エドアルドテレス先生の教則動画











| 未分類 | コメント(0)

ジョッシュバーネットに佐山聡経由のキャッチレスリング サンボを伝授し 自身はブルースリー経由のジークンドーを修得だけでなくマシャード兄弟から柔術の黒帯を会得したエリックパーソン先生の教則動画











| 未分類 | コメント(0)

柔術アホ動画シリーズ 不眠症で悩む諸兄は柔術家にご連絡を

| 未分類 | コメント(0)

ヒクソングレイシー自身の公開動画とエディブラボーからヒクソンがラバーガードを学ぶ動画























| 未分類 | コメント(0)

ヒクソングレイシーと因縁の宿敵 桜庭和志が対談



http://enter10.blog.so-net.ne.jp/2015-12-12-1
対談の内容



桜庭の待つ部屋に

ヒクソンが入室。

2人が握手を交わす。


そしてスタッフがヒクソンに質問。



「桜庭さんと話すのは初めてですか?」



ヒクソン「チャンピオンを

目の前にして話すのは初めてだ。」




「チャンピオン」と呼ばれ

照れくさそうな桜庭w




続けてヒクソンが

「何故試合をしなかったか」を語る。




「桜庭は我々一族にとっての

宿敵なので彼との試合は

どんなモノになるのか楽しみだった。」




・・・桜庭に対しての

尊敬の念が感じられますね[るんるん]


ヒクソンが続ける。




「2000年に桜庭との

試合のオファーがあり

実現に向けて進んでいたが、

息子を亡くしてしまい

試合をする事が出来なかった。」




・・・確かにそれはつらいです[もうやだ~(悲しい顔)]
理由が理由なので

納得がいきますよね[ふらふら]




そして今回の対談で

最も印象に残った言葉です。





「自分の人生で

一番大切な試合をしなかった。

その事実を背負い

生きて行かなければならない。」





・・・痺れました[たらーっ(汗)]



言葉自体は弱さを

語っている様にも聞こえますが、

強い心を持っていないと

言えないセリフだと思います[exclamation]





この言葉に

ヒクソンの強さが

集約されています[exclamation]

| 未分類 | コメント(0)

柔術プリースト212 バリカタ柔術RADIO40

Jiu Jitsu Priest #212


生田誠のバリカタ柔術RADIO #40

| 未分類 | コメント(0)

五千年の歴史を持つヨガだが現在のアーサナ(ポーズ)中心のヨガは実は19世紀末~20世紀初頭ヨーロッパからのスウェーデン体操をはじめとする西洋の体操、ボディビル、民俗的な武術やダンスの影響を受けて出来たもので純然たるインドのヨガはプラーナーヤーマ(呼吸法)中心の非バラモン階級のナータ派ヨガである ヒクソンも実践する太陽礼拝が出来上がったのはヨーロッパのスウェーデン体操をはじめとする西洋の体操、ボディビル、民俗的な武術やダンスからの影響である







ヨガ・ボディ: ポーズ練習の起源
マーク・シングルトン
大隅書店
売り上げランキング: 189,436



http://itotakeshi.blog33.fc2.com/blog-entry-100.html

ヨガ・ボディ【伊藤武のかきおろしコラム】


こんにちのハタヨガは、ハタ・ヨーガ開祖ゴーラクシャのそれとは全くの別もの。前者はポーズ主体で、解剖学を修め、『ヨーガ・スートラ』を聖典とする。後者はプラーナーヤーマを主とし、マルマと脈管の身体を定め、タントラにもとづいている。
どうして、こんなに違ったものになってしまったのだろう?
ずっと疑問に思っていたのですが、名古屋のO氏に奨められた『ヨガ・ボディ』(シングルトン著、喜多千草訳、大隅書店刊)を読んで、合点がいきました。
インドと西洋の矜持(きょうじ)とアイデンティティと葛藤が千々に乱れ、紊(みだ)れたまま、綴(つづ)りあわされたのが、今のヨガ。その経緯は、さまざまな立場の人の思わくが縺(もつ)れに縺れた、複雑怪奇な物語となりますが、かいつまんで述べれば——

18世紀、ムガル帝国が衰退します。かわって伸張したのが大英帝国(この時点では東インド会社)。そのイギリスの侵略に、武器をとって抵抗したのがシヴァ派——おもに全裸で暮らすことを信条とするナーガ派と、ゴーラクシャに始まるナータ派の人びとでした。
『ヨガ・ボディ』には「武装したヨーギンの集団」とあります。ナーガ派はたしかに軍隊のように訓練された戦闘組織ですが、ナータ派はそうではない。ナータに帰依した土豪の兵、というのが正しいかと思われます。たとえば、ネパールのグルカ兵。グルカとは「ゴーラクシャに帰依した人びと」の意。グルカ兵はイギリスの侵略をはね返し、ネパールの植民地化を妨げます。
これはナータ派のレジスタンスが成功した例ですが、インドではイギリスの近代兵器の前に、シヴァ派の民兵はことごとく潰されてしまいます。勝者は敗者をきびしく弾圧しました。ハタ・ヨーガのほんらいの担い手であるナータ派は、息も絶え絶えの状態に陥ってしまいます。
19世紀後半、「アーリヤ人侵入説」の生みの親、マックス・ミュラーに代表される欧米のインド学者たちは、ヨーガの聖典として『ヨーガ・スートラ』と『バガヴァッド・ギーター』を高く評価します。そして、ヴェーダーンタ哲学・ヴィシュヌ派・バクティ(神への親愛)をヒンドゥー教の正統とするいっぽうで、タントラとシヴァ派を迷信にみちた野蛮な宗教と断じます。なかでもナータ派とそのヨーガ(ハタ・ヨーガ)は最悪の、悪魔の宗教と見なされました。多くのインド人が、かような白人学者の御説に染まってしまうのも、仕方ないことといえましょう。
1893年、ヴィヴェーカーナンダが、シカゴの国際宗教会議において、ヨーガをテーマにした講演で大成功をおさめます。1896年、彼は『ラージャ・ヨーガ』を発表。ヴェーダーンタの御旗のもとに、『ヨーガ・スートラ』と『バガヴァッド・ギーター』を依拠の聖典とし、タントラ的なもの、ハタ的なものを極力排した、新しきヨーガの夜明けを告げる大著でした。
のちにハタはかたちを変えて復権を果たしますが、その後のインド・ヨーガは、おおかたはヴィヴェーカーナンダの敷いたレールに乗ったもの、といって差しつかえありません。

19世紀のインドでは、こうした宗教・ヨーガ界の潮流と並行して、もうひとつの運動が進行していました。「身体とのポジティブな関わり」です。
ヒンドゥー、とくにバラモンは、身体をカルマの巣として不浄視する傾向にありました。スポーツをふくめ、身体につよい関心をいだくことは、はしたない、とされていたのです。
しかし、イギリスを介し、身体を鍛えることは神意にかなうこと、という風潮がじわじわと広がっていきます。近代的な解剖学・生理学にもとづいたスウェーデン体操がひろく行なわれるようになりました。さらに世紀末になると、ボディビルが大流行。
ヴィヴェーカーナンダの『ラージャ・ヨーガ』が世に出た同じ1896年、第1回近代オリンピックが開催されると、インド人の「身体への熱いまなざし」はピークに達します。
20世紀に入ると、インド全土で反英感情が高まっていきました。と、ヒンドゥーのアイデンティティは、白人の始めた健康体操やボデイビルに拒否反応をしめし、「国産の体操・自前の身体鍛錬法」に目を向けるようになります。それこそ、ヴィヴェーカーナンダの切り捨てたハタ・ヨーガの一部の、
——アーサナ
にほかなりませんでした。
また同じころ、カラリパヤットほかイギリスによって禁圧されていた土着の武術も、次々と息を吹き返します。表だっては、アーサナを行なうヨーガのアカーラ(道場)で、武術が錬られました。もっとも、警邏の者に見つかると厄介ですから、武術の型がヨーガの連続ポーズのごとく行なわれます。
ともあれ、スウェーデン体操をはじめとする西洋の体操、ボディビル、民俗的な武術やダンスが、
——HATHA YOGA、ASANA
の名のもとに再編されていくのです。
ハタの伝統的な「八十四アーサナ」に含まれぬポーズのほとんどは、そうして20世紀に入ってから開発されたものです。伝統アーサナには本来、連続ポーズはありません。ダイナミックな英雄のポーズ(ヴィーラバドラ・アーサナ)は武術の型のアレンジですし、太陽礼拝(スーリヤ・ナマスカーラ)はボディビルダーが始めたものでした。
西洋文明をすでに知り、ナータ派のヨーガとは切り離されたところでの再スタートでしたから、タントラの身体観はなじみません。西洋の解剖学や、体操、ボディビルの方法論が借用されました。
「これらは西洋のものと考えられているが、じつはインドのヴェーダが起源である」と今日のどこぞの国のようなことをいって、それらを採りいれることを正当化し、ハタの聖典ではない『ヨーガ・スートラ』を戴いて権威づけし……、現代ヨガのいっちょあがり、というわけです。

『ヨガ・ボディ』の著者は、そしてわたしも、現代のハタヨガにケチをつけているわけではありません。現代ヨガの創始者たちは、それぞれにハタ以外の伝統的ヨーガを修め、みずからの経験と知恵を結集して、それまでのインドにはなかったユニークな身体的実践法を編み出していったのですから。
それが生まれて、すでに100年。立派な伝統といえるでしょう。

http://www.acoyoga.jp/2011/02/yj.html

YJ最新号の興味深い記事




現在出ている『ヨガジャーナル日本版』vol.15 にとても興味深いエッセイが載っています。

マーク・シングルトン氏が書いた「ヨガの大いなる真実」。
なんともまぁ大層なタイトルではあります。そんなこと今まで知らなかったの? 何てナイーブなの? 所詮はすべてが欧米人のコンテクストで語られているじゃん!という思いも正直あります。それでもやはり、こうして調査研究した結果を分かり易く伝えようという文章は非常に楽しく大変勉強になります。4ページにもわたるものですが、写し書きすると自分の頭にも入りやすいので、少し抜粋してみます。

まずは冒頭から
「冬の薄日がケンブリッジ大学図書館の高い窓から差し込み、一冊の黒い革の装丁をほのかに照らしていた。私は本のページを操りながら、馴染みのあるポーズをとっている男女の写真の数々を眺めた。戦士のポーズ、ダウンドッグのポーズ、ウッティタ・ハスタ・パダングシュターサナ(手で足の親指をつかむポーズ)、次のページにはヘッドスタンド、ハンドスタンド、スプタ・ヴィラーサナ(横たわった英雄のポーズ)......あたかもアーサナのテキストに載っていそうな写真だ。だが、それはヨガの本ではなく、20世紀初頭のデンマークで生まれた体操、「プリミティブ・ジムナスティクス」についての記述だった。
その日の夕方、自分のヨガクラスで生徒たちの前に立ちながら、私はさっきの発見を思い返していた。いま自分が教えているヨガのポーズのほとんどが、1世紀ほど前にひとりのデンマーク体操の先生が考案したものと同じだなんて......。その人物はインドに行ったこともなければ、アーサナを習ったこともない。それなのに5秒カウントから腹部の「引き締め」、ポーズからポーズへのダイナミックなジャンプ移動まで、すべてが驚くほどヴィンヤサヨガに似ていた。それらはどれも私が知っているものばかりだ!
  時が過ぎても好奇心は収まらず、もっと調べてみることにした。そこでわかったのは、このデンマーク体操が19世紀にヨーロッパ人の運動法を大きく変えたスカンジナビア体操のひとつであることだった。スカンジナビア体操はヨーロッパ各地に広まり、陸海軍をはじめとして多くの学校での身体訓練の基本となった。そしてその流れはやがてインドにもたどり着く。YMCAインドの調査によれば、1920年代に「プリミティブ・ジムナスティクス」はインド亜大陸でもっとも人気のあるエクササイズのひとつで、その上をいくのがP.H.リングが開発したスウェーデン体操だったという。私はいよいよ混乱してしまった」

どうですか? おもしろいと思いませんか?

かくしてシングルトン氏は 「もし日々実践しているヨガが由緒ある古代インドの伝統でないとしたら、いったい私は何をやっているのだろう?」 という疑問に突き動かされて独自の調査研究を開始していきます。

数々の文献:「ヴェーダ」「ヨガ・スートラ」「ウパニシャッド」「ヨガ・ウパニシャッド」「ゴーラクシャ・シャタカ」「ハタヨガ・プラディピカ」etc.

数々の先人たち:スワミ・ヴィヴェーカーナンダ、スワミ・クヴァラヤナンダ、T・クリシュナマチャリヤ、K・パタビ・ジョイス、B・K・S・アイアンガー、インドラ・デヴィ、T・K・V・デシカチャー etc.

