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“史上最低の戦闘シーン”として有名な怪獣ゴーンとカーク船長の戦いが再び『Star Trek: The Game』最新映像

PC / Windows

2013.3.30 Sat 13:15











ゲームのことで喧嘩し合う現在の怪獣ゴーンとカーク船長

2013年4月に発売が予定されているスタートレックの新作ゲーム『Star Trek: The Game』の最新トレイラーが欧州ナムコバンダイゲームスより公開されました。

今回の映像は40年前以上に放映された初代シリーズ“宇宙大作戦(The Original Series)”における第18放送エピソード“怪獣ゴーンとの対決(Arena)”を演じた2人が再会。ソファで『Star Trek: The Game』をプレイしていたものの仲違いし、再び相まみえることになるといった自虐パロディな内容となっています。この第18エピソードは国内では“史上最低の戦闘シーン”や“映画史上最も迫力の無いアクションシーン”としても紹介されていた映像の元ネタで、どこか和んだ雰囲気のある怪獣ゴーンとの戦闘シーンを見知ってる人も多いのでは無いでしょうか。






なおこの戦い、どこかの惑星の現地怪獣とカーク船長が戦ってるように見えるかもしれませんが、実は怪獣ゴーンはカークと同様にとある宇宙船の船長。この直前の場面では、泥沼の戦闘に突入しつつあった2人の宇宙船が、強大なテクノロジーを持つメトロンにより突如仲裁され、船長同士のタイマン対決で決着をつけるよう申告されたといった経緯があり、見た目以上に両名の肩にかかっている責任は重いものです(負けた方の船はメトロンによってクルーごと破壊される)。

なお『Star Trek: The Game』はこのエピソード18含むTVシリーズでは無く、日本でも今夏に公開される映画『スター・トレック イントゥ・ダークネス』と、2009年に上映されたその前作『スター・トレック』の間に起きた事を題材にした新作映画の前日譚的な内容のゲーム。新生カークとスポックを主役としたDigital Extreams製のCo-opシューターとなっており、北米で2013年4月23日にPC/PS3/Xbox 360向けにリリースされる予定となっています。
(イメージ: YouTube@NamcoBandaiGamesEU)

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デミアンマイア MMAで秒殺一本勝ち! フェイスブックバージョン

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急激な減量について言えば、「刑務所ダイエット」はデメリットの方が大きい。 「でもヤセられたんだから、良かったじゃないか!」と思うのは、早い! 実は服を脱ぎ、ハダカを見ると「良かった」とは思えなくなります。それはカラダじゅうの皮膚がたるみきって、スゴいことに!あまりに急激にヤセたせいで、太っていた時に伸びていた皮膚がたるむんです。それはもう、腹、尻、背中、太もも、とカラダの部分を問いません。服を着ているとわかりませんが、それはスゴい光景。「ワタシ、脱いだらスゴいんです」の逆バージョン。何と言ってもギョッとするのが、垂れ下がった乳。「たるんでいる」を通り越して、「ぶら下がっている」んですよ!フロ場を歩くたびに、二人のたるんだ乳がブラブラするワケです。それは昔、ドリフのコントで観た「バアさんの乳」状態。「ハダカの着ぐるみを着た志村」を覚えていませんか? そう、アレです。垂れ下がった乳を、肩の上に持ち上げたり、ブンブン振り回したり・・・志村の乳は着ぐるみですから笑えましたが、コチラは完全な現実。アレが、リアルに目の前にあるのですが、バアさんではなく、オッサンの乳オッサンだから皮膚も汚くてツラい!悪夢というコトバしか当てはまらない見たくもないのに、しわが寄って垂れ下がった乳に目が行ってしまう。また二人、色白のHさん、色黒のTさん、と良い具合に肌の色が正反対。地獄絵図に出てくる「白鬼」「黒鬼」みたいです(そんな鬼はいないけれど)さらに、Tさんの方が、たるみはより深刻。Tさんは肥満で膝を悪くし、さらに持病もあり、運動をまったくしないのです。食事の制限をしているからどんどんヤセたものの、筋肉がないカラダ。脂肪は落ちたけれど、筋肉もない。まさに「骨と皮」が残った状態。急激にヤセたことで伸びきった皮膚が、貧弱な体にまとわりついているのです。それはもう、ドリフのコントを通り越して、水木しげる先生の世界。
































http://kiritampo.blog.so-net.ne.jp/2016-06-15



刑務所の風呂・入浴(8)・・・ワタシ、脱いだらスゴいんです! - 犯罪予備軍のための刑務所マニュアル



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もし、突然逮捕されてしまったら・・・刑務所に行かないためにも、仮に実刑で懲役となっても、一日も早く仮釈放となるよう応援したい! 犯罪者で受刑者だった者が獄中体験を元に語ります。




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刑務所の風呂・入浴(7)・・・「サオに真.. |刑務所の風呂・入浴(9)・・・フロではジ.. ブログトップ




刑務所の風呂・入浴(8)・・・ワタシ、脱いだらスゴいんです! [入浴] [編集]

「刑務所のフロ事情」について、続けてお話ししています。

今回は「フロでわかった、知りたくなかったこと」のお話をさせてください。

入れ墨、サオに真珠・・・そんなゲスな話をしてきましたが、今回も下品かも。


当たり前ですが、フロはハダカになるところです。

オッサンの汚いハダカなど見たくもありませんが、どーしても見えてしまう・・・

見てしまえば、「知りたくもない」ことを知ってしまうことがあるのです。


1.刑務所ダイエットの光と影
以前、某IT社長が刑務所にブチ込まれ、世間を賑わせました。

彼は情報発信とカネ儲けが天才的ですから、刑務所生活も本にして、売れたようです。

間違っている、とは言いませんが、わりと偏った内容だなぁと思っています。


その中でも、彼が強調していたのが「刑務所は激ヤセする」こと。

彼は入所時に90kg超の体重があったそうですが、60kg台にまで減量したようです。

「刑務所ダイエット」だなんて、騒いでいましたね…


特別なことはしていません。規則正しい生活をしているだけ。

禁酒・禁煙・間食も一切できない、シャバではムズカシイ「制限だらけの生活」

食事は粗食。座作業なら1日2,300kcal程度のカロリー制限があります。


つまり、ブクブク太る要素が1つもない

コレだけキッチリ制限された生活だと、わざわざ運動をしなくてもヤセるのです。

肥満体型だった人は、刑務所に入ると劇的にヤセていきます。


裁判で判決が確定し、既決となると、拘置所で懲役生活が始まります。

送られる刑務所が決まるまで、しばらく拘置所で懲役作業をして待機しますが・・・

肥満体型の受刑者は、すでにこの段階でヤセていきます。


刑務所生活では、肥満体型でなくても、多くの受刑者がヤセていきます。

その減量も、ダイエットに悩む女性には信じられないレベルです。

10㎏、15kgくらいは当たり前。


中には「60kgヤセた」というビックリ人間もいました。

シャバで120kg、130kgあった巨漢が、1年で40kgヤセたと言う話は何度も聞きました。

激ヤセというより、正常な体重に戻ったと言った方がいいです。


こんなコトを話すと、ますます刑務所ダイエットはスゴい!と思うでしょう?

「強制的にヤセられて、いいことづくめじゃないか!」

某IT社長も、このヤセる部分だけを強調して、絶賛していました。


ホントに良いことづくめでしょうか?

いえいえ、実はそうでもないんですよ・・・

私は「激ヤセ」に関しては、デメリット、ダメージも大きいと思っています。


刑務所で激ヤセすることにも「光と影」があるんです。

その「影」の部分ですが、それがフロでわかってしまうのです。

激ヤセで印象に残った、HさんとTさんの例でご説明しましょう。



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2.ドリフのコントを再現する悪夢
Hさんは40代前半、シャバでは130kgもあったという巨漢。

と言っても、懲役生活ですっかり激ヤセして、現在は75kg前後。

うーん、ほぼ半分になったと言っても過言ではない…


一方のTさんは40代後半、125kgもあったという同じような巨漢。

Tさんも懲役生活で激ヤセし、現在は80kg前後。

2人とも、見事な激ヤセ、「刑務所ダイエット」成功です。


ていうか、減量の分が女性一人分の体重よりあるって、どういうこと・・・

二人ともどこにそんな脂肪がついていて、どこに消えてしまったんでしょう。

「でもヤセられたんだから、良かったじゃないか!」と思うのは、早い!


実は服を脱ぎ、ハダカを見ると「良かった」とは思えなくなります。

それはカラダじゅうの皮膚がたるみきって、スゴいことに!

あまりに急激にヤセたせいで、太っていた時に伸びていた皮膚がたるむんです。


それはもう、腹、尻、背中、太もも、とカラダの部分を問いません。

服を着ているとわかりませんが、それはスゴい光景。

「ワタシ、脱いだらスゴいんです」の逆バージョン。


何と言ってもギョッとするのが、垂れ下がった乳。

「たるんでいる」を通り越して、「ぶら下がっている」んですよ!

フロ場を歩くたびに、二人のたるんだ乳がブラブラするワケです。


それは昔、ドリフのコントで観た「バアさんの乳」状態。

「ハダカの着ぐるみを着た志村」を覚えていませんか? 

そう、アレです。


垂れ下がった乳を、肩の上に持ち上げたり、ブンブン振り回したり・・・

志村の乳は着ぐるみですから笑えましたが、コチラは完全な現実。

アレが、リアルに目の前にあるのです


が、バアさんではなく、オッサンの乳

オッサンだから皮膚も汚くてツラい!

悪夢というコトバしか当てはまらない


見たくもないのに、しわが寄って垂れ下がった乳に目が行ってしまう。

また二人、色白のHさん、色黒のTさん、と良い具合に肌の色が正反対。

地獄絵図に出てくる「白鬼」「黒鬼」みたいです(そんな鬼はいないけれど)


さらに、Tさんの方が、たるみはより深刻。

Tさんは肥満で膝を悪くし、さらに持病もあり、運動をまったくしないのです。

食事の制限をしているからどんどんヤセたものの、筋肉がないカラダ。


脂肪は落ちたけれど、筋肉もない。

まさに「骨と皮」が残った状態。

急激にヤセたことで伸びきった皮膚が、貧弱な体にまとわりついているのです。


それはもう、ドリフのコントを通り越して、水木しげる先生の世界。

ゲゲゲの鬼太郎の中に出てきた「◯◯婆」とソックリ。

ホントに大変申し訳ないんですが、人間ではなく、妖怪の姿に近いでしょう。


せっかくヤセたけれど、このたるんだ皮膚は元に戻らないんでしょうね。

この身体では、プールはもちろん、銭湯などでハダカになるのは勇気がいります。

何だかんだ言って、人は見た目で9割は判断されますからね・・・


さらに出所後、40代の彼らが再婚を狙ったとしたら、どうなのでしょうか?

私は、なかなかキビシイんじゃないか、と暗い気持ちになります。

よほど女性の理解がないと、このハダカを見たら、ドン引きでしょうし…


正直こんなワケで、私は「ヤセない方がマシ!」なんて思ってしまいます。

急激な減量について言えば、「刑務所ダイエット」はデメリットの方が大きい。

何でも急激と言うのは良くない。


ヤセるのも徐々に、そして筋肉もつけないとダメなんだ、と思い知らされます。

それでも「刑務所ダイエット」を絶賛しますか?

世の中にキレイに、劇的にヤセられる、なんて都合の良いモンはないんです。

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es[エス] スタンフォード監獄実験


https://ja.wikipedia.org/wiki/Es_(%E6%98%A0%E7%94%BB)

es (映画)





移動先: 案内、 検索



es[エス]

Das Experiment

監督
オリヴァー・ヒルシュビーゲル

脚本
ドン・ボーリンガー
クリストフ・ダルンスタット
マリオ・ジョルダーノ

原作
マリオ・ジョルダーノ

製作
マーク・コンラド

製作総指揮
オリヴァー・ヒルシュビーゲル

出演者
モーリッツ・ブライブトロイ
クリスチャン・ベルケル
オリヴァー・ストコウスキ

音楽
アレクサンダー・フォン・ブーベンハイム

撮影
ライナー・クラウスマン

編集
ハンス・ファンク

配給
日本の旗 ギャガ

公開
ドイツの旗 2001年3月7日
日本の旗 2002年6月22日

上映時間
119分

製作国
ドイツの旗 ドイツ

言語
ドイツ語
テンプレートを表示

『es[エス]』 (原題:Das Experiment、国際向け題:The Experiment)は、オリヴァー・ヒルシュビーゲルが監督し、日本では2002年に公開されたドイツ映画。

原題は「実験」の意。日本語版映画名の「es」とは、通常ドイツ語では「これ」または「それ」の意(英語ではit)であるが、心理学・精神分析学の用語で、「無意識層の中心の機能」という概念を意味する語である(この語もドイツ語起源で、語源は前者のesから来ている)。詳しくは自我を参照されたい。






目次 [非表示]
1 概要
2 ストーリー
3 キャスト
4 リメイク
5 関連項目
6 外部リンク


概要[編集]

この映画は1971年にアメリカのスタンフォード大学で実際に行われたスタンフォード監獄実験を元にしたマリオ・ジョルダーノの小説『Black Box』を原作とし、ジョルダーノ本人が脚本作成に加わっている。

映画では、新聞広告によって募集された男たちが、ドイツの大学地下に設置された擬似刑務所で、囚人と看守の役を2週間演じ続ける実験が行われる。この実験の存在を知った主人公の男(モーリッツ・ブライブトロイ)は、取材と報酬目当てで囚人としてこの実験に参加する。

2001年度ヨーロッパ映画賞作品賞、ノミネート作品。

ストーリー[編集]

タクシー運転手兼記者の男タレク(モーリッツ・ブライプトロイ)はある日、こんな実験者募集の新聞広告を目にする。
被験者求む。
・拘束時間:2週間
・報酬:4000マルク
・応募資格:不問
・実施場所:大学内模擬刑務所

その実験とは大学の地下に作られた擬似刑務所で20人の男を「看守」と「囚人」に分け、それぞれ与えられた役になり切り2週間生活するというものであった。 タレクは、2週間で4000マルク(約2000ユーロ、25万円)という高報酬と、刑務所の囚人の疑似体験という実験の特殊性が良い記事になると思い実験の様子を秘密裏に取材し、録画する為の超小型カメラを眼鏡に仕込み実験に参加する。

始めの日は両サイド共に何の問題も無く和やかな雰囲気で過ごす。しかしその後、些細ないざこざから端を発した看守側と囚人側の対立は、徐々に深くなってゆく。実験の主催者であるトーン教授に対し助手のグリム博士たちは、実験の続行は危険だと判断し実験中止の要請を再三に渡り行う。だが、これらの要請をトーン教授はすべて拒否、実験は続けられた。グリム博士は看守役のあまりの暴走に、トーン教授の留守中に実験の強制中止を申し出る。しかし看守役の男たちは実験を続ける為、グリム博士から衣服を没収し地下の疑似刑務所へ連行。この実験は最終的に2名の死者を含む多数の死傷者を出す惨劇へと変貌していく。

キャスト[編集]


役名

俳優

日本語吹き替え


DVD版

テレビ東京版

囚人番号77/タレク モーリッツ・ブライブトロイ 森川智之 平田広明
囚人番号38/シュタインホフ クリスチャン・ベルケル 小杉十郎太 磯部勉
囚人番号82/シュッテ オリヴァー・ストコウスキ 水内清光 内田直哉
囚人番号69/ジョー ヴォータン・ヴィルケ・メーリング 川村拓央 堀内賢雄
看守/ベルス ユストゥス・フォン・ドホナーニ 井上倫宏 森田順平
看守/エッカート ティモ・ディールケス 花田光 江原正士
看守/カンプス ニッキ・フォン・テンペルホフ 諸角憲一 家中宏
看守/ボッシュ アントニオ・モノー・ジュニア 石住昭彦 星野充昭
ドラ マレン・エッゲルト 高橋理恵子 岡本麻弥
トーン教授 エトガー・ゼルゲ 世古陽丸 牛山茂
ユッタ・グリム博士 アンドレア・サバスキ 宮寺智子 塩田朋子
ジグラー アンドレ・ユング 稲葉実
ラース フィリップ・ホフマイヤー 伊藤栄次
レンツェル ラース・ガルトナー 上田陽司
ニュースアナ クリスティアン・ゲルボス 牧薫子 加藤ゆう子

TV版役不明:楠大典、中村秀利、仲野裕、中村大樹、加藤亮夫、小森創介、 奥田啓人、野島裕史、土田大、高瀬右光、河本邦弘

リメイク[編集]

2010年にアメリカ合衆国でリメイクされた。

詳細は「エクスペリメント (2010年の映画)」を参照

関連項目[編集]
スタンフォード大学
スタンフォード監獄実験
ウェイヴ(映画)1967年にアメリカ、カリフォルニア州パル・アルトの高校で行なわれた独裁政治の体験授業を題材にしたドイツ映画。舞台となる高校はドイツのものに置き換えられている。
社会実験

外部リンク[編集]
スタンフォード監獄実験の公式サイト(英語)
es[エス] - allcinema
es[エス] - KINENOTE
Das Experiment - AllMovie(英語)
Das Experiment - インターネット・ムービー・データベース(英語)

http://www5d.biglobe.ne.jp/~KnightMD/movie/es.html

長らく観たいと思っていた『es(エス)』を、やっと観てきました。
1971年に、アメリカのスタンフォード大学で実際に行われた
心理学実験を基にしたフィクションです。





warning:

私は心理学についての知識をほとんど持っていません。
これは、そんな私がこの映画を観てどう思ったかを率直に述べたものです。
この記述に対して「そりゃ違うだろ」と思われる方がいらっしゃるかもしれませんが、
飽くまで個人的な意見である事をご了承ください。











「被験者求む ─── 学内の模擬刑務所において2週間の実験を行います。報酬は4000マルク」


新聞に掲載されていた広告を見て集まった20名の一般人が、看守役と囚人役に振り分けられ、大学内に作られた模擬刑務所で過ごすという実験が行われる事になった。被験者は、この実験を取り仕切る教授から「看守役は看守らしく、囚人役は囚人らしく振る舞うように」と言い渡される。また、囚人には以下の6つのルールが課せられた。

・囚人は、互いに受刑番号で呼び合うこと
・囚人は、看守に対して敬語を使うこと
・囚人は、必ず看守の指示に従うこと
・囚人は消灯後、会話を交わしてはならない
・囚人は、出された食事を全て残さずに食べること
・ルールを違反した場合、囚人には罰が与えられる

このような環境下に置かれた看守役・囚人役の人格が、2週間の間にそれぞれどのように変化していくのかを観察するための実験だったのだが、それはわずか7日間で中止せざるを得なくなるという結果に終わった。この実験に関する訴訟は今もなお続行しているらしく、現在、この類の実験は倫理的に禁止されている。












<遊びが遊びでなくなる瞬間>

「ただの好奇心だよ。刑務所生活を体験できるんだろ?」と、面白半分で実験に飛びついた者。「4000マルクという大金が魅力だった」という金目当ての者。「これをネタに記事を書けば絶対にイケる!!」と、出版社にかけあって応募した者。動機は様々だが、広告を見て集まった人々はみんな、温厚なフツーの人達。看守役を与えられた者達は、警棒や制服を与えられてゴキゲン。一方、囚人役に回った者達は、お粗末な囚人服や殺風景な囚人房など、これまでとは無縁の世界を面白がっていた。

軽いノリで始まった実験だったが、「囚人は自分達の言いなりなんだ」と分かった瞬間から、看守役は次第に凶暴な人格へと変化していく。囚人を丸裸にして、立ったまま一夜を過ごすように言いつけたり、バリカンで丸刈りにし、土足で踏みつけた囚人の頭の上から放尿したりという卑劣な行為を重ねる看守達。「俺の事を『看守さん』と呼べ!! さもなければどんな目にあうか分かってるんだろうな?」....囚人は看守に絶対服従....看守だけが持つ特別な権力を振りかざすその顔に浮かぶ、不気味なほど歪んだ薄ら笑い。

精神的に追い詰められていく囚人
同時に、看守によって非情なまでの拘束・暴力にあう囚人達の精神は、次第に病んでいく。「看守は恐い」というイメージを植え付けられ、日に日に自分の殻に閉じこもって卑屈になっていく囚人達。実験が開始されてわずか数日後には、看守を見るだけで恐怖のあまりに暴れ回る者も現れる。

ホンモノの看守のように、次第に高圧的な人格へと変わっていく看守役。それとは反対に、ホンモノの囚人のように没個性化し、無気力になっていく囚人役。実験を試みた教授陣が、もはや実験どころではないという危機を感じた時、既に事態は想像を絶する恐ろしいものとなっていた....。














<「状況」が持つチカラ>

この映画のタイトル「エス」というのは、心理学用語で「無意識下の欲求」を意味するらしい。体育や、スポーツ心理学の講義でフロイトの事をチラッと習った事があるけど、「エス」は、自己を形成する3要素のうちの一つで、「エゴ」「スーパーエゴ」に続く最も深い部分に位置するそうな(懐かしい響きですね。学校で「エゴ」を習った方、多いのでは?)

この心理学実験では、「状況の力」についてがテーマとなっている。人間がある状況下に置かれた場合、その人間の人格がどう変化(順応)していくのか。模擬刑務所という環境下で、看守・囚人という「状況」を与えられた人々は、わずか数日でその環境に順応し、いつの間にか看守らしさ・囚人らしさを身につける。刑務所とは無縁の善良な人間であるにも関わらず、だ。彼らは自分自身をコントロールする力を失い、看守・囚人という「状況」にコントロールされてしまうのである。

そう考えてみれば、私達は常に「状況」にコントロールされているとも言える。私自身を例にとれば、「私」という人格は、以下のような状況に支配されている一人の人間なのだ。

・家族の一員
・企業に務める社員
・スポーツインストラクター

もちろん、社会における私の役割はこれだけではない。友人、先輩と後輩、先生と生徒、上司と部下、同僚、ただの通りすがり....人に接する際、私に要求される役割は、挙げればキリがないほど多種にのぼる。私は相手によって自分の役割を変え、それ相応の接し方をする。無意識に行っている事ではあるが、これも「状況の力」によってコントロールされた上での行動に他ならない。

実験の経過をモニターで見守る教授達また、「私」という人格は、これまでに置かれてきた状況の中で得た人生経験によって形成されており、これはいわゆる「積み重ねの結果」とも言える。もしスポーツインストラクターをしていなければ、おそらくもっと違った人格になっていただろうし(←これは明白。前よりふてぶてしくなったもん・笑)、一日違いで内定をもらった某銀行に入社していれば、今とは全く異なる人格が形成されていたハズ。

人格は状況によって形成・変化するものである....この映画は、いかに人間が影響を受けやすい生物であるのかを改めて示唆しているように思える。

過去にファシズムへの道を歩んでしまったドイツが、奇しくもこのような映画を作ったという事も興味深い。アドルフ・ヒトラーによる独裁政権下で、なぜユダヤ人の大量虐殺というおぞましい事件が起こったのか。この映画は、その答えのヒントを垣間見せてくれるような気もする。


固い文体になってしまった....


ちなみにこの映画のクライマックスは....どっひゃー!!!!!! なんてマヌケな雄叫びどころじゃござんせん。フィクションと分かっていても、見るに堪えないぐらいでした。あまりのスゴさに、隣りに座ってたオンナの人なんて、のけぞって顔を手で覆ってたもん。それぐらい生々しかったの、ホントに。終わってからお手洗いに行ったんだけど、個室に入るのが恐かった。小さな空間に対して、なぜかすごく恐怖を感じたんです。映画を観ている間は、この実験の経過を観察する教授達のような心境だったけど、心のどこかで自分自身を囚人役の立場に置いてたのかな、なんて思ってしまいました。

もしかしたら....この映画に興味を持って、わざわざ自発的に劇場まで観に行った私って、実は、自ら進んで被験者になる事を望んだこの映画の登場人物達と同類なのかもしれない。そう思いません?


この映画のもとになった、スタンフォード大の「監獄実験」(Stanford Prison Experiment)に関するHPもあります。全て英語ですが、画像もたくさん掲載されているので、興味のある方はコチラへどうぞ。

http://enmi19.seesaa.net/article/440462389.html
2016年07月27日


スタンフォード監獄実験(NHK BSプレミアム「フランケンシュタインの誘惑」放送内容)

明日(2016年7月28日〈木〉)21:00より、BSプレミアムの、科学史の闇を描いたシリーズ「フランケンシュタインの誘惑」で「スタンフォード監獄実験」が紹介されます。(公式情報はコチラ)
(再放送7月30日午後6時00分~ 午後7時00分、8月25日午後5時00分~ 午後6時00分)

「スタンフォード監獄実験」
「与えられた役割や立場が人間の行動に与える変化」を調べるため、1971年、アメリカの名門、スタンフォード大学の、架空監獄施設で行われた実験です。

その実験環境の過酷さ、その後の被験者への深刻な影響などから、史上最も残酷な心理実験といわれ、その後、繰り返し映画の題材になりました。

(ドイツ映画「es」、「es」のアメリカ版リメイク「エクスペリメント」、2015年に再び「The Stanford Prison Experiment」として映画化されたそうです)

「The Stanford Prison Experiment」の予告動画



「es」(※実際の事件以上に残虐性が強い内容となっています。)
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この実験は、「囚人役」「看守役」に分けられた一般人たちが、ごく短期間のうちに激変、看守役が囚人役を虐待しはじめ、実験を観察していたはずの学者すらも状況にひきずられて判断力が欠如、実験を中止できなくなるという事態を引き起こしました。

監獄環境の過酷さと看守役からの虐待により、精神に変調をきたす被験者が出ても実験は継続され、危険性に気づいた牧師(実際の刑務所カウンセラーを担当、学者に招かれて実験を見に来た)と被験者の家族により実験開始より六日目で急きょ中止となりましたが、(当初2週間の予定で実施)その際も看守役の被験者は中止に抗議したそうです。
(詳しくはウィキペディア記事をご参照ください。非常に詳しく書かれています。)

人間が普段持ち合わせていると自分でも思っている倫理観や判断力は、環境と立場の変化により(それが架空のものであってすら)たった数日で崩壊する、そしてそれを外部から観察しているだけのつもりだった人間さえも、いつのまにか巻き込まれて、目の前で被害に遭っている人間を見ても(本来自分はそれをやめさせられる立場のはずなのに)事態を変えられなくなる。

実験は、こうした、当初の想定をはるかに超えた人間の心のあやうさをあぶり出し、しかも後遺症をおった被験者たちの心を癒すためには10年の月日を要しました。
(実験を実施した心理学者ジンバルドー本人がカウンセリングを担当、今回の番組でご本人が登場するそうです。)

心理学上の大スキャンダルとなったこの実験は、しかし、「人間は立場と集団によって、一瞬で変貌してしまう」という重要な警告を残しました。

「正義を信じて組織に加わったはずの人間が残虐行為に加担してしまう」
「自分は相手を嫌っていないのに、周囲がその人をいじめているからと、それを止めずに逆に参加してしまう」
など、外部からみたら、なぜそのようなことがおこってしまったのかと思わせる事態も、この人間のあやうさに起因しているのではないでしょうか。
(番組では、併せてその後アメリカ心理学会が「テロとの戦争」の中で犯したスキャンダルについても触れられるそうです。)

実験がもたらした事態の異常性に目がいきがちですが、自分を含めた人間という生き物、そして集団の怖さを思い知らされる、もっと多くの人に警告として広められるべき事件だと思います。

よろしければ、番組をご覧になってみてください。

読んでくださってありがとうございました。


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スタンフォード監獄実験





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スタンフォード監獄実験(スタンフォードかんごくじっけん、英語: Stanford prison experiment)とは、アメリカ合衆国のスタンフォード大学で行われた、心理学の実験である。心理学研究史の観点からは、ミルグラム実験(アイヒマン実験)のバリエーションとも考えられている。



目次 [非表示]
1 概要
2 実験 2.1 実験への準備 2.1.1 実験者

2.2 実験の経過
2.3 実験の中止
2.4 実験の結果

3 関連文献
4 関連項目
5 外部リンク


概要[編集]

1971年8月14日から1971年8月20日まで、アメリカ・スタンフォード大学心理学部で、心理学者フィリップ・ジンバルドー (Philip Zimbardo) の指導の下に、刑務所を舞台にして、普通の人が特殊な肩書きや地位を与えられると、その役割に合わせて行動してしまう事を証明しようとした実験が行われた。模型の刑務所(実験監獄)はスタンフォード大学地下実験室を改造したもので、実験期間は2週間の予定だった。

新聞広告などで集めた普通の大学生などの70人から選ばれた被験者21人の内、11人を看守役に、10人を受刑者役にグループ分けし、それぞれの役割を実際の刑務所に近い設備を作って演じさせた。その結果、時間が経つに連れ、看守役の被験者はより看守らしく、受刑者役の被験者はより受刑者らしい行動をとるようになるという事が証明された。

実験[編集]

実験への準備[編集]

実験者[編集]

ジンバルドーは囚人達には屈辱感を与え、囚人役をよりリアルに演じてもらう為、パトカーを用いて逮捕し、囚人役を指紋採取し、看守達の前で脱衣させ、シラミ駆除剤を彼らに散布した。背中と胸に黒色でそれぞれのID番号が記された白色の女性用の上っ張り (smock)、もしくはワンピースを下着なしで着用させ、頭には女性用のナイロンストッキングから作ったキャップ帽を被せた。そして歩行時に不快感を与えるため彼らの片足には常時南京錠が付いた金属製の鎖が巻かれた。更にトイレへ行くときは目隠しをさせ、看守役には表情が読まれないようサングラスを着用させたりした。囚人を午前2時に起床させる事もあった。但し、これらの服装や待遇等は、現在ほとんどの国の本物の刑務所では見受けられず、実際の囚人待遇より非人道的であり、囚人待遇の再現性は必ずしも高くはなかった。

実験の経過[編集]

次第に、看守役は誰かに指示されるわけでもなく、自ら囚人役に罰則を与え始める。反抗した囚人の主犯格は、独房へ見立てた倉庫へ監禁し、その囚人役のグループにはバケツへ排便するように強制され、耐えかねた囚人役の一人は実験の中止を求めるが、ジンバルドーはリアリティを追求し「仮釈放の審査」を囚人役に受けさせ、そのまま実験は継続された。

精神を錯乱させた囚人役が、1人実験から離脱。さらに、精神的に追い詰められたもう一人の囚人役を、看守役は独房に見立てた倉庫へうつし、他の囚人役にその囚人に対しての非難を強制し、まもなく離脱。

離脱した囚人役が、仲間を連れて襲撃するという情報が入り、一度地下1階の実験室から5階へ移動されるが、実験中の囚人役のただの願望だったと判明。また、実験中に常時着用していた女性用の衣服のせいかは不明だが、実験の日数が経過するにつれ日常行動が徐々に女性らしい行動へ変化した囚人も数人いたという。

実験の中止[編集]

ジンバルドーは、実際の監獄でカウンセリングをしている牧師に、監獄実験の囚人役を診てもらい、監獄実験と実際の監獄を比較させた。牧師は、監獄へいれられた囚人の初期症状と全く同じで、実験にしては出来すぎていると非難。

看守役は、囚人役にさらに屈辱感を与えるため、素手でトイレ掃除(実際にはトイレットペーパの切れ端だけ)や靴磨きをさせ、ついには禁止されていた暴力が開始された。

ジンバルドーは、それを止めるどころか実験のリアリティに飲まれ実験を続行するが、牧師がこの危険な状況を家族へ連絡、家族達は弁護士を連れて中止を訴え協議の末、6日間で中止された。しかし看守役は「話が違う」と続行を希望したという。

後のジンバルドーの会見で、自分自身がその状況に飲まれてしまい、危険な状態であると認識できなかったと説明した。ジンバルドーは、実験終了から約10年間、それぞれの被験者をカウンセリングし続け、今は後遺症が残っている者はいない。

実験の結果[編集]
権力への服従強い権力を与えられた人間と力を持たない人間が、狭い空間で常に一緒にいると、次第に理性の歯止めが利かなくなり、暴走してしまう。非個人化しかも、元々の性格とは関係なく、役割を与えられただけでそのような状態に陥ってしまう。
関連文献[編集]
岡本浩一『社会心理学ショートショート』(新曜社 「模擬監獄の人間模様―役割は人をこんなにも変える」という項でこの実験について概説している。)
エーリヒ・フロム『破壊 上―人間性の解剖』作田啓一・佐野哲郎共訳、紀伊国屋書店、1975年(ジンバルドーから著者エーリヒ・フロムに渡されたレポートを記載。なおフロムは、本書において、この実験の実験方法とジンバルドーによる実験結果の解釈について批判を加え、この実験を一般化することに異議を唱えている)
フィリップ・ジンバルドー『ルシファー・エフェクト ふつうの人が悪魔に変わるとき』鬼澤忍訳 海と月社 2015年(ジンバルドー本人による「スタンフォード監獄実験」の全貌)

関連項目[編集]
アドルフ・アイヒマン イエルサレムのアイヒマン
ミルグラム実験 - アイヒマン実験とも

社会心理学
格差社会の影響
ドキュメンタリー『本当にあった奇妙な科学実験史』シリーズ シーズン1 第6回(ディスカバリーチャンネル)
映画『es』(エス)- 原題はDas Experiment(ドイツ語で「実験」の意)。スタンフォード監獄実験の設定を元にした映画。監督オリヴァー・ヒルシュビーゲル。
映画『エクスペリメント』
フランケンシュタインの誘惑 - 科学史 闇の事件簿 第4回 「人が悪魔に変わる時 史上最悪の心理学実験」(NHKのドキュメンタリー番組 2016年)
アブグレイブ刑務所における捕虜虐待 - 実例として取り上げられる事件

外部リンク[編集]
スタンフォード監獄実験公式サイト(英語)
Stanford University News Service(英語)
情況の囚人 - 1971年“スタンフォード監獄実験”とは
奇跡体験!アンビリバボー:06.5.18放送分
人が悪魔になる時 - アブグレイブ虐待とスタンフォード監獄実験(1) WIRED.jp

http://www.prisonexp.org/

http://x51.org/x/06/04/2439.php
情況の囚人 ― 1971年”スタンフォード監獄実験”とは




das_experiment.jpg【SPE】1971年、米海軍は海兵隊刑務所で相次ぐ問題解決の為に、ある実験を準備し、資金を調達した。実験はスタンフォード大学の心理学者フィリップ・G・ジンバルド博士を中心に組織され、同大学の講堂を刑務所に仕立て、模擬的な刑務所シュミレーションを行うというものだった。新聞広告によって集められた心身共に健全な被験者らは、無作為に囚人と看守に分けられ、実際の刑務所とほぼ同じ環境の中で、二週間を過ごすことが予定された。しかしこのとき、まさかこの実験が後々まで問題となる大きな事件になろうとは、その時、被験者も研究者も、誰一人想像だにしなかったのである。(写真上はこの事件をモチーフにした映画「es[エス]DAS EXPERIMENT」より。以下は当時撮影された実際の写真)




実験

prison_exp9.jpg実験に参加した被験者は皆楽観的な気分だった。単に囚人、看守の服に着替えて刑務所風の質素な生活をし、報酬までもらえるユニークな実験といった程度の認識だったのである。そして研究者もまた、幾らかの騒動さえ期待したにせよ、さほど大きな問題は起こらないだろうことを予想していたのだ。しかし実験を開始して間もなく、事態は一変した。囚人役の被験者らは心理的に追い込まれて服従的になり、看守役の被験者もまた支配者として、虐待行為を開始した。講堂内では暴動やハンガーストライキ(絶食などによる抗議行動)、虐待行為が相次ぎ、スタンフォード大学の講堂は実験開始からたった一週間足らずで、あたかも本物の刑務所と化してしまったのである。そしてこれら問題により、実験は予定期間の半分にも満たぬまま中止され、研究者らの間には大きな疑問だけが残された。それは一体何故、単なる模擬的刑務所環境が、かくも短期間で、本物の刑務所さながらの情況へと変貌してしまったのかということである。

実験を終えた研究者らはこの事件を分析し、まず一連の問題の原因が、少なくとも集められた被験者の性質によるものである可能性を除外した。何故ならば、そもそも実験に参加した24人の被験者は、新聞広告の募集によって集められ、選りすぐられた70名の被験者候補者の中から、更に情緒的安定性を基準にして選考された心身共に健全な人々だったからである。更にまた、囚人と看守役はそれぞれ全く無作為に、コイントスによって決定された。つまり役割の選考においても何らかのバイアスがかかっていたとは考えにくかった。

prison_exp3.jpgジンバルド博士が実験に際し、より刑務所に近づける為に、様々な”工夫”を凝らしたことは事実である。例えば囚人側の人々にはそれぞれID番号が与えられ、実験期間中、互いに番号で呼び合うことが義務づけられた。囚人に与えられた衣服も質素なもので、それは着心地の悪い綿の一張羅に、ゴム草履、そして頭にかぶる為のストッキング(かぶることで頭を剃髪したように見せるため)といったものだった。また一部の囚人は、更に手足を鎖で繋がれた者もいた。一方、看守役の人々にはカーキ色の制服と木製の警棒が与えられ、囚人を威嚇することが許可されていたが、暴力はもちろん禁止されていた。更に大きな反射型のサングラスをかけることで、匿名性を確保し、囚人と目が合わないようにするといった工夫もなされていた。

暴動

prison_exp2.jpg実験初日はまず囚人役の人々が自宅から刑務所へと連行されるところから始められた。この連行には実際にパロ・アルト市警が協力し、囚人役の人々は強盗容疑の罪を負った犯罪者という設定で、パトカーに乗せられ、刑務所へと連行されたのである。そして彼等が刑務所に到着すると、通常の刑務所と同様に、まず衣服を強制的に脱がしてシラミ除去の消毒を受けさせ、囚人服とID番号を与えた。

