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あなたの知らないマット世界シリーズが復活
RIZINによって格闘技ブームが復活したと見ていいんでしょうか
視聴率も良かったようです

で肝心の久々の復活の反逆マット世界ですが
まずハッキリ言ってこれまでの記事の使いまわしが目立ちます
2014年の悶絶マット世界を始めとするネタの使いまわしですねぇ

目新しい記事はRIZIN関連と新日本の関連
そして現在の日本の格闘技とプロレスの黒幕 矢吹満こと玄満 玄満植関連でしょうかね

玄満植に関してはネトウヨどもが大騒ぎしているので知ってる人は知ってるでしょうが
この現在の格闘技界の黒幕は元々は中村日出夫先生の拳道会の日本王者として空手界では知る人ぞ知る有名人です


今回はそれまで紹介していなかった悶絶マット世界も含めて2冊をレビュー

アリvs猪木の緊迫した八百長の裏側をタナカタダシが暴露
でもまぁ
これも血栓症そのものについても描かれてますが甘いなぁ
そもそもアリはその猪木との八百長試合直後にアマチュアボクサーとエキビジョン試合やってて入院なんぞしてないんですよねぇ

■猪木アリ戦に関する誤解
①猪木側がアリ側に支払った金額は610万ドル(18億円)ではなく、180万ドル(5億5000万円)。
②重傷をおったといわれるアリは猪木戦直後、マニラと韓国を訪問してアマチュアボクサーと戦った。
③アリの入院期間は1カ月ではなく、たったの4日。
④アリが入院したあとのケン・ノートン戦は延期されていない。予定通り猪木戦の3カ月後に行われている。
⑤血栓症は打撲だけでなく長時間飛行機にのっていても発病することがある。
⑥アリが包帯ぐるぐる巻きの写真を撮らせたのは入院先の病院ではなく、京王プラザホテル。
⑦猪木の寝っ転がった状態でのキックはとっさに出たものではなく、試合の2カ月前から練習していた。
⑧試合当日、武道館は満員ではなく65%の入りだった。

その辺はプロレスライターでもあったタナカ氏が描いたからからかねぇ
身内にはホント甘いよなぁ
プロレスマスコミは

あとブック破り
八百長反故のシュートに関しても知っているような記事ばっかで目新しい記事一切なし
これもプロレスマスコミの限界なんすかねぇ?
どうせならカールゴッチ門下のマットフューリーからルーテーズ潰しの真相を語らせたらいいじゃんか
何故かどこぞから圧力がかかったのかゴッチのテーズ潰しの真相が明かされずじまいに終わったけどなぁ
やっぱ福昌堂にも木村政彦連載時の増田俊也さんの時の様に脅しがかかったと見ていいんすかねぇ?

それと
グレイシーをディスりたいのはわかりますが
グレイシーが没落って…
これ描いたの日本のプロレスマスコミか?
この記事も色々と甘い

まず格闘技ブームの衰退した日本でのグレイシー人気は衰えたのかもしれんが
欧米ではグレイシーの道場は増大 拡大していて
ヒクソンもホイスも道場無くてもセミナー開くだけで飯が食えている現状です
グレイシー人気とか地位はむしろ柔術人気の高い欧米で確立しています
あとハクソンの死は日本のマスゴミが描いたバイク事故じゃなくて欧米のマフィアとのドラッグ絡みなのは欧米じゃ有名
それなのに専門誌の同僚に遠慮してかバイク事故としか描いていません

ハイアン関連も甘い
まずハイアンと抗争中のギャングは日本の暴力団のような組織じゃなくて
映画シティオブゴッドに出てくるような20代10代を中心としたギャングたちです
耳を噛み千切ったのもストリートファイトではなくプライベート私有地での決闘での出来事です
死因もギャングに刺されたナイフではなく拘置所での薬物投与が死因です

というかリアルファイトとプロレスをごっちゃにしていること自体が意味不明
ホーレスとダニエルが桜庭タッグに敗れたって…
いや
それ

リアルファイトじゃなくて八百長試合のプロレスでしょーが!

まぁ
それ以外はほぼ事実というか真実
グレイシーが銭ゲバだというのも事実でしょうが
逆にグレイシーがファイトマネーの向上で
プロの格闘家のギャラがアップしたとも言えるんですがねぇ
なんせ
ちょっと名の知れたプロのトップがファイトマネーを現金ではなくチケット渡されてそれを売って身銭を稼いでいるんですよ!
しかもその内の何割かは会社かジム 団体などに返さなきゃいけないのが日本の格闘技とかボクシングの常識で
儲かっているのは団体とかジムばっかで選手個人にはお金は一切入らないシステムになっているのが日本の格闘技の現状なんです

その辺もちゃんと描けってんだよ

あと日本のプロレス界の暴力体質(男子だけじゃなく女子も)は別に佐々木健介に始まった事じゃないけれど
長州も酷かったし前田も藤原もそう

受け身の練習中に事故死という形でこいつらに殺された人間がどんだけいるか

しかもそんな暴力体質は日本のプロレスだけじゃなく日本のプロレスの源流の相撲部屋とか日本柔道界 日本の自衛隊など日常茶飯事なんだよねぇ 

あとあとなんで長野氏のインチキ武術家暴露話を取材までしておいて掲載しないんでしょうかね?
武術家のバックの右翼あたりから圧力でもかかったのか?

そもそもグレイシー関連の記事で
ホーレス&ダニエルと桜庭タッグのプロレスがリアルファイトとして描かれているのにもプロレスマスコミ側の作為的なものを感じるし
それは週刊大衆のキムラ連載でも感じる事
木村政彦のプロレスは八百長で力道山とかルーテーズのプロレスはリアルファイトの様に描いている事
これもコミック版の作家である原田がプロレス側から宛がわれた作家なのではないか?
とも思えるような内容に変化していることだな

力道山の空手チョップの手刀を鈍器で鍛えたいうのもプロレスの作り話
いわゆるアングルだろうに
それに大山倍達は遠藤の話によればプロレスなんぞしてはいないと

他にも大山は拓大空手部ではなく義方会空手の出身で曺寧柱先生の門下生です
曺寧柱は木村政彦の空手の師でもあり
大山倍達と木村は空手の兄弟弟子に当たります

色々と触れちゃうとやばいんでしょうかね?

他にも柔道関連じゃ溝口紀子先生から柔道の暴力的なムラ社会のネタとか
ヤノタクからは格闘技界のオウム骨法の面白いネタとか聞けそうなのに

ネタにしないのはどういうことよ?

あとインディープロレス最強のフッカー木村浩一郎が佐々木健介の横柄な態度にむかついてスパーで手合わせしてボッコボッコにしたとか
逆に安生とスパーしてその強さに驚愕し一目置くようになったとか
リングスジャパン勢はロシアと違って激弱だったとか

そういった面白いネタとかいっぱいあるでしょ

証言者である木村浩一郎はもはや故人だけどさ

ヒクソンが身内のグレイシーであるカーリーとVTやったりとか
ビクト―ベウフォートをボッコボッコにしたとか
聞けば幾らでも答えてくれそうなのにねぇ

あとヒクソンの敗戦が子供時代のものしか描いていないのも甘いわぁ
ヒクソンは地元ブラジルのレスリングで反則負け
アメリカじゃサンボで負けている
その辺は何故描かないわけ?
それとも知らないわけ?

マニアなら大抵知っているのに

にしても
大山倍達のウィキ見ましたがホント大山サイドに都合のよいように編集されてんなぁ
アメリカでレスラーボクサーと戦ったとか 拓大空手部だったとか嘘ばっか

あと木村浩一郎ですが青柳 政司の誠心会館とスパーして空手家をボコボコにしたりとかあったんとか
ホントこの人の本が出てたら面白かったんでしょうけれど

三船久蔵の琥珀の技 三船十段物語
のI八段こと岩淵信八段とか新撰組の生き残り奥田松五郎とかのエピソードとかも面白いと思うんですけれどね

あとヤバい経済学の映画でもネタにされていた大相撲の八百長の数学
それと時津風部屋リンチ殺人事件を例に警察と相撲部屋の癒着関係とか

描けるネタは色々あんでしょう
なんで使い古しの誰でも知ってるネタばっか使うわけ?

やっぱヤクザ関係の出版社だから
関係しているヤクザと右翼に遠慮してヤバイネタは描けない言うわけ?

最後に木村政彦ネタの記事ですが
桜庭がホイラーにかけた技は厳密には柔道式のキムラロックというよりは
キャッチ式のダブルリストロックです

ホント
コマかいツッコミばっかですがね

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ブラジリアン柔術大会 COPA Las Conchas 2016 ライブ配信中

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女子柔術家がジョッシュバーネット門下の女子キャッチレスラーとキャッチレスリングで対戦!



裸足の方が柔術家でレスリングシューズを履いた方がキャッチのレスラーですね
IBJJF ADCC Metamoris などを始めとするノーギ競技とは違い
キャッチレスリング競技はフォール 肩がマットか床についた状態だとフォールになってしまうんでガードのテクニックが使えなくなるっていうのがキャッチレスリングのルールの特徴ですねぇ

キャッチレスリングは元々は

時間無制限で壁なども駆使した荒っぽい戦い

だったとライレージム京都の先生がおっしゃているので
いわゆる初期オリンピックのキャッチアズキャッチキャンスタイルレスリング=フリースタイルレスリングとは別物
リングの上で戦うガス灯時代のプロレスとも別モンで

いわゆる細かい安全性の高いアマチュア五輪競技ルールとしてやられていたもの
プロのレスラーがリングの上で披露していたもの

とは別モンだってこってしょうねぇ

だって時間無制限で壁も駆使って

競技というよりはブラジルの興行ではないバーリートゥード
リングでは行われない非公開の戦いをやっていたってこってしょう
当時のキャッチのレスラーたちは
だからそういうものが世界選手権やってましたとか
プロのリングでやってましたとか
そうういうもんでは一切ないと

いや
だって
時間無制限のレスリング競技 壁を駆使するレスリング競技が世界選手権行われていたってことはまず無いでしょう
ライレージムなど身内の世界でのみ行われていたって考えればいい気がしますねぇ

そういうものが現在は競技化されて見直されているというこってしょうねぇ
カールゴッチやビルロビンソン ロイウッドのノウハウがね

元々はUWFブームの時にはゴッチの関節技がサンボの関節技同様
プロレスファン プオタに注目されて一部の人がサンボに走ったんですけれど
当時はアマチュアは空手やる人ばっかで
まだMMAは 当時の呼び方では総合格闘技はどマイナーで

格闘技ブームと言っても見る側の人ばっかでやる側の人はホント少数
まぁ
当時の格闘技の人って先生もプロもヤクザか右翼みたいなおっさんばっかで
中井さんみたいな一般の人が安心して習いに来るような先生がいる環境じゃなかったですもんねぇ

しっかしジョッシュははロイウッド先生とか宮戸氏とかとは違い
ホント
柔術ともフツーに交流してますなぁ
まぁ
師であるエリックパーソン先生がキャッチのみだけでなくジークンドーにフィリピン武術 柔術のエキスパートでもあるので
特に交流することには一切の抵抗はないんでしょうなぁ

逆に鈴木みのるとかもそうだけれどそれ一筋の人は交流を嫌う傾向にありますなぁ
まぁ
純然たるキャッチを後世に残したいって気持ちもあるし
他流の人間に技術を洩らしたくないっていうんもあるんでしょうねぇ(一昔前のヒクソンみたく)

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中国史上最も有名な武術家は李書文ではない!李書文と八極拳は中国本土ではマイナーで中国本土では黄飛鴻が最も有名な武術家で中国人ならだれでも知っている! 実は中国本土では八極拳はマイナーで拳児で格下扱いの洪家拳こと洪拳の方が断然メジャーだったりする!ワンス・アポン・ア・タイム・イン・チャイナ

WongFeiHung.jpg
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%84%E9%A3%9B%E9%B4%BB

黄飛鴻





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黄飛鴻


プロフィール


出生:
1847年8月19日
(清道光27年7月9日)

死去:
1924年4月28日(民国13年3月25日)
中華民国の旗 中華民国広東省広州市

出身地:
清の旗 清広東省広州府南海県西樵嶺西禄舟村

職業:
武術家、医師

各種表記


繁体字:
黄飛鴻

簡体字:
黄飞鸿

拼音:
Huáng Fēihóng
Wòhng Fèihùhng(粤ピン音)

和名表記:
こう ひこう

発音転記:
ウォン・フェイホン(広東語)
フアン・フェイホン(北京語)

ラテン字:
Wong Fei-hung
Huang Fei-hung
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黄 飛鴻(こう ひこう 繁体字: 黃飛鴻; 簡体字: 黄飞鸿; ピン音: Huáng Fēihóng ; ウェード式: Huang Fei-hung, Wong Fei-hung; 粤拼: Wòhng Fèihùhng)は清末民初の武術家、医師である。元の名は黄錫祥、字は達雲、幼名を黄飛熊と名乗る。原籍は広東省広州府南海県(現・仏山市)西樵嶺西禄舟村、嶺南武術宗師であり名医。

中国最後の王朝・清朝末期の時代に活躍した武術家で、中国近代史上では最大の英雄とされる。



目次 [非表示]
1 年譜
2 武歴と評価
3 無影脚
4 映画世界一 4.1 黄飛鴻と香港映画の関係

5 その他


年譜[編集]
道光27年(1847年) 広東南海で生まれる。
咸豊3年(1853年) 5歳で父の黄麒英から武術を習い始める。
咸豊9年(1859年) 父とともに佛山、広州、順徳など各地で武術を演じる。棍の達人を破り”少年英雄”の名を得る。
咸豊10年(1860年) 13歳のとき、佛山豆豉巷で武術を演じているとき広東十虎の鐵橋三の高弟林福成の弟子となり、2年間学び鐵綫拳や飛鉈を習得する。
同治2年(1863年) 広州に移り住み「寶芝林」館主となって第七甫で労働者たちに武術を教え始め、この後は見世物の武術を演じなくなった。
同治4年(1865年) 広州の野菜、果物、魚の三組合から武術教練を依頼され、武術を教える。
同治5年(1866年) 西樵官山で盗賊団に遭遇して一人で数十人の盗賊団を撃退する。
同治6年(1867年) 西洋人が企画した「素手で猛犬を倒せたら賞金」の賭けに挑戦し無影脚で瞬殺、その名を轟かせる。
光緒14年(1888年) 黒旗軍の劉永福に武術教官に招かれ、劉永福より「醫藝精通」の額を贈られる。
民国13年(1924年) 広州城西方便医院で逝去。

武歴と評価[編集]





仏山黄飛鴻紀念館の入口
父であり「広東十傑」の1人に称された武術家・黄麒英(ウォン・ケイイン)の息子で、父より南派少林拳の一派である「洪家拳(こうかけん)」を叩き込まれ父と共に修行の流転旅を続ける少年期を送るが、その技は13歳の時点では既に道場主に匹敵するほどの完成度であり「少年英雄」と称される。

成長した飛鴻は父と共に各地で武者修行を続けるが、同治2年(1863年)父の死に伴い、父が経営していた漢方薬局兼拳法道場である宝芝林の跡目を継ぐ。欧米列強の進出に伴い荒れる時代を予測して農民たちに武道を教え、自警団を率い民間レベルで治安の混乱を防いだ。やがて官軍や警察などにも同様に洪家拳を教授し、動乱時代の国の治安維持に尽くした人物として現在も評価が高い。

彼の伝えた武技は虎拳(伏虎拳、工字伏虎拳)、鉄線拳、十毒手、梅花拳、梅花十字拳、夜虎出林、二龍争珠、三箭拳、五郎八卦棍、胡蝶子母刀、飛鉈など多岐にわたり、高級技法として五形拳(龍形・蛇形・虎形・豹形・鶴形と金行・木行・水行・火行・土行の陰陽五行を相克させた拳法)と十形拳(龍・蛇・虎・豹・鶴・獅・象・馬・猴・彪)を学ぶ。飛鴻は中でも「虎形拳」を大変得意とし武術仲間から「虎痴」とあだ名されるほど多用したと言われる。また父・黄麒英伝の五郎八卦棍や少林五虎の1人・鉄橋三(本名:梁坤)の弟子「林福成」から学んだ鉄線拳を練習すると、屋根瓦が震えるほどの剛強な呼吸法だったと言われる。

さらに獅子舞の名手としても知られ、その技術の高さから「獅子王」という称号も持つ。

民国13年(1924年)没。

仏山市の中心地区にある祖廟の隣接地に「佛山黄飛鴻紀念館」が作られ、家族の紹介や関連映画、粤劇、武侠小説に関する展示などが行われているほか、演武や獅子舞が披露されている。

無影脚[編集]

彼の代表的な(伝説的な)技として有名なのが「無影脚」。正式な技の名称ではないがその素早さは疾風の如く、地面に足の影さえ映る暇もないほどだったことからこの名で称された素早い連続足技である。もともと足技主体の北派少林拳の一種の燕青拳の技だったが、飛鴻は北派の武術家・宋輝堂と自分が伝承してきた洪家拳の技の1つ「鉄線拳」とこの足技を交換教授して会得し、以後は自分の代名詞となるほどに磨き上げていった。

無影脚についての公式な試合記録は数点現存しているがいずれもその脅威の速度と破壊力に言及しており、足技においては「彼以前も以降もない」とされている。

例えば同治6年(1867年)に香港で英国人実業家が見せ物として企画した「猛犬を素手で倒せたら賞金」というイベントに成り行きで参加しているが巨大な闘犬によって多くの挑戦者が大怪我を負う中、飛鴻の恐るべき速度の蹴り技によって一瞬で犬は絶命したと当時の記録に残されている。

映画世界一[編集]

飛鴻の没直後から、中国各地の新聞や雑誌などで黄飛鴻の伝記小説や武勇伝が盛んに連載されたことを機に一気に飛鴻の伝説は広まる。彼を題材とした映画は、第二次世界大戦後である民国38年(1949年)に制作された『黄飛鴻傳上集・鞭風滅燭』(関徳興(クワン・タッヒン)主演。關は武術家でもあり、粤劇の人気舞台俳優だった)が最初であるが以降おびただしい数の飛鴻映画が製作され、2007年現在までに香港で製作された飛鴻を描くカンフー映画は84本にのぼり、これは同一題材で製作された映画の数としては現在世界最多でギネスブックに掲載されている。彼を主人公にした作品で日本でも著名なものは、『ドランクモンキー 酔拳』や『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・チャイナ』シリーズなどがある。

黄飛鴻と香港映画の関係[編集]

飛鴻の弟子の1人であり彼の片腕とされた武術家・林世榮(ラム・サイウィン)の弟子、すなわち飛鴻の孫弟子にあたる劉湛(ラウ・ジャーン)の息子が劉家良(ラウ・カーリョン)である。飛鴻直系と言われる洪家拳を父から学んだ劉家良はその完成度の高さから「洪家宗師」と称されるが、もともと父が武術家としての傍らアクション映画に端役で出演していたことから映画関係にも明るく、やがてショウ・ブラザースを始め数多くの香港映画界でカンフー映画の武術指導を手がけ、自身も多くに出演するなどして香港カンフー映画の隆盛を支えた。なお前述の新聞等で連載された飛鴻の小説の作者・朱愚斎も、本来は林正榮の弟子の武術家である。

その他[編集]

日本の作家東城太郎も、黄飛鴻を主人公とした活劇小説を3冊刊行している。また、梶研吾によるシャーロック・ホームズを主人公とした小説『バトル・ホームズ』シリーズの2巻にも、黄飛鴻が登場する。 又、一説によれば黄飛鴻は、1848年の8月18日生まれとあり、享年75か76とある。これは、「大図解」カンフーの必殺技や「決定版」中国武術最強の必殺技FILEと言う名の本によるもの。台湾のゲームメーカーIGSが発売した対戦格闘ゲーム『形意拳』は黄飛鴻をモチーフとしているが、日本で発売されたバージョンでは全て架空の人物名に改変されている。

http://www.geocities.jp/hajon_in/once-upon-a-time-in-china.html

ワンス・アポン・ア・タイム・イン・チャイナ







さて、今回はジェット・リー(リー・リンチェイ)の代表作ワンス・アポン・ア・タイム・イン・チャイナシリーズである。

え?ブルース・リーが「燃えよドラゴン」でジャッキーが「酔拳」ときたんだからリンチェイならまず「少林寺」だろうって?
まぁ、順番から行けばそうかもしれないし、実際「少林寺DVD BOX」も持ってるんだけど
こっちの方が好きなんだもん。
まぁ、いずれ「少林寺シリーズ」の方はレビューします。

しかし、このワンス・アポン・ア・タイム・イン・チャイナシリーズは全部で3作(天地黎明、天地大乱、天地争覇)
あるため、全部を事細かに解説するときついので、全体のシリーズとしてレビューしたい。

主役のリンチェイ(どうも「ジェット」ってのはしっくりこないので、こっちで呼びます)が演じているのは、
ジャッキーが「酔拳」で演じたものと同じく、中国の英雄「黄飛鴻」です。
ジャッキーはおふざけ黄飛鴻を演じたけど、リンチェイの黄飛鴻はモロ正当派。
「強く」「正義感があり」「自分に厳しい」
とお堅いヒーローを演じています。

とにかくこのシリーズを通して、まぁ、リンチェイ黄飛鴻が強いこと強いこと。
負けることはおろか、まともに殴られることすら殆どありません。
おそらくこれは「黄飛鴻は武術の超達人で、彼にかなう者などいなかった」という前提が
こういうヒーロー像を生み出してしまったのではないだろうか。
しかし、実はこの大前提は映画を見る側からすれば非常にマイナスに働いてしまうのである。
だってそうでしょう?始めっから勝つと思って見ていたら緊張感も何もあったもんじゃない。
ヒーローが悪者に負けそうになってこそ、観客は「がんばれ!負けるな!」と感情移入をしてくるのだ。
スーパーマンやウルトラマンだって、一旦は負けそうになるもんです。
そして最後にヒーローが逆転して「やったー!!」となるのが普通であろう。

しかし、このリンチェイ黄飛鴻は殆ど負けそうになることがない。
ではどうやって、観客に緊張感を持たせていたのか。
それはズバリ「バランス」である。

この3作において非常に共通するのが「不安定な場所での戦い」である。
1作目では、ラストにイム師範と穀物工場のはしごの上で戦い、
2作目では白蓮教祖と机をくみ上げた台座の上で戦い、
3作目では中盤油のまかれた床で戦うし、ラストもやぐらの上で戦う。
まともに地面の上で戦っている場面が非常に少ないのが分かると思う。
つまり、武術の実力で黄飛鴻を越えるキャラが出ることはなく、それだと黄飛鴻が楽勝で敵に勝ってしまうので、
黄飛鴻を不安定な場所に置き、観客の「ヒーローが危ない!」という気持ちを煽っているのだ。
でも、敵も足場が不安定なので結局黄飛鴻が勝つんだけどね。




さて、簡単に3作を紹介しておこう。
●1作目「天地黎明」
中国には徐々に西洋化の波が押し寄せ、中国人を奴隷として使おうと企むアメリカ人や中国を統治しようとする
イギリス、また地元のチンピラ等も絡んで来る中、黄飛鴻が悪人を次々に倒していくというもの。
道場破りよろしく、黄飛鴻に戦いを挑むイム師範も現れ、黄飛鴻はどう戦うのか!?
と言った内容。
クンフーシーンが一番多いのはこの作品だと思う。
クンフーがみたいならこれを見ましょう。

●2作目「天地大乱」
世は外国人排斥運動のまっただ中。
1作目とは反対に今度は外国人が中国人に攻められている。
その中心となっているのがカルト教団の「白蓮教」
そして、そんな世の中をまっとうにしようとする中国の雄「孫文」率いる「革命派」
革命派を捉えようとしている「朝廷側」
そして何よりも人命を優先する黄飛鴻。
これらが複雑に絡み合う非常に見応えのあるストーリー。
1作目よりはクンフーシーンは少ないが、アクションの切れは上がっている。
全3作の中で最も評価の高い作品。
2度、3度と見ると実に念入りに作られた作品と分かる。オススメっす。

●3作目「天地争覇」
父親に結婚の許しを貰いに行ったところ、獅子舞大会に巻き込まれる黄飛鴻。
(あれ?1行で済んじゃった。)
そんなわけないだろうと思うでしょう。
いや、実際に見ると細かい複線はあるにしろ、大筋はほんとにこれだけなんですよ。
2作目に比べるとどうしても見劣りしてしまいますし、ワイヤーアクションもなにか、
ひねりすぎって感じがしてしまうんですよね。
アクションを見て、「スゲー!」っていうより「んなわけないやん」っていう思いが先に来てしまうのです。
獅子舞をみるのが好きだというかたはどうぞ。(いるのか?)




☆中国文化における獅子舞
ちょっと書きましたが、このシリーズでは獅子舞がよく出てくるんですよね。
1作目のオープニングも獅子舞からだし、3作目では獅子舞大会がもろに話の大筋だし。
リンチェイは他の「阿羅漢」でも獅子舞やってるし、ジャッキーも「ヤングマスター」で獅子舞してます。
私はよく分からないけど、中国でこの手のシーンが上映されてる時って盛り上がってるんだろうか?
だれか知ってたら教えてほしい。

☆音楽
音楽が実にいいですね。
テーマソングなんて、歌詞が最高です。
「男なら自分を鍛えよ」ってとこが好きです。
BGMも良いですね。
特に2作目のラストで孫文が旗を広げるところのBGMが一番好きです。
是非聞いてみて。

☆リンチェイの体術
最後になりましたが、このシリーズの一番の魅力は間違いなくこれです。
とにかく素晴らしいの一言。
蹴り、突き、さばき、構え どれをとっても「美しい」です。
1作目の戯劇舞台の前で敵に取り囲まれ、棍を構えるリンチェイはそのたたずまいだけで、実に画になります。
ダンスで言えばジャッキーの体術は「ブレイクダンス」
リンチェイの体術は「バレエ」ってな感じでしょうか。 ついみとれてしまいます。
是非見てみて。




とまぁ、長々と解説してきましたが、このワンチャイシリーズってこれ以降いっぱい作られてるんですよ。
でもリンチェイが主役張ってるのはこの3作と外伝のワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカです。
「ワンス~アメリカ」は見てないのでどんな作品か分かりませんが、他の香港映画サイトでの評判はあまり
よろしくないみたいなので購入する予定はいまのところないです。

ひとつくらい何か見てみようと思うなら、2作目がオススメです。
もちろん全部みても面白いですけどね!

http://takeichi3.exblog.jp/18020803

黄飛鴻の真実。。。




中国の武術家の中で、最も多く映像化されている≪黄飛鴻≫
実際の彼は、本当に映画と同じようなヒーロー的存在だったのか?を検証している番組です。





黄鴻飛は、実際、映像で見られるような人物だったのか?
その容貌は、彼を演じた役者たちのようにカッコよかったのでしょうか?
ネットで黄飛鴻の写真を探すと、必ずこの一枚に出会います。言い伝えによると、これは黄が唯一残した写真と言われています。ですが、意外なことに、ある人が「これは黄ではない」と言い出しました。これは一体どういうことでしょう。

この写真は、仏山にある黄飛鴻記念館に展示されているもの。
黄飛鴻の伝承者が、「これは黄飛鴻ではなく、彼の息子黄漢熙の中年期写真」と、意義を唱えました、
四番目の妻莫桂蘭が、生前にいつも「黄漢熙が黄飛鴻に一番似ていた」と言っていたと。。。

黄飛鴻の写真は戦火で全て焼けてしまったので、妻の手元には彼の写真は残ってはいませんでした。
ある時、香港の雑誌記者が訪れ、黄飛鴻の容貌について莫桂蘭に尋ねた時に、彼女が取り出したのは黄漢熙の写真~「黄飛鴻の生前の様子に一番似ているものです」~記者は、立ち去る時にこの写真を借りて行きました。

その後、雑誌記者に問題が発生。この写真は行方不明となってしまいました。
黄家の人々は雑誌社に写真の行方を問い合わせましたが、「無くなった」というばかり。
この写真、2001年に黄飛鴻唯一の写真として出現、記念館に飾られました。

黄飛鴻の第四夫人莫桂藍によると、黄飛鴻は大柄で三尺六寸のシャツを着ていたと。。。
このような体格が、映画の中の見栄えのよい黄飛鴻とは異なっています。

見かけ以外に、映画と実際の黄飛鴻と異なるところは?
映画の中で見られるように武芸に秀でて強かったのでしょうか?
又、義侠心に溢れていたのでしょうか?彼の側にには、十三姨はいたのでしょうか?

黄飛鴻は、霍元甲、大刀王五、薫海川、燕子李三等と肩を並べて「清末十大高手」と言われています。

仏山黄飛鴻記念館に収蔵されている彼の年表を見てみましょう。ここに記録されています。
黄飛鴻、原名黄錫祥字達雲、1847年農歴7月初9広東仏山に出生。
1853年より父黄麒英より武術を学び始める。
1859年父に随いて、広州順徳一体で見世物を生業とする。

仏山は広州から車で半時間ほどの距離。昔から水路交易で栄えていました。
広東、北、西~三つの地域からの物流交易の中心地だったこともあり、当時は四大名鎮のトップ。
経済が発展していたので、余所者の芸人たちも稼ぐことができました。そして、経済の発展に伴って、ボディーガードなど警護が必要になって⇒仏山周辺には武術を学ぶ人が多く、黄飛鴻が生まれた清末の仏山は習武が最も盛んになっていました。

こんな環境下、黄飛鴻は12,3歳の頃から頭角を現し始めました。
少年黄飛鴻が大人たちを打ち負かしていく魅力に多くの人々が集まってきました。

映画≪少年黄飛鴻之鉄馬≫の中、街中で売芸をしている場面があります。
黄飛鴻と父の生活は決して楽ではありませんでした。彼の父は広東十虎の一人。仏山でも有名な武林高手でしたが、父子は街角で芸を売ることで生計を立てていました。12歳の黄飛鴻は、毎日、父と共に見世物をする場所を探しては芸を売っていました。黄飛鴻の武術レベルは、どれほどだったのでしょう?

ある日、黄飛鴻が表演を終えたばかりのところ、一通の挑戦状を受け取りました。
挑戦状を書いたのは、かなり腕利きの武術家≪鄭大雄≫。鄭自身も街角で芸を売っていましたが、黄飛鴻の人気が高かったので、面白くなかったのでしょう。そこで、小さな子供に対して挑戦状を送ったのです。彼らは、どんな風に競ったのでしょう?

黄飛鴻の三代伝承者余志偉の記述によると、
鄭大雄という有名な拳師と戦った時、鄭は釣魚棍を持って来ました。利益が絡んでいたため、彼は棍を持って黄飛鴻に挑んできたのです。

父親の黄麒英は黄飛鴻に鄭と戦うように促しました。
その時、黄飛鴻が戦った棍法は洪家四象標龍棍。棍を振り翳すや否や、鄭大雄を打ちのめしていました。この戦いは、黄飛鴻の名を高めました。その日、仏山の人々は、少年の名を記憶に刻みました。この事実が、幼かった黄飛鴻の功夫が優れていたことを語っています。

その後、彼の功夫がレベルアップする出来事が。
黄飛鴻の功夫は、彼の父親から伝えられました。黄麒英は、広東の陸阿采から学び~陸阿采は洪熙宮の師弟で、洪熙官の武芸をものにして南拳王と称されていました。彼が黄麒英に伝えたのは虎鶴双形拳。ですので、黄飛鴻が学んだのは、南少林派の武功。

ある日、黄飛鴻親子が表演場所を探していた時に、仏山豆鼓巷付近で一人の老人が売芸しているのに出くわしました。縄に鉄の錘をつけて振り回し~その素早い動きから、一目で武林高手だというのは分かりました。

その武功に魅入られた黄飛鴻。
その時、脇道からいきなり駆け出してきた人がいました。老人は縄を引き戻そうとしましたが間に合わず、頭に当たってしまい、傷を負わせてしまいます。周りの人々は、即座に老人を捕まえて警察に連れて行こうとしましたが、黄飛鴻親子が急いで怪我人に駆け寄って手当をしたので、事なきを得ました。

この、飛舞鉄錘を表演していた老人は≪林福成≫という鉄橋三の高弟。
鉄橋三もまた広東十虎の一人。親子の行動に感謝した林福成は、黄飛鴻に鉄線拳と飛鉈などの絶技を教え~一年後、これを学び終えた黄飛鴻の武芸は更にアップ。父ですら敵わなくなっていました。

改めて、黄飛鴻の武功は?
ここに何冊かの拳譜があります。どれも黄飛鴻の絶技です。双飛鉈、鉄線拳、虎鶴双形拳、工字伏虎拳、四象標龍棍、五郎八卦棍、、、




四番目の妻、莫桂藍によると、黄が得意としていたのは虎鶴双形拳と飛鉈。
彼の虎鶴双形拳は、黄飛鴻が学んだ各派の拳を基本に彼が改良したもの⇒黄飛鴻独自のものとなって、広く世界に伝わっていきました。

残っている拳譜は、黄自身で書いたものではなく、死後に弟子たちが整理したものです。。
よく聞く、彼の絶技≪仏山無影脚≫は、実際にあったのでしょうか?

伝承者の言葉を。。。
「無影脚。私が思うに~武術家たちの誰かがつけた称号。影が無いなんて有り得ない」⇒無影脚という絶技は無かったようです。

黄飛鴻の獅子舞の腕前が見事だったのは事実です。。
彼が活躍した年代には、多くの武術館で舞獅子を行っていました。武術館同士の戦いも、拳ではなく舞獅子(=実力と功夫)で対応していました。

映画の中の黄飛鴻は、優雅で生活には困っていないような感じですが、実際は?
かなり浮き沈みがあった様子。経済状態も余裕があったとは言い兼ねます。
チャンスは、二回ありました⇒広州水師武術教錬⇒最初の高潮期⇒軍に武術を指導する傍ら、自身の武術館も開きました。

その暮らしは十三年後の1886年に父親が亡くなるまで続き~その後に軍から退いて、接骨医館≪宝芝林≫を開きます。その時、黄飛鴻は三十歳に満たない年齢でした。

黄飛鴻の医館が有名だったのは、映画からも窺えます。
宝芝院⇒教育を受けていなかった黄飛鴻は、店の名前を考えましたが、なかなか思い浮かばずにいましたが、折よく、弟子の一人が進学試験に合格~祝いに贈った一対の掛幕に書かれた「宝剣謄霄漢 芝花遍上林」という言葉の中の文字を組み合わせて店の名前としたのです。

黄飛鴻の医療技術は?
本を読むのが嫌いだった彼の医療技術が高かったはずはないと言う人もいますが、、、
1888年、黒旗軍リーダー劉永福の怪我を治したという事実が残っています。
馬から落ちて、治療が困難と言われている部位を痛めた劉永服は、宝芝院の医師の腕がいいと聞きいて赴いた。黄飛鴻は、「一週間ほど入院していれば直る」と~喜んだ劉永服は、≪医芸精通≫と記した桟を贈りました。

劉永福は、黄飛鴻を軍医及び武術教錬として迎えます=彼の医術と武術のいずれもレベルが高かった。

その後、日中戦争が始まり、劉永福と共に黄飛鴻も台湾に向かいます。
台湾の日々についての記載はありませんが、彼の人生の中で第二の高潮期だったことでしょう。
その後、日中両国が馬関条約を交わしたことにより、広州に戻ってきますが、帰国してからは意気消沈して、店前に「武芸功夫難以伝承、千金不伝求師莫等」と記した紙を貼り~武術を教えることはなく、静かな生活を送るようになります。

映画、≪黄飛鴻≫で見る彼の身辺には、流行の衣装を身に纏った美女≪十三姨≫が登場しますが、実際にはそんな人物は存在していません。

黄飛鴻は、四回結婚しています。
初めは、1871年。24歳の時に父の勧めで結婚しましたが、結婚の三か月後に病死。
二度目は、49歳の頃。二度目の妻は、四人の子供を産んで病死。三度目の妻は、二人の子供を産んで病死。

六人の子供を抱えて~時代は、社会情勢が不安定だった辛亥革命前⇒稼ぐのは簡単ではない⇒黄飛鴻伝記には、60~70歳の黄飛鴻は、生活費を稼ぐために、あちこちに出かけて舞獅子表演をしていたと記されています。

三人の妻が共に病死~その後は誰も彼に新しい妻を紹介しなかった⇒ここまで、十三姨の姿は見当りません。



では、第四夫人の莫桂蘭は?
莫桂蘭と黄飛鴻は、どのように知り合ったのでしょう?

1911年端午節、64歳の黄飛鴻が梅花桩の上で表演している時に布靴が脱げ、下で見ていた19歳の莫桂蘭に当たりました。気が強かった彼女は、梅花桩に飛び乗ると黄飛鴻に平手打ちを浴びせました。自分が打たれるとは思っていなかった黄飛鴻は、咄嗟に莫桂蘭の手を抑え~ですが、相手が少女だと知ると、その手を緩めて謝ったのです。

その後、莫桂蘭の叔父が黄飛鴻に詫びを入れるために訪れました。こんな風に二人は知り合ったのです。
何度か会ううちに互いの理解は深まって~叔父は結婚を勧めましたが、黄飛鴻は妻を不幸にすることを避けようと、莫桂蘭を妾として家に入れたのです。

黄飛鴻の周辺には十三姨の存在は見当たりませんでしたが、莫桂蘭がその原型なのでしょうか?

伝承人の意見では、、、
実際的に大きな違いがあります。映画の十三姨は、とてもモダン。写真は撮るし、スカートを穿いているし~桂蘭の恰好はありきたり。

清末の滅亡、民国建立~などと激動の時代を生きた黄飛鴻。
そして、広州は革命運動が頻発していた地域。彼の一生も又、落ち着かないものでした。

その後の内戦期に店を火災で失い、気力喪失。
病に罹って~寝込んだまま、半年後の1925年農歴3月25日に78歳で死亡。当時、葬儀費用もまかなえないほど貧しくなっていて、弟子たちがお金を出し合って広州白雲山麓に葬りました。

http://www2.wbs.ne.jp/~jrjr/hk1-4.htm

黄飛鴻(ウォン・フェイフォン)
 今さら言うまでもないだろうが、実在の人物である。


 1847年、清朝時代の中国広東省生まれ。
この1847年という年は日本で言えば幕末、ペリー来航(1853年)前夜、欧米の艦隊が南シナ海・東シナ海へ向け大挙押し寄せていた時代である。
当時の中国は1840年に起こったアヘン戦争によりイギリスの勢力下に入り、1844年にはフランス、アメリカの圧力により開国を迫られている。
1851年には民衆が大蜂起する太平天国の乱が起き、まさに動乱の時代。


 黄飛鴻の父は広東十虎にも数えられたウォン・カイヤン(黄麒英)という人物。
父の黄麒英は、ボランティアで広東将軍所統兵団の武術インストラクターをするほどの人物。「宝芝林」という名前の漢方薬局店と拳法の道場経営で生計を立てていた。
そんななか、黄飛鴻は父や広東十虎のリーダー、リク・アーチョイ(鐵橋三)から南派少林拳の洪家拳を英才教育されたのである。


 黄飛鴻は「鉄線拳」「五形拳」「十字拳」など独自の拳法を創出、とくに「無影脚」という技は“影が出来ないほど早い蹴り”と言われるくらい凄い技だったという。
晩年は清朝「黒旗軍」の総教頭や民軍総教練などをつとめ、1924年に77歳で没している。


 この黄飛鴻を国民的英雄に仕立て上げたのは、彼の弟子だったズー・ユザイ(朱愚斎)だ。
ズー・ユザイは小説家で、黄飛鴻の一生を小説にして新聞や雑誌で連載したところ大人気となったのが、そもそもの始まりである。
 この小説のヒットにより、他の作家や小説家達も黄飛鴻に関するものを書くようになり、次々と彼の偉業が掘り起こされていった。
クワン・タッヒンが主演した第1作目の『黄飛鴻傳・鞭風滅燭』は、ズー・ユザイの小説を多少誇張はしているものの、ほぼ史実に基づいた内容だったようだ。


 なお、日本で見ることが可能な主な黄飛鴻映画は以下のとおりである。


 ジャッキー・チェン主演
『ドランク・モンキー 酔拳』
『酔拳2』


 サモ・ハン・キンポー主演
『燃えよデブゴン7』


 リー・リンチェイ主演
『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・チャイナ 天地黎明』
『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・チャイナ 天地大乱』
『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・チャイナ 天地争覇』
『ラスト・ヒーロー・イン・チャイナ 烈火風雲』


 ウィン・ツァオ主演
『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・チャイナ4 天地覇王』
『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・チャイナ5 天地撃攘』


 アラン・タム、レオン・カーファイ主演
『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・チャイナ外伝 天地笑覇』

http://www.eurus.dti.ne.jp/~nemoto/pages/Others/won.htm






広東省南海の人、1847年生まれ。黄飛熊とも。父の黄麒英は「広東十虎」の一人に数えられた武術の達人。黄麒英は息子には学問を修めさせたいと当初は武術を教授しなかったというが、十二歳頃には家伝の拳法をほぼ修得し、さらに黄麒英の師である陸阿采、また林福成、鐵橋三に師事したとされる。

 



広東十虎 鐵橋三、王隠林、蘇乞兒、鐔済筠、黄麒英、鐵指陳、蘇黒虎、黄澄可、鄒泰、黎仁超
東莞三傑 莫清嬌、皮碟、王老佐
少林五老(五雄) 五枚尼姑、白眉道人、憑道徳、至善和尚、苗顕
少林三雄 方孝玉、方美玉、方世玉
少林四侠女 苗翠花、陸阿采、方永春、紅小雲
少林八傑 陸飛鵬、竜彪、尚志、謝福、李錦綸、洪熙官、胡恵乾
少林七奸 李流芳、陳景昇、高進忠、宋承思、方魁、馬雄、白安福






流派は南派少林洪家拳で、始祖・洪煕官の直系の弟子。素早く的確な蹴り技は「無影脚」と賞された。「無影脚」はもともと女性武術家の技であったが、その夫である宋輝鏜から洪家鉄線拳の型と交換で教わったといわれる。

  鉄線拳は鉄橋三の創始した型であるが、鉄橋三の高弟・林福成が仏山の街頭で演舞中、誤って見物人に怪我を負わせてしまった際、治療を助けた黄飛鴻に感謝して伝授したとも。

黄飛鴻は、広東一の獅子舞の名手として知られ、「獅王」と称された。若い頃は広東第五連隊と広東民兵軍の総裁をつとめ,晩年は広州の西關仁安街で父の創立した医局兼武術道場の寳芝林を経営。革命の混乱で寳芝林が焼失した翌年の24年、病を得て城西方便病院にて没し、広州観陰山の山頂に葬られた。




 

 




世界で最も多くの映画の主人公になった人としてギネスブックにも記載されている(らしい)。最初の映画化は没後25年を経た1949年。

映画監督の胡鵬が友人の呉一嘯と香港を訪れた際、ふと目にした新聞に、黄飛鴻の孫弟子・朱愚斉が書いた黄飛鴻小説が掲載されていた。そこには呉一嘯が黄飛鴻直系の弟子だとの記述が。呉一嘯は朱愚斉の創作だと否定したが、黄飛鴻の物語に興味を持った胡鵬は映画化を企画。

こうして作られた映画が、監督・胡鵬、脚本・朱愚斉、主演・關德興の記念すべき黄飛鴻映画第1作「黄飛鴻傳上集・鞭風滅燭」である。以来、次々と關德興版黄飛鴻電影が世に送り出され、黄飛鴻は香港の英雄となった。 


 

<黄飛鴻の生きた時代>



黄飛鴻の生きた時代は、太平天国の乱から日清戦争、辛亥革命、中国共産党発足とまさに中国近代史の激動期。同時代人には、ワンチャイ2の主要人物の一人・孫文、ワンチャイ3に登場する李鴻章のほか、袁世凱、魯迅らがいる。阿片戦争の林則徐とはほぼ入れ違い。 





林則徐


李鴻章

魯迅



孫文













 

<ワンチャイ映画の時代設定>

 

 ワンチャイ4・5の冒頭では「劇中歴史人物、事件、乃作演義式演繹、非正史所載」と断られているが、ワンチャイ映画には黄飛鴻を始め実在の人物が登場し、歴史上の事件が背景になっていることも多い。ワンチャイ映画の時代設定を推察してみると・・・




 ワンチャイ1


製作当時のインタビューを見ると、徐克は1875年と設定していた模様。冒頭、これから遠征に出ようとする劉永福が登場するが、彼がベトナム防衛の功を認められ、その私設軍であった黒旗軍が正規政府軍として編入されたのが1884年のこと。

劉永福(1837~1917)
広東省人。太平天国革命に参加した後、ベトナムで黒旗軍を編成しフランスの侵略に対抗。清朝はこの抵抗運動に呼応し官軍を派遣、清仏戦争が勃発した。1885年の天津条約により清朝はベトナムの宗主権を放棄したが、劉永福はその後も日本の台湾領有や21ヶ条要求に抵抗する運動を展開した。


ワンチャイ2

冒頭で下関条約に反対するデモが背景に描かれており、1895年に設定されていることは明らか。

ワンチャイ3~5

この3作は時間的にほとんど連続しており、まずワンチャイ3では、ワンチャイ2の後かつ李鴻章が存命であることから、1895年から1901年の間と考えられるが、そのワンチャイ3の直後の話であるワンチャイ4のラストで八ヶ国連合軍の北京入城が言及されているので、1900年の事と特定できる。

 ワンチャイ4は、3のラスト・獅王争覇戦の直後から始まるので、やはり1900年の出来事。ちなみに4では義和団の女子別働隊とも言われる「紅灯照」が取り上げられているが、史実ではこの「紅灯照」が北京に出現したのは1900年6月と言われている。

 続くワンチャイ5も、4の最後からほとんど連続しているので、遅くとも1901年頃の設定だろう。余談ながら5に登場する海賊の親父は張保仔という実在した海賊だが、実際には1822年に死んでいる。張保仔の生年は不明だが、存命ならこの時点で100歳を超えていることは間違いないところ。

 さて、上記の推定年代が正しいとした上で、黄飛鴻の年齢を考えてみると、ワンチャイ1の時点では28歳。これは当時の李連杰の年齢とほぼ同じ。
 
 ワンチャイ1と2はほとんど連続しているような印象を受けるが、実はワンチャイ2は1から20年後の話であり、黄飛鴻は既に50歳に近いことになる。この時孫文は30歳前で、映画から受ける感じとはかなり異なり、黄飛鴻の息子といってもおかしくない年齢であった筈。

 まぁそれを言うならば、ワンチャイ3で初お目見えする黄飛鴻の父・黄麒英は既に40年近く前に死んでいる筈なのだが・・・・。ここらへんが「非正史所載」の所以か。








 

 




南海省西樵の人。子供の頃から生活のために武術を見せたり教えたりしていたが、それを見た陸阿采が武道家としての素質を見込み養子とし、唯一の弟子として五郎八卦棍という棒術の極意を伝授したとされる。黄麒英の成人後、陸阿采は武術を捨て医術の勉強をしていたといい、黄麒英も兵隊に武術を教えるかたわら生活費の足しにと薬草店を開き、これが後の寳芝林である。





























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柔術プリースト216 バリカタ柔術RADIO 43

Jiu Jitsu Priest #216


生田誠のバリカタ柔術RADIO #43

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ホリオングレイシーの映画アクションは純然たる柔術のノウハウですがジョンマシャードの映画アクションでは柔術プラスフィリピン武術が映画アクションに採用されています

しっかしジョンマシャードといいホリオングレイシーといい
第2のブルースリー目指してんのかどうか知らんけど
アメリカの格闘家 武道家は皆 ムービースターになりたがるのは何故なんでしょうね?

日本でも八巻とか藤原とか佐山とかがヘッタ糞な棒読み芝居で映画に出てましたっけ
いや
ホント
お前ら
プロレスなめるな
だの
格闘技なめるな
だの言う割に
映画舐めすぎ
ですわ


中井さんも出てましたっけw

アクション 殺陣に関してはホリオングレイシーが純然たるブラジルのセルフディフェンスの柔術を駆使しているのに対し
ジョンマシャードたちはブラジルの柔術だけではなくフィリピン武術をアクション 殺陣に取り入れています
その辺だけは見所がありますね
両者の映画は

そういえば中井祐樹先生も映画SPでフィリピン武術のナイフノウハウのアクションやってましたなぁ

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ジョンマシャード脚本兼プロデューサー マシャード兄弟総出演 ダンイノサント ゲスト出演 Z級アクション映画 VATOS/ BRAZILIAN BRAWL  内容はご多分に漏れずホリオン主演映画同様クソ映画です(爆) まぁ…ジョンとイノサントはそれなりに演技力はいいと思いますけど… 

VATOS/ BRAZILIAN BRAWL

Writers: Geoffrey Lewis, John Machado, Leo Fong
Producers: Jean Jacques Machado, John Machado







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ホリオングレイシー主演Z級アクション映画 American Tigers  内容は木曜洋画劇場で放送してもおかしくないくらいの色んな意味でクソ映画です 過度な期待はしないでくださいネ(爆)

379full-american-tigers-artwork.jpg
American-Tigers_720x600.jpg




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柔術プリースト215 バリカタ柔術RADIO42

Jiu Jitsu Priest #215


生田誠のバリカタ柔術RADIO #42

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ヤクザ立国ニッポンと芸能界

http://ameblo.jp/shyusui/entry-12037046862.html


ヤクザ立国ニッポン”枕営業”事情



2015-06-09 22:30:29
テーマ:紙の爆弾


少し前に北野誠が干される事件があった…


つまるところ、芸能界のドン、バーニングの周防社長に対して批判めいたことをラヂオで口走ったことが事の発端だったとか…


音楽著作権協会なんぞにも力を及ぼせる立場にあり、気に入らない番組をつくっていると著作権を振りかざして「その音楽を使ってはいけない」とか、ケチをつけてくるのだという…


ネットには、「著作権侵害は犯罪だ」などとのたまうポチどもがいるが、そもそも著作物という人格にも匹敵する者を”売り物”にするのは売春買春に匹敵するお下劣行為ではないのか?


しかも、著作者というよりも、会社などの”著作権者”の「権利」それも「カネ儲けの都合」が最優先。


そんなものを法律で守り、違反は懲役10年、罰金は1000万だなどと…そっちの方がよっぽど犯罪であろう。


いわゆる「肖像権」も、あたかも人権のように宣伝されているが、財産権にすぎない。


それをアホウの蛮人、裁判所が人権よりも尊重するのだから日本という国はトチ狂っている…



著作権も肖像権も、日本においてはヤクザや元やくざのシノギのための権利だ。こんなものを司法が尊重することこそが”重大な人権侵害”なのだよ…



そうした日本の異常性は、原発事故以降、隠しようもなく、堂々とまかり通るようになってきているが、それでもまだ気づかないでいるのが大半の日本人である。


日本人であること自体、「すでに終わっている」のであり、希望もへったくれもないのである。



「慰安婦は捏造だ~」とか騒いでいる頭の悪い、まさに典型的な日本人たち…


(慰安婦や戦争でヤクザは”大活躍”(?)してきた)


しかし、日本は人買いの伝統のある鬼畜な国であり、その伝統は必ずしもリセットされてはいない。



原発労働や炭鉱労働、そして、芸能界等々で、これで慰安婦問題をやっていないわけがないと思われる伝統が残っているのである。


…にもかかわらず、「日本は侵略なんかしていません」なんて本をのうのうと出版する恥知らずもいるのである。


こんな悪党極悪民族には、どんな天罰が下っても当然であろう…


あべしんぞうの政権降臨は、まさにこの鬼畜民族に天罰を下すためだったとしか思えない。



「こんな国に誰がした」「こんな世の中に誰がした」…そう叫ぶ人がいるが…


そもそも日本人というのが、そういう存在で、日本という国が、そういう国なのである。


そういうことを単に知らなかった世間知らずの甘ちゃんが、上のセリフを吐いているに過ぎない。



日本というのは鬼畜の国であり、日本人というのは、鬼畜の民族である。


この現実を直視せずして、人間らしい日本をつくっていくことなどできない。



それとも、いままでどおりに自分たちが鬼畜外道である現実を認めずに、事実を誤魔化して、これからもいきていくつもりなのか?




日本の鬼畜階級は、ヤクザを使って一般畜民どもを”支配”している。


鬼畜階級に都合の悪い存在は、ヤクザなどを使って”始末”してしまう。


むかし、武家が非人を組織して、汚れ役や隠密をやらせていたように、ヤクザをビジネスパートナーとして利用している。


しかし、ヤクザもむざむざとこき使われてばかりはいない。だから、支配階級は法律を使い、警察力でいつでもヤクザにムチ打てるようにしているわけである。



”犯罪組織”ってな位置づけになってはいるものの、ヤクザというのは明らかに日本の一部であり、日本人の一部である。それはなぜなのか、日本人は考えねばならない。



昨今、”枕営業”なることばがツイッターやフェイスブックから漏れ聞こえて騒ぎに発展するケースが相次いでいる。芸能記者が黙ってさえいれば、これまで漏れることのなかった業界の”常態”である。


事件化したもののいくつかは…


「モデルを募集し、体形を確認するとして女性の服を脱がし、裸体を撮影したり、わいせつ行為をした」なんて感じのものばかり…


もちろん、報道されているのは「氷山の一角」にすぎない。


数年前、刑務所にぶち込まれていたものの、出てきてさっそく名前を変えて新しいユニットを運営している猛者もいるという…まあ、それだけ”カモ”になるバカに事欠かないということでもある。


まさに「踊るアホウに見るあほう」…それでもタレントになりたいってのは、もう賛美するしかないのかもしれない…


芸能、スポーツすべて吉原の女郎屋と同じ性質の業界であり、商売なのだ…


そんなものを喜んで見ていること自体、赤線通いしているスケベオヤジと同レベルなのである。



もっとも、こういうもののに”潔癖さ”を求めるべきではないのかもしれないが、見る者も作る者も、こちらが軽蔑すること自体は、「こっちの自由」であろう…


こんなものを喜んで見ているから日本人はバカなのだと、最近はつくづく思うので…



さあ、それでも、古参の芸能記者に言わせると、「昔は、もう少し秩序があった」のだそうだ…


最近は名ばかり芸能プロが横行している上に気軽に内部告発されるのだと…


「むかしはもっと芸能プロと暴力団は一体だったから、いまのように気軽にシロウトは参入できなかった」



現在の老舗芸能プロも大半は暴力団の下部組織だった。


山口組芸能部を初めとして、多くの暴力団が芸能部を設立。表向きの代表者を立てて運営していた。


(-。-;)ノ 芸能にかぎらないけどね~いろんなセールスとか、教材販売とかもだよ~



高度成長期には全国2000以上の興業会社が存在し、その7割が暴力団傘下だった…



美空ひばり所属の「神戸芸能者」も山口組が法人登記した事務所だ。


先の古参記者は言う


「つまり、暴力団の勢力地図がそのまま芸能界の縄張りになっていた。




だから、大みそかNHK紅白も暴力団組織の縄張りにしたがって出場枠を配分していたんだ」



「ヤクザと関係があった」といまさらながらに大騒ぎするマスコミ、驚いて見せる一般国民…


この図は、「おまえらバカか!」と叫びたくなる…



一般の日本人がいかに無知で世間知らずで”ねんね”であるかという気がする…



それでも海外進出も目指す業界、平成になって取り締まりが厳しくなり、暴力団排除で業界内秩序が逆に緩んだ。



「昔はね…枕営業の強要なんてできるのは、映画の主演クラスをあてがえる大物関係者だけの特権だったんだ」(@_@)特権って…


「部外者が、そんなことやろうもんなら、女性タレントごと奪われて潰された。東京湾に沈められた者もいた。それがいまはだれでも芸能界に出入りできるから、雑誌のグラビア程度のエサで性行為を強要したり、売れてもいないアイドルが”枕営業させられた”なんて偉そうに騒ぐ」((o(-゛-;)…


六本木、渋谷、原宿などでは自称芸能関係者がレッスン料をだまし取る目的でスカウトしている。


ついていってAV嬢にさせられた女子大生もいる…



”枕営業”ネタで最近騒ぎになっているのはPASSPO★の元メンバーが何人もとHしたと呟いたのが発端となったもの。


所属事務所のプラチナムプロダクションは第三者に乗っ取られた不正なツイートなどと釈明しているが、失言の後に唐突に「乗っ取られた」と言い訳する香山リカを髣髴とさせる…



まあしかし…これらも”騒いで終わり”なんだろーね…

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いつぞや、読売などは沖縄が日本の固有の領土だなどとデタラメを書いていたぞ。それこそ謝らせろっての。沖縄は、かつて”琉球”と呼ばれた独立国家だった。











http://ameblo.jp/shyusui/entry-11906399441.html



偏狭未開民族史



2014-08-07 21:34:22
テーマ:小日本鬼子


ネットを徘徊するゴキブリたちは、朝日が誤りを認めたのだから「謝罪しろ~」などとほざいている。



猛暑のなか、はや立秋…ではあるが…


「謝罪しろ~」と啼く新種の虫けらに風情などあったもんじゃあない。



ゴキブリたちの言いようでは慰安婦問題自体なかったように錯覚している感じであるし…


国賊新聞、産経や読売に対して連中が「謝罪しろ~」と言ったのは聞いたことがない。



ま…せいぜい”韓流”が気に入らないとか、「在日」がどうたらこうたらという…


くだらないことにかぎられている。



くだらない人間は、くだらないことにわざわざこだわる。


いつぞや、読売などは沖縄が日本の固有の領土だなどとデタラメを書いていたぞ。


それこそ謝らせろっての。


沖縄は、かつて”琉球”と呼ばれた独立国家だった。


ちょうど、日本は室町時代で、足利義満が、元を北方へ追いやって建国された明と国交を開いたころである。


明との交易の利権を争っていた北山、中山、南山の三山のうち、中山が1429年に統一。


琉球王国の始まりだ。


明から、船やら人材やらの援助まで受け、お抱え貿易会社のごとくであった。


その中継貿易はアジア全域に及び、大いに富を築き、繁栄した。


この繁栄は、ポルトガルがやってくるまで続いたのだった…



尖閣なんて、沖縄のさらに向こうで、中国や台湾に近い…


それが本当に「日本の領土」だというのかい?



北方領土を「返せ」と言いつつ、尖閣の領有権を主張するのは矛盾である。



さて、遣唐使廃止以降、日本と中国大陸との間には500年間、国交がなかった。


日本は、経済が発展しつつあったものの、貨幣は大陸から輸入される銅銭しかなく、不足していた。



また、明の”朝貢外交”は、穏やかな統治で、自治をまかされ、国の独立は脅かされなかった。


元や、ヨーロッパの連中より、徳に基づく”支配”だった。


それで、足利義満は明の使節を招くための外交施設をつくり、そこに金閣寺をこしらえた。


この明との交易は、幕府にも大いに富をもたらした。


日本が屏風や刀剣を輸出すれば、明からは、版画や生糸、陶磁器を輸入した。


琉球の場合と同じように、明との交易は、明もこちらも双方が利益を得るものだったのだ。


これを”勘合貿易”というのだね…幕府が交易権を独占できたってわけ。


幕府以外は、正式な取引ができない…とくに、当時は”倭寇”というのがいたからね~


こいつらは、元寇のときに侵略され、蹂躙された対馬や壱岐を拠点とする海賊が多かった。


金品ばかりでなく、人間もさらっていった悪党どもで、明からも朝鮮からも、日本に取り締まりを厳しく求められていた。

この地域は、京都よりも朝鮮半島の方が距離的に近いわけで、国交なんぞがなくても、自分たちで勝手に”交易”していたのであった。もちろん、荒っぽいものだったが…


それで、”倭寇”とはいうものの、けっこう「在日」がいたそうだよ…www…



このころから、日本と朝鮮の間は、国境があるようでないようなものだった。


それをいまだに「在日」がどうだのこうだのと…アホちゃうか!



どうでもいいことだろ!そんなのは…日本も「在日」もないんだよ!



それにしても、このころまで日本は、野蛮な国だったんだね~w…あ…いまもか…^^

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「街宣右翼にカネを出しているのは誰ですか?」「財閥だよ」駆け出しの記者の質問に、宇都宮徳馬氏が答えたそうです。財閥というのは、天皇陛下一族と姻戚関係にある方々です…いろんな血筋の方々が姻戚関係にあるので、”ひとくくり”にはできませんが…おおまかに言えば”親戚筋”ということになるわけです…そこへきてこれまでに皇室周辺から右翼に対する苦言はひとつも聞いたことがありません。自分の一族を象徴するシンボルを使って騒音をまき散らし、人々を脅かしているのに…皇室周辺は平気なんですよね?











http://ameblo.jp/shyusui/entry-12112864630.html


鬼畜の国



2016-01-01 22:36:32
テーマ:小日本鬼子


「街宣右翼にカネを出しているのは誰ですか?」


「財閥だよ」



駆け出しの記者の質問に、宇都宮徳馬氏が答えたそうです。



財閥というのは、天皇陛下一族と姻戚関係にある方々です…


いろんな血筋の方々が姻戚関係にあるので、”ひとくくり”にはできませんが…


おおまかに言えば”親戚筋”ということになるわけです…



そこへきてこれまでに皇室周辺から右翼に対する苦言はひとつも聞いたことがありません。


自分の一族を象徴するシンボルを使って騒音をまき散らし、人々を脅かしているのに…


皇室周辺は平気なんですよね?



なぜなんですか?



宮内庁は、街宣右翼を放置していますが、これは”不敬”ではないってんですね?



…ってことは、街宣右翼の姿…あれが…天皇制…なんですよね?…



…よぉ~くわかりました…



「財閥」でひとくくりにするのもなんですが…かといって個別に論じるのも煩わしい…


便宜上、ひとくくりにさせていただきますが…



少なくとも明治以降にかぎっても、財閥が人の命を大切にしたことなどあったでしょうか?



福島で起こっていることもそうですが、かつての公害問題でも財閥は責任を取りませんでした。


水俣病という奇病が頻発し、工場廃液が疑われるようになっても…


「証拠がない。証拠を示せ」


「科学的でない。論理的でない」


などと言って廃液を流し続けました…



人の命よりカネが大事…


これが財閥のDNAでして…



中国、ロシア、そしてアメリカと戦争をして人民が命を生活を犠牲にしているのに…


財閥は空前の利益を計上し続けていたのでした。



日本兵は、いったい何のために、だれのために、死んだのでしょう?


人民は、いったい何のため、だれのために、身を削り、耐え忍んでいたのでしょう?



また、日本兵は、いったい何のため、だれのために、殺したのでしょう?



日本がアジアを解放した?…


そんなタワゴトを信じているようでは、また同じことを繰り返すことになりますよ。



日本国は滅びたのに財閥は儲かっていた。


「解体」されるはずが、そうでもなかった…



大東亜戦争…それはすべてが茶番の戦争だったのですよ…



茶番のために、みんなが死んでいった…人民同士殺しあった…


その構図は、被告と原告が争う中、弁護士丸儲け…そっくりそのままなのです…



人民同士いがみあわせておくことで、トクをする者たちがいる…


差別や人種攻撃は、そうした損得の問題で、わざわざ作られているものなのです。



そうしたモノが見抜けずに「在日が~」とホザイテいるバカと同じことをやっていれば、日本人は同じ轍を踏むことになるのです。


いい加減、学習しなければいけません。



財閥は、中世の”貴族”に相当します。


自前で軍隊や諜報部隊、そして、会社をもってビジネスをやっている…


彼らは、政治の実権を握り、激しい権力闘争と位階争いの只中に身を置いています。


そこは、譲ったら負け、弱ったら滅亡という容赦のない世界です。



まさに「甘いことは言ってられない」世界なのです。



”貴族”とは、要するに”超ヤクザ”のことなのです。


原発再稼働に反対の判決を下した裁判官を左遷して、首を挿げ替え、次の裁判でひっくり返します…



つまり、財閥は法律に従わないのです。法律の方を曲げてしまえるわけですから…




日本には日本の、アメリカにはアメリカの、中国には中国の財閥がいて勢力を競っています。


そして、その圧倒的な力で人民を支配し、国家を操り、利用し、勢力拡大を図っています。



財閥同士は、そうやって競争し合っていながら、利害が一致すれば協力し合います。


その際に、人民を何人殺すことになろうが、彼らは一切頓着しません。



ただ、数年前までは、こうした財閥権力に対して、人民はある程度対抗する方法をもっていました。


それが、規制緩和と制度改革の連続によって、あるいは、「民営化」という組合つぶしによって、人民は対抗するための組織や法律を次々と失い、無権利状態に追い込まれてきたのでした。



「移民政策」ということばが聞かれることからもわかるように、日本人はもういらないのです。



財閥は、安くこき使える、従順で、勤勉な労働力がほしいのです。


奴隷のように、家畜のように、従順で、使い勝手の良い労働力がほしいのです。



もちろん、それにはそれなりの理由があります…


しかし、だれが喜んで、家畜や奴隷になりたがるのでしょうか?



”譲ったら負け”の世界に生きている財閥相手に…


「経営も大変だから」と労働者が譲ったら、どうなるのでしょう?



今日の首切り要員だらけの労働環境をみれば、一目瞭然でしょう…




グローバル競争が激しさを増す中で財閥も、その鬼畜の本性をもはや隠そうともしていません。


かつては「エコノミックアニマル」とも呼ばれた…カネのケダモノ…



しかし、なお不思議なことは、少なからぬ人民が、これに追従していることです。


財閥とともに鬼畜道を全力で邁進しているのです。



しかし、私の絶望は、そこでは終わりませんでした。



この国はいつからこうなのか?


明治以前はマトモだったのか?



