもらった酒を「少尉と一緒に飲みたい」と少尉の部屋を尋ねる。読書中だった少尉が女は未経験だと聞いて大宮は驚くが、酒もそこそこに自分は慰安所へ急ぐ。近道をしようとしてかえって泥池に落ちてしまう。慰安所に着くと有田が待っていた。女はほとんど残っていない。大宮にあてがわれた女、さつき(岩崎加根子)は与謝野晶子の短歌や詩の話ばかりする文学少女で大宮は閉口する。なにわ節を歌ってごまかすが・・・。赤池曹長と滝島准尉(小松方正)は香月や大宮に不満をもらし、大宮から有田を切り離す計画を練る。
 霧の夜、遠くに信号灯が上がる。他の部隊が全滅したとのことで、分隊に斥候の命令が出る。有田には急に師団で暗号教育を受けよという転属命令が出た。滝島の陰謀である。期間は三か月、有田は大宮宛ての手紙を書いて枕にはさむ。斥候から帰った大宮は有田がいないので悶着を起こす。戦友が手紙を見つけるが大宮には字が読めない。
 赤池は慰安所の上がりをピンハネしている。稼ぎが悪い女郎をもっと働けと殴る。大宮が分隊を無断で外出、さつきを尋ねて来る。手紙を読んで欲しいのだ。赤池に殴られたさつきに代わって病気の夕子が読む。有田は自分が帰るまで無茶をせず我慢しろと書き置いていた。しかし、大宮は女を殴った赤池を殴り、重営倉の処分を受ける。赤池や滝島は大宮に減食や苦役(肥かつぎ、薪割り)を課す。通りがかった明美が止めた。 
 一方、ひどい懲罰を目撃した水巻は香月少尉に直訴、少尉は副官・影沼(安部徹)に正当な扱いを要求するが、副官は大宮は上官侮辱罪、再考の余地はないと冷たい。明美が大宮を優しく誘惑し、大宮もその気になるが、副官室に急に副官がもどってきて、かえって重い懲罰を受けてしまう。営倉で手足を縛られて転がっている大宮。
 有田が成績優秀でひと月半で復帰して来た。有田は営倉の側で見咎めた士官に大声で返答し、大宮に自分が帰って来たことを知らせる。少尉は有田と話す。少尉が手を回して原隊復帰を早めたのだった。
 有田は赤池や滝島、影沼らの不正を暴露する遺書を暗号書にしたと、脅喝し、大宮を暗号室勤務にしろと申し入れる。暗号室勤務になった大宮に有田は戦局がいっそうあぶないことを告げる。久しぶりに有田に公用章を渡された大宮は途中で農家のアヒルを取って、明美のもとへ。しかし、慰安所は閉鎖、明美は称徳の日本人は張家江まで引き上げろと命令が出たと説明する。俺たちは綺麗なままで別れるんだなと感慨にふけっている・・・ヒマはなかった。死んだ夕子を見捨てて出発しようとする女郎屋の主人を殴り、女たちと別れた大宮が、分隊でも夕子の霊を弔っているときに、緊急指令が入り、非常呼集がかかる。 
 軍旗を移動する命令を受けた香月少尉の分隊は谷間に入ったところをゲリラに撃たれる。通信で襲撃場所が大岡廟付近と聞いた大宮はひとりで駆け出す。
 殴り込みといっても、大宮が着いたときにはもはや分隊は全滅していた。ゲリラがたてこもる民家のヤグラにボロボロの軍旗が上げられていた。その軍旗を取り戻すために大宮は敵の民家に突っ込んでいく。途中、転がっていた赤ん坊を抱き上げ、ケガをした中国人の母親に返す大宮。そのときは撃つのをやめた抗日軍。ひとりで突撃し、軍旗を奪還した大宮。軍旗を奪還を使命としてやって来た分隊に会い、先頭に立って香月少尉の軍旗とともに帰還する。
 暗号室では資料を燃やしていた。有田「戦争は終わっていたんだ」。大宮はそれならまだ「後始末がある」と、将校室へ。三人が貴重品を分けあってていた。大宮「日本が負けりゃ軍隊なんかないんだ」と彼らを殴り倒す。日本で悪いことをしていたらぶっ殺すゾと。
 有田は大宮に「これからはお前が俺の上官だ」と告げる。二人は意気揚々と軍隊を出て行く。

        映画川柳「ボロボロの 軍旗が重い 命より」飛蜘

 戦争が終結していたのに、軍旗を護送する命令に準じる無意味さが際立つものの、大宮ひとりでゲリラを全滅させる展開は非現実的に過ぎる。あり得ない。カッコ良すぎ。前作の『俺にまかせろ』のトーチカ奪還もあり得ない戦闘だ。こうして見ると、やはり第四作『兵隊やくざ脱獄』が前半の刑務所と後半の最前線との対比も鋭く、原因不如意な喧嘩もなく、傑作でした。

2010年1月9日


DVD 兵隊やくざ強奪

大映
1968年
80分
 シリーズ第八作。脚本・舟橋哲郎と吉田哲郎、監督・田中徳三、撮影・森田富士郎、照明・伊藤貞一、美術・内藤昭、音楽・鏑木創。戦争が終わった中国を舞台に欲の渦巻く人間模様が展開する。『兵隊やくざ脱獄』に次ぐ傑作でした。

 戦争が終わり、敗走し南下する兵隊は満人の武装蜂起に出会い、途中で殺されることも多かった。柵や木に吊るされた兵士たちを有田と大宮は目撃する。瀕死の兵士たちに残った乾パンを与える二人。その後、終戦を信じない関東軍に監禁された。中隊長は加藤(須賀不二男)。抗日ゲリラの女(佐藤友美・松竹)を取り調べる松川大尉(夏八木勲・東映)は拷問に耐える女を銃殺にする決定を下す。
 途中で助けた兵隊たち(江守徹、千波丈太郎)が抜け穴を使って牢屋に来るが自分たちだけ小屋の缶詰を持ち去り、有田と大宮を救出しない。ネズミが縄を噛み切って、外に出た二人は銃殺直前の女を助けた。しかし、途中で女は姿を消し、代わりに赤ん坊が棄てられていた。大宮は赤ん坊を助けようと言うが、有田は世話ができんと捨てておけと言う。いったんは棄てたままにしておこうと思ったが泣き声を聞くと、二人は非人情を貫くことができない。赤ん坊と一緒の旅になる。有田は離ればなれになったときの落ち合う先は宋家屯と決める。赤ん坊は深川の手ぬぐいを持っていた。日本人の子であろう。
 ヤギを盗もうとする大宮。そのとき、有田は民族解放軍に捕縛された。赤ん坊は置き去りだった。解放軍は日本軍に奪われた軍資金十万ドルを探索していた。有田は金のありかを知っているとウソをつく。見張りを分け前で騙して脱出する有田。支那服を着てごまかす。
 極悪兵隊たちは加藤部隊が全滅した跡を探す。松川はいない。十万ドルを盗んだ兵隊というのは松川たちだった。兵隊たちは大宮と出会う。大宮は意趣返し、そこへパーロ(八路軍)が来る。喧嘩を止めて岩陰に隠れる男達。折悪しく赤ん坊が泣きだす。泣かすなと押さえこまれた赤ん坊は死んだ。怒る大宮、しかし赤ん坊は死んでいなかった。大宮は兵隊たちが松川と盗み。横取りされたという金貨を分けると言われるが、断る。その代わり、かれらの持ち金を奪う。
 ヤギと出会った有田は泣き声を手がかりに大宮を探すが、泣いていたのは別の赤ん坊だった撃たれて足を負傷する有田。 
 一方、赤ん坊と大宮は中国人と出会う。強い人を探しているという男はクラブで接待の女(小林直子)を紹介する。その後、クラブのボスから大宮は博打場の三人(金内吉男ら)を片づけてくれと依頼される。大宮は賭け勝負に出て、彼らのイカサマを暴くが、実は彼らは解放軍、大宮は外を出たところを連れさられる。解放軍交渉係(伊達三郎)に金のありかを問われるが、大宮には分からない。言い残すことを聞かれて赤ん坊のを面倒みてくれと頼む。銃殺直前に部屋に来た女が釈放を命令する。サングラスを取ると女は大宮が助けた秋蘭だった。彼女は日本の学校を出て日本人が好きだという。しかし、盗まれた軍資金を取り戻さないと日本人を帰国させることはできないと言う。大宮は「俺は日本男児だ」と、金を取り戻す約束をする。 
 クラブのボスの正体は松川だった。松川は自分の正体を知る助手と女を殺して日本へ逃げようとしていた。車で逃走する途中、加藤部隊の全滅の跡へ立ち寄った。焼け跡から隠した金貨を掘り出すのだ。車に潜んでいた大宮が現れる。金の袋が掘り出されて二人の争いになる。二人がもみあううちに拳銃が発砲。倒れたのは松川だった。
 10万ドルを解放軍に返す大宮。足止めをくっていた日本人が帰国できることになった。あの極悪兵隊たち三人もトラックに乗っていた。大宮は三人に金を返す。有田を探すが見当たらない。トラックが出た後で、荒野を足をひきずって歩いてくる有田の姿があった。再会を喜ぶ二人。赤ん坊と一緒に内地へ帰って、隅田川のポンポン蒸気に乗らなくちゃとはしゃぐ。

       映画川柳「日本兵 解放軍から 強奪す」飛蜘

 だいぶ後に制作された唯一のカラー作品『兵隊やくざ火線』(増村保造監督)を除き、白黒の『兵隊やくざ』シリーズを全作見た。ベスト3は(1)『脱獄』、(2)『強奪』、(3)第一作となる。これらはどの作品ももっと高く評価されてよい。

【参考書】『RESPECT田中徳三』(シネ・ヌーヴォ、2006)より、田中徳三いわく、
 “だんだんと話が、軍隊から離れていくのが多くなってきて。最後のほうは、戦争が終ってね。そうなってくると、面白くない。痩せ衰えた「兵隊やくざ」になって。敗戦で、ごったがえしてるような、そこでなんぼ大宮が暴れ回ったって、面白くならないですよ。だから、話自体が作りようがなくなるわけです。僕が撮った最後は、68年の『兵隊やくざ 強奪』ですか。このへんはね、民間人になってる大宮とか、やっぱり魅力がなくて、話自体がつまらなくなってますね。まァ、シリーズものというのは仕方がないね。
 だから「兵隊やくざ」に関しては、ひっくるめてね、その作品がどうこうっていうのじゃなしに、シリーズというものがね、だんだんと先細りっていうかね。手がなくなっちゃうんだあなぁ。”

■森繁久弥氏が亡くなったが、追悼記事のなかに『森繁自伝』が傑作と書かれたものがあった。そこで、古本屋で探して入手し、読んで見たら、これが大傑作であった。
 森繁一家は満州で7年間生活しているが、敗戦時の満州は大混乱であった。『兵隊やくざ 強奪』もかくやと思える話が満載、とても大きな声では言えないエピソードもあり、小説以上の面白さであった。
 モラルを無くした人間の動物的生活が彷彿とさせられる場面ではしばしば『兵隊やくざ』の映画の場面も思い出された。現実は映画以上に悲惨だったのだ。

■「週刊文春」2016年2月11日号<春日太一の木曜邦画劇場第178回>で『兵隊やくざ 強奪』を取り上げた。兵隊やくざを「BL(ボーイズ・ラブ)眼鏡」をかけて見ると、大宮と有田の関係はただごとではない、8作目で二人はもはや子育てをしている夫婦にしかみえない、当時の日本映画の先進性に感心しないではいられないという指摘である。本作を肯定的に評価した初めての批評。
ビデオもDVDも未発売

2007年6月にCS日本映画専門チャンネルで3回放送されたことがある

2016年2月4日BSプレミアムで放映

(とうとう見られました)
新兵隊やくざ 火線


東宝
1972年
92分
 これだけカラー作品で、第8作の続編ではない。
 増村保造監督作品。大映が倒産後だったので勝プロ製作で、配給は東宝。
 監督・増村保造、製作・勝新太郎・西岡弘善、原作・有馬頼義、脚本・増村保造・東条正年、企画・久保寺生郎、撮影・小林節雄、音楽・村井邦彦、美術・太田誠一、編集・谷口登司夫、録音・大谷巖、スチール。小山田幸生、助監督・遠藤力雄、照明・中岡源権

 (あらすじ gooによる)[桃色文字は池田の追記]
 どこの部隊でも、もてあまされた大宮一等兵(勝新太郎)と有田上等兵(田村高廣)。昭和19年、北支の最前線の北井小隊に、転属命令という名目で、ていよくほうり出された。戦争嫌いの北井小隊長(大瀬康一)と抜群の戦争屋神永軍曹(宍戸錠)の指揮下に入った大宮と有田は、八路軍のスパイとして連れて来られた黄少年の事で早速、ひと悶着。少年は北井小隊に協力している村長・王(大滝秀治)の息子、黄(坂本香)であるが、スパイと決めつける神永軍曹は、大宮に殺せと命じたのだ。大宮は、子供を殺したくないと、その馬鹿力で神永軍曹をやっつけてしまった。それがきっかけで、少年の姉である美人の芳蘭(安田道代)と知りあえる。神永軍曹も、芳蘭に目をつけており、大宮と神永の対立は激しくなっていった。
 その頃、北井小隊周辺の情勢は急速に緊迫していた。八路軍の動きが激しくなり本部から連絡のトラックは全て爆破されてしまっていた。日本軍の情報が全てキャッチされていることは疑う余地もなかった。河村兵長(松山照夫)、近藤一等兵(滝川潤)、下士官(勝村淳、橋本力)。
 だが、スパイが何処にひそんでいるのかまるで見当がつかないまま、北井小隊は孤立状態を続けるしかなかった。隊の全滅は目の前に迫っている。神永軍曹は、芳蘭にスパイ容疑をかけた。
 北井小隊長は、有田に大宮に芳蘭を口説きおとせと、スパイ捜査を命じた。有田は自分には出来ないと断り、その役目を大宮に依頼する。前線でイチャつく大宮を神永は射殺してしまえと命ずるが、命じた斥候がちょうど敵に撃たれてしまった。ことは急を要する。三日の猶予が「すぐ」に短縮されてしまった。強引に芳蘭を抱きしめ接吻し、スパイなのかと率直に聞く大宮に、芳蘭は自ら八路軍のスパイであることを自白し、今夜、八路軍の夜襲があると教えるのだった。
 北井小隊は、芳蘭のおかげで、八路軍を撃退したが、芳蘭を逃がした大宮は、神永軍曹に叩きのめされ重営倉入り。芳蘭の弟に救い出され、芳蘭に八路軍に入らないか、と言われて、大弱りする。その頃、二回目の八路軍の襲撃で、北井小隊長は死に(スパイ容疑で村長を殴り殺した神永は戦闘後に営倉入りを命じられた。神永は河村に命じて陣地内で小隊長を射殺する)、小隊は壊滅状態になっていた。
 芳蘭の機知で、中国服に着がえた大宮は、有田を探し出すべく火線(最前線)を突破し、日本軍部隊の中へ舞い戻ったが、変装がバレて脱走兵として一室に監禁されてしまった。そしてその部屋には探していた有田もいた。
 生き残っていた神永軍曹は、ぬけぬけとその部隊の一員として、大宮・有田を裁く側に立っていた。大宮・有田の危機に、芳蘭は神永軍曹の前に身を投げだして二人の命を救った。
 悪らつな戦争屋神永軍曹への激しい怒りが大宮の身体を走った! 大宮の手に黒く光った軽機銃が固くにぎりしめられた。

【かぽんのこだわり道場ミリタリー館】より参考の「あらすじ」
 厄介者扱いの有田上等兵と大宮一等兵は北支の前線部隊である北井小隊に転属を命じられる。小隊長の北井少尉は中学出の幹候で戦争嫌いの温厚な性格だが、隊で実質的に権限を握っている分隊長神永軍曹(宍戸)は狡猾で汚い性格だった。
 転属移動中に有田と大宮の乗ったトラックが八路軍に襲撃され、奇跡的に有田と大宮だけが助かる。しかし、その場で北井小隊が駐屯する村の村長の息子(少年)がスパイとして捕まる。北井少尉は親日派の村長の息子がスパイのはずはないと反論するが、神永軍曹は独断で少年の処刑を大宮に命じる。大宮はあの手この手で神永を愚弄し、処刑を中断させ、ようやく北井少尉の命令で少年の命を助ける事が出来る。
 その晩、少年の姉芳蘭が大宮のもとを訪れ、お礼として鶏を置いていく。大宮は美人の芳蘭にすっかり一目惚れする。しかし、芳蘭を狙っていたのは大宮だけではなかった。神永軍曹も目を付けており、スパイ容疑という名目で芳蘭を犯そうとした。間一髪の所で大宮は芳蘭を助けるが、芳蘭がスパイではないかという容疑は晴れたわけではなかった。
 北井少尉は大学出の有田に、芳蘭と恋仲になってスパイかどうかを探れと命令する。有田は大宮が芳蘭を好いている事を知っており、大宮にその役目をやらせる。大宮は、芳蘭を宝物のように思っており、なかなか手を出す事ができない。期限の日が迫り、ついに大宮は手を出そうとするがするが、芳蘭はそれに先んじて「八路軍が12時に南から攻めてくる」との情報を教える。芳蘭はやはりスパイであったが、大宮の事を好きになっており情報を教えたのだ。しかし、そのまま報告すれば芳蘭は処刑されてしまうため、大宮は芳蘭を逃がしてから報告する。  神永軍曹は敵を逃がした罪で大宮を処罰すべきと進言するが、北井少尉はまずは敵襲に備えるべきとする。案の定、時間通りに敵襲があり、準備していた日本軍は八路軍を撃退する。撃退後、大宮は敵を逃した罰としてタコ殴りにされて営巣に入れられる。その晩、村長の息子が大宮のもとに忍び込んできて、芳蘭のもとに手引きする。
 八路軍の芳蘭のもとに行った大宮は、芳蘭から八路軍に入らないかと誘われる。一旦は断った大宮だったが、芳蘭の魅力に次第に惹かれていく。しかし、芳蘭から今晩も日本軍襲撃があるとの情報を聞いた大宮は、残してきた有田上等兵が心配になり、急いで村に戻る。  村の日本軍は敗退し、そこには北井少尉の戦死体があった。しかし、有田の姿も神永の姿もない。実は、北井少尉は神永軍曹に殺され、有田は拉致されていったのだ。
 その後、芳蘭から有田の居場所がわかったことを聞き、大宮と芳蘭は中国人に化けて潜入する。しかし、これは罠であり芳蘭もろとも捕まってしまう。有田、大宮、芳蘭は縛りつけられ、銃殺だと伝えられると、芳蘭は神永軍曹の女になる代わりに二人を釈放するよう頼む。神永軍曹はこの条件を聞き入れ、清い関係のままだった大宮の目の前で芳蘭を犯すのだった。
 翌日二人は放免となったがそれも嘘だった。銃殺される直前で、二人は八路軍に助けられる。武器をもった大宮は単身神永軍曹のもとに戻る。神永軍曹との素手での決闘の末、芳蘭が拳銃を手にした神永を銃殺し、二人は八路軍のもとに戻る。「神永に抱かれた私を嫌いか」と問う芳蘭に大宮は半狂乱になる。それを見て芳蘭は無言で去っていく。後に残った大宮と有田は中国人の服を着て再び歩いていくのだった。

  【かぽんのミリタリー道場より、作品評価】 やくざ上がりの大宮一等兵とインテリの有田上等兵の織りなす、娯楽アクションシリーズだが、本作は初めてのカラー作で製作も大映から東宝に代わり、勝プロが製作に関わっている。従って、これまでのモノクロシリーズ8作とは連続性はなく、独立した内容と捉えていいだろう。
 カラー作品ともなると作品のイメージがガラッと変わる。モノクロだと映像の粗が目立たないがカラーではそうはいかない。どうしても背景や小道具等の出来具合が問題となる。そう言う意味では、本作はそれなりにしっかりしているし、モノクロ作品ではあまりわからなかった軍装がなかなかリアルであるということもわかった。軍服がカーキ色になっただけでこれほどまでにリアル感が増すというのは驚きでもある。
 ただし、内容の出来はお粗末。ストーリーはこれまでのモノクロシリーズと似たようなものだが、八路軍スパイの女と恋仲になってしまう大宮一等兵(勝)は、以前のような豪放さやスケベさはなく、八路軍側につく売国奴のようなイメージである。勝プロの意向なのかどうなのかは知らぬが、人物設定に変化が見られるし、中国への配慮なのか八路軍が美化されているのも気に入らない。芳蘭の台詞「八路軍は、盗むな、嘘つくな、捕虜殺すなが規則だ」など、どこからそんな馬鹿なイメージが出てきたのだろうか。
 それにも増して最悪なのは音楽効果。八路軍女スパイ芳蘭との逢い引きシーンになる度に、「チャラリーン」とエレクトーンの間抜けな音楽が入る。余りに兵隊やくざシリーズとは相容れないメロディはどうしてしまったのだろう。本作がもとから単発のつもりだったのかもしれないが、続編が出なかったのは正解だと言える。これ以上、兵隊やくざのイメージを崩すべきではないから。
 戦闘シーンは冒頭の場面だけはそこそこ迫力があるが、それ以降はどんどんしょぼくなっていく。また、モノクロシーリーズにも増して大宮の神懸かり的戦闘に拍車がかかり、スタンディング機銃撃ちや弾丸飛び交う中を両軍陣地を走り抜けるなどもう無茶苦茶。迫力があるわけでもなく、リアル感を損ねているだけ。
 勝プロが関わったせいであろうが、本作は大宮一等兵にかかるウエートが非常に高い。有田上等兵の出番は極端に減り、完全に脇役扱い。どういうつもりで製作したかは知らぬが、結果的には兵隊やくざに泥を塗った形だ。宍戸錠の悪役軍曹役は本当に悪そうな奴だ。

 「兵隊やくざ」シリーズの根底に流れているのは<敵は軍隊にあり>というもの。その主張が明快に出たのがこの第9作。軍隊の非道さが神永(宍戸錠)に仮託して描かれる。こんなにも味方の兵隊を弾圧してしまっては、戦闘にならない。唯々諾々と上官・神永の命令に従う兵隊たちも情けない。それと比べての大宮の奮闘ぶりはリアルさを欠いてしまっている。







シェイクスピア作品の映画化やその関連の映画は除く。
それらは別ファイルになっている。→ 『シェイクスピアの劇と映画』


  BACK TO 私の名画座       森崎東全作品・資料

| 未分類 | コメント(0)

専修大学 人間科学部 教授が語った本場ブラジルの柔術はストリートファイターのものというイメージが現地に定着しているのだとか








| 未分類 | コメント(0)

柔道金メダリスト内柴正人が語った柔術と寝技 内柴正人のツイートは本にすれば売れるでしょうね 確実に



CxsO8yYXUAAAWHY.jpg

| 未分類 | コメント(0)

アメリカ カリフォルニアにおける柔術のメジャー度を示す画像

| 未分類 | コメント(0)

柔術はストリートファイトで使えるのか? 実証例 ストリートファイトのフィニッシュはスタンドのギロチンチョーク!  グレイシー一族のヒーロン ヘナーがスタンディングギロチンの対処法を伝授!

| 未分類 | コメント(0)

地上最強の生物シリーズ  どっちが強い!?シリーズ1話無料配信 

どっちが強い!? ゴリラvsクマ 頭脳とパワーの大勝負
http://comic-walker.com/contents/detail/KDCW_CW01000067010000_68/
どっちが強い!? サメvsメカジキ 海の頂上決戦
http://comic-walker.com/contents/detail/KDCW_CW01000068010000_68/
どっちが強い!? ライオンvsトラ 陸の最強王者バトル
http://comic-walker.com/contents/detail/KDCW_CW01000066010000_68/

どっちが強い!? ライオンvsトラ 陸の最強王者バトル (角川まんが学習シリーズ)
スライウム メング ブラックインクチーム
KADOKAWA (2016-11-22)
売り上げランキング: 26,796

どっちが強い!? サメvsメカジキ 海の頂上決戦 (角川まんが学習シリーズ)
スライウム メング ブラックインクチーム
KADOKAWA (2016-11-22)
売り上げランキング: 18,955

どっちが強い!? ゴリラvsクマ 頭脳とパワーの大勝負 (角川まんが学習シリーズ)
スライウム メング ブラックインクチーム
KADOKAWA (2016-11-22)
売り上げランキング: 32,562

| 未分類 | コメント(0)

地上最強の生物にして人類に次ぐ最悪の生物? チンパンジー 弱者保護、障害者支援といった価値観を共有して人間社会で行われていることは、類人猿から受け継いだもの 同種間で殺し合いをする、つまり「戦争する」というのは進化の過程で受け継いだ自然の習性であり、人間の本能に根ざした行動である、と考えなければいけないのでしょうか 私たちが「類人猿から進化した動物」である以上、同じ人間に暴力で訴えかけようと心が傾くことがあるのは、やむを得ないことなのかもしれません。しかし同時に「類人猿から進化した動物」だからこそ、チンパンジーたちのように暴力に訴えるのではなく、理性を用い、言葉を使って相手に自分の意思を伝えることができるのです。進化した人間同士は類人猿とは異なる方法で語り合うべきだと、私は思います。






















sn-chimpsH.jpg
laqoA8YLIC7_zicYWxe89slO52Dpimw5xfiLIj5U914.jpg
62aaeeda143ebe680810b0c296e7b2d3.jpg
maxresdefault3.jpg
http://animallover.hatenablog.com/entry/2015/11/16/173546
mig2.jpg


2015-11-16

チンパンジーから受け継いだ「殺し合い」の習性と進化した人のとるべき行動

チンパンジー








list




Share on Tumblr





f:id:georgekato:20151116165653j:plain



先日、京都大学などの研究者たちで編成された調査チームが、タンザニアにある国立公園で野生のチンパンジーを観察し、「重度の先天的障害のある赤ん坊が2年近く生存した」という実例を発表しました。



母親が子育を放棄し見捨てられてしまう可能性もあったなか、この赤ん坊は過去2年間にわたり母親や姉妹などに手伝われて生き延びることができたのです。



研究者は「障害者などの弱者をケアできる人類社会の進化基盤を考察する上でも重要な観察事例」としています。



弱者保護、障害者支援といった価値観を共有して人間社会で行われていることは、類人猿から受け継いだものという見方を提示する発見です。



チンパンジーは最もヒトに近い動物といわれています。



チンパンジーとヒトに共通に見られる行動や習性は、ヒトが類人猿から受け継いだものである、と一般的に考えられるようです。





【チンパンジーも「戦争」する?】

同様のことは「集団で戦う」という行動にも当てはまるかもしれません。



f:id:georgekato:20151116143810j:plain



1960~70年代にかけて、同じくタンザニアに生息するチンパンジーを観察していた研究者は、チンパンジーが食料を求めて争いを行い、その結果、仲間のチンパンジーを殺害した、ということを発見したのです。



二つのグループ間で発生したこの争いは、大きいグループが小さいグループの領土に巧妙に入り込み、「敵」グループのチンパンジーを見つけると殴り殺してしまう、という残酷なものでした。



f:id:georgekato:20151116143833j:plain



そして調査を進めてゆくうちに、さらにショッキングなことが分かってきました。



この二つのグループは、その数年前まではひとつのグループとして行動していたことがあり、かつては一緒に行動し、一緒にエサを食べていた仲間同士が殺し合いをしていたという事実です。



f:id:georgekato:20151116143850j:plain



この研究者は、この事例がチンパンジーの社会でふつうに行われていることなのか、それとも事件的性質を持つ珍しい事例なのか、判断できませんでした。





【「殺しあう」性質は先天的なもの?】

かつてアメリカの文化人類学者は、チンパンジーもヒトも先天的に相手の命を奪うような争いをする要素を備えている、とする論文を発表したことがありました。



自分たちの手元にある食べ物などの生活資源をより安全に確保するために、それを自分たちから奪ってしまう恐れのある同種を襲い殺す、というのは、進化の過程で動物に備わってきた本能である、という議論でした。



f:id:georgekato:20151116144022j:plain



この議論への反論もありました。



チンパンジー同士が殺し合いをしてしまうという事実はある一方、それは自分の身に危険を感じたり、貴重な食べ物を取られそうになったりしたときに防衛のために戦うもので、その結果、最悪の場合は相手を殺してしまうこともある・・・



チンパンジー同士の「戦争」というのは、決してチンパンジーの本能に根ざすものではなく、食糧入手困難な状況など彼らを取り巻く環境の変化が原因となり、同種間の争いに発展してしまう結果である、というのがその反論の主旨でした。



しかしこの論旨には賛成意見が多かったものの、決定的な根拠が見つからず、「チンパンジー同士は戦争をしない」という結論のためには不十分でした。










【やはり自然の習性の可能性が高い】

この論争が続くなか、2014年にあらためてアフリカのチンパンジー同士の殺し合いについて詳しい調査が行われました。



その調査の結果では、生活環境の変化とチンパンジー同士の殺し合いの発生確率には相関関係がない、という結果が出たのです。



f:id:georgekato:20151116144112j:plain



さらには、オスのチンパンジーが自分のグループの領土拡大のために、他のグループのチンパンジーを襲い死に至らしめる、という別の調査結果も出てきました。



この論争には決着はついていないものの、現時点では「チンパンジーは自分の利益のために同種を殺害する」習性がある、というのが有力な説となっているようです。



冒頭でも述べたように、チンパンジーに見られる習性は、進化の過程で「自然の習性」として私たち人間も受け継いでいる可能性が大きいと考えられています。



f:id:georgekato:20151116144142j:plain



では、同種間で殺し合いをする、つまり「戦争する」というのは進化の過程で受け継いだ自然の習性であり、人間の本能に根ざした行動である、と考えなければいけないのでしょうか。



現時点ではチンパンジーの習性についてすら明確な結論が出ていないため、それを人間が自然の習性として受け継いだかどうか、断定的なことは言えません。



しかし、現時点で入手可能なデータに基づく限り、これを覆せるような材料はないようです。





【進化した人のとるべき行動】

類人猿から進化したという事実がある以上、私たち人間は殺し合いをする動物であると開き直り、あきらめるしかないのでしょうか。



f:id:georgekato:20151116143934j:plain



チンパンジーが同種間で争うという事実は、本能レベルでの人との共通点を示してくれる一方、理性面での完全な違いを表しています。



チンパンジーは自分の主張を本能に従って暴力で示しますが、人は理性を使うことができる動物であり、自分の主張を暴力に頼らずに示すことができる動物です。



f:id:georgekato:20151116165157j:plain



私たちが「類人猿から進化した動物」である以上、同じ人間に暴力で訴えかけようと心が傾くことがあるのは、やむを得ないことなのかもしれません。



しかし同時に「類人猿から進化した動物」だからこそ、チンパンジーたちのように暴力に訴えるのではなく、理性を用い、言葉を使って相手に自分の意思を伝えることができるのです。



進化した人間同士は類人猿とは異なる方法で語り合うべきだと、私は思います。



f:id:georgekato:20151116165226j:plain

f:id:georgekato:20151117162034j:plain



参考: 

重度の先天的障害のある野生チンパンジーの赤ん坊の発見 — 京都大学

BBC - Earth - Do chimpanzee wars prove that violence is innate?

https://matome.naver.jp/odai/2141177989362228601


類人猿 チンパンジーの凶暴性
成獣のオスは、他の群れのチンパンジーを襲って殺すことがあるほど獰猛で攻撃的な一面を持っているため、猛獣と認識されている。

更新日: 2016年04月24日


inevergiveupさん









5

お気に入り

197194

view
お気に入り追加







チンパンジー





チンパンジー(Pan troglodytes)は、哺乳綱サル目(霊長目)ヒト科チンパンジー属に分類される類人猿である。



出典
チンパンジー - Wikipedia
























GettyImages















人間とチンパンジーの相違





DNAレベルの比較では、ヒトとチンパンジーの間で1.44%の一塩基置換(点突然変異)とそれに加えて68,000箇所の配列の挿入または欠失が生じていた。翻訳される231種類のタンパク質について比較したところ、83%でアミノ酸レベルの変化が生じていた。
チンパンジーとヒトのDNAの違いは1-4%程度との報告がある。上記の報告でもDNAについてはその範囲に収まるが、タンパク質レベルでの相違は大きく、これら二つの生物種の相違はかつて考えられていたよりも大きい可能性がある。



出典
チンパンジー - Wikipedia




















DNA



GettyImages




DNA










チンパンジーの凶暴性





握力200kg超える



出典
【パン君】チンパンジーが人間襲う理由wwwwwwwwww : なんJチャレンジ|2ch
























アマナイメージズ

チンパンジー by アマナイメージズ















木にぶら下がってスイングして移動できるんやで
パンチ力も尋常じゃないで



出典
【パン君】チンパンジーが人間襲う理由wwwwwwwwww : なんJチャレンジ|2ch



















成獣のオスは、他の群れのチンパンジーを襲って殺すことがあるほど獰猛で攻撃的な一面を持っているため、猛獣と認識されている。腕力が強く、車のフロントガラスを素手で叩き割ることができると言われる。一説に成獣は300kgもの握力があると推定されている。



出典
チンパンジー - Wikipedia



















チンパンジーて他の猿へいきで襲って食うし



出典
【パン君】チンパンジーが人間襲う理由wwwwwwwwww : なんJチャレンジ|2ch






















0:53




YouTube


【恐怖】チンパンジー凶暴化。Chimpanzee berserk - YouTube













1:48




YouTube


恐怖!! チンパンジーの凶暴さが解る大迫力な叫び。Fear! Cry berserk ...










人食いチンパンジー追跡=怪力で惨殺・シエラレオネ









出典
logchan.blog.fc2.com















アフリカ西部シエラレオネのタクガマ動物保護区域に住んでいるオスのチンパンジーが素手でむごたらしく人を殺害、顔面を食べて逃走した。当局が捜索の網を広げて追跡しているが、まだ捕まっていない。
この殺人チンパンジーは「ブルーノ」。保護区域管理当局によれば、米国人らを乗せた 車を襲い、こぶしで車のフロントガラスを叩き割った。シエラレオネ人の運転手は必死に逃げようとしたが、車は保護区域の建物に激突、身動きが取れなくなった。ブルーノは運転手を車から引きずり出し、首根っこを押さえつけて地面に叩きつけ、両手両足の爪をはがした上に、顔をむさぼって食べて殺したという。
 地元メディアによれば、この際、同乗していた米国人3人も負傷した。



出典
【国際】 殺人チンパンジー、車から男性ひきずり出し惨殺。顔面を食べて逃走…シエラレオネ★3 | 2ch検索























出典
ameblo.jp















ドイツの動物園で飼育員が襲われる事件が発生





ドイツのベルリン動物園でも、餌を与えていた館長が「ペドロ」(28歳のオス、群れのボス)に右手人差し指を噛み切られる事故が発生



出典
チンパンジー - Wikipedia



















アメリカで起こったチンパンジーが人間を襲った事件が発生





2009年2月、友人の飼っていたペットのチンパンジーに顔をむしられ、今年5月にアメリカでの顔面移植術の草分け、ボストンにあるハーバード大学医学部のブリガムアンドウィメンズホスピタル(Brigham and Women's Hospital:BWH)で手術をうけていたチャルラ・ナッシュ(57)の術後写真が公開されました。ナッシュによると口を動かすことができ、微笑むことはもちろん、娘と会話もでき、また匂いも感じられるということです。
手術は形成外科医のボーダン・ポマック博士以下30人の医師団により、20時間をかけて移植がおこなわれていました。



出典
【画像あり】チンパンジーに顔を12分間むしられ続けた女性、顔面移植が成功! - デスクトップ2ch























出典
breakingnew-site.seesaa.net







殺人チンパンジー トラビス







事故は2009年の2月、ナッシュが友人のサンドラ・エロールの家に訪れていたときに起こりました。とつぜんナッシュに襲いかかった14歳のチンパンジー、トラヴィスがナッシュの顔面に攻撃をくわたのです。トラヴィスは狂ったようにナッシュを襲い続け、その攻撃は12分間にも及んだといいます。
トラヴィスを止められなかったエロールは泣きながら警察に電話。銃で撃ってくれるよう頼み、結果トラヴィスはその場で射殺されました。
現場は惨憺たるもので、トラヴィスの毛と埃が舞った室内には、床にまるで挽肉器にかけられたような彼女の指が散乱し、ナッシュの上あごと鼻はむしられ、顔面にはトラヴィスの抜けた歯が食い込んでいるという凄まじさだったそうです。



出典
【画像あり】チンパンジーに顔を12分間むしられ続けた女性、顔面移植が成功! - デスクトップ2ch























出典
miekk.blog.fc2.com







事故後のナッシュ氏











出典
blog.goo.ne.jp







事故前のナッシュ氏







チンパンジーに襲われて顔面を失った米女性、移植後の写真公開 写真2 ...


http://www.afpbb.com/articles/-/2819639?pid=7628791


2011年8月12日 ... 公開されたカーラ・ ナッシュ (Charla Nash )さんの写真。左が襲撃される前、中央が襲撃された後、右が顔面移植手術の後(2011年8月11日公開)。(c)AFP/Courtesy of the Nash Family (L) /Brigham and Womens Hospital, by Lightc...










【米国発!Breaking News】チンパンジーに攻撃され視力と両腕を失った ...


http://news.livedoor.com/article/detail/8658337/


2014年3月22日 ... 米コネチカット州フェアフィールド郡スタンフォードで2009年、友人が飼育していた チンパンジー に襲われて視力と両腕を失ってしまった、シャーラ・ ナッシュ さんという60歳の女性。 チンパンジー が檻から出てしまったために戻るよう促したところ、 ...










チンパンジーに攻撃され視力と両腕を失った女性、州に153億円を求める ...


http://japan.techinsight.jp/2014/03/yokote2014032216090.html


2014年3月22日 ... 米コネチカット州フェアフィールド郡スタンフォードで2009年、友人が飼育していた チンパンジー に襲われて視力と両腕を失ってしまった、シャーラ・ ナッシュ さんという60歳の女性。 チンパンジー が檻から出てしまったために戻るよう促したところ、 ...










日本でもチンパンジーに人間が襲われる事件が発生


12





出典
hikidasinews.blog.fc2.com




パン君




お気に入り詳細を見る





先週、“パンくん”が女性を襲った。
 ステージが終わった直後、10メートル離れたところにいた20歳の女性に向かっていきなり駆け寄り、足首と腰、そして額にかみついた。ドクターヘリで緊急搬送されて全治2週間のケガだったという。
 いったい何のことやらという人もいると思うので、説明しておくと、パンくんとは日本テレビ系で放送されている『天才!志村どうぶつ園』などに出演している天才チンパンジーのことだ。「志村けんの隣で、揃いのオーバーオール着て座ってるアレね」と思い出した方も多いだろう。



出典
窪田順生の時事日想:天才チンパンジー“パンくん”の女性襲撃は予見されていた? (1/3) - Business Media 誠























出典
www.geocities.co.jp















チンパンジーのパンくん 女性研修生襲う 観客が目撃した衝撃の瞬間


http://jijinews777.seesaa.net/article/290823681.html


2012年9月7日 ... 速報ニュースや注目時事の真相・裏側 【衝撃映像含む】「チンパンジーの パンくん 女性研修生襲う 観客が目撃した衝撃の瞬間」の記事です。気になる注目ニュースや話題の時事ネタ。飛び交う噂や情報から、その真相・裏側に迫ります。










パンくん 引退の理由 チンパンジーは猛獣です。 | 知ったかぶりの境界線


http://gucchoi.com/archives/2268


2012年9月6日 ... パンくん と同じくテレビCM等に出演し、賢いと評判だったチンパンジーです。 トラビスが飼い主を襲った原因は、気が立っているのを鎮める為に飲まされた抗不安薬の副作用ではないかと言われています。 パンくん の引退の理由は繁殖が目的と ...










天才チンパンジー“パンくん”の女性襲撃は予見されていた? (1/3)


http://bizmakoto.jp/makoto/articles/1209/11/news025.html


2012年9月11日 ... 『天才!志村どうぶつ園』などに出演している天才チンパンジー“ パンくん ”が、20歳の女性にかみつき、全治2週間のケガを負わせた。テレビ出演には専門家から何度となく警告が発せられていたが、それを無視し続けたことが今回の事故に ...













七四一二三(ナナシイズミ)@ウディタ@nanashiisme

フォローする


@shiyu_ex 殺人大好きチンパンジーが車のフロントガラスを叩き割って、人間を引きずり出して脳みそを食べた事件あったよね。怖すぎ。


返信 リツイート いいね 2014.10.02 00:10













ポケモンが下手な人@Saiteidemo_Ecup

フォローする


アフリカ西部シエラレオネのタクガマ動物保護区域に住んでいるオスのチンパンジーが素手でむごたらしく人を殺害、顔面を食べて逃走した。当局が捜索の網を広げて追跡しているが、まだ捕まっていない。この殺人チンパンジーは「ブルーノ」。保護区域管理当局によれば、米国人らを乗せた車を襲い、こぶし


返信 リツイート いいね 2014.10.01 12:19













時の坩堝@emanatio999

フォローする


殺人や戦争は人間の場合は合理的な意味はあまりないような気がする。脳が無駄に発達した結果じゃないだろうか。 人間はなぜ殺し合うのかという謎の解明へ一歩前進、チンパンジーの事例が適応戦略で説明できることを京大が発表 #ldnews news.livedoor.com/article/detail…


返信 リツイート いいね 2014.10.01 02:21







12






赤ちゃんも誕生!大人になったパンくんと志村けんの関係が泣ける
2015年10月04日|572240 view





悲報!志村動物園で人気のチンパンジー・パン君が研修生を襲う
2012年09月11日|123919 view





顔もぐちゃぐちゃ!生まれつきのチンパンジー暴力性!
2016年07月26日|94246 view

https://matome.naver.jp/odai/2141475968418574301


顔もぐちゃぐちゃ!生まれつきのチンパンジー暴力性!
遺伝子的に人間に非常に近いと言われているチンパンジー。彼らの暴力性は人間の自然破壊や動物実験などによるストレスのせいなのでしょうか?

更新日: 2016年07月26日


woodenkdhさん









23

お気に入り

94246

view
お気に入り追加







おなじみのパンくんも実は?!






パンくん


出典
girlschannel.net




パンくん


お前も生まれつきの凶暴だったか…







パンくんは6日、トレーナーの宮沢厚さん(53)とショーに出演。午後3時半頃、3回目のショーが終わっておじぎをした直後、舞台上の約10メートル離れた所に立っていた研修生に走り寄ってかみついた。



出典
チンパンジーは人間を襲う凶暴な動物 子殺し・共食い・集団リンチも



















チンパンジーの暴力性その①:虐待、子殺し










アマナイメージズ

A silhouette of a hand holding a knife by アマナイメージズ















チンパンジーの特筆すべき習性として「子殺し」がある。



出典
チンパンジー - Wikipedia



















オス達が他の集団の赤ん坊を襲う、オスが同じ集団の赤ん坊を殺す、さらに、メスが同じ集団の赤ん坊を殺す、など様々なパターンが観察されている。



出典
チンパンジー - Wikipedia











自分の子供まで?!







チンパンジーの暴力性その②:共食い





殺した赤ん坊を食べてしまうことがある。



出典
チンパンジー - Wikipedia



















オナガザル科のアカコロブスを喰らい、チンパンジーの子供まで共食いしてしまう。



出典
チンパンジーのえげつなさ!|川崎悟司 オフィシャルブログ 古世界の住人 Powered by Ameba






















2:55




YouTube


恐ろしいチンパンジーの共食い


えぐい…ひどい…







チンパンジーの暴力性その③:戦争本能










GettyImages















群れ間の関係は敵対的で、集団で他の群れの行動圏にのりこみ殺し合いになることもある。集団から離れて一頭でいるところを数頭で狙うことが多い。



出典
チンパンジー - Wikipedia



















チンパンジーの暴力性その④:凶暴









出典
ameblo.jp















2009年にはアメリカで飼い主の知人女性が襲われ、警官に射殺される事件がおこった。襲われた女性は鼻、唇、まぶたや手の指を失い重体となった。



出典
チンパンジー - Wikipedia



















日本でも2012年に、テレビ番組への出演で人気となった「パンくん」(10歳のオス)が、飼育研修生を襲い2週間の怪我を負わせるという事故があった。



出典
チンパンジー - Wikipedia



















恐ろしいチンパンジーの暴力性は生まれつきだった?








1:25




YouTube


チンパンジー恐ろしい!DVや!


DVか?












GettyImages















チンパンジーは、相手を殺すほどの激しい暴力行為に及ぶことがあるが、これは生まれつきの性質によるものだとする研究論文が、17日の英科学誌ネイチャー(Nature)に掲載された。



出典
チンパンジーの暴力性は「生まれつき」、従来説を否定 研究 写真1枚 国際ニュース:AFPBB News











2014年9月17日発表







動物行動学の立場から進化の産物であるとする説明が有力である。



出典
暴力 - Wikipedia
















1

http://www.afpbb.com/articles/-/3026257


チンパンジーの暴力性は「生まれつき」、従来説を否定 研究

2014年09月18日 12:01 発信地:パリ/フランス

科学・技術


このニュースをシェア










検索


メールで送る
.





チンパンジーの暴力性は「生まれつき」、従来説を否定 研究 チンパンジー。オーストラリア・シドニーのタロンガ動物園(Taronga Zoo)で(2007年9月22日撮影、資料写真)。(c)AFP/Greg WOOD
.

【9月18日 AFP】チンパンジー(学名:Pan troglodytes)は、相手を殺すほどの激しい暴力行為に及ぶことがあるが、これは生まれつきの性質によるものだとする研究論文が、17日の英科学誌ネイチャー(Nature)に掲載された。この結果は、人間による「侵害」が暴力の原因と示唆する一部の説を否定するものだ。








 英国の高名な霊長類研究者、ジェーン・グドール(Jane Goodall)博士を初めとする動物学者らは長年、遺伝子的に人間に非常に近いチンパンジーが、群れの間で「チンパンジー戦争」を繰り広げる原因について、さまざまな推測を行ってきた。

 従来説のひとつには、チンパンジーが人間の影響を受けた結果として、攻撃的な側面が強まったとするものがある。同説は生息地や食べ物が失われることで、資源をめぐる争いがますます激しさを増すとしている。

 だが米リンカーンパーク動物園(Lincoln Park Zoo)などの科学者チームが行った最新の研究によると、組織的な暴力行為は、チンパンジーの進化戦略の1つだという。

 同研究は、チンパンジーが、ライバルの群れを壊滅させるために殺害行為に及び、縄張り、繁殖相手、水や食料などを獲得すると示唆している。進化論に当てはめると、生き延びて自分たちの遺伝子を次世代に伝える助けになる優位性を得ようとしているということになる。

 研究結果は、アフリカの森林地帯に生息する18のチンパンジーの群れを対象とした半世紀に及ぶ詳細な調査の結果を調べることで導き出された。

 研究チームは、チンパンジーによる殺害行為152件を詳しく調べた。殺害行為の大半は、複数の雄が協力して実行していた。

 雄のグループはしばしば結束して別の群れを襲撃し、殺害行為に及んだが、殺されるのは通常、遺伝的に関連のないライバルの雄と子どもだった。

 時には授乳中の子どもを母親から奪い取って殺すこともあったが、雌に危害を加えることはなかった。

 チンパンジーは、飢えや人間による侵害や森林伐採が原因で、これらの行為に及んだのかどうか、また生息する保護区域の規模が大きいか小さいかを、研究チームは判定する必要があった。

 研究によると、チンパンジーの殺害の大半は、人間によるあらゆる種類の侵害行為の影響が最も少ない東アフリカ地域に生息する群れで発生していた。

 アフリカ中部でチンパンジーを14年間研究してきたリンカーンパーク動物園の類人猿保護の専門家、デービッド・モーガン(David Morgan)氏は「野生のチンパンジーの群れは、生息地が手付かずの自然が残る環境か、人間に荒らされた環境かによって大きく二分される場合が多い」と説明。

「今回の研究対象とした地域には、このどちらのケースも含まれている。結果として、群れ間での殺害発生率は、人間の影響の有無では予測できないことが分かった」と結論付けている。(c)AFP

http://www.wako.ac.jp/~itot/bonobo/mag06.htm

★愛と平和のボノボ★No.6 2001年9月21日
☆★☆戦うのではなく愛し合おう☆★☆

「愛と平和のボノボ」 メールマガジン目次

1 「ボノボ」という言葉を聞いたことがありますか? 2 ボノボってどこに住んでいるの? 3 ボノボはどんな姿をしているのでしょうか? 4 ボノボの叫びが聞こえますか? 5 ボノボを救おう! 6 戦うのではなく愛し合おう 7 ホカホカ 8 オスの攻撃性はどこへ 9 ボノボ的性教育 10 セックスの神様


■先日、アメリカ連続テロ爆破事件が起こり、その悲惨で生々しいニュースは
今も連日報道され私たちに大きなショックを与えています。昔は、同種を傷つ
け合うのは人間だけだと言われていましたが、今では、人間をはじめ、ほとん
どの類人猿には同種殺し(リンチ)やレイプ、子殺しが見らることがわかって
います。

■例えば、オランウータンでは、ほかの類人猿と比べ多くのレイプが観察され
ています。(現在、オランウータンはボルネオとスマトラの熱帯雨林に生息し、
日常生活のほとんどは単独でゆっくりと行動しています。)オランウータンの
SEXは向かい合ってすることが多く、平均時間は人間並みの11分と言われ
ています。オランウータンのメスは相手のえり好みをし、モテるオスとは体が
大きく、吠え声も立派で攻撃的のようです。逆にモテないオスとは、オトナで
あるのに体がメス程度と小さく、吠えることもないオスです。そして、レイプ
をするのはこのモテないオスなのです。体の小さなオスは動きが速く、メスを
力づくで捕まえてレイプします。メスはオスと殴り合って戦ったり、悲痛な叫
び声をあげますがオスの力には勝てません。

■ゴリラは普段はとても優しく穏やかな社会で暮らしています。ゴリラはシル
バーバック(オトナのオスは背中が灰色になるため)と呼ばれるリーダーオス
と数頭のメスと子どもで形成されるハーレム型社会です。つまり、群れを持た
ないオスはSEXできないのです。群れを作れないオスは単独で生活するか、
同性愛のグループを作って生活します。そんなゴリラの生活に子殺しが発生す
るのは、シルバーバックが死んで、新しいオスがやってきたときに起こります。
子殺しは、ライバルの遺伝子を排除するのと、メスの発情を促すために起こる
のだと言われています。その証拠に、母親は進んで子どもを殺したオスの群れ
に入り交尾するのです。

■チンパンジーには同種殺しもレイプも子殺しも見られます。チンパンジーは
オス間の結びつきが強く、政治的なサルとしても有名です。連帯を組んで一頭
を攻撃することもあります。オトナのオスの握力は200?以上、パンチをま
ともに食らえばプロボクサーの何倍にも相当するといわれています。ですから、
やられた者はたいてい死んでしまいます。複雄複雌型の社会を作るチンパンジ
ーでは、SEXは乱交型と言われ、メスの発情期にはオスがメスを奪い合いが
生じ、オスは力づくでメスと交尾します。チンパンジーの子殺しはほかの群れ
から来たメスの子ども、特にオスの子どもが狙われる傾向があるようです。そ
れは突然起こります。子どもは殺されるだけではなく、死んだ瞬間から単なる
肉と化すのです。そのときの群れの異常な興奮状態は、ほかの肉食の時と同じ
であることから殺しと肉食は切り離された行動だと考えられます。時には、い
つ犠牲者になるかもしれない他の子持ちメスですら肉食に参加することもあり
ます。

■このように多くの類人猿では暴力的な行動が見られますが、ボノボは違いま
す。ボノボは暴力が発生しそうな緊張状態を、SEXで緩和するのです。ボノ
ボには子殺しが一度も観察されていません。オスのメスに対する暴力行動もあ
りません。そして、ボノボのオスとメスはほぼ対等な関係です。SEXも、オ
スが毛づくろいをしたり、見つめ合ったり、ペニスを見せたりして誘いをかけ
ますが、メスが応じなければ無理矢理にSEXをすることはありません。加納
名誉教授と黒田教授は対談でこんな風に話しています。「第1位のオスが第1
位のメスに強気な態度を取っても、メスは無視するだけです。」なんだか笑っ
てしまいますよね。ボノボの平和的な特徴としてこんな事もあります。餌場な
どで群れ同士が偶然出くわしたとき、最初は緊張状態が続きますが、多様な性
行動を行い、徐々に群れ同士は打ち解けて混ざり合い、共に餌を食べるのです。
なんと微笑ましい光景でしょう。ボノボ以外の類人猿や他のサルはなわばりと
メスを奪い合い、激しく戦いますが、ボノボは仲良くなってしまうのです。そ
のとき、最初に違う群れに近づいていくのはメスです。しかも、オスは自分の
群れのメスが他の群れのオスと交尾をしていても傍観しているだけで何もしま
せん。

■このように、ボノボは暴力の起こりそうな緊張状態をうまく回避する方法を
身につけてきたのです。ボノボの平和的な行動は、暴力が決して類人猿に生得
的に備わっているのもではないことを証明してくれています。私たち人間も、
直接ボノボの方法を持ち込むわけには行きませんが、ボノボの「戦うのではな
く愛し合う」ことに学び、平和的に解決することが望まれているのではないで
しょうか。


【参考文献】

●『男の凶暴性はどこからきたか』 (1998/三田出版会)
  著者:リチャード・ランガム
     デイル・ピーターソン
  訳者:山下 篤子

●『性の進化、ヒトの進化 -類人猿ボノボの観察から-』
                 (1999/朝日新聞社)
  著者:古市 剛史

●『サル学の現在』 (1991/平凡社)
  著者:立花 隆


《参考になるHP》

▼京都大学霊長類研究所 ボノボのぺージ
 http://www.pri.kyoto-u.ac.jp/shakai-seitai/shakai/BONOBOHP/bonobo.htm

▼朝日新聞 MYTOWN 愛知  2001年01月01日 朝刊  
 http://mytown.asahi.com/aichi/news02.asp?c=5&kiji=908

▼徹子の部屋 ゲスト:加納隆至
 www.tv-asahi.co.jp/tetsuko/back2000/html/010530.html

※現在のコンゴの状況 http://www.mofa.go.jp/mofaj/toko/anzen/africa/103.html


《日本での取り組み》

▼ビーリア(ボノボ)保護支援会
 代表:加納 隆至  古市 剛史
 振替=00820-7-12368

▼誰でも気軽に出来るボノボ保護活動
 TBSラジオ 日本グレイトエイプス 
 http://www.tbs.co.jp/apes/index-j.html


《海外での取り組み》

▼ 分かりやすい海外のボノボサイト→AAC
 http://hometown.aol.com/DTanne4949/bonobo.htm

▼WWF
 http://www.panda.org/resources/publications/species/threatened/bonobo/
 
▼Lukuru Wildlife Research Project (LWRP)
 http://members.aol.com/jat434/

▼AZA Bonobo Species Survival Plans
 http://www.aza.org/programs/ssp/results.cfm

▼Bonobo Protection Fund
http://www.gsu.edu/~wwwbpf/bpf/




●ご意見ご感想はこちらまで● (c) 鴨志田晃子
●和光大学ボノボプロジェクトHP● http://www.wako.ac.jp/~itot/bonobo/

Created: Sep. 22, 2001. Last modified: Sep. 22, 2001.

http://animalch.net/articles/31278.html


チンパンジーの暴力性は「生まれつき」

2014年09月22日 20時12分 15
はてなブックマーク - チンパンジーの暴力性は「生まれつき」





1: 野良ハムスター ★@\(^o^)/ 2014/09/18(木) 12:32:19.04 ID:???0.net

【9月18日 AFP】チンパンジー(学名:Pan troglodytes)は、相手を殺すほどの激しい暴力行為に及ぶことがあるが、
これは生まれつきの性質によるものだとする研究論文が、17日の英科学誌ネイチャーに掲載された。
この結果は、人間による「侵害」が暴力の原因と示唆する一部の説を否定するものだ。

英国の高名な霊長類研究者、ジェーン・グドール博士を初めとする動物学者らは長年、遺伝子的に人間に非常に
近いチンパンジーが、群れの間で「チンパンジー戦争」を繰り広げる原因について、さまざまな推測を行ってきた。

従来説のひとつには、チンパンジーが人間の影響を受けた結果として、攻撃的な側面が強まったとするものがある。
同説は生息地や食べ物が失われることで、資源をめぐる争いがますます激しさを増すとしている。

だが米リンカーンパーク動物園などの科学者チームが行った最新の研究によると、
組織的な暴力行為は、チンパンジーの進化戦略の1つだという。

同研究は、チンパンジーが、ライバルの群れを壊滅させるために殺害行為に及び、縄張り、繁殖相手、
水や食料などを獲得すると示唆している。進化論に当てはめると、生き延びて自分たちの遺伝子を
次世代に伝える助けになる優位性を得ようとしているということになる。

研究結果は、アフリカの森林地帯に生息する18のチンパンジーの群れを対象とした半世紀に及ぶ
詳細な調査の結果を調べることで導き出された。(以下省略)

no title

http://www.afpbb.com/articles/-/3026257

暴力はどこからきたか―人間性の起源を探る






暴力はどこからきたか―人間性の起源を探る (NHKブックス)です。

前回の投稿で、国家は暴力装置であると述べました。

(国家が暴力装置であることは、政治の本でも取り上げられています。

次回にでも、その政治の本を紹介いたします。)

裁判についての本でした。

人間社会について考える!人が人を裁くということ

この本を読んで、暴力について関心を持ちました。

暴力を持ちいるのは、国家だけではありません。

ニュースを見ていれば、様々な暴力を用いた事件が報道されています。

人間個人でも暴力を用いるわけです。

この暴力問題こそ、

人間が未だに解決できていない大問題であると思います。

罰を科しますよ!やってはいけません!

という以上の大きな未然防止策は見受けられないように思います。

国家とかであれば、こちらも武力を持っています、というので抑止できますよね。

しかし、一般人は武器を全てとられています。

武器が使えるのは、特別な人に限られるわけです。

まだ統制ができていて、ある程度機能していれば、

無政府な状態にはならない。

世の中には、暴力には更なる暴力で返してくる組織があります。

こうなってしまうと、破滅への道しか残されていません。

一体、なぜ人間は暴力をふるうのか。

それをサルやチンパンジー、ゴリラなどの類人猿と比較しながら、

解き明かしていく、というのが本書です。

実は、この本にはめちゃくちゃ期待を寄せてしまいました。

今世界、あるいは日常行われている暴力行為の起源が分かると思ったからです。

そうだとしたら、考えられないほどすごいことですよね!

ブックファーストで見つけたとき、気になってしまい、買ったという感じです。

しかし、内容は面白かったのですが、

暴力を用いるその起源は、

やはり人間固有の要因のものが大きいと思いました。

つまり、進化の過程で暴力を獲得したということではないということです。

人間は、家族を持ちますよね。

類人猿も家族を持ちます。

なので、いくつかの特徴は、類人猿と人間で共通しているのですが、

戦争などの酷い話になると、それは人間固有のものであるということです。

そして、人間の暴力についての考察が、類人猿の行動様式・生活様式に

対して結構少なかったので、

面白いんだけどもっと人間のこと読みたかったというのが、

個人的に思ったことでした。

極論すれば、人間のここまでひどい暴力は、

あまり他の霊長類・類人猿と関係がなさそうに見受けられました。

ゴリラやチンパンジー、ニホンザルなどの研究成果を読みたい、

という方にはうってつけの本であると思いました。

本書の多くの部分が、霊長類・類人猿の行動様式・生活様式の紹介です。

人間にもあるある、というところがあって、面白いのです。

それでは、そのあたりも含めて、

ちょっと具体的に本書の内容を見ていきましょう!

例えば、ニホンザルは、優劣順位が決まっており、

優位なサルにえさを譲るそうです。

優位なサルは劣位なサルに優位性を示すそうです。

そして、劣位なサルは、態度でそれを示さなければならない、ということです。

劣位なサルが優位なサルに攻撃されると、その攻撃を受けた劣位なサルは、

さらに劣位なサルに攻撃をしかけるそうです。

次に、マントヒヒです。

マントヒヒでは、仲裁が見られます。

マントヒヒでは、メス同士のトラブルがよく発生するということですが、

第三者が敗者の方に介入するそうです。

オスの場合も、他の雄たちが敗者を応援するということです。

けんかによって勝者をつくらないということです。

ゴリラの場合も、敗者の方に加勢することが多いということです。

あるいは、どちらにも加勢せず、間に割って入る、という仲裁も

ゴリラでは見受けられるということです。

ちなみに先に紹介したニホンザルは、

オスの場合、第三者が勝者に加勢するそうです。

メスの場合は、近親者に加勢するということです。

どれも、人間にも見受けられますよね!

これらは、和解の方法です。

人間だと、握手するとか、ハグする、

言葉で謝るというのもありますよね!

ここでは和解のところだけを述べましたが、

群れの構成や食の配分、

異性をめぐる争いについても述べられています。

霊長類や類人猿では、このように生活していますよと

紹介されています。

冒頭にも書きましたが、

霊長類・類人猿の生活・行動様式と

人間の暴力についてはあまり関連が見られません。

各動物の特徴を書きあげていったところで、

人間の話になったときにすべて使うわけでもないでしょう。

しかも、人間に特有の話も多い。

よって、他の動物は紹介され切ったとして

人間の暴力のところに話を移したいと思います。

必要に応じて、他の動物の紹介を引用する形に変えたいと思います。

まず、人間の争いですが、

チンパンジーの争いと対比されています。

野生のチンパンジーは、集団間で争います。

血縁関係にあるオスたちが集団を組んで、隣の群れの行動域へ侵入し、

単独でいるオスやメスを襲ってかみつき、

引き裂き、死に至らしめるということです。

メスたちの多くは襲撃者たちの群れへ加入したそうです。

こうった戦いによって、

襲撃したオスたちは隣接する群れの土地やメスを手に入れたと。

しかし、人間の争いはこのチンパンジーの争いとは異なると述べられています。

チンパンジーは、自分たちの利益と欲望にかられて戦いを起しているのに対し、

人間の戦いは常に群れに奉仕することが前提になっているということです。

人間の男たちの闘う意味は、家族を生かすために、共同体の誇りを守るために、

傷付き死ぬことである。

チンパンジーのオスたちは、死を賭して戦うことはしないということです。

自分が同盟を組んでいる相手との力関係と、勝利の可能性が、

戦いを起す動機と決定を大きく左右するこということです。

しかし、人間は時には負けると分かっていても戦わなければならない場合がある。

それは、勝つことだけが目的ではないということです。

家族や共同体の一員としてふさわしい行動を示さなければ、

自分ばかりではなく家族もまた生きてはいけない。

あくまで人間の戦う動機は共同体の内部にある。

現代の戦争は、そういった人間の社会性と心理をうまく

為政者が操り、国家や民族集団に奉仕させようとして起きているということです。

たしかに、争っているチンパンジーの背後に、

黒幕がいるとは考えにくいですよね。

そして、共同体が拡大したことも原因となっていると指摘しております。

共同体とは、家族の延長であり、

分かち合いの精神によって支えられたまとまりであるということです。

お互いが顔や個性をよく認知していなければならない。

その数はだいたい150人が限度とされている。

このぐらいであれば、いちいち互酬性に基づいたやりとりをしなくても、

所有を禁じることで、

不公平な配分や富の偏在を抑止することができるということです。

この150人を維持していれば、

大規模な戦争は起こらなかったかもしれないということです。

共同体の拡大は、

その内で互酬的関係の必要性を増すことになり、成員数の増加は

互酬性を維持するための社会的コストを増すことにもなる。

戦いの規模や頻度が増したのは、

人間が共同体の規模を広げようとしたからであるということです。

共同体の外部では、互酬的であれ、

非互酬的であれ贈与を介する関係を成立させる必要のない世界であると。

共同体内部の互酬的な関係を維持するために、

土地の拡大や富の蓄積が奨励され、

他の共同体と軋轢を生みだしたということです。

農耕民の集団間暴力によって起こる死亡の発生率は、

狩猟採集民の3倍に上るという指摘もあるということです。

また、起源への問いが戦争を呼ぶということです。

自分の由来を知りたいと思う感情は人間に独特なものであということです。

自分は誰の子で、どこでどのようにして生まれたのか。

そして両親はどういった人物であったのか。

そんなことを思い、悩む動物は人間以外にはないということです。

人間の社会では、個人のアイデンティティは親に、

そして共同体につながっているのである。

そういった自分の系譜をたどる人のアイデンティティのあり方が

共同体の規模を拡大し、

境界の外へと敵意を向ける動因になったと著者は考えているということです。

顔見知りの仲間だけで作る共同体の規模は小さい。

しかし、祖先を同じくすることによって、

親族の規模は拡大される。

実際会ってもいない人が、

数世代前に同じ祖先を共有しているという事実によって親族に組み入れられる。

その究極の形が民族であるということです。

民族には、必ず始祖神話が存在し、

それが語り継がれてアイデンティティの核となっている。

そして、そのことによって

家族や小さな共同体の内部でのみ用いられていた分かち合いの精神が、

民族の理念として利用されるのであると。

家族を守るために戦っていた男たちが、

同じ精神をもって民族のために戦うことを要求される。

食の共同と性のルールによって生まれた愛と奉仕の心は、

その力が及ばないよ領域を支配する者たちによってすりかえられ、

戦争へと駆り立てられるということです。

これは私の考えたことですが、利害対立がどの集団で起こるかで

争いの程度が変わって来ると思います。

個人間であれば、まあ言い合いや、せいぜい殴り合い。

しかし、組織や集団となれば、その規模は大きくなります。

国家が関われば戦争です。

今、各国で起こっている戦争は国家が関係していると思います。

人間は、アイデンティティを求める生き物であることは指摘されていました。

国家で対立があった際は、自国への所属を意識するしかないのでしょう。

むかーし昔は、同じ親だったんだよ、

というのは、利害からすれば小さくなってしまう。

また、国家はルール・規律を順守させるため、暴力を用いることができます。

個人で避けられるレベルではありません。

こういった悪しき行いを断ち切るために

人間の持つ能力をもっと活用することが大切であると述べられています。

そこは本書をご覧ください。

結構まとまりがない投稿になってしまったと感じております。

本書はかなりの労作ではないかと思います。

情報が多すぎて、取捨選択ができませんでした。

人間の争いのところで、霊長類の例は果たして必要であったのか。

あったとすれば、どのように用いたらよいのか。

判断が付きませんでした。

どっちかというと分かれている印象です。

1巻は霊長類・類人猿の生活様式・行動様式

2巻は霊長類から進化した人間と暴力

といった感じを受けました。

力不足で申し訳ありませんでした。

恐らく、一番紹介するのが難しかった本です。

例えば、素人にすごい絵を見せて、すごさを少し紹介したとします。

その素人は恐らく、そのすごさを伝えることはできない。

まとまった、きれいな文章で紹介することができないでしょう。

本書に対する、私のような感じです。

今、後の祭りですが、

暴力性の話をカットして、霊長類と類人猿の行動特性について

話を絞っても面白かったかなと思います。

群れは昼行性で発達しています。

果物など季節性のものを餌とするため、行動圏が広くなります。

よって、外敵から身を守るためには群れが必要です。

逆に、夜行性では、葉や昆虫など、ある空間に分布しているものを餌とするため、

テリトリーが発達しており、群れは最小限であるということです。

また、ゴリラなどでは、オスがいるときは地上にベッドを作るが、

オスがないと危険のすくない樹上にベッドを作ることなどが挙げられていて、

オスが防衛の役割を果たしている例も紹介されていました。

【hontoからの購入はこちら】



【楽天からの購入はこちら】


暴力はどこからきたか [ 山極寿一 ]

感想(0件)




【本を売るなら】

https://matome.naver.jp/odai/2141112947111326501


チンパンジーには本当に地球を「猿の惑星」に出来るポテンシャルがある...。
テレビ等では時に愛らしい姿をするチンパンジー。しかしその顔の裏には凶暴な一面を持ち合わせている。チンパンジーの身体能力、人間を襲った事件、なぜチンパンジーは凶暴なのか、まとめてみました。

更新日: 2015年07月24日


rainshineさん









133

お気に入り

321816

view
お気に入り追加







チンパンジー









出典
www.wildchimpanzees.org















チンパンジーは、人間に最も良く似ている動物だ。遺伝子配列の98%以上が同じであると言われており、400万〜800万年前に存在していた同一の祖先を有するとも言われている。



出典
Jane Goodall's Wild Chimpanzees



















驚異の身体能力









出典
www.jumpliftsprint.com







画像は病気で毛が抜け落ちたチンパンジー。
その体の凄さがよくわかる。

チンパンジーの筋力は人間の約5倍といわれているので40キログラムのチンパンジーなら同じ体脂肪率で200キロの人間と同等の力を持っているということになります。







握力は200~300キロ。腕力は100キロ近い鉄板を軽々と持ち上げるほど。人間より遥かに優れた身体能力を持っているのだ。



出典
チンパンジー - UMA&野生動物の知られざる生態 -七花舎











人間の6倍の腕力を持つ。ギネス記録では怒り狂ったメスのチンパンジーが572kgの握力を記録。







脚力も350キロもあり、垂直にジャンプすると3.5~4メートルも跳ぶことができます。恐るべき身体能力ですね。



出典
チンパンジー











体重45kgのチンパンジーが両手で簡単に270kgのものを持ち上げた記録もある。







チンパンジーの子どもの瞬間的な記憶力は、大人の人間よりも優秀です。京都大学の霊長類研究所で行われた実験では、9個の数字を一瞬で覚えることができました。



出典
チンパンジー



















チームプレイも優れている








4:02




YouTube


Chimpanzees team up to attack a monkey in the wild - BBC wildlife










チンパンジーが猿を仕留めるまでの、完璧な布陣が見れる貴重な動画。まさにゲームのように相手を手の内に引きづりこむチンパンジーの狩り手腕の高さ、脱帽です。



出典
チンパンジーの猿狩り。まるでゲームのように、完璧に布陣を組んだチンパンジーたちの恐るべき狩り能力。 | 捕食動画ナビ



















他の動物とは異質な「子殺し」









出典
www.economist.com















動物には同種の子供を殺す「子殺し」という行動が、よく見られる。この目的はオスが自分の遺伝子を残すがために他のオスの子供を殺すという行為である。チンパンジーも「子殺し」をする。しかし、その「子殺し」のやり方は他の動物とは異質なものだ!



出典
チンパンジーのえげつなさ!|川崎悟司 オフィシャルブログ 古世界の住人 Powered by Ameba











・オスが他の群れの子供を殺す
・オスが同じ群れの子供を殺す
・メスまでも同じ群れの子供を殺す







殺された子は食べられる...。









出典
www.redbubble.com















殺された子はその後、殺害の実行者及び、数個体に喰われる=共食い。観察されている事例からは、他集団の子供を殺すのはオトナオスのみ。



出典
チンパンジーの同類殺し事例 - るいネット



















子殺しの習慣があるチンパンジー。自分の子どもの子孫を強く残すための繁殖戦略とか諸説ありますが、本当の理由はわかりません。



出典
チンパンジー命がけの縄張り争い。敵群れの子供を共食いする衝撃シーン。 | 捕食動画ナビ



















人間に襲いかかる事も...。









出典
www.reddit.com















チンパンジーは、賢く、芸もすることから、攻撃性の無い動物と思われがちです。しかし、非常に力が強く、猿を引き裂くこともお手の物。



出典
自然は無慈悲。最も残忍な狩りのテクニックを持つ動物9選 | コタク・ジャパン



















人間を襲う際、急所を心得ているというチンパンジー。顔面や指・生殖器等を執拗に攻撃するとも言われている。



出典
チンパンジーのパンくん 女性研修生襲う 観客が目撃した衝撃の瞬間



















基本的に狩りは集団で行い、他の霊長類を襲うのですが、そのターゲットは人間も対象となっているようで、ここ50年の間で人間の子供がチンパンジーに食べられてしまったという事件が4件も報告されています。



出典
チンパンジーの握力は300Kg以上!人を食う凶暴な動物だった…



















実際に起こった事例





動物園の強化ガラスを割る









出典
bionews-tx.com















2010年台湾・高雄市の寿山動物園で、チンパンジーの群れに向かってターザンの真似をして大声で叫んで騒ぎたてた高校生の一団に対して、ボスの「莉忠」が激怒して石を投げ付け、間を隔てていた強化ガラスを割ったケースがある。



出典
チンパンジー - Wikipedia











けが人はいなかった。このケースでは高校生が挑発したのが発端だった。







有名なパン君の事例









出典
www.sappukei.com















2012年9月6日午後4時頃、熊本県阿蘇郡阿蘇町にある阿蘇カドリー・ドミニオンで、「みやざわ劇場ショー」に出演したオスのチンパンジーのパン君(11歳)が、演技を終え、観客に向かっておじぎをした直後突然、ステージ脇にいた研修中の女性スタッフ(20)に襲いかかった。



出典
パンくん 引退の理由 チンパンジーは猛獣です。 | 知ったかぶりの境界線











女性スタッフは、額、耳の裏、腰、足首を噛まれ
ドクターヘリで熊本市の病院に運ばれ縫合手術を受けた。




12



アフリカで起こった壮絶な殺人









出典
www.huffingtonpost.co.uk















アフリカ西部シエラレオネのタクガマ動物保護区域にて、チンパンジーによる、タクシー運転手が襲撃される事件が発生した。チンパンジーはタクシーを襲撃した際、こぶしでフロントガラスをぶち割ったという。チンパンジーは身動きが取れなくなった運転手を車の中から引きずり出し、首から上をすべて食べつくした。



出典
チンパンジー - UMA&野生動物の知られざる生態 -七花舎











運転手の両手足の爪をすべてはがしてから食べ始めたという。







射殺されたチンパンジー









出典
nextnewsnetwork.com







襲われたチャルーラ・ナッシュさん。
命は助かったものの手と顔を失い、幾度の形成手術を受けた。







事件は2009年2月にコネチカット州ハートフォードで起こりました。ナッシュさんがチンパンジーを飼育しているサンドラ・ヘロルドさんの家を訪れた時、突如チンパンジーのトラヴィスが、ナッシュの顔面に攻撃をしました。



出典
チンパンジーに襲われ顔、両手を失った女性の顔が復元: あほうどりのひとりごと★幸福への近道



















トラヴィスは狂ったようにナッシュを襲い続け、その攻撃は12分間にも及んだといいます。トラヴィスを止められなかったエロールは泣きながら警察に電話。銃で撃ってくれるよう頼み、結果トラヴィスはその場で射殺されました。



出典
HEAVEN チンパンジーに顔面をむしられた女性がその顔を公開―アメリカ











現場は惨憺たるもので、トラヴィスの毛と埃が舞った室内には、床にまるで挽肉器にかけられたような彼女の指が散乱し、ナッシュの上あごと鼻はむしられ、顔面にはトラヴィスの抜けた歯が食い込んでいるという凄まじさだったそうです。







なぜチンパンジーはこんな凶暴性があるのか?









