旧チベットは貴族階級が支配する封建奴隷制社会だった

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河口慧海が記録した旧チベットの実態


河口慧海(1866 - 1945)
日本人としては初めてチベットを旅行した黄檗宗の僧侶である河口慧海(かわぐち えかい、1866 - 1945)の著書『チベット旅行記』(旧題:『西蔵旅行記』)に書かれた1904年頃の旧チベットの実態。

同書の序章には「チベットより仏教を除去せば、ただ荒廃せる国土と、蒙昧(もうまい)なる蛮人とあるのみ」と書かれている。中国が統治する以前の旧チベットは仏教以外には何も誇れるものがない未開の社会だったのである。旧チベットがいかに未開で野蛮で不潔な社会であったかは本ページに掲載した同書の第三者視点による数々の記述によって客観的に証明されている。

この河口によるチベット訪問(1904年頃)以降から中国の統治が始まる時期(1951年)までの期間中にチベットが自力で近代化を成し遂げたとする信憑性のある一次ソースは一切ないし、河口のチベット訪問の約40年後にチベットを訪れた日本軍のスパイである西川一三(にしかわ かずみ、1918 - 2008)の著書にも河口の著書と同様の記述が多くなされているので、未開だったチベットを中国が近代化して発展させたことは疑いようのない歴史的事実である。

ちなみに河口は中国に対して何らの好意も利害関係も持たない人物であり、当時の日本では当たり前だったとは言え中国を「シナ」と呼んでいるので当然ながら「媚中左翼」などではない。当然ながら河口が書いた同書は中国がチベット問題の政治宣伝のために出版した本というわけでもない。同書はまぎれもない客観的な第三者による旧チベットの実態の記録である。

『チベット旅行記』の全文はこちらから無料で読むことができる(ただしとてつもなく長い)。同書は青空文庫に収録されている著作権切れの作品なので本ページを閲覧している皆様には転載や拡散も大歓迎である。是非、一人でも多くの人々にチベットの本当の歴史を知ってほしい。

日本軍のスパイである西川一三(にしかわ かずみ、1918 - 2008)らによる旧チベットの記録については「外国人が記録した旧チベットの実態」を参照のこと。



目次
1. 旧チベットは貴族階級が支配する封建奴隷制社会だった
2. 旧チベットの刑罰と拷問は極めて残虐だった
3. 旧チベットでは僧侶でない人々はまともに教育を受けることすらできなかった
4. 旧チベットでは悪魔払いで病気が治るという迷信が信じられていた
5. 旧チベットは英国植民地だった同時代のインドと比べても近代化が遅れていた
6. 旧チベット人は極めて怠惰で「五百人居れば四百五十人までは確かに屑」
7. 旧チベット社会を表す諺(ことわざ)、「人殺さねば食を得ず」
8. 旧チベットのラサ府は糞尿にまみれた不潔の都だった
9. 旧チベット人は大便をしても尻を拭わず、犬に人糞を喰わせていた
10. 旧チベット人は高等ラマ僧の糞尿を薬と称して喰わされていた
11. 旧チベット人は「糞を喰う餓鬼」だった
12. 旧チベット人は人間の死体の切れ端を麦焦しに混ぜて喰っていた
13. 旧チベット人は体中が垢で真っ黒で、垢を麦焦しに混ぜて喰っていた
14. 旧チベットでは垢にまみれていればいるほど福徳と信じられていた
15. 旧チベット人には景色を楽しむという文化すらなかった
16. 旧チベットが軍隊を持たない国だったというのは嫌中ネトウヨの嘘
17. チベット人以外の民族がチベットに長期滞在していると血を吐くことがある



旧チベットは貴族階級が支配する封建奴隷制社会だった

出典:河口慧海『チベット旅行記』の「第百一回 法王政府」

華族と人民の関係 はちょっと見ると封建制度になって居ります。それは華族の祖先という者はみな国家に功労のある人である地方を自分の領分に貰ってある。いわばそこへ封(ほう)ぜられたようなものでそこにはその地に属するところの平民がある。で、その華族家と家属及び平民との関係はほとんど国王と人民との関係のようなもので、その平民を生殺与奪(せいさつよだつ)するところの権利はもちろんその華族に在るんです。またこの華族は平民から人頭税(じんとうぜい)を徴収します。その人頭税はごく貧乏人でも一タンガー位出さねばならぬ。その上の人になると十タンガーも百タンガーも納(おさ)めるものがある。例えば非常に出世したとかあるいは沢山な財産があるとかいう人はそういう大金を納めなければならん。

ただ人頭税を納めるだけではない。その華族に対しては自分が土地をその華族から貸して貰って居ることになって居るですから、その租税(そぜい)を納めなくてはならん。それでこの人頭税というものは随分苦しい税ですけれども、納めなければ擲(な)ぐられた上に自分の財産を没収(ぼっしゅう)されてしまいますから、非常な苦しい思いをしても歳(とし)の暮には人頭税を納めなければならん。その税を納める苦しさに堪(た)えずして坊主(ぼうず)になる者も沢山ある。坊主になると人頭税を納める必要がないからです。税を免かれるために坊さんになる位ですからどうせ学問をする考えもなければ仏教を学んで人のために働きをしようという考えのあるべきはずもない。

ある時私の師匠のチー・リンボチェという方が言われたことに、「この節(せつ)わが国では坊主の数が沢山あるから仏法が盛んであるといって大いに悦(よろこ)んで居るがどうだろう。ごろごろと要(い)らない石瓦(いしかわら)が沢山あるより金剛石(こんごうせき)が二つ三つある方が尊(たっと)いではないか。どうも困ったものだ」と歎(なげ)かれた事がある。それはその訳なんで多くの坊主の目的が既に人頭税を免かれるというに在るのですから……

しかしながら一方から考えると実にチベットは残酷(ざんこく)な制度で、貧民(ひんみん)はますます貧(ひん)に陥って苦しまねばならぬ。その貧民の苦しき状態は僧侶の貧学生よりなお苦しいです。どういう有様に在るかというと、僧侶の貧学生は喰ったり喰わなんだりして居ってもとにかく月に一遍(いっぺん)ずつ学録(がくろく)を[#「学録(がくろく)を」はママ]貰うことにきまって居るし、また折々(おりおり)は布施物(ふせもの)もあるです。で自分一人の事ですからどうやらこうやらその日その日を過して行かれるですが、俗人の貧乏人は女房(にょうぼう)がある。そこへ子供でも出来たらそれこそ大変です。どんなにその子供を育てても多少の金はかかる。

その金はどこから借りるかといえば地主(じぬし)から借りるほかはない。借りたところで滅多(めった)に返せるものでない。返す見込みのない金をどうして地主(華族)が貸すかといいますと、その子が大きくなった時にその家の奴隷(どれい)にするのです。それを見込みに金を貸してやるのです。というたところでどうせ沢山な金は貸さない。むろん少しずつ貸して十円位になり、その子供が十歳位になるとその十円の金のために十五年も二十年もただ使いをするという訳です。ですから貧乏人の子供は

生れながらの奴隷(どれい) で誠に可哀(かわい)そうなものです。華族とその華族に属して居るところの平民との関係はまずこういう風ですから、その点から見ると封建制度(ほうけんせいど)でその華族家なるものはいわゆる諸侯(しょこう)の位置を占めて居るように思われる。しかしまたその他の点から見るとまた郡県制度(ぐんけんせいど)であると思われる事もある。なぜなれば華族なるものは大抵ラサ府に住して居って自分の領地(りょうち)に行って居らないのが多い。よしんばその地に家はあっても留守(るす)番だけを置いて自分達はラサ府に居る。そうかと思うと政府から命令を受けてある郡を治(おさ)めに行く者もある。で華族に管轄(かんかつ)されて居る平民のほかにまた政府へ直接に属して居る人民も沢山ある。

なお華族に属しつつまた政府から幾分の税金を徴収(ちょうしゅう)されるです。ですから人民は二重の税金を払わなくてはならん。人頭税(じんとうぜい)まで混(ま)ぜますと随分沢山な税金を納めなくてはならん。その勅任(ちょくにん)の僧侶((俗))両官は法王の命令を受けて、三人なりあるいは二人なり、司法行政の権力を握(にぎ)って地方へ租税を取立てに行くです。地方から取立てた租税はもちろん中央政府へ納めるのです。その税は物品もあればあるいは銀貨もある。ことに金鉱などから納めるところの税の中には黄金もある。それから輸入品に課した税金などもやはり中央政府に納めるです。


※管理人注:

日本には「華族」を「中華民族」や「華人・華僑」、つまり中国人のことだと勘違いしているバカが結構いるらしく、上記の内容を読んで「旧チベットでも漢族中国人が偉そうにしていたのか!」とかとんでもない勘違いをする輩が出てくるかもしれないので念のために説明しておくが、辞書によれば「華族」とは、

1. 公・侯・伯・子・男の爵位を有する者。明治2年(1869)旧公卿・諸侯の身分呼称として定められたが、明治17年(1884)の華族令で五等爵を制定、国家に功労ある者もこれに加えられ、種々の特権を伴う世襲の社会的身分となった。日本国憲法施行により廃止。

2. 《古くは「かそく」とも》平安時代以後、清華(せいが)家の別称。かしょく。

…とあり、どこにも「中華民族」や「華人・華僑」のことだとは書かれていない。要するに「華族」とは貴族階級のことを意味する言葉である。

つまり上記の内容からわかるのは旧チベットは貴族階級が支配する封建奴隷制社会だったということである。その上、旧チベットでは教政一致の政治が行われていたとか農業が主な生活手段の一つであったと河口も著書中の別の箇所で述べているので、中国が主張する「旧チベットは政教一致の封建農奴制社会だった」は客観的な第三者の目から見ても概ね事実なのである。



旧チベットの刑罰と拷問は極めて残虐だった

出典:河口慧海『チベット旅行記』の「第八十四回 晒(さら)し者と拷問(ごうもん)」

その拷問の仕方はどうであったかその当時の有様を見ることが出来なかったから知らんけれども、聞いただけでもぞっとする程の拷問である。

皮肉の拷問 その拷問の仕方は、まず割竹を指の肉と爪の間に刺し込んで爪を剥(はが)して、そうしてまた肉と皮との間へ割竹を刺すのです。それは十本の指とも順々にやられるので実に血の涙を流して居るけれども、ノルプー・チェリンは、これは自分の仕業(しわざ)[#ルビの「しわざ」は底本では「しわぎ」]であって決してテーモ・リンボチェ即ち自分の主人の命令でやった訳でないと強情(ごうじょう)を張ったそうです。


出典:河口慧海『チベット旅行記』の「第八十五回 刑罰の種類」

一体

チベットの拷問の方法 はごく残酷である。またその処刑もごく野蛮の遣り方である。獄屋というようなものも、なかなかこの世からのものとは思えない程の所で、まずその拷問法の一つ二つをいいますと、先に言った割竹で指の爪を剥すとか、あるいは石で拵えた帽子を頭に載せるという仕方もある。それはまず始めに一貫匁ぐらいの帽子を載せ、それからまたその上に同様の帽子を、だんだん五つ六つと載せていくので、始めは熱い涙が出て居る位ですが、仕舞には眼の球が外へ飛び出る程になってしまうそうです。そういう遣り方もある。それから叩くというたところで柳の太い生棒(なまぼう)で叩くのですから、仕舞にはお臀(しり)が破れて血が迸(ほとばし)って居る。

それでも三百なり五百なり極めただけの数は叩かなければ罷(や)めない。もっとも三百も五百も叩く時分には、半ばでちょっと休んで水を飲ましてからまた叩くそうです。叩かれた者はとても病気せずには居らない。小便は血のような真っ赤なのが出る。私はそういう人に薬を遣った事があります。またそのお臀(しり)の傷などもよく見ましたが実に酷(むご)たらしいものであります。獄屋も余程楽な獄屋といったところが土塀に板の間の外には何にもない。かの寒い国でどこからも日の射さないような、昼でもほとんど真っ闇黒(くらがり)というような中に入れられて居るので衛生も糸瓜(へちま)もありゃあしない。

また食物も一日に麦焦(むぎこが)しの粉を二握りずつ一遍に与えるだけです。それだけではとても活きて居ることが出来ない。そこで大抵獄中に入れば知己(しるべ)が差入物をするのが常例(あたりまえ)になって居る。その差入物でも牢番に半分以上取られてしまって、自分の喰うのはごく僅かになってしまうそうです。刑罰の一番優しいのが罰金、笞刑(ちけい)、それから

眼球を抉(く)り抜いて 取ってしまう刑、手首を切断する刑。それもじきに切断しない。この両方の手首を紐で括(くく)って、およそ半日程子供が寄って上げたり下げたりして引っ張って居るです。すると仕舞(しまい)には手が痺(しび)れ切って我が物か人の物か分らなくなってしまうそうです。その時に人の見て居る前で切断してしまうのである。これは多くは泥棒が受ける。五遍も六遍も牢の中に入って来るとその手首切断の刑に掛ってしまう。ラサ府の乞食にはそういう刑に処せられたのが沢山ある。

最も多いのが眼の球を抉(く)り抜かれた乞食、それから耳剃(みみそり)の刑と鼻剃(はなそり)の刑、これらは姦夫(かんぷ)姦婦(かんぷ)がやられるので、良人(おっと)が見付けて訴えるとその男と女がそういう刑に遇うことがある。またチベットでは妙です。訴えを起さずにじきにその良人が怒ってその男と女の鼻を切り取っても、つまり政府に代って切り取ったのだからといって自分が罪を受けるということはない。流罪(るざい)にも二通りある。ある地方を限って牢の中に入れずに放任して置くところの流罪と、また牢の中に入れて置く流罪とがある。それから

死刑は水攻(みずぜめ) にして殺すんです。それにも二通りある。生きながら皮袋に入れて水の中に放り込んでしまうのもあり、また船に乗せ川の中流に連れて行って、そうしてそれを括(くく)って水に漬け石の重錘(おもり)を付けて沈めるのです。暫く沈めておいて十分も経つと上に挙げ、なお生きて居るとまた沈めて、それから十分ばかり経って上げて見るのですが、それで死んで居ればよいが生きて居るとまた沈める。そういう具合に何遍か上げたり沈めたりしてよくその死を見届けてから、首を切り手足を切り、五体放れ放れにして流してしまって、首だけこっちに取って来るのです。で三日あるいは七日晒し者にするもあり、あるいは晒さずにその首を瓶の中に入れて、そういう首ばかり集めてある堂の中に放り込んでしまうのもある。その堂というのは浮かばれない堂という意味で、そこへ首を入れられるともう一遍生れて来ることが出来ないという、チベット人の信仰からこういう残酷な事をするのです。



旧チベットでは僧侶でない人々はまともに教育を受けることすらできなかった

出典:河口慧海『チベット旅行記』の「第九十四回 教育と種族」

ここで

学校及び教育 の事についてちょっと説明をして置きます。チベットでは教育は余り普及して居らない。ただ第二の府たるシカチェの辺では大分に単純な習字とかあるいは数える事、読物の類(たぐい)は行われて居りますけれども、その他は寺でない限りはほとんど普通人民の子供は教育されるということはないのです。ですからもちろん学校も沢山にない。ただ学校らしいものはラサ府の法王宮殿に一つと、シカチェのタシ・ルフンプー寺にあるだけ。その他はすべて私塾のようなものであって最も広く教育の行われて居るのは僧侶学校である。

普通人民の子供は僧侶にならなくては中等以上の学問をすることが出来ない。政府の学校へは普通の人民は入ることは出来ない。その普通人民の下に最下族というのがある。その最下族というのは漁師、船渡(ふなわたし)、鍛冶屋(かじや)、屠者(としゃ)の四つである。鍛冶屋はなぜ最下族の中に入って居るかといいますに、これはやはりインドも同じ風俗で、鍛冶屋は屠者が動物を殺すその刀なり出刃庖丁(でばぼうちょう)を拵えるというようなところから、鍛冶屋も罪ある者として最下族の中に入れてあるです。

この普通人民と最下族の二種族は政府の学校に入ることが出来ない。殊に最下族の者は僧侶になることも許されない。だが遠方に行って自分が最下族であるということを押し隠し、そして僧侶になって居る者もありますが、自分の生れた近所では誰もがその事を知って居るから決して僧侶になることを許されない。



旧チベットでは悪魔払いで病気が治るという迷信が信じられていた

出典:河口慧海『チベット旅行記』の「第百五回 迷信と園遊」

病根は悪癘(あくれい) チベットでは病人の全癒(ぜんゆ)を謀(はか)るには医薬がおもなる部分でない。最も主要なる部分すなわち病人に対し最も有効なりとせらるる部分は祈祷(きとう)である。彼らの信仰によると病気は大抵悪魔、厄鬼、死霊等の害悪を加うるによるものであるから、まず祈祷の秘密法によって悪癘を払わなくては、たとい耆婆(ぎば)扁鵲(へんじゃく)の薬といえども決して利くものでない。で、いかなる悪癘が今その病人に対して禍(わざわい)を加えて居るかということは、普通人間の知らないところであるから、まずこれを知るためにはラマに尋ねなければならんというので、ラマの所へ指して書面を持たして尋ねにやるとか、あるいは使をやって尋ねるとか、または自分で行って尋ねるです。

するとラマはいろいろその事に関する書物等を見て判断を下し、これは郎苦叉鬼(ラクシャキ)の祟(たた)りであるとかあるいは鳩槃陀鬼(クハンダキ)または夜叉鬼(やしゃき)の害であるとか、あるいは死霊、悪魔、その地方の悪神等が祟りをして居るとかいうことをよく見定めて、それに対する方法としてどこのラマに何々のお経を読んで貰えという。もっともラマの名を書いてある事もあればまた書いてない事もある。それは誰でもやれる方法である時は名は書かない。少しむつかしい方法になると誰某(たれそれ)という指名をするのです。

そこでお医者さんはというた時分に、まずこの秘密の法を三日なり四日なり修めてから、どこのお医者さんを迎えろということもあり、またこの法を修むると同時に迎えということもある。あるいはこの病人は薬は要らない、今まで飲んで居った薬は止してただ祈祷だけで治るというような説明もある。それはいろいろになって居ますが、まずそれを尋ねに行きまして口で答をするのはそんなに高等のラマではない。中等以下のラマがやります。中等以上のラマですと、その方法書を自分の侍者に書かせてラマ自身に実印を捺(お)し、そしてその書面を尋ねに来た人に渡すです。

で今日医者を迎えれば助かるべき筈の病人でも、その方法書に五日の後に誰それを迎えて治療を頼めと書いてありますと、チベット人は病気はどうあれまず悪魔を払ってしまわなければ、たといお医者を迎えて薬をのんだところが到底治るものでないと堅く信仰して居るからまず祈祷をする、それでその日に病人が薬を得ないために死んでしまっても、その家族等は決してラマなりあるいは神下(かみおろ)しなりを不明であるというて、怨(うら)むこともなければ悪口をいいもしない。かえって「成程えらいラマだ。もう今日死ぬことが分って居ったからお医者さんを迎える必要はないというてわざと五日の後と書かれた。さすがに感心なものだ」といって感心して居る位。

もしもそう言わずに理屈の分った者が「どうもかのラマは詰らない事をいうものだ。かの病人はかの時に薬を服(の)まして置けば助かるべき筈であるのに、ああいう馬鹿な方法書を書いてくれたためにとうとう病人が死んでしまった」などといいますと、世間ではかえってその人を非常に罵倒(ばとう)し「彼は外道(げどう)である。大罪悪人である。ラマに対して悪口をいうとは不届(ふとどき)である」というて非常に怒るです。その怒られるのが怖さに、よく分って居っても何もいわずに辛抱して居る人間も沢山あるということは、私が確かに認めたところです。

もっとも医者といったところでほとんど病気を治す方法を知らない。ごく古代のインドの五明中の医学が伝って居るだけで、その医学もごく不完全なものである。しかし不完全な医学だけでも心得て居れば、病人に対して幾分の助けをなすことが出来るでしょうけれども、彼らはその医学のなんたるを知らずにただ聞き伝え位でやって居る者が多いのである。



旧チベットは英国植民地だった同時代のインドと比べても近代化が遅れていた

出典:河口慧海『チベット旅行記』の「第百八回 チベットと英領インド」

国民の感情 ですからダージリンに居るチベット人は皆インド政府の処置に満足して、不平をいわないのみならず、実際心服して英政府のために働きたいという考えをもって居る者が沢山ある。もちろん半期あるいは一年位滞在して居る者にはそんな考えを持って居る者はないけれども、三年、五年と住むに従って、どうもイギリス人の遣り方は立派である、公明正大である、慈悲深い遣り方である。こういう政府の下に属するのは非常に結構である。チベットではちょっと盗みをしても、手を切るとか眼玉を抉(くじ)り取られるとかいうような残酷な刑に処せられるけれども、英領インドではどんな重い罪を犯しても、それで死刑に処せられるということはまずない位で実に寛大な刑法である。

道路なども非常に立派なもので、神の国の道のように出来て居る。また病気になっても施薬病院があって結構な薬を銭も取らずにくれる。それから貧苦に迫って食物がなくなればまた相当の補助をしてくれる。こんな結構な政府はどこにもない。チベットでは食物がなくなれば誰もくれる者がないから、餓死をしなくちゃあならんというて、一度足をダージリンに入れたチベット人の誰もが去るに忍びない心を起すです。

もちろんチベットにおいて沢山財産のある者は、いったんダージリンに来たからといって永住する気にもならず、帰る者も沢山ありますけれども、その人間でもやはり英領インドの道路、病院、学校等の完全なる設備を見て大いに感服して帰って行く。なおチベット人の眼を驚かすに足るものは、鉄道、電信、電話その他諸種の器械類の敏速なる働きを見て大いに仰天して、これはとても神の知識でなくては出来得ない事である、という具合に感じて帰って行く者が多いです。

国へ帰ったところで彼らは政府の人に対してそんな事はいえないけれども、内々は大いに英領インドを賛嘆して喋々(ちょうちょう)と吹聴(ふいちょう)するものですから、チベット人は我も我もと先を争うてインドへ出掛けて来て、相当の利益を得ては国へ帰って吹聴するという有様で、今日では民間のある部分すなわち運送商売その他商業上の用向きで出掛けて来る村々の者は、もはやインド政府に対して悪感情を懐(いだ)いて居らない。

しかし表面(うわべ)は全く悪感情を懐いて居るように見えてあるです。なぜならばもしイギリス政府がよいとか何とかいいますれば、じきにその事をチベット政府に告げ口する者があるとその人は恐ろしい刑罰に処せられるから、内々は英国に心を寄せて居りながらも表向きは同情を表するどころではない、大いに憎んで居るかのようにやって居るです。

その外にまだチベット人民が大いに心を寄せて居る次第はです。もし我が国が英領インドの下に属すれば、我々人民は法王政府の酷虐(こくぎゃく)なる支配を免れて、現にインド人の受けて居るような便宜を得らるるであろう、またインド政府は金が沢山あるから、我々も自然金を得て何事も不自由なく暮せるであろう、という考えを持って居る者も沢山ある。それらは中等および上等社会の人民にも随分あるです。ごく下等な者に至ってはそういう考えも持って居りませんけれども、折には人の言う事を聞き伝えて、内々そんな事を呟(つぶや)いて居る者もある。



旧チベット人は極めて怠惰で「五百人居れば四百五十人までは確かに屑」

出典:河口慧海『チベット旅行記』の「第七十九回 僧侶の目的」

チベット人は外見は温順(おとな)しくってよく何もかも考えるですが、一体勉強の嫌いな質でごくごく怠惰(たいだ)な方で、不潔でくらすのも一つは怠惰なところ(〔そこ〕)から出て来たようにもあるです。まあチベット人の坊さんで普通の生計をして居る人ならば冬は本堂にお経を読みあるいは茶を飲みに行く。その間は自分の舎の前の日当りのよい所に裸体(はだか)になって、背中を亀の甲のように乾して居る。そうして羊の毛織りの端くれで鼻汁(はな)をかんで、その鼻汁をかんだ切布を頭の上に載せて乾しながら、うつうつと坐睡(いねむ)り好い心持に暖まって居るざまというものはないです。

年寄ならまだようござりますが、随分若い者がそういう事をやって居るのを見てもチベット人の怠惰であるということが分る。そこへ来てはモンゴリヤ人はそんな事をやって居る者はない。わざわざ遠い所から出て来たのは勉強が目的であるから、非常に勉強するのみならず、問答などの遣り方もなかなか劇(はげ)しい。大抵五百人居ればまず四百人までは普通善い方の人になって百人ぐらいしか屑(くず)は出ない。ところがチベット人は五百人居れば四百五十人までは確かに屑の方で、かの壮士坊主なんかというのもチベット人が主なのです。カムの人にもモンゴリヤの人にも壮士坊主は稀であります。


※管理人注:

以上のように旧チベット人は河口に「五百人居れば四百五十人までは確かに屑」と評されるほど極めて怠惰で勉強嫌いな民族であり、中国による解放以前は糞尿と垢にまみれた極めて不潔な環境で暮らし続けていたのもその怠惰さが一因だったのである。

おまけにこれは教育が貧しい人々には全く行き届いていなかった旧チベットにおいて運よく教育を受けることができた、ある程度社会的地位の高い者たちの有り様なのだからつくづく救いようがない。そして、そんなチベット人の間に近現代的な教育を行き届かせてやったのが中国である。

ちなみに比較対象にされているモンゴル人はまともな民族なのかと聞かれれば、決してそういうわけでもない。チベット人と同じく反中民族の一種族であるモンゴル人はモンゴル人で、非常に短気かつ高慢で問題のある民族である。詳しくは下記参照。


出典:河口慧海『チベット旅行記』の「第七十九回 僧侶の目的」

そうしてモンゴリヤ人は勉強もし、またなかなか進取の気象に富んで居るけれども、実に怒り易い人間でちょっとした事にもじきに怒る。というのはつまり自分の種族自慢で、モンゴリヤ人はなかなか立派だ、皆勉強してこの通り大勢博士になって国に帰る、チベット人あるいはカム人とは全く違って居るという高慢の心が非常に強くって、他人に対しても理屈のない詰らない事を非常に威張って怒って居る。そういう点など見ると実にその人の狭量な事を憫(あわれ)まざるを得ない。そうしてモンゴリヤ人の多数はこんな者で、余程大人(おとな)らしゅう構えて居る人でもちょっとした事で腹を立てる。こういう人種は忍耐力をもって大業を成すことはむつかしい。ジンギスカンのように合戦をやって一時成就(じょうじゅ)する人が出来ても、長くその国の文明を形造ってその社会がますます進んで行くようにするというような充分の力を持って居らぬと思われる。



旧チベット社会を表す諺(ことわざ)、「人殺さねば食を得ず」

出典:河口慧海『チベット旅行記』の「第三十回 人里に近づく」

けれどもその人たちは強盗本場の国から出て来たのです。その本場というのはどこかというとカムの近所でダム・ギャショの人であるということを聞きましたから少しく懸念も起りました。何故ならばその辺の諺にも

人殺さねば食を得ず、寺廻らねば罪消えず。人殺しつつ寺廻りつつ、人殺しつつ寺廻りつつ、進め進め

そういう諺がある国の人でなかなか女だって人を殺すこと位は羊を斬るよりも平気にして居る位の気風でありますから容易に油断は出来ない訳です。けれどももうそこに着いた以上は虎口(ここう)に入ったようなものですから逃げ出そうたって到底駄目だ。殺されるようなら安心してその巡礼の刀の錆(さび)になってしまうより外はないと決心して泊りました。



旧チベットのラサ府は糞尿にまみれた不潔の都だった

出典:河口慧海『チベット旅行記』の「第九十回 不潔の都」

けれどもかえってラサ府の市街の道の悪い事といったら仕方がない。高低の多い所で町の真ん中に深い溝が掘ってある。

溝は大小便の溜池 その溝にはラサ婦人のすべてと旅行人のすべてが大小便を垂れ流すという始末で、その縁には人糞(じんぷん)が行列をして居る。その臭い事といったら堪らんです。まあ冬は臭いもそんなに酷(ひど)くはございませんけれども、夏になると実にその臭いが酷い。それで雨でも降ると道のどろどろの上へ人糞が融けて流れるという始末ですから、その臭さ加減とその泥の汚い事は見るから嘔吐(おうと)を催すような有様。一体ラサというのは神の国という意味で、いわゆる仏、菩薩すなわち外護(げご)の神様の住処(すみか)で非常に清浄な土地であるというところから神の国という意味の名をつけられたのである。けれどもその不潔なところを見ると、確かにパンデン・アチーシャがいわれたごとく糞喰(くそくら)い餓鬼の都としか思えない。実に不潔なものです。

私はシナの不潔をしばしば耳にしましたけれど、恐らく糞の中、糞の田圃(たんぼ)を堂々たる都の道路として歩くようなそれほど不潔な所はあるまいだろうと思います。もちろんラサ府には糞食い犬が沢山居りますけれども、なかなかその犬だけでは喰い切れない。犬も糞の新しいのは悦んで喰いますけれども古いのは喰わない。だから古い奴が沢山残って行く勘定になるのです。



旧チベット人は大便をしても尻を拭わず、犬に人糞を喰わせていた

出典:河口慧海『チベット旅行記』の「第五十八回 不潔なる奇習」

卑陋(びろう)至極(しごく) 食器を自分の着物で拭く位の事は平気なもの、卑陋(びろう)至極(しごく)ではありますが彼らは大便に行っても決して尻(しり)を拭(ぬぐ)わない。またインド人のごとく水を持って行って左の手で洗うというような事もしない。全く牛が糞(ふん)をしたように打棄(うっちゃ)り放し。しかしこれは少しも奇態な事ではないので、上は法王より下は羊追いに至るまでみなその通りですから、私のように隠れ場へ紙を持って行くというような事をしますと大変に笑われるのみならず不審を抱かれるです。子供などがそれを見付けますと大笑いに笑って向うの方に逃げて行ってしまう。実にこれには困りましたけれど、さてそれかと言ってどうも隠れ場へ行ってそのまま出て来ることは出来ないから、なるべく隠して紙を持って行ってどうにか向うの知らん中にうまく始末をして厠(かわや)の中から出て来るという始末。これには実に閉口しました。それも家のあるところでは便所があるですが、テントのところでは便所というようなところはない。

便所は犬の口 なんです。どうもその西北原でテントの端(はた)でお便(ちょうず)をして居りますと恐ろしい犬が四、五疋取巻いて横で見物して居る。気味の悪い事と言ったら始めはなかなかお便(ちょうず)が容易に出ない。けれどもそれも自然と慣れるです。そうしてこっちが其便(それ)を済まして来ますと犬は先を争うてその人糞(じんぷん)を喰いに来る。だから西北原の内には便所はないけれど人糞の転がって居るような事もない。



旧チベット人は高等ラマ僧の糞尿を薬と称して喰わされていた

出典:河口慧海『チベット旅行記』の「第八十七回 奇怪なる妙薬」

その薬といえば一つ思い出しましたがチベットには

奇々妙々の薬 がある。その薬の本来を知った者は恐らくチベット人を除く外誰も飲むことが出来ぬだろうと思います。それはチベット法王あるいは第二の法王というような高等なるラマ達の大便は決して棄てない。また小便も決して棄てない。大小便共に天下の大必要物である。その大便は乾かしていろいろな薬の粉を混ぜて、そうして法王あるいは高等ラマの小便でそれを捏(こ)ねて丸薬に拵え、その上へ金箔(きんぱく)[#ルビの「きんぱく」は底本では「きんばく」]を塗るとかまた赤く塗るとかして薬に用いますので、この薬にツァ・チェン・ノルプー(宝玉)という奇態な名を付けます。

それは決して売り出すのではない。なかなかそれを貰うことさえ容易に出来ません。まずよい伝手(つて)がありお金を沢山上げてようやく貰いますので、貰ったところでチベット人は非常な病気になったとかあるいは臨終の場合に其薬(それ)を一つ飲むのです。それで快くなればその有難味が利いたといい、たといそれがために死んだところが、チベット人は満足して「誠にありがたい事だ。ともかく宝玉を飲んで死んだからあの人も定めて極楽に行かれるだろう」といって誉(ほま)れのように思って居ります。実に奇々妙々の風俗で、チベット国民が実に汚穢(おわい)極まるということも、こういう事によっても知り得ることが出来るのでありましょう。

しかしこういう材料で宝玉が出来て居るなどということは、一般人民はほとんど知らないので、この薬は法王が秘密の法で拵えたごくありがたいものであるということを知って居るだけで、その薬の真面目(しんめんもく)のいかんは法王の宮殿に出入する官吏あるいは官僧、その外それらの人々から聞き伝えて、いわゆるチベットの事情に通じて居る人間が知って居るというだけでございます。



旧チベット人は「糞を喰う餓鬼」だった

出典:河口慧海『チベット旅行記』の「第三十六回 天然の曼荼羅(まんだら)廻(めぐ)り(一)」

チベットの高原地で石を集めて家を建てるということは非常に困難な事でかつ大金を要する事であるけれども、ここはプレタプリー(餓鬼(がき)の街(まち))といって、昔パンデン・アチーシャがインドから真実仏教の面目を伝えてこの国に来られた時、この地に来てプレタプリー即ち餓鬼の街という名を付けられたです。こりゃどうも余程面白い名ですが、一体チベット人は

糞(ふん)を喰(く)う餓鬼 とも謂(い)うべきもので、まあ私の見た人種、私の聞いておる人種の中ではあれくらい汚穢(おわい)な人間はないと思うです。もちろんそういう習慣は昔も今も変らず、パンデン・アチーシャが来られた時分にも今の通り汚穢な有様であったから、つまり糞を喰う(〔飲食物なき〕)餓鬼の国の街であるという名を命(つ)けられたものと見える。それをチベット人はインド語の意味を知らんものですから、パンデン・アチーシャは我々の街に誠に尊(たっと)い名を命(つ)けて下すってありがたいと言って誇って居るです。



旧チベット人は人間の死体の切れ端を麦焦しに混ぜて喰っていた

出典:河口慧海『チベット旅行記』の「第八十六回 驚くべき葬儀」

食人肉人種の子孫 さてその死骸を被(おお)うて行ったところの片布(きれ)その他の物は御坊(おんぼう)が貰います。その御坊(おんぼう)は俗人であってその仕事を僧侶が手伝うのです。骨を砕くといったところがなかなか暇が掛るものですから、やはりその間には麦焦(むぎこが)しの粉も食わなければならん。またチベット人は茶を飲みづめに飲んで居る種族ですからお茶を沢山持って行くです。ところが先生らの手には死骸の肉や骨砕(ほねくず)や脳味噌などが沢山ついて居るけれども、一向平気なもので「さあお茶を喫(あが)れ、麦焦(むぎこが)しを喫(あが)れ」という時分には、その御坊(おんぼう)なり手伝いたる僧侶なりが手を洗いもせず、ただバチバチと手を拍って払ったきりで茶を喫(の)むです。その脳味噌や肉の端切のついて居る汚い手でじきに麦焦しの粉を引っ掴んで、自分の椀の中に入れてその手で捏(こ)ねるです。

だから自分の手について居る死骸の肉や脳味噌が麦焦しの粉と一緒になってしまうけれども平気で食って居る。どうも驚かざるを得ないです。あまり遣り方が残酷でもあり不潔ですから「そんな不潔な事をせずに手を一度(いっぺん)洗ったらどうか」と私がいいましたら「そんな気の弱いことで坊主の役目が勤まるものか」とこういう挨拶。で「実はこれがうまいのだ。汚いなんて嫌わずにこうして食って遣れば仏も大いに悦ぶのだ」といってちっとも意に介しない。いかにもチベットという国は昔は羅苦叉鬼(ラクシャキ)の住家で人の肉を喰った国人であって、今の人民もその子孫であるということですが、成程羅苦叉鬼の子孫たるに愧(は)じないところの人類であると思って実に驚いたです。



旧チベット人は体中が垢で真っ黒で、垢を麦焦しに混ぜて喰っていた

出典:河口慧海『チベット旅行記』の「第十一回 山家の修行」

汚穢(おわい)の習慣の修練 チベット人のごとくこの辺の人たちは非常に不潔であるいはラサ府の人間よりもこの辺の人間の方がなお汚穢(おわい)です。ラサ府では折々洗うことがありますけれどもこの辺では私が一年ばかり居った間に二度位洗うのを見た位のものです。それとてもすっかり身体を洗うのでなく顔と首筋を洗うだけですから、身体(からだ)は真っ黒で見るからが嫌に黒く光って居ります。よく洗えば随分色の白い人もあるですが、もしもこざっぱりと洗って綺麗な顔をして居るとあれは不潔の女であるといって笑うです。ここで私はチベットにおいての汚ない事に堪える習慣をよほど養いました。もしここで充分その汚ない事に慣れなかったならば私はチベットに行ってよう物を喰い得なかったかも知れぬ。

ここでもやはり手洟(てばな)をかんだ手で直(じか)に椀を拭(ぬぐ)ってその椀に茶を注いでくれます。それを嫌がって飲まぬとむこうで忌(い)み嫌(きら)いますから忍んで飲まねばならぬような始末。実際はそれよりも酷い事があって実に言うに堪えない、見るに堪えない汚ない事をやります。折々はその習慣に慣れようと思いましてもいかにも不潔で窃(ひそか)に自分で茶椀なりあるいは椀なりを洗って喰うような事もあります。


出典:河口慧海『チベット旅行記』の「第五十八回 不潔なる奇習」

それだけではない。彼らは元来生れてから身体(からだ)を洗うということはないので、阿母(おっか)さんの腹の中から出て来たそのままであるのが沢山あるです。都会の人士はまさかそうでもないが、田舎にいたる程洗わぬのを自慢として居る。もし顔を洗ったり手先を洗ったりすることがあれば大いに笑ってその取締のない事を嘲(あざ)けるのです。そういう訳ですから、白いところと言ったらば手の平と眼の玉とである。ほかは全く真っ黒である。

もっとも田舎人士の中でもその地方の紳士とか僧侶とかいう者は顔と口と手だけは幾分か洗うものですから、そんなに汚なくもありませんけれども、やはり首筋から背中、腹に至っては真っ黒なんです。アフリカ人の黒いのよりもなお黒いのがある。で、手の平がなぜ白いかと言いますに、向うでは麦粉を捏(こね)る時分に手でもって椀の中でその麦粉を捏る。であるから手の平に付いて居る垢(あか)は麦粉の中に一緒に混って入ってしまうんです。それで手の平には垢がない。まあ垢と麦焦(むぎこが)しとを一緒に捏て喰うといううまい御馳走なんです。そういう御馳走をです、黒赤くなった歯糞(はくそ)の埋(う)もれて居る臭い口を開(あ)いて喰うのです。それを見ただけでも随分胸が悪いのです。



旧チベットでは垢にまみれていればいるほど福徳と信じられていた

出典:河口慧海『チベット旅行記』の「第五十八回 不潔なる奇習」

で、生れてから身体を洗わないという理由(わけ)はどうかと言いますと、洗うと自分の福徳が落ちると言うのです。妙な考えを起したもので、もっとも中央チベットではそれほどにも言いませんけれども、辺鄙(へんぴ)なヒマラヤ山の北方のチベット人などは実に甚だしい。

垢(あか)の多少が縁談の条件 まず嫁を取る時分に向うの娘はどういう顔をして居るかと言いますと、どうも垢(あか)で埋もれて真っ黒けになって白いところは眼だけである。手先でもどこでもが垢でもって黒光りに光って居る。それからその着物と言うたらば垢とバタでですな(〔もって〕)、黒く漆(うるし)のごとく光って居ると、こう言うとその娘の福相を現わして居ることになる。もしこの娘が白い顔をして居るとか手先や顔でも洗って居るとか言うような事を聞きますと、そんな娘は福が洗い落されてしまって居るから、それはお断りだと、こういう訳。それは男ばかりでなく女が聟さんを選ぶにも、やはり垢の多少をもって福の多少を判断して、それで嫁に行ったり聟を取ったりするというような始末である。実にこれらの事はその地にいたって実際を見ない者の想像以外で、話だけ聞いては私共でさえ始めは信じなかったのですが、いろいろの地を経て来て始めてその前に聞いた話の実説であることを確かめた訳です。

中等以下の者は全く着替がないですから、着物なども古くなると垢でぽろぽろに千切(ちぎ)れてしまう。それから人の前でもどこでも自分の着物の裾裏(すそうら)をまくって涕(はな)をかみ、そうして其涕(それ)をうまくすり付けてしまう。余り涕(〔汁〕)が多いと筒(つつ)っ袖(ぽ)の方にもそれをすり付けて置くんです。で、裾の方が涕の壁のように堅くなって、その上で鼻をふくことが出来なくなりますと、今度は膝の辺でまたふきますですから、着物は涕とバタと垢との三つの壁になって居る。これらは中等以下の社会の人に多い。しかし中等以上はさすがにそれほどにもない。垢(あか)は沢山付いて居っても幾分か綺麗なところがある。ことに僧侶にいたっては顔を洗い手を洗い着物も綺麗にしなくてはならんと言って、しばしば僧官から戒められますから、そりゃ幾分か綺麗なんですが、それとてもいろいろ種類があるです。これはラサ府に入って後の実地について充分に話することにいたしましょうが、何にしても、そういう人に冊(かしず)かれてお茶を戴き御膳をよばれるというのですから、随分嫌な事は沢山あります。



旧チベット人には景色を楽しむという文化すらなかった

出典:河口慧海『チベット旅行記』の「第百三十四回 途上の絶景と兵隊町」

道のあちらこちらにはパル(匂いある黄色の皐月(さつき)花)、スル(同じ赤皐月(あかさつき))その他いろいろの草花に雫(しずく)の溜って居る様は、あたかも璧(たま)を山間に連ねたかのごとくに見えて居ります。だんだん山間の溪流に沿うて降って行きますと、奔流(ほんりゅう)の岩に激して流るるその飛沫(とばしり)が足もとに打付けるという実に愉快なる光景であります。そういう面白い光景も不風流なるチベット人には……呟(つぶや)く種とほかならぬ。

「どうもこんな所で雨に降出されては困る」といって、私の下僕(しもべ)は非常に怒って居りまして「天道様があるならば日和(ひより)にしてくれればよいのに困ったものだ。荷物が湿(しめ)って重くなって仕様がありゃあしない。どこにも今夜泊る所があるのではなし、困ったな」と非常に呟くのは無理はないです。苦しいには相違ないが、もし景色を愛する心があったなればその苦しみは忘れたろうと思う。けれども彼らには景色を愛する観念は少しもない。また奇態にチベット人は景色の趣味を持って居らぬ。石磧(いしかわら)や禿山(はげやま)の中で生れた人間が多いのですから景色の趣味を解することが出来ぬと見える。絵でもチベット固有の景色を描いたものは一枚もない。もしあればその絵は必ずシナの絵を真似て書いた位のもんです。

ですから私の下僕(しもべ)などはそういう景色のよい所へ来ても、ヤクの糞(ふん)の粒々(つぶつぶ)行列して居る野原へ来ても一向平気なものです。雨の降ってるのも自分の着物の濡れるのも打忘れて面白くて堪らぬ。私がもし絵を書くことが出来て、この景色を描いて持って帰ったらさぞ人が喜ぶだろう。写真機械があってこういう景色を写して行ったら、どんなに人が喜ぶだろうかと思うほど惜しくて堪らぬような景色。時々刻々眼先が変りだんだん進んで来ますと、ヒマラヤ山中の名物であるロードデンドロンというその色の鮮(あざや)かさといったら何と形容してよいか分らぬほど。美しい花(小木)が千載(せんざい)の古木と突兀(とっこつ)[#ルビの「とっこつ」は底本では「とっごつ」]たる岩の間に今を盛りと咲き競うて居る。



旧チベットが軍隊を持たない国だったというのは嫌中ネトウヨの嘘

出典:河口慧海『チベット旅行記』の「第百十八回 チベットの兵制」

常備兵五千人 次にチベットの兵制について述べます。ただいま常備兵としてあるのはほとんど五千人足らずであります。実際の名目は五千人ですけれど、私の観察では少し足らないように思う。チベット人口六百(〔五百〕)万人に対する五千人の兵士は実に少ない。外国に対する事はおろか自分の国の内乱に対しても、よくこれを平らげて国を安らかに保つということは出来得ないように思われる。


※管理人注:

嫌中ネトウヨ曰く「チベットは軍隊を持たない国だったから中国に侵略された。日本の反日左翼は平和主義がどうこう言いながら日本をチベットのように軍隊を持たない国にして中国に侵略させるつもりだ」だそうだが、そんなことはない。実際には旧チベットは上記のように軍隊を持っていた地域であるし、何かおかしなことがあるとすればチベット軍の兵士の数が少なく装備も旧式だったことである。

そもそも中国がチベットにしたことが違法な侵略行為ではなく合法的な国土の統一であることについては「中国のチベット平和解放は侵略ではない」で指摘している通りである。



チベット人以外の民族がチベットに長期滞在していると血を吐くことがある

出典:河口慧海『チベット旅行記』の「第二十二回 月下の坐禅」

それからその坊さんはもと来た道に引き返し私はその荷物を背負ってだんだんテントのある方へ指して進んで行ったです。なかなかテントは見えない。ところでその時は疲労がだんだん烈(はげ)しくなって仕方がなくなって来たです。心臓病を起したのかどうしたのか知らんが息は非常に急(せわ)しくなって来まして少し吐気(はきけ)が催しました。こりゃいけないと思ってそこへ荷物を卸しますと背中の方にも荷物を背負ったためにすりむくれが出来ましてその痛いことと言ったら堪らないです。その痛みよりも今吐(は)き出しそうになって居る奴が非常に苦しくって何か胸に詰って来たようになったからじきに宝丹(ほうたん)を取り出して飲みました。