残念ながら、「マトモ」とは思えませんでした。



いろいろと…自由民権運動などの…それっぽい時代や文化もあるのですが…


権力も、人民も、ずっと鬼畜思想を代を継いで継承してきたのです。



人間の思想と鬼畜の思想…


人間の文化と鬼畜の文化…



それはともに受け継がれ、今日ここに再び雌雄を決するべき時代を迎えつあるところのようです。


そして、それは日本だけではないのです…

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天皇のロザリオ 天皇マフィアの実態

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■天皇の蓄財① 05:52CommentsAdd Star

『天皇のロザリオ』(鬼塚英昭著)より抜粋・引用します。


高校教科書『新詳説・日本史』の一節から引用する。

「日本の商社活動が活発となり、横浜正金銀行が積極的な貿易金融を行った。(略)また、海運業奨励政策によって、日本郵船会社などの手で、次々と遠洋航路がひらかれていった。(注)日本郵船会社は、三菱会社と半官半民の共同運輸会社との合併によって1885年に設立され、1893年にはボンベイ航路、1899年にはヨーロッパ、アメリカ、オーストラリアへの各航路がひらいた。」

日本郵船の大株主は天皇家と三菱財閥であった。アメリカへ大量の移民を運んだのは、この日本郵船の船であった。

<中略>

天皇家と日本郵船の深い関係は、明治時代から続いていた。この会社の船で娼婦たちが海外に「進出」させられた。詳しくは山田盟子の『ウサギたちが渡った断魂橋』に書かれている。

日本の偉人中の偉人と評価の高い福沢諭吉は、「賤業婦人の海外に出稼ぎするを公然許可するべきこそ得策なれ」(『福沢諭吉全集』第十五巻)と主張した。娼婦を送り出す船会社が、天皇家と三菱に大いなる利益をもたらすということを計算したうえでの「得策なれ」の主張であった。

「至尊の位と至強の力を一に合して、人間の交際を支配し、深く人心の内部を犯してその方向を定る」

福沢諭吉の思想は当時の天皇家に迎えられた。

<中略>

至尊の位(天皇)と至強の力(三菱)を一に合して、日本郵船は発展していった。

<中略>

日露戦争後、アメリカ移民が増えていった。1908年ごろには、約十万人の移民がアメリカにいた。

1901年、共産主義者の片山潜は、小冊子『渡米案内』を発行した。一週間に二千部売れるほどの当時では大ベストセラーとなった。

<中略>

片山は、アメリカでの移民生活をベタほめした。日露戦争のころ、アメリカに行くのに約二百五十円の大金が要った。現在、日本に密入国しようとする中国人が、中国マフィア(蛇頭)に支払うくらいの金額だった。やっとアメリカに渡ったものの、新聞や雑誌や『渡米案内』の甘言広告とは違い、辛酸の極みの生活が移民を待っていた。男たちは鉄路の重労働やタマネギ畑で働かされ、女たちのほとんどは娼婦の館にほうり込まれた。このときの莫大な金は、福沢が言う「至尊の位と至強の力」すなわち、皇室と三菱の懐に入った。

片山潜は、天皇が支配(大株主)する横浜正金銀行(旧東京銀行の前身)から金を貰って生活していた。当時の日本共産党幹部たちが、ニューヨーク、ロンドン、モスクワと流れていったが、そのほとんどの金は、この銀行が出したのである。元社会党委員長鈴木茂三郎もこの銀行から金を貰った一人である。

同じ手口を皇室と三菱は考えた。ペルシャ(イラン)からアヘンの輸入であった。皇室と三菱は、三井も仲間に入れることにした。三井を入れなければ内乱が起きる可能性があったからだ。三井と三菱は隔年でアヘンをペルシャから入れ、朝鮮に送り込んだ。満州という国はこのアヘンの金でできた。

天皇一族はこの利益を守るために秘密組織をつくった。厚生省という組織に、昭和天皇は木戸幸一(後に内大臣)を入れ、アヘン政策を推進させた。1938年12月に興亜院がつくられ、阿片政策を統括した。その翌年から「土薬公司」ができた。日本でもケシ栽培をし、朝鮮に送り込んだ。中国でも熱河省でケシ栽培をした。この利益も皇室の財産の形成に大きく貢献した。阿片政策はこの辺にしたい。

多くの軍人たちが、三菱と三井のアヘンの利益の一部を貰って遊興にあけくれた。マーク・ゲインは『ニッポン日記』の中で1946年3月28日の出来事を書いている。

「東条が自殺を企てたその家は、岩崎家からの贈物で、東条一家には三菱財閥の情深い当主から現金、株券その他で一千万円の額があるという報道が行なわれた。」

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■天皇の蓄財② 10:14CommentsAdd Star

引き続き『天皇のロザリオ』(鬼塚英昭著)より抜粋・引用します。


天皇家が味をしめたのは日清戦争であった。この戦争で清国から奪った賠償金は三億六千五百二十五万円。このうちの二千万円が皇室の財宝となった。天皇家はこの戦争で味をしめた。

1945年8月、敗戦となった。「降伏後における米国の初期の対日方針」の中で、「皇室の財産は占領目的の達成に必要なる如何なる措置においても免除せられることなかるべし」と明記されている。

敗戦後の10月22日、宮内省はGHQにより、四十数項目にわたる報告書を要求された。11月18日、GHQから覚書「皇室財産に関すること」が出た。GHQは生活費を除くすべての皇室財産を凍結するとの指令を出した。

この年、GHQの財務調査官たちは、昭和天皇の個人資産を1億ドル以上と査定した。財務調査官たちは「戦時利得の除去及び国家財政の再編成に関する覚書」を作成し、マッカーサーの承認を得た。皇室財産も課税計画から除外されないとした。

それでは、1945年10月にGHQが発表した皇室財産の内容をみよう。

「土地・建物・木材・現金・有価証券(美術品・宝石は含まない)は37億2000万円。」

当時の財閥の住友吉左衛門は1億1738万円、三井高広は9628万円。皇室財産は、GHQの公表分であるが日本の財閥の約30倍。しかし、この数字は正確ではない。天皇も、三井も、三菱も、敗戦前にほとんどの金をスイスの秘密銀行に入れたからである。

さて、この皇室財産はその90%が旧憲法のもとで無償没収され、残りの10%は憲法88条の規定により国に属することになった。日本の戦後史を書く学者のほとんどは、皇室財産には触れることがない。井上清がこの程度触れただけである。

では、マーク・ゲインの『ニッポン日記』を見ることにしよう。マーク・ゲインは戦後日本にやってきた記者の一人である。

「ある総司令部の専門家が言った。『天皇の財産は5億ドルから10億ドルの間だろう。このひらきは、我々の到着直前に彼の財産がどれだけ隠匿されたかという我々の知らない、また多分将来も知り得ない事実によって生じるものである」

この、「多分将来も知り得ない事実」について、エドワード・ベアは『裕仁天皇』の中で次のように書いている。

「皇室はこれらの資産の大半を失ったが、SCAPの厳しい監査の目をのがれて、残された資産もいくらかあったようである。敗戦の濃くなった1943年、44年、専門家の助言に従って、海外の仲介人を通じ、日独伊枢軸国に好意的だったスイスやアルゼンチンのようなラテンアメリカ諸国の銀行に資産を移されたとも言われる。1948年7月19日付のSCAPの報告書には、『日本の公的、私的財産は共にSCAPの十分監視の行き届かないラテンアメリカ諸国に流出した』とある。」

あるASADの専門家は、戦時中に総額4100ポンドの皇室財産が大部分、横浜正金銀行を通じて海外に運び出されたと見ている。そのうち、スイスに流れたのは850万ポンド、ラテンアメリカに流れたのは1004万ポンドであった。こうした不明な財産の回収作業を行われないまま、1951年に占領が終結した。

マッカーサーに関する限り、彼は全般にわたって、天皇の海外資産の調査に明らかに弱腰の態度を見せていた。(略)

敗戦直後に宮内省がGHQに報告した皇室財産の総額は約16億円。皇居、御所などの建物のほかに、山林面積は群馬県と栃木県の二県の合計に等しく、農地は奈良県の全耕地面積に匹敵するといわれた。この報告書を見たGHQの係官は、皇室は金銭ギャングの最たるものだと言ったという。」

天皇の財産はどこへ消えたのか。謎は残る。

http://d.hatena.ne.jp/rainbowring-abe/20060827
■天皇の蓄財③ 06:07CommentsAdd Star

引き続き『天皇のロザリオ』(鬼塚英昭著)より抜粋・引用します。


1947年1月21日、米国統合参謀本部はGHQに、「日本国の賠償金の原資を確保せよ」との命令とともにひとつの文書を送付した。

「皇族あるいは、彼または彼女の資産の受取人名義人は、事実上国会の管轄外に置かれてきた。このため当委員会は、降伏時における、皇室、宮内省、および全皇族ならびにその名義人の比較的価値のない純粋な物品または骨董品を除く所有財産すべての品目の詳細且つ完全な目録(売却方法を含めて)の入手を望むものである。」

さて、私は日本郵船については書いた。大阪商船の株も皇室は持っていた。この二社の船が、天皇が「火事場泥棒方式」で侵略していった地域へ、物資、機械、人間を運ぶのに使われた。三菱と三井のみならず、住友以下の財閥とも皇室は深く結ばれていた。

また、皇室の銀行支配も徹底していた。皇室は日本銀行の47%の株を持っていた。紙幣を発行するたびに、公定歩合を調整するたびに、莫大な利益が皇室に流れた。

日銀の他に注目しなければならないのが、横浜正金銀行である。「皇室財産が大部分、横浜正金銀行を通じて海外に運び出された」とベアが書いているのは厳然たる事実である。

ポール・マニングは、『米従軍記者が見た昭和天皇』の中で次のように書いている。

「昭和天皇がヨーロッパの金融市場で影響力を持つことができたのは、日本銀行ほど厳しい規制を受けない民間銀行である横浜正金銀行の株を保有していたからである。彼は全発行株数の22%に当たる22万4912株を保有する最も重要な大株主であり、二番目の大株主は2万2000株しか保有していなかった。」

2001年8月13日、共同通信社はスイス政府とスイスの赤十字委員会(ICRC)の1945年8月、終戦直前の公文書を報道した。その内容を記すことにする。簡単にわかりやすく解説する。

終戦直前の8月、昭和天皇の皇后(良子)の名で一千万スイス・フラン(当時と現在のスイス・フランの購買力を単純に比較しても約33億円)の巨額な寄付をするとスイスの赤十字国際委員会(ICRA)に提示した。これに対し、連合国である対日政策決定機関の極東委員会が、この寄付申し込みを受け入れるなと赤十字に通達を出した。しかし、赤十字はこの極東委員会の提案を覆し、1949年5月に秘密裡に送金を受け入れた。この寄付は横浜正金銀行がスイス国立銀行に保有していた「日本の秘密口座」と呼ばれた「特別勘定」から拠出された。皇室はスイスの国立銀行に秘密口座を持っていたし、現在も持っている。どうして天皇が自分の名前でなく皇后名で横浜正金銀行からスイスに送金したかは不明である。

しかし、推測してみよう。2001年の評価額で約33億円の金を赤十字に寄付するということは、赤十字と何らかの秘密取引をしたとしか考えられない。寄付の数十倍ないし数百倍の秘密預金を、赤十字の名前を借りるか、その力添えでスイスの国立銀行の秘密口座に入れたということであろう。

終戦直前の8月7日、東郷茂徳(当時外相)が、赤十字の駐日代表に皇后名で一千万スイス・フランの寄付を申し入れた。赤十字は応じた。しかし、スイス政府は8月16日に英米などとの合意に基づき、日本資産を凍結した。

1949年に赤十字が英米による圧力下の日本資産凍結の圧力を覆し、一千万スイス・フランの寄付を正式に認めたということは、横浜正金銀行の天皇の「秘密口座」の資金の凍結を解除するための努力の見返りであったといえよう。正確な金額は把握できていない。前述のマニングは昭和天皇の秘密資産の一部について次のように書いている。

「天皇はハイテク電子工業とホテルへの適切な投資で得た推定五千万ドルを公認の手持ち資金として個人的に東京で貯蓄することができた。この投資を可能にしたのが、スイスにある推定30億ドルの秘密資産である。この秘密資産の一部をさまざまな一流企業に融資した天皇は、投資の機会を得て、かなりの額の利益を得たのである。」

<中略>

天皇は(表面的には皇后名であるが)、執拗にこの寄付に力をそそいだものと思われる。この紛争は1946年6月、極東委員会と連合国軍総司令部(GHQ)にゆだねられた。極東委員会はこの年の10月、「ICRCの主張に根拠はない」として送金禁止を決定した。マッカーサーの決定ですべてが終わったかにみえた。しかし、赤十字はアメリカの弁護士を雇い、マッカーサーに脅しをかけた。マッカーサーは解任の動きを知る。この問題がからんでいると私は推測する。しかし、今のところ確証はない。

そしてついに極東委員会も、この問題に反対し続けた英国政府も、赤十字の工作に敗北宣言を出した。

<中略>

赤十字は私たちが考えるようなナイチンゲールの世界ではない。国際金融資本、特にユダヤ資本と深く結びついている。彼らは朝鮮戦争を仕掛けるために、天皇が必要だったのではないのか。天皇は彼らの要望に応えると約束したために、秘密資金の凍結を解除されたと推定しても、そう間違った推測とはならないであろう。

http://d.hatena.ne.jp/rainbowring-abe/20060828
■天皇の蓄財④ 07:15CommentsAdd Star

引き続き『天皇のロザリオ』(鬼塚英昭著)より抜粋・引用します。


さて、私はこの項を書くためにたくさんの本を読んできた。私はポール・マニングの『米従軍記者が見た昭和天皇』を読んでいる。興味ある読者は是非読んでほしい。もう一度、この本から引用する。今までの私の推理を裏付けてくれそうである。

「1944年1月、昭和天皇は参謀総長と軍令部総長から結論として太平洋戦争に勝機はないと報告され、木戸内大臣に和平計画を立てるよう指示した。木戸は当然のことながら、この指示の意味は皇室財産を守ることが第一であり、日本を平時の状態にする準備は二番目であると理解したのである。二番目の状況を達成するには時期尚早だったができた。木戸は皇室の財政顧問でもある主要銀行の経営者たちを招集し、会議を開いた。彼らの提案で、天皇の現金が東京から銀行間無線でスイスに送金されたのである。東京にある天皇の銀行口座の残高が事実上ゼロになったが、スイスの銀行の番号口座残高が急激に増加したのだった。横浜正金銀行のスイスの支店は次に、天皇の仮名による銀行投資にドイツの信用を付け、天皇の流動資産の換金能力をさらに高めた。他の財閥の大企業経営者たちも天皇の現金の流出に気づき、アフガニスタン、トルコ、スペイン、ポルトガル、スウェーデン、朝鮮、香港、満州、フランス、ドイツなどに預金していた現金を引き出し、スイスの銀行へ送金した。彼らはまた、ブエノスアイレスにある銀行の法人や個人口座の数も増やしたのである。

占領期間中、日本銀行が横浜正金銀行の業務を引き受けることになり、この結果、皇室財産の財務上の秘密が継続して保証されたのである。」

私が書いた赤十字と天皇の秘密は、このマニングの本で真実であることが理解できよう。

日本赤十字社は、現在でも、皇室が支配的立場にあることを知らねばならない。この赤十字組織が、世界を支配する勢力の一支部なのだ。マニングの本には、天皇がいかに金塊をアルゼンチンに運んだかの詳細な内容も書かれている。

もう少し具体的に、赤十字国際委員会(ICRA、本部ジュネーブ)について書くことにしよう。では、アダム・レポーの『ヒットラーの秘密銀行』から引用する。

「赤十字国際委員会が各国諜報機関から、スパイを潜入させる標的として狙われたのは当然のことだった。大戦中でも枢軸国、連合国を問わず自由に越境して、救援活動ができる国際的組織だったからだ。また、情報収集も任務のひとつで、職員たちは双方の捕虜や軍指導者たちに対する質問権を与えられていた。」

『ヒットラーの秘密銀行』から、もう一つ引用したい。ナチス資産について書かれているが、ドイツの枢軸国日本の姿もみえてくる。

「英米仏三国は1945年8月、スイスに預けられているナチスの資産の所有権を主張するもスイス政府の対応ぶりは相変わらずのものだった。三国の主張はどんな法律を根拠とするものか理解に苦しみ、また連合国によるドイツ占拠の事実は『ドイツ国境を越えて法的効力を持つことはほとんどない』という言い逃れに終始した、とSNBの報告書は記している。

「スイスに預けられたナチス資金」を「スイスに預けられた天皇の秘密資金」と置き換えるならば、私が書いてきたことが事実であることが理解できよう。『ヒットラーの秘密銀行』には、スイスの銀行について書かれている。日本に関係する記事に触れておこう。国際決済銀行(BIS)がスイスにある。この銀行が、ナチスと日本と戦争中も取引を続けた。では引用する。

「BISの総裁はアメリカ人トーマス・マッキトリック、ゼネラル・マネージャーはフランス人ロジェ・オボワン、ゼネラル・マネージャー代理はドイツナチ党員のパウル・ヘクラーだった。大戦中の理事には、ライヒスバンク副総裁で後に戦死とされたエミール・プール、同総裁のヴァンター・フンク、その他ロンドン、ブリュッセル、ローマ、日本から派遣された銀行家たちが顔を揃えていた。(略)ベルリンにとっては好都合なことに、戦時中のBIS総裁は、ナチスの略奪金塊の主要ルートだったスイス国立銀行の総裁エルンスト・ウェーバーだった。(略)第一次世界大戦の敗戦国ドイツが連合国に対して負っていた賠償金をヤング案に基づいて回収することを目的に、数カ国の中央銀行が1930年5月に設立した銀行だったのである。ニューヨーク・ファースト・ナショナル銀行など世界の主要金融機関が共同出資し、これらの国々および日本が理事を送り込んだ。(略)BISの設立資本金は五億スイスフランで、ベルギー国立銀行、イングランド銀行、フランス銀行、ライヒス・バンクという中央銀行五行によって保証されることになった。これに日本の代理を務める日本銀行団、およびモルガン銀行、ファースト・ニューヨーク銀行、ファースト・シカゴ銀行から成る米国銀行団も参加した。」

ここまで書いてきて、戦争というものが、金融と深く結びついていることが理解できたはずである。BISとスイス国立銀行は深く結びついている。私の推測の域を出ないが、天皇はスイス国立銀行に「皇后名」で、BISに「天皇名または仮名」で、最低二口の秘密口座を持っていたと思われる。マニングの推定「35億ドル」以上ではなかろうか。35億ドルでは少な過ぎる。

<中略>

日本の作家で井上清の名を挙げた。2000年に濱田政彦の『神々の軍隊』がでた。この本の中で濱田は天皇の秘密資金に触れている。引用する。私のこれまでのストーリーを追認するものである。

「皇室は蓄えた資産をモルガン商会を通して海外で運用していたが、金塊、プラチナ、銀塊などスイス、バチカン、スウェーデンの銀行などに預けられていた。(略)中でも国際決済銀行、通称“バーゼルクラブ”は、世界の超富豪が秘密口座を持つ銀行で、治外法権的な存在であった。(略)内大臣木戸幸一は、日米英戦争末期の昭和十九年一月、日本の敗北がいよいよ確実になると、各大財閥の代表(銀行家)を集め、実に660億円(当時)という気の遠くなるような巨額の皇室財産を海外に逃がすよう指示した。そこできれいな通貨に“洗浄”されたが、その際に皇室財産は、敵対国にばれぬようナチスの資産という形で処理された。スイスは極秘裏にナチスに戦争協力していたので、ナチスの名のほうが安全だったわけである。(略)皇室とバチカンとフリーメーソンの関係をたどっていくと、世界の闇が明らかになってくると思われる。おそらく戦後の皇室がえらく貧乏にみえるのは、その資産を戦後の日本復興に使ったからなのかも知れない。M資金の闇は深い。」

濱田政彦の書いていることは間違いない。ただし、「おそらく戦後の皇室がえらく貧乏にみえるのは、その資産を戦後の日本復興に使ったからなのかも知れない」には全く賛成できない。私は昭和天皇が戦後も、マニングが書いているように蓄財作戦に熱中していたと思っている。天皇家の秘密資金の一部がM資金となり、多くの人々を悩ませたのである。

マーク・ゲインの『ニッポン日記』には天皇の財産について詳しく書かれている。だがここではすべて省略する。初版本に書かれたことが、再版本では省略されているとのみ書く。1946年3月24日、マーク・ゲインは天皇の埼玉行幸を描いている。

「天皇はただ一人で晝食をとった。天皇以外の我々は、冷たい飯と悪臭鼻をつく大根の漬物と、その紡績会社から出された刺身の小片を口に押し込んだ。窓からみると、女工たちが列をなして並んでいたので話をしようと思って戸外に出た。彼女等は恥ずかしそうにクスクス笑うだけで誰も答えてくれそうになかった。が、とにかく彼女等は「十五歳」‐最低就労年齢-で、一日九時間半働き、一日三円ないし五円

支払われていることを聞き出した。そこへ天皇が出て来たので、彼女等は最敬礼をし、支配人の号令一下、万歳を唱えた。それから彼女等の専制君主を見ようと首を伸ばすのであった。」

当時の女性の日給は一日九時間半働いて一日三円ないし五円。1945年8月15日から約半年たっているので、インフレが進んだ後だから半年前はもっと安い。たぶん一円から三円であろう。

計算機を手にして、当時の天皇がどれくらいの金を持っていて、海外の秘密口座に入れたかを計算されよ。そうすれば、その金額の天文学的数字がクローズアップされる。

それでは読者にヒントを一つ与えよう。1945年10月にGHQが発表した皇室財産の内容は書いた。「土地・建物・木材・現金・有価証券(美術品・宝石は含まない)は37億2000万円。」木下道雄(元侍従次長)の『側近日記』が昭和天皇の死去の翌年の1990年に出版された。この本の解説は伊藤隆(当時東大教授)であった。彼は次のように書いている。

「ところで終戦直後の天皇家の財産は37億5000万円だった。日銀物価価格統計により現在の貨幣価値の311倍で換算すると7912億円である。」

この数字の十数倍近くをスイス銀行に送り込んで終戦工作に天皇は入ったのである。敗戦前の国家予算は100億円を切っていた。天皇は自らの生命を守るためと、このスイスの秘密預金を維持し、さらに増やすために戦後工作に入るのである。天皇の「キリスト教入信」対策は、この二つの大事なものを守りぬくべく実行された。国民は依然として雑草のような民草であった。

これが大東亜戦争を天皇が仕掛けた第一の原因だと分かるだろう。

それでもあなたは、天皇陛下にむかって「天皇陛下バンザーイ」と叫ぶのであろうか。それとも、広田弘毅のように「天皇陛下マンザーイ」と叫ぶのであろうか。

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天皇財閥  天皇という名の詐欺師にして財閥の大ボス

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[YouTube]天皇財閥 日本赤十字社=皇族私的団体・非課税特権

2014/11/10 6:08 PM 天皇・皇族, 天皇家の闇, 日赤・赤十字 / 日本国内, 社会, 竹下氏からの情報, 編集者・読者からの情報, 雑学・アート, *陰謀


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竹下氏からの情報提供です。


 これまた何と言っていいか分からないくらい凄い情報です。赤字を入れたり、画像を挿入しながら、じっくり情報に向き合い、理解を深めていくと、最初にザッと目を通した時とはまったく違って、目からウロコが何枚も剥がれ落ちたような感覚になり、興奮気味です。
 普通、財閥と言えば、三菱、三井、住友などを思い浮べますが、本来真っ先に日本人が財閥と聞いて思い浮べないといけないのが『天皇財閥』なのかもしれません。
 『天皇財閥』とは、“天皇家を財閥家族とし、宮内省を本社機構に持ち、その傘下には日本銀行や横浜正金銀行、南満州鉄道株式会社(通称「満鉄」)、日本郵船といった、日本を代表とする「国策企業」群を有する大企業グループ”です。
 日赤は、その国策企業のひとつで、今や世界一の従業員を抱える皇族私的団体・非課税特権の巨大企業になっているようです。
 あと、調べてみると不思議なことに、日赤の現副社長が榊原定征氏、前副会長が米倉昌弘氏、前々副会長が御手洗富士雄氏です。つまり、経団連会長が日赤の副社長を兼任することになっているようです。ちなみに副社長は2人いて、もう1人は、元厚生官僚が着任するみたいです。


(編集長)


————————————————————————



天皇財閥 日本赤十字社=皇族私的団体・非課税特権

転載元より文字起こし) YouTube 12/2/10




文字起こし 

日赤と天皇財閥の闇 2011年03月22日|社会問題

〈目次〉
1、日赤は天皇家のファミリー企業
2、日赤の歴史とその大事業
3、天皇財閥とは
4、町内会を使った収奪

1、日赤は天皇家のファミリー企業

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本ブログで大震災に心痛を表明した天皇の「お言葉」を批判した
(「天皇メッセージの愚劣」(3月18日))ところ、
「埼玉どこどこ」というハンドルネームの人が

「そんな貴方のためにも 天皇陛下は祈っておられます。
あなたの心に平穏がきますように」

とコメントしてきた。

もろに頭がいかれた天皇教信者らしい。
祈っていますと言われたって余計なお世話だが、
祈れば何かが解決すると信じるこのご仁にはそぞろ哀れをもよおす。

日赤・・・それは天皇家ファミリー企業(2011年3月19日)

日赤は天皇家ファミリー企業で総裁がたしか皇太后です。

先の大東亜戦争にて、アメリカ国との開戦前に、赤十字に莫大な寄付をして、終戦工作をバチカンに依頼したこともありました。

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また、赤十字に『献血』を啓蒙していますが、これ自体が利権で、この善意の『献血』を製薬会社に原材料として売却して独占的利益を享受しています。

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過去の薬害「AIDS」もアメリカ国からの売血(貧困層や麻薬常習者等の血液)を輸血、もしくは製薬の原材料に混入したAIDSが感染の要因です。

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エイズについて(時事ブログの過去記事より)

・人の手によって作り出された細菌兵器(2011/08/06)
・エイズの本質:誰も見たことがない幽霊のようなウイルス(2013/07/04)
・ワクチン接種でHIVテスト陽性に?(2013/12/29)
・エイズが蔓延した時も、ワクチン接種が原因だった(2014/10/19)

この東北震災においても『焼け太り』する気ではないですか?
所詮、『民草』の事は何も考えていないのです。

つまり、企業(銀行)の内部留保(利益)になる。

その企業オーナーは、国際金融資本で『金』は其処へ流れていくのです

『この震災で被害を受けた人々の怨念』と共に!

それでは私も遅ればせながら。
「今回の震災により莫大な募金は、かなり日赤に集中している」わけを解いてみよう。
私が日本赤十字社が皇室との関連が極めて深いことを知ったのはだいぶ前で、たしか昭憲皇太后のことを調べていたときだたった。


昭憲皇太后
昭憲皇太后(明治天皇の皇后)

その後鬼束英昭氏の著書でも知ったように思う。


(続きはここから)
2、日赤の歴史とその大事業 


出典
日赤の名誉総裁と名誉副総裁(出典)

「日赤は天皇家のファミリー企業で総裁が皇太后」というのは、前半は正しいが後半はちょっと違う。
現在皇太后はいないし、美智子皇后が名誉総裁を務めている。
名誉副総裁が皇太子・浩宮である。


近衛忠輝()
近衛忠輝(画像の出典)


日赤の代表者=社長は、近衛忠輝である。
この人物は旧公爵家の当主である。

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彼の兄が細川護煕(元総理大臣)だ。

旧肥後熊本藩主・細川家から近衛家に養子に入った。
「霞会館」に集う皇族関係者である。

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戦前の日赤は、明治10年に設立された博愛社を前身として設立された。
博愛社は、西南戦争に対応して熊本の熊本洋学校内につくられたものだ。

その後明治19年のジュネーブ条約締結にともなって、翌20年に国際赤十字社日本支部のような形で日本赤十字社と改名した。

発足は赤十字社と無関係に設立されたが、「博愛社」の名前からもうかがえるように、これはおそらくフリーメーソンの流れを汲んでいると思われる。実際赤十字活動はヨーロッパでは王室が熱心に関わってきた。

日本でも皇室がそれを担当するようになった。
戦前の日赤の管轄官庁は宮内省だった。

戦後の日赤は、昭和27年に再発足している。
同年に「日本赤十字社」が制定され、その方によって設立されたことになっている。

認可法人であり、準公機関である。
純粋な民間企業ではない。
なぜかと言うなら、それは日赤がそもそもの設立以来、天皇家ファミリー企業だったからである。


天皇財閥―皇室による経済支配の構造
天皇財閥―皇室による経済支配の構造

吉田祐二著『天皇財閥~皇室による経済支配の構造~」(Gakkenn刊)によると、日赤はその従業員数は世界一だそうだ。

戦後になって増え続けてきたのだ、と。
同書から引用する。


社員増加にともない事業規模も拡大。
日赤ホームページによると、平成二十年度の決算報告では1兆円を超える規模であり、
うち血液事業が1500億円、医療施設事業が8000億円を占めている。

名称未設定 2 

一見すると善意の塊のような団体だが、内部の不透明性を指摘している本もある。

松倉哲也の『現代の聖域 日本赤十字(奉仕者の善意を裏切る巨像と実像)』によると、

日赤は非課税にもかかわらず診療報酬が開業医と同じであったり、献血された血液が製薬会社に売られたり治療用の血液も「在庫調整」のために捨てられていたりといった不祥事が告発されている。(引用終わり)
吉田祐二の新著『天皇財閥』は、日本の隠された支配構造をひもといて見事である。
同書の表紙のカバー位返しにはこういう宣伝文句がある。

「明治維新以降、天皇家は三井や三菱をはるかにしのぐ大財閥として、日本経済を支配してきた。しかも、戦後、すべての財閥が解体されるなか、天皇家だけは財閥解体されず、形を変えて、今も日本経済を支配しているという。日銀の大株主・皇室による経済支配の痕を綿密に追い、現代日本の経済構造の真相に迫る。」

私は3月18日「天皇家メッセージの愚劣」でアキヒトの読み上げた「お言葉」は、宮内庁の官僚が作文した当たり障りのない文章を抑揚もなく読み上げただけであり、あの深刻そうな一方で、薄ら笑いをかみ殺しているようにも見えた、と書いた。

つまりは、この国難にあたっても、天皇家=天皇財閥は災害をダシに一儲けできると踏んでいるのであろう。

だから薄ら笑いのビデオレターになったと思う。隠すより現るるなし・・・。

同じ寄付ならもうちょっと別のところにしたほうがよくはないか?

みんな義援金というと
日赤に放り込んでおけば被災者に届けてくれるんだろう、と信頼しているだろうが、一度立ち止まってよく考えてはどうかと思う。

なにせ、義援金の収支決算なんか誰も検証しない。
どんぶり勘定もいいところで、それがいつどこへ、どのように届けられたかも定かではないのだから、不正の温床になっていたとしても不思議ではなかろう。

3、天皇財閥とは 
吉田祐二氏の
「天皇財閥~皇室による経済支配の構造~」を見れば、
「貴方のためにも 天皇陛下は祈っておられます」
などとの「助言」はアホらしきの限りの妄想だと、恐ろしいまでにわかってくる。

ちゃんと歴史は勉強してほしいものだ。

同書の冒頭部分を引用させていただきたい。
なぜ天皇家が財閥なのか、を端的に説明している。

天皇を中心とする企業グループを、ひとつの「財閥」と見立てることができる。


この財閥は余りにも巨大なので、日本全体がこの財閥の興亡に左右されることになった。

それが、本書で論じる「天皇財閥」である。

近代日本の代表的な企業には、もちろん「財閥」と呼ばれた

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三井家一族の支配による三井財閥や、

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岩崎家一族の支配による三菱財閥、

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住友家による住友財閥など、
大企業グループが存在した。

しかし、日本最大の財閥である三菱財閥、三井財閥を、さらに数倍上回る規模の財閥が存在した。

それが「天皇を中心とする、天皇が支配する財閥」、略して「天皇財閥」である。

天皇財閥とは、天皇家を財閥家族とし、宮内省を本社機構に持ち、その傘下には

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日本銀行や横浜正金銀行、

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南満州鉄道株式会社(通称「満鉄」)、

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日本郵船といった、日本を代表とする「国策企業」群を有する大企業グループである。

〈天皇家=宮内省〉を中核とする天皇財閥は、これら大企業たちを株式を通じて支配した。

ゆえに、戦前の天皇は、立憲君主であるとともに戦争時の大元帥であり、さらに財閥総帥であったことになる。

このことは意外事実であろう。

「現人神」(あらひとがみ、あきつかみ)という天皇イデオロギーから解放された現代の日本人は、一転して、戦後は天皇を、

平和を愛好する「象徴」としての立憲君主とみなしている。
これが現在の一般的な天皇に対する理解である。

しかし、事実はそのどちらとも異なる。
天皇は、日本を代表する複数の国策企業の大株主であり、なかんずく日本銀行の過半数を超える株式を持つ大投資家であった。
本書ではそのことを明らかにする。

また、この天皇財閥という枠組みを用いることにより、昭和前期からの日本の行動がよく理解できるようになる。

明治から昭和に至る日本の近代史は、要するに天皇財閥の興亡のことである。
日本の大外侵略とは、天皇財閥の大外経営戦略であり配線はその破局的な終わり方だったのである。
小林よしのりが、ゴー宣スペシャル「昭和天皇論」を描いて、そこまで言うかというほどの天皇賛美を繰り広げた。少し読んだが、あきれかえって捨ててしまった。

ヒロヒトを、無私無欲の神みたいに捉えるのはまったく間違いである。強欲と卑怯の塊であった。それを息子アキヒトが引き継いでいるのである。

吉田祐二氏は『天皇財閥』で、「天皇法人説」を提唱している。
「天皇主権説」や「天皇財閥説」ではなく、その本質は「社会法人」だというのである。
それも、宮内省が財閥本社としても機能を有している。
(ただし株式は発行していない)
非課税特権にも守られている。

吉田氏は、これを次のように説明する。
三菱で例にとると、岩崎家を頂点としてその下に三菱本社があり、さらにその下に直系会社があり、そのまた下に孫会社がある。

天皇財閥は、天皇を頂点としてその下に「宮内省」があり、その傘下に国策会社がある、という構図である。
日赤はこの宮内省参加の国策会社のひとつであった。

三菱や三井は財閥家族が持ち株会社の株を所有するが、天皇家は持株会社と同等の機能を有する宮内省を支配したのである。
どういうことかと言えば、宮内省は「皇室のための御用ならなんでもした」のであり、それは皇室の財産・山林管理や、投資、大企業の株の管理運用、配当金の扱いなどである。
宮内省は戦後、宮内庁に変更されて、そのまま引き継がれている。

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財務省や外務省などと違って、その古色蒼然とした建物は実に皇居の中にある。
1~2度所要あって訪ねたことがあるが、坂下門で皇宮警察のチェックを受けないと入っていけない。
「陛下のお側にいて…」という理屈なのだろうが、実態は天皇家の財産管理を担当しているから、厳重なセキュリティのために皇居内に置かれていると見たほうがいい。

4、町内会を使った収奪 

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みなさんは町内会組織が、日赤とか「赤い羽根募金」などの木っ端役人の天下り団体の肩代わりしてカネを半強制的に徴収しに来ることをご存知だろう。

日赤やそうした団体は、自分たちの資金集めのために、住民を「町内会の当番」として使って各戸を回らせている。

慈善行為を隠れ蓑にして、町内会の断りにくい雰囲気の中で「みかじめ料」を恐喝している、その元締めの一つが日赤である。
町内会は、事実上入らざるを得ない状況になっている地域も多いだろう。
住民を脅迫的な構造の中で無理やり巻き込んで、本来なら強制してはならないことを強制している。

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今度のような災害があると、決まって回覧板が回ってきて、カネを「任意」と言いつつ事実上強制的に収奪するのはおなじみの光景であろう。

日赤は皇族を広告塔にするから、バカな日本人は余計断りにくい。
断固、信念にしたがって断ると、なにか「村八分」にされかねない雰囲気が町内会にはある。

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マンションの自治会なんかも同じような役割を担わされているだろう。

行政の手が届かない(不十分な)街灯設置やゴミ処理などを名目に会費を取り立てる。

本来ならすでに税金を納めてあるのだから、さらに町内会費をふんだくられるのは筋違いであるが、街灯やゴミ問題で(さりげなく)詰め寄られると、それは生活に必要なので拒否できない仕組みになっている。

しかも町内会の回覧板は役所が仕切っていて、町内会を通じて行政の新聞とか、ゴミ回収予定なんかを知らせてくる。
だから役所と町内会と日赤などはグルである。


日赤を筆頭に、慈善事業の輩は、町内会で波風を立てるのも、はばかられるという心理をついている。

回覧板に小箱が添えてあり、寄付金をいれた家はハンコを押される。

寄付しないとただちに町内会の全員に知れてしまう。
日赤は「かみじめ料」を強奪するヤクザと同じ。

だから社員の数が世界一に膨れ上がったのだ。

巧みに日赤や慈善団体が入り込むのである。
そのシステムを作ったのが皇室や華族ども(宮内省も)なのである。

みなさんは、義援金を寄付するなら、天皇家ともゆかりの深い日赤なら安心と思うのであろうが、私は逆だ。天皇ファミリー企業なら尚の事信用ならぬ。

詐欺師は、自らを絶対に詐欺師に見えないように装うものだ。紳士で、善人ぶり、慈善家のふりをし、親切で、金満家を気取る、だからみんな詐欺師に騙される。天皇家の振る舞いも同じだと、どうして見抜けぬのか。

天皇家の振る舞いも同じだと、どうして見抜けぬか。


明治天皇は替え玉
明治天皇は替え玉


文字起こし:hiropan

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日本書紀や古事記を歴史書と見るは大馬鹿者である 皇国史観という名のカルト右翼宗教 神武天皇などという歴史上の人物は実在しない!

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学究生活五十年

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 学問上の閲歴のようなものを書けという『思想』の編輯部からの話があった。これまでもあちこちから同じことをしばしば勧められたが、いつも書く気になれなかった。人に語るほどの閲歴もないし、久しい前のことは記憶もはっきりせず、その上に、じぶんのことを書くのは書きにくくもあるので、筆をとりかねたのである。それに、ぼくがいくらか学問上のしごとをしたとするにしても、その大部分は一般の学界とは殆ほとんどかかりあいのないものであったから、ぼくの閲歴はぼくだけの閲歴であって、それによって学界の動向などが知られるわけでもなく、従ってそれを書くことに大した意味はない、という理由もあった。しかし書かないことを固執するにも及ぶまいから、思い出されることを思い出すままに少しばかり書いてみることにする。
 学問上の論文らしいものを書いたのは明治時代の末からであるが、書物の形でそれを公にしたのは、『朝鮮歴史地理』と『神代史の新しい研究』とがはじめであって、何いずれも大正二(一九一三)年の出版である。しかし、かなり前から長い間かかってしたしごとをまとめたものは、大正五(一九一六)年から十(一九二一)年までに四巻を出した『文学に現はれたる我が国民思想の研究』である。それから後にも、『古事記』や『書紀』についての考かんがえや日本の上代史上のいくつかの問題を取扱ったものを書いたことはあるが、大正時代の末ころから後のおもな著作は、シナ思想に関するものであって、初から単行本で出したものもあるが、その多くは、『東洋学報』とか『東洋文庫論叢』とか、または東大文学部出版の名義になっている『満鮮地理歴史研究報告』とか、または早大のぼくの研究室から出した『東洋思想研究』とか、そういうもので発表した。それで、どうしてこういうようなしごとをするようになったかということであるが、それには『国民思想の研究』のことから始めるのが便宜であろう。
『国民思想の研究』という書名は、出版まぎわにつけたものであるし、ああいう形でああいうものを書こうという構想のほぼまとまったのも、大正のはじめのころであったろうと思うが、手をつけはじめたのは、それよりも十二、三年前のことである。たしか明治三十三(一九〇〇)年であったように記憶するが、その前の二、三年ほどの間、地方の中学の教師をしていたのを、この年に東京に帰って獨逸学協会学校につとめることになった。同じようなしごとではあるが、いくらか新しい気分にもなったので、この機会に明治維新のことを、主として思想の方面について、少し考えてみようと思いついた。どうしてそういうことを思いついたかは忘れたが、フクチ オウチの『幕府衰亡論』、キムラ カイシュウの『三十年史』、タナベ レンシュウの『幕末外交談』、その他、旧幕臣たちの著書を読んでいたので、それに誘われたところがあったのであろうか。トガワという人の『幕末小史』や『旧幕府』という月刊雑誌の出たのも、このころであったかと思うが、もしそうならば、それらもいくらかの刺戟になったかも知れぬ。あるいはまたいわゆる勤王論のような立ちばからのみ維新を考えることに物足らぬ感じを、前からもっていたようにも思われるので、そういうことから導かれたところがあったかとも考えられる。何れにしても、じぶんのことながらはっきりは思い出されぬ。それはともかくも、そのころには幕末期における幕府のしごと、特にヨウロッパの文物を学び取ろうとして努力したことに、最も多く興味がひかれ、その方面に関係のある書物で手に入り易いものをいろいろ読んでみた。ところが、何につけても疑問が起って、わからないことばかり出て来た。そうして、もっと広くその時代の、また溯さかのぼってエド時代の初期からの、文化上社会上の情勢を知らなくては、小さい疑問も解けないことに、だんだん気がついて来た。それで、そういうことを知るために役にたちそうな書物を何によらず読んでみることにしたが、そのころには、版本でも現代式の活字本の覆刻が少ししかできていず、また写本のままで伝わっているものが多かったので、読みたいものを手がるに手に入れることができなかった。勿論、珍本とか人の知らないようなものとかも読もうとしたのではなく、だれでも一応は読むべきはずの、ごくありふれた本を見ようとしたのであるが、貧乏生活をしていたので、そういう書物を買う余裕すらもなかったのである。それで、ウエノの図書館を利用する外に方法がないと思い、学校から帰ると、夜にかけて、殆ど毎日のようにそこに通った。三十三年から三十六年ころまでそれが続いたように思う。図書館が音楽学校の前にあって、小さな木造の閲覧室をもっていたころのことである。ただいわゆるエド文学に関するものは、活字の覆刻本がかなり出ていたので、そういうものだけはどうかこうかじぶんの書物でまにあわせることができた。
 ここでしばらくこの時から十年あまり前のことをふりかえってみる。ぼくは明治二十三(一八九〇)年に東京に出て来て、今の早大の前身である東京専門学校の政治科に入り、一年半ばかりいて、翌二十四年にそこを卒業したことになっている。数え年で十八、九の時であったし、そのころの学校も学校であったから、学問というようなことは何もわからなかった。ところが、そのころ博文館から『日本文学全書』というものが出、版元は忘れたが近松や西鶴芭蕉などの廉価な覆刻本もいくらかずつ現われて来たので、そういうものをぼつぼつ読んでいるうちに、学校の講義などよりはその方がずっとおもしろくなった。それからひきつづいて『日本歌学全書』というものも出版せられるようになり、『源氏』の『湖月抄』もオオサカあたりの書林からか出たので、それらをつぎつぎに読んでいった。これは二十五、六年ころのことであったろうか。独りでかってに読んだのだから、わからぬところもあり、誤解していることも多かったであろうが、とにかくこういうようにして、いろいろの古典やエド時代の文学を少しばかりのぞいて見ることができた。宣長の『古訓古事記』や『書紀』の本文を始めて読んだのも同じころであったが、今から思うと、これらは何のことかわからずに読むことだけをしたものらしい。ぼくは日本の古典などの講義をだれからもきいたことがない。シナのも、小学校時代の外は、同様である。人に交わることが殆どなかったので、こういうことについて話しあう友人というようなものも有もたなかった。ただかねてから『国民之友』とか『日本人』とかいうような雑誌は見ていたし、文学雑誌では鴎外の『しがらみ草紙』を特に愛読していたので、そういうものが、古典などを読むにも、おのずから何ほどかの助けとなったであろう。
 こんなことをしているうちに、そのころ学習院の新進教授であったシラトリ クラキチ先生のお宅にときどきうかがうようになった。先生は大学を出られてからまだ二、三年か三、四年かにしかならず、研究の方向もまだはっきりきまってはいられなかった時であったと思うが、いつも学問上の話をせられ、お頼みすると学習院の書物を借り出して来て貸して下された。その時分、ぼくは歴史にいくらか興味をもっていたではあろうが、それは、古典などを読むにつれて昔のことに或る親しみを覚えた、という程度のことであったらしい。もっとも、そのころ世に出た歴史に関する書物を少しは読んだように思うが、それによって何を知ったかは全くおぼえていない。『史学雑誌』とかタグチ ウキチの編纂していた『史海』とかを見てはいたようであるが、特殊の問題を取扱った論文などは、読んでもよくわからなかったろうし、『国史眼』というものも買ったことは思い出せるが、それを通読したかどうかは忘れている。それからヨウロッパのものでは、たしか著者をフィッシャアといったかと思うが、かなり程度の高い学校の教科書として書かれたものらしかった『世界史』を読んだ。ぶあつなものであったが、書きかたがごたごたしていて、歴史の大すじが却ってつかみにくかったかと思う。特殊のものとしてはマコレイの『イギリス史』を読もうとしたが、ことばづかいがむつかしくてよくわからず、少しばかりでやめてしまった。歴史とはいえないものであるが、カアライルの『英雄崇拝論』を或る感激をもって読んだのは、このころのことであった。このくらいのことしか思い出せない。(まだ東京へ出ない前のことであったが、タグチの『支那開化小史』を読んで、これはおもしろい本だと思ったことを、記憶している。)要するに、学問として歴史を研究しようというような考ができていたのではなく、何かの学問を専門的に研究しようというような考を起すまでには、まだあたまが進んでおらず、気のむくままに手ごろな本を読んでいただけのことである。シュヴェグラアの『哲学史』のイギリス語訳をほねをおって読んだのも、このころであったように思うが、それを読むだけの素養などはなかったに違いないから、読むには読んでも実は何もわからなかったであろう。専門学校で心理学の概論めいた講義を聞いて、それをおもしろく思い、それに誘われてそのころ世に出た心理学に関する書物を二つ三つ読んだことはあるが、哲学史などの講義はなかったようであるから、どうしてこんなものを読もうとしたか、それすらおぼえていない。こんなような読みかたをしていたのである。しかし、シラトリ先生とたびたびお話をするようになってから、学問の匂いとでもいうようなものが、かすかながらに感ぜられたと共に、その学問の一つとして歴史に心がひかれるようにもなって来た。
 ところが、二十八(一八九五)年であったかと思うが、先生の中等学校で使う西洋史の教科書の編述のお手つだいをすることになった。先生はそういうものを書くことを好まれず、またそのひまももたれなかったが、或る書肆しょしの懇請をことわりきれず、それを引きうけられたのであった。そのころによい教科書がなかったからのことであったらしいが、あるいは、ぼくに一つのしごとをさせようという心づかいが、それに含まれていたかとも思う。ぼくはそれまでは、ヨウロッパの歴史についての知識は殆どないといってもよいほどに貧弱であったので、このしごとのためには、急いでいろいろの書物を読まねばならなかった。どんなものを読んだか、二、三の外は、はっきり記憶していないし、書物の名は思い出されても、この時に読んだのか、その前か後かにであったか、たしかでないものもあるが、その時のぼくとしては読むにほねのおれるものを、かなり多く読み、あとから考えると、どうして短い時間にあれだけの書物を見たかと思われるほどに、勉強はしたらしい。先生の編述の方針としては、これまでの西洋史の教科書は、記載せられた一々の歴史的事実の間に脈絡がよくとれていない嫌きらいがあるから、大勢の動いてゆく道すじがそれによって説明のできるような組みたてにすること、文芸学術などの文化史上の事実が軽くまた歴史の大勢と離して取扱ってあるから、それを歴史の動きの一つとして叙述すること、東洋また日本との関係が殆ど記してないから、それに力を入れて書くこと、などがそのおもな点であったから、何を読むにも、それに適応する知識を得ることに注意したようにおぼえている。大学の学生時代に聴かれたリースの講義の筆記を先生から借りて通読したのも、この時のことであったかと思う。それで、いよいよ書く段になると、先生の立てられた大体の構想によって、ぼくが草稿を作り、月に二、三回ぐらいずつ先生のお宅にうかがってその検討を乞い、訂正すべきところは訂正し、疑問のあるところは更にそれに関係のある書物を読んで考えなおす、というようにして、ともかくもかなりぶあつなものを書き上げた。出版せられたのは三十年の半ばころであったかと思う。後から見ると、全体が蕪雑でもあり、筆を執ったぼくの知識の足らぬために、著者としての先生の名を辱はずかしめることになりはしなかったかと気づかわれもしたが、書いた時には、ぼくとしてはせい一ぱいのしごとであった。
 このしごとはぼくにとっては大きな意味のあることであった。教科書の上に明かには書き現わされていなかったと思うが、ごく大ざっぱにではあるけれども、世界の歴史の動きの大すじが、その時のぼくの浅薄な知識の程度で、一とおりわかったように思ったことの外に、政治、経済、社会、宗教、または文芸や学術などの、種々の現象が互にはたらきあって一つの歴史の動きとなっていること、世界は一つの世界であって、多くの民族はその間に、多かれ少かれ、また直接間接に、何らかのつながりがあると共に、民族によってそれぞれの特殊性をもっていること、などを、ぼんやりながら知ったのは、そのおかげであった。また或る歴史上の事件について、今まで普通に行われていた考がまちがっていたり、それとは違った見解があったりすることが、いくらかわかっても来た。こういうようなあたりまえのことが、そのころまだじぶんで研究するということを知らなかったぼくには、新しい発見であった。それから特殊のこととしては、ダットとかいうインド人の書いた『古代インド文明史』を読んだために、それに導かれてインドの文化に興味をもつようになった、というようなこともある。(興味をもったとはいっても、ヨウロッパ人の書いたものや翻訳したもの、または漢訳仏典を、ほんのわずかばかり、おりにふれて読むようになった、というだけのことである。)こういうことを数えあげるとなおいろいろあろうが、一々は思い出されぬ。が、ともかくもこのしごとをしたことによって、いつのまにか歴史というものに親しむようになった。
 さて、このしごとが一応かたづいてから二、三年ほどの間、地方の中学の教師をつとめ、それから東京に帰ったことは、前にいったとおりである。中学では歴史とか地理とかいうものを受持っていたと思うが、その間に、どんなものを読んだかは、殆ど忘れてしまった。ただ自然科学に関する知識があまりなかったので、いくらかでもそれを得ようと思ったこと、フランス革命に関するものを一つ二つ読んだこと、などをおぼえているのみである。
 ここで話をもとにもどす。エド時代の書物を読みあさっているうちに、いろいろのことがらについて、じぶんだけの考のようなものが、ぼんやりした形においてであるが、いくらかずつ思いうかべられて来た。そうしてそれには、普通にいわれているのとは違ったところがあることに、気がついて来た。一つの例を挙げると、そのころニトベ氏の『武士道』が現われて世間の評判となり、それが武士道についての定説のようにいわれたので、それを読んでみると、ぼくの考とはかなり大きな違いのあることがわかった。しかしぼくの考は、武士道というものを特に問題として研究した結果をいうのではなく、いろいろのものを読んでいるうちに、いつとなくそう感じて来たというような性質のものであった。そのころに思いうかべられたことは、みな同じようなものであり、学問上の見解などといい得られるものではなかった。エド時代の生活状態やその全体の動きというようなことについても、じぶんなりに何ほどかの考がおぼろげにできて来たようであるが、これもまた同様である。しかし後に『国民思想の研究』の「平民文学の時代」で書いたことの大すじは、ほぼこのころに一おうの形を成したように思う。
 ところが、エド時代のことをもっとよく知ろうとすると、それより前の時代に溯って考えねばならぬことになり、それを考えることになると、更にその前に溯らねばならず、結局は上代まで溯ってゆくことになるので、実際はそう一々時代の逆の順序に従ってしたのではないが、ほぼこういうふうにして、読んだり考えたりするようになった。そうしておしまいに『古事記』や『書紀』までたどりつくことになったのである。後世の学者の書いたいろいろの古典の注釈を、古典を読むために読まず、時代々々の学者の考を知るために読んだことになっているのも、こういう順序をとったからのことであろうと思う。もっとも、宣長の『古事記伝』などは、この最後の段階に入ってはじめて精細に読んだので、それはこの書の注釈のしかたのためであったらしい。三十七、八(一九〇四―五)年ころから後の数年間は、おもにこんなことをして過したようである。このころになると古書の新刊や覆刻が盛さかんに行われたので、後世のものでもまだ読まなかったものが容易に読み得られ、前には大ざっぱに読んだりぬきよみをしたりしたものが、こまかにまた全篇を通読することができるようになったから、そういうものをくりかえして読むこともした。
 同じころのもう一つのしごとは、西洋というかヨウロッパというか、そちらの方面の文芸とそれに現われている思想との知識を、一ととおりでも得ようとして、それに関する書物を読むことであった。語学は、その才がないのと教師につかなかったのと努力が足らなかったのとで、何をはじめてみてもものにならず、イギリス文のものすら、どうなりこうなり曲りなりにというほどの程度で、一応の意義がわかるくらいの力しかもっていなかったが、とにかく、おもにイギリス人の著作や翻訳で、文学史芸術史文芸評論の類や、いくらかの古典を読むには読んだ。(ぼくの読んだ西洋のものは、いわゆる歴史家の著述よりは、こういうものの方が多かった。)勿論、ありふれた知識を常識的に得ただけのことであり、その理解のしかたも極めてうわつらのものではあったが、それに費した時間と力とはかなり多かったと思う。読んだことはあとからあとから忘れてしまうので、そのままの形では殆ど頭に残らなかったが、ただそれによってぼくの思想を養うには何ほどかのやくにはたったと思う。これと関聯したことであるが、そのころ西洋の音楽をきくことのできる唯一の機関であった明治音楽会の演奏を欠かさず聴きにいったことも、思い出される。この音楽会では第二部として日本の俗曲を演奏することになっていたので、いろいろのそういうもの、たまには平家琵琶などをさえきくことができた。宮内省の楽部の雅楽の演奏、九段の能楽堂で演ぜられた能や狂言も、できるだけ見にいったことを附記しておく。歌舞伎はたびたびは見なかったが、これは費用がかかるからであった。造形芸術の方では、博物館やときどき開かれる展覧会などのおかげを蒙こうむった外、『国華』のようなもので複製品を見ることを楽しんだ。
 こんなことをしているうちに、ぼくの学問に新しい道の開かれる一つの機会が来た。四十(一九〇七)年のことであったと思うが、そのころ東京帝大の教授であられたシラトリ先生が、満鉄から費用を出させて、その社内に満韓史の研究室を作られたので、そのおてつだいをすることになった。シナの書物は少しは読んでいたので、それに親しみをもっていたし、現代シナのことをも知ろうとして、康有為や梁啓超がヨコハマで出していた何とかいう紅い表紙の雑誌などを読んでもいたが、満洲とか朝鮮とかいうことは、あまりに縁遠い気がして、そういう方面の研究はできそうにもなかった。ただ始めて地方の中学の教師となった時に、東洋史の教科書に朝鮮のことが書いてあったけれども、あまりわかりにくい書きかたがしてあったので、日本とシナとの中間にはさまっている朝鮮の地位ということを主題とした、この半島の歴史の大すじを簡単に書いてみて、それを生徒に話したことがある。日清戦争後まもない時であったので、こういうことをしてみたかったのであろうが、この主題は、やはりシラトリ先生からうけた示唆がもとになったものであったと思う。『東国通鑑』を学校で買ってもらって、それを主なる資料とし、日本とシナとのことについては、一々原典を見たのではなく、何かの編纂ものによったのであろうが、その書物の何であったかは忘れてしまった。勿論、研究したのでも何でもなく、ありふれた知識をただ少しばかり系統だててじぶんの頭に入れてみようとしたのみのことであったから、その時分のこととしても、まちがいが多かったに違いない。朝鮮についてはこれだけの縁はあるが、それも十年も前のことであったし、満洲のことは何も知らなかったのである。しかし、獨逸学協会学校の方はやめていたし、これは学問的のしごとでもあったので、研究員として満鉄から嘱託しょくたくせられるのではなく、シラトリ先生の私的の助手のような形で、それに参加することにした。前にいった『朝鮮歴史地理』はぼくのこのしごとの結果なのである。ぼくはこの時はじめて特殊の問題についての学問的研究、特に原典批評の方法をさとるようになったといってよい。それと共に、日本の歴史を知るについてシナと朝鮮との史籍を用いねばならぬことを、前々よりも痛切に感じたのである。後に記紀のことを考えるようになったのは、これらのことに誘われたところが多い。それからもう一つは、この満韓史研究は十年計画だということであったので、ぼくはぼく自身のしごととして、日本の文学思潮史とでもいうようなものを、やはり十年計画でまとめてみようということを思いたったのである。新しい道の開かれる機会が来たというのは、この意味でのことである。
 そこで、これまでエド時代のことから次第に溯って上代のことに及んで来たのを、今度は上代から始めて近代に下ってゆくという順序で、改めて考えてみること、できるならばおもな書物をもう一度読みなおすことを、企てた。ところが上代のことを考えるには、世界の諸民族の神話や、上代の宗教民俗、社会組織など、そういうことに関する現代の学問的研究の状況を一わたり頭に入れてかからねばならぬと考えたので、始めのうちは、それらのことについての書物を読むのに、かなり多くの時間と力とを用いることになった。さて、こういうようにして、明治維新ころまでの文学思潮の変遷についての一応の見当が、どうかこうかついて来たようであったから、試こころみにその初期の部分を書いてみようとしたのが、大正のはじめのころであったかと思う。ところが、書きかけてみると、また考えなおさねばならぬことがいろいろ起って来たり、どういう形でどういう書きかたをすべきかに迷いもしたり、そういうことで筆が進まず、どれだけか書いたものを一たん反古ほごにしてしまった。そうして更に初から書きなおしたのが、多分、二年か三年かのことであったろう。そうして四年のいつころであったか、ともかくも「貴族文学の時代」一篇を書きあげ、引きつづいて「武士文学の時代」に手をつけた。そうして「貴族文学の時代」は五年になって世に出すことができた。それから六年に「武士文学の時代」を、八年と十年とに「平民文学の時代」の上巻と中巻とを出した。ところが、その下巻とすることになった明治維新を中心としての一時代の部分は、今なお書かないままでいる。こういうものを書くようになったのは、大正十年からは二十年あまりも前に、維新のことを考えてみようとしたのがそもそもの発端であり、それから引きつづいたしごとであったのに、その最初の出発点まで立ちもどらずして、しごとが中絶したのである。これにはいろいろの事情があったので、出版した書肆が破産したり大震災のために紙型が焼けたりしたことも、その一つであるが、ぼく自身にすべきことが他の方面に生じ、興味の中心がむしろそちらに移ったからでもある。
 満鉄における満鮮史の研究は、大正元年だか二年だかに、会社の事情でうちきりとなり、東京帝大の文学部の名で研究報告を続刊し、その出版費を会社から提供する、という形で纔わずかにその生命をつなぐことができた。それでぼくも毎年その報告に何かの論文を載せることになり、始めのうちは満洲史上のいくつかの問題を取扱ったものを、そのために書いた。ところが、そういうことをしているうちに、シナ人の思想とか生活態度とかいうことから考えてかからねば、何につけてもほんとうのことがわからぬように思われて来たので、次第に問題をその方に移すようになった。『国民思想の研究』を書いていても、もっとよくシナ思想を知らなくてはならぬことが考えられたので、それもまたこのことを助けた。それから大正六年だか七年だかからワセダ大学で講義をすることになったが、その主題は日本のことであったけれども、シナ文化シナ思想との交渉ということに一つの重点を置いた。これらの事情から、ぼくのしごとの半分またはそれより多くが、シナのこと、特にその古典の研究、に費されるようになって来たのである。それと共に一方では、記紀などの日本の古典をもう少し深く考えてみたいと思ってその方にも少からぬ力を分けた。それで、『国民思想の研究』の最後の一巻を書くことは、おのずからあとまわしになったのである。従ってこの著作に関する話は一ひとまずこれできりあげる。
 ここで少しくいいそえておく。むかし東京専門学校に、わずかの期間、学生として籍を置きはしたが、その後は学校とは何の関係もなく、名がワセダ大学と変ってからも同様であった。そこの教授諸氏とも何の交渉がなく、面識ある方すらも殆どなかったのである。だから、そういうワセダ大学の講義をひきうけることになろうとは、思ってもみたこともなかった。学校のことをいうと、学問の方ではむしろ帝大の方にいくらかのつながりがあったともいわれよう。しかしそれとても、ときどきそこの東洋史の学会に出席したり、書いたものをシラトリ先生の主宰していられた『東洋学報』に載せたりする、という程度のことであって、国史国文学または漢学の方面には、何の接触もなかった。ぼくは世間でいう私学のものでも官学のものでもなく、ただのぼくであった。学問についていう限りでは、それに私学も官学もないはずであるが、実際ぼくは、そういう別けへだてのあるように感じたことは、一度もない。ワセダに講義をもつことになった後でも、この点は同じであった。ぼくの関係している方面で、ワセダに学問上の特色または伝統というようなものがあったかどうかは知らぬが、よしあったとするにしても、ぼくはそういうことには気もつかず、またそういうものを作ってゆこうという考もなかった。
 ワセダの講義は初めのうちは史学科の学生に対してしたのであったが、いつころからかシナ思想に関する特殊問題を取扱った講義をするようになったので、哲学科の学生にもそれをきかせることになり、それが縁となって次には、シナ哲学の講座を担任することになり、史学科とは離れてしまった。大正の末か昭和時代に入ってからかのことと思う。シナ哲学という名は好ましくはなかったが、名などはどうでもよいと思って、それを引うけることにしたので、それから後はぼくの専攻はシナ哲学だということにせられた。事実、大正の末期から後に世に出した論稿や著書は、シナ思想に関するものがその大部分であった。日本のことを忘れたのではなく、『古事記』や『書紀』やその他の古典についての、また上代史上のいろいろの問題に対する、考を時おり世に問いもしたが、最も多く力を費したのは、シナ思想に関することであった。一つのことを考えると、それが縁となって次から次へ新しい問題が起って来るので、次ぎ次ぎにそれを考えることになって来たのである。日本のことについてもこの点は同じであった。従ってぼくのしごとは学界の趨向すうこうにも世間の風潮にもかかわりはなく、ぼくひとりの心の動いてゆくままにしたことである。ただその考えかたは、思想を単に思想として取扱うのではなく、それを実生活との関聯において、また歴史的変化ということに力点を置いて、考えると共に、研究の一つの方法として原典の批判をすることに気をつけた。それがために、ぼくの考はどれもこれもこれまでの通説とは違ったところの多いものとなった。従って、シナのことをいえば漢学者のきげんにさわり、仏教のことをいえば仏教家から、日本のことをいえば国学者や神道先生から、叱られる、あるいは変なことをいうとだけ思われる、というようなありさまであったらしい。しかしぼくはそういうことにはさして気もつかなかったし、いくらか気がついても気にはかけなかった。もともと通説に対して意識的に異議をたてようとしたのではなく、儒教や仏教や神道そのものに反抗しようとしたのでもない。ただそういうものを研究の対象とし、自由な態度、自由な考えかたで、それを取扱った結果が、おのずからこれまでの通説とは違った帰結に到着したまでのことである。
 以上はぼくのしごとについての、いわば外部的な閲歴である。どうしてここにいったような態度をとることになったか、また著作の上に現われている思想とか気分とか物ごとの見かた取扱いかたとが、どうしてそういうようになって来たか、ということになると、考えてみればいくらかはその来歴のたどられることもなくはないような気もするが、それを一々いうことはむつかしく、もっと切実には、じぶんながらはっきりしないといったほうが当っていよう。もし何かいうことができるとするならば、それは若い時からして来たしごとが長い間にいつのまにかそういう態度をとらせ、そういう気分そういう思想をもたせることになって来たのだ、ということであろう。つまりぼく自身のしごとそのものがぼくの考を次第に作って来たのである。これからさきのことはわからぬが、これまでのことについては、こういっておくより外にしかたがない。ワセダの講義は昭和十五(一九四〇)年にやめたが、それから後もぼくのしごと、ぼくの態度、ぼくの気分には、何のかわりもない。
『思想』編輯部の求められることにあてはまるかどうか知らぬがこれで一応の責をふさぐことにする。平凡なしごと平凡な生活をして来たのであるから、実はことごとしく閲歴などといい得ることがないのである。その平凡な生活のうちでも、ぼく自身としては、しごとの上でわりあいに重要な時期であったと思う大正の末期から後のことについては、却って叙述が粗略になったが、これは何か書こうとすれば著作の内容にふれねばならず、そうしてそれは簡単には書けないことであるのと、その来歴については、上にいったようなことしかいい得られないのとのためである。書き終って読みかえしてみると、もう少し書いてもよかったと思うことが、ないでもないような気もするが、今はこれだけにしておく。

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偶言

津田左右吉



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 日本人の趣味は淡泊である、清楚である、または軽快である、濃艶な、重くるしい、はでやかな、または宏大なものは好まない、だから、――というような話が今でもまだ或る程度まで真実らしく、いわれもし聞かれもしている。日本人の趣味が淡泊とか軽快とかいう言葉でいいあらわし得るものであることが、よし過去において、間違のない事実であったにせよ、「だから」という接続詞をそのあとにくっつけて、現在、または未来もそうでなくてはならぬといおうとするのは、まるで無意味である。個人にとっても、民族にとっても、趣味はその人、その民族の内的生命の発露である。その人、その民族が真に生きている人であり民族であるならば、刻々に新しい生命を自ら造ってゆく。その生命の表現せられた趣味もまた日々に新しくなってゆかねばならぬ。勿論、一方には遺伝とか、または自然界なり社会的事情なりの環境とかいう制約があって、急激に突飛な変動をさせないようにする傾もあるが、一方には絶えず新しい生命を造り出そうとする強い内部の力が活溌に動いて、そういう制約を折伏してゆく。それができないものは個人としても民族としても死んだものである。日本人は生きている。生きている日本人の国民性も民族的趣味も決して固定したものではない。だから、過去の趣味は歴史的事実として真実であっても、将来の規範とせらるべきものではない。日本人が淡泊で、清楚で、軽快な趣味をこれから後も持続しなければならぬという理由はどこにもない。今さららしくいうまでもないことであるが、世間にはまだ、凝固した国民性というものがあり、またなくてはならぬように思っている人もあるから一言して置くのである。
 のみならず過去の日本人の趣味が淡泊とか軽快とかいう方面にのみ向いていたということ、そのことが第一怪しいのである。遠い昔の平安朝を見たまえ。『源氏』や『枕』や、今は殆ほとんど遺っていないが当時の宮廷や貴族の調度に用いられた屏風絵に現われている濃艶華麗な服装を。肉感的逸楽の気が沁み渡っていた浄土教の宗教画として今も伝わっている弥陀来迎の図などのコッテリした色彩を。胡粉も落ち、臙脂も褪さめ、緑青の色もあせた今から見れば、かの高野山の二十五菩薩の大幅も、いかにも落ちついた、和かい色調のように見えるが、画かれた当時は艶麗双ならびなきものであったであろう。しかし頽廃的空気の裡うちに力のない生活を営んでいた平安朝の大宮人の趣味は濃艶ではあるが活気もなく底力もなく、徒いたずらに塗抹せられた強烈の色彩から感覚的刺戟を受けるのを喜んでいたに過ぎなかったというのか。それならば目を転じて関東武士を見たまえ。うちものの響き、矢叫びの声の間に目さむるばかり鮮かな馬上の行装を。鎌倉には金碧燦爛たる永福寺の七堂伽藍があったではないか。東夷の基衡もとひらが建てた中尊寺の光堂は今も遺っている。殺伐な武人が調子の強い、はでやかな色彩を好んだのは当然である。足利武士にもてはやされた田楽や猿楽は鋭い鼓笛の音と華やかな衣装とで成り上り者の粗大な官能を刺戟したものであった(当時の猿楽は今の能のような落ちついた、また型にはまったものではなかった)。桃山式の豪放な装飾芸術はいうまでもなかろう。わる固まりに固まった徳川初期の日光建築は、せせこましく、気のつまるようなうちにも、コッテリした華やかさだけは失われずにある。光琳にあらわれた元禄時代。あるいは友禅の京都、懐月堂の江戸。いわゆる浮世絵の世界はいわずもがなである。淡泊とか清楚とかいう面影は、少くとも、これらのものには見られない。
 日本人の芸術上の趣味が淡泊とか軽快とかいう方面に偏しているように思われたのには種々の理由がある。芸術が公衆的翫賞に供せられずして私人的であるために小規模のものとなり、従って調子の低い、また小器用なものが尚ばれたこともその一であろう。四畳半式芸術とも名づくべきものが何いずれの方面にもある。それから、徳川時代の固定した社会において、すべて刺戟性の少いものが上品として考えられたこともその一であろう。その他、割合に安らかな生活を送って来た国民であるがため、全体に力強いところのないためもあろう。しかしながら、戦国時代、その後に現われた豊臣時代、または或る意味においては元禄時代の如く、気力の横逸し、生命の緊張した時代には随分力の強い、規模の大きい芸術が生まれている。過去ですら、そうであった。おとなしい、いわゆる上品な、さっぱりした趣味のみを将来に期待するのは大なる誤りである。





 芸術の真味は高い趣味を有もっている少数人のみに解せられる。芸術は貴族的(無論思想上の意味でいう)のものだという考かんがえもここから起り、「俗物(多数人)に何がわかるか」という高踏的態度もここから生ずる。なるほど、それは尤もっともである。芸術は群衆心理に支配せられるべきものでもなければ、投票の多寡で価値の決まるものでもない。おしつめていうと芸術品は作家自身専有の芸術品なのであろう。しかし、これは既に出来上った芸術家、またはその作品から見た一面観であって、そういう芸術家を生み出す社会的要因を閑却した考である。「天才は生まる、作られず」といったところで、如何いかなる天才も沙漠の中にヒョックリ生まれるものではない。生まれるにしても生まれるだけの種子が、もしくはその種子の発育すべき地盤が、当時の社会になくてはならぬ。芸術的素地のない社会に偉大な芸術家は現われぬ。ここに芸術の根柢に潜む民衆的デモクラチック要素がある。
 肥沃の土地には雑草が茂る。雑草が茂るところでなくては、美しい樹木も、よい穀物も発育しない。芸術も同様である。千百の凡庸芸術家があって、そうしてその間に真の芸術家が一、二出るのである。そうしてこの千百の凡庸芸術家が生まれるには社会全体に芸術的空気が漲みなぎっていなくてはならぬ。芸術家の向上心と善い意味での激励の言とは別として、ピアノの鍵盤を叩くものが皆な音楽家らしい音楽家でなくてはならず、パレットを握るものが皆な画家らしい画家でなくてはならぬと思うものがあるならば、それは誤あやまりである。新しい劇団によい俳優がないとか、帝劇の女優がなっていないとか真面目になって騒ぐのも、こういう見地から観ると、あまりに性急すぎた話である。Sarah Bernhardt や Eleonora Duse が、そんなに無雑作に、そんなに沢山に、またそんなに突然に、この貧弱な日本の劇界に現われるものでない。一人の Duse が生まれるには千百のいい加減な女優が舞台に現われては舞台から葬られねばならぬ。どの芸術でも同様である。だから僕はこの意味で一人でも多く絵の具をカンバスになすりつけるものが出て、一人でも多く石膏や粘土をつくね上げるものが出るのを希望する。勿論それが皆な芸術家だとは思わない。ただ芸術の種子を播まく地面がそれによって作られるのである。

       ○

 日本人が色彩について有する趣味は頗すこぶる貧弱である。特に欧洲の思想が入って来ない前の近代において、それが甚しい。衣服住屋に色彩の重んぜられないのは勿論、調度器具の類にも色彩の見るべきものが甚だ少い。熟視してわざとならぬ光沢の目に入るものはあっても、色としては極めて貧しい。友禅のような複雑な色を集めてあるものも、全体としての効果が少しもひきたたぬ。けれども、平安朝の貴族の間にはそれがよほど発達していた。『枕草紙』の開巻第一「春は曙、やうやう白くなりゆく山際、すこしあかりて、紫だちたる雲の細く棚引きたる」と見た色彩の観察を見給え。同じ書の「なほ世にめでたきもの」の条下にある「正月十日、空いと暗う」という一節は庭上の色彩が極めて微細に写されてあるが、「桃の木若かだちて、いとしもとがちにさし出でたる、片つ方は青く、いま片枝は濃くつややかにて蘇枋すおうのやうに見えたる」というのは光線の効果が目にとまったものらしい。「心にくきもの」の条に「長すびつにいと多くおこしたる火の光に御几帳の紐のいとつややかに見え」といい、「いひにくきもの」の条に「有明の月のありつつもとうちいひて、さし覗きたる髪のかしらにもよりこず、五寸ばかりさがりて火ともしたるやうなる月の光」というような繊細の観察もある。言語上の機智を弄ろうするのみで、芸術的価値の甚だ尠すくない和歌には一向こういうものが現われないが、『源氏』などの散文物語では何れにも多少はこの色彩の記述がある。尤も空の色などは大抵「浅みどり」位で簡単にかたをつけているが、ともかくも、日本の文学でこの時代の作ほど色彩の観念に富んだものはあるまい。どうしてこんな思想が養われたかというと、彼らの日常生活の舞台が色彩を施したもので満たされていたからであろう。例えば「かさねの色」という観念が衣服の色彩に対する趣味の如何に深かったかを示している。
 この色彩の趣味が絵画に現われては、あの艶麗な「作り絵」となった。ただその絵画が室内的玩弄品として用いられる場合には小規模の絵巻物か、たかだか屏風絵ぐらいに止まっているが、寺院の壁画や装飾に用いられるとやや規模が大きくなり、従って、或る距離を隔てて画面を見る必要上、遠近法なども多少発達し全体としての色調という観念も生ずるようになって、かの高野山の二十五菩薩の大幅の類が現われて来たのである。遺品も尠く作者も解らないが、もし我が国の絵画史に色彩家カラリストと名づけられるような作者の出る見込があった時があるとすれば、まずこの時代であったろう。そうして、それは当時の社会に色彩に関する趣味があったからである。こんな一部分の現象についてでも芸術上に民衆的要素のあることは察せられる。

     ―――――――――――


 一体墨画は自然界の多種多様の色彩美を写し得ぬという不便はあるが、一方また他の彩画よりも材料の駆使において自由な処がある。彩画では絵具をパレットで合す間、パレットの上に眼を移すことを余儀なくされて画家の思想の統一が乱れる憂いもあるが、素描にはそういうことがない。木炭などは削りもせずにすらすらと何時までも使うことが出来る、鉛筆にしても短時間の略画なら、その間に心を削り出さずとも優に一枚を描き終ることは出来る、すなわち感興の赴くままに何の休憩もなしに心と手とを続けさまに動かすことが出来る。其処そこが素描の長処である。(石井柏亭氏著『我が水彩』所載)






 つい近ごろの新聞に、何とかいう露西亜ロシア人は音楽を色彩であらわすことに成功したという話があった。何でもピヤノの鍵盤を叩くとその音律に応じた色が白布の上に映し出されるようになっているらしく、旋律の流れに従って色彩が種々に変化してゆくのであろう。詳しいことが書いてなかったから、リズムやアクセントをどうして現わすのか、音の上のハアモニイを色でどう示すのか、まるでわからないが、そういうことに芸術上どれだけの価値があるか、疑わしいものである。
 官能の交錯はめずらしいことではない。イスラアが青と銀色とのノクタアンだとか白のシムフォニイだとかいう名をその作品につけたのは音楽の術語を絵画にかりて来ただけのものであろうが、リムバウが母音の色をきめてAは黒、Eは白、Iは赤、Oは青、Uは緑だといったのは単純な理窟ではなくて、彼みずから実際耳に聴くこれらの音によってそれぞれの色を幻視したのかも知れぬ。だから人によっては音の高低を色で感じることができないにも限るまい。けれどもリムバウが見る母音の色はリムバウ自身だけのことで他人にとってはAが白でEが赤だと感ずるかも知れない。あるいは全く音によって色を見ることのできないものもあろう。従って音と色とのこんな配当は畢竟ひっきょう勝手次第の独りぎめであって、何人にも同じように感じさせる普遍性がない。だから芸術の資料としては価値の少いものである。
 しかし、これは一つの音と一つの色との関係であるが、音が変化しつつ連続して旋律をなす場合に、それに応じて色が絶え間なしに変ってゆくとしたら、旋律としては耳に快い音の連続が、色に化した場合に目に快いかどうか。旋律には調子があり音程があり、またリズムがあって、それで変化しつつも統一せられてゆくが、絶えず変化する色彩にそういう統一ができるかどうか。多分は目茶苦茶なものになりそうである。本来目に見る色は共存的関係において諧調が成り立つものであって、音声のように連続的な旋律をなすべきものでないからである。そうして急激に色が変ってゆくと目は一々の色をそのままに感受することができないものであるから、それから受ける印象は混乱を極めると共に甚だ茫漠たるものであろう。
 これは新聞の雑報を読んだ時にふとおもったままのことである。それをここへ持ち出したのは近頃の或る新しい一派の画がやはり之これに似たような傾向を有っているらしく思われるからである。活動、活動と連呼する未来派の作は静止している絵に時間を加えようとして、吾々普通の官能を有っているものから見ると色調もなければ形もなく、いろいろの色をゴチャゴチャと画布にぬりつけるようになったのではあるまいか。そうしてこの未来派にせよ、あるいは立体派にせよ、あるいは例のカンジンスキイにせよ、特殊な訓錬を経た彼らの官能、あるいは彼ら特有の一種の論理の上にその芸術の基礎があるではあろうが、それは丁度Aは黒だとかOは青だとかいうのと同様、彼らのひとりぎめのものであって普通人の心理的事実として承認せられているものではなかろう。トルストイの芸術論のように芸術の俗衆化を主張するのではないが、またもとより天才的芸術家の特殊の官能を尊重することを否むものではないが、芸術の基礎は普通人の心理的事実の上に据えなくてはならないものではあると思う。