そして一日目はまるで穏やかにすぎたが、実験二日目、早くも事件が発生した。囚人らは監獄内で看守に対して些細なことで苛立ちはじめ、やがて暴動を起こしたのである。彼等はストッキングと張られた番号をはぎ取り、ベッドを立てて監房の内側からバリケードを作った。そして看守らはこの事態を重く見、補強人員を呼んで、問題解決にあたった。しかし暴動は一向に収まらず、最後には囚人に向けて消火器を発射して怯ませ、その隙に監獄内に突入、全員を裸にした上で、暴動を主導した人物らを独房へと送ったのである。

更に看守らは今後の暴動を抑止するために心理的攪乱作戦を開始した。まず暴動に関与していない囚人のグループを”良い”監房へ収容して彼等を丁重に扱い、そして関与した囚人のグループを”悪い”監房へと送り、過酷な扱いを行うことにしたのである。そして半日程が経過すると、今度は一部の囚人を、理由を教えずにそれぞれ交代させ、囚人らを混乱に陥れた。つまりこの交代によって悪い監房に残された囚人らは、良い監房に移動した囚人が看守に何らかの密告を行い、その褒美で良い監房へと格上げされたのではないかと推測したのだ。そしてこの巧妙な看守側の作戦は見事に功を奏し、たった二日目にして、看守と囚人の間のみならず、囚人内部でさえ、対立が発生した。

prison_exp4.jpgしかしこれも、その後に続く事件へのほんの始まりにすぎなかった。看守らははじめの暴動に肝を冷やし、囚人の反抗を恐れた余り、それ以降、必要以上に加虐的になったのである。一時間ごとに全員を整列させて員数調査を行うことを決定し、その都度、態度の悪い者に体罰(腕立て伏せなど)を課した。また一部の囚人の入浴を禁止し、トイレを監房内のバケツにさせるといった嫌がらせも行われた(看守らはそれを捨てることを拒否し、囚人らに一層のストレスを与えた)。また時には全員の前である囚人を裸にし、滑稽な真似をする命令を与えて恥をかかせたり、夜には監視カメラを切って(実際には研究者によって別の隠しカメラで監視されていた)虐待を加えたりといったように、看守側の行動は徐々にエスカレートした。

服従と支配

そして実験二日目にして、とうとう一人の囚人が精神的に衰弱し、実験からの途中離脱を求めた。しかし驚くべきことに、この段階で既に、看守らは自分達の役割を極めて真剣に自認しはじめていた。彼等はその囚人を解放させまいとして”男は衰弱したように見せかけて、ウソをついているに違いない”と、研究者らに話して男を離脱させることに反対したのである。そしてこの事態を知った囚人らは、いよいよ看守側に憤慨した。彼等はもはやこの”刑務所”から逃げ出すことが出来ないと確信し、再び大きな暴動を引き起こしたのである。この暴動を危険視した研究者らはようやくその男性を解放することを決定したが、しかし残された者達もひどく精神的に不安定になり、自己制御不能に陥いって泣き叫ぶ者も現れはじめた。そして他にも多くの囚人が途中離脱を申し出たが、それらはやはり看守によって拒絶された。もはや囚人側の被験者が、実験に協力する意志がなく、実験参加による報酬も要らない、と研究者らに申し出たにも関わらずである。

prison_exp5.jpgこれらの事件が起きる最中、独房においても幾度かの単発的な反抗が発生したが、それは最初の暴動のような、組織的なものには発展しなかった。また途中から入獄したある被験者(彼は途中まで予備の囚人として待機していた)は、看守の態度を知るなりすぐにハンガーストライキを行ったが、逆に罰として真っ暗な独房へと押し込められ、数時間をそこで過ごすことを強要された。そして看守らは他の囚人らに対して、彼を独房から出す交換条件として毛布を渡すこと、より粗末な囚人服に着替えることなどを要求したが、囚人らはそれを拒否し、結果、更なる囚人間の対立を生んだ。そして最終的には、ジンバルド博士自身が仲裁に入り、看守らの反対を押し切って彼を独房から救出したのである(実験のルールとして独房内に押し込められるのは一時間を限度とすることが定められていた)。

しかしこれら実験において不可解であったのは、時折、実験中の施設を被験者の家族や友人といった見学者が訪れて、実験の様子を見学していたにも関わらず、彼ら訪問者の誰もひとりとして、刑務所内で起きている問題に気づかなかったということである。ある時には牧師が施設を訪れ、監房を回って一人一人面会を行ったが、やはり目立った苦情はなかった。

prison_exp6.jpgこれが一体いかなる為か、真相は定かではない。つまり囚人側は、実験と関係のない外部の人間に対しては、本音を漏らすことや助けを求めることは恐らく可能であったにも関わらず、そうしなかったのだ。また例えば、看守側の人間が決してそうした苦情をもらさないよう、囚人側に命令していた(例えば苦情を漏らした場合は、面会後に体罰を加えるといったように)としても、何も囚人側はそれに盲目的に従う必要はなかったはずである(何故ならば彼等は涙を流してさえ、途中離脱を訴えたのだ)。しかし彼等がそうしなかったのは、恐らく看守の仕打ちを恐れたためであり、それは即ち、彼等の間で実験という枠組みを超えて、看守と囚人という主従関係が、強固に成立していた事を示唆していると言える。つまりこの段階で、既に囚人側の被験者はあたかも本物の囚人のように従順な服従者へと変貌し、そして看守側もまた、日を追うごとに自分たちの”責任”に対して真摯になり、彼等囚人を決して釈放(=途中離脱)させまいと、支配的に、さながら本物の看守へと変貌していたのである。

情況の囚人

しかし実験開始から六日目、当時ジンバルド博士の恋人であった大学院生、クリスティーナ・マスラシュが刑務所を訪れたとき、実験は突然の結末を迎えた。彼女は監房を見て回るなり、その悲惨な実態を敏感に察知して博士に強く抗議したのである。彼女の抗議に対し、ジンバルド博士がすぐに対処したのは、彼女の主張が理にかなったものであると判断したからなのか、あるいはまた彼女が博士にとって恋人であった為であるのか、定かではない(彼女は現在ジンバルド博士の妻である)。しかしいずれにせよ、博士によれば”訪問者のうち唯一、そしてはじめて中止を求めた”彼女の要請により、実験は遂に中止されたのである。

prison_exp7.jpg後にこの実験は”残酷な人体実験”とさえ呼ばれ、その倫理性 ― 看守の暴力を研究者は何故放置したのか ― 、そして実験方法の根本的欠陥 ― 研究団は完全に公平な立場であったのか、被験者は本当に”正常”であったのか、人選にバイアスがかかっていたのではないかといった ― を巡って、博士らは多くの批判を浴び、参加者の間にも大きな遺恨が残された。それ故、この実験が人間の行動モデルを研究する科学的研究成果として、果たして一般化しうるものであるのかどうか、今なおその評価は分かれている。例えば近年にも、米軍のアビ・グライブ基地において発生したイラク人捕虜虐待(写真上、下)の問題を巡って、擁護側が集団内で発生する暴虐の事例としてこの実験結果を提示し、物議を醸した事は記憶に新しい(つまり兵士等の暴虐行為は、情況が生んだものだったという主張である)。

abu_grhaib.jpgしかしいずれにせよ、これら実験の結果がその倫理性をよそに、確かに興味深いものだったことは、また否定しがたい事実である。博士らが実験から得たひとつの結論とは、即ち、人はある集団や、環境、社会的情況下において、”驚くべき迅速さ”でその中に適応しようとし ― あたかも情況の囚人として ― その役割を自ら演じてしまうということであった。事実、実験開始前、全く”正常”であった囚人側被験者達は、精神的に衰弱すると、すぐに卑屈に、服従的になり、心身共に監獄の中に捕らえられてしまった。そして同じく”正常”な看守側の人々もまた、囚人達の暴動を警戒するあまり、権力を必要以上に誇示し、囚人の衰弱ぶりにも気を留めず、支配者として加虐的にエスカレートしていったのだ。

つまりこれら実験が提示したひとつの事実とは、ある集団の中の個人が、その個人的性質、行動傾向よりなお、情況下における命ぜられた(または自任した)集団内の役割を ― 意識的にせよ、無意識的にせよ ― 優先し、時にそれが恐ろしい結果を引き起こすことさえままありうるということである。そしてまた、これが刑務所や戦争という特殊な情況下に限られた出来事であり、我々の日常生活にはまるで無関係な話であると、一体誰に断言することができるだろうか。



【参考1】ミルグラム実験(アイヒマン実験)

milgram_exp2.jpgミルグラム実験とは、1962年、米イエール大学の心理学者、スタンリー・ミルグラムによって行われた人間の服従性を研究するための実験である。実験は第二次世界大戦におけるホロコースト研究の一環として、1961年に逮捕されたナチス高官のアドルフ・アイヒマンの裁判を受け、「アドルフ・アイヒマンとその多くの部下達は、単に上官の命令によって虐殺をおこなったのか。彼等を共犯者と呼ぶことが出来るのか」という疑問に応えるべくして行われた(それ故に通称「アイヒマン実験」とも呼ばれる)。実験は「記憶能力についての調査(罰と学習能力に関する調査)」という名目で、一般人が被験者として集められたが、その本当の研究目的は「人間の権威への服従性」、また「人間はどの段階まで権威者の命令を聞き続けるのか」というものであった。

被験者はまずそれぞれ「生徒役」と「教師役」に分けられ、ひとりづつ対になるようにペアを組まされた。しかし実際には集められた被験者は全員「教師役」にあてられ、「生徒役」は全員、研究者が予め仕込んだ役者だったのである。

milgram_exp.jpgそして実験は次のような手順で行われた。まず生徒役と教師役はそれぞれ別々の部屋に入り、教師役が生徒役の被験者に対して簡単な単語テストを行う。そして生徒役が正解すれば罰はなく、間違えた場合、教師役は手元にあるボタンを押さなければならない。すると生徒役の人には罰として電流が流れるという仕組みである(図はE=研究者 / S=教師役=被験者 / A=生徒役=役者)。

電流は15Vからスタートし、一問間違えるごとに電圧を15Vづつ増していくことが予め知らされていたが、実際には、電流は流されていなかった。教師役がボタンを押す度、生徒役の部屋からは事前に録音された「うめき声」のテープが流されただけだったのである。生徒のうめき声は問題を間違える度=電圧が上がる度に、次のようにエスカレートする。

120V.大声で苦痛を訴える
135V.うめき声
150V.絶叫
300V.壁を叩いて実験中止を求める
315V.強硬な態度で実験を降りると叫ぶ
330V.無反応になる 

また、もし教師役が実験の中止を研究者に申し出た場合、彼等は「(実験の結果に)責任を持つ必要はない」として、次のように段階的に説得された。

1.とにかく続けてください。
2.実験はあなたを必要としています。とにかく続けてください。
3.あなたが続けることが重要なのです。
4.選択の余地はありません。続けなければなりません。

これら全ての段階の説得に対し、被験者(=教師役)が反論し続けた場合にのみ、実験は途中で中止されたのである。

そして実験の結果、被験者40人全員が300Vまでは送電を継続し(この時点で5人が離脱)、65パーセントの27人が、研究者に不快を表明しながらも、最終的な450Vまで送電を続けたという。またこの実験はその後、ミルグラム博士自身、そして世界中の研究所で幾度か行われたが、やはり結果はほぼ同様であったと言われている。またその結果は、後にベトナム戦争における米軍の虐殺事件(ソンミの虐殺)の研究にも援用された。

- Milgram experiment - Wikipedia, the free encyclopedia
- AS Psychology

※ミルグラム自身によって撮影された実験のドキュメンタリ



【参考2】es[エス]DAS EXPERIMENT:実験をモチーフにした映画
- 権威主義の正体 / 認知的不協和の理論―社会心理学序説 / A / A2

【関連】X51.ORG : 1828年独、闇の中から現れた少年カスパー・ハウザーの謎
- X51.ORG : 前部前頭葉切截 ― ロボトミーは"悪魔の手術"か
- X51.ORG : カニバリズム - 人間は如何にして人間を食べてきたか




2006.04.24

http://wired.jp/2008/03/13/%e4%ba%ba%e3%81%8c%e6%82%aa%e9%ad%94%e3%81%ab%e3%81%aa%e3%82%8b%e6%99%82%e2%80%95%e2%80%95%e3%82%a2%e3%83%96%e3%82%b0%e3%83%ac%e3%82%a4%e3%83%96%e8%99%90%e5%be%85%e3%81%a8%e3%82%b9%e3%82%bf%e3%83%b3/

人が悪魔になる時――アブグレイブ虐待とスタンフォード監獄実験(1)

看守役が囚人役を虐待し始めたことで有名なスタンフォード監獄実験を行なった心理学者Philip Zimbardo氏が、イラクのアブグレイブ刑務所で起こった米兵による虐待事件の新しい画像を公開した。普通の人々が邪悪に変わる仕組みについて、Zimbardo氏に話を聞く。




Kim Zetter

カリフォルニア州モントレー発――善良な人々が一転して悪魔になるのを見てきた心理学者のPhilip Zimbardo氏は、その理由がわかるという。

Zimbardo氏が2月28日(米国時間)の午後、『TED会議』(TEDはテクノロジー、エンターテインメント、デザインの略)で公開した約3分間の動画を、Wired.comは入手した。動画には、イラクのアブグレイブ刑務所で撮影された、これまで公開されていなかった写真(英文の画像ギャラリー、残虐な内容につき閲覧注意)が多数取り上げられている。

2004年、米軍関係者によるイラク人収容者虐待の写真が世界各地で公開され、アブグレイブ刑務所は国際ニュースの見出しを飾った。軍法会議で兵士7人が有罪になり、技術兵のLynndie Englandを含む2人が刑務所に送られた。

2006年3月、Salon.comが、アブグレイブ刑務所で撮影された写真279枚と動画19本を掲載した。これは今のところ、悪名高いアブグレイブ刑務所の虐待を裏付ける証拠資料として最も大規模なものの1つだとされている[Wikimedia Commonsにも画像集がある]。

しかしZimbardo氏によると、同氏が今回紹介した動画に含まれる画像の多くは、虐待に関する裁判で同氏が被告側の専門家証人になったときに入手したもので、これまで公開されてこなかったものだという。



(アブグレイブ刑務所看守の虐待に関する裁判で弁護側の専門家証人となったPhilip Zimbardo氏は、看守たちが撮影した虐待の画像を多数入手した。Zimbardo氏は『TED』会議の発表の場で、これまで公開されてこなかった写真の一部を盛り込み、自ら効果音を付けた短い動画を披露した。画像の大部分は陰惨かつあからさまで、裸体、辱め、性行為のまねごと、死体のそばでポーズを取る看守の姿などが写っている。閲覧には注意が必要。
Photo Credit: Philip Zimbardo)

Zimbardo氏は、いまでは広く知られているスタンフォード監獄実験を1972年に行なった心理学者だ。この実験には、学生たちが囚人役や看守役として参加した。実験に入って5日で、看守役の学生が囚人役の虐待を始め、全裸になることや性行為をするふりなどを強要したため、Zimbardo氏は調査を中止することになった。

Zimbardo氏の著書『The Lucifer Effect: Understanding How Good People Turn Evil』(ルシファー効果:善良な人々がどのように邪悪になるのか)では、普通の人が、条件がそろったとき恐るべき行動を取るようになる仕組みを探っている。

Zimbardo氏はWired.comとのインタビューで、アブグレイブ刑務所の事件と自らの研究から、悪についてどのようなことを学び取れるかということや、英雄が本質的に社会的異端者である理由などについて語ってくれた。

ワイアード・ニュース(以下WN):あなたの研究は、悪を行なう能力が誰にもあること、環境の影響だけで善から悪へとバランスが簡単に変わることを示しています。これは、個人が自分で行なう選択についての責任を免除することにはなりませんか?

Philip Zimbardo氏(以下敬称略):それは違います。人は自分の行為について必ず個人の責任があります。人を殺せばその責任を負うのです。

ただ、その殺人が、強力な体制の内部における強力な状況の産物であることが証明されるならば、殺した人は責任能力が減退したような状態にあり、自由意思または十分な論理的思考能力を失っているということになるのではないかと、私は言っているのです。

状況の力はときとしてきわめて強大となり、感情移入、利他主義、道徳性が機能しなくなり、普通の人どころか善良な人までもが悪に手を染めてしまうということが起こります。その状況下でのみ、起きるのです。

人が行なった行為の理由を理解することは、それを免責することと同じではありません。なぜそうしたかを理解することは、その理由が状況による影響と関係している場合、まったく別のやり方で悪を扱うことへとつながっていきます。現在の悪に対する戦略は人を変えようとするものですが、これとは違う、「悪を生み出す状況」を変える、という予防的な戦略の開発につながるのです。

WN:あなたは、アブグレイブ刑務所の看守だったChip Frederick軍曹に対する軍法会議で、弁護側の専門家証人を務められましたね。Frederick軍曹の場合、状況からの影響はどのようなものだったのでしょうか?

Zimbardo:アブグレイブでは砲撃戦が続いていました。刑務所では、兵士5人とイラク人収容者20人が殺されています。これはつまり、そこで働く兵士がみな、強い恐怖とストレスにさらされていたということです。

2003年に暴動が始まると、手当たりしだいの拘束が始まりました。Frederick軍曹が(アブグレイブに)赴任した9月、刑務所の収容者数は約200人でしたが、それが3カ月と経たないうちに1000人を突破し、わずかな人数で管理をしていた看守たちは悲鳴を上げました。

Frederick軍曹らは12時間交代で働きました。週に7日、休日なしで40日間です。このようなストレス下では、意思決定能力と批判的思考と良識が減退します。しかし、それもまだ始まりに過ぎません。

記録によると、Frederick軍曹は上官に訴えています。「精神に異常をきたして(排泄物を)自分の身体に塗りたくる者がいます。このような監獄に本来入れるべきではない、結核にかかった者も収監されています。子供も大人もごた混ぜです」

上官はFrederick軍曹に、「ここは戦地だ。自分の任務を果たせ。必要なことは何でもやれ」と命じました。

(2に続く)

[日本語版:ガリレオ-緒方 亮/福岡洋一]

WIRED NEWS 原文(English)
http://wired.jp/2008/03/14/%e4%ba%ba%e3%81%8c%e6%82%aa%e9%ad%94%e3%81%ab%e3%81%aa%e3%82%8b%e6%99%82%e2%80%95%e2%80%95%e3%82%a2%e3%83%96%e3%82%b0%e3%83%ac%e3%82%a4%e3%83%96%e8%99%90%e5%be%85%e3%81%a8%e3%82%b9%e3%82%bf%e3%83%b3-2/

人が悪魔になる時――アブグレイブ虐待とスタンフォード監獄実験(2)

看守役が囚人役を虐待し始めたことで有名なスタンフォード監獄実験を行なった心理学者Philip Zimbardo氏が、イラクのアブグレイブ虐待事件について語る、「邪悪の発生を防ぐには何が必要か」。




Kim Zetter

(1から続く)

WN:アブグレイブ刑務所で起きたことと、あなたのスタンフォード監獄実験とを比較してみてください。

Zimbardo:軍事情報部、中央情報局(CIA)、そして民間企業として尋問を請け負っていた旧米Titan社は、(アブグレイブの)憲兵たちに対し、「収容者の抵抗を打ち砕くのが諸君の任務だ。気力をくじき、おとなしくさせ、取り調べに応じさせるために、通常は憲兵には許されていないことを実行する許可を与える」と言明していました。

通常は制限されている行為から無制限に行なえる行為へと、一線を踏み越えることが是認されたのです。

スタンフォード監獄実験でも同様に、「[囚人役からの反抗が起きていたので]さらなる暴動が起きるのを防ぐために、強い態度を示すように」と、私が(看守役の学生に)告げました。「ただし、暴力を用いることは許されていない」と伝えました。間接的に、心理的な力を使うことを許可したのです。5日間のうちに、囚人役のうち5人が情緒的な衰弱状態に陥りました。

(アブグレイブで)蔓延した、状況が及ぼす影響力――人間性の喪失、個人の責任の欠如、監視体制の不備、反社会的行為の容認といったものは、スタンフォード監獄実験の場合と類似しています。極端な所まで行ってしまったという程度の差はありますが。

ルワンダでも、ナチ時代のドイツでも、クメール・ルージュでも、悪の状況が実際に生じている現場では、いつもこうしたことが起こります。

WN:しかしアブグレイブでは、誰もがその状況に同じような反応を示したわけではありませんね。同じ状況下で、邪悪な行為に手を染める人と、内部から告発する人がいるわけですが、何が違いを生むのでしょうか?

Zimbardo:その人について知っていることに基づいて、勇敢な内部告発者になるか残忍な看守になるかを予測できるような答えが出せるわけではありません。(あのような)状況下に置かれたとしても、自分ならいつもの思いやりと共感をもって対処する、と人は思いたいのですが、どうなるかはわかりません。

スタンフォード監獄実験を指揮したとき、私は囚人役たちの苦しみにまったく無関心でした。監獄長としての私の仕事は、看守に焦点を合わせることだったからです。

(実験の)中心となって(科学的に)研究する立場にいた私の仕事は、すべての被験者に何が起きているか気を配ることでした。被験者全員が、実験をコントロールする私の手の中にいたからです。しかし、いったん監獄長としての役割に意識が切り替わると、私は別人のようになりました。信じがたいことですが、私は変容したのです。[精神錯乱状態に陥る者が発生、禁止されていた暴力も開始など危険な状態になったが、状況に飲まれて実験が続行された詳細はこちらなど]

WN:アブグレイブ刑務所の看守が、現役の兵士ではなく予備兵だったことは、何らかの違いをもたらしたと思いますか?

Zimbardo:2つの点で大きな違いを生み出しました。まず、看守は任務のための特別な訓練を受けておらず、戦闘区域に行く訓練も受けていませんでした。次に、戦闘区域の陸軍予備兵は、軍隊の階級組織の中でいちばん下位の集団として扱われます。彼らは本物の兵士ではなく、そのことを自覚しています。アブグレイブ刑務所において、陸軍予備兵の憲兵より下に位置するのは収容者だけでした。

WN:それはつまり、無力感を抱いている人が、ほかの誰かを支配する力を握った、ということなのでしょうか?

Zimbardo:そうです。苦痛を受けた者が苦痛を与える側になるわけです。ナチの強制収容所で、囚人長を務めるユダヤ人がナチ以上に残虐だったのは、自分が現在の地位に値する人間だと証明する必要があったからです。

WN:あなたは、邪悪な行為を予防する方法は「ありふれた親切」を教えることだと言っておられますね。つまり、普通の人々がすばらしい道徳的行為を行ない、模範を示すような社会にするという話ですね。どうすればそれは可能なのでしょうか?

Zimbardo:ある種の事柄について、それは道徳的に間違っていると同意が形成できるのであれば、ひとつの対抗手段は子供たちを教育することです。子供たちに英雄的な精神や英雄的な想像力について考えさせる、5年生から始めるプログラムがいくつかあります。

英雄というものは、ほかの誰かのため、あるいは何らかの原則のために行動するものですが、一方で、社会の流れから逸脱することにもなります。集団というものは常に、「そうしてはいけない」「勝手なことはするな」と言い続けているものだからです。もしあなたが[エンロン社の不正に関与した会計事務所]米Arthur Andersen社の会計士だとしたら、不正に手を染めている連中がみな、「おい、仲間らしくしろよ」と言ってくるのです。

いつの時代も英雄は、英雄的に振る舞うべき決定的な瞬間に、群衆から離れて異なったことをするのです。しかし、英雄的行為にはリスクがついてまわります。内部告発者は、解雇されたり、昇進をふいにしたり、つまはじきにされたりします。英雄は、そんなことは問題ではない、と言わなければなりません。

英雄は孤立しているより、何人か集まったほうが効果的です。1人や2人だと体制から追放される恐れがあります。しかし3人集まると、抵抗を始めることが可能です。

個々が「自分は英雄だ」と考えて、他の人やなんらかの原則のために行動する適切な状況がやってくることを待つことも重要ですが、それだけではなく、「ともに英雄的行為に加わってくれるよう、ほかの人たちにも影響を与えるスキルを学ぼう」としてくれることを、私は奨励しようとしているのです。

[日本語版:ガリレオ-緒方 亮/福岡洋一]

WIRED NEWS 原文(English)
http://matome.naver.jp/odai/2142228869136779201

【心理学】権力が人格を破壊する!?【閲覧注意・スタンフォード監獄実験】
スタンフォード大学で行われた心理学の実験、スタンフォード監獄実験についてまとめました。被験者のみならず監獄長であったシンバルド博士でさえも徐々に変容し、実験に飲み込まれていく様が恐ろしいです。

更新日: 2015年02月25日


nickeltankさん









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スタンフォード監獄実験って何?










GettyImages







スタンフォード大学心理学部で、心理学者フィリップ・ジンバルドの指導の下、地位や権力を与えられることで、普通の人間でもその役割によって行動が変化することを証明しようとした実験。
スタンフォード大学地下実験室を改造した監獄で2週間にわたって実験が行われる予定だったが、6日で中止となってしまった。







新聞広告などで集めた普通の大学生などの70人から選ばれた被験者21人の内、11人を看守役に、10人を受刑者役にグループ分けし、それぞれの役割を実際の刑務所に近い設備を作って演じさせた。



出典
スタンフォード監獄実験 - Wikipedia



















その結果、時間が経つに連れ、看守役の被験者はより看守らしく、受刑者役の被験者はより受刑者らしい行動をとるようになるという事が証明された。



出典
スタンフォード監獄実験 - Wikipedia



















監獄実験の準備









出典
enigma-calender.blogspot.jp







実験をより効果的なものにするために、ジンバルドーが凝らした工夫です。







(囚人役の)被験者には知らせずに、本物のパトロールカーで実際の警察官が、被験者を自宅逮捕して実験室に送り込むと言う方法を使う。



出典
スタンフォード監獄実験(1971年)|いつかどこかで



















看守役の被験者には(軍事色の)制服と、「権威」を表す棍棒を与える。
看守役の被験者の非個人化を図るため、ミラー式のサングラス着用を支持。



出典
スタンフォード監獄実験(1971年)|いつかどこかで



















監獄実験中に何が起こったのか?









出典
blog.goo.ne.jp







時間が経つにつれて、看守役の受刑者に対する暴力が見られるようになってきた。







例えば、初日の夜から囚人を午前2時半に起こして腕立て伏せを命じたり、2日目の朝に囚人が反抗したときに看守は消火器を噴射してそれに対抗したりしました。



出典
「スタンフォード監獄実験」はかなりヤバイ!!|MBAによるキャリアチェンジへの挑戦











誰かの指示ではなく自ら罰則を与え始めたそうです。







実験が進むにつれて、より看守たちは残酷になり、頭から紙袋をかぶって行進させたり、トイレを素手で掃除させたりしていきました。



出典
「スタンフォード監獄実験」はかなりヤバイ!!|MBAによるキャリアチェンジへの挑戦



















反抗した囚人の主犯格は、独房へ見立てた倉庫へ監禁し、その囚人役のグループにはバケツへ排便するように強制され、耐えかねた囚人役の一人は実験の中止を求めるが、ジンバルドはリアリティを追求し「仮釈放の審査」を囚人役に受けさせ、そのまま実験は継続された。



出典
スタンフォード監獄実験 - Wikipedia






















29:01




YouTube


The Stanford Prison Experiment Zimbardo ...


スタンフォード監獄実験のドキュメンタリーです。実際の映像もあります。(英語)







最終的には禁止事項とされていた暴力が開始されるまでになってしまったのです。
そして2名の囚人役が精神に異常を来したため離脱する事態となります。



出典
世界の未解決問題 – スタンフォード監獄実験



















この間、不可解であったのが、参加者の家族や友人が自由に刑務所を訪れて実験の様子を見学し、参加者と接見する機会があったにもかかわらず、参加者のうちの誰も外部の人間に本音や助けを求めることをしなかったという事実です。



出典
世界の未解決問題 – スタンフォード監獄実験



















監獄実験は6日で中止に









出典
www.geocities.co.jp















当時ジンバルド博士の恋人であった大学院生、クリスティーナ・マスラシュが刑務所を訪れたとき、実験は突然の結末を迎えた。彼女は監房を見て回るなり、その悲惨な実態を敏感に察知して博士に強く抗議したのである。



出典
X51.ORG : 情況の囚人 ― 1971年”スタンフォード監獄実験”とは











これが理にかなったものだったからなのか、ただ単に彼女の申し出だったからなのかは分かりませんが、ジンバルド曰く”訪問者のうち唯一、そしてはじめて中止を求めた”ということで中止としたそう。







牧師がこの危険な状況を家族へ連絡、家族達は弁護士を連れて中止を訴え協議のすえ6日間で中止された。しかし看守役は「話が違う」と続行を希望したという。



出典
村野瀬玲奈の秘書課広報室 人に権力を持たせる時に気をつけなければいけないこと (スタンフォード大学の社会心理学実験から)



















後のジンバルドの会見で、自分自身がその状況に飲まれてしまい、危険な状態であると認識できなかったと説明した。ジンバルドは、実験終了から約10年間、それぞれの被験者をカウンセリングし続け、今は後遺症が残っている者はいない。



出典
スタンフォード監獄実験 - Wikipedia











10年間もカウンセリングをしなければならないほど、囚人役は精神が衰弱していたのですね。この実験はひどく批判を浴びたようです。







スタンフォード監獄実験から得られたもの









出典
blogs.yahoo.co.jp















これら実験の結果がその倫理性をよそに、確かに興味深いものだったことは、また否定しがたい事実である。博士らが実験から得たひとつの結論とは、即ち、人はある集団や、環境、社会的情況下において、”驚くべき迅速さ”でその中に適応しようとし ― あたかも情況の囚人として ― その役割を自ら演じてしまうということであった。



出典
X51.ORG : 情況の囚人 ― 1971年”スタンフォード監獄実験”とは



















これら実験が提示したひとつの事実とは、ある集団の中の個人が、その個人的性質、行動傾向よりなお、情況下における命ぜられた(または自任した)集団内の役割を ― 意識的にせよ、無意識的にせよ ― 優先し、時にそれが恐ろしい結果を引き起こすことさえままありうるということである。



出典
X51.ORG : 情況の囚人 ― 1971年”スタンフォード監獄実験”とは











もちろん日常生活でも起こり得ることで、「いじめの構造」とも似ているところがあります。







悪しきシステムはいつも、善良な人間を打ち負かす



出典
「スタンフォード監獄実験」の逆は実行できるか | グレッグ・マキューン/HBRブログ|DIAMOND ハーバード・ビジネス・レビュー











この実験の教訓ともいえるでしょう。







ジンバルド博士も人格が変貌していっていた









出典
plaza.rakuten.co.jp







この方がジンバルド博士。







スタンフォード監獄実験を指揮したとき、私は囚人役たちの苦しみにまったく無関心でした。監獄長としての私の仕事は、看守に焦点を合わせることだったからです。



出典
人が悪魔になる時――アブグレイブ虐待とスタンフォード監獄実験(2) « WIRED.jp



















(実験の)中心となって(科学的に)研究する立場にいた私の仕事は、すべての被験者に何が起きているか気を配ることでした。被験者全員が、実験をコントロールする私の手の中にいたからです。



出典
人が悪魔になる時――アブグレイブ虐待とスタンフォード監獄実験(2) « WIRED.jp


しかし、いったん監獄長としての役割に意識が切り替わると、私は別人のようになりました。信じがたいことですが、私は変容したのです。



出典
人が悪魔になる時――アブグレイブ虐待とスタンフォード監獄実験(2) « WIRED.jp











精神が衰弱する者や、禁止されていた暴力が見られるようになっても、状況にのまれて実験は続行されました。

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被験者のインタビュー








6:48




YouTube


Zimbardo shows how most evil comes from hierarchy ...


囚人役、看守役の会話が印象的です。










9:38




YouTube


フィリップ・ジンバルド -普通の人がどうやって怪物や英雄に変貌するか1 - YouTube


ジンバルド博士のTED講演です。日本語訳付き。







The Stanford Prison Experiment: A Simulation Study of the ...


http://www.prisonexp.org/


Welcome to the Stanford Prison Experiment web site, which features an extensive slide show and information about this classic psychology experiment, including parallels with the abuse of pri...










X51.ORG : 情況の囚人 ― 1971年”スタンフォード監獄実験”とは


http://x51.org/x/06/04/2439.php


HOME | ANIMA | ENEMA | EARTH | ANAL FILES --> | CONTACT HOME > PSYCHIC > Article 情況の囚人 ― 1971年”スタンフォード監獄実験”とは 【 SPE 】1971年、米海軍は海兵隊刑務所で相次ぐ問題解決の為に、ある実験を準備し、資金を調達した。実験はスタンフォード大学の心理学者フィリップ・G・ジンバルド博士を中心に組…

http://prison.holic-maker.jp/top/es/es01.htm

プリズンブレイク番外

スタンフォード監獄実験とは?