無人の高原に血を吐く するとドッと一つ血を吐きました。こりゃ大方空気の稀薄の所ばかり長く通ったものですから、こういうことになったのか知らんと思いました。私は元来心臓病はないはずだがなぜこういう風に心臓の加減が悪くなったか知らんと疑いましたが、これもやはり空気の稀薄の加減であろうと察したです。もっともチベット人は空気の稀薄に堪え得られるだけの非常に強壮な肺を持って居るです。私どもの肺はチベット人の肺に比すると大方半分しかなかろうと思います。ですから肺が自然と圧迫されるのか突き出すのか分りませんが、非常に胸膈(きょうかく)が苦しくなって来ましてどうもして見ようがなくなった。で、まあ大病というような形状を現わして来た。こりゃうかうか進んで行くとつまりテントの在る所に達し得ずして死んでしまう。


出典:河口慧海『チベット旅行記』の「第四十七回 公道を進む」

血塊を吐く ところがそこに滞在して居る中に私の身体に病気のような非常な変化が起って来た。ある時外へ散歩に出て居りますと、何か喉の所に塊が滞(とどこお)って居るようであるから何心なく吐いて見ると血の塊を吐き出したです。ドドドッと一遍に吐き出した血は鼻から口から止め度もなく流れ出したです。はてこりゃ肺病になったのじゃあないかしらん、私は元来肺が強いつもりであったがなぜこんな病気を患うのか知らんという考えも起ったですが出血はどうも止らない。しかしそういう時にジーッと静かにして居られますのが前に禅宗のお宗家(しけ)様から

頭を叩かれた功徳 であって実に苦しくなる程余計静かになって来る。そこで呼吸の内外に通ずるのを余程阻害(そがい)して行くような心持をもってじっと草原の中に坐り込んで居ると大分に血の出ようが少なくなった。漸(ようや)くの事で止りましたが、その時に出た血がどれだけあったかその辺は真っ赤になって血が沢山溜って居りました。どうしてこんなに沢山血を吐いたものか知らんと、自分ながらびっくりして顔も青くなって帰って来ますとギャル・プンの長者が、あなたの顔が大変青いがどうしたのかという。その次第を告げますと、そりゃあなた何だ、シナの人などがこの辺に出て来るとどうもこの辺は息気(いき)(空気の稀薄な事を知らぬゆえ)が悪いもんだから血を吐くということを聞いて居る。それには良い薬があるからといって薬をくれたです。

そこで私も経験ある老人に教えられて始めて肺病でない、成程空気の稀薄な土地を長く旅行したためにこういう害に遇(お)うたのかと漸く安心致しました。けれどもまた三日ほど経ってまた血を吐いたです。今度は大分少なかった。


※管理人注:

ダライ集団は「チベットに漢族が大量に流入してチベット人が少数派に追い込まれている」などと主張しているが、それは嘘である。健康体の日本人であった河口がチベット滞在時に何度も血を吐いていることを見ればわかるように、生まれつき強靭な肺を持つチベット人ならともかく、それ以外の民族なら並の人間では高地の環境に適応できずに命を落とす危険性があるので、とてもチベットで長期間暮らすことなどできないのである。

少なくとも中国の人口調査ではチベット平和解放から57年が経過した2008年の時点でもチベット人口の9割がチベット族であるし、並の体力をした漢族ではチベットで暮らしていくことなどできないのでチベットでは依然として漢族人口がチベット族人口を上回っていることなどあり得ないと見て間違いない。



関連項目
外国人が記録した旧チベットの実態
写真で見る平和解放前と平和解放後のチベット
中国のチベット平和解放は侵略ではない
平和解放後のチベットの社会・経済発展データ
チベット族の人々が語る現在の豊かで幸せな暮らし
「チベット大虐殺」は反中勢力が捏造した嘘
世界が評価した中国のチベット統治の真実
西側諸国も公式に認める中国のチベット領有


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外国人が記録した旧チベットの実態


西川一三(1918 - 2008)
チベット問題の第三者である昔の外国人が目にして記録した、中国による平和解放以前の旧チベットの実態。チベットの独立を叫ぶすべての者たちは、中国に解放される前のチベットがどれほどひどい社会であったのかを知らなければならない。中国はまさに文字通りチベットの人々を劣悪な環境から解放し、救ったのである。

特に1940年代にモンゴル人の僧侶に成り済ましてチベットに潜入した日本軍のスパイである西川一三(にしかわ かずみ、1918 - 2008)の著書『秘境西域八年の潜行』にある旧チベットに関する記述は必見である。同書には旧チベットの恐怖政治についても書かれており、西川によれば旧チベットの支配層は中国の支配層よりも危険で恐ろしく、旧チベットよりも中国のほうが住みよい社会であったという。

西川は日本軍のスパイであるため彼にとって中国は敵国であり、当時の日本では当たり前だったとは言え中国を「シナ」と呼んでいるので当然ながら「媚中左翼」などではない。当然ながら西川の著書は中国がチベット問題の政治宣伝のために出版した本というわけでもないので、これはまぎれもなく客観的な第三者による旧チベットの実態の記録である。

日本人の僧侶である河口慧海(かわぐち えかい、1866 - 1945)による旧チベットの記録については「河口慧海が記録した旧チベットの実態」を参照のこと。



目次
1. 西川一三が記録した旧チベットの恐怖政治
2. 西川一三が記録した旧チベット社会の道徳崩壊
3. 古いチベットの政教合一制度下のチベットの人権



西川一三が記録した旧チベットの恐怖政治

出典:西川一三『秘境西域八年の潜行 抄』(中公文庫BIBLIO)の「聖地ラサの裏街道」

そして政府の首脳部である彼らは、小作人、民衆の利益のために働くということより、どうして彼らから少しでも多く搾取するか、ということしか考えないのである。また世襲制度で、貴族出身であれば、どんなぼんくらでも高官につける彼らは、一般民衆やラマの中に自分より学問、思想方面に傑物が出れば、不法、不道義でも、理由もなく権力を以て圧迫し、葬ろうと努める。

私の在蔵中、一番怖れたのはこの不法を不法としない、不道義を不道義としない、封建的なチベット政府の政治であった。最初、シナ官憲に捕われるよりは、チベット官憲に捕われた方が安全だという気やすい考えを持っていた。それもしだいに、いくらこちらが道理を通しても受け容れられず、またこちらが正しいことでも、それを受け容れようとしない無法者のようなチベット官憲は、シナ官憲に捕われる以上に危険であることを、感ぜずにはいられなくなってきたのだ。これは政府だけでなく、民間でも徳より金で、シナの社会の方が、よほど住みよい、ということに気付かされた。また、どこの国でも同じであるが政府内の貴族、高僧の指導者間にも派閥があり、相互に時の権力によって相手方を、闇から闇へ葬る、醜い闘争も常に繰り返されていたのである。

この政府の高官達と共に、民衆を護ってくれるべき兵隊も、民衆にとっては怖ろしい存在であった。一度チベットに暴動が起これば、民衆は暴動より、これを鎮圧に出動した国の兵隊から受ける被害が大であることを昔から知っている。兵隊達は、暴動の鎮圧はどうでもよく、どうにかしてこの際自分の私腹を肥やそうということに汲々としているからで、民衆は、養っている兵隊が味方であるのか、敵であるのか、分からない有様なのである。



西川一三が記録した旧チベット社会の道徳崩壊

出典:西川一三『秘境西域八年の潜行 抄』(中公文庫BIBLIO)の「聖地ラサの裏街道」

夕暮れどきの環状路はラマ、尼の読経の声で湧き立ち、ラサはラマ教徒のメッカ、聖地としての雰囲気を十分に漂わせている。入蔵困難な神秘境として、紀行文などからも、ラサが極楽浄土のような聖地、そこに住んでいる人々も、さぞ仏のような心根を持った人々だろうと、想像することだろう。確かにこの絢爛たる寺、狂信的な人々の姿は、一応外見だけは聖地らしい印象を人々に与えている。

しかし私はこの外見だけは仏教都らしい信仰に満ちあふれていることを肯定するが、その内容、中身は、悲しいことにそのまま、肯定することはできないのである。ラサほど道徳が乱れ、風紀が紊乱し、ただれきった汚い街は、世界にもないだろう。聖地どころか、泥沼のような街であるといいたい。

チベット一般の国民は、ラマ教すなわち仏教を信ずることによって生きている。香の匂いは終日部屋に満ち、朝夕諸仏諸菩薩像の前に額ずき、すべて仏教に関係を持たぬ話はひとつもない家庭に育った彼らは幼いときから、なにごとも自業自得、自分のした悪事は、自分で苦しい思いをして償わなくてはならぬ。また自分のなした善事の結果、すなわち快楽幸福も、また自分が受けられ、そしてこの因果応報は未来永劫に続くものであり、仏達の心もまた死んだからといって決して滅するものではない。再びこの世に生まれ変わって来るものであることを、お伽噺として父母から吹き込まれている。

こうしてラマ教を信仰することによって、自分の犯した罪は償われ、快楽幸福が取得せられ、寺、僧侶に供養すること、着飾って灯明鉢を手にして仏殿に額ずくこと、あるいは米搗きバッタのようにはいつくばって右曉、叩頭を続けることが最高の信仰の表現だと教えられ、信じられている。彼らの仏教の信仰は、ただ形式的信仰にほかならないのである。仏教の根本原理である人としての行ない、進まなければならぬ道への修養、自己を磨こうなどということは微塵もない。だから彼らの間には、道徳などひとかけらもない。

彼らの性情は、表と裏の両極端を持っている。権力、財力の強い者にはまったく猫のように温和しく服従するが、弱者とみるや、まったく正反対の性質を以て遇する。臆病で羞恥心が強く、控え気味に見えるが、物凄く積極的行動に出ることを辞さない。慈悲同情の念に溢れているようであるが、その裏には、物凄い敵愾心と復讐心が充ちている。頑固で自尊心が強いが、追従と模倣を拒まない。謙譲心に富み儀礼に篤いが、甚だしく卑屈である。悠長のようで短気である。排他的根性と共に独善感が強いが、一面妥協性を失うことなく、開放的で迎合主義である。いわば彼らは、猫の眼のような性質を持っている。この猫の眼が、強者と弱者に対するときは必ず変わるのである。これは荒涼たるチベットの環境と、根強い封建制度のお国柄、「井戸の中の蛙」の環境に置かれた自然と指導者、さらに昔から東にシナ、西に英印にはさまれた国際関係からもきているようである。



古いチベットの政教合一制度下のチベットの人権

発信時間: 2008-04-28 | チャイナネット

人権は社会経済の発展、文明の進歩と関係があるばかりか、階級性をもつものでもある。古いチベットでは政教合一の封建的な農奴制度の支配のもとで、すべての人に人権がないわけでなく、人権のある一部の人の数が非常に少ないだけであった。その時、人口の5%を占める非宗教的貴族、上層の僧侶と官吏たちはたいへんその体制下の「人権」に満足し、彼らは贅沢三昧でみだらであったばかりでなく、権勢をかさに着ていばり散らし、人口の95%を占める農民・牧畜民の死活を決める権力を握っていた。

チベット族の文字、漢族の文字による史料がこれらのことをたくさん記載しているばかりでなく、チベットに行ったことのある外国人さえも古いチベットの人権状況の極端な劣悪さを感じ取っていた。

ベルというイギリス人は『13世ダライラマの伝記』の中で、「黄色の帽子をかぶった僧侶としてのラマ僧、黒い頭の非宗教徒の俗人たちの支配者」としての13世ダライラマは「名実ともの独裁者であり、……彼はヒトラーとムッソリーニに勝るとも劣らない。彼は彼ら(ヒトラーとムッソリーニ)のように弁舌の才にたけてはいなかったが、それよりも無限のラジオ放送(たとえラジオ放送という設備があっても)を利用して地位を保つことはできないが、彼は弁舌の才あるいはラジオ放送よりずっとひどいものがあり、彼は現生と来世の中で賞罰を行い」、お前たちを来世にブタまたは人間に転生させ、高官またはラマの高僧に生まれ変わらせることができるからである、と述べている。

エドモン・カンドラ氏はその『ラサの真相』という著書の中で、「ラマ僧は皇帝の父のようであり、農民は彼らの奴隷である。……少しも疑いなく、ラマ僧は精神恐怖の手段を採用して彼らの影響を保ち、その権力を自分たちの手中に握り続けた」と述べている。

チャールズ・ベル氏は『チベット誌』の中で、「チベットは今なお封建時代にあり、その貴族は大きな権力を握り、大きな勢力を持ち、貴族と僧侶が共に政府の重要な部署につき、その財産の巨大さも寺院に勝るものである。貴族は小作農に対し、封建官吏の権力を行使することができ、……役畜を没収し、罰金を課し、こん棒による刑を施行し、短期拘禁を行い、及びその他のすべての処罰をいつでも行うことができる」と述べている。

デビッド・マクドナルド氏はその『チベットの写真』の中で、古いチベットの刑罰は非常に残酷で、「その最も普通の刑法の中では、すべての死罪に処せられたものは、皮袋にくるまれて川に投げ込まれ、それが水死して沈むのを待ち、……それがすでに死んだことが分かれば、その死体を皮袋から取り出して解体し、その四肢と躯体を川に投げ込み、川面に浮いたまま流れてしまう……」と書いている。

フランスのチベット学学者のアレクサンダー・ダビ・ニール女史は彼女の『生まれ変わった新中国に直面している古いチベット』の中で、古いチベットでは、あらゆる農民はすべて一生借金を背負う農奴であり、彼らはまた過酷で雑多な税金と重い役務に苦しめられ、「人間のすべての自由を完全に失っていた」と述べている。

ツォイビコフ氏は『聖地チベットにおける仏教の信者たち』の中で、「強大な僧侶勢力はすべてを管理しているが、しかし僧侶の地位も高低の違いがあり、天国と地獄のような異なる暮らしをしている。たとえ寺院の中でも、普通の僧侶もいつでも刑罰、ひいては死刑に直面している」と書いている。

人々は上述のことからダライラマグループが描き出した「シャングリラ」の未来図を見抜くことができるではないか?古いチベットは明らかに農奴主たちの天国、農奴たちの地獄であった。



関連項目
河口慧海が記録した旧チベットの実態
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世界の歴史にその名を残した大量虐殺集団ナチスへの貢献に尽力していた殺人犯、それが「チベット大虐殺」捏造映画の原作本を書いた人物でありダライ・ラマ14世の師でもあったハインリッヒ・ハラーの正体である。

http://xizang.is-mine.net/cia.html



CIAとチベットの関係
「もう一つのアメリカ政府」とも呼ばれる米帝の諜報機関CIA(アメリカ中央情報局)とはこのように対外テロリストを育成する危険極まりない卑怯卑劣な工作機関である。そしてダライ・ラマ14世とはそのようなテロリスト育成機関に育てられたテロ集団の指導者である。



目次
1. CIAが作ったチベットゲリラを閲兵するダライ・ラマ14世
2. ダライラマグループがCIAから金銭を受け取ったと述べる
3. 王柯『多民族国家 中国』(岩波新書)より
4. 1959年、チベット武装勢力反乱の真相
5. CIA ダライ・ラマ側に対中闘争の資金と武器の援助していた
6. 動画:CIA とチベット:関係者の証言



CIAが作ったチベットゲリラを閲兵するダライ・ラマ14世




ダライラマグループがCIAから金銭を受け取ったと述べる

World News Briefs; Dalai Lama Group Says It Got Money From C.I.A.

Published: October 2, 1998

NEW DELHI, Oct. 1— The Dalai Lama's administration acknowledged today that it received $1.7 million a year in the 1960's from the Central Intelligence Agency, but denied reports that the Tibetan leader benefited personally from an annual subsidy of $180,000.

The money allocated for the resistance movement was spent on training volunteers and paying for guerrilla operations against the Chinese, the Tibetan government-in-exile said in a statement. It added that the subsidy earmarked for the Dalai Lama was spent on setting up offices in Geneva and New York and on international lobbying.

The Dalai Lama, 63, a revered spiritual leader both in his Himalayan homeland and in Western nations, fled Tibet in 1959 after a failed uprising against a Chinese military occupation, which began in 1950.

The decade-long covert program to support the Tibetan independence movement was part of the C.I.A.'s worldwide effort to undermine Communist governments, particularly in the Soviet Union and China.

[日本語要約]

1998年10月2日、ダライ・ラマ14世側はCIAから170万米ドルにのぼる資金援助を1960年代に受けていたことを認めた。

援助資金は、志願兵の訓練や対中華人民共和国戦用のゲリラへの支払に費やされた。またダライ・ラマ14世への助成金は、スイスや米国での事務所設立や国際的なロビー活動にも充てられた。

長年にわたってチベット独立運動を支援したCIAの秘密工作は、中華人民共和国・ソビエト連邦などの共産圏を弱体化させる目的の一環でもあった。



王柯『多民族国家 中国』(岩波新書)より

中国少数民族問題の概説書である王柯『多民族国家 中国』(岩波新書)には以下の記載がある。

出典:王柯『多民族国家 中国』(岩波新書)のP141

すでに一九五七年から、アメリカCIAは中国政府に不満を抱くチベット族住民に対する軍事訓練をおこない、無線連絡の技術を教えて機材も提供しはじめた。一九五八年からはアメリカで訓練を受けたチベット族の人、および武器と生活物資などを飛行機でチベット現地へ運び、空中投下した。しかしニクソン大統領が一九七二年に中国を訪問し、アメリカがチベットに対して実施してきた経済支援と武器の空中投下、無線連絡機材の提供などを全面停止した。それから、アメリカ政府はまるでチベット問題を忘れたかのように口にしなくなったのである。




1959年、チベット武装勢力反乱の真相

平和解放前、西蔵(チベット)では上層僧侶と貴族の独占による封建農奴制が敷かれ、膨大な数の農奴は農奴制の足枷が外れることを切実に求めていた。中央人民政府はチベットの歴史と現実的な特殊な状況を考慮し、チベットの社会制度を改革する上で極めて慎重な態度を取り、改革の時期はチベットが独自に決定する方針をとった。

しかし、チベットを統治していた上層グループの一部は自らの利益を守ろうと根本から改革に反対し、永久に農奴制を維持しようとしていた。そして、「17カ条協定」を故意に破棄し、祖国分裂活動を激しく展開した。

1952年、1955年、1956年に反乱者は分裂・破壊活動を繰り返し、1957年にはその激しさを増し、反乱武装組織を発足し、「チベット独立」および改革反対のスローガンをかかげ、幹部を虐殺し、交通を封鎖し、中央の派遣機関や部隊を襲撃し、至る所で略奪、人民殺害、婦女暴行を行った。

中央人民政府は民族団結の精神に則り、チベット地方政府が責任を持って反乱分子を処分し、社会の治安を守るよう再三にわたって催促。チベット地方政府のガロン〈高級官僚〉に対して「中央のチベット地区での改革先送りに変更はなく、将来改革を実施する際も平和改革の方針をとるつもりだ」と報告した。しかし、チベット上層は中央のこのような仁義を尽くした態度につけこんできた。

チベットの武装反乱は、始めから海外の反中国勢力の支援を受けてきた。米国のノーマン・C・ホール著「米国とチベットと中国」には、1957年米中央情報局(CIA)がかつてチベット人反乱分子を米国国内で訓練し、チベットに送り返して分裂・破壊活動を指図していたと書かれている。1975年9月5日に香港で出版された「遠東経済評論」には「米国中央情報局のチベットに対する陰謀」として、米国がかつてチベットの反乱分子に大量の武器・弾薬を提供していたことが記載されている。

チベットでは農奴制度をどうにか堅持したい農奴主と国外の反中国勢力が結託し、反乱活動は瞬く間に蔓延した。1959年3月10日にラサで発生した大規模な武装反乱は入念に画策して引起されたものだ。

ダライ・ラマは2月7日、チベット軍区のトウ少東・副司令員らに「チベット軍区文化芸術工作団が内陸部で学んできた舞台はすばらしいものだと聞いた。私も一度観てみたい。その手配をお願いできますか」と自ら要求してきた。トウ副指令員らは即座に快諾、都合のいい時間と場所を確認したところ、ダライ・ラマは3月8日、10日午後3時にチベット軍区の講堂で舞台を観るといい、チベット軍区側は接待の準備を周到に行った。

にもかかわらず、拉薩墨本(市長)は3月9日夜、「ダライ・ラマが明日、軍区の宴会に出席し、舞台を観ることになった。漢人は飛行機を準備し、ダライ・ラマを北京に連行するつもりだ。どの家庭からも人を出して、ダライ・ラマの住むノルブリンカに舞台を観に行かないよう陳情しよう」と市民を煽り、翌日朝、2千人以上がノルブリンカに集まった。そこでさらに「軍区はダライ・ラマを毒殺するつもりだ」というデマを流し、「チベット独立」「漢人出ていけ」のスローガンを叫んだ。

反乱分子はその現場で、退任したチベット地方政府のガルンや、当時チベット軍区の副司令員だった桑頗・才旺仁増氏を殴打し、さらに自治区準備委員会委員だった堪窮巴拉・索朗降措氏を石で打ち殺し、その死体を市中まで馬に引きずらせてみせしめにした。その後、反乱の指導者はいわゆる「人民代表会議」「チベット独立国人民会議」を次々と開き、反乱武装勢力の組織と拡大に努めた。

ノルブリンカは反乱分子の監視下に置かれ、ダライ・ラマとの連絡は困難を極めたが、中央の譚冠三・代理代表はなんとか愛国人士を通じて3月10日と11日、15日にダライ・ラマに宛てて3通の手紙を出した。譚冠三氏は手紙の中で、ダライ・ラマの立場に理解を示し、彼の安全を気遣うとともに、チベット地方政府に反乱分子の荒れ狂った軍事挑発を直ちに制止するよう要求した。ダライ・ラマも3月11日、12日、16日に譚冠三氏にそれぞれ3通の返事を出した。その中には、「反動的な分子らが私の安全を守ることを口実に、私に危害を加える活動を行っている。私はこれを抑えようと八方に手を尽くしている」「反動グループの違法行為は、私にとって悲しい限りだ・・・私の安全を守るという名目で発生した、中央と地方の関係を引き離す深刻な事件に対し、私はあらゆる手を尽くして処理にあたっている」と書かれていた。16 日の手紙には、地方政府の官僚らを「教育」し、「厳しく責任を問うた」とし、数日後には軍区に赴く意向を打ち明けた。このダライ・ラマが自ら綴った三通の手紙の原本を、かつて新華社の記者が撮影し、その写真は公開されている。

しかし、3月 17日夜、ダライ・ラマはガルンの索康、柳霞、夏蘇などの反乱の指導者に脅迫されてラサを逃げ出し、反乱武装勢力の「根拠地」である山南に向かった。その後、反乱が失敗し、再びインドに逃げた。

ダライ・ラマがラサを去った後、反乱分子は約7千人集め、3月20日明け方に党・政府・軍の機関に向けて全面攻撃を開始。人民解放軍はやむなく、当日午前10時に命令を受けて反撃した。愛国心あるチベット族の僧侶や人民の支援により、わずか2日間でラサ市の反乱は徹底的に平定。その後、反乱分子が長期的な拠点としていた山南地区でも反乱を平定、他の地域に波及していた反乱武装勢力も相次ぎ崩壊した。平定の過程で、人民解放軍の軍紀は厳正で、多くの僧侶らから真摯な擁護を受けた。(編集KA)

「人民網日本語版」2009年3月12日



CIA ダライ・ラマ側に対中闘争の資金と武器の援助していた

2012.07.15 07:00

中国人民解放軍が1949年にチベットに侵攻し、チベット仏教の最高指導者ダライ・ラマ14世を事実上の軟禁状態にし、監視下においていた際、米中央情報局(CIA)がチベット支援のため、ダライ・ラマ側に年間18万ドル(当時のレートで約6480万円)と軽火器を提供するとともに、チベット兵に軍事訓練などの支援を行なっていたことが分かった。米ニューヨークを拠点とする中国専門情報Webサイト「多維新聞網」が報じた。

米政府が1959年3月のダライ・ラマのインド亡命後、資金援助などを行なっていたことは知られているが、それ以前にもCIAが資金とともに軽火器などを提供していたとの事実が明らかになるのは初めてだ。

それによると、ダライ・ラマの密使が1951年、ニューデリーの米国大使館とカルカッタ(現在のコルカタ)の米国領事館を訪れ、当時独立国だったチベットが中国共産党に対抗するために、ダライ・ラマへの支援提供や武器の援助を要請した。

これに対して、東西冷戦下で、共産主義のアジア各地への波及を恐れていた米政府はダライ・ラマへの資金援助などを了承するとともに、機関銃などの軽火器を提供することを決めた。さらに、チベット国内のほか、米国の米軍基地でチベット兵に軍事訓練を行なうことも約束した。

これらの交渉はダライ・ラマの2番目の兄、ギャロ・トンドゥプ氏が担当していたが、ダライ・ラマにとって交渉結果は事後承諾の形で報告されており、いまでも平和主義者で、非暴力主義で知られるダライ・ラマが当時、軍事闘争路線を承認したというわけではなさそうだ。

CIAがチベット軍を援助し、中国人民解放軍相手のゲリラ戦を支援する作戦は「セイント・サーカス(St. Circus)」とのコードネームで呼ばれ、チベット内の2か所の基地で3000人のチベット兵を武装させて軍事訓練を実施し、活動資金も提供したという。

1959年にダライ・ラマがインド亡命した後も、軍事的支援は続けられ、訓練は中国国境に近いネパール北西部の拠点を中心に行われた。また、CIAはゲリラ戦を行なうチベット人兵士259人を米コロラド州の基地に連れて行って軍事訓練を実施したという。訓練のプログラムは殺人、射撃、誘拐、爆撃、爆弾製造などで、訓練を受けたチベット兵は神出鬼没に中国領内に現れ、人民解放軍部隊を相手にかなりのダメージを与えたとされる。

ところが、これらの資金提供や軍事援助は1969年に突然中止となる。当時のニクソン政権の大統領補佐官だったヘンリー・キッシンジャー氏が対中関係改善を模索していた時期と符合しており、ニクソン大統領の決断だったとみられる。


※管理人注:記事中に「チベットに侵攻」とある箇所があるが、正しくは「チベットを解放」である。くれぐれも間違いのないように。なぜ「解放」なのかについては「中国のチベット平和解放は侵略ではない」を参照のこと。



動画:CIA とチベット:関係者の証言




関連項目
統一教会とチベットの関係
ナチスとチベットの関係
オウム真理教とチベットの関係


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統一教会とチベットの関係
南朝鮮起源の反共カルト宗教である統一教会は長らく反中工作活動を行ってきたことで知られるが、その一つとして大々的に行われてきたのがいわゆる「フリーチベット運動」である。

ダライ・ラマ14世が2007年に統一教会の教祖・文鮮明に祝電を送ったことや、自由チベット協議会が統一教会系の反共主義団体である世界平和連合の集会に堂々と参加していることからも明らかなように、いわゆる「フリーチベット運動」とは統一教会が深く関与する中国分裂工作の一つなのである。



目次
1. ダライ・ラマ14世が2007年に統一教会教祖の文鮮明に送った祝電の内容
2. 自由チベット協議会が統一教会の集会に参加
3. ペマ・ギャルポは統一教会系新聞である世界日報のコラムニスト
4. 動画:統一教会とフリーチベット ダライラマは文鮮明に祝電を送っていた。



ダライ・ラマ14世が2007年に統一教会教祖の文鮮明に送った祝電の内容

チベット仏教聖者 ダライ・ラマからの祝賀メッセージ内容

尊敬する文鮮明総裁、韓鶴子総裁。先日文亨進様を招待する機会があり、文総裁ご夫妻の世界平和と世界宗教に対する遠大な使命に関して深い対話を持てた機会がありました。

今回開催される世界平和首脳会議に文享進様の友人であるラマ王も招待してくださり誠に感謝をささげるものでございます。文総裁の88歳米寿生誕と韓鶴子総裁の65歳生誕を心からお祝い申し上げます。尊いみ旨を成就することができるよう祝福がともにあることを願います。

ダライ・ラマ



自由チベット協議会が統一教会の集会に参加

世界平和連合公式サイト曰く:
『「このままでは日本は滅びる〜共産主義は間違っている〜自由アジアと連帯せよ!」と題し東京議員・有識者救国セミナーが三月七日、 東京・新宿の都議会会議室で行われ、約百五十人が参加した。 国策研究地方議員協議会による主催、自由チベット協議会、日本ウイグル協会、全世界脱党支援センター及び本連合(IFVOC)/ 世界平和連合(FWP)が協催団体として加わった。』

※世界平和連合は統一教会系の反共主義団体。



ペマ・ギャルポは統一教会系新聞である世界日報のコラムニスト

チベット族出身の反中活動家であり日本において「チベット侵略」や「チベット大虐殺」などの歴史捏造を流布しているペマ・ギャルポは統一教会系新聞である世界日報のコラムニストである。

世界日報のサイトより。




動画:統一教会とフリーチベット ダライラマは文鮮明に祝電を送っていた。




関連項目
CIAとチベットの関係
オウム真理教とチベットの関係
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オウム真理教とチベットの関係
ダライ・ラマ14世は、あの地下鉄サリン事件を起こしたカルトテロリスト集団であるオウム真理教の教祖・麻原彰晃の師であった。オウム真理教の教義や教則などもその多くがダライを由来としているものであり、それだけダライは麻原およびオウム真理教に多大な影響を与えていた人物なのである。

ダライ・ラマ14世の存在があったからこそカルトテロリスト集団のオウム真理教がこの世に誕生し、地下鉄サリン事件その他の凶悪事件もこの世で発生し得たと言っても過言ではない。そのような凶悪なカルト宗教を生み出すことに一役買った悪魔のような坊主が率いる「亡命集団」がもしもチベットの独立国家を建国などしようものなら、一体どのようなおぞましい政教一致国家が誕生するのか、想像するのも恐ろしい話である。



目次
1. ダライ・ラマ14世と麻原彰晃のツーショット写真
2. オウム真理教の麻原彰晃とダライの関係
3. ダライ・ラマの称賛を“金で買った” 上祐氏が古巣・オウムに爆弾
4. ペマ・ギャルポとオウム真理教の関係
5. 動画:ダライ・ラマ14世とオウム真理教の麻原彰晃の関係



ダライ・ラマ14世と麻原彰晃のツーショット写真

※画像クリックで拡大。



『平和と友好のきずな - 麻原彰晃尊師とダライ・ラマ法王の親交』
『海を越え、届けられる真理教信徒の善意と布施』





オウム真理教の麻原彰晃とダライの関係

▽オウム真理教の麻原彰晃とダライの関係

オウム真理教の起こした一連の凶悪事件は世界に衝撃を与えた。1995年3月、日本の地下鉄で起こったサリン事件では12人が死亡し、5千人余りが負傷した。2004年2月27日、東京地方裁判所は13の罪名で教祖の麻原彰晃に死刑を言い渡した。2006年9月、最高裁の抗告棄却によって死刑が確定した。

地下鉄サリン事件の発生後、平和を愛する世界中の人々が怒りの矛先を麻原彰晃とオウム真理教に向けていた頃、ダライは共同通信を通じて、「オウム真理教は仏教の教義を広める宗教であり、麻原彰晃は自らの友人である」との意見を発表し、大きな反響を呼んだ。ダライはなぜこのような意見を発表したのか。それは、麻原彰晃という邪教の指導者が実のところダライの「生徒」だったからだ。ダライのこのような汚れた過去に対し、良心を失ったメディアは見て見ぬふりをし、二人の関係をなかったもののようにしている。

ダライはこれまで12回にわたって日本を訪れている。1984年の訪問では当時29歳の麻原と会ったという情報もある。麻原は1986年、インドを訪れた後にオウム真理教を正式に設立。翌1987年、麻原は再びインドを訪れ、ダライと会っている。この時、ダライは麻原に対し、「親愛なる友人よ、日本の仏教はすでに退廃してしまった。このまま行けば、仏教は日本で消えてしまうだろう。あなたは故郷で本当の仏教を伝えなければならない。仏の境地を知るあなたは最良の人選だ。あなたが日本で布教することを私はとても嬉しい。そうすることは私の仕事を助けることでもある」との内容の発言を行った。この会見時、ダライは麻原に祝福を与え、「師弟関係」を結んだといわれる。

ダライは自らの「生徒」の働きにとても満足していた。1995年の事件が発生するまでの8年間、二人は5回にわたって顔を合わせ、手紙のやりとりをしばしば行っていた。1989年、麻原は10万ドルをダライに寄付し、ダライは証書と推薦状をもってこれに返答した。ダライは東京の関連部門にあてた推薦状の中で、「麻原彰晃は能力のある宗教的指導者であり、オウム真理教は大乗仏教を広め公共の善を促す宗教だ」とし、「オウム真理教への免税を許可するべきだ」とまで書いている。オウム真理教はこの証明書と推薦状によって、日本政府が正式に承認する宗教団体となった。その後、大量の資金を蓄積してサリンの研究と生産を行ったのは周知の通りだ。

麻原は日本で合法的な地位を得た後、ダライに感謝状を送り、「私たちの希望はチベットができるだけ早くチベット人の手に帰ることです。私たちはそのためにできるだけの援助をしていきます」と述べている。麻原はダライの指示を受け、チベット地域に2回にわたってもぐりこみ、「布教活動」を行っている。麻原はダライが自らの指導者であることを正式に認めている。オウム真理教の教義や教則なども多くがダライを由来とするものだ。

ドイツの週刊誌「フォーカス」は、「ダライの支援がなければ、麻原彰晃が自らの宗教帝国を作ることは不可能だった。ただの治療師であり詐欺師でしかなかった麻原が数年の短期間であっという間に大教団の教祖となるのも、ダライの支援がなければこれほど簡単ではなかったはずだ」と指摘している。ダライが麻原をこれほど重用したのは、麻原からの金銭支援をあてにしていたためだけではなく、麻原を通じて日本の仏教を改革したいと考えていたためだ。ダライが麻原と結託したのは、「チベット独立」を支援する弟子たちを日本に増やしたかったからにほかならない。ダライのこの勝手な計算は邪教の崩壊という結果に終わった。自己の信徒の生命を損なう邪教が目立つ中で、ダライの高弟である麻原彰晃が作り出したオウム真理教は、教団外の罪のない人々をテロ攻撃する教団として、人々に大きな衝撃を与えた。(「鳳凰週刊」よりダイジェスト、編集MA)

「人民網日本語版」2008年12月25日



ダライ・ラマの称賛を“金で買った” 上祐氏が古巣・オウムに爆弾

2015年01月21日 08時00分

オウム真理教元信者高橋克也被告(56)の第2回の裁判員裁判が19日、東京地裁で開かれ、元幹部の上祐史浩氏(52)が証人出廷した。

オウム裁判に証人として出るのは初。現在は麻原彰晃死刑囚(59)と決別して、新団体「ひかりの輪」代表の立場だ。法廷では古巣への冷静な批判を繰り広げた。

オウム教義は「ヨガ団体にチベット密教とキリスト教の終末思想が入った寄せ集め」と指摘。当時、入信した若者たちは上祐氏を含めて、「ノストラダムスの大予言」やアニメにかなり影響されていたと語る。

「私は第3次世界大戦が起こると思っていた」。裁判後の会見では「『宇宙戦艦ヤマト』も『機動戦士ガンダム』も世界大戦を描いた。ハルマゲドンのキーワードがいくらでもあった」と述べた。

幹部しか知らない仰天事実も明らかに。サリン事件後、麻原死刑囚が「1995年の11月には戦争だ!」と発言したと証言した。「11月」「戦争」という言葉は記憶しているという。サリン以上のテロの可能性があったとは恐ろしい。

また、教団がダライ・ラマ14世に莫大な寄付をしていたことも明らかに。「麻原は100万ドルを目標にして、たぶん1億円を超えた」。80年代後半、ダライ・ラマは麻原と対談して称賛の言葉を贈っている。

「お金の取引で、高名なダライ・ラマが称賛の言葉を贈ると思えず、信じた」と上祐氏。ダライ・ラマは89年にノーベル平和賞を受賞。名僧ブランドでオウムの信用が上がったことは、信者獲得の一因に違いない。

高橋被告とは出家の時期が近いが「付き合いがない。要するに影の薄い男」と振り返る。謝罪の言葉が出ないことに「心の中が整理できてない。(信仰心が)残ってなければ、宗教的に正当化できない事件だった。個人の関与は別にして、教団の関与は明らか。それでも(謝罪が)ないのは、麻原への信仰が残っていると考えるのが合理的」と指摘した。



ペマ・ギャルポとオウム真理教の関係

日本において「チベット侵略」や「チベット大虐殺」などの歴史捏造を流布しているチベット族出身の反中活動家でありダライと麻原を引き合わせた張本人でもあるペマ・ギャルポも当初はオウム真理教との関係を持っていたが、後に関係を切っている。

彼は1999年2月25日に宗教関連団体「大阪国際宗教同志会」の講演「チベット仏教とは何か」において以下のように発言した。

それから、「オウム」の問題......。オウム真理教の問題に関しても、私はもちろん加担しました。なんていうかな、麻原彰晃さんがある程度、偉くなるのにですね、良い意味でも悪い意味でもそれなりに貢献したのは事実です。というのは、彼をインドに最初に紹介したのは私だったんです。しかし、その時は、私なりの打算がありました。私は今までに二回詐欺に遭ったことがありますけれども、よく考えてみますと、その詐欺師だけが悪いのではなく、自分の中にもちゃんと計算(打算)があるんですね。ですから、不可能なものを可能であろうと信じたりするんです。

それと同じように、麻原さんの時もやっぱり、日本の仏教とチベットの仏教は兄弟みたいなものだけれども、もし麻原さんがチベット仏教の信仰者になれば、これは息子みたいになるから......、と本当に思ったんです。そうしたら、もっともっとこちらが直接、何事もお願いしやすくなると思ったんです。そういう過去がありました。ただ、何カ月もしないうちにいろんなことが判ってきて、最後には、私は「麻原さんとはお付き合いしないほうがいい」ということを、ダライ・ラマ法王庁に申し上げました。

1999年2月25日 ペマ・ギャルポ

なお、「彼をインドに最初に紹介したのは私だったんです」の「インド」とはインドのダラムサラにあるダライ・ラマ14世のチベット亡命政権のことである。



動画:ダライ・ラマ14世とオウム真理教の麻原彰晃の関係




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ナチスとチベットの関係
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ナチスとチベットの関係
世界の歴史にその名を残した大量虐殺集団ナチスへの貢献に尽力していた殺人犯、それが「チベット大虐殺」捏造映画の原作本を書いた人物でありダライ・ラマ14世の師でもあったハインリッヒ・ハラーの正体である。

まったくこの者にしても、米帝にしても、日本右翼勢力にしても、当の自分ら自身が人殺しの犯罪者であるくせにその事実を棚上げして中国に「チベット大虐殺」などという濡れ衣を着せるとは実に片腹の痛い話である。

ちなみに「チベット大虐殺」が捏造であることは「「チベット大虐殺」は反中勢力が捏造した嘘」を読めばわかる。



目次
1. ハインリッヒ・ハラーの暴かれた過去



ハインリッヒ・ハラーの暴かれた過去

▽ハインリッヒ・ハラーの暴かれた過去

ドイツの週刊誌「シュテルン」は1997年5月28日、ダライの啓蒙教師として有名なハインリッヒ・ハラーとナチスとの関係を決定付ける証拠を明らかにした。ハラーとナチスとの関係はそれまでにもたびたび問題になっていたが、文献的な証拠が不足しており、ハラー自身もナチスとの関係を否定していた。「シュテルン」が暴露したのは、ベルリンの連邦資料館で発見されたハラーの原資料。80ページにわたるこの資料によると、1912年7月6日に生まれたハラーは1938年5月4日にナチ党に入党し、党員番号「6307081」を持っていた。ナチ親衛隊のメンバーでもあり、所属部隊は「38部隊」、隊員番号は「73896」。資料にはハラーの手書きの履歴書もあり、ハラーが1938年4月1日に親衛隊での活動を始めたことが記されている。それ以前の1933年10月からもオーストリアで当時非合法だった突撃隊の活動に尽力していたという。この履歴書には、襟にナチスのシンボルをつけたハラーの証明写真も貼られている。

「シュテルン」は、「ナチスとの関係について追究を受けたことのないハラーは、何の妨げもなくスーパースターになってしまった」と論じる。ハラーは西蔵(チベット)に逃げ、1946年頃にはダライの教師も務めた。その後、ハラーの著した「チベットの7年」は大きな反響を生み、40余りの言語に翻訳され、読者は5千万人を超えるベストセラーとなった。ハラー自身も、「人権の擁護者」との名声を受けるようになった。とりわけハリウッドが巨額を投じて同書を映画化(「セブン・イヤーズ・イン・チベット」)したことから、ハラーは西側諸国で英雄視されるようになった。だが、ハラーの真実の過去が明らかになった今、人々はもう一度考えなおしてみるべきではないだろうか。半世紀にわたって嘘をつき世界の人々をだましていたハラーのような人の言論にどれほどの信頼性があるのか。自らの過去をでたらめでかためたハラーのような人がチベットの状況に対して下した評価が客観的で公正なものだったといえるのか。

「人民網日本語版」2008年12月25日



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シュレック関根無双! 海外から上陸してきた重量級強豪アレク・ボールディングとの死闘に競り勝ち2階級制覇! 第17回全日本柔術

第17回全日本柔術



























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贅を尽くした私邸もなく、カストロ自ら二十年近く前に寄贈されたオンボロのベンツに乗り(ちなみにカストロの年間給料は、いかに貧乏国とはいえ僅か4万円!、平均的な国民給料の倍ほどしかない)、銃を持った警備の人間もいない大衆の中に平気で入っていき、演説をして帰っていくそうだ。キューバは米国による四十年にわたる経済封鎖により厳しい状況にあるが、ただの一人の餓死者も出さず、教育、医療に力を注いでいる。











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http://blogs.yahoo.co.jp/horisusumu8/23276957.html

キューバの善政 記事をクリップするクリップ追加 2009/2/6(金) 午前 8:27 政治 その他政界と政治活動 02009.01.19 Monday  [カテゴリ:裏・闇を照らす目]
世界一心豊かな国!?メディアが伝えない本当のキューバの姿
ではなぜ米国がキューバに対して、このような嫌がらせ工作ばかりしているのか?