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芸術と国民性

津田左右吉





 芸術史家、または芸術の批評家が或る個人の作品を観てそこにその作家の属している国民全体の趣味なりまたは物の見かたなり現わし方なりの或る傾向が見えるというのは尤もっともな話である。しかし芸術家が製作をするに当って「おれは日本人だから日本人の趣味を現わすのだ」というようなことを意識してかかるものがあるならば、それは飛んでもない見当ちがいの話である。芸術家が製作するに臨んでは渾身ただ燃ゆるが如き製作欲があるばかりである。はちきれんばかりに充実している或るものが内にあって、ただそれに形を与えて外に現わそうとすることに向ってのみ全意識が集中せられねばならぬ。出来上がった作品をとおして外部から見ればそこに日本人らしい何物かがあるかも知れぬ。けれどもそれは作家の関知するところではない。作家はただ自己の現わそうとするところを現わすのみである。あるいはまた作家がその国の古芸術を研究してその間から何らかの暗示を得、または一種のインスピレエションを得ることもあろう。そうしてその作家の作品にはおのずからその国の古代芸術の面影が現われ、あるいは一道の霊光が両者の間に相感通するというようなこともあろう。しかし、そんな詮索は批評家のすることである。作家はただ自己の求めて未だ得ざるところ、現わさんとして未だ現わし得ざるところを古芸術において暗示せられたまでである。言を換えていうと自分と古芸術とが偶々たまたま何処かにおいて一つの契合点を得たのである。あるいは古芸術において自分の反映を認めたのである。そうしてこの場合においても一度ひとたび製作に臨んではその古芸術は全然意識の外に消えてしまわねばならぬ。
 製作の材料を撰ぶのも同様である。例えば画家が水彩画を作る。それはその画家のその時に現わそうとすることが油絵よりもパステルよりもその他のものよりも水彩を以て現わすことが最も適切だと感ずるからである。もし日本人の趣味には水彩画が調和するというようなことを智力の上で判断して、それだから水彩を取るのだというような考かんがえがあったならば、それは画家として最も不忠実なものである。もしくは画家たる資格のないものである。水彩画家はそんな外部的事情のために水彩画を作るのではなかろう。水彩画の生命はもっと奥深いところにあるはずである。あるいはまた彫刻家が日本人の趣味には木彫が合うというようなことを決めて置いて、それがために大理石よりも木を撰ぶというようなことがあるならば、それもまた同様の誤謬である。大理石に適せず、青銅に適せず、木によって始めて適切に表現せられるものであればこそ木を選ぶべきである。製作に当っては自分の現わそうと思うものに最も適切な形を与えようとする外、毫末も顧慮するところがあってはならぬということはいうまでもあるまい。
 以上は芸術家の心理からいったのであるが、もし文化史上の事実からいうならば芸術の上にも国民性というものはあろう。しかし、その国民性がどんなものであるかは十分なる歴史的研究を経た上で判断せられるものであって、ちょっとした外観などから軽卒に決めることは出来ない。日本人の趣味が淡泊だとか清楚だとかいうありふれた観察に大なる欠点があるということは僕もかつてこの誌上で述べたことがあると記憶する。茶の湯趣味というものが日本人の国民性に重大な関係があるように説いている人もあるが、これも怪しいものである。普通にいう茶の湯は文化の頽廃期である戦国時代に形を成したもので、その時の頽廃的気分の或る一面に投合したものではあるが、本来趣味というほどのものがあるのではない。そうしてそれが徳川時代に行われたのは趣味の上からではなくして別に社会上の理由がある。日本人は三十一字の歌を作ったり十七字の俳句を作ったりして喜んでいるから、小さな手軽なものが好きだというような観察もあるが、これもまた疑わしいので、歌や俳句の行われる理由は別にあると思う。詳しいことをここでいう余裕はないが、国民性というものをそう簡単に片づけてしまうことの出来ないことだけは明言して置いてよかろう。まして芸術家はそういうあやふやな国民性論を念頭にかける必要があるまい。のみならず、国民性も国民の趣味も決して固定したものではない。要するにそれらは国民の実生活によって養われたものであり、国民生活の反映であるから、国民が生きている限りは生活そのものの変化と共に絶えず変化してゆくものである。それが動かないようになれば国民は死んだのである。ただその国民趣味に新しい形を与え、新らしい生命を注ぎ込んでゆくのは芸術家である。芸術家は意識してそうするのではないが歴史の跡から見るとそうなっている。この点から見ても芸術家は過去の国民趣味に拘泥すべき者ではない。
 もう一つ考えると、芸術家も国民である以上、意識せずとも国民性はその人に宿っているはずであるから、どんな芸術家でもその人の真率な作品は取も直さず国民性の現われたものである。国民性というものが現在生きている国民の心生活の外に別にあるものではなく、そうして趣味の方面ではそれが芸術家によって表わされる。趣味の上に新しい生命を得ようとする国民の要求は絶えず新しい境地を開こうとする内的衝動となって芸術家に権化せられる。だから一心不乱に自己を表出しようとする芸術家は即ち無意識の間に国民の要求を実現させつつあるものである。知識として国民性を云々しないでも、生きた芸術として国民性を形づくってゆくのが芸術家である

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芸術と社会

津田左右吉





 芸術のための芸術と一口にいってしまえば、社会との関係などは初から論にならないかも知れぬ。けれども芸術を人生の表現だとすれば、そうして、人が到底社会的動物であるとすれば、少くとも芸術の内部におのずから社会の反映が現われることは争われまい。芸術の時代的、または国民的特色というのも畢竟ひっきょうここから生ずるのである。まして、芸術の行われる行われない、発達する発達しないというような点となると一般社会の風俗や思潮やに支配せられないはずはない。
 日本のような、何時いつでも外国の文化を学んでいる国民では新来の芸術が国民と同化するまでには相応な時間がかかる。そうして、その同化しない間は、芸術品は単に芸術品として製作せられ、享受せられるのみで、国民の日常生活から遊離している。従って、作家も享受者も、その人の全体としての心的生活、全体としての気分を以て之これに対するよりも、智識の力、頭脳の力でそれを取り扱うという傾がある。例えばピヤノを弾く人も聴く人も、あるいは上野あたりの楽堂で管絃楽を奏する楽家も満堂の聴衆も、胸に漲みなぎる情の波が指頭に迸ほとばしって絃に触れるのでもなければ、空に漂う楽のねに心上の琴線が共鳴するのでもない。欧洲人の思想や感情の行き方を領解しているものが、頭の上で、その興味を領解するのか、さもなくば、純粋に技巧として之に対するのである。要するに西洋楽は西洋楽であって、まだ日本の楽にはなっていない。音楽は世界共通だとはいうものの感情の動き方にもその表現法にも国民的特性があるから、欧洲楽が我々の情生活にピタリと合わないのは当然である。しかし、一方からいうと、我々の情生活そのものが、欧洲の文芸や学術の影響を受けまた欧洲と同じような社会状態が生ずるために、随分激しく変化してゆくから、この間の溝渠は段々狭くなるには違いない。
 Ruskin であったか、智識ある社会になればなるほど国民的特性が失われてゆくというようなことをいっていたと記憶するが、今の我が国ではその傾向が時に著しい。けれども情生活の方で国民的特色がまるでなくなることは決してない。だから外来の芸術でも智識で領解する部分の多いものはその興味を解することも容易である。翻訳劇の盛行するのは一つはこの故であろう。絵画になると、西洋画でもその題材が多くは何人も目で見ることのできるものであり、景色画にしても風俗画にしても初から日本の特色を現わすことの出来るものであるから、技巧と材料とが在来のいわゆる日本画と違ってはいるものの、それを看みて欧洲楽を聴くほどに疎遠な感じはしない。自然に対する見方がまるで違っているとか、光線や空気の取り扱い方が思いもかけぬものであるとかいう点になると、例えば Monet の作がはじめて世に現われた時驚きの目と嘲笑の声とを以って時のフランス人に迎えられたほど、西洋画が日本人に不思議がられなかったかも知れない。絵画はそれだけに世界的、普遍的分子が多い。西洋画というものが、単に技巧上の或る性質を示す語としての外は、まるで無意味の称呼となっているほど世に行われるようになったのは当然である。
 しかし、ここに一つの障害がある。その障害は、ほんの外部的のものであって、純芸術としての絵画から見れば、どうでもよいことではあろう。が、絵画の社会的方面においては看過すべからざることである。そうして、それは極めて平凡なことであるに拘かかわらず、芸術家の方では一向念頭に置いていないらしい。何かというと日本の家屋建築が今のような状態である間は、絵画は大体において展覧会芸術としてのみ取り扱われるだろうということである。
 絵画は装飾品ではない。けれども社会的需要の点からいえば、少くともその半面に、装飾としての意味が存することを否むことはできまい。また、絵画を純粋な芸術品として見れば、置かれた場所や、かけられた位置によってその芸術的価値が増減せられたるものでもない。けれども、作品とその置かれた室の全体の空気と、シックリ調子が合った時、はじめて看る者の美意識が満足することも事実である。野外に立てる銅像の類ですら、その位置とか台石の高さとかいうことが像そのものの感じを動かすではないか。ところで従来の日本風の室では、その広さや構造やまたは光線の取り方などが、どうしても西洋画の額面をかけるに適しない。趣味の相異とか、調子の合わないとかいう点を考えるまでもなく、第一、適当に画面を看ることのできる位置にそれをかける場所がないのである。よし、どこかの壁にかけて見たところが、調子はずれになって折角落ちついている室の空気が掻き乱される。だから、今日、日本間に西洋画をかけているものがあれば、それは、まるっきり趣味性の欠けているものか、さもなくば、画を画としてのみ見ようとする専門家、アマチュア、もしくは特殊の嗜好をそれに有もっているもののみであろう。全く趣味のないものは初から話にならないから、それは芸術の進歩や発達には何の力もない。
 周囲の空気にかまわず、日常生活の調子にも無頓着で、芸術の天地にのみ身を置く芸術家は芸術家としては立派であるが、その代りその芸術を国民生活の一要素として発達させてゆくという点については甚だ不十分のものであり、国民の芸術趣味を訓練し誘導してゆく点にも力の足らない憾うらみがあろう。芸術の発達はどうしても国民全般の趣味、国民の日常生活の内部にその基礎がなくてはならないからである。
 極めて平凡な問題に仰山らしい言葉づかいをしたので、カラ理窟をもっているように聞こえるが、平たくいうと、西洋画を真に発達させるには、もっと、それを我々の日常生活に接近させるようにしなくてはならぬということである。勿論我々の思想は旧時代のいわゆる日本画とはあまりに懸隔している。また近頃の、日本画を土台にした新しい試みにも、あまり、感服しない。我々の情生活の絵画的表現にはいわゆる西洋画を要する。しかし種々の事情から在来の日本式家屋で生活している我々は日常生活の一要素として西洋画を取り扱うことが出来ない。ここに大なる矛盾があるのではなかろうか。そうしてこの矛盾は何とかして融和させねばならぬものではなかろうか。僕はそれについて芸術家の意見を聴きたいと思う。

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建国の事情と万世一系の思想

津田左右吉



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 今、世間で要求せられていることは、これまでの歴史がまちがっているから、それを改めて真の歴史を書かねばならぬ、というのであるが、こういう場合、歴史がまちがっているということには二つの意義があるらしい。
 一つは、これまで歴史的事実を記述したものと考えられていた古書が実はそうでない、ということであって、例えば『古事記』や『日本紀』は上代の歴史的事実を記述したものではない、というのがそれである。これは史料と歴史との区別をしないからのことであって、記紀は上代史の史料ではあるが上代史ではないから、それに事実でないことが記されていても、歴史がまちがっているということはできぬ。史料は真偽混雑しているのが常であるから、その偽なる部分をすて真なる部分をとって歴史の資料とすべきであり、また史料の多くは多方面をもつ国民生活のその全方面に関する記述を具えているものではなく、或る一、二の方面に関することが記されているのみであるから、どの方面の資料をそれに求むべきかを、史料そのものについて吟味しなければならぬ。史料には批判を要するというのはこのことである。例えば記紀において、外観上、歴史的事実の記録であるが如き記事においても、こまかに考えると事実とは考えられぬものが少なくないから、そこでその真偽の判別を要するし、また神代の物語などの如く、一見して事実の記録と考えられぬものは、それが何ごとについての史料であるかを見定めねばならぬ。物語に語られていること、即ちそこにはたらいている人物の言動などは、事実ではないが、物語の作られたことは事実であると共に、物語によって表現せられている思想もまた事実として存在したものであるから、それは外面的の歴史的事件に関する史料ではないが、文芸史思想史の貴重なる史料である。こういう史料を史料の性質に従って正しく用いることによって、歴史は構成せられる。史料と歴史とのこの区別は、史学の研究者においては何人も知っていることであるが、世間では深くそのことを考えず、記紀の如き史料をそのまま歴史だと思っているために、上にいったようなことがいわれるのであろう。
 いま一つは、歴史家の書いた歴史が、上にいった史料の批判を行わず、またはそれを誤り、そのために真偽の弁別がまちがったり、史料の性質を理解しなかったり、あるいはまた何らかの偏見によってことさらに事実を曲げたり、恣ほしいままな解釈を加えたりして、その結果、虚偽の歴史が書かれていることをいうのである。
 さてこの二つの意義の何いずれにおいても、これまで一般に日本の上代史といわれているものは、まちがっている、といい得られる。然しからば真の上代史はどんなものかというと、それはまだでき上がっていない。という意味は、何人にも承認せられているような歴史が構成せられていない、ということである。上にいった史料批判が歴史家によって一様でなく、従って歴史の資料が一定していない、ということがその一つの理由である。従って次に述べるところは、わたくしの私案に過ぎないということを、読者はあらかじめ知っておかれたい。ただわたくしとしては、これを学界ならびに一般世間に提供するだけの自信はもっている。



一 上代における国家統一の情勢

 日本の国家は日本民族と称し得られる一つの民族によって形づくられた。この日本民族は近いところにその親縁のある民族をもたぬ。大陸におけるシナ(支那)民族とは、もとより人種が違う。チョウセン(朝鮮)・マンシュウ(満洲)・モウコ(蒙古)方面の諸民族とも違うので、このことは体質からも、言語からも、また生活のしかたからも、知り得られよう。ただ半島の南端の韓民族のうちには、あるいは日本民族と混血したものがいくらかあるのではないか、と推測せられもする。また洋上では、リュウキュウ(琉球)(の大部分)に同じ民族の分派が占居したであろうが、タイワン(台湾)及びそれより南の方の島々の民族とは同じでない。本土の東北部に全く人種の違うアイヌ(蝦夷)のいたことは、いうまでもない。
 こういう日本民族の原住地も、移住して来た道すじも、またその時期も、今まで研究せられたところでは、全くわからぬ。生活の状態や様式やから見ると、原住地は南方であったらしく、大陸の北部でなかったことは推測せられるが、その土地は知りがたく、来住の道すじも、世間でよく臆測せられているように海路であったには限らぬ。時期はただ遠い昔であったといい得るのみである。原住地なり、来住の途上なり、またはこの島に来た時からなりにおいて、種々の異民族をいくらかずつ包容し、またはそれらと混血したことはあったろうが、民族としての統一を失うほどなことではなく、遠い昔から一つの民族として生活して来たので、多くの民族の混和によって日本民族が形づくられたのではない。この島に来た時に、民族の違うどれだけかの原住民がいたのではあろうが、それが、一つもしくは幾つかの民族的勢力として、後までも長く残ってはいなかったらしく、時と共に日本民族に同化せられ包容せられてしまったであろう。
 こういう日本民族の存在の明かに世界に知られ、世界的意義をもつようになったことの今日にわかるのは、前一世紀もしくは二世紀であって、シナでは前漢の時代である。これが日本民族の歴史時代のはじまりである。それより前のこの民族の先史時代がこの島においてどれだけつづいていたかはわからぬが、長い、長い、年月であったことは、推測せられる。
 先史時代の日本民族の生活状態は先史考古学の示すところの外は、歴史時代の初期の状態から逆推することによって、その末期のありさまがほぼ想像せられる。主なる生業は農業であったが、この島に住んでいることが既に久しいので、親子夫妻の少数の結合による家族形態が整い、安定した村落が形づくられ、多くのそういう村落のを包含する小国家が多く成り立っていたので、政治的には日本民族は多くの小国家に分れていたのである。この小国家の君主は、政治的権力と共に宗教的権威をももっていたらしく、種々の呪術じゅじゅつや原始的な宗教心のあらわれとしての神の祭祀やが、その配下の民衆のために、かれらによって行われ、それが政治の一つのはたらきとなっていた。地方によっては、これらの小国家の一つでありながら、その君主が附近の他の幾つかの小国家の上に立ってそれらを統御したものもあったようである。君主の権威は民衆から租税を徴しまたはかれらを使役することであったろうが、小国家においては、君主は地主としての性質を多分に具えていたのではないか、従ってまた君主は、政治的権力者ではあるが、それと共に配下の民衆の首長もしくは指導者というような地位にいたのではないか、と推測せられもする。農業そのことの本質に伴う風習として、耕地が何人かの私有であったことは、明かであろう。この日本民族は牧畜をした形跡はないが、漁猟は到るところで営まれ、海上の交通も沿海の住民によって盛さかんに行われた。しかしこういうことを生業としたものも、日本民族であることに変りはなく、住地の状態によってそれに適応する生活をしていたところに、やはりこの島に移住して来てから長い歳月を経ていたことが示されている。用いていた器具が石器であったことは、勿論である。
 日本民族の存在が世界的意義をもつようになったのは、今のキュウシュウ(九州)の西北部に当る地方のいくつかの小国家に属するものが、半島の西南に沿うて海路その西北部に進み、当時その地方にひろがって来ていたシナ人と接触したことによって、はじまったのである。彼らはここでシナ人から絹や青銅器などの工芸品や種々の知識やを得て来たので、それによってシナの文物を学ぶ機会が生じ、日本民族の生活に新しい生面が開け初めた。青銅器の製作と使用との始まったのは前一世紀の末のころであったらしく、その後もかなり長い間はいわゆる金石併用時代であったが、ともかくもシナの文物をうけ入れることになった地方の小国家の君主はそれによって、彼らの権威をもその富をも加えることができた。キュウシュウ地方の諸小国とシナ人とのこの接触は、一世紀二世紀を通じて変ることなく行われたが、その間の関係は時がたつにつれて次第に密接になり、シナ人から得る工芸品や知識やがますます多くなると共に、それを得ようとする欲求もまた強くなり、その欲求のために船舶を派遣する君主の数も多くなった。鉄器の使用もその製作の技術もまたこの間に学び初められたらしい。ところが三世紀になると、文化上の関係が更に深くなると共に、その交通にいくらかの政治的意義が伴うことになり、君主の間には、半島におけるシナの政治的権力を背景として、あるいは附近の諸小国の君主に臨み、あるいは敵対の地位にある君主を威圧しようとするものが生じたので、ヤマト(邪馬台、今の筑後の山門か)の女王として伝えられているヒミコ(卑弥呼)がそれである。当時、このヤマトの君主はほぼキュウシュウの北半の諸小国の上にその権威を及ぼしていたようである。
 キュウシュウ地方の諸君主が得たシナの工芸品やその製作の技術や、その他の種々の知識は、セト(瀬戸)内海の航路によって、早くから後のいわゆるキンキ(近畿)地方に伝えられ、一、二世紀のころにはその地域に文化の一つの中心が形づくられ、そうしてそれには、その地方を領有する政治的勢力の存在が伴っていたことが考えられる。この政治的勢力は種々の方面から考察して、皇室の御祖先を君主とするものであったことが、ほぼ知り得られるようであり、ヤマト(大和)がその中心となっていたであろう。それがいつからの存在であり、どうしてうち立てられたかも、その勢力の範囲がどれだけの地域であったかも、またどういう径路でそれだけの勢力が得られたかも、すべてたしかにはわからぬが、後の形勢から推測すると、二世紀ごろには上にいったような勢力として存在したらしい。その地域の西南部は少くとも今のオオサカ(大阪)湾の沿岸地方を含んでいて、セト内海の航路によって遠くキュウシュウ方面と交通し得る便宜をもっていたに違いないが、東北方においてどこまでひろがっていたかは、知りがたい。この地域のすべてが直接の領土として初めから存在したには限らず、あるいは、そこに幾つかの小国家が成立っていたのを、いつの時からかそれらのうちの一つであったヤマト地方の君主、即ち皇室の御祖先、がそれらを服属させてその上に君臨し、それらを統御するようになり、更に後になってその諸小国を直接の領土として収容した、というような径路がとられたでもあろう。
 三世紀にはその領土が次第にひろがって、西の方ではセト内海の沿岸地方を包含するようになり、トウホク(東北)地方でもかなりの遠方までその勢力の範囲に入ったらしく、想像せられるが、それもまた同じような道すじを経てのことであったかも知れぬ。しかし具体的にはその情勢が全く伝えられていない。ただイズモ(出雲)地方にはかなり優勢な政治的勢力があって、それは長い間このヤマトを中心とする勢力に対して反抗的態度をとっていたようである。さてこのような、ヤマトを中心として後のキンキ地方を含む政治的勢力が形づくられたのは、一つは、西の方から伝えられた新しい文物を利用することによって、その実力が養い得られたためであろうと考えられるが、一つは、その時の君主の個人的の力によるところも少なくなかったであろう。如何いかなる国家にもその勢力の強大になるには創業の主ともいうべき君主のあるのが、一般の状態だからである。そうして険要の地であるヤマトと、豊沃で物資の多いヨドガワ(淀河)の平野と、海路の交通の要地であるオオサカの沿岸とを含む、地理的に優れた地位を占めていることが、それから後の勢力の発展の基礎となり、勢力が伸びれば伸びるに従って君主の欲望もまた大きくなり、その欲望が次第に遂げられて勢力が強くなってゆくと、多くの小国の君主はそれに圧せられて漸次服属してゆく、という情勢が展開せられて来たものと推測せられる。
 しかし三世紀においては、イズモの勢力を帰服させることはできたようであるけれども、キュウシュウ地方にはまだ進出することはできなかった。それは半島におけるシナの政治的勢力を背景とし、九州の北半における諸小国を統御している強力なヤマト(邪馬台)の国家がそこにあったからである。けれども、四世紀に入るとまもなく、アジヤ大陸の東北部における遊牧民族の活動によってその地方のシナ人の政治的勢力が覆くつがえされ、半島におけるそれもまた失われたので、ヤマト(邪馬台)の君主はその頼るところがなくなった。東方なるヤマト(大和)の勢力はこの機会に乗じてキュウシュウの地に進出し、その北半の諸小国とそれらの上に権威をもっていたヤマト(邪馬台)の国とを服属させたらしい。四世紀の前半のことである。そうしてこの勢の一歩を進めたのが、四世紀の後半におけるヤマト(大和)朝廷の勢力の半島への進出であって、それによって我が国と半島とに新しい事態が生じた。そうして半島を通じてヤマトの朝廷にとり入れられたシナの文物が皇室の権威を一層強め、従ってまた一つの国家として日本民族の統一を一層かためてゆくはたらきをすることになるのである。ただキュウシュウの南半、即ちいわゆるクマソ(熊襲)の地域にあった諸小国は、五世紀に入ってからほぼ完全に服属させることができたようである。東北方の諸小国がヤマトの国家に服属した情勢は少しもわからぬが、西南方においてキュウシュウの南半が帰服した時代には、日本民族の住地のすべてはヤマトの国家の範囲に入っていたことが、推測せられる。それは即ちほぼ今のカントウ(関東)からシナノ(信濃)を経てエチゴ(越後)の中部地方に至るまでである。
 皇室の御祖先を君主として戴いていたヤマトの国家が日本民族を統一した情勢が、ほぼこういうものであったとすれば、普通に考えられているような日本の建国というきわだった事件が、或る時期、或る年月、に起ったのでないことは、おのずから知られよう。日本の建国の時期を皇室によって定め、皇室の御祖先がヤマトにあった小国の君主にはじめてなられた時、とすることができるかもしれぬが、その時期はもとよりわからず、また日本の建国をこういう意義に解することも妥当とは思われぬ。もし日本民族の全体が一つの国家に統一せられた時を建国とすれば、そのおおよその時期はよし推測し得られるとしても、たしかなことはやはりわからず、そうしてまたそれを建国とすることもふさわしくない。日本の国家は長い歴史的過程を経て漸次に形づくられて来たものであるから、特に建国というべき時はないとするのが、当っていよう。要するに、皇室のはじめと建国とは別のことである。日本民族の由来がこの二つのどれとも全くかけはなれたものであることは、なおさらいうまでもない。むかしは、いわゆる神代の説話にもとづいて、皇室は初から日本の全土を領有せられたように考え、皇室のはじめと日本全土の領有という意義での建国とが同じであるように思われていたし、近ごろはこの二つとこの島における日本民族のはじめとの三つさえも、何となく混雑して考えられているようであるが、それは上代の歴史的事実を明かにしないからのことである。
 さて、ここに述べたことには、それぞれ根拠があるが、今はそういう根拠の上に立つこの建国史の過程を略述したのみであって、一々その根拠を示すことはさしひかえた。ところで、もしこの歴史的過程が事実に近いものであるとするならば、ジンム(神武)天皇の東征の物語は決して歴史的事実を語ったものでないことが知られよう。それはヤマトの皇都の起源説話なのである。日本民族が皇室の下に一つの国家として統一せられてから、かなりの歳月を経た後、皇室の権威が次第に固まって来た時代、わたくしの考かんがえではそれは六世紀のはじめのころ、において、一層それを固めるために、朝廷において皇室の由来を語る神代の物語が作られたが、それには、皇祖が太陽としての日の神とせられ、天上にあるものとせられたのであるから、皇孫がこの国に降ることが語られねばならず、そうしてその降られた土地がヒムカ(日向)とせられたために、それと現に皇都のあるヤマトとを結びつける必要が生じたので、そこでこの東征物語が作られたのである。ヤマトに皇都はあったが、それがいつからのことともわからず、どうしてそこに皇都があることになったかも全く知られなくなっていたので、この物語はおのずからその皇都の起源説話となったのである。東征は日の神の加護によって遂げられたことになっているが、これは天上における皇祖としての日の神の皇都が「天つ日嗣」をうけられた皇孫によって地上のヒムカに遷され、それがまた神武天皇によってヤマトに遷されたことを、語ったものであり、皇祖を日の神とする思想によって作られたものである。だからそれを建国の歴史的事実として見ることはできない。
 それから後の政治的経営として『古事記』や『日本紀』に記されていることも、チュウアイ(仲哀)天皇のころまでのは、すべて歴史的事実の記録とは考えられぬ。ただ歴代の天皇の系譜については、ほぼ三世紀のころであろうと思われるスシン(崇神)天皇から後は、歴史的の存在として見られよう。それより前のについては、いろいろの考えかたができようが、系譜上の存在がどうであろうとも、ヤマトの国家の発展の形勢を考えるについては、それは問題の外におかるべきである。創業の主ともいうべき君主のあったことが何らかの形で後にいい伝えられたかと想像せられるが、その創業の事跡は皇室についての何ごとかがはじめて文字に記録せられたと考えられる四世紀の終において、既に知られなくなっていたので、記紀には全くあらわれていない。
 ところで、ヤマトの皇室が上に述べたように次第に諸小国の君主を服属させていったそのしかたはどうであったかというに、それはあいてにより場合によって一様ではなかったろう。武力の用いられたこともあったろう。君主の地位に伴っている宗教的権威のはたらきもあったろう。しかし血なまぐさい戦争の行われたことは少かったろうと推測せられる。もともと日本民族が多くの小国家に分れていても、その間に断えざる戦争があったというのではなく、武力的競争によってそれらの国家が存在したのではなかった。農業民は本来平和を好むものである。この農業民の首領であり指導者であり或る意味において大地主らしくもある小君主もまた、その生存のためには平和が必要である。また、ともすれば戦争の起り易い異民族との接触がなく、すべての国家がみな同一民族であったがために、好戦的な殺伐な気風も養われなかった。小国家が概して小国家たるにとどまって、甚だしく強大な国家の現われなかったのも、勢力の強弱と領土の大小とを来たすべき戦争の少かったことを、示すものと解せられよう。キュウシュウ地方においてかのヤマト(邪馬台)が、附近の多くの小国を存続させながら、それらの上に勢力を及ぼしていたのも、戦勝国の態度ではなかったように見える。かなり後になっても、日本に城廓建築の行われなかったことも、またこのことについて参考せらるべきである。皇室が多くの小国の君主を服属させられたのは、このような一般的状態の下において行われたことであり、皇室がもともとそれらの多くの小国家の君主の家の一つであったのであるから、その勢力の発展が戦争によることの少かったことは、おのずから推測せられよう。国家の統一せられた後に存在した地方的豪族、いわゆる国造県主など、の多くが統一せられない前の小君主の地位の継続せられたものであるらしいこと、皇居に城廓などの軍事的設備が後までも設けられなかったこと、なども、またこの推測を助ける。皇室の直轄領やヤマトの朝廷の権力者の領土が、地方的豪族の領土の間に点綴して置かれはしたので、そのうちには昔の小国家の滅亡したあとに設けられたものもあろうが、よしそうであるにしても、それらがどうして滅亡したかはわからぬ。
 統一の後の国造などの態度によって推測すると、ヤマトの朝廷の勢威の増大するにつれて、諸小国の君主はその地位と領土とを保全するためには、みずから進んでそれに帰服するものが多かったと考えられる。かれらは武力による反抗を試みるにはあまりに勢力が小さかったし、隣国と戦争をした経験もあまりもたなかったし、また多くの小国家に分れていたとはいえ、もともと同じ一つの日本民族として同じ歴史をもち、言語・宗教・風俗・習慣の同じであるそれらであるから、新におのれらの頭上に臨んで来る大きな政治的勢力があっても、それに対しては初から親和の情があったのであろう。また従来とても、もしこういう小国家の同じ地域にあるいくつかが、九州における上記の例の如く、そのうちの優勢なものに従属していたことがあったとすれば、皇室に帰服することは、その優勢なものを一層大きい勢力としての皇室にかえたのみであるから、その移りゆきはかなり滑かに行われたらしい、ということも考えられる。朝廷の側としては、場合によっては武力も用いられたにちがいなく、また一般に何らかの方法による威圧が加えられたことは、想像せられるが、大勢はこういう状態であったのではあるまいか。
 国家の統一の情勢はほぼこのように考えられるが、ヤマト朝廷のあいてとしたところは、民衆ではなくして諸小国の君主であった。統一の事業はこれらの君主を服属させることによって行われたので、直接に民衆をあいてとしたのではない。武力を以て民衆を征討したのでないことは、なおさらである。民衆からいうと、国家が統一せられたというのは、これまでの君主の上にたつことになったヤマトの朝廷に間接に隷属することになった、というだけのことである。皇室の直轄領となった土地の住民の外は、皇室との直接の結びつきは生じなかったのである。さて、こうして皇室に服属した民衆はいうまでもなく、国造などの地方的豪族とても、皇室と血族的関係をもっていたはずはなく、従って日本の国家が皇室を宗家とする一家族のひろがったものでないことは、いうまでもあるまい。



二 万世一系の皇室という観念の生じまた発達した歴史的事情

 ヤマトに根拠のあった皇室が日本民族の全体を統一してその君主となられるまでに、どれだけの年月がかかったかはわからぬが、上に考えた如く、二世紀のころにはヤマトの国家の存在したことがほぼ推測せられるとすれば、それからキュウシュウの北半の服属した四世紀のはじめまでは約二百年であり、日本の全土の統一せられた時期と考えられる五世紀のはじめまでは約三百年である。これだけの歳月と、その間における断えざる勢力の伸長とは、皇室の地位をかためるには十分であったので、五世紀の日本においては、それはもはや動かすべからざるものとなっていたようである。何人もそれに対して反抗するものはなく、その地位を奪いとろうとするものもなかった。そうしてそれにはそれを助ける種々の事情があったと考えられる。
 その第一は、皇室が日本民族の外から来てこの民族を征服しそれによって君主の地位と権力とを得られたのではなく、民族の内から起って次第に周囲の諸小国を帰服させられたこと、また諸小国の帰服した状勢が上にいったようなものであったことの、自然のなりゆきとして、皇室に対して反抗的態度をとるものが生じなかった、ということである。もし何らかの特殊の事情によって反抗するものが出るとすれば、それはその独立の君主としての地位と権力とを失った諸小国の君主の子孫であったろうが、そういうものは反抗の態度をとるだけの実力をもたず、また他の同じような地位にあるものの同情なり助力なりを得ることもできなかった。こういう君主の子孫のうちの最も大きな勢力をもっていたらしいイズモの国造が、完全に皇室の下におけるその国造の地位に安んじていたのを見ても、そのことは知られよう。一般の国造や県主は、皇室に近接することによって、皇室の勢威を背景としてもつことによって、かれらみずからの地位を安固にしようとしたのである。皇室が武力を用いて地方的豪族に臨まれるようなことはなく、国内において戦闘の行われたような形跡はなかった。この意味においては、上代の日本は甚だ平和であったが、これはその根柢に日本民族が一つの民族であるという事実があったと考えられる。
 また皇室の政治の対象は地方的豪族であって、直接には一般民衆ではなかったから、民衆が皇室に対して反抗を企てるような事情は少しもなかった。わずかの皇室直轄領の外は、民衆の直接の君主は地方的豪族たる国造(及び朝廷に地位をもっている伴造)であって、租税を納めるのも労役に服するのも、そういう君主のためであったから、民衆はおのれらの生活に苦痛があっても、その責を皇室に帰することはしなかった。そうして皇室直轄領の民衆は、その直轄であることにおいて一種のほこりをもっていたのではないかと、推測せられる。
 第二は、異民族との戦争のなかったことである。近隣の異国もしくは異民族との戦争には、君主みずから軍を率いることになるのが普通であるが、その場合、戦に勝てばその君主は民族的英雄として賞讃せられ、従ってその勢威も強められるが、負ければその反対に人望が薄らぎ勢威が弱められ、時の状勢によっては君主の地位をも失うようになる。よし戦に勝っても、それが君主みずからの力でなくして将帥しょうすいの力であったような場合には、衆望がその将帥に帰して、終にはそれが君主の地位に上ることもありがちである。要するに、異民族との戦争ということが、君主の地位を不安にし、その家系に更迭の生ずる機会を作るものである。ところが、日本民族は島国に住んでいるために、同じ島の東北部にいたアイヌの外には、異民族に接触していないし、また四世紀から六世紀までの時代における半島及びそれにつづいている大陸の民族割拠の形勢では、それらの何れにも、海を渡ってこの国に進撃して来るようなものはなかった。それがために民族的勢力の衝突としての戦争が起らず、従ってここにいったような君主の地位を不安にする事情が生じなかったのである。
 ただ朝廷のしごととして、上に述べたように半島に対する武力的進出が行われたので(多分、半島の南端における日本人と関係のある小国の保護のために)、それには戦争が伴い、その戦争には勝敗があったけれども、もともと民族的勢力の衝突ではなく、また戦においてもただ将帥を派遣せられたのみであるから、勝敗のいずれの場合でも、皇室の地位には何の影響も及ぼさなかった。(チュウアイ天皇の皇后の遠征というのは、事実ではなくして物語である。)そうしてこの半島への進出の結果としての朝廷及びその周囲におけるシナの文物の採取は、文化の側面から皇室の地位を重くすることになった。また東北方のアイヌとの間には民族的勢力としての争があったが、これは概おおむねそれに接近する地域の住民の行動にまかせてあったらしく、朝廷の関与することが少く、そうして大勢においては日本民族が優者として徐々にアイヌの住地に進出していったから、これもまた皇室の勢威には影響がなかった。これが皇室の地位の次第に固まって来た一つの事実である。
 第三には、日本の上代には、政治らしい政治、君主としての事業らしい事業がなかった、ということであって、このことからいろいろの事態が生ずる。天皇みずから政治の局に当られなかったということもその一つであり、皇室の失政とか事業の失敗とかいうようなことのなかったということもその一つである。多くの民族の事例について見ると、一般に文化の程度の低い上代の君主のしごとは戦争であって、それに伴っていろいろのしごとが生ずるのであるが、国内においてその戦争のなかった我が国では、政治らしい政治は殆ほとんどなかったといってよい。従ってまた天皇のなされることは、殆どなかったであろう。いろいろの事務はあったが、それは朝廷の伴造のするしごとであった。四世紀の終にはじまり五世紀を通じて続いている最も大きな事件は、半島の経営であるが、それには武力が必要であるから、武事を掌つかさどるオオトモ(大伴)氏やモノノベ(物部)氏やはそれについて重要のはたらきをしたのであろう。特にそのはたらく場所は海外であるから、本国から一々それを指揮することのできぬ場合が多い。そこで、単なる朝廷の事務とは違うこの国家の大事についても、実際においてそれを処理するものは、こういう伴造のともがらであり、従ってそういう家がらにおのずから権威がついて来て、かれらは朝廷の重臣ともいうべきものとなった。
 そうしてこういう状態が長くつづくと、内政において何らかの重大な事件が起ってそれを処理しなければならぬようなばあいにも、天皇みずからはその局に当られず、国家の大事は朝廷の重臣が相謀ってそれを処理するようになって来る。従って天皇には失政も事業の失敗もない。これは、一方においては、時代が進んで国家のなすべき事業が多くなり政治ということがなくてはならぬようになってからも、朝廷の重臣がその局に当る風習を開くものであったと共に、他方においては、政治上の責任はすべて彼らの負うところとなってゆくことを意味するものである。いうまでもなく、政治は天皇の名において行われはするが、その実、その政治は重臣のするものであることが、何人にも知られているからである。そうしてこのことは、おのずから皇室の地位を安固にするものであった。
 第四には、天皇に宗教的の任務と権威とのあったことが考えられる。天皇は武力を以てその権威と勢力とを示さず、また政治の実務には与あずかられなかったようであるが、それにはまた別の力があって、それによってその存在が明かにせられた。それは、一つは宗教的の任務であり、一つは文化上の地位であった。政治的君主が宗教上の地位をももっているということは、極めて古い原始時代の風習の引きつづきであろうと考えられるが、その宗教上の地位というのは、民衆のために種々の呪術や神の祭祀を行うことであり、そのようなことを行うところから、或る場合には、呪術や祭祀を行い神人の媒介をする巫祝ふしゅくが神と思われることがあるのと同じ意味で、君主みずからが神としても考えられることがある。天皇が「現あきつ神かみ」といわれたことの遠い淵源と歴史的の由来とはここにあるのであろうが、しかし今日に知られている時代の思想としては、政治的君主としての天皇の地位に宗教的性質がある、いいかえると天皇が国家を統治せられることは、思想上または名義上、神の資格においてのしごとである、というだけの意義でこの称呼が用いられていたのであって、「現つ神」は国家を統治せられる、即ち政治的君主としての、天皇の地位の称呼なのである。天皇の実質はどこまでも政治的君主であるが、その地位を示すために歴史的由来のあるこの称呼が用いられたのである。
 これは、天皇が天皇を超越した神に代ってそういう神の政治を行われるとか、天皇の政治はそういう神の権威によって行われるとか、いうのではないと共に、また天皇は普通の人とは違って神であり何らかの意義での神秘性を帯びていられる、というような意味でいわれたのでもない。天皇が宗教的崇拝の対象としての神とせられたのでないことは、いうまでもない。日本の昔には天皇崇拝というようなことはなかったと考えられる。天皇がその日常の生活において普通の人として行動せられることは、すべてのものの明かに見も聞きも知りもしていることであった。記紀の物語に天皇の恋愛譚や道ゆきずりの少女にことといかわされた話などの作られていることによっても、それは明かである。「現つ神」というようなことばすらも、知識人の思想においては存在し、また重々しい公式の儀礼には用いられたが、一般人によって常にいわれていたらしくはない。シナで天帝の称呼として用いられていた「天皇」を御称号としたのは六世紀のおわりころにはじまったことのようであって、それは「現つ神」の観念とつながりのあることであったろうが、それが一般に知られていたかどうか、かなりおぼつかない。そういうことよりも、すべての人に知られていた天皇の宗教的な地位とはたらきとは、政治の一つのしごととして、国民のために大祓のような呪術を行われたりいろいろの神の祭祀を行われたりすることであったので、天皇が神を祭られるということは天皇が神に対する意味での人であることの明かなしるしである。日常の生活がこういう呪術や祭祀によって支配せられていた当時の人々にとっては、天皇のこの地位と任務は尊ぶべきことであり感謝すべきことであるのみならず、そこに天皇の精神的の権威があるように思われた。何人もその権威を冒涜ぼうとくしようとは思わなかったのである。政治の一つのしごととして天皇のせられることはこういう呪術祭祀であったので、それについての事務を掌っていたナカトミ(中臣)氏に朝廷の重臣たる権力のついて来たのも、そのためであった。
 第五には、皇室の文化上の地位が考えられる。半島を経て入って来たシナの文物は、主として朝廷及びその周囲の権力者階級の用に供せられたのであるから、それを最も多く利用したのは、いうまでもなく皇室であった。そうしてそれがために、朝廷には新しい伴造の家が多く生じた。かれらは皇室のために新来の文物についての何ごとかを掌ることによって生活し、それによって地位を得た。のみならず、一般的にいっても、皇室はおのずから新しい文化の指導的地位に立たれることになった。このことが皇室に重きを加えたことは、おのずから知られよう。そうしてそれは、武力が示されるのとは違って、一種の尊とさと親しさとがそれによって感ぜられ、人々をして皇室に近接することによってその文化の恵みに浴しようとする態度をとらせることになったのである。
 以上、五つに分けて考えたことを一くちにつづめていうと、現実の状態として、皇室は朝廷の権力者や地方の豪族にとっては、親しむべき尊むべき存在であり、かれらは皇室に依属することによってかれらの生活や地位を保ちそれについての欲求を満足させることができた、ということになる。なお半島に対する行動がかれらの間にも或る程度に一種の民族的感情をよび起させ、その感情の象徴として皇室を視る、という態度の生じて来たらしいことをも、考えるべきであろう。皇室に対する敬愛の情がここから養われて来たことは、おのずから知られよう。

 さて、こういうようないろいろの事情にも助けられて、皇室は皇室として長く続いて来たのであるが、これだけ続いて来ると、その続いて来た事実が皇室の本質として見られ、皇室は本来長く続くべきものであると考えられるようになる。皇室が遠い過去からの存在であって、その起源などの知られなくなっていたことが、その存在を自然のことのように、あるいは皇室は自然的の存在であるように、思わせたのでもある。(王室がしばしば更迭した事実があると、王室は更迭すべきものであるという考が生ずる。)従ってまたそこから、皇室を未来にも長く続けさせようという欲求が生ずる。この欲求が強められると、長く続けさせねばならぬ、長く続くようにしなければならぬ、ということが道徳的義務として感ぜられることになる。もし何らかの事態が生じて(例えば直系の皇統が断えたというようなことでもあると)、それに刺戟せられてこの欲求は一層強められ、この義務の感が一層固められる。六世紀のはじめのころは、皇室の重臣やその他の朝廷に地位をもっている権力者の間に、こういう欲求の強められて来た時期であったらしく、今日記紀によって伝えられている神代の物語は、そのために作られたものがもとになっている。
 神代の物語は皇室の由来を物語の形で説こうとしたものであって、その中心観念は、皇室の祖先を宗教的意義を有する太陽としての日の神とし、皇位(天つ日つぎ)をそれから伝えられたものとするところにあるが、それには政治的君主としての天皇の地位に宗教的性質があるという考と、皇位の永久という観念とが、含まれている。なおこの物語には、皇室が初からこの国の全土を統治せられたことにしてあると共に、皇室の御祖先は異民族に対する意味においての日本民族の民族的英雄であるようには語られていず、どこまでも日本の国家の統治者としての君主となっているが、その政治、その君主としての事業は、殆ど物語の上にあらわれていない。そうして国家の大事は朝廷の伴造の祖先たる諸神の衆議によって行われたことにしてある。物語にあらわれている人物はその伴造の祖先か地方的豪族のそれかであって、民衆のはたらいたことは少しもそれに見えていない。民衆をあいてにしたしごとも語られていない。宗教的意義での邪霊悪神を掃蕩せられたことはいわれているが、武力の用いられた話は、初めて作られた時の物語にはなかったようであり、後になってつけ加えられたと思われるイズモ平定の話には、そのおもかげが見えはするが、それとても妥協的平和的精神が強くはたらいているので、神代の物語のすべてを通じて、血なまぐさい戦争の話はない。やはり後からつけたされたものであるが、スサノオの命みことが半島へ渡った話があっても、武力で征討したというのではなく、そうして国つくりを助けるために海の外からスクナヒコナの命が来たというのも、武力的経略のようには語られていないから、文化的意義のこととしていわれたものと解せられる。なお朝廷の伴造や地方的豪族が、その家を皇室から出たものの如くその系譜を作り、皇室に依附することによってその家の存在を示そうとした形跡も、明かにあらわれている。
 さすれば、上に述べた四・五世紀ころの状態として考えられるいろいろの事情は、そのすべてが神代の物語に反映しているといってもよい。こういう神代の物語によって、皇室をどこまでも皇室として永久にそれを続けてゆこう、またゆかねばならぬ、とする当時の、またそれにつづく時代の、朝廷に権力をもっているものの欲求と責任感とが、表現せられているのである。そうしてその根本は、皇位がこのころまで既に長くつづいて来たという事実にある。そういう事実があったればこそ、それを永久に続けようとする思想が生じたのである。神代の物語については、物語そのものよりもそういう物語を作り出した権力階級の思想に意味があり、そういう思想を生み出した歴史的事実としての政治‐社会的状態に一層大なる意味があることを、知らねばならぬ。

 皇位が永久でありまたあらねばならぬ、という思想は、このようにして歴史的に養われまた固められて来たと考えられるが、この思想はこれから後ますます強められるのみであった。時勢は変り事態は変っても、上に挙げたいろいろの事情のうちの主なるものは、概していうと、いつもほぼ同じであった。六世紀より後においても、天皇はみずから政治の局には当られなかったので、いわゆる親政の行われたのは、極めて稀な例外とすべきである。タイカ(大化)の改新とそれを完成したものとしての令の制度とにおいては、天皇親政の制が定められたが、それの定められた時は、実は親政ではなかったのである。そうして事実上、政権をもっていたものは、改新前のソガ(蘇我)氏なり後のフジワラ(藤原)氏なりタイラ(平)氏なりミナモト(源)氏なりアシカガ(足利)氏なりトヨトミ(豊臣)氏なりトクガワ(徳川)氏なりであり、いわゆる院政とても天皇の親政ではなかった。政治の形態は時によって違い、あるいは朝廷の内における摂政関白などの地位にいて朝廷の機関を用い、あるいは朝廷の外に幕府を建てて独自の機関を設け、そこから政令を出したのであり、政権を握っていたものの身分もまた同じでなく、あるいは文官でありあるいは武人であったが、天皇の親政でない点はみな同じであった。そうしてこういう権家けんかの勢威は永続せず、次から次へと変っていったが、それは、一つの権家が或る時期になるとその勢威を維持することのできないような失政をしたからであって、いわば国政の責任がおのずからそういう権家に帰したことを、示すものである。この意味において、天皇は政治上の責任のない地位にいられたのであるが、実際の政治が天皇によって行われなかったから、これは当然のことである。天皇はおのずから「悪をなさざる」地位にいられたことになる。皇室が皇室として永続した一つの理由はここにある。
 しかし皇室の永続したのはかかる消極的理由からのみではない。権家はいかに勢威を得ても、皇室の下における権家としての地位に満足し、それより上に一歩をもふみ出すことをしなかった。そこに皇室の精神的権威があったので、その権威はいかなるばあいにも失われず、何人もそれを疑わず、またそれを動かそうとはしなかった。これが明かなる事実であるが、そういう事実のあったことが、即ち皇室に精神的権威のあったことを証するものであり、そうしてその権威は上に述べたような事情によって皇位の永久性が確立して来たために生じたものである。
 それと共に、皇室は摂関の家に権威のある時代には摂関の政治の形態に順応し、幕府の存立した時代にはその政治の形態にいられたので、結果から見れば、それがまたおのずからこの精神的権威の保持せられた一つの重要なる理由ともなったのである。摂関政治の起ったのは起るべき事情があったからであり、幕府政治の行われたのも行わるべき理由があったからであって、それが即ち時勢の推移を示すものであり、特に武士という非合法的のものが民間に起ってそれが勢力を得、幕府政治の建設によってそれが合法化せられ、その幕府が国政の実権を握るようになったのは、そうしてまたその幕府の主宰者が多数の武士の向背によって興りまた亡びるようになると共に、その武士によって封建制度が次第に形づくられて来たのは、一面の意味においては、政治を動かす力と実権とが漸次民間に移り地方に移って来たことを示すものであって、文化の中心が朝廷を離れて来たことと共に、日本民族史において極めて重要なことがらであり、時勢の大なる変化であったが、皇室はこの時勢の推移を強いて抑止したりそれに反抗する態度をとったりするようなことはせられなかった。時勢を時勢の推移に任せることによって皇室の地位がおのずから安固になったのであるが、安んじてその推移に任せられたことには、皇室に動かすべからざる精神的権威があり、その地位の安固であることが、皇室みずからにおいて確信せられていたからでもある。もっとも稀には、皇室がフジワラ氏の権勢を牽制したり、またショウキュウ(承久)・ケンム(建武)の際のごとく幕府を覆えそうとしたりせられたことがありはあったが、それとても皇室全体の一致した態度ではなく、またくりかえして行われたのでもなく、特に幕府に対しての行動は武士の力に依頼してのことであって、この点においてはやはり時勢の変化に乗じたものであった。(大勢の推移に逆行しそれを阻止せんとするものは失敗する。失敗が重なればその存在が危くなる。ケンム以後ケンムのような企ては行われなかった。)
 このような古来の情勢の下に、政治的君主の実権を握るものが、その家系とその政治の形態とは変りながらも、皇室の下に存在し、そうしてそれが遠い昔から長く続いて来たにもかかわらず、皇室の存在に少しの動揺もなく、一種の二重政体組織が存立していたという、世界に類のない国家形態がわが国には形づくられていたのである。もし普通の国家において、フジワラ氏もしくはトクガワ氏のような事実上の政治的君主ともいうべきものが、あれだけ長くその地位と権力とをもっていたならば、そういうものは必ず完全に君主の地位をとることになり、それによって王朝の更迭が行われたであろうに、日本では皇室をどこまでも皇室として戴いていたのである。こういう事実上の君主ともいうべき権力者に対しては、皇室は弱者の地位にあられたので、時勢に順応し時の政治形態に順応せられたのも、そのためであったとは考えられるが、それほどの弱者を皇室として尊重して来たことに、重大の意味があるといわねばならず、そこに皇室の精神的権威が示されていたのである。
 けれども注意すべきは、精神的権威といってもそれは政治的権力から分離した宗教的権威というようなものではない、ということである。それはどこまでも日本の国家の政治的統治者としての権威である。ただその統治のしごとを皇室みずから行われなかったのみであるので、ここに精神的といったのは、この意味においてである。エド(江戸)時代の末期に、幕府は皇室の御委任をうけて政治をするのだという見解が世に行われ、幕府もそれを承認することになったが、これは幕府が実権をもっているという現在の事実を説明するために、あとから施された思想的解釈に過ぎないことではあるものの、トクガワ氏のもっている法制上の官職が天皇の任命によるものであることにおいて、それが象徴せられているといわばいわれよう。これもまた一種の儀礼に過ぎないものといわばいわれるかもしれぬが、そういう儀礼の行われたところに皇室の志向もトクガワ氏の態度もあらわれていたので、官職は単なる名誉の表象ではなかった。さて、このような精神的権威のみをもっていられた皇室が昔から長い間つづいて来たということが、またその権威を次第に強めることにもなったので、それによって、皇室は永久であるべきものであるという考が、ますます固められて来たのである。というよりも、そういうことが明かに意識せられないほどに、それはきまりきった事実であるとせられた、というほうが適切である。神代の物語の作られた時代においては、皇室の地位の永久性ということは朝廷における権力者の思想であったが、ここに述べたようなその後の歴史的情勢によって、それが朝廷の外に新しく生じた権力者及びその根柢ともなりそれを支持してもいる一般武士の思想ともなって来たので、それはかれらが政治的権力者となりまたは政治的地位を有するようになったからのことである。政治的地位を得れば必ずこのことが考えられねばならなかったのである。

 ところで、皇室の権威が考えられるのは、政治上の実権をもっている権家との関係においてのことであって、民衆との関係においてではない。皇室は、タイカの改新によって定められた耕地国有の制度がくずれ、それと共に権家の勢威がうち立てられてからは、新に設けられるようになった皇室の私有地民の外には、民衆とは直接の接触はなかった。いわゆる摂関時代までは、政治は天皇の名において行われたけれども、天皇の親政ではなかったので、従ってまた皇室が権力を以て直接に民衆に臨まれることはなかった。後になって、皇室の一部の態度として、ショウキュウ・ケンムのばあいの如く、武力を以て武家の政府を覆えそうという企ての行われたことはあっても、民衆に対して武力的圧迫を加え、民衆を敵としてそれを征討せられたことは、ただの一度もなかった。一般民衆は皇室について深い関心をもたなかったのであるが、これは一つは、民衆が政治的に何らの地位をももたず、それについての知識をももたなかった時代だからのことでもある。
 しかし政治的地位をばもたなかったが知識をもっていた知識人においては、それぞれの知識に応じた皇室感を抱いていた。儒家の知識をもっていたものはそれにより、仏教の知識をもっていたものはまたそれによってである。そうしてその何れにおいても、皇室の永久であるべきことについて何の疑いをも容いれなかった。儒家の政治の思想としては、王室の更迭することを肯定しなければならぬにかかわらず、極めて少数の例外を除けば、その思想を皇室に適用しようとはしなかった。そうしてそれは皇室の一系であることが厳然たる古来の事実であるからであると共に、文化が一般にひろがって、権力階級の外に知識層が形づくられ、そうしてその知識人が政治に関心をもつようになったからでもある。仏家は、権力階級に縁故が深かったためにそこからひきつがれた思想的傾向があったのと、その教理にはいかなる思想にも順応すべき側面をもっているのとのために、やはりこの事実を承認し、またそれを支持することにつとめた。
 しかし、神代の物語の作られたころと後世との間に、いくらかの違いの生じたことがらもあるので、その一つは「現つ神」というような称呼があまり用いられなくなり、よし儀礼的因襲的に用いられるばあいがあるにしても、それに現実感が伴わないようになった、ということである。「天皇」という御称号は用いられても、そのもとの意義は忘れられた。天皇が神の祭祀を行われることは変らなかったけれども、それと共にまたそれと同じように、仏事をも営まれた。そうして令の制度として設けられた天皇の祭祀の機関である神祇官は、後になるといつのまにかその存在を失った。天皇の地位の宗教的性質は目にたたなくなったのである。文化の進歩と政治上の情勢とがそうさせたのである。その代り、儒教思想による聖天子の観念が天皇にあてはめられることになった。これは記紀にすでにあらわれていることであるが、後になると、天皇みずからの君徳の修養としてこのことが注意せられるようになった。その最も大せつなことは、君主は仁政を行い民を慈愛すべきである、ということである。天皇の親政が行われないかぎり、それは政治の上に実現せられないことではあった(儒教の政治道徳説の性質として、よし親政が行われたにしても実現のむつかしいことでもあった)が、国民みずからがみずからの力によってその生活を安固にもし、高めてもゆくことを本旨とする現代の国家とはその精神の全く違っていたむかしの政治形態においては、君主の道徳的任務としてこのことの考えられたのは、意味のあることであったので、歴代の天皇が、単なる思想の上でのことながら、民衆に対して仁慈なれということを考えられ、そうしてそれが皇室の伝統的精神として次第に伝えられて来たということは、重要な意味をもっている。そうしてこういう道徳思想が儒教の経典の文字のままに、君徳の修養の指針とせられたのは、実は、天皇が親みずから政治をせられなかったところに、一つの理由があったのである。みずから政治をせられたならば、もっと現実的なことがらに主なる注意がむけられねばならなかったに違いないからである。
 次には、皇室が文化の源泉であったという上代の状態が、中世ころまではつづいていたが、その後次第に変って来て、文化の中心が武士と寺院とに移り、そのはてには全く民間に帰してしまった、ということが考えられよう。国民の生活は変り文化は進んで来たが、皇室は生命を失った古い文化の遺風のうちにその存在をつづけていられたのである。皇室はこのようにして、実際政治から遠ざかった地位にいられると共に、文化の面においてもまた国民の生活から離れられることになった。ただこうなっても、皇室とその周囲とにそのなごりをとどめている古い文化のおもかげが知識人の尚古思想の対象となり、皇室が雲の上の高いところにあって一般人の生活と遠くかけはなれていることと相応じて、人々にそれに対する一種のゆかしさを感ぜしめ、なお政治的権力関係においては実権をもっているものに対して弱者の地位にあられることに誘われた同情の念と、朝廷の何ごとも昔に比べて衰えているという感じから来る一種の感傷とも、それを助けて、皇室を視るに一種の詩的感情を以てする傾向が知識人の間に生じた。そうしてそれが国民の皇室観の一面をなすことになった。このようにして、神代の物語の作られた時代の事情のうちには、後になってなくなったものもあるが、それに代る新しい事情が生じて、それがまたおのずから皇室の永久性に対する信念を強めるはたらきをしたのである。

 ところが、十九世紀の中期における世界の情勢は、日本に二重政体の存続することを許さなくなった。日本が列国の一つとして世界に立つには、政府は朝廷か幕府かどれかの一つでなくてはならぬことが明かにせられた。メイジ(明治)維新はそこで行われたのである。この維新は思想革命でもなく社会改革でもなく、実際に君主のことを行って来た幕府の主宰者たる将軍からその権を奪って、それを天皇に属させようとしたこと、いわば天皇親政の制を定めようとしたことを意味するのであって、どこまでも政治上の制度の改革なのである。この意味においては、タイカ改新及びそれを完成させた令の制度への復帰というべきである。ただその勢のおもむくところ、封建制度を廃しまたそれにつれて武士制度を廃するようになったことにおいて、社会改革の意義が新にそれに伴うようになっては来たが、それとても実は政治上の必要からのことであった。ヨウロッパの文物や思想をとり入れたのは、幕府の施設とその方針とをうけついだものであるから、これはメイジ維新の新しいしごとではなかった。維新にまで局面をおし進めた力のうちには、むしろ頑冥がんめいな守旧思想があったのである。
 さて幕府が消滅し、封建諸侯と武士とがその特殊の身分を失って、すべての士民は同じ一つの国民として融合したのであるから、この時から後は、皇室は直接にこの一般国民に対せられることになり、国民は始めて現実の政治において皇室の存在を知ることになった。また宮廷においても新にヨウロッパの文物を採用せられたから、同じ状態にあった国民の生活とは、文化の面においてもさしたる隔たりがなくなった。これはおのずから皇室と国民とが親しく接触するようになるよい機会であったので、メイジの初めには、そういう方向に進んで来た形跡も見られるし、天皇親政の制が肯定せられながら輿論政治・公議政治の要求の強く現われたのも、またこの意味を含んでいたものと解することができる。ヨウロッパに発達した制度にならおうとしたものながら、民選議院の設立の議には、立憲政体は政治を国民みずからの政治とすることによって国民がその責に任ずると共に、天皇を政治上の責任のない安泰の地位に置き、それによって皇位の永久性を確実にし、いわゆる万世一系の皇統を完からしめるものである、という考があったのである。
 しかし実際において政治を左右する力をもっていたいわゆる藩閥は、こういう思想の傾向には反対の態度をとり、宮廷その他の諸方面に存在する固陋ころうなる守旧思想もまたそれと結びついて、皇室を国民とは隔離した高い地位に置くことによってその尊厳を示そうとし、それと共に、シナ思想にも一つの由来はありながら、当時においてはやはりヨウロッパからとり入れられたものとすべき、帝王と民衆とを対立するものとする思想を根拠として、国民に対する天皇の権力を強くし政治上における国民のはたらきをできるだけ抑制することが、皇室の地位を鞏固きょうこにする道であると考えた。憲法はこのような情勢の下に制定せられたのである。そうしてそれと共に、同じくヨウロッパの一国から学ばれた官僚制度が設けられ、行政の実権が漸次その官僚に移ってゆくようになった。なおメイジ維新によって幕府と封建諸侯とからとりあげられた軍事の権が一般政務の間に優越な地位を占めていた。これらのいろいろの事情によって、皇室は煩雑にして冷厳なる儀礼的雰囲気の裡うちにとざされることによって、国民とは或る距離を隔てて相対する地位におかれ、国民は皇室に対して親愛の情を抱くよりはその権力と威厳とに服従するようにしむけられた。皇室の仁慈ということは、断えず説き示されたのであるが、儒教思想に由来のあるこの考は、上に述べた如く現代の国家と国民生活との精神とは一致しないものである。そうしてこのことと並行して、学校教育における重要なる教科として万世一系の皇室を戴く国体の尊厳ということが教えられた。一般民衆はともかくもそれによって皇室の一系であられることを知り、皇位の永久性を信ずるようになったが、しかしその教育は主として神代の物語を歴史的事実の如く説くことによってなされたのであるから、それは現代人の知性には適合しないところの多いものであった。皇室と国民との関係に、封建時代に形づくられ儒教道徳の用語を以て表現せられた君臣間の道徳思想をあてはめようとしたのも、またこういう為政者のしわざであり、また別の方面においては、宗教的色彩を帯びた一種の天皇崇拝に似た儀礼さえ学校において行わせることにもなったが、これらの何れも、現代人の国家の精神また現代人の思想と相容れぬものであった。
 さて、このような為政者の態度は、実際政治の上においても、憲法によって定められた輔弼ほひつの道をあやまり、皇室に責任を帰することによって、しばしば累をそれに及ぼした。それにもかかわらず、天皇は国民に対していつも親和のこころを抱いていられたので、何らかの場合にそれが具体的の形であらわれ、また国民、特にその教養あり知識あるものは、率直に皇室に対して親愛の情を披瀝ひれきする機会の得られることを望み、それを得た場合にそれを実現することを忘れなかった。「われらの摂政殿下」というような語の用いられた場合のあるのは、その一例である。そうして遠い昔からの長い歳月を経て歴史的に養われまた固められた伝統的思想を保持すると共に、世界の情勢に適応する用意と現代の国家の精神に調和する考えかたによって、皇室の永久性を一層明かにし一層固くすることに努力して来たのである。
 ところが、最近に至って、いわゆる天皇制に関する論議が起ったので、それは皇室のこの永久性に対する疑惑が国民の一部に生じたことを示すもののように見える。これは、軍部及びそれに附随した官僚が、国民の皇室に対する敬愛の情と憲法上の規定とを利用し、また国史の曲解によってそれをうらづけ、そうすることによって、政治は天皇の親政であるべきことを主張し、もしくは現にそうであることを宣伝するのみならず、天皇は専制君主としての権威をもたれねばならぬとし、あるいは現にもっていられる如くいいなし、それによって、軍部の恣ほしいままなしわざを天皇の命によったもののように見せかけようとしたところに、主なる由来がある。アメリカ及びイギリスに対する戦争を起そうとしてから後は、軍部のこの態度はますます甚しくなり、戦争及びそれに関するあらゆることはみな天皇の御意志から出たものであり、国民がその生命をも財産をもすてるのはすべて天皇のおんためである、ということを、ことばをかえ方法をかえて断えまなく宣伝した。そうしてこの宣伝には、天皇を神としてそれを神秘化すると共に、そこに国体の本質があるように考える頑冥固陋にして現代人の知性に適合しない思想が伴っていた。しかるに戦争の結果は、現に国民が遭遇したようなありさまとなったので、軍部の宣伝が宣伝であって事実ではなく、その宣伝はかれらの私意を蔽おおうためであったことを、明かに見やぶることのできない人々の間に、この敗戦もそれに伴うさまざまの恥辱も国家が窮境に陥ったことも社会の混乱も、また国民が多くその生命を失ったことも一般の生活の困苦も、すべてが天皇の故である、という考がそこから生れて来たのである。むかしからの歴史的事実として天皇の親政ということが殆どなかったこと、皇室の永久性の観念の発達がこの事実と深い関係のあったことを考えると、軍部の上にいったような宣伝が戦争の責任を天皇に嫁することになるのは、自然のなりゆきともいわれよう。こういう情勢の下において、特殊の思想的傾向をもっている一部の人々は、その思想の一つの展開として、いわゆる天皇制を論じ、その廃止を主張するものがその間に生ずるようにもなったのであるが、これには、神秘的な国体論に対する知性の反抗もてつだっているようである。またこれから後の日本の政治の方向として一般に承認せられ、国民がその実現のために努力している民主主義の主張も、それを助け、またはそれと混合せられてもいるので、天皇の存在は民主主義の政治と相容れぬものであるということが、こういう方面で論ぜられてもいる。このような天皇制廃止論の主張には、その根拠にも、その立論のみちすじにも、幾多の肯うべないがたきところがあるが、それに反対して天皇制の維持を主張するものの言議にも、また何故に皇室の永久性の観念が生じまた発達したかの真の理由を理解せず、なおその根拠として説かれていることが歴史的事実に背そむいている点もある上に、天皇制維持の名の下に民主主義の政治の実現を阻止しようとする思想的傾向の隠されているがごとき感じを人に与えることさえもないではない。もしそうならば、その根柢にはやはり民主主義の政治と天皇の存在とは一致しないという考えかたが存在する。が、これは実は民主主義をも天皇の本質をも理解せざるものである。
 日本の皇室は日本民族の内部から起って日本民族を統一し、日本の国家を形成してその統治者となられた。過去の時代の思想においては、統治者の地位はおのずから民衆と相対するものであった。しかし事実としては、皇室は高いところから民衆を見おろして、また権力を以て、それを圧服しようとせられたことは、長い歴史の上において一度もなかった。いいかえると、実際政治の上では皇室と民衆とは対立するものではなかった。ところが、現代においては、国家の政治は国民みずからの責任を以てみずからすべきものとせられているので、いわゆる民主主義の政治思想がそれである。この思想と国家の統治者としての皇室の地位とは、皇室が国民と対立する地位にあって外部から国民に臨まれるのではなく、国民の内部にあって国民の意志を体現せられることにより、統治をかくの如き意義において行われることによって、調和せられる。国民の側からいうと、民主主義を徹底させることによってそれができる。国民が国家のすべてを主宰することになれば、皇室はおのずから国民の内にあって国民と一体であられることになる。具体的にいうと、国民的結合の中心であり国民的精神の生きた象徴であられるところに、皇室の存在の意義があることになる。そうして、国民の内部にあられるが故に、皇室は国民と共に永久であり、国民が父祖子孫相承あいうけて無窮に継続すると同じく、その国民と共に万世一系なのである。民族の内部から起って民族を統一せられた国家形成の情勢と、事実において民衆と対立的関係に立たれなかった皇室の地位とは、おのずからかくの如き考えかたに適応するところのあるものである。また過去の歴史において、時勢の変化に順応してその時々の政治形態に適合した地位にいられた皇室の態度は、やがて現代においては現代の国家の精神としての民主政治を体現せられることになるのである。上代の部族組織、令の制度の下における生活形態、中世にはじまった封建的な経済機構、それらがいかに変遷して来ても、その変遷に順応せられた皇室は、これから後にいかなる社会組織や経済機構が形づくられても、よくそれと調和する地位に居られることになろう。ただ多数の国民がまだ現代国家の上記の精神を体得するに至らず、従ってそれを現実の政治の上に貫徹させることができなかったために、頑冥な思想を矯正し横暴または無気力なる為政者を排除しまた職責を忘れたる議会を改造して、現代政治の正しき道をとる正しき政治をうち立てることができず、邪路に走った為政者に国家を委ねて、遂にかれらをして、国家を窮地に陥れると共に、大なる累を皇室に及ぼさせるに至ったのは、国民みずから省みてその責を負うところがあるべきである。国民みずから国家のすべてを主宰すべき現代においては、皇室は国民の皇室であり、天皇は「われらの天皇」であられる。「われらの天皇」はわれらが愛さねばならぬ。国民の皇室は国民がその懐にそれを抱くべきである。二千年の歴史を国民と共にせられた皇室を、現代の国家、現代の国民生活に適応する地位に置き、それを美しくし、それを安泰にし、そうしてその永久性を確実にするのは、国民みずからの愛の力である。国民は皇室を愛する。愛するところにこそ民主主義の徹底したすがたがある。国民はいかなることをもなし得る能力を具え、またそれをなし遂げるところに、民主政治の本質があるからである。そうしてまたかくのごとく皇室を愛することは、おのずから世界に通ずる人道的精神の大なる発露でもある。

