カールゴッチが宮本武蔵の五輪書と同じく座右の書にしたオールドタイマーボディビルダーにして「ストロンゲストマンMaxickのMuscle Control

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マッスルコントロールとは?



2011-05-03 22:00:00
テーマ:マッスルコントロール

あなたは、マッスルコントロールという言葉を知っていますか?

マッスルコントロールとは、

・特定の筋肉を意識する

・その筋肉を数秒間、思い切り緊張(収縮)させる

・そして思い切りリラックスさせる

こんな感じで行います。

収縮させるとは「力を入れる」ということです。

このマッスルコントロール法を自ら編み出し、バーベルやダンベルを一切使わずにすごい筋肉の身体を作り上げた男がいました。

彼の名は、マクチグ。

maxsick


マクチグ氏の経歴

・1882年、ドイツ生まれ。

・幼少期は病弱で、肺病、くる病を患い、身体もとりわけ小さかった。

・そんなわけで人一倍健康に関心があったが、医者から運動は禁じられていた。

・仕方なく、寝室で器具を一切使わないトレーニング法を研究し、これがのちに有名になったマッスルコントロール法の基になった。

・マッスルコントロールのエクササイズにより健康状態が回復した。

・14歳の時、町のどんな男性よりも遠くに小麦粉の大袋を運ぶことができた。

・丁稚奉公に出されていた工場で、肉体労働の職人を観察し、彼らが身体を使っているのに、さほど筋肉が発達していないことに気づく。

・そして、目的の筋肉に意識を集中させて筋肉を使うことが、筋肉の発達につながることを発見した。

・青年期には、ウエイトリフティング競技で、わずか100ポンドの体重ながら、3階級制覇した。

・ツーハンドジャークで自体重の倍のリフティングに成功した。

マクチグ氏いわく

「個人が自分でできる機械的なエクササイズは、器具を使おうが使おまいが、マッスルコントロールを組み合わせないかぎり、力の極限の発揮と筋肉の発達を決してつくらない」

「私が提唱するマッスルコントロールの練習において、最も重要なことは、コントロールに参加させるための特定の筋肉に意識を集中することである」

このマクチグ氏が、今から100年ほど昔に、器具を一切使わずにスゴイ筋肉を作り上げる方法として「マッスルコントロール」を出版しました。

このマッスルコントロールという本はとても興味深い本です。

あのプロレスの神様といわれたカール・ゴッチの愛読書でした。

宮本武蔵の「五輪書」がゴッチの座右の書となっているのは有名だが 、この「マッスルコントロール」もゴッチが片時も離さない本の一部でした。

「人間は前に32個、後ろに28個の筋肉を持っている。彼は負荷器具を一切 使わずに、ある一つの動作に必要な筋肉だけに意識を集中させ、それを緊張させることで身体をつくったんだ」

マクチグの理論に傾倒するゴッチは、頭のなかでひとつひとつの筋肉の名を呼びながら、各々の筋肉を順番に意識することを毎朝の日課としている。

(カール・ゴッチの肉体鍛錬哲学 より)

この、貴重な本を私は入手し、洋書でしたが全文翻訳してみました。

何らかの形にして公開したいと思います。

どうぞお楽しみに!!

以上「マッスルコントロール(器具を一切使わずにスゴイ筋肉を作り上げた男の話)」でした。

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柔術家ヴァンダレイ・シウバ

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http://cafe.quietwarriors.com/?eid=871671

2016.02.25 Thursday

ヴァンダレイ・シウバがRIZINで柔術マッチ


4月17日に名古屋で行われるRIZINで、ヴァンダレイ・シウバが柔術マッチをするかもしれないそうです。

RIZINの榊原氏よりその話が来て、まだオファーを受けてはいないようなのですが、そのオファーというのが、

・2対2の柔術エキジビジョンマッチ
・シウバとアンドレ・ジダのチーム・ヴァンダレイと日本チームが対戦

とのこと。

シウバのグラップリングはほとんど見たことがありませんが、一応黒帯(一応って、笑) 

ホイラーの黒帯であるクリスチアーノ・マルセロの黒帯です。



それにしてもこの柔術マッチ、日本側の対戦相手によってはMMAよりも全然見たいかも。

日本チームに青木選手とかいいなぁ~


シウバは日本のトーナメントに出場も検討していて、2016年は9月に1試合、そして12月に1晩で2試合の予定だそうです。


↓シウバのギでのロール動画

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柔術 柔道 レスリング サンボのみならず空手も実践した伝説のグレイシー  ホーウス

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http://graciebarratokushima.jp/lessons-from-rolls-gracie/

ホーウス・グレイシーから学ぶ5つのレッスン

2015年9月10日 Category - GB BLOG, お知らせ

ホーウス・グレイシーから学ぶ5つのレッスン from Graciemag

10

Live your life to the fullest: 5 lessons you can learn from Rolls Gracie

ホーウス・グレイシーが今日生きていたなら64才。

パラグライダーの事故が起きたのは1982年。

カーロス・グレイシーSr.の15番目の息子は31歳でこの世を去った。

ここからはホーウス・グレイシーが道場内外で残した業績から学ぶ5つのレッスン



1.革新を恐れるな

ホーウスは自分の試合を録画して後で研究した最初の1人であった。

彼はレスリング、サンボ、柔道等の他競技にチャレンジし自分を試した。

他にもエクストリームスポーツの多くを嗜み、ライフスタイルを常にアクティブにしマットでのストレスを解消していた。

2.ラベルを貼って自分を制限するな

ホーウスは痩せた男だった。体重が70kgを超えたことはなかった。

しかし試合の時はオフェンシブでテイクダウンをし、上からの攻めが彼のスタイルだった。

素早く動くことは有名で、常に自分のテクニックとファイトスタイルの進化を追い求めた。

3.リーダーシップは獲得するもの、要求されるものではない

ホーウスはリーダーとしての特質の全てを持ち合わせていた。

カリスマ的で、恐れ知らず、知的で誠実。

グレイシーは疑念とチャレンジの時代に生徒や友人に何を言うべきか知っていた。

彼の教えは幸運にも彼から教わった人たちを通じて新しい世代にも受け継がれています。



4.自分の時間を最大限に活用せよ

ホーウスが生きたのは31年間。

しかし彼は多くの80歳の人達よりも多くのことをしたのではないでしょうか。

柔術を学び、教え、試合をし、サーフィン、乗馬、パラグライダー、結婚、2人の息子、世界中を旅行など

自分の時間を最大限目いっぱい使った。

5.自分にチャレンジせよ

ホーウスは新しいチャレンジを追い求めた。

サンボの試合、カラテのトーナメント、レスリングのチャンピオンシップ。

何にでもチャレンジした。

ホーウスが時代の最先端にいた大きな要因はそれだと彼を知る人達は言う。

「粘り強さが彼をフェノメノン(怪物)にした」

カーウソン・グレイシーはそう語った

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キャッチレスリングにストラングルホールド 絞め技があったというのがキャッチ=サブミッション競技の主張なのですが 果たして19世紀から20世紀初頭のレスラーたちが絞めで気絶した人間への対処法を彼らは知っていたんでしょうかって話 その辺からして俺は懐疑的にならざるを得ないんですよね

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https://webcache.googleusercontent.com/search?q=cache:VNFQbLLKhPkJ:https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/dspace/bitstream/10291/4231/1/jinbunkagakuronshu_45_1.pdf+&cd=13&hl=ja&ct=clnk&gl=jp


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人文科学警彙

幕 4 5 韓

ー997年ー2月

柔術の 「活法」 について

一天神真揚流柔術活法を中心に離

手 塚 政 孝

ー' はじめに一

柔道における試合~乱取中に見られる傷害には、 整形外科的な傷害がその多く をしめ、 意識消失を

来たすょうな状況は極めて少ない。 しかし、 まれには絞め技によって 「落ちj (意識消失) にいたる場

合があり、 また後頭部を強く打った際の脳震優あるいは頸椎損傷、 更には試合中に急性心不全の起こ

った例もあり、 脳血管障害も充分予想されることである。 ~

柔道の試合~乱取中に起こるこれらの状況を想定した場合、 脳震優、 頸椎損傷、 脳血管障害な どは、

指導者 ・ 審判員等関係者は、 意識消失を来たした者に対しては、 絶対安静を保持し、 ただちに救命救

急関係者、 臨床医等への連絡処置を講じなければならない。 また、 房室細動などの急性心不全であれ

ば、 人工呼吸 ・ ,[~マツサージを施しつつ前記処置を講ずべきである。

このよ うな重篤な状況ではないが、 絞め技による 「落ち」 (意識消失) は、 まれに深 「落ち」 の場合

を除けば、 後述の 「落ち」 の生理機構に見られる如く、 一過性の機能障害による意識消失であり、 試

合中ならば審判員が試合終了の宣告の後ただちに処置をして自然覚醒をはやめることができ、 これが

通称 「活」 を入れると呼称されている処置である。 柔術伝統の 「活法」 の応用される場となる。

伝承される柔術の 「活法」 の内容は極めて多岐にわたるといわれているが、 今日柔道で応用されて

いる 「活法」 には、 主と して絞め技による 「落ち」 に適用される 「呼吸活」 数種と蹴上げられるなど

して睾丸が腹腔内に押し上げられた際に施す 「睾丸活」 数種がある。

柔術各流に伝わる 「活法」 は、 元来秘伝・ 口伝に属する内容であるが、 最近になって、 著者の参画

する講道館柔道科学研究会、 全日本柔道連盟医科学委員会の要請によ り、 天神真相流柔術師範家の久

保田繭弘氏にょって 「呼吸活」 が公開演技され、 記述される機会を得た。

ここでは、 天神裏梯流柔術殺活法の~部である 「呼吸活」 数種を引用紹介しておく と と いこ、 現在

意識消失者に対して行なわれている救急蘇生法、 柔道の絞め技による 「落ち」 (意載) の生理機積、 柔

術 「活法」 の概略について述べ、 古流柔術から伝承されよ 今日柔道の試合 ・ 乱取で応用されている蘇



Page 2

2 一人文科学驚彙一

生法 「活法」 について、 その意義や生理機能の問題点などを詮じておく こととする。

講道館における柔道指導者講習会、 国際賽判員研修会等で一次蘇生法と しての 「活法」 が取り上げ

られているが、 未だ充分理解されるまでにはいたっ て いない。 また、 「活法」 に関する史的洗科カ'極め

て 少ない現状を考慮 し、 資料提示も含めて 「活法」 を取り上げたわけである。

2. 意識消失者への処遣

現在、 一般に行われている意識消失者 (突然死、 仮死状態、 意識消失) への処置は、 第一次救命処

置と して、 脈拍〝呼吸・意識のチェックの後、 ただちに蘇生法のA' B) C. (Airway 気道の確保、 Breathing

人工呼吸、 Circuーati。n 心マッサージ) が施されることになっており、 また口腔・気道内異物の除去に

は強制呼気を利用して異物を略出させるハイムリ ッヒ法などが応用されている。 これらの意識消失の

原因には、 外因的には、 交通事故 (頸椎損傷、 出血多量)、 中毒、 自 ・他殺、 運動中 (脳震盤)、 内因

的には、 心臓 (急性心不全)、 中枢神経系 (脳出血、 脳梗塞)、 呼吸器系、 消化器系などを挙げるこ と

ができる。 いずれも、 一般人、一救急隊員、 臨床医、 救急病院といった経過の中で救命救急処置が施さ

れる。 意識消失者に遭遇し、 その脈拍 ~ 呼吸カ〝確認できない時は、ーただちに心肺蘇生に移らなければ

ならない。 それは脳血流が途絶して4、 5分を越えると脳細胞が不可逆性のダメ一ジを受けるからであ

る。 この時点での対処の良否は蘇生の成功に重要な関わりを持ってくる。 これらの処置を行ないなが

ら人を集め、 救急車を手配し、 しかるべき医療機関に搬送することが重要である。 この後は二次救命、

三次救命の領域となり専門医等の処置分野となる。 それらは、 D- (drugs 薬剤)一蘇生に必要な救急

薬品 (ア ドレナリ ン、 ノルア ドレナリ ン、 イノバン、 ドブトレックス、 ネオ'シジン、 プロタノール ・・・・ --)

の処置、 E. (ECG 縄L`電図)一ECG上での心機能の観察、 処置、 F- (fibriーーati。ns 心室細動)一,心室

細動が生じた際の除細動 (DCショ ック) の処置、 G- (gauge ぇ貝"定・記録)南血圧、 中心静脈圧、 血

液などの計測-記録、 H~ (hyp。thermia 低体温法)一渡農組織及び他の臓器の低酸素状態に対する低体

温効果の適用、 ー・ (intensive care 集中治療)…ーCUにおける集中治療にょ り救命効果を高めるとい

った系統だった内容が提示され普及している。

因みにアメ リヵにぉけるEMS (Emergeney Medicaー System) は下記のように四つのレベルに明

確に区分され、 それぞれのレベルにあった技術、 器具の利用、 知識な どが指導されており、 また実際

に機能している。

Leveー 4 ・・・・ ・・Emergency department DR・s' and R.N's'

Leveー 3 ・・・・ ”Paramedics (an extensi。n 。f Eー D〟 )〝

Leveー 2 "" "EMT-ー (Fire and ambuーance crews)

Leveー ー ・・・・ ・~Y。U

救急医及び正憲護婦カ~待機している救急病院で処置される レベル (Leveー 4) から、 救急車に心亀計、



Page 3

一東梅の 「活法」-について

血圧計などの医療器具が債えつけられ、 救急騰貴の操作にょって得られた患者の症状に關する債報が

直ちに驚送され、 病院で描き出された心電図などによ り救急医が応急の処遣を指示し、 病院へと運び

込むレベル (Leveー- 3)、 同じく消防士、 救急隊員が独自に現瘍及び現場から病院への驚送の問に処置

をするレベル (Leveー 2)、 そして一般の人達が心臓発作な どの患者に遭迪した揚合の処置レベル (Leveー

ー) である。

柔道における試合~ 乱取中に生じた障害や意識消失に対する処置は、 前記のレベルーの段階ずなわち

蘇生法のABCレべルに該当する問でぁる。 特に器質障害を伴なっていると思われる際の処置は、 極

めて慎重にそして速やかに二次救命・三次救命に委ねる方策を講ずべきことは言う までもない。 また、

絞め技による意識消失 (「落ち」) は後述の如く一過性の機能障害であるにせよ、 「落ち」 た状態を長く

放置すべきでなく、 「落ち」 た際は直ちに 「活」 を施し、 自然覚醒をはやめてやる処置を講ずべきであ

るb' 〝 '

' 次に、 絞め技による 「落ち」 はどのような状況であるのか、 その生理的メカニズムについてふれる。

3. 柔道の絞め技による 「落ち」 (意識消失) の生理機構について -

今日格技系統のアマチュア ・ スポーツにおいて、 柔道の乱取 ー 試合の技と して用いられる絞め技が

勝敗決定の方法と されているものは他になく 、 極めて特異な存在となっている。 そして~ この絞め技

のう ち主と して頸側部を圧迫する技で攻めた場合、 相手が意識消失に陥いることがあり、 これを 「落

ち」 と呼んでいる。 「落ち」 は明らかに機能の脱落であるから、 体育あるいは競技の場における技と し

て絞め技が用いられる場合、 その安全性は明確にされなければならない。 先に著者はこの観点から 「落

ち」 の生理機構の詳細を明らかにする必要があると考え、 動物実験による検討を行なった。 その主た

る結果は次の通りである。 (絞め技によるいわゆる 「落ち」 の実験生理学的研究、 文化書房、 ー978)

これまでに報告されている、 絞め技によろいわゆる 「落ち」 の生理機構にふれた研究の大部分は、 ヒ

ト (主と して柔道鍛錬者) を被検体と して、 「落ち」 の現象を生じせしめ、 その時の反応現象の観察か

ら 「落ち」 の生理機構を類推したにと どまっている。 「落ち」 の生理機構の詳細を検討するためには、

絞め く頸部圧迫) という刺激に対して、 生体が示す総合的反応群を分析し、 それぞれの反応の因果関

係を明らかにしていく必要がある。 そして、 上述の反応群の性質に関して、 精密な検討を加えていく

ためには、 よ り精密な実験手法を使用しなければならない。 このことを実現するためには、 従来の研

究におけるヒ トを被検体とした非侵襲的な接近の方法にとらわれることなく、 新しい角度からの試み

が必要であると考えた。

そこで、 ヒ静縄こよる実験成績からの推詰を実証する立橿も含めて、主としてイヌを被検体とした動

物実験にょって、 厳密な実験条件を設定して 「落ちj の直接的原因を究明することを試みた。

すなわち、 動物実験の壇において、 柔道の絞め技における 「落ち」 の現象と同等の状態を作り出し、



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4 一人文科学驚豪一

その生理学的一機幕を詳細に検討し、 合せて実技の訓練および技の実施に伴う危険を防止するために必

賽な基賽的な費科を得ようと したのである。

動物実験は焼加的な積足実験の他、 すべてイ ヌを使用した。 中型の実験動物 と して取扱いが容易で

あるという理由だけではなく 、 亀常と認められたイ ヌの生理的な正常値が完債していること、一 実験に

必要な観測機器が整備されていて厳密な実験条件を設定し、 「落ち」 の直接的な原因を明らかにするこ

とができると考えられたからである。

実験の成績を要約すれば次の通りである。

(ー) 頸部校掘による生体の反応

' ' ラッ トを実験動物に使用して、 種々の方法によって頚部を絞掘した場合の生体の反応を概観した。

その結果、 気管の閉塞が起こるような校拒をするか、 気管を開放して頸部を絞掘するかにょって、

生体には全く異なる反応が現れることを確認した。-気管の閉塞によって誘発される反応は、 いわゆ

る外窒息の諸現象でぁって、 柔道の 「絞め」 によって 「落ち」 る場合とは異質なものであると考え

られた。

柔道の絞め技ではいわゆる外聖息によると思われる反応は現われないから、 「落ち」 の現象を動物

実験によって再現する場合には、 少なく とも気管の閉塞が起こらないような条件を設定することが

' 基本的な要件になると考えた。

(2) 実験動物における 「落ち」 の現象、 その発現と経過

_ 柔道の絞め技と同じ処置によって、 イヌにいわゆる 「落ち」 の状態を再現できること、 および気

管をさければマンシェッートによる頸部加圧によって同様の現象を発現させることができることを実

証した。

浅胸筋の持続性放電の消失、 瞳孔の拡大、 眼瞼反射の消失等がいわゆる 「落ち」 を確認する指標

となるが、 これらの所見が現われて 「落ち」 の状態が完成されるためには頸部に対する圧迫が、 少

なく とも体循環血圧を上回る強さでなければならない。

' ' 体循環血圧を越える大きさの圧力によって頸部が圧迫された場合、 加圧の当初に一過性の徐脈、 股

動脈血圧の上昇および股動脈血流翼の増加が起ころが、 以後深く て規則的な呼吸運動が反復し、 カロ

庄から解除する と、 ー回に限って深呼吸が現われ、 これを境界にして加圧前の状態に復帰する。こただ

し、 回復までに要する時間は加圧によって起ころ変化の大きさに比例して延長するようである。=ー

さらに 「落ち」 の状態が完成されるまでの生理学的な変化は、 加圧開始当初における一過性の徐

脈、 股動脈血圧の上昇等の反応と、 およそー分30秒を経て現われる浅膚筋の放亀活動の停止、 瞳孔

の拡大、 眼巖反射の消失等の後期の反応とに区別することができると考えられた。 〝

これらの成績から 「落ち」 にいたる過程には、 頸部加圧闘始当初にみられる神経性の詞節機携



Page 5

ー柔術の 「活法」 について一 5

Neurai ~reguーati。n mechanism と 体液性の蘭節機携 Hum。raー reguーati。n mechanism と の 2種

類の統御機構が関与していると推測された。

(3) 翼部加圧による初期反応の発現の債積

各種の向自律神経薬を投与することによって、 初期反応を後期反応と分離して観察する実験を試

みた。 ” ' ー '

その結果、 加圧の開始当初に現われる一遺性の徐脈、 股動脈血圧 (体循環血圧) の上昇、 股動脈

血流費の増加などは、 いずれも頸部を圧迫するという物理的な感作に対する自律神経緊張状態の変

化に起因する反応とみなすことができた。 `

頸部の圧迫を継続することによって現われる骨格筋の放電活動の停止、 瞳孔の拡大、 眼機反射の

消失な どは、 薬物の投与によって初期反応が現われない場合でも、 必ず出現していわゆる 「落ち」 の

状態が完成するので、 頸部圧迫の初期に出現す る諸種の生理的な変化は 「落ち」 の完成に主たる役

割を演じていないことが明らかになった。・ ' ・

(4) 頸部加圧時における脳遺流主要動脈の血行動態

「落ち」の状態の完成に直接関連すると考えられる頸部加圧時に現われる後期反応について、 脳を

還流する主要動脈の血行動態の変化の側から詳細に観察した。 '

この場合の加圧の強度は 「落ち」 が完成するために必要な条件と しての体循環血圧を越える圧力

250mmHgに規定Lた。 '

その結果、 上述の強度の頸部圧迫によって総頚動脈系の動脈および静脈が完全に閉鎖されて、 カロ

圧部頭側に閉鎖した回路が形成されること、 同時にも う一つの脳の血液還流の経路になっている椎

骨動脈系に代償的な動脈血流量の増加が起こっていること、 および頭部以外の体循環血行路に血流

量の増加が起こることなどの事実が明らかになった。 離方、 このような頸部加圧の方法によって、 例

外なく 「落ち」 の状態が出現しているので、 このことを考慮に入れて、 総頚動脈系統血行路の血流

の停止が 「落ち」 の発現に対して主要な役割を果たしている と推測したのである。

(5) 脳循環血流と 「落ち」 の発現

「落ち」 の状態を成立させる ためには、 頸部の圧迫によ り皮質領域を還流する血流を阻止すること

が極めて深い関連をもっているこ とが予測されたので、一脳を循環する主要な血管の血流を阻止する

という、 さらに負荷を限局してかけるよ うな実験を行ない、 「落ち」 の現象が発現しうるか否かを検

討した。 ・ ' '

その結果、 頸部を通遺する総裏動脈および頸鬱脈のみを選んで両者の血流を同時に阻止しても、 「落

ちj の状態まで到達させることはできない。 しかし織頸動脈から分枝して椎骨動脈に吻合する後頭



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助聴を結彙したうえで、 藤頸動脈と豪艶旅の血流を阻止すれば、 いわゆる 「落ち」 の現象を発現さ

せることができることを実証した。

また、 縦頸動脈と頸藤派の他に椎骨動脈の血流も同時に阻止すると、 現われてく る反応は全く 異

なって、 内窒息にょろ藁藁な状態を呈し、 生命の維持に直接関与する中枢機能まで破綻に覆するこ

とが推測された。

それゆえ、 頸部の圧迫によ り 「落ち」 の状態を発現させるのに必要にして充分な条件は、 椎骨動

脈に吻合する後頭動脈を含めて総頚動脈系の血流を阻止することであると判断した。

(6) 長時間加圧の効果

_絞めによって 「落ち」 にいたる経遣の生理学的機構の詳細な解明と相まって、 絞めを持続した場

合の限界とでもいえるものを確認しておく こと も、 柔道の絞め技の実践にあたっては極めて重要な

問題になる。

そこで 「落ち」 を発現させるのに充分な強さの頸部加圧を持続して行なった場合の反応について

若干の検討を試みた。

その結果 「落ち」 の状態カゞ確実に成立してから、 以後引き続きその強さの加圧を行なう と、 およ

そ9ないしー4分の間に強直性の痙攣が起こ り、 痙攣の反復と と もに心拍間隔カぎ徐々に延長し、 股動

脈血圧 (体循環血圧) が上昇して脈圧が減少するなど、心臓血管系機能の異常、 いわば 「落ち」 の

現象に続く二次的な変化が現われるこ とがわかった。

「落ち」 の現象は明らかに窒息と異質な現象であるが、 「落ち」 の状態を長時間維持した場合に現

われて く る二次的な変化は、 従来の知見を参照して、 高位中枢の機能失説を後遺症と して残す危険

性があることと示唆していると考えられた。

ー 以上、 上述した各種の動物実験の成績に基づき、 頸部への加圧にたいする生体反応は

ー) 初期反応群_ ・ ・

頚部加圧開始後数秒後に現われる一過性の徐脈、 股動脈血圧の上昇など、 主と LてNeuraー

reguーati。n mechanism に ょ る 反応。

2) 後期反応辞

裏部加圧開始後およそ ー分を経過してから現われる筋放電活動の停止、 瞳孔の拡大、 眼臓反射の

消失、 尿失禁など、 主と して、 Hum。raー reguーati。n mechanismにょる反応。

に要約される。

そして 「絞め」 による 「落ち」 の発現には後期反応群が主役を演じており、 その生理学的機構を要

約すれば、 “「落ち」 は総頚動脈血行路の血流阻止にも とづく、 大脳皮寶領繍の酸素欠乏Hyp。xic

c。nditi。nを直接の原因とする意繊消失である” と結請した。



Page 7

一葉籠の 「活法」 について一 フ

以上の成績にょって、 脳循積血流の完全遮断あろいは気管蘭裏に上る窒息では不可逆的な反応と し

て、 轟終的には死の転嫌をとるものであるが、 「絞め」 によって起ころ 「落ち」 く薫臓消失) は一遺性

の機能債害によるものであり、 絞め技の大部分は、 相手の生命に危険を及ぼすことのない固め技と し

ての束縛技であることカダ確認されたと考えたのである。

4'一_ 柔術の 「活法」 について

「活法」 とは、 柔術の一つの技と して発達した蘇生法である。 即ち、 武術闔争、 修練中に衝撃 (例え

ば手・撃〟武具等で突かれる ・打たれる ・倒される ・蹴られる等) を受けて昏倒した場合とか、 頸を

絞められるとか、 土に埋もれたとか、 煙に巻かれるとかあろいは水に溺れるなどして仮死状態 (意識

不明 ~気絶・卒倒) に陥った際に、 即座に施される柔術独特の救急処法である。

「活法」 に関する巖も古い資料は、 戦国時代の夢想流 (竹内流に次いで古い流派) 伝書の中の夢想流

陰陽之巻殺活伝である と されている。 以後、 活法は千軍万馬の間、 生死の関頭において、 実地体験に

基づき研究、 練成され、 発達をみた。 各流においては、 独自に極秘のう ちに殺・ 活法の研究がなされ、

幕末にいたって柔術はー00余りの流派を数えたが、 「活法」 も種々案出、 伝承されて、 その種類はー00

を越えたともいわれている。 〝

「活法」 に関しては夢想流、 傷心流、 心明活殺流、 起倒流、 渋川流、 天神其揚流、 天神正伝其随一念

流、 扱心流、 浅山一伝流等が有名である。

「活法」 は蘇生術と して古く から一般に興味を持たれていたようであるが、 柔術古流においては免許

を受けるような段階にならなければ教授されず、 流儀の秘伝と して最後に伝承されることが多く、 世

に出ることは極めて少なかった。 また、 教伝レベルを段階的に区切り、 教授内容も段階的に分断され

る例が多い。 柔術各派の伝書には、 「活法」 については口伝とのみ記されている例が多く、 手技、 解説

等の載った資科は極めて少ない状況である。 ” _

しかし、 時代の経過と共に、 日常生活でおこる諸状況 (例えば高所から落ちる ・首つりー ・ 物にぶっ

かる ・喉に物が詰まる ・毒気にあたる ・熱射病 ・ 日射病等) の中で活用されてきており、 今日でも医

療器具を使用しない一次救命処置、 蘇生法と位置づけることができる。 ・

' 前述の如く、 柔術各流派にょって種々の特色のある 「活法j が案出されており、 流儀にょってその

施し方、 名称を異にしているが、 「活法」 はおおよそ次のように大別される。

誘活、 襟活、 総活、 裏総括、 背活、 羽活などである。 窒息者に自然呼吸を起こさせる疆合とか、 窒

息ではないが柔術の流れを く んだ柔道独特の技術である絞め技にょって 「落ち」 た時一意繊消失を-

来たした時に施される 「活法」 である。 賛死活、 圧死活、 煙死活などもこれに覆すると考えられる



Page 8

(図ー、 図2、 図3、 図4参照)。

陰嚢活法と も呼ばれ、 睾丸を蹴り上げられた時に起こる虚脱に対する蘇生法である (図5参

事活、

照)。

海、 川、 堀などで溺れて仮死状態になった者に対して悪水を吐かせ、' 呼吸活あろいは人工呼吸術

を施して蘇生させる方法である (図6、 図7参照)。

首をく く った者を地面に降ろす方法および呼吸活あるいは人工呼吸術で意識回復をはかる方法で

ある (図8参照



)



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一葉鑑の 「活法」 について一 9

(5) その他

脳競優等で卒倒し気絶した者に施す方法で手あらにわたるようなことは巌しく禁じている臓嚢遺

活、 疼痛等で苦しんでいる者に施す歯痛活、 悪事活、 生気を呼び起すことを目的と した心臓活、 気

活、 産活などがある。 図に示した 「活法」 はいずれも “死活自在接骨療法柔術生理書” (井口松之助

著・ー896) による。

元来、 活法は殺法 (特に当身技) と表裏一体となって発達したものであり、 “真之神道流死活法極

意手引図解" にみられる急所図は楊心流のそれを踏襲したものであり、 後には天神其楊流を通して

講道館柔道へと伝えられている。 殺 ー'活法は同時に誇ずべき内容も多々あるが、 今回は敢えて活法

のみをと り上げた。 今日の柔道の試合-乱取では、 上記の呼吸活数種と睾丸活が細々と伝えられ、 応

用されている状況である。

ここでは、 天神其楊流に伝承され、 柔道の絞め技によって 「落ち」 た際に応用される呼吸活につい

て、 天神其楊流師範家 ・ 久保田敏弘氏の賛料を記載しておく 。 . r ー

活法とは、 武術の斗争、 修練中におきた諸状況 (例えば、 手、 拳、 武具等で突かれる ・打たれる ・働

される ・絞められる ~蹴られる ・水に溺れる等) によって仮死状態 (意識不明-気絶ー 卒倒) に陥っ

た時に蘇生される方法。 昔は武士の心得の一つと して、 身に付けた。

時代の経過と共に、 武家のみならず一般家庭の日常生活でおこる諸状況 (例えば、 高所から落ちる ・

首吊 ・物にぶつかる ~喉に物が詰まる -毒気にあたる ・熱射病・ 日射病等) を生活の知恵として、 広ニ

い意味で活用されてきた。 - -

今日では、 医療器具を使用しない、 一次救命処置、 蘇生法の一つである。

ここでは、 絞め技による仮死者 (落ち ー 意識不明) の蘇生方法について述べる。

活法を施す心得

志に従って気が通い、 気の通う ところ力が集まるは、 一定の理である。

気とは、 体内にある無形のもので、 気の起こ りを陽といい、 静まるを陰という。 _

日頃、 体内に気を満たすことが肝要であり、 修業が進んで理に遭った技が出せるよ う になれば気

と一体させ、 ょり修練を重ね自在に気を起こし、 辞めることが可能になり、 目に見えない働きとな

って技が威力あるものとなる。

~※ 「落ち」 があり、 自らが活法を施す立壇の時、 仮死者に自分の全積気を注入して、 蘇生させる

という 強い志をまず持っこ と。



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遽心とは、 技の挙動中の心の驚き。

戒心とは、 挙動を終わって、 我が目を相手に注ぐこと。

※施術者は仮死者の佛、 どの様な状態で (舌の巻き込み・痙攣~ 泡・脱糞尿の有無等) あるか

薫時に見極め、 施す活法に遺した状態に仮死者を位置させ、 自らも位置につく。 (前心)ご。

仮死者の体格をみて、 脊柱に当て る掌底、 膝の強弱、 腹部を押し上げる力の強弱に配慮しつつ、

仮死者の蘇生を確認する。 蘇生しない拐合、 次に施す活法の種類の判断、 この様な心遣いをす

る。 (遺心)。

蘇生した時、 意識の確認・服装を整える ~休息させる。 (残心)。

(3) 施術者は、 丹田に力を入れ く臍下に心身の精気を集める)、 身体の中心を正し、 心静かにして、

速やかに活を施す。

次に活法の種類を述べるが、 仮死者の 「落ち」 の深さが判断しかねる場合もあり、 速やかに活を施

す必要上、 一人で施術ができ最も簡単な方法から順次、 列記する。

尚、 この順序は仮死者の 「落ち」 の深さに応じて、 研究された結果である。

【奈] 轟い活法~

第一法 (仮死者の側方から施す)

仮死者 長座

施術者 (ー)'仮死者の左体側に左膝をつき右立膝。

(2) 左手腕にて仮死者の胸部、 二の腕を制し、 右掌底にて脊柱六、 七節を突き上げ、 仮死

者が恥か仰向く様にする。

第二法 (仮死者の後方から施す)

仮死者 仰向けに寝かす

施術者 (ー) 仮死者の右側方に位置 し、 左膝をつき下腹部に跨がり右立膝。 (仮死者に体重をかけな

い)

(2) 臓部上 り腹部にかけて両手で藁接する。

(3) 仮死者を長座にし、 背後に立っ て 右膝頭を脊柱六、 七節にあて、 左足は後方に引き、 両

手を鳩よ り両臓下にさすり降ろし、 両事そ上たずら串ぼ寒 (胸を開く様) と同時に着

藤壺を突書五歳亭様に し、 仮死者が驚か仰向く様にする。



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仮死者 仰向けに寝かす。

施術者 仮死者の右側方に位置し、 左膝をつき、 股のあたりに跨がり右立膝。 (仮死者に体童をかけ

ない)

助 者 仮死者の頭部あたりに座す。

気海活法は犬小腸-脾臓・ 胃 ー横隔膜を刺激し、 肺臓、 肝臓を開き呼吸運動をおこさす。

※気海とは臍下の腹部全体をいう。

[三3- 裏活法 ~(一人で行う)

仮死者 腹這い

施術者' (ー) 左膝をつき、 股のあたり に跨がり、 右立膝。 (仮死者に体重をかけない)

(2) 背中を両手で上下に摩擦する。

(3) 乳の後方下 (水落の後方部下・急所 「電光」) あたりから両掌で強く押し、 突き上げる。

裏活法は脊髄大動脈ー 盲腸~横隔膜・交感神経を刺激し、 肺臓、 肝臓を開き呼吸運動をおとさす。

現在、 「活法」 という蘇生法が・一次蘇生法と して競技や練習の場で応用されている例はおそらく柔道

以外にはないと思われる。 柔道のみに受け継がれていることは、 柔道が柔術を母体と した歴史的経緯

を考えれば当然と思えるが、その伝えられる内容は曖昧となりつつあること も否めないところてぁるu

技術の変遷と軌を一にして、 「活法」 も また単なる古典的な蘇生法と しての意味あいしかないのであろ

うかb~著者はまだ充分に応用価値があると考えるがよ 現状では不明な点も多々あり、その応用にはい

ま一つ進展を見ない状況である。 ' `

「活法」 に関して、 一つにはその内容に関すろ文献収集あるいは伝承されている実技を ビデ木等によ

って収録・分析し、 施術法などの技術体系を整理しておく必要があり、 二つには、 「活法」 の生理的効

果の検討をし、 その限界、 応用範囲を明確にしておく必要がある と考えられる。

「活法」 の生理的効果に関しては、 著書らも呼吸反射の面、 vasd~vagaー syndr。meの観点、 ある

いは上行性脳幹網様体賦活系との関連から既に若干の検討を行なっているが、 未だ類推の城を出てい

ない。 しかし、 「呼吸活」 を施した際には、 かなりの強制呼気が得られ、 活入後は呼吸流費及び呼吸数

が壇加し呼吸促進が見られることなどは既に測定検討済みである。 また〟 「活法」 の数種は脊椎あろい



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一柔術の 「活法」 について一 ー3

は 「活~ンボ」 (急所) と称される部位に衝撃を与える方法のみをとっており、 既に古典ともいえる其一

Mag。unのascending reticuーar activating system く上行性脳幹網様体賦活系) の働き離種々の

刺激を受けとる知覚神経の側枝が網様体に入り、 そこからのイ ンバルスが大脳の興奮水準 (意識) を

高める料が連想されるところである。

「活法」 の生理機債については、 覚醒の水準を高めて意識を回復させる 「活法」 の効果及び絞め技に

よる 「落ち」 の生理機構を考慮すれば、 「活法」 を施した際の脳内血行動態、 脳内酸素代謝等を検討す

ることが最も重要な内容と考えられる。

近年、 急速な ME の発達に よ り 、 PET (P。sit。r。n Emissi。n T。m。graphy ポジ ト ロ ン CT、 陽亀

子放射断層撮影法 脳内血流費、 ブドウ糖代謝輩、 酸素消費費、 神経伝達物質の代謝肇等が測定可能)、

NーRS (Near ーnfrared Spectr。sc。py、 近赤外分光法一急性虚血脳における動態、 血行動態、 脳酸

素代謝等カ寺経時的に測定可能) 等によってヒ トの脳におけるhem。一dynamicsが非侵襲的に観察'観離

定可能になってきた。 これらを応用することによって 「活法」 の生理的効果の核心にふれる検討が早

急になされるべきであろう。

本稿では、 「活法」 の概略について述べると と もに、 「活法」 が柔道の絞め技によって 「落ち」 た際

の一次蘇生法と して利用されるべきであること、 器質障害を伴なう よ うな場合には慎重な処置が必要

であり 、 「活法」 の限界も視野に入れつつ、 未だなされていない脳血行動態の観察によろその生理的効

果に関する核心にふれる検討が必要でぁること等について詮じた。


http://www.ls-25.net/misc/judobu_5.html

アメリカ放浪編 その2


今回は、「柔道で落とす話」を一つ。

テキサスで大きなアメリカ人達を相手に柔道をしなければならなくなって、私の柔道は変わりました。

日本にいたときの得意技は、内股、跳ね腰、大外刈りといった体を利した大技でした。足払い、大内刈りは得意技につなげる為の連絡わざといった感じで使っていました。寝技でも、上四方固め、横四方固めと上体を中心に押さえる技でした。
が、さすがに体が大きく、足が長く、腕力の強いアメリカ人相手に、これまでの技だけで勝つのは難しく、大いに体力を消耗するのに気付いていました。そこで、立ち技は背負い投げ、体落としを、寝技は絞め技を組み合わせていくことにしました。

特に寝技では白人、特にヨーロッパで練習したことのあるヤツは、関節技を得意にしているヤツが多い。
これはかつての中量級の世界チャンピオン、腕拉ぎ十字固めを得意としていたイギリスのアダムスの影響が大きいと思うけど、彼らの身のこなしの良さ、背筋の強さ、腕力の強さが中途半端に入った関節技も参ったに持っていける。
実際、私も何度か肘の筋を伸ばされてしまいました。(手加減せいっちゅーのに)

ただ、絞め技に関しては、逆にその腕力に頼ってしまい、ぐいぐい締め付けるだけで、なかなか綺麗に決められるヤツがいないのに気付きました。
(ちなみに 参ったと言え!とは Say uncle!といいます。アメリカ人はおじさんに助けを求めるのだろうか?)

練習の時に、ちょっと本気で絞めてみたところ、ものの見事に落とすことができました。

それまで、上になって攻めていたと思っていた大男が、いつのまにかぐったりして、下からごそごそと私が這い出してきたのを見た周りの連中は、
Oh My Go~d!! Holy Shit! と大騒ぎ、
目の前で気絶した人間を見るのは初めてのヤツも多く、それ以来、私は彼らから大変に恐れられることになりました。
さらに えーいっ!と気合いを入れて(何も気合いは入れなくても良いんだけどパフォーマンスで)活を入れ、意気を吹き返したのを見たときは東洋の神秘に出会ったかのよう。
皆目を丸くしていました。

それからは、ただ寝技の時に襟を取っただけで参ったをする奴まで現れる始末。尤も、本当にうまくなってくると、襟を取られただけで息が詰まる殺気があるけどね。
それでも時々は本気で落としてしまわないと絞める感覚が判らないので、参ったをできない状態にしておいて絞め落としてしまうこともありました。
皆ごめんね。
これって核を持っているだけじゃなく、実験までしないと気に入らないアメリカみたいかな?


ここで 皆も一緒に絞め技の練習をしてみましょう。

そうそう、今隣にいる人の衿を取って、自分の方から仰向けに倒れてみて下さい。
まず、上から覆い被さってくる相手を、背中を下にして正対して受けます。
左膝で相手の右腰を右の方へ押しながら、少しだけ自分の体を右に捻ります。
同時に、右足で相手の左膝を下に(尾側に)蹴ります。
すると相手は思わず左手を床についてしまい、右脇があきます。
そこで、自分の左腕で相手の右腕を小手投げふうに巻いて、できたら相手の左襟を取ります。こうなるともう相手は動けなくなってしまいましたね。
そしたら、自分の体を相手に寄せて、右手で順手(握手をするように)に、相手の右襟をできるだけ深く取ります。
そのまま自分の右手首をテコにして右肘を張るようにして絞めて下さい。
絞めるときは、自分の胸を相手の胸に寄せるように肘を大きく張るのがコツです。

ほらもう相手の人は落ちてしまったでしょう。
ただ、活を入れるのはちょっと難しいから気をつけて下さい。

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ついでに「落とす」ことに関する一連のスレッドを紹介しましょう。

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柔道で落ちる時は、窒息するのではなく、頚動脈圧受容体に対して急激に負荷をかけ、急性一過性脳虚血状態を作るわけです。
このため、ふわ~っとして気持ちよくなり、お漏らしをする者もいます。

しかし、下手なヤツが絞め技をかけると、相手の気管軟骨を潰さんばかりに絞め上げ、絞められる方はよだれを垂らしながら真っ赤な顔をしていかにも苦しそうで、見ている方も顔がひきつり、寒気が走ります。

私自身も、テキサスのコーパスクリスティーで行われた、テキサス南部柔道大会無差別級に出場したとき、その前夜のパーティーでいつものように酔っぱらってステージに駆け上り、
「俺は日本男児だ。絶対に参ったなどしない!
 俺を負かそうと思うなら、落とすか、腕を折るかしかないぞ!
 これが大和魂だ!」
とやって、大喝采を受けましたが、その後対戦相手を紹介され、あまりに強そうだったので、おしっこは済ませてから試合に臨むことにしようと思いました。

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(by チンタラ)

ほおっー、そうだったのか!
僕は、単に頚動脈を締め付けて脳虚血になるのだとばかり思っていました。確かに圧受容体反射を利用する方が効果的だろうね。ふむ、ふむ。身体の反射機構を利用した高度なテクだったわけだ。力じゃないね。

おっと、頚動脈圧受容体反射(Carotid Sinus Baroreflex)は、僕の学位論文のテーマなんだった。こんなことも知らないなんて、なんともお恥ずかしい話でんなあ。


内頚動脈洞圧受容体反射(Carotid Sinus Baroreceptor Reflex)は正常な血圧を保つための神経機構の1つです。

体の自律機構が程よい血圧を保つには現在の血圧を知る必要がありますが、そのための血圧センサーの1つが内頚動脈にあります。喉仏の両側にある総頚動脈(いわゆる頚動脈)が、頭の方に向かっていって、まさに顎の下に潜り込んでいく辺りで外頚動脈(頭蓋骨の外側に血液を供給する)と内頚動脈(頭蓋骨の内側担当)とに分かれます。

分かれたばかりのところの内頚動脈は少し径が太くて膨らんだようになっています。この部分を内頚動脈洞と呼び、そのまわりには細い神経が網目状に取り巻いていています。

血圧が高くなって洞がパンと膨らむと網目状の神経が引き伸ばされて盛んに信号を送るようになります。これを受けた脳は「ははあん、血圧がちと高すぎだな」と解釈して、血圧を下げるような司令を出す訳です。具体的には交感神経とか副交感神経をあやつるのです。

さて、平川君がこの内頚動脈洞付近をもみもみすると、網目状の血圧感知神経が刺激されて(実際の血圧が高くもないのに)、脳に信号を送ります。すると脳では、これは「血圧が高い」というふうに解釈されます。そして脳からいろんな信号が出されて血圧を下げるように働いてしまいます。つまり圧受容体反射機構がすっかりだまされてしまう訳です。

この「だまし作戦」は時々不整脈の治療にも使われますが、反射機構そのものがかなり強力なので、へたにだますと患者が失神してしまったりということもあります。

おわかりいただけましたでしょうか?
でも、平川君がこれを読んだら、「生理学をやってる連中はこんなふうに簡単に済ますけど、ホントはそんな単純なもんしゃないんだ。柔道の奥義はもっと深いんだよ。」とか言いそうで、なんか、心配。

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さすがは 畑中教授、よく判る説明でした。

こういった反射は、鍛えれば何とかなる人と、どうにもならない人がいて、落ちやすさという部分も出てきます。

実際、九州山口医科学生柔道大会で2試合続けてそんなに絞められてもいないのに簡単に落ちちゃってピクピク痙攣している選手を見ました。この人は癖になってるんだろうか?
普通は絞め技の練習で、顎を引いて首の筋肉を張るのを繰り返しているうちに、だんだんと落ちにくくなります。

そこで、柔道の奥義というわけではないけど、実際に絞め落とす時にはもう一つ大事な要素が加わってきます。

それは相手を「もうどうにもならないんだ」とか、「あっ、知らないうちにこんな事になっちゃった」といった心理状態に急速に追い込むことです。
この「あっ」とか「うっ」とかいうのが大事です。
それは凄い顔をしてみせるとか、大声を出すとかいうことでやるのではなく、抵抗する相手にあわせて、素早く絞めている手の力加減や角度を変えることで、そんな不安定な心理状態に追い込んでいくのです。
でもあまりに早くそういう状態に追い込むと「参った」をされてしまいます。

こんな心理的駆け引きもあるのは、戦争にも共通していますかね?

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

活の入れかたは、
私は落ちた人を坐らせてその後ろに回り、背中に片膝を当てておいて、両上腕を急に上に引き上げます。
この時、「えいっ」などと気合いを入れればなおさら良し。
急速に肺の中に空気が入り、それで心拍出量が増え徐脈も解消するのではないかと思っています。

それで戻らなかったことは今の所ありませんが、大体、少しボ~っとしているふうなので道場の隅に置いておきます。
足を挙げておくとなおよろしい。

試合で落ちた人は審判が息を吹き返させますが、私と同じようにする人もいれば、
「君、君」といいながらほっぺたを叩く人もいます。
練習中は、水をぶっかける所もあるようですが、道場が汚れるのでお勧めではありません。
 

http://www.sportsclick.jp/judo/03/index02.html
これで君も柔道博士

第2回:人はどうして“落ちる”の?

Q 柔道では絞め技があります。例えば、試合中に送り襟絞めなどで、絞められた選手がなかなか「参った」せず、頑張ってこらえていると、落ちてしまいます。その、「落ちる」ということを教えてください。どうなると、落ちてしまうのでしょうか。
 また、見ていると「死んでしまうのではないか」と思えて恐いんですが、落ちた後の選手は、障害などが出たりしないのですか。それから「活」を入れるのは誰でもできるのでしょうか。

A 柔道の稽古や試合中、絞め技で攻められ、そのまま顎を絞め続けられていると、いわゆる“落ち”てしまいます。一体、“落ちる”とはどういうことなのでしょうか。

 ひと言で言うと、落ちるとは脳の働きの水準が低下し、意識がなくなることを言います。別の言い方では、脳の覚醒水準が落ちたことを言います。

 では、どういう訳で落ちてしまうのでしょうか。その理由を簡潔に言えば、絞められ、頚動脈が圧迫されることによって、脳に入ってゆく血液(血液量)が減るのです。脳が覚醒しているためには、覚醒に必要な血流が必要ですが、絞め技を掛けられることによって血管が圧迫され、必要な血液が十分脳へ送られなくなるのです。

 十分な血液が送られなくなると、脳の覚醒水準が低下し、やがて意識がなくなってしまいます。意識がなくなると、身体部位の筋が緩み、脱力を見ます。これが落ちた瞬間ですね。この時、絞めを緩めます。そのまま絞め続けると、深く落ちたり、危険な状態へ移行するからです。

 落ちた時、直ちに絞め技を止め、いわゆる、活を入れると蘇生し、意識が戻ります。活は正しいやり方をすれば、誰にでもできます。私事ですが、筆者は学生時代、落とされたことも相手を落としたこともあり、活を入れて相手の意識を戻したこともみんな経験しています。

回答/村田直樹(全柔連教育普及委員長、講道館柔道資料館)
近代柔道2006年4月号掲載

http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/860051
近代デジタルライブラリー - 柔術秘伝活法 : 一名・死人蘇生術

https://webcache.googleusercontent.com/search?q=cache:X3cSxpwfmv0J:https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/dspace/bitstream/10291/4099/1/jinbunkagakukiyo_47_149.pdf+&cd=7&hl=ja&ct=clnk&gl=jp


https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/dspace/bitstream/10291/4099/1/jinbunkagakukiyo_47_149.pdf のHTMLバージョンです。
G o o g l eではファイルを自動的にHTMLに変換して保存しています。




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《個人研究》

柔術 「活法」 の文献研究

ー・ はじめに

明治ー5年, 嘉納治五郎師範によって柔道が創始されてから既にーー0余年が経過した。 師範より直々

に教えを受けた高段者も現在では極めて少なくなり, また柔道の母体となった柔術各流派を受け継ぐ

人達裕年々少なくなっている。 それらの経過の中で, 柔術各流派の成立過程 ー 技術内容とともに柔術

独得の蘇生法である 「活法」 も益々不明になりつつあるのが現状である。

一方, 今日の柔道の試合や乱取でお古流柔術より伝承されてきた 「活法」 が救急蘇生法として応用

され, 細々 と伝承されてきた。 それらは絞め技によってもたらされる 「落ち」 (意識消失) の際に施

される 「呼吸活」 と睾丸が蹴り上げられるなど した際に起ころ虚脱に対して施される 「睾丸活」 であ

る。 これらは今日の第一次蘇生法と して利用される救急処置であるから, 「活法」 が生体に及ぼす生

理的効果の詳細な検討が必要であるこ とは言うまでもない。 しかし, 「活法」 が秘伝・ ロ伝とされて

きた歴史的背景などにより, 柔術各流派の 「活法」 の手技などの詳細は不明な点の多いことも事実で

ある。

ここでは, まず伝承されている柔術の 「活法」 に関する文献調査の中で, 古流柔術の概略, 古流柔

術の 「活法」 について, そして明治時代に著された “死活自在接骨療法柔術生理書” に見られる 「活

法」 について述べておく こととする。

古流柔術について

古武道には, 剣術を留ま じめと して槍術・ 薙刀, 棒術) 杖術, 弓術, 鉢術ー柔術, 挙法などがあり

多岐にわたっ て いるが, 古武道発生当時は, これらの各武術を含めた総合武術と して, 戦場武術と し

て存在 した。 香取神道流, ト伝流, 鹿島新当流, 柳生新陰流, 馬庭念流, 竹内流柔術, 関口流柔術な

ど創流当時はいずれも総合武術の色彩が濃いものであった。 '

古流柔術の中で最古の虫のは, ー532年 (天文元年) 貪り流の竹内流とされている。 竹内中務大輔久

盛によって創始され, 三代目竹内加賀介久吉によって, 捕手 (と りて) 腰廻 (こ しのまわり) 小具足

(こ く'そく) を中心とする流儀が完成される。 代や貪り流当時の心と技の原形を一子相伝により伝えら



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古流柔術の活法について

元来, 「活法」 は武術の闘争・ 修練中におきた諸状況 (当身技 ー 武具等で突かれる, 打たれる, 優】

される, 絞められる, 蹴られる等) によって仮死状態 (意識消失 ー 気絶) におちいった際に施される

蘇生法であり, 武士の心得の一つとされてきた。 時代の経過とともに, 武術の際に起こる諸状況のみ

ならず, 日常生活でおこる諸状況 (高所より落ちる, 首つり, 物にぶつかる, 喉に物が詰まる, 煙に

まかれる, 熱射病 ー 日射病にかかる等) の際にも活用されてきた"

しかし, その歴史的背景, 殺法との関連からながめてみると, 「活法」 を仮死者に対する応急処置

く蘇生術) とするのは狭義にとらえたものであると し, 広く整骨法, 整体法, 救急法, 呼吸法, 柔軟

法, 薬法等を含む広義にとらえる見方もある。 もとより柔術の 「活法」 は殺法と表裏の関係で発展伝

承されてきたものであり, 「殺法」 (武術)…当身技, 関節技, 絞め技, 投げ技, 抑え技等と前述の

広義の 「活法」 ”(医術) の二つの分野で伝承されてきたものが多いように見受けられる。 ただ, 流派

内での取り扱いの軽重, 秘密性等は流派によって大きな差異を見せている。

内容の不明のものも多い縄 柔術各流派によって種々の特色ある 「活法」 が案出されたとされている

が, 流派によってその施し方, 名称を異にしてはいるものの, これまでの調査で, 「活法」 はおおよ

そ次のように大別することができると考えられる。

誘活, 襟活, 総活, 裏総括, 背活, 羽活などである。 窒息者に自然呼吸を起こさせる場合とか, 窒

息ではないが柔術の流れをくんだ柔道独得の束縛技である絞め技によって 「落ち」 た時 (意識消失を

来た した時) に施される活法である。 緯死活, 圧死活, 煙死活などもこれに属すると考えられる。

睾活, 陰嚢活法とも呼ばれ, 睾丸を蹴上げられたり した際に起ころ虚脱に対する蘇生法である。

(3) 水活, 人工呼吸活

水に溺れて仮死状態になった者に対 して, 悪水を吐かせ, 呼吸活あるいは人工呼吸術を施して蘇生

させる方法である。 , ・

首をく く った者を地面に降ろす方法および呼吸活あるいは人工呼吸術で意識回復をはかる方法であ



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柔術 「活法」 の文献研究

上述 「柔術生理書」 には, 他に特殊例 と して, 水月 を打たれて卒倒した者に施す 「吐息の活法」,

あるいは 「浅山一傳流の活法」, 「渋川流」 及び 「起倒流の活法」 についてもふれられているが, 手技

の違いはあるもののそのねらいとする生理効果は共通であると思われる。

最初の人工呼吸術は溺死者に施す蘇生法であり, そのねらいは受動的器官である輝雄互に他動的に呼気

を生じせしめ, 続いて吸気を起こさせて自然呼吸を回復させることにある。 救急蘇生法と しては, 仮

死者を伏せさせて肩口, 背中を圧 して両肘を引くニールセン法が永年に亘って人工呼吸法と して用い

られてきたが, 近年は気道を確保した上でのm。uth t。 m。uth 法が用いられている。 生理効果の上か

らは 「人工呼吸術」 は今日の人工呼吸法と軌を一にする蘇生法とみることができょう~

活法に関して, 本書では順位づけがなされていることが特徴的である縄 体験的に生理効果をもとに



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"頂位づけがなされたものと推察される。 ここでは 「誘の活法」 を 「活法」 の基本型として位置づけて

いる〟 「活法」 の施技に際しては, 仮死者の充分な観察, 両手掌で胸をなでる捺衝法を数度く り返し

た後, 施技に対する心構え即ち一一活必生の信念で活を施す という準備段階を経て, 気合もろとも活を

施すものとされている。 これらは多分に 「天神眞揚流の活法」 が引用されたものと考えられる。

「呼吸活」 関連の施技法をみると,

0)急所と考ぇられる部位 (脊椎) に, 手掌あろいは膝で衝撃を与える方法。

(2)胸郭を急激に縮少させる方法や腹部を加速度的に圧するこ とによ り) 強制呼気を生み出す方法及

び腹部内圧を急速に高める方法とに分けることができる。

これらの施技法が生理的に どのような意味があるのか, 今後の検証が必要な点である。 「活法」 の

生理効果に関 しては, 既に著者らが呼吸反射の面・ vas。ーvagaー syndr。me の点, あるいは上行性脳

幹網様体賦活系と意識との関連から若干の検討を行なっているが, 未だ類推の城を出ていない。 しか

し, 「呼吸活」 を施した際には, かなりの強制呼気が得られ, 活入後は呼吸流量及び呼吸数が増加し

呼吸促進が見られることなどは既に測定検討済である。

現在の講道館柔道では, 「活法」 という蘇生法が一次蘇生法として競技や練習の場で応用されてい

るが, 伝えられてきた 「活法」 の内容が曖昧となりつつあることも否めない事実である。 古流柔術の

「活法」 に関する更なる文献収集 - 整理が必要であり, その上で 「活法」 の生理効果を検討し その

限界, 応用範囲を明確にしておく必要があると考えられる。

(てづか ~ まきたか 経営学部教授)

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SAS・特殊部隊式 図解実戦武器格闘術マニュアル
マーティン・J. ドハティ
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SAS格闘術の本を読んでわかったんですが
軍隊格闘術といってもフツーにグラップリング 寝技とかもやっています
ハイキックも実戦じゃ危ないとか言われていてもフツーにやっています

複数とか武器とか言っても要はケースバイケース

実戦なんていろんなケースがあるということですかね

確かに柔術にしろMMAにしろボクシングにしろ伝統武術にしろ
どんなスタイルの格闘技 武術にも欠点がある

柔術とか実戦じゃ複数の時寝技なんて使えないとか
刃物持った相手に柔術とか使えない

とか刃物持った相手にタックルは危ないとか

いう専門家がいるんですが

そういうのって要するにケースバイケースだと思うんですけれどもね

フツーにこれらの本でもタックルとか教えてますよ

そもそもグレイシーのナイフに対するノウハウは日本の明治から渡った柔術家がノウハウの源流だし
寝技複数云々のイチャモンも密室で殺人犯罪者に襲われて首絞められたらどうすんのよ?
とか
そういう犯罪者って大抵は周りに他人がいない時に襲うわけだし

要はケースバイケース
あらゆる状況下でも戦えるのが実戦っつーんじゃないでしょうかね?
山田英司先生

ムエタイのハイキックにしろカウンターさえ相手が取れなきゃ必殺の武器ですしね

ちなみに一見完全無欠の競技MMAにしても欠点があるとすればギのノウハウが無いって事ですかねぇ
実戦じゃ衣服で絞められた時の対処知らないとやばいでしょうしね

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柔術プリースト221 バリカタ柔術RADIO 48

Jiu Jitsu Priest #221


生田誠のバリカタ柔術RADIO #48

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頭とカラダで考える大賀幹夫の寝技の学校 関節技編 GONG(ゴング)格闘技 2016年4月号 Fight&Life (2016年 04 月号) たった独りの引き揚げ隊 10歳の少年、満州1000キロを征く (角川文庫) ヨガ・ボディ: ポーズ練習の起源 琉球空手、ばか一代 (集英社文庫)レビューになっていないレビュー



とりあえずゲット
まだパッとしか見ていないのでレビューも何も出来ないですが良さげです
大賀先生の足関節技て今の今までイメージには涌かなかったので意外でした
でも黒帯ですもんね
色んな技に精通していて当たり前なんでしょうけれども
大賀先生の俺が見た狭い記憶での試合とかスパーじゃ足関節技なんて使ってなく
スイープと絞めの人ってイメージだったんですが

GONG(ゴング)格闘技 2016年4月号

イースト・プレス (2016-02-23)


柔術大特集!
激しく濃い内容です
ファイト&ライフも今月面白かったけれどもゴン格の方が断然濃い!



MATURIの出場要請に個人のリクエストは無い
て描かれてたんですが




東先生に騙された?
まんまとはめられた?
そういえば東先生にギャラ出るとか言われたのに実際出てないし(常識的に考えたら当たり前なんですけどね その辺の激弱アマチュアですし…)

あとパパドポロスのインタビューでオールインの事が描かれてましたよね

オールインがいまいち抽象的というかGスピ読んでてもよくわからんもんというイメージしか無かったんですが
要するに
実例としてコンデコマこと前田光世 スモールタニら柔術家 柔道家やレスラーがボクサーと戦ったり
柔術家 柔道家がレスラーとやったりした試合をオールインと呼んだんでしょうかね?
異なるスタイルとの試合 

オールイン

全てのスタイルが中に入る 
当時の異種格闘技戦のリアルファイト 他流試合のことを指したんでしょうか

Fight&Life (2016年 04 月号)

フィットネススポーツ (2016-02-23)

久々にビクトル古賀先生が格闘技メディアに登場
80年代はUWFブームでサンボブームが関東限定
というか東京限定にあった気がします
その中でビクトル古賀先生が右翼で有名な杉山時代の格闘技通信で登場し
大変興味深い内容の連載が展開されていました

たった独りの引き揚げ隊も文庫化されていたんでそっちもついでに購入


考えたんですがビクトル先生は山下 泰裕とソ連を繋いだキーマン
ロシアとの繋がりを持つキーマンなんですが
この先生もいわゆる政治的な意味での活動をされたんでしょうかね?

あと植松さんのお蔵出しですが
裸のロシア人とサンボ ユーラシアに生まれた格闘技
の2冊が無かったのが意外です

最凶囚ヒョードロフ先生の事とかも描いているいるんですが

たった独りの引き揚げ隊  10歳の少年、満州1000キロを征く (角川文庫)
石村 博子
角川書店(角川グループパブリッシング) (2012-07-25)
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ビクトル古賀先生の本が文庫化されていました
格闘技コーナーには無い本ですんで最近まで気づきませんでしたね
佐野真一の解説が追加されていて大変面白かったですね
特に大日本帝国の五族協和が絵空事でしか無い下りがこの本によって明らかにされているのがいいですね


ヨガ・ボディ: ポーズ練習の起源
マーク・シングルトン
大隅書店
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ヨガボディ
いわゆるヨガの本
ヨガと柔術はヒクソンの時代から縁が有り
ホジャーマシャードなんかは柔術と同時にヨガを教えているわけなんですが
現在のヨガのアーサナ ポーズは本を辿れば欧米の大道芸人から生まれたって…

かなりショッキングな内容です
インドのヨガが欧米のボディビルとか欧米の体操から出来ていたりするっつーのは
5千年の歴史を持つとか考えていたのが馬鹿らしいですなぁ

ですが面白いです
色々な歴史がヨガにあったんですなぁ
インドの武術とかインドのローカルレスリング クシュティとかとも関係が深いとは

琉球空手、ばか一代 (集英社文庫)
集英社 (2014-12-05)
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図書館で借りたものを読んだんですが内容が面白かったんで
これも購入
空手に限ったこっちゃぁ無いんでしょうが
組織がでかくなればなるほど技術を統一化してしまい個性が無くなってしまうんでしょうねぇ
技術に多様性が無くなるのは組織化が大きくなればそうなるんでしょうなぁ

だがフランス人に空手の何がわかるっつーのは違うと思う
フランスの人に限ったこっちゃぁ無いんでしょうが
外国から学ぶに来る人の熱心さは遠い国から来ただけの事が有るだけあって通常の日本人以上に熱心

あと
フランスの競技空手のレベルは日本以上に高い
JKFマガジンの競技カラテドー漫画 MAGICに描かれてるような凄いノウハウを使っている選手がたくさんいる
あんま関係ないですけどMAGIC メチャ面白いです
単行本化してほしいですな

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ビンテージレスリング動画より考察 キャッチはサブミッション競技だったのか?





一つは20世紀初頭のキャッチアズキャッチキャンだとわいれるレスリング動画
もう一つはYMCAの古いレスリング動画

見た感じ
フツーにフォールが目的のレスリング競技です

現在のノーギ競技の様にサブミッションで破壊して勝敗が決まるっつー光景は一切見受けられません
うーーーーん?

この辺で混乱が生じるんですよねぇ

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How To Wrestle And Wrestling:catch-as-catch-can キャッチレスリングはサブミッション競技だったか?

How To Wrestle And Wrestling:catch-as-catch-can

https://archive.org/stream/wrestlingcatchas00hitc#page/n9/mode/2up



How to Wrestle and Wrestling: Catch-As-Catch-Can
E., Jr. Hitchcock R. F. Nelligan
Paladin Press
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すっかり粘着質のストーキング行為を繰り返すレスリング技術に関するど素人の某氏に対する個人的感情はここで置いといて
とりあえず秘伝記事巻末に描かれている本を紹介します

えーーーーーっと

とりあえずストラングル 絞めに対する逃げ方とか紹介されています
あと関節を駆使した崩しの立ち技

主にネルソン系のフォールへ持っていくまでの高度なノウハウが紹介

他にも足関節技と思わしき裏技か?
と思うような画像もありましたが
turn
という単語を見てフリースタイルレスリング版アンクルホールドのように足を持って仰向けにする荒っぽいノウハウだと理解
まー
よく見たらただ単に痛める方向に足を引っ張ているだけのものなので
サブミッションのアンクルホールドみたく破壊するんじゃなくて
単なる嫌がらせの痛め技で相手を仰向けにするっつーノウハウにしか見えないわな

実際にサブミッション極めるには相手を固定しないとすぐに逃げられるわけだし

つか
昔の本は高専柔道の本でも感じた事なんだが本当に不親切だわ
写真一枚でろくに解説もされてはいない
これでは当時のキャッチに対する技術の全体像がよくわからん

スタンドでのダブルリストロックっぽいサブミッションっぽい立ち関節技っぽいノウハウの画像47コマも手の組み方が違います
あれじゃ投げ技しか使えない

思うにパニッシュメント punishmentと呼ばれるノウハウはサブミッション 相手を破壊する関節技と見るには相手に逃げられる不完全な代物
首関節にしても相手を完全に固定しておらず要は痛め系の関節の構造を利用した崩しのノウハウとか仰向けにするための亀崩しのノウハウでしょう
ハンマーロックにしろネルソンと一緒に使っていることを見ると破壊するためのノウハウではなくフォールへ持っていくためのノウハウだと考えたほうが妥当でしょうよ

もしこの本が藤原本のように相手を完全に固定した状態でのサブミッション教則なら俺も認めていたとは思いますが
これはフツーのレスリング本ですよ

まー
ストラングルに対する護身術のような技がレスリングでもあったのは発見でしたが

ヨーロッパにメジャーなスタイルはフランスに生まれたグレコローマンで
グレコは立ち技中心のスタイル

もう一つのメジャースタイルはイギリスとアメリカのみでメジャーになった炭鉱労働者の間から生まれたきキャッチアズキャッチキャン(いわゆるフリースタイルレスリング)寝技も多い

で19世紀とか20世紀のレスリング教則本の多くがフォールや崩しの為のためのサブミッションであり
相手を完全に破壊するためのサブミッションのノウハウとしては不完全

そもそもそんなメジャーなスタイルのノウハウがビリーライレージムのレスラー2人くらいにしか
格闘技の世界に影響を与えていないようなのはどう考えても不自然(他にもジーンレーベル マスタータトゥなどがいますがそれでも数が少なすぎる)

19世紀から20世紀初頭サブミッションで決着をつける競技の動画が
少なくともレスリング側には無い

そういえばカールゴッチ門下生でまだトレーニングをバリバリ積んでいたころの前田日明が20世紀初頭のレスリング教則本の
を読んで

コレじゃ関節技は極まらない

という趣旨のコメントを出していましたがそれも今ならわかる気がしますね
確か初期の格闘技通信に掲載されていた20世紀初頭のフランクゴッチの教則本?
調べたら出てくるんでしょうども

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グレイシー一族 ホーウス・グレイシー ヒクソン・グレイシー 柔術 ルタリーブリ ブラジルにレスリングとサンボ 必殺技アメリカーナを伝授した男 ボブ・アンダーソン

先日発売されたゴング格闘技最新号で岩崎正寛選手が宮田和幸先生からレスリングを学んでいる事が記事で紹介されたり
柔術新聞速報版のツイートで伝説のレスラージョンスミスのツイートがあったりと

柔術では改めてレスリングの価値が見直されているようです

ではブラジルの柔術
というか競技柔術 BJJにレスリングが導入されたのは何時なのか?

確か大分前のゴング格闘技のインタビューでフリースタイルレスリング五輪銀メダリスト大田章先生が
グレイシー一族のタックルを見て彼らはレスリングを相当勉強してやりこんでいると初期UFCの頃から看破していました

レスリングとグレイシー一族 ブラジルとレスリングの交わりは何時からか?

既にルタリーブリのパイオニア マスタータトゥやホベルトレイタオンなどによって
グレコローマンスタイルやキャッチアズキャッチキャン(フリースタイル) プロレス
などが広められていましたかが

依然としてブラジルではレスリングはどマイナー

柔道とは違ってレスラーたちは貧困で競技人口も最悪でした

そんな中で伝説のグレイシー ホーウスグレイシーがアメリカに渡って伝説のレスラー ボブアンダーソンと交友を持ち
ボブからレスリングとサンボを柔術家たちは学ぶ

これが柔術がレスリング サンボといった異なる技術体系
新しい遺伝子を導入した最初の出来事でしょうね

ちなみにホーウスはなんと柔道 レスリング サンボだけでなく空手も学んでいたんだとか
もしかしたらブルース・リーのような思想と哲学

ジークンドーコンセプト

を持った天才柔術家 天才マーシャルアーティストだったんでしょうか?