出典
glamrap.pl







大人のオスがやばい...。
ちなみに画像は幼獣のチンパンジー。年を重ねるとチンパンジーの顔は黒くなる。







特に雄は10歳を越すとそれまで人懐っこかった個体でも突如として凶暴化する可能性が高く、現地では危険な猛獣として認識されている。



出典
チンパンジー (ちんぱんじー)とは【ピクシブ百科事典】



















チンパンジーは、相手を殺すほどの激しい暴力行為に及ぶことがあるが、これは生まれつきの性質によるものだとする研究論文が、17日の英科学誌ネイチャーに掲載された。



出典
チンパンジーの暴力性は「生まれつき」、従来説を否定 研究 写真1枚 国際ニュース:AFPBB News











この結果は、人間による「侵害」が暴力の原因と示唆する一部の説を否定するものだ。従来説のひとつには、チンパンジーが人間の影響を受けた結果として、攻撃的な側面が強まったとするものがある。







同研究は、チンパンジーが、ライバルの群れを壊滅させるために殺害行為に及び、縄張り、繁殖相手、水や食料などを獲得すると示唆している。進化論に当てはめると、生き延びて自分たちの遺伝子を次世代に伝える助けになる優位性を得ようとしているということになる。



出典
チンパンジーの暴力性は「生まれつき」、従来説を否定 研究 写真1枚 国際ニュース:AFPBB News



















関連まとめ





チンパンジーの「手話」の内容が一部解読される! - NAVER まとめ


http://matome.naver.jp/odai/2140469745181982301




http://rr.img.naver.jp:80/mig?src=http%3A%2F%2Fimgcc.naver.jp%2Fkaze%2Fmission%2FUSER%2F20140707%2F22%2F2315592%2F31%2F1027x1027xf2deb618ae53e048e03f5e.jpg%2F300%2F600&twidth=300&theight=300&qlt=80&res_format=jpg&op=r










手話が出来る奇跡のゴリラ「ココ」の感動物語 - NAVER まとめ


http://matome.naver.jp/odai/2137259098782751501




http://rr.img.naver.jp:80/mig?src=http%3A%2F%2Fimgcc.naver.jp%2Fkaze%2Fmission%2FUSER%2F20130630%2F22%2F2315592%2F19%2F500x500x8c735716a2945436b129c158.jpg%2F300%2F600&twidth=300&theight=300&qlt=80&res_format=jpg&op=r










顔にタトゥー?「ボス猿」とは呼ばない?サル山の意外な雑学 - NAVER まとめ


http://matome.naver.jp/odai/2139136261130832101




http://rr.img.naver.jp:80/mig?src=http%3A%2F%2Fimgcc.naver.jp%2Fkaze%2Fmission%2FUSER%2F20140203%2F22%2F2315592%2F1%2F243x243x160fa79aa348b006a2487f85.jpg%2F300%2F600&twidth=300&theight=300&qlt=80&res_format=jpg&op=r










ちょっと醜いけど平和主義者のいい奴ら!珍獣「テングザル」 - NAVER まとめ


http://matome.naver.jp/odai/2138224459415799801




http://rr.img.naver.jp:80/mig?src=http%3A%2F%2Fimgcc.naver.jp%2Fkaze%2Fmission%2FUSER%2F20131020%2F22%2F2315592%2F31%2F565x700x7da89c0df6178e8abe516fb7.jpg%2F300%2F600&twidth=300&theight=300&qlt=80&res_format=jpg&op=r







12
http://nbusi.info/?p=3999

http://ameblo.jp/oldworld/entry-10013195597.html

チンパンジーのえげつなさ!
テーマ:現代~哺乳類

チンパンジー  学名(Pan troglodytes )

チンパンジー

人類の祖先から約600万~900万年に分岐したといわれ、

この地球上でもっとも我われ人間とは系統的に近い動物・・・。



パン君とジェームス

人間に近い動物とはいえ、

服を着て、二足歩行し、いかにも人間のように

振舞うチンパンジーの姿は

調教によるものというは周知のとおりだ。

調教は虐待にも思える恐怖を植えつける力ずくの調教だ!



しかし調教され、芸をするチンパンジーは

すべて、顔が肌色だ。

つまり子供ということである。



チンパンジーは大人になると顔が黒くなるわけだが、

大人になったチンパンジーは実に「猛獣」なのだ!!



猛獣に力ずくの調教は難しい・・・。



****************************************************



■ チンパンジーのえげつなさ その1 ■



チンパンジーの大好物はといえば、

まず、バナナを思い浮かぶ。

果実はもちろん大好物だ。



しかし、猛獣の名に相応しい

肉食のハンターであることは意外に知られていない。



アカコロブス  学名(Procolobus badius )

アカコロブス

アフリカ熱帯林に生息する中型のオナガザル科のサル。

チンパンジーはこのサルを見つけるやいなや

異常に興奮し狂喜乱舞し、獲物であるアカコロブスを

大勢で囲んで追い詰め、

いかにもイジメのような狩りをする。

実にチンパンジーが狩りの対象の8割がこのサルなのだ!

このサルにとってチンパンジーはただの黒い悪魔にしか

みえない!!



****************************************************


■ チンパンジーのえげつなさ その2 ■



ライオン 、ハヌマンラングール など、

動物には同種の子供を殺す「子殺し」という行動が、

よく見られる。

この目的はオスが自分の遺伝子を残すがために

他のオスの子供を殺すという行為である。



チンパンジーも「子殺し」をする。

しかし、その「子殺し」のやり方は他の動物とは

異質なものだ!



・オスが他の群れの子供を殺す

・オスが同じ群れの子供を殺す

・メスまでも同じ群れの子供を殺す



と子殺しの様々なパターンがあり、



チンパンジーの子殺し



そしてすべてにいえることは

その殺した子供を食べるのである!!



さすがに子殺しをして、食べるという行為は

このチンパンジーしか知られていない!



****************************************************


■ チンパンジーのえげつなさ その3 ■



オナガザル科のアカコロブスを喰らい、

チンパンジーの子供まで共食いしてしまう

霊長類喰らいチンパンジー・・・。

ついに、その霊長類喰らいが

万物の霊長「ホモ・サピエンス」

つまり人間にまで手が及ぶとは・・・。

誰が予想できたであろう。




アフリカ西部シエラレオネのタクガマ動物保護区域で、

数頭のチンパンジーが米国人3人を乗せたタクシーに

襲い掛かったという!




人を襲うチンパンジー

襲われたときの想像図。




チンパンジーは握力は300kgもあり、

人間など足元に及ばないほど怪力の持ち主だ!!




そんなチンパンジーが

拳でフロントガラスを叩き割りそして地元の運転手を

引きずりだし、首を押さえつけて地面に叩きつけ、

両手、両足の生爪を剥がしたうえ、

最後は顔面全部を食べ尽くして逃走したという。




あまりにも残虐非道ぶりは目に余るものがある。

http://gucchoi.com/archives/2268

パンくん 引退の理由 チンパンジーは猛獣です。

2012年09月08日 [テレビ]












画像クリックで楽天

日本テレビで放送中の「天才!志村動物園」で、
人間の仕草や行動を上手に真似て大人気のチンパンジー『パンくん』

そんなパンくんが、有ろう事か人間を襲ってしまいました!

そのせいで来年の4月まで行われる予定だった引退公演は中止となり、今後は、パンくん以外の動物を使って違う形でショーを行っていくそうです。

志村動物園の出演に関して日本テレビは、
「詳細が判明するまでパンくんの出演部分の放送を見合わせる」
とコメントしており、当初の予定よりも早く表舞台から姿を消す可能性が出てきました。

天才チンパンジーと呼ばれてたパンくんにいったい何が起こったのでしょうか?

事件の概要は以下のとおりです。


2012年9月6日午後4時頃、熊本県阿蘇郡阿蘇町にある
動物とのふれあいやショー等で人気の阿蘇カドリー・ドミニオン(阿蘇CD)で、
「みやざわ劇場ショー」に出演したオスのチンパンジーのパン君(11歳)が、
演技を終え、観客に向かっておじぎをした直後
突然、ステージ脇にいた研修中の女性スタッフ(20)に襲いかかった。

女性スタッフは、額、耳の裏、腰、足首を噛まれ
ドクターヘリで熊本市の病院に運ばれ縫合手術を受けた。

手術を受けた女性スタッフは、2週間程度で退院できる見込み。


テレビで愛嬌を振りまくるパンくんからは想像も出来ない事件です。

阿蘇CDでは、パンくんがこのような行動に及んだ原因を、
「オスのチンパンジーは繁殖期を控えると、攻撃的な行動をとることがある」
と語っています。

また、別の専門家によると
「野生のチンパンジーは、猛獣指定されている凶暴な動物で、
6~7歳を超えると高ぶる感情を抑えきれなくなる。」

「チンパンジーは、相手が自分よりも強いか弱いかを判断して行動するので、
阿蘇CDに来たばかり女性スタッフを、自分よりも下に見て攻撃したのではないか。」
と言われています。

同じようなことは、『野生チンパンジーの世界へようこそ』にも書かれており、
このサイトによると、
チンパンジーは9歳くらいから群れの中での順位に拘るようになり、
大人になると更にその拘りが顕在化するそうです。

ちなみに「老年」とされる33歳以上になると
順位争いから外れますが、周りから大事にされるそうですよ。

日本で問題になっている「老人の孤独死」は、
チンパンジーの社会には無いみたいですねw

今回のパンくんの事件で、自分が今まで抱いていた
愛嬌があって賢いというチンパンジーのイメージが見事に崩れ去りました。

テレビや映画で、こんなカワイイ子ばかり見せられてましたからね。

チンパンジーの赤ちゃん

でも実際は、大人になると、
こんなにイカツイ奴になるんですよねw

大人のチンパンジー

立派な犬歯ですね。
この牙で噛み付かれたら、ただでは済まないのは容易に想像できます。

それにしても左のチンパンジーは、
禿げ上がった頭が辮髪(べんぱつ)の様になっていてイカツさ倍増ですねw

しかし、この表情。何を企んでいるのでしょうか?正直、怖いです。

この怖そうな大人のチンパンジーは、
いったいどのような能力を持っているのでしょうか?

書かれていることの全てが正しいかどうか分かりませんが、
チンパンジーの能力をまとめたものが2ちゃんねるに有りました。

50 名前:名無しさん@一本勝ち [sage] :2011/08/15(月) 12:16:30.61 ID:h8uBP+DV0
チンプの実力

・成獣の平均握力は約300kg
・ギネス記録では怒り狂ったメスのチンパンジーが572kgの握力を記録。
・脚力 約350kg
・垂直跳び 3.5~4m
・体重45kgのチンパンジーが両手で簡単に270kgのものを持ち上げた。
・80kgの鉄板を軽々と放り投げる。
・素手で車のフロントガラスを簡単に叩き割る。
・強靭な犬歯と爪を持ち、さらに雑菌ウヨウヨ
・赤ちゃんチンパンジーを貪り食う習性があり、人間の被害も多数ある。
・大人になったチンパンジー(顔が黒い)はきわめて凶暴
人間になつくのは子供のチンパンジー(顔が肌色)まで。




素手でフロントガラスを叩き割るというのは、
アフリカでタクシードライバーが襲われた事件のことだと思います。

襲われたタクシードライバーは、両手両足の爪を剥がされ、
顔面を食べられて殺されたそうです。

同じような事件は、アメリカでも起こっています。

こちらの事件もアフリカ同様、顔面を攻撃されています。

被害者は飼い主の女性で、約12分間に渡って攻撃された結果、
指を無くし、目、鼻、上あごを酷く損傷してしまったそうです。

損傷した彼女の顔写真は、こちらのサイトで見ることが出来ます。

※ページを開くと、いきなりショッキングな映像が出てくるので、
そういった画像が苦手とされる方は見ないで下さい。
⇒チンパンジーに顔を噛みちぎられた女性がテレビ出演(衝撃映像注意)

飼い主を襲ったトラビス(14歳)は、
パンくんと同じくテレビCM等に出演し、賢いと評判だったチンパンジーです。

トラビスが飼い主を襲った原因は、気が立っているのを鎮める為に飲まされた
抗不安薬の副作用ではないかと言われています。

パンくんの引退の理由は繁殖が目的とされていますが、本当のところは、
成長したチンパンジーは制御が難しい猛獣だからではないでしょうか。

環境省や日動水が指摘していたパンくんの扱い

宮崎市フェニックス自然動物園から
繁殖目的で阿蘇カドリー・ドミニオンに移されたパンくんの扱いについて、
環境省と日本動物園水族館協会(日動水)が
本来の目的に反している、又は支障が出るのではないかという指摘しています。

まず、環境省の指摘から。
こちらのブログに転載されていたものを要約しました。
⇒<チンパンジー>パンくんの興行 種の保存法違反で聴取へ

最近テレビやショーに出まくってるパンくんのことやけど、
繁殖目的って言うから無償譲渡に許可を出したんやで。

こんなに人前に出しまくったら繁殖に影響が出えへんか?

繁殖目的の譲渡でも、通常の展示なら構わないっていう決まりは有るけど、
これはちょっとやり過ぎやろ?

チンパンジーは種の保存法で国際希少野生動植物種に指定されてて、
大切にせなあかん動物やねん。

阿蘇CDさんのパンくんの扱いは
希少動植物の取引を規制する種の保存法違反に抵触する可能性があるけど
どうするっ!

この環境省の指摘に対して阿蘇CDは、
譲渡の際に飼育用の獣舎を新築し、パンくんと同い年のメスの飼育も始めた。

夏休みは日程がきついが、普段は余裕を持って組んでいる。

繁殖には支障がないと思う。

民間動物園が獣舎などを整えるには収入も大切で、環境省には現状を伝えたい。
と答えています。

またパンくんを番組に出演させている日本テレビは、
「収録はストレスや疲れを与えないように留意しており、問題はないと思う」
と答えています。

次は、日本動物園水族館協会の指摘。
こちらは「動物愛護管理のあり方検討小委員会(第7回)議事録」から抜粋します。

【北村健一氏】 北村でございます。発言させていただきます。
直近の例でございますけれども、
私どもは倫理要綱というものを持っておりまして、
皆さんのお手元の事業概要の56ページに倫理要綱というのがございまして、
それの5に「展示」という項目がありまして、
「5-1 展示は最新のデータに基づき、
その種の本来持っている習性や形態が、
正しく理解できるものであり、
かつ生態系の中で果たす役割が理解されるように入っていること」
というふうな要綱となっております。
実は日本テレビで「志村どうぶつ園」という番組をやっておりまして、
あそこにチンパンジーが出ておりまして、
我々から見てもあまりにうそでして、
チンパンジーは確かに賢いんですけれども、
あんなには賢くないものですから、
服も着ていませんし、
あれはいかがなものかということで、
倫理委員会を何回も開きまして、
改善勧告等をいたしました。
それで、いろいろお話し合いは申し上げたんですけれども、
結局、折り合わなくて、うちの協会から退会なさった
というのが、つい二、三年前の事例であります。
まだテレビに出ていますよね。

⇒中央環境審議会動物愛護部会
動物愛護管理のあり方検討小委員会(第7回)議事録

なんか、こういうこと知ると、
パンくんも被害者ではないかと思ってしまいます。。。

【追記】志村けんさん、パンくんに会いに行く

2012年12月22日に放送された「志村どうぶつ園 クリスマス2時間SP」で、
志村園長が阿蘇CDに居るパンくんに会いに行く模様が放送されました。

パンくんに会いに行ったのは、不幸な事故が起こった1ヵ月後の10月。

阿蘇CDに着いた志村さんを出迎えたのは、
動物トレーナーの宮沢厚さんと、園長の上山栄二さん。

2人は「申し訳ございませんでした」と、深く頭を下げた後、
事故の経緯を志村さんと番組ディレクターに話をしたようですが、
詳しい内容は番組内では語られませんでした。

気になるパンくんの今後はというと、
以前番組で、何度か一緒に遊んだりデートした
メスのチンパンジー「ポコちゃん」と一緒に暮らし、
元気な赤ちゃんを産んでもらうとのことです。

現在、服を着ていないチンパンジー本来の姿に戻ったパンくんですが、
志村さんのことは忘れていない様で、姿を見ると直ぐに近寄ってきました。

しかし、以前の様にふれ合うことの出来ないガラス越しでの対面。

そんな状況をもどかしく感じたのか、
何かを訴えているかの様に、宙返りやお辞儀をするパンくんの姿が印象的でした。

番組の最後に『新しい家族作りが始まったパンくんの様子を、
これからも見守っていきたいと思います。』と語られていたので、
今後も、パンくんの元気な姿を見ることが出来そうです。


もう一記事いかが?

| 未分類 | コメント(0)

柔術プリースト 258

Jiu Jitsu Priest #258

| 未分類 | コメント(0)

チェ 28歳の革命 チェ 39歳別れの手紙 ゲバラのいない時代は不幸だが、  ゲバラを必要とする現代は、もっと不幸な時代だ。  スタジオジブリ 鈴木敏夫 ※ブラウザによっては表示再生されませんのでブラウザを変えて視ることを薦めます

review_gstche_1.jpg
review_gstche_14.jpg
review_gstche_large.jpg
Che_Guerva_22.jpg
ac81d91f6dd57ae948ae7ca5840dd464.jpg




動画:知恵28 ②



動画:知恵39 ②

http://zip2000.server-shared.com/che-part12.htm



「チェ 28歳の革命 Che Part1 : The Argentine」
 「チェ 39歳別れの手紙 Che Part2: Guerrilla」 
2008年

- チェ・ゲバラ Che Guebara、スティーブン・ソダーバーグ Steven Soderbergh -






<カリスマ・ヒーローの再評価>
 20世紀を代表する数少ないカリスマ的英雄のひとり、チェ・ゲバラ。1970年代以降、彼の存在は伝説となり、彼の顔がプリントされたTシャツは変らぬ人気を保ち続けています。反体制運動がピークを迎えていた1969年には彼の伝記映画がリチャード・フライシャー監督によって映画化もされています。(この時、ゲバラを演じたのは「アラビアのロレンス」で有名なオマー・シャリフ。そして、カストロを演じたのは西部劇の悪役で有名なジャック・パランスでした)革命が現実の出来事だったその時代、同時代のヒーローとしてゲバラの生き様は十分に映画化する価値があったのです。
「もし、われわれが空想家のようだといわれるならば、救いがたい理想主義者だといわれるならば、できもしないことを考えているといわれるならば、何千回でも答えよう、そのとうりだ、と」
チェ・ゲバラ

 しかし、米ソの対立やアメリカの保守化の中でゲバラの存在は、「共産主義のテロリスト」として否定されるようになってゆきました。ところが、1980年代のソ連の崩壊をきっかけに社会主義経済体制の失敗が明らかになると「共産主義」の本質自体が疑われようになり、ゲバラに対する評価も変り始めてゆきます。戦闘による革命という「暴力革命」への批判は変らないもののソ連型社会主義を「形を変えた帝国主義」と批判した彼の考え方はやっと正統に評価されるようになりました。もちろん、アメリカによるベトナム、アフガニスタン、イラクなどでの失敗は、資本主義という名の新たな帝国主義が誤まりであったことを証明し、ゲバラによる国連での伝説的演説が再評価されることになります。さらに、米ソどちらとも距離をおき、独自の社会体制を築こうとしたキューバの社会政策も再評価されるようになり、カストロとゲバラが目指した「革命」はけっして間違いではなかったということが明らかになってきました。(けっして生活レベルは高くはありませんが、医療や社会福祉、教育などに関するキューバの社会システムは日本よりはるかに充実しています)
 今一度、ゲバラの人生を描き出してみてはどうか?そうした動きが起きるのは必然だったのかもしれません。こうして、この映画の企画は2000年公開の「トラフィック」撮影時に同映画のプロデューサー、ローラ・ビックフォードによって提案され、その案にひかれたベニチオ・デル・トロとスティーブン・ソダーバーグによって準備が進められることになりました。

<スティーブン・ソダーバーグ>
 「エリン・ブロコビッチ」や「オーシャンズ11」などのヒットで知られるソダーバーグ監督ですが、元々彼は「セックスと嘘とビデオ・テープ」(1989年)「KAFKA/迷宮の悪夢」(1991年)「スキゾポリス」(1996年)など、実験的映画を得意とする監督であり、ハリウッド映画の枠からはずれて作品を撮り続けているインデペンデント映画を代表する監督です。この映画には、そんな彼の代表作「トラフィック」で用いられていた場面によって映像の色を変える手法が用いられていて、この映画が彼の集大成のひとつであることがうかがえます。ハリウッド式の娯楽映画で稼ぎ、アンドレイ・タルコフスキー監督の難解SF映画のリメイク作「ソラリス」(2002年)、フィルム・ノワールに対するオマージュ「さらば、ベルリン」(2006年)のようにマニアックな作品をヒットを意識せずに撮る。このやり方を心得た彼にとって、「ゲバラ」もまたマニアックにこだわって撮るのに最適な題材だったといえます。しかし、この題材に対する周りの期待は彼が考えていた以上だったようです。そうなると、この映画をヒットさせなけらばならないという思いも強くなったのでしょう。しかし、彼の手腕をもってしても、この映画をヒットさせるには数多くの困難が予想されました。

<ヒット困難の企画>
 ゲバラの人生を史実にこだわって描くため、この映画は全編スペイン語で撮られています。しかし、アメリカでは日本と異なり字幕付き映画は一般的ではないため、それだけでヒットの可能性は低くなってしまいます。そうでなくても、アメリカを徹底的に批判した国連での演説シーンをクライマックスのひとつとする映画なだけにアメリカでの大ヒットを期待することは困難でした。

 登場人物がスペイン語を話すとなると、出演する俳優もヒスパニック系の俳優で固める必要が生じ、なおかつドキュメンタリー・タッチを重視するため人気俳優を使うこともできません。ハリウッド・スターとしては唯一マット・デイモンがちょい役で出演しているぐらいでしょう。(ドイツ人の牧師としてゲバラのもとに交渉に来たマット・デイモンは、もしかするとCIAなのではないでしょうか?あの「グッドシェパード」の主人公エドワード・ウィルソンかも?)そうなると、俳優の人気で集客するのは困難です。
さらに問題になったのは、この作品が2部作になったことでしょう。当初、ソダーバーグ監督はゲバラがボリビアで処刑される悲劇的な最後の部分を中心にした映画を撮るつもりでした。それはキューバでの活躍はすでにあまりにも有名であり、逆にボリビアでの悲劇についてはあまり知られていなかったからです。しかし、そこに至る過程を描くには、ボリビアに渡る以前、キューバ革命で何があったのかも描かざるを得ないと考えた彼は、キューバ編とボリビア編という2部作構成を選択したのでした。監督自身の考えでは、2部作を前編、後編に分けて同時公開したかったようですが、結局日本での公開のように連続して前編、後編を公開するというスタイルになったようです。しかし、この方法もかなりリスキーな公開方法です。先に公開するパート1がこけたら、パート2は製作費の回収すら困難になるしょう。(幸いパート1は革命の成功というある意味ハッピーエンドのストーリーなのでヒットする可能性は高いと考えられましたが)

<チャンス到来>
 7年の歳月をかけた準備の後、撮影が始まりましたが、その間に時代は変り、新たな状況がこの映画にとってプラス材料となり始めます。組合の規定に従うため、ピーター・アンドリューという名を借りてカメラマンも担当している監督は、どの監督よりも「映像」にこだわる監督です。そんな彼にとって、森の中などで展開されるゲリラ戦の場面を自然光だけで撮ることのできる革命的な高感度カメラ「RED」登場は、技術面において大きな助けとなりました。このカメラによって撮られたリアルな映像によって、観客はゲリラの一人となり、部隊と共に行軍するという擬似体験をすることができるようになりました。そして、その行軍はゲバラの死まで続くことになります。
 ウォルター・サレス監督の映画「モーター・サイクル・ダイアリーズ」の公開と世界的ヒットも、この映画にとって好材料となりました。ソダーバーグ監督自身、この映画を加えてゲバラ3部作ができたといっているように、ゲバラの青春を描いた映画が先に公開され、なおかつ世界中でヒットしたというのは、どんなプロモーション活動よりもありがたかったでしょう。
 考えてみると、「モーター・サイクル・ダイアリーズ」が青春ロード・ムービーとすると、「チェ 28歳の革命」は戦争アクション。そして、「チェ 39歳別れの手紙」は悲劇的な結末を迎える戦場サスペンス映画とはっきりと色分けできます。さらにいうと、この3部作はイエス・キリストの生涯を描いた大河作品にも見えます。「モーター・サイクル・ダイアリーズ」は、イエス・キリストの青春時代と預言者ヨハネによる洗礼までを、「チェ 28歳の革命」は彼が十二使徒を集め、大衆の歓呼の中エルサレムに入場するまで、そして、「チェ 39歳別れの手紙」は弟子たちの裏切りと大衆に見捨てられての処刑(受難)までの物語になっているように思えます。
 過去の英雄物語のほとんどがイエス・キリストの人生と重なってしまうのは、大衆が英雄と認める存在のほとんど共通する条件がイエス・キリストの人生と共通しているからなのでしょう。たぶん、それはキリスト教以外の宗教圏でも共通しているのではないでしょうか?それはそうした英雄たちに共通する重要な言葉があるからです。たぶんそれは「愛」でしょう。
「甘ったるいと思われるかもしれないが、言わせてほしい。ほんとうの革命家は、大いなる愛情に導かれている。愛のない本物の革命家なんて、考えられない」
チェ・ゲバラ

<ゲバラを求める時代>
 「モーター・サイクル・ダイアリーズ」の大ヒットは、時代が再びゲバラを求めていることを象徴していたのかもしれません。そして、ソ連の崩壊以後、急激に東西両陣営の雪解けが進んだことで、ゲバラを直接知るキューバ人たちから証言を得ることができたことも映画に真実味と深い奥行きを与えることになりました。
 弟ラウルの国家評議会議長就任により、カストロの健康が不安視されるなど、ゲバラを直接知る人々もどんどん天国に召されつつあります。それだけに今この映画を撮ることは大きな意義がありました。
 それともう一つギリギリ間に合ったことがありました。それは「チェ 28歳の革命」の重要な場面、国連での演説シーンです。それが行われた国連本部の建物が老朽化により、建て替えられることになっていたため、急遽そのシーンだけが映画の撮影に先行して行われました。歴史的重要なシーンを、実際の場所で撮影できたこともまたこの映画に真実味をもたらすことになりました
 この映画が描いているのは、「魂の誕生」、「魂の成長」、「魂の完成」、その過程につきると思います。そして、このゲバラの物語の場合、「魂」とはもちろん「革命家の魂」もしくは「正義の魂」ということになるでしょう。
 青春時代に行った中南米の旅における人々との出会いが、それを生み出し、キューバ革命がそれを成長させ、ボリビアでの苦闘がそれを完成させたということなのです。
「この闘争は、ある種の機会を我々に与えている。最も崇高な類の人間である”革命家”になる機械を、また人間として最も純粋な形で成熟する機会を・・・・・」
チェ・ゲバラ
 映画全編を通じて彼のまわりの環境はどんどん変り悪化して行きます。そして、最後にはすべての味方を失うという絶望的状況に追い込まれるのですが、それでもなお彼の魂は変ることなく「革命」を目指し続けます。死んでしまえば、それまでなのかもしれないにも関わらず。しかし、彼が最後に銃で撃たれて倒れた瞬間、ぼんやりとその目に見えた光は優しく彼を天国へと招いていたよにう僕に見えました。彼の魂はこの瞬間に完成され、天に召されたのではないでしょうか。「革命」という旅を生涯続けたチェ・ゲバラの魂は、ついにその旅を終えたのではないでしょうか。

<混乱の時代に>
 2008年の世界同時不況が、この映画の公開と重なったのもまた何かの必然だったのかもしれません。1980年代の社会主義経済システムの崩壊に続き、2008年に資本主義経済もまた崩壊してしまった今、次なる理想の社会システムとは何なのか?21世紀は20世紀に生まれた社会をリセットしたところから、再びスタートを切ろうとしています。
 同時多発テロによる国際関係の混乱。
 世界同時不況による国際関係の混乱。
 地球温暖化による地球環境の混乱。
 すべてが混乱した状況の中、いかなる「魂」がそこで「誕生」し、「成長」し「完成」に至るのか?そんな時代を我々は体験し、目撃することになるのでしょうか?
 「チェ 39歳別れの手紙」のエンドロールは、まったく音のない沈黙の状態です。僕はその画面を見ているうちに、思わず目を閉じてチェの冥福を祈ると同時に子供たちに明日が来るようにと願っていました。2009年世界の復活を信じたいと思います。

「この手紙を読まねばならないとき、お父さんはそばにいられないでしょう。
 世界のどこかで誰かが不正な目にあっているとき、いたみを感じることができるようになりなさい。これが革命家において、最も美しい資質です。
 子供たちよ、いつまでもお前たちに会いたいと思っている。
 だが今は、大きなキスを送り、抱きしめよう。
 お父さんより」
 チェ・ゲバラ

「チェ 28歳の革命 Che Part1 : The Argentine」 2008年
「チェ 39歳別れの手紙 Che Part2: Guerrilla」 2008年
(監)(撮)スティーブン・ソダーバーグ Steven Soderbergh
(製)ローラ・ビックフォード Laura Bickford 、ベニチオ・デル・トロ Benicio Del Toro
(脚)ピーター・バックマン Peter Buchman
(美)アンチョン・ゴメス Antxon Gome
(音)アルベルト・イグレシアス Alberto Iglesias
(衣)サビーヌ・デグレ Bina Daigeler
(出)ベニチオ・デル・トロ Benicio Del Toro、カルロス・バルデム、デミアン・ビチル Demian Bichir、アキム・デ・アルメイダ、エルビラ・ミンゲス、フランカ・ポテンテ、ロドリゴ・サントロ、ルー・ダイヤモンド・フィリップス、マット・デイモン(友情出演)

<あらすじ>
「チェ 28歳の革命」パート1
 1964年 アメリカのジャーナリスト、リサ・ハワードによるハバナでのインタビュー
「アメリカの中南米への支援はキューバ革命の意義を失わせるのではないか?」
 ここから映画は過去に戻るように始まります。

 1955年7月メキシコシティーでキューバのバティスタ政権打倒を目指すフィデル・カスロト(デミアン・ビチル )と出会ったチェ・ゲバラ(ベニチオ・デル・トロ)は、82名の革命戦士たちとともにグランマ号という船に乗りキューバへの出発しました。

 1964年ニューヨークのケネディ空港に降りたったゲバラはキューバの首席代表として国連での演説を行うことになっていました。しかし、到着した彼を迎えたのは歓迎ではなく亡命キューバ人を中心とする抗議のデモ隊でした。

キューバ東南のビノクに上陸したゲバラたち革命軍はバティスタ軍に発見され、十数人しか生き残れませんでした。しかし、カストロはその作戦をあきらめず、仲間を少しずつ増やしながらゲリラ戦を展開。進軍を続けるカストロの隊と離れ負傷兵を運搬することになったゲバラは、その行軍の中で革命戦士のリーダーになる資質を身につけて行きます。

 1961年にビッグス湾への上陸作戦に失敗したアメリカは、1962年のキューバ危機以降、キューバ上空を侵犯しながら監視を続けていました。パーティー会場で後の大統領候補となるユージーン・マッカーシー上院議員と出会ったゲバラはそのこと皮肉ります。

 1955年7月、武力闘争を主張し平和的な革命を否定していたカストロは都市部の平和主義革命勢力と協力関係を築きます。より現実的かつ革命後の社会体験を視野に入れたカストロの作戦にゲバラも従い、新兵の教育を担当しながら彼らに革命家として必要な人間性をより強く認識させるようになります。
 1958年5月、シエラマエストラ山中で各派の代表が集まり、その中でカストロが総司令兼政治指導者に選出され、いよいよキューバ革命は最終決戦に向けて進み始めます。

 1964年12月、ゲバラは2回に渡り国連総会の演壇に立ち、歴史的な演説を行いました。

「チェ 39歳別れの手紙」パート2
 1965年10月3日、キューバ共産党の発足式が行われた会場にゲバラは現れず、カストロは彼が残した手紙を読み上げました。
「フィデル
 私は今、多くを思い出している
 マリアの家で君に出会ったこと
 革命戦争に誘われたこと
 準備期間のあの緊張の日々
 死んだ時は誰に連絡するかと聞かれた時 -
 死の現実性を突きつけられ慄然とした
 後にそれは真実だと知った
 真の革命であれば
 勝利か死しかないのだ
 私はキューバ革命で -
 私に課せられた義務の一部は果たしたと思う。
 だから別れを告げる
 同志と君の人民に今や私のものでもある人民に
 私は党指導部での地位もキューバの市民権も
 今 世界の他の国々が -
 私のささやかな助力を求めている
 君はキューバの責任者だからできないが
 私にはできる
 別れの時が来たのだ
 もし私が異国の空の下で死を迎えても -
 最後の想いはキューバ人民に向かうだろう
 とりわけ君に」
 1965年10月3日

 1966年、コンゴでの革命に失敗したゲバラはキューバに一時帰国。家族と最後となるひと時を過ごし、新たな革命闘争の地、ボリビアへと向かいました。1966年11月ボリビアに潜入したゲバラは山中でゲリラ兵を育て始めます。すでに一度革命によって農地改革が行われたことのあるボリビアはクーデターによって誕生したバリエントス軍事独裁政権(ヨアキム・デ・アルメイダ)によって支配されていましたが、革命を成功させることが可能な土地と考えられていました。
 しかし、状況は予想以上に厳しい方向へと変わりつつありました。ソ連の影響を強く受け武装闘争を認めないボリビア共産党の代表モンヘ(ルー・ダイヤモンド・フィリップス)との話し合いは不調に終り、彼らは重要な資金源を失ってしまいました。さらにバリエントス政権は、キューバ革命の成功から、ゲバラの侵入を恐れていたため、アメリカからの軍事顧問団を受け入れて対ゲリラ用の特殊部隊を育成し始めていました。さらには政府がばら撒いたデマにより、農民たちまでもがゲリラへの協力をこばみ、密告までするようになります。ゲバラの部隊は食料、医薬品などの不足に苦しみ、しだいに兵力を失ってゆきます。
 1967年10月8日、ユロ渓谷に逃げ込んだ部隊は政府軍の掃討作戦によって、いよいよ逃げ場を失います。そして、足に銃弾を受けたゲバラは捕虜になり、その翌日10月9日、彼を処刑するようにという命令が届きます。
20世紀映画劇場へ   トップページへ

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%82%A7_(%E6%98%A0%E7%94%BB)

チェ (映画)





移動先: 案内、 検索



チェ
(28歳の革命 / 39歳 別れの手紙)

Che
(The Argentine / Guerrilla)

監督
スティーブン・ソダーバーグ

脚本
ピーター・バックマン

製作
ローラ・ビックフォード
ベニチオ・デル・トロ

製作総指揮
アルバロ・アウグスティン
アルバロ・ロンゴリア
ベレン・アティエンサ
フレデリック・w・ブロスト

出演者
ベニチオ・デル・トロ
フランカ・ポテンテ
カタリーナ・サンディノ・モレノ

音楽
アルベルト・イグレシアス

主題歌
メルセデス・ソーサ『バルデラーマ - Balderrama』

撮影
ピーター・アンドリュース

編集
パブロ・スマラガ

配給
アメリカ合衆国の旗 フォーカス・フィーチャーズ
日本の旗 ギャガ・日活

公開
スペインの旗 2008年9月5日
アルゼンチンの旗 2008年11月13日(前編)
アルゼンチンの旗 2009年1月29日(後編)
フランスの旗 2009年1月7日(前編)
フランスの旗 2009年1月28日(後編)
日本の旗 2009年1月10日(前編)
日本の旗 2009年1月31日(後編)
アメリカ合衆国の旗 2009年1月24日

上映時間
265分 (132分 / 133分)

製作国
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
フランスの旗 フランス
スペインの旗 スペイン

言語
スペイン語・英語
テンプレートを表示

『チェ』(Che)は、革命家チェ・ゲバラの半生を描いた、2008年のアメリカ・フランス・スペインの合作伝記映画。

全編の上映時間が4時間30分に及ぶため、フルヘンシオ・バティスタによる独裁政権をフィデル・カストロと共に倒すキューバ革命までを描いた『チェ 28歳の革命』(The Argentine)と、ボリビアでの敗北と処刑までを描いた『チェ 39歳 別れの手紙』(Guerrila)の二部作に分けられている。



目次 [非表示]
1 概要
2 あらすじ
3 キャスト
4 上映
5 ソフト化
6 関連映画
7 脚注
8 外部リンク


概要[編集]

監督をスティーブン・ソダーバーグが、主役のチェ・ゲバラ役をベニチオ・デル・トロが務めた。ベニチオ・デル・トロは本作の共同プロデューサーでもある。

2008年5月21日、カンヌ国際映画祭で初上映され、作品がパルム・ドールにノミネート、主演のデル・トロが男優賞を受賞した[1]。
ベニチオ・デル・トロは、2009年度スペイン版アカデミー賞(『ゴヤ賞』)の最優秀主演男優賞を受賞した[2]。

なおデル・トロは、アメリカ領プエルトリコで育ったこともあって、幼い頃からチェ・ゲバラは「悪者」だという認識を抱いていた[3]が、『007/消されたライセンス(1989年)』のロケでメキシコに行った時に偶然ゲバラの書簡集を読み、深い感銘を受けた。以降は認識を改め、ゲバラの人生に強く興味を持ったという[4]。

撮影前には、ゲバラの著書を読んだり、ゲバラの2番目の妻アレイダ・マルチやアルゼンチン在住の弟や妹などと会い、革命活動以外のゲバラの素顔を知った[5]。更に自らキューバへ赴き、関係者への証言を得るなど、7年を費やして[6]、徹底的にゲバラを研究し尽くした。キューバを訪れた際には、フィデル・カストロと5分間だけ面会できたと言う[6]。ゲバラに関するリサーチは、ゲバラの日記、ボリビア滞在時に書いたメモ、果てはニューヨークへ行く際にアメリカ国務省が作成していた公文書(機密指定が解かれたもの)にまで及んだ[7]。

撮影は2007年5月から開始され[8]、デル・トロは撮影に際し、25kgの減量をして[9]、ゲバラになり切った。

デル・トロは共同プロデューサーのローラ・ビックフォードと共に、キューバ革命とボリビアでゲバラと共闘し、生き残っているポンボ(ハリー・ヴィジェガス)、ウルバノ (レオナルド・タマヨ・ヌニャス)、ベニグノ (ダリエル・アラルコン・ラミレス)ら3名と会った[7]。彼ら3人に個々に話を聞き、ポンボとベニグノはキューバとボリビアでの体験を語ってくれた。ウルバノはスペインでの撮影アドバイザーを務め、どのように銃を構えていたか、など俳優たちの細かい相談に乗った[7]。


本作のコンサルタントを務めているのは、最も代表的なチェ・ゲバラの伝記で、 世界の多くの国で翻訳・出版されている『Che:A Revolutionary Life』の著者であるジョン・リー・アンダーソンである。
彼の製作スタッフインタビュー『チェの伝記著者が語る、ボリビア戦争の真実』は、『チェ2部作 コレクターズエディション』の映像特典中に収録されている。


あらすじ[編集]

『チェ 28歳の革命』

1964年5月。革命後のキューバの要人として、首都ハバナで女性インタビュアーの取材を受けるゲバラ。過去の様々な場面を回想しながら、物語は進んでいく。

1955年7月、キューバ人の革命家フィデル・カストロは、亡命先のメキシコシティで密かに同志を募っていた。キューバはバティスタの独裁政権に支配され、貧富の差は広がるばかりだったのだ。アルゼンチン人の青年医者エルネスト・ゲバラは、カストロの言葉に共鳴し、翌年、カストロと共にキューバに密航した。

1964年12月のニューヨーク。ゲバラはキューバ主席として国連本部の総会で演説するために渡米した。このニューヨークの訪問と、7年前の1957年のキューバでのゲリラ活動が交互に語られて行く。

1957年3月、喘息の発作に苦しみながら、キューバのジャングルを進む戦闘服のゲバラ。反乱軍の仲間からは、すでに「チェ」と愛称で呼ばれているが、彼はまだ任務をうまくこなすことが出来ない。外国人である引け目が遠慮を生んでいるのだ。

同5月、カストロ率いる反乱軍は政府軍の兵営を襲って、その力を見せつけた。6月の戦闘では、ゲバラは志願して本隊から離れ、治療が必要な負傷兵たちを引き受けて危険地帯に潜伏した。この時の困難な負傷兵の移送作戦で、真の戦士に成長したと語るゲバラ。

1964年のニューヨークでテレビに出演し、支持者のパーティーに出席して、キューバの立場を語るゲバラ。交互に語られる1957年のゲバラ達は、戦いを続けている。カストロは革命後の臨時政府の方針を創案し、都市の活動家たちと協定を交わした。ゲリラたちは内心では、都市で起こっている「ゼネストによる政権崩壊」の運動を軽んじていたが、目指すところは同じなのだ。

ゲバラの指揮官としての能力は高かった。しかし、カストロはゲバラに新兵のための訓練キャンプを任せた。カストロはゲバラを革命後に必要な人材と考え、その命を惜しんだのだ。それは降格人事だったが、ゲバラは受け入れた。

1958年5月、カストロはキューバで活動する複数の反乱軍の総司令官に任命された。都市でのゼネストが鎮圧され、個々の武装勢力は結束する必要を痛感したのだ。

1964年のゲバラは国連本部での演説を成功させ、ソ連が率いる社会主義陣営の支持を求めた[10]。1958年のキューバでは、反乱軍同士の勢力争いが表面化していた。カストロが率いるゲリラ部隊は「7月26日運動(M-26-7)」という名称だったが、その政策の核である農地改革に反対する者も多かった。カストロは反乱軍の意思統一を急ぎ、ゲバラを軍の全勢力をまとめる司令官に任命した。

山岳部が主だったゲリラ戦は、ラス・ビリャス州の都市部へと移行した。市民はゲリラを歓迎し、主要都市が次々と制圧されて反乱の動きは加速していった。左腕を骨折したゲバラには、アレイダという女性兵士が付き従うようになった[11]。

独裁者バティスタは、最後に残った都市サンタ・クララに政府軍を集結させた。そこを落とせば首都ハバナは目の前だ。ゲバラは援軍を待たずに市内に進軍し、ラジオで市民に共闘を呼び掛けた。政府軍は市民の住む町への空爆を強行し、激戦が続く中、軍や警察からは降伏する者が出始めた。

サンタ・クララの司令官は逃亡を図り、ついにバティスタが国外へ亡命した。1959年1月2日に、ゲバラは首都ハバナに向け最後の進軍を開始した。25ヶ月に及ぶ戦いには勝利したが、革命はこれからだった。政府軍を完全に制圧し、クーデターの芽を潰さなければならない。そしてゲバラの夢は、中南米に革命を広げることなのだった。


『チェ 39歳 別れの手紙』

1965年のキューバ。共産党の中央委員会にゲバラの姿はなかった。委員長のカストロは市民に対して、彼宛のゲバラの手紙を公開した。ゲバラは党の幹部の地位を捨て、貧しい人々が搾取され続ける国々での国際的な革命闘争を目指して、まずアフリカへ渡っていたのだ。

一年後の1966年11月、変装したゲバラは、キューバの妻子に別れを告げて[12]、南米中央部のボリビアに入国した。キューバ人のゲリラ仲間や現地の同志と合流し、辺鄙な土地に新兵の訓練キャンプを設営するゲバラ。だが、ボリビアの共産党は武装闘争に消極的だった。

年が明けて1967年、キューバのカストロはゲバラの消息を探り、支援物資を届ける努力を続けていた。ラモンという偽名で戦闘を続けるゲバラは、貧しい農民の子を治療し、親たちに協力を求めた。だが、農民たちは外国人の多いゲリラ部隊を信用しなかった。ボリビア軍はゲリラが農民を奴隷にすると言い触らしていたのだ。

アメリカ寄りのボリビア政府は、カストロがボリビアでも共産革命を起こすのではと案じていた。官僚たちはゲバラがまだアフリカのコンゴにいると思っていたが、アメリカ軍はボリビアの特殊部隊の訓練を買って出た。彼らは、人気のある「英雄ゲバラ」がボリビアの人民に支持されることを恐れたのだ。

ゲバラは、自分とキューバ人ゲリラの存在を秘密にしていた。だが、捕虜から情報が漏れて、ゲバラの存在は政府軍の知るところとなった。シグロ・ベインテ炭鉱でストライキが計画されると、政府はゲリラ部隊と鉱夫たちの共闘を防ぐために、鉱夫たちを虐殺した。

ボリビア人民解放軍と名乗って戦闘を続けるゲバラ達。だが、新兵が補充できず、戦闘のたびに兵士の数は減って行った。ゲバラがボリビアに入って280日目には、ゲバラ自身の体調も悪化していた。喘息を患っているゲバラは、薬を切らしてしまったのだ。合流するはずだった別働部隊も、農民の裏切りで政府軍に待ち伏せされ、全滅した。

フェルナンドという偽名で部隊を率いるゲバラを、ボリビア政府軍が追い詰めて行った。ゲバラがボリビアに入って340日目、ユロ渓谷の戦闘で、ついにゲバラは捕虜となった。オルトゥーニョ大統領は、ゲバラを連行することなく現地での銃殺を命じ、刑は翌日に執行された。1967年10月9日のことだった。

キャスト[編集]


役名

俳優

日本語吹替

チェ・ゲバラ ベニチオ・デル・トロ 小山力也
ポンボ(ハリー・ヴィジェガス) ベンジャミン・ベニテス
リサ・ハワード ジュリア・オーモンド
タニア(タマラ・ブンケ) フランカ・ポテンテ 林真里花
ベニグノ(ダリエル・アラルコン・ラミレス) アルマンド・リエスコ
インティ(ギド・ペレド・レイゲ) クリスティアン・メルカド
アレイダ・マルチ カタリーナ・サンディノ・モレノ 冠野智美
フィデル・カストロ デミアン・ビチル 大塚芳忠
ラウル・カストロ ロドリゴ・サントロ 福田賢二
カミロ・シエンフェゴス サンティアゴ・カブレラ 檀臣幸
シロ・レドンド エドガー・ラミレス
イスラエル・パルド アルフレド・デ・ケサダ
フアン・アルメイダ・ボスケ ロベルト・サンタナ
ロヘリオ・アセベド ヴィクター・ラスク
マリオ・モンヘ ルー・ダイアモンド・フィリップス 木下浩之
ウルバノ(レオナルド・タマヨ・ヌニャス) カリ・メンデス
レネ・バリエントス ジョアキム・デ・アルメイダ 土師孝也

上映[編集]

カンヌでの上映後、ソダーバーグはそれぞれのフィルムから5分から7分のシーンをカットした[13]。その後、第46回ニューヨーク映画祭[14]、第33回トロント国際映画祭でも15分の休憩を挟んで上映された[15]。2008年11月1日、アメリカ映画協会のフェスティバルの一環としてグローマンズ・チャイニーズ・シアターで行われたロサンゼルス・プレミアでは、チケットが完売した[16]。

チェ・ゲバラの故郷・アルゼンチンでも2008年11月に上映されたが、首都ブエノスアイレスでは、チェに扮したデル・トロの巨大なポスターがそこかしこに貼られた。

2008年12月、キューバの首都・ハバナで行われる第30回新ラテンアメリカ国際映画祭、通称ハバナ映画祭 (Festival Internacional del Nuevo Cine Latinoamericano de La Habana) で、ヤラ映画館(12月6日)とカール・マルクス劇場(12月7日)の両日、2作とも上映されている[17][18]。キューバの外相フェリペ・ペレス・ロケによると、キューバとの交易を断っているアメリカ政府がキューバでの撮影許可を下ろさなかったために、撮影はスペインやボリビアで行われたという。

日本公開に際しては、スタジオジブリの鈴木敏夫が「ゲバラのいない時代は不幸だ。だがゲバラの存在が必要な現代の方が、ずっと不幸だ」と「賛辞」を寄せた[19]。

ソフト化[編集]

日本では2009年6月12日にブルーレイ、DVDが発売。
チェ ダブルパック(DVD2枚組・2010年1月末までの期間限定生産) ディスク1:「チェ 28歳の革命」本編DVD 映像特典 予告編


ディスク2:「チェ 39歳 別れの手紙」本編DVD 映像特典 予告編


アウターケース付き2枚組トールケース仕様

チェ コレクターズ・エディション(DVD3枚組・初回限定生産) ディスク1:「チェ 28歳の革命」本編DVD(ダブルパック版と同様)
ディスク2:「チェ 39歳 別れの手紙」本編DVD(ダブルパック版と同様)
ディスク3:特典DVD スタジオジブリ プロデューサー鈴木敏夫×スティーブン・ソダーバーグ監督対談 リアルな伝記映画について
なぜ、今「チェ」なのか?

Promotion Tour in Japan 舞台挨拶
記者会見&学生へのメッセージ
ベニチオ・デル・トロ インタビュー

製作スタッフインタビュー 映画を二つに分けた理由 / 製作秘話(プロデューサー:ローラ・ビッグフォード)
2つの映画に違いを出すための工夫(衣装:サビーヌ・デグレ)
「チェ」の著者が語るボリビア戦争の真実(コンサルタント:ジョン・リー・アンダーソン(チェ・ゲバラの伝記の著者))

主要キャストが語る、役作りとその素顔 デミアン・ビチル(フィデル・カストロ役)
カタリーナ・サンディノ・モレノ(アレイダ・マルチ役)
ロドリゴ・サントロ(ラウル・カストロ役)


封入特典 戸井十月監修豪華ブックレット(52P)

特製アウターケース付きデジパック仕様

チェ コレクターズ・エディション ブルーレイ(2枚組・初回限定生産) ディスク1:「チェ 28歳の革命」本編BD 映像特典 製作スタッフインタビュー 映画を二つに分けた理由 / 製作秘話(プロデューサー:ローラ・ビッグフォード)
「チェ」の著者が語るボリビア戦争の真実(コンサルタント:ジョン・リー・アンダーソン(チェ・ゲバラの伝記の著者))
2つの映画に違いを出すための工夫(衣装:サビーヌ・デグレ)

主要キャストが語る、役作りとその素顔 デミアン・ビチル(フィデル・カストロ役)
カタリーナ・サンディノ・モレノ(アレイダ・マルチ役)
ロドリゴ・サントロ(ラウル・カストロ役)



ディスク2:「チェ 39歳 別れの手紙」本編BD 映像特典 スタジオジブリ プロデューサー鈴木敏夫×スティーブン・ソダーバーグ監督対談 なぜ、今「チェ」なのか?
リアルな伝記映画について

Promotion Tour in Japan 舞台挨拶
記者会見&学生へのメッセージ
ベニチオ・デル・トロ インタビュー



封入特典 戸井十月監修豪華ブックレット(52P)

特製アウターケース付き2枚組ブラックブルーレイケース仕様


関連映画[編集]
『ゲバラ!』(1969年) 主演:オマー・シャリフ
ほぼ同時期のゲバラを描いた伝記映画

『モーターサイクル・ダイアリーズ』(2004年) 主演:ガエル・ガルシア・ベルナル
自伝『チェ・ゲバラ モーターサイクル南米旅行日記』をもとに若き日のゲバラを描いたロード・ムービー


脚注[編集]

1.^ “パルム・ドール決定!受賞結果に記者から不満の声も!【第61回カンヌ国際映画祭】”. (2008年5月26日) 2008年11月25日閲覧。
2.^ “スペイン版アカデミー賞「ゴヤ賞」、男優賞は『チェ』のデル・トロ”. (2009年2月2日) 2009年2月2日閲覧。
3.^ “The Big Preview”. エンパイア(雑誌): pp. 104. (2008年8月)
4.^ 『SPA!』2009年1月7日号掲載インタビュー『ゲバラを撮ることで、僕らも成長した。ソダーバーグ&デルトロ インタビュー』より
5.^ 'Che' Lives Backstage, November 19 2008
6.^ a b “チェ・ゲバラを演じたベニチオ・デル・トロ、カストロとも面会したと激白【第52回ロンドン映画祭】”. (2008年10月27日) 2008年11月25日閲覧。
7.^ a b c “Che”. Festival de Cannes program. (2008年) 2008年9月6日閲覧。
8.^ “スティーヴン・ソダーバーグ、チェ・ゲバラの伝記映画の撮影を来年から開始”. (2006年11月6日) 2008年11月25日閲覧。
9.^ “25キロもの激ヤセ!チェ・ゲバラが乗り移った?命がけのデル・トロ”. (2008年10月9日) 2008年11月25日閲覧。
10.^ カストロは、革命の初期には社会主義者ではなかった。ピッグス湾事件を参照のこと。
11.^ 1959年にゲバラはアルゼンチンのイルダ・ガデアと離婚し、アレイダ・マルチ・デ・ラ・トーレと再婚した。
12.^ 1959年に再婚したゲバラは、アレイダ・マルチ・デ・ラ・トーレとの間に4児を儲けた。
13.^ “A Cannes of worms for indie films”. (2008年7月31日) 2008年7月31日閲覧。
14.^ “チェ・ゲバラを描いたソダーバーグの新作は4時間28分の超大作!【第46回ニューヨーク映画祭】”. (2008年9月30日) 2008年11月25日閲覧。
15.^ “Toronto fest adds 20 films to lineup”. バラエティ(雑誌). (2008年8月13日) 2008年8月14日閲覧。
16.^ “Soderbergh takes a revolutionary approach to Che”. ロサンゼルスタイムス. (2008年10月13日) 2008年11月2日閲覧。
17.^ Benicio del Toro presents Soderbergh’s Che - DIGITAL Granma International (December 6, 2008 at the first Havana premiere of Che at the Yara Theater)
18.^ 「チェ・ゲバラ描いたソダーバーグ監督の映画、キューバで絶賛」[1](CNN.co.jp 2008年12月13日)
19.^ ブレヒトの戯曲『ガリレオ・ガリレイの生涯』に出て来る台詞にちなむ。原文は“ゲバラ”ではなく“英雄”

外部リンク[編集]

ポータル 映画 ポータル 映画
オフィシャルサイト
Official International Site(スペイン語) - Official UK site(英語)
キューバへ、チェ・ゲバラの足跡を追う旅
cinemacafe.net『CHEチェ 28歳の革命 | 39歳 別れの手紙』特集
チェ 28歳の革命 - allcinema
チェ 39歳 別れの手紙 - allcinema
チェ 28歳の革命 - KINENOTE
チェ 39歳別れの手紙 - KINENOTE
Che, Part 1 - AllMovie(英語)
Che, Part 2 - AllMovie(英語)
Che - 28 sai no kakumei - インターネット・ムービー・データベース(英語)
Che: 39 sai - Wakare no tegami - インターネット・ムービー・データベース(英語)



[表示]

表 ·
話 ·
編 ·


スティーブン・ソダーバーグ監督作品







































[表示]

表 ·
話 ·
編 ·


チェ・ゲバラ







Che por Jim Fitzpatrick.svg


























































ウィキクォート
ウィキソース
コモンズ
ウィキブックス
ウィキデータReasonatorで見る






カテゴリ: 伝記映画
チェ・ゲバラ
2008年の映画
アメリカ合衆国の伝記映画
スペインの映画作品
フランスの伝記映画
キューバを舞台とした映画作品
メキシコを舞台とした映画作品
南アメリカを舞台とした映画作品
ギャガ
日活配給の映画

http://yorimichim.exblog.jp/9191273/


「チェ 28歳の革命」



CHE: PART ONE
THE ARGENTINE
2008年/アメリカ・フランス・スペイン/132分

監督: スティーヴン・ソダーバーグ
製作: ローラ・ビックフォード/ベニチオ・デル・トロ
脚本: ピーター・バックマン
撮影: ピーター・アンドリュース
音楽: アルベルト・イグレシアス
出演: ベニチオ・デル・トロ/デミアン・ビチル/サンティアゴ・カブレラ/エルビラ・ミンゲス/ジュリア・オーモンド/カタリーナ・サンディノ・モレノ/ロドリゴ・サントロ/ウラジミール・クルス

d0117645_17204574.jpg

原題が「CHE: PART ONE」とあるように2部構成で制作されている。
今回の第一部「チェ 28歳の革命」は、親しみをこめてチェと呼ばれたゲバラことエルネスト・ラファエル・ゲバラ・デ・ラ・セルナがフィデル・カストロと出会い、キューバ革命に身を投じたゲバラ28歳から31歳までを描いている。
ゲリラ戦で政府軍と闘うゲバラ、そして実質の勝利となった1959年ハバナ制圧までを描いたカラー映像と、それと交錯するように挿入されるモノクロ映像は、革命政権樹立後の1964年、キューバ代表としてニューヨークで開催された国連総会に出席するゲバラをドキュメンタリー風に撮った映像。
ゲバラの歴史に残るスピーチを、迫真の演技でデル・トロが演じていた。


「すべての戦争を内乱へ」というゲバラのスローガン。
「この戦いはクーデターではない。革命だ」と作中でもゲバラが兵士たちに向って語るシーンがあった。
大国にコントロールされることなく、腐敗しきった政権を倒し、真の独立国家を作り上げるのが彼らの目指す革命であり、アメリカ資本と手を結んだフルヘンシオ・バティスタ軍事政権から、カストロやゲバラが数年にも及ぶゲリラ戦でその主権を勝ち取った。

若き日のゲバラはカストロに、キューバ革命が成功したら故国アルゼンチンでも革命を起こしたいと語っていたという。同じような革命を他の国でも起したいとも語っていたという。
ホーチミンがフランスの植民地支配からベトナムを守ったような闘いを、世界であといくつか必要だ。そう語っていたという。

ベトナム戦争に対する反戦運動とも絡み合い、「帝国主義粉砕」を叫び先進諸国の若者たちの間で瞬く間に広がった学生運動。そんな革命闘争の時代にあったいわゆる68年世代といわれる1968年という時代。今は2つの国に分裂してしまったチェコスロバキアと呼ばれた国で、後にソ連軍の軍事介入よって制圧される「プラハの春」と呼ばれる変革運動が起きた年でもある。

「すべての戦争を内乱へ」というゲバラのスローガンは、ゲリラ戦で民族解放を掲げアメリカ軍と闘うベトナムの兵士たちの姿とも重なり、帝国主義粉砕を叫んだ若者たちの心を掴み、ゲバラは、あのイラストとともに、革命の象徴として熱狂的に受け入れられたのだろう。60年後半から70年にかけてカーキー色とアーミージャケットが流行したっけ
デル・トロと比べても数段カッコいい実物のゲバラ。その風貌もあっただろう。ゲバラのイラストが入った商品は廃れることなく巷に溢れ「かっこいい男」の象徴として、今はあるのだろうか。

今もなおゲバラのイラストは廃れることななく一人歩きしている。よく知られているゲバラの写真だ。
d0117645_1719912.jpg


喘息という持病を抱えながら医学生だったエルネスト・ゲバラが、友人と二人で南米をバイクで旅したことは、ロバート・レッドフォード総指揮、ウォルター・サレス監督の「モーターサイクル・ダイアリーズ」で描かれている。若き日のゲバラを演じたのはガエル・ガルシア。
この旅で最下層の人々やハンセン病患者らと出会い、中南米の現実を眼の辺りにしたことが、医学の道を目指していた一人の青年を革命に目覚めさせたと言われている。

映像で国連会議出席のため訪米したゲバラのインタビューシーンがある。
「あなたにとって革命の原動力は何ですか?」という問いに、ゲバラは「愛だ」と答えていた。
ここから更にゲバラの実像に肉薄して欲しかったと思う。

医学を目指していた一人の青年を、激しいゲリラ闘争に駆り立てたものは何だったのか?
「祖国か、死か」
そう叫んで更なる闘争へと彼を向かわせた「革命」という言葉にある熱きものが、映像から感じ取れなかった。
キューバ革命そのものよりも、革命に生きたゲバラを描こうとしたからだろうか。

本作の中には自分たちが勝手に作り出したエピソードやストーリーは1つもないとソダーバーグは断言する。今世紀最大のカリスマと大々的に本作について謳われているチェ・ゲバラ。キューバ革命を知らなくともゲバラは知っている人も多いだろう。カストロ以上にゲバラの名前は浸透しているだろう。必要以上にドラマチックに描きたくなかったというのがソダーバーグの本作に対する考えなのだろう。

しかし、映画とは、丹念にリサーチした中から、語られないもの、浮かび上がってこないものも掬い取り、映像として語ることにあるんじゃないのかって思う。
そこに監督の人間性とか描こうとするものに対する意識とか、果ては思想まで問われるものだろうと思うのだけれど。

革命に向わせる力は「愛」だと答える一方で、革命達成の一ヶ月後、旧バティスタ派の人々に対する裁判が行われ、600人もの人が処刑された。そしてゲバラはその処刑の責任者を務めている。

「これはクーデターではない。革命だ」と映像でゲバラは兵士たちに語っている。
そのための処刑も辞さないということだろう。
流血なくして革命はならずだろう。

ゲバラは恐らく熱烈なるマルクス・レーニン主義者だっただろう。
そして純粋に革命を目指していたのだろう。
理論派であると同時に過激な武闘派でもあっただろう。
それはまたゲバラの情熱と純粋さの表れともいえるだろう。
決して策略家でもなかっただろう。
熱く今を生きた男だっただろう。
それがカストロと決定的に違っていた点だろう。
革命終結後、急速にソ連に近づいていったカストロと袂をわかった。
私はそう思う。


第二部「チェ 39歳別れの手紙」
ソダーバーグはゲバラをどのように描いているのだろう。


映像では建前えのゲバラしか描かれていないような、そんな燻りを感じた。
今世紀最大のカリスマと言われるチェ・ゲバラと呼ばれた一人の男を解体し、ソダーバーグが再構築したゲバラ像を描いて見せてほしかったと思う。
一人の青年を革命闘争に投じさせた、彼の心に燃えていたものを見せて欲しかったと思う。

とまあ、若い時代を通り過ぎた今の私は映画を観ていて思ったことをつらつらと書きなぐってしまったけれど……。
恐らく、ソダーバーグはゲバラが生きた時代にまだ生まれていなかった若い世代に向けてこの映画を発信したかったのだろうとも思う。
熱い愛でもって苛酷なゲリラ闘争に生き、強い意志と信念をもって革命に生命をかけ、そして燃えたゲバラという一人の男。

単なる英雄伝的な作品にはしたくなかったのだろう。
けれどゲバラの中の、そして時代に流れていた熱い鼓動は描いて欲しかったと思う。

こうしてムキになるのも、ゲバラという人物は、すでにエルネストという実在の人物を離れ、偶像化され捏造されたものも大きいと思いながらも、私の中にも熱いものを沸き起させる作用をもつ存在なのだろうか?

28歳という年齢はちょっと辛いところはあったけれど…デル・トロの演技には拍手をおくりたい。

http://kajipon.sakura.ne.jp/kt/guevara.html

本気で世界を変えようとした男
【 あの人の人生を知ろう~チェ・ゲバラ 】 

Che Guevara 1928.6.14-1967.10.9


  

『1960年頃、世界で一番かっこいい男がチェ・ゲバラだった』(ジョン・レノン)
『チェ・ゲバラは20世紀で最も完璧な人間だ』(サルトル)

    

「もし我々が空想家のようだと言われるならば、救い難い理想主義者と言われるならば、出来もしないことを考えていると
言われるならば、何千回でも答えよう、“その通りだ!”と」(チェ・ゲバラ)~ゲバラのカッコ良さは異常!笑顔がまた良い!




★爆走!闇タクシーでゲバラに巡礼

2000年12月4日午前10時。僕はキューバの首都、ハバナにいた。
キュ-バ革命の英雄であり、圧政への世界の抵抗運動の象徴だったチェ・ゲバラの墓を探し出し、墓参を果たすという大いなる野望を持って。
しかし、この悲願の成就を阻む大きな壁が2つあった。“時間”そして“お金”だ。

AM8時に船でハバナ港に入港し、翌日の昼過ぎに同船が出港するため滞在時間は約30時間。
「ハバナは大都会だけど、30時間もあれば楽勝じゃん」
僕は国民的英雄ゲバラの墓は首都ハバナにあると始めから信じ込んでいた。
ところが!

観光局の職員に墓所を尋ねてみると、首都にあるどころかハバナから約300キロも離れた地方都市サンタクララに眠っているというではないか!300キロといえば東京~名古屋間に匹敵する距離。
“そんな遠くまで行って明日の出港に間に合わなかったらどうしよう”…頭を抱え込んだ。

交通手段がこれまた大問題。
キューバはアメリカから40年近く経済封鎖されており、慢性的な石油不足に陥っていて公共の長距離バスがない。鉄道があったので時刻表を調べてみると、なんとサンタクララ行きは一日にたった1本(14時発)だけ!しかも所要寺間が約10時間!
切符代は1000円程度と安かったけど、向こうに着いても明日の昼までに帰ってこれない…。

観光局の職員は国営タクシーに乗ることを勧めたが、値段を聞いて地獄の1丁目に突き落とされた。
グヘーッ、300ドル以上かかると言うのだ!(基本通貨はペソだけどドルも有効)
カード支払いはNGと言われ、手持ちのドル札は全部かき集めても168ドルしかなく、
「ぐぬぬ…、もはやこれまでか」
泣き濡れて床にバッタリ両手をついた。

“なんでハバナに埋葬せんのじゃ~”
ここまで来て墓参を断念せねばならぬ悲しさ。すっかり打ちひしがれていると、その様子があまりに哀れだったのか、職員がそっと耳打ちしてくれた。
「違法だけど、闇タクシーがあるからあたってみたら…」


闇タクシーとは何か。
キューバのタクシーは3つの形態に分かれている。
【国営タクシー】…普通にメーター制で走っている。
【個人タクシー】…ドライバーとの交渉で値段が決まる。彼らは国にタクシーの登録料(営業料)を一定額納めることで、正規のタクシー業を営んでいる。
【闇タクシー】…国に登録料を払わず、こっそりタクシー業をしている悪党。

この時点では、闇タクシー=個人タクシーと思っていた。
それで、その職員から教えてもらったタクシー銀座、ハバナ旧市街の議事堂周辺に行ってみた。なるほど、そこには見渡す限りズラリと個人タクシーが集まっている。さっそく値段交渉の開始。
「あの~、サンタクララに行きたいんですが」
「サンタクララ!?そんな遠い所まで行けないよ…」
ヌヒョ~ッ、誰もサンタクララに行ってくれないのだ!


 
議事堂周辺にて。全部個人タクシー。フロントに“TAXI”の黄色いプレートを置いている

事情はこうだ。
経済封鎖のあおりから、個人タクシーの車はどれも1950~60年代のアメ車ばかりで、車体はベコベコ、ミラーは折れてぶら下がってるという風体。最高速度が60キロでは、確かに遠距離はキツイ。何より故障で立往生したらもう一巻の終わりだ(実際、彼らも見知らぬ土地での故障を一番恐れていた)。
つまり、彼ら個人タクシーはハバナ市内の近距離専門だったのだ。

そうこうしてる内に2時間近く経ってしまい、追い詰められた僕はノートに大きく“サンタクララ”とマジックで書いて
「ポルファボール、サンタクラーラ!(誰かサンタクララへ連れてって)」
と絶叫しまくった。
すると、初対面のくせに“ハロー、マイフレンド”と満面の笑みで近づいてきた人物がいた。この男、神か悪魔か…。

その不気味なまでに陽気な男は、年の頃30代前半、体格のガッシリした兄ちゃんで、“アミーゴ”と笑顔で握手をしてくると同時に間髪を入れず“サンタクララまでお金を幾ら出す気なのか”と聞いてきた。

前回にも書いたが、手持ちの168ドルに対し国営タクシーの相場は300ドル。僕は恐る恐る
「1…1…120ドル」
と言うと、彼は天を仰いで
「ノーッ!せめて170ドルだ!」
「1…125ドル」
「俺には2歳の子供がいるんだ、150!」
「130」
「140」
最後は互いに歩み寄って135ドルで落ち着いた。僕は内心小躍りした。135ドルは大金だが、相場の半額以下ではないか!
男は名をカルロスと名乗った。

さあ、さっそく出発だ!と思いきや、カルロスが何やら真剣に電話をし始めた。時々声高になってエキサイトしている…徐々に僕にも事態が分かってきた。
カルロスは車を持っていないのだ。
彼は額の汗を拭きながら電話をかけまくり、4人目にしてようやく車を持つ友人と話がついたようだった。

僕らはまずガタガタの個人タクシーに乗って郊外へ向かい、カルロスの友人・ホセの家を目指した。
僕は何が何だか分からずドギマギしていたが、こうなれば事の成り行きを最後まで見届けてやろうと腹をくくった。
ホセは比較的に新しい車を持っていた!本当に乗り心地の良い車で、ちゃんと4枚の窓は開閉するし、驚いたことに冷房まで付いていたのだ。

ホセは35歳の小柄で物静かな男。はにかむように笑う照れ屋だった。“もしホセがラオウのような極悪人だったらどうしよう”と心配してたので、彼となら往復600キロも平気と胸を撫で下ろしていたら、
「OK、レッツ・ゴー!」
助手席のカルロスが前方を指差した。ちょっと待て、アンタも行くんかいッ!?
思わず目が点になったが
「俺も英雄ゲバラの墓には行きたかったんだ」
と聞いて、なるほど、ガソリンが貴重なキューバでは遠いサンタクララの街に行く機会など滅多にないのだと了解した。
ホセもまた“初めてなのですごく楽しみだ”と、まるで遊びにいくノリだ。
要するに、2人とも他人の金でサンタクララに行けるので喜んでいたんだ!



左が運転手のホセ、右がお調子者のカルロス

考えてみれば英語を話せるカルロスはインテリだ。ホセをはじめキューバっ子の多くはスペイン語しか通じない。道中どんなアクシデントがあるか分からないし、全員が初めての場所に行くわけだから、彼が助手席で地図を広げてナビゲーターをしてくれるのは心強かった。

動き出して最初にカルロスから警官対策の話になった。
「この車は闇タクシーで、政府の許可を得ていない。もし警官の検問があったら、日本人の君と俺は昔からのペンフレンド(!)で、親切心からサンタクララまで案内してあげてる、そういうシナリオで頼む。間違ってもお金のやり取りがあることを言わないでくれ」
“ほんとにこんなシナリオで大丈夫なのか”と内心思いつつ、口裏合わせをした。
そして、漢字が書かれた本(某『歩き方』)やノートはカバンにしまってくれ、と言われた。僕の顔はキューバ人には見えぬから意味ないぞと言ったら、アジア系キューバ人がいるので警官がそう思えば余計な質問はされない、との返事。

ホセは本格的に幹線道路へ入る前に闇ガソリン屋へ寄ると、怪しげな液体を買ってオイルタンクに流し込み始めた。
「あれはな、“薄め液”でガソリンを増やしてるんだぜ」
そう言ってカルロスは僕に目配せしたが、そんなことして途中で止まったらどうすんだよとハラハラした。

警官の検問などそうそうあるものでもないのに…と思ってたら、幹線道路に出たとたん事情を把握した。車を走らせてると道端でたくさんの人がヒッチハイクをしており、警官が車を誘導している。つまり、国民は皆兄弟ということで、空荷のトラックを見つけては警官が荷台に彼らを乗せてあげるよう指示していたのだ!
キューバは貧しい国だが人々はめちゃくちゃ陽気だ。こういう助け合いの精神が行き届いてるから、社会も明るくなるのかと思った。

そう感じ入ってると、カルロスは
「今日はやたらと警官が多い。乗用車が止められる事はないと思うけど、後部座席の足元にタオルケットがあるから、俺が“ポリース!”と叫んだら素早く身を伏せ、それを被ってくれ」
と、のたまった。
ウ~ム、まるで石橋を叩いて発見した小さな隙間に、アロンアルファを流し込んで渡るほどの慎重さ。さすがはプロ…などと感心してる場合ではない!おかげで彼が「ポリース!」と叫ぶ度に体を右へ左へ倒れさせ、大忙しだった。



道はひたすら一直線。道路脇を馬車がゆく

ホセの超絶マシンテクニックはカリブの風を切り裂き、アベレージ110キロでサンタクララに乗り付けた。片道4時間ちょい。時間は16時半になろうとしていた。
僕は無事に到着したことを天に感謝した。なぜなら、ガソリンの残量を示す針は街に入る10分ほど前から、すでにゼロを指していたからだ。“サトウキビ畑が延々と続くこんな所でガス欠になったらどうすんだよ~!”って、手の平はびっしょり濡れていた。

そして、いよいよゲバラとの感動の対面となったわけだけど、実はサンタクララの郊外から既に彼の墓は見えていた。街の中で一番高い建造物がゲバラの墓だからだ!

ゲバラの霊廟だけでも15メートル近くあるんだけど、てっぺんに6メートルほどのゲバラ像が立っているので、おそらく全体では20メートルを超えていた(ガンダムですら18メートルだ)。
このカリスマぶり、一体ゲバラとはどういう人間だったのか。



サンタクララに到着ゥゥウウ! 霊廟の建設時の様子。巨神兵のようなゲバラ像!


●チェ・ゲバラという漢(おとこ)

チェ・ゲバラ(キューバではゲバーラと言う)の本名はエルネスト・ラファエル・ゲバラ・デ・ラ・セルナ。1928年6月14日、アルゼンチンに生まれる。つまり、彼はキューバの英雄となったアルゼンチン人だ。“チェ”はあだ名で、意味は『心にくいヤツ』『(掛け声の)よっ、大将』。
19歳の時にブエノスアイレス大の医学部に入り、25歳で博士号(医学博士)をとっている。

彼は在学中に約1年間ラテンアメリカ全土をオンボロのバイクで放浪し、南米社会の極端な貧富の差に社会の矛盾を感じ、どう生きるべきか思い悩む。
特にインディオをはじめ、各地で少数民族が不当な弾圧を受けている現実に打ちのめされた。

『その頃私は医者としての個人的成功を夢見ていた。しかしこの旅を通じて考えが変化した。飢えや貧困を救うには注射だけでは不十分だ。社会の構造そのものを変革せねば。病人の治療より重要なことは、病人を出さないことだ』
彼は貧困層を取り巻く劣悪な住宅環境や、深刻な栄養不足を改善することこそが、自分の最優先課題だと考え始める。



この子がやがて歴史を作っていく 「ボクはどうしたら…」悩む青年ゲバラ

医学部を卒業後、ペルーの診療所に行くはずが途中でグアテマラの内戦に遭遇。グアテマラでは左派政権が大地主の土地を没収して貧しい農民たちに分配したが、これをきっかけに富裕層や米国に支援された反政府軍が攻撃を開始。ゲバラはグアテマラ政府軍の一員として戦うが敗北しメキシコへ脱出する。そこで運命的に出会ったのが、生涯の盟友となるキューバ人の青年弁護士、フィデル・カストロだった。
カストロはキューバ国内で反政府運動に参加していたが、厳しい弾圧を受けてメキシコに潜伏していたのだった。

《キューバ革命に参加》

1950年代のキューバは米国の属国同然で、土地、電話、電力、鉄道すべての利権がアメリカ資本の手に渡り、首都ハバナはマフィアが横行する無法の歓楽街となっていた。しかもキューバ政府の要人は独裁者バティスタ将軍を筆頭に米国にゴマをする者ばかり。巨額の黒い金が支配層間で動いていた。

そのバティスタ軍事政権を打倒する為に、カストロは武装した同志82人と今まさに祖国に戻らんとしていた。情熱的に巨悪と立ち向かうカストロの生き方に感銘を受けたゲバラは、軍医として彼らに同行することを決意し、1956年12月、キューバへの密航船に同乗した。
ときにカストロ29歳、ゲバラ28歳。

    アルゼンチンから世界へ

ところがこのキューバ上陸作戦は事前に情報が漏れており、海岸にはバティスタの政府軍がズラリと待ち構えていた。上陸時の激戦でメンバーの4分の3以上が死に、付近の山に逃げ込んで助かった者はわずかに17名。それも武器と食料の大半を失って…。
普通なら絶望してしまうところだが、この時にカストロが語った言葉がすごい。
「俺たちは“17人も”生き残った。これでバティスタの野郎の命運は尽きたも同然だ!」
戦車や戦闘機で武装した2万人の政府軍に対して、17名の革命軍でどうやって戦うのか。さすがのゲバラも、カストロが悲嘆のあまり発狂したのではないかと真剣に心配したという。

しかしカストロには、本当に勝算があったのだ。
キューバ人の大半を占める貧農は、普段から徹底的に支配層から抑圧されていた為、戦闘が始まれば必ず自分たちを支持すると確信し、事実そうなった。
これには、彼ら革命軍が農村で食料や物資を調達する際、必ず農民に代金を支払ったことも大きな要因だ。略奪が日常茶飯事だった政府軍とは決定的な差になった。
また、医者のゲバラは戦闘が終わると自軍だけでなく、負傷した敵兵にまで必ず治療を施した。こうした仁義話はキューバ全土にすぐに広まり、政府軍の中からもゲバラたちの仲間に加わる者が出た。

古今東西のゲリラ戦を研究し尽くしたゲバラは、政府軍の意表をつく様々な作戦を立案し、最少の人数で最大の戦果をあげ続けた。
一方、カストロは情報戦の重要性も熟知しており、積極的に内外のジャーナリストに取材をさせた。これでいくらバティスタが隠そうとしても革命軍の連戦連勝ぶりは民衆に伝えられ、ますます支持を得たのだった。

上陸から2年後、サンタクララがバティスタ軍との最終決戦の地となった。ゲバラは7倍の敵に対し、兵力の少なさを悟られぬよう複数の地点から攻撃を開始。また敵の退路を絶つ為に軍用列車を破壊した。パニックに陥った政府軍は雪崩をうって投降し始める。“ゲバラは捕虜を殺さない”という噂がこの投降を加速させた。
サンタクララ陥落の報を聞いたバティスタ将軍は、恐怖に駆られ国外へ逃亡する。

1959年1月2日、民衆の大歓声に迎えられ革命軍はついに首都ハバナへ入城し新政権を樹立させた。首相に就いたカストロは若干31歳、国銀総裁のゲバラは30歳という、若者たちの政府が誕生した。



民衆に語りかける ゲバラとカストロ ついに勝利した!