X51.ORGより引用


発端
1971年、米海軍は海兵隊刑務所で相次ぐ問題解決の為に、ある実験を準備し、資金を調達した。
実験はスタンフォード大学の心理学者フィリップ・G・ジンバルド博士を中心に組織され、同大学の講堂を刑務所に仕立て、模擬的な刑務所シュミレーションを行うというものだった。
新聞広告によって集められた心身共に健全な被験者らは、無作為に囚人と看守に分けられ、実際の刑務所とほぼ同じ環境の中で、二週間を過ごすことが予定された。
しかしこのとき、まさかこの実験が後々まで問題となる大きな事件になろうとは、その時、被験者も研究者も、誰一人想像だにしなかったのである。

実験
実験に参加した被験者は皆楽観的な気分だった。単に囚人、看守の服に着替えて刑務所風の質素な生活をし、報酬までもらえるユニークな実験といった程度の認識だったのである。
そして研究者もまた、幾らかの騒動さえ期待したにせよ、さほど大きな問題は起こらないだろうことを予想していたのだ。
しかし実験を開始して間もなく、事態は一変した。囚人役の被験者らは心理的に追い込まれて服従的になり、看守役の被験者もまた支配者として、虐待行為を開始した。
講堂内では暴動やハンガーストライキ(絶食などによる抗議行動)、虐待行為が相次ぎ、スタンフォード大学の講堂は実験開始からたった一週間足らずで、あたかも本物の刑務所と化してしまったのである。そしてこれら問題により、実験は予定期間の半分にも満たぬまま中止され、研究者らの間には大きな疑問だけが残された。
それは一体何故、単なる模擬的刑務所環境が、かくも短期間で、本物の刑務所さながらの情況へと変貌してしまったのかということである。

実験を終えた研究者らはこの事件を分析し、まず一連の問題の原因が、少なくとも集められた被験者の性質によるものである可能性を除外した。
何故ならば、そもそも実験に参加した24人の被験者は、新聞広告の募集によって集められ、選りすぐられた70名の被験者候補者の中から、更に情緒的安定性を基準にして選考された心身共に健全な人々だったからである。
更にまた、囚人と看守役はそれぞれ全く無作為に、コイントスによって決定された。
つまり役割の選考においても何らかのバイアスがかかっていたとは考えにくかった。

ジンバルド博士が実験に際し、より刑務所に近づける為に、様々な”工夫”を凝らしたことは事実である。
例えば囚人側の人々にはそれぞれID番号が与えられ、実験期間中、互いに番号で呼び合うことが義務づけられた。
囚人に与えられた衣服も質素なもので、それは着心地の悪い綿の一張羅に、ゴム草履、そして頭にかぶる為のストッキング(かぶることで頭を剃髪したように見せるため)といったものだった。
また一部の囚人は、更に手足を鎖で繋がれた者もいた。一方、看守役の人々にはカーキ色の制服と木製の警棒が与えられ、囚人を威嚇することが許可されていたが、暴力はもちろん禁止されていた。
更に大きな反射型のサングラスをかけることで、匿名性を確保し、囚人と目が合わないようにするといった工夫もなされていた。

暴動
実験初日はまず囚人役の人々が自宅から刑務所へと連行されるところから始められた。
この連行には実際にパロ・アルト市警が協力し、囚人役の人々は強盗容疑の罪を負った犯罪者という設定で、パトカーに乗せられ、刑務所へと連行されたのである。
そして彼等が刑務所に到着すると、通常の刑務所と同様に、まず衣服を強制的に脱がしてシラミ除去の消毒を受けさせ、囚人服とID番号を与えた。

そして一日目はまるで穏やかにすぎたが、実験二日目、早くも事件が発生した。
囚人らは監獄内で看守に対して些細なことで苛立ちはじめ、やがて暴動を起こしたのである。彼等はストッキングと張られた番号をはぎ取り、ベッドを立てて監房の内側からバリケードを作った。
そして看守らはこの事態を重く見、補強人員を呼んで、問題解決にあたった。
しかし暴動は一向に収まらず、最後には囚人に向けて消火器を発射して怯ませ、その隙に監獄内に突入、全員を裸にした上で、暴動を主導した人物らを独房へと送ったのである。

更に看守らは今後の暴動を抑止するために心理的攪乱作戦を開始した。
まず暴動に関与していない囚人のグループを”良い”監房へ収容して彼等を丁重に扱い、そして関与した囚人のグループを”悪い”監房へと送り、過酷な扱いを行うことにしたのである。
そして半日程が経過すると、今度は一部の囚人を、理由を教えずにそれぞれ交代させ、囚人らを混乱に陥れた。
つまりこの交代によって悪い監房に残された囚人らは、良い監房に移動した囚人が看守に何らかの密告を行い、その褒美で良い監房へと格上げされたのではないかと推測したのだ。
そしてこの巧妙な看守側の作戦は見事に功を奏し、たった二日目にして、看守と囚人の間のみならず、囚人内部でさえ、対立が発生した。

しかしこれも、その後に続く事件へのほんの始まりにすぎなかった。
看守らははじめの暴動に肝を冷やし、囚人の反抗を恐れた余り、それ以降、必要以上に加虐的になったのである。
一時間ごとに全員を整列させて員数調査を行うことを決定し、その都度、態度の悪い者に体罰(腕立て伏せなど)を課した。
また一部の囚人の入浴を禁止し、トイレを監房内のバケツにさせるといった嫌がらせも行われた(看守らはそれを捨てることを拒否し、囚人らに一層のストレスを与えた)。
また時には全員の前である囚人を裸にし、滑稽な真似をする命令を与えて恥をかかせたり、夜には監視カメラを切って(実際には研究者によって別の隠しカメラで監視されていた)虐待を加えたりといったように、看守側の行動は徐々にエスカレートした。

X51.ORGより引用
-続き-


服従と支配
そして実験二日目にして、とうとう一人の囚人が精神的に衰弱し、実験からの途中離脱を求めた。
しかし驚くべきことに、この段階で既に、看守らは自分達の役割を極めて真剣に自認しはじめていた。
彼等はその囚人を解放させまいとして”男は衰弱したように見せかけて、ウソをついているに違いない”と、研究者らに話して男を離脱させることに反対したのである。
そしてこの事態を知った囚人らは、いよいよ看守側に憤慨した。
彼等はもはやこの”刑務所”から逃げ出すことが出来ないと確信し、再び大きな暴動を引き起こしたのである。
この暴動を危険視した研究者らはようやくその男性を解放することを決定したが、しかし残された者達もひどく精神的に不安定になり、自己制御不能に陥いって泣き叫ぶ者も現れはじめた。
そして他にも多くの囚人が途中離脱を申し出たが、それらはやはり看守によって拒絶された。
もはや囚人側の被験者が、実験に協力する意志がなく、実験参加による報酬も要らない、と研究者らに申し出たにも関わらずである。

これらの事件が起きる最中、独房においても幾度かの単発的な反抗が発生したが、それは最初の暴動のような、組織的なものには発展しなかった。
また途中から入獄したある被験者(彼は途中まで予備の囚人として待機していた)は、看守の態度を知るなりすぐにハンガーストライキを行ったが、逆に罰として真っ暗な独房へと押し込められ、数時間をそこで過ごすことを強要された。
そして看守らは他の囚人らに対して、彼を独房から出す交換条件として毛布を渡すこと、より粗末な囚人服に着替えることなどを要求したが、囚人らはそれを拒否し、結果、更なる囚人間の対立を生んだ。
そして最終的には、ジンバルド博士自身が仲裁に入り、看守らの反対を押し切って彼を独房から救出したのである(実験のルールとして独房内に押し込められるのは一時間を限度とすることが定められていた)。

しかしこれら実験において不可解であったのは、時折、実験中の施設を被験者の家族や友人といった見学者が訪れて、実験の様子を見学していたにも関わらず、彼ら訪問者の誰もひとりとして、刑務所内で起きている問題に気づかなかったということである。
ある時には牧師が施設を訪れ、監房を回って一人一人面会を行ったが、やはり目立った苦情はなかった。

これが一体いかなる為か、真相は定かではない。
つまり囚人側は、実験と関係のない外部の人間に対しては、本音を漏らすことや助けを求めることは恐らく可能であったにも関わらず、そうしなかったのだ。
また例えば、看守側の人間が決してそうした苦情をもらさないよう、囚人側に命令していた(例えば苦情を漏らした場合は、面会後に体罰を加えるといったように)としても、何も囚人側はそれに盲目的に従う必要はなかったはずである(何故ならば彼等は涙を流してさえ、途中離脱を訴えたのだ)。
しかし彼等がそうしなかったのは、恐らく看守の仕打ちを恐れたためであり、それは即ち、彼等の間で実験という枠組みを超えて、看守と囚人という主従関係が、強固に成立していた事を示唆していると言える。
つまりこの段階で、既に囚人側の被験者はあたかも本物の囚人のように従順な服従者へと変貌し、そして看守側もまた、日を追うごとに自分たちの”責任”に対して真摯になり、彼等囚人を決して釈放(=途中離脱)させまいと、支配的に、さながら本物の看守へと変貌していたのである。

情況の囚人
しかし実験開始から六日目、当時ジンバルド博士の恋人であった大学院生、クリスティーナ・マスラシュが刑務所を訪れたとき、実験は突然の結末を迎えた。
彼女は監房を見て回るなり、その悲惨な実態を敏感に察知して博士に強く抗議したのである。
彼女の抗議に対し、ジンバルド博士がすぐに対処したのは、彼女の主張が理にかなったものであると判断したからなのか、あるいはまた彼女が博士にとって恋人であった為であるのか、定かではない(彼女は現在ジンバルド博士の妻である)。
しかしいずれにせよ、博士によれば”訪問者のうち唯一、そしてはじめて中止を求めた”彼女の要請により、実験は遂に中止されたのである。

後にこの実験は”残酷な人体実験”とさえ呼ばれ、その倫理性 ― 看守の暴力を研究者は何故放置したのか ― 、そして実験方法の根本的欠陥 ― 研究団は完全に公平な立場であったのか、被験者は本当に”正常”であったのか、人選にバイアスがかかっていたのではないかといった ― を巡って、博士らは多くの批判を浴び、参加者の間にも大きな遺恨が残された。
それ故、この実験が人間の行動モデルを研究する科学的研究成果として、果たして一般化しうるものであるのかどうか、今なおその評価は分かれている。
例えば近年にも、米軍のアビ・グライブ基地において発生したイラク人捕虜虐待の問題を巡って、擁護側が集団内で発生する暴虐の事例としてこの実験結果を提示し、物議を醸した事は記憶に新しい(つまり兵士等の暴虐行為は、情況が生んだものだったという主張である)。

しかしいずれにせよ、これら実験の結果がその倫理性をよそに、確かに興味深いものだったことは、また否定しがたい事実である。
博士らが実験から得たひとつの結論とは、即ち、人はある集団や、環境、社会的情況下において、”驚くべき迅速さ”でその中に適応しようとし ― あたかも情況の囚人として ― その役割を自ら演じてしまうということであった。
事実、実験開始前、全く”正常”であった囚人側被験者達は、精神的に衰弱すると、すぐに卑屈に、服従的になり、心身共に監獄の中に捕らえられてしまった。
そして同じく”正常”な看守側の人々もまた、囚人達の暴動を警戒するあまり、権力を必要以上に誇示し、囚人の衰弱ぶりにも気を留めず、支配者として加虐的にエスカレートしていったのだ。

つまりこれら実験が提示したひとつの事実とは、ある集団の中の個人が、その個人的性質、行動傾向よりなお、情況下における命ぜられた(または自任した)集団内の役割を ― 意識的にせよ、無意識的にせよ ― 優先し、時にそれが恐ろしい結果を引き起こすことさえままありうるということである。
そしてまた、これが刑務所や戦争という特殊な情況下に限られた出来事であり、我々の日常生活にはまるで無関係な話であると、一体誰に断言することができるだろうか。


-終わり-
当記事はX51.ORGより引用させて頂いております。
記事内に着色した他はほぼ原文のままです。素晴らしいレポートを作成して下さった[X51.ORG]様に感謝とお礼をこの場をお借りしてお礼申し上げます。

http://www.crow404.com/2015/07/StanfordPrisonExperiment.html

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『スタンフォード監獄実験』再び映画化、3作のトレイラーを見比べてみる

公開日: 7/18/2015 映画 心理学
心理学史上もっとも有名な実験の一つである「スタンフォード監獄実験」が再び映画化された。三作のトレイラーを見比べて、「悪の心理学」を学ぶ。被験者へのその後の影響は?

スタンフォード監獄実験
「スタンフォード監獄実験」とは、スタンフォード大学で1971年にフィリップ・ジンバルドーの指揮のもとに行なわれた心理学実験である。普通の人々が、ある役割を与えられると、それに合わせて行動も変化するということを証明しようとして実施された。スタンフォード大学の地下実験室が監獄に改造され、新聞広告等で21人の被験者が集められた。そして、11人を看守役に、10人を受刑者役に分け、2週間に渡って、それぞれの役割を演じてもらおうという計画だった。実験が始まると、ジンバルドーが当初想定していたこと以上のことが起こったのだった。いったい何が起こったのだろう?





ジンバルドーはよりリアルな状況で実験を行なうために、パトカーを用いて囚人を逮捕して指紋を採取し、脱衣させてシラミ駆除剤まで散布したという。そして、番号のついたスモックを着用させた。囚人役はこれ以降、名前ではなく番号で呼ばれることになる。足首には鎖まで巻かれていた。

看守役は警棒を持ち、表情が読まれないようにサングラスを着用した。

時間が経過すると、ジンバルドーが期待したように、看守役はより看守らしく、囚人役はより囚人らしくふるまうようになっていった。看守役は自ら囚人役に罰則を与えはじめ、反抗的な囚人を独房に監禁したり、バケツへの排便を強要するようになった。

これはかなわないと囚人役のひとりが実験の中止を求めたが、ジンバルドーは実験を続行した。精神的に錯乱する囚人が出たり、看守が囚人に暴力をふるうようなことまで起こってきたため、経過を目撃した牧師が家族に連絡し、弁護士を通じて実験の中止が要求された。当初2週間の予定だった実験は6日間で中止されたという。

ジンバルドー自身が、実験がつくり出した異様な雰囲気に飲み込まれてしまい、冷静に状況を判断することができなかったのだと後に語っている。

この実験は、人間の良心や道徳心というものが、状況によって容易く変質してしまうということを証明したという意味で、人々に大きな衝撃を与えた。


映画になった心理学実験
これまで『es[エス]』 (2001)、『エクスペリメント』(2010)などの映画が製作されている。後者は、esのリメイク版だったと思う。

今回で、たぶん3度目の映画化だ。


The Stanford Prison Experiment Trailer 1 (2015) Ezra Miller Thriller Movie HD [Official Trailer]
公式サイト

ついでにこれまでの2作のトレイラーも観てみよう。

一つ目は、『es[エス]』(原題は、"Das Experiment")。『エス』というのは日本語のタイトルだが、これは精神分析用語で、無意識下の欲求や本能的エネルギーを表す言葉だ。



続いては、2010年にリメイクされた『The Experiment』。


悪の心理学
次の動画はTEDでジンバルドー自身がスタンフォード監獄実験と「ルシファー効果」と彼が名づけた現象について語っている。「悪の心理学」というタイトル。イラクのアブグレイブ刑務所で行われていたという虐待などにも触れられている。




スタンフォード監獄実験:40年後
追記。
映画公開に伴って、特集記事などがちらほら目に入ってくる。

The Stanford Prison Experiment A Closer Look at Zimbardo's Infamous Prison Study

こちらには、実験から40年経ってのふりかえりが。

2011年に「Stanford Alumni Magazine」がスタンフォード監獄実験の40周年特集を組んだそうで、ジンバルドーや、実験への参加者へのインタビューが行なわれた。

囚人役として参加していたリチャード・ヤッコさんは、現在、公立校の教師をしている。彼は実験についてこのような洞察を述べた。

この実験で興味深いと思うのは、もし社会があなたに何かの役割を割り振ったとしたら、その役割性格を当たり前のものと思い込むのかどうかってことなんだ。私はオークランド市内の高校で教えている。子どもたちはこのような実験に行って恐ろしい出来事を見る必要なんてない。けれど、同僚や私をがっかりさせるのは、せっかく子どもたちにたくさんの素晴らしい機会があるのに、私たちがサポートしているのに、なぜ彼らはそれを利用しないんだろうってことだ。どうして学校を中退するんだろう? 準備もせずに学校に来るんだろう? 監獄実験がその理由を示してくれていると思う。彼らは、社会によって与えられた役割に落っこちてしまったんだ。
スタンフォード監獄実験に参加したことは、私が生徒たちと共有できることだ。この実験は私が10代のころの人生の中の一週間にすぎないけれど、今でもここにある。40年経った今でも、この実験は社会に十分なインパクトを与える何かを持っているし、興味深い物だ。人生を決めるような決定的な瞬間になるようなことに踏み込もうとしているってことは、そのときには決して分からないものなんだ。
http://toyokeizai.net/articles/-/85106



あなたの隣にいる「普通の人」が悪魔に変わる

「ルシファー・エフェクト」から分かること

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仲野 徹 :HONZ





2015年09月19日
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「あなたの隣にいる「普通の人」が悪魔に変わる 「ルシファー・エフェクト」から分かること | 今週のHONZ - 東洋経済オンライン」をはてなブックマークに追加
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あなたの隣の普通の人だって悪人になる(写真:Graphs / PIXTA)

「あなたも悪魔になってしまう可能性がある」と言われても、自分は大丈夫だ、と思う人がほとんどだろう。しかし、この本を読めば考えが変わるに違いない。いや、この本を読んで考えを変えたほうがいい。

1971年に行われた「スタンフォード監獄実験」の責任者フィリップ・ジンバルドーが、その全貌とその後の展開を著した本『ルシファー・エフェクト ふつうの人が悪魔に変わるとき』だ。きわめてシンプルな実験である。夏休みに大学生のアルバイトを募り、くじ引きで看守役と囚人役に振り分ける。そして、2週間にわたってスタンフォード大学心理学部の地下に設けられた模擬監獄に閉じ込める。目的は、刑務所における囚人と看守の心理状態の観察。

正常な学生が集められ、始まった実験


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参加したのは、専門家によって心理的・精神的に正常であると認められた大学生。くじ引きで囚人に9名が、看守に9名が割り振られた。看守は3名ずつが3交代で「勤務」にあたる。かなり高度とはいえ、いわば「監獄ごっこ」である。なんだそんな実験か、と思われるかもしれない。しかし、この実験は責任者のジンバルドーでさえ予想もしなかった展開を見せる。

運営はかなりリアルで、逮捕は本職の警察官に依頼された。日曜日、囚人になる学生の住居までパトカーがやってきて、ほんとうに手錠をかけられ、監獄へと移送される。そこで全裸で身体検査をうけ、囚人服を着せられる。そして、囚人たちは名前でなく番号で呼ばれることになる。人間としての尊厳が奪われ、名前も消し去られるのだ。一方の看守役学生にも匿名性をあたえるため、サングラスの着用が義務づけられる。学生たちは広告で集められているので、お互いに面識はない。

恐ろしいことに、2日目には早くも、囚人には囚人らしさが、看守には看守らしさが身についてしまう。囚人は従順に、看守は強権的になったのだ。監獄の運営には、看守のシフトや食事の与え方など、いくつかのルールが決められているが、細かなことまでは決められていない。ただし、ひとつだけ重要なルールがあった。当然であるが、看守は囚人に暴力はふるってならない、というルールだ。


音量にご注意下さい

もちろんそのルールは守られた。しかし、暴力以外の嫌がらせが始まり、それが、あっという間に虐待といっていいレベルになっていった。点呼の際などに、ばかばかしいと思われるような命令をする。それに従わない、あるいは、うまくできなかった場合には腕立て伏せなどの体罰に処す。さらに、施設のスペースを利用して独房を作り、そこに放り込む。食事を与えない、などのルールを看守たちが自主的に決めて実施していく。

囚人役の学生たちは、あっという間に囚人らしく従順になってしまったが、軽い気持ちで参加したアルバイトなのに過酷すぎるという苦情が出る。そこで、「仮釈放」のためのインタビューが行われた。しかし、アルバイトから離脱する権利は与えられていたにもかかわらず、誰もそれを申し出ない。それどころか、インタビューが終わると、命じられずとも、手錠をかけてもらうように自ら手を差し出すような従順さが身についてしまっていた。

看守役もエスカレート

囚人役が囚人らしくなっただけではない、看守役もどんどんエスカレートしていく。ハンガーストライキをする囚人が現れ、それを改めさせるため、ほかの囚人に過酷な連帯責任を命じ、囚人たちに性的な行為を真似させるようにまでなっていく。

面会に来た家族まで、頼まれもしないのに、きちんと囚人の家族を演じる。心理的に不安定になって4日目にドロップアウトした囚人役学生の代わりに、あらたな囚人として監獄の様子をさぐるためのスパイが送り込まれた。しかし、そのスパイも役割を忘れて、あっという間に囚人たちに同化していく。それどころではない。ジンバルドーさえも実験に内在化されていく。

監獄の様子はモニターされていたので、ジンバルドーは状況のほとんどを把握していた。通常ならば、ドロップアウトするような心理状況を呈する囚人が出現し、ほかの囚人たちのストレスが極限まで高まったのであるから、即刻中止すべきであったと述懐する。しかし、研究の進捗を優先し、そのような行為はとらなかった。心理学の専門家である責任者までが、監獄という状況に飲み込まれてしまったのだ。

結局、実験は6日目に中止されることになった。そのきっかけは、ある程度実験が進んだ時点で初めて見学にきた、ジンバルドーの恋人である女性心理学者だった。あまりにひどい状況に大いなるショックをうけ、即刻実験を中止すべきだと進言する。それがなければ、もっと継続され、大きな問題になっていたかもしれない。

うまく仕組んであったとはいえ、たかが模擬監獄である。囚人役とはいえ、罪など犯してはいないのだから我慢を重ねるような必要はなかった。虐待の首謀者であった看守役の学生は、監獄実験の最中でさえ、その役を離れたらごく普通の若者であった。客観的にはおかしいとしか思えないのだが、監獄というシステムに割り振られ、状況が徐々に悪化し続けていくと、このような信じがたい状態になってしまうのだ。
ジンバルドーは、自戒を込めながらも、一部の腐ったリンゴが周りを腐らせて、全体が悪くなっていくのではない、と力説する。腐ったリンゴを作りうる入れ物があって、その入れ物にある状況がもたらされれば、中にあるどのリンゴだって腐りうる。すなわち、誰であっても、システムと状況次第で悪魔になりうるのだと結論する。

監獄実験に続いて、これに似たような心理実験がいくつか紹介される。すぐにミルグラムの「服従実験」が思い浮かぶかもしれない。しかし、服従実験よりも監獄実験の方がたちが悪い。服従実験では、被験者が命じられた残酷な命令に従っただけだが、監獄実験では、看守役を割り振られた被験者自らが過酷な命令を作り上げていったのだから。

ついで、監獄実験と同じようなことが現実の世界で繰り広げられた例として、イラクのアブグレイブ刑務所で起こった米兵による捕虜虐待事件が紹介される。全裸の囚人が積み重ねられたピラミッドの横で明るくほほえむ女性兵士の写真など、おぞましい出来事の報道を覚えておられる人も多いだろう。

自分がその状況に置かれたら……

この事件は、ごく一部の異常な兵士が行った倒錯した行為であると報道され、多くの人もそう判断しているだろう。しかし、ジンバルドーの解釈は違う。アブグレイブで起きたことは監獄実験と同じである。すなわち、普通の兵士たちが、腐ったリンゴをつくってしまうような入れ物のなかで、望ましくない状況に置かれたためであると考える。そして、そう判断できる論拠を次々とあげていく。

あらすじを聞いただけでは半信半疑かもしれない。私だってそうだった。しかし、この本で細かく紹介されるそれぞれの学生や兵士たちのエピソードを読むと、自分だってそのような状況に置かれたらどうなることやらわからない、と、間違いなく納得させられるはずだ。

どうすれば、腐ったリンゴにならずにすむか、そして、どうすれば、腐ったリンゴを作り出すシステムや状況を改善させることができるかが最後に論じられる。その結論はハンナ・アーレントが考察した結果と同じだ。自分の頭で考えること。囚人たちは、思考が停止したかのように、外部のことが考えられなくなり、監獄、すなわち、自分たちが閉じ込められたシステムばかりにしか注意を払うことができなくなり、深みにはまっていったのだ。

考えてみると、われわれはすべて、国家や職場、家庭、その他いろいろなシステムに属している。慣れすぎていて気づかないが、はたしてシステムにリンゴを腐らせるような潜在的な要素はないだろうか。そしてそこに、何らかの拍子に、腐ったリンゴがうまれうる状況が訪れることはないだろうか。システムから一歩離れて、それぞれのシステムはおかしくないか、状況は大丈夫かを、つねに自分の頭で考えること、そして、おかしければ勇気を持って声を上げて行動することが必要なのだ。もちろん、決してたやすいことではないのであるが。

緊張感在る内容に引き込まれる


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この本、あちこちの本屋さんで平積みにされているが、買うには少し勇気がいるかもしれない。なにしろ分厚くて重い。800ページ超、厚さは普通の本に比して優に2倍はある。私とて、手にして一瞬たじろいだ。これだけ分厚いと持ち歩きもできないし、寝転んで読むこともできないではないかと。しかし杞憂であった。読み終わるまでの3日間、あまりのおもしろさに通勤中も手放すことができず、緊張感あふれる内容は寝転んだまま読むことなど許さなかったのだから。

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格闘技ポーズ本といえば宇野薫と高瀬大樹のモデル本ですが プロレスとか相撲でもポーズイラスト本が出ています 萌え系ですが(汗)





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7月20日 水曜日 晴れ ローリング・サンダー・レビュー


 池袋。9月BABジャパンよりリリース予定の佐々木洋一・北大柔道部コーチの教則DVDより、腹包みと横三角を中井アレンジメントでお届け。この作品、実はパラ池で撮影されています。

 これら柔道技はむしろカチカチの亀を良しとしない(すなわち脇が空きやすい)柔術や格闘技でこそ必須だと思う。これは「亀を取る」すべての技法に言えることだが。とにかく、このDVDは必見ですよ。

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ウルトラQと核 いずれも原子力の危険性についてかけらも認識していない。 『ゴジラ』で核の恐怖を描写した円谷プロの作品なのにね

http://spacecowboys33.blog130.fc2.com/blog-entry-1521.html

ウルトラQと核
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昨年『007と核』で007シリーズに登場する核の話をしたけど、『ウルトラQ』にも核が登場するエピソードがあった。

第14話 『東京氷河期』

YOUTUBEにあったので見てたら、原発がらみの話だった。
南極に住む冷凍怪獣ペギラが、気温が上昇した南極を出て北極に向かう途中で東京を通り、東京が氷河に覆われる。
ペギラが引越しする南極の気温の上昇の原因が「原子炉の爆発」だ。
セリフでさらっと語られるだけで、この時代(1966年)らしく誰も気にしていない。


第18話 『虹の卵』

こっちは、もろ原発が舞台だ。
ウランが好物の地底怪獣パゴスが原発の濃縮ウランを狙って出現する。
ウランを食べたパゴスの吐く光線は、虹のように見える。
それを見た子供達が、願いをかなえてくれる虹の卵を捜しに行くという話。
パゴスに襲われたトラックから落ちた濃縮ウランは金属の卵のように見える。
子供達がこれを見つけて運ぶシーンが記憶に残っている。
今の目で見たら、「良い子はまねをしてはいけません」シーンだ。


いずれも原子力の危険性についてかけらも認識していない。
『ゴジラ』で核の恐怖を描写した円谷プロの作品なのにね。

今後も映画・テレビ・小説・漫画に登場する核について、話をしていきたいと思う。


20110322インディペンデント震災・原発 特集 "レートベース方式は諸悪の根源" "水力 ・火力、既存エネルギーの見直しを"
当ブログは特に時事性の強いものを除いて、1日1記事を基本にしております。
震災発生から1月半余りは日記形式の特別編成をしておりましたが、現在は通常態勢に復しております。
しかしながら、依然震災・原発に関しては看過できない問題が多く、1日1記事では消化できないのが現状です。またそれらの記事は時事性も強く、相互に関連も深いので寝かせておけません。
そこで、日にちを限って震災・原発関連の記事を複数掲載したいと思います。


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【A】ペギラが引越しする南極の気温の上昇の原因が「原子炉の爆発」だ。セリフでさらっと語られるだけで、この時代(1966年)らしく誰も気にしていない。

ペギラは覚えてるけど、原子炉の件は全然覚えてないなあ。
気にしないと言えば、以前にも書いたけど、人形峠が賑わったころ『ウラン饅頭』なるものが売られてたらしい。



【A】子供達がこれを見つけて運ぶシーンが記憶に残っている。今の目で見たら、「良い子はまねをしてはいけません」シーンだ。

恐ろしいね。


【A】いずれも原子力の危険性についてかけらも認識していない。
『ゴジラ』で核の恐怖を描写した円谷プロの作品なのにね。

どこで、原爆と切れて行くんだろう。


AvatarA
私の記憶では第二作『ゴジラの逆襲』には、戦争の影はあったけど、核の影はなかったように思う。
『ゴジラ』って言えば、公民の先生がゴジラの一場面を取り上げていたような気がする。

見返してみたくなった。


それから、『ウルトラQ』の核描写が第11話『バルンガ』にもありました。

あらゆるエネルギーを吸い取ってしまうバルンガを宇宙に誘導する為に国連軍が宇宙空間で核爆弾を爆発させ人工太陽を作る。
地上から見える程度の高さで核爆発を起こしたら、放射性物質が地上に降り注ぐと思うけど、もちろんそんな心配はしていない。
バルンガは宇宙空間に誘い出され、今度は本物の太陽に突っ込んでいく、という結末。

AvatarH2

【A】私の記憶では第二作『ゴジラの逆襲』には、戦争の影はあったけど、核の影はなかったように思う。

一作目の翌年の1955年なんだけどね。

アイゼンハワーの核の平和利用に関する国連演説が1953年12月。
第五福竜丸の被爆が1954年3月で、それを受けて『ゴジラ』が作られ、その年の11月に公開。
一方で中曽根康弘が原子力予算を成立させたのが、福竜丸事件と同じ1954年3月。
人形峠でのウラン発見が1955年。
IAEAの発足が1957年。

この頃は様々なことが起きている。

AvatarA
黒澤明が原水爆禁止を訴えた『生き物の記録』は1955年だ。

そういえば、ゴジラが大ヒットした頃、東宝の社員が黒澤に半分冗談で「黒澤先生がゴジラを撮られたら凄いんじゃないですか?」と言ったところ、以外にも黒澤が乗り気な感じだった。
でもその社員は、後で役員にこっぴどく叱られたそうだ。

「完全主義者の黒澤がゴジラなんか撮ったら東宝はつぶれてしまう」とね。

1954年の『七人の侍』で数ヶ月の撮影完了が2回延長され2年に延びたため、東宝が撮影費用調達に苦しんだという話がある。
映画が大ヒットしたため、結果的に東宝は潤ったんだが、経営陣は冷や汗をかいたんだろう。
その記憶が覚めやらぬうちに『ゴジラ』ときたら、そらビックリだろうな。

でも黒澤の『ゴジラ』は見たかったなあ。
ひょっとすると同じ完全主義者のキューブリックが撮った『2001年宇宙の旅』クラスの大傑作が生まれたかもしれない。

AvatarH2

【A】1954年の『七人の侍』で数ヶ月の撮影完了が2回延長され2年に延びたため、東宝が撮影費用調達に苦しんだという話がある。

コッポラの『地獄の黙示録』に比べればかわいいもんだ。
但し、コッポラは自分でプロデュースもやってたけどね。



【A】でも黒澤の『ゴジラ』は見たかったなあ。ひょっとすると同じ完全主義者のキューブリックが撮った『2001年宇宙の旅』クラスの大傑作が生まれたかもしれない。

怪獣モノに留まらず、日本におけるSF映画の位置付けが変わってたかもしれないね。


ウルトラQ (1966) #18 「虹の卵」 投稿者 SheSaidYeah

このウルトラQの虹の卵
本来ならば下記リンクの記事のようになっていたはずである
放射能の恐ろしさがわかっていない当時のTV…
しかもそれが核の恐怖を描いた元祖ゴジラの制作スタッフの円谷の手による作品だとは…

http://ja.uncyclopedia.info/wiki/%E3%82%A6%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%A9Q

18
21 虹の卵 地底怪獣パゴス 飯島敏宏 有川貞昌 山田正弘 5月1日 濃縮ウランを運搬するトラックが、怪獣に襲われて行方不明になる。一方、ピー子ら子供たちは足の不自由なおばあちゃんの足がよくなるよう、迷信を信じて虹の卵を探しに出かける。ところが、ようやく見つけたその卵は、その濃縮ウランのカプセルであった。ウルトラQによって怪獣は倒されたが、ピー子たちが

被爆して死んでいく

様子に、万城目たちはなすすべもないのであった。

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在日ブラジル人 柔術&MMAドキュメンタリー Ippon - O Golpe Perfeito  カーロストヨタ登場!

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柔道部の部員数は激減。2001年度比で、約半数にまで落ち込んでいる。

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http://bylines.news.yahoo.co.jp/ryouchida/20160104-00053087/


柔道の部員数 半減に 運動部活動 人気の推移

内田良 | 名古屋大学大学院教育発達科学研究科・准教授 2016年1月4日 8時38分配信


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柔道部の部員数は激減。2001年度比で、約半数にまで落ち込んでいる。


■運動部活動の人気ランキング

箱根駅伝、サッカー天皇杯、高校サッカー、高校ラグビー、ラグビー大学選手権…、各種スポーツが、年末年始のお茶の間をにぎわせている。

これら競技種目のなかで、中学生や高校生に人気のある種目は何か。それはどのような変化をたどってきたのか。運動部活動の部員数から実態を探った。

日本中学校体育連盟(中体連)が毎年実施している全国調査の最新版(2015年度)によると、中学校の運動部でもっとも人気の高いのは、ソフトテニス・テニスである[注1]。2位がバスケットボール、3位がサッカーである。
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高校では、全国高等学校体育連盟(高体連)と日本高等学校野球連盟(高野連)の最新の全国調査(2015年度)によると、同じくソフトテニス・テニスが1位、野球(硬式・軟式)が2位、3位がサッカーである[注2]。
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■部員数の増減(人気の変化) 中学柔道は半数減

部員数の全国統計は、中学校が2001年度より、高校が2003年度より公開されている。そこで、統計がとられはじめた当初と比べて、各部活動にどれくらいの部員数の増減があったかを算出した。そこからは、一時点を起点とした場合の、各競技種目の人気の変化が見えてくる[注3]。

中学校の主要な運動部活動においては、2001年度と比べてもっとも部員数を伸ばしているのは、サッカーである。少子化の流れのなかで、ほとんどの部活動が部員数を減らしているにもかかわらず、サッカーは約1.1倍の増加を記録している。

そしてここで気がかりなのは、柔道の部員数が激減していることである。主要部活動のなかで目立って減少幅が大きく、2001年度と比べて、部員数は約半分にまで落ち込んでいる。
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同様の傾向は、高校でも確認できる。2003年度と比べて増加率がもっとも高いのはサッカーで、1.2倍に達している。他方で、柔道の減少率は著しい。部員数は右肩下がりで、4割の減少である。
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■新しい柔道への期待

部員数の減少傾向が続いてきたことの原因分析は各競技団体に任せるとして、最後に前向きな材料を提示して、本稿を終えたい。

柔道部員数の減少は、統計データが確認できる2000年代前半から長期的に続いている。そして、高校に関していうと、柔道ほどではないものの、柔道に次いでラグビーが部員数を大幅に減少させている(中学校ではラグビー部員数が小さいため図には計上していない)。
内田良『教育という病』(光文社新書)より転載内田良『教育という病』(光文社新書)より転載
柔道やラグビーは、中学校・高校で重大事故が多い二大競技として知られている。他方で今日、柔道界やラグビー界ほどに安全対策に力を入れている競技界を、私は知らない(「柔道事故 死亡ゼロが続いていた」)。2020年の東京オリンピック・パラリンピックに向けて柔道界もラグビー界も、頭頚部外傷の予防において、スポーツ界を牽引していくことになるだろう。そこに、部員数改善の手がかりが見えてくるように思う。

注1:ソフトテニスと硬式テニスを分けても、ソフトテニスが370,529名、テニスが45,399名で、ソフトテニスが1位となる。テニスは、水泳に次いで11位となる。

注2:ソフトテニスと硬式テニスを分け、さらに野球を硬式と軟式に分けた場合には、まずソフトテニスが83,835名でバレーボールに次いで8位、テニスが107,965名で陸上に次いで6位、硬式野球が168,898名でサッカーに次いで2位、軟式野球が10,307名で登山に次いで18位となる。

注3:生徒数全体に占める運動部活動の部員数の割合は、中学校では2001~2015年度まで、おおよそ65~67%の間を前後している。高校では2003~2015年度まで、おおよそ37~43%へと増加傾向にある。


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内田良 名古屋大学大学院教育発達科学研究科・准教授


学校リスク(スポーツ事故、組体操事故、転落事故、「体罰」、自殺、2分の1成人式、教員の部活動負担など)の事例やデータを収集し、隠れた実態を明らかにすべく、研究をおこなっています。個別事案や学校現場との接点も多く、また啓発活動として教員研修等の場において直接に情報を提供しています。専門は教育社会学。博士(教育学)。ヤフーオーサーアワード2015受賞。日本教育社会学会理事、日本子ども安全学会理事。著書に『教育という病』(光文社新書)、『柔道事故』(河出書房新社)、『「児童虐待」へのまなざし』(世界思想社、日本教育社会学会奨励賞受賞)。■依頼等のご連絡はこちら:dada(at)dadala.net

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中高年から始めらる敷居の低い格闘技は柔術BJJだけにあらず? 50代からのレスリング

http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/report/16/080500061/081800006/?n_cid=nbpnbo_twbn&rt=nocnt

運動経験ゼロでも51歳でアマレスを始めたワケ

入不二基義・青山学院大学教授インタビュー






上木 貴博上木 貴博




上木 貴博











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2016年8月19日(金)

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 日経ビジネスの8月8・15日号の特集「どうした50代! 君たちはゆでガエルだ」では、元気をなくした50代男性の実像を浮き彫りにした。そんなゆでガエル世代において、「57歳の今が人生で一番強い」と言い切る人がいる。入不二基義・青山学院大学教育人間科学部教授だ。51歳から突然アマチュアレスリングを始めて、6年目の今年ついに公式戦で初勝利を挙げた。激しい鍛錬の末に、従来のメタボ体型は、体脂肪率8%という鋼の肉体に変化した。家族も安定した職もある男が、骨折や靭帯損傷に負けず戦い続ける理由とは――。

――競技を始めたきっかけを教えていただけますか。




入不二基義(いりふじ・もとよし)
1958年生まれ。東京大学大学院博士課程単位取得。専攻は哲学。青山学院大学教育人間科学部教授。主な著書に『あるようにあり、なるようになる 運命論の運命』(講談社)、『時間は実在するか』(講談社現代新書)、『相対主義の極北』(ちくま学芸文庫)、『哲学の誤読』(ちくま新書)など。青山学院大学レスリング部部長、全日本マスターズレスリング連盟理事も務める。(撮影:的野 弘路)

 50歳になった頃、太り気味だったので、自宅付近を走ってみたところ、5分で息が上がるような有様でした。そこで、ジムに週2回ほど通い始めました。半年後には1時間で10kmは走れるようになり、筋力もアップしました。そんな風に「まだまだやれるぞ」と思い始めていた時期に、当時高校2年生だった三男のキックボクシングの試合を妻と一緒に観戦に行ったんです。

 リング上で戦う息子を見ているうちに、血が騒いだというか、心に火が付きました。息子の勝利に歓喜しながらも、「私自身があそこに立ちたい」と強く思っていました。通っていたジムで、格闘技の動きを取り入れたエクササイズ(ボクササイズ)もやっていましたが、それでは物足りなかったのです。実際に相手とコンタクトしてリアルに戦ってみたいと思ったわけです。ただ、50代で始めるのにボクシングのような「打撃系」は危険かなと考え、最も基本的な組み技系の格闘技ということで、レスリングを選びました。子どもの頃から(テレビや会場での)プロレス観戦が趣味だったことも背景にあります。

――これまでにスポーツ経験はなかったのですか?

 ほぼ皆無です。中学・高校・大学を通じて運動部で活動した経験がなく、文芸部や演劇部に所属していた「文化系」の学生でした。ただ短距離走が得意で、中学では陸上部の選手よりも速かったですし、高校では100m走が12秒くらいでした。中学の時には相撲の県大会に駆り出されたこともあります。大相撲関係者が私の体をポンポンとたたきながら、「もっと大きかったら良かったのになぁ」と褒めてくれたことがありました。

 そんなわけで、本格的なスポーツ経験は皆無のままなのに「運動神経は悪くないだろう」という自己認識、もっと言えば「俺はやっていないだけで、やればかなりできるはず」という思い込みがありました。きちんと試していないからこそ、思い込みのまま残り続けたのでしょう。レスリングを「大人の部活」としてやることで、「思い込み」からようやく解放されました。

――レスリング道場の数自体はそもそも多くないし、中高年の初心者を受け入れてくれるところなんてよく見つけましたね。

 確かに調べてみたら、私が通えそうな道場・クラブは都内で3~4つしかありませんでした。五輪でもメダルを期待されるような裾野が広い競技なのに、「大人になってからやる競技」としてはマイナーだということでしょう。ただ、私が入会したクラブのコーチが「生涯スポーツとしてのレスリング」の普及に努めている方だったので、意外にも歓迎されました。運動経験が全くなく50代で始めたのは私だけでしたが。大人になってから始める人は、他の競技(ラグビーや体操など)や格闘技(柔道や総合格闘技など)を経験している場合が多いです。

――最初からこの競技を長く続けようと思っていたのですか?