少なくともエリオの時代は柔術一筋で他の格闘技やトレーニングには目も向けず ヒクソンのようなヨガの呼吸とか一切導入せず
柔術のみしかやらなかったそうです

次のカーウソンの時代では
カーウソンはホベルトレイタオンとも一緒にトレーニングを積んでいたから
その時にレスリングと柔術の交換教授をしたかもしんないですねぇ

そしてホーウスの時代に本格的なレスリングを学ぶ

以下参照

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https://translate.google.co.jp/translate?hl=ja&sl=en&u=https://en.wikipedia.org/wiki/Bob_Anderson_(wrestler)&prev=search

ボブ・アンダーソン(レスラー)


ウィキペディア、フリー百科事典から


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ボブ・アンダーソン (1944年生まれ)は、米国からのレスラーとコーチです。 アンダーソンが1944年に誕生した[1]からであるレドンドビーチ、カリフォルニア 。 [2]彼は彼のジュニア年第三配置され、状態は彼のシニア年チャンピオンとして仕上げサンクレメンテの高等学校に通りました。 彼は1968年西部地域のオリンピックトライアルで優勝し、1968年のオリンピック予選を獲得した。 [3]ボブは年生は全体のシーズン記録破りの1敗を持っていたとして、彼は状態を受賞エルカミノカレッジに出席しました。 ボブはアダムズ州立大学に移すことになった、彼はその後2時間NAIAのチャンピオンになった、とロッキーマウンテンチャンピオンだった。 [3]ボブはNCAAオールアメリカンた。 [4]ボブ・アンダーソンが出場し、1968年オリンピックトライアルで優勝し、また、彼フリースタイルは、1979年米国サンボ世界チームでグレコローマン、1971年パンアメリカン競技大会、およびサンボ中で苦闘。 [2]彼はコーチと個々のコーチングチャンピオンシップを獲得し、1978年パンアメリカンゲームで競いました。 ボブは第二と第三の配置、SOMBOで2代表チームをコーチ。 1996年[3]ボブ・アンダーソンは、訓練を受けていたロールス・グレイシー 、誰から彼はアメリカーナアームバーのような技術を教えることになる。 [5] [6]彼は1996年米国オリンピックチームのレスリングコーチだった。 [3] 2003年に、彼は世界になりました211ポンドでチャンピオンレスリングマスターズ。 [3]ボブはまた、訓練を受けたルーロン・ガードナー 、 ダン・ヘンダーソン 、 ヒース・シムズ 、およびランディ・クートゥア 。 [4]ボブ・アンダーソンは、現在までの列車とレドンド・ユニオン高校から来て力士、ジェイソン・フォン、。



コンテンツ [hide]
1 生い立ち
2 大学
3 フリースタイルレスリング
4 コーチのキャリア
5 参考文献


初期の人生 [ 編集 ]

高校では、ボブ・アンダーソンは、彼が彼のジュニア年第三を配置し、高校の先輩年間状態チャンピオンになるために行ったトーランスカリフォルニア州南高等学校に通りました。

カレッジ [ 編集 ]

大学では、ボブは彼が彼の大学2年生年状態を獲得し、1損失すべてのシーズンを破る記録を持っていたエルカミノカレッジに出席しました。 状態を受賞した後、ボブはアダム聖大学に移しました。 彼は2回のNAIAのチャンピオンになったとも部門1、すべてのアメリカ人として選ばれました。

フリースタイルレスリング [ 編集 ]

彼はギリシャ、ローマ時代に西部地域のオリンピックトライアルを勝ったとき1968年、ボブは彼のフリースタイルレスリングのキャリアを始めました。 1971年、彼はまた、ローマで開催された世界選手権で2位を置くようになりました。 ボブは最後再び彼は第二の置かれ、1979年パンアメリカンゲームで競いました。 ボブが世界チャンピオンになるためにやったことがなかったが、彼の業績は、それだけの価値でした。

コーチのキャリア [ 編集 ]

まもなく世界選手権で彼の崩壊後、彼はコーチになりました。 彼は世界選手権に彼のオリンピックチームを率いメキシコシティの彼の最初の競争をコーチ。 1978年、ボブはまた、SOMBOトーナメントで勝利に2代表チームをリードするブラジルに旅しました。 ボブはとして成功しませんでしたが、ローマで開催されたオリンピックでの国のレスリングチームを配置する第三のアシスタントコーチだった1984年は、これが彼の最後のコーチングevent.In 2003年だろう、ボブは211ポンドでのマスターの世界チャンピオンでした。 彼は本当に長い時間のチャンピオン、コーチ、メンターです。 隔年でボブは、力士のためのキャンプを開催しています。






出生名ボブ・アンダーソン生まれ 1944 職業(複数可)コーチ歳アクティブ 1966年-現在ウェブサイト 配偶者 ironman.org/anderson:ジャネット・アンダーソンが常駐 :サンクレメンテ、カリフォルニア州
参考文献[ 編集 ]

1. Jump up ^ http://articles.latimes.com/1987-02-28/sports/sp-6590_1_san-clemente
2. ^ Jump up B http://intermatwrestle.com/articles/2886/Anderson-Townsend-to-coach-US-Grappling-World-Team
3. ^ Jump up to: bは Cの Dの 電子 "ボブ・アンダーソン-いくつかのレスリングの歴史」 。 殿堂のアイアンマンホール。
4. ^ Jump up B 「コーチ」 。 アカデミーレスリングサウスベイ。
5. Jump up ^ 。BJJヒーローズ"グレイシーロールスロイス」 。BJJヒーローズ:柔術の百科事典を 。
6. Jump up ^ MMA百科事典 。




スタブ・アイコン1 スタブアイコン2 アメリカに関するこの伝記の記事スポーツのレスリング選手やレスリングコーチがあるスタブ 。 あなたはWikipediaを助けることができるそれの拡大 。









カテゴリー : アメリカのスポーツ力士
住んでいる人々
アダムス州グリズリーズ力士
エル・カミノ・ウォリアーズ力士
アメリカのレスリングコーチ
1944年の出生数
レドンドビーチ、カリフォルニア州からのスポーツ選手
アメリカのスポーツレスラースタブ









































http://ameblo.jp/gold-impact/entry-10431050227.html

About Bob Anderson




レスリングコーチとして数多くの生徒達を世界に送り出してきたボブ・アンダーソン。国体、オリンピックだけでなく、MMAスターやブラジリアン柔術でもボブの指導を受け、成長していった選手が多くいる。

ランディ・クートゥア、ルーロン・ガードナー、ダン・ヘンダーソン、ヒーガン・真チャド、ヒース・シムズなどである。

ボブは南カリフォルニア州で育ち、高校生の時にレスリングを始める。

高校2年生の時にマスターチャンピオンで優勝。大学時代には、カリフォルニアジュニアカレッジステイトレスリングチャンピオンシップで2回優勝を果たし、最も卓越したレスラーとしての賞を獲得し、コロラド州アダムス州立カレッジに移る。


そこで大学学位を取得し卒業。AAU All-American(2回), NCAA All-American, NAIA All- Americanとして、 カレッジキャリアを終了。


その後も更なる勉学に励み、ロングビーチにあるカリフォルニア州立カレッジにて体育学修士号を習得、そしてドンスバック大学で栄養学修士号を習得した。


1968年にはAthlete’s In Actionに参加し、そこで14年間チームのコーチを務める。その間にも1968年のアメリカオリンピックチームトライアルでの勝利を含め、全国大会、国際大会で多くの勝利を収め、サンボでは2回のPan American Games Championships、フリースタイル世界チャンピオンで勝利する。


ボブはロシア、ルーマニア、スペイン、グァム、ブラジル、ブルガリア、イラン、イングランド、ノルウェイ、グァテマラ、イタリア、コロンビア、スウェーデン、フィンランド、ウズベキスタン、メキシコ、そしてカナダと、世界中でコーチをし、また大会に出場し続ける。


1996年アトランタオリンピック後は、ハワイに移住しカウマヌフクリスチャン学校にて7年間コーチを務める。


最近の功績としては、チェコスロバキア、フィンランドで行われたシニアワールドチャンピオンシップで金賞、銀賞を獲得。


アメリカレスリング殿堂入り


サンボ殿堂入り

http://cafe.quietwarriors.com/?eid=678299
●その1
近所に買い物に行ったら、なんとボブ・アンダーソンに会った! めちゃでかい!


五輪金メダリストのルーロン・ガードナーのコーチを務めているボブ・アンダーソン(右)
ルーロン・ガードナーはオリンピック3連覇。 アレキサンダー・カレリンも破っています。
(追記: 「オリンピック3連覇のアレキサンダー・カレリン」の間違いですっ)

<Bob Anderson>
五輪レスリング・コーチでもある彼は、UFCで2階級制覇した殿堂入りのランディ・クートゥアをはじめ、元プライド王者のダン・ヘンダーソン、DREAMミドル級準優勝のジャカレイ、戦極で総合デビューを飾ったシャンジたちにもレスリングを指導しています。

伝説のホーウス・グレイシーとも親友で、ホーウスとの思い出についてはいつかゆっくり聞いてみたいと思います。 

ちなみに奥さんもすごくいい人でした。 ボブ・アンダーソンがどうしてもファイターの名前を思い出せず「えーーっと、えーーっと、なんて名前だったかなぁ?」と何度も繰り返すと、「トシなのよ~」って笑ってました。

というか、家が近所ということが判明。 ホドリゴ・グレイシーの家も近所だし、カイケが馬に乗って信号渡ってたこともあるし、この辺いろいろいるなあ。。。

http://www.sanbi.us/tashin/?p=1123
ダン・ヘンは二度のオリンピック、二度の世界選手権、二度のワールドカップ出場経験を持つグレコローマン・レスリングの強豪として総合の世界にやってきましたが、アメリカ代表チームの監督としてダン・ヘンのレスリングの師匠に当たるボブ・アンダーソンという人は敬虔なクリスチャンです。

この人はアーサー・ホーランド牧師がカリフォルニアでスポーツを通じて信仰を深め広めていこうという目的意識でワイワイやってた仲間達の一人で、去年一月の沖縄におけるKOTCの初海外興行ではジャッジを務めました。

当日、私の席の隣りがアーサーで、その隣りがボブさんでした。
あれだけ凄い席に座る幸運はこれから先、なかなか巡ってこないだろうね(笑)。

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グレイシー一族同士のバーリトゥード! ヒクソングレイシーvsカーリーグレイシー ビトーベウフォートがビトーグレイシーだった時期のバーリトゥード!
















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合気道のガチ 弟子とのプロレス演武ではなくガチのやり取りです

板東英二が塩田剛三の技がガチでかかるかどうかを実践
最初の段階で抵抗をしていますね
板東英二

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ボクシングの発勁 ジャックデンプシーとショベルフック 個人的にはデンプシーロールと言えば はじめの一歩よりもナックル№1かな

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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%83%87%E3%83%B3%E3%83%97%E3%82%B7%E3%83%BC

ジャック・デンプシー





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曖昧さ回避 同名のアイルランド出身のプロボクサーで世界ミドル級チャンピオンについては「ジャック・デンプシー (ミドル級)」をご覧ください。

ジャック・デンプシー

Jack Dempsey 1.jpg
1920年頃の写真


基本情報


本名
ウィリアム・ハリソン・デンプシー

通称
マナッサの人殺し
拳聖

階級
ヘビー級

身長
185cm

リーチ
196cm

国籍
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国

誕生日
1895年6月24日

出身地
コロラド州マナッサ

死没日
1983年5月31日(満87歳没)

死没地
ユタ州ソルトレイクシティ

スタイル
オーソドックス

プロボクシング戦績


総試合数
83

勝ち
62

KO勝ち
50

敗け
6

引き分け
9

無効試合
6
テンプレートを表示

ジャック・デンプシー(Jack Dempsey、男性、1895年6月24日 - 1983年5月31日)は、アメリカ合衆国のボクシング世界ヘビー級王者。ジャック・デンプシーはリングネームであり、本名はウィリアム・ハリソン・デンプシー(William Harrison Dempsey)。「マナッサの人殺し」(The Manassa Mauler)、「拳聖」などの異名を取った。



目次 [非表示]
1 人物
2 来歴 2.1 生い立ち
2.2 トレドの惨劇

3 引退後
4 生涯戦績
5 関連項目
6 外部リンク


人物[編集]





夫人を肩に
身長185cm、体重85kgとヘビー級としては決して大柄と言えない体ながら、並みいる対戦相手たちを戦慄的なハードパンチで次々とマットに沈めていった。闘志剥き出しの激しいファイトと圧倒的な強打とで、1920年代に全米を熱狂の渦に巻き込んだヒーローであり、当時、「大統領の名は知らずともジャック・デンプシーの名を知らぬ者はいない」とさえ言われた。

デンプシーは、ボクシング史上初めて前傾姿勢の構えで戦ったボクサーとされる。彼以前にもジョン・L・サリバンなど豪腕と謳われたボクサーは存在していたが、彼らは極端に重心を後ろに掛ける構えをしていたため、一撃で試合を終わらせるパンチを持つにいたらなかった。一方、デンプシーは重心を前に掛けることで体重の乗ったパンチを打つことが出来、当時としては常識外れのパワーを誇っていた。前傾姿勢のまま上体を∞の字を描くようにウィービングして防御するとともに、振った上体の反動を利用して左右の連打を叩き込むデンプシー・ロールは、彼が初めて使った戦法である。

来歴[編集]

生い立ち[編集]

1895年、コロラド州マナッサにモルモン教聖徒である貧しい靴屋の息子として生まれ、ウェストバージニア州、ユタ州で育つ。ジャックも1903年8月2日に洗礼を受けモルモン教徒になっている。家庭が貧しかったことで働きに出るため小学校を中退し、16歳の時に家を出ている。炭鉱夫として働いていた頃、その腕っぷしの強さと、野獣のようにギラつく目をジャック・カーンズに見込まれボクシングにのめり込むようになる。

初期のころは偽名を使って試合をしていたため正確な戦績はわかっていない。

トレドの惨劇[編集]

1919年7月4日、年初からの5連続初回KO勝利で勢いに乗るデンプシーは、ジェス・ウィラードの持つ世界タイトルに初挑戦する。ウィラードは黒人初の世界ヘビー級王者ジャック・ジョンソンを破ったことにより国民的英雄との誉れを受けていた。デンプシーが試合開始の数分前、初回KOで勝たなければファイトマネーはないとカーンズに告げられたことから、この試合の初回は「トレドの惨劇」と呼ばれ、ボクシング史上最も凄惨な戦いのひとつとなった。デンプシーは2m近い体躯のウィラードを徹底的に殴り続け、初回に7度ものダウンを奪う。当時のルールでは対戦者がダウンしてもニュートラルコーナーには下がらずに間近で待ち、両膝がマットを離れるとすぐにまた攻撃を仕掛けることができた。7度奪ったダウンのうちの何度かは、ウィラードが立ち上がろうとしていたときに追撃して奪ったものである。レフェリーはラウンド終了のゴングまでは試合を止めないというスタンスであった。最終的に試合はチャンピオンのウィラードが4回開始のゴングに応じられず3回終了TKOでデンプシーの勝利となったが、デンプシーにこの試合のファイトマネーが支払われることはなかった。一方のウィラードは顎を7か所も砕かれた上、肋骨、頬骨、歯を数本折られ、さらには片耳の聴力が著しく低下してしまった。

晴れて世界王者となったデンプシーだったが、国民的英雄であったウィラードに勝利してしまったことと、そのときの余りにも獰猛で凶暴な試合ぶりからアンチヒーローとのレッテルを貼られてしまう。



1921年7月2日、試合直前の会場(左)。試合後には号外を求めてニューヨーク・タイムズ本社に1万人以上が殺到(右) 1921年7月2日、試合直前の会場(左)。試合後には号外を求めてニューヨーク・タイムズ本社に1万人以上が殺到(右)

1921年7月2日、試合直前の会場(左)。試合後には号外を求めてニューヨーク・タイムズ本社に1万人以上が殺到(右)


1921年7月2日に行われた3度目の防衛戦は、フランスのジョルジュ・カルパンチェとの試合だったが、米国での試合にも関わらず、観衆はそのボクシングスタイルの優雅さから「蘭の男」の異名を持つ異国の二枚目挑戦者を応援するという始末だった。デンプシーは、3回にカルパンチェの右を食ってダウン寸前に陥るが、カルパンチェはこの時右手を骨折してしまう。続く4回、デンプシーは戦闘力を失ったカルパンチェに猛烈な連打を浴びせてKO勝ちを収める。この後、デンプシーとカルパンチェは親友となり、長く交友が続いたという。なお、この試合の総入場料は史上初の100万ドル超(ミリオンダラーゲート)となっている。

この試合以降、デンプシーは実力に見合った評価を受けるようになり、名実ともにヒーローとしての栄誉を得た。





1923年9月14日のルイス・アンジェロ・フィルポ戦
1923年9月14日、ニューヨークにおけるルイス・アンジェロ・フィルポとの試合では、この闘牛のようなアルゼンチン人選手との対戦を観ようと、会場には8万5000人が詰めかけ、さらに2万人が入ろうとしていた。フィルポに対して繰り返しダウンを奪いながら自らも2度のダウンを喫し、その2度目のダウンではロープの間からリングサイドの記者のタイプライターの上に頭から落下したが、リングに戻されて試合を続行、2回KO勝利を収める。この試合は注目度が高かったため、ラジオでブエノスアイレスへ生中継され、通りには試合を聴くために大勢の人々が集まった。

1926年9月23日、ジーン・タニーに判定負けで王座を失ったデンプシーはちょうど1年後にタニーと再戦。7回にタニーから強烈なダウンを奪ってみせるが、ルール改正によりニュートラルコーナーへ行くことを忘れていたためレフェリーに注意を受け、その間カウントが数えられず、タニーはカウント8(実質20カウント程)で立ち上がってしまった。結局この時点でKOできなかったデンプシーは8回にダウンを奪い返され再び判定負けを喫した。この試合はロングカウント事件としてボクシング史にその名を刻んでいる。

引退後[編集]

引退後は一時期プロモーターを務めていたが、現役時代から付き合いのあったアル・カポネの一味が八百長試合をけしかけるなど、試合に口を出すようになったことでデンプシーはプロモーター業に見切りをつける。しかし、その後もユダヤ系のマイヤー・ランスキーと手を結び、マイアミ・ビーチで「デンプシー=ヴァンダービルト・ホテル」を経営するほか、ニューヨーク州マンハッタンに「ジャック・デンプシー・レストラン」を経営するなど、裏組織との交際は続いた。

1960年代から1970年代にかけ、モハメド・アリ、ジョー・フレージャーらの世界ヘビー級タイトルマッチのリングサイドにデンプシーはよく姿を表していた。1975年10月、現役時代のライバルであり、長年の親友だったカルパンチェの訃報に接したジャックは、壁の方を向くと、眼を閉じたまましばらく動かなかったと言う。1983年5月31日、病により87歳で死去。

生涯戦績[編集]
プロボクシング:83戦 62勝 50KO 6敗 9引分け 6無効試合

関連項目[編集]
世界ボクシング協会世界王者一覧
国際ボクシング名誉の殿堂博物館
世界ボクシング殿堂
ジャック・デンプシー (ミドル級)
ジョシュ・ゴームレイ(ジョジー・デンプシー)
デンプシー・ロール

外部リンク[編集]

ウィキメディア・コモンズには、ジャック・デンプシーに関連するカテゴリがあります。

ジャック・デンプシーの戦績 by BoxRec

前王者
ジェス・ウィラード 第9代世界ヘビー級王者

1919年7月4日 - 1926年9月23日
次王者
ジーン・タニー



典拠管理

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カテゴリ: アメリカ合衆国のボクサー
アイルランド系アメリカ人
ネイティブアメリカンのボクサー
ヘビー級世界王者
プロボクシングプロモーター
ボクシング殿堂
コロラド州の人物
1895年生
1983年没
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%83%B3%E3%83%97%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%AB

デンプシー・ロール





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デンプシー・ロール(英: Dempsey roll)は、ボクシングの元世界ヘビー級王者ジャック・デンプシーが編み出した技。

概要[編集]

2014年現在では当たり前となっている「前傾姿勢における体重の乗った重いパンチ」という技術だが、元々はデンプシーが用いたものであり、この他にも多くのインファイト・テクニックを編み出している。「デンプシー・ロール」という呼称は現実のボクシングでは全く見かけなくなっているが、当時のボクサーは小柄なデンプシーが自分より大柄の相手を倒すところを目撃し、その技術を取り入れるのに躍起になっていた。

この技術に関して言えば、主に相手がグロッキーとなったところに自分の軸を相手の軸の向こう側に出るように死角へ回り込み(この動きの効果的な要素自体も、ファイターのセオリーとして多分に取り入れられた)、左右のウィービング(上体の動き)で勢いをつけたところへ体重の乗ったスピーディーなフックを叩きつけるというテクニックである。2014年現在、この技術は「真面目にインファイトを練習していればどんなボクサーでも知らない間に習得できる基礎中の基礎」としてどのジムでも採用されている。フックに隙が多く、カウンターで倍返しということも少なくないため、主に相手に止めを刺す時に用いられることがほとんどである。

日本で最初に使いこなしたのは、エディ・タウンゼントに教えられた藤猛である。

ボクシング漫画におけるデンプシー・ロール[編集]

1979年の『ナックルNo.1』(安紀宏紀)にデンプシー・ロールが登場している。

1989年から連載中の『はじめの一歩』の主人公、幕之内一歩も使用。「上半身を∞の軌道で振り続け、身体が戻ってくる反動を利用した左右の連打。ボクシング技術の発達した近代では『規則正しい振り子運動でカウンターを合わせ易い』という欠点があり、恐るべき破壊力を持ちながらもいつしか使用者がいなくなり、次第に歴史の闇へと消えていった諸刃の剣」とされている。

関連項目[編集]
ジャック・デンプシー
はじめの一歩


http://kameda-1ban-suki.seesaa.net/article/39695977.html

ボクシング名勝負、話題、ジャック・テンプシーのテンプシーロールとショベルフック

ボクシング名勝負、話題、ジャック・テンプシーのテンプシーロールとショベルフック

ジャック・テンプシーは、1919年から26年の世界ヘビー級王者。少年時代から炭鉱夫として労働し、のちにかけ試合のボクサーや用心棒としてアメリカを放浪。ジャック・カーンズに拾われてから芽が出て、19年に巨漢のカーボーイ、ジェス・ウエラードを3回TKOで羽振りヘビー級チャンピオンに。史上初の100万ドル興行の、フランス第一次世界大戦の英雄ジョルジュ・カルパンテイエ戦は有名。26年に王座を陥落。

引退後は、プロモータやレストランのオーナーとして活躍。

テンプシーはその破壊的強打と激しい妥当本能により「マナッサの屠殺者」と呼ばれた。デンプシーは185cm、体重85kgとヘビー級としては軽量だった。テンプシー自身がその強打の秘訣を語る
「パンチに自分の体重を思い切りかけ、フォロースルーをきかし打ちぬくことだ。パンチのエネルギーは肩から腕を通りこぶしの小指に伝達し相手の急所に当たって爆発する」

キーポイントは以下
①手打ちではなく、肩、腰を連動させて打つ
②打つ前にパンチの伸びが相手に最もダメージを与える距離まで自分の体を移動して打つ
③パンチの軌道は一直線
④パンチが目標にあたるまでは力を入れず、こぶしが目標に触れてから力を入れ、打ちぬく
⑤パンチの軌道の方向と同じ方向に体重を移動する

http://d.hatena.ne.jp/hann3+history/20140819/p1

ジャック・デンプシーさんのパンチの秘密“パワーライン”は、逆立ちして自分の体重を腕で支える感覚?[ストレートリード ブルース・リー創始ジークンドーの核心技法/テリー・トム]

虎之巻



読書書籍:ストレートリード ブルース・リー創始ジークンドーの核心技法







パワーラインの考え方の原型は、ジャック・デンプシーによって提唱された。ブルース・リーが所有している“Championship Fighting”の9章には、非常に多くのアンダーラインが引かれている。


デンプシーはパワーラインを「肩からまっすぐに拳のナックル底部」と定義している。



『ストレートリード ブルース・リー創始ジークンドーの核心技法』より








与えた衝撃の反動を弱い部分で受け止めないパンチの打ち方。それが“ショベル・フック”や“デンプシー・ロール”で知られるプロボクサー“ジャック・デンプシー”さんの“パワーライン”のようです。



パンチの加速に体重が乗ればのるほど、殴った反動(自分のダメージ)も大きくなる。打撃の威力を自分の弱い部分に戻さないように力を逃がす(流す)感覚みたいですね。



“攻撃”というと相手に与えるダメージばかりに注目していまいますよね。“自分に跳ね返ってくる反動”という視点が興味深いです。


パワーラインの意識は、逆立ちして立つときのように、自分の体重を腕の筋肉で支える感覚に近いように思われる。パンチが当たる瞬間に、パワーラインで“体の傾きを支える”イメージがポイントでしょうか。パンチというよりも、拳で体当たりするような感覚なのかもしれないですね。

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柔術プリ―スト220  バリカタ柔術RADIO 47 関西柔術合同練習には200人超えの大盛り上がり!

Jiu Jitsu Priest #220


生田誠のバリカタ柔術RADIO #47


【関西柔術練習会】 KOBE COLLECTION BJJ PARTY☆2


関西の合同練習は200人越え!(200人ですからミスタノーボディーのワイルドバンチのド迫力の150人よりも上!)
とにかく超大盛り上がりのイベントでした

スパーでは特にシュレック関根さんがとにかく凄かった!
あのカプコンのストリートファイターのようなフィジカルで力を使わないスタイル!
で次々スパーこなしていましたからねぇ
しかも関西のトップ選手たち全員をボコボコにしていましたよ!

本場ブラジルでもスパーではシセロコスタの道場みたくガチスパーが当たり前なんですが
グレイシー系は何故か昔からライトスパーを採用した練習法を取り入れ
日本でも中井さん 早川さんといったレジェンドたちが実践していましたが(あのエンセンもMMAではパワーファイターでしたが柔術では力を使わないスタイルを指導していました)
そういった伝統があるからか日本では力を使わないスタイルが伝統的だったのですが

昨今ではガチスパー系のアマゾンさんとか小林元和さんが台頭

ミヤオ兄弟もライトスパーなんてやんないだそうで…

ですがシュレック関根さんは昔ながらのグレイシー張りの力を使わないスタイル

見ていて大変勉強になりました!

ちなみにシュレックさんは人気がありすぎて私ら兄弟には全然スパー出来なかったですね
競争率激しすぎ…

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秘伝 マッスル・アンド・フィットネス トレーニングマガジン Number Do レビュー

月刊 秘伝 2016年 03月号

BABジャパン (2016-02-13)


秘伝は那嵯涼介さんのキャッチレスリング不定期新連載が登場!
まだ忙しくてゆっくりレビュー描けないのが残念ですが大変面白い内容です!
絶対買うべし!
那嵯さんの描かれる通り
中世のヨーロッパの武術にはサブミッションが存在します
それは既に中世ヨーロッパの武術シリーズ2冊でも公開されているものですね

ですが俺が言っているのはサブミッションとかで決着を行うレスリング競技は古流柔術と柔道が欧米に渡るまでは存在せず
講道館とか武徳会とかの古流柔術とか柔道とかが
海外に渡ってサブミッション チョーク有りの組み技競技
スパーリング試合形式 練習が欧米に広まった

というのが俺の主張です

その辺が翻訳ブログさんとは違うとこでしょうか
翻訳さんは古流柔術が欧米に来るまではサブミッションは存在しないとか描いていたような気がしますし

ですが中国の擒拿術とか見たら日本以外にも古くから沢山あるんですよね
関節の構造をで利用して相手を崩すというノウハウ

ですが日本の古流柔術とか柔道の様に破壊技術として発達したノウハウのものはあんま見ないですねぇ
色んな史料見ても

今回の記事ではレスラーたちが関節の構造を利用したノウハウは知ってはいても
関節の破壊を行うという日本から柔術と柔道が輸入されるまでは発想自体が無かったということ

という事で日本から柔術と柔道が来るまではサブミッションで決着つけるスタイルのレスリングは存在しなかった



それ以降はサブミッションで決着をつけるスタイルのレスリングが誕生

そういう発想がレスラー側に出来たわけですから


ランカシャーのレスラーたちは炭鉱労働者
アイルランド系の移民労働者たちは全員肉体労働者でボクシングとかレスリングとかは強かった
ですがボクシングとレスリングは

極端な話

単純に殴り合い 取っ組み合いです
相手を殴り倒せばいいだけですし
相手を組み伏せればいいわけです
その辺はタフな素人でも本能で戦えるわけです

ところがサブミッションとかは違う
チョークは本能でも出来ますがうっかり練習中とか試合中に相手を絞め殺しかねない

ですからサブミッションとチョークに関しては知識がないと出来ないし
やれても危険なわけです

実際に記事でも描かれてますがランカシャーのキャッチはアメリカのフォークスタイルレスリングの様にフォールで決着が着くルールで
サブミッションで決着が着くとはルール明文では全く描かれてはいません

それがキャッチ=通常のレスリング競技と主張する俺の考えなわけです

記事でも描かれてますが
19世紀末~20世紀初頭になると

エドルイスとかも教則本でトゥーホールドやダブルリストロックなどサブミッションも紹介指導しています
アマチュアのレスリング競技でサブミッションを使うレスラーはいなかったが

プロのレスラーたちは柔術や柔道との交流でサブミッションを使うようになった
これがまたややこしいんですが東勝熊を始めとする柔術家柔道家とレスラーとの試合は当時は
ギ有りの柔術柔道ルールもノーギのサブミッションなしの通常のレスリングルールもラウンドごとに変えて行われていたり
全ラウンドギありの柔術柔道ルールで行っていたわけです

その辺が記事には何故か全く反映 記述されてないなぁ…
コンデコマ 前田光世が戦った時もスモールタニが戦った時もギありの柔術 柔道ルールでレスラーたちは戦っていたんですから

19世紀 20世紀初頭にかけてレスラーたちにサブミッションとチョーク有りのスパーリング形式の練習をレスラーたちは日本の古流柔術 柔道家の影響で広がった

あと那嵯涼介さんの記事ではサブミッション決着のスタイルのレスリング競技は日本の古流柔術が海外渡来以前にも存在したという衝撃の記事がありますが

A hand-book of Wrestling(1898年のレスリング史料)

なら私も読みましたが
フォールの為の関節の構造を利用したレスリングノウハウが有るだけで
コレは関節の破壊を目的としたノウハウじゃないですよ!
那嵯さん
印象操作は良くないですよ!
これがその本ですね
https://archive.org/stream/AHand-bookOfWrestling/AHandbookOfWrestling#page/n0/mode/2up



A Hand-Book of Wrestling
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まぁ
でもまだ始まったばっかの連載ですし
A hand-book of Wrestling
のストラングルホールドは確かに絞め技ですもんね

今後の記事に期待大!
もっとレスリング専門家の技術的な解説とか
レスリングノウハウに素人のマニア以外の意見
専門家レスラー ロイウッドとかの証言とかも聞きたい
壁を使った非公開の時間無制限レスリングとかの詳細とか
当時の史料の明文化 当時の史料の写真とか技術とかの解説

そういったものも読みたいです!


あとダンイノサントが秘伝に初登場
バートンリチャードソンも出ています

これまではオリジナルジークンドースタイルのテッドウォン派の20世紀初頭から20年代の近代ボクシングスタイルとフェンシングスタイルからなる格闘スタイルの武術しか紹介されていなかったんですが

ダンイノサントのフィリピン武術と詠春拳ベースにしたジークンドーのスタイルも紹介公開されるという事でしょうね
これはいいです
どっちのスタイルも好きな私としては実に面白い記事ですね
フィリピン武術の特集も良かったし
フィリピン武術とかジークンドーの先生方のいいところは大変リアルな考えの持ち主だってことでしょうか

なんせ秘伝やら山田のBUDORAやらはハッキリ言って大嘘ホラ吹きまくりの詐欺師満載な世界なのに

当たり前のように相手が刃物持っていたら逃げろとか
逃げられなかったら武器を持てとか
それも出来なかったら今回教えた技を使え

とかなかなか言えるもんじゃない!

だって数十人相手とストリートファイトして勝っただの(by種村匠刀)
銃弾やら木刀をかわしただの(by植芝盛平)
牛を殺したりプロレスラー ボクサー ムエタイ カポエイラと戦っただのゴリラと格闘しただの(by大山倍達)
虎を殺しただの(by力抜山)
打撃で相手の頭が身体にめりこんだだの(by李書文)

だのあからさまに大嘘だとわかるハッタリかます詐欺師が多い世界ですよ
武術だの武道だのの世界は

そんなハッタリかます詐欺師に教わるくらいなら
ハッキリ現実的な対応を教えてくれる先生に教わることの方が賢明でしょう

にしてもイノサント
ホジャーマシャードからヨガと柔術を合わせたヨガ柔術を学んでいるんだとか
他にもホジャーマシャードからビラティス ジャイロトニックを学び
ヒーガンマシャード門下黒帯のレナートマグノ(柔術だけでなく柔道も強くMMA レスリング ボクシングも出来る万能派の柔術家)からも柔術を学んでいるんだとか
アメリカのキャッチの専門家の一人ジーンラーベルとも長いつきあいだそうです

そんな師を持つバートンリチャードソンですからイノサント同様柔術でも黒帯です


そうそう
中世ヨーロッパの武術でもフツーに両足タックルのノウハウは存在しますよ
刃物有りの闘いでもね
山田英司さん

そういえばイノサントは同じ流派の武術でも違うスタイルのノウハウがあればその違う先生から学ぶこともあるんだとか
そのうちマシャード兄弟のクラッシクな正統派の柔術だけじゃなくて
イノサントはキーナンコーネリアスとかミヤオ兄弟のような最先端のモダン柔術スタイルを誰か別の先生から学ぶことになるんでしょうかね?
トニーパセンスキーとかはグレイシーとも交流が有ってモダン柔術も教えているわけですからトニーパセンスキー辺りから
モダン柔術を学ぶイノサントという光景が見られるかもしれません(爆)


ブルースリーが生きていたら現在どのようなトレーニングをしたかを
グレイシーバッハにフィジカルトレ指導したマーティンルーニーが予想&解説
だけどコレは特に面白いと思えるような記事じゃないですなぁ

トレーニングマガジン vol.42 特集:魅惑のアウトライン (B.B.mook)

ベースボールマガジン社 (2015-12-22)
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ケトルベルの専門家にして日本一の怪力格闘家 山田崇太郎先生のホームトレーニー講座で有名なトレーニングマガジンですが
なんと今回は女子離れした筋肉ボディの進撃の女型巨人ギャビ・ガルシアが登場!
やはり専門誌の記者が見ても常識外れの筋肉のパーツなんだとか!


増田さんの大人の部活と日本におけるブラジル体操の起源が面白い
ブラジル体操は柔術とかじゃポピュラーですけれど
柔道しか知らない非ブラジル系アカデミーの道場からしたらカルチャーショックだったんかも

当時私が公立の武道館でこの体操やってたら
柔道の人らからアイツラ何やってんだ?みたいな感じで見られてましたもん
多少馬鹿にした感じで


増田さんの連載の言うように昭和から平成の90年代初期にかけて
日本の格闘技とか武道は暴力的で排他的な世界
増田さんがカミングアウトしてましたが七帝柔道辞めて以降

20代の頃
昭和の時代に
空手とボクシングの道場とジムへ行ったが
あまりにも暴力が日常化
殺伐とした世界なのでウンザリしてそのまま帰っちゃったんだとか

まぁ
それもその筈
当時は関節技とか寝技教えている道場 打撃教えている道場とかあっても
見た目がヤクザそのもので教え方もヤクザのパンチパーマのキックボクシングの指導者や
見た目も荒っぽいやり取りもドン引きの右翼そのものの空手家の先生の道場とか

組み技の格闘技とか総合格闘技(当時はMMAをださいこの呼び方で呼んでいた)
も麻生先生とか佐山先生とかモロ ヤクザか右翼ですもん

そら
競技人口も当時は激減するわけですわぁ
一般の人はドン引きもしますわなぁ
当時は見る側ばっか増えてましたけれどもねぇ

ところがグレイシー上陸以降は日本の格闘技 武道は激変
楽しみながら一般の愛好者が格闘技武道を学べるようになったんです
グレイシーたちがそういった旧日本軍か暴力団のような暴力的な上下関係を否定したからですなぁ

そういった指導と練習を中井さんもやっていましたね
中井さんがやっていた七帝柔道は指導者が暴力振るうスタイルの名門柔道のスパルタ軍隊方式じゃなくて
仲間同士でハードで過酷な練習をやってはいても先輩が後輩に理不尽な暴力を振るう世界じゃないですもん
練習は名門にも負けない超過酷な世界ですけどね

そういった世界を通った中井さんはグレイシーのライトスパーやサブミッションをゆっくり極めるなどの新しい練習法を知ってカルチャーショックを受け
その練習法を日本の格闘技 柔術 ノーギ MMAにも取り入れ
普及させていったんです

当時の格闘技
昭和の格闘技は旧日本軍隊
ロボットが生産されるようなもので
黒いものでも上の人間が白と呼べば白になる上下関係の世界
そういうものに縛られるのが嫌な人には縁のない世界だったんでしょうなぁ

もしグレイシーが日本に上陸しなかったら日本の武道や格闘技は今でも一部の怖い人たちのやる特異な世界で終わってたし俺もやっていなったでしょうなぁ
だって俺は暴力大嫌いですもんね
振るうのも受けるのも

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ホイスグレイシーvsケンウエインシャムロック bellator 149 3度目の正直 



シャムロックは月刊マッスル・アンド・フィットネスを読む限り相当フィジカルトレーニングを積んでいるのですが
打撃に関してはホイスの方がハッキリ上手かったですね
というかホイス腹出てますなぁ
グレイシーダイエットやっていなかったんでしょうか?
金的攻撃?はホイスの脛に当たった??
う~ん…
あからさまに膝は当たってないんですが…

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ヒクソングレイシー カーロスグレイシージュニア などヒクソン世代のグレイシー一族を始めとする多くのトップ柔術家たちに柔道の立ち技寝技を伝授した男 ブラジルの伝説の柔道家Georges Mehdi  

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georges mehdi



https://translate.google.co.jp/translate?hl=ja&sl=en&u=https://en.wikipedia.org/wiki/Georges_Mehdi&prev=search

ジョルジュ・メフディ


ウィキペディア、フリー百科事典から


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ジョルジュMedhi


うまれた
フランス

他の名前
Kastriget Medhi、ロバート・メフディ

スタイル
柔道

教師(複数可)
泰一松本

ランク
第9回程度赤いベルト柔道 講道館認定

注目すべき学生
ヴァリッジ・イズマイウ 、 ヒクソン・グレイシー [1]

Kastriot「ジョルジュ」Medhi(1934年生まれ) [2]フランス優勢のブラジルの柔道で、ブラジルの柔道の最も著名な実務家の一つと考えられ[3]と国のトップ柔道講師。 [4]



コンテンツ [hide]
1バイオグラフィー
2 競争キャリア
3 ティーチングキャリア
4 参考文献


伝記 [ 編集 ]

で生まれフランス、カンヌ 、ジョージはもともと1949年に休暇でブラジルに来て、返されませんでした。 [5] [6] Aに訓練柔道 、彼はの柔術の学校に行ったカルロス・グレイシーが、原因でいくつかの時間後にそれを左にグレイシー一族との差に。 彼らは非常に少し教えて投げ 、それはより少ない有用であったと主張寝技 ​​Mehdi氏は、彼らがスローする方法を知らなかったので、彼らはそうしたことを信じながら、。 [5]彼はまたのように、彼は家族によって誠実性の欠如として認識されて不快でした彼は初心者だったにも関わらず、彼らはフランスの柔道のチャンピオンとして彼をpublicitingされていました。 彼はその後に訓練するために日本に旅行し講道館 1952年に学校[5]

すべての日本チャンピオンと下学ぶ三船久蔵の研修生泰一松本、Mehdi氏はで5年間の訓練を受けた天理大学世界ミドル級チャンピオンのような名前満たし、奈良の岡野功と偉大木村政彦を 。 [7] [8]彼は実際にすでに松本に会いました泰一は彼が世界のツアーにしながら柔道を行う見ていたブラジル、インチ 彼は授業料の部屋と食事とメフディを提供し、5年間のためにお金を費やします。 さらにMehdi氏は、講道館と中央大学で訓練を受けた。 [7]ジョージは彼の病気の母に出席するために行ってきましたように、日本での研修は、わずか6ヶ月続いた。 [7]ジョルジュは、日本では10年の合計を過ごし、高校で柔道を教えました日本、これを行うには、おそらく最初の非日本人。 Mehdi氏は現在、柔道で第九段である。 [9]

Mehdi氏はかつて「柔道は聡明な人々のためである」、と主張するための「嘘つき」としてグレイシー一族について述べブラジリアン柔術は柔道とは別の芸術である。 [5]柔道チャンピオン岡野はあなたがすべての知識を取った場合」とMehdi氏の言いましたこの会場内のすべてのインストラクター【五輪]の、それは「先生Mehdi氏の知識と等しくないであろう。 [7]

競争のキャリア [ 編集 ]

Mehdi氏は、ブラジル、最高の柔道と呼ばれていたグレイシー一族が競争に直面することを拒否した。 [10]これは、喪失した後だったジョージ・グレイシーにEuclydesハテムそれが彼らの成長の評判に悪い影響を与える可能性がありますことを恐れる。 [11 ]ジョージはストレート7年間のブラジルのチャンピオンだった。 [12] [13]彼は第五世界選手権に出場。 [14] 32歳の時、彼はすでに柔道で第四段であった。 [15]彼は銀メダルを受け取りましたそれぞれ1963年と1967年パンアメリカンゲームで銅メダル。 [16] 32歳までに彼は第四段であった。 [17]

ジョージは、木村・グレイシーの試合とヘリオのその後の入院の証人であった[18]彼はグレイシー側が主張するもの、木村は何の巨人が、約5'6と185ポンドませんでした。とは異なり、と述べている[19]さらに、彼は考えています戦いは木村が意図的にエリオは彼を終了する前に数分のために戦うことが可能で、ポイントに働いたか、振り付けされた[5]

教師としてのキャリア [ 編集 ]

彼はエンリケ・マチャドを含む多数の個人を訓練しました。 [3]ジョージの学生が含まマリオ・スペーヒー 、 ヒクソン・グレイシー 、そしてシルビオベーリング。 [6]

彼はフランス語、英語、日本語、ポルトガル語に堪能である。 [8]

参考文献[ 編集 ]

1. Jump up ^ なしルールブラジリアン柔術 。
2. Jump up ^ 黒帯 。
3. ^ Jump up bは BJJヒーローズ。 "エンリケ・マチャド「 BJJヒーローズ 。 柔術の百科事典 。
4. Jump up ^ 合計MMA 。
5. ^ Jump up to: bは Cの Dの 電子 「メディ」 。
6. ^ Jump up B SIMCO、G.(2005)。 ブラジリアン柔術の基本:エッセンシャルテクニックをマスター 。 ケンジントン出版社。 ISBN 9780806526638 。
7. ^ Jump up to: bは Cの D 黒帯 。 アクティブなインタレストメディア株式会社ISSN 0277から3066 。
8. ^ Jump up B 黒帯 。 アクティブなインタレストメディア株式会社ISSN 0277から3066 。
9. Jump up ^ 。Guillobelブラジリアン柔術は、 " - - Guillobel BJJ格闘技&自己防衛サンクレメンテ、カリフォルニア州トップブラジリアン柔術スクールサンクレメンテ柔術はあなたに私たちの黒帯のお話についての詳細明かす「 Guillobel BJJ武道を 。 &自己防衛サンクレメンテ-サンクレメンテ、カリフォルニア州トップブラジリアン柔術スクール 。
10. Jump up ^ MMA百科事典 。
11. Jump up ^ スノーデン、J .; シールズ、K.(2010)。 MMA百科事典 。 ECWを押す。 ISBN 9781554908448 。
12. Jump up ^ 「Kastriget Mehdi氏、柔道、JudoInside」 。
13. Jump up ^ 黒帯 。
14. Jump up ^ 黒帯 。 アクティブなインタレストメディア株式会社ISSN 0277から3066 。
15. Jump up ^ 黒帯 。
16. Jump up ^ www.judobrasil.net
17. Jump up ^ 黒帯 。 アクティブなインタレストメディア株式会社ISSN 0277から3066 。
18. Jump up ^ マレー、NBJ これまで住んでいた過酷な男 。 Jukken柔道。 ISBN 9780964898424 。
19. Jump up ^ スノーデン、J.(2008)。 総MMA:インサイドアルティメットファイティング 。 ECWを押す。 ISBN 9781554903375 。




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武道の学校の創設者

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講道館杯&全日本実業個人最多優勝の柔道家 鳥居智男が関西の柔術 公式イベント JBJJF関西オープン に参戦! 柔術vs柔道再び!

コピー古賀崇裕(右)鳥居智男左)




関西ブラジリアン柔術練習会「KOBE COLLECTION ~BJJ PARTY☆2~」へ行って来ました。https://www.youtube.com/watch?v=9w7gX0U9Mtw今回も、関西、中部、四国などから多数の柔術...

Posted by フルフォース・プロダクション on 2016年2月15日


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%A5%E5%B1%85%E6%99%BA%E7%94%B7

鳥居智男





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獲得メダル


日本の旗 日本


男子 柔道


世界団体

金 2002 バーゼル 66kg級

アジア柔道選手権

銀 1996 ホーチミン 65kg級

東アジア大会

金 2001 大阪 66kg級

鳥居 智男(とりい ともお、1973年5月20日 -)は石川県金沢市出身の日本の柔道家[1]。66kg級及び73kg級の選手。身長170cm。六段。東海大学大学院出身。現在は日本エースサポートに所属している[2]。



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1 人物
2 主な戦績
3 脚注
4 DVD
5 外部リンク


人物[編集]

柔道は5歳の時に始めた。ロンドンオリンピック柔道57kg級金メダリストの松本薫と同じ岩井柔道塾出身[3]。紫綿台中から石川県立工業高校に進むと、3年の時にはインターハイの軽中量級に出場するが、決勝トーナメント2回戦で東海大第五高校の中村兼三に判定で敗れて5位に終わった。東海大学進学後、4年の時には正力杯65kg級で優勝を飾った。

卒業後は上組所属になると、1997年から実業個人で3連覇を飾った。なお、この大会は2006年からも4連覇を飾っており、計7回の優勝を果たすことになった。1998年には横浜そごう所属に変わり、講道館杯66kg級でも初優勝を飾ると、以降この大会では2006年からの3連覇を含めて計7回の優勝を数えることになった。1999年の体重別66kg級決勝では、この階級で長年に渡って代表として活躍してきた大学の1年先輩である中村行成に挑むものの、判定で敗れて世界選手権代表にはなれなかった。2000年の体重別決勝でも中村に判定で敗れてシドニーオリンピック代表にはなれなかった。

その後、了徳寺学園所属に変わると、2001年4月の体重別決勝でも中村に一本背負投で技ありを取られて敗れ、三度世界代表の座を逃した。しかし、5月に大阪で開催された東アジア大会には出場して優勝を飾った。2002年の体重別決勝では小見川道浩を判定で破り今大会初優勝を飾ったものの、釜山アジア大会代表には選出されなかった。しかし、ワールドカップ団体戦では準決勝のフランス戦のみの出場となったが一本勝ちして、優勝メンバーの一員として名を連ねることになった。2003年1月には嘉納杯で優勝するものの、4月の体重別では初戦で天理大学の村上嘉広に効果で敗れるが、30歳にして初の世界選手権代表に選ばれた。9月に大阪で開催された世界選手権では、準々決勝で元世界チャンピオンであるフランスのラルビ・ベンブダウに引込返で敗れると、敗者復活戦でも敗れて7位に終わった。続く11月の講道館杯では60kg級から階級を上げてきた内柴正人に指導3で敗れた。2004年2月にはフランス国際で優勝を果たすが、4月の体重別決勝で内柴に効果で敗れてアテネオリンピック代表には選出されなかった。

以降も一定の活躍を続けて、2007年には講道館杯で優勝するが、2008年4月の体重別準決勝でまたも内柴に効果で敗れて3位に終わり、北京オリンピック代表の座には至らなかった。続く11月の講道館杯では35歳にして史上最多となる7度目の優勝を飾ったものの、2009年1月のワールドカップ・トビリシにおいて体重オーバーで失格になると、その失態により強化選手を外されて、出場予定だった2月のグランプリ・ハンブルク及び4月の体重別への出場も取り消された。その後、階級を73kg級に上げると、8月の実業個人でこちらも史上最多となる7度目の優勝を飾った。

2011年には了徳寺学園を辞めて、有限会社S.T.O所属となり実業個人で2位となった。2012年には関西医療学園専門学校柔道整復学科に入学すると、7月にはサンボの全日本選手権74kg級に出場して優勝を飾った[4]。11月にはベラルーシのミンスクで開催されたサンボの世界選手権に出場するものの5位に終わり、メダルを獲得するまでには至らなかった[5]。

主な戦績[編集]
1991年 - インターハイ 軽中量級 5位

65kg級での戦績
1991年 - 全日本ジュニア 5位
1992年 - 正力杯 5位
1992年 - 全日本ジュニア 5位
1993年 - 全日本ジュニア 2位
1994年4月 -講道館杯 2位
1994年 - 体重別 3位
1994年 - 正力杯 5位
1994年12月 - 講道館杯 5位
1995年 - ハンガリー国際 3位
1995年 - チェコ国際 3位
1995年 - 正力杯 優勝
1995年 - 講道館杯 3位
1996年 - 正力国際 3位
1996年 - 体重別 3位
1996年 - アジア柔道選手権大会 2位
1997年 - 実業個人 優勝

66kg級での戦績
1998年 - 実業個人 優勝
1998年 - 講道館杯 優勝
1999年 - 嘉納杯 3位
1999年 - オーストリア国際 3位
1999年 - ドイツ国際 3位
1999年 - 体重別 2位
1999年 - 実業個人 優勝
1999年 - 講道館杯 優勝
2000年 - ドイツ国際 優勝
2000年 - 体重別 2位
2001年 - ハンガリー国際 優勝
2001年 - チェコ国際 5位
2001年 - 体重別 2位
2001年 - 東アジア大会 優勝
2001年 - 実業個人 3位
2001年 - 講道館杯 3位
2002年 - 日本国際柔道大会 3位
2002年 - ロシア国際 優勝
2002年 - エストニア国際 3位
2002年 - 体重別 優勝
2002年 - ワールドカップ団体戦 優勝
2002年 - 講道館杯 優勝
2003年 - 嘉納杯 優勝
2003年 - 世界選手権 7位
2003年 - 講道館杯 2位
2003年 - ロシア大統領杯 団体戦 優勝
2004年 - フランス国際 優勝
2004年 - 体重別 2位
2004年 - 講道館杯 優勝
2006年 - ロシア国際 5位
2006年 - 実業個人 優勝
2006年 - 講道館杯 優勝
2007年 - グルジア国際 3位
2007年 - 体重別 3位
2007年 - 実業個人 優勝
2007年 - 講道館杯 優勝
2008年 - 体重別 3位
2008年 - 実業個人 優勝
2008年 - 講道館杯 優勝
2008年 - 韓国国際 2位

73kg級での戦績
2009年 - 実業個人 優勝
2010年 - 実業個人 2位
2011年 - 実業個人 2位
2013年 - 実業個人 3位

脚注[編集]

1.^ 了徳寺学園柔道部ブログ | 鳥居智男
2.^ 内閣総理大臣杯争奪 第55回西日本実業柔道団体対抗大会
3.^ 「平成18年度後期全日本強化選手名鑑」近代柔道 ベースボールマガジン社、2007年2月号、45頁
4.^ 第38回全日本サンボ選手権大会
5.^ 世界サンボ選手権結果 | 日本サンボ連盟ブログ

DVD[編集]
鳥居智男 インテリジェンス柔道 上巻 クエスト ASIN B005GT3VNS
鳥居智男 インテリジェンス柔道 下巻 クエスト ASIN B003VFGA9G

外部リンク[編集]

鳥居智男 - JudoInside.comのプロフィール (英語)
了徳寺学園柔道部ブログ | 鳥居智男 階級66kg
学校法人 関西医療学園 関西医療学園専門学校 柔道部









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柔術プリースト 219 バリカタ柔術RADIO 48

Jiu Jitsu Priest #219


生田誠のバリカタ柔術RADIO #46

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日本にもレイシストしばき隊 朝鮮総連の拳道会 みたいな道場や自衛のグループがいますがアメリカにも黒人解放の自衛グループ ブラックパンサーがいました

現代思想 2013年10月臨時増刊号 総特集=ブルース・リー 没後40年、蘇るドラゴン
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http://blog.livedoor.jp/lctp/archives/193011.html


BL017 「自衛 Self-Defense」

2015年11月22日 23:34


こんばんは、sunsetな画像なのですが、JKDのDaybreakでありDawn。
00028b

2015-02-26 22:00
さて今回は「自衛 Self-Defense」です。

去年末にリーさんの「交流」を調べているときに、マイク・ストーンの胴着の背中に
黒豹か山猫か解らないが刺繍されているのを見てブラックパンサー党を思い出した。
調べるとマイク・ストーンの画像は1965年で黒豹党設立は1966年。関係ないかな。

黒豹か山猫かはマイク・ストーンの小林流空手の道場主の主義なのでしょう。
画像を見るとハワイ系の方なのかな。アフリカ系ではないです。
沖縄空手から考えると山猫なのかもしれません。顔だけ白いってのも面白い。

訂正----------------------
マイク・ストーンが黒帯をもらったこの道場は剛柔流のようです。
山口剛玄さんの"The Cat"からきてるのでしょうか。

wiki----------------------------------------------------------
ブラックパンサー党(黒豹党、英: Black Panther Party, BPP,
originally the Black Panther Party for Self-Defense) は、
1960年代後半から1970年代にかけてアメリカで黒人民族主義運動・黒人解放闘争を
展開していた急進的な政治組織。1966年、カリフォルニア州オークランドにおいて
ヒューイ・P・ニュートンとボビー・シールにより、都市部の貧しい黒人が居住する
ゲットーを警官から自衛するために結成された。共産主義と民族主義を標榜しており、
革命による黒人解放を提唱し、アフリカ系アメリカ人に対し武装蜂起を呼びかけた。
また、貧困層の児童に対する無料の食事配給や、治療費が無料の「人民病院」の建設
を行った。日本では、かつて新聞などで「黒豹党」と呼ばれることが多かった。
----------------------------------------------------------wikiより

the Black Panther Party for Self-Defenseはアメリカのwikiから。

ブラックパンサー党は66年にオークランドで設立だそうです。リーさんかなり
近かったですね。66年『グリーン・ホーネット』の為にロスへ引っ越したんですよね。
ブラックパンサー党には10代の為のマーシャルアーツクラスがあったそうです
00028
画像2段目のブラックパンサー党のガイ・クロセさんは52年シアトル生まれで
リーさんとトレーニングをしたとか。50年生まれのカトウ・クックスさんのKatoは
調べても解りませんでしたが・・・「ケイトー」とよむのかな。

以前より「自衛」ってなんなんだろうか?と疑問だったのですが、
先週末に師匠から『現代思想 ブルース・リー』(+DVDとパンフレット)を頂き、
まだ読み終わってはいませんが漠然とは理解できた気がします。

ただ生きているだけで降りかかってくる暴力というものがあるんですね。
単に差別といっていいのかどうか解りませんが。自分を守るためにすら
武器を持てない。持っていたら警察にさえ暴力を受ける・・・。

民族主義というのでしょうか。ほぼ単一民族国家の日本ですら「ヘイト」だとか
いろいろやってますが。まぁ日本ではどちらがより暴力的かわかりませんが。
移民受け入れ云々で日本人は淘汰されるんじゃないかと想像できます。

中国も民族主義がきついみたいですね。漢民族以外はエリートになれないだとか。
だからこそ護身術としての功夫なんですかね。リーさん初の著書は
『基本中国拳法 Chinese Gung-Fu The Philosophical Art of Self-Defense』

アメリカでの空手ブームはベトナム戦争時期とかぶるのでしょうかね。
1960年代中盤にベトナムへの大規模な軍事介入がはじまり
1975年まで戦争は続きます。空手の大会云々もその頃からのものが多いですね。

抑圧されたムードの中、アフリカ系・ハワイ系・韓国系が「いわれのない暴力」から
「自衛」という名のもとにまとまって起したのが空手ブームだったのかもしれません。
そりゃプレゼンターに政治家も出てくるはずです。

白帯から黒帯へ黒になれば強い=黒は強いというイメージも良かったのでしょう。

そんな中で66年に始まった『グリーン・ホーネット』でのアジア系のリーさんの活躍。
艶消し黒のブラック・ビューティー号に乗り、護身術の功夫で「社会悪」を退治する。
マイノリティーは喜んだでしょうね。

画像のスティーブ・サンダースさんの道場は『燃えよドラゴン』の撮影でも
使われています。コブラのパッチがかっこいいサンダースさんの武術歴は
剛柔流空手→エド・パーカーのケンポーカラテ。

ジム・ケリーさんは少林道→松林流空手。71年にエド・パーカーのロングビーチ
「International Karate Championships」のミドル級で優勝されています。
『燃えよドラゴン』ではリーさんの指導が嬉しかったでしょうね。

話しが重くなったので・・・
パロスベルデビーチでの可愛いブランドン君の画像を。
画像左側は「JKDグンフー・デモンストレーション・ローブ」着用ですね。
00028a
ではでは。

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ブルースリーと柔道 柔術

ブルースリーの武術の超マニアックなブログ

もっとブルース・リーを Bruce Lee Research
http://blog.livedoor.jp/lctp/

より

http://blog.livedoor.jp/lctp/archives/198527.html

BL026 「柔道」

2015年11月23日 14:26


雨がパラついてきました。

2015-03-29 02:16
さて今回は、柔道です。
結構たっぷり書き込んだうえ、殆どが英語の直訳なので、読みにくいと思います。

『The Dragon and the Tiger The Birth of Bruce Lee's Jeet Kune Do』に
画像左上のポスターが載っています。JUDO+GUNG FUですが
國術(功夫) 柔道の順にしたところがリーさんらしいです。
少し調べると、スキップ・エルズワースさんが、

「明らかに実演会は1961年2月14日に開催されました。
しかし、印刷されたポスターのほとんどが誤って1960年としたため、
何百枚ものポスターの0を1(1960年から1961年)に手作業で修正しなければならなかった。
私はまだ残り物の謄写版ポスターを少なくとも100枚は持っています。

とにかく、実演会場は満員となり、私たちのグンフー実演会は好評でした。
そういえば、ジェシー・グローバーの母親 -愉快さと威厳のある女性- は
この実演会に出席しました。」とインタビューに答えています。

画像最下段真ん中が Yesler Terrace Community Recreation Center (gymnasium)
2005年?に建て直されています。古い建物の画像を探したのですが見つからず。
地図で見るとセンターのそばに体育館程の大きさのシアトル道場(柔道)があります。

・Seattle Dojo シアトル道場は1902年に設立された米国で最も古い柔道道場です。
第一世代の日系アメリカ人によって1930年代に現在の道場が建てられるまでに
数回移動しました。

ジェシー・グローバーさんの『Bruce lee Between wing chun and jeet kune do』には
「ブルースはフレッド・サトーと私から柔道の多くを学び、かつて彼は、
私の早期の柔道の先生の1人でありアメリカチャンピオンのシューゾー・カトーの下、
ワシントン大学の正式な柔道クラスに在籍していた。」

・Shuzo Chris Kato
National Judo Championship in 1957 and earning a 7th degree black belt.
柔道歴60年。中学・高校での柔道コーチ歴が長い(43年)ようです。

『Letters of the Dragon』の1961年3月にエド・ハートさんへ出した手紙には、
リーさんが「聞いて驚くなよ、大学の体育教育課程で柔道をやるつもりだ」と。
2月の実演会で「柔道」の何かをつかみかけたのでしょうか。

1966年5月のフレッド・サトーさんへの手紙には人体の中心線の
考え方を説いています。練習方法にもJKDの理念が色濃く。
サトーさんこの手紙の頃はワシントン大で柔道を教えているようですが、
その後レーニエ・ビーチ・ハイ・スクールの歴史の先生兼柔道コーチに。

20151121画像追加---
00038c
----
00038
リーさんを囲んだカラー画像の下の名前は上のポスターの出演者。お2人画像無し。

画像左最下段はリーさんと初めて会った時のウォーリー・ジェイさんと柔道チーム。
ジェイさんとチームは遠征する時には「他の武術」の専門家を探すそうです。
1962年バンクーバーへの移動中に探し出したのがシアトルにいたリーさんだったとか。

・Island Judo Jujitsu Club
1950年、ウォーリーと妻のバーニスはカリフォルニア州アラメダに引っ越しました。
ウォーリーがイーグルアベニューの家の後ろに小さなジムを建てることによって、
アイランド柔道柔術クラブが誕生しました。
この小さな、伝説的なジムでは数十年にわたり多くの柔道チャンピオンを
生み出すことになりました。

・Professor Wally Jay's Small Circle Jujitsu
http://www.smallcirclejujitsu.com/prof-wally-jay-tribute/

リーさんがオークランドに引っ越ししてからは親しい友人になり、
一緒に鍛錬して技術や武道の概念を交流させたそうです。
ジェイさんがリーさんの先生と呼ばれることがありますが、お互いがお互いを
教えあっていたとのことで、ジェイさんの役割は、助言者、友人であり協力者だったそうです。

00038b
画像上段は「ジャンクション・ストリートの虎」でしょうか…リーさんの親指が。

リーさんのシアトル期の生徒さんが出てきたついでに、
エジソン・テクニカル・スクールでのリアルファイトを。カラテマンにケンカを売られたのは
学校で、屋上でしようとのことだったようですが、ジェシー・グローバーさんがダウンタウンの
YMCAへ誘ったようです。

YMCAへはリーさん、カラテマン、ジェシーさん、エド・ハートさん、
ハワード・ホールさん、日本からの交換留学生のマサフサ・キムラさん、
もう1人の交換留学生の7人でいったそうです。

リーさんは2人っきりでやりあいたかったそうですが、ジェシーさん「相手を殺してしまう」と
心配し、ダウンや終了の取り決めをし、レフリーを務め、2分3ラウンド制でスタート。

カラテマン:伝統的スタンスからキャットスタンスへ、
リーさん:伝統的詠春拳スタンス。

カラテマンの前蹴りをリーさん前腕でブロック、カラテマンもリーさんの直拳の連撃を
防ぎつつも押され部屋を横切っていった。カラテマンが壁に激突した時、
リーさんをつかもうとしてきたが、スピンでかわし胸と頭にダブルパンチをヒットさせた。

カラテマンは吹っ飛び、リーさんは追いかけカラテマンの膝が床に触れた瞬間に
キックを繰り出した。ジェシーさんは止める為に叫んだ。
カラテマンは意識を 失って床に倒れこんだ。意識が戻るまで長い時間かかり、
その間、彼は死んでしまったのかもしれないと思われた。彼の顔の左側はバットで
殴られたようになっ ていた。後で彼が眼窩骨折していると判明した。

----------------------------------------------------------------------------
「ブルース・リー 最後の伝説 Death by Misadventure」を師匠に頂いたので。
エド・ハートさんがタイムキーパーだそうです。相手は空手胴着、リーさんは靴まで脱いで。
興味深いDVDでした。
00038a
----------------------------------------------------------------------------
では。

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ブルースリーとダンイノサントに最も影響を与えた武術家 マーシャルアーティスト エドパーカー







https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%91%E3%83%BC%E3%82%AB%E3%83%BC

エド・パーカー





移動先: 案内、 検索


エドモンド・ケアロハ・“エド”・パーカー(Edmund Kealoha "Ed" Parker、1931年3月19日 - 1990年12月15日)は、アメリカ合衆国の武術家。アメリカン・ケンポー(ケンポー・カラテ)の創始者。戦後アメリカで最も成功した武術家の一人である。

概要[編集]

エド・パーカーは、1931年、ハワイ州ホノルルに生まれた。12歳の時にまず柔道を、後にボクシングを習った。1940年代、最初フランク・チョウに、後にウィリアム・チョウに師事して、ケンポー(空手、中国武術、日本武術などを起源とするハワイの格闘技。日本語の拳法が語源。)を修めた。その間、アメリカ沿岸警備隊で働き、ブリガムヤング大学に通った。1953年、黒帯を取得した。

1954年、ユタ州プロボに最初の道場を開設。その後1956年までに、カリフォルニア州パサデナにも道場を開いた。パーカーは、商業センスに優れ、多くの武術家と交流をもち、彼らが自分たちの道場を開設できるように手助けした。1960年、著書『ケンポー・カラテ(Kenpo Karate)』を出版した。

パーカーは、ハリウッドにも多くの知己をもち、エルヴィス・プレスリー(黒帯取得)をはじめ、多数の著名人やスタントマンを弟子にもった。また、デビュー前のブルース・リーもパーカーの招きで「ロングビーチ国際空手選手権大会」に出演し、この時の演武フィルムがTVプロデューサーの目にとまり、その後のデビューのきっかけになった。

プレスリーの晩年には、ボディガードをつとめ、いくつかの映画にスタントマン並びに俳優としても出演している。パーカーはアメリカン・ケンポーの創始者であり、しばしば「アメリカン・カラテの父」と称されるなど、戦後アメリカで最も成功した武術家の一人と目されている。1990年、ホノルルで心臓病のために死去した。

エド・パーカーの弟子には、他にジェフ・スピークマン、ダン・イノサント、アル&ジム・トレイシー兄弟(トレイシー・ケンポー創始者)などがいる。

参考文献[編集]
Ed Parker, Kenpo Karate: Law of the Fist and the Empty Hand. Delsby Publications, 1960 ISBN 0-910293-47-3
Ed Parker, Secrets of Chinese Karate. Prentice-Hall, 1963 ISBN 0-13-797845-6
Ed Parker, Ed Parker's Guide to the Nunchaku, 1975 ISBN 0-86568-104-X
Ed Parker, Ed Parker's Kenpo Karate Accumulative Journal. International Kenpo Karate Association.
Ed Parker, Inside Elvis. Rampart House, 1978 ISBN 0-89773-000-3
Ed Parker, Ed Parker's Infinite Insights into Kenpo, Vol. 1: Mental Stimulation. Delsby Publications, 1982 ISBN 0-910293-00-7
Ed Parker, Ed Parker's Infinite Insights into Kenpo, Vol. 2: Physical Analyzation I. Delsby Publications, 1983 ISBN 0-910293-02-3
Ed Parker, Ed Parker's Infinite Insights into Kenpo, Vol. 3: Physical Analyzation II. Delsby Publications, 1985 ISBN 0-910293-04-X
Ed Parker, Ed Parker's Infinite Insights Into Kenpo, Vol. 4: Mental and Physical Constituents. Delsby Publications, 1986 ISBN 0-910293-06-6
Ed Parker, Ed Parker's Infinite Insights Into Kenpo: Vol. 5: Mental and Physical Applications. Delsby Publications, 1987 ISBN 0-910293-08-2
Ed Parker, The Woman's Guide to Self Defense, 1988
Ed Parker, The Zen of Kenpo. Delsby Publications, 1988 ISBN 0-910293-10-4
Ed Parker, Ed Parker's Encyclopedia of Kenpo. Delsby Publications, 1992 ISBN 0-910293-12-0

外部リンク[編集]
エド・パーカー - インターネット・ムービー・データベース(英語)

http://traumerai.kan-suke.com/saidomidokoro.html


多士済々の達人同士による激しい立ち回りを見どころのひとつに掲げている
〈トロイメライ〉に驚愕の新展開!
シーズン2からはアメリカ拳法をフィーチャーしたサイドストーリーが開幕します。
そもそも、アメリカ拳法とは何なのか? サイドストーリーに託されたものとは何か?
間近に迫っているという新たな戦いに先駆けて、その見どころを一挙解析!