ゲバラとカストロはすぐさま新生キューバの建設にとりかかる。
まず国民全員が文字を読めるよう教育を無償化すると共に、政府軍が使っていた全ての兵舎を学校に変え、文盲一掃運動に取り組んだ。続けて医療の無料化を実現した後、少数の大地主が独占していた土地を国有化、米国資本が牛耳っていた企業の国営化などをすすめ旧勢力の激しい抵抗を受けつつも独自の国家作りに挑戦した。
国民全員の家賃を半額にするなど、過激な政策をどんどん実行していった。

キューバ革命で最も煮え湯を飲まされたのが隣国アメリカだ。
キューバ全土の土地や電力、鉄道などの巨大な利権と、ハバナ歓楽街のブラックマネーを一度に失った米国は、革命政府に憎悪をたぎらしCIAを暗躍させ、爆弾テロ、米軍傭兵部隊の上陸作戦など様々な方法でゲバラたちを倒そうとした。
1962年、米国の破壊工作にブチ切れたカストロは、ソ連(当時)の強力を得て核武装に踏み切ろうとした。マイアミの目の前に核弾頭を突きつけられてはかなわんと、米国内はパニックになった。
これが俗に言う『キューバ危機』である(最終的に米国の圧力にソ連が屈し、核配備は流れた)。



左からボーヴォワール、サルトル、チェ・ゲバラ!すごい顔ぶれ!

《ゲバラは戦い続ける》

ゲバラが国立銀行総裁になって一番最初にしたことは、自分の給料を半分以下にカットすることだった。工業相になってからは自ら建設現場で働いたり、工場のラインに立って作業を手伝った。サトウキビの収穫期には農園で汗を流し、とにかく人々の中へ自ら飛び込んでいった。これは彼にとって美談でも一過性のパフォーマンスでもなく、いつもの“ごく普通の光景”であった。
仕事場には誰よりも早くきて、帰りは誰よりも遅く、労働者に交じって食事をするゲバラ。国民の間でどんどん彼の人気は高まっていった。

※ゲバラはパワフルに各地の工場や畑に出かけていった!そこにもゲバラ、ここにもゲバラ!

建設現場のゲバラ 小麦を次々と袋詰め 休憩するか問われ「へっちゃらさ!」

糸を紡ぐゲバラ サトウキビ畑でトラクターを運転 「ふーっ」サトウキビをガリガリガリ

…ところが!ゲバラが本当にスゴイのはこっから。
1965年、37歳になった彼は突如失踪した。彼は自身の信念によってキューバを去ったのだ。アルゼンチン人のゲバラは、キューバにおける自分の役目は終わったと判断し、貧困と搾取に苦しむ新たな国へ、再び一人のゲリラとして向かったんだ。国家の要人という地位を投げ捨て、再び過酷なゲリラ生活に帰っていった。
ゲバラはアフリカで戦い、続いて南米ボリビアへと転戦した。



あまりにカッコ良すぎだろ…常識的に考えて…

彼は毎日欠かさず日記をつけていた。そこには“圧制者からの解放”という崇高な目的と同時に、仲間の裏切り、束の間の平和、食糧難に苦しみ高地をうろつき回る日々の様子が綴られていた。
『1966年12月24日、クリスマス・イブに捧げられた一日。(中略)最後にはみんなで集まって楽しい時間を過ごした。ハメをはずした者もいた』
『1967年5月13日、げっぷ、おなら、もどし、下痢の一日。オルガン・コンサートもかくやと思われる』
これらは捕われの身となる前日まで書き続けられた。

そして運命の1967年10月8日、ボリビア山中でCIAのゲバラ追跡部隊に指揮されたボリビア軍に捕らえられ、その翌日、全身に弾を撃ち込まれて射殺された。捕虜として収容所へ送られるのではなく処刑されたのだ。最期の言葉は上官の命令でゲバラに銃口を向け、ためらう兵士に叫んだ「ここにいるのは英雄ではない。ただの一人の男だ。撃て!臆病者め!」。39歳の若さだった。
ゲバラの遺体はすぐにヘリコプターで近くの町バージェグランデまで移送され、そこで“ゲリラのリーダーが死んだ証拠”として、見せ物のように晒された。人々が見学に訪れると、ゲバラは目をしっかり見開いたまま死んでいた。その死に顔があまりに美しかった為、「まるでキリストだ」と胸で十字を切る者までいたという。

ゲバラはキューバを去る時、カストロに別れの手紙を送っていた。

『フィデル、僕は今この瞬間多くのことを思い出している。初めて君と出会った時のこと、革命戦争に誘われたこと、準備期間のあの緊張の日々のすべてを。死んだ時は誰に連絡するかと聞かれた時、死の現実性を突きつけられ慄然とした。後に、それは真実だと知った。真の革命であれば、勝利か死しかないのだ。
僕はキューバ革命で僕に課せられた義務の一部は果たしたと思う。だから僕は君に、同志に、そして、君の国民達に別れを告げる。僕は党指導部での地位を正式に放棄する。大臣の地位も、司令官の地位も、キューバの市民権も。今、世界の他の国々が、僕のささやかな助力を求めている。君はキューバの責任者だから出来ないが、僕には出来る。別れの時が来たのだ。
もし僕が異国の空の下で死を迎えても、最後の想いはキューバ人民に向うだろう、とりわけ君に。僕は新しい戦場に、君が教えてくれた信念、人々の革命精神を携えてゆこう。帝国主義があるところならどこでも戦うためにだ。永遠の勝利まで。革命か、死か』



楽しそうにくつろぐゲバラ 子ども達と一緒に まだ30代で散ってしまった

※参考資料…『ゲバラ日記』、『エンカルタ百科事典』、『世界人物事典』(旺文社)、TBS『世界・ふしぎ発見!』ほか。

-------------------------------------------------------------

歴史上には様々な“英雄”がいる。その多くは圧制者を倒す過程には目を見張るものの、いざ当人が権力を手中にすると傲慢な支配者となって民衆を抑圧し、保身にいそしむ事が少なくない。しかし、ゲバラは違った!いったん権力を手にした革命家が、自らその地位を放棄して再び苦難の中に身を投じる、そんな例は殆ど聞かない。
彼は純粋なまでの左派だけど、思想的な立場の違いを超えて、ゲバラが貫き通した『心の声に忠実に生きる』という姿勢に共鳴する人は数多く、特にラテンアメリカでは「英雄の中の英雄」としてリスペクトされ続けている。実際、チリでも、ペルーでも、ブラジルでも、ゲバラの肖像画を街のあちこちで見ることが出来た。
ハバナ市内のお土産屋では、ゲバラのTシャツが20種類近く売られており、有名な革命広場では、夜になると彼の顔が壁一面に浮かびあがる。
※日本でも近年は彼の顔がプリントされたTシャツをよく見かけるようになったね。



革命広場のゲバラ(ハバナ市)

一方、カストロの肖像画はどこにもなかった。これはぜひ特筆しておきたい。
米政府はカストロを悪魔のように宣伝しているけど、街のどこを探しても、彼を賛美するポスターも銅像もなかった。国民に個人崇拝をこれっぽっちも求めていないのだ!社会主義国から連想する、笑ってしまうほど巨大な国家元首のモニュメントは、キューバでは見当たらなかった。
ホセやカルロスにカストロをどう思うか聞いたら
「う~ん、たまにドジを踏むけど、俺や皆にとって愛すべき兄貴みたいなもんかな」(カルロス)
「確かにキューバは貧乏だけど、40年もアメリカに経済封鎖されちゃ仕方ないさ。少なくとも、誰も餓死しないんだからカストロはよくやってるよ」(ホセ、訳・カルロス)


米国による長年の経済封鎖でキューバ経済は何度も破綻寸前に追い込まれた。それでも医療費は無料だし、自給率100%で餓死する者がいず、人種差別もなく国内に悲壮感がない。カストロの生き様は筋が通ってる。社会主義政権の中で私利私欲に走らなかった希少な例。CIAは“独裁者”カストロの個人資産を調査したが、あまりに少なくて驚いたという。

●主な国家元首の年収(日刊ゲンダイ07/11/2)
シンガポール・リー首相…2億4600万円
アメリカ・ブッシュ大統領…4500万円
日本・福田首相…4000万円
英国・ブラウン首相…4000万円
ドイツ・メルケル首相…3800万円
韓国・盧武鉉(前)大統領…2400万円
フランス・サルコジ大統領…1680万円
ロシア・プーチン大統領…850万円
タイ・スラユット首相…480万円
中国・胡錦濤国家主席…53万円
キューバ・カストロ国家評議会議長…4万円(!)

1997年7月。処刑されたゲバラの骨が、ボリビアの空港の滑走路の下から見つかった。ボリビア政府はゲバラの埋葬された場所が“反政府運動の聖地”になることを恐れ、ずっと遺骨は不明と公式発表していた。ところがゲバラの埋葬に立ち会った当時の関係者が、
「ワシも、もう歳じゃ。このままチェの埋葬場所を喋らず死ねば、永遠に謎のままになっちまう」
と公表したから大騒ぎ。この年はちょうど没後30年。ボリビア政府は発想を転換し、観光名所にすることで外貨を得ようと発掘に全面協力。ついにゲバラの骨が発見された。
遺骨はキューバに空輸され、ゲバラゆかりのサンタクララで国葬が行われた。証言がなければいまだにチェの墓はなかったわけで、ボリビア人のお爺さんにはホント感謝したい!


●墓参、そして再びハバナへ

かくして僕ら3人は車から降り、丘の上に建つゲバラの霊廟と向き合った。ホセとカルロスは2人して同じように腕を組み、無言のままゲバラの像を見つめていた。周囲には数名の観光客と墓を警護する2人の男しかおらず、とても静かだ。夕暮れ時の心地よい風が我々の間を通り抜けてゆく--。
“あなたから、たくさんの勇気をもらいました…ムーチャス・グラシアス!(ありがとう)”
墓前では、ゲバラの生き様にどうシビれたかや、今の世界情勢はこうだとか、あなたの死の同年翌月に僕は生まれたとか、半時ほど日本語でチェに喋りまくった。生きてたら日本語は通じないだろうけど、ソウル・トークは言葉の壁を越えるのでOKなのだ(と信じている)。



 
墓は高さ20mを超えていた!
(足下の人影と比較して欲しい) ライフルを持ち臨戦態勢。
ゲバラは戦い続ける


高さもあるけど、土台の霊廟の幅も相当のもの 左手前の黄色いバスが小さく見える

帰りにカルロスが“せっかくここまで来たんだしちょっと観光しよう”と言うので、車で街中をグルグル周った。
「あの~、ガソリン…」
って僕が言ってんのに、カルロスはわれ関せず。冷静なホセが必死でガソリン・スタンドを目で探してるのが首の動きで分かった。結局、僕とカルロスが街を観光してる間に、ホセが給油してくるという段取りになった。ホセはとにかく人が良い。

しかし、なぜカルロスが観光にこだわったのか理由を聞いて納得した。彼はこの街に、ゲバラが最終決戦で破壊した軍用列車の一部が博物館として残っていることを知っていたのだ。カルロスは片っ端から道を尋ねまくって、一目散に鉄道跡地を目指した。15分ほど歩くと、なるほど脱線した列車がそのまま革命博物館になっていた。カルロスはパネルや展示品を色々と熱心に解説してくれた。

ホセとの約束の場所に戻ると、彼はノンストップで運転して疲れたのか座席を倒してスヤスヤ眠っていた。僕は“もう少し寝かせてあげよう”とカルロスの顔を見たら、カルロスは「もう観光したし早く帰りたい」と言って(アンタな~)、次の瞬間には窓を叩きまくっていた。

帰途。
街を出る前にやはり怪しげな闇スタンドで謎の液体をホセは買い、カルロスは出発したときと同じ説明を、これまた同じ目配せをしながらしてくれた。闇スタンドのオヤジは僕らに甘いコーヒーを入れてくれた。
それから4時間の間、再びノンストップでハバナを目指した。ただ一度だけ、写真タイムを要請。広大なサトウキビ畑に沈んでゆく深紅の夕陽に圧倒された…!
やがて、とっぷりと日が暮れた。幹線道路に街灯はなく、漆黒の闇の中を滑るようにひたすら突き進んだ。



夕暮れの大地を弾丸のごとく疾走! 「ホセー!ちょっとタンマ!写真をーッ!」

ハバナに戻った時は、もう21時半をまわっていた。
読者の方は、ひとつの疑問を持っている思う。昼頃に出発して、今まで食事はどうしていたのかと。信じられないと思うけど、3人とも懐が寂しかったので何も食わず我慢したんだ。
否、正確に言うと、カルロスが持っていた1枚の板チョコを3分割し、9時間以上かけてチビチビ食べていたんだ。ホセ35歳、僕33歳、カルロス31歳という三十路3羽ガラスが、チョコの破片を分け合う姿は、ある意味とてもユーモラスだったと思う。

ホセはハバナの中心街まで僕とカルロスを送り届け、郊外の自宅に帰って行った。僕はホセと別れる前に肩を抱き合った。彼は本当に一人で頑張って運転してくれたので、ちょっとウルウル。僕は決してリッチではないけれど、135ドルの約束に対して150ドルを手渡した。だって、日本で9時間半タクシーを飛ばしたら、こんな値段じゃすまないもんね…。

カルロスとの別れ際、彼が少しだけ家に来ないかと言うので驚いた。実は今日、娘が2歳の誕生日なので、一言祝ってやって欲しいというのだ。 “俺には2歳の子供が…”と言ってたあの話は本当だったんだ!サンタクララで早く帰りたいと言ったのも、娘のバースデーの為だったのか。カルロスって、けっこういいヤツじゃん!
近くのアパートの3階に上がり部屋に招待されると、婆ちゃん、奥さん、弟、チビちゃんの4人が22時というのに皆起きていて、テーブルにはケーキが置かれていた。僕は色んなお菓子を薦められジーンときた。

しばし団らんの後、時間が時間なので早めにおいとまをした。
カルロスはアパートの下まで見送りに来てくれたが、最後の言葉が
「アミーゴ。マリファナを買わないか?」
ギャフン。カ、カ、カルロス…。

午後10時半、かくして僕は港に戻ったのであった。
グラシアス&アディオス!ホセ、カルロス、チェ・ゲバーラ!!





ゲバラの墓前で。ホセと派手な服のカルロス。この車(ルノー・サンク)が実によく走った! ひれ伏さずにいられない!

(P.S.)ゲバラの愛読書
彼が好んだ作家は、幼少期がデュマ、学生時代がフロイト、ボードレール、パブロ・ネルーダ。ゲリラになってからはゲーテやセルバンテスを愛読していたという。

(P.S.2)ゲバラの口ぐせ
「最も重要なことは権力を握ることではなく、握った後に何をするかを明らかにすることだ」

(P.S.3)武装闘争は最終手段
「政府が、不正があろうとなかろうと、何らかの形の一般投票によって政権についている場合、または少なくとも表面上の合憲性を保持している場合には、ゲリラ活動には多大の困難が伴うだろう。非暴力闘争の可能性がまだあるからである」(『ゲリラ戦争』)

(P.S.4)向こう見ずなドン・キホーテ
彼自身、そのドン・キホーテぶりを自覚してたようで、両親に宛てた手紙でそのことに触れている。両親にとっては以下の文面が遺書となってしまった。(署名のエルネストは彼の名前)

『もう一度、私は足の下にロシナンテ(ドン・キホーテの愛馬)の肋骨を感じています。盾をたずさえて、再び私は旅を始めるのです。もしかすると、これが最後になるかもしれません。自分で望んでいるわけではないが、論理的にはそうなる可能性があります。もしそうなら、あなた方に最後の抱擁をおくります。
私は、あなた方を心から愛していました。ただ、その愛情をどう表現したらよいのかを知らなかっただけです。私を理解していただくのは容易ではないのですが、今は、私を信じて欲しいのです。芸術家のような喜びをもって完成を目指してきた私の意志が、なまってしまった脚と、(喘息の為)疲れた肺を支えてくれるでしょう。この20世紀の小さな外人部隊長を時々想い出して下さい。
おふたりの強情な放蕩息子から大きな抱擁を送ります。~エルネスト』

(P.S.5)子ども達への最後の手紙

『この手紙を読まねばならない時、お父さんは側にいられないでしょう。世界のどこかで誰かが不正な目にあっている時、痛みを感じることが出来るようになりなさい。これが革命家において、最も美しい資質です。子ども達よ、いつもお前たちに会いたいと思っている。だが今は、大きなキスを送り、抱きしめよう。~お父さんより』

※YouTubeにアップされているゲバラの肉声(1分10秒)
※青年ゲバラのバイク旅行の様子は傑作映画『モーターサイクル・ダイアリーズ』(公式)で描かれている!
※俳優ジョニー・デップはゲバラのペンダントを肌身離さず身につけているという。男が憧れる男、それがゲバラ。





★ゲバラと日本~ゲバラは来日していた!

《ゲバラ、訪日時に被爆地・広島を夜行列車でゲリラ的訪問》 [ 07年10月9日 毎日新聞 ]

キューバ革命の英雄チェ・ゲバラが訪日団の団長として1959年に来日し、広島をゲリラ的に訪問した際、副団長と2人で大阪から夜行列車に飛び乗ったことが9日、分かった。副団長だったオマル・フェルナンデスさん(76)が明らかにした。
フェルナンデスさんは「チェは被爆地・広島訪問を熱望し、私と2人で大阪のホテルをこっそり抜け出し、夜行列車で広島に行ったんだ」と振り返った。

ゲバラは59年1月の革命後、同年6月から3カ月間、アジア・アフリカを歴訪した。訪日団長が当時31歳のゲバラで、副団長を2歳年下のフェルナンデスさんが務めた。7月中旬に来日、10日間滞在し、自動車工場などを視察した。アルゼンチン出身の医師であるゲバラは、予定になかった広島の被爆地訪問を強く希望したが、日本政府の許可が出なかったという。業を煮やしたゲバラは大阪のホテルに滞在中、「ホテルを抜け出して広島に行くぞ」と決断。オリーブグリーンの軍服姿で大阪駅で切符を買い2人で夜行列車に飛び乗った。

「被爆者が入院する病院など広島のさまざまな場所を案内され、私同様、チェも本当にショックを受けていた」とフェルナンデスさん。帰国報告の際にゲバラは、フィデル・カストロ国家評議会議長(当時は首相)に「日本に行く機会があれば、必ず広島に行くべきだよ」と強く勧めたという。カストロ議長は03年3月に広島を訪問。フェルナンデスさんは「フィデルはチェとの約束を守ってくれた」と感激した。

※ゲバラは家族にあてた絵ハガキに「広島を訪れ、ますます闘うエネルギーがわいた」と書いた。
※原爆ドーム訪問後にゲバラが通訳に言った言葉「日本はこんなにひどい事をされたのに、アメリカの言いなりになっているのか」。






★僕は映画『チェ 28歳の革命』『チェ 39歳別れの手紙』を全肯定ッ!!


チェ・ゲバラの伝記映画2部作をレビュー。「最も重要なことは権力を握ることではなく、握った後に何をするかを明らかにすることだ」(チェ・ゲバラ)。最初は民衆の為に立ち上がった革命家が、最終的に自らの権力に固執する暴君と成り果て死んでいったことが幾度あったことか。“堕ちた英雄”の話はゴマンとある。その中で、死の瞬間まで理想を求めて戦い続けたのが、アルゼンチン人の医者でありながらキューバ革命を成功させ、ラテンアメリカのカリスマとなったチェ・ゲバラだ。
ゲバラ役のベニチオ・デル・トロはこの熱演でカンヌ映画祭の主演男優賞に輝いた。監督は当サイトのトップ最上段にある言葉「芸術を生むために日々努力をしている人に感謝します。僕は芸術なしでは生きられない」で知られるスティーブン・ソダーバーグ。この映画はもともとキューバ時代の華々しい活躍ではなく、あまり知られていない晩年のボリビア時代を描く目的で製作が始まった。しかしボリビアでの失敗と悲しみは、キューバでの成功を描くことで、それがコントラストとなっていっそう浮き彫りになると、最終的にキューバ編を含めた4時間超えの大作となった。


●第1部『チェ 28歳の革命』

冒頭、ゲバラがメキシコでフィデル・カストロと出会い、キューバの腐敗しきった独裁政権を倒す為に船で出発。キューバ上陸後はゲリラを組織して、島の東側から徐々に西進を開始する(最初はたった17人)。優れた戦術で2万人の国軍を相手に連戦連勝、誠実なゲバラは人望が高く、多くの民衆がゲリラに加わり、わずか3年で首都ハバナを陥落させ勝利する(第1部はここまで)。
…と、ストーリーだけ書けば盛り上がる要素満点なんだけど、大抵の映画批評サイトでこの映画はメタメタに叩かれている。観客の心を掴もうというサービス精神が完全に欠けているからだ。例えば--

(1)アルゼンチン人のゲバラがなぜキューバ革命への参加を決めたのか、その過程が描かれてないので、ゲバラの人物像を知らない人はスムーズに感情移入できない。
(2)史実では、キューバ上陸の際に待ち伏せ攻撃にあい約80人の仲間のうち4分の3を失っている。このエピソードは完全にカット。Why?その壮絶な戦いを前半に見せていれば、観客は後の戦いをもっと応援するし、勝利の度に感無量になるのに~!
(3)ラストにハバナ入城のシーンがないなんて詐欺ッスよ!実際のニュース映像でゲバラたちがハバナ市民から熱狂的に歓迎されたのを知ってるだけに、「さあ今から首都に入って歓喜の凱旋パレードだ!」と、感動の大エンディングを待ち受けていたら、車でハバナに向かうシーンで唐突に“完”。しかも、若いゲリラが戦利品でゲットした高級車を乗り回していたので、怒ったゲバラが「今すぐにそれを帰してこい!俺たちは泥棒じゃない!」と説教&肩をすくめているとこで“完”。思わず椅子からズリ落ちそうになった。2部構成とはいえ中途半端すぎる。大群衆に喝采で迎えられる劇的なラストシーンなら、観客はカタルシスを感じて“いや~、盛り上がったね”となるのに…。あうう、もったいない。

それでは、この映画は「駄作」なのか?答えは映画に何を求めるかで違ってくるだろう。ハリウッド的な派手な戦闘シーンや、“聖者ゲバラ”の感動エピソード&カリスマ・オーラ爆裂を期待していたら20点。しかし、あざとい演出や“ここで泣いて下さい”的な音楽を排除し、実際のゲリラ活動の大半を占めるであろう地味な行軍やキャンプ生活を丁寧に描くことで、「チェという人間と一緒にいること、それがどんな感覚かを味わって欲しい」(監督)という、“ゲバラと空気を共有する”一体感を味わいたければ85点だ。そして僕は後者だった。

とはいえ、多くの観客は“ゲバラがどんなヒーローだったのか見てみたい”という気持で劇場に足を運んだと思うし、それ故のガッカリ感も分かる。もっとエンターテインメント性に重きを置いて、アクションとロマンスをふんだんに入れ、ラストの大勝利を見せて爽快ハッピーエンドという作り方をしていれば、それが全部事実なだけに、タイタニック並とは言わなくてもかなりの大ヒットが期待できたハズ。彼の存在がより多くの人に伝わる好機を逃して残念とも思う。だがしかし!その路線のゲバラ映画は、今後も登場する可能性は充分にあるし、定石通りの見せ方なら簡単に製作できるだろう。このようにリアリティを追求し、移動の休息中に読書をしている姿や、持病のぜん息で苦しんでいる様子、貧しい村人を治療したり、仲間の喧嘩を仲裁している普段のゲバラを通して、稀代の英雄と寝食を共にする感覚を味わえたことは、ゲバラ・ファンとしてこれ以上ない喜びだった。




●第2部『チェ 39歳別れの手紙』

ゲバラが処刑されるまでの最後の11ヶ月を描く。第1部ではキューバ革命という“勝ち戦”を描いており、ゲリラ仲間には希望があり陽気なムードメーカーもいて、ジョークを言い合う余裕もあった。ところが、第2部はもう最後に死ぬことが分かっているので、ひたすら状況が悪化して行くのみ。胃がキリキリしっぱなし。ソダーバーグ監督いわく「素晴らしい冒険物語を描きたかったのではなく、偉大な思想を行動に移そうとする時の難しさを掘り下げたかった」。主演のデル・トロは25kg減量して撮影に挑み、筆舌に尽くしがたい凄味を出していた。

ゲバラは「キューバ革命は成功したが世界にはまだ虐げられた人々が大勢いる」と、キューバ政府の大臣の地位を捨て、愛する家族とも別れ、ただの一介のゲリラとして旅立つ。目指したのは南米の中心に位置する軍政ボリビア。そこで革命を成功させ、周辺諸国を次々と独裁者の圧政から解放する計画だった。
勝算はあった。キューバのようにゲリラが潜める山岳地帯があり、ボリビア共産党から物資食料の支援を受ける根回しもしていた。ところが、ゲバラがソ連のことを「帝国主義の共犯者」と批判したことから、親ソ派のボリビア共産党から過激派扱いされて援助を断たれ、米国に支援されたボリビア軍精鋭部隊がゲバラを執拗に追跡した。最大の悲劇は、ゲバラたちが貧しい農民のために頑張っていたのに、ボリビア軍が流したデマの為に農民の支持を得られなかったことだ。
軍はゲバラたちを「キューバ人の侵略者」「外国人の山賊」などと農民に吹き込み、ゲリラを見た農民たちは逃げ出し居場所を軍に通報した。また脱走ゲリラが軍に捕まり作戦を自白したのも痛かった。次第に追い詰められ、もともと50人しかいなかったゲバラの仲間が1人、また1人と散っていく。少ない戦力で奮戦するも多勢に無勢、ついにゲバラは軍に拘束され、裁判抜きで翌日に処刑された。

多くの映画評で、この第2部は第1部以上にボロボロの点数が付けられている。単調といわれた第1部でさえ、一応見どころとなる大きな市街戦があった。しかし第2部は山岳地帯で小競り合いがたまにあるだけで、前作以上に娯楽性が皆無&ストーリーにメリハリもなく、人間ゲバラに興味のない人には2時間の“苦行”だったと思う。僕は第1部を見て、この2部作は通常の“映画的興奮”を求める作品じゃないことが分かったので、最初からスイッチを切り替え、ゲバラの過酷な行軍を見届ける覚悟で挑んだ。見終えた僕の点数は100点だ。
「我々が作り出したエピソードはひとつもなく、すべて入念なリサーチで事実と認められたもの」(監督)というどこまでも誠実な作り。前作以上にゲバラを間近から見つめ続けた本作は、ゲバラ信者として100点以外に付けようがない。すぐ側で目にした彼の言動の一つ一つに心が動いた。

武力による革命には安易に賛同できないけれど、「人間による人間の搾取をなくしたい」というゲバラの気持ちは良く分かる。彼はモラルや正義を重視し、腐敗や私欲とは無縁の誇り高い男だった。たとえ部下でも、農家の食料を略奪したり女性を暴行すれば許さなかった。彼の辞書には「妥協」という文字が無いので、一緒に行動するのは大変だ。食料も弾薬も乏しい。それでも、“虐げられた貧しい人々を救いたい”というゲバラについていく、そんなゲリラたちの想いと共に行動した2時間は、僕の人生の中で決して無駄な時間ではなかった(ゲバラのぜん息の呼吸音がまだ耳から離れない。それくらい彼が近くにいた)。ゲバラが銃殺されるシーンだけ、カメラが彼の目線になったので、ゲバラと共に自分も地面に崩れ落ちた気がした。

最後に特筆したいのは、この映画にエンディングの音楽がなかったこと!過去にも曲なしエンディングはあったけど、スタッフロールは比較的に短かった。本作はスタッフの数が多く、長い時間、ずっと無音の中に身を置くことになる。この無音という“演出”は、ある意味、音楽以上に感情を揺さぶった。音楽がないので他に集中するものがなく、暗い画面を見ているうちに、ゲバラの人生を振り返り始める。キューバでの情熱の日々、フィデルや家族と遠く離れたボリビア山中での逃避行、孤独な死…。理想や正義感が空回りし、作戦は失敗、農民にも部下の一部にも裏切られて39歳で死んでいったゲバラが、とにかくもう可哀相で可哀相で、無意識に涙が溢れてきた。それは僕だけじゃない。ほぼ同時に場内のあちこちから鼻をすする音が聞こえてきた(静かなのでよく響く)。特に僕の左前に座っていたおじさんは号泣。右の方でもおじさんが爆涙していたので、おそらく団塊の世代は学生運動の挫折を経ているので、ゲバラのことが他人事と思えず、あんなにも泣けたんだと思う。

一方、後ろに座っていた若者3人は「つまらん、途中で寝た」「何も伝わってこない」と、全くゲバラに同情していない。なんという温度差!これは別にあの若者たちに感受性がないわけじゃなく、再び日本に熱い政治の季節が訪れたら、この2本の映画が若者にもリアリティを持って輝き出し、高く再評価されると確信している。
「もし我々が空想家のようだと言われるならば、救い難い理想主義者と言われるならば、出来もしないことを考えていると言われるならば、何千回でも答えよう、『その通りだ!』と」(ゲバラ)



※追記。サイト読者の方から「第2部は短いエンドタイトルが最初に流れました」「曲はおそらくメルセデス・ソーサの“共和国の庭園にて”です」と情報を頂きました(有難うございました!)。僕は思い出せないのですが、感動で記憶が飛んでいた可能性が大です。DVDが出たら確認します!
※映画のテーマ的には従来ならミニシアターでひっそり上映される内容。ゲバラの伝記映画が巨大シネコンで大々的に上映されるとは公開前に思ってなかったので、僕はそれだけでも嬉しい。



   

2009年6月12日、『チェ・2部作』がセットで発売開始!待ってたぜーッ!!





Tシャツなどのゲバラの肖像はこの写真がモトになっている!

http://camus242.blog133.fc2.com/blog-entry-144.html

映画 『チェ 28歳の革命』 『チェ 39歳別れの手紙』
映画・テレビ
★ チェ・ゲバラが殺されたときの衝撃は忘れません。世界中でどれほどの人間が悲しみ悼んだか、誇張でなくそれは億を超えたと思います。ジョン・レノンが「世界で最もかっこいい男」と讃え、サルトルが「20世紀で最も完璧な人間」と言い切ったチェ・ゲバラ。わたしも最も尊敬する男です。彼には国境はありませんでした。アルゼンチンで生まれ、キューバで革命を成功させ、その後もアフリカ、南米で民衆のため戦い尽くし、ボリビアで39才の若さで処刑されました。今年初めゲバラの二部作が公開されました。『チェ 28歳の革命』、『チェ 39歳別れの手紙』。映画の感想を交え、思いを書きます。このような人間も確かに存在した、人間を信じる気持ちになってきます。

★ 例のない革命家 理想そのままに生きて死んだ チェ・ゲバラ200pxguerrilleroheroico

 ゲバラは1928年、アルゼンチンの比較的裕福な家に生まれます。2歳の時、重度の喘息と診断されます。生涯ゲバラを苦しめた宿病でした。時には激しい発作で命の危機にさえ見舞われます。大学で医学を学んだのもまずは自身の喘息を直さんがためでした。在学中、おんぼろオートバイで親友と南米を回ります。これが後の革命家ゲバラを創った原点でした。お坊ちゃんのお気楽息子、ゲバラは南米各地で貧しく病に苦しむ民衆、一方で奢侈にふける支配者の腐敗を目にします。素直で感受性に満ちた彼は民衆の苦しみをおのれのものとして考え抜きます。(この旅行は映画「モーターサイクル・ダイアリーズ」として2004年に公開されました。おもしろく南米の風景がとても美しいです)
 大学卒業後も放浪し、グアテマラで妻となるイルダ・ガデアと知り合います。彼女はペルーの革命家でグアテマラに亡命していました。彼女はゲバラに大きな影響を与えます。時のグアテマラは南米でも最も民主的で進歩的な政権だったのですが、アメリカの介入により政権は倒され軍事独裁政権に戻ります。(「アメリカの裏庭」を乱す者をアメリカはけして許しませんでした。あらゆる汚い介入で「反」米政権は潰されます)。ゲバラが武力による解放を決意した政変でした。医学博士号も持っていましたが、医学では世界を変えることはできないと革命家を決意します。グアテマラから追放されたゲバラはメキシコに渡り、生涯を運命づけたカストロと出会います。カストロに共鳴したゲバラはキューバ解放に身を投じます。
 キューバ革命、それは現代の神話です。奇跡の革命、奇跡の勝利でした。メキシコから8人乗りのヨットに何と82人もが乗り込みキューバに密かに上陸します。これを察知していた政府軍に待ち伏せされ、ゲバラたちは一気に12名に激減します。この12名が核となり2万の軍隊に勝利し、革命を成功させるのです。時のキューバはアメリカの属国同然で、土地、電話、電力、鉄道すべての利権がアメリカ資本に牛耳られ、首都ハバナはマフィアが横行する無法街でした。しかもキューバ政府の要人は独裁者バティスタ将軍を筆頭に米国に追従するばかりで、巨額の黒い金が支配者間で動いていました。ゲバラたちはマエストラ山脈にこもり、解放闘争を進めていきます。ゲバラは誠実に精力的に活動し、一軍医からカストロに次ぐNO.2のリーダーとして認められていきます。キューバの農民は疲弊しきっていました。ゲバラたちの活動は次第に認められ、支持を広げていき、キューバ上陸からわずか2年余りの1959年1月1日、バティスタ将軍は亡命し、キューバ革命は成功します。ゲバラ、30才の若さでした。
 革命後のキューバは困難の連続でした。そんななかカストロたちは教育・医療の無料化、アメリカ資本の接収、農地解放など懸命に政策を進めます。キューバ国立銀行総裁の要職にあったゲバラは自らの報酬を半減させ、その後工業相になってからは毎日深夜まで自ら現場におもむき、率先して現場労働に身を投じました。建設現場で自らレンガを積み、サトウキビ畑で自らトラクターを運転しました。アメリカは経済封鎖し、執拗にキューバ崩壊をめざし介入しますがことごとくはねつけています。
 そして過去の革命家に例を見ない行動に走ります。1965年、37才のゲバラは大臣の地位、キューバの市民権さえ捨て去り、新たな解放の戦いに飛び込んでいきます。まずアフリカコンゴに渡った後、ボリビアに潜入します。ボリビアでの戦いは困難を極めました。アメリカを後盾としたボリビア軍事政権は執拗にゲバラたちを追い詰め、ついに1967年10月、政府軍に捕縛され裁判なしに処刑されます。ゲバラという大物を射殺しようとする兵士は震えるのですが、ゲバラは「落ち着け、そしてよく狙え。お前はこれから一人の人間を殺すのだ」と最後の言葉を残し、39才の生涯を閉じました。

★ 人は必ず死す 人の志はいつまでも死なない

 映画『チェ 28歳の革命』、『チェ 39歳別れの手紙』は合わせて4時間半の大作ですが、長いとは少しも思いません。ただ疲れます。映画評がけして好評でなかったように、ハリウッド製の血湧き肉躍る活劇を求めたら、大失望でしょう。監督スティーブン・ソダーバーグは「ゲバラと行動を共にしている」視点から映画を作っており、ドキュメンタリーと見まがうリアルな描写が続きます。特に『チェ 39歳別れの手紙』は結末が分かっているだけに息苦しいほどの重苦しさです。原作はゲバラの日記であり、そこにヒロイズムは何もありません。キューバと違いボリビアではゲバラのもくろみはことごとく裏切られていきます。
 37才でカストロや家族に別れの手紙を残し、なぜ世界の解放闘争に身を投じたか。一番はゲバラの本物の理想主義だと思いますが、彼の立場も微妙なものがありました。キューバ革命はけして当初から社会主義革命をめざしたものではありません。ただ疲弊の極にある農民の解放と腐敗の極にある軍事独裁政権打倒をめざしたものです。キューバを「社会主義」国に追いやったのはアメリカです。アメリカの目と鼻の先にある反米政権はアメリカにとり言いしれぬ脅威でした。経済封鎖し、ことごとく敵対した結果、キューバは時のソ連に頼らざるを得なくなったのです。しかしゲバラはソ連の大国主義には疑問を持っていました。おおやけに反ソの演説も行っています。親ソのキューバ共産党内では次第に孤立感を覚えていきます。ボリビア共産党も親ソでゲバラへの援助はありませんでした。徹底的に軍事政権に抑えられたボリビアの農民もけしてゲバラに同情的ではなく、ゲリラ兵士内部にさえ裏切りが現れます。過酷な環境のなか、喘息の発作に苦しみゲリラ戦争を続けるゲバラは痛ましくてたまりません。
 彼には革命の戦略は欠けていたのかも知れません。彼はただ目の前の苦しみ悲しむ民衆を救う手だてはないかと、それだけだったのだと思います。こんな革命家は知りません。当初は崇高な理想に燃えていたはずの革命家もひとたび権力を握ると、恐ろしい権力亡者と化し、血なまぐさい権力闘争を繰り返しました。ロシア革命、中国革命など枚挙にいとまありません。「愛を愛とのみ交換しうる打算なき社会」を目指したマルクスの理想は20世紀にボロクズのように貶められました。(ただわたしはソ連や中国が真の社会主義国だとは思いませんが)。ゲバラのみが革命の理想に殉じました。これもまた20世紀の奇跡と思います。「戦略がなかった」などとあとから評することは簡単です。彼のような人間が現に存在したことは人間の崇高さをいつまでも思い起こさせます。映画の主役であったベニチオ・デル・トロはゲバラに入れ込み6年も役作りに精進し25キロもやせたと言われています。すばらしい演技でアカデミー男優賞ももらっています。監督と俳優のゲバラへのオマージュでした。惜しいことがあるとすれば現実のゲバラはもっとハンサムだったことくらいです。思想を問わずゲバラのTシャツが世界にあふれているのも、あの澄んだ目の髪もじゃ青年に人が何かを感じ取るからでしょう。わたしは恐れ多く着たことはありませんが。
 最近南米では次々に反米政権が誕生しています。以下「知恵蔵2008」からの引用です。

 『南米にここ数年、左派政権が猛烈な勢いで拡大している。1998年に発足したベネズエラチャベス政権以来、2003年にはブラジルのルラ政権とアルゼンチンのキルチネル政権、05年にはウルグアイのバスケス政権、さらに06年にはボリビアのモラレス政権、チリのバチェレ政権、ペルーのガルシア政権、エクアドルのコレア政権、07年にはアルゼンチンでキルチネルの妻のフェルナンデスと次々に大統領選挙で左派政権が誕生した。今や南米で明確な親米右派政権は左翼ゲリラとの内戦で米国の軍事援助に頼るコロンビアだけだ。 左傾化のきっかけは90年代に米国が主導する国際通貨基金(IMF)が南米各国に押しつけた新自由主義政策だ。民営化や規制緩和を過度に進めた結果、地場産業が崩壊し失業が増大して格差が拡大した。「IMFの優等生」といわれたアルゼンチンでは金融危機に陥って暴動となるなど各国で社会が混乱し、大統領選挙では有権者が新自由主義反対を掲げる反米左派の候補に流れた。……』

 ゲバラの理想は少しずつ実現されています。これらの国ではゲバラは高く評価されています。もちろん歴史は直線に進むものではありません。長い長い螺旋の階段を上るように、一歩後退二歩前進で進むものだと思っています。これからも紆余曲折は必至でしょう。けれど人間は変わらぬ理念を掲げることができます。ゲバラはその生き様、死に様で人間に無言の理想を教えました。最後ボリビアではゲバラはおのれの理想の敗北を痛切に実感したでしょう。孤立感に苦しむゲバラが哀れでなりません。半眼の彼の死に顔は悲哀も苦悩もなく澄み切っています。おのれの理想と思想を生ききったたぐいまれな男の死に顔です。映画ではラスト、悶絶するゲバラの声のみ聞こえ、沈黙のエンディングロールが続きます。くされ団塊の感傷と笑えば笑え、嗚咽がとまりませんでした。南米の貧しい民衆にとり今やゲバラは「聖ゲバラ」の感さえあります。キリストがそうであったように優れた人間の生き様、死に様は何より人の胸をえぐります。ゲバラの意志はこれから数百年も人間に苦しみと悲しみのある限り生き続けると思います。
 最後ゲバラの言葉です。わたしのような小賢しい者にはがつんと響きます。

もし私たちが空想家のようだといわれるならば、
救いがたい理想主義者だといわれるならば
できもしないことを考えているといわれるならば
何千回でも答えよう
「その通りだ」と

※ ゲバラは妻子を捨てたのかと「優しい日本人」の突っ込みがありそうですが、わたしの父であったとしてもたまらなく誇りに思います。釈迦でさえ妻子を捨てました。宮殿で何不自由なく育った釈迦はひとたび外に出、生病老死に苦しむ人間を見て、それをおのれの苦しみとして考え抜きました。釈迦やキリストが20世紀の南米に生まれていたら革命家になっていたとは言いませんが。

★ 映画『チェ 28歳の革命』、『チェ 39歳別れの手紙』オフィシャルサイト

★ 「チェ・ゲバラ伝」 三好徹 著

http://ryo-report.hatenablog.com/entry/2016/03/28/022839


キューバ旅行に行く人におすすめの本と映画


人気ブログ「Chikirinの日記」を書かれている、ちきりんさんは、「海外を訪ねる前に、その国を舞台にした本を“ガイドブック以外に1冊”でいいから読んでいく」ことを勧められていますが、確かに事前に本を読んだり映画を見たりして旅行すると、自分の中に新たな視点が加えられ、その国に対する興味が増します。

また、先週の記事で触れたように、旅先での会話を楽しむという意味でも、事前に情報収集できていると、的確な質問ができ、より深い会話ができる可能性が高くなります。

今月は3回に渡ってキューバ旅行の様子やそこで考えたことをお伝えしてきましたが、今回は、キューバ旅行に行こうと思っている人におすすめの本と映画を紹介します。

1. 『キューバでアミーゴ!』(たかのてるこ)


キューバでアミーゴ! (幻冬舎文庫)

キューバでアミーゴ! (幻冬舎文庫)
作者: たかのてるこ
出版社/メーカー: 幻冬舎
発売日: 2010/07
メディア: 文庫
クリック: 3回
この商品を含むブログ (8件) を見る


.
キューバへの約2週間の旅行記。地元の人とのユーモアあふれるふれあいの様子から、キューバの文化や生活の様子が垣間見えます。
平易な文体で堅苦しくない内容なので、最初の1冊としておすすめです。

2. 『小さな国の大きな奇跡』(吉田沙由里)


小さな国の大きな奇跡~キューバ人が心豊かに暮らす理由~

小さな国の大きな奇跡~キューバ人が心豊かに暮らす理由~
作者: 吉田沙由里,アレイダ・ゲバラ
出版社/メーカー: WAVE出版
発売日: 2008/05/15
メディア: 単行本
購入: 7人 クリック: 21回
この商品を含むブログ (11件) を見る


.
こちらはもう少し幅広く、キューバの歴史や政治経済にも触れつつ、普通の人たちの生活や教育・医療制度などいろんな角度からキューバの様子を描いた本。
この本もすごく読みやすくてよかったです。


3. 『チェ・ゲバラ伝』(三好徹)


チェ・ゲバラ伝 増補版 (文春文庫)

チェ・ゲバラ伝 増補版 (文春文庫)
作者: 三好徹
出版社/メーカー: 文藝春秋
発売日: 2014/04/10
メディア: 文庫
この商品を含むブログ (3件) を見る


.
伝説の革命家チェ・ゲバラの生い立ちに始まり、学生時代の放浪の旅、カストロとの出会い、ゲリラ戦を戦い抜いて勝ち取った革命、革命後に親善使節団として日本に立ち寄った際の様子、そしてボリビアで再び革命を志し、ゲリラ戦に身を投じ最期を迎えるまでの濃密な生涯が丹念に描かれています。
読み応えはありますがその価値はあると思います。
今までチェ・ゲバラやキューバ革命のことをほとんど知らなかったけど、これを読んでこんな奇跡みたいなことが起こり得るんだなと思いました。


4. 『老人と海』(アーネスト・ヘミングウェイ)


老人と海

老人と海
作者: アーネスト・ヘミングウェイ
出版社/メーカー: 佐和出版
発売日: 2015/07/18
メディア: Kindle版
この商品を含むブログを見る


.
今回キューバに行くまで知らなかったのですが、ノーベル賞作家のヘミングウェイは、約20年感キューバを拠点に執筆活動をしていて、当時の家や、行きつけのバーなどが今も残っています。
題名だけは知っていましたが、今回ハバナ到着後に初めて読みました。


5. 『ブエナ★ビスタ★ソシアル★クラブ』


ブエナ★ビスタ★ソシアル★クラブ Film Telecine Version [DVD]

ブエナ★ビスタ★ソシアル★クラブ Film Telecine Version [DVD]
出版社/メーカー: 東北新社
発売日: 2012/11/30
メディア: DVD
クリック: 5回
この商品を含むブログ (7件) を見る


.
キューバの世界最高齢バンド『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』を追ったドキュメンタリー映画。
みんな超高齢(最高年齢は92歳)なのにカッコいいし、演奏も上手い。
キューバ音楽の雰囲気がわかる映画。


6. 『モーターサイクル・ダイアリーズ』


モーターサイクル・ダイアリーズ 通常版 [DVD]

モーターサイクル・ダイアリーズ 通常版 [DVD]
出版社/メーカー: アミューズソフトエンタテインメント
発売日: 2005/05/27
メディア: DVD
購入: 4人 クリック: 215回
この商品を含むブログ (398件) を見る


.
チェ・ゲバラの学生時代の放浪の旅を描いた映画。
キューバ革命の印象が強いチェ・ゲバラですが、実は生まれはアルゼンチンで、学生時代に南米各国を縦断していました。
まだ観れてないけど今度観たい。

7. 『28歳の革命』&『39歳別れの手紙』


チェ ダブルパック (「28歳の革命」&「39歳別れの手紙」) [DVD]

チェ ダブルパック (「28歳の革命」&「39歳別れの手紙」) [DVD]
出版社/メーカー: NIKKATSU CORPORATION(NK)(D)
発売日: 2009/06/12
メディア: DVD
購入: 2人 クリック: 33回
この商品を含むブログ (58件) を見る


.
こちらもまだ観れていないのですが、チェ・ゲバラのキューバとボリビアでの奮闘を描いた2部作です。
革命の様子を映像で観てみたい方は是非!

以上、キューバ関連のおすすめの本と映画の紹介でした。
もちろん、キューバに旅行に行かなくても楽しめるものばかりですので、興味があったら是非読んで、観てみてください

http://kwww3.koshigaya.bunkyo.ac.jp/wiki/index.php/%E3%83%81%E3%82%A7%E3%83%BB%E3%82%B2%E3%83%90%E3%83%A9

チェ・ゲバラ







チェ・ゲバラ

 ジョン・レノンが世界一かっこいい男と言い、J=P・サルトルが「二一世紀でもっとも完璧な人物」と評した人物。それが、チェ・ゲバラである。 1928年、アルゼンチンの冨裕な家庭に生まれ、二十代末にキューバの革命家フィデル・カストロと知り合い、キューバ革命に成功して、一躍時の人となった。


【生い立ち】

1928年(0歳)アルゼンチンに生まれる

1941年(13歳)コルドバのディーン・フネス学院に入学

1948年(20歳)ブエノスアイレス大学医学部に入学

1952年(23歳)友人で6歳年上の医師、アルベルト・グラナドスとともに南米大陸縦断の旅に出る。

1953年(25歳)ブエノスアイレス大学卒業。医学博士号を受ける。2度目の旅に出発。ボリビアからパナマなどを経てグアテマラに入る。

1954年(26歳) メキシコに入国

1955年(27歳) 亡命ペルー人活動家のイルダ・ガデアと結婚。フィデル・カストロと知り合う。この頃から「チェ」と呼ばれるようになる。

1956年(28歳) 長女イルディタ誕生。カストロらとともにキューバ解放の遠征軍に参加。以後、山岳地帯のシエラ・マエストラでゲリラ活動を行う。

1057年(29歳) コマンダンテ(司令官)に昇格。解放軍の第二部隊を指揮する。気管支「自由キューバ人」を刊行

1958年(30歳) キューバ中部のサンタ・クララへの遠征作戦(サンタクララの戦い)成功

1959年(31歳) フルヘンシオ・バティスタ将軍がキューバから逃れ、キューバ革命を成功。アレイだ・マルチと再婚。アジア・アフリカの親善使節団長として、日本をはじめとする各国を歴訪。国立銀行総裁に就任。

1960年(32歳) 著書「ゲリラ戦争」を出版。アレイダとの間に長女アレイディタ誕生

1961年(33歳) 工業省が建設され、工業大臣に就任

1962年(34歳) キューバ危機が起こる。長男カミーロ誕生

1963年(35歳) 二女セリア誕生

1965年(37歳) 二男エルネスト誕生。アルジェリアで演説、ソ連を帝国主義として批判した発言が問題となり、カストロと別れ、新たな革命の地としてコンゴに向かう。カストロ、ゲバラの「別れの手紙」公表

・1966年(38歳) いったんキューバに戻った後、ボリビアに向かう

1967年(39歳) 「第二,三のベトナムを」というメッセージが公表される。場リビアのチューロ渓谷で、ボリビア国軍の捕虜となる。イゲラ村に連行され、処刑される。

1968年 「ボリビア日記」が公開

1997年 ボリビアのバージェ・グランデで遺体が発見される。遺体、キューバに機関


【時代背景】

 社会主義が熱い視線を集め、学生運動のウェーブが世界的に巻き起こった1960年代、ゲバラは「抵抗」し、「闘う」人間のシンボルであった。この時代のヒーロ―として毛沢東やホーチ・ミンもいる。その中で飛びぬけてゲバラは人気がある。ゲバラの特異なのは、「祖国」のためでなく、純粋に「理想」のために命をかけて闘った点である。彼は理想の実現を求めて、革命から革命へと世界を渡り歩くスケールの大きな放浪者であった。


【持病】

 チェは、生まれつき重い喘息を持っていた。チェが医学部に進んだのも、自分と同じように病気で苦しんでいる人を助けたいと思ったからである。しかし、南米大陸の旅に出、革命家の道を歩むことを決心した。革命の地のボリビア・パナマは、湿気が多く、暑い土地だったため、喘息持ちのチェにとっては、革命以前に生活すること自体とても苦しいものであった。一方、生れながらにして重い喘息を持ち、常に死と隣り合わせの生活を送ってきたことが、チェを偉大な革命家にした一つの原因でもある。常に死と隣り合わせだからこそ、一瞬、一瞬を大切にし、覚悟を決めて闘うことができたのだ。


【教育】

 チェは初め、軍隊志願者に必ず「読み書きはできるか?」と聞き、できない人は相手に騙されやすいからという理由で、入隊させなかった。しかし、後にチェは軍隊の中に学校を作り、教養のある人を教師にし、読み書きを教えてた。また、学校だけでなく、病院も作り、村の人たちの診療もしていた。


【“チェ”と呼ばれる由来】

 「チェ」とはアルゼンチンのコルド地方の方言で、人に話しかけるときの「ねぇ」「君」といった意味がある。ゲバラがこの言葉を連発するのを面白がって、亡命するキューバ人のアントニオ・ロペス(ゲバラとカストロを引き合わせた人物)があだ名にしたという。ちなみに、ゲバラの本名は、エルネスト・ラファエル・ゲバラ・デ・ラ・セルナである。


【チェの才能】

 ゲバラは39歳で亡くなり、それから30年が経って遺体が発見された時、かつての同志や友たちが、「チェ・ゲバラという人間の、最も優れた資質は何だったと思いますか?」という質問に口を揃えたように、「人間を愛する才能です」と答えたという。ゲバラは稀代のゲリラ戦士であり革命家であるより前に好奇心に満ちた旅人であり、負けず嫌いのスポーツマンであり、乱暴な医者であり、写真や詩を愛し、自らも幾多の名文を残した表現者だった。そして何より、人を愛した。これが、ゲバラが今も、国境や言葉を超えて世界の人々の中で生き続けている理由ではなだろうか。


【ゲリラヒーロー】

 ゲバラの存在を今も輝かせている要素の一つが、キューバ人カメラマン、アルベルト・コルダが撮影した「ゲリラヒーロー」と題される写真である。この写真は、1960年3月、沈没した貨物船の追討集会で演説するゲバラを望遠レンズで狙ったもの。コルダはこの写真を気に入って自宅に飾っていたが、ゲバラの死後の数か月前に彼のもとを訪れたイタリア人ジャーナリストにプリントを贈呈したところ、瞬く間に世界中に知られるようになったという。コルダは、2000年、イギリスの酒造メーカーがウォッカの広告に使用した時、一度だけ訴訟を起こし、「チェを支持する者の一人として、酒や売春のために使用することは断固として許さない」と主張して勝訴し、受け取った約5万ドルをすべてキューバの医療機関に寄付したという。


【映画】

 フィデル・カストロとともにキューバ革命を成功に導いた、20世紀最大のカリスマ、エルネスト・“チェ”・ゲバラの生涯をスティーブン・ソダーバーグ監督&ベニチオ・デル・トロ主演で映画化した2部作「チェ/28歳の革命」「チェ/39歳 別れの手紙」が年明け1月10日と1月31日から公開される。


 【参考文献】

NHK知るを楽しむ私のこだわり人物伝 チェ・ゲバラ 革命への旅 / 日本放送出版協会


「チェ/28歳の革命」スティーブン・ソダーバーグ(監督)ベニチオ・デル・トロ(主演)


歴史のミステリー NO。48 小河原和世(発行人)デアゴスティーニ(発行所)

http://iwarin7575.blog.so-net.ne.jp/2009-12-20-1

『チェ 28歳の革命』 [映画]

[映画]
『チェ 28歳の革命』2008年の作品

3424290
解説・・・
ジョン・レノンは「あの頃、世界で一番かっこいい男だった」と語り、哲学者ジャン・ポール・サルトルは「20世紀で最も完璧な人間」と評した。ジョニー・デップは彼が刻印されたペンダントを肌身離さず身につけ、世界中の若者がこぞってアイコンとして掲げる。この男、いったい何者なのか?

歴史に残る記述は、“フィデル・カストロと共にキューバ革命を成し遂げた男”。しかしそれは、彼の激烈な人生のほんの1ページにしか過ぎない。医者であり、旅人であり、詩人であり、夫であり、父であり、そして人を愛する才能を持つ革命家。真実の情熱に導かれ、人間愛こそが人を救うと信じ、圧政下にあった人々を大いなる愛情を持って救おうとした、世界でただ一人の男、チェ・ゲバラ。享年39歳。

正義の見えない今の時代に湧き上がるそんな声に応えるかのように、キューバ革命成立50周年でもある2009年、彼が映画となって蘇る。彼の半生にある真実と謎を2本の映画で紐解いたのは、『トラフィック』のアカデミー賞コンビ、スティーヴン・ソダーバーグ監督とベニチオ・デル・トロ。

死してなお、1枚の写真で人々の心に革命を起こし続けるこの男の気高い<生>と、今なお謎の多い<死>の、知られざる真実。生き様と死に様、成功と失敗、光と影。どちらかを目撃しても、どちらも体験しても、確実なことは、ただひとつ。あなたはもう、今までのあなたではいられない。2009年、新しい年の幕開けと共に、あなたの心にも革命が起きる。



・・・ゲバラは

1928年、アルゼンチンの比較的裕福な家に生まれます。2歳の時、重度の喘息と診断されます。生涯ゲバラを苦しめた宿病でした。時には激しい発作で命の危機にさえ見舞われます。大学で医学を学んだのもまずは自身の喘息を直さんがためでした。在学中、おんぼろオートバイで親友と南米を回ります。これが後の革命家ゲバラを創った原点でした。お坊ちゃんのお気楽息子、ゲバラは南米各地で貧しく病に苦しむ民衆、一方で奢侈にふける支配者の腐敗を目にします。素直で感受性に満ちた彼は民衆の苦しみをおのれのものとして考え抜きます。(この旅行は映画「モーターサイクル・ダイアリーズ」として2004年に公開されました。おもしろく南米の風景がとても美しいです)
 大学卒業後も放浪し、グアテマラで妻となるイルダ・ガデアと知り合います。彼女はペルーの革命家でグアテマラに亡命していました。彼女はゲバラに大きな影響を与えます。時のグアテマラは南米でも最も民主的で進歩的な政権だったのですが、アメリカの介入により政権は倒され軍事独裁政権に戻ります。(「アメリカの裏庭」を乱す者をアメリカはけして許しませんでした。あらゆる汚い介入で「反」米政権は潰されます)。ゲバラが武力による解放を決意した政変でした。医学博士号も持っていましたが、医学では世界を変えることはできないと革命家を決意します。グアテマラから追放されたゲバラはメキシコに渡り、生涯を運命づけたカストロと出会います。カストロに共鳴したゲバラはキューバ解放に身を投じます。
 キューバ革命、それは現代の神話です。奇跡の革命、奇跡の勝利でした。メキシコから8人乗りのヨットに何と82人もが乗り込みキューバに密かに上陸します。これを察知していた政府軍に待ち伏せされ、ゲバラたちは一気に12名に激減します。この12名が核となり2万の軍隊に勝利し、革命を成功させるのです。時のキューバはアメリカの属国同然で、土地、電話、電力、鉄道すべての利権がアメリカ資本に牛耳られ、首都ハバナはマフィアが横行する無法街でした。しかもキューバ政府の要人は独裁者バティスタ将軍を筆頭に米国に追従するばかりで、巨額の黒い金が支配者間で動いていました。ゲバラたちはマエストラ山脈にこもり、解放闘争を進めていきます。ゲバラは誠実に精力的に活動し、一軍医からカストロに次ぐNO.2のリーダーとして認められていきます。キューバの農民は疲弊しきっていました。ゲバラたちの活動は次第に認められ、支持を広げていき、キューバ上陸からわずか2年余りの1959年1月1日、バティスタ将軍は亡命し、キューバ革命は成功します。ゲバラ、30才の若さでした。
 革命後のキューバは困難の連続でした。そんななかカストロたちは教育・医療の無料化、アメリカ資本の接収、農地解放など懸命に政策を進めます。キューバ国立銀行総裁の要職にあったゲバラは自らの報酬を半減させ、その後工業相になってからは毎日深夜まで自ら現場におもむき、率先して現場労働に身を投じました。建設現場で自らレンガを積み、サトウキビ畑で自らトラクターを運転しました。アメリカは経済封鎖し、執拗にキューバ崩壊をめざし介入しますがことごとくはねつけています。
 そして過去の革命家に例を見ない行動に走ります。1965年、37才のゲバラは大臣の地位、キューバの市民権さえ捨て去り、新たな解放の戦いに飛び込んでいきます。まずアフリカコンゴに渡った後、ボリビアに潜入します。ボリビアでの戦いは困難を極めました。アメリカを後盾としたボリビア軍事政権は執拗にゲバラたちを追い詰め、ついに1967年10月、政府軍に捕縛され裁判なしに処刑されます。ゲバラという大物を射殺しようとする兵士は震えるのですが、ゲバラは「落ち着け、そしてよく狙え。お前はこれから一人の人間を殺すのだ」と最後の言葉を残し、39才の生涯を閉じました。


ゲバラ 最後の言葉・・・

もし私たちが空想家のようだといわれるならば、 救いがたい理想主義者だといわれるならば できもしないことを考えているといわれるならば 何千回でも答えよう 「その通りだ」と






http://che.gaga.ne.jp/


私は数年前 「モーターサイクル・ダイアリーズ」という映画を観た。アルゼンチン生まれ、医者志望の若者エルネスト・ゲバラが、中古のオートバイで友人と二人、南米を旅する。そして、南米の虐げられた人たちの現実を目の当たりにすることとなる。
http://www.kadokawa-pictures.co.jp/official/m_cycle_diaries/index.shtml

この映画がとても良く・・・サッカーでは彼の顔のダンマクが良く張られていたが・・・本当の人物を勉強するきっかけになった・・・

http://www.mmjp.or.jp/hannan-union/cuba_no3-1.htm


私たちの訴えと取組み





キューバを知る会通信第三号より


 「キューバを知る会」は、今とても注目されているキューバを知りたい!資本主義的大量消費でない「持続可能な社会」に挑戦し、医療福祉教育が手厚い社会主義国キューバの本当の姿を知り、みんなに伝えたいという人たちが呼びかけてできた会です。

第3回「キューバを知るつどい」を開催(12/10)
DVD鑑賞会 
「炎の記憶」
「AIのつながり紀行」

 12月10日第3回「キューバを知るつどい」には、年末で忘年会等も重なり忙しい中で18名の方が参加してくれました。今回は、キューバをもっと知ろうと考え、一つは、原爆の平和の火をキューバにつなぐ活動の紹介番組で、チェ・ゲバラが1959年に広島を訪れた時の珍しい映像も含まれていたDVD(約30分)上映と、めざましスペシャルで放映された歌手のAIのキューバ紀行のDVD(約30分)上映を行いました。上映後、参加した方にそれぞれ感想を言って頂く気軽なつどいで、とても楽しいものでした。

DVD上映会報告
「炎の記憶~原爆の残り火をキューバに~」

 これは吉田沙由里さん(NPO法人アテナ・ジャパン代表)が、広島の原爆投下時の残り火である平和の火を、キューバに運び、永遠に保存しようとする活動の紹介の番組です。 

 キューバの子どもたちに、「原爆」のことを尋ねると「8月6日広島、8月9日長崎にアメリカが投下した」と、どの子も答えることが出来るのに驚きました。キューバでの8月6日と9日は平和記念日になっているそうです。キューバの学校の教科書には3頁にもわたって「1945年アメリカが日本の広島、長崎に落とした原子力爆弾について」記載され、全てのキューバの子供はこれを勉強しているそうです。

 1959年、カストロと並ぶキューバ革命の指導者であるチェ・ゲバラが、日本訪問時、日本政府が許可しなかった広島行きを、訪問団から離れてこっそり行っていたのです。その写真が数枚残されていました。その時同行した指導者の一人が今も生きておられ、当時の様子を紹介されていました。

 ゲバラは、原爆資料館も訪れていました。キューバへ帰国後、アメリカの広島・長崎への原爆投下についてキューバの人々に伝え、教育の中にも取り入れ、カストロには広島行きを熱心に進めたそうです。2003年、カストロも広島を訪れています。

 アメリカが日本に落とした原爆は、一瞬のうちに数万の命を奪い、町を破壊し尽くし、その後も原爆症で人々の命を脅かすもので、使ってはいけない殺戮破壊爆弾を使用したアメリカの犯罪は許すことは出来ない事実として、ゲバラがキューバの人々に伝え、平和の礎としてキューバで語り継がれていることに感動しました。
















「AIの“つながり紀行”~憧れのキューバ~」

 ロサンゼルス生まれの歌手AIは、カリブ海に浮かぶ島国キューバの音楽に惹かれキューバを訪れます。キューバのハバナでは、いつもどこでも音楽が流れ、誰もがダンスを踊り、いたるところでカーニバルが催されている、本当に陽気な人々が暮らす明るい町なのが伝わってきます。

 AIも明るく人なつっこい性格ですが、キューバの人々もそれに劣らず明るく人なつっこい性格で、AIが「オラ!(こんにちは)」と気軽に声をかけるとすぐにとけ込んで一緒にダンスをし歌を歌う、見ているみんなもつい笑いが漏れ、楽しくなってきます。

 AIは、憧れのサルサのダンス教室も訪れ、17~18歳の、ダンサーをめざす若者と一緒にダンス。さすがAIちゃんサルサもうまい!AIが訪問した老人クラブでも80歳、90歳代の老人もダンスを踊って、歌を歌ってみんな元気で陽気です。子どもたちのダンスグループもあり、子供からお年寄りまで、みんな歌って踊って明るく楽しいキューバが伝わりました。

 キューバはモノが少ないので、消費するのでなく修理する文化です。車も住宅も古いモノを修理して使います。AIちゃんもキューバでみんなが利用しているヒッチハイクで、測車が付いた二輪車に乗せてもらったり、ココタクシーを利用したり、あちこちで行われているカーニバルに挑戦しました!楽しそう!

 2人の子供と母親と祖父と4人暮らしの家に招かれ、キューバの家庭料理も紹介。米と豆を炊いた主食、揚げバナナもおいしそう!1ヶ月100円で、配給所に行くと基本的な生活物資が配給されます。野菜やお魚、肉といった生鮮食品は、国営市場で新鮮なモノが買えます。キューバの平均月給は2千円位。

 キューバは教育も医療も無料で、将来に不安が無いので、モノが不足していても、みんな陽気で明るく生きることが出来るのだとつくづく感じました。

 AIちゃんはキューバに来て、キューバの国と人々をとても気にいり「大好き!グラシアス(ありがとう)!」と叫んでいたのには、「キューバを知る会」のメンバーもうれしい思いでいっぱいになりました。

 
【つどいに参加して・・・DVDの感想を紹介】

・ キューバの老人クラブでみんなダンスをしたり歌ったり楽しそう。日本の老人ホームでも、キューバを見習って楽しくすると良いのにと思った。
・ 原爆に関心があり資料館に行ったことがあるが、恐ろしかった。キューバに原爆の残り火を運んで永久保存しようとしている試みはすごいと思った。
・ とても楽しそう!教育と医療が無料であることで、みんな安心出来ると思う。
・ 広島に行ったことがない。戦争には関心があり沖縄には行ったことがある。広島にもキューバにも行ってみたいと思った。
・ 南国でもともと明るい国、みんな楽しそう!キューバは教育がしっかりしているから子どもたちもしっかりしている。将来の不安が無いから、より明るいのかな。自分の子どもを広島に是非連れて行きたいと思った。
・ 給料は安い。配給もあり、医療・教育が無料で充実している。キューバの子どもたちが広島のことを知っていてびっくりした。日本は知らない子が多いと思う。教育が大切だと思う。
・ キューバは名前しか知らなかったが、楽しそうだったので行ってみたいと思った。
・ ゲバラは何でこのように長い間英雄なのかと疑問に思っていたが、キューバの医療・教育を勝ちとってくれた人だからだとわかった。
・ 私は、小学校の教師をしていますが、最近、読んだ「世界がキューバの高学力を手本にするわけ」という本に、毎日子どもたちが「チェ・ゲバラのようになろう!」と言い、国歌を歌っている。とあった。

*******************************
・ AIの力がすごいなあ!即興でダンスや歌をプロと一緒に出来るのがすごい!
・ 音楽が街中にあふれていてすごい!日本に来たキューバ人は「日本には二度と来たくない。みんなよそよそしい。」キューバでは見知らぬ人にも気軽に声をかける習慣あるが、日本で地下鉄に乗ってもみんな素知らぬふりであることが、キューバ人にとっては耐えられないことのようだ。
・ キューバはスリムな人が多い。みんなダンスをしているから?
・ 来年キューバ革命50周年、映画「チェ・28歳の革命」「チェ・39歳 別れの手紙」。チェ・ゲバラの一生を描いた映画の試写会があり、パート1を見た。(組合ニュースの第5097号にも感想が掲載されている。)ゲバラを演じている俳優のデル・トロが、まるでゲバラのようで魅力的である。来年1月公開される。それがとても楽しみ!
・ キューバは明るく、人と人とのつながりがあり、コミュニケーションが充実していてみんな楽しそう!
・ キューバのカーニバルは、日本の盆踊りとは、また違って楽しそう!今後もキューバの文化、音楽をもっと紹介したい。キューバは野球も盛んである。キューバの有機農業にも学びたい。

(キューバを知る会通信第3号  2009.1.30.より)

| 未分類 | コメント(0)

自分に自信がなく、というより自分がなくて「日本」という国だけにすがる弱虫どもが、「朝鮮人は皆殺シ」などのヘイトスピーチを行っている。その渦中に飛び込んで彼らの生態を追ったこの本で、著者は信じ難い事実を指摘する。奈良県は吉野のある神社の宮司がブログに「共産支那はゴキブリとウジ虫、朝鮮半島はシラミとダニ。慰安婦だらけの国」とか、「韓国人は整形をしなければ見られた顔ではない」と書き込んだ。そして、2013年春に「叙勲記念」として、ブログ記事などをまとめた本を自費出版した。さすがにここでは過激な表現は抑えられているというが、この本の巻頭に安倍晋三が「推薦のことば」を寄せているのである。安倍は宮司の経歴をなぞり、この本を「魂の日記」だと持ち上げて、「戦後失われた『日本人の誇り』をテーマとして、自分の国は自分たちが守らなければならないという強い意思を感じます。世界一の日本人、世界一の国家をめざして進むための道標となることと思います」と結んでいるという。「バカじゃねえのか、安倍晋三は」と言いたくなるだろう。自信とは開かれたものであり、閉ざされたものではない。安倍を支持する「日本会議」ならぬ「日本だけ会議」が話題を呼んでいるが、世界に開かれないヘイトスピーチが跋扈する日本など、世界のどこも相手にしない。安倍こそが最大のヘイトスピーカーなのだ。































ヘイトスピーチ 「愛国者」たちの憎悪と暴力 (文春新書)
安田 浩一
文藝春秋
売り上げランキング: 12,038

ヘイト・スピーチとは何か (岩波新書)
師岡 康子
岩波書店
売り上げランキング: 129,893

ヘイトデモをとめた街
神奈川新聞「時代の正体」取材班
現代思潮新社
売り上げランキング: 20,644

Q&Aヘイトスピーチ解消法 (GENJINブックレット64)
外国人人権法連絡会
現代人文社
売り上げランキング: 71,094

ヘイトスピーチ解消法 成立の経緯と基本的な考え方

第一法規株式会社
売り上げランキング: 150,018

ヘイトスピーチはどこまで規制できるか
板垣竜太 木村草太 金 昌浩 金 哲敏 金 星姫 金 竜介 具 良鈺 宋 惠燕 韓 雅之 李 春熙
影書房
売り上げランキング: 183,008

ヘイトスピーチ 表現の自由はどこまで認められるか
エリック・ブライシュ
明石書店
売り上げランキング: 90,671

悪意の心理学 - 悪口、嘘、ヘイト・スピーチ (中公新書)
岡本 真一郎
中央公論新社
売り上げランキング: 138,417




http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/book/188708


「バカじゃねえのか、安倍晋三は」と言いたくなる


2016年8月28日
バックナンバー











拡大する

「ヘイトスピーチ」安田浩一著 文春新書 800円+税

「バカじゃねえのか、この国は」

 骨なしクラゲの星浩でなく、物申すジャーナリストの岸井成格がアンカーを務めていた今年の3月8日のTBS「NEWS23」で、福島県の農民、樽川和也が、こう憤怒の声を放った。

 東京電力の福島第1原発事故で田んぼや畑を放射能に汚染された樽川の家に、ある日、キャベツの出荷停止を指示するファクスが届く。その翌日、樽川の父親は自殺した。

 それから5年。マイクを向けられて、

「5年たって、怒りだけです。込み上げるのは」

 と樽川は語る。

「どこがクリーンで安全なエネルギーなんだい?」

 とも彼は問うているが、厚かましくも原発再稼働を進める政府や電力会社はこの声をどう受けとめるのか?