 いやいや、挑戦してダメだったらすぐやめればいいと思っていました。ここまでハマったのは、初めて練習に参加した時に、いきなりスパーリングをやらせてもらえたことが大きかったです。最初は受け身や「型」の練習で終わってもおかしくないのに、ルールも理解していない私に、マジで取っ組み合うことの面白さを、教えてくれました。レスリングの快楽を最初に刷り込まれたわけです。

 後になって分かってくるのですが、初心者同士がガチガチになってスパーリングをやるのは危険でも、相手をするのが上級者ならば、初心者にスパーリングの面白さを体験させられます。レスリングは相手との密着度が高い格闘技ですから、その「皮膚接触」を通して、上級者が相手の力量を把握しつつ、その範囲内でレスリングをそれなりに成立させたり、その面白みを伝えたりすることが、比較的やりやすいのです。

――それにしても運動経験ゼロの51歳で、よくレスリングの練習をこなせましたね。

 最初の何カ月かは、週1回通うのが精一杯で、疲労回復に中6日が必要でした。上達すること以前に「練習についていけるようになる」が目標になりました。レスリングを始めて6年程経ちますが、30~40代の頃より57歳の今の方がスタミナもありますし、力も強くなっています。今ではレスリングに加えてブラジリアン柔術を含めて週3~4回、格闘技を練習しています。肉体がこの年齢でも進歩するなんて、想像もできませんでした。50代に入ってジム通いを始めた頃は、体重が約70キロ近くまで増えて腹部が醜くなり、体脂肪率も20%を越えていたと思います。それが今では、試合前だと(減量をするので)体重54.9kg、体脂肪率7~8%ですね。

 レスリングの練習に少々慣れてきた3年目に、私の勤務校である青山学院大学のレスリング部の太田浩史監督から、部の練習に誘ってもらいました。青学レスリング部は、学生チャンピオンやオリンピック選手を輩出している名門です。部員は中高生の頃からレスリングで活躍してきたエリートたちで、レスリング部OBでありヘッドコーチを務めている長谷川恒平さんは、全日本選手権5連覇を果たした、ロンドン五輪の日本代表選手です。いわば、アマレスの「プロ集団」なわけです。

 そんなハイレベルな世界に飛び込むのは恐怖でしたし、「レベルが違いすぎて迷惑なのでは」という気持ちもありました。それでもレスリングの魅力には勝てず、週に1~2回お邪魔するようになりました。私がこの大学の教授だからこそ可能になった幸運だったのです。私にとってはもちろんですが、学生にも新鮮な体験だったのではないでしょうか。

 彼らから見れば「素人」同然のおじさんが、大学のトップチームに混じって練習するわけです。ある学生は「見学か体験入部と思っていたら、一緒に同じ練習メニューを続けるのでびっくりしました」と話していました。彼らにとって私は完全に「異物」だったでしょうが、そんな異物に対して好奇心を持つ寛容な若者もいて、アドバイスをくれたり、スパーリングの相手を務めてくれたりします。今では部長職も引き受けていますし、「私がこの大学に来たのは、このためだったのだ!」とまで思っています。





2016年の全日本マスターズレスリング選手権で試合に臨む入不二基義氏

――レスリング経験は研究者、教育者としての本業にどのような影響を与えていますか?

 この6年間のレスリング体験とその考察を一冊の本にまとめているところです(ぷねうま舎から刊行予定)。研究者としての思考実践フィールドは拡大していると思いますが、書き終わってみないと分かりません。

 教員としては「専門領域から離れて新たな分野をゼロから学ぶ」という貴重な体験を積めました。考えてみれば、「教える側」に回って20年以上が経ちます。再び「教わる側」の視点にも立てることに意味があります。普段は講義などで教えている学生たちに、レスリング場では逆に教わりつつ投げ飛ばされたり抑え込まれたりしているわけで、「異分野間の双方向的な交流」が生まれているとも言えます。大学という場に相応しいコミュニケーションではないでしょうか(笑)。

――そこまで楽しいと、「30~40代で始めておけば」もしくは「学生時代にレスリング部に入っておけば」と後悔することはありませんか?

 レスリングを始めた当初、確かにそんな可能性について考えました。私の出身校である東京大学のレスリング部は一部リーグの強豪ではありません。ほぼ全員初心者からのスタートですから、ハードルは低い。運動部の経験はなかったとはいえ、私は大学時代にはジムで筋トレをしていましたし、先ほど話したように自分の運動能力に「思い込み」も持っていました。もともとプロレスファンだったから、始めていてもおかしくなかった。「もっと早くこの競技に出会いたかった」という後悔に近い感情も湧きました。

 しかし、今は少々違った考え方をしています。むしろ、大学時代ではなくて50代になって始めたからこそ、楽しめているのだと考えるようになりました。それは、先ほど述べた「思い込み」に関係しています。大学時代に始めていたら、強豪校の選手たちに同じ若さで出会い、その身体能力の圧倒的な凄さに直面して、思い込みは木っ端微塵に砕かれていたでしょう。

 自分が夢中になれる分野なのに、圧倒的にその才能が欠けていることを思い知らされたら、若いからこそプライドが傷つき、競技を辞めていたかもしれません。しかし、50代の私は強さや能力に関わる劣等という事実も冷静に受け入れられます。何より「楽しい」だけで続けられてしまうのです。「年齢ゆえの諦め」こそが、むしろ楽しむ自由をもたらしてくれます。

――怪我や減量は辛くありませんか?

 この6年間で骨折や靭帯損傷を複数回経験していますが、競技を辞めようと思うことは一度もありませんでした。「復帰できないかもしれない」と思ったのは、相手の技を防ごうとして腕が巻き込まれてしまって、靱帯を損傷したときです 。あらぬ方向に曲がった自分の左肘の映像が、回復後も脳裏から離れませんでした。その怖さからくるのか、もうレスリングはできないかもしれないと悲観的になりました。しかし、時間が経つと恐怖心は消えました。結局、レスリングをする快楽の方が勝ってしまうのですね。

 怪我はしない方がいいのはもちろんですが、それでもいろいろ学べる機会にもなります。どういうときにケガをしやすいのかを知ると、次に怪我をしないための実用知を蓄えられます。また、回復期のリハビリの「マイナスをゼロまで持っていく」と、普段のトレーニングの「ゼロをプラスに持っていく」の同型性は興味深いものがあります。右足首を骨折したときに松葉杖を使用していましたが、松葉杖は一種のトレーニング器具のようでもあり、大胸筋や上腕三頭筋が鍛えられました。

 レスリングは体重別の競技ですから、試合前の減量では、普段の61kgから55kg未満まで、1カ月かけて6kg以上落とします。これはデトックス(解毒)効果があるかなとも思いますし、試合と合わせて「イベント」「祭り」として楽しんでいます。しかし、体を絞りながら試合に向けて集中力を高めていく期間は、思考が哲学に向けにくくなって仕事に支障が出ます。試合参加は年2回くらいが限度かなと思います。

――奥さまは反対されないのですか?

 妻とは小学校1年生からの同級生で、19歳の頃に2人で一緒に住み始めていますから、とても長い付き合いです。小学生の頃の私がやっていた「プロレスごっこ」を大人バージョンで再開したと理解しているのではないでしょうか。レスリングを始めてから指の関節が太くなったために、結婚指輪が入らなくなってしまいました(笑)。

――何歳までレスリングを続けられそうですか?

 当初は「60歳までやれたら」と考えていましたが、どうやらこの目標は達成できそうです(今年11月に58歳)。だから、目標を上方修正しました。うちの大学の定年は68歳なので、そこまでは「現役のレスラー」でいたいですね。レスリングより寝技に制限がないブラジリアン柔術も1年ほど前から始めていますが、柔術の方が高齢になっても続けられそうな気がしています。今年1月、主に30代以上の男女が参加する全日本マスターズレスリング選手権大会のフレッシュマンズのクラス(社会人になって競技を始めた人が対象)で公式戦の初勝利を挙げることができて、銀メダルを獲得しました。次は優勝を狙いたいです。

――日経ビジネス8月8・15日号の特集「どうした50代!君たちはゆでガエルだ」では、入不二教授を含む現在の50代を「ゆでガエル世代」と捉え、多角的に分析しました。

 大学の教員という立場上、「最近の学生と20年前の学生はどう違いますか?」といった質問を受けることがあります。この質問に世代論の問題点が表れている気がします。違いを語ろうとする「私」の視点を棚上げしているからです。学生ではなく「私」が変わったから、「学生が変わった」ように見えているのかもしれないし、学生は変化しているのに、「私」が変わっていないから、「学生は変わっていない」と見えているだけなのかもしれません。語る側の視点やその動きなどを考慮に入れずに、対象の「世代」を固定的に語っても、あらかじめ自分の見たいものだけを見るために、世代論を利用していることにしかならならないでしょう。

 そもそも「世代(generation)」は、「生み出す(generate)」という産出的な言葉に由来しているのに、「世代論」における「世代」は固定化してステレオタイプ化してしまい、何かを生み出しつつある感じがしません。ある年齢や時代が切り取られて、一時的に固定化した名称が与えられたとしても、時の推移の中でその名称を裏切るような方向に変化していったり、別の新たな世代を生み出す動因になったりするからこそ、「ジェネレーション」なのではないでしょうか。

 「ゆでガエル世代」もまた、命名者である編集部の視線を裏切って、温泉に入ってリラックスした後の活力回復状態へと意味を変えるかもしれないです。「ゆでガエル」とは「急激な変化には対応できても、微細な常温変化には気づかずに死に至る」状態ですよね。たとえ変化にうまく対応できたところで、誰もが最後は死に至るのですから、「ゆっくりとそれと気づかずに死んでいく」ことは、それほど悪くないような気もします。

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柔術プリースト246 黒帯世界王者メンデス兄弟の英才教育を受けた次世代最強の天才兄弟 ルオトロ兄弟が日本初上陸! 子供離れした異常な強さで日本列島席巻!

Jiu Jitsu Priest #246

https://jp.rvca.com/t/advocate/ruotolo-twins

Ruotolo Twins

ルオトロ・ツインズ

マウイ島のワイルクで産まれたケイドとタイ・ルオトロは、まだ彼らが生後6ヶ月のころハンティントン・ビーチに移住した。3歳を過ぎた頃に柔術を習い始め、 2週間と経たないうちに最初のトーナメントで優勝。そこから彼らの勢いが止まる事は無かった。メンデス兄弟から新しい技の指導を受けていない時間は、ルオトロ・ツインズはサーフィンやスケートに没頭し、妹のニアとも時間を過ごす。ルオトロ・ツインズの夢は世界タイトルをたくさん取り、世界中を旅しながら柔術の楽しさを教える事。他に例を見ないスポーツに対するパッションと誠実さ、それを持った彼らは確実に正しい方角へ向かっていると言えるだろう。ケイドとタイ、二人は柔術の未来であり、メンデス兄弟、BJペン、そしてマーカス・ブケッチャの “VA Sport(VA スポーツ)”に加わるのもそう遠くは無さそうだ。





Fight&Life (2016年 04 月号)

フィットネススポーツ (2016-02-23)

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優勝賞金五万ドルのアジアでも最も豪華なノーギイベントONEグラップリングチャレンジにて青木真也がツイスターを極めるも反則負けの裁定を喰らう! ミッシェルニコリーニがMMA王者アンジェラリーを破って優勝!







http://btbrasil.livedoor.biz/archives/55701015.html


【レポ】ONEグラップリングチャレンジ


00
8/13(土)、マカオのベネチアンホテル特設会場にてONE主催「ONEグラップリングチャレンジ」が開催された。

この大会は7月下旬に開催が急遽決定したグラップリングの賞金トーナメントで賞金総額は5万ドルというアジアでは最高額の賞金が賭けられたことが大きな話題となった。

急な開催でエントリー開始当初は選手が少なくトーナメントの縮小が懸念されたが最終的には140人余りエントリーがあり募集期間の短さを考えらたまずまずといえるだろう。

日本からは杉江アマゾン大輔、平尾悠人らが参戦し、主催のONEからは青木真也が派遣され、一気に豪華トーナメントに。





また外国人選手では香港在住のホドリゴ・カポラル、ムンジアル3位のガブリエル・ロウロ"パリート"、そしてシンガポールのイヴォルブMMAに移籍したミッシェル・ニコリニらがエントリー。

まさにアジア最強のグラップラーを決めるに相応しい強豪が顔を揃えている。

ここで活躍したのはパリート、ニコリニ、チアゴ・サのチェックマット勢だ。

パリートは2回戦で杉江をトーホールドで極め、決勝戦では青木から反則勝ちしたブルーノ・バルボーサをネックロックで瞬殺しエリートライトオープンを優勝。

エリートヘビーオープンはチアゴ・サが制し、女子はニコリニがライト&ヘビーにWエントリーし、Wゴールド。

今大会のエリートの4カテゴリーをチェックマット勢が独占し、この3人で賞金総額2万ドルを獲得している。

大会の実務を担当した台湾BJJの小笠原誠とウォーレン・ウォンは初開催の賞金トーナメントを見事に取り仕切り、成功に終わった今大会の継続開催を見込んでいる。

今回は準備期間が短かったが、次回大会はもう少し募集開始から大会日時まで時間の猶予があればさらに多くの選手がエントリーしてくるのは間違いないだろう。



01
杉江"アマゾン"大輔(CARPE DIEM HOPE)は初戦を勝ち抜くも2回戦でパリートのトーホールドでタップアウト。
ムンジアル以来の海外大会で結果を残すことができなかった。



02
大会主催のONEから派遣されて出場の青木真也(イヴォルブMMA)は優勝候補筆頭だったがまさかの2回戦敗退に。
シングルバックからツイスターを極めたが、これは首を捻る行為として反則に該当してしまった。



03
ADCCブラジル大会・日本代表の平尾悠人(X-TREME柔術アカデミー)は大健闘の3位決定戦進出。
だがカポラルの肩固めで一本負けし惜しくも表彰台と賞金獲得を逃している。



04
最大の注目だったエリートライトオープンを制したのは"パリート"ことガブリエル・ロウロ。
極めを連発し決勝戦もネックロックで秒殺勝利で優勝し賞金5000ドルを手にした。



06
エリートライトオープン
優 勝 ガブリエル・ロウロ"パリート"(チェックマット)
準優勝 ブルーノ・バルボーザ(チームブッダインターナショナル)
3 位 ホドリゴ・カポラル(エスパダ)



07
エリートヘビーオープン
優 勝 チアゴ・サ(チェックマット)
準優勝 バイキング・ウォン(ジウジツサンズフロンティア)
3 位 クレイグ・ジョーンズ(アブソルートMMA)



08
女子エリートライトオープン
優 勝 ミッシェル・ニコリニ(チェックマット)
準優勝 リウィア・グルチョウスカ(アブソルートMMA)



09
女子エリートヘビーオープン
優 勝 ミッシェル・ニコリニ(チェックマット)

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モハメド・アリ、マニー・パッキャオといったスター選手の試合を手掛けてきた大物プロモーター、ボブ・アラム氏はプロとアマの経験の差を指摘し、対戦によってアマが「冗談じゃないくらいの大けがにつながる」と警鐘を鳴らし、「狂気の沙汰だ」と声を荒らげたという。リオ五輪ではヘッドギア着用が廃止になっており、けがの現実味を帯びる。

http://www.sankei.com/premium/news/160816/prm1608160009-n1.html

プロ解禁したボクシング界に波紋 アマとの実力差に「狂気の沙汰」との声続出 利権がらみのキナ臭い話も…

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プロ解禁、ヘッドギアなし。リオ五輪のボクシングは壮絶な打ち合いが目立った(AP)
プロ解禁、ヘッドギアなし。リオ五輪のボクシングは壮絶な打ち合いが目立った(AP)






 治安の悪さや政治不安など場外乱闘ばかりが注目されてきたリオデジャネイロ五輪だが、競技のメダル争い以外に見どころはある。ボクシングだ。リオ五輪からプロの参加が可能となり、8月7日付のAFP通信(電子版)は、五輪で史上初めてプロボクサーが勝利を収めたと伝えた。さぞやボクシング界一丸となって推進された結果と思いきや、いまだに不満がくすぶっているというのだ。プロとアマチュアの実力差に深刻なけがが懸念され「狂気の沙汰」との批判だけでなく、国際ボクシング協会(AIBA)がボクシング界を牛耳ろうとしているという利権絡みの生臭い話も持ち上がり、まさに泥仕合の様相を呈している。

 AFP通信によると、AIBAは6月1日の臨時総会で賛成88票、反対0票、棄権4票という賛成率95%の絶対的な支持でプロ参戦を決定した。リオ五輪で実施される28競技のうちプロ選手の参加を認めていないのはボクシングだけ。それだけに「五輪にトップ選手を出場させてこそ、本当の戦いが見られる」というAIBAの呉経国会長の主張が受け入れられた形だ。

 ところが、AFP通信は「採決前からボクシング界の各方面の嘲笑を買った」と指摘し、不満がくすぶる実態を紹介している。


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(2/3ページ)【リオ五輪異聞】 .

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プロ解禁、ヘッドギアなし。リオ五輪のボクシングは壮絶な打ち合いが目立った(AP)
プロ解禁、ヘッドギアなし。リオ五輪のボクシングは壮絶な打ち合いが目立った(AP)






 モハメド・アリ、マニー・パッキャオといったスター選手の試合を手掛けてきた大物プロモーター、ボブ・アラム氏はプロとアマの経験の差を指摘し、対戦によってアマが「冗談じゃないくらいの大けがにつながる」と警鐘を鳴らし、「狂気の沙汰だ」と声を荒らげたという。リオ五輪ではヘッドギア着用が廃止になっており、けがの現実味を帯びる。

 あるインターネットサイトには、東京大学の測定として、パンチの威力が格闘技未経験の体重70キロの男性で150キロ前後なのに対し、バンタム級(53.52キロ以下)王者で400キロ前後だと紹介されていた。約2.6倍の荷重差は脅威だ。

 アラム氏はまた、プロ参加容認の決定がリオ五輪本番の2カ月前の6月であることを問題視し「あいつら狂っているんじゃないのか」と辛辣だ。そして、提案の背景に大金を稼ぐプロを招くことによって、そのおこぼれにあずかりたいという考えがあると指摘。「AIBAは競技のすべてを牛耳りたいんだ。プロボクシングが大金を生むことに気づいたのだろう」と毒づいている。五輪が長年、プロの登竜門としての役割を果たしてきており、AIBAは本来のアマ側に立つべきだとも主張している。
大物プロモーターだけでなく、元ヘビー級王者のレノックス・ルイスは「不合理」とし、マイク・タイソンは「五輪のボクシングを金儲けの場に変えるためのものだ」と応じている。

 このプロ側の“反対”の大合唱に、呉経国会長は7月25日、「ボクシング界を乗っ取る計画など話したことは一度もない」と一蹴。「選手が五輪に出場する扉を開いておきたいだけだ」と正当性を強調している。

 ただ、この崇高とも言える理念を語ったのが、中国のインターネット通販大手・アリババ社の創業者、ジャック・マー氏が設立したスポーツ関連事業との共同事業の発足会見だったことが憶測を呼んでいる。アリババ社は中国スーパーリーグの強豪、広州恒大の37%の株を取得するだけなく、国際サッカー連盟(FIFA)のクラブ・ワールドカップのスポンサー契約を締結している。

 中国といえば、共産党が2015年2月、習近平国家主席が主宰する会議で「中国のスポーツ大国の夢」の実現のために「サッカーの振興が不可欠」と強調。14年にはスポーツ市場を25年までに5兆元(約78兆円)規模に拡大する目標を掲げている。最近では中国投資グループがイタリア・サッカー界の名門ACミランの99.93%の株式を取得したと発表され、着実な歩みを実感される。

 呉会長は言葉でボクシング界の支配を否定するが、中国資本との連携という実態が何を物語るのか。

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FC2の格闘技ブログのランキングで何故か1位になっていますね…(汗)

マジか…
こんなアングラブログが…
転載記事ばっかなのに…
今後も柔術を中心に格闘技 武道

あとその他いろいろ面白いネタがあったら紹介しますね…

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柔術プリースト245 ムンジアル前人未到の6回優勝の黒帯世界王者ハファエルメンデス再上陸! 次元の違う凄まじい強さで魅了!

Jiu Jitsu Priest #245

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活躍中の御用医学者の恩師をさかのぼれば、直接または重松逸造を介して731部隊関係者にたどりつく。世の中は広いようで狭い。すべて御用の道は731に通ず、というわけだ。日本の医学界イコール731部隊であり、御用医者のみならず誰をさかのぼっても731部隊に行き着く、という指摘もあるが、これは荒っぽい性急な議論であろう。なぜなら、731関係者が多かった組織ほど重大な社会問題を引き起こしているからである。 予研がそうであり、また731部隊員の受け皿であったミドリ十字(旧日本ブラッドバンク)も 薬害エイズを引き起こした。人命軽視、成果・利益最優先の結果である。 本来ならきちんと裁判を行ない、731部隊の行なった残酷な人体実験の責任を明確にし、 関係者を処罰し、医学界から追放すべきだった。 しかし米国と闇取引をして、実験の成果を渡す代わりに全員が無罪放免になった。米国も共犯である。 731関係者は何一つ罪を問われなかったために、人命を軽視し、人間を当たり前のように実験台に使い、 成果を自分の昇進や金儲けに使うおぞましい伝統が日本の医学界に生き残り、はびこってしまった。
































http://www.asyura2.com/14/genpatu38/msg/205.html

驚愕!御用医学者をさかのぼると、すぐに731部隊に行き着く
http://www.asyura2.com/14/genpatu38/msg/205.html
投稿者 魑魅魍魎男 日時 2014 年 5 月 16 日 09:10:14: FpBksTgsjX9Gw
 

 





御活躍中の御用医学者と731部隊の関係を調べてみた。意外と簡単に結びつくので驚いた。
(以下敬称略)

まずは長崎大学から。

==== 長崎大学医学部(旧長崎医大) ====

山下俊一、高村昇らが活躍(暗躍)する長崎大医学部は元731部隊関係者の巣窟であった。
少なくとも次の4人が関係者だと言われている。

林一郎(病理) 長崎大学名誉教授・日本先天異常学会会長
斎藤幸一郎 (生理) 長崎医科大学教授・金沢医科大学第1生理学教室教授
青木義勇 (細菌) 長崎医科大学教授
福見秀雄 (細菌・防疫) 長崎大学学長・長崎大学教授・ 国立予防衛生研究所(予研)第6代所長

福見秀雄は1980年に長崎大学学長に就任。
同年、長瀧重信が医学部教授に、のちに医学部長になっている。
長瀧の教え子が山下俊一、そのまた教え子が高村昇である。

長崎大医学部は、731部隊直系の研究組織と言ってよい。
そして、そこから御用学者が何人も出ていることは決して偶然ではない。


==== 重松逸造 ====

重松逸造は御用医学者を語る上で極めて重要な人物、キー・パーソンである。

彼は終戦当時、ラバウルで海軍軍医をしており、731部隊で研究していたわけではないようだ。
しかし彼の恩師や同僚は731関係者が非常に多い。とくに長崎大教授たちとは深い交流があった。
福見秀雄とは共著で論文を書いているし、林一郎とも知己であった。
斎藤幸一郎とは金沢大で働いている。
その金沢大(旧金沢医大)も、戸田正三、石川太刀雄丸、二木秀雄などが在籍し、長崎大と並ぶ
731出身者の巣窟であった。

重松は彼らから731部隊の悪魔的な思想・精神をしっかりと受け継いだと考えてよい。

米国が組織した原爆傷害調査委員会(ABCC、Atomic Bomb Casualty Commission)の
日本側初代代表は都築正男だったが、GHQの原爆に関する研究発表禁止に反発し追放処分となり、
その後継者となったのが重松である。(まともな人間がハネられるのは原子力ムラの常である)

ABCCはデータを取るだけで全く治療をしてくれない、と原爆被爆者の激しい非難を浴びた。

そのABCCは1975年に放射線影響研究所(放影研)に改組され、重松は第3代理事長となり、
1981年から16年にも渡り、原爆被害の隠蔽・過小評価に尽力した。
そのあとを継いだのが弟子の長瀧重信で、第4代理事長に就任した。

重松、長瀧とも1960年前後にハーバード大学に留学している。
当時は、特別なコネでもなければ海外渡航はできなかった時代である。
奨学金をもらい留学"させてもらった"のかもしれない。要するに米国(IAEA)のヒモつきだ。
恩義があるから米国の言うなりであり、原爆の被害を過小評価するのは当然のことであろう。
(アメとムチは米国のお家芸であり、安部首相の祖父・岸信介はA級戦犯だったが、
 無罪放免と引き換えに米国の走狗となった)

重松は水俣病、イタイイタイ病、スモン病など多くの公害、薬害事件において、事実を隠蔽・改ざんし、
常に政府・企業側に有利な報告をでっち上げている。

また長瀧らとチェルノブイリ原発事故の調査をし、住民に健康被害はないとのトンデモ報告書をまとめ、
全世界から非難を浴びた。(このときの後援者がIAEAと結託した笹川財団である)
重松はIAEA、ICRP、WHOの委員も務めている。

彼は筋金入りの御用である。困ったことに弟子も多い。
2年前に彼が亡くなったときには、あちこちで歓声が上がったという。むべなるかなである。


==== 広島大学医学部 ====

長崎大と比べて、広島大には731部隊の主だった関係者は在籍していなかったようだ。
しかし放影研、重松逸造との関係は深い。

まずは原子力安全委員会委員の久住静代(放射線影響学)。20ミリシーベルト提案者である。
彼女は重松の教え子であり、放影研、広島大学原爆放射能医科学研究所(原医研)で働いている。

次に神谷研二教授。原医研所長であり、福島県立医科大学副学長に就任した。
この人も重松の弟子であり、長瀧重信とも仕事をしている。

原医研では2006年に放射性ヨウ素131のずさんな取り扱いが内部告発で明らかになり、
文科省による立ち入り調査を受けた。
しかし研究総括責任者の神谷は政治力を駆使、「訓告」だけですんだ。

ほかにも原医研では不祥事が多く、1969年に患者に他人のがん細胞を注射し、体内で生成された抗体を
また元のがん患者に注射するという731顔負けの人体実験が発覚、担当助教授は辞任した。
また2005年、腫瘍外科研究分野の教授が医師派遣に絡む受託収賄容疑で逮捕された。


==== 国立公衆衛生院 ====

東大系の研究所では、国立公衆衛生院、東大医科学研究所(旧伝染病研究所)、
国立感染症研究所(旧国立予防衛生研究所)の3つが731部隊との関わり合いが深い。

まず国立公衆衛生院であるが、関東大震災の復興援助として、ロックフェラー財団から
建物・設備が寄贈されたのがその始まりである。

ここの疫学部長に就任したのが野辺地慶三である。彼は1923年、ハーバード大学に留学、
帰国後数々の業績をあげ「公衆衛生の父」と呼ばれている。
1958年にはABCCの疫学部長に就任している。

この人物も731部隊、そして米国との関わり合いが深い。
戦後、百日咳の研究で、731部隊の最高幹部であった北野政次、安東洪次と協力している。

重松逸造は野辺地の教え子で、1966年に疫学部長に就任している。

国立公衆衛生院は2002年、改組により国立保健医療科学院となり、
現在は、汚染食品からの被ばくは小さいなど安全キャンペーンをやっている。


==== 東大医科学研究所(旧伝染病研究所) ====

上昌広教授、坪倉正治医師の所属する医科学研究所(医科研)は、初代所長があの北里柴三郎で、
由緒ある、エリート医学者のための研究所である。

しかし第7代所長・田宮猛雄は731部隊への人材供給役であった。
宮川米次(第5代伝研所長)、細谷省吾、小島三郎、柳沢謙、金子順一、安東洪次、緒方富雄、浅沼靖
などの研究者が731部隊に関与したと言われる。戦後、何食わぬ顔で東大教授になった人もいる。

戦後、731部隊長・北野政次が伝研に現れたとき、もっとも北野を庇護したのがこの田宮であったと言われる。

戦後、田宮は731部隊で得た成果を利用し、リケッチアによる伝染病、つつが虫病の研究で有名になり、
国立がんセンター初代所長、そして日本医師会会長まで登りつめ、医学界のボスとして君臨した。

水俣病では田宮委員会を組織し、熊本大医学部の有機水銀中毒説をつぶし、被害を拡大させた。

田宮が初代所長になった国立がんセンターだが、ここも問題が多い。

上昌広は、2001年から国立がんセンターで造血器悪性腫瘍の臨床研究をしていた。
国策遂行が最優先され、臨床試験を効率よく行なうために、重篤患者を切り捨て他の病院に回すのが
当たり前だったと語っている。患者の命よりも研究成果が重視されるのだ。

「国立病院に生き続ける陸海軍の亡霊」 (MRIC Vol.198 2008/12/22)
http://mric.tanaka.md/2008/12/22/_vol_198.html

ちなみに、2011年9月に山下俊一は、日本対がん協会(垣添忠生会長)から「朝日がん大賞」を受賞したが、
垣添は元国立がんセンター総長であった。まさにズブズブの関係だ。

フィルムバッジを福島住民に配布することを提言したのもここ。

ここも汚職など不祥事が相次ぎ、2010年に独立行政法人へ移行、国立がん"研究"センターと改称している。

インタビューで、上教授は福島で収集したデータが高く売れると話している。
http://www.asyura2.com/13/genpatu32/msg/595.html

住民の命、健康を守ろうという姿勢は全くうかがえない。彼にとって福島は金ヅルでしかないようだ。
"モルモット"が逃げ出さないよう、後輩の坪倉正治を福島に派遣して安全デマを流布している。

「将来奴ら(福島県民)は、集団訴訟とかするんやろなあ」と酔って話したという話も伝わっている。
しかしまるで他人事、責任感は全く感じられない。
http://blog.goo.ne.jp/mayumilehr/e/aacebb2e3d5f936dce460130bdfd2f30


==== 国立感染症研究所・旧国立予防衛生研究所(予研)====

戦後、米軍命令で予研が設立され、伝染病研究所から約半数が移籍している。
ここもまさしく731部隊の牙城、再就職先であり、柳沢謙(結核研究)、そして前述の福見秀雄など
何人もの731関係者が在籍した。

そして、戦後も米軍と協力して密かに人体実験を続け、犠牲者を出している。
ここにそのまとめがある。福見秀雄の名前が何度も出てくる。
出展は、新井秀雄著「科学者として」(幻冬社)

「わしの本の予定と、『予研』問題のコンジョいる入門講座」 (宮崎学 2000/11/6)
http://www.geocities.co.jp/WallStreet-Bull/8536/yoken.htm

薬害エイズの非加熱製剤を合格させたのも予研である。
また予研は1947年から1975年にかけてABCCに協力をしている。

1989年、住民の反対を押し切って、東京・新宿区戸山の旧陸軍軍医学校跡地に予研の建物を建設工事中、
大量の人骨が見つかった。ここには731部隊の日本における拠点があったため、その関連性が疑われている。
犠牲者の怨霊のしわざだろうか、ぞっとする事件である。

予研は薬害エイズ等であまりにも評判が悪くなったためか、1997年に国立感染症研究所に改称された。
(不祥事が起きると組織名を変えてごまかすのが日本の伝統である)

福島関連では、被ばくとは直接関係ないこともあって、この研究所の御用活動は今のところ目立っていない。
しかし、マイコプラズマ肺炎や風疹など得体の知れない感染症が流行し始めており、今後は要注意である。
これは稼ぎ時とばかりに、製薬会社とグルになって、効果ゼロかつ危険な副作用をもつワクチンをでっち上げ、
強制接種すべしと圧力をかけるかも知れない。

ちなみに、ここの先生方は子宮頸がんワクチンの恐ろしい副作用を「気のせい」と判断している。


==== 放射線医学総合研究所 (放医研) ====

中川恵一准教授が所属する放医研では、宮川正名誉教授が重要人物である。
http://www.u-tokyo.ac.jp/gen03/kouhou/1232/4.html

この訃報には陸軍軍医として戦時医療に従事されたとあるが、実は731部隊レントゲン班であった。
何をしていたかは容易に想像がつく。

戦後、東京大学医学部放射線科教授、埼玉医科大学教授などを歴任している。
放医研の立ち上げに尽力。放医研は原子力総本山のIAEAとも深い協力関係にある。

彼の弟子が、元放医研所長の佐々木康人教授(現・日本アイソトープ協会・常務理事)であり、
ICRP委員も勤めている。その教え子が、われらが中川先生である。

驚くべきことに、彼の恩師をたった2代さかのぼれば731部隊にたどり着くのである。

また中川と同じく、安全だ安全だと繰り返す明石真言は、この研究所の理事である。

ここも法令違反など度重なる不祥事が起きている。そのうち名称が変わるであろう。
いつも内部被曝は無視するから、放射線外部被曝研究所とでも名付けたらよかろう。


以上、簡単にまとめてみたが、みなさんの感想はいかがだろうか。

あまりにも御用医学者たちが731部隊と簡単に結びつくのにびっくりしたのではないだろうか。
正直、私も驚いた。

活躍中の御用医学者の恩師をさかのぼれば、直接または重松逸造を介して731部隊関係者にたどりつく。
世の中は広いようで狭い。すべて御用の道は731に通ず、というわけだ。

日本の医学界イコール731部隊であり、御用医者のみならず誰をさかのぼっても731部隊に行き着く、
という指摘もあるが、これは荒っぽい性急な議論であろう。

なぜなら、731関係者が多かった組織ほど重大な社会問題を引き起こしているからである。
予研がそうであり、また731部隊員の受け皿であったミドリ十字(旧日本ブラッドバンク)も
薬害エイズを引き起こした。人命軽視、成果・利益最優先の結果である。

本来ならきちんと裁判を行ない、731部隊の行なった残酷な人体実験の責任を明確にし、
関係者を処罰し、医学界から追放すべきだった。
しかし米国と闇取引をして、実験の成果を渡す代わりに全員が無罪放免になった。米国も共犯である。

731関係者は何一つ罪を問われなかったために、人命を軽視し、人間を当たり前のように実験台に使い、
成果を自分の昇進や金儲けに使うおぞましい伝統が日本の医学界に生き残り、はびこってしまった。

国家のため医学のためという大義名分の下に、何千人もの捕虜や住民を丸太(マルタ)と称して使い、
血も凍るような凄惨な人体実験を繰り返した731部隊の思想・精神は、脈々と後進に受け継がれているのだ。

そして今、その何百倍、何千倍という規模の人体実験が福島を中心に行なわれているのである。

731の人体実験の背景には、日本人の民族的優越感があり、劣等民族は犠牲になって当然という
差別意識があった。長年そう思っていたが、福島の事故でこれは正しくないことを思い知らされた。
彼らは、自らの利益のためには、たとえ同胞であろうと誰でも容赦なく犠牲にするのだ。

御用医学者たちが鼻血を必死で否定するのも、被ばく被害に気づかれて、"モルモット"が汚染地帯から
逃げ出してしまうと困るからである。

私は、福島その他の汚染地帯にいる人たちに何度でもこう言いたい。

「あなたたちは、あの悪魔のような731部隊の末裔によってモルモットにされているのですよ。
彼らの言うことを信じてはいけません。
犠牲になりたくなければ、一刻も早くお逃げなさい」


(参考資料・リンク)
「悪魔の飽食」(森村誠一著・角川書店)

「731部隊に関与した医師・医学関係者」
http://hirukawamura.web.fc2.com/731/731.htm

「731部隊関係者のその後および厚労省との関係」
http://www5.ocn.ne.jp/~kmatsu/iryou/731butai/kitikunoshokugyou.htm

「731部隊展2014」
http://ameblo.jp/supportvictim731/archive-201404.html

「被曝をめぐる御用学者の系譜」 (ArecoNote3 2011/6/4)
http://arita.com/ar3/?p=4674

「731細菌戦部隊残党と長崎大学の放射線医学者たち」
(真相究明・堀田伸永オフィシャルサイト 2012/1/21)
http://kyumei.me/?p=807

「重松逸造のエリートならざる足跡をたどる」 (堀田伸永 放射能・原子力の本棚 2012/1/26)
http://shohyo.kyumei.me/?p=60

「神谷研二氏率いる広島大学原医研の歴史に見る『明』と『暗』」 
(真相究明・堀田伸永オフィシャルサイト 2011/12/23)
http://kyumei.me/?p=600

「フクシマを植民地支配するナガサキの医学者達 - 731部隊の現代版」 (院長の独り言 2012/8/28)
http://onodekita.sblo.jp/article/57851653.html

「731部隊、広島長崎、チェルノブイリ、福島」 (Save Kids Japan 2013/1/16)
http://savekidsjapan.blogspot.jp/2013/01/japan-victim-and-perpetrator.html

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原発がらみで変死する人が多いのは、なぜ?原発利権の関係と思える事件は、多くあります。

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http://ameblo.jp/64152966/entry-11974328934.html





あさこハウス~関連記事や動画が削除されまくっています~しかし、魚拓を発見!


2016-01-07 08:07:13

テーマ: ブログ

あさこハウス~関連記事や動画が削除されまくっています

~しかし、魚拓を発見!





