●アメリカ拳法が生まれた時代、その点描――
本編第18回にて初登場したアメリカ発祥の格闘技、『トレイシーケンポー(Tracy kenpo)』。
続く本編第19回では、アルフレッドが身に付けた『ジークンドー(截拳道)』と
『トレイシーケンポー』の浅からぬ縁が描かれました。
今までは『軍師(あるいは戦略家)』としての知謀が中心であったアルフレッドに
『武術家』としての戦いが加わることになったのです。
ご存知のように『ジークンドー』は香港最高のスーパースター、
ブルース・リーが編み出したハイブリッドな武術です(リーは優れた武術家でもありました)。
しかし、その『ジークンドー』の発祥の地が香港ではなくアメリカであることは、
実はあまり知られていません。
武術・格闘技ファンの間では常識かも知れませんが、
一般的にはまだまだ馴染みが薄いのでしょう。
『ジークンドー』が誕生した頃、ブルース・リーは活動の拠点を
アメリカに移していましたが、当時のアメリカは武術交流が非常に盛ん。
いくつもの優れた武術が流れ込んでいた時期でもあります。
アメリカ本土はもちろんハワイなどでも様々な人々が修行に励んでおりました。
さらに時代を遡ると日本柔道界の精鋭たちも柔道普及に訪米しており、
その中には後に『グレイシー柔術』の祖となるコンデ・コマ(※1)の姿も…。
ブルース・リー、そして『ジークンドー』は、格闘技維新の時代とも言うべきアメリカで
飛躍を遂げたのです。
『ジークンドー』と時を同じくして『トレイシーケンポー』、
その本家である『ケンポーカラテ(American kenpo karate)』など様々な新武術が誕生。
『ケンポーカラテ』の創始者にしてアメリカの伝説的な武術家、エド・パーカーは
ブルース・リーと親しく(パーカーはリーを世界最高の武術家と絶賛!)、
技術交流も深めていきました。


●アメリカ拳法の祖とは――
アメリカ拳法界の礎を築いたのが日本の古武術であることも
一般には馴染みが薄いのではないでしょうか。
『ケンポーカラテ』の歴史を遡ると、その祖は日本からハワイに渡ったとされる
『kosho‐ryu』なる武術に辿り着きます。
吉田家という一族に伝わってきたとされる『kosho‐ryu』は、
ジェームズ・ミトセなる人物の代でアメリカ武術界と結びつきを強め、
優れた武術家を何人も育てます。
ミトセの弟子であり、『Kara‐Ho Kempo』なる流派を開いたウィリアム・チョウは、
エド・パーカーの師匠に当たり、『ケンポーカラテ』の骨子を作り上げたとも
言われています。
そのケンポーカラテから分かれた『トレイシーケンポー』、
エド・パーカーに見出され、チャンスを獲得した(※2)ブルース・リー。
ジェームズ・ミトセなくしてこれらの武術の誕生はなく、
ミトセは「アメリカ拳法の祖」と言うべき存在でした。
また、『トレイシーケンポー』創始者、アル・トレイシーの兄弟は、
ジェームズ・ミトセの妹にして『kosho‐ryu』の担い手でもあるフサエ氏から
直接教えを授かったと伝えられています。



ジェームズ・ミトセ James masayoshi mitose

ハワイ出身。日系アメリカ人。『kosho‐ryu』の第21代グランドマスター。
幼い頃に日本(熊本と思われる)へと渡り、家伝の武術を修行した。
また、彼の祖先にあたる「吉田家」は神道の家柄と伝えられており、
吉田神社の血筋とも考えられる。
帰国後、アメリカ拳法界を背負って立つ多くの武術家を育てた。
晩年を獄中で過ごし、64歳で没する(1916~1981)。
その来歴から宗教への造詣も深く、幼少期から日本の文化に触れて育ったこともあり、
哲学的な人物であったことが窺える。
『Kenpo sai(拳法斎か?)』という異称を名乗ったとされている。




●「武術家・アルフレッド」の進む先には――
『ジークンドー』と『トレイシーケンポー』の手合わせは
第19回で描かれましたが、完全に決着したわけではありません。
制作総指揮の天河曰く、第19回だけでは『トレイシーケンポー』のテクニックは
二割も描けていないとのこと。つまり、再戦も多いに考えられます。




シーズン2からは武術家集団のスカッド・フリーダムが本編に深く関わるのですが、
武術家集団という題材を活かさず勢力相関に終始するのは勿体ないと思ったんです。
しかも、アルフレッドはれっきとした武術家。
そのキャラクタリスティックを武術家集団と絡めて
サイドストーリーを作りたいと考えたのがスタートです。
アメリカ武術界は小さな頃に映画『ベストキッド』(※3)を観てから関心が強く、
またアメリカ拳法そのものも以前から研究しておりましたので、
エド・パーカーを一本の軸として、『ジークンドー』と『トレイシーケンポー』の因縁を
設定し、武術家たちの腕比べというシチュエーションを作っていきました。
構想を進める中、アメリカ拳法のヒストリーをサイドストーリーの核にしてみようと
思い至り、その祖に当たる『kosho‐ryu』の網羅にまで発展した次第です。
そうは言っても、トロイメライは格闘作品ではありませんから、
果たしてどこまで掘り下げられるかは分かりませんが、
可能な限り、アメリカ拳法のドラマをクローズアップしたいと思います。
資料に基づき、『kosho‐ryu』をトロイメライでは『古松奨励流』と表記しますが、
この知られざる武術もトロイメライで紹介できればいいな、と。
日本の古武術が海を渡って他国の武術を興したなんて、
それだけで浪漫を感じるじゃありませんか。
スモール・タニ(※4)やタイガー・モリ(※5)といった例を挙げるまでもなく、
日本武術の海外雄飛には血が騒ぎますね。
アメリカ拳法の祖となった古武術と、
近代総合格闘の先駆けとも言うべきハイブリッドな武術。
つまり、『古松奨励流』と『ジークンドー』。
伝承と共に磨かれてきたミトセの技と、古流から新時代の哲学を完成させたリーの技。
いずれ両武術を対決させたいものです(アルフレッドはサバット等も混ぜていますが)。
その流れの中で、ジークンドーの原型(これもブルース・リーが創始)になった
『ジュンファン・グンフー(振藩功夫)』や、
カナダに伝わる北米先住民の武術、『オキチタウ』なども取り上げられたら……。
いずれにしても、手垢がついたお話を作りたくないという思いは強いです(天河談)



『トレイシーケンポー』との初対決を終えたアルフレッドと『ジークンドー』ですが、
アメリカ拳法をクローズアップするサイドストーリーに於いては、
『ケンポーカラテ』との手合わせも間近に迫っていると天河は続けました。
何しろブルース・リーの恩人が開いた流派との直接対決ですから、
今までになく激しい戦いが予想されます。
この武術の使い手としては第17回(シーズン1最終回)にビクトーなるキャラクターが
登場しています。ビクトーはヒロインのひとりであるジャーメインの義兄を名乗っており、
人間関係の上でもアルフレッドに肉薄するのは間違いありません。




さらに付け加えると、『トレイシーケンポー』のシルヴィオは、
スカッド・フリーダム内部のドラマを描く上で中心となるキャラクター。
一武術家としての思いだけでなく、それぞれが担う立場を踏まえながら
両者は拳を交えていきます(天河談)




ブルース・リーへのオマージュから『龍の魂』という仮タイトルを与えられた
サイドストーリー(アメリカ拳法編とも言えそうです)からも目が離せません。





(注釈)

※1 本名、前田光世。講道館に学ぶ。柔道振興の為に欧米で他流試合を繰り広げる。
   道衣を着用した試合で無敗を誇ったとされる日本武道界の伝説。
   グレイシー柔術の祖としても知られる。ブラジルにて没(1878~1941)。
   「コンデ・コマ」はブラジル帰化後の名前。
※2 エド・パーカーに招かれて参加したロングビーチ国際空手選手権がきっかけとなり、
   ブルース・リーはテレビ業界から注目され、後にデビュー果たす。
※3 1984年公開。原題は「The Karate Kid」。ジョン・G・アヴィルドセン監督。
   後年、ジャッキー・チェン主演でリメイクされた。
※4 本名、谷幸雄。講道館に学ぶ。欧州に渡り、イギリスにて他流試合を繰り広げる。
   イギリスの柔道普及に努めた。同地にて没(1880~1950)。
※5 本名、森寅雄。剣道家。アメリカにてフェンシングを学び、
   僅かな練習期間にも関わらず、全米選手権で輝かしい実績を築く。
   世界大戦の影響に翻弄されながらも国際的な剣道の普及に努めたが、
   稽古の最中に病で急逝する(1914~1969)。

http://blog.livedoor.jp/lctp/archives/182399.html

BL007 「カジュケンボ」

2015年11月22日 15:58


仕事の整理で5時からバタバタ。

20151017
カジュケンボのフォルダを整理していたら、解らずにそのままにしておいた画像を調べたくなって。
00018a
カジュケンボでカラテ軽量級トーナメントで活躍されたカルロス・バンダさんでしょうか。
背中向けての68年チャックさんと戦ってる画像しか古いものは無く断定できませんが。
弟さんのDouglas Bundaダグさんもカジュケンボマスター。


2015-01-18 00:54 今回はカジュケンボ、それから・・・。

シジョ・アドリアーノ・エンペラードはエスクリマ(フィリピン伝統武術)
と拳法(古松奨励流)で「BlackBeltSociety」の(韓国)空手、柔術、柔道、拳法、ボクシングの
お互いの弱点を補い、武術を高め、市民の自衛としてカジュケンボを作り上げた。

古松奨励流のシンボルがクローバーになったのかな?日本なら巴なんだろうけど。

wiki---------------------------------------------------------

・Adriano Directo Emperado : Kenpo (Kosho Ryu) and Eskrima
・Joseph Holck : Judo and Danzan Ryu Jujutsu
・Peter Young Yil Choo : Tang Soo Do Korean Karate and Boxing
・Frank F. Ordonez : Danzan Ryu Jujutsu
・Clarence Chang : Sil-Lum Pai Kung Fu

-----------------------------------------------------wiki

アルバート・ダカスコス :
柔道、柔術→カジュケンボ→Tum Pai→詠春拳→Wun Hop Kuen Do Kung Fu→
Wu shu
ロバート・ベイカーのジェームズ・リー以前のお師匠さんですね。

トニー・ラモス : カジュケンボ
チャールズ・ゲイロード : カジュケンボ
アレユ・レイエス : カジュケンボ
00018
60年代に入ってジェームズ・リー、エド・パーカー、ラルフ・カストロとリーさん
4人での交流の写真があります。ケンポーカラテ系と考えが近かったのかも知れません。
エド・パーカーの弟子のイノサントはリーさんの弟子に。

同じくエド・パーカーの弟子のボブ・クックはリーさんと詠春拳に
強い影響を受けたそうです。彼のシンボルマークには詠春拳をあらわす鶴と蛇が
入っています。その後は太極拳系の健康術へ。

リーさん、トニー・ラモスとストリートファイトの戦い方をよくトレーニングしたとか。
やはりジークンドーでいう6秒以内での決着という感じだったのでしょうかね。
「セルフ・ディフェンスとは何ぞや」と考える今日この頃・・・

犯罪に巻き込まれないための短期決戦型自衛格闘術なのかな。

画像下段ラモスさんはいろいろですが、64年のロングビーチ大会時ですね。
ハワイ系のエド・パーカーさんの大会にハワイ系のカジュケンボの方が参加・見学
されるのはジューン・リーさんの大会を見ればよく解ります。

結果、大会上位にジョー・ルイスしか「空手」の選手がいないことも。

当時の誰の考えでもなく、現在の私がこう思っているだけですが・・・
極論を言えば「テコンドー&タンスドー(韓国空手)」の大会ではないのかと。
ちょっとやり切れない感じは日本人なら出てくるんじゃないでしょうかね。

「KARATE」の大会として開催されているのにマス大山さんは疑問を抱いたのかも
知れません。西海岸を拠点とするこの勢力に対してか、東海岸中心に弟子を派遣
されるのが66年に入ってから。1968年のブラックベルト誌の懇談会を欠席し、
1969年にオープントーナメント全日本空手道選手権大会を初開催。

ブラックベルト誌はこの懇談会への欠席にかなり不満だったみたいです。
「韓国人先生のマス大山は・・・」と書き出してるのを見て大人げないなぁと
思ってしまいました。まぁ50年近く前のことですから仕方ないのか。

残念なことにリーさんとマス大山は接点が(漫画の中以外)見つかりません。
大山さんから見れば敬遠したい西海岸系の中心人物の1人ということでしょう。
「同族嫌悪」なとこもあったのかもしれません。性格が似ているような気がします。

69年の極真の大会にリーさんが来日していれば、71年の『危機一発』も
スルーされずに日本公開したかもしれませんね。
『燃えよドラゴン』を見た後だから『危機一発』も受け入れられたのか、
製作年から順当に見てもヒットしたのか。神のみぞ知る。

日本へ呼ぶとなるとリーさんへは渡航・諸経費+1時間200ドル以上のギャラが必要
だったかも知れません・・・当時の物価は・・・69年のサラリーマン年収721,700円だとか。
仙骨を痛める前の演舞や実演なら相当に安かったのではないでしょうか。

では。

http://blog.livedoor.jp/lctp/archives/233245.html

BL047 「リマラマ」

2015年11月24日 21:32


こんばんは。「その7」のカジュケンボを少し遡って、
今回はウィリアム・KS・チョウさんの系統をざっくり整理。

古松奨励流拳法のジェームス・ミトスさんのお弟子さんがウィリアム・チョウさん。
ウィリアムさんのお弟子さんが、エド・パーカー(アメリカン・ケンポー)、
アドリアーノ・エンペラード(カジュケンボ)、ラルフ・カストロ(ショーリン・ケンポー)、
ジョン・レオニング等。とWikiにあります。
00059b
レオニングさんはカジュケンボ創始者エンペラードさんから黒帯を取得。
メインランド初のカジュケンボ・インストラクターに。俳優業もされてます。

この辺からややこしいのですが、
ビル・リューサキさんはエド・パーカーのお弟子さんだったのが、
同時期に訓練していたカジュケンボのジョン・レオニングさんから黒帯を取得。
ダン・グズマンさんはリューサキさんから黒帯を取得。

軽量級のカルロス・ブンダさんも初めエド・パーカーのお弟子さんだったのが、
紹介されて6年かかってカジュケンボのジョン・レオニングさんから黒帯を取得。

リマラマ創始者のティーノ・ツゥラワセガさんはエド・パーカーから黒帯を取得。
リマラマ創設者6人中お2人、リチャード・ヌーニェスさんとサル・エスキベルさん
はカジュケンボのダン・グズマンさんから黒帯を取得。
00059a
中段の画像はグズマンさんのロスのクルランドハウス道場。

「その7」のカジュケンボで取り上げた
アル・ダカスコスさんやアル・レイエスさんはカジュケンボ創始者エンペラードさんの
別系統の孫弟子にあたるようです。



2015-08-19 01:54
今回は「リマラマ」です。
「70th Anniversary In Celebration Of Bruce Lee」は情報が豊富で、
私の大好きなサイトの1つです。
---------------------------------------------

COMING HOME: 70th Anniversary In Celebration Of Bruce Lee
https://m.facebook.com/ComingHomeBruceLee/photos/a.107654912603971.5622.107651409270988/856941407675314/?type=1&source=46&refid=17

-----------------------

ブルース・リーとグランドマスター・リチャード・ヌーニェスの古い写真。
ヌーニェス氏は最初のリマラマ・アソシエーションの6人の創設者のうちの1人。
もう1人は彼の前妻のジーン・ヌーニェス。
彼らの毎年恒例の大会「ワー・オブ・ウォリアー」にて。
1968年9月13日、ドロレスイダルゴ、グアナファト、メキシコ。

リマラマはアメリカのポリネシアの自衛術です。
ボクシング、柔道、合気道、カンフー、キックボクシングの要素を
備えている素手による術です。

ヌーニェスに加えて、最初のリマラマ・アソシエーションのメンバーは、
「ティーノTuiolosegaツゥラワセガ」、「ソロモンKaihewaluカイヘワル」、
「ジョンMaroltマロルト」、「サル・エスキベル」と
「ハウメア「タイニー」Lefitiレフェティ」です。

---------------------------------------------
---------------------------------------------
お名前の読みが難しいです。読みが合っているかわかりません。

00059

以下は米wikiやらブラックベルト誌やらオフィシャルサイトやらの抜粋の訳です。
---------------------------------------------

リマラマは、ダンス的な動きが特徴で、そのカリキュラムのおよそ60%は、
手技に基づきます。その他、テイクダウン、ナイフや棒も使います。

---------------------------------------------

創設者Tu'umamao「ティーノ」Tuiolosegaは、
サモアの王室(Ofu-Olosegaの国王の息子)の一員でした。
青年時代に彼は合気道、少林功夫、柔道、ボクシング、洪家拳、その他の格闘技を
学び、父とおじによって伝統的なポリネシアの戦闘法を訓練されました。
彼はアマチュア・ボクサーとして100戦以上を戦いました。
1950年代は米軍で仁川上陸作戦に参加、白兵戦インストラクターを勤めました。

---------------------------------------------

リマラマは南太平洋の島サモアで始まった武術です。
「lima」と「malamalama」2つの言葉に由来し「理解と知能の5本指」を意味する。
象徴は「知恵の手」を意味します。

創設者の一人Tu'umamao「ティーノ」Tuiolosegaは
幼少から合気道、少林功夫、蔡李仏拳と洪家拳を練習し、サモア王室の息子として、
伝統的なポリネシア武術の様々な自己防衛術を習得する必要がありました。

リマラマはポリネシアダンサーの伝統的な動きと昔の激しいサモア戦士の戦いで
実証済みの戦術とをミックスすることによって完成しました。

リマラマは戦士の伝統(具体的には踊り)に焦点を当てています。
シフティングとスウェイングで敵を意図的にバランスを崩させる駆け引き、
レスリング(組みつき、テイクダウンを含む)、ボクシングとケンカ、プレッシャー・ポイント、
ナイフでの戦術、トラッピング、蹴りと棒術。

Tu'umamao「ティーノ」Tuiolosegaは1964年にカリフォルニアにリマラマを紹介しました。

米国の最も有名なリマラマの専門家の一人はハワイアンネイティブのテッド・タブラです。
彼は世界中にポリネシア芸術を広める運動を続けています。

-----------------------------------------以上
---------------------------------------------
こんな感じですかね。

ブラックベルト誌にはティーノさんとエド・パーカーは血縁関係にあったとか。
パーカーは才能だけではなく家柄も良かったんですね。信用があったのでしょう。
血は薄いかもしれませんが王族ですもんね。

画像真中あたりでも仲が良さそうです。山下タダシさんとティーノさんの画像の
別ショット(最下段左)にはボン・スーハンさんも。

右下の写真のリーさんとティーノさんの写真のパーカーさんの
右隣はケンポーカラテのダン・グズマンさんですかね。
最下段右、グズマンさん、イノサントさん、パーカーさん、リーさん。

では。 .

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これほど国会と東京の大手(「記者クラブ」)メディアが堕落した時代は、戦後初めてである。2月9日の株価が900円以上値下がりした。400円500円の値下がりでも暴落なのだが、900円も値下がりすると、これは異常事態である。今日(10日 )も大幅に下げているようだ。この国では、国民の老後を支えるなけなしの年金が、米国の指示で株に投入されている。株は博打であり、国民の中では一生やらない人も多い。それを国のトップが米国に指示されたことから、株の怖さも知らず、国民に諮ることもなく、勝手に割合を大幅に増やして株に投入してしまった。安倍晋三、日銀の黒田東彦、厚生労働大臣の塩崎恭久(しおざきやすひさ)といった連中の棲む世界は、今やカルト的世界である。愚かさを指摘するだけでは、かれらの世界をわかっていない。かれらは決して責任を取らない。その冷酷さも知っておかねばならないのである。イスラエルのベンヤミン・ネタニヤフ首相が来日して天皇に会い、安倍が中東でネタニヤフに会って、イスラエルとの準同盟関係が深まるにつれ、日本は大きく戦争に向かって動き出した。年金の株への投入とその失敗、アホノミクスによる国家財政の破綻は、戦争に向かう状況を加速させるものである。この状況の過去からひとりの男が浮かび上がる。岸信介である。






















http://m-hyodo.com/usa-78/
オバマの「死のカルト」

2016年2月11日 [USA]












演じるパンツ高木、ベッキー、清原、ゲス休宮崎、北朝鮮ロケット、国会と見続けているうちに、株の大暴落に伴う責任、アホノミクスの責任(ともに日本破壊の米国救済である)などが消されていっている。

これほど国会と東京の大手(「記者クラブ」)メディアが堕落した時代は、戦後初めてである。

2月9日の株価が900円以上値下がりした。400円500円の値下がりでも暴落なのだが、900円も値下がりすると、これは異常事態である。今日(10日 )も大幅に下げているようだ。

この国では、国民の老後を支えるなけなしの年金が、米国の指示で株に投入されている。株は博打であり、国民の中では一生やらない人も多い。それを国のトップが米国に指示されたことから、株の怖さも知らず、国民に諮ることもなく、勝手に割合を大幅に増やして株に投入してしまった。

安倍晋三、日銀の黒田東彦、厚生労働大臣の塩崎恭久(しおざきやすひさ)といった連中の棲む世界は、今やカルト的世界である。愚かさを指摘するだけでは、かれらの世界をわかっていない。かれらは決して責任を取らない。その冷酷さも知っておかねばならないのである。

イスラエルのベンヤミン・ネタニヤフ首相が来日して天皇に会い、安倍が中東でネタニヤフに会って、イスラエルとの準同盟関係が深まるにつれ、日本は大きく戦争に向かって動き出した。

年金の株への投入とその失敗、アホノミクスによる国家財政の破綻は、戦争に向かう状況を加速させるものである。この状況の過去からひとりの男が浮かび上がる。岸信介である。

岸信介は、1957年、東条内閣の閣僚として日米開戦の詔勅に署名した。戦後A級戦犯として逮捕されたが、CIAと通じ、国のトップにまでなった男である。昭和の妖怪とまで評された。

妖怪は、戦争中に早くも敗戦を見越して、東京の収容所にいた駐日米国大使のグル―を釈放し、ゴルフを共にした。(『CIA秘録』Tim Weiner)この売国奴としてのDNAが孫の安倍晋三に受け継がれ、TPP参加として実現した。おそらく安倍晋三は幼少から岸信介の魂と交信をしているのにちがいない。この家訓としての売国がぬけぬけと国を統治し続ける事実は、この国の極端なまでの政治民度の低さによって実現されたものである。

日本は、現在、危機的状況にある。危機は、世界同時に進んでいるので、第三次世界大戦が実現する可能性は高いといわねばならない。

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ニュース批評






今や、世界のトップが第三次世界大戦の不可避を口にし始めた。


「やのっち

ロシア政府によれば、キッシンジャーはプーチンに対し、米国と西側を支配する「古代の死のカルト」を阻止することができないとし、世界戦争が現実化することはほぼ確実だと警告を発したとしている。
 

続》 ヘンリー・キッシンジャーは、西側のリーダーがオカルト的な風習に深く影響を受けていることを証明する内部者情報を持っている。世界第一次・第二次大戦は、欧州の王室とそれにへつらうように従う米国人によって「指示・立案」されたもので、彼らの全員が黒魔術の宗規に従っているという事実だ。

続》例えば、2012年11月17日、ビル・クリントン前大統領がニューヨークでの式典の中で聴衆に向け、彼の妻ヒラリー・クリントンが、メッセージを伝えたがっている故・エレノア・ルーズベルトの魂と通信をしていると話しているなど、現代の私達の目の前に隠されもせずに存在しているのだ。

続》プーチン大統領はキッシンジャー元長官の警告を受け、即座に米国当局者上層部5人に対し、ロシア国内への入国を禁止する命令を下した。5人全員がクリントン・オバマ政権の「死のカルト」の支配下に堕ちたことが確認された者である。

続》「死のカルト」に関する警告の中でもプーチンが最も懸念しているのは、オバマ政権およびNATO同盟国がトルコを刺激して世界第三次大戦を開戦させる準備をしていたこと。シリア内のロシア軍をトルコに攻撃させることが目的で、ロシアが大規模に反応せざるをえなくなるという計画であった」

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ここで「死のカルト」が出てきた。西側のリーダーがカルトの風習に深く影響を受けているために、第三次世界大戦が現実化する、とキッシンジャーがプーチンに語った。もちろんプーチンが真剣に聞いたことはまちがいない。その結果、米国当局者上層部5人の、ロシア入国を禁止した。

それは、この5人である。

アルバート・ゴンザレス(ジョージ・W・ブッシュ政権の大統領法律顧問および司法長官)

ダグラス・ジェイ・ファイス(米政策担当国防次官)

ジョン・リッツォ(CIAの元顧問弁護士)

スコット・バイビー(元連邦第9巡回区控訴裁判所裁判官)

ウィリアム・J・ヘインズ2世(弁護士、元国防省相談役))

錚々たるメンバーであり、知識人である。しかもこれは一部だと思ったほうがよい。

ただ、日本では、低能テレビが伝えることは事実で、伝えないことは事実ではないことになっている。だからこういう事実は、なかったことになっている。

実際、「死のカルト」「黒魔術」と日本でいわれると、もうダメである。ところが世界では普通に信じられていることなのだ。

ちなみにフランスのオランド大統領は、シャルリ・エブド本社襲撃事件を受けて、2015年1月10日におこなったテレビ演説で、「それらのアクションにコミットした人、これらのテロリストはイルミナティで、それらの狂信者はイスラムと何の関係もない」と明確に「イルミナティ」という言葉を使って演説した。

オランド大統領の演説を紹介した安倍さまの犬HKは、この「イルミナティ」の言葉をカットした。このように日本国民の愚民化は、世界の実相を知らせないように徹底して行われているのだ。

2012年11月17日、イルミナティストのビル・クリントンは、妻のヒラリー・クリントンが、故・エレノア・ルーズベルトと魂の通信をしていると話した。世界トップクラスの政治家たちがカルトの世界に入っていることは広く知られている。

カルトという言葉に抵抗があれば、精神的に深く病んでいる、あるいはニヒリストが政治をやっていると思えばいい。他人をどうでもいいと思っている人間が政治をやっているのだ。だから第三次世界大戦も起こし得るのである。

それでは、もっと詳しくこの問題を掘り下げてみよう。

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ニュース批評






『世界の裏側ニュース』が、「キッシンジャーがプーチンに「第三次大戦が目前に」と内密に警告」と題したこんな記事を掲載している。

『Your News wire』(2月4日)より翻訳したものである。


「キッシンジャーがプーチンに内密に警告したこと:「戦争が起こされようとしている」「西側は死のカルトによって支配されている」

今週水曜にプーチン大統領がヘンリー・キッシンジャー前国務長官と個別で会談を行った。

ロシア政府によれば、このアメリカの指導的立場にある政治家キッシンジャーはプーチンに対し、現在、アメリカと西側を支配している「古代の死のカルト」は「阻止することができない」とし、世界的戦争が現実化することはほぼ確実だと警告を発したとしている。

以下、ロシア政府内の報告書より

ヘンリー・キッシンジャーは、西側のリーダーが過去も現在も、降霊術(黒魔術、死者と会話すること)のオカルト的な風習に深く影響を受けていることを証明する内部者情報を持っている。

(中略)

キッシンジャーはアーネンエルベに対処するという戦時中の経験から、ソビエト連邦の諜報部と頻繁に通信を行っていたが、それによって世界第一次大戦および世界第二次大戦の両方に関する本物の知識を得ていた。

つまり、両世界大戦はヨーロッパの王室とそれにへつらうように従うアメリカ人によって「指示・立案」されたもので、彼らの全員が黒魔術の宗規に従っているという事実だ。

これら黒魔術に関する知識は、今では西側の市民の記憶からはほぼ完全に消え去ろうとしている。

しかし1917年(ロシア革命)にソビエトがニコライ2世からロシア国内の統制を奪取した際、世界第一次大戦はニコライ2世のイギリスやドイツ、ノルウェーやデンマーク、ギリシャの王室の親戚に指示を出し、支配していた「魂」によって引き起こされたということを具体的に記したニコライ2世と他の王室の親戚の間の私的書簡や通信内容をソビエトが最初に発見しているが、キッシンジャー長官はその情報を依然として保有しているのである」

第一次、第二次大戦とも、国際銀行家によって起こされた。

第三次世界大戦もかれらによって、イスラム世界と政治的シオニズムの対立として、舞台は中東や東シナ海・南シナ海・朝鮮半島で起こされる。

安倍晋三はきっと岸信介と交信しながらその日を夢見ているにちがいない。

イルミナティストの国際銀行家にとっては、ゴイムを殺すことは、人口削減のかれらの大義にマッチしている。だから、かれらがためらうことはない。

ここでキッシンジャーが米国と西側が「死のカルト」に支配されていて、第三次世界大戦は阻止できない、と語ったのは、友人の好意的な忠告ではない。プーチンへの恫喝だと思った方がよい。なぜなら「宮廷ユダヤ人」のキッシンジャー自身が、イルミナティの中核組織300人委員会、RIIAの重要なメンバーであり、ローマクラブとCRFの一員でもあるからだ。

300人委員会が実行しようとしている支配綱領21箇条の、12番目に「新たな「破壊的カルト」を増産し続け、すでに役目を果たしている連中の後押しをする」というのがある。そういう意味ではキッシンジャーは米国と西側の「死のカルト」を組織した側にある。そこから自分たちが組織し、支配している「死のカルト」に攻撃させると恫喝したのである。

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カール・マルクス著書より

http://page.freett.com/rionag/marx/thf0.html
マルクスのオリジナル版

フォイエルバッハに関するテーゼ


1

これまであったあらゆる唯物論(それにはフォイエルバッハのものも含まれるのだが)の主要な欠点は、事物や現実や感性が客観あるいは観照という形式のもとでだけとらえれていて、人間的な感性的行動、すなわち実践として、主体的にはとらえられていないということである。それで、行動的側面は、唯物論とは対比的に、観念論--それはは自ずと現実の感性的な行動そのものを知り得ないのであるが--から説明されてきた。
フォイエルバッハは感性的な--思考対象から現実に区別された対象を欲したのである。しかし彼は人間的行動自身を客観的な行動としては理解しなかった。それゆえ、彼は「キリスト教の本質」の中で、ただ理論的態度だけを本来の人間的なものとみなし、実践をさもしいユダヤ人的な形態でのみとらえ固定化し続けたのである。したがって、彼は「革命的な」「実践的-批判的な」行動の重要性を理解しなかったのである。

2

人間の思考が客観的な真実に到達できるかどうかという問題は--理論の問題ではなくて、,実践的な問題なのである。実践において、人間は真実、すなわち現実と力を、彼の思考が現世のものであることを証明しなければならない。思考--実践から遊離した--が現実的か非現実的かについての論争は、純粋にスコラ的な問題なのである。

3

環境と教育の変化についての唯物論的学説は、環境が人間によって変えられ、教育者自身が教育されなければならないことを忘れているのだ。それで、この学説は社会を二つの部分--うちの一方を社会の上に超然と高める--に分けざるをえない。
環境の改変と人間の行動あるいは自己変革とが一致することは、革命的な実践としてのみとらえることができ、合理的に理解できるのである。

4

フォイエルバッハは宗教的自己疎外、すなわち呈示された宗教的世界と現世的世界への世界の二重化という事実から出発する。彼の仕事は、宗教的世界をその世俗的基礎へと解消することにある。しかし世俗的基礎がそれ自身から際だって見え、自身を雲のなかに独立した王国として確立するということは、この世俗的基礎の自己分裂と自己矛盾からのみ説明されるべきである。世俗的基礎自身はその矛盾のままに理解され、同時にまた実践的に革命されなければならない。こうして、例えば地上の家族が聖なる家族の秘密として暴かれた後では、今度は前者自身が理論的に、また実践的に破壊されなければならない。

5

フォイエルバッハは抽象的思考には満足せず、直観に訴えかける。しかし彼は感性を実践的な人間的-感性的な行動としてとらえることはなかった。

6

フォイエルバッハは宗教的本質を人間的本質に解消する。しかし、人間的本質は個々の個人に内在する抽象物ではない。現実には、それは社会的な諸関係の総体なのである。
フォイエルバッハは、この現実的な本質の批判に携わろうとはせず、それゆえ無理矢理に
1.歴史的経過を捨象し、宗教的心情をそれ自身にたいして固定化し、抽象的な-孤立した-人間的個人を前提とし
2.本質を、単に「類」としてのみ、内的な、無言の、多くの個人をただ自然に結びつける普遍性としてのみとらえることができるのだ。

7

フォイエルバッハは、それゆえ、「宗教的心情」自身が社会的な産物であること、そして彼が分析している抽象的個人が、現実には特定の社会形態に属することを見ない。

8

すべての社会的生活は本質的に実践的なのである。理論を神秘主義に誘い込むあらゆる神秘は、人間的な実践のなかで、そしてこの実践の理解のなかで、合理的に解決されるのである。

9

観照的な唯物論、すなわち感性を実践的行動として理解しない唯物論が到達しうるのは、せいぜい個々の個人と市民社会の直観である。

10

古い唯物論の立脚点は市民社会であり、新しい唯物論の立脚点は人間的社会あるいは社会化された人類なのである。

11

哲学者たちは世界を単にさまざまに解釈しただけである。問題なのは世界を変えることなのである。

http://page.freett.com/rionag/marx/mcp.html

共産党宣言
カール・マルクス/フリードリッヒ・エンゲルス:著
永江良一 :訳

この文書は
Karl Marx / Friedrich Engels :
Manifeto of The Communist Party (1848)
the English edition of 1888, translated by Samuel Moore n cooperation with Friedrich Engels
を日本語訳したものです。
翻訳はMarxists.Org. Internet Archiveのテキストに基づいています。

2002年07月20日 暫定訳公開

©2002 Ryoichi Nagae 永江良一
クリエイティブ・コモンズ・ライセンス
この翻訳は、クリエイティブ・コモンズ・ライセンス(帰属 - 同一条件許諾)の下でライセンスされています。
ご指摘、ご教示などありますれば永江良一まで



目次
共産党宣言 I.ブルジョワとプロレタリア
II.プロレタリアと共産主義者
III.社会主義的および共産主義的文献 1.反動的社会主義 A.封建的社会主義
B.プチ・ブルジョワ社会主義
C.ドイツ社会主義あるいは「真正」社会主義

2.保守的社会主義またはブルジョワ社会主義
3.批判的‐ユートピア的社会主義と共産主義

IV.様々な現存の反対党と比較した共産主義者の立場



共産党宣言

ヨーロッパにはお化けが出ます。共産主義というお化けが。古きヨーロッパのすべての権力が、このお化けを祓うため、神聖な同盟に加わっています。教皇とツァー、メッテルニヒとギゾー、フランスの急進派とドイツの密偵。

権力の座にある対抗派から共産主義だと罵られなかった政府反対党がどこにあるでしょうか。自分たちより進歩的な反対党にも、反動的な敵対者にも、共産主義という烙印を押すような非難を投げ返さなかったような反対党がどこにあるでしょうか。

この事実から二つのことが帰結します。
1.共産主義はヨーロッパのすべての権力からすでに一つの力だと認められているということ
2.共産主義者は公然と、全世界の面前に、その見解、その目的、その性向を公表し、共産主義のお化けというお伽話に党自身の宣言で対抗するのに最適な時期だということ
この目的のために、さまざまな国籍の共産主義者がロンドンに集い、次の宣言を起草し、英語、フランス語、ドイツ語、フラマン語、デンマーク語で出版することにしたのです。



第1章 ブルジョワとプロレタリア

これまで存在したあらゆる社会の歴史は、階級闘争の歴史です。

自由人と奴隷、ローマの貴族と平民、領主と農奴、ギルドの親方と職人、一言で言えば、抑圧者と被抑圧者が不断に対立しあい、中断することなく、ときには暗に、ときには公然と闘ってきたのですが、この闘いは大規模な社会の革命的な再編成で終るか、さもなければ、あい闘う階級がともに没落して終ったのです。

歴史の初期の時代には、社会はさまざまな階層、社会的な地位の多様な序列へと複雑に編成されていました。古代ローマでは、貴族、騎士、奴隷がいましたし、中世には、封建領主、封臣、ギルドの親方、職人、徒弟、農奴がいました。そしてこうした階級のほとんどすべてにわたって、さらに副次的な序列にわかれていたのです。

封建社会の没落から出現した現代のブルジョワ社会は、階級対立を終らせたのではありませんでした。それは、古いものにかえて、新しい階級、新しい抑圧状態、新しい闘争形態をつくりあげたにすぎません。

私たちの時代、ブルジョワジーの時代は、けれども、次のようなはっきりした特徴をもっています。それは階級対立を単純化したということです。社会は全体としてますます、敵対する二大陣営に、互いに直接対抗する二大階級、ブルジョワジーとプロレタリアートに、分かれていくのです。

中世の農奴から、初期の都市の特許市民が生まれました。こういう市民から、ブルジョワジーの最初の構成部隊が発展してきたのです。

アメリカの発見と喜望峰の回航は、勃興するブルジョワジーに新たな大地を開きました。東インドと中国の市場、アメリカの植民地化、対植民地貿易、交換手段と全般的な商品の増大は、商業や航海術や工業に、前代未聞の衝撃を与え、それによって、ぐらつく封建社会の革命的要素を急激に発展させたのです。

封建的な工業の体制では、工業生産は閉鎖的なギルドによって独占されていたのですが、新しい市場の増加する要求にはもはや十分ではありませんでした。工場制手工業がそれにとってかわったのです。ギルドの親方は、工業制手工業の中産階級に押しやられ、異なるギルド集団間の分業は、それぞれ個々の作業場内の分業の前に姿を消しました。

その間、市場はずっと成長を続け、需要は増加し続けていました。工場制手工業でさえ不十分となりました。その結果、蒸気と機械が工業生産を革命的に変えたのです。工場制手工業に巨大な近代工業がとってかわり、工業の中産階級に工業の百万長者、工業の軍隊の全軍の指導者、つまり近代的ブルジョワがとってかわったのです。

アメリカの発見は世界市場への道を開いたのですが、近代的工業はこの世界市場を確立したのです。この世界市場は商業、航海術、陸上交通にはかりしれない発展をもたらしました。この発展がこんどは工業の拡大に反作用しました。工業、商業、航海術、鉄道の拡大に比例して、ブルジョワジーは発展し、その資本を増やし、中世から受け継いだあらゆる階級を背景に押しやったのです。

こうして私たちは、近代的ブルジョワジーそのものが、長い発展コースの産物として、そして生産と交換の様式の一連の革命の産物として、どんなふうに生じてきたかを見てきました。

ブルジョワジーの発展の各段階には、それに対応したこの階級の政治的進歩が伴ってきました。ブルジョワジーは封建貴族支配下での被抑圧階級、あるいは中世的なコミューンの武装した自治的な連合でした。この場合は独立した都市共和国(イタリアやドイツのように)であり、そして前の場合は君主制のもとでの課税されうる「第三身分」(フランスのように)だったのです。その後、工場制手工業本来の時代には、半封建的君主制や絶対王制において貴族に対する平衡力という役割を果たしました。事実、大君主制一般の礎石となったのです。そしてブルジョワジーはついに、近代的工業と世界市場を確立して以来、近代的代議制国家において、独占的な政治支配を勝ち取ったのです。近代国家の執行権力とは、ブルジョワジー全体に共通する問題を管理する委員会にすぎないのです。

ブルジョワジーは、歴史的には、もっとも革命的な役割を演じてきました。

ブルジョワジーは、支配力を握ったところではどこでも、あらゆる封建的で家父長的で牧歌的な関係を終らせました。それは、人をその「当然な上位者」とつないでいる色とりどりの封建的絆を容赦なくひきちぎり、人と人の間に、むきだしの自己利益以外の、冷淡な「現金払い」以外のいかなる関係も残しませんでした。宗教的情熱や騎士道的熱狂や俗物的感傷の天上的な陶酔は、自分中心の打算の氷のように冷たい水の中で溺れ死にさせられたのです。ブルジョワジーは人格的価値を交換価値に解消してしまい、数多くの取り消されない特に許された自由のかわりに、ただ一つの良心なき自由、自由交易を据えたのです。一言でいえば、宗教的で政治的な幻想で覆いかくされた搾取を、むきだしの、恥知らずで、直接的で、粗暴な搾取と取り換えたのです。

ブルジョワジーは、それまであがめられ、尊敬をこめた畏怖をもって見られてきたあらゆる職業から、その後光をはぎ取りました。医者、僧侶、詩人、学者を、自分たちの賃労働者に変えてしまったのです。

ブルジョワジーは家族から感傷的な覆いを引きはがし、家族関係をただの金銭的関係にしてしまいました。

中世においては活力が荒々しく示されることを、反動家たちはたいそう賞讃しているのですが、それをぴったりと補完しているのが怠惰なのらくら生活であることを、ブルジョワジーは暴いたのです。ブルジョワジーはまっさきに、人間の活動がどんなことを成し遂げられるのかを示しました。エジプトのピラミッド、ローマの水道、ゴチック式の大聖堂をはるかにしのぐ驚異を成し遂げ、以前の民族移動や十字軍がみんな色あせるような遠征に乗り出したのです。

ブルジョワジーは、たえず生産用具を革命的に変え、そのことによって生産関係を革命的に変え、それにより社会関係全体を革命的に変えることなくしては、生存することができません。それとは反対に、古い生産様式をその形を変えることなく保持することが、それ以前のすべての産業階級の第一の生存条件でした。たえず生産を革命的に変え、間断なくあらゆる社会状態をかき乱し、果てしなく不安定にし動揺させ続けることが、ブルジョワ時代をそれ以前のあらゆる時代から区別する特徴となっています。古めかしく敬うべき偏見や意見をひきずった、あらゆる固定し堅く氷ついた関係はさっさと廃止しされ、新しく形成された関係はみんな固定化するまえに古くさいものとなってしまうのです。あらゆる堅牢なものが溶けて霧散し、あらゆる聖なるものが世俗のものとなり、人はついには自分たちのほんとうの生活状態および仲間との関係に、醒めた感覚で直面せざるをえなくなります。

自分たちの生産物のためのたえず拡大する市場に対する必要性から、ブルジョワジーは地球の全表面を駆り立てられます。ブルジョワジーはどこにでも巣をかけ、どこにでも住み着き、どことも関係を確立しなければならないのです。

ブルジョワジーは、世界市場の開発を通して、どこの国でも生産と消費に世界主義的性格を与えます。反動家にははなはだお気の毒ですが、ブルジョワジーは産業の足元から、それがよって立っていた国民的基盤を掘り崩しました。古くからあった国民的な産業すべては破壊されてしまったか、あるいは日々破壊されています。そうした産業は新しい産業に押しのけられ、新しい産業を導入することはすべての文明諸国の死活問題となっています。産業はもはやその土地の原料を使うだけではなく、はるか遠く離れた地域からもってきた原料を使い、その生産物は国内だけでなく、世界のいたるところで消費されるのです。その国の生産物で満足していた古い欲望にかわって、満足させるには離れた土地や風土の生産物が必要な新しい欲望があらわれます。古い局地的で国民的な隔離と自足にかわって、あらゆる方面との交易が、諸国民の普遍的な相互依存があらわれるのです。そして物質的生産と同じことが、知的生産においても生じます。個々の国民の知的創造は共有の資産となります。国民的な一面性や偏狭さはますます不可能となり、多くの国民的な局地的な文学から、一つの世界文学があらわれるのです。

ブルジョワジーは、あらゆる生産用具を急激に改良することで、限りなく便利になった交通手段によって、あらゆる国民を、たとえもっとも野蛮であっても、文明へとひきいれるのです。商品の安い価格は、野蛮人のひどく頑固な外国人嫌いも屈伏させる重砲隊なのです。ブルジョワジーはあらゆる国民に、滅亡を覚悟し、ブルジョワ的生産様式の採用を強制し、そのど真中にいわゆる文明を導入すること、すなわちブルジョワそのものになることを強制します。要するに、ブルジョワジーは自分の姿に似せて世界を創造するのです。

ブルジョワジーは農村を都市の規則に服従させました。ブルジョワジーは多数の都市をつくりだし、農村人口に比べ都市人口を著しく増加させ、そうやって人口のいちじるしい部分を農村生活の白痴状態から救い出したのです。農村を都市に依存させたのと同じように、ブルジョワジーは野蛮および半野蛮な国を文明国に、農業国をブルジョワ国に、東洋を西洋に依存させたのです。

ブルジョワジーは、人口、生産手段、財産の分散した状態をだんだん廃止していきます。人口を密集させ、生産手段を集中し、財産を少数の手に集めてしまいました。このことの必然的結果は政治的中央集権でした。ばらばらの利害、法律、政府、課税制度をもつ独立した、ないしゆるく結び付いた地方は、集まって一つの政府、一つの法体系、一つの国民的階級利害、一つの国境、一つの関税をもつ一つの国民となったのです。

ブルジョワジーは、その百年に満たない支配の間に、先行する世代のすべてを合わせたよりも、もっと大規模な、もっと膨大な生産力を作り出しました。自然の力を人間に服属させること、機械、工業や農業への化学の応用、蒸気船、鉄道、電信、全大陸を耕作のために掃き清めること、河川を運河とすること、魔法で地から涌き出たような全人口、以前のどの世紀も、社会的労働のふところにこのような生産力がまどろんでいるということを、予想すらしませんでした。

そこで、わかったのは、ブルジョワジーが立脚している土台である生産手段と交換手段は、封建社会の中で生まれたということです。こういう生産手段と交換手段の発展がある段階になると、封建社会の生産や交換がおこなわれてきた諸条件、農業と工場制手工業の封建的組織、要するに、封建的所有関係は、既に発展している生産力とはもはや両立できなくなり、足枷となりました。こういう関係は粉々に粉砕しなけれなならなくなり、粉々に粉砕されたのです。

そういう封建的関係があったところには、自由競争が入り込み、それとともに、それに適した社会的および政治的制度と、ブルジョワ階級の経済的および政治的支配があらわれたのです。

同じような運動が私たちの目の前で進行しています。ブルジョワ的生産関係、交換関係、所有関係をもつ近代的ブルジョワ社会、このように巨大な生産手段や交換手段を魔法のように呼び起こした社会は、自分の呪文で呼び出した地下世界の力をもはや思うようにできなくなった魔法使いのようです。ここ数十年の歴史は、近代の生産条件に対する、ブルジョワとその支配の生存条件である所有関係に対する、近代の生産力の反乱の歴史にほかなりません。周期的にぶり返しては、ブルジョワ社会全体を審判に付し、度重なるごとに激しくなっていく、商業恐慌のことをあげておけば十分でしょう。こういう恐慌では、今ある生産物だけでなく、これまでに作り出された生産力の大部分が、周期的に破壊されるのです。こういう恐慌では、以前のどの時代でも馬鹿げている思われたような疫病、過剰生産という疫病が突発します。社会は突然、一時的な野蛮状態に逆戻りし、まるで飢饉とか全般的荒廃戦争であらゆる生活手段の供給が途絶えたかのようになり、工業も商業も破壊されたように見えます。なぜでしょうか。あまりに文明化しすぎ、あまりに生活手段が多すぎ、あまりに工業も商業も発達しすぎたからです。社会が自由にできる生産力は、もはやブルジョワ的所有の条件を促進しようとはせず、反対に、生産力はこういう条件には強力になりすぎ、生産力は足枷をかけられるのですが、生産力が足枷を乗り越えるとたちまち、ブルジョワ社会全体に混乱をもたらし、ブルジョワ的所有の存在を危機にさらすのです。ブルジョワ社会の条件は、それが作り出す富を容れるのには狭すぎるのです。ではブルジョワジーはこの恐慌をどうやって乗り越えるのでしょうか。一方では、大量の生産力を強制的に破壊することによって、もう一方では、新しい市場を獲得し、古い市場をさらにいっそう掘りつくすことによってなのです。言うなれば、もっと広範囲でもっと破壊的な恐慌への道を開くことによって、恐慌を避ける手段を縮小することによってなのです。

ブルジョワジーが封建制を打ち倒すのに使った武器が、今ではブルジョワジーそのものに向けられているのです。

ブルジョワジーは自分たちの死をもたらす武器を鍛えただけではありません。その武器を使いこなす人々、近代的労働階級、プロレタリアを生み出したのです。

ブルジョワジー、つまり資本が発展すればするほど、プロレタリアート、すなわち近代的労働階級も発展します。労働者の階級は、仕事が見つかるかぎり生きていき、そしてその労働が資本を増やすかぎり仕事を見つけるのです。この労働者たちは、自分自身を切り売りしなければならないので、他の売り買いされる品物と同じく、商品であって、その結果、あらゆる競争の転変にさらされ、あらゆる市場の変動にさらされるのです。

機械の利用が拡大したことや、分業のおかげで、プロレタリアの労働は個人的性格をすべて失い、その結果、労働者にとっての魅力をすべて失ってしまいました。労働者は機械の付属物になり、労働者に求められるものは、もっとも単純で、もっとも単調で、もっとも簡単に習得できるコツだけになります。だから労働者の生産費用は、ほとんど、自分の維持や自分の種族の繁殖に必要な生計手段に限られます。しかし商品の価格は、したがって労働の価格も、その生産費用に等しいのです。それだから、労働の嫌悪感が増せば増すだけ、賃金は減少します。そのうえ、機械の利用と分業が増大するにつれ、労働時間の延長によるにせよ、一定の時間に強いられる労働の増加や機械の速度の増加等々によるにせよ、労苦の負荷も増加するのです。

近代的工業は、家父長的な親方の小さな作業場を、産業資本家の大工場に変えました。工場の中にひしめく労働者の大群は、兵士のように組織されます。産業軍隊の兵卒として、労働者たちは完全に階層化された将校や軍曹の指揮下に置かれます。労働者はブルジョワ階級の、そしてブルジョワ国家の奴隷であるというだけではありません。日々刻々、機械によって、監督者によって、とりわけ個々のブルジョワ工場主自身によって、奴隷化されているのです。この専制が利得はその究極目標であるとあからさまに公言すればするほど、それはいっそうみじめで、有害で、苦々しいものとなっていきます。

手作業の労働の熟練と力作業が少なくなればなるほど、言い換えると、近代的工業が発達すればするほど、男の労働は婦人労働にとって代わられます。年齢と性別の違いは、労働者階級には区別するだけの社会的妥当性をもはや持っていないのです。すべてが労働の用具であって、年齢と性別によって使用する費用が多少するだけなのです。

工場主による労働者の搾取が終って、労働者が現金で賃金をうけとるとすぐに、ブルジョワジーの他の部分、家主、小売店主、質屋等々が労働者に襲いかかります。

中間階級の下層、つまり小商い人、小売店主、一般に引退した商工業者、手職人、農民はだんだんとプロレタリアートに落ちぶれていきます。その理由の一部は、その小さな資本が近代的工業を営むには規模的に不十分で、大資本家との競争で圧倒されるからですが、一部にはその特殊化した技能が新しい生産様式によって無価値なものになるからです。こうしてプロレタリアートは人口のあらゆる階級から補充されるのです。

プロレタリアートは様々な発展段階を通過していきます。その誕生とともにブルジョワジーとの闘争が始まります。最初は個々の労働者によって、次には一つの工場の労働者たちによって、次には一地域の一業種の工員によって、彼らを直接搾取している個々のブルジョワとの闘いが行われます。彼らはその攻撃を、ブルジョワ的生産条件にではなく、生産用具そのものに向けます。彼らは自分たちの労働と競争している輸入品を破壊し、機械を打ち毀し、工場を焼払い、中世の職人という消え去った地位を力ずくで復活しようと努めるのです。

この段階では、労働者はまだ全国に散らばったまとまりのない集団をなしているだけで、お互いの競争で分裂してしまいます。もし労働者が団結してもっと緊密な団体をつくったとしたら、それは彼ら自身の能動的な団結の結果ではなくて、ブルジョワジーの団結の結果なのです。ブルジョワ階級は、自分たちの政治的目的を達成するためには、全プロレタリアートを動員せざるえず、しかもまだしばらくの間はそうすることができるのです。だから、この段階では、プロレタリアはその敵と闘うのではなく、その敵の敵と、つまり絶対王制の残り滓、土地所有者、非産業ブルジョワ、プチ・ブルジョワと闘うのです。こうして歴史的運動全体がブルジョワジーの手の中に集中され、獲得された勝利はどれもブルジョワジーの勝利となるのです。

しかし工業の発展とともに、プロレタリアートは数において増加するだけはなく、もっと大きな集団へと集中され、その力は増大し、その力をますます感じるようになってきます。機械が労働の違いを消し去り、ほとんどいたるところで賃金を同じ低い水準に引き下げるにつれて、プロレタリアートという階層内の様々な利害と生活条件はますます一様化します。ブルジョワの間の激化する競争と、その結果生じる商業恐慌は、労働者の賃金をますます動揺させます。機械のますます進む改良は、非常に急速に発展し、労働者の生計をますます不安定にします。個々の労働者と個々のブルジョワとの間の衝突は、二つの階級の間の衝突という性格をますます帯びていきます。その結果、労働者はブルジョワに対して徒党(労働組合)を組み始めます。労働者は賃金率を維持するために協力しあうようになります。こういうたまに起きる暴動に前もって備えるために、労働者は永続的な結社を創設するのです。そこかしこで闘争は突如として暴動にまでなるのです。

ときには労働者が勝つことがあっても、一時のことにすぎません。その闘いの本当の果実は直接的な成果の中にあるのではなくて、絶えず拡大していく労働者の団結の中にあるのです。この団結は近代的工業が生み出した、異なる地域の労働者を互いに接触させてくれる、改良された交通手段によって促進されるのです。同じ性格を持つ、多くの地方的な闘争を、一つの国民的な階級間の闘争に結集するには、この接触こそが必要だったのです。しかし、どんな階級闘争も政治的な闘争です。中世の都市民が、みじめな街道を使って、数世紀もかけて達成した団結を、近代のプロレタリアは、鉄道のおかげで、数年で達成するのです。

こうしたプロレタリアを階級へと組織化し、結果として政党へと組織化することは、労働者自身の間の競争によって、繰り返し無に帰します。しかしこの組織化は、たえず何度も復活し、そのたびにより強く、より堅固に、より広大になっていくのです。この組織化は、ブルジョワジー自身の間の分裂を有利に使って、労働者の特定の利害を法的に承認するよう迫ります。こうしてイギリスでは十時間労働法が実施されたのです。

概して、古い社会の階級間の衝突は、さまざまなやり方で、プロレタリアートの発展の進行を促進します。ブルジョワジーは自分たちが、絶えず続く戦闘に巻き込まれているのに気がつきます。最初は貴族政治と、後には、工業の進歩と利害が相反しているブルジョワジー自身の一部と、そして常時、外国のブルジョワジーと戦闘しているのです。こういう戦闘のすべてで、ブルジョワジーはプロレタリアートに訴えかけて、その助力を求めざるをえないのですが、そうやってプロレタリアートを政治の闘技場へとひきずり込むのです。だからブルジョワジー自身がプロレタリアートに、自分たちの政治的また一般的な教育の諸要素を供給し、要するに、プロレタリアートにブルジョワジーと闘う武器を提供するのです。

さらに、既に見てきたように、支配階級の全般的な部隊がプロレタリアートに突き落とされ、あるいは少なくとも生存条件を脅かされています。こうしたことも、プロレタリアートに啓蒙と進歩の新しい要素を供給するのです。

最後に、階級闘争が決定的な時期に近づくと、支配階級内部で進行してる分解過程、実際には古い社会の全領域で進んでいる分解過程は、暴力的でどぎついまでの性格を帯び、支配階級の小さな一部が自ら結び付きを離れ、革命的階級、その手に未来をつかんでいる階級に加わってきます。それはちょうど以前に貴族の一部がブルジョワジーの側についたように、今やブルジョワジーの一部が、特に、歴史運動の全般を理論的に理解したブルジョワ理論家の一部が、プロレタリアートの側につくのです。

今日、ブルジョワジーと対峙しているあらゆる階級の中で、プロレタリアートだけが正真正銘の革命的階級なのです。その他の階級は、近代工業に直面して、没落し最終的には消え去ります。プロレタリアートは近代工業の特別なもっとも重要な産物なのです。

下層の中間階級、つまり小工業者、小売店主、職人、農民、こういう人たちはみな中間階級の分派としての存在を消滅から救おうとしてブルジョワジーと闘います。したがって革命的ではなく、保守的なのです。それどころか反動的なのです。というのも、彼らは歴史の車輪を逆に回そうとするからです。もしたまたま彼らが革命的なら、それは自分たちがプロレタリアートへと移行するのが差し迫っていることを考慮してそうしているのです。したがって現在の利害ではなく、将来の利害を守っているのであり、自分たち自身の立場を捨てて、プロレタリアートの立場に立っているのです。

「危険な階級」、社会の屑、古い社会の最下層から投げ出される、なすがままに腐敗していく群衆は、ときにはプロレタリア革命によって運動に投げ込まれることもあるけれど、それ以上に、その生活状態から買収されて反動的陰謀の道具になりやすいのです。

プロレタリアートの状況では、古い社会全般の生活条件は既に実質的に窮地に陥っています。プロレタリアは財産を持たず、妻や子との関係はもはやブルジョワ的家族関係と共通するものはありません。近代的な産業労働、近代的な資本への服属はイギリスでもフランスでもアメリカでも同じで、プロレタリアから国民的性格の痕跡を一切はぎとるのです。法律、道徳、宗教はプロレタリアにとってはブルジョワ的偏見であり、その背後にはブルジョワ的利害が待ち伏せしているのです。

支配権を握ったこれまでの階級はみんな、社会全般を自分たちの専有状態に服属させることで、既に獲得した地位を護り固めようとつとめました。プロレタリアは、自分自身の先行する専有様式を、それだからまたあらゆる先行する専有様式を廃絶することなしには、社会の生産力の主人とはなることができません。プロレタリアは確保し護らなければならないような自分のものを一切持っていません。その使命は、これまでの個々人の財産の保全や保障をすべて破壊することなのです。

これまでの歴史的運動というのはみんな、少数者の運動か、少数者の利害のための運動でした。プロレタリアの運動は、大多数者の、大多数者の利害のための、自覚的で独立した運動なのです。現在の社会の最下層であるプロレタリアートは、公的社会におおいかぶさる全階層を空中に跳ね飛ばさなければ、身動きすることも、起き上がることもできません。

内容は違うけれど、形式上は、プロレタリアートのブルジョワジーとの闘争は、まずは国民的闘争です。個々の国のプロレタリアートは、もちろんなによりもまず、その国のブルジョワジーと片をつけなくてはならないのです。

プロレタリアートの発展のもっとも一般的な諸段階を描写するなかで、私たちは現存する社会で荒れ狂う、多かれ少なかれ隠された内乱を跡づけて、内乱が公然たる革命を勃発させ、ブルジョワジーの暴力的打倒が、プロレタリアートの支配の基礎を築くところにまで、到達しました。

既にみてきたように、これまで、あらゆる社会形態は、抑圧階級と被抑圧階級の対立に基礎を置いてきました。しかし、ある階級を抑圧するためには、少なくとも奴隷的生存を続けることができるだけの条件が、その被抑圧階級に保証されなければなりません。農奴制の時代に農奴はコミューンの成員にまで成り上がり、同じように、プチ・ブルジョワは、封建的絶対主義の軛のもとで、なんとかブルジョワへと発展したのでした。反対に、近代的労働者は、工業の進展とともに勃興するのではなくて、自身の階級の生存条件はますます沈み込んでいくのです。労働者は貧困者となり、貧困状態は人口や富の発展よりも急速に発展します。そしてここに、ブルジョワジーがもはや、社会の支配階級であり、自分たちの生存条件を支配的法則として社会に押しつけるには、不適格であることが明らかになるのです。ブルジョワジーはその奴隷制の奴隷に生存を保証する能力を欠き、奴隷から養われるかわりに、奴隷を養わなくてはならないような状態にまで奴隷を落とさざるをえないのだから、支配するには不適格なのです。社会はもはやブルジョワジーのもとで生きていくことができません。言い換えると、ブルジョワジーはもはや社会と両立できないのです。

ブルジョワ階級の存在と支配の本質的条件は、資本の形成と増大です。そして資本の条件は賃労働です。賃労働はもっぱら労働者の間の競争を当てにしています。ブルジョワジーは不本意ながら工業の進歩の促進者なのですが、この工業の進歩は、競争による労働者の孤立を、結社による革命的連携で置き換えます。だから近代工業の発展は、ブルジョワジーの足元から、ブルジョワジーが生産し生産物を専有してきた基盤そのものを取り除きます。ですからブルジョワジーが生産したものは、なによりもまず、自分の墓掘り人なのです。ブルジョワジーの没落とプロレタリアートの勝利は、等しく避けられないことなのです。



第2章 プロレタリアと共産主義者

共産主義者は、全体としてのプロレタリアとどんな関係に立つのでしょうか。共産主義者は、他の労働者党に対立する別の党をつくろうとはしていません。 共産主義者は、全体としてのプロレタリアートの利害とは別の、異なる利害を持ってはいません。

共産主義者は、なにか自分たちの分派的原理を掲げ、それでプロレタリア運動を形作ったり、型にはめたりしません。

共産主義者は、次の点でだけ、他の労働階級の党から区別されます。(1) さまざまな国のプロレタリアの国民的闘争では、共産主義者は国籍から独立した全プロレタリアートに共通の利害を指摘し、前面に押し出します。(2) ブルジョワジーにたいする労働階級の闘争が通過するさまざまな発展段階で、共産主義者はいつでもどこでも、全体としての運動の利害を体現します。

だから、共産主義者は一方では実践的には、どこの国でも労働階級の党のもっとも進んだ、決然とした部分であり、他のすべてを押し進める部分なのです。また一方では理論的には、プロレタリアートの大多数より、プロレタリア運動の進む道筋や条件、究極の一般的成果をはっきりと理解している点で優っています。

共産主義者の当面の目的は、他のどのプロレタリア党とも同じものです。プロレタリアートを階級に形成すること、ブルジョワ覇権の打倒、プロレタリアートによる政治権力の奪取なのです。

共産主義者の理論的結論は、決して、あれこれの自称普遍的改革者が発明し発見した着想や原理に基づいたものではありません。

共産主義者は、ただ単に、現存する階級闘争から、まさに私たちの目前で進行している歴史的運動から生じている現実的関係を、一般的用語で表現しているだけなのです。 過去のすべての所有関係はずっと、歴史的条件の変化の結果生じる歴史的変化を受けてきました。

例えば、フランス革命は、ブルジョワ的所有の側について、封建的所有を廃止しました。

共産主義の著しい特徴は、一般に所有を廃止することではなく、ブルジョワ的所有を廃止するところにあるのです。しかし近代のブルジョワ的私的所有は、階級対立に、少数者による多数者の搾取にもとづく生産と生産物の専有のシステムの、最後の、最も完成された表現なのです。

この意味で、共産主義者の理論は、私的所有の廃止という唯一つの文に要約できるかもしれません。

私たち共産主義者は、人間の自分自身の労働の果実として財産を個人的に獲得する権利を廃止したがってると非難されます。そういう財産があらゆる個人の自由、活動、独立の基礎であると言われているのです。

苦労して得た、自分で獲得した、自分で稼いだ財産!あなたが言っているのは、小職人の、小農民の財産、ブルジョワ的所有形態に先立つ所有形態のことではないでしょうか。そんなものは廃止する必要がないのです。工業の発展が、既に広範囲に破壊しまったし、また今でも日々破壊しているのです。

それとも、あなたは近代的なブルジョワ的私的所有のことを言っているのでしょうか。

しかし、賃労働は労働者になんらかの財産を作り出しているでしょうか。そんなことは決してありません。それは資本、つまり賃労働を搾取し、新たな搾取のために賃労働を新たに供給するという条件の下でしか増加できないような財産を、作り出すのです。所有は、現在の形態では、資本と賃労働の対立にもとづいているのです。この対立の両側面を検証してみましょう。

資本家であることは、生産においては、純粋に個人的な地位にではなく、社会的地位につくということなのです。資本は集団的な産物であって、社会の多くの成員の団結した行為によってだけ、結局のところ、社会の全成員の団結した行為によってだけ、動かすことができるのです。

だから、資本は個人的な力ではなくて、社会的な力なのです。

だから、資本が共有財産に、社会の全成員の財産に変えられると、それによって個人的所有が社会的所有に変わることはありません。変わるのは所有の社会的性格だけなのです。所有はその階級的な性格を失うのです。

さて、賃労働を見てみましょう。

賃労働の平均価格は最低の賃金、つまり労働者としてただ生存するのに絶対必要な生計手段の量なのです。だから、賃労働者が自分の労働によって専有するものは、むき出しの生存を引き伸ばし、再生産するのに足るだけのものでしかありません。私たちは、この労働の産物の個人的専有を廃止しようという意図は毛頭ありません。そういう専有は、人間の生活を維持し再生産するためであって、それによって他人の労働を意のままにするような余剰をのこさないからです。私たちが廃絶したいのは、この専有の惨めな性格なのです。というのは、この専有の下では、労働者はただ資本を増大させるためだけに生き、支配階級の利害が必要とするかぎりでだけ、生きるのを許されているのですから。

ブルジョワ社会では、生きた労働は蓄積された労働を増大させる手段にすぎません。

共産主義社会では、蓄積された労働は、労働者の存在を広げ、豊かにし、促進するための手段にすぎません。

だから、ブルジョワ社会では、過去が現在を支配し、共産主義社会では、現在が過去を支配します。ブルジョワ社会では、資本が自立していて個人的特徴をもっているのに、生きた人間は隷属的で個人的特徴をもたないのです。

そして、こういう状況を廃止することを、ブルジョワは個人性と自由の廃止とよぶのです。そのとおり。疑いもなく、ブルジョワ的な個人性、ブルジョワ的な自立性、ブルジョワ的な自由の廃止をねらっているのです。

現在のブルジョワ的生産条件のもとでは、自由とは自由交易、自由な売買のことです。もし売買が消えてしまえば、自由な売買もまた消えます。自由な売買についてのこういう話は、自由一般についての我がブルジョワジーの「勇ましい言葉」と同じく、意味があったとしても、中世の制限された売買、束縛された交易と対比してだけ意味があるので、売買を、ブルジョワ的な生産条件を、ブルジョワジーそのものを共産主義的に廃止することに対抗するときには、意味をなしません。

あなたは、私たちが私的所有を廃止しようと意図していることに、ぞっとするでしょう。しかし、あなたの現存する社会では、人口の十分の九にとっては、既に私的所有は廃止されているのです。私的所有がこの十分の九の人の手には存在しないということによってだけ、少数者に私的所有が存在するのです。だから、あなたは、私たちが所有形態を廃止しようと意図していることを非難しますが、それは社会の大多数はなんの所有もないということを存在の必要条件としている所有形態なのです。

要するに、あなたは私たちがあなたの所有を廃止しようと意図していることを非難してるのです。まさにそのとおり。それこそが私たちの意図するところなのです。

労働がもはや資本や貨幣や地代へ、独占することのできる社会的力へと変えられなくなる瞬間から、すなわち、個々人の所有がもはやブルジョワ的所有へ、資本へと転化できなくなる瞬間から、個人性が消えうせるとあなたは言っているのです。

だから、あなたは「個人」という言葉でブルジョワしか、中間階級の財産所有者しか意味してないことを告白せざるをえません。こういう人格は、確かに邪魔にならないよう取り除き、存在できないようにしなければなりません。

共産主義は誰からも社会の生産物を専有する権限を剥奪しはしません。こういう専有を使って他人の労働を服属させる権限を剥奪するだけなのです。

私的所有の廃止については、すべての仕事がやめになり、全般的な怠惰に陥るだろうという異議が唱えられてきました。

この異議にしたがうなら、ブルジョワ社会はまったくの怠惰によってとうの昔に破滅しているはずです。というのは何でも手に入れられる人たちは、働かないのですから。この異議の全体は、もはや賃労働がありえないのなら、資本は存在しないという同義反復の、別の表現にすぎません。

物質的生産物の共産主義的生産様式と専有様式に対して言い立てられる異議は、同じように、知的生産物の 共産主義的生産様式と専有様式に対しても言い立てられます。ブルジョワにとっては、階級的な所有が消滅することが生産そのものが消滅することであると同じように、階級的な文化の消滅はあらゆる文化の消滅と同一視されるのです。

文化を失うことをブルジョワは悲しみますが、その文化は大多数にとっては、単に機械としてふるまうための訓練にすぎません。

しかし、自由だの文化だの法律だのについてのあなたのブルジョワ的な概念という基準を、私たちが意図するブルジョワ的所有の廃止に当てはめようとするのなら、私たちと論争するのをお止めなさい。あなたの考えそのものが、あなたのブルジョワ的生産やブルジョワ的所有の条件の所産でしかないのです。それは、あなたの法律学が、全員に対する法となったあなたの階級の意志、つまり本質的な性格や傾向があなたの階級の経済的存在条件によって決定されている意志にほかならないのと同じなのです。

自分本位の思い違いから、自分たちの今ある生産様式と所有形態から出現した社会形態を、あなたは永遠に続く自然法則、理にかなった法則に変えているのです。それは生産の進歩のなかで現れては消えていく歴史的関係であるのに。あなたはこの思い違いを、自分たち以前のあらゆる支配階級と共有しているのです。古代的所有の場合にははっきり理解できたこと、封建的所有の場合には容認できたことが、自分たちのブルジョワ的所有形態の場合は、もっともなことに、容認できないのです。

家族の廃止!共産主義者のこの破廉恥な提案には、最過激派でさえ、かっとなります。

現在の家族、ブルジョワ家族は、どんな基礎のうえに立っているのでしょうか。資本のうえに、私的利得のうえに。その完全に発展した形態では、こういう家族はブルジョワジーの中にしか存在しません。しかしこういう状況は、プロレタリアのあいだには実質上家族が存在しないことや、公の売春に補完されているのです。

この補完物が消え去れば、当然のことながら、ブルジョワ的家族も消え去るでしょう。そして資本が消え去れば、このどちらも消え去るでしょう。

あなたは、親による子どもの搾取を止めようと求めたかどで、私たちを咎めるのですか。この罪については、私たちは有罪だと認めます。

しかし、家庭教育を社会教育で置き換えると、最も神聖な関係が破壊されると、あなたは言います。

そこで、あなたの教育だ。教育もまた社会的であり、あなたが教育する社会的条件によって、つまり学校等々の手段による直接的であれ間接的であれ社会の介入によって決定されているのではないでしょうか。共産主義者が教育における社会の介入を発明したのではありません。ただそういう介入の性格を変え、支配階級の影響から教育を救い出そうとしているだけなのです。

近代工業の作用によって、プロレタリアのあいだの家族の絆が粉々に引き裂かれ、その子どもが単なる商売上の品物や労働用具に変えられるにしたがって、家族や教育についての、親子の神聖な相互関係についてのブルジョワ的たわごとは、ますます不愉快なものになります。

しかし、おまえたち共産主義者は女性の共有を導入しようとしていると、ブルジョワジー全体が声をそろえて叫びます。

ブルジョワジーはその妻を単なる生産用具としか見ていません。生産用具は共同で使われるべきだと聞くと、当然、全員の共有になるという運命が、他のものとおなじように、女性にも降りかかるという結論にならざるをえないのです。

ブルジョワは、本当のねらいが単なる生産用具という女性の地位の廃止だということに、気づきさえしないのです。

他の人たちには、共産主義者が公然としかも公式に確立しようとしている(とブルジョワが称している)女性の共有に対する、我がブルジョワの高潔な憤慨ほど馬鹿げたものはありません。共産主義者は女性の共有を導入する必要なんかないのです。女性の共有はほとんど大昔から存在していたのです。

我がブルジョワは、公娼は言うにおよばず、自分たちのプロレタリアの妻や娘を自由にするだけでは満足せずに、お互いの妻を誘惑することを大いに楽しむのです。

ブルジョワの結婚とは、実際には妻を共有する制度であり、したがって、共産主義者を非難できることといえば、高々、共産主義者は見せかけ上は隠されていた女性の共有を、公然と合法的なものとして導入しようと求めているということだけなのです。他の人たちにとっては、現在の生産制度が廃止されると、その制度から生じている女性の共有、つまり公的であれ私的であれ売春も廃止されるしかないことは、自明のことなのです。

共産主義者はさらに、祖国と国民性を廃止しようと望んでると非難されます。

労働者には祖国はありません。持ってもいないものを、取り上げることなどできません。プロレタリアートは、なによりもまず、政治的支配権を獲得し、国民の支配階級にまで成り上がり、自分自身が国民にならなければならないのですから、その言葉のブルジョワ的な意味とは違いますが、それ自身はなおも国民的なのです。

人々の間の国民的差異や対立は、ブルジョワジーの発展のおかげで、商業の自由のおかげで、世界市場のおかげで、生産様式とそれに対応した生活条件の一様化のおかげで、日々ますます消え去っていきます。

プロレタリアートの支配は、こういった差異や対立をもっと消してしまうでしょう。少なくとも支配的な文明諸国の団結した活動は、プロレタリアート解放の第一条件の一つなのです。

ある個人が他の個人に搾取されることが終るにしたがって、ある国民が他の国民に搾取されることも終ります。国民の中での階級間の対立が消えるにしたがって、ある国民が他の国民と敵対することも終りを迎えるでしょう。

宗教的や哲学的見地から、一般的にイデオロギー的見地からなされる共産主義にたいする非難は、まじめに検討するには値しません。

人間の観念や見解や概念、要するに人間の意識が、その物質的生存条件や社会的関係や社会生活の変化に応じて変化することを理解するのに、深い洞察力が必要でしょうか。

観念の歴史が証明してるのは、物質的生産が変化するのにしたがって、知的生産はその性格が変化するということでしかありません。どの時代でも、支配的な観念は支配階級の観念でした。

社会を革命化する思想について語られるときは、古い社会の内部に新しい社会の要素が作り出されており、古い思想が解消していくのは、古い生存条件が解消していくのと同じ歩調ですすむという事実でしかありません。

古代社会が断末摩の苦しみにあったとき、古代の宗教はキリスト教に制圧されました。18世紀にキリスト教思想が合理主義思想に屈したとき、封建社会はその当時は革命的だったブルジョワジーと死闘を演じていました。宗教の自由とか良心の自由という思想は、ただ単に、知識の領域で自由競争の支配を表現したものにすぎません。

「確かに」とみんなは言うことでしょう。「宗教的、道徳的、哲学的、法的な思想は歴史的発展の中で変わってきた。しかし宗教、道徳、哲学、政治学、法律というものは、いつも変化を切り抜けて生き残った」と。

「その上、自由、正義というような、どんな社会状態にも共通する永遠の真理があるのだ。しかし共産主義は永遠の真理を廃絶し、あらゆる宗教、あらゆる道徳を、新しい基礎のうえに作り上げるかわりに、廃絶するのだ。だから、共産主義は、あらゆる過去の歴史的な経験に反して、ふるまっているのだ」と。

この非難は結局どういうことになるのでしょうか。過去のあらゆる社会の歴史は、階級対立の発展にあり、この対立は異なる時代には異なる形態をとってきたと言うことにです。

しかし、どんな形態をとろうと、過去のあらゆる時代にはひとつの事実が共通しています。すなわち、それは社会のある部分が他の部分に搾取されるということです。それで、過去の時代の社会意識が、どんなに多様性や変化をみせようと、ある共通の形態、あるいは一般的思想の範囲内を揺れ動いてきたのは、驚くことではありません。それは、階級対立が全面的に消滅しないかいぎり、完全に消え去ることはありえないのです。

共産主義革命は、伝統的な所有関係とのもっとも根本的な断絶です。その発展が、伝統的な思想とのもっとも根本的な断絶を含んでいることは、驚くことではないのです。

しかし、共産主義にたいするブルジョワの異論については、これまでにしましょう。

これまで見てきたように、労働階級による革命の第一歩は、プロレタリアートを支配する地位にまで持ち上げ、民主主義の闘いに勝利することです。

プロレタリアートは、その政治的支配力を使って、ブルジョワジーからすべての資本を徐々に奪い取り、あらゆる生産用具を国家、すなわち支配階級として組織されたプロレタリアートの手中に集中し、生産力の総量をできるだけ急速に増大させるのです。

もちろん、最初は、これは所有権に対する、またブルジョワ的生産条件に対する、専制的な侵害なしには、達成できません。だから、この方策は経済的には不十分で支持できないものに見えますが、運動が進むにつれて、自らを凌駕し、古い社会秩序をさらに侵害することを余儀なくし、生産様式を全面的に変革する手段として、避けようのないものとなるのです。

こういう手段は、もちろん国が違えば、違うものとなるでしょう。

とは言っても、最先進の諸国では、次のことはかなり一般的に当てはまるでしょう。
1.土地所有の廃止と地代の公共目的への充当。
2.重度の累進課税。
3.相続権の全面廃止。
4.すべての国外移民者と反逆者からの財産没収。
5.国家資本をもち、排他独占的な国立銀行による、信用の国家の手中への集中。
6.通信輸送手段の国家の手中への集中。
7.国有の工場および生産用具の拡大。共同計画にしたがった荒廃地の耕作化と一般的な土壤改良。
8.全員に対する平等な労働の義務化。産業軍、特に農業のための産業軍の創設。
9.農業と工業の結合。農村部へのもっと平等な人口分散による、都市と農村との区分の段階的廃止。
10.公立学校での全児童に対する無料教育。現在の形態での児童の工場労働の廃止。教育と産業生産活動との結合、等々。

発展が進むにつれて、階級の区分が消滅し、あらゆる生産が全国民の広範な結合の手の中に集中されてくると、公的権力はその政治的性格を失うでしょう。本来そう呼ばれる政治権力とは、単に他の階級を抑圧するためのある階級の組織化された権力にすぎません。プロレタリアートは、ブルジョワジーとの闘争の期間は、諸情勢の力で、自分たちを一つの階級として組織化ぜるをえなかったのであり、革命という手段によって、自分たちを支配階級とし、こうして古い生産条件を払拭するならば、次にはこういう条件が整いしだい、階級対立および階級一般の存続条件を払拭し、それによって階級としての自らの支配を廃止するでしょう。

古いブルジョワ社会、その階級と階級対立に代わって、私たちは、各人の自由な発展が全員の自由な発展の条件となっているような団体をもつことになるのです。



第3章 社会主義的および共産主義的文献

1.反動的社会主義

A.封建的社会主義

近代ブルジョワ社会に対抗してパンフレットを書くことは、その歴史的地位からいって、フランスとイギリスの貴族階級の使命でした。1830年7月のフランス革命でも、イギリスの選挙改革運動でも、こうした貴族階級はまたしても憎むべき成り上がり者に屈したのでした。それ以来、深刻な政治的闘争は、全く問題とはならなくなりました。できることといえば、文筆の戦いだけでした。しかし文筆の領域でさえ、王政復古時代を求める古い標語は、不可能となったのです。