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史論の流行

津田左右吉





 奇なるかな世潮の変遷、試こころみに最近数年間の文学界を回顧せば年ごとに流行の一新するあるを見る。二十二年は小説流行のときにして二十三年は和文、漢文の流行は二十四年に始まりてしかして二十五年は史論の盛行を見るにあらずや。もとよりその間に密確なる区劃をなさんは無稽の業に属すといへども大体の状態は概おおむね此かくの如ごときか。これそもそも人心の奇を好むによるか将はたその間必然の理勢ありて存するか流行の勢は滔々とうとうとして氾濫の力を逞たくましくし下土を水にし陵谷を汨べきにし天下を挙げて深淵に溺没せざるものは幾稀矣ほとんどまれなり。而しかも静に前後の事情を通覧すれば流行の推移にも自ら必然の理路は歴々として見るを得るなり。それ称して流行といふ。流行の衣服、流行の結髪、流行の装飾、流行の俗唄、算へ来て而しかして之これに対するに流行の学問といふ。寧むしろその当を失するの言なるなからんや。学の類たるや各おのおのその分ありといへども而もみなその目的とする所は千古に渉りて朽ちざるにありてその攻究には仔細の考察と静慮とを要するなり。学術に関するに流行の文字を以てす。流行の学術は恐くはこれ真の学術に非あらざるなからんか。而も見よ書籍の出版、学校の設立、雑誌の発刊、学生の趨向すうこうその変遷する所を推してしかして称するに流行を以てす必しも不可なるに非ず。しかも世間実に流行の跡を追ふて独り及ばざらんことを恐るるの浮薄の書生尠すくなしとせざるなり。此の如きの輩もと学術の何たるを知らざるもの須すべからくその面に唾すべしといへどもまた勢の已やむべからざるなきに非ず。けだしその流行の波濤に漂はさるるに際しては読者の趣味概ね泛として定まるところなく批判の能力に乏しくして半銭の価値なきものも※々さくさく[#「口+昔」、U+5536、29-5]して世人の賞粲しようさんに上る。すなはち僥倖を求めて名利を賭するもの雲の如くに起るまた自然の勢なり。而も競争の道はこれ自ら淘汰の法、老者退けられ、羸者るいしや倒れ残るものは是れ深く薀蓄するあるの士。しかも此の如きの士もと流行の如何いかんに関せざるなり。
 しかして世人も漸くその事の真相を知るに至れば復また一時の狂呼に任すべからざるを解するなり。ただそれ好奇心の飽あくことを知らざるや何いずれの辺にか新奇を求めんとししかして鋭才の輩立てこの機に投ずるあり。茲ここにおいてか摸倣に巧なるもののその跡を追ふもの起りあるいは平生の究きわむる所偶々たまたま好運に会するなり。相和し相唱へて他の新流行は生ずるなり。流行の状概ね然しかり。潮引き波去るの後に※(「二点しんにょう+台」、第3水準1-92-53)およんで之を覧みる塵埃じんあい瓦礫がれき紛として八方に散乱するのみ。また些いささかの益する所なきが如しといへどもこれによりてその学が世上の注意を惹ひくに至るあるは疑ふべからざるなり。もしそれ真に学に志さんとするものはもとより遠く塵寰じんかんを脱して世潮の浮沈を度外に置くを要するや言を俟またざるなり。
 史論は近日の流行物となりぬ。喜ぶべきか喜ぶべからざるか。史籍の梓しに上るものその種甚はなはだ尠しとせず。人物論の新聞雑誌に顕はるる殆ほとんど虚日なし。田口氏の『史海』は学生の机上に横行しその発売高ははるかに経済雑誌を超越すと聞く。世人が史学に注目するに至れるは頗すこぶる喜ぶべきの観あり。然れども思へよ、史学の根底は正確なる事実にあり。而も在来の伝説史籍、謬説世を誤り訛伝かでん真を蔽ひ炯眼の士なほかつ之が弁別に苦くるしむ。これ実に事実考証の已むなき所以ゆえん、而していはゆる事実の考証何ぞそれ旦暮の間に究索するを得んや。材料の蒐集は莫大の時日と労苦とを要すとなす。真偽の鑑定は眼光紙背に徹する底の識見なくんば不可なり。事実の正確は既に得たりとせんか即ちその源因を究め結果を捜りよく蟠根錯節を解きて当時の状況炳焉へいえんとして眼前に露はるるに至らんこと何ぞそれ談笑一夕の間によくする所ならんや。曰ふ時日と労力とは厭ふところにあらずと。ただそれ識見は如何いかに深く人事の細微に通じ広く世間の状勢を知り人心の転化を究め性情の奥秘を悟るに非れば蓋なんぞ以て時世遠く隔り状況遥に異れる史上の真相を観破し得んや。
 国史を論ずといふかこれまことに在来国史の間に拘々たるもののよくなす所ならんや。列国数十山を界し海を隔つといへども坤輿の上あに足跡の通ぜざるなしとせんや。すなはち意外の辺において意外の聯絡を発見し以て久しく結むすんで解けざりし疑問を氷釈すること尠きにあらず。海外の大勢我国に及ぼす影響は如何。隣国の変乱痛痒相関すること如何。文化の淵源は遠く他国の深山に発するなり。貴重の材料が自国に湮滅して他邦にその跡を存すこともあるなり。これをこれ推究せずして何ぞ国史を了解するを得んや。いはんやまた社会進歩の状態自らその軌を一にするものあり。彼此相較し甲乙相照ししかして始めて燎々として事蹟の明なるを致すものあらずや。殊に異種の民族異邦の文化両々相比し来て而後しかるのち真に国民の特質文明の真相を発揮するを得るにあらずや。しかしてその異同ある所以のもの更に仔細に之を探究考察せんとす、またまことに難事たり。而もこれ必ず為さざるべからざるの業たるを奈何いかんせんや。
 英雄の人物を論ずといふか英雄は毀誉褒貶の集まる所尊崇と罵詈と交々至る。しかして時に応じ機に臨み執る所の政略殆ど人意の表に出て神智奇謀測るべからざるあり。しかして英雄の出いずるは概ね国家擾乱の際、数百載の下に立たちて之を想見す。目眩し胸轟く英雄の人物あにそれ知り易しとせんや。哲士の性情を論ずといふかその胸にはすなはち大慈大悲の霊泉を湛へその腔にはすなはち神妙壮美の世界観を包蔵す。乾坤を覆載し宇宙に徹底し区々の俗情を超絶してしかして悠々として青天の上に飛揚す。雲漢を抉えぐりて彼の帝郷に遊ぶなり。哲士の性情あにそれ議し易からんや。
 史の言ひ難きや実に此の如し。古来妙齢の哲学者青年の文学者に乏しからずといへども未だ弱冠の史学家あるを聞かざるは理なきに非あらざるなり。想像の富澹や文藻の壮麗や緻密の考察、推論の正覆此の如きはすなはち単に思考の力に出づといへどもかの歴史家に至ては先づ広漠無量の事実に通ぜざるべからず。しかしてこれ実に時日と労力とを要する所以にして短少の歳月のよく為すなきの理なり。かつ見ずやいはゆる史学家なるもの多くはこれ一時代一国民もしくは一事件の歴史を以てその畢生ひつせいの事業となしたるを。いはんや我国の如き極めて史学の幼稚なるに当ては材料の捜索に数層の困難を覚ゆるにおいてをや。限りあるの人生、限あるの能力また已やむを得ざるなり。
 ただそれ大史学者は常に踵きびすを接して出づるものに非ず。大伝記家の出づる誠に百載にしてしかも一人ならんのみとせば彼かの擾々たるものも且しばらく以て秋夜の一興に値するものとせんか。而も偏僻の史論牽強附会けんきようふかいの伝記が世人を誤まることあるは容すべきに非ず。いはんや一時の風潮につれて腹にもなきことを筆の先にて誤魔化さんとするものをや。更にいはざるべからざるあり。博士重野某職を史官に奉じその徒と共に考索する所あり。曩さきに児島高徳楠木正成僧日蓮の事蹟を云々し頃日けいじつまた武蔵坊弁慶を称して後人の仮託に出づとなし公会において之を演じたり。是ここにおいて議するものあり曰く国家の俸禄を食はむ史家は誤謬の索捜を勉めて国史の美観を損ずと。曰く国庫の資を以て蒐集したる断簡零墨を憑拠として漫みだりに賢相名臣の跡を抹殺すと。また曰く考証学の結果にして此の如くんば則ちこれ風教に害ありと。しかして或るものは更に一歩を進めて国体の尊厳に関すと叫ぶ。
 嗚呼ああ世人史を見ること真に此の如きか。在来国史の謬伝訛説多きは既に論ぜし所、少しく眼を史籍に注ぐものは何人も之を拒む能はざるの事実たり。国史の学は国民の過去に経過し来れる事蹟の実相を究明するの謂いいなり。而もそのいはゆる事実にして果して真実ならずとせんかこれただ空中の殿堂、咸陽の宮楼に非ざるも史家は之を一炬に附するを惜まざるなり。すなはち更に荘厳の宮殿を建築せんとす。必ず先づその基礎をして正確ならしめざるべからず。事実の考証はこれ史学の根底なりとす。有を有とし無を無とすまことにこれ当然の理何人が之を拒むものぞ。ただそれ有の果して無たらず無の果して有たらざるか否かはこれ史家の識見とその方法との如何に関するのみ。曰ふ断簡零墨以て国史を疑ふべからずと。断簡零墨尽く以て信ずるに足るとせず。然れども賤人の私記却而かえつて浩瀚の史籍より史学上の価値を有すること尠しとせず。修史の学は近代の進歩にかかるといへども而も動かすべからざる原則は以て千万の史書を批判するに足ること疑ふべからず。二に二を加ふれば四なるは千古に渉りて争ふべからざるが如く先天の原理より演繹し来れる修史の原則は何人も拒む能はじ。いやしくも憑よるべきの原則あらば半片の故紙も以て勅撰の国史を抹殺するに憚からず。何ぞ一ヶの武蔵坊弁慶をや。今それ国費を以て史書を編輯せしむるの可否は別箇の問題に属ししかしてかの重野某及その属僚が果して史家たるの能力を備ふるか否かは余の知らざる所従而したがつてその説く所の果して首肯すべきか否かは暫く論ぜず。反証を挙げて学術上の攻撃をなすことを勉めずして漫に之を嘲罵するの如きはこれ学問の何たるかを知らざる没理性漢なり。史家はこの輩に向て解説を勉むべしといへども決してそれが為めに拘束せらるべからず。世人の口碑に伝唱して誇称したる美話佳談が一朝にして抛棄せらるるは人情惜むべきが如きも事実は奈何ともする能はず。仮令たとい弥縫以て一時を瞞着するも史学の進歩は何の時にか之を看破せずして止まん。かつそれ訛伝の抹殺せらるると同時に一方においては深く隠蔽せられてその事あるを知らざるも美事が史学の光輝に照らされてその真相を顕あらはすことなしといふべからず。世人は之を拒まんとするかその自家矛盾なるを奈何せん。またかの楯を国家に託して跡を国体論に隠るるが如きは顧るに足らず。我大日本の国体は此の如き羸弱なるものに非ず。列聖の鴻業偉徳と祖宗が洪蹟とは炳として天日とその光を争ふ。何人か之を議するものぞ。
 史あにそれ言ひ易からんや。事は数千載の上下と数万里の東西とに蟠延し源は深く人心の幾微に発し細に社会の深淵に伏す。事理を剖析ほうせきし状情を探究し以て因果の在る所を解明す。まことに学術上の最難事たり。而も軽忽に之を論断し苟且こうしよに之を言説して顧みず揚々として得色あるが如きものあるはそもそも何の心ぞ。

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神代史の研究法

津田左右吉



+目次














 今日に伝わっている我が国の最古の史籍たる『古事記』と『日本書紀』との巻頭にはいわゆる神代の巻という部分がある。『古事記』は和銅五年(712 A.D.)『日本書紀』は養老四年(720 A.D.)に出来たもので、何いずれも八世紀に入ってからの編纂であるが、神代の巻などは、もっと古くから伝えられていた材料によったものである。ここにその詳しいことを説いている遑いとまはないが、その材料は遅くとも六世紀には一と通り出来上がっていたらしい。さてその神代の巻は我が国の開闢かいびゃく以来の話だといわれ、そうしてそれが我が国の最古の史籍であるというためか、とかく世間ではそれに、我々の民族もしくは人種の由来などが説いてあるように思い、従って神代の巻の記事を強いてそういう意味に解釈しようとする癖があるらしい。例えば高天原ということがあると、それは日本民族もしくはその要素をなしているものの故郷たる海外の何処どこかであると考え、天孫降臨ということがあると、それはその民族がいわゆる高天原の故郷から日本のどこかへ移住して来たことだと説き、そういう考かんがえから天孫人種とか天孫民族とかいう名称さえ作られている。あるいは出雲の大国主神がその国を天孫に献上せられたという話があるところから、天孫民族に対して出雲民族というものがあったようにいう。そうして、そういうような考え方をもっと他にも及ぼし、土蜘蛛つちぐもという名が上代の物語に出ていると、それは穴居をしていた異民族の名であるように説く人もある。何でも我が国の昔には種々雑多の異人種・異民族がいたように考えられている。
 それからまた民族や人種の問題とは少しく趣がちがうが、神代の物語を一々事実に引きなおして解釈することが行われている。海神わたつみの宮の話があると、それはどこかの地方的勢力、または海中の島国のことであると考える。八股蛇やまたのおろちの物語があるとそれは賊軍を征服せられたことだという。あるいは黄泉国よみのくにという名が出ると、それは出雲国のことだと説く。あるいはまた八咫烏やたがらすが皇軍の道しるべをしたとあると、その八咫烏は人の名であると解釈する。伊弉諾いざなぎ・伊弉冉いざなみ二神が大八島を生まれたという話は政治的に日本国を統治せられたことだという。要するに神々の物語は悉く歴史的事実たる人間の行為であって、畢竟ひっきょう神は人であるというのである。
 しかし神代巻の本文を読むと、そんなことは少しも書いてない。天照大神は高天原にいられるとある。神々が高天原へ上ったり高天原から下ったりせられるとある。けれども日本人種・日本民族が海外の故郷から日本に移住したとか、その故郷へ往来したとかいうようなことは何処にも書いてない。出雲の神の話はあるが、出雲の地方に別種の民族がいたとは何処にも記してない。あるいはまた海の底の海神の宮の話はあるが、それが海上の島国であるとは何処にも書いてない。本文をよめば八股蛇はどこまでも蛇であり、八咫烏はどこまでも烏であって、少しも人間らしい様子はない。然しかるに世間で上に述べたような解釈をしているのは甚だ不思議の至である。これは何故であろうか。
 他でもない。神代の巻の種々の物語に我々の日常経験とは適合しない不合理な話が多いからである。この不合理な物語を強いて合理的に解釈しようとするから、上記のような説が出るのである。天上に世界があったり、そこと往来したりするのは、事実としてあるべからざることである。海の底に人の住むところのあるのもまたあるべからざる話である。けれども神代の巻にそういう話のある以上は、それに何かの事実が含まれていなければならぬ。と、こう考えたために、表面の話は不合理であるが、裏面に合理的な事実があるものと臆断し、神代の巻が我が国のはじめを説いているというところから、それを日本民族の由来を記したものと考え、あるいは国家の創業に関する政事的経略の事実を述べたものと説くようになったのである。そうしてこの思想の根柢には一種の浅薄な Rationalism が伏在する。すべて価値あるものは合理的のもの、事実を認められるものでなくてはならぬ。然らざるものは荒唐不稽の談である。世にお伽噺おとぎばなしというものがある。猿や兎がものをいったり桃から子供が生まれたりする。事実としてあるべからざる虚偽の談である。それは愚人小児の喜ぶところであっても、大人君子の見て陋ろうとするところのものである。然るに崇厳なる神典にはかかる荒唐不稽の談のあることを許さぬ。だから、それには不合理の語を以て蔽おおわれている合理的の事柄がなくてはならぬ。こういう論理が存在するのである。
 然らば合理的の事実が如何いかにして不合理の物語として現われているかというと、一つの解釈は、それは譬喩ひゆだというのである。昔の新井白石の取ったところがそれであって、彼はその譬喩の言から真実の意味を見出そうとして神は人なりという仮定説を捻出し来きたったのである。それから今一つの解釈は、事実の物語が伝誦の間におのずからかかる色彩を帯びて来た、一口にいうと伝説化せられたのだというのであって、今日ではこういう考を有もっている人が多いようである。しかし何故に事実をありのままに語らないで故いたずらに譬喩の言を以て不合理な物語としたのであるか。神が人であるならば何故に神という観念、神代という思想があるのか。これは白石一流の思想では解釈し難き問題である。また神代の巻の物語を、事実の伝説化せられたものとして、すべてが解釈せられるかどうか、例えば葦芽の如く萌えあがるものによって神が生まれたとあり、最初に天の御中主の神の如きがあるというようなことは、如何なる事実の伝説化せられたものであるか、というと、それは何とも説かれていない。しかしそれだけは事実の基礎がないというのならば、何故に他の物語に限って事実があるというのか。甚だ不徹底な考え方である。そうして譬喩であるというにしても、伝説化であるというにしても、その譬喩、その伝説が不合理な形において現われているとすれば、少くとも人間の思想においてそういう不合理なことが現われること、あるいはそういう心理が人間に存することを許さねばならぬが、それならば、何故に最初から不合理な話を不合理な話として許すことが出来ないのか。こう考えて来ると、この種の浅薄なる Rationalism が自家矛盾によって自滅しなければならぬことがわかろう。





 こういう考え方に反して昔の本居宣長は神代の巻の話をそのまま文字通りに事実だと信じた。人間の浅智から見れば不合理であるが、神は人智を以て測るべからざるもの、神の代は人の代ではないから、天上に世界があっても、海底に宮殿があっても、神が島を生まれても、草や木がものをいっても、それは事実であったというのである。けれども、こういう考が今人の賛同し難きところであることはいうまでもない。そうして宣長は神代の巻の物語をそのままに事実と見、白石などはその裏面に事実があると見た違ちがいはあるが、何れも事実をそこに認めようとしたことは同じである。が、何故に不合理な、事実らしくない話を強いて合理的に解釈してそれを事実と見、あるいはそこに何らかの事実を索もとめなければならぬか。一体、人間は不合理なこと事実でないことを語らぬものであろうか。広い世界を見渡して、多くの民族、多くの国民に民間説話があり神話があることを知るものは何人も然りとはいうまい。然らば我々は如何様にそれを取扱うべきであろうか。
 別にむずかしいことでもない。第一に、人の思想は文化の発達の程度によって決して一様でない。上代人の思想と今人の思想との間には大なる逕庭けいていがあって、それはあたかも今日の小児の心理と大人との間に差異があると同じことである。民間説話などはそういう上代の思想によって作られたものであるから、今日の思想から見れば不合理なことが多いが、しかし上代人の心理においてはそれが合理的と考えられていた。鳥や獣や草や木がものをいうというのは、今日の人に取っては極めて不合理であるが、上代人の心理には合理であったのである。けれどもそれは上代人の心理上の事実であって、実際上の事実ではない。上代でも草や木が物をいう事実はあり得ない。ただ上代人がそう思っていたということが事実である。だから我々はそういう話をきいて、そこに実際上の事実を求めずして、心理上の事実を看取すべきである。そうして如何なる心理においてそういう観念が生じたかを研究すべきである。然るにそれを考えずして草木のものをいうとあるのは民衆の騒擾そうじょうすることだというように解釈するのは、上代人の心理を知らないため、強いて今人の思想でそれを合理的に取り扱おうとするのであって、上代人の思想から生まれた物語を正当に理解する所以ゆえんではあるまい。
 第二に、人の思想はその時代の風習、社会上の種々の状態によって作り出される。従ってそういう風習、そういう状態のなくなった後世において、上代の思想、またその思想から作り出された物語を見ると、不思議に思われ、不合理と考えられる。蛇が毎年処女をとりに来るという話がある。処女を犠牲として神に供えるという風習のなくなった時代または民族から見ると、この話は了解し難いが、それが行われていた社会の話として見れば別に不思議はない。だから我々は歴史の伝わっていない悠遠なる昔の風習や社会状態を研究し、それによって古い物語の精神を理解すべきである。我が神代の巻にも、その神代の巻が記述せられた時代には既になくなっている風俗が実際存在していた遠い昔に作られた話が伝わっていて、それが神代の巻に現われているということも有り得べき事情である。ところがそれを理解しないで蛇とは異民族のことだとか賊軍だとかいうのは、全然見当ちがいの観察ではあるまいか。
 第三には、人智の発達した後において生じた詩的想像の産物が古い物語に少なくないことを注意しなければならぬ。神話というものには多かれ少かれこの分子が含まれている。天上の世界とか地下の国土とかの話は、その根柢に宗教思想なども潜在しているであろうが、それが物語になって現われるのはこの種の想像の力によるのである。事実としてはあり得べからざる、日常経験から見れば不合理な、空想世界がこうして造り出されることは、後世とても同様であって、普通にロオマンスというものにはすべてこの性質がある。それを一々事実と見て高天原という天上の世界は実は海外の某地方のことだなどと考えるのが無意味であることはいうまでもなかろう。蓬莱山が熊野だとかいうような考え方もこれと同様である。何人も浦島太郎の噺はなしも竜宮を実際の土地とは考えまいが、それにもかかわらず、但馬守たじまもりの行ったという常世国が南方支那だとか、神代の巻の海神の宮が琉球だとか博多地方だとか説くのは不思議である。





 以上は神話や民間説話の一々についてのことであるが、もしそういうような物語が一つの大なる組織に編み上げられている場合には、そこに何らかの意図がはたらいていることを看取しなければならぬ。支那の尭舜から禹湯文武に至る長い物語は支那人の政治道徳の思想によって構成せられているから、それがために事実とは考えられないことが多く現われている。それを思わずしてあの古代史を一々事実と見ようとすれば牽強附会に陥おちいることはいうまでもない。我が神代の巻はそれと同様に見るべきものではないかも知らぬが、それに事実らしくない不合理なことが含まれているとすれば、我々は、その語るところに如何なる歴史的事実が潜んでいるかというよりは、寧むしろそこに如何なる思想が現われているかを研究すべきではなかろうか。この思想そのものが国民の歴史に取っては重大な事実である。
 談はやや抽象的になって来たが、神代の巻を一読すれば、このことは自然にわかろう。しかし今日こういう観察を神代の巻に加えるのは、広く世界諸民族の神話や古くから伝わっている民間説話やまたは上代史などの性質が我々に知られ、また近時の諸種の学術的研究によって上代人・未開人の風俗や習慣や思想や彼等の心理状態やが知られて来たからである。説話そのものにおいても、神代の巻、及びその他『古事記』や『日本書紀』に見えるものと同じような物語が、人種も全く違い、交通もなく関係もない他の多くの民族に存在していることがわかっていて、そういう説話の起源や由来も西洋の学者によって種々に研究せられている。幾多の人類学者・宗教学者、あるいは心理学者によって行われた最近二、三十年間の研究はこの方面に大なる進歩を促したので、日本の神代の物語を解釈するにも幾多の重要なる暗示がそれによって与えられる。彼らの説が悉く正鵠に中あたっているとはいい難く、彼らの間にも種々意見を異ことにしている点が少なくなく、特に彼らの考察に日本とか支那とかいう東洋諸国民についての材料が乏しいために我々から見れば種々の不満足を感ずることもあるが、ともかくもその研究の方法は我々が学ばねばならぬものである。
 こう考えて来ると、昔の白石などが、上代人の心理状態を解することが出来ないために、それを強いて後世の思想で解釈しようとしたのも、不合理な話を合理的に見ようとし、事実らしくない話に事実を求めようとしたのも、無理のないことである。彼らは多分神代の巻に見えるような不思議な話は日本ばかりのことと思ったのであろう。そうしてこんな不思議な話はそのままに事実とは信ぜられないから、その裏面に何か事実が潜んでいるものと考えたのである。もとよりそれには、一種の尚古思想、一種の支那式 Rationalism があるのであるが、ああいう物語が世界到るところにあることを知ったならば、もっと他に考えようもあったのであろう。
 然るに今日においてもなお彼らと同じような考を以て神代の巻を見ているもののあるのは、我が国の学界において不思議な現象といわねばならぬ。彼らは神代の物語をそのままに上代史だと考えている。けれども民族のあるいは人類の、歴史的発達において、何処に神代という時代を置くことが出来ようか。連続している歴史的発達の径路においてどこに人の代ならぬ神の代があったとすることが出来ようか。神代というものが歴史上の事実でなくして思想の所産であることは、これだけ考えて見てもすぐにわかることではなかろうか。歴史家は神代という観念の作られたことを思想史上の一現象として取扱うべきはずであって、神代と称せられる時代が歴史的に存在したと考えることの出来ないことは、今日の学術的智識においては明白のことではなかろうか。もとより神代の巻の物語には上代の歴史的事実がいくらか絡まっているかも知れぬ。しかしその事実の事実たることを知るには、別に方法がある。
 例えば仮に日本の人種や民族の由来が神代の巻の物語に伏在していはしないかと考えて見る。ところが人種や民族の異同などが文献上の徴証を有たぬ場合には、それを推知するには明あきらかに科学的方法が具わっている。即ち比較解剖学・比較言語学上の研究を主とし、それを補うにその民族に特殊なる生活上の根本条件、民族心理上の諸種の現象を以てすべきである。そういう研究によって我が国の上代に種々の異った民族のあったことが証明せられ、そうしてそれによって知られた各民族の分布や範囲や盛衰興亡の状態を以て、神代の巻の何かの物語に対照し、それが互に符合するか、無理のない比定が出来るかという場合があるならば、その時始めて神代の巻にそういう分子の含まれているという仮説が、一つの解釈法として容認せられるのである。ただここに注意すべきことは、こういう研究は全然神代の巻の物語から離れて独立にせられねばならぬということである。人種や民族の問題でなくとも、神代の巻に歴史的事実があるかどうかを考えるには、全然その物語の外に立って、それには毫末の関係なく、あるいは確実なる史料(支那の史籍がその重要なる役目をつとめる)により、あるいは後世の事実から確実に推定せられる事柄により、またあるいは純粋なる考古学上の研究の助をかりて、それを試みねばならぬ。初から神は人なりというような臆見成心を有っていて、それによって神代の物語を改作したり、その物語と遺跡や遺物との間に曖昧あいまいな妥協的結合を試みたりするのは、決して科学的の研究ということは出来ぬ。このことについては、もっと具体的に説明しなければ自分の真意を読者に伝えることが出来ないかと思うが、談が余りに長くなったから、それはまたの機会をまつことにする。





 之これを要するに神代の巻の研究はそれがすぐに上代史の研究ではなく、また勿論民族や人種の研究ではない。その研究の方法は何よりも先ずそれに含まれている物語を文字のままありのままに読みとって、その物語の意味を考うべきである。高天原はどこまでも天であり、神はどこまでも島を生まれたのであり、海神の宮はどこまでも海底の別世界であり、草木がものをいうならばどこまでも草木がものをいうのである。ワニは話のままにワニであり、蛇や烏は文字通りに蛇や烏である。神は神であって人ではなく、神代は神代であって人の代ではない。こういうように読み取って而しかして後はじめて真の研究に入ることが出来るのである。

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日本歴史の研究に於ける科学的態度

津田左右吉



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 ちかごろ世間で日本歴史の科学的研究ということがしきりに叫ばれている。科学的研究というのが近代史学の学問的方法による研究という意義であるならば、これは史学の学徒の間においては一般に行われていることであるから、今さらこと新しくいうには及ばないはずである。然しかるにそれがこと新しいことのように叫ばれるのは、日本の国家の成立の情勢とか、皇室の由来やその本質、ならびにそれと国民との関係とか、皇室の種々の事蹟とか、または日本の世界における地位とか、いうようなことがらについて、学問的の研究をもそれによって知られている明かな歴史的事実をも無視した、あるいはむしろ一般的な常識を無視した、恣ほしいままな主張をもっているもの、もしくは歴史を政略の具にしようとするものが、政治的権力者の地位を占めて、その権力を弄もてあそび、学徒や文筆にたずさわっているものの一部にも、それに迎合追従し、またはみだりに虚偽迷妄な説を造作してそれを支持するものがあり、それがために学問的の研究が政治的権力と乱暴な気ちがいじみた言論とによって、甚しく圧迫せられると共に、虚説妄説が声高く宣伝せられることによって、国民の多くが迷わされも惑わされもし、そうしてそれが起すべからざる戦争を起させ、またそれを長びかせた一つの力となったので、その戦争によって国家の危機が来たされた今日に至って、急にこれらのことがらについての正しい知識を国民に与える必要が感ぜられたからであろう。そうして上にいった権力者の権力がくずれ宣伝が声をひそめたことが、それを叫ぶによい機会となったのであろう。だから、その学問的研究というものは、日本歴史のすべての部面を対象としてのことではなく、ここに挙げたような特殊のことがらについての、少くともそれを主とし中心としての、ことであるらしく、従って時代からいうと、上代史にその重おもな問題があるとせられているようである。
 もっとも、こういうことがらについての学問的研究は、近年ほどに乱暴な態度や方法によってではなかったにせよ、その前から、知識の乏しい官憲や固陋ころうな思想をもっているものの言動やによって、或る程度の、場合によっては少からぬ、抑制を蒙こうむってはいた。メイジ(明治)の或る時期には古典の批判がかなり活溌に行われ、皇室に関することについてもいろいろの新しい自由な研究が現われても来たが、その傍には、神道や国学やまたは儒教の思想をうけつぎ、それを固執するものがあって、こういう研究に反対し、時には官憲を動かしてそれを抑制しようとしたのである。それがために、学界においても、こういう問題については、自由な学問的研究の精神が弱められ、学徒をして、あるいは俗論を顧慮して不徹底な態度をとらしめ、あるいはそれに触れることを避けさせる傾向が生じ、そうしてその間には、学徒みずからのうちにもしらずしらず固陋な思想に蝕まれるものが生ずるようになり、全体として研究が進まなくなった。これがほぼメイジの末期からの状態であった。勿論、学界のすべてがこういう状態であったのではなく、特にタイショウ(大正)年間からは、シナ(支那)やチョウセン(朝鮮)の歴史の研究が進み、また考古学・民俗学・宗教学・神話学などの学問が次第に芽を出して来たので、それによって、側面から日本歴史のこの方面の研究を助けるようにもなったし、また第一次世界大戦の終ると共に、思想界の諸方面を動かして来た自由な、世界的な空気の影響をうけた気味があったかと思われるふしもあって、こういう問題もいろいろに取扱われて来た。いわゆる左翼思想の流行につれて、特殊の史観にもとづく歴史の解釈が試みられたことも、注意しなくてはならぬ。しかしこれは、上記の特殊の史観にもとづくものを除けば、純粋な学界のことであって、一般の世間にはさしたる交渉がなく、そうして世間の一部に固陋な思想の存在することも、また前と変らなかった。なおこのことに関聯して、学校における歴史教育が、上にいったようなことがらについては、曖昧あいまいな態度をとり、または真実でない知識を強いて注入していたことも、明かな事実である。世間に正しい知識が弘まらなかったのは、むりもないことである。学問的に研究しなければならぬ問題がそこにあるということすらも、一般には考えられなかった。
 ところが、上記の固陋の思想は、近年に至って政治界における軍国主義の跳梁ちょうりょうに伴い、それと結合することによって急に勢を得、思想界における反動的勢力の一翼としてその暴威を振うようになった。上に権力者の恣な主張といい、虚偽迷妄な説といい、気ちがいじみた言論といったのは、即ちそれである。その主張その言論は、神道や国学や儒教やの思想から継承せられたものが主になってい、それを粉飾するためにヨウロッパのいろいろの思想や用語の利用せられた場合もあるが、その利用のしかたは極めて恣なものであった。しかし、こういう状態が現出したのも、また溯さかのぼっていうとメイジ時代から固陋な思想の存在したのも、根本的には、日本人の文化の程度が低く教養が足らず、特に批判的な精神を欠いていて、事物の真実を究きわめまたそれによって国民の思想と行動とをその上に立たせようとする学問の本質と価値とを理解するに至らないためであった。学徒が真理を愛し真理を求め真理のために虚偽と戦おうとする意気と情熱とを欠いていることも、またこれと深い関係がある。権力を恐れ俗論を憚はばかり、真理として信ずるところを信ずるままに主張することをしないのは、むかしからの日本の学者の通弊であり、そうしてそれは、みずから研究しみずから思索するのではなくして、他から学び知ることを主とする過去の学問の性質からも、また学問は身を立て名利を得るための方便と考えられていると共に、学者に独立の地位の与えられなかった社会的風習からも、来ているのであるが、近年に至って、知識人の間に小成に安んじ現在に満足する気風がひろまり、その点からもこういう態度がとられるようになったということも考えられる。そうしてそれは、一とおりヨウロッパの文化を学び得たがために、もはや彼れに及ばぬものがないように思い、その実、学問でも文芸でも一般の教養でも、はるかにヨウロッパに及ばぬ状態であるにかかわらず、メイジ年間における如くいわゆる先進文化国においつこうとするいきごみと努力とが弱められると共に、われの誇るべからざることを誇り、かれの侮あなどるべからざることを侮ったところにも、一つの理由があるのではないかと、解せられる。この一般知識人の気風が学徒にも及んで、彼らをして真理に対する熱愛を失わしめたのではあるまいか。
 こう考えて来ると、日本歴史の学問的研究ということが急に叫ばれても、それがすぐに大なる効果を生ずるには限らない、ということが考えられる。こういう叫びには、一つは史学の学徒をしてその本来の使命に立ちかえって自由な研究を進めてゆかせるような気運を促すのと、一つは一般世間に対してこれまで注入せられていた虚偽迷妄な知識を正すのと、この二つの意味があろうと思われる。ところが第一については、外からの抑圧がなくなったことによって、おのずからその気運が開かれて来ることが考え得られるものの、長い間、世間に或る力をもっていて研究者みずからにおいてもその思想を幾らか曇らせていた固陋な考えかたの残滓ざんしがなおどこかにこびりついているために、それにわずらわされもしようし、あるいはまた人によっては、世間の空気の急激な変化に誘われて、いたずらに反抗的な態度に出で、または近年のとは違った方向においてではあるが、やはり真実を歪ゆがめるような見かたをすることもあろうし、いずれにしてもおちついた学問的の研究の妨げられる虞おそれがないでもないから、このようにして呼びさまされた研究が真の研究の道を進み、そうしてそれによって何らかの成果に達するまでには少からぬ歳月がかかるからである。また第二については、学問的研究そのことがいま述べたような状態であるために、誤った知識を正そうとするその正しい知識が十分にでき上がっていないし、よしそれが或る程度にできているとするにしても、一般世間にはそれを理解しそれをうけ入れるだけの準備ができていず、そうしてまた一方では、権力の抑圧が解かれ恣な言論が声をひそめたにしても、その根柢となっていた固陋な思想なり考えかたなりは急になくなってはしまわないので、それが何らかの形において正しい知識の理解を拘束するであろうからである。





 然らばその固陋の思想とは何であるかというと、それを一々ここで数えたてることはできないし、またそうするにも及ぶまいが、その主なるものは上代史に関することであって、その根本の考かんがえは、いわゆる記紀の神代や上代の部分を歴史的事実を記したものとして信奉するところにある。もっとも神代については、必ずしもモトオリ・ノリナガ(本居宣長)の如く『古事記』の記載をすべて文字のままに事実として信ずるには限らず、それに何らかの恣な解釈や牽強附会けんきょうふかいな説明やを加える場合もあるが、それにしてもこの根本の考に変りはない。そうしてこの考から、神代という時代が事実あったとし、アマテラス・オオミカミ(天照大神)を実在の人物とし、皇室の万世一系であることはこの大神の神勅によって決定せられたとし、天皇は今日でも神であられるとし、わが国には神ながらの道という神秘的な道が昔からあったとし、オオヤシマ(大八嶋)は最初から皇室の統治をうけた一国であったとし、日本は世界の祖国であり本国であり、従って世界は日本に従属すべきものであるとし、チョウセン半島はスサノオ(素盞嗚)の命みことによって経営せられたものであるから本来日本の一部であるとするような、主張が生ずるのである。これらは概していうと神道者や国学者の思想をうけついだものであるが、近ごろのこういうことを主張するものは、国学者の考えたように、漢文で書かれシナ思想で潤色せられているという理由で『日本紀(書紀)』を排斥することはせず、却ってそれを尊重するので、それがために、シナの種々の書籍のいろいろな辞句をつなぎ合わせて作ったその記事なり詔勅として載せられている文章なりをそのままに信じ、またはジンム(神武)天皇の即位を今から二千六百余年の前とする『日本紀』によって初めて定められた紀年をも、たしかなものとして説いているが、これらはエド(江戸)時代からメイジ年間へかけての幾人もの学者によって、事実でもなく真の詔勅でもなく、またシナ思想によって机上で作られた年数であることが証明せられ、それが学界の定説となっているものである。ところが、そういう過去の学者の研究による学界の定説をさえ無視した主張のせられたところに、漢文を尊重しシナ思想を尊重する儒者の偏見のうけつがれたところがある。なおこういう主張と関聯したこととして、日本人においてはその生命財産もすべて天皇のものであって、それが建国以来の日本人の信念であるとか、シナもしくは世界の文化の淵源が日本にあるとか、日本人が世界の最も優れた民族であるとかいうような、国学者の思想の一すじのつながりがあると共に、近年のヨウロッパの一隅に起ったいわゆる全体主義(その実は権力服従主義)的な、または特殊の意義における民族主義的な思想から学ばれたようなことも主張せられ、それが古典の記載によって知られることの如く説かれてもいたらしい。
 しかしこういうようないろいろの主張には、第一に、記紀の記載を歴史的事実として信ずるといいながらそれに背そむいていることがあるので、例えば、アマテラス・オオミカミが実在の人物であるというのは、それを日の神とし太陽神とし、タカマガハラ(高天原)という天上の世界にいることにしてある記紀の記載と矛盾するものであり、オオヤシマが最初から一つの国として皇室に統治せられていたことが事実であるとすれば、オオナムチ(大己貴)の命がアシハラノナカツクニ(葦原の中国)を皇孫に献上したというそれとは一致しない記紀の記載をも、ジンム天皇の東征ということをも、理解することができない。これは物語に語られていることをその全体にわたって考えず、一部分または一方面の記載を恣にとり出して、それだけを主張の根拠とするからのことであって、そこにこういう主張に学問的根拠のない理由がある。
 第二には、記紀の用語や文字の意義に背いていることがある。例えば、日本は世界を従属させるべきものであるという主張が『日本紀』の神武天皇紀の「掩八紘而為宇」を根拠とするようなのがその一つである。この句は「兼六合以開都」と対になっているので、「為宇」の「宇」は建築物としての家屋のこと、「為」は造作の義であり、この場合では宮殿を作るということである。(大和地方は服属したからさしあたって橿原に皇居を設けることにするが大和以外の地方はまだ平定しないから)日本の全土を統一してから後に、あらためて壮麗な都を開き、宮殿を作ろう、というのがこの二句にいいあらわされていることなのである。(これは『文選』に見えている王延寿の魯霊光殿賦のうちの辞句をとってそれを少しくいいかえたものであるが、このことについての詳しい考証は近く発刊せられるはずの『東洋史会紀要』第五冊にのせておいた。)このような出典などを詮索せずとも、この句を含む「令」というものの全体と神武紀の始終とをよく読んでみれば、「為宇」がこういう意義であることは、おのずからわかるはずである。「宇をつくる」と訓よむべきこの「為宇」を、いつのころからか「宇となす」と訓み「宇」を譬喩ひゆの語として見るものがあったので、そこから八紘を一家とするというような解釈が加えられ、それによって上記の主張がせられたのであろう。こういう主張は、『古事記』の物語にもとづいたノリナガやアツタネ(篤胤)の思想にも一つの淵源があるが、近年の主張者はそれよりもむしろ『日本紀』のこの語を根拠としていたようである。そうしてこういうことのいわれたのは、誤った訓みかたから誘われたのではあるが、その訓みかたの正しいか否かを学問的方法によって吟味することなしに、特にこの句の用いてある文章の全体の意義を考えることなしに、この句だけをとり出してそれに恣な解釈をしたのであって、それはまた、古典を解釈するのではなくして、自己の主張のために古典を利用しようとする態度から出たことである。こういう態度から多くの虚妄な説が造作せられ宣伝せられたのが、近年の状態であった。
 これに似たことは、孝徳紀の詔勅に見える「惟神我子応治故寄」の「惟神」の語を「神ながら」と訓み、それによって「神ながらの道」というものが建国のはじめから我が国にあったというように説かれていることである。「惟神」は一つの語ではなく、「惟」は意義のない発語であり、「神」は「我が子しらさむとことよさしき」の語の主格となっているものであるのを、いつのころからか、こういう誤った訓みかたがせられている。もっとも「惟神」の二字は「神ながら」の語にあてられたのではないが「神ながら」という語は上代に用いられていて、天皇についていう場合には、それはこの政治的君主が現あきつ神かみといわれていることを示すものであった。しかし「神ながらの道」ということは、どの古典にも見えていない。「神ながら」はもともと道とすべきことではないから、これは実は意義をなさぬ語である。かかる語がエド時代の末期から世に現われたので、それは多分アツタネによってはじめていい出されたものらしい。(このことについては『上代日本の社会及び思想』と『日本の神道に於ける支那思想の要素』とに詳しく考えておいた。)もともと上代人の思想になかったことであるから、その意義として説かれることは一定せず、アツタネ及びその後の神道者・国学者によって思い思いの解釈が恣に加えられて来たが、近年に至って、この語が著しく神秘化せられると共に、世界に類のない日本特有の道であり、日本人はその道を世界に実現させねばならぬ、というようにさえいわれていたらしい。神秘化せられたのは、意義のない語を深い意義のあるもののごとく宣伝しようとするために、その意義が明かに説き得られないからでもあったろう。そこにこういうことを主張した宣伝者の態度が見える。
 第三には、古典のどこにも見えず上代の思想としてあるべからざることをそうであるごとく主張することであって、国民の生命財産は本来天皇のものである、というようなのがそれである。エド時代の武士には生命は(俸禄との交換条件として)主君からの預りものであるということが教えられもしたが、上代にはそういう思想はなかった。天皇に仕えまつる武人は大君のために命を惜しまぬということは考えられていたが、それは武人の道徳的責任としてのことであって、近年の宣伝者がいうような思想を根拠としてのことではなかった。
 また第四には、学問的研究の結果として得られた明かな知識に背くものがあるので、その例は上に挙げておいた。スサノオの命がチョウセンに行ったというような話を事実とすることが、チョウセンの歴史の研究の結果から見ても許し難いものであり、シナの文化の淵源が日本にあるというような主張が、少しでもシナの文化とその歴史とを知っているものには笑うべきたわごとであることは、いうまでもあるまい。
 なお第五としては、常識に背いているということがだれにでも知られる、神代などの物語を上代の事実として信ずるということが、すでに常識に背くものであるが、何らかの主張を宣伝するために、それを利用することがらについては、例えばアマテラス・オオミカミを人であるとする如く、恣な解釈をそれに加えることによって或る程度に常識に背かないように説こうとするけれども、利用しないことがらについては、そういう解釈をしないから、それを事実とするのは常識を無視するものとしなければならぬ。君主の家の永久であるべきことが建国の初はじめにおいて決定せられ、そうしてそれがそのとおりになった、というようなことが、歴史の常識をもっているものに承認せられないことは明かである。物語ではないが上代の多くの天皇が百歳以上の長寿であられたということを信ずるのも、同じことである。ジンム天皇の即位が二千六百余年前であることを事実とする以上、これもまた事実として考えられているとしなければならぬからである。天皇が現つ神であられるというのは上代人の思想としては事実であったけれども、今日でもそうであるというのは、やはりこの類のこととしなくてはなるまい。
 ところが、この最後にいったことは、近年の恣な主張をするものの態度の二つの方面を示すものとして注意せらるべきである。それは、皇室もしくは国家の本質に関することがらは、第一に、古いにしえも今も同じである、あるいは同じでなくてはならぬ、ということ、第二に、学問的研究はもとよりのこと思慮を絶し常識を超越した信念であり、もしくはそうでなくてはならぬ、ということである。しかし第一のは歴史を、第二のは人の知性を、無視したものである。第一については、国体は永久不変であるということがいわれるであろうが、その国体の意義なり精神なり由来なりをどう考えるかということ、またその国体の実際の政治に現われる現われかたは、時代によって変って来ている。国民の生活は絶えず変化し、知識の広狭も思想の浅深も、また意欲し志向するところも、常に変化して来た。ただそれらがいかに変化しても、その変化した状態に常に適応するもの適応し得るものが永久不変なのであって、国体はこの意義において不変であったのである。政治の実際にあらわれたところについて見ても、権臣政治・摂関政治・院宣政治・幕府政治と、その形態は昔から幾度も変って来たにかかわらず、国体は変らなかったが、それは実は政治の形態がどう変ってもその変った形態が成立し存在し得るような国体だからのことであり、一層適切にいうと、政治の形態が変り得たがために国体が変らずに来たのである。古典に現われているような上代人の思想や上代の政治の形態が国体と離るべからざるものであるとすれば、こういうことはなくなる。国民生活の歴史的発展はその思想や活動のしかたやを変えてゆくが、国民が国民として生きているかぎり、その生活には歴史的発展があるはずだからである。そうして国民生活のこの歴史的発展において、国体が変らずに続いて来たという事実と、それを永久に続けようという志向とが、常に強いはたらきをして来たのである。
 また第二については、こういう宣伝によって皇室を神秘化しようとするのであろうが、知性が発達し常識が高められ、何ごとについても学問的の研究が要求せられている現代においては、それは事実できないことであるのみならず、これまでとても皇室の地位や権威やについていろいろの説明なり解釈なりがせられて来たので、神代の物語とてもその一つのしかたに外ならぬのである。そうしてこういうことを主張するものが、これまで人がいわず過去にはなかった虚妄な説を新に造作してそれを宣伝したことは、この二つの主張をみずから否認したものといわねばならず、それによってその主張の無意味であることが明かにわかるのである。天皇が現つ神であられるというのは、政治的権力が宗教的のものである(「あきつ神と大八嶋国しろしめす」)という意義のことであり、部族の首長の地位において政治的権力と宗教的権威との分化しなかった未開時代の多くの民族に共通な思想のうけつがれたものとして解し得られるので、日本がまだ多くの小国に分裂していた時代においても、その小国の君主の地位はみなそうであったらしく、日本全土の君主となられた皇室のみに特有のことではなかった。文化が進んで人が人としてすべきことを自覚し、政治が政治として独立のはたらきをする時代になると、こういう思想はおのずからその力が弱められて来るので、日本でも、中世以後には公文の上にもそれは殆ほとんど現われなくなった。今日において常識あるものがそういう思想をもっていないことは、明かな事実である。上代人の思想における現つ神の観念とても、天皇が宗教的に崇拝せられる神であられるというのではないが、現代人にとってはなおさらであって、天皇の性質とその真の尊厳とは、天皇を人として見ることによってのみ明かになることは、いうまでもない。上代には祭政一致であったから今日でもそうでなければならぬ、というような主張が、現代において承認せられるはずのないものであることも、またこれと関聯して考えられるであろう。上代は祭政一致であったというのは、後世になっていい出されたことであって、それは、あるいは古典の記載を誤解したところから、あるいはことばの意義を明かにしなかったところから、またあるいは儒教思想による恣な臆説から、出たことであるから、そういう考そのものが実は上代の事実にあてはまらぬものであるが、政治に神の意志がはたらくものとせられ、従って政治の一つのしごととして神の祭祀が行われた、という意義でそれをいうにしても、それは、上代の思想と風習とであって、現代の政治には何のかかわりもないことである。(祭政一致ということについては数年前の雑誌『史苑』にのせた「マツリといふ語と祭政の文字」で考えておいた。)





 以上は、神代の物語や上代の歴史やに関する固陋な、または放恣な、主張についていったのであるが、これと同じような主張は、例えば大化改新とか南北朝の争とか下っては明治維新とかいう後代の歴史上の問題に関しても、また行われていたが、今はそれらにはふれないことにする。ところが、日本歴史の非学問的な解釈は、このような固陋な思想や近年における権力者の政略から出て甚はなはだしき私意を含んでいるもののみではなく、学者によって唱えられたものもある。それは学問的方法の理解の足らぬために生じたものであるが、そのうちには、エド時代から後のいろいろの学者の間にそういう解釈が行われていたため、世間にはかなり広く信ぜられるようになったものもあり、そうしてそれが結果においては、やはり世をあやまり人をあやまらせている。
 その二つ三つを挙げてみると、神代の物語を歴史的事実が譬喩の形でいいあらわされたものとするのが、その一つであって、タカマガハラは、天上の世界ではなくして地上のどこかの土地が天上にある如く語られたものであり、日の神たるアマテラス・オオミカミは日そのものではなくして実在の人物であるが、あるいはその徳が日の如く広大であるために、あるいは日を祭る任務をもっているために、日の神と称せられたのであり、いわゆる天孫降臨は皇室の御祖先が海外からこの国土に渡来せられたこと、またはこれまでこの国土に住んでいた民族とは違う別の民族(天孫民族)が新しくこの国土に来て土着の民族(出雲民族)を征服したことを語ったものである、というような考えかたがそれである。非合理的な物語を一々合理的な事実として解釈しようとする態度に知識人の共感をひいた点があるが、神代の物語はその本質としてもともと非合理的なものであるから、それを一々合理的に解釈しようとするのは、物語の解釈の学問的な方法ではない。第一に、何故にそういう解釈をしなければならぬかの理由が説明せられず、第二に、一々の物語のそういう解釈は確実な根拠がない恣意のものであるために、人によって相互に一致しない思い思いの解釈が加え得られるからである。特に天孫降臨を天孫民族というものの渡来のこととするような考えかたは、民族の異同や移住の径路などを考える学問的研究の方法を無視するものである。この場合に民族という語がどういう意義に用いられているか知らぬが、一般に民族といえば、長い間共同の生活をして来て同じ歴史をもっているために、言語や生活の状態やを同じくする一つの集団をさすのであり、従ってこれらの点で他の民族とはちがった特色のあるものをいうのであるが、それには他の民族と人種を異にする場合もあり、同じ人種の分派である場合もある。だから、民族の異同を考えるには、これらのことがらについての事実を精細に研究するのが学問的の方法であるのに、物語の上記の解釈にはこういう研究がせられていないのである。またこういう解釈のしかたは神代の物語を日本の上代史と見るものであるが、実はそれによって上代の歴史は何ごともわからない。こういう方法によって物語をどう解釈するにしても、日本の国家の成立の情勢、即ちいわゆるオオヤシマの全体がどうして皇室の統治の下に帰したかということも、そうなる前の日本の状態も、全く知ることができないのである。だから神代の物語の学問的研究は、こういう解釈のしかたとは違った方法によらねばならぬ。それは即ち非合理的な物語をそのまま非合理的なものとして、それにいかなる意味があり、いかなる思想が表現せられているか、またいかにしてそれが形づくられたか、を考察することでなければならぬのである。
 いま一つの例を挙げるならば、日本の国家は一家族のひろがったものである、皇室は宗家であって国民はその支族である、ということのいわれているのがそれである。これがもし、事実そうであるというのならば、それは事実としては決してあるべからざることである。一家族がひろがって一つの国民になったということがもしあるとすれば、それがためにどれだけの世代と年数とがかかるか、ということを考えてみただけでも、このことはわかろう。あるいはまた、事実そうであるのではなくして、そう考えることがむかしからの国民の信念であった、もしくは現代人の思想上の要請である、というのならば、それもまた全くの誤りである。こういう信念が上代にあったらしい形迹けいせきは古典のどこにも見えていないし、現代における国家は家族とは全く性質の違ったものであることが何人にも明かに知られているからである。『古事記』や『日本紀』に見えている諸家の系譜には朝廷の貴族や地方の豪族の祖先やが、神代の神や後の皇族であるように記されているが、よしそれが事実であるとするにせよ、この系譜は一般民衆とは関係のないことであるのみならず、貴族や豪族やの祖先についてのこういう系譜は事実を記したものでなく、彼らがそれぞれその家がらを尊くしようとするために作られたものであることは、神代の神の性質や皇族の名やまたはこういう系譜そのものやを、少しくきをつけて考えて見れば、すぐにわかることである。だからこういう考えかたで日本の国家の性質を説明しようとするのは、何の根拠もないことである。また上代とても国家の政治には権力がなくてはならなかったので、その権力が家族を統制するのとは全く性質のちがうものであったことは、歴史上の事実によって明かであるのみならず、神代のイズモ(出雲)平定とかジンム天皇の東征とかいう物語の上にさえもあらわれている。だから日本の国家が家族国家であるというような考は、その本質のちがっている二つの生活形態である家族の結合と政治的権力による国家の統治とを混同したものである、といわねばならぬ。この思想はエド時代までは全くなく、メイジ時代になってはじめて世間に宣伝せられたものであって、日本が新に世界の多くの国家の間に立ってその地位を守ってゆくには、内部における国民的結合を固くしなければならぬために、その思想的根拠として思いつかれたことであるらしく、何ら学問的の研究を経たものではない。
 なおこの思想と関聯して、『日本紀』にユウリャク(雄略)天皇の詔勅として記されているもののうちにある「義乃君臣、情兼父子」の語に日本の皇室と国民との関係の特色が示されているように説くことも行われているが、この詔勅というものは『隋書』高祖本紀に見えている高祖の遺詔を殆どそのままに写しとったものであり、そうしてその君臣というのは、君主とその君主から俸禄を与えられてそれに奉仕する官人との関係をいったのであり、民衆には全く関係のないことである。日本でも、君臣という語はそれと同じ意義に用いられていたので、臣は民のことではなく、ウマヤド(厩戸)皇子の作といわれているいわゆる十七条の憲法にも、臣と民とは明かに区別せられている。皇室と国民とを君臣という語でいいあらわすことは、エド時代の末期まではなく、メイジ時代になってから次第に世に行われるようになったが、これは語義が変じたものとして解し得られよう。武士の社会がくずれてその社会組織の骨ぐみになっていた君臣関係というものがなくなった時代に、そのもとの意義が忘れられて、こういう変化を来きたしたのであろう。従って皇室を君としてそれに対していう場合の臣と民との区別はなくなり、帝国憲法にも臣民という一つの称呼が用いてある。今でも宮廷では、旧くからの風習により或る地位をもっているものが臣と称することがあるらしいが、一般の用例ではない。
 話はわきみちへ入ったが、もとへもどっていうと、上記の『日本紀』に見える君臣の語の意義は明かであり、『隋書』において臣の語が民の義に用いてないことはいうまでもないから、上に引いた辞句によって日本の上代の国家が家族的精神によって統治せられていたように説くのは用語の意義を考えず、近ごろになって用いはじめられた意義でそれを解するところから来たものであり、そこにこういう考の学問的でないところがある。古典の用語は古典時代の意義によって解するのが、学問的の方法だからである。もっともシナには、天子は民の父母というような語もあるので、それがこの場合に思いよせられているのかも知れぬが、これは天子に対して民を慈愛すべきことを教えたことばであり儒教思想から出た考であるので、いわゆる天子によって統治せられることになっているシナの政治形態の本質がここにあるというのではない。シナでも儒教思想に反対する学派ではこういうことを説いてはいない。もしこの語をそのように解し、そうしてそれによってシナの政治は家族的であるとするならば、家族的精神で国を治めることは日本の特色ではないことになるが、もともと日本の皇室の政治が家族的精神によって行われたというのは、日本の国家の特色をそれによって示そうとするのであるから、こういう考はそれと背反する。然るにこういうことがいわれるのは、日本とシナとを混同する考の上に立っているので、その考は『日本紀』をはじめとして日本の古典に漢文を用いるシナ思想によって書かれたものが多いところから、それと日本の現実の状態とを弁別することなしに、みだりに何ごとかを主張するためである。そうしてそこにも、こういう考が、古典の文字と思想との精細なる検討を基礎ともしなければならぬ学問的研究を無視したものであることが、示されている。





 後世の思想で上代の状態を推測し、それが建国の初めから定まっていたことのように考える場合は、このほかにもなおいろいろあるので、皇室の万世一系であるのは国民的信念であったというようなことのいわれているのも、その一つである。一般国民が何らの政治的地位をもっていず、その文化その思想が低級であった状態から考えると、上代の政治において国家の形態についての国民の意見というようなものがはたらいていたとは考えられず、国民がそういう意見をもっていたということすら肯うべなわれないことである。民衆が中央の貴族及び地方の豪族、即ちいわゆる伴造国造に分領せられ、すべての生活がそれによって規制せられていた上代において、このような特殊のことがらに関し、すべての国民に共通な意見などがあったはずはないからである。現代の国民一般の間に存在するこういう信念は、長い歴史によって養われ、従って後世になって次第に形づくられて来たものであるのみならず、それが強くも明かにもなったのは現代の学校教育によって教えこまれた結果である。エド時代までは知識人(少数の儒者を除く)においてそれが考えられていたけれども、一般の民衆はこういうことについて深い関心をもたなかった。
 あるいはまた神社についても同じようなことがある。これについては世間に二つの誤った見解が行われているので、その一つは神社は古人を祭ったものであるということ、一つは神社の本質は道徳的意義のものであって宗教的意義のではないということである。現実に生きていた人を神として祭るということは、上代にはなかったので、それは中世のころからはじまり、エド時代になってやや広く行われ、メイジ時代に至って一種の流行となったものであるが、それには儒教思想に由来するところが多く、仏者の習慣によって助けられた点もある。宮中に皇霊殿こうれいでんの設けられたのも明治四年のことである。それを上代からの風習のように思うのは、上代の宗教思想を学問的に研究しないからのことである。また神社の祭神が上代から宗教的崇拝の対象であったことは、明かな事実であるので、それは神社において何ごとが行われたかを古典によって考えるだけでも明かなことであるが、祭祀の儀礼に報本反始ほうほんはんしとか追孝とかいうような道徳的意義を附会した儒教思想に誘われて、日本の神社の崇敬をもそういう思想の表現のように説きなすものが、近代には生じたので、それには神を古人とするのと関聯して考えられた場合もある。なお近年になって神社の崇敬に国家的意義がある如く宣伝せられて来たが、民俗としての神社の崇敬には昔から、事実として、そういうことはなかった。イセ(伊勢)神宮のみは特殊な由来の語られている皇室の祭祀であり、天皇が国家の元首であられる点において、この神宮の祭祀に国家的意義が含まれてはいたが、もとは民衆の祭祀の対象ではなかったし、近代に至りその崇敬が民衆化せられるようになると、その民衆の崇敬には国家的意義は含まれていなかった。神の祭祀が政治の一つのしごととして行われたことは上代の風習であったが、それは朝廷のこと治者の地位に立ってのことであって、一般民衆の関することではなかった。それを国民全体のことででもあったように説くのは、近年にはじまったことを上代からのことのようにいいなすのである。神社についても神の崇敬祭祀についても、時代によって変化があり、権力者の態度行動と、学者の講説と、一般の民俗や民衆の心理とは同じでないのに、そういうことを細かに考えず、上代も今のようであったとし、民俗も学者の講説と同じであるように思うのが、世間には例の多いことである。そうしてそれもまた、歴史についての学問的研究による正しい知識が一般世間に与えられていないことを示すものである。
 なお一つ挙げて置くべきは、上代の政治は天皇の親政(すべての政治が天皇の意志から出、天皇が大小の政務を親みずから執られるという意義でいう)であった、ということが一般に信ぜられていたらしいが、それは事実ではない、ということである。文献によって知ることのできない時代のことはわからぬが、皇室が皇室として統治者の地位につかれたはじめには、多分、親政のような状態であったろうとは推測せられる。いかなる場合にか有為の君主が出てその権力をうち立てられたのでなければ、皇室として存在せられるには至らなかったにちがいなく、そうしてそういう君主の事業は君主みずからから出たものであろうと考えられるからである。しかし文献によって知ることのできる時代になると、天皇がみずから政治の局に当られたことは殆どないといってよい。政治に関する歴史的事実のいくらかがほぼ知られるのは、早くとも四世紀の末もしくは五世紀ごろからのことであるが、六世紀の終に近いころにおいてはソガ(蘇我)氏が実権をもっていて、その権力の強くなった時には、日本で最初の女性の天皇が位に即つかれ、政治に参与せられたろうと推測せられるウマヤドの皇子は天皇とはなられなかった。ソガ氏が亡びた後にいわゆる大化の改新が行われたが、その主動者の一人であり政務を統率せられたナカノオオエ(中大兄)皇子も、長い間、天皇の位に即かれなかった。これには天皇みずから政治の局に当られることの不便な事情があったからのことであるらしく、政治の実務を執られなかったことの明かな女性の天皇が位にあってもそれで少しも支障がなかったのも、唐にならって定められた大化の後の官制において支那にはない太政大臣という官の設けられたのも、この故のことと解せられる。そうしてそれはソガ氏の権力を得たよりも前からの因襲であり、ソガ氏の前にはどの家かが実権をもっていたのであろう。どうして上代にそういう風習が生じたのかは問題であるが、事実そうであったと見なされる。テンム(天武)天皇の時は親政であったかと思われるが、ジトウ(持統)天皇の時はもはやそうではなくなり、それから後は概おおむねフジワラ(藤原)氏などの権家けんかが実権をもつようになった。上代は天皇の親政であったというのは、エド時代の末にトクガワ(徳川)氏が実権をもっていることを非とするところからいい出されたことであって、歴史上の事実を明らめた上の考ではない。





 こういう二、三の例のように、必ずしも権力者の恣な主張や固陋な思想やから出たものとはいわれないけれども、歴史上のたしかな事実にもとづかない考がいろいろあり、そうしてそれらはみな学問的方法によって歴史を研究しないところから生じたものである。その学問的方法をここで説明がましくいうには及ばず、またそういうことをすべき場合でもないが、ただ次のことだけはいっておくべきであろう。
 それは、学問的に古典を取扱うには、古典の用語文字の意義をこまかに考え、その意義のままに、それを解釈すべきであって、その間に私意を交えてはならず、上代人の述作は上代人の思想によってそれを理解すべきであって、後世の思想でそれを見てはならぬこと、これが第一の用意であるということ、――こういう用意の下に古典に記されている神代の物語を見れば、それはどこまでも物語であって上代史ではないことがわかるということ、――物語はその作られた時代における作ったものの思想の表現であるところにその意味と価値とがあって、それは上代の或る時期における政治や文化やの状態、特に皇室及び国家に関する思想を知るための貴重なる史料であるということ、――ジンム天皇の東征ならびにそれより後のこととして記紀に記されている種々の物語も、また神代のと同じであるということ、――神代の物語が記紀の巻首にあり、外観上、歴史的事実の記録のごとく見える部分のあるいわゆる人代についての記載の前に置かれそれと連接しているために、神代を学問の上で先史時代と呼ばれている時代と同じもののように考える通俗の見解があるらしいが、それは全くの誤あやまりであって、神代は歴史時代の或る時期に思想の上で構成せられたものであり、現実に存在したものではないのに、先史時代はそれとは違って、現実にわれわれの祖先が閲歴して来た過去の時代であるということ、――物語は物語としての性質上、非合理的なことがらが多く語られているから、その一々を合理的なことがらとして解釈すべきではないということ、――真の上代史を知るにはこれらのことを明かに認識してそこから出発しなければならぬということ、などである。
 わたくしの考によれば、神代の物語の根幹となっているものとジンム天皇以後のこととして記されている物語の主要なものとは、六世紀の前半のころにヤマト(大和)の朝廷において作られたものであって、その時代の治者階級の思想がそれに表現せられているから、そこに上代思想史の史料としての大なる価値がある。神代の物語などが歴史的事実を記したものでないということから、それを無価値のものとして斥しりぞけるのは、大なる誤である。普通に事実といわれるのは外部に生起した何らかの事件をいうのであるが、思想が実は歴史的存在であり大なる歴史的事実である。ところで歴史の研究には史料がなくてはならず、そうして厳密なる学問的方法によるその史料の批判の結果、確実なものと認められる歴史的事実の記載を基礎としなければならぬが、上代史のごとき史料とすべき文献の乏しい時代のことについては、よしその史料に確実なものとすべき歴史的事実の記載があっても、それだけでは歴史を知るに必要な多くの事実がわかりかねる。従って上代史の研究には文献だけでは知ることのできない学問上の知識、例えば日本及びその周囲の民族に関する考古学・民俗学・言語学などの研究の結果が重要なるやくわりをもっていること、またシナ及び半島の歴史の研究によって知られたことが大なるはたらきをするものであることに、特に注意しなければならぬ。日本の国家の形成せられた情勢やその時代やそのころの文化の状態やの或る程度に知られるのは、シナの史籍があり、それが史料として用い得られるからのことである。
 しかし史料は史料であって歴史ではない。史料はそれがいかに豊富である場合でも、われわれが知ろうとする歴史上の事実のすべてにわたる知識を供給するものではない。必ず足らぬところがあり必ず欠けているところがある。史料の多くは偶然後世に残ったものであって、残らないものの中に史料とすべき貴重なものがあったはずであるし、よし昔書かれたものが少しも亡くならずに今に残っているという、実際には決してあるべからざることを、あるように想像するにしても、その筆者の考は今日のわれわれの知識上の要求とは違っていたために、われわれの知ろうとすることがそれに記されているとは限らないからである。後世に残すために編纂せられたものにおいてはなおさらであって、編纂者によって棄て去られたことにわれわれの要求するものの多いのが実際の状態である。あるいはまた史料たる文献が人の記録したものである以上、そうして人の観察や思想やはその能力や性癖や地位や境遇やによっておのずから規制せられるものである以上、その記録には必ず偏するところがあり必ず僻するところがあり、またその多くは何らかの誤謬を含んでいるのが普通の状態である。なお記録者や編纂者が何らかの意図によって故意に事実を曲げまたは虚構の記事を作る場合も甚だ多い。そこで史料の批判が必要になるのである。批判というのは、その記載が歴史的事実であるかないかの弁別のみではなく、その文献が何時いついかにして何人によって書かれ、その述作の精神と動機と目的とがどこにあるかを明らかにすることであるので、それについては偏僻や誤謬や虚構やがやはり一つの歴史的事実であることが考えられるのである。
 また史料は一つ一つのことがらについての知識を供給するのみであって、歴史の推移発展の径路や情勢やを、即ち歴史そのものを、示すものではない。だからそれを知ろうとするには史料の外の何ものかがなくてはならぬが、それは即ち歴史家の識見と洞察力と構成の能力とであって、それによって歴史が初めて形づくられるのである。歴史を研究するということは、この意味で歴史を構成することである。のみならず、歴史の研究には、先ず一つ一つの事実を明かにし、さて後その明かにせられた多くの事実を全体の推移発展の系列として構成するという一面があると共に、その推移発展の情勢がおおよそに考えられていなくては一つ一つの事実が明かにせられないという他の一面がある。いかなる事実も単独なもの孤立したものではなく、長い歴史のうちの一つの過程だからである。この両面の間の交渉は歴史の研究において頗すこぶる微妙なものであるので、そこに歴史家のはたらきがあり、その個性の現われるところもある。歴史はこのようにして個性のある歴史家によって始めて構成せられ形づくられるものであって、上代史とてもまた同様であり、『古事記』や『日本紀』はかかる歴史を構成するための資材を供給する史料の一部分をなすものである。記紀は歴史ではなくして史料である。史料だけでは歴史はわからず、記紀だけによって上代史を明かにすることはできぬ。