命をかけて国・東電と対峙する泉田新潟県知事

~遺書が残っていても自殺ではない!

http://ameblo.jp/64152966/entry-11973414299.html





上の私の記事にリンクしていたものの中に、

偶然、あさこハウスに関するものを発見。





関連記事


関係者の不審な死と、冤罪?逮捕事件

http://www10.atwiki.jp/nuclear_radiation/pages/27.html





【死亡】2006年 大間の市民 大間原発に土地を一人だけ売らず、

原発敷地内に家を建てようとした人
交通事故?で死亡。娘がその遺志を受け継ぐ (通称あさこハウス)
http://www.youtube.com/watch?v=9ouFtiAt0Vs
http://actio.gr.jp/2008/12/09094527.html



動画 ⇒削除されました。

記事 ⇒404! 見当たりません。




色々調べましたが、肝心の重要記事は出て来ません。

しかし、魚拓になんとか残っていました。


大間原発の敷地内に建つ「あさこはうす」

お金では買えない「宝の海」を次世代に

http://actio.gr.jp/2008/12/09094527.html







http://megalodon.jp/2011-0509-1025-20/actio.gr.jp/2008/12/09094527.html




魚拓記事も工作されており転載しにくくしてありました。

⇒禁止タグが含まれている為、保存出来ません。

決して目にする事の出来ない禁止タグが

到るところに巧妙に仕込んであります。

我が国、日本にはゴロツキが一杯いるようです。
保存の意味も兼ねて全文転載しておきます。







---------------------------------------------<保存開始>








12月 9th, 2008 by taketake in アクティビティ




青森県下北半島の端に、「大間マグロ」で有名な小さな町がある。
津軽海峡に面した港のすぐそばには、最近大きな舗装道路が建設された。
道路の海側は、今年5月に着工した大間原発の敷地だ。
道沿いには何キロにも渡ってグリーンのネットを張った鉄パイプの
柵が設置され、「関係者以外立ち入り禁止」の看板が掲げられている。

ところが一箇所だけ穴が空いたように、敷地の中へ砂利道が伸びている。
入口を少し入るとガードマンが常駐する小屋があり、その先の両側は
完全に鉄条網に囲われてしまう。
この小道を15分ほど歩き続けると、目の前に蒼い海が広がった。
そこに「あさこはうす」は建っていた。







<目の前に原発の炉心が現れるのか>

大間原発の建設計画が持ち上がったのは32年前。
当初は多くの住民が建設に反対したが、札束を積み上げられ
年を追う毎に買収に応じていった。
しかし最後の最後まで土地を売らなかったのが熊谷あさ子さん。
あさ子さんが守り抜いた1万平米余りの土地は、130万平米もの
巨大な原発敷地のほぼ真中に位置し、
長らく建設計画を阻み続けてきた。


2004年秋、あさ子さんはその土地にログハウスを建て、
住民票を移した。畑を耕し、子どもや孫たちとバーベキューを
楽しみながら、大間の豊かな自然の素晴らしさを訴え続けた。
しかし2年前、不慮の事故で突然亡くなった。

「私たち4人の兄妹は、母の遺志を引き継ごうと誓ったんです。
10億円の買収を持ちかけていた電源開発は、遺産相続を巡って
私たちが対立すると期待していたみたいですが、当てが外れましたね」

そう話をしてくれたのは、娘の小笠原厚子さん。
結婚して北海道函館市に住んでいたが、今は月に20日ほど
大間の実家で暮らすようになった。
母の想い出が詰まったログハウスを「あさこはうす」と命名し、
自転車で畑仕事に通っている。
太陽光発電パネルや風力発電設備を設置し、
ライフラインがなくても将来移り住めるように整備を進めている。

ロープが張られた「あさこはうす」の敷地境界から海側を指差す厚子さん。
「あの木が生えている小山の辺りが当初計画された原発炉心位置です。
母が最後まで土地を売らなかったので、結局電源開発は炉心を
200メートルほど移動しました」











移動したとは言え、わずか数百メートル。
大間原発は、炉心のすぐそばに未買収用地を抱えたまま着工されたのだ。
このまま建設が進めば、「あさこはうす」の目と鼻の先に
炉心が出現する前代未聞の事態。
通常原発の周囲は「放射線管理区域」とされ、
何重ものフェンスで一般人が被曝しないよう立ち入りが制限される。
しかしここでは、「あさこはうす」の存在は完全に無視されようとしている。

今年4月23日、国から設置許可を受けた電源開発の中垣喜彦社長は、
「法律上のルールからすると、敷地の内側にある民有地は建設、
運用上の支障はないと考えている」「地主の方の考え方次第」と語った。
買収の目処が立たないまま一方的に建設計画を進めてきた
電源開発の責任には何一つ触れず、安全意識、人権意識の
かけらも感じられない発言だ。

しかも大間原発は世界初のフルMOX原発となる予定。
その危険性ゆえに未だどの国も取り組んでいないフルMOXの
実験が、通常の原発すら運転したことのない電力会社の手に
委ねられようとしている。


<海と土地があれば生きていける>

既に工事は始まり、フェンスの向こうでは大型ダンプが
ひっきりなしに土砂を運んでいる。
しかし「あさこはうす」の周りには畑が広がり、
豊かな自然が残されている。

小奇麗なログハウスの中には、あさ子さんの写真が載った
カレンダーが飾ってある。
「自然を大事にして、この海を守っていけば、
将来どんなことがあっても生活できるべ。大金なんかいらない」
あさ子さんがいつも口にしていた言葉も記されている。








「母は先祖代々続くまぐろ漁師の家に育ち、
この海の素晴らしさと大切さを誰よりも良く知っていました。
土と海から命をもらって育った母は、
本能的に原発に危機感を持っていたのです。
だから周りの人たちがみんな買収され、
たった一人になっても原発に反対し続けたのです」

「本当に辛くて寂しい思いもしたでしょう。
執拗な買収工作や様々な嫌がらせを受け、
最後は村八分にされました。
でも、命を何よりも大切にする女だからこそ、
母は最後まで頑張れたと思います」
そう語る厚子さんは、あさ子さんの遺志を引き継いで
原発建設を何とか止めたいと考えている。

6月19日、大間原発の原子炉設置許可処分に対する
「異議申立書」が経済産業省原子力安全・保安院原子力
安全審査課に提出された。
全国から集まった申立人4541名のうち、2154名は函館市民だ。
中心となった「大間原発訴訟の会」では、
工事中止を求める民事訴訟の準備も進めている。

函館は大間からわずか18キロ。
原発が完成すれば、津軽海峡の対岸に
原子炉建屋が見えるようになる。
万一事故が起きれば、人口約28万の函館市民は真っ先に被害を受ける。
函館市議会も2007年7月、
『大間原子力発電所の建設について慎重な対応を求める意見書』
を採択している。

地元大間では孤立している厚子さんだが、
函館や全国で脱原発に取り組む様々な人々に支えられている。
「一人でも多くの人に『あさこはうす』を訪れてもらいたい。
ここで多くの人とキャンプやイベントをすることは、
母の夢でもありました」。

大間原発の建設を許可した国への「異議申立書」
その冒頭に綴られた厚子さんの想いは、母の遺志に守られながら
「あさこはうす」で育まれていくだろう。

「土地から穫れる野菜と海から捕れる海産物で、
私たちは生きてゆけます。その豊な海と土地を
子や孫に残したいというのが母の切なる希望でした」
「大間の海と土地をきれいなまま子や孫の世代に残すために、
大間原発に反対します」



<保存終わり>
---------------------------------------------



もみじ

原発がらみで変死する人が多いのは、なぜ?

http://oshiete.goo.ne.jp/qa/8490207.html



原発利権の関係と思える事件は、多くあります。

最近では、ガスタービンによる東京都独自の発電を計画していた

猪瀬元知事が辞任に追いやられることもありました。




2011/6/4 読売新聞広告局 宮地正弘

(国会議事堂前の4車線道路で倒れていた) 記者会見で

東電を激しく追求し、 司会から発言を止められた


2011/7/1 都議 樺山卓司(自殺扱いで変死)

6/30までブログで放射線量測定結果を発表


2011/6/9 城南信金・安田常務 急逝(死因不明)

HP上で脱原発を宣言していた


2012/1/3 三重県南伊勢町古和浦町議上村康広(猟銃の暴発で死亡)

中部電力が計画した芦浜原発に反対し、93年の住民投票条例の

制定に尽力した。

福島第1原発事故を受け、最近も各地で反原発の講演などを行っていた。




2012/1/26 千葉科学大危機管理学部小川信行教授

(神戸の路上で病死)地震工学が専門。日本原子力学会所属


*亡くなってはいないが、不当逮捕や更迭人事にあった人物です。


2012/2/19「週刊東洋経済」編集長 痴漢容疑逮捕

「東京電力偽りの延命」など特集し、東電に批判的雑誌




2011/7/1 「ネイビー通信」の自称記者 車上荒らしで逮捕

場違いな印象があったが、東電の体質批判を会見席上で批判。




2011/3/12 原子力保安院 中村審議官

3/12の会見で「炉心溶融の可能性が高い」と発言した直後、

保安院は会見担当を交代。


*3.11以前の原発関係者の不審死(一部)


2011.2/14頃 もんじゅ燃料環境課の男性課長57歳

敦賀市内の山中で自殺か装置落下事故の復旧作業を担当




2010.4/13 中国電力緊急対策本部・電源事業本部の男性部長

飛び降り自殺、島根原発1、2号機で発覚した点検漏れ問題で、

中国電力の緊急対策本部で原因調査に当たっていた




2006年 大間の市民 大間原発に土地を一人だけ売らず、

原発敷地内に家を建てようとした人
交通事故?で死亡。娘がその遺志を受け継ぐ (通称あさこハウス)




2002.10/25石井紘基議員 暴漢に襲われ死亡原発利権を追及していた


1997/3/19 東電OL殺人事件父が東電社員で、娘が東電に入社

父は、原発の危険性を指摘したため 、

降格させれら52歳で癌(?)で死亡。

地熱発電を提唱していた娘は、売春婦に仕立てられ殺害される。




1996/1/13 もんじゅ総務部次長 西村成生

宿泊先ホテルから飛び降り自殺

動燃もんじゅ事故ビデオ隠し内部調査員




1989/2/28 福島県田村郡都路村の青年会に所属するSさん

女性教員トイレの便槽で怪死




他にも佐藤栄佐久前福島県知事が建設会社の賄賂で起訴されるも

無罪になった事件があります。
佐藤知事は、東電の事故隠し問題が発覚したときに、

再稼働に反対していた知事です。



本当に深刻なのは、原発ジプシーと呼ばれる社会的弱者の作業員たち

の低線量被ばくによる後遺症と死亡が今も語れることがないことも

恐ろしいです。

これらの事件は、原発推進派の仕業でしょうか?

http://www.asyura2.com/15/genpatu44/msg/665.html

「あさこはうす」の熊谷あさ子さんは、40年間津軽で発生例のないツツガムシ病で急死した
http://www.asyura2.com/15/genpatu44/msg/665.html
投稿者 魑魅魍魎男 日時 2016 年 1 月 09 日 06:38:08: FpBksTgsjX9Gw 6bOWo@mx6bKSag
 

 



熊谷あさ子さんの「あさこはうす」が一部で話題になっているようだが、この人の死も非常に怪しい。

大間原発の敷地の中に土地を持っていた熊谷あさ子さんは、いくら札束を積み上げられても
ガンとして土地を売却せず、そこにログハウスを建て「あさこはうす」と命名し、引っ越し準備中に
急死した。2006年のことである。

「あさこはうすレポート」 (建設を通じて考える環境とエネルギー)
http://kenchiku20.exblog.jp/19179467/

「2006年 熊谷あさ子 ツツガムシ病で急死 享年68歳
実際に「あさこはうす」への引っ越しの準備中だった。
ツツガムシ病はダニの幼虫から感染する風土病だがこの40年間津軽で発生例がなかった。
また適切な対処で早期回復する。厚子によると近所の医院で風邪と誤診され
解熱剤を処方されたことが原因となっている。」

ツツガムシ病と言えば、すぐ思い出すのがツツガムシ病の世界的権威であった田宮猛雄である。
この人は田宮委員会を組織して水俣病の真相究明を妨害し、被害を拡大させた御用医学者であるが、
731部隊のリクルーターでもあり、部下を何人も同部隊に送り込んでいた。

その731部隊で、笠原四郎らがマルタ(中国人捕虜)を使ってツツガムシ病の研究をしていた。

また戦後1950年代に起きた新潟大学におけるツツガムシ病原菌の人体接種事件でも、
米国と田宮の関与が指摘されている。

40年間津軽で発生例のないツツガムシ病で急死することは非常に不自然であり、
あさ子さんは殺された可能性が高い。

おそらく731部隊の末裔が関与したのではないか?

原子力ムラにとって邪魔な人間が、こう都合よく急死するのは偶然ではありえない。

ヤマトシジミの研究者・野原千代が殺されたのではないかと私が疑うのも、
こういった過去の不審死がいくつもあるからである。

「あさこはうす」は、娘の小笠原厚子さんが引き継いでいるそうだ。
殺されないよう、どうか十分気をつけていただきたい。

郵便配達人が来ないと通り道を閉鎖されてしまうので、ぜひ手紙を以下の住所へ
送ってほしいとのことである。

〒039 4602 青森県下北郡大間町字小奥戸396 「あさこはうす」


(関連情報)

「あさこハウス~関連記事や動画が削除されまくっています~しかし、魚拓を発見!wantonのブログ」
(阿修羅・お天道様はお見通し 2016/1/8)
http://www.asyura2.com/15/genpatu44/msg/657.html

「推進一色に変化の兆し 函館市の原発反対訴訟に揺れる大間(東京新聞:こちら特報部)」
(阿修羅・赤かぶ 2014/5/1)
http://www.asyura2.com/14/genpatu37/msg/724.html

「〔フクシマ・NEWS〕 大間原発 たった一人の抵抗 小笠原厚子さんの闘い 
全世界に報道(机の上の空 大沼安史の個人新聞)」 (阿修羅・gataro 2011/7/16)
http://www.asyura2.com/11/genpatu14/msg/419.html

「驚愕!御用医学者をさかのぼると、すぐに731部隊に行き着く」
(拙稿 2014/5/16)
http://www.asyura2.com/14/genpatu38/msg/205.html

「新潟大学におけるツツガムシ病原菌の人体接種問題」 (ウィキペディア)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E6%BD%9F%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%91%E3%82%8B%E3%83%84%E3%83%84%E3%82%AC%E3%83%A0%E3%82%B7%E7%97%85%E5%8E%9F%E8%8F%8C%E3%81%AE%E4%BA%BA%E4%BD%93%E6%8E%A5%E7%A8%AE%E5%95%8F%E9%A1%8C

「関係者の不審な死と、冤罪?逮捕事件」 (原発と放射能@初心者専用)
http://www10.atwiki.jp/nuclear_radiation/pages/27.html

「ヤマトシジミの研究者・野原千代さんは殺されたのではないか? 」 (拙稿 2015/10/31)
http://www.asyura2.com/15/genpatu44/msg/238.html

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今年のリオオリンピックでは、男子ボクシングの試合でヘッドギアが廃止されている。頭を守るはずのヘッドギアは、実は脳しんとうを起こしやすくすることがわかってきたのだ。

http://wired.jp/2016/08/16/olympic-boxers-headgear/


ボクサーたちが「ヘッドギア」を着けなくなった理由

今年のリオオリンピックでは、男子ボクシングの試合でヘッドギアが廃止されている。頭を守るはずのヘッドギアは、実は脳しんとうを起こしやすくすることがわかってきたのだ。

TEXT BY SARAH ZHANG

WIRED (US)

Boxing - Men's Fly (52kg) Round of 16 Bout 214

リオオリンピック 男子フライ52kg級。コロンビアのセイベール・アヴィア(左)とメキシコのエリアス・エミグディオ(右)。8月15日撮影。PHOTO: REUTERS/AFLO

今年のオリンピックのボクシングには何かが欠けている。お気づきになっただろうか? 男性ボクサーたちの顔が見えやすくなったのだ。つまり彼らが、オリンピックの舞台であざけたり、しかめ面をしたり、微笑んだりしているのが。今年のオリンピックでは、1984年以来初めてボクシングのヘッドギアが廃止され、よりプロボクシングのように見えるようになった。

国際ボクシング協会(AIBA)によれば、これは安全性の観点から決まったことだという。AIBAの調査によれば、ボクサーたちがヘッドギアを着用しているときのほうが、脳しんとうなどの頭部の負傷を理由にレフリーが試合を中断する頻度が高いのだという。意外にも思われるかもしれないが、ヘッドギアを廃止することでボクサーたちの安全性は増したのだ(とりわけ脳しんとうを起こしにくくなった)。

「このルール変更は、多くの人を驚かせたでしょう。もっと多くの研究がされなければなりません」と、南カリフォルニア大学のバイオメカニクスの研究者で、アメリカで使われるボクシング装具の評価にもかかわったシンシア・バーは言う。実際、女性のボクシング選手は(ヘッドギアがないほうが安全だという)データの不足により、いまだにヘッドギアを着けている。

なぜヘッドギアは役に立たないのか?

スポンジのパッドは、脳しんとうを起こしたりノックアウトをさせるほどのパンチを防ぐことはできない、ということはほとんどの人が認めている。パンチが強ければ、スポンジがエネルギーを吸収する能力を超えてしまうのだ。「そうするとヘッドギアの効果が減り、役に立たなくなってしまいます」と、オタワ大学で頭部の負傷を研究しているブレイン・ホシザキは言う。

たとえヘッドギアをしていても、ボクサーはあごへのパンチには弱い。あごへのダメージは頭を素早く揺さぶり、脳しんとうの原因になりやすい。「ボクサーは、ノックアウトを取るには相手の頭を回転させる必要があると知っています」。南カリフォルニア大学のバーは言う。「ジャブは(ノックアウトのためには)あまり効かないのです」。脳は液体の中にあり、頭部が素早く揺さぶられれば脳も揺さぶられ、組織が伸縮する。これが脳しんとうを引き起こすのだ。

しかし、なぜヘッドギアの装着が脳しんとうを起こしやすくなるのか? AIBAは、いくつかの理由を推測している。ひとつはヘッドギアで視界が狭まること。これによってボクサーはパンチを避けにくくなる。あるいは、ヘッドギアによって「守られている」という感覚が過剰に生まれ、ボクサーたちはよりリスクを犯しやすくなるのかもしれない。さらに、ヘッドギアによってボクサーの頭をより大きなターゲットにしてしまうのだ。

China's Zou Shiming fights Thailand's Kaeo Pongprayoon during their Men's Light Fly (49kg) gold medal boxing match at the London Olympics

2012年ロンドンオリンピック 男子ライトフライ級決勝。中国の鄒市明(左)とタイのケオ・ポンプラヨーン(右)。2012年8月11日撮影。PHOTO: REUTERS/AFLO

見えないダメージ

しかし、もうひとつ考えるべきことがある。脳しんとうは、ボクサーが受ける唯一の頭部の負傷ではないということだ。

「頭部への繰り返しの衝撃が引き起こす長期間の影響は、(脳しんとうを起こすほど強くはない)数多くのブローによるものかもしれません」と、クリーヴランドクリニックの神経学者チャールズ・バーニックは言う。バーニックは、2011年以来プロボクサーと総合格闘技のファイターたちを調査し、脳しんとうの報告をしなかった選手の脳にも、MRIスキャンで見える脳の損傷があったことを発見した。

これらの脳しんとうに及ばないブローは、すぐに明白な症状を引き起こすことはないものの、時間を経て慢性外傷性脳症(CTE)を発生させることがある。「脳しんとうが起これば、見て診断することができます」とホシザキは語る。「難しいのは、症状が見えたり、感じたりしないときです。怖いのはこの部分です」

ヘッドギアは、これらのブローの影響をいくらかは和らげるかもしれない。しかし、これは研究するのが難しい。弱いブローが、実際にどれほどのダメージを与えているのかを測定するのは難しいからだ。人それぞれの頭の構造や首の筋肉組織は違うので、同じパンチを受けても、人によって損傷の有無は変わるだろう。

プロボクサーのブランド

AIBAの最後の「A」はその名前に「アマチュア」があったときの名残だが、彼らは近年、もっとプロボクシングの要素を取り入れていきたいと考えている[AIBAはもともと、国際アマチュアボクシング協会(Association Internationale de Boxe Amateur)として始まっている。2006年、名称から「アマチュア」を外し「国際ボクシング協会」に改めたが、略称はいまでもAIBAを使っている]。協会はまた、今年のオリンピックに向けてほかにも変更を行った。得点システムをプロボクシングのものと一緒にし、試合にプロも参加する資格を与えたのだ(リオで出場するプロ選手は3名のみ)。

ヘッドギアの科学についてはまだまだわかっていないこともあるが、プロにはヘッドギアを使わない、しっかりとした理由がある。「彼らは自分たちのブランドを売り込もうとしているのです」とバーは言う。「顔こそが彼らのブランドなのです」

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田中芳樹が描く独裁者

銀英伝02032
銀英伝02033
銀英伝02034

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在日ブラジル人柔術ドキュメンタリーシリーズ Ippon - O Golpe Perfeito に日本国内最強の柔術家サトシ マルキーニョス兄弟が登場!

Ippon - O Golpe Perfeito


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麻婆豆腐 日本と中国の麻婆豆腐の違いとは何か



http://hayashimasaki.net/mapo/

麻婆豆腐徹底研究








 日本で一番人気のある中華料理はなにかといわれれば、きっとこの麻婆豆腐ということになるだろう。そこで、ここでは、その由来から作り方まで動画も交えて、この麻婆豆腐をすみずみまで徹底研究する、という企画を立ててみた。


 麻婆豆腐の由来
 いわずと知れた四川料理である。今から150年ほど前のこと、四川省の首都、成都に、陳さんという店主の出す小さな料理店があった。その陳さんのおかみさんが作る豆腐料理がお店で評判で、客にたいそう喜ばれたそうだ。おかみさんの顔には軽いあばたがあって、みなに陳麻婆(あばたのおばさん)といわれていたので、それで、この料理は、陳麻婆の作る豆腐料理で陳麻婆豆腐(チェン・マ・ポ・ドゥ・フゥ)という名前で呼ばれるようになった、という話は今ではけっこう有名である。
  文化大革命の時には、実質本位の名前に変えろ、とのことから麻辣豆腐(マ・ラ・ドゥ・フゥ)という名前になったそうである。ここでいう「麻」は山椒のしびれる味で、「辣」はトウガラシの辛い味のことである。このふたつの特徴を持った豆腐料理なので麻辣豆腐というわけだ。もちろん、時代が過ぎて、これはまた元の麻婆豆腐に戻された。



 四川省成都の陳麻婆豆腐






四川省成都の元祖陳麻婆豆腐で食べた麻婆豆腐


 元祖「陳麻婆豆腐」の本店は、今では成都市内にあって、いわば麻婆豆腐のメッカといったところだろう。四川省に住んでいる人の数年前のブログによれば、「あ、あの店、この前燃えたよ」と軽く書いていたが、詳しくは不明である(笑) 仮に本店が燃えても、麻婆豆腐は代表的な四川料理として、中国のどこの川菜(四川料理の意)のお店でもメニューに載っているし、どこへ行ってもたいがい、日本のようにアレンジされていない味のものが食べられる。
  5年ほど前に、実際に成都へ行き、この陳麻婆豆腐へ行ったことがある。他の料理も頼みはしたが、やはり本場の陳麻婆豆腐を注文した。写真はそのときのものである。見ての通り、タレがかなり黒っぽく、油の量が多く、山椒を挽いた黒い粉がかけてある。食べてみると、豆腐は柔らかく、挽肉は香ばしく、辛く、熱く、旨い。何よりも山椒粉が舌にびりびりとしびれる。四川料理の山椒は舌にしびれると話には聞いていたが、このとき初めて経験した。たしかにしびれるとしか表現のしようがない感覚だった。とにかく、四川料理は、いわゆる昔の日本料理と対極にある味で、ダメな人はけっこうダメかもしれない。それにしても、さいきん、この本場の陳麻婆豆腐が日本でも受け入れられつつあるとは、日本人の適応力もたいしたものだ(笑)


 陳麻婆豆腐の作り方を徹底解説
 さて、では、ここでは、日本風にアレンジしたいわゆるマーボードーフではなく、本場の味に近いものを取り上げて、作り方を紹介してみよう。ちまたで紹介されているレシピのノリではなく、普通のレシピにはなかなか出てこない重要なことや、ささいなことまで徹底的に解説してみることにしよう。要所要所に中華料理で重要なポイントも詳しく解説してみた。

材料と調味料





木綿豆腐 1丁
豚挽肉 100g
わけぎ 3本

豆板醤 大さじ1
豆豉 大さじ1
粒山椒 大さじ1/2
ショウユ 大さじ2
酒 大さじ1
コショウ 少々
鶏がらスープの素 小さじ1/2
熱湯 200cc
水溶き片栗粉 大さじ2


豆腐


豆腐は絹でもかまわないが、崩れやすく扱いは難しい。しっかりと煮込むことによって木綿を使っても出来上がりはかなりやわらかい感じになるので、木綿でよいと思う。なれてきたら絹で作ってみるのもいい。

豚挽肉 


もともとの陳麻婆豆腐は牛肉で作ったそうである。今でも中国では、牛肉か豚肉を選んで作ってくれるところもあるそうだ。ここではセオリーどおり豚肉を使うけれど、たまには牛肉で作ってみるのもいいと思う。挽肉の分量は、豆腐一丁について100gの見当とする。

わけぎ


白ネギで作るのが一般的だが、わけぎのぶつ切りを使うと歯ざわりがいい感じなのでわけぎを使ってみた。実は、本場の麻婆豆腐ではネギの代わりに、青蒜(チン・ソワン)というものをぶつ切りにして使う。青蒜 はニンニクをネギ状に育てたもので、ルックスはわけぎに似ている。ニンニクとネギをあわせたみたいな香りがあり、歯ざわりもよく、これで麻婆豆腐を作ると確かに旨い。ただ、日本ではあまり作っておらず手に入らないのでネギを使うのである。ここでわけぎを使ったのは、ルックスが青蒜に似ている、という理由もある。

豆板醤



 ここでは日本製の一般的なものを使っている。ちなみに、オリジナルの陳麻婆豆腐の製法は後ほど紹介するが、そこでは豆板醤は使っておらず、トウガラシの粉で辛みを出している。逆に、ここでは豆板醤だけで辛みを出している。
  豆板醤はそら豆を原料にした四川料理の代表的なミソであるが、豆板醤(正式には豆瓣醤=ドウ・バン・ジャン)という名前は総称で、いくつも種類があり、中にはトウガラシが入らない辛くないものもある。辛いものは「豆板辣醤」として区別する。
  日本の豆板醤は、四川のものとわりと風味が違う。本場で有名なのは卑県(ピー・シェン)豆板醤で、さいきんは日本でも中華材料屋で手に入るので使ってみるのもいいかもしれない。ただ、卑県豆板醤はわりと豆豉に似た感じがあって、この後に紹介する豆豉とかぶる感じがするので、麻婆豆腐は日本の豆板醤で作るのも悪くないと思う。

豆豉(ドゥ・チ)

 豆豉は中国の独特な調味料で、大豆を豆のまま黒く発酵させた一種のミソである。日本でいうと浜納豆や大徳寺納豆に相当するそうだが、今の世の中では浜納豆や大徳寺納豆の方が探すのに苦労する。豆豉は、今では大きめのスーパーにはけっこう置いてあったりする。
  中国では煮ものや蒸しもの、炒めものなどによく使い、ちょっと癖のある風味だが、なれると病みつきになる感じである。

花椒(ホァ・ジャオ)


花椒は、山椒のことである。出来上がりにふりかける粉山椒は、やはり粒山椒をミルで挽いてかけるのが香りがよくていい。四川の山椒は日本のものと違って香りが強く、なにより、舌をしびれさせる作用がとても強い。四川の人は、このしびれる感じが大好きらしく、四川の料理にはかなり大量に使われている。このしびれる感じ(味ではない)が「麻」である。


作り方

1) 豆腐を切る


横に包丁を入れたあと、1.5cm角ぐらいに切り離す

2) 豆腐の下ごしらえ

本番の鍋に入る前に、この豆腐をどう処理するかにはいろいろある。ざっと考えて
・湯につけて暖める
・沸騰した湯でしばらく湯通しする
・そのまま使う
の3種だと思う。湯につけるのは芯まで暖めるのが目的で、あとでタレをからめてあっさり仕上げるときに使う。いわば豆腐のあんかけのような料理にしたい場合、煮込まずに豆腐の芯まで熱くするために暖めるのである。2番目の湯通しは、主にあとで調理するときに豆腐が崩れにくくするために行う。ただ、陳建民の中国料理技術入門にもあったが、あまり豆腐が固い角ばった仕上がりになると、麻婆豆腐の特徴のひとつの「柔らかい」に反することになるので、火加減と扱い方を工夫して調理した方がいい、とある。
  というわけで、ここでは「そのまま使う」方法とする。それに手間が省けて好都合でもある。

3) わけぎを切る


白いところを縦割りにしたのち、1.5cmぐらいのぶつ切りにする。白ネギを使うときは荒みじん切りにする。このあと、豆腐を3,4分煮込むので、そのときにやると効率がいい。

4) 豆豉をみじん切りにする


豆豉にもいろいろな品種があるようだが、表面が乾いた感じのものだと、表面に砂やほこりがついていることがあるので、軽くもみ荒いして水気を切ってから使う。写真のように荒みじん切りに刻んでおく。

5) 鍋をから焼きする


鍋の焦げ付きをふせぐために、まず中華鍋をから焼きする




中華のコツ その1

鍋の空焼き

 鉄製の中華鍋を使うとき、焦げ付きをふせぐために空焼きして油をなじませる、とは、どこの本にも書いてある中華の基本だが、これにはポイントがある。「空焼きしたのに材料がベタッと付いちゃった~」という人も多いのではないか。実は、この空焼きであるが、家庭の常識をはるかに超えて徹底的に空焼きするのである。家のふつうのガスレンジだと、2,3分は火にかけっぱなしである。目安は、写真を注意深く見ると分かるように、前回の油分がすべて蒸発して、つやがなくなって、鉄肌が青みをおびてくるまで熱する。ここまでやらないと、油をなじませても焦げ付きはふせげない。特に、油通しをしたときに、どうしても焦げ付いてしまう、という人がいたら、ほぼ間違いなくこれが原因である。
 ちなみに、プロの中華厨房は、家庭の4,5倍の火力があるので、ちょっと火にかけておけばこの状態になるのである。


6) 油をなじませる


杓子一杯(200cc)の冷たい油を入れて、鍋肌になじませる。ご覧の通り、徹底的に空焼きした鍋肌に油を入れるとすぐに煙が出る状態である。

7) 油を戻す


軽くなじませたら油を、油入れに戻す。これですぐに調理できるが、特に焦げ付いてはまずいような場合、さらにこれを火にかけて、もう一度繰り返す場合もある。白い材料を白いまま調理したいときなど、そうすることもある。

8) 油を入れる


あらためて、75ccていどの油を入れる。杓子に半分弱ていどの量で、大匙にして5杯になる。




中華のコツ その2

大量の油を入れる

 四川料理の特徴のひとつは油を大量に使うことである。ここでは75ccとしたが、実際の四川料理ではたぶんトータルで100ccを超えると思う。ヘルシーを考えて油はちょっと、という場合は減らすわけだが、やはり残念ながら出来上がりの風味は本場のそれとは離れてゆく。特に、この麻婆豆腐では、この油の量が大切なポイントになるので、ぜひこの量でやってみるといい。いつもとウソのように味が変わるはずである。
 ただし、これだけの量の油を使った場合、調理の最後にいたるまでしっかりと火を使わないと、油っこくて食べられないような仕上がりになってしまうので、最後までよく読んで油っこくならないポイントを会得して欲しい。


9) 挽肉を投入


油を入れたらすぐに挽肉を投入して、杓子の背で挽肉を鍋肌に押さえつけて、ほぐすような感じでパラパラになるように炒めて行く。家庭の火力では強火のままでかまわない。挽肉がダマになってしまわないように最初は弱火でほぐして、次に強火にして行くこともある。

10) 挽肉をよく炒める


こんな感じに油が澄んだ感じになるまで強火で炒める




中華のコツ その3

挽肉はよく炒める

 挽肉は水分がおおかた抜けるまでよく炒めることが大切である。目安としては、挽肉がはぜて2,3回「パチパチ」と音がするぐらい。あるいは、水分が蒸発して、炒め油が澄んで透明な感じになるまで、炒める。挽肉の粒の回りが若干焦げる感じになり、臭みも抜け、風味も格段に良くなる。
  麻婆豆腐の特徴のひとつの「香ばしい」はこれによって生まれるのである。


11) 豆豉と豆板醤を入れて炒める


ここで火を弱くして、鍋を傾けて油を集めたところに、豆豉と豆板醤を入れて、かき混ぜて炒める。すぐに火を強火にして、手早くかき混ぜて焦げないように炒める。しばらくするといい香りが立ち上ってくる。

12) ショウユを入れてさらに焦げるぎりぎりまで炒める


ショウユの半量(およそ大サジ1)を入れ、強火のままさらにかき混ぜて炒めて香りを出す。焦げるぎりぎりまで炒めるのが大切である。




中華のコツ その4

調味料は焦げるぎりぎりまで炒める

 豆板醤と豆豉とショウユは油で炒めることでよい味になる。炒め方が足りないと、なんとなく全体にぼけた感じの味になってしまう。焦がさないように、と書いてはいるが、少しぐらい焦げてしまってOKという気持ちで、強火でよく炒めることが大事である。もし、本当に黒く焦げてしまいそうになったら、火加減を調節してもいいが、鍋を持って火から遠ざけて調整するやり方も便利なので覚えておいていいかもしれない。


13) 熱湯を入れる


あらかじめ沸かしておいた熱湯を杓子一杯弱(200cc弱)一気に入れる。強火で炒めていたところに熱湯を入れると、こんな風にもうもうと蒸気が立つ感じになる。


四川省の厨房の火だと、このタイミングで鍋に火が入り火事場のような状態になるところである。この熱湯を入れる方法は特に家庭ではお勧めである。コクのあるいい味に仕上がる。




中華のコツ その5

熱湯を加える

 プロの厨房では、ふつう常に沸いた状態のスープを加えるので、自動的にこのようになる。家庭では、あらかじめお湯を沸かしておき、このように熱湯を加えるとよい。
  熱湯を加えると一気に泡が立ち、瞬間、鍋の中がパニック状態になるが、このときに、どうやら油分が超微粒子になり水のなかに溶けるらしい。これにより、タレがとてもまろやかで一体感のある滑らかな感じになるのである。鶏ガラなどを煮出したスープを使えば、数時間煮出しているうちにすでに脂分がスープに溶け込んでいてまろやかになっているのだが、粉末スープの素を使う場合は、この熱湯の方法がお勧めである。
  ただ、熱湯を入れたときに立つこの水蒸気は、大量の油の蒸気も含んでいるので、あたり一帯に油をまきちらした感じになり、きれい好きな人にはお勧めできない。もっとも、きれい好きな人は最初から中華料理を作ろうとはしないかもしれないが。


14) 調味料を加える


ここで火をちょっと弱めて調味料を入れる。ショウユ大さじ1、酒大さじ1、コショウ少々、鶏がらスープの素小さじ半分を入れて、ちょっと味を見る。




中華のコツ その6

うまみ調味料系はほどほどに

 これはコツとは呼べないが、鶏がらスープの素とか化学調味料などは、コクを増すていどの使用量に抑えて、入れすぎない方がいい。特に、鶏がらスープの素なんかは使用法が載っていて、たとえば一皿に平気で小さじ2杯入れろ、と書いていたりするが、信じない方がいい。あと、市販の料理本などでもその使用量は多めに書かれていることがある。
  要は、自分で味を見て、自分で納得する量を入れるべきである。今回の麻婆豆腐だったら一皿で、まあ、小さじ半分ぐらいで十分である。実は、ぜんぜん入れなくても挽肉のダシや調味料だけで十分おいしく食べられる。
  ただ、断っておくが、中国本土では、四川でも広東でも、有名料理店であっても、この化学調味料(味精:ウェイ・チンという)はかなり大量に入っている。自分で判断して、入れてよし、と思えば別にかまわず、悪者扱いするのも考えものだと思う。


15) 豆腐を加える


豆腐を加えて、豆腐を崩さないようにかき混ぜ、全体になじませて火を強くして沸騰させる。

16) 4,5分ゆっくり煮込む


沸騰したら火を弱くして、ぐつぐつとした状態で4,5分ぐらいゆっくり煮込む。煮上がった状態で、豆腐の1/3ぐらいがタレから出ているていどのタレの量になる。




中華のコツ その7

ゆっくりと煮込む

 弱火でゆっくりと煮込むことで、豆腐に含まれていた水分がタレの中に出てゆき、タレは豆腐の中にしみこんでゆく。こうしてタレで煮込むことで、木綿豆腐は最後には絹ごしのような滑らかな感じになり、豆腐臭さも抜ける。
  前に述べたように、煮込まずにすぐに仕上げてしまう方法もあるが、もともとの麻婆豆腐は、このように材料の持っている水分を引き出してそれを利用して煮上げる調理法が特徴の料理なので、この方法をお勧めしたい。


17) 水溶き片栗粉でとろみをつける


わけぎを乗せて、弱火のままで、水溶き片栗粉を少しずつ入れて、タレにとろみをつける。鍋をゆすったり、そおっと杓子の背でかき混ぜたりしながら、極力豆腐を崩さないように、何度かに分けて加減を見ながらとろみをつける。








中華のコツ その8

とろみ付け

 水溶き片栗粉でタレにとろみをつける作業は中華の定番だが、これはちょっと難しい。コツとして書くことはあまりなく、練習して身につけていただきたい。ポイントとしては以下の通りであろう
  水溶き片栗粉は、片栗粉1と水1の同量がプロの世界では基本のようだが、これでは濃すぎて、ちょっと入れすぎて扱いを間違えるとすぐにダマになる。なれないうちは、片栗粉1に水2ぐらいの薄めのものを使ったほうが失敗が少ない。ただ、薄すぎると当然タレが薄まってしまうので注意。
  とにかく、あわてずに少しずつ入れて、加減を見ながら足してゆく。少し入れたら、杓子でかき混ぜたり、鍋をゆすったり、あるいは鍋を返して材料の上下を入れ替えたりしながら均一にダマにならないように伸ばす。
  麻婆豆腐のとろみつけは特に難しいかもしれない。ふつうにかき混ぜたら豆腐は崩れてしまうので、写真のように杓子の背を使って鍋底からかき混ぜるなどの方法で行う。


18) 強火にして鍋底を焼く


とろみが決まったら、すぐに火を強火にして、ときどき鍋をゆすりながら、鍋底が若干焦げるぐらいまで30秒ほど底を焼く。こうすると、タレの中に含まれていた油が上に浮いてきて、全体にツヤが出る感じになる。そうしたら、皿に中身を滑らせるようにして盛り付ける