一つには、以下に書くように、自国の支配下に置き金儲けの場にしたいという思いを、カストロらによって打ち砕かれてしまったので、メディア等を使ってウソ情報を流しさんざん悪のイメージを植え付け、再度支配を目指そうということ。

それともう一つは(単に私がそういう気がするというだけですが)、他国で本当に幸せそうに暮らしてる人たちを見るのががまんならないんじゃないだろうか・・・
(つまり米国の支配層は、世界一心の貧しい人間)

キューバ革命と、カストロ、ゲバラ等についてはすでに多くの人たちがご存知だろうとは思うけど、独裁とか悪・テロとかいってメディア報道してる米国発のウソ情報を鵜呑みにしてる人たちのためにはじめに、今一度簡単に書いておきます。

1950年代のキューバは米国の属国同然で、土地、電話、電力、鉄道すべての利権がアメリカ資本の手に渡り、首都ハバナはマフィアが横行する無法の歓楽街となっていた。しかもキューバ政府の要人は独裁者バティスタ将軍を筆頭に米国にゴマをする者ばかり。巨額の黒い金が支配層間で動いていた。

キューバに限らず、ボリビア、ペルー、グアテマラ等当時の中南米の各国では米国による経済的植民地支配が広く行われており、各国の農民たちがそれに抵抗、小規模の革命があちこちで起こっていたけど強大なバックの控えてる相手にはいずれも成功しなかった。

たとえばグアテマラでは、ハコボ・アルベンス首相を中心に農地改革を中心とした社会主義的な革命が進行中だったが、貧富の差をなくそうとする政府の試みは、必然的に米国系企業の植民地支配と対立することになり、ついにはアメリカによる介入を導くことになり、1954年6月、CIAや米国系企業の後押しを受けたカスティージョ・アルマスを中心とした軍部によるクーデターが起き、グアテマラの短い「春」は終わりを告げてしまった。

カストロ、ゲバラらもその例外でなく、逃げ延びていたメキシコで運命の出会いを果たしたのだ。

バティスタ軍事政権を打倒する為に、カストロは武装した同志82人と今まさに祖国に戻らんとしていた。情熱的に巨悪と立ち向かうカストロの生き方に感銘を受けたゲバラは、軍医として彼らに同行することを決意し、1956年12月、キューバへの密航船に同乗した。

ゲバラの闘い方はアメリカ軍や戦前の天皇の軍隊とは全然違ったものだった。農民を尊敬しろと徹底し、自ら山中で出会った農民と握手を交わし、相手の名前を聞き自己紹介をする。人民の財産を盗んだり、レイプするなどはもってのほか。彼ら革命軍は農村で食料や物資を調達する際、必ず農民に代金を支払った。イラクやアフガニスタンの市民を殺しまくり、虐待しているアメリカ軍とは大違いで、ゲバラは不正な行いには味方の兵であっても容赦はせず、脱走した兵が密告しその結果農民が惨殺されたり、女性のレイプには死刑を持って臨んだ。
また、負傷兵は戦場に置き去りにしない。敵兵であっても負傷し捕虜となれば丁重に扱い治療をしてやる。
こうした仁義話はキューバ全土にすぐに広まり、政府軍の中からもゲバラたちの仲間に加わる者が出た。

1959年1月2日、民衆の大歓声に迎えられ革命軍はついに首都ハバナへ入城し新政権を樹立させた。首相に就いたカストロは若干31歳、国銀総裁のゲバラは30歳という、若者たちの政府が誕生した。

ゲバラとカストロはすぐさま新生キューバの建設にとりかかる。
まず国民全員が文字を読めるよう教育を無償化すると共に、政府軍が使っていた全ての兵舎を学校に変え、文盲一掃運動に取り組んだ。続けて医療の無料化を実現した後、少数の大地主が独占していた土地を国有化、米国資本が牛耳っていた企業の国営化などをすすめ旧勢力の激しい抵抗を受けつつも独自の国家作りに挑戦した。
国民全員の家賃を半額にするなど、過激な政策をどんどん実行していった。

なお、キューバのどの街を訪れてもカストロの肖像画などはない!
街のどこを探しても、彼を賛美するポスターも銅像もない。国民に個人崇拝をこれっぽっちも求めていないのだ!社会主義国から連想する、笑ってしまうほど巨大な国家元首のモニュメントは、キューバでは見られない。
贅を尽くした私邸もなく、カストロ自ら二十年近く前に寄贈されたオンボロのベンツに乗り(ちなみにカストロの年間給料は、いかに貧乏国とはいえ僅か4万円!、平均的な国民給料の倍ほどしかない)、銃を持った警備の人間もいない大衆の中に平気で入っていき、演説をして帰っていくそうだ。キューバは米国による四十年にわたる経済封鎖により厳しい状況にあるが、ただの一人の餓死者も出さず、教育、医療に力を注いでいる。

キューバ革命で最も煮え湯を飲まされたのが隣国アメリカだ。
キューバ全土の土地や電力、鉄道などの巨大な利権と、ハバナ歓楽街のブラックマネーを一度に失った米国は、革命政府に憎悪をたぎらしCIAを暗躍させ、爆弾テロ、米軍傭兵部隊の上陸作戦など様々な方法でゲバラたちを倒そうとした。
(これは当時のケネディ大統領には知らされておらず内緒の行動)

ゲバラが国立銀行総裁になって一番最初にしたことは、自分の給料を半分以下にカットすることだった。工業相になってからは自ら建設現場で働いたり、工場のラインに立って作業を手伝った。サトウキビの収穫期には農園で汗を流し、とにかく人々の中へ自ら飛び込んでいった。これは彼にとって美談でも一過性のパフォーマンスでもなく、いつもの“ごく普通の光景”であった。
仕事場には誰よりも早くきて、帰りは誰よりも遅く、労働者に交じって食事をするゲバラ。国民の間でどんどん彼の人気は高まっていった。

ゲバラは1965年、アルジェリアで行われた「アジア・アフリカ経済セミナー」において演説を行い、それまで友好国と信じていたソ連もまた、キューバを世界戦略の為に利用しようとしていたにことに失望し、「我々のような後進諸国の、多くの汗と努力を費やして生産した原材料を安く買い、それを国際市場で売った利益で先端の機械を買う国に対して、“相互発展”という言葉は当てはまらない。 もし両国の間にこのようは不平等があるのなら、貴国が我々と同じ社会主義国家といえども、見方によっては帝国主義的収奪の共犯者だと言わねばならない。」 と非難し、論争を巻き起こした。(反米の後ろ盾になってくれるべきソビエトに対しても間違ったことは堂々と口にするゲバラはまさに正義感の塊のような人間!) 

これで、なぜ米国がキューバを目の敵にしてるかということもだいたいわかったと思う。
また、今米国支配下にある世界中の国々や今後支配下に納めようとしている国々に対して、キューバやベネズエラ等が本当はすばらしい国なんだということを知られては困るわけで、そのため各国に圧力・脅しをかけて経済封鎖して貧困にあえいでいる国だとか、いろんなことをでっちあげて独裁者だとかテロ国家だとかいって悪いイメージを植え付けているのです!
そして、米国がキューバに対して実際にしてきた仕打ちは、単に経済封鎖する等以外に、こないだっから書いてきたように、キューバ上空に病害虫をバラ撒き、キューバ農業に壊滅的打撃を与えたり、テング熱を蝶介する「ネッタイシマカ」をキューバに放ち、テング熱を大発生させたりといったキチガイ的なことを平然と繰り返しているのだ!
もちろん、カストロの暗殺もこれまで何度も試みている。

キューバでは医者の給料というのは他の職業よりもはるかに少ないのだ!
にもかかわらず、将来は医者になりたいという若者が非常に多いようで、給料よりも世の中のためになる仕事をしたいということです。

http://310inkyo.jugem.jp/

(共産党は嫌いだけれど、このような善政をやってくれれば共産主義でも自由主義でも構わない)

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やっぱりネトウヨ=犯罪者だった!ネトウヨは存在そのものが犯罪なんだからネトウヨこそ大量虐殺されればいいのに。植松聖による障害者大量殺人を正当化するネトウヨの書き込み ネトウヨという危険思想のテロリスト

http://blog.livedoor.jp/chuuseijap/archives/64172850.html



相模原の障害者施設で19人を大量殺戮した凶悪犯はネトウヨだった!



障害者施設で19人刺殺 相模原、26歳の元職員逮捕 25人重軽傷 容疑認める
2016/7/26付|日本経済新聞 夕刊
http://www.nikkei.com/article/DGKKASDG26H6M_W6A720C1MM0000/ (魚拓)

26日午前2時45分ごろ、相模原市緑区千木良の障害者施設「津久井やまゆり園」から「ナイフを持った男が侵入した」と110番があった。神奈川県警によると、侵入した男に刺された男女19人が死亡、25人が重軽傷を負った。県警は出頭してきた同施設の元職員で自称無職の植松聖(さとし)容疑者(26)=相模原市緑区千木良=を殺人未遂などの疑いで逮捕した。

この事件の犯人について。
発掘された犯人のTwitterアカウントとみられる「聖@tenka333」の発言集。

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https://twitter.com/tenka333/status/752825807089774592


‏@tenka333

@katsuyatakasu @KaNatsuki811 デブは本当に心が汚れています!周りに冷たくされ、傷ついているからです!
日本国と高須様のお力で、全てのデブを脂肪吸引して頂けませんか?
美人が増えることで、日本全体が元気になればと考えました!
宜しくお願い致します!

340 リツイート 146 いいね
4:23 - 2016年7月12日




https://twitter.com/tenka333/status/712851611996069888


‏@tenka333

@yamaguchi723 @Sankei_news 議員になるとか、イスラム国と話し合いするとか言ってる平和ボケの化けの皮が剥がれましたね。

4 リツイート 10 いいね
21:00 - 2016年3月23日




https://twitter.com/tenka333/status/608894979428130817


‏@tenka333

@senakichi0214 翁長知事にハゲ野郎って伝えて!!

5 リツイート 3 いいね
0:14 - 2015年6月11日




https://twitter.com/tenka333/status/697646240687730688


‏@tenka333

@6004006004006 おじいちゃん漫画ミナミの帝王のモデルなんだって。在日恐い。

9 リツイート 12 いいね
21:00 - 2016年2月10日



以下、「聖@tenka333」がフォローしている主なTwitterアカウント一覧。
見事なまでにネトウヨ系アカウントだらけ。

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ああ…こりゃどう見てもネトウヨですわ。
この事件はネトウヨによる障害者へのヘイトクライムと見做して間違いないな。

やっぱりネトウヨ=犯罪者だった!
ネトウヨは存在そのものが犯罪なんだからネトウヨこそ大量虐殺されればいいのに。
この事件に関するネトウヨの愚劣さについては↓こちらもご覧ください。

植松聖による障害者大量殺人を正当化するネトウヨの書き込み ネトウヨという危険思想のテロリスト
http://japbuster.hatenablog.com/entry/2016/07/26/230015
相模原殺人犯、やっぱり在日認定される
http://datsuaikokukarutonosusume.blog.jp/archives/1059678046.html

ついでに、中国を裏切り日本のウヨに寝返った反中媚日売国奴の漢奸野郎で自称評論家の石平はこんなことを発言し、炎上した。


相模原市の障害者施設殺傷事件 石平氏のツイートが炎上
2016年7月26日 18時6分 J-CASTニュース
http://news.livedoor.com/article/detail/11810936/ (魚拓)

男一人の凶行を、「警備員や職員さんたちは途中で食い止めることができないのか」――。神奈川県相模原市の障害者施設で起きた入居者殺傷事件を受け、評論家の石平(せき・へい)氏が投稿した「施設の防犯体制」をめぐるツイートが物議を醸している。

石平氏は続く投稿で「問題提起をしただけで職員や警備員を批判したわけではない」という趣旨の釈明をしているが、ネット上では「論点をすり替えている」との批判が止まず、「炎上」状態になっている。

犯行当時、職員8人、警備員は1人だった

2016年7月26日未明、知的障害者が入居する福祉施設「津久井やまゆり園」で事件は起きた。

容疑者の男性は1階の窓ガラスを割って施設に侵入し、持参した刃物で入居者らを次々と刺していった。これまでに少なくとも男女19人が死亡、26人が重軽傷を負っている。戦後に起きた殺人事件としては、犠牲者の数が最大級となった。事件発生当時、施設内には入居者のほか、夜間勤務の職員8人と警備員1人がいた。

こうした事件をめぐり、中国出身で拓殖大学客員教授の石平氏(ツイッターの名義は「石平太郎」)は26日朝に更新したツイッターに、


「男一人が次から次へと39人に凶行を及ぼしたのに、警備員や職員さんたちはそれを途中で食い止めることができないのか」

と綴った。施設職員の防犯対応を批判しているように受け取れるこの投稿は、ネット上で激しい批判を呼ぶことになった。石平氏の投稿に対しても「簡単に批判的意見を述べられるのは不愉快」「職員を批判するような事はやめてください」などと批判的なリプライ(返信)が殺到した。

だが、石平氏は寄せられた批判に対して「疑問を呈しただけ」「批判は的外れ」などと反論。続くツイートでは、「障害者は自分自身を守りきれない弱者だから、施設は当然、彼らを守る義務がある」と持論を展開。その上で、


「あんな悲惨な事件が起きたから、施設の防犯体制に疑問を呈するのはむしろ当然。私の聞き方は悪かったかもしれないが、疑問1つも許さないのは良くないと思う」

と重ねて主張し、自説を曲げなかった。

介護施設は「警備どころではない」

このように石平氏は自身の投稿を「問題提起をしただけ」との主張を繰り返しているが、ネット上では「論点をすり替えている」といった批判が止まない。ツイッターやネット掲示板には、


「あんな書き方されたら議論も何もないよね。あの疑問を投げかける時点でナンセンス」
「なんで警備問題に歪曲してんだろう?」
「~はできないのかって常識的に考えて批判的意味合いを含んだ問題提起だろう」

といった投稿が相次いで寄せられている。

さらには、障害者施設などの職員とみられるユーザーからも「実態を全く理解していない」との異論が続々と上がっている。その多くは、手薄な深夜の勤務体制や警備体制などについて、自らの労働環境を引き合いに訴える声だ。


「私は老人福祉施設に勤めてますが、夜勤1人に対して入居者30人弱を見てるんです。バラバラにあちこち居る状況じゃ、守ろうと思っても無理です」
「施設の夜勤はヘタしたら女性職員2人くらいの場合もあるから」

こうした指摘を受け、石平氏は「施設の大変な状況がよく分かった」と投稿。だが、その上で、


「それでもわれわれの社会は問わなければならない。施設の防犯体制に問題はなかったのかだ」

と繰り返した。だがこの投稿にも、「介護施設なんてどこも資金や人もぎりぎりなのに警備どころではない」「ちょっと無知すぎるのではないですか」と手厳しい返答が寄せられている。

26日夕、石平氏は「私の呈した疑問は『批判』との誤解を生んだことには素直にお詫びしたい。申し訳ございませんでした」と謝罪。だが、「疑問を呈したこと自体は間違っていないと思う」とも綴っていた。
漢奸野郎石平ざまあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああwwwwww

こういう犯罪に対してトンチンカンな疑問を持つこいつみたいな輩が南京大虐殺や従軍慰安婦などの鬼畜日帝の国家犯罪に対してもトンチンカンな疑問を持ってイチャモンを付けるのです。
よく覚えておきましょうね。

こいつ早く中国のスパイにでも暗殺されねーかな。
まあロシアなんかとは違ってダライ・ラマすら暗殺もせずにいつまでも泳がせている寛大で温厚で礼儀正しい中国様がそんなことをしてくれるとも思えねーけど。

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「日本スゴイ」のディストピア: 戦時下自画自賛の系譜 「我が軍」「八紘一宇」と総理や政治家が公言する現在、80年前の「日本スゴイ!」キャンペーンを発掘して、思わず噴き出す陳腐な内容を白日の下にさらす

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早川 タダノリ
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祝!発売中「日本スゴイのディストピア」!大幅加筆刊行決定!早川タダノリ氏連載「日本スゴイ!自画自賛の系譜」
twをまとめさせて頂きました、問題ございましたら対応させて頂きますので、お手数おかけ致しますが、ご連絡頂けるようお願い申し上げます。

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いちおう、著者の早川タダノリさんはまとめに同意いただいておりますし、まとめで興味を持っていただいて新刊(6月30日発売)の売り上げに貢献できればと思っておりますが、新聞社の方からなんらかの注意を受けましたら、薔薇続きを読む
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早川タダノリ @hayakawa2600
2014-10-31 20:36:45
〈「日本スゴイ!」自画自賛の系譜〉という連載(仮)タイトルで原稿を出稿。掲載は未定ですが、どこかの地方紙に載るかもです。
早川タダノリ @hayakawa2600
2014-12-09 08:40:01
配信記事用に書いた連載「日本スゴイ!自画自賛の系譜」が神奈川新聞に掲載されました。第2回「とにかくエライ、神ノ国」が12月8日(月)に、第3回が12月22日(月)に掲載されるそうです。神奈川新聞購読者の方はお楽しみに!そのほか、ほかの新聞にも掲載されているかもです。
ゆめさん @kashiwagi_yume
2015-02-02 21:44:04
神奈川新聞の「日本スゴイ!自画自賛の系譜」という連載が……スゴイ。こんなおもしろい企画が載ってたことに連載始まって1か月も経ってから気づいた私……惜しいことをした。ところどころ抜けている…今朝から古新聞を漁りまくって未だ1~3が見当たらない……図書館かなぁ……。
静岡新聞デジタル編集部【@S】 @shizushin_news
2015-02-06 12:48:08
きょう(6日)の #静岡新聞 夕刊8面「日本スゴイ!自画自賛の系譜(1)」では、編集者の早川タダノリさん @hayakawa2600 が、戦前の「日本スゴイ!」本を紹介。
「こち女(こちら女性編集室)」 @ats_women では、“プチ起業”を取り上げます。(し)
BARA @BARANEKO
2015-02-14 10:11:33
日本スゴイ、自画自賛の系譜①早川タダノリ
1933年「日本人の偉さの研究」中山忠直
(琉球新報 2月14日-16) pic.twitter.com/Xjjk5gvcZt
はりねずみくーん @toppo_jijo
2015-02-14 18:15:05
本日の新報に早川タダノリさん @hayakawa2600 の記事が。
「日本スゴイ!自画自賛の系譜」
他紙にも掲載されてるのかしらん pic.twitter.com/RvrKD19LSS
早川タダノリ @hayakawa2600
2015-02-16 16:13:16
高知新聞で「日本スゴイ!自画自賛の系譜」(全12回)の連載が開始されるそうです。しかも短期集中で毎日(!)載るとのこと。これは濃厚すぎる……。高知新聞読者の方はお楽しみに!
BARA @BARANEKO
2015-02-17 22:03:03
日本スゴイ!自画自賛②/早川タダノリ
こども絵本「日本よい国」・・・神ノ国
(琉球新報 2月17日) pic.twitter.com/jXBE5Q9wg7
まついち @matsudayuuichi
2015-02-18 10:25:22
新報文化面 早川タダノリさん 日本スゴイ!自画自賛の系譜②子ども絵本「日本よい国」 pic.twitter.com/yZXoZgPejm
まついち @matsudayuuichi
2015-02-18 21:12:07
新報文化面 早川タダノリさん 日本スゴイ!自画自賛の系譜③

31面 「明治天皇の玄孫」さん、沖縄市で講演 pic.twitter.com/uZQe2UssTm
BARA @BARANEKO
2015-02-19 01:12:02
日本スゴイ!自画自賛の系譜③(早川タダノリ)
ヒトラーユーゲント訪日。日本褒める外国人に喜び
(琉球新報 2月18日) pic.twitter.com/z1JdPe7s9l
BARA @BARANEKO
2015-02-20 21:58:03
日本スゴイ!自画自賛の系譜④支那在留日本人小学生綴方現地報告/早川タダノリさん
「東亜の盟主たる日本人」の目線
(琉球新報 2月20日) pic.twitter.com/SjBDNmL8xi
BARA @BARANEKO
2015-03-06 10:37:02
日本スゴイ!自画自賛の系譜(6)戦時受験雑誌の英作文問題/早川タダノリさんの連載記事
 受験生にも「覚悟」求める
(琉球新報6日 pic.twitter.com/jHw6ndpjfo
まついち @matsudayuuichi
2015-03-07 02:22:55
新報文化面 日本スゴイ!自画自賛の系譜⑥
大和魂:Spirit of Yamato
大東亜戦争:the Greater East Asia War pic.twitter.com/pLPuEFPn7P
BARA @BARANEKO
2015-03-25 11:12:08
日本スゴイ!自画自賛の系譜・早川タダノリさんの連載(7)
1942年(昭和17年)の「学生受験年鑑」の「愛国」スゴイ!
(琉球新報 25日-8) pic.twitter.com/ZY6Njr7VMH
早川タダノリ @hayakawa2600
2015-03-26 15:13:52
年配の方と思われるが、一言での一刀両断ぶりが小気味良い:自画自賛の系譜。 blog.goo.ne.jp/t84n20/e/d122c…
BARA @BARANEKO
2015-04-06 19:18:00
日本スゴイ!自画自賛の系譜(8)早川タダノリさんの連載記事です
「日本人と魚食」 1943年・・・日本の兵隊は何故強いか。それは魚を喰ふからだ
(琉球新報 6日-14) pic.twitter.com/d2jwXvXNYo
まついち @matsudayuuichi
2015-04-07 01:41:23
新報文化面 早川タダノリさん 日本スゴイ!自画自賛の系譜⑧

魚を食べる日本人スゴイ! pic.twitter.com/ZTvyv1O7wY
BARA @BARANEKO
2015-04-07 11:19:10
日本スゴイ!自画自賛の系譜(9)早川タダノリさんの連載記事
満州事変後の「愛国本」大洪水と、今。・・・何かの前触れでなければいいのですが。
(琉球新報 7日-9) pic.twitter.com/qcSOoH81Ca
高知新聞投書欄「声ひろば」歴史の過ち繰り返すな
茶花賓館 @ajarnchun
2015-04-14 14:39:29
@hayakawa2600 早川タダノリさんの連載「日本スゴイ!自画自賛の系譜」のスクラップを巻頭に置きました。欠番は後日追加します。よろしくどうぞ。togetter.com/li/808370
まついち @matsudayuuichi
2015-04-15 01:24:38
新報文化面 早川タダノリさん 日本スゴイ!自画自賛の系譜⑩ pic.twitter.com/z1bQc4ExVp
まついち @matsudayuuichi
2015-04-15 15:11:14
新報文化面 早川タダノリさん 日本スゴイ!自画自賛の系譜⑪美談集「日本の母」 pic.twitter.com/nMeN6exAu8
BARA @BARANEKO
2015-04-29 13:38:48
琉球新報
日本スゴイ 自画自賛の系譜(12)文部省「臣民の道」(早川タダノリさん連載)
究極の一冊! 臣民は天皇に帰一し国家に奉仕する pic.twitter.com/WdUyAesAxH
BARA @BARANEKO
2015-04-29 17:33:13
琉球新報の 早川タダノリさんの連載が終わってしまった。残念
「日本スゴイ 自画自賛の系譜」

twitter.com/baraneko/statu…

まついち @matsudayuuichi
2015-04-30 02:07:32
新報文化面 早川タダノリさん 日本スゴイ!自画自賛の系譜(終) pic.twitter.com/Mhyyy5vCZc
早川タダノリ @hayakawa2600
2015-04-30 03:59:04
@BARANEKO 紙面をご紹介していただき、ありがとうございました。もう少ししたら大幅大量加筆の上、本になりますのでお楽しみに!
時代の正体〈91〉噴飯宣伝 通じる世相

地方新聞社「神奈川新聞」のニュースサイト。横浜、川崎、鎌倉、小田原をはじめとする神奈川県内の事件事故・ニュース・おすすめ情報を毎日更新。夏の高校野球や横浜DeNAの話題も充実。スマホでも紙面が見れる電子新聞や速報メルマガの会員向けサービスも。
青弓社 @seikyusha
2016-05-12 17:52:21
【近刊】早川タダノリ『「日本スゴイ」のディストピア――戦時下自画自賛の系譜』:「我が軍」「八紘一宇」と総理や政治家が公言する現在、80年前の「日本スゴイ!」キャンペーンを発掘して、思わず噴き出す陳腐な内容を白日の下にさらす。seikyusha.co.jp/wp/books/isbn9…
青弓社 @seikyusha
2016-05-16 17:38:08
【amazon予約開始】早川タダノリ『「日本スゴイ」のディストピア――戦時下自画自賛の系譜』:「我が軍」「八紘一宇」と総理や政治家が公言する現在、80年前の「日本スゴイ!」キャンペーンの思わず噴き出す陳腐な内容を白日の下にさらす。amazon.co.jp/exec/obidos/AS…
早川タダノリ @hayakawa2600
2016-05-19 23:48:04
敗戦前までの学校儀礼で残っているのは…国旗掲揚とか最近復活したものもありますが…演壇に上る時、演壇のはじで正面中央にむかってする「一礼」でしょう。そこには儀式の際に奉安殿からうやうやしく捧げられてきた御真影がありました。多いところでは明治天皇皇后以来三代の御真影が並んでいました。
早川タダノリ @hayakawa2600
2016-05-19 23:54:33
@hayakawa2600 でその6つの肖像はどう並べるのがベストなのか(明治天皇はどこで今上はどこがよいのかetc)各地で混乱があったようで、昭和3年の「明治節」創設のおりに文部省が「三大節明治節ノ学校ニ於ケル学校挙式ノ場合御写真奉掲方」という文部次官通牒を出したほどでした。
早川タダノリ @hayakawa2600
2016-05-19 23:56:02
@hayakawa2600 このエピソードは、こんど出る『日本スゴイのディストピア』に書いたので、お楽しみにね!
青弓社 @seikyusha
2016-06-01 16:29:58
【書影】今月刊行予定の早川タダノリ『「日本スゴイ」のディストピア――戦時下自画自賛の系譜』のカバーをご紹介します。内容の詳細はこちら→seikyusha.co.jp/wp/books/isbn9… pic.twitter.com/9SikAhpQO4
早川タダノリ @hayakawa2600
2016-06-02 06:54:52
青弓社さんから近刊『「日本スゴイ」のディストピア』書影が出ましたが、この本では満洲事変から敗戦までを対象に、「礼儀正しさ」「勤勉さ」などのよくある「日本スゴイ」カテゴリごとに当時の言説をピックアップしました。一方、現代の「日本スゴイ」言説についての本も準備中であります。
早川タダノリ @hayakawa2600
2016-06-13 00:27:13
日生学園の動画がYoutubeに上がっているとは思わなかった。これはキタワー:youtu.be/Z_39dJFznpM
早川タダノリ @hayakawa2600
2016-06-13 00:28:11
日生学園第二高等学校四期生卒業式もスゴイ youtu.be/h0HxwpJhKj0
早川タダノリ @hayakawa2600
2016-06-13 00:30:43
日生学園第三高等学校卒業証書授与式第三期生 うひょう:youtu.be/9_JMPuProZ0
早川タダノリ @hayakawa2600
2016-06-13 00:36:47
今度の『「日本スゴイ」のディストピア』で戦時下の教育現場における「行の訓育」「錬成行」流行についてそれなりのページを割いて書いたが、これはまさに「行の訓育」そのもの。:日生学園 世の光と生きよ 前編 youtu.be/y8GBcpzxY8E
早川タダノリ @hayakawa2600
2016-06-13 00:45:46
せっかくなのでオイスカ高校のアレな動画はないか探してみたが、さすがになかった。オイスカ高校の校歌はこちら。やっぱし八紘一宇w pic.twitter.com/zjassZ64hi
早川タダノリ @hayakawa2600
2016-06-19 01:15:16
『新潮45』7月号の特集「世界「日本化」計画」タイトルのひどさは、「日本スゴイ」の到達点が、戦時下に猖獗を極めた「世界の日本化(皇化)」「日本の世界化」スローガンであったというあたり。shinchosha.co.jp/shincho45/newe… pic.twitter.com/R6NS6rBSnF
早川タダノリ @hayakawa2600
2016-06-29 01:45:46
本日は所用で神保町に赴き、岩波ブックセンター店頭にて拙著『「日本スゴイ」のディストピア』が平台最前列に並べてもらっているのを肉眼で確認した。ほかにも某社で担当した書籍数点も平台にあって、今年上半期は死にそうであったことをあらためて回顧ス。

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日本国内の柔術家に本場ブラジル アマゾンの本格的な純度の高いアサイーを初めて供給したフルッタフルッタがブーム終焉で絶体絶命の危機!

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http://toyokeizai.net/articles/-/127444

アサイーブーム終焉で煽りを食ったあの会社
マザーズ上場、フルッタフルッタが大ピンチ
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中山 一貴 :東洋経済 記者
2016年07月18日
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「アサイーブーム終焉で煽りを食ったあの会社 マザーズ上場、フルッタフルッタが大ピンチ | 食品業界 - 東洋経済オンライン」をはてなブックマークに追加
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主力商品の「アサイードリンク」シリーズ(写真:記者撮影)

「ここまで、急激にブームがしぼむとは…」と、フルッタフルッタの担当者はため息をつく。

高い栄養価と抗酸化作用が話題を呼び、2013年にブームを巻き起こしたアサイー。ブラジル原産のヤシ科の果実で、ブルーベリーの約18倍のポリフェノールや、牛乳の約3倍のカルシウムを含むとされる。ビタミンBやミネラルも豊富で、栄養価が突出して高い食品の総称である「スーパーフード」の代表格だ。
市場規模は4年で10倍以上に膨張
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メディアでも多く取り上げられ、アサイー関連商品の市場は一気に拡大。

当時、スーパーやコンビニの店頭にはドリンクやピューレなど、多種多様な商品が並んだ。ハワイアンレストランといった外食店でも、アサイーボウルなどが定番のメニューとなった。

市場調査会社インテージによると、アサイー飲料の市場規模は2011年にわずか4億円だったが、2014年に10倍以上の57億円まで拡大した。

このブームの波に乗ったのが、フルッタフルッタだ。同社はアサイーをはじめとするアマゾンフルーツの冷凍パルプ(搾汁加工したパック)の輸入、加工販売を手掛けている。

2002年に日本で初めてアサイーの販売を開始したパイオニアで、「フルッタ」とは、ブラジルの公用語、ポルトガル語で果実を指す。アサイーブームにより急成長をとげ、2014年12月に東証マザーズへ上場した。

ところがアサイーブームは、2014年をピークに突如終焉を迎えてしまう。前述のインテージの調査によれば、アサイー飲料の市場規模は2014年の57億円から、2015年には36億円と4割近く減少。メディアでの露出が減ったことや、消費者がほかの食品に流れたことが原因だと見られる。

フルッタフルッタにとって、アサイーは売上高の8割以上を占める主力商品。当然、ブームの終焉は業績を直撃した。2015年度は当初、売上高で40億円、経常利益は1.18億円という見通しを出していた。

だが、結局3回の業績下方修正を繰り返し、着地は売上高25.7億円(前期比23.1%減)、経常利益は5.79億円の損失(前期は3.49億円の黒字)と散々な結果に終わった。
上場の翌年には大赤字に転落
上場後、わずか1年余りでビジネスモデルが行き詰まった。見通しに"甘さ"はなかったのか(撮影:今井康一)

店舗などの固定資産の減損も計上したことで、当期純利益に至っては6.83億円億円の赤字を計上(前期は2.01億円の黒字)。自己資本比率は2014年度末の48.0%から、2015年度末には18.6%まで低下した。

営業キャッシュフローの赤字が膨らんだことで、決算短信には、企業の継続性に不透明さがあることを示す「継続企業の前提に関する重要事象」が記載された。

崖っ縁のフルッタフルッタが選んだのは、他社との資本提携だった。手を組んだのは焼肉「牛角」のフランチャイズや、居酒屋「とり鉄」などの外食チェーンを手掛けるアスラポート・ダイニングだ。

フルッタフルッタはアスラポート傘下の乳製品メーカー、弘乳舎に対して第三者割当増資を実施。新株予約権の発行などと合わせて、約5億円を調達する公算だ。この内、3億円以上を運転資金に充てることで、資金繰りの安定化に努めるという。

フルッタフルッタの今2017年3月期の業績計画は、売上高26.0億円(前期比1.1%増)、経常利益は2億円の赤字(前期は5.79億円の赤字)を見込んでいる。

ピタヤ(ドラゴンフルーツ)やクプアス(カカオの仲間)など、アサイー以外のスーパーフード関連の新商品を投入する計画だ。徐々にアサイー依存を脱却し、「来2017年度には黒字化を目指す」(会社側)としている。

ただ、アサイーに続くヒット商品を育てられるかは未知数だ。上場後、わずかな期間でブームが終焉し、経営危機に直面したフルッタフルッタ。そのビジネスモデルに見通しの甘さはなかったのか。上場企業として、同社は正念場を迎えている。

フルッタフルッタの会社概要 は「四季報オンライン」で

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柔術プリースト 242

Jiu Jitsu Priest #242

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ヒクソングレイシーモデルの柔術キモノ&ラッシュガード&ファイトショーツ












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ハレックグレイシー主催のサブミッション決着イベントMetamoris 7 主催者にしてホリオングレイシー柔術の体現者の一人 三男ハレックグレイシーvsヘンゾグレイシー門下生ゲイリートノンの勝負は足関節でゲイリートノンの一本勝ち!

http://www.mma-core.com/videos/Ralek_Gracie_vs_Garry_Tonon_Metamoris_7_Part_1/10134433

http://www.mma-core.com/videos/Ralek_Gracie_vs_Garry_Tonon_Metamoris_7_Part_2/10134434

AJアガザーム始め多くの敵を抱えるホリオン派のハレックと
最もホリオン派を毛嫌いしているグレイシー一族ヘンゾ
のトップ門下生ゲイリートノンとのサブミッション決着マッチ

ポジションを取られても見事にディフェンスしてのけるハレックの上手さと
ノーギトップのゲイリートノンのアグレッシブさが光る戦い

最後は足関節でトノンが見事一本勝ち

正統派グレイシーにとっての鬼門はやはり足関節と見ていいんではないでしょうか
クロンがブシェシャに極められたのも足関節でしたし

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柔術プリースト 241

Jiu Jitsu Priest #241


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アドルフに告ぐ 「・・・・戦後40余年が過ぎ、だんだん戦争の忌まわしさを伝える人間がいなくなりつつあります。当時の状況を体験として、つぶさに知っている人間は、若い人たち、子どもたちに〝戦争〟のほんとうの姿を語り伝えていかなくては、また再び、きな臭いことになりそうだと、ぼくは不安を抱いています。〝正義〟の名のもとに、国家権力によって人々の上に振りおろされた凶刃を、ぼくの目の黒いうちに記録しておきたいと願って描いたのが『アドルフに告ぐ』なのです。・・・・・ぼくが、アニメーション映画に力を注いできたのも、一つには、この軍国主義による映画の効用を逆手に取って、夢や希望に眼を輝かすことのできる子供たちに育ってもらいたいからなのです。・・・・・いかに教育がすさまじい力で子どもの柔らかい心身に食い込むかを、ぼくは若い人たちに知ってもらいたい。・・・・・」















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「アドルフに告ぐ」と手塚治虫


用事があって久しぶりに宝塚に行ったついでに、手塚治虫記念館に寄ってみた。たしか子供たちを連れて訪れて以来だから、もう20年以上になるだろうか。

戦後70年というので、たまたまマンガ「アドルフに告ぐ」が記念展示されていた。建物の外観はきちんと整備されていて、少しも劣化していないように見える。

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正面外観
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正面・「火の鳥」オブジェ

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正面階段 「ブラック・ジャック」のレリーフ

入場してみると、なんと館内は撮影O.K.という。懐かしさと嬉しさで、さっそくスマホであれこれ撮らせてもらった。

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リボンの騎士

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火の鳥

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天井にもリボンの騎士や鉄腕アトム

「アドルフに告ぐ」は、原画も陳列されていたし、同作品についての手塚のインタビューなども掲示されていて、大いに参考になった。この作品は、1983年1月から1985年5月まで、『週刊文春』(文藝春秋社)に連載された。
私はすでに社会人だったが、連載当時は読んでいない。手塚作品としては、晩年(1989年没)の歴史長編マンガだという。
このジャンルでは他に、手塚の曽祖父が登場する「陽だまりの樹」(幕末維新期の歴史長編漫画)があったと思う。これも力作だった。

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アドルフ・ヒトラー

手塚治虫は昭和3年生まれの、いわゆる「戦中派」で、私の両親のすぐ下の世代(両親は大正末)だ。少し早く生まれた私の父の様に、学徒兵として嫌々出征しなくて済んだが、そのぶん、戦時下の勤労奉仕とか空襲とかを体験した。そして手塚自身によれば、その戦争経験がその後の人生に決定的な意味を持っていた。
勤労奉仕で大阪の工場にいたときの経験を、以下の通り語っている。

「・・・・その日、ぼくは工場の監視哨、つまり火の見やぐらの上で、敵機の来るのをずっと見ていたのです。・・・・・ところが、6月の大空襲のときには、・・・・雲の間から突然B29の大編隊が見えた。びっくりしました。警報が鳴ると、防空壕に入れという指令になっているのですが、下に降りる暇がないので、そのまま見守っていました。大編隊は突然、焼夷弾の雨を空中にパッとまいたのです。淀川近辺の民家や工場めがけて大量にばらまいたのです。
・・・・・ぼくは「おれはもういしまいだ!」と思って、監視哨の上で頭をかかえてうずくまりました。すると、ぼくのすぐ横を焼夷弾が落ちていき、ぼくがうずくまっている横の屋根に大穴が開いて、焼夷弾が突き抜けていったのです。下はたちまち火の海です。・・・・
当時は防空演習といって、・・・・バケツリレーをして、火を消す訓練をしていました。ほんとうにばかばかしい訓練です。しかも、そんなものはまったく用をなさない。とにかく瞬間的にあたりは火の海になりました。
・・・・焼夷弾はひじょうに小さな筒ですが、何百メートルも上から落とされますから、その加速度たるやたいへんなもので、防空壕の屋根を突き抜けて落ちてしまいます。そこで爆発するのです。・・・・・
人の頭から足まで突き抜けてしまうぐらいのすさまじい勢いです。・・・・ぼくは逆上して、火を消すことも忘れ、一散に工場を駆け抜けて淀川の堤防へ出ました。・・・・
ところが、その堤防をめがけて無差別の何トン爆弾というやつが落ちたのです・・・・、死体の山です。・・・・・それを見ているうちに、現実の世界ではないのではないか、もしかしたら夢を見ているのではないか、あるいはぼくはもう死んでしまって、地獄なのではないかという気が一瞬したのです。そのくらい恐ろしい光景でした。・・・・」
(岩波新書「ぼくのマンガ人生 大阪大空襲」52項~59項」 手塚治虫著1997年刊)

まさに九死に一生を得たのだった。勤労奉仕で大阪の軍需工場に動員されていたときの体験だ。
このあと、手塚は長時間歩いて宝塚の自宅まで戻るのだが、空腹をかかえて帰る途中でおにぎりを分けてくれた心優しい農家も、その後すぐに空襲で完全に亡くなっていたという。
戦争の悲惨さ、残酷さを改めて訴えることが、このたびの展示のテーマなのだろう。偶然とは言え、良いタイミングで出会ったものだと、感心しながら時間を忘れて展示物に見入った。

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手先の不器用な私は、ついぞマンガを描こうとなどと思ったことはないが、同級生には手塚作品を一生懸命に真似していた者もいた。私たちの世代にとって、手塚治虫のマンガは絶大な影響力を持っていた。私などはストーリーの面白さだけに惹かれて読んだものだが、改めてこの「マンガの神さま」の偉さ、その歴史的な役割の大きさに感銘した。
大学の一期上の先輩が「手塚治虫って、たんなる漫画家じゃないな。あれは哲学者だよ。」と述べていたことを思い出す。この先輩の念頭にあったのは、長編作品「ブッダ」だったのだと思う。



終戦の日については、こんなことも述べている。

「・・・・・・工場が焼けてしまったので、することがありません。学校も空襲にあったし、どうしようもないものですから、家でマンガを描いていました。・・・・・
そうして8月15日。何か知らないけれども、ラジオの中からボソボソと天皇陛下の声が聞こえてきます。何を言っているのだかわからないけれど、とにかく『全国民がんばれ』とでもおっしゃっているのだろうと思って、聞き流していました。しかし、まわりがやけに静かなのです。昼から鳥の声も聞こえないぐらい静かになってしまった。これは何かおかしい。外に出てみたら、だれ一人歩いていない。しーんとしている。異常なのです。・・・・・
8月15日の夜、阪急百貨店のシャンデリアがパーっとついている。・・・・一面焼け野原なのに、どこに電灯が残っていたかと思えるほど、こうこうと街灯がつき、ネオンまでついているのです。・・・・・
『ああ、生きていて良かった』と、そのときはじめて思いました。ひじょうにひもじかったり、空襲などで何回か『もうだめだ』と思ったことがありました。しかし、8月15日の大阪の町を見て、あと数十年は生きられるという実感がわいてきたのです。ほんとうにうれしかった。ぼくのそれまでの人生の中で最高の体験でした。」
(同書「ぼくの戦争体験」62項~65項)

このとき、17歳くらいのことだろう。
この述懐は、私自身の両親、叔父、叔母をはじめ手塚と同世代の戦争経験者の話と比べてみても、非常によく共通している。とてもみじめな敗戦だったが、大きな解放感があったようだ。
戦争を知らない我々以降の世代との決定な違いと言っていい。今では、もはや戦争のリアリティーそのものが希薄になっている。

そして「アドルフに告ぐ」は、そんな手塚治虫が、自らの戦争体験をどうしても後世に残そうとしたのだという。

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今から30年前、手塚はこうも述べている。

「・・・・戦後40余年が過ぎ、だんだん戦争の忌まわしさを伝える人間がいなくなりつつあります。
当時の状況を体験として、つぶさに知っている人間は、若い人たち、子どもたちに〝戦争〟のほんとうの姿を語り伝えていかなくては、また再び、きな臭いことになりそうだと、ぼくは不安を抱いています。
〝正義〟の名のもとに、国家権力によって人々の上に振りおろされた凶刃を、ぼくの目の黒いうちに記録しておきたいと願って描いたのが『アドルフに告ぐ』なのです。・・・・・
ぼくが、アニメーション映画に力を注いできたのも、一つには、この軍国主義による映画の効用を逆手に取って、夢や希望に眼を輝かすことのできる子供たちに育ってもらいたいからなのです。・・・・・
いかに教育がすさまじい力で子どもの柔らかい心身に食い込むかを、ぼくは若い人たちに知ってもらいたい。・・・・・」
(手塚治虫 ガラスの地球を救え48項~52項)

これは非常に重要なメッセージだと思った。いなむしろ、今日こそ手塚の不安がますます現実感を持つ状況に入っているのではないだろうか。教育の国家主義化、反動化が最も危険だと思う。
そう考えながら、改めて「アドルフに告ぐ」を読んで見た。そして何回も「そう、その通りだ!」と共感した。
私は改めてこの「マンガの神さま」のメッセージを噛みしめた。

https://hiroshia55.wordpress.com/2015/05/31/%E6%BC%AB%E7%94%BB%E3%80%8C%E3%82%A2%E3%83%89%E3%83%AB%E3%83%95%E3%81%AB%E5%91%8A%E3%81%90%E3%80%8D%E3%81%A8%E3%82%BE%E3%83%AB%E3%82%B2%E4%BA%8B%E4%BB%B6/




漫画「アドルフに告ぐ」とゾルゲ事件(1)


手塚治虫は晩年の大作「アドルフに告ぐ」について、こうも述べている。

「・・・・『アドルフに告ぐ』は、ぼくが戦争体験者として第2次世界大戦の記憶を記録しておきたかったためでもありますが、何よりも、現在の社会不安の根本原因が戦争勃発への不安であり、それにもかかわらず状況がそちらのほうへ流されていることへの絶望に対する、ぼくのメッセージとして描いてみたかったのです。
もう戦争時代は風化していき、大人が子供に伝える戦争の恐怖は、観念化され、説話化されてしまうのではないか。虚心坦懐に記録にとどめたいと思って『アドルフに告ぐ』を描きました。なかでも、全体主義が思想や言論を弾圧して、国家権力による暴力が、正義としてまかり通っていたことを強調しました。・・・・」
(ぼくのマンガ人生 手塚治虫 岩波新書 1997年 p92~93)

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手塚治虫記念館特別展示「アドフルに告ぐ」

この時点で、手塚は「戦争体験が風化」して、ふたたび戦争が勃発するのではないかという「不安」を述べ、「それにもかかわらず状況がそちらのほうへ流されていることへの『絶望』」とまで、強い表現で戦争への危機感を訴えていることに注目したい。そこには、経験したものでないとわからない実感があるのだろう。
それからまもなく20年近い年月が経た今日、もしも手塚が生きていたら、今日の世界状況、アジア情勢、日本国内の政治情勢をどう受け止めるだろうか。
昭和の終わりにまるで符節を合わせるように、亡くなったことが今更ながらに惜しまれる「マンガの神様」だったとつくづく思う。

周知の通り、漫画「アドルフに告ぐ」は、第二次世界大戦前後の日本及びドイツでの全体主義・軍国主義の時代を背景にしている。「アドルフ」というファーストネームを持つ3人の男達(アドルフ・ヒットラー、アドルフ・カウフマン、アドルフ・カミル)の物語を主軸として、「ヒトラーがユダヤ人の血を引く」という機密文書を巡って、2人のアドルフ少年の友情が巨大な歴史の流れに翻弄されて破綻していく回転劇。

そのなかで、作者自身の分身という「狂言回し役」の新聞記者をはじめ、実に多様な実在、架空の人物を登場させ、それぞれの数奇な人生を描いた作品だといわれている。
ともかく面白いから、ついついストーリーだけにはまってしまい、手塚治虫の問題意識を見逃してしまう。

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アドルフ・カウフマン

  ヒトラーがユダヤ人の血を引くのではないかという、一時流行した言説にヒントを得て、マンガならではの表現の融通性を十分生かし、虚実織り交ぜた面白おかしい物語展開。

もちろん、ヒトラー「ユダヤ人説」は、今日では学問的にはほとんど否定されているようだ。600万人ものユダヤ人を虐殺したという、ナチスの本家本元の張本人にユダヤ人の血が流れているというのだから、世界が引っくり返るような突飛な着想が刺激的だった。

これは「火の鳥」で「騎馬民族説」を採用した手塚の手法にもあてはまるが、一時世間で話題になった言説を、マンガならではの柔軟なストーリー展開に生かしたからだろう。手塚自身も認めていることだが、その面白さは、言葉で表現すれば「ナンセンス」な話しが、マンガだからこそ許されていて、それが創造性を獲得した。
ただし、面白さだけで満足してしまっては、もったいないなとも思う。

この物語では、ヒトラーの出生にかかわる「超秘密事項」をつかんだ共産主義者と、これを抹殺しようとするナチスの諜報関係者との壮絶な暗闘を日本とドイツを舞台に描いた。そこに歴史上の実在人物も含めて様々な個性の登場人物を織り込むことがでいた。そしていかにも手塚マンガらしい、起伏に富んだストーリーの面白さで人気を博した。

それに、手塚マンガの場合は悪役でも憎めない「可愛げ」があるのだ。柔らかい円を基調にした人や動物の描き方にその秘密があるように思うが、やはり根本的には、作者の育った宝塚の自然、そして比較的恵まれた家庭環境などが反映しているように思う。だから、かなり深刻なテーマを扱っているのだけど、そこにほっと救われる優しさがあるのではないだろうか。また、そう感じる工夫が意図的に挿入されている。

「アドルフに告ぐ」は今改めて読んで見ても、現代史を学ぶひとつの恰好の入門手引ではないかと思われる。そのうえで、あの時代の「真実」を更に自分なりに掘り下げていけばいいのだろう。

ヒトラーの秘密を暴露する出生証明書類を巡る角逐は、やがて当時の日本でゾルゲを頂点とする国際スパイ組織にまでたどり着くやに見えた。そこからソ連に送られれば、ヒトラーには致命的なダメージとなるだろう。ソ連だけではない。アメリカもフランスもこの情報を欲しがる。
その秘密をゾルゲに渡そうとする地下活動家と、これをなんとか阻止したいゲシュタポや特高刑事たちの、息詰まる壮絶な暗闘に思わずはまった。

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手塚治虫記念館に展示されたゾルゲ

その試みは、惜しくも実現直前で官憲によるスパイ組織の一世摘発のため実現しないのだが、特高にスパイ容疑で捕捉され尋問を受けるゾルゲがスパイとしての身上を白状する場面が第25章に描かれている。

ゾルゲが逮捕され自白する様子を描いているのだが、私にはやや唐突な印象を覚えた。いわゆる「ゾルゲ事件」が余りにも大きな背景があって、おそらく紙幅の制限で描ききれていないのが惜しい。

昭和16年10月18日、東条英機を首班とする内閣が成立した、まさにその日にゾルゲたちは逮捕された。そして、10月24日に東京拘置所の取調室で、とうとうゾルゲは自白。その場で大泣きする様子を手塚は克明に描いた。
ここに至るまでの「ゾルゲ事件」の経過は、別にもうひとつ大きな「物語」になりそうだ。

そこでいろいろ調べて見ると、まずこの自白のときのゾルゲの振る舞いは、確かに資料をもとに描いたようだ。
孫引きになるが、秦郁彦著「昭和史の謎を追う 上」(文芸春秋社刊 1993年)を引用すると、
「・・・・つまり、1941年秋のゾルゲは、『進も地獄、退くも地獄』という窮地に追いつめられていたわけだが、彼は死の直前までソ連と国際共産主義への忠誠を捨てず、毅然とした態度で通した。吉河検事は、逮捕から一週間後に東京拘置所の2階教誨室で彼が告白した瞬間の情景を次のように回想している(三国一朗『昭和史探訪』)。」

・・・・ゾルゲは下を向いて「紙をくれ」と言った。また、「鉛筆をくれ」と言った。渡してやると、その小さな紙片に書きました。自分で。「自分は1926年いらい国際共産主義者であった。今でもそうである。」とドイツ語で書いて、その紙を僕のほうへ投げるように差し出してきた。これはゆるぎない自白ですよ。
ぼくはびっくりしてゾルゲを見た。と、ゾルゲはいきなり上着を脱いで床に叩き付けて「負けた、はじめて負けた」と言って、こんどは机に手をついてワイワイ泣くんです。・・・・・・

Hero of the Soviet Union secret agent Richard Sorge.
Richard Sorge.