共感を呼び起こすためには、貴族階級は見かけ上は自分たちの利害を忘れ、搾取されている労働階級の利害だけに基づいた、ブルジョワに対する告発状を作成しなければなりませんでした。こうして貴族階級は新しい主人に対する風刺詩を歌い、来るべき破局についての不吉な予言をその耳に囁くことで、恨みを晴らしたのです。

こうして、封建的社会主義が生まれたのです。それは半ば悲哀詩であり、半ば諷刺詩でした。半ば過去の残響であり、半ば未来の威嚇でした。同時に、その苦く、機智に富んだ、辛辣な批評は、ブルジョワジーのまさに心の奥底をうったのでした。しかし近代の歴史の進展をまるで理解できず、その効果はいつも滑稽なものでした。

自分たちの回りに人々を糾合しようと、貴族階級は旗印としてプロレタリアの施し袋を前面で打ち振りました。しかし人々は、時にはそれに参加したものの、その体の背面に古い封建的な陣羽織を見て、不遜な大笑いをして見捨てたのでした。

フランスの正統王朝派の一分派と「若きイギリス」の一統がこの見世物を演じたのでした。

封建主義者は、自分たちの搾取様式がブルジョワジーの搾取様式とは違うことを強調しては、自分たちが全く違う、今では時代遅れの状況と条件の下で搾取してきたことを忘れ去ります。自分たちの支配の下では、プロレタリアートは決して存在しなかったことを示しては、近代ブルジョワジーが自分たちの社会形態の必然的な所産であることを忘れ去るのです。

結局、封建主義者はその批判の反動的な性格をほとんど隠すことがないので、彼らのブルジョワに対する主要な告発は次のようなものになるのです。すなわちブルジョワ体制の下では、古い社会秩序というその根も枝も切り払われる定めの階級が発展するということに。

封建主義者がブルジョワジーを厳しく非難することは、ブルジョワジーがプロレタリアートを創り出したことではなくて、革命的プロレタリアートを創り出したことなのです。

だから、政治的な実践では、封建主義者は労働階級に対するあらゆる矯正施策に参加し、日常生活では、非常に非難めいた文句にもかかわらず、産業の木から落ちた黄金の林檎を拾おうとかがみ込み、羊毛やビート砂糖やジャガイモ酒精の交易に目が眩んで、真理や愛や名誉を売り渡したのです。

牧師はずっと土地所有者と手を携えてきたので、牧師社会主義は封建社会主義になってしまいます。

キリスト教的禁欲主義に社会主義的色合いを施すことほど簡単なのことはありません。キリスト教は私的所有に対し、結婚に対し、国家に対し、熱弁をふるって攻撃したのではなかったでしょうか。キリスト教はこういうものにかえて、慈悲と清貧を、独身生活と肉の禁欲を、修道院生活と母なる教会を説いて回ったのではなかったでしょうか。キリスト教社会主義とは、貴族階級の不平不満を聖化するのに使われる聖水にすぎないのです。

B.プチ・ブルジョワ社会主義

封建的貴族階級は、ブルジョワジーが破滅させた唯一の階級ではありませんし、近代ブルジョワ社会という環境の中で生存条件が衰え消えうせた唯一の階級でもありません。中世の正市民と小農地所有者は近代ブルジョワジーの先駆者でした。工業的にも商業的にもあまり発展してない国では、この二つの階級はまだ、勃興するブルジョワジーと並んで成長しています。

近代文明が十分に発展した国では、プチ・ブルジョワという新しい階級が形成され、プロレタリアートとブルジョワジーの間を揺れ動きながら、ブルジョワ社会の補完物としてたえず新たに復活します。この階級の個々の成員は、競争の作用で絶え間なくプロレタリアートの中に投げ込まれ、また、近代工業が発展するにつれ、自分たちが近代社会の独立した部分としては完全に消滅し、工場でも農業でも商業でも、監督者や農場管理人や店員にとってかわられる瞬間が近づきつつあることを理解さえしているのです。

フランスのような、人口の過半数を農民が占めている国では、ブルジョワジーに対抗してプロレタリアートの側につく著述家は、当然にも、ブルジョワ体制を批判するにあたって、農民やプチ・ブルジョワの尺度基準を使い、こういう中間階級の立場から労働階級の権利を擁護してきました。こうしてプチ・ブルジョワ社会主義が生まれました。シスモンディが、フランスだけでなくイギリスでも、この学派の頭目です。

この社会主義の学派は、近代的生産条件の矛盾を極めて鋭く分析しました。それは経済学者の偽善的な弁解を暴きたてました。機械と分業の破滅的効果、資本と土地の少数者への集中、過剰生産と恐慌を、議論の余地もないほどに明らかにし、プチ・ブルジョワと農民の避けがたい没落、プロレタリアートの悲惨、生産の無政府状態、富の分配のはなはだしい不平等、国民間の産業殲滅戦、古い道徳的絆や古い家族関係、古い国民性の解体を指摘してきたのです。

しかし、この形態の社会主義は、その積極的な目標では、古い生産手段と交換手段を復活し、それとともに古い所有関係と古い社会を復活することか、あるいは近代的な生産手段と交換手段を、そういう手段が爆砕してしまったか、きっと爆砕するにちがいない古い所有関係の枠組の内部に閉じ込めようと切望するのです。どちらの場合も、それは反動的でかつユートピア的なのです。

この社会主義の臨終の言葉は、工場にはギルドの団体を、農業では家父長制的関係を、なのです。

最終的には、強固な歴史的事実が自己欺瞞の酩酊効果を追い払うと、この社会主義の形態はみじめな憂鬱症の発作に終ったのでした。

C.ドイツ社会主義あるいは「真正」社会主義

フランスの社会主義的,共産主義的文献は,権力の座についたブルジョワジーの圧迫の下で生まれ、この権力に対する闘争を表現したものだったのですが、それがドイツに紹介されたのは、ちょうどドイツでブルジョワジーが封建的絶対主義と闘争を始めたときでした。

ドイツの哲学者や哲学志望者、才人たちは熱心にこういう文献に飛びつきました。ただ、これらの著作がフランスからドイツに持ち込まれたとき、それといっしょにフランスの社会条件が持ち込まれたのではないことを、忘れていただけなのです。ドイツの社会条件に触れると、このフランスの文献は、直接の実践上の意義をすべて失い、純粋に文献的な様相だけを帯びるだけとなりました。こうして、18世紀のドイツ哲学者にとって、フランス第一革命の要求するものは、「実践理性」一般という要求以外の何ものでもなく、革命的なフランス・ブルジョワジーの意志という言い方は、彼らの目には、純粋意志の法則、そうあるべき意志の法則、真に人間的意志一般の法則を意味したのでした。

ドイツの学識者の世界は、新しいフランス思想をドイツの古めかしい哲学的良心と調和させること、あるいはむしろ、自分たちの哲学的見解を捨てることなく、フランス思想を接合することから成り立ったていたのです。

この接合は、外国語を習得するのと同じやり方で、つまり翻訳によって行われたのです。

古代の異教世界の古典的著作が書かれた手稿の上に僧侶がカトリックの聖者の馬鹿げた伝記を書いたことは、よく知られています。ドイツの学識者は、世俗的なフランスの文献を使って、この過程を逆にしました。彼らは、フランスの原文の下に、自分たちの哲学的たわごとを書いたのです。例えば、フランスの貨幣の経済的機能の批判の下に「人間性の疎外」と書き、フランスのブルジョワ国家批判の下に「一般者というカテゴリーの廃止」と書いた等々。

フランスの歴史的批判の背後にこういう哲学的文句を導入することを、彼らは「行為の哲学」、「真正社会主義」、「ドイツ社会主義科学」、「社会主義の哲学的基礎付け」等々と呼んだのでした。

フランスの社会主義的、共産主義的文献は、こうして完全に骨抜きになりました。そして、ドイツ人の手の中で、ある階級の別の階級との闘争を表現することを止めたので、「フランスの一面性」を克服し、真の要求ではなくて真理という要求を体現している気になったのです。つまり、プロレタリアアートの利害ではなく、どの階級にも属さず、なんら現実性をもたず、哲学的幻想という茫漠とした領域にしか存在しない、人間一般という人間の本性の利害を、体現しているというつもりだったのです。

このドイツ社会主義は、生徒の宿題を真面目に厳粛に引き受け、香具師同然のやり方で自分の貧弱な手持ち商品を誉めそやし、そうこうするうちに次第に衒学的な無邪気さを失ったのです。

封建的貴族階級と絶対君主制に対するドイツ・ブルジョワジー、特にプロイセン・ブルジョワジーの闘い、つまり自由主義運動は、ますます真剣になりました。

この闘争により、「真正」社会主義は、政治運動に社会主義的要求を突き付け、自由主義に対し、代議制政府に対し、ブルジョワ的競争、ブルジョワ的出版の自由、ブルジョワ的立法権、ブルジョワ的自由と平等に対して伝統的な破門状をたたきつけ、大衆には得るものは何もなく失うものだらけだと説教をするという、長く待ちわびた機会を得たのでした。ドイツ社会主義は折よくも忘れていたのです。自分たちがその馬鹿馬鹿しいこだまであるフランスの批判というのは、近代的ブルジョワ社会が、対応する経済的存在条件とそれに適合した政治体制を伴って、存在していることを前提条件にしており、それを獲得することこそが、ドイツで今進行中の闘争の目的であることを。

牧師、教授、田舎紳士、役人を従えた絶対主義政府にとっては、、ドイツ社会主義は恐ろしいブルジョワジーに対する都合の良い案山子の役割を果たしたのです。

この同じ政府が、ちょうど同じ時期に、反抗するドイツ労働階級に服用させた、鞭と銃弾という苦い丸薬の後では、この社会主義が甘い口直しでした。

この「真正」社会主義がこのように、ドイツ・ブルジョワジーと闘う兵器として政府に仕えている間、それは同時に反動的利害、ドイツの俗物の利害を直接代表するものでした。ドイツでは、プチ・ブルジョワ階級は、16世紀の残り滓で、それ以来、絶えず何度もさまざまな形で現れますが、それが現状の現実的社会基盤なのです。

この階級を保存することは、ドイツの現状を保存することなのです。ブルジョワジーの産業的および政治的支配は、一方では資本の集中から、もう一方では革命的プロレタリアートの勃興から生じた確かな破壊力で、この階級を威嚇するのです。「真正」社会主義はこの両者を一石二鳥でやっつけると思えました。この社会主義は疫病のように蔓延したのです。

修辞の花を刺繍し、病的感受性の滴に浸した思索的な薄物の衣、ドイツ社会主義者がおのれの惨めな「永遠の真理」、その骨と皮ばかりの全身を包み込む、超越的な衣のおかげで、こうした公衆の間では、その商品の売上は驚くほ増加しました。そしてドイツ社会主義の方は、プチ・ブルジョワ俗物の大仰な代弁者という自分たちの天職を、ますます認めたのでした。

ドイツ社会主義は、ドイツ国民を模範的国民、ドイツの小俗物を典型的人間だと宣言しました。この模範的人間の不埒な言行のどれにも、隠された、高潔な、社会主義的解釈が施され、その本当の性格とは全く反対の性格が与えられました。この社会主義は、共産主義の「獣じみた破壊的」傾向に直接立ち向かい、あらゆる階級闘争に対するこの以上はないような公平な軽蔑を述べることさえしたのです。ごく少数の例外を除いて、現在(1847年)ドイツで出回っているいわゆる社会主義的、共産主義的出版物はみな、この汚らわしく気力を失わせるような文献という領域に属しているのです。



2.保守的社会主義またはブルジョワ社会主義
ブルジョワジーの一部は、ブルジョワ社会が継続して存続することを確実にするために、社会的不平を取り除きたいと考えます。

この分派には、経済学者、博愛主義者、人道主義者、労働階級の状況の改良家、事前運動組織者、動物愛護協会会員、狂信的な禁酒運動家、想像できるかぎりのありとあらゆる人知れぬ改良家が属しています。その上、この形態の社会主義は、完全な制度にまでなってしまいます。

こういう形態の一例として、プルードンの貧困の哲学を引き合いにあげておきましょう。

社会主義的ブルジョワは、そこから必然的に闘争と危険が生じるのに、その闘争と危険のない、近代的社会条件の利点をすべて求めます。彼らは現存の社会状態から革命的で分解させる要素を除いたものが欲しいのです。彼らが求めるのは、プロレタリアート抜きのブルジョワジーなのです。ブルジョワジーは当然ながら、自分たちの支配する世界を最高のものと思い描きます。そしてブルジョワ社会主義は、この心地の良い概念を多かれ少なかれ完全なさまざまな制度にまで発展させるのです。プロレタリアートにこういった制度を運営し、それによって社会的な新エルサレムへとまっすぐ行進するよう求めることで、この社会主義は実際には、プロレタリアートが現存社会の束縛のなかに留まり、しかもブルジョワジーに関する憎悪に満ちた考えを捨て去ることを求めているだけなのです。

この社会主義の第二の、より実践的だが、やや体系性に欠ける形態は、政治的改革ではなくて、物質的生存条件や経済関係の変化だけが労働階級に有益であることを示して、労働階級の目に映るあらゆる革命運動の価値を引き下げようとします。この形態の社会主義は、物質的生存条件の変化が、ブルジョワ的生産関係の廃止だということを、そしてこうした関係の存在が継続することに基づいている行政的改革ではなく、革命だけが影響を及ぼす廃止であることを、決して理解しません。だから改革は資本と労働の関係にはいっさい影響せず、せいぜいブルジョワ政府の費用を削減し、その行政業務を単純化するだけなのです。

ブルジョワ社会主義は、演説という形をとった時、しかもその時だけ、適切な表現を獲得します。

自由貿易、労働階級のために。保護関税、労働階級のために。監獄改良、労働階級のために。これがブルジョワ社会主義の遺言であり、唯一真面目な意味を持つ言葉です。

この社会主義は次の成句に要約できます。ブルジョワはブルジョワである、労働階級のために。

3.批判的-ユートピア的社会主義と共産主義

ここで私たちは、どの近代の大革命でも、バブーフその他の著作者のような、プロレタリアートの要求を表明してきた文献をみてみましょう。

プロレタリアートが自分たちの目的を達成しようとした最初の直接的試みは、封建社会が打倒された全般的な動揺期になされましたが、まだプロレタリアートが未発達な状態であったこと、またその解放のための経済的条件がなかったことによって必然的に失敗しました。この条件はやっと作り出されようとしており、差し迫ったブルジョワ時代だけが作り出すことができたのです。こうしたプロレタリアートの最初の運動に伴う革命的文献は、必然的に反動的な性格を持っていました。それは普遍的禁欲主義と社会的平等化を、最も粗野な形で説いたものでした。

社会主義的で共産主義的な制度、特にいわゆるサン・シモン、フーリエ、オーエン他の制度は、上に述べたように、プロレタリアートとブルジョワジーの間の闘争がまだ未発展の初期の時代に、出現しました。(「第1章 ブルジョワとプロレタリア」を参照)

こういう制度の創設者たちは、実際、優勢な社会形態のなかに、分解していく要素の作用だけでなく、階級対立をも見ていました。しかしプロレタリアートは、まだ幼年期で、歴史的主導権も独立した政治運動も欠いたままの階級という哀れな状態だったのです。

階級対立の発展は工業の発展と歩調を合わせて進むのだから、彼らが階級対立を見出した経済状況は、プロレタリアートの解放の物質的条件をまだ与えるものではありませんでした。だから、彼らはこういう条件を作り出すはずの新しい社会科学、新しい社会法則を、捜し求めたのです。

歴史的な行動は彼らの個人的発明行為に屈し、歴史的に作り出された解放の条件は空想的な条件に屈し、プロレタリアートの徐々に進む自発的な階級組織化は、これら発明家が特に工夫した社会の組織化に屈すべきだというのです。彼らの目には、将来の歴史は分解されて、布教活動と彼らの社会計画を実施する実践活動になってしまいます。

彼らの計画を作成するにあたっては、意識的に最も被害を被っている階級である労働階級の利害に注意が払われます。彼らには、最も被害を被っている階級としてだけ、プロレタリアートは存在しているのです。

階級闘争が未発達な状態と彼ら自身のとりまく環境は、こういう種類の社会主義者に、自分たちがあらゆる階級対立のはるか上空に超然としていると思い込ませることになります。彼らは社会のどの成員の生活状態も改善したいのです。たとえ最も恵まれた者であってもです。だから、彼らはいつも、階級の区分なく、全社会に訴えかけます。いや、それどころか好んで、支配階級に訴えかけるのです。一度彼らの制度を理解すれば、それが最善の社会状態の最善の計画であることがわからないことなど起こりえないのです。

だから、彼らはあらゆる政治的活動、特に革命的活動を拒絶します。平和的手段で目標を達成したいと思い、必然的に失敗せざるをえない小実験により、また実例の力によって、新しい社会的福音への道を切り開こうと努めるのです。

こういう未来社会の空想画は、プロレタリアートがまだ極めて未発展な状態で、自分たちの地位について空想的な概念しかもっていなかった時代に描かれ、社会の全面的再構築に対する、この階級の最初の本能的な切なる願いに対応しているのです。

しかし、この社会主義的、共産主義的出版物にはまた、批判的要素も含まれています。それは現存する社会のあらゆる原理を攻撃します。だから、それは労働階級を啓蒙するための最も有意義な素材に満ちています。その中に提案されている実践的手段、都市と農村の区別の廃止、家族の廃止、私的営利企業の廃止、賃労働の廃止、社会調和の宣言、単なる生産管理への国家機能の転換、こういう提案はすべて階級対立の消滅だけを示しています。この時代には、階級対立はまだ生じたばかりで、こういう出版物では、最初期の、はっきりしない、不明瞭な形態でしか認識されていません。だから、こういう提案は純粋にユートピア的性格を帯びているのです。

批判的、ユートピア的な社会主義と共産主義の意義は、歴史的発展と逆比例します。近代的階級闘争が発展し、明確な形をとるにつれて、闘争からはなれたこの空想的な立場、階級闘争にたいするこの空想的攻撃は、あらゆる実践的価値と理論的正当性を失います。だから、この制度の創設者が、多くの点で革命的であったとしても、その弟子たちは、どの場合も、単に反動的な宗派を作るのです。彼らは、その先生のもともとの見解に固執して、プロレタリアートの進歩的な歴史的発展に対立するのです。だから、彼らは熱心に変わることなく、階級闘争を和らげ、階級対立を調停しようとします。彼らは今でも、自分たちの社会的ユートピアの実験的実現を、孤立した「ファランステール」の創設を、「国内移住地」の確立を、新エルサレムの小型版である「小イカリア」の建設を夢見ており、こうした空中城郭の実現のために、ブルジョワの感情と財布に訴えるしかないのです。しだいに、彼らは上に描いた反動的保守的社会主義者のカテゴリーに落ちこみ、こういう社会主義者との違いは、より体系的な衒学と、自分たちの社会科学の奇跡的効果への狂信的で迷信的な信念だけということになるのです。

だから、彼らは労働階級側のあらゆる政治活動に激しく反対します。彼らによれば、こういう活動は新しい福音に対する盲目的不信の結果にすぎないからです。

イギリスのオーエン主義者とフランスのフーリエ主義者は、それぞれ、チャーチストと改革主義者に反対するのです。



第4章 様々な現存の反対党と比較した共産主義者の立場

第2章では、共産主義者と、イギリスのチャーチストやアメリカの農地改革派のような現存する労働階級党との関係を明らかにしました。

共産主義者は当面の目的を達成するためや労働階級の一時的利害を強要するために闘います。しかし現在の運動ではまた、運動の未来を代表し、気にかけてもいるのです。フランスでは共産主義者は、保守的ブルジョワジーや急進的ブルジョワジーに対抗して、社会民主主義者と同盟していますが、しかし大革命から伝統的に受け継いだ空文句や幻想については、批判的立場をとる権利を保持しています。

スイスでは、共産主義者は急進派を支持しています。しかしこの党が一部はフランス的な意味での民主社会主義者、一部は急進的ブルジョワという対立する要素から構成されていることを、見落としてはいません。

ポーランドでは、共産主義者は国民解放の第一条件として農業革命を主張する党を支持しています。この党は1846年のクラカウ反乱を引き起こした党です。

ドイツでは、共産主義者は、ブルジョワジーが、絶対君主制、封建的地主階級、プチ・ブルジョワジーに対抗して、革命的にふるまっている限りで、ブルジョワジーと共闘しています。

しかし、共産主義者は、労働階級にブルジョワジーとプロレタリアートの間の敵対について、できる限りはっきりと認識することを教え込むことを、一瞬たりとも止めません。それは、ブルジョワジーが支配権を手にすると必然的に導入するにちがいない社会的、政治的条件を、ドイツの労働者がただちに、ブルジョワジーに対する多くの武器として、使えるようにしておくためであり、ドイツで反動的階級が没落したら、直ちにブルジョワジーそのものとの闘争を始めるためなのです。

共産主義者はその注意を主にドイツに向けています。それはドイツが、ヨーロッパ文明のもっと進んだ状態の下で、また17世紀のイギリスや18世紀のフランスよりももっと発展したプロレタリアートをもって行われるブルジョワ革命の前夜にあるからです。それにまた、ドイツのブルジョワ革命は、その後直ちに引続くプロレタリア革命の序曲でしかないからです。

手短に言うと、共産主義者はどこでも、現存する社会的、政治的秩序に対するあらゆる革命的運動を支持するのです。

こういう運動のすべてで、共産主義者は所有問題を、その時それがどんな発展度合にあろうとも、それぞれの運動の主要問題として、前面に立てます。

最後に、共産主義者はどこでも、あらゆる国の民主主義政党との同盟と協調に努めます。

共産主義者は、その見解や目的を隠蔽することを、軽侮します。共産主義者は、その目的があらゆる現存する社会条件を暴力的に打倒することによってだけ達成できることを、公然と宣言します。支配階級は、共産主義革命に恐れおののけばよいでしょう。プロレタリアは束縛の鎖以外に失うものはありません。プロレタリアには勝ち取るべき世界があるのです。

すべての諸国の労働者は、団結しよう!
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フランスにおける階級闘争 前文
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前文

1848年から1849年にいたる革命の年代記は、わずかな章を除けばどの重要な章にも、革命の敗北!という表題がついてしまう。

これらの敗北において屈服したのは革命じゃない。屈服したのは、はっきりした階級的反目には至っていない社会関係の結果である革命以前の伝統的付属物--2月革命以前の革命党がとらわれていた人物や幻想、概念、計画といったものだった。革命党は、2月の勝利ではなくて一連の敗北によってのみ、これらのものから自由になることができたんだ。

言い換えると、革命が着実に前に進んだのは、革命の直接の悲喜劇的な成果じゃなくて、強力で団結した反革命を創り出すことによって、転覆党をほんとの革命党に成熟させる闘いの対抗者を創り出すことによって、なんだ。

このことを証明することが、以下のページの課題だ。

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フランスにおける階級闘争 第1部
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第1部 1848年6月の敗北

7月革命の後で、自由主義者の銀行家ラフィットは、自分の仲間のオルレアン公を意気揚々とパリ市庁舎に先導しながら、ふと漏らした。「これからは銀行家が支配する」と。ラフィットは革命の秘密を漏らしたんだ。

ルイ・フィリップの下で支配したのは、フランスのブルジョワジーじゃなくて、その一分派、銀行家や株取引王、炭鉱・鉄鉱山・森林所有者、それと彼らに結びついている一部の土地所有者たち--いわゆる金融貴族たちなんだ。そいつらが玉座に座り、議会で法律を公布し、内閣の大臣からタバコ局の役職に至るまで公職を分配した。

本来の産業ブルジョワジーは公式反対派の一部をなしていた。すなわち議会の少数派に代表されていたにすぎなかったんだ。金融貴族の専制が混じりけなしのものになればなるほど、また1832年、1834年、1839年の暴動が血の海の中に溺れ死に、労働者階級にたいする支配が確かなものになったと思われれば思われるほど、その反対意見は断固として主張された。グランダンは、ルーアンの製造業者で、立法国民公会でも憲法制定議会でも、ブルジョワの反応のもっとも狂信的な手先だったけど、下院ではギゾーの最も激しい反対者だった。レオン・フォーシェは、のちにフランス反革命のギゾーにまで這い上がろうと無益な努力をしたんで有名なんだけど、ルイ・フィリップ時代の終わりには産業界のために、投機とその追従者にたいしペンの戦いを繰り広げていた。バスティアはボルドーと全ワイン生産者の名の下に、支配制度に対抗するようフランス中を扇動していた。

あらゆる色合いのプチ・ブルジョワジーと農民もまた、政治権力から完全に締め出されていた。最後に、公式反対派のなか、あるいは選挙有権者のまったく埒外には、上に述べた階級のイデオロギー的代表者と代弁者、彼らの学識者、法律家、医者等々、言い換えると彼らのいわゆる才能ある人々がいたんだ。

財政難を背負いながら、7月王政はその始まりから大ブルジョワジーに依存してたんだけど、この大ブルジョワジーへの依存が増大する財政難の尽きることのない源泉だったんだ。予算収支のバランスがとれないでは、すなわち国家の支出と収入とのバランスが確立しないことには、国家の統治を国民生産の利害に従わせることなど不可能なことだ。そして、国家支出を制限せずに--すなわち支配制度の多くの支持者の利害を侵害せずに--また税を再配分することなく--すなわち税負担のかなりの部分を大ブルジョワジー自身の肩に移動させることなしに、どうしたらこのバランスを確立できるんだ?

逆に、議会を通じて支配し法を定めてきたブルジョワジーの分派は、国家の負債に直接利害をもっていた。国家の赤字が実にその投機の主要な対象で、それが富裕になるおもな源泉だったんだ。毎年末には新たな赤字が生じ、4、5年おきに新しい借入れが起こった。そして新しい借入れの度に、金融貴族には国家を食い物にする新しい機会を与えられた。国家は人為的に破産の淵に立たされ続けた--国家は銀行家と不利な条件で交渉しなければならなかった。新しい借入れのたびに、株取引の操作をつかってその資本を国債に投資し、公金を強奪する機会がさらに与えられた。これが政府と議会の多数派が内々に通じていた秘密なんだ。一般に、国家の信用が不安定であることと国家の秘密を手に入れたことで、銀行家と議会や玉座のその共犯者たちは国債の相場を突然に、しかも異常に変動させることが可能だった。その結果はいつも多くの小資本家が没落し、大博打うちが驚くほど急に金持ちになることになった。国家の赤字はブルジョワジーの支配分派の直接利益となることだったから、ルイ・フィリップの治世の末期の臨時国家支出がナポレオン統治下の臨時国家支出の2倍以上になった理由は明らかだ。フランスの年平均の総輸出額が7億5千万フランにのぼる額を達成することはめったになかったのに、臨時国家支出は、実に年総額4億フランに達してたんだ。このようにして、国家の手を介して流れ出た莫大な金額が、さらに詐取的な荷渡し契約、贈収賄、横領、あらゆる種類の悪業を助長した。

借入れに関しては卸売りで実施された国家からのだまし取り行為は、公共事業では小売りで繰り返された。議会と政府との間の関係で生じたことは、個々の部門と個々の請負人との関係の中で倍加された。

鉄道建設を食い物にした支配階級は、同じようにして、国家支出一般と国家借入れを食い物にした。議会は国家に思いきり重荷を積み上げ、投機的な金融貴族に金の果実を保証した。下院のスキャンダルで誰もが思い出すのは、国務大臣を含む多数派の全員が、後に立法者として彼らが国の費用で実施した鉄道建設に株主として利害関係をもっていたことが偶然洩れた事件だ。その一方で、もっとも小さな財政改革も、銀行家の介入で暗礁に乗り上げた。例えば郵政改革。国家が、絶えず増え続ける負債の利子をそこから支払わなければならない収入源を縮小してもよいのか?とロトシルトが異義を申し立てたんだ。

7月王制とはフランスの国有財産を食い物にするための株式会社以外のなにものでもなかった。その配当は国務大臣、国会議員、24万人の有権者、およびその支持者たちに分けられた。ルイ・フィリップはこの仲間の指揮者--玉座に座ったロベール・マケール[1]だった。貿易、工業、農業、海運業、産業ブルジョワジーの利害は、引続き、この制度の中で危機にさらされ、不公平な扱いを受けなければならなかった。安上がりの政府というのが7月王制時代に産業ブルジョワジーが旗じるしに書いた言葉だった。

金融貴族が法を作り、国家の統治の首脳部におさまり、組織された公共機関をすべて指令し、現状を通じまた新聞を通じて世論を支配していたから、同じ堕落、同じ恥知らずな詐欺、同じ金儲け熱が、あらゆる分野で繰り返され、宮廷からカフェ・ボルニュ[2]に至るまでが、生産によってではなく、既に使える状態の他人の富を着服することによって金を儲けようとした。絶えずブルジョワ法自身と衝突しながら、不健全で気ままな欲望が歯止めなく主張された。特にブルジョワ社会の頂点では。--そこでは博打で得た富が当然にもその満足を強欲の中に探し求め、快楽は堕落したものとなり、金と汚辱と血がいり混じっていた。金融貴族はものを獲得するやり方でも快楽でも、ルンペン・プロレタリアートがブルジョワ社会の頂点に生まれかわったもの以外の何者でもなかったんだ。

そしてフランス・ブルジョワジーの非支配分派は叫んだ、「腐敗だ!」と。1847年、ブルジョワ社会のもっとも目立つ舞台の上で、ルンペン・プロレタリアなら決まって売春宿へ、救貧院や精神病院へ、法廷の被告人席へ、地下牢へ、そして絞首台へと送り込まれるような同じ場面が演じられていたとき、人民は叫んだ、「大泥棒を打ち倒せ!暗殺者を打ち倒せ!」と。産業ブルジョワジーはその利害が危機に晒されるのを見たし、プチ・ブルジョワジーは道徳的に憤慨し、人民の想像力は不快な思いをした。パリは「ロトシルト王朝」、「時代の高利貸王」といったパンフレットで溢れかえったが、それらは多かれ少なかれ機知をめぐらして、金融貴族の支配を告発し、罪の焼き印を押すものだった。

栄光は一文にもならない!いつもどこでも平和を!戦争は3%公債や4%公債の相場を下げる。証券取引所の仲買人のフランスはその旗じるしにこう書き付けていた。それで、その外交政策は一連の屈辱の中でフランスの国民感情の支持を失ってきた。この国民感情は、ポーランドの侵犯がオーストリアによるクラクフの併合という結果をもたらし、ギゾーがスイス分離戦争では神聖同盟側にたって積極的に介入したとき、いっそう激昂した。この疑似戦争でスイスの自由主義者が勝利を収めると、フランスのブルジョワ反対派の自信は高まり、パレルモの人民の流血の蜂起は、麻痺状態の大衆に電撃ショックのように働いて、偉大なる革命の記憶と情熱をよびさました。

この一般的な不満の爆発を最終的に加速し、暴動へ向かう気分を熟成したのは、二つの経済世界の事件だった。

1845年と1846年のジャガイモ病と穀物不作で、人民のあいだの一般的な不安が高まった。1847年の飢きんは大陸の他の地域と同じようにフランスでも流血の衝突事件をひき起こした。金融貴族の破廉恥な乱痴気騒ぎに対抗しての、絶対必要な生活物資を得るための人民の闘争。ビュザンセディエでは飢餓暴動の参加者が処刑され、パリではたらふく食った詐欺漢どもが王族のはからいで裁判を免れた。

革命の勃発を早めた二つ目の大きな経済的事件は、イギリスの全般的な商工業恐慌だった。すでに1845年秋には鉄道株の投機で大量の失敗がでるという前触れがあったんだけど、1846年の間は差し迫った穀物法の廃止といった一連の偶発事で引き延ばされていた。それがついに1847年秋にロンドンの食品卸商の破産となって恐慌が爆発した。それに踵を接して、地方銀行の破産、イギリスの工業地帯の工場閉鎖が続いた。この恐慌の余波が大陸でまだおさまらないうちに、2月革命が勃発したんだ。

経済的流行病がひき起こした交易と産業の荒廃で、金融貴族の専制はいっそう耐えがたいものになった。フランス全土でブルジョワ反対派は選挙法改革のための宴会運動で扇動した。それによって、議会の多数派を勝ち取り、証券取引所の内閣を覆そうとしたんだ。パリでは産業恐慌で、さらに次のような際だった結果が生じた。それは、現状ではもはや外国市場で商売が立ちゆかなくなった多数の製造業者や大貿易商が国内市場にむかったということなんだ。彼らが大きな店を開いたので、小商人や小店主が大量に破滅した。それでパリのブルジョワジーのこの部分にたくさんの破産がおこったし、だから彼らは2月革命のときには革命的な行動をとったんだ。周知のように、ギゾーと議会は改革の提案に明らかに挑戦的な対応をし、ルイ・フィリップはバロ内閣を決定したが遅すぎて、事態は人民と軍隊が白兵戦となるまでにいたり、軍隊は国民軍の消極的行動により武装解除され、7月王制は臨時政府に席を譲った。

2月のバリケードから出現した臨時政府の構成は、必然的に勝利を分かちあった様々な党派を映し出した。それは一緒に7月の玉座をひっくり返した様々な階級の妥協の産物以外のものにはなりようがなかった。でも、その階級の利害はお互いに相容れないものだった。そのメンバーの大多数がブルジョワジーの代表から構成されていた。共和主義的プチ・ブルジョワジーはルドリュ・ロランとフロコンが、共和主義的ブルジョワジーは「ル・ナシオナル」紙[3]の人々が、王党派的反対派はクルミョーとデュポン・ド・ロールが代表した等々だったんだ。労働者階級はルイ・ブランとアルベールというわずか二人の代表者しか持たなかった。最後に臨時政府のラマルティーヌ、これは最初はなんら現実の利害も、明確な階級も代表しなかった。それは2月革命そのもの、その幻想、その詩、その幻視的内容、その詩句をともなった共同の反乱であった。残りの部分はというと、この2月革命の代弁者は、その地位からいってもその見解からいっても、ブルジョワジーに属していた。

政治的な中央集権の結果、パリがフランスを支配するならば、革命の激震の時には労働者がパリを支配する。臨時政府の生涯の第一幕目は、しらふのフランスへ呼びかけることで、酔いしれたパリの圧倒的な影響力から逃れようとすることだったんだ。ラマルティーヌは、バリケードの戦士たちが共和国を宣言する権利にたいして、その権利はフランス人の多数派だけが持っているという理由で異義を唱えた。彼らは投票を待たなければならず、パリのプロレタリアートはその勝利を専横で汚してはならないというんだ。ブルジョワジーがプロレタリアートに許した唯ひとつの専横--それは闘うことだった。

2月25日の正午になってもまだ共和国は宣言されていなかった。一方ではすべての大臣職はすでに臨時政府のブルジョワ分子の間で、「ル・ナシオナル」の将軍、銀行家、法律家の間で配分されてしまっていた。でも労働者はこのとき1830年7月のようなまやかしにはのるまいと決意していたんだ。彼らは新たに闘いを開始して武力で共和国を勝ち取る準備ができていた。このメッセージを携えてラスペーユはパリ市庁舎に向かった。パリのプロレタリアートの名において、彼は臨時政府に共和国を宣言するよう命じた。もしこの人民の命令が2時間以内に実行されないときは、彼は20万人を率いて戻って来るというのだ。倒れた死体は冷えきっておらず、バリケードはまだ武装解除されていなかった。そして彼らに対抗できる唯一の武装勢力は国民軍だった。こうした状況の下で、国家政策の考察から生じた疑念や臨時政府が抱いていた良心上の法律的ためらいは突然消え失せてしまった。2時間という制限時間がきれる前に、パリの壁中を巨大な英雄的な言葉が輝やかしく飾った。フランス共和国!自由、平等、友愛!

ブルジョワジーを2月革命へと駆り立ててきた限定された目的と動機の記憶さえもが、普通選挙権に基づく共和国宣言によってかき消された。ブルジョワジーのわずかな分派というだけではなく、フランス社会の全階級が突然政治権力の領域に投げ込まれ、貴賓席や特別席や桟敷から出て革命の舞台の登場人物を演じるよう強制されたんだ!立憲君主制と一緒に、ブルジョワ社会と独立して対峙している国家権力という見せかけは消え失せ、さらに権力のこうした見せかけがひき起こしてきた一連の付随的な闘争全体も消えた!

臨時政府に共和国を押しつけ、そして臨時政府を介してフランスに共和国を押しつけることで、プロレタリアートは直ちに独立した政党として前景に踏み出したんだけど、同時に自分たちに対抗して競争に参加するようブルジョワ的フランス全体に挑戦したんだ。プロレタリアートが勝ち取ったものは、その革命的解放への闘いのための地歩であって、決してこの解放そのものを勝ち取ったんじゃなかった。

2月共和制が最初にしなければならなかったことは、むしろ、金融貴族だけなく、すべての有産階級が政治権力の領域に参加することを認めて、ブルジョワジーの支配を完成させることだったんだ。大土地所有者の大多数派である正統王党派は、7月王制が宣告した政治的無効から解放された。「ガゼット・ド・フランス」が反対派の新聞とともに煽動したのには理由があったし、ラ・ロッシュジャクランが6月24日の下院の議会中、革命の側にたったのも十分理由があってのことなんだ。名目上の財産所有者である農民はフランス人民の多数派をなしていたが、普通選挙によって彼らがフランスの運命の裁定者になった。2月革命は、その蔭に資本が隠れていた王冠を叩き落すことで、ついにブルジョワジーの支配をはっきりと目に見えるものにしたんだ。

労働者は7月のときにはブルジョワ王制を闘いとったように、2月のときにはブルジョワ共和制を闘いとった。7月王制が自らを共和制的制度に囲まれた王制と宣言したように、2月共和制は自らを社会的制度に囲まれた共和制であると宣言せざるをえなかった。パリのプロレタリアートが、またこの譲歩をさせずにおかなかった。

マルシュという労働者が、新しく成立した時政府は労働者に労働による生活を保証し、すべての市民に仕事を提供する等々の義務を負うという布告を押しつけた。だが、それから数日して、臨時政府が約束を忘れ、プロレタリアートのことを見落としているように見えたとき、2万人の労働者の群衆が労働を組織しろ!特別の労働省をつくれ!と叫びながら、パリ市庁舎に行進した。しぶしぶながら、しかも長い論争の末に、臨時政府は常設特別委員会を任命して、それに労働者階級の生活改善の手段を援助する任務を課した。この委員会はパリの職人のギルドの代表者から構成され、ルイ・ブランとアルベールが議長となった。リュクサンブール宮殿がこの委員会の会議場としてあてられた。こうして、労働者階級の代表者は臨時政府の所在地から追い出され、臨時政府のブルジョワ的部分が実質的な国家権力と統治の手綱をその手に独占して握ったんだ。こうして大蔵省や商務省や公共事業省と並んで、銀行や証券取引所と並んで、社会主義者のシナゴーグが建てられ、その司祭長のルイ・ブランとアルベールは約束の地を発見し、新しい福音を伝道し、パリのプロレタリアートに仕事を提供するという仕事を負ったんだ。いかなる世俗的国家権力とも異なって、彼らは一切予算を持たず、またその処置の実施権限をまったく持っていなかった。彼らはブルジョワ社会の支柱を頭突きを食らわして倒そうとするかのようだった。リュクサンブールが賢者の石を探している間に、パリ市庁舎では流通硬貨が鋳造されていた。

まあしかし、パリのプロレタリアートの要求は、ブルジョワ共和制を越え出たものである限り、リュクサンブールという雲みたいなもの以外の存在を勝ちとることはできなかったんだ。

ブルジョワジーと一緒に、労働者は2月革命を成し遂げた。彼らはブルジョワジーとならんで、自分たちの利益の増大を確実にしようとした。ちょうど、ブルジョワ多数派とならんで、臨時政府そのものに一人の労働者を入閣させたように。労働を組織せよ!しかし、賃労働、これこそが現存する、ブルジョワ的な労働の組織なんだ。賃労働なしには、資本もなく、ブルジョワジーもなく、ブルジョワ社会もない。特別の労働省!だが、大蔵省、商務省、公共事業省がブルジョワ的ば労働省じゃないのか?こうしたものとならんでいるプロレタリアートの労働省は、無力な省、かなわぬ望みの省、リュクサンブール委員会であるしかなかったんだ。労働者はブルジョワジーとならんで自分自身を解放できると考えていたのと同じように、他のブルジョワ諸国民とならんで、フランス国民という壁のなかで、プロレタリア革命を達成できると考えていた。しかしフランスの生産関係はフランスの対外貿易によって、世界市場でのその地位世界市場の法則によって、条件づけられていてるんだ。世界市場の専制君主であるイギリスを打ち倒すヨーロッパ革命戦争をせずに、どうやってフランスの生産関係を破壊できるというんだ?

社会の革命的利害が集中している階級は、立ち上がるとすぐに、それ自身の状況のうちに革命的活動の内容と材料を、直接見つけるものなんだ。すなわち打ち倒すべき敵と闘争の必要性がとれと命じる手段を見出し、それ自身の行動の結果がさらに彼らを駆り立てていくということになるんだ。自分の課題を理論的に調査したりはしないものなんだ。フランスの労働者階級はこのレベルまで達しておらず、まだ自分自身の革命を成し遂げる能力がなかったんだ。

産業プロレタリアートの発展は、一般に、産業ブルジョワジーの発展に条件付けられている。産業ブルジョワジーの支配の下でだけ、プロレタリアートは自分の革命を国民的革命に高めることのできる広範な国民的存在となり、そうすることによってのみ、プロレタリアート自身が近代的な生産手段を創り出すのだが、この生産手段はその数だけ彼らの革命的解放の手段となるんだ。ブルジョワ的支配だけが封建社会の物質的な根を引き抜き、その上でだけプロレタリアート革命が可能となる大地をならす。大陸の他の地域に比べると、フランスの産業はより発展しており、フランスのブルジョワジーはより革命的である。しかし2月革命は直接には金融貴族の打倒を目的としたものではなかったのか?この事実は産業ブルジョワジーがフランスを支配していなかったことの証拠なんだ。産業ブルジョワジーは、近代的産業がすべての所有関係を自分自身に適合させて形成するところでだけ、支配することができるし、そして産業は、国境というものがその発展に不適当なので、世界市場を征服できたところでだけ、こういう力をふるうことができるんだ。でもフランスの産業は大部分、国内市場に対する支配力さえ、多かれ少なかれ修正された法外な関税制度によってのみ、維持しているにすぎない。そうだから、フランスのプロレタリアートは、革命の瞬間には、パリではその力量を越えて突き進むよう刺激する現実の権力と影響力を持つにもかかわらず、フランスの他の地域では、分離し散在する産業の中心地に群がり集まりながら、圧倒的多数の農民とプチ・ブルジョワジーの中にほとんど消え失せてしまうんだ。発達した近代的形態での--決定的局面での--資本に対する闘争、すなわち産業賃労働者の産業ブルジョワジーに対する闘争は、フランスでは部分的な現象であって、2月革命の時代の後ではほとん革命の国民的内容を提供することができなかった。というのも、金融貴族に対する一般的蜂起には依然として、資本の二次的な搾取様式に対する闘争、すなわち高利と抵当に対する農民の闘争、卸売業者や銀行家や工場主に対する--一言でいえば破産に対する--プチ・ブルジョワの闘争が隠れていたからだ。パリのプロレタリアートが自分の利害を、社会そのものの革命的利害として強制する代りに、ブルジョワシーとならんでその増大を確保しようと努めたこと、三色旗に譲って赤旗を降ろしたことほど、理解しやすいことはない。革命の進行が国民大衆、つまりプロレタリアートとブルジョワジーの間にいる農民とプチ・ブルジョワを、この秩序に対して、資本の支配に対して立ち上がらせ、革命の主唱者であるプロレタリアートに加わざるをえなくなるまでは、フランスの労働者は一歩も前進できず、ブルジョワ秩序の髪の毛の一本にさえ触れることができなかった。労働者はこのような勝利を6月の恐ろしい敗北という代償によってだけ手に入れることができたんだ。

リュクサンブール委員会、このパリ労働者の創造物には、全ヨーロッパの演壇の上から、プロレタリアートの解放という19世紀の革命の秘密を暴露したという功績を認めなければならない。「モニトール」紙は、それまでは社会主義者の典拠不明な文書に埋もれ、ときおり、はるかかなたの半ば恐ろしく、半ば滑稽な伝説としてだけブルジョワジーの耳に届いていた「とっぴなうわ言」を公式に広めなければならなくなったとき、赤面した。ヨーロッパはそのブルジョワ的まどろみから驚いてとび起きた。そうだから、金融貴族をブルジョワジー一般と混同していたプロレタリアの頭の中でも、階級の存在そのものを否定するか、せいぜい立憲君主制の結果とみなしていたひとのよい共和主義者の想像の中でも、今まで権力から排除されていたブルジョワジー分派の偽善的文句の中でも、ブルジョワジーの支配は共和制の採用とともに廃絶されていたはずだったんだ。そのとき王党派はみんな共和主義者に変わり、パリの百万長者はみんな労働者に変わった。この想像上の階級関係の廃絶に対応する文句が友愛、普遍的な親睦と同胞愛なんだ。階級対立のこの心地よい捨象、矛盾する階級利害のこの情緒的和解、階級闘争からのこの空想的な超克、この友愛が2月革命のほんとの標語だったんだ。階級は単に誤解によって分かたれたにすぎず、6月24日には、ラマルティーヌは臨時政府を「異なる階級間に存在するこの恐ろしい誤解を取り除く政府」と名付けた。パリのプロレタリアートは友愛というこの寛大な陶酔に酔いしれていたんだ。

臨時政府としては、一旦無理強いされて共和制を宣言してしまうと、これをブルジョワジーと地方に受け入れてもらえるように、あらゆることをした。フランス第一共和制の流血テロは政治的反対に対する死刑の廃止によって拒否したし、新聞はあらゆる意見に開放されていた。--軍隊、裁判所、行政官庁はわずかな例外を除いて、相変わらず以前からの高官の手に握られたままだった。7月王制の大罪人は誰も責任を問われなかった。「ル・ナショナル」のブルジョワ共和主義者たちは王制時代の名前や衣装を共和制時代のものに取り換えて楽しんでいた。彼らにとって、共和制は古いブルジョワ社会の新しい舞踏会衣装にすぎなかったんだ。若い共和制はその主なメリットを人をおびえさせることにではなく、いつも自分がおびえることに、柔和な譲歩と無抵抗によって存在を認めさせ、抵抗を無害化することに求めた。国内では特権階級にたいし、国外では専制的強国にたいして、共和制は平和な性質を持つと声高に公言した。生きそして生かしめよというのがその公然としたモットーだった。それに加えて、2月革命の後すぐに、ドイツ人、ポーランド人、ハンガリー人、イタリア人が、それぞれの人民がその直面する状況にしたがって反乱を起こした。ロシアとイギリスは、後者は動揺しており、前者はおびえていて、準備ができていなかった。だから、共和制には面とむかった国民的な敵などいなかった。結果として、活力に火をつけ、革命の過程を早め、臨時政府を前に駆り立てるかさもなくば葬り去ってしまうような、大規模な対外紛争など全くなかった。パリのプロレタリアートは、共和制を自分たち自身の創造物とみなしていたが、当然ながらブルジョワ社会での共和制の確固たる地歩固めを促進する臨時政府の行為にはどれにも拍手喝采だった。彼らは、労働者と使用者との賃金争議の調停をルイ・ブランに任せたように、パリでの財産を保護するためコシディエールによる警察業務に喜んで従事した。共和制のブルジョワ的名誉をヨーロッパの目前で汚点なく保つことは、プロレタリアートの面目にかかわることであったんだ。

共和制は国外でも国内でもどんな抵抗にもあわなかった。このため共和制は武装解除された。その課題は、もはや世界を革命的に改造することではなく、自分をブルジョワ社会の諸関係に適合させることだけとなった。臨時政府がどんなに熱心にこの課題に取り組んだか、その財政方策ほど雄弁な証拠はない。

公的信用も私的信用も、当然ながら動揺していた。公的信用は、国家が金融界の狼どもの食い物になってくれるという確信をあてにしていた。ところが、古い国家は消えてなくなったし、革命は何よりもまず金融貴族にたいして向けられたものだった。最近のヨーロッパの商業恐慌の動揺はまだおさまっていなかった。依然として破産に破産が引き続いていた。

それで、2月革命が勃発する以前に、私的信用は麻痺し、流通は制限され、生産は停滞していた。革命的危機は商業恐慌を増幅した。で、もし私的信用がブルジョワ的関係の範囲全体--すなわちブルジョワ的秩序--においてブルジョワ的生産が触られることもなく、不可侵のままでいられるという確信に基づいているのなら、ブルジョワ的生産の基盤、すなわちプロレタリアートの経済的奴隷制を問題にし、証券取引所に対抗してリュクサンブール委員会というスフィンクスを設立するような革命はどんな影響を与えたんだろうか?プロレタリアートの蜂起はブルジョワ的信用の廃止だ。というのも、それはブルジョワ的生産とその秩序の廃止なんだから。公的信用と私的信用は、革命の強度を測ることのできる経済的体温計なんだ。信用という目盛が下がるほど、革命が引き起こす熱は高く、その生成力は大きいことになる。

臨時政府は共和制からその反ブルジョワ的な見かけを剥ぎとりたかった。それで、臨時政府はなによりもこの新しい国家形態の交換価値、証券取引所でのその相場を安定させなければならなかった。共和制の証券取引所時価相場とともに、私的信用も必然的に再び上昇したんだ。

王制から背負わされた債務を履行しないか、あるいはできなのではないのではないかという疑惑を払拭するために、共和制のブルジョワ的道徳と支払能力への信頼を築くために、臨時政府は子供じみているといわれるほどみっともない空自慢の手をうった。臨時政府は、法定支払日に先だって、国家債券者に5%、4.5%、4%利付き債券の利子を支払ったんだ。この政府が自分たちの信頼を買おうとして焦っているのを見て、ブルジョワの冷静さ、資本家の自信は突然よみがえった。

臨時政府の財政難は、手持ち現金の蓄えを奪いさる芝居じみた手では、当然ながら緩和されることはなかった。財政危機はもはや隠しようがなくなり、プチ・ブルジョワ、雇人、労働者が国家債権者の不意打ちの喜びの代価を支払わなければならなかった。

100フラン以上の金額は貯蓄銀行の預金通帳から引き出せないという布告が出された。貯蓄銀行に預金された金額は徴発され、布告によって無償還国債に変えられてしまった。このことは、もう既にいきづまっていたプチ・ブルジョワに共和制に対する反感を抱かせることになった。彼らは貯蓄銀行預金通帳の代わりに国債を受け取ったので、しかたなしに証券取引所に行ってそれを売り、こうして取引所の仲買人の手に我が身を直接引渡すよりほかはなかった。2月革命を起こしたのは、そいつらに対してだったのだが。

7月王制の下で支配した金融貴族は、その高教会を銀行にもっていた。証券取引所が国家信用を支配するように、銀行は商業信用を支配する。

銀行は、2月革命によってその支配ばかりか、その存在そのものも脅威にさらされたので、最初から、信用一般の欠如状態をつくりだすことで、共和制の信用を失墜させようとした。銀行は突然、銀行家、製造業者、商人の信用を停止した。この策略は直ちに反革命を引き起こすことにはならなかったので、必然的に銀行自身にはねかえってきた。資本家は銀行の金庫室に預けておいたお金を引き出した。銀行券の所有者は、それを金や銀に交換するため、支払い窓口に殺到した。

臨時政府は強行的に干渉することなく、合法的なやりかたで、銀行を破産に追い込むことができた。消極的なままで、銀行をその運命の手に任せておきさえすればよかったんだ。銀行の破産は、金融貴族、共和制のもっとも強力で危険な敵、7月王制の黄金の台座を一瞬にしてフランス国土から一掃してしまう大洪水であっただろう。そして一旦銀行が破産してしまえば、政府が国立銀行を設立し、国民信用を国民の統制に従わせるとしても、ブルジョワジー自身がそれを最後の苦肉の救済策とみなさざるをえなかっただろう。

臨時政府は、逆に、銀行券の強制的相場価格を固定した。それにとどまらず、すべての地方銀行をフランス銀行の支店に変え、フランス銀行がフランス全土にその支店網をはることができるようにした。その後、政府はフランス銀行と契約した借入れにたいする保証として、国有林を担保に入れた。こうして2月革命は、それが倒すはずだった銀行支配を直接強化し拡大したんだ。

その間、臨時政府は増大する赤字という悪夢に悶え苦しんでいた。政府は、むなしく愛国的犠牲を乞うてまわった。唯一労働者だけが政府に施しを与えた。頼みの綱は英雄的手段、すなわち新しい税金を課税することしかなくなった。だが誰に課税するんだ?証券取引所の狼どもにか、銀行王にか、国家債権者にか、金利生活者にか、製造業者にか?それは共和制をブルジョワジーの気にいらせるようなやり方ではなかった。一方ではあれほどの犠牲をはらい恥ずかしい思いをしながら、国家信用と商業信用を手に入れようとしてきたのに、もう一方でそんなことをすれば、それらの信用を危険にさらすことになる。しかし誰かがお金を差し出さなければならないんだ。じゃあ誰がブルジョワ的信用の犠牲となったのか?お人好しのジャック、つまりは農民というわけだ。

臨時政府は四種類の直接税について1フランにつき45サンチームの付加税を課税した。政府系の新聞はパリのプロレタリアートをまるめこんで、この税は主に大土地所有者、すなわち王制復古が与えた十億フランの所有者に科せられるんだと信じ込ませた。しかし実際には、この税はなによりもまず農民、すなわちフランス人民の大多数派を襲ったんだ。農民が2月革命の費用を支払わなければならなかった。彼らのなかから、反革命はその材料を得たんだ。45サンチーム税はフランス農民には死活問題だった。農民はこれを共和制の死活問題にした。この瞬間からフランス農民にとって共和制は45サンチーム税を意味することとなったんだ。そして彼らはパリのプロレタリアートに自分たちの負担で裕福に暮らす放蕩者を見ていた。

1789年の革命は農民から封建制の重荷を取り除けることから始まったんだけど、1848年の革命は農村の人々には、資本を危うくしないため、また国家機構の運用を維持するための新税の課税によって、自らを布告したんだ。

臨時政府がこうした面倒事をすべて片付け、国家を古い轍からひっぱり出す方法が一つだけあった。それは国家の破産を宣告することだったんだ。誰しも、ルドリュ-ロランが現在のフランス大蔵大臣の証券取引所のユダヤ人フルドのこの無遠慮な提案を義憤をもって拒絶したことを、その直後の国民議会で述べたことを思い起こすだろう。フルドは彼に知恵の木のリンゴを手渡そうしたというのに。

古いブルジョワ社会が国家にあてて振り出した手形を引き受けたことで、臨時政府はブルジョワ社会に屈伏したんだ。臨時政府は多年にわたる革命の負債を熱心に取り立てる債権者としてブルジョワ社会に立ち向かうかわりに、ブルジョワ社会の追い詰められた債務者となってしまった。政府は、ブルジョワ的諸関係の中でだけ果たすべき義務を果たすために、ぐらついているブルジョワ的諸関係を強固にしなければならなかった。信用は政府の生存条件となり、プロレタリアートにたいする譲歩、彼らにした約束は、はずさなければならない足枷となったんだ。労働者の解放は--ただ文句としてさえ--新しい共和制には耐えがたい危険なものとなった。なぜって、それは信用の回復にたいする終ることのない抗議であったから。信用というものは、現存の経済的階級関係を邪魔されることなく、問題もなく承認することに基づいているものなんだ。だから必然的に労働者は片付けてしまわなくてはならなかったんだ。

2月革命は軍隊をパリの外に追い払っていた。国民軍、すなわちさまざまな色合いのブルジョワジーが、唯一の軍事力をなしていた。しかし、国民軍は単独ではプロレタリアートに対抗できないと感じていた。そのうえ、粘り強く抵抗し、百にものぼるさまざまな妨害を設置したあとのことではあるが、徐々に少しづつ隊伍を開いて武装したプロレタリアの入隊を許さざるをえなくなっていた。その結果逃げ道はただ一つしかなかった。それはプロレタリアートの一部を残りに対抗させることだったんだ。

この目的のために、臨時政府は24個大隊の機動警備軍を編成した。各大隊は1000名の強健な、15歳から20歳までの青年から構成されていた。彼らの大部分はルンペン・プロレタリアートに属していた。それはあらゆる大都会にいる産業プロレタリアートとははっきり区別される群衆で、盗人やあらゆる種類の犯罪者の供給源で、社会の屑で生活しており、定職のない人々、無頼漢、宿無しの無籍者であって、その属する民族の文明化の度合によってさまざまではあるけれど、その賎民的性格を捨てることは決してないんだ。そして臨時政府が募集したような若い年頃には、総じて適応性にとみ、最も英雄的な行為や最も崇高な犠牲的行為も可能なら、獣のような山賊行為も最も卑劣な堕落行為もやりかねないんだ。臨時政府は彼らに日給1フラン50サンチームを支払った。つまりは彼らを買い取ったんだ。臨時政府は彼らに独自の制服を支給した。つまりは彼らを外見上で仕事着を着た労働者と区別したんだ。一部ではその指揮官に常備軍の将校が配属され、一部では指揮官にブルジョワの若い子息が選ばれたが、こいつらの祖国のための死とか共和国への献身といった大言壮語が連中を魅了したんだ。

こうしてパリのプロレタリアートは、自分自身の中から引き抜かれた、二万四千人の若い、強健な、向こう見ずな連中からなる軍隊に対峙させられたんだ。プロレタリアートはパリ中を行進する機動警備軍に歓声をあげた。彼らは機動警備軍をバリケードの先頭部隊だと思っていた。彼らはそれをブルジョワの国民軍に対比されるプロレタリアの護衛兵とみなしたんだ。彼らの誤りは無理もなかった。

機動警備軍とは別に、政府は自分の周りに産業労働者の軍隊を結集しようと決めた。恐慌と革命によって街頭に投げ出された十万人の労働者を、大臣マリはいわゆる国民作業場に登録した。この大げさな名前の下に隠されていたのは、23スーの賃金で労働者を退屈で単調で非生産的な土掘り作業に従事させることでしかなかった。戸外のイギリスの収容作業場--国民作業所とはこうしたものだったんだ。臨時政府は、その中に労働者自身に対抗する第二プロレタリア軍を作ったんだと信じていた。労働者が機動警備軍を誤解したように、今度はブルジョワジーが国民作業場を誤解した。彼らは反乱のための軍隊を創り出したんだ。

しかし、目的の一つは達成された。

国民作業場とはルイ・ブランがリュクサンブール宮殿で説いていた人民の作業場の名前だった。リュクサンブールに直接対抗して考案されたマリの作業場は、共通する名札のおかげで、スペインの召使笑劇顔負けの間違いの喜劇のきっかけを与えたんだ。臨時政府そのものがこそこそと、これらの国民作業場はルイ・ブランの発見だという噂をひろめてまわったが、国民作業場の預言者、ルイ・ブランが臨時政府の一員であったことから、この噂はいっそうもっともらしく見えた。半ば素朴で半ば意図的なブルジョワジーの混同の中で、またフランスやヨーロッパの人工的に作られた世論の中で、これらの収容作業場が社会主義が最初に実現したものだとされ、社会主義はそれと一緒にもの笑いの種となったんだ。

国民作業場は、その内容ではなくて、その呼び名によって、ブルジョワ的産業、ブルジョワ的信用、ブルジョワ共和制にたいするプロレタリアートの抗議を体現したものだった。だからブルジョワジーの全ての憎しみがそれに向けられたんだ。それと同時に、ブルジョワジーは、2月の幻想をおおっぴらに破るほど強くなるとすぐに、直接攻撃を仕掛けることのできる点を、国民作業場にみつけた。プチ・ブルジョワのすべての不満、すべての不快感も共通の標的、国民作業場に向けられていた。心底から激怒して、彼らは、自分たちの状況が日ましに耐えがたくなっているというのに、プロレタリアの怠け者が食い潰す銭の勘定をした。見せかけだけの仕事にたいする国家の扶助、それが社会主義だ!彼らはぶつぶつ不平をつぶやいた。彼らは自分たちの不幸の理由を国民作業場に、リュクサンブールの長演説に、パリを練り歩く労働者の行進に探し求めた。そして、破産の淵を希望を失ってうろついているプチ・ブルジョワほど、根拠も無しに言いたてられる共産主義者の陰謀を熱狂的に信じるものはいなかった。

こうして近づいてくるブルジョワジーとプロレタリアートの間の戦闘において、すべての利点、すべての決定的持ち場、すべての社会中間層はブルジョワジーの手中にあったが、ちょうどその時には、2月革命の波が高くあがってヨーロッパ大陸全土を襲い、新着の郵便が、今度はイタリアから、今度はドイツから、今度は東南ヨーロッパのはるか遠い地方からと、革命の新しい速報をもたらし、勝利の証拠を絶え間無く見せられて、人民は一般的恍惚状態に陥ったままだった。でもこの勝利はもう既に失われていたんだ。

3月17日と4月16日は、ブルジョワ共和制がその翼の下に隠していた大きな階級闘争の最初の小競り合いだった。

3月17日はプロレタリアートが曖昧な状況にあり、それで決定的行為ができないことをばらした。そのデモはもともと臨時政府を革命の道へと押し戻し、状況次第では政府のブルジョワ閣僚を排除するよう働きかけ、国民会議と国民軍の選挙を延期させるという目的のものだった。しかし3月16日に国民軍が代表するブルジョワジーが臨時政府にたいする敵対デモを企画した。彼らはルドリュ・ロランを倒せ!と叫びながら、パリ市庁舎に殺到した。それで人民は、3月17日には、ルドリュ-ロラン万歳!臨時政府万歳!と叫ばざるをえなかった。彼らはブルジョワジーに対抗して、ブルジョワ共和制を支持せざるをえなかった。この共和制は彼らには危機に瀕していると思われたんだ。彼らは臨時政府を服従させるかわりに強化した。3月17日はメロドラマの一場の中に消え失せた。そしてこの日、パリのプロレタリアートがその巨体を誇示したのにたいして、臨時政府の内外のブルジョワジーは彼らを叩き潰す決意を一層固めたんだ。

4月16日は臨時政府がブルジョワジーと同盟して工作した誤解だった。労働者が、国民軍参謀の自分たちの指名者を選ぶために、錬兵場と競馬場に多数集まっていた。労働者が武装して錬兵場に集結し、ルイ・ブラン、ブランキ、カベー、ラスペーユの指導のもとに、そこからパリ市庁舎に行進して、臨時政府を転覆し、共産主義政府を宣言しようとしてるという内容の噂が、突然パリ中を端から端まで雷光のような早さでひろまった。一般警報が鳴り響き--後にルドリュ-ロラン、マラスト、ラマルティ-ヌはその発案者の名誉を争った--一時間のうちに十万人が武器を手にし、パリ市庁舎は国民軍に完全に占拠され、共産主義者を倒せ!ルイ・ブランを、ブランキを、ラスペーユを、カベーを倒せ!という叫びがパリ中にとどろいた。夥しい数の代表者が臨時政府に忠誠を誓い、皆祖国と社会を救う準備をした。最後に、錬兵場で集めた愛国献金を臨時政府に渡そうと、労働者がパリ市庁舎の前に現れたが、ブルジョワのパリが周到に計画された模擬戦で自分たちの影を打ち破ったことを知って驚いたんだ。4月16日の恐るべき計画はパリに軍隊を呼び返す口実--これこそが不器用に上演された喜劇の本当の目的だったんだ--を与え、また地方の反動的連邦主義者のデモの口実を与えた。

5月4日に直接普通選挙で成立した国民議会[4]が招集された。普通選挙権は旧式の共和主義者があると思っていたような魔法の力を持ってはいなかった。彼らはフランス全体に、少なくともフランス人の多数派の中に、同じ利害、同じ分別等々を持つ市民を見ていた。これは彼らの人民崇拝だった。選挙は、彼らの想像上の人民の代わりに、現実の人民を、すなわち人民が分裂している様々な階級の代表者を白日の下へ連れ出した。なぜ農民とプチ・ブルジョワジーが、戦闘好きのブルジョワジーや王制復古にやっきとなっている大土地所有者の指導のもとに投票しなければならなかったかは、既に見てきた。しかし、普通選挙権が奇跡ではない--共和主義者のおえら方が思っていたような魔法の杖の働きはしないにしても、それは、階級闘争を束縛から解き放ち、ブルジョワ社会の様々な中間層に彼らの幻想と幻滅を急いで体験させ、搾取階級の全分派を国家の頂点に押し上げ、こうして彼らからまやかしの仮面を剥ぎ取るという、比べものにならない大きな利点があったんだ。これに対して、財産資格制選挙権をもった王制は、ブルジョワジーのある分派だけの体面を傷つけ、その他の分派は背景に隠れさせ、共通の反対派という後光で包んだんだ。

5月4日に招集された憲法制定国民議会は、ブルジョワ共和主義者、すなわち「ル・ナシオナル」の共和主義者が優位にたった。正統王朝派やオルレアン派でさえ、最初のうちはブルジョワ共和主義の仮面をつけてしか姿を見せようとはしなかった。プロレタリアートにたいする戦闘は共和制の名においてだけ行うことができた。

共和制の日付は2月25日ではなくて、5月4日から始まった。すなわち、フランス国民が承認した共和制は、ということなんだが。それはパリのプロレタリアートが臨時政府に押しつけた共和制ではなかったし、社会制度をともなった共和制でもなく、バリケード上の戦士たちの前に浮かび上がった幻でもなかった。国民議会が宣言した共和制、ただ一つの正統な共和制は、ブルジョワ秩序にたいして革命の武器を持つのではなく、むしろブルジョワ社会の政治的再構成、政治的再強化である共和制、一言でいえばブルジョワ共和制だった。この主張は国民議会の論壇上から響きわたり、その反響は共和主義的であれ反共和主義的であれすべてのブルジョワ新聞で見られた。

で、僕らが見てきたのは、実際の2月共和制はブルジョワ共和制でしかなく、またそれ以外のものではありえなかったこと、臨時政府は、それにもかかわらず、プロレタリアートの直接の圧力により、それが社会的制度をもつ共和制であると布告せざるをえなかったこと、パリのプロレタリアートは、空想や想像以外には、ブルジョワ共和制を乗り越えて進むことはまだできなかったこと、彼らが実際に行動するときは、どこででも共和制はブルジョワジーに役立とうとふるまったこと、プロレタリアートにした約束は新しい共和制には堪えがたい危険となったこと、臨時政府の全生涯の過程は、要約すればプロレタリアートの要求に対する絶え間のない戦いだったことなんだ。

国民議会では全フランスがパリのプロレタリアートを裁いた。議会は直ちに2月革命の幻想と決別し、ブルジョワ共和制を、そしてブルジョワ共和制以外のなにものでもないことを、きっぱりと宣言した。議会はすぐに自分たちが任命した執行委員会から、プロレタリアートの代表、ルイ・ブランとアルベールを排除した。議会は特別の労働省という提案を否決し、大臣トレラの「問題は今や労働を以前の状態にもどすことだけだ。」という声明を拍手で受け入れた。

でもこれだけでは十分でなかったんだ。2月共和制はブルジョワジーの消極的支持のもとで労働者が勝ち取ったものだった。プロレタリアは当然自分たちが勝利者だと思ったし、勝利者の傲慢な要求を持ち出していた。彼らを路上で降伏させなければならなかったし、ブルジョワジーとともに戦うのではなく、ブルジョワジーに対して戦うならすぐに、彼らは打ち破られてしまうということを示さなければならなかった。2月革命が、社会主義的な譲歩をして、ブルジョワジーと連合したプロレタリアートの王制に対する戦いを必要としたように、共和制を社会主義的な譲歩から分離させ、ブルジョワ共和制を公式に支配勢力として仕上げるには、第二の戦いが必要だった。ブルジョワジーは、武器を手にして、プロレタリアートの要求を退けなければならなかった。ブルジョワ共和制の本当の誕生の地は、2月の勝利ではなく、6月の敗北なんだ。

5月15日にプロレタリアートが国民議会に押し入って、革命的な影響力を取り戻そうと無駄な努力をして、自分たちの精力的指導者をブルジョワジーの獄吏に引き渡しただけに終ったとき、彼らは決定を早めさせることになった。こんな状況は終らせなくてはならない!こういう叫びとともに、国民議会は無理矢理にでもプロレタリアートを雌雄を決する闘争にひきずり込もうという決意をぶちまけたんだ。執行委員会は人民集会禁止等々というような一連の徴発的な布告を出した。労働者は、憲法制定議会の論壇上から直接、徴発され、侮辱され、嘲笑されたんだ。でも本当の攻撃点は、見てきたように、国民作業場だった。憲法制定議会は緊急にこれらの作業場を執行委員会に指示したが、執行委員会は自分たちの計画が国民議会の指令として宣言されるのが聞こえてくるのを待つばかりになっていたんだ。

執行委員会は、表向きは土掘り作業の建設のためと称して、日給を出来高給に変更したり、パリ生まれでない労働者をソローニュへ追い出したりして、国民作業場への入場をもっと難しくすることから手をつけた。労働者が我に帰り、仲間に知らせたように、こうした土掘り作業は単に追放を粉飾する修辞的決まり文句にすぎなかった。ついには、6月21日には「モニトール」紙上に、すべての未婚の労働者を国民作業場から強制的に排除するか軍隊に入隊させるよう命じた布告が出た。

労働者には選択の余地はなかった。彼らは餓死するか戦端をひらくかしかなかった。6月22日に彼らは激烈な反乱で答えたが、そこで近代社会を分裂させている二つの階級の間の最初の大戦闘が闘われたんだ。それはブルジョワ的秩序を保持するか絶滅させるかの闘いだった。共和制をおおっていたヴェールはずたずたに引き裂かれたんだ。

周知のとおり、労働者たちは、前例もないほど勇敢でしかも巧みに、指導者もなく、共通の計画もなく、手段もなく、大抵は武器さえ持たずに、五日間にわたり、軍隊を、機動警備軍を、パリの国民軍を、そして地方から流れ込む国民軍を抑え続けた。周知のとおり、ブルジョワジーは彼らが被った死ぬ程の苦しみを三千人以上の捕虜を虐殺するという前代未聞の蛮行で埋め合わせたんだ。フランスの民主主義の代議士どもはどっぷりと共和制のイデオロギーに浸かりこんでおり、数週間もたってから6月の戦闘の重要性をうすうす感じとる始末だった。彼らは自分たちの幻想的な共和制を夢散させた硝煙で麻痺していたんだ。

6月の敗北のニュースが僕らにもたらされたときの最初の印象を、新ライン新聞に載せた言葉[5]で述べることをお許しいただきたい。


執行委員会、この2月革命最後の公式の遺物は、こうした重々しい事件の前で幽霊のように消え失せた。ラマルティーヌの花火は、カヴェニヤックの焼夷弾に変わった。

友愛、一方の階級が他方の階級を搾取している敵対する階級の友愛、2月に宣言され、パリの建物の正面に、すべての牢獄に、すべての兵舎に大きな文字で書き付けられたこの友愛--この友愛はその本当の、混じりけの無い、散文的な表現を、内乱に、もっとも恐ろしい様相の内乱に、労働の資本家に対する戦争に見出したんだ。この友愛が6月25日の晩、パリの窓の前で燃え上がったんだ。そのときブルジョワジーのパリは美しく照らし出されていたというのに、プロレタリアートのパリは焼け、血を流し、断末魔の呻き声をあげていた。

この友愛はブルジョワジーとプロレタリアートの間に親密な利害関係がある間だけ続いたんだ。1793年の古い革命の伝統にしがみつく物知りども、ブルジョワジーに人民への施しを乞い、プロレタリアートというライオンをあやして寝かせているかぎり長々と説教をし恥を晒すのを許された社会主義の空論家、王冠をかぶった頭以外は、古いブルジョワ的秩序をそくりそのまま維持したがる共和主義者、たまたま内閣更迭のかわりに王朝の転覆という課題を課せられた王朝反対派、お仕着せを脱ぎ捨てたいわけではなく、単にそのスタイルを変えたいだけの正統王朝派、こうした連中が人民がその2月革命を闘った同盟者だった。......