 自分に自信がなく、というより自分がなくて「日本」という国だけにすがる弱虫どもが、

「朝鮮人は皆殺シ」

 などのヘイトスピーチを行っている。

 その渦中に飛び込んで彼らの生態を追ったこの本で、著者は信じ難い事実を指摘する。

 奈良県は吉野のある神社の宮司がブログに「共産支那はゴキブリとウジ虫、朝鮮半島はシラミとダニ。慰安婦だらけの国」とか、「韓国人は整形をしなければ見られた顔ではない」と書き込んだ。

 そして、2013年春に「叙勲記念」として、ブログ記事などをまとめた本を自費出版した。さすがにここでは過激な表現は抑えられているというが、この本の巻頭に安倍晋三が「推薦のことば」を寄せているのである。

 安倍は宮司の経歴をなぞり、この本を「魂の日記」だと持ち上げて、「戦後失われた『日本人の誇り』をテーマとして、自分の国は自分たちが守らなければならないという強い意思を感じます。世界一の日本人、世界一の国家をめざして進むための道標となることと思います」と結んでいるという。

「バカじゃねえのか、安倍晋三は」

 と言いたくなるだろう。自信とは開かれたものであり、閉ざされたものではない。安倍を支持する「日本会議」ならぬ「日本だけ会議」が話題を呼んでいるが、世界に開かれないヘイトスピーチが跋扈する日本など、世界のどこも相手にしない。安倍こそが最大のヘイトスピーカーなのだ。★★★(選者・佐高信)

| 未分類 | コメント(0)

暴力で締めつけた日本軍の実態 しごきの前に、まず近視の者はメガネを外せと言うから、なぜメガネを外すのかと思うと、殴られたらメガネが飛び散るからでした。 一番ひどいビンタは、鋲が入っている革靴の底で殴られると顔が腫れ上がってしまう。もっとひどいのは、4,5人掛けの椅子を力自慢の上級兵が振り上げて10人ほど並んでいる兵隊をなぎ倒すのです。3番目ぐらいまでに並んでいる者はまともに当たりますからね、私は小さいから一番後ろで助かったのですが、そんなビンタを顔が歪むくらい毎週やられました。 数ヵ月に一回位は連隊長か師団長が隊内視察に来るのですが、それがあらかじめ分かっているから一週間ほど前からは殴らないんですよ。一応軍隊の内規では私的制裁はいかんということになっていましたからね。





















総員玉砕せよ! (講談社文庫)
水木 しげる
講談社
売り上げランキング: 2,696

gyokusai_028.jpg
gyokusai_029.jpg
gyokusai_030.jpg
gyokusai_031.jpg
gyokusai_032.jpg
gyokusai_033.jpg
gyokusai_034.jpg
gyokusai_035.jpg
gyokusai_036.jpg
gyokusai_037.jpg

http://www.geocities.jp/shougen60/shougen-list/m-T14-1.html

H・Tさん 大正14年(1925)生(80才)
 
   暴力で締めつけた日本軍の実態

戦争末期の昭和19年には、どんどん兵隊が戦死していくので、20才からの兵役の義務が、特命で19才に繰り上げられたのですよ。
だから私は、19才で徴兵検査を受けましたが、当時の徴兵検査の体格基準で第2乙種でした。甲種合格、第一乙種の次が第2乙種になります。それ以下は兵役から外されました。
私が入隊したのは、昭和19年9月1日で、高射砲連隊の現役兵でした。それから1ヵ月もしない10月には名古屋の高射砲中隊に配属されました。

一緒に入隊した人のなかには、視力の弱い人から足に障害のある人、40過ぎの所帯持ちのおじさんまで、私たちと同じ星一つの新兵として召集されたのです。そうした新兵を一年兵、二年兵、三年兵などの古参兵が、年齢からいえば親父か兄貴みたいな新兵をしごいたのです。
しごきの前に、まず近視の者はメガネを外せと言うから、なぜメガネを外すのかと思うと、殴られたらメガネが飛び散るからでした。
一番ひどいビンタは、鋲が入っている革靴の底で殴られると顔が腫れ上がってしまう。もっとひどいのは、4,5人掛けの椅子を力自慢の上級兵が振り上げて10人ほど並んでいる兵隊をなぎ倒すのです。3番目ぐらいまでに並んでいる者はまともに当たりますからね、私は小さいから一番後ろで助かったのですが、そんなビンタを顔が歪むくらい毎週やられました。
数ヵ月に一回位は連隊長か師団長が隊内視察に来るのですが、それがあらかじめ分かっているから一週間ほど前からは殴らないんですよ。一応軍隊の内規では私的制裁はいかんということになっていましたからね。

みじめだったのは、私がいた部隊では、戦争末期に入ると米飯が減って皮つきのジャガイモなどが主食で消化不良を起こしたりしました。どんどん食事の量も減っていきました。満州で収穫したコウリャンめしで下痢ばかり起こしたものです。
炊事当番に当たって飯上げに行った途中で、飯びつに顔を突っ込んで口に詰め込む者がいるほどひもじいのです。それがバレた兵隊の中にはお寺の僧侶がいましたが、気の毒につるし上げられてムチャクチャにやられましてね。
炊事当番が飯をつぐのを皆がジッと見つめているのですよ、おれの飯は他より少なくはないかと。中には分からないように飯をヘラで押さえつけて量をふやす者もあって、食べ物が乏しくなったら人間性の尊厳もあったものやないですね。

また、兵隊を指揮統率する士官将校の数も減ってきたので、昭和19年12月に幅広い幹部候補生の募集があった。私も半ば強制されてその試験に合格し、次いで極めて短期間のうちに下士官教育として厳しい訓練を受けて上等兵に進級しました。旧制中学卒業者以上の学歴をもつ者は幹部候補生危険を受けさされたのです。
私が入隊した当初は星一つの二等兵でしたが、僅か3ヵ月目で星3つの上等兵になったのです。そうすると古参兵たちが、昨日まで自分の子分か手下か奴隷みたいにしごいていた新兵が幹部候補生に合格したとたんに階級が上がり、その新参の兵隊から今度はしごかれる立場へと逆転するわけです。
ですから古参兵は私たちが幹部候補生になることを嫌うのです。ところが上部の命令ですから断るわけにいかんのです。
すると、私たちの隊内に50人ほどいた新兵のうち3人が脱走して行方不明になりましてね、これが全員の連帯責任ということでしらみ潰しに探させられた結果、1人は営内のトイレで首つり自殺していました。また1人は近くの池に浮かんでいたのです。もう1人は親元に帰っているところを捕まって営倉(軍隊内の留置場)に入れられたのです。(犯した行為の軽重により、重営倉・軽営倉がありました)
これが見せしめになって、それからは脱走して捕まれば拷問同様のひどい仕打ちをうけるという恐怖感に襲われたものです。

幹部候補生試験の第一関門を越え、一定の教育期間が過ぎて、昭和20年3月に将校予備軍としての甲乙分離試験というのがあった。私は中学生時代に国語と作文以外は成績が悪かったのですが、幸か不幸か甲種幹部候補生にパスしてしまったのです。大学生だった同僚が分離試験に落ちて乙種のまま残されたのが不満で怒っている人もいました。
当時は名古屋市内山手の高射砲隊にいたので、B29の大編隊による空爆のため炎上している名古屋城が遙かに見えたのが忘れられない記憶です。
終戦直前の8月に軍曹任官となり、千葉県の稲毛にあった千葉陸軍高射砲学校へ将校教育のために移動させられました。そこでの短い教育期間に天皇の「終戦詔勅」を聞いたのです。録音盤によるとぎれとぎれの聞き取りにくいラジオ放送でした。

占領軍最高司令官マッカーサーが近くの厚木空港へ降り立ち、米軍が進駐してきました。GHQ(占領軍司令部)は日本軍の武装解除を命令しました。無条件降伏したわけですからね。
兵士の小銃には天皇の菊の紋章がついていますから、それを削り取れというわけで、安物のヤスリで何百丁という小銃の菊の紋章を削り取るのは大変な作業でした。
日本軍の最後の潔さ、立派な姿を敵に見せろと言われましたが、米軍はそんなことにお構いなく、役に立たない小銃を積み上げて焼却処分してしまったのでした。

軍隊生活から解散して帰郷するに当たって、古い毛布2枚と米5キロぐらいを貰って、無蓋列車に乗って大阪の堺へ帰って来ました。後で聞いた話ですが、上官の将校連中は、砂糖とか新品毛布30枚とか兵隊に運ばして私物化した連中がいたということです。
礼儀正しさや訓練の厳しさで世界に誇るといわれた日本軍の軍律などもろいもので、影も形もなくなっていましたね。あれだけスパルタ的に特権と命令で締めつけられていた軍隊が、ちょうど桶のタガが外れたのと同様でバラバラになってしまった感がしました。
陸軍士官学校出の将校に兵隊はずいぶんしごかれたから、かつての部下から袋叩きに遭った将校もだいぶんおりましたね。「許してくれ、悪かった」と言うて平謝りしていた人もいましたが。

ヨーロッパなどでは敗戦国の反抗や暴動で進駐した米軍の将兵が殺されたという事例がありますが、マッカーサーの占領政策が成功したためか、日本では殆どそうしたテロや抵抗は見られなかったですね。
あの頃の日本人一般には、あれだけ負けても潔さや道義心とか慎みの心があったのでしょうか。耐え難きを耐え、忍び難きを忍んでいたのか、万世のために平和を──と述べた天皇の詔勅を素直に受け入れたからでしょうか。皇居の前で天皇陛下に申し訳なかった、われわれが至らなかった、と大勢の人たちがお詫びしたり自決した軍人もありましたね。
戦後しばらくして、筋金入りの将校だった元軍人の家を訪ねると、天皇・皇后両陛下の真影が飾ってあったのを見たこともありました。その人は軍隊ボケしているのではないかと私は思ったりしましたがね。日本人として鍛え上げられた軍人魂というのがあったのでしょうか。

一方、先輩の戦友から、野戦病院でいまわのきわに母親の名を呼んで息を引き取ったという話もよく聞きましたね。
例えば、私がいた部隊の上官の弟さんが中国戦線で機関銃で撃たれて両眼両耳を失って、野戦病院から九州方面に移送されて、お母さんが駆けつけて息子の名を呼んでも、目は見えないし耳もやられて聞こえないので、そっと乳房を触らせると、その兵士は最後に「お母さん」と一声叫んで息絶えたそうです。

日本の主要都市を焼き尽くした米軍の空襲は、日本の家屋に最も効果的な焼夷弾を計画的に研究開発して無差別に投下した作戦ですから、明らかに国際法に違反しています。戦争になると理性も道義も失ってしまうので、絶対に戦争はしてはいかんということを忘れてはなりませんね。
かつての三木首相夫人の三木睦子さんの話ですが、小泉さんは戦争を知らない世代だから、戦争の怖さも犠牲のおぞましさも分からない。あんな人が日本の総理としてブッシュ米大統領の言いなりになっているのは情けない、と語っていた言葉に強く感動しました。
3年前の9.11テロのとき、ブッシュさんから最大の友人と言われた小泉首相は、ブレア英首相の隣りにいて嬉しくて舞い上がってしまったのでしょうね。(2005.3.14)

<取材記者のひとこと>
殴ったり殴られたり、軍隊内部では日本人同士が暴力ののとりこになっていた実態が、お話を聞いてよく分かりました。
そのような暴力で締めつけた人間関係の下では、本当の信頼感と連帯感で結ばれていた組織体制とは、とても言えないと思います。その意味でも、日本が戦争に負けたのは当然であり、負けてよかったといえるのではないでしょうか。(3.25)

| 未分類 | コメント(0)

日本の柔道界は、猥褻行為はする、暴力は振るう、お金はかすみ取る、それでも幹部の皆さんはだれも責任を取らない。かっての相撲界よりまだ悪い。これが現在の日本人の姿かと思うと悲しくなる。どうすれば立て直しが出来るのだろうか?愚痴りたくもなるよ!

隠蔽 須賀川一中柔道部「少女重体」裁判
テレビ朝日「スーパーモーニング」取材クルー 被害者の母
幻冬舎
売り上げランキング: 1,155,933

それでもボク柔道好きだから―柔道事故と黒帯の品格

龍鳳書房
売り上げランキング: 644,969


柔道事故
柔道事故
posted with amazlet at 16.11.17
内田 良
河出書房新社
売り上げランキング: 115,877

教育現場での柔道死を考える―「子どもが死ぬ学校」でいいのか!?
山本 徳郎
かもがわ出版
売り上げランキング: 850,013

性と柔: 女子柔道史から問う (河出ブックス)
溝口 紀子
河出書房新社
売り上げランキング: 393,076

日本の柔道 フランスのJUDO
溝口 紀子
高文研
売り上げランキング: 543,205


8fa1cc42bf9b45f043710c8fa512dea3.jpg


https://matome.naver.jp/odai/2136438764126129901


日本の柔道界が暴力セクハラ!クソ過ぎてヤバイ日本柔道【園田隆二暴力問題】【内柴正人強姦レイプ】
柔道なんてスポーツじゃなくて格闘技なんだから、暴力とかセクハラとかやるぐらいなら、オリンピック種目からも抹消するべきだね。スポーツなのに人を殴ったり、性暴力したりする社会のゴミは、柔道なんてやめるべき。

更新日: 2014年04月26日


nobuyuki5さん









6

お気に入り

49991

view
お気に入り追加







園田隆二(暴力セクハラで解任)









出典
news-entamesays.blog.so-net.ne.jp















フランス人「国際合宿などで、日本の指導者が選手を平手打ちするのを何度も見た」と言う発言



出典
朝日新聞デジタル:女子柔道暴力、フランス「驚きない」 風通しの悪さ指摘 - スポーツ











「今回のニュースに驚きはなかった」。柔道担当10年超のスポーツ紙「レキップ」のオリビエ・ビアンフェ記者は話す。国際合宿などで、日本の指導者が選手を平手打ちするのを何度も見たという。







明るみに出たのは氷山の一角と指摘する声も



出典
女子柔道「暴力・セクハラ」氷山の一角!ほかのオリンピック種目は大丈夫? : J-CASTテレビウォッチ











バルセロナ五輪で銅メダルを獲得した女子柔道選手の溝口紀子さんは「私自身、幼少からそういった体罰を見てきた。来るべき時が来たというか、やっぱり柔道もついに顕在化する時が来てしまった」と話す。
スタジオ出演者からは、明るみに出たのは「氷山の一角」であって、スポーツと暴力の問題は、柔道だけでなくその他のスポーツにおいても根深そうだと見るコメントが聞かれた。







新しく南條充寿新監督が就任



出典
問題山積の女子柔道、新監督決定。新たな船出に、なお残る違和感。(1/3) - Number Web : ナンバー











日本女子代表前監督の園田隆二氏の後任に、女子ジュニアのヘッドコーチである南條充寿氏が就任し、新設する女子強化部長を兼務する強化副委員長にバルセロナ五輪女子56kg級銅メダリストの増地(旧姓立野)千代里氏を起用することも決まった。







園田隆二による女子選手を日常的に暴力していた問題





2012年9月に暴力問題が発覚したのに、こいつが続投www



出典
女子柔道強化選手による暴力告発問題 - Wikipedia











2012年9月下旬に、とある選手が強化合宿中に園田に暴力を振るわれたことを全日本柔道連盟(以下、全柔連と記す)に訴えた[1]。全柔連が園田と当該選手に事情を聞いた結果、それが事実と判明した。この際に園田は「二度と暴力行為はしない」と約束したという。

しかし、10月下旬にブラジルのサルヴァドールで開催された世界団体の際に園田はこの選手に対して「余計なことを言いふらしているらしいな」と厳しく責めたてたともいう。







園田隆二の暴力行為は、確認されているだけで5件



出典
女子柔道強化選手による暴力告発問題 - Wikipedia











2013年1月にJOCは告発者数名との面談を試みると、「怖かった」、「(園田の)顔は笑っていたが不安だった」との話を聞きだした。また、JOCからこの訴えを知らされた全柔連も再調査を試みた結果、2010年8月から2012年2月までの期間に暴力行為を5件確認することになった。








園田隆二女子代表監督の暴力問題


出典
www.zakzak.co.jp




園田隆二女子代表監督の暴力問題


園田隆二が、女子選手に対して暴力を日常的に振るっていたとされる問題が女子選手などから出されて、問題が発覚しました。







準強姦容疑で逮捕された内柴正人





強姦に対して、懲役5年の実刑判決



出典
内柴正人被告 懲役5年の実刑判決「被告の供述は全く信用できない」 — スポニチ Sponichi Annex 柔道











指導していた大学の女子柔道部員を合宿先のホテルで乱暴したとして、準強姦(ごうかん)罪に問われたアテネ、北京両五輪の金メダリスト・内柴正人被告(34)の判決公判が1日、東京地裁で開かれ、鬼沢友直裁判長は検察側の求刑通り懲役5年の実刑判決を言い渡した。

 判決理由について鬼沢裁判長は「被害者の証言は十分信用できるが、被告の供述は全く信用できない」とし、「輝かしい実績を持ちながら被害者の心を深く深く傷つけ続けた責任は極めて重い」と述べた。








内柴正人


出典
blog.goo.ne.jp




内柴正人


指導していた大学の女子柔道部員を合宿先のホテルで乱暴したとして、準強姦(ごうかん)罪に問われたアテネ、北京両五輪の金メダリスト・内柴正人被告(34)は、検察側の求刑通り懲役5年の実刑判決が出ています。







海外の柔道家にも伝わった暴力





ケイラ・ハリソン選手(22)がロンドン五輪後に「性暴力を受けていた」と告白



出典
朝日新聞デジタル:ハリソン、米国柔道初の金 優勝会見、性的被害明かす - ロンドンオリンピック2012











米国に、柔道初の金メダリストが誕生した。2日の女子78キロ級で優勝したケイラ・ハリソン選手(22)だ。性的被害を受けた経験を乗り越えての快挙だった。

 「前のコーチに性的被害を受けていました」

 ハリソン選手は優勝後の会見で、こう明かした。








アメリカでも「14歳の時にレイプされた」と告白した女子選手


出典
livedoor.blogimg.jp




アメリカでも「14歳の時にレイプされた」と告白した女子選手


ケイラ・ハリソン選手(22)は、ロンドン五輪の78キロ級で金メダルを取りましたが、14歳の頃にコーチから性的暴力を受けていたと告白しました。










岩水靖夫@sijfyi

フォローする


日本の柔道界は、猥褻行為はする、暴力は振るう、お金はかすみ取る、それでも幹部の皆さんはだれも責任を取らない。かっての相撲界よりまだ悪い。これが現在の日本人の姿かと思うと悲しくなる。どうすれば立て直しが出来るのだろうか?愚痴りたくもなるよ!


返信 リツイート いいね 2013.03.27 20:48













タガッツ@Taguts

フォローする


柔道界に俺は先生の暴力は暴力だと思ってません! もっと厳しくお願いします! みたいな背筋寒くなる師弟関係が発生してそう。


返信 リツイート いいね 2013.03.27 19:28







1

| 未分類 | コメント(0)

【自衛隊自殺者続出】防衛大が今でも旧日本軍だった事実!いじめセクハラが横行 防衛大や自衛隊で自殺者が続出しています。そこにあるのは、陰湿な「いじめ」であって、いじめが原因で年間100人もの人が死亡しているという事です。一部の政治家が「徴兵制復活」などを議論していますが、こんないじめ体質のところに国民を巻き込もうなんて、醜いですね。自殺者も増加しています。韓国軍で凄惨な集団暴行が発覚!!! 毎日90発以上殴り、歯磨き粉や床吐いた唾まで食べさせた⇒「旧日本軍の悪習…」by韓国の反応│ホル韓ニュース速報「改」米軍の女性兵士は、慰安婦として活動しています。公表されているだけで30%がレイプ被害にあっており、ほとんどが上官からのレイプです。












自衛隊という密室―いじめと暴力、腐敗の現場から
三宅 勝久
高文研
売り上げランキング: 718,693


自衛隊の闇: 護衛艦「たちかぜ」いじめ自殺事件の真実を追って
大島 千佳 NNNドキュメント取材班
河出書房新社
売り上げランキング: 231,215


自衛隊員が死んでいく―“自殺事故”多発地帯からの報告
三宅 勝久
花伝社
売り上げランキング: 318,357

悩める自衛官―自殺者急増の内幕
三宅 勝久
花伝社
売り上げランキング: 843,482

暴力と差別としての米軍基地 (未来への歴史)
林 博史
かもがわ出版
売り上げランキング: 577,026

女性史からみた岩国米軍基地―広島湾の軍事化と性暴力 (hiroshima・1000シリーズ)
藤目 ゆき
ひろしま女性学研究所
売り上げランキング: 973,354

沖縄における米軍の犯罪
福地 昿昭
同時代社
売り上げランキング: 323,558

密約 日米地位協定と米兵犯罪
吉田 敏浩
毎日新聞社
売り上げランキング: 599,611

米軍基地犯罪―いまも続く沖縄の悲しみと怒り
福地 曠昭
労働教育センター
売り上げランキング: 1,786,699


mig1.jpg
103c5ff47fa10dd7989fbbf984017dd0.jpg
2014032012.jpg
img_1.jpg
自衛隊暴力1
自衛隊暴力2
image021.jpg
image018.jpg
image016.jpg
image014.jpg


https://matome.naver.jp/odai/2145463994763821501

自衛隊・防衛大の怖すぎる『いじめ』の実態!セクハラ・性的暴行・暴力行為・パワハラが横行!
自衛隊・防衛大の『いじめ』によって自殺者まで出ていますが、表面に出てくる『いじめ』は、氷山の一角だという事です。実際には、自衛隊・防衛大のいじめ事件が頻発しており、セクハラ・暴力行為・パワハラが自衛隊・防衛大の内部で横行している事が明らかになっています。

更新日: 2016年02月05日


misukiruさん









1

お気に入り

25817

view
お気に入り追加







表になっているイジメと不正隠しは氷山の一角だと現職3等海曹のAさん(20歳代)は言う。



出典
いじめ抜いた挙句に精神病棟送りにして使い捨て――自殺寸前に追い詰められた現職海曹が告発する「絶望の自衛隊」:MyNewsJapan



















◆たちかぜ自衛官いじめ自殺事件









出典
img.chess443.net















横浜地方裁判所横須賀支部刑事部は、「いじめは艦内では日常茶飯事、常習的で、本件は氷山の一角」「暴行を苦にしたとみられる隊員が自殺したのをどう償うのか」と、海自と二曹の「行為」を認定



出典
たちかぜ自衛官いじめ自殺事件 - Wikipedia



















陰惨な虐待を裏づける内部文書を海上自衛隊が7年間にわたって隠蔽してきた事実も認定、防衛省に広がる深刻な腐敗を浮き彫りにした。



出典
いじめ抜いた挙句に精神病棟送りにして使い捨て――自殺寸前に追い詰められた現職海曹が告発する「絶望の自衛隊」:MyNewsJapan



















◆凄まじい防衛大学校のいじめ









出典
blogs.c.yimg.jp















防衛大学校で、2学年の男子学生が校内でいじめを受けストレス障害になったとして、上級生や同級生8人を横浜地方検察庁横須賀支部に傷害と強要容疑で7日、刑事告訴



出典
防衛大学生、いじめで同級生を刑事告訴 「いじめは修行」体毛に火、集団暴力、性的暴行… | ビジネスジャーナル



















当時1学年だった男子学生が、上級生に服を脱がされて体毛に火をつけられ、腹部に全治3週間のやけどを負ったほか、今年5月、地元に帰省した際に休暇届を出すのが遅れたことを理由に、上級生や同級生から殴られるなどした。



出典
防衛大学生、いじめで同級生を刑事告訴 「いじめは修行」体毛に火、集団暴力、性的暴行… | ビジネスジャーナル



















寝ている学生を靴やスリッパで叩いて起こす。服を脱がせ体毛を焼く。先輩の男性器をくわえさせ、それを写真に撮るなどのいじめ



出典
防衛大学生、いじめで同級生を刑事告訴 「いじめは修行」体毛に火、集団暴力、性的暴行… | ビジネスジャーナル



















◆自衛隊内部で多発している『いじめ』









出典
sociorocketnews.files.wordpress.com















殴られる、竹刀で叩かれる、執拗に退職強要を受けるといった肉体的・精神的虐待を受け、後に精神疾患を発症する。何度も自殺を考えたという。



出典
いじめ抜いた挙句に精神病棟送りにして使い捨て――自殺寸前に追い詰められた現職海曹が告発する「絶望の自衛隊」:MyNewsJapan



















「隊員は使い捨て。苦しんでいる隊員や、自殺した隊員はたくさんいる。



出典
いじめ抜いた挙句に精神病棟送りにして使い捨て――自殺寸前に追い詰められた現職海曹が告発する「絶望の自衛隊」:MyNewsJapan



















◆自衛隊の『いじめ』の内容が悲惨すぎる









出典
blogimg.goo.ne.jp















イジメのターゲットが上司やマスコミへのタレコミを行なわせないよう、陰毛を燃やした箇所をかならず顔入りで写真撮影、それを仲間内でLINEで流すという。



出典
「恥辱写真をグループ公開」LINEを利用した自衛隊イジメの実態 - デイリーニュースオンライン



















あくまでも“自発的に”口淫を行なわせ動画を撮影し、その際、「私は自発的に池田1曹に口淫させて頂きます」と言わせる。



出典
「恥辱写真をグループ公開」LINEを利用した自衛隊イジメの実態 - デイリーニュースオンライン



















◆表に出てくるのは氷山の一角









出典
www.twcpe.ac.jp















公になっているのは、氷山の一角にすぎないようだ。防大OB、現役防大生をはじめとした関係者たちは、上級生による下級生への暴力を伴う指導、男子学生による女子学生への性的暴行など、表に出てこない不祥事は数多くある



出典
防衛大学生、いじめで同級生を刑事告訴 「いじめは修行」体毛に火、集団暴力、性的暴行… | ビジネスジャーナル



















参考リンク





【自衛隊自殺者続出】防衛大が今でも旧日本軍だった事実!いじめセクハラが横行 - NAVER まとめ


http://matome.naver.jp/odai/2140747150630173501


防衛大や自衛隊で自殺者が続出しています。そこにあるのは、陰湿な「いじめ」であって、いじめが原因で年間100人もの人が死亡しているという事です。一部の政治家が「徴...


https://matome.naver.jp/odai/2140747150630173501


【自衛隊自殺者続出】防衛大が今でも旧日本軍だった事実!いじめセクハラが横行
防衛大や自衛隊で自殺者が続出しています。そこにあるのは、陰湿な「いじめ」であって、いじめが原因で年間100人もの人が死亡しているという事です。一部の政治家が「徴兵制復活」などを議論していますが、こんないじめ体質のところに国民を巻き込もうなんて、醜いですね。自殺者も増加しています。

更新日: 2016年06月15日


misukiruさん









13

お気に入り

131259

view
お気に入り追加







自衛隊の暴力行為がやばい!自殺者が年間100名









出典
omoixtukiritekitou.blog79.fc2.com















自衛隊はモラルを学んだり、精神修養するための学校ではないということです。むしろ、旧日本軍の悪しき軍隊いじめの伝統を受け継いだ、体育会系的パワーハラスメントの構造に支配された世界です。



出典
自衛官の自殺率は民間の2倍以上。 いじめ駆け込み寺



















言葉の暴力は当たり前、パシリ当然、殴られたり、蹴られたりもたまにある。ひどい場合になると、金品を要求されて奪われることもあります(実話)。



出典
自衛官の自殺率は民間の2倍以上。 いじめ駆け込み寺



















海上自衛隊でいじめ自殺に追い込まれた被害者が出て、そのいじめについての調査文書が隠されていることを告発したら、いじめの加害者ではなくていじめの告発者が懲戒の対象になっているという



出典
村野瀬玲奈の秘書課広報室 |自衛隊では、いじめ自殺を告発すると加害者ではなく告発者が懲戒される恐怖支配が行なわれているようです。



















狭い空間で横行しているいじめ






いじめの舞台になった護衛艦「たちかぜ」


出典
www.vspg.net




いじめの舞台になった護衛艦「たちかぜ」


狭い館内の中で陰湿ないじめが日常的に行われていました。







横浜地方裁判所横須賀支部刑事部は、「いじめは艦内では日常茶飯事、常習的で、本件は氷山の一角」「暴行を苦にしたとみられる隊員が自殺したのをどう償うのか」と、海自と二曹の「行為」を認定した。



出典
たちかぜ自衛官いじめ自殺事件 - Wikipedia



















2004年10月、海上自衛隊横須賀基地の護衛艦「たちかぜ」の電測員が鉄道自殺した。03年に入隊したこの隊員は先輩の隊員から、ガス銃で狙われたり、パンチパーマにすることを強要



出典
自衛隊のいじめ→自殺者毎年100人: 不条理日記



















航空自衛隊浜松基地で3等空曹が指導役の隊員から再三にわたる暴言や暴行の上「反省文100枚、でなければ辞表だ」と強要されるパワーハラスメントを受け、うつ病で自殺。



出典
自衛隊のいじめと自殺がヤバイ 「お前だけは絶対に呪い殺してやる」 : まとめでぃあ























出典
pds.exblog.jp















05年11月、クウェートに選抜派遣されていた航空自衛隊の隊員が、幼い子供を残して自宅で首吊り自殺した。(中略)日本で待ち受けていたのは先輩から暴行や陰湿な嫌がらせだったのである。



出典
自衛隊のいじめ→自殺者毎年100人: 不条理日記



















07年12月14日、横須賀基地の護衛艦「はたかぜ」の電測員だった池田智・海士長(仮名)が横須賀で私鉄に飛び込んで自殺した。03年3月に入隊したこの人も執拗ないじめを受けていた。



出典
自衛隊のいじめ→自殺者毎年100人: 不条理日記



















自衛隊の内部から湧き出る不満









出典
img.recordchina.co.jp















私は勤続20年の准尉、直属の上官は何の経験もない、私からすれば子供のよ うな防衛大学出身の三尉。



出典
いじめ意見交換



















3幕(陸・海・空)共通教育であること。自衛隊と言う組織を大きな視点で理解することが可能。既に身分は防衛省職員



出典
防衛大学校のメリット、デメリットを教えて下さい。 - Yahoo!知恵袋



















防大を卒業、幹候校、任官以降、トップグループを走れる人はいいでしょうが、年を重ねると防大時の下級生が上司になることも当然ありえる



出典
防衛大学校のメリット、デメリットを教えて下さい。 - Yahoo!知恵袋



















旧日本軍に蔓延していた「いじめ」









出典
blog.livedoor.jp















旧日本軍の下級兵などの戦記物を読んでいると、陸軍の場合も海軍の場合も、人間以下の酷い扱いを受けていたということが分かります。



出典
旧日本軍、下級兵士による反乱 - 歴史 - 教えて!goo



















初年兵の頃から、訓練において辛く当たって意地悪をした一等兵や上等兵に対しては、戦地に行ってから、敵との戦闘が始まり敵弾が飛び始めてから、皆で後ろから銃撃して殺害してしまう



出典
米谷氏「米軍を悩ます2つの死」について。 日本軍にあった「内地でのいじめへの戦地での仕返し。」 新世紀人



















入隊したての一年兵が目の当たりにしたのは赤飯かと思いきや高梁や雑穀を混ぜた飯が出され、それが最上のものであったとのこと。更に形の存在しない何かわからない液状のものが食べ物として支給



出典
無知からの超克 旧日本陸軍の生活と戦闘



















一年兵らがリンチを恐れるあまりに、自ら上官や古参兵の雑務(炊事や洗濯)を務めるのはよく聞く話。



出典
無知からの超克 旧日本陸軍の生活と戦闘



















軍隊内暴力は陰湿さをましていった。海軍では、軍人精神注入棒と称するバットで臀部を強打するという方法がもっとも多かった。



出典
旧日本軍での新兵いじめの方法 - 思いつきのメモ帳



















暴力が普通に行われる防衛大学校









出典
girlschannel.net















防衛大学校(神奈川県横須賀市)2年の男子学生(19)が7日、上級生らから暴行を受けてけがをした上、ストレス障害になったとして、傷害と強要の疑いで8人を横浜地検に告訴した。



出典
防大生が上級生ら8人告訴「自衛隊幹部候補生育成組織で公然と日常的にいじめ」 — スポニチ Sponichi Annex 社会



















校内のカウンセラーに相談したが、男性は「頑張って耐えるようにと指導するだけで、何も動いてくれなかった」と振り返る。



出典
東京新聞:「防衛大で上級生が暴力」 2年生、告訴へ:社会(TOKYO Web)



















暴行を受けてけがを負った上、裸で腕立て伏せをさせられた写真を無料通信アプリLINEで流されるなどし重度ストレス障害を発症したとしている。



出典
「防大は人権や命を大切にする人を育てて」上級生ら8人告訴の防大生の母 LINEには裸写真 - MSN産経ニュース



自衛隊で頻発するセクハラ






女性隊員の18%が性的関係の強要を受ける自衛隊


出典
maitter.com




女性隊員の18%が性的関係の強要を受ける自衛隊


多くの女性自衛官がセクハラの対象になっています。







自衛隊員へのアンケート結果によると、女性隊員のうち18.7%が性的関係の強要を受け、強姦・暴行および未遂は7.4%にものぼり、自衛隊全体で700人以上が強姦・暴行および未遂の被害を受けている



出典
イラク帰還の陸上自衛隊員の自殺率は日本平均の14倍以上、米兵自殺者はアフガン戦死者に迫る|すくらむ



















北海道の航空自衛隊で、「セクハラ訴訟」と呼ばれる事件がありました。ことのはじめは、2006年9月9日の夜中、女性自衛官が泥酔していた上司の男性自衛官から、部屋に呼び出されて、性暴力にあったという、おそろしい事件です。



出典
航空自衛隊セクハラ訴訟



















幹部隊員は昨年1月21日、部内の数人が参加した飲み会で、女性隊員に抱きつき、その様子を別の男性隊員に写真撮影させた。その後も同じ女性隊員に、不適切な内容のメールを約10回送信した。



出典
セクハラで自衛官を停職、部下の女性隊員に抱きつく - 芸能社会 - SANSPO.COM(サンスポ)



















どんどん増える自衛隊の自殺






増える自衛隊の自殺者数






増える自衛隊の自殺者数


自衛隊の自殺者数は、海外派遣が増えて負担になっているからではないかと見られています。








自衛官の自殺者数が民間の1.5倍


出典
www.kanaloco.jp




自衛官の自殺者数が民間の1.5倍


自衛隊の自殺者数は、2002年頃から増加しており、民間の1.5倍に達しています。








イラク派兵から帰国後に自殺


出典
blogimg.goo.ne.jp




イラク派兵から帰国後に自殺


自衛官の26人がイラク派兵から帰国後に自殺しています。精神的な苦痛があったものと思われます。







志願者が減る自衛隊






戦争法案などで志願者が減少


出典
blogs.c.yimg.jp




戦争法案などで志願者が減少


自衛隊では、戦場に行く戦争法案などで志願者が急減しています。







11年度の自衛隊退職者は1万940人だったが、14年度には1万2500人。実に1500人以上も退職数が増えているのだ。



出典
安保法制で自衛隊の退職者が続出! 2万人説も…安倍政権が進める経済的徴兵制で「貧乏人から戦場へ」という国に|LITERA/リテラ 本と雑誌の知を再発見



















現場には退職者を出さないように指令が下っているので、上官が必死で引き止めを行っている



出典
安保法制で自衛隊の退職者が続出! 2万人説も…安倍政権が進める経済的徴兵制で「貧乏人から戦場へ」という国に|LITERA/リテラ 本と雑誌の知を再発見



















お隣の韓国軍の悲惨ないじめ






泣き叫ぶ兵役の兵士


出典
livedoor.blogimg.jp




泣き叫ぶ兵役の兵士










北朝鮮と休戦状態にある韓国では、男性に兵役の義務がある。学校に仕事、そして恋愛と楽しい生活を送るはずの20代に、約2年という時間を国へ捧げる



出典
訓練を超えて拷問! 韓国軍の悲惨な実態 - BIGLOBEニュース



















集団暴行と言うより集団リンチですが、転入して来てから2週間の間、ほとんど毎日殴られていました。これを目撃した兵士たちの言葉によれば、一日に90発以上殴られていた



出典
韓国軍で凄惨な集団暴行が発覚!!! 毎日90発以上殴り、歯磨き粉や床吐いた唾まで食べさせた⇒「旧日本軍の悪習…」by韓国の反応│ホル韓ニュース速報「改」




















便器の中に頭を入れる訓練?


出典
sociorocketnews.files.wordpress.com




便器の中に頭を入れる訓練?










彼らが過ごす軍隊の施設や訓練生活では、厳しい規則はもちろんのこと、体罰やいじめなどが横行しているという。この悪習は、1960年代から続いており深刻な社会問題となっている



出典
訓練を超えて拷問! 韓国軍の悲惨な実態 | ロケットニュース24




















強要される苦痛


出典
sociorocketnews.files.wordpress.com




強要される苦痛










韓国軍でおぞましい集団暴行の実態が明らかになった。韓国陸軍の1等兵(21)が4月に部隊内で先輩兵士らに集団暴行され死亡。



出典
韓国軍壮絶いじめ 陸軍の1等兵、床に吐いたツバをなめさせられた果てに… (1/2ページ) - 政治・社会 - ZAKZAK



















先輩らは「返事が遅い」などの理由でモップが折れるほど激しく体を殴り、徹夜で敬礼の姿勢を続けさせた。その後、先輩らが吐き出したたんや、暴行によって1等兵が吐き出した汚物を1等兵自身になめさせたほか、歯磨き粉を食べさせた



出典
韓国軍壮絶いじめ 陸軍の1等兵、床に吐いたツバをなめさせられた果てに… (1/2ページ) - 政治・社会 - ZAKZAK




















韓国軍の訓練?


出典
sociorocketnews.files.wordpress.com




韓国軍の訓練?


訓練というか拷問にしか見えないですけど。







死亡前日の4月6日には、兵士の患部に消炎鎮痛剤を塗るとしながら、衣服を脱がせて性器に薬を塗った。1等兵は連日の暴行によってよだれや小便を垂れ流しながら意識を失った



出典
韓国軍壮絶いじめ 陸軍の1等兵、床に吐いたツバをなめさせられた果てに… (1/2ページ) - 政治・社会 - ZAKZAK



















両手を後ろに組み、頭を地面につけられたり、場合によっては便器や水中に頭を入れられたりと、まさしく拷問というにふさわしい。



出典
訓練を超えて拷問! 韓国軍の悲惨な実態 | ロケットニュース24



















米軍でもある暴行・いじめ・セクハラ









出典
matome.naver.jp















ちなみに現代のアメリカ軍でのそういった「伝統行事」には、海軍では航海で初めて赤道を越える者は古参兵のゲロを食うというものや、海軍士官候補生は必ず「生ゴミ早食いレース」への参加が義務付けられたり



出典
旧日本軍のしごき・いじめ、江戸時代の武士にもあった? - 歴史 - 教えて!goo



















イラクや国際部隊の駐留が続くアフガニスタンに派遣された米女性兵士延べ28万人の3割以上が、上官らから性的な暴行を受けていた



出典
27分ごとに発生する米兵の性暴力で女性兵士3割レイプ被害-軍隊は女性も住民も兵士自身も守らない



















アメリカ軍女性兵士のレイプ事件が多発!女性兵は「慰安婦」代わり - NAVER まとめ


http://matome.naver.jp/odai/2136878648496053501


アメリカ軍女性兵士は、3人に1人がレイプ被害にあっていると言われています。よほどの不細工出ない限りは、ほぼ例外なく前線でレイプされているという事でしょう。特定の...

https://matome.naver.jp/odai/2136878648496053501


アメリカ軍女性兵士のレイプ事件が多発!女性兵は「慰安婦」代わり
アメリカ軍女性兵士は、3人に1人がレイプ被害にあっていると言われています。よほどの不細工出ない限りは、ほぼ例外なく前線でレイプされているという事でしょう。特定の上官と付き合うのが、そのレイプを回避する唯一の方法です。戦争をする軍隊の残酷な一面です。

更新日: 2016年06月08日


nobuyuki5さん









35

お気に入り

1336952

view
お気に入り追加







アメリカ軍の女性兵士は、米軍の「慰安婦」





いくつかの厄介な事例が報告されている。国防省の調査によると、軍で3人に1人の女性が性的暴行を受けた経験があるという。



出典
http://jp.ibtimes.com/articles/39976/20130128/521374/page2.htm




















米軍女性兵士は「慰安婦」


出典
japanese.china.org.cn




米軍女性兵士は「慰安婦」


米軍の女性兵士は、慰安婦として活動しています。公表されているだけで30%がレイプ被害にあっており、ほとんどが上官からのレイプです。







イラクとアフガニスタンで64%(公表)の女性兵が性的被害者に



出典
27分ごとに発生する米兵の性暴力で女性兵士3割レイプ被害-軍隊は女性も住民も兵士自身も守らない(国家公務員一般労働組合) - BLOGOS(ブロゴス)











イラクとアフガニスタンに派遣された女性兵士の33.5%が米軍内でレイプされ、63.8%が性的いやがらせを受けたと回答した。








女性兵士は、米軍で「慰安婦」


出典
blog.goo.ne.jp




女性兵士は、米軍で「慰安婦」


アメリカでは、女性兵士の3-5割が軍隊内においてレイプされているというデータがあります。

レイプされない唯一の方法は、上官と交際するか不倫する事だそうです。







従軍慰安婦として最適な女性兵士



出典
蔓延する米軍内での性的暴行











軍では、事件をどう取り扱うかの決定は、部隊上官に任されている。33%の女性兵士がレイプを報告しないのは、報告提出先の上官がレイプ加害者の友達だから。また25%が報告しないのは、上司がレイプ加害者だからという。








女性兵士は美女が多いので危険


出典
military38.com




女性兵士は美女が多いので危険


女性兵士は、スリムな体型が多いので、レイプ被害などにあいやすい危険な状況にあります。







肉体の酷使で不妊などになるケースも多い



出典
米軍で最前線に女性兵 筋肉麻痺、不妊…体への負担が心配 (産経新聞) - Yahoo!ニュース











女性兵たちの活躍には大いに期待したいのだが、激務が繊細な体に多大な負担とならないか心配だ。実際、アフガンに7カ月駐留した女性の海兵隊幹部が、肉体酷使などで筋肉麻痺(まひ)や不妊などの症状を患っていると軍の新聞に告白した。











出典
blog-imgs-55-origin.fc2.com















神奈川県・横須賀基地所属の米兵に睡眠薬を飲まされ暴行されたジェーンさん。2002年、ジェーンさんは加害者の米兵に民事訴訟を起こし、東京地裁は加害米兵に300万円の賠償を命じた。しかし、実際に支払ったのは、なんと日本の防衛省だった。



出典
沖縄米兵連続強姦事件と、日本の外務省の病的な無関心 | カレイドスコープ



















日本の自衛隊は、女性兵20%が性的被害者に






性搾取の対象になる女性自衛官


出典
green.ap.teacup.com




性搾取の対象になる女性自衛官


自衛隊においても平常時において20%が性的関係の強要を受けています。これが戦争にでもなったら、女性兵士がレイプ被害者だらけになる事は確実でしょう。







女性の自衛隊員の20%が性的関係の強要を受けたと報告



出典
イラク帰還の陸上自衛隊員の自殺率は日本平均の14倍以上、米兵自殺者はアフガン戦死者に迫る|すくらむ











自衛隊員へのアンケート結果によると、女性隊員のうち18.7%が性的関係の強要を受け、強姦・暴行および未遂は7.4%にものぼり、自衛隊全体で700人以上が強姦・暴行および未遂の被害を受けているのです。







米軍で女性兵士が増えている現状






米軍の女性兵士たち


出典
www48.tok2.com




米軍の女性兵士たち


女性兵士たちは、増加傾向にあります。そして、数多くの問題が発生しています。







米軍で20%は女性兵士となっている。



出典
http://jp.ibtimes.com/articles/39976/20130128/521374.htm











米軍の女性は何十年もの間、男性と同じように自分の命をかけて働いてきた。彼女たちは現在、米国軍の約20%を占める。過去12年間で、イラクとアフガニスタンに従軍した約28万人の女性のうち、152人が死亡した。そして少なくとも800人が負傷した。







志願兵の減少などで、軍で若い女性兵士が必要になった事実



出典
http://jp.ibtimes.com/articles/39976/20130128/521374/page3.htm











ベトナム戦争は、1960年代初頭から1975年4月30日までベトナムの地で繰り広げられた。これにつれて、ベトナム戦争反対の運動も広まった。当時の軍は、より多くの女性を採用する必要があると認識していた。徴兵なしで任意に入隊してくる男性だけでは、軍隊のニーズを十分満たせなかった







アフガニスタンにも女性兵30万人ほどが赴任している。



出典
米軍の女性兵士、前線での戦闘任務解禁へ=国防総省高官| Reuters











過去11年でイラクやアフガニスタンに派遣された女性兵士は約30万人で、両国に派遣された米兵の約12%に当たる。







最前線にも出られるようになった女性兵士



出典
米軍で最前線に女性兵 筋肉麻痺、不妊…体への負担が心配(産経新聞) - 海外 - livedoor ニュース











米軍の女性兵が2016年までにアフガニスタンなど激戦地の最前線に立つことになった。
 多数の女性兵はこれまでも、最前線ではないものの、アフガンやイラクの戦地に赴いてきた。でも陸軍の80%の将官が最前線での任務を経て昇進している事実を踏まえ、「最前線で一緒に働けないのは差別だ」と女性兵らが訴えた結果、軍が方針転換した。日本人女性には驚きだろう。











出典
1topi.s3.amazonaws.com















女性兵士が多い事による問題





女性兵士が前線に増えすぎると、逆レイプの危険も生まれる。



出典
男性への性的暴行多発のジンバブエ、兵士が荒野に置き捨てされたケースも(毎日中国経済) - 海外 - livedoor ニュース











アフリカ南部、ジンバブエの警察当局は4月30日、同国内でこのところ女の犯罪組織による男性への性的暴行事件が多発しているとして、男性に自分の身を守る意識を高めるよう注意を呼びかけた。

東部、マニカランド州の警察報道官によれば、4月19日、自動車に乗った女の4人組が同州の幹線道路で25歳の男性兵士を拉致してアジトに連れ込み、性的暴行を加える事件があった。








アブグレイブ虐待で有罪になった米国女性兵士


出典
wired.jp




アブグレイブ虐待で有罪になった米国女性兵士


女性兵士が男性収容者に対して様々な虐待を行った事が大きな問題になりました。







在日米軍のレイプ・強姦事件が多発









出典
buta-neko.net















日本人女性も米軍兵士にレイプ・強姦被害にあっている事実



出典
27分ごとに発生する米兵の性暴力で女性兵士3割レイプ被害-軍隊は女性も住民も兵士自身も守らない(国家公務員一般労働組合) - BLOGOS(ブロゴス)











警察庁によると、1989年から2011年までの23年間で、米兵による強姦事件の検挙件数は全国で55件(67人)となっていて、半数を超えて集中している沖縄県29件(33人)、神奈川県12件(18人)、長崎県6件(8人)と続いています。







ほとんどの米兵士が軽い処分で済んでいる



出典
在日米軍の性犯罪、3分の2が収監せず 除隊や降格どまり AP報道 - MSN産経ニュース











2005年から13年前半にかけて在日米軍が性犯罪で処分した米兵の中で、処分の詳細が分かった244人のうち、3分の2近くは収監されず、除隊や降格、罰金などの処分にとどまっていた







性犯罪が軍法会議で審議すらされない事実



出典
在日米軍の性犯罪、3分の2が収監せず 除隊や降格どまり AP報道 - MSN産経ニュース











在日米軍のうち海軍と海兵隊では性犯罪の容疑は473件あったが、このうち軍事法廷で審理されたのは116件にとどまった。











出典
pbs.twimg.com


















真島省三@syouzoumajima

フォローする


元NHKプロデューサーの永田浩三氏(現在、武蔵大学教授) ETV番組「問われる戦時性暴力」(01年)を制作したとき、 「安倍氏は放送総局長を呼び出し、『ただではすまないぞ。勘ぐれ』と言ったそうです。『作り直せ』と言えば具体的な圧力になるから『勘ぐれ』と言ったのです」(永田教授)


返信 リツイート いいね 2013.12.16 18:58







12



参考リンク





【自衛隊自殺者続出】防衛大が今でも旧日本軍だった事実!いじめセクハラが横行 - NAVER まとめ


http://matome.naver.jp/odai/2140747150630173501


防衛大や自衛隊で自殺者が続出しています。そこにあるのは、陰湿な「いじめ」であって、いじめが原因で年間100人もの人が死亡しているという事です。一部の政治家が「徴...










日本の柔道界が暴力セクハラ!クソ過ぎてヤバイ日本柔道【園田隆二暴力問題】【内柴正人強姦レイプ】 - NAVER まとめ


http://matome.naver.jp/odai/2136438764126129901


柔道なんてスポーツじゃなくて格闘技なんだから、暴力とかセクハラとかやるぐらいなら、オリンピック種目からも抹消するべきだね。スポーツなのに人を殴ったり、性暴力した...










インドがレイプ強姦の多発国家になって危険すぎる現状まとめ【強姦大国インド】 - NAVER まとめ


http://matome.naver.jp/odai/2137044024194168001


インドは、貧富の格差が激しいので、お金を持っていない人の社会の不満がレイプという暴力の形になって現れているとも言われています。










沖縄戦(太平洋戦争末期)の写真。ひめゆり学徒隊の悲劇 - NAVER まとめ


http://matome.naver.jp/odai/2141320749270408201


沖縄戦は、太平洋戦争の末期に日本に米軍が上陸して行われた激しい戦闘でした。沖縄の象徴であった首里城は、跡形も無く破壊され、沖縄の県民を含む数十万人が犠牲となりま...







12

| 未分類 | コメント(1)

戸塚ヨット事件 また、わが国の、体罰容認という風潮や、人権感覚の不毛さもからんでいた。登校拒否を否定する価値観と登校させようという圧力や期待が、本人たちをどれほど追いつめ家庭内暴力や神経症、対人恐怖、昼夜逆転などを生んでいくかというような理解もなかった。生まれてきて、学校でしっかりやれるように育てられ、その学校で苦しい目にあい、不登校に至り、あるいは小川くんのように体育が苦手、体を鍛練させなければと、戸塚ヨットに入校させられ死んで家に戻ってくる人生とは何であったのか。ひどく息苦しい問いに、私たちは直面せざるを得ない。











体罰はなぜなくならないのか (幻冬舎新書)
藤井 誠二
幻冬舎
売り上げランキング: 34,861

日本のスポーツ界は暴力を克服できるか
森川 貞夫
かもがわ出版
売り上げランキング: 813,750


http://www.futoko.org/special/special-43/page1205-2087.html

不登校の歴史・戸塚ヨット事件(1)

(11-12-05)


 80年代前半の日本の登校拒否の歴史で、絶対欠かせないのは、戸塚ヨットスクールの存在と、そこで死に追いやられ、あるいは暴行障害を受けた多くの子ども、若者であろう。
 ざっと、戸塚ヨットスクール事件の経過をまず紹介したい。
・1976年11月 戸塚ヨットスクール開設
・1977年12月 登校拒否の子たち対象の合宿訓練開始
・1979年2月 見学祐次くん(13歳)死亡(不起訴)
・1980年11月 吉川さん事件
 当時21歳の吉川幸嗣さん(大阪府枚方市在住・大学受験生)を殴るなどしてヨットスクールに連行。10月31日から11月2日まで激しい暴行を加え4日未明外傷性ショックで死亡させた。(傷害致死罪)
・1982年8月 あかつき号事件
 7月、愛知県春日井市と大阪府箕面市(ともに当時15歳で高校1年生)の2人を、それぞれ自宅から合宿所に連行。2人は8月14日、夏期合宿からの帰途、約1カ月にわたる暴行監禁から逃れようと神戸行きフェリー「あかつき」から高知沖の海上で飛び込み、行方不明になった。(監禁致死罪)
・1982年12月 小川くん事件
 神奈川県藤沢市の中学1年生(当時13歳)を、12月5日から12日にかけて、竹刀などで殴ったり、海中に突き落とすなどの暴行を加え12日深夜、外傷性ショックで死亡させた。(傷害致死罪)
 愛知県警、戸塚ヨットスクール捜査
・1983年5月 暴走族リンチ事件で、コーチ6人逮捕
・1983年6月 小川くん事件で戸塚校長逮捕
・1983年7月 小川くん事件で起訴
・1983年9月 ヨットスクール閉鎖
・1983年10月 吉川さん事件で起訴。 戸塚被告ら初公判
・1983年11月 あかつき号事件で起訴
・1985年2月 小川くん事件で元コーチに有罪判決
・1986年7月 戸塚校長ら保釈
・1986年10月 ヨットスクール再開
・1991年3月 戸塚校長に懲役10年の求刑
・1992年7月 有罪判決(名古屋地裁)

 この一審判決で事実認定されたケースで、上記以外のものを下表にあげてみる。

資料1
※画像クリックで原寸表示

(つづく・奥地圭子)

※2003年2月1日 不登校新聞掲載

http://www.futoko.org/special/special-43/page1212-2095.html

不登校の歴史・戸塚ヨット事件(2)

(11-12-12)


 前号で延べたような事件を引き起こした戸塚ヨットスクールに対し、1992年7月27日、名古屋地裁は、判決を下した。戸塚宏校長には懲役3年執行猶予3年(求刑は懲役10年)、可児・東コーチには懲役2年6カ月、山口・横田・内田コーチには懲役2年、藤浦・加藤・境野コーチには懲役1年半、小杉コーチには10カ月(コーチらにもそれぞれ執行猶予が3年~2年)という内容であった。
 この判決の軽さに、子どもの生命を何と思っているのだ! と私たち市民団体は怒りを覚え、判決の考え方にも問題点を感じ、2カ月後、抗議の緊急集会を開くのだが、それは後に述べることにし、ここでは戸塚ヨットスクールについて事実をもう少し紹介したい。
 まず、戸塚宏とはどんな人物であったのか。  
 判決要旨には「被告人戸塚宏の身上経歴」として次のように出ている。
「被告人戸塚は、名古屋市立菊里高等学校を卒業後、名古屋大学工学部に入学し、同40年3月に同大学を卒業したが、大学時代ヨット部に所属し、大学間対抗競技の小型ヨットのレースに出場したり、ヨット部の主将を務めるなどしており、大学卒業後すぐには就職することなく渡米し、ヨット部の先輩らとともに、大型ヨットのレースに出場した。
 その後、昭和41年8月に、名古屋市内の会社に就職したが、昭和44年ヨットレースに出場のため休職して再び渡米し、大型ヨットのレースに出場して帰国した後の昭和45年に同社を退職した。
 被告人戸塚は、以後、個人でヨットの販売、ヨットスクールを営む一方、国内外のヨットレースに参加し、昭和50年9月に開始された沖縄海洋博覧会記念のサンフランシスコ・沖縄間太平洋横断シングルハンドヨットレースにも参加して優勝した。そして、被告人戸塚は、右レースにおいて同被告人のスポンサーとなったヤマハ発動機株式会社からヨットの提供を受け、昭和51年11月ころ、愛知県知多郡美浜町内の河和海岸などにおいて子供を対象とした「戸塚宏・少年ヨットスクール」を開講した。なお、昭和49年11月26日には、それまで個人で行っていた事業を「株式会社シー・ワイ・シー」の商号で法人組織としたが、昭和56年11月1日には、その商号を「戸塚ヨットスクール株式会社」と変更している。」
 では戸塚は、どのように登校拒否の子どもを訓練することになっていくのか。
「被告人戸塚は、ヨットスクールの普及によってヨット人口が拡大し、日本のヨットの操縦技術の水準が高まると考えたばかりではなく、その訓練過程において一般児童の体力、精神力が強化されると考え、ヨットスクールの運営、指導にあたっていた。
 被告人戸塚が河和海岸において開いたヨットスクールは、当初、小学校3年生以上中学生までの児童を主に対象とし、隔週の日曜日を利用して月2回の訓練を行っていたもので、生徒数は5名くらいのものであった。そして、被告人戸塚が直接経営するものではなかったが、同じ時期にスクール名に「戸塚塾」の名前を使った同様の内容のヨットスクールが、浜名湖など他に5カ所でも開かれ、被告人戸塚は、その巡回指導も行っていた」
 そして沖縄海洋博覧会記念のヨットレースで優勝した戸塚が、児童を対象にヨットスクールを開いていることを伝える記事が1977年6月ごろから新聞に掲載されるようになる。「海のしごきで独立心養成」(読売新聞)、「戸塚艇長、新たな挑戦」、「全国にヨット塾」(中部読売新聞)、「荒っぽくしごかれるチビッ子ヨット教室」(報知新聞)などの見出しのもとに、ヨットの訓練によって子どもの独立心、我慢強さ、集中力が養われるとの内容の記事が報道された。
 さらに、11月ころからは、「情緒障害児ヨット訓練で自立心」「戸塚宏さんが実証」(朝日新聞)「風と戦い、元気が出たよ」、「登校拒否にヨット療法」(朝日新聞、名古屋版)「独立心を養うのに最適」、「現代っ子の欠点を直す」(中部経済新聞)などの見出しのもとに、登校拒否などの問題を抱えた児童がヨットスクールにおいて戸塚の訓練を受け、4カ月でふつうの児童と同じように学校に通うようになったことなどを紹介した。こうしてヨットスクールの訓練がいわゆる「情緒障害児」の立ち直りに効果があるというマスコミ報道は、戸塚にも親たちにも大きな影響を与えていく。(つづく・奥地圭子)

※2003年2月15日 不登校新聞掲載

http://www.futoko.org/special/special-43/page1219-2100.html

不登校の歴史・戸塚ヨット事件(3)

(11-12-19)


 戸塚ヨットスクールというスポーツ施設が、登校拒否の子どもの矯正施設になぜに変わっていったのか。
 戸塚ヨットスクール事件判決要旨から、引き続き紹介する。
 被告人戸塚は、ヨットスクールの訓練が情緒障害児の立ち直りに効果がある旨を伝える記事が掲載された直後より、登校拒否などの問題を抱えた児童の父母から多くの問い合わせを受け、また、ある程度の期間児童の身柄を引き取って訓練し、治してもらいたい旨の要望を聞いたため、これらの児童を対象に、一定期間の合宿訓練を内容とするヨットスクールを開くことを考えた。
 そして、第1回の合宿訓練は、被告人戸塚の知人の会社が持っていた厚生施設を借用し、河和海岸において、昭和52年12月末から翌年の正月にかけての4日間の日程で行われ、参加費用一人4万円を支払って4名の児童が参加した。
 その後、昭和53年2~3月ごろ、10名くらいの児童が参加して、第2回の合宿訓練が5日間の日程で行なわれ、以後、登校拒否などの問題を抱えた児童10名くらいを対象に、ほぼ同様の合宿訓練が月に1回の割合で継続して行なわれた。なお、途中で合宿施設は愛知県知多郡美浜町内の名古屋鉄道河和駅近くにあった、以前に観光船の切符売り場として使用されていた建物となり、昭和54年9月ころからは、愛知県知多郡美浜町大字河和字北屋敷236番地所在の旧河和観光館の建物(以下「北屋敷合宿所」という)となった。合宿期間についても、児童のようすによっては、5日間の期間を延長する場合も出てきていたが、北屋敷合宿所を使うようになってからは、5日間という合宿期間の定めがなくなり、その結果、常に合宿生を抱える状態となっていった(従来から行なわれていた一般児童を対象としたヨットスクールは「一般スクール」または「日曜スクール」と呼ばれ、これに対し、登校拒否などの問題を抱えた児童を対象とした合宿訓練を内容とするヨットスクールは「特別合宿」と呼ばれたので、その生徒は「特別合宿生」ともいう)。
 特別合宿をはじめてまもなくのころから、戸塚は、積極的に、情緒障害が立ち直ったことを広く宣伝しはじめたという。自らのスクールのパンフレットに「登校拒否等の情緒障害児の回復に非常に大きな効果をあげております。特に登校拒否の場合は、5泊5日の合宿とその後の一般児との日曜スクールでほぼ100%の成績をあげております」「この半年間だけでも10名以上の情緒障害児を完治させています」などと記す。費用も漸次引き上げられ、昭和54年には、5泊5日の合宿費用は、入校金とあわせて50万円となった。では、どんな訓練だったのか。
 戸塚は基本方針と実績を自ら以下のように記している(判決要旨より)。
「なるべく冬季に陸上でヨットの乗り方を教える。ヨットのところまで来ないので、引きずったり、ぶったりしてヨットの側に立たせる。ぶたれる痛さに、子どもは不承不承ヨットの側に立つ。それから『よく聞いていろ。一度しか言わない』と言って、ヨットの乗り方、転覆した時の起こし方を教えておいて『わかった』という返事を取っておく。次に転覆しても安全なようにウェットスーツ(半袖・半ズボンで体の4分の3をおおえる)とライフジャケットを着せ、一人でヨット(このヨットは転覆しやすく帆走もテクニックを要する特別設計)に載せ、沖合1~2㎞のところに引っぱっていく。コーチはエンジン付の救助艇で行く。ここで『一人で岸まで帰れ』と言ってうっちゃってくる。コーチ艇は一目散に岸へ帰る。岸では望遠鏡で、子どものようすを見る。『人権じゅうりん』などとわめくが、我々に落ち度はなく、無視する。ヨットはたちまち転覆し、子どもは海に放り出される。10分ぐらいたったところでコーチ艇は側に行き、「早く艇を起こして岸まで走れ」と言って、すぐ岸に帰ってしまう。子どもは、はじめの元気はなく、「助けてください」などと哀願調になっている。また10分くらいしてそばに行き、かなり強く叱りつける。子どもは、強く救助を依頼するが、聞かずに帰ってしまう。悪いのは子どもが説明を聞いて理解しなかったからであり、我々が悪いのではない」(つづく・奥地圭子)

※2003年3月1日 不登校新聞掲載

http://www.futoko.org/special/special-43/page1226-2103.html

不登校の歴史・戸塚ヨット事件(4)

(11-12-26)


 戸塚ヨットスクールは、スポーツ施設から何ゆえに登校拒否の矯正施設となり、はては子どもの生命を何人も奪うまでにいたったか。
 今、第一審判決文から紹介しているが、引き続き、どうヨット訓練がなされたか、戸塚宏本人の文章を引用する。前号では、引きずり、ぶってヨットのそばに立たせ、一度だけ言葉で乗り方を言い、沖合につれていく、そして、一人で岸まで帰れ、とコーチは岸へ戻る、ヨットは転覆しやすくつくってあり、海へ放り出された子どもは助けを求めるが、コーチは10分おきにそばに行って、叱りつけて戻る、ということを二度やるところまで紹介した。なるべく冬がいい、とある。
 「30分目にまたそばまで行く。寒さのために口も十分にまわらないが、ウェットスーツを着ている部分は十分に暖かいということには気がつかない。手足はしびれるように冷たいが、ライフジャケットは浮力が7キログラムあり、溺れて死ぬことは不可能である。子どものそばに行って、いきなりコーチ艇の上に引きずりあげ、テレビの刑事もののように胸倉をつかまえて、『テメェ、オレをなめやがって』という調子で脅す。近ごろの子どもはテレビのドラマばかり見ているので、十分芝居がかった行動をとらないと通らないところがある。これに対し、子どもはなにか言おうとするが、そのひまを与えず、平たいもので子どもの太股、尻などを殴る。大きな音がし、痛いが打撃はたいしたことはない。次に『死んじまえ!』とか、『帰ってくるな!』とかの言葉とともに、もう一度海にほうり込む。これで子どもは完全に潰れて素直になってくる。
 それから次の交渉がはじまる。『なぜやらぬ』『わからないです』『教えたじゃないか』『聞いてませんでした』『誰が悪い』『僕です』
 これで十分である。子どもをコーチ艇に引き上げ、ヨットを引っ張って岸へ帰り、10~20分たき火にあたらせて休ませた後でもう一度教えると子どもは必死となる」
 これだけでも身震いするやり方である。恐怖感をこれでもかというほど味あわせ、人間の抵抗力を抜き去って従順にしていく。ウェットスーツを着ているんだから、死ぬほどの殴打じゃないんだからいいだろうという問題ではない。子どもの人格は操作され、人権は侵され、生きるために残された道はただひとつ、戸塚の指示通りに全力をふりしぼってやるしかないところに追い込むやり方である。それを冷徹に計算して訓練と正当化している。
 特別合宿は、登校拒否の問題を抱えた児童のみならず、家庭内暴力、自殺未遂または自殺願望、無気力、非行などの問題を抱えた児童も対象となっていた。そして当初、小・中学生が参加していた特別合宿が、次第に高校生などを含む、年齢の高い者の参加が増加していった。はじめは父母らが、名古屋駅まで連れて来ていたのをコーチらがマイクロバスに引き取り、合宿施設まで連れて行っていたが、年齢の高い者を親自ら連れていくことができないことから、コーチが直接、自宅まで迎えに行くことが多くなったという。
 この連行の仕方も、本人にとっては恐怖である。奥地が、親の会で聞いた例でも、父母が100万円払って申し込むと、屈強なコーチが2人、車でやってきた。子どもは2階から降りてこない。コーチらは、「お母さん、心配入りません。絶対トイレには降りてくるから、帰ったようにして、静かに待たせてください」と言ったという。子どもは、しばらくしてトイレに降りてきた。トイレから出てきたところを、2人のコーチが両側から腕をわしづかみにし、車まで引きずり、うむを言わせず乗せて、運び去ったという。その母親は、罪悪感に襲われ、かわいそうで胸がつぶれる気もして眠れなく、よかったのかどうか悩んだというが、本人のために心を鬼にしなければ、と自分に言い聞かせた、という。
 そんな連行の仕方では、当然、逃げ出そうとする者も増える。
「逃走を防ぐため、夜間、特別合宿生の寝ている部屋の出入り口付近に交替でコーチなどが見張りに立つことや、逃走した者を捕まえて殴打するなどの体罰を加えることが行なわれるようになった」
と、判決文にある。82年ごろには30~40名の特別合宿生を収容していた。(つづく・奥地圭子)

※2003年3月15日 不登校新聞掲載

http://www.futoko.org/special/special-43/page0102-2106.html

不登校の歴史・戸塚ヨット事件(5)

(12-01-02)


 戸塚ヨットスクールにおいては、特別合宿生からの逃走などを防ぐため、次のようなことをやっていた。
・夜間に見張りをおく
・コーチ専用部屋の押し入れに、逃走のおそれのある者を入れ、ふすまに鍵を取り付ける
・格子戸付きの柵を設置する
 各段の高さは、上段87㎝、中段68㎝、下段70㎝、奥行は125㎝。コーチみずからがつくり、逃走のおそれのある者を就寝時に入れ、南京錠で施錠。多いときは、1段に3~4人入れた。
・階段の中間に人の通行を感知する警報装置取り付け

 1982年ごろは、70~80人の特別合宿生を収容していたという。
 すでに1978年ごろから、戸塚自身が、入校をいやがって暴れる子ども(大人年齢の場合も同じ)の手足を押さえ、無理に自動車に押し込んだうえ、おとなしく従わない子どもには、何度も殴打して鼻血を出させるなど手荒な方法でつれてきていた。車に押し込んだ子が途中で暴れるおそれがある場合は、ロープや手錠を用いて、子どもの体を拘束させることもあった。
 連行してきた子どもはまず、逃走を防ぐため、通常1週間ないし10日間、押し入れに入れられた。
 そして、スクールが今まで生活してきた日常とはちがうところと知らしめ、また、コーチへの反抗を断念させ、服従させるために、理由なく殴打していた。殴打するか否かの基準はなく、コーチの主観で決められ、ヨットの舵棒(卓球のラケットのような形をした木製のもの)で、生徒の尻、太股を数回から十数回殴打することが多かった。
 早朝体操は、新人にとっては、とくに厳しく、こなせる者は皆無であったが、こなせない者に対しては見まわりのコーチが、罵声、拳や棒の殴打、足蹴りなどの体罰を加えた。
 戸塚は、著書『私が直す!』のなかで「ヨットスクールのやり方は、厳しさが基本です。しかもそれは中途半端ではありません。殴ります、蹴ります、あえいでいる子どもの背にあえて乗ることもします。それが私たちの基本方針なのです」と書いている。
 また、ランニング中に突堤上から訓練生を海に突き落としたり、砂浜で訓練生を海に浸けるなどの方法による体罰も行なわれたという。
 これは体罰ではなく、暴行であり傷害であり、犯罪行為だ。街のなかでやれば、すぐ逮捕だろう。それが、教育の名のもとだと、なぜ許されるのか。なぜ親は、こんなむごいやり方のもとへ、わが子を託せるのか。こうまでして治す登校拒否とは何なのか。戸塚ヨットスクールについて紹介していて、次第にムカムカしてきた。
 これでは、逃げるのが当たり前、どんな逃走を防ぐ方法をとっても死にものぐるいで逃げ出すだろう。
「逃走した者があるとコーチがその捜索にあたった。特別合宿生は原則として現金をいっさい持たされておらず、逃走した者も、徒歩で逃げるか、通りがかりの自動車に乗せてもらうなどの限られた方法しかなかったので、逃走に成功する者もいたが、自動車を利用するなどしたコーチに見つけられ、連れ帰られる者も多かった」と判決要旨にある。逃走に失敗したら、猛烈な殴打が待っていた。

 最初の死者は、吉川くんだった。彼は高1の2学期から、頭痛を訴え登校拒否をしたり、早退したりしたが、進路にさしつかえるほどの欠席はなく、1978年高校を卒業した。
 しかし、大学に不合格となり、予備校も続かず、かといって進学をあきらめることもできずにいた。
 吉川くんの親は、何をするにも面倒くさいようすに困っていたが、新聞で戸塚ヨットスクールを知り、問い合わせていた。共通一次申込締切日のころ、吉川くんが暴れ、近所の人の通報でパトカーが駆けつけた。
 親は、入校を戸塚に依頼、80年10月30日、スタッフ2名が自宅まで車で迎えに行った。吉川くんが拒絶し2階に上がってしまったので、トイレに入って出てきたところを殴りつけた。いったんおとなしく行くようすだったが、玄関で「やっぱり行かない」と拒絶し、玄関内で寝転がる状態になり、スタッフ2人と父親で上半身、両足をつかんで、車に押し込んだ。その間、暴れたので、父親も殴っている。こうして10月30日入所した吉川くんが、11月4日には亡骸で戻ってくる。わずか5日で何があったのだろうか。(つづく・奥地圭子)

※2003年4月1日 不登校新聞掲載

http://www.futoko.org/special/special-43/page0109-2109.html

不登校の歴史・戸塚ヨット事件(6)

(12-01-09)


 10月30日に戸塚ヨットスクールに連行されてきた吉川くんは、11月4日には死亡した。それは、いかにして発生したか。
 10月31日、午前6時早朝体操に向かう玄関前で、吉川くんが崩れるように座り込んだため、戸塚らは、ホースで頭の上から全身に水をかけた。動こうとしないので、戸塚の指示で、再度頭から水をかけた。吉川くんは、座り込んで数分後立ち上がり、早朝体操の行なわれる海岸のほうへ歩いていった。
 腕立て伏せのできない吉川くんに対し、スタッフたちで竹の棒で背中や臀部付近を10回くらい殴りつけたり、手で腹や体をこもごも殴りつけ、大腿部を足蹴りした。さらに、階段のところで動かなくなった吉川くんを、戸塚が命じて、もう1人のスタッフと2人で吉川くんの手首をつかみ、海のなかへ体を投げ入れ、その後、海岸で、吉川くんの頭を手で殴りつけた。午前中、健康診断のため平病院に行くが、戻って車から降りようとしないため、平手で顔面を殴りつけられ、3人のスタッフによって引きずり降ろされた。
 昼食をとろうとしないで寝転がっていたが合宿生が宿舎へ帰るときになっても動こうとしないので、胸や腹を足蹴りし、ホースの水を全身にあびせた。さらにスタッフ2人が、吉川くんのからだを引きずるようにして、車まで運び、頭と足が上下逆さ向きになる状態のまま押し込んで、合宿所まで戻った。
 同日午後、海上訓練に出発しようとせず、引きずりながら海岸まで連れて行かれた。波打ち際に倒れこんだのをみて、戸塚は立つよう命じ、立たないので、顔を海水につけた。
 その後、モーターボートに乗せられ、ヨットの操縦に必要な行動が取れず、海中に投げ出され、引き上げられたが、その間、顔面を平手で何回も殴りつけられ、ひしゃくで海水を頭からぶっかけられたりしている。海上訓練が終わったとき、海岸に横たわっている吉川くんを取り囲んで「情けない男だ」と言つつ足蹴りにした。吉川くんは、海岸から合宿所までひとりで歩くことができず、ほかの訓練生に抱えられながら合宿所へ戻り、夕食後も横になっていたという。それをまた「ほかの訓練生の邪魔」といって足蹴りにされた。
 たった1日で筆舌につくしがたい暴行の数々を受けたことにる。
 11月1日の早朝体操も、午前中の穴掘り作業も、似たような感じで何度も殴りつけている。
 午後の訓練での暴行もすさまじい。叱りつけながら、海水に突き落とし、モーターボートで近づいたスタッフが、バケツで海水をかけたりヘルメットを叩いたりしたが、その後吉川くんのからだ目がけて、スタッフが足から飛びこむようにして、吉川くんのからだを沈めることを何回もくり返した。また、吉川くんをモーターボートに引き上げた際、彼の背中を、マストの先の金具で殴りつけた。その日も、吉川くんは夕食もとらず横になっていた。夕食後、入浴のため角屋旅館へ行くときも、ほかの訓練生に抱えられても膝をつくようすに、往き帰りとも平手で殴りつけている。
 11月2日、午後は合宿所で終日寝る状態で深夜「水をくれ」と叫び、吐いたり、尿をもらすなどもあった。
 11月3日も食事をとらず、終日寝ていたがほかの者が話しかけても、意識が朦ろうとしているようすだった。
 この日の午後11時ごろ、吉川くんの脈拍が、確認できないくらいになっていることを知って慌てたコーチらが、平病院まで車で運んだが、同日4日午前0時ごろ、平病院へ行く途中で死亡した。
 これが80年に起きた、世に言う吉川事件だが、82年8月には、15歳の2人の高校1年生が暴行から逃れようと海に飛びこんで行方不明になった「あかつき号事件」、同年12月には、13歳の小川真人くん死亡事件を起こしている。(つづく・奥地圭子)

※2003年4月15日 不登校新聞掲載

http://www.futoko.org/special/special-43/page0116-2113.html

不登校の歴史・戸塚ヨット事件(7)

(12-01-16)


 戸塚ヨットスクールに関係して死んでしまった若者たちの話は、どれも身震いを覚えずにはいられない。
 今回紹介する「あかつき号事件」は、奄美大島の合宿の帰途、乗船していた「あかつき号」から、2人の少年が海に飛び込み、死んだ事件のことである。2人の少年とは、水谷真くん(愛知県在住)と杉浦秀一くん(大阪府在住)で、どちらも15歳だった。
 水谷真くんは1982年4月に高校に入学するが、寮がいやで再三抜け出したり戻ったりしている。6月には、まったく登校しなくなり「山の中で生活したい」などと言い、自宅に戻った。水谷くんが所持していた2万円を父親が注意して取りあげたところ、バットを振りまわして暴れたので、父親は縛って車に乗せ、精神科に連れて行き入院を希望したが、水谷くんが拒否した。医者は精神病と神経症の中間にあるという意味の「境界例」と診断した。
 水谷くんの両親は、テレビにより知った戸塚ヨットスクールへの入校を希望、「登校拒否・家庭内暴力・無気力」が治るのを願って、早く入校させてほしいと何回かの電話と手紙まで書き、7月10日、新人迎えとなった。
 一方、杉浦秀一くんは中学時代、いじめや暴行を受け、登校はしていたが、うっぷん晴らしに弟をいじめることも多かった。
 杉浦くんは、関西大倉高校に進学したが、中学時代のいじめの噂にがまんしながら登校するため、家に帰ってからは当たり散らすので、親は精神神経科に相談した。当時の杉浦くんの状態は、「焦燥感が非常に強く、周りの人に対する不信感が強い、精神的に不安定で、睡眠も障害されていた」ということで、病名は、「心因反応(家庭内暴力)」と診断された。
 両親は、新聞報道で知った戸塚ヨットスクールに入れることを考えるようになり、一日も早い入校を希望する手紙を書いた。申込書には「家庭内暴力、無気力、思春期挫折症候群」に該当し「即刻入校希望・在宅に危険を感ず」などと記載されていた。そして、7月24日、戸塚の指示を受け、コーチ1人と生徒2人が、車で新人迎えのため家に向かった。 
 戸塚ヨットスクールに行くことを拒否する水谷くんに対し、2人のコーチは顔面や腹部を殴りつけ、腕をつかんで車に乗せ、愛知県の戸塚ヨットスクールへ連行、男子訓練生の部屋に設置された格子戸付き押入に水谷くんを入れ、鍵をかけた。
 7月11日から21日まで、そこで訓練を受けるが、訓練、作業などがない日中や夜間には、格子戸付きの押入内に水谷くんを入れて鍵をかけ、早朝体操、作業、海上訓練、入浴などで水谷くんが外に出るときには、コーチや番外生が監視役となった。夜間には、階段に設置してある人の通行を感知する警報機を作動させたり、交代制で見張りを置くなど水谷くんを含む特別合宿生が逃走しないよう監視を続けた。
 杉浦くんも、戸塚ヨットスクールへ行くことを拒否した。付近の机の脚や出入口の枠などにしがみついて抵抗する杉浦くんに対して、コーチはその顔面を2~3回殴りつけ、迎えの番外生に腕などをつかませ家の外に連れだし、停めてあった車に乗せ、両脇に番外生を見張り役として置き、車を発進させた。まもなく車内で両手首に手錠をかけさせ、翌日午前3時ごろ、愛知県の戸塚ヨットスクールに連行、手錠は外したが、男子訓練生の部屋に設置された格子付き押入に杉浦くんを入れ鍵をかけた。
 そこで7月25日から27日まで生活させるが、夜間は格子付きの押入に杉浦くんを入れ、日中は逃走しないよう監視していた。
 こうして2人は、ほかの特別合宿生らとともに、夏期合宿が行なわれる奄美大島へ向かわされることになる。
 合宿所までは日時をずらして、1~3陣のかたちで連行、水谷くんは第2陣として7月21日出発、神戸まではマイクロバスに乗せられ、休憩の際は、番外生に見張り役をさせて逃走しないよう監視、神戸港での乗船待ちのあいだは、事務所外の階段付近の一画に特別合宿生らをまとめて座らせた。便所に行くときには見張り役をつけ、乗船後は自由航行をさせず、夜間は見張りを置いた。
 杉浦くんは第3陣に入れられ、フェリー内でひそかに母親に電話をかけたので叱りつけられ、水谷くんと同様監視されつつ、奄美大島についた。(つづく・奥地圭子)

※2003年5月1日 不登校新聞掲載

http://www.futoko.org/special/special-43/page0123-2116.html

不登校の歴史・戸塚ヨット事件(8)

(12-01-23)


 前号に続き、あかつき号事件について記述したい。本人の意志に反し、無理やり戸塚ヨットスクールに連行され、格子戸付きの押し入れに入れられ、訓練や作業では殴られどおしという扱いの後、奄美大島の夏期合宿施設まで監視されながら、連行されたところまでは前号で紹介した。
 合宿では、水谷くん、杉浦くんを含む特別合宿生には金銭を所持させず、外部の者との手紙や電話での通信を禁止し、日中の行動の際には、訓練生9人程度を1つのグループとした10のグループに班分けして、番外生に班長をさせ監視させ、夜間には逃走しないよう1時間交代の見張りをおいた。
 水谷くんは奄美大島に到着後、合宿施設から逃走を図ったが、逃げられないと思い、その日の夕方過ぎには自分で近くまで戻った。そのことで、顔面を平手で、身体を棒で何回も何回も殴られた。杉浦くんもいっしょに逃走の計画をたてたとして、棒で多数回殴られた。
 夜間、逃走の恐れありと考えられた水谷くんと杉浦くんは、同様の恐れありと考えられた4名くらいの者といっしょにして、それぞれの手首を手錠とロープで数珠つなぎに縛りつけられ、柱に固定された。こういう処置は、到着した8月1日から、奄美大島を離れる8月13日まで続いた。
 あかつき号乗船までも、監禁、監視状態が続いた。乗船後2人は、神戸港へ向けて進行中の8月14日未明、高知県沖の太平洋上に、あかつき号船上から海に飛び込み、そのころ死亡したとされている。
 起訴状は「合宿所に戻った後も行動の自由が拘束され、体罰を加えられて早朝体操や海上訓練などを強制される生活が続くことを嫌い、あかつき号の船上から救命浮き輪などをつけて海に飛び込むことにより、被告人らによる拘束から逃れようと考え、飛び込んだ」と述べている。たしかに、戸塚ヨットスクールに戻っても、何の希望も持てないではないか。2人はこうするしかなかったのだ。
 乗船してからの2人の行動でわかっていることは、次のようである。
 あかつき号に60数名乗り込んだ戸塚ヨットスクールのグループは、一等客室のます席に一団となって席を占めたが、ます席が混雑していたため、スタッフの指示で、水谷くん、杉浦くんは、ます席と壁のあいだの通路部分に席を定めた。
 よく14日午前7時前、コーチが朝食前に点呼をとったところ、2人の姿が見えないため、船内を関係者や船員がくまなく捜した。捜索は神戸港到着後も海上保安官なども加え行われたが、発見されなかった。
 2人の所在がわからなくなる前の言動や行動を調べたところによると、13日、乗船待ちをしていた午前9時ごろ、夜間、手錠やロープで数珠つなぎにされていたSくんに、2人は「船から飛び降りて逃げよう」「向こうに行ったら殺されるわ」などと飛び込みの意思を示した。乗船後も、2人は、C甲板の便所(大便用個室)の中に密かにSくんを誘い入れ、「飛び込むで」「お前もいかんか」などと述べて、船から飛び込む強い意思を示した。Sくんは、逃走の企てに参加しない旨告げた後も、決意を変えるようすはなく、水谷くんは、便所の奥のほうにある非常用梯子を昇って、先のようすを見てくるなどして、「ドアがあって、そこから出られるみたいだぞ」と杉浦くんに伝えていたという。
 その後、消灯前ごろにも便所の大便用個室から2人で出てきたところを訓練生のYくんに目撃され、コーチに告げないよう頼んだり、午前0時過ぎに、ほかの訓練生に出会い、そのときの時刻を聞いたりしている。
 その乗客らは、男の子らを目撃してからしばらくして、船尾の方で何か海面に向けて落ちたものがあることに気づき、海面を見たら、海面に浮かんだまま船尾後方に遠ざかっていく黒いものを目撃したという。
 そのときのあかつき号航路上の海域は、黒潮本流の中心にあたり、流速や方向からみても、どんどん太平洋上を南下するしかなく、陸地に漂着する可能性はほとんどない、と考えられた。2人は失踪後10年たっても発見されていない。
 何という悲惨な、短い生命だったことか。(つづく・奥地圭子)