「アドルフに告ぐ」では、あくまでヒトラーの秘密の出生書類をめぐる闘いがストーリーの主旋律なのでやむを得ないが、ゾルゲほどの大スパイが最後になって身もふたもなく大泣きしながら自白に至った経過について、その背景までは詳述できなかったのだろう。

既述したように手塚は「正義」の名のもとに残酷なユダヤ人迫害が行われ、戦争が正当化された時代の暗部を書き遺したのだが、ゾルゲもまた「正義」を信じて国際共産主義に身を賭したわけで、秦郁彦氏が突き放した指摘をしているように、その志が成就したとはいいがたい。むしろ無慚にも裏切られた可能性さえ高い。

自白では「日本の警察に負けた」無念さを嘆いているように見えるが、実はゾルゲ自身もまた「正義」と信じた世界観があえなく破綻したことを、ここで暗示しているように私には思えた。
ここは、もう少し自分なりに調べてみたいところだ。

https://hiroshia55.wordpress.com/2015/06/07/%e6%bc%ab%e7%94%bb%e3%80%8c%e3%82%a2%e3%83%89%e3%83%ab%e3%83%95%e3%81%ab%e5%91%8a%e3%81%90%e3%80%8d%e3%81%a8%e3%82%be%e3%83%ab%e3%82%b2%e4%ba%8b%e4%bb%b6%ef%bc%92%ef%bc%89/




漫画「アドルフに告ぐ」とゾルゲ事件(2)


調べてみると、ゾルゲ事件関連については、これまでにも多くの出版物があったことを知った。

ゾルゲ事件の真相を明らかにしようという試みは、敗戦後から始まった。日本のような極東の島国で、ましてや昭和前期の息苦しい閉鎖的な軍国主義の時代に、こんなに国際的なスケールの大事件が勃発したことは前代未聞だった。そもそも、西欧から最も遠く離れた「世界史の隅」の日本列島には似つかわしくないテーマに見える。それだけに、多くの研究者の研究意欲を強く刺激した面もあるのだろう。

何しろ、ゾルゲを頂点とするいわゆる「国際諜報団ラムゼイ」の活動領域はソ連、ドイツ、中国、日本にわたり、当時の複雑な国際政治や国内情勢を舞台にしている。このため、多数の世界史的人物が登場して相互に絡み合う事案であるだけに、これまでに多様な角度から研究されてきたようだ。
素人としては、いきなり専門的な研究書に入るよりも、まずはとっつき易い映像でおおまかな流れを押さえてみようと、2003年の映画「スパイ・ゾルゲ」を見てみた。

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リヒャルト・ゾルゲ

篠田正浩監督がライフワークと位置づけた大作映画だ。
コンピューターグラフィックスを駆使して昭和初期の上海や東京の情景を描き、人気俳優も多数登場させて20億円もかけたという。そのわりに、どうも面白くない映画だというのが当時の大方の感想だったらしいが、私自身はもっと別の感慨を持った。

思うにこの映画は、事件の背景を可能な限りその時代の状況において理解させるための苦心作であったのだろう。
21世紀初頭の平和な日本で、あの時代のリアリティーを再現するためには、実際の記録映像も入れて、どうしても説明調にならならざるを得なかったのではないだろうか。わずか80年前後の過去だが、同じ国とは思えないほどに風景も社会も異なるからだ。何より観客の時代感覚が決定的に違う。

その説明にとらわれたのでやむを得ないのかもしれないが、多数の細切れ事象を繋ぎ合わせたぶん、ぶつ切れの物語の羅列となって、全体として俯瞰すると、単調に見えてしまうきらいは確かにある。
しかし、戦前の昭和史を系統的に学びたいと思ったので、私にはおおいに参考になった。

1931年(昭和6年)生まれの篠田正浩監督は、敗戦の年には14歳だから、いわゆる「戦中派」最後の世代。きっと「軍国少年」たるべき教育を一方的に注入され、過酷な戦災と気の抜けるような敗戦を多感な心に刻印したであろう。変わり身の早いおとなの世代ではない。
ちょうど、木下恵介監督の「二十四の瞳」に登場する子供たちにあたる世代ではないだろうか。同世代には子供のうちに戦争の痛ましい犠牲者になった人が多い。大人たちの愚かな「失政」や「不始末」のお陰で、一番被害を受けた世代ではないだろうか。
「鐘のなる丘」という、戦災孤児たちの美しくも悲しい歌もあった。私ですら、歌の意味を知ったのはだいぶ後だった。

映画の説明くささは、暗黒の昭和初期に生い立ち、戦争を運命的に体験した一人として、現代日本との大きな落差を、なんとか埋めようと考えたからなのではないだろうか。屈託のない、いまどきの若者に、なんとか自分の育った時代をわからせたいと。

監督よりもすこし上の戦中世代を両親に持つ私には、そう思える。

あの時代の場面設定なしでは、ゾルゲや尾崎の真実は描けないからだ。もちろん、この映画だけでその難問を十分に解決できたかどうかは、確かに議論のあるところだろう。

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映画「スパイ・ゾルゲ」から。ゾルゲと尾崎秀実

篠田監督はゾルゲと尾崎に相当な思い入れをしたようだが、割り切っていえば、歴史事実に則しつつも、それはあくまで監督が理解したゾルゲや尾崎秀実であるに違いない。

映画では尾崎もゾルゲも単なるスパイではなくて、明確な政治思想を共有する「同志」であった。ゾルゲはコミンテルン(共産主義インタナショナル)に尾崎を推薦もした。ゾルゲはもともと共産主義の組織活動家であり、尾崎は「協力者」。思想的に共鳴したからこそ、互いに生死を共有する統一戦線ができた。二人は日本の植民地主義や帝国主義戦争には反対であり、当時唯一の社会主義国ソ連邦を護ろうとと動いた人なのであった。

映画製作は、昭和3年生まれの手塚治虫が昭和の終わりに「戦争の再来」への危機感を強く意識して「アドルフに告ぐ」を描いた意図とも繋がるのではないだろうか。漫画では共産主義者や自由主義者が「アカ」と呼ばれて激しい弾圧を受ける場面があった。史実に基づいている。

私は、娯楽作品としてのこの映画自体の出来栄えを、高みにたって批評するよりは(もちろん素人の私にはその能力もない)、この世代の人々の歴史体験に思いを馳せるきっかけにしたほうが意味があると思える。

テーマのシビアさを考えると、物語の娯楽性だけでたやすく結論を決め込んでしまうと、大事な視点を見落としはしないか。
「アドルフに告ぐ」もとても面白い長編漫画だが、その中には手塚の平和への願いが込められている。

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篠田正浩監督

そう考えると、「尾崎検挙」ではじめた直後に、列強の植民地支配に苦しむ昭和初期の上海の情景にスイッチ・バックしたことはうなずける。まずは日本帝国主義による中国政策の失敗があったことを強調するためだ。

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上海で中国人デモを弾圧する日本軍(映画「スパイ・ゾルゲ」

列強に食い荒らされる上海の実情に立ち会ったアグネス・スメドレーと尾崎秀実が、抑圧される人々への共感からゾルゲにつながっていく過程を諜報団の始まりに設定したことには、監督のゾルゲ事件「解釈」が鮮明に反映している。

しかし、この時点ではまだ尾崎秀実はゾルゲの正体を知らなかった。
尾崎には朝日新聞の「シナ専門家」として、搾取され抑圧される「シナ人」への同情があった。当時は数少ない「シナ問題」分析のスペシャリストだった。
一方のゾルゲはソ連赤軍第4部の諜報員として、日本の中国侵略の意図を探る任務を担うこととなった。

やがて二人はそれぞれのルートで日本に入り、ゾルゲの要請にもとずいて再び情報を交換し合うようになる。日本の対ソ連政策を探るためだった。このとき、尾崎は上海でアグネス・スメドレーから「ジョンソン」と紹介を受けた人物が、実は国際共産主義者「リヒャルト・ゾルゲ」であることを知った。
尾崎は最後まで共産党員ではなかったかもしれないが、この時代、日本帝国主義への反対を志向すれば、事の成り行きとして、共産主義のシンパになる必然性があったのだろう。

事実、妥協的な社会改良案ではもはや時代の深い闇を突破できないほどに、日本の国家体制の矛盾は行き詰まっていた。
私はその主たる遠因は明治維新の「歪み」そのものにもあるように思うが、映画のテーマではないので、これは別途検討してみたい。

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尾崎秀実

尾崎自身は家族に累が及ばないように、妻子にも自分の正体を明かさなかった。考え抜いた上での処置だろうと思う。検挙後の特高の肉体的拷問に屈して自白をせざるを得なかったものの、絞首刑の最後まで信念の情報提供者であって「金も受け取らず、国民を売ってはいない」としていたことが描かれている。篠田監督としては、ここは絶対に譲れなかったのだろう。

一方のゾルゲは、青年時代にドイツ帝国の理想に憧れ、第一次大戦世界大戦に参加したものの、3度の負傷にまみれただけでなく、ウイルヘルム2世の帝国主義政策の現実に失望、世界革命をめざす共産主義に傾倒する。同時期のドイツにはコミュニストになった青年が多かったようだ。映画では、背景に理想主義的な「インタナショナル」の歌が流れ、雰囲気を表現している。
私自身も学生時代のアルバイト仲間でひとり、見事にインタナショナルを歌った友人がいた。理想主義的な印象だった。

ゾルゲはその類まれな頭脳とコミンテルンでの行動力を買われ、赤軍第4部の優秀な諜報員として地下活動に専念すべく上海に、やがて日本の動向を探るために東京へ派遣されて来たのだった。以後、足掛け8年の日本での諜報活動は、驚くべきことに天皇が臨席する「御前会議」のトップ・シークレットまで正確に捕捉していた。

尾崎は「シナ問題」に精通したジャーナリストとして、とうとう近衛首相の朝飯会の一員に推薦され、やがて満州鉄道調査部に入った。こうして帝国のハイレベルの情報に接する立場を得た。一方のゾルゲは、表向き日本の政治経済事情に通じる優秀な専門家、ジャーナリストとして高い評価を受けていた。更に、ナチの党員証まで取得、ドイツ大使との個人的な信頼を得てまんまと大使館内に一室を提供されるまでになった。
かくて二人は高度な国家機密を徴集し、密かにモスクワへ送る位置を得た。

当時の日本の政治的・軍事的動向は、ゾルゲと尾崎が収集した高度な情報と正確な分析、評価を経て、そのままモスクワに筒抜けだったというのだから驚く。ゾルゲによると、ロンドンやワシントンよりも日本の国内情勢に精通していたのは、実にモスクワだった。

この分かりにくい閉鎖的な極東の島国を、この時代に比類なき正確さで分析してみせたインテリジェンスは凄い。
しかもスパイ行為だけでなく、対ソ連戦争を回避するために、あえて情報操作まで行ったらしい。今日の水準から見ても、よくもこんな大胆不敵なことができたものだと思う。

アメリカ帰りの沖縄出身者宮城與徳(アメリカ共産党員)や天才的な通信技師タウンゼント、フランスの通信社員ヴーケリッチなど一騎当千の諜報員や技師がゾルゲの脇を固めた。
80年前、歴史も文化も言語も異なる極東の異境で、「外国人」たちが命懸けの国家的諜報組織を維持運営するなどということは、並みの能力でできるわざではないと思う。それほど「コミュニズム」が思想としての魅力を持ち、有能な人材を得た時代だったのだ。

漫画「アドルフに告ぐ」で問題になったヒトラー出生の秘密は、このゾルゲ諜報団(ラムゼイ)に今一歩で繋がる寸前だった、という設定だった。

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リヒャルト・ゾルゲ(手塚治虫記念館)

ゾルゲの最大の諜報目的はソビエト防衛のため、日本の「北進」(シベリア侵略)意図を正確に読み取ることだった。折からのナチスの台頭で、東西の二正面作戦の危険性を回避したいスターリンにとっては必須の情報だった。
息を飲むような緊張感の諜報活動によって、「独ソ不可侵条約」違反のドイツ軍が東部戦線に170~90個師団以上を集結しているというトップ・シークレットをいち早くモスクワに打電。さらにはABCD包囲網に閉じ込められ「対日禁輸」で石油の枯渇に悩む日本に、北進の意図がないと通信したものの、その貴重なゾルゲ情報は当初採用されなかったようだ。映画ではスターリンのゾルゲへの強い猜疑心が原因であったとされるが、このスターリンの歴史的判断ミスは専門家の間では今も謎とされる。同種の情報は、ドイツに潜入したスパイからももたらされていたにもかかわらず。

ゾルゲの帰国を心待ちにしていた妻も、ゾルゲをドイツのスパイと断じた当局から粛清されてしまった。この時代のスターリニズムの非道さはこのサイトでも記してきた。ゾルゲを派遣した人々も失脚・粛清されていた。
同時代人にゾルゲ自身は「おお法螺ふき」「大酒のみ」「女たらし」と酷評されることが多いが、8年もの過酷な諜報活動では、正常な神経ではいられなくて当たり前だと思える。

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映画「スパイ・ゾルゲ」特高の摘発

目的がほぼ達成された昭和16年秋、任務を完了しつつあったゾルゲたちは帰国準備の直前に特高に検挙された。まさに東条英機内閣の成立の日であった。カリフォルニア出身の宮城が捕まったことから芋づる式に挙げられたわけで、まさに一網打尽の摘発だった。

これについては、元共産党員の伊藤律の裏切り原因説などがあったが、今だに決着が着いていないようだ。
行方不明だった伊藤律が突然、亡霊のように再登場したときの騒ぎを憶えているが、なぜこの人物がそんなに話題になったのか、当時の私にはわからなかった。

更に、冷戦崩壊後から旧ソ連や東ヨーロッパの情報が濾出し始め、新たなゾルゲ像が発掘されてきているようだし、中国、特に上海での活動実態などの研究はまだ未開拓だという。規模の大きな事件なので、これからも新しい発見や分析が期待できるのだろう。
ゾルゲ自身についてもドイツとの「二重スパイ説」が根強くあり、映画の中でも尾崎はそれを疑っている場面がある。国家やイデオロギーを股にかけた諜報活動というのは、まことに微妙だと感じた。
まだ確定していない研究課題も多いようだ。

いずれにせよ世界革命を目的に生きてきたゾルゲは、自分の帰るべき祖国がすでにスターリンの「一国共産主義」に変貌していて、まさに秦郁夫氏が指摘するとおり「進むも地獄退くも地獄」の事態であることをはっきり認識しつつも、最後まで国際共産主義者としてその生を全うしたことになっている。

しかしゾルゲが忠誠を尽くしたソ連はもはやない。結局、さしも稀代の大スパイ・ゾルゲも時代に翻弄されたのだった。
だから篠田監督はその祖国ソ連が「開祖レーニン」とともに崩壊する記録映像を挿入した。

2.26事件の青年将校もまた同じ位相で描かれている。
この時代の日本の深刻な経済不況は今日の比ではない。都市では大学を卒業しても職にありつけない失業者があふれ、農村の疲弊は目に余る惨状だった。
ゾルゲやアメリカ共産党員の宮城與徳の眼を通して、当時の東北農村の悲惨きわまりのない貧困振りを描いた。
駅で外国人に物乞いする子供や、売春街に身売りをせざるを得ない貧しい家庭の子女は、同時にまた青年将校たちの肉親であり、「尊皇討奸」を掲げる決起将校たちの強い叛乱動機になった。多くの国民が共感同情した理由もそこにある。
しかし、体制側の政府要人たちは、そこに「コミュニズム」との類似性を察知していた。
天皇を奉じた彼らの純粋な命を賭したクーデターは、逆に天皇によってあっさりと「賊軍」と裁断されてしまう。決起将校に同情的な軍首脳は、かえって叱責を受けたくらいだという。

こうみると、漫画「アドルフに告ぐ」で、幼馴染ながら最後は命を懸けた果し合いをせざるを得なかった二人の「アドルフ」と同じ位相になっていることに気付く。
つまり、「国家」や「民族」、「イデオロギー」、あるいは「信仰」を「正義」と信じて命を懸けた人々が、まさにその「正義」の故に裏切られ、無残に死んでいった「悲劇」を描かざるを得なかったところにこそ、あの戦争の時代を経験した人々の深刻な経験があるのだろう。

そこには上から強制される「正義」への強い「不信感」があるように思う。一見平和で、史上最も繁栄したか見える戦後の日本。だがその底流には戦争を経験した世代の、深い「虚無感」が漂う理由がそこにあるのではないだろうか。
根本的な問題は置き去りにされてきた。

歴史認識問題が何よりも日本人自身の中で決着しないまま戦後70年の時が過ぎた。これは「蟻の兵隊」でも指摘した。
たまたま生き残れた喜びは同時に、無残に死んだ仲間への負い目と裏腹だったのかもしれない。私たち戦後生まれにとってのヒーローには「戦争」の影を背負った人が多いと思う。大鵬もそうだった。司馬遼太郎の問題意識もここにあったようだ。

そういえば、全国民注視の中、ルバング島から帰還した横井庄一さんの最初の言葉は、ハンカチを眼にあてながら「恥ずかしながら帰って参りました」だった。たまたま一緒にテレビを見ていた叔父が、「そっとしてやって欲しい」とポツリと述べたことを今も思い出す。

そういう視点でこの映画を観た。

https://hiroshia55.wordpress.com/2015/06/16/%e3%80%8c%e3%82%a2%e3%83%89%e3%83%ab%e3%83%95%e3%81%ab%e5%91%8a%e3%81%90%e3%80%8d%e3%81%a8%e3%82%be%e3%83%ab%e3%82%b2%e4%ba%8b%e4%bb%b63/


漫画「アドルフに告ぐ」とゾルゲ事件(3)


たぶん中学1年のときではなかったかと記憶するのだけど、「自分は元特高だった」と自称されていたYという英語の先生がいた。
今思い出しても、元特高なのに英語の先生というのも面白いが、私たち戦後生まれの生徒は「特高」というものがどんなものかよく分からないので、漠然と聞いていただけだったが。

Y先生は「英語にはリズム感があるのだ」とおっしやって、机の上を鞭みたいなもので叩きながらリズムをとって「ジッシズ・ア・ペン」みたいな抑揚をつけた音感で発音練習を施された。
先生は確か頭髪が天然パーマで、元特高というだけあってなるほどいかつい相貌をされていたけど、普段は生徒に優しい教師であったと記憶する。お昼の給食も、私たち生徒とともに仲良く一緒に食べていた光景を思い出す。

ただし宿題をサボったり、授業中にいたずらをすると、丸い木の棒で太もものところを「ピシャリ」と叩く。これがなかなか上手くて、叩かれた跡が残らないのにとても痛い。先生は「殴り方」のうまさを自慢されていたが、あの棒は怖かった。なるほどこれが元特高なのかなと、思ったものだ。
「体罰」など考えられない今日だが、私たちのころはもっとのんびりした田舎の学校生活だった。

Y先生は授業の合間に「見ろ、日本語というのは遅れた後進国の言語だ。書くのにやたら時間のかかる漢字があって、その上にひらがな、かたかななんて七面倒な文字がある。それにくらべると、英語は24文字で済む。この時間の差で日本は戦争に負けたんだ。しっかり英語を勉強せい。」みたいな話をされたことがあった。私は勉強が嫌いだったが、こんな雑談はよく覚えている。
Y先生が本当に元特高だったのか、そして日本語がそんなに遅れた後進性言語なのかは、私にはわからない。
ただ、戦時中の「特高」という言葉のニュアンスが、なんとなく具体的に想像できた。



昭和16年10月、東条内閣発足のまさにその日に一斉摘発で逮捕されたゾルゲやそのグループも、おそらく相当酷い扱いを受けたのだろう。(ゾルゲたち外国人は警視庁外事課が取り調べた)
例えば、沖縄出身のアメリカ共産党員で画家の宮城與徳は取り調べの最中、2階の窓から飛び降り自殺を図ったものの、死ぬことができなくて結局すべてを自白した。密室の拷問には耐えられなかったからだろう。素朴で献身的な諜報員だったようだ。そこから芋づる式にグループ全員が摘発された。
映画の中で、宮城は尾崎秀実に共産党員になった理由を、アメリカでの東洋人差別に加えて、沖縄人であるために日本人からも差別されたからだと述べている場面がある。細かい点だが見逃せない。
今も「沖縄問題」は、なんら本質的な解決をしていない。ゾルゲ時代の話では済まない。

その尾崎も素っ裸にされて竹刀で滅多打ちに殴打される場面がある。この時代に「アカ」のレッテルを貼られて当局に捕まることは、恐ろしい運命が待っていた。暗い軍国主義時代に「思想犯」「非国民」として断罪され人道にもる迫害を受けた人々の名誉は回復しているのだろうか。思想の成否は別として、まず人間としての正当な人権の回復が必要だと思う。



漫画「アドルフに告ぐ」では、共産主義者でなくても、日本の戦争政策に反対の意見を持つ教育者や自由・平和主義の文筆家たちが次々に激しい弾圧を受けた。当局の過酷な追及を逃げ回り、中には自ら首を吊って自死する人々が描かれている。
戦前の昭和初期とは、そんな暗黒時代だったのだろう。

手塚治虫は「ガラスの地球を救え」でこう述べている。

「人間狩り、大量虐殺、言論の弾圧という国家による暴力が、すべて”正義”としてまかり通っていた時代が現実にあったことが、・・・・ついこの間の厳然たる事実だったのです・・・・」(光文社知恵の森文庫 48ページ」
手塚にとっては同時代の事実だった。

「ぼくたちは、この世の中が百八十度転換して、昨日までは”黒”だったものが、きょうは”白”と、国家によって簡単にすり替えられた現実を目のあたりにしている世代ですから、その恐怖をなんとしてでも伝えたかった。・・・」(同49ページ)

今の憲法で思想・信条の自由が規定されているということが、どれほど大切な歴史的意味を持つか改めて痛感する。ここはGHQに感謝しなくてはなるまい。

「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない」
(日本国憲法第19条)

日本国憲法
さらに、もし日本がソ連に占領されていたらどうなっただろうか。
それは、映画「戦場のピアニスト」や「カティンの森」で見たポーランドの運命に近いものになっていたのではないだろうか。つまり冷戦終了までは、窒息しそうな息苦しい全体主義の時代が続いていた可能性が高い。

政治権力の奪取に偏った「革命思想」には、根本的な欠陥が胚胎するように思う。権力行使がすべてに優先され、その間に目的と手段がひっくり返るという倒錯現象を生み、一番肝心な「人間」が等閑視されたのではないか。かくて権力は暴力によって徹底的に自己を正当化する。
それが国家を悪魔的な「人間抑圧システム」へと変貌させた。

冷戦終結は資本主義の勝利というよりは、「欠陥品」社会主義の内部崩壊なのだろう。それこそ「歴史的必然」。
一言で言えば「人間」を見失ったからではないか。たぶん、科学的社会主義イデオロギーには、その「人間観」になにか致命的な欠損があるのだろう。

一方、もちろん様々な矛盾はあったが、ともかくGHQに占領され、「自由主義諸国圏」に入れてもらって来たことは、戦後日本人にとって僥倖だったと言ってよいと思う。



さて、第一次大戦中のドイツで真面目に祖国を信じて戦い、三度も「名誉の」負傷をするほど献身的に貢献したものの、帝国主義戦争の無意味さを痛感した青年ゾルゲは、野戦病院の看護師や医師から社会主義意を学び、1919年にドイツ共産党に入党する。
そしてコミンテルンの理想主義的な運動に参加した。思い込んだら徹底する性格が伺われる。
ちょうど中国では五・四運動の年だ。毛沢東や周恩来が歴史に登場する頃にあたる。朝鮮半島でも「三・一独立運動」が起こった。

しかし、こと志とは違ってゾルゲの前途は決して恵まれた道ではなかった。

スターリンの登場でコミンテルンは変質してゆく。そのためにゾルゲも、所属をコミンテルンから赤軍諜報部に移さざるを得なかった(1929年)のは不本意だったようだ。それでも理想を捨てずに最後まで頑張ったのだろう。もう、元には戻れない。
そのミッションは、とうとう極東の日本にまで到達した。

この弱肉強食の野蛮な帝国主義の時代、世界で唯一の社会主義国家は東西両国境をナチス・ドイツと日本軍国主義に挟まれ、存亡の際にあった。独ソ不可侵条約(1939年)、三国同盟(1940年)、日ソ中立条約(1941年)という具合に仁義なき合従連衡が続く。

ゾルゲは持ち前の智力・体力を尽くして、はるか極東の異国に自分の主宰する諜報組織を見事に作り上げた。それは余人の追従を遥かに許さぬ達成と言っても過言ではないだろう。歴史も文化も異なる島国で、日本軍の「北進」を阻止するための諜報活動にあたった。場合によっては情報操作まで試みた。
ゾルゲの行動を活写した力作として「引き裂かれたスパイ」(上下 ロバート・ワイマント著 新潮文庫 平成15年刊)は、とても読み応えがあって参考になった。

この作品の特徴は訳者・西木正明氏の「あとがき」によると

「現代史の研究家や、このジャンルで仕事を続けている作家にとってゾルゲ事件は情報の宝庫といっていい。ゾルゲ事件を調べることによって、悲劇的なあの戦争の実相に迫れるだけではなく、副次的にさまざまな事柄をあぶり出すことが出来るからだ。
・・・・・本書は、通常の意味での翻訳とはいささか異なる作業の結果生まれたことを、読者におことわりしておかねばならないだろう。
すなわち、翻訳者によって原作の一部が削除ないし加筆されているのだ。当然ながらこのことは、通常の翻訳とは異なり、内容そのものについても、翻訳者が責任の一端を担うことを意味している・・・・
ゾルゲの生涯を描くことは、すなわちあの時代を描くことだと、長い間このテーマをあたためてきた。ゾルゲが命懸けで守ろうとした社会主義の祖国も、今やない。いろいろな意味で、深い感慨を覚えさせられた作業だった。・・・・」

また映画「スパイ・ゾルゲ」の篠田監督も次のように「解説」を寄せている

「・・・・すでに映画『スパイ・ゾルゲ』のシナリオは完成していて、製作の準備に入っていた。読了とともに、ワイマント氏の仕事を早く知っていたらと後悔したものである。ゾルゲ研究では最新の著作であることから、それまで先行した研究著作を上回る資料の発見、解釈の進展などが進み、私はある種の羨望さえ抱いたものである。・・・・リヒャルト・ゾルゲ事件を中心に据えなくては昭和の日本は見えて来ない・・・・・」

ゾルゲ引裂かれたスパイ

しかしその結末は、余りにも孤独で悲惨な最後を迎えたことになる。ときに46歳。

想像を絶する過酷な条件下での諜報活動で、身も心も荒んでゆくゾルゲ諜報団(リムゼイ)。頼みの綱の通信使クラウゼンも、夫婦ともに逃げ腰になってきた。身辺に迫る監視、尾行の恐怖に神経の休む暇もなかっただろう。ましてや閉鎖的な島国で、言葉の壁も大きい外国人だ。覚悟したこととはいえ、生身の人間、とうに限界点を超えていたことと思える。日本での諜報活動は、すでに8年を経過していた。

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ゾルゲの功績を讃える旧ソ連切手

しかも、もしも社会主義の祖国ソ連に帰ることができたとしても(そこには妻カーシャが待っていた)、スターリンの粛清にあうことがほぼ確実であった。鋭敏なゾルゲは充分それを自覚していたと思われる。
フルシチョフが回顧録で述べているとおり、ボルシェビキ革命の大多数の功労者がすでに抹殺されていた。

ちなみにフルシチョフ時代にゾルゲの名誉回復が行われ英雄に祭り上げられたのだが、「後の祭り」感は否めないし、それもまた権力者の「政治利用」に近い。
もともと社会矛盾の克服と理想世界の実現を描いて立ち上がり、命懸けで共産主義に飛び込んできた人々だけに、散々政治に利用された末路は悲惨だ。

切手になったゾルゲ

この間の事情は「国際スパイ ゾルゲの真実」(NHK取材班 下斗米伸夫 平成7年刊)が参考になった。
ロシアのマルクス・レーニン主義研究所元部長であったフィリソフ氏の証言を以下に引用しよう

「・・・・1920年代の終わり、コミンテルンによる国際共産主義運動は、スターリンの影響で政治方針を変化させていきました。・・・・・ゾルゲは、コミンテルンに導入された新しい方針に、反対の立場をとっていました。そして、1928年から29年にかけては、コミンテルンの議長だったプハーリンを筆頭に、そうした考えを持った人たちは、次々とコミンテルンから追い出されていったのです」(同書51ページ)

国際スパイゾルゲの真実_

特高の取り調べに対して、最後は大泣きして自白したというゾルゲの心境を想像するに、たんに日本の警察に負けたという以上の「敗北」を意味していたのではないか。

父はドイツ人、母はロシア人だった。両親の国どちらへも帰ることのできないゾルゲの末路は、縁もゆかりもない極東の異人たちの尋問と監獄、そして絞首刑だった。意地の悪いことに、これ見よがしにその日はソ連の革命記念日だったという。

私は自分が生まれ合わせた平和な戦後日本が、いかなる歴史的経過を経て今日に繋がったのか、父祖の時代を振り返って考えるときに、R・ゾルゲの数奇な軌跡がとても参考になると思った。
本当に気の塞ぐような暗い話だが、手塚治虫が言い残したように「ついこの間の厳然たる事実」だったのだ。

そして、今更ながらに「戦後体制」の有難さを噛みしめた。

https://hiroshia55.wordpress.com/2015/06/23/%e6%bc%ab%e7%94%bb%e3%80%8c%e3%82%a2%e3%83%89%e3%83%ab%e3%83%95%e3%81%ab%e5%91%8a%e3%81%90%e3%80%8d%e3%81%a8%e3%82%be%e3%83%ab%e3%82%b2%e4%ba%8b%e4%bb%b6%ef%bc%94%ef%bc%89/


漫画「アドルフに告ぐ」とゾルゲ事件(4)


「国際スパイ ゾルゲの真実」(NHK取材班 下斗米伸夫 平成7年5月 角川文庫)は、ゾルゲ事件の真実に迫る名著だと思った。

特に独ソ戦(1941年6月22日)勃発前後から約半年の諜報戦は、まさに迫真の史実だったことがよくわかった。
不可侵条約(39年)を一方的に破棄したナチス・ドイツの、不意打ちともいうべき大侵略を西から受けながら、存亡の際に立ったソ連とスターリンの最大の関心事は東側の日本の出方だった。日本にどれくらいの「北進」の可能性があるかを探るゾルゲ諜報団の活動は、この時期まさにその真骨頂が発揮されたといって過言ではない。

日本自身の中にも、卑しいことながらドイツの攻勢を「好機到来」と見て三国同盟を根拠に「日ソ中立条約」を破棄して参戦すべきと公言する者がいた。あるいは、ナチスに食い荒らされて、ソ連が抵抗力を失ったあとでシベリヤを無傷で頂けば良いという、姑息な意見もあったようだ。
これが武士道の国とは思えないような、政治家や軍人がいたのだった。そこに繋がって金儲けした者もいた。

昭和16年秋、それまで荒波にもまれる小船のように翻弄された挙句、日本は南部仏印進駐に舵を切った。それは長引く日中戦争の始末に行き詰まり、ABCD包囲網に封じ込められ、まるで窮鼠猫を噛むがごとき最悪の選択だった。
今更言っても始まらないが、米英との軍事衝突は無謀際まりのない国策上の大失敗だった。こうして戦争指導者は何も真相を知らされていない全国民と、アジアの罪なき人々を一気に奈落へ突き落とした。
まさに地獄の始まりだった。

多くの日本人がのぼせて上がって自らを見失っていたとき、ゾルゲは的確に帝国日本の破滅を予測してモスクワに報告していたのだった。

ゾルゲの日本人妻・石井光子へのインタビューによると、この昭和16年10月4日、まさに逮捕の半月前、私服刑事が周囲を見張る銀座のレストランでゾルゲと光子にこんな会話があったという。

「・・・・日本がアメリカと戦争をするというのよ。・・・・私は、・・・・日本は日米交渉でうまくやるって言ってやった。・・・・・そうしたらゾルゲは、いや、・・・・日本は電撃戦やるって言ったの。私はそのとき、そうかなあ、と思ってたら、(その後)日本は本当に宣戦布告しないで戦争をやったものね。・・・・」

そして
「・・・・『アメリカはモノイイデキマス。絶対に日本は勝てない。やったら負け、必ず負ける』ってそう言ってた・・・・」とも証言している。

直後の17日、ゾルゲは逮捕された。
そして12月8日、日本は本当に真珠湾奇襲を敢行してしまった。

巻末に付された解説文を参照してみよう。

国際スパイゾルゲの真実

「・・・・ゾルゲは、単なるソ連のスパイというには巨大であり、スターリン体制と、天皇制国家、そしてナチス・ドイツの運命にかかわった人物として・・・・・多くの人物によって論じられてきた。」(p263 下斗米伸夫)

「・・・・このことは、ゾルゲ事件の一つの性格を物語る。とくにゾルゲや尾崎は情報を入手し、それを通報するというよりも、それ自体が情報源であるような存在だった・・・・」(p298  尾崎秀樹)

「・・・・ゾルゲは個々の情報をそのまま通報しているわけではない。今回公表されたKGB文書のラムゼイ報告を見ても明らかなように、ゾルゲは入手した情報を綜合し分析した上で、それぞれの答えを出していた。指令に応じたものだけでなく、独自の判断でとりあげた問題もある。三国同盟の締結、独ソ戦開始の時期、北進から南方への対外政策の切り替えなど、最高機密に属する情報が多く、しかもそれを正確につかんでおり、報告そのものは短文だが、その裏に秘められたゾルゲの的確な状況の把握が感じられる・・・。」(同 p307)

これらの解説は、この事件の規模の大きさとゾルゲの卓越したな情報戦を物語っている。

漫画アドルフに告ぐ

漫画「アドルフに告ぐ」では大阪憲兵隊長の子息でありながら「アカ」の地下活動に従事、父の部屋に入って軍事機密を接写して「ラムゼイ」に送る「本多芳男」が登場する。機密文書をこっそり高性能写真で撮るという行為は、実際にゾルゲがドイツ大使館で行ったことだった。

また、芳男が機密文書をもうひとりの地下活動家に手渡す場面がある。互いにまったく見知らぬ地下活動家どうしだが、予め所定の書店の店先でお互いの「暗号」を交わす。
芳男の合図は「私はこの本をとてもおもしろく読みました。一番おもしろいのは25ページです。」、相手は「おれは73ページが一番おもしろいと思うね」と応じている。
これで互いの了解工作は完了して、その直後に芳男はしおりに入れた写真のネガを書籍にはさんで渡す。例のヒトラーの出生書類だ。

これは、実は獄中で書いた「ゾルゲの手記」(みすず書房 現代史資料1962年)に類似の記述があるので、これを手塚治虫が読んでヒントを得たのだろうと思われる。

たとえば、手記の中でゾルゲはこう記している
「・・・・彼ら(伝書使)との連絡は、モスクワと打ち合わせたうえで行われた。連絡の場所、日取り、面会方法に関する条件などすべて無線で打ち合わせるのであった。伝書使とわれわれがお互いを知らない場合は、特別な標識、合図の言葉、お互いを確認するための一連の文句を無線で打ち合わせて決めた・・・・」と、具体的ないくつかの事例を挙げている。

このゾルゲの手記は、獄中で書き残されたもので、冒頭に
「左に掲ぐるはゾルゲの取調に当り、本人に作製せしめたる手記にして独逸大使館関係コミンテルン及日本に派遣された経緯、支那時代、諜報活動関係、連絡方法、其の他6項目に亙り、其の内容は今後の検挙取締上熟読玩味すべきものあり。」
と解説文のあることから、ゾルゲ事件の取調官や裁判関係者に資料として提供されたものであることがわかる。

当然ながら獄中の被疑者であるゾルゲ自身も、その意図を充分認識しており、自分の置かれた状況を鋭敏に考量したうえで書いたに違いない。
この手記がどう取り扱われれるか、きっとあらゆる可能性を想定しながら慎重に作成したのであろう。
おそらく、彼はこの手記がたんに当面する裁判記録としてだけではなくて、自分自身のいわば「人間記録」として後世に残ることをも予測していたはずだ。

だからゾルゲの人となりを再現する上で、とても興味深い第一級の資料だ。そう考えてこの手記を、それこそ「熟読」することには、今日の時点でも大いに意味があるように思った。

切手になったゾルゲ
旧ソ連で切手になっをたゾルゲ

歴史的な背景を確認しながらその人生を詳細に追うことは、第1次大戦から第2次大戦に至る「戦争と革命の時代」20世紀を、リヒャルト・ゾルゲに沿って学ぶことにもなると思われる。
そして、ゾルゲ評価の分かれ様はまた、第2次大戦後から今日までの現代史を読み解く、それぞれの史観や政治的立場の違いに由来するのだろう。

それほどにゾルゲの存在は大きい。

https://hiroshia55.wordpress.com/2015/06/30/%e6%bc%ab%e7%94%bb%e3%80%8c%e3%82%a2%e3%83%89%e3%83%ab%e3%83%95%e3%81%ab%e5%91%8a%e3%81%90%e3%80%8d%e3%81%a8%e3%82%be%e3%83%ab%e3%82%b2%e4%ba%8b%e4%bb%b65%ef%bc%89/


漫画「アドルフに告ぐ」とゾルゲ事件(5)


昭和18年9月29日東京刑事地方裁判所第9部の判決文を読んでいて、興味深い文面に気づいた。

この判決でリヒャルト・ゾルゲは死刑判決を受けているが、判決理由の冒頭にわざわざ大袈裟な表現で
「被告人は嘗て『カール・マルクス』が『第一インターナショナル』を創設したる当時其の書記として活動したる『アドルフ・ゾルゲ』の孫にして・・・・」
とあるのには、この時代の雰囲気が感じられて興味深い。

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みすず書房 現代史資料

まるで、極悪人「カール・マルクス」の直系の血を引くおどろおどろしき悪漢の一族、といった描き方なのだ。なにか時代劇の捕り物の口上のような始まりなのだが、この事件当時の日本の治安当局が共産主義者をどう見ていたかを雄弁に物語っているように思われる。
言葉つきも、いかにも権力者顔なのだ。

では、同じ資料の中に収録されているゾルゲの手記をあったってみよう。ゾルゲは本当にいわば「悪の血筋」なのだろうか。

みすず書房 1962年刊の「現代史資料 ゾルゲ事件1」には(一)と(二)に分かれて手記が収録されていて、同書の解説によると

「・・・・本文テキスト(一)は、内務省警保局偏『昭和17年中に於ける外事警察の概況』の512-35ページに拠る。本文の最初にある特高警察の前書によれば『左に揚ぐるはゾルゲの取調に当り、本人に作製せしめたる手記にして、・・・・・その内容は今後の検挙取締上熟読玩味すべきすべきものあり』と書かれているが、おそらく本テキストは、1941年10月18日検挙されたゾルゲの、ほぼその一週間後27日月曜日(毎日9時より3時まで)より開始された司法警察官に対するき供述の内容を基として、特高警察が内部用にサム・アップし、手記の形式に整えたものではないかと想像される。従って本テキストは判決のさい証拠として採用されていない。・・・・真に手記というべきものは本書にリヒアルト・ゾルゲの手記(二)として掲載されているもので、ゾルゲが検事に対し、自らタイプして提示したものである・・・・・」
とある。

つまり手記は二つ残っていて、(一)は
「・・・司法警察官の訊問調書が本書に収録されていないために、この時期のゾルゲの供述は、本テキストによって知るほかない。」性質の資料であって、取調べ書記の内容を反映しており、(2)については
「1941年10月以降、ゾルゲ自身がタイプで打った原稿(ドイツ語)に基づくものである。生駒佳年氏(当時東京外語教授)によるその邦訳全文は1942年2月、司法省刑事局刊『ゾルゲ事件資料』(2)に前半を、1942年4月司法省刑事局刊『ゾルゲ事件資料』(3)に後半が印刷され、政府の関係者に配布された。・・・・・」ものという。
また、「生駒氏の訳された日本文は英訳されて、1951年8月のアメリカ下院非米委聴問会において、証拠書類として提出された・・・・」(いずれも同書)
とあるが、別途後述するように、戦後冷戦期のマッカーシズム時代に占領軍GⅡのウイロビーにも「利用」された。それは、冷戦を反映して共産主義の恐ろしさを宣伝するためだった。そのためハリウッドは「冬の時代」を経験した。

ゾルゲ事件担当検事であった吉河光貞氏が1949年2月19日、極東軍GⅡの命によって提出した供述書によると

「1941年10月私は東京地方裁判所検事局に勤務を命じられていた検事でありました。・・・・・当時東京拘置所に拘禁されておりましたリヒャルト・ゾルゲに関し、検事の取調を行うよう命ぜられました。私は取調を1942年5月まで行いました。・・・・・取調べの進行中、リヒャルト・ゾルゲは、すすんで私に対し、彼の諜報行動の全体のアウトラインに関する記述を作製の上、提出したいと提議しました、この提案によって、リヒャルト・ゾルゲは私の目前で検事取調室において、ドイツ語でその供述を作製しました・・・・その供述の1章または1節のタイプが終わると、ゾルゲは私の前で読み、私のいる前で、削除や追加をしたのち、私の方へ手渡したのです・・・」
吉河氏の述べるところによると、氏自身ドイツ語も英語も不十分だったが、ゾルゲは話がむつかしくなるので通訳を取調べに入れることには反対したという。そこで吉河検事は不十分ながら辞書の助けをかりながら手記や訊問調書をゾルゲとともに合作したという。原文はドイツ語なのだろう。
そして、取調べのおわたったあと生駒氏が正式の通訳に採用され、日本語翻訳文を作製したものらしい。ドイツ語の記述についても異論ないかどうかゾルゲに訊ねたうえでゾルゲの署名を付した。
このときのドイツ語の唯一の原文テキストは司法省の戦災で亡失しているが、訊問調書の写しは保存されていて、戦後アメリカ占領軍によって没収されたという。
ただし、この手記が起訴の材料にまでなるとは、ゾルゲ自身は書くとにきは知らなかったらしい。

このときの「言葉の壁」が、取調べに大きな困難を与えたことも興味深い。ゾルゲに通訳として接した生駒氏が後年に貴重な回想を残している。
「・・・・・本来ならば検事の取調べと予審廷での訊問は別の通事を用いなければならないのだが、その時は他に人がいなかった為再び私が通事を依頼される仕儀となった・・・・」(同現代史資料)

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戦後進駐軍に接収されたあとの「巣鴨プリズン」

この当時の日本で、ドイツ語を母国語とする外国人を取調べ、裁判にかけることがいかに困難な作業であったかを彷彿させると同時に、故郷から遠く離れた極東の異国で、言葉も満足に通じないなか、刑事被告人として極刑も想定しながらの孤独な獄中生活を送ったゾルゲの心中も思いやられる。