「ヨガの歴史を掘り下げて調べていくうちに、パズルのピースが少しずつ埋まりはじめ、ようやく全体図が見えてきた」

そして、驚くべき真実(彼曰く)を発見します。
「近代ヨガのアーサナはインド生まれではない!?」

「クリシュナマチャリヤはダイナミックなアーサナ練習法を考案した。それは主として、身体鍛練の時代精神に寄り添うインドの若者に向けられたものだった。クヴァラヤナンダの練習法と同じく、ハタヨガとレスリングの鍛練法と、近代ヨーロッパ体操を組み合わせたもので、それ以前のヨガの流儀には見られないものだった。
 こうした実験がやがていくつかの現代アーサナ練習法へとつながっていったが、中でも特筆すべきは、今日アシュタンガヨガとして知られるスタイルだ。この練習法を用いたのはクリシュナマチャリヤの豊富な指導歴の中ではごく短期間だったが、結果的にはこれがヴィンヤサ、フロー、パワーヨガなどアメリカのヨガスタイルの誕生に大きな影響を与えることになった」

「つまり、近代ヨガとは、ヨガという大樹に新しく移植された接ぎ木にすぎないと。(中略)ヨガを数多くの根や枝をもつ古代の大樹と考えることは、真の”伝統”に背くことでもなければ、ヨガと称するものをすべて無批判に受容することでもない」

「近代ヨガにおける西洋の文化的、精神的影響を知ることで、私たちが伝統というものをどう理解し、かつ誤解するか、どんな希望や不安を抱くか、また新しい何かを生むにはいかに多くの要素が関与するかということが分かる。さらに、ヨガの練習への認識が変わり、ヨガを通して自分が何をしようとしているのか、それが自分にとってどんな意味があるかを考えるきっかけにもなる。ヨガの練習自体と同じく、こうした知識は、自分の置かれた状況や自分の本質をも明らかにしてくれる(続く)」

『ヨガジャーナル日本版』vol.15(2011年1月28日発売)
p.76 - p.80 特別寄稿「Yoga's Greater Truth」
・text by Mark Singleton
・translation by Yasuko Tamaiko

*マーク・シングルトン:自らも熱心なヨギであるヨガ研究者。ケンブリッジ大学で神学の博士号を取得。近著「Yoga Body : The Origins of Modern Posture Practice」

http://ohsumishoten.com/books02-07.html


ヨガ・ボディ ― ポーズ練習の起源 ―








ヨガ・ボディ
―ポーズ練習の起源―
マーク・シングルトン 著/
喜多千草 訳

定価(本体2,800円+税)
2014年9月30日発売
A5判並製/352頁
ISBN 978-4-905328-06-3 C0020








〒520-0242
滋賀県大津市本堅田5-16-12
コマザワビル 505号

大隅書店
Ohsumi Shoten,Publishers
TEL 077-574-7152
FAX 077-574-7153
MOBILE 090-1137-2382
info@ohsumishoten.com







今日、私たちはヨガと言えば独特のポーズを連想するが、ポーズ練習を中心に据えたその スタイルは、なんとインド古来のものではなく、19世紀末から20世紀初頭にかけての近代 化に際して、欧米の体育、ボディビル、女子体操などの要素を取り入れながら、インド国 民のための体育の技法として創られたものだった! ヨガ実践者が読んでおくべき最も洗 練されたヨガの教養書のひとつであり、近現代の歴史書としてもすこぶる興味深い一冊。







謝 辞
はじめに
第1章 略史:ヒンドゥーの伝統におけるヨガ
第2章 ファキール、ヨギン、ヨーロッパ人
第3章 ヨガの大衆的イメージ
第4章 インドと国際的身体文化
第5章 近代インドの身体文化:その停滞と実験
第6章 身体文化としてのヨガ I:強さと気力
第7章 身体文化としてのヨガ II:ハーモニアル体操と奥義ダンス
第8章 メディアとメッセージ:ビジュアルイメージとアサナ再興
第9章 T・クリシュナマチャルヤとマイソールのアサナ再興

文 献
索 引
訳者のことば







マーク・シングルトン(Mark Singleton)
ケンブリッジ大学神学部にて博士号取得。近代国際ヨガについての研究・執筆を行っており、本書以外の著書に、Roots of Yoga (2015)、編書に、Yoga in the Modern World, Contemporary Perspectives (2008)、Gurus of Modern Yoga (2013)などがある。ヨガの実践者としても、サトヤナンダ・ヨガ、アイアンガー・ヨガでは、認定講師の資格を持つ。現在、アメリカのインド研究所の研究フェローとして、インドのジョドプル滞在中。








喜多千草(きた・ちぐさ)
関西大学総合情報学部教授。博士(文学・京都大学文学研究科現代文化学系二十世紀学専修)。専門は技術史。








スズケー【ハート*フール】
名古屋総合デザイン専門学校卒業。受賞歴に、第67回 毎日広告デザイン賞 最高賞など。作品掲載書籍に、『MEHNDI design book』『MEHNDI style book』『メヘンディ デザイン帖』などがある。








近代ヨガの進化について、深く考えさせてくれる素晴らしい本。熱心なヨガ実践者なら、この素晴らしい練習の歴史と本質について思いを馳せ続けることはとても大事だ。練習は生きているからこそ、実践者すべてがその創造と再生に関わっている。一切の決めつけは捨てよう!
ゴヴィンダ・カイ(アシュタンガヨガ、サーティファイド・ティーチャー)

ヨガって何なんだろう? 現代の日本や欧米で広く練習されているポーズ主体のヨガが、どのような文脈から生まれたかを、熱心なヨガ実践家(アシュタンガヨガ3rdシリーズ)でありケンブリッジ大学神学博士号を取得した著者が緻密な調査をもとに紐解く一冊。高名なグルたちが20世紀のインドという時代背景の中で、どのように「現代ヨガ」を提案するに至ったかが窺いしれる、驚くような史実に満ちている。ヨガ講師が読んでおくべき一冊。
サントーシマ香(「ヨガピープルアワード2014」ベスト・オブ・ヨギーニ賞受賞)

研究者によって書かれた『ヨガ・ボディ』の豊富な引用文献により、わたしたちは「身体を育む」分野のルーツについて、思いを馳せることができる。この本は、ヨガに興味を持つすべての人にとって、素晴らしい情報源だ。
パトリック・オアンシア(ヨガジャヤ・ディレクター)

斬新でいて丁寧に調べられている繊細な分析によって、インド文明の象徴とされているポーズをとるヨガが、実は紛れもなく植民地時代とポストコロニアルの時代のグローバル化の産物だったということが明らかになった。
ジョセフ・S・オルター(『現代インドのヨガ:科学と哲学の間の身体』著者)

この本は優れた研究書であり、近代ハタヨガの歴史的・文化的背景を明らかにした、刺激的な本である。私はこの本を、熱心にヨガをしているすべての人に是非お勧めしたい。
ジョン・フレンド(アヌサラヨガ創始者)




http://ohsumishoten.com/guide/reading/yogabody.pdf

謝 辞
Acknowledgments
v
はじめに
Introduction
3

1

A Brief Overview of Yoga in the Indian Tradition
略史:ヒンドゥーの伝統におけるヨガ
33

2

Fakirs, Yogins, Europeans
ファキール 、ヨギン、ヨーロッパ人
45

3

Popular Portrayals of the Yogin
ヨガの大衆的イメージ
71

4

India and the International Physical Culture Movement
インドと国際 的 身 体 文 化
105

5

Modern Indian Physical Culture: Degeneracy and Experimentation
近代インドの身体文化:その停滞と実験
123

6

Yoga as Physical Culture I: Strength and Vigor
身体文化としてのヨガ
I
:強さと気力
147

7

Yoga as Physical Culture II: Harmonial Gymnastics and Esoteric Dance
身体文化としてのヨガ
II
:ハーモニアル体操と奥義ダンス
185

8

The Medium and the Message: Visual Reproduction and the
Ā
sana Revival
メディアとメッセージ:ビジュアルイメージとアサナ再 興
211

9

T. Krishnamachar ya and the Mysore
Ā
sana Revival
T
・クリシュナマチャルヤとマイソールのアサナ再興
227

Notes
278
文 献
Bibliography
296
索 引
Ind e x
332
訳者のことば
337
目 次
Yoga Body:
The Origins of Modern Posture Practice
by Mark Singleton
First edition was originally published in English in
2010
.
Copyright ©
2010
by Oxford University Press Inc.
This translation is published by arrangement
with Oxford University Press.
iii
Contents
謝 辞
この本の構想は、多くの人に支えられて形になった。初期版に完
璧で深いコメントをしてくれたピーター・シュライナー。現代イン
ドのハタ・ヨガ実践者について教えてくれ、ジョードプルにあるナ
ータ派寺院のマハーマンディルの壁画画像を見せてくれたジェーム
ズ・マリンソン。サンスクリット表記のひどい誤りを指摘してくれ
たグドラン・ブーネマン。ここ
5
年ほど近代ヨガについて語り合っ
たダグマーとドミニク・ユジャスティク。ヨガの同時代的な発展の
ありようを見つめている『
LA
ヨガ・マガジン』編集長のフェリシ
ア・
M
・トマスコ。この本が博士論文だった段階でアドバイスをく
れたギャビン・フラッドとディヴィド・スミス。オックスフォード
大学出版局を通じてコメントを寄せてくれたジョセフ・
S
・オルタ
ーとケネス・リーバーマン。原稿を読んでコメントをくれたケンブ
リッジ大学クィーンズ・カレッジのエイヴィンド・カース。ケンブ
リッジ大学神学部時代に研究を指導してくれたジュリウス・リプナ
ー。こうした面々には非常にお世話になった。
エリザベス・ド・ミシェリスとスザンヌ・ニューコムと私が
2006

4
月に開催したケンブリッジ大学神学部での近代ヨガ院生ワーク
ショップの参加者の方々、特にその後も交流を続けてくださった
方々には、この本に展開したアイデアを洗練出来たことに感謝して
いる。なかでも、このワークショップに先立って身体文化や近代ヨ
ガについての考えを語り合ったエリオット・ゴールドバーグには感
謝に堪えない。ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンのヴィヴィ
エンヌ・ローとロニト・ヨーリ=トラリムには、『アジア医学:その
sample
v
謝 辞
Acknowledgments
伝統と現在』誌の
2007
年のヨガ特集号の編集を助けてもらったし、
オーストラリアのクィーンズランド大学のジャン・マリー・ビルネ
とは、『近代のヨガ』

Singleton and Byrne (eds.)
2008

で、ともに編集に携わ
った。こうした編集作業を通じて、同じ近代ヨガ研究分野の世界中
の研究者たちと交流を持つことが出来たことは、この本に大いに役
立った。
そして、サンタ・フェのセント・ジョンズ・カレッジのミーム図
書館司書ローラ・クーニーには、この本の仕上げの段階で、数々の
面倒な図書取り寄せのリクエストに応えていただき、大変感謝して
いる。また、マサチューセッツ州のスプリングフィールド・カレッ
ジのバブソン図書館司書ページ・ロバーツには、インドの
YMCA

身体文化プログラムについての資料提供にご尽力いただいた。バン
ガロールの
YMCA
身体文化学校の上級スタッフでヨガ研究者のシュ
リ・ヴァスデヴァ・バットには、
2005
年のカルナタカでの調査で大
変お世話になった。
2005
年にサンスクリットのヨガ文献を読むのに、ユーモアを交え
ながらご指導くださったインド、マイソールのシュリ・
M

A
・ナラ
シムハンと
M

A
・ジャヤシリ博士、『ヨガ・スートラ・バーシャ』
読解でお世話になったラクスミ・タッタカルヤ教授にも感謝してい
る。バンガロールの
K

V
・カルナ博士には、父親である
K

V
・ア
イヤーの想い出を語っていただき、さらに他では得難い文献や写真
資料などを見せていただいた。そして
T

R

S
・シャーマ教授には、
1930
年代、
40
年代のマイソール時代の記録や想い出をご教示いただ
いた。また聞き取り調査に応じてくださったシュリ・
K
・パタビ・ジ
ョイス、シャンカー・ナラヤン・ジョイス、アナント・ラオ、
A

G
・モハン、プネの個人蔵書を自由に使わせてくださった
B

K

S

アイアンガーに大変感謝している。
また、私のヨガの師たち、特にシュリ・
K
・パタビ・ジョイス、
シャラート・ラングスワミ、
B

N

S
・アイアンガー、ルドラ・デ
ヴ、ハミシュ・ヘンドリ、バーバラ・ハーディング、サシャ・ペリ
ーマンにも感謝している。練習の励みとなってくれた仲間たち、ル
ーイ・エトリング、ノーマン・ブレア、エマ・オーウェン=スミス、
ナイジェル・ジョーンズ、タラ・フレイザー、ロモーラ・ダヴェン
ポート、ルイーズ・パルマー、ジェニファー・モリソンにもお礼を
述べたい。そして、いつも笑いを振りまいてくれたローリン・パリ
ッシュにも感謝する。
このプロジェクトは、ケンブリッジ大学の国内研究奨学金や、神
学部やシドニー・サセックス・カレッジの旅費助成の数々がなけれ
ば成り立たなかった。奨学金・助成金を与えていただいて感謝して
いる。そして、最後に、エリザベス・ド・ミシェリス博士に、
6

間にわたるご指導と友情に対して厚くお礼を申し上げたい。
vii
vi
YOGA BODY
謝 辞
sample
はじめに

この本の概要
この本は、国際的に拡がるアサナ
(ポーズ)
をとることを中心にした近
代ヨガが、どのように始まったかを研究したものである。今日、欧米で
ヨガといえばもっぱらアサナ練習のことであり、そのようなヨガの教室
はいたるところにあり、今では、中東、アジア、ラテンアメリカ、オー
ストラリアでも同じような状況になりつつある。「ジム」タイプのヨガ
は、インドでも都市部の富裕層で人気が再燃している。ヨガ人口の統計
は正確なものがないものの、ポーズをとるヨガが人気を博しているのは
間違いないと言えよう

1

1990
年代以降、ヨガは数億ドル規模のビジネス
となり、アサナの知的所有権の激しい法廷闘争もいくつも起きている。
スタイル、シークエンス、ポーズなどが、個人や会社、政府などによっ
てフランチャイズ権が与えられたり

2
、著作権が設定されたり、特許を
受けたりしているのだ。また、ヨガのポーズを使った商品は、ケータイ
からヨーグルトまで幅広い。
2008
年には、アメリカのヨガ実践者は、年

57
億ドルをヨガ教室、ヨガ旅行、ヨガグッズに支出すると推計された

Yoga Journal
2008

。これはネパールの
GDP
のほぼ半分に当たる

C.I.A.
2008


こうした世界的なヨガ・ブームにもかかわらず、
(瞑想用の座位を除いて)
アサナが本当にインドのヨガ実践の伝統において中心的なものだったと
いう証拠はほとんどない。ヨガ流派の多くが正統的ヨガを伝えていると
sample
3
はじめに
Introduction
主張しているにもかかわらず、中世からある身体重視のハタ・ヨガでさ
え、アサナ中心であったという確証はない
(第
1
章参照)
。今日のアサナ中
心のヨガのありようは、近代以前にはみられなかったものなのである。
1800
年代後半には、主に英語圏でのヨガの再興がインドで始まり、ヴ
ィヴェカナンダ