 歴史の学問的研究の方法についてこのように考えて来ると、ここにぜひともいい添えておかねばならぬことがある。この論稿のはじめに科学的研究という語を史学の学問的方法による研究という意義に解するといったが、特に科学という語の用いられていることについては、別に注意すべき点があるからである。
 科学という語が用いられると、何となく自然科学が思い出される傾向があるが、もし歴史の研究の方法もしくは態度が自然科学のそれと同じであるように考えられるならば、それは大なる誤である。勿論、自然科学に対して文化科学とか精神科学とかいうような語が作られているのでも知られる如く、科学が自然科学のみをさすものでないことは、普通に知られているであろうが、同じく科学と呼ばれるために、研究の対象は違っていてもその方法は同じであるように、ともすれば思われがちなのが一般のありさまではなかろうか。対象が違えばそれを取扱う方法もそれにつれて違わねばならず、史学の対象は自然界の事物とは違って情意あり思慮ある人の生活であるところにその特殊性がある。かつて歴史科学という語が一時或る方面で流行したことがあるが、この語を用いた人々の歴史の取扱いかたは、よしそれが自然科学者の自然界の取扱いかたと同じではなかったにせよ、史学の研究法としては適切でないところが多かったようである。それを今ここで列ならべあげるつもりはないが、例えば上代史を考えるについても、記紀の記載をそのままに、あるいはそれに恣な解釈を加えて、上代の普通にいう、歴史的事実を記録したものと見なし、それによって何らかの見解を立てることが行われていたようである。が、もしそうならば、これは記紀の記載を史料と見てその史料の批判をすることを忘れたものである。こういう態度は、実は、史学の研究の方法の明かにせられなかった時代の過去の学者、もしくはかの固陋な主張をもっていたものの態度と同じであり、畢竟ひっきょうそれをうけついだものに外ならぬ。違うところはただ、別に社会組織経済機構の歴史的変遷についての一種の思想的規準をもっていて、それにあてはめて上代史を解釈しようとした点にあるのみである。そうしてその点に、考えかたとしては、自然科学のそれから導かれたところのある側面もあるように見うけられた。
 そこで、歴史の科学的研究という語を用いるならばその研究について、次のことを注意しておきたいと思う。歴史は国民の生活の過程であり、国民の生活は過去に作り出して来た、あるいは過去によって与えられた状態のうちにありながら、現在の生活の要求によってそれを変化させ、未来に向って新しい状態を作り出してゆくものであり、そこに国民の意欲と志向とがはたらくのであるから、歴史の研究は過去の生活の展開の必然的な径路を明かにするのみならず、その径路そのものにおいて、この自由な志向と、どうしてそれが生じたかの由来と、どうそれがはたらいて来たかの情勢とを、究めることが必要であるということ(ここに昔からむつかしい問題とせられた自由と必然との交渉がある)、――一国民の生活には歴史の養って来たその国民の特殊性のあること、――この特殊性とても歴史的に絶えず変化して来たものでありまた変化してゆくべきものであって、そこに生活の意義があるが、特殊性がありまたそれの生ずるのを否認すべきではないということ、――歴史の研究の任務は生活の進展の一般的な、人類に普遍な、法則を見出そうとするところにあるのではなくして、国民の具体的な生活のすがたとその進展の情勢とを具体的なままに把握し、歴史としてそれを構成するところにあるということ、従ってその研究の道程においても、何らかの一般的な法則や公式やを仮定してそれを或る国民の生活にあてはめるというような方法をとるべきでないということ(古典の記載を無批判に承認しながら、それにこういう公式を結びつけるのは、二重の錯誤を犯すものである)、――生活の進展に人類一般の普遍的な径路があることを必ずしも、否認しようとするのではなく、またそういうことを研究するいろいろの学問、例えば人類一般を通じての考古学なり経済学なり民俗学なり宗教学なり神話学なりの成立を疑うのでもなく、却ってこれまで研究せられたこれらの学問の業績が、例えば日本のにおけるが如く、或る特殊の国民の生活の状態を考えるに当って大なるはたらきをすることを主張しようとするのではあるが、それらの業績は現在においてはなお不完全なものであり偏するところの多いものであるから、それを用いるには用いる方法があるべきことを知らねばならぬということ、――人の生活には多方面がありそれらが互にはたらきあって一つの生活をなすものであるから、そのうちの一、二をとって基礎的のものとし他はそれから派生したものと考えるのは僻見であるということ、――過去の史学者の深く注意しなかった社会史・経済史の研究が行われるようになったのは、もとより喜ぶべきことであり、それによって人の生活に一層深き理解が与えられ歴史に新面目が開かれることを承認すべきではあるが、それだけで歴史の全体もしくは真相が明かになるのではないということ、――歴史の科学的研究という語には誤解が伴いやすいから、これだけのこともいっておくのである。もしこの語を用いることによって史学の本質に背き歴史研究の学問的方法に背くような考えかたが流行するようにでもなるならば、過去の学者によって日本人の生活とその歴史とに誤った解釈が加えられたのと、解釈そのものは違いながら、同じような結果とならぬにも限るまい。のみならず、学者の態度によっては、その世間一般に及ぼす影響において、かの固陋な放恣な主張の宣伝せられたのと、似たようなことが起らぬとはいいかねるかも知れぬ。

http://www.aozora.gr.jp/cards/001535/files/53740_46419.html

仏教史家に一言す

津田左右吉





 歴史家に要する資格のさまざまあるが中に、公平といふことがその重要なるものの一なるは争ふべからず。公平とは読んで字の如く一見甚だ明かなるが如くなれど、細かに考ふれば真に公平を保つは容易のことに非あらず。公平とは私偏を挟まぬこと、即ち事実を観察するに予め成見を抱かず、議論をなすに故意の造作を為さざること等にして、これらは史家の心掛け次第にて、随分避くるを得べしとす。されど人々の偏見は故意ならぬ所にも甚だ多し。単に人の性質の上より見むも、君子の胸臆は小人の忖度そんたくする能はざる所、英雄の心事また凡人の測知し難き分ならずや。理窟をいはば如何様いかようにもいはるるものにして、人の意見とか議論とかいふもの、表面はいかめしき理論や証拠やの物具もて固めをるといへども、その裏面を探れば、極々の奥底は概してその人の性質・経験等より出でたる偏狭なる、自家一箇の感情に過ぎず。而しかもかくの如きは人の多く自覚せざる所、いはゆる知らず識しらずの間にかくなりゆくものにして、自らはつゆばかりも私情を挟まざる公明なる理論をなすと確信しをるなり。あるいは智識と感情とは往々衝突するものにして、理窟は右なりと思へど感情の為に左せらるること多しといふものあり。かかる場合もなきにあらねど、概していはば、智識と感情とはかく明かに分ち得べきものに非ずして、寧むしろ両者の知らず識らず一致しをるを常なりとすべし。さらに人々の境遇・経験の異なれる割合には、その議論の存外に同じきやうに見ゆるは、その根本たる人情の一般に相通じをるが故といふべからむか。われらが日常、他人の言ふ所、為す所を見て、何故にかく人々の思慮に差異ありやと驚かれ、我が思ふこと、述ぶることの他人に通ぜざるに逢ひては、如何なればかく人のこころは同じからざるかと怪しまるるは、所詮その感情の甚だしく懸隔せるが故に外ならず。此かくの如ごときは政治上の議論にも、社交上の談話にも常にあることなるが、宗教家といふものに至りては殊に甚だしとす。宗教家の理窟は理窟として当てにならぬもの甚だ多く、之これに向つて公平を求むるは寧ろ誤れるに非ざるかの観ありとす。
 されどかくいふは故意ならぬ、即ち知らず識らずして陥おちいれる偏頗へんぱに対するものにして、多少これを恕せむとするもまた已やむを得ざるに出づといへども、もし為にする所ありて、故ことさらに偏私の言をなすものあらば、われらは断じて之を詰責せざるを得ず。殊に公平を第一義とする史学に喙くちばしを容いるるものに在りては、この点において最も厳格ならむことを要す。今の仏教史を口にするもの、よく此の如きなきを必し得るか。われらはいま一々世上の史論を捉へ来きたりて之を議するの遑いとまなしといへども、概していはば、今の仏教史家と称するものが、故意の偏私をその間に挟まんとする傾向あるは、ここに断言を憚はばからざる所なりとす。いはゆる「誤魔化し」の手段は今の史家においてわれらが往々認むるところなり。
 思ふに我が邦の歴史が一に国学者もしくは儒者の手に収められたりし時代にありては、その仏教に関するものは概おおむね圏外に抛擲ほうてきせらるるに非ざれば、すなはち過度もしくは見当違ひの非難を受くるに過ぎざりしが、近時新史学の研究せらるるに及びて、次第にその偏見なりしを発見し、史上の事実も漸くその真相を看破せられて、久しく奈落の底に堕落せられたりし仏教もまた地平線上に現出するに至りたれば、その状恰あたかも仏教累世の仇敵たる史学が一朝その方向を転じて我が味方となりたるが如く感ぜられ、仏教家なるもの頗すこぶる得意の色を現はし、あるいは更にこの機に乗じて仏教を九天の上に昇らしめんと勉むるに至りぬ。国体も仏教の擁護によりて鞏固きょうこなりき、忠孝の思想は仏教の涵養によりて堅実となれり、仏教は文学を生み、美術を生み、その他の学術の進歩に与あずかりて甚だ力ありきとは、今の仏教史家の口癖なるが如し。げに仏教が我が国文明の一要素となり、またその影響が社会の全般に行きわたれるは何人も争ふべきに非ずといへども、仏教とて必ずしもかくの如く善き側をのみ有するには非ず、その政治上・社会上に及ぼせる弊害また決して浅少といふべからざるものあり。いはゆる仏教史家は、何すれぞこれを顧みずして彼のみを誇称し、あるいは時に彼を以てこれを蔽塞せんと勉むるが如き女々しき挙動をかなす。人ややもすればすなはち護法と称するも、此の如き苟且こうしょの手段に依るに非ざれば以て仏教を保護する能はずとせば、保護したりとて何の効かあらむ。もし仏教の価値にして永世滅せず、機に応じてますます顕揚せらるべきものなりとせば、区々たる曲庇遂に何するものぞ。かつて一たび史家の為に地獄に落とされし仏教の新たに娑婆に還りたるを思へば、卿らが軽挙して天上界に浮かばせんと勉むるものも、遂には再び下界に沈み来るべし。われら頃日けいじつ二、三の仏教史論を読み、その公平の見を欠くを歎じ、一言以て仏教史家といふものに贈る。

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歴史とは何か

津田左右吉





 世界の文化民族の多くは、その文化が或る程度に発達して文字が用ゐられて来ると、今日常識的に歴史的記録といはれるやうなものを何等かの形に於いて作り、さうしてそれを後世に伝へた。さういふものの由来、特にその前の段階としてのいひ伝へのこととか、民族によるその特殊性とか、またはそれらがどれだけ事実を伝へてゐるかとか、いふやうなことは、別の問題として、今はたゞそれらが主として人のしたこと人の行動を記したものであること、従つてまたその記述がほゞ時間的進行の形をとつたもの、いひかへると何ほどか年代記的性質を帯びてゐるものであること、を回想したい。自然界の異変などが記されてゐても、それは人がそれに対して何ごとかをし、またそれが人の行動に何等かのはたらきをするからのことであり、個人の行動ではなくして一般的な社会状態などが語られてゐる場合があるにしても、それはもとより人がその状態を作り、またその状態の下に於いて行動するからのことである。上代の歴史的記録がかゝるものであることは、人がその民族の生活に於いて、何ごとを重用視し、何ごとを知らうとし、何ごとを後に伝へようとしたか、を示すものであつて、それは歴史の本質にかゝはることなのである。勿論、今日の歴史学にとつては、さういふものはたゞ何等かの意味での史料となるに過ぎないものであるが、歴史学の本質はやはり同じところにある。歴史上の現象はどんなことでもすべてが人のしたこと人の行動だからである。
 歴史は人の行動によつて形づくられるものである。外面に現はれた行動はいふまでもなく、心の動きとても、人の心の動きであるので、それを広義の行動の語に含ませることができよう。ところが人は具体的には個人である。民族の動き社会の動きといつても、現実に行動し思惟し意欲するものは、どこまでも個人である。或る民族の生活様式、風俗、習慣、道徳、宗教的信仰、または一般的な気風といふやうなもの、その他、その民族に於いて何人にも共通のことがらはいろ/\あるが、現実に喜怒哀楽するものは個人である。社会組織とか政治上の制度とか経済機構とかがあつて、それが個人といろ/\の関係をもつてゐるけれども、現実に行動するものは個人の外には無い。さま/″\の集団的な活動がせられ、またいつのまにか行はれてゆく社会の動きとか世情の変化とかいふことがあつても、現実には個人の行動があるのみである。集団は単なる個人の集りではなくして、集団としての特殊のはたらきをするものであり、社会の動きもまた単に個人の行動の集められたものではなくして、それとは性質の違つた、社会としての、はたらきによる、と考へられる。けれどもそのはたらきは、多くの個人の間に相互にまた幾様にも幾重にもつながれてゐる錯雑した関係に於いて、断えず行はれるいろ/\のことがらについての、またさま/″\の形での、作用と反作用との入りまじつたはたらきに於いて、或はそれによつて、現はれる。要するに、多くの個人の心の動きと行動とによつてそれが生ずるのである。風俗とか習慣とかいふものの形づくられるのも、また同様である。制度や組織とても、それによつて個人が制約せられるが、それを形づくりそれを成り立たせるものはやはり個人間の上記のやうなはたらきである。あらゆる歴史的現象は人の行動であり、現実には個人の行動である、といふことは、これだけ考へても明かであらう。「現実には」といつたが、これは「具体的には」といつたのと同じ意義である。社会として集団としてのはたらきとか、民族の一般的な気風とか、または風俗習慣とか、さういふものは、人の行動についていふ限りに於いては、抽象的な概念である。
 ところが、人が行動すること、何ごとかをすること、は人の生活のはたらきである。人は行動することに於いて生活するのである。そこで、人の生活とはどういふものか、といふことを考へてみなければならぬ。それについて第一に知られるのは、生活は時間的に進行するもの、いひかへると過程をもつものだ、といふことである。人のすることは、どんな小さなことにでもその過程がある。よし短時間に於いてのことであるにせよ、一言一行とても時間的進行の過程の無いものは無い。或はむしろ、人は言行すること生活することによつて時間といふものを覚知する、といつてよからう。第二には、人が何ごとかをするのは、現在の状態を変へることだ、といふことである。一言一行でも、それをいはない前しない前といつた後した後とでは、それを聞いた人しかけられた人またはそれにあづかる事物に、何ほどかの変化を与へるのみならず、それによつて自己自身に変化が生ずる。外に現はれた言行でなく自己の心の動きだけでも、その前と後とでは自己の生活に変化がある。自己のいつたことしたこと思つたことなどが自己自身に制約を加へ自己を束縛するが、それは即ち自己を変化させることなのである。けれどもまたそれと共に、自己は自己として持続せられてゐる。今日の自己は昨日の自己ではないが、それと共に昨日の自己である。だからこそ変化があるのである。
 第三には、生活は断えず動いてゐて一刻も静止してゐない、といふことである。人は常に何ごとかをいひ何ごとかをし、何ほどか心をはたらかせてゐて、そのために断えず生活が変化してゐるからである。その動きかたはいろ/\であつて、大きく強いこともあれば小さく弱いこともあり、突如として激しい動きの起るやうに見えることもあれば、徐々に動くともなく動いてゐることもあり、その徐々な小さい動きも、動くそのことの力によつて、或は他からの刺戟によつて、大きな動きとなることもある。さうしていかなる動きかたをするにしても、その動きは順次に前のを承けて後のを起してゆくから、生活の動きは断えることなく連続してゐる。従つてその間にくぎりをつけることはできない。生活は一つの生活として一貫してゐるのである。この意味では今日の自己が昨日の自己であるのみならず、遥か隔つた前からの自己であり、遥か後までの自己なのである。そこで、第四としてかういふことが考へられる。それは、どんな一言一行でも、上記の如き生活の変化によつて、或はその他の道すぢによつて、そのはたらきをかならず後の生活に及ぼす、といふことである。そのはたらきが時を隔てた後に現はれることもあり、明かに知られずして行はれることもあるが、それの無いことは無い。そのはたらきに大小強弱のちがひはあつても、一たびしたことはそのまゝ消滅してしまふものではない。第五には、断えず動いてゐる生活は一刻ごとにそれ/\の特異な姿をもち特異なはたらきをするので、二度と同じ状態にあることが無い、といふことである。一こといふにも、その時の気分、即ち生理的心理的状態、ふと思ひ出したこと、あひての人物や態度、対談のゆきがゝり、周囲の状況、及びその他のさまざまの条件、がはたらきあつて、そのいふことといひかたとがきまるのであるが、これらの条件の一つ/\が、またそれ/″\にさま/″\の条件上そのはたらきあひとによつてできてゐるから、さういふ多くの条件が同じやうに具はり同じやうにはたらきあふことが二度あるはずはなく、従つて同じことは二度とはいはれないのである。
 第六には、いふまでもないことながら、生活を動かしてゆくものは心のはたらきだといふことである。かういふいひかたは実は適切ではなく、心のはたらくそのことが生活の動きであるが、一おうかういつておく。さてこゝに心のはたらきといふのは、理智のみのことではなく、意欲、情感、一くちに生活気分といはれるやうなもの、を含めてのことである。事実、人の生活を直接に動すものは主として後の方の力だからである。もつと適切には、理智とか意欲情感とかいふものが別々にあつてそれらが別々にはたらくのではなく、それらは一つの心のはたらきのいろ/\の側面であり、またそれらは互に滲透しあひ変化させあひ、一つのはたらきのうちに他のはたらきが含まれてゐて、それによつて人の生活を動かしてゆくのみならず、かゝる名をつけることのできない肉体のはたらきもそれに参加するのであるが、便宜上しばらくかういふのである。が、これらの心のいろ/\のはたらきは必しも常に調和してゐるのではなく、その間に齟齬のあることがあり、時には衝突も生ずる。理智によつて成りたつ思想とても、多くの異質のもの、互に一致しない考へかたから構成せられたもの、を併せもつてゐることがある。従つて、さういふ心のはたらきが生活を動かしてゆく動かしかたも単純ではない。生活と心のはたらきとを分けていつたのは、このことをいはうとしたからである。第七には、人の生活は一つの生活であるが、それには多方面がある、といふことである。衣食住に関すること、職業または職務に関すること、娯楽に関すること、家庭の人として、社会の人として、またはその他の関係に於いての人として、のそれ/\のしごと、数へ挙げればなほいろ/\あらうが、人の生活にはこれらの多方面があり、さうしてそれらが互にはたらきあつて一つの生活を形づくるのである。しかしそのうちには、性質の異なるもの、由来の同じからざるもの、互に調和しがたいものもあつて、その間に衝突の起る場合が少なくない。そのために生活の破綻が生ずることさへもある。人はかういふ生活をしてゐるのである。いはば多方面の生活が一つの生活なのであつて、それ故にこそ時に生活の破綻も生ずるのである。
 さて第八には、人は孤立して生活するのではないから、一言一行も他人との、また集団としての社会との、交渉をもつものであり、一くちにいふと生活は社会的のものだ、といふことであるが、これについては多くいふ必要があるまい。たゞ他の個人との交渉が相互的のものであることはいふまでもなく、社会との関係に於いても、社会のはたらきを受けながら社会にはたらきかけるのが人の生活であることを忘れてはなるまい。上にもいつた如く、もと/\社会といふものが多くの人のはたらきあひによつて形づくられてゐるものなのである。第九には、人の生活は歴史的のものであり、人は民族または国民としての長い歴史のうちに生活してゐるものだ、といふことである。人の思想が多くの異質のものを含んでゐるのも、生活の多くの方面に互に調和しがたいもののあるのも、民族史国民史のいろ/\の段階に於いて生じたものが共に存在してゐるところに原因のあることが、少なくない。
 最後に第十として、生活するについての人の態度を一言しておかう。生活は自己の生活である。しかしそれは、物質的精神的社会的自然的ないろ/\の力いろ/\のことがらがはたらきあつて生ずる環境のうちに於いて営まれる。人はこの環境のはたらきをうけつゝ、それに対応して、それを自己の生活に適応するやうにしてゆかうとする。この意味に於いて人は断えず環境を作つてゆくのである。そこに生活の主体たる人の力があり、生活そのものの意味がある。人は環境に対して受動的な地位にあるのみではなくして、能動的なはたらきをするのである。けれども環境の力は強い。みづから環境を作りつゝ、その環境から強いはたらきをうけるのである。上に自己の言行思慮が自己を制約するといつたが、それは即ち自己の言行などがそのまゝ環境を形づくることなのである。のみならず、この環境は、それを形づくるものの間に調和の無い場合が多く、またそれにも常に変化がある。従つて人の生活の環境から受けるはたらきにも混乱がありがちである。そこで人は、ともすれば環境に圧倒せられ、或はそれによつて生活をかき乱される。たゞ剛毅なる精神と確乎たる生活の理念とをもつてゐるものが、よく環境に対して能動的なはたらきをなし、環境を生活に適応するやうに断えず改めてゆき、それによつて生活の主体としての人の力を発揮し、生活をして真の生活たらしめる。かゝる人に於いて、生活が人の生活であり自己の生活であることが、最もよく知られる。
 以上は個人の生活についての考であるが、民族生活とか国民生活とかの如く、集団の生活といふことが、一種の比擬的な意義に於いて、いひ得られるならば、さういふ生活についても同じことが考へられよう。上にいつた如く人の行動は具体的にはすべて個人の行動であるが、その多くの個人の行動が互にはたらきあふことに於いて、一つの集団としてのはたらきが生ずるとすれば、それを集団それ自身の生活と称することができるであらう。さうしてその生活は個人のに比擬して考へられるのである。たゞ集団の生活を動かす心的なはたらきは個人の場合よりも遥かに複雑であり、生活そのもののはたらきも遥かに多方面であり、特に生活の主体が多くの個人によつて形づくられてゐることが、個人の生活とは同じでなく、従つてそのはたらきかたにも個人のとは違つたところがあるが、その他に於いては、集団の生活は個人のについて上にいつたことがほゞあてはまる。この意味に於いては集団の生活もまた具体的のものである。
 こゝまでいつて来て、問題を歴史に立ちかへらせる。歴史は生活の姿であるが、通常の場合、それは個人の生活をいふのではなくして集団生活、特に民族生活または国民生活、をさしていふのである。さて生活は断えず生活する自己を変化させつゝ時間的に進行してゆくので、その進行の過程がそのまゝ歴史なのである。たゞそれが歴史として人の知識に入つて来るのは、その過程のうちの或る地点に立つて、それまでに経過して来た過程をふりかへつて見る時のことである。生活は断えず進行してゆくから、進行してゐる或る現在の瞬間にこの地点を定める時、過去からの生活の過程が歴史として現はれて来るのである。これが普通の意義での歴史であるが、歴史が生活の過程であるとすれば、現在の瞬間から更に先きの方に進行してゆくその過程、即ち未来の生活、もまた歴史を形づくるものであるから、歴史の語の意義を一転させて、人は常に歴史を作つてゆく、といふやうないひかたをすることもできる。或は、未来の生活の進行に於けるその時※(二の字点、1-2-22)の現在の地点に立つて、その時までの過程をふりかへつて見れば、今から見ると未来である生活が過去の生活として眺められ、普通の意義での歴史がそこに見られるのだ、といつてよからう。この地点は刻々にさきの方に移つてゆくから、歴史の過程は次第次第にさきの方に伸びてゆく。しかし、未来に作られてゆく歴史の如何なるものであるかは、現在からは知ることができぬ。そこで、うしろを向けば作られて来た歴史が知られるが、前を向けば知られない歴史を刻々に作つてゆくことだけがわかる、といはれよう。この知られない歴史を刻々に作つてゆき、知られない歴史を刻々に知られる歴史に転化させてゆくのが、生活なのである。
 さて、歴史が人の生活の過程であるとすれば、それはその本質として具体的なものでなくてはならぬ。歴史を知るといふことは、具体的な生活の過程を具体的なまゝに意識の上に再現させることである。しかし、かくして知られた歴史はそれを書き現はさねば歴史としての用をなさぬ。そこでそれを書くことになるが、その書きかたは、知られた歴史をそのまゝに、即ち具体的な生活の過程を具体的なまゝに、叙述することでなくてはならぬ。刻々に作つてゆく歴史を、作つて来たものとして見る立場に立つて、その作つて来た過程を具体的な過程のまゝに再現し叙述するのが、歴史を書くことなのである。勿論、或る時代の文化状態、或る社会の組織構造、または一般的の風俗習慣気風、といふやうなことを概念として構成し把握するのも、具体的の生活過程を知るため、また書くため、に知識を整理する一つの方法として必要ではあるが、歴史そのものの本質はそこにあるのではない。最初にいつたやうな多くの民族が昔から作つて来た歴史的記録が歴史の本質にかゝはるものだといふのも、このことから考へられるのであつて、人の行動を記したもの、年代記的性質を帯びたものは、生活の過程をそのまゝに知り、そのまゝに叙述すべき歴史の使命と、おのづから一致するところがある。かゝる歴史を知りまた叙述することは、古今を通じ諸民族を通じての人生の内的要求から出たことなのである。
 しかし、かういふ風に歴史を知ること書くことが果してできるであらうか。上に過去の生活の過程は知られる歴史であるといつたが、「知られる」といふのは歴史の性質についてのことであつて、実際はその歴史がすべて知られてゐるといふのではなく、また知り得られるといふのでもない。かゝる歴史を知るのは、いろ/\の形での、またいろ/\の意義で用をなす、史料によるのであるが、その史料は知らうとする歴史の全体からいふと極めて僅かしか無く、さうしてその僅かなものにも誤謬や偏僻やまたはその他のいろ/\の欠点がありがちであるから、史料を取扱ふには特殊の用意がなくてはならぬ。そこで歴史の研究の方法論といふやうなものが生じ、それによつて歴史の学問が成りたつことになるが、どんな方法を用ゐるにせよ、知られないことは知られないから、そこに歴史の学の限界がある。のみならず、史料は古くからあるものであるが、歴史家は現代人であるから、それを解釈しそれを取扱ふには現代人の知識や考へかたがおのづからその間にはたらいて、却つて史料の真実を見失う虞れもある。しかし今はさういふことには立ち入らない。たゞ歴史的現象は人の生活であり、人の行動であるから、歴史を知るには何よりも「人」を知らねばならず、さうして「人」を知るには、知らうとするもの自身がそれを知り得るだけの「人」であることが必要である、といふことと、知るといふことは、生活とその過程と、即ち生きてゐる人の生きてゐる生活、断えず未来に向つて歴史を作つて来たその過程、を具体的のイメィジとして観ずる意義であることと、この二つのことをいつておきたい。過ぎ去つた生活の過程を意識の上に再現すると上にいつたのは、このことである。さうすることによつて、歴史を叙述することもできるのである。さうしてそれは、「人」に対する鋭い洞察と深い同情とをもち、具体的なイメィジを作るゆたかな想像力を具へてゐるもの、一くちにいふと詩人的な資質をもつもの、にして始めてなし得られる。歴史を研究するのは学問であり、それを科学といつてもよいが、歴史を知りまた書くのは、詩人でなくてはならぬ。歴史には知られないところがあるから、詩人とてもその限界を越えることはできないが、その限界の内に於いても、通常の意義に於いての学問だけのしごとではないところに、歴史を知ることの特殊の意味がある。
 しかし、学問として歴史を研究するためには、なほ重要なしごとのあることを、こゝにいつておかねばならぬ。生活の過程は複雑なもの、また波瀾起伏に富むものであり、多くのことがらがこみ入つた関係でからみあひもつれあひ、または摩擦しあひ衝突しあひ、さうしてその一つ/\の力が強くなつたり弱くなつたり、時に顕はれ時に隠れたり、或は前からのものが無くなつて新しいものが生じたりするのみならず、それらのはたらきあふ状態も断えず変化してゆくのであるから、それを一つの生活の過程として意識の上に再現させることは、実は甚だむつかしいことである。そのためには、からみあつてゐるものを一すぢ/\に細かくときほぐして、一々その性質を究め、その由来や行くへをたどつて、どこからどこへどうつながつてゐるかを明かにすると共に、その間のもつれあひかたとその変化とを見、さうしてそれらがどうはたらきあひどう動いて全体として生活となり、生活の上のどんな事件をどう起し、それがまた新しいどんな事件をどう導き出し、それによつてどのやうに生活を進行させて来たかの過程を、考へてみなくてはならぬ。多くのことがらが互にもつれあひからみあふといつたが、もつと適切には互に滲透しあひ互に変化させあふといふべきであつて、一つのことがらは断えず他のことがらのはたらきをうけてそのことがら自身が変化してゆくのである。多くのことがらといふのも、現実には分解すべからざる一つの生活を、思惟によつて強ひて分析した概念に過ぎないが、生活を一つの生活としてその具体的なイメィジを思ひ浮かべるための学問的の手つゞきとして、かういふ分析をする必要があるために、かういつたのである。かういふ風にして生活の変化して来た道すぢを明かにするのが、歴史を知るために必要なしごとである。これは通俗に因果の関係を考へるといはれてゐることに当るのであるが、後にいふやうにこのいひかたは妥当でないと思ふ。さてかういふしごとをした後に於いて、始めて生活の過程の正しいイメィジを具体的な姿で思ひ浮かべることができるのである。のみならず、それによつて史料が無いために知られないことの推測せられる場合があり、歴史の限界が幾らかは広められないにも限らぬ。但しこれは一般的な方法論などを適用するのみではできず、具体的な現実の生活に接して始めてできることであるが、それには、観察と思惟とが綿密また正確であり、さま/″\のことがらに於いてそれを統一する精神、といふよりもさま/″\のはたらきをしながら一つの生活であるその生活を動かしてゆく根本の精神、を見出す哲学者的な資質が要求せられる。けれども、そのしごとはどこまでも具体的な生活の真相を明かにするところにあるので、抽象的な観念なり理論なりを構成することではない。上にもいつた如く、何ごとかを概念として把握するのは、思惟のためには必要でもあるが、それは具体的な生活の過程を理解する一つの方法としてのことである。生活の過程の道すぢを知るといつても、それはどこまでも特殊な、二度とは起らない、具体的の、生活、現実の歴史的現象、についてのことである。
 しかし、かうはいふものの、歴史を知ること書くことは実は甚だむつかしい。具体的な生活の過程を具体的なまゝに意識の上に再現させるといふことは、どんな詩人的また哲学者的な資質を兼ね具へてゐる歴史家とても、完全にできるとはいひかねる。いかによい資質をもつてゐても、人である以上、それにはかならず偏するところがあるのみならず、上にいつた如く歴史家の知り得ることには限界があるからである。もつと根本的にいふと、どんな小さな簡単なことがらについてでも、それを知るといふことは、知らうとするものの知識なり気分なりによつて、何ほどかそれを変化させることだからである。だから、実際には、多くの異なる歴史家によつてそれ/\生活とその過程との異なるイメィジが作られ、異なる歴史が書かれることになる。たゞ歴史家の心がまへとしては、できるだけ、偏見に陥らず、固定した考へかたによることを避け、また個人的な感情を交へず、特殊な意図や主張をもたず、どこまでも客観的に歴史の過程を思ひ浮かべるやうに努力すべきである。

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ヒクソングレイシー パロディ画像

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RIZINレビュー

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色んな人が既に語っているこのイベントですが

まず欧米の主流であるケージ 金網

じゃない

でかいリングだという事

肘はダメ

だけれども寝ている相手を相手に蹴ったり膝を落としたりするのは全然オーケー

というのが欧米メジャーのUFCとは違うところ

最初 高阪 トンプソンというロートル同士のヨレヨレファイトで正直かなりだれましたがw

ヘビー級トーナメントはガチでレベルは高かった

でもまぁ
実績から考えてキングモー辺りが優勝かな
思っていたら本当にモーが優勝で意外性も何も無かったですなぁw

青木vs桜庭

ですがこの一戦はパートの主婦ですら話題に振ってきた試合でしたな
ですが桜庭の名前は知っていても青木の名前は知らなかったわけですから

桜庭の知名度はそんだけ一般にも高かったんですなぁ

しっかし桜庭選手もそうですが高阪選手などとっくに引退したロートル
引っ張り出してヨレヨレの試合ぶりを見せる

コレ何の罰ゲーなんでしょうか?
ハッキリ言って現役バリバリの青木選手に勝てるわきゃねーでしょ!
今はプロレスやってる桜庭選手ですよ?
桜庭選手は以前MMAの道場運営してましたが
既にその道場も閉鎖しており現在はプロレスで飯を食っている選手ですよ
コレはヒクソン引っ張り込む為にロートルの試合も幾つか組んだんでしょうが
こんな試合見せたら誰もやろうとは思わないでしょーが!

ガビの試合も打撃はヘッタ糞
でしたなぁ…
勝ってホッとしましたが正直あんな調子じゃこの先危ういですなぁ
MMA
はある程度は打撃できなきゃハッキリ言って大成は無理でしょうし

一番見たかった
というか
後の試合はガビ以外どーでもよかったし

クロンの試合ですが
案の定グレイシースタイルの構えからのクリンチアッパー 膝関節へのストップキック
相手が首相撲で対抗しようとすると上手く崩してテイクダウンし寝技の展開

しかしクリンチアッパーは良かったですなぁ
クロン

正直中途半端な打撃の間合いで打撃の打ち合いやるのは冷や冷やもんですが
最後の三角は良かったです
三角やる時に相手の足に自分の腕を引っ掛けて
バスターを頭の上まで上げないようにしたのはGJ!

しっかしおっそろしいのはアーセンです
あれだけ打撃も寝技も出来てデビュー戦ですからねぇ
末恐ろしいMMAプレイヤーになるでしょうなぁ
あのままMMA続けたらの話でしょうけれど

ヒョードルの相手はカーロストヨタに勝ったインド人でしたが
まぁあんなもんでしょうな

石井慧は…
トレーナーを柔道スタイルに適したカロパリジャンとかに変えた方がいいんじゃ…
とかつい考えてしまう…

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功夫傳奇レビュー

以前エディブラボー門下のジェイソンチェンバーズが格闘技武道レポート番組やってましたが
それの中国版武術レポート番組 

功夫傳奇

をようやく幾つか鑑賞終えました

が結構マニアックな内容で驚きましたね

まず形意拳編
戴氏心意拳なんて中国武術マニアなら誰でも知ってる門派ですが
それが中国じゃTVに出ちゃってるんですもん

まずは形意拳は元々は

戴氏心意拳

という拳法から生まれ

そこから最初の形意拳

宋氏形意拳

が誕生

その形意拳から

沢井健一の大気拳法の源流 王向斉の意拳

が生まれた事まで紹介

技術に鍛錬法から公開スパーリング 練習試合までTVで公開

フツー伝統武術なんてのはスパーとか試合なんてもんはやんないもんですが
それを実践 ガチ試合 ガチスパーまで公開したんですから凄いですよ
あの番組

日本でもある意味最も人気の高い八極拳編も興味深い内容でした

伝統中国武術の共通するのは独特の危険な急所への打撃と崩して相手を地へ這わすというのは共通していて
それは八極拳も一緒でした


ガチスパーではフツーにタックルなんて展開もあったりしましたよ
山田英司さんw

これ見た感じ
幾つもの流派 門派の武術をマスターなんて無理ですなぁ
基本からして別モンですもん

中国伝統武術は意外と合理的なノウハウでかなり奥が深いと感じましたね
まぁ
でも漫画のようなスーパーノウハウではない事が理解出来ました
割と地味で実践的なノウハウ
それが中国伝統武術だということなんでしょう

日本でも有名な八極拳編じゃ
河北省滄州の呉鐘の八極拳
台湾と日本では李書文系の劉雲樵の八極拳
徐紀とか大柳勝のような日本の有名人も出ていましたよ

でもこういう番組
日本のTVじゃ絶対できないでしょうなぁ
マニアックすぎてw

あと
松田隆智さんの動画見ましたが
今見るとやっぱヘッタクソですなぁ
この先生
技術的には正直下手くそな人で才能とか素質はビミョーだったんじゃないでしょうかね?

ただやっぱり

筆が立つ

この人がいなけりゃ中国武術も日本じゃ広がらなかったでしょうから
指導者としても武術家としてもビミョーな立ち位置でしょうが
研究家としての影響力 筆が立つのは凄かった
ということでしょうね

ただ技術を語ればもっと凄い人はたくさんいたでしょうし
もっと強い人はたくさんいたでしょうね

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中国武術のリアルファイト 武林大会 出ている門派は太極拳と本家 少林寺 やっぱりカンフー映画のようにはならず取っ組み合い クリンチ状態に必ずなりますねぇ

武林大会










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柔術プリースト214 バリカタ柔術RADIO 41

Jiu Jitsu Priest #214


生田誠のバリカタ柔術RADIO #41

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柔術は最も実用的な女性向けの護身術であり糞の役にも立たないような武道や格闘技ではないことをこのイラストが物語っている

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柔術藝術

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柔術藝術

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柔術藝術

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水木しげる この人をはじめ、昔の漫画家はリベラルだったのに実に惜しいことだ。 ネトウヨだらけの近年のキモオタ漫画家のクズどもとは違ってな。 これでまた一歩も二歩も、漫画やアニメのクリエーターの右傾化がますます進んでしまうわけだ。

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2015年12月01日22:06


「ゲゲゲの鬼太郎」作者の水木しげる氏が死去 従軍慰安婦の良き理解者



水木しげるさん死去 戦争 鎮魂ゲゲゲの伝言
2015年12月1日 朝刊
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201512/CK2015120102000123.html (魚拓)

「ゲゲゲの鬼太郎」「悪魔くん」などで親しまれた漫画家の水木(みずき)しげる(本名武良茂(むらしげる))さんが三十日、九十三歳で死去した。妖怪とともに描いたのは戦争体験をもとにした戦記物。出征した激戦地ラバウル(現パプアニューギニア)で飢えに苦しみ爆撃で左腕を失った。親交が厚かった評論家で日本マンガ学会前会長の呉智英(くれともふさ)さんは戦後七十年に世を去った大漫画家をしのんだ。 

私は学生だった一九七〇年代、資料整理や原作スタッフとして水木プロに出入りしていた。そのころの水木さんは、連載を何本も抱えていたので、こうした制作助手が必要だった。

会ってすぐに、私はざっくばらんで明るい水木さんに魅了されてしまった。作家の京極夏彦さんや荒俣宏さんなどほかにもそういう人はいて、自分たちで「水木信者」とか「水木ウイルス感染者」とか呼んでいるのだが、水木さんにはその人柄にほれ込ませてしまう魅力があった。

初めて会ったその日に、自分が描いた漫画を部屋の奥から持ってきて「あげます」とプレゼントしてくれたり、マネジャーが出前の丼飯を取ってくれて、それを食べ終わった私たちに、「ヨーグルトです」と瓶を持ってきてくれたり。普通、「大先生」がそんなことをしてくれることはなくて、ざっくばらんだし、話は面白いし、その性格に周りにいた人はみんな引きつけられてしまっていた。

水木さんには、司令部のメンツのため玉砕を命じられる兵士の悲劇が胸を打つ「総員玉砕せよ!」などの戦記漫画があるが、そこに描かれていることの九割以上は、自ら見聞きした体験や戦後に出た戦記本などをもとに描いた本当のこと。

自らの口からも、食事のときなどにふっと、応召された太平洋戦争の体験談がよく出てきた。最下層の一兵卒として送られた南太平洋・ラバウルで、補給が途絶えて自給自足の生活が大変だったこと、食えるものは何でも食ったこと…。川があれば魚を捕ったし、蛇やトカゲ、魚、カタツムリなどをとって「火であぶって食べた」「それでもおなかがすいてひもじかった」「水もやすやすと飲めなかった」などと話していた。

戦火の中で失った左腕は現地で応急手当てのような処置しかしなかったため、日本へ帰ってきてからも手術し直したそうだ。マラリアにもかかったため、のちのちまで保健所から連絡が来ていたことなども、何かの折にふっと話していた。

戦場で弾が当たる者と当たらない者を分けるのは、一瞬の何か。作品にも描いているが、そうした人知を超えた運命が生死を分けるということについてもよく語っていた。そうした「人知を超えた力」の体感は、後に妖怪を描くことにもつながっただろう。「昨今、勇壮に戦争を語る者がいるが、戦争なんてそんな簡単なものじゃない」「戦争しろとはいえない」とも、よく言っていた。

この春に一度体調を崩されたと聞き心配していたのだが、とうとう不帰の客となられた。偉大な方だった。 (談)

    ◇

水木プロダクションは三十日、水木さんの死因を訂正し、多臓器不全と発表した。死亡日時は三十日午前七時十八分で、葬儀は近親者で行い、後日、お別れの会を開く。喪主は妻の武良布枝(むらぬのえ)さん。

ご冥福をお祈りします。

この人をはじめ、昔の漫画家はリベラルだったのに実に惜しいことだ。
ネトウヨだらけの近年のキモオタ漫画家のクズどもとは違ってな。
これでまた一歩も二歩も、漫画やアニメのクリエーターの右傾化がますます進んでしまうわけだ。

ちなみに漫画やアニメと言えばオルタナでこんなのが紹介されていた。


ネットにおける「オタク」について 15 (345)
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/news/6016/1422970105/345

345 :無名の共和国難民:2015/11/30(月) 22:43:26 ID:SXFM.Ock
こっこれはたまたまだから(震え声)
これに文句をつけるのはブサヨのオルタナ民だけだから(白目)

水木死んだか。慰安婦への賠償賛成の人が一人減って良かった。

mizuha_t(みずは てるゆき)
2時間前
1f163266.jpg


http://i.imgur.com/K60qwq4.jpg

アニメアイコン「水木死んだか。慰安婦への賠償賛成の人が一人減って良かった」

はいいつものアニオタの日常風景ですね。
やっぱりアニメアイコンのアニオタはいつも決まってネトウヨのクズですね。
罪のない人の死を喜ぶなんてやっぱりアニオタ最低だな。
お前らこそ死ねばいいのに。

さて、どうしてこいつらアニオタ=ネトウヨが水木氏を敵視するのか、理由はこれ。
↓ネトウヨには見えない不思議な不思議な従軍慰安婦証拠資料。

「慰安所はまさに地獄の場所だった」…水木しげる
http://dj19.blog86.fc2.com/blog-entry-167.html
水木しげる『姑娘』に描かれた皇軍兵士による強制連行と性暴力
http://d.hatena.ne.jp/dj19/20100820/p1

リンク先を見ない奴のために一部抜粋。


「慰安所はまさに地獄の場所だった」…水木しげる
http://dj19.blog86.fc2.com/blog-entry-167.html

『本日の水木サン』より

「戦争中の話だが、敵のいる前線に行くために、「ココボ」という船着場についた。ここから前線へ船が出るのだ。そういうところには必ずピー屋がある。ピー屋というのは女郎屋のことである。(中略)ピー屋の前に行ったが、何とゾロゾロと大勢並んでいる。日本のピーの前には百人くらい、ナワピー(沖縄出身)は九十人くらい、朝鮮ピーは八十人くらいだった。これを一人の女性で処理するのだ。僕はその長い行列を見て、一体いつできるのだろうと思った。一人三十分としてもとても今日中にできるとは思われない、軽く一週間くらいかかるはずだ。しかし兵隊はこの世の最期だろうと思ってはなれない、しかし・・・・・いくらねばっても無駄なことだ。僕は列から離れることにした。そして朝鮮ピーの家を観察したのだ。ちょうどそのとき朝鮮ピーはトイレがしたくなったのだろう、小屋から出てきた。

(彼女がナニカを排泄する様子の描写)

とてもこの世のこととは思えなかった。第一これから八十人くらいの兵隊をさばかねばならぬ。兵隊は精力ゼツリンだから大変なことだ。それはまさに「地獄の場所」だった。兵隊だって地獄に行くわけだが、それ以上に地獄ではないか。と、トイレに行った朝鮮ピーを見て思った。よく従軍慰安婦のバイショウのことが新聞に出たりしているが、あれは体験のない人にはわからないだろうが・・・・やはり「地獄」だったと思う。だからバイショウはすべきだろうナ。」

(中略)

『水木しげるのラバウル戦記』P30より

「上陸した頃は、ココボはまだ陸軍の基地で、たしか一〇三兵站病院もあり従軍慰安婦もいた。彼女たちは「ピー」と呼ばれていて、椰子林の中の小さな小屋に一人ずつ住んでおり、日曜とか祭日にお相手をするわけだが、沖縄の人は「縄ピー」、朝鮮の人は「朝鮮ピー」と呼ばれていたようだ。彼女たちは徴兵されて無理矢理つれてこられて、兵隊と同じような劣悪な待遇なので、みるからにかわいそうな気がした。」

(中略)

『総員玉砕せよ!』P14.15より

慰安所の様子(クリックすると大きくなります)
586184fb.jpg


>彼女たちは徴兵されて無理矢理つれてこられて、

>百人くらい、九十人くらい、八十人くらい、これを一人の女性で処理するのだ。
>「ねえちゃんあと七十人位だ。がまんしてけれ」

マジかよレイプ魔帝国鬼畜日帝最低だな。

慰安婦を無理矢理つれてきて、多い例では一人あたり100人ぐらいの日本兵との性行為強要かよ。
こりゃ間違いなく強制ですわ。
自発的に売春してる女が一度に100人もの男とヤるはずないからな。
そんなこと続けてたら死んでしまうぞ。
仮に最初は自発的だったとしてもこんなの完全にブラック労働の域だよな?
それでも従軍慰安婦を認めないウヨ女はもちろんお前が一度に100人の男と性行為をヤらされても平気なんだよな?

日本軍慰安所はまさに東洋のアウシュヴィッツ強制収容所だな。
これはリアルタイムで日本軍慰安所を見た加害者側の自白だから間違いなく事実だな。
こんなひどいことをしておきながらその事実がバレると逆ギレして被害者を嘘つき売春婦呼ばわりするとかやはり我々日本人は世界最低のゴミカス民族だな。
日本人に生まれたことが恥ずかしくて仕方がないです。

この他にもこの手の証拠資料は探せば探すほど山ほど出てくるし、ジャップ政府はいい加減に観念して元慰安婦のおばあさんたちに公式謝罪と賠償をしろよ。

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地球上で最も放射能汚染された地域No.1は我らが日本の福島です

http://blog.livedoor.jp/chuuseijap/archives/37618604.html


米専門家「福島第一原発事故からの回復には100年と5000億ドルがかかる」



福島第一原発事故からの回復には100年と5000億ドルがかかる
オピニオン 2015年07月21日 15:13
http://jp.sputniknews.com/opinion/20150721/614106.html (魚拓)

米国の非営利団体 Fairewinds Energy Educationの専門家で原子力技師のアーノルド・グンデルセン氏によれば、福島第一原発事故からの回復には東電の言う30年より遥かに長い時間がかかり、また原発からの放射性汚染水の漏出という問題は全く解決されてはおらず、むしろ時を追うごとに深刻化している。

以下、同氏の所論を紹介する。

「福島第一原発の原子炉の融解プロセスは終わるのか?すべての問題が解決されたのか?我々は心配するべきか?答えは、否、惨劇は終わっていない、問題は解決されていない、そして我々は心配すべき事柄に事欠かない。

福島第一原発の3つの原子炉は土壌の水と直接接している。原発の作業員および技師らはこれを全く考慮してこなかった。そして極めて放射線濃度の高い水が絶え間なく漏れていることにより、事故からの回復はチェルノブイリの事故に対して100倍難しくなり、また100倍高くつく。チェルノブイリからの回復は30億ドルかかった。福島は5000億ドルといったところだろう。福島第一原発からは毎日300トンもの放射性汚染水が海洋に流れ出している。汚染水を満載したタンカー23000隻分も全体で漏出していることになる。

日本のエネルギー企業は原発に残された職員らへの給金を支払うために日本の銀行から数百億ドルを借りている。ある人が私に教えてくれたことだが、銀行は議会が原発再稼働を承認し、投資が戻って来るようにするため、議会に強い影響力を行使している。世論調査では、国民の大多数が原発再稼働に反対している。そのため東電と日本政府は「福島第一原発の事故からの回復および溶け出した核燃料の撤去は実行可能である」と示すために手立てを尽くしている。しかし放射能汚染のレベルから言ってもそれはまだ想像することさえ不可能である。」

ジャジャジャジャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアップwww

世界中で嫌われる地球の汚物放射能猿w
チェルノブイリの100倍って…まあ中世ジャップ猿ならそんなところだろうなw
なんてったって中世ジャップ猿だからなw

地震大国のジャップランドで原発なんて使うほうがどうかしとるわw
国土を放射能汚染させたいと言ってるようなもんだろw

http://blog.livedoor.jp/chuuseijap/archives/49616965.html


地球上で最も放射能汚染された地域No.1は我らが日本の福島です



10 Most Radioactive Places on Earth
http://brainz.org/ten-most-radioactive-places-earth/ (魚拓)

地球上で最も放射能汚染された地域トップ10

1位 日本・福島
2位 ウクライナ・チェルノブイリ
3位 キルギスタン・マイルースー
4位 カザフスタン・ポリゴン(セミパラチンスク)
5位 ロシア・シベリア化学コンビナート
6位 イギリス・セラフィールド
7位 ロシア・マヤーク
8位 ソマリア海岸
9位 地中海
10位 アメリカ・ハンフォード

ジャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアップwwww

我らが日本の福島が放射能汚染世界一とは日本人として誇らしいです!ホルホルホルッ!
さすがはチェルノブイリの100倍復旧が難しいと言われたFuk-u-shima(ファック・ユー・シマ)www
ジャップは韓国人にヘイトスピーチなんてしてる暇があったら福島の放射能汚染を何とかしろよこの放射能猿めがwwww

ところで中国の新疆ウイグル自治区はランクインすらしてないんだな。
反中野郎やネトウヨがあれだけ「中国はウイグルで核実験を繰り返して大量のウイグル人を殺した!」とかほざいてたのにな。

もしそんな事実があればこういう欧米系のソースでは間違いなくウイグルがランクインするだろうに、ランクインしてないってことはやっぱり中国が核実験でウイグル族を大量虐殺したって話は嘘か。
旧ソビエトが核実験を繰り返したカザフスタンはランクインしてるのにな。
あーあ、まーた反中野郎の嘘がバレちゃった。

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ホテルルワンダもルワンダの涙も他人ごとではない かつて日本で起こった関東大震災と朝鮮人虐殺 戦時中に起こった日本軍米軍による沖縄大虐殺









https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%83%AF%E3%83%B3%E3%83%80%E8%99%90%E6%AE%BA

ルワンダ虐殺





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ルワンダ虐殺


背景

ルワンダの歴史
ツチとフツの起源
ルワンダ王国
ルワンダ紛争
ルワンダ愛国戦線
フツ・パワー
大統領暗殺

出来事

初期の出来事
ギコンド虐殺
ニャルブイェ大虐殺
ムランビ虐殺
年表

関与者

ジェノシデール:
アカズ
インプザムガンビ
インテラハムウェ
フツ・パワー側メディア:
カングラ
RTLMラジオ

反響

国際的介入
ルワンダ支援団 (国際連合)
トルコ石作戦

影響

大湖地方の難民危機
ガチャチャ裁判
ルワンダ国際戦犯法廷
第一次コンゴ戦争
第二次コンゴ戦争

著作物

文献一覧
映画一覧

表 ·
話 ·
編 ·



ルワンダ虐殺(ルワンダぎゃくさつ、Rwandan Genocide)は、1994年にルワンダで発生したジェノサイドである。1994年4月6日に発生したルワンダ大統領のジュベナール・ハビャリマナとブルンジ大統領のンタリャミラの暗殺からルワンダ愛国戦線 (RPF) が同国を制圧するまでの約100日間に、フツ系の政府とそれに同調するフツ過激派によって、多数のツチとフツ穏健派が殺害された[1]。正確な犠牲者数は明らかとなっていないが、およそ50万人から100万人の間[2]、すなわちルワンダ全国民の10%から20%の間と推測されている。

ルワンダ紛争の末期に発生。ルワンダ紛争は、フツ系政権および同政権を支援するフランス語圏アフリカ、フランス本国[3][4]と、主にツチ難民から構成されるルワンダ愛国戦線および同組織を支援するウガンダ政府との争いという歴史的経緯をもつ。ルワンダ紛争により、国内でツチ・フツ間の緊張が高まるとともにフツ・パワーと呼ばれるイデオロギーがひろがり、「国内外のツチはかつてのようにフツを奴隷とするつもりだ。我々はこれに対し手段を問わず抵抗しなければならない」という主張がフツ過激派側からなされた。1993年8月には、ハビャリマナ大統領により停戦命令が下され、ルワンダ愛国戦線との間にアルーシャ協定(英語版)が成立したが、その後もルワンダ愛国戦線の侵攻による北部地域におけるフツの大量移住や、南部地域のツチに対する断続的な虐殺行為などを含む紛争が続いた。

1994年4月に生じたハビャリマナの暗殺は、フツ過激派によるツチとフツ穏健派への大量虐殺の引き金となった。この虐殺は、フツ過激派政党と関連のあるフツ系民兵組織、すなわちインテラハムウェとインプザムガンビが主体となったことが知られている。また、虐殺行為を主導したのは、ハビャリマナ大統領の近親者からなるアカズと呼ばれるフツ・パワーの中枢組織であった。このルワンダ政権主導の大量虐殺行為によりアルーシャ協定(英語版)は破棄され、ツチ系のルワンダ愛国戦線とルワンダ軍による内戦と、ジェノサイドが同時進行した。最終的には、ルワンダ愛国戦線がルワンダ軍を撃破し、ルワンダ虐殺はルワンダ紛争とともに終結した。



目次 [非表示]
1 発生までの歴史的背景 1.1 ツチとフツの確立と対立
1.2 土地・食料・経済状況などの諸問題
1.3 ルワンダ紛争
1.4 組織的虐殺の準備
1.5 メディア・プロパガンダ
1.6 国際連合の動向
1.7 宗教界の動向

2 ハビャリマナ大統領の暗殺から虐殺初期まで
3 ジェノサイド 3.1 虐殺
3.2 ルワンダ虐殺下の強姦
3.3 ジェノサイド下におけるトゥワ
3.4 ジェノシデール

4 国際社会の対応 4.1 国際連合ルワンダ支援団の動向
4.2 フランスの動向
4.3 アメリカの動向

5 ルワンダ愛国戦線の再侵攻と戦争終結宣言
6 余波 6.1 政治的展開
6.2 経済的展開と社会的展開
6.3 ルワンダ国際戦犯法廷
6.4 追悼施設
6.5 メディアと大衆文化

7 修正主義への批判
8 ルワンダ虐殺を扱った映画作品 8.1 洋画
8.2 日本語に翻訳されたもの 8.2.1 ドキュメンタリー


9 ルワンダ虐殺を扱った文学作品 9.1 小説

10 脚注
11 出典・参考文献 11.1 英語資料
11.2 ドイツ語資料
11.3 日本語資料
11.4 日本語関連文献

12 関連項目
13 外部リンク


発生までの歴史的背景[編集]





ハム仮説(英語版)の提唱者、ジョン・ハニング・スピーク。
ルワンダ虐殺は部族対立の観点のみから語られることがあるが、ここに至るまでには多岐に渡る要因があった。まず、フツとツチという両民族に関しても、この2つの民族はもともと同一の由来を持ち、その境界が甚だ曖昧であったものを、ベルギー植民地時代に完全に異なった民族として隔てられたことが明らかとなっている[5]。また、民族の対立要因に関しても、歴史的要因のほかに1980年代後半の経済状況悪化による若者の失業率増加、人口の増加による土地をめぐっての対立、食料の不足、90年代初頭のルワンダ愛国戦線侵攻を受けたハビャリマナ政権によるツチ敵視の政策、ルワンダ愛国戦線に大きく譲歩した1993年8月のアルーシャ協定(英語版)により自身らの地位に危機感を抱いたフツ過激派の存在、一般人の識字率の低さに由来する権力への盲追的傾向などが挙げられる[6][7]。さらに、国連や世界各国の消極的な態度や状況分析の失敗[8]、ルワンダ宗教界による虐殺への関与[9]があったことが知られている。以下にこれらの各要因について説明する。

ツチとフツの確立と対立[編集]

詳細は「ツチとフツの起源」を参照

「ルワンダの歴史」を参照

19世紀にヨーロッパ人が到来すると、当時の人類学により、ルワンダやブルンジなどのアフリカ大湖沼周辺地域の国々は、フツ、ツチ、トゥワの「3民族」から主に構成されると考えるのが主流となった。この3民族のうち、この地域に最も古くから住んでいたのは、およそ紀元前3000年から2000年頃に住み着いた、狩猟民族のトゥワであった[10]。その後、10世紀以前に農耕民のフツがルワンダ周辺地域に住み着き、さらに10世紀から13世紀の間に、北方から牧畜民族のツチがこの地域に来て両民族を支配し、ルワンダ王国下で国を治めていたと考えられていた[11]。

この学説の背景の1つに、19世紀後半のヨーロッパにおいて主流であった人種思想とハム仮説(英語版)があった。当時の人類学の一つの考え方では、旧約聖書の創世記第9章に記された、ハムがノアの裸体を覗き見た罪により、ハムの息子カナンが「カナンはのろわれよ。彼はしもべのしもべとなって、その兄弟たちに仕える」[12]と、モーゼの呪いを受けたという記述に基づき、全ての民族をセム系・ハム系・ヤペテ系など旧約の人物に因んだ人種に分けていた。ハム仮説とは、そのうちのハム系諸民族をカナンの末裔とみなし、彼らがアフリカおよびアフリカ土着の人種であるネグロイドに文明をもたらしたとする考え方である[13]。ルワンダにおいて、「ネグロイド」のバントゥー系民族に特徴的な「中程度の背丈とずんぐりした体系を持つ」農耕民族のフツを、「コーカソイド」のハム系諸民族に特徴的な「痩せ型で鼻の高く長身な」牧畜民族のツチが支配する状況は、このハム仮説に適合するものとされた[14]。また、民族の"識別"には皮膚の色も一般的な身体的特徴として利用され「肌の色が比較的薄い者が典型的なツチであり、肌の色が比較的濃い者が典型的なフツである」とされた[15]。19世紀後半にこの地を訪れたジョン・ハニング・スピークは、1864年に刊行した『ナイル川源流探検記』においてハム仮説を提唱した。しかし近年では、この民族はもともと同一のものが、次第に牧畜民と農耕民へ分化したのではないかと考えられている。その理由として、フツとツチは宗教、言語、文化に差異がないこと、互いの民族間で婚姻がなされていること、19世紀まで両民族間の区分は甚だ曖昧なものだったこと、ツチがフツの後に移住してきたという言語学的・考古学的証拠がないことがあげられる[16][17]。





アフリカの委任統治領。10がルアンダ・ウルンディ。
19世紀末にヨーロッパ諸国によりアフリカが分割され、この地域が1899年にドイツ帝国領ルアンダ・ウルンディとなると、ドイツはハム仮説に従いツチによるルワンダ王国の統治システムを用いて間接統治を行い、周辺地域の国々を平定して中央集権化した[18]。その後の1919年、第一次世界大戦でドイツが敗れたことで、アフリカ各地のドイツ領は国際連盟委任統治領として新たな宗主国へ割りふられ、ルアンダ・ウルンディはベルギーの支配地域となった。ベルギーはこの国の統治機構を植民地経営主義的観点から積極的に変更し、王権を形骸化させ、伝統的な行政機構を廃止してほぼ全ての首長をツチに独占させたほか[19]、税や労役面で間接的にツチへの優遇を行った[20]。また、教育面でもツチへの優遇を行い、公立学校入学が許されるのはほぼ完全にツチに限られていたほか、カトリック教会の運営する学校でもツチが優遇され、行政管理技術やフランス語の教育もツチに対してのみ行われた[21]。さらに1930年代にはIDカード制を導入し、ツチとフツの民族を完全に隔てられたものとして固定し[22]、民族の区分による統治システムを完成させることで、後のルワンダ虐殺の要因となる二つの民族を確立した。このIDカードはルワンダ虐殺の際に出身民族をチェックする指標の1つとなった。





1962年独立以降のルワンダの地図。
第二次大戦後、アフリカの独立機運が高まってくると、ルアンダ・ウルンディでも盛んに独立運動が行われた。宗主国であったベルギーは国際的な流れを受けて多数派のフツを支持するようになり、ベルギー統治時代の初期にはハム仮説を最も強固に支持していたカトリック教会[23]もまた、公式にフツの支持を表明した[24]。ベルギーの方針変化には、急進的な独立を求めるツチに対するベルギー人の反発や、ベルギーの多数派であるフランデレン人がかつて少数派のワロン人に支配されていた歴史的経緯に由来するフツへの同情、多数派であるフツへの支持によってルワンダを安定化する考えがあったとされる[25]。これらの後押しもあり、後にルワンダ大統領となるグレゴワール・カイバンダやジュベナール・ハビャリマナらを含む9人のフツが、ツチによる政治の独占的状態を批判したバフツ宣言と呼ばれるマニフェストを1957年に発表し、その2年後の1959年には、バフツ宣言を行ったメンバーが中心となりパルメフツが結成された。

そんな中、1959年11月1日の万聖節の日にパルメフツの指導者の1人であったドミニク・ンボニュムトゥワがツチの若者に襲撃された。その後、ンボニュムトゥワが殺害されたとの誤報が流れ、これに激怒したフツがツチの指導者を殺害し、ツチの家に対する放火が全国的に行われた。そしてツチ側も報復としてフツ指導者を殺害するという形で国内に動乱が広がった[26]。なお、この1959年の万聖節の事件が、民族対立に基づいてフツとツチの間で行われた初の暴力であり[27]、この事件に端を発した犯罪への「免責」の文化が、ジェノサイドの原動力であるという説もある[28]。当時、ベルギーの弁務官であったロジスト大佐はフツのために行動することを表明し、フツを利するために行動した[29]。さらに、1960年には普通選挙を開催し、フツの政治的影響力を拡大させた[30]。なお、選挙の投票所にはフツが陣取っており、ツチの有権者に対する脅迫が行われていたことが知られている[31]。

1961年にはルワンダ国王であったキゲリ5世の退位と王制の廃止が決定され、同年10月にグレゴワール・カイバンダが共和国大統領となった。このフツ系のカイバンダ政権は、近隣諸国に逃れたツチによるゲリラ攻撃に悩まされた背景もあり[32]、フツ-ツチ間の対立を政治利用し、暴力的迫害や政治的な弾圧を行った[33]。なお、1959年から1967年までの期間で2万人のツチが殺害され、20万人のツチが難民化を余儀なくされたことが知られている[34]。1973年、無血クーデターによりカイバンダ政権が倒され、ジュベナール・ハビャリマナが新たな政権を発足した。ハビャリマナ政権は前政権党のパルメフツの活動を禁止し、自身の政党にあたる開発国民革命運動による政治運営を行った[35]。さらに、1978年には開発国民革命運動の一党制を憲法で確立した[36]。軍や政権中枢における権力の基盤としてハビャリマナ大統領夫妻の血縁関係者や同郷出身者からなる非公式な組織のアカズが構築された。ハビャリマナ政権下ではツチに対する迫害行為の状況は幾分か改善したものの、周辺国へ逃れた難民の問題や、クウォーター制によるツチの社会進出制限の問題は残った。1980年代には、ルワンダ国外で難民として暮らすツチは60万人に達していた[37]。

隣国のブルンジもまた、ルアンダ・ウルンディとしてルワンダとまとめて扱われていたため、同様のフツとツチ間の問題が生じることとなった。1962年の独立以降、ブルンジ虐殺(英語版)と呼ばれる2つの虐殺事件が1972年と1993年に発生した。1972年のツチ兵士によるフツの大量虐殺事件と[38]、1993年のフツによるツチの虐殺事件である[39]。

土地・食料・経済状況などの諸問題[編集]

「ルワンダの経済」および「ルワンダの地理」を参照

1960年代から1980年代初頭にかけて、ルワンダは持続的な成長を遂げ続けたアフリカの優等国であった。しかしながら、1980年代後半には主要貿易品目であったコーヒーの著しい値崩れなどを受け経済状況は大きく悪化し、さらに1990年に行われた国際通貨基金の構造調整プログラム(英語版)(ESAF)により社会政策の衰退、公共料金の値上げを招き[40]、状況の一層の悪化を導いた。その結果、失業率の悪化や社会格差による貧困などの諸問題が噴出し、特に若者を中心として不満を募らせるようになった[41]。

また、ルワンダは国土の比較的狭い国であったが、「千の丘の国」と呼ばれる平均標高の高い土地のために温暖気候に属しており人の居住に適し、土地が肥沃で自然環境も豊かなことで知られていた。しかし、1948年に180万人であった人口が1992年には四倍を超える750万人にまで増加し、アフリカで最も人口密度の高い国となり、農地などの土地不足の問題が発生するようになった。加えて人口の増加により食料不足の問題が生じ、国民の6人に1人が飢えに苦しむ状況となった[42]。国民の多くは数ヘクタールにも満たない狭い農地で生産性の低い農業に頼った自給自足の生活をしており、市場に売却する余剰食料を十分に生産できなかった(先進国では数%の農業従事者が他の国民のための食料を生産している)。そのため日頃から生活の糧となる土地をめぐって争いが頻発していた[43]。

ルワンダ紛争[編集]

詳細は「ルワンダ紛争」を参照





ルワンダ紛争時のルワンダ愛国戦線司令官であり、現ルワンダ共和国大統領のポール・カガメ。




1992年2月のテオネスト・バゴソラ大佐の日記。市民自己防衛計画の仕組みが記されている。
1959年以降、周辺国へ逃れた多数のツチ系難民は、1980年頃に政治的組織や軍事的組織として団結するようになった。ウガンダでは1979年にルワンダ難民福祉基金が設立され、翌1980年に同組織が発展する形で国家統一ルワンダ人同盟が結成された[44]。ウガンダ内戦(英語版)(1981年 - 1986年)における反政府組織であり、最終的に勝利を納めた国民抵抗運動 (NRM) に参加した者も多く、1986年時点で国民抵抗運動の約2割がツチであった。しかしながら、内戦の初期から国民抵抗運動に参加していたツチらは相応の高い地位を得たものの、ヨウェリ・ムセベニウガンダ大統領のルワンダ難民問題に関する姿勢の変節などにより、強い失望を受けた。そのため、1987年になると新たにルワンダ愛国戦線を結成し、ルワンダへの帰還を目指すようになった。

1990年から1993年までの期間、アカズからの指示を受けたフツにより、雑誌の『カングラ』が作られた。この雑誌はルワンダ政府に批判的なツチ系の雑誌『カングカ』を真似たものであり、政府への批判を一応は行いつつも、主たる目的はツチに対する侮蔑感情の煽動であった[45]。また、この雑誌のツチに対する攻撃姿勢は、植民地時代以前の経済的優遇を非難することよりも、ツチという民族そのものを攻撃することが中心であった。同誌の設立者であり編集者でもあったハッサン・ンゲゼは、数々の煽動的報道で知られており、特にンゲゼの書いた「フツの十戒」はフツ・パワー・イデオロギーの公式理念と呼ばれ、学校や政治集会などの様々な場で読み上げられた。1992年には、ハビャリマナ大統領の宥和的姿勢に反発した権力中枢部により、極端なフツ至上主義を主張する共和国防衛同盟 (CDR) が開発国民革命運動から分離する形で結成された。また同年には、開発国民革命運動の青年組織としてインテラハムウェ(「共に立ち上がる(or 戦う or 殺す)者」を意味する)、共和国防衛同盟の青年組織としてインプザムガンビ(「同じ( or 単一の)ゴールを目指す者」を意味する)が設立された。後にこの両組織はルワンダ虐殺で大きな役割を果たす民兵組織となる。なお、共和国防衛同盟はルワンダ愛国戦線との間にアルーシャ合意を結ぶことを強く反対した結果、1993年8月に成立した同協定と、協定に従い設立された暫定政権から排斥された。このフツ過激派政党である共和国防衛同盟をアルーシャ協定(英語版)から排除する方針にはハビャリマナ政権と国際社会の反対があったものの、ルワンダ愛国戦線がこれを強固に主張したため最終的に排斥される形となった[46]。

1993年にはアルーシャ協定(英語版)に従い、停戦による哨戒活動のほか武装解除と動員解除を支援する目的で、国連平和維持軍が展開された。同年3月時点の報告書によれば、1990年のルワンダ愛国戦線による侵攻以降、1万人のツチが拘留され、2000人が殺害されたことが判明している状況であった。1993年8月、国連軍の司令官であったロメオ・ダレール少将は、ルワンダの状況評価を目的とした偵察を行った後に5000人の兵員を要請したが、最終的に確保できたのは要請人数の約半分にあたる2548人の軍人と60人の文民警察であった[47]。なお、この時点のダレールは、ルワンダでの任務は標準的な平和維持活動であると考えていた。

組織的虐殺の準備[編集]

近年の研究では、ルワンダ虐殺は非常に組織立った形で行われたことが明らかとなっている[48]。ルワンダ国内では、地域ごとに様々な任務を行う代表者が選出されたほか、民兵の組織化が全国的に行われ、民兵の数は10家族あたり1人となる3万人にまで達していた。一部の民兵らは、書類申請によってAK-47アサルトライフルを入手でき、手榴弾などの場合は書類申請すら必要なく容易に入手が可能であった。インテラハムウェやインプザムガンビのメンバーの多くは、銃火器ではなくマチェーテやマスといった伝統的な武器で武装していた。

ルワンダ虐殺当時の首相であったジャン・カンバンダは、ルワンダ国際戦犯法廷の事前尋問で「ジェノサイドに関しては閣議で公然と議論されていた。当時の女性閣僚の1人は、全てのツチをルワンダから追放することを個人的に支持しており、他の閣僚らに対して"ツチを排除すればルワンダにおける全ての問題は解決する"と話していた」と証言している[49]。カンバンダはさらに、ジェノサイドを主導した者の中には退役軍人であったテオネスト・バゴソラ大佐やオーギュスタン・ビジムング少将、ジャン=バティスト・ガテテといった軍や政府高官の多数が含まれており、さらに地方レベルのジェノサイド主導者であれば、市長や町長、警察官も含まれると述べた。

メディア・プロパガンダ[編集]

研究者の報告によれば、ルワンダ虐殺においてニュースメディアは重要な役割を果たしたとされる。具体的には、新聞や雑誌といった地域の活字メディアやラジオなどが殺戮を煽る一方で、国際的なメディアはこれを無視するか、事件背景の認識を大きく誤った報道を行った[50]。当時のルワンダ国内メディアは、まず活字メディアがツチに対するヘイトスピーチを行い、その後にラジオが過激派フツを煽り続けたと考えられている。評論家によれば、反ツチのヘイトスピーチは「模範的と言えるほどに組織立てられていた」という。ルワンダ政府中枢部の指示を受けていたカングラ誌は、1990年10月に開始された反ツチおよび反ルワンダ愛国戦線キャンペーンで中心的な役割を担った。現在進行中のルワンダ国際戦犯法廷では、カングラの背景にいた人物たちを、1992年にマチェーテの絵と『1959年の社会革命を完了するために我々は何をするか?(What shall we do to complete the social revolution of 1959?)』の文章を記したチラシを製作した件で告発した(このチラシにある1959年の社会革命時には、ツチ系の王政廃止やその後の政治的変動を受けた社会共同体によるツチへの排撃活動の結果、数千人のツチが死傷し、約30万人ものツチがブルンジやウガンダへ逃れて難民化した)。カングラはまた、ツチに対する個人的対応や社会的対応、フツはツチをいかに扱うべきかを論じた文章として悪名高いフツの十戒や、一般大衆の煽動を目的とした大規模戦略として、ルワンダ愛国戦線に対する悪質な誹謗・中傷を行った。この中でよく知られたものとしては「ツチの植民地化計画 (Tutsi colonization plan)」などがある[51]。

ルワンダ虐殺当時、ルワンダ国民の識字率は50%台であり[52]、政府が国民にメッセージを配信する手段としてラジオは重要な役割を果たした。ルワンダの内戦勃発以降からルワンダ虐殺の期間において、ツチへの暴力を煽動する鍵となったラジオ局はラジオ・ルワンダとミルコリンヌ自由ラジオ・テレビジョン (RTLM) の2局であった。ラジオ・ルワンダは、1992年3月に首都キガリの南部都市、ブゲセラ (Bugesera) に住むツチの虐殺に関して、ツチ殺害の直接的な推奨を最初に行ったラジオとして知られている。同局は、コミューンの長であったフィデール・ルワンブカや副知事であったセカギラ・フォスタンら反ツチの地方公務員が主導する「ブゲセラのフツはツチから攻撃を受けるだろう」という警告を繰り返し報道した[53]。この社会的に高い地位にある人物らによるメッセージは、フツに"先制攻撃することによって我が身を守る必要がある"ことを納得させ、その結果として兵士に率いられたフツ市民やインテラハムウェのメンバーにより、ブゲセラに暮らすツチが襲撃され、数百人が殺害された[54]。また、1993年の暮れにミルコリンヌ自由ラジオ・テレビジョンは、フツ出身のブルンジ大統領メルシオル・ンダダイエの暗殺事件についてツチの残虐性を強調する扇情的な報道を行い、さらにンダダイエ大統領は殺害される前に性器を切り落とされるなどの拷問を受けていたとの虚偽報道を行った(この報道は、植民地時代以前におけるツチの王の一部が、打ち負かした敵対部族の支配者を去勢したという歴史的事実が背景にある)。さらに、1993年10月下旬からのミルコリンヌ自由ラジオ・テレビジョンは「フツとツチ間の固有の違い、ツチはルワンダの外部に起源を持つこと、ツチの富と力の配分の不均一、過去のツチ統治時代の恐怖」などを強調し、フツ過激派の出版物に基づく話題を繰り返し報道した。また、「ツチの陰謀や攻撃を警戒する必要があり、フツはツチによる攻撃から身を守るために備えるべきである」との見解を幾度も報じた[54]。1994年4月6日以降、当局がフツ過激派を煽り、虐殺を指揮するために両ラジオ局を利用した。特に、虐殺当初の頃に殺害への抵抗が大きかった地域で重点的に用いられた。この2つのラジオ局はルワンダ虐殺時に、フツ系市民を煽動、動員し、殺害の指示を与える目的で使用されたことが知られている[54]。

上記に加え、ミルコリンヌ自由ラジオ・テレビジョンは、ツチ系難民を主体としたルワンダ愛国戦線のゲリラを、ルワンダ語でゴキブリを意味するイニェンジ (inyenzi) の語で呼び、同ゲリラが市民の服装を着て戦闘地域から逃れる人々に混ざることに特に注意を促していた。これらの放送は、全てのツチがルワンダ愛国戦線による政府への武力闘争を支持しているかのような印象を与えた[54]。また、ツチ女性は、1994年のジェノサイド以前の反ツチプロパガンダでも取り上げられ、例えば1990年12月発行のカングラに掲載された「フツの十戒」の第四には「ツチ女性はツチの人々の道具であり、フツ男性を弱体化させて最終的に駄目にする目的で用いられるツチの性的な武器」として描写された[55]。新聞の風刺漫画などにもジェンダーに基づくプロパガンダが見られ、そこでツチ女性は性的対象として描かれた。具体的な例として「ツチの女どもは、自分自身が我々には勿体ないと考えている (You Tutsi women think that you are too good for us)」とか「ツチの女はどんな味か経験してみよう (Let us see what a Tutsi woman tastes like)」といった強姦を明言するような発言を含む、戦時下の強姦(英語版)を煽るような言説が用いられた[55]。ミルコリンヌ自由ラジオ・テレビジョンは、堅苦しい国営放送のラジオ・ルワンダと異なり、若者向けの音楽を用いた煽動にも力を入れていた。シモン・ビキンディによるフツの結束を訴えた曲、『こんなフツ族は嫌い』が代表的な作品として知られている[56]。