ところで本題にもどって、ゾルゲが祖父の思想的影響をどれだけ受けていたかというと、この手記を読む限り、そうはいえない。
たとえば手記(二)第3章 「ドイツ共産党員としての私の経歴」(同現代史資料214項)を紹介すると

「1914年から1918年にわたる世界大戦は、私の全生涯に深刻な影響を与えた。・・・・私はこの戦争だけでりっぱに共産主義者になったものとおもう。・・・・・」とあるし、肝心の祖父については
「・・・・私は、祖父が労働運動に尽くしていたことを知っていた。そして父の考えは祖父の考えとはまるで正反対だったことも知っている。・・・・」
と客観的な記述があるが、そのこととゾルゲが共産主義を主体的に選んだこととの因果関係は読み取れない。

判決文そのものは、そのあと事細かな罪状を大量かつ克明に書き連ねていて、読んでいても飽きるほどだが、そこは役人仕事でおそらくゾルゲの証言を正確に逐次反映した内容なのだろう。しかし、ゾルゲと取調べ側との間には神経戦にも似た取引があって、それ相応の妥協や合意はもちろんあったようだ。更には日本側でも固有の国内事情があって、特に軍部の憲兵隊と内務省管轄の特高警察との縄張り争い、反目も指摘されている。こうした複雑な状況の中での「国際諜報団」は摘発され、取調べを受け、そして裁判、判決と進んだのであったのだ。
最終的に上告棄却は昭和19年1月。

特高側も最初からゾルゲや尾崎のような大物が網にかかると想定していたわけではなかった。日本人共産主義者を虱潰しに取り締まり検挙しているうちに、芋づる式に宮城にたどり着いた。ところが宮城が取調べ室の2階から飛び降り自殺をはかるにおよび、事案の大きな展開がはじめて予想されたようだ。そして当初の想定外となる大掛かりな国際ネットワークにたどり着いたようだ。

検挙(41年10月)後の司法省の発表は翌1942年6月16日で、ゾルゲや尾崎の検事調書が済み、証拠堅めが成ったあとだった。国民一般に周知されたのはこれが初めてだった。

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その中の司法内務両当局談には
「国際諜報団事件については、捜査当局の不眠不休の努力の結果やうやくその全貌を明白ならしめ、不逞組織を根柢より覆滅することを得たのであるが、大東亜戦争の開始に先立ち、これを検挙することを得たについては真に関係当局の労を多としなければならない・・・・」(同542項)
「・・・当局としては、今次事犯の経験に鑑み、この種不逞分子に対する取締を一層強化しその徹底を図ると共に・・・・」(同)と記している。
そして「・・・・上層部その他の有識層の各位において、軽々に国際的秘密事項に関する論議をなし不識の間に秘密事項を察知せられるが如きなきやう格段の自粛自戒を切望してやまない・・・」(同543項)
といった具合に取り締まり方の権威をもって居丈高に関係者を恫喝している。剥き出しの権力意思だ。

ともかくいきなり「不逞組織」であり「不逞分子」と決めつけて憚らない。しかも「治安維持法違反」の罪科を適用するために、国体変革や私有財産制を否定する革命運動と強引に関連付けた恣意性があるのではないかという印象は否めない。そもそもゾルゲの諜報活動はソ連のための行動であって、日本共産党の非合法活動と直接の連携はない。また、ソ連当局からは、ゾルゲたちは現地共産党と連携することは厳しく禁じられていたと手記でも予審でもゾルゲは述べている。
それにゾルゲの身分は、すでにコミンテルンからははずれていた。スパイ行為だから「国防保安法」や「軍機保護法違反」「軍用資源秘密保護法」違反に問われることはゾルゲたちも覚悟のうえだろう。しかし、日本の共産主義革命を取り締まる「治安維持法」違反で外国人を裁くのは、やや無理筋を感じる。手記を見てみよう。

「・・・・かくして、コミンテルンから分離された結果、私に課せられた任務の性質にははっきりした変化が認められた。私は、中国及び日本の共産党とは一切の交渉を禁ぜられ、勝手に会うことは勿論、彼らを援助することも許されなかった・・・・」(同141項)
「・・・・組織上私がモスクワとそんな関係にあるかという点については、私には何らの説明を与えらなかった。従って、私は一体どんな機関に所属しているのか不明であった。また、私の方からも敢えてこの点について尋ねてみることをしなかった・・・・私がいろいろと考えてみた結果得た結論は・・・・党の最高部、従ってソヴィエト政府の最高部で使用されたことは確かである・・・・」(同142項)
「・・・以上を要約するとこういうことになる。
私は、日本におけるスパイ団の長として直接、かつ専らソヴィエト共産党中央委員会との間に関係を持っていた。なお、私の仕事の技術面と若干の諜報活動については赤軍の第4本部にも属していた。前にも述べたように、コミンテルンと私の関係は単に間接的なものにすぎなかった。・・・」(同143項)
微妙な言い回しながら、日本における共産主義革命には直接関与していないと、はっきり述べているのである。

しかし、ソ連赤軍の配下であることだけを衝かれると憲兵隊にまわされかねない。特高がこの事件をあくまで自分たちの縄張りで裁こうとした思惑が「治安維持法」適用にはあったのだろう。当初取調べにあたった警察庁外事課の大橋部長の証言では、ゾルゲも憲兵に捕まると、いきなり銃殺になるのではないかと恐れたから、特高の説得に応じたのだという。手記はこうした事情を反映した「合作」なのではないだろうか。

この段階では、まだゾルゲは助かる可能性に希望を持っていたようだ。確かにスパイではあっても同盟国のドイツ人であり、ドイツ側がどうでるか不明であったし、肝心のソ連とも日ソ中立条約を結んでいるので、その動向も含めてゾルゲにはまだ充分な可能性があると思えたのだろう。
かつて上海では蒋介石政府のもとで「ヌーラン事件」といって類似の事例があったが、最終的にソ連の干渉でスパイは国外退去というかたちで命拾いしている。
しかしその後のソ連のゾルゲ事件への態度(まったく無視だった)や、国際関係の展開過程と戦時下の日本という異常な条件の中では、不幸にしてゾルゲの願いは叶わなかった。
こうして刑は確定した。

「 本件上告はこれを棄却す。  昭和19年1月20日

大審院第一刑事部」

いずれにせよ、手塚治虫の傑作漫画「アドルフに告ぐ」に描かれた、「アカ」と呼ばれた人々に対する残酷な人権侵害は、こうした政情の中で堂々と正当化された暗黒時代だった。治安維持法は拡大解釈され、共産主義者以外の人々も容赦なく罪に落とした。戦争に反対する人は無論、政府の政策に疑問を表明する人はたちまち「アカ」として残虐な取り締まりを受け、その家族は「非国民」として社会から葬り去られた。国家神道に従わない宗教も徹底的に弾圧された。
「自由」が完全に窒息していた。

この判決文冒頭の表現や司法内務当局発表文も、そうした社会状況を反映しているのであろう。亡くなった叔父がよく「・・・大正生まれは本当に(歴史の)被害者で損だった」と問わず語りに話してくれた言葉を思い出す。

同書巻末の「歴史の中での『ゾルゲ事件』」によると、

「・・・・1941年10月ゾルゲら検挙の報は、日本の支配層に電撃のように伝わった。それは、厖大な流言の洪水を招いた。・・・・・一般の人民は、つぎの司法省の発表まで、何も知らされることがなかった。それは、検挙の翌年1942年6月16日・・・」とあり、更に
「この発表ののち、敗戦まで日本国民がゾルゲ事件についてふたたび聞くことはなかった。ゾルゲの刑死したのは、1944年11月7日、ロシア革命記念日であったが、その発表は行われなかった。・・・・」とある。

戦時中の国民には、なにも本当のことは知らされていなかった。戦争指導者の責任は絶対に免れない。わずか70数年前のことだ。その時代に生きた手塚治虫は、確かに歴史の酷い真相を語り残していたのだと思った。



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しかし、2010年にヒトラーの親族39人の唾液サンプルから採られたDNAを検査したところ、そのDNAには、ヒトラーが「非人間」とみなしたユダヤ民族に生物学的に関連するものが含まれており、ヒトラーは祖先にユダヤ人とアフリカ人を持つ可能性が浮上しました。ということは、ヒトラーは同族を殺していたということになりますね。 アドルフに告ぐ











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http://tocana.jp/2014/06/post_4339_entry.html

ヒトラーはブラジルで生きていた? 「ドイツの老人」アドルフ・ライプツィヒの謎


2014.06.24.

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コメント1.
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関連キーワード:アドルフ・ライプツィヒ, ヒトラー, ブラジル, ルドルフ・グライナー .
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日本はなぜ教科書で嘘を教えるか – prideandhistory.jp
最近明らかになってきた近代からの大ウソ本当の歴史を捻じ曲げてきたのは誰か?
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Adolf_Hitler-1933.jpg1934, Hitler

 私は、ルドルフ・グライナーです。日本と世界を研究するドイツ人です。私は、日本と世界の違いやドイツと日本の違いを研究しています。今、ブラジルではW杯が行われていますが、次の2016年オリンピックもブラジル、リオ・デジャネイロです。そこで、今回はブラジルの話をしてみます。

 唐突ですが、ドイツといえばホロコースト(ユダヤ人大虐殺)を進めたヒトラーが有名ですよね。でもそのヒトラーがブラジルに住んでいた可能性がある説を知っている人は少ないでしょう。今回は、その理由を探っていきます。


■ヒトラーの親族は、イスラエルに住んでいる

 まず、ヒトラーの親族が、現在イスラエルに在住していることをご存じでしょうか? あれほどユダヤ人を迫害したヒトラーの親族が、実は、ユダヤ人の国家に匿われているのです。これは非常に不思議なことではないでしょうか。

hitlerdna.jpg鑑定に関する記事「The Telegraph」

 しかし、2010年にヒトラーの親族39人の唾液サンプルから採られたDNAを検査したところ、そのDNAには、ヒトラーが「非人間」とみなしたユダヤ民族に生物学的に関連するものが含まれており、ヒトラーは祖先にユダヤ人とアフリカ人を持つ可能性が浮上しました。ということは、ヒトラーは同族を殺していたということになりますね。

 もちろん、ヒトラーの子孫に罪はないですし、ユダヤ人の血が入っているとなればイスラエルにいてもおかしくないのです。

 ですが、この「イスラエルにいるヒトラーの子孫」が話題になったのは、ブラジルがきっかけでもあるのです。それは、ブラジルに来ていた「ドイツの老人」といわれる人物が、ヒトラーだったかもしれない…という疑惑です。つまり、ヒトラー生存説です。


■なぜ、ヒトラーはブラジルにいたのか?

 ブラジルは、もともとポルトガルによって占領されていました。しかし、フランスの皇帝ナポレオンがポルトガルを占領した時に、その混乱期に合わせて独立します。その後、ブラジルは帝政、民主制を経て第二次世界大戦時にはジェトゥリオ・ドルネレス・ヴァルガスが軍事独裁政権を作ります。

 ヴァルガスの軍事独裁は、親米・反フランスの立ち位置をとりました。ブラジルを属国のように扱っていたフランスに対抗した政治をすすめたのです。ゆえに、フランスを叩いたドイツ、特にナチスドイツに対しては、親近感を持っていた可能性が高いのです。

 その後、軍事独裁政権は1985年まで行われましたが、その間もブラジルは親米反共でありながらも、旧ナチスドイツには親しい感覚を持ち続けます。旧ナチスのメンバーが南米にいたと噂されるのは、このような微妙な関係があるからなのです。もちろん、この背景にも陰謀的な力が働いた噂はありますが、一方で、表面的な東西関係とは違う力が確実に働いていたとはいえるでしょう。

■「ドイツの老人」アドルフ・ライプツィヒ

 さて、その「ドイツの老人」は1984年までブラジル国内で生きていて、ボリビア国境の小さな町で「アドルフ・ライプツィヒ」として暮らしたといいます。すでに戦争で死んだはずの人が生きている…というのは珍しい話ではありません。日本でもフィリピンで小野田寛郎さんが生きていましたね。

hitlerslull.jpg頭蓋骨のDNA鑑定を報じた記事「The guardian」より

 さらに、ヒトラー生存説を裏付けるのもとして、2009年に米コネチカット大学で行われた遺伝子鑑定の結果があります。この研究では、ヒトラーが自殺したとされているベルリンの地下室で発見された頭蓋骨の破片はヒトラー本人のものではなく、20~40歳の女性のものだったことがわかっています。つまり、ヒトラーの死体は発見されていないということです。

 2年後、ブラジルでオリンピックが開催されるまでに、ヒトラー研究はさらに進むことでしょう。その結果によっては、ドイツとブラジルが、急に“深い関係”になる可能性もあります。これを読んで、みなさんは、どんなことを考えるのでしょうか…。
(ルドルフ・グライナー)

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手塚治虫が描いた戦争

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メタモリス制作 柔術ドラマ The Foundation

The Foundation


かつて元祖グレイシー一族がブラジルのリオデジャネイロの郊外テラズアポレスで柔術のトレーニングを積んでいた時代
柔術宣伝ドラマが制作されました
その時代はグレイシー一族の宗主カーロスの次男ホブソンが主人公だったが

エリオグレイシーのの孫ハレックグレイシー主催のメタモリスがそういった内容の柔術ドラマを現代式にアレンジして復活

のび太がジャイアンにボコられ柔術を始めるという構図は変わらず

柔術はアスリートの為にあるのではなく弱者の為にあるのだという思想は
グレイシー一族が特に強いですねぇ

シセロコスタのアカデミーとかは弱肉強食のアスリートのみしか生き残れない世界の思想ですが

そういった差異がグレイシー(特にホリオン)と競技柔術アスリート育成道場との差なのかも

まぁ
逆にホリオンは他のグレイシーの意見には一切耳を傾けない独裁者でもあった訳なんですけれどもねぇ

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ヘナーグレイシーvs柔術IBJJF2003年黒帯世界王者Cassio Werneck

Rener Gracie vs Cassio Werneck



ホリオン派グレイシー一族のヘナーがオズワルドアウべスの流れを汲むCassio Werneckと時間無制限のリアルファイト

最後はアキレス腱固めで極めるのですが
ストップが明らかに早すぎな気が…
確かにタップはしたようにも見えますが言い訳させない為にももっとハッキリと決着させるべき

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今、そこにいる僕



























http://www1.u-netsurf.ne.jp/~suemura/private/imaboku.html

TVアニメ、『今、そこにいる僕』(WOWOW 1999年10月-2000年1月、毎週木曜19:00-)

を紹介するページです。
私的解説
個人的にはテレビアニメは4クールであるべきだと思っているがこの作品は別。これ以上短くてもいいかもしれないが、長いと観続けられそうにない。
この作品ほどある種の使命感を持って制作されたTVアニメはほかにはほとんど見あたらないし、こういう内容を持った作品も10年に1度あればいいくらいだ。しかも新作を作るまでもない、「今、そこにいる僕」を再放送すれば十分だと思う。
宿命のライバル同士の死闘、指揮官の知恵の限りを尽くした戦術といった、戦争をかっこよく見せる要素をすべて排して戦争を描いたTVアニメ。暗くて悲しい話だが、それでいてポジティブなところもある。サラはきっと最後に、「信じる」とはどういうことか悟ったのだと思う。
銃があれば、子どもでもたやすく人殺しができてしまう。それがどんなに悲しいのか13話を通じて切々と訴えている。だから子どもにこそ観てほしい。古典的な異世界冒険活劇というオブラートで包んだのも、対象年齢を下げるためじゃないかと勝手に考えている。
私的登場人物紹介

シュウ(松谷修造) #1-13
主人公。第1話でララ・ルゥを救うべく縦横無尽の活躍ぶりを見せたため、その後もそういう話になっていくのだろうと予想した人がおおかただろう。ララ・ルゥと彼女を捕らえようとしたアベリアたちとともにヘリウッドにやって来てしまう。
ララ・ルゥ #1-13
ヒロイン。行動原理不明の少女。ただし本人曰く、シスの何万倍も生きている(=数十万歳)。水を操る力を持っているためにハムドに追い回されている。この作品からリアリティを奪う存在でもあり、この作品を冒険活劇たらしめている存在でもある。おそらく彼女ぬきでも十分作品は成立するはずなのだが……。
彼女が最後に解放した力で、地球が再生したかは疑問。太陽系が滅びかかっているのは変わらない。
左利き?
声優の名塚佳織はヘタらしいが、セリフが少ないので全然わからない。
ナブカ #1-13
作品のテーマからすれば主役。出来杉君タイプ。ヘリウッドの生まれではなく、子ども狩りでよその村から連れてこられた。自分の隊に編入されたシュウを最大限かばう。
サラ #2-13
ナブカと同じく、本当のヒロイン。設定ではアメリカ人。シュウとほぼ同時代からやって来たらしいが、完全に同時代なのかは不明。ララ・ルゥに似た容姿を持つため、彼女と間違えられてさらわれてくる。
最終話で彼女が選んだ選択はそう簡単に決心できるものではない。それでよかったのかどうかはともかく、こういう決断をさせるあたりに制作者の願い、希望がこもっているように思える。
ブゥ #1-12
ナブカと同郷で彼を兄のように慕っている。第3の主人公。
タブール #2-13
ナブカと同郷で彼を一方的にライバル視している。いけすかない野郎だが、ナブカに言わせれば、故郷の村にいたときはいいやつだったらしい。ヘリウッド流の考えかたをさっさと身につけたやつとも言える。
ハムド #2-13
ヘリウッドの狂王。「私の、私による、私のための平和」は(ある意味)名言。完全にき○がい。少なくとも視聴者からは彼には一寸の正義もないとしか言えない。こういうわかりやすい描きかたには異論があった。どういう人間がヘリウッドを束ねたにせよ、描かれる戦争は同じになったはずなのに(正義があるから死なないわけじゃないから)、わざわざ次回予告まで使ってこういう人物にした真意は不明。
対象年齢を下げるためとも考えられる。また終わりかけている世界でそれぞれなりの(視聴者にもそれぞれ理があると思える)正義をかかげて泥沼の戦いを繰り広げているのとどっちが希望がある作風になったかということもある。ザリ・バースでささやかに暮らす人々と対置させるためはそれなりに必然性があったのかもしれない。
石井康嗣の演技は名演。
アベリア #1-13
ヘリウッドの実質的No.2。ヘリウッドでは唯一の女性。ほかの女性は……。
彼女がなぜ今の地位にいるのか、なぜハムドに絶対的な忠誠を誓っている(というか愛人になっている)のか、理由は描かれなかった。そういう点に関してこの作品はかなり割り切っている。
シス #9-13
ザリ・バースの村人の1人。多くの孤児をひきとって面倒をみている。
エランバ #9-12
ザリ・バースのタカ派筆頭。妹をヘリウッドに殺されている。
スーン #9-12
ザリ・バースの女の子。父の帰りを待っている(母がどうなったかは不明)。声優の斎藤彩夏が子役だったので、声はきわめてリアリティに富んでいた。第3のヒロイン。

第1話「黄昏を見つめる少女」感想
「未来少年コナン」みたい。SF作品と聞いていたのだが、60年代の日本風の町の日常描写が15分くらい続く。キャラクターデザインは70年代っぽいかも。主人公のシュウは、剣道場からの帰り、オバケ煙突(かつて北千住あたりにあって「こち亀」に出てきた)みたいな煙突の上に一人の少女が座っているのを見る。煙突に登るシュウ(ここら辺が既にコナン)。少女は(ラナ+カチュア)/2。
突如周囲の時間が止まると、閃光とともにアベリアというモンスリーみたいな女性が出現。インダストリア風の戦闘服に身を包んだ兵士が「ウルトラセブン」に出てきたナースみたいなメカと、やっぱりインダストリアに出てきそうな作業ロボットに乗って、ラナ…じゃなかった、ララ・ルーをさらおうとする。
彼女を助けようとするシュウは、煙突の上で無茶な活劇を繰り広げたあげく、撤退しようとしたアベリアたちの転位(?)に巻き込まれ、飛ばされた先が太陽塔みたいな建造物。
ララ・ルーの手を取って逃げ回ると四方八方に道が通じる円形の小部屋に入ったり。やたらに統制のきいた住民に追い回されたり。あげく中央の吹き抜けでシュウだけララ・ルーの首から下がる飛行石(?; これは「ラピュタ」か)をつかんで下に落ちていく。そのままゴミ捨て用の(?)シャフトから外に放り出されかける。
シュウが煙突のてっぺんから落ちかかって、体がほとんど水平になっているのに足先の力だけで姿勢を戻すあたりまでコナン。
一昔前の日本を出すのは「ミト」っぽい。でも全体としては面白い。久々にサンライズくさくないようなSF世界だし。なんつうか、宇宙戦争するためのSF設定じゃないというか。
煙突の上から眺めた列車がDD51に牽引される50系(?)客車6両くらいだったのはちょっと感動。でもその後、気動車が通ったんだよね。

第2話「少年と狂王と」感想
Op.変更。レギュラーの顔(写真風)と名前と声優が1人ずつ表示されるというわかりやすいもの。彼らの名前も短くてわかりやすい。しかも、まだ登場していない人物まで出している。ちなみに番組冒頭の構成はア番、Op.(インスト)となっている。
ララ・ルゥが世界の命運を握る少女と判明したのは予想通り。しかし彼女の秘密がいきなり明らかになったのは予想を裏切った。彼女は太陽エネルギー…じゃなくて、水を操る力を持っていて、彼女のペンダントは世界の水がそこに凝縮されていると。そのため?ヘリウッドは水不足に苦しんでいる。ヘリウッドはまわりの国を攻めて世界を統一しようとしていた。うーん、このアニメ、1クール?
ヘリウッド(この国の名前)を治める王・ハムドが異常人格なのも予想にたがわず。「ラピュタ」のムスカに近いかな。ラピュタからゴリアテの船員がバラバラ落ちていくシーンとその時のムスカのセリフ(「見ろ、人がまるでアリのようだ」だっけ?)、ああいうのが出てきそう(この場面、極めて残酷だと思うんだけどPTAの人はどうとも思わないのだろうか?)。ブツブツ独り言をえんえんとつぶやくのは、「アドルフに告ぐ」のヒトラーっぽいかも。
シュウは、手にした角材でヘリウッドの子ども(名前失念; 剣を持っている)と戦う。シルエットをうまく使ったり、戦っている場所が溶鉱炉の真上だったりでなかなか緊迫感にあふれている。途中で、早くもペンダントを落としてしまうが、どうなるのだろうか。
ヘリウッドの子どもが溶鉱炉に落ちかけたのを助けたところでシュウは別の子どもにひっとらえられる。そしてハムドに会うのだが。髪をつかまれて抜かれたり。往復ビンタされたり。あげくにアベリアの部下に拷問を受けたらしいが、子細はわからない。あの絶叫は本当にシュウのものなのだろうか。
そしてぶちこまれた牢で会ったのは、おそらくサラという少女。
Ed.を歌うのはアベリア役の人だと思う。ということは寝返るんだろうか? ED.は「シティハンター2」の新Ed.みたいな雰囲気、つまり実写の写真を1枚ずつ映し出していくのだが、その景色は明らかに日本の街並。異世界と日本とどうつなげるつもりなんだろう?
気のせいか、先週から続けて次回予告がハムドのセリフだった。

第3話「闇の中の宴」感想
こっわ~。拷問と戦争に終始していたような。
シュウが牢獄で出会った女の子、サラは、シュウと同じ地球から連れてこられたと話した。彼女はアメリカ人らしい。なんで日本人と口がきけるのかは、ヘリウッドの人間と話せるのからして妙だから考えないことにする。サラは、ララ・ルゥと間違えられたらしい。アベリアも結構オマヌケだ。
シュウはまた拷問を受ける。今度はしっかり拷問の場面が出てしまった。背中は真っ赤っか、顔もふくれ上がっている。とうとう気絶した彼は、塔の外に吊るされる。強烈な直射日光が照りつける中に。
ララ・ルゥはハムドのもとに連れてこられ、彼にねぶられる。激昂したハムドが握りつぶした果物の汁を顔に塗りたくられたり、髪をつかまれて体を持ち上げられたり。彼女はハムドを突きとばすが、彼もさすがにそれ以上手荒なことはできない。
サラは、遺伝子操作に失敗したかなんかで生まれたとおぼしきデキソコナイ人間の棲む部屋に投げ込まれ、どうやら――犯されたらしい。うわわ。
いっぽう、隣国から地上を走行する戦艦が攻めてくる。ナブカ(前回シュウに助けられた男の子)たちも兵士として前線に送られる。しかしヘリウッド側は劣性。ハムドは微粒光子砲(?)という兵器の使用を命じ、戦艦は味方もろとも吹き飛ぶ。ナブカたちは一応無事。

第4話「不協和音」感想
今回もまたまたこわい。ハムドはようやく、シュウが本当にペンダントのありかを知らないと思い至り、彼を解放して、かわりに自分の兵とする。彼は牢から連れ出され、ナブカの隊の一員となった。サラは置き去り。
シュウはナブカたちがヘリウッドではなくてよその村から連れ去られ強制的に戦わされていると知る。で、死ぬならハムドのために命を捨てろ、無駄死にはするなと頭に叩きこまれるわけだ。こわこわ。
水は貴重だったり、食事はまずかったり。シュウはタブールにペンダントのありかを教えろと拷問されて、それが見つかったタブールは上官に鞭うたれて。
サラはこのままではもとには戻れない?
ララ・ルゥはハムドに「いたずら」されそう。

第5話「ひとごろし」感想
毎度恐いハムドの次回予告(予告になっていないが)ナレーション、今にして思うと書き留めておけば良かった。前回は「私の、私による、私のための平和!」とかって叫んでたし、今週は「猫と兵隊はよく似ている。猫はねずみを多く殺すのがよい猫だし、兵隊は敵を多く殺すのがよい兵隊だ。だが猫はいやしい。自分のためにしかねずみをとらない。兵隊は私のために敵を殺せるのだ。何という幸せな存在だろう」とかって主旨だった。
シュウには脱出の望みが見えてきた。それが、脱獄ではなく、兵士として舞台に組み入れられたからなのも皮肉と言えば皮肉。サラは相変わらずで、従軍慰安婦状態。また少年兵に連れ出されて、男に会わせられる。あの後どうなったんだろう??カザンと名乗った男、どうしたんだ??それから、第3話)であてがわれた男、あれ、まともな男みたい。あの時は、アレに見えたのだが。
ハムドのところに暗殺者が潜入。1人死に、1人は逃げる。逃げたやつの捜索をさせられるシュウたちは、暗殺者を発見。ナブカは彼を殺す。止めようとするシュウだが……。ナブカも人殺しは初めてだったのでは?、という意見があったが、そんな感じだ。
ララ・ルゥのペンダントは見つからず。兵が足りないので、ハムドは子ども狩りの遠征軍をもよおす。シュウも参加。
ララ・ルゥの様子がおかしかったのはなぜ?
ヘリウッドに女性がアベリアしかいないのはなぜだろう? ほかの女は産めよ殖やせよで、子どもを産むためだけに生きているような状態……である可能性は結構高い。

第6話「砂嵐に消える」感想
アニメ史に残る名シーンだったかも。今までの回を保存しないで録画したのが悔やまれてきた。
サラが、兵士の欲望を満たすため、そしてヘリウッドに子どもをもたらすための道具にさせられていることがはっきりわかってしまった。サラは、ついに男を撲殺して逃げる。兵士に変装したとはいえ、どうしてそうまんまと逃げられるか、は問うまい。
荒野の夜。空には満月がかかる。ヘリウッドの軍服を脱ぎ捨ててスリップとパンツだけになったサラ。裸足で砂の上に立ち、上をむいて目を閉じるすがすがしげで、それでいて切ない表情、そして短剣で金髪を切り、切った髪が風に飛ばされて月光に光りながら舞い上がる……。こんなに美しくも悲しい場面が描けるなんて……。すごい、すごすぎるぞ。
しかし、下着姿のまま悲しみに叫びながら走り去るサラ。昼間は炎熱地獄だというのに(しかも夜は気温が下がるだろうに)、シュウと再会できるんだろうか?
なんと、ここまでア番。ほとんどAパートになっている。この世界は、太陽も月もいつもやたらに大きい。半分演出ではあるんだろうが、今から50億年後の未来らしい。だから太陽が大きくなっているのはそうだろうと思う。月はどうなっているんだろう? で、50億年後の未来の人類なので、今の人間であるサラとの間に子どもはできないらしい。
本編というかBパートはシュウたちの話。兵員徴発の行軍。目的の村に着く。ナブカたちは、かつて自分たちがそうされたように、子ども狩りをこなしていく。シュウは、子どもたちを逃がして、自分も逃げようとするが、ナブカに足を撃たれる。
ヘリウッドの軍隊が去った後、村はひそかに彼らによって爆破される。ナブカは、戦争が終われば村に戻れると信じているが、彼の村ももうきっとあとかたもなくなっているのだ。
アベリアが、ララ・ルゥへの憎しみをあらわにする。そしてララ・ルゥは数話ぶりに口をきいた。
次回、ハムドの身になにかありそう。
このアニメで男性向け同人誌を作るやつがいたら、そいつとも、それを買うやつとも関わりたくないな。

第7話「逃れの夜」感想
ナブカ、なぜいっしょに逃げないんだああああ!!でも逃げたらありがちという感想になったんだろうね。それにつけても悲しい物語だ。
ヘリウッドの女性はやはり子産みの道具にされているらしい。なぜアベリア1人は高い位にあるのか。
汚物槽?に放り込まれて軍法会議を待つシュウ。食事を持ってきたタブールからサラの脱走を知り愕然とする。タブールって本当に嫌なやつだが、ナブカの言っていた、昔はあいつもいいやつだったってのが信じられないくらい。でもうそじゃないだろう。
汚物まみれ?で(何かの巨大な桶だろうことは確かなんだけど…)倒れ込んでいるシュウの顔に水がかかる。水? 見上げたシュウは、そこにあのペンダントがひっかかっているのを発見。俄然勇気づけられたシュウは、汚物のこびりついた?壁を登り始める。そこに、上から例の木の棒が落ちてくる、荷物一式をくくりつけられて。誰のしわざか? あとでわかるがブゥ。
トイレで用を足した帰り(今は夜中)のタブールは、廊下でばったりシュウに出会う。鳩が豆鉄砲喰らったような表情。ざま見ろ。しかし見つかったシュウは、外壁のパイプを登り、てっぺんをめざす。再び、数話ぶりの「コナン」。
その晩、ちょうどそのとき、ララ・ルゥは、塔の頂上の、天井がガラス張りの部屋で、赤いバラの山にうずもれて、ハムドといっしょにいた。
ララ・ルゥは上を見る。それにつられてハムドが見上げると、そこにはシュウが。首にはペンダント。ペンダントに狂喜するハムド。が、シュウはガラス窓を破って侵入。大量のバラが外へ吹き出していく。
一転、憤怒のハムドはアベリアに命じてシュウを撃たせる。肩に傷を負ったシュウを見たララ・ルゥはついに自分から行動をとる。ペンダントの力は解放され、大量の水が奔流となる。
シュウを逃がしたのはブゥと気づき、ナブカは彼をなじる。おかしいのは自分たちであり、シュウこそが正しいと叫ぶブゥ。思わずなぐるナブカ。
塔を脱出するシュウたちだが追っ手が迫る。洞窟の暗闇にひそむ2人を捜しあてたのはナブカだった。ララ・ルゥを差し出して戻って来いといナブカに、シュウはいっしょに逃げようと言うのだが……。しかしナブカは、シュウたちを見逃すのだった。
2人はこうしてヘリウッドを後にした……。来週からどうなるんだろう? ワクワク。
ハムドは神を信じているのか? いや、信じていないだろうなあ。
前回、サラが妊娠しているんじゃないかという感想をよく見かける。男をボトルで殴り殺したあとで、胸がむかついて水を飲んだとか、外に逃げた後でお腹に手を当てたとか。うーん……、前者は人を殺してしまったために気分が悪くなったんだと思っていたんだが……。
毎度、シルエットの使いかたがうまい。
シュウが助けに来ても無表情なララ・ルゥだが、ララ・ルゥに初めて直視されたハムドのあのおびえかたを見ると、彼女が表情を持ったときはとてつもないことが起きるのかもしれない。

第8話「ひとりぼっちのふたり」感想
サラは生きていた。案の定、行きだおれて手首まで砂に埋もれていたけど、あれで見つけてくれる人がいなかったら……。
ヘリウッドでは、アベリアが、ララ・ルゥの残した水を燃料に要塞を起動させることを進言する。前回の次回予告でも言っていたけど、起動するってどういうことなんだ??おそらく、これで世界が本当に破滅しかけるか、それが阻止されるかなんだろうけど。
砂漠をバイクで走るシュウたちは、知らない間に砂漠の生き物に狙われる。常に地面の下を移動し(そういう映画があったっけ)、触手で得物を捕らえる。
「ドラゴンボール」に出てくるような地形――岩?でできた巨大なキノコみたいなの(色は「ナウシカ」の腐海の底ででてきた切り株)が群生しているところで、人の死体を見つけたシュウたち。しかしそこで立ち止まったことで、砂漠の生き物に襲われてしまう。
バイクが飲み込まれ、シュウは死体の持ち物のナイフ(クックリ(だっけ?)みたいなの)で攻撃をかわし、2人はキノコの1つに登って、どうにか逃げる。
月明かりのもと、シュウがペンダントのことを口にし、ララ・ルゥは自分について語りだす。自分が力を使うたび、自分の体は弱くなっていく(う、最終回の嫌な予感が…)、人々は、最初のうちは自分の力に感謝するが、やがてそれが当たり前になり、自分の体のことなど誰も考えず、最後には自分をとじこめるのだと。そんな悪いやつばかりじゃないと言うシュウに、彼女はこの世界ではいい人はみんな死んでしまったと答える。彼女、いくつなんだろう? 彼女がなぜ水を呼ぶ能力を持っているかは、謎のまま。
朝が来て、2人はキノコを降りる。が、地虫(語弊があるが)は、まだいた。2人はほうほうのていで逃げ戻るが、ララ・ルゥのブーツが1つ奪われてしまう。
太陽が焼きつける。シュウは、意を決して下にある、死体のかばんを拾い上げる。中に入っていたヒョウタンは実は手榴弾で、栓を抜いた途端に火花を散らし始めた。あわててそれを放り投げる。
1発目があたって怒り狂った地虫がキノコの上へ襲いかかる。しかし触手で探る虫は2発目のヒョウタンを拾い上げ、爆死。シュウも靴をかたっぽう持ってかれてしまうが。
弱い…。地虫ではなくシュウたち。シュウは強いのか弱いのかはっきりせい、という批判はありそう。コナン的な動きを見せるわりに、バカ力があるわけではないからねえ。
次回、Op.ではずっと出てきたシスなる人物がやっと登場するようだ。男かと思っていたら女なのか?

第9話「狭間にて」感想
少々説教くさい/教条主義っぽかったかな。今までそれを感じさせなかったのができすぎでもあるのだが。
砂漠をさまようシュウとララ・ルゥはふいに風の谷にたどり着く。違うんだけど、雰囲気はまさにそんな感じ。突如現れる緑の谷。そこでは人々が素朴な生活を営む。
ヘリウッド起動のめどはたった。ハムドが最初に命じたのは、ザリバースの殲滅。いまだ位置のわかっていないザリバースを有無を言わさずさっさと見つけだして皆殺しにしろと。
シュウたちの見つけた村は、そのザリバース。村の入り口で、2人は仕事に行った父の帰りを待つと言う少女、スゥンにまず出会う。そして、中に入って行った2人は、何人かの口論に出くわす。おばさんと数人の男。おばさんがなぐられたので、シュウは止めに入る。このオバサンがシス。彼女に名前を聞かれて答えようとするシュウは、ララ・ルゥに彼女の本名をしゃべるのを止められる。
ザリバースは、谷の奥にある鍾乳洞の水源から流れ出す水でなりたっているそうだ。そして、ここの人々はヘリウッドから追われて集まったとシスは話す。で、一部の連中はヘリウッド打倒、ハムド暗殺をたくらんでいると。
そしてこの前暗殺に行った男たちはまだ帰ってこない。スゥンの父親はその1人だった。手首にいれずみのある男。シュウはブゥを人質にした暗殺者の腕を思い出す。
夜、シュウは昼間シスを殴った男(名前失念)に呼び出される。シュウがヘリウッドから来たと聞いて、次の暗殺団の案内をしろとせまる。ここで平和に暮らしているのに人殺しなんてすることはないとシュウはつかみかかるが、男は妹を連れ去られ、病弱なため途中で捨てられて死んだ恨みを忘れることはできないと言う。それが正しいのか間違っているのか、シュウにはわからない。
サラはいずこ? てっきりザリバースで再会すると思っていたのに。
ララ・ルゥは、ザリバースの村人を「変な人たち」と言った。彼女はこういう人がいるのを知らなかったんだろうか?
タブールが故郷に帰る気をなくし、ヘリウッドで名をあげてましな暮らしをすると言った。ナブカはどうするだろうか?
次回予告、そろそろハムドは正気をたもてなくなってきたか!?

第10話「混沌への助走」感想
パターン的ではあるが、密度は高かった。密偵の侵入とヘリウッドの再起動とサラとララ・ルゥの出会いといずれも予想はできたし展開も読めたけど、3つもやるとは。
1人、村の外にぽつねんと座るララ・ルゥの隣に女の子が来て座る。女の子は、イカゲソみたいなのを食べ始め、ララ・ルゥにもわけてあげる。しかし、彼女はかすかに首をふってことわる。すると、女の子は泣き出しそうになり、ララ・ルゥは受け取り、またかすかにほほえむ。口に入れたララ・ルゥは顔をしかめ、指でそれをさして何なのかときく。女の子はポケットから、カエル(?)の干物を出して見せる。ここまでア番。この間一言もなし。
シュウは村の奥にある鍾乳洞へ水汲みのお使いに行かされる。その道案内は、スーン。さすがにシュウは彼女と口をきくのがつらい。それを察したスーンは、帰り道、自分が嫌いなのかときく。もちろんそんなことはないのだが、本当のことを言えるはずもない。
シュウは、ララ・ルゥと女の子がおままごとをして遊んでいるのに出くわす。シュウとスーンもそれに誘われる。それを聞いたシスは、いいことだと。今まで遊ぼうともせず父親の帰りをただ待っていたスーンが遊ぶようになったのだから。
村の入り口にヘリウッドの兵士がやって来て、騒ぎが持ち上がる。行き倒れているその男をシスはすぐに村に入れて介抱しようとするが、エランバたちは慎重だ。しかし、その兵士が「ヘリウッドはもうおしまいだ。ハムドは狂って、兵には脱走者があふれている」などとつぶやいたため、エランバたちが率先して彼を運び込んだ。
彼の言葉により、ザリバースの村人の意志はハムド暗殺帯を再び送るほうにかたむく。
しかし彼はやはりスパイで、彼の発信器でザリバースの位置はヘリウッドに知られてしまった。ハムドはすぐさまヘリウッドの再起動を命じる。核融合を使っていると、色んな人が推測しているけど、それにしても宙に浮くとは。しかもあの水の中に投入したものはなんだ? しかしああやって起動のプロセスを細かく描けば描くほど、「悪魔の兵器」というようなおぞましさが漂ってくる。機械自体は別にどうってことはない見てくれなのにこの胸くそ悪さはなんだろう? ヘリウッドはいったん空中に浮いた後、原因不明のトラブルで倒壊しかけるが、アベリアの気合い(?)で、なんとか持ちこたえる。そして、ヘリウッドは前進を始めた。
そんなことは知らないザリバース。夜、シスのもとに戻ってきた旅装束の人影はサラだった。やっぱりここにいたのか。どうやら、木を探して探索の任務についていたらしい。シュウもサラもお互いにびっくりするが、しかしサラは、そばにいる少女がララ・ルゥであることに気づく。彼女にとびかかったサラは、押し倒して馬乗りになり、拳でララ・ルゥをなぐり続ける……。
ララ・ルゥの正体がばれ、同時にヘリウッドの侵攻ももう目前。ちゃんと終わりそう。どんな大団円が待っているのだろう? 次回、サラに何かあるのか??