1863
-
1902
年)
の教授法などにより、実践的なテクニック
や理論が生まれた。しかし、その頃の新しいヨガのありようにおいてす
ら、今日ほど盛んなアサナ練習はみられなかったのである。むしろアサ
ナや他のハタ・ヨガのテクニックは、ヴィヴェカナンダや同時代の人び
とには、はっきりと不適切で悪趣味だとして退けられていたのだ。結果
として、再興した英語圏に広まるヨガの世界では、アサナはほとんど影
を潜めていたのである。そこでこの本は、まず、なぜ近代ヨガの草創期
にアサナが避けられていたのか、またどうしてそれが大きく変化してア
サナが含まれるようになったのかを解き明かそうとするものである

3

そんな始まり方をしたアサナ練習が、どうして今日、国際的に拡がるヨ
ガの基本として、これまでに広く受け入れられるようになったのか。ど
うして近代ヨガの創始者たちの青写真にはアサナが含まれていなかった
のか、また、どうしてそれが復活出来たのか。
1890
年代のヴィヴェカナンダの時代には、ポーズをとるヨガの実践は
「ヨギン」
(あるいは「ヨギ」)
と結びつけられていた。この用語は、厳密に
はナータの系統に属するハタ・ヨガ実践者を指すが、広く苦行者、魔術
師、大道芸人などを指すこともあった。また、よくイスラム教徒の「ファ
キール」と混同されることもあり、ヒンドゥーの宗教的構造の中では、
あまりよくないものとみなされるようになっていた。ハタ・ヨガの大道
芸的ポーズは、後進性や迷信と結びつけられていたため、
科学的
000

近代
00

0
なヨガの再興にはお呼びでないと考える人が多かったのである。この
本の前半は、こうしたヨギンが、旅行記や研究書、ポピュラー文化、ヨ
ガ実践の文献の中でどのように描かれていたのかを調べ、ハタ・ヨガの
同時代的イメージを探る。これは後半で、ハタ・ヨガがどのように変化
し、インドの宗教的・社会的構図の中で位置付け直されていったかを考
察する基礎となるものだ。
この本は、重要な知られざるヨガの発展の歴史に光を当てるものだ。
近代ヨガの研究といえば、
1890
年代半ばに行われたヴィヴェカナンダに
よるアサナなしのヨガ宣言から、
1920
年代に始まったアサナの間をつな
ごうとしてこなかった。ド・ミシェリス

De Michelis
2004

とオルター

Alter
2004
a

は、この歴史の空白時期を扱った研究ではあるものの、どうしてア
サナが排除されていたのに名誉回復出来たのかについては、充分には説
明出来ていなかった

4
。そこで、この研究では、今日の国際的ヨガをつ
くり上げてきた要素は何だったのかをみつけ、
B

K

S
・アイアンガー
やそのほかの指導者たちによって
1950
年代に開花した、国際的アサナ革
命の前史を明らかにする。
この前史には、国際的な身体文化運動や、それが
19
世紀から
20
世紀へ
の転換期にどのようにインドの青年の意識に影響を与えたかという問題
も含まれる。似非宗教の様相を示していた身体文化は、
19
世紀にヨーロ
ッパでブームとなっていたが、それがインドに渡って、ヒンドゥー愛国
主義と結びついた。そこで、
インドの
0000
身体文化を育てようとする中で、
ヒンドゥーの伝統的エクササイズとしてアサナ再興の道がついたのであ
る。欧米の身体文化の流れをくむアサナ練習がインドで発展し、やがて
それが欧米に還流し、「奥義的体操」と合流して、
(ヨガの伝統とは何の関係
もなく)
19
世紀半ばのヨーロッパとアメリカで流行したのだ。今日知られ
ているポーズ中心のヨガは、欧米の汎宗教的な身体文化とヴィヴェカナ
ンダ以降に起こった「近代」ハタ・ヨガの言説との対話の結果生まれた
ものだといえる。それは常にインドのハタ・ヨガの伝統に根ざしている
とされているものの、ポーズ中心のヨガは、その伝統の直系を継承して
いるとはみなせないのである。
5
4
はじめに
YOGA BODY

資料・方法論・射程
この研究はまず、
1800
年代後半から
1935
年頃までの英語で書かれた大衆
的なヨガ・マニュアル本を調べるところから始まった。ド・ミシェリス

De Michelis
2004

では、「近代ヨガ」はヴィヴェカナンダの『ラージャ・ヨ
ガ』

Vivekananda
2001
(
1896
)

に始まると定義されたが、神智学協会による
M

N
・ドヴィヴェディ

Dvivedi
1885
,
1890

や、ラム・プラサド

Prasad
1890

など
の少数の例外を除いて、だいたい実用的な英語のヨガ・マニュアルがひ
とつのジャンルとなったのも、確かに『ラージャ・ヨガ』以降である。
ただし、
J
・ゴードン・メルトンは、ラム・プラサドの本を
最初に
000
「ヨガ
練習を普及させようと解説した本」と評価している

Melton
1990
:
502

。ケ
ンブリッジ大学図書館と、ロンドンの大英図書館のインド事務所が所蔵
している本の文献調査をしてみたところ、
1920
年代以前には「アサナ」
や「ハタ・ヨガ」というキーワードでは、人気のある教科書はかなり少
なかった。そこで、その後、スタンフォード大学のグリーン・ライブラ
リーとカリフォルニア大学バークレー校の図書館でも文献調査を行った
が、アメリカの文献についてもほぼ同じような結果となった。しかし、
この文献調査のおかげで、現在入手可能なインド・イギリス・アメリカ

1930
年代までに英語で書かれたヨガ実用本を網羅的に確認することが
出来たのである。しかし、第二次世界大戦後は、ヨガに対する興味が非
常に増大したために、ヨガ本の数も増えたし、自分自身でも懐かしい本
もいろいろあったのだが、この時期は文献調査の対象外であったので、
私がもっとも詳しいわけではない。ただ、第二次世界大戦後の英語のヨ
ガ・マニュアルは、以前とは格段に異なって
ポーズ
000
中心になったという
傾向だけは間違いなく指摘出来る

5

こうした文献調査を通じて、いくつかの研究テーマが立ち上がってき
た。まず、なぜアサナやハタ・ヨガは初期のヨガ・マニュアルにほとん
ど現れなかったのか。次に、なぜ
20
世紀半ばになってポーズをとるヨガ
がこれほどまでに流行し始め、アジア圏以外ではむしろヨガといえばポ
ーズをとるヨガとして普及したのはどうしてか。さらに、今日のヨガ実
践やその信念の体系は、果たして「近代的」な類型に属しているのだろ
うか。また、もしそうであれば、しばしばつながりが主張されている中
世のハタ・ヨガ伝統との関係はいかなるものであったのか。
ボンベイを中心に活躍したシュリ・ヨゲンドラ

1897
-
1989
年)
とスワミ・
クヴァラヤナンダ

1883
-
1966
年)
の業績、それに
T
・クリシュナマチャルヤ

1888
-
1989
年)
とマイソール時代の有名な弟子たちの教えにより、ハタ・ヨ
ガ的アサナ練習が注目を浴びたのはよく知られている。こうした人びと
とその弟子たちのおかげで、国際的なヨガの世界でポーズをとるヨガが
これほどまでに盛んになったといって過言ではないし、彼らの出版物は
近代アサナのありようを確かめる上で、この研究の貴重な資料ともなっ

(第
6

9
章)
。しかし、そうした出版物からだけでは、ヴィヴェカナ
ンダがヨガを近代的実践者に向けて普及してから、ハタ・ヨガ実践がヨ
ガの中心的実践へと推移するまでの、
30
年間の空白の時期をきちんと説
明することは出来ないのである。どうしてクヴァラヤナンダらが、アサ
ナを使って、人気のヨガという領域をつくり上げることが出来たのか。
また逆に、ヴィヴェカナンダが新しい潮流において、なぜアサナを避け
るべきだと考えたのか。
こうした疑問からこの研究は、
17
世紀から
20
世紀初頭までのヨーロッ
パの旅行記や学術書、大衆メディアに現れたハタ・ヨガやヨギンの表象
を調べることへと進んだ。リチャード・シュミットの
1908
年のハタ・ヨ
ガ的な「ファキール主義」についての研究により、ベルニエ

Bernier
1968
(
1670
)

、タヴェルニエ

Tavernier
1925
(
1676
)


J
・ド・テヴェノ

Thevenot
1684

、フ
ライヤ

Fr yer
1967
(
1698
)

といったヨギンに関する早い時期の記録が存在す
ることがわかった。そして、それらを実際にひもとくと、さらにムンデ


Mundy
1914

、オヴィントン

Ovington
1696

、ハーバー

Heber
1828

、ベルナ
7
6
はじめに
YOGA BODY
ールの選集

Bernard (ed.)
1733
-
36

といった記録が参照されていることもわか
った。こうした過去の記録からは、ヨギンやそのポーズによる苦行が、
倫理的・法的な批判や嫌悪の対象であり気味の悪いものとされていたこ
とがはっきりしたのである。また、ヨーロッパの学者や英語で教育を受
けたインドの学者による
19
世紀の学術書でも、似たようなハタ・ヨガ実
践への態度が見られた。調査した学術書には、
E

W
・ホプキンス、
W

J
・ウィルキンス、
M
・モニエ=ウィリアムス、そしてマックス・ミュラ
ーのものが含まれている。そして、
19
世紀末のヨギンの位置付けについ
ては、
1884
年以降に行われた
S

C
・ヴァスによる初期のハタ・ヨガ文献
の翻訳が非常に役に立った。また
C

R

S
・アヤンガー

Ayangar
1893


B

N
・バネルジェ

Banerjee
1894

、パンチャム・シン

Sinh
1915

の翻訳も参
考にした。ヴァスの翻訳が特に役立ったのは、それが、
1920
年代以降の
ハタ・ヨガの近代的な「医学的」解釈を広めるきっかけとなり、ハタ・
ヨガ実践を正統化する理由付けを提供した重要文献だったからである。
これまでの研究では、英語圏でのヨガの発展にとって大事なこの時期が
見逃されていたのだ。
大衆メディアにおけるヨギンの表象に関しては、
19
世紀のイギリスの
グラフ誌『ストランド』『ピアソンズ・マガジン』『スクリブナー・マガ
ジン』、
19
世紀から
20
世紀への転換時期については、奥義に関する文献で
「ファキール・ヨギ」とその技について書かれたもの、その後について
は、大衆的なインドの民族誌などの文献のほか、想像上のインドのヨギ
ンが登場する初期の映画なども取り上げた

6

18
世紀の「ポーズの達人」

1800
年代後半に現れる「大道ヨギン」の前身にあたるヨーロッパの大道芸)
の新聞広告
は、二次文献の注からたどり着いたもので、ケンブリッジやロンドンで
入手することが出来たものである。こうした、ベルニエ以降のヨーロッ
パのインド旅行記や、
19
世紀のオリエンタリスト学者たちや大衆メディ
アがとらえたヨギンの表象をみれば、初期の英語圏ヨガにおけるヨギン
の位置付けや、どうしてハタ・ヨガが初期のヨガ・マニュアルで触れら
れなかったのかがよくわかる。初期のヨガ啓蒙者のうち、もっとも重要
なスワミ・ヴィヴェカナンダと
H

P
・ブラヴァツキー夫人の
2
人が書き
残した文献は、当時のハタ・ヨガへの態度が記録された貴重な資料であ
る。ただ、こうしたヨーロッパの解釈以前から、ハタ・ヨギンがインド
のカースト制のはみ出しものであったことには、注意しておかなければ
ならないだろう。インドのヨガ再興の動きでハタ・ヨガが含まれなかっ
た理由は、こうした位置付けに淵源をもつからである。
以上のような資料から、ハタ・ヨガが初期の英語圏ヨガに含まれなか
った理由ははっきりさせることが出来たが、それがその後なぜ復活出来
たのかはこれだけではわからない。そこで次に、もう一度ヨガ・マニュ
アル本の調査に立ち戻る必要があった。そしてまず、マニュアルに現れ
たハタ・ヨガのアサナは、だいたいいつも体操と比較されていたことが
わかってきた。こうしたポーズの解釈は、ヴァスによるハタ・ヨガ「古
典」文献翻訳などの解釈とは著しく異なっていたのである。こうして新
しくつくられた英語圏のヨガの文脈では、肉体に関する概念体系や哲学
的内容が、近代的な健康とフィットネスに関する語り口へと変化した。
大英図書館やケンブリッジ大学図書館に所蔵されている
18
世紀から
20

紀初頭にかけてのヨーロッパの体操マニュアルを調べてみると、英語で
のヨガ本著者たちは、紛れもなく、そうした近代の身体文化の概念を使
ってハタ・ヨガを説明しようとしていたことがわかる。しかも、健康と
フィットネスの文脈にうまく合わない部分は削除してしまったようなの
だ。
こうした観点に合致する例が、リン、サンドウ、
YMCA
に淵源をもつ
スカンジナビアのシステムであった。これらの
3
つは、インドの身体文
化形成に大きな影響をもった舶来のシステムであり、そのためにそれに
合わせた新しいハタ・ヨガのありようにも、当然大きな影響があったも
のである。このうちインドの
YMCA
の身体文化プログラムについては、
複数の情報源に当たっているが、まずは、
1887
年にルーサー・ハルセイ・
9
8
はじめに
YOGA BODY
グリックが
YMCA
の身体文化プログラムを最初に始めた場所であるマサ
チューセッツ州スプリングフィールド大学のバブソン図書館。次に、イ
ンドの
YMCA
身体文化学校の草分けであるチェンナイ校の本やアーカイ
ブ記録、そして、バンガロールの
YMCA
身体文化学校の資料とそこでの
聞き取り調査が主な情報源である。またインドの近代的身体文化につい
ては、このほかマハラストラ州の雑誌『ヴィヤーヤン:ボディビルダー』
や、
K
・ラマムルティのほか
P