※2003年5月15日 不登校新聞掲載

http://www.futoko.org/special/special-43/page0130-2120.html

不登校の歴史・戸塚ヨット事件(9)

(12-01-30)


 戸塚ヨットスクールの傷害致死事件で、もう一つ「小川事件」について紹介したい。
 小川真人くんは、「登校拒否、家庭内暴力、非行、ノイローゼ」などではなく、両親が強い精神力と丈夫な身体を持つ子どもとなることを期待して、戸塚ヨットスクールに入校させた子どもだった、と戸塚側も認識している。母親は、1982年1月ごろ、子どもを戸塚ヨットスクールに入れていた知人から、単行本となった「スパルタの海」を借りて読み、ヨットの操縦や苦手な水泳が上達し、体力にも自信がつくのではないかと考えるようになり、夫にも本を読むよう勧めたという。二人は乗り気になり、知人を介して入校希望を伝えてもらい、「明日からでも受けいれる」との回答を得た。
 父母は、非行、登校拒否などの問題を抱えた訓練生に殴打、足蹴りなどの合宿訓練を行っていることは、「スパルタの海」で知っていたが、「自ら身体を鍛えるために入校した子どもに対しては、それほどのことはしないだろう」と思っていたらしい。
 小川くん本人に両親が意向をたしかめたところ「明日から一人で入校する」との返事であったので、この年12月4日、午後9時ごろ、戸塚ヨットスクールの合宿所に両親が送った。
 翌12月5日午前6時、小川くんは、特別合宿生として、ほかの訓練生とともに早朝体操に参加。早朝体操は、海岸の突堤上で7時ごろまで毎日行なわれたが、サンダルで背中を殴りつけられたり、背中を突き飛ばされ、突堤上から1・5メートル下の海水に突き落とされたりした。また、顔面を手挙で数回殴りつけられ、腹部を数回足蹴りされた。
 新人や早朝体操をこなせない訓練生たちは、夜の自主トレーニングまでやらされた。午後8時ごろから30分か1時間やらされたが、初日から、コーチより腹部を足蹴りされ、腕、おしりなどを竹刀で数回殴られた。
 このような暴行、海上訓練、さらに寒冷のなか身体をさらされるなどが続き、1週間経つうちに疲労、衰弱し、12月9日ごろからは食事もほとんどとらなくなっていた。
 12月12日の早朝体操時、腕立て伏せができないため這うようにうずくまった小川くんを見て、コーチはその襟首をつかみ、突堤から海水中に突き落としたうえ、「頭まで浸かれ」などと怒鳴りつけて身体を海水中に浸からせた。さらに突堤上で、小川くんを何回も足蹴りした。
 戸塚宏は、腹筋運動の際、小川くんの胸ぐらをつかんで正座させ、「こいつは拒否反応が強い」などと言いながら、小川くんの鼻の近くの顔面を手のひらで数回突くように殴りつけた。その後、二人のコーチが、こもごも多数回、小川くんを殴りつけたり、足蹴りしたりした。
 このあと小川くんは、一人で合宿所まで歩くことができず、両脇から抱えられ、やっと戻り、合宿所でも毛布にくるまったままの状態で寝かされた。午後は、小川くんが自ら出てこなかったため、指示を受けた訓練生が部屋から連れ出してきた。ウエットスーツがはだけており、コーチは、小川くんの身体を殴打し、海水中に押し倒したうえ、背中を何回も踏みつけ、海水に浸けた。
 午後の海上訓練では、ヨットの操縦訓練をすることなく船室の中に入れられていたが、乗り降りにも一人では動くこともできず、ほかの訓練生らに抱えられて移動し、青白い顔をして、うわごとのように小さな声を出していた。
 コーチは、小川くんが自力で動けないのを見て、襟首をつかんでその額付近をコンクリート突堤側面に2~3回打ちつけた。その後、砂浜に運ばれ、うつ伏せのまま倒れていたが、近くでたき火にあたっていた戸塚宏やコーチらは、「しっかりしろよ」と木切れを投げつけ、一人のコーチは上半身を抱え上げ、上半身をたき火のそばに近づけたりした。小川くんが顔を背けて「許して下さい」と言っても聞き入れず2~3回火に近づけたあと、今度は波打ち際まで抱えたまま運び海水に浸け、足蹴りし、「犬みたいに鳴け」などと罵倒した。
 この日午後4時半ごろ、合宿所に戻りシャワー室で温水シャワーを浴びせられた小川くんはうめき声も出さず、体が硬直した状態となり異常を知ったコーチらが病院に運んだが、午後11時半ごろ、死亡した。入校して8日には変わり果てた姿になってしまったのである。(つづく・奥地圭子)

※2003年6月1日

http://www.futoko.org/special/special-43/page0130-2124.html

不登校の歴史・戸塚ヨット事件(10)

(12-01-30)


 ここのところ、戸塚ヨットスクール事件と言われるもののうち、いくつかの致死事件をとりあげてきた。起訴された事件の一覧は、本紙115号に掲載してあるので、紹介したケースを参考に類推してほしい。わが国の登校拒否、不登校の歴史は悲惨史であり、非史でもあったことを忘れてはならない。その陰に、登校拒否は、問題の子がひき起こすものであり、何としてでも治すもの、という偏見やとらえ方のまちがいがあった。また、わが国の、体罰容認という風潮や、人権感覚の不毛さもからんでいた。登校拒否を否定する価値観と登校させようという圧力や期待が、本人たちをどれほど追いつめ家庭内暴力や神経症、対人恐怖、昼夜逆転などを生んでいくかというような理解もなかった。生まれてきて、学校でしっかりやれるように育てられ、その学校で苦しい目にあい、不登校に至り、あるいは小川くんのように体育が苦手、体を鍛練させなければと、戸塚ヨットに入校させられ死んで家に戻ってくる人生とは何であったのか。ひどく息苦しい問いに、私たちは直面せざるを得ない。
 今まで紹介した中味は、実は1992年の戸塚ヨットスクール判決が出て、はじめてくわしく事実が世間にわかったわけで、実際の事件は、79年~82年に生じている。その都度、マスコミは断片的に報道しているが、全貌がわかるには、10年以上の月日を要したのである。死亡事件以後も、ずっと職員による暴行は続き、83年5月にやっと警察の捜査の手が入った。そのときの住民の声が新聞に載っている。「スクールは住民に不安とか暗いイメージを与えている」「家で寝ていても訓練生が殴られるにぶい音、悲鳴が聞こえてくるのですから。やっと警察が手を入れてくれましたか、という気持ちですね」(毎日・1983・5・26)
 ところが、戸塚宏は言う。「生きた人間を扱うんやから、まちがって死ぬこともある」「最初に殴る、ける。あれは脅し効果がある。子どもを進歩させなきゃいかんから。子どもを殴ったらいかん、心に傷がつくという。だけど傷ついた心、見たことあるんか。魂とか精神とか訳のわからんことで感心してしまうのがいかん」(1983・6・4講演で。朝日83・6・14付)
 こんな人に親は、大切な子どもをあずけたのである。

 この1983年に、新しい動きが市民運動として起ったことを105号に述べた。『登校拒否・学校に行かないで生きる』を出版。治すのでなく受けとめる発想は大きな反響をよんだ。国府台病院内にあった「希望会」と夜間中学の協力により、渡辺位、八杉晴美、松崎運之助、奥地らが柱になった初の登校拒否についての市民集会に400名の人が集った。また、この秋「登校拒否を考える会」発足準備をすすめた。そして、1984年1月に8人で準備会をもち、活動をはじめ、月1回の月例交流会を持つことを決め、2月には渡辺位講演会を、3月に第1回例会を市川市で開いた。
 「登校拒否を考える会」の活動は、日本の登校拒否の歴史が新しい時代に入ったことを示すものであった。
 これまでみてきたように、市民側のこのような動きは、登校拒否をめぐって、文部省の1983年版手引書、精神科入院、戸塚ヨットスクール等々、問題行動として治す発想ばかりのなかで、学校に行かない子どもを理解し受けとめ、子どもの側に立って、個々のあり方を尊重しようという新しい提起だった。
 それまで、医者、学者、行政などが登校拒否の子どもやその家族への指導者だったが、家族自身が自ら考え、体験、意見を交換し、支えあい、情報交流し、世の中や行政にも必要なことをもの申していく、というこれまでにない自立的な活動であった。専門家に依存していた自分たちの姿勢を問うものであったし、つらかった親たちが会に出会って涙も流したが、非常に明るい表情になっていくのだった。次号から、会の活動を紹介する。(つづく・奥地圭子)

※2003年6月15日 不登校新聞掲載

| 未分類 | コメント(0)

トランプがTPP(悪魔の碾き臼新自由主義)に大反対なのはマスコミも報じているが、もう一方の世界的な詐欺である地球温暖化のパリ協定にも断固反対なのですが、この事実は何故かマスコミは大きく報じたくないようです。アプリオリを疑うというか、常識を一から見直すトランプですが、チェンジのオバマの20000倍は期待できます。インチキくさい人為的CO2温暖化説を唱えているのは気象学者だけで、科学的根拠が薄すぎて他の科学者は大いに疑っている。地球物理学者は大反対なのですが、この事実をマスコミは報じていない。そもそも現在は氷河期の真っ最中であり、今は比較的暖かい間氷期なので温暖化自体は当然でもあり歓迎するべきなのです。1万5千年前の氷河期の最盛期には海面が百数十メートルも下がり日本列島の大部分が大陸と地続きになっている。逆に4000年ほど前の縄文時代は今よりも遥かに温暖で海面が4~5メートルも高くて関東平野などの今ある洪積平野は海の底だったが、その後寒冷化で人口が数十分の1にまで激減している。45億年の地球の長い歴史では何度も全球凍結で生命のほとんどが死に絶えているのですが、科学的根拠がない人為的CO2温暖化説はあまりのもお粗末である。(この程度の簡単な偽装に全員が騙されるなど普通なら有り得ない異常事態である。何故一度立ち止まって考えることが出来ないのだろうか。実に不思議な現象である)地球の歴史では大気中の炭酸ガスは一貫して減り続けているので、植物から見ればもっと温暖で炭酸ガスの多い環境が待ち望まれている。すべての生命のみなもとである植物にとっては今の地球は唯一の食べ物である炭酸ガスが少なくて寒すぎる厳しい環境なのである。
































http://blog.goo.ne.jp/syokunin-2008/e/d27d1bdeddecd3f033a7a059dd8b7710


祝!「絶対命題アプリオリを疑う」ドナルド・トランプ米大統領の誕生

2016年11月11日 | 政治




『今まで「正しい常識」とされていたものを、一から考え直すトランプの知性と勇気』

『疑いなきもの(アプリオリ)を疑うことが、近代科学の出発点だった』
アプリオリの語源はラテン語の a prioriで『先天的な』『より先のものから』の意味で、アリストテレスやプラトンなどギリシャ哲学では『論証の土台となるすでに正しいと決定されている絶対的命題』(原理)をアプリオリと定義した。
近代哲学の祖ともいうべきカントの認識論でもアプリオリは認識・概念など議論する全てのものの土台となる『論理的に先立つもの』であり、すでに正しい事が証明されている『絶対的な命題』(原理)とされている。
哲学的な思考方法では『論理的に先立つ』、正しいとされている『絶対的な命題』を土台として、演繹的にすべての物事が証明される訳です。
絶対命題アプリオリは、『我思う、ゆえに我あり』のデカルトなどとも共通しているし、『始めに言葉ありき』の旧約聖書の考え方とも共通する哲学論議の王道であるが、残念ながら普遍的な真理を客観的に求める科学(唯物論)とは相反する宗教的な観念論であろう。
『疑いないことを疑う』懐疑精神から科学が生まれ、議論する事さえ恐れ多い絶対命題『アプリオリ』を認める態度から宗教が生まれてきたのです。

『近代科学と一神教精神の分離と葛藤』

『近代科学』は西欧一神教的世界観から出発しているのですが『宗教』というアプリオリ(議論以前の既に正しい絶対命題)を疑う姿勢から科学が分離し行く。
この事は何やら600~700万年前の人類の直立二足歩行をはじめて類人猿との分離が起こったような話です。
二足歩行が類人猿と人類の分岐点であったように、『疑いないことを疑う』とは科学と宗教の分岐点で、『全ての物は疑いうる』というような科学的な懐疑心のないものは何時でも先祖の『宗教』モドキに変質していきます。
ふつうの自然科学にも絶対命題アプリオリとしての『原則』はある。しかしその出発点は『論理的に先立つ、すでに正しい事が証明されている絶対的な命題』ではない。
科学のアプリオリとは哲学とは180度逆で、元々は一般的に個々の事物の検証作業の積み重ねから帰納法的に導き出された推論(仮説)だったものなのです。沢山の『論』や『仮説』のうちで、演繹的に正しさが証明されたものだけが『原理』(アプリオリ)と呼ばれ現在まで残っているのです。
議論も検証も無しの、『最初から決まっている絶対命題』的な発想は科学には存在しない。
600万年前に分離したチンパンジーやボノボと人類のDNAの相違点は数パーセントの少なさなのです。DNAレベルなら98%は共通なのです。
それなら、近代科学と宗教が完全に分離したのは僅か150年前なのですから、やっぱり両者には共通のDNAを持っているので、すこしでも油断すると、何時でも宗教的なアプリオリが復活する危険があるでしょう。

『祝、トランプ当選 』2016/11/11(金) 大槻義彦の叫び、カラ騒ぎ  科学に限らず何でも叫ぶぞ

このブログですでに書いたように、欧米日本の『常識』とされた『既得権益支配層』から総スカンを食らっていた『異端児』トランプが米大統領に当選した。前のブログ以来私はトランプ支持であった。その意味で今回の選挙結果は『してやったり』である。
 私の身近な人、私に気を使ってくださる人はあれ以来私の『非常識』を擁護してくれた。『大槻のトランプ支持は彼独特の皮肉であり、ジョークまがい』と。つまり『大槻はもっと真っ当だ』と。
 そのような大槻擁護を否定して『私は本気でトランプ支持』と言えばかどが立つので笑ってごまかしてきた。実際には私は本気でトランプ支持だった。何がそんなにトランプがいいのか。
 実際にはトランプのことは良く知らない。肝心の政策だってほとんど何も発表されていない。つまり彼は政策などほとんどないのだ。政策がないのが良い。政策がなければただ本能のままにしか行動出来ない。本能とは自分中心、アメリカ中心。
 だから属国、日本、韓国、メキシコ、カナダなどどうでも良い。勝手にしろ。ありがとう、トランプさん、これで日本も韓国も勝手にします。つまり戦後一貫してアメリカの属国、準州として支配されて来た日韓は自由になれるのです!トランプ万歳!何よりも沖縄から米軍基地が無くなること(その可能性が少しでもあれば)それは本当にうれしいことです。
 外交も日本独自でやれますね。隣国ロシアとの友好条約もできるでしょう。安部総理とプーチンとの会談もいちいちアメリカに許しを乞うことも必要なくなります。中東イスラム諸国との外交も日本独自でやれるようになるでしょう。
 だからトランプ万歳!

『反グローバリズムがトランプ新大統領を誕生させた 』2016年11月10日 (木)植草一秀の『知られざる真実』

TPP本会議中継せずしょうがと紙飛行機放映NHK
米国大統領選でのトランプ候補勝利に、メディアが動揺、狼狽を示した。
クリントン候補を支持し、トランプ候補を非難しまくっていた識者は、トランプ選出の現実を目の当たりにして、弁解、変節、言い逃れに終始している。
今回の大統領選で特筆されることは、米国の国民がメディアの誘導に流されなかったことである。
メディアは徹底してトランプ潰しを実行した。
いかなる手段を用いてでもトランプを落選させるという、卑劣で不正な行動を展開した。
この情勢のなかで、米国の主権者はトランプを新大統領に選出した。
日本で類似した情報操作が行われたなら、主権者の多数が、その情報操作に流されてしまっただろう。(抜粋)

『露骨に選挙に介入したが失敗したマスメディアの憂鬱』

植草一秀の『知られざる真実』が指摘するように、今回のアメリカ大統領選挙ほど、なりふり構わず露骨にマスメディアが傍若無人に介入した選挙は珍しい。
『メディアは徹底してトランプ潰しを実行した。いかなる手段を用いてでもトランプを落選させるという、卑劣で不正な行動を展開した。』に尽きるのである。
しかも失敗している。
本来なら有り得ない出来事が、いま目の前で起きているのですから驚く。今の世の中が確実に変わろうとしているのです。



『政治家でも軍人でもない新しい米大統領ドナルド・トランプ』

日本の自衛隊の新しいエンブレムは禍々しい歴史的イメージの抜身の日本刀だったので大騒ぎになったが、実は一番の最重要な『問題』は目立つ日本刀ではなく、さりげなく小さな文字で入っている創設年号であろう。
この年号は自衛隊創設記念日では無い。朝鮮戦争で日本を占領していたアメリカ軍4個師団7万人が朝鮮半島に出撃した時に日本を占領するGHQの指令で創られた同人数の日本人傭兵National Police Reserve7万人の創設記念日だった。(創立年から明確に分かることは、自衛隊を作った生みの親の正体は日本ではなくて米軍である)
アメリカ陸軍(United States Army)のエンブレムの日付(創設年)とは、なんとアメリカ建国の前の年なのです。(このことから明確に分かることは。米国を作ったのはU.S. Armyである)
ヒラリー・クリントンが何度も指摘したことですが、アメリカ大統領選挙とは世界最大で最強のアメリカ軍最高司令官を選ぶ選挙でもあった。
多くの日本人が誤解しているがアメリカ合衆国の場合には主権を持った『州』の方が先にあり『国』は後から出来上がった歴史的経緯があり、アメリカ大統領には多くの場合、州政府首相(州知事)が成るのは当然だったのである。(ISを『イスラム国』と訳しているのならステーツの訳は州では無く『国』である)
アメリカでは軍隊でも同じで『国家』が出来上がる前に『国軍』が存在していたので、第二次世界大戦の欧州軍司令官から大統領になったアイゼンハワーとか、職業軍人(米軍制服組トップである統合参謀本部議長1989年~1993年)から政権ナンバー2の国務長官になったパウエルのような例が生まれるのです。(米国と似ているのが参謀総長など生粋の軍人が首相になるイスラエル)
今回の新しい米大統領に選ばれたドナルド・トランプの場合、既存の『政治家では無い』ことよりも、『軍人でない』(軍産複合体と無関係な)ことがもっとも大事な変化なのです。まさにアメリカにとっても世界にとっても革命的な画期的出来事である。

『仮想敵国が無い「軍事同盟」は、そもそも存在することが出来ない!』

75年前の日独伊三国同盟の例を出すまでも無く、軍事同盟でもっとも肝心なのは価値観の一致ではない。
もしもアーリア人の優越を主張するヒトラーのナチスドイツと、ヤマト民族の優越を主張する八紘一宇の日本がWWⅡで勝っていれば、必然的に日独両国何れかの優劣をつける世界最終戦争が勃発していたことになる。
ドイツと日本ですが似ているようで、実は価値観が正面衝突しているのですから、一時的な共闘は出来ても共存共栄は絶対に有り得ず、必然的に日独どちらかが滅ぶまで戦うしかない。同じことが今の極右国粋主義(安倍晋三)にも当てはまり、日米同盟は共通の敵(ソ連)が存在している間は何の問題もないが、冷戦崩壊で矛盾が噴出する。(歴史修正主義の『悪くない日本』ですが、論理的に『正しいアメリカ』と正面衝突する)
実は経済的な利害の一致でもなくて、軍事同盟とは先ず『同一の仮想敵国』を決めることから始まっている。
共通の仮想敵国が無い『軍事同盟』は、世界中でそもそも存在出来ないのである。(弱小北朝鮮では役不足で、仕方なく無理矢来ロシアとか中国とかを仮想敵国にして急場をしのいでいるが、あの正体不明のISISも同じ意味でアメリカ軍やNATOによって創設されたのでしょう)

『隣国を「仮想敵国」に指名する愚劣さ』

政治とか外交の目的は『仮想敵国』を作ることではなくて、逆に今まで仮想敵国だった国を友好国に変えることである。
既存の政治家でも軍人でもない新しい米大統領ドナルド・トランプの誕生の意味とは、冷戦崩壊から25年目で、やっとマトモな政治が行える環境が生まれたということでしょう。
マスコミですが、つまらない枝葉末節の言葉の揚げ足取りに終始していたが、トランプこそが本物の知性ですよ。
NATOとか日米安保とかの軍事同盟ですが、一つの例外も無く、これは同一の仮想敵国を想定して結ぶものである。それなら仮想敵国だったソ連が消滅した時に役目が終わっていた。不要なワルシャワ条約機構と同時にNATOも日米安保も解体するのが筋なのです。
ところが冷戦崩壊でワルシャワ条約機構は無くなったが、役目を終えたはずのNATOは逆に焼け肥り状態になっている。
冷戦崩壊後の数々の意味不明の紛争の多くはNATOによる失業対策事業だったので、逆に世界の安全は冷戦時代より悪化する。
世界の平和のためには、すでに役目を終えた危ないNATOや日米安保の早期解体以外の道は無いでしょう。
選挙戦中にトランプが指摘したように、本当に『核の傘』がどうしても欲しいなら、北朝鮮のように自前で用意するのが当然なのです。ただし、自前の核は金を食うばかりか、世界中から非難される(世界の世論を敵に回す)ので安全保障では大失敗になる。

『仮想敵国無きインチキ軍事同盟だけではなく、科学的根拠がない人為的CO2温暖化説も疑うトランプ新大統領』

トランプがTPP(悪魔の碾き臼新自由主義)に大反対なのはマスコミも報じているが、もう一方の世界的な詐欺である地球温暖化のパリ協定にも断固反対なのですが、この事実は何故かマスコミは大きく報じたくないようです。
アプリオリを疑うというか、常識を一から見直すトランプですが、チェンジのオバマの20000倍は期待できます。
インチキくさい人為的CO2温暖化説を唱えているのは気象学者だけで、科学的根拠が薄すぎて他の科学者は大いに疑っている。地球物理学者は大反対なのですが、この事実をマスコミは報じていない。
そもそも現在は氷河期の真っ最中であり、今は比較的暖かい間氷期なので温暖化自体は当然でもあり歓迎するべきなのです。1万5千年前の氷河期の最盛期には海面が百数十メートルも下がり日本列島の大部分が大陸と地続きになっている。逆に4000年ほど前の縄文時代は今よりも遥かに温暖で海面が4~5メートルも高くて関東平野などの今ある洪積平野は海の底だったが、その後寒冷化で人口が数十分の1にまで激減している。
45億年の地球の長い歴史では何度も全球凍結で生命のほとんどが死に絶えているのですが、科学的根拠がない人為的CO2温暖化説はあまりのもお粗末である。(この程度の簡単な偽装に全員が騙されるなど普通なら有り得ない異常事態である。何故一度立ち止まって考えることが出来ないのだろうか。実に不思議な現象である)
地球の歴史では大気中の炭酸ガスは一貫して減り続けているので、植物から見ればもっと温暖で炭酸ガスの多い環境が待ち望まれている。
すべての生命のみなもとである植物にとっては今の地球は唯一の食べ物である炭酸ガスが少なくて寒すぎる厳しい環境なのである。



『政治』 ジャンルのランキング

http://blog.goo.ne.jp/syokunin-2008/e/f7624c2cbafefd01fd57b2516de44e2f


トランプ・ショック

2016年11月15日 | 政治




『美人すぎると話題 トランプ長女が「駐日大使」の仰天情報』2016年11月12日 日刊ゲンダイDIGITAL

ネット上で「美人過ぎる」と騒がれているトランプの長女イバンカ(35)が、駐日大使に就任すると海外メディアに報じられ、話題になっている。もし、本当に大使に就いたら日本中が大騒ぎになるのは確実だ。
イバンカは、世界屈指の名門であるペンシルベニア大学で経済を学び、04年に最上級の成績で卒業。モデルや女優業をこなす他、トランプが経営する会社の副代表も務めるキャリアウーマン。自身の名を冠したファッションブランドまで手掛けている。09年に不動産投資家で新聞社オーナーのジャレッド・クシュナーと結婚し、3人の子を持つ母親だ。
「愛想がよく、演説での話しぶりもよどみがない。交渉事が多い大使にはうってつけとの見方もあります。『駐日大使就任』については、韓国メディアが報じました」(在米ジャーナリスト)
選挙中から頻繁に応援に入り、トランプの演説の前座を務め、政策立案について助言もしていた。

トランプも、イバンカについて「娘は不動産についても政治についてもすばらしい勘の持ち主だ」とべた褒めしている。かねて「家族以外は信用しない」と公言してもいるトランプ。
イバンカが駐日大使に就任する可能性はあるのか。国際ジャーナリストで早大客員教授の春名幹男氏はこう言う。
「同盟国である日本の大使は、難解な職務を行うわけではありません。ですから、地味で実務能力の高い人物よりも、有名な人物が就任するケースが多い。その方が日本側にも受けがいいのです。現職のキャロライン・ケネディ氏がいい例でしょう。イバンカ氏も『トランプの娘』として名が通っていますから、可能性はゼロではありません」

とはいえ、米国では大統領の身内を公職に就けることは“タブー”に近いようだ。
「米国では、大統領の身内を閣僚に就けてはいけないと法律で規定されています。大使については法的に問題はありませんが、もともと身内を公職に就けることを忌避する文化が根付いています。イバンカ氏を大使に就任させようとしても、議会で反対意見が続出し、承認を得られない事態もあり得ます」(春名幹男氏)
すでにネットでは「トランプはイヤだけど娘は好き」「実物を見てみたい」などと歓迎する声が上がっている。
11月12日 日刊ゲンダイ

『元大統領令嬢のキャロライン・ケネディ駐日大使の次の最適な人事は現職大統領令嬢のイバンカ・トランプ?』

米国で無くとも政権トップの大統領の『身内を公職に就けることは“タブー”に近い』のは政治のイロハというか常識中の常識だが、そもそも、その常識を一から見直す(タブーに挑戦する)のがトランプ流である。
トランプ新大統領の政権移行チームのトップにはペンス副大統領を据えたが重要メンバーにはトランプの長男や次男だけではなく長女のイバンカが含まれている。
そもそも今回のアメリカ大統領選挙での一番の功労者とは、誰あろう美人過ぎるトランプの娘のイバンカである。
オバマが自分の大統領選での貢献度で政治的経験がゼロの弁護士ジョン・ルース(2009年8月16日~2013年8月12日) やお子様言葉の元大統領令嬢のキャロライン・ケネディ(2013年11月12日~)を日本大使に選んでいるが誰からも文句が出ていない。
ですから、次の駐日大使が現職大統領令嬢のイバンカである可能性は大いにある。
アメリカ大統領としては異例の70歳の高齢新大統領ですが、自分の後継者として誰か身内の一人を考えているとしたら最適な人物とはイバンカである。
そしてイバンカが時期大統領候補として公職(政治経験)の最初としては、誰がやっても失敗する心配がない経済大国日本のアメリカ大使の要職はピッタリで、政治的なキャリアつくりとしてこれ以上最適なものはない。(政治家の格としては下院議員<上院議員<日本大使の順番で上になる)

『米国 広がる大麻合法化 専用温室や植物工場も』11/13(日)日本農業新聞

米国で大麻(マリフアナ)の合法化が進んでいる。大統領選と同じ8日、大麻の利用解禁を問う住民投票が各地で行われ、カリフォルニア、ネバダ、マサチューセッツの3州が、嗜好(しこう)品としての使用を合法化することを決めた。これで西海岸全ての州で合法化されることになり、大麻解禁の波が止まらないようだ。
嗜好品 医療用 園芸地帯で栽培機運
大統領に過激なトランプ氏を選ぶだけではなく、大麻も合法化――。日本人には理解しがたいことが、米国では住民が大真面目で解禁に賛否を論じ、投票で決めている。米メディアによると今回の合法化決定で、嗜好用、医療用併せて全米人口の20%が「大麻合法」の地域に住むことになるという。
大手の調査会社ギャラップ社が10月に実施したアンケートによると、全米の合法化支持率は60%に上り、過去最高を記録した。18~34歳の若年層に限れば、77%の高い割合で大麻の合法化を支持していた。一般人の大麻所持や栽培、授受を法律に禁じている日本と違って、大麻が既に「日常生活」に浸透している事情がありそうだ。
合法化の決定を受けて10日には、早くもカリフォルニア州で、「最新鋭の技術を使った大麻栽培専用温室の発売」をPRする企業の記者発表があった。既に同社には注文が入り始めているという。既存の園芸地帯でも大麻栽培が始まる可能性がある。
一足先に合法化したワシントン州にある2000平方メートルの2階建て倉庫を改造した認可植物工場では、最新技術を駆使し、発光ダイオード(LED)を使い、4000鉢の大麻を減農薬で栽培していた。
狙いは犯罪組織撲滅?
米国内で供給される大麻の多くはメキシコなどからの違法な輸入物で、犯罪組織の収入源になっていた。各州で進む合法化の狙いの一つには、「解禁と同時に栽培から小売りまでをコントロールすることで組織犯罪に打撃を与える」(ワシントン州の大麻担当者)ことが挙げられている。
それだけに合法化に併せて地元での大麻栽培が振興され、今後、米国各地で露地や施設栽培が進むものとみられている。
米国の法律では州ごとに大麻が合法かどうかを判断するが、連邦政府は大麻が違法という姿勢を崩していない。国有地や国立公園などで大麻を利用すると、連邦保安官に逮捕される恐れがあるという。
米国で合法化が広がっている理由の一つには「大麻は、たばこよりも健康被害は小さい」という主張がある。だが、異論もある。大麻を吸いながらの運転をどう防ぐかなどの議論も残っている。
(特別編集委員・山田優). 日本農業新聞

『薬物大国アメリカの光と闇』

日本では銃社会アメリカでの銃による死亡が大問題だと報道されているが、実は薬物による死亡者数の方が遥かに多い。銃よりも薬物の方がはるかに危ないのである。
そして麻薬や大麻の大部分は北のカナダ側ではなくて南のメキシコ側の国境を越えて違法に入ってくる。阿片戦争に負けた中国の惨状は自国の国境線の管理が出来なくなったことが原因だった。
今回の大統領選挙でトランプの過激発言で、マスコミや識者が一番悪いと、全員非難したメキシコとの壁の建設ですが、冷静に判断すればトランプの方が正しいのです。
我が日本国は大陸とは200キロも海で隔てられていて国境管理には何の問題も無い。
ところが、アメリカは地続きで歩いて勝手に国境を突破する人が大勢いる。結果的に真面目な移民や季節労働者だけではなくて犯罪者や麻薬が大量に流入するのは当然である。
今の日本では少ない外国人観光客の異文化摩擦でも大騒ぎしているのですから、もしも日本でアメリカと同じことが起きれば有権者の全員がトランプに投票するでしょう。
違法移民対策ですが、トランプが選挙期間中に言っていたのは『犯罪歴のある不法移民(違法な入国者)の強制送還』ですよ。
日本の場合なら留学ビザや観光ビザなどで合法的に日本に来たが在留期限が切れた後も日本に止まっている、真面目な労働者も全員見つけ次第、問答無用で強制送還しているのですから、トランプの方が日本当局の外国人管理よりも20000倍は常識的であり人道的である。

『大人の8人の1人が薬物中毒。子供の4人に1人が「クスリ漬け」薬物大国アメリカの恐怖』

ウォール・ストリート・ジャーナル(WSJ)紙によると、アメリカの25%の子供と10代若者が処方箋薬を常時服用し、7%がぜんそく、ADHD、うつ、高血圧、精神病、不眠、糖尿病など2つ以上の処方箋薬を服用しているが、子供への長期的な副作用について全く知られていない。
薬物で『手っ取り早く』症状をなくすアメリカでは、慢性的な『クスリ』の病気に犯されている。
4人に1人の子供が処方箋薬を常時服用しているアメリカでは、元気すぎて学校で騒いでADHD(多動性発達障害)と診断される子供は10人に1人。ADHDの治療では覚せい剤と同じアドレナリン神経作動薬が使われるが、日本でもADHD治療薬で子供達の重大な副作用が報告されている。
逆におとなしい子供はうつ病と診断され『抗うつ薬』が処方されるが、その結果は凄まじく現在は全米人口の8人に1人が常時『抗うつ薬』を服用し、クスリが切れた途端にゾンビ状態になる。
これ等のクスリを処方された人々は、自分の意思では最早クスリから離れられないので製薬会社の儲けは天井知らずに膨らんでいく。
アメリカの個人破産の原因とは、何と『医療費』なのですから、その凄まじさは想像を絶する。
今のアメリカを救う唯一の処方箋とは公的医療保険の創設なのですが、圧力団体として軍産複合体のNRA以上に強力な、製薬会社や損害保険会社の圧倒的な情報宣伝力が阻んでいる。

『圧力団体として全米ライフル協会(NRA)以上に強力な製薬会社や損害保険会社』

トヨタのアメリカ人女性役員の禁止薬物密輸で一躍有名になったアヘンの麻薬成分を合成した『オキシコドン』は、麻薬のモルヒネの何倍もの強力な鎮痛作用があり、プリンスやマイケル・ジャクソンの死亡原因だといわれている。
オキシコドンの過剰摂取によりアメリカでは銃撃による死亡よりも多い年間16000人以上が死んでいるし、世界中のオキシコドンの消費の8割がアメリカ一国で使われている。
今のアメリカですが、もはや『オキシコドン戦争』状態であるが、何故か日本ではその実体が報道されることは無い。
銃規制に反対する圧力団体としての全米ライフル協会の話は日本でも詳しく語られているが、銃以上の死亡者が出ている医療用麻薬による薬物被害に関してマスコミが沈黙している理由はNRA以上に強力な製薬会社や損害保険会社、医療産業の圧力が考えられる。
日本も医療の高度化で医療費が年々拡大しGNPの1割に達しているが、先進国として世界に例を見ない公的医療保険制度が存在しないアメリカの場合は、自由競争の医療費は無限大に拡大してGNPの2割にも達してアメリカ経済を圧迫する。
アメリカ経済の崩壊を目前にして、公的医療保険創設を公約して当選したオバマ大統領だが草の根宗教右派の頑強な抵抗により目玉だったオバマケアは骨抜きにされる。

『ニクソン・ショックの再来?トランプ・ショックが起きる予感』

10年以上続いていた『終わらない勝てないベトナム戦争』を終わらした功労者がニクソン大統領だった。この功績により大統領補佐官だったキッシンジャーがノーベル平和賞を受賞している。(ベトナム側のレ・ドク・トはノーベル平和賞の受賞を拒否)
ところが、対テロ戦争はアメリカの歴史上例を見ない15年も延々と続いている。しかも世界最強最大のアメリカ軍が勝て無い事実が誰の眼にも明らかである。
今回のトランプ新大統領ですがニクソンのように『勝てないし終わらない』、延々と続く悪い戦争を終わらせる可能性があるのです。8年前の『チェンジ』のスローガンのバラク・オバマですが、戦争を終わらせると有権者に思わせたが失敗している。(あるいはオバマは悪賢い詐欺師て有権者を甘言で騙していた)
ベトナム戦争より長い15年続く対テロ戦争のインチキく臭さにアメリカ国民の厭戦気分は高まっているのですから、トランプ大統領は本気で『戦争を止める』と決断をするかも知れません。まさにトランプ・ショックである。
ニクソンは突然中国を訪問(台湾と断交)して世界中を驚かしたが、ソ連ともデタント(緊張緩和)を推し進めて軍縮路線に舵を大きく切っている。

『我が世の春だった「アベノミクス」(安倍晋三)の終焉』

半世紀前のニクソン大統領ですが、政治や外交、軍事だけではなく、経済でもそれまでの金本位制の停止を発表する。(ニクソン・ショック)
それまでの1ドル360円の固定相場から変動制に移行した日本の円は一挙に二倍に大暴騰、最終的には100円台になっているが、今回の大統領選挙でトランプが主張していたのがTPPや中国や日本の為替管理への不満である。
具体的には中国元や日本円が『安すぎる』と口を極めて非難していたのですから、日銀による規制緩和(輪転機をぐるぐる回して円を大増刷)のアベノミクスの円安政策を槍玉に挙げている。
ところが安倍晋三首相はトランプ大統領当選の報を聞いてから、TPP法案を国会で強行採決するマヌケぶり。70円台だった日本円がアベノミクスで一時は倍近くも高騰したが、今は100円台なっているが、それでもトランプは『不当な為替管理による円安だ』と言っているのですから、『元の黙阿弥』でトランプ・ショックが起きると70円台の円高も十分に考えられる。そもそもアベノミクス以前の円とドルとの為替は70円台だったのである。
今回のトランプ大統領の誕生で一番影響があるのは日本のアベノミクスであることは疑いない。ところが、なぜかマスコミでこの明確な事実に言及する有識者が一人もいない不思議。
超劇薬である副作用が大きすぎる危ないアベノミクスを日本では誰も止められない。ところが、とうとう3年が経過した段階でアメリカのトランプがやっと止めてくれるでしょう。
嬉々としTPPに深入りする安倍政権ですが、これは諫早湾の埋め立てとか辺野古の基地移設と同じで、一旦決まったら状況が大きく変化しても変更がきかない。
日本政府内には政治的な損得の判断が出来る人材が一人もいなくて、すでに決まっていることを守ることが使命の優秀な官僚だけがいるということでしょう。
71年前には5月にドイツが連合国軍に降伏したのに、世界で唯一日本だけが降伏することを拒否して、地獄の沖縄戦や戦艦大和の特攻、ヒロシマ・ナガサキの悲劇やソ連軍参戦と、意味なくダラダラとボロ負けの戦争を継続したのに似ています。
ドイツ降伏から玉音放送までの3ヵ月間で都市のほとんどがアメリカ軍によって焼野原になり、日本の産業基盤が根本的に破壊されていたのですから、もしも日本がドイツ降伏時点で戦争を止めていれば奇跡の復興はもっと早かったし簡単だったのである。
(当初のポツダム宣言には天皇制の維持『国体の護持』が含まれていて日本の無条件降伏の可能性が高かったが、トルーマン政権はこの文言を抜くことで戦争の継続を密かに図ったという)

孫崎 享 ‏@magosaki_ukeru · 11月11日

トランプ,ロシアとシリアでの協力、クリミア併合の容認示唆。ロシア外務副大臣、選挙期間中、トランプ陣営との接触認める。トランプ、プーチン評価。彼はモスクワでの不動産事業展開で長年にわたりロシア側政治家、実業家と密接な接触
孫崎 享 ‏@magosaki_ukeru · 11月12日
トランプは安全保障政策、特に対ロシア政策でネオコンと対立する。この時、ネオコンはトランプに何をするか。NYTでDavid Brooksは「この男は多分一年内に辞任するか弾劾されるであろう」



『ニクソンとトランプの類似性(歴史的な役回り)、半世紀間で大きく違っているアメリカの現状』

政治的な役回り(歴史的な使命)がドナルド・トランプに一番似ているのは、胡散臭いウオーターゲート事件で弾劾されて失脚した半世紀前のニクソン大統領ですが、当時のアメリカはベトナム戦争で社会全体が大きく傷付いていたが、それでも今とは大違いで世界に冠たる飛び抜けた超大国だった。
現在のアメリカですが1970年代のアメリカとは大違い実態経済が極限まで弱体化し、詐欺に近い金融資本主義(マネーゲーム)でなんとか生き延びていた。ところ、リーマンショックでそれも限界にきてデフォルト寸前に追い込まれているのですからトランプ弾劾(あるいはケネディのような暗殺)では到底アメリカ自体が持たないでしょう。たぶん(成功するかどうかは不明だが)トランプの行うだろう過激なショック療法が最後の命綱なのです。
バラク・オバマ大統領は不法移民に対して大統領令で『市民権を与える』と、先ず飴を目の前に出したが議会の反対で頓挫している。
ところが、対照的にトランプのほうは不法移民問題では犯罪歴のある300万人を強制送還すると『まず鞭をふるって』から、それ以外の1000万人以上の不法移民に対しては『非常に良い人たち』とよんで市民権を与えることを示唆した。
オバマは中東問題でもIS(テロリスト)対策と同時にシリアの独裁政権(アサド)打倒を掲げる八方美人的などっちつかずの曖昧路線だが、トランプの方ははっきりとIS打倒でシリア政府やロシア(プーチン)との連携を掲げていて政策が極めて明確である。敵(目標)を曖昧にしたオバマは失敗したが、敵(価値観の優先順位)を明確に断定するトランプなら成功する可能性は高い。

『近代国家としては例外的な「善悪」を優先する政教一致の神聖国家(アメリカ合衆国)での異端の大統領』

アメリカ合衆国の価値観の優先順位を、それまでの『善悪』から『正誤』に変えたのが半世紀前のニクソン大統領だとしたら、トランプ新大統領は実業家らしく誰にでも分かりやすい『損得』に変換するでしょう。
人類にとっても社会にとっても個人にとっても例外なく、永久不変の確実な『物差し』だと善良な多くの人々に思われている『善悪』ですが、これは個人や個人の集合体である社会の(自分では普遍的であると主張する)宗教や哲学で変化する極めて曖昧な主観的な概念である。
善悪を決めるものは、大概は宗教が密接に関わっているので決して普遍的ではないばかりか『物差し』としては大いに偏向している。(個人が使うには便利だが、社会が使うと大いに揉める原因になる)
対して科学的で客観的な『正誤』ならば科学的検証が可能なので、『普遍的な優先順位』(社会的な物差し)として使ってもよい、唯一の存在なのである。
ところが、科学的『正誤』では多くの人々が求める『善悪』に対しては決して答えない。(科学的正誤と善悪は必ずしも一致しているとは限らない。そもそも科学的真理と善悪は基本的に無関係だった)
しかも客観的『正誤』の場合には、もっとも問題なのは社会や経済のような大きな対象では結果が出るまでに長い長い時間(検証作業の繰り返し)が必要で、その間『正しい答え』が出ない重大な欠陥がある。(しばしば明確で愚かしい『間違い』が繰り返される悲劇が生まれる)
正誤や善悪とは大違いで、これがトランプのような単純明快で下世話な『損得』勘定なら、短時間で簡単に『正しい答え』が得られる長所があり、しかも『紛れ』が極めて少ない(間違わない)のである。

| 未分類 | コメント(0)

柔術プリースト 257

Jiu Jitsu Priest #257

| 未分類 | コメント(0)

性差別激しい19世紀末から20世紀初頭にかけて柔術を身につけて闘った女たちがいた! 偉大なフェミニストにして偉大な柔術家Edith Garrud



変換 ~ Suffragette-that-knew-jiujitsu

変換 ~ Womens-jiujitsu
garrud-suffragettewolf.jpg

Jujutsu-1906-4.jpg
Jujutsu-1906-9.jpg

















http://d.hatena.ne.jp/saebou/20130216/p1

19世紀~20世紀初頭の英国、女性柔術家が参政権のために立ち上がった!エメリン・ゴドフリィ『ヴィクトリア朝文学と社会における女性性、犯罪と自衛:刀扇子から女性参政権運動家まで』CommentsAdd Startorly

ジェンダー, 歴史, 英文学, 書評 | 19世紀~20世紀初頭の英国、女性柔術家が参政権のために立ち上がった!エメリン・ゴドフリィ『ヴィクトリア朝文学と社会における女性性、犯罪と自衛:刀扇子から女性参政権運動家まで』を含むブックマーク 19世紀~20世紀初頭の英国、女性柔術家が参政権のために立ち上がった!エメリン・ゴドフリィ『ヴィクトリア朝文学と社会における女性性、犯罪と自衛:刀扇子から女性参政権運動家まで』のブックマークコメント



 19世紀~20世紀はじめの英国の女性の自衛に関する研究書、Emelyne Godfrey, Femininity, Crime and Self-Defence in Victorian Literature and Society: From Dagger-Fans to Suffragettes, Palgrave Macmillan, 2012(エメリン・ゴドフリィ『ヴィクトリア朝文学と社会における女性性、犯罪と自衛:刀扇子から女性参政権運動家まで』)を読んだ。



 著者の前著はMasculinity, Crime and Self-Defence in Victorian Literature: Duelling with Dangerでその女性版ってことらしいのだが、この男性の自衛についての本は読んでない。女性版は主に1850年から1914年頃までの英文学(新聞・雑誌を含む)を主なテキストとし、ヴィクトリア朝(+エドワーディアン)の女性の一人歩き、スポーツ、護身術などがどう描かれていたかを分析するというもの。小説としてはアン・ブロンテとか、H・G・ウェルズの『アン・ヴェロニカの冒険』みたいに日本でも若干なじみのあるものからエリザベス・ロビンズのThe Convertとか、シャーロック・ホームズの女版みたいな初期ミステリみたいに英国人でもほとんど知らないであろうものまで広くカバーしている。

 この本で一番面白いのは、サフラジェット(女性参政権運動家)で英国初の本格的な女性柔術教師として他の女性たちに柔術を教えたり、ボディガードをつとめていた武道家、イーディス・ガラッドの話である。最近、日本女子柔道で発生した指導暴力事件について、告発した選手をバックアップした山口香選手が注目をあびているが、既に世紀転換期ロンドンにも女性の権利を守り正しいことをするために頭を使って頑張っていた女性柔術家がいたのである。以前写真をのっけたが、イーディス・ガラッドについてはイズリントンにブルー・プラークがたったりしてこの人は最近けっこう注目されている。

f:id:saebou:20120930130628j:image

 ゴドフリィによると、イーディスが教師として働き始めたエドワーディアン時代には女性向けの護身術というのは既にけっこうよく知られているものだったそうだが、女性の武道家が自分で先生になって東洋武術なんかを教えるというのは非常に珍しいことであったらしい。ガラッドは夫も武道家だったそうで、最初はシャーロック・ホームズも習ったという噂のバートン流柔術(ホームズのほうではバリツになってるのだがこれはバートンのバーティッツという術がモデルという話)を教えてたエドワード・ウィリアム・バートン=ライト(護身術を習いたい女性の弟子をかなりとっていた)についたあと、日本出身の上西貞一に柔術を習った(上西もかなり女性の弟子をとっていたらしい)。上西が日本に帰ったあと、イーディスの夫ウィリアムが道場をひきついだので、イーディスはそこで女性や子供向けのクラスを担当するようになったそうだ。

 女性参政権運動家はいろいろな嫌がらせにあうことがあり、警察に胸をつかみあげられるなどの暴力を受けたこともあったので(p. 78)、護身術はかなり役立つ技術だったらしい。我々のイメージだと世紀転換期の女性が武道なんてやるのか?!と思ってしまうのだが、なんでもヴィクトリア朝末期からエドワーディアン時代あたりになると柔術は女性にふさわしい運動と見なされるようになっていたそうで、柔術クラスは世間の風当たりが厳しい女性参政権運動の運動家たちにとっては格好の隠れ蓑になっていたらしい。柔術クラスやります、という名目にしておけば、道場に抗議運動で使うものを隠しておいたり、相談場所として道場を使っていて万一警察のガサ入れがあった場合でも、「ご婦人方が柔術をやっているだけですので、殿方はご遠慮いただきたいの」みたいな言い訳で誤魔化すことができる(pp.101-02)。

 こういう警察を欺くテクニックからもわかるようにどうもイーディス・ガラッドというのは単なるストイックな武道家でも理想主義的な政治運動家でもなく、相当に商売や政治の才がある女性で、うまいこと警察を出し抜きながら参政権運動をする一方、自分の柔術教室を売り込むということを非常に精力的にやっていて、自分のパブリックイメージにすごい注意を払ってたらしい。フェミニスト的な女性たちを弟子として取り込む一方、女性が武術を身に着けることを恐れる男たちをうまいことなだめる話術も持っていたので(「私たちが本気でぶちのめすのはならず者だけですわ!あなた方紳士はご安心なさってよろしいのよ」的な)、かなりメディアからも注目されており、初期のサイレント映画に登場するなど非常に英国ではよく知られていた。とくに晩年は英雄的なフェミニスト、カッコいい女子武道のパイオニア、みたいな感じで持ち上げられてたそうで(サフラジェットでも最近まで再評価されなかった人がかなりいることを考えるとこれは珍しい例なのかも)、やっぱり女ドラゴンは英国でも人気あるのか…とか思ってしまう。

 と、いうことで、柔術関係のところはかなり史料を掘り出しよく分析していて面白いのだが、タイトルに出てくるもう一つのポイント、ダガーファン(刀扇子)については説明が少なく、そもそもどうやって使うのかすら私はあまりよくわからなかったので、物足りなかった。ダガーファンとファンダガーは違う、という話が出て来たりするのだが、このあたりは扇についても武器についても服飾史についても知識ない人にわかるような書き方はされてないと思う。そのへんがちょっと残念。

追記:このエントリはもともとタイトルを「19世紀」としてたのですが、エドワーディアンの時代まで、つまり世紀転換期から1910年代までを扱っていて、もともとのタイトルがあまりよくなかったので、ちょっと変更しました。

http://webcache.googleusercontent.com/search?q=cache:FtK2kxMivtEJ:waseda-sport.jp/paper/1306/1306.pdf+&cd=2&hl=ja&ct=clnk&gl=jp


http://waseda-sport.jp/paper/1306/1306.pdfのHTMLバージョンです。
Googleではファイルを自動的にHTMLに変換して保存しています。


Page 1

スポーツ科学研究, 10, 183-197, 2013 年

183

女もすなる Jiu-jitsu:

二十世紀初頭のイギリスにおける女性参政権運動と柔術

English Women Do Jiu-jitsu

The Women's Suffrage Movement and its Jiu-jitsu Practices

in the Early Twentieth Century England

岡田 桂

関東学院大学文学部比較文化学科

Kei OKADA

Kanto Gakuin University, Faculty of Letters, Department of Cultural Studies

キーワード: イギリス、女性参政権運動、柔術、身体文化、文化伝播

Key words: suffragette, jiu-jitsu, physical culture, cultural diffusion

抄 録

本稿では、二十世紀初頭のイギリスにおいて、女性参政権運動家たちによって実戦の手段として柔

術が学ばれ、その運動の後期にはリーダーを警察権力から守るため女性による柔術ボディガード団が結

成されたという事例を考察する。イギリスでは十九世紀末から柔術がブームといえるほどの急激な広がり

をみせたが、本論ではまず、女性による実践に先立つイギリス社会への柔術の浸透を先行研究に基づ

いて説明する。続いて、如何にして女性参政権運動と柔術が結びついていくことになったか、さらには当

時のイギリス社会で女性による柔術実践というものがどのように表象され、認識されていったのかを、新聞

や雑誌メディアの資料に基づいて検討する。そして、当時の世界において新興国であった日本の柔術と

いう文化が、近代という時代の中心に位置した当時のイギリスに伝わり、その意味を変容させながら定着

したという文化伝播の事例として位置づけ、文化が経済・社会的諸力から離れて一定の自律性を持つと

いう文化ヘゲモニー論の説明可能性の一つとして提示する。

スポーツ科学研究, 10, 183-197, 2013 年, 受付日:2013 年 2 月 28 日, 受理日:2013 年 9 月 25 日

連絡先: 岡田桂 関東学院大学文学部比較文化学科 〒236-8502 横浜市金沢区釜利谷南 3-22-1

E-mail: kokada@kanto-gakuin.ac.jp

I. はじめに

1. 問題設定

柔術は日本の伝統的な武術である。また、その

有力な一派である柔道はオリンピックの公式種目

にも採用され、現在では国際的に受容された日

本文化のひとつとなっている。しかし、その柔術や

柔道が欧米をはじめとして海外へ伝播し始めた

のは十九世紀末葉からであり、その拡散の歴史

は一般に考えられているよりもはるかに長い。本

稿ではそうした歴史の中でも、二十世紀初頭のイ

ギリス人女性参政権運動家たちが、女性の政治

参加を巡って激しい闘いを繰り広げる過程で組

織的に柔術を実践し、女性による柔術ボディガー

ド団を結成したという興味深い事例を考察する。



Page 2

スポーツ科学研究, 10, 183-197, 2013 年

184

考察にあたっては、まず、女性による柔術実践

に先だって起こったイギリスにおける柔術ブーム

について先行研究を参照しながら概略し、二十

世紀初頭のイギリス社会における柔術の意味と

位置を明らかにする。次いで、ブームによってイギ

リスに浸透し始めた柔術を女性が実践してゆくこ

とになる経緯を、さらには、それが高まりを見せる

女性参政権運動という政治的文脈の中で如何に

機能し、また如何なるイメージを喚起したかを論

述する。こうした考察を通じて、イギリスにおいて

柔術が担った価値観のジェンダー差、階級差が

明らかになると共に、柔術という日本文化が、そ

の意味や価値観をずらしながら他地域に受容さ

れたという文化転移の事例としての側面も浮かび

上がることになる。

2. 先行研究の検討

これまで、十九世紀末から二十世紀初頭のイ

ギリスにおける柔術の受容に関しては幾つかの研

究が存在する。当時のイギリスにおける身体文化

(physical culture



=身体鍛錬、フィットネスやボ

ディビルの元祖)との関係から柔術の流行を歴

史・社会的に読み解いたものとして、岡田(2005、

2010)が、また主に身体文化そのものを論じる上

で柔術に言及したものとしてマイケル・アントンバ

ッド(1997)が挙げられる。また、文学表象におけ

る柔術に着目し、同じく身体文化との関連から考

察した研究として、木下(2003)が存在する。しか

しながら、管見の限り当時のイギリス人女性による

柔術実践、および女性参政権運動との繋がりに

ついて包括的に考察した研究は存在していない



。 従って、本稿ではこれまでの先行研究を踏ま

えた上で、女性による柔術の受容というジェンダ

ー的側面と、さらには参政権運動と武術実践の

結びつきという社会的側面に関して、新たな知見

を提供することになる。また、各先行研究の内容

に関しては、本論中で適宜参照してゆく。

II. イギリスにおける柔術の到来

1. “バーティツ(Bartitsu)”としての紹介

ショートとハシモトによる著書『Beginning Jiu

Jitsu Ryoi-Shinto Style』の記述によれば、イギリ

スにおいてはじめて柔術が紹介された記録は、

1892 年 4 月 29 日のジャパン・ソサエティ第一回

会合であったという。この際、当時の日本銀行ロ

ンドン支店主事であり、自らも楊心流柔術の使い

手であったタカシマ・シダチ(Takashima Shidachi)

という人物によって、柔術・柔道の歴史と発展に

関する図解を用いた講演が行われた(Shortt and

Hashimoto 1979:p.44)。しかし、これは限らた聴

衆を対象にした会合であり、この時点では、柔術

はいまだイギリス社会において認識される段階に

はなかった。“Jiu-Jitsu”が一般的なイギリス人に

認知されるきっかけとなるのは、1899 年、エドワー

ド・ウィリアム・バートンライト(E. W. Barton-Wright)

による日本人柔術家の招聘と、自らが考案したと

主張する護身術“バーティツ(Bartitsu)”の記事

が『ピアソンズ・マガジン(Pearson's Magazine)』

(1899 年 3 月号)に掲載されて以降のことである。

技師として日本に滞在した経験のあるバートン

ライトは、短期間ではあるが柔術の指南を受け、

帰国後、他の様々な格闘技の要素と折衷した総

合的な護身術であるバーティツを考案し、ロンドン

に道場を開いた。バートン(Barton)によるジュー

ジュツ(Jiu-Jitsu)を表す造語がバーティツという

訳である。バートンライト以降のイギリスにおける柔

術受容に関しては、既に先行研究(岡田 2005、

2010)において詳述されているが、同内容に沿っ

て概括すると以下のようになる。

バートンによる新奇な護身術は、当時の人気

雑誌『ピアソンズ・マガジン』に数回にわたって掲

載されたこともあって、それなりに一般の人々の耳

目を集めはしたが、彼自身、柔術に関しては人に

指南するほどの技量ではないことを自覚していた

ため、日本から専門の柔術家を招き寄せることに



Page 3

スポーツ科学研究, 10, 183-197, 2013 年

185

した。この時、イギリスにやってきたタニ・ユキオ

(谷幸雄)と、後に合流したウエニシ・サダカズ(上

西貞一・通称 Raku)が、その後のイギリスにおける

柔術の認知に多大な貢献を果たすこととなる。レ

ッスン料が高額であったことなど、種々の理由によ

ってバーティツ道場が短期間で閉鎖された後、タ

ニとウエニシはイギリス人マネージャーと共にイギ

リス各地を精力的に巡業し、未知の文化であった

柔術を自らのデモンストレーションによって徐々に

イギリス社会に浸透させていった。

2. 柔術のイギリス巡業と認知の高まり

タニとウエニシによる巡業が始まった当初、ほと

んど知名度のない柔術の公演に観客を集めるた

め、彼らは各地域において一種の芸人でもある

怪力男(strong man)やレスラー、ボクサーを対戦

相手として募り、高額の賞金を賭して無差別の試

合を行うという方法をとった。当時、タニは身長一

五〇センチ、体重六〇キロ足らずであり、体躯で

大幅に優るイギリス人の猛者たちにとって、この条

件は非常に有利に映ったようである。しかしながら、

相手の力を利用して自らを利する柔術の技によ

って、こうした対戦は日本人柔術家の完勝記録を

積み上げてゆくこととなった。ノーブルの記述によ

れば、タニはある六ヶ月にわたる興業ツアー中、

一週間に平均二〇人、全体の合計で五〇〇人

以上の挑戦者を倒したという。さらにウエニシに関

しては、当時の身体文化雑誌の記述を引用して

以下のように述べている。

雑誌『ヘルス・アンド・ストレングス・マガジン(Health and

Strength Magazine)』には、こうした様子が、「私は幸運

にも、これらの対戦の多くを目撃する機会に恵まれ、尚

かつ、彼(ウエニシ)が 15 分の時間内に 6 人の敵を全て

倒すのに失敗した事は一度たりともなかった。実際に私

は、彼が各々の闘いの間にある必須の待ち時間を含め

て、5 人を 10 分間で片づけるのを目撃した事がある」と

描写されている(Noble 1996:p.23)。

もちろん、柔術は当初から好意的に受け入れ

られた訳ではない。事実、巡業の初期には、筋骨

逞しいイギリス人の大男を小柄な東洋人がやす

やすと投げ飛ばす様を見て、観客たちは一種の

やらせか、あるいはどたばたコメディと見なしたと

いう。しかし、こうした誤解にも屈せず地道にイギリ

ス全土を巡ってゆく過程で、一般のイギリス人の

間に柔術というものが広く認知されてゆくことにな

り、その到来からわずか数年のうちに、一種のブ

ームを引き起こすまでに受け入れられてゆくことと

なった。

この頃になると、柔術は、コナン・ドイルによるシ

ャーロック・ホームズ・シリーズの一作『空き家の冒

険』(1903 年)やバーナード・ショウの戯曲『バー

バラ少佐』(1905 年)にも登場し、「東洋の未知な

る秘技」といった存在から、一般の人々にもイメー

ジすることが可能な格闘技としての理解が進んで

いく。また、こうした文学作品におけるイメージとし

ての利用のみではなく、時を同じくして隆盛しつ

つあった、ユージン・サンドウ主宰の『身体文化』

や、『ヘルス・アンド・ストレングス』といったフィット

ネス雑誌の元祖ともいえるメディアにおいても頻

繁に取り上げられ、柔術に関する書籍も次々と発

刊されるようになる。さらにはロンドンを中心として、

イギリス人が柔術を実践する場としての道場も複

数開設されていった。

III 柔術ブームと身体文化

こうしてイギリス社会に受容され、知名度を上げ

ていった柔術だが、実際にはこの時期のイギリス

社会には、柔術のブームを可能にする素地が既

に存在した。一つは身体文化(physical culture)

の流行、もう一つは日清・日露戦争による日本へ

の興味の高まりである。

身体文化とは、一九世紀後半からイギリスで大

きな潮流となった、ボディビルやフィットネスの元

祖とも言える健康志向・身体トレーニングの総称



Page 4

スポーツ科学研究, 10, 183-197, 2013 年

186

である。ミシェル・フーコーが述べるように、イギリス

を含め、近代以前のヨーロッパ社会においては身

体とは所与のものとみなされており、後から鍛錬

することでそれを作り替えることができるという考え

は一般的ではなかった



。 こうした状況に対して、

目指すべき理想の身体を実際のモデルによる写

真や図解で提示し、その実現を可能とするための

トレーニング方法や身体に関する知識を具体的

に提供したのが、雑誌や書籍を中心とした当時

の身体文化メディアであった。そして、その名も

『身体文化』という雑誌を主宰し、ブームの立役

者となったとも言える存在がユージン・サンドウ

(Eugen Sandow)であった。

マイケル・アントンバッドによれば、十九世紀中

庸以前のイギリスにおいて「身体文化」という語彙

はほとんど一般には流通していなかったという。そ

れが世紀転換期から二十世紀初頭には、特定の

意味を表す言葉として広く人口に膾炙し、この急

速な普及はもっぱらユージン・サンドウその人と、

彼による雑誌『身体文化』の影響力に負っている

と述べる(M. Anton Budd 1990)。サンドウは、ミュ

ージック・ホールを巡って行う、自らの逞しい身体

を使った怪力男(strong man)の見世物で評判と

なり、その知名度と身体を武器に、雑誌や書籍を

通じて自身が考案したトレーニング法や知識の宣

伝・普及に努め、身体文化のカリスマ的存在とな

っていった。こうしてイギリスで一気に流行となった

身体文化は、ヨーロッパはもとより、アメリカやオー

ストラリア、そして明治期の日本にまで広まりをみ

せてゆく





このような急激な身体文化の流行、即ち「身体

の強さ・健康さ」に対する意識の高まりの背景に

は、当時の西欧を思想的に席巻した社会ダーウ

ィニズムと、そこから導き出される身体の“退化”へ

の怖れがあったと指摘できよう。(富山 1995) つ

まり、産業革命以降、急激な工業化を果たしたイ

ギリスにおいては、劣悪な環境で働き、生活する、

都市の産業労働者たちの身体虚弱や不健康さ

が社会的な問題として浮かび上がり、それが将来

におけるイギリス国民の“退化”をもたらす要因と

して取り沙汰されたということである。身体文化の

流行は、こうした怖れに対する、主に下層中産階

級からのリアクションであったと考えられる。

ここで今一度、柔術のブームに立ち返ってみる

と、その初期において対戦の相手となり、柔術の

認知に一役買った怪力男たち(レスラーやボクサ

ーも含まれる)こそ、この身体文化という価値観の

代表的な体現者たちであったことに気づく。力自

慢のショーに説得力を持たせるために身体を鍛

え筋肉を身にまとった怪力男はもとより、当時のレ

スラーやボクサーもまた“強さ”のイメージを目に見

える形で提示する存在であり得た。そして、柔術

はその身体文化を代表する者たち即ち“強い”者、

を打ち負かすことによって、より大きな注目を浴び

ることになったと言える。

さらには、日清・日露戦争における小国日本の

電撃的な勝利は、イギリス社会に日本という国へ

の興味を呼び起こし、身体の小さなものが大きな

相手を打ち負かすという柔術の比喩的効果を促

進することとなった。こうした時機が相まって、イギ

リスに柔術ブームがもたらされ、当初は身体文化

に対するオルタナティヴとして認知されていくが、

後にイギリス人自身による実践を通じて柔術自体

の理解・分析が進むと、次第に身体文化の一ヴ

ァリエーション(レスリングなどの競技に近い身体

技法)として消化・受容されていくことになった。

IV. イギリス人女性の柔術実践

バーティツという形での柔術の到来以降、その

実践の中心となったのは上流~中産階級の人々

であったと考えられる。それは、当初バーティツや

柔術の記事が連載された雑誌(『ピアソンズ・マガ

ジン』、『サンドウズ・マガジン』、『ヘルス&ストレン

グス』など)の主な購読層が中産階級であったこと



Page 5

スポーツ科学研究, 10, 183-197, 2013 年

187

や、わざわざ費用を支払ってまで稽古に励む時

間的・経済的余裕がある層に限られていたことか

らも推測できる



。 そして、ジェンダー的にはやは

り男性による実践が多数を占めてはいたが、中に

はごく初期から柔術に携わる女性も存在した。確

認できる限り、女性による初めての柔術指南書を

著したエミリー・ダイアナ・ワッツ(Emily Dianna

Watts〔ロジャー(Roger)とも称した〕)



もその一

人である。

ワッツは、記録によれば 1903 年頃から柔術を

始め、ロンドンのゴールデンスクウェアに道場を開

いていたウエニシ・サダカズの元で修行したという。

そして三年のうちに自ら道場を開いて少年たちに

柔道を教え始め、 1906 年『The Fine Art of

Jujutsu 』を出 版した。( Shortt and Hashimoto

1979:p.46、Svinth 2001) これは、イギリスにおけ

る初めての柔術書籍の出版が 1905 年であること

を考えても非常に早い



。 ワッツは豊かな家庭の

出身であり、この時期に柔術を実践するための指

南書という限られた読者を対象にした書籍を執

筆・発行し得たこと、また、本書が鮮明な写真印

刷をふんだんに用い、厚手の光沢紙で誂えられ

た高価なものであることからも、当時の柔術実践

に関心を寄せた階層をうかがい知ることができる。

ワッツはその後、ギリシア文化に関する著書も出

版し、講演で世界各国を回るなど国際的に活動

するが、柔術そのものに関してはそれ以降目立っ

た活躍を見せることはなかった。

一方、同時期に柔術を始め、本稿のテーマで

ある女性参政権運動に大きな役割を果たした人

物 が 、 エ デ ィ ス ・ ガ ー ラ ッ ド ( Edith

Garrud:1872-1971)である。ガーラッドはもともと

身体文化の指導者(physical culturist)であり、ま

た教師でもあった。同じく身体文化の指導者であ

った夫のウィリアムと共にロンドンに移り住んだ際、

バーティツのデモンストレーションを見る機会に恵

まれ、夫と共に柔術へ傾倒してゆく。その後、ウエ

ニシが主催したゴールデンスクウェアの柔術道場

に入門し、ウエニシおよびタニの元で柔術を学ぶ。

この時期、本道場には何人かの女性入門者が存

在したが、その中でもエディス・ガーラッドは、以

降の人生を通じて深く柔術と関わってゆくことに

なった。

1907 年には、映画会社ゴーモンの「柔術で追

いはぎを撃退(Jujutsu Downs the Footpads)」と

いう短編フィルムに柔術のデモンストレーターとし

て出演し、男性を相手に柔術の技を披露した。

翌 1908 年、夫のウィリアムが、イギリスを去ること

になったウエニシのゴールデンスクウェアの道場を

引き継ぐと、エディスはそこで女性と子供のクラス

を担当するようになる。また同年より、女性の権利

運動を展 開する WSPU (女性社会政治 同盟

Women’s Social and Political Union)と WFL(女

性自由連盟 Woman’s Freedom League において

柔術・護身術の特別クラスを指導するようにもなっ

た。この頃から、ガーラッドは女性運動との関わり

を深めていくことになる。

V. ジ ュ ー ジ ュ ツ ァ フ レ ジ ェ ッ ツ

(Jujutsuffragettes): イギリス女性参政権運動と

柔術

1. 女性参政権運動の活発化

イギリスでは十九世紀半ば以降、徐々に選挙

権の拡大が図られ、1885 年の第三次選挙法改

正によって選挙権者は 440 万人(当時の人口の

13%)に達し、成人男子に関してはほぼ普通選

挙制を実現していた。しかしながら、女性の参政

権は未だ認められておらず、選挙権獲得・社会

的権利の向上を目指した運動が展開されるように

なる。そうした活動組 織の代表的存在として、

1903 年 10 月 10 日、マンチェスターにおいてエメ

リン・パンクハースト(Emmeline Pankhurst)を指導

者とした WSPU(女性社会政治同盟)が結成され、

女性参政権を求めて活動を開始した。この団体



Page 6

スポーツ科学研究, 10, 183-197, 2013 年

188

は女性のみで構成され、そのモットーは“言葉で

はなく行動を”というものであった(Housego and

Storey 2012:p.13)。

当初は機関誌の発刊やデモなどを通じた活動

を行っていたが、1905 年のデモでパンクハースト

の娘が逮捕され、新聞などを通じて報道されたこ

とで、WSPU は女性参政権運動家(suffragettes)

の代表的な団体として知られていくようになる。ロ

ンドンへの進出後、それまで比較的穏健な活動

を行っていた WSPU であったが、一向に歩み寄り

を見せない政府に対して、参政権の実現にはより

強硬な手段が必要であると方針を転換し、1905

~8 年にかけて運動は武装闘争(ミリタンティズム)

を辞さない方向へと急進化してゆく。具体的には

デモやアジテーションを過激化し、政府の建物の

窓を割る、議会の建物を取り囲む柵に自らを手

錠で繋ぐなどの示威行為に及ぶこととなり、そうし

た行為を取り締まり、集会を排除しようとする警官

隊との間の衝突もまた激しさを増していった(河村

2001)。

その様な社会情勢の中で、こうした状況を風刺

する興味深い記事が、1907 年 3 月 13 日『Punch』

誌上に掲載された(図 1)。

図 1

女性参政権運動家を持ち上げる警官たちの

挿 絵の下には“One Man One Suffragette: A

Suggestions to the House of Commons’ Police”

(女性参政権運動家一人につき男性一人:議会

警察に提案)と説明が付けられ、「警官たちは空

き時間にダミーの女性参政権運動家の人形を使

って、柔術の訓練をするべきだ」という意の文章が

添えられている。実際に柔術ブームの後、イギリス

では軍隊や警察の一部で柔術が訓練に取り入れ

られるようになるなど、武器を用いない格闘・護身

術として浸透しつつあったこともあり、この記事の

風刺はあながち荒唐無稽な笑い話という訳では

なかった。しかし、ここで注目すべきは、この時点

で柔術を学ぶべきとされるのは女性参政権運動

家ではなく、それを取り締まる警官たちの方であ

る、と見なされている点であろう。デモや集会を過



Page 7

スポーツ科学研究, 10, 183-197, 2013 年

189

激化する女性たちを排除する上で、柔術は有効

な手段だという訳である。だが、こうしたイメージは

参政権運動と柔術が度々雑誌メディアに取り上

げられるようになってゆく二、三年の間に、急激に

変化していくことになる。

2. 女性による柔術実践

先述したように、1908 年になると WSPU と WFL

においてエディス・ガーラッドによる柔術・護身術

の特別クラスが提供されるようになる。これは、日

増しに激しくなる警官隊との衝突から身を守るた

め、WSPU ではパンクハースト自身の発案で開始

された。女性たちによる柔術の訓練開始から一年

後の 1909 年、『Health and Strength Magazine』

誌上に“Jujutsuffragettes: A New Terror for the

London Police”と銘打たれた、柔術をたしなむ女

性参政権運動家がロンドン警察の脅威になって

いるという記事が掲載され、その文中で師範のガ

ーラッドは「WFL の全てのメンバー中で、おそらく

最も重要な人物」と評されるようになる。この際、

柔術の使い手である女性参政権運動家たちを指

す た め に 、 「 Ju-Jutsu ( ジ ュ ー ジ ュ ツ ) 」 と

「suffragettes(サフレジェッツ)」を組み合わせた

「Jujutsuffragettes(ジュージュツァフレジェッツ)」

なる造語がはじめて用いられ、以降たびたびこの

呼称が登場することとなった。

そして、更に翌年 1910 年 7 月 6 日には、

『Punch』誌上に“The Suffragettes that knew

Jiu-Jitsu”(柔術を嗜む女性参政権運動家)とい

う風刺画が掲載される(図 2)。

図 2

この絵の中では、柔術使いの女性の前で警官

隊が震え上がっている様子が戯画的に描かれて

いるが、1907 年の記事と比較して興味深い点とし

ては、ここに至っては柔術の使い手が警官ではな

く女性参政権運動家の側として描かれており、三

年前とはイメージが完全に逆転しているところであ

ろう。雑誌メディアにおけるこうしたイメージの変遷

は、イギリスにおける参政権運動と女性の柔術実

践という結びつきが、短い期間で一般の人々の

間にも浸透し、認知されていったことの表れともい

える。さらには、権利獲得のためには実力行使も

辞さないという女性たちの運動の高まりもまた、商



Page 8

スポーツ科学研究, 10, 183-197, 2013 年

190

業メディアを通じて人々の大きな関心事となって

いったことを示している。そして同年の秋、こうした

活動の一つのピークともいえる出来事が訪れるこ

ととなる。

1910 年 11 月 18 日、当時の首相ハーバート・

ヘンリー・アスキスと与党である自由党が、一定以

上の資産を有する女性に選挙権を拡大する法案

「Conciliation Bill」を議会の時間切れを理由に

廃案としたことに端を発した大規模な女性参政権

デモが WSPU によって行われた。この際、国会周

辺に集まった 300 人以上のデモ隊に対し、警察

が暴力を行使して弾圧を行ったことで騒然となり、

結果として多数の負傷者(1 名は後に死亡)と 119

名の逮捕者を出す惨事となった。この際の報告

によれば、「女性たちは顔や胸、肩を殴られてもな

お、無意識的に自分たちを律し、後から後へと

(デモの現場へ)戻っていった。何人かの女性は、

三回も四回も放り投げられているのを目撃された」

(Housego and Storey 2012:p.33)という。

この事件は、後にブラック・フライデーと呼ばれ、

女性参政権運動史に刻まれることになる。これま

でにない警察の暴力的な取り締まりに対して、そ

れまで女性参政権運動に対して比較的冷淡であ

った世論も批判の姿勢を見せ始め、新聞などのメ

ディアも弾圧の模様を写真で掲載するなど、次第

に運動の側に立った報道がなされるようになって

ゆく。当時、女性参政権運動の中心となっていた

活動家たちの多くは中産階級の女性であったが、

その淑女たちを路上に引き倒し、死者まで出した

ことは、階級とジェンダー双方の意味で警察や政

権に対する批判を呼び起こし、彼女たちの運動

に同情する機運を生み出すことにつながったとい

える(Housego and Storey 2012:pp.32-34)。

VI. 女性 Jiu-Jitsu ボディガード団:実戦のための

柔術

1. ハンガー・ストライキと“Cat and Mouse”法

ラック・フライデー以降、WSPU や WFL の活動

はますます盛んになり、政府との間の軋轢も激し

さを増していった。こうした状況にあって、護身の

ための柔術の有用性もまた、女性活動家たちの

間に浸透してゆく。この間、柔術の指導者であっ

たエディス・ガーラッドは、1911 年 4 月 8 日の

『Health and Strength Magazine』に掲載された”

Ju-jutsu as a Husband Tamer (夫を手懐けるた

めの柔術)”という記事において柔術指南を担当

し、続く 7 月 23 日 の同誌においては自ら”

Damsel v Desperado(乙女対ならず者)”という記

事を執筆し、男性の暴漢に対する女性の柔術実

践の有用性を説いている。だが、この後ほどなくし

て、女性参政権運動の団体は構成員個人の柔

術習得に留まらず、女性柔術家を組織化してボ

ディガード団を結成するという転機を迎えることに

なる。

1913 年、自由党による Prisoner's Temporary

Discharge of Ill Health Act(通称 Cat and Mouse

法)が議会を通過し、法律として制定された。これ

は、健康を害した囚人を一時的に釈放することを

可能にする法案であり、当時、収監された女性参

政権運動家が頻繁に用いていた抵抗手段である

ハンガー・ストライキを狙い撃ちにしたものであっ

た。絶食することで抗議の意志を示すハンガー・

ストライキは、当然ながらその実践者に衰弱をもた

らすことになるが、もしも収監中に容疑者が衰弱

死するようなことがあれば、それを放置した当局に

非難が向くことは避けられない。そこで、当時の政

権がとった対応策が forcible feeding(食餌強制)