同様のメディア・プロパガンダにより、隣国のブルンジでも1993年10月21日にツチ系の民族進歩連合に所属するフツのフランソワ・ンゲゼ率いるツチ中心の軍部によるクーデターでフツのンダダイエ大統領が暗殺された。フツによるブルンジ虐殺(英語版)が発生し、約2万5千人のツチ系市民が殺害され[57]、約30万人が難民化し[要出典]、非難を浴びたンゲゼが退陣してツチのキニギ臨時政権が樹立され、民主政治への復帰を果たすものの、ブルンジ内戦(英語版)(1993年 - 2005年)と呼ばれる長期の報復合戦に突入した。

国際連合の動向[編集]





国際連合ルワンダ支援団の司令官であったロメオ・ダレール将軍。
1994年1月11日、カナダ出身の国際連合ルワンダ支援団 (UNAMIR) の司令官ロメオ・ダレール少将は、匿名の密告者から受けた4箇所の大きな武器の貯蔵庫とツチの絶滅を目的としたフツの計画に関して、事務総長とモーリス・バリル少将にファックスを送信した。ダレールからの連絡では、密告者が数日前にインテラハムウェの訓練を担当した同組織トップレベルの指導者であることが記されていたほか、およそ以下のような内容が含まれていた[58]。
軍事訓練の目的はインテラハムウェの自衛ではなく、キガリに駐屯するルワンダ愛国戦線の大隊と国際連合ルワンダ支援団のベルギー軍を武力で刺激することである。
インテラハムウェの筋書きでは、ベルギー兵とルワンダ愛国戦線をルワンダから撤退させるつもりである。
戦闘によってベルギー兵数人を殺害すれば、人数や武装的に平和維持軍の要となっているベルギー軍全体が撤退すると考えている。
ベルギー軍撤退後に、ツチは排撃されるだろう。
インテラハムウェの兵1700人が政府軍キャンプで訓練を受けている。
これまでは、マチェーテ(山刀)やマス(多数の釘を打ち付けた棍棒)といった伝統的な武器が主流であったが、AK-47などの銃火器が民兵組織の間で普及しつつある。
密告者自身やその同僚はキガリに住む全てのツチをリスト化するように命じられた。その目的はツチの絶滅である可能性があり、例えば我々の部隊であれば、1000人のツチを20分間で殺害することが可能である。
ハビャリマナ大統領は過激派を統制し切れていないのではないだろうか。
密告者はルワンダ愛国戦線と敵対しているが、罪のない国民を殺害することには反対である。





ルワンダ虐殺当時に国連平和維持活動局のPKO担当国連事務次長であったコフィー・アナン。
ダレールは、国際連合ルワンダ支援団部隊による武器貯蔵場所を制圧する緊急の計画を立案し、この計画が平和維持軍の目的に適うものであると考えて、国連に持ちかけた。しかし、翌日に国連平和維持活動局本部から送られた回答では「武器庫制圧の計画は、国連安保理決議第872号にて国際連合ルワンダ支援団に付与された権限を越えるものである」として、ダレールの計画は却下された。ダレールの計画を却下したのは、当時国連平和維持活動局のPKO担当国連事務次長であり、後に国際連合事務総長となるコフィー・アナンであった[59]。なお、国連はダレールの計画を却下した代わりとして、ハビャリマナ大統領に対してアルーシャ協定(英語版)違反の可能性を指摘する通知を行い、この問題に関する対策の回答を求めたが、それ以降密告者からの連絡は二度となかったという。後に、この1月11日の電報は、ジェノサイド以前に国連が利用可能であった情報がどのようなものであったかを議論する上で、重要な役割を果たした[60]。翌月の2月21日には、過激派フツにより社会民主党出身のフェリシアン・ガタバジ (Félicien Gatabazi) 公共建設大臣が暗殺され、さらにその翌日には報復として共和国防衛同盟のマルタン・ブギャナ (Martin Bucyana) が殺害されたが、国際連合ルワンダ支援団は国連本部から殺人事件を調査する許可を得られず、対応できなかった。

1994年4月6日、ミルコリンヌ自由ラジオ・テレビジョンは、ベルギーの平和維持軍がルワンダ大統領の搭乗する航空機を撃墜、あるいは撃墜を援助したとする非難を行った。この報道が後にルワンダ軍の兵士によりベルギーの平和維持軍の10人が殺害される結果に結びついた[61]。

国際連合から国際連合ルワンダ支援団へ下されたマンデート(任務)では、ジェノサイドの罪を犯している状態でない限りは、国内政治への介入はいかなる国の場合でも禁じられていた。カナダ、ガーナ、オランダは、ロメオ・ダレールの指揮の下、国連からの任務を首尾一貫して提供したが、国連安全保障理事会から事態介入に必要となる適切なマンデートを得られなかった。

宗教界の動向[編集]





ントラマ教会(Ntrama Church)では、5000人もの避難民が、手榴弾で、マチェーテで、銃で、あるいは生きたまま焼かれて虐殺された。聖堂には現在も毛布や子供の靴、犠牲者の遺骨の一部が散乱し、祭壇には頭蓋骨が残されている。
ルワンダ虐殺がジェノサイドへと至った動機としては、宗教対立などの要因はさほどなかったとされる。しかしながら上でも述べたように、ルワンダにおいてカトリック教会はツチとフツの対立形成に大きな役割を果たした。19世紀末から第二次世界大戦頃の植民地時代において、カトリック教会はハム仮説に基づくツチの優位性を植民地行政官以上に強く主張したが[62]、その一方で1950年代後半以降はフツ側に肩入れし、多くのカトリックの指導者がジェノサイドへの批判を行わず、多くの聖職者が虐殺に協力した。ルワンダ虐殺に協力した一般住民の多くが「ツチの虐殺は神の意思に沿うものである」と考え、カトリック教会も虐殺に加担したと看做されている[63]。虐殺終結後のルワンダ国際戦犯法廷では、ニャルブイェ大虐殺に関与した司祭のアタナゼ・セロンバ(英語版)など複数の宗教指導者らが告発され、有罪判決を受けている[64]。

ヒューマン・ライツ・ウオッチは、ルワンダの宗教的権威者、特にカトリックの聖職者は、ジェノサイド行為に対する非難を怠ったと報告し[65]、カトリック教会は「ルワンダでは大量虐殺が行われたが、これら虐殺行為への参加に関して教会は許可を与えていない」と主張している[64]。1996年にローマ教皇であったヨハネ・パウロ2世は、カトリック教会としてのジェノサイドへの責任を否定している[66]。

その一方で、1994年以前は1%程度であったイスラム教徒がルワンダ虐殺の終結後から大幅に増加しており、2006年には8.2%となったことが知られている。これはルワンダ虐殺時のカトリック教会の行動により同宗教への信頼性が大きく揺らいだことと、イスラム教は虐殺に参加せず避難民の保護を行ったことにより、イスラム教のイメージが大きく改善した影響であると考えられている。ルワンダでは現在のところイスラム原理主義は確認されていない[67]。

ハビャリマナ大統領の暗殺から虐殺初期まで[編集]

詳細は「ハビャリマナとンタリャミラ両大統領暗殺事件」および「ルワンダ虐殺における初期の出来事」を参照





1994年4月6日に航空機事故で死亡した、ルワンダのジュベナール・ハビャリマナ大統領。ハビャリマナの死がルワンダ虐殺の始まりのきっかけとなった。
1994年4月6日、ルワンダのジュベナール・ハビャリマナ大統領とブルンジのシプリアン・ンタリャミラ大統領の搭乗する飛行機が、何者かのミサイル攻撃を受けてキガリ国際空港への着陸寸前に撃墜され、両国の大統領が死亡した。攻撃を仕掛けた者が不明であったため、ルワンダ愛国戦線と過激派フツの双方が互いに非難を行った。そして、犯行者の身元に関する両陣営の意見は相違したまま、この航空機撃墜による大統領暗殺は1994年7月まで続くジェノサイドの引き金となった。





キガリにて、過激派の襲撃を受けて国際連合ルワンダ支援団のベルギー人職員が殺害された事件の記念施設。
4月6日から4月7日にかけて、旧ルワンダ軍 (FAR) の上層部と国防省の官房長であったテオネスト・バゴソラ(英語版)大佐は、国際連合ルワンダ支援団のロメオ・ダレール少将と口頭で議論を行った。この時ダレールは、法的権限者のアガート・ウィリンジイマナ首相にアルーシャ協定(英語版)に基づいて冷静に対応し、事態をコントロールするよう伝えることをバゴソラ大佐へ強く依頼したが、バゴソラはウィリンジイマナの指導力不足などを理由に拒否した。最終的にダレールは、軍によるクーデターの心配はなく、政治的混乱は回避可能であると考えた。そしてウィリンジイマナ首相を保護する目的でベルギー人とガーナ人の護衛を送り、7日の午前中に首相がラジオで国民に対して平静を呼びかけることを期待した。しかし、ダレールとバゴソラの議論が終わった時点でラジオ局は既に大統領警備隊が占拠しており、ウィリンジイマナ首相のスピーチは不可能であった。この大統領警備隊によるラジオ局制圧の際、平和維持軍は捕虜となり武器を没収された。さらに同日の午前中、ウィリンジイマナ首相は夫とともに大統領警備隊により首相邸宅で殺害された。この際、首相邸宅を警護していた国際連合ルワンダ支援団の護衛のうち、ガーナ兵は武装解除されたのみであったが、ベルギー小隊の10人は武装解除の上で連行された後、拷問を受けた後に[68]殺害された[69]。





国際連合ルワンダ支援団のベルギー人職員が殺害された事件の記念施設の外観、銃弾の跡が数多く残されている。
この事件に関しては、2007年にベルギーブリュッセルの裁判所において、ベルギー兵の連行を命じたベルナール・ントゥヤハガ(英語版)少佐が有罪判決を受けた[70]。首相以外にも農業・畜産・森林大臣のフレデリック・ンザムランバボ(英語版)や労働・社会問題大臣のランドワルド・ンダシングワ(英語版)、情報大臣のフォスタン・ルチョゴザ(英語版)、憲法裁判所長官のジョゼフ・カヴァルガンダ(英語版)、前外務大臣のボニファス・ングリンジラ(英語版)などのツチや穏健派フツ、あるいはアルーシャ協定(英語版)を支持した要人が次々と暗殺された[71]。このジェノサイド初日の出来事に関して、ダレールは自著『Shake Hands with the Devil』にて以下のように述べている。



私は軍司令部を召集し、ガーナ人准将のヘンリー・アニドホ(英語版)と連絡を取った。アニドホはゾッとするようなニュースを私に伝えた。国際連合ルワンダ支援団が保護していた、ランドワルド・ンダシングワ(自由党の党首)、ジョゼフ・カヴァルガンダ(憲法裁判所長官)、その他多くの穏健派の要人が大統領警備隊によって家族と共に誘拐され、殺害された……(中略)……国際連合ルワンダ支援団は首相のフォスタン・トゥワギラムングを救出し、現在はトゥワギラムングを軍司令部で匿っている[72]。

上記のように、共和民主運動の指導者であったフォスタン・トゥワギラムングは、国際連合ルワンダ支援団の保護を受けて暗殺を免れた。トゥワギラムングはウィリンジイマナ首相の死後に首相就任すると考えられていたが、4月9日に暫定大統領となったテオドール・シンディブワボが首相として任命したのはジャン・カンバンダであった。ルワンダ紛争終結後の1994年7月19日、トゥワギラムングはルワンダ愛国戦線が樹立した新政権で首相へ就任した。

ジェノサイド[編集]





ルワンダ虐殺の犠牲者の頭蓋骨




ルワンダ虐殺の犠牲者の遺体
『大量虐殺の社会史』によれば、ルワンダ虐殺はしばしば無知蒙昧な一般の住民がラジオの煽動によってマチェーテ(山刀)や鍬などの身近な道具を用いて隣人のツチを虐殺したというイメージで語られているが[73]、これは適切な見解とは言い難い。ジェノサイドへ至るまでには、1990年以降の煽動的なメディアプロパガンダや民兵組織の結成、銃火器の供給、虐殺対象のリストアップなど、国家権力側による非常に周到な準備が行われていた。この国家権力側による準備と、対立や憎悪を煽られた民衆の協力によって、およそ12週間続いた期間のうち前半6週間に犠牲者の80%が殺害されるという、極めて早いペースで虐殺が行われた[74]。その結果、与野党を含めたフツのエリート政治家の多くが、紛争終結後の裁判によりジェノサイドの組織化を行った罪で有罪とされている。

虐殺[編集]

1994年4月7日に開始されたジェノサイドでは、ルワンダ軍やインテラハムウェ、インプザムガンビといったフツ民兵グループが、組織的行動として捕らえたツチを年齢や性別にかかわらず全て殺害した。また、フツ穏健派は裏切り者として真っ先に殺害された。フツの市民は虐殺に協力することを強いられ、ツチの隣人を殺害するよう命令された。この命令を拒んだものはフツの裏切り者として殺害された。大半の国が首都キガリから自国民を避難させ、虐殺初期の時点で同国内の大使館を放棄した。状況の悪化を受けて、国営ラジオのラジオ・ルワンダは人々に外出しないよう呼びかける一方で、フツ至上主義者の所有するミルコリンヌ自由ラジオ・テレビジョンはツチとフツ穏健派に対する辛辣なプロパガンダ放送を繰り返した。国内各地の道路数百箇所では障害物が積み上げられ、民兵による検問所が構築された。大々的にジェノサイドが勃発した4月7日にキガリ内にいたダレールと国際連合ルワンダ支援団メンバーは保護を求めて逃げ込んでくるツチを保護したが、徐々にエスカレートするフツの攻撃を止めることができなかった。この時、フツ過激派はミルコリンヌ自由ラジオ・テレビジョンの報道を受けて、ダレールと国際連合ルワンダ支援団メンバーも標的の1つとしていた。4月8日、ダレールはニューヨークへ、フツ過激派を虐殺行為へ走らせる推進力が同国の民族性であることを暗示した電報をニューヨークへ送っている。また同電報には、複数の閣僚を含む政治家や平和維持軍のベルギー兵が殺害されたことも詳述されていた。ダレールはまた、この現在進行中の虐殺行為が極めて組織立ったもので、主に大統領警備隊によって指揮されていると国連に報告している。

4月9日、国連監視団はギコンド(英語版)のポーランド人教会にて多数の児童が虐殺されるのを目撃した(ギコンド虐殺(英語版))。同日に、高度に武装化した練度の高い欧州各国軍の兵士1000人が、ヨーロッパ市民の国外避難を護衛するためにルワンダ入りした。この部隊は国際連合ルワンダ支援団を援護するための滞在は一切行わなかった。9日になると、ワシントン・ポスト紙が同国駐在員を恐怖させた事件として、国際連合ルワンダ支援団の職員が殺害された事実を報道した。4月9日から10日にかけて、アメリカのローソン駐ルワンダ大使と250人のアメリカ人が国外へ避難した。





ニャマタ虐殺記念教会に展示されている頭蓋骨。
ジェノサイドは速やかにルワンダ全土へ広がった。虐殺の過程で一番初めに組織的に行動したのは、国内北西部に位置するギセニ県(現西部州)の中心都市、ギセニの市長であった。市長は4月6日の夜の時点で武器の配布を目的とした会合を行い、ツチを殺すために民兵を送り出した。ギセニは暗殺されたハビャリマナ大統領の出身地であるほかアカズの拠点地域でもあり、さらに南部地域がルワンダ愛国戦線に占領されたことから数千人のフツが国内避難民として流れ込んでいたため、反ツチ感情の特に激しい土地となっていた。なお、4月6日から数日後にはブタレ県内を除いた国内のほぼ全ての都市で、キガリと同様のツチやフツ穏健派殺害を目的とした組織化が行われた。ブタレ県知事のジャン=バティスト・ハビャリマナ(英語版)は、国内で唯一ツチ出身の知事で虐殺に反対したため、彼が4月下旬に更迭されるまでは大規模な虐殺が行われなかった[75]。その後、ハビャリマナ知事が更迭されてフツ過激派のシルヴァン・ンディクマナ(英語版)が知事に就任すると[75]、ブタレでの虐殺が熱心に行われていなかったことが明らかとなったため、政府は民兵組織のメンバーをキガリからヘリコプターで輸送し、直ちに大規模な虐殺が開始された[75]。この際に、旧ルワンダ王室の皇太后であり、ツチの生ける象徴として国民から慕われていたロザリー・ギカンダがイデルフォンス・ニゼイマナの命令により射殺されている。なお、更迭されたハビャリマナ知事も大統領警備隊によって数日後に殺害された[76]。





ムランビ技術学校は現在記念館となっており、虐殺犠牲者の遺体展示を行っている。
4月下旬にはキブンゴ県のニャルブイェ(英語版)においてニャルブイェ大虐殺が発生し、およそ2万人が虐殺された[77]。この虐殺は、フツ出身の市長シルヴェストル・ガチュンビチ(英語版)の勧めを受けて多数のツチが市内にあったニャルブイェカトリック教会へ逃れたが[77]、その後市長は地元のインテラハムウェと協力し、ブルドーザーを用いて教会の建物を破壊し[78]、教会内に隠れていたツチは老若男女を問わずにマチェーテで叩き切られたり、ライフルで撃たれて大半が虐殺されるという経過で行われた。地元のカトリック司祭であったアタナゼ・セロンバはルワンダ国際戦犯法廷において、自身の教会をブルドーザーで破壊することに協力したため、ジェノサイドと人道に対する罪で有罪となり、無期懲役の判決を受けた[78][79][80][81]。その他では、約2000人が避難していたキガリの公立技術学校 (École Technique Officielle) を警護していた国際連合ルワンダ支援団のベルギー兵が避難民を放置して4月11日に撤退した結果、ルワンダ軍とインテラハムウェによって避難民の大半が虐殺された事件(公立技術学校の虐殺)が発生している[82]。この事件は2005年に『ルワンダの涙』として映画化された。

犠牲者の大半は自身の住んでいた村や町で殺害され、直接手を下したのは多くの場合隣人や同じ村の住人であった。民兵組織の一部メンバーにはライフルを殺害に利用した者もあったが、民兵は大半の場合マチェーテで犠牲者を叩き切ることで殺害を行った。犠牲者はしばしば町の教会や学校へ隠れているところを発見され、フツの武装集団がこれを虐殺した。一般の市民もツチやフツ穏健派の隣人を殺すよう地元当局や政府後援ラジオから呼びかけを受け、これを拒んだ者がフツの裏切り者として頻繁に殺害された。『虐殺へ参加するか、自身を虐殺されるかのいずれか』[83]の状況であったという。また、ラジオやヤギ、強姦の対象となる若い娘といったツチの"資産"は、虐殺参加者のために事前にリストアップされており、殺害する前後に略奪もしばしば行われた。また、キガリ近郊の女性議員の1人は、ツチの首1つにつき50ルワンダフランを報酬として与えて、ツチの殺害を奨励していたという[84]。各地に構築された民兵組織による検問では、ツチやツチのような外見を持つものが片っ端から捕らえられて虐殺された。多くの場合で、犠牲者は殺害される前に略奪され、性的攻撃や、強姦、拷問を受けた[1][85]。川や湖は虐殺された死体で溢れ、または道端に積み上げられたり、殺害現場に放置された[86]。また、1992年にはフツ至上主義の政治家であったレオン・ムゲセラはツチの排斥を訴え、ツチをニャバロンゴ川を通じてエチオピアへ送り返すよう主張したが、1994年4月にこの川は虐殺されたツチの死体で溢れ、下流のヴィクトリア湖の湖岸へ幾万もの遺体が流れ着いている[87][88]。





ムランビ技術学校で虐殺された犠牲者の頭蓋骨。
ハビャリマナ大統領が暗殺された4月6日からルワンダ愛国戦線が同国を制圧する7月中旬までのおよそ100日間に殺害された被害者数は、専門家の間でも未だ一致が得られていない。ナチス・ドイツが第三帝国で行ったユダヤ人の虐殺や、クメール・ルージュが民主カンボジアで行った虐殺と異なり、ルワンダ虐殺では殺害に関する記録を当局が行っていなかった。ルワンダ解放戦線からなる現ルワンダ政府は、虐殺の犠牲者は107万1000人でこのうちの10%はフツであると述べており、『ジェノサイドの丘』の著者であるフィリップ・ゴーレイヴィッチ(英語版)はこの数字に同意している。一方、国連では犠牲者数を80万人としているほか、アフリカン・ライツ(African Rights)のアレックス・デ・ワール(英語版)とラキヤ・オマー(英語版)は犠牲者数を75万人前後と推定し、ヒューマン・ライツ・ウォッチアメリカ本部のアリソン・デフォルジュ(英語版)は、少なくとも50万人と述べている。イージス・トラスト(英語版)の代表であるジェイムズ・スミスは、「記憶する上で重要なのは、それがジェノサイドであったことだ。それは男性、女性、子供全てのツチを抹殺し、その存在の記憶全てを抹消しようと試みたのだ」と書き留めている[89]。

ルワンダ政府の推定によれば、84%のフツ、15%のツチ、1%のトゥワから構成された730万人の人口のうち、117万4000人が約100日間のジェノサイドで殺害されたという。これは、一日あたり1万人が、一時間あたり400人が、1分あたり7人が殺害されたに等しい数字である。ジェノサイド終了後に生存が確認されたツチは15万人であったという[90]。また、夫や家族を殺害され寡婦となった女性の多くが強姦の被害を受けており、その多くは現在HIVに感染していることが明らかとなっている。さらに、数多くの孤児や寡婦が一家の稼ぎ手を失ったために極貧の生活を送っており、売春で生計を立てざるを得ない女性も存在している(詳しくはルワンダにおける売春を参照のこと)。

虐殺に際しては、マチェーテや鍬といった身近な道具だけではなく、AK-47や手榴弾といった銃火器もジェノサイドに使用された。ルワンダ政府の公式統計と調査によれば、ルワンダ虐殺の犠牲者の37.9%はマチェーテで殺されたという。このマチェーテは1993年に海外から安価で大量に輸入されたものであった。また、犠牲者の16.8%はマスで撲殺された[91]。キブエ県は虐殺にマチェーテが用いられた割合が大きく、全体の52.8%がマチェーテにより殺害され、マスによる犠牲者は16.8%であったとされる[92]。





ニャマタ虐殺記念教会にて。
ルワンダ虐殺では莫大な数の犠牲者の存在とともに、虐殺や拷問の残虐さでも特筆すべきものがあったことが知られている。ツチに対して虐殺者がしばしば行った拷問には手や足を切断するものがあり、これは犠牲者の逃走を防ぐ目的のほか、比較的背の高いツチに対して「適切な身長に縮める」目的で用いられた。この際、手足を切断された犠牲者が悶え苦しみながら徐々に死に至る周囲で、多数の虐殺者が犠牲者を囃し立てることがしばしば行われたという[93][94]。時には犠牲者は自身の配偶者や子供を殺すことを強いられ、子供は親の目の前で殺害され、血縁関係者同士の近親相姦を強要され、他の犠牲者の血肉を食らうことを強制された。多くの人々が建物に押し込まれ、手榴弾で爆殺されたり、放火により生きたまま焼き殺された。さらに、犠牲者を卑しめる目的と殺害後に衣服を奪い取る目的で、犠牲者はしばしば服を脱がされ裸にされた上で殺害された。加えて多くの場合、殺害されたツチの遺体埋葬が妨害されてそのまま放置された結果、多くの遺体が犬や鳥といった獣に貪られた[95]。アフリカン・ライツが虐殺生存者の証言をまとめ、1995年に刊行した『Rwanda: Not So Innocent - When Women Become Killers 』には、


ナタでずたずたに切られて殺されるので金を渡して銃で一思いに殺すように頼んだ,女性は強姦された後に殺された,幼児は岩にたたきつけられたり汚物槽に生きたまま落とされた,乳房や男性器を切り落とし部位ごとに整理して積み上げた,母親は助かりたかったら代わりに自分の子どもを殺すよう命じられた,妊娠後期の妻が夫の眼前で腹を割かれ,夫は「ほら,こいつを食え」と胎児を顔に押し付けられた―[96]。

といった報告が数多く詳細に収録されている[97]。このほか、被害者の多くがマチェーテや猟銃、鍬などの身近な道具で殺害されたことから、生存者のその後の日常生活においてPTSDを容易に惹起する可能性を指摘する声もある[98]。

ルワンダ虐殺のさなかに虐殺を食い止め、ツチを保護するための活動を行っていた人々もおり、ピエラントニオ・コスタ(英語版)、アントニア・ロカテッリ(英語版)、ジャクリーヌ・ムカンソネラ(英語版)、ポール・ルセサバギナ、カール・ウィルケンス(英語版)、アンドレ・シボマナ(英語版)らによる活動がよく知られている。

ルワンダ虐殺下の強姦[編集]

1998年、ルワンダ国際戦犯法廷は裁判の席で「性的暴行はツチの民族グループを破壊する上で欠かせない要素であり、強姦は組織的かつツチの女性に対してのみ行われたことから、この行為がジェノサイドとして明確な目的を持って行われたことが明らかである」との判断が下された。つまり、ルワンダにおける戦時下の強姦をジェノサイドの構成要素の1つと見なされたのである。[99]。しかしながら、組織的な強姦や性的暴力の遂行を明確に命じた文書は見つからず、軍や民兵の指導者が強姦を奨励したり命令したり、あるいは強姦を黙認したという証言のみが示された[55]。ルワンダ虐殺における強姦は、女性に対する残虐さの著しい度合いや、強姦が非常に一般的に行われるといったツチ女性に対する性的暴力が煽られた原因として、組織的プロパガンダの影響が他の紛争下の強姦と比較して際立っていると指摘されている[100]。

ルワンダの国連特別報告者、ルネ・ドニ=セギ (René Degni-Ségui) による1996年の報告では、「強姦は命令によるもので、例外はなかった」と述べられている。同報告書はまた「強姦は組織立って行われ、また虐殺者らの武器として使用された」と指摘している。これは虐殺犠牲者の数と同様に強姦の形態から推定できる。先の報告書では、少女を含むおよそ25万から50万のルワンダ人女性が強姦されたと記している[101]。2000年に行われたアフリカ統一機構主催のルワンダ国際賢人会議 (Organization of African Unity’s International Panel of Eminent Personalities on Rwanda) では、「我々は、ジェノサイドを生き残ったほとんどの女性が、強姦もしくは他の性的暴力の被害に遭った、あるいはその性的被害によって深く悩まされたことを確信できる」との結論が出された[101]。強姦の犠牲者の大半はツチ女性であり、未成年の少女から高齢の女性まで幅広く被害に遭ったが、一方で男性に対する強姦はほとんどなかった[55]。また、穏健派フツの女性もフツの裏切り者とされて強姦された。男性に対する性的暴行例は少ないが、殺害時の拷問として男性器の切断が多数行われ、この切断した性器が群衆の前で晒される事もあった[55]。ルワンダ虐殺下における強姦を主体となって行ったのはインテラハムウェなどのフツ民兵らであったが、大統領警備隊を含む旧ルワンダ軍 (RAF) の兵士や民兵のほか、民間人による強姦も行われた[55]。2008年にはルワンダ法務省により、「フランス兵はツチ女性に対する強姦を複数行った」とする声明が出されているが[102]、これについては現在のところ実証されていない。

ジェノサイド下におけるトゥワ[編集]

ジェノサイドにおけるトゥワの役割に関する研究は未だ進んでいない。この原因としては、1994年時点のトゥワの人口がおよそ3万人とルワンダの1%弱でしかなかった点と、トゥワの社会的地位が低かったことが挙げられる[103]。推計によれば、トゥワの3分の1が虐殺で死亡し、3分の1が近隣諸国で難民と化したとされる[104]。また、トゥワは虐殺の犠牲者となった者も多くいた一方で、民兵組織に参加して加害者となった者も存在した。しかしながら、ルワンダ虐殺への参加の程度は未だ明らかとなっていない[105]。ゴーレイヴィッチの『ジェノサイドの丘』によれば、トゥワはツチ女性への強姦に民族的侮蔑の意味を与える目的で、強姦要員として民兵に加えられていたという[106]。

ジェノシデール[編集]

詳細は「ジェノシデール」を参照

ジェノシデールとは、ルワンダにおいてはルワンダ虐殺に参加した者を指す言葉である。このジェノシデールの人数は研究者によって大きく異なり、約1万人とする説から約300万人とする説まで存在しているが、多くの場合でこれらの数字は憶測に基づいたものであった[107]。2006年に報告された実証的研究によれば、1件以上の殺人を行ったジェノシデールの数は、17万5000から21万人であると推定されており、これは当時のフツ成人の7-8%、フツ成人男性の14-17%に相当する値である[108]。2000年の時点では、拘留され被告人となっているジェノシデールは11万人であったが、2006年にはガチャチャ裁判の進行などにより約8万人となった[109][110]。ジェノシデールの大多数は男性であり、女性は全体の3%程度である[111]。国家レベルから地域レベルに至るまで、ジェノシデールは社会のあらゆる階層の人々から構成されており、このジェノシデールを煽動・指揮していたのは政治、軍事、あるいは行政の有力者らであった。ジェノシデールの大半は普通のルワンダ男性であり、教育、職業、年齢、子供の数など、何ら特異性のない一般的な社会集団から構成されていた[112]。この一般的なジェノシデールは比較的教育水準が低い若者が多かったのに対し、煽動や指揮を行っていた者たちは比較的教育水準が高く、社会的地位の高い者が多かったことが報告されている[113][114]。

国際社会の対応[編集]

国際連合ルワンダ支援団の動向[編集]





国際連合安全保障理事会の会議場。
詳細は「国際連合ルワンダ支援団」を参照





キガリの学校の黒板に残されていた落書き。国際連合ルワンダ支援団司令官の"ダレール"の名 Dallaire と、国際連合ルワンダ支援団キガリ州司令官のリュック・マーシャル(英語版)の名 Marchal、そして骸骨が描かれている。
国際連合ルワンダ支援団 (UNAMIR) の活動は、アルーシャ協定(英語版)の時点から後のジェノサイドに至るまで、資源も乏しいこのアフリカの小国の揉め事に巻き込まれることに消極的であった大多数の国連安全保障理事会メンバーにより妨げられ続けられた[115][116]。そんな中でベルギーのみが国際連合ルワンダ支援団に対し確固としたマンデートを与えることを要求していたが、四月初旬に大統領の警護を行っていた自国の平和維持軍兵士10人が殺害されると、同国はルワンダでの平和維持任務から撤退した[117]。なお、ベルギー部隊は練度も高く、装備も優れていたため、同国の撤退は大きな痛手となった。国際連合ルワンダ支援団側は、せめて同部隊の装備をルワンダへ残していくよう依頼したが、この要求も拒絶された。

その後、国連とその加盟国は現実から著しく外れた方針を採り始めた。国際連合ルワンダ支援団のロメオ・ダレールは以前から人員増強を強く要求しており、ジェノサイドがルワンダ各地で開始された4月半ばの時点にも事態収拾のための人員要求を行ったが、これらは全て拒否された。さらに、虐殺が進行している最中に、ダレールは国連本部から"国際連合ルワンダ支援団はルワンダにいる外国人の避難のみに焦点を当てた活動を行うよう"指示を受けた。この命令変更により、2000人のツチが避難していたキガリの公立技術学校を警護していたベルギーの平和維持部隊は、学校の周囲がビールを飲みながらフツ・パワーのプロパガンダを繰り返し叫ぶ過激派フツに取り囲まれている状況であったにもかかわらず、同施設の警護任務を放棄して撤収した。その後、学校を取り囲んでいた武装勢力が学校内へ突入し、数百人の児童を含むおよそ2000人が虐殺された。さらに、この事件から4日後には、安全保障理事会は国際連合ルワンダ支援団を280人にまで減らすという国連安保理決議第912号を決定した[118]。その一方で国連安保理は同時期に起こったボスニア紛争に対して積極的な活動を行っていた。ルワンダの平和維持軍削減を決めた国連安保理決議第912号を可決したのと同じ日に、ボスニア内における安全地帯防衛の堅持を確認した国連安保理決議第913号を通過させたことから、差別的観点からヨーロッパをアフリカよりも優先させたとの指摘がなされている[119]。

ダレールは国連から与えられた停戦監視のみを目的とするマンデートを無視して住民保護を行い、4月9日には国連平和維持活動局本部から「マンデートに従うよう」指示を受けたが、その後もマンデートを無視して駐屯地に逃れてきた避難民を保護した[120]。しかしながら、平和維持軍人員の完全な不足とマンデートから積極的な介入行動を行えず、目の前で殺害されようとする避難民を助けられず[121]、平和維持軍の増員と強いマンデートを望むダレールの要求は拒絶された。

1999年、ルワンダ虐殺当時のアメリカ大統領であったビル・クリントンは、アメリカのテレビ番組のフロントラインで、"当時のアメリカ政府が地域紛争に自国が巻き込まれることに消極的であり、ルワンダで進行していた殺戮行為がジェノサイドと認定することを拒絶する決定を下したことを後に後悔した"旨を明らかにした。この、ルワンダ虐殺から5年後に行われたインタビューにおいて、クリントンは「もしアメリカから平和維持軍を5000人送り込んでいれば、50万人の命を救うことができたと考えている」と述べた[122]。





アメリカの国連大使であったマデレーン・オルブライト。
4月6日にハビャリマナ大統領が死亡した後、新たに大統領へ就任したテオドール・シンディクブワボ(英語版)率いるルワンダ政府は、自国への国際的な非難を最小限にするために活動した。当時のルワンダ政府は安全保障理事会の非常任理事国であり、同国の大使は「ジェノサイドに関する主張は誇張されたものであり、我が政府は虐殺を食い止めるためにあらゆる手を尽くしている」と主張し、その結果として国連安全保障理事会はジェノサイドの語を含む議決を出さなかった[123]

その後の1994年5月17日になって、国連は「ジェノサイド行為が行われたかもしれない」ことを認めた[124]。この5月半ばには、既に赤十字により50万人のルワンダ人が殺害されたとの推定がなされていた。国連は大部分をアフリカ国家の軍人からなる5500人の兵員をルワンダへ送ることを決定したが[125]、これは虐殺勃発以前にダレールが要求したものと同規模であった。兵員増強の可否に関して5月13日に投票で決定する予定であったが、アメリカのマデレーン・オルブライト大使の活動により4日間引き伸ばされ、17日まで投票が延期された[123]。さらに国連はアメリカに50台の装甲兵員輸送車の提供を求めたが、アメリカは国連に対して輸送費用の650万ドルを含む計1500万ドルをリース費用として要求した。結果として、国連部隊の展開はコスト面や装備の不足などを原因として遅延し、5月17日に国連でアメリカが主張した通りに非常にゆっくりと展開した[126][123]。

国際連合ルワンダ支援団(UNAMIR)は1994年7月にルワンダ愛国戦線が勝利を納めた後、同年5月時点で可決済みであった国連安保理第918号に従って人員数を5500人へ増強し(UNAMIR 2)、1996年3月8日までルワンダで活動した[127]。一方で司令官であったダレールは、虐殺の発生を事前に知りながら防止できなかったこと、虐殺期間中も積極的な活動を行えなかったことに対する自責の念から任務続行が不可能となり、虐殺終結後の1994年8月に司令官を離任した。その後、カナダに帰国後もうつ病やPTSDに悩まされ続けていたという[128]。また、帰国後に出演したカナダのテレビ番組では以下のように述べた。


私にとって、ルワンダ人の苦境に対する国際社会、とりわけ西側諸国の無関心と冷淡さを悼む行為はまだ始まってもいない。なぜなら、基本的には、非常に兵士らしい言葉遣いで言わせてもらえば、誰もルワンダのことなんか知っちゃいないからだ。正直になろうじゃないか。ルワンダのジェノサイドのことをいまだに覚えている人は何人いる? 第二次世界大戦でのジェノサイドをみなが覚えているのは、全員がそこに関係していたからだ。では、ルワンダのジェノサイドには、実のところ誰が関与していた? 正しく理解している人がいるかどうか分からないが、ルワンダではわずか三ヵ月半の間にユーゴスラヴィア紛争をすべてを合わせたよりも多くの人が殺され、怪我を負い、追放されたんだ。そのユーゴスラヴィアには我々は6万人もの兵士を送り込み、それだけでなく西側世界はすべて集まり、そこに何十億ドルも注ぎ込んで解決策を見出そうと取り組みを続けている。ルワンダの問題を解決するために、正直なところ何が行われただろうか? 誰がルワンダのために嘆き、本当にそこに生き、その結果を生き続けているだろうか? だから、私が個人的に知っていたルワンダ人が何百人も、家族ともども殺されてしまった――見飽きるほどの死体が――村がまるごと消し去られて…我々は毎日そういう情報を送り続け、国際社会はただ見守っていた…[129]。

この発言を行った後の1997年9月、ダレールはベルギーの平和維持軍兵士10人が殺害された件についてベルギー議会で証言を要求されたが、コフィ・アナン国連事務総長により証言は禁じられた[130]。それから3年後の2000年、ダレールは公園でアルコールと睡眠薬を大量服用して自殺を図るが、昏睡状態のところを発見され死を免れた[128][131]。

フランスの動向[編集]





ルワンダ虐殺当時のフランス大統領であったフランソワ・ミッテラン。
イギリス人作家のリンダ・メルバーン(英語版)は、当時のフランス大統領フランソワ・ミッテランが、ルワンダ愛国戦線の侵攻をフランス語圏国家に対するイギリス語圏の隣国による明確な侵略とみなしていたことを、近年になり公開されたフランスの公文書を調査した結果から明らかとした[132]。この文書内でルワンダ愛国戦線は、英語を話す"ツチの国家"の樹立と、アフリカにおけるフランス語圏の影響力を削ぎつつ英語圏の影響力を拡大することを目的とした、ウガンダ大統領を含む"イギリス語圏の陰謀"の一部であると論じている。メルバーンの分析によれば、フランスの政策はルワンダ愛国戦線の軍事的勝利を避けるためのものであり、この政策は、軍人、政治家、外交官、実業家、上級諜報員などの秘密ネットワークにより作られたという。ルワンダ虐殺時に行われたフランスの政策は、議会にも報道機関にも不可解なものであったことが知られている[132]。





空港周囲の蛇腹形鉄条網を整備するフランスの軍人。ルワンダからの避難民の救援活動を行う多国籍軍の活動の一環。
6月22日、国連部隊の展開が進む兆しが一向になかったことから、国連安全保障理事会は国連安保理議決第929号を議決し、ザイールのゴマへ駐留するフランス軍に対して、"人道上の任務としてルワンダへ介入すること"と、"同任務の遂行に必要であれば、あらゆる手段を使用して良いこと"を承認した[133]。フランスは、自国とフランス語圏のアフリカ諸国を中心とした多国籍軍を編成し、ルワンダの南西部全域へ部隊を展開した。このフランス語圏からなる多国籍軍は、ジェノサイドの鎮圧と戦闘行為の停止を目的としてトルコ石作戦(人道確保地帯)と呼ばれるエリアを確立した。しかし、虐殺で中心的な役割を果たしたジェノシデールや虐殺に関与したフツ過激派が、この地域を介してザイール東部地域などの近隣諸国へ逃亡するのを手助けする結果となった。さらに同作戦によって1万人のツチが救われた一方で、数万人が殺害されたという。フツ過激派はしばしばフランス国旗を用いてツチをおびきよせて殺害したり、フランス軍が救助を行うためにその場で待機させていたツチを殺害したことが知られている[134]。トルコ石作戦は、フツ過激派を援護するものであったと、駐フランス大使でルワンダ愛国戦線出身のジャック・ビホザガラ(英語版)は非難している。ビホザガラは後に「トルコ石作戦はジェノサイド加害者の保護のみを目的としていた。なぜならば、ジェノサイドは"人道確保地帯"の中ですら行われていたのだ」と証言している[135]。

2006年11月22日、フランスの裁判官ジャン=ルイ・ブリュギエール(英語版)は、1994年4月6日に起きた航空機撃墜によるルワンダ大統領ジュベナール・ハビャリマナとブルンジ大統領シプリアン・ンタリャミラ、および3人のフランス人乗組員が死亡した事件の調査結果から、ポール・カガメ現大統領を含むルワンダ愛国戦線の指導者9人に逮捕状を発出した。なお、カガメは現職国家元首として不逮捕特権があるとされたため、国際逮捕状が発行されたのはルワンダ国軍参謀総長であったジェームス・カバレベ(英語版)などのカガメ大統領を除いた8人であった[136]。カガメ大統領は嫌疑を否定し、この嫌疑は政治的な動機で主張されたものであるとフランスを非難し、同月中にフランスとの外交関係を断絶した。その後、カガメは公式に"ジェノサイドにおけるフランスの関与を告発する"ことを目的としたルワンダ法務省職員からなる委員会の結成を命じた[137]。このルワンダ政府による調査が政治的な性質を帯びていることは、調査期間中の報告がカガメ大統領にのみ行われていたことと、調査結果の公式な報告がブリュギエール判事の件から1年後にあたる2007年11月17日であったことからも明らかであった。ルワンダの司法長官であり調査委員会委員長のジャン・ド・デュ・ムチョ(英語版)はこの日、「委員会は現在、"この調査が妥当かどうかをカガメ大統領が判断し、宣言を行うことを待つ"状態である」と述べた[137]。それから1年後の2008年7月、カガメ大統領は「欧州裁判所がルワンダの当局に対して発行した逮捕状を撤回しなければ、フランス国民をジェノサイドの嫌疑で起訴する」と脅し、またスペイン人裁判官フェルナンド・アンドレウ(英語版)によるルワンダ軍将校40人に対する起訴についても撤回を要求した[138][139][140]。さらに翌月の2008年8月5日、カガメ大統領の命令により調査委員会は調査結果報告書を公開した。この報告書では、フランス政府がジェノサイドの準備が行われていたのを察知していたこと、フツ民兵組織のメンバーへの訓練を行ってジェノサイドに加担したことを非難し、さらに当時の大統領であったミッテランや大統領府事務局長であったユベール・ヴェドリーヌ、首相であったエドゥアール・バラデュール、外務大臣であったアラン・ジュペ、大統領首席補佐官であったドミニク・ガルゾー・ド・ビルパンらを含む、フランスの軍人および政治関係者の33人がジェノサイドに関与したとして非難を行い、この33人は訴追されるべきであると主張した[102][141][142][143][144]。 上記内容に加えてこの報告書では「フランス軍の兵士自身もツチやフツ穏健派の暗殺に直接関与しており……(中略)……フランス軍はツチの生存者に対し、何件もの強姦を行った」と主張されていたが、後者の強姦に関しては実証が行われていない[141]。この件に関しBBCは、フランスの外務大臣ベルナール・クシュネルの、フランスのジェノサイドに関する責任を否定する一方で、フランスは政治的な誤りを犯していたとするコメントを報道した[141]。また、BBCはルワンダによる調査レポートの動機を徹底調査し、以下のように解説した。


調査委員会の責任者は、ルワンダ愛国戦線のためというよりもむしろ1994年に権力を握ったポール・カガメ大統領に権威をもたらす目的で、世界の人々にジェノサイドへの関心を持たせ続けることに鉄の決意を示している。近年ルワンダ愛国戦線により主張されている不愉快な疑惑は、1994年の虐殺当時とその後に行われたとされる戦争犯罪に関するものである。ヒューマン・ライツ・ウォッチのアリソン・デフォルジュが「ジェノサイドと戦争犯罪は異なるものだ」とカガメ大統領に伝えたところ、このルワンダ愛国戦線指導者は「彼ら(戦争犯罪の)犠牲者にも正義がもたらされるのだ」と答えた、とフォルジュは述べた[145]。

ルワンダにおける国連への信用失墜と、1990年から1994年までのフランスの不可解な政策、さらにフランスがフツを援助し虐殺に関与したという主張を受けて、フランス政府はルワンダに関するフランスの議会委員会(英語版)を設立し、幾度かに分けて報告書を公開した[146]。





ニコラ・サルコジ大統領はルワンダを訪問し、「フランスはジェノサイドの時に"誤り"を犯した」との認識を示した。
特に、フランスのNGOシュルヴィ(英語版)の元代表フランソワ=グザヴィエ・ヴェルシャヴ(英語版)は、ジェノサイドの期間にフランス軍がフツを保護したことを非難し、議会委員会設立に大きな役割を果たした。同委員会が最終報告書を提出したのは1998年12月15日であった。この報告書では、フランス側と国連側双方の対応が曖昧かつ混乱していたと実証されていた。またトルコ石作戦に関しては、介入時期が遅すぎたことが悔やまれるものの、作戦の遂行は、事態に対し何ら反応しなかった国連や、介入に反対したアメリカ政府やイギリス政府の対応よりもましであったことに留意すべきとした。さらにルワンダ軍や民兵組織の武装解除に関しては、フランス軍の明瞭かつ体系的な活動が行われ、さまざまな問題を抱えつつも部分的には成功したことを実証したが、一方で虐殺当時にルワンダ愛国戦線の将軍であったポール・カガメにとっては十分に早いとは言えなかったことも明らかとなった。なおこの調査では、フランス軍がジェノサイドに参加した証拠や民兵に協力した証拠、あるいは生命の危機に瀕したルワンダの人々を故意に見捨てた証拠は1つも見つからなかった。加えてフランスは、ルワンダが必要としていたが国連とアメリカが拒否した援助任務、例えばジェノサイドを煽動するラジオ放送を妨害するなどの多様な任務を行い、部分的には成功を収めたことを実証した。この報告書は最終的に、"フランス政府はルワンダ軍に関する判断ミスを犯したが、これはジェノサイドが始まる以前の期間のみであった"とし、この他の更なる過ちとして、
ジェノサイドの開始時点でその脅威の規模を図り損ねたこと。
アメリカやその他の国による国際連合ルワンダ支援団の人員数の切り下げを自覚することなしに、同組織へ過度に依存したこと。
効果のない外交。

があったとした。本報告書は最終的に、フランスはジェノサイドが始まった時点でその規模を抑えられる最大の外国勢力であったが、より多くの措置をとらなかったことが悔やまれた、と結論とした[146]。

その後、2010年にはフランスのニコラ・サルコジ大統領がルワンダを訪問し「フランスはジェノサイドの時に"誤り"を犯した」との認識を示したが、謝罪は行わなかった[147][148]。これに対しカガメ大統領は、2カ国間の国交正常化と、新たな関係の構築への期待を述べた[149]。さらに2010年3月にフランス当局は両国大統領の会談を受けて、同国に亡命中のアカズの一員でありルワンダ虐殺の責任者の1人、アガート・ハビャリマナ元ルワンダ大統領夫人を拘束し、尋問を行った[150]。

アメリカの動向[編集]





ルワンダ虐殺当時のアメリカ大統領であったビル・クリントン。
アメリカ政府はジェノサイド以前からツチと提携を行っており、これに対しフツは、ルワンダ政権の敵対者に対するアメリカの潜在的な援助に懸念を増していった。ルワンダ出身のツチ難民でウガンダの国民抵抗軍将校であったポール・カガメは、1986年にルワンダ愛国戦線をツチの同志と共同で設立し、ルワンダ政権に対する攻撃を開始した後に、アメリカ合衆国カンザス州レブンワース郡のレブンワース砦へ招かれ、アメリカ陸軍指揮幕僚大学で軍事トレーニングを受けた。1990年10月にルワンダ愛国戦線がルワンダへの侵攻を開始したとき、カガメはレブンワース砦で学んでいる最中であった。侵攻開始からわずか二日後、カガメの親しい友人でルワンダ愛国戦線の共同設立者であったフレッド・ルウィゲマ(英語版)が側近により射殺されたため[151]、カガメは急遽アメリカからウガンダへ帰国してルワンダ愛国戦線の司令官となった[152]。1997年8月16日のワシントン・ポストに掲載された南アフリカ支局長であるリン・デューク(Lynne Duke)の記事では、ルワンダ愛国戦線がアメリカ軍特殊部隊から戦闘訓練や対暴動活動の訓練などの指導を受ける関係が続いていたことが示唆されていた[153][154]。

1993年まで、世界の平和維持活動を積極的に行っていたアメリカであったが、ソマリア内戦へ平和維持軍として軍事介入を試みた結果、モガディシュの戦いにてアメリカ兵18人が殺害され、その遺体が市内を引き回された映像が流されたため、アメリカの世論は撤退へと大きく傾き、その後のアメリカの平和維持活動へ大きな影響を与えた。1994年1月には、アメリカ国家安全保障会議のメンバーであったリチャード・クラーク(Richard Clark)は、同年5月3日に成立することとなる大統領決定指令25(PDD-25)を、公式なアメリカの平和維持ドクトリン(政策)として展開した。

その結果としてアメリカはルワンダ虐殺が行われていた期間にルワンダで軍を展開しなかった。アメリカ国家安全保障アーカイブの報告書は「アメリカ政府は後述する5種類の手段を用いたことで、ジェノサイドに対するアメリカと世界各国の反応を遅らせることに貢献した」と指摘する。その手段とは以下のようなものであった。
1.国連に対し1994年4月に、国連部隊(国際連合ルワンダ支援団)の全面撤退を働きかけた。
2.国務長官であったウォーレン・クリストファーは5月21日まで"ジェノサイド"の語を公式に使用することを認めず、その後もアメリカ政府当局者が公然と"ジェノサイド"の語を使うようになるまでにはさらに3週間待たねばならなかった。
3.官僚政治的な内部抗争により、ジェノサイドに対するアメリカの全般的な対応が遅くなった。
4.コスト面と国際法上の都合から殺害を煽る過激派によるラジオ放送のジャミングを拒否した。
5.アメリカ政府は誰がジェノサイドを指揮しているか正確に知っており、実際に指導者らとジェノサイド行為の終了を促す話し合いを行ったが、具体的な行動を追及しなかった[155]。

アメリカが"ジェノサイド"の語の使用を頑なに拒んでいたのは、もしルワンダで進行中の事態が"ジェノサイド"であればジェノサイド条約の批准国として行動する必要が生じるためであった。6月半ば以降に"ジェノサイド"の語が使用できるようになったのは、フランス軍を中心としたトルコ石作戦が開始され、また虐殺も収まりつつあったことでアメリカが事態に対応する必要性が低下したためであるとの指摘もある[156]。

ルワンダ愛国戦線の再侵攻と戦争終結宣言[編集]

詳細は「ルワンダ紛争」を参照





ルワンダ愛国戦線の侵攻ルート。
アルーシャ協定(英語版)によりキガリへ駐屯していたルワンダ愛国戦線の大隊は、大統領の搭乗する飛行機の撃墜を受け、キガリからの脱出と北部に展開するルワンダ愛国戦線本隊との合流を目的とした軍事行動を即座に開始した[157]。また事件翌日の4月7日に、ルワンダ愛国戦線は"大統領機の撃墜は大統領警備隊によるものである"として全軍に対してキガリへの進軍を命じた[133]。その結果、ルワンダ政府軍とルワンダ愛国戦線による内戦と、フツ過激派によるジェノサイドが7月初頭まで続くこととなった。そのため、海外の報道員にはジェノサイドが行われていることがすぐには分からず、当初の頃は内戦の激変期として説明されていた。そんな中でBBCニュースのキガリ特派員であったマーク・ドイル(英語版)は、1994年4月下旬点でこの入り組んだ事態の説明を行おうと試み、以下のような報道を行った。


ここで2つの戦争が行われていると解釈して頂かなくてはなりません。それは武力戦争とジェノサイド戦争です。この2つは関連しておりますが、一方で別個のものでもあります。武力戦争は通常通りの軍隊同士によるもので、ジェノサイド戦争は政府軍と政権を支持する市民の側に立った政府に関係する大量虐殺です[158]。

ルワンダ愛国戦線は1994年7月4日に首都キガリおよびブタレを制圧し、同月16日には政府軍の最終拠点であったルヘンゲリを制圧、その二日後の18日にカガメ司令官が戦争終結宣言を行った。これはハビャリマナ大統領の暗殺からおよそ100日後のことであった。

余波[編集]





トラックにて運び出された難民キャンプの死亡者。




ザイールのキャンプに給水支援を行う多国籍軍。




1994年、ザイールにおける難民キャンプの写真。
虐殺に「加担あるいは傍観」した約200万のフツが、殺害や家への放火といったツチによる報復を恐れてルワンダ国外へ脱出し[159]、大部分がザイールで、一部がブルンジ、タンザニア、ウガンダで難民となったが、難民キャンプの劣悪な環境により、コレラや赤痢といった伝染病が蔓延して数千人が死亡した[160]。アメリカは1994年の7月から9月にかけて、オペレーション・サポート・ホープ(英語版)として難民キャンプの状況改善を目的とした食料や水、生活必需品の空輸による援助や、空港整備などを行ったほか[161][162]、多国籍軍による支援活動も行われた。また、1994年に難民キャンプが結成されると、その後すぐに200以上のNGOが現地で活動を行い、1996年までの期間に10億ドル以上が難民支援に支出された[163]。

このルワンダ難民キャンプ支援には、日本の自衛隊が国際平和協力法に基づいて自衛隊ルワンダ難民救援派遣として派遣された。1994年9月、2度に渡るルワンダ難民支援のための調査団の派遣と緒方貞子国連難民高等弁務官からの要請を受け、日本政府はルワンダ難民支援の実施計画と関連する法令を閣議決定し、翌月の10月2日から12月23日までザイール及びケニアで活動を行った[164]。

なお、ザイールを含め各地の難民キャンプには旧ルワンダ政権の武装集団が紛れており、ルワンダ解放軍(ALiR)を結成してルワンダ愛国戦線率いる現ルワンダ政府に対し攻撃を行ったため、ルワンダ政府はローラン・カビラ率いるコンゴ・ザイール解放民主勢力連合 (AFDL) と手を結び、傘下のザイール東部に暮らすツチ系民族のバニャムレンゲに軍事訓練・共同作戦を行った。1996年10月にローラン・カビラ率いるコンゴ・ザイール解放民主勢力連合が叛乱を起こして第一次コンゴ戦争が勃発すると、ザイールの南北キヴ州などにある難民キャンプは、ルワンダ軍、ブルンジ軍、およびコンゴ・ザイール解放民主勢力連合の兵士らによる攻撃の対象となった。その翌月の11月にルワンダ政府が難民の帰国を認めたため、同月中に40万から70万もの難民がルワンダへ帰国した[165]。さらに1996年12月の終わりには、タンザニア政府の立ち退き活動により50万を超える難民が帰国した。その後も旧ルワンダ政権側の流れを汲む過激派フツ系の後継組織が2009年5月22日までコンゴ民主共和国東部に存在していた。

政治的展開[編集]

ルワンダ愛国戦線は1994年7月に軍事的勝利をおさめた後、ルワンダ虐殺以前にジュベナール・ハビャリマナ大統領が設立した連立政権と同様の連立政権体制を構築した。挙国一致内閣と呼ばれるこの内閣の基本的な行動規範は、憲法、アルーシャ協定(英語版)、各政党の政治的宣言を基礎に置いていた。旧政権与党であった開発国民革命運動は非合法化された。また、新たな政党の結成は2003年まで禁止された。さらに政府は民族、人種、宗教に基づく差別を禁止し、出身民族を示すIDカードの廃止を行ったほか、女性の遺産相続権限の許可や女性議員の比率増加を目的としたクウォーター制の導入といった女性の権利の拡大、国民の融和などを推進している[166]。なお上記のクウォーター制導入により、ルワンダ政府は2010年3月時点で女性議員の割合が56%と世界で最も高いことが知られている[167]。

1998年3月、アメリカ大統領のビル・クリントンはルワンダを訪問し、同国のキガリ国際空港の滑走路へ集まった群衆に対し、「我々は今日、我々アメリカと世界各国が出来る限りのことをせず、また、発生した行為を抑えるための行動を十分に行わなかった事実も踏まえた上でここへ訪れました。」と述べ[168]、さらに虐殺当時のルワンダに対し適切な対応を行わなかった点に関して自身の失敗を認め、現在では"クリントンの謝罪" (Clinton's apology) として知られる謝罪を行った[169]。もっとも、この謝罪はその後に発生した国際紛争や虐殺の抑制には何ら影響を与えなかったと言われるが[170]、ルワンダ国内ではジェノサイドの企てに対する国際社会からの強い叱責と受け止められ、同国民に肯定的な驚きを与えた[171]。

ルワンダは大規模な国際的援助を受け、政治改革を行った上で、外国人と地元投資者による投資の促進や、農業生産力の向上、国内民族の融和促進といった課題に取り組んでいる。2000年3月にパストゥール・ビジムング(英語版)が大統領を辞職するとポール・カガメがルワンダ共和国大統領へ就任した。2001年3月にはルワンダ虐殺以後初となる秘密選挙形式の地方選挙が行われた[172]。また、2003年8月には初の複数候補者による大統領選挙が、同年9月から10月にかけて上院・下院の議員選挙が行われ、結果として大統領選挙でカガメが当選し、議員選挙ではルワンダ愛国戦線が過半数を獲得した。その後、2008年9月にも下院議員選挙が行われ、ルワンダ愛国戦線が勝利を納めている[166]。現在は、大規模な難民の帰還による人口の急増や[173]、過激派フツ武装勢力によるゲリラ攻撃への対処、および近隣のコンゴ民主共和国で1996年から2003年にかけて行われた第一次コンゴ戦争および第二次コンゴ戦争とその後の余波への対処などに取り組んでいる[174]。

経済的展開と社会的展開[編集]





1961年から2003年にかけてのルワンダにおける人口動態。(出典は国際連合食糧農業機関である。)




首都キガリに暮らす孤児。
ルワンダに樹立された新政権が直面した問題には、近隣諸国に暮らす200万人以上の難民の帰還[173]、国内の北部地域や南西部地域で行われている旧ルワンダ政府軍やインテラハムウェなど民兵組織の戦闘員とルワンダ国防軍間の停戦[174]、中長期的な開発計画の迅速な立案などがあった。ルワンダ虐殺下の犯罪行為により刑務所へ収容される人数の増大も将来的に差し迫った課題であり、1997年末の時点で収容者は12万5千人にまで達したことから[175]、刑務所内の劣悪な環境や刑務所の運用コストが問題となった。

さらにルワンダ虐殺下における強姦被害者らは、社会的孤立(強姦に遭うことは社会的汚名とされるため、強姦された妻から夫が去ったり、強姦された娘は結婚の対象外とされたりした)や、望まぬ妊娠や出産(一部の女性は自身で堕胎を行った)、梅毒、淋病、HIV/AIDSといった性行為感染症への感染といった、長期に渡る甚大な被害を受けた[100]。ルワンダ虐殺問題の特別報告官は、未成年の少女を含む25万から50万の女性が強姦され、2000人から5000人が妊娠させられたと推定している[101](ルワンダにおけるHIV/AIDSも参照のこと)。ルワンダは家父長制社会であり、子供の民族区分は父親から引き継がれることから、ルワンダ虐殺における強姦被害者の多くはツチの父親を持つ女性であった[100]。 ルワンダの再建にあたり大きな問題となっているのは、強姦や殺人、拷問を行った者と同じ村で、時には隣人として暮らすという事実である。個人個人が虐殺に関与したにせよしなかったにせよ、ジェノサイド直後のツチにとってフツを信頼することは非常に困難であった。

ルワンダのジェノサイドは、未成年のトラウマという形でも社会に甚大な影響を残すこととなった。ユニセフの調査によれば、ルワンダ虐殺当時、子供の6人中5人は流血沙汰を目撃したとされる[176]。また、10代の若者約5000人が虐殺に関与した嫌疑で2001年まで拘留されていた[177]。拘留による教育の欠如や、模範とすべき親世代との隔絶は、未成年に好ましくない影響を及ぼしたと考えられる。また、これらの未成年が家族の下に戻る際にはしばしば問題が生じる。家庭の経済的な問題やジェノサイドへ関与したことに対する恐怖から、多くの場合で少年らは家族から拒絶されるのである[178]。

ルワンダ国際戦犯法廷[編集]





ルワンダ国際戦犯法廷の建物
詳細は「ルワンダ国際戦犯法廷」および「ジェノシデール」を参照

1994年11月8日、国連安保理決議第955号によりジェノサイドの責任者とされる政府や軍の要人を裁くための国際法廷が設置が決定され[179]、1995年2月22日の国連安保理決議第977号により法廷はタンザニアのアルーシャに設置されることが決定された[180]。なお、ルワンダ新政府は国内で裁判を行おうと考えていたが、国連はこれを拒否して代わりにユーゴスラヴィア国際戦犯法廷の下にルワンダの文字を付け加えた[181]という背景から、ルワンダ新政府は国連で同法廷設置に反対している。その後、実際の運用が始まったのは1996年5月30日のことで、公立技術学校の虐殺などに関与したインテラハムウェ全国委員会第二副議長のジョルジュ・ルタガンダ(英語版)がジェノサイドおよび人道に対する罪により起訴されたのが第一号となった[182]。同年8月7日にはルワンダ国内でも虐殺に関与した現地指導者や一般住民を裁くための法律が成立し、1990年1月1日から1994年12月31日までの行為が対象とすることが決定された[179][183]。その後、コンゴ民主共和国からの大量の難民の帰還を受け、1996年12月からルワンダ虐殺の裁判を手探り状態で開始した[184]。

さらに2001年には、政府は9万人を超える留置者へ対応するため、ガチャチャ(英語版)として知られるルワンダの一般住民による司法制度を開始した。このガチャチャは、膨大な数の囚人数を減らすこと、民族の融和を国際社会に強調すること、4つの犯罪区分のうち最も重罪となる虐殺扇動者(カテゴリ 1)を除く犯罪者(カテゴリ 2, 3, 4)を大幅に減刑し、早期に釈放することで政権支持基盤を確保する目的があるという[185][186]。ガチャチャについては、本来は窃盗などの事件を解決するための和解が目的であり、重罪を処理する制度ではないため、効果が疑問視されてもいる[187]。

かつては国連とルワンダとの間で死刑の是非をめぐって緊張関係を招いたが、2007年にルワンダ政府が死刑廃止を決定したことでこの問題は大筋で解決した[188]。しかしその一方で、虐殺生存者の多くは死刑の廃止に反対している[189][190]。

アルーシャ法廷では開始から10年間で判決に至ったのはわずか20人に過ぎない。2003年には、2008年末までに一審を終わらせ、全裁判を2010年までに完了するため、ハッサン・ブバカール・ジャロウ(英語版)がルワンダ国際刑事裁判所の主席検察官として4年間の任命を受け[191][192][193]、2007年には2010年まで任期が延長された[194]。

2008年12月18日の木曜日、国防省官房長であったテオネスト・バゴソラ(英語版)が人道に対する罪で有罪となり、国連の裁判官であるエリック・モーセ(英語版)により無期懲役の判決を受けた[195]。同法廷はさらに、1994年4月7日に暗殺されたアガート・ウィリンジイマナ首相およびベルギーの平和維持部隊員10人の死は、バゴソラに責任があることを認定した。

追悼施設[編集]





キガリ虐殺記念センター




同センターの壁には犠牲者の名前が記されている
ルワンダでは1995年以降、海外からの援助を受けて全国各地でジェノサイドの記念施設が設立された。ルワンダでは毎年、4月7日からの一週間はルワンダ虐殺の追悼の週として、全国各地の施設で式典や慰霊祭が行われ、喪に服し、記憶し、反省し、学び、二度と虐殺を繰り返さないための誓いが立てられる[196]。2004年、この追悼記念施設の中心となるキガリ虐殺記念センターがルワンダの首都キガリで開館した。このセンターは約25万人が滞在可能な宿泊所を備える大規模な施設である。一部の施設は2005年時点でも建設中であった[197][198][199]。ルワンダには現在、7箇所の中央記念施設と約200箇所の地域の記念施設が存在している。これらの記念施設は、ルワンダ虐殺の期間に多数の人々が虐殺された場所に設置されている。





ニャマタ虐殺記念館入り口
これらの記念施設は、その政治的な目的性や様々な矛盾から非難を受けている。多くの記念施設では、ジェノサイドを否定したり平凡化することを防止するために[200]数百人分の遺体や遺骨が展示されており、これらが大規模な暴力行為が行われたという具体的な証拠となっている。しかし、虐殺犠牲者の遺体を公開する行為は特に国内外からの非難を呼んでいるほか、この展示行為は"遺体は可能な限り迅速かつ目立たないように埋葬を行うべき"とするルワンダの伝統的な方針に反している、記念施設に埋葬されるのが専らツチのみでフツが排斥され差別されているなどの問題が存在している。フツもルワンダ内戦や難民化などにより多くの被害を受けたにもかかわらずほとんど省みられることがない点に関して、多くのフツが怒りを感じている。さらに、現在のルワンダ政府は、ルワンダ虐殺の記念館を開発協力資金の勧誘の手段として利用しているとの指摘もあるが、その一方で国際援助機関が虐殺記念館の設立や維持に援助を行うことで、1994年4月から7月までの消極的な姿勢をとったことに関して国際社会が感じるやましさを埋め合わせているという面も存在している[201]。

メディアと大衆文化[編集]





2007年の映画、"Shake Hands with the Devil"の撮影風景。




自身の勤務するホテルに避難民を匿って命を救ったポール・ルセサバギナ。




オテル・デ・ミル・コリンの正面口。
ルワンダの専門家であり、1994年のルワンダ虐殺をジェノサイドとして最も早くに断言したアリソン・デフォルジュは、1999年にルワンダ虐殺の報告書として『Leave None to Tell the Story: Genocide in Rwanda』を出版した[202]。同報告書の内容はヒューマン・ライツ・ウォッチのホームページ[3]にて閲覧可能である。また、国際連合ルワンダ支援団司令官であり、最も著名なジェノサイドの目撃者となったロメオ・ダレールは、2003年に『Shake Hands with the Devil: The Failure of Humanity in Rwanda』を共著で発行し、その中で自身の体験したうつ病やPTSDについて記述した[203]。この"Shake Hands with the Devil"は2007年に映画化された。さらに、国境なき医師団代表者の1人でありルワンダ虐殺を体験したジェームズ・オルビンスキー(英語版)は"An Imperfect Offering: Humanitarian Action in the Twenty-first Century"を執筆した。

映画評論家から絶賛を受け、2004年度のアカデミー賞やゴールデングローブ賞にノミネートされた『ホテル・ルワンダ』は、キガリのホテルオテル・デ・ミル・コリンの副総支配人であったポール・ルセサバギナが、一千人以上の避難民をホテルに匿い命を救ったという体験に基づいた物語であり[204]、この作品はアメリカ映画協会による感動の映画ベスト100の第90位にランクインした。2006年にはルセサバギナの自伝となるAn Ordinary Man(邦題『ホテル・ルワンダの男』)が発行された。2006年には、ジェノサイドの生き残りであるイマキュレー・イリバギザ(英語版)が、自身の体験をまとめた手記、Left to Tell: Discovering God Amidst the Rwandan Holocaust (邦題『生かされて。』)を刊行した。この本では、イリバギザが牧師の家の狭く湿ったトイレに他の7人の女性とともに隠れ、91日間に渡る虐殺の日々を奇跡的に生き抜いた様が描かれている。

アリソン・デフォルジュはルワンダ虐殺から11年目となる2005年、ルワンダに関して扱った2本の映画に関して「50万人を超えるツチが命を奪われた恐怖への理解を大きく進めた」と述べた[54]。2007年にメディア・フォーラム「ポリス」のディレクターとして知られるチャーリー・ベケット (Charlie Beckett) は、「どれだけの人が映画"ホテル・ルワンダ"を見たのだろうか? 皮肉にも、今や大多数の人々はこの映画によってルワンダに触れるのである」と評した[205]。

パンク・ロックのバンドランシドが2000年に発表したアルバム(en:Rancid (2000 album))収録曲Rwanda は、ルワンダ虐殺を題材としている。

修正主義への批判[編集]

1994年のルワンダ大虐殺における事実関係については、歴史学的論争の争点となっているが[206]、否定的見解を示す論者はしばしば否認主義として非難される[207]。フツに対するカウンター・ジェノサイド(counter-genocide)に従事したツチを非難する内容を持つ"ダブル・ジェノサイド"(double genocides)論[208]は、2005年にフランス人ジャーナリストのピエール・ペアン(英語版)により出版されたBlack Furies, White Liars内で提唱され議論を呼んだ。これに対し、ペアンの書籍内で"親ツチ派圧力団体"の活発な会員として描かれたジャン=ピエール・クレティエン(英語版)は、"驚くべき歴史修正主義者の情熱"としてペアンを批判している[209]。

ルワンダ虐殺に関する修正主義者として非難された人物としては、カナダ人ジャーナリストのロビン・フィルポット(英語版)が知られている[210][211]。フィルポットはルワンダ虐殺に関する権威として知られるジェラルド・キャプラン(英語版)により、2007年に『グローブ・アンド・メール』紙の記事で「1994年に多数の人々が両陣営によって殺害されたことを以て、ジェノサイドを実行した者とその対象となったものが道徳的に等しい」と評された。キャプランはさらに「旧ルワンダ軍と過激派フツ民兵による、100万人の無防備なツチに対する一方的な謀略ではなかった」とするフィルポットの主張を非難し、「フィルポット氏は、主張が証拠と完全に矛盾していることが明らかになって以降、真実を否定する揺るぎない決意により、もっぱら噂や推測から構成される支離滅裂で奇妙な主張を量産している」と述べている。

ルワンダ虐殺を扱った映画作品[編集]

洋画[編集]

ルワンダ虐殺の関連映画(英語版)を参照のこと。

日本語に翻訳されたもの[編集]
ホテル・ルワンダ
ルワンダの涙
ルワンダ虐殺の100日(英語版) - 映画祭等で上映。
愛の叫び 〜運命の100日〜(英語版)
ルワンダ 流血の4月(英語版) - 映画祭等で上映。

ドキュメンタリー[編集]
記憶の守人たち (Keepers of Memory) - 映画祭等で上映。
元PKO部隊司令官が語るルワンダ虐殺 (Shake Hands With the Devil:The Journey of Roméo Dallaire) - ロメオ・ダレールの体験をもとにしたドキュメンタリー。サンダンス映画祭国際ドキュメンタリー部門観客賞。
BS世界のドキュメンタリー<シリーズ飽くなき真実の追求> ルワンダ 仕組まれた大虐殺 ~フランスは知っていた~ 原題:Earth Made of Glass、制作:Clover & a Bee Films (アメリカ 2010年)
真相が謎に包まれてきたルワンダ大虐殺が、ツチ人とフツ人の民族対立により突発的に起きたものではなく、当時の政府により用意周到に準備され、フランスが武器供与や軍隊派遣などで便宜を図り、計画を後押ししていたとを公にし告発する内容。


ルワンダ虐殺を扱った文学作品[編集]

小説[編集]
曽野綾子 『哀歌』 毎日新聞社 2005年

脚注[編集]

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出典・参考文献[編集]

英語資料[編集]

ルワンダ虐殺の参考文献(英語版)を参照のこと。
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Dallaire, Roméo (2004). Shake Hands with the Devil: The Failure of Humanity in Rwanda. London: Arrow Books. ISBN 0-09-947893-5.
Totten, Samuel (2004-08), Century of Genocide: Critical Essays and Eyewitness Accounts, Routledge, ISBN 0415944309

ドイツ語資料[編集]
Brandstetter, Anna-Maria (2005), Speitkamp, Winfried, ed., Erinnern und Trauern. Über Genozidgedenkstätten in Ruanda., Kommunikationsräume – Erinnerungsräume. Beiträge zur transkulturellen Begegnung in Afrika., München: Marin Meidenbauer Verlagsbuchhandlung, pp. 291-324

日本語資料[編集]
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ゴーレイヴィッチ, フィリップ (2003b-06). 柳下, 毅一郎. ed. ジェノサイドの丘〈下〉 ルワンダ虐殺の隠された真実. WAVE出版. ISBN 4872901592. 武内, 進一 (2003-12), “書評: フィリップ・ゴーレイヴィッチ著・柳下毅一郎訳『ジェノサイドの丘-ルワンダ虐殺の隠された真実』”, アフリカ研究 (63): 45-47

松村, 高夫; 矢野, 久 (2007-12). 大量虐殺の社会史 戦慄の20世紀. MINERVA西洋史ライブラリー. ミネルヴァ書房. ISBN 4623045382.
武内, 進一 (1998-03), 現代アフリカの紛争を理解するために, ジェトロ・アジア経済研究所
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武内, 進一 (2003a-04), 望月, 克哉, ed., アフリカ大湖地域における難民問題の位相と「人間の安全保障」, アフリカにおける「人間の安全保障」の射程 研究会中間成果報告, アジア経済研究所, pp. 63-93
武内, 進一 (2003b-06), “難民帰還と土地問題 内戦後ルワンダの農村変容”, アジア経済 (ジェトロ・アジア経済研究所) 44 (5-6): 252-275
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饗場, 和彦 (2006-01), “ルワンダにおける1994年のジェノサイド”, 徳島大学社会科学研究 (19)
大庭, 弘継 (2009-03), “ルワンダ・ジェノサイドにおける責任のアポリア : PKO指揮官の責任と「国際社会の責任」の課題”, 九州大学紀要『政治研究』 (56)
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ルセサバギナ, ポール (2009). 堀川, 志野舞. ed. ホテル・ルワンダの男. ヴィレッジブックス. ISBN 4863320256.