K
・グプタや
P

K
・ゴースといった、イ
ンド人で身体文化に関する著作があった人びとの作品群も大事な資料と
なった。さらに、同時代のイギリスの身体文化雑誌にも手を延ばすこと
になり、『健康と力』『スーパーマン』といった雑誌で、国際的な身体文
化の文脈でのヨガとフィットネスの関係について調べたのである。

6
章と第
9
章に使った、
1930
年代のマイソールやバンガロールでの
ヨガ練習の様子については、本人が練習に参加したか、近い親戚が参加
していたという人への聞き取り調査が、主な情報源となっている。それ
らはすべて
2005
年に
3
ヶ月現地調査をしたときに行ったものである。こ
うした聞き取り調査対象者は、だいたい
80
歳代か
90
歳代になっており、
ひとりなどは
100
歳を超えていた生き証人たちであり、その後の国際的な
近代ヨガの発展を見てきた人びとである。そうした人びとを探して聞き
取り調査した理由は、その当時にヨガなどの身体文化を練習するのはど
ういう感じだったのか、当事者に聞きたかったからであり、キーパーソ
ンとなる
T
・クリシュナマチャルヤや
K

V
・アイヤー周辺の「ボディビ
ルディング・ヨギ」の様子を伝えてもらいたかったからである。
研究対象となった空白時期は、かろうじて証言者が生き残っている時
期にあたり、ときとして記憶は曖昧になっている。ほぼ半世紀前のこと
を老人に語ってもらおうというわけであるから、細部ははっきりしない
か、ほとんど覚えていないということも多い。しかも、近代ヨガでは派
閥もあれば利害関係もある。特に、
T
・クリシュナマチャルヤの伝説に
関しては、彼の教えから派生した、ポーズをとるヨガの各流派にとって
の大いなる関心事でもある
(第
9
章参照)
。現代の国際的なヨガの世界で
は、何が真の正統的な練習法であるかという正統性の議論は熱く、とき
に偉人化や記憶の改竄によって権威がつくり上げられている場合すらあ
る。そこで、背景を踏まえて聞き取り内容を解釈する必要があった。こ
うした難点はあるものの、聞き取り調査することによって、カルナタカ

1930
年代のヨガや身体文化の練習の様子について、それを行わなけれ
ば得られなかった貴重な情報が得られたし、珍しい文献に触れる機会に
も繫がった。
聞き取り調査を受けてくれた人びとのうち、主たる情報源となったの
は、マイソールでのクリシュナマチャルヤの弟子であったという
3
人で、
世界的に有名で最近亡くなったシュリ・
K
・パタビ・ジョイス、そこま
では有名ではないがマイソールのヨガ指導者である
B

N

S
・アイアン
ガー、そして、
T

R

S
・シャーマ教授である。シャーマ教授について
は、かなり時間をかけ、また数回にわたり、マイソールのヨガ・シャー
ラについて語ってもらった。また、ポーズをとるヨガでは世界的に有名

B

K

S
・アイアンガーは、何度もお願いしたにもかかわらず、この
問題について聞き取り調査を受けることは拒否したが、その代わりにプ
ネの研究所にある個人蔵書の使用を許してくれた。私が接触したクリシ
ュナマチャルヤの弟子のうちの
5
番目の人物は、チェンナイでのクリシ
ュナマチャルヤの弟子で有名な指導者である
A

G
・モハンであり、聞
き取り調査も受けてくれたが、マイソール時代のことについては直接の
経験はない。
ここで、マイソールのジャガンモハン宮殿の公式記録の管理をしてい
るシュリ・
M

G
・ナラシムハンが、クリシュナマチャルヤのヨガ・シ
ャーラの記録が含まれている
1930
年代、
1940
年代の年次報告を見せてくれ
たことにも触れておきたい。彼の妻、
M

A
・ジャヤシリ博士と、義兄
弟のシュリ・
M

A
・ナラシムハンは、私のハタ・ヨガ理解を助けてく
れ、サンスクリットで書かれた、『ハタ・ヨガ・プラディーピカー』に対
11
10
はじめに
YOGA BODY

| 未分類 | コメント(0)

ヒクソングレイシーの師オーランドカニと早川光由の師アレッシャンドレ パイパ の バイオジムナスティック動画





http://ameblo.jp/kennakata/entry-10889686614.html

オーランドカニ



2011-05-12 20:31:48
テーマ:ブログ


あまたアンチエイジングの方法はあれど、ホルモンに直接手を出してしまう事ほど解決に近い物は無いと思う。

特に成長ホルモン。皮下注射からしか効果無く、注射の原価だけで月20万位?しかし、効果は何にも変えがたいものです。

それと近い効果があるのが加圧トレーニングだが、そこまでしなくてもある程度きつい運動をすれば同じ様な効果ありです。

ついに一ヶ月ぶりに道場へ向かっています。何でも10年前に早川先生全盛期のこれまた伝説のアレッシャンドレ パイパ先生とのスパーリング映像が見つかったらしい。これは見たい。あのころの早川さんはヤバかった。

またどうでもいいが、俺と世界一のヨガ行者のオーランド カニ先生とのスパーリングもどこかの海外のサイトから見つかり、日本の人が単に変わったヨガの人をいたぶる画像にしか見えないらしい。

違う意味で10年位前の柔術界で名前が売れていたが、一番やばい画像とか、俺と早川さんと海外柔術家軍団とカニ先生はじめヨガ行者など10人が、皆で二時間位猿になったりトラになったりする動画はもう俺の葬式の時までお蔵入りだな。カニ先生とのパイバが本当のカニになるシーンなんて涙なしでは見れない。柔術魂のDVDに付録でつけたら完売だよな。

あの一週間位のヨガセッションは効果あったんかな?まあもう一回やりたいからリオに行くかな~。

| 未分類 | コメント(0)

少林寺の名を一躍世界に名を広めた武侠映画 その名も少林寺 日本で最初の中国武術ブームもこの映画と同時に始まった!











ジェットリーこと李連杰表紙の福昌堂 中国武術専門誌 武術2号
当時の編集顧問は松田隆智
Image3.jpg

http://nestofdragon.blog130.fc2.com/blog-entry-35.html

 自分は幼稚園の年長から少林寺拳法を習っていたが、やはりジャッキー・チェンの影響なんだと思う。親の薦め、兄貴がやっていたからでもあるけど。物心ついてから、おそらく一番最初に見た、ちゃんと印象に残っているような映画は『グーニーズ』かジャッキー・チェンの『サンダー・アーム龍兄虎弟』で、こんな二つ見れば当たり前だけど海賊と冒険とカンフーに憧れた。だから、自分の原点はジャッキー・チェンの『サンダー・アーム龍兄虎弟』の役柄、トレジャーハンター「アジアの鷹」。そのキャラに憧れてどっぷりはまった。カンフー映画って言ってもジャッキー・チェンの映画しか見なかったからリー・リンチェイ=ジェット・リーにはまったのは大分後なんだよね。でもリンチェイにも自分はかなりの影響を受け、憧れと尊敬の念を抱いているから、やっぱり愛すべき香港映画を語るならばリンチェイについても語っておかなきゃならないと思うわけです。



邦題『少林寺』
原題『少林寺』英題『The Shaolin Temple』
1982/中国・香港/100分
監督 チェン・シン・イェン
出演 リー・リンチェイ(ジェット・リー)、ユエ・ハイ、ユエ・チェンウェイ、ティン・ナン、フー・チェンチャン、スン・ジンフイ



 上で香港映画といったけど、正確には香港映画ではなく、中国映画というべきなんだと思う。自分の主観だとやっぱり微妙に色が違う気がするし、香港はイギリス領にあって結構独自の文化が成り立っていたし、元々喋っている言葉も香港は広東語で中国映画は北京語なんで、(香港映画は必ず本人じゃない声で広東語吹き替え、北京語吹き替えなど大体の言語での吹き替えが同時に作られるらしいが)雰囲気は確実に違う。カメラワークでズームや引きを多用するっていう共通点はあるかもしれない。
 岡村隆主演で有名な映画『無問題』は香港と合作で、広東語だからモウマンタイと読む。しかし北京語だと「無問題」はメイウェンチーと読む。全然違うんだなこれが。
 とにかく、この『少林寺』はさらに特殊で、中国武術連盟が全面協力して全中国武術大会で5度連続の総合優勝を果たしたリー・リンチェイを主役に迎え、他の役者もそれらの大会で素晴らしい成績を残しているような、本物の武術家を使っていて、見所はもちろん物語ではなく、本物の武術家たちのノースタントの本物のアクションである。ジャッキー・チェンのアクションが嫌いな訳では決して無いが、その動きの華麗さでいったら圧倒的にリンチェイの方が上であると思う。
 ちなみに、よく勘違いされるが自分が習っていた少林寺拳法と言うものは中国の少林寺で行われていた少林拳やカンフーと違う。流れは組んでいるが、宗道心が中国からその武術の理を持ち帰り、健全なる青少年の育成の思想を合わせた日本国産の総合拳法であり宗教法人。別物なのである。しかしこの映画の制作には日本の少林寺拳法も協力していて、日本の少林寺拳士が出ている。それについては少林寺拳法の秘技と共に後述する。


 物語は仏門に入る儀式をしているリンチェイが回想し、「ショーリーン、ショーリン」と言う歌が流れワン将軍の圧制により奴隷労働を強制されているリンチェイとリンチェイのお父さんがいて、リンチェイのお父さんが反抗するもワン将軍に敵わず、リンチェイだけは必死で逃がすと言うところから始まる。





 髪の毛のある若いリンチェイと、リンチェイの父役、「足技自慢のチャン」。奥の人ね。手前の中ボスみたいな人と戦っているんだが、奴隷が暴れだしたっていうのに兵士たちはガン無視って言うね(^^; 中ボスの人だけ苦労してる。1対1で戦わなきゃならん法律でもあるのだろうか?





 その中ボスと、大ボスであるワン将軍。ワン将軍は『少林寺2』でも『阿羅漢』にも出てきます。ってかキャストは基本変わりません笑 中ボスは2ではやっぱり中ボス。ワン将軍は2では優しいお父さんになったりします。ワン将軍は武当剣の使い手で、顔に似合わずに華麗な動きをします。

 ともかくその後リンチェイは少林寺に逃げ延び、そこで命の恩人でありあらたな父とも師匠とも言える大事な存在になる やヒロイン、友人と出会い、自ら拳法を習うが、仏門の復讐、殺生をしてはいけないと教えに納得できず、親の仇を取るためにワン将軍の命を狙い寺を出る。しかし、敵討ちに失敗し、自分を匿い、命を救ってくれた少林寺に迷惑がかかることがわかり、リンチェイは全ての責任を取ろうと少林寺に戻るが……。

 全体的に話の流れは突っ込みどころがたくさんあって雑、特にラストなんて「良いのかよ!?」ってなってしまうが、そんなことはどうでも良いくらい華麗で、しつこいくらいに長いアクションが全体に散りばめられている。おなかいっぱい。修行のシーンとか、仲間達の演舞のシーンとか凄く良いんだけどね、ラストの戦いはやりすぎってくらいマジで長い……。


 その華麗なアクションを見せてくれる達人たちを紹介。

 主人公、リー・リンチェイ



 やっぱ若い!!童顔だから今でも十分若々しいけど。全中国武術大会で総合優勝5連覇を成し遂げた天才。リンチェイの映画界での成功はこの映画から始まりました!
 この映画ではワン将軍との酔剣vs酔棍という酔拳vs酔拳という珍しい戦いが見られる。



 リンチェイも酔拳できるんですよね。ジャッキーと比べて動きがシャープ。コミカルで無駄な部分が少ない。一度ジャッキーとも酔拳vs酔拳やってみてほしいもんだ。
 リンチェイの四季の演舞シーンも見事です。
 夏

 秋

 冬

 春


 これで一年経っちゃうんですけどね。

 ラストの長い戦いの終わりはロミオ・マスト・ダイでもやっていた縦回転蹴り。



 こんな高さは無理だけど、自分もできなくはない。


 第二の父であり師匠役のユエ・ハイ。



 優しい師匠。2でも阿羅漢でも師匠です。ただ、この10何年後に作られた新テレビシリーズ『少林寺』では全く同じ役柄で、同じ顔で出てきたときはびっくりした。この人吸血鬼か!?
 この人は蟷螂拳が得意なのかな。



 カマキリの動きを模した拳法。阿羅漢ではリンチェイも蟷螂拳をやっていて、師弟で蟷螂拳の揃い踏み。その役20年後、再び蟷螂拳の構えでジャッキーと戦ってくれたときは感無量だった。


 兄弟子役のフー・チェンチャン。



 この人はこの映画ではあんまり出番は無いけど、2でも阿羅漢でも準主役になります。
 この映画での見所はリンチェイとの演舞。そのときリンチェイから食らった技がこれ。





 仏骨投げ!この投げ技は少林寺拳法にも伝わる仏骨投げではないか!!秘技です。自分も支部長に「絶対に使うな」と言われて教わりました。喉仏に親指を突き刺してぶん投げて押し込む。相手は受身取れないで頭打つし喉が潰れるしまず死にます。絶対に真似しないように。



 猿拳のシーン。この人たちはなんでも出来るな。

 酔拳使いのスクン役、スン・ジンフイ。



 より目が特徴のこの人。2では何故か敵のボスに。他の映画にもちょっとだけ出てたりします。
 この人の見所は、途中の少林僧侶無双シーンかな。訓練されてるはずの兵士たち相手に大立ち回り。僧侶のくせにこいつら強すぎ(^^;



 訓練された兵士たちが酔っ払い一人相手にボコボコにされる図。


 ヒロイン役のティン・ナン。





 師匠の娘さんだそうですが、当たり前のようにヒロインも戦います。じつは中ボスよりも強いというね(^^;


 少林寺拳士。



 この映画には日本少林寺拳法も協力していて、キャストとして少林寺拳士の方が出ているのだが、最後の寺院での戦いのこの人がおそらくそう。



 動きが明らかに少林寺拳法の動きなんだよね。やってた人にはわかるはず。刃牙で言う飛燕の連撃。



 そしてこちらも出しました少林寺拳法秘伝・仏骨投げ!!秘技の割には凄い有名な気がするけど。もう一度言うけど、マジで危ないから真似はしないように。

 他の僧侶仲間たちも皆強いんです。



 こいつら頼もしすぎる。
 人数で圧倒的に不利なのにも関わらず敵の兵士たちと互角以上に渡り合う。
 この人たちの演舞シーンも見所ですね。





 多分皆大会上位の実力者たち。
 あと全体にちりばめられてる修行シーンも面白い。



 手を使わずにヘッドスプリング。実はこれ自分もできます。



 これやったことあるけど滅茶苦茶つらい。



 有名なシーンですね。有名な場所というべきか。何度も何度も練習を積み重ねて、地面がへこんでしまった。ここは観光名所にもなっています。一度は行きたい!!