と呼ばれる、強制的に食べ物や飲み物を流し込

むという手法であった。自らが食物の摂取を望ん

でいない相手に強制的に食餌をさせるということ

は想像以上に困難であり、多くの場合、数人がか

りで手足を拘束した上で、口や鼻から無理矢理

流動食を流し込むという非人道的な手段が執ら

れた。この方法は、収監者にとって大変な苦痛を



Page 9

スポーツ科学研究, 10, 183-197, 2013 年

191

伴うものでもある。女性参政権運動家はこうした

状況を自らの機関誌で訴え、また他の一般メディ

アも大きな関心を持って報道したため、イギリス社

会に大きな反響と怒りを呼び起こした。(Housego

and Storey 2012:p.39)(図 3:Daily Sketch, May

1, 1913)。

図 3

世論の多くは、仮にも賤しからぬ階級に属する

レディに対してこのような非人道的な扱いをする

当局側に対して批判的なものであったため、自由

党政権も強制食餌に代わる何らかの対応をとらざ

るを得なくなってゆく。そこで生み出されたのが、

先述の通称「Cat and Mouse 法」であった。

本法案によって、ハンガー・ストライキで衰弱し

た収監者を一時的に釈放することが可能になっ

たため、政権側は女性参政権運動家が衰弱して

ゆく危険も強制食餌に対する国民の批判もかわ

すことができるようになった。一方で、健康を取り

戻せば再収監することができるため、運動家たち

はハンガー・ストライキを続ける限り釈放と収監を

繰り返されるという過酷な状況におかれることにな

った。逮捕と衰弱、そして釈放と再逮捕の循環に

よって活動家の気力と体力を奪ってゆくという、そ

の名の通り、まさに「猫がねずみをいたぶる」ような

法律であったといえる(図 4:WSPU による反「Cat

and Mouse 法」ポスター〔Housego and Storey

2012:p.26 より転載〕)。



Page 10

スポーツ科学研究, 10, 183-197, 2013 年

192

図 4

2. 私設柔術ボディガード団の結成

こうした政権側の「Cat and Mouse 法」に対して、

WSPU はリーダーのエメリン・パンクハーストを含め

一旦釈放された活動家を二度と逮捕させないと

いう作戦方針で対抗することになる。この時期、

WSPU は一向に進展しない政治状況に対して武

装闘争を加速させており、1912 年にはその頂点

を迎えた。WSPU は過去の選挙法改正が民衆の

暴動によって達成されたと考えたため、それにな

らって「財産の破壊」という闘争方針を採り、政府

関係施設にとどまらずリージェント街の商店の窓

ガラスを割り、郵便ポストに火を投げ込み、美術

館の絵画を刃物で切り裂くなどし、とりわけすさま

じかった 1913~14 年の放火闘争は 17 ヶ月間で

約百件、推定被害額は 45 万ポンドに上ったとい

う(河村 2001:p.117)。

こうした闘争やデモ、集会の会場にあって、指

導者や活動家たちを警察から守り、拘束させない

ために、WSPU は 1913 年、エディス・ガーラッドを

師範として柔術ボディガード団を結成する。ボデ

ィガード団はカナダ出身のガートルード・ハーディ

ング(Gertrude Harding)をリーダーとし、25~30

名程度の女性メンバーから成っており、警察に所

在を掴まれないため、各地を転々としながら柔術

のトレーニングを行った。彼女たちは柔術の技に

加えて衣服の下に忍ばせた棍棒で武装し、特に

指導者のエメリン・パンクハーストを守るため警察

と渡り合うことになった。ボディガード団の役割は、

介入してきた警察官たちから活動家たちを守り、

その間に中心人物を逃がすための時間稼ぎをす

るところにあった。そのため、単純に柔術を使って

応戦するだけではなく、時には変装して警察を混

乱させたり、パンクハーストの影武者を仕立てて

本物の逃走を手助けするという戦術も採られた。

この際、柔術ボディガード団の最重要人物であ

ったガーラッドが最前線で闘うことはほとんどなか

ったが、これは万一逮捕された時に指導者を失う

ことになるリスクを避けるためであった。また、ガー

ラッドは自らの道場に活動家たちを匿うこともあっ

たという。この時期になると、激しい武装闘争とそ

れに対する抵抗によって、WSPU の女性参政権

運動は社会の注目を集めるようになっており、先

述したように「柔術の使い手としてのサフレジェッ

ツ=ジュージュツァフレジェッツ」というイメージが、



Page 11

スポーツ科学研究, 10, 183-197, 2013 年

193

社会に浸透していたといって良い。さらに同年 12

月 19 日には、『Health and Strength Magazine』

誌上でガーラッドが再び柔術のデモンストレーショ

ンを行い、警察官の扮装をした相手に柔術の技

をかける姿が掲載され、こうしたイメージに拍車を

かけることになった(図 5)。

図 5

この柔術によるボディガードは実際に功を奏し、

後に第一次世界大戦開戦に際して WSPU が武

装闘争を解除するまでエメリン・パンクハーストが

拘束されることはなかった。だが、警察との闘争に

おいて女性たちの柔術が有効であったことには、

当時の女性参政権運動において特定の状況が

成り立っていたことに留意する必要がある。まず、

WSPU の活動主体はほとんどが中産階級の女性

であったことから、警察側はこの鎮圧にあまり暴力

的な手段を用いることができなかった。先に述べ

たブラック・フライデーや食餌強制の事例からも明

らかなように、世論は比較的、女性参政権運動に

同情的になっており、女性であり出身階級も高い

淑女たちに直接的な暴力を行使することは、政

権側への批判を強める恐れもあった。結果として、

警官隊は活動家たちを集団から素手で引き離し

て拘束したり、持ち上げて連行したりといった比較

的穏当な手段を用いざるを得なかった。こうした

制約から、生身の人間が素手で対峙する状況が

作り出されたことは、柔術という武術が実戦として

効果を発揮する上で非常に有利に働いたといえ

る。また、当然ながら、体重や身体の大きさに依

存しないという柔道の最大の利点が、女性たちに

とって有効であったことは言うまでもない。仮に、こ

れ以前の選挙法改正運動などで見られたような

騎馬警官の投入や、警棒などを用いた暴力的な



Page 12

スポーツ科学研究, 10, 183-197, 2013 年

194

介入があったとすれば、おそらく柔術のみで十分

な護身を行うことは困難であっただろう





近代のイギリスにおけるフェミニズム運動を詳

細に検討した河村によれば、WSPU は膠着状態

に陥った女性参政権運動を打開するために意識

的に「戦闘的」手段(ミリタンシー)を採用し、その

思惑通り、「上品なみなりのレイディが、会場整理

の無骨な男性によって集会場から荒々しく投げ

出される写真は、ヴィクトリア朝のリスペクタブルな

女性観に慣れた一般大衆には十分に衝撃的な

ものであった」し、「女性によるミリタンシーはまさし

くニュースになったのである」と指摘している(河村

2001:p.112)。これらを考え合わせると、WSPU は

そのメディア戦略を含めた活動方針によって自ら

の存在を上手くアピールし、結果として、対抗手

段として用いた柔術さえもそのイメージに取り込む

ことに成功したともいえるであろう。

その後、WSPU はイギリスの第一次世界大戦参

戦に伴い、1914 年 8 月、武装闘争と参政権要求

を中断することを宣言し、その後は政権からの資

金援助を得て戦時協力を行うようになる。この変

節には批判もあったが、エメリン・パンクハーストお

よび娘のクリスタベルの強力なリーダーシップと戦

時下という状況もあって、方針変更は維持された。

そして 1917 年、名称を「女性党」と変更するに至

り、最終的に WSPU は解体された。さらに 1918 年

3 月、第4回選挙法改正により 21 歳以上の男性

に加えて 30 歳以上の女性にも参政権が認められ、

一部限定はあるものの女性参政権運動の目的で

あった女性の普通選挙制がほぼ実現したことから、

種々の参政権運動は収束することになり、実戦手

段としての女性柔術も終焉を迎えることとなった。

VII 柔術と Jiu-jitsu:イギリスにおける女性の柔

術受容

1. 日英における女性柔術の相違:修養か実戦



これまで見てきたように、二十世紀初頭の一時

期、イギリスにおいては女性による柔術が非常に

特徴的なかたちで実践、受容されたことがわかる。

そもそも柔術を実践するイギリス人女性の数が限

られていた中で、それが実戦の手段として用いら

れたことは、イギリス人男性の柔術受容と比較し

ても大きな相違である。また、これは柔術の“本国”

と言える日本の同時代と比較しても、際だって特

異な現象であったといえるだろう。諸説あるが、日

本における組織的な女性の柔術実践は、講道館

柔道の成立後の 1920 年代以降であることを考え

ると、イギリスにおける女性の柔術実践はこれに

先んじている。また、「実戦」という側面を考えた時、

両国における柔術の違いは際立っており、日本

においては女性の柔術・柔道を実戦に用いること

はおろか、かなり時代が下るまで、乱取りや試合

を念頭に置いた実践は推奨されず、修養としての

側面に重きが置かれていた。こうした相違は、当

然ながら武術としての柔術や柔道の文化的意味

が日本の文脈から切り離され、イギリス社会にお

いて脱色されて独自の文化的文脈に位置づけら

れたためである。

また、この時期のイギリスにおける女性の柔術

は、男性のそれが身体文化的な価値観に包摂さ

れていったのに対し、「身体の小さい女性が体重

や筋力で勝る男性を倒す」という、むしろ身体文

化とは逆のベクトルの価値観を含んでいた。さら

に、イギリス人男性の柔術実践が、レスリングなど

他のスポーツと同じく競技として自己目的化して

ゆくこととも一線を画していたといえる。ここには、

日本とイギリスという国をまたいだ文化と、イギリス

国内における女性と男性というジェンダーの、双

方における相違を見ることができる。

2. 文化伝播としてのイギリス柔術

以上を踏まえて述べるならば、イギリスにおける

この時期の柔術は、当然ながら日本文化が海外



Page 13

スポーツ科学研究, 10, 183-197, 2013 年

195

伝播した一形態と捉えることができる。しかしなが

ら、グローバル化以前の二十世紀初頭に、日本

をはじめとしたアジア地域の文化が、近代の世界

秩序の中心国ともいえるイギリスおよびヨーロッパ

諸国に根付いた例はきわめて稀であり、そうした

意味で柔術は文化伝播の方向を考える上で非

常に興味深い事例ともいえる。

スポーツを含めた遊技的な文化の伝播に関し

ては、アレン・グットマンが『スポーツと帝国』(1997

年)において詳細に検討しており、文化帝国主義

の議論およびその批判の両側面から考察してい

る。グットマンは、スポーツを含む文化の伝播が近

代の帝国主義の力学に沿った、欧米諸国からそ

の他の地域へという方向性、つまりは“近代の中

心から周縁へ”、というあまりに単純化された図式

へ還元されがちであることに批判的であり、イデオ

ロギーとしての文化帝国主義よりも、文化的な双

方向性を担保した文化ヘゲモニー論に条件付き

ながら与する。そして、中心から周縁へという方向

に逆行する例としてポロやハイ・アライ(バスク人の

ペロタのキューバ版)などを挙げた上で、「逆伝播

のもっと顕著な例は柔道である」と述べている





さらには、「「異国の」スポーツを受容するという行

為は、通例その社会の比較的富裕で教育のある

層に限られてきた」と続けており(グットマン:1997

p.199)、これらの記述は本稿が考察してきたイギ

リスの柔術、特に上流・中産階級女性の柔術実

践の説明とも良く符合する。

ここでは、スポーツという文化を巡る文化帝国

主義/文化ヘゲモニー論の議論に深く立ち入る

ことはしない。しかしながら、少なくとも二十世紀

初頭のイギリスにおける女性と柔術の受容に関し

ていえば、一つの身体的な文化が近代という時

代の世界的な勢力図とは必ずしも一致しない方

向へと伝播し、さらにはその先で女性/男性とい

うジェンダー上の異なる受容をみせたことは、文

化が政治や経済の諸力とは異なる自律性を持ち

得るという可能性 即ち、文化ヘゲモニー論に

よる伝播の説明可能性の一事例として提示する

ことができるのではないだろうか

10



もちろん、こうした解釈に関しては留保すべき

要素も残されている。例えば、この時代にイギリス

やヨーロッパで沸き起こった東洋趣味という名の

オリエンタリズムを考えれば、柔術もまたそのような

エキゾティックな身体技法として帝国主義的まな

ざしによって消費されたといえなくはない。また、

そもそも列強による植民地化を回避するためとは

いえ、アジアにおいて自ら帝国化した日本を、

「文化帝国主義」の影響を被る側におくことが適

切であるのかという疑問も残る。これらに関しては、

今後、欧米の他地域、およびアジア諸国における

柔術受容を検証することによって明らかにしてゆ

くべき課題としたい。

【引用・参考文献】

アレン グットマン『スポーツと帝国:近代スポー

ツと文化帝国主義』、谷川稔、石井昌幸他訳、

昭和堂、1997.

岡田桂「一九世紀末-二〇世紀初頭のイギリス

における柔術ブーム:社会ダーウィニズム、身

体文化メディアの隆盛と帝国的身体」『スポー

ツ人類学研究』 第六巻、スポーツ人類学会、

2005.

岡田桂「柔術家シャーロック・ホームズ、柔道家

セオドア・ルーズベルト:英米における柔術/

柔道ブームの位相と身体文化」、『海を渡った

柔術と柔道:日本武道のダイナミズム』青弓社、

2010.

木下誠、「D. H. ロレンス『恋する女たち』にお

ける柔術と身体文化」『運動+(反)成長(身体医

文化論 ; 二) 』 武藤浩史, 榑沼範久編、慶

應義塾大学出版会、2003.

河村貞枝『イギリス近代フェミニズム運動の歴

史像』、明石書店、2001.



Page 14

スポーツ科学研究, 10, 183-197, 2013 年

196

ドイル、コナン『空き家の冒険』、小池滋ほか訳、

東京図書、1982.

富山太佳夫『ダーウィンの世紀末』、青土社、

1995.

Anton Budd, Michael, The Sculpture

Machine: Physical Culture and Body Politics

in the Age of Empire, Basingstoke: Macmillan,

1997.

Daily Sketch, May 1, 1913.

“Damsel v Desperado”, Health and Strength

Magazine, July 23, 1911.

“Essence of Parliament”, Punch, London,

March 13, 1907.

Housego, M., and Storey, Neil. R., The

Women's Suffrage Movement, Oxford: Shire

Publications Ltd., 2012

“Jujutsuffragettes: A New Terror for the

London Police”, Health and Strength

Magazine, London, March 13, 1909.

“Ju-jutsu as a Husband Tamer”, Health and

Strength Magazine, Apri l8, 1911.

“Mrs. Garrud, a well-known suffragette,

demonstrates the methods of jujutsu. She has

taught the W.S.P.U. bodyguard”, Health and

Strength Magazine, December 19, 1913.

Noble, Graham, “Early Ju-jitsu: The

Challenges Part I”, Dragon Times: The Voice

of Traditional Karate, Issue No. 5, 1996

(pp.23-24).

Pearson's Magazine, London, March, 1899.

Shaw, George, Bernard, Major Barbara,

Constable,1920(舞台の初演は 1905 年、戯曲

初版は 1907 年)

Shortt, G. J. and Hashimoto, K., Beginning

Jiu Jitsu Ryoi-Shinto Style, London: Paul H.

Crompton Ltd., 1979.

“The Suffragettes that knew Jiu-Jitsu”, Punch,

London, July 6, 1910.

Svinth Joseph R. “The Evolution of Women's

Judo, 1900-1945”, InYo: Journal of

Alternative Perspectives Feb 2001(オンライン

ジャーナル)

Watts, Roger, photographs by Beldam, G. W.

The Fine Art of Jujutsu, Heinemann, 1906.

________________________________________________________________________________________________________________________________



physical culture は、その語義に沿えば「身体鍛

錬」と訳す方が適切ではあるが、これまでの先行

研究事例において身体文化という訳語が用いら

れてきたため、本稿でもそれを踏襲した。



二十世紀初頭のアメリカにおける柔術を考察し

た以下の研究には、一部女性の実践に関する言

及がある。薮耕太郎「前世紀期転換期のアメリカ

における柔術をめぐる緊張関係 H.I.ハンコック

による柔術教本と“The New York Times”の分析

を中心に」(未刊行:立命館大学での研究会発

表資料)二〇〇七年



ミシェル・フーコー『監獄の誕生:監視と処罰』

(1977 年)参照。また、三浦雅士『身体の零度』

(1994 年)にも同様の視点が見られる。



造士會編纂による『サンダウ體力養成法』(1900

年)が発行されている。本書は雑誌『國士』に連

載された内容を増補の上、出版したものであり、

サンドウが提唱し、自らの書籍や雑誌に掲載した

鉄アレイなどを用いた身体鍛錬法がまとめられて

いる。また、本書には造士会長としての嘉納治五

郎による序文が付記されており、嘉納がヨーロッ

パを外遊した際にサンドウとその身体鍛錬法の評



Page 15

スポーツ科学研究, 10, 183-197, 2013 年

197

判を聞き及び、日本人の体力向上に資すると考

えて訳出した旨述べられている。



アントンバッドは、当時の身体文化メディアの主

な購読層が、中産階級の中でも特に下層中産階

級を中心としていたこと指摘している。ただし、後

に身体文化に包含されてゆくとはいえ、ブームの

当初、柔術を実践した人々の多くは上層~中層

中産階級であったことから、身体文化を支えた中

産階級の幅はかなり広いといえる。



本名は Emily Diana Watts であるが、後述する

柔術書籍の著者名は「Mrs. Roger Watts」として

いる。また、彼女にはもう一冊の著作(『The

Renaissance of the Greek Ideal』Frederick A.

Stokes Co., 1914.)があるが、本書では Diana

Watts (Mrs. Roger Watts) と併記しており、名称

を使い分ける理由は不明である。なお、“Roger”

は男性に多く見られる名ではあるが、女性名とし

ても通用している。



確認できる限り、イギリスで最も早く発行された

柔術に関する書籍は以下の二冊であり、前者は

柔術ブームの立役者の一人である上西貞一、後

者は谷と上西のマネージャーを務めたウィリアム・

バン キ ア に よ る も の で あ る 。 Sadakazu "Raku"

Uyenishi, Text Book of Ju-Jutsu as Practised in

Japan, London : Athletic Publications, 1905.

Bankier, William. Ju-Jitsu: What It Really Is,

London: Apollo's Magazine, 1905. 尚、翌年

1906 年には、谷と三宅太郎(一時期、谷と共にゴ

ールデンスクウェアの道場で柔術を指南していた)

による書籍も発行されている。Taro MIYAKE and

TANI (Yukio), The Game of Ju-Jitsu, for the use

of schools and colleges: 91 illustrations.

Drawings by George Morrow. Edited by L. F.

Giblin and M. A. Grainger., London : Hazell,

Watson & Viney, 1906. これらを考え合わせると、

ワッツによって初の女性による柔術教本が同年に

発行されていたことは、驚くべき事といえるかもし

れない。



こうした、柔術が実践として有効に機能する空間

的な条件や間合いに関しては、池本淳一氏(早

稲田大学スポーツ科学学術院)から重要な示唆

を受けた。



ただし、ここでは「この競技がヨーロッパと合衆国

に定着したのは、第二次世界大戦に敗れて占領

下におかれた日本が、瓦礫の中からかろうじて復

興しはじめた頃のことだったからである」としており、

柔術(柔道)の欧米伝播に関して時代的な誤りが

ある。この記述はグットマンが参照した先行研究

に基づくものであるが、現在、柔術や柔道の伝播

がこれよりはるかに早かったことは、複数の研究に

よって明らかにされている。(代表的なものとして

は『海を渡った柔術と柔道』(引用・参考文献)参

照。)

10

こうした伝播の方向性が逆転する他の事例とし

ては、ジェムとフィスターによる、カナダにおけるラ

クロスの近代スポーツ化と文化の相互転 移

(cross-cultural transfer)が挙げられる。(Gems,

Gerald,

R.

and

Pfister,

Gertrud,

Understanding American Sports, Routledge,

2009: pp.40)

http://matome.naver.jp/odai/2136101783750692801


Twitterで話題の警官を柔術で投げ飛ばすイギリス人女性の正体
イギリスの女性参政権運動のデモ警官を一人でやっつけるイーディス・ガラッドの勇姿がTwitterで話題となっていたのでまとめました。

更新日: 2013年02月16日


rinqoo1976さん









12

お気に入り

8793

view
お気に入り追加










こなたま(CV:渡辺久美子)@MyoyoShinnyo

フォローする


イギリスの女性参政権運動のデモで、鎮圧に来た警官をジュージュツの技でちぎっては投げ、ちぎっては投げして、女だって男の腕力に対抗できると知らしめたイギリス人女性柔道家ってのがいたんですよ pic.twitter.com/OJHVkinc


返信 リツイート いいね 2013.02.16 11:42











『パンチ』誌1910年7月号より


出典
sanjuro.cocolog-nifty.com




『パンチ』誌1910年7月号より


警官を一人でやっつけるイーディス・ガラッドの勇姿。「THE SUFFRAGETTE THAT KNEW JIU-JITSU柔術の心得がある婦人参政権運動家」と書いてある。







この女性の名前は「イーディス・ガラッド」





「イーディス」の夫は欧州に柔術を広めた上西貞一の弟子だった





ウエニシ(上西貞一)の弟子であったウィリアム・ガラッドの妻イーディスは、柔術に熟達していた。



出典
柔道か柔術か(45): 翻訳blog



















彼女は婦人参政権運動家として、また婦人参政権同盟の設立者エミリーン・パンクハースト夫人(1857-1928)のボディガードをつとめる「戦う参政権論者」の柔術教師として悪名をはせた。



出典
柔道か柔術か(45): 翻訳blog



















風刺画ではなく、イーディスが実際に警官をやっつけている写真






イーディス・ガラッド


出典
sanjuro.cocolog-nifty.com




イーディス・ガラッド


イーディスは小柄で負けん気の強い女性だった。1910年から12年ごろの写真に彼女が警官をやっつけるところを撮ったもの。

彼女は当時流行だったむやみに大きい帽子をかぶっている。
風刺画と同様、細身でそれほど大きくは無い女性で、いかつい感じはしない。







女性参政権運動家はいろいろな嫌がらせにあうことがあり、警察に胸をつかみあげられるなどの暴力を受けたこともあったので、護身術はかなり役立つ技術だったらしい。



出典
19世紀英国、女性柔術家が参政権のために立ち上がった!エメリン・…






















こなたま(CV:渡辺久美子)@MyoyoShinnyo

フォローする


イーディス・ガラッドのインパクトは、なんだかんだいっても女は男の腕力にかなわない、最終的には殴れば解決するというパラダイムを覆したことなんですわ。ムキムキの突然変異の女じゃなくて、ジュージュツという“技術”を習得すれば誰でもそうなれる、というね


返信 リツイート いいね 2013.02.16 12:15










イーディスは夫と離婚し、オックスフォード・サーカスに道場を開いた。この道場が参政権運動家の基地となり、女たちはここから出撃して街で窓などを割って回り、すばやく戻って警官が来るころには何食わぬ顔で柔術の稽古をしているのだった。



出典
柔道か柔術か(45): 翻訳blog



















最近、日本女子柔道で発生した指導暴力事件について、告発した選手をバックアップした山口香選手が注目をあびているが、既に19世紀ロンドンにも女性の権利を守り正しいことをするために頭を使って頑張っていた女性柔術家がいたのである。



出典
19世紀英国、女性柔術家が参政権のために立ち上がった!エメリン・…



















運動家たちは暴力に訴えることもあったが、イーディス・ガラッドは素手で戦った。





イーディス・ガラッド女史は柔術を使って素手で戦ったから偉いのだ。運動の成果により、1918年に30歳以上の女性に選挙権が認められ、1928年には男女とも21歳以上に選挙権が認められた。)



出典
柔道か柔術か(45): 翻訳blog






















こなたま(CV:渡辺久美子)@MyoyoShinnyo

フォローする


持たざるものの武器、階級闘争の武器としてのジュージュツ


返信 リツイート いいね 2013.02.16 11:51













こなたま(CV:渡辺久美子)@MyoyoShinnyo

フォローする


ジュージュツの達人でも大勢で押し囲むようにすれば捕まえられただろうけど、それをやったら威信がとか、女ひとり大の男が単独で押さえ込めないなんてメンツに関わるとか、そーいう時代だったんでしょうね多分


返信 リツイート いいね 2013.02.16 12:04










▼女性参政権運動とは?





世界にさきがけて産業革命を経験したイギリスでは,家庭での生産活動がなくなり存在理由を見いだせなくなった女性たちが,貧民救済などの慈善事業に活動の場を求めた。19世紀に入って広範な女性をひきつけた慈善事業が土台となって,婦人参政権運動をはじめとし,女性の社会的活動の機会拡大のための運動,女性の人権のための運動が展開された。



出典
婦人参政権運動 とは - コトバンク



















▼なぜイギリス人の女性が「柔術」を使っているのか?






20世紀初頭、イギリスでは柔術が流行ってた?!


出典
p.twpl.jp




20世紀初頭、イギリスでは柔術が流行ってた?!


20世紀初頭海外で活躍した柔術家として上西貞一、谷幸雄などと並んで名前が出てくる詳細不詳の柔術家Eidaの写真。投げているのはギャビー・デリスという女優。「柔術ワルツ」という出し物をやたのだそうだ







柔術が欧州に伝わったのは、バリツの創始者バートン=ライトの功績である。彼が谷幸雄と上西貞一を指導員としてロンドンに招いたのが1900年のことで、それから柔術は英国に広まり、さらに欧州諸国にも広まっていった。



出典
欧州の柔術について: 翻訳blog











柔術が欧州に伝わった時期等には諸説あるようです。




1

http://sanjuro.cocolog-nifty.com/blog/2009/01/45-abb7.html





« 柔道か柔術か(44) | トップページ | 柔道か柔術か(46) »

2009年1月19日 (月)



柔道か柔術か(45)




 タニ・ユキオ略伝(2)

 ウエニシは「ラク」というリングネームを用いていたが、ゴールデンスクウェアに道場を開いた。ウエニシは弟子のネルソンの助けを得て1906年にJu Jutsu as Practised in Japanという教科書を出版した。
 
 Jujitsu_by_skuenishi_250_sml

 1908年ごろラクが英国を去ると、この道場は弟子のウィリアム・ガラッドが受け継いだ。タニはミヤケといっしょにオックスフォード・ストリートに道場を開き、これは2年ほど続いた。このころは、ほかにも日本人の柔術家が何人か訪英した。オオノやマエダなどである。後者はグレイシー柔術の始祖である。

Jiujtsu3

 1906年はじめにタニとミヤケも The Game of Ju-Jitsu - for the Use of Schools and Collegesという本を出版した。またラクの弟子であったエミリー・ワット夫人も同じ年に The Fine Art of Jujitsuという本を出している。1904年12月にはバンキアがJu-Jitsu: What It Really Isという本を出した。これは雑誌に連載した記事を元にしたもので、タニとウエニシの写真多数を含んでいる。ここに挙げた本はみなよく書けているが、日本人の書いたものがバンキアやワットのものよりすぐれている。そのほかにも英語の柔術の本は多数出版されたが、大方は単なる珍品であって真面目な研究には値しない。

Women_photoframe3

(訳者補足 OEDにも引用されているものにHancock & Higashi Complete Kano Jiu-Jitsuがある。柔道か柔術か(3)参照。タニも別の本を出している。)

Image438

 イーディス・ガラッドと婦人参政権運動

 ウエニシの弟子であったウィリアム・ガラッドの妻イーディスは、柔術に熟達していた。彼女は婦人参政権運動家として、また婦人参政権同盟の設立者エミリーン・パンクハースト夫人(1857-1928)のボディガードをつとめる「戦う参政権論者」の柔術教師として悪名をはせた。イーディスは夫と離婚し、オックスフォード・サーカスに道場を開いた。この道場が参政権運動家の基地となり、女たちはここから出撃して街で窓などを割って回り、すばやく戻って警官が来るころには何食わぬ顔で柔術の稽古をしているのだった。イーディスは小柄で負けん気の強い女性だった。1910年から12年ごろの写真に彼女が警官をやっつけるところをとったものがある。彼女は当時流行だったむやみに大きい帽子をかぶっている。

2458182441_4a8610de5a

(訳者補足 英国で婦人参政権運動が本格化したのは1865年以降である。20世紀初めになると過激化し、運動家たちはハンガーストライキを武器とした。暴力に訴えることもあった。ゲバ棒をふるって反対派の集会に乱入することもあったようだ。イーディス・ガラッド女史は柔術を使って素手で戦ったから偉いのだ。運動の成果により、1918年に30歳以上の女性に選挙権が認められ、1928年には男女とも21歳以上に選挙権が認められた。)(続く)

Punchjuly1910suffjj
(『パンチ』誌1910年7月号から、警官を一人でやっつけるイーディス・ガラッドの勇姿。「THE SUFFRAGETTE THAT KNEW JIU-JITSU柔術の心得がある婦人参政権運動家」と書いてありますね。)







PS(プレイステーション)を検索



http://webcache.googleusercontent.com/search?q=cache:Dr4cKIyR-QEJ:ir.library.osaka-u.ac.jp/dspace/bitstream/11094/27366/1/cl7_178.pdf+&cd=11&hl=ja&ct=clnk&gl=jp


http://ir.library.osaka-u.ac.jp/dspace/bitstream/11094/27366/1/cl7_178.pdfのHTMLバージョンです。
Googleではファイルを自動的にHTMLに変換して保存しています。


Page 1

Osaka University

Title

日露戦争期の英国における武士道と柔術の流行

Author(s)

橋本, 順光

Citation

阪大比較文学. 7 P.178-P.198

Issue Date 2013-03

Text Version publisher

URL

http://hdl.handle.net/11094/27366

DOI

Rights



Page 2

- 178 -

日露戦争期の英国における武士道と柔術の流行1

橋本 順光

Yorimitsu HASHIMOTO

はじめに 英国における新たな日本趣味

英国における新たな日本趣味

日露戦争時、英国は日本の戦況を自国のことのように大々的に報道した。なによりも日本の同盟国とし

て、ロシアの南下や外債の貸し付けといった利害を共有していたからである。それだけでなく日本の善戦

を褒め称え、さらには日本の効率的な文明化に学ぼうという機運まで生まれた。実際、G・K・チェスタ

トンが回想するように、当時のジャーナリズム界ではあからさまな日本への批判が事実上、禁じられてお

り、日本嫌いであっても賞賛するのが慣例だったという事情は考慮しなければなるまい2。ただ、それら

の賛美は日英同盟のための擬製という政治的な配慮にはとどまるものではなかった。サールがいち早く

指摘したように、ボーア戦争に辛勝した帝国を「頽廃」や「退化」から救うため、さまざまな改革運動と

解決策とを模索していた英国にとって、ロシアと善戦する日本は一つの手がかりと手本とを提供したの

である3。英国最大の脅威であり、それだけに反面教師ともなった新興ドイツとならんで、日本は、英国

の「国民=国家の効率」化に示唆を与えるものと考えられたのだった。

たとえば、「武士道(Bushido)」や「柔術(Ju-jitsu)」といった言葉が、脚光を浴び、盛んに使われるよう

になったのも日露戦争以降のことである。十九世紀後半、日本を芸者や美の国として理想化するジャポニ

スムが流行したが、日露戦争以降の英国における日本熱もまた、日本礼賛にことよせた英国の改良運動ゆ

えに、第二のジャポニスムとしてとらえられるかもしれない。一九〇八年、武士道と柔術に言及しなが

ら、日本をスパルタのような堅忍不抜の国として喧伝し、英国の若者に「最初に国のこと、それから自分

のこと(‘Country first, self second’)」を訴えたベーデン=パウエルによるボーイスカウト運動などは、そ

の典型的な一例といえよう4。これら柔術や武士道は、日露戦争以前から紹介があったにもかかわらず、

一部をのぞいてさして人々の関心を集めなかった。したがって日露戦争を契機にして、流行と流用が生ま

れたといえるのだが、それでは英国のどのような土壌がそれを可能にしたのか。本稿は、エドワード朝の

教育改革と国民道徳の模索に注目し、その流用の過程をみてみることにしたい。

1 日露戦争の報道 『タイムズ』紙の社説を中心に

『タイムズ』紙の社説を中心に

ロシアとの戦争で日本がどれだけ好意的に英国で報道されたのか、そして日本側も外国人記者をプロ

パガンダとして利用しようとしたかは、お雇い外国人の医師として東京に滞在し、各国の要人に会い、多

くの新聞に目を通していたベルツの日記に端的に現れている。旅順陥落の目前、一九〇四年十二月三十日

に、開戦この方を振り返って、以下のように記している。

イギリスの新聞の日本礼賛は、はてしがない。アメリカの方はもう、ずっと控え目になった。だが、

日本も如才なく、アングロ・サクソンの世界で、じゃんじゃん警鐘を打鳴らすことを心得ている。雑

誌類は、日本関係の記事で一杯だ。そして米・英の日本特派員は、今や全くの賓客扱いで、記事の提

供をうけている5。



Page 3

- 179 -

もっとも、外国人記者を「賓客」扱いして

東京で接待するばかりで、なかなか従軍させ

ないことにいらだつジャック・ロンドンのよ

うな記者もいたことは、ベルツ自身も記すと

おりである6。一九〇四年三月十六日号の『パ

ンチ』誌掲載の「東洋の知恵」と題された挿

絵が巧みに示唆するように(図 1)、「検閲」

と書かれた白布で従軍記者を目隠しする日

本の軍人は、背後からスカーフで旅人を絞殺

するインドの伝説的な暗殺集団サグを連想

させ、油断のならない警戒感をうかがわせる

7。事実、日本側の報道規制と広報活動は必ず

しも功を奏したとは言い難いのだが8、それ

でもなお英国の新聞の「日本礼賛」が続いた

ことは確かである9。この引用からまもなく

して旅順が陥落し、一九〇五年の一月八日、

ベルツは、「イギリスの新聞のように、あん

なに持ち上げたのでは、日本人の間に、危険

な自惚れが頭をもたげざるを得ない。この結

果を、いつかイギリスは思い知ることだろう」

と不吉めいた予言を日記に書き付けている

10。

図 1

そこで、ここでは『タイムズ』からの例を

いくつかみてみることにしよう。その社説はしばしば政府を代弁するものとして知られるが、『タイムズ』

の社説では日露戦争の経過はほぼ日をおかず詳細に報道され、おおむね好意的に評価されていた。たとえ

ば開戦に際して、仁川沖でのワリヤーグとコレーツへの攻撃と沈没についてロシアはその「奇襲攻撃」を

非難したが、『タイムズ』の社説は早くも一九〇四年二月十一日において、その問題は単に「アカデミッ

クな興味を引くものでしかなく」、「現代の慣習においては、正式な宣戦布告というものは、規則というよ

りも例外にすぎない」と擁護した11。旅順陥落についての社説では、勝算が低いにもかかわらず、難攻不

落の砦を攻撃しつづけた「粘り強さ」と「壮烈な勇気」をたたえ、日本は、西洋の文明をわずか一世代の

あいだに完璧に習得したことに驚嘆してみせている12。そうした精神主義の強調は、日本海海戦について

の社説でいっそう明らかとなる。両艦隊が同等の戦力であったにもかかわらず、日本側の被害が少なくロ

シア側が全滅したのは、戦術や技術が原因なのではなく、「すみずみまで行き渡った義務と愛国の心」す

なわち「武士道の産物」というのである13。

また、ヨーロッパ大陸を中心にしてくすぶり始めた黄禍論についても反論しており、むしろ日本の文明

化をたたえることで、等しく列強として処遇すべきことを「タイムズ」の社説は幾度にもわたって訴えて

いる。そもそも二千五百年にわたって、外国と「混血」することなく島国で生活してきた民族と、ほかの

「反動的なアジア諸国」とは「同じ血」に属するとすら言い難く、日本が黄色人種を統率することはきわ

めて考えにくいと、ある社説は述べている14。この黄色人種とは主に中国を念頭においてのことなのだが、

旅順陥落直後の社説では、その中国と日本とは、「白人」同様に「人種の相違点」や利害の不一致が多い



Page 4

- 180 -

ことを改めて指摘し、氾アジア主義や黄色人種による連合がいかに幻想の産物であるか強調している15。

このように、こと社説に限ってみても、一貫して『タイムズ』紙は日本の文明化を強調し、その高い士気

をたたえ、黄禍論のような否定的な論調に対して、日本とほかの東洋諸国との相違点を指摘して反駁を繰

り返したのだった。

これはまた日本政府の公式見解、とくに広報大使として英国に派遣された末松謙澄の主張とほぼ一致

している。事実、旅順が陥落してまもなく、末松がロンドンで演説した「歴史的にみた中国の膨脹」16は、

その詳細が『タイムズ』で紹介されたが17、中国を、元来、平和な民族国家とみなす主張は別として、日

中の差異を強調するあたりは、末松の講演の四日前に掲載された『タイムズ』の社説とも共通するところ

であった。このように英国の新聞が日本と同調していたことは、同じ頃、ロンドンにいた劇作家の島村抱

月が『読売新聞』ほかへ書き送った記録からもうかがえる。抱月は、明治三五年春から三七年秋まで英国

に留学していたのだが、日露戦争がボーア戦争と同じくらい耳目を集めていて、その報道に一喜一憂する

こと「殆んど英国みづから戦ッてでもいるようである」と感激している18。新聞では『タイムズ』を先鋒

に、「殆んど凡て、及ばん限りの力を日本の弁護に尽し」、ヨーロッパ大陸の新聞が黄禍論を訴えるのに対

しても「一々弁駁争議の労を吝まず」、この友誼にはしかるべく報いなければならないというのである19。

とはいえ、日本の善戦や勝利の理由を技術より、もっぱら士気にばかり求める論調が、日本よりむしろ

英国で多かったのは、大きな相違点といわなければならない。ここには、物量の差からすぐに圧勝できる

と信じられたボーア戦争での苦戦を経たところ

が大きい。というのも、日清戦争においては事情

がまったく異なっていたからである。たとえば

新渡戸稲造は『武士道』(一九〇〇)において、

日清戦争に日本が勝利できたのは「レミントン

銃とクルップ砲」を持っていたからにすぎない

といった、とくにアメリカで顕著な技術決定論

に対して、それらの武器を使いこなした「武士

道」という精神の重要性を強調しなければなら

なかった20。それに対し日露戦争に際しては、む

しろ英国の方で武士道によって日本の善戦が説

明されたのである。二十世紀の戦争においては、

新渡戸が述べた「武士道」のように、宗教や階級

に縛られない国民道徳が兵士の育成に効果があ

り、それをボーア戦争に苦戦した英国は取り入

れるべきではないのかと、国家再生の鍵として

期待をもって報道されたのである。こうした風

潮を示す初期の一例が、風刺画雑誌『パンチ』の

一九〇四年七月六日号に掲載されている(図 2)。

その絵は「愛国心の勉強」と題され、着物姿の日

本人女性が、旅順の地図を前に説明するのを、英

国人の象徴であるジョン・ブルが神妙に聞いて

いる様子が描かれている。その台詞には、

図 2



Page 5

- 181 -

ジョン・ブル「あなたの陸軍の組織はすばらしくうまくいっているようだけど、いったいどうやった

らそんなことができるんだろうか?」

日本「それはとても単純なことです。わたしたちのところにいる男たちは、国のためならいつだって

自分の身を捧げる覚悟ができています。だから現に、あんなふうに実行できるんですよ。」

ジョン・ブル「それはうまいやりかただね。私も国で試してみることにしよう。」21

とあって、国のために自己犠牲を厭わない兵士たちへの関心が、やや皮肉まじりながら、うかがうことが

できる。この絵より数ヶ月前、二月から五月にかけての旅巡港閉塞作戦が、その失敗にもかかわらず、『タ

イムズ』紙などで、その広瀬武夫の死とともに好意的に大きく報道されていたので22、そうした風潮をふ

まえてのことであろう。『タイムズ』紙の社説にみる精神性の強調は、こうした『パンチ』誌の疑問と連

続していることがうかがえる。

一方、その旅順で決死の作戦に従事していた桜井忠温は、皮肉にもボーア戦争でのボーア人の善戦こ

そ、士気が物量に勝る一例だと考えていた。桜井は、そのベストセラー『肉弾』(一九〇六)で、

世界の最大強国として自負せる英人が、弾丸黒子の地に割據したるボア人と戦端を開いた時には、世

界は挙りて、是れ恰も鉄槌を以て卵子を砕くが如きのみと信じいた。然るに意外にも、英軍の敗報連

りに天下を驚かしたは何故か。乃ちボア人の勇敢慧敏なると、彼等の祖先以来英人に対する歴史的敵

愾心と、又其スパルタ的精神教育とに基因したことは云うまでも無い23。

と、記している。桜井忠温の『肉弾』は、宣伝もかねて翌一九〇七年に本田増次郎とアリス・ベーコンに

よって英訳が出版され、新渡戸の『武士道』同様に、そこから各国語訳が刊行された。自己犠牲をいとわ

ないどころかむしろ誇りに思う「忠君愛国」ぶりは、英国にも衝撃を与えたが、当然のことながら、この

一節は英訳されることはなかった。

2 柔術と武士道の流行

柔術と武士道の流行 レピントンの「国民の魂」を中心に

レピントンの「国民の魂」を中心に

ボーア戦後の英国で、桜井にならえば日本の善戦には「スパルタ的精神教育」に起因するのではないか

という同時代の見立てを裏書きし、「武士道」を用いて明確に説明して、英国でその言葉を広めた最大の

立役者こそが、『タイムズ』の軍事通信員チャールズ・レピントンである24。たしかに一九〇四年の八月

から十月にかけて、日本陸軍は宣伝と参考資料として、新渡戸の『武士道』を戦地で従軍する各国記者に

配布した記録が残っており、それらの影響を看過することはできまい25。裳華房から寄贈とあるので、一

九〇二年に刊行された英文の『武士道評論』かと思われるが、新渡戸の『武士道』はよく読まれたものの、

従軍した作家ジャック・ロンドンの例が示すように、むしろ黄禍論へと転用されたところがあった26。一

九〇五年に新渡戸は、『武士道』の増補改訂版を刊行するが、それが日露開戦から約一年経過した後手の

作業であることが示すように、それだけ関心が高まった素地そのものは、新渡戸によるというよりも、そ

の著作を援用したレピントンが形成したといっても過言ではない。新渡戸に依拠しつつ武士道を英国で

宣伝したという点では、日本政府の意を受けたアルフレッド・ステッドや末松謙澄も講演と著作で力説し

たが27、各種評論や記事への言及や引用といった影響力から考えると、あいにくレピントンに及ぶことは

なかった。



Page 6

- 182 -

そのレピントンの記事「国民の魂」は、前述の『パンチ』の「愛国心の勉強」から約三ヶ月後、ちょう

ど陸軍が従軍記者に新渡戸の『武士道』を配布していたころの一九〇四年十月四日付け『タイムズ』に掲

載された。同紙で戦況を細かく報道してきたレピントンは、こうした日本兵の誇り高い勇気と国家への忠

誠は、武士道に起因すると説明したのである。スパルタになぞらえながら、日本の武士道は「政治的にみ

れば国民道徳のシステムとして実に称賛すべき内容」であり、英国はもっと見習うべきではないかと提案

したのだった28。後日、『タイムズ』紙には賛否両論の投書が掲載されたが、深く記事に同意した意見の

方が多く、さらにミース卿が提案する投書に従って、記事はパンフレットとして再発行されることになっ

たのである29。この「国民の魂」は新渡戸について言及こそしていないものの、内容からみて『武士道』

をふまえて書かれているのは明らかである。

いうまでもなく、「武士道」という言葉を英語圏に広めたのは新渡戸の功績である。チェンバレンが「新

宗教の発明」(一九一二)で批判したように、新渡戸の造語とまではいえないまでも、新渡戸の『武士道』

刊行以降、日本の近代化と愛国心とを説明する原理として重宝されたことに変わりはない30。ただレピン

トンの記事の重要性は、もともとアメリカに向けて書かれた『武士道』を、ボーア戦争での英国の苦戦と

いう、衝撃がさめやらぬ当時の関心にそって要約し紹介した点にある。その結果、いわば『武士道』はよ

り身近なものとして、より切実な問題意識とともに、英国でいわば再発見されたのである。そんなレピン

トンの影響はまた日本にも及んでいた。彼の連載記事は、時を置かずして『時事新報』に森晋太郎によっ

て訳載され、それらすべてが各種情報資料として切り抜いて保管された31。連載終了後には、斉藤実はじ

め軍人諸家の序文を多数冠してタイムス軍事投書家稿『タイムス日露戦争批評』(時事新報社、一九〇五

年)として一書にまとめられたのだった。「国民の士気」と訳された「国民の魂」の記事は、『時事新報』

掲載のころから評判となり、たとえば読売新聞ではやや「買い被りの嫌い」があるため、背に「冷汗」す

る読者がいないことを祈ると論評した記事があるほか、出征兵士に小冊子として頒布を願い出た例まで

あったという32。こうした事例からも、日本よりもむしろ英国で、日本の善戦は武士道に起因すると報道

され、その結果、日本でも忠君愛国の原理として武士道への注目がいっそう高まったことが考えられよ

う。

そもそも、日露戦争時の英国では、愛国心により国民国家を改良し、大英帝国の臣民として自覚を高め

ようという機運が高まっていた。レピントンの「国民の魂」を小冊子にするよう提案したミース卿は、ち

ょうど日露開戦からほどなく、ヴィクトリア女王の誕生日である五月二十四日を祝い、学校では国旗を掲

揚し、国歌を斉唱すべきだという「帝国記念日(Empire Day)」運動を始めていた。日本の愛国教育と、

日本兵の「自己犠牲と忠誠心」とが参照されたことはいうまでもない33。辛くも勝利したボーア戦争につ

いていえば、終戦の翌年一九〇三年五月には、戦争に志願した一万一千人のうち、八千人が兵士として不

合格になったことが報じられ、この事実は英国人が「人種的退化」に陥っている例として、その後も衝撃

のみ一人歩きして繰り返し言及されることになる34。一九〇四年には、「身体的劣化」についての合同委

員会報告書が提出され、「人種的退化」自体は否定されるのだが、未成年の喫煙や飲酒を規制し、ドイツ

やスウェーデンの制度を参考に、身体を訓練する必要性が改めて強調されることとなった35。

柔術もまた、こうした外国の身体文化への関心が高まりのなかで、日露戦争とあいまって注目されたの

である。すでに一九〇〇年に、谷幸雄が自分よりも重く大きな男をねじ伏せる柔術によって、ミュージッ

ク・ホールのような娯楽の場で人気を呼んでいた36。それが、前述の島村抱月によれば、「時節柄ではあ

り、日本の柔術というものは疾くから西洋人間に評判のものであるため、何れの新聞もこのたびの戦争に

因みをもたせて盛んに書き立てた」と、「柔術家の谷君」が見世物だけではなく言論の場でも話題になっ

たことを記している37。小国のボーアに苦戦した英国が、日本がロシアに善戦するなかで国民効率化の鍵



Page 7

- 183 -

として柔術に注目し、武士道はその説明原理として見いだされたのである38。実際、その谷による模範演

技の写真が満載された『柔術』という書物の序文では、柔術を武士道によって説明しながら、レピントン

の「国民の魂」を引用している39。複数の日本人が英国で柔術や柔道を教え、流行に棹さしたことは興味

深い現象ではあり、彼等の功績もさることながら、こうした同時代英国の文脈は見逃すことはできないだ

ろう。

その点で示唆に富むのは、パンチの一九〇五年五月二四日号掲載の図 3「財政の柔術」である40。財政

問題で対立するジョセフ・チェンバレンに対し、握手して受け入れると見せかけて、組み伏せるアーサ

ー・バルフォア首相を二枚の続き絵で描き、いわば寝技の政治を風刺した一枚である。ただ正確には柔術

ではなく、おそらく『ピアソンズ・マガジン』一八九九年四月号に掲載されたバーティツの図解(図 4)

を参考にしたものだろう41。逆版になっているのは、おそらく挿絵画家のサンボーンが線をトレースした

からだと思われる42。そしてこのバーティツとは、その名が示すように、バートン=ライトが、和服

左 図 3 上 図 4

を前提にした柔術を洋服の英国人の護身術へと作り替えたバートン流柔術の意味である43。武士道の流布

にレピントンが大きな役割を果たしたように、柔術においても、英国の土壌に根付くよう仕立て直した媒

介者の存在が大きかったことを示す一例といえるだろう。

このように広範な影響が示すように、レピントンは「国民の魂」で、先のボーア戦争での苦戦の記憶と、

現在進行中の日露戦争の報道を巧みに組み合わせた。小国のボーアに苦戦してしまうほど、まともな「宗

教戦争」や「愛国」戦争ができなくなってしまった英国と、「広瀬中佐の精神」とを対比したのである。

そして、そうした名誉と勇気を尊ぶ武士道が、スパルタのように過去から連綿と続いている例として、鎌

倉権五郎景正(Gongoro)の故事に言及している。権五郎は眼に矢が刺さったまま奮闘したが、あとでそ

の矢を自分の顔に足をかけて引き抜いた男を、武士の顔を足蹴にしたとして責めたと紹介しており、それ

だけ武士は名誉を重んじるため、場合によっては「切腹(harakiri)」を厭わないことを強調したのであ

る。レピントンは柔術にこそ言及していないものの、こうした歴史的な故事の恣意的な援用は、ボーア戦

争後の英国で、主にドイツを参考にしながら、初等教育で体育と歴史の必修化にふみきったことと関係づ



Page 8

- 184 -

けることができる。このとき、本来、一部の上層階級がたしなむスポーツと歴史が、国民全体を規律し、

統合する科目へと大きく変化したのである。従って軍事目的に沿って体育が導入されたように、歴史もま

た国民としての一体感と愛国心を育成することが期待された。たとえば、前年の改正教育令に基づいて一

九〇五年に作成された『教師手引書』では、複雑な史実よりも「偉人の偉業」に重きをおくことが指示さ

れている44。新渡戸の『武士道』では、やや不正確な歴史的挿話や故事が史実と創作を混同したまま参照

され、過去との連続性も恣意的に強調されており、その点についてはすでに発表当時から批判があった

45。「国民の魂」でも同じ傾向がみられるが、そうした国民の歴史と尚武の強調は、むしろ英国の教育改

革が目指すものと多く共通していたのである。

第二の点は、宗教問題にふれずに国民道徳を涵養することが武士道には可能ではないか、と指摘したこ

とである。もはや「宗教戦争によって燃え上がるような息吹を感じることが皆無」な英国にとって、「宗

教ではなく哲学である」武士道は、キリスト教の各宗派の争いや違いの問題を超えて、「規律と団結を促

進し、個人を国家に埋没させ」ることができるのではないか、と述べたのだった。英国の場合、「騎士道

(chivalry)」では階級の壁を乗り越えられないが、本来、「侍(samurai)」のものだったにもかかわらず国

民道徳へと浸透していった「武士道」ならば、宗派や階級の対立を超えて、国民を一致団結させることが

できるのではないかというのである。こうした関心は、同時代の英国において、宗教教育と道徳教育との

関係をどのようにすべきか、激しく論争が繰り広げられていたことと切り離すことはできない。一九〇四

年の改正教育令で、宗教教育とは無関係の道徳教育が初等教育に導入され、「子どもたちに勤勉、自律、

そして困難な状況に直面したときのための勇気ある忍耐を養い、高貴なものに対する崇拝、いつでも自己

を犠牲にする覚悟、純潔と真実を求めて努力することを教える」よう求められたからである46。新渡戸は、

『武士道』の序文で、宗教教育のない日本で道徳教育はいったい可能なのかと、否定的に質問されたこと

が執筆の動機となったと記しているが47、日露戦争のころの英国では、まさに宗教教育とは別個の道徳教

育が模索されていたのである。

このようにボーア戦争後の英国では、宗派間の相違を超えるような愛国心や自己犠牲の精神の涵養が

試みられており、レピントンの「国民の魂」は当時の風潮に寄り添う形で、武士道が一つの手本になるこ

とを示唆したといえる。それだけでなく、日露戦争中にレピントンは、膨大な通信記事を『タイムズ』紙

に掲載したが、そのなかで精神力の重要性を幾度となく強調している。一例を挙げると、レピントンによ

れば、奉天の会戦の勝利は、日本の「いかなる犠牲も厭わない」「団結」によって、つまり、この「道徳

の力(moral forces)」こそが「物量の力(material strength)」を「二倍、三倍にした」ためにもたらされた

としている48。レピントンの通信記事は、「国民の魂」を含めて、『極東での戦争』という七百頁近い書物

として一九〇五年に刊行されたが、そのなかでも、こうした「道徳の力」は繰り返し力説されている。前

述したように、『タイムズ』の社説は、日本海海戦の勝利を「武士道の産物」としたが、その際に、東郷

平八郎の信号旗は「ネルソン提督のものとほとんど同一」だったと記してもいる49。東郷が、日本海海戦

を百年前のトラファルガー海戦に重ね、ネルソンが「イングランドは各人が義務を全うすることを期待し

ている」という一節を念頭において、「興国の荒廃此の一戦にあり、各員一層奮励努力せよ」と信号を送

ったとは、すでに当時からよく言われてきた。これまで見てきたように当時の英国は「各人が義務を全う

する」体制を模索しており、それゆえ東郷の信号旗は、彼が望んだ以上にネルソンと重ねられ、英国民へ

の呼びかけのように翻訳されたことは無理からぬことであったと思われる。



Page 9

- 185 -

3 武士道の流行と同時代の風刺

武士道の流行と同時代の風刺

こうした英国の武士道熱を、外交辞令も含め、もっともはっきりと示す例が、リーズデール卿こと、A・

B・ミットフォードによる『日本へのガーター使節団』(一九〇六)である50。日露戦争での「業績」から、

明治天皇は英国最高の勲章であるガーター勲章を授与されることになったが、明治天皇が渡英できない

ため、コンノート公爵家のアーサー王子を団長とする使節団が組織された。使節団は、一九〇六年一月に

ロンドンを出発し、二月に横浜港に到着し、明治天皇のほかにも、大山巌や東郷平八郎にはメリット勲章

を授与するなど、高官たちに勲章がばらまかれることになった。このメリット勲章は一九〇二年に国王エ

ドワード七世が創設した特別の勲章で、ボーア戦争の英雄フレデリック・ロバーツなど陸海軍の大御所が

受賞してきたが、大山や東郷はこの「名誉勲位」を受けた最初の外国人であった51。『日本へのガーター

使節団』は、そのときの様子を日誌形式で記録した報告書である。

ミットフォードは、一八六六年から一八七〇年まで、英国公使館の書記官として日本に滞在したことが

あり、その滞在を生かして書かれた『古い日本の物語』(一八七一)は、忠臣蔵の物語を紹介するなど、

西欧世界に日本事情を周知させる代表的な書物となった。とりわけ、神戸事件によって滝善三郎が切腹す

る様子を詳細に記録した一文は英語世界に「ハラキリ」を定着させたほどに名高く、たとえば新渡戸は

『武士道』で切腹を説明する際に、簡にして要を得ているためとして、ミットフォードの記述をそのまま

掲載している52。そのミットフォードが、この『日本へのガーター使節団』で日本の「武士道」を幾度と

なく褒めそやし、これこそがいまの日本を築いたと記しているのは、驚くに当たらないだろう。武士道で

は「死ぬことこそが重要な点」であり、日本の女性は息子たちが国のために身を捧げることを厭わないと

賞賛し53、それだからこそ日本には国のために身をなげうつ無数の「広瀬」がいるというのである54。少

年少女の一糸乱れぬ行進については、先のロバーツ陸軍元帥がみたら喜びそうだと特記し、女性による柔

術の演技に感心しているだけでなく、江田島の海軍兵学校で柔術を体育として賞賛しているのも55、一九

〇四年に「身体的劣化」についての報告書を提出する合同委員会で、英国の初等教育で体育と軍事教練と

の関係をどうすべきか、各国の例をひきながら、かまびすしく議論されていたことを念頭においてのこと

だろう56。徴兵制度についても、「近年、階級間の格差を撤廃したこと」によって、「侍」のみが兵士にな

れた旧時代と異なり、優秀な将校や将軍が生まれたことを注記している57。これもまた、レピントンと同

じく、「武士道」が本来、武士階級のものだったにもかかわらず、兵士全体に共有されていることへの関

心に根ざしている。

これはもちろん、日本で読まれることを意図しての外交辞令ということでもある。実際、ミットフォー

ド個人は、「古い日本」にこそ愛着はあっても、新しい日本については、むしろ警戒と失望を感じていた。

たとえばわずか六年前、一九〇〇年の義和団事件に際しては、日本政府が西欧列強と足並みを揃えること

に好意的な『タイムズ』紙に反論して、義和団事件を契機にして、日本が反ヨーロッパのアジア同盟を構

築する可能性を挙げ、警告の投書を掲載していた。ほんの二、三十年前の日本では義和団と同じような

「狂信的」攘夷が多くみられたことを忘れるべきではなく、「侍」という言葉こそ消え去っても、「古い日

本の精神である大和魂」はまだ死ぬことなく、その「攻撃的な」国民性とあいまって、いつ火山のように

爆発するか知れたものではないと、警告したのである。この投書の影響は大きく、フランスでは黄禍論を

引き起こす契機となり、日本の外務省も問題視するところとなった58。つまり、三国干渉を賢明な措置と

して言及し、中国と日本の連合の危険性を訴え、「満州」が日本の支配下におかれないようロシアに期待

すべきと述べていたミットフォードが、日本へのガーター使節団随行を命ぜられたことになる59。従って、

これはあえてガーター勲章と共に送りこみ、日本賛美の報告書を書かせることで、日本政府に対する警戒



Page 10

- 186 -

心を解いて懐柔しようとした行為といえるかもしれない。ただミットフォード自身はといえば、一九一四

年の著作『日本の遺産』では、再び、日本が中国とアジア連合を率いる危険性について激しい筆致で記し

ており、持論を変えた様子はない60。いずれにせよ、ミットフォードの事例は単なる歴史の皮肉というよ

りも、日本や武士道への高い評価が、英国国内の事情と密接に連動しており、武士道の評価はその脅威と

も表裏一体であったことを示す端的な例といえよう。

実際、英国の日本礼賛は、列強のなかでも特有のものであった。冒頭で引用したベルツが記すように、

アメリカには冷ややかな意見も多数見られたからである。例えばニューヨーク・タイムズ紙は、ロンド

ン・タイムズの「国民の魂」が持ち上げる「武士道(bushidu [sic])」は、しょせん「日本を危険にする狂

信主義」にすぎず、日本が体現しているのは、「近代西洋文明の理念」にほかならないと、醒めた批判を

している61。例外的ながら、英国でも似たような批判があった。日露戦争時、日本批判は事実上不可能だ

ったと回想した G・K・チェスタトンは、同じ趣旨の指摘をやんわりと、しかし、特異な逆説と警句を好

んだ保守派文人らしい筆致で記している。一九〇六年八月二五日号の『絵入りロンドン新聞』に寄せた一

文で、彼は、日露戦争後の柔術の流行をこんなふうに風刺している。

日本の勝利を、日本人は大いに誇るべきだ。しかし、それは日本的方法や、いわんや日本文明にとっ

ては誇るべきことでもなんでもない。今回の勝利は、あくまでヨーロッパの模倣によってもたらされ

たのであって、ヨーロッパをまねなければ勝つことはありえなかったからだ。日本の格闘技とか、何

か日本的なもので日本が勝ったわけではないのである。黒木とクロポトキンは、両国軍が見守るなか

で、柔術の試合などしたわけではない。日本の勝利は、日本の連中が柔術を知っていたのに、ロシア

人は知らなかったからというわけでもない。日本の貴族は刀が二本差しなのに、ロシア人は一本差し

だからといって、何の関係もないのと同じことだ。なのに、勝利のあとには、いつもこうしたファッ

ションばかり流行する。勝った者の衣装、哲学、壁紙が模倣されるのだ62。

実際、当時の英国ではキモノが流行しており63、マダム・タッソーの蝋人形館では東郷や乃木の蝋人形が

並んでいた64。こうしたキモノや武士道、柔術の流行を、チェスタトンは日露戦争での勝利が理由と考え

たのだった65。たしかに、柔術や「哲学」が流行したのは、十九世紀のジャポニスムではほとんど見られ

なかった現象であり、チェスタトンが苦々しく指摘するのも無理はなかったといえる。

一方、柔術については、ついにロンドン警視庁で教えられるに及び、自身も日本へ行ったことのある

E・T・リードが、一九〇五年九月六日号の『パンチ』で、いっそ服装も日本風にしたらどうだろうと、

十九世紀の皮相なジャポニスムとの連続性を指摘するように風刺している(図 5)66。チェスタトン自身

は、柔術とは「普通のレスリングにファウル・プレイを加味したもの」と甚だしい誤解をしているのであ

るが、両者の軽妙な批判から、「日本的方法」が表面的に流行した土壌は共通のものであることが推測で

きよう。ほかにも作家の H・G・ウェルズによる『モダン・ユートピア』(一九〇五)で、ノブレス・オ

ブリージュを担う未来の特権階級が「サムライ」と名付けられているのもその現れである67。これは階級

を横断する国民道徳として武士道に注目したレピントンらとは異なる受容だが、そんな表面的な「流行」

の事例は、他にも「武士道」と名付けられた競走馬がいるなど、枚挙にいとまがない68。

このように「レミントン銃とクルップ砲」で勝利したとささやかれ、新渡戸が『武士道』で弁護しなけ

ればならなかった日清戦争とは違って、英国では日露戦争に際し、あたかも武士道や柔術といった「哲

学」によって勝利したかのように、その精神的側面が強調されたのであった。そしてそれを裏書きするよ

うに、英米へ広報大使として派遣された末松と金子とは、愛国教育の必要性と効果を強調している。末松



Page 11

- 187 -

は、一九〇五年二月、金子は一九〇五年四月、それぞれ教育勅語を紹介し、日露戦争において道徳教育が

重要な役割を果たしたことを主張したのだった69。

図 5

一方、東京で主教をつとめていたウィリアム・オードリーは、そうした風潮の一端を担った『タイムズ』

紙に、日本の過大評価は日英双方にとって幻滅をもたらすことになるという手紙を投書している70。しか

し、オードリーが宗教者であることが示唆するように、こうした意見は少数派であった。ボーア戦争後の

英国では、加速した世俗化と産業化のなかで、階級や宗派の差異を超えた国民道徳ないし国民兵の育成を

模索しており、非キリスト教国家の日本はその格好のモデルと考えられたのである。

4 教科書としての日本

教科書としての日本 ヴィヴィアン・グレイの『大英帝国衰亡史』(一九〇五)について

ヴィヴィアン・グレイの『大英帝国衰亡史』(一九〇五)について

ヴィヴィアン・グレイの『大英帝国衰亡史』(一九〇五)について

こうした武士道の称揚にみられるように、日本の事例を引き合いにだして英国の現状に警鐘を鳴らす

風潮を体現するパンフレットが、一九〇五年に出版された。翌年に出された改訂第二版の巻頭と末尾に

は、二十五にも及ぶ各紙書評からの抜粋が並び、その表紙にある惹句を信じるなら、初版は一万六千部を

売り上げたという。これがヴィヴィアン・グレイによる『大英帝国衰亡史』である71。グレイという名は、

ベンジャミン・ディズレーリが書いた最初の小説 『ヴィヴィアン・グレイ』(一八二六)にちなむ。それ

が野心的で弁舌巧みな青年の立身出世を半自伝風に描いた小説であり、その作者が、十九世紀後半に、帝

国主義を積極的に推し進める宰相になったことを考えれば、大望あふれる若い弁論の徒といった意味だ

ろうか。ほかにもいくつかのパンフレットを同じ筆名で刊行しているが、本名はエリオット・エヴァン

ズ・ミルズということと、オックスフォードで歴史を学んだということのほか、詳細は不明である。

とはいえ、この『大英帝国衰亡史』は、エドワード朝の英国、特にトーリー党が抱いた懸念を見事に要

約した資料として、ハインズが言及して以来72、英国史研究ではつとに注目されてきた。また、題名がギ



Page 12

- 188 -

ボンの『ローマ帝国衰亡史』をふまえているように、エドワード朝においては大英帝国がしばしばローマ

帝国と重ねられたが、その典型的な一例としてもよく知られている73。その影響という点では、ベーデン

=パウエルが、「もし諸君が 6 ペンスを愛国心のために惜しみなく使いたいと思うなら、明日の朝一番に

『大英帝国衰亡史』というパンフレットを買い求めなさい」74と演説したように、彼の『スカウティング・

フォア・ボーイズ』(一九〇八)から始まるボーイスカウト運動と密接な関係があることも有名である75。

にもかかわらず、この『大英帝国衰亡史』が、出版当時から百年後の二〇〇五年に、日本で教科書とし

て使われているという設定で書かれていることについては、ほとんど触れられることはなかった。筆名に

ヴィヴィアン・グレイとはあるものの、『大英帝国衰亡史』は、二〇〇五年の東京で、とある歴史家が国

民学校用に記した歴史書を英訳したという見立てで書かれているのである。たしかに、大英帝国がローマ

帝国と同じ要因で衰退しつつあることを指摘するのが主眼であるから、日本という設定はあくまで、その

設定でしかないともいえよう76。しかし、いわば他山の石として歴史を用いて、英国が滅び去ったいま、

帝国を維持していく「責務は日本にかかっているのである」77と、若い男女に呼びかける国民学校の教科

書という形式は、前述したエドワード朝における歴史の必修化と無視できまい。

大英帝国が崩壊し、「インドはロシアに、南アフリカはドイツに、エジプトはサルタンの手に落ちる一

方で、カナダはアメリカという鷲の翼の下へ避難し、オーストラリアはミカドの保護領となってしまっ

た」78未来、帝国衰亡の理由が、以下のように各節で列挙される。

1 都会が田園の生活を圧倒し、英国人の健康と信仰とに破滅的な影響を及ぼしたこと

2 二〇世紀のあいだに、英国人が保養地として以外は海を見捨てるようになったこと

3 脆弱と贅沢が進んだこと

4 文学と演劇の趣味が堕落したこと

5 英国人の体格と健康が徐々に劣化したこと

6 英国人の間で知的な活力と宗教的な生活とが衰微したこと

7 国民への課税が増大し、地方自治体がそれを浪費したこと

8 教育制度の欠陥が英国中に横行したこと

9 英国人が自国とその帝国とを防衛することができなくなったこと

このうち第八節の教育の機能不全については、一九〇六年の第二版で増補されたものであるが、見出しに

その内容が要約されていることがうかがえよう。時事的な話題についても、たとえば第五節で、前述した

一九〇四年の「身体的劣化」についての合同委員会報告書が言及されるなど、ローマ帝国衰亡史の見立て

を巧みに盛り込んだパンフレットとなっている。こうしてローマ帝国の轍を踏まぬよう、教育を改善し、

軍を整備し、若者に部分的な兵役を実施する必要を訴えるのである。

そもそもローマ帝国の衰退の理由が盛んに論じられ、それが大英帝国と重ねられるようになったのは、

エドワード朝になってからのことだった。その先鞭をつけたのは、サミュエル・ディルの『西ローマ帝国

の最後の一世紀におけるローマ社会』(一八九八)といわれており79、『大英帝国衰亡史』でも七節の注一

でしかるべく言及がある。本稿との関連で重要なのは、このディルの書物が、新渡戸稲造の『武士道』で

も言及されていることだろう。ローマ帝国滅亡の一因は貴族が商業に従事するようになったためという

ディルの説を、新渡戸は武士が商業を嫌悪したことと対比しているのである80。ここで思い起こされるの

は、新渡戸自身は武士道を説明する際にギリシアになぞらえることはほとんどなく、むしろ「ウルトラ・

スパルタ」という形容詞を否定的に用いていることである81。それにもかかわらず、「国民の魂」のレピ



Page 13

- 189 -

ントンを筆頭に、日本やその武士道を賞賛する際に英国では「スパルタ」が肯定的に頻用された。日露戦

争時における日本の評価は、いわば奢侈と退廃のローマと質実剛健のスパルタという図式が、知らず知ら

ずのうちに前提となっていたのである82。

そうした「スパルタ的精神教育」については、「彼ら[英国人]は如何に死すべきかを、われわれ[日本]に

学ばねばならなかった」という一文がある83。これが同時代の英国においてしばしば見られた、国のため

には殉死を厭わない日本兵への驚嘆と切望をあらわしていることは明白だろう。これは、『大英帝国衰亡

史』で部分的な兵役を主張し、健全な市民と健全な兵士とを同一視している点と関連している。当時、兵

役については、陸軍のロバーツがその導入を熱心に説くなど、激しい論争が繰り広げられており、前述し

たように、ミットフォードが整然と行進する男女の若者を日本で眼にしてロバーツが喜びそうだと記し

ているのは、そんな彼の徴兵制導入論を指してのことであった。このパンフレットを書いたヴィヴィア

ン・グレイことミルズは、第九節でロバーツの改革案を肯定的に言及しているだけでなく、彼の演説集を

編集しており、兵役導入も執筆の動機であったと考えられる。そして当時の兵役導入論者は、容易に予想

がつくように、日本を習うべき例として言及することが多かった。実際、「国民の魂」を書いたレピント

ンもまた、徴兵賛成論者の一人にほかならない84。

しかし、模範はまた脅威でもあった。『大英帝国衰亡史』の冒頭で、同盟国英国の危機に際して、はる

か「極西」まで艦隊を派遣できなかった「日本」の無念が触れられながらも、「オーストラリアがミカド

の保護領となった」ことが語られるのはその一例である。これはつまり、日本は同盟国としては遠くにあ

りすぎて頼りにならないこと、しかし、その急成長は、将来、なんらかのかたちで大英帝国の脅威になる

可能性があるということが示されているのである。その点で興味深いのは、九節の注十四で、英国の平和

はアメリカを含むアングロ・サクソンの連携によって可能になるという一節である。このことは、早くも

日露戦争直後の段階で、日英同盟はロシアの勢力を削ぐための過渡的な同盟であり、日本は将来的に大英

帝国の脅威となりうる存在であるため、最終的に必要なのはアメリカとの同盟であると、著者がみなして

いたことを示している。

5 模範と脅威 ベーデン=パウエルの『スカウティング・フォア・ボーイズ』における日本

ベーデン=パウエルの『スカウティング・フォア・ボーイズ』における日本

このように『大英帝国衰亡史』では、ローマ帝国という過去、そして日本という同時代の帝国が、巧み

に大英帝国再生のプロパガンダとして組み合わされている。そして、模範と同時に脅威でもある日本とい

う存在は、『大英帝国衰亡史』の主張に同意し、何をおいても購入することを勧めたベーデン=パウエル

の著作とも連続している。ベーデン=パウエルは、その著作『スカウティング・フォア・ボーイズ』(一

九〇八)から始まるボーイスカウト運動の創始者として名高いが、そこでは日本が習うべき良い例とし

て、ローマ帝国が避けるべき悪い例として、それぞれ言及されているのである。

ベーデン=パウエルが、公の場で日本に言及したのは、一九〇四年の十一月での講演のことといわれる

が85、その内容は翌月の「イートン・クロニクル」に掲載されている。そこで、ベーデン=パウエルは目

下、進行中の日露戦争に触れ、強国に囲まれた島国という共通点をもつ日本に英国は見習うべきではない

かと述べている。

日本の成功した原因を考えてみるに、そのほとんどは日本人全体にある軍人精神と自己を犠牲に

する愛国心とにもとめられるだろう。(中略)



Page 14

- 190 -

どのようにして日本の連中はそんな愛国心を抱くようになったのか。

アッパークラスの少年が、父祖である侍(つまり、日本の騎士)の騎士道を学び、大きくなればそ

れを実践し、さらにはミドルクラスやワーキングクラスに教えたからである。つまり、彼らは子ども

のときに始めているのだ。

われわれのイングランドにも、中世の騎士のなかに振り返るべきすばらしい先祖がいる。しかし、

わたしたちは、彼らのまねをすべきなのに、そうしていない。

もし子どものときに、先祖の愛国心を学び、その名誉と自己犠牲という理想を実践に移し、武器の

扱いを修練すれば、そうしてから同じことをこの国にいるすべての若者に教えるならば、われわれも

日本の連中と同じくらい、どんな外国の侵略にも負けない強国になるにちがいない86。

これは、『タイムズ』紙にみられるような、当時の英国の典型的な日露戦争観であるといってよいだろう。

事実、その素地を形成したレピントンの「国民の魂」は、ベーデン=パウエルの講演の約一ヶ月前、十月

四日に掲載されている。「国民の魂」でレピントンが強調したように、ベーデン=パウエルもまた、騎士

階級にとどまらずアッパークラスからワーキングクラスまで国民全体に浸透した道徳、具体的には自己

犠牲の精神、に注目している。島国という共通点についても、レピントンは、

今日、日本が実行していることは、島国の帝国にとって理想的かつ模範的な戦略であり、この戦略を

もっと学べば、わがブリテンの王冠の下にある広大な領土で戦争を防止することも期待できよう87。

と述べており、ベーデン=パウエルとの連続性がうかがえる。こうした日本理解は、以下の引用のよう

に、『スカウティング・フォア・ボーイズ』でも踏襲されている。

ボーイスカウト組織の目的の一つは、かつて我が人種の道徳におおきな影響を及ぼしていた騎士道

を、現代の英国に復活できないかということである。ちょうど古代の「侍」という騎士たちの武士道

が、いまなお日本を支配しているように、騎士道を蘇らせようというわけである。残念ながら、騎士

道はあらかた滅びようとしている。一方で、日本の武士道は今でも子供に教え込まれており、日常生

活のなかで実践される存在なのである88。

こうしてベーデン=パウエルは、日露戦争から二つの逸話をとりあげている。一つは、「親切」の見出し

で、旅順において、ロシア兵が日本の塹壕に母宛の手紙を金品とともに投げ入れたところ、日本兵はそれ

を開封せずに、上官に報告し、上官が電報でその内容を母親に伝えたというものである。また「勇気」の

項目では、ロシア軍の砦を爆破する際に、その爆弾を押さえて発火しなければならなかったため兵士が自

爆したという話を紹介している89。この二つの挿話は出典が不明だが、後者については、一七〇六年のト

リノの戦いで、地下トンネルで爆死してフランス軍に抗戦したピエトロ・ミカの逸話と酷似しているの

で、広瀬あたりの逸話と混同したのかもしれない90。

武士道を示す逸話としては、『スカウティング・フォア・ボーイズ』以外でも、ベーデン=パウエルは

鎌倉権五郎景正(ただし、“Gorgorro”と誤記されている)の故事を挙げている91。そのとき、レピントン

の「国民の魂」と同様に、権五郎は矢を抜かれたあと、武士の顔を足蹴にしたと責めたと記しているので、

レピントンが参照されたのかもしれない。たとえ直接ではないにしても、武士と日本兵とを連続してとら

える見方はレピントン以降、多く見られたので、こうした同時代の英国の新聞報道などから書き留めたの



Page 15

- 191 -

だろう。

一方、スパルタとは対照的に、大英帝国の反面教師として参照されるのがローマ帝国である。一九〇七

年の五月、ベーデン=パウエルはボースカウトの素案の一つを書いているが、その冒頭で、「偉大なロー

マ帝国の衰退をもたらしたのと同じ要因が、今日のグレート・ブリテンでも作用し始めている」というジ

ョージ・ウィンダムの一節を引用し92、その引用をそのまま『スカウティング・フォア・ボーイズ』でも

繰り返している93。そして『大英帝国衰亡史』と同じ論法で、大英帝国がローマ帝国のように若者の退化

によって崩壊することを食い止めるため、以下のように過去の歴史と父祖とを召喚している。

わが帝国の運命は、君たちのような若い世代の英国人[Britons]にかかっている。君たちは大きくな

って、この帝国を支える男にならなければならない。まちがっても、かつてのローマの若者のように、

愛国心もなく無気力なまま、しかるべき責任も果たさず、ぐずぐずしているうちに父祖の築いた帝国

を失ってしまうような、あんな恥ずかしいまねをしてはならない。

君たちの父祖は、身を粉にして働き、苦しい戦いに耐え、そして激しく戦って死んだ。この帝国は、

そうやって君たちのために築き上げられたのである。天上の先祖に顔向けできないようなことはし

てはならない。帝国のためになんの働きもせず、ただポケットに手を突っ込んでぶらつくばかりとい

う姿を先祖に見せるべきではない94。

上記の一節は、レピントンが「国民の魂」で主張し、一九〇五年の教育改革で呼びかけられた歴史を国民

のものとして実感させる修辞の一つの完成形とみなすことができるだろう。

図 6



Page 16

- 192 -

図 7

そして国民国家だけでなく、国民の身体を規律する範例としても日本は言及されることになる。大英帝

国の衰退に歯止めをかけるため、日本の禁煙法が学ぶべき例として言及され、健康法として柔術が推奨さ

れるのである95。こうしたロウアーミドルクラスとワーキングクラスを効率的に「改良」しようとする試

みは当然のことながら、諸刃の剣となりうる。ベーデン=パウエルが柔術に興味をもち、それをボーイス

カウト運動に取り入れようとしたのは、上西貞一の模範演技を見てからと考えられるのだが、上西はまた

当時盛んだった婦人参政権運動の女性たちに柔術を教えた第一人者でもあった96。そして『パンチ』では

ウォーリス・ミルズが、こうしたロウアーミドルクラスの少年たちに柔術を教えることで、規律が徹底さ

れると同時に反抗の一因となる懸念を、いちはやく一九〇五年の十二月六日号で描いている(図 6)。見

習いの召使いが執事を柔術で投げ飛ばしてしまい、それを「意見の相違」ゆえとうそぶく少年の姿がそれ

である。ほかにもベーデン=パウエルが『スカウティング・フォア・ボーイズ』の草稿を仕上げるよりも

まえ、一九〇七年の三月十三日号の『パンチ』には、柔術を身につけたパンカーストたち婦人参政権運動

家が議院を妨害しないよう、人形で練習をしておいてはどうだろうかという、E・T・リードの挿絵が掲

載されている(図 7)。もちろんこれらは戯れ言として描かれた漫画だが、ベーデン=パウエルが柔術や

武士道によって強化しようとした父権的な階層秩序が、まさにその柔術によって亀裂が入りかねないこ

とを示唆しているといえるだろう。

事実、柔術が諸刃の剣であったように、武士道が褒め称えられる日本もまた、両義的な存在であった。

『大英帝国衰亡史』と同様に、『スカウティング・フォア・ボーイズ』でも、模範とされた日本は同時に

潜在的な脅威として描かれている。英国の陸軍や海軍を縮小しようとする「政治屋」議員を批判して、ベ

ーデン=パウエルは以下のように警告する。

彼らをこのまま、好き勝手にさせておくなら、将来、われわれはドイツ語か日本語を勉強することに

なりそうだ。というのも、私たちは彼らに征服されてしまうかもしれないからである97。

深刻な脅威を及ぼしていた新興国ドイツに比べれば、日本の脅威は潜在的でかつ距離も離れていたため



Page 17

- 193 -

に、改革の対象として参照しやすかったことが考えられる。遠交近攻よろしく、友としての敵のように機

能したともいえるかもしれない。それだけに、『大英帝国衰亡史』でも『スカウティング・フォア・ボー

イズ』でも、日本の脅威は筆をすべらせるようにして書き込まれている。ベーデン=パウエルは、『タイ

ムズ』紙で展開したレピントンの路線に沿って、日本の武士道に対して階級を横断する国民全体の道徳と

いう点で注目した。そして同時代の身体訓練への関心の延長から、柔術にも言及している。愛国教育が目

的である以上、日本の手法が範例として言及されても、それは同時に油断ならない敵となりうるとして警

告するのは当然のことといえるかもしれない。

おわりに

以上のように、英国では、日英同盟という政治経済的な利害のみならず、ボーア戦争後の国民国家の変

革運動のなかで、一つのモデルとして日露戦争における日本の善戦が報道された。その際に精神的な側面

が強調されたのは、ボーア戦争において小国に苦戦させられた苦い記憶ゆえのことであった。『タイムズ』

紙は、その社説においてほぼ一貫して同盟国日本の立場を擁護し、日露戦争を人種的・宗教的対立として

とらえようとする黄禍論に対しては、日本政府の主張と同様に、日本の文明化を強調した。ただ、その社

説において、日本の優勢を技術や物量だけではなく、その古層にある道徳心や滅私奉公の精神にしばしば

帰したのは、日英同盟の利害からだけではなかった。そこには英国の事情が大いに関係していた。日露開

戦の一九〇四年は、「人種的劣化」に関して合同委員会の報告書が提出され、子どもたちを中心とする国

民の身体改善への関心が高まった年でもあった。精神論への注目も、道徳教育を宗教教育から切り離し、

歴史と体育とを必修化して、国を愛し、それに身を捧げる国民を育成しようとする同時期の教育改革運動

と連動している。つまり、英国では、日露戦争と軌を一にして、教育改革と身体改善運動とにより心身と

もに愛国的な兵士の育成が求められていた。一九〇四年から帝国記念日運動を展開したミース卿は、国歌

と国旗とを時に反発を買うほどあからさまな形で敬愛するよう働きかけたが、容易に想像できるように、

日露戦争での日本の善戦は格好の範例として言及されることになった。

新渡戸の『武士道』は、元はといえば日清戦争での勝利を武器の性能に帰するような議論に対して、特

にアメリカの読者を対象にして書かれていた。それを英国の文脈にあわせて紹介したのが、『タイムズ』

紙のレピントンであった。彼は、その「国民の魂」で、武士道が日本の勝利の源であり、武士道が階級を

こえて国民全体の道徳となっていること、父祖と国を敬愛する武士道の教えはキリスト教とも矛盾せず、

むしろ宗派をこえて統合できることを主張した。宗派と階級の相違をこえて、国民としての一体感を創成

することは、ボーア戦後の英国で焦眉ともいえる課題であったため、このレピントンの記事によって、

「武士道」という言葉は、以降、人口に膾炙することとなったのである。たしかに新渡戸の『武士道』あ

ってのレピントンの記事ではあるが、英国での流行に、レピントンによる英国固有の文脈への変換と流用

があったことは特記しておいていいだろう。そして、レピントンが、当時、議論がかまびすしかった兵役

を積極的に導入しようとしていたことも見逃すことはできない。こうした兵役導入論者にとって、日露戦

争での日本兵の活躍は格好の事例として言及されたからである。

そうした規範としての日本へのまなざしを集約するのがヴィヴィアン・グレイによる『大英帝国衰亡

史』である。これは百年後の日本で、滅び去った大英帝国の歴史をもって亀鑑とする国民学校の教科書と

いう設定で記されている。国民の一体感と連続意識とを高めるために歴史が必修化されたことと、この警

世のパンフレットは問題意識を共有しているといってよい。ローマ帝国と大英帝国との衰退を二重写し



Page 18

- 194 -

にするのはエドワード朝に盛んな風潮であったが、日本がスパルタのような質実剛健なギリシアになぞ

らえらえたことと、同じ図式で考える必要があるだろう。

この『大英帝国衰亡史』の問題意識を実践に移し、ミース卿と同じ路線にたって、青少年を動員するこ

とにもっとも成功したのがベーデン=パウエルのボーイスカウト運動である。アッパークラスかアッパ

ーミドルクラスの子弟たちの文化であり、ノブレス・オブリージュだったスポーツ、狩り、愛国心を、ベ

ーデン=パウエルは、ワーキングクラスを含めた少年たちに開放し、彼らの「改良」に身を砕いた。その

理念が記された『スカウティング・フォア・ボーイズ』は、擬似的な父のもとで男同士の紐帯を強化すべ

く、父祖への敬愛と同時に、身体の鍛錬として柔術を薦め、現代の騎士道として武士道を参照している。

しかし、こうした日本の存在は脅威と裏腹だったことは見逃してはならないだろう。日露戦争において、

日本の文明化は称賛され、あるいは脅威として認知され、いわゆる列強入りを果たしたとはよくいわれ

る。しかし、その際に、もっともその文明化の成果を喧伝した英国において、日露戦争の勝因があたかも

武士道か道徳心にあったかのような精神主義の風潮が生まれたのである。

そして、柔術や武士道への英国の熱狂は、後にインドという植民地の男たち、そして英国国内の婦人参

政権運動家たちという、ベーデン=パウエルが意図した男たちの共同体とはおよそ別のところで流用さ

れ、帝国の紐帯は次々に切り崩されることになる98。婦人参政権運動家たちの抗議をかわすため、警官は

人形で柔術の練習をしてはどうだろうと冗談として描かれた戯画(図 7)から、早くも三年後の一九一〇

年には、事態は逆転した形で実現することになった。上西に柔術を習ったイーディス・ガラッドが、警官

の人形を使って、柔術で相手を投げ飛ばす模範演技を、婦人参政権運動家たちの大会で披露したのである

99。一九〇五年に執事を柔術で投げ飛ばしてしまう召使いの少年を描いたウォーリス・ミルズは、めざと

くその一事をとらえ、ほほえみながら警官を投げ飛ばす「柔術使いの婦人参政権運動家」を『パンチ』に

描いたのだった(図 8)100。

図 8

一方、日本でも、こうした柔術熱は逆輸入され、精神が物量に勝る好例としてとらえられるようになっ

てゆく。ベルツが危惧したように、こうした英国での過大な日本評価と精神主義の賞賛は、「危険な自惚

れ」と共振してアジア主義を刺激してゆくことになる。英国がその結果を思い知るのはしばらくしての

ち、第一次世界大戦前夜のことであった。



Page 19

- 195 -

1 本稿は、『近代世界における国民・ジェンダー規範の形成』(加藤千香子代表・科学研究費補助金報告書, 2010

所収の「日露戦争後の英国における武士道と柔術の流行」を大幅に改稿したものである。

2 G.K. Chesterton, Autobiography (London: Hutchinson, 1936), p.123. なお、チェスタトンにみられるよう

な日本批判や黄禍論の世紀転換期の系譜については、Yorimitsu Hashimoto (ed.), Yellow Peril, a Collection

of Historical Sources 4 vols (Tokyo: Edition Synapse, 2012)を参照。

3 G.R. Searle, The Quest for National Efficiency: a Study in British Politics and Political Thought, 1899-

1914 (Oxford: Blackwell, 1971), pp. 54-60.