第11話「崩壊前夜」感想
がーん。サラは犯されて妊娠していたのか…。しかも入水して堕胎しようとするなんて。これでは何も書けない。書くべき言葉が見あたらない。ララ・ルゥを殺すかもしれないとまで言ってしまうサラに、シュウの言葉ももはや現実感があまりになさすぎる。説得力がないのは承知でそれでもはげまし続けるシュウ。しょせん我々は無力なのか。岩で打たれたときも手をどかさなかったのはすごいのだけど。
あの医者もシュウの前で妊娠しているなんて言うかね。話の都合上しかたないけど、普通はシスだけだよ。
カザムって何なんだろうね。サラにとってはone of themみたいだったけど。逃げようってあたりヘリウッドから逃げたいのはどの兵士も同じなのか? いや、だったらこいつの場合ザリバースの位置を教える必要はないはず。そんなにサラが気に入っているのか?
ララ・ルゥはやっぱり数十万歳なのか…。「世界が終わっても子どもを育てるのが母親のつとめ」というシスの言葉は伏線なんだろうか。

第12話「殺戮の大地」感想
観る前: 破局の予感。観た後: シクシク。ブゥ、スーン……。
エランバたちはララ・ルゥを捕らえるために武器の準備を始める。ララ・ルゥを隠すため、シスはスーンに案内をさせ彼女とシュウを水の洞窟の奥へと逃がす。そのさい、シスはシュウに無理矢理に銃を持たせる。また、ほかの子どもたちを物置の中に隠す。
そうしてエランバの真意を確かめるため、シスは彼のところへと向かうが、その途中「逃げて」と訴えるサラに出会う。
洞窟の中でスーンはララ・ルゥに行ってしまうのかと聞く。「わたしがいるとよくないことが起きるから」と。よくないこと、つまり殺し合いとつけ足す。シュウは、「大丈夫だよ、みんなちょっと興奮しているだけなんだ。話し合えば何とかなるって。ホントだ」。うなずくスーン。
シスがサラの話を聞こうとする間にエランバがやって来る。彼はシスの腿を銃で撃ち抜き、ララ・ルゥを出てこさせる餌としてひっぱって行く。そして広場にシスを吊し上げ、ララ・ルゥを見つけだすよう、村人を扇動する。それらを止められなかったサラは、シスの家にとって帰り、隠れていた子どもの1人に連れられてララ・ルゥたちの隠れ場所へ行く。シスを助けるためララ・ルゥを連れて行こうとするが、サラはエランバの手の者につけられていて、もはや連れて行くまでもない。
シュウは(銃は使わず)棒でその男に殴りかかるが、手の傷(前回、サラが自分のおなかを岩で叩いたときにかばってできた傷)のために力が入らない。かわりにララ・ルゥをかばったのはスーン。銃口を向ける男の前に、震えながら立ちはだかる。
広場に立つエランバの前に医者(サラを診た)がやって来て、止血のためにシスをおろせと迫る。断るエランバを、彼はハムドと同じだとなじる。エランバは彼の胸に銃弾を撃ち込む。ヘリウッドのスパイの凶弾に倒れたことにするんだとうそぶき、ザリバースには特効薬が必要なんだと独り言のように言う。
力を解放するララ・ルゥ。水は洞窟からあふれ出し、奔流となって男を押し流し、ザリバースの谷を流れて行く。ララ・ルゥたちは広場の、エランバの前に立っていた。しかし彼女の力を見せつけられたのにもかかわらず、エランバは(まるでハムドそっくりに)手で彼女の顔をつかんでぐっと持ち上げる。ララ・ルゥの頬がゆがむ。
しかしそのとき、旋風とともにヘリウッドが姿を現す。ハムドの声が響きわたる。「…後悔して死ね!」なんとなくヘリウッドが空から焼き払うイメージだったんだけど、ヘリウッドは降下し、中から兵隊やロボットがわらわらと出てきて谷を蹂躙・掃討していく。その中にはナブカ、タブール、ブゥたちの姿も。
カザムの情報でララ・ルゥの存在を知って、ハムドはアベリアに命じて彼女を連れてこさせる。
銃弾の飛び交う中、地面におろされたシスが心配したのは物置の中の子どもたち。シュウが走っていく。彼を追いかけて?、スーンが銃を抱えるようにして持って土煙の中に消える。この期におよんでララ・ルゥを交渉に使うエランバ。彼女に銃を突きつけてアベリアの前でよばわる。殺戮をやめないとララ・ルゥを殺すぞと。しかしアベリアは殺せばヘリウッドに対抗する手だてはなくなると冷酷に言い放つ。やぶれかぶれのエランバがアベリアに銃を突きつける間に、彼は蜂の巣になっていた。
物置の中に無事な子どもたちを発見したシュウたち。銃弾が彼をかすめる。撃ったのはナブカ。「どうする気だ?」「命令だ、殺す」「正気か!?子どもだぞ!?」「ここをつぶせば村に帰れるんだ」そして俺はシュウを見張っているからとブゥに撃つように命じる。だがブゥは持っている銃を落とす。「嫌だ。こんなことして、一生苦しむだけだよ」
銃を構えなおすナブカ。「お前がいやなら俺が殺す。……ヘリウッドに潜入してきたやつ、ハムド様の命を狙ったやつ、みんな殺した。何が悪い。殺さないと終わらないんだ。どっちかが死ななきゃ戦いは終わらないんだ。暗殺者も殺した、敵の兵も殺した。ずっと殺してきた。今さらなんだ!」ナブカもそうなってしまうのか。が、そのセリフを聞いてしまった少女がいた。いつの間にか彼の背後に立っていたスーンは、彼に向かって銃をかまえる。それに気づいたブゥ。銃弾はかばったブゥの胸に命中する。振り返ったナブカの銃弾がスーンの胸を貫通し、彼女の第2射はナブカの顔をかすめただけだった。2人の子どもの死体が横たわる……。
サラはこうなってしまうと無力だった。それはしかたないのかも。カザムは無事なんだろうね。ああもうっ。
次回予告のあの写真(?)、あれはもう見られないんだ……。

第13話「今、そこにいる僕」感想
棒の役目は終わった。ヘリウッドも、この物語も落ちるべきところに落ちたと言うべきか。
タブールは最後に救われることを期待していたんだけど、まったく逆になってしまった。彼に殺されてしまったナブカ。シスが最期にサラに語った言葉。死に際にサラに子どもを託したカザム。最期まで狂王だったハムド。力を解放して消えていくララ・ルゥ。誰も彼も役目を果たした(ストーリー上で、ね)。
Op.なし。タイトルのあと、すぐ話が始まる。「ナブカーァァッ!!」、前回そう叫んだシュウは憤怒の形相で、床に落ちていた銃でナブカに狙いをつける。引き金はひかれたが、弾は床に穴を開けただけだ。シュウは銃を投げ捨て、床にうずくまる。そこへタブールがやってきて、即座にシュウを撃とうとするがナブカが止める。「殺すな、…もう殺したくないんだ」今度は子どもたちを撃とうとする彼の前にシュウが立ちはだかる。構わずに撃とうとしたとき、撃ち方やめの号令がかかる。
掃討は終わった。ララ・ルゥは連れて行かれる。ザリバースの生き残りが集められ、アベリアは彼らに、彼らが奴隷となったことを宣告する。ヘリウッドは浮上し、元の場所へ引き上げていく。ザリバースの谷には、兵隊、村人の死体がおびただしい。
シス、サラ、それにシュウたちも奴隷として牢に閉じこめられていた。が、瀕死のシスはいまわの際、みとるサラに彼女のお腹の赤んぼうを憎むなと言い残す。「相手の男が憎いなら憎めばいい、この世界を憎むのもいい、でもその子だけは憎まないでくれ。憎まれるために生まれてくる子どもなんて、い、ない」
放心状態のナブカ。手にはあの棒を持っている。タブールはナブカを人気のないところに呼び出す。ヘリウッドは最強になったと喜ぶタブール。やっと帰れるのに、なに言ってるんだとナブカ(放心状態なので、心ここにあらずと言った口ぶり)。が、タブールはこの前略奪した村を去るときに爆弾がしかけられたのを見たという。もう故郷の村は跡形もないんだと。だがタブールは、どうでもだっていいじゃないか、俺たちは最強なんだ、逆らうやつは俺が殺してやると言って表情をゆがめる。
「狂ってる…。お前、狂ってるよ…。何がお前を変えたんだ?」――「俺に言わせりゃ、変わったのはお前のほうだ」とかえすやタブールは拳銃でナブカの腹を撃つ。ナブカは手すりを越えて下に落ちて行く。
ヘリウッドの水はまた尽きようとしている。ハムドはペンダントの力で水をよこせと、ララ・ルゥに迫る。さもなくば連中(ザリバース)の体をすりつぶして血の池を作り、そこにお前を沈めると。
はいずりながら牢屋にたどりついたナブカ。「これがないとさびしいだろ」と棒をシュウに返し、「お前は帰れ、お前のいたところに帰れ。そこがお前のいるところ」と言って事切れる。
(ここから流れる長い曲がすばらしすぎる) 牢を脱走したシュウは、ナブカのつけていったネッカチーフで握った棒を手に結わえ、ハムドの部屋を目指す(このへん、ちょっとご都合主義が入っている)。彼を追いかけるタブールたちとハムドの作戦室?で撃ちあいになる。そのため撃った弾が機械を破壊していく。(部屋の位置関係を知らないとわかりづらいんだけど)、ララ・ルゥは力を使いシュウを助ける(そのためにヘリウッドの被害が広がり、落ちていく)。「お、お前は…!」「松谷修造」と答え、シュウはハムドに向かっていく。アベリアが彼の前にたちはだかるが、あっけなくかわす。それを見るやハムドはシュウを狙って銃を撃つが、その弾はアベリアをかすめる。
シュウはひたすら棒で殴りつける(これはちょっといただけない)。棒はついに砕け散る。ハムドは逃げ出す。ヘリウッドは熱暴走を始め、落下を始める。ララ・ルゥは持てる全ての力を解き放ち、ヘリウッドを滝のような水が襲う。押し流されていく人々。
激流の中でサラは子どもたちを先導する。「大丈夫、絶対大丈夫よ」、いつかシュウが口にした言葉。しかし1人が水に流される――。その子をすくい上げたのはカザム。子どもをサラに渡し、カザムは水に飲まれる。
ハムドはバウンドシステムでどこかへ逃げることを思いつき、「素晴らしいアイデアを思いついた」とアベリアを呼び出す。しかしバウンドルームの扉が開き、流れ込んだ水にハムドは飲まれる。洗濯機の中の服のようにくるくる水の中を回るハムド。それをコントロールルームで冷然と眺めるアベリア。
ヘリウッドは地面にぶつかり、空には虹がかかる。地には水があふれる。「いつかまた、一緒に夕陽、見ようね」と言ってララ・ルゥは消えていく――。
サラはこの世界で生きてみようと決意する。お腹の子どもはこの世界の世界の子どもだから。シュウは、前に嘘だと言われた、生きていれば必ずいいことはあるんだともう一度言う。
アベリアの操作でシュウは元の世界へ戻される。これで用済みと観念した彼女にサラは微笑みかける。
あれからほんの数分。シュウは夕暮れの中に立っていた。煙突の先端が消えているのだけが、あれが本当だったという証拠。そして上着にはナブカの血染めの手形が(ついているはず)。
ララ・ルゥの力で水は溢れたが、地球が滅び行くのは変わらない。サラのお腹の子どもはちゃんと生まれるんだろうか? 設定では、シュウの時代の人間とヘリウッドの人間との間では子どもは生まれないことになっているのだが……。

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ドイツZDF風刺ニュース「ニコニコする人に放射能は来ない」



http://kingo999.blog.fc2.com/blog-entry-1660.html

ドイツZDFの風刺ニュース「ニコニコする人に放射能は来ない」 和訳
ドイツの風刺番組、日本政府と御用学者を強烈に風刺。




さて みなさん
われわれは、今、記念日を迎えました
三年前の二月
ドイツの電力会社は、日本に商売を潰されました
そう、フクシマ三周年です
えっと 結婚三周年は、何と言うんでしたっけ
そうそう、”セシウム婚式”
今では ドイツの脱原発は、間違いだったかもしれないと言う人も多いです
何故って...?
ドイツの再エネ政策を進めているのが、こういう専門家だからです
へたな大学卒よりは、優秀ですよ!
視聴者にも、大卒が 多いようですね
しかし エネルギー転換は、本当にカオス状態です
各州は 勝手ばかり言い、再エネ賦課金のせいで電気代は上がる一方
そうそう 覚えてますか?
ペーター・ラムザウワー
この彼ね...
ヤギ飼いペーター
昔、運輸大臣でしたね
今は ただのペーターですが...
『シュピーゲル』紙で、大真面目に こう発言しました
”電気代を下げたければ...原子力に戻るほかない”
ほんとに、こう発言してるのです
残念ながら、彼だけではありません
エネルギー転換に、イライラして、突然原発を賛美しなおす人が沢山います
例えば、今日、イザ第二原発前で、デモをしている彼...
”稼働延期”を求めているそうです...
賛同者の数は、まだ限られているようですが...
「だから?」
「どんな運動も、最初は小さく始まるんだ!」
「それに われわれの名前も もう決まった!」
”プルトニウムの友”Freunde des Pllutoniums
略してFDP!(ドイツ自民党)
「僕は FDPの金庫番 兼...かわいいマスコットの”フクちゃん”です!」
”フク”って まさか、フクシマではないですよね?
「もちろん!」
「ヒステリックなドイツ人は、日本人を見習うべきです!」
「彼らは 全然気にしてない!お寿司が光って 便利だなってなもんです」
「電気代も節約できちゃうぞっと!」
冗談はやめてくれ
事故から三年たっても、汚染水が無制限に漏れてると言うのに
「そんなのは、風力ロビーのデマだ!」
「福島医科大による最新の医学発見を知らないのか?」
”放射能の影響はニコニコしている人には来ません”
”しかし クヨクヨしている人には来ます!”
”これは 動物実験で わかっています”
「動物実験で証明されたんですよ!」
「例えば このハリネズミ...」
「クヨクヨしなければ、長生きしてたんだ」
「トラックに轢かれたのは、残念だが...」
「ゴジラ博士の言うとおりだ!
ニコニコしていれば 被ばくなどしない!」
とにかく わが国で、原発を賛美する人は
全員、フクシマに三週間ほど保養に送るのがいいようです
フクシマの方々は、かわいそうに、今も政府にバカにされてるのですよ
「私は被ばく検査を受けたところ...どれいくらいかと聞くと
”こんなに高い被ばく量は見たことがない” と言われました」
「”被ばくの世界チャンピオン”” だと」
「すごいスピリットだぜ!」
”げぇ 被ばくしちゃったぁ...” なんてドイツ人とは大違い!
それじゃダメだ!
”勝ったぜ!”
”被ばくチャンピオンだ!”
今にわかります
再エネ賦課金が、9セントまで上がれば
FDP(プル友)の出番です
キャンペーンも準備してある

ようこそ原発!
命にかかわるけど
死ぬ前に
電気代は節約できるぞ!

ここでひとつ、デモンストレーションを...
この燃料棒を 舐めてみせます!
ちょっと待って...
ニコニコすれば、放射能は来ない...!
死んでも、誰も悲しみませんね...
デニス・クノッサラでした
FDP(プル友)所属

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柔術プリースト 240

Jiu Jitsu Priest #240

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74人の死亡は、柔道部だ。ちゃんとした監督や指導者がいても、これだけの事故が起こった。だったら、これから中学で「必修」になったら、先生は足りない。だから、体育の先生が、短期間、柔道の講習を受けて、それで生徒に教えるケースも多くなる。果たして、いいのかな、と思う。危ない話だ。

http://www.magazine9.jp/kunio/120321/



第95回

「武道必修」の強行は危ない



 今年の4月から中学校の体育で「武道」が必修化される。柔道、剣道、相撲のどれかを選ぶのだが、費用面などで、多くの中学校が柔道を選ぶとみられている。7割近くが柔道になるようだ。生徒は柔道着があればいいし、学校は畳を用意するだけでいい。僕も柔道をやっている人間として、これは嬉しいことだ。柔道人口の裾野が広がる。又、中学から柔道の精神を知り、「受け身」を覚えるだけでも素晴らしい。そう思ってきた。ところが最近、少し疑問を感じてきた。

 中学校で「武道」の必修は、すんなり決まったのだろうか。これも子どもに「愛国心」を持たせる教育の一環なのだろうか。わざわざ「武道」を持ち出し、日本人としての強い自覚を持たせようとする為か。生徒の健康を考えたら、今の体育だけで十分ではないのか。それだけだと、生徒はサッカーや野球などの球技にだけ熱中し、日本的な武道が忘れられるからなのか。さらには、「今時の若い者はダメだ」という意見があって、武道で鍛え直すべきだ、という「愛国」的動機があるからなのか。どうも分からない。
 僕は柔道は素晴らしいと思うし、特に「受け身」は皆が学ぶべきだと思う。交通事故に会い、瞬間的に受け身をとり、軽傷で済んだという話は随分と聞く。又、俳優の小林旭さんが文化放送で会った時に言っていたが、撮影中にビルから落ち、瞬間的に受け身をとり、重傷だったが命は助かったと言っていた。柔道で命を助かった人は多いのだ。
 ところが、中学の武道(ほとんどが柔道)の必修化に最近、疑問を持った。それは、新聞の小さな記事を読んだからだ。産経新聞の3月10日付の記事だ。
〈高校柔道 女子部員が脳障害
道に1億3600万円賠償命令〉
 本当に稀なことだが、こんな不幸な事故もある。家族が道に損害賠償を求めていたが、札幌地裁はそれを認めた。高額の賠償を命令した。練習で怪我をした場合、普通、部の監督や学校を訴えるが、今回は北海道を訴えていた。そして裁判所は賠償を命じた。記事を見てみよう。
 〈北海道芦別高(芦別市)の柔道部の練習中に頭部を強打し脳に障害が残ったとして、同市の元女子部員(20)と家族が道に約2億2900万円の損害賠償を求めた訴訟の判決で、札幌地裁は9日、約1億3600万円の支払いを命じた。石橋俊一裁判長は「体調や技能を考えれば練習試合に出場させるべきではなかった」として、学校側の過失を認めた。
 判決などによると、女性は平成20年8月、練習試合で大外刈りをかけられ、後頭部を強打、脳に障害が残り、手足もまひしたままで常時介護が必要になった〉

 悲惨だ。めったにないが、こんな事故もある。それに、又しても「大外刈り」だ。柔道の代表的な技だが、掛けられた方はアゴを引き、きちんと受け身をとらないと、頭を打つことがある。昔は、柔道部のシゴキで、大外刈りを何十本もかけ、怪我をさせた、という事件もあった。しかし、今はそんなことはない。この女性部員は、受け身は出来てるが、体調が悪くて瞬間的に受け身を取れなかったのだろう。あるいは、激しい練習試合などでは、大外刈りをかけた相手が、はずみで乗っかってくることもある。そして、かけられた人間は受け身をとれずに下になる。そんなケースもある。不幸な事態だ。でも、学校側の過失もあったし、監督不十分だ。ただ、こんな不幸なケースは、あくまでも例外だ。稀だ。
 と思っていたら、この記事の続きを読んで、アッ! と叫んだ。全く知らなかった。柔道をやってる僕だって知らなかった。そして、柔道ってこんなに危険なスポーツだったのか、と思った。産経の記事だ。
 〈4月からは中学校の体育で「武道」が必修化される。費用面や設備面で負担が少ないため、多くの中学校が柔道を選ぶとみられているが、日本スポーツ振興センターによると平成2〜21年度の20年間で、学校内の柔道事故で死亡した生徒らは74人に上る〉

 エッ! 本当かよ、と思った。わが目を疑った。74人も死んでるという。全く知らなかった。大量死亡事故だ。さらに産経ではこう書かれている。
 〈子どもを亡くした保護者らでつくる「全国柔道事故被害者の会」は先月、危険な技の禁止を求める要望書を文部科学省に提出。文科省は9日、教育向けに安全管理の手引書を作成するとともに、事故発生時の対応の点検や見直しを行うよう全国の教育委員会に通知した〉

 「被害者の会」があったなんて知らなかった。20年間で74人も死んでいるという。学校内だけでだ。じゃ、道場や他の試合会場ではもっと多いはずだ。又、北海道の女子部員のように、脳に障害が残ったとか、重傷を負ったという人は、死亡事故の何倍もあるはずだ。中学生などは試合でも関節技、絞め技は禁止されている。危ないからだ。でも、大外刈りは代表的な、普通の技だから、禁止されていない。この技の禁止も求めているのだろうか。
 74人の死亡は、柔道部だ。ちゃんとした監督や指導者がいても、これだけの事故が起こった。だったら、これから中学で「必修」になったら、先生は足りない。だから、体育の先生が、短期間、柔道の講習を受けて、それで生徒に教えるケースも多くなる。果たして、いいのかな、と思う。危ない話だ。
 気をつけて見たら、テレビでも「危ない柔道」について、随分と放送していた。4月からは中学で武道が必修になるのに、果たして「安全対策」は大丈夫か。そういう点から放送していた。20年間に74人が死亡した。「日本スポーツ振興センター」が発表した。テレビでやってたが、同センターが、もう少し長く28年間の死亡者も発表していた。1983年から2010年の28年だが、何と生徒114人が死亡したという。これは由々しき問題だ。「国全体で子どもを守る必要がある」と発言していたアナウンサーもいた。その通りだろう。「武道をやったら、しっかりした日本人に育つだろう」「愛国心も持つだろう」と、楽観的な考えやムードだけで、武道を必修にするのは、かなり危険だ。それに教える教師もいない現状ではなおさらだ。
 ただ、誤解しないでほしいが、子供のうちから武道をやるのは全て危ないと言ってるのではない。僕が通っている講道館では、子供のクラスがあり、小学生や、それ以前の子供も沢山いる。しっかり受け身を教え、指導する先生が何人もいる。だから事故は起きない。又、全国では、町道場も結構ある。さらに、空手道場などもある。だから、中学生で武道をやりたい人は、そうした、しっかりした指導者がいる道場に行ったらいい。何も全員、強制的に学校でやらせる必要はないと思う。見切り発車で強行すると、「武道必修」はかなり危ないと思う。


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さかのぼれば、「伝統と文化の尊重」などを掲げた、
改正教育基本法の施行に端を発している武道の必修化。
武道自体が悪いわけではもちろんないし、
そこから学ぶことも多々あるのでしょうが、
設備や指導者の数も十分ではない中で、なぜわざわざ、との疑問が浮かびます。

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レーニン 働かざる者食うべからず かつて、レーニンがこの言葉を使った際には不労所得で荒稼ぎする資産家達を戒める為のものであった。どうも、社会主義国家を目指したレーニンが、資産家を批判するために、この言葉を使ったそうですね。つまり、大前提として、社会主義国家が資本主義を批判したものみたいなんですよ。それが、資本主義国家である日本で当たり前のように使われている。おかしくないですか?そもそも、資本主義国家である以上、不労所得を得る資産家の存在は大前提のはず。資産家たちの支配階級が、労働者階級を縛り付けるために「働かざるもの食うべからず」を広めたんじゃないかと勘ぐってしまうくらいおかしい。ちなみにソ連では「働かざるもの食うべからず」は憲法で定められていたそうです。












i_003.jpg

http://jiyu-works.com/category7/category5/entry27.html


$本当に「働かざるもの食うべからず」なのか









いまの日本では、





「働かざるもの」は、





「食うべからず」





らしい。





早い話、働かない人間は、死ねという意味だよね。





オレは、この考え方に、大反対。





人間は生きているだけで価値があり、





「何かをしなければ価値がない」





という価値観には大いに疑問を感じている。





「働かざるもの食うべからず」





という者は、もし自らが働かなくなったら、もしくは働けなくなった場合、食わない生き方を実践してくれる(もしくは死ぬ)と、オレは信じている。





・・・多分、生き続けると思うが。





そういうことを言う人間は、自分自身も身を切るような労働環境に身を置いてきたのだろう。





「自分自身もつらかったけど、頑張った。だから、おまえも頑張れ」





と、いうことなのかもしれない。











だけどね、





「頑張ったのは、自分の為だけなのに、他人をそんな風に断じるのは、心の胆力が足りていない」





と、思わないのだろうか。





とはいえ、社会は、みんなの労働で成り立っている部分もあるので、それぞれの人ができる範囲で働いて、稼いだ範囲内で生きていけば、それでいいんじゃないのかな。と思う。





その結果、労働時間が週に2日でも、週に5日でも、いいじゃないか。





もっと、働くことについて、柔軟な捉え方ができる社会になることを願っているよ。






後日、調べてみた





なんだか、すっきりしなかったので、もう少し深く調べてみた。





「働かざるもの食うべからず」の出所は、





聖書の一節らしいよ。





If any would not work ,neither should he eat.



「働こうとしないものは、食べることもしてはならない」





だって・・・。





その後、ソビエト(社会主義国だった)の初代指導者のレーニンは、





「不労所得者の荒稼ぎを戒める意味」





として、この言葉を利用したらしいよ。



ソ連の憲法(1936:スターリン憲法)にも明記されてる。






In the USSR work is a duty and a matter of honor for every able-bodied citizen, in accordance with the principle: "He who does not work, neither shall he eat".





「ソ同盟においては、労働は、『働かざる者は食うべからず』の原則によって、労働能力のあるすべての市民の義務であり、名誉である。」







まあ、社会主義国であれば、みんなが平等に生きる源泉として、労働を称揚することは理解できるかな。





ひるがえって、いまの日本で、この言葉は、経営者,管理職など、企業体の上部層が、従業員・労働者などの、会のヒエラルキーの者に対して、過剰に搾取するための方便となっているような気がすごいするんだよね。





また、びっくりするのが、そういうことを言われた下層ヒエラルキー層が、さらに下のヒエラルキー層(パート、アルバイト、フリーター、ニート、主婦など)に、同じような発言をする。





ありえん・・・。





労働に対する日本の道徳教育・価値観教育は、「他人に対して優しくない方に偏っている」とオレはやっぱり思うんだな!





うーん、じゃあね~ん(*^^)v

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%83%8D%E3%81%8B%E3%81%96%E3%82%8B%E8%80%85%E9%A3%9F%E3%81%86%E3%81%B9%E3%81%8B%E3%82%89%E3%81%9A

働かざる者食うべからず





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「働かざる者食うべからず」(はたらかざるものくうべからず、英語: He who does not work, neither shall he eat.)とは、労働に関する慣用句である。



目次 [非表示]
1 意味
2 歴史
3 参考文献
4 脚注
5 関連項目


意味[編集]

働こうとしない怠惰な人間は食べることを許されない。食べるためにはまじめに働かなければならないということ。

歴史[編集]

[icon] この節の加筆が望まれています。

新約聖書の『テサロニケの信徒への手紙二』3章10節には「働きたくないものは食べてはならない」という一節がある。



If any would not work, neither should he eat. 「働こうとしない者は、食べることもしてはならない」

これが「働かざる者食うべからず」という表現で広く知られることとなった。ここで書かれている「働きたくないもの」つまり「怠惰なもの」とは、当人の責任によらず、「働きたくても働けないため、人の世話になっている」といった、止むを得ない生活をしている人のことではなく、正当で有用な仕事に携わって働く意志をもたず、拒んでいる者のことである。

ソビエト社会主義共和国連邦およびソビエト連邦共産党(前身はボリシェヴィキ、現在はロシア連邦共産党)の初代指導者ウラジーミル・レーニンは、同党の機関紙「プラウダ」第17号(1919年1月12日発行)にて論文「競争をどう組織するか?」を寄稿し、「働かざるものは食うべからず」は社会主義の実践的戒律であると述べた。かつて、レーニンがこの言葉を使った際には不労所得で荒稼ぎする資産家達を戒めるためのものであった。その後憲法典では1936年制定のソビエト社会主義共和国連邦憲法(スターリン憲法)では第12条にこの表現がある(1991年ソ連崩壊でこの憲法は失効)。



In the USSR work is a duty and a matter of honor for every able-bodied citizen, in accordance with the principle: "He who does not work, neither shall he eat". 「ソ同盟においては、労働は、『働かざる者は食うべからず』の原則によって、労働能力のあるすべての市民の義務であり、名誉である。」

近年の日本では、本来の意味から離れ、経営者にとって都合の良いプロパガンダに変わり、「失業者は食わずに我慢しろ」「営業成績の悪い営業マンは給料を与えない」という意味で使われることがある。日本は社会主義国のように労働の機会のすべてを握っていないので、すべての失業者に適当な職業を紹介できない。よって、職業安定法などで失業対策をする義務を負っている[1]。なお、職業安定法による失業対策自体は、雇用を生み出しているのではないため、不景気の際には雇用を生み出す施策を講じることも求められる。

現実的に働いていない者の中から「(病気、障害などで)働きたくても働けない」者を選別するのは簡単なものではない[2]ために、ベーシックインカムの議論も生まれている。

参考文献[編集]
用例でわかる故事ことわざ辞典 学研辞典編集部 2005年 ISBN 978-4053017994
ベーシックインカム入門 山森亮 光文社 2009年 ISBN 9784334034924
日本国憲法とは何か 八木秀次 PHP研究所 2003年 ISBN 9784569628394

脚注[編集]

[ヘルプ]
1.^ 憲法読本第3版 杉原泰雄 岩波書店 2004年 ISBN 9784005004713 p144
2.^ ベーシックインカム入門 山森亮 光文社 2009年 ISBN 9784334034924 p60

関連項目[編集]
ニート
ヨシフ・スターリン - スターリン主義
働けば自由になる
不労所得
格差社会 - 自己責任 - 新自由主義

http://働きたくない.net/blog/2016/01/23/post-221/

「働かざるもの食うべからず」は社会主義国家が資産家を批判した思想にすぎない

2016/1/23 2016/1/23 働きたくない


akanohiroba

「働かざるもの食うべからず」という言葉がありますよね。

誰が考えたのか知りませんが、本当に最悪な言葉だと思います。



そもそも「食うべからず」といって柔らかくしているように見えますが、「死ね」と同意語ですよね。
「食う権利は無い」って「死ね」と同じですよね。

「働きたくない? ならば、死ぬがよい。」ってことですよね、コレ。

sinugayoi

いくらなんでも、あんまりじゃないですか?



「○○は死ぬべし」という言葉が平然とまかりとおっているって、おかしくないですか?

大体、どんな人でも「死ね」と言われたらつらいですよね。

それなのに、平然とこの言葉を使う人がいる。
こんなの絶対おかしいよ。



で、ちょっとWikipediaで調べてみたんですよ。


働こうとしない怠惰な人間は食べることを許されない。
食べるためにはまじめに働かなければならないということ。

ひえええ、怠惰な人間は「死ね」ということですよね。

犯罪者でも「死ね」と言われないのに、「働きたくない」は「死ね」になるのか…
そんなに「働きたくない」はダメなことなのか…


かつて、レーニンがこの言葉を使った際には不労所得で荒稼ぎする資産家達を戒める為のものであった。

どうも、社会主義国家を目指したレーニンが、資産家を批判するために、この言葉を使ったそうですね。
つまり、大前提として、社会主義国家が資本主義を批判したものみたいなんですよ。

それが、資本主義国家である日本で当たり前のように使われている。

おかしくないですか?



そもそも、資本主義国家である以上、不労所得を得る資産家の存在は大前提のはず。

資産家たちの支配階級が、労働者階級を縛り付けるために「働かざるもの食うべからず」を広めたんじゃないかと勘ぐってしまうくらいおかしい。

ちなみにソ連では「働かざるもの食うべからず」は憲法で定められていたそうです。


「ソ同盟においては、労働は、『働かざる者は食うべからず』の原則によって、労働能力のあるすべての市民の義務であり、名誉である。」

なお、ソ連は崩壊したわけで、こんな憲法は20年以上前にとっくに失効しています。

なのになんで「働かざるもの食うべからず」という言葉が平気でまかりとおっているんだ…

そういえば、日本の憲法では「勤労の義務」があるなぁと思って読み進めていると、


「勤労の義務」は日本国憲法第27条第1項に規定されている教育・納税と並ぶ日本国民の3大義務であるが、そもそも、日本のような資本主義社会において、労働は倫理的性格の活動でなく、労働者の生存を維持するためにやむをえなく行われる苦痛に満ちたものである。
人類の最終目的が、全てを機械化・自動化するによることにより、生きる為に必要な労働から解放されることであるならば、「働かざる者食うべからず」は時代錯誤と言えるのかもしれない。

Wikipediaさんが「時代錯誤」といってくれた!∩( ・ω・)∩バンジャーイ

そもそも、労働が義務というのがまずもっておかしいですよね。
義務にもかかわらず、労働したくても出来ない状態があったり。
働きたくても働けない人も憲法違反になるわけです。
どんな国だ…

さらに、義務という言葉を利用してなのか、明らかに人道的でない労働環境を用意して「働かざるもの食うべからず」と言ったり。

こんなの絶対おかしいよ。



まぁともかく「働かざるもの食うべからず」の語源がソ連にあり、資産家に向けた社会主義国家の思想だというのがよーくわかりました。
それが、言葉尻だけとられて、都合の良いように使われている感じですね。

「お客様は神さまです」みたいなものですね。
これも、歌手の三波春夫さんが「神さまにささげるようなつもりで歌う」という意図でいったのに、客のほうが「お客様は神さまだろうが!」となったり。

言葉って難しいものですね…

http://www.clinic-nishikawa.com/archives/1829

働かざる者食うべからず

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投稿日:2014年11月24日|カテゴリ:コラム


「働かざる者食うべからず」という慣用句がある。英語だと「He who does not work, neither shall he eat」だ。ソビエト社会主義共和国連邦を立ち上げたウラジーミル・レーニンが社会主義の実践的戒律として掲げた言葉だ。
実はこの言葉の出典は新約聖書「テサロニケの信徒への手紙二」3章10節にある「働こうとしない者は、食べることもしてはいけない」による。本来、働きたくても病気やけがで働けない者に対して「食うな」とは言っていない。
レーニンもこの言葉を不労所得で荒稼ぎする資産家たちの生き方に対する戒めとして掲げたのであって、働きたいにも拘わらず何らかの理由で働くことができない者は、社会で救済しなければならないと考えていた。
だが、最近この言葉は「失業者は食わずに我慢しろ」とか「営業成績の悪い社員の給料は下げて当然」のように経営者にとって都合よく曲解されて使われる傾向がある。
正当な理由なくして勤労を拒否してはならないという精神は、現在の日本国憲法にも謳われている。第27条に「すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負う」とあり、勤労は教育、納税とならんで国民の3大義務とされている。

さて、広辞苑によると勤労とは「心身を労して勤めに励むこと」とある。平たく言えば汗水たらして働くことを言う。時代とともに仕事の形は変わっていくとしても、勤労の本質は変わらないはずだ。
ところが、このところ勤労を誤解している者が多くなっているように思う。筋肉を使って汗を垂らすことは単なる苦痛であり、下等な勤労と考えるようになった。
生活保護を受けている若者に「被災地の復興や、東京オリンピックで人が足りないと言っているから、その気になれば仕事はあるんじゃないの?」と尋ねると「いや僕に合った事務仕事はないんですよ」と返ってくる。体を使う仕事は端から頭にないようだ。
それどころか勤労そのものをできる限り避けた方が良いものと考える人も少なくない。生活保護費でFX取引をやっている者もいる。
だが、まともに働こうとしない者の気持ちも理解できなくはない。なぜならば、今の世の中は勤労しない者の方が甘い汁を吸う仕組みになっているからだ。汗水垂らして働く者は正当な対価を与えられず搾取される一方である。
エアコンの効いた部屋でパソコンや電話1本で株や通貨の売買をするだけ。働かずして金儲けをする者が恥ずかしげもなく大手を振って歩く世の中の仕組み。
会社を興しても社業で世の中に貢献し、社員の生活を安定することを目標にせず、株式市場への上場を果たし、株価が上がったところで会社を叩き売って己のみが財を成すことを目標にしている者もいる。会社までもが金儲けのための商品になっている。そこで働く社員の顔は頭に浮かばないのであろうか。
会社は株主のものと言うが、とんでもない話だ。株主よりも社員が優先されてしかるべきだろう。
人のためになる勤労をし、その報酬として金を頂くのが本筋だと思うのだが、いつの間にか金儲けそのものが目標となり、勤労はその途中に立ち塞がる、何とか避けたいハードルになってしまったようだ。こんな価値観の中で若い者に汗水たらして働けと言っても無理というものだ。

こういう歪んだ価値観に拍車をかけるのがアベノミクスと自称する経済政策。なんと物価と株価が上がることを景気上昇の指標だという。
数字を操って一つの物を二つに見ることができる経済評論家とやらは納得かもしれないが、一つは一つにしか見えない私には物価と株価だけが上昇するだけで日本の生産力、経済力が向上するとは到底思えない。
いやむしろ多くの国民が疲弊して、国の力は損なわれると考える。利するのは円安差益で見かけ上の利益が増大する一部の大企業と、何ら生産に寄与することなく、株や外貨の売り買いをするだけで金儲けしている不労所得者の連中だけだ。

最近、再生可能な社会への転換の観点から江戸文化が世界中で見直されている。江戸時代の士農工商というヒエラルキーもあながち封建時代の悪しき差別制度として否定はできないのではなかろうか。
軍事を預かる士をトップとすることの是非はともかく、命をつなぐために最も重要な食料を生産する農民を尊び、次いで食料以外の様々な物品の生産にあたる職人を大切にし、自らは何も生産せずただ売り買いの差益で財を成す商人をもっとも卑しいとした考えは今こそ蘇るべきだ。

ソビエトの壮大な共産主義の実験は、競争原理を組み入れなかったことで失敗に終わった。ベルリンの壁崩壊は資本主義の共産主義に対する勝利の象徴と言われる。だが、自己中心的な欲望をどこまでも肥大化させる資本主義が最善とも思えない。この欲望システムは早晩地球を食いつくしてしまうだろう。
勤労を尊ぶ、そして勤労が報われる健全な社会の到来が望まれる

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ハレックグレイシー主催サブミッション決着オンリーイベント メタモリス7 ハレックグレイシーvsゲイリートノン 煽り動画

Metamoris 7: Ralek Gracie vs Garry Tonon

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日本の阿片戦略―隠された国家犯罪





http://togetter.com/li/840152


学問・教養
































































 歴史


















日本軍と阿片のカネ、満州・日中戦争~日清戦争までさかのぼる
日本軍がアヘンをやってたのは漠然と知ってたけど、ほんとに国家予算規模だったのね。だから、軍人・政治家・商人が、莫大な私有財産を得たと思うんだよ。だから戦争は美味しかったんだな。

これだけの裏ガネを作る能力は、いまの官僚にも健在ではないのかな。

岸信介 アヘン 里見甫 甘粕正彦 三井物産 満州 昭和通商 興亜院 阿片 戦争 タグを編集

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まとめ

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カイダオ @szkymdr 2015-06-20 21:51:52
1941年(戦前)のGDPランキング(植民地別)
1.米国  1,098,921
2.ドイツ  401,174
3.英国   360,737
4.ソ連   333,656
5.インド  270,531
6.日本   212,594
ということで日本は世界6位。






カイダオ @szkymdr 2015-06-21 20:58:57
『戦前、日本の軍部が、中国と日本等で阿片を製造・販売し、莫大な利益を得て戦争を遂行していた。本書は、日本が、国家を挙げて阿片を戦略物質として使っていたことを説き明かす。』

日本の阿片戦略―隠された国家犯罪 倉橋 正直amazon.co.jp/dp/4763410318/…






カイダオ @szkymdr 2015-06-29 22:40:58
日本軍の特務に雇われていた里見甫が扱うアヘン売上高は、1941年に最高額を迎えた。日米開戦時だね。amazon.co.jp/%E9%98%BF%E7%8…

カネがあるから日米開戦したんだよ。アヘン収入の全貌を知っているのは東條英機とか、陸軍のなかでも限られた人間だったし。






カイダオ @szkymdr 2015-06-21 21:12:41
『二反長音蔵(1875-1951年)は、農業技術者・製薬業者。台湾総督府の命令により、福井村でケシの試作をはじめる。戦前期に星製薬創業者である星一(星新一の父)と組み、阿片の日本国内生産に尽力し「日本の阿片王」と称された。』
ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C…





日本の阿片王(満州金脈)
 里見甫(ジャーナリストから麻薬ビジネスに転身)
  https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8C%E8%A6%8B%E7%94%AB
 甘粕正彦(憲兵・ラストエンペラーの坂本龍一さん)
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%98%E7%B2%95%E6%AD%A3%E5%BD%A6
昭和通商:アヘン取引と諜報活動の極秘特務機関
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%AD%E5%92%8C%E9%80%9A%E5%95%86
アヘン(ウィキ)https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%98%E3%83%B3
興亜院:アヘン取引を取り仕切った日本の官庁
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%88%88%E4%BA%9C%E9%99%A2

陸軍登戸研究所:偽札や偽造パスポートの製造
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BB%E6%88%B8%E7%A0%94%E7%A9%B6%E6%89%80



カイダオ @szkymdr 2015-06-30 12:14:53
陸軍登戸研究所が作っていた、ニセ札(中華民国向け)は、当時で30億円分使用されたそうで、現在の価値に直すとして、1940年の大卒初任給70円を目安にすると、10~20兆円だったと思われる。中華民国の経済を潰すには十分。
ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BB…






カイダオ @szkymdr 2015-06-30 12:33:44
日本陸軍のニセ札政策も、国家予算規模だねえ。兆単位なんて。
登戸研究所の印刷技術は、そのまま日本の紙幣印刷技術にフィードバックされているだろうから、占領したアメリカがニセ札技術を取り調べただろうな。収穫があったらアメリカに持ってくだろうし。






カイダオ @szkymdr 2015-06-21 21:23:49
『関東軍が阿片で裏金を作り、東京の手の届かないところで戦線を拡大する経費にしていた。今日の土建型公共事業と構造が似ていて、阿片の生産地拡大→占領地の拡大→戦線の拡大→東京の預かり知らない経費の増大→阿片の生産地拡大という循環にあった』kurokawashigeru.air-nifty.com/blog/2008/08/8…






カイダオ @szkymdr 2015-06-21 21:30:37
『「アヘン」というと、「アヘン戦争」の「英国」を思い浮かべる人が多いと思いますが、「アヘン帝国」と呼ばれる国があるとすれば戦前の日本です。一時期、日本のアヘンの生産量はほぼ世界のアヘン生産量に匹敵しました(1937年で全世界の90%)』mailsrv.nara-edu.ac.jp/~asait/kuiper_…






新聞と嘘 - アヘン帝国 --- 汚れた歴史



カイダオ @szkymdr 2015-06-21 22:00:27
このレポートすごいよなあ。印刷しようとしたら49ページもある。日本軍と阿片の本って、少ないのよね。自虐史観と批判されるから出ないのかな。

アヘン帝国 --- 汚れた歴史
mailsrv.nara-edu.ac.jp/~asait/kuiper_…






カイダオ @szkymdr 2015-06-21 23:44:43
『アヘン帝国:アジアにおける日本の帝国主義と麻薬の取引、1895-1945』
The Opium Empire: Japanese Imperialism and Drug Trafficking in Asia,1895-1945
amazon.co.jp/dp/0275957594/…






カイダオ @szkymdr 2015-06-22 01:44:41
すごいおもしろい。関東軍と麻薬の売人と慰安婦業者は、関東軍と一体で、中国人に殺されないためには護衛を必要としていて、その実体は暴力団だった。戦禍の大量難民発生時の暴力団=慰安婦業者となると、強制・任意というのも意味を失ってくるな。
mail2.nara-edu.ac.jp/~asait/kuiper_…






カイダオ @szkymdr 2015-07-04 17:10:53
内モンゴルのチャハルはアヘンの一大生産地だった。東条英機は、チャハルを侵攻する作戦を実施したことで蒋介石との全面戦争になった。よく言われる日中戦争の泥沼化とは、関東軍と蒋介石の阿片という資金源をめぐる戦いである。 ja.m.wikipedia.org/wiki/チャハル作戦






チャハル作戦 - Wikipedia



カイダオ @szkymdr 2015-06-22 01:57:18
長年のナゾが解けたよ。震災のときでも、あの日一日のダメージで大量の難民が発生してたもんな。あれで周辺に敵の部隊がいるんじゃ、一目散に逃げるな。逃げながら食料を調達するにしても、最初はお金で買うけど、そのうち略奪するために殺さなきゃならなくて、できないなら餓死するだけだもんな。






カイダオ @szkymdr 2015-06-22 02:01:24
それが中国大陸で数年間にわたって起こってたんだから、局所の都市での犠牲者数なんかより、戦闘行為でどれだけの難民が出て、食料がなくて、どれだけ死んだのかをイメージすると、ある地域だけでも数十万人、数百万人とかになるんだろうな。






カイダオ @szkymdr 2015-06-22 02:20:07
『中国の側から見れば、19 世紀から「アヘン戦争」が繰り返し、何度も勃発し、 第二次大戦が終了するまで続き、当初は対戦国がヨーロッパの国であったものが、 そのうち日本だけになってしまったと考える方が理解しやすいと思われます。』
mail2.nara-edu.ac.jp/~asait/kuiper_…






カイダオ @szkymdr 2015-06-22 02:22:36
『日本の教科書には、日清戦争や日露戦争を 日本の現代化の中に位置づけていますが、当時の日本人が日本の現代化を達成できたと 考えた理由は、「ヨーロッパの国々と同様に、日本も中国をアヘンで食い物にできるようになった」 からなのです。このような観点は日本史の教科書にはでてきません』






カイダオ @szkymdr 2015-06-22 21:09:57
『満州国の財政のうち、10%以内ぐらいが麻薬の収入。しかし、関東軍の収入は満州国の予算に含まれておらず、「満州国の予算」+「関東軍の予算」の中に占める麻薬の売り上げがどれだけであるかが問題。おそらくこのデータは存在していない。』 mail2.nara-edu.ac.jp/~asait/kuiper_…






カイダオ @szkymdr 2015-06-23 00:02:23
『(満州という植民地を支配するには多大なコストがかかり、その費用を捻出するためにも)、 「満州国の予算」+「関東軍の予算」における広い意味の麻薬の儲けは 50 % を越えたと考えてよいと思われます。』mail2.nara-edu.ac.jp/~asait/kuiper_…






カイダオ @szkymdr 2015-06-23 15:52:21
アメリカは日本と戦争して日本を負かしたけど、 当時はドイツとも戦争してたわけで、両方と戦争してその戦費の回収はどうしたんだろうか。今の貨幣価値で数兆円はかかってるんじゃないだろうに。
どういう金融商品を作ってもうまく行かないとおもうんだよね。






カイダオ @szkymdr 2015-06-24 02:30:51
『南京市民に占める麻薬中毒の数は全人口の1/8に達しました。 関東軍が麻薬中毒にしようとしたのは家計を支えている人です。 彼らが現金を持っているからです。南京は都会ですから、 多くは雇用者で職場を通じて麻薬中毒にされた。』
mail2.nara-edu.ac.jp/~asait/kuiper_…






カイダオ @szkymdr 2015-06-24 02:31:45
『では満州や朝鮮半島の場合はどうだったのでしょうか ? 上のような具体的な数値が登場しません。ここには欧米系の人がいなかったからなのです。とりわけ、朝鮮半島に関しては 当時は欧米系の人がおらず、おそらくすべてが秘密になった。』






カイダオ @szkymdr 2015-07-05 10:30:05
この本欲しいよなあ。 1万4千円もする。この本をもとにして、佐野眞一さんが『阿片王』という本を書いてる。

続・現代史資料 12
阿片問題 (みすず書房)
msz.co.jp/book/detail/06…






阿片問題【オンデマンド版】:みすず書房


『阿片問題【オンデマンド版】』の書誌情報:中国占領期に戦時経済の一翼を担った、日本の阿片密売による収益と使途の実態。興亜院華北連絡部、総領事館、派遣軍等の極秘文書。[1986年6月初版発行]



カイダオ @szkymdr 2015-06-24 02:36:28
戦前も日本は高度経済成長をしてたんだが、もしかして麻薬のおかげだったのかな。自由に麻薬が吸えるのなら、いくらでも働けるもんね。

『満州国が建国された後で、何千人もの朝鮮の麻薬の売人が満州国に登場しますから、 朝鮮半島も麻薬漬け』
mail2.nara-edu.ac.jp/~asait/kuiper_…






カイダオ @szkymdr 2015-06-24 02:38:27
ものすごい働くけど、もらった給料をヤクと女に使ってしまえば、いちばん経済成長するんだよな。今みたいに、将来が不安だからと、もともと少ない給料を貯めこむのがいちばん経済成長しない。『ハイなもの』に頼る国家だったのかもしれん。






カイダオ @szkymdr 2015-06-24 02:56:52
慰安婦になる・出稼ぎ労働者になる理由→貧しいから→貧しい理由→収穫が少ないのもあるが、戦乱で平和が乱されて難民になったから→どうすれば難民ではなくなるか→内乱がなく、また帝国主義が来ないほうがいい→どういう理由でも帝国主義は悪いとなって、無限ループ






カイダオ @szkymdr 2015-06-24 18:39:49
大戦の犠牲者数が分からなくて結局英語サイトで調べるようになってしまった。ハワイのランメル教授の積算では、日本軍による対外民間人犠牲者数は542万人、うち中国の民間人犠牲者数が369万5千人になっていて、南京の30万人なんて目じゃない
en.m.wikipedia.org/wiki/World_War…






カイダオ @szkymdr 2015-06-24 18:51:07
ランメル氏の積算では、日本による民間人犠牲者数:5,424,000
中国3,695,000 インドシナ457,000 朝鮮半島378,000 インドネシア375,000 マレーシアとシンガポール283,000 フィリピン119,000 ビルマ60,000 太平洋の島57,000






カイダオ @szkymdr 2015-06-24 18:55:07
別の研究者だともっと悪い数字になってる。Gruhl 氏だと、日本による民間人犠牲者数は、20,365,000で、2千万人になってる。うち、中国が 12,392,000で、1千239万人の犠牲者。戦争だと大量難民が出て食糧不足になるから、知らないところで死んじゃってるんだよね。






カイダオ @szkymdr 2015-06-24 18:56:50
東京に銃を持った訓練された軍隊が1000人ほど殺戮を展開している、という状況だと、1000人しかいなくても、首都圏の1千万人くらいは一目散で逃げると思うんだよね。山の方面とか。それが難民だよ。






カイダオ @szkymdr 2015-06-24 21:09:12
『オランダ領東インド』の領域。インドネシア。こんなに広範囲だったんだな。
ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA… pic.twitter.com/TmxVbJD69t