 見終わったらほぼ確実におなかいっぱい過ぎて食傷気味になるアクション。物語や構成は雑ながらも、そのアクションで突っ走り、最後まで駆け抜ける。アクションに興味の無い人にはマジでしんどい作品だと思う。でもカンフー映画史には欠かせない作品。リー・リンチェイを語るには外せない作品。これを含む『少林寺2』『阿羅漢』の少林寺三部作を見とかなきゃ、カンフー映画は語れない。リンチェイが好きなら見とけ。カンフーが好きなら見とけ。逆にリンチェイが好きじゃなく、カンフーも好きなじゃかったら見る意味は無い。リンチェイへの愛か、カンフーへの愛のある人だけ見てください。

 仏骨投げはマジで真似するな。


愛すべき名台詞
特に無し。

愛すべき名場面
○兄弟子たちの修行シーン。
○リンチェイの修行シーン全部。
○酔棍vs酔剣
○少林寺僧侶無双シーン。
○ラストの寺院での戦い。(寺院を出てからは長いから別に)

評価
★★★☆

予告編↓ この予告編だけでも演舞は結構面白いと思う。





http://radwynn-bluesky.seesaa.net/article/69417849.html

『少林寺』

shaolin031.jpg

1982年、日本公開作品。李連杰(リー・リンチェイ)、花の18歳。5年連続中国全国武術大会優勝の「少林拳の至宝」初出演そして初主演作品。

この頃のリンチェイのアクションを観ていると、「風姿花伝」に世阿弥が記した「時分の花」と言う言葉を、実感せずには居れません。
中国の四季の景色(を表すセット)の中で表演するリンチェイは溌剌として美しい。伸びやかな手脚、小振りな頭、艶やかな肌、皮膚の下に捩れ動く筋肉さえもが流れる様に美しく、いつまで観ていても厭きるということがない。人間の肉体が此れ程に美しく激しく躍動する事が出来るのか、と、驚愕と共にうっとりとしてしまう。
けれど、それは、リンチェイ自身の若さの美に過ぎないのだ、と。
『SPIRIT』でのリンチェイの表演の美しさは、『少林寺』のリンチェイの美しさとは、全く別のところに或る。ラストシーンのリンチェイは、美を通り越して、神々しくさえ在った。あれこそ、「功夫」「武術」の真髄なんだろう、と、素人にさえも朧げながらに掴める程の何かが、彼の全身から溢れていた。
『少林寺』シリーズの頃のリンチェイは、その美しい肢体を必要以上に包み隠す事はあまりしなかった。最近のリンチェイは、反対に指先と顔以外の肌が見えている事の方が少ない(笑)のだが、これさえも、もしかすると、「秘すれば花」なのかも知れない、と思わせる。リンチェイが我々に観せたいのは、己の肉体の美しさでは無く、武術の真(まこと)の花、なのだ、と。

さてさて。
『少林寺』に話を戻して。

『少林寺』ストーリィ詳細:(粗筋をラストまで書いていますのでネタバレがあります)

えー。
この『少林寺』のストーリィ、『阿羅漢』のストーリィと、かなり被ってるんですね。そんでもって、出演者も殆ど同じなんでね(笑)
混同しちゃってる方もいらっしゃるのではなかろうか、と。老婆心にて。
…っていうか私自身がちょっと危なっかしかったんだよ、記憶が(苦笑)

見所は、本当の武術の達人達による本物の少林拳…だけでは無かったりする。
リンチェイはこれが映画初出演、そして彼を取り囲む少林寺の拳士たちも、大半が役者ではなく、武術者。にも関わらず、彼らの演技が実に自然で伸びやかなんですね。
古装の功夫物ですから、少々のクサい演技や大仰な見栄があってもそれほど気にはならない、むしろスパイスとして美味しいくらいだ、というのもありますが…
それにしたって、今回じっくり鑑賞してみても、なんというか、彼らの演技、嫌みがない。元々、武術の表演というのは、鑑賞者に己の技を見せる事が目的ですから、実は彼らは潜在的に演技巧者なのかもしれませんね。しかも、妙にひねくれたところが無く素直な表現をするので、本当に心から笑ってるんじゃなかろうか、と思わせる爽やかな笑顔を見せてくれたりする。
有り得ねぇ!と思わず叫んでしまうような超絶技巧の功夫がぶつかり合うアクションシーンと、子供の様に素直に笑う彼らの日常生活の、その落差の妙、というのが、私の感じたこの作品の一番の見所、ですね。

実はね、この『少林寺』、私はそれほど、アクションシーン自体に感動した訳じゃないんです。功夫は確かに素晴らしいのですが、アクションシーンとしての見せ方が今ひとつ、だと思うんです。
出演者も、撮影する側も、これほどの功夫をどのように映画的アクションに生かせばいいか、未だ模索中、とでも言いますか…功夫に撮影が追いついていない、と言えばいいのか…
アクションシーンとしてみると、この後の『阿羅漢』、そしてその後の『黄飛鴻』シリーズの方が、完成されていると思います。
ですから、少林拳として見所なのは、むしろ表演シーン、なのかもしれません。

あ、そうそう、私は文化の違い、と思っているので別段なんとも思いません、というか、むしろ旨そう、と思ったりするんだが、吃驚するかもしれないシーンとして、犬バーベキューシーンがありますな。
なにが可笑しいって、犬(しかもお師匠様の娘の犬)の首に縄をかけて引っ張り上げるなんてそりゃ死ぬだろ、な事をやっておきながら「殺す気はなかった」とかって滝の下に埋めに行き、一旦埋めて「景色のいいとこに埋てやったからいいだろ」とか言った舌の根も乾かぬうちに「埋めるのは勿体無いなー」って、あんた!(爆笑)
おまけにお師匠様!「普通は鍋で喰うもんだ」って、問題は其処じゃないでしょうに!(爆笑)殺生した上に肉喰ってる、つーの(笑)
と、私は非常に笑えるシーンだったんですが、受け付けない方は受け付けないシーンかも知れないので、ご注意。
この犬肉ネタは『黄飛鴻』シリーズにも出て来ますね。師父は犬好きだそうですよ(笑)


…以下、腐女子的見所です。
読みたくない人は回れ右だ!





なんと申しましても、師匠と小虎の絆でございましょう。
…どこかのマスターとパダワンをふと思い出したりもしますが…
とにかく幾ら高僧が危険だと言い募っても、雲宗和尚、聞きやしねぇ(笑)
兄弟子達も、ありゃもう一目惚れ以外のナニモノでもないっすよ。

作品冒頭、介抱される小虎の瞳は、うるうるしたまま、終止お師匠様をじっと見詰め続けております。
お師匠様もお師匠様で、小虎を見る時の目は常に慈愛に満ちて。
この小虎介抱シーンは書き様によっては18禁モノになりかねません。
師匠「痛いか」
小虎「(軽く唇を噛んで堪えた後、ちいさく)…いいえ(視線は師匠の顔を見詰めたまま)」
………orz
想像する私がイケナイんですか?!それとも想像させるリンチェイがイケナイんですか???!

寺を飛び出し王将軍の館に殴り込んだ後、再び小虎が寺に戻って来るシーン。
そっと僧衣を羽織るリンチェイの伸びやかな肢体は本当に美味しそうでございますことよ…
筋肉の付き方が実に美しい。むきむきと醜く盛り上がっている部分は一つもございません。ぬめりと掌に吸い付きそうな触感を見せる柔らかそうな肌の下に、骨格と筋肉のバランスが絶妙。この後上半身裸のまま少林拳を表演するシーンがありますが、その力の入った時の筋肉の動きと、この柔らかな仕草の筋肉の動き、その違いで、リンチェイの筋肉が実に柔軟に動く事が判ります。
理想の肉体です。流石、中国武術界の至宝。
…しかし問題はリンチェイの筋肉だけじゃないんですよ。
このシーン。兄弟子達が…アブナ過ぎます。つか、リンチェイの表情が!その表情がアブナさを助長しておるんじゃー(錯乱)
おずおずと僧衣を羽織った小虎に、「おかえり!」「やっぱり寺がいいだろ?」「淋しくなったのか?」と、嬉しそうに声を掛けつつ集まって来る兄弟子達。
真ん中でちょこん、と椅子に座って恥ずかしそうに俯く小虎。
…その胸元にそっと手を伸ばして、優しく僧衣の襟元を直してやる兄弟子…!ち、ちょっと?!
と思う間もなく!畳み掛ける様に!兄弟子の恐るべき攻撃が!
俯いた小虎の頭に、仏門に帰依した印に似た傷が付いているのを見つけた兄弟子が、「あれー?こいつ、もう頭に印をつけてるぜ」と笑うシーンで、兄弟子役の胡堅強(フー・チェンチャン)が、ですね、リンチェイの頭をそっと上に向かせるんですが…その仕草がですね…こう、両の手で、リンチェイの耳の辺りを、かるーく、包む感じで、ですね…すっげー、仕草が、ジェントルなんですよ…
そんで、みんなで「その印、付けてもらうのには何年も修行しなくちゃいけないんだぞー?」って笑った後に、ですね、これまた、そっとリンチェイのあごに、触れるか触れないか、っていうジェントルなタッチでですね、上を向かせようとするんですよ。殆ど、実に優しく頬を撫でている、としか…
そんでもってその時のリンチェイの表情が!可憐過ぎ!はにかんで俯くその表情、仕草は、既に罪!
何度見ても悶絶しそうになりますことよ…(何度も見るな)

この後も、兄弟子達はやたらと小虎ラブ!を隠そうともしないし。お師匠様は娘より小虎!だし。
小虎は小虎で、口を開けば「師父…」「師父!」「師父ーーーーー!」だし。

殉職シーンでは、娘の顔を認めているにも関わらず小虎を探し、己の横に或る小虎の顔を見つけた時に安心した様に息をつくお師匠様。貴方、心配なのは娘の事だ、とか言ってたんじゃなかったんか。愛には逆らえなかったのね師匠。

そして、師匠から「娘を頼む」とか言われてたのにも関わらず、「お師匠様の後を継いで仏門に帰依いたします!」って…小虎…
パイはかなーり可哀想だったぞ(苦笑)


…今回見直してみて思いました。…思い知りました。
何故、私が、この作品の公開当初から今に及ぶ四半世紀もの間、リンチェイのファンでありつづけているのか。
それはリンチェイがリンチェイだから、だったんですよね…
今更何を、だったんですね、師父…貴方は、昔から、そうだったんですよね…
だからこそ。
この私が。(京極堂「この僕が」的用法)
貴方にコロんだんでしたよね…

初心に還るとはこの事だったのか、と、本当に、思い知らされることでした…

ははははは…は…ははは…(乾いた笑)

ええ、これからも追いかけ続けさせて頂きますよ。もう、迷う事は在りませんもの…

http://radwynn-bluesky.seesaa.net/article/69417132.html

2007年11月14日


『少林寺』ストーリィ(粗筋をラストまで書いていますのでネタバレがあります)

「汝、殺生の罪を犯すなかれ―この教えを、守れるや否や?」その声に、若き僧侶ははっと顔を上げる―

時は群雄割拠の時代、極悪非道の王将軍はその圧政で民を苦しめていた。王将軍の圧政から逃れた民は、少林寺に逃げ込み、寺の境内は今や難民で溢れている。
そんな折、一人の少年が、少林寺に転がり込んで来た。彼の名は小虎、父を王将軍に殺され、自分自身も深手を負いながら、必死にここまで逃げて来たのだった。
雲宗和尚とその弟子達は、高僧の反対にも関わらず、管長に少年の保護を訴え、管長はみ仏の教えに従うべき、として、これを許可する。

雲宗和尚や弟子達の手厚い介抱のおかげでみるみる回復した小虎は、ある日、雲宗たちの拳法の修行の様子を覗き見て、強くなりたい、と己も弟子入りを志願する。
その本心が復讐に或ると知りながらも、小虎の弟子入りを許す雲宗和尚。折に際して「武術は殺すためのものではない、生かす為のものだ」と諭しはしても、小虎の目に宿る殺気は消えず、復讐へと焦れる小虎は、とうとう寺を飛び出し、王将軍の屋敷へ向かってしまう。
その頃、羊飼いをしていた雲宗和尚の娘パイが王将軍の配下に捕えられ、夜毎に女を求める王将軍に献上されようとしていた。あわやの瞬間に踊りこんだ小虎によって助けられ、二人で協力して王将軍と闘うも及ばず、館から逃げ出す。逃げる二人に追手がかかるが、その時、馬に乗った一人の男が、王将軍の兵を切り捨てて走り去る。追手はその男の後を追い、二人は無事に少林寺まで逃げ戻ることができた。