4 ほかにも、それまですでに紹介されていた「能」や「俳句」が、その簡素な形式のゆえに再評価されるのも、

サールのいう「効率」化の文芸における一例とみなすことが可能だろう。この点については、橋本順光「失

われた大陸を求めて 俳句と英詩とアトランティス」(英米文化学会編『アメリカ 1920 年代―ローリング・

トウェンティーズの光と影』金星堂、二〇〇四年)を参照。

5 トク・ベルツ編『ベルツの日記 下』菅沼竜太郎訳、岩波書店、一九七九年、二八〇頁。

6 トク・ベルツ編『ベルツの日記 下』、七九-八〇頁(一九〇四年五月二十四日)、一一七頁(一九〇四年七月

三日)。

7 ‘The Wisdom of the East’, Punch, March 16 1904.

8 橋本順光「ジャック・ロンドンと日露戦争-従軍記事から「比類なき侵略」(1910)へ」(日露戦争研究会編『日

露戦争研究の新視点』成文社、二〇〇五年)を参照のこと。

9 トク・ベルツ編『ベルツの日記 下』、一七二頁(一九〇四年九月十四日)には、従軍も観戦もできずスパイ

扱いされたことに憤慨する英国人記者もいたとあるものの、全体としては少数派であった。

10 トク・ベルツ編『ベルツの日記 下』、二八八頁(一九〇五年一月八日)。

11 The Times, Februrary 11 1904.

12 The Times, January 3 1905.

13 The Times, June 2 1905.

14 The Times, May 12 1904.

15 The Times, January 7 1905.

16 この末松の論文は、松村正義『ポーツマスへの道 黄禍論とヨーロッパの末松謙澄』原書房、一九八七年、

一六五-一九八頁に詳細に訳出され、紹介されている。

17 ‘Baron Suyematsu on the ‘Yellow Peril’’, The Times, January 12 1905.

18 島村抱月『滞欧文談』春陽堂、一九〇六年、四四一頁。以下、旧字旧かなルビについては読みやすくするた

め一部改めたところがある。

19 島村抱月『滞欧文談』四三二、四三四頁。

20 Inazo Nitobé, Bushido: the Soul of Japan (Philadelphia: Leeds & Biddle Co., 1900), p.124. 邦訳は矢内原

忠雄訳が岩波書店から一九三八年以降、刊行され続けている。なお『武士道』の出版は、著作権を明記した

箇所には一八九九年とあるが、刊行年にその旨を記した版は見つけられなかった。

21 ‘A Lesson in Patriotism’, Punch, July 6 1904.

22 たとえば‘The Attempt to Block Port Arthur: Admiral Togo’s Report’, The Times, March 31 1904 など。

23 桜井忠温『肉弾』英文新誌社、一九〇六年、一三頁。なお、『武士道』の普及版邦訳を一九〇八年に出版し

た桜井鴎村(彦一郎)は、忠温の兄である。

24 こうした英国における武士道の流行とその消長については、Yorimitsu Hashimoto, ‘White Hope or

Yellow Peril? : Bushido, Britain and the Raj’ in David Wolff et al. (eds.), World War Zero: The Russo-

Japanese War in Global Perspective, vol. II (Leiden, forthcoming) を参照。

25 JACAR(アジア歴史資料センター)Ref. C06040682900、大本営 日露戦役「明治 37 年自 6 月 13 日至 8

月 9 日 第 5 号 副臨号書類綴 大本営陸軍副官管」「第 1、2、3 接伴掛 武士道送付の件」(防衛省防衛研究

所)。

26 橋本順光「ジャック・ロンドンと日露戦争-従軍記事から「比類なき侵略」(1910)へ」、二一八頁。

27 アジア歴史資料センター, Ref.B03040670000,「義和団事変後ニ於ケル外国新聞操縦関係雑纂附倫敦ニ於テ

日本ノ利益ヲ代表スル雑誌刊行ノ議ニ付「アルフレッド、ステット」ヨリ申出ノ件」(外務省外交史料館)。

こうした日本の広報戦争において、Japan Weekly Mail 紙の F. Brinkley が『タイムズ』紙に「日本武士道

論」を寄稿して重要な役割を果たしたといわれることがあるが、該当する記事はない。ブリンクリーが日本

政府のいわゆる御用新聞の主筆であったことと、レピントンの「国民の魂」がブリンクリーに言及している

こと、後年、チェンバレンの武士道批判(1912)にブリンクリーが反論したことなどから起きた誤解かと思わ

れる。日本政府による Japan Weekly Mail 紙の懐柔については大谷正『近代日本の対外宣伝』(研文出版、



Page 20

- 196 -

一九九四年)六三-六四頁。チェンバレンとの武士道論争については楠家重敏『ネズミはまだ生きている-

チェンバレンの伝記-』(雄松堂出版、一九八六年)第十一章参照。

28 ‘A Soul of a Nation’, The Times October 4 1904.

29 The Times, December 9, 1904.

30 Hashimoto, ‘White Hope or Yellow Peril?’, p.398.

31 たとえば「国民の魂」は「国民の士気」と訳されて保存されている。アジア歴史資料センター, Ref.

A03023691800, 各種情報資料・タイムス日露戦争批評・「タイムスの日露戦争批評(百八)国民の士気(三)」

(国立公文書館) 。

32 「武士道(倫敦タイムスを読む)」読売新聞一九〇四年十一月十七日、および「出征軍人へ書籍寄贈」一九〇

五年五月二十八日。

33 Hashimoto, ‘White Hope or Yellow Peril?’, p.395. 一方、百年後の日本では、英国教育調査団編『サッチャ

ー改革に学ぶ教育正常化への道 英国教育調査報告』(PHP 研究所、二〇〇五年)など、英国の教育政策が

恣意的に参照されることになった。詳しくは橋本順光「国際理解教育とは何か(2):イギリスを事例に」横

浜国立大学教育人間科学部紀要Ⅰ(教育科学)、十一 、二〇〇六、五四―六〇頁を参照。

34 Searle, The Quest for National Efficiency, p.60; Searle, A New England? : Peace and War 1886-1918

(Oxford: Clarendon Press, 2004), p.305.

35 Searle, A New England?, pp.375-6. 委員会の報告は、『タイムズ』紙でも詳細に報道されている。‘Physical

Deterioration: Report of the Committee’ The Times, July 29 1904 を参照。

36 英国における柔術の移入と身体文化の関わりについては、木下誠「D・H・ロレンス『恋する女たち』にお

ける柔術と身体文化」(武藤浩史,・榑沼範久編『運動+(反)成長』慶應義塾大学出版会、二〇〇三年)および

坂上康博編著『海を渡った柔術と柔道-日本武道のダイナミズム』(青弓社、二〇一〇年)を参照。

37 島村抱月『滞欧文談』、四五九頁。

38 「柔術」が英語圏に広まったのは、『東の国から』(一八九五)所収のラフカディオ・ハーンによる一文「柔術」

からであり、ハーンがそこで嘉納治五郎の柔道を柔術と記したことに始まる。そこでハーンは柔術の精神性

を強調し、日清戦争は柔術によって勝利したのだと記したが、日露戦争期に、ハーンの「柔術」はほとんど

参照も引用もされることなく、もっぱら武士道が利用されることになった。詳しくは、橋本順光「ラフカデ

ィオ・ハーンの時事批評と黄禍論」(平川祐弘編著『講座 小泉八雲Ⅱ ハーンの文学空間』新曜社 二〇〇九

年)五四三-五五九頁を参照。

39 Apollo, Jujitsu: What It Really Is (London, n.d.), pp.19-20.

40 ‘Fiscal Jiu-jitsu’, Punch, May 24 1905.

41 E.W.Barton-Wright, ‘The New Art of Self-defence-How a Man May Defend Himself against Every Form

of Attack’, Pearson’s Magazine (7) 1899, p.402.

42 サンボーンは、長く『パンチ』の顔となった挿絵画家だが、ほかにも自身で撮影した写真を流用して大量の

作品を描いたことがわかっている。詳しくは Robin Simon (ed.), Public Artist, Private Passions: The World

of Edward Linley Sambourne (London: The British Art Journal and The Royal Borough of Kensington

and Chelsea, 2001)を参照。

43 シャーロック・ホームズにも登場する ‘Bartitsu’ については、Emelyne Godfrey, Masculinity, Crime and

Self-defence in Victorian Literature (Basingstoke: Palgrave Macmillan, 2011)が詳しい。

44 井野瀬久美恵『子どもたちの大英帝国』中央公論社、一九九二年、一三二-一三七頁。

45 こうした新渡戸の『武士道』にみる創られた伝統としての構築性については、宇野田尚哉「武士道論の成立

-西洋と東洋のあいだ-」ぺりかん社、『江戸の思想』第七号、一九九七年や、鈴木康史「明治期日本におけ

る武士道の創出」筑波大学体育科学系紀要第二四号、二〇〇一年ですでに指摘されている。

46 梅根悟監修『世界教育史大系 38 道徳教育史 I』講談社、一九七六年、一九八頁、井野瀬久美恵『子どもた

ちの大英帝国』中央公論社、一九九二年、一三一頁。

47 Nitobé, Bushido, preface, v.

48 ‘Cause and Effect’, The Times, March 13 1905.

49 ほかにも The Times, August 22 1905 など、おおむねネルソンを意識した英訳がなされている。

50 Lord Redesdale, The Garter Mission to Japan (London: Macmillan, 1906). 邦訳として A・B・ミットフ

ォード『英国貴族の見た明治日本』長岡祥三訳、新人物往来社、一九八六年、あるいは改題再刊した『ミッ

トフォード日本日記』があるが、老獪な外交官としての側面は十分に触れられていない。

51 君塚直隆「日露戦争と日英王室外交」(軍事史学会編『日露戦争(一)―国際的文脈―』錦正社、二〇〇四年)

一二〇-一二一頁。

52 Nitobé, Bushido, pp.76-80.



Page 21

- 197 -

53 Redesdale, The Garter Mission to Japan, p.250. なお、自著を『武士道』で引用した新渡戸に返礼するか

のように、ミットフォードもまた『武士道』から茶道の記述を引用している。同書 pp.198-200 を参照。

54 Redesdale, The Garter Mission to Japan, p.64. 部下を助けに戻って爆死した広瀬武夫については同書

pp.248-249 で説明がある。

55 Redesdale, The Garter Mission to Japan, pp.64-65.

56 P・C・マッキントッシュ『近代イギリス体育史』加藤橘夫・田中鎮雄訳、ベースボール・マガジン社、一

九七三年、一二一-一二四頁。

57 Redesdale, The Garter Mission to Japan, pp.162-163. ただしミットフォードは、旧時代の身分差別が本

当に解消したのかと黒木為楨大将に質問したところ、「いっしょに食事をしようとしない者もいるが、時が

たてばそんなこともなくなるだろうと、考えているようだった」と記している。同書 p.161 参照。

58 大谷正『近代日本の対外宣伝』研文出版、一九九四年、三二三-三二五頁。

59 ‘Japan and the Chinese Crisis’, The Times July 12 1900.

60 E. Bruce Mitford, Japan’s Inheritance (New York: Dodd, Mead & Co., 1914), pp.364-365. ミットフォー

ドはまた、ドイツにおけるアーリア至上主義の理論的根拠となったことで有名なヒューストン・チェンバレ

ンの『一九世紀の基礎』の英訳(一九一〇)に好意的な序文を寄せてもいる。そして奇しくも、彼の孫娘の

一人ユニティは、ナチズムの熱烈な擁護者となり、唯一の孫息子トマスは共感するナチスドイツではなく、

嫌悪する日本軍との戦いを志望し、旧ビルマで戦死することとなった。詳細は、メアリー・S・ラベル『ミ

ットフォード家の娘たち』粟野真紀子・大城光子訳(講談社、二〇〇五年)を参照。

61 ‘The Yellow Peril’, New York Times April 18 1905.

62 G. K. Chesterton, The Collected Works of G. K. Chesterton, Vol. 27 (San Francisco: Ignatius Press, 1986),

p.269.

63 たとえば一九〇五年に限ってみても、縮緬と思しい‘New Kimona Jacket’についての Draffen & Jarvie’s の

広告や、‘Japanese Kimono Jacket’を紹介する Herbert & Sons の広告などが多く散見される。それぞれ

Evening Post, April 10, 1905 及び Gloucester Citizen, June 14, 1905 を参照。

64 英国側の資料では確認できていないが、桜井鴎村(彦一郎)は一九〇八年に東郷と乃木の蝋人形を、田中湄

人は一九〇九年に東郷のを、それぞれマダム・タッソーで見たと記している。桜井彦一郎『欧州見物』丁未

出版社、一九〇九年、三三六頁、田中湄人『最新倫敦繁昌記』博文館、一九一〇年、九六頁。なお、このこ

とは、和田博文ほか『言語都市・ロンドン』藤原書店、二〇〇九年、五一八頁でも一部指摘されている。

65 ただキモノの流行は、ヴィクトリア朝的な身体観からの解放も手伝って武士道熱よりも長く続いた。桜井鴎

村もロンドンでは「キモノ」あるいは「キモナ」が「上着ともなり、外套ともなり、これが近年引つづいて

の大流行」と述べ(『欧州見物』、二六三頁)、田中湄人も「所謂キモノはウエスト、エンドは勿論、市内の

所々にて見本棚に飾れるを認む」(『最新倫敦繁昌記』、一二五頁)と指摘している。一方で、田中はロンド

ンの本屋にある日本物といえば、「大隈伯の開国五十年史が一番目に立ち肉弾は最早廃りて買手なく」ほか

寥々たる状態とも報告している。ちなみに桜井鴎村が大隈の命を受けて欧州を訪問したのは、この『開国五

十年史(Fifty Years of New Japan, 1909)』の出版交渉のためであり、弟の『肉弾』を英訳した一人である本

田増次郎ともロンドンで三年ぶりに再会している(『欧州見物』、三頁および九三頁)。

66 ‘Banzai!!’, Punch, September 6 1905.

67 何事にも機を見るに敏なウェルズは三年後には、日独による世界戦争という『空中戦争』(一九〇八)を発

表している。Hashimoto, ‘White Hope or Yellow Peril?’, p.394, pp.398-399.

68 その三歳馬「武士道」は、J・A・ロスチャイルド所有だった。もっとも、戦績はさしてよくなかったようで

ある。たとえば The Times, April 23 1908 を参照。

69 平田諭治『教育勅語国際関係史の研究』風間書房、一九九七年、第四章第一節「日露戦争下の広報外交活動

と教育勅語」を参照のこと。

70 William Awdry, ‘The Character of the Japanese People,’ The Times, October 2 1905.

71 Vivian Grey [Elliot Evans Mills], The Decline and Fall of the British Empire ... Appointed for Use in the

National School of Japan ... Tokio, 2005 (Oxford: Alden & Co.; London: Simpkin, Marshall, Hamilton,

Kent & Co., 1905). なお、この『大英帝国衰亡史』の本文は、初版との異同を含めて、橋本順光「The Decline

and Fall of the British Empire (1906)とその抄訳『英国衰亡論』(1906)の復刻及び解題」横浜国立大学教育

人間科学部紀要Ⅱ(人文科学)、七、二〇〇五年、で復刻した。なお、以下の記述は、上記解題と一部重複す

るところがある。

72 Samuel Hynes, The Edwardian Turn of Mind (Princeton: Princeton University Press, 1968), pp.24-5.

73 Donald Read, Edwardian England (London: Harrap, 1972), p.150 と Norman Vance, The Victorians and

Ancient Rome (Oxford: Blackwell, 1997), pp.234-5 および南川高志『海のかなたのローマ帝国』岩波書店、



Page 22

- 198 -

二〇〇三年、三一頁がそれぞれ、エドワード朝においてローマ帝国が批判的に言及されたことを指摘し、そ

の例として『大英帝国衰亡史』を挙げている。

74 Vivian Grey, The Further Surprising Adventures of Lemuel Gulliver (Oxford: Alden & Co., 1906), back

matter. この演説はやや不正確ながら Hynes, The Edwardian Turn of Mind, p.26 でも引用がある。

75 Elleke Boehmer, Introduction in Robert Baden-Powell, Scouting for Boys (Oxford: Oxford University

Press, 2004),xix および田中治彦『ボーイスカウト』中央公論社、一九九五年、二六頁。

76 こうした東洋の視点から英国を風刺した作品は十八世紀からあり、その系譜と変化については、橋本順光

「中国人からの手紙:オリヴァー・ゴールドスミスの『世界市民』にみる中国」『英米文化』 三十、二〇〇

一年、および「Lang-Tung, The Decline and Fall of the British Empire (1881)の復刻及び解題」横浜国立

大学教育人間科学部紀要Ⅱ(人文科学)八、二〇〇六年を参照。

77 Grey, The Decline and Fall of the British Empire, p.49.

78 Grey, The Decline and Fall of the British Empire, p.3.

79 チェインバース編『ローマ帝国の没落』弓削達訳、創文社、一九七三年、一九三頁。

80 Nitobé, Bushido, p.40.

81 Nitobé, Bushido, p.21.

82 十九世紀後半においても、生活の中に生きる簡素な美という近代文明との対比から、日本は古代ギリシアに

なぞらえられることがあった。谷田博幸『唯美主義とジャパニズム』名古屋大学出版会、二〇〇四年の第三

章「古代ギリシアと日本―英国の<日本趣味>の一局面」を参照。

83 Grey, The Decline and Fall of the British Empire, p.10.

84

R. J. Q. Adams and Philip P. Poirer, The Conscription Controversy in Great Britain, 1900-18

(Basingstoke: Macmillan Press, 1987), p.34.

85 田中治彦『少年団運動の成立と展開』九州大学出版会、一九九九年、二九頁。

86 Michael Rosenthal, ‘Knights and Retainers: The Earliest Version of Baden-Powell's Boy Scout Scheme’,

Journal of Contemporary History, vol. 15 (1980), p. 605 および鈴木雄一「ベーデン・パウエルの手紙」若

獅子会会報、第一号、一九九七年、二八頁。両者はともに、ベーデン=パウエルの投書の全文を掲載してい

る。なお後者の閲覧に際しては、スカウティング研究センター事務局の黒澤岳博氏より、格別のご厚意を賜

った。記して謝したい。

87 ‘The War in the Far East’, The Times, February 13, 1904.

88 Robert Baden-Powell, Scouting for Boys, edited with an introduction and notes by Elleke Boehmer

(Oxford: Oxford University Press, 2004), p.212.

89 Baden-Powell, Scouting for Boys, p.216, p.226.

90 Pietro Micca については、ベデカーのイタリア案内記に記載されていたこともあり、英国でもよく知られて

いた。日本でも松岡寿が「ピエトロ・ミカの服装の男」(1881)という肖像画を残している。

91 Baden-Powell, Rovering to Success (London: Jenkins, 1930), p.91.

92 この書簡は、E.E. Reynolds, Scout Movement (London: Oxford University Press, 1950), pp.9-13 に全文が

掲載されている。

93 Baden-Powell, Scouting for Boys, p.295.

94 Baden-Powell, Scouting for Boys, p.278.

95 Baden-Powell, Scouting for Boys, pp.277-8, p.216, p.226, pp.197-8, pp.188-9 など。

96 Yorimitsu Hashimoto, ‘Soft Power of the Soft Art: Jiu-jitsu in the British Empire of the Early 20th

Century’, in Shigemi Inaga (ed.), The 38th International Research Symposium: Questioning Oriental

Aesthetics and Thinking: Conflicting Visions of ‘Asia’ under the Colonial Empires (Kyoto : International

Research Center for Japanese Studies, 2011), pp.69-80.

97 Baden-Powell, Scouting for Boys, p.289.

98 こうした経緯の概観については、Hashimoto, ‘Soft Power of the Soft Art’を参照。また橋本順光「黄禍論と

ジェンダー-柔弱から柔術へ」(加藤千香子編『ジェンダー史叢書五 暴力と戦争』明石書店 二〇〇九年)

二〇一-二〇三頁でも簡単に触れている。

99 Hashimoto, ‘Soft Power of the Soft Art’, p.77.

100 ‘The Suffragette That Knew Jiu-jitsu’, Punch, July 6 1910.

http://kokusai.kanto-gakuin.ac.jp/column/column-229/


国際文化学部教員コラム vol.19

2010.02.04 比較文化学科 岡田 桂


女もすなるJiu-Jitsu


日本の伝統的な武術である「柔術」(Jiu-Jitsu)を、100年以上昔のイギリス人女性たちが
熱心に学んでいたといったら、少し意外でしょうか。



実は、柔術は19世紀末から20世紀にかけて、イギリス社会で大きなブームを巻き起こしました。
特に日露戦争後、英米では、「身体の小さな者が自分より大きな相手を投げ飛ばす」柔術というものが、
「小国日本が大国ロシアを倒す」という比喩とあいまって、一般人にも非常に熱心に受け入れられました。




しかし、この「身体の小さい者が、より強い相手を倒す」という柔術の機能は、当時、
低い社会的地位に甘んぜられてきた女性、特に参政権を求めて闘った婦人参政権運動家たちを
特に魅了しました。当時の婦人参政権運動は非常に激しく、時には警官や男性たちによって、
女性たちの集会が暴力的に解散させられることもありました。そこで、活動家の女性たちは
自らの護身のために柔術を習い始めたというわけです。



この時期、婦人参政権論者を指す「suffragettes(サフレジェッツ)」と「Jiu-Jitsu(ジュージュツ)」を
組み合わせた「Jiu-jitsuffragettes」という造語が生まれたほどです。

日本の女性による組織的な柔術や柔道の実践が1920年代以降であることを考えると、
20世紀の初頭、既に遠い異国の地イギリスで女性による柔術が花開いていたことは、
新鮮な驚きといえるかもしれません。柔術という文化が、海を越えてその意味や価値を
徐々にずらしながら、異なる文化圏で定着したという興味深い一例です。



※写真1. ミセス・ロジャー(エミリー)・ワッツの著作より(1906年)
※写真2. ミセス・ガーラッドのデモンストレーション(1910年)



(比較文化学科 岡田 桂)

https://slideshowjp.com/doc/802856/%E5%A5%B3%E3%82%82%E3%81%99%E3%81%AA%E3%82%8B-jiu-jitsu%EF%BC%9A-%E4%BA%8C%E5%8D%81%E4%B8%96%E7%B4%80%E5%88%9D%E9%A0%AD%E3%81%AE%E3%82%A4%E3%82%AE%E3%83%AA%E3%82%B9

http://mephistopheles.hatenablog.com/entry/2015/10/15/000000


Suffragette



Suffragette Official Trailer #1 (2015) - Carey Mulligan ...

10月に公開される映画のうち,もっとも楽しみにしていたのがこれ,キャリー・マリガン主演にヘレナ・ボナム=カーターやメリル・ストリープが助演で脇を固めるSuffragette。Facebook上ではアイルランド女性史協会の委員をつとめる友人が「金曜の夜,私たちと一緒に見に行きましょう」とイベントの告知をしていたのだが,女性史家たちと一緒にサフラジェット映画を見に行き,あまつさえそのあと語らうだなんてそんな恐ろしいフライデーナイトがあってたまるかと縮みあがったので,今日ひとりで見に行った。誤解のないように書いておくと,私も一応女性史家である。ただし,非常に気が小さい部類の。

勘違いされている例をよく見かけるので最初に明記したいのだが,「サフラジェット」とは20世紀初頭の婦人参政権運動の参加者で,それも戦闘的手段に訴えた人々のことである(これに対して,平和的な手段によるべきだと主張していた人たちは「サフラジスト(Suffragist)」と言う)。メリル・ストリープ演じるエメリン・パンクハーストをリーダー的存在とし,"Deeds not words(言葉でなく行為で示せ)"のスローガンのもと,ショーウィンドウを割るなどといった破壊活動を行うことで示威的に政治的主張を行った。年齢制限12Aだったので割と楽観していたのだが,凄惨な暴力シーンこそないとはいえ,警官隊に蹴散らされるシーンやら強制食餌(force feeding)のシーンなどはなかなか堪えるものがあり,見終わってげっそりと疲れた。

にわか女性史家としては,全体的にとてもよくまとまっていたし,ひとつひとつのシーンに象徴的な意味があって,婦人参政権運動史をコンパクトに学ぶことができるという点に満足した。将来,授業で非常に使える映画になるであろうことは間違いない。特に,この映画ではエミリー・デイヴィソンの死も取り上げられているのだが,事故なのかそれとも抗議の自殺なのかはっきりわかっていない彼女の死をきちんとその通り描いていたのには感動した。エミリーはパンクハースト夫人の言葉である"Never surrender, never give up the fight(絶対に屈しないで,絶対に闘いをやめないで)"という言葉を言い残してダービー競馬のレーストラックへと入っていくのだ。つまり,この言葉が決意表明にも遺言にもとれるのである。素晴らしい。他にも,それこそ前述のハンストとそれに伴う強制食餌やら,サフラジェットたちが護身術として柔術を習うところ*1などがきちんと描写されており,そうそうそれそれ!と快哉を叫びたくなるところがとても多かった。

しかしその一方で,ここはもう少しきちんと掘り下げてほしかったと思うところが一点あった。そしてそれは私の歴史研究の根本姿勢にも関わる点だったので,ここできちんとまとめておこうと思う次第である。それはつまり,なぜワーキングクラスのモード(キャリー・マリガン)が「過激」な政治活動に身を投じるのかということだ。

この映画の主人公であるモードは洗濯工場(laundry)で働く女工で,夫のソニーもまたこの工場で働いている。ある日モードはクリーニング済みの洗濯物を配達しにいく道中で,サフラジェットたちがショーウィンドウを割りながら「女性に投票権を(Votes for women)」と叫ぶ場面に遭遇する。その中には工場の同僚であるヴァイオレット(アンヌ・マリー・ダフ)の姿があった。活動家であるヴァイオレットはモードを集会に誘うようになる。ある日ウェストミンスターで開かれる婦人参政権運動についての公聴会に職場から代表1名を送ることになり,モードは代表のヴァイオレットに同行することにするが,当日ヴァイオレットは夫に受けた暴力がもとで人前で話せる状態ではなくなり,急遽モードが代役をつとめることになる。ロイド=ジョージをはじめとする閣僚たちはモードの言葉に真摯に耳を傾ける風を装うが,公聴会の結果は「却下」であった。これがモードを活動に参加させるきっかけとなった出来事である。

しかし,政治的であれ文化的であれ,なにか運動に身を投じるのは圧倒的にミドルクラス以上の階級の人々が多い。たとえばこの映画ではヘレナ・ボナム=カーターが演じていたイーディス・ニューがその典型である。ニュー本人は教師だったのだが,*2この映画では医師の資格を持ち,夫とともに薬局を経営している設定になっている。彼女はロンドン大学で医学を修めている(壁に卒業証書がかかっている)が,ロンドン大学医学部は20世紀初頭,はじめて女性に門戸を開き,さらに学位取得を認めた数少ない高等教育機関のひとつである。つまり彼女は当時のイングランドで望みうる最も高度な教育を受け,さらにその過程で経験した様々な不平等から,女性の地位の低さを身をもって知ったことによって政治活動に身を投じるようになった人物である,と察することができる。また,一瞬しか出てこないがパンクハースト夫人も同じであり,さらに彼女らの政治活動に協力的な夫がいる(いた)というところまで共通している。つまり,これらの女性たちは,金銭的にもまた精神的にも,政治活動を行う「余裕がある」人々なのである。しかしモードやヴァイオレットは違う。このレビューに詳しいが,モードやヴァイオレットは家事使用人を持たない身分なので,何よりも妻として母として家族の面倒を見なければならない。モードは夫と息子が1人いるだけなのでまだいいが,ヴァイオレットには何人も子供がいて,さらに夫には暴力を振るわれている。こんな状況で,政治活動に身を投じようと思うだろうか?もし思うのだとしたら,ただ「それが善いことだから」という理由だけで運動に参加するだろうか?

もちろんモードやヴァイオレットがワーキングクラスであるということは,この映画で非常に重要な意味を持っている。それは彼女らの置かれた状況が,そのまま当時の女性の置かれた隷属的な状況を象徴しうるということである。彼女らは劣悪な労働環境で,男性に比べて不公平な労働条件で*3働かざるを得ず,さらにそこでは卑劣な工場長(監督?)から日常的にセクハラを受けており,家庭では家族の面倒を見る役割を一身に背負う。また夫との間に問題が生じた時,子供の親権は父親にあるので一切子供とは関われなくなる。その上,それこそブルデューの「再生産」の話になるが,モードの母も同じ洗濯工場で働いていて大やけどを負って亡くなったという話があったり,さらにヴァイオレットの娘マギーも同じ洗濯工場で働いていたりと,どれほど悪い環境であろうと,基本的に,それも何世代にもわたって,抜け出すことはできないのである。しかし,悲しいことではあるが,人は麻痺するものである。そういう状況に生まれ,そういう状況で生活してきた時間が長ければ長いほど,その状況を疑問視することもなくなり,こういうものだとあきらめて生きていくようになるものである。それどころかヴァイオレットなど,政治活動への参加が家庭内の暴君である夫の機嫌を損ね,暴力を振るわれる可能性すらあるのだ。しかも,少なくともモードは読み書きに支障がないという設定だったが,*4もしかして識字率も低いのではないだろうか。つまり何が言いたいかというと,モードやヴァイオレットは本来ならこうした運動から最も遠いはずの人々であり,*5こうした人々が運動に身を投じるには人一倍の理由が必要であるはずなのだ。せっかく映画の冒頭,「これは婦人参政権運動に身を投じたワーキングクラス女性たちの物語である」とテロップを出すのであれば,階級とモチベーションの問題をもっと掘り下げてほしいものであった。

私はこの「そもそもなぜ人々は運動にかかわるのか」という疑問から生じたテーマによって博論を書いている。人々が何か物事を始める時,そこには「それが善いことだから」だけではない理由があるはずである。その問題を等閑視して,「善い方向に物事が進むのは当然なのだ」という前提のもとで歴史を解釈するのは,いわゆる発展史観的(近現代イギリス史的には「ホイッグ史観的」)な解釈であって,独善的になりうるので注意が必要である。女性史の叙述にも同じことが言えて,「男性優位社会との果敢な闘争」の結果「あるべき男女平等の世界」へと「必然的に」歴史が動いていくと解釈する傾向はしばしば見られるのではないかというのが私の印象である。それはやはり,早いうちに見直されなければならないのではないだろうか。

そういうわけで,これまであまり取り上げられてこなかった,"Unsung heroines"としてのワーキングクラス女性にスポットを当てたという点はこの作品が達成した偉業のひとつであるが,同時に女性史叙述の上での課題も明らかになった,ということだろうか。しかし,それこそが優れた作品の証左であると考えられなくもない。そもそも,私自身これまでさまざまなところで述べてきたが,*6ワーキングクラスの存在は歴史家にとって,女性史家にとってはなおさら,鬼門なのである。なぜなら彼らは私的な記録を残してくれないからだ。私もその「史料的制約」を言い訳にして逃げてきた感がある。歴史家として人生を歩むのであれば,ワーキングクラスの存在はいずれ,絶対に無視できないものとして直面することになるだろう。この映画はそのアラームであったということかもしれない。実はこの日記を書く前,こっそり論文の1本や2本読んで知ったかぶりをしようと思い,論文データベースで「working class suffragette」などで調べてみたのだが,良い検索結果は得られなかった。やはりワーキングクラスは鬼門ということか。

ところで,最後に疑問なのだが,これ,日本での公開予定はあるのでしょうかね。もし公開されないとしたら,こっちにいて本当によかった。


*1:これなんか比較的近年の研究結果であるように思うが,よくぞまあ反映したものだと驚いた。

*2:ちなみに女性教師とサフラジェットの親和性については,この間新刊紹介を書いたこちらの本に詳しいのでぜひどうぞ。先日も申しました通り,紹介記事は11月発刊の『女性とジェンダーの歴史』に掲載していただく予定です。


In Search of the New Woman: Middle-Class Women and Work in Britain 1870?1914

In Search of the New Woman: Middle-Class Women and Work in Britain 1870?1914
作者: Gillian Sutherland
出版社/メーカー: Cambridge University Press
発売日: 2015/02/19
メディア: ハードカバー
この商品を含むブログを見る


.


*3:公聴会でモードは「女性は週13シリング,男性は週19シリング」と述べていたが,これは現在の通貨価値に換算して女性は週約5000円,男性は週約8000円である。ちなみに通貨価値の換算にはこちらの英国国立文書館HPにあるCurrency Converterが非常に有用です。

*4:劇中,刑事に手紙を書いていたり,エミリー・デイヴィソンから贈られた本を読んだりしていた。

*5:トムスンが『イングランド労働者階級の形成』で描いたワーキングクラス像と異なり,むしろワーキングクラスの人々は政治的に保守的である例も多く,しばしば保守主義者に取り込まれたという研究結果もある。詳しくはこちらを参照。日本のネトウヨやドイツのネオナチとかにもほぼ同じことが言える。


プリムローズ・リーグの時代―世紀転換期イギリスの保守主義

プリムローズ・リーグの時代―世紀転換期イギリスの保守主義
作者: 小関隆
出版社/メーカー: 岩波書店
発売日: 2006/12/08
メディア: 単行本
クリック: 6回
この商品を含むブログ (2件) を見る


.


*6:たとえばここ。


my (id:Mephistopheles) 1年前



http://moon.ap.teacup.com/fusenryu-ituwa/338.html

「100年前の海外でのジュージュツ写真集(3)」  武道・武術全般

100年以上前、日本人柔術家は海外に雄飛し、イギリス、ヨーロッパ等で柔術を教えました。講道館柔道が海外に広まったのは、その後になります。
そのような経過があり、現在でも欧米では「ジュード-」同様に、「ジュージュツ」の語が使われています。(英語ではジュージツとも表記される)

過去の柔術家の写真を掲載します。

クリックすると元のサイズで表示します
女性のためのフィジカルトレーニング(柔術ブック)

クリックすると元のサイズで表示します
足への攻撃は効果的

クリックすると元のサイズで表示します


クリックすると元のサイズで表示します
「パンチ」誌 1910年7月号

100年前、イギリスで女性参政権の活動をしている女性活動家のグループが日本人に柔術を習っていたという事実があります。

素手で自分より力のある相手を制する技術である柔術は、活動を弾圧してくる警察との小競り合いで、かなり有効に働いたようです。

| 未分類 | コメント(0)

パンダの戦い方は柔術! グラップリング! 功夫ではありませんでした!





| 未分類 | コメント(0)

ゴング格闘技 ファイト&ライフで御馴染みのてらかわよしこさんの同人誌より やっぱキックボクシング ムエタイの人はこういう考えするんだ…

| 未分類 | コメント(0)

柔術界の女型巨人 Gabi GarciaのMMA動画

465659452.jpg
gabi-garcia-1453371331l4cp8.jpg
gabi-garcia-1444978368l4pc8.jpg
gabi-garcia-1447654887lc8p4.jpg






| 未分類 | コメント(0)

同じく柔術界の爆乳アイドル Mackenzie DernのMMA動画

| 未分類 | コメント(0)

柔術界の爆乳女王Michelle Nicolini がMMAデビューで華々しくデビュー!! アジアが誇る寝技師青木真也はまさかの番狂わせ! 長嶋自演乙戦を彷彿させる因縁のヒザ蹴りでノックアウト負け!  強すぎるロシアの柔術家マラット・ガフロフはモンゴルの怪物ジャダンバ・ナラントンガラグを柔術技 パーム・トゥ・パームで葬り返り討ち!

tumblr_n9h4vgtJ6J1tbptl1o2_r1_1280.jpg
tumblr_n9h4vgtJ6J1tbptl1o3_r1_1280.jpg
tumblr_n9h4vgtJ6J1tbptl1o7_r1_1280.jpg
tumblr_n9h4vgtJ6J1tbptl1o8_r1_1280.png
tumblr_n9h4vgtJ6J1tbptl1o6_r1_500.jpg
13556918_606721812823282_1354342685_n.jpg
tumblr_n9h4vgtJ6J1tbptl1o9_r1_1280.png










| 未分類 | コメント(0)

投げ技を一本勝ちにしてしまった講道館 武徳会 国際柔道連盟 柔道の競技としての矛盾

http://ameblo.jp/wrestlewrestle/entry-10275891154.html#main

2009-06-07
レスリングから見た柔道1 ~競技か流派か~
テーマ:レスリングの考え方

このブログは柔道関係の方もご覧になっているそうなので、この内容を書くかどうか迷ったのですが、私なりの考え方ということで掲載することにしました。
 
 「柔道がいつからレスリングになったんだ」こういう言い方がされるようになってから大分立ちます。私も柔道をやっていたのでその気持ちは分かるのですが、レスリングをやるとやっぱり柔道の見方はちょっと違うのではないかと思うことがあります。
 
 まず本質的に殆どの人(柔道関係以外も含めて)が勘違いをしているのは、柔道という「競技」を「流派」で捉えようとしているという点です。この両者の違いは前にも書きましたが、競技は「ルール」で中身が決まるのに対して「流派」は技術体系の総称である、という点です。
 背筋をピンと伸ばして綺麗な姿勢から一瞬にして相手を投げ伏せる、そういう技術が柔道なのだ、という考え方です。ではその技術体系は一体何なのか、という話になるととてつもなく長くなるので控えますが、要はそういう技術体系が柔道であってそれを外れてはならない、だからレスリング流を苦々しく感じるわけです。
 

 確かに競技として発展している柔道も元々は体系化された技術をを競い合えるようにルールが決められたわけですから、その技術を無視することは出来ないでしょう。しかしルールは最終的に技術を出しやすいような条件整備までしかできませんから、その枠の中でならば何をしても良いのです(但し、北京五輪以降は組まないと反則が取られるようになりましたが)。柔道がスポーツ競技として世界的に普及した以上はそれが現実です。
 流派の発想にこだわるのであれば、「JUDO」という「競技」の中で、流派としての「日本伝講道館柔道」の技術を試すという考え方になればよいのです。要は競技の場は「個々の流派の試し合い」、そういう発想になれば全てが収まります。本当に最高の技術体系だというのであれば、その技術で全ての相手を打ち負かせばよいのです。
 

そもそも明治の時代に「学士柔道」と揶揄された嘉納治五郎率いる講道館派が勢力を伸ばしていったきっかけは、西郷四郎等いわゆる四天王達が警視庁武道大会で圧倒的な強さを誇ったからです。その大会は無論一流派内の小さい戦いではなく、様々な流派が競っていたはずです。現代の競技柔道に置き換えれば、各国のスタイル、あるいはレスリングやサンボを基盤とした流派があって、そこに立ち向かう「講道館柔道派」、そういう発想といったらよいでしょうか。


 どんなに「流派」としての柔道を広めるといっても、世界には様々な格闘技があって、その人達が「競技」として柔道に参加してくる以上、「流派」的側面がぶれてしまうのは仕方がありません。まして今のオリンピックは政治やら利権やら生涯の保証やら様々なものが絡み合っている舞台なのですから、ルール内において勝つために一番得意な手段を取るのは当然のことでしょう。流派としての柔道がスポーツ競技としての柔道に変わっていく過程は様々な要素が複雑に絡みっていますが、現状では国際柔道が「競技」を前提としている以上、日本もそこを前提としていかなくてはこれからも今までと同じ議論の繰り返しになるように感じます。(続く)

http://ameblo.jp/wrestlewrestle/entry-10275895241.html

2009-06-07
レスリングから見た柔道2 ~立ち技一本の理想と寝技との矛盾~
テーマ:レスリングの考え方

 以前に、柔道とレスリングの違いは立ち技をどう考えるかにある、と書きました。レスリングもそれなりに立ち技を重視してはいますが、フォールが目的である以上、やはり本質は「寝技への繋ぎ」です。
 一方、柔道は完全に立ち技一本を目指しています。「きれいな柔道」という言い方は立ち技に対して賞賛する言葉です。裏を返せば立ち技一本が寝技を断ち切ってしまうので、どうしても寝技軽視の傾向が出てきます。やればみんな強いんですけれどもね。しかし、柔道は立ち技と寝技を完全に分けて練習しますから、実践での有用性が限定されてしまう点は否めないでしょう。
 

 嘉納治五郎は寝技や当て身も含めた技術体系を作ったにも関わらず、どうして立ち技一本にこだわったのでしょうか。嘉納は剣術のように一瞬にして相手を仕留める技術を柔道の美学として求めたという考え方は出来るかも知れません。廃刀令後の世に柔術を体系化しようとしたこととけっして無関係ではないようにも思います。また、近世以前の組み討ち的技術体系が実践武術としてどういう意味を持っていたのかということもあるでしょう。
 しかし、柔道の立ち技一本と寝技を同時に採り入れたことはどうしても矛盾を生み出しています。
 
 中でも私が解せないのは、立ち技で投げ飛ばした後に、投げた方が半回転をして下になってしまうことがあるという点です。内股で一本を取った時に特に多いですよね。レスリングだったら投げで3点、返して2点、で下手をすればそのままフォール負けです。つまり投げた方が負けてしまうのです。
 格闘技は相手を不利な状況に追い込むのが基本ですから、相手を投げた後に下になってしまうような技術を当たり前のように勝ちにしてしまうのは明らかに格闘技の本質からはずれています。そこに対して誰も異議を申し立てないのはなぜなのでしょうか。柔道は寝技一本もあるのです。少なくともサンボのように完全に立った状態のみを一本とするくらいの配慮はすべきかと思います。
 これを考えれば明らかなとおり、立ち技一本は結果として寝技の技術を柔道全体の技術体系から分断してしまいました。旧制高校や帝大柔道部が力を入れた寝技主体の柔道(高専柔道)やそれに付随する寝技への引き込みを柔道規則上否定したこともそれに拍車をかけたといえるでしょう。
 
 結局のところ、立ち技一本と寝技の関係を融合しきれなかった点が講道館柔道の流派的な弱点として現代に現れた、そのように私は捉えています。タックルが寝技の展開を前提とした技だとすれば、立ち技一本で終わることを前提とした柔道はそれに対応しきれなかった。それは一つの技術的欠陥である、とも言えるかも知れません。無論、個人的に対応出来ている人はいくらでもいますけれどもね。
 現在逆輸入された形の「柔術」はその辺りの本質を明確に我々に気付かせてくれました。それは、寝技ありの格闘術なら投げた後も技術は続くし、寝技に引き込むこともありだし、組まない技術だってありだ、という点です。
 
 では「立ち技一本」とは一体何なのでしょうか。総合格闘技が隆盛を誇り、逆輸入の柔術スタイルが日本に広まりつつある今、柔道は立ち技一本の意味をどのように考えるべきなのか、改めて捉え直すべき時期に来ているように感じます。

これは私の全く個人的な考えですが、競技としての柔道(JUDO)は、まず寝技をバッサリ切り捨てた立ち技だけの種目(立技柔道)を一つ作り、一方で別に、現在の柔術に近いルールの種目(総合柔道)をもう一つ作ることが望ましいように思います。そうすることによって、限定された立ち技の卓越した技術は真に意味を為しますし、寝技の技術も更に高まりを見せるはずです。

| 未分類 | コメント(0)

米戦争屋の狙いは、オバマの次にジェブ・ブッシュを大統領にして第三次世界大戦をやることだった。ところが、ジェブの人気が出ない。ドナルド・トランプにさえ負けている。それでヒラリーを担いで第三次世界大戦という戦略に切り替えたのだろう。米国経済の建て直しは夫に任せて、米戦争屋のコマとしてヒラリーが使われる可能性大である、とした。

http://m-hyodo.com/international-dispute-88/










ヒラリー・クリントンのミッション

2015年12月24日 by 兵頭 正俊



2015年12月17日、国連安全保障理事会は、財務相会合を開いた。そしてISISの資金源を断ち、原油や文化財の密売などの資金遮断決議案を採択した。驚いたことは、ISIS支援の一番の黒幕であり、責任のある米国が、ロシアとともに採択を主導したことだ。

何が起きたのだろう。

決議には拘束力がある。もしISISへの資金調達が明らかになれば、企業、組織、個人に関わらず渡航禁止や資産凍結、武器禁輸などの制裁が科される。

ISISは原油密売で、1日当たり170万ドル(約2億円)も稼いでいるといわれる。単純に計算しても1か月で60億円、1年で720億円になる。その他にシリアから盗んだ文化財の密売や、西側の支援などがある。ISISの兵士が非常な高額で雇われているのもうなずける。

それにしても奇怪なのは、ISISの産みの親である米国が、ロシアとともに採択を主導したことだ。

これには、プーチンの尽力で、ISISへの西側の支援が国際的に認知され始めたことへの焦りとともに、もうひとつの大きな理由があった。

その理由を考察すると、これまでバラバラであった現象が、ひとつに有機的に統一されてくる。その中心にいるのはヒラリー・クリントンだ。

『エコノミスト』「2016 世界はこうなる」の表紙イラストの、表紙には載らなかった向かって右側半分の正面に、大きくビル・クリントンが描かれていた謎もこれで解けてくる。

その前に、もう一度『エコノミスト』「2016 世界はこうなる」の表紙イラストを見ておこう。

economist

これについては、「フィナーレの状況」(2015年12月17日号)で分析を試みた。そのあと、ブログ『兵頭に訊こう』に一部を掲載するにあたって、加筆した部分もあるので、もう一度論述することをお許し願いたい。

ブログランキング・にほんブログ村へ




ニュース批評






『エコノミスト』表紙に載っているのが、イラストの半分だけであることは、すでに述べた。

1 全体のイラストを見ると、ちょうど中央に、五重塔が描かれていた。その五重塔の最上階の屋根に、サムライではなく、わざわざ「コンキスタドール」(過去にアメリカ大陸を征服したスペイン人征服者)をもってきたのは、日本(五重塔)がいよいよ完全に西欧(米国)に征服され、日本植民地が完成することの暗喩だと指摘した。

2 実際の表紙は、向かって左半分である。したがって表紙から中央の五重塔は消えている。しかし、隠された右半分が実態を表出しているのかもしれない。デフォルトの米国は、クリントンやビルゲイツが、増税につぐ増税で日本を徹底的に収奪しながら、裏で米国の建て直しを図るのだろう、と指摘した。

3 そして3点目として、ブログ掲載にあたって、次の解釈を加えたのである。
米戦争屋の狙いは、オバマの次にジェブ・ブッシュを大統領にして第三次世界大戦をやることだった。ところが、ジェブの人気が出ない。ドナルド・トランプにさえ負けている。それでヒラリーを担いで第三次世界大戦という戦略に切り替えたのだろう。米国経済の建て直しは夫に任せて、米戦争屋のコマとしてヒラリーが使われる可能性大である、とした。

この3点目の分析を証拠立てる動きが出てきた。

わたしたちはまさか第三次世界大戦など起きるはずがないだろう、と思いがちである。それは核の悲惨さを知っているからだ。しかしよく考えなければならない。その日本でさえ、戦争を知らない世代が国会の大半を占めると「今度は勝つ戦争をやる」と平気で口走るのである。

まして原爆の怖さを、身をもって知らない外国の政治家においては、ためらいも少ないのである。

国際銀行家勢力は、第三次世界大戦に向けてヒラリー・クリントンを支援するつもりである。それで『エコノミスト』「2016 世界はこうなる」の表紙イラストでは、ヒラリーとともに、夫のビル・クリントンを大きく正面に取り上げたのである。

Hilary

ビル・クリントンは反日の、中国好きで知られる。江沢民に反日政策をとらせたのもクリントンだといわれている。

また、江沢民に対して「台湾の独立不支持、2つの中国及び1中1台の不支持、台湾の国連等国際機関への加盟不支持」を表明したのもビル・クリントンだった。

かれが現職大統領としてやった反日のひとつは、米国ミサイルの三段目の姿勢制御技術を中国に売ってしまったことが挙げられる。これで日本は中国ミサイルの射程内に入る。また現役大統領時にNATOの東方への拡大をやったことで知られる。今日の、米ロ新冷戦の遠因は、ビル・クリントンによって作られている。

(以下、長いのでメルマガの一部だけ公開します。

有料メルマガのお申し込みはこちらからです。
週3回(月・水・金)の定期配信です。それに、ほぼ週1回の臨時増刊号を加えています。(実質、ほぼ週4回になります)
初回お申し込みの、当月は無料です)




メルマガ登録・解除


兵頭正俊の優しさ出前

>> サンプル


詳細ページへ

powered by まぐまぐ!



(無料メルマガのお申し込みはこちらからです。ほぼ日曜日ごとの、週1回の配信です)




メルマガ購読・解除


兵頭正俊の知らなきゃ滅ぶニュースの真相

購読 解除

読者購読規約 

>> バックナンバー

powered by まぐまぐ!







また『エコノミスト』(2015年12月12日号)で、ポピュリズムの政治家としてドナルド・トランプを批判する意味も分かってくる。それはヒラリー支援につながるものだ。

ドナルド・トランプ氏については、最近、プーチン大統領が「トランプ氏は聡明で才能のある人物で、負債を負っていない。かれは大統領候補者の中でも絶対的な指導者である」と賞賛していた。第三次世界大戦を阻止するためには、ヒラリーでは困るということだろう。すべてが有機的につながり始めた。

ヒラリー・クリントンは一貫して軍事力を背景とした強い行動を訴えている。オバマ政権から離れたのも、次の大統領をめざしたという戦略上の意味もあったが、それ以上にオバマの政治を弱腰とみたからであろう。

第三次世界大戦の主役としてのクリントン夫妻。ブログ『世界の裏側ニュース』が衝撃的で重要な情報を翻訳してくれている。

『What does it mean』(12月17日)の、「オバマがプーチンに「降伏」し、米国メディアが「完全なメルトダウン」状態に」がそれだ。感謝して一部を引用させていただく。


「モスクワで行われた会合にはジョン・ケリー国務長官、ロシアのラブロフ外相、そしてプーチン大統領自身が参加していた。

ロシア政府はオバマ政権に対し、アメリカ合衆国によるシリアおよびイラクでの「子供の遊戯」は終わりの時を迎えており、アメリカとロシアの間での核戦争も「現在検討中」だとする内容の「即時通告」を突きつけたという。

ロシア連邦は、イスラム国を支援している国家や諜報機関に関する証拠をすべてまとめたものをケリー長官に提示した。

ヒラリー・クリントン元国務長官とアシュトン・カーター現国防長官の両者の間で機密にやりとりされていたEメールを、ロシア連邦保安局(KGBの後身)が入手し、ロシア政府はアメリカ側にそのEメールの内容文書を引き渡したという。

そしてこのアメリカ高官両者間の公式で機密だったもののセキュリティ対策がされていなかったEメールが原因で、オバマ政権は即座に「降伏」し、同地域に平和をもたらす可能性のある歴史的な動きを発表したのだ。

ブログランキング・にほんブログ村へ




ニュース批評







ケリー国務長官は、オバマ政権はもはや、シリア国内での政権交代を要求することはないと発表。わずか4週間前にはオバマ大統領は政権交代を認めることは絶対にありえない、と宣言していたのだが。

ジョセフ・バイデン米国副大統領は、トルコ政府に対し、イラク国内で侵略行為をしている軍隊を即座に撤退させるよう命令を行った。しかし6日前までは、アメリカ国務省はその侵略を認めることすら拒否していた。

米国国防総省は、米軍がトルコに配置し、ロシア航空宇宙軍にとって脅威となっていたF-15戦闘機を即座に撤退させるよう命令を下した。

オバマ政権はロシアと共同して、イスラム国への資金提供凍結を求める国連決議を提議することに同意。今日のアメリカが議長を務める国連安保理の会合で共同提議が行われることになる」

いったい何がおきたのだろうか。ロシアが米国に突きつけた証拠とは何か。それを見た米国は驚愕し、急変し、メルマガ冒頭のISISへの資金提供凍結を求める国連決議提議に追い込まれることになったのである。

いったいロシアが、怒りとともに米国に突きつけたものとは何か。

「アメリカとロシアの間での核戦争も「現在検討中」だとする内容の「即時通告」」という、外交儀礼上あり得ない強い調子は、よほどの危機感をロシアがもったということだ。

それは、ISISのロシア攻撃が、ロシアの軍事施設はもちろん、原発を標的にしており、それにヒラリー・クリントンが関わっていることが、彼女のメールによって証拠立てられたのだろう。

それ以外に、核戦争も辞さないというロシアの怒りと、米国の狼狽した政策の変更は説明できない。

遠い絵空事のように感じていた第三次世界大戦は、すでに動き始めているのである。

ブログランキング・にほんブログ村へ




ニュース批評






有料メルマガ『兵頭正俊の優しさ出前』を配信しております。

2011年10月1日より「兵頭正俊の優しさ出前」(月額:864円(税込)/配信サイト:まぐまぐ)を配信開始しました。

月・水・金・それに、ほぼ週に1回の号外を発行しております。

「記者クラブ」メディアの情報操作と国民洗脳を対象化し、あなたを現在とは違うステージに招待します。

携帯の送受信の制限を考慮して、分割して送信するように改善しました。

価格以上の価値があると自信があります。ぜひ購読のご検討をお願い申し上げる次第です。

なお、別に無料メルマガ『兵頭正俊の知らなきゃ滅ぶニュースの真相』PC用 携帯用 を2011年8月29日より、「まぐまぐ」から配信しております。

無料で、ほぼ週刊です。

携帯の送受信の制限を考慮して、分割して送信するように改善しました。

ご登録をよろしくお願いします。

なお、メルマガはテキストファイルであり、このブログ掲載の画像などはありません。

また、このブログ掲載の文章は、ブログ用に編集してあります。


http://www.asyura2.com/13/warb11/msg/167.html


★阿修羅♪ > 戦争b11 > 167.html  



▲コメTop ▼コメBtm 次へ 前へ










一枚の写真から分かる悪魔の手先ヒラリーの本性 自身は脳血栓で自滅 溺愛のリビア米大使も報復で死亡 アベノミクスにも陰り 
http://www.asyura2.com/13/warb11/msg/167.html
投稿者 良寛 日時 2013 年 5 月 09 日 01:28:34: Vgi3QvtUnz6pE
 

 









上の写真は、アメリカ軍の兵隊と一緒にピースサインを出す、最高の笑顔を浮かべたヒラリーという印象である。
しかし、事実を知るヒラリーの本性が分かる。


実は、写真は、カダフィが惨殺される2日前の2011年10月18日に撮影された。
彼女の周りの男たちは、アメリカ軍の兵隊はひとりもいない。マフィアのような男たちは、リビア人やアラブ人ではない。彼らは、アフガニスタン人であり、アメリカの特殊部隊に雇われている傭兵(マーシナリー)である。この男たちが首にかけている認識カードは、背後の米軍輸送機に乗れる資格証である。


当日ヒラリーは、カダフィー暗殺部隊最高司令官として着任した。まるでマッカサーのように、思いのままに、防諜作戦を遂行し、その成果如何で次期大統領の椅子が約束されていることを確信しての満願の笑顔だったのだ。


しかし、ヒラリーと一緒に映っている彼らは、カダフィを殺した後、処分された。
彼らは、故郷のアフガニスタンに凱旋(がいせん)しようとして、首都カブールの空港に着陸しようとしたとき、タリバーンの反政府ゲリラ(笑)のロケット弾で撃墜され、全員、死亡。アメリカによる実行犯たちのáÄ口封じ”である。


その“巨大なワル女”のヒラリー・クリントンが、ついに脳血栓(のうけっせん)で倒れた。
失神してゲロを吐いて倒れて(始めはウイルス性腹痛と発表。安倍晋三も近いかな?)、緊急入院後に、脳血栓が見つかった。それは、日本では総選挙の当日の12月16日(アメリカでは15日)のことだった。 これでヒラリーはおしまいだ。 彼女が、次の米大統領になる可能性は突然、消えたのだった。


その前に、ヒラリー(の脳)を死ぬほど苦しめる大事件が、リビアで起きていた。


事件はアメリカ政界を揺さぶる巨大な事件になる可能性があった。その後、10月22日の第3回のオバマと、ロムニー共和党候補者のディベートの確か、前日に、ヒラリーが、 “ I am responsible for Libya .” 「私にリビアで起きた事件について(大きな)責任がある」 記者会見で発言した。


このことで、リビア米大使館襲撃(された)事件の責任が、オバマにはない、ということになって、外交問題を巡る共和党系国民からの、オバマへの激しい非難を、オバマは回避することができた。出来た、ということにアメリカ国内の国論として決まったのである。


(転載貼り付け始め)



●「駐リビア米大使死亡か 領事館襲撃事件」
2012年9月12日 産経新聞
http://sankei.jp.msn.com/world/news/120912/mds12091219240002-n1.htm
ロイター通信などは9月12日、リビア当局者の話として、同国北東部ベンガジの米領事館が11日に群衆に襲撃された事件で、米国のクリストファー・ スティーブンズ駐リビア大使を含む計4人が死亡したと伝えた。
米国務省は襲撃で職員1人が死亡したとしているが、詳細は明らかにしていない。中東の衛星テレビ、アルジャジーラによると、大使は出張でベンガ ジを訪れていたという。ほかの3人も大使館職員としている。
群衆はロケット砲も使用、領事館は放火され、略奪もあったという。リビアでは、昨年8月にカダフィ政権が崩壊したが、内戦時に大量に出回った武 器の回収が進まず、貧弱な治安体制が浮き彫りとなった。(共同通信)

(転載貼り付け終わり)


一体、どういう大事件がこの時、起きていたのか。今に至るも、日本国民は、指導者層を含めて、この「9月11日、リビア米領事館襲撃、そして、米大使以下4人の死亡」という事件の真実と大きな波紋のことを誰も知らない。この私でさえ、11月に入ってからようよくその全体像を知った。


それは、ヒラリーが、その前年の2011年10月20日に、リビアの最高指導者のカダフィを、ヒラリーが送り込んだ殺し屋部隊に惨殺させたからである。 その報復、仕返し、復讐の事件が、だから、その翌年の9月11日に、リビア第二都市であるベンガジ(首都トリポリに次ぐ)で起きたからだ。


相手を殺してやる、というほどの、復讐の気持ちほど、恐ろしいものはない。自分の身はどうなってもいいから、自分の体に爆弾を巻きつけて、敵の陣地にまで、自殺攻撃(スーサイダル・ボミング)を仕掛けるほどの 深い憎しみ、憎悪、怨念こそは、 私たち人間(人類)を突き動かす本当の、時代の変化のモーメンタム(動因)である。決心して人を殺しにゆくほどの深い憎しみを双方が持つことが日常的にならなければ戦争にはならない。


ここに、殺されて、その死体を地面に引き釣り回される、リビア駐在米大使であった、アメリカの国務省キャリア外交官で、人殺し部隊の司令官であった クリストファー・スティーブンスの 画像写真を貼り付ける。 謀略国家 アメリカ の手先を今もやり続ける者たちは、人にあまりにもひどいことをしたら、自分もこういう目に遭うのだ、という戒めの為にまざまざと見つめるがいい。






↑ 駐リビア米大使クリストファー・ スティーブンス の死体。民衆にひきづり回されている。








この アメリカの人殺し部隊の司令官であった クリス・スティーブンスに哀悼の気持ちなど抱かない。リビアや中東の人々にあまりにも残虐なことばかりしてきた人間の末路だと、自業自得なのだ。


今でも、虐殺されて血だらけで横たわっているカダフィの死体の写真を、自分の家の通路の壁に飾って、時々、拝んでいる人間だ。リビア国民はカダフィ政権が、無理やり、フランス・ユーロファイターの爆撃隊とアメリカのグローバル・ホーク(無人偵察殺人機。プレデター)と 「アルカイーダ」や反政府勢力と称するイスラエルとアメリカの特殊軍が育てた人殺し専門のならず者たちによって計画的に打ち倒されたことを知っている。


1994年のソマリアのモガデシオで起きた米海兵隊のブラック・ホーク撃墜と、ソマリア民衆による米兵士の死体引き釣り回し(裸にして縄にかけて地面をひきづる)の事件とは少し違うのだ。なぜなら襲撃されて殺されて死体を引き釣り回されたのは、今回は軍人ではないアメリカのキャリア外交官で大使(アンバサダー)だったからだ。大使はその国家を対外的に代表する。


大使というのは、元々は王様(国王)のお友達のような人間で、白い手袋を脱いで相手国に投げつけたら、それは宣戦布告を意味する。日本でも大使は今は認証官(にんしょうかん)というが、昔は、天皇の勅任官(ちょくにんかん)である。


そして、このクリストファー・スティーブンス J. Christopher Stevens は、ヒラリー国務長官の信頼の厚い、直属の家来だった。スティーブンスは、自分たちのカダフィ殺しの一周年記念のパーティをベンガジの米領事館で開こうと有頂天になって準備していたのだ。


そして、ヒラリーが大統領になるだろうから、その時は、自分もホワイトハウスの別室をもらって、ネオコン派としての凶暴な世界軍事制圧計画のプランナー、戦略家になれる、と本当に信じ込んでいたようだ。


このクリストファー・スティーブンスの横にいて、「日本食い尽くし極悪人」のアーミテージとそっくりのタコ入道の男が、情報管理担当官のショーン・スミスSean Smithである。死んだあとのふたりは、米海軍の特殊部隊のアザラシ部隊 Seals の隊員だった者たちだ。自分たちが人殺し、暗殺部隊だから、自分たちも同じように殺されたのだ。


このことが、ヒラリーにとっての痛恨の事態となった。 この 死体ひきづり回しの画像がネット上に公開された9月11日から、アメリカ政界は大騒ぎになった。そして、それが今も「リビア米領事館襲撃(された)事件の責任問題」として、日本の新聞記事にもチラチラ、前後の真実の説明もなく 書かれているのである。 


以下は、このアメリカ大使殺しのことを記したものある。


(転載貼り付け始め)


ここでひとつ重要な事件が起きた。 オバマが11 月4日の大統領選挙で再選される、その2週間前の対論(ディベート)で、オバマが共和党のロムニーの追撃をかわして逃げきったとされるシーンがあった。


日本人にはほんの瞬間のことだったのでよくわからなかった。外交問題を巡る議論の最中でのことだ。アメリカ政治分析の専門家であるこの私にも、この瞬間の重要性がはっきりと理解できるのにその後1ヵ月かかった。どうやらアメリカ国民の間で、大統領選挙戦の最中のこの9月、10 月にひとつの大きな山場があったのだ。


それはアメリカの金融・経済や雇用や景気回復の話ではなかった。
問題は、リビアのベンガジ(首都トリポリに次ぐ都市)で、2012年9月11日に起きていてた駐リビア・アメリカ大使が殺された事件である。この時に殺されたアメリカ国務省の外交官は駐リビア大使だったクリス・スティーブンスである。・・・・


2012年9月11日に、リビアのベンガジで、アメリカ領事のクリス・スティーブンスが、リビアの民衆に殺され、遺体が引きずり回された。この事件は、前年2011年2月からの「アラブの春」で、カダフィ大佐が、アメリカ主導の「仕組まれた民主化運動」によって、悲惨な殺され方をしたことへの、リビア民衆の報復であった。
スティーブンスは、エリート外交官である。アメリカ領事館が民衆に襲撃されて殺されて、なんとその死体は路上で引きずり回されたのである。そのときの写真がインターネット上に流れてしまった。これでアメリカ国民の多くの顔がひきつったのである。
 何故なら、リビアで米外交官が殺されたのは、一年前の2011年10 月20 日にリビア中部の町で殺された指導者カダフィの惨殺に対する報復、復讐劇だったからだ。


多くのアメリカ国民がこのことをすぐに悟った。「ヒラリーに忠実なテロ対策特殊部隊を指揮している外交官を、リビア人のカダフィ派の残党たちが、命がけで襲撃して殺したのだ。このクリス・スティーブンスはカダフィ惨殺の現地の責任者だ」と。
アメリカ国内の新聞記事には、どこにもあからさまにこの真実は書かれていない。しかしアメリカ国民ならこのことが空気 でわかる。だから、この直後からこの事件の責任問題が議会で騒がれた。


前述したスーザン・ライス(米国連大使)が早々と、「リビアの米領事館襲撃は、突発的な民衆の暴動によるものだ」とウソの発表をしてしまった。これで更に大騒ぎとなり、議会で、スーザン・ライスとヒラリー・クリントン国務長官を非難する声が大きくなった。
だから12 月中旬の今の今でもまだ、「次の国務長官はスーザン・ライスにする」とオバマ大統領が言っている。しかしオバマがいくら言っても、議会の共和党(筆頭 ジョン・マケイン議員)が「ウソつきの就任を認めない」と強固に反対している。


だからこの事件についてヒラリーが、ついに「私に責任がある。私は国務長官を辞める」と10月21日に 発言した。これで、オバマ自身に事件の責任が及ぶことがなくなった。これで、オバマはロムニーとの大統領戦のディベイト論戦で、この苦境から逃げきったのだ。
ヒラリーにしてみれば、「アラブの春」という凶悪で「安上がり」のテロ攻撃路線( アメリカとアラブ過激派の、一体どっちがテロリストなのか分からない)で、正規の米軍を使わないで、中小国の政権転覆をやってきたことへのしっぺ返しが起きたのだ。人にひどいことをした者は必ず自分もひどい目に合うのだ。

(転載貼り付け終わり)


以上の経緯である。3年前から、オバマの次は、オバマが病気で倒れて次は、狂暴なヒラリーが大統領になる、と予測(予言)してきた。しかし、ゲロを吐いて脳震盪を起こして先に倒れたのはヒラリーの方であった。これで“ワル女“(中国人は皆、ヒラリーが嫌いである。中国に戦争を、アメリカの属国群を使って仕掛けてくるからだ)は終わった。 だから、あとはオバマが倒れて、副大統領のバイデン(CFR派)が後をやる、ということだ。


その時、凶暴なネオコン派が誰を副大統領に送り込むか、である。 それでも、 アメリカの 軍人たちと 教員たち、公務員たちすべての給料を払う原資ががないので、日本の安倍晋三に、「50兆円分の 米国債を買います。それで日本を更に円安と 株高にしてください」 この2月はじめの訪米で言わせるのだ。


それでも この秋から、スペインで再び金融危機が起きる。ユーロは暴落する(今は、1ユーロ=114円まで上がった。今のうちに、ユーロ建てのファンドなどは解約するように) 。 ヨーロッパの国家債務危機が再発して、それはアメリカの財政危機と連動する。その時に、日本国債の暴落の危機が、この秋から生まれる。


この年末12月23日に放映されたNHKの 「日本国債がやがて暴落する」(利回り1%から3・8%への金利暴騰を、米ヘッジファンドどもが仕組んでいる、とする。投資家のジム・ロジャーズを最期の場面で利用していた) の 日本国民を恐怖に陥(おとしい)れ、脅迫している番組は、あれは日本財務省が仕組んで、NHKに作らせた“やらせ番組“である。
 
このことを私たちは鋭い警戒心と共に見抜かなければならない。あの番組に出てきた 幸田真音(こうだまいん)という性悪女(しょうわるおんな)は、日本の国税庁のキャリア上がりの謀略評論家である。私たち日本国民を脅して、財務省に屈服させようとするのだ。
 
軍産複合体企業の取り巻きたちは、こんな瀕死のヒラリーを、2016年の大統領選に担ぎ出そうと躍起だ。日本でのボケ老人「石原」をヨイショする輩と似ている気がする。
●Rested-looking Hillary Clinton dodges 2016 talk and says she just wants to relax at first paid speech since leaving office


さらに、ヒラリーの口車にのせられ、50兆円を貢いで、政権を手に入れた安倍政権だが、財政再建の具体策に欠けるため、相変わらず景気回復の兆しが見られない可能性大だ。

●専門家が分析する『アベノミクス』による日本財政破綻の具体的なシナリオ


「借金なんてするもんじゃない」
子供には借金をすると返済できなくなるリスクを教えたりする。
しかし、なぜか国の借金になると
「借金はいいものだ」
と勘違いする人が多い。


対GDP比で200%まで膨れ上がった日本は
このまま債務を増やし続けても果たして
『安全』といえるのだろうか?