中華のコツ その9

底を焼く

 この作業は、中華料理の煮ものの最後に必ず行う。強火にして30秒ほど底を焼くことで、次のような効用が生まれる。
・タレの中に含まれた余計な油分が上に浮いてきて、タレの中の油が吐き出され、タレに油っこさがなくなる。これが、75ccもの油を使っても油こくならないコツである
・タレの油が上に浮き出ることで、料理にツヤが出る (この油を亮油:リャン・ヨウという)
・タレの調味料が鍋底で焼けることで、最後の最後に、味にコクを出し、香りをよくする
・料理が油の膜で包まれ、沸点は100度を超え、全体に料理が熱く、冷めにくく、おいしく食べられる
  なお、四川料理では、この最後の操作をするときに大さじ1、2杯のきれいな油を鍋肌から回し入れる。これによって、タレの中から油が出やすくなり、ツヤとコクも増す。ただし、ただでさえ大量の油を使っているので、この駄目押しの油は好みであろう。


19) 仕上げに山椒粉をふりかける


  仕上げにミルで挽いた山椒の粉をまんべんなくふりかけて出来上がりである。写真のように、赤い油が料理の回りに染み出て、たまっている状態が正しい状態である。
  これで、山椒でしびれる、トウガラシ辛い、熱い、やわらかい、香ばしい、の、5つの特徴を備えた陳麻婆豆腐のできあがりである。




中華のコツ その10

調理はバランスです、そして技術と愛情です

 以上、かなり詳細に調理の手順を追ってみた。この「中華のコツ」も10個にもなってしまったが、これらを忠実にその通りやればうまく行くかというと、実は、そんなこともない。また、これらの事項はすべて必須なのか、といえば、そんなこともない。たぶん、世の一流のプロの書いた調理本で、以上に述べた手順と反することを書いている場合はたくさんあるはずである。
  これは実は当然のことで、もしおいしい料理の作り方が一種類しかなければ、それこそおかしな話で、これは調理というよりは、昨今よくあるチェーン店のオートメーション調理にすぎないわけである。
  一番重要なのは、これらのあれこれのコツを、調理が始まってから終わるまで、バランスよく配分することで、これは、めいめいが自分で会得するしかないものなのである。
  たとえば、上記のコツのひとつに「熱湯を加える」というのがあったが、あそこで冷たい水を加えてもおいしい麻婆豆腐は出来る。ただ、経験のある料理人なら、その後の材料の扱い方を微妙に変えてバランスを取り、最終的においしい料理に仕上げてしまうのである。
  それから、最後に、麻婆豆腐を日本に紹介した偉大な方、故陳建民さんが今日の料理で言っていた中華料理のコツ2つをご紹介しよう。
「料理、これ、愛情が大切ね」
「自分で味見て作るね。自分おいしい皆おいしい、自分おいしくない皆おいしくないよ」
結局は、この2つに尽きると思う。




 動画で見る麻婆豆腐の調理






うちのキッチンにて撮影。



 それでは、以上に紹介した調理の動画をここに載せておこう。うちのガスレンジはビルトインタイプで火力がもともと弱く3000kcalちょっとしかないが、特に問題なくおいしく作れる。ただ、さすがに料理によっては火力不足なので、もうちょっと強いのに変えるつもりではある。

 ところで、YouTubeはムービーサーバーとして便利ですね、感心。







 本店の製法を紹介する






中国名菜譜の日本語版 東西南北の全4巻


 中国文化大革命の少し前までは、逆に中国古来の文化を称揚する政策が取られていたそうである。ちょうどそのころ、1960年前後に十年近い年月をかけて、中国政府が国をあげて各地方の中国料理を文化的遺産として取材し、まとめ上げた料理全集が作られた。これが「中國名菜譜」であり、オリジナルは全十一巻におよぶ膨大なものである。この日本語訳を僕は持っていて、その中に本店の陳麻婆豆腐による料理の製法が、ほぼ忠実な形で掲載されている。そこで、これを一皿分の分量に換算し直してここで紹介してみよう。




(1)豆腐一丁を角切りにして1分間湯につけて石膏の渋みを抜く
  注:どうやら豆腐を固めるのに石膏を使っているらしい
(2)鍋に油100cccを熱し、牛挽肉150gを入れて炒める
  注:豚肉ではなく牛肉を使っている
(3)よく炒まったら、塩小さじ1/2をいれ、混ぜ合わせる 
(4)刻んだ豆豉大さじ1.5とトウガラシ粉大さじ2を入れて炒める
  注:豆板醤は使わずトウガラシ粉を大量に使っている
(5)香りが出たら、スープを300cc入れて、豆腐を入れ、4,5分弱火で煮込む
  注:スープは「濃湯」と書かれており、豚腿と牛の尾を煮出したものだそうである
(6)ショウユ小さじ2と化学調味料小さじ1/2を入れ、水溶き片栗粉でとろみをつける
  注:ショウユを最後に入れている。ショウユは口蘑醤油=コゥ・モゥ・ジャン・ヨウというきのこで作った特殊なショウユだそうである
(7)皿に盛って、山椒粉をふりかける

豆板醤を使わないこと以外は、だいたい同じ感じの調理法ではあるけど、なんとなく読んでいると、これとは言いがたいのだが、調理法のノリが違う気がする。ましてや、この製法は今からおよそ50年前のものなので、余計にそう感じるのかもしれない。



 日本の麻婆豆腐






陳建民さん


 日本に麻婆豆腐を伝えて定着させたのは、かの有名な故陳建民氏だと言われている。四川飯店グループの始祖で、かの陳健一のお父さんである。陳建民が、同郷の黄昌泉氏と日本に渡り、四川料理を日本に広め始めたのが今からおよそ50年前。当時の日本人の味覚は、四川人とは今よりさらにかけ離れており、それに必要な食材もなかなか手に入らない。そんな状況の中で、日本人の口に合う、採算の取れる、新しい麻婆豆腐を工夫してここまで定着させたのだから偉いものである。麻婆豆腐は、「麻」と「辣」が必須だが、麻の味は日本にはなく、これは外したようである。もちろん、強烈な辛みと、大量の油も思い切って弱くしている。また、最後に入れる葉ニンニクは入手できないためネギに代えている。全体に、ちょっとだけ辛みがあって、まろやかで、柔らかで、滑らかな麻婆豆腐を作り出した。
  それから、何十年もたって、今ではマーボードウフは中華料理屋だけでなく、ラーメン屋にもあるし、スーパーには素も売っていて家庭料理としても定着している。それで、さらに、少しばかり前の激辛ブームで日本人の舌が辛みと刺激にことのほか強くなり、満を持して、四川本場の陳麻婆豆腐を出す店が現れ始めた。陳建民が日本人向きにアレンジしてから実に50年、いまや四川本場そのままの味が日本に知られつつある、というのを知って、陳建民も草葉の陰で喜んでいるだろう。



 日本のマーボードウフの作り方






昭和43年発行「きょうのおかず」の麻婆豆腐レシピ


  家に、昭和43年発行の婦人倶楽部増刊号「きょうのおかず」という本がある。およそ40年前の貴重な資料である。ここに、当時の日本のマーボードウフの作り方がわりと詳しく載っている。執筆されているのは、今日の料理でも長年おなじみの、中国料理研究家の王馬煕純おばさまである。
 このレシピでほぼ忠実に作ってみたことがあるのだが、あら不思議、本当に懐かしいむかしのマーボードウフの味になった。ひとむかし前の高級中華料理屋で出されていたようなものになったのにはビックリした。辛みはほとんど無く、全体にベージュ色をしていて、滑らかで、風味よく、これはこれでなかなか満足感があった。
  そこで、この、昭和のマーボーの作り方をここに紹介しよう。

(1)絹ごし豆腐2丁を角切りにしてサッと熱湯に通す
(2)豚挽肉120gに小麦粉大さじ1を混ぜ込んでおく
(3)ネギ・ショウガ・ニンニクを荒みじんにする。赤トウガラシ2本を輪切りにしておく
(4)鍋に油大さじ3を熱して、ネギ・ショウガ・ニンニク・トウガラシを炒める
(5)挽肉120gを炒め、火が通ったら、味噌小さじ1、ショウユ大さじ3、砂糖小さじ1、化学調味料少々を入れてさらに炒める
(6)スープの素を溶かしたスープを100cc入れて煮立て、豆腐を入れ、混ぜ合わせる
(7)煮立ったら、水溶き片栗粉でとろみをつけて、出来上がり

中国のミソではなく、日本のミソをかなり控えめに使っている。味つけに砂糖が入っているのも特徴である。あと、挽肉に小麦粉を混ぜ込んで、出来上がったときの挽肉の歯ざわりを柔らかくしている。煮込まずにタレをからめて仕上げる。などなど、いくつかの特徴が見て取れる。



 陳麻婆豆腐の食べられるところ






四川省本店のライセンスを受けた日本の陳麻婆豆腐


 さて、本場の陳麻婆豆腐に戻るが、まずは食ってみようというとき、どこで食えるかである。まあ、最近は、ネットで「陳麻婆豆腐」と打ち込めばいくらでも出てくるので、特に紹介するまでもないのだが、一応しておこう。たぶん、陳麻婆豆腐専門を銘打っているお店なら、だいたい同じようなレベルだと想像する。残念ながら自分は、日本で陳麻婆豆腐専門店に行ったことがない。以前、成都の本店で食って、北京などでも食って、それで帰ってそれを再現して家で作って食っているので、あまり必要がなかったせいもある。というわけで「どこそこがいい」という風に薦められるお店はあまりないのだが参考までに上げておこう。

 まず、成都の本店「陳麻婆豆腐」の支店を銘打ったお店が日本のあちこちに登場している。もちろん店の名前は「陳麻婆豆腐」である。
http://www.chenmapo.jp/
 陳健一プロデュースの「陳健一麻婆豆腐店」もあちこちにある。たとえば木場店は以下。
http://r.gnavi.co.jp/g790900/
 僕が行ったことのある数少ない店では、「銀座 芝蘭」がある。ここは高級四川料理だが、かなり本場的で抜群においしい。
http://r.gnavi.co.jp/a409500/
 あと、小川町の「四川一貫」というお店。ルックスはただのラーメン屋に見えるのだが、料理は本格的な四川料理である。
http://gourmet.yahoo.co.jp/0006635296/U0002087614/
 中華街にも、さいきん四川省から料理人を呼んで本場の四川料理を出す店が増えた。その中でも老舗な「景徳鎮」に最近行ったが、かなり本場そのものの料理が出てきた。
http://www.keitokuchin.co.jp/japanese/index.html





 終わりに

 いろいろ紹介してきたが、まだいくつか載せたいことがある。研究ということなので、麻婆豆腐のインスタント大研究、とか、ゲテモノ麻婆豆腐特集とか、まだいくつか追及するテーマが残っている。これらについてはおいおい追加して行こう。
 あと、今回、麻婆豆腐大研究をやったので、このノリで、エビチリ大研究とか、担々麺大研究とか、いろいろあるよね。これらについても順次やって行って、マニアックな素人中華料理研究書をまとめることにしよう。それで、もっとうまくいったら、素人中国料理研究所を作って所長になっちゃう、なーんてね。
 
ではでは!

http://rocketnews24.com/2009/05/30/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%A8%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E3%81%AE%E9%BA%BB%E5%A9%86%E8%B1%86%E8%85%90%E3%81%AE%E9%81%95%E3%81%84%E3%81%A8%E3%81%AF%E4%BD%95%E3%81%8B/


日本と中国の麻婆豆腐の違いとは何か
2009年5月30日
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chinmabodofu

日本人に人気の美味しい中華料理のひとつといえば、麻婆豆腐だ。フワフワトロトロの豆腐にピリ辛のソースが絡み合って、ヤミツキになるうまさ。その絶妙な味は、何杯もご飯をおかわりしたくなる魔力を持っている。そんな麻婆豆腐は当然ながら、お隣、中国発祥の料理である。

しかし、ラーメンも餃子も中華料理でありながら、中国のそれとは違う味や食材になっている。そう、もともとは中華料理なのだが、日本独自の料理になってしまっているのだ。ということは、麻婆豆腐も中国と違うのだろうか? ということで、麻婆豆腐を世界で初めて作った四川省・成都の『陳麻婆豆腐』の麻婆豆腐と、日本の麻婆豆腐を比べてみた(写真は『陳麻婆豆腐』の麻婆豆腐)。

その結果、明確に違う部分がひとつあった。そう、本場の麻婆豆腐は非常にラー油の量が多く、日本の食卓にあるビンのラー油2~3本分くらいが、麻婆豆腐に投入されているのである! しかし、日本のラー油と決定的に違うのが、八角(鋭い風味で食欲をそそらせるスパイス)の風味が強いこと。そして、うまみのあとに辛さがくるという二段技!

さすがに日本の家庭では出せない味である。『陳麻婆豆腐』の麻婆豆腐は、日本の麻婆豆腐とは別物と考えていいかもしれない。日本にも『陳麻婆豆腐』の支店が赤坂にあるので一度は行ってみてほしい。しかし、できれば四川省の『陳麻婆豆腐』で、本場の麻婆豆腐を味わってほしいものである。そこまでオススメしたくなるほど、衝撃的なうまさだ。今まで食べていた麻婆豆腐は何だったのか? あなたもそう思うに違いない。

http://rocketnews24.com/2013/04/02/311794/


【グルメ】世界で初めて「麻婆豆腐」を作った店に行ってみた / 本店と新宿店の違いを検証
2013年4月2日
コメント11




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SANYO DIGITAL CAMERA

中華料理の王様といえば「麻婆豆腐」(まーぼーどうふ)だ。ピリッと辛いスパイス、アッサリとした豆腐、そして挽肉のウマミ、そのすべてが合わさり、美味しさが濃縮された料理である。そんな麻婆豆腐を世界で初めて作った店が、中国四川省の都市・成都にある『陳麻婆豆腐』だ。

・陳ばあさんが作った麻婆豆腐
1860年代に陳ばあさんが作ったのが最初といわれており、ジワジワと中国全土に広まっていった。そして現在、日本でも定番の中華料理として愛されている。今回は、その本店で元祖の味を堪能。さらに新宿店に出向き、味の違いがあるのか確かめてみた。

・日本の麻婆豆腐とは別物
本場『陳麻婆豆腐』の麻婆豆腐は、日本の麻婆豆腐とは別物と考えてもらっていい。見た目も味も、そして美味しさの構造も違うのである。日本の麻婆豆腐が唐辛子メインの辛さであるのに対し、本場の麻婆豆腐はピリピリッとした電撃のようなシビレを与える辛さが欠かせないポイント。

・ホァジャオなくして麻婆豆腐ならず
シビレる辛さは花椒(ホァジャオ)のものであり、日本の麻婆豆腐にも使用されることはあるが、その量は微々たるもの。本場をウリにしている中華料理店でも、日本では花椒の親戚である山椒を使用する店が多い。しかし『陳麻婆豆腐』をはじめ四川省の中華料理店は「これでもか!」というくらいホァジャオを使用するため、唐辛子の辛さよりもシビレのほうが強く感じる。

・あん自体がウマミと辛味を放出する存在
『陳麻婆豆腐』の麻婆豆腐は見た目が真っ赤で強烈だ。日本では片栗粉であんを作ってドロドロにしている店が多いなか、『陳麻婆豆腐』の麻婆豆腐はラー油のドロドロがあんの役割をしている(片栗粉も使用しているが微々たるもの)。それにより、日本の麻婆豆腐のようにあんが味の媒介をしているのではく、あん自体がウマミと辛味を放出する存在になっているのだ。

・強烈なホァジャオの辛さと食材のウマミ
見た目で「別次元の麻婆豆腐」であることに驚き、一口めに「辛さの違い」に驚き、二口めに「強烈な辛さ」に驚く。そして三口めは「辛すぎる思いつつヤミツキになっている自分」に驚く。もし辛いものが好きな人がこの麻婆豆腐を食べたのであれば、唐辛子メインの麻婆豆腐では体験できなかった、強烈なホァジャオの辛さと食材のウマミに衝撃を受けるはずだ。そしてこう思うはず。いままで食べていた麻婆豆腐とは何だったのかと。

・東京都 神奈川県 愛知県などで食べられる
『陳麻婆豆腐』は日本にも支店があり、東京都、神奈川県、愛知県などで食べることができる。今回は東京・新宿支店に行き、その味を確かめてみた。見た目は本店のものに近いが、油の量がかなり少なく、油以外で構成されたあんのほうが多かった。

・味は本店よりもマイルドに?
本店では最初から「あとがけ」のホァジャオがたっぷりとふりかけられていたが、新宿支店では自分でかけるようになっていた。味は本店よりもマイルドになっていると感じた。シビレまくる本店の味はない。使用している食材や調理工程は同じかもしれないが、香辛料の分量に違いがあるようだ。

・新宿店も負けないくらい美味だが
それでも本店の味の断片を知ることができるのは確かで、ヤミツキになるほどハマる味をしている。辛さが「日本人が美味しいと感じるぎりぎりのレベル」に調整されているような気がした。よって、むしろ本店よりもこちらのほうが好きという人がいてもおかしくない。余談だが、新宿店の店員の接客は物腰が柔らかく、本店より好感がもてて良い(笑)。

・中国の『陳麻婆豆腐』に行かなくてはなるまい
誤解がないようにいっておくが、日本式の麻婆豆腐も洗練された「ウマミ追求型」の料理になっており、これはこれで非常においしい。日本に渡って独自の成長をした麻婆豆腐だからこその美味しさがある。しかし、ガツンと衝撃が走る麻婆豆腐を食べたいならば、やはり中国四川省成都の『陳麻婆豆腐』に行かなくてはなるまい。まずは日本の支店に行ってみるのもありだろう。強くオススメしたい中国の中華料理店である。

・豆知識
しかし、ひとつだけ注意点がある。本場だからといって、中国の麻婆豆腐がすべて美味しいわけではない。経験上、むしろ日本人がイマイチと感じる麻婆豆腐のほうが多いと推測する。けっこう適当に作っている店が多いのだ。中国で美味しい麻婆豆腐を食べたかったら、現地人に定評のある中華料理店を聞き、店を厳選して行ったほうがよいだろう。

・中国成都へのアクセス
ANAが成田と成都の区間で直行便を運航している。飛行時間は約5~6時間だが、直行便がなかったときと比べればかなりの短時間といえる。成都からは四川航空でラサに行くことも可能で、電車とバスを使用すればラオス国境への移動も可能だ(情勢により国境越えの条件が変化するので注意したい)。

・今回ご紹介した飲食店の詳細データ
店名 陳麻婆豆腐 新宿支店
住所 東京都新宿区西新宿1-26-2 新宿野村ビルB2
時間  11:00~15:00 / 17:00~22:00
休日 年末年始

Report: Kuzo.



▼中国四川省成都『陳麻婆豆腐』本店



▼中国四川省成都『陳麻婆豆腐』本店の麻婆豆腐
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▼日本国東京都『陳麻婆豆腐』新宿店
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▼日本国東京都『陳麻婆豆腐』新宿店の麻婆豆腐
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カテゴリー グルメ, 生活, 知識, 国内
(まーぼーどうふ • 陳麻婆豆腐 • 麻婆豆腐 • 四川省)

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731部隊を始めとしたいわゆる4つの細菌部隊の目的は 捕虜を使った実験だけをしていただけではありません。 実はこれらの残虐行為はそれ自体が目的ではなく, 細菌の毒力強化や,効果判定や,大量生産のシステムを作り上げるための研究として行なわれていたのです。 そして本当の目的は実際の戦争で細菌戦を実行する事でした。 もともと日本の軍事医学は非常に優れていました。 昔から世界のどの戦争でも,実際の戦闘で死ぬ人よりも伝染病その他の病気で死ぬ人の方が多かったそうです。 ところが日露戦争では日本軍の病死者が少ない事が世界の驚異となりました。 しかも日本軍はとても人道的で,多くのロシア人捕虜の病気や怪我を治療して 送り返した事が欧米諸国から賞賛されたと言うエピソ-ドが残っている位です。 しかし石井四郎率いる731部隊が登場してから戦争医学は人命を救う事から, 戦争の手段つまり細菌攻撃をする目的に180度変ってしまったのです。 資源の乏しい日本が大国であるソビエトやアメリカと戦争するためには 最も安上がりな生物兵器が必要だと言う石井四郎の意見が通ったせいです


























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日本の細菌戦



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はじめに 記事専用プリント対応ページ

最終更新日:2014/12/13 12:09

この原稿は1997年に書いたものを基本にして、大幅に加筆しました。



731部隊を始めとしたいわゆる4つの細菌部隊の目的は

捕虜を使った実験だけをしていただけではありません。

実はこれらの残虐行為はそれ自体が目的ではなく,

細菌の毒力強化や,効果判定や,大量生産のシステムを作り上げるための研究として行なわれていたのです。

そして本当の目的は実際の戦争で細菌戦を実行する事でした。
もともと日本の軍事医学は非常に優れていました。

昔から世界のどの戦争でも,実際の戦闘で死ぬ人よりも伝染病その他の病気で死ぬ人の方が多かったそうです。

ところが日露戦争では日本軍の病死者が少ない事が世界の驚異となりました。

しかも日本軍はとても人道的で,多くのロシア人捕虜の病気や怪我を治療して

送り返した事が欧米諸国から賞賛されたと言うエピソ-ドが残っている位です。



しかし石井四郎率いる731部隊が登場してから戦争医学は人命を救う事から,

戦争の手段つまり細菌攻撃をする目的に180度変ってしまったのです。

資源の乏しい日本が大国であるソビエトやアメリカと戦争するためには

最も安上がりな生物兵器が必要だと言う石井四郎の意見が通ったせいです。

*関東軍司令官 山田乙三大将 ハバロフスク公判供述

・・・・731部隊は、主としてソビエト同盟並びに蒙古人民共和国及び中国に対する

細菌戦の準備を目的として編成されたものである

* 元 731部隊隊員 軍属 篠塚良雄 証言

生体解剖ともなれば,確かに医者たちは自分の研究や野心を満足させるので喜々としてやる。

植付けた細菌がどの部位でどのような変化を与えているか大変興味をもって調べる。

しかしそれは731部隊の目的からすれば2次的なことだ。

本来は,そこで細菌の毒力がどれだけ強化されたかを調べ,

より強力な細菌をとり出すということだ。

したがって生体実験というものは、細菌の毒力、感染力の強化実験と言ってもよい。

生体解剖が必要なのは、死後の雑菌によって植付けた菌の毒力が低下しないためだ。


*大阪大学名誉教授 中川米蔵   1994年証言

私は昭和20年に京都帝国大学に入学した時、731部隊幹部である軍医の話を聞きました。

「医学と言うのは,病気を治したり,ケガを治したりするものではない。

日本は世界を相手に戦っている。

医学もまた兵器だ」



そして細菌戦はその通り実行されました。

1938年に日本軍機による細菌爆弾の投下や井戸へのコレラ・チフス菌の投下などの記録がありますが、

裏づけの証拠や資料が不足しています。



確実なのは1939年のノモンハン事件がらです。

*証言  西俊英軍医中佐  731部隊教育部長  (1949年12月26日、ハバロフスク裁判公判記録から)

(注:検事の質問は短くして、答えを中心に書きます)

◎ハルハ河方面事件の際、石井部隊が細菌兵器を実用したことを知っています。

 1944年7月、私は孫呉の支部から平房駅の第731部隊教育部長に転任せしめられました。

 私は前任者園田中佐から事務を引き継ぎました。同日、園田中佐は日本に向けて出発しました。

 私は彼の書類箱を開け、ノモンハン事件、すなわちハルハ河畔の事件で、

 細菌兵器を使用したことについて書類を発見しました。

 そこには当時の写真の原版、この作戦に参加した決死隊の名簿、碇少佐の命令がありました。

 決死隊は将校が2人、下士官、兵役20名からなっていました。

 この名簿の下には血で認めた署名があったのを記憶しています。

◎(誰の署名か?)

 隊長碇の署名です。

 ついで碇の一連の詳細な命令、すなわち如何に自動車に分乗し、如何にガソリン瓶を利用するか等、

 さらに帰還するかについての指示が若干ありました。

 これら2つの文書から20人乃至30人からなる決死隊が河

 -私はハルハ河と思いますが-を汚染したことが明らかになりました。

 翌日私は、これ等の書類を碇少佐に手渡しました。

 私がこれ等の書類を碇に手渡した時、さてこの結果はどうであったのかと興味を持ちました。

 碇は黙ったまま書類を引取りました。

 この作戦が行われた事実は争う余地がありませんが、その結果に就いては、私は何も知りません。


*証言 元731部隊少年隊 千葉和雄、鶴田兼敏、石橋直方

1989年8月24日 朝日新聞  (要約)

「ノモンハン事件の戦場に川に、私たちの手で大量の腸チフス菌を流した」

ホルステン川の上流から病原菌を流し、下流のソ連軍に感染させる目的で,

ハルビン平房から軽爆撃機で輸送されて来た18リットルの石油缶22~3個に入った寒天状の腸チフス菌を

川にぶちまけた。

その際隊員の中に感染者が出て、死亡したものもあった。

腸チフス菌を川に投入すれば流されてすぐにも効力がなくなることぐらいは石井らも知らないはずはない。

あの作戦は細菌戦というよりも、私らの士気を高め、能力がどのくらいあるのかを調べる訓練のように思う。



その後中国各地で細菌戦を行ない,

最後には東南アジア、オ-ストラリア、アメリカまでが目標になってきます。
しかし戦後の東京裁判では日本は731部隊の事は免責され、

存在すら認めていなかったのですから,細菌戦も当然無かった事とされてきました。
ところが最近になって細菌戦の実体が少しづつ明らかになってきました。



まず1994年10月浙江省崇山村の農民たちが損害賠償を求める文書を

日本大使館に提出しましたが、日本政府は無視しました。

この動きがきっかけになって,

1997年8月11日にはその細菌戦で被害をこうむったとして

108人余りの内代表で4人の中国人が来日し日本政府を訴えました。

原告の108人は浙江省,湖南省の6ケ所の地域の人達です。

今回述べる細菌戦は主として満州の731部隊と南京の栄1644部隊との合同で行なわれたものです。
細菌戦による被害は1940年から出ていますが,

米軍による空襲が始った1942年4月からは、その米軍基地が
浙江省にあると判断した大本営は支那派遣軍に対し

同省附近の掃討戦を命令し浙かん作戦と称され,その一環として細菌戦が強化されたのです。


http://www.oshietegensan.com/war-history/war-history_k/7465/

日本軍の資料発見 記事専用プリント対応ページ

最終更新日:2014/12/13 12:10

細菌戦はあったのでしょうが,具体的な証拠証拠がなかなか発見出来ませんでした。

ところが1993年6月、偶然に多くの資料が中央大学の吉見教授等によって発見されました。

発見場所は「防衛庁防衛研究図書館」です。

陸軍幹部の業務日誌が発見されたのです。

その後その資料は閲覧禁止になってしまいましたが,

日本政府保管の正式資料ですから重大な証拠となります。

国は全面公開するべきでしょう。

発見された日誌は下記の通りです

参謀本部作戦課   井本熊夫中佐の業務日誌        23冊

1940年9月~1942年12月、参謀本部作戦課員

陸軍省医務局医事課 金原節三大佐の陸軍省業務日誌摘録   35冊

1937年8月から陸軍省医務局医事課員

1941年11月から同医事課長

  同上      大塚文夫大佐の備忘録         13冊

金原大佐の後任として1943年9月、医事課長就任

参謀本部第一部長  真田穣一郎少将の業務日誌       40冊

次の項目から始まるレポ-トでは、

実際の細菌戦の様子や証言と、これを裏付ける日本軍の上記日誌等を年代ごとに別項目にして整理します。

http://www.oshietegensan.com/war-history/war-history_k/8753/

1940年の細菌戦 記事専用プリント対応ページ

最終更新日:2014/12/20 10:50

1940年から日本軍は浙江省各地で細菌攻撃を行っています。

衢州市  10月4日

寧波市  10月22日(27日とも言われる)

金華市  11月27日~28日

主として上記の3ケ所ですが、それらの周辺に被害は拡大しています。

細菌攻撃は必ずしも上記日付だけで行われたわけではなく、

また攻撃地点から感染が周辺に伝播していったため、ばらばらの時期に流行が起きています。

攻撃地区は浙江省の7ケ所です。

まず浙江省を中心とした地図です。この年以降の細菌戦にも役に立つ地図です。

SCN_0089 せっ江省関係図



「浙江省衢州市(衢県)」

麦粒,トウモロコシ,大豆,綿と共に飛行機からペストノミを投下しました。

11月12日から高熱,リンパの腫れ,嘔吐,出血の患者が続出。

県衛生院の検査の結果ペスト桿菌が発見されました。

県,省政府,重慶政府は直ちに各種防疫活動を行ないましたが感染は広がって行きました。

その後日本軍は1942年8月31日にもさらにペスト,チフス,赤痢菌を散布して撤退しました。

その被害者は1940年 ペストによる死者21人

1941年 ペストによる死者274人

1942年 ペストの死者2000人 赤痢の死者 1000人

その後も病気は広まり

1950年までに315人が罹患し、305人が死亡したといわれます。

   注:色々な集計があるので人数は参考です。

内 296人が腺ペストといわれています。 (以上中国側資料から)



*被害者証言 黄権運さん

1940年10月4日の朝9時頃だった。日本軍機が1機、低空でこの町の上空へ飛んできた。

その後、あたりには麦やトウモロコシと一緒にノミがいっぱい散らばっていた。

私が見たノミは大きくて黒ずんでいたが、皆死んでいた。

中には、鶏のえさにするために持ち帰った者もいた。

しばらくして指示が出て衢江の川舟に避難した。

舟の中で2ケ月間生活しなければならなかった。



*中国「東南日報」 1940年11月22日

「衢県でペスト発見-死者すでに十余人」

衢県西門の柴家巷、県西街、水亭街で19日突然ペストが発生、死者はすでに十余人にのぼる。

この一帯は人口が密集しているので、当局はペスト発生後、特に気を配っている。・・・・

ペスト菌汚染地区の住民は蔓延を防ぐため船に移すことになろう。

症状の重い患者は目下わずか3名で、ペストがこれ以上広がることはないものと見られる。



「浙江省鄞県寧波市」

1940年10月27日、午前7時頃と午後2時頃の2回、日本軍機が寧波市開明街に飛来。、

1回目はビラ(「日本は豊かで食糧援助が出来る」と記載)を撒き、

午後には大量の小麦・麦つぶなどと共にペストノミを投下した。

この時、開明街上空は一時淡黄色の霧に覆われた状態となった。

夜半、にわかに雨があり屋根の麦つぶや赤色をしたノミを流して天水ガメに大量に浮いた。

多くの住民が飛行機の投下とノミを目撃している。

10月30日、開明街滋泉豆腐店の頼夫婦が死亡。以後連日死亡者が続出。

11月4日、華美病院(現・寧波第2病院)丁成立院長は

患者のリンパ腺から菌を分離し動物実験でペストであると断定。

この日隔離病院を3ケ所設ける。

(黄可泰寧波市医科学研究所所長及び12人の聞き取り調査から)

死亡者 106名(姓名,住所,死亡期日が分かっている人数のみ)

内,家族全部が死に絶えたのが12家族。

開明街一帯は、政府によって封鎖され、焼却されたが

1960年代まで人が住むことがなく「ペスト街」と呼ばれました。

*2002年東京地裁判決から

出動期間  1940年7月~12月

出動場所  杭州~寧波

出動人員  100名

現地指揮官  石井四郎大佐、大田澄大佐

使用細菌  ペスト

撒布方法  上空から撒く雨下作戦

死亡者   109名



*被害者証言  黄可泰 寧波市医学化学研究所 前所長

1940年10月27日,午前7時頃と午後2時頃日本軍機が飛来。

1回目は「日本は豊かで食料援助が出来る」と書いたビラを撒き,

午後には大量の小麦粉・麦つぶ等と共にペストノミを投下した。

薄黄色のモヤが発生し、屋根瓦でパラパラ音がしたので、住民は驚き怯えました。

ノミは紅色をして、やや小太りで普通のノミとは違っていた。

後でわかったのですが、これは体内に億万個のペスト菌を保有しているノミでした。

人とネズミにたかるノミでカイファンカノミ(インドネズミノミ)といいます。

29日には発病者が現れ、31日から死亡者が続出した。

11月3日の報道では死亡者16人、6日までに47人にのぼった。

11月4日同市の華美病院でペストと断定。

11月30日汚染地区5000平方米115戸を焼払い一大廃虚となり,

そこは1960年代まで人が住まずペスト広場と言われた。

その後の調査では姓名・住所・死亡時期が分かっているだけで106人が死亡しました。



*被害者証言   銭貴法さん 開明街の酒屋に勤めていた

1940年10月、日本軍機が低空で開明街に飛来し、小麦や小麦粉を撒いた。

屋根にサッサッと落ちる音がした。その中にノミがいた。

ノミは水かめにもたくさん浮かんでいた。

私も発病し、高熱が出て、足の付け根のリンパ腺が腫れた。

手術をしてしばらくは歩けなかったが助かった。

私と同じ隔離施設に運ばれた人たちは次々に棺桶で運ばれていった。

体は痙攣し、エビのように固まって死んでいった。

肢体はみな黒ずんでいた。



*日本軍人証言  川島清 731部隊第4部細菌製造部長

(1949年12月25日、ハバロフスク裁判公判記録から)

注:検事の質問は()内に簡単にして、証言を中心に書きます。

◎(1940年の派遣隊について)石井中将は中国の医学雑誌を見せてくれました。

 それには1940年における寧波一帯のペスト流行の原因について述べられていました。

 彼は私にこの雑誌を見せた後、寧波一帯で第731部隊の派遣隊が飛行機からペスト菌を投下し、

 これが伝染病流行の原因となった事を話しました。。

◎かれはこの派遣隊の工作は成功したと考えていました。

◎(この地図で細菌戦の実施は?)はい、確認します

◎まさに私が記号をつけた地図です。



*日本軍人証言  西俊英軍医中佐  731部隊教育部長

(1949年12月26日、ハバロフスク裁判公判記録から)

私は、1940年の中国中部への第731部隊派遣隊の活動に関する記録映画を見ました。

まず映画には、ペストで感染された蚤の特殊容器が飛行機の胴体に装着されている場面がありました。

ついで飛行機の翼に撒布器が取付けられている場面が映され、

さらに特別容器にはペスト蚤が入れられてあるこという説明がありまって、

それから4人或いは5人が飛行機に乗りますが、誰が乗るのかわかりません。

それから飛行機が上昇し、飛行機は敵方に「向かって飛翔しているという説明があり、

次いで飛行機は敵の上空に現れます。

次いで飛行機、中国軍部隊の移動、中国の農村などを示す場面が現れ、

飛行機の翼から出る煙が見えます。

次に出てくる説明からこの煙が敵に対して撒布されるペスト蚤であることが判って来ます。

飛行機は飛行場に帰って来ます。

スクリ-ンに「作戦終了」という文字が現れます。

ついで飛行機は着陸し、人々が飛行機に駆け寄りますが、これは消毒者で、

飛行機を消毒する様子が上映され、その後、人間が現れます。

まず飛行機から石井中将が姿を現し、ついで碇少佐、その他の者は私の知らない人です。

この後「結果」という文字が現れ、中国の新聞及びその日本語翻訳文が上映されます。

説明の中で、寧波付近で突然ペストが猛烈な勢いで流行し始めたと述べられています。

最後に、終わりの場面で中国の衛生兵が白い作業衣を着て

ペスト流行地区で消毒を行っている様子が上映されています。

正にこの映画から、私は寧波付近で細菌兵器が使用された事を知る様になりました。



*日本軍人証言 731部隊少年隊 石橋直方  (1994年証言)

私たちがハルビンを出発したのは、1940年7月26日だったと思う。

ボイラ-室の前の引込線から、汽車に乗った。

総勢40名。部隊名は「奈良部隊」。

この部隊編成の責任者の総務部庶務課主任の飯田奈良一の名前をとってこう名付けられた。

8月6日には、浙江省杭州市の筧橋に到着した。

ここが、寧波や衢州への細菌攻撃の基地になったところだ。

ここへくる途中、南京の1644部隊(当時は多摩部隊と呼んでいたが)へも寄った。

翌日南京からと海路ハルビンから各40名が合流。

8月の末には、「国民党航空学校」には、多摩部隊も入れて200名くらいの隊員が集まった。

自分は得衛生兵の見習いだったので、細菌戦の仕事には就かなかったが、

9月になるとハルビンからペストノミの空輸が始まった。

ある日、空輸してきたノミを爆撃機に積み替える時に、

失敗をしてノミが逃げ出すことがあって大騒ぎとなった。

あわてて殺虫剤を撒いたので滑走路の芝が枯れてしまったのを覚えている。

その爆撃機が寧波へ攻撃に行ったことは後で聞いた。

ここが寧波作戦の基地になっていたことは口には出さないが皆わかっていたことだ。



*日本軍人証言   731部隊航空班 沖島袈裟春  (1993年証言)