カイダオ @szkymdr 2015-06-25 18:22:00
日清戦争のせいで、香港(と九竜半島)がイギリスのものになったのか。






カイダオ @szkymdr 2015-06-25 23:41:26
こんなおもろい番組があるなんて。でも、自虐史観カテゴリーに入るから、いまでは自主規制気味なんだよね。

【国家はマフィア】日本軍と阿片③【日中戦争】 (8:54) nico.ms/sm13291009 #sm13291009








カイダオ @szkymdr 2015-06-26 00:13:38
【国家はマフィア】日本軍と阿片⑦【日中戦争】 (5:17) nico.ms/sm13293046 #sm13293046








カイダオ @szkymdr 2015-06-26 00:19:10
阿片で戦費を得る政策というのは、中国を食い物にする諸外国だけでなく、中国自身もやっていたそうである。自国民を阿片中毒にすることによって、個人の財産を奪って国費にしていくわけだ。これからの日本でも起こるかもしれない。いまの日本は、個人の貯金を必要をしているから。






カイダオ @szkymdr 2015-06-26 08:22:29
日本が征服して、傀儡政権を建てた南京政府の国家予算の58%が、アヘン売買の収入だったんだそうだ。もはや、中南米の国の、麻薬マフィアのほうが政府より強いのに近い。

:NHKスペシャル|調査報告 日本軍と阿片 NHKスペシャル nhk.or.jp/special/detail…






カイダオ @szkymdr 2015-06-26 11:51:25
だんだんわかってきた。 つまり 江戸幕府は曲がりなりにも庶民が食えるように 国家全体を見渡していた。戦国時代の昔ながらの大名は、自分の活躍だけの活躍しか興味がないようなレベルだった。いつか徳川を倒そうと思ってたが、その後の国家のビジョンは特になかった。






カイダオ @szkymdr 2015-06-26 11:56:48
薩長中心に明治政府ができたけど、肝心の国民を食わせる策というものがない。当時の国民は飢えていた。そこで、米英フランスのやってたような対外戦争(日清戦争)を仕掛けて、イギリスやアメリカがやっていたような他国を食い物にすることで経済を得た。この路線は 日露戦争 日中戦争まで続く。






カイダオ @szkymdr 2015-06-26 12:00:19
かんたんに言えば、江戸時代で200年続いた、統制経済・我慢する経済というのを壊して、いくらでも略奪できる戦国時代に戻した。薩長の明治維新の勢力は。黒船の外敵の対応は、どちらかと言うとそれまで情報活動してきた徳川家のほうが上手だったはず。薩長は外敵排除を口実にして徳川家を倒した。






カイダオ @szkymdr 2015-06-26 12:09:08
江戸幕府ってのは、戦乱を起こさないことで、農村を安定させて収穫高を飛躍的に上げたんだよね。それまでの戦国時代と比べて。戦国時代は、収穫の時期になると略奪目的のいくさが起こってしまう。収穫を守るために田畑を24時間監視して武装してたんだろう。そういう余計な経費がなくなるのが大きい。






カイダオ @szkymdr 2015-06-26 12:29:00
江戸時代以前の中世では、収穫期以外では食糧不足になり、略奪目的の戦乱が起こっていた。農民=戦士なんだよね。農民が農民で固定して、武装勢力でなくなるのは江戸時代に入ってから。

【新版】雑兵たちの戦場 中世の傭兵と奴隷狩り 藤木 久志amazon.co.jp/dp/4022598778/…






カイダオ @szkymdr 2015-06-26 12:31:42
けっこう具体的でさあ。 初夏に麦が取れると、餓死者が減るんだよ。秋にコメが取れると、また餓死者が減る。その中間では食料の略奪戦をやってる。そういう時代だったんだよ。とにかく物騒になると、住民がすぐに難民化して、逃げた先で餓死するんだよね。現在のアフリカ中東とかもそうなんだよ。






カイダオ @szkymdr 2015-06-26 12:34:43
戦乱を起こして、軍隊が行った先で食料の略奪をするというのを、明治時代になってから再開してしまった。日本軍は食料の手持ちが少ないからね。なにかごちそうを思ったら現地の住民から奪うことになる。殺しもするし。






カイダオ @szkymdr 2015-06-26 20:14:22
岸信介さんの政治資金はすごいって昔から言われてたけど、なんだアヘンの金かよ、麻薬かよってガッカリした。好きだった男が、バレてみたらとんでもないセコい男だったっていう感じのガッカリ感だよ。






カイダオ @szkymdr 2015-06-27 10:36:50
電通ってなんの略なのかと思ったら 株式会社 日本電報通信社だって






カイダオ @szkymdr 2015-06-27 10:44:16
満州国通信社 (国通)というのが設立され、 電通からは通信網がなくなり、 現在のような広告取次専門会社 になった。






カイダオ @szkymdr 2015-06-27 19:55:38
日本の帝国主義時代の国家収入の相当部分が麻薬の売り上げだということが分かってしまって、その時代に生きてた政治家でも軍人でも、勇気ある元藩士でも、軽蔑するばかりになってしまった。なんだ、結局はカネかよ、バブルかよって。


岸信介さんの政治資金は、けっきょく里見甫のカネからなんだよ。アヘンのカネでseijiをするなんて、田中角栄よりよっぽど悪いじゃんか。角栄さんのも汚いビジネスだけど、庶民を麻薬漬けにするなんてことはしてないよ。
ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8C…


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カイダオ @szkymdr 2015-06-27 21:24:34
『三井物産はアヘンを一両(32グラム)を35円で軍に納入し、これを里見機関がグラム22-23円で宏済善堂に卸した。四川省産より品質の良いペルシャ産のアヘンはサスーン財閥系によって上海に流入したが、これを三井物産上海支店が仕入れていた』ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8C…



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未完の対局



未完の対局 (徳間文庫)
南里 征典
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http://japanese.china.org.cn/jp/archive/zryhhj/node_2185478.htm

中日合作映画 『未完の対局』


『未完の対局』は国交回復10周年を前に、中日両国の共同脚本、共同監督、共同出演、共同撮影によって制作された最初の映画作品である。この作品の制作は、先ず、1978年に李洪洲氏と葛康同氏が『未完の対局』の脚本を書き、中国の著名な映画芸術家、趙丹氏が日本訪問の際に両国での共同制作を提案したことに始まる。この企画は、日本映画界から積極的な賛同を得て、最終的に北京映画制作所と東光徳間株式会社が合作の形で撮影することに合意した。以下はそのあらすじである。

1924年、江南の囲碁の王者・況易山は日本の棋士・松波麟作と北京で対局していたが、勝負が付かないまま、況易山は官憲に逮捕される。後に彼は松波によって救出されるが、対局を続ける機会を得ないまま、松波は日本に帰国することになる。日本へ発つ前、松波は況易山の子・阿明を日本に連れて帰り、棋士として育て上げたいと況易山に申し出、況易山は中国囲碁の振興に尽くしてもらいたいという気持ちを込め、「奮飛」と書かれた家伝の扇子を阿明に託す。日本での阿明は父親の教えを忘れず、めきめき頭角を表し、盧溝橋事件後、外国人居留者の身分で日本囲碁界の最高位「天聖」位を獲得する。日本軍部は彼に日本に帰化するように強いるが、阿明はこれを拒絶する。後に松波は徴兵されて中国侵略日本軍の一員として、況易山の故郷である中国の無錫を訪れる。松波の上官・尾崎大佐は大の囲碁好きで、況易山に関心を持っていた。やがて尾崎大佐は況易山を探し出し、碁を打つよう命令する。況易山は相手にせず、妻子を連れて無錫から逃亡しようとするが、妻子は殺され、自分も尾崎に拘束されてしまう。彼は尾崎から松波との対局を強いられるが、死んでも従わないことを示すため、その場で自ら2本の指を切り落とす。

戦後、息子を捜して日本を訪れた況易山は、阿明が死んでしまったことを知り、松波が裏切ったと思い、憤慨して帰国する。1956年、日本囲碁代表団の一員として中国を訪問した松波は、阿明の遺骨と血に染まった「奮飛」扇子を携えて況易山を訪ね、阿明が祖国に帰って日本軍と戦うために、密航しようとして憲兵に射殺されたことを伝える。

疑いが晴れ、況易山と松波麟作は再び友情を取り戻し、還暦を迎えた二人は32年間中断させられたままだったあの未完の対局を再開する。

『未完の対局』は、1981年1月神奈川県の長浜海岸でクランク・インした。佐藤純弥監督と段吉順監督がそれぞれメガホンを取り、中国の有名映画俳優の孫道臨氏が主役の況易山を、日本屈指の名優である三国連太郎氏が松波麟作を演じている。中日国交正常化10周年の際、『未完の対局』は中日両国で同時上映されている。

佐藤純弥監督がこの映画を監督した動機は、中日友好にあった。三国連太郎氏は、「この映画の撮影に参加できたことは、生涯で最も光栄なことです。この光栄を子供、孫と世々代々伝えていきたい。日本人と中国人は手を取り合って、友好していかねばならない」と作品に託した思いを語っている。当時、北京映画製作所の所長だった汪洋氏は、「もし、中日両国人民の間の友好交流と経済、文化の繋がりを“未完の対局”に喩えるのなら、これこそ真に“永遠に終わりのない対局”である」と、両国関係を表現している。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AA%E5%AE%8C%E3%81%AE%E5%AF%BE%E5%B1%80

未完の対局





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『未完の対局』(みかんのたいきょく)は、日中国交正常化10周年記念映画として製作された、初の日中合作映画。1982年公開。大正から日中戦争を挟んだ昭和にかけて、日本と中国の囲碁の天才棋士の交流を描いた作品。同名のノベライゼーションも出版されている。



目次 [非表示]
1 諸元
2 制作の経緯
3 あらすじ
4 キャスト
5 受賞・評価 5.1 受賞
5.2 評価等

6 ノベライゼーション
7 註
8 参考文献
9 外部リンク


諸元[編集]
製作 「未完の対局」製作委員会(東光徳間、北京電影制片廠)
配給 日本では東宝にて配給
監督 佐藤純彌、段吉順
134分

制作の経緯[編集]

1979年に北京映画撮影所発行「電影制片」7月号に、李洪洲、葛康同の共同名による文学台本「一盤没有下完的棋」が発表され、これを読んで感動した北京映画撮影所の李華が日中合作による映画化を大映社長徳間康快に提案した。監督には日本側は中村登が予定されたが、制作途中の1981年に中村が死去したため、『君よ憤怒の河を渉れ』が中国で大ヒットした佐藤純彌を起用。中国側の主演も当初は中国映画界の大スター趙丹だったがクランクイン直前にガンで死去、孫道臨に変更された。日本側では興行的要素から主人公を棋士以外とすることを提案したが、中国側の熱意でこれを変更することはせず、脚本を安部徹郎、脚本改訂を神波史男で撮影台本を完成させる。

あらすじ[編集]

1924年(大正13年)、日本の棋士松波麟作六段は中国を訪れ、江南の棋王と呼ばれる況易山と対局するが、官憲の妨害が入って中断する。松波は易山の息子阿明の才能を見込み、日本で囲碁の修行をさせるために引き取るが、その後日中は戦争の波に飲み込まれる。阿明は天分を発揮し、1941年(昭和16年)に天聖位に就くが、軍部に日本帰化を強要され、密航により中国帰国を企てるが憲兵に射殺される。戦争が終り、1960年(昭和35年)に第1回日中囲碁交流の代表団として訪中した松波は易山と再会する。

本作の登場人物は、1928年に14歳で来日した呉清源とそのライバル木谷實を思わせる点もある。実際の呉清源は戦前、戦後にかけて日本囲碁界の第一人者となったが、中国側の脚本家は呉清源の故事が念頭にあったことを述べている。[1]

キャスト[編集]
況易山:孫道臨
松波麟作:三國連太郎
况阿明(少年時代):劉新
况阿明:沈冠初
况巴(松波の娘):紺野美沙子
恩田忍(松波の妹):三田佳子
况華林(阿明と巴の娘):伊藤つかさ
况婉怡:黄宗英
况阿恵(少女時代):茅為恵
况阿恵:沈丹萍
関小舟:杜彭
恩田雄二:山本亘
森川:石田純一
森川よね:乙羽信子
立花医師:松坂慶子
張医師:于紹康
篠原八段:中野誠也
橋本隆吉:大滝秀治
黒田参謀:待田京介
尾崎大佐:室田日出男
情報局・滝井:小林稔侍
小阿恵:張磊
張医院の書生:林道紀
警察署長:織本順吉
日本領事:鈴木瑞穂
日華會館婦 : 小川眞由美

受賞・評価[編集]

受賞[編集]
1982年度毎日映画コンクール日本映画優秀賞、音楽賞(林光、江定仙)、録音賞(橋本文雄、呂慶昌)
1983年モントリオール世界映画祭グランプリ
1983年日本アカデミー賞優秀作品賞
1983年金鶏奨特別賞
1983年文化部優秀作品賞

評価等[編集]
中国では制作段階から大きく評判になり、ロケ先の各地方では大歓迎を受けた。[2]
中国側の脚本家は陳祖徳とも親しいなど囲碁に理解が深かったが、日本側スタッフは囲碁に詳しくないためか、対局の場面に迫力がないとの批判もある。[3]
日本国内では作品内容に関して右翼が反発し、上映を妨害する事件が発生した。

ノベライゼーション[編集]

映画制作と並行してノベライゼーション『未完の対局』が南里征典によって書かれ、公開と同時に刊行された。

註[編集]
1.^ 松島利行『囲碁と映画の文化論(21)』(「碁ワールド」誌2005年1月号)
2.^ 南里征典『未完の対局』あとがきにかえて
3.^ 松島利行『囲碁と映画の文化論(18)』(「碁ワールド」誌2004年12月号)

参考文献[編集]
南里征典『未完の対局』徳間書店 1982年

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UFC 柔術黒帯世界王者ドゥリーニョ一本勝ち! ブラジル人UFC王者ドスアンジョスはKO負け!

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更に陰の実力者として元陸軍憲兵大尉の 甘粕大尉 がいました。 大杉栄や伊藤野枝を殺害したとされる人物です。 甘粕は表面的には満州国通信社や満州映画協会の理事などをしていましたが、 陰で里見甫と協力して中国大陸を舞台に数々の怪事件に関係し陰の帝王と言われていました。 里見甫が甘粕を通じて満州の影の部分に関係した事がわかります。 * 福家俊一  政治家、元上海大陸新報社長 「塩田潮著 岸信介」の中に書かれた話 里見は上海で阿片の総元締めをやっていた。・・・・ その莫大な阿片の上がりが軍事機密費として使われた。 関東軍が1株、満州国政府が1株、甘粕が1株という形で持っていた。 それが 月に80万円にもなる。(現在の20億円位) だから、甘粕は満州国の役人や軍人が内地(日本)に出張する時は、 飲むなら赤坂の「長谷川」、泊りは「帝国ホテル」に行けという調子で、後から一括して支払ってやっていた。





























img_2.jpg

http://www.oshietegensan.com/war-history/war-history_a/4898/

里見甫と満州と岸信介 記事専用プリント対応ページ

最終更新日:2014/05/28 17:01

闇の帝王としての里見は莫大な阿片の財力があるため、

興亜院、軍、政治家までがその金を頼りにするようになり、

満州国、国策会社、その他各方面に資金が流れるようになりました。

満州は各部署の代表は中国人がなっていましたが、実権は全て日本人が持っていました。

例えば皇帝は溥儀で、その下に国務総理(総理大臣)、各部大臣がいますが、そこまでは中国人です。

しかし国務総理を補佐するために国務院総務庁長官を、各部大臣の下に各部次長を置き、

そこが実際の権力を持っていました。

   *満州国組織の実権

国務院総務庁長官(最高権力者)

初代 駒井徳三(関東軍特務部長)

以降 大達茂雄

 星野直樹(日本の大蔵省から、A級戦犯)

 武部六蔵

 古海忠之(大蔵省から、中国の軍事裁判で18年の刑)

総務庁次長     岸信介(商工省から、A級戦犯、総理大臣)

各部大臣次長  実業部    岸信介

             法制局    武藤富男

             交通局    平井出貞三

そしてこれら満州国の人事権は内面指導と言う形で関東軍参謀第3課が持っていたので、

国の最高権力は関東軍が握っていた事になります。

岸信介が満州に行った時の第3課の課長は山下奉文でした。

当時の関東軍は司令官上田謙吉大将、参謀長板垣征四郎、憲兵隊司令官東条英機で、70万の大兵力でした。

* 古海忠之の回想録(岩波書店「世界」から)

重要事項は全部関東軍司令官の承認を経なければならなかった。

「何々の件承認ありたるに付き命により通牒す。関東軍参謀長」

という書面が総務長官に来なければ、政府は仕事をする事が出来なかった。



更に陰の実力者として元陸軍憲兵大尉の


甘粕大尉


がいました。

大杉栄や伊藤野枝を殺害したとされる人物です。

甘粕は表面的には満州国通信社や満州映画協会の理事などをしていましたが、

陰で里見甫と協力して中国大陸を舞台に数々の怪事件に関係し陰の帝王と言われていました。




里見甫が甘粕を通じて満州の影の部分に関係した事がわかります。

* 福家俊一  政治家、元上海大陸新報社長

「塩田潮著 岸信介」の中に書かれた話

里見は上海で阿片の総元締めをやっていた。・・・・

その莫大な阿片の上がりが軍事機密費として使われた。

関東軍が1株、満州国政府が1株、甘粕が1株という形で持っていた。

それが



月に80万円にもなる。(現在の20億円位)



だから、甘粕は満州国の役人や軍人が内地(日本)に出張する時は、

飲むなら赤坂の「長谷川」、泊りは「帝国ホテル」に行けという調子で、後から一括して支払ってやっていた。





当時実質的に満州の政治と経済を動かしていたのは、よく言われる「2キ3スケ」という5人の人物でした。

2キ    東条英機  星野直樹

3スケ   岸信介  松岡洋右  鮎川義介(日産の創始者)

その5人のバックに甘粕正彦がいて、甘粕を中心にして10人ほどの会をやっていました。

他のメンバ-には古海忠之や政治家の椎名悦三郎がいます。

正式な名称もないような会ですが、

さらにその陰のバックとして里見甫が阿片の販売益という面で関係している事は間違いないでしょう。

満州からの帰国後商工大臣になった岸信介の選挙資金の出所が里見だったという説がありますが、

あながち出鱈目とはいえないと思います。



その他の話としては

* 里見甫の墓に刻まれた「里見家の墓」という文字は岸信介が書いている。

* 古海忠之(満州国国務院総務庁長官)が里見の墓誌を書いている。

「・・・・支那事変の拡大とともに大本営参謀影佐禎昭の懇望により上海に移り

大陸経営(注:阿片政策)に参画、国策の遂行に当った」

古海は戦後、岸信介の世話で東京卸売りセンタ-の社長になっています。

* 佐藤栄作(後の総理大臣) 中支那振興会社社員  里見資金の援助を受けた


http://www.oshietegensan.com/war-history/war-history_a/4864/

始めに~阿片とは 記事専用プリント対応ページ

最終更新日:2014/03/01 11:08

日本軍(国家)が戦争中に行なった行為の中で、一般的にあまり知られていない事が色々ありますが、

その中に、国家自らが阿片の販売を取り仕切り、莫大な利益を上げていたという行為があります。

中国支配のために阿片中毒患者を国が率先して増やしていったという反人道的な面は勿論ですが、

阿片の販売から上がる収益を得る事が目的でもありました。

これは重大な問題でしょう。



東京裁判の判決では

1 満州国の経費を賄うため

2 中国軍の抵抗を弱めるため

と印されています。

しかしその後うやむやになり国民にも注目されませんでしたし、

戦後の歴史にも残りませんでした。

それは日本が阿片・麻薬を取り締まる

4つの国際条約(日本は批准していた)を無視した犯罪であることを自覚していたため、

敗戦時に徹底的に資料を焼却し、関係者も口を閉ざしていたからです。

このレポートではこの問題を書きます。



[ 阿片とは ]

   阿片はケシの花から作ります。

ケシは5~6月頃美しい10センチ位の白い花を咲かせます。(赤や紫もある)

花のあとに出来る楕円形の実を刃物で傷つけて出てきた乳液が阿片です。

その乳液を乾燥させて餅状にしたものが「生阿片」、

それを精製して練膏状にしたものを「阿片煙膏」と言います。

阿片の作用はそれに含まれる5~15%のモルヒネによるものです。

そのため阿片を精製して「モルヒネ」が作られます。

さらにそのモルヒネを加工したり合成したりしてジアセチルモルヒネを作ります。

それは通称「ヘロイン」と呼ばれます。


http://www.oshietegensan.com/war-history/war-history_a/4866/

日本での生産・販売の概要 記事専用プリント対応ページ

最終更新日:2014/05/28 16:22

阿片やモルヒネは主として医療用(痛み止め)に多く使われるため、

戦争があると負傷兵の治療に大量に消費されます。

ケシは日本には江戸時代中頃に入ってきたといわれ、当初は自由販売が主で、

栽培は大阪の三島郡でされていました。

1875年(明治8)には阿片専売法が制定され、その後は国家管理になりました。



大正時代になると大阪を始め、岡山、福岡、高知、広島等多くの地域で栽培されるようになります。

特に第一次世界大戦(1914年~18年)で外国からの医薬品が不足したため、急速に国内生産が増えてきます。

そして世界大戦終了後、今度はモルヒネが余ってしまったため、各国は中国に販売しようとします。

そこに日本が割り込んで膨大な市場を手に入れようとするのです。



当初日本では阿片からモルヒネを生産することが出来ず、ドイツやイギリスから輸入していましたが、

第一次世界大戦を契機として国内生産に踏み切りました。

1915年(大正4年)に星製薬(株)、大日本製薬(株)、(株)ラジウム商会、三共(株)が

独占的に国から台湾阿片を払い下げ、モルヒネやヘロイン生産を行ない莫大な利益を上げるようになるのです。

その後、モルヒネやヘロインの生産はどんどん増えて、中国に密輸できるようになって来ました。



そして遂に日本が阿片扱いの世界のトップクラスになったのです。

     * モルヒネの生産量  昭和10年  世界で 約31トン

                         アメリカ  6.3トン

                         ドイツ   6.3トン

           フランス  4.0トン

                         日本    3.1トン

        ヘロインの生産量  昭和10年  世界で  0.67トン

                         日本    0.25トン (世界で第1位)



これだけの量が日本国内で消費されるわけはなく、大部分が国策として中国に密輸されたものと思われます。

* 「国際阿片問題の経緯」 宮島幹之助 著 1935年   ジュネ-ブ国際阿片会議の日本委員

・・・・日本国内にはヘロイン、コカインの中毒者が多いという事実もないので、

他の疑惑を招くのは当然である。・・・・

異常なる多量の製造と消費と相まって、

麻薬の不正輸出あるにあらずやとの疑惑は依然として残っている。

http://www.oshietegensan.com/war-history/war-history_a/4900/
阿片と日の丸 記事専用プリント対応ページ

最終更新日:2014/05/28 17:02

阿片の販売は非公式ですが日本の国策でした。

実際に販売の手足になったのは朝鮮人や中国人が多かったのですが、

植民地や占領地でしたから治安も悪く危険も伴いました。

その為安全策としてアヘンの販売所では日本人を用心棒として雇ったり、

「日の丸」の旗を掲げることが多かったようです。

その為、一般の中国人の中には「日の丸」の旗を日本の国旗と思わずに、

阿片の販売所の旗だと思っていた人が多かったのです。

* 陸軍中将 池田純久著「陸軍葬儀委員長」から (元・参謀副長)

・・・・かれらは治外法権を盾に日の丸の国旗を掲げて公然とアヘンを売っているのである。

だから中国人のうちには、日の丸の旗を見て、これがアヘンの商標だと間違えているものが少なくなかった。

時々日本の国旗陵辱事件がおこり外交問題に発展することがあったが、

よく調べてみると、中国人はそれを国旗とは知らず、アヘンの商標だと思っていたという、

まったく笑い話のような滑稽談さえあった。

実にみっともない話です。

しかしアヘンでも、住民虐殺でも、多発した強姦事件でも、必ずそこには「日の丸」の国旗があったのは事実です。

私たち日本人には過去の事でも、被害者から見ると「日の丸」に良い感情を持たないのは当然かもしれません。

http://www.oshietegensan.com/war-history/war-history_a/4902/

最後に 記事専用プリント対応ページ

最終更新日:2014/03/01 11:15

戦争が悪いことなのは当然です。

その上にアヘンによって中国人を中毒患者にし、財産を収奪したことは戦争行為とは別です。

完全に反人道的な犯罪です。

しかもその利益で傀儡国家を運営し、戦争資金とし、一部の日本人は財産を手に入れました。

そしてそのみっともなさに誰一人として事実を解明し反省もしていないのです。



里見甫が何故東京裁判で裁かれなかったのか?

里見自身が不思議がっていたという後日談があります。

結果として戦後知らん顔をして、政治権力や財界の中心で活躍できた人が沢山いた事は事実です。



アヘンの問題で分かった事は、

満州国をはじめ日本が中国各地に作った多くの傀儡政権の赤字を埋めるために、

官・民・裏社会が一丸となってアヘンの入手、確保、販売に狂奔したことです。

官は外務省を始めとする役所・政治家・陸海軍・興亜院であり、

民は三井・三菱をはじめとする商社であり、

裏社会は里見機関その他です。



考えてみると現代日本の多くの問題が政官財癒着にある事と同じように思えます。

これだけの犯罪を犯した人たちが誰一人として罪に問われる事なく戦後日本の政財界に君臨していたのですから

その延長として現在があるのは仕方がないかもしれません。

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1923(大正12).9.1日、関東大震災が発生。この時政府の宣伝「朝鮮人や社会主義者が震災に乗じて内乱を企てている」に乗せられた民衆は、社会主義者、労働組合幹部や朝鮮人に対して野蛮なテロを行い、9.3日、亀戸事件により南葛労働組合の指導者・川合義虎らの社会主義者やアナーキストらが亀戸警察署で虐殺された。9.16日、大杉栄が妻・伊藤野枝、甥(おい)の橘宗一と共に甘粕正彦憲兵大尉に殺害された。













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http://www.marino.ne.jp/~rendaico/daitoasenso/what_kyosantosoritu_oosugisakae.htm

428165 大杉栄とその時代考、関東大震災事件 大杉栄



 (最新見直し2005.10.21日)

 関連サイト「大正ルネサンスの光と影」

 1923(大正12).9.1日、関東大震災が発生。この時政府の宣伝「朝鮮人や社会主義者が震災に乗じて内乱を企てている」に乗せられた民衆は、社会主義者、労働組合幹部や朝鮮人に対して野蛮なテロを行い、9.3日、亀戸事件により南葛労働組合の指導者・川合義虎らの社会主義者やアナーキストらが亀戸警察署で虐殺された。9.16日、大杉栄が妻・伊藤野枝、甥(おい)の橘宗一と共に甘粕正彦憲兵大尉に殺害された。

 9.7日、政府は、関東大震災時の混乱に対して「治安維持の為の緊急勅令」を公布した。これは、前に成立を見なかった「過激社会運動取締り法案」を、このたびは天皇の名のもとに議会の審議を要しない緊急勅令という形で公布したということである。しかし、政府はなお満足せず、やがて治安維持法に向けて着々と周辺整備していく。

 「第一次共産党事件」と「関東大震災直後の反動攻勢」に接して、獄中闘争組の中からも解党的方向が提起されたようである。幸徳秋水の大逆事件、関東大震災時の大杉栄虐殺事件という官憲側のテロル攻勢に「緊急避難」の名目で党の解党止む無し論が強まっていった。

 これに関連して福永操は次のように述べている。「革命運動の犠牲者たちは、人民が(人民のほんの一部でもが)その犠牲の意義をみとめて心の中で支持してくれると思えば、よろこんで死ねるであろう。なさけないのは、大逆事件関係者に対する日本の一般民衆の反感がものすごかったことであった。事件そのものにまったく無関係であった社会主義者たちまでが、この事件のとばっちりを受けて、『主義者』というよびかたのもとに一括して世間からつまはじきされて、文字どおり広い世間に身のおきどころもない状態になったことであった。労働運動も火が消えたような状態になった」(福永1978)。

 以下、検証する。 



【関東大震災発生】
 1923(大正12).9.1日、関東大震災が発生した。地震の規模はマグニチュード7.9、震度6であった。焼失家屋24万戸、崩壊家屋2万4千棟、死者5万9千人、行方不明者を入れると犠牲者は10万人以上という被害が発生した。これにより関東一円の商工業地区が壊滅的大打撃を受けた。被害総額は当時の金で約100億円(当時の一般会計の6.5年分、現在で数兆円)と推定される。


 関東大震災の翌9.2日急遽、軍による戒厳令司令部を設置した。この日、後藤新平が内務大臣に就任している。

 警視庁は、非常事態に備えて臨時警戒本部を設置し、正力官房主事が特別諜報班長になって、不穏な動きを偵察する任務を持ち、その行動隊長として取締まりに専念した。後藤内務大臣の指揮下で正力が果たした重要な役割は疑問の余地がない。
(私論.私見)「内務大臣・後藤新平と正力の繋がり」について

 正力は、この後藤新平と深く繋がっており、「直接ルート」の間柄。正力の富山四高時代の友人にして官房主事であった品川主計は、回想録「叛骨の人生」の中で「正力君は、後藤新平内務大臣に非常に信用があった」と記している。同書に拠れば、越権的な「汚れ役」(ダーティーワーク)仕事を躊躇無く引き受けることで信頼を得ていったとのことである。「仕事の鬼としての出世主義的性格」が強かった、ということになる。正力は、後藤内相の下で警視庁警務部長となる。同時に、財界のご意見番的存在であった郷とも親しくなって行った。


【流言飛語飛び交い、朝鮮人、社会主義者、アナーキストの検束始まる】
 直後、「朝鮮人、中国人、社会主義者、博徒、無頼の徒が放火掠奪の限りを尽くしている」との噂が飛び交い始めた。発生源は在郷軍人会、民間自警団辺りからとされているが、今日なお真相不明である。

 当時の支配階級は、震災の混乱に乗じて赤化騒乱が引き起こされることを怖れ、「朝鮮人による放火、井戸への投毒」という風評を逆手に取って朝鮮人と社会主義者、アナーキストの検束を始めた。9.3日、亀戸署には、7百4、50名も検束された労働組合員や朝鮮人がいたと伝えられている。

 東京朝日の石井光次郎営業局長の次のような証言がある(「中曽根、正力、渡辺、児玉…」参照)。

 「建物は倒壊しなかったものの、9月1日の夕刻には、銀座一帯から出た火の手に囲まれ、石井以下朝日の社員たちは社屋を放棄することを余儀なくされていた。夜に入って、石井は臨時編集部をつくるべく、部下を都内各所に差し向けた。帝国ホテルにかけあってどうにか部屋を借りることは出来たが、その日、夜をすごす宮城前には何ひとつ食糧がない。そのとき、内務省時代から顔見知りだった正力のことが、石井の頭に浮かんだ。石井は部下の一人にこう言いつけて、正力のところへ走らせた。

 『正力君のところへ行って、情勢を聞いてこい。それと同時に、あそこには食い物と飲み物が集まっているに違いないから、持てるだけもらってこい』。間もなく食糧をかかえて戻ってきた部下は、意外なことを口にした。その部下が言うには、正力から、『朝鮮人が謀反を起こしているという噂があるから、各自、気をつけろ。君たち記者が回るときにも、あっちこっちで触れ回ってくれ』との伝言を託されてきたというのである。

 そこにたまたま居合わせたのが、台湾の民生長官から朝日新聞の専務に転じていた下村海南だった。下村の『その話はどこから出たんだ』という質問に、石井が『警視庁の正力さんです』と答えると、下村は言下に『それはおかしい』と言った。『地震が9月1日に起るということを、予想していた者は一人もいない。予期していれば、こんなことになりはしない。朝鮮人が9月1日に地震がくることを予知して、その時に暴動を起こすことを企むわけがないじゃないか。流言飛語にきまっている。断じてそんなことをしゃべってはいかん』。

 石井は部下から正力の伝言を聞いたとき、警視庁の情報だから、そういうこともあるかも知れないと思ったが、ふだんから朝鮮や台湾問題を勉強し、経験も積んできた下村の断固たる信念にふれ、朝鮮人謀反説をたとえ一時とはいえ信じた自分の不明を恥じた。正力は少なくとも、9月1日深夜までは、朝鮮人暴動説を信じていた。いや、信じていたばかりではなく、その情報を新聞記者を通じて意図的に流していた」

 内務官僚上がりの石井のこの証言に加えて、戒厳司令部参謀だった森五六の回想談によると、正力は腕まくりして戒厳司令部を訪れ、「こうなったらやりましょう」と息まいている。この正力の鼻息の荒い発言を耳にした時に、当時の参謀本部総務部長で後に首相になる阿部信行をして、「正力は気が違ったのではないか」と言わしめたという。

 正力にまつわる一連の行動を分析した佐野は、[正力は少なくとも大地震の直後から丸一日間は、朝鮮人暴動説をつゆ疑わず、この流言を積極的に流す一方、軍隊の力を借りて徹底的に鎮圧する方針を明確に打ち出している]と結論づけている。更に、警視庁に宛てた亀戸署の内部文書にも、「この虐殺の原因はいずれも警察官の宣伝にして、当時は警察官のごときは盛んに支鮮人を見つけ次第、殺害すべしと宣伝せり」と書いてあり、中国人労働者が300人ほど虐殺された大島事件も、正力がこの事件を発生直後から知っていたのは、間違いないと自身を持って断定するのである。


【関東大震災時事件その①、官憲、自警団員による朝鮮人、中国人の虐殺】
 当時の支配階級は、震災の混乱に乗じて赤化騒乱が引き起こされることを怖れ、「朝鮮人による放火、井戸への投毒、襲撃」、「震災の混乱にまぎれて、朝鮮人と社会主義者が政府転覆を図っている」という風評を逆手に取って警察と軍による朝鮮人、中国人、社会主義者、社会主義的労働者の検束を始めた。

 9.3日、亀戸署には、7百4、50名も検束された労働組合員や朝鮮人がいたと伝えられている。自警団員による朝鮮人、中国人の虐殺も発生している。無抵抗の者を陸軍将校、近衛兵、憲兵、警察官、自警団員、暴徒らが一方的に撃ち殺したところに特質がある。この時官憲テロルに倒れた朝鮮人は3千名、中国人は3百名。

 その後毎年、9.1日は共産主義運動、朝鮮民族運動の逃走記念日として追悼されていくことになる。


【関東大震災時事件その②、川合義虎らが虐殺される亀戸事件発生】
 9.3日午後10時頃、亀戸事件の被害者となる南葛労働組合の指導者にして共産青年同盟初代委員長にして党員北原龍雄と共に第一次共産党事件後の留守委員会を構成していた川合義虎ら8名の社会主義者と、アナーキスト系の元純労働組合長・平沢計七らが亀戸警察署に拘束監禁された。

 9.5日、河合義虎ら7名の革命的労働者(北島吉蔵、山岸実司、吉村光治(南喜一の弟)、加藤高寿、近藤広造、鈴木直一)、アナーキスト系の平沢計七らが亀戸警察署で虐殺された。これを「亀戸事件」と云う。

 その遣り口が憤激に耐えない次のような史実を残している。古森署長は事後対策を警視庁に上申。この時のこの時の警視庁官房主事が正力松太郎(米騒動の時に警視として民衆弾圧に当たり、後特高制度の生みの親であり、読売新聞社長へ転身し、ナチス・ドイツとの同盟を煽り、軍部の手先となって第二次世界大戦の世論形成に一役買った)で、正力は軍隊への応援依頼、千葉県習志野騎兵第13連隊(田村騎兵少尉指揮)がやって来て、留置された中から最も指導能力を有していた危険な人物を選別し、演武場前広場へ引きずり出し、銃剣と軍刀で虐殺した。

 その虐殺の様について今日奇跡的に伝えられた二葉の写真があり、これを見るに多数の刺傷はそれとしても生きたまま打ち首にされている。遺体は家族に引き渡されず、二、三日放置された後、荒川放水路の一般の火葬死体の中に投擲された。田村少尉らは軍法会議にもかけられておらず、「この乱痴気が軍隊と警察と裁判所、検事局と監獄とを、内部から腐敗堕落させた」(志賀義雄「日本革命運動の群像」)とある。

 ちなみに、南喜一は、弟の吉村光治虐殺という権力の横暴に義憤して、共産党活動に入った。「大正13年の春、私は工場や家を全部処分し、17万円の金をつくつた。妻子に4万円渡し、13万円を持って、亀戸の南葛飾労働組合に入った。共産党に入党したのだ」、「大正15年の共同印刷の争議までは、命ぜられることを名誉とし、火の中でも水の中へでも喜んで飛び込んだ」(「南喜一著作全集」)とある。


【関東大震災時事件その③、中国人留学生・王希天虐殺事件発生】
 この時、東京中華日キリスト教青年会幹事、中華民国僑日共済会の会長という指導的立場にあった中国人留学生・王希天は、亀戸署に拉致監禁された上陸軍に引き渡され、陸軍将校の手で斬殺されている。死体は切り刻まれて川に捨てられた。警視庁や陸軍の公式発表では「行方不明」。警察と軍の関係を取り持っていたのは、官房主事の正力であった。

 10.20日、中国代理公使から王の殺害について抗議が為される。中国政府は王希天殺害調査団を派遣してくることになり、一気に国際的大事件となった。日本政府はその対応に苦しむことになった。警視庁はじめとする当局は口裏を合わせて知らぬ存ぜぬの「徹底的に隠蔽するの外無し」対応に終始した。結局、事件そのものは当時の日中の力関係を反映し、最後にはうやむやのままに葬り去られることになった。


【関東大震災時事件その④、大杉栄ら虐殺・甘粕憲兵大尉事件発生】

 9.16日関東大震災の混乱に際して、アナーキストで社会運動家のリーダー的存在だった大杉栄は妻・伊藤野枝(いとうのえ、28歳)、甥(おい)の橘宗一(たちばなそういち、6歳)と共に甘粕憲兵大尉(あまかすまさひこ、32歳)に殺害された。享年38歳。妻野技は1895年1月12日生、享年28歳、甥橘宗一は1917年4月12日生、享年6歳。

 この日、大杉は、その妻(婚姻はしていなかったので正式には同棲)の伊藤野枝と横浜鶴見にあった弟の家から自宅へ帰る途中に東京憲兵隊本部に検束された。一緒にいた甥の橘宗一も一緒に連れ去れた。検束された大杉達は、麹町憲兵分隊に連行された。
午後8時頃、取調中だった大杉に対し、部屋に入ってきた憲兵大尉《甘粕正彦がいきなり背後から大杉の喉に右腕を回し締め上げた。大杉がもがき後ろに倒れると、背中に乗りさらに締め上げ絞殺したと伝えられている。続いて伊藤野枝も絞殺され、橘宗一は部下の憲兵が殺害し、遺体は憲兵分隊内にあった古井戸に投げ込まれた。


 ちなみに甘粕のその後は次の通り。大杉虐殺事件の軍法会議の進行は非常に早かった。戒厳令下の10.8日に第一回、以後、11.16日、17日、21日の4回で結審となり、12.8日に10年の禁固刑に処せられたものの、軍閥団体の助命運動によって3年で出獄、満州国へ渡り参議の地位に上り詰めていく。

 この大杉栄の拘束・殺害が発端となって、軍部による社会主義者の徹底的な弾圧が始まる。



【官房主事・正力松太郎の暗躍】
 この時、警察と軍の関係を取り持っていたのは、警視庁官房主事の正力松太郎であった。これを追跡してみる。正力は米騒動の時に警視として民衆弾圧に当たり、特高制度の生みの親であった。後に読売新聞社長へ転身し、ナチス・ドイツとの同盟を煽り、軍部の手先となって第二次世界大戦の世論形成に一役買うことになる。

 9.2日、大震災の翌日急遽、軍による戒厳令司令部が設置された。船橋の海軍無線送信所から「付近鮮人不穏の噂」の打電が為されている。今日判明するところ、「付近鮮人不穏の噂」を一番最初にメディアに流したのが、なんと正力自身であった。

 9.3日、「内務省警保局長」名で全国の「各地方長官」宛てに、要約概要「鮮人の行動に対して厳密なる取締要請」電文打たれる。内務省が流した「朝鮮人暴動説」は、全国各地の新聞で報道された。実際には「不逞鮮人暴動」は根拠が曖昧で「流言飛語」の観がある。この指示が官憲、自警団員によるテロを誘発することとなった。つまり、本来ならば緊急時のデマを取り締まり秩序維持の責任者の地位にある正力が逆に騒動をたきつけていたことになる。

 9.5日、警視庁は、正力官房主事と馬場警務部長名で、「社会主義者の所在を確実に掴み、その動きを監視せよ」なる通牒を出している。

 9.11日、更に、正力官房主事名で、「社会主義者に対する監視を厳にし、公安を害する恐れあると判断した者に対しては、容赦なく検束せよ」命令が発せられている。

 研究者によると、正力が「虚報」と表現した「朝鮮人来襲」のデマを一番最初にメディアを通じて意識的に広め、虐殺を煽ったのは、なんと、官房主事の正力自身であった。自身も「悪戦苦闘」という本で、「朝鮮人来襲の虚報には警視庁も失敗しました。当局者として誠に面目なき次第」と弁解しているように、朝鮮人大虐殺の張本人と目されている。

 この時、朝日新聞の記者の1人が警視庁で正力官房主事から、「朝鮮人むほんの噂があるから、君たち記者があっちこっちで触れてくれ」と示唆されたことを明らかにしている。しかし、専務の下村海南が「流言飛語に決まっている」と制止したと云う。

(私論.私見)「正力の胡散臭さ」について
 後に読売新聞の社主となって登場してきた正力松太郎には「負の過去」がある。関東大震災当時、警視庁官房主事という警察高級官僚であった正力こそ朝鮮人大虐殺の指揮官であった形跡がある。こういう人物が読売新聞に入り込み、大衆新聞として発展させていく。その意味で、「読売新聞建て直しの功労者」ではある。しかし、正力の本領は当時の「聖戦」賛美にあった。新聞でさんざん戦争を煽った。これが為、松太郎はA級戦犯指名で巣鴨プリズン入り、死刑になるところを占領軍の恩赦で出所する。しかし、政権与党に食い入り常に御用記事を垂れ流す体質は戦前も戦後も変わらない。「読売には権力癒着の清算されていない暗部がある」

 こうしたムショ帰りの権力主義者の社主に忠誠を誓い、その負の遺産を引き継ぐことで,出世したのがナベツネといえる。日本ジャーナリズムの胡散臭さを知る上で、この流れを踏まえることを基本とすべきだろう。


【「亀戸事件」余話1】
 「亀戸事件」で、あたら惜しい有能の士が虐殺されたが、歴史は不思議である。この系譜から後に共産党の指導者となる渡辺政之輔が生まれる。

 「お笑い日本共産党 氏の「幻の東映映画、実録・共産党」で次のように紹介されている。これを転載しておく。(れんだいこが句読点を挿入した)

●渡辺政之輔 (1899年9月7日~1928年10月6日)

 http://www2u.biglobe.ne.jp/~NKK/images/mersmt/nyukonsya/watamasa.gif

 千葉県市川市根本にて、父広吉・母テフの間に生れる。 1919年5月6日、新人セルロイド工組合を結成。 1922年、創立直後の党に入党。 10月25日、南葛労働協会(翌年、南葛労働会に改称)を設立。 1923年6月、第一次共産党弾圧で逮捕・投獄さる。同年九月四日、「亀戸事件」発生。 1925年5月、日本労働組合評議会を結成。 1927年7月、徳田球一と共にコミンテルンの日本委員会に参加。『二七年綱領』を闘いとる。書記長となり、中央機関紙『赤旗』(せっき)を創刊。 1928年10月6日、台湾の基隆(キールン)で官憲の凶弾によって虐殺さる。 享年29。 渡辺政之輔は労働者出身幹部の典型であり、徳田球一、市川正一と共に日本共産党の三賢人の一人である。

 【参考文献】
 「革命と青春―日本共産党員の群像(山岸一章 新日本出版社)」


 この渡辺政之輔と親交していたのが丹野セツである。同じく次のように紹介されている。これを転載しておく。(同じく句読点挿入)

●丹野セツ(1902年11月3日~1987年5月29日)

 http://www2u.biglobe.ne.jp/~NKK/images/mersmt/nyukonsya/tannosetu.gif

 福島県小名浜にて、父一郎・母トシの間に生れる。 1917年10月、日立鉱山病院の看護婦となり、やがて社会主義の思想に目覚め、上京。暁民会・赤爛会、南葛労働会に参加。 1923年9月、亀戸事件で危うく虐殺を免る。渡辺政之輔と結婚。日本労働組合評議会婦人部長として活躍。 1926年12月、入党。1928年10月、逮捕・投獄。獄中10年を非転向で闘い抜く。 1946年、進駐軍組合婦人部長、診療諸活動を経て、1956年に四ツ木診療所を創立。 1970年代、宮本修正主義と対決し、党の革命的伝統を擁護。徳田・渡政会の前身たる渡政会再建。 1980年7月15日、日本共産党(行動派)再建第7回大会に参加、名誉中央委員となる。 徳田・渡政会会長、日本民主主義婦人同盟顧問、(刷新)日本母親大会相談役、亀戸事件を学ぶ会会長として活躍。 晩年は行動派の生活協同化における一大家族のなかで、輝かしい生涯にふさわしい日々をおくる。 享年84。 1987年7月12日、『7・15記念――日本共産党(行動派) 葬』挙行さる。