『アベノミクス』は
必ず行き詰まりを見せると結論付ける。
・国債暴落で金融機関の破綻が避けられない具体的な5シナリオ
・最大の火薬庫となるゆうちょ銀行
・自己資本があっという間にぶっ飛ぶ生命保険会社
・人為的に信用コストを粉飾している日銀レポートのカラクリ
・レベルが低すぎる財政破綻論者の『誤り』
・会計的『錯覚』を起こす国債安全論者のトリック


「身内同士の借金」によって錯覚している日本の財政問題を、
会計の専門家である著者が複式簿記の視点で冷静に分析し解明する。


今後私たちは鋭い警戒心で見抜かなければならない。


http://hellow42.blog.fc2.com/?editor



| 未分類 | コメント(0)

沈まぬ太陽






http://www.jalcrew.jp/jca/public/taiyou/ogura_history.htm

小説「沈まぬ太陽」のモデルとなった、日航労組元委員長 小倉寛太郎氏の海外辺地たらい回し人事の経緯を、吉原公一郎著「墜落」(大和書房)より抜粋させていただき、ご紹介します。
 



小倉寛太郎氏



日本航空の労働組合、いわゆる第一組合と呼ばれる労組は、1951年11月に結成された日本航空労働組合(日航労組)と、日航労組から1954年9月に分離・独立した日本航空乗員組合、日本航空整備株式会社の従業員で組織された日本航空整備労働組合(日整労組)であった。(この日整労組は63年10月の日航・日整の合併後、会社の行った分裂工作によって少数組合となり、同じく分裂させられた日航労組と66年8月に統一することになる)

日航内で自立した労働組合運動がはじめて成立するのは、1961年に小倉執行部(日航労組)が誕生してからである。では、それ以前の日航労組と会社側との関係はどうであったのか。

① 組合の三役人事は、前執行部があらかじめ会社側と相談して決め、たとえば1960年度の吉高執行委員長は61年度の三役人事を小倉委員長、亀川副委員長、相馬書記長とすることを新町人事部長の諒解をとりつけた上で小倉氏に立候補を説得している。このように、執行部人事にあらかじめ会社が介入するやり方は、組合結成以来つづいていた。

② 組合三役の言動は会社の労務担当者がこれを演出するという関係にあり、たとえば分裂前の日整労組の書記長であった中村信治氏は、1965年7月、前年度執行部と会社との最後の労使協議の後、吉高労務課長らに酒食に誘われ、「私の言うことをよく聞いて今後は活動してほしい。そうしてくれれば君の前途は悪くしない」と念を押され、その後も分裂した「民労」と同じ内容で妥結することを求められている。

③ 日航労組の三役ポストは出世コースであり、59年度執行委員の萩原雄二郎氏は62年には人事課長となり、その後現在では常務取締役(労務担当)となっている。60年度執行委員長の吉高氏は62年には労務課長に就任し、その後取締役になっているのである。

 このように、会社との談合によって決められる三役が、会社側の筋書きに従って行動することにより、その見返りとして出世コースに乗るというパターンが「正常な労使関係」とされていたのであるが、それは、日航の路線拡張、事業所の増大にともなって増大していくなかで、慢性的残業をともなう長時間労働や、人員の不足を埋めるため中途採用者と定期採用者・正社員との賃金の格差、臨時従業員の身分、また正社員でも零細企業を含めた「全産業平均」にすぎない賃金水準の低さ-これらの是正を求める一般組合員の要求が充満してくるという矛盾が発生する。従って、従来のように執行部を使って組合員の要求をおさえこむという方式は、必然的に破綻し、1960年の年末闘争で吉高委員長以下の執行部が、年末手当に組合要求を独断で切り下げて妥結したことに対して、オペレーションセンター支部が委員長不信任決議をし、つづく全国大会でも執行部不信任案可決寸前になる。

 このようななかで、61年度の執行委員長のポストを進んで引き受ける者がなく、吉高委員長は勝手に小倉寛太郎氏の立候補届を提出し、既成事実が作られた上で小倉氏は委員長を引き受けることになるのである。

 「昭和36年度小倉執行部において日航労組ははじめて『会社のヒモがつかない』執行委員長を持つことができたわけである(吉高前委員長が、『小倉委員長、亀川副委員長、相馬書記長』の線で人事部長の諒解をとりつけて来た事実は、小倉にとっては委員長職を引き受ける理由ではなく、むしろ吉高氏からの立候補受諾の説得を当初拒否した理由であった。事実、小倉は前述のとおり右「了解事項」に拘束されることなく、規約上の三役指名権を行使し、亀川氏に代えて境栄八郎氏を副委員長に指名したのであった)。

 そして小倉執行部(昭和36年度・37年度)、および境執行部(昭和38年度・39年度・40年度)のもとにおいて、十分な職場討議を経て組合員の要求をまとめ、組合員の立場に立って会社に対し率直に要求を提示し、正当な団体行動権の行使を通じ、あるいはこれを背景として会社と堂々と交渉するという、あたりまえの労働組合の姿が確立されたのである」(1969年3月31日「東京都労働委員会に対する『最終陳述書』」)

 小倉執行部が成立した年、日航労組は時間短縮、労働協約の改訂、年末一時金のアップ、客乗ジェット手当改訂の要求を掲げて初のスト権を確立し、翌年ストに突入している。

 この闘争を通じて1956年10月以来の労働協約の改訂が合意され、新協約には賃金や労働時間などの労働条件の引き上げが当然のことながらもりこまれ、またユニオンショップ制の強化、規約所定の組合各機関の会合の時間内保障等の組合の権利を伸長させたのである。そして、①賃金水準は62年から65年までの毎春闘でのベースアップのつみかさねによって、「全産業平均」から「主要企業平均」の水準に達した。②労働時間の短縮(週43時間を38時間に)、長期臨時従業員全員の正社員化、年休改善、定年延長、生休の一期間二日有給化、③年齢調整(晩学調整)制度と中途採用者の経験調整制度等、今日の日航の労働条件の水準は、そのほとんどが小倉執行部時代の日航労組の活動によって獲得したものであった。

 ちょうど、この時期は日航にとって収益の低下から無配転落、さらに翌年は経営赤字を記録するときにもあたっている。

 日航労組の『最終陳述書』は、次のように書いている。

 会社は、日航労組が小倉・境執行部をいただくことによって御用組合から脱皮し、一般組合員の要求を民主的手続を通じてくみあげ、その要求実現のためにたたかうまともな組合に成長したことに危機感を抱き、日航労組を昔日の御用組合の姿に戻すための数年間(昭和37年から40年)にわたり、あらゆる手段を用いて介入した。介入のパターンは一方において組合執行部を攻撃(①組合役員・活動家に対する人事異動により一般組合員と接触を断つ、②正当な組合活動への大量処分、③これらを推進するうえで障害となる労働協約を廃棄する、④管理職を使って、活動家の役員立候補を阻止する、など)するとともに、反執行部派を育成強化し、これに執行権を握らせるよう画策する(①反執行部派に対する資金援助、②職制機構を通じての役選票よみ等選挙対策の推進、③職制に反執行部的意識を注入するための監督者研修に名を借りた思想教育、④反執行部派に「今の執行部は問題解決の機能を失った」とアピールさせるためのお膳立てとして、団交形骸化、膠着の事態をたえず生じさせる)というものである。そして、足かけ4年にもわたるこの種の介入をやりつくしても、なお御用幹部が多数組合員の支持をとりつける可能性のないことを会社が知ったとき、組合を分裂させるという方向転換が指令されたのであった。



 小倉寛太郎氏が二期つとめた委員長の座を降りるのは1963年6月であるが、日本航空の労務管理がどのようなものであるかを端的に示しているのが、小倉元委員長に対する海外たらい回し人事であった。

 すなわち、小倉氏が委員長の座を降りて本社予算室に復帰して一年にも充たない翌年早々カラチ支店への転勤を命じられ、66年3月にはテヘランへ、70年1月にはナイロビへと、テレックスがたたきだす一片の命令によってつぎつぎに海外をたらい回しされるのである。

 小倉氏に対しては、小倉執行部によって日航労組が初のストライキを実施した1962年当時から、すでに会社首脳部のあいだでは「くびにしろ」という声があり、そのために入社時にさかのぼって、小倉氏の勤怠状況が調査されている。本人が無遅刻・無欠勤であったため目的を果たせず、63年秋には新町予算室長が小倉氏に「おまえみたいなアカがこの予算室にいるのは非常に残念だ。とっとと出ていけ」といった事実さえあった。そして、その翌年早々にカラチ転勤となるのだが、彼には海外支店の総務主任の職務内容をなす経理・財務・調達・人事などの仕事についての経験はなく、しかも当時、組合の会計監査の地位にあり、母親と未成年の弟を同居して扶養中という生活環境の上からも転勤に不向きな条件にあった。従って、このような異動は常識では考えられないことであった。

 日航の「海外在勤員の在勤期間基準」によれば、生活条件の劣悪な「特別地域」における在勤期間は二年とされており、赴任に先だって小倉氏は当時の松尾社長に、「会社の規定では任期二年ということになっているので、二年たったら必ず帰してもらえるのでしょうね」と念をおしている

。これに対して松尾社長は、「二年先のことはわしにまかせろ。悪いようにはせん、必ず責任を持つ」と答えている。

 だが二年後には、支店開設のため総務主任としてテヘランに赴任させよというテレックスに接し、このことで、通常ならばこの人事について事前に本社から相談にあずかっているはずの支店長も、「あなたの問題に関しては私などの及ぶところではない、私にいくらいっても無駄である」と、小倉氏にいったという。

 テヘランに赴任直後、小倉氏は母親の訃報で休暇をとって帰国したが、このとき松尾社長は彼の顔を見るなり「すまん、すまん」といい、「テヘラン支店の開設が軌道に乗ったら帰してやるから、それまで待て」となだめているが、結局この約束も果たされず69年いっぱいテヘラン勤務をつづけさせられたあげく、さらにナイロビへ転勤させられるのである。

 小倉氏がテヘラン支店に勤務していた1968年秋頃、本社人事部長安辺敏典氏が出張した際、小倉氏は「いつ帰してくれるのか」といったところ、安辺人事部長は「あなたが帰っても組合活動をやらない、組合と縁を切るという約束をすれば、それは簡単なんだけれども…」と、組合脱退と帰国とを取り引きする話を持ちかけている。

 このとき小倉氏は、「だいたい会社が組合を分裂させてから、第一組合が非常に困難な状況になっているというのは、外地にいる私も知っております。私がかつて委員長をやっておりましたときに私を信用してくれた人たちが多く第一組合に残って、困難に負けずに頑張っている。そこで男として「私はもう組合をやめましたよ」というようなことがいえると思いますか、あなただったらどうします」と反問して、人事部長の誘いをことわっている。

 ナイロビへの転勤命令は、営業所長と異なり、部下を持たない販売駐在員で、現地人ならともかく、日本人としては前例のない地位におかれたのである。

 文字通りカバン一つでナイロビに赴任したのち、1970年の暮れ、年末年始を日本で過ごすために休暇をとって帰国した際、労務担当の斉藤進専務は、「わしの目の黒いうちには、おまえは帰さん」と断言し、72年3月には、業務実態はほとんど変わらないまま、ナイロビ勤務を長期化させるため、「ナイロビ営業所長に昇格する」という辞令が発せられ、このとき以来、会社は小倉氏が「管理職」になったとして、小倉問題に関する日航労組との団交を一切拒否するという挙にでるのである。

 結局、1972年の連続事故の問題に関連する国会の審議の過程で、小倉問題についての追及もされたことが契機となって、小倉氏は73年10月に、9年7ヶ月ぶりでようやく祖国の土を踏むことができたのである。だが、この間小倉氏が家族と生活をともにすることができたのは、戦乱や教育施設の不備、また支店開設準備には家族を収容する社宅の不備など、さまざまな事情が重なったため、全体の三分の一にすぎなかった。

 たしかに、国会審議の過程で問題になってから帰国できたようなものの、日本航空ではナイロビにつづいて、西アフリカのラゴスへの転勤を“準備”していたというのである。想像もできないような陰湿な報復人事に、日航労組を労働組合本来の姿にたちかえらせた小倉執行部に対する日航の怨念のすさまじさに、なにか“そら恐ろしさ”を感じる。このような日航の異常な“報復人事”は、小倉元委員長に対してだけ行われたのではなかった。

 


日本航空の労務政策-考察・「沈まぬ太陽」-へ戻る

http://www.jalcrew.jp/jca/public/taiyou/jouso_history.htm




小説「沈まぬ太陽」のモデルとなった日航労組元委員長 小倉寛太郎氏は9年7ヶ月もの長期にわたり、海外の辺地をたらい回しにされました。(“実録”沈まぬ太陽アフリカ編へ)
更に悲惨なのは、乗員組合の役員4名が正当に行われたストライキを違法とされ、これを理由に解雇されたことでしょう。この不当解雇を撤回させるまでに8年2ヶ月の歳月を費やしました。(解雇撤回までの経緯はこちら)
小説の背景となった時代を中心に、日本航空の経営がとってきた労務対策の数々を年表でご覧ください。

 
1951年 日本航空創立

1960~1961年  
日航労組委員長に小倉氏就任

 初めてのジェット機DC-8がサンフランシスコ線に就航、日本人により運航が始められた。会社は外国人乗員をジェット機に乗せないと公約し、国際水準、IASCO(乗員の派遣会社)並にという乗務手当の要求を突っぱねる。組合との約束もあり、比較的賃金も安かったレシプロ機へ外国人乗員を振り向けた。さらに、移行後の穴埋めに外国人乗員追加導入。
 

1962年  
日航労組委員長に小倉氏再任

・会社はミリオンダラー作戦と称し、年々増大する運航直接費、整備費、乗員訓練等の節約に関して「合理化」の諸対策を立てる。

 

1963年   ・乗員不足に困った会社は61年の公約を破り、DC-8に外国人を乗せると通告。組合は機長4人、航空機関士4人に限り認め、争議時には外国人クルーを使用しないという覚書を会社と取り交わす。
 

 12月
  ・DC-8が沖縄上空で訓練中、エンジン2基の脱落事故。
 
1964 年   小倉元日航労組委員長、カラチ支店へ転勤。
 

9月
 
・会社は覚書に違反し、外国人6人をコンベアに乗務させると通告。訓練は既に始められていた。
会社発言「組合員のプロモーションのことを考えて善意でやった」「セーフティキャプテン(教官機長)だから機長でもクルーでもない」「争議時に外国人クルーを使用しないとあるのは協定書の印刷ミスである」

・乗員編成権は会社にあるとし、労使間の解決を見ないまま、カイロ-カラチ間に乗務する航空士を降ろすことを強行した。降ろした航空士をオリンピックによる太平洋線の大増便に当てたかった。

・協定違反や労使慣行無視が相次ぐ。
 


11月
 
・会社、一時金の業績リンク制を提案。

・組合、外国人導入、航空士問題に関し、指名ストライキを決行。
 


12月
 
・賃上げ、年末手当に関して、指名ストライキを決行。

・会社は12月の組合のストに対抗し、違法ロックアウトを行う。
 


1965年

 
  ・会社は、違法ロックアウトを再び行ったり、社長を始め管理職がいろいろな言葉を使って、不当労働行為を承知で組合の切り崩しを図る。
2月   ・CV880が壱岐空港で離着陸訓練中、炎上事故。
 
5月   ・前年11月と12月のストを違法とし、組合役員4人を解雇。(その後の裁判等で、違法はなかったことが明らかにされた。関連ページへのリンク)

・機長懇談会、乗員組合から脱退。
7月   ・日航労組が分裂攻撃を受け分裂、日本航空民主労働組合(民労)の結成。
 
12月  
・日整労組が分裂し、日本航空新労働組合(新労)結成。(民労と新労が合併し、68年に全労ができる。旧日整労組は日航労組と合併)また、客乗組合が分裂独立。これらの新しい組合は生産性向上に積極的に協力する方針を立てる。

・DC-8エンジン火災でオークランド空港へ緊急着陸。
 


1966年
   

5月
  ・会社は被解雇者を次期執行委員に選出しないようにという管理職による干渉を行う。また、争議行為として行っているリボン着用に対し、管理職や機長を使い不当干渉を行う。
 

6月
  ・共産党との関連云々の噂を流すなどして、組合に対する攻撃を更に強める。そしてついに月末に乗員組合、分裂。最終的に第一組合である乗員組合員は被解雇者を含め8名となった。
 
7月  
・運航乗員組合が発足。

 

11月   ・運乗組合、民労、新労、客乗は業績リンク制による年末一時金に調印。
 

1967年
 
 2月に67~72年度の六ヶ年計画が、7月には六ヶ年計画を踏襲した68~74年度長期計画が策定される。これらの計画の前提として、日本出入国旅客数が、7年間に約3倍になると想定し、69年度までは比較的安定した成長を見込むものの、その後、ジャンボ導入やパシフィックケース(PA,NW以外の太平洋線参入)等による供給過剰、競争激化から、相当困難な時期に

なると予想(危機宣伝)。そのための「力の準備」として、後に「伸び過ぎた翼」と批判される、急激な事業規模拡大(6年間で2倍にする機材計画)と、それを支える「合理化」を押し進めていく。
 
5月   ・「合理化」策の一環であるとも言える、職種統合(航空機関士→副操縦士、航空士→航空機関士→副操縦士)と、セカンドオフィサー制度導入を決定。それと同時にSCNと呼ばれるドプラーレーダーを使った自蔵航法を進める。(ドプラーレーダーの精度が悪く、ロランを併用しないと飛べなかった。)

・外国人導入により、飛行機の稼働が上がり、昼間に整備する時間が大幅に減ったため、夜間整備専門の課を設ける。またこの年からエンジンのオーバーホールの間隔を無節操に延ばしていく。


8月  
・全社でZD運動を始める。これは作業者の自覚によって無欠陥の作業を行うことを目指したもので、たとえば整備の現場では、飛行機が1分遅れたらレポートを提出しなければならないようなものだった。
12月  
・会社、運乗組合と「事業計画との関連における乗員計画の合理的推進」「運航業務全般の効率化の推進」を協力する確認書(「合理化」協力確認書)を締結。

 組合を分裂させた会社が、着々と「合理化」を進めていく中で、運乗組合内でも種々の問題について、「与えるばかりで何も得ていないのではないか」という疑問と不満の声が、乗員組合の速報から情報を得た組合員の中で、大きくなりつつあった。

 

1968年   ・会社はひたすら事業規模を拡大し大きな収益を上げていく。乗員不足は更に進み大量の外国人乗員を導入。
4月  
・乗員組合員に対し、機長昇格差別(詳細はこちら)。

・運乗組合、長期賃金協定(3年に一度の交渉のため、業績リンク、労働協約とともに、組合活動を弱体化させる三本柱の一つだった)を締結。

9月   ・運乗組合は労使協議制(システムは現在の経営協議会と同じようなものだが内容は、会社の方針を説明して了承させるという性格のもので、団交を制限し、労使対等でなくす効果があった)に調印。
 
11月  
・サンフランシスコ沖不時着事故。事故原因は、新型機の新しい装置の訓練がわずか1時間半で、クルーが操作に慣れていなかったこと、日本人の機長と外国人の副操縦士間のコミュニケーションの問題とされている。

 幸い死亡事故にはならなかったものの、「合理化」の歪みによる事故がついに起こってしまった。日航は世界で一番安全な航空会社と言われていたが、4月の段階で、過去15年間の全損事故発生率が世界平均の2倍になっており、旅客死亡事故がないと言うだけで、決して安全な会社とは言えない状態だった。
 


1969年

 
  ・整備の現場に、サンプリング方式導入。運乗組合にはポーラー線の2ランディングを提案。(組合は拒否)

1月
 
・労働協約(ユニオンショップ制を含む)についての三労組会議開催。

 労働協約とは、労働条件以外の労使間の基本的な取り決め。組合活動に関する事項、ショップ制、人事に関する事項、争議に関する事項(争議予告についてなど)を含む。会社の提示したものは、

ストを制限し、その他については労組法などの法律並かそれ以下という、組合にとって不利なものだった。
ユニオンショップ制とは、組合を除名された者を会社は解雇しなければならない制度。元々組合の団結を保護するためのものだが、組合の不満封じのため、当時会社の提示したものは、原則として解雇(尻抜けユニオン)とし、実質的に解雇は会社の権限に属する。会社は御用組合を使って会社に都合の悪い社員の処分もできる。
 

7月
  ・運乗組合、ユニオンショップ制についての全員投票を行う。規定投票数に達せず、2回不成立になり、3回目の投票(10月)でユニオンショップ条項が否決される。
 
1970年  

1月
  ・ユニオンショップ導入に失敗した会社はこれをはずした労働協約を提案。運乗組合で行った、この会社提案についての一般投票に不正が発見される。ニセの投票用紙が200票余り(すべて賛成)混ざっており、不正票を除くと有効票が規定投票に達せず、投票は無効となる。

7月
 
・B747就航。ここにも「合理化」が持ち込まれ、以降訓練でシミュレーターによる緊急降下、油圧故障などの訓練を行わないという簡略化されたものだった。

・ユニオンショップ、労働協約締結失敗で焦ったのか、会社は執行部が交替する直前に機長管理職制度導入を強行。

 


12月
 
・運乗組合初の全員組合大会(それまでは代議員大会が最高議決機関)が行われ、「従来のような、組合本来の任務を果たせない労使協調ではなく、労使対等という原点から出発・・・」という運動方針を可決。
 

1971年
5月 ・運乗組合、乗員組合の解雇問題につき、見解を表明。「全ての問題を、機長を含め、全乗員の問題としてとらえるものであり、その方針からも、関係各位におかれましては、従来の経緯をはなれ、早急に円満な解決をはかるため、真剣な努力をされるよう要望いたします。」
 
6月
・運乗組合は、長期業績リンク協定における自動延長はしないことを決定。
 

10月 ・整備士死亡事故。原因は時間に追われ安全措置をとらなかったため。
11月 ・乗員組合は年末要求に初めて安全要求を加える。
・運乗組合は単年度で一時金を要求(ここ数年、創業以来の好業績を上げたが、長期賃金協定、業績リンク導入後、それまで航空三社中一番だった賃金、乗務手当、一時金が最低になった)、会社はこれに対し、団交を途中退席したり、回答の引き延ばしを行う。そして単年度で回答している日航労組と乗員組合に対しては、露骨な差別回答をすることにより、運乗組合を更に揺さぶる。結局運乗組合は長期協定業績リンク制で妥結。
 
1972年

3月

・会社の不当労働行為が国会でも取り上げられ、労働大臣が会社に注意。「幸いにして今日まで日航には、たいした事故はないが、今その話を聞いてみると、不思議に思われるくらい、内部にいろいろな事件が起きている。しかし、航空産業は、まさに安全第一以外にない。このような労使関係が大きな事故につながることがあったら大変だ。・・・」


 


4月
・運乗組合、初の安全要求、乗員組合解雇撤回要求を決定。また、賃金要求に関してはスト権投票を行うことを決定。
運乗組合執行部の解雇撤回要求に対する見解:「この問題を長引かせているのは、同じ職場の乗員組合より分裂した組合(運乗組合)が、口をつぐんで、これまで十分な行動をとっていないことが原因であるとしなければならない。更に考えれば、分裂そのものが、口をつぐんでじっとしていることをねらったものだったからではないでしょうか。」
 

5月

・管理職乗員(機長)2名が、仙台訓練所でスト権投票に対する介入行為を行う。また会社労務が発行するILBだよりを使ったり、委員長に対する個人攻撃などあらゆる手を使って介入を行う。これに対し労働省の課長が勤労部長に、不当労働行為をしないように注意。

 

・羽田空港において離陸時、滑走路逸脱事故。

・運乗組合は介入に負けず、初のスト権を確立(長期賃金協定を拒否し、単年度で要求することに決定)
 

6月
・会社は乗務手当に関する運乗組合との団交を拒否、延期。

・ニューデリーでの墜落事故。
 

9月
・ソウルでの滑走路逸脱事故。

・ボンベイ誤着陸事故。

 会社の安全運航強化対策:「人格面での教育、審査をより厳格に行う」「規定遵守の徹底をはかる」

 

 11月 ・モスクワでの墜落事故。
1973年
    7月 乗員組合員4名の解雇撤回。
 
 10月 小倉元日航労組委員長、海外勤務より帰国。
 

11月
・運乗組合、乗員組合へ再統一。
 
1975年 ・アンカレジでのB747の誘導路からのスリップ事故。
 
1977年
・アンカレジでの貨物機墜落事故。

・クアラルンプールでの墜落事故。
 

1982年 ・羽田沖墜落事故。
 
1985年

8月
・123便事故。
 

9月
小倉氏2度目のナイロビ勤務。
 

12月
・伊藤副会長、山地社長、利光副社長の新体制発足。
 
1986年
1月 ・伊藤副会長、新聞の対談において「まず経営側がかつての分裂労務政策を反省するなど、やるべきことをやらなくてはならない。安全も含めて経営問題の答えは現場にある」と発言。
 
  2月 ・会社は組合に対して副操縦士地上業務の中止を回答。
 
6月
・機長組合発足。

小倉氏、会長室部長に就任。
 


10月
・橋本運輸大臣は伊藤会長に対し、「話し合い」の名目のもとで労使問題に介入。全労幹部との関係が取りざたされていた三塚元運輸大臣も、週刊誌の記者に対し「全労組合のためにやっている」と答える等、全労と政治家の癒着体質も明らかになる。
 
1987年
2月 ・先任航空機関士組合結成。
 
3月 ・伊藤会長辞任。
 
4月 ・日航開発、HSST、ドル先物買い等、不正経理や経営疑惑が明るみに出る。
 
7月 小倉氏、3回目のナイロビ勤務 。
 


この後日本航空経営は、乗員組合と結んだ勤務協定、
送迎協定等を一方的に破棄し、
東京地裁に提訴されました。

この裁判は会社が敗訴し、東京高裁に控訴しています。



日本航空の労務政策-考察・「沈まぬ太陽」-へ戻る

http://www.jalcrew.jp/jca/public/taiyou/pub_kaiko.htm





「沈まぬ太陽」乗員版・解雇編
 

会社の思うようにならない乗員組合に対し、会社は組合の役員選挙への介入、脱退工作などの不当労働行為を行い、ついには4名の組合役員を、前年行った2度のストライキの責任追及を理由に解雇しました。

しかし、争議理由、争議予告義務や、争議の規模、態様についてもすべて正当なものと労働委員会や裁判所に認められました。

解雇撤回まで8年もの歳月を費やしたのは、16もの第三者機関の判断が下されるほど、会社が頑なに解雇撤回を認めようとしなかったからです。その間の詳しい経緯を日航乗員小史より見ていきます。
 


「解雇・差別撤回に関する闘い」

運乗成立と組合統一にも触れて

 

‘65年(昭40)4月27日、日本航空は前年(昭39)11月及び12月に乗員組合(以下組合又は第一組合)が実行したストライキは「争議権濫用に当たる違法ストライキであり、これを企画実行した責任者」として、小嵜誠司(おざき せいじ)委員長・田村啓介(たむら けいすけ)副委員長・藤田日出男(ふじた ひでお)書記長・丸山巌(まるやま いわお)教宣部長(何れも当時)の四名を懲戒解雇した。

 

 これに対し一ヶ月後の同年5月27日 、組合は「ストライキは適法に実施された。解雇は無効で社員としての地位を保全せよ」との仮処分を求めて東京地方裁判所(以下地裁)に提訴した。

 同日、機長会は突然、「機長は全員組合から脱退する」旨を声明した。

 

 組合は、提訴以来僅か十ヶ月後の‘66年(昭和41)2月26日、地裁仮処分に勝訴したが、会社は解雇を撤回せず、同地裁に「仮処分異議申し立て」をしたため、組合は直ちに同年3月26日、地裁に本訴を提起した。

 

 一方「機長無し」で頑張り、仮処分裁判に勝訴して勢いづいた組合は、裁判所(司法機関)での判断を基盤にして、同年4月24日「組合役員の解雇は、組合潰しの不当労働行為」として東京都労働委員会(行政機関・以下都労委)に「原職(乗員)復帰の救済命令」を求めて申し立てを行った。

 

 組合は、解雇事件を裁判所と労働委員会、即ち司法と行政の二本立てで闘うことにより解雇の不当性を広く社会に明らかにするという方針をとった。

 

 組合役員を解雇しても、機長を脱退させても活動力の落ちない組合に対して、会社は
‘66年(昭41)7月25日、一部組合員機長を利用して運乗組合を発足させた(注1)。

 

 組合は、会社の激しい分裂攻撃の前に極小組合(組合員8名)に転落し、財政的にも心理的にも辛酸をなめたが、当初からの方針を堅持して闘うなか、分裂から一年後の‘67年(昭42)8月1日、都労委に於いて組合申し立て通り、4名の「原職復帰の救済命令」を勝ち取った。

 

 会社は、弱小組合の「勝利」など意にも介する事なく、命令を履行せず直ちに同年9月13日、中央労働委員会(以下中労委)に再審を申し立てた。≪労働組合法は、再審の申し立てをしても初審命令(本件では都労委命令)は履行しなければならないと定めており、法無視の傲慢な会社姿勢が、後述する「会社に対する過料(罰金)」の原因となる≫

 

 

都労委に於ける勝利にも拘らず、会社と運乗(第2組合)執行部の執拗な介入・差別の攻撃を受けて、組合の活動は低迷気味であったが、‘69年(昭44)を迎え、解雇されていない組合員(4名)らに対する不当差別を都労委に申し立てるなど新たな闘争が加わり、また運乗内では組合民主化の兆しが見え始めた。

 

 これらの状況変化と並行するように、裁判や労働委員会での勝訴が連続した。‘69年(昭44)4月14日には、組合員築野淳司(つくの あつし)・山田隆三(やまだ りゅうぞう)らに対する機長昇格に必要な国家試験の「受験差別」について都労委に救済の申し立てを行い、同年8月18日には救済命令を得た。

 

 さらに受験日確保のため築野組合員は、年次有給休暇(年給)を会社に要求したが認められず、地裁に「年給取得」の仮処分を求めて提訴し同年9月10日勝訴した。

 

 解雇事件に於いては、‘69年(昭44)7月2日、組合は都労委に続き中労委でも、「原職復帰の救済命令」を勝ち取り、二審制を採る労働委員会での闘いは三年余りで完勝したが、会社は同年8月1日、今度は中労委を相手に「命令取消し」の行政訴訟を地裁に提訴した。

 

 同年9月29日、地裁での本訴裁判に於いて組合が完全勝訴、裁判所執行官がバックペイ(賃金未払い分1,800万円)の差し押さえのため、本社及び中央運航所(羽田オペレーションセンター)に出向いた。会社は差し押さえ寸前、自ら全ての金員を組合に支払った。しかし解雇は撤回せず、同年10月11日東京高等裁判所(以下高裁)に控訴した。(会社は「仮処分異議申し立て」も棄却され同じく高裁に控訴した)

 

 翌9月30日、かねて中労委から「会社は原職復帰の命令を履行していない」との報告を受けていた地裁は、会社に対し「中労委命令に従って直ちに原職に復帰させよ」との「緊急命令」を出した。徹底抗戦の会社は直ちに9月25日「緊急命令変更」の申し立てをしたが、同地裁は11月19日これを棄却した。

 

 中労委(行政機関)命令を地裁(司法機関)が支持し、その履行を命じたことは、会社にとって大きなダメージとなった。

 

 会社はこの事態を打開するカギを職場に求め、ユニオンショップ制を含んだ労働協約を運乗と締結することによって、仮に会社が法的に解雇を撤回せざるを得なくなっても、職場が受け入れないという体制をつくり、被解雇者らを排除しようと企てた。

 

 しかし、運乗組合員の反発は強く、大会でユニオンショップ条項については全員投票にかけることが決まって、執行部独断による会社との闇取引は回避された。

 

 全員投票は2回の不成立の後、第3回目で否決されたが、執行部は若干の修正をほどこして4回目の投票に持ち込んだ。

しかし、この投票中、‘70年(昭45)1月21日、205票にのぼる賛成票がニセ用紙によること(いわゆる不正投票事件)が発覚、一部機長執行委員の関与が取り沙汰されるなか、疑惑を感じた組合員らの組合民主化への気運は一気に高まった。

 

 約六ヶ月後の、機長全員管理職制度による機長の非組合員化を予感させる動きでもあった。   

 

 この間、‘69年(昭44)7月11日、会社が撤去しようとした組合掲示板を確保すべく地裁に起こした「掲示板確保」の仮処分で勝訴した。

 

 前述の築野組合員の「年休確保」の勝訴と並んで、会社の無法ぶりを示す例として地裁職員の間でも話題になったという。

 

 緊急命令で追い詰められ、労働協約の改悪にも失敗した会社に、追い打をかけたのが
‘70年(昭45)5月18日、地裁が会社に出した「緊急命令違反」による過料(罰金)200万円の決定であった。(会社はこれを無視「200万円の過料取消」を求めて、同年6月25日高裁に即時抗告した)

 

 翌5月19日、都労委は乗務手当差別に関する団体交渉の開催や、丹羽叡(にわ あきら)・坂井正一郎(さかい しょういちろう)組合員に対する基本賃金差別について組合申し立て通りの救済命令を出した。

 

‘70年(昭45)7月31日、機長全員管理職制度(注1)によって「機長無し」となった運乗は、急速に第1組合と接近し、同年12月23日の組合大会に於いて、「乗員は一つ」の画期的な方針を採択した。

 

‘71年(昭46)3月19日、会社が行った「過料(罰金)200万円取消」の即時抗告を高裁が棄却、会社は直ちに3月25日、最高裁判所(以下最高裁)に「特別抗告」を行った。

 

 同年5月24日、運乗は先の「乗員は一つ」の方針に沿って、「高裁判決に従い、解雇を撤回すべき」旨の見解を公表した。

 

 翌5月25日、地裁は会社に対し「緊急命令違反」による「第二次過料(罰金)200万円」を決定するも、会社はこれを受け入れず、6月初旬高裁に即時抗告したが、二ヶ月後の8月には棄却され、最高裁に特別抗告した。

 

 この結果、第一次及び第二次の過料(罰金)取消の特別抗告と本訴上告の三件が最高裁で係争することゝなった。

 

 

‘71年(昭46)10月23日、運乗は解雇事件での「公正判決」を最高裁に要請、12月12日には第一組合との統一促進のための署名を開始した。

 

 元気づけられた組合は翌年2月26日、都労委に「築野・山田・丹羽・坂井の各組合員を機長候補者として扱え」との命令を求めて救済を申し立てた。

 

‘72年(昭47)3月27日、労働大臣が労使関係の(正常化)について注意喚起するなか、4月26日、運乗は解雇撤回の要求を決定した。

 

 会社はこの要求書の受取を拒否するなど、強硬姿勢を見せたが、かえって会社方針の孤立ぶりが目立つようになった。

 

 同年7月31日、会社は中労委を相手に地裁に提訴した行政訴訟に完敗し、(直ちに高裁に控訴)続いて8月15日、都労委から「築野・山田・丹羽・坂井の四名を機長候補者として訓練しなければならない」旨の命令を受けた。(会社は直ちに中労委に再審を申し立てた)

 

 更に、後述する10月20日の統一ストライキ(いわゆる10.20闘争)に向けて、職場に緊張感みなぎるさなかの9月22日、地裁は会社に対し「緊急命令違反」により「過料(罰金200万円)」(第三次分・合計600万円)を決定した。

 

 会社は前例通り直ちに高裁に即時抗告したが、益々、行政・司法の両面での追求により孤立した。

 

同年10月20日、管理職であった佐竹仁・尾崎行良機長らの脅し(仙台基礎訓練所における“ストライキに賛成するなら機長にしない”など)に屈することなく、賃金要求で初のスト権を確立した運乗と第一組合は、合同闘争委員会の決定により、解雇撤回を含む要求で、統一ストライキを構えた。

 

ストライキは回避されたが、両組合が示威した団結力は情勢を動かし、翌‘73年(昭48)1月26日、最高裁が第一次及び第二次「過料(罰金)取消」の特別抗告を棄却するや、会社は遂に理不尽な抵抗を諦め、全ての係争中の事件(最高裁2件・高裁2件)を取り下げて、3,000日に及ぶ解雇の撤回を表明した。

 

 引き続き、2月3日、先に都労委で救済命令のあった機長昇格差別を撤回させ、中労委に於いて和解協定を締結し、築野・山田・丹羽・坂井の四名は、機長昇格候補者として訓練に入ることになった。

 

‘73年(昭48)7月19日、組合は本社に於いて、運乗執行委員会(委員長・小塚 剛 こづか つよし)同席の下、合同団体交渉の席上で解雇撤回協定に調印した。

 

その後両組合は組織統一のための投票(圧倒的賛成)を経て、同年11月22日の統一を主題とした大会に於いて、統一宣言を採択、歴史的な組合統一を成し遂げ、その名称も「日本航空乗員組合」を継承することゝなった。

 

 機長は、‘77年(昭52)のアンカレッジ牛輸送・クアラルンプールでの各墜落事故、
‘82年(昭57)羽田事故を経て、‘85年(昭60)123便の大事故の後の翌‘86年(昭61)6月12日の機長組合設立まで「機長会」のメンバーであった。

 

 訓練生は、‘79年(昭54)12月15日、組合の働きかけにより全員組合に加入した。 

 


 





以上のように、会社はあらゆる手を使って解決を引き延ばし、挙げ句の果てには公的機関の命令も無視するという暴挙に出ます。
しかし1972年の連続事故後、国会での追及、世論の批判に抗しきれず、解雇を撤回せざるを得なくなりました。
この間の被解雇者の苦労はいかばかりのものだったでしょうか。
御巣鷹山での123便事故のときもそうでしたが、日本航空という会社は事故を起こし尊い人命を失ってからでないとその卑劣な労務姿勢を変えようとはしません。現在も乗員組合の勤務関連問題(東京地裁で会社は敗訴、東京高裁に控訴中)や、機長組合の長時間乗務手当問題などで提訴されています。これらの問題も、事故で人命が失われるまで解決しようとしないのでしょうか・・・。運航の現場では「いつ事故が起きてもおかしくない」という声が挙がっているのです。

 





日本航空の労務政策-考察・「沈まぬ太陽」-へ戻る

http://www.jalcrew.jp/jca/public/taiyou/pub_shoukakusabetsu.htm





「沈まぬ太陽」乗員版・昇格差別編

1965年に組合役員4名を解雇した会社は、翌1966年乗員組合の役員選挙に介入、乗員組合事務所への通路を閉鎖した上、脱退工作を開始しました。その結果、第二組合である日本航空運航乗員組合(運乗組合)を発足させました。脱退工作の武器として用いられたのが機長昇格差別でした。

機長になるためには定期運送用操縦士(ATR)という国家資格が必要ですが、従来はATR受験希望者全員に対し、必要な教育訓練が行われてきました。しかし、会社は乗員組合員のATR受験希望者に対する教育訓練を拒否するという差別を始めました。

このような昇格差別を道具とした分裂攻撃を受け、乗員組合に残ったのは被解雇者を含め、わずか8名となってしまいました。このうち2名に対するATR受験のための教育訓練の実施を要求し、1969年4月に都労委に救済申し立てを行い、8月に都労委は救済命令を発しました。しかし会社は中労委に対し再審査申し立てを行ったばかりでなく、個人でATR学科試験を受けようと有給休暇を申請した組合員に対し、これを拒否して受験を妨害しました。

ATRを取得した後、飛行経験を積み、昇格に必要な飛行時間に達すると機長昇格候補に指名され、路線訓練に投入されます。その後ATRを取得した4名の乗員組合員に対し会社は、4名が昇格に必要な飛行時間に達したのにもかかわらず、機長昇格候補に指名せず路線訓練に投入しませんでした。このため1971年12月、4名に対し機長昇格訓練を実施することを求めて救済を申し立てました。この審問の過程で、会社は機長に要求される人格的資質の抽象論を展開しましたが、4名がその資質を欠いているという具体的な立証が全くできなかったため、都労委は1972年8月、乗員組合の申し立てを全て認め、救済命令を出しました。

会社はこの命令に対し再審査申し立てをしましたが、1972年の連続事故後、世論の批判を受けたこともあり、1973年2月、中労委関与のもとで組合の要求を認める協定書にようやく調印しました。

 


日本航空の労務政策-考察・「沈まぬ太陽」-へ戻る

http://www.jalcrew.jp/jca/public/taiyou/asahi-shintyou.htm





「沈まぬ太陽」の反響 
 -週刊朝日 VS 週刊新潮・・・日本航空、機長組合の見解-

週刊朝日2000年2月11日号、18日号の2号にわたり “『沈まぬ太陽』を「私は許せない」” と題した記事が掲載されました。(18日号の表題は、“読者が一番泣いた「御巣鷹山編」こそ「許せない」”)
この小説のモデルにされたと思われる方々、特に“悪役”として描かれた方々の不満の声がのせられています。曰く、「俺はそんなことはしていない・・・」「そんな事実はない・・・」
また、18日号の記事の中に囲みで小説の主人公となった小倉元日航労組委員長の声が掲載されています。「作者が膨大な取材の中身を大幅に削除したり、逆に取材で言わなかったことを書いたのは当然であり、それについてあれこれ言われるのは迷惑である」とのことです。

これに対し週刊新潮は2000年2月24日号で、朝日新聞および週刊朝日の愛読者が送った週刊朝日への抗議文と、週刊朝日には取り上げられなかった御巣鷹山事故の遺族の方々の声を中心に反論記事を掲載しました。
主張の内容は、一般の読者は書かれていることがすべて事実だとは思わないであろうこと、週刊朝日の記事には御巣鷹山事故の遺族の声が全く掲載されていなかったこと、そして「実際のモデルはこういう人物だった」「自分はそんな悪人ではなかった」「御巣鷹山には恩地はいなかった」などというコメントを、得々と連ねることに、いったい何の意味があるのだろう。(下線は本文より引用)

 

両週刊誌の記事の中で日本航空の内部にいた人のこんな言葉がのせられていました。

まずは週刊朝日から・・・小倉氏のコメントの一部
「この小説で白日の下にさらけ出された、組合分裂工作、不当配転、昇格差別、いじめなどは、私および私の仲間たちが実際に体験させられた事実です。日本航空の経営側にいた人たちは、(中略)数々の不当労働行為やその他の不祥事を思い出されたらいかがでしょう。人間である限り、そんな事実はなかった、などとはいえないはずです。」

週刊新潮の中から・・・日航OBで航空評論家の楠見光弘氏の提言
「私は、『沈まぬ太陽』という作品は、御巣鷹山で亡くなった520人の声なき声を遺した書であると同時に“戒めの書”であると思います。現在日航は厳しい経営環境に直面していますが、この小説に描かれているような過去を清算し、反省して、将来を展望する糧とすべきではないでしょうか。そのためにも、日航は『沈まぬ太陽』を不愉快なものとして抹殺せず、きちんと向き合うべきです。それがご遺族と国民の信頼を回復し、本当のナショナルフラッグキャリアとして再生する唯一の道でしょう。」

 

しかし、当の日本航空の考え方は(社内誌より)

『本小説は、御巣鷹山事故に関する記述などから、舞台となる会社組織および登場人物のモデルとされる人々が、当社とOBを含む当社社員など実在の人物であることが連想され、この著作によって会社と一部個人のイメージ・名誉が著しく傷つけられており、遺憾である。
作者は巻末において「事実を取材して小説的に再構築した内容」と付言しているが、この小説が弊社をモデルとしたノンフィクションであるという意図ならば、事実無根の部分が多く、弊社をご利用される一般のお客様の誤解を招き、企業イメージを悪化させ、営業上も甚だ問題である。
弊社は、大競争時代の中においてサバイバルの途上であり、フィクションと思われるものの事実関係について争うつもりは、今のところないが、更に弊社のイメージを低下させるようであれば、別途の対応を取る所存である。』

 

また、2000年3月22日の経営協議会の場で次のようなやり取りがありました。

「沈まぬ太陽」に関する週刊朝日の記事について
(機長・先任ニュースより)



<日本航空が山崎豊子氏に脅迫まがいの文を送る>

組合:「沈まぬ太陽」に関して広報部長から2月1日付で業務連絡が出された。同日週刊朝日に「沈まぬ太陽」に関する記事が掲載され発売されている。事前にこの記事を知っていたのか?



新町広報担当取締役:中身について事前に話し合うことは一切していない。

 

組合:会社は山崎豊子氏に「沈まぬ太陽」の発行許諾の撤回、映画化、テレビ・ラジオ・ドラマ化の中止、日本航空と無関係の架空の小説であることの告知と、掲載に対する謝罪を申し入れていることは事実か?

 

新町取締役:JALとして代理の弁護士を通して出した。大きな世間的社会問題になったので、兼子社長も含めて機関として決定して出した。




<兼子社長の変節!?>

組合:1月27日の機長組合との役員懇談会の席上、社長は小説「沈まぬ太陽」について機長から読んだかどうか聞かれて「コメントはない」といっていたではないか。それが急に脅迫的文書まで送る事態となっている。考え方が変わった理由を説明する必要があるのではないか。



兼子社長:その時には感想まで求められなかった。感想を聞かれたならばこのように答えたであろう。

 

組合:山崎豊子氏に対する申し入れ文書の中で、事実無根と主張しているがどこの部分が事実無根なのか。

 

新町取締役:この場では説明できない。別の場を設定して説明したい。

 

組合:山崎氏への申し入れ文の中に「営業上甚大な影響がでている」とあるようだが、具体的数値など、根拠はあるのか?

 

新町取締役:具体的数字を出すことはできないが、日本航空のイメージを落とすことは、有形無形にダメージを与えることになる。




<日航経営者、恥の上塗り>

組合:日本航空には真面目にやっている人達もいるとして、逆に旅客から評価される面もあるのではないか。営業上甚大な影響というならば、旅客数・トンキロなど具体的数字を出さなければ、単なる脅迫と捉えられる。



新町取締役:ダメージを定量的に断ずるのは極めて難しいが、脅迫ではない。

 

組合:先程の経営の説明でも、昨年より旅客輸送は伸びており、良くなっている。日本航空としては恥の上塗りと言わざるを得ない。また、この様な行為は、出版妨害に当たるのではないか。

 

新町取締役:そのようなものには当たらない。

 

組合:日本航空の対外イメージや公共交通機関の責任を云々するのであれば、「安全上問題あり」とした地裁判決を守らないことの方が、労使関係を悪化させ、ストライキにまで発展する。そういったことの方が企業のイメージダウンとなるのではないか。

 

兼子社長:そういう比較の問題ではない。

 

組合:今のような経営の対応では、労使関係はうまくいかない。

 

ということで、過去を清算し、反省する気はあまりないようです。もっとも、素直に反省できる会社なら小説のモデルにはならなかったでしょうが・・・

 

 

最後に週刊朝日の記事に対する機長組合の見解を掲載します。

週刊朝日2月11,18日号(「沈まぬ太陽」を私たちは許せない)の正しい読み方(機長組合ニュース14-140より)

山崎豊子作の「沈まぬ太陽」が2百万部を超す大ベストセラーとなっていることはご存知のとおりです。週刊新潮での連載が始まって以来、お客様から「JALってすごい会社だネ」と言われたとか、社歴の長い人が「俺もそう思っていた」と話していたとか、新人から「全労ってひどい組合ですネ」との感想が出されたなど、社の内外でさまざまな議論を醸し出しています。
そんな中、週刊朝日は2月11日、18日号の2回に分けて山崎豊子氏を主に批判する人物を中心とした特集記事を連載しました。これを受けて会社は週刊朝日の機内搭載の拒否と思いきや、それどころか発売日の2月11日に合わせて小説「沈まぬ太陽」に対する当社の考え方なる業連を出しました。また社内報を出して会社の考え方を社員に徹底するなど、今回は真っ向勝負に出ています。こうなってくると国民航空=日本航空が証明されたも同然です。組合も参戦せざるを得ないでしょう。

週刊朝日の記事についてここだけは是非確認したいものです。

<利光元社長への疑問>

Q利光さん、あなたがそれ程までに小説「沈まぬ太陽」に憤慨するのであれば、特別販売促進費が毎年どのくらいの額になるのか?

その内訳としてどこの会社にどのくらい支払われているのか?

を組合に説明すべきです。

Q昨年夏、あなたの自宅にピストルで銃弾が撃ち込まれましたが、思い当ることはないのですか?家を間違えられたとでも言うのですか?

 

<週刊朝日記者への疑問>

Qせっかく関係者の取材をしたのに、どうして組合所属による差別や不 当労働行為、不当解雇・分裂などの問題について第三者機関や組合に取材をしなかったのですか?

Q小説の主な登場人物と推定されるモデル一覧表の中に、なぜ重要人物である轟鉄也(元全労委員長、JTS副社長の大島利徳氏と推定されている)と権田宏一委員長(元全労委員長、現名古屋支店長の渡辺武憲氏と推定されている)の二人を除いているのですか?



<吉高AGS特別顧問への疑問>

Q記事にある「…組合だって悪いところがあった。・・」とは具体的には何の事ですか?第三者機関から判決や命令を受けたのはあなた方ではないのですか?

 

<平野日航特別参与(前常務)は正直に認めています>

週刊朝日の記事から

「…日航にはたしかに、組合員に対する不当な扱いや差別人事、一部子会社での問題経営があった。…」

 

<どこまでがギリギリか?高級官僚と業界の癒着>

黒野前運輸事務次官(小説では石黒航空局総務課長)は正直に週刊朝日の取材に応じています。黒野氏は昨年運輸省を退官しましたが、スカイマークの生みの親で、航空の規制緩和の立役者とまで言われていました。また航空局長から初めて運輸事務次官となったキャリア組のエリート中のエリートです。しかし退官の直前に、大蔵省接待で話題となった風俗しゃぶしゃぶに日航幹部と一緒に出入りしていた事が入店者名簿で明らかとなりました。

週刊朝日の記事から

「航空会社の人と食事も酒もともにしたことがないと言うつもりはない。…行政官としてのギリギリのモラルは守ってきたつもりです。…・責任ある立場になってから二次会に行かないようにしていましたから…」

注:意味深長、しゃぶしゃぶ店での食事は通常一次会のようですが、ギリギリとは何か基準があるのでしょうか?



<百戦錬磨、派閥の領袖三塚氏と、山地元社長の反応>

「沈まぬ太陽」の記事について三塚氏はインタビューで「自分が出て騒ぎになるのも大人げない」とコメントしているようです。また山地元社長はゴルフとカラオケで忙しいのでしょうか「全く読んでないのでコメントのしようがない」と取材で応えているようです。



<まとめ>

今回の問題は、あくまでも小説の世界と割り切れないところに日本航空の黒い部分の根深さがあります。週刊新潮で連載が始まった時には機内搭載拒否で抵抗してみたものの、2百万部の売れ行きとなっては無視できなくなりました。誰かの号令で反撃開始となったようです。週刊朝日にコメントが出されているように、まだまだ色気のある人、したたかな人、過去の人とそれぞれ小説に対する反応を異にしているのも興味深いところです。

その筋の話によれば、日航お抱えのいつもの新聞記者が「沈まぬ太陽」に反論する単行本を出版するとの事です。今回の記事はその前哨戦としてのジャブと言ったところなのでしょう。ところで今回の週刊朝日の記事、読んだ方にはお分かりの事と思いますが、「沈まぬ太陽」の第五巻・会長室編(下)の10章とどこか似ています。小説に出てくる日本ジャーナルの事です。「朝日の名前があるだけについ信頼して…」と言うのはよくある話です。

週刊朝日の販売部数が伸びないと言われているのは、今回のように読者の反権力という朝日への期待に反して、日航経営と政界・御用組合幹部との癒着の実態に目をつむり、事件の本質にメスを入れるという姿勢に欠けているからでしょう。通り一遍のワイドショー並みの記事は専門の別のアサヒに任せた方がよっぽど面白いでしょう。

もっとも朝日が「沈まぬ太陽」2百万部の売上げにあやかって、その2百万部読者に週刊朝日を売り込もうと考えてのことなら理解できるところです。しかし万が一にもそのような発想からの二週連載であるならば、読者は見抜き、いずれ離れていくでしょう。

 


日本航空の労務政策-考察・「沈まぬ太陽」-へ戻る

http://www.jalcrew.jp/jca/public/taiyou/gendai.htm





深田祐介氏も参戦!?
「沈まぬ太陽」への攻撃・・・黒幕は・・・?
ある機長の投書より

深田祐介氏はかつて日本航空に在籍し、広報部次長を務められました。その深田氏が「週刊現代」誌上で『沈まぬ太陽』への批判を展開されていますが、それに対しある機長から次のような投書が届きました。

 

週刊現代 6月10日に “深田祐介が初めて書いた「山崎豊子『沈まぬ太陽』徹底批判!」” という記事が掲載されました。
記事の内容は、見出しの通り「沈まぬ太陽への徹底批判」です。
曰く 「企業小説は、テーマとした企業の人間が読むに耐えると評価して初めて本物である。しかし、『沈まぬ太陽』は航空産業界に在籍した人間のほとんどが現実性をきわめて欠く作品と感じるのだから、失敗作と断じざるを得ない」 のだそうです。

しかし、週刊朝日で小倉氏自身がこう語っています。
「組合分裂工作、不当配転、昇格差別、いじめなどは、私および私の仲間たちが実際に体験させられた事実です。」
そして、組合の歴史がそれを裏付けています。
また、社内には 「事実を知っているから、『沈まぬ太陽』は読まなくてよい」 という人もいるくらいです。現実性をきわめて欠くと感じているのは、日本航空の経営に携わり、組合を分裂させる、いわゆる分裂労務政策を遂行した人と、その片棒を担いだ人と言う方が正確だと思うのですが・・・

更に深田氏は、山崎氏の 「取材や資料の解釈において著しい偏向があり・・・」 と語っています。「著しい偏向」とは一体どういう意味なのでしょう。まさか、直木賞作家の深田氏が組合活動をする人間はアカであるというようなおかしな偏見を持っているとは思えませんが・・・
また深田氏は 「特にモデルの選択において、決定的な誤りを犯した・・・」とし、「企業小説ならば、企業のなか、業界のなかで、志をもって働いている人物をモデルの対象にしなければならない」と語っています。「志」というのは司馬遼太郎さんの 「人間の志を描くのが小説である」 という言葉を引用しての発言なのですが、組合員の労働条件向上のために働いた人に「志」はないとでもおっしゃるのでしょうか。まさか、まさか、直木賞作家の深田氏が憲法で保障された組合活動を「偏向している」とお考えになっているとは思えませんが・・・
山崎氏は日本航空を題材とした企業小説を書きたかったのではなく、小倉氏を主人公とした小説を書きたかったのでしょう。たまたま小倉氏が所属していた会社が日本航空だったというだけの話で、取材の過程で 「小倉氏の話しか聞かなかった」 というのも、当然といえば当然だと思えるのですが・・・

一部の人には失敗作と評されましたが、『沈まぬ太陽』はベストセラーとなりました。これがすべてを物語っているのではないでしょうか。おもしろい、いい小説だからベストセラーになったのであって、失敗作がベストセラーになるなんて話、あまり聞いたことがないのですが・・・

『沈まぬ太陽』の文学的評価はさておき、週刊現代の記事で驚かされるのはモデルとなった小倉氏への誹謗中傷です。小倉氏が自身をモデルにこの小説を書いたわけでもないのに、こんなこと書いて名誉毀損にならないのかと、他人事ながら心配してしまいます。それこそ 「開いた口がふさがらない」・・・
曰く 「航空業界に生死を託すような志をもった人物ではない」、ある日航OBの言葉として 「俺が航空貨物の開発におもい悩んでいた頃は、組合のなかで成り上がることばかり考えていた。俺がマグロを空輸しようと血眼になっていた頃、彼はアフリカの駐在員になって、象を殺しては象牙を売って儲けていた。」 「俺が山で霊と暮らしていたころに、小倉は新会長にスリ寄って出世を狙っていた。」
後味が悪くなったのは私だけでしょうか。

週刊朝日にしろ、この週刊現代にしろ、『沈まぬ太陽』を批判しているのは、日本航空の経営サイドにいた人ばかり・・・というのは、気のせいでしょうか。 
「この記事、会社が書かせたんじゃないの」 なんて声もちらほら聞こえてきます。

『沈まぬ太陽』は、5巻で終わっていますが、日本航空では現在でも『沈まぬ太陽』が続いており、完結するのはいつの日になるのでしょう。
機長組合では5月24日の組合大会で、安全に関する問題についてスト権を背景に、経営に問題の解決をせまる方針を決議しました。裁判で安全性の根拠がないことを指摘されながら、全く改めようとしないまま、今日もたくさんのお客様を乗せて日本航空の飛行機は飛んでいます。この決議は『沈まぬ太陽』の一日も早い完結を願う日本航空の機長の総意であると信じます。『御巣鷹山編』はもうたくさんです。

一機長より

 


日本航空の労務政策-考察・「沈まぬ太陽」-へ戻る

http://www.jalcrew.jp/jca/public/taiyou/iwanami.htm

企業と人間

-労働組合、そしてアフリカへ-

佐高信・小倉寛太郎 著

岩波書店発行

テレビ等でもおなじみの佐高信氏と小倉氏との対談。

「沈まぬ太陽」にまつわる話や、小倉氏の日本航空での様々な体験談などが載せられている、まさに実録「沈まぬ太陽」とも言える1冊。


 

日本航空の労務政策-考察・「沈まぬ太陽」-へ戻る

http://editor.fem.jp/blog/?p=214


山崎豊子さんインタビュー「沈まぬ太陽」を心に持って – 520人の命を奪った日航機墜落事故から31年
2015/8/12
etc.
コメント:1件
.


Tweet
Share
+1
Hatena
Pocket
RSS
feedly
Pin it
.



(▲山崎豊子さんのインタビューを掲載した国公労新聞と山崎さんからのハガキ)

【追記】※今から1年前にアップしたものですが、「31年」となりましたので、タイトルだけ変更しています。(2016年8月12日)

きょう(8月12日)は、520人の命を奪った日航ジャンボ機墜落事故から30年となります。この墜落事故などを題材にした小説『沈まぬ太陽』を書かれた山崎豊子さんのインタビューを、私、企画編集したことがあります。高校生の頃、田宮二郎さん主演のテレビドラマ「白い巨塔」にはまって以来、学生時代に観た山本薩夫監督による「白い巨塔」や「華麗なる一族」、「不毛地帯」など社会的な問題を告発しつつエンターテイメントとしても鮮烈な光を放つ映画に夢中になりました。そして社会人になってからも、山崎豊子さんの著作とそのテレビドラマ化や映画化に注目してきました。それがこうじて、山崎豊子さんのインタビューを企画して、ご自宅にうかがってお話を聴かせていただきました。1時間の約束だったインタビューが実際は倍以上の2時間超に及び、とても熱の入ったお話をしていただきました。このインタビュー記事には、たくさんの方から感想が寄せられ(じつはこれに追加取材をして書籍化するという話も動いていたのですが、残念ながらいろいろあって現実のものとはなりませんでしたが)、その感想をまとめて 私が山崎豊子さんに郵送したところ、山崎さんから自筆のハガキもいただいたという後日談もありました。(上の写真の右下がそのハガキです)

それから、当時『沈まぬ太陽』がベストセラーの渦中で、さまざまなところからインタビューの申し込みが殺到していたとのことですが、私に対して「あなたのインタビュー企画だけに応じることにしました」と山崎豊子さんは言われました。そのときはリップサービスなのかなと半信半疑だったのですが本当のことだったようです。そのインタビュー記事を、亡くなられた520人のご冥福と(私自身も中学・高校と同級生だった友人をこの日航機墜落事故で失っています)空の安全と、一昨年亡くなられた山崎豊子さんのご冥福を祈りながら紹介します。

沈まぬ太陽を心に持って
まともな労働組合に光あて、たたかう労働者を
勇気づけるベストセラー『沈まぬ太陽』を書かれた
山崎豊子さんにインタビュー

〈国公労新聞 第1034号 2000年1月1日号掲載〉

記念すべき2000年のインタビューは、いまベストセラーになっている『沈まぬ太陽』(3部構成全5巻、新潮社)を書かれた山崎豊子さんです。

航空会社の労働組合委員長として「空の安全」を求め会社とたたかったがために、カラチ、テヘラン、ナイロビと職場をたらいまわしにされる主人公を描く『アフリカ篇』。520人の犠牲者を出した「史上最悪のジャンボ機墜落事故」に綿密な取材で迫り、犠牲者の無念の思い、遺族の悲しみを、ドキュメント的な小説手法で描く『御巣鷹山篇』。航空会社の不正と乱脈、政官財のゆ着、利権をめぐる争いを描く『会長室篇』。全編を通して、まともな労働組合の存在がどんなに大切なものか痛感させられます。

永藤成明さん(全運輸近畿航空支部関西空港事務所分会)と戸田伸夫さん(全国税近畿地連委員長)が、大阪にある山崎さんのご自宅に訪問し、お話をうかがいました。(企画・編集=井上伸)

【やまさき とよこ】1924年大阪市生まれ。京都女専国文科卒業後、毎日新聞大阪本社調査部、学芸部を経て作家に。『花のれん』で直木賞受賞。『暖簾』『ぼんち』『女の勲章』『しぶちん』『花紋』『仮装集団』『白い巨塔』『華麗なる一族』『不毛地帯』『二つの祖国』『大地の子』など数々のベストセラー小説を発表している。

アフリカで巡り会った現代の「流刑の徒」

永藤 : 私は、『沈まぬ太陽』の中に登場する全運輸の組合員で仕事は航空管制官ですので、この作品を興味深く読ませていただきました。胸をつかれ、涙を流すシーンがたくさんありました。最初に、この作品を書かれるきっかけについてお聞かせください。

山崎 :前作の『大地の子』を書きあげてから、主人公の陸一心さんが私の胸の中に座ってしまって何も考えられなくなっていました。学生のころからキリマンジャロを見ながら死にたいというロマンチックな気持ちを持っていた私は、自分の気持ちをなんとか動かさなければとアフリカへ行くことにしたのです。私は未知の国に行くときは、時間をムダにしないように、その国をよく知っている人を探すことにしています。そのとき後に小説の主人公の恩地元さんの原型ともいうべき人に出会いました。

ナイロビの空港に降りたつと、古武士のような東洋人が立っていて、それが「恩地さん」でした。翌日から四輪駆動の自動車でサバンナを案内してもらい、動物の生態やアフリカの歴史を聞きました。穏やかで何をたずねても造けいが深く、ご自身の見識を持っておられ、単なるアフリカ通ではないことが感じられました。あれこれお聞きしていると、元航空会社の社員としての経歴を、ポツリポツリと話してくださいました。

私は、アフリカの自然を見にきたのに、アフリカの大地で今の日本ではなかなか会うことができない日本人に出会えたと感慨を持って帰ってきました。

それからあらためて、あなたをモデルに小説を書かせていただきたいとお願いにいったのですが、最初は「私の人生は、他人にわかるはずがありませんので、ご辞退します」と拒絶されました。それでも何度かお願いし了解を得て小説に書かせていただきました。

取材を始めますと、まさに現代の「流刑の徒」だと思いました。航空会社の労働組合委員長として、「空の安全」を守るために利益優先の会社とたたかい懲罰人事で10年間も中東、アフリカへ左遷させられ、国内の組合員も一般社員から隔離され、差別される。名前を「恩地元」としたのは、大地の恩を知り、物事の始めを大切にするという意味を込めたものです。

不条理を許さない人間としての誇り

戸田 :会社は、労働組合を分裂させ、第二組合を育成し、まともな労働組合をつぶそうとした。じつは私たち全国税も国税当局によって同じような扱いをうけてきました。政府が高度経済成長政策を打ち出して、低所得層から税収をあげるという不公平税制を推進しようとしたとき、全国税も「それはおかしい。税金は払えるところからとって配分すべきだ」と主張しました。それに対して政府は、大企業や高額所得者の利益を優先するために、じゃまな全国税を分裂させ、第二組合を育成した。全国税も差別など様々な攻撃を受けていますが、国民のための税制をつくらなければと奮闘しています。主人公があれだけの仕打ちを受けても、スジを通してたたかったことを知って、私たちは大きな勇気を与えてもらっています。

山崎 :彼だって人間ですもの、つらかったと思いますよ。仲間も言います。「僕らは仕事が終われば家族がおり、友人と語れる。あなたは365日、24時間孤独ではないか」。でも、自分が節を曲げたらこの組合はだめになる、「空の安全」は守れなくなるという思いがあるのですね。

組合員は「あなたが存在しているだけでいい。はるかアフリカの地でもどこでもいい、あなたががんばっていると思ったら、やはり私たちも辞められない」と言い、彼は「私が辞めたら悲しむ仲間がいる。その一方で丸の内の本社で祝杯をあげる会社や第二組合の人間がいると思うと辞められなかった」とおっしゃいました。彼には不条理は許さないという激しい怒りがありますね。会社側や御用組合がしいる不条理を受け入れることは精神的奴隷にほかなりません。やはり、不条理を拒否する意志の力と人間としての誇りが彼にはあったのだと思います。

小説には書きませんでしたけれど、彼が10年にわたる左遷から日本に帰られたときに、組合員の方々の家を訪ねて回ったそうです。「私についてきたために職場で差別を受け、ご家族にもご苦労をおかけしました」と。これだけの人に出会えて作品を書かせていただき、私は本当にしあわせだと思います。

戸田 :ご家族の方も苦労されたでしょうね。

山崎 :そうですね。奥様にいちばんつらかったことは何ですかとお聞きしますと、「子どもに、どうしてうちのお父さんは帰らないの?と聞かれて、言いきかすのがたいへんでした」と答えられました。奥様は、子どもさんに「お父さんにはお仕事がある。それはお父さんにしかできないお仕事なのよ」と言ってきかせていたそうです。

それに、子どももどこからか聞いてくるのですね。「左遷ってなに?」と父親に聞きます。「お父さんは、何も恥ずかしいことはしていない。だけど一生懸命いいことをしてもうまくいかない場合がある。それはお前が大きくなったときにわかるよ」と話したそうです。でも「やっぱり、つらかった。自分の節を通すために妻子をここまで犠牲にしていいのか」とつぶやかれました。

泣きながら書いた場面

山崎 :テヘランの空港で日本へ帰る奥様が、二人の子どもの手を引いて搭乗機に向かっていきます。彼は、アフリカへ向かう飛行機に乗る。そのときに、「声をかけたけれど、妻は振り返らなかった。その後ろ姿を見ながら泣きました」と話してくださいました。私はこの場面を小説に書くとき、泣きながら書きました。奥様に会って、「なぜ振り返らなかったのですか」と聞きました。「振り返ったら崩れます」と奥様はおっしゃいました。会社はこんなことまでしていいのでしょうか。私は、このことを知って、航空会社がどんなに取材を妨害したり、誹謗中傷してこようと、最後までこの作品を書きあげなければいけないと思いました。

永藤 :航空会社は、取材を妨害してきたのですか。

山崎 :あの会社は、あれだけのことをして、反省もしないで「組合側にたった一方的なでっちあげの小説だ」という怪文書を流し、一部のマスコミが掲載しています。どこまでも低次元な会社で怒りを通りこして今はあきれはてています。

永藤 :そういう航空会社の対応では、取材にもたいへんな苦労があったのではないでしょうか。

今でも夢でうなされる地をはうような取材

山崎 :最初、その航空会社の各職場を取材してから、それぞれの部署の担当役員のお話しをうかがいたいと申し入れますと、広報部長から「役員には責任があるから会わせられません」と突っぱねられました。

それで取材は、その航空会社のOBの良心派と社内にいる良心派の協力で進めることになり、地をはうような取材となりました。とくに社内の人は本当によく協力してくださいました。もし私とコンタクトをとっていることが会社にわかると、進退にまでかかわるかもしれません。

それから、航空会社ひとつにしても、整備、パイロット、運航、営業、計画等々と、職種は多岐にわたっていますからこの作品の取材はたいへんでした。『大地の子』の取材もたいへんだったのですが、あのときは広い大地の中でここという場所を見つければ、あとはずっとそこを掘り下げていけばよかったのです。でも今回は多方面にわたっていたので、今でも夢でうなされるのは、原稿を書いている姿ではなくて、取材しているときなんです。

もう一つの取材の苦労は、名誉毀損で訴えられないようにするために、神経を尖らせて細心の注意をし、業者の納品書や領収書なども全部コピーして持っていなければいけなかったことです。小説を書くエネルギーもたいへんでしたが、本来なら不必要なエネルギーも消費しました。

声なき声に支えられた『御巣鷹山篇』

永藤 :私たち全運輸も「空の安全」を守るために様々な運動をくりひろげています。私は一昨年まで沖縄で航空管制の仕事をしていました。沖縄の空域は米軍がわがもの顔で管制をにぎっていて、民間機の飛行が制限され、安全上問題があります。沖縄支部は、そういう問題を改善しようとがんばっています。また、航空会社の労働組合の仲間とも協力して、ニアミスや、事故の問題など様々な「空の安全」を守るための取り組みをすすめています。実際の航空機事故をあつかった『御巣鷹山篇』は、私たちにとって特別の感慨があります。この巻に込められた思いをお聞かせください。

山崎 :出版社の話では、『御巣鷹山篇』を先にお読みになって、こんな事故をおこす会社はどんなところかと『アフリカ篇』を読む、それから事故後どういう改善をしてくれたかということで『会長室篇』を読まれる読者が多いそうです。

『御巣鷹山篇』では、やはりご遺族の取材がいちばんつらかったですね。ご遺族の方には「せっかく忘れようとしているのに、心を切り裂くようなことはやめてほしい」と言われ、「遺族の悲しみは遺族にしかわかりませんよ」と、取材に応じていただけなかったのですが、何度もお願いしてようやく応じていただけるようになりました。

多くのご遺族の話をうかがえても、520人のご遺族のすべてを書けませんので、最後のお遍路になって巡礼に旅立つ老人の姿にご遺族の心を凝集させていただきました。じつは、あのお遍路姿のご遺族のその後について、読者からの問い合わせが多いのですが、あれは、創作なんです。読者の方から「あのお遍路姿に“仏の顔”を見た」という、もったいないお言葉をいただきました。作者として、これほどありがたいことはありませんでしたね。

心に残ったのは、墜落する機内で妻子に書きのこした河口博次さんの遺書です。家族に対する深い愛情と人間の尊厳に満ちた言葉を、あの状況の中で書き残したことに感銘しました。じつは奥様にお願いして手帳を見せていただきました。横書きにぐっと大きく書いた上下左右に揺れている文字を見たときには涙が止まらなかったですね。

それと遺体検視の取材もたいへんでしたが、群馬県の医師会と歯科医師会の先生方が協力してくださって、無惨な遺体検視の実相を書くことができました。未公開の写真を見せていただきましたが、『白い巨塔』の取材のときに見た手術や解剖の比ではありませんでしたね。

永藤 :事故原因についても、丹念に取材されていますね。

山崎 :分厚い『事故調査報告書』も全部読んで、報告書を書かれた先生方にもお話をうかがい、ボーイング社にも取材に行きました。ボーイング社には、「すでに国家間の話し合いによって、すべて終わっている問題に、なぜあなたがこだわるのか」と聞かれました。「国民感情としては、これだけの大事故を起こして、責任者が出ない、だれも罰を受けない、そんなことは納得できない。私は作家として、読者という国民を代表して聞いているのです」と言いましたが、答えませんでしたね。

事故機の隔壁を修理した作業員の名前もわかっていますが、もう会社にはいないと言うだけでした。あれだけの事故に対する贖罪の念はまったくありませんね。極論を言ってしまえば、広島で一発の原爆により20万人を殺したボーイング社ですから、贖罪の念はないのは当然なのかも知れません。私は恩地さんほど忍耐強い人間ではないですから、ボーイング社のあまりの対応にもう投げ出したくなりました。こんな取材の困難にあうたび、何度も挫折しそうになりましたが、やはり支えてくださったのはご遺族と520人の声なき声でした。本当に無念な思いで亡くなられたと思います。東京・大阪間の便、あれは私もいつも乗っている便ですもの。あんなところで誰も死ぬとは思わなかったことでしょう。河口さんの遺書にも「本当に残念だ」と書いてありますね。

なくしたい政官財ゆ着
不毛地帯の日本を警告したい

戸田 :私たちは国家公務員の労働組合として、特権官僚の天下りや企業団体献金などを禁止して政官財のゆ着をなくすことが、本当の行政改革の大きな課題の一つだと主張して取り組みを進めています。最後の『会長室篇』では、航空会社をめぐる政官財のおぞましいゆ着・腐敗が描かれていて、私たちも大蔵官僚の腐敗をまのあたりにしているだけに、本当に腹立たしい限りです。この『会長室篇』に込められた思いをお聞かせください。

山崎 :「カネ、カネ、モノ、モノといって、日本はいま精神的不毛地帯になりつつあることを警告したい」と、私が『不毛地帯』という作品で書いたのは21年前です。

ところが、『会長室篇』を書いていて、21年前と日本は何も変わっていないと思い、ゾッとして、不気味な恐ろしさを感じました。それでも、私は警告し続けたいと思います。

私は戦中派です。原稿に向かうとき、私の心にあるのは学徒動員のことです。男子は特攻機に乗って雲の向こうに死んでいき、私たち女子学生は全員、大学2年で軍需工場へ動員されました。そして、飛行機工場に動員された友人はB29に爆撃されて死亡しました。そのなかで生き残ったものとして、なまなかな生き方はできない。なまなかなものは書けないという思いがいつもあります。

寂しいのは使命感を持った友人が少なくなっていくことですね。『華麗なる一族』など私の作品を映画化してくださった山本薩夫監督が生きてらっしゃったら、『沈まぬ太陽』も映画にしてくださったのではないかと思いますね。

まともな労働組合に光あて
たたかう労働者を勇気づける

戸田 :私たち労働組合でがんばっている仲間は、『沈まぬ太陽』で「空の安全」を願い労働者や国民のためにたたかうまともな労働組合の姿に光をあてていただいたことで、たいへんはげまされています。

山崎 :今回の作品には、労働組合でがんばられている方からお手紙をたくさんいただきました。その中の一つで、涙が出るぐらいうれしかったのは、「『沈まぬ太陽』を読む前と後で私は確かに変わった。何が変わったかというと、勇気を持つことができた」と書いていただいたことです。また別の労働組合の方からのお手紙には、「私たちが一生懸命がんばっているのをわかってくれる作家もいるのだなとうれしくなった」とありました。リストラにあわれた方からも「恩地さんのあれだけの信念と不屈な精神に勇気づけられた」とありました。

一方、会社といっしょになって、まともな労働組合をつぶそうとする第二組合の方は、私の頭では考えられなかった組合でした。組合幹部が組合員を“搾取”するなんて考えられませんでした。私は三池炭坑でのたたかいなどで労働組合は労働者のためにたたかうものだと思っていましたからね。そういう意味でも、労働者のために、まともな労働組合にがんばっていただきたいと思います。

ただすべきことただし、国の行政をよくして

戸田 :最後に、私たち国家公務員労働者へのメッセージをお願いします。

山崎 :私の座右の銘としているゲーテの言葉をおくります。

「金銭を失うこと。それはまた働いて蓄えればよい。
名誉を失うこと。名誉を挽回すれば、世の人は見直してくれるであろう。
勇気を失うこと。それはこの世に生まれてこなかった方がよかったであろう」

なんときびしい言葉でしょうか。どんなに正しいことを考えても、それを実践に移すのは勇気なんです。この言葉を互いに肝に銘じていきましょう。

たいへんな時代ですが、沈まぬ太陽を心に持って、ただすべきことはただして国の行政をよくしていってください。

永藤・戸田 :長い時間、ありがとうございました。

(企画・編集=井上伸)

◆山崎豊子さんのインタビュー記事に大きな反響


| 未分類 | コメント(0)