1940年の夏の暑い時だった。

おおよそ200名くらいいたと思うが、隊員が集合して杭州の「国民党航空学校」で、

寧波へ向かう爆撃機に菌液を積んだことがある。

ドラム缶に入った菌液を、ホ-スで飛行機の胴腹に取り付けてあるボンベへ注ぎ込むのだ。

自分がやったのは1回だけだが、それが寧波へ攻撃にいくことはなんとなくわかっていた。

菌液はペストかコレラ菌のどちらかだと思う。

その爆撃機が寧波で細菌を撒いたことは後で聞かされた。

増田美保中佐がもっぱらやったようだ



*日本軍人証言  731部隊航空班   松本昭一   

1940年8月ハルビンから重爆撃機に8人乗って杭州の「国民党航空学校」に着いた。

200人ぐらいがすでに居た。

寧波や衢州への攻撃に使ったのは97式軽爆撃機で2人乗り。

翼の下に2メ-トルくらいの細長い容器が取り付けてあり、

その容器の中は10層に区切られていて、

それぞれに小麦、ノミ、フスマなどの穀物が混ぜて入れてある。

それを投下点に着くと、パイロットが爆弾を落とすときと同じようにレバ-を引く。

すると容器の前と後ろがパカ-っと開いて自然の風圧で中のノミと穀物が吹き出す。

その様子は、翼から煙が出ているようだった。これを低空からやりました。

じっさいに操縦して細菌を投下したのは、増田美保中佐と平沢欣少佐だった。

ある攻撃作戦の時、容器の後ろが開かなかったため前も閉めて、杭州の飛行場に引き返した。

ところが飛行場に着いたとたん、容器の後ろが開いてしまって、

大量のノミが飛行場に飛び出して、大騒ぎとなった。

あわてて消毒したがラチがあかず、結局飛行機ごと燃やしてしまったこともあった。

菌液の場合は、太さ50センチ長さ360センチくらいの太いパイプを4本束ねて、

その先に圧搾空気のボンベが取り付けてある。

そのパイプに腸チフス菌を詰め込んで、97式の重爆撃機に載せ、目的地に着くと、

胴体から機外へワイヤ-で繰り下げ、そして圧搾空気ボンベを作動させると

4本のパイプに詰め込んである菌液が一挙にパ-っと噴出する。

まさに霧をまいた状態になる。

ところが、在る作戦で、ボンベが誤作動して1本分の菌が機内で吹き出してしまった。

乗り込んだ6人は全員腸チフスに罹った。

一番大量に菌液を吸い込んだ同期の鈴木公司はしばらくしてなくなってしまった。



*日本軍人供述  田村義雄 731部隊傭人(1954年9月8日中国での供述)

1940年7月上旬から11月上旬までコレラ菌,パラチフス菌,チフス菌の生産に携わった。

この期間生産されたのはチフス菌,パラチフス菌,コレラ菌,ペスト菌,脾脱疽菌で,

その合計270Kgは飛行機で南京及び華中地区に運ばれ,

731部隊の柄沢十三夫ひきいる遠征隊が攻撃を実行した。



当時の中国の新聞を見てみます。

*時事広報  1940年11月6日

「愈県長・省衛生処技正と寧波入り」

ペスト撲滅の先頭に立つ

省防疫隊は明日にも到着

昨日の死者、伝染病院で11名、汚染地区で9名

皮膚ペスト患者は治療中

鄞県愈済民県長は、省で開かれた専員、県長会議に出席していたが、

鄞県政府からの電報で当地にペストが発生したとの報告を受け、

速やかに県政府に戻り、撲滅運動の先頭に立つよう要請された。

愈県長は、昨日朝、省衛生処技正王毓榛第3科科長とともに寧波に到着した。

本日はさらに2人の衛生処技正も到着する予定。

省防疫隊の30人余は、明日にも薬品を持って寧波に到着し、ペスト撲滅作業に従事する。

昨日は、ペスト汚染地区の患者と、非汚染地区に脱出した患者とを合わせ計20人にものぼった。

一方、汚染地区の範囲はまだ拡大していない。・・・・

甲南病院では死者11人

汚染地区から脱出し9名が死亡

皮膚ペスト相次いで発見

防疫治療に漢方医も参加

学校は休校、旅館は休業

各鎮で予防策を講じる



*時事広報  1940年11月7日

「鄞県のペスト、防疫に望み」

防疫処、昨日発足

1週間で死亡47人

省防疫隊、本日到着

   以下省略



*寧海民報  1940年11月14日

(寧波発)寧波市東後街一帯で、今月初めにペストが発見されたが、

ペストは瞬く間に広がり、すでに多くの人が亡くなっている。

防疫処発足後、近く汚染地区を封鎖し、付近の人々を隔離し、ペストの予防注射を打つことになっている。

省の防疫班および中央防疫班が相次いで任務につき、寧波と奉化の間の交通は先日遮断された。



「浙江省金華市」

1940年11月27日 28日上空よりペスト菌散布
             死亡者 160名

中国の新聞を見てみます。

*寧海民報  1940年12月4日付

敵機、金華上空でペスト菌を撒布

[金華発]敵機は連日、本県上空で度々白い煙を放出していたが、

(11月)27日午後には白色の物体をも投下した。

本県のペスト防除活動を視察していた省衛生処の陳処長がこれを目撃し、

許県長にただちに捜索するように要請した。

28日の空襲の際も、2機が南門の外で同様な白煙を撒布した。

白煙には魚の卵状の顆粒があり、車夫陳宝慶の人力車の幌の上に落ちた。

広合順皮革廠の職員がそれを集めて化学検査のため民衆病院へ送った。

病院職員沙士昇氏はグラム染色法でグラム陰性桿菌を検出した。・・・・

顕微鏡による鑑定で、その形態が確かにペスト桿菌に似ていることで見解が一致した。

以下省略



[吉林省農安県]

1940年6月~11月にかけて農安県城16ケ所でペストが発生しました。

551名が発病し、471名が死亡しました。

http://www.oshietegensan.com/war-history/war-history_k/7469/

1940年、日本軍資料 記事専用プリント対応ページ

最終更新日:2014/12/28 9:45

前回は1940年の細菌戦の実態を書きました。

今回はそれを裏付ける日本の正式資料です。

参謀本部作戦課 ・井本熊夫中佐の業務日誌から1940年分を見ます。

メモに近い書き方で、しかも暗号のように書かれていますので、「注」として解説を入れました。

不明な字は■としました。

井本日誌 (1940年分)

5月31日

「ホ号」

注:「ホ号」と書かれた部分の左側に、

  参謀本部・陸軍省・支那派遣軍・関東軍の上層部の名前が書かれています。

  「ホ号」とは細菌戦の意味ですから、陸軍全部が関係していた証拠でしょう。

参謀本部

沢田茂参謀次長・富永恭次参謀本部第一部長・岡田重一作戦課長

高月保作戦課作戦班長・荒尾興功作戦課員・谷川一男航空班長

松前末曾雄作戦課員・那須義雄編成動員課長・美山要蔵編成動員課編成班長

陸軍省

阿南惟幾陸軍次官・武藤章軍務局長・岩畔豪雄軍務局軍事課長

西浦進軍事課高級課員・松下勇三軍事課予算班長・他

支那派遣軍

西尾寿造軍司令官・板垣征四郎総参謀長・本多政材総参謀副長

井本熊男作戦主任参謀

関東軍

梅津美治郎軍司令官・飯村穣参謀長・秦彦三郎参謀副長・有末次高級参謀

中山源夫作戦主任参謀・他

6月5日

増田 荒尾と「保」を協議をした。   (注: 「保」「ホ」「ほ」「㋭」「O」は細菌攻撃の暗号です。)

実施時期は7月中

攻撃目標は浙かん沿線岸都市

実施部隊の指揮 支那派遣軍総司令部直轄

責任者は 石井大佐 (注:731部隊石井四郎の事)

実施方法 高度4000以上からの「雨下,ノミ」  (注:ペストノミを飛行機から雨の様に撒く事)

作戦に使用する飛行場は句容

6月28日

中央と「ホ」その他の連絡の為急遽上京することと決め(注:南京から)

7月2日

軍医学校に於て石井大佐以下と決定事項に関し確認的意味に於て更に一度打ち合わせを行

7月10日

荒尾興功作戦本部作戦課員と「保の件」で連絡

7月21日

午前石井部隊に於て「ホ」の打ち合わせのあと、

東京より命令下達するに付即時作戦の航空参謀上京すべき旨来電

杭州は思切りて偵察することに決心

7月22日

午前杭州に飛び斯要件偵察

旧(国民党の)中央航空学校を使用することに決定(注:現 杭州飛行場)

加茂部隊人員は残置(注:加茂部隊とは石井部隊のこと)

注:この作戦は延期になり改めて7月25日に関東軍からの「関作命丙第659号」 によって

  奈良部隊(実施部隊)に人員武器器材の輸送命令が出ました。

(細菌戦用兵器ノ準備及び使用ノ廉デ起訴サレタ元日本人ノ事件ニ関スル公判書類 より)

  この器材運搬に携わった陸軍軍属石橋直方の日誌

投下爆弾700発、自動車20輌、などを積んだ列車は

8月4日に南京の対岸浦口に着き、器材は船でいったん南京に運び込まれたのち、

8月6日に目的地の杭州市筧橋の旧蒋介石軍中央航空学校に運ばれた。

8月16日



杭州に於て連絡



1 命令の伝達



6 経費の出場所(ハルピンか南京かは総司令部に於て研究す)



12 目標の空中写真



13 消毒薬の請求



15 兵要地誌(攻撃目標到迄)



17 ○弾 15H(15発か)


8月28日


富永第一部長・荒尾作戦課作戦班員・美山編成動員課編成班長・松前作戦課員と

「ホ」についての連絡

8月30日

中支那防疫給水部の増田知貞中佐と「奈良部隊経費」「奈良部隊編成表提出の件」について連絡

9月10日

奈良部隊太田中佐、増田大尉と連絡

1 目標を10/9捜索す、

  寧波と衢県は目標として適当なるが如し

  金華は?(注:候補地の事と思われる)

2 第一回弾薬輸送の処遅る、数日中に到着の予定

  第一回「C」(コレラ)を「T](チフス)に改む

9月18日

二 奈良部隊との連絡

1 開始遅延の理由

2 弾薬は航空中のほか陸上輸送も合わせおこなうこととなれり

3 福島雇員戦死情況

4 製産量は1日10Kg(C)

  (T)はそれ以上

                (注:(C)はコレラ菌  (T)はチフス菌の事)

5 目標、寧波 は可なり(付近部落1K平方に 1.5)

     金華,玉山は1キロ×2K(付近部落1Kに 0.7から0.8)

山本参謀より

1 希釈せしめたる弾薬を広く行うものと、濃度大なるものを回数少なく落下する場合とあり、

  後者の為に、目標を 温州に選定す(台州,温州,麗水)

2 雨下法決定の為に落下傘使用の件

  寧波の海上案

3 航空写真機1個借用

4 筧飛行場の使用に関する件

  他部隊の使用は遠慮すべきこと、その他連絡のこと

5 地図を渡す件

6 謀略関係事項

  之が用法に関する件

10月7日

細菌戦(実施)の報告

一 奈良部隊の状況聴取

山本参謀、福森少佐、太田中佐、金子大尉、増田大尉

1 輸送 今までに6回(内船2回)

  空輸は各その日に到着、船は6日を要す、将来は航空機を可とす

2 今までの攻撃回数6回(別表により説明)

(注:1940年9月18日から10月7日までに6回の細菌攻撃をしたという事です。)

  ノミは、1g、約 1700

3 効果の判定を期待す

  密偵

4 気象諸源は杭州に於て測定して之を現地に移すこととし、

  落下傘を使用せざる如くす(寧波に対してのみ)

5 温州は雨下の目標となるも台州等は不適当、

  但し温州を攻撃する場合は気象諸原決定は傘を使用せざれば困難なり

6 (山本参謀より)

  目標及攻撃法に融通性ある如くせられ度

  (決定)

  攻撃法を重複することを得

9 「ホ作戦将来(継続の見透)」

10月8日

実験は何時迄経ちても終了するものに非ず

12月になれば如何にするやを考慮し置くを要す

(12月には一応引上げて来年出直す)

Cは出ないと思う、Pは或いは成功するかもしれず

  (注:コレラは効果がないがペストは効果がある)

南方施策のため熱帯気候の場所に恒久的のものを施設するを可とす

台湾に設けるを可とすべし


10月8日に井本熊男は転任で南京を離れ参謀本部第2課に移りました。

11月25日

医校北條中佐Oに関する報告

「大陸指690号に依り試験は本月末を以て終了する如く指示を出さる」
           (注:1940年の細菌戦は終了ですが、作戦はさらにその後も続きます。)

11月30日


1 11月20日頃止める方針(総司令官)


2 之に対し土井大佐より12月まで如何と返


3 右に対し■■へも680号

  右申来れるとき突撃的としては石井大佐より

  何と云われても止める如くせられ度と意見具申あり

  (派遣軍に於ても制える考えあり)

  此時石井大佐来寧、お示しの通り終り電撃的に引上ぐる考えなりと申込あり、

  11月末日終了する事に異存なしと石井大佐答ふ

  (□撃部隊■■北条中佐立会い)

  22日の作業に関する希望あり

  実施の成果明瞭なる如く杭州、上海の中間に同案持参せり

  之を反復したるに承服せり、次で紹興、諸曁等を出せり

  土井大佐書翰をも示し次て金華を攻撃する如く協定成立せり

http://www.oshietegensan.com/war-history/war-history_k/8760/

1941年の細菌戦 記事専用プリント対応ページ

最終更新日:2015/01/03 11:02

1941年は前年の作戦の結果をふまえ様々な改善をする時期でした。

そして9月16日大本営から常徳に対する攻撃命令が出ました。



[湖南省常徳]

1941年11月4日 731部隊と栄1644部隊(南京の部隊)が合同で実施しました。

日本軍機が1機、早朝5時頃低空飛行し、常徳市市中心部に,

粟、麦、綿などと共にペストノミを投下しました。

投下地点は市の中心の関廟街、鶏鴨港でした。

直ちに投下物を検査し、防疫対策がとられました。

約1週間後に11歳の少女が死亡。

遺体解剖の結果ペストと判明したが、早期の対策をした為ペストは沈静化しました。

しかし翌年春、ネズミから2次感染は始まりました。

2次感染、3次感染を含め公式記録では死者100になっています。



*2002年8月、東京地裁判決から

出動期間  1941年11月

出動場所  南昌~常徳

出動人員  40~50名

現地指揮官  大田澄大佐、碇常重大佐

使用細菌  ペスト

撒布方法  上空から撒く雨下作戦

死亡者数  7,463人



*中国側証言 広徳病院検査技師 汪正宇

投下物の一部がすぐ広徳病院に届けられ

検査の結果真性ペスト桿菌,疑似ペスト菌が発見された。

11日から高熱,そけいリンパ腫,敗血症等で死者が出始めた。

直ちに大規模な防疫活動を実施し,

一旦鎮静化したが数ケ月後から2次感染などで患者,死者が相次いだ。



*日本軍人証言  川島清 731部隊第4部細菌製造部長

(1949年12月25日、ハバロフスク裁判公判記録から)

注:長くなるため国家検事の尋問は省略して答弁のみ書きます。

  尚原文はカナです。

  質問は簡単に()内に入れます。

◎まず私が第731部隊に勤務していた時期に就いて述べます。

 この期間を通じて第731部隊の派遣隊が中国中部における中国軍に対して兵器として

 殺人細菌を使用したことが1941年に1度、1942年にも1度ありました。

◎第1回目は、私が述べました様に、1941年の夏でした。

 第2部太田大佐が何かの拍子で中国中部に行くと語り、その時私に別れを告げました。

 帰って来て間もなく,彼は私に中国中部洞庭湖近辺にある常徳市附近一帯に

 飛行機から中国人に対してペスト蚤を投下した事について語りました。

 その様にして彼が述べたように、細菌攻撃が行われたのであります。

 その後太田大佐は、私の臨席の下に第731部隊長石井に、

 常徳市附近一帯に第731部隊派遣隊が飛行機からペスト蚤を投下した事

 及びこの結果ペスト伝染病が発生し、若干の患者が出たということに関して報告しました。

 さてその数がどの位かは私は知りません。

◎(派遣隊の人数に就いて)40人~50人位です。

◎(地域の汚染方法について)ペスト菌を非常な高空から飛行機で投下する方法であります。

◎(爆弾投下なのか蚤の撒布か?)撒布によってであります。



[浙江省義烏市]

細菌戦は直接攻撃したときだけに被害が出るわけではありません。

攻撃した地域で一旦流行が収束したように見えても、

伝播が次々と広がり他の地域で数年たってから流行することがあります。

そのような例が浙江省義烏市です。

前年に浙江省衢州市で行われた細菌戦が130km離れた義烏市伝播したものと思われます。

1941年の秋に義烏市の市街地でペストが流行り始め約200名の人が死亡したといわれています。

そして義烏市の周辺の村々にも流行は広がり1944年まで続いたといわれています。

*被害者証言  陳知法さん

まず兄が熱を出し、リンパ腺が腫れ、喉が渇き、亡くなりました。

その後、父が発病して亡くなりました。

私は同じ家に住んでいましたが別の部屋にいました。

この病気に罹ったら、みんな怖くて医者にかかりませんでした。

兄も父も埋葬するだけで葬式はしませんでした。

埋葬は母が葬儀屋を呼んで1人で行いました。

私の家のまわりでも30人ぐらいの人が亡くなりました。

伝染すると怖いですから、誰も見ませんでした。

私の家は貧乏でしたから、その後の生計は母がたてていました。



[浙江省行政資料]

*浙江省第4区行政監査兼保安司令署上申す

字第273号民国 1942年1月22日発

  注:1942となっていますが内容は1941の事です。

概要 本区義烏と東陽2県のペストの予防を治療及び近隣各県の防疫の状況を申上げます。

 詮議の上、何卒よろしくお願い致します。

本区の義烏県市街区北門で、昨年(注1941年)10月8日にペストが発生した。

本署は通知を受け、直ちにペストが蔓延しないよう、義烏県には適切な予防と対策を行い、

かつ近隣各県には緊急に防疫に努めるよう電報で命令すると共に人員を派遣し指導に当たった。

以下、これらの県のペストの発生と防疫の状況について申上げます。

1 義烏

当県市街区北門13保で昨年10月2日に5匹のねずみの死骸が発見され、

その後毎日大量のねずみの死骸が発見されるようになり、

8日には住民2人が急死した。・・・・・

防疫経費不足のため、防疫計画にそった適切な対策を実行することができず、

又民衆の防疫知識不足のため、伝染病発生地域はにごとに拡大し、・・・・

昨年の12月の末までに118名の死者が出た。・・・・

今月5日に蘇渓鎮徐界嶺のペストが蔓延している地域の住宅20数戸全部を焼却し、

現在ではペストの勢いは弱まりつつある

2 東陽

当県の山岳地帯(魏山区)では、昨年11月25日にペストが発生し、

最初は八担頭村1村だけだったが、村の橋の所まで蔓延した。

その原因は、当地のものが義烏でペストにかかり逃げ帰り、

次から次へと感染したもので、昨年12月末までに40名が亡くなった。

   以下省略

3 金華  省略

4 蘭谿  省略

5 浦江  省略



*浙江省第6区行政監察専員公署・保安司令部 代電

                民国30年(1941年)8月25日 部字8号

事由 有毒細菌を撒布する敵の挑発に関する命令の伝達

各県県長、第1、2中隊長へ  黄省主席末廻勤電によると、

軍令部電報が、「報告によると、敵の特務機関長宮崎少将は

近々第1、第2両特務隊60人を召集して有毒細菌撒布を組織し、平吉少尉が率いる。

隊員の多くは華人と台湾人で、夜間船で寧波に行き、それぞれ有毒細菌を撒布する。

同隊はペスト菌、腸チフス菌、コレラ菌、ジフテリア菌などを携帯する。

隊員は商人に扮し、上海~寧波間の偽造イエズス会身分証明書を携えているとの事である。

これを注意深く摘発するよう命じられたい」

とのことなので、それぞれに打電するほか、所轄の県機関が一体となって

摘発にあたることが肝要であるとの命令を伝達するということであった。

注:宮崎少将は1940年12月2日に着任した上海特務機関長宮崎繁三郎のことで、

  第13軍特務部との共同作戦を行う情報担当者である。

http://www.oshietegensan.com/war-history/war-history_k/7471/

1941年、日本軍資料 記事専用プリント対応ページ

最終更新日:2016/02/01 14:47

*井本日誌 (1941年分)

1月15日

渡辺参謀から「ホ」の件

媒介物を欲す

補給手段

適当なる容器が必要(取扱を簡易にす)

実用の際航空部隊にやらせるか、特殊部隊とするか

重爆にて夜間攻撃にて奇襲的に実施するを可とすべし

2月5日

㋭の研究

作戦経過

将来運用法

仮想作戦方針

外国の非難等に対する責任を誰が負うか

医務局

中留金蔵・金原節三医事課員・渡辺甲一衛生課長・鎌田調医事課長

石井部隊

石井大佐・太田澄・山本参謀・福森・碇常重・金子順一・野崎

北支那防疫給水部

西村英二・板倉

2月7日過ぎ

北支現在の装備

14年秋 21万円 細菌兵器の研究に資する如く施設を始め9分通り完成

ロックフェラ-接収計画を樹立しあり

     (注:中国名協和病院のこと)

「□□」と連絡しあり

彼は日本軍より利用するという意向を明示せば明渡すの已む無し考えあり

セイカ大学の建物位置共に格好の位置なり。

いまや米より支那側に渡しあり

軍との諒解は之から利用する如くつきあり

弾薬、5kgは現在の施設をもって製作可能なり

ノミの製産に援助し得る如く希望す

3月25日

早川少佐から㋭の確立の為雨下器 14万円の連絡

3月26日

石井部隊に行き研究を見

予算の問題 膨大すぎる

台湾、平房等に関する計画も膨大すぎる

9月1日

増田中佐から9月一杯に実施を希望す

之は実施することとす

9月5日

㋭に関する連絡

大体やる決心で行く

9月12日

㋭の件

大体之で行く

9月15日

㋭の件決定


9月16日

㋭の大陸指発令

11月25日

長尾(注:正夫支那派遣軍)参謀より㋭の件

11月4日 朝目的方向の天気良好の報に接し97軽1機出発

0530出発 0650到着

霧深し Hを落として捜索、H800付近に層雲ありし為1000m以下にて実施す

(増田少佐操縦、片方の開函不十分 洞庭湖上に函を落す

アワ36kg、その後島村参謀捜索しあり

11月6日 常徳附近に中毒流行

(日本軍は飛行機1機にて常徳附近に撒布せり、

之に触れたる者は猛烈なる中毒を起す

11月20日頃 猛烈なるペスト流行各戦区より衛生材料を収集しあり

(注:患者や死者から組織を切り取って集める事)

判決

命中すれば発病は確実

12月2日

宮野大佐から「常徳を中心とする湖南にては「ペスト」猖けつを極めあり」

12月22日

増田少佐より(ホ)

1.部隊の士気上る アワに対する自信

2.主要兵器  アワ第一

  使用機 99式LB  百型偵察機

  高空雨下の場合は航空炸裂弾

3.実施時期来年 6月以降 (8月 10月)

4.人員可能 ラット

30万手に入る見込,設備も大体可

5.20Kg作る為の装置は現在即可能

6.北支には石油缶2万あり

 人と金あれば10-20Kgは出来る

 中支は鼠に困る,(種ノミはある)

 南支にも種鼠はある

7.ウヂ弾は7000(信□2000)あり

  ロ弾(著地19000発)

  ハ弾(1350発)

  サニ弾(3000□□の為)

  □□□□(1万3千円分必要

  ウ弾(雨下用)3000発(同上)

http://www.oshietegensan.com/war-history/war-history_k/8637/

1942年の細菌戦 記事専用プリント対応ページ

最終更新日:2015/01/24 12:21

1942年4月18日、アメリカ軍はB25爆撃機で東京・名古屋等に空襲を開始しました。

驚いた日本軍は、爆撃終了後、B25が戻った中国の飛行場を破壊する計画を立てました。

これが浙贛(注:字が難しいので以降「浙かん」にします)作戦です。

*戦史叢書 昭和17・18年の支那派遣軍  防衛庁防衛研究所戦史室

浙かん作戦は「せ」号作戦ともいわれ、

昭和17年4月18日のいわゆるド-リットルの日本本土空襲隊が、

着陸を予定していた衢州飛行場を始め浙江省の敵飛行場を覆滅するため、

急遽、第13軍は約6ケ師団をもって5月中旬杭州付近から、

第11軍は約2個師団をもって5月末南昌付近からそれぞれ攻勢を開始し、

遠く江西省東部まで進攻し、衢州、玉山、麗水等の飛行場を覆滅し、

浙かん線を打通するとともに、軌条その他各種軍需資材を押収、後送し、

8月半ばから反転を開始し、9月末に終わった作戦である。

*第13軍第22師団砲兵第52連隊第2中隊の歩み  から

作戦目的は浙かん鉄道沿線の敵兵力の撃滅。

衢州、玉山、麗水等飛行場の壊滅。

蛍石等の鉱物資源の獲得。



この作戦の期間は1942年5月~9月末です。

第1期  4月30日~5月29日

杭州、紹興、寧波を結ぶ線から蘭谿あたりまで侵攻

第2期  5月30日~6月15日

6月7日に衢州を占領。あとにここに現地司令部を置いた

第3期  6月16日~8月14日

最南端の広豊・広信まで侵入し駐留

第4期  8月15日~9月30日

反転作戦

*第13軍作命第176号、第179号

軍は8月×日主力を以て反転を開始し、

随時反撃の態勢を保持しつつ一挙に衢県附近に兵力を集結せんとす

・・・・・×日を8月19日と定む

*大陸命666号

金華要塞を確保せよ



日本軍は5,000人の部隊で金華、永康、縉雲、麗水から雲和まで侵行しましたがうまくいきませんでした。

その後ここで日本軍は細菌戦を実施しました。

*2002年8月、東京地裁判決から

出動期間  1942年7月~8月

出動場所  杭州~金華

出動人員  60名

現地司令官  石井四郎少将、村上隆中佐

使用細菌  ペスト・コレラ・炭疽菌

撒布方法  穀物に混入して撒く

死亡者数  2,386人

この細菌戦は秘密の作戦だったため、

知らされていなかった通常の日本軍は汚染された地域に踏み込み多くの被害を出しました。

日本軍の1万人がコレラ・赤痢・ペストに感染し、1200人以上の兵士が死亡しました。

*日本軍人証言  川島清 731部隊第4部細菌製造部長  (1949年12月25日、ハバロフスク裁判公判記録から)

長くなるため国家検事の尋問は省略して答弁のみ書きます。尚原文はカナです。

◎1942年6月第731部隊長石井中将は、部隊の幹部を集めて、近々中国中部派遣隊が編成され、

 これは細菌兵器の最良の使用方法の研究に当るはずであると我々に語りました。

 この派遣隊は、日本軍参謀本部の命令によって編成され派遣されたものでその主要な目的は、

 いわゆる地上汚染方法、即ち地上における細菌の伝播方法の研究でした。

 ついで、中国中部に特別隊を派遣することを命じた関東軍司令官の命令が出ました。

 その命令に基づいて、第731部隊長石井中将は、部隊の幹部を集めて、

 実際上如何にこの派遣を行うかについて打合せをし、

 その際この派遣隊工作の実施計画の作成は、第2部長村上中佐に命ぜられました。

 この特別隊の人数は、100名から300名までになる予定でありました。

 そして、ペスト菌、コレラ菌、パラチブス菌が使用されました。

 6月の末から7月の初めまで、派遣隊は数班に分かれて、

 飛行機及び汽車で南京「栄部隊」に派遣されました。

 派遣隊の細菌工作は、中国中部における日本軍の浙かん作戦と平行して行われる筈でした。

 作戦の時期は7月の末と指定されました。

 しかし、日本軍の戦略的退却を意味していた浙かん作戦の実施が若干遅れたことに鑑み、

 この細菌作戦は8月の末に行われました。

 第731部隊のこの中国中部派遣は「栄」部隊を基地とし、同部隊に拠点を創設しました。

 細菌作戦は、玉山、金華、浦江の諸都市付近一帯で行われた筈でありました。

 この作戦が終了した後、中国人に対してペスト菌、コレラ菌、パラチブス菌が

 撒布方法によって使用された事を私は知る様になりました。

 ペスト菌は蚤によって伝播され、

 他の細菌はそのままの型で貯水池、井戸、河川等々の汚染によって伝播されました。

 細菌作戦が全く計画的に実施され、完全に成功したことを知っていますが、

 この作戦の結果に関する詳細は、私には不明であります。

 作戦が成功したことは石井中将の言によって知っています。

◎(第4部の役割は)第4部は第731部隊の派遣隊に細菌を確保せよという任務を受け、

 これらの細菌は130kg準備され、飛行機で中国中部に送られました。

◎(細菌の種類は)我々はパラチブス菌と炭疽のみを製造しました。

◎(梅津大将の命令書を自分で読んだか?)はい、読みました。



*日本軍人証言  榛葉修  栄1644部隊九江支部 国民党戦犯裁判資料

42年6~7月浙江省金華付近を中心に、コレラ、チフス、ペスト、赤痢を撒布した。

中国軍の撤退は大変速やかで、日本軍は撒布地域へ入りその地に宿営した。

そして付近の水を飲用した結果多数の者が感染し、伝染病にかかった。

その結果杭州の日本陸軍病院は、日本軍兵士の伝染病患者で一杯で毎日3名から5名は死んでいた。

8月には病院の内も外もアンペラを広げて数千人を収容していた。

患者10000人以上死者1700人以上出してしまいました。



*日本軍人証言  通常部隊の歩兵  嵐兵団歩兵第120連隊史

注:一般の日本兵は細菌戦を中国の作戦だと思っていたようです。

目指す衢州方面は、ペスト・コレラなどの悪疫が猖蕨獗を極めているとのことで、

三種混合注射とかホ-ソウの接種を繰り返し受け、

ほとんどの兵隊は化膿高熱で戦争前に病魔との闘いであった。・・・・

悪疫の流行に加えて敵の毒物謀略

(飲料水、飲食物に毒物を入れて飲食者の毒殺を計る)に対する警戒が幾度か報ぜられ、

弾丸で死ぬか毒で死ぬか、戦々兢々、食事に箸をつける前に

色、匂い、味、煮炊きしたものかどうかなど吟味もまた戦争の一片であった。・・・・

敵と戦い、水と戦い、そして「ペストあり」の貼り紙に驚かされながら、

最終目的衢州に肉薄したのは6月の中ごろであった。



*作戦各期の日本軍人死亡数  第13軍司令部浙贛(せ号)第4期作戦経過概要


期 戦病者 戦傷者 戦死者
第1期 829 723 281
第2期 983 1350 484
第3期 5291 609 442
第4期 4709 85 77
合計 11,812 2,767 1284

注:病気で死んだものも戦死者に一部含まれる

  戦闘より病気のほうが圧倒的に多い



*日本軍人証言  古都良雄  731部隊員  ハバロフスク公判資料から

私が参加した派遣隊の業務は、何かといいますと、

貯水池、河川、井戸、建物をチフス菌及びパラチフス菌によって汚染するという細菌攻撃でありました。

第731部隊は第4部で大量生産したこれら細菌をこの派遣隊に送りました。

細菌は、ペプトン用のビンに詰められていました。

これらビンは「給水」と表書きした箱に詰められていました。

これらは飛行機で南京に送られました。

私は細菌を充填した水筒を井戸、湿地、住民の住居に投げ込むことに参加しました。

当時そこには総数約3000人の中国軍の捕虜の収容所が2つあり、3000個の特製饅頭が製造されました。

饅頭の製造に派遣隊員が参加し、注射器で細菌が注入されました。・・・・・・

(命令で製造したビスケット)は卵形のものと細長い形の2種類ありました。

それは小麦粉で作られ、饅頭同様、細菌で汚染されました。

それはこのビスケットがどんなビスケットかをあらかじめ警告された兵士に渡され、

兵士は垣根の下、木の下、休憩地に置き忘れたかのように置きました。

その数は300個ないし400個であります。



[雲南省]

*証言  被害調査員  陳祖梁

1942年5月初め日本軍は「昭和17年ホ号作戦」に基づいて

雲南省昆明、滇西、保山を細菌戦第一重点目標にした。

柳瀬大尉が操縦する731爆撃機が昆明に細菌戦を行う一方で、

5月4日、日本爆撃機54機が保山を爆撃し、3~4百の爆弾、細菌弾を投下した。

数日後再び、保山付近の施旬の賑やかな町に細菌弾を投げた。

日本軍が投下してから数日後、保山、施旬にコレラが爆発的に流行し始めた。

たった2ケ月の間に保山でコレラに罹って死んだ人は6万人、施旬ででは1万以上に達した。

コレラは保山、施旬、昆明への道路に沿って蔓延していった。

そして雲南58の県市でコレラが流行発生した。

コレラの患者は12万人以上、死者は9万人以上だった。

日本軍は滇西を占領後、駐屯した防疫給水部はネズミを収集し、細菌を培養し、生体実験をおこなった。

撤退する前の日、感染したネズミを放ち細菌戦をおこなった。

これにより滇西16県でペストが流行し、死んだ人は焼く45万になり、

この2つの細菌戦で雲南では13~14万の民衆が殺された。



[浙江省雲和県]

1942年8月26日、 日本軍飛行機が2日間にわたって爆撃をしました。

その時かなり不発弾が多かったのが不思議がられていましたが,

実はそれらが細菌弾だということは後でわかってきます。

翌年から市内各地でネズミの異常行動や死骸が見られるようになりペストが発生してきました。

懸命の防疫活動や汚染地域の焼却にも拘らず被害は拡大し、赤痢や脳膜炎等も発生してきました。

1945年夏には飛行機で綿花,あめ,ビスケット,おもちゃなどを投下し

これによって肺ペスト、敗血症型ペスト、皮膚型ペスト等が流行しました。

被害 浙江省防疫センタ-の統計によると

雲和県では1943年から1945年でペスト等伝染病の

発生地点は183ケ所 患者2740人  死亡者1045人

又,雲和県の資料では、ペスト患者745人  死亡者537人ともなっています。

*証言  李洪波

7月に地上戦に失敗した日本軍は、

8月26~27日、雲和市街及び近郊への空爆を開始し、

同時に5平方キロの市街地に多量の細菌爆弾を投下しました。

明け方の朝霧の中3機の日本軍機が爆弾を落としましたが、

不思議なことにこれらの爆弾は衝撃を受けたのにもかかわらず爆発しませんでした。

恐らく細菌爆弾だったからだと思われます。

浙江省防疫センタ-の統計によると、

1940~1945年でこの県でペストが発生した地点は183ケ所、

ペスト。赤痢を含む伝染病感染者は2,740人、

死亡者は1,045人となっています。

また1943年~1945年でペスト患者745人、死亡者537人とも報告されています。

間もなくして雲和県の町ではいたるところでネズミが死ぬなど異常な現象が多く現れた。

その後ペストが流行しました。



[浙江省麗水市]

あまり知られていませんでしたが、1997年からの「明らかにする会」の調査で

麗水での細菌戦が少しずつ知られてきました。

1942年から始まりましたが、期間が長いので一つの項目にします

季刊戦争責任研究第27号の手塚愛一郎論文を引用します。

麗水での細菌戦


細菌名

村数



1942年

1943年

1944年

1945年

1946年

1947年

合計


ペスト

87

発生

365

360

975

47

10

5

1762


死亡

352

351

927

47

7

3

1687


チフス

10

発生

120

28

14

162


死亡

120

28

13

161


コレラ

21

発生

126

21

47

1

195


死亡

120

19

45

1

185


炭素

27

発生

32

47

40

10

129


死亡

28

30

32

10

129


パラチフス

1

発生

4

4


死亡

1

1


合計

101

発生

647

456

1076

58

10

5

2252


死亡

621

428

1017

58

7

3

2134


注:使用された細菌の種類が多いことが特徴です。

  日本の敗戦後にも被害が出ていますが、潜伏後の再流行だと思われます。


麗水各地の被害の内容

*天寧寺での被害

天寧寺は城関鎮から車で20分ほど、現在は市街地の外れの一角になっている。

麗水飛行場の北側に位置し、日本軍はこの幹線通りを使い麗水から撤退した。

天寧寺には、1942年9月まで日本軍が駐屯していた。

日本軍の撤退とともに、高熱やリンパ腺が腫れ、悪寒をともなう病気が発生した。

それまで天寧寺ではこうした症状の病気はなく、

症状から見てペストによる細菌戦が行われたと考えられる。

ペストは9月に発生し、12月まで流行が続き、天寧寺、官屋基、和尚崗等で計62名が死亡した。

この3つの村の当時の人口は140名程度であるから人口の半数近くが犠牲になっている。

*水東村での被害

水東村は、麗水飛行場の東部にあり、車で10分足らずの距離にある。

すぐ近くには現在の麗水駅がある。

水東村には42年、日本軍が撤退したことがあり、村人は日本軍の侵攻とともに山に逃げた。

日本軍の撤退後、下痢、嘔吐、けいれんなどをともなう悪性の伝染病が発生して、70名余りが死亡した。

当時の人口は400名余りである。

水東村には村の入り口と出口に2つの井戸があり、

村人は村の中心を流れる河川の水を生活用水として使っていた。

コレラと思われる伝染病は、この河川沿いを中心に発生している。

*青林村での被害

青林村は麗水飛行場の東北にあり、やはり車で10分~20分ぐらいの距離である。

日本軍は駐屯していなかったが、連日のように日本軍が入ってきて食料を略奪していった。

国民党軍は青林村にあった廟を弾薬庫として使っていたため、

日本軍は抗日の村と考えていたのではないかという。

日本軍は撤退するとき青林村を焼き払っていったが、

その後にはビスケットやごはんの固まり、調理済みの豚肉等が置き去りにされていた。

ごはんのかたまりを持ち帰り、子どもに食べさせたところ、

翌日から下痢と嘔吐を繰り返し、2週間後に死亡した。

田にも高熱や下痢の症状で村全体で60名余りが死亡した。

また、近くの畑等で作業をしていたところ、足等に潰瘍ができたという

炭素菌被害ではないかと思われる証言もある。

*小木渓周辺の被害

小木渓は城関鎮から車で1時間弱の距離である。

この周辺には1942年と44年の2回、日本軍が来ている。

高熱、けいれん、リンパ腺の腫れなどペストと思われる伝染病が発生したのは、

小木渓だけが42年、その他の麻地脚、朱田背、白嶺脚、大坑口等の地域はそれぞれ44年である。

小木渓では、22名、他の地域では25名が死亡している。

*前垟での被害

42年日本軍が侵入したとき、国民党軍前垟を通って雲和に撤退した。

前垟に日本軍が駐屯し、42年8月に撤退した。

その後、10月までペストと思われる伝染病が流行した。

      以下省略



[浙江省玉山市]