気まずい思いで寺に戻った小虎を待ち受けていたのは、兄弟子達の笑顔と師匠の優しさ。師匠に心から詫びた小虎は、巡る季節の中、黙々と修行に励む。
ある日、いつもの様に山で修行していた小虎は、王将軍の軍勢に追われる男を見かけ、助力する。その男は以前追手を切り捨てて逃げたあの男だった。
少林寺の墓所に逃げこんだ二人を追って王将軍たちがやって来るが、師匠と兄弟子の機転で、小虎と男は難を逃れ、石窟に隠れる。
男の名は李、王将軍を討伐せんとする李将軍で、お忍びで自らが偵察に来ていたのだが、黄河を渡って自陣営に帰らなければならない。食料を届けに来たパイの思いつきで、パイが新婦、小虎が新郎、そして李は付き添いの叔母に化けて、王将軍配下の監視網をくぐり抜けた…と思った矢先、川岸まで辿り着いた三人に追手が迫る。足に矢を受けた李とパイを逃がし、孤軍奮闘する小虎。
そこへ師匠と兄弟子達が駆けつけ、追手を蹴散らすが、師匠は小虎に「破門」を言い渡す。少林寺で王将軍が待ち受けている事を知っていた師匠は小虎を逃がし、自分が責を被るつもりだった。師匠ひとりに責を負わせる訳にはいかない、と、小虎は少林寺に戻ろうとするも、師匠と兄弟子に止められてしまう。

王将軍は李と小虎の身柄を引き渡さねば寺を焼く、と言い放って一旦は引き上げるが、川岸の乱闘から逃げ延びた兵から報告を受けて激怒し、再び軍勢を引き連れて少林寺へ攻め入って来た。
「あの少年はやはり災厄の種であった」と嘆く高僧に管長は「長年寺に居て仏の教えの何たるかも判っておらぬのか」と叱責し、全ての責を被り、寺と僧達の安全を請うて自ら火刑を受ける。
しかし王将軍は言を翻し、李将軍の姿を求めて僧侶を殺戮し始めた…
石窟に小虎を匿っていた雲宗和尚は、自分が行って闘うと叫ぶ小虎を押しとどめ、反対に娘パイを頼む、と言い残して、兄弟子達と共に少林寺へ向かった。
王将軍の悪行を目の当たりにした管長は炎の中から「悪人もあの世に送ってやれば成仏するであろう」と、雲宗ら僧兵に反撃を許し、少林寺は血戦の舞台となる。
僧兵の余りの強さに圧倒された王将軍は弓部隊に掃射を命じ、雲宗が全身に矢を受けたその時、小虎とパイが、李将軍の兵を連れて、駆け戻って来た。
弟子達に看取られながら、雲宗和尚は「正義を貫け」と小虎に言い残し、絶命する。

李将軍の軍勢は黄河を越え、手薄になった王将軍の城に迫っていた。王将軍はその報告を聞き慌てて城へと兵を戻すも、既に城には李将軍が入城し、背後からは、追って来た小虎とパイ、兄弟子達が迫る。
黄河の岸で王将軍に追い付き、乱戦を繰り広げる小虎達。船の上へ、河の中へ、と王将軍を追い詰める小虎。そしてとうとう、王将軍の胸に剣を突き立て、その命を奪う。奇しくもそれは、父が王将軍に殺された、あの場所であった。

―走馬灯の様に脳裏を駆け巡った幾多の血戦の日々。僧侶になる事を決意した小虎は、静かに、そして力強く言う。「殺生はいたしません。しかし、正義は貫きます」
李将軍、今は唐の太宗皇帝は、少林寺の助力に感謝し、報償を与え、少林寺に僧兵を養うことを許可し、これを記した石碑を建立、この石碑は今も寺に残されている。そしてこの後、少林寺は武術の祖として益々隆盛して行くのである。

| 未分類 | コメント(0)

ヒクソングレイシーvsカーリーグレイシー 日本のインタビューよりも海外のインタビューの方が面白いですねぇ 逆にプロのライターでもつまんないインタビュー記事多すぎですよ 特に今回のファイトアンドライフのマーシオフェイトーザインタビュー記事

https://translate.google.co.jp/translate?hl=ja&sl=en&u=https://www.onthemat.com/node/8580&prev=search

ヒクソン・グレイシーFreefightインタビュー



金、2006年10月13日午後05時39分- FreeFight雑誌







この記事はもともとBJJ.orgに登場。 情報のアーカイブ全体はOntheMat.comで使用できるようになりました

FreeFightマガジンから(日本)
クティ訳
1997年秋

このインタビューは1997年10月11日に日本の高田のヒクソンの敗北直後に行われました。

FreeFight
あなたはとても短いものだった高田であなたの試合を驚かせたのですか?

ヒクソン
私は、クイックマッチに驚いたことがないのです。 私の対戦相手がミスをした場合、私はそれが1分または10分であるかどうかを大文字にします。

FreeFight
どのように高田とあなたの戦いの準備をしましたか?

ヒクソン
戦いの前に月のRoylerとのスパーリング。 Roylerは、戦士の精神を持って、非常に良好なトレーナーです。

FreeFight
それは、ブラジルで育っどんな感じでしたか?

ヒクソン
私は非常に良い子供時代がありました。 私の父は、私たちの子供たちを打つことはありません私たちは学校でトラブルになった場合、私たちはサーフィンを行くことを許されないであろう。 私は私の子供を上げ、同じ哲学を使用します。

FreeFight
あなたは究極のファイティングチャンピオンシップに出場しますか?

ヒクソン
私はそれが今までに起こって表示されません。 UFCは、ほんの少しの時間であり、戦闘機の品質や日本が提供しているお金を持っていません。 私は2つの理由から、プライドのために戦うと私の家族の世話をするだけ。

FreeFight
だから、モーリス・スミス、マーク・カーのような戦闘機は日本で戦闘機と同じレベルではありません意味ですか?

ヒクソン
その通りです。 私は彼らが戦う見たとき、私も私の息子は上生かすことができるように多くの開口部を参照してください。 私は彼らに多くの穴を見ることだけ、彼らは悪い戦闘機あるとは言いませんよ。

FreeFight
どのようにマーク・ケアーとの一致が起こって見るでしょうか?

ヒクソン
カーは、良いベースとの大きな強い男です。 私は彼が出て疲れと私の口を与えて想像します。

FreeFight
今までに、過酷な試合は何でしたか?

ヒクソン
私は実際には他のものより長持ちすることを一致して、タフな試合がありませんでした。

FreeFight
あなたの最長一致は何でしたか?

ヒクソン
間違いなくEquada。 彼は6'7だった」と、少なくとも340ポンド。

FreeFight
どのくらいその戦いは行きました、どのようにあなたは彼を終了しました。

ヒクソン
これは、50分に行きました。 私は彼をtriangled、彼は気絶しました。 非常にタフな男。

FreeFight
なぜあなたとRorian間の距離がありますか?

ヒクソン
それがファミリービジネスと私はむしろ議論しないと何かです。

FreeFight
ビトー・ベウフォートの感想を教えてください。

ヒクソン
優れたパンチング能力の良い若い戦闘機、。 私は彼がしかし黒帯に紫から行ったか疑問。 私の知る限りでは、彼はブラジルの柔術トーナメントに出場することはありません。

FreeFight
それはあなたがあなたの翼の下にビトーを取るつもりだったというのは本当でしょうか?

ヒクソン
私は彼が私と一緒に訓練するためになれば、それは私やカールソンのいずれかである必要があります彼に言いました。

FreeFight
あなたは彼と一緒にロールバックすると、どうなりますか?

ヒクソン
これは、2つの年が経ちましたが、彼は地面にスーパースターではありません。 GIで、彼はすぐにタップ。 それは少し時間がかかりますがなければ。

FreeFight
史上最高のファイターは誰ですか?

ヒクソン
疑いエリオ・グレイシーなし。

FreeFight
あなたはマチャド兄弟と知り合いにしていますか?

ヒクソン
私はトーナメントでそれらを参照してください、私たちは楽しい時間を過ごします。

FreeFight
あなたは最高のマチャドは誰を感じていますか?

ヒクソン
リガン。

FreeFight
自分自身とリガンはこれまで柔術で戦ったことがありますか?

ヒクソン
はい、2回の機会に。 初めてリガンは非常に積極的だったし、疲労が原因終了しました。 リオのエキシビジョンマッチでは6年前、二回目は、私は残り2分で彼を窒息しました。

FreeFight
あなたは、任意のグラップリング競争の中で失われていますか?

ヒクソン
私は私のblackbeltを持っていないからです。

FreeFight
あなたはアメリカでサンボの試合を失ったという噂があります。

ヒクソン
はい、あなたは全体の話を聞いていませんでした。 ルールは正しくので、私は不利な立場にいた私に説明されていませんでした。 あなたがルールを語っていない場合はどのようにゲームをプレイすることができますか?

FreeFight
我々はあなたがいつでもすぐに戦う見ることを期待することはできますか?

ヒクソン
はい、私は半ば、1998年に非常に大きな名前の日本の戦闘機と戦うために、今交渉しています。

FreeFight
私は、私たちとあなたの時間を共有するためにあなたに感謝したいと思います。

ヒクソン
どういたしまして。

https://translate.google.co.jp/translate?hl=ja&sl=en&u=https://www.onthemat.com/node/8581&prev=search

ヒクソン・グレイシーインタビュー2



金、2006年10月13日17時41 - FreeFight雑誌







この記事はもともとBJJ.orgに登場。 情報のアーカイブ全体はOntheMat.comで使用できるようになりました

FreeFightマガジンから(日本)
佐藤訳

FreeFight誌とヒクソン・グレイシーとの間のこのインタビューは1998年4月に、プライド2の後に行われました。

FF
あなたはプライドのイベントで再び高田と戦うために、この時点で交渉しているという噂があります。
RG
はい、これは本当です。 近い将来に発表を聞くことを期待しています。

FF
なぜ再度ないKoshaka、佐藤、またはカーのようにもアメリカのようなトップファイターの高田と戦いますか?
RG
私は高田は戦士で、試してみて、自分自身を償還するチャンスに値する感じます。

FF
あなたも、再びトーナメントで戦うつもりですか?
RG
お金があれば、私はトーナメントで戦うことになるが、私はいつでもすぐに起こっていることがわかりません。

FF
あなたは最高の戦闘機が今日は誰感じていますか?
RG
私はカーとエリクソンが非常に強く、佐藤とスペリーは、優れた技術を持っていることを感じています。 しかし、最大の挑戦は、エリクソンでなければならないであろう。

FF
どのようにして、このようなコナンやジョン・ルイスのような柔術の最近の損失についてどう思います。
RG
驚きがありませんので、コナンで、あなただけのテクニックを支配する力を利用しようとしている大きな男を持っています。 ルイスでは、ここで私と一緒に青帯とblackbeltになる私の学校を出た後の年である男ですか? 私は状況が自分自身を説明すると思います。

FF
フランク・シャムロックは、ケビン・ジャクソンとイゴールジノヴィエフなどの戦闘機を破ってUFCのイベントでは非常に成功してきました。 どのようにあなたは彼との戦いに近づくでしょうか?
RG
私は他の戦いとしてシャムロックとの戦いに近づくことになります。 私はそれが技術的能力に来るとき、彼は戦った戦闘機は厳しいが、何も特別なことをしている感じ。

FF
だから、ケビン・ジャクソンのようなオリンピック金メダリストが低い技術を持っていることを言っていますか?
RG
はい、私は彼がトップファイターと考えることができる前に、彼の技術は仕事の多くを必要と感じています。 彼はただ、「ここに私の腕である」、それは戦いの終わりだと言っているようです。 それは、彼らが窓の外に主にパワーと投げ技術を使用することを、力士のネガの一つです。

FF
私たちの最後のインタビューで、あなたはロントリップに対する米国のサンボ大会で戦ったときに、ルールを知らなかったと主張し、そのためには、損失と考えるべきではない、私はあなたが他のサンボに出場していたあなたの記録で見ますこれ以前にイベント。
RG
各トーナメントは同じではなかったことを理解しなければなりません。 必ずしもすべてのサンボの大会には、まったく同じルールがあります。 私は背中に投げ損失であったことを知っていたなら、これは起こらなかっただろう。 氏トリップがNHBと戦うしたい場合、私は、プロモーターは、これを設定することができます確信しています。

FF
あなたはあなたを批判し、あなただけの "弱い"の対戦相手と戦うとカーのようなトップファイターを避けていると言う人々に何を言うのですか?
RG
誰かが悪いが、その後、私の学校に来ていることを私を戦うために望んでいる場合、私は、それらを教えてください。

FF
しかし、あなたはプライドイベントでロイスの場所を取るために提供され、減少しました。 なぜ?
RG
私は1ヶ月の予告に戦いを取ることはありません。 彼らは私がカーを戦うためにしたい場合は、事前に私に3ヶ月を与えます。

FF
あなたは今までNHB内の別の柔術のfigherと戦うだろうか?
RG
もちろん、私はでしょう。 カールソンは、「いいえ」、スペリーに言ったまで、私たちは次のプライドイベントでスペリーを戦うために交渉していました。

FF
あなたはNHBイベントで別のグレイシーと戦うだろうか?
RG
私はちょうど彼らの口を閉じるために戦うだろうと選ばれた少数グレイシーのがあります。 彼らは私の父について否定的なことを言っていると私は彼の名誉を守るために戦うだろう。

FF
あなたは私たちグレイシーのを教えてもらえますか?
RG
いずれかのカーリ​​ー、彼は家族のチャンピオンとどのように他のグレイシーのが彼の怖がっていたことを皆に伝えます。 なぜ彼は12年前に彼に何が起こったのか教えてくれありませんか? そして、ビトー・ベウフォートカールソンは「採択された「誰? 私はこの子を私と一緒に訓練する機会を与え、彼は減少しました。 いいえ問題があったが、その後、彼はヒクソンが古くなっているかについての彼の口をオフに撮影しないとパンチすることはできません。 ちょうどビトーは前に私と一緒にマットの上に長くは続かなかった、と彼は今はもう続かないだろうと言ってみましょう。

FF
あなたはUFCで戦うだろうか?
RG
いいえ、UFCは日本に比べて小さいのドルを支払います。

FF
どのように予想されるように、彼が戦う場合リガンは今後のUFCで行います感じていますか?
RG
リガン! 少年は、すべて私に言えることは、外を見るです。 リガンは、彼らが得るように良いです。 私は彼が戦っている人を知っていないか、または彼が戦うことになる場合、私は彼の相手に言うことができるすべては「幸運」です。

FF
あなたは近い将来に引退する計画を持っていますか?
RG
いいえ、それは私が考えるものではありません。 私は25歳ですような気がします。

FF
ヒューゴドゥアルテのあなたの意見は何ですか?
RG
私は彼がまともな戦いですが、大きな口を持っている感じ。 私は2回、すでに彼を倒すが、彼は彼の口を実行し続けます。 だから、最終的には昨年、日本で私はプライドイベントで彼に走り、彼に立ち向かいます。 彼は何も言わないし、彼の学生が彼を引き離します。 臆病者?