2月革命は素敵な革命、普遍的共感の革命だ。なぜって、この革命の中で王制に抗して噴き出した対立は、まだ未発達で穏やかにまどろんだようなものだったから。なぜって、その背景を形作った社会的闘争は、かりそめの存在、言い替えれば語句の上の存在をかち取っただけだから。6月革命は醜い革命、不快な革命だ。なぜって空文句が事実に席を譲ったから。なぜって、共和制が、怪物の頭から保護し隠していた王冠を叩き落して、その頭をむき出しにしたから。

秩序!それがギゾーのときの声だ。秩序!ワルシャワがロシア領になったとき、ギゾー派のセバスティアニはそう叫んだ。秩序!フランス国民議会と共和派ブルジョワジーの残忍な反響カヴェニャックはそう叫んだ

秩序!彼のブドウ弾はプロレタリアートの体を引き裂きながら、そう鳴り響いた。

1789年以来フランスのブルジョワジーの多くの革命のどれひとつとして、現存する秩序を攻撃したものはなかった。というのも、どの革命も、階級支配、労働者奴隷制、ブルジョワ的制度は保持したのだから。たとえこの支配とこの奴隷制の政治的形態がたびたび変化したにせよ。6月暴動はこの制度を攻撃したんだ。6月暴動に災いあれ!

6月に災いあれ!この言葉がヨーロッパ中に響きわたる。

パリのプロレタリアートはブルジョワジーによって無理矢理6月暴動へと追い込まれた。このことはその非運に注目すれば十分納得できる。暴動を起こす差し迫った公然とした必要があって、プロレタリアートは力づくでブルジョワジーを転覆する闘いに係わるよう駆り立てられたわけでもないし、プロレタリアートがこの課題を成し遂げるだけの力があるというわけでもなかった。モニトール紙は次のことを公に知らせるべきだった。共和制がプロレタリアートの幻想に恭しく礼をする儀式をみている時は過去のものとなり、プロレタリアートの敗北だけが、その地位をわずかでも改善しょうとすることは依然としてブルジョワ共和制の中ではユートピア、現実的なものとなることを求めるとすぐに犯罪となるようなユートピアであるという真実を、彼らに納得させたんだということを。形式上は熱狂的だが内容としてはかなり制限されブルジョワ的ですらあるような要求、その譲歩をプロレタリアートはなんとか2月革命から引き出したかった要求にかわって、ブルジョワジーの打倒!労働者階級の独裁!という革命的闘争の大胆なスローガンが現れた。

プロレタリアートの埋葬地をブルジョワ共和制の生誕の地とすることによって、プロレタリアートは無理矢理ブルジョワ共和制が国家としての純粋な形態で現われさせたが、それは資本の支配と労働の隷属を永続させることを自らの目的とするものだった。目の前にいつも、傷だらけの、和解できない、勝てそうもない--勝てそうもないのはその存在がブルジョワジー自身の生活の条件だからだ--敵をかかえているので、ブルジョワ的支配は、あらゆる束縛から解放されると、直ちにブルジョワ的テロリズムに変わらざるをえなかった。プロレタリアートがしばらくの間舞台から追いたてられ、ブルジョワジーの独裁が公式に承認されると、ブルジョワ社会の中間層、プチ・ブルジョワと農民階級は、彼らの地位が耐えがたくなればなるほど、またブルジョワジーとの敵対関係が激しくなればなるほど、ますます密接にプロレタリアートに追従せざるえなくなった。彼らはその悲惨の原因を以前はプロレタリアートの台頭にあると思っていたように、今ではその敗北にあると思うようになったんだ。

6月反乱が大陸中でブルジョワジーの自身を高揚させ、ブルジョワジーが人民に対抗して公然と封建王制と同盟する原因になったとすれば、この同盟の最初の犠牲者は誰だったのか?それは大陸のブルジョワジー自身だった。6月の敗北は、大陸のブルジョワジーがその支配を確立し、人民を、半ば満足で半ば不満のまま、ブルジョワ革命の最低の段階にとどめ置くことを妨げたんだ。

最後に、6月の敗北はヨーローッパの専制的列強諸国に、フランスは国内で内戦を行うことができるには、国外では如何なる代償を払っても平和を維持しなければならないという秘密を暴露した。こうして民族独立の闘いを開始した人民は、ロシア、オーストリア、プロシアの強大な権力に引き渡されたが、同時にこうした国民革命の運命はプロレタリア革命の運命に従うものとなり、その外見上の自主性、大社会革命の独立性を奪い取られた。労働者が奴隷のままであるかぎり、ハンガリー人もポーランド人もイタリア人も自由ではありえないんだ!

ついには、神聖同盟の勝利とともに、ヨーロッパはフランスにおけるどんな新しいプロレタリア反乱も世界戦争と同時に起こるような状態になった。新しいフランス革命は直ちに国土を捨て去って、ヨーロッパ全土を征服するだろう。その上でだけ、19世紀の社会革命は完成することができるんだ。

こうして、6月の敗北だけが、フランスがヨーロッパ革命の主導権を握ることができるすべての条件を作りだした。6月の反乱者の血に浸されてはじめて、三色旗はヨーロッパ革命の旗--赤旗となったんだ。

そして僕らは叫ぶ。革命は死んだ!革命よ永遠なれ!と。

http://page.freett.com/rionag/marx/CSF2.html
フランスにおける階級闘争 第2部
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第2部 1848年6月から1849年6月13日まで

1848年2月25日はフランスに共和制をもたらしたが、6月25日はフランスに革命を強制した。そして革命は、2月以前は政府形態の転覆を意味していたのに、6月以後はブルジョワ社会の転覆を意味した。

6月の戦闘はブルジョワジーの共和主義的分派が指導したので、勝利とともに政治権力は必然的にその取り分となったんだ。戒厳状態により、さるぐつわを噛まされたパリは彼らの足元に無抵抗となり、地方では道徳的戒厳状態が支配し、ブルジョワジーは威嚇的で残忍に勝利におごり昂ぶり、農民は野放しに財産熱に狂奔していた。だから、下からの危険は全くなかったんだ。

労働者の革命的な力の崩壊は同時に民主的共和派、すなわちプチ・ブルジョワジーの意味での共和派の崩壊であった。それは、執行委員会ではルドリュ-ロランが代表し、憲法制定国民議会では山岳党が代表し、新聞では「レフォルム」が代表していたものだった。ブルジョワ共和派と共に彼らは4月16日にプロレタリアートに対して陰謀を企て、6月事件でもブルジョワ共和派と共にプロレタリアートと戦った。プチ・ブルジョワジーはその背後にプロレタリアートがいるかぎりでだけ、ブルジョワジーに対して革命的態度を維持できるのだから、その背景があってこそ一勢力として人目を引いていたのに、こうして彼らはその背景を自分自身で吹き飛ばしたんだ。プロレタリアは退散した。ブルジョワ共和派は、臨時政府と執行委員会の時代にはしぶしぶと心のうちでは留保つきでプチ・ブルジョワ共和派と結んでいた見せかけの同盟を、公然と破棄した。同盟者としては鼻であしらわれ、追い払われながら、彼らは三色旗派の卑屈な取り巻きにまで落ちぶれた。彼らは三色旗派から何の譲歩も引き出せなかったが、三色旗派が、そしてそれと共に共和制が、反共和主義ブルジョワジー分派によって危機にさらされていると思われるといつも、三色旗派の支配を支援しなければならなかった。最後に、これら反共和主義分派、オルレアン派と正統王朝派は、最初から憲法制定国民議会の少数派だった。6月事件の前は、彼らが敢えて対応するにも、ブルジョワ共和主義の仮面を被るしかなかった。6月の勝利のおかげで、一瞬だけブルジョワのフランス全体がカヴェニャックに自分たちの救い主を感じとった。それで6月事件直後に、反共和主義政党がその独立を取り戻したときも、軍事独裁とパリの戒厳状態のせいで、彼らはすごく臆病に用心しながらしか、その触角を出せなかったんだ。

1830年以来、ブルジョワ共和主義分派の著述家、代弁者、才能と野心のある連中、代議士、将軍、銀行家、弁護士は、パリの新聞「ナシオナル」のまわりに結集していた。この新聞は地方にも地方新聞を持ってたんだ。「ナシオナル」の常連たちが三色旗共和制の王朝だった。そいつらが今や空席となった国家公職--閣僚、警視総監、郵政長官、知事、軍の高級将校の地位--を直ちに手にいれた。執行権力の頂点には連中の将軍カヴェニャックが立っていた。連中の編集長マラストは憲法制定国民議会の常任議長となった。同時に彼は司会役として、自分のサロンで、まともな共和制の栄誉を讃えた。

革命的なフランスの著述家たちでさえ、かつてのように、共和主義的伝統を畏敬して、王党派が憲法制定国民議会を支配していたという誤った信念を強調してきた。実際は反対に、6月事件後は憲法制定公民議会は依然として専らブルジョワ共和主義を代表していた。そして、議会の外で三色旗共和主義の影響力が崩れ去るにつれて、この側面はますますはっきりと強調されたんだ。問題がブルジョワ共和制の形式の維持についてなら、議会は自由裁量で民主的共和主義者から得票したが、問題ががその内容についてとなると、話ぶりさえ王党派のブルジョワ分派ともはや区別がつかなくなったんだ。なぜって、ブルジョワジーの利害、その階級支配と階級搾取こそが、ブルジョワ共和制の内容をなしてたんだから。

この最後は死んだのでも殺されたのでもなく、腐ってしまった憲法制定議会の生涯と業績の中で実現されたのは、このように王党主義ではなくブルジョワ共和主義だったんだ。

憲法制定議会が支配してた全期間にわたり、それが前舞台で国家という荘厳な出し物を演じていたあいだ中、舞台の背後では途切れること無く犠牲祭が上演されていた。つまりひっきりなしに軍事法廷は捕らえられた6月反乱者に判決を言い渡し、あるいは審理もなしに国外に追放したんだ。憲法制定議会は、6月反乱者の場合は犯罪者を裁いているのではなく、敵を一掃しているんだいうことを、認めるくらいの機転は持っていた。

憲法制定国民議会の最初の行為は、6月および5月15日の事件、およびその時期の社会主義的ならびに民主的政党の指導者の果たした役割を調査する委員会を設置することだった。その調査の直接の狙いはルイ・ブラン、ルドリュ-ロラン、コシディエールだった。ブルジョワ共和主義者はこのライバルたちを除きたくて、苛立っていたんだ。彼らがうっぷん晴らしを任せるには、オディロン・バロ氏ほどの適任者はいなかった。こいつは王党反対派の前主席で、自由主義の化身、真面目ぶった無能者、徹頭徹尾浅薄な奴で、王朝のために復讐するだけでなく、自分が首相になるのを妨げたというので、革命家に仕返しせずにはいられなかった男なんだ。これが彼は情け容赦無いことの確かな保証だ。だから、このバロが調査委員会議長に任命されたんだ。そこで彼は2月革命に対する完全な訴状を作り上げた。それは要約すると次のようなものである。3月17日デモ、4月16日陰謀、5月15日襲撃、6月23日内乱!彼はなぜ、その博覧強記の犯罪学的調査の手を2月24日にまで伸ばさなかったんだろう?「ジュルナル・デ・デバ」紙は調査した。その結果は、すなわちその日はローマの建国の日にあたるからというんだ。国家の起源は神話のなかに消え去る。神話は信じるものであって、論議するものではないんだ。ルイ・ブランとコシディエールは法廷に引き渡された。国民議会は5月15日に着手した自分自身の浄化という作業を完了した。

臨時政府が作り、グショーが再び取り上げた、抵当権課税の形での資本課税案は、憲法制定議会で否決された。一日の労働時間を10時間に制限する法律は、はねつけられた。負債拘留はもう一度導入された。フランス人の大部分である読み書きのできない者は陪審員の任務から排除された。なぜ選挙権から排除しなかったのか?新聞は再び保証金を預けなければならなかった。結社の権利は制限された。

6月事件のとき、パリのプチ・ブルジョワ--カフェやレストランの主人、居酒屋店主、小商人、小売店主、手職人等々--ほど熱狂的に財産の保全と信用の回復のために戦った者はなかった。小売店主たちは団結してバリケードに向かって行進し、通りから店にはいる交通を回復しようとした。でも、バリケードのかげにはお客と債務者が立っており、バリケードの手前には店の債権者がいた。で、バリケードは打ち倒され、労働者は粉砕されて、勝利に酔った店主が急いで店に戻ってみると、財産の救い主、債権の公式代理人が入口を塞ぎ、脅しの通告を手渡したんだ。不渡りの約束手形!支払い日を過ぎた家賃!支払い期限を過ぎた借用書!破滅した店!破滅した店主!

財産の保全!でも彼らが住んでいる家はその財産ではなかった。彼らが営んできた店はその財産ではなかった。彼らが扱ってきた商品はその財産ではなかった。彼らの商売も、彼らが食事をとる皿も、彼らが眠るベッドも、もう彼らのものではなかったんだ。財産を保全しなければならなかったのは、まさに彼らからだったいうわけなんだ。家を貸している家主のために、約束手形を割り引いた銀行家のために、現金を前貸しした資本家のために、これら小売商人に商品販売を委託した製造業者のために、これら手職人に原料を信用貸しした卸売業者のために。信用の回復!でも信用は再び強さを取り戻し、自分が力強く嫉妬深い神であることを示したんだ。信用は支払いができない債務者を妻子もろとも部屋から追いたて、彼の見せかけだけの財産を資本に引き渡し、債務者自身を債務監獄に投げ込んだ。この監獄は、6月の反乱者の死体のうえに再び威嚇するようにその頭を持ち上げていたんだ。

プチ・ブルジョワが怖きながら知ったことは、労働者を打ち倒したことで、自分たちが抵抗することもないまま、債権者の手にに引き渡されたことだった。プチ・ブルジョワの破産は、2月以来慢性的にだらだら進行し、表面上は見過ごされてきたのだが、6月以降はおおっぴらに宣告されたんだ。

プチ・ブルジョワを財産の名の下に戦場に駆り出すことが重要であった間は、彼らの名ばかりの財産は激しく責めたてられることもなかった。今やプロレタリアートとの大問題が片付いたので、今度は食料品屋のささいな問題も片付けることができるようになったんだ。パリでは支払い期限を過ぎた手形が2千百万フラン以上にのぼり、地方でも百万フランを超えた。7千のパリの事業所の経営者が2月以来家賃を支払っていなかった。

国民議会は政治的犯罪の調査を2月に遡って実施したが、今度はプチ・ブルジョワが2月24日時点での民事負債の調査を要求した。彼らは大勢で証券取引所のホールに集まり、支払い不能が専ら革命が引き起こした不景気によるもので、2月24日時点では商売が順調であったと証明できる商売人を代表して、商事裁判所の命令で支払い期間を延長すること、適当な割合での支払いによって債権者の支払い要求を強制的に放棄させることを、脅迫するようにして要求したんだ。法案としては、この問題は国民議会で和解協約という形で取り扱われた。議会は動揺したが、そのとき突然、同じ時に反乱者の妻と子供数千人がサン・ドニ門で恩赦請願の準備をしているという知らせがはいった。

6月の亡霊がよみがえったので、プチ・ブルジョワは震え上がり、国民議会は冷酷さを取り戻した。和解協約、この債務者と債権者との和解解決策は、もっとも本質的な点を否決された。

こうして、国民議会内でプチ・ブルジョワの民主主義的代表がブルジョワの共和主義的代表に撃退されてずいぶんたってから、この議会内の仲間割れは、債務者であるプチ・ブルジョワが債権者であるブルジョワに引き渡されるという、ブルジョワ的な、現実経済的な意味を得たんだ。プチ・ブルジョワの大部分はすっかり没落し、残った者たちも、資本の完全な奴隷になるという条件でだけその商売を続けることができたんだ。1848年8月22日には国民議会は和解協約を否決した。1848年9月19日には、戒厳状態の最中にルイ・ボナパルト公とヴァンセンヌの囚人で共産主義者のラスペーユがパリの代議士に選出された。一方ブルジョワジーは高利の両替商でオルレアン派のフルドを選出した。つまりすべての側から同時に、憲法制定国民議会に対して、ブルジョワ共和主義に対して、カヴェニャックに対して宣戦布告したんだ。

パリのプチ・ブルジョワの大量破産が、その直接の犠牲の範囲をはるかに超えた余波を生じ、またしてもブルジョワ的商業を震憾させたこと、その一方で、国家の欠損が6月反乱の出費でさらにふくれ上がり、また国家収入が、生産の停滞、消費の制限、輸入の減少によって落ち込んだことを示すのに議論の余地なんかないだろう。カヴェニャックと国民議会は新たな借入れ以外に頼る手段がなかったが、それでさらにいっそう金融貴族の隷属することになった。

プチ・ブルジョワは裁判所の命令による破産と清算という6月の勝利の果実を得たが、一方カヴェニャックの親衛隊である機動警備軍の褒美は娼婦の柔らかい腕だった。そして「社会の若い救い手」である機動警備軍は、まっとうな共和国の主人役と吟遊詩人の二役を同時に演じた三色旗の騎士、マラストのサロンでありとあらゆる敬意を受けたんだ。そうしているうちに、機動警備軍への社会的えこひいきと不相応な高給に、軍隊は苦々しい思いを募らせ、一方ではルイ・フィリップ治下で、ブルジョワ共和主義が、その新聞「ナシオナル」を通じて振りまき、軍隊や農民階級の一部を惹きつけてきた社会的幻想は、すべて一度に消え失せてしまった。カンヴェニャックと国民議会が北イタリアで、イギリスと共同して、この地域をオーストリアに売り渡すのに果たした仲介役--統治下のこの一日が「ナシオナル」が果たしてきた18年にわたる反対派という地位を無に帰したんだ。「ナシオナル」の政府ほど国民的でない政府はなかったし、イギリスに依存した政府はなかった。そして、ルイ・フィリップ時代には「ナシオナル」はカトーの格言「カルタゴは絶滅すべし」を日々言い替えて生き延びてきたのに、この政府ほど神聖同盟にへつらったものはなかった。しかも、「ナシオナル」はかつてはギゾーのようなやつにウィーン条約破棄を要求していたんだ。歴史の皮肉から、「ナシオナル」の前外交問題編集者バスティードがフランスの外務大臣となり、自分の記事の一つ一つを自分の急報文書で反駁してまわるはめになった。

しばらくの間、軍隊と農民階級は、軍事独裁と同時に、フランスにふさわしく対外戦争がはじまり栄光がもたらされるのだと信じていた。ところが、カヴェニャクはブルジョワに対する剣の独裁ではなく、剣によるブルジョワの独裁だった。そこで必要な兵士は憲兵だけだった。カヴェニャックは、その古くさい共和主義に忍従した厳しい顔つきの下に隠れて、そのブルジョワ的職務の卑屈な条件を退屈そうに甘受していた。お金は主人を持たない!カヴェニャックも、またおおむね憲法制定議会も、この古い第三階級の選挙スローガンを、ブルジョワジーは王を持たない、その支配の真の姿は共和制だという政治的言葉に翻訳して、理想化したんだ。

そして憲法制定国民議会の「偉大な組織的作業」とは、この形態を仕上げること、共和主義憲法をつくることだった。キリスト暦を共和暦に改名し、聖バーソロミューを聖ロベスピエールに改名しても風や天候になんの変化も生じなかったと同じように、この憲法がブルジョワ社会を変えることはなかったし、変えるはずもなかった。憲法が衣装を取り換えることだけに留まらなかった点は、現実にある事実を記録したことだ。こうして憲法は共和制という事実、普通選挙権という事実、二つの制限された立憲議院にかわる単一の最高権をもつ国民議会という事実を、厳かに記録したんだ。こうして憲法は、不動で責任の無い世襲王制を、変わりやすく責任のある選挙王制、つまり任期4年制の大統領制に置き換えることで、カヴェニャックの独裁という事実を記録し法制化したんだ。こうして憲法は、国民議会が5月15日と6月25日の恐怖を味わった後に自分自身の保安のために慎重に大統領に付与した非常特権という事実を、基本法にまで持ち上げた。憲法制定で残ったのは術語上の作業だった。古い王制の機構から王党派的ラベルは剥され、共和主義的ラベルが貼り付けられた。以前の「ナシオナル」の編集長で、今や憲法の編集長となったマラストは、この学術的な作業を、そこそこの手腕で、やってのけた。

地下の鳴動がまさに足もとで土地を吹き飛ばす火山の噴火を告げていた時に、土地の所有関係をもっと確実に統制しようと地籍調査をしていたチリの役人がいたというが、憲法制定議会はこのチリの役人に似ていた。理論上は憲法制定議会はまちがいなくブルジョワジーの支配を共和主義的に表現する形式を確定したが、現実にはあらゆる打開策の廃止によって、簡単に言えば強制力によって、つまり戒厳状態によってだけ自分を維持していたんだ。議会は憲法制定作業にはいる2日前に戒厳状態の延長を宣言した。以前は、革命の社会的過程が休止点に到達し、新しく形成された階級関係が確立して、支配階級の対立しあう分派が妥協点を頼みに、互いに闘争を続けながらも力尽きた人民大衆を支配から排除しておけるようになるとすぐに、憲法が作られ採用されたものなんだ。しかしこの憲法は、それとは反対に、まったく社会革命を認定したものではなく、むしろ革命に対する旧社会の一時的勝利を認定したものだった。

6月事件以前に作られた憲法の第1次草案にはまだ労働の権利が含まれていた。これはプロレタリアートの革命的な要求を要約した、最初の不器用な方策だった。それが公的扶助の権利に変えられたが、何らかの形で貧困者を扶養しない近代国家などあるんだろうか?労働の権利は、ブルジョワ的意味では、不条理なもの、みじめで非現実的な望みなんだ。しかし労働の権利の背後には資本に対する支配力があり、資本に対する支配力の背後には生産手段の専有が、つまり生産手段を団結した労働者階級の支配下におくことが、したがって賃労働と資本およびその相互関係の廃止がある。「労働の権利」の背後には6月反乱があったんだ。憲法制定議会は革命的プロレタリアートを事実上法の埓外に置いたが、原理としてプロレタリアートの方策を、法の中の法である憲法から排除しなければならなかった。つまり「労働の権利」に破門を言い渡さなければならなかったんだ。だがそれにとどまったわけではない。プラトンがその共和国から詩人を追放したように、議会はその共和国から累進税を永久追放した。とはいえ、累進税は現存の生産関係の範囲内で多少なりとも実施できるブルジョワ的手段だっただけでなく、ブルジョワ社会の中間層を「まっとうな」共和主義に縛り付け、国家負債を減らし、反共和主義的なブルジョワジー多数派を牽制する唯一の手段でもあったんだ。

和解協約に関しては、三色旗共和主義者は実際上プチ・ブルジョワジーを大ブルジョワジーの犠牲とした。彼らはこの一度きりの事実を、累進税の法的禁止によって原則にまで持ち上げたんだ。彼らはブルジョワ的改革をプロレタリア革命と同列に置いた。だがそれでは、どの階級が彼らの共和国の大黒柱として残るのだろうか?大ブルジョワジーだ。だが大ブルジョワジーの大多数は反共和主義者だった。彼らは「ナシオナル」の共和主義者を、古い経済生活関係を再び強固にするためにこき使ったが、一方ではこの再度強固になった社会関係を、これに対応する政治形態を復活させるのに利用しようと考えた。早くも10月初めには、カヴェニャックはルイ・フィリップの前大臣だったデュフォールとヴィヴィアンを共和国の大臣にせざるをえないと感じていた。自分の党の脳なしの潔癖家は不平をいったり、怒鳴りつけたりしたんだが。

三色旗憲法はプチ・ブルジョワジーとのどんな妥協も拒み、新しい政府形態に新しい社会要素まったく付け加えることができなかったのに、一方では、あわてて古い国家のもっとも頑固で小うるさく、狂信的な擁護者から構成された団体に、伝統的な不可侵性を取り戻そうとした。憲法は、臨時政府が問題視していた判事を罷免できないことを、基本法に持ち上げた。憲法が退位させた一人の王は、これら罷免できない適法性についての審問官として再び何十という数で甦った。

フランスの新聞は、多方面からマラスト氏の憲法の矛盾、たとえば、国民議会と大統領という二つの主権者が並存している点等々を分析した。

しかし、この憲法の包括的な矛盾は次の点なんだ。それは、憲法が社会的奴隷状態を永続化しようとしている諸階級--プロレタリアート、農民、プチ・ブルジョワジーに普通選挙権によって政治権力を持たせていることだ。また、この憲法は、旧来からの社会権力を是認している階級、すなわちブルジョワジーからは、その権力の社会的保障を奪ってるんだ。この憲法はブルジョワジーの政治的支配を民主主義的な条件の中に押し込めたが、こうした条件はいつでも、敵対階級が勝利しブルジョワ社会の基盤そのものを脅かすことを助長するんだ。憲法は、最初のグループには政治的解放が社会的解放へと進まないよう求め、もう一方のグループには社会的復古から政治的復古にまで戻らないよう求めたんだ。

こうした矛盾でブルジョワ共和主義者が狼狽することは、ほとんどなかった。ブルジョワ共和主義者が欠くことのできないものであるのをやめ、そしてただ単に革命的プロレタリアートに対する旧社会の対抗者としてだけ不可欠の存在となるにつれ、その勝利の数週間後には、政党の地位から同人仲間の地位にまで転落した。そしてブルジョワ共和主義者は憲法を大きな陰謀として扱ったんだ。彼らが憲法で制定しようとしたのは、なによりもまず、この同人仲間の支配なんだ。大統領は引き延ばされたカヴェニャックで、立法議会は引き延ばされた憲法制定議会となるはずだった。彼らは人民大衆の政治的権力を見かけだけの権力に縮小し、またこのまがいものの権力をうまくあやつって、絶えずブルジョワジー多数派が6月事件のディレンマ、すなわち「ナシオナル」の王国か無政府の王国かというディレンマに陥いったままにしておくことがことができたらと望んでいた。

憲法制定の作業は9月4日に始まり、10月23日には終了した。9月2日に憲法制定議会は憲法を補足する基本法が制定されるまでは解散しないと決議した。にもかかわらず、憲法制定議会の活動が一巡し終るずっと前の12月4日には、そのもっとも独特な創造物である大統領を出現させることに決めた。それほど確かに憲法のホムンクルスは、母親の息子だと認めていたんだ。予防措置として、2百万票を獲得した立候補者がいなければ、選挙は国民から議会の手に移るものとされていた。

無駄な措置だった!憲法が実施された最初の日は、憲法制定議会が支配する最後の日となった。投票箱の奥底には死刑判決が入っていた。憲法制定議会は「母親の息子」を探していて、見つけたのは「叔父の甥っ子」だったんだ。サウルのカヴェニャックは百万票を得た。だがダビデのナポレオンは6百万票を獲得した。サウルのカヴェニャックは6倍以上の差で打ち負かされたんだ。

1848年12月10日は農民反乱の日だった。この日からはじめてフランス農民の2月が始まったんだ。農民が革命運動に参加したことを表しているしるし、すなわち不器用な狡猾さ、無頼な素朴さ、間の抜けた尊大さ、計算ずくの迷信、痛ましい茶番、巧妙だが愚かしい時代錯誤、世界史的な悪ふざけ、文明人の理解力では判読できない象形文字--こういうしるしは文明の中の野蛮を代表する階級の人相をまぎれもなく表していた。共和制は自身を徴税人でもって農民階級に知らせたんだが、農民階級は自身を皇帝でもって共和制に知らせた。ナポレオンは、1789年に新たに生まれた、農民階級の利害と想像力を余すことなく体現した唯一の人物だった。共和制の正面にナポレオンの名前を書き付けることで、農民階級は外国には戦争を、国内にはその階級利害の貫徹を宣言したんだ。農民にとってはナポレオンは人物ではなくて綱領なんだ。旗をおし立て、太鼓を打ちラッパを吹きならして、彼らは投票所へと行進し叫んだ。税金はもうたくさん、金持ちをやっつけろ、共和制をやっつけろ、皇帝万歳!と。皇帝のうしろには農民戦争がひそんでいたんだ。農民が選挙で倒した共和制は金持ちの共和制だった。

12月10日は現存の政府を打倒した農民のクーデタだった。農民がフランスから一つの政府を奪い去り、一つの政府を与えたこの日以来、農民の目はじっとパリを見据えていた。一瞬の間革命劇の活動的なヒーローとなり、もはや農民を不活発で根性なしの合唱隊へと押し戻すことはできなかった。

その他の階級も、農民の選挙での勝利が完全なものとなるのを助けた。プロレタリアートにとって、ナポレオンの選出とは、カヴェニャックの免職、憲法制定議会の転覆、ブルジョワ共和主義の棄却、6月の勝利の終了という意味だった。プチ・ブルジョワジーにとっては、ナポレオンは債権者に対する債務者の支配を意味した。大ブルジョワジーの多数派にとっては、ナポレオンの選出は、しばらくの間革命に対抗するのに利用したが、その一時的地位を憲法上の地位に固定しょうとしたとたん我慢できないものになったブルジョワ分派と公然と決裂することを意味した。この多数派にとって、カヴェニャックのかわりにナポレオンというのは、共和制のかわりに王制、王制復古の始まり、意味ありげにオルレアン朝をほのめかすこと、スミレのかげのユリを意味した。最後に、軍隊は機動警備軍に対抗し、平和なのどかさに反対し、戦争に賛成してナポレオンに票を投じたんだ。

こうして新ライン新聞が言ったように、フランス中でもっとも単純な頭の男が、もっとも多種多様な意味を持つことになった。この男は何者でもなかったので、自分以外のすべてのものを意味することができた。一方で、いろいろな階級が口にするナポレオンという名前の意味が様々に違っていようと、投票用紙にこの名前を書くと言うことは、「ナシオナル」の党を倒せ、カヴェニャックを倒せ、憲法制定議会を倒せ、ブルジョワ共和制を倒せと言うことだったんだ。大臣デュフォールは憲法制定議会で公然と、12月10日は第二の2月24日だと明言した。

プチ・ブルジョワジーとプロレタリアートは、カヴェニャックに反対投票し、またその投票をまとめて、憲法制定議会から最終決定権をもぎとるために、一団となってナポレオンに投票した。といっても、この二つの階級のもっと進歩的な層は独自の候補を立てたんだが。ナポレオンは、ブルジョワ共和制に反対して連合したすべての党派の集合名詞だった。だが、ルドリュ-ロランとラスぺーユは、前者は民主主義的プチ・ブルジョワジーの、後者は革命的プロレタリアートの固有名詞だった。ラスペーユへの投票は、プロレタリアやその社会主義的代弁者が大声でそれを言っていたんだけど、その票数分があらゆる大統領制への抗議、すなわち憲法そのものへの抗議なんだ、その票数だけルドリュ-ロランに反対なんだという単なる示威活動だった。これがプロレタリアートが、独立した政党として、民主主義的政党から分離したことを宣言した最初の行動だったんだ。一方この民主主義的政党、つまり民主主義的プチ・ブルジョワジーとその国会での代表である山岳党[6]は、ルドリュ-ロランの立候補を大真面目で取り扱った。彼らは大真面目にやることで、もったいぶって自己欺瞞する癖があるんだ。それ以後、これが独立した政党として、プロレタリアートに対抗して行った最後の試みだった。共和主義的ブルジョワ政党だけでなく、民主主義的プチ・ブルジョワジーとその山岳党も、12月10日に打ち負かされた。

フランスは今や山岳党とならんでナポレオンまで持つことになったが、このどちらも、そいつらが名を借りてきた偉大な本ものの生気の無い戯画にすぎないという証拠もあがったんだ。皇帝帽をかぶり鷲の印をつけたルイ・ナポレオンは昔のナポレオンのみじめなもじりだが、1793年から借りた文句を使い、煽動家の恰好をした山岳党も同じように昔の山岳党のみじめなもじりだった。こうして伝統的な1793年の迷信が剥ぎ取られると同時に、伝統的なナポレオンの迷信も剥ぎ取られたんだ。革命はそれ自身の本来の名前を勝ち取ったときだけ、その真価を発揮するんだし、現代の革命的階級、産業プロレタリアートが優位にたって革命の前面に現れたときだけ、革命はそうなることができるんだ。12月10日は、人を馬鹿にした農民の冗談で古い革命の古典的な類似性が大笑いのうちに突然打ちきりになった日というだけでも、山岳党は言葉も出ないほど驚き、分別を失ったと言えるんだ。

12月20日にカヴェニャックはその職を退き、憲法制定議会はルイ・ナポレオンを共和国大統領と宣言した。12月19日、その単独支配の最後の日に、憲法制定議会は6月反乱者の大赦動議を否決した。判決なしに1万5千人の反乱者を国外追放に処した6月27日の布告を無効にすることは、6月の戦闘そのものを無効にするという意味になるのでないか?というんだ。

ルイ・フィリップ最後の大臣オディロン・バロがルイ・ナポレオンの最初の大臣になった。ルイ・ナポレオンは、自分の支配を12月10日からではなく、1804年の元老院布告から起算したように、その内閣を12月20日からではなく2月24日の勅令から起算する総理大臣を見つけ出した。ルイ・フィリップの正統の継承者として、ルイ・ナポレオンは古い内閣を温存することで、政体の変化を緩和しようとしたんだ。この内閣は、そのうえ使い古しになるほど時間を経てなかった。なぜって、それは生まれて何かにとりかかるだけの時間もなかったんだから。

王党派のブルジョワ分派の指導者どもが、ナポレオンにこの人選を進言したんだ。この古い王朝派的反対派の党首は、無意識に「ナシオナル」の共和派への移行に関与したが、完全に意識してブルジョワ共和制から君主制への移行に関与するほうが、ずうっと適役というもんだ。

オディロン・バロは、いつも大臣の椅子を争って無駄な努力をしていたが、まだ疲れ果ててはいない、一つの古い反対派政党の党首だった。矢つぎばやに革命はすべての古い反対派政党を国家の頂点に投げ上げ、そうすることで自分たちの過去の文句を、行動だけでなく言葉によってさえ否定し否認しなければならくなり、最後には人民により歴史の糞だめに一緒くたに投げ込まれ、結合して胸の悪くなるような混合物と化したんだ。そしてこのバロ、このブルジョワ自由主義の化身、18年間にわたり精神の恥知らずな愚鈍さを肉体のもったいぶった態度の陰に隠してきた男が、やらなかった背信行為はなかった。ときに現在のアザミと過去の月桂樹とのあまりの違いに自分自身驚くことがあっても、鏡をちょっとみれば、大臣らしい落ち着きと人間らしいうぬぼれを取り戻せた。鏡の中から彼を照らし出していたのはギゾー、バロがいつも羨み、いつもバロを屈伏させてきたギゾーその人、だがオディロンのオリュンポスの神のような額をしたギゾーだった。バロが見過ごしたのはマイダス王の耳だったんだ。

2月24日のバロは、12月20日のバロではじめて明らかになった。オルレアン派でヴォルテール主義者のバロと組んだのは、正統王朝派でジェズイットの文部大臣ファローだった。

数日後、内務大臣職がマルサス主義者のレオン・フォーシュに与えられた。法律、宗教そして政治経済学!バロ内閣はこのすべてを含んでおり、加えて正統王朝派とオルレアン派の連合体でもあった。ただボナパルト派だけが欠けていたんだ。ボナパルトはナポレオンたらんとする熱望をまだ隠したままだった。というのもスルークはまだトゥサン・ルヴェルチュールの役を演じてなかったからだ。

「ナシオナル」の一党はすぐに、これまで占めてきた高級役職を解任された。警視総監、郵政長官、検視総監、パリ市長は以前の王制の手下どもに占められた。正統王朝派のシャンガルニエはセーヌ県国民軍、機動警備軍、正規軍第1師団の統合最高指令部を受け持った。オルレアン派のビュジョーはアルプス軍最高指令官に任命された。こういう役職の変更はバロ政権のもとでは中断されることなく続いた。バロ内閣が最初にやったのは、昔の王制期の行政機関の復活だった。公務の場面はすぐにかわった。舞台装置も、衣装も、台詞も、役者も、エキストラも、だんまり役者も、プロンプターも、政党の位置も、劇のテーマも、葛藤の内容も、場面全体がかわったんだ。ただ世界の創造以前からある憲法制定議会だけがもとからの位置に留まったままだった。だが国民議会がボナパルト、ボナパルト=バロ、バロ=シャンガルニエを任命したときから、フランスは共和主義的憲法の時代から制定された共和制に時代へと足を踏み出したんだ。じゃあ、制定された共和制では、憲法制定議会はどこに身を置けばいいのか?大地が創造された後では、その創造者にはどんな場所もなくて天上に逃げ込むしかないんだ。憲法制定議会はその前例にならうと決まったわけではなかった。国民議会はブルジョワ共和主義者の党の最後の聖域だった。執行権力のレバーがすべて議会の手から奪いとられれば、議会から憲法を制定する全能の力が失われるんだ。議会の最初の考えは、それまで占めてきた主権者の地位を維持し、そこから失地を回復しようというものだった。バロ内閣を「ナシオナル」派の内閣に置き換えてしまえば、すぐに王党派のやつらは行政府を明け渡し、三色旗派の連中が意気ようようと返り咲くだろうというんだ。国民議会は内閣を転覆しようと決意したが、内閣そのものが攻撃の機会を差し出した。それは憲法制定議会がでっちあげようとしたのよりずっとましなものだった。

農民にとってルイ・ボナパルトは「もう税金はまっぴら!」という意味だったことを思い出して欲しい。ボナパルトは大統領に椅子に6日間すわり、そして7日目の12月27日、彼の内閣は塩税の温存を提案した。この税の廃止は臨時政府が布告していたんだ。塩税はブドウ酒税とともに、古いフランスの財政制度のスケープゴートであるという名誉を分けあっていた。特に田舎の連中の目にはそう映っていたんだ。バロ内閣が農民が選出した人の口から吐かせるには、塩税の復活!という言葉ほどその選挙民についての皮肉のキツイ風刺はなかった。塩税とともに、ボナパルトは革命の塩を失ったんだ。つまり農民反乱のナポレオンは幻のように消え失せ、王党派ブルジョワの陰謀という大いなる未知のものだけが残ったというわけだ。で、バロ内閣が意図もなしに、この無神経なほど粗雑な幻想破壊の法令を大統領の最初の政府法令にしたわけではなかろう。

憲法制定議会は、それとしては、しきりに内閣を転覆する二重の機会を捕らえようとしており、農民の選んだ候補者に対抗して、自分たちが農民の利害の代表者になろうとした。議会は大蔵大臣の議案を否決し、塩税を以前の額の3分の1に減税し、そうすることで国家負債を6千万増やして5億6千万にし、この不信任投票の後は静かに内閣の辞職を待ったんだ。それほどまでにわずかしか、議会はとりまく新しい世界も自分の地位が変化したことも理解していなかった。内閣のうしろには大統領がいて、大統領のうしろには、多くが憲法制定議会への不信任票を投票箱に投じた6百万人がいた。憲法制定議会は国民に不信任票をお返しした。お馬鹿の応酬!議会はその投票にはもう法的裏付けがないことを忘れてた。塩税の否決によって、ボナパルトとその内閣が憲法制定議会を終りにする決断を固めただけのこととなった。憲法制定議会の後半生の全期間続く長い決闘が始まったんだ。1月29日、3月31日そして5月8日が、この危機の大きな事件の日であり、6月13日の先触れだった。

例えばルイ・ブランのようなフランス人は、1月29日を立憲制の矛盾、つまり普通選挙で生まれた主権をもち永続的な国民議会と、言葉の上では議会に責任を負うが、実際上はそれだけではなく、同じように普通選挙で支持された大統領との間の矛盾が吹き出した日だと解釈した。大統領はそれに加えて、百に分けられ国民議会の個々のメンバーに分散された全投票をその人格に統合しており、また全執行権力を完全に手中に収めていて、国民議会は単に道徳的力として、この権力を監視してるだけなんだ。1月29日をこんな風に解釈することは、演壇上や新聞紙上やクラブ内での闘争の言葉を闘争の実際の内容とごっちゃにしている。ルイ・ボナパルトが憲法制定国民議会に対抗しているということは、一つの一面的な立憲的権力が別の一面的権力に対抗しているということ、つまり執行権力が立法権力に対抗しているということではなかった。それは制定されたブルジョワ共和制自身がブルジョワジーの革命的分派の陰謀とイデオロギー的要求に対抗しているということだったんだ。この分派は共和制を樹立したのだが、今ではその制定された共和制が復活して王制のように見えることに気づいて驚いており、今や力ずくで憲法制定の期間を、その条件、その幻想、その言葉、その人物もろとも延長させたがっていて、成熟したブルジョワ共和制がその完成した独自の形式で出現するの防ごうとしていたんだ。憲法制定国民議会を代表していたのが、今は議会に逆戻りしてしまったカヴェニャックであったように、ボナパルトは、まだ彼と離縁していない立法国民議会、つまり制定されたブルジョワ共和制の国民議会を代表していた。

ボナパルトが選出されたことは、一つの名前の場所にその多様な意味が書き込まれ、その選出が新しい国民議会の選挙で繰り返されることによってだけ、説明可能なのもになることができた。古い国民議会の権限は12月10日の選挙で無効になった。こうして、1月29日に顔を突き合わせていたのは、同じ共和制の大統領と国民議会なのではなかった。それは出来上がろうとしている共和制の国民議会ともう出来上がっている共和制の大統領だった。つまりは共和制の生活過程の全くちがう時期を体現した二つの権力だったというわけなんだ。一方はブルジョワジーのうちの小さな共和主義分派で、彼らだけが共和制を宣言し、市街戦と恐怖政治で革命的プロレタリアートから共和制をもぎ取り、憲法の中に共和制の理想的な基本特徴を起草することができたんだ。もう一方はブルジョワジーのうちの全ての王党派的集団で、彼らだけがこの制定されたブルジョワ共和制を支配し、憲法からイデオロギー的飾りをはぎ取り、立法と統治によってプロレタリアートを服属させるのに不可欠の条件を実現できたんだ。

1月29日に起こった嵐は1月まる一ヵ月の間にその諸要素を集めていた。憲法制定議会は不信任投票でバロ内閣を辞職に追い込もうとしていた。一方では、バロ内閣は憲法制定議会に、自らに最終的な不信任票を投じて、自殺を決意し、自分自身の解散を命じたらどうだと提案した。1月6日には、無名議員の一人ラトーが内閣の命令で、憲法制定議会にこの動議を出した。だがこの議会は8月に憲法を補完する一連の基本法をすべて制定するまでは解散しないと決議していたんだ。内閣支持者のフロドは、無遠慮にも議会に向かって「混乱した信用を回復するために」議会の解散が必要なのだと宣言した。議会は臨時的な段階を引き延ばし、バロとともにボナパルトに異義を唱え、ボナパルトとともに制定された共和制に異義を唱えたとき、議会は信用を混乱させなかったのか?オリンポスの神であるバロは、共和主義者に10ヵ月もお預けを食ったあげくに、やっと転がり込んだ首相の職が、わずか2週間楽しんだだけで再び奪われそうなのを見て、狂えるローランとなった。バロは、この哀れな議会に対峙して、ひどい暴君ぶりを発揮した。彼の一番穏やかな言葉というのが「議会には未来はない。」というものなんだ。そして実際、議会は過去だけを代表していた。「議会は、共和制の地固めに必要な制度を共和制に提供する能力がない。」と彼は皮肉っぽく付け加えた。実際、無能なんだ!議会のプロレタリアートに対するひときわ激しい対立がなくなると同時に、議会のブルジョワ的エネルギーもついえたが、議会が王党派と対立するとともに、議会の共和主義的な活力も新たに甦ったんだ。こうして議会は、議会がもはや理解できなくなっているブルジョワ共和制を、対応する制度でブルジョワ共和制の地固めをすることは、2重の意味で不可能だった。

ラトーの動議と同時に、内閣は国中に請願の嵐を呼び起こし、憲法制定議会の頭上にはフランスの隅々から毎日、多かれ少なかれ頭ごなしに解散し遺言状を作るよう求める恋文が舞い込んだ。憲法制定議会のほうでも、議会の存続を求める反対請願を呼び起こした。ボナパルトとカヴェニャックの間の選挙合戦は、国民議会の解散の是非を問う請願合戦として復活したんだ。この請願は12月10日の遅ればせの論評というべきものだった。この世論喚起活動は1月中続いた。

憲法制定議会と大統領の間の衝突で、議会はその起源である総選挙にまで遡って引合いに出すことができなかった。というのは、抗議は議会から普通選挙権に向けられたものだったからなんだ。議会は規則に基づいて制定されて権力を根拠とすることができなかった。なぜかというと、合法的権力に対する闘争が問題だからだ。議会は1月6日と26日に再度試みたような、不信任投票によって内閣を倒すことができなかった。というのも内閣はその信任を問うてはいなかったんだ。たったひとつ可能性が残っていた。それは反乱だ。反乱の戦闘力は国民軍の共和主義者の部分、機動警備軍、革命的プロレタリアートの中心部分、それにクラブだ。6月事件の英雄だった機動警備軍は、12月にはブルジョワジーの共和主義分派の組織された戦闘力をなしていた。それはちょうど6月以前に国民作業場が革命的プロレタリアートの組織された戦闘力をなしていたのと同じである。憲法制定議会の執行委員会が、もはや我慢できなくなったプロレタリアートの要求を終らせなければならなくなったとき、国民作業場に残酷な攻撃を向けたの同じように、ボナパルトの内閣は、もはや我慢できなくなったブルジョワジーの共和主義分派の要求を終らせなければならなくなったとき、機動警部軍にその攻撃を向けたんだ。内閣は機動警部軍に解散を命じた。半数が首になって街頭に投げ出され、残り半数は民主主義的方針ではなく王制的方針で組織され、給料も正規軍の並みの給料にまで引き下げられた。機動警備軍は6月の反乱者と同じ位置にあることに気づき、連日、新聞には機動警備軍が6月事件での咎を認め、プロレタリアートにその許しを乞う公開の告白が掲載された。

ではクラブはどうなのか?憲法制定議会がバロに代って大統領に異義を唱え、大統領に代って制定されたブルジョワ共和制に異義を唱え、制定されたブルジョワ共和制に代ってブルジョワ共和制一般に異義を唱えたその瞬間から、2月革命の構成要素の全てが必然的に憲法制定議会のまわり集まってきた。つまり現存する共和制を打倒し、暴力で過程を逆行させて、それを自分たちの階級利害と原理に適った共和制へと変えようとする全ての政党が集まってきたんだ。炒り卵はかき混ぜる前の状態になり、革命運動の結晶体は再び液状となり、争奪の的である共和制は再び2月革命の時期の無規定な共和制になり、共和制をどう規定するかはそれぞれの政党に留保されたんだ。しばらくの間、政党は再び以前の2月の位置をしめたが、今度は2月の幻想を持ってはいなかった。「ナシオナル」の三色旗共和派は再び「レフォルム」の民主主義共和派を頼り、彼らを議会闘争の最前面に主役として押し出した。民主主義共和派は再び社会主義共和派を頼った。1月27日に公表綱領は彼らが和解し団結したことを告げたんだ。そして彼らはクラブで彼らの反乱の背景を準備していた。政府系新聞は正しくも「ナシオナル」の三色旗共和派を復活した6月反乱者として扱った。彼らはブルジョワ共和制の先頭にいることに固執して、ブルジョワ共和制そのものに異義を唱えたんだ。1月26日に大臣フォーシェは結社権についての法案を提出したが、その第1条には「クラブを禁止する。」とあった。彼はこの法案を直ちに緊急に討議するという動議を出した。憲法制定議会はこの動議を否決し、1月27日にはルドリュ-ロランが230人の署名を付けて、憲法違反により内閣を弾劾する提案を提出した。こうした行動が審判者すなわち議会の多数派の無力を無神経に暴露することになり、あるいはこの多数派そのものへの告発者の無力な抗議でしかないような時期に内閣を弾劾すること、これは当世の山岳党がこれ以降危機が頂点に達する度に出した革命の切札だった。哀れな山岳党!この党は自分の名前の重みで潰れてしまったんだ。

5月15日に、ブランキ、バルブ、ラスペーユたちが、パリ・プロレタリアートの先頭にたち、憲法制定議会の議場に無理矢理押し入って議会を粉砕しようとしたことがあった。バロは、同じ議会に自主的解散と議場閉鎖を申し渡したくなったとき、その議会に対し道徳的5月15日を用意したんだ。同じ議会が5月事件の被告に対する審問をバロに委任していたが、今やバロが議会の前に王党派のブランキ然として現れ、議会がバロに対抗しようとクラブや革命的プロレタリアートやブランキ党に同盟者を探し求めていたまさにその時、情け容赦のないバロは、5月事件の囚人を陪審法廷からはずして、「ナシオナル」の党が発案した高等法院に引き渡すという発議で議会を苦しめた。大臣職を追われるかもしれないという激しい恐怖が、どうやってバロみたいな奴の頭からボーマルシュに匹敵するような妙手をたたき出したのか驚くべきことだ。さんざん迷ったあげくに、国民議会は彼の発議を受け入れた。5月の襲撃犯にたいしたときは、議会もその正常な性格を取り戻したんだ。

憲法制定議会が大統領と内閣に対して反乱に駆り立てられたするなら、大統領と内閣は憲法制定議会に対してクーデタに駆り立てられた。なぜなら彼らには議会を解散する法的手段がまるでなかったのだから。だが憲法制定議会は憲法の母であり、憲法は大統領の母だった。クーデタによって、大統領は憲法を廃却し、その共和制的な法的資格も消してしまうことになる。そのときは帝制的な法的資格を引っ張り出すしかなくなるが、しかし帝制的な法的資格はオルレアン朝の法的資格を呼び起こし、このどちらの法的資格も正統王朝の法的資格の前では青ざめてしまう。オルレアン派の政党がまだ2月の敗者にすぎず、ボナパルトがまだ12月10日の勝者でしかなくて、この両者が共和派の簒奪に自分たちの同じように簒奪した王制的資格を対置するしかなかった瞬間には、合法的共和制の没落はそのまるっきりの正反対のもの、正統王朝派の王制を頂上に押し上げることしかできなかった。正統王朝派はこの瞬間の好機に気がついて、公然と陰謀を企てた。彼らはシャンガルニエ将軍が自分たちの僧侶であることを期待できた。プロレタリアのクラブでは赤色共和制が差し迫っていると公然と告知されていたように、正統王朝派のクラブでは白色王制が差し迫っていると公然と告知された。

巧い具合に鎮圧された暴動があれば、内閣はすべての困難から脱出できるだろう。「合法は我が死」とオディロン・バロは叫んだ。暴動が起これば、公共の安全を口実に、憲法制定議会を解散し、憲法自身を守るために憲法を侵害することができるだろう。国民議会でのオディロン・バロの粗暴な態度、クラブを解散する素振り、大騒動で50人の三色旗派の知事を罷免し王党派で置き換えたこと、機動警備軍の解散、シャンガルニエが機動警備軍の隊長を冷遇したこと、ギゾーのもとでさえ不可能だったレルミニェ教授の復職、正統王朝派の大言壮語の容認、こうしたことすべてが蜂起の挑発だった。しかし蜂起はなりをひそめたままだった。待っていたのは内閣からの合図ではなくて、憲法制定議会からの合図だったんだ。

ついに1月29日が来た。この日はラトーの動議の無条件否決を求めた(ドローム県選出の)マティュの動議が採決される日だった。正統王朝派も、オルレアン派も、ボナパルト派も、機動警備軍も、山岳党も、クラブも、この日はみんなお互いに、うわべの敵に対しても、うわべの同盟者に対しても、陰謀を企てていた。ボナパルトは馬に乗って、コンコルド広場で一部の軍隊の閲兵を行なったし、シャンガルニエは戦略作戦の演習をやって見せた。憲法制定議会は議事堂が軍によって占拠されたのを知った。すべての矛盾する希望、恐れ、期待、興奮、緊張、陰謀の中心であるこの議会、ライオンのように勇敢な議会は、今までで一番世界精神に近づいたその時、一瞬たりともひるみはしなかった。議会は、自分の武器を使うことを恐れるだけなく、対抗者の武器を壊さないでおくことに義務を感じる戦士のようだった。議会は死を笑いとばしながら、自分の死刑宣告に署名し、ラトーの動議の無条件否決案を否決した。議会は、自分自身が戒厳状態にあって、憲法制定活動を制限したんだ。この憲法制定活動はパリの戒厳状態という枠組を必要としていたのにね。議会は翌日、内閣が1月29日に議会を驚かせたことの調査を開始して、自分にふさわしいやり方で復讐した。この陰謀の大喜劇の中で、山岳党は「ナシオナル」の党に抗争の触れ役として使われることになってしまい、革命的エネルギーも政治的判断力もないことが明らかになった。「ナシオナル」の党は、ブルジョワ共和制が始まったばかりの時期に持っていた独占的支配権を、制定された共和制でも引続き維持しようという最後の試みを行なったんだ。その試みは座礁した。

1月危機には憲法制定議会の存続が問題となったが、3月21日の危機には憲法の存続が問題となった。1月には「ナシオナル」党の顔ぶれが問題だったのに、3月にはその理想が問題となったんだ。ご立派な共和主義者は、自分たちのイデオロギーの高揚感を、統治権力の世俗的享受よりも安値で手放したことは、指摘するまでもない。

3月21日には結社の権利に対抗するフォーシェの法案、クラブ禁止法案が国民議会の審議日程にのぼった。憲法第8条はすべてのフランス人に結社の権利を保証している。だからクラブの禁止は明らかな憲法違反だが、憲法制定議会自身はその最も神聖なものの冒涜を公認しようというんだ。だがクラブは革命的プロレタリアートの集結点であり、陰謀の拠点なんだ。国民議会自身がブルジョワジーに対抗する労働者の団結を禁じたことがあった。そしてクラブなるものは、全ブルジョワ階級に対抗する全労働者階級の団結、ブルジョワ国家に対抗する労働者国家の形成にほかならないのではないか?クラブはそれぞれがみなプロレタリアートの憲法制定議会であり、それぞれがみな戦闘準備の整った反乱部隊ではないのか?憲法が何をさておき制定すべきものは、ブルジョワジーの支配なんだ。だから憲法のいう結社の権利は、明らかにブルジョワジーの支配、すなわちブルジョワ的秩序と調和する結社のことだけを意味している。理論上の体裁から憲法が一般的な用語で表現されているとすれば、政府と国民議会は、特殊な場合に憲法を解釈し適用するために存在しているのではないのか?そして共和制の創始期にはクラブが戒厳状態で実質上は禁止されてたとすれば、秩序だった制定された共和制ではクラブを法律で禁止されるべきではないのか?三色旗共和派は、この憲法の散文的な解釈に対抗するには、憲法についての大げさな言葉遣いしか持ち合わせていなかった。三色旗共和派の一部、パニュエル、デュクレール等は内閣に賛成票を投じ、それによって内閣は多数票を得たんだ。大天使カヴェニャックと教父マラストに率いられた他の三色旗派は、クラブ禁止条項が通過したあと、ルドリュ-ロランと山岳党とともに、特別委員会室に退いて、「協議会を開いた。」国民議会は麻痺し、もはや定数割れに陥った。よい頃合でクレミュー議員が委員会室で、そこから道はまっすぐ街頭に続いており、いまはもはや1848年2月ではなく1849年3月なんだってことを思い出させたんだ。「ナシオナル」の党は突然納得がいって、国民議会議場に戻った。その背後では、山岳党がまたもや、かつがれた。山岳党はいつも革命熱に悩まされ、同時にいつも憲政の可能性をつかもうとしながら、未だに革命的プロレタリアートの前面に立つより、ブルジョワ共和主義者の背後にいる方が居心地がよかったんだ。こんなふうに喜劇は演じられた。そして憲法制定議会自身が、文字通りの憲法に違反することが憲法の精神を適切に実現する唯一のやり方だと布告したんだ。

処理しなければならない問題点として残っていたのは、制定された共和制のヨーロッパ革命に対する関係、つまりその外交政策だけとなった。1849年5月8日、異例の興奮が憲法制定議会を覆っていた。憲法制定議会の生存期間はあと数日で終るところに来ていた。フランス軍によるローマ攻撃、ローマ人によるその撃退、フランス軍の政治的不名誉と軍事的恥辱フランス共和国によるローマ共和国の卑劣な暗殺、つまりは2代目ボナパルトの第1回イタリア出征が審議日程にのぼっていた。山岳党はまたもや取っておきの切札を使った。ルドリュ-ロランは、憲法違反のかどでお定まりの内閣弾劾案を、そしてこの度はボナパルト弾劾案をも、大統領のテーブルに置いたんだ。

5月8日の動機は後に6月13日の動機として繰り返された。そこでローマ遠征について明らかにしておこう

早くも1848年11月の半ばには、カヴェニャックは教皇を保護し、船に乗せてフランスに連れてくために、チヴィッタ・ヴェッキアに戦艦隊を派遣した。教皇はご立派な共和国を聖化し、カヴェニャックの大統領当選を確実にしようというんだ。カヴェニャックは教皇で坊主を、坊主で農民を、農民で大統領職を釣り上げようと思ったんだ。カヴェニャックの遠征は、その直接の目的は選挙広告だったんだけど、同時にローマ革命に対する抗議と威嚇だったんだ。そこにあるのは、萌芽とはいえ、教皇に味方したフランスの干渉だった。

教皇を支持して、オーストリアやナポリ王国と連携して行なわれた、このローマ共和国にたいする干渉は、12月23日のボナパルトの内閣の第1回閣議で決定された。内閣にはファローがいたが、それは教皇をローマに、しかも教皇領ローマにということを意味していたんだ。ボナパルトはもはや、農民の大統領になるために教皇を必要としてはいなかった。だが大統領の農民を保持するには、教皇を保持しておくことが必要だった。農民が信じやすいことが、ボナパルトを大統領にしたんだ。農民は信心をなくせば信じやすくなくなるし、教皇がいなくなれば信心をなくす。それに連合したオルレアン派と正統王朝派がいる。彼らがボナパルトの名のもとに支配していたんだ。王が復位する前に、王を聖化する力が復活しなくてはならない。彼らの王党主義はさておいても、教皇の世俗支配に服する古きローマがなければ教皇はなく、教皇がなければカトリック教はなく、カトリック教がなければフランスの宗教はなく、宗教がなければ古きフランス社会はどうなってしまうのだろう?農民が天上の財産にたいして持つ抵当が、ブルジョワが農民の財産にたいして持つ抵当を保証しているんだ。だからローマ共和国は財産権への、ブルジョワ的秩序への攻撃であり、6月革命みたいに恐ろしいものなんだ。フランスで再び確立されたブルジョワ支配には、ローマの教皇支配の復活が必要なんだ。最後に、ローマの革命家を叩くことはフランスの革命家との同盟を叩くことになる。制定されたフランス共和国の反革命階級の同盟は、必然的にフランス共和国と神聖同盟との、オーストリアとナポリとの同盟で補完された。

12月23日の閣議決定は憲法制定議会に秘密ではなかった。1月8日にルドリュ-ロランはそれについて内閣に質問したが、内閣はこれを否定したので、国民議会は通常の議事日程を進めたんだ。議会は内閣の言葉を信用したのか?知っての通り、議会は内閣不信任投票をするのに、1月まる1か月を費したんだ。だが嘘をつくのが内閣の役割の一つなら、その嘘を信じるふりをして、それによって共和国のうわべの面目を保つのは国民議会の役割の一つなんだ。

そうこうするうちにピエモンテは破れ、カルロ・アルベルト王は退位した。そしてオーストリア軍はフランスの門戸をノックした。ルドリュ-ロランは激しく説明を求めた。内閣は、それは単に北イタリアでカヴェニャックの政策を継続したのであり、カヴェニャックは単に臨時政府の、つまりルドリュ-ロランの政策を継続したってことを立証した。このときは内閣は国民議会からの信任票を得て、サルディニアの領土保全とローマ問題についてオーストリアと平和裡に交渉をすることを支援するために、北イタリアの適当な場所を一時的に占領することを承認されたんだ。知っての通り、イタリアの運命は北イタリアの戦場で決まる。したがってローマはロンバルディアやピエモンテと一緒に陥落するか、さもなくばフランスがオーストリアに宣戦し、そうすることでヨーロッパの反革命勢力に宣戦するかのどちらかだった。国民議会はバロ内閣を昔の公安委員会と思ったのか?それとも自分を国民公会と思ったのか?なぜこの時期に北イタリアの一地点の軍事占領なのか?この見え透いたヴェールがローマにたいする遠征を隠していたんだ。

4月14日、ウディノ指揮下の1万4千人がチヴィッタ・ヴェッキアに向かって出航した。4月16日、国民議会は内閣に、地中海の干渉艦隊の3ヵ月の維持費として120万フランの支出限度を承認した。こうして議会は内閣にローマに干渉するあらゆる手段を与えたが、オーストリアに干渉させているようなポーズを取っていたんだ。議会は内閣のやっていることは見ずに、内閣の言っていることを聞いていただけなんだ。こんな信仰はイスラエルの民にも見あたらない。憲法制定議会は、制定された共和国が何をしなければならないか知ろうともしない態度になっていたんだ。

ついに5月8日に喜劇の最後の一場が上演された。憲法制定議会は内閣に対し、イタリア遠征を本来の目的に戻すよう至急手段を講じるよう求めた。ボナパルトはその晩「モニトゥール」紙に、ウディノをべたぼめした手紙を掲載した。5月11日には、国民議会はこの同じボナパルトとその内閣に対する弾劾議案を否決した。山岳党はこの欺瞞の網を引き破るかわりに、議会の喜劇を悲劇的にうけとめ、その中でフキエ・タンヴィルの役どころを演じようとしたが、国民公会から借りてきたライオンの皮の下から、本来のプチ・ブルジョワの子牛の皮をうっかり見せなかったか!

憲法制定議会の後半生というのは、次のように要約できる。1月29日には王党派のブルジョワ分派が自分が制定した共和制の当然の上席者だと認めた。3月21日には憲法を破ることが憲法を実現することだと認めた。5月11日には、大げさに宣言したフランス共和国と闘争している諸民族との消極的同盟というのが、フランスとヨーロッパの反革命との積極的同盟のことなんだと認めた。

このみじめな議会は自ら満足した後、舞台を降りたが、それは一歳の誕生日である5月4日の2日前、6月反乱者の恩赦動議を否決した日だった。その権力は千々に砕かれ、人々からはひどく憎まれ、ブルジョワジーの手先だったのに、ブルジョワジーからは拒絶され、虐待され、馬鹿にしたように傍らに投げ捨てられ、その後半生には前半生を否認せざるをえず、共和制的な幻想を奪い取られ、過去には偉大な業績を上げることもなく、将来には希望もなく、生きたまま少しずつ死にながら、憲法制定議会は頻繁に6月の勝利を思い起こしては何度も経験しなおし、断罪されたものをたえず繰り返して断罪することで自分自身を肯定することでだけ、自分の骸を生き返らせることができたんだ。6月の反乱者の血で生きながらえる吸血鬼め!