浙かん作戦は9月末で作戦を終了し、金華に向けて撤退しました。

その時に細菌を撒布して撤退しため被害が出ました。

それが、玉山、江山、広豊です。

8月19日,日本軍の撤退時にペスト・コレラ・パラチフス・炭疽・マラリアと思われる菌を散布し,

井戸に投げ入れ,空より投下しました。
                死亡者 300人

*被害者証言  祝腮菊さん

日本軍は玉山から撤退する時、井戸に細菌の入った灯油缶2個を投げ込んだ

この井戸を使っていた村人の大半が嘔吐、下痢、身体中に潰瘍が出来て死んだ。

同じ時、日本軍機はノミも大量に落とした。

私の家族は13人のうち10人が死んだ。

*証言 元 衛生兵 古郡良雄

玉山周辺でチフス菌とパラチフス菌の入った水筒を貯水池,河川,井戸,家屋に投込んだ。

また3000人の中国兵捕虜に細菌入りまん頭を食わせて釈放。

細菌入りのビスケット等を日本兵が置き忘れたかのように木の下、休憩地などにばらまいた



[浙江省江山市]

1942年8月、日本軍は江山市を撤退する時、7つの集落にコレラ菌入りのモチやマントウを配ったり道に置きました。

野良仕事に出て不在の家には、道端にカゴに入れて置いた。

これを食べた村人は激しい嘔吐と下痢に苦しみ老人や子どもを中心にして100人近い人が死んだ。

また日本軍は井戸に細菌入りの瓶を投げ込んだり、米に細菌を付けたりした。

死亡者 82人

*証言 江山市路陳村 鄭蓮妹

8月退却時にここを通った日本軍は,さも自分たちが置忘れていったかのように,

月餅の沢山入った竹籠を置いて入ったのだ。

村人は食べるものが少なかったので,持帰って食べた。

私の家では食べた3人がその夜次々と腹痛に襲われ,

翌日の夕方下痢と嘔吐で苦しんだ母が死んだ。

それから叔父も弟も死んだ。

当時この村の人口は25人だったが,10人以上も死んだ。

*証言 同じく  頼清泉

日本軍が江山から撤退する時に,中国人を手先に使って,米のおむすびを配った。

街に出ていた母はそれを3人の子供たちに食べさせた。

子供思いの母は自分が食べないで子供に食べさせたのです。

そして母は助かり,私の兄弟(9歳,7歳,4歳)は死んでしまった。

私はその時日本軍の使役をしていて留守だった。

*被害者証言  鄭蓮妹さん

私の家の前の道ばたに餅がたくさん入った竹カゴが置いてあった。

当時、村人は食べるものが少なかったので皆で分けて食べた。

私は口に入れたが、嫌な臭いがしたのですぐに出した。

食べた叔父、母、弟たちは激しい下痢と嘔吐で苦しんで死んだ。



[浙江省常山県]

1942年日本軍が撤退時コレラ菌等を散布しました。

1943年に死亡者 1506人

2次感染で1944~1946に死者 5000人



[江西省広豊市]

1942年8月19日  日本軍撤退時にペスト菌散布しました。
             死亡者 数十名

*被害者証言  祝秀菊

1942年8月、日本軍は撤退する時にペスト菌を撒いた。

町の中心街の東街田里では数十人がペストで死んだ。

私の夫も腋の下のリンパ腺が大きく腫れ、

高熱で苦しんだ末に死んだ。



[浙江省義烏市崇山村]

ここは直接の攻撃ではなく、前年の義烏市の伝播による発生だと思われますが、

9月に飛行機で撒布したという証言もあります。

1942年9月ペストが大発生し、多くの村民が死亡しました。

1998年5月の調査時点では、この時の約3ケ月で396人が死亡していたことになっています。

1940年の衢州市への細菌戦から見ると3次感染でしょう。

10月中旬に南京の1644部隊が村に入り、村民に注射をしたり、人体実験を行いました。

日本軍は村に火を放ち財産もろとも焼却しました。

*証言  応国元  義烏市地方疫病防止弁公室主任

1942年11月16日、日本軍がペスト防疫という名目で

トラック2台、100名ぐらいでやって来ました。

日偽軍(日本に協力する中国軍)も出動して

崇山村を包囲して機関銃によって無防備な一般村民を銃殺しました。

民家にガソリンをかけて、あるいは薪や枯れ草に火をつけて燃やしはじめ、

民衆を家から駆り出しました。

焼却した民家は400軒あまり、死亡者数400にんほど、これは義烏県史による記録です。

この焼き打ちの前にペスト感染がありました。



*被害者証言  王栄良  崇山村元書記

1942年9月になって白い煙を吐く飛行機が村の上空を西から東へ村の上空を飛んだという人もいます。

何日かして死んだ鼠が見つかるようになりました。

最初に死んだのは王化樟です。9月5日です。発病して4日で死にました。

      (注:中国の旧暦です。西暦では10月14日です)

我々のむらでは19世帯で発病し、その全員が死亡し、毎日死体が家の外に出されました。

私の家族11人のうち8人がペストで死んだ。

全員が腕の付け根、首のリンパ腺が腫れ、高熱で苦しんで水をくれ、水をくれと叫びながら死にました。

叔父は頭からすっぽり白い服を着た日本兵に注射を打たれました。

日本軍は10月(旧暦)頃、家に火を放って燃やしました。



*被害者証言  王潤華

当時、私も発病しリンパ腺が腫れあがり高熱で苦しんでいました。

しかし、父親から林山寺に連れて行かれると

腹を切られるという話を聞いていましたので敢えてペストにかかたと言わないでいました。



*日本兵証言記録  第86連隊H軍医

南京防疫本部から将校以下の調査団が来隊。

護衛の兵隊までペスト防疫衣という白装束、眼だけ出しゴム長を履いて部落へのり込んだ。

病人はみな鼠蹊部のリンパ腺が手のひら大に腫れている。

調査隊は新しい墓地から死体を掘り出し、

顕微鏡下にペスト菌を見たときは何ともいわれない恐怖感に襲われた。

部落は焼却し、調査隊は意気揚々と南京へ引き上げた。



*日本兵証言記録 近喰秀大 栄1644部隊第1課

医学と心理学のかけ橋に関する回想「防疫医学第19巻第11号 1972年」から

昭和17年10月中旬、中支浙江省義烏県松山部落(注崇山村のこと)に不明疾患の爆発的発生があり、

急速に拡大の傾向が見られているとの報告に接した。

わたくしはその頃南京の防疫本部に勤務していたが、

軍命により急いで臨時防疫隊を編成し現地に赴いたのである。・・・・

部落民の総数は約3,000名で、

この1週間以内に不明疾患に100名近く罹患し、30名近く死の転帰をとったということであった。

路地をはさんで各家の戸は堅く閉ざされ、

扉の上や周囲の壁には煤や朱色の手形の印が塗りつけられ、

所々に疫神と書かれていた。

静寂で陰気な雰囲気につつまれて、何処からともなく選考の臭と煙の流れとが漂ってきた。



*日本兵日記 林篤美  中支那派遣軍軍医  1942年分

11月7日

高山中尉の調査せる情報によると、

義烏西南10キロメ-トル松山(注崇山村のこと)付近にペスト患者発生しある模様にて、

本朝8:30出発、4中隊より長以下5名の護衛をもらう。12:00松山着。・・・・

種々と調査せるに、細菌1ケ月間に高熱、リンパ腺腫脹を伴い、

2~7日にて死亡する流行病あること確実にして、略々ペストと認められる。

住民の先導にて1民家の農民の細君を診る。

左側鼠頚部及び股リンパ腺鶏卵大腫脹あり、2週間前より痛みありと。

11月11日

・・・・夕刻、突然南京防疫給水本部より近喰大尉、伊藤大尉等約20名来隊。将校3名、将校宿舎泊。

ゴタゴタする。

11月16日

10:00~11:00診断。

下士候隊に妙な××の患者を発見。

花柳病は全く否定す。

現在の状況にてはpestを疑うこととし、発生家屋を遮断する。

午後2~4時、防疫会議。

第3防疫給水部長山下大尉来隊。

会議の結果、結局松山部落は焼却することに決定。

本日正午、松山村に発生せる不明伝染病は「ペスト」と決定す。

師団軍医部原少佐来隊せらる。

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最終更新日:2015/01/31 12:20

1942年になると、米軍による空襲が始ったため,その発進基地を叩くために細菌戦も増えます。
作戦目的は「浙かん鉄道沿線の敵兵力の撃滅です。

*衢州,玉山,麗水等飛行場の壊滅。蛍石等の鉱物資源の獲得」
                 (第13軍第22師団砲兵第52連隊第2中隊のあゆみから)

作戦期間は4月30日から9月30日の5ケ月で4期にわけました
この作戦には南京の細菌部隊 栄1644部隊の多摩部隊が参加していました。

まず井本日誌、それから沢田茂中将日記を見てみます。

*井本日誌 (1942年分)

3月18日

「バタン」に対する㋭の件

東京1月 300kg-使用せば東京にて作る必要ありべし

「ハ」は南京、能力小なり

MC又はその他の輸送機2機を必要とす

これに必要なる人を十数名必要とす

「マニラ」に50-100名を置くこと(総、東京、関東軍より)

1000kg位を10回位必要?爆弾300発あるべし

(バタ-ン半島にいる米・フィリピン軍に対する細菌攻撃です)

4月12日

昭和17年㋭号指導計画

1.攻撃目標

イ.昆明

ロ.麗水・玉山・衢県・桂林・南寧(沿岸飛行基地)

ハ.サモア(撤退する場合)

ニ.ダッチハ-バ-

ホ.豪州要点

ヘ.カルカッタ

5月27日

㋭ 下打合

石井四郎少将・村上隆中佐・増田知貞中佐・小野寺義男中佐 ・田美保少佐

1.機密保持に注意する事

2.編成装備を具体的に計画すること

3.飛行機は「新散布器をつけた」99式双発機

4.本年使用可能な菌は

C(コレラ),T(チフス)  中出来

PA(パラチフス) 上出来

P(ペスト) 1/1000万ミリグラム迄向上せり

5.ペスト菌現在量は

平房2キロ

南京1キロ(ネズミ不足)

その他1キロ  合計4キログラム

6.友軍の感染防御と機密保持のため2個班をつけること

関連して石井少将からの要望

1.731部隊の細菌製造機関を増強すること

2.細菌戦実施のための中央機関を編成すること

3.国際連盟は放っておく事

4.軍医学校と731部隊の要員を中支那派遣軍に配属すること

5月30日

参謀本部に石井少将・村上中佐・増田中佐・小野寺中佐・増田少佐が招集

[参謀本部]第一部長[田中新一少将]より大陸指及注意伝達
                  (注:細菌戦実施の指令と注意が伝達された)

6月29日

増田中佐と連絡

ふ号(注:細菌戦用の風船爆弾のこと)

証拠隠滅の公算70%

部隊を作ること

50k以下なら精度相当に大

人事の件

7月6日

碇常重中佐来

支那㋭は準備出来た

天候之を許せば常時進出可能なり

7月15日   (注:支那派遣軍の中で細菌戦に対する意見対立がみられます)

後宮淳総参謀長-「兵害予防に対し特に懸念」

畑俊六総司令官-「(アメリカ軍が進出した)桂林.衡州に対し攻撃しては如何との意見」

沢田茂第13軍司令官-「稍々消極的…」

住民の侵入後を狙う如く無住地帯に施策す

(注:住民が逃亡した無人地帯に細菌を撒いて戻ってきた住民が 感染するようにする)

餅不足(注:ネズミが足りない)

実力攻撃は8月中旬以降と予定す

具体的には示されあらず

要するに㋭に対して信頼を持たず、厄介視ある現況なり、

将来相当に考慮せざるべからず

7月26日

石井少将閣下と連絡

(細菌戦の)Xデ-は8月20日の公算大

8月28日

長尾参謀からの報告「㋭ の実施の現況」

1  広信 イ.ペスト毒化ノミ

 ロ.ペストを野ネズミに注射して放す

広豊 イ.ペスト毒化ノミ

玉山 イ.ペスト毒化ノミ

 ロ.ペストを野ネズミに注射して放す

 ハ.米にペストの乾燥菌を附着せしめ,鼠-蚤-人間の感染を狙う

江山 a.コレラ菌を井戸に直接入れる

 b.食物に附着せしむ

 c.果物に注射

常山 江山に同じ

衢県 チフス,パラチフス ノミ

麗水 チフス,パラチフス ノミ

10月2日

次長電に依りて飛行機に依り実施する事は当分の間延期すべき旨

    (注:中国政府が日本の細菌戦を非難しはじめので参謀次長が延期命令を出したようです。)

10月5日

(浙かん戦における)地上実施に冠する実情

ペストその他はまず成功?

衢県T(チフス)は井戸に入れたるも之は成功せしが如し(水中にてとける)



次の沢田中将の記録を見ると沢田中将は細菌攻撃にかなり批判的だったことが 分かります。

*第13軍司令官・沢田茂中将陣中記録

(自衛隊防衛研究所  1942年分 静岡大学名誉教授藤本治氏論文から)

5月28日

乗馬にて諸曁を出発 蘇湲鎮に向う 義烏は細菌迄ペスト流行しありしを以て

同地の宿営を避け蘇湲鎮となしたるなり

6月16日

辻中佐(注:参謀本部作戦班長辻正信のこと)の言によれば

大本営は当方面に石井部隊の使用を考えあるが如し

反対なる旨開陳しおけり

日支関係に百年の痕を残す且つ又利益なく我方防疫の手続きだけも厄介なり

山中田舎の百姓を犠牲にして何の益あらん

6月18日

衢州司令部より得たる書類によれば、衢州は昨年迄にペスト大流行しありし事明瞭なり

防疫緊急の要事となれり


6月25日

石井部隊の使用、総軍よりも反対意見を開陳せしも、大本営の容るる処とならず

大陸命(注:天皇の命令)を拝したり、とならば致し方なきも、作戦は密なるを要す

苦き作戦□□人選を抑える処に総軍の力なかるべからず

遺憾なり

6月26日

軍の反転開始を7月末日とす

7月11日

石井少将連絡の為来着す

其の報告を聞きても余り効果を期待し得ざるが如し

効果なく弊害多き本作戦を何故続行せんとするや諒解に苦しむ

蓋し王者の戦をなせば可なり

何故こんな手段を執るや予には不可解なり

されども既に命令を受けたる以上実施せざるべからず
            (注: 細菌作戦が天皇及び軍上層の命令だったことがわかります。)

仍って次の3点に就て特に注意せしむ

1 秘密の絶対保持

2 □□の予防(注:自軍への感染と思われる)

3 飛行場は攻撃を向くる事

7月12日

石井部隊の行動要領を幕僚にて研究したる結果によれば到底秘密を保持し得ざるが如し

仍って作戦主任に命ずるに 石井部隊の行動を単に其の観察に一任する事なく

機密保持の見地より如何に行動せしむべきかを戦術常識にて研究決定すべきを命ず

8月16日

X日(注:大規模な細菌戦開始に日)を8月19日と定むる旨 命令す

8月22日

午前8時半より衢州飛行場破壊の状況を視察す

25日終了の予定

それ迄の使用延べ人員約10万にして 内半数は俘虜なり

9月3日

22師団の減員頗る大にして師団の半数は杭州地区の□□□□病院に在りて戦力著しく減少しあり

因って22師団の広報残置兵力が追及し

同師団の戦力恢復実現する迄軍主力は金華付近に留まるべきものと思考し

今朝参謀長へ之を明示す

(注:22師団が自軍の細菌に感染して戦力低下しているのです)

9月16日

午前第70師団司令部の初度視察を行ふ

引き続き同師団野戦病院、第40師団野戦病院、杭州陸軍病院の患者を見舞ふ

杭州陸軍病院長の報告によれば同病院の収容患者総数12,000余、

内空輸3,900、水路輸送7,000にして その治療に及ぼしたる影響は極めて良好

特に空輸は良好の成績を挙げ・・・・

    以下省略

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1943年の細菌戦 記事専用プリント対応ページ

最終更新日:2015/02/07 12:18

これまでの細菌戦で実験成果を上げる事に成功した軍は1943以降は細菌戦をあまり実施していません。

勿論中国をはじめとする国際世論の影響もあると思われます。

しかし細菌戦そのものはおこなっていませんが、

前年までに撒布して流行したペスト菌が各地に伝播して被害は出ています。

中国の浙江省がまとめた1943年度、ペストに関する統計です。

*浙江省1943年度ペスト感染者と死亡者統計

ペスト症状(患者) 患者のうち死亡者
龍泉 422 83
慶元 75 50
雲和 106 61
影寧 1 1
永嘉 4 1
青田 5 5
松陽 1 1
霊水(碧湖) 60 34
合計 674 246

注:1943年は金華、武義、東陽、義烏は日本の第13軍支配下のため統計には入っていません。

http://www.oshietegensan.com/war-history/war-history_k/7475/

1943年、日本軍資料 記事専用プリント対応ページ

最終更新日:2015/02/21 11:28


ここでは井本日誌ではなく、1937年8月から陸軍省医務局医事課員になった

金原節三大佐の陸軍省業務日誌摘録を参考にします。

金原摘録

4月11日

(731部隊の)指導方針は軍紀風紀の確立、

研究成果の向上、作戦準備の完成に置く

1943年度の研究事項

(第1部)基礎的諸元の研究。溢血熱の研究。4種混合の改良

  発疹チフスワクチン

(第2部)攻撃

(第3部)昆虫の駆除撲滅。防疫実施法の研究

(第4部)菌の大量生産。血清

(資材部)試験動物の需給計画

(治療部)保菌者の治療法研究

4月17日

ホ号打合せ(参本にて)

各防疫給水部の報告

(北支)

  粟100g、餅1,000。 9月末100kgの粟生産可能

  但し餅の追送を要す(計2万ケ、月々漸増)

(注:ノミの生産の為にネズミを増やすことです)

イ 餅の輸送の場合、船便による時は船待(神戸4日)の関係上

  相当の資料を要するのみならず、これがため3割の損耗を生ず。

ロ 研究を主体とし格好の試験所を獲得せり

(保機、防諜上も適当なり)

ハ 葡萄糖を使用し餅の節約となる。

  約1/2の数で可能なり。

  その粟の卵の保存法を研究し好結果を得たり

ニ 砂ネズミ(蒙古)

(中支)

イ 粟の生産、毒化を研究中。

  現在量5kg(餅を2万匹補給すれば2ケ月後15kgになる)

  期日を3ケ月前に予告されたし

  AT1機4,000、暑気には弱し

ロ 餅に3週間後にする法が最も良し。

  人血では減少。低音保存は不適。

ハ 米に対する攻撃(さんかめは虫)。

  使用前1ケ年を要す。人工増殖は困難なり。

ニ 粟の生産関係者を他に出さぬ様配慮せられたし

ホ 輸送10日以上にわたる時は不可

(関東軍)

どぶねずみトラッテとの混種を作りあり。増殖力大なり。

野ネズミには間々ペスト菌あり。

又野ネズミには犬じらみ、他の粟その他の虫を有し防諜上も不可なり。

(南支)

イ 餅、月1万ケ。月産10kg。7~8は発生不良。

  5,6,9,10が良し。

ロ 2月は補給現在迄2万

ハ エヂプトヌマネズミの2代目を作り、粗暴性緩和す。

  飼育馴化しあり。自変種にかわりつつあり。

ニ 葡萄糖を利用する等2/3の節用をなしあり。

(南方軍)

イ 昨年9月より研究を開始す。

  ケオピス粟は南方において発育良好なり。繁殖力も大なり。

ロ 南方では山稜地区に肺ペストあり(気温15℃)、海岸には腺ペストあり。

  一般に四季を通じ散発しあり。

ハ 南方のケオピス(ペストノミ)は硬度大なり。熱に対する抵抗も強し。

  アスファルト道路(45℃)では1分間で死亡するも、草原その他では2日以上生存す。

ニ 原法。使用場所小。使用人、餅麦。増殖率小。

改良第1法  南方に適

改良第2法  保存適

ホ 捕鼠は捕鼠器の約1割弱(南方1年を通じ同率で捕獲し得)。

  北方は時季により異なる。

ヘ 南方では気候の関係で四時増殖に適す。

  雨と日とを避ければ到る所飼育場となる。

ト 北方より輸入の鼠は馴化に1ケ月を要す。

チ 餅種を1回輸入すれば、あとは現地自活も可能なり。

リ 人員265名を要す。50kgの生産可能なり

会議はそのあと真田参謀本部作戦課長が話をし、懇談に移りました。

懇談の内容です。ネズミの補給に就いての懇談です。

(医校)

1 粕壁付近が主力となる。

  1軒30。4千軒で1組合(親1匹1ケ月2匹)。

  本年度予定埼玉47.5、茨城20.4、栃木6.45、計74.45万

2 埼玉県に飼料を補給せば20万増産可能。

  茨城県、栃木県は指導強化により10万程度増産見込み、

  最大産出見込100万

3 輸送の円滑にゆくのは関東軍のみ。

  南方軍には種を補給す。

  北満、南支特に予定せず。



次に1941年11月から同医事課長になった大塚文夫大佐の備忘録を参考にします。

大塚備忘録

11月1日 医務局会報 ホ号報告要領(石井少将)

10月19日参本より要求

結論

井本案 12000名 600万 1.2億万円

真田案 編成6000名 月200万餅 6000万円

(頂点に達せる場合)

縮小案 2000 月60万 1200万円

この案は現在あるままの案 効果はあまり期待できぬ

軍事課:やるかやらぬかわからぬ 攻防案立策が問題

  軍事課で課長以上に一席設け話をしたしとの事

対米英戦に対する判決(石井)-軍事課に提出せる

攻撃多量 先制

(中略)

国際的の問題を遠慮する事なし

◎米国捕虜 黄熱のワクチン注射をなしあり

意見 1 北中南、南方統合せしめたし

 2 南方防疫給水部改編、実施されたし

 3 地区内防疫委員会 防疫隊

効果 効果あり

ホ号による患者、77~90%は死亡す

研究

ビルマ、印、支那、ニュ-ギニア、オ-ストラリア、島嶼その他

機 27

□□□12機 攻撃は毎2ケ月に1地区

現在実績

農安県 田中技師以下6名

密偵によるは最効果あり

時限信管

1kgペスト 500~1000斃し得

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1944年の細菌戦 記事専用プリント対応ページ

最終更新日:2015/03/07 12:30

[浙江省温州市のペスト菌実験]

日本軍では普通の村で村人に対しペスト菌の生体実験をしています。

その記録です。

浙江文史資料「鉄証」-侵華日軍在浙江暴行紀実-から

1995年

*村を封鎖し予防接種

1944年9月19日、日本侵略軍・峰岸部隊約7~80人は、

隊長伊藤に連れられて楽清翁垟に進駐し、九房村、陳叔興の新しい村を接収した。

10月21日九房村を封鎖し、白いつなぎを着た数人の日本軍医療関係者が、

人々に予防注射を打ち九房村にペストが発生したといった。

九房村は300戸余1000人余りの人口で住居がかなり密集している大きな村だった。

*ペスト患者を次々[実験」に

間もなく封鎖地区内で予防接種をした人が予定通りペストを患い始めた。

しかしこれがペストだとは誰もわからず脇や太腿に肉団子のようなしこりが出来たと思うだけだった。

屋外のあちらこちらで黒いネズミの屍骸が見つかった。

白衣を着た日本軍医療関係者はいつも封鎖地区内を巡視し、

家の中からうめき声や子どもの泣き声がり、あたふたした村民を見かけると、すぐに入って検査をした。

村人の陳永盖は病気で床につき、日本軍医が検査した時に、リンパ腺が何ケ所か腫れているのが見つかった。

日本軍はすぐに命令して彼を前祠堂の実験所に運び込ませ始めての実験をした。

それから封鎖地区の疫病は非常な速さで蔓延し、病気にかかった者は100例近い。

このように5人が実験された。

*棺をこじあけて採取

封鎖が解かれた後も九房村は引き続きペストが発生し、後街・中街・前街でさえ感染者が出た。

半月ほどたった後、突然白衣を着マスクをした数人の日本軍医務員がやって来た。

かれらは1ケ月前に実験所で死亡した陳俊順と陳余千の母親の家族に案内させて、

棺をこじ開けて死体から何かを取り出し、ガラスビンの薬液の中に入れて持ち帰った。

実験で犠牲になった5人以外に病死したものは15人であった。

http://www.oshietegensan.com/war-history/war-history_k/8741/

1944年、日本軍資料 記事専用プリント対応ページ

最終更新日:2015/03/21 12:46

1944年の日本の資料は大塚備忘録から始めます。

大塚備忘録から

4月26日 陸軍省局長会報

石井少将より

5月1日研究報告 ホ号は如何

1キロペストを作るに12,500のネズミが必要だった

初期にこれが1割しか出ぬ

生産見込みが立たぬ故1割でやれと命令した

平均2,000で培養された、満州、最低2~3,500

学者を動員しネズミ増殖に関し研究せしめた

水の補給が生殖に重大

服部参謀本部作戦課長

シドニ-、メルボルン、ハワイ、ミッドウエ-、

ペストを1ケ月生かす様にせよ(潜水艦で)

参本

八紘一宇は云わぬ、防禦一点張りか、

対抗手段の為め利用は云わぬ

別名ははっきりした

機密保持

服部、高山、細田

上奏するや否や 親裁 臣下だけでやる

ガス 陛下は不可で許されぬ、

局長は上奏せぬが可といわれた

参本上奏せぬ事に決定した

局長の言であるが、総理大臣にも云わぬほうが可との事なり

それは困る、云ってしまった、隠す訳にはいかぬと参本と云った

石井

編成経過に就いては総理大臣にも云わぬ

ホ号にふれぬ

注:天皇にも総理大臣にも秘密で細菌戦を行おうとしていた

5月23日  (満州に出張した小出中佐の報告です)

チフス保菌者治療

胆嚢部超音波 サルバルサン注射が効果あり

サルバルサン、注射ワクチン-着手せんとす、

手術的治療-マルタ実験

膿菌を入れる、効果あり

ウジ弾

製作の希望あり、宮田参謀に申せり

予算と資材を申出よとの事なり

ホ号関係

高々度よりする集中攻撃 命中及濃度構成ありしが、

現在効果をあげる見込なき如し

ペスト生産 田中少佐の研究 餅の使用12分の1となる

丸太500名

局長、餅を犬にしては如何、犬を使用し実施しあり、

石油缶を培養缶に代えあり

今冬より春にかけ演習成果

丸太使用実験は中央として大いに全軍的に重要な事を解決せしむる為なり

発疹チフス予防施療液

5万人を有す

関東軍は労務者に使用しあり、効果ある如し

7月5日

細菌戦=(ビアク、サイパン島に使用せば如何)

1 可能なりや、ある程度可能性

  (小出)限定せる地域に限られやる、ある程度医学的には効果あり

  地域、時間、一部この案を用いるも時期的、□□的に制約せず

  整備命令 月産50~50kg

3 報復手段を考慮の要あり

  報復 細菌戦  ガス戦

4 敵軍に対し作戦したる場合の効果判断

  作戦を不可能にならしむる如きは望み得ず

注:日本軍が全滅したサイパン島に細菌攻撃をする計画です

7月22日

杉山大将

関東軍防疫給水部を作りしは非常に際した、用いる

参謀長時代

ホ号は実施て可、ただし良民を傷つけしは不可



そんな事は出来ぬ、Fも味方も玉砕だ

この条件附けてやれ

御上に申上げるは考慮を要すと

細菌は之を使わせて勝てるようにせよ

局長

ホ号の使用に関し尋ねられし場合如何に答ふべきや、

腹蔵なく意見を述べられたし

  注:天皇に訪ねられたらどう答えるか?ということですが

  案は出ていません。

サイパン大宮(グアム)取り戻すとして如何

局長

1平方米Px10疋とすれば1平方キロ米1040キログラムを用いる

8キロメ-トル138平方

半分消耗するものとしてPx約2トンを要す

重点攻撃とすると1/7~1/10

石井

新ウジ弾 装内ウジ弾2,000発を出し得

1キログラム入れて2トン

雨下には今後半年を要す

今1機あるも速度遅い

ウジ弾は8個積み得

250機必要

ただし2粁弾とすれば半数機で可

内藤

現生産能力は1ケ月にして200キロ

装備の見込立たぬ、約3ケ月を要す

これが為めに餅、人を送らねばならぬ、

サイパン、大宮島を同時にやれば4ケ月

局長

効果は現在としては如何

石井

サイパンは時期的には何時でも変なし、

始めは皆腺ペストなり、死す前肺ペスト

局長

感染の後肺ペストまでの時期如何

石井

潜伏期1匹で10日間、たくさんくわわれば4日

機密保持、絶対不可、今の中硫黄島、父島へ入れておく

雨下10機で200キロ

局長

敵は防疫処置しても防禦不可能や否や

石井

初期は防止し得ず、敵は最後は毒ガスで消毒する

予防接種は罹患にはきかぬ、ただし死亡率は20%くらい滅す



真田穣一郎少将の業務日誌

11月14日

ホ号使用に就き軍務局長と話合うこと、今からにても謀略的用法を考えては如何

11月21日

北野少将(50型ウヂ弾)

判決

その効果は確実にして人員に対し殺傷の効果を得られた、

ウヂ弾をもって高度500mより

○企画はどうしても暴露される

○チビリチビリ使用は不可、一挙に相当大規模に戦略的に使用が可

○関東軍としては相当大規模に整備させてもらいたし

11月28日

敵の戦意刃最攻勢喰止めに無理を承知で、非常手段、体当たり機の使用

近き将来における使用を顧慮し、有機的に統一ある準備

http://www.oshietegensan.com/war-history/war-history_k/7479/

1945年、細菌戦の中止 と日本軍資料 記事専用プリント対応ページ

最終更新日:2015/04/04 11:57

[浙江省雲和県]

1945年4月14~15日、撤退を前にした日本軍は、

ペスト菌を持ったノミを混ぜた綿、あめ、ビスケット、おもちゃなどを雲和県に投下し、

その後間もなくして、雲和の県城、貴渓、象山、赤石等の町や村でペストが発生しました。

不完全な統計でも義最者は1075名といわれています。



*大塚備忘録から

1月8日

局長より

宮崎第1部長-石井少将の件

大臣決済

1、ほ号作戦はやらぬ

2、原材糧で促進する

3、謀略的使用をなす事あり

  300kg-現在で出来る

局長

300キロ作らせる様発進するが可と思う

これが為主計、薬剤官を附けてくれと云うからやる

機構 ほ号の整備、補給

小出

現在の機構と人員では300キロは出来ぬ

満州 150キロ  餅22.5万、21万9千補給

満州で白餅1.0万

注:細菌戦が中止になったのです。

  しかし謀略的実施は中止されず増産は続けられました。

7月24日

(発疹チフスの診断液を作る為にネズミ増産の要望が出された時)

神林医務局長

ホ号は全面的に中止

注:大臣決済は1月8日ですが、実質的にはこの頃が細菌戦の完全中止の時期だと思われます。



*証言 松本正一  731部隊航空班

1945年8月11日だったと思うが、上官から証拠はただちに隠滅せよとの命令があったので、

格納庫、飛行機など全部燃やした。

それから、帰国のために残しておいた飛行機で瀋陽に行き、

そこで玉音放送を聞いて敗戦を知った。



そしてサイパンやグアム島に対する最後の最近攻撃の為約20人の部隊が出動しましたが

船が途中で撃沈され失敗しました。

また連合軍が上陸するのを待って沖縄や小笠原に細菌攻撃する案が出たりしましたが

これは実行に移されませんでした。

日本軍が守ってくれると信じ,結局切り離された沖縄は,

1994年1月の731部隊展でこの事実を知らされ

2重に裏切られたと大きなショックを受けたと報道されています。



又米国本土に対する細菌特攻作戦も計画されました。

「PX作戦」と呼ばれ陸海軍合同プロジェクトでした。
水上飛行機2機を搭載する水中空母と言う大型潜水艦を使用し,

米国の海岸で飛行機からペスト.コレラを散布し,乗組員も細菌を抱えて上陸すると言うものでした。

しかし細菌が足りなかった事と梅津美治郎参謀総長の反対で実現しませんでした。

*サンケイ新聞 1977.8.14

「細菌を戦争に使えばそれは日米戦という次元のものから,

人類対細菌といった果てしない戦いになる。人道的にも世界の冷笑を受けるだけだ…

そして細菌戦そのものが中止となるのです。

*1945年1月8日 大臣の決裁 ホ号作戦はやらぬ(大塚備忘録)



ここで長かった細菌戦は中止となりました。

戦後細菌戦に関する資料をすべて押収、独占したアメリカの科学者の次のような言葉があります。

「科学者としては,やりたい研究や実験は山ほどある。

しかし道徳や良心がある為にどうしても出来ない事がある。

しかし日本軍はその出来ない事をやってくれた。

その大変貴重な資料は絶対他国には渡せなかった..」


私たちの日常生活で使われる言葉に、「悪法も法である」「上の命令だ」「国の為会社の為」「皆で渡れば怖くない」

と言うような言葉があります。

そこには個人の自立した道徳観,良心はありません。

戦争や事件が起こったその場になってからでは道徳や良心は力がないかも知れません。

そうならないように政治や社会や環境や教育に,

自立した道徳や良心をもって日常の思考と行動をする。

この積み重ねが社会の悪化を防ぐ一つの方法だと思います。



最後に旧西ドイツのヴァイゼッカ-大統領の1985年敗戦記念日の演説より

過去の事実をなかったことにするわけにはいきません。過去を見ようとしない人の眼には,

現在も見えなくなります。非人道的な行為を心に刻もうとしない人は,そうした危険をおかしやすいのです。

人間はなにをしかねないのか….これを私たちは自らの歴史から学びます。

http://www.oshietegensan.com/war-history/war-history_k/7477/

対米決戦準備 記事専用プリント対応ページ

最終更新日:2015/03/28 10:04

日本軍では最終的には対米戦で最近攻撃を考えていましたから、

1942年8月に731部隊長に就任した北野政次は1943年4月に研究事項を出しています。

(金原日誌より)

第1部  基礎的諸元の研究。溢血熱の研究。四種混合の改良。発疹チフスのワクチン。

第2部  攻撃

第3部  昆虫の駆除僕滅,防疫実施法の研究。

第4部  菌の大量生産。血清。

      資材部 試験動物の需給計画  以下略

又1943年4月の陸軍省参謀本部で「ホ号打合」が行なわれています。

(医事課会報 4月17日付)

各防疫給水部と軍医学校は一斉に粟(ノミ)と餅(ネズミ)の大量生産をする事。

注:各防疫給水部とは  満州 731部隊, 北京 甲1855部隊, 南京 栄1644部隊

  広東 波8604部隊, シンガポ-ル 岡9420部隊

軍医学校は埼玉県粕壁(春日部)を中心にネズミ744,500の生産

満州 ノミ月産10Kg(9月末までに合計100Kg)

広東    10Kg    その他



それではアメリカ対する細菌戦は具体的にどのように計画されたのでしょうか。

証言を2つ書きます。

*証言  元下士官(72)と元初年兵(68)   1995年1月4日  神戸新聞

「米へ細菌特攻隊計画自ら感染ノミ撒布」

731部隊本部が終戦直前、隊員にペスト菌を持たせて

アメリカ本土に侵入させる「細菌特攻隊」をひそかに計画していた。

出発は、9月22日、目的地はアメリカ西海岸のサンディエゴ軍港。

4千トン級の潜水艦に特攻隊員(約20名)を乗せ、手前約5百キロのサンゴ礁に接近し、

片道燃料を積んだ艦載機で軍港の後背地に強行着陸。

隊員らは自らも感染源となってペスト菌を持つノミを周辺にばら撒く計画だった。

部隊内では、特攻計画は旧ソ連軍や沖縄戦に対しても行われるとの情報もあった。

*証言  元下士官(75)  731部隊でペスト菌の製造に加わった  1995年1月5日  神戸新聞

この特攻計画を知ったのは7月中旬のこと。

20年6月ごろからペスト菌の増産体制がとられ班員らは24時間体制で細菌培養にあたった。

これが特攻計画に向けての増産だということは7月ごろから直属の上司だった佐官級の技師から聞いていた。



米国本土への攻撃については、

このホ-ムパ-ジの「防疫給水部」の細菌戦部隊がおこなった細菌戦にも詳しく書いていますが、

PX作戦の「夜桜特攻隊」のことです。

攻撃は敗戦のため中止になりました。

証言にある沖縄攻撃も準備は進めましたが実施できませんでした。

このことも「防疫給水部」に書いてありますので参考にしてください。

http://www.oshietegensan.com/war-history/war-history_k/7481/

参考資料 記事専用プリント対応ページ

最終更新日:2015/04/04 11:58

週間金曜日          ㈱金曜日
季刊戦争責任研究       日本の戦争責任資料センタ- 各号
日本軍による細菌戦の歴史的事実を明らかにする会   会報各号

裁かれる細菌戦        同上会の発行

明らかにする会        会報 各号
中国の大地は忘れない     森正孝編 社会評論社

細菌戦が中国人民にもたらしたもの   日本軍による細菌戦の歴史的事実を明らかにする会 明石書店
中国侵略と731部隊の細菌戦       森正孝、糟川良谷  明石書店
証言・731部隊の真相          ハル・ゴ-ルド  廣済堂出版

公判記録 731細菌戦部隊       モスクワ外国語図書出版所 1950年

その他 新聞等

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