日本語関連文献[編集]
吉岡逸夫 『漂泊のルワンダ』 牧野出版、2006年3月。
レヴェリアン・ルラングァ 『ルワンダ大虐殺 世界で一番悲しい光景を見た青年の手記』 山田美明訳、晋遊舎、2006年12月。
アニック カイテジ 『山刀で切り裂かれて ルワンダ大虐殺で地獄を見た少女の告白』 浅田仁子訳、アスコム、2007年9月。
イマキュレー・イリバギザ スティーヴ・アーウィン 『生かされて。』 堤江実訳、PHP研究所、2006年。
服部正也 『ルワンダ中央銀行総裁日記 増補版』 中公新書、2009年11月。

関連項目[編集]
ホロコースト
指揮官の責任(英語版)
ルワンダに関するフランスの議会委員会(英語版)
戦争および災害による死亡者数の一覧(英語版)
ルワンダの宗教(英語版)
キベホの聖母
キベホ虐殺(英語版)
モガディシュ・ライン(英語版)

外部リンク[編集]

ウィキメディア・コモンズには、ルワンダ虐殺に関連するカテゴリがあります。

ウィキバーシティにルワンダ虐殺に関する学習教材があります。
Through My Eyes Website Imperial War Museum - Online Exhibition
Amnesty International Online Documentation Archive: Rwandawebarchive log
Voices of Rwanda: The Rwanda Testimony Film Project A populous oral history archive dedicated to filming video testimonies of Rwandans
Rwandan Genocide Background from the Human Rights Watch
Rwandan Overview. Committee on Conscience: Rwandan Genocide. United States Holocaust Memorial Museum
United Nations International Criminal Tribunal for Rwanda.
Leave None to Tell the Story: Genocide in Rwanda
上野友也研究室 "人道的介入の事例 : ルワンダ"
ルワンダ共和国大使館 "ルワンダの歴史"
国連難民高等弁務官事務所 "アフリカ難民の現状 ルワンダ"
アムネスティ・インターナショナル日本 "ルワンダの大虐殺後の国際社会の動きは? 〜「特別法廷」から常設の「国際刑事裁判所」へ〜"
『ホテル・ルワンダ』日本公開を求める会(現:応援する会)『ルワンダの歴史』 2006年01月10日。




カテゴリ: ルワンダ虐殺

http://d.hatena.ne.jp/TomoMachi/20050226

2005-02-26 『ホテル・ルワンダ』は現実版『ドーン・オブ・ザ・デッド』だCommentsAdd Starsonota88nessko

TomoMachi2005-02-26

昨日は選挙の票読みと同じ方法でアカデミー賞の予想をしたけど、

「じゃあ、あんた自身はどれがいいんだ?」と思う人がいるかもしれない。

主演男優賞に限っていうと、『ホテル・ルワンダ』のドン・チードルが素晴らしかった。


『ホテル・ルワンダ』は現実版『ドーン・オブ・ザ・デッド』だ。

映画はルワンダで激しく抗争していた政府(フツ族)と反政府軍(ツチ族)の休戦協定が締結された日から始まる。

主人公はルワンダでも最高級のベルギー資本のホテルのマネージャーのポール。

高級な服を着た客が高級な酒と高級な葉巻を楽しむ高級ホテルで働く主人公は、いつものように仕事を終えて自宅に帰る。

しかし、おかしなことにカーラジオからは呪いのような不気味な歌以外に何も聴こえてこない。

家に着くと真っ暗で誰もいない。

遠くから銃声が聴こえる。

ここから映画が終わるまで銃声は一度も止むことはない。

その日、ルワンダ大統領が何者かに暗殺され、これをツチ族の仕業と考えた多数派のフツ族はツチ族皆殺しを始めた。

これが犠牲者百万人と言われるルワンダ大虐殺の始まりだ。

詳しくは柳下くんが訳した『ジェノサイドの丘〈上〉―ルワンダ虐殺の隠された真実』参照。

ポールはフツ族だが妻はツチ族だったので近所のツチ族の人々と共に隠れていたのだ。

ここからポールたちのサバイバルが始まる。

ポールのホテルが『ゾンビ』のショッピングモールとなるのだ。

ホテルは駆け込み寺となり、1200人もが逃げ込んでくる。

ある朝目覚めると昨日までの隣人が殺人鬼と化して襲って来るという恐怖はゾンビと同じだが、ゾンビよりも凶悪なことに、フツ族はAK47やRPGやマチェットで武装している。

撃ちあっても勝ち目はない。

そこでポールは優秀なホテルマンとしての手練手管を駆使し、賄賂や海外とのコネやありとあらゆる知恵を絞って戦い抜く。

監督は北アイルランドの内戦を経験したテリー・ジョージなので隣人同士が殺しあう恐怖を知っている。

ルワンダは国民の半分がカソリックだが、教会も虐殺の現場になり、殺される側も殺す側もキリスト教徒だ。白人の宣教師がツチ族の子供を見捨てて自分だけ逃げる場面もある。

将軍の一人は結構インテリで趣味もいいのだが、それでも民族浄化に加担する。

国連平和維持軍のニック・ノルティに助けを求めても「我々はピースキーパーであって、ピースメイカーじゃない」と言われる。

白人のカメラマン(ホアキン・フェニックス)が虐殺の現場をビデオに収める。ポールが「これで世界の人々がこの映像を見て、何かしてくれますよね」と言うとホアキンは「この映像を見て、『恐ろしいね』と言って、何事もなかったようにディナーを食べるだけさ」と答える。

男は皆殺しにされ、美しい女性達は巨大な檻に集められ、性奴隷にされる。

ポールは最初、自分の家族を守るために隣人が民兵に殴打されるのを見てみないフリをするが、なりゆきで人々を救うハメになっていくところが「シンドラーのリスト」よりもリアルだ。

国連からも見放され、水や食料も尽きかけて、いつ皆殺しになるかわからない状況でも、ポールはプロのホテルマンらしく、綺麗にヒゲを剃り、ビシッとネクタイを締め、まったくいつもと同じように振舞う。

誰も見ていないところでは重責に耐えかねて嗚咽して崩れ落ちるけれども。

もはやこれまで、と思ったポールは愛妻に「奴らに虐殺される前に子供達をその手で殺してやってくれ」と嘆願する。


ドン・チードルはポール・トーマス・アンダーソンやソダーバーグ監督の映画の常連だから心ある映画ファンならご存知だろう。

「ブギーナイツ」ではオーディオマニアでカントリーソング好きの黒人というありえない役で笑わせ、「ラッシュアワー2」では麻雀屋を経営する中国系黒人という役で笑わせ、コメディ演技が上手かったが、この映画では一人の平凡な男が武器を使わずに知恵だけで暴力や政治に立ち向かう姿を見せてくれる。

平凡なところがいいのだ。映画会社はデンゼル・ワシントンやウェズリー・スナイプスやウィル・スミスをポール役に欲しがったそうだが、彼らはヒーローだ。絵空事の戦いしかできない。この連中が主演してたら、マシンガンを掴んで敵をバンバン撃ち倒すトンデモ映画になってたかもよ。

http://d.hatena.ne.jp/TomoMachi/20050616
2005-06-16 「ホテル・ルワンダ」の日本公開についてCommentsAdd Star



「ホテル・ルワンダ」は、日本公開がないそうです(『Invitation』その他の雑誌の担当者から聞きました)。


 で、日本での公開を求めるドン・チードルのファンの人から「何か方法はないか」という問い合わせを受けましたので、いろいろ考えたことを綴って返事を送りました。

 他にもっとうまい方法があるかもしれないし、考えていることに間違いがあるかもしれないので、ここで自分の手紙を公開します(間違いがあれば修正していきます)。




町山です。

メールありがとうございます。


「ホテル・ルワンダ」の試写があったことは柳下くんから聞きました。

この映画はライオンズゲイトという日本に配給会社を持たない会社の製作なので、まず試写を行って、劇場関係者がそれを観て、どこかが上映したがれば、配給会社が引き受けるということだったようです。

しかし、劇場がどこも食いつかず、流れたということです。


ルワンダの虐殺が百万人近くに達した理由はいろいろありますが、ひとつには他の国が「どうせ野蛮人同士の殺し合いさ」と無関心だったことにあると言われています。

ところが、それが映画になっても、日本では「どうせ誰も関心ないさ」と思われ続けているわけです。


こういうことはよくありまして、ブエナ・ビスタが「エド・ウッド」を持っていたときも、劇場関係者のための試写が行われました。僕と柳下はエド・ウッドの本を作っていた関係で入れてもらいました。

コメディですから僕らは爆笑の連続でしたが、劇場関係者はクスリともしてませんでした。

字幕がついてないからです。


上映後、劇場関係者たちが「わからんね」「誰も興味ないよ」などと言ったのがはっきり聞こえました。

わかるわけないだろ! 

あんたらはエド・ウッドのこと知らないんだから!

とにかく「エド・ウッド」はオクラになりました。

もちろん、彼らはプロだから何の予備知識もなく、セリフなしで見ても面白そうな映画かどうか判断できる、と言い張るかもしれません。

しかし、後になぜか有楽町のシネ・シャンテの人がこの映画を気に入って上映すると、「エド・ウッド」はシャンテの記録を打ち立てたのです。


その記録を破ったのはたしか「ギャラクシー・クエスト」だったと思いますが、あの「ギャラ・クエ」も2年もオクラになっていたのです。

理由は知りませんが、アメリカではヒットしたこの映画を公開しなかったのは、おそらく劇場関係者が「わからない」と言ったからではないでしょうか。


このように劇場主が個人的に映画を気に入って上映してくれる劇場は他に渋谷のシネマライズなどがありますが、そういう劇場は数が少ないので、インデペンデント映画やアート映画がそこに集中し、予定がずっと先までいっぱいになっているそうです。


上映が決まるにはいろいろな事情があると思いますが、とにかく劇場が「うちが引き受ける」と言えば、上映の可能性はいっきに大きくなるでしょう。

劇場側が引き受けるためにはまず動員数があるていど読めないとなりません。そのために署名運動は有効だと思います。

どのくらいの署名が必要かはわかりませんが3万人くらいあれば理想的じゃないでしょうか。単純に入場料を計算すると5000万円を超えられるわけですから。

実際に署名運動でオクラから復活した映画はいくつもあります。

たとえば今は誰でも知っているザ・フーの『トミー』もそうで、

僕も中学のとき、署名集めに参加しました。


劇場はどこがいいかというと、日本にいないので劇場に詳しくないのですが、ラピュタやアップリンクといった小さい劇場ならやりたがるかもしれません。

しかし、劇場が小さすぎると、予想できる動員数とその映画の値段とがバランスが取れないために、配給会社は引き受けないでしょうが。


配給会社については、ライオンズゲートの映画は日本に特定の配給会社がありません。

クロックワークス、ムービーアイ、キネティックス、ファントムフィルム、トルネード・フィルム(叶井くんの会社)などのインデペンデント系にあたってみてください(連絡先はHPを検索して調べてみてください)。

僕からも知り合いをちょっとたきつけてみます。


もうひとつの方法はルワンダ大使館か国連、ユニセフなどの資金協力で、一般試写会を開くことです。

それで、熱心なファンは見ることができますし、それで話題になれば一般上映にもつながるでしょう。


もうひとつの方法は地方の映画祭で、招待することです。

地方の映画祭は自治体から資金援助があるので、その予算でフィルムを招待することができます。


字幕入りのプリントを焼かないとならない、という問題は、裏技で解決できます。

①デジタル・プロジェクターでスクリーンに字幕をオーバープロジェクトする。

これは僕も前に東京ファンタでやってみましたが、うまくいきました。

字幕の翻訳をする人へのギャラをどうするか、ということはご心配なく。ボランティアで僕もできますし、柳下君にも手伝ってもらえると思います。


②映画自体をデジタルで上映する。

一般試写ということなら、映画会社から許可をもらい、プロモーションのため、ということでデジタルのデータを借りるのです(DVDはもうアメリカで発売されています)。

それなら字幕をつけるのはもっと簡単です。

ただし、この場合は入場料を取ることが著作権上、難しくなると思います。


今、思いつく方法をざっと挙げてみました。

署名運動は必要になってくる気がします。

不明の点はお知らせください。

また、何かわかったらお伝えします。

「売春窟に生まれついてBorn Into Brothels」も日本でやるといいなあ

http://d.hatena.ne.jp/TomoMachi/20060114
2006-01-14 「ホテル・ルワンダ」と「帰ってきたウルトラマン」CommentsAdd Starwaterless66nmshy342killbill2



土曜日に封切られた『ホテル・ルワンダ』、初日は満員御礼だったようです。


よかったと思う反面、「本当にわかってるのかな?」とも思う。

『ホテル・ルワンダ』を観て、「アフリカは悲惨だな。先進国が何かアフリカのためにしてやれることはないか」と思うのは、間違っている。

この映画は、そういう風にも作ることはできたが、テリー・ジョージ監督(アイルランド人)はそう作らなかった。

国際社会や政治の問題としても描かなかった。

最初のシナリオにはルワンダの虐殺の全体像が、あの『トラフィック』にも似た群像劇の手法で書き込まれていたが、監督はそれをバッサリ切って、その代わりに、主人公ポール一人に焦点を絞った。

多数派のフツ族でありながら少数派ツチ族の虐殺に加担せず、ツチ族1200人をかばい通した一人の男、ポール・ルセサバギナさんという男の生き方を見せる映画として完成させた。


わかりやすく言ってしまうと、

「アフリカのことは置いといて、とりあえず、これを観た一人一人が各人の生きている場所で隣人を愛してください。



一人一人がポールさんになってください。普段の日常から。それが始まりです」



ということですよ。


ところが「この映画を観たってアフリカは救えない」とかトンチンカンなことを言ってる人もいるんだよ。困ったもんだ。



孤立無援のポールさんを最後まで支えたのは、愛国心でもキリスト教の教えでもなく、ホテルマンとしての、接客業としての職業倫理だった。

つまり「どんな客も差別しない」ということ。接客業では、店内に入ってきた人を、たとえ客でなくても、どんな服装をしていようと、どんな人種だろうと、基本的にお客様として取り扱うよう教育される。もちろん「他のお客様のご迷惑になる」時は出て行ってもらうこともあるが、「追い出す」のではなく「お帰りいただく」わけだ。

ルワンダは国家をあげて虐殺を推進し、キリスト教教会でも虐殺が行われた。

国家や民族や宗教が、隣人への差別と憎悪を押し付ける時(戦争時はたいていそうだ)、

ポールさんは職業の倫理だけに従うことによって、多数派から独立した判断を貫いた。


『帰ってきたウルトラマン』に「怪獣使いと少年」というエピソードがある。

川崎の工業地帯の河原に一人の老人と少年が住んでいた。

少年は孤児で老人に拾われたのだ。

老人は実は昔、たまたま地球にやってきた友好的な異星人で、そこで暴れていた怪獣を超能力で地中に封じ込めた。

しかし近所の人々は老人と少年を「日本人じゃねえな」と差別し、

少年がパン屋にパンを買いに行っても「お前らに売るものはねえ!」と追い返されてしまう。

そして、ついに近所の住民たちは、異人である老人を恐れるあまり、逆に襲撃し、殺してしまう。


長い間、このエピソードは川崎に住む朝鮮人労働者をモデルにした話だと思われてきたが、

実は脚本家の上原正三氏は沖縄出身で、東京や大阪の工業地帯で暮らす出稼ぎの沖縄人労働者をモデルにして、このエピソードを書いた。

言葉や風俗の違う沖縄人労働者は朝鮮人と同じように日本人から差別され、沖縄名ではアパートなども借りられなかった。実際、襲撃される事件も起こった。


パン屋に追い返された少年がとぼとぼ歩いていると、後ろからパン屋で働く少女が走って追っかけてきて、「はい、パンです」とパンを売ってくれた。

みんな、僕を差別してるのに、

「どうしてパンを売ってくれるの?」 

少年が驚くと、少女はにっこり笑って言う。

「だって、あたし、パン屋だから!」


ポールさんも、なぜ自分の命もかえりみずに1200人を救うことができたのか? と問われたら

「私はホテルマンだから」と答えただろう。

仕事をまっとうする、どんな状況でもそれを貫くことがどれだけ難しいことか。


ポールさん自身は英語版DVDの付録で『ホテル・ルワンダ』を見た人に求めることとして次のように言っている。

「ルワンダを教訓にして、この悲劇を繰り返さないで欲しい」

つまり、ルワンダへの寄付ではなくて、あなた自身の生きる場所でルワンダの教訓を活かせ、と言っている。


この映画の虐殺は「たまたま」ルワンダで起こったが、「アフリカ版『シンドラーのリスト』」と言われているように、このような虐殺はアフリカ、いや「後進国」だから起きたのではない。

世界中のどこでも起こるし、これからも起こるだろう。

そもそも『ホテル・ルワンダ』の監督テリー・ジョージはアフリカへの関心からではなく、北アイルランドで生まれ育ち、カソリックとプロテスタントの殺しあいの板ばさみになって苦しんだ自分をポールに投影して、この映画を企画した。

だからルワンダよりもポール個人に焦点を絞った。

つい、この間も「先進国」であるオーストラリアで群衆がアラブ人を無差別に襲撃する事件が起こった。ボスニアの民族浄化もついこの間のことだし、関東大震災の朝鮮人虐殺からもまだ百年経っていない。もちろんアメリカでもヘイト・クライム(差別による暴力・殺人)は起こり続けている。


『ホテル・ルワンダ』という映画が観客に求めているのは、アフリカへの理解や、国際社会の対応よりもまず、

観客一人一人の中にある排他性、つまり「虐殺の芽」を摘むことなのだ。

http://d.hatena.ne.jp/TomoMachi/20060225
2006-02-25 『ホテル・ルワンダ』なんか何の役にも立たない!  この人を見よ!CommentsAdd Starzeroringo (green)masayashi15nobushi-i517



こんなものにリンクされて、ものすごく脱力した。

http://blog.livedoor.jp/mahorobasuke/archives/50487989.html


僕は『ホテル・ルワンダ』を日本で公開してもらうために、いろいろ尽力してきましたが、あの映画を観た後でも、こんなことを書く人がいるのを見ると、絶望的な気持ちになります。

この人は、僕が『ルワンダ』のパンフに関東大震災の朝鮮人虐殺事件について書いた意味がわからないようなので、もう一度書きます。


このルワンダの事件を、遠いアフリカの出来事として観ても意味がない。

虐殺は、どこの国でも起こってきたし、これからも起こり得ることであって、

私たちは誰でも、人を差別して迫害する、虐殺の種を秘めているんだということを自覚し、

ルワンダみたいな状況になった時、ポールさんのように行動できる人間にならなければ。


ところが、この人は、虐殺の種を抱えている自分に全然気づいていない。

このような人がルワンダと同じような状況に置かれた時、虐殺を止める側に回るとは非常に考えにくいです。映画を観てもこれだから。

というか、この人は、自分がやってることは、ツチ族虐殺を煽っていたルワンダのラジオと同じなのに、まるで気づいていない。


僕が例として朝鮮人虐殺を挙げたのは、もちろん日本の観客に虐殺が他人事だと思って欲しくないからで、それには日本で起こった例を挙げないと意味ないでしょ?

別に朝鮮人じゃなくてアイヌや沖縄人の例を挙げてもよかったし、

トルコによるアルメニア人虐殺でもいいし、ユーゴでの民族浄化や、

アメリカでのインディアン虐殺、NYのアイルランド人虐殺、ニューオリンズでのイタリア人虐殺、アイルランド系労働者による中国人鉄道工夫虐殺、日系人収容や今も続く黒人へのヘイトクライム、

それにもちろんナチスによるユダヤ人虐殺でもいいのです。

先日、オーストラリアでアラブ人に対する集団暴行事件があったばかりだし、

どんな国でも、それこそ韓国でも起こりうるし、中国でもどこでも、誰でも虐殺に加担する加害者になる危険性を秘めています。

人を差別し虐殺するのは日本人や特定の民族ではなく、まさにこの人のような人が原因なのです。

韓国や中国で反日反日と騒いでる連中は、きっとこの人と同じ種類の人間なんでしょう。


まあ、それはいいとして、面倒くさいですが、わざわざこっちにリンクまでして挑発しているので、答えてみます。

まず、この人が書いていることを箇条書きにしてみます。

①関東大震災時の朝鮮人虐殺は、「説」であって事実ではないらしい。

②ルワンダは同じ国民同士であって、朝鮮人は外国人だから引き合いに出すのはおかしい。

③当時の日本には朝鮮人は虐殺されるほど大勢いなかったはずだ。

④朝鮮人は戦後、日本人に悪いことをしたから大震災の時、虐殺されても当然だ。

⑤外国人は日本に来て住んではいけない。

⑥アメリカに住んでいる僕は韓国に帰るべきだ。


この人、ちゃんと国民の義務である中等教育を受けたのでしょうか?


①は、どうも南京大虐殺と勘違いしてるようですが、関東大震災の虐殺に関しては、それを否定する見解など存在しません。これは当時の日本政府と警察が止めようとした事件だからです。

当時の日本政府や軍や警察は虐殺を必死で止めようとして、朝鮮人を救出して保護し、また虐殺をした日本人を逮捕しました。

刑事事件なので、ちゃんと警察に事実として記録が残っています(日本人や中国人も間違われて殺されています)。

被害者も加害者もかなり特定されていて、戦前の日本政府は被害者やその遺族に謝罪し、補償しています。


②この人は、朝鮮人は外国人だったと思っていますが、日韓併合の後なので、当時の朝鮮人は外国人ではなく、日本臣民でした。


それもあって、ルワンダにおける多数派で政府を支配しているフツ族による少数派ツチ族虐殺に最も近い例を日本史に探すなら、やはり震災時の朝鮮人虐殺事件を挙げるのが適切だと思いました。

ナチが政策として行ったホロコーストと違い、メディアに扇動された民衆が隣人をその手で殺したことだからです。


当時、少なくとも法律や政治的には、日本人と平等で、共存することが建前でした。

ですから、当時の日本政府や政治家や警察官や軍人には、同じ臣民を虐殺するなど許し難いことだ、と嘆き、怒り、それを国民に伝えようと、あらゆる手段を尽くして訴え、戦った人々がいました。

この人の「外国人は殺されても当然」といわんばかりの論調は、虐殺と戦った軍や警察の人々の努力を踏みにじり、八紘一宇の理想を無にする、まさに非国民としか言いようがないものです。


③この人は、強制連行の前には朝鮮人は日本にいなかったと思っていますが、

実際は一つの国だったので、震災前から韓国の人々は仕事を求めて日本に押し寄せていました。

貧しい植民地から豊かで進んだ宗主国に、職を求めたり勉強のために来るのは当たり前です。

プエルトリコ人はアメリカに、トルコ人はドイツに、アルジェリア人はフランスに、インド人はイギリスに移住し、今も住み、子孫を増やしています。それと同じです。

もちろん、それを虐殺していいわけがありません。


④この人は、第二次大戦敗戦後に関東大震災が起こったと思っていますが、

順番は逆で、大震災のほうが敗戦より22年も前です。

これは日本の歴史でしょう? 小学校でも習うでしょう?


また、第二次大戦直後の「三国人」も日本人を「虐殺」はしてません。


あと、「はだしのゲン」には金持ちになって日本人に厳しくする朝鮮人が登場しますが、彼は悪人どころか逆に主人公ゲンに対して最も優しい大人です。そしてゲンは朝鮮人を悪く言う日本人に対して「朝鮮の人をバカにするな」と怒る場面があります。


⑤うちの父が勉強のために日本に来たのは戦前で、韓国は日本だったので、当時の父は外国人でなく日本人でした。移住はもちろん合法でした。

それは僕が生まれる前のことで、赤ん坊は親を選ぶことはできないので、僕の父が韓国人であることに僕は何の責任もありません。僕が韓国系であることは僕の意志ではありません。

日本で生まれた韓国系・朝鮮系の人(今は半数を超えるでしょう)のすべてが、韓国・朝鮮系であることに対して何の責任もありません。望んでそう生まれた人は一人もいません。

きっと、この人は、幼い韓国・朝鮮系の子供にも「日本を出て行け」と言うんでしょう。


韓国については今まで行ったこともないし、言葉だけでなく歴史も文化も何もまったく教えられずに育った僕は(歴史については教養として自分で勝手に知ったけどね)、韓国にアイデンティティを持つことができませんでした。そういう韓国籍の人は大勢います。もちろん本人の責任ではありません。

父と母は中学の頃に離婚し、母は日本人なので、私は成人するとき日本人になることを選択し、日本国籍を取得しました。ちゃんと税金も払ってきました。

この僕を日本人でないとするこの人は、いったい何パーセントの血が入ってれば日本人だとするんでしょうか? 今の天皇陛下は「桓武天皇のお母様は朝鮮からいらっしゃいました」とご自分で仰っいましたが、天皇家はどうなるんでしょうか?


⑥いったいどうして? 理由がさっぱりわかりまへん。僕は日本国民なので憲法に定められている権利に従ってアメリカに移住し、両国に税金を納め、国民の義務を果たしていますがそれが問題なのでしょうか? 

あと、僕は今まで日本を批判したり、いわゆる反日的な発言というのはしたことないんで、何も帰れとか言われる筋合いはありません。

「ホテル・ルワンダ」上映に関して、このような傑作を公開しない日本の映画業界はおかしい!と書いたぐらいですね。


僕のように日本で生まれ育った韓国系の人に対して韓国に帰れというのは、アメリカの黒人にアフリカに帰れ、日系アメリカ人に日本に帰れと言うのと同じことです。

言われた人の気持ちを少しでも想像できませんか?


ところで、この人は道端や職場で偶然出会って好きになった人がたまたま韓国や朝鮮系の人だったらどうするんでしょうか?

そんなことは絶対にない、とでも思ってるんでしょうか?

この人の学校時代の友達や、職場や仕事先、それ以外の知り合いにも、お父さんやお爺さんが韓国や朝鮮系の人は絶対に、絶対にいるんですよ。

また、この人のように、人間を出自で差別する人を愛することができる異性はいるのでしょうか? 


もし、本当に、本当に日本人であることを誇りに思うならば、

虐殺を止めようとした日本の人々を見習ってください。

彼らこそ、日本民族の誇りではないでしょうか?

あと、せめて関東大震災と第二次大戦の順番くらいは知らないと非国民でしょ、義務教育で習うんだから。


で、これが先方の反応。はー。

http://blog.livedoor.jp/mahorobasuke/archives/2006-02.html

http://d.hatena.ne.jp/TomoMachi/20060304
2006-03-04 「わかってもらえるさ」RCサクセションCommentsAdd Starkillbill2 (purple)laughclammbon (green)ikanosuke (green)hiront_at_nagoya (green)k-noto3 (green)setamise (green)setamise (green)setamise (green)shinic-t (green)sa-hiro50sherbet26



 今年のアカデミー賞で作品賞ほかにノミネートされている映画『グッドナイト&グッドラック』は、マッカーシー上院議員による「赤狩り」が吹き荒れる50年代を舞台に、政治的な傾向のあるマスコミ関係者が次々と社会主義者と決め付けられて弾圧されるなかで、マッカーシーに敢然と立ち向かったCBSのキャスター、エド・マローの勇気を描いている(詳細)。


 しかし、なぜ、今、50年も昔のことを映画に?


 製作・脚本・出演のジョージ・クルーニーは、赤狩りの恐怖のためにマスコミ関係者が政府批判を避けるようになった50年代が、対テロ戦争の下、マスコミがブッシュ政権を批判しなくなった現在の状況とが似ていると考え、ジャーナリストに本当の役割を思い出させるためにマローのことを映画化しようとしたのだ(クルーニーは大学まではキャスター志望)。

 この『グッドナイト&グッドラック』のシナリオをクルーニーと共同で執筆したグラント・ヘスロヴは、50年前の赤狩りに現在を象徴させる手法についてインタビューでこんな風に言っている。

http://clooneystudio.tripod.com/grantheslovinterview.html

「僕たちが参考にしたのは『るつぼ』でした。『グッドナイト&グッドラック』は僕らにとっての『るつぼ』です」

 『るつぼ』とは、50年代「赤狩り」の真っ最中に劇作家アーサー・ミラーが書いた戯曲で、17世紀にアメリカのセーラムで起こった魔女狩りを描いている。無実の者がある日突然、魔女だと決め付けられ、周囲の人々は自分が標的になることへの恐怖から魔女弾圧に加担する。ミラーはその劇を通じて、当時まさに猛威を振るっていた「赤狩り」もまた「魔女狩り」であると言おうとしたのだ。

 もちろん「魔女狩り」と「赤狩り」の間は200年以上離れているし、二つの出来事は事情も、状況も、理由も、何もかもまったく異なる。

 また、「赤狩り」と「現在の対テロ戦争」も50年以上は離れているし、事情も状況も理由も何もかもまったく異なる。 さらに、上記のような解説がなければ、『グッドナイト&グッドラック』を観た観客の多くは、これをただの歴史的事件として見るだけだろうし、『るつぼ』も同じことだ。実際、ヘスロヴは高校の頃は『るつぼ』の意味がわからなかったが、後から研究して知ったと言っている。


 同じくアカデミー作品賞・監督賞にノミネートされている『ミュンヘン』は、72年のミュンヘン五輪で選手団11人をパレスチナのテロリストに殺されたイスラエルが報復のためにパレスチナの政治運動家11人を暗殺しようとした実話を描いている。(詳細)

 

 しかし、なぜ、今、30年も前の事件を映画に?


『ミュンヘン』は、在りし日の世界貿易センターが墓標のようにそびえる姿で終わる(CGで73年当時の風景を再現したもの)。

 ここで、多くのアメリカ人は衝撃を受けた。そこまで二時間見せられた復讐劇が、なぜ、今、作られたのかわかったのだ。テロへの報復がたとえ正義であろうと、報復は新たな報復へと永遠に続いていくだけだということに(そう感じなかった人には唐突なだけだっただろう)。 

 監督のスピルバーグは『TIME』誌のインタビューで、「911テロとミュンヘン五輪襲撃との間には何の共通点もない」と強調しながら、にもかかわらず、「(世界貿易センタービル)を見せなければならなかったんだ」と言っている。http://time-proxy.yaga.com/time/archive/preview/0,10987,1137679,00.html




 惜しくもアカデミー賞候補にはならなかったが、批評家に絶賛された『ヒストリー・オブ・バイオレンス』は、30年前にギャングの殺し屋だった男(ヴィゴ・モーテンセン)が、正体を隠して小さな田舎町に住んでいたが、ふとしたことでギャングたちに見つかってしまい、平和な家庭を守るために再び殺戮を始める物語だ。(詳細)

「西部劇にはよくある話だよ。引退したガンマンが名前を隠して農民になろうとするが、ならず者たちに狙われて再び銃を取る」

 監督のデヴィッド・クローネンバーグは僕のインタビューでこう言った。

Even though the movie is not overtly political, it is still somewhat political.Viggo and I discussed the political overtones of the script, The question is this: is American foreign policy right now actually taken from old American western movies? If someone attacks you and your family, is any retaliation justified?

「この映画ははっきりと政治的ではない。にもかかわらず、やはりこの映画は政治的なんだよ。

主演のヴィゴ・モーテンセンと私は、この脚本の政治的含意について話し合った。(この映画が観客に喚起する)問いはこうだ。今のアメリカの外交政策は西部劇映画に影響されてるんじゃないか? 誰かが自分や自分の家族に危害を加えたら、どんな報復も正当化されるのか?」人間は、暴力の歴史を断つことはできないのか?


こんなことは最近の映画に限らない。

たとえばシェイクスピアは彼の時代よりも1500年以上昔のジュリアス・シーザーの史実を通して当時のイギリスの状況を批評した。

さらに、後世にその戯曲を読む者は、読む者が属する社会や時代に共通するものを物語の中に見出しながら読んでいくものだし、そういう風に読める作品だから残っている。

 


『ホテル・ルワンダ』を監督したテリー・ジョージは北アイルランド出身の白人である。


アイルランド人が、なぜ、アフリカの小国の民族虐殺を映画化しようとしたのか?


テリー・ジョージは、カソリックとプロテスタントの殺し合いの間に挟まれ、投獄されるなど苦難の青春時代を送り、映画作家になってからも、その抗争の間に挟まれた者を常に主人公にしてきた。その彼が『ホテル・ルワンダ』を映画化しようとした動機をインタビューで答えている。

http://www.bluntreview.com/reviews/terrygeorge.html

「私は宗派(派閥)の対立について特に経験がある。その対立がどのように操られるのかも身をもって知った。“異者”への脅威が普通の人々に恐怖を注入するんだ。たしかに、ルワンダの虐殺は北アイルランドとは規模もまったく違うけれど、それでも根っ子の部分ではやはり同じなんだ。分裂し、相手を征服しようとし、異者が自分の財産や自分の命を狙っているという恐怖を作り上げることだ」

 テリー・ジョージ監督も認めているようにルワンダの虐殺と北アイルランドのカソリックとプロテスタントの対立は、場所も、理由も、事情も、状況もまったく違う。関係ない。

 それでも、何もしていない人々をその属性によって殺そうとする、ということでは同じなのだ。


そして、ルワンダの虐殺と関東大震災での朝鮮人虐殺はたしかにまったく関係ない。

でも、僕は書いた。

「ルワンダは遠い世界の私たちとは違う人たちの話。私たちは虐殺なんかしない」と思う観客の皆さんのために。

パンフレットの文章の最後の最後にたった一行だけ。

スピルバーグが『ミュンヘン』の最後の最後にまったく物語と無関係な世界貿易センタービルを見せたように。


ポールさんは「ルワンダと同じような状況になったら、ルワンダの教訓を活かして欲しい」と願ったが、「同じような状況」であって「何から何までまったく同じ状況」とは言ってない。

すべての状況はそれぞれに違うに決まっているからだ。

だから「関東大震災の朝鮮人虐殺はルワンダ虐殺とは違う」と差異をあげつらうのは簡単だ。

太平洋戦争時の日系アメリカ人の強制収用やリンチだって事情や状況が違う。

トルコのアルメニア人虐殺も、ナチやロシアによるユダヤ人虐殺もみんなそれぞれに事情は違う。

だからそれぞれの違いを考えるのももちろん大切だ。

でも、動機や状況や歴史的背景がどう違おうと、恐怖によって多数派が少数派の異者を、それぞれの個人の行動の罪によってではなく、属性によって殺した、という事実は同じだ。

「大震災の場合は違う」と強調したい人は、「違うから悪くない」と言いたいのだろうか?

そうやって正当化するのなら、人は何度でも虐殺を正当化できる。

それでは、歴史からも、映画からも何も学べない。

「根っこの部分では同じなんだ」と、テリー・ジョージ監督は北アイルランドの経験を投影して『ホテル・ルワンダ』を撮った。ならばなぜ、それを関東大震災に投影してはいけないのか?


関東大震災で殺されたのが朝鮮人だったことはあまり重要ではない。

僕に韓国の血が流れていることともそれほど関係はない。

(僕に韓国の血が流れているからといって、「ルワンダ」の件を韓国人としての党派的発言だと考える人がいるようだが、僕は韓国民ではなく、日本国民だ。何かを考える時、僕はまず日本人としてしか考えられない。混血であるというアイデンティティがその次で、韓国系としてのそれは三番目だ。たまたま父親が韓国人だっただけで何の民族教育も受けてないのに、僕が韓国人として物を考えることができるわけないじゃないか。正直言って、僕は頼んだわけでもないのに生まれたら勝手に韓国の血だけ入ってて、その後何のフォローもされず、迷惑以外何も受けてないんだよ。そんな僕を韓国の手先と考えるのは太平洋戦争中にアメリカの日系人を「敵性分子」として収容所に入れたFBIと同じ考え方だ。僕にとって韓国というのはアメリカの黒人にとってのアフリカのようなものだと言えばわかるかな? なんたって僕は今の天皇陛下が大好きなんだぞ。わからない人にはわからないだろうが、日系人が真珠湾攻撃に迷惑したように、韓国や北朝鮮の狂った反日行動に一番迷惑しているのは僕のような存在なのだ。竹島なんて原爆でこの世から消してしまえばいいと思っている。あんな岩くれのために日本の韓国・朝鮮系が白い目で見られるなんてアホらしい。人は誰でも民族性や党派に当てはめて決め付けようとするが、関係ない人だっている。たとえば僕はイラク戦争やブッシュ政権に反対したので反戦リベラルだと決め付けられるが、そもそも僕が『宝島30』やってた頃、『噂の真相』から「新保守の黒幕」って叩かれてたの知らないの? 北朝鮮拉致や辛ガンスの告発も、まだ国やマスコミが否定していた1992年に既に僕が『宝島30』でさんざんやってたの知らないの? 『底抜け合衆国』を読んでもらえばわかるように、2000年の選挙では民主党のゴアにも反対だった。ずっと応援してきた大統領候補は共和党のジョン・マケインだ。『華氏911』には賛同したが、銃器を所持する権利は守るべきだと思ってて、三度のメシより銃が好きでしょっちょうバリバリ撃ちまくっている。僕はグローバリズムの悪い面を批判したが、だからといってグローバリズム絶対反対!というわけじゃなくて、いい部分はいいと思っている。インチキな金持ちは嫌いだけど資本主義は大好きで、自分はお金持ちになりたい。男女雇用機会均等と共稼ぎに賛成だが、夫婦別姓に反対だし、女性は優しいほうがいいと差別的なことを考えている。事によって意見なんかバラバラで矛盾だらけで、党派や民族に偏った思想なんかない。普通の大多数の人たちと同じようにね)。


 関東大震災の虐殺の原因は現在の日本での朝鮮人蔑視とも日韓併合とも直接はそれほど関係はない。当時の朝鮮人は日本国民であり、韓国と言う国は存在しない。少なくとも現在の韓国とは直接の関係はない。この事件はむしろ日本の中の少数民族問題として考えたほうがいい。

震災のパニックで、人々の恐怖心が朝鮮人が井戸に毒を入れたというデマになっただけで、実は異者ならば、朝鮮人でなくても誰でも被害者になる可能性があったのだ。

重要なのは、テリー・ジョージの言う「根っこ」の部分、「異者への恐怖」そのものだ。

僕は、マスメディア(朝日新聞もだ)がデマを撒き散らし、見た目に違いがない隣人を殺したという点で、ルワンダの虐殺と関東大震災との共通点は多く、日本史上、最も「似たような」例だと思われたので結びつけた。歴史のすべての事件の事情はそれぞれに違うから差異があるのは当たり前だ。

もちろん、そのパンフが日本の観客向けだからそれを例に挙げたわけで、もしオーストラリアの観客向けなら、先日のアラブ人リンチ事件、アメリカなら……山ほどあるな、韓国、中国、それぞれの国の観客に対してはそれぞれの例を挙げて「誰にでもどこにでも起こり得る」と映画を遠い外国の出来事から身近に引き付けるための一言を書いていただろう。


しかし、実際「ルワンダはルワンダ。うちとは関係ない」と分けて考えたがる人がいっぱいいるわけで、期待するだけ無駄、と言う人もいる。

無駄だから言わなきゃいいのに、ということだ。 

スピルバーグは『ミュンヘン』作ったせいでユダヤの同胞から裏切り者呼ばわりされている。

ジョージ・クルーニーは『グッドナイト&グッドラック』でマッカーシーを再評価する右派メディアから袋叩きになっている。

彼らは商業的な娯楽映画を撮ってたほうが利口だと言われている。

僕もこんなこと書かないほうが利口だったかもしれない。

仕事やファンが減るだけで何も得しないのに韓国系であることを明らかにするのも、まったく利口なことではない。

ただ日本で公開される映画のことを褒めて金を稼いでいるほうがずっと利口だ。

しょせん映画なんてただの娯楽で、劇場を出ればみんな忘れるんだ。

『ホテル・ルワンダ』でルワンダの虐殺を撮影したカメラマンが言う。

「みんなこれをテレビで見ても『ひどいわねえ』と言うだけで、また何事もなかったように食事を続けるだけさ」

『ホテル・ルワンダ』を見ても「ひどいわねえ」と言うだけで、日本は関係ないと思うだけさ。

 人は決して歴史から何も学ばないのだ。

 だから、自分と自分の家族の生活だけ心配して、余計なことを書かないほうが利口かもしれない。


でも、やるんだよ。


『ホテル・ルワンダ』で最も感動的なシーンはこれだ。

ポールさんが、ついに国連軍から「君の家族だけ逃がしてやる」と言われる。

しかし、ポールさんはホテルに残ることを選ぶ。泣いて怒る妻子を先に逃がして。

それまでのポールさんはとにかく自分の家族を守ることだけに必死だった。家族愛なんて誰でも持っているものだ。しかし、家族を捨てて、他の人々のために残ると決心した時、彼は家族愛を超えた。だからあのシーンは感動的なのだ。


ポールさんと同じで僕らも映画作家も、政治家でも軍人でもない。

政治のことをいくらいっても床屋談義にすぎない。

パンフにも書いたとおり、テリー・ジョージ監督は、最初の脚本にあったルワンダの特殊な政治的事情に関する部分を大幅に切り捨てた。

そしてポールさんを世界中どこにでもいる人として演出し、時代や土地を超えて共通する普通の男がどうするか、という部分に絞って『ホテル・ルワンダ』を作った。

だから、僕らのような普通の人間にまず、できることは、自分たちが生きて生活する場で、将来虐殺が始まったら、扇動に乗らずに、ポールさんと同じように、自分では絶対に殺さない、と胸に誓うことぐらいだ。

でも、そういう人が世界中にいっぱい増えれば虐殺は減るだろう。


映画や芸術は政治や経済や軍事と違って世の中そのものを直接変えることはできない。

でも、個人個人の考え方は変えることができる、伝わらないことがほとんどだとしても、あきらめずにずっと続ければ少しずつわかってくれる人が増えてくる……愚直にも楽観的にもそう信じようとする気持ちによって映画や芸術は作られ続けていると思う。


スピルバーグもクルーニーもクローネンバーグも、自分と自分の家族の生活のために商業的な娯楽映画だけ撮ってりゃいいのに、無駄だと思っても映画に自分の考えを込め、それが人々に伝わるようインタビューで自分の意図を訴える。

表現が人の気持ちや考え方を変えると信じている。

なぜなら、彼ら自身が映画や小説や戯曲によって目を開かれ、表現者になったからだ。

自分が目覚めたように他の人も目覚めるかもしれないと思うから、無駄とは知りつつも表現することをやめることはできない。

そして僕の仕事は、彼らの意図を彼らの言葉を使って、観客にとって身近なものに結び付けて、観客に伝えることだ。

『ホテル・ルワンダ』のパンフレットでは、上記のテリー・ジョージ監督のインタビューの「ルワンダもアイルランドも根っこは同じだ」という言葉を引用してから大震災の虐殺の話へとつなげたほうが唐突な印象は和らいだかもしれない。でも唐突さでは『ミュンヘン』のラストシーンと似たようなものだと思うけどね。

しかし、最後にたった一行書いただけで朝鮮人への憎しみがぶわーっと沸き起こる人々を見ると、「やっぱりルワンダと変わらないじゃん」と言いたくなった。

でも、僕はブログに関東大震災の朝鮮人虐殺のことを書くとき、虐殺を止めようとした日本人のことばかり書いた。

それは、「日本人はひどいことをした」と断罪してもしょうがないからだ。

だって立場が逆なら朝鮮人が日本人を殺しただろう。どこの民族も虐殺をやってるわけだから。

80年前のことで今の日本人を責めても意味がない(責められた、と思った人は過剰反応したようだが、その人には自分が虐殺をするような人間だという自覚があるのかもしれない)。

僕は、それよりは「ポールさんみたいな人が実際に日本人にいたんだ」という事実を胸に刻んだほうがポジティブだな、と思ったからそう書いた。

そうやって虐殺を止めた日本人こそが本当の日本人だと信じたほうがポジティブだ。なぜなら僕が日本人だからだ。


クローネンバーグはインタビューでこんなことも言っていた。

「現実というのは一つではない。現実は人によって違う。人間は自分にとって現実だと信じたい現実しか信じない生き物だ。モラルも一つではない。自分に都合のいいようにモラルを解釈する。教会で『汝、殺すなかれ』という聖書の教えを奉じ、中絶に反対するキリスト教徒が同時に、戦争や死刑制度に賛成する。だから人類は殺し合いをやめることができないだろうと思う。でも、だからといって、殺し合いのない世界を想像することをあきらめてはいけないんだ。不可能なことを信じるのも、人間だけができることだから」

http://www.edu-kana.com/kenkyu/nezasu/no48/kikou1.htm


寄稿
関東大震災と朝鮮人虐殺
後 藤   周

 関東大震災 (1923年 9 月 1 日) は関東地方に大きな被害をもたらしました。 とりわけ横浜市は中心部が壊滅し、 市内95%が倒壊・焼失、 死者・行方不明者26,600人、 住民の92.4%が罹災する大災害となりました。 県庁、 市役所、 そして 7 つの警察署のうち 6 署が倒壊・焼失し行政は機能せず、 救援、 治安活動の最もおくれた地域でした。 このような状況の中で、 1 日夜には市南部の避難地では 「朝鮮人が襲ってくる」 という流言が生まれ、 朝鮮人虐殺が 2 日、 3 日と全市に拡大します。 流言から虐殺という動きは東京、 千葉、 埼玉など関東地方全域で起こり、 多数の朝鮮人が虐殺されました。 関東大震災の朝鮮人虐殺について、 できるだけ横浜の事実を見ながら考えてみたいと思います。

1. 朝鮮人虐殺の実相
 横浜には大震災の後に小学校で書かれた子どもたちの作文集が残っています。 そのうち南吉田第二小、 寿小、 石川小は学区を接しており、 火に追われた子どもたちはほぼ同一地域に避難しています。 横浜でもっとも早くデマの流れた中村町から根岸にかけての地域です。 作文は、 この地域の警察と人びとが一体となってむかった虐殺のようすを生々しく伝えています。 その幾つかを紹介します。 (朝鮮人のことを 「鮮人」 と書いている子どももいます。 蔑視を含んだ言葉で現在では使いませんが、 原文通りにしています。)

 南吉田第二小6年 1日夜、 稲荷山
 ワーワーという叫び声。 「朝鮮人だ」 「鮮人がせめてきた」 という声がとぎれとぎれに聞こえた。 あまりのおどろきにどうきは急に高くなった。 きん骨たくましい男の方たちはそれぞれ竹を切って棒にしたり、 ハチマキをしたりと用意にいそがしくなった。 …何百何千の山の上にいる人々は、 ただただ朝鮮人が来ないように神に願うほか道はありませんでした。 万一の用意にと女子供までも短い棒をもった。 そして今来るか来るかと、 私とお母さんはたがいにだきあって、 他の人々とすみの方へ息をころしてつっぷしていた。

 南吉田第二小6年 1日夜、 稲荷山
 おまわりさんが 「朝鮮人が刃物をもってくるから、 来たら殺してください」 と言って来ました。 ぼくはそれを聞いたとき、 びっくりしました。 ぼくは兄さんとナイフをもって竹林に行って、 まっすぐでじょうぶな竹をとって竹やりを三本こしらえてくると…

 寿小高等科1年 1日夜~2日朝:横浜植木会社、 唐沢交番 (寿署仮警察署)
  「私、 朝鮮人あります。 らんぼうしません」 といいながら、 私たちにむかっていく度も頭をさげておじぎをしました。 そこへおおぜいの夜警の人が来て…いくら何をされても朝鮮人は一言も話さなかった。 しらべていた人が 「おい、 しかたがねえから警察のだんなの前でお話しろよ」 そういいながら、 おおぜいでよってたかってかつぎあげて門の方へと行ってしまった。 翌朝…寿警察の前をとおりこそうとすると、 門のなかからうむうむとうめき声が聞こえてきた。 私はものずきにも昨夜のことなど、 けろりとわすれて、 門のなかに入った。 うむうむとうなっているのは五、 六人の人が木にしばられ、 顔などはめちゃめちゃで目も口もなく、 ただ胸のあたりがぴくぴく動いているだけだった…         
 石川小高等科2年 2日朝:自宅 (相沢付近)
 …明け方である。 巡査が来て、 今、 桜町方面へ十五、 六人の鮮人が、 松明をつけて残家を焼きつくすと言っておしよせたから用心せよ、 と言って走った。 さあ、 それからと言ふものは、 米がないからじゃがいもをゆでて腹をこしらえ、 大事な物は皆かくし、 又、 極大切な物は持ち、 家はくぎ付けにして来るのをまった。

 寿小高等科1年 2日朝:山元町の交番
  「朝鮮人が交番にしばられているから見に行かないか」 と大きな声で言っていました。 …朝鮮人は電信にゆわいつけられてまっさおな顔をしていました。 よその人は 「こいつはにくらしいやつだ」 と竹棒でぶったので、 朝鮮人はぐったりと下へ頭をさげてしまいました。

 寿小高等科1年 2日朝:横浜植木会社付近
 道のわきに二人ころされていた。 こわいものみたさにそばによって見た。 すると、 頭はわれて血みどろになって、 しゃつは血でそまっていた。 みんなは竹の棒をつっついて 「にくたらしいやつだ。 こいつがゆうべあばれたやつだ」 と、 さもにくにくしげにつばきをはきかけていってしまった。

2. 作文から読み取れること
(1) 人々が 「朝鮮人襲撃」 のデマを信じこみ、 恐怖と憎悪のなか武器をもって虐殺にむかったようすがわかります。 朝鮮人が襲ってくることは実は 1 件もなかった、 その事実が大震災後も伝えられていないこともわかります。 作文は震災の半年後に書かれたものですが、 虐殺への反省や自覚はありません。 「外人が我々のいる所へ来てあばれるなんて、 腹立たしい。 そこへ来て、 鮮人だと聞いてなおさらくやしい。 我が国でありながら、 ああ、 殺してもものたりない」 と書いている子どももいます。
(2) 警察官が朝鮮人襲撃や放火のデマを人々に告げていることや捕らえられた朝鮮人が交番へ連行され、 交番に殺された朝鮮人がしばられていたことを子どもたちは証言しています。 自警団は警察の指導の下に組織されたものもありますし、 少なくとも警察の公認、 黙認のもとに武器を手に取り虐殺にむかっています。 これが 「天下晴れての人殺し」 という意識を民衆に持たせていきます。

3. なぜ、 朝鮮人虐殺は起こったのか
 第一に、 政府・行政の動きがあります。 大災害に際して、 正しい情報を伝え、 人々に冷静な行動を呼びかけて安全をはかるのが政府の役目です。 ところが、 政府は当初はデマを肯定し、 朝鮮人への警戒を呼びかけました。 例えば内務省警保局長から各地方長官 (知事のこと) 宛の電報があります。 東京の電信所が壊滅したため、 2 日午後伝騎により船橋海軍送信所へ送られ 3 日午前 8 時15分に打電されたものです。 「東京附近の震災を利用し、 朝鮮人は各地に放火し、 不逞の目的を遂行せんとし、 現に東京市内に於て爆弾を所持し、 石油を注ぎて放火するものあり。 既に東京府下には一部戒厳令を施行したるが故に、 各地に於て充分周密なる視察を加へ、 鮮人の行動に対しては厳密なる取締を加へられたし。」  次に、 出動した軍隊、 警察の行動があります。 当初はデマを信じての治安行動ですから軍隊による虐殺、 警察官が自警団と一緒になって虐殺を引き起こしています。 従来から軍隊の虐殺証言はありましたが、 1993年に始まった松尾章一氏たち研究者の東京都公文書館、 防衛省防衛研究所図書館、 国立公文書館の史料発掘によって関東戒厳令司令官 「震災警備の為兵器を使用せる事件調査表」 が発見され、 東京、 千葉の軍隊による虐殺が軍の史料によって明らかにされています。
 横浜の場合も 2 日に上陸した海軍陸戦隊は、 朝鮮人放火などのデマを肯定する報告を送っていますし、 加賀町署とともに 「不逞者防圧」 に出動したとあります。 寿小の作文では、 兵隊が 「朝鮮人と戦うために来たのだ」 と言ったと書かれています。 また先にあげた震災作文のように、 警察によるデマの肯定、 伝播があったことは明らかです。
 このような政府・行政の動きの背後に朝鮮支配という絶対的な敵視・敵対関係がありました。 朝鮮の支配があり、 民族運動への弾圧があり、 それが朝鮮人への強い恐れと警戒となったのです。 大災害による治安の不安が、 軍隊による虐殺、 警察による自警団の組織化と民衆による朝鮮人虐殺を生み出したのです。
 最後にデマを信じ虐殺にむかった民衆の問題があります。 目の前にいたのは朝鮮から仕事を求めて来ていた出稼ぎの朝鮮人労働者です。 地震に逃げ惑い火に追われた同じ被災民でした。 その実像とかけ離れたデマを容易に信じたのはなぜでしょう。
 日本の朝鮮支配がありました。 植民地となったため朝鮮の農民は土地を失い生活が苦しくなり、 日本へ働きにきました。 差別のため日本人よりも低い賃金で建設現場や工場で働きました。 きびしい状況の中にあってもけんめいに働き生活をしていました。
 多くの日本人はこのような朝鮮人の姿を理解できませんでした。 日本語のしゃべれない出稼ぎ労働者に対しては無関心でした。 植民地の人びとと見下し、 べっ視しました。 また、 独立運動を見て危険な人びとと警戒し、 恐れもしました。 無関心・無理解、 べっ視や何をするかわからない危険な人びとと見る偏見や差別が、 デマを広げ虐殺をひきおこしました。 偏見や差別が人を殺す、 関東大震災の虐殺はこうして広がったのです。

4. 朝鮮人虐殺から学ぶこと
 デマが広がり虐殺が激しく行われた 2 日、 3 日、 少数ですが朝鮮人を守った日本人がいます。 その多くは土木請負業、 木賃宿営業など日頃から朝鮮人労働者と接していた人々です。 また、 田島町助役の栗谷三男や鶴見警察署長大川常吉がいます。 大川署長のことは地元の佐久間権蔵の 「日記」 や当時町議だった渡辺歌郎の手記 「感要漫録」 の発見によってその朝鮮人保護の経過が明らかになりました。
 朝鮮人、 中国人約400名を警察署に収容保護した大川は、 朝鮮人追放を叫ぶ町民を粘り強く説得しています。 「恐るべき朝鮮人」 「憎むべき朝鮮人」 「悪魔」 とまで言って追放を要求する町議たちに確かな事実を示して、 「デマを信じるな。 彼らは鶴見で働く労働者であり、 あわれな被災者だ」 と反論し説得に成功します。 そして、 町の有力者、 町議たちの協力によって、 警察署の朝鮮人を襲おうとする町民の動きを止めます。 警察官という立場からであっても朝鮮人の親方たちとの日常のかかわりは、 この人たちを殺してはならないという強い思いとなって、 迫害される朝鮮人を守りぬいたのです。
 関東大震災の朝鮮人虐殺は繰り返してはならない重い歴史事実です。 それは政府・行政の朝鮮人の抵抗運動に対する恐怖、 警戒から生まれました。 その背後に日本の朝鮮支配という絶対的な敵対関係がありました。 そして、 日本の民衆は目の前の朝鮮人労働者の存在に無関心でした。 かかわりが薄く、 関心のないところには理解は生まれず、 蔑視や偏見が育ちます。 そして、 朝鮮人労働者の実像からかけ離れたデマを容易に信じ、 虐殺へとむかったのです。
 私たちが学ぶこと、 それは平和な国際関係 (敵対する国や民族をつくらない)、 社会のマイノリティへ関心をもつこと、 かかわりの大切さ、 理解、 そして、 正しい理解を実現する勇気、 人々を説得する力です。
  「たとえ自分の身を犠牲にしても朝鮮人を保護するのは、 それが私の警察官としての責任であり、 また人の道に従うことだからです」 当時の史料 (中島司 「震災美談」 1924年 7 月) が伝える大川常吉のことばです。

  

(ごとう あまね 在日外国人相談センター・信愛塾理事)

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 『鉄の暴風』の取材背景
 戦後四十一年にあたって               沖縄タイムス 1986年8月15日「文化面」

       梅澤隊長“生死”の誤記 - 太田良博


                                                     homeへ
       「解せぬ真相表明の遅れ」

 四十一年自「八月十五日」(終戦記念日)がめぐってきた。「戦争にはよい戦争というものはなく、平和にわるい
平和というものはない」という言葉があるが、あらためて、かみしめでみることにする。
 天災や疫病は、戦争にくらべるとなんでもない。天災や疫病は戦争のように、人間性まで破壊することはないからである。しかも、戦争は、人工的な災害である。けっして避けられないものではない、戦争はご人間が知性的に破産した結果としておこされるものである。そのとき、人間の理性は後方におしやられ、、前面には盲目愛国心がでしゃばってくるのである。「愛国心」は、悪党の最後の避難場所である」(サミエエル・ジョンソン)という極言もあるが、戦争を始めるのは「悪党」と見ていいだろう。

 戦争は、悲惨なものにちがいないが、またバカげたものでもある。戦争の繕果、だれがトクをするかということをとくと考えてみたら、そのことがわかるはずである。戦争でトクをするのは、けっして、「国のために」犠牲になったり、いわゆる「義勇奉公」したりした人たちではない。戦後の日本財界を支配している三井、三菱などを例にとってみても、戦争によって利を得るものは決しで国民とか民衆ではない。戦争の置土産は、とにかく公平なものとはいえないのである。それから戦争は「国のだめ」という名目でたたかわれるのだが、その「国」とはなんなのか。いまにして思えば、「国」なるものの実態は、じつは、当時の軍閥であり、その軍閥に牛耳れた政府であるにすぎなかた。そして、政府が「国」の名でおしつけた戦争で、まず犠牲になったのは、弱い立場にあった人たちである。
 沖縄戦が、そのよい例である。軍の犠牲よりも、住民の犠牲が大きかったし、とくに、慶良間列島では権力をもった軍人が「集団投降」し、弱い立場の島の住民が「集団自決」に追いこまれるという事態が生じたのである。どういう議論があるにせよ、ともかく右の事実が存在したことは争われないのである。

 その慶良間の戦闘だが「鉄の暴風」のなかの座間味島の戦記で、同島の隊長であった梅沢少佐に関する部分には誤記があった。「不明死を遂げた」と記録された、その梅沢元少佐が、現に生存していることが、あとでわかったのである。「鉄のの暴風」のその部分(同署四十一ページ未尾)は、1980年7月15日刊行の第九版から削除してあるが、その誤記の責任者は、じつは、当時、沖縄タイムスの記者であった、この私である。 ここで、梅沢氏と沖縄タイムス社には深く詫びるほかはない。しかし、あの誤記は、故意によるもの、あるいはネツ造によるものではない。 そのことは、自分の良心にちかって言える。 あれは座間味の戦争体験者の座談会をそのまま記録したものであって、梅沢隊長の消息については、あの「誤記」のような説明を私はうけたのである。 正直なところ、梅沢隊長が降伏したことを島の人たちは知らなかったらしい。 ただ、「誤記」のようなウワサがあったようである。あの小さな島で、しかも、当時、一番重要であった人物が、その後どうなったかも知らないほど、島の人たちはすべての情報から遮断され、孤立した状況のなかにおかれていたことがわかる。 『鉄の暴風』執筆当時、私としては、島の人たちでさえ知りえなかった事実をさぐり出すほどの余裕は、当時の私にはなかったのである。「生きている」のに「死んだ」と報じられたことを梅沢氏は抗議しているようだが、「おれは死んではいない」「投降したのだ、そしてこの通り生きているではないか」という意味の抗議なのだろうか。

 それにしても、と私は思う。 というのは『鉄の暴風』の初版が出されたのは1950年の6月15日である。 あれから三十余年間、タイムスが自主的に「誤記」の部分を削除するまで、梅沢氏は自分の所在さえ知らせていないようだし、「誤記」訂正の申し入れもしていないという。 『鉄の暴風』の版元が自ら削除してから6年も過ぎて、なぜいまごろから「真相」を明かすのだろうか。 その辺の梅沢氏の心情は不可解というしかない。
 それから、集団自決を命令したのは自分ではなく、村の責任者だといった弁明もしているようだが、その村の責任者たちはぜんぶ自決してしまっている。死んだ人たちに、そうした責任をかぶせるやりかたには、すなおについていけない。「兵隊-取り除くぺき時代錯韻だね」と皮肉屋のバーナード・ショウは、吐きすてるように言っているが、兵隊が不要になる時代はいつくるのやら。一

 仲が悪いとされる犬と猫が、仲良くだわむれている光景をテレビの画面でたびたびみたことがあるが、同類同属が殺し合うのは動物の世界にはないのではないか。人間は「万物の霊長」などと自賛しているが、はたして、そうだろうか、そんな疑問をもたざるをえない。                                (おおた・りょうはく)

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 「戦争への反省」  太田良博著作集③より抄録 (『琉球新報』一九六一年三月二五日~四月八日連載)

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 (管理人・注)
 少々長い論文であるが、「鉄の暴風」の執筆者の一人で、慶良間の戦記部分を担当した太田良博が1961年3.25~4.8に琉球新報紙上に発表した、太田自身の「沖縄戦への考え方」を述べた論考を掲載する。

 曽野綾子が初めて沖縄を訪ねたのは、この論考発表の数ヶ月前、同じ61年の初頭だと思われる。曽野は、「新沖縄文学」42号で、61年に今東光・中村光夫らと一緒に「文春講演会」のために、初めて沖縄をたずねたと書いている。
太田はこの「戦争への反省」の中で、テレビ放送でこの講演会を見て、中村光夫の一言から、沖縄戦について重要なヒントを得たとしている。面白いもので、同じ番組で、後に天敵となる曽野綾子の講演も見たといっている。

 私が、この長い論文を掲載する理由は、この太田良博の沖縄戦の捉え方に大きな共感を持つからである。
「姫百合部隊」の少女らや住民などの、膨大な人数の戦死は「価値ある戦死」などではなく、国軍のエゴイズムの道連れにされた「無駄死に」であったと断定している点にである。沖縄の人間が1961年当時に、このような考え方を公表することは珍しい事だったのではないだろうか。それより以前に、沖縄を訪問した大宅壮一が「飼いならされた忠誠心」だと揶揄論評して、犠牲者遺族の激しい怒りを買っていた。太田はその大宅壮一を非難していない。追い詰められて自決した牛島中将以下、沖縄守備軍を激しく非難している。
 このように、太田良博は、沖縄戦の実相を的確に捉えているように思われる。だが、太田は手放しで評価できない部分を少なからず持っている作家に思われる。この論文でも、「天皇」は本土決戦を避ける決断を下すという英断を為した、と讃えている。ともあれ、曽野綾子とのからみもあって、読み応えある論文だと思う。   
                            


       戦争への反省  1

              太田 良博


1.「ひめゆりの塔」は犠牲の象徴

沖縄本島の南部は、激戦地として知られている。外来のお客さんは、きまって南部の戦跡を巡拝する。それが、ならわしのようになっている。南部戦跡は、観光名物の一つになっている。沖縄戦の最大の激戦地が南部地区であったと宣伝されているのである。いまでは、沖縄の南部といえば、「戦場」という言葉を連想し、沖縄戦の戦場といえば、南部地区を連想するほどである。それが常識のようになっている。

 中には、沖縄戦は、南部においてのみ戦われたように考えてるものもいるようである。南部沖縄は、住民にとって、たしかに苦しい戦場にはちがいなかった。犠牲の最も大きかった場所であった。しかし、沖縄戦の最大の激戦地は、南部ではなく、沖縄島の中部地区であった。中部地区は、現在、ほとんどが、米軍施設のある場所で、いわゆる基地がそこに集まっている。戦場の名残りはぬぐいさられている。荒涼とした戦場の面影が、そのまま残されているのは、南部である。「南部」と「戦場」の、概念的なむすびつきが、そこから生ずる。南部は、ほんとの意味の戦闘の場所ではなかった。そこでは、戦闘らしい戦闘は行われていない。戦闘が南部の各所で行われたとしても、それは、日本軍の散発的な抵抗であり、米軍側から言えば、一種の掃討戦であった。

 戦闘の後始末といったものであった。日本の敗残兵を追って、米軍は戦場を掃除して歩いたのである。本格的な戦闘は中部地区で行われ、首里の軍司令部が陥落してからは日本軍による組織的抵抗は終わったのである。つまり沖縄戦の主戦場は中部地区だったのである。中部地区では、軍隊と軍隊の戦闘が、正面から戦われた。戦場が南部に移ってからは、日本軍は住民にまじって敗走するだけで、そこでは、前線と銃後、戦闘員と非戦闘員の区別がなくなった。住民にとっては、この南部戦場が最悪の地獄だった。戦争の惨状と住民の犠牲が、その極に達したのである。住民の立場からみて、最大の激戦地は南部地区であったのだ。しかし、ほんとは、沖縄戦において南部の戦場は、無抵抗の住民が、いたずらに無駄死にした場所であって、激戦地でも、主戦場でもなかったのである。その証拠には、米軍側の兵員の犠牲は、ほとんど中部地区で払われている。南部戦場は、住民の体験を通して、最大の戦場として印象されたのである。

 南部に戦場が移ってからは、すでに戦闘は峠を越しており、末期的様相を呈していた。ただ、住民の側から主観的にみて、南部は最大の戦場だったのである,沖縄戦は、沖縄島の全域で行われた。北部の山中でも、戦闘があったし、住民は苦しい体験をした。ただ、南部の戦場が住民にとって、沖縄戦の象徴的な場所として残るようになったのである。そして、南部の戦場は、いくつかの戦跡で、さらに、象徴されるようになった。その象徴の中でも、「ひめゆりの塔」が代表的なものになった。
 その「ひめゆりの塔」は、われわれに何を物語っているだろうか。それは、沖縄戦が、いかに、住民を無駄死にさせた戦争であったかということを物語っているのである。そこに、「ひめゆりの塔」の象徴的な意味がある。「ひめゆりの塔」は、戦争の悲惨を教え、平和への希いを新たにさせる象徴として立っている。戦争の中で、人はいかにいたずらな犠牲を払わされるものであるかということを、われわれに教えてくれるのが、「ひめゆりの塔」によって象徴される沖縄島南部の戦場である。「ひめゆりの塔」の少女たちの死は美しい犠牲であったと思うのはかえって、思想的に危険である。彼女らの死が、ほんとに無駄死であったと悟るところに、「ひめゆりの塔」のほんとの意味がある。そこから、戦争に対する憤りや反省が生まれてくるのである。彼女らの死の意義を否定することによって、われわれは、戦争の意義をも否定することができる。

 彼女らの死に何かの意義をみとめようとすることは、かえって彼女らの死を肯定することになり、ひいては、戦争そのものを肯定することになる。「彼女らは、無意味な死に方をしたのだ。彼女らは、無意味な超国家主義、軍国主義の中で教育され、それを信じて死んだのだ!」それだからこそ、われわれとしては、その事実の中に戦争と平和の意味を発見しなければならぬ。「ひめゆりの塔」をして、戦争と平和の問題を解く、カギたらしめねばならない。また、「ひめゆりの塔」は、女子学生の犠牲の象徴であるばかりでなく、何万という非業の死を遂げた住民の象徴でもある。


無意味に人間を殺す

時とともに、われわれは、戦争に対する鮮烈な印象を失ってゆく。戦争犠牲に対して、鮮烈な印象を経験するのは、むしろ外来のお客さんたちである。
われわれは、日とともに戦争を忘れつつあるが戦争がもたらしたものが何であるか、そのほんとの意味をまだわかっているとはいえない。ちょっと古い話になるが、大宅壮一氏が、沖縄にきて、いろんなことを言って騒がれたことがある。「大宅放言」が住民の間で物議をかもした。ことに、「ひめゆりの塔」の少女たちの死を、彼は無駄死と言った。この一言で、彼は、こちらで人気を失った"この「放言」に、たいていの沖縄人は憤慨したようである。

 しかし、戦争が無意味なものであるということを深く認識しているのは、「ひめゆりの塔」の少女たちの死を無駄死と言い切った大宅氏であるか、それとも大宅氏の「放言」に憤慨した人たちであるのか、考えてみる必要がある。
遺族の立場からすれば、戦争の犠牲者となった肉親の死を無駄だったとは考えたくないであろう,それが、当たり前の人情である。しかし、その当然の人情に安住しては、戦争のほんとの意味が発見できない。戦争の犠牲となった同胞や肉親の死を無意味だったと考えることは、たしかに苦痛である。しかし、戦場の犠牲者の死を無意味と観るところに、実は、意味があるのであって、彼らの死が、われわれに貴重な反省をうながすのである。彼らの死が無駄な死ではなかった、尊い犠牲であったとするなら、何のために無駄な死ではなかったのか、どういう対象に対して尊い犠牲であったのか、という疑問がでてこなければならない。

 戦争犠牲者の死を肯定し、有意義とするところからは、何の意味もひき出されてこない。戦争犠牲に対する、割り切った肯定的な考え方は、戦争に対する反省の不十分から生ずる安易な考え方である。戦争をほんとに憎む気持ちは、そこからはでてこない。
                                                    ー(中略)ー