憲法制定議会は、6月反乱の費用、塩税の廃止、黒人奴隷制の廃止に対してプランテーション所有者に支払った補償金、ローマ遠征の費用、酒税の廃止によって増加した国家負債を、そのあとに残した。この酒税の廃止は、もうすでにこの議会のご臨終というときに決定されたんだ。議会は、笑っている相続人に支払わないと面子の立たない博打の借りを押しつけて満足げな、意地悪じいさんだった。

3月がはじまるとともに、立法国民会議の選挙への煽動が始まった。2つの主要グループが対立していた。秩序党と民主社会党つまり赤色党である。この両者の間に憲法の友がいた。この名のもとに「ナシオナル」の三色旗共和派は政党として目立とうとしていたんだ。秩序党は6月事件の直後に結成されたのだが、ブルジョワ共和派の「ナシオナル」の連中を振り払うことができた12月10日以降に、オルレアン派と政党王朝派が連合してひとつの政党になったという存在の秘密が明らかになった。ブルジョワ階級は2つの大きな分派に分かれいて、それがかわるがわる、復古王政のもとでは大土地所有者が、7月王政のもとでは金融貴族と産業ブルジョワジーが権力の独占を維持してきた。ブルボンとはその一方の利害が優勢な影響力をもっていることを表す王朝名だったし、オルレアンはもう一方の利害が優勢な影響力をもっていることの王朝名だったんだ。共和国という名前のない王国が、どちらの分派もお互いの競争をやめずに同等の権力をもって共通の階級利害を維持することのできる唯一の国だった。ブルジョワ共和国が完成され、明確に表現された全ブルジョワ階級の支配以外の何ものでもないのなら、それは正統王朝派に補完されたオルレアン派の支配にして、オルレアン派に補完された正統王朝派の支配、復古王政と7月王政の総合以外の何ものでもないだろう。「ナシオナル」のブルジョワ共和派は、経済的基盤に立脚したブルジョワ階級の大きな分派をなんら代表していなかった。彼らは、二つのブルジョワ分派が自分たちの特殊な体制しか理解しなかったのに比べ、王政の下で、ブルジョワ階級の一般的体制、つまり名前のない共和国という王国を主張したという重要性と歴史的権利しか持ってはいない。この共和国を彼らは理想化し古代風の唐草模様で飾りたてたが、何よりもまず自分たちの仲間の支配を歓呼して迎えたんだ。「ナシオナル」の党が、自分たちが創設した共和国の頂上にいる連合した王党派のことを述べようとして、困惑していくなら、これら王党派もそれにおとらず自分たちの連合した支配という事実を勘違いしていた。彼らは、分派のそれぞれを別個に見ればそれ自身は王党派であるのに、その化学的結合の産物は必然的に共和派となること、白の君主制と青の君主制は互いに中和して三色の共和制になるしかないことが理解できなかった。革命的プロレタリアートとそれを中心としてますます結集していく中間諸階級との対立に強いられて、自分たちの連合した力をかきあつめ、この連合した力の組織を保持するために、秩序党のそれぞれの分派は、他方の復古欲と傲慢な信念に抗して、共同支配すなわち共和的形態のブルジョワ支配を主張するしかなかった。こうして、これら王党派は、最初のうちはすぐにも復古することを信じたけれど、後には憤激し共和制へのひどい悪口を言い立てながらも、共和制を保持し、ついには共和制でだけお互いを辛抱できるのだと告白し復古を無期延期したんだ。共同支配を亨有すること自体が、それぞれの分派を強化し、一方が他方に従属すること、すなわち君主制を復古することをますます不可能にし、気が進まないものにした。

秩序党はその選挙綱領の中でブルジョワ階級の支配を、すなわちその支配の生存条件:財産、家族、宗教、秩序の維持を率直に表明した。当然にも、秩序党は自分たちの階級支配とその階級支配の条件を、文明の支配として、物質的生産の、そして生産から生じる社会的交易関係の必要条件として言い表していた。秩序党は自由になる金と資源をたくさん持っており、フランス中に支部を組織し、古い社会のイデオロギー吹聴者をことごとく雇いれ、現在の政府権力の影響力を思うがままに駆使し、プチ・ブルジョワと農民からなる全大衆の中に無給の家来衆の一軍隊を持っていた。プチ・ブルジョワと農民はまだ革命運動には加わっておらず、財産持ちのお偉方を自分たちの哀れな偏見の代表者と見ていたんだ。この党は、全国にわたる無数の小王たちに代表されており、自党の候補者を拒否することを反乱として罰することもできれば、反抗的労働者、扱いにくい農場労働者、召使、事務員、鉄道従業員、筆耕者、市民生活で彼らに従属しているすべての役人を解雇できた。最後に、そこここで秩序党は、共和主義的な憲法制定議会は12月10日のボナパルト政府がその奇跡的力を発揮するのを防いだという妄想を、そのままにしておくこともできた。秩序党に関連してボナパルト派にはまだふれていなかった。ボナパルト派はブルジョワ階級の重要な分派ではなく、年老いた迷信的な廃兵と若く不信心で幸運を求める兵士たちの寄せ集めだった。秩序党は選挙に勝ち、立法議会に最大多数を送り込んだ。

連合した反革命的ブルジョワ階級に対抗して、すでに革命的になっていたプチ・ブルジョワジーと農民階級の一部は、当然ながら革命的利害の大立物である革命的プロレタリアートと連合せざるを得なかった。議会でのプチ・ブルジョワジーの民主的代弁者、つまり山岳党がどんなふうに議会での敗北によってプロレタリアートの社会主義的代弁者のほうへ追いやられ、議会の外では、現実のプチ・ブルジョワジーがどんなふうに和解協約やブルジョワ的利益の無慈悲な強制や破産によって現実のプロレタリアートのほうへ追いやられたかは、既に見てきた。1月27日には山岳党と社会主義者は自分たちの和解を祝い、1849年2月の大宴会では連合活動を繰り返した。社会党と民主党、労働者の政党とプチ・ブルジョワの政党は連合して社会民主党、つまり赤色党をつくったんだ。

フランス共和国は、6月事件に続く苦悶でしばらく麻痺していたが、戒厳状態の解除以来、つまり10月14日以来、ずっと続く熱病のような興奮状態にあった。まずは大統領職をめぐる闘争、ついで大統領と憲法制定議会の間の闘争、クラブ存続をめぐる闘争、ブルジェの裁判--この裁判は大統領や連合した王党派、体裁のよい共和主義者、民主的山岳党、プロレタリアートの社会主義空論家の小さな姿に比べ、プロレタリアートの本物の革命家を大洪水だけが社会の表面に残していくような、あるいは社会的大洪水の魁としてだけ現れるような原始の怪物のように見せたんだ--、選挙の煽動、ブレアの殺害犯の処刑、あい続く新聞への訴訟、警察活動による宴会運動への政府の暴力的干渉、王党派の横柄な挑発、ルイ・ブランとコシディエールの肖像さらし物事件、制定された共和制と憲法制定議会との中断することのない闘争--この闘争は瞬間毎に勝利者を敗北者に、敗北者を勝利者に変え、たちまちに政党と階級の立場、その分離結合を転変させた--、ヨーロッパ反革命のすばやい進展、栄光に満ちたハンガリーの戦い、ドイツでの武装蜂起、ローマ遠征、ローマ直前でのフランス軍の不名誉な敗北--この運動の渦の中で、この社会不安の苦悩の中で、この革命的情熱と希望と失望の劇的な干満の中で、フランス社会のさまざまな階級は、自分たちの発展段階を、以前は半世紀単位で計っていたのに、今では週単位で計らなければならなかった。農民と地方の相当な部分が革命化した。農民がナポレオンに失望しただけではなかった。赤色党は彼らに名目にかわって内容を、幻想ばかり減税にかわって正統王朝派に支払われた10億フランの返還を、抵当の調整を、高利貸の廃止を公約した。

軍隊自体が革命熱に感染した。ボナパルトに一票投じたのは、勝利に一票投じたつもりだったのに、ボナパルトがくれたのは敗北だった。軍隊がボナパルトに票を投じたのは、うちに革命の偉大な将軍の才を秘めた小伍長[訳注:ナポレオン一世のこと]を得るためだったのに、ボナパルトがよこしたのは、教練には厳格だが我が身を守る伍長を内に秘めた大将軍連だった。パリや軍隊や地方の大部分が赤色党すなわち山岳党に票を投じ、この党が圧勝ではないけれど、勝利の凱歌をあげるにちがいないことは、疑いもなかった。山岳党党首ルドリュ-ロランは5つの県で選出されたが、秩序党のどの指導者も、また本来のプロレタリアの部分に属するどの立候補者もこのような勝利をおさめた者はいなかった。この選挙が民主社会党の秘密を明らかにする。一方でプチ・ブルジョワジーの議会でのチャンピオン、山岳党がプロレタリアートの社会主義的空論家と連合せざるをえなかった--プロレタリアートの方はは6月の恐るべき肉体的敗北によって理論的勝利で再起するしかなく、しかも残る諸階級の発展を通して革命的独裁権を手に入れることもできず、自分たちの解放を説く空論家、社会主義的セクトの創設者の腕の中に身を投げるしかなかったんだ--が、他方では革命的な農民、軍隊、地方は山岳党に追随し、こうして山岳党は革命陣営の主人にして指導者となり、社会主義者との合意を通して、革命党内の対立を消し去った。憲法制定議会の後半期には、山岳党は共和主義熱を代表し、臨時政府時代や執行委員会時代や6月事件の頃の罪を、忘却のなかに葬り去っていた。「ナシオナル」の党が中途半端な本性のため王党派内閣によっておとしめられていったのにしたがい、「ナシオナル」派の全盛期には無視されていた山岳党は革命の議会代表として台頭し認められるようになったんだ。事実「ナシオナル」の党は、野心的性格と理想主義的たわごと以外に、他の王党的分派に対抗できるものは何ももっていなかった。反対に、山岳党はブルジョワジーとプロレタリアートの間で揺れ動くする大衆、物質的利害を民主的制度に求める大衆を代表していた。だから、カヴェニャックのような連中やマラストのような連中に比べると、ルドリュ-ロランと山岳党は本当の革命を代表していて、この重要な状況という意識から、革命的エネルギーの表現が、弾劾案を提出したり、威嚇したり、大声をはりあげたり、嵐のように演説したり、言葉の上でだけの極論をはいたりといった、議会での攻撃に制限されればされるほど、ますます勇気を奮い起こしたんだ。農民はプチ・ブルジョワジーとほぼ同じ位置付けにあって、多かれ少なかれ同じような要求を持ち出していた。だから社会の中間階層は、革命運動へと駆り立てられれば駆り立てられるほど、ルドリュ-ロランに自分たちの英雄を認めるようになったんだ。ルドリュ-ロランは民主的プチ・ブルジョワジーの立役者だった。秩序党に対抗するには、半ば保守的で半ば革命的な、今ある秩序の全くもってユートピア的な改革者を、まずは先頭に押し立てなかればならなかったんだ。

「ナシオナル」の党、「それでもやはり憲法の友」、断固たる共和主義者は、選挙で完全に敗北した。そのごくわずかが立法議会に送り込まれた。この党のもっとも名の知られた指導者たちは舞台から姿を消した。編集長にしてまっとうな共和国のオルフェウス、マラストさえも。

5月28日に立法議会が招集された。6月11日には5月8日の衝突が繰り返され、ルドリュ-ロランは山岳党の名で、憲法違反のかどで、すなわちローマ砲撃のかどで、大統領と内閣への弾劾案を提出した。憲法制定議会が5月11日に弾劾を否決したのと同じように、6月12日に立法議会は弾劾案を否決した。しかし今度はプロレタリアートが山岳党を街頭へと駆り出した。でもそれは市街戦ではなく、ただの街頭行進だった。山岳党が運動の先頭にたったのは、運動が敗北し、1849年の6月が1848年の6月の下劣であるとともに馬鹿馬鹿しい戯画であることを思い知るためだったと言っておけば十分だろう。6月13日の大後退をしのぐのは、秩序党が間に合わせにつくり出した偉大な人物シャンガルニエのさらに大げさな戦闘報告だった。社会の各時代はそれぞれの時代の偉大な人物というものが必要なんだ。そしてそういう人物が見つからなければ、エルヴェシウスが言うように、それを発明するものなんだ。

12月20日には制定されたブルジョワ共和制の半分だけ、大統領だけがあった。5月28日には残り半分の立法議会によってそれは完成した。1848年の6月には制定されつつあったブルジョワ共和制がプロレタリアートに対する言語に絶する戦闘で、1849年6月には制定されたブルジョワ共和制がプチ・ブルジョワジーとのお話しにならない喜劇で、歴史の出生名簿にその名を刻んだ。1849年の6月は1848年の6月の天罰だった。1849年6月に打ち破られたのは、労働者ではなかった。打ち倒されたのは、労働者と革命の間に立っていたプチ・ブルジョワジーだったんだ。1849年6月は、賃労働と資本の間の流血の悲劇ではなく、債務者と債権者の、牢獄の場面ばかりの悲嘆劇だった。秩序党は勝利し、全能となった。そこで今や自分が何ものか示さなければならなくなった。

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フランスにおける階級闘争 第3部
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第3部 1849年6月13日の結果

12月20日には立憲共和制のヤヌスの頭はまだその一方の顔、ルイ・ボナパルトのはっきりしない、平板な容貌の執行権力だけを見せていた。1849年5月28日にはそれは第二の顔、立法権力の顔、王政復古と7月王政の乱痴気騒ぎがあとに残した傷だらけのあばた面を見せた。立法国民議会とともに、立憲共和制、すなわちブルジョワ階級の支配が制定される共和的な統治形態、したがってフランスのブルジョワジーを形作っている二大王党派分派の共同支配、正統王朝派とオルレアン派の連合、秩序党という事態が完成したんだ。こうしてフランス共和国は王党派連合の所有物となったのだが、一方ヨーロッパの反革命勢力連合は三月革命の最後の避難所に対する全般的十字軍に一斉に乗り出したんだ。ロシアはハンガリアに侵攻し、プロイセンはドイツ国憲法を守ろうとする軍隊にたいして進撃し、ウディノはローマを砲撃した。ヨーロッパの危機は明らかに決定的転回点にさしかかっていた。全ヨーロッパの目はパリに向けられ、パリじゅうの目が立法議会に向けられていたんだ。

6月11日ルドリュ-ロランは演壇に立った。彼は演説をぶったのではかった。内閣にたいする非難をあけすけに、飾り立てずに、事実に即して、集中的に、力強く述べたんだ。

ローマへの攻撃は憲法にたいする攻撃であり、ローマ共和国への攻撃はフランス共和国への攻撃なんだ。憲法第5条には「フランス共和国はいかなる国民にたいしても武力を行使しない。」とある。だが大統領はフランス軍を使ってローマ人の自由を攻撃している。憲法第54条は行政府が国民議会の同意なしには宣戦布告することをいっさい禁止している。憲法制定議会の5月8日の決議は内閣にローマ遠征をもともとの使命に迅速に合致させるようはっきり命じていた。したがって憲法制定議会は内閣にローマにたいする戦争を禁じているのだ。しかるにウディノはローマを砲撃している。このようにルドリュ-ロランは、憲法そのものをボナパルトとその閣僚にたいする告発の証人としてもちだしたんだ。国民議会の王党派の多数派にたいして、この憲法の護民官はつぎのような威嚇的宣言を投げつけた。「共和主義者はどんな手段を講じても憲法尊重を求めるだろう。たとえ武力に訴えてでも!」と。「武力に訴えてでも!」という言葉は山岳党から百倍もの谺となってかえった。多数派はこれに凄まじい喧噪で答えた。国民議会議長はルドリュ-ロランに静粛にするよう命じたが、ルドリュ-ロランは挑戦的な言葉を繰り返し、最後にボナパルトとその閣僚の弾劾動議を議長に提出した。361対203の票決で国民議会はローマ砲撃問題を打ち切って、次の議案へと移った。

ルドリュ-ロランは国民議会を憲法によって打ち破り、大統領を国民議会によって打ち破れると信じていたんだろうか。

確かに、憲法は諸外国の国民の自由にたいする攻撃を一切禁じていたが、しかしフランス軍がローマで攻撃していたのは、内閣によれば、「自由」なのではなくて「無政府の専制」なんだ。山岳党は憲法制定議会でさんざん経験してきたにもかかわらず、憲法の解釈は憲法を作った者によるのではなく、憲法を受け入れた者によるのだということをまだ理解していなかったのか。憲法の言葉遣いはその現実味のある意味づけで解釈されるべきであり、ブルジョワ的意味づけが唯一の現実味のある意味づけなんだということ。僧侶が聖書の真正な解釈者であり、判事は法律の真正な解釈者であるように、ボナパルトと国民議会の王党派の多数派が憲法の真正な解釈者であること。このことが理解できなかったのか。普通選挙から新たに生まれた国民議会は、死んだ憲法制定議会の遺言状の条項に束縛されていると感じなければならないんだろうか。その憲法制定議会の意志などオディロン・バロが、まだ生きているうちに踏みにじったというのに。ルドリュ-ロランが5月8日の憲法制定議会の決議を引用したとき、彼は同じ憲法制定議会が5月11日にはボナパルトとその閣僚にたいする彼の最初の弾劾動議を否決し、大統領と大臣たちを無罪放免とし、こうしてローマ攻撃を「憲法に適っている」と認可したこと、彼はすでに出された判決に抗議を出したにすぎなかったこと、最後には彼は共和主義的憲法制定議会から王党派的立法議会に訴えたことを忘れてしまったのか。憲法そのものは、特別条項で各市民に憲法防護を求めることで反乱に救いを求めている。ルドリュ-ロランはこの条項に基いていたんだ。しかし同時に憲法を護るために公的権力が組織されてはいないのか、それに憲法侵害というのは、憲法に基づく一つの公的権力が別の憲法に基づく公的権力に反対する瞬間にはじめて始まるのではないか。だが共和国の大統領と共和国の大臣たちと共和国の国民議会は極めて円満に同調していたんだ。

山岳党が6月11日に試みたことは、「純粋理性の範囲内の反乱」つまり純粋に議会的な反乱だった。議会の多数派は、人民大衆の武装蜂起におびえて、ボナパルトと内閣の中で、自らの権力と自らが選出されて意義を破壊するだろうというんだ。憲法制定議会も、バロ-ファルー内閣の罷免を執拗に求めたとき、ボナパルトの選出を無効にしようと試みたのではなかったか。

国民公会の時代からだと、突然、多数派と少数派の関係を完全に変えるような議会内反乱のお手本がないわけではなかった。昔の山岳党が成功したのに、今の山岳党にできないということがあろうか。それに目下の関係がそういった企てに不利とも思われなかったんだ。パリの大衆の不満は驚くほど高まっていたし、軍隊は、選挙での投票からみると、好意的に政府を支持しているとは思えなかった。立法議会の多数派そのものは、地歩を固めるにはまだ日が浅く、加えて老紳士から構成されていた。山岳党が議会内反乱に成功したなら、国家の指揮権は直接その手に帰しただろう。民主主義的プチ・ブルジョワジーは、それ自身としては、いつものように、戦闘が頭上の雲のなかで国会の亡霊の間で戦われるのを見ることに熱烈であった。最終的には、民主主義的プチ・ブルジョワジーとその代表である山岳党はともに、議会内反乱によって、プロレタリアートの束縛を解いたりせず、せいぜい遠景にその姿を見せたりするだけで、プロレタリアートを危険にならないように利用して、ブルジョワジーの権力を打破するという大目標を達成しようと思ったんだ。

6月11日の国民議会の票決のあとで、山岳党の数名の党員と労働者秘密結社の代表のあいだで会合が開かれた。秘密結社の代表はその晩にも攻撃を開始するよう迫った。山岳党は断固としてこの計画を拒否した。山岳党はなんとしても主導権を手からすべり落すまいとしたんだ。その同盟者は敵と同じように胡散臭かった、それも当然だった。1848年6月の記憶は、パリのプロレタリアートの隊列のあいだでいつもより激しく沸き立っていた。それにもかかわらず、彼らは山岳党との同盟に縛りつけられていた。山岳党は大部分の県から代表を出しており、軍隊内でも影響力を強め、国民軍の民主主義的部分に裁量権を持っていて、背後には小店主たちの精神的支持があった。プロレタリアートにとっては、この瞬間に山岳党の意志に反して革命を始めることは、そうでなくてもコレラで多くの犠牲が出ており失業でかなりの人数がパリから追い出されているというのに、この絶望的闘争に駆り立てる状況もないままに、1848年の6月事件を無益に繰り返すこと意味していた。プロレタリアの代表者は唯一つの合理的なことをした。彼らは山岳党にその身を危険にさらすという義務を負わせた。つまり弾劾議案が否決されれば議会内闘争の境界線を踏み越えるという義務を負わせたんだ。6月13日の一日中、プロレタリアートはこれと同じ懐疑的な様子うかがいの態度をとりつづけながら、民主主義的国民軍と軍隊とのあいだで真剣に戦われる後戻りのきかない乱戦がおこるの待っていた。そしてそうなれば戦闘に飛び込み、革命を設定されていたプチ・ブルジョワ的目標を越えて推し進めようとしていたんだ。勝利した場合には、すでに組織されていたプロレタリアのコミューンを公的政府と並び立てようというんだ。パリの労働者は1848年6月の血にまみれた学校で学んできたんだ。

6月12日に、大臣ラクロス自身が立法議会に弾劾議案の討議を直ちに進める動議を提出した。前夜のうちに政府は防衛と攻撃のためのあらゆる手段を講じていた。国民議会の多数派は反抗的な少数派を街頭に追い出す決意を固めていた。少数派自身はもはや後へは退けなかった。骰子は投げられた。弾劾議案は377票対8票で否決された。投票を棄権した山岳党は、憤概しながら「平和的民主主義」の広報本部、デモクラティ・パシフィーク紙の発行所へと殺到した。

大地から引き離されると大地の息子の巨人アンタエオスの力が失なわれるように、議事堂から引き離されると山岳党も力を失なった。立法議会の構内ではサムソンであった山岳党も、「平和的民主主義」の埒のなかではただのペリシテ人となった。長々と、騒々しくてとりとめもない論争が続いた。山岳党はあらゆる手段を使って無理にでも憲法に敬意を払わそうと決意した、「ただ武力だけは使わずに」。この決意を「憲法の友」の宣言と代表団が支持した。「憲法の友」というのはナシオナルのお仲間の残党、ブルジョワ共和派が自分たちを呼んだ名前なんだ。その残った議員のうち6名が弾劾議案の否決に反対票を投じ、残りの全員は賛成にまわったというのに、またカヴェニャックは自分のサーベルを秩序党の裁量に任せたのに、この連中の大きな議会外の一団は、政治的な賤民という地位から抜け出し、民主党の隊列に加わる機会を貪欲にとらえた。彼らは民主党の本来の盾持ちに見えなかっただろうか。この民主党は、その盾のかげに、その原理のかげに、つまり憲法のかげに身を隠していたんだ。明け方まで山岳党は産みの苦しみを味わっていた。そして「人民への声明」を産みおとした。この声明は6月13日の朝に、二つの社会主義系新聞の多少なりとも恥ずかしげな場所に掲載された。この声明は大統領、内閣、立法議会の多数派は「憲法を逸脱した」と宣告し、国民軍、軍隊そして最後に人民に「蜂起せよ」と呼び掛けていた。「憲法万歳!」が声明の押したてたスローガンだったが、それは「打倒革命!」しか意味しないスローガンだった。

山岳党の憲法擁護の声明に同調して、6月13日にはプチ・ブルジョワのいわゆる平和的デモンストレーションがおこなわれた。それはシャトー・オーからブールバールを通る、総勢三万人の街頭行進で、おもに非武装の国民軍だったが、秘密労働者結社のメンバーも混っていた。行進しながら「憲法万歳!」と叫んだが、行進の参加者自身が機械的に、冷ややかに、ばつが悪そうに叫び、雷鳴のように轟くかわり、両脇に押し寄せた人々に皮肉にも投げ返された。この混声合唱には胸に迫る音調が欠けていたんだ。そして行進が「憲法の友」の会議場を曲がると、雇われた憲法の伝令使が屋上にあらわれ、さくらの連中の被る帽子を打ち振って、すばらしい肺から大声をあげた。「憲法万歳!」の叫び声が巡礼たちの頭上に霰のように降りそそぐと、行進参加者は一瞬この状況喜劇に圧倒されたようだった。ご存知のとおり、行列がルー・ド・ラ・ペの終点に到着すると、ブールバールでシャンガルニエの竜騎兵と迫撃兵にまったく非議会的に出迎えられ、たちまち四方八方へと追い散らされ、6月11日の議会での武力への訴えを実行しようとして、「武器をとれ」という叫び声をわずかばかり背後に残したんだ。

山岳党の大多数はルー・デュ・アザールに集まっていたが、平和的行進が暴力的に追い散らされ、ブールバールで非武装の市民が殺されたというこそこそとした噂が流れ、街頭の騒動が大きくなっていることが、暴動が間近かに迫った報せだと思い、四散してしまった。議員の小集団の先頭にたっていたルドリュ-ロランは、山岳党の面目を保った。パレ・ナシオナルに集結したパリ砲兵隊に護られて、彼らは国立工芸学院に向った。ここで国民軍の第5軍団と第6軍団が到着することになっていたんだ。しかし山岳党はそれをむなしく待っていた。この慎重な国民軍は自分たちの代表者を見殺しにした。パリ砲兵隊自身が人民がバリケードに身を投じるのを妨げた。混沌とした無秩序がいかなる決定も不可能にした。前線部隊は銃剣をつけて進軍した。数人の議員が捕縛されたが、その他の者は逃げ出した。こうして6月13日は終ったんだ。

1848年6月13日が革命的プロレタリアートの反乱とするなら、1849年6月13日は民主的プチ・ブルジョワの反乱であった。この二つの反乱のどちらも、それを担った階級の典型的に純粋な表現だった。

ただリヨンでは執拗な流血の衝突となった。ここでは産業ブルジョワジーと産業プロレタリアートが直接対決しており、労働運動は、パリのように、一般的な運動に包括されておらず、規定されていなかったので、 6月13日は、その影響で本来の性格を失ったんだ。騒動が起ったその他の地方では、それが燃え上がることはなかった。それは冷たい雷の閃光だった。

6月13日に立憲共和制の第一期が終った。この第一期は1849年5月28日に、立法議会の召集をもって正規に始まったんだ。この序章の時期の全般を通して、秩序党と山岳党の、大ブルジョワジーとプチ・ブルジョワジーとの騒々しい闘争で満ちていた。プチ・ブルジョワジーはブルジョワ共和制の確立に無益に抵抗してきたが、以前にはブルジョワ共和制のためにプチ・ブルジョワジー自身が臨時政府でも執行委員会でも陰謀を企み、6月事件の際には熱狂的にプロレタリアートと闘ってきた。6月13日はプチ・ブルジョワの抵抗を打ち砕き、既成事実として連合王党派の立法権上の独裁を確立したんだ。この瞬間から国民議会は秩序党の公安委員会にすぎなくなった。

パリは大統領、閣僚、国民議会の多数派を「告発状態」に置いたが、彼らはパリを「戒厳状態」に置いた。山岳党は、立法議会の多数派は「憲法の埒外」にあると宣告したが、憲法侵害という理由で、多数派は山岳党を高等法院に引渡し、まだ生命力のある山岳党にすべてを禁じたんだ。山岳党は削減されて頭も心臓もない胴体だけになった。少数派は議会内反乱を試みるまでになったが、多数派は自分たちの議会専制主義を法律に持ち上げた。多数派は新しい「議事規則」を制定し、その規則で演壇の自由を無に帰し、国民議会議長に議事規則を侵害する議員を譴責、罰金、俸給停止、議員資格の一時停止、監禁によって処罰する権限を与えた。多数派は山岳党の胴体の上に、剣ではなく棒を吊した。山岳党の議員の残りは、多数派のおかげで集団退去をするという名誉を得た。そういう行為は秩序党の分解を早めたことだろう。対立という見せかけさえも秩序党をもはや一緒にしておかなくなった時点で、その党はもともとの構成部分に分解しただろう。

民主的プチ・ブルジョワは、議会での権力を奪われると同時に、パリ砲兵隊と国民軍の第8、9、12軍団の解散によって軍事力も奪われた。一方では、大型金融家の軍団が6月13日にブールとルーの印刷所を襲撃し、印刷機を破壊し、共和派の新聞の事務所をめちゃめちゃにし、勝手に編集者や植字工、印刷工、発送係、使い走りを逮捕したが、国民議会の壇上からは激励する承認を受けた。フランス全土で、共和主義の疑いのある国民軍の解隊が繰り返された。

新しい出版法、新しい結社法、新しい戒厳令が出され、パリの監獄はあふれかえり、政治亡命者は放逐され、「ナシオナル」紙の範囲を超えるような新聞は発行停止となり、リヨンとその周囲の五つの県は軍事専制の残忍な迫害のなすがままとなり、至るところで裁判がなされ、公務員の軍隊は、これまでたびたび追放されたが、再度追放された。こういうことは、勝利した反動派の不可避の、いつも繰り返される常套亊で、6月事件の虐殺と国外追放のあとで、これに言及する意味があるのは、パリだけでなく、地方に対しても、またプロレタリアートだけでなく、とりわけ中間階級に対しても、それが指令されたからにすぎない。

戒厳令布告を政府の裁量のもとにおき、新聞をしっかり封じ、結社の権利の無効にする弾圧諸法に、国民議会の立法活動は、6月、7月、8月の間かかりっきりとなった。

しかし、この時期を特徴づけているのは、勝利を実際上利用するというより原理的に利用していることであり、国民議会の議決ではなくて、こういう議決に先立つ基盤であり、事実ではなくて文句、文句よりもその文句を活気づける調子や身ぶりだった。王党派的心情を臆面もなくあけすけに述べ、共和制を軽蔑して貴族ぶって侮辱し、王政復古の目的について媚びたように浅薄なたわごとをしゃべり散らすこと、要するに共和主義的礼儀作法を自慢げに破ることが、この時期の特徴的な調子と色合いだった。憲法万歳!というのは6月13日の敗北者の閧の声だった。だから勝利者は立憲的な、すなわち共和制的な言辞を弄する偽善行為からは免れていた。反革命はハンガリー、イタリア、ドイツを支配しており、彼らは王政復古がもうフランスの戸口にまで来ていると信じたんだ。秩序党の諸分派の儀礼長どもの間では、その結果、「モニトゥール」紙上に自分たちの王党主義を掲載し、王政時代にたまたま犯した自由主義的罪を告白し、後悔し、神と人の前で許しを乞うという競争がまきおこった。国民議会の演台で二月革命が国家的災難であったと宣言されなかった日はなく、どこかの正統王党派の地方のまぬけ貴族が自分は共和制を認めたことは一度もないともったいぶって宣わなかった日はなく、また七月王政の卑怯な脱走者や裏切者の誰かがルイ・フィリップの博愛主義やその他の誤解が邪魔立てしなければ実行したはずの遅れ馳せの英雄的行為を語らなかった日はなかった。二月事件で消散すべきものは、勝利者の度量の大きさではなく、王党派の自己犠牲と節度であった。ある人民の代表は二月の負傷者の救援に当てられた資金の一部を市守備隊に振り向けるよう発議した。彼らだけがその時期に祖国から褒賞を受けるに値するからというのだ。別の議員はカルーセル広場にオルレアン公に捧げる騎馬像を建てようとした。ティエールは憲法を汚れた紙切れとよんだ。オルレアン派の新聞紙上には、正統王朝派による正統王制にたいする陰謀にたいする悔悟が繰り返し掲載され、正統王朝派は非正統王朝的な王制に抵抗することで、王制一般の転覆を早めたことで我が身を責めた。ティエールはモレにたいする陰謀を悔い、モレはギゾーにたいする陰謀を悔い、バロはこの三人全員にたいする陰謀を悔いた。「社会民主共和国万歳!」というスローガンは非立憲的だと宣告され、「共和国万歳!」というスローガンは社会民主的であるとして起訴された。ウォーターロー戦闘記念日に、ある議員は「プロシアの侵攻は革命的亡命者のフランス入国ほど恐くはない」と言明した。リヨンおよび近隣県で組織されたテロリズムについての抗告にたいしてバラゲェ・ディリエは「赤色テロより白色テロは好ましい」と答えた。そして議会は共和国や革命や憲法に反対し、王制や神聖同盟を支持する警句が演説者の口か漏れると、気が狂わんばかりに拍手喝采したんだ。ささいな共和主義的な形式、例えば議員に市民と呼びかけるいったものに違反することは、秩序の騎士たちを夢中にさせた。

http://page.freett.com/rionag/marx/vpp.html
価値、価格そして利潤
Value, Price and Profit
労働者への演説
エレノア・マルクス・エーヴリング Eleanor Marx Aveling 編

著:カール・マルクス Karl Marx
訳:永江良一


序文

この論文が読み上げられた状況は、この作品の始めのところで説明されています。この論文はマルクスの生前には一度も公刊されたことはありません。これはエンゲルスの死後に彼の論文の間から発見されました。この論文は、マルクスの多くの特徴の中でも、二つのことをよく示しています。それは彼のアイデアの意味を劣等生にも解りやすいものにしたいという忍耐強い意欲と、またそのアイデアの並外れた明晰さです。部分的な意味で、この巻は資本論第一巻の要約です。私たちの中の何人もの人が第一巻を分析し単純化することを試みましたが、おそらくあまり成功はしていません。実際、機知に富む友人の解説者が、今求められているのはマルクスについての私たちの説明のマルクスによる説明だとほのめかすしまつです。私は学生に社会主義を理解させるのに一番良い本のシリーズは何かとよく尋ねられます。これは答えるのが難しい質問です。しかし、提案すれば、第一にエンゲルスの「空想から科学へ」、次にこの本、資本論の第一巻、そして学生版マルクスということになりましょう。私がこの作品の準備に果たしたちょっとした役割は、草稿を読み、英語風の表現にするのにちょっと提案し、作品を章に分けて、各章に名前をつけ、ゲラを校正したくらいです。作業の残り全部は、最も重要な部分まで、表題ページに名前を載せている彼女がやりました。この巻は既にドイツ語に翻訳されています。

エドワード・エーヴリング Edward Aveling


目次
   前置き
 1.生産と賃金
 2.生産、賃金、利潤
 3.賃金と通過
 4.供給と需要
 5.賃金と価格
 6.価値と労働
 7.労働力
 8.剰余価値の生産
 9.労働の価値
10.利潤は商品をその価値で販売して得られる
11.剰余価値を分解した異なる部分
12.利潤、賃金、価格の一般的関係
13.賃金を引き上げるあるいは下落に抵抗する試みのおもなケース
14.資本と労働の間の闘争、そしてその結果


前置き

市民の皆さん。
本題に入る前に、事前にちょっと意見を述べさせてください。今大陸ではストライキが大流行し、賃上げをもとめる叫びが一斉にあがっています。私たちの総会でもこの問題が出てくることでしょう。あなたがたも、国際協会の指導者として、この優先問題に判断を下さなければなりません。私としては、だから、たとえあなたがたの忍耐を厳しい試練にさらすとしても、事態に十分論じておくことが私の義務だと考えたのです。

もう一つ前もっていっておきたいのは、ウェストン君に関することです。彼は、彼の考えるところの労働階級のためを図って、労働階級には最も人気がないことは彼も知っている意見を、あなたがたに提案しただけでなく、公にも支持してきました。道徳的な勇気のこのような発露には、私たちは皆、敬意を払うべきです。私の論文の率直なスタイルにもかかわらず、結論においては、私が彼の論考の底にあるアイデアと思われるものには同意しているのだが、しかしその現在の形式では、理論的には間違っており、実践的には危険であると考えざるを得ないのだということを、わかって欲しいと思います。それでは直ちに私の前にある課題に取り掛かりましょう。


1.生産と賃金

ウェストン君の議論は、つまるところ二つの前提によっています。第一には、国民生産の総額は固定されたもの、数学者がいうところの一定の量あるいは大きさであること。第二には、実質賃金、つまり購入できる商品の量で測定した賃金は、固定されたもので一定の大きさであること。

さて、彼の最初の主張は明らかに誤っています。毎年毎年、生産物の価値も総量も増加していること、国民労働の生産力は増加していること、そしてこの増加した生産物を循環するのに必要な貨幣総額は連続して変化していることに気がつくでしょう。年の終わりに真実であること、そして異なる年を互いに比較して真実であることは、その年の平均的な各日にも真実なのです。国民生産の総量あるいは規模は連続的に変化します。それは一定の大きさなのではなく、変化する大きさなのであり、また、人口の変化は別として、資本の蓄積と労働の生産力の連続的変化のゆえに、そうであるにちがいありません。もし今日一般的な賃金率に上昇がおこると、その隠された効果がなんであれ、この上昇は、それ自身では生産の総額を直接に変えるわけではないことは、完全に正しいでしょう。最初の場合は、物事の現存している状態から進行しているわけです。しかし、もし賃金が上昇する前に国民生産は可変であり、固定されてないのなら、賃金上昇後もそれは継続して可変で固定されていないでしょう。

しかし国民生産の総額が可変でなくて固定であると仮定しましょう。その時でさえ、我が友ウェストンが論理的帰結と考えたものは、依然として理由のない主張なのです。もし私がある与えられた数、たとえば8をもっているとすると、この数の絶対的限界は、その部分がその相対的な限界を変えるのを妨げるものではないのです。もし利潤が6で賃金が2ならば、賃金が6に増え利潤が2に減っても、合計の数量は依然8のままです。生産額が固定されていることは、決して賃金の額が固定されていることを証明しているのではありません。この時我が友ウェストンはどのようにしてこの固定性を証明するのでしょうか?それを主張することによってです。

しかしもし彼の主張を認めたとしても、二つの道が開かれているのですが、かれは一方の方向にだけ押し進めています。賃金の総額が一定の大きさならば、それは増加することも減少することもできません。もしそのとき、労働者が一時的な賃上げを強制することが愚かしい振舞いなら、資本家が一時的な賃下げを強制することも、同じくらい愚かしい振舞いなのです。我が友ウェストンは、ある状況の下では、労働者が賃上げを強制できることを否定しないが、しかしその総額は当然にも固定されているので、反作用がついてくるに違いないと言っているのです。その一方で、彼はまた資本家が賃金下げを強制できること、そして実際、継続的に賃下げを試みていることを知っています。賃金の不変性という原理にしたがえば、その場合にも前と同様、反作用がついてこなければなりません。労働者は、したがって、賃金を下げようという試み、あるいは行為に反作用して、適切に振舞うでしょう。彼らは、したがって、適切にも賃上げを強制しようとします。なぜなら、賃下げに対する反作用はどれも賃金を上げようという行動だからです。賃金の不変性というウェストン君自身の原理にしたがえば、労働者は、したがって、ある状況の下では、賃上げのために団結し闘争しなければならないのです。もし彼がこの結論を否定するならば、彼はこの結論がでてきた彼の前提をあきらめなければなりません。彼は、賃金の総額は一定の量であると言わずに、それは上げることはできず、また上げてはならないにもかかわらず、資本家が下げたいときはいつでも、下げることができるし、下がらなければならないと言わなければならないのです。もし資本家があなたに肉の代りにじゃがいもを、小麦の代りにオート麦を食わせたいと思うなら、あなたは経済学の法則として彼の意志を受け入れ、服従しなければならないのです。例えばアメリカ合衆国の賃金率がイギリスより高いように、もしある国の賃金率が他の国より高いならば、この賃金率の差異をアメリカの資本家の意志とイギリスの資本家の意志の差異によって説明しなければなりません。この方法は確かに、経済現象の研究だけでなく、他のあらゆる現象の研究を極めて単純なものにするでしょう。

しかしそのときでさえ、私たちは問うでしょう。なぜアメリカの資本家の意志はイギリスの資本家の意志と違うのだろうかと。そしてこの疑問に答えるには、意志の領域を越えて進まなければなりません。ある人が、神はフランスではあることを望まれ、イギリスでは別のことを望まれるのだと言うかもしれません。私が彼にその意志の二重性の説明を求めると、彼は厚かましくも、神はフランスではある意志を、イギリスでは別の意志を持とうと望まれたからだと答えるのでしょう。しかし、我が友ウェストンは確かに、このようなあらゆる推論を完全に否定したような議論をする人とは、とても思えません。資本家の意志は確かにできるだけ多くを得ようというものです。私たちがしなければならないのは、彼の意志について語ることではなくて、彼の力を、その力の限界を、その限界の特徴を探求することなのです。


2.生産、賃金、利潤

ウェストン君が私たちのまえで読み上げた演説を簡単に要約してみましょう。

彼の推論のすべては結局次のようになります。もし労働者階級が資本家階級に貨幣賃金の形で4シリングのかわりに5シリングを支払うよう強いるならば、資本家は商品の形で5シリングの値打ちのものかわりに4シリングの値打ちのもので応じてきます。労働者階級は、賃上げ前には4シリングで買えたものに5シリング支払わなければならなくなります。しかしなぜこれが真実なのでしょうか?なぜ資本家は5シリングにたいして4シリングの値打ちのもので応じるだけなのでしょうか?なぜなら賃金の総額は固定されているからです。なぜ賃金は4シリングの値打ちの商品に固定されているのでしょうか?なぜ3や2やその他の額ではないのでしょうか?もし賃金の総額の制限が、資本家の意志や労働者の意志といったものとは独立に、経済法則によって決まっているのなら、ウェストン君がしなければならなかった最初のことは、その法則を述べそれを証明することでした。さらに彼は、どの瞬間にも現実に支払われている賃金の総額がいつも必要とされる賃金の額と正確に対応しており、決してそれから逸脱しないことを証明すべきでありました。もし、その一方で、賃金の総額のあるあたえられた制限が、資本家の単なる意志、あるいは彼の貪欲さの制限に基づくのならば、それは恣意的な制限です。そこに必然的なものは何もありません。それは資本家の意志によって変えられるかもしれませんが、また、それゆえに、資本家の意志に反して変えられるかもしれないのです。

ウェストン君は彼の理論を説明するのに、数人の人が食べる、ある量のスープをいれた椀を例に出し、スプーンの幅を広げたからといって、スープの量は増えないと、皆さんにいいました。彼は私にこの説明がかなり愚かしい[原文spoony]であると気づかせてくれたのです。それで私はメネニウス・アグリッパが使った喩をちょっと思い出しました。ローマの平民がローマの貴族と衝突したとき、貴族のアグリッパは彼らに、統治体の貴族という腹が平民という手足を養っているのだと言ったそうです。アグリッパは、ある人間の腹を満たすことで、別の人間の手足を養えることを示すことはできませんでしたが。ウェストン君の場合は、労働者が食う椀が国民労働の全生産物で満たされており、労働者が椀からもっととるのを妨げているは、椀の狭さでもその中身の乏しさでもなく、彼らのスプーンの小ささであることを、忘れているのです。

どんな発明によって、資本家は5シリングにたいして4シリングの価値しかないもので応じることができるのでしょうか?彼が売る商品の価格を上げることによってです。商品の価格上昇およびもっと一般的に価格変動は、商品の価格自身は、資本家の単なる意志にだけ依存しているのでしょうか?あるいは、反対に、その意志に影響を与えるある状況が必要なのではないでしょうか?そうでなければ、市場価格の高下、絶え間のない変動は解明できない謎となります。

労働の生産力にも、使われている資本と労働にも、生産物の価値が評価される貨幣の価値にも変化がなく、賃金率にだけ変化があると仮定したとき、賃金の上昇がどうやって商品の価格に影響できるのでしょうか?これらの商品の需要と供給の間の実際の比率に影響を与えることによってでしかありません。

全体として考察したとき、労働者階級がその収入を必需品に使うし、また使わざるを得ないということは、全く正しいことです。賃金率の一般的上昇は、したがって、必需品にたいする需要を引き上げ、結果的にその市場価格を引き上げるのです。これらの必需品を生産している資本家は、上昇した賃金を、その商品の上昇した市場価格で埋め合わせます。必需品を生産していない他の資本家は度うなるのでしょうか?それらが小さいものだと思ってはいけません。国民生産の三分の二が人口の五分の一--ある下院議員は最近それは人口の七分の一にすぎないと言っていますが--によって消費されいることを考えると、国民生産のどんなに大きな部分が贅沢品という形で生産されているか、あるいは贅沢品と交換されているに違いないこと、必需品自身のどんなに大きな量が従僕、馬、猫等々に浪費されているに違いないことがわかるでしょう。もっとも、浪費は、私たちが経験から知っているように、常に必需品の価格上昇によってかなり制限されるのですが。

さて、必需品を生産していない資本家の立場はどうなるのでしょうか?賃金の一般的上昇の結果起こった利潤率の下落を、その商品の価格の上昇で埋め合わせることはできません。なぜなら、その商品の需要が増加するわけではないからです。彼らの収入は減少し、この減少した収入から、価格の高騰した必需品の同じ量にもっとたくさん支払わなければなりません。しかし、これがすべてではないのです。その収入が減少したので、彼らは贅沢品にあまり金を使わなくなり、したがってそれぞれの商品に対するお互いの需要は減少します。この減少した需要の結果、その商品の価格は下落します。こうした産業部門では、したがって、利潤率が、単に賃金率の一般的上昇に単純に比例してではなく、賃金の一般的上昇、必需品の価格上昇、および贅沢品の価格下落の複合した率で下落するのです。異なる産業部門で使われる資本の利潤率のこの差異はどんな結果をもたらすのでしょうか?まあそれは、理由はなんであれ、異なる生産分野で平均利潤率に差異が生じるときはいつも起こる結果なのですが。資本と労働は儲けの少ない部門から儲けの大きい分部門へと移転し、この移転の過程は、ある産業部門の供給が増加した需要にみあうだけ上昇し、別の産業部門では減少した需要にしたがって供給が落ち込むまで続きます。この変化の効果で、一般利潤率は異なる部門間で再び均等化するのです。撹乱全体はもともと異なる商品の需要と供給の比率の単なる変化から生じたものなので、原因がなくなれば、効果も止まり、価格はもとの水準に戻り均衡します。賃金上昇の結果生じる利潤率の下落は、いくつかの産業部門にとどまらず、一般的に起こります。私たちの仮定にしたがえば、労働の生産力にも、総生産額にも変化はなく、ただ与えられた生産額がその形態を変えただけです。生産の必需品という形で存在する部分は大きくなり、贅沢品の形で存在している部分が小さくなるのです。あるいは、同じことなのですが、海外の贅沢品と交換され、そのもともとの贅沢品の形で消費される部分が小さくなります。あるいは、またまた同じことになりますが、国内生産で海外の贅沢品ではなく、必需品と交換される部分が大きくなるのです。賃金率の一般的上昇は、したがって、市場価格の一時的な混乱の後、商品価格の永続する変化を残さずに、利潤率が一般的に下落する結果となるだけです。もし私が以上の議論ですべての超過賃金が必需品に使われるものと仮定しているとおっしゃるのなら、ウェストン君の意見にもっとも有利な仮定をしたまでだと答えておきましょう。もし超過賃金が以前は労働者が消費しなかったような品物に使われるとしたら、その購買力の実質増加は証明する必要もないでしょう。

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少林寺拳法宗道臣と秘密結社緑龍会と世界紅卍字会とナチス 児玉機関の知られざる関係

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http://m-ken.blog.eonet.jp/weblog/2011/02/post-1ac3.html

黒龍会と満鉄と古歩道



先般、古歩道の福岡講演の動画をクローズUPしたダス。

ベンジャミン・フルフォード 熊本講演 8/27(金)19時~



そのビデオには黒龍会のことに触れていた。

日本松林寺拳法の創始者である宗道臣(中野益臣)は内田良平が主宰する政治結社「黒龍会」の付属道場「天真館」では、「自剛天真流」と「講道館柔道」の双方を指導した。

少林寺拳法



戦前後に紅卍教と大本教の出口王仁三郎と黒龍会との関わりは有名である。

偶然だが、この少林寺の師範になると昔は少林寺の胸元の卍が赤にあるのです。

少林寺拳法 (shorinji kempo) 柔法 三角技法 森道基 表・裏投




なにもご存知ない方はこのウサンクサイ秘密結社のようなものが実在するのか?と疑問に思われるでしょうが

しかし、この黒龍会は実在するのです。

そして満鉄とも関係があるのです。

満鉄とは当時の日本のスパイ最高機密機関であるのです。

そのことが草柳大蔵先生の実録満州鉄道調査部に記されている。

実録満鉄調査部




そして満鉄には、かつて少年期に私が修行した日本松林寺拳法の創始者の宗道臣が特務機関で日本の為に命をかけて任務にあたっていた。

これも不思議な縁だがオイラが少年期に四国の本山で宗道臣と右翼のドンと言われる笹川良一とのやり取りを直接この目で見た。

【笹川良一】1981年少林寺拳法全国大会



「CIAの対日工作」より大物右翼はCIAの協力者であった。


大物右翼はCIAの協力者であった。

処刑されたA級戦犯者の間の生死を分けた一線はなにだったのだろう?

答えは「秘密のファイル・CIAの対日工作」、著書 春名幹夫の著書のP257から明らかにされている。

その本によると児玉や笹川は戦後GHQからCIAの情報協力者として命の引き換えとして利用されたと秘密のファイルに明記されている。

秘密のファイル〈上〉―CIAの対日工作




アメリカ―CIAは、日本に対して何をしてきたのか。戦前・戦中の情報戦、占領期のキャノン機関、児玉誉士夫、笹川良一の活動など、昭和史の転換点には、つねにアメリカの情報工作があった。米国立公文書館に眠っていた膨大な機密書類の発掘とその分析、そして関係者多数の証言から、アメリカによる対日工作の実態を浮かび上がらせる。歴史上の疑問と疑惑に答える日米関係裏面史。

↓に宗道臣にまつわる記事がある。


【特務機関】少林寺拳法創始者 宗道臣について2




日本少林寺拳法の振動共鳴と不思議な縁

そして何百人といる四国の多度津の金剛禅総本山の日本少林寺拳法の有段者の試験に来ている拳士や参観父兄なのどの前で迎賓挨拶をしようとして、もたもたしている笹川良一に宗道臣は「笹川君はやく祝辞を述べたまえ」と恫喝したのです。

日本広しと言えどもあの右翼のドン笹川良一をクソミソに恫喝出来るのは宗道臣ぐらいと泉州尾崎道院の私の恩師マスター新保が言っていた。


僕が少年拳士の少林寺の修行で座禅で七分呼吸ををマスター新保から伝授してもらっている時に「七分呼吸とは一旦吸い込んだ息を丹田まで下ろして10分の内7分をゆっくりと吐きながら3分を残したまま再度、7分の息を吸い込み再び丹田に下ろす」と教えられて子供ながらにして、その丹田に下ろす方法が全く出来なった。

単純な僕はマスター新保に「新保先生!丹田に息を下ろすにはどうすれば出来るのですか?」と幾度なく質問した。

おそらくマスター新保は忘れていると思うが、僕はうまく丹田に下ろすことが出来ないで精神統一が出来ずに子供ながらに自分に納得できないでいた。この少年期の修行で僕は七分呼吸で息を丹田に下ろす方法を会得した。

この体験があるからスパ・リフレでサウナの中で瞑想して丹田呼吸をしたときに意識が共鳴したのだろう。


この時の様子は以前のブログでも書いている。

この少林寺拳法は映画にもなった。

映画『少林寺拳法』ダイジェストfull-Shorinji Kempo "The Killing Machine"



少林寺拳法・開祖宗道臣について・第一

少林寺拳法・開祖宗道臣について・第二



M総合研究所: 十四経絡七百八穴は電気的信号を発して振動して共鳴する

2008年1月9日 ... またM総合研究所を通じて自身が興味を持った参考文献の著書を何百冊と拝読して参りました。 .... 僕は少年期に日本少林寺拳法を習い、宗道臣から四国の少林寺本山で直接叱られて、笹川良一と宗道臣の関係を知った。


神坂新太郎の談話室

満州鉄道調査部には日本少林寺拳法の創始、宗道臣先生も調査員として隠密行動をされていたと聞いております。 また、私の過去に不思議なご縁で船井幸雄先生と最近、共同
出版されている副島先生とも以前、M総合研究所で「経済安全保障問題」をネットで ...



そして僕が、尊敬する少林寺の師範で5段の紀州白蓮の副道院長から宗道臣のことを酒席で伺ったが事実です。


このように僕はホントに不思議な縁と体験をしている。

スパ・リフレで少林寺で会得した瞑想法の七分呼吸で丹田に息を思いっきりため込んで瞑想していると突然、貨幣制度の虚しさが込み上げて来た。

その瞬間に小型UFOから脳が振動する「ギュルル・ギュルル・ギュルル」と言う異音を受けた。


僕はこのM総合研究所を通じて自分が体験してきた事実のことを魂の振動として真実を残して来た。

僕は、本当に偶然の上に偶然がかさなり、不思議な縁と不思議な体験がこのように数珠繋ぎなのです。

http://blog.livedoor.jp/manas0129/archives/2013-06-02.html







2013年06月02日





2013年06月02日

八重の桜





NHK大河ドラマ八重の桜を楽しく見ている。

このドラマで自分が注目しているのは、なぎなたの殺陣の美しさと西田敏行演じる家老 西郷頼母である。

錫杖稽古をしているので、なぎなたの殺陣はわかるが家老の西郷頼母???誰それ??と読者の方は思うかもしれないが、家老西郷頼母は、会津藩に高級武士のみが受け継いでた武術 「御式内」の伝承者で、弟子は武田惣角そう、合気道開祖植芝盛平氏の師匠である、さらに息子は講道館四天王の西郷四郎、姿三四郎のモデルです。

武道好きにはたまらない内容なんですよこれ

ちなみに西郷四郎は晩年は宮崎滔天という政治活動家の元に、大アジア主義に傾倒して孫文を助けたりしする活動をするんですが、その彼らの活動を助けたのが、大アジア主義を掲げた頭山満 内田良平という戦前の大物右翼ですね、これに協力してたのが同じ九州出身の宗重遠、そして孫で後の宗道臣なんですよね。

開祖の戦前人脈って調べると面白く頭山満 内田良平の関係で関東軍の板垣征四郎・石原莞爾さらに、大本教の出口王仁三郎(ここの信者にいたのが上芝盛平氏)

さらに石原莞爾って牛島辰熊八段と共謀して、木村政彦を持って東条英機暗殺を試みた人物だ

そいやあ、開祖も50年史によれば張作霖爆死事件に関与してるし。
関東軍と親しかったんだろうね。

右翼 関東軍 宗教家 武道界(内田良平の父も武道家で、弟子は昭和の剣聖 中山博道)

誰かまとめて本出して購入するからww

 写真は世界紅卍字会、当時の中国で赤十字のような活動をしていた団体、アジアでは当時 世界紅卍字会の方が多かったそうだ。

知っている人は勉強家の拳士ですが、少林寺拳法は世界紅卍字会を模範とし黄卍教団として設立されている後に少林寺拳法となる。

 ちなみに世界紅卍字会の有名会員は内田良平 笹川良一 出口王仁三郎 岡田茂吉 植芝盛平 安岡正篤 右翼 宗教家 思想化のオンパレード

まあ色々考えさせられますな。

少林寺拳法の金剛禅の教えの根底は大亜細亜主義なんでしょうね。

http://marukado.net/20051120-/2chhokuzen.html


ちなみに正誤の確認はしてませんのでそこんとこよろしくです




1 名前:名無しさん@1周年 投稿日:01/08/28 08:02 ID:3pjhOjrs
禅は大きく分けて天台禅と達磨禅に、達磨禅は南禅と北禅に分類できますがなんで道臣さんは一番マイナーな北禅をチョイスしたんでしょうねぇ?
義和団と禅は関係ないよね??
本家の中国少林寺は現在曹洞宗(南禅)だとなんかで読んだし。不思議だ。



3 名前:1 投稿日:01/08/30 00:56 ID:kkWRgHRM
でも少林寺をなめちゃだめだ。
禅宗を標榜する宗教法人としてはむっちゃでかい勢力だぞ。
本気で信心してる人がいるかどうかは知らんけど。
とにかく今の日本に北禅の大きな宗派が存在しちゃっているというのは確か。


4 名前:名無しさん@1周年 投稿日:01/08/30 01:55 ID:rTFckAE2
http://mentai.2ch.net/test/read.cgi?bbs=psy&key=997295920&ls=50

で宗道臣さんをしらない人がいます 教えてあげて。


5 名前:1 投稿日:01/08/30 22:31 ID:Ef0A4.2k
もうその話題終わっちゃってますねぇ。
言わずと知れた(?)日本少林寺拳法の開祖。
中国の少林寺とは無関係だとのグレーな噂もある。
ま、武道のルーツなんてどうせいいかげんだからいいんだけど宗派、とくに禅のルーツはむっちゃ大事なはず。
だれか知らん?


6 名前:名無しさん 投稿日:01/08/31 11:23 ID:VY/PrKEo
禅のルーツはお釈迦さまが菩提樹の下で座禅を組んで悟りを開いたのが仏教の始まりで座禅を組むのはお釈迦さまと直結する行為だとテレビで見たよ。
武道の本を読んでいたら宗道臣と大山倍達は意見が合わなくて考え方が全然違っていたが、一つだけ同意する意見があった。それは自分たちのやっている
武道のルーツは古代インドにありと・・・・


7 名前:名無しさん@1周年 投稿日:01/08/31 13:19 ID:8o8d/un6
「中国の少林寺とは無関係だとのグレーの噂」って...
無関係なのは既にはっきりしてる。というか開祖自身がとっくの昔に認めたでしょ。
今は中国と無関係な日本の武道を名乗っているが。

習いかじった空手と八光流柔術の中伝どまりの技を混ぜて一派を興したのはいいが、国交断絶をいいことに中国では武術は滅びて自分が唯一の中国拳法の伝承者だなどと言っていた基地外。
まともな研究者が反論すると、本部の行動部隊が大挙して押し寄せて脅してたのは有名な話。
今となっては馬鹿者の代表としてのエピソードだ。
一時泥縄で台湾人武術家にこっそり習おうとして大金を巻き上げられたのも笑い話の一つ。

こんなドキュソ団体をまともに取り上げるのは、無意味だよ


8 名前:1 投稿日:01/09/01 16:26 ID:VfOIkHPU
>7
もうそういうお話は聞き飽きたの。
誰か禅も語れるヒトっていないの?


9 名前:ジェット・リー 投稿日:01/09/01 17:30 ID:KRyqIKiE
禅の話はよくわからないが、>>7の話は初耳。
幼い頃、少林寺拳法を少し習っていたのでショックだな~。
日本の少林寺って、中国の少林寺と本当に関係ないの?


10 名前:名無しさん@1周年 投稿日:01/09/02 01:12 ID:Mai4ucm6
7のような話は良く聞くけど、憶測がいっぱい入っている。
そうじゃないと憶測しているひとも実はけっこういたりする。
もし興味があるなら武道版に行けばいい。少林寺のスレは荒れるW)
おいらは開祖の哲学、好きだよ。


11 名前:1 投稿日:01/09/02 21:36 ID:O7K6rTsg
宗道臣氏は、武術は金剛禅思想を啓蒙するための餌にすぎない、といった意味の発言をしています。
金剛禅思想ってのはよーするに半ばは他人の幸せを考え、実践できる心身を供えた人を いっぱい育ててこの世に楽園を築こう、という ほとんどプラグマティズムみたいな思想です。この考え方は漸悟禅によって裏打ちされているらしいです。


12 名前:1 投稿日:01/09/04 00:19 ID:mnrgzb8g
敗戦後GHQの眼をかいくぐって拳法を布教するために踊る宗教というたてまえで道場やってたそうです。
きっとそのころから宗教法人になったんだと思うんですが・・・。


13 名前:1 投稿日:01/09/05 01:13 ID:/E2ZHuVw
少林寺拳法における信仰の対象は「大宇宙の大生命」ダーマです。
ダーマとはdharmaの英語読みのようです。
伝統仏教では「真理」を意味することは周知の通りです。


14 名前:1 投稿日:01/09/06 01:10 ID:uPo6aPMo
少林寺拳法は霊性を認める。これは日本の禅には認められない特徴。
人は霊止であり、大宇宙の大生命ダーマの分霊である、というのが少林寺拳法の教義の根本です。宗教っぽい?
人間を特別視しているところが中国っぽくはあるような気がします。
日本では神道と混交して、山川草木悉有仏性、的になってるからね。


15 名前:ジェット・リー 投稿日:01/09/06 16:59 ID:uqISK27g
レスありがとうございます。
なるほど武道板というのがあったんですね。
まだ行ったことなかったので行ってみます。


16 名前:1 投稿日:01/09/07 00:50
拳禅一如という四文字熟語は少林寺のうたい文句のひとつ。
これ、沢庵和尚の剣禅一如のパクリかとおもったら実はぜんぜん違う。
剣禅一如のほうは、剣と禅、極めれば同じ、相通ずるものが有るくらいの意味かな。
一方少林寺の拳禅一如は、拳は肉体、禅は精神を意味していて、実は同根だといっている。微妙ながら一応は一元論になってる。
ちなみにたまに極真の人が拳禅一如を語るとき、何を勘違いしてか少林寺風の説明をするときがあって笑っちゃいます。ますたつそーさいが泣くよ(w


17 名前:1 投稿日:01/09/08 02:29
宗道臣は白蓮教系の団体、義和団から拳技を持ち帰ったという。
んで、白蓮教といえば浄土宗仏教の呪術化した邪教として知られてます。
どっかで北禅と関係あんのかどうかはしんない。 弥勒信仰の浄土系宗教なんであんまし関係なさそうな・・・。


18 名前:1 投稿日:01/09/08 23:56
中国には道院・紅卍字会という道教系の宗教団体があった。
この名前を見た少林寺関係者はみ~んな思うはずだ。「うちんとことなんか関係あんの?」と。
私は未だに少林寺の道場をなぜ道院と呼称するのか知らない。紅卍字会との関係も知らない。だれか知ってたら教えて!!
紅卍字会と日本の大本教はおんなじだ、というご神託が両団体で出たということでもしかすると少林寺は大本と関係あったりするかもしれない。
そんなことあったりすると少林寺と会気会合気道は宗教上親類関係だってことになっちゃうかもしんない。
おもろくない?


19 名前:名無しさん@1周年 投稿日:01/09/09 00:10
そもそも少林寺拳法というネーミングがおかしいんじゃ?
中国拳法の少林拳とは流派も違うみたいだし。


20 名前:1 投稿日:01/09/09 07:13
>>19
いちおー本家の少林寺で向こうの拳法家さんから法統を受け継いだということになってはいますね。教範では。
ただ、少林寺で修行したとも少林拳を習ったとも書いていない。技術体系は道臣氏のオリジナリティがたぶんふんだんに盛り込まれていて原型をあまり残していないのかもしれない。重要なのは氏が少林寺では得度していない(はず)ということ。あの思想が全部オリジナルならそれはそれですごいと思うんだけど
そんなことないっしょ?


21 名前:1 投稿日:01/09/10 01:56
有段者だけが香川の本山への寄進によって手にできる少林寺拳法教範。こんなんでも一応有段者なもんで頑張って本山にいって手に入れた。
その前半部は思想と宗教的な意味合いの記述で占められている。割と一生懸命読んだつもりなんだけど、どーも開祖の悟りに対する記載がない。
拳法は易筋行という修行法なのだそうだけど少林寺拳法を習うと悟れるとも書いてない。
禅は常に悟りを目標に誓願をたてるのだと思っていたのだがどんなもんなんでしょ。
読みが足らないのかな?


22 名前:1 投稿日:01/09/10 23:23
教範には六祖慧能と神秀のお話まで出てくる。
んで、拳法みたいなのはある日かつ然とできるようになるものじゃなくて常に研鑚を怠らずに徐々に習得するしかないから漸悟禅の北禅なのだそうな。
ある掲示板の書き込み(2チャン以外)で、「中国にはまだ北禅(北宗禅)の修行僧がたくさんいると聞いた」という拳士さんの書き込みを見たことがあります。
でも北禅てのはとーの昔に廃れたはず・・・?
実は本場中国には北禅のお寺さんがけっこうあったりするのかな?
大体本場少林寺の坊さんってなんか拳法使えるのか?


23 名前:名無しさん@1周年 投稿日:01/09/11 03:21
天台禅と達磨禅、という分類はあまり意味がない。

もともと禅というのは「阿字観」という密教系の修行法が発展したもの最澄は文字通り「修行法のひとつ」として日本に伝えたが、それを教義そのものに昇華したのが達磨ことボーディダルマさん。 基本的にやることもやってることも同じ。

北宋禅と南宋禅の違いもそんなにはない、密教との兼学をするかしないか
兼学をどこまで重視するかしないかの差。


24 名前:1 投稿日:01/09/12 02:58
うれしー!はじめて宗教学的レスだーーー。 実は辛かったのよ(w
ところで天台と達磨の時間的関係が逆ですよ。 天台大師は達磨よりあとに生まれている。
天台の記した摩訶止観に、達磨禅でいう不立文字などの特徴的な概念が含まれていないのは両者が独立に発展してきたことを示していると思います。達磨以後、天台の概念がいわゆる禅宗に吸収されているけれど天台の禅は禅宗のそれと比べてずっと具体的な修行法に富んでいるという特徴がある。
私の知識はあってます?ソースは絶版の摩訶止観です。

ところで北禅は漸禅漸悟なんじゃないの?
これは南から見た偏見なのかな。


25 名前:名無しさん@1周年 投稿日:01/09/12 04:46
不立文字も教外別伝も義玄が創唱者だと思われ。達磨がそれを言ったとする記録は乏しく怪しい。
最澄は「修行メソッドとしての禅」を伝えただけだから、その部分が抜け落ちていて当然。そも達磨自身が「宗派としての禅」の成立を意識していたかどうか、ちょい怪しい。大乗仏教成立の過程で起きた「専修」というムーブメントのなかで、数ある修行法のなかから「これが合理的だからこれにしなさい」と強く勧めた程度ではないか、とする考え方もある。
一宗派としての成立に至った原動力は、むしろ中国伝来以降の熟成期間と中国人僧の精進にあり、とするのが宜しかろうか。

日本の少林寺って、宗教法人格もってたのか・・・


26 名前:1 投稿日:01/09/13 00:41
同意&勉強になるなあ。
最澄が持ち帰った禅法と禅宗のそれが質的にかなり異なっていることはたぶんご存知でしょう。
天台では具体的なしきたりや道具立てが細かく設定されていて親切。
こうしたらこうなると言うことが書き記されている禅法最強の教科書「摩訶止観」「小止観」もある。
一方不立文字、教外別伝がたてまえの禅宗ではそういう様式は師家によってぐんぐん変わる。ちなみに禅に阿字観を取り入れている禅宗宗派を私は知らない。そんなわけで、禅の立場から見たら天台禅と達磨禅に分けて考えるのはそれほど無理ではないと思うのですがいかがでしょう?

>日本の少林寺って、宗教法人格もってたのか・・・
少林寺は3っつの顔を持っています。
宗教法人、学校法人、財団法人。技と同様多彩なのだ。


27 名前:1 投稿日:01/09/14 01:29
少林寺拳法で用いられる手印は二種類だけ。 合掌と結手である。
坐禅を組むときも結手。法界定印を結ぶ拳士は見たことない。この結手、臨済でも似たような印があったりする。なんという名かはしらないけど初心者用らしい。左親指を右手で握るか挟むかして、さらに左の4本で包み込む印。 でも実は結手はこの印とは微妙に違う。両親指の腹どうしを絡めてから右で包み、上から左で包むと言うのが正しい決手。私見だが、この少林寺独特の印は大極のシンボルを意味している。金剛禅思想に出てくる用語も陰陽の影響を多く受けている。両方とも中国道教由来でしょ。
きっとこの思想は道教の影響を色濃く受け継いでいるんじゃないかな?


28 名前:1 投稿日:01/09/15 00:50

大極じゃなくて太極だった。 2ちゃんで誤字の修正は野暮か(w
ちなみに少林寺拳法と太極拳はホントに全く違う。
だいたい少林寺拳法には中国拳法に一般的な発勁などの勁に関わる技法は(多分)ない。
”気”も使わないし合気もない。
あるのは「梃子の理」などの味気ないものばかり。
もっと神がかった技の方が道教っぽいような気もするのでやっぱ関係ないかもね。
おかげ様で合気道創始者の植芝盛平は神がかった伝説の人なのに宗道臣はただの人のまんまです。


29 名前:名無しさん@1周年 投稿日:01/09/15 04:51
ここの少林寺気功や武術はどうですか?
http://www1.odn.ne.jp/~shaolin/

台湾でも少林寺武術というのは割りと良く知られてるようですが、これは一体どこから渡って来たものか分かりませんか?


31 名前:名無しさん@1周年 投稿日:01/09/15 20:51
1のスレの立て方が不味い。

これじゃ拳法と禅の両方に興味のある人しか寄ってこない、果たしてそんな人が何人いるのやら・・・だいたい少林武術のことは知っていても崇山のことは知らない人の方が多いし、そも日本の少林寺が宗教法人として活動していることも知らない人の方が多い。
この場合一番盛り上がるスレの立て方は、こうだ。

「拳法をエサに宗教活動をする日本の少林寺」
「えせ宗教、えせ拳法の開祖=宗道臣」

まあ、あれるけどね・・・


32 名前:1 投稿日:01/09/15 22:52
>>31
なるほどね。今後の参考にさせていただきます。
でもこのスレの方が情報の精度は高いぞ。
情報が集まらないというちょっとした欠点はあるが(w


33 名前:1 投稿日:01/09/15 23:57
>>29
崇山少林寺の門前には少林拳の専門学校があるという。 この学校、組織としてはお寺とは全く別個の団体。少林寺の名声を聞いて中国各地から集まってくる若者どもを収容していると聞く。お寺との関係は、多分大病院の門前薬局のようなもの。あるいはアメリカの大学の語学学校みたいなものだと思います。
よーするに緩やかな経済的協力関係が成り立っているんだろうな。語学学校の先生がPh.D.すら持っていないように(アメリカの大学では学位は必須)、この最高師範とかいう人、得度なんかしていないと見ていい。だって写真で髪の毛が生えてるんだもん(w
ま、日本にある団体と似たようなもんじゃないかな。ただ、地の利がある分だけ本物っぽく見えちゃうけど。私としては、拳法の修行を通して悟りを開いちゃったりしている本当のお坊さんの存在を知りたい。 どっかにいないかな?


35 名前:名無しさん@1周年 投稿日:01/09/16 02:27
1はこのスレで何がやりたいのか。

1.拳法のはなし
2.禅宗のはなし
3.日本の少林寺を禅宗の一派として認めて欲しい、というPR
4.拳禅一如の思想による拳法の修行を「仏道修行」だと認めて欲しい、というPR

1.なら板違い。2.なら他スレへ。3.は努力次第。4.はムリでしょう。


36 名前:29 投稿日:01/09/16 06:22
そういう事情ですか
>得度なんかしていないと見ていい。
確かに出家ではなく、在家の弟子と書いてあります。
ただし真偽の程は分かりませんが、崇山少林寺周辺の専門学校とは違うと受け取れる記述があります

それと写真集を見るとハッケイはあるみたいです。
日本の少林寺には気功はないのですか?


37 名前:1 投稿日:01/09/16 11:17
>>35
禅宗の話。というか少林寺拳法の思想の背景になっている宗教のお話。
PRの意思はま~ったくございません。どんな結論でもアクセプトいたします。

>>36
気功はないです。
宗氏はリアリストです。
ただ、経絡を使うので「気」そのものは否定していないみたい。


38 名前:名無しさん@1周年 投稿日:01/09/16 11:48
少林寺ではないけど、武道と禅と両方嗜む方といえば、剣の達人、大森曹玄老師が居られました。また鎌倉松ヶ岡文庫の鎌田茂雄博士も、合気道をやっておられました。既にお二人とも亡くなられましたが、著書を読むと良いのでは?

それと北宗禅、南宗禅についてですが、南宗禅=曹洞系というのは誤りです。勿論、日本道元宗の元である曹洞宗をはじめ、五家七宗は全て慧能門下の南宗禅ですが、中国宋時代を代表するのは曹洞宗ではなく臨済宗です。日本曹洞宗は、現在末派寺院数が最も多い伝統的仏教の包括宗教法人ですが、禅思想、禅文化的には見るべきものは特にありません。

それと23も随分と勘違いしているが、天台智ギの『摩迦止観』や『天台小止観』が様々な禅宗の『坐禅義』の大本になっているのは事実だが、智ギは597年に没している。一方、菩提達磨が一人の人物かどうかは別として、基本的には536年没説が一般的である。

また日本天台宗の最澄が持ちかえった禅は、黄梅弘忍から玉泉神秀の系統、つまり北宗禅の系列であり、嵩山普寂、瓦官道セン、行表と続いた流れである。であるからこそ、最澄は比叡山に大乗戒壇の設立を悲願としたのであり、 彼が持ちかえった大乗戒は達磨の一心戒に他ならない。

つまり禅が密教の一部であるというのは勘違い、正確には日本には先に密教が入ってきただけの事。
仏教は本来、瞑想により自分の心を見つめて行く教えであり、むしろ護摩を焚いたり、水をかぶったりするような、ヒンズーにも似た密教的儀式こそ後に加わったもの。

10数年前嵩山に登った、その当時も少林寺近辺には拳法の学校が沢山あったよ。日本少林寺拳法が禅であるとは、多度津の連中を見ていてもとてもそうとは思えないが、中国少林寺に拳法があることは事実。

南禅は黄梅弘忍より曹渓慧能に伝わった流れですが、中国禅五家七宗はすべてこちらになります。

それから、最澄が持ちかえった禅は、基本的に北禅です。
その為、最澄は


39 名前:1 投稿日:01/09/16 14:04
>38
極めて興味深いお話ばかりです。

>その為、最澄は
是非ぜひ続きをお聞かせください。お願いいたします。


40 名前:名無しさん@1周年 投稿日:01/09/16 14:48
失礼、下三行は消し忘れです。
他には特にありません。


41 名前:1 投稿日:01/09/17 03:07
>>38
いくつか教えていただきたいことがあります。 まず、最澄さんが持ち帰った禅が北禅だとのこと。これは他所でも見たことがある内容です。でも天台宗なのになんで?日本に伝わる南禅とは手も足も組み方が逆。坐禅前には五体倒地までしちゃうし阿字観も重要なメソッドのひとつ。私はこれを両・止観に基づいた天台独特の禅法だと勝手に思い込んでいたのですが、実は北禅の特徴だったのでしょうか。


42 名前:OB 投稿日:01/09/17 11:56
日本少林寺拳法は宗教法人を名乗っているのに宗教ではないちょっと変わった団体だと思います。私を含め部員のほとんどは宗教に入っているという気持ちはなく、単なる体育会系の部に入部しているという認識だったと思います。 (もう26年も前の話です。)
スレと関係ありませんが、なつかしかったので、ごめん。


43 名前:38 投稿日:01/09/17 19:04
>>1
いっぺんには長いので…。
>でも天台宗なのになんで?
先ず最澄が14歳で得度した時の師匠である近江国分寺の僧、行表(722~797)は、大和興福寺の瓦官道セン(702~760)に付いて得度し、具足戒を授かっている。道センは遣唐使に請われて中国からきた律宗の人だが、中国で嵩山普寂より北宗禅を学んでいる。法相宗道昭に次いで、日本に禅を伝えた2番目の人。行表もまた、道センから具足戒を授かり、律部、禅及び法相、華厳の教学を学ぶ。最澄は入唐前に師である行表より三論戒律禅などを学んでいる。中国仏教史から見れば、天台教学は華厳教学以前の古い教学であり、遣唐使の時代には中国では半ば廃れていた。


44 名前:38 投稿日:01/09/17 20:12
中国での○○宗とか、南都六宗の○○宗と言う場合の「宗」の意味は、今みたいなセクトではなく、強いて言えば、「○○専攻」みたいなニュアンスである。

で、最澄が何故、古い天台智ギを引っ張りだして来たかと言えば、それは当時の南都の僧侶が権力と結びつき堕落していたからである。純粋な青年であった最澄は、鑑真和上がもって来た『摩迦止観』などを読み、智ギの説く思想に感銘を受けた。智ギもまた、現実肯定である華厳教学に批判的であった一人であり、だからこそ五時八教の教判で華厳を最初に持って来ている。ただ、この華厳思想と天台(法華)思想との問題は、後の山家山外の対立に繋がるなど、簡単にどちらが上とか下とか、いかない問題である。

で、最澄は大乗仏教には「大乗戒」が相応しい、と主張した、最澄は入唐して龍興寺道邃から「大乗戒」を授かった。
しかし中国では比丘戒などを授かった上で、菩薩戒である大乗戒を授かったのに対して、最澄は大乗仏教は菩薩戒のみで良いとしたのが大きな特徴で、他に例を見ない。

ではこの「菩薩戒=大乗戒」とはいかなるものかというと、『梵網経』や『持自瑜伽論』などに見られる「十重四十八禁戒」や「三聚淨戒」がそれであるが、これらは「傳述一心戒文」として菩提達磨がシナに持ってきたものを、天台智ギの師である南嶽慧思が書写し伝えたと言われている。


45 名前:38 投稿日:01/09/17 20:32
五体投地の礼拝は禅宗では当たり前。その為に袈裟には坐具が付いている。

脚の組み方だが、『天台小止観』と臨済の『坐禅儀』を比べてみると、確かに結跏だと小止観は、先ず左の脚を右の足の上に載せ、それから右の足を左のモモに載せると書いているが、坐禅儀では先ず右の脚を左に乗せて云々と逆である。しかし半跏の場合は、どちらも左の足を右の足に乗せるように書かれていて、あんまりこの辺はどっちでも良いように思える。


46 名前:1 投稿日:01/09/18 09:33
詳細なお答えをありがとうございます。 五体投地は禅宗では当たり前なんですね。日本の禅宗では行われていないようですが。北の禅は漸悟禅との認識は正しいでしょうか?これは「止観」とも共通しているようですが・・・


47 名前:38 投稿日:01/09/18 10:11
当然日本の禅宗も礼拝といえば、五体投地の礼拝であり、日常的礼拝には三拝が行われている。
また儀式によっては九拝式や十八拝式もある。

北宗が漸悟で、南宗は頓悟というのは一般に言われていることですが、ものごとはそうステレオタイプでは無い。北宗にもそれまでの価値観から転換する頓悟の部分が当然ある筈ですし、南宗だってコツコツと積み上げるからこそ、竹の音にハッと気付くわけで、何もせずに寝転がっていて頓悟する訳じゃない。

強いていえば漸悟と言うことを大切にするのが北宗で、強いていえば頓悟の立場を大切にするのが南宗と、解釈すべきだと思います。


48 名前:1 投稿日:01/09/19 01:33
よくわかりました。ありがとうございます。五体投地に関しては私の全くの勘違いだったようです。
ホームページのサーフィンをして確認してきました。
>>38
>10数年前嵩山に登った、その当時も少林寺近辺には拳法の学校が沢山あったよ。
>日本少林寺拳法が禅であるとは、多度津の連中を見ていてもとてもそうとは思えないが、
>中国少林寺に拳法があることは事実。
素晴らしい!少林寺に実際にいらしたのですね。現在の少林寺境内でも拳法が行われていそうな感じでしたか?
(映画、「少林寺」みたいに)
私の印象としては拳法家はお寺の外の建物にしかいないんじゃないかなという感じ。
私は嵩山に上ったことはありません。他からの情報からの感想ですが。


49 名前:38 投稿日:01/09/19 07:40
私が少林寺に行ったのは86年のこと。少林寺の裏山、つまり嵩山五乳峰の頂上にある達磨面壁洞に登ったのが大変印象に残っている。千段近い石段を登っていると、見晴らしも良く周囲の山々は牧草地帯で牛の放牧も行われていた。向うの山の山頂付近を、行者と見られる二人連れが歩いていたのも、何だかな?という記憶がある。
少林寺自体はそれほど大きなお寺では無いが、境内の中にも観光客向けと思われる臘人形展で見られるような僧侶の修行の様子が、人形によって紹介されていたが、その中に、やはり拳法を行っている様子が在ったことを、今写真で確認した。あと少林寺の印象は、寺の横に塔林と呼ばれる、大きなストゥーパ型のお墓が沢山林立していて、それらは寺の歴代の住持のものと思われ、歴史をかんじさせた。
で、少林寺拳法の学校だが、仰せの通り寺の中では無く、門前に幾つもあるのだが年齢層に依ってか、道の左右に幾つもあった。それもかなり広大な敷地で。少林寺の中だが、我々は観光客が入れない寺の内部に通してもらってお茶を頂いたが、拳法らしい部分はその人形しか見受けられなかった様に思われる。


50 名前:1 投稿日:01/09/19 23:43
詳細で私にとって大変貴重なレポートです。極めて興味深く読ませていただきました。
嵩山少林寺そのものが重要な観光資源になっているのでしょうから拳法をイメージした蝋人形があるのは至極当然のことと思いました。もし現在も行としての拳法が引き継がれているのならば、このメディアの発達した時代にもう少しクローズアップされていてもおかしくない様に感じます。少林寺の修行僧による中国拳法の修行はすでに過去の話である可能性が高いようですね。
ところで嵩山の宗派はやはり曹洞宗ということでよろしいですか?