 【参考文献】
 「丹野セツ―革命運動に生きる(山代巴・牧瀬菊枝編 勁草書房)」


 ちなみに、渡辺政之輔の母は、「渡政(わたまさ)のおっかさん」と呼んで皆に親しまれていた、とのことである。袴田里見は、「党とともに歩んで」(新日本出版社)」の中で次のように記している。
 「わたしは、渡政のお母さんのことを考えるたびに、ゴーリキーの『母』を思い出します。そして、ソ連で勉強していたときに見た映画、ゴーリキーの『母』が目に浮かんできます」。
 
 渡政の死は、この「おっかさん」をいたく悲しませたに違いない。「おっかさん」は息子の死後、「赤色救援会(モップル)」の常任活動家として党活動に関わり、治安維持法で投獄されている人たちの救援や面会などに文字どおり奔走した」。ついでながら、島崎藤村が小説「新生」で告白した姪との近親相姦事件。その姪である島崎こま子も、この「救援会」で一時期活動したことがある、とのことである。


【「亀戸事件」余話2】
 「横浜市 井上友幸」の「新しい歴史教科書を見る」(http://home.att.ne.jp/banana/history/Dai20-kyoukasho.html)を転載する。

 (5)大震災後、朝鮮人を守った警察署長(野田良朗・大田区道塚小学校教諭)

 1923年9月1日、関東大震災が起きた。この大震災のさなか「朝鮮人が暴動を起こす。」という噂が流れた。これを信じた警察や軍隊により、何の罪もない数千人の朝鮮人が殺された。こうしたなか、横浜鶴見の警察署長であった大川常吉は、暴徒に会った朝鮮人の命を救うのであった。

 横浜鶴見の警察には、救いを求めて300人の朝鮮人が来た。署長の大川は、最初、これらの人々を総持寺境内に収容したが、日本人の暴動が高まってきたため、彼らを警察署内に保護した。

 すると1000人ほどの日本人が「朝鮮人を殺せ。」と叫んで、警察署を包囲した。大川は、群衆の前に手を広げ大声で叫んだ。「朝鮮人を殺す前にまずこの大川を殺せ。朝鮮人が毒を入れた井戸水を持ってこい。諸君の前でその水を飲む、異常があれば朝鮮人を引き渡す。異常がなければ、彼らを私に預けよ。」

 そして、実際にその場で、一升の井戸水を飲み干した。これで1000人の群衆は引き上げた。その後は、朝鮮人は貨物船に収容され、その後の難を逃れている。昭和27年、在日朝鮮人の人達は、大川のお墓(鶴見区東漸寺)の横に感謝の碑を建てた。

 (私見)関東大震災のときの朝鮮人迫害は、当時の日朝関係が最悪であったことの証明でもある。大川のように、日本人を諫め、朝鮮人を守ろうとした警察がいたとことは、暗闇に明かりを見る思いである。




 この頃コミンテルンに向けて、次のような報告もしている。加藤哲郎氏の「第一次共産党のモスクワ報告書・上下」から引用する(カナをひらがな転換した)。

 共産主義インターナショナル執行委員会へ 1923年11月10日

 最近開かれた共産党の大会において、日本における今日の諸条件を考慮し、我々の全エネルギーを、「民主主義」の足場獲得の前夜にある大衆に我々が到達することを可能にする、合法キャンペーンの開始に集中することを決定した[in starting a legal campaign which would enable us to reach the masses which are on the eve of gaining a foothold i n "democracy"]。

 このようなキャンペーンはだいぶ前に開始されたが、しかし最近の政府の弾圧──6月の我が同志たちの一斉検挙──はこの領域での計画を大きく妨げ、最近の震災が我々の計画をさらにいっそう困難にした。

 しかしながら、このカタストロフは、我々がそれを共産主義闘争過程での奇貨とする機会を与えた、といいうるかもしれない。この大災害の最初の大衝撃の後に、政府の労働者への攻撃性に反対する大衆の目立った反応が現れた。大衆の民主主義精神が高揚し、政府は普通選挙権に賛成することを余儀なくされている。

 この大衆の民主主義的風潮を支持して、我々は、我々の計画を更なる解放へと向かうように実行しなければならず、出版物はこの目的を遂行する手段となっている。我々は日刊新聞を発行したい。しかし我々の最大限の財政能力に関わる今日の困難を考慮すると、それを実行することはあまりにも難しい。したがって、我々が今日の諸条件に適応する[原文はto adopt ourselves to だが to adapt ourselves to the present conditionsの誤りか?]唯一の他の方策は、雑誌を我々の支配下におくことであろう。

 たぶんあなた方もご存じの『解放』は、日本における最も進歩的な雑誌である。それはすでに創刊5年となり、2万部が発行されている。『改造』も同じく5年になるが、しかしながらその発行部数はずっと多い。しかし『解放』は、その共産主義的傾向によって、広く読まれている。同志山川、堺、佐野は主要な寄稿者であったし、同志佐野は編集長をつとめた。

 『解放』は震災で大きな被害をこうむり、全経営がいまや大きな困難に陥っている。この雑誌の経営が、全日本鉱夫総連合会代表理事の麻生久氏と著名な共産主義著述家である黒田礼二氏に対してもちかけられ、この二人は我々に、経営を引き継いでもよいと示唆している。

 『解放』の再建には5万円の資金が必要だが、我々は掛け値なしで2万円の資金で始めなければならない。我々による『解放』の経営は、共産主義闘争の最善の武器を提供するであろう。

 経営権は、完全に我々のコントロール下にある先の2人のいずれかに移されて、この雑誌の全般的経営計画を完成した。4人の編集者が任命されるが、そのうち2人は我々の仲間であり、1人は編集長たる力を持っている。財政面の管理は、我々の同志によって行われる。経営の全部門に同志がいるようになろう。著名な社会主義シンパである有能な出版者が、経営のトップにすわるだろう。したがって我々は、この雑誌を合法的なかたちで共産党の完全な支配下におくことができると保証する。

 前述のように、我々はその出発に2万円を必要とする。1万円は11月末までに、残りの1万円は12月末までに入金されたい。もしも1月までに刊行するためには、1923年12月2日までにその資金を調達しなければならない。

 同志よ、どうか我々の要請を軽視しないでほしい。この計画をすべて調査し、機会があり次第我々に回答してほしい。我々は、我々と共に同志ヴォイチンスキーがこの計画に協力しており、こうした条件についてよく知っていることを、付け加えておく。もしもコミンテルンが認めるならば、彼はこの問題で我々を可能な限り援助してくれると示唆している。

 もう一度お願いする。この天の賜りものを入手する絶好の機会を見逃すことなく、しっかり検討してほしい。我々は我々の資金要求の正当性が明らかになると確信している。同志よ、どうか急いで検討してほしい。同志ヴォイチンスキーがあなたがたの調査を助け、資金と指令は彼を通じて送られるであろう。できるだけ早くお答え頂くよう望んで、共産主義者の挨拶をもって、

             日本共産党執行委員会           B・モトヤマ(総務幹事) [自著]           P・ノダ(国際幹事)    [自著]           J・ヤマダ         [自著]           A・イシダ         [自著]           G・アライ         [自著]
 1923.11.15日付日本語手書き報告書(#23-1923)、「野田」署名、執筆者とは別の字体で「1923,15/XI、救援金についての報告(野田律太[=佐野文雄?])」の上書き

 報告書
 同志  九月一日東京、横浜及び関東地方を襲った一大カタストロフが結果した日本に於ける社会的、政治的、経済的シチュエーションの変動には大なものがあった。茲では吾々の党が直接に蒙った悲劇的損失、十月二十二日の党大会、並びにそれ以後の党の活動に就いて報告するに止める。

 地震による工場及び住宅の倒壊並びに二日に亘る大火災のために吾々は幾多の同志を失い更に狂暴なるミリタリズム及びファシスト自警団の組織された暴力によってわれわれは数十名の精英を奪はれた。最もアクチヴなメンバーであった南葛労働組合の数名の幹部は軍隊と警官の共謀の上で秘密に虐殺されたことが暴露された。そして僅かに逮捕を免かれた同志の多数も或者は退去命令によって首都を放逐され或者は厳重なる監禁の下におかれた。このやうにしてその勢力の大部分を奪はれた党の活動は一時全く停止状態に陥るの余儀なきに到り、僅かに官憲の圧迫を受けること比較的に軽い党員によってソーシャル・デモクラチックな学者、思想家を動かすことによつて官憲の高圧政策(ハイ・ハンデッド・アクション)に抗議すること、罹災労働者の救済運動に尽力することが出来たのみであった。

 けれども監禁された同志の釈放──依然として監視の下には置かれてあるが──と共にわれわれの活動は平常に復帰しつつある。従来ともすれば綱規が紊れんとする恐れがあったから ビュウロウでは党員の整理、大淘汰をなさんとの意図があったが此度の大震災、大混乱期を以って正に絶好の機会であるとして党員を一々厳正なる篩にかけて大淘汰を断行した。かくて十月二十二日現在の党員数は左の如しである。
 東京及び横浜地方        一二七名 [七二を線で抹消]
 地方               七二名 [四二を線で抹消] 在監者   三六名           
  海外               二三名
 合計            二五八名 [一六二を線で抹消]

 このやうにしてわれわれの勢力は数に於て約半減したのである。併しながら残されたる党員は何れも粒選りの精英で、過般の悲劇が吾々の上に齎らしたる損失を恢復するに十分なる意志と情熱とを保持してゐる者である。そしてこの打撃そのものから吾々は更に新なる甦生の力を汲み取ることを知ってゐる。われわれには望多き幾多の有力なキャンディデートを有する。失はれたる勢力は一歩一歩その中から補充されるだらう。そして現に補充されつつある。

 大  会
 十月二十二日、厳重なる戒厳令下の東京の郊外に於いて党の大会が召集された。 六月の共産党事件以後の党の活動並びに震災及びクーデターと整理による党勢力の変化に関するGSの報告の後、大会は運動方針並びに党オルガニゼーションに関して討議し、次の諸項に就いて決定した。
 (一) 当面の運動方針
 九月一日の自然の齎らした悲惨事の結果せる一般的社会的状勢の変化により並びに六月事件が吾党の戦術の上に結果した諸々の教訓及び経験により当面の運動の方針に重要なる諸修正を加ふる必要があった。大会はアクション・プログラムに関し同志荒井[山川均?]の手になるThesesの大体を通過しその細部的完修を新たに選出さるる執行員に委任した。茲には極めて概略的に右の決議の主旨を報告する。
 ・ 組合にオルガナイズされた労働者が無産階級中の極めて小数の部分を占めてゐるに過ぎぬ現在日本の状態の下ではわれわれの任務は労働組合と協力して之等の労働大衆をオルガナイズすることを以って最も重要なる当面の急務としなければならぬ。従って組合の政策及び運動方法の上にも右の方針に適応した改訂を加へることは組合内に於ける共産主義者の任務である。
 ・ 工業労働者が人口の小数部分を占めてゐるに過ぎぬ現在の状態の下にあっては無産階級の階級闘争は中間階級の下層分子の向背によって大なる影響を受ける。従ってわれわれの運動は之等の中間階級下層分子を支配階級の反動主義の影響から引放して無産階級の影響の下に置き、もしくは少くとも両勢力に対して中立化せしむることによって反動勢力を殺ぐことは当面の急務である。
 ・ 故に当面のわれわれ党の運動は一般大衆の理解を得る範囲内において適切に其利害を代表し彼等の前に直接に社会主義を説き共産主義社会組織の建設を説く前に、先ず眼前の具体的な要求によって彼等の利害が実際にブルジョアジーと両立せずして革命的無産階級と一致してゐることを自覚せしめ彼等が直接の利害を感ずる当面の問題に就いて積極的の行動を取り彼等をして之に参加するに到らしねることに従来より以上のインポータンスを置かねばならぬ。
 ・ 政治的「デモクラシー」は吾々に決定的勝利をもたらす主要手段ではないこと勿論だが、或程度の政治的自由は無産階級の階級的成熟のための不可避的条件である。資本主義が変則的に発達しブルジョア・デモクラシーが殆んど発達を遂げてをらぬ日本の現状では 政治的自由の要求は無産階級の当面の要求の一たるべきである。故にわれわれは封建的遺制と闘ひ政治的自由を獲得する一切の運動に重要な任務を有する。
 ・ 無産階級中の小数的分子は絶えず一般大衆によって支持され、又一般大衆に向って訴へねばならぬ。しかしそのためには公然の運動でなければ不可能である。故にわれわれの党の運動を大衆的運動に進展せしめるため一般大衆の目前に彼等の拠るべき所を示す公然の運動をオルガナイズすることに特別のインポータンスをおかなければならぬ。

 右の一般的方針に基きわれわれの当面の任務は、
 ・ 政治運動においては、  無産階級の利益を代表し都市及び農村に於ける凡ゆる無産階級並びに准無産階級分子を包擁して独立せる一個の政治的勢力たらしむる政党組織の促進。
 ・ 組合運動においては、
 (a) 組織されざる労働大衆を組合に包含することに第一のインポータンスをおくこと。組合を如何に導くかの問題は右の事業の成功に伴ふて初めて意義を生ずる。
 (b) 既成組合の間に産業別合同及び全国的結合の機運の促進。共産主義対無政府主義、合同主義対自由連合主義の原則上の争ひの打切り。合同の不可能な場合にはその前提として連合の促進。
 (c) 組合の自足主義及びサンチカリズムの傾向を理論上からよりもむしろ主として実際上から打破すること。
 (d) 組合内に於ける政治的教育。労働者の利害を代表する政府の必要を自覚せしむること。
 (e) 従って当分の中日本に於ける赤色労働組合運動は 右の如き当面の事業を担任するリーガルな大衆運動たるべきものである。

 ・ 農村運動においては、 (a) 小作人組合の促進とその組織の改善。 (b) 小作人組合の地方的及び全国的組織の促進。 (c) 地方自治機関の獲得のための努力。 (d) 農村無産者の当面の利害を支持して農村ブルジョアとの間に政治的分裂を促す事。 (e) 農村中間階級下層分子の当面の利害を支持してブルジョアから引離す事。

 ・ 婦人運動においては、 (a) 労働婦人に関しては、・組合の必要を自覚せしむるための極めて初歩的な教育運動、・既成労働組合をして婦人労働者の組織により以上の注意を向けしめること、・職業婦人の組合組織の促進。 (b) 一般無産婦人に関しては無産階級の経済的要求と封建主義に対する政治的、法律的、社会的、教養的のあらゆる進歩的要求を以って無産婦人大衆と中間階級下層婦人とを社会的活動に参加せしむることに努力すること。

 ・ 青年運動においては、
 (a) 労働青年に関しては、・組合のための啓蒙的教育運動、・組合のために新組合を徴募する別働的機関となり、・組合と組合とが組合の公式の機関により交渉を保つ前に青年運動としての連絡接触を保つことにより組合間の連鎖を一層緊密にし かくして組合愛国主義の発生を防止し、組合の合同乃至連合の機運を促進すること、・[原文・]組合外の一般無産青年運動との連絡により組合運動と組合外の無産者運動との連絡を緊密ならしむること。

 (b) 一般青年運動は、・都会にあっては現在の状態では学生を主体とし封建的遺物と反動主義とに反対する一切の進歩的自由主義的分子を包含する青年大衆の運動、・地方にあっては都会の学生の場合に照応した運動から出発し、小作人社会運動の援護、監督官庁と旧来の自治機関とに対し小学教育の地位の擁護、教員組合の促進、・如何なる場合も青年大衆の理解する要求を掲げ 青年大衆を対象とした公然の運動の組織。

(二) 組織 党の組織に関しては、大会は次の諸項に就き改正を行った。
・ ビューローの廃止  六月事件以来の非常的ビューローを廃止し大会代議員の選出する六名を以って執行委員会を組織し内三名を常任委員とし、常任の中から一名を総幹事、一名を国際幹事、一名を財務幹事に互選する。尚ほ総幹事の任命により一名のセクレタリーを置く。

・ 細胞  党員勢力の変化に応じ細胞を再編制する。従来は変則的にビューローによって指令されて来た細胞代表者は 細胞内のメンバーによって選挙される。尚ほ各細胞に新たに一名宛の副代表を選出する。

・ セクション  従来の諸セクション中、その活動をデ・ファクトに停止し居るもの又は現在の運動方針及び形勢より見てその特別の設置の必要なきものを全廃し、運動の必要に応じて並びに運動の存続する期間に於てのみ、その都度セクションを設置する。

(三) 機関紙  従来の機関紙『階級戦』を廃止し、大会によって決議された新運動方針を象徴する党の機関を創立する。  尚ほ外に共産主義者養成のため共産主義の理論を教ふる一月刊雑誌を創立する。  [以下、大きな×印で削除?──『前衛同盟』及び『青年国際共産党』の存続又は廃止、又は代置等の点に就いては執行委員会の決定に委任する。]

(四)政党組織準備委員会 大会で決議された新運動方針に基きリーガルな労働者及び農民党を組織するために政党組織準備委員会を党内に設置しその組織のための準備に当たらしめる。

(五)執行委員の選出   大会で選挙の結果 左記六名が執行委員に当選した。同志荒井[山川?]は予め病気の故を以って執行委員に選出されることを辞任した結果 一票も投ぜられなかつた。    
 本山 [モスクワで後に上書きされたと思われる注記「ヨヘナ」] 、野田 [モスクワで後に上書きされたと思われる注記「山口GM(佐野文雄)」]     山田 [モスクワで後に上書きされたと思われる注記「赤松」] 、大井 [モスクワで後に上書きされたと思われる注記「北原」] 、田[モスクワで後に上書きされたと思われる注記「立田」] 、朝日 [モスクワで後に上書きされたと思われる注記「浅沼」] 互選の結果は本山、野田、山田が常任となり、同じく本山が総幹事、野田が国際幹事、山田が財務幹事に就任した。

(六) 執行委員会の活動 大会で選出された新執行委員会は左の諸項を決定実施した。 ・ 細胞の再編制。 ・ セクションの整理。 ・ 党員資格審査委員会を設置し、新党員の採用、党員の紀律に関する審査を行はしめることにした。 ・ 政党組織準備委員会の任命。即ち党内から十六名を委員として任命した。 ・ 党機関委員会の任命。

 大会に於て決議された(三)機関紙の事項を考究調査せしむるため委員を二通り任命した。 ・ 執行委員会は各方面に亘り各実行委員を任命して震災による諸種の事件を調査実行せしめた。(イ)亀井戸に於ける共産主義者虐殺事件に関しては自由法曹団(吾々がコントロールする急進弁護士団体)と共に事実を調査して東京及び大阪に於ける労働組合の連合をして軍閥並びに官憲にプロテストさせた。(ロ)朝鮮人虐殺事件に就ても特別委員を任命して事実を調査せしめ且つ本問題に対するプロテストの団体をオルガナイズさせた。(ハ)震災当時に於ける共産主義者及び社会主義者に対する官憲の迫害、不法監禁等の具体的事実は之をパンフレットにして官憲及び軍憲のアンチ・ソシアリスト・プロパガンダを打破するつもりで既に着手してゐる。(ニ)罹災労働者救済のため「罹災者救済思想団」なる一団を組織し救済資金及び物品を募集し十月二十四日、十一月四日の二回に渉って最も窮迫せる労働者に救済品を寄贈した。この団体をして尚ほ将来も引続き活動させる筈である。

    一九二三・十一・十五日      野田 P. Noda [自署 佐野文雄?]

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マイケル・ムーアの世界侵略のススメ 教育費と奨学金で世界最悪の日本は、企業における女性役員比率も低過ぎる。ムーア監督はアメリカ社会の欠点を次々と指摘するが、それは日本の欠点と重なっているものが多い。日本はアメリカと違い、有給休暇が法的に制度化されているが、厚生労働省の『平成27年就労条件総合調査』によると、民間企業の有給休暇取得率は47.6%である。50%を下回る状態がずっと続いている。これでは制度化されていても、あまり意味がない。大学の授業料の問題は深刻だ。日本の奨学金の約9割は日本学生支援機構の貸与奨学金であり、そのうち金額ベースで約7割が有利子だ。日本の奨学金を借りている大学生は、卒業時には約300万円の“借金”を背負うことになる。OECD(経済開発協力機構)のデータによれば、日本は『授業料が高く奨学金も充実していない国』とされており、先進国では唯一日本だけだそうだ。













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映画『マイケル・ムーアの世界侵略のススメ』
マイケル・ムーア監督に突撃電話インタビュー
過激なアポなし突撃取材で、数々の話題作を発表してきたマイケル・ムーア監督。『ボウリング・フォー・コロンバイン』ではアメリカの銃規制問題をあぶり出しアカデミー長編ドキュメンタリー賞を受賞、『華氏911』では同時多発テロをめぐってブッシュ政権の在り方を問うて、カンヌ国際映画祭で最高賞のパルムドールを受賞した。その後も、医療制度や金融資本主義などを取り上げて、社会問題に鋭く斬り込んできたが、待望の最新作では、ついにアメリカ国内を飛び出して、世界を舞台にした本作『マイケル・ムーアの世界侵略のススメ』をリリース。今回のミッションは、世界各国を訪れて、いまのアメリカ社会を建て直すのに必要な政策を”略奪”して持ち帰るという「世界侵略」にある。年間8週間も有給があるイタリア、麻薬使用が犯罪対象ではないポルトガル、学校給食がフルコースのフランスなど、各国で目の当たりにする驚きの“常識”とは……? エンタメステーションは、マイケル・ムーア監督に電話インタビューを行い、その世界一平和的な「世界侵略」の舞台裏を聞いた。

完全に道を見失った。欲に目が眩んで、
かつて手にした民主主義を手放してしまったんだ

――今回取材をして、一番監督が驚いた国、もしくは興奮した政策は何でしたか?

すごくたくさんあるから難しいなあ。ポルトガルでは過去15年間に渡ってどんな麻薬を使用しても犯罪に問われていないけど、その結果、ドラッグによる犯罪や使用者が減少しているという事実かな。実際に良い結果が出ているというのがすごいし、痛快だよ。それからフィンランドは学力No.1を誇る教育の国だけど、宿題という制度を導入していないことだね。どれも僕らが当たり前だと思っている常識や業界でまかり通っている通説と、あべこべの結果が出ているんだ!(笑)
ここから得た教訓は、「いまこそ発想の転換が必要だ」ということ。今から20~30年前、アメリカでは「もっと生徒に宿題を増やすべきだ」と言われていた。なぜなら教育水準の高い日本人はたくさんの宿題をこなしていたからだ。日本の子どもたちはより長く学校や塾で時間を過ごして、よりたくさん宿題をしている。大人になっても、より長く会社にいて、 よりたくさん働く。それが強い経済を生みだしたんだと言われていたんだよ。でも間違いだったんじゃないかな。いま日本はあの時のような強い経済を維持できていない。つまり、強い経済力は、それ以外のところに秘訣があったんじゃないかな。アメリカも日本も、本質に立ち返った方がいい。世界的に世の中がおかしくなる前の時代にね。もといた場所に立ち返ってみることは悪くないし、決して「後ろ向き」なことじゃない。僕たちは、いまこそ歴史に学ぶべきなんだ。もっと平和的に人間らしく生きる道や方法が、きっとあるはずだ。ここにひとついい事例がある。なぜ君は、日本時間の朝5時に、僕の話を聞きに来たんだ?(笑)僕は遅い時間でもいいって言ったのに。 働きすぎだし、すごく日本人的だよ。

――……監督に話を聞きたかったので……。

ありがとう。そう言ってくれるのは嬉しいけど、それが当たり前だとみんなが思う風潮はよくないと思うんだ。

――そうかもしれません。アドバイス、ありがとうございます。では映画の話に戻らせていただくと、なぜアメリカは一度手にした自由や民主主義を手放してしまったのでしょう?

完全に道を見失った。過剰に進んだ資本主義社会の中で、欲に目が眩んで、かつて手にした民主主義を手放してしまったんだ。そしてそれは僕たちだけじゃない。多くの国が、目標にすべき道を見失っている。自分のミッションは「その道」を探ることにあると思っている。

教育とメディアは、本来の仕事をすべきだ
このふたつが市民の公共を守る

――アメリカではドナルド・トランプ氏の躍進が続いているようですが、彼が大統領になったら、そのミッションは難しくなると感じますか?

そうだね。だから、なんとかして阻止したいと思っている。でも実際、アメリカ人の多数はドナルト・トランプを支持していない。アメリカで選挙権を持っている国民の80%は女性、有色人種、そして18歳から35歳の若者層だから、みんなが選挙に行けばトランプは負けるはずだ。2008年には、その大多数が黒人の大統領オバマを選んだんだ。だから、僕は自分が居る場所から、自分のやれることをやるだけだ。アメリカの大多数の、オープンマインドで知性のある人たちに向けてね。

――でも数パーセントの富裕層が、いまのシステムを支えていると言われいますよね。そしてトランプは社会福祉政策を唱えて、低所得者層を取り込もうとしているように見えます。

でも頭のいい人たちは気づいてるはずだよ、いかにトランプが嘘つきかってね。最近始まった社会福祉政策のごたくは、単に票集めに走っていて、本当にヤツがそうした公共問題にまったく興味を持ってないことにね。つまり、リテラシーが一層問われる時代になったということだ。だから、教育とメディアは、本来の仕事をすべきなんだ。この2つが、市民の公共を守る。

――時にムーア監督の作品は「主観的すぎて、ジャーナリスティックではない」という批判を受けることもありますが、それに対してどんな反論をお持ちですか。

僕は完璧な客観主義なんて存在しないと思っているんだ。誰かが客観的だと思っていること自体も、それは主観で考えた「客観性」だろう?客観報道にみせかけたプロパガンダほど、たちが悪いものはないよ。それに僕は映画監督である前に、ひとりの人間だ。

――ひとりの人間、ひとりの市民として、映画を撮っているというスタンスなんですね。以前は「ブッシュ(元大統領)を打倒するまで映画を撮り続ける」とおっしゃっていましたが、いまは何を最終目標とされていますか?

目下の目標は、トランプを打倒すること。最終目標は、いい映画を撮ることだ。いま市民が立ち上がって、いい動きが生まれ始めている。「オキュパイ・ウォールストリート」とか、アフロアメリカンの「ブラック・リブス・マター」とかね。たくさんのデモや活動や展開して、何万人もの人が行動を起こした。僕の役割は、この動きをもっと発展させていくこと。一市民としてね。実際に過去作品が、そうした活動のトリガーになったという実感があるんだ。本作も「ヨーロッパだから理想的な政策ができるんでしょう」と言い始めるアメリカ人はいるよ。でも映画を観た後に、もし少しでも共感したなら、次回のPTAの集まりで「給食で、子どもに毒を与えるのはやめませんか?」と発言することだってできる。明日からできることばかりだよ。(クエンティン)タランティーノは、僕が『華氏911』でパルム・ドールを獲った時のカンヌ映画祭で審査員長だったんだけど、「僕はこれまで一度も投票したことがなかったけど、この映画を観て考えを改めたよ。ロスに戻ったら、すぐに登録して投票する。これから先もずっとだ」と言ってくれたんだ。あの言葉は、パルムドール(カンヌ国際映画祭の最高賞)より、はるかに大きな賞だと感じたし、そういう映画を撮り続けたいと思っている。

国内での撮影を一切せずに、アメリカの問題を撮る
それが今回のミッションだった

――今回の映画は問題点に焦点を当てるのではなく、民主主義を機能させるのに優れた政策など良い面にフォーカスした作りになっていますが、その理由を教えてください。

これまで散々批評家に、ムーアは問題点ばかりあげつらって、解決策については手つかずだと言われたから、解決策だけを撮る映画と作ってやろうと思ったんだ。同時に、アメリカ国内での撮影を一切せずに、アメリカの問題を撮る、これが今回のミッションだった。

――監督が影響を受けたという『ゆきゆきて、神軍』も、戦場での撮影はありませんが、まさに戦争を撮った作品でした。まったく違うタイプの映画ではありますが。

それは考えていなかったけど、その影響はあるのかもしれない。自分がこれまでに撮った全作品は、『ゆきゆきて、神軍』の影響を受けていると言っても過言ではないからね。『ゆきゆきて、神軍』は、いまもまだ変わらず、生涯観たドキュメンタリー映画の中で不動の1位だ。原一男監督とはお話をさせていただいたことがあって、非常に光栄だった。本当にすばらしい映画監督で、僕は自分が初監督作品を撮るよりずっと前にアメリカン・フィルム・インスティチュートに行って、彼の映画を観て、すごく影響を受けたんだ。僕はアメリカで彼の映画をもっと上映したい。アメリカ人が観るべき作品だと思っている。

——でも、そうした映画に興味を持つ層って、どのくらいいるでしょうか。監督が指摘されているように、アメリカには他国への興味が薄く、排他的な文化があるとか…。

まさにそうなんだ。自分が少数派だという自覚はあるよ。実際にアメリカ人の70%はパスポートを持っていないし、外国に行ったことがない、だから世界の情勢に興味がないし、ほかの国の人たちがどんな生活をして何を考えているのか知らない。それだけ視野が狭いから「俺たちが一番で、俺たちが正義で、世界の中心だ」と思っている人は多い。でもそれは事実間違っているし、古い考え方だけじゃなく、独裁的で非常に危険な考えだ。でも僕の作品はアメリカの保守層にこそ、気に入ってもらえると思っているんだよ。なぜなら、僕はアメリカという国を愛しているし、なんとかよくしたいと思っているからね。この映画を作ろうと思ったきっかけも、僕は19歳で大学を中退した後、ユーロパスで数ヶ月ヨーロッパを旅したことから始まっている。でもスウェーデンにいる時に、足の指を折ってしまったんだ。それで現地の病院に行って、治療費を支払おうとしたら、「お金を払う必要はない」って言われて、意味不明だったんだよ! ヨーロッパを旅している間に、そんな風に驚かされたことがたくさんあって、「なんて素晴らしいアイディアなんだろう」と思うのと同時に、「どうしてアメリカでは、こうしたシステムが導入出来ないんだろう?」と単純にすごく不思議だった。

でも、物事も時代も変わる
きっと、改善できるはずだ

——しかも映画の中で、欧州の人たちは「この素晴らしいアイディアや政策は、すべてアメリカから学んだ」と言っていますよね。今回監督が試みたのは、“民主主義が失われた後のアメリカ”ではなくて、欧州の政策を通じて、“民主主義が機能していた、かつてのアメリカの姿”を浮き彫りにすることだったのでしょうか。

まさにそうだね。ノルウェーの刑務所に行った時は、椅子から転げ落ちそうになったよ(笑)殺人で服役している囚人が包丁を持って料理ができたり、刑務所が牢屋じゃなくて一軒家タイプだったり….。でも世界でも最も低い再犯率を誇っている。そうした刑務所の核となった考えが、アメリカからきていたと聞いて、ますます信じられない気持ちでいっぱいになった。もちろん完全に過去の時代に戻ることはできない。でも過去から学んで、かつて勝ち取った民主主義がいまどうなっているかを、改めて向き合って、新しい道筋を探すことが必要だと感じている。“自由の国アメリカ”はもう過去の幻想だ。ここから何ができるかにかかっている。

――「世界侵略」を終えたいま、その可能性と希望は感じていますか?

そう思いたいし、信じたい。いずれにしても、変えていくしかない。だって、現状がこんなにお粗末で(苦笑)問題だらけなんだから。でも物事も時代も変わるんだよ。ベルリンの壁の崩壊も、ネルソン・マンデラの釈放も、ひと昔前は、そんなことが起きるなんて、まるで信じられなかった。この1年で起こったアメリカ国内だけのニュースを観てもそうだ。きっと改善できる。若い人たちが変えてくれるだろう。

取材・文 / 鈴木沓子

写真/映画『マイケル・ムーアの世界戦略のススメ』より
(©2015, NORTH END PRODUCTIONS)

映画『マイケル・ムーアの世界侵略のススメ』

TOHOシネマズ みゆき座、角川シネマ新宿ほか全国公開中

アメリカが誇る最終兵器がついに世界に向けて発射された!!!
これまでの侵略戦争の結果、全く良くならない国・アメリカ合衆国。米国防総省の幹部らは悩んだ挙句、ある人物に相談する。それは、政府の天敵である映画監督のマイケル・ムーアであった。幹部らの切実な話を聞き、ムーアは国防総省に代わって自らが“侵略者”となり、世界各国へ出撃することを提案。そして空母ロナルド・レーガンに搭乗し、大西洋を越えて一路ヨーロッパを目指すのだった。世界のジョーシキを根こそぎ略奪するために――。

監督・製作・脚本・“侵略”:マイケル・ムーア
原題:WHERE TO INVADE NEXT
2015年アメリカ映画 119分 
配給:KADOKAWA 
公式サイト:http://sekai-shinryaku.jp/

©2015, NORTH END PRODUCTIONS

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映画「マイケル・ムーアの世界侵略のススメ」で浮き彫りになった日本の貧困さ

2016.06.13 21:30

社会

奨学金, 教育, 男女平等, 社会問題
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出典:https://pixta.jp

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映画『ボウリング・フォー・コロンバイン』(2002年)でアカデミー長編ドキュメンタリー映画賞を受賞し、『華氏911』(2004年)ではカンヌ国際映画祭の最高賞(パルム・ドール)を受賞したマイケル・ムーア監督の最新作『マイケル・ムーアの世界侵略のススメ』が上映中だ。

同映画は、ムーア監督自身が主にヨーロッパの国々に行き、その国の優れた社会システムや政策を見て回り、アメリカでも取り入れたらどうだと提言する内容。これが日本の貧困さをあらためて浮き彫りしていると話題になっている。

ムーア監督が最初に行くのはイタリア。イタリアでは年に30~35日もの有給休暇があり、消化できなかった休暇は翌年に持ち越せる。アメリカは有給休暇の法的制度がなく、一般的な会社ではゼロらしい。また、昼休みが2時間あり、自宅に帰ってランチを食べる様子が写し出される。

フランスでは小学校の給食を取材すると、おいしそうなフレンチのフルコースが並んでいる。アメリカの給食を見せると、フランスの子供たちがまずそうだと拒否反応を示す様子がおかしい。

スロベニアの大学は授業料が無料。これに対して、アメリカでは多額の借金を背負いながら大学を卒業する若者が珍しくないという。映画にも、アメリカで授業料が払えなくなってスロベニアに留学しているアメリカ人学生が登場する。

アイスランドでは1980年に世界初の女性大統領が誕生し、完全な男女平等が実現している。会社の役員は40~60%が女性でなくてはならない。金融立国であるため、リーマンショックのときは多大な影響を受け、国内の銀行はほとんど国有化される事態になった。しかし、それでも女性経営者の銀行一行だけは生き残ることができた。男は野心的かつ自己中心的で、利益追求のためには一攫千金のリスクを取りたがるが、女性は総じてリスクを避けるという。子供の子育てのために協調を選び、利他的だというのだ。

この他にも、次のような驚きの現実が映画の中で紹介される。

・宿題がないのに学力ナンバーワンの国フィンランド
・死刑がなく、懲役刑の最長期間が21年でも再犯率は世界最低のノルウェー
・麻薬の使用は他人に迷惑を掛けるわけじゃないので合法なポルトガル
・休日や退勤後に上司がスタッフに連絡をすると法律違反なドイツ

教育費と奨学金で世界最悪の日本は、企業における女性役員比率も低過ぎる。ムーア監督はアメリカ社会の欠点を次々と指摘するが、それは日本の欠点と重なっているものが多い。

日本はアメリカと違い、有給休暇が法的に制度化されているが、厚生労働省の『平成27年就労条件総合調査』によると、民間企業の有給休暇取得率は47.6%である。50%を下回る状態がずっと続いている。これでは制度化されていても、あまり意味がない。

大学の授業料の問題は深刻だ。日本の奨学金の約9割は日本学生支援機構の貸与奨学金であり、そのうち金額ベースで約7割が有利子だ。日本の奨学金を借りている大学生は、卒業時には約300万円の“借金”を背負うことになる。OECD(経済開発協力機構)のデータによれば、日本は『授業料が高く奨学金も充実していない国』とされており、先進国では唯一日本だけだそうだ。

一方で、『授業料は安いが奨学金が充実していない国』は、イタリア、スイス、メキシコ、フランス、ベルギー。『授業料が安く、なおかつ奨学金も充実している国』はノルウェー、デンマーク、フィンランド、スウェーデン。アメリカは『授業料は高いが奨学金が充実している国』であり、オーストラリアとニュージーランドもこのグループに入る。要するに、日本は先進国の中で最悪の教育制度だということだ。

アイスランドの男女同権も日本には耳が痛い話。ILO(国際労働機関)の報告書によると、日本の女性管理職比率は11.1%で、108の国・地域別ランキングでは96位。アジアではフィリピンが47.6%で唯一のトップ10入り。中国が16.8%で85位なので、日本は中国よりも下ということになる。

アメリカでは史上初の女性大統領が誕生する可能性が出てきた。しかし、日本は女性の国会議員があまりに少なく、女性首相どころではない。国のトップが「女性が輝く社会」とスローガンをぶち上げなければいけない状況は、アメリカよりもかなり周回遅れと言えよう。

【画像】

※foly / PIXTA

http://toyokeizai.net/articles/-/120408


マイケル・ムーアが世界中を「侵略」する理由
「良い制度は持ち帰って米国も見習うべき」
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壬生 智裕 :映画ライター
2016年05月31日
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「マイケル・ムーアが世界中を「侵略」する理由 「良い制度は持ち帰って米国も見習うべき」 | 映画界のキーパーソンに直撃 - 東洋経済オンライン」をはてなブックマークに追加
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『マイケル・ムーアの世界侵略のススメ』では、マイケル・ムーア監督が世界中で「各国のいいとこ取り」を試みる (C)2015, NORTH END PRODUCTIONS
過激なアポなし取材と歯に衣着せぬ物言いで、社会問題を独自の視点で一刀両断してきたマイケル・ムーア。銃規制をテーマにした『ボウリング・フォー・コロンバイン』で米アカデミー賞長編ドキュメンタリー賞を、対テロ戦争を題材とした『華氏911』でカンヌ国際映画祭パルムドールを獲得するなど、国内外を問わず絶大なる評価を受けている。
しかし、現在、全国公開中の最新作『マイケル・ムーアの世界侵略のススメ』では、天敵であったはずの米国防総省の片棒を担ぎ、ムーア自らが“侵略者”となって世界各国に潜入するという驚きの展開を見せている。ムーア監督がそこで見たものは、「イタリアの労働環境」「フランスの給食」「フィンランドの教育」「スロベニアの大学」「ドイツの労働者」「ポルトガルの犯罪」「ノルウェーの刑務所」「チュニジアの女性進出」「アイスランドの男女平等」などなど。今のアメリカに必要なものをムーア監督は根こそぎ持ち帰ろうと試みる。
本作は、アメリカ国内に巣くうタイムリーな問題を批判し続けてきた不屈のジャーナリスト、マイケル・ムーアにとっての集大成とも言うべき作品となった。そんなムーア監督に新作への思いを聞いた。
「国防総省の協力」というのはファンタジー
この連載の過去記事はこちら

――国防総省の指令ということで、海外に行ったそうですが、彼らの協力体制はどうだったんですか?

あれは皮肉であり、ファンタジーだよ(笑)。協力してくれることはまったくなかったよ。

――しかし、ムーア監督がミッションを遂行するべく世界各国をまわる様子が、まるでジェームズ・ボンドのようでしたが。

まさに。その通りだね(笑)。

――髪の毛もワイルドなロン毛になっていて。カッコ良かったですよ。

サンキュー(笑)。

――この映画を作る際に事前のリサーチは行ったんですか?

あまりリサーチはしなかった。というのも、実際にいろんな国に行ってみて発見するものにしたいという心意気で行ったわけだからね。だから取材対象の内容については事前にリサーチはしなかった。ただ行けばきっとすばらしい結果が待っているんだろうな、といういい予感はしていた。イタリア人が有給休暇をたくさんとっているという話を聞いた時も、ポルトガルでドラッグを解禁しているのに犯罪者がいないという話を聞いた時も、僕は驚いていたと思うけど、あれは本当のリアクションなんだ。ニュース番組やドキュメンタリーなんかは、あらかじめ答えを用意した上で取材をするわけだけど、そんなわざとらしい芝居をするべきではない。だから前情報がなく、素直な気持ちで話を聞きに行ったんだ。

――こうなったら侵略した成果を公約に、ムーア監督が大統領選に出てくださいよ。

大統領選になんか出馬しちゃったら、忙しくなっちゃうからね(笑)。僕はのんびりと生活したいし、やめとくわ。
フランスの給食をムーア監督が取材。本格的なフランス料理が出てくる様子にビックリ (C)2015, NORTH END PRODUCTIONS

――ここで描かれていることはアメリカにはないものだとおっしゃっていましたが、これは日本にもないものばかりでもあるように思いました。

君の言う通り。この映画を観ていただけると、日本の皆さんにとっても学べる要素がたくさんあると思う。

――これをすべてアメリカが取り入れたら、アメリカはすばらしい国になると考えているんですよね。

そうだね。この映画に出てくる制度を見習ってアメリカでも取り入るようになったら格段に良くなると思う。実際に取り入れるべきだという声もたくさん聞いているしね。

――日本の政治家がこういう映画を観に行ったという話はなかなか聞きません。どうやったら彼らに映画を観てもらうことができますかね?

でも、実際は観てくれているんじゃないかな。たとえ本人が観ていないとしても、きっとまわりのスタッフなんかが観て、薦めてくれているだろうしね。というのも、政治家としての保身という意味合いもあるだろうけど、やはり選挙の戦略を立てる上で、国民の大多数が何を考えているかは知らないといけないわけだから。アメリカは広大な国だけど、少なくとも数百万人が観れば、それなりの影響力はあるからね。

――そうだといいんですが。ただ、日本では文化に理解がある政治家がそれほど多くはないんですよ。

ハハハ。まあ、そういう石頭は観ても分からないだろうから、ほっとけばいいんじゃない?
国民の多くはトランプ候補には投票しないよ

――一方、アメリカではドナルド・トランプが大統領候補になっていて、日本でも心配する声が多くあがっていますが、彼はアメリカをいい国にしてくれるのでしょうか。

君たちが心配するのは当然だよ。ただ、そこまで過剰に心配する必要はないと思う。アメリカで選挙権を持つ80%くらいは、女性や有色人種、18歳から35歳までの若者層であって。トランプはその層をひどく侮辱しているからね。だから彼にはきっと投票はしないよ。だから大丈夫じゃない? きっと彼は当選しないよ。

――この映画では、女性の進出がテーマとなっていますが、アメリカで女性進出が進んでいないというのが意外でもあったのですが。

まだまだアメリカだって議会の割合は20%くらいだし。人口にしたら50%が女性なわけだから、まだまだ頑張らないといけないよ。

――日本も同じようなものです。いや、むしろもっとひどい状況です。

それは君たちが何とかしろよ(笑)。
問題の根源は「私たち」より「私」という考え方
マイケル・ムーア/(Michael Moore)/1954年4月23日、アメリカ・ミシガン州フリント生まれ。22歳で新聞「フリントボイス」を創刊し、ジャーナリストとして活動を始める。1989年にデビュー作『ロジャー&ミー』を発表し、スマッシュヒットを記録。さらにアカデミー賞長編ドキュメンタリー賞を獲得した『ボウリング・フォー・コロンバイン』(2002)、カンヌ国際映画祭パルムドールに輝いた『華氏911』(2004)が大ヒットを記録した。その後も『シッコ』(2007)、『キャピタリズム マネーは踊る』(2009)など、アメリカ国内に巣くうタイムリーな問題を批判し続ける不屈のジャーナリストとして確固たる地位を確立している。ミシガン州トラバース・シティ在住。トラバース・シティ映画祭の発起人を務め、2つの映画館 The State Theatre と Bijou by the Bay を運営している (C)2015, NORTH END PRODUCTIONS

――ヨーロッパ各国からこれだけの「学ぶべきこと」があるのに、アメリカがそれを実現できない理由とは何なのでしょうか。

やはり、アメリカ人のシステムの根本にあるのが、「私たち」ではなく、「私」というところに問題があるんだと思う。

――それは助け合いや思いやりが足りないという意味ですか。

そうだね。アメリカ人というのは助け合いの精神がなくて、基本的に個人主義なんだ。

――それは最近のことですか? というのも、今回の映画では「オズの魔法使い」のフッテージ映像を織り交ぜるなど、どこか古きよき時代のアメリカへのノスタルジーを感じたのですが。

いや。アメリカにいい時代なんてなかったよ。昔は黒人がバスに乗るにも隔離されていたわけだし、さらに時代をさかのぼれば、ネーティブアメリカンへの大量虐殺を行ってきた国だからね。ドナルド・トランプは「すばらしい時代を取り戻す」と言っているけど、すばらしい時代がいつあったんだと言いたいよ。

――となると、やはりムーアさんが大統領選に出るしかないですね。

自分はまだ殺されたくないんで、やめとくよ(笑)。

――ムーアさんはアメリカの諸問題を過激に追及してきましたけど、もちろん根っこにあるのは、アメリカへの愛ですよね。

その通り。アメリカは大好きさ。ただ国粋主義的に大好きってわけじゃなくて、やっぱり故郷だからね。まさに自分は、これからもこの土地で生活していかなきゃいけないわけだからね。

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