 波打際の洞窟司令部

私が復員して、沖縄に帰って来たのは、終戦の翌年であった。さらにその翌年私は、知念の丘にあった、沖縄民政府の財政部で仕事をするようになった。
もう、十数年前になる。
ある日民政府の職員たちと、南部戦跡を見に行ったことがある。たしか、トラックを一台か二台つらねて行ったのだが、同行した人たが誰々であったか、忘れてしまったし、ピクニックのつもりだったのか、戦跡をわざわざ見るためだったのか、それとも、調査か何か、お役所の仕事で、私は、ただ一緒につれて行ってもらったのかもよくおぼえていない。
あのころは、私たちの意識の中で、戦争の記憶が生々しかった。私は沖縄戦の体験者でないので、ぜひ、 戦場の跡を見ておきたかった。摩文仁岳に上った。
その後、そこは一度も訪れていない。日本軍司令部の最後の陣地があった所である。陣地跡の洞窟の入口になっているという崖の斜面をのぞいてみた。ちかくに、牛島司令官と長参謀長の墓があった。自分の上っている、その足下に、ほんとに、二人の将軍の遺体が埋められているのか、と思った。表面をセメントでぬりたくって、お粗末な墓碑が立ててある。
                                      ー(中略)ー
 しかし、考えてみると、この粗末な墓が、当時は、破格の待遇だったのだ。島尻の山野には十数万の遺骨が野ざらしにされている。
この摩文仁の岩山に立って、二つの相反する感想が、私の心に浮かんだ。
私が、ここにきて、甚だ意外に思ったのは、洞窟司令部の位置である。そこは、沖縄の最南端である。ということだけなら、その前から聞いて知っていた。が実際、来てみて全く、意外だった。南端の意味が、切実にのみこめた。島の南の端なら、海に近いところであるとは、かねて考えていた。しかし、司令部の位置が、こんなに海に近い所とは創造もしていなかった。ここは、もう、波打際ではないか。

海は、すぐ真下である。こんなところまで、司令部は退ってきたのか,こういう例は、めったにあるものではないぞ、と思ったのである。日本の戦史にも、外国の戦史にも、例のないことではないだろうか、と考えたのである。それは、現場を見たときの直感であった。波打ち際で切り死にしたという感じである。戦えるところまで戦い、徹底抗戟し、最後まで降伏せずに、死を選んだという壮烈、悲壮、果敢であるとの感慨である。頑強に抵抗し、手を切られ、足を切られても、頭だけで噛みつこうとしたのだ。司令部だけになっても、一つの戦闘単位として、行動したのだ。そのはてに、それこそ矢弾つきて、司令官は、軍人としての最高のの責任をとったのだ ―― 。
しかし、次の瞬間、まったく別の感想におそわれた。司令部が波打際の近くにあるというのは、考えてみると、おかしい。
その司令部は、大隊や連隊単位の司令部ではない。旅団や師団のさらに上級にある、いわば、軍団の司令部である。沖縄守備軍最高司令官の戦闘指揮所なのである。

それが、島の南端の、ちっぽけな岩山のしかも、海を前にした洞窟内にある。これは、もはや戦闘ではない。こんな戦闘指揮所というのはないのだ。小隊や中隊の指揮所なら、ともかく、最高司令官が、ここまで退却して、戦闘が指揮できるはずはない。すでに、司令部は司令部としての機能を失っている。司令部という概念からははるかに遠い存在になっている。なるほど、敵を前面にしたときは、最高司令部は、最後方で、指揮をとるのが普通である。敵前近く司令部が進出するばあいでも、その周囲には、幾層にも、部隊が配置されて、司令部は、味方戦力の部厚い壁の深層に位置するはずである。司令部は戦闘力の中心点であるべきである。敵が周囲におるときは、司令部の位置は、周囲に戦闘力をはりめぐらした、その中心点にあるべきはずである。 
     
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戦争への反省 2 

     太田 良博
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 牛島司令官の死

 あの、南の岩の果てまで、よくも戦い続けたという感慨と、逃げられるところまで落ちのびて、窮地に追いこまれたあげく、司令官は「死」以外に、事態から逃れる術がなかったのではないか、という疑問がぶつかり合った。その疑問は、未解決のまま、自分は持っていた。
更に、そういう戦場のモラルを深く追求してみようという気持ちが起こらなかったので、あのときのままの素朴な形で、疑問はのこされた。いや、その疑問は、いつか日常生活の中で、忘れられていた。
その後、摩文仁を訪れたことはないが、あのとき、私が、そういう疑問をなぜ追求しようとしなかったか、それには、もう一つの理由があった。摩文仁岳の上々しい戦場に立つと、まだ砲煙の香いがし、追いつめられた人たちが生死の境をさまよう姿が、生々しいイメージとなって、脳裏に浮かんだ。

 しかし、そういうものを忘れさせるほどの強烈なある感情に、私はとらわれていた。
それは、戦場とは、最も対照的な感情だったが、今でも、忘れ得ない印象となって思い出される。私が同行した人たちは、みな沖縄戦の体験者であったが、ピクニックのような気持ちで、摩文仁岳のあちこちを歩きまわっていた。時々、笑い声を立てて明るい表情をしていた。戦争の暗い影など、どこにもなかった。
自然は、もっと明るかった。快晴の天気で、野の色も、海の色も実に、あざやかだった。とてつもなく明るい空からは、柔らかく、温かく、ふんだんに、春の光りがそそいでいた。空気が、春で、無限にふくらんでいるようだった。これほど、ぜいたくに、光の洪水をあびたことはなかった。すべてが、平和で、静かだった。私たちをとりまく自然は、甘い叙情のようなものを、いっぱいふくんでいた。

 平和はこんなにすばらしいものであるかと、胱惚とさせられるような瞬間であった。
 牛島司令官の墓から、遠くないところに、平坦な広っぱがあり、岩石の上に、草が青々としげり、その向こうで、太平洋の波が、遠くまでキラキラと輝いていた。私は、生きていることの美しさと、自然のすばらしく、やさしい表情に感動してしまった。心のヒダヒダまで明るく照らし出されるような、その明るさ。
清潔で、甘い空気!
私は、ひとつの草むらをみつけて腰を下ろし、波の輝きをいつまでもみつめていた。
二十代の青春を、軍隊と戦争の中で失い、運命にうちひしがれたように帰ってきた故郷はさらに過酷な運命の試練をうけていた。そして、沖縄戦の断末魔の声をきくような、この摩文仁岳の上に立ってみると、自然は何という美しい表情をしているのだろう。まるで信じられないくらいである。悪夢を見たあとのようなおどろきとやすらぎがひたひたと私をひたした。
これが、ほんとの生命だ。生きることは、こんなに美しいことなのだ。戦争は、ウソのように、忘れられ、自然は、無関心に、平和でやさしく、人間をつつんでた。太平洋の波の輝きをみているうちに、ある感動で、私は感傷的にさえなっていた。

 なにか、私は、大きな問題を考えているようだった。ひとくちにいえば「戦争と平和」の問題である。この生々しい戦場で、この皮肉とも思われる平和な自然に包まれて日本の軍司令部が最後まで戦ってここまできたのか、あるいは逃げられるところまで逃げて、この岩の一隅で、軍司令官は自決したのか、といった疑問は、「平和と戦争」の問題の前では、はなはだ小さいものだった。しかし、その問題は余りに大きく、ナゾであった。私はそこで、ただ、感傷し、感動し、切れ切れに思考しているにすぎなかった。このときの強烈な感動も、そのままの形で、いつの間にか、私の心の中で、色あせていった。それは、それ以上のものにならなかったのである。
おおげさにいえば、論理に発展しなかったのである。
やがて、戦場を忘れた生活の中で十余年がすぎた。
はからずも、摩文仁岳の一日を思い出したのは、次の事情からである。
私は、家でテレビをみていた。

 文春講演会が放送されていたのである。
 中村光夫氏が、あることを言いかけたとき、私は思わず、ハッとして椅子に坐ったまま、上体をのり出した。摩文仁の軍司令部跡を見たときの印象に話が及んだとき、中村氏の口から、こんな言葉が出てきた。
「軍司令部が、あんなところにあることに、自分は疑問を感ずる。あの戦場で、住民をたくさん死なせていて、司令官は死ねばそれで責任がすむのか。あきらかに、あれは、作戦の失敗である。作戦で「イロハ」ともいうべき失敗をしている……」
それは、私が聞く初めての言葉であった。これまで、誰からも、こういう言葉を聞いたことがなかった。また、書かれたのを読んだこともなかった。牛島司令官は、立派な軍人として偶像化され、住民は、尊敬こそすれ、非難する者はいなかった。批判の対象にしなかった。

軍部を象徴する暗いエゴイズム

「なんでも、疑ってみることが大切だ。権威を無批判に肯定してはいけない」という意味のことを、曽野綾子さんが講演したあとだった。 戦闘員だけでなく、多くの住民の生命や財産を失わせた戦争の最高責任者である司令官に対して、住民の中からひとつも批判の声が聞かれないのはどうしたことか。
第一に、軍人としての牛島は尊敬されている。
 事に彼の最後が、悲壮だったからである。
 私は、かつて摩文仁岳で感じた疑問を誰にも話したこともなければ、書いたこともなかった。自分が長いあいだ抱いてきたのと同じ疑問を、中村氏の言葉にみつけて、私は、中村氏の次の言葉を待った。なにか、つっこんだことをいうのではないか。例の疑問を、はっきりと解明するような言葉を期待したのである。
ところが、中村氏の講演は、別の話題に移ってしまった。ただ、ひどくまずい作戦をしたものだということだけで話は切れてしまった。
その後、中央公論社から出た岡本太郎氏の「忘れられた日本」という本を読んだ。「沖縄文化論」という副題のついた本で、いろんな人が批評していてたいへん評判がよい。
この本の十七ページから十九ぺージにかけて、こんなことが書いてある。すこし長いが、引用することにする。

沖縄見学の手始めはしかし、ここを訪れる誰でもがまず案内されるコースだ。ときどき激しくふきつけ、降ってはやむ雨の中を、南部の戦跡、島尻地方を一周することになった。ここは太平洋戦争の最後の激戦地であり、まだ癒えない傷痕が深く残っている地域だ。
有名な「ひめゆりの塔」「健児の塔」「魂塊の塔」などを見た。大地にぼかっと暗くあいた宕穴や、珊瑚礁をめぐらす荒い磯に迫って、高々と突っ立った岩石の下の鍾乳洞。そこで降伏することもゆるされず、無数の若い娘たちや少年たちが自決し、あるいは惨殺された。白い腕、脚、首がちりぢりに飛び、地底の暗闇にうもれたイメージはむごたらしい。
当時この戦いを生きぬいた友人から、いかに絶望的で無意味な戦い方をしたか、このあたりの地形に即して戦況の説明を聞きながら廻って行くと、もはや過ぎ去ったこととはいえ、あまりにも愚劣な悲劇に言葉も出ない。
これらの戦場を一眼に見おろす、いちだんと高い荒い岩山の上、あそこで司令官、牛島中将が最後に自決したのだなどと聞くと、とたんにムラムラする。
情況はすべて知らされず、ほとんど盲目だった無数の島民や兵隊達をかりたて、一発射てば直ちに干発のお返しがくるという、手も足も出ない圧倒的な敵に対して,為すこともなく退き、追われて来た。最南端の海岸ぶちの洞窟にたてこもり、なお大日本帝国の軍人精神の虚勢に自らを縛り、鼠のように死んで行った。とことんまで叩きつぶされていながら、そして目の下に自分らのおかした惨憎たる無意味な破局を眺めながら、ついに最後まで虚栄の中に、反省もなく「帝国軍人らしく」自刃した。――彼個人がどんな立派な人格の持ち主だったか、それは知らない。だがその軍部を象徴する暗いエゴイズム。――私は嫌悪に戦慄する。
旧日本軍隊の救い難い愚劣さ、非人間性、その恥と屈辱がここにコンデンスされている。これはもっともっと叫ばれてよい問題だ。
島民も兵隊も、こんな小さい島で飢と疲労と恐怖にぎりぎりまで追いつめられ、なお戦いつづけなければならなかった。いったい人間的にそんな義理あいがあったというのだろうか。彼らの中には、何とかして生きぬこうと、見えない対岸に向かって大海を泳ぎだし、力つきて溺れた者が無数にあったという。想像をこえた、絶体絶命の恐怖感である。
彼らの運命はまことに気の毒だと言うほかない。ところで、もしあの時、軍部が夢みていた本土決戦などというものが本当に実現されていたとしたらどうだったろう。血迷った狂信の末期現象はとうてい想像することのできない地獄絵巻を展開したに違いない。
内地ではとかくアメリ力の軍政下にある島民生活の悲惨さがクローズアップされる。私も自由と民族的プライドを奪われている彼らの顔がどんなに暗いか、そういうアクチュアリティをも観察しなければと思っていたが、しかしこの戦跡を見ていると、はるかに日本人が日本人に対しておかした傲慢無比、愚劣、卑怯、あくどさに対する憤りでやりきれない。
私は人間が死ぬなんて、たいしたことだとは思わない。そんなことに馬鹿騒ぎするヒューマニズムをむしろ腹から軽蔑している。しかしこういう事実を中心とした卑劣、不潔さは絶対に許せないのだ。

私は、ここにも共鳴者を発見した。
岡本氏の言葉は、義憤し、興奮している。かなり、私の考えが、はっきりと、まとまってきた。しかし、自分なりの疑問がやはり残っている。忘れかけていた問題になにか答を出してみたくなった。    (おおた・りょうはく) (『琉球新報』一九六一年三月二五日~四月八日連載)

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戦争への反省 3 
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      太田 良博  

八重瀬岳が最後の線

 彼(牛島)は最初から死を覚悟していたはずである。彼は死に場所と、死の時期を求めて、島尻の南端まで、おちのびたのだ。彼の「死に場所」と「死の時期」、それは、単に彼個人の問題をこえた、重大な意味をもつものである。
 軍人、作戦家、あるいは人間としての彼を云々する場合も、彼の「死に場所」と「死の時期」は、看過できない要件になる。ことに軍人は「死にぎわが大切」といわれる。

 しかし、それよりも、重要なことは、司令官の「死」が、事実上、戦闘行動にピリオドを打ったということである。
 沖縄戦は、牛島司令官が自決した日を以て、終わったことになっている。あらゆる戦闘行動が、そのときにストップしたのである。司令官が一日、死をのばしたら、戦闘は一日のび、司令官の決心が一日早かったら、戦闘は一日早く終わっていたはずである。米地上部隊の追撃と、艦砲射撃をうけて、何十万の人間が、あの狭い南部地区で、生死の間を右往左往していた状況と、司令官の「死」をむすびつけて考える必要がある。刻一刻、おびただしい犠牲者がでる。一日戦闘がのびれば、犠牲者は数千ふえ、一日早く戦闘が終われば、それだけ犠牲者がへるという、急迫した状況である。
 それは、南部地区に限ったことではない。中部・北部地区でも、戦死餓死者は続出している。

 こういう状況の中で、司令部は司令官を守り、司令官は「死の場所」と「死の時期」を選ぶために、島の南端まで、退却をつづけたのである。
 戦闘はつづいていたが、それは、無駄な抵抗であって、軍事的に意味のあるものではなかった。作戦上、まったく無価値な抵抗にすぎなかった。
 組織的な戦闘力を維持しつつ、作戦上の予定の行動として、後退するのが退却である。退却は、反撃のための準備であるべきである。ところが、南部戦線に後退した日本軍の残存生力は、組織的戦闘能力を失ない、各個バラバラとなり、指揮系統は寸断、断絶し、敗残兵の形で住民にまじって、右往左往していたにすぎない。
 組織的に戦闘力をととのえ、無意味な抵抗でも、最後の一戦を花々しく交え、玉砕を辞せずというなら、住民と兵員を地域的に区別し住民区と戦闘区域を対抗軍に通告し、戦闘体勢を整えるべきである。
 司令部には、その気持ちはなかったのである。
 司令部が摩文仁に後退する前、八重瀬岳の陣地で、各部隊長を集めての最後の作戦会議があり、オブザーバーとして、島田知事も出席した。
 その席上、島田知事は、「戦闘力のない住民は、全部、知念半島に移し、そこを無防備地帯とし、米軍に通告すること」を、主張したが、軍首脳は、その主張をききいれなかった。
 軍民一体という思想であろうか。身に寸鉄をおびぬ住民、老幼男女は、かくして、砲火にさらされたのである。司令官と日本軍は、何万、あるいは「十何万の住民を、死の道連れにしたのだ。
 住民は無理心中を強制されたのだ。路傍で、母はたおれ、幼児はその乳房にすがって泣き、足を切られた男は泥の中をはい、腹を血にそめた若い女が「水を」「水を」と叫び、傷ぐちには生きたままウジが湧き、新しい死体は戦場の至るところに、重なり、ころがり……。

 その中で、司令官を守り、司令官は、自らの「死に場所」と「死の時期」を求めて、どの兵員よりも、どの住民よりも、遠く、南の果て、波打際の岩山までおちのびたのである。
 そのほかは、戦場に、砲火の中に置きざりにされたのである。
 司令部だけが、最後をかざるための最も安全な場所まで辿りつくことができたのである。南部島尻一帯の地形をみればわかる。あとは、平坦で、どこにもかくれる場所はない。
 摩文仁岳は、もう、戦闘を指揮するというような場所ではない。
 素人でも、それはわかることだ。司令部が、波打際まで逃げて、士気を鼓舞できるはずがない。
 あの岩山の洞窟からどうして、命令を出したり、各部隊との連絡ができるのか。無線連絡――以外にない。しかし、命令を出そうにも、戦うべき、まとまった部隊とてはなく、兵員は敗残兵と化している。
八重瀬岳の線で戦闘体制を整えるチャンスがあったかも知れないがそれをしなかった。
外国の司令官なら、首里司令部の陥落のときに、降伏か自決か最後の処置をきめたにちがいない。日本軍による組織的抵抗は、首里戦線で終わったのである。
本格的戦闘はそこで終わり、勝敗は、はっきりしたのである。それからは、無意味な戦争で、いたずらに住民を犠牲にした。
降伏を考えない日本軍は八重瀬岳まで退った。私は、八重瀬岳が、師団以上の最高指揮所としては、いきつく、最後の線ではなかったかと考える。

沖縄は捨て石だった

 摩文仁司令部内でも、犠牲者はでている。洞窟を守る兵隊が殺されており、沖縄の若い女子職員が、何名か手榴弾で自決している。司令官に殉死した格好になっている。
 すぐ目の前で、無駄死を司令官たちは見ている。そのあとで、自決している。司令部の女子職員の自決が、心理的に、司令官たちの決意をうながしたかも知れない。
参謀や高級将校の中から、どしどし逃げる者がでた。
 北部に突破して、北部にいる部隊の指揮をとるとか、戦況を大本営に報吉するとか、いろいろの理由をつけて、摩文仁の洞窟から、離脱している。住民の死体は、海岸線にも、うようよ浮いている。
 そして、糸満漁夫など、米艦船のびっしりとりまく海上をクリ舟をこぎ、何々参謀をのせて与論島などに渡す。冒険に生命をかけて、逃げる手つだいをする。憤激せずにはいられない喜劇である。
 ここに、ひとつの疑問がある。
 司令官は、大本営の指揮をうけている。大本営からは、一日も長く持ちこたえろと命令されたかも知れない。そうなれば、軍の中央部は、沖縄住民を、まったく犠牲にしても、本土決戦の日をのばそうとしたことになり、沖縄は捨て石だったことになる。本土決戦になったら、おそらく、民は軍の犠牲になったにちがいない。沖縄戦はその縮図である。その縮図が本土で拡大されなかったのは、日本国民にとって幸いであった。
 沖縄戦は、日本の県内でたたかわれた最初にして最後の戦争となったのである。
 こういう不運な戦争の最高責任者となった牛島中将の立場は気の毒である。牛島中将より、さらに、軍中央部で、戦争を計画した責任者の中にも、現在、ピンピン生きている人たちがいる。個人としての牛島さんは、どうということはない。軍人らしい軍人であったといえる。

 しかし、私が問題にしたいのは、その軍人らしい軍人であり、その典型を牛島さんの生死にみるのである。
 かつての陸軍イデオロギーのエゴイズム。
 軍人のプライドと面子を保持するためには、いかなる犠牲にも無関心であった、石のような愚かさ――。
 牛島司令官は、陸軍士官学校長でもあった。日本陸軍の中でも典型的な軍人である軍の中核体となる将校は、そこで、薫陶をうけ、イデオロギーを身につけるのだ。       (おおた・りょうはく) (『琉球新報』一九六一年三月二五日~四月八日連載)

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戦争への反省 4
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     太田 良博

【後記】
 牛島司令官の死は、悲壮である。しかし、死にあたっての人間的な悩みは感じられない。陸軍省への打電文で、自分の責任をわびている。しかし、上司に対してわびているのである。自分の行動に対して、上司がどう考えるかということが何より気がかりだったようにとれる。
軍人官僚の心理である。敗けても名誉はたもちたい。―反面、死んだ住民に心からすまないとは思っていったにちがいない。辞世の句に、それがにおわされている。
「枯れゆく島の青草」という言葉である。天皇が国民を民草と呼んだごとく、彼は沖縄の住民を「青草」と詠んだ。高いところから慈愛を込めた言葉である。しかし、そこに人間性にねざした愛情は感じられぬ。
自分の最後の心境をのべたいがために、摩文仁まで退ったかも知れないが、その心境には悩みはなく坦々たるものである。死を決意してよくねむったのである。
古武士の面影というものである。

敗戦の責任を上司にわびた牛島司令官は、「たまがえり、たまがえりつつ、み国まもらぬ」の歌で責任をカバーし、自らなぐさめている。
また、「島の青草」の枯れたのを惜しみながら「み国の春によみがえるであろう」と、簡単に自責をのがれている。
あれだけの住民が戦野に死体をさらしたことを、この軍人は草が枯れたぐらいにしか惜しんでない。
―枯れた草は、よみがえらないのである。住民が死んだあとには、かえって、ほんとの草が、青々としげっているだけである。摩文仁岳の高いところから戦野をみおろしている牛島司令官の霊(もし霊というものがあれば)は、その青草をみて、枯れた草がよみがえったのだとでも考えているのだろうか。
*   *   *
本土からいろんな有名人がきてきまって戦跡をみる。
新たな涙をさそう。その涙で、われわれの感情は新鮮にむちうたれる。
あべこべである。
われわれは、いつか戦争を忘れてしまっている。体験したのは我々である。忘れやすいというか、たくましく生活をきずきつつあるというべきか。
本土のお客さんは、また、きまって、琉球の古典舞踊をみせられる。私自身、あの舞踊をみて、これはいったいとういうことかと考える。
あの、むごたらしい戦争をへてなお優雅で静かな古典芸能が生きつづけている。
戦争のイメージと、この舞踊はどうしてもむすびつかない。
「戦争と平和」のように。

むすび

 沖縄戦で、兵や住民がたくさん自決している。戦場の自殺心理に二通りあると思う。
 降伏する勇気がなくて、敵に殺されるよりは、と極度の恐怖心から、絶望に追い込まれて自殺する場合と、降伏を恥として自殺する場合の二つである。戦場で、死ぬ必要のない場合、死に追いこまれる心理の呪ばくに、みながかかっていた。兵隊だけでなく、住民もたいてい手榴弾をもっていた。それは、戦闘用ではなく、自決用としてである。
 米軍が降伏を勧告すると、一人の将校がでてきて、みなと相談するから、しばらく待ってくれと壕の中に消え、しばらくすると「君が代」の合唱が聞こえ、轟然、手榴弾の爆発音が、それにつづいたという話。喜屋武の海岸で、兵隊に殺してくれとせがむ女学生、誰も彼も死神にとりつかれ、死を急いでいたような感じである。降伏がこわくて死ぬ、降伏を恥として死ぬ、いずれにしても、当時は、死が戦場における最高の倫理だったのである。降伏がこわいという場合も、敵だけがこわいだけでなく、降伏を軽蔑する味方の心理がこわかったのである。

「一死報国」「生きて虜囚の恥かしめをうけず」
 これが、白空局の時代精神であり、この精神に殉じたわけである。敗戦の恥を忍ぶよりは、一億玉砕を、と叫んだ軍部の考え方だった。
「何でも死ねば、それで事がすむのだろうか」と、当地での文春講演会で、中村光夫氏がのべていたこの問いは、大切である。
 「 死んでおわびをする」ということがよく言われる。
 「私のくびをさし上げてもよい」と言って誓う。死ぬことで何でも解決するという思想である。
他人にどんな迷惑や、害をあたえても自分が死ねば、それで「おわび」になると考える。死への逃避で責任は回避される。そうだろうか。なるほど、死んだ人を相手に責任を問うことはできない。しかし、これは、道徳の問題である。日本の天皇制は、今後問題になるだろうと思われるが、終戦のときの天皇の態度はよかった。
「自分はどうなってもよい。忍びがかたきを忍んで、生きる道を考えようではないか」と、軍部の主戦論をしりぞけて、国民に将来の道をひらいてくれたことに人間的な親愛感がもたれる。
無理心中に国民を引きずりこもうとした軍部の手から、国民は解放されたのである。
西欧人は、戦えるだけ戦って、戦いが無駄だとわかると、降伏するのを恥としない。
考えが合理的である。
「最後の一兵まで」という言葉が外国にもある。これは、最後の一兵まで戦って、敵に損害をあたえるということで、やはり、戦闘効果ということを頭においている。日本人は、玉砕である。敵をたおさなくても、自決することで、虜囚の恥をうけず、死して護国の鬼となるのである。

牛島司令官の陸軍省への電文には、やはり、死して護国の鬼とならん、ということが言われている。他の軍人も、その気持ちで自決した。そして、立派な死だけが美しいものとなる。牛島、長両将軍は「死をみること帰するが如き」態度で死んだので、尊敬される。
東条大将は、自決をやりそこなって、往生際がわるいと非難される。立派に生きることより以上に立派に死ぬことが大切とされた。しかし「死ねばすべて、ことがすむ」という考えかたは、それでいいのだろうか。どんなことをしても死んだら「おわび」ができるのだろうか。「死ぬ気持ちでやったら、どんなことでもできる」ともいう。果してそうだろうか。何でも死とむすびつけて考えるが「死」と「生」は別物である。
生きて何かをやるためには、生きることの意味を知らなくてはならない。死ぬ気持ちだけあれば、何でもやれると考えるのは、変である。
山ロ少年が浅沼さんを殺して自殺した。それで、山ロ少年の行動は立派だというのも出るし、浅沼殺害が帳消しになったように思うものもいる。
浅沼さんの死と、山ロ少年の死とは別物である。浅沼さんの生と、山ロ少年の生が別物であったように、山ロ少年の死と浅沼さんの死はまったく無関係である。
 山ロ少年は「死んで世間におわび」したわけだ。自己犠牲で、殺人行為に解決をつけたわけだ。彼も死んで護国の鬼となるつもりだったのかも知れない。
「愛なくして、なんの英雄ぞや」
ロマン・ロランの言葉である。

人間への、生存への愛情のないヒロイズムは、狂沙汰である。
死んでおわびができるなら、死んだらすべて責任がまぬかれるなら人間はどんな無責任なことをするかわからない。みんながそんな考えをもつとしたら、世の中は、こわくなる。他に害や迷惑をあたえることと、自らの死とは無関係である。自殺行為だけでは、何事も解決しない。生きていたときの行為は、その影響は、それでは消えない。
「立派に死ぬ」ことだけを、最高道徳と考えた旧軍隊の理念にひきずられて、沖縄戦は、悲劇的な結果を招いた。住民が無駄死したのである。死んだ人たちは、当時の最高理念に殉じたのだが、生きることはもっと意味があるということを知ることによって、彼らの無駄死は、ほんとに惜しまれるのである。―       (おおた・りょうはく) (『琉球新報』一九六一年三月二五日~四月八日連載)
                                                        (以下略)
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生理がとまる (太田良博著作集③「戦争への反省」より) (未発表原稿)

            太田良博(おおた・りょうはく) ホームへ

 沖縄では、戦争が終わって、しばらく、一年か二年というものは、ふだんの生活のなかで、あまり戦争のことが話題にのぼらなかったように思われる。戦争の話がまったくなかったわけではないが、おおかたは、戦争のことは話したくないというふうに思われた。戦争で生き残った人たちにとって、「生き残った」ということだけで、それが、大変な意味をもっていた。
 そして、新しい生活が始まっていた! その生活が、過ぎた戦争よりはるかに重要な意味をもっており、戦争は、むしろ、思い出したくない、早く忘れてしまいたい悪夢だったようだ。新しい生活が始まった、といっても、それは幕舎の中の生活であり、前途に、いくらかでも輝やかしい希望があったわけでもない。沖縄が、これからどうなっていくのか、誰にも、はっきりした青写真があったわけではない。
 「いつになったら畳の上に寝られるような生活がくるだろう」と、漠然と考えられていた時代であった。子供たちは、いわゆる「馬小屋教室」で、ちゃんとした教科書もない授業を受けていた。しかし、それは、なんと言っても「新しい生活」だった。「新しい生活」、つまり、それは、「平和」そのものであり、それだけで、大きな意味があった。その意味にしがみつくだけで、せい一杯だった。戦争の体験は、誰の頭のなかでも整理されていなかった。戦争を思い出すことは、「平和」の意味にやっとしがみついている生活の糸をぷっつり切るようなものだった。

 ことに女は、戦争の話をやりたがらなかった。こんな話を聞いたことがある。ある若い女性は、誰かが戦争の話をするのを聞いただけで、その晩は、熱発して、なにかにうなされるような状態になるということだった。
 また、「一生、結婚はしたくない」と言う娘もいた。その娘が、沖縄の戦場で、どんな体験をし、どんな光景を見てきたか知らないが、戦場の現実が彼女の心に深い傷をのこしていることはたしかである。いやしがたい人間不信というか、ことに、性愛の対象として男性をみる口マンがうちかれるほどの衝撃をうけたことが考えられる。その娘が、その後、結婚したかどうかは聞いていないが、戦場でうけた心の傷は、一生、心の傷としてのこるにちがいない。
 戦争が終わって四年ほどたったある日、ある女たちの集まりのなかで、こんな話を聞いた。ふと、ある若い女性が、自分は戦争中はもちろん戦争がすんでからもしばらく生理がなかった。八ヶ月ぐらい生理がとまった、と言い出した。すると、別の女性は十ヶ月生理がなかったと証言した。
 はじめ、そのことが自分には信じられなかった。沖縄戦のすごさをこれほど伝える言葉はないように思われる。

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豊見城海軍壕 (太田良博著作集③『戦争への反省』 Ⅰ沖縄戦の諸相より)

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太田良博

    (管理人注:本論文は未発表原稿で、執筆年代不明だが、S30年代半ばかと思われる。)

 沖縄戦で住民は足手まといであった。それで、東条内閣は昭和十九年七月七日、サイパン玉砕の翌日の閣議で、奄美大島以南の南西諸島の老幼婦女子を本土と台湾に避難させることを決定した。沖縄県から本土に八万人、台湾に二万人の疎開が予定されたが、結果は、九州に六万人、台湾に約二万人が送り出された。沖縄にはなお四〇万人以上の住民がいた。島内疎開は、県外疎開が終わつてから実施するとの軍や県当局の方針は、結果的には失敗だった。米軍は、時間的余裕をあたえなかったのである。

 沖縄島内の疎開についで、軍が県当局に要請した事項は、
  (1)六〇才以上の老人及び国民学校以下の小児を昭和二十年三月末までに疎開させる。
  軍は北行する 空車輌及び機帆船をもつて疎開を援助する。
  (2)その他の非戦闘員は、戦闘開始必至と判断する時機に、軍の指示により一挙に北部に疎開する。
  (疎開事務は、名護の東江国民学校内にある国頭地方事務所が担当)

 島内疎開は、激戦が予想される沖縄本島の中・南部の非戦闘員を、比較的安全と予想される北部山岳地帯に疎開させることだが、その実施時期より早い三月二十三日にアメリカの機動部隊がやってきて、翌二十四日からは砲撃を開始した。その砲撃下で、中部南部の住民を北部の山中に疎開させた。
 疎開させたというより、疎開の号令をかけたといったほうがよい。
 予定されていた輸送機関は、住民移動のために一つも使われなかった。そのため、住民の大部分は、中・南部の戦場に放置されてしまった。住民の一部が、疎開のかけ声に応じて、各個別々に徒歩で移動したにすぎない。あわてふためいた軍は、住民の疎開移動どころではない、空いた車輌や機帆船などを、住民移動のために提供するという計画などふっとんでしまった。
 最初北部に一〇万を疎開させる予定だったが、やっと二万だけが、徒歩で北部に向かった。北部疎開といっても、受け人れ地での計画は何もない。北部の山岳地帯に、たくさんの人間が移動したら直ちに食糧に窮するのはわかり切ったことだが、その準備がまるでない。北部各村の役場に連絡して疎開民をおしつけているが、役場が疎開民の生活の面倒までみられるはずがない。北部疎開といっても山の中に放ったらかされたようなものだった。住民は山羊小屋よりみじめな、押せば倒れるような「疎開小屋」に住むことになった。

 とにかく砲弾に追われて、南部から北部山中への避難が、米軍上陸の前夜まで、連日連夜続き、軍の作戦行動と交錯し、道路上の混雑がはなはだしかった。
 県当局は国頭の各村に収容を割り当てたといっても、疎開地域の指定にとどまり、とても地方農村として、都会地から流れてきた多数の疎開民の面倒はみておれない。また設営班を設けて避難小屋の設営を実施したが、それも雨露をしのぐにも事欠くていどのものだった。また、避難民のための食糧をいくらかき集めても、軍が輸送力を独占し、住民の食糧輸送に使用させないのでは、避難民の生活を保障するだけの食糧は集めることができない、というのが簡単に説明できる実情であった。
 いわば戦場予定区域の沖縄島、中・南部から住民は、何の準備もないまま北部山中へ追いやられたのである。そこには、飢餓が待っていた。作戦中における、北部での餓死者続出の惨状は、米軍上陸時の無統制な北部移動の結果であった。
 住民の食糧は戦災を予想して各地に分散貯蔵してあったのを、敵上陸までにトラックや荷馬車でいくらか北部疎開地へ輸送されたものの、とても二万の疎開民をささえることはできなかった。北部山岳地帯の疎開地は、戦闘期間、分離孤立したまま自活を余儀なくされたが、疎開者のほとんどが老幼婦女子であったのと、未知の土地での食糧確保の困難が多くの栄養失調死を招いた。
 民間の車両もほとんど軍に徴用されていたので、疎開民の移動は徒歩でおこなわれた。
 空襲下、幼い子供をつれた女たちが、持てるだけの荷物をもち、子供の手を引いて七〇キロから一〇〇キロの道を、泥にまみれ、雨に打たれながら北部へ歩いて行った。
 しかし、ここにただ一つの例外があった。
 住民の北部移動で、小禄に陣地のあった海軍部隊だけは、手持ちの全トラックを総動員して小禄村民の疎開輸送にあたった。小禄村民だけは、この特別待遇で助かったのである。食糧も持てるだけ持てた。
 これは、住民の島内疎開で、軍が協力した唯一の例外であった。

 小禄の海軍部隊は、作戦でも特異な立場におかれた。
 敵の重囲下におかれ、兵力や武器弾薬、食糧の支援がどこからもなかった沖縄守備第三十二軍の作戦を「孤島苦の作戦」とすれば、小禄飛行場を死守して潰減した海軍部隊は、その中でも、さらに孤立無援の状態におかれていた。
 沖縄方面根拠地隊(大田実海軍少将)は、大本営陸海軍部の「陸海軍中央協定」に基づく、「南西諸島作戦二関スル現地協定」によって、米軍の沖縄上陸とともに、第三十二軍司令官牛島満中将の指揮下にはいり、地上戦闘を実施することになった。
 海軍部隊の兵力は約一万であったが、もともと海上護衛隊との地上連繋部隊であったので、地上戦闘装備は、甚だ劣弱であった。
 小銃は各隊とも兵員の三分の一しかなく、その他は木柄、鉄尖の槍を持っていた。機銃は、航空機用を地上旋回銃に改造したものが多く、手榴弾各人二、三発、急造爆雷約二、〇〇〇個のほかに、小禄地区には高射砲一四門などがあっただけである。
 その上、中部戦線の陸軍主力、第六二師団が潰滅状態に陥り、米軍の南下を妨げずに、戦線が首里前面の沢シ、前田まで圧迫されてきた五月中旬、斬込隊要員として、陸戦隊約二、五〇〇名と、軽兵器の約三分の一、迫撃砲の大部分が沖方根(沖縄方面根拠地隊)、つまり小禄の海軍部隊から抽出されて、陸軍の指揮下にはいったため、海軍残存兵カと、その装備はさらに劣弱化した。
 五月二十一日、軍首脳部は、もはや組織的防禦力を維持することができない限界点に来たと判断して、首里撤退を討議した。
 爾後の作戦について、首里を死守、知念半島へ後退、喜屋武方面へ後退の三案が検討されたが、これは、どの地点を最後の墓場にするかという、いわば玉砕会議であった。各師団、それぞれ、戦術的、あるいは心情的立場から意見をのべたが、沖方根(海軍)だけは「別に意見はない」との態度をとった。

 思うに、戦闘主力の陸軍さえ、壊滅的打撃をうけて戦力が著しく低下しているとき、さらに装備劣弱な陸戦隊としては、何処で戦うのも同じで、ただ陸軍の足手まといになってはいけないという考えがあったと推定される。
 五月二十二日タ刻、牛島軍司令官は喜屋武方面に後退を決意、軍司令部の一部は、同夕刻、直ちに、八重瀬岳南方四キロにある摩文仁海岸の洞窟司令部予定地に先遣隊として出発した。
 「軍は残存兵力をもって波名城、八重瀬岳、与座岳、国吉、真栄里の線以南、喜屋武方面地区を占領し、努めて多くの敵兵力を牽制抑留するとともに、出血を強要する。陸正面においては、八重瀬、与座の両高地に全力を投入して抗戦する」との計画をたて、海軍部隊の部署としては、
 「軍占領地域の中央部地区に位置し、軍の総予備となる」と指示した。
 つまり、陸軍各隊の補充要員ということで、独立した作戦行動は、期待されないことになった。
 撤退については、「企画を秘匿しつつ現戦線を離脱し、一挙に喜屋武方面陣地に後退することを主義とするが、有力な一部を各要線に残置して、地域的持久抵抗を行う。第一線主力の撤退時機はX日(五月二十九日予定とする」との方針が示された。

 海軍部隊は、二十六日、与座岳の南二キロの真栄平に移動した。真栄平は、軍展開地域のほぼ中央部に当り、撤退指示に基づき、予備兵力の位置として適当だと判断したようである。
 撤退に際し、携行困難な重火器類の大部は破壊された。
 ところが、この撤退が、「過早後退」として問題になった。軍の退却計画では、海軍部隊の撤退は、六月二日ころと予定し、軍から命令することになっていたのに、海軍部隊は命令電報を誤解した、とされている。
 軍は、この状況を知って驚き、五月二十八日、小禄の旧陣地へ戻るよう海軍部隊に命令した。沖方根司令官大田少将は、命令を誤解していたことを知って、直ちに小禄の旧陣地に復帰した。
 この週早後退と旧陣地復帰は、大田司令官にとって、海軍の名誉に関する重大問題として、深刻にうけとられたようだ。
 命令の誤解がどうして起こったか。
おそらく、X日(二十九日)プラス三日を、マイナス三日ととったとすれば、軍が予定したといわれる六月二日を、五月二十六日と誤解したことが考えられる。

 また、「海軍部隊は現陣地のほか、有力な一部をもって長堂(津嘉山南西一キロ)西方高地を占領し、軍主力の後退を援護する。後退の時期は、全般の作戦推移を考察し、軍司令官が決定する」との指示があるが、「沖縄根拠地連合陸戦戦闘概報第八号」の中で、大田司令官は、「二十五日、第三十二軍命令二ヨリ斬込隊九組ヲ出発セシメ、津嘉山警備隊長ノ指揮下二人ラシム」と報告しているので、おそらく、右の軍命令を以って、海軍主力の撤退命令と解釈したのかも知れない。
 なぜなら、海軍主力の撤退時機については明示されてなかったからである。
 かくて旧陣地復帰後の海軍部隊は、小禄地区に取り残され、孤立することとなった。
 六月二日、米軍約四〇〇名が真玉橋を通って豊見城に侵入してきた。海軍部隊は、守備背面から侵入した、これらの敵を撃退したが、六月四日、水陸両用戦車約一〇〇輌、兵員約六〇〇の強力な米軍部隊が小禄の海岸正面から上陸してきた。
 そこで、腹背から米軍の攻撃をうけることになった。陸戦隊員は、強力な敵に対して、夜間の艇身斬込みで対応した。
 海軍部隊が小禄陣地を固守することは、このとき全軍の作戦にとって、無意味であった。六月五日、牛島司令官は、海軍部隊に、南部への後退命令を摩文仁から出したが、大田司令官は、「海軍は既に包囲せられ、撤退不可能のため、小禄地区で最後まで闘う」旨の電文で南部後退を拒絶した。

 瀬長島の海軍砲台が米軍を脊射して、海軍主力の戦闘に協カする中で、六日タ、「戦況、切迫セリ、小官ノ報告ハ本電ヲ以テ此処二一先ヅ終止符ヲ打ツベキ時機に到達シタルモノト判断ス、御了承アリ度」と、軍司令部に打電した。
 その後も約一週間、海軍は戦闘を続行している。
 このときの戦闘の激しさを、米軍は次のように記録している。

   沖縄駐屯の海軍の全兵力は一万。だが、正規の海軍軍人は、その三分の一たらずで、
  その他は大部分現地召集や防衛隊員であてていた。そして設営隊、航空隊、海上艇身
  隊、その他の部隊要員からなる根拠地隊も、陸上の訓練をうけたのはお義理程度の申
  しわけ的な訓練でしかなかった。ニ、三百人たらずで、しかも、その訓練というのも、
  俄仕込みのものであった。

   首里戦線陥落の後、日本軍が小禄半島の防衛にでたのは、気まぐれといってもよい
  ほど、まったく偶然の機会からであった。
   残りの海軍はそのまま前線に配属された。残りの海軍はそのままま第三七魚雷整備
  隊などは、兵の方が小銃の数より三倍も多いしまつで、五月の末まで首里、与那原戦
  線で戦い、完全に壊滅させられてしまったのである。
   小禄半島における十日間の戦闘は、十分な訓練もうけていない軍隊が、装備も標準
  以下、しかもいつかは勝つという信念に燃え、地下陣地に兵力以上の機関銃をかかえ、
  しかも米軍に最大の損害をあたえるためには、そこでよろこんで死につくという日本
  兵の物語りであった。

   日本軍の防衛線には、手薄なところというのはなかった。海兵隊が進めば進むほど、
  それは機関銃や二〇ミリ、四〇ミリ高角砲に向かって進むようなもので、遅々として
  渉らなかった。これは小禄ではどの戦線でも、おなじことで、第四海兵連隊も第二十
  二海兵連隊も同様に織烈な砲火をあびていた。

  小禄の十日間の戦闘で、海兵隊の損害は、死傷者数一千六百八名。これは第三水陸
  両用軍が首里戦線で、日本軍との戦闘でこうむった被害に比べると、はるかに大きか
  った。

                      (『日米最後の戦闘』外間正四郎訳より)

 海軍は海軍独自の方法で戦ったわけである。
 六月六日夜、大田司令官は海軍次官あてに打電した。

  沖縄県民ノ実情二関シテハ、県知事ヨリ報告セラルベキモ、県ニハ既二通信力ナク、
  三十二軍司令部モ、又通信ノ余力ナシト認メラルルニ付、本職、県知事ノ依頼ヲ受ケ
  タル二非ザレドモ、現状ヲ看過スルニ忍ビズ、之ニ代ッテ緊急御通知申上グ。
  沖縄島ニ敵攻略ヲ開始以来、陸海軍方面トモ、防衛戦闘ニ専念シ、県民ニ関シテハ、
  殆ド顧ミルニ暇ナカリキ。然レドモ本職ノ知レル範囲ニ於テハ、県民ハ、青壮年ノ全
  部ヲ防衛召集ニ捧ゲ、残ル老幼婦女子ノミガ、相次グ砲爆撃ニ家屋ト財産ノ全部ヲ焼
  却セラレ、僅ニ身ヲ以テ軍ノ作戦ニ差支ナキ場所ノ小防空壕ニ避難、尚、砲爆撃下ヲ
  サマヨイ、風雨ニ曝サレツツ、乏シキ生活ニ甘ジアリタリ。
  而モ、若キ婦人ハ率先、軍ニ身ヲ捧ゲ、看護婦、炊事婦ハモトヨリ、砲弾運ビ、艇身
  斬込隊スラ申出ルモノアリ。
  所詮、敵来リナバ、老人子供ハ殺サルベク、婦女子ハ後方ニ連ビ去ラレテ毒牙ニ供セ
  ラルベシトテ、親子生別レ、娘ヲ軍衛門ニ捨ツル親アリ。
  看護婦ニ至リテハ軍移動ニ際シ、衛生兵既ニ出発シ身寄無キ重傷者ヲ助ケテ共ニサマ
  ヨウ、真面目ニシテ、一時ノ感情ニ馳セラレタルモノトハ思ハレズ。
  更ニ、軍ニ於テ作戦ノ大転換アルヤ、自給自足、夜ノ中ニ遥ニ遠隔地方ノ住民地区ヲ
  指定セラレ、輸送力皆無ノ者黙々トシテ雨中ヲ移動スルアリ。
  之ヲ要スルニ陸海軍、沖縄ニ進駐以来、終始一貫、勤労奉仕、物資節約ヲ強要セラレ
  テ御奉公ノ一念ヲ胸ニ抱キツツ遂ニ(解読不明)(ママ)報ワレルコトナクシテ、本戦闘ノ末
  期ヲ迎エ、沖縄島ハ実状形容スベクモナシ。一木一草、焦土ト化セン。糧食六月一杯
  ヲ支フルノミナリト謂フ。
  沖縄県民、斯ク戦ヘり。
  県民ニ対シ後世、特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ

 この電文が、のちに沖縄県民を泣かせたのである。
 これを、参謀次長と第十方面軍司令官にあてた牛島軍司令官の訣別電報と、比較してみ
る。
 六月十八日、摩文仁の洞窟司令部から打電した、軍司令官の電文はつぎの通りである。

  大命ヲ奉ジ挙軍醜敵撃滅ノ一念二徹シ、勇戦敢闘以後ニ三ヵ月、全軍将兵鬼神ノ奮戦
  力闘ニモカカワラズ、陸海空ヲ圧スル敵ノ物量制シ難ク戦局マサニ最後ノ関頭ニ直面
  セリ。麿下部隊本島進駐以来、現地同胞ノ献身的協力ノモト二鋭意作戦準備二邁進シ
  来タリ。敵ヲ迎ウルニアタッテハ帝国陸海軍航空部隊ト相呼応シ、将兵等シク皇土沖
  縄防衛ノ完壁ヲ期シタルモ、満、不敏不徳ノ致ストコロ事志ト違ヒ、今ヤ沖縄本島ヲ
  敵手ニ委セントシ、負荷ノ重任ヲ継続スル能ハザル二至レリ。
   上、陛下ニ対シ奉り、下、国民ニ対シ、真ニ申訳ナシ。事ココニイタレル以上、残
  存手兵ヲ提ゲ、最後ノ一戦ヲ展開シ、阿修羅トナリテ最後ノ奮戦ヲナサン所存ナルモ、
  唯々重任ヲ果タシエザリシヲ思イ、長恨干歳ニ尽キルナシ。
  最後ノ決闘ニアタリ、スデニ散華セル麿下将兵ノ英霊ト共ニ皇室ノ弥栄ヲ祈念シ奉り、
  皇軍ノ必勝ヲ確信シツツ、全員アルイハ護國ノ鬼トナリテ敵ノ我ガ本土来冠ヲ破催シ、
  アルイハ神風トナリテ天翔り必勝戦二馳セ参ズベキ所存ナリ。戦雲碧々タル洋上、尚
  小官統率下ノ離島各隊アリ、何卒宜敷ク御指導賜り度、切ニ御願ヒ申上グ、ココニ従
  来ノ御指導、御懇情ナラビニ作戦協力ニ任ゼラレタル各上司ナラビニ各兵団ニ対シ深
  甚ナル謝意ヲ表ス。ハルカニ微衷ヲ披歴シ、以テ訣別ノ辞トス。

 右は、整った文章である。しかし、それは、あくまで「儀式の文章」である。それとくらべて、海軍の大田実少将の電文は、文脈が乱れている。しかし、それは文章といったものではない。文章をこえた血の叫びといったようなものである。

 六月十一日、沖縄方面根拠地司令部の七四高地は、包囲攻撃をうけた。
 このとき、大田司令官は、摩文仁の第三十二軍参謀長あてに、「敵後方ヲ撹乱又ハ遊撃戟ヲ遂行ノタメ、相当数ノ将兵ヲ残置ス、右、将来ノタメ一言申シ残ス次第ナリ」と通報している。
 大田司令官は、敵の包囲攻撃をうけた司令部陣地から、遊撃戦を命じて、多数の部下将兵を脱出させたのである。
 これは一見なんでもない処置のようであるが、ここに、大田司令官の面目が躍如としている。「敵後方ヲ撹乱又ハ遊撃戦ヲ遂行ノタメ…」というのは、いちおう筋の通った理由である。だが、「相当数ノ将兵ヲ残置ス」というのが、ほんとの目的である。
 「残置」とは、司令部と一緒に玉砕させずに、兵力を残しておくという意味だが、何の装備もない兵隊を、敵の戦車や銃火器の犠牲にしたり、ただ自決を命じたりする方法をあえて取らなかった、そのための処置である。
 住民の話によると、戦争の末期に、小禄を死守するはずの海軍陸戦隊員が南部戦場に溢れてきた。中には五〇の坂に手のとどく老兵も相当おり、武器を持たないで、海軍用のビスケットを背負袋に一杯詰めていた、ということである。
 つまり、大田司令官の「残置」という処置で、小禄陣地を脱出してきた兵隊で、その大半は現地召集兵であった。
 「右、将来ノタメ一言申シ残ス次第ナリ」とは、これらの兵たちが脱走兵と誤解されないようにとの配慮であったわけだ。それは、敢闘せよ、だが生きられるなら生きよ、という配慮であったと解釈してよいようにおもわれる。
 そして、司令部の中核となる幹部要員だけが、司令部壕で自決を遂げたのである。

 六月十一日夜、大田少将は、牛島司令官あてに、「敵戦車群ハ、我ガ司令部洞窟ヲ攻撃中ナリ、根拠地隊ハ、今十一日二十三時三十分、玉砕ス。従前ノ厚誼ヲ謝シ、貴軍ノ健闘ヲ祈ル」旨、訣別電を打った。
 いま、大田海軍少将とその幕僚たちが自決した豊見城村の海軍壕は、戦跡名所の一つとなって、訪れる人があとを絶たない。 (おおた・りょうはく)

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沖縄大虐殺 (太田良博著作集③『戦争への反省』より)

             太田良博
                                                  ホームへ
 
   (管理人注:未発表原稿で執筆年代不明、沖縄の日本復帰〔1972年〕直後かと思われる)        
                                                 
 沖縄戦では、日本兵による住民虐殺が、これまでいろいろ問題にされてきた。だが、米軍による虐殺は、戦争の名目の下にほとんど問題にされていない。もちろん、戦場とはいえ、不当な虐殺は問題にされるべきであり、それが日本軍によってなされた行為であれ、米軍によるものであれ、とくに区別されるべきではない。ただ、日本兵による住民虐殺だけが問題とされ、米軍には不当な虐殺行為がまったくなかった、米軍による殺人行為は、戦闘行為の一部であった。「戦争だから仕方がなかった」という考えかたは考えなおしてみる必要がある。
 沖縄戦における住民の犠牲は、その正確な数字はつかめていない。調査によって、多少の誤差があるが、とにかく、十数万とみられている。もちろん、死んだ人の数である。沖縄戦で死んだ住民は、すべて「戦死者」となっている。この「戦死」という言葉には問題がある。「戦闘の結果、死んだ者」と解釈されるからである。だが、住民の多くは、「殺さなければ、殺される」という戦場の急迫した相対関係のなかで殺されたのではないことは、住民の大半がどういう状況のなかで殺されたか、という事実を知れば、明らかである。

 沖縄戦で最大の激戦は、首里の軍司令部が陥落するまでの期間で、とくに浦添や首里地区は、地形がすっかり変わるほどの砲弾をうけているが、その期間での、住民の被害はそれほど大きくはない。みんな洞窟のなかにかくれていたからである。日本軍は、その戦闘で壊滅的な打撃をうけ、首里陥落とともに、日本軍の組織的抵抗は終わっている。軍司令部が沖縄南端の摩文仁丘に移動した時点から、日本軍は、指揮系統も滅裂で、いわば、その実態は、敗残兵の集団としか解釈のしようのないものだった。これらの敗残兵は、洞窟のなかにかくれていた住民のなかにまぎれこんだのである。米軍から見れば、首里を捨てて南部に敗走した日本軍を追っての戦闘は、残敵掃討戦でしかなかった。

 この残敵掃計戦で、住民の大半が殺されたのである。それが、正当な戦闘行為によるものでなかったことは、住民がまったく無抵抗の状況のなかでおこなわれたという事実だけで立証できるのである。住民はみんな穴のなかにかくれていたのである。その洞窟に向かって、拡声器で「出てこい」とがなる。こわくて出て行かないと、火炎放射器で焼き払ったり、ガス性の特殊爆弾を投げ入れて殺したりする。また、住民が安全な場所を求めて、南へ、南へと移動する。洞穴を出て、つぎの洞穴に移ろうとする,すると、偵察のへリコプターの指示で艦砲の集中砲火を浴びる。住民と兵の見さかいがなく、とにかく、地上に動くものはすべて標的にされた。沖縄戦で、南部を最大の激戦地とするのはまちがいで、南部の戦場は、勝ち誇った米軍による一方的な大虐殺の場所であったのである。首里陥落で、勝敗はすでに決定的であり、米軍のやり方次第では、あれだけの住民の犠牲はなくてすんだはずである。とにかく住民の犠牲の大半が、日本敗残兵に対する掃討戦のなかで生じたということに、沖縄戦を考える場合の新たな視点をおくべきである。この沖縄島南部戦場における米軍の行為は、もし本土上陸作戦がおこなわれた場合の、戦闘様相の予兆ともなりえたもので、また、実際に、その後のべトナム戦争で再現されたものである。沖縄戦で、米兵に不当に殺された話はいくらでもあるが、これまでの戦記や証言集で、その視点から編集されたものはない。反米、親米に関係なく、事実は事実として記録すべきである。

 また、終戦から日本復帰にいたる米軍政時代における米兵の犯罪による住民の犠牲も、記録すれば大変な量にのぼるだろう。日本兵による住民虐殺は、限られた事件とはいえ、「友軍」と信じていた日本兵による犯行だっただけに、住民の不信と怒りが強烈なものとなったのである。沖縄住民が、戦争に対して、米軍基地や自衛隊の存在に対して、ぬぐい去れないある感情をいだいていることは、沖縄戦の実態を知れば、うなずけることで、この感情は、国防の論理だけではいやされないものである。
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『鉄の暴風』     悲劇の離島  (1950年刊行『鉄の暴風』の改訂版・【1980年】より)             

       一、集 団 自 決
                                                  ホームへ 
          1   

 設営隊の球一六七〇部隊(約一個大隊、兵員一千人)が引揚げてから、慶良間列島の渡嘉敷島には、陸士出身の若い赤松大尉を隊長とする、海上特攻隊百三十人と、整備兵百二十人、島内の青壮年で組織された防衛隊員七十人、設営隊転進後配備された朝鮮人軍夫約二千人、それに通信隊員若干名が駐屯していた。この劣勢な戦力に、男女青年団、婦人会、翼賛壮年団員などが参加した。三月二十五日、未明、阿波連岬、渡嘉敷の西海岸、座間味島方面に、はじめて艦砲がうち込まれ同日、慶良間列島中島の阿嘉島に、米軍が上陸した。これが沖縄戦におげる最初の上陸であった。

 渡嘉敷島の入江や谷深くに舟艇をかくして、待機していた日本軍の船舶特攻隊は急遽出撃準備をした。米軍の斥候らしいものが、トカクシ(ママ)山と阿波連山に、みとめられた日の朝まだき、艦砲の音をききつつ、午前四時、防衛隊員協力の下に、渡嘉敷から五十隻、阿波連から三十隻の舟艇がおろされた。それにエンジンを取りつけ、大型爆弾を二発宛抱えた人間魚雷の特攻隊員が一人ずつ乗り込んだ。赤松隊長もこの特攻隊を指揮して、米艦に突入することになっていた。ところが、隊長は陣地の壕深く潜んで動こうともしなかった。出撃時間は、刻々に経過していく。赤松の陣地に連絡兵がさし向けられたが、彼は、「もう遅い、かえって企図が暴露するばかりだ」という理由で出撃中止を命じた。舟艇は彼の命令で爆破された。明らかにこの「行きて帰らざる」決死行を拒否したのである。特攻隊員たちは出撃の機会を失い、切歯扼腕したが、中には、ひそかに出撃の希望をつなごうとして舟艇を残したのもいた。それも夜明けと共に空襲されて全滅し、完全に彼らは本来の任務をとかれてしまった。翌二十六日の午前六時頃、米軍の一部が渡嘉敷島の阿波連、トカクシ(ママ)、渡嘉敷の各海岸に上陸した。住民はいち早く各部落の待避壕に避難し、守備軍は、渡嘉敷島の西北端、恩納河原附近の西山A高地に移動したが、移動完了とともに赤松大尉は、島の駐在巡査を通じて、部落民に対し「住民は捕虜になる怖れがある。軍が保護してやるから、すぐ西山A高地の軍陣地に避難集結せよ」と、命令を発した。さらに、住民に対する赤松大尉の伝言として「米軍が来たら、軍民ともに戦って玉砕しよう」ということも駐在巡査から伝えられた。

 軍が避難しろという、西山A高地の一帯、恩納河原附近は、いざという時に最も安全だと折紙をつけられた要害の地で、住民もそれを知っていた。
 住民は喜んで軍の指示にしたがい、その日のタ刻までに、大半は避難を終え軍陣地附近に集結した。ところが赤松大尉は、軍の壕入口に立ちはだかって「住民はこの壕に入るべからず」と厳しく身を構え、住民達をにらみつけていた。あっけにとられた住民達は、すごすごと高地の麓の恩納河原に下り、思い思いに、自然の洞窟を利用したり、山蔭や、谷底の深みや、岩石の硬い谷川の附近に、竹をきって仮小屋をつくった。
 その翌日、再び、赤松大尉から、意外な命令が出された。「住民は、速やかに、軍陣地対近を去り、渡嘉敷に避難しろ」と言い出したのである。渡嘉敷には既に米軍が上陸している。それに二十八日には、米軍上陸地点においては、迫撃砲による物凄い集団射撃が行われていた。渡嘉敷方面は、迫撃砲の射撃があって危険地帯であるとの理由で、村の代表たちは、恩納河原に踏みとどまることを極力主張した。

 同じ日に、恩納河原に避難中の住民に対して、思い掛けぬ自決命令が赤松からもたらされた。
「こと、ここに至っては、全島民、皇国の万歳と、日本の必勝を祈って、自決せよ。軍は最後の一兵まで戦い、米軍に出血を強いてから、全員玉砕する」というのである。
 この悲壮な、自決命令が赤松から伝えられたのは、米軍が沖縄列島海域に侵攻してから、わずかに五日目だった。米軍の迫撃砲による攻撃は、西山A高地の日本軍陣地に迫り、恩納河原の住民区も脅威下にさらされそうになった。いよいよあらゆる客観情勢が、のっぴきならぬものとなった。迫撃砲が吠えだした。最後まで戦うと言った、日本軍の陣地からは、一発の応射もなく安全な地下壕から、谷底に追いやられた住民の、危険は刻々に追ってきた。住民たちは死場所を選んで、各親族同士が一塊り一塊りになって、集まった。手榴弾を手にした族長や家長が「みんな、笑って死のう」と悲壮な声を絞って叫んだ。一発の手糟弾の周囲に、ニ、三十人が集まった。
 住民には自決用として、三十二発の手瑠弾が渡されていたが、更にこのときのために、二十発増加された。

 手瑠弾は、あちこちで爆発した。轟然たる不気味な響音は、次々と正谷間に、こだました。瞬時にして、――男、女、老人、子供、嬰児――の肉四散し、阿修羅の如き、阿鼻叫喚の光景が、くりひろげられた。死にそこなった者は、互いに梶棒で、うち合ったり、剃刀で、自らの頸部を切ったり、鍬で、親しいものの頭を、叩き割ったりして、世にも恐ろしい状景が、あっちの集団でも、こっちの集団でも、同時に起り、恩納河原の谷川の水は、ために血にそまっていた。
 古波蔵村長も一家親族を率いて、最期の場にのぞんだ。手瑠弾の栓を抜いたがどうしても爆発しなかった。彼は自決を、思いとどまった。そのうち米軍の迫撃砲弾が飛んできて、生き残ったものは混乱状態におち入り、自決を決意していた人たちの間に、統制が失われてしまった。そのとき死んだのが三百二十九人、そのほかに迫撃砲を喰つた戦死者が三十二人であった。手瑠弾の不発で、死をまぬかれたのが、渡嘉敷部落が百二十六人、阿波連部落が二百三人、前島部落民が七人であった。
 この恨みの地、恩納河原を、今でも島の人たちは玉砕場と称している。かつて可愛い鹿たちが島の幽遠な森をぬけて、おどおどとした目つきで、水を呑みに降り、或は軽快に駈け廼ったこの辺り、恩納河原の谷間は、かくして血にそめられ、住民にとっては、永遠に忘れることのできない恨みの地となったのである。

 恩納河原の自決のとき、島の駐在巡査も一緒だったが、彼は、「自分は住民の最期を見とどけて、軍に報告してから死ぬ」といって遂に自決しなかった。日本軍が降伏してから解ったことだが、彼らが西山A高地に陣地を移した翌二十七日、地下壕内において将校会議を開いたがそのとき、赤松大尉は「持久戦は必至である、軍としては最後の一兵まで戦いたい、まず非戦闘員をいさぎよく自決させ、われわれ軍人は島に残った凡ゆる食糧を確保して、持久態勢をととのえ、上陸軍と一戦を交えねばならぬ。事態はこの島に住むすべての人間に死を要求している」ということを主張した。これを聞いた副官の知念少尉(沖縄出身)は悲憤のあまり、慟哭し、軍籍にある身を痛嘆した。

 恩納河原の集団自決で志を得なかった、渡嘉敷村長は、途方に暮れてしまったが、軍陣地に行った。村民も知らず知らずのうちに、また軍陣地の近くにい(虫偏に胃という字)集していた。赤松は村民の騒々しい声を耳にして再び壕から姿を現わし「ここは軍陣地だ、村民が集まるところではない、陣地が暴露するぞ」と荒々しくどなりつけた。しかたなく住民は、日本軍陣地をはなれて谷底に降り、三日間飲まず喰わずでさ迷った。乾パンや生米を噛り、赤子には生米を噛んで、その汁を与えたりした。水だけ飲むこともあった。張りつめていた気力が、急に体から抜け、山峡の道を歩む足はふらふらと浮いていた。迷い歩いたあげく、住民はふたたびもとの恩納河原に集結した。無意識のうちにみんなの足がそこに向いて行った。あの忌わしい自決の場所、しかしそこには食糧がいくらか残っていることを誰も知っていたからだ。村民はそこで一応解散した。その頃列島海峡には、飛行艇約百五十隻が常駐、駆逐艦二隻、艦載機二〇機ばかりを搭載した小型空母一隻が周辺に屯していた。巡洋艦は時々、タ刻にやってきて食糧を補給したりして、直ぐどこかへ引返した。輸送船は絶えず海峡に出入していた。とにかく 大小の艦船総数約一三〇隻が、慶良間海峡には常時碇泊していた。艦隊は、昼間は海峡に碇泊して戦闘準備をしたり、本島攻撃に出たりするが、夜間は日本の特攻機を避けて、大型艦船はどこがへ忽然と消えて行った。昼間海峡の艦船からはレコード音楽が拡声機を通じてはっきりと流れてくる。小高い所からは通信兵の手旗信号が望められる位の近距離にあった。細長い沖縄本島の遥か残波岬から、 喜屋武岬に至る対岸は、舷を列ねた鉄の浮城に囲ぎょうされている。そして本島攻撃の艦砲の音は数秒おきに轟いて、この小さい島を揺るがせていた。四月一日頃、渡嘉敷島に上陸していた一部米軍は一応撤退し、それからは毎日、午後になると舟艇二、三隻でどこかの海岸に上陸し、島の様子を偵察しては即日引揚げるのだった。

 そのころから渡嘉敷島住民は漸く平穏を取りもどした。空襲もなかった。弾も落ちなかった。米軍からしばし放任されていたのである。しかし死にまさる住民の困苦は降伏の日までつづいた。住民はいよいよ飢餓線上を、さまよわねばならなくなったのである。
 それに、米軍に占領された国頭の伊江島から、伊江島住民が二千余人、渡嘉敷島の東端の高地に、米軍艦によって送られて来た。島の農作物は忽ちにして喰いつくされ、人々は野草や、海草や、貝類を、あさって食べるようになった。その間赤松大尉からは独断的な命令が次々と出された。四月十五日、住民食糧の五〇%を、軍に供出せよという、食糧の強制徴発命令があり、違反者は銃殺に処すという罰則が伝えられた。
 住民の食糧の半分はかくして、防衛隊員や朝鮮人軍夫等により陣地に持ち運ばれた。
 日本軍は食糧の徴発命令のほかに、家畜類の捕獲、屠殺を禁じ、これも違反者は銃殺刑に処す、ということであった。

 ある日のこと、既に捕虜になっていた伊江島住民の中から、若い女五人に、男一人が米軍から選ばれて、赤松の陣地に降伏勧告状を持っていくことになった。彼らは渡嘉敷村民とは隔絶されていたため島の内情がわからない。それで白昼堂々と白旗をかかげて、海岸づたいに赤松の陣地に向った。彼らは日本軍陣地につくと直ちに捕縛されて各自一つずつ穴を掘ることを命ぜられた。それがすむと、後手にしばられて、穴を前にして端坐させられた。赤松は彼らの処刑を命じて、自らは壕の中にはいってしまった。日本刀を抜き放った一人の下士官が「言いのこすことはないか」と聞いた。彼らは力なく首を横に振った。三人の女が、歌を、うたわせてくれと言った。「よし、歌え」と言いおわらぬうちに女たちは荘重な「海ゆかば」の曲をうたった。この若い男女六人は遂に帰らなかった。 それから渡嘉敷島の住民で、十五、六歳の少年二人が日本軍によって銃殺された。二人の少年は思納河原の玉砕のときに、負傷し、人事不省に陥ったが、のちに意識を取りもどして、彷徨しているうちに、米軍にとらわれ、降伏勧告のために赤松の陣地にやられたのが、運のつきであった。彼らは、自決の場所から逃げ出したという理由と、米軍に投降し、米軍に意を通じたという理由で処刑されたのである。
 その他防衛隊員七人が命令違反のかどで斬られ、また島尻郡豊見城村出身の渡嘉敷国民学校訓導大城徳安は注意人物というので、陣地にひっぱられて、斬首された。

 日本軍の将校をのぞいては、島におるものは、兵も、民も、やせさらばえて、全神経を食物に集中するようになっていた。老人たちは、栄養失調でつぎつぎにたおれた。また食糧をあさって山野をさまよっているうちに、日本軍の斬込みに備えて、米軍が、山中の所々に、敷設した地雷に、ふれて死ぬものも少なからずいた。その間、舟艇を爆破されて、特攻出撃の機会を失っていた決死隊の少尉達は、赤松隊長と離れてそれぞれ別行動をとり、五、六人宛の決死隊を組んで独断で、ときどき上陸してくる、米軍の監視兵のところに、斬込みに行ったりして、地雷にふれ、迫撃砲の餌食となって相ついで戦死した。
 こんな状態が七月までつづいた。住民の食生活はいよいよ苦しくなった。じりじりと死の深淵に追いやられていくのを、坐視するに忍びず、遂に島の有志たちは集団投降の決意を固めて、十三日には七十人はかりの住民が投降した。
 それから渡嘉敷村長が米軍の指示に従い村民を壕から誘い出して、どしどし投降させた。

 七月十五日、米軍機から日本軍陣地の上空にビラが散布された。それにはボツダム宣言の要旨が述べられ、降伏は、矢尽き、刀折れたるものの取るべく賢明な途だ、という意味のことが書かれてあった。十七日には、防衛隊員が全部米軍に降伏し、十九日に到って初めて、日本軍は山の陣地を降りた。知念少尉が軍使として先頭に立ち、次いで赤松大尉以下が武装して米軍指定の場所に向った。彼は蒼白な顔をしていたが態度はあくまでも鷹揚だった。
 渡嘉敷国民学校跡で、渡嘉敷島の日本軍と、米軍との、降伏に関する最後の会談がなされた。その会談には、民間側からは只一人、国民学校の宇久校長が参席した。会談中、赤松大尉は、通訳のもどかしさを叱りつけたりした。会談は終った。日本軍の部隊降伏と武装解除ということになった。降伏式は、紳士的な方法で行われた。一人一人が武器を差し出して米軍に渡した。
 かくして、本島作戦と切離されていた渡嘉敷島戦線は、独特の様相と、経過を示しつつ、沖縄島の降伏におくれること一ヵ月近くの七月十九日に終幕した。

      2

 渡嘉敷島とともに座間味島は慶良間列島戦域における、沖縄戦最初の米軍上陸地である。 座間味島駐屯の将兵は約一干人余、一九四四年九月二十日に来島したもので、その中には、十二隻の舟艇を有する百人近くの爆雷特幹隊がいて、隊長は梅沢少佐、守備隊長は東京出身の小沢少佐だった。海上特攻用の舟艇は、座間味島に十二隻、阿嘉島に七、八隻あったが、いずれも遂に出撃しなかった。その他に、島の青壮年百人ばかりが防衛隊として守備にあたっていた。米軍上陸の前日、軍は忠魂碑前の広場に住民をあつめ、玉砕を命じた。しかし、住民が広場に集まってきた、ちょうど、その時、附近に艦砲弾が落ちたので、みな退散してしまったが、村長初め役場吏員、学校教員の一部やその家族は、ほとんど各自の壕で手瑠弾を抱いて自決した。その数五十二人である。
 この自決のほか、砲弾の犠牲になったり、スパイの嫌疑をかけられて日本兵に殺されたりしたものを合せて、座間味島の犠牲者は約二百人である。日本軍は、米兵が上陸した頃、ニ、三カ所で歩哨戦を演じたことはあったが、最後まで山中の陣地にこもり、遂に全員投降した。 
 梅澤少佐のごときは、のちに朝鮮人慰安婦らしきものと二人と不明死を遂げたことが判明した。
                 (注:最後の一行(斜字)は1980年改定版で削除された。)  (太田良博【おおたりょうはく】執筆)

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