FF
あなたは私たちがこのインタビューをラップする前に、あなたのファンに言いたい事?
RG
すべて私に言えることは、すべてのご支援に感謝し、高田と​​私の次の戦いを楽しみにすることです。

FF
お時間をいただき、ありがとうございます。
RG
それは私の喜びをされています。

https://translate.google.co.jp/translate?hl=ja&sl=en&u=https://www.onthemat.com/node/8596&prev=search

ヒクソン・グレイシーインタビュー3



金、2006年10月13日午後06時39分- BJJ.org







この記事はもともとBJJ.orgに登場。 情報のアーカイブ全体はOntheMat.comで使用できるようになりました

もともと新しいフルコンタクトに公開されたインタビュー

このインタビューはKiaiと呼ばれるブラジルの雑誌からです。 それは場所にテリーモーリーによって編集フリオHWU、訳UFC 6と7の間にいくつかの時間がかかりました。

マグ:今日まで最高のBJJの戦闘機だったあなたの意見では?

RG:エリオ・グレイシー。

マグ:1が最高の技術を持っていましたか?

RG:エリオ・グレイシーすぎます。

マグ:ロールス・グレイシーが人によって訓練されたのですか?

RG:エリオ・グレイシーによって。

マグ:私はあなたがロールで長年にわたり訓練を受けたと聞いたことがあります。 本当?

RG:はい! 私の子供の頃、私は、とRorionとロールとの接触がたくさんあり​​ました。 これらは両方ともクラスの繁華街を与えたと私は私の父から始まったところでした。 私は非常に若かったし、私は父とAloísioの監督と常に訓練を受けました。

マグ:Aloísioでしたか?

RG:ダウンタウンのアカデミー講師。 私は14または15歳になったとき、私はその後、ロールに切り替えます。

マグ:ロール」クラスは強烈でしたか?

RG:彼はいつも私に多くの訓練のに苦労しました。

マグ:ロールとの関係は、あなたの息子と共有する関係に似てましたか?

RG:私は若かったです。 終わりに、彼が死んだ少し前に、私が17歳のときに、より良い体で、我々はほぼ同等でした。

マグ:技術でロールスロイスでしたか?

RG:非常に技術的、かつ高速。 彼は非常に経験豊富だった、それは彼と私に苦労しました。 より平等になっエンド事で。

マグ:どのような資質はロールスロイスがあなたに渡すのですか?

RG:彼は私の戦士の精神を可決しました。 彼はRorionよりもはるかに自然な戦士でした。 私はいつも彼を見て、彼のようになりたかったです。 彼はあなたに耳を傾けるしたいコーチでした。 ロールは、彼がすると述べたまさにでした。 戦いでは、彼は常にではない点を取得した後、最終待ち、仕上げホールドに行ってきました。 私は兄として彼を参照してください。

マグ:良い相手との戦いの間に、あなたのコーチに耳を傾けていますか?

RG:確かに。

マグ:あなたにとって重要コーチの存在がありますか?

RG:あなたが優れているとき、あなたはあなたのコーチに耳を傾けます。 あなたが優れているとき、あなたは彼が価値のあるものをやって言っているかどうかを確認するために耳を傾け、あなたがそう思うならば、それを行います。 あなたは良いですし、あなたのコーチはあなたがジャンプする必要がありますジャンプすると言う場合。

マグ:あなたのコーチは今日ですか?

RG:Royler、彼は戦士の魂を持っているので。 これは戦闘機で非常に重要です。 彼は、これを持っており、非常に強力なライバルです。

マグ:技術的な意味では、ロールは最高でしたか! 彼はあなたの父親とは異なることをしましたか?

RG:いいえ! 彼は好ま個人的な技術を持っていました。 戦闘機として、彼はスピード、戦士の精神を持っていました。 彼は非常に良かったと、彼は好まいくつかのテクニックを使用していました。

マグ:あなたがUFCでの戦闘機のレベルをどう思いますか?

RG:自分の専門分野について、彼らは非常に優れています。 彼らは、我々はブラジルに持っていると同じレベルに使用されていません。 最初のイベントでの戦いは、1または2分続きました。 第二は、今では30分のために行く、5、第3〜10分間行いました。 彼らは本能のうちに良くなっています。 力士は、代わりにマットの上につかんで、今ヒット。 このようなイベントのための最高の戦闘機がただ一つのスタイルに特化していません。 彼は、ストリートファイターのようにする必要があります。 彼は、パンチグラブし、テイクダウンを行う方法を知る必要があります。 BJJは、これらの全てに優れた基盤を持っています。

マグ:日本の戦闘機あなたの道場を侵略(安城洋二)は、ことを日本オープン94で起こったものに関連していましたか?

RG:はい

マグ:それは政治や戦闘機自身ましたか?

RG:政治部は、戦闘機のマネージャーでした。 彼らは強い男であり、よく訓練され、日本オープンの後、彼らが戦うために私を招待よりWWFのようなものですと彼らはUWFからです。 私は他のプロジェクトを持っていた、と私は合法的な試合で戦うことを、何も働いていないと述べました。 私は感謝し、多分別の時間述べました。 その後、雑誌は、私は怖がっていたと言うようになりました。 その後、日本のマスコミは、私はかかるだろうどの位置を知りたいと思いました。 私はお金のためか、私の名誉のために、唯一の2つの理由のために戦うだろうと述べました。 そして、ほとんど姿を消した私に挑戦した1戦闘機。 そして、戦いのこの種のに適した別のUWFの戦闘機は、私に挑戦し始めました。 ある日、私のアカデミーの講師は、彼が、UWFを表すと述べた男は、私は彼らのために戦うことを望んでいたかどうかを知りたいと思ったことを言って私を呼ん。 私は、彼らが戦いを働いていたんので、私は彼らのために戦うことを望んでいないことを、もう一度、と述べました。 私は合法的に戦います。 それから彼は私がまた私の名誉のために戦うことを言いました。 私はそれは私が拒否することによって考えていた私の名誉と回答しました。 その後、男は「ちょっと待って」と述べた後、隠れていた戦闘機にもたらします。 私は私がちょうど入るために戦うしたかった男をしてみましょう。で聞かせていない日本のマスコミがたくさんあり​​ました。

マグ:だからあなたがプレスをさせなかったのか? 彼らは、入力されていませんか?

RG:いいえ、彼らが入力されていません。 ただ、戦闘機。 私はちょうど私がひどく彼を殴られた時にキーを押してみましょう。 それは違っていました。

マグ:あなたはこの戦闘機と話をしましたか?

RG:いいえ! 彼は、入力された彼の服の取って、我々はリングに入ります。 私は対戦相手とチョークを探すときに戦いは異なっていました。 私は勝ったと場合は、この戦いで、彼はあきらめたので、彼はうそをつくことができました。 それから私は彼を傷つ​​ける心配し始めました。 私は多くのパンチで彼を打ちます。 私は彼の鼻を壊した、と彼は本当に出血し始めました。 その後、私は(チョーク)をスリープ状態に彼を置きます。 彼は眠っていたとき、私はプレスをしてみましょう。5日後、彼は私のためのギフトに戻ってきました。 それは武士のヘルメットでした。 彼は私のアカデミーを侵略するための許しを求めました。 彼は再びそれを行うのない意図を持っていたと述べました。 私は彼に別の機​​会を与えることができれば、彼は尋ねました。 私は彼に日本オープンで入学を保証することができると答えました。 彼はそれについて考えるために起こっていると私に答えを与えていないと述べました。 それから彼は姿を消しました。

マグ:彼は商業的利益に戻ってきましたか?

RG:私は彼が準備ができていた考えてきたと思います。 私はいつも準備ができていたが、私が負傷した場合、彼は、その嘘の戻ってきただろう。 私は正しいことを行うために幸運だったと思います。

マグ:あなたはUFCでロイスのパフォーマンスをどう思いましたか?

RG:ロイスは偉大な戦闘機ですが、彼はあまりにも多くの戦いを戦ったし、彼は精神的なストレスに苦しみました。 彼は休ませる必要があり、その後、戻ってきました。

マグ:あなたはアメリカのBJJの戦闘機の仕事をどう思いますか?

RG:それは金のためにレースです。 それは多くの人が考えるより良い市場であるが、異なります。 アメリカ人が情報を調査しますので、それは、深刻な仕事をすることが重要です。 市場は巨大であるため、良いとプロのある人は、成功を持つことになり、みんなのための作業があります。

マグ:マルコ・ファスは、今後のUFCで戦うことになります。 彼らは、彼が勝てば、それはあなたに対してスーパーファイトを持つことが可能であることを言います。 それは可能ですか?

RG:私はUFCで戦うませんか? これは不可能ですか?

RG:私はスーパーファイトで戦うためには、私が最初にUFCの大会に勝つために必要があります。 私はロイスがある最初ので、とにかくUFCでの戦闘には興味がない、と彼らはあまりにも少しのお金を払っています。

マグ:戦いであなたのアドレナリンはどうですか?

RG:私の経験で、私はそれを制御します。 私は戦いの外に感情を取るようにしてみてください。 それはすべてあなたの目に見えない敵を脱ぐため、結果のいずれかの種類を受け入れるように神に与える感情のコントロールは、良いです。

マグ:これは、男はを利用することができアカデミーの状況で発生しますか?

RG:私は自分自身に自分の悪夢を与えることをしようと訓練します。 時々私は私が悪いポジションにいるときに動作するようにしてみてください。 でも青帯あなたが位置を繰り返す場合、彼らは私が何をしたいのかを知っているだろうので、多くの問題を提供します。 ちょうど同じ位置に滞在することは私にとって非常に困難ですので、私は多くの困難な状況で練習を行います。 BJJの哲学は常に苦労することなく、利点を持つことです。

マグ:あなたは困難な状況に対処しようとしたが、どのようにチェックであなたの感情を維持するのですか?

RG:私が持っている経験では、私は圧力には慣れています。 これは、すべてのディズニーランドになります。 (イージー)

マグ:あなたは日本94戦闘機のレベルは非常に高くはなかったことに同意しますか?

RG:いいえ、彼らは彼らの武道のスタイルに非常に優れています。 最高の戦闘機木村の学生だった西は、ありました。 Enterキーを押して上に彼を置くが、私は常に戦いの制御を持っていました。

マグ:彼らはあなたの最初の戦いのための最高の戦闘機に対してあなたを置きますか?

RG:はい。

マグ:それは意図的ましたか?

RGは:はい、彼らは彼が私に対する彼の第一の戦いをやってみたかったと述べました。 男が良いときには、彼らは疲れてしたくないので、第2ラウンドで私を戦うためにしたくありません。 同じことが日本バーリトゥード95で起こりました。

マグ:日本では、日本に負ける見るためにあなたにすべてのそのお金を支払いましたか?

RG:私はそう思います

マグ:どの国が戦いに反応しましたか?

RG:ジャパンオープン95で、男は私と一緒に締めつけたとき、彼らはクレイジー行きましたが、それは私が反応しました。 戦いの後、彼らは私のために拍手を送りました。

マグ:あなたは、彼らが次のいずれかに再びあなたを呼び出すと思いますか?

RG:私はそう思います。 彼らが私を失う見たいので、彼らは呼び出します。

マグ:あなたとあなたの兄弟が発生していますか?

RG:第3世代。 現在第5世代までです。

マグ:あなたの子供ロブソンは練習していますか?

RG:彼は一生懸命訓練します。 彼は、オレンジ色のベルトであり、彼は私の部分に任意の圧力なしで起動。 彼はそれを愛しています。 子供は戦うためにではない遊ぶのが好き。

マグ:あなたはどのように多くの人の息子を持っていますか?

RG:4。2男の子と2少女。

マグ:あなたのアカデミーでは、クラスを教えてちょうどあなた誰ですか?

RG:私は私と一緒に働いて5インストラクター、1黒帯と4茶色のベルトを持っています。 私たちは、午前7時から午後9時まで働きます。

マグ:あなたは集中的なプログラムを提供していますか?

RG:生徒は初心者クラス、中間クラスのために行くことができ、またはオープンクラスを入力することができます。 彼が講師とプライベートクラスを持つことができ、私は他の場所から来ている学生のための集中的なプログラムを実行します。

マグ:あなたの戦いでは、あなたが、必ずしも相手を傷つけることはありませんか?

RG:私は悪い人じゃないからです。 私はより良いが誰であるかを確認するためにそこだと私は私の相手を傷つけず​​に勝つことができれば、私はなります。

マグ:それはあなたがジャパンオープンであなたの代わりにファビオグルジェルを招いていることは本当ですか?

RG:はい! 彼は大きな可能性を秘めているといい人です。 彼は外国企業のための私のチームのメンバーの一人です。 私は映画を含む他の計画を持っています。

マグ:あなたの家族はとても大きい場合なぜあなたは、ファビオを尋ねたのですか?

RG:それらのそれぞれが独自の計画を持っています。 ただRoylerは何が違うの計画を持っていませんでした。 彼は大きな可能性、良い性格を持っていたので、私はファビオを選んだ、そして最も重要な私は彼に100%信頼することができます。

マグ:あなたは同じ日に最高の戦闘機の4に勝つことができると思いますか?