51 名前:38 投稿日:01/09/20 11:06
>ところで嵩山の宗派はやはり曹洞宗ということでよろしいですか?
日本では曹洞宗が、最も数が多い教団なんで、禅といえば曹洞宗だと勘違いされている向きもあるのでしょうが。中国では唐時代から宋時代にかけて禅宗が全土を席巻しました。特にこれは全て六祖慧能からの別れで、五家七宗といって南岳、馬祖、百丈の流れから、イ仰宗、臨済宗黄龍派、臨済宗楊岐派が生まれ、また青原、石頭のながれから雲門宗、法眼宗、曹洞宗が生まれ繁栄しました。
しかし宋時代後期になると、中国の禅は殆ど臨済宗楊岐派が占めるようになり、他は滅んでいってしまいます。その後、明時代になると、念仏と坐禅を併修する念仏禅へと変遷していきます。江戸時代に渡来した隠元も念仏禅ですので、我が国では黄檗宗と名乗っていますが、 中国には黄檗宗なるものはありませんし、隠元の墨蹟の落款が「臨済正宗」と押されていることからも、隠元は臨済宗楊岐派の僧侶であることが明らかです。
さて今日の中国では、文化大革命の法難を乗り越えて、伝統的仏教は大切にされている様ですが、少林寺が何宗かは良く分かりません。
というのも宗派と言う概念が、中国では日本のようなセクト的概念と異なるからです。
ただ、今日の少林寺でも念仏禅が行われている様ですので、流れ的には臨済宗楊岐派の流れを汲むと考えた方が自然でしょう。


52 名前:1 投稿日:01/09/20 21:39
そうしますと、私の聞きかじりの知識は間違いだったと言うことですね。 たぶん曹洞宗の方の文章の中で少林寺が紹介されていたのだと思います。
少林寺は全ての禅宗のふるさとですからね。ところで現代中国において北宗禅はやはり滅んでいると考えたほうがよさそうですが拳法修行をしていた時期の少林寺がどのような立場に属していたのかはとても興味があるところです。
宗道臣氏の言うとおり漸悟禅を実修していたのでしょうか。


54 名前:1 投稿日:01/09/22 01:15
もうひとつ質問です。
>日本少林寺拳法が禅であるとは、多度津の連中を見ていてもとてもそうとは思えないが、
とありますが、「多度津の連中」のことはどの程度ご存知なのでしょうか。
一応彼らにも座る機会は設けられています。


55 名前:1 投稿日:01/09/23 01:58
私は5年ほど拳法を道院(町道場)で修行したことがあるけれどちゃんとした座り方の講義を受けたことはない。
でも座る機会そのものは幾度かあった。なんとなく見よう見まねで過ごしてしまったので不正確ですが少林寺の座り方は
①板の間に座布を用いないで直接座る
②半跏趺坐
③手印は結手
④数息観は用いないらしい
⑤調息と称する独特の呼吸法を使用する
⑥終了時には床に長い棒の全体をビシっと叩き付ける音で急速に覚醒させる
といった特徴があります。


56 名前:1 投稿日:01/09/23 18:35
少林寺拳法では坐禅とは書かずに座禅と書きます。重要じゃないか・・・。


57 名前:38 投稿日:01/09/24 08:18
お返事遅くなりました。多度津は父の出里で、もう30年ぐらい前になりますが、子供のころ夏休みになるとよく遊びにいきました。拳法のある山のすぐ下のトンネル近くに禅寺があって、そこの尼僧さんに可愛がってもらったので、お寺に泊ったりもしていました。当時は拳法も全盛だったのか、良く少林寺拳法の旗をつけたジープが町を走りまわっていて、その様子はあたかも映画で出てくるMPみたいで、子供心に怖かった思い出があります。
あそこの山の上には公園があって登っていったりもしましたが、「拳法のところには近づくな」と言われていたように覚えていますので、当時かなり傍若無人であった様です。

さて数年前、知人が少林寺の有段者で、かなりの高段位を取る試験の話を伺いましたが、演舞など実技以外に、禅的な内容のペーパーテストがあるそうで、「これはどういう意味でしょう」と聞かれことが在ります。内容は、初歩的なものであったと記憶していますが、一応説明しましたが彼は余り理解できないでいるようでした。そういう点から鑑みても、少林寺拳法は直接禅的境涯を養うものでは無いと言えます。


58 名前:1 投稿日:01/09/24 23:02
当時の少林寺は傍若無人・・・だったのですか。近づくな、とはかなりのものですね。昔の少林寺拳法の噂はどうやら本当らしい。やーさんも手を出せない、腕に物言わせる様な集団だったそうです。今みたいに小学校の先生が生徒をひっぱたいたらクビになっちゃうようなご時世では想像すら難しい。関係ないけど日本少林寺拳法は学校法人で高校とか運営してます。
どんな教育方針なんだろ? ところで今の多度津は少林寺拳法で結構潤っているらしくて少林寺饅頭なんてのも売られています。時代は変わった・・・。

さて、ペーパーテストのお話ですが、少林寺のペーパーテストは結構厳しい^^;
論文も書かなきゃいけないし一夜漬けくらいする拳士は多いんじゃないかな?お知り合いの拳士さんは禅的な内容をよく理解できないようだということですが普段の稽古は禅とは全く関係ないので当然なのです。それどころか多分拳士の99%位は >>42 のOBさんの様に宗門であるという意識さえ持っていないと思います。
ただ、一応はそういった禅的問題を出題して採点をする側の人がいると言うことは少林寺拳法が禅を目指していると言うことはできるのではないでしょうか?ところで語句の説明を理解できないことと禅的境涯を養えていないことは必ずしも一致しないのではないでしょうか。
まあ、その問題の内容にもよりますね。

あと、余談ですが学校の部活動のように宗教チックなものを導入し辛い環境の場合、日本少林寺拳法は宗教の面をはずしてしまいます。宗教行事として鎮魂行を行っているのですが学校では省略されるようです。OBさんが宗教じゃないと仰るのも無理からぬことではあります。


59 名前:38 投稿日:01/09/25 09:28
>>1
なるほど~、でもその人8段なんですよね~。

〉ただ、一応はそういった禅的問題を出題して採点をする側の人がいると言うことは
〉少林寺拳法が禅を目指していると言うことはできるのではないでしょうか?
〉ところで語句の説明を理解できないことと禅的境涯を養えていないことは
〉必ずしも一致しないのではないでしょうか。

まぁ、無理矢理そういう風に解釈することも出来ますが、ではその採点をしている人に禅的境涯が在るか否かが問題になりますし、在るとしたらそれは誰から証明されたものなのか?と言うことが問題になります。結局、創始者が剣術のテクニックは別にして、中国傳燈の禅を標榜するには、正しい法系にのっとっている必要があるわけですが、それは北宗禅云々と言っている以上、伝統禅的にも、仏教史学的にも、怪しいとしか言い様が在りません。
まぁ、自らを権威付ける為に持ち出してきたと考える方が、素直に理解できますね。1さんのお話から窺える範囲では、少林寺拳法の主張している宗教性は、専門家から見ればかなり怪しいです。

P.S>造船業も寂れて、多度津自体が今は過疎化して全く元気の無い町です。
そんな中、少林寺の本山が若干は町の経済に寄与しているかもしれません。
でも、少林寺本山自体にも昔の活気はありません。
最近は、東京や大阪など、大都市の支部のほうが力をつけているんじゃ無いですか?


60 名前:1 投稿日:01/09/26 02:03
そうですか。八段の方ですか・・・。 昇段して八段になられたのですね。段位の意味のほとんどが技の習熟なんだ。
座る機会はあってもそれが見性に結びついたりはしていないと見て間違いなさそうなんですね?
まあ、ペーパーテストで認める禅的境涯ってのも変なお話ですが。

>北宗禅云々と言っている以上、
>伝統禅的にも、仏教史学的にも、怪しいとしか言い様が在りません。

やはりそういうことになりますか。現代に北宗禅はまずはまったく生きていないのですね。
確かに誰かに認可を与えられたと言う話はとんと聞いたことがありません。そういう意味では伝統仏教を語るのはおかしいですね。もっとも少林寺拳法は定義から言えば新興宗教なのでしょうが。

ところでお話ついでにその禅的境涯とはどんなものなのかお教え願えますでしょうか?


61 名前:38 投稿日:01/09/26 16:16
〉ところでお話ついでにその禅的境涯とはどんなものなのかお教え願えますでしょうか?
音を♪に置き換えても、その♪の示す音を知り得ないなら音を伝えることが出来ないのと同様、心を記号に置き換えても、その記号の示す心を知り得ないなら伝える事は出来ません。

しかし同時に、今まで私がここでレスしてきた文章全てが、けして禅的境涯と無関係ではありません。禅とはどう言うものかについて申し上げてきたつもりでもあります。

>現代に北宗禅はまずはまったく生きていないのですね。

ここで問題なのが北宗禅と南宗禅と言う従来の分け方なんですが、確かに神秀は「心は明鏡台の如し云々」と言い、慧能は「本来無一物」と言った訳ですが、慧能は神秀の後からコメントしていますので、そりゃ神秀が差別の相から書いてれば自分は平等の立場から書くのは容易でありまして、ずるいと言えばずるいかもしれないんですよ。

前にも言ったように、仏教はそういうステレオタイプなものでは無くって、平等則差別であると同時に、差別則平等であるからこそ不一不二なのであり、無であり、中道であり、空である訳です。勿論、家風と言う物は確かにそれぞれに存在しますが、北宗禅と南宗禅が断絶されたかのように見る現代の風潮は全くナンセンスです。どちらもそれぞれを含んでいるのであって、その時の立場によって現れている面が違うだけに過ぎません。


62 名前:38 投稿日:01/09/26 16:17
〉そういう意味では伝統仏教を語るのはおかしいですね。
〉もっとも少林寺拳法は定義から言えば新興宗教なのでしょうが

宗教と言う概念が、明治以降の近代に入ってから西洋的な概念になり、
さらに昭和24年以降新宗教法人法施行以降は要件を満たせば宗教法人になり、
すなわち宗教の定義が形式的になったわけですが、宗教法人であっても本来の意味での
「宗なる教え」では無いものも多いし、宗教法人で無くってもマルチ商法やセミナーなど
西洋キリスト教的な意味においての、または社会学的な意味においての宗教じみたものは
枚挙にいとまありません。

となると、今日宗教であるか、否かはさしたる意味を持ち得ません。
要は、その人の人格が如何なるものか?が重要であって、仮にすばらしい人格者がいて
その人格を作り出したのが、特定の教えであったらばその教えを学べば良いのでしょう。


63 名前:1 投稿日:01/09/27 00:06
う~ん。示せるのは月を指す指のみといったところですか。 確かに色盲に赤を言葉で説明するようなものなのでしょうが例えばあったかい色なんだと教えていただければ私としても想像を膨らますことができて楽しかったかも。 大変でしょうからもちろん無理強いはいたしません。聞き流してください。
私はまた禅的境涯というのが宗家によって異なることもあるのではないかと思ってお聞きしたのです。
臨済の岩頭の禅など曹洞からみれば無茶もいいところだと聞きます。アプローチがことなればその結果得られる境涯もまた異質となると考えても不自然ではないと思うのです。少林寺拳法のアプローチの方法はそういう意味で日本の伝統禅のそれから大きく逸脱していることは間違いないでしょう。
それともたどり着く山頂は常にひとつだと考えてよろしいのでしょうか。


64 名前:名無しさん@1周年 投稿日:01/09/27 01:01
>>61
このスレ黙ってROMしていましたが禅に関する38さんの書いてることってほとんど本で読んだことそのまま丸写ししてるだけですよね。
そのネタ本に北宗禅と南宗禅は結局同じものだと書いてあったのでしょうか?
それは明らかに間違いです。五祖弘忍は何故、神秀ではなく慧能を法嗣としたのかその点を考えないと。二人の偈は表と裏の関係ではなく全く正反対のことを言っています。厳しい言い方かもしれませんが38さんは禅のことを全く理解していませんね。
禅は学問や知識で理解するものではありません。あなたもしばらく坐ってみてはいかがでしょう。


65 名前:38 投稿日:01/09/27 08:37
>>1
>私はまた禅的境涯というのが宗家によって異なることもあるのではないかと思ってお聞きしたのです。
>アプローチがことなればその結果得られる境涯もまた異質となると考えても不自然ではないと思うのです。

何度も言うように、それぞれに家風はありますが、禅とは一真実でありますから、真実が異なることは有り得ません。
違うと言うのであれば、それはどちらかが真実ではないのでしょう。

〉少林寺拳法のアプローチの方法はそういう意味で日本の伝統禅のそれから
〉大きく逸脱していることは間違いないでしょう。
〉それともたどり着く山頂は常にひとつだと考えてよろしいのでしょうか。

上とは全く逆の質問ですね。アプローチが違えば得られるものも異なる筈だ、と言いながらも、山頂は一つと言うのは可笑しな話です。
アプローチが違っても、得られるものが同じであるから山頂は一つである、と言えるのではないでしょうか。

お話を伺っていると、1さんは少林寺拳法を学ぶことによって単に武術を習うのみならず、宗教的な心の開発を行いたい様ですね。
私はそれをけして批判する者ではありませんが、禅僧である私の立場から言えば、少林寺拳法に禅のエッセンスがあることは判りますが、拳法だけで禅を学ぼうとするのには無理があります。むしろ禅は禅で学ぶことによって、少林寺拳法がより深く理解できるのではないでしょうか。同様のことは茶道などにも言えると思います。


66 名前:38 投稿日:01/09/27 09:05
>>64
こんにちは。ご指摘有難うございます、確かに史実などは辞書などを参考しましたが、全て私の見解に基づいて書いたものであって、けして受け売りではありません。ただ未だ未熟者ですから見解が間違っていると言うご批判ならば甘んじて受けます。
さて、
>五祖弘忍は何故、神秀ではなく慧能を法嗣としたのかその点を考えないと。
>二人の偈は表と裏の関係ではなく全く正反対のことを言っています。
と言うことですが、私はけしてそうだとは思いません。 ひょっとしたら64さんは、ご自分の禅体験でいささかの信心脱落底を得て六祖の方が、神秀よりも素晴らしいとお考えになったのかもしれませんが、神秀もまた五祖の元で長年修行してきて、700名の雲水の首座となったお方です。我々のような、というと貴方には失礼ですが、その程度の境涯であろう筈がございません。それでも敢えて「時時努めて払拭せよ」というのが神秀の立場であった訳です。
それに六祖は全くの文盲であったという事になっていますが、それで何ゆえ人が読む金剛経を理解したり、神秀の偈を読んでもらって、すかさず自分の偈を作って書いてもらうことが出来たでしょうか。 それをそのまま鵜呑みにするのは、釈尊が摩耶夫人の右腋からうまれて、すぐに七歩歩いて天上天下云々言った事を史実として信じるのと同様に、無謬な事です。
六祖が本覚的立場であったのに対して、神秀は始覚的立場であったに過ぎない事。これは唐末以来、曹洞が本覚的立場であったのに対して、臨済が始覚的立場であるのと同様です。身心脱落、脱落身心、坐ってそれで良いとするから今のていたらくなのでしょう。我々は、平等一枚を体験した後、差別の現実でどう働いていけるかを重んじます。


67 名前:64 投稿日:01/09/27 21:35
驚きました。私はあなたが一般の方だと思ったので易しい口調で言ったのですが禅僧だったとは。だとすればもう少し厳しいことを言わねばなりません。その文から察するにあなたは曹洞宗の方ですね。昔から曹洞宗では悟りを得る方が少ないのは何故でしょう。その点を考えたことはありますか?

>六祖の方が、神秀よりも素晴らしいとお考えになったのかもしれませんが、
>神秀もまた五祖の元で長年修行してきて、700名の雲水の首座となったお方です。
>我々のような、というと貴方には失礼ですが、その程度の境涯であろう筈が
>ございません。

弟子が700名いようが1000名いようがそのような権威主義では達磨の心など掴めません。達磨には1人しか弟子は居なかったのですよ。神秀が差別、慧能が平等で真理を答えたというのなら何故、五祖弘忍は慧能にだけ印可を与えたのでしょうか。2人とも同じことを立場を変えて言っているだけなら2人に印可を与えるはずです。まさか伝法衣が1つしかなかったからなどとは言わないでしょうね。あなたも本当に見性すれば達磨大師や六祖慧能の心に一足飛びに繋がります。悟りに深浅はないのです。ただし、悟後の修行が出来ていないと単なる一枚悟りになってしまうだけです。
悟りに深浅なし。ただ悟後の修行に深浅があるのみ。あなたが今やるべきことはこんな2CHで遊ぶことではないはず。
私が今2CHに居るのはあなたとは全く別の理由です。
 老僧末上入(わしはまっさきに入る)
趙州の慈悲心は今でも生きていますぞ。


68 名前:1 投稿日:01/09/27 22:45
なんかエライ事になってきた。
私としてはもっともっと遊んでいてほしいのに(泣)


69 名前:38 投稿日:01/09/28 09:36
>>1
私遊んでるつもりではないですが…(^-^;

>>64
先ず、私は臨済宗のものです。貴方は曹洞宗系の、それも原田老師系の方だと存じます。仰る事すべて承知しました。
「ここで遊ぶ暇があったら他にする事があるやろ」
他でも色々とやっているのですが、「るつぼ」以来こういうところで色んな方に出会うのも面白いのですよ。
貴方は2chのお地蔵さまを自負されているようなので、これからも頑張ってください。


70 名前:64 投稿日:01/09/28 20:06
>>69
>貴方は曹洞宗系の、それも原田老師系の方だと存じます。
私は臨済の系譜です。曹洞ではありません。あなたが臨済宗だとすれば更に始末に追えない。曹洞系であれば仕方がないと思っていたが臨済系でそのていたらくとは。あなたは一体どこの僧堂で修行をしていたのですか。
法身は透りましたか?
機関は透りましたか?
言詮は透りましたか?
まだまだ難透や向上もありますぞ。
最近の坊主は見性すらせず寺に帰っていく者もいると聞く。これでは今世紀中に達磨の眼は潰れてしまうだろう。 あなたが一般の方であればこんな厳しいことは言わないが禅僧なのだから。これでも随分手加減しているのですよ。


71 名前:1 投稿日:01/09/28 22:56
>38
>>69 そうですね。失礼いたしました。
あなたはいつも私の質問に真剣に答えてくれていました。

>64 >>67
私のような素人の衆生としては38さんのような方が知識を分け与えてくれることはとってもありがたい。禅の坊さんは時間を大切にすることは一応は知っているつもりですがその生活は他人とのコミュニケートを犠牲にしなければ成り立たないようなものなのですか?


72 名前:38 投稿日:01/09/29 07:51
>>私は臨済の系譜です。曹洞ではありません
そういう言いまわしはさしずめ人間禅ですか?それとも正統の臨済なおでしょうか?
まぁどちらでも構いませんが、それだけ仰るのであれば貴方は一枚持ちなのでしょうが、貴方の師はどなたですか?

>あなたは一体どこの僧堂で修行をしていたのですか。
虎渓です。

勿論、私は貴方のような師家分上のものではありませんが、丸っきりの無眼子とも思っておりません。ただ、いずれにせよ臨済の名を持ち出すのであれば、公案の数だけを数えてもそれが実生活で生かされなければ何もならない事ぐらいは御存知の筈。私の身の処し方をご心配頂いているようですが、それなりに布教活動もし、時々僧堂にも通参しております。上求菩提・下化衆生は一つのことと存じておりますので、ご心配には及びません。
臨済系の僧侶の方であればいずれお会いする機会もあるでしょう。
それよりあなたこそ、大丈夫ですか?


73 名前:64 投稿日:01/09/29 18:37
達磨の眼は潰れた。
この似非坊主の眼で。
これ以上の言葉は無し!


74 名前:1 投稿日:01/09/29 23:34
>64
あなた何言ってるの? ごく客観的に言ってこの討論あなたのほうが分が悪い、というか変。
「禅問答」に逃げないできちんと答える練習をしましょう。理もわからずに理外の理がわかってたまるものですか。
正直不愉快です。とっとと出て行って下さいませ。


75 名前:1 投稿日:01/09/29 23:39
さて、実は明日から海外転出の用がありまして、多分1週間ほど書き込みができなくなります。
今度見たときこのスレがまだあったらまたお会いしましょう。
SeeYou~


76 名前:名無しさん@1周年 投稿日:01/09/30 07:30
>>74
お前の主観だろ? 禅のぜの字も知らんのに客観的っておいおい。w
禅を知る人間から見ればどっちが正法かは一目瞭然。38のような松原泰道もどきが禅をダメにした。
もう一度修行のやり直しだろうな。


77 名前:38 投稿日:01/09/30 12:13
まぁ、ネット上でゴチャゴチャ言ってるだけの人に何言われても構いませんよ。(*^^*)


78 名前:名無しさん@1周年 投稿日:01/09/30 12:17
俺も、64支持。
38のは禅じゃない。


79 名前:名無しさん@1周年 投稿日:01/09/30 13:03
顔の見えない相手を 罵倒する 誠実に答える。

宗派に関係なく人間としてどちらが優れているかは素人でも解る事だ
また、見識が広くある程度の域に達した人間は凡人の理解に苦しむ事を言う事がある。


80 名前:名無しさん@1周年 投稿日:01/09/30 13:11
>>79
まあ一般人としてはそれがごく普通の感覚だろうな。でもな、君がもう少し禅を知れば違う意見を言うだろう。
もし、私の話が嘘だと思うなら2人のやり取りを禅の師家に見てもらえば一発で答えが出るよ。


81 名前:名無しさん@1周年 投稿日:01/09/30 13:21
見性した禅僧が一知半解の禅僧を罵倒する。殴る。蹴る。 こんなのは当たり前。相手を悟らせるための方便。その奥にある菩薩の心を見て取れなければどうにもならない。64は一般人にそれをしてるわけじゃないからね。禅僧に対しそれをしてるのです。


82 名前:38 投稿日:01/09/30 19:51
ハイ、有り難い事です。 かつて、ある老師が「托鉢とは下座行だ。」と提唱で仰ったと聞きました。さしずめ私がこちらで叱咤罵倒して頂けるのも、皆様の老婆心からの事、まさに現代の下座行をさせて頂いていると、感謝致しております。

ただ私はネット上で観念的に禅を語るものとは異なり、現実社会の中で実際に人々と共に生きております。老婆心ながら申し上げますと、ネットで「禅とは云々」と声高に語る輩にはお気をつけ下さい。魑魅魍魎の野狐がウロウロしております。


83 名前:38 投稿日:01/09/30 19:55
さて明日から私も京都、島根へ出張ですのでしばらく参れません。1さん同様、又スレがあればお会いしましょう。


84 名前:名無しさん@1周年 投稿日:01/09/30 21:35
>>82
そんな棄て台詞言ってるようではお寒いかぎり。表面上は冷静さを装っても心の地獄は隠せないよ。本当に感謝してたら今ごろこんなところにいないはず。 こうして禅はだめになっていくのだろうな。


85 名前:名無しさん@1周年 投稿日:01/10/01 01:35
わーい!!禅と禅のケンカだあー!おもちろーい!!


86 名前:名無しさん@1周年 投稿日:01/10/01 02:56
こいつらホントに臨済僧なの?
この狭隘さは「騒動宗」のほうちゃう?


88 名前:38 投稿日:01/10/01 07:59
>>86
彼はともかく、私はそうです。(恥)^-^;
>>84
ご指摘の通り、到らないのでスイマセン。 ただ話しを元に戻すと、であるからこそやはり「時時努めて払拭すべし」ところが必要なのだと思います。
>>70で、彼が公案の体系を持ち出していますが、臨済にだって修行の段階はあるのです。ただ南宗禅が頓悟を主張したのは、段階的カリキュラムさえこなしていけば、自動的に悟りが開けるのでは無い、以前の精神とは次元の異なる価値の大転換が必要である、と言う事を主張したのであり、けしてコツコツやる事を否定したのではありません。
一方、北宗禅だってコツコツやりさえすればそれで良いと思っていた訳では無く、やはり進退極まってこそ新たな世界が開ける事ぐらいは承知していない筈が無いでは無いですか。 ただ見性したからと言ってそれで良しとして、以後無軌道に生活すればやはり元の木阿弥です。神秀はそういった人間の心の弱さを見ていたのではないかと思います。
あ、バスの時間だ!それでは~

まさに拳法の話ですな(615期生)

89 名前:名無しさん@1周年 投稿日:01/10/01 19:13
臨済宗の僧は必ず専門の道場で一定期間修業しないと一寺の住職にはなれない。
38さんは虎渓という僧堂で修行していたとカキコしていたが私の持ってる臨済宗の修行僧堂一覧みたいな本にはそんな僧堂載ってないんだがなぁ。
どうも怪しいな。神秀と慧能の話にしても現代の禅匠が聞いたら卒倒するようなこと言ってるし、38さんは本物の禅僧か?



91 名前:1 投稿日:01/10/04 04:42
ども。お久しぶりです。なにやら盛り上がってたようで。
>>89
虎渓という僧堂は実在するみたいですよ。


92 名前:名無しさん@1周年 投稿日:01/10/04 06:19
>>91
して、その根拠は?


93 名前:1 投稿日:01/10/04 15:13
>>92
ん~と、HP見た。


94 名前:名無しさん@1周年 投稿日:01/10/05 06:29
>>93
ああ、岐阜の永保僧堂のことか。 いつから虎渓僧堂と呼ぶようになったんだろう。虎渓という地名だからそう呼ぶのかな。
でもなんとなく見えてきましたわ。私も結構、禅は勉強してるんですが白隠禅(臨済禅)は隱山派と卓州派に分かれるようですね。臨済の宗風を最も残しているのが隱山派らしいです。卓州派は中川宋淵老師の前後の法系以外はこれといって人物が出ていないと聞きます。
虎渓僧堂はどうやら卓州派のようですね。ま、これ以上の説明はヤボですね。解る人には解るんでしょうから。


95 名前:1 投稿日:01/10/05 15:15
禅の話は面白いしためにもなるんだけど
誰か少林寺との関係とか教えてくれるともっと嬉しいんだけど・・・

>>65
>お話を伺っていると、1さんは少林寺拳法を学ぶことによって単に武術を習うのみ
>ならず、宗教的な心の開発を行いたい様ですね。
そ、それは誤解です。 私のは単なる興味本位な好奇心でして、少林寺拳法にそのような特徴があるかどうかを知りたかっただけです。 少林寺拳法をされている方の意見が全くないんで一応は経験者と言うことで私見と可能性を述べているだけで気持ちの上では全くの中立のつもりです。だいたい私ごときが少林寺拳法側に立って議論しようものなら結論は見えてます。少林寺に申しわけなさすぎる。
できれば宗教としての少林寺拳法を理解している方の意見を聞ければなと思って立ち上げたスレなんですが・・・。
そんな人いないのかな?


96 名前:38 投稿日:01/10/05 18:00
>>94
>いつから虎渓僧堂と呼ぶようになったんだろう。
開単以来です(藁

>>1
>私のは単なる興味本位な好奇心でして、少林寺拳法にそのような特徴が
>あるかどうかを知りたかっただけです。
了解。残念ながら少林寺やって無いので、ご質問に答えられずに残念です。
でも、花大にも少林寺あるから、誰か答えてくれるかも。デハ~


97 名前:名無しさん@1周年 投稿日:01/10/05 19:51
>>96
>(藁
なんてレスつける禅僧がどの程度の者かは大体想像がつくでしょう。
解ったら引き上げますか。ご同輩。


98 名前:38 投稿日:01/10/05 20:50
爆藁!


99 名前:1 投稿日:01/10/07 05:06
少林寺の拳士は実際に坐る。
これは私が実際に経験したのだから間違いない。 でも私が言うのもなんだが、彼らは何を考えてこの作業をしているのだろう。習慣か?精神統一にでも役立つと思っているのか?拳士のひと~、誰か見てんでしょ~?おしぇーてよぉ。
だーれも見てなかったらシャレならんな。(汗


100 名前:Syami 投稿日:01/10/08 11:07
合掌

 出遅れてしまいました。些かですが少林寺拳法と陳式太極拳を修行している者です。 勉学宜しゅう!

>> 27
 金剛禅は、開祖のお話、経歴、門内での作法、道訓等から思うに色々な思想のコンポジットで有ると思っています。仏教をベースに、道教、儒教なども取り込んでいると思います。 例えば、「道院」と言う呼称。これは私が知る限り道教で使われる名前ですよね?仏教でも「道院」と言う呼び方は有るのでしょうか?
また、結印に関しても常用するのは「結手印」ですが、これも道教で使われるものですね。「火炎印」と少し似ているけれど、かなり違う。
法界定印は我々は行いませんね。これは武術的な意味合いから、揃えている拇指を手で掴まれたら、相手の片手で我の両手を制されてしまいますからね。これ以外に、以前は短時間の坐禅を行うときは外縛の独鈷印も使ってたんですよ。 真言も今より使ってたし。
「如意棒」にしても我々が使うのは道教で使われる物に似ていますね。

道訓に至っては更にいろんな物が混在している。禅宗の方達にも、道教の方達にも宗教的には「うっさん臭い集団」と思われているのでは? でも、言っている事は私は悪くないと思っていますし、面白いとも思っています。でも私は少林寺拳法は禅宗と言うより原始仏教に近いと思うのですよ。

「気」については教範に有る通り。しかし、あの本に書かれてある坐禅の方法は「気功」で学ぶ事と何ら変わりは有りませんね。また、「発勁」は高手の方は極普通にお使いですよ。


101 名前:名無しさん@1周年 投稿日:01/10/08 18:49
ただ、その剄は内功によって得たものじゃないんでは?


106 名前:1 投稿日:01/10/09 03:39
>>100
あなたのような人を私は待っていました(感涙)。 教えていただきたいのは、少林寺が禅でも道教でも良いのですが坐ることによって何を目指しているのかです。道教のことは禅のこと以上に知らないんですけれどやっぱり同じように「悟り」を目指してるのでしょうか。
それと、基本的なことで申し訳ありませんが坐禅を組むとき目は半眼ですか?


107 名前:Syami 投稿日:01/10/09 09:36
>> 106

 こんにちは。今年の5月ぐらいから2ch遊びを始めた者です。武道版に居ます。さて、我々が坐る事によって求めるもの?何でしょうねー?私は、呼吸法と精神統一による心身調整と思っています。実際、あの呼吸法は気功で中丹田と下丹田を意識させる初心者用の功法と全く変わりません。あの「調息法」によって丹田の位置を意識し、その後に「周天法」に進みます。我々はそこまでやりませんね。

さて、「悟り」?こちらで仰る「悟り」とは如何なるものなのでしょう?道教の「悟り」は仏教の求めるところとは随分違うと思います。
乱暴に言ってしまうならば、仏教は自分の在り様を知るためのメソッド、
儒教は「仁」に代表されるように、対人関係における自分を学ぶためのメソッド。
道教は「自然」あるいは「宇宙」と自分との関係を知る為のメソッドと捕らえています。
もちろん私見です。仏教も古い教典を見ると、宗教的かつまた神秘的な表現は少なく、実生活を通して「中道」の在るべき姿を説いた一種「実用書」めいたところも在ると感じます。

それと、我々の坐禅の方法では目は瞑ります。坐禅を修行のメインに据えている方々の中には、月輪観、日輪観、阿字観などをなさる方もおいでですが、我々は自分の内側を意識することに酔って集中します。一種の数息観と言っても良いかも?

>> 101
貴方の仰る「発勁」や「内功」とは如何なるものですか?ま、これはスレ違いなので、武道版にでも行って語りましょう。

>> 31
 確かにその様なタイトルにした方が人は集まったかも。


108 名前:1 投稿日:01/10/09 17:03
>>100
そうしますとやはり少林寺拳法の禅法は禅宗のそれとは違うと考えて良いのでしょう。 真言を唱える禅宗を私は知らない。ただ、私が知らないだけかも知れない^^; ここら辺はできたら38さんにでもご登場願えればと思うんですけどまだいるかな~?
少林寺で唱えていたという真言ってどんなものでしたでしょうか?


109 名前:38 投稿日:01/10/09 22:00
>>1
>まだいるかな~?
仕事の合間に覗いてますよ~(w
真言というと、真言宗や天台宗だけのように感じますが、要は呪であり陀羅尼でしょ?禅宗の普段読むお経は殆どが呪や陀羅尼です。また韋駄天諷経では、真言も唱えます。 むしろ真言でない経は般若経典系と甘露門だけの様な気がします。思いつくまま大悲咒、消災呪、ブチンソンシン陀羅尼、ギャクオン神呪、リョウゴンシュウ、皆呪文ですよ。


110 名前:Syami 投稿日:01/10/10 00:20
や、これは面白くなってきた。

現在我々が唱える真言は「ナム ダーマ」だけですね。
以前は「ノウマクサンマン ダーマ」と唱えていました。
もう一つあったけどなんだったかなー?

外縛独鈷印は坐禅以外に、活法や整法を行う時にも結んでいましたねー。
真言もこういう時に唱えていたとか。

あと、これは坐禅を組む時の観相の一つですが、吸気の時に「宇宙の霊気我に入る。」
呼気の時に「ダーマの霊性我より発す。」
と心中に唱えるように学びました。意密の一種??


111 名前:名無しさん@1周年 投稿日:01/10/10 01:16
僕も5年ほど前崇山少林寺行ったことありますよ。近くで子供がサンドバッグ相手に拳法の練習してました。
しかしこんなところで高度な議論が続いてますね。珍しい。禅系統のスレにはわけのわからんヒッピー禅に荒らされることが多いのですが。

しかし虎渓山を知らずにでかい顔してる人がいるとは失笑ですね。南禅寺派で国宝の建物が2つもある名刹なのに・・・(笑。歴史の資料にも載ってますよね。すると38さんは私の先輩ですか、頑張って下さい。なかなか内容的には難しくて大変です。


112 名前:名無しさん@1周年 投稿日:01/10/10 01:39
自作自演痛いw


113 名前:1 投稿日:01/10/10 02:33
38さん、解説有り難うございます。
Syamiさんの話を伺っていると少林寺拳法の禅は天台の禅法に似ているような気がします。
あちらでも確か月輪観や阿字観のときには目を瞑っていると読んだことがあるような。
もしかして開祖は天台から禅をピックアップしてきたのかも? それだったら北禅を唱えても間違えではありませんよね。道教の影響を受けているのは大陸で属していた団体のためでしょうか。

ところで外縛の独鈷印って、あのよくテレビで忍者が忍法使うときにやる人差し指を合わせて伸ばす印のことですよね?法界定印とおんなじで人に制せられる可能性があるので使わなくなったのでしょうか。なんにしても少林寺で印や真言まで使っていたなんて初耳でわくわくしてしまいます。


114 名前:38 投稿日:01/10/10 08:58
>>111
ん?だれやろ~?
こんなとこウロウロしてるのは、さしずめ○坊○さんかな? あんまりここで身内の話すると顰蹙買うから止めときましょう。(藁

>しかし虎渓山を知らずに…云々
良いやん、別に。 多分彼らは東京の人でしょ。谷中とかで坐ってるんでしょ?
ま~秋月系の人らだわ、物言いが。教団嫌いだからネ。


115 名前:Syami 投稿日:01/10/10 13:48
 こんにちは。私は「禅を」深く学んだわけではないので、勉強になります。
私の仏教の師としては、増谷 文雄先生が上げられます。後は金岡 秀友先生。
つまり原始仏教や、密教系になる訳です。

以前台湾を旅行した時、見学に入った寺院では表には仏像があったものの、裏に回ったら道教の神からヒンズーの神までがごっそり祭られていました。そして現地の方々もこれらの像を分け隔てなく礼拝していました。西遊記等を読んでも、仏様以外に道教の神仙が当たり前の様に出てきます。あの時代にギリシャ神話やキリスト教が伝わっていたら、きっとキリストも顔を出したのでは??要するに、中国での民間信仰としては「現世利益」を与えてくれるような神ならばなんでも崇拝すると言った事の様です。
善し悪しは別にして、おおらかな事ですね。

開祖の著作にも在るように、開祖は中国で先ずは道教を学んでいます。その後、世界紅卍会で色々な宗教、武術に触れ、これが金剛禅のバックボーンになっていると私は考えています。金剛禅と名乗り、禅宗の一派を標榜するのは少林寺系の技法を多く学び、少林寺で伝法の儀式を得、白衣殿でインスピレーションを受け、夢で達磨の教示を得たと言う体験からこうしたとご本人にも仰っておいででした。


116 名前:Syami 投稿日:01/10/10 13:49

1さんは坐る事にちょっとこだわっておいでの様ですが、そもそも「禅」とは 「単」に「示」すであって、坐る事では無いですよね?
門外の者が言うのも難ですが、禅の修行者は、作務をしていても、食事をしていても歩いていても、寝ていても「禅」だそうです。
我々も坐りますが、これは我々の修行の主たるところではありませんね?

以前は鎮魂行の時には真言を唱えていたのですが、最近まで唱えませんでした。これは「宗教法人」以外の所から、宗教色を押さえたいと言う要望が出たからです。最近になって復活したのは、宗教法人としての色をもっと出さざるを得なくなったからとの事。ある意味で文部省対策が在ったかも知れません。昔も真言は唱えていたものの、その説明は必ずしもされない道院が多かったですからネ。

個人的にはこの様に「混沌」とした所も少林寺拳法修行の面白いところだと思っています。他の「ちゃんとした」門派の方々には随分「胡散臭い」宗教団体だと思われている事でしょうね?これはある意味仕方が無いことだとも思っています。

ここで一つ私が日頃唱えている「げ」を記しておきます。
南伝 相応部教典 7,4
漢訳 雑阿含経 42,1153より。
邦訳 増谷 文雄先生

「もし人、故なくして、悪語を放ち、怒罵をあびせ
清浄にして無垢なる人を汚さんとせば、その悪かえって己に帰す。
たとえば
土をとってかの人に投ずるに、風に逆うてかえって自らを汚すがごとし。」

ご存じ瞋恚説法でした。


117 名前:38 投稿日:01/10/10 18:23
>>Syamiさん
はじめまして。私は少林寺拳法の事は判りません。また金岡さんも『秘鍵』ぐらいしか読んだ事がありません。
ただ、心の置き場所について考えてみるのは面白そうです。余談ですが、現在の臨済では坐る際の印を意識する事は殆どありません。僧堂にもよりますが、単に両手を組み合わせるか、法界定印かのいずれかです。呼吸法はいわゆる数息観を基本にしていますが、最近面白い事を聞きました。それは、禅には二つの流れがある、という事です。


118 名前:38 投稿日:01/10/10 18:24
一つは、白隠が説いた様に臍下丹田に上気しようとする氣を、呼吸法で収めていく方法。「氣は心」と言う様に、つまり丹田に心を置く方法です。
道元も『永平広録』で、師である如淨から「呼吸は臍下三寸でする」と教わったと書いてます。また如淨は道元に「淨曰く、元子、坐禅の時、心を左の掌の上に置くべし」と言われたと聞きます。左の掌は坐禅すると臍下丹田になります。これらは心を臍下丹田一箇所に集中する方法ですが、このような方法は、何も禅に限らず中国では古来より神仙の丹錬術として行われていて、古くは『黄帝内経』や『老子』『荘子』などにも見られるものです


119 名前:38 投稿日:01/10/10 18:25
もう一つは、心を一箇所に止めないグループです。それは例えば、達磨であり、六祖であり、臨済であり、沢庵であります。 達磨は慧可に「心を持ち来れ」と言い、「心」が限定的で無い事を説き、六祖もまた、神秀の「心は明鏡台の如し」に対して「本来無一物」と、心を固定化する事を否定しました。また臨済は「心法無形」とか「眼に在っては見ると言い云々」と言って、心は常に私達の面門より出たり入ったりしていると説きました。
そうして沢庵は『不動智神妙録』で「心の置所」をハッキリこう言ってます。
「心を臍の下に押しこんで働かないのも、不自由で用に立たぬとすれば、どこに心を置いたらよろしいか。」
「右手に置いたら、右手に心を取られて、動きが自由にならぬ。眼に置いたら眼に取られて働きが欠ける。~云々~
どこか一つ所に心を置けば、ほかの方がお留守になってしまう。」
「どこにも置かぬことだ~中略~心を一方に置かなければ、十方に行き渡るのだ」


120 名前:38 投稿日:01/10/10 18:25
では白隠や道元、或いはこのスレで話題になった(爆) 「心は鏡の様だから、毎日奇麗に磨かなイカン」と言った、神秀などは間違いか、と言うとけしてそうでは在りません。沢庵は言います。「然れども仏法の向上の段より見れば、(心を)臍の下に押込めて余所にやらぬと云うは段が卑しくし、向上に在らず。修行稽古の時の位なり。」
つまり、修行する時は臍下丹田に心を集中して坐るわけですが、働く時には心をどこにもとどめずに、自由自在、活發發地に働かさなくてはならない、という事です。

私は、この心を「一心」としてとどめるグループと、心をどこにもとどめないグループを比べた時、前者は中国的な思想であり(禅はよく学者に仏教ではなくシナ思想だと言われますが)後者は仏教的な思想である様に感じます。
それは言いかえれば、天台本學思想と中論・空思想との対比にも似て、非常に興味深いのです。


121 名前:Syami 投稿日:01/10/11 00:22
38さんはじめまして。
一つご提案なのですが、番号の固定ハンドルは及びし難いので、何か他のハンドル名をお作りになりませんか?

成る程、勉強になります。
「黄帝内経」と言うと「素門・霊枢」ですね。 私も少林寺拳法の整法を勉強する時に一通り読みました。 む、すると「坐禅」は道教からきたものと考えるべきなのですか?また、御坊の仰る「心」とは意識とか意念と言うべきものなのでしょうか?

「不動智神妙録」は私も勉強しましたが、自由闊達な禅風は非常に面白いと思いました。 内に向く心、外に向く心、ひいては何処にでもあり、何処にもない、囚われない心とでも申しましょうか?そんな印象を受けた事を覚えています。
ではまた、ご教示お願いいたします。


122 名前:38改 投稿日:01/10/11 21:10
私Web上で使ってるハンドルは一つなので、余りコテハンを複数持ちたくありません。
よって上記のようにしました。同じ事ですが…(^-^;

「心」ですが、その時々に応じて様々な意味に使っていますが、 そのまま「心とは何か?」と問われれば、「生命の別名」と思います。ただ、上記の場合は多分に「意識」と言うようなニュアンスが強い事は言うまでもありません。スイマセン、土日に壇信徒の方を連れて京都行くので準備に追われてます。
月曜までレスできません。


123 名前:光の子 投稿日:01/10/11 22:13
 心をどこかにとどめようとする、磨こうとする、というのは「心があると思う我」を(心がここにある、という思いによって生じた)我の内にとどめ、その我によって観想された心を磨く、ということのような気がします。それは正しい、間違い、というよりも心を仮定した「主体」によって認識・意識しその結果生じている「心」によってまた「心」を見ようとするような、ある種のもどかしさがあるのかも。

 丹田への気の集中は私も時々行いますね。もっとも、私の場合は禅ではなく仙道で、丹田に集中させるより全身に熱と圧力となった「気」を巡らすことが中心ですが(いわゆる小周天)。硬気功・武術にも一時興味を持っていたけど、軟派な私にはあわず....。


124 名前:1 投稿日:01/10/12 02:18
光の子さん、こんにちは。
だんだん役者がそろってきた。
密教の人も来ないかな^^


125 名前:Syami 投稿日:01/10/12 10:34
密教と言えば…。
我々は高段者なると「法器」と称して錫杖、如意棒、金剛杵を使います。 如意棒と言っても雲形ではない短い棒状のものです。
これも道教から来ている様です。金剛杵は基本的に五寸の「独鈷杵」を使います。(本山に在るのは1尺ぐらいあるけど。) これは有名な密教の法具ですね。他の宗派でもこのような「金剛杵」は使うのですか?


126 名前:1 投稿日:01/10/14 04:24
密教系の方、いらっしゃいませんねぇ。
まだどこかに頼みに行こうかな。
>125
ところで法器って拳法では武器に使用するのですよね?
他に用い方はあるのでしょうか。 道教や密教でも武器から発生したのかな?


128 名前:名無しさん@1周年 投稿日:01/10/15 07:55
一点集中と言いますが、 下丹田に気が溜まっていく事によって自我が消えていき、無我になるという話しがありますが?


129 名前:名無しさん@1周年 投稿日:01/10/15 07:56
腹脳というやつです


130 名前:光の子 投稿日:01/10/15 09:12
>>128

 気が丹田にたまっていく事によって、というより一度丹田に集まった気がそこから全身、さらに自分の周囲にまで広がっていく事によって、という感じですかね、私の場合。


131 名前:128 投稿日:01/10/15 11:46
元、仙道連の人が書いた本にそういう事が書いてあったので引用しました
腹脳を鍛えていく事が宇宙意識へとつながると


132 名前:1 投稿日:01/10/16 06:09
少林寺拳法で言うダーマ(Dharma)は大宇宙の大生命ってことになってるんだけど
この解釈はダルマ(Dharma)を法と訳する禅仏教でもOKなんでしょうか。
同じ事なの?


133 名前:38改 投稿日:01/10/17 07:26
>>132
法(ダルマ)に限らず、心や仏性というような言葉も、全て生命という意味であり、 そういう解釈に陥りやすい訳です。また私もかつてはこんな風に理解していました。自分の生命は大いなる生命から縁に依って取り出された生命、だから死んだら大いなる生命に帰って行くと。
しかし、そうなると永遠不滅の大いなる生命が一つある、という風になってしまうので、これは諸法無我・諸行無常を唱える仏教では無くなってしまいます。
いわゆる本覚思想ですね。
正しくは、禅は空間的にも時間的にも、大いなる生命と自己の生命とを別に見るのでは無くって、自己の生命がそのまま大いなる生命であると見るのです。
沢庵の『不動智神妙録』に「間、髪を入れず」という項がありますが、まさにこの事で自己の生命と大いなる生命の間に「髪の毛一本も入る隙間が無い」というのが、禅の生命観であり、法は十方に遍く満ちている、と言う事なのです。


134 名前:1 投稿日:01/10/18 08:37
>>133
なるほど。そうなりますってえと、個人の生命がダーマの分霊だと考える金剛禅は禅じゃないってえことになるんですね?
こだわるようですが、天台の方ではどうなんでしょうか。


135 名前:Syami 投稿日:01/10/18 23:37
さてこそ?
我々の道訓の
「凡そ人心は神なり仏なり。神仏即ち霊なり。 心に恥ずるところ無くんば神仏にも恥ずるところなし。」
から解釈すると、まさに「禅の生命観」そのものと感じられるのですが?


136 名前:1 投稿日:01/10/20 08:27
>>135
でも少林寺では「分霊」という言葉を明確に使用していますよ。
わけみたま即ち禅じゃない、というのが134の解釈。
あるいは日本で発展した南禅的な禅じゃないというべきか。


137 名前:Syami 投稿日:01/10/20 09:05
ふーむふむ、成る程。わけみたまかー。成る程。

個人的には「分御霊」の場合は本当に別れているように思うのですが我々の場合は分かれてはいるモノの、別れては居ないと言う様に理解しています。この解釈は如何なものでしょうか?


138 名前:1 投稿日:01/10/20 20:14
その解釈はSyamiさんの解釈ですか。それとも少林寺拳法がそう解釈していると受け取ってよろしいのでしょうか。


139 名前:Syami 投稿日:01/10/21 01:09
私の個人的な解釈です。
残念ながら、少林寺拳法の修行の中でこう言う議論は殆どされていませんね。
実は子供の頃に道訓の
「一動一静、総て神仏の観察するところ、報応昭々として豪厘も赦さざるなり」
と言うのを覚えた時にイメージしたものが未だに残ってるのです。
分かれたと言ってもつながっているから、これが可能なんだなーって。
レベルの低い話で申し訳ないです。


140 名前:1 投稿日:01/10/21 19:33
>レベルの低い話で申し訳ないです。
いえいえとんでもございません。
Syamiさんの教えて下さるいにしえの少林寺の修行内容は金剛禅のバックボーンを知る手がかりとしてめっちゃくちゃ貴重です。
もっと他にも、今では消滅してしまったような修行法や道訓などはありませんか?


141 名前:Syami 投稿日:01/10/22 20:46
>>140

>今では消滅してしまったような修行法や道訓などはありませんか?
宗教的なと言う事ですよね?ならば、
行法として断食行、托鉢行、長時間の座禅など。

道訓は現バージョンしか知りませんが、以前は般若心経を読み下したものを唱えていた時代もありました。
「観自在菩薩、真般若波羅密多を行ずる時五蘊は云々・・・」
と言うヤツですネ。

また、聖句は現行のものに加え、もうひとつ有りました。
「総て悪しき事を為さず、善き事を実践し自己の心を清むる事、これ諸々の仏の教えなり。」

やー、流石に覚えているもんだなー。このように以前は自己帰依を説く聖句が三つ並んでいたのです。別に消さなくても良かったように思うんですけどネ。


142 名前:1 投稿日:01/10/23 06:14
有り難うございます。断食までしていたのですね。拳法の修行というか体育とは正反対な修行法だ。これは宗教ですね。
ところで世界紅卍字会のスレに注目すべき書き込みが有りました。どう思われますか?


143 名前:Syami 投稿日:01/10/23 12:35
さぁて?ノーコメントですね。
コメントするほどの材料も無いことですし。
何か誤解してるだけじゃないかなぁ?

でも、中国でも「道院」と言う呼称は道教の修行場に対するものになってる様です。仏教だったら「寺」とか「寺院」とか言ってますよ?崇山近辺で道教もやってたかも知れないけど、少林寺でやってるとは思い難いなぁ?…と、思います。


144 名前:1 投稿日:01/10/24 03:57
崇山の古いパンフに道院の文字があって引用したと卍字会のスレに書いてありました。
38改さん、ご存じない?


145 名前:名無しさん@1周年 投稿日:01/10/24 20:40
いわゆる少林寺珍宝はへたれによる、へたれのための、へたれの拳法踊りだから、禅なんてどうでもいいのさ。
税金払いたくなかっただけさ。中野踊りの詐欺師め。


146 名前:名無しさん@1周年 投稿日:01/10/25 09:57
>>144
すみません。確認したら、道院ではなく、活佛院でした。記憶違いで、お騒がせして申し訳ありません。達磨大師正統継承者とも書いてありました。
ところで、少林寺拳法は道院であり、禅宗なんですか?


147 名前:名無しさん@1周年 投稿日:01/10/25 20:44
少林寺は踊りの流派です。


148 名前:名無しさん@1周年 投稿日:01/10/25 22:50
○○流とか色んな流派はあるの?


149 名前:1 投稿日:01/10/26 04:19
少林寺拳法は一流一派です。分派したら少林寺は名乗れない。商標登録してあるのだ。(マジ)

>>146
卍字のスレの方ですね。ようこそおいで下さいました。
もし達磨のことでもう少し詳しいことがわかったら教えてくれませんか?

少林寺拳法の言う道院は町道場くらいの意味だと思います。(・・・よね、Syamiさん?)
でもとっても変な感じなので(禅を名乗っているから)このスレを立ててみました。


150 名前:名無しさん@1周年 投稿日:01/10/26 08:22
>>149
達磨寶巻という本ご存知ですか? 小さな本ですが、中国や韓国では結構読まれているようです。日本語版は入手するのは極めてむずかしいですが。私も持っていたのですが、内容がむずかしいので、専門家にプレゼントしてしまいました。
前半は、達磨大師がインドから中国へやってきて、武帝に会い、神光に法を授けるまで、後半は、丹の練り方が書かれています。私のような無知な者が読むと、どこが禅の開祖なのかとも思いますが、問題は、達磨大師がなぜ、インドから中国に来たのか? そしていったい何を伝えたのか?ですね。このあたりは、禅ではどのように説明されているのでしょう?


151 名前:Syami 投稿日:01/10/26 12:39
さて?でも、恐らくはそうであろうと思います。
開祖は中国において道教も学んでいたので、この辺の用語または思想等は結構混沌としている様に感じています。
そこが私にはまた面白く感じられるのです。他から見ると少々胡散臭く感じるかも知れませんが…。


152 名前:名無しさん@1周年 投稿日:01/10/26 14:49
私の言った嵩山少林寺は、禅宗ではなく、一貫道系の分派別派だと思われます
嵩山少林寺を語っているのかもしれませんし、あるいは門前市の拳法道場の如く多少は縁があるのかもしれません。紅卍も多分、同じ流れだと思います。私達は道院といえば、別派という感覚です。そこでは、達磨大師は開祖ではなく、伏儀から始まる道統の祖師のお一人にすぎないのですね。もちろん天命をインドから中国に運んだ(戻した)という点では、重要な分岐点ではあるのですが。
何を伝えたかというと、一般には正法という言葉で簡単に説明されてしまうのですが、正法とは、正しい教えではなく、まさしく以心伝心、教外別伝、不立文字の超生了死の法そのものであって、仏典や教義ではなかったのですね。単伝という厳しい時代であり、一人にしかその法は伝えられなかった。禅家の6祖慧能祖でしたか、そこで天命継承は禅家を離れ、儒家に移ったとされています。
これが一貫道の基本的なスタンスであり、そういう意味では、仏教とか道教とかの枠にとらわれてはおりませんが、達磨大師から数えて18代目の弓長祖以降、普伝を機に、いわゆる祖師はいなくなり、残念ながら唯一天命を伝えるはずの団体が、分裂してしまっているという現状です。
主神の他に、弥勒(天盤)、南海観音(副天盤)、天然(道盤)の三佛を奉っておりますので、すぐわかります。


154 名前:1 投稿日:01/10/28 05:41
>>152
今の少林寺が一貫道系の分派別派である可能性があると仰っているのですか?
何にしても達磨さんが別の系統の宗祖でもあったなんて驚きです。
38改さん、知ってた?


155 名前:38改 投稿日:01/10/28 13:49
久しぶりに覗いたら私へのフリがあったんで(^_^;
いや、知りませんでした。ただ、例えばイエスキリストもユダヤ教では預言者の一人、聖人の一人であった様に記憶していますが、そういう風に有名人を自分ところの系譜に加えるというのは、色々な宗教でよく見られることです。仏教における守護神としての天部も同様ですし、わが国では神仏習合でお寺の守護神として、お稲荷さんやその他の神様も祭られています。

>>150さんへ
禅の事を系統立てて正確に知りたいのであれば、『禅への鍵』ティクナットハン春秋社を読まれることをお勧めします。


156 名前:1 投稿日:01/10/29 03:59
>>150
五祖弘忍のあと、その天命というのは慧能には伝わらずに儒家に移ったと言うことですね?
それとも慧能までは”天命”を知っていたのかな。弘忍や慧能の弟子に儒者がいたって事??
正道の意味は禅と同じみたいですけれど。


157 名前:名無しさん@1周年 投稿日:01/10/29 09:59
1さん、38改さん

あまり禅に関係なさそうなので、一貫道という考え方もあるということでご理解ください。ただ、正法の意味は禅とは違うと思います。
表現しにくいのですが、たとえば仏教で最高の境地まで極めた方が、最後にいただく涅槃への切符のようなもので、これは主神の命を受けた明師から直接面授されなければ、自力では絶対得られないものと説きます。昔は単伝という時代であり、当代随一の聖人にしか、その法を伝えることが許されませんでした。だから釈尊は、迦葉尊者だけに正法眼蔵涅槃妙心の法を伝え、達磨大師は神光だけに直指人心見性成仏の法を伝えました。
こういうとお叱りを受けると思いますが、道元禅師の時代には、すでに禅家に天命はなく、それを素直に嘆かれたのが「眼横鼻直空手還郷」というお言葉なのですが、もちろん禅の方は、この言葉に深い意味を託されているのですが、その法を受けると、眼横鼻直や直指人心の意味は簡単にわかってしまう(悟って
いるという意味でなく文字通りの意味)のです。その法が、一貫道の名前の由来でもあります。


158 名前:名無しさん@1周年 投稿日:01/10/29 11:08
>>156
慧能祖までは伝わりました。


162 名前:38改 投稿日:01/10/30 09:02
>>157
わかりました。
まぁ、この件に関して私がこれ以上何も申し上げることはないです。「解釈」というものは色々な立場がありますから…。ただ我々は解釈に基づいていないのです。自分の立場だけは明らかにしておきます。


164 名前:名無しさん@1周年 投稿日:01/10/30 11:47
解釈ではないのです。まあ、打ち止めと仰られましたので、これ以上は触れませんが、道元禅師が、なぜ「眼横鼻直なることを認得」したと仰ったのか、なぜ得道と仰らなかったのか、お考えになったことはありますでしょうか?
眼横鼻直という言葉は、天機に触れてるんじゃないかと思うくらい、きわどい言葉なんですが…。それをあたりまえのことを了解したと、禅宗では解釈されていると知り、私が拍子ぬけしたほどです。


169 名前:1 投稿日:01/11/02 06:02
中国で禅と道教は混交しているとものの本で読みました。道教の神様祭ってるとかじゃなくてもっと形而上学的にね。宗道臣は混交している状態の禅をそのまんまもって帰ってきたのかも。そしたら日本の、純粋培養されて洗練された禅から見たらとってもうさんくさくなっちゃったんじゃないかな??


170 名前:名無しさん@1周年 投稿日:01/11/02 08:12
正統禅は、今韓国にあると言ってた人がいましたよ。韓国の新聞社の元社長ですが。
もっとも大中華、小中華ですから、話が膨らんでしまうのですが。


171 名前:名無しさん@1周年 投稿日:01/11/02 08:16
禅は、日本で純粋培養されたとのことですが、中国では禅というくくり自体があまり一般的ではないのかな? 中国人の友人も少林寺は道院だといってましたし、道院という言葉自体が幅広い気がします。宗氏が、その状態のまま持ってきたということは、それはそれで興味深いです。


172 名前:Syami 投稿日:01/11/02 13:55
>>169
ふむふむ、成る程。

>>171
>中国人の友人も少林寺は道院だといってましたし
>道院という言葉自体が幅広い気がします。
ほうほう、そうでしたか。これは実に興味深い。


176 名前:1 投稿日:01/11/05 08:17
>>171
少林寺が道院なら少林寺拳法道場が道院なのも納得です。


177 名前:38改 投稿日:01/11/05 08:54
ヨガとは瑜伽のことで、仏教では唯識派のことを瑜伽派というのよ。瑜伽による三昧によって解脱を求むるを説いたのが『瑜伽論』。
もちろん瑜伽は仏教以前からウパニシャドにも書かれているし、ジャイナ教でも用いられているが、外道の瑜伽は絶対唯一の神を念じて解脱を得ようとするところが、空を説く仏教とは異なる。カタカナだと違うものだと思うことが、現代日本人の浅はかさか?


178 名前:名無しさん@1周年 投稿日:01/11/05 11:49
ヨガを外道と決め付けるのが、空を説く仏教?


179 名前:Syami 投稿日:01/11/05 12:19
ここで38改さんの仰る「外道」とい言うのは「他の方法」と言う意味なのでは?

ははぁ?瑜伽と言うのは絶対唯一神を念じて解脱を得ようとするのですか。この場合の「絶対唯一神」とは何になるのでしょうか?寡聞にして識らずで、瑜伽は呼吸法と操体を以て瞑想する単なるメソッドと思っていました。


180 名前:38改 投稿日:01/11/05 20:13
仏道以外の思想・宗教を外道と言うのです。
現代日本語の概念と仏教語では自由、平等、差別などもすべて意味が異なります。

>ははぁ?瑜伽と言うのは絶対唯一神を念じて解脱を得ようとするのですか。
失礼、文脈が紛らわしかったようで、括弧付けます。
「外道の瑜伽」は絶対唯一の神を念じて解脱を得ようとするところが、空を説く仏教とは異なる。

>この場合の「絶対唯一神」とは何になるのでしょうか?
さぁ、良くわかりません。
『望月』によると自在神isvaraとしています。


181 名前:名無しさん@1周年 投稿日:01/11/06 08:15
>>180
一般人には、キリスト教以外の宗教は邪教と言ってるのと同じように聞こえますよ。最後の文脈から言ってもそう取れます。
立場を明らかにするのは結構ですが、ご自分の歩んだ道が唯一絶対だという雰囲気が漂っています。
ヨガにはうるさい方々が大勢いますので、ご自愛を。


182 名前:1 投稿日:01/11/06 08:31
ヨガの瞑想では目を閉じてしまうところが禅と区別できるところのひとつ。禅瞑想中では畳に針の落ちる音でも知覚できるが、ヨガでは逆にあらゆる外的刺激に反応しなくなる。なんてことが脳波の研究からわかっていることだそうな。ちなみに少林寺拳法の瞑想では目を瞑る。(とSyamiさんが仰っていた)
脳波見てみたいね^^


184 名前:1 投稿日:01/11/07 04:54
禅瞑想は自立訓練法とも区別されるそうな。


185 名前:名無しさん@1周年 投稿日:01/11/07 08:52
技法の差など大した意味はない。禅もめざすところは同じじゃないの?一の意味を知らずして、只管打坐しても瞑想しても同じ。一に統べる、一に止まるから正。外に神を求めるからわからない。


186 名前:名無しさん@1周年 投稿日:01/11/07 08:58
ただ只管打坐して瞑想している時じゃないけどね。


188 名前:大王蛇 ◆m2MmHxX2 投稿日:01/11/08 02:07
>1
 それを言うなら「自律訓練法」だ。
確かに「インスタント禅」とも呼ばれるが、禅とは区別すべきですな。


189 名前:1 投稿日:01/11/08 09:29
>>188
失礼、間違えました。2ちゃんでも誤字はいやだ(w
ところでインスタント禅といえば、LSD服用者の脳波と禅瞑想中の脳波もまた区別されるそうな。

>>185
技法のせいかどうかわからないけど脳波で区別されるんだってば。サイエンスの結果を無視しちゃいかんよ。


190 名前:143 投稿日:01/11/08 10:36
無視するつもりはないけど、だからどうなの?と聞きたかったのです。区別してどちらが選れてるとか区別すること自体にあまり意味はないと言っただけ。
それより、後段の文章には目がいかなかったのかな?わざとわかりにくく書いたのに。少しとげとげしくてゴメンなさいね。


191 名前:マルコシアス 投稿日:01/11/08 12:47
ほんまもんの少林拳は秘教みたいですよ。気功の訓練も当然する。 禅は座るだけと思ってる人も多いようだが、ダルマが行っていた禅は口伝によれば、仙道の内功と同じでシコシコとハラを練っていたようだ。白隠にしろ、物外にしろハラのできた奴は、みんなシコシコしてる。座るだけの奴も多くいただろうが、それでいっちゃった奴は天才だと思うね。今や、ハラを無くした坊主達ばかりだが、そういう奴等は先達と同様、シコシコ
ハラを練ることをお薦めしたい。シコシコしなくては悟れんぜよ。公案?無意味だ。そんなものは。

流派とかこだわる必要も全くないと思うな。いいとこは積極的にとってくべきだな。どんどんスパイすべしだ。オカルトにもどんどん手をだすべきだ。
神秘現象なんかも面白いと思うなら無視する必要もなし。インスタント禅も多いに結構。仙道なんかでは、外丹に属するものだろうが、そういうものは悟りの一助になろう。シロシベだのダツラだの。いいよ、かなり。気功も併用せねば大した効果はないだろうけど。

もともと、仏教にしても、仙道にしても、ヨーガにしても、秘伝に属するものでは共通する修業法って多い。肝心要なのは、修業の本質的な部分を見極めることだな。末端(例えば、ナニナニ流がどうしただとか、誰の道統だとか。こんなの無意味よ。仏道が権威をもった時代ならともかく今は無用の長物よ。そんなことにこだわるなら、東大に行けば良い。)に目を向けても何らも得るものはない。じゃ、何が本質かといえば、シコシコすることよ。

シコシコさえすれば、弱者の集う少林寺拳法ですら、力を持った者を輩出することが可能となるだろう。少林は弱者の群れと評したが、宗道臣じたいは優れた人だと思います。それにしても、少林寺は金を横領したとか悪いウワサばかりだ。


192 名前:名無しさん@1周年 投稿日:01/11/08 13:02
おっと、やっとお話の通じそうな方がいらっしゃいましたね。達磨さんが、伝えたものが禅といってる段階で、もう壁作ってるようなもんだからね。趣旨大賛成です。少林拳が、達磨さんの痕跡を残しているとすれば、まさしく秘教だけど、多分今は形だけだと思うな。それを道院だとか、禅だとか言ってるのを聞いたら達磨さん、笑っているだろう。
それとハラをシコシコですが、私は実証したわけではないので、偉そうなことは言えないけど、気功と組み合わせるのは、先天と後天を組み合わせるためのもので、先天こそ達磨さんの伝えたもの、と伝承されてます。


193 名前:38改 投稿日:01/11/08 20:06
>>191
>ダルマが行っていた禅は口伝によれば、仙道の内功と同じでシコシコとハラを練っていたようだ。
あなたがどう考えようとあなたの自由だが、誰もが知る有名な人物などの名を借りて、自論を展開するのは如何なものか?


194 名前:名無しさん@1周年 投稿日:01/11/08 20:14
で、達磨大師って実在の人物なん?


195 名前:1 投稿日:01/11/09 06:07
>>190
>無視するつもりはないけど、だからどうなの?と
>聞きたかったのです。区別してどちらが選れてるとか
>区別すること自体にあまり意味はないと言っただけ。
方法論が違い、結果として脳波や環境への応答に相違が認められる。普通の思考回路の人ならばここで両者が違う何者かを目指しているんではないかと考えるのではないでしょうか?みてくれは同じだけど内容が実は違うんだな、と具体的に示してくれたのがこの手の研究の面白いところだと思います。
区別して、だからどうなの、と言うことは簡単だけど、その相違からいろんな可能性が導き出せるのは確かだしいきなり「結局到達点は一緒だ」と結論してしまうのは少なくとも論理的ではないでしょう。
私には未だにロジックが通用しない禅的思考法にはついていけないところがあるのですが、多くの場合むしろロジックを避けて通るための方便に禅的な会話が用いられているように思えてなりません。

>少しとげとげしくてゴメンなさいね。
いえいえ、こちらこそ。率直にやりましょう。^^


196 名前:光の子 投稿日:01/11/09 08:01
>>131
>ハラを練ることをお薦めしたい。シコシコしなくては悟れんぜよ。
 これは、仙道の小周天で陽気を発生させる呼吸法(武息)を指していると思いますが、仙道の「還虚」と禅の「悟り」はかなり性質が違うのかもしれない。仙道はいわば「生死」に対する執着です。禅のように「生死」が生じる根源を悟って生死自体を離れるというよりも、絶対的な生命力を手に入れ「永遠に生きる」という発想がある(それも、現世志向がきわめて強い)。

 なお、仙道で「腹をシコシコ」するのはごく初期の段階が中心です。全身に気が生じるようになると逆に極端に呼吸が深く幽かになる真息、さらには呼吸がほぼ停止する胎息が中心になるとされているので。というか、大抵は小周天をやっている段階で、すでに意識の集中だけで全身に強烈な熱と圧力が生じるようになるのでいつまでも武息をやっていると熱にやられます(^^;。


197 名前:名無しさん@1周年 投稿日:01/11/09 08:34
>>193さん
聞く耳持たぬ人が、混沌とした2ちゃんで何求めてるの?日本の常識や定説を論拠にする方が、私達にはよっぽど違和感があるよ。 熟成しすぎて危機感がない。だから既存の宗教に限界がでてきて、新宗教が現れたんじゃないの? あなたの歩んだ道を否定するつもりなど、さらさらないけど、只管打坐で萬霊萬民をどう救うつもり?

1さん、論理的思考はもっともだけど、結論先に言わなければ、スタンスの違いがわからないと思ったもので。決して禅問答のつもりはないです。

<私には未だにロジックが通用しない禅的思考法にはついていけないところが
<あるのですが、多くの場合むしろロジックを避けて通るための方便に
<禅的な会話が用いられているように思えてなりません。
おっしゃる通りです。でも、ロジックで理路整然と説明できるものなら、大師も苦労されなかったはず。慧可も大師を数珠で殴りつけるようなことはなさらなかったでしょう。ご興味なければ、無用の話ですのでまた出直します。


198 名前:変人 投稿日:01/11/09 09:16
>>196
仙道の解説かなり面白い。
私とはスタンスが違いますが、非常に参考になります。


199 名前:光の子 投稿日:01/11/09 10:10
>>196
 おっとレスの番号は131ではなく191でしたね。仙道的な「気を練る」内功や動功は、禅から見れば「悟り」とは直接関係のない(さらに言えば「生」への執着を強めかねない)「健康法」といった感じなのでしうか。有用ではあっても、それ自体は悟りではなく「生」の世界のレベルのもの、と。


200 名前:マルコシアス 投稿日:01/11/09 13:06
>光の子さん

>なお、仙道で「腹をシコシコ」するのはごく初期の段階が中心です。全身
>に気が生じるようになると逆に極端に呼吸が深く幽かになる真息、さらには
>呼吸がほぼ停止する胎息が中心になるとされているので。というか、大抵は
>小周天をやっている段階で、すでに意識の集中だけで全身に強烈な熱と圧力
>が生じるようになるのでいつまでも武息をやっていると熱にやられます(^^;。
いや、武息というのは、大周天が完成した後も、使えるものですよ。まあ、その段階に至れば、文息という言い方が適当かもシレンガネ(笑)。武息とは下腹を鍛えるものであり、ハラには様々なレベルがある。例えば、植芝盛平と山岡鉄舟のハラ(丹田のことネ)は違うでしょ。あれはね、大周天ができても丹田を練りつづけてんだ。胎息に関してもレベルの深浅は当然ある。それは軸(主に衝脈を中心とする)とハラのでき如何に比例する。一時間程度しか息を止められない人もいれば、30日も息を止めてられる人もいるでしょう?

あとね、熱にやれれるということに関しては、頭に入ってこないことと、冷性の気でできた軸を確保していればまず大丈夫だと思うよ。下丹田に関しても、熱でできたものだけとは限らないんだな、これが。ま、いいか。

基礎行法とされる小周天に関しても、あれにもレベルがある。背骨の運動性だ高まり、細かく自由自在に背骨の一個一個を動かせるようでなくては小周天をしたかいはない。武息をとことん深めた段階で小周天に挑めば、すぐにでも大周天ができるほどだ。


201 名前:マルコシアス 投稿日:01/11/09 13:07
悟りについては、その定義にもよるけど、丹田もなく軸もなく悟りだなどと抜かしているのは、俺自身の考え(飽く迄、俺自身の考えだが)ではちゃんちゃらおかしい。日本古来の悟りとはハラですよ。戦前までは庶民に至るまでアイツはハラができているできていないなどと人を評価したものだ。よく、できた人とか評価するだろう。あれは何ができたかというと、ハラだ。ハラができてるかどうかを見ているわけだ。
生死の極限を越えるものはハラだ。武士が禅を修したのも生死を超越するためだ。仏像をみれば、分かるだろう。羅漢でもいい。何故あんな特徴のある腹をしているのかね?絵画でも、ハラをクローズアップしたものが非常に多いということは周知の事実であろう。肉体的には主に腸腰筋の発達によるものであるが(身体運動としても各段の飛躍があるため古来、インド拳法、中国武術、日本武術の秘伝的メソッドとして修されてきた。)
そこに秘密がある。神経系の活性化とも無関係ではない。

2ちゃんのような軽々しい場だから、ちょっと面白い話をしようと思うけど、凄い丹田ができて呼吸の真に至ると、凄まじい現象に遭遇する(しない人もいるみたい。)。それはね、一息ごとに宇宙が誕生し崩壊するとかいったものだ。確固たる実在的基盤を持った世界が生成するわけだ。その広大無辺の世界を単なる目撃者にとどまることなく「生きる」のである。ちなみに、植芝盛平はこの境地に達していたこれが最終到達点というわけではないが、仙道やハラを練る禅を弛まず励行すればこうした境地にも達するかも知れない。これは、健康法なんてレベルじゃないよなー。
別に信じろって言ってるわけじゃないが、仙道にしろヨーガにしろ禅にしろ、その真に達したところは凄まじいものだと思いますよ。


202 名前:名無しさん@1周年 投稿日:01/11/09 14:19
凄い話だな。力んでないところに凄みを感じます。
マルコシアスさん自身は、どの辺まで進んでらっしゃるんですか?


204 名前:1 投稿日:01/11/10 07:14
>>197
スタンスの違いはまあわかりました。ただ、禅問答ではないと仰るのでしたら次にその結論に至った筋道を教えていただきたいと思います。
禅的思考については理解できているとは言い難いですが興味はとーってもあります。ほんと。でなけりゃこんなスレたてませんって。


205 名前:名無しさん@1周年 投稿日:01/11/10 08:41
>仙道なんかでは、外丹に属するものだろうが、
>そういうものは悟りの一助になろう。シロシベだのダツラだの。いいよ、かなり。
>気功も併用せねば大した効果はないだろうけど。
こんな話し聞いた事ありません。どうやって服するの?
ほんまものの鉱物の外丹精製できる人知ってますか?


206 名前:名無しさん@1周年 投稿日:01/11/10 08:48
シコシコって固有名詞?腹を練る事を指しているだけですよね?


207 名前:変人 投稿日:01/11/10 11:09
マルコシアスさん
私は、丹田呼吸法と禅を併用してやっている。
まあ、それをドッキングして考えるのは大変面白い。私は接点はあるとしても、そこまでは考えていなかった。
丹田呼吸法、こちらは即効性がある。対人恐怖症の方は、それが顕著である。まあ、それはそれ。「悟り」となるとイササカ私として認識不足かな?
「禅」は全く違う観点で捉えているので、そこのところも私の認識不足かな?私としては疑問であるが、一応今後の課題としたい。しかしねー、ハラ、と「悟り」。面白い考えであることは間違いない。


208 名前:ジャガー 投稿日:01/11/10 11:50
>>207
ハラと悟りというのはまともな気功、武術の世界では一般常識ですよ。文献を多く読み、知性があれば分かることですよ。


209 名前:名無しさん@1周年 投稿日:01/11/10 12:36
ハラの悟りねえ。腹が据わらせて、何をしたい?サバイバル能力は確かにハラと密接な関係がある。
だが、生死を超えるのはハラじゃなかろう。


210 名前:変人 投稿日:01/11/10 13:51
>>208
武術における「悟り」とは、覚悟の→「覚醒」→「悟り」。の「悟り」かと思う。いわば、武術は覚悟が大事。
「禅」の「悟り」とは意味が違うのではないでしょうか?どうも、そこが噛みあっていないような気がするのですが・・

それに、文献と知性がドッキングして「正解」の論法も早計かと思う。
まあ、自論を展開したまでの事で、すべてを否定している訳ではないが・・


211 名前:1 投稿日:01/11/11 10:49
>>200
>ハラのでき如何に比例する。一時間程度しか息を止められない人もいれば、30日も
>息を止めてられる人もいるでしょう?
本論には関係ないけど・・・ 30日息止めてたら逝ってしまいます、絶対。
疑問持たないでそのまま信じられるのはちょっとやばいよ。


214 名前:名無しさん@1周年 投稿日:01/11/12 08:35
>>204
まぁ、やめときましょう。私の考えでもありませんし。私が興味あるのは、達磨大師が、何を運んできたかだけです。
禅には全く興味ありませんけど、禅の言葉の中には、本来の意味が失われているけど、それを示す言葉がたくさんあります。

38改さん、大変失礼な言葉を連ねてしまい、申し訳ありません。
禅の方は、他スレでもそうですが、なかなかまともにご返事いただけないですね。ちょっと残念でした。それでは。


215 名前:名無しさん@1周年 投稿日:01/11/12 17:36
内丹修行法に、「玄関一竅」というのが出てきます。
これについてどうお考えでしょうか?


216 名前:1 投稿日:01/11/13 04:27
>>214
>禅には全く興味ありませんけど、禅の言葉の中には、本来の意味
>が失われているけど、それを示す言葉がたくさんあります。
そうなんですか。例えばどんなのでしょう。

一貫道というのも座は組むのですか?組み方は?目は瞑りますか?
そこから得られるものは最終的には禅と同質だと仰っているのですよね。


217 名前:名無しさん@1周年 投稿日:01/11/13 08:31
こんなこというと禅の方は怒るんだろうが、正法眼蔵、直指人心、眼横鼻直、教外別伝、以心伝心、不立文字、三宝、…。私達は、身を持って理解しますよ。といっても悟っているわけではなく、言葉の表面的な意味はね。いずれも、玄関一竅のことです。詳しいことは天機ですからここでは語れませんが。
ちなみに他宗教でも同じ意味の言葉がたくさん残っています。十字架、聖霊の宮、玄牝の門、谷神、橘の小戸、天の岩戸、…。

守玄という坐法があります。方法は内丹に近いですね。ただし、最大の玄関が開いてますから、最終的に禅と同質とは言えません。
私は熟達しておりませんが。



218 名前:1 投稿日:01/11/13 09:40
んで、目は瞑りますか?
道教の座法も結跏趺坐なのですねぇ。


219 名前:名無しさん@1周年 投稿日:01/11/13 12:09
なんか、まじめに相手してませんね。簡単に聞ける話じゃないのに(グスン)
オリジナルの大師の話に近いかも。本家に近いだけに。
やっぱり出直そうっ


220 名前:1 投稿日:01/11/14 08:50
あれれ、言葉がわるかったかな?私は本気で聞いていたのに・・・。玄関の話にも興味はありますが、まず座法をと・・・。
これでもネットで調べてみたのですよ。詳しくはわからなかったけれど。


221 名前:名無しさん@1周年 投稿日:01/11/14 10:07
座り方や眼はヨガや仙道と変わりませんよ。ただ、玄関が開いてないと、中心がないですから、基本的に違います。私達は、内功は、ご神仏との対話の時間です。法輪を転ずとは、玄関を通して、ご神仏の世界と先天の気の交換をするんですね。もちろん、仙道のような感覚も生じます。
ご神仏の世界というのは、気の世界ではありません。ヨガでも頭頂のチャクラが開くと、気の世界との交流ができるようですが、根本的に違います。


222 名前:名無しさん@1周年 投稿日:01/11/14 14:08
検索するとやたら、法輪功関係が出てきますが、玄関について具体的に触れているところは、ぼかしている古書よりは驚きですが、どうも違う物を言って いるようです。しかし、法輪功をおそれる共産党の気持ちもわからないではないですね。ただの気功集団ではなさそうです。


223 名前:1 投稿日:01/11/15 09:45
やっぱり目を開いて座るのは禅だけなんだ。
これは、金剛禅他宗教由来説に一票だな。


224 名前:Syami 投稿日:01/11/15 11:00
なんでも、開眼、もしくは半眼で坐ると集中によって偶に在らぬモノが見える事があるので本門は瞑目とすると仰っていましたよ。


225 名前:1 投稿日:01/11/16 07:52
>>224
へー、そうなんですか。
昔は宗氏は開眼で座っていたと言うことでしょうか??
もしそうなら瞑目は宗道臣のオリジナル??


227 名前:Syami 投稿日:01/11/16 10:20
>>225
残念ながらその時は「はぁ、そんなものですか。」と聞き流してしまいました。
嵩山はどうなんでしょうね?


228 名前:1 投稿日:01/11/17 04:36
なんぼなんでも嵩山は開眼でしょう。
禅宗と銘打っているところで瞑目して坐禅している所なんてあるんだろうか??
少林寺拳法以外で。


229 名前:1改 投稿日:01/11/17 07:12
1です。
38改さんに倣って1改と名前を変更させていただきます。
今後ともよろしく。


230 名前:1改 投稿日:01/11/18 11:01
逆に禅以外で開眼しているとこってあるのだろうか・・・。


231 名前:1改 投稿日:01/11/21 06:00
さて、それでは今までのまとめといきましょう。

1.少林寺拳法は宗教法人格を持つ。(学校法人、財団法人も併せ持つ)
2.その宗教性は現在かなり薄れつつあるが明らかに宗教である。印を組み真言を唱え断食まで行っていた。
3.少林寺拳法には独特の座法がある。調息なつ特殊な呼吸法と瞑目が特徴である。観法を行う拳士もいる。これらは道教及び天台と共通している。
4.その思想、行法は少なくとも日本の禅宗と一致しない点が多々ある。かなりうさんくさいらしい。
5.道教とのコンポジットである可能性は極めて強い。少なくともそれらの一部は道院・紅卍字会なる道教系組織に由来している。
6.禅宗の言うところの「悟り」は目指していない。

てなところでしょうか?


232 名前:Syami 投稿日:01/11/21 16:27
う~ん、そんなところでしょうかねぇ。
敢えて申し上げるならば「少林寺拳法」を「金剛禅」と書いた方がより正確では?

ところで、浅学にして申し訳ないのですが、「禅宗の言うところの『悟り』」とは如何なるものでしょうか?


233 名前:名無しさん@1周年 投稿日:01/11/21 17:51
自分は禅はやったこともなければ、歴史などについても全くの無知ですが、多分、〈無限〉に触れる、あるいは成る瞬間のこと、又、それを契機に起こる認識の変化のことではないでしょうか?


234 名前:38改 投稿日:01/11/21 19:40
久々に通りがかったら…。

>>Syamiさん
>ところで、浅学にして申し訳ないのですが、「禅宗の言うところの『悟り』」とは
>如何なるものでしょうか?
貴方も人が悪いねぇ(^_^;


235 名前:Syami 投稿日:01/11/21 21:52
>>234
や、これは38改さん、お久しぶり。

>貴方も人が悪いねぇ(^_^;
いやいや、それは誤解です。
衷心から、この板でこれを問うたらどのような答えが得られるかと思ったモノで。


236 名前:1改 投稿日:01/11/22 02:50
禅宗の言うところの悟りとは、自己が他者と(日本では山川草木を含む全てと)区別のない本質を持っていると同時に自己がこの宇宙で絶対唯一の存在であることを同時に理解した状態のことを指しています。

なんてことをしゃあしゃあと書いちゃあいけないんだろうな^^; もちろん私は字面しか理解していません。
38改さん、こんなところでいいでしょうか?

金剛禅ではこういうわけのわからない(一般人にとってです。誤解の無いよう。)目標を掲げるよりも、心身を鍛えて実社会でリーダーシップを取れ!そんときゃこういうアウトラインでおやんなさい、という極めて実践的な指導をしています。ここらへんは昔から変わってませんよね?syamiさん。


237 名前:Syami 投稿日:01/11/22 14:28
>>236
そですねー。実に単純明快、且つ実践的で子供にもわかりやすい。

あっ、痛てっ!誰でいっ?石ぃ、投げたヤツぁ!?
はっ?あ、貴方は管長先生?冥界からお戻りで?
はい?単純明快で実践的だって言っても、実践しなけりゃ話にならんと??
うっ、ご、ごもっともで…。
いやー、しかし、幾ら嵩山少林寺がルーツだからって、無理やり「禅宗」を名乗らなくっても…
あ、いえ、私はこの名称は大好きなんですけどネ、教義から考えると無用の混乱が…あっ、ごっごめんなさいぃっ!きゃ~っ


238 名前:1改 投稿日:01/11/23 02:16
^^;


241 名前:1改 投稿日:01/11/27 08:51
悟りの内容に関してひと悶着位あると思っていたけれどそうでもないみたいね。ま、本題と関係ないからここで話しても仕方ないけれど。さて、この板でのスレの寿命も尽きたようですのでかねてからの密かな懸案を実行いたします。いえ、たいしたことはありません。このスレを武道版に移植してみるだけです。
さて、あれるかな?もちろんこちらも下がりきるまでは見届けますので好きなこと書いてください。
話題を提供してくださった皆様方ありがとうございました。
ではでは~~


242 名前:1改 投稿日:01/11/28 09:59
ちなみにリンク先は
http://sports.2ch.net/test/read.cgi/budou/1006819836/l50


243 名前:名無しさん@1周年 投稿日:01/11/28 14:13
少林寺拳法って、社団法人じゃなかったけ?


244 名前:1改 投稿日:01/11/29 03:27
>243
コピペで失礼

少林寺拳法の関係団体には、少林寺拳法の普及を通じて社会に寄与する「 財団法人 少林寺拳法連盟」の他に、宗 道臣が提唱した金剛禅の教えを広め、 門信徒を教化育成するための「宗教法人 金剛禅総本山少林寺」、 少林寺拳法を通じて個人の資質の向上を図り、以って社会の福祉に寄与できる指導的社会人を育成する「 学校法人 禅林学園/日本少林寺武道専門学校」、そして世界各国での少林寺拳法の普及活動を統括し、支援していく「 少林寺拳法世界連合(WSKO)」がある。
 ちなみに、少林寺拳法連盟の登録会員は140万人。また、海外28ヶ国にも普及し、WSKOによって各地区講習会や4年に一度の国際大会なども開催されている。

少なくとも昭和55年までは社団法人を名乗ってるけど、今は違うみたいね。
詳しいことはわからないけれど・・・。


245 名前:1改 投稿日:01/12/01 02:51
武道版でこんな質問をされました。
>禅宗の悟りと古代仏教の悟りって、どこがどういう風に違うのですか?
違うのですか??


246 名前:38改 投稿日:01/12/01 16:13
おぉ~、めちゃ運良いと言うか、縁があると言うか…。
雅子様女児出産情報探しに、久々に立寄ったら「まだやってる~」て覗いちゃいましたよ~(^.^)
で、お答えします。

真理は普遍的であるから、違っちゃ真理じゃないのよ。


247 名前:1改 投稿日:01/12/02 18:58
やっぱりそうなりますか>38改さん
でも各派で、これぞ真理!って言ってる境地が実はちょっとずつ違っちゃってるなんて面白い話はありませんかねえ。


248 名前:変人 投稿日:01/12/03 08:32
うむ。話が面白くなってきました。age.


249 名前:無学 投稿日:01/12/11 01:29
心身学道
悟りを言葉で表現するというのはちょっとムリなんではないでしょうか?


250 名前:1改 投稿日:01/12/11 09:02
そうなんでしょうね。だからこの手の話題は誰も相手にしてくれない。
でも言葉にもあらわせないのに何を根拠に真理はひとつなんて言えるのだろう。
きっと座らなければわからないことがあるのだと思います。
掲示板じゃきついんでしょうね。


251 名前:変人 投稿日:01/12/11 10:47
>>250
>だからこの手の話題は誰も相手にしてくれない。
言い表わす表現は、各各違っても帰結するところ同じかと思いますね。ある共通点を見つけたら、そこのところを掘り下げますと、以外に共通項を見出せるかと思います。言葉尻だけ捉えますと、全くそこのところは観えてこないですが・・。


252 名前:1改 投稿日:01/12/18 05:52
どなたか水想観にお詳しい方おられますか??
禅で行われる観法と聞いたのですが・・・。


253 名前:1改 投稿日:01/12/23 09:19
密教系の座法について教えていただけませんか?
このスレじゃ無理かな。

http://www.saitamadouin.com/lounge.html

『達人の心得』(2015/12/23)

私は武術はしませんが以前テレビで合気道の達人の演舞を観た事があります。数人あるいは10人以上の相手をいとも簡単に触れるか触れないと思いきや投げ飛ばしていました。

合気道の開祖は植芝盛平という方ですが道院の修方でもあります。植芝先生は、数々の武術を習得いたしましたが大元教の信者でありました。出口王仁三郎先生が中国満州に布教に行かれた時随行もいたしました。その時の逸話に、飛んでくる銃の弾丸の軌道が白く見え簡単に避けたと言われています。「合気とは敵と戦い、敵を破る術ではなく世界を和合させ、人類を一家たらしめる道である。」「合気とは、各人に与えられた天命を完成させてあげる道であり、愛の道である。」とも述べていたそうです。

また、インターネットで「道院」を検索すると日本少林寺拳法のサイトが検索されますが、各道場を道院と名乗ります、かつてその教義書の中に道院の名前の由来が中国済南に発祥した精神修養団体によるものであると書いてあった記憶があります。まさに紅卍字会であると思いました。日本少林寺拳法の創始者は宗道臣という日本人であります。宗道臣著の「少林寺拳法奥義」という本の中に宗氏の生い立ちと思想が書かれています。

少林寺拳法は武術ではありますが、その根本には正義と善の教えがあり、弱き者を助ける慈悲の心、仏道を説いています。宗氏自身が道院の修方であるかは定かではありませんが、宗氏の拳法との出会いは18歳の時中国大陸で陳良という老師の弟子となり中国武技にふれたことに始ります。又後に一.二年の命といわれた病を陳老師の医法によって救われ、そして数々の拳法を学び崇山少林寺本山の伝法の印可を受けたのでした。

この本の中でダーマという言葉が出てきます。
「ダーマは見ることも聞くこともできない存在であり、また祭祀の対象や礼拝の対象になり得るようなものでない。しかし、目や耳で認知することはできなくともそこになんらかのはたらきの存在を直感することができる。ダーマとは法則 真理 全宇宙を統一する力 正義 最高の存在などの宗教的、道徳的、社会的、倫理的の意味に用いられている。要約すれば宇宙最高の真理であり、最高の秩序であるということである。それはまた宇宙に存在する一切の現象の根源となっているものである」と述べています。達人の真髄は心の鍛錬と修養にあるのでしょう。宗氏が道院と名付けたのも、心の修養を重じ慈善を行っていた当時の道院のことをよく知っていたからだと思います。




この本の中にまた、宗氏の師である陳老師は軍閥の流れをくみ呉佩孚将軍の下で行動されたこともあると記述されています。呉将軍は有名な人物であり、道院の修方であります。道院の経典太乙正経午集の巻末にも張作霖と並んで道名と氏名が記されています。


笹目先生の本の中に呉将軍について次のような文章があります。

北京道院に属していた王鉄珊先生を、人よんで王鉄老と敬称していた。ある時“開封”に行ってこい、との壇訓があった。

 開封!何の御用かあって行くのだろうか。その用命の内容については、何も示されていない。ただ行って来いというだけである。

呉佩孚
1974~1939








考えに考えを練った結果、開封に道院を創れということだナ、と思った。しかしながら開封には誰一人親しい者もなく、何の手がかり脚がかりもなかった。
どうしたらよいものかと王先生は日夜考えぬいた。フト思い浮かんだのは、呉佩孚将軍の相貌である。この人は中国屈指の有力者であると同時に、仏教信者で有名である。中国仏教の会長であって、その宗教的会合に於いて二三度会ったことがある程度に過ぎなかったが、その呉佩孚将軍が開封督軍として河北個師の指揮監督権を有し、地方軍閥の実力者である。

 とにかく行ってみよう。と考えを定めた王鉄老は、北京を発って京漢鉄路を、開封に旅立ったのである。



 督軍公署の大看板のある衛門を訪ねると、銃剣の衛兵が毅然として起っていて、便服の一介の素浪人王鉄珊が案内を乞うには、あまりにもいかめしい衛門であった。入るにも入り難く、去るには忍び難い神命を胸に抱えて、行きつ戻りつしていると、衛兵からとがめられた。そこで王鉄珊は素直に言った。

 「こんなみずぼらしい格好で、信じて貰えないかも知れないが、私は仏教会の会合で、しばしば大将軍にお目にかかっている者ですが、重要な問題を提議しようと思って、北京からわざわざやって来た者ですが、大将軍に王鉄珊という者が参った、とお取次ぎ願えないでしょうか」、と真心をこめて一平卒に過ぎない巡邏の衛兵に申し入れたのである。あたり前ならば、一喝の下に追い返されるのだが、不思議にもその巡邏兵は、門衛の日直将校に取り次ぎ、日直将校も亦素直に副官部に伝達したのである。王鉄老は、しばらく衛兵所に待たされたが、やがて呼び出されて案内兵に随行して中門を入ると、接待室の一室に通された。ここで待つこと久しくして副官が現れて用件を詳細に聴取された。

 「燕京(燕京とは北京の古名である)の仏教会において、大将軍の尊顔を拝することしばしばですが、たまたま私用で当地に参りましたので、大将軍のご機嫌伺い方々、宗教上の問題で、大将軍のご教示を仰ぎ度い、と思って立ち寄った」と淀みなく副官に来意を告げた。

 奥に消えた副官は、再び姿をあらわして王鉄珊を、呉佩孚将軍の居室に導いてくれたのであった。



王鉄珊!宗教上の問題って何かね、と尋ねられた。そこで王鉄老は一呼吸した上で、私は本来仏教徒でして、将軍の主宰する会の一員として、真面目な信仰を続けて居りますが、この数年来ご承知の済南に起こった道院の主唱する、天唯一神、至聖先天老祖の偉大なみ教えにも深く傾倒しているのです、と道院信仰の実体について縷々として述べたのであった。王鉄老は元来、弁舌の豊かな人ではないということは、定評の人である。その人が、仏教哲理にくわしい有数な時の権勢呉将軍の前で、何をしゃべったというのであろう、自分自身もさっぱり覚えていない。然るに将軍は応えいった。

 王鉄老!若冠にして吾は釈尊の教理に開眼し、仏法の尊厳は知ってはいるが、未だ神威を知る機会はなかった。恰度今、この北支一体は大旱魃に見舞われ、この冬三尺の積雪を見ることが出来なければ、春耕は望むことが出来ないと、官民共に嘆声をあげている時だ。それ程偉大なるご神威の出現を説くならば、断固そのみ力の顕現を示して貰い度いと思う。若しこの目、この体を以って感得することが出来たならば、呉一個の力をもって、この地に大道院の創設を引受けよう。と、力強い言葉を聞いたのであった。だがその将軍の言葉の裏には、王鉄珊のひたむきな新興宗教礼賛を嘲笑するようなひびきが無いでもなかった。けれども王鉄珊は素直に将軍の言葉を腹中に納めて督軍公署を辞去し、その夜のうちに京漢線を北上し、北京道院に帰り着くと、正位ご神前に額づき、呉佩孚将軍との対談内容についてご報中を申し上げたのであった。

 御神前を離れて道院の門前に起つと、摩訶不思議!チラホラ雪が降って来たではないか。厳然として王鉄老は門扉の逆木に腰を下ろし、食うことも飲むことも忘れて、一毛一厘と重なり積んでゆく雪を眺めて、夜を徹したのであった。一昼一夜にして積雪はなんと、六尺(二メーター弱)にも達したのである。

 保線区の分担において、最大の人力を用いて除雪作業の結果、数日後にやっと開通した。

 王鉄老は、再び監軍公署を訪れて呉佩孚将軍に閲したが、ただニコニコと笑顔を見せただけで何をいおうともしなかった。

 呉佩孚将軍は言った。王鉄老 余は完全に貴下の軍門に降った。いや、貴下の説かれるご神威の前に膝まづくこともやぶさかではない。雪解けて民は春耕にいそしむ芽出度い頃、吾等は、約束通り宇宙最高神の道院創り始めよう・・・・」と。

かくして開封道院は出来上ったのである。

http://rapt-neo.com/?p=27081
真実を知り行動する人
Posted at 00:42h, 31 5月

RAPTさん、更新ありがとうございます。
学生時代ですが、少林寺拳法をやっており、その当時は胸元に卍の紋章をつけて練習しておりました。
卍がナチスのハーゲンクロイツに似ていることから、何かしら、揶揄され時。
「何でやねん!!こっちは昔からの禅で、向こう卍は、やってることも、それとは全部、逆やろ!!」
と思っていましたが、宗道臣と言うカリスマの開祖が亡くなられて、名前だけの2代目、
ブランド物とエステの金儲け主義の娘(3級)が、世界での普及うんたらで、卍をスパッと辞めてしまったんです。
私自身は、何か、伝統が世界の一部の偏見に負けたような気がして、悔しかったのですが、以前のRAPTブログでの、
紅卍、緑龍会、ナチスの関係のお話で、正直、腰が抜けてしまい、色々と腑に落ちることがあったのです。
まず、宗道臣という方は少林寺を名乗っていますが、有名な壁画を世界遺産にしようと、日本から金をばら撒いて交流?
はありますが、名前だけで少林寺でちゃんとは修行していません。
太平洋戦争の時は、満州で諜報部員をやっており、その時に笹川良一、人脈と繋がりを持っており、
何故か戦後、お寺や神社でも無いのに宗教法人を簡単に取っています。(ほとんどの拳士も知りませんが、現在でも宗教法人です。)
また、満州に来ていた出口王仁三郎やその用心棒の、合気道の創始者、植芝盛平に影響を受けたようです。
つまり、少林寺拳法の卍というのは、ナチスの卍と同じだったんです。
中国の河南省にある、本山はインドから達磨大使(だるまさん)が、禅と共に武道を伝えたのが始まりで、
そもそも達磨は、この世には神も仏もいないから、心体を鍛えろと言った人で、宗教とは程遠いモノだったんです。
確かに、昔見た、ジェット・リーの映画も、頭がみんな坊主なだけで、坊主とは程遠いイメージでした。
RAPT理論を知ることで、大きな覚醒の転換時期が来ているのを感じます。
今まで、良かれと思って祈っていたモノが、悪魔だったとか、私も熱心なヒットラー・ユーゲントの一人で、
号令に合わせた突き蹴りの練習が、まるで、ベルリンでの軍事行進に思えて、もう笑えないコメディーです。
表向きの偽善者には気をつける!!無知からの脱却!!
素敵な世界が訪れますよう、みなさんと一緒に、お祈りいたします。

http://book.geocities.jp/japan_conspiracy/0202/p002.html

■ 「卍」の復活

ナチス・ドイツが崩壊して2年後の1947年、早くも日本でナチスのマークが復活した。それは 少林寺拳法だった。これは、偶然「卍」のマークだったというより、ナチス存続のため、日本において武道の一種として復活させたものだ。目的は、子供たちにナチスの精神を普及させることだった。豊富な政府の資金によるプロパガンダで世界にも広まったようだ。最近このシンボルマークに対する批判からマークを変更しているが、卍のイメージは消えない。シンボルマークを変えても、精神が間違っていれば何の意味もない。

■ 少林寺拳法と 少林拳

はっきり言って、少林寺拳法には日本の国家的陰謀が渦巻いている。 少林寺拳法の創始者 宗道臣は中国大陸における日本陸軍の 特務工作員だった。 そして、 義和団事件の生き残りの中国拳法の達人陳良老師から少林拳を学んだ。義和団事件は日本の陰謀だった。その事件の名前がよく示す。

少林拳は中国河南省嵩山に伝わる武術。その歴史は古く、各派の武術に大きな影響を与えたことから「天下の武術少林より出ず」と謳われている。少林拳は日本ではしばしば「少林寺拳法」と呼ばれる。しかし、両者は全く異なる。

結局、日本は中国の伝統武芸の名称を混乱させ、そのイメージをナチスに結びつけた。今日でもネット上で中国政府をナチスと呼んで侮辱する日本人は多い。ナチスは日本そのものだ。 ある漫画家など、未だに「 ショーリンケン、コンフー、つまりカラテ!」などと、中国の少林拳を空手と結びつけ、子供たちを惑わそうとする。

ナチスの旗

少林寺拳法
1947年シンボル



少林寺拳法
2005年シンボル


http://jfcoach.blog49.fc2.com/blog-entry-177.html

【ヒトラーを洗脳しナチス結成に繋げた”緑の始祖鳥” 世界紅卍会=大本】
2013/07/05
17:40

こんにちは、今回はトンデモない話題です。

断っておきますが、私は決して反日ではありません。

君が代を歌うと目頭が熱くなるような超愛国者です。

それでも、知ってしまった以上、書かなければなりません。

HITLER.jpegHAGEN.jpeg


今回は緑の始祖鳥がチベットを通じ、ヒトラーを洗脳し、ナチス結成に至るまでの経緯を説明します。

尚、この記事は、下記サイトからの抜粋で構成されていますが、この記事に不足している部分を補足し、記事にしました。
 
http://inri.client.jp/hexagon/floorB1F_hss/b1fha200.html

(Wikipediaより)

カール・ハウスホーファー

ミュンヘン大学にて大学教授資格を取得。ハウスホーファーは地政学の創始者の一人である。1919年にハウスホーファーは教え子としてルドルフ・ヘスと知り合い、1921年にはアドルフ・ヒトラーと出会った。1923年のミュンヘン一揆の際には逃亡するヘスを一時匿い、ランツベルク刑務所に収監されていたヒトラーと面会した。ヒトラーはハウスホーファーの生存圏の理論に興味を覚え、「生存圏を有しない民族であるドイツ人は、生存するために軍事的な拡張政策を進めねばならない」として、ナチス党の政策に取り入れた。しかしハウスホーファーは「(ヒトラーが)それら(地政学)の概念を理解していないし、理解するための正しい展望も持ち合わせていないという印象を受けたし、そう確信した」と見てとり、フリードリヒ・ラッツェルなどの地政学基礎の講義をしようとしたが、ヒトラーは拒絶した。ハウスホーファーはこれをヒトラーが「正規の教育を受けた者に対して、半独学者特有の不信感を抱いている」事によるものであるとみていた[1]。

(転載終わり)

ドイツにハウスホーファーという地政学者がいました。

彼は単なる著名な地政学者というだけではなく、オカルト思考がありました。

1908年から数年間、武官として日本に滞在し、その間に日本の文化、風習に強い関心を持ちます。

日本人独特の(今も残っている?)一体感、霊感に憧れたそうです。

彼は下記のように、多くの日本に関する著書を書いた程、日本に惚れ込んでいました。

『大日本(大いなる日出ずる国)』(1913年)
『日本の地理的闡明におけるドイツ人の分け前』(1914年)
『日本帝国』(1920年)
『日本の国情』(1921年)
『日本帝国の地理的発展』(1921年)
『日本及び日本人』(1923年)
『太平洋地政学』(1924年)

彼はベルリンに「ヴリル協会」という秘密結社をつくります。

この結社の目的は、アーリア人種の根源を探り、ヒンズー教のクンダリニー・エネルギーに相当する“ヴリル”の気力を呼び起こすために精神集中訓練を行なうこと。

ハウスホーファーは、“超人”の秘密を所有するチベットの結社と関係があると称し、イギリスの作家で神秘主義者のブルワー・リットンの、未来の超人種に関する著書『来たるべき民族』を字義通り受け入れていました。

ハウスホーファーはランズベルク刑務所において運命的な出会いをします。

1923年、ミュンヘンのビヤホール暴動に失敗して捕らえられていたアドルフ・ヒトラーとの会見です。

この会見は、ヒトラーの片腕であり、ミュンヘン大学で教授の教え子でもあったルドルフ・ヘスの仲介によって実現。

ハウスホーファーは毎日のようにヒトラーを訪れては、ユダヤ人によるドイツ支配を崩し、優秀なゲルマン民族によって全世界が支配されねばならないと説きます。

そして、オカルティズムによる世界征服という思想をヒトラーに植え付けたのです。

彼はヒトラーの共同執筆者となり、『我が闘争』を書き上げます。

こうして、ハウスホーファーは1920年代にはヒトラーの政治顧問を務めました。

そして彼は、ヒトラーの第2の“秘教助言者”となったのです。

ハウスホーファーやその他の「ヴリル協会」後押しにより、ナチスは何度もチベットに調査団を派遣。

1926年から1942年まで毎年派遣された調査団は、チベットの僧侶に接触し、深い関係を築きあげました。

ナチスに協力してくれたのはチベットの一派だけで、彼らはドイツでは「緑の男の会」として知られていました。

これは数百年におよぶ日本の「緑龍会」との強いつながりから来ていたといいます。

えっ緑龍会?

この緑龍会ってなんでしょう?

ベン古歩道さんのいう、黒龍会、白龍会は有名ですよね?

緑龍会?・・・どうやら日本の始祖鳥派閥の一派のようですね。

ここでは、日本皇室に仕える組織、始祖鳥の一派と仮定します。


卍と鍵十字・・・昔からなんでお寺のマークが酷似しているのか気になっていました。

子供の頃、タミヤの模型でドイツ軍の戦車や、歩兵を組み立てるのが趣味だったのですが、

学校で地図の授業中、お寺に鍵十字が使われているのはなんでだろうと思ってました。

まあ、結局は鍵十字じゃなくて、反対向きの卍だとわかり、これはただの偶然だと判断しました。

しかし!それが偶然ではなかったのです。

ガガ〜〜ン!!

出口王仁三郎で有名な大本ですが、大本が提携していたのが”紅卍会”

          Red_Swastika_Society_member.jpg
                   世界紅卍会のメンバー

世界紅卍会は中華民国全土に広がった道院。

「先天の大道」を中心に五大教(道、佛、基、儒、回)を奉ずる宗教団体で、日本の大本教は道院と同じ宗旨であるとして提携していた。(Wikipedia)

日本にも日本紅卍会がある。

以前、名無し先生からいただいたコメントを思い出した。

大本は、綾部町に住む出口なおが興し、開祖となる。この大本の特色としては、教主が代々女性であり、女系相続の世襲です。初代教祖・出口なおの娘婿の出口王仁三郎は、出生地が亀岡市。王仁三郎は、玄洋社の頭山満と、黒龍会の内田良平と昭和9年7月22日に東京・九段会館で、「昭和神聖会」結成しました。この発足が、第二次大本弾圧の直接の引き金になったといえるでしょう。五代目教主・出口紅の父・広瀬静水が、「世界連邦日本宗教委員会会長」を務めていたことと、「人類愛善会」という外郭団体を通じて、『世界連邦運動』の促進をしています。

2000年2月9日に、綾部市とエルサレム市(イスラエル)の間で友好都市宣言が締結されています。
『世界中の国家を一つに統合した上で、世界連邦の樹立を目指す』国際的な非政府組織が『世界連邦運動』を推し進めています。鳩山由紀夫元総理は、2012年11月21日に政界を引退することを明言しましたが、その前の11月8日には、日本にある世界連邦系の団体である世界連邦日本国会委員会の次期会長に選ばれました。

なんですと・・・出口紅・・・紅卍

大本と紅卍会は提携どころじゃなく、同じ祖を持つ団体。

ベルリンでは、ヒトラーは「青衣の魔術師」とも「緑の手袋をした男」とも呼ばれるチベット教団の指導者と定期的に会っていた。

透視力と予知力に定評のある僧侶で、新聞紙上でドイツ議会で選出されるナチスの代表議員を三たび正確に予言した。

更にヒトラーがドイツの指導者になる正確な日付ばかりか、第二次世界大戦が始まる日付まで予言した。

この正確な予言がオカルトに興味を抱くナチ党員の間でたちまち広い関心を呼び、ヒトラー同様ヒムラーもまたチベットのラマ教に強い関心を抱くようになった。

そしてベルリンにオカルト訓練カレッジを開設して、SSの幹部に特に魔術課程をとるように命じたのであった。


尚、「緑龍会」とは、ハウスホーファーが日本駐在の武官時代に入会した秘密結社である。

「緑龍会」の会員たちは人間に内在する神秘能力を修行によって開花させようとしていたらしい。

また、この会の起源はチベットにあったという。

そしてハウスホーファーは「緑龍会」に入会を許された、たった3名のヨーロッパ人のひとりだったという。

この「緑龍会」所属の7人の会員がドイツの会にも参加していたそうだ。

この「緑龍会」に関しては不明な点が多く、その存在自体を否定している研究家もいるが、いずれにせよ、日本にひそかに伝えられている何ものかを汲み取ろうと試みていたことはまず間違いない。

実際、ハウスホーファーの日本理解は驚くほど深いのである。彼は流暢な日本語を話し、日本に関する著書をたくさん残している。

チベットと日本そしてドイツをつないだ「緑龍会」とは何か

緑龍会については、秘密結社というだけで、実体は不明であるが、ハウスホッファーは日本駐在武官の時代に、日本でこの結社の会員になった。したがって、緑龍会は日本に存在したことになるのだが、日本ではほとんど知られていない。

ドイツに協力したのはチベットの緑龍会のメンバーであるが、ハウスホッファーは緑龍会は数百年に及ぶ日本とのつながりを持っていたと考えていたようだ。しかし、このような情報は人では得られない。

「大本神示」の最大の特徴は「石屋の陰謀」という当時は誰も知り得なかった国際陰謀集団の存在を予言したことである。

そして、日本に降りたいくつかの神示を総合してみると戦争は利害に基づく軍事的覇権争いではなく、経済システムの破綻を戦争のせいにして再構築することが目的だったようだ。

仕掛け人は「どちらが勝っても、戦争が経済システムのリセットに必要な規模で起これば良い」と考えているということなのである。

「日月神示と日本の地下都市」 神々の地政学 シャンバラ / アガルタ・ネットワーク 山田久延彦   徳間書店


ん? シャンバラ??

ウィキってみました。

シャンバラ・・・日本のボーカルバンド。→シャンバラ (バンド)・・・そっちじゃねーよ、バシッ!!

シャンバラ・・・

「時輪タントラ」で説かれる理想の仏教国のこと。語源はサンスクリット語で「(幸福を)維持(もしくは用意、収集、養育)するもの」などの意味。Shambalah:シャンバラーとも。→シャンバラ (チベット)。シャングリラも参照。オウム真理教が日本で樹立しようとしていた祭政一致の専制国家構想については、日本シャンバラ化計画を参照。

え? 日本シャンバラ化計画??

日本シャンバラ化計画(にほんシャンバラかけいかく)は、オウム真理教が日本で樹立しようとしていた祭政一致の専制国家構想。

公安調査庁はこの計画をもって、オウム真理教を破壊活動防止法や無差別大量殺人行為を行った団体の規制に関する法律に該当するテロ組織と規定している。

はい、これですべて繋がりました。(オームまで釣り上げちゃいました)


①ヒトラーを洗脳しオカルト化したのはハウスホッファー

②ヒトラーはチベットに興味を示し、頻繁に調査団を派遣している。

③ハウスホッファーは日本駐在武官の時代に、日本で緑龍会の会員だった。

④緑龍会とは、日本皇室始祖鳥の一派である。

⑤その下に大本教=紅卍会がある。

⑥ハーゲンクロイツ鍵十字は紅卍会から来ている。

結論:ヒトラーを洗脳し、ナチスを結成させた大元は大本である(ダジャレじゃないですよ)。
 
そして、その大本教は日本の中心、皇室始祖鳥の下部組織である。

ナチスを作る目的で、ハウスホーファーをオカルト化し、ヒトラーを洗脳し、ナチスを結成させ、第二次世界大戦に導いたのは、日本始祖鳥だということになり、つまり、ヘッセン繋がりであるということ。

そう考えると、日独が同盟を組んだのも、あのタイミングで真珠湾攻撃に出たのも、納得がいきます。


これを知っているアメリカを始めとする外国人は、日本(始祖鳥)を今でも恐れているはずですよ。

だから、古歩道氏の言っている事も、少しは真実(始祖鳥が恐れられている事)が入っているんですね。


むかし書いた記事で、ヒトラーの予言・・・という記事を書いたのを思い出しました。

http://jfcoach.blog49.fc2.com/blog-entry-124.html

まだ、名無し先生に出会う遥か前の時代の記事です。長いですが、貼付けます。

(自分で自分の記事の転載開始)

「国民諸君、同志諸君、最後まで戦い続ける諸君に敬意を表する。すでに戦況は……私はベルリンと運命をともに……しかしナチスは不滅である……たとえ米ソがいったんは勝つように見えようとも……。
そうなのだ、それは砂の上の勝利だ。彼らは世界の真の支配者ではないからだ。彼らの背後で操る者……ユダヤ……イスラエル……世界的なユダヤ国際資本……。
米ソは……おそらく1990年代ごろまで、対立と妥協を繰り返しつつ、世界を運営しようとする。しかししょせん……ヨーロッパと日本、東アジア、イスラム諸国、インド……いずれ世界は米ソの手に負えなくなる。そのときユダヤはみずから……に乗り出す。
あわれなアラブ4ヶ国……最終戦争。東西が激突するだろう。ユダヤはそれに勝って全世界……なぜならそれが彼らの『旧約聖書』の約束だからだ。黙っておけば必ずそうなる。しかし、私がそうはさせない。そのための手を、私は死ぬ前に打っておく。それが最後の秘儀である。それによって人類はわれわれを受け継ぐことになる。
しかも見よ、そのあと、わがナチスの栄光、ラストバタリオン……。それが真のハーケンクロイツの日だ。カギ十字の日だ。そのときラストバタリオンが現われる。ユダヤを倒す。世界を支配する。永遠に……そしてナチスは甦る。真のヒトラーの時代が来る。必ずだ。
甦ったナチスの軍団とその強力な同盟がそのとき来る。宇宙からの復讐のカタストロフィとともに来るぞ。それからが真の究極だ。真の終わりで真の始まり、真の淘汰、天国の地獄、21世紀のその年に、人類の驚くべき究極の姿……ではそれを明かそう。諸君、それは人類……」

ここで空襲警報のサイレンがけたたましく入った。そのためヒトラー最後の放送も、ここでプツンと途絶えてしまった。
その日が1945年の4月2日だったなら、彼はこのあとなお、4週間ほど生きる。しかしともかく、彼の国民への最後の呼びかけは、こういう重大で狂おしい、しかし不完全な形で終わってしまったのだ。

(中略)

しかし人類はそれでも滅びない。わがドイツの一部と米ソの中心部、日本や中国は深い傷を負いながらも生き残る。ただ諸君、それでも人類はいなくなるのだ。いまの意味での人類は、そのときもういない。なぜなら、人類は2039年1月、人類以外のものに“進化”するか、そうでなければ“退化”してしまっているからだ。」

「それをもっとはっきり言えば、人類の一部はそのとき、人類から、より高度なものに進化して、神に近い生物になっている。人類から神のほうへ進化するのだから、それは『神人(ゴッドメンシュ)』と呼んでかまわない。
残りの大部分は、これも進化なのか退化というべきかわからないが、一種の機械になっている。ただ操られて働いたり楽しんだりするだけの、完全に受動的な、機械的な反応しか示さない『ロボット人間』になっているのだ。それまでの気候異変と環境異変、政治と娯楽と食物、それから起こる突然変異が、そのようなロボットのような人間を大量に生み出す。
神人のほうも同様で、同じ原因から生まれてくる。ただ突然変異が大脳にプラスに働いて、進化の方向がロボット人間と別方向になるだけだ。その前段階の『超人(ユーベルメンシュ)』たちも、より進化して神人になる場合がある。
いずれにせよ、彼らはいまの人間の数次元上の知能と力を持つ。彼らは団結して地球を支配する。それまでのあらゆる危機や問題は、彼ら神人たちの知能と力で急速に解決されていく。」

「ロボット人間たちのほうは、それに従って生きるだけだ。これはある意味では気楽な身分だ。戦争も気候も経済も、神人たちによって制御されてしまうので、ロボット人間たちは神人たちの認める限度で、多くのものを与えられる。食物と住居も、職業も娯楽も恋愛も教育も、時には思想さえも与えられる。
ただロボット人間たちは、与えられ、操られていることを意識できないようになる。自分たちの意識では、何もかも自分で選択して勝手に生きているのだと思う。しかし、じつは神人たちがすべてを見通して、管理工場の『家畜』のように彼らを育て飼うことになるのだ。
こうして人類は、完全に2つに分かれる。天と地のように、2つに分かれた進化の方向を、それぞれ進みはじめる。一方は限りなく神に近いものへ、他方は限りなく機械的生物に近いものへ。これが2039年の人類だ。その先もずっと人類はこの状態を続ける。
そしておそらく2089年から2999年にかけて、完全な神々と完全な機械的生物だけの世界が出来上がる。地上には機械的生物の群れが住み、神々がそれを宇宙から支配するようになるのだ。」


出口王仁三郎の予言を思い出します。(でぐち おにさぶろう、1871年8月27日(明治4年7月12日) - 1948年(昭和23年)1月19日)は、新宗教「大本」の二代教主輔。事実上の教祖。

彼の予言によると、日本には2度の建て直しが起きる。

一度目は第二次世界大戦に敗れ、二度目はロシアが攻め込んで来る。というものです。

そればかりか、イギリス、アメリカ、ドイツ、イタリアなども一斉に日本を潰しにくるそうです。

そして、広島、長崎の原爆とは比べられないほどの被害を受け、日本人は3500万人になってしまうという内容です。

明治維新から資本主義を取り入れ、経済発展を遂げ、軍国主義に走った結果、天罰を受け、焼け野原になりました。戦後、再び日本は経済発展を遂げ、今度は金を払ってアメリカの基地を引き止めている。国民は堕落し、物理的な幸せを追い求め、もはや神の国の住民ではなくなってしまった。

だから、神はもう一度日本を破壊するのです。

しかも、その規模は第二次大戦とは比較にならないほどのものなのです。
 
(自分で自分の記事の転載終わり)


名無し先生に出会う前に、かなり惜しい記事を書いていたのですね。

その当時は、大本とナチスを結びつけることは不可能でした。

先生に会ってから、信じられないようなお話の連続で、すっかり覚醒してしまいました。

もう私は、普通の体に戻れないのです。

それでは

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東洋を暴れ回った日本は、想像を超える規模の残虐な行為と死をもたらした。その最たるものが戦争捕虜の扱いだった。日本はアメリカ兵やイギリス兵、カナダ兵、ニュージーランド兵、オランダ兵、オーストラリア兵ら約13万2000人を捕虜にした。そのうち3万6000人近くが死んだ。4人に1人を超える確率だ。特にアメリカ兵の捕虜の待遇がひどかった。日本に捕らえられた3万4648人のアメリカ兵のうち、37%超に相当する1万2935人が死んだ。ちなみに、ナチス・ドイツやイタリアに捕らえられたアメリカ兵のうち、死亡したのはわずかに1%だった























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2011年頃にアメリカでベストセラーになった、日本軍の捕虜虐待の実態を暴いた本とは?


2011年の記事です。


反日感情をあおる本が米国で大人気
なぜいま、日本軍の捕虜虐待なのか
2011年02月20日(Sun)  森川聡一
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/1232 (魚拓)
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/1232?page=2 (魚拓)
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/1232?page=3 (魚拓)

■今回の一冊■
UNBROKEN 筆者Laura Hillenbrand, 出版社Random House, $27

太平洋戦争で日本兵が捕虜のアメリカ兵に加えた虐待の実態を詳細に描くノンフィクションだ。アメリカ人の反日感情を確実に高めるに違いない本書が今、アメリカでよく売れている。ニューヨーク・タイムズ紙の週間ベストセラーリストの単行本ノンフィクション部門でトップ5に13週連続でランクイン。直近は2位に落ちたが、それまでは6週連続でトップだった。

日本軍による捕虜虐待

現在も93歳で元気に暮らすルイス・ザンペリーニという、イタリア系アメリカ人の男性の数奇な生涯を追うことで、日本軍の捕虜に対する非人道的な対応を描く。ザンペリーニは19歳の若さで中距離走のアメリカ代表として、1936年のベルリン・オリンピックに出場。メダルは獲得できなかったものの、力走が観戦中のヒットラーの目にとまり、ヒットラーと握手をしたという逸話の持ち主だ。

出場を目指していた40年の東京オリンピックが日中戦争などのために中止となり、ザンペリーニはアメリカ空軍に入隊。ところが、ハワイ・ホノルルから飛び立った爆撃機が太平洋上でエンジン故障のため墜落、からくも脱出して救命ボートで太平洋上を食料や水がないなか、鮫とも戦いながら47日間も漂流する。そして、ホノルルの南西3900㎞にあるマーシャル諸島のクェゼリン島に漂着した。別名「処刑島」と呼ばれていたその島で、ザンペリーニは日本軍の捕虜になった。

元オリンピック選手という経歴が日本軍の目にとまり、処刑を免れたザンペリーニは日本に送られる。大船、大森、直江津と捕虜収容所を転々として 45年8月の終戦を迎え母国アメリカへと生還する。本書はザンペリーニが収容所で受けた虐待の数々を冷静な筆致で描いており、それだけに逆に日本兵の残虐さが鮮明に浮き上がる。

特に、捕虜の間でthe Birdとあだ名されたワタナベ・ムツヒロという伍長が、虐待の限りをつくす描写は圧巻だ。本書はワタナベについて、捕虜たちを痛めつけることで性的な快感を覚えるサディストだったとしている。例えば、次のような虐待の場面が無数に本書には出てくる。

サディスト "the Bird" ワタナベ

The Bird swung the belt backward, with the buckle on the loose end, and then whipped it around himself and forward, as if he were performing a hammer throw. The buckle rammed into Louie’s left temple and ear.

Louie felt as if he had been shot in the head. Though he had resolved never to let the Bird knock him down, the power of blow, and the explosive pain that followed, overawed everything in him. His legs seemed to liquefy, and he went down. The room spun. (p251)

「バードはズボンのベルトの先を握ってバックル(留め金)の部分を後ろに振り、ハンマー投げをするように、自分の体に巻き付けるようにしてベルトを前方に振り出した。バックルはルイスの左のこめかみと耳にぶつかった。ルイスは頭を撃ち抜かれたような衝撃を覚えた。

ルイスはそれまで、バードに殴られても決して倒れまいとしてきたが、打撃の強さと、激痛に見舞われ、すべてがまひした。両足が溶けるようにして、ルイスは倒れた。部屋が回った」

別名バードと呼ばれたワタナベは、ルイスを目の敵にして、毎日のように殴りつけ、十分な食事を与えなかった。国際赤十字が支給した食料も、捕虜たちの手には渡らず、日本軍の兵士たちが横取りしていたという。

本書は、次のように具体的な数値をあげ、日本による捕虜の扱いが、ナチス・ドイツよりもひどかったと断じている。

In its rampage over the east, Japan had brought atrocity and death on a scale that staggers the imagination. In the midst of it were the prisoners of war. Japan held some 132,000 POWs from America, Britain, Canada, New Zealand, Holland, and Australia. Of those, nearly 36,000 died, more than one in every four. Americans fared particularly badly; of the 34,648 Americans held by Japan, 12,935―more than 37 percent―died. By comparison, only 1 percent of Americans held by the Nazis and Italians died. (p314-315)

「東洋を暴れ回った日本は、想像を超える規模の残虐な行為と死をもたらした。その最たるものが戦争捕虜の扱いだった。日本はアメリカ兵やイギリス兵、カナダ兵、ニュージーランド兵、オランダ兵、オーストラリア兵ら約13万2000人を捕虜にした。そのうち3万6000人近くが死んだ。4人に1人を超える確率だ。特にアメリカ兵の捕虜の待遇がひどかった。日本に捕らえられた3万4648人のアメリカ兵のうち、37%超に相当する1万2935人が死んだ。ちなみに、ナチス・ドイツやイタリアに捕らえられたアメリカ兵のうち、死亡したのはわずかに1%だった」

次のように、捕虜はとてもひどい扱いを受けたという。

Thousands of other POWs were beaten, burned, stabbed, or clubbed to death, shot, beheaded, killed during medical experiments, or eaten alive in ritual acts of cannibalism. And as a result of being fed grossly inadequate and befouled food and water, thousands more died of starvation and easily preventable diseases. (p315)

「何千人もの捕虜たちが、殴られたり焼かれたり、銃剣で刺されたり、こん棒で殴られたりして殺され、銃殺され、人体実験で殺され、人食いの風習で生きたまま食われた。ごくわずかしか食事が与えられず、不潔な食品や水のために、さらに何千人もの捕虜たちが餓死し、容易に予防できるはずの病気のために亡くなった」

捕虜に対する虐待がなぜ日本軍では日常的に行われたのか、本書は次に引用するように日本軍の特異なカルチャーにその原因の一端をみる。

In the Japanese military of that era, corporal punishment was routine practice. “Iron must be beaten while it’s hot; soldiers must be beaten while they’re fresh” was a saying among servicemen. “No strong soldiers,” went another, “are made without beatings.” For all Japanese soldiers, especially low-ranking ones, beating was inescapable, often a daily event. (p194)

「当時の日本陸軍では、下士兵に対する殴打は日常的に行われていた。『鉄は熱いうちに打て。兵士は下っ端のうちになぐれ』ということが兵士の間ではよく言われていた。『殴られてはじめて強い兵士ができあがる』とも言われていた。すべての日本兵にとって、特に下級の兵士たちにとって、殴られるのは避けられないことだった。しばしば、毎日、殴られたのだ」

兵士たち自身が、日常的に殴られた経験があるため、そのうっぷんが捕虜に向かったというのだ。評者・森川は本書を読んでいた時期に、五味川純平が軍隊の不合理を描く戦争小説「人間の條件」を読んでいたので、日本軍の体質に関する本書の指摘にはうなずけるものがあった。

原爆の正当化

しかし、捕虜を虐待していたのだから、東京などへの大空襲や、広島と長崎への原爆投下はしかたがなかったという、論理を展開する点には納得がいかない。

例えば、アメリカ兵の捕虜が終戦直後に、原爆を投下された広島市の中心部を汽車で通過した時を述懐する次のようなコメントも引用している。

“Nothing! It was beautiful.”

「『何もなかった。美しかった』」

アメリカ兵の捕虜たちは原爆のおかげで終戦を迎え、自分たちが解放されたと思っていたので、何もない爆心地をみて美しいと感激したというのだ。その元捕虜のコメントには次のような発言も含まれている。

“I know it’s not right to say it was beautiful, because it really wasn’t. But I believed the end probably justified the means.” (p320)

「『実際には美しくはなかったので、美しいというのは正しくないと分かっていた。しかし、おそらく目的は手段を正当化すると信じた』」

日本外交はこのベストセラーに対応できているか

戦争を終わらせるためには、原爆投下はしかたがなかったという、アメリカ人の保守層を中心とした典型的な理屈がみてとれる。本書では、日本兵による捕虜虐待について詳述する一方で、原爆で何十万人も民間人が死んだことには一切、言及しない。次の一節では、そもそも原爆で被害者が出たのは日本政府の責任だと言わんばかりだ。

That same night, B-29s showered leaflets over thirty-five Japanese cities, warning civilians of coming bombings and urging them to evacuate. The Japanese government ordered civilians to turn the leaflets in to authorities, forbade them from sharing the warnings with others, and arrested anyone with leaflets in their possession. Among the cities listed on the leaflets were Hiroshima and Nagasaki. (p297)

「(大空襲があった45年8月1日の)同じ夜に、B29戦闘機は日本の35を超える都市にビラをばらまいた。空襲が近いので民間人は避難するように伝えるものだった。日本政府は国民にビラを当局に渡すよう命じ、ビラに書いてあったことを他の人に話すことを禁じた。ビラを所持している者はすべて逮捕した。避難が必要な都市として記載していた都市名の中には、広島や長崎の名前もあったのだ」

評者・森川は正直、日本が第2次世界大戦で捕虜をどう扱ったかという点について、なにも知識を持っていなかったので、本書に対しては戸惑いが多い。引用した統計数値の妥当性についても判断する能力がない。

それ以上に分からないのは、なぜ今この時期に、このような本が出版され、なおかつ大ベストセラーになっているという事実だ。

日本人はこのような本がアメリカで売れていることを知っておくべきだろうし、日本の外務省なども本書の内容を分析し、外交戦略の一環として、日本に対するイメージを向上させる対抗策をどう展開するのか、考えた方がいいだろう。

ンジャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアップwwww

これはネトウヨが「韓国系が書いた捏造本だ!」とか何の根拠もないことを喚き出しそうな本だな。
仮にもしそうだったとしてもアメリカでベストセラーになってたわけだからアメリカ国民に支持されてることに変わりはないわけだが。

日帝の残虐性はアメリカ様ですら認めるところだからな。仕方ないな。
ドイツやイタリアですら捕虜死亡率は1%程度だったのに鬼畜日帝は捕虜の4人に1人以上を死に追いやっていたんだもんな。
そりゃ鬼畜日帝が侵略虐殺強姦国家だと中韓のみならず世界中で言われるのも無理はない。

あと気になったのは原爆投下についての記述。

>「(大空襲があった45年8月1日の)同じ夜に、B29戦闘機は日本の35を超える都市にビラをばらまいた。空襲が近いので民間人は避難するように伝えるものだった。日本政府は国民にビラを当局に渡すよう命じ、ビラに書いてあったことを他の人に話すことを禁じた。ビラを所持している者はすべて逮捕した。避難が必要な都市として記載していた都市名の中には、広島や長崎の名前もあったのだ」

アメリカが原爆投下前にビラをばら撒いて犠牲者をできるだけ少なくしようとしたのは事実だ。
ほら、↓これ。


原子爆弾の投下を予告するビラ
http://www.geocities.jp/kyo_oomiya/datm.html

日本國民に告ぐ!!
"即刻都市より退避せよ"





ああ、こりゃやっぱり原爆投下は日本にも責任がありますわ。
もちろん原爆投下したアメリカも悪いが、せっかくアメリカが原爆投下を予告するビラをばら撒いてくれたのに広島や長崎の市民を避難させなかった日本も悪い。

被爆者が日本政府にも責任を求めるのは当然だな。
やっぱり日帝は滅びるべくして滅びたクソな国ですわ。

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全空連笹川良一と少林寺拳法宗道臣は児玉機関時代からのつきあい 大陸で暗躍した大陸浪人

http://m-ken.blog.eonet.jp/weblog/2011/02/post-1ac3.html

黒龍会と満鉄と古歩道



先般、古歩道の福岡講演の動画をクローズUPしたダス。

ベンジャミン・フルフォード 熊本講演 8/27(金)19時~



そのビデオには黒龍会のことに触れていた。

日本松林寺拳法の創始者である宗道臣(中野益臣)は内田良平が主宰する政治結社「黒龍会」の付属道場「天真館」では、「自剛天真流」と「講道館柔道」の双方を指導した。

少林寺拳法



戦前後に紅卍教と大本教の出口王仁三郎と黒龍会との関わりは有名である。

偶然だが、この少林寺の師範になると昔は少林寺の胸元の卍が赤にあるのです。

少林寺拳法 (shorinji kempo) 柔法 三角技法 森道基 表・裏投




なにもご存知ない方はこのウサンクサイ秘密結社のようなものが実在するのか?と疑問に思われるでしょうが

しかし、この黒龍会は実在するのです。

そして満鉄とも関係があるのです。

満鉄とは当時の日本のスパイ最高機密機関であるのです。

そのことが草柳大蔵先生の実録満州鉄道調査部に記されている。

実録満鉄調査部




そして満鉄には、かつて少年期に私が修行した日本松林寺拳法の創始者の宗道臣が特務機関で日本の為に命をかけて任務にあたっていた。

これも不思議な縁だがオイラが少年期に四国の本山で宗道臣と右翼のドンと言われる笹川良一とのやり取りを直接この目で見た。

【笹川良一】1981年少林寺拳法全国大会



「CIAの対日工作」より大物右翼はCIAの協力者であった。


大物右翼はCIAの協力者であった。

処刑されたA級戦犯者の間の生死を分けた一線はなにだったのだろう?

答えは「秘密のファイル・CIAの対日工作」、著書 春名幹夫の著書のP257から明らかにされている。

その本によると児玉や笹川は戦後GHQからCIAの情報協力者として命の引き換えとして利用されたと秘密のファイルに明記されている。

秘密のファイル〈上〉―CIAの対日工作




アメリカ―CIAは、日本に対して何をしてきたのか。戦前・戦中の情報戦、占領期のキャノン機関、児玉誉士夫、笹川良一の活動など、昭和史の転換点には、つねにアメリカの情報工作があった。米国立公文書館に眠っていた膨大な機密書類の発掘とその分析、そして関係者多数の証言から、アメリカによる対日工作の実態を浮かび上がらせる。歴史上の疑問と疑惑に答える日米関係裏面史。

↓に宗道臣にまつわる記事がある。


【特務機関】少林寺拳法創始者 宗道臣について2




日本少林寺拳法の振動共鳴と不思議な縁

そして何百人といる四国の多度津の金剛禅総本山の日本少林寺拳法の有段者の試験に来ている拳士や参観父兄なのどの前で迎賓挨拶をしようとして、もたもたしている笹川良一に宗道臣は「笹川君はやく祝辞を述べたまえ」と恫喝したのです。

日本広しと言えどもあの右翼のドン笹川良一をクソミソに恫喝出来るのは宗道臣ぐらいと泉州尾崎道院の私の恩師マスター新保が言っていた。


僕が少年拳士の少林寺の修行で座禅で七分呼吸ををマスター新保から伝授してもらっている時に「七分呼吸とは一旦吸い込んだ息を丹田まで下ろして10分の内7分をゆっくりと吐きながら3分を残したまま再度、7分の息を吸い込み再び丹田に下ろす」と教えられて子供ながらにして、その丹田に下ろす方法が全く出来なった。

単純な僕はマスター新保に「新保先生!丹田に息を下ろすにはどうすれば出来るのですか?」と幾度なく質問した。

おそらくマスター新保は忘れていると思うが、僕はうまく丹田に下ろすことが出来ないで精神統一が出来ずに子供ながらに自分に納得できないでいた。この少年期の修行で僕は七分呼吸で息を丹田に下ろす方法を会得した。

この体験があるからスパ・リフレでサウナの中で瞑想して丹田呼吸をしたときに意識が共鳴したのだろう。


この時の様子は以前のブログでも書いている。

この少林寺拳法は映画にもなった。

映画『少林寺拳法』ダイジェストfull-Shorinji Kempo "The Killing Machine"



少林寺拳法・開祖宗道臣について・第一

少林寺拳法・開祖宗道臣について・第二



M総合研究所: 十四経絡七百八穴は電気的信号を発して振動して共鳴する

2008年1月9日 ... またM総合研究所を通じて自身が興味を持った参考文献の著書を何百冊と拝読して参りました。 .... 僕は少年期に日本少林寺拳法を習い、宗道臣から四国の少林寺本山で直接叱られて、笹川良一と宗道臣の関係を知った。


神坂新太郎の談話室

満州鉄道調査部には日本少林寺拳法の創始、宗道臣先生も調査員として隠密行動をされていたと聞いております。 また、私の過去に不思議なご縁で船井幸雄先生と最近、共同
出版されている副島先生とも以前、M総合研究所で「経済安全保障問題」をネットで ...



そして僕が、尊敬する少林寺の師範で5段の紀州白蓮の副道院長から宗道臣のことを酒席で伺ったが事実です。


このように僕はホントに不思議な縁と体験をしている。

スパ・リフレで少林寺で会得した瞑想法の七分呼吸で丹田に息を思いっきりため込んで瞑想していると突然、貨幣制度の虚しさが込み上げて来た。

その瞬間に小型UFOから脳が振動する「ギュルル・ギュルル・ギュルル」と言う異音を受けた。


僕はこのM総合研究所を通じて自分が体験してきた事実のことを魂の振動として真実を残して来た。

僕は、本当に偶然の上に偶然がかさなり、不思議な縁と不思議な体験がこのように数珠繋ぎなのです。

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裁判所の闇、企業や政治家のインチキを暴く者に敵意を表すのが日本人という鬼畜民族なのです

http://ameblo.jp/shyusui/entry-12126066164.html


『ウソ』でできている日本人



2016-02-07 14:13:35
テーマ:日本最後の日


人は、何に従って生きているのでしょうか?


まことの意味で「神を信じる人」は多分、理性にしたがって生きているでしょう。



「ユダヤ」の影響を受けて、「理性」を「打算」と思っている人がいるので、別のことばで補えば…


良心にしたがって生きている…でしょう。



しかし、周囲を見渡してみて…


「この人は、何にしたがって生きているのだろう?」と思って観察していますと、どうも理性とか、良心にしたがっているようにはみえません…



その人を動かしているものは、欲望や恐怖、興味や打算、世間体、もしくは「世間の常識」等々の”掟”であり、そのときどきの気分と感情にしたがっているようにみえます。



とりわけ、「日本人は、何にしたがっているか?」と問うてみたとき、浮かんでくるのは…


”習性”…ということばです。



日本人は、ある種の”習性”にしたがって生きているにすぎない…


「いろいろ考えて」はいるらしいが、それは「思考」というよりは、去来する様々な”思い”や”心配”のことで、ちょうど仏教で言うところの”煩悩”がピッタリくる気がいたします。



その”煩悩”に煩わせられまいとして、日本人は…


「人に嫌われる」ことを恐れ、「ひとりぼっち」の孤独を恐れ、その結果…


「長いものに巻かれ」「権威に服従し」「みんなといっしょ」だと安心するような”習性”を…


骨髄にまで刻み付けてきたのではないでしょうか?



それはちょうど、前のクルマに何も考えずについていく運転をしているドライバーみたいなものです。



自分で判断するとか…


自分の考えを作り上げるとか…



”自分自身”の核となるべきものが… ”ない”のです…



その薄気味悪さが、太宰治の『人間失格』には描かれていましたね?…


自分を殺して(それでいて”我”は強いw)、思考停止のまま生きている…


欧米人が「日本人は何を考えているかわからない」というのと同じ”違和感”を…


太宰も感じていたのでしょうか?



太宰の感じた”違和感”は、たとえば食事時…


「人間は、どうしてごはんを食べなければいけないの?」


「人間は、めしを食べなければ死ぬからだよ」


それでは…「死にたくない」という一心で、人ははたらき、食事をしているのか?」


「まるで”脅迫”ではないか!!」




私も感じ続けてきた日本社会に対する”違和感”の一面を見事に描き出している気がします。



日本が、人間を家畜として扱い、人民も「よき家畜」であることを”誇り”にさえしているという…


この倒錯しきった狂気の社会は、明治にはすでに存在していたということなのです。



黒人奴隷やネイティブアメリカンの悲劇の歴史と日本人民の歴史に本質的な違いはあるでしょうか?



あるとすれば、自分たちが奴隷であり、支配されているという自覚があるかないかというだけでしょう。



その狂気の人間支配のなかでとった主人公葉蔵のとった戦略は…


本当のことは、何も言わない…でした…



笑わせておけばよいのだ。本当のことを言えば、みんなに嫌われてしまう…




『私は貝になりたい』では、ありませんが…


私もしばしば、(日本人相手だと)何も言いたくない気分にさせられます…



のっぺらぼうの中身ぴーまん日本人に嫌われないようにするために…


結局、葉蔵も『ウソ』で固めて、自分という中身を殺してしまったのです…



神様から授かったかけがえのない”自分自身”を…


どうしてのっぺらぼうに「嫌われたくない」「仲間外れにされたくない」という理由で捨ててしまうのか?



大切なものを捨て去って、『ウソ』のなかで安寧に生きている日本の庶民…これは”善”でしょうか?



対米英戦突入を、むしろ痛快として捉えていたフシのある太宰ですが、「ユダヤ」による茶番だったということまでは思い至らぬものの「ヤケクソの戦争」とは思っていたようです…


アジア人同士を殺し合わせる…


日本人というゴイムを殺処分する…


そのための茶番の戦争だった…



しかし、日本人も茶番の民族…


『ウソ』は信じるくせに…






自分が本当に苦しくて、心の底からうめいたことばを日本人は信じない…



川・ε・川9m いまもそうですね…ウソツキを信じ、真実を語る者を迫害する…


裁判所の闇、企業や政治家のインチキを暴く者に敵意を表すのが日本人という鬼畜民族なのです…



そんな鬼畜外道に調子を合わせていたり、媚び諂っていて、”人間の自由”がどこにあるでしょう?



あなたが本当に”人間の自由”を求めるのであれば…


この闇民族とは、決別すべきでしょう…



ただし、太宰は決別できなかったようですね…



そこが、私と太宰との決定的な違いなのでしょう…

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メンデス兄弟 vs 芝本幸司  6:37にギィと12:40にハファとのスパーリングが収録

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合気道の塩田剛三 少林寺拳法の宗道臣 ヨガの中村天風 沖正弘 は中国大陸で暗躍していた大陸浪人 謀略活動のスパイだった!

http://8704.teacup.com/ogodo/bbs/8380

陸軍中野学校の知られざる実態 投稿者:日の本、再び!メール 投稿日:2015年 6月26日(金)17時22分1秒   通報


数日前、以下の事を書いた。そして、その続きを述べたい。

昭和49年、偽の命令書によって30年間のルバンク島における残置諜報活動より
解放された小野田元少尉は、短波ラジオ放送からの傍受より「日本は経済的には、
復興したようだが、日本全土は米軍に占領され国内は傀儡政権によって成り立って
いるに過ぎず、真の救國政府は何処か、本土以外でも存在しているはずだし、必ず、
戻ってきてくれる」と分析し、判断していたが、日本が傀儡政権と言うより、マス
コミによる情報操作を他国がし、それを似非インテリ達が付和雷同し、自主性を失
っている面は、むしろ、30年間、ジャングルにいた人の方が正しい認識と言える。

さて、小野田少尉で陸軍の残置諜報活動は終わったのか? もう、時効であろうから、
敢えて、ここで述べよう。その前に、以下の事も書いてきたので、再掲載する。

小野田自然塾校長・小野田元少尉、少林寺拳法開祖・宗道臣、
天風ヨガ・中村天風、沖ヨガ・沖正弘、合気道養神館館長・
塩田剛三、いずれも、陸軍中野学校、及び、軍の諜報活動者
であった。(すべて、ヨガ・武道の指導者になっていた)

終戦末期の昭和19年に中野にある「陸軍中野学校」がありました。この学校の
分校の卒業生が小野田寛郎さんです。小野田寛郎さんの大きな仕事は残置諜者。
残置諜者といえば、「現地人になりきって、現地のために尽くす」ということが
残置諜者の活動です。その目的は必ず、復活する帝国軍のお役に立つこと。その
間は、少しでも、大東亜共栄のために、尽くすこと。

敗戦が昭和19年には決定したと予測した帝国陸軍は、陸軍中野学校を成立させました。
3000名の学生を募集して養成したのです。陸軍中野学校は、スパイ学校だと思われ
ていますが、一般的なスパイではなく、残置諜者の養成所だったのです。

ですから、それは小野田さんのように、外地での残置諜者も居れば、精神的に占領地と
なった日本での「残置諜者」活動もあったという事です。それが、見事に、ヨガや武道
の指導者となって、日本のこれ以上の腐敗を抑へんとしたわけです。

少林寺拳法の宗道臣も、養神館合気道の塩田剛三も、資金源は笹川良一です。
旧帝国軍は、敗戦後も、動いていたわけです。

そして、現代は、一部の人が気づいている『日本会議』も、この延長上にあります。

http://blog.livedoor.jp/soemon/archives/54904859.html

*もちろん、生前の小野田さんもここの会員であり、その頃は、ヨガの会でも私は
 小野田さんにお会いしました。また、現在この会の会長は、平沼赳夫さんですが、
 ここでも昔、述べたことがありますが、現在のように元気になる前は、脳溢血の
 後遺症で歩けず、私の道院、エナジーパゴダで歩けるようになり、立ち上がれ日本
 を立ち上げましたが、私は未だこの会の会員ではありません。平沼さんには、だいぶ
 意見をしたので、嫌われたかも知れません(笑)。ともかく、戦争は続いているよう
 です。





(管理人) 小野田さんは、
国内に真の救國政府か、真の救國軍が無いならば、
国外なら満州の地下深くに潜んでいるのであろうと
思っていたようですが、案外、沖縄や北海道辺りに
もっと目立たない『国民会議』ができているかもし
れません。案外、日本民族はしぶといのかも知れま
せんよ。

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