RG:私は私ができると思うが、私は勝つつもりだと言うのは好きではありません。 しかし、私はそれは確かだ、戦うだろう。

マグ:オーランドクレイマーは、あなたの人生とどんな関係があるのか​​。

RG:彼は良い友人です。 彼は私にヨガを行うためのアイデアを与え、それが私のために大きかったです。 それは完全な人であることを助けてくれました。

マグ:あなたはカールソングレイシーが彼の学生があなたのセミナーに行かせなかったことを知っていますか?

RG:はい。 私はなぜ理解していません。 彼は、何か新しいことを学んでから、彼の学生をブロックしています。

マグ:あなたがセミナーに異なる何かをしましたか?

RG:いいえボクサーは私にヒントを与える場合、私はそれらをしようとすると、彼らが働くかどうかを確認します。 それが動作する場合、私はそれを使用します。 カールソンは、彼らは私と一緒に学ぶことができ何か新しいものがある場合は見てから彼の学生をブロックしています。

マグ:あなたが戦いを停止しますか!

RG:私はそれについて考えていないが、私は停止します一定のレベルを維持することができないとき。

| 未分類 | コメント(0)

キムラ 七帝柔道記 最新刊発売中

KIMURA ~木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか~ vol.7
原田 久仁信 増田 俊也
双葉社
売り上げランキング: 8,506


七帝柔道記 2 (ビッグコミックス)

小学館 (2015-11-30)
売り上げランキング: 7,403

| 未分類 | コメント(0)

萌え系イラストにラブライブに三角絞めの時代 1970~80年代なんざ1 2の三四郎で岩清水がやっていたくらいのマニアックな技術だったのに変われば変わるもんです それもこれも全てはグレイシーと柔術 ММA効果

| 未分類 | コメント(0)

レイジング・ブル ■実はこのジェイク・デ・ニーロは現代の日本男児そのものである 腕っ節の強さと有言実行を取り除けば、恋人に対する嫉妬の深さや切れやすい所と孤独に弱いところ、そして浮気性な所など、現代の日本の若者のステレオタイプとも言えるだろう。現在においても本作を見ていて身につまされる部分が多いのは、そういった極めて普遍性のある人物描写にあるのだろう。 特に弟とヴィッキーの関係を疑い弟をボコボコにしてしまうプロセスは極めて現在的である。一人の人間の猜疑心が大切な人たちをも巻き込んでしまう経緯と、それによって生み出される決定的な孤独。 そして、孤独の中拘置所に入れられ拘置所の壁を殴りつけるジェイク。「WHY WHY・・・」と繰り返す彼の姿はまさしく大切なものを自分自身の手でぶち壊してしまったこの手。そう頂点に登りつめたこの手に対する一つの答えを導き出そうとしている瞬間でもある。自問自答を繰り返すことによって、人はより弱くなっていくかより強くなっていくのである。












Watch Raging Bull.avi in ドラマ | View More Free Videos Online at Veoh.com



http://summaars.net/rasingbull.html

レイジング・ブル   RAGING BULL(1980・アメリカ)
■ジャンル: ドラマ
■収録時間: 128分

■スタッフ
監督 : マーティン・スコセッシ
製作 : アーウィン・ウィンクラー / ロバート・チャートフ
原作 : ジェイク・ラモッタ
脚本 : ポール・シュレイダー / マーディク・マーティン
撮影 : マイケル・チャップマン
編集 : セルマ・スクーンメイカー
音楽 : レス・ラザロビッツ

■キャスト
ロバート・デ・ニーロ(ジェイク・ラモッタ)
ジョー・ペシ(ジョーイ・ラモッタ)
キャシー・モリアーティ(ビッキー・ラモッタ)
テレサ・サルダナ(ジョーイの妻)
フランク・ヴィンセント(サルビー)



『ザッツ・エンターテインメント!』とこれだけの波乱万丈な人生を泳いだ末に一息ついて叫んでみたい。ジェイク・ラモッタという男のかたくななまでの勝ち名乗りがここにあるのである。そして、自伝をゴーストライターに書かせ、デ・ニーロの心を打たせ、類まれなる芸術作品を作り上げさせたことに、彼の人生の頂点と転落が伝説と芸術を生み出し、頂点以上の極みに立たせたことを実感するのである。実はジェイク・ラモッタの再生の物語がそこにあるのである。


■あらすじ


1949年ミドル級世界チャンピオンに輝いたジェイク・ラモッタ(ロバート・デ・ニーロ)は栄光の頂点に立っていた。しかし、私生活においては美しい妻ヴィッキー(キャシー・モリアーティ)との喧嘩が絶えず、弟ジョーイ(ジョー・ペシ)との関係もぎくしゃくしたものになっていた。頂点からどん底に落ちていく時は恐ろしく早かった。


■カヴァレリア・ルスティカーナ


オープニングでピエトロ・マスカーニのこのオペラが、試合前のリング上でガウンを着たままウォーミングアップのシャドーボクシングをしているジェイクの姿と共に流れる。このオープニングの身震いするくらいの美しさ。リングの上でのボクサーの孤独を表現している名シーンである。こんな荘厳で美しい調べからこの物語は始まるのである。


■ロバート・デ・ニーロの最高傑作


冒頭の1964年の姿から始まり。話はすぐに1941年に戻る。この戻し方はさすがスコセッシである。それにしても、体重を増やしたという事実もすごいがデ・ニーロのすごさはこれを強迫観念的に行っているところである。ある意味デ・ニーロは精神的な強迫観念がすごい人なのである。

最初の妻とステーキが焦げるぞと言って喧嘩するところなんかは、その妻の嘗めた態度といい崩壊する夫婦関係を無理なく見事に描きあげている。この最初の15分で見ている人は知るのである。レイジング・ブル(怒れる牡牛)という名前でこのボクサーが呼ばれた所以は、その根っからの鎖に繋がれ切らない野獣のような粗暴さにあるんだと。

弟のジョーイ(ジョー・ペシ)に言う。「頼む。ためしに顔を殴ってくれ」。このシーンの臨場感が凄まじい(どうやら実際に殴りあったらしい)。しまいに血が噴き出して「何のためにこんなことを!」と尋ねる弟の頬を軽く叩く姿を、隣のジャズの流れる部屋のドアの隙間から覗いてぞっとしている妻。何から何まで完璧すぎる演出である。スコセッシは音楽の使い方を実に心得ている監督である。

音楽の後にはボクシングのグローブとグローブが当たりあう音など必ず効果音で切り替わっていくのである。ちなみにパンチの音は、メロンとトマトをスカッシュする音を使用している。


■「留守にしてもあの女は大丈夫か?」


キャシー・モリアーティが輝くばかりに美しい。そして、実際のヴィッキー・ラモッタの当時の写真を見てみるとこれが驚くほどキャシーに似ていて美人というよりも絶世の美女である。この役柄は元々ビヴァリ・ダンジェロで考えられていた。ちなみにシャロン・ストーンもオーディションを受けたという。

しかし、このヴィッキーがある意味ジェイクにとっては運命を狂わせる発端となったのかもしれない。私の苦い経験から言うとするならば、絶世の美女との結婚は、大いなる嫉妬を伴うものなのである。ある意味こちらにしてもそうだが、そういう類の女性と結婚する場合は、結婚における道徳観念はあまり強く持ちすぎないほうがいいのである。

絶世の美女は基本的に、精神が脆い分だけ気が強く、美しい分だけ浪費がすごい。その浪費を夫の懐で満たしているにもかかわらず夫の精神的な支えにならないといけないという、精神的な余裕がないので、夫にとってはこの絶世の美女である妻が不愉快で堪らなくなるのである。そして、破局は訪れる。私の経験から言うと絶世の美女とは、70歳くらいで結婚するか、もしくは愛人を3,4人抱えている状態の男性がしたほうがうまい事いくだろう。

こういう経験のない類は「自分に自信がないから女に猜疑心を持つ」としたり顔でいうのだが、これはマスターベーションと同じで絶世の美女と付き合ったことのない男の心理である。一度付き合ってみればどんなことにも猜疑心が不思議と生まれてくるのである。それは本人の自信云々の問題ではなく、自分が手に入れた女性が美しければ美しいほど誰もが手に入れたくなるということを知っているが故に、そして、自分自身もそうして手に入れたからである。

つまり美しいだけで才能がない女性は、男の猜疑心に悩まされ続けるので世界で一番苦労する可能性があるということである。

ちなみに1960年生まれのキャシーは撮影当時19歳だった。本作によりアカデミー助演女優賞にノミネートされたが、次作のジョン・ベルーシ主演の『ネイバース』の大失敗とバイク事故により、6年間リハビリのためキャリアを棒に振ることになる。


■異常なほどの臨場感溢れるボクシング・シーン


この映画の一つの特色である臨場感溢れるボクシング・シーンに大きな効果を与えているのが、カメラのフラッシュとその効果音、実況中継の音声、スモーク、そして、何よりも実際のリングよりも大きなリングで撮影した点である。全部で10分にも満たないボクシング・シーンは6週間もかけて撮影された。

そして、タイトルマッチで控え室でジョー・ペシの腹をサンドバッグごしに殴りウォーミングアップをしてから、リングに上がるまでの長回し撮影の見事さは誰もが認めるところである。試合シーンと同じくらいの臨場感溢れるボクサーが光り輝く‘時’をとらえたシーンである。特に最後にリングに上がるまでを背後から追いかけないところが素晴らしい。

ちなみにロビンソンにタイトルを奪われるシークエンスにおいては、ヒッチコックの『サイコ』(1960)のシャワー・シーンを参考にしたという。


■8mmカラー映像の唐突なる登場


「ジムのすえた匂いがすきなの」と身体を愛撫され、興奮覚めやらぬジェイクは、「女は足にくる」とトランクスの中に氷水を流し込む。にもかかわらずさらに挑発的にジェイクに愛撫を続けるヴィッキーの妖艶なこと。

そして、このシーンのすぐ後に、全編白黒映像の中で唯一のカラー映像が挿入されるのである。試合の状況はスチール写真で伝えつつ、夫婦生活の幸せはカラー映像で伝えているのである。しかし、カラーになるとより、ヴィッキーの操り人形のような存在感が浮き出てくるのである。

本作のキャシー・モリアーティの幸せそうな表情は全てが人形的であった。こういう笑顔に男は弱いものなのである。絶世の美女には、笑顔が似合わない。だから男は我こそが彼女から笑顔を勝ち取ろうとするのである。



ジェイク・ラモッタ(1922- )

ニューヨーク・ブロンクスのスラム街生まれ。父はイタリア人、母はユダヤ人である。1941年にプロデビューし、KOの山を築きまさにミドル級の無敗の帝王だったシュガー・レイ・ロビンソン(1921-1989)を1943年に初めて破ったことで名が知られるようになる。1949年にフランスの英雄・マルセル・セルダン(1916-1949)に10回TKO勝ちし、世界ミドル級チャンピオンに輝く。ちなみにセルダンはエディット・ピアフの恋人であり、敗北の4ヵ月後ラモッタとの再戦のためアメリカに向かう飛行機の墜落事故により1949年10月27日事故死する。ピアフの名曲『愛の讃歌』はこの悲劇から生み出された。

3度目の防衛線でラモッタは当時世界ウェルター級チャンピオンだったシュガー・レイ・ロビンソンに敗れる。尚ロビンソンとは生涯6度戦っている(1勝5敗)。そして、生涯戦績83勝30KO14敗4分で引退する。後に1947年の八百長試合が発覚しボクシング界を永久追放されることになる。自身が経営するマイアミのバーで14歳の少女に猥褻行為を強要した罪により半年服役する。

1960年には映画『ハスラー』でバーテンダー役で出演している。




■ジョー・ペシ彗星のごとく


本作のジョー・ペシ(1943- )が素晴らしい。『グッドフェローズ』(1990)もアカデミー助演男優賞が十分納得できる見事な芝居だったが、本作においても兄思いの弟を熱演していた。特にヴィッキーの浮気を発見し、サルビーをボコボコにするシーンや、ジェイクにボコボコにされるまでのプロセスなどは、完璧である。

彼の存在が在るときは、人一倍デ・ニーロが輝く。それはある意味70年代のハーヴェイ・カイテルの役割とも共通する点がある。ちなみにデ・ニーロとのスパーリング・シーンで実際にぼこぼこに殴られ助骨を骨折したという。本作が映画デビュー作であり、レストランの支配人をしていた時に、デ・ニーロに口説かれジョーイ役を演じることになったという。ちなみに本作でアカデミー助演男優賞にノミネートされている。


■デ・ニーロの見事な八百長ぶり


チャンピオン戦に望むために、八百長をすることになったジェイクのふてぶてしいばかりの大根芝居振り。ジェイクの芝居をしているデ・ニーロが八百長ばればれのふてぶてしさを出すという至難の演技力を堪能してもらいたい。このデ・ニーロの表情に今も多くの役者は影響を受けているのである。

この半ばあきれた様にして相手の攻撃を受ける様の格好いいこと格好いいこと。この芝居が生きていたからこそ、その後にトレーナーの胸の中で涙を流し後悔するシーンが生きてくるのである。


■役作りのために30㎏体重を増やせるということの意味


「ただ一度決めたら強情でわき目もふらない。キリストが十字架から降りても、彼は知らん顔で自分の決めた道をまっしぐらだ」ジョーイが兄について説明するシーンのセリフである。

この作品において、引退して肥満化したジェイクを演じるために、デ・ニーロはボクサーのようにシェイプされたボディから30㎏体重を増やしたという。

デ・ニーロという人の役に対するアプローチの凄さは、そのもの自分にあった生き方を見つけたことに対する喜びと誇りの裏返しとも言えるのである。彼は演じることに天武の才能があるわけではなく、演じることに情熱をささげているのである。つまり人生とは人それぞれいかに情熱を捧げられる物事を見つけるかということが重要なのである。

今自分がしていることを意地でもやり遂げないといけないという責任感も大切だが、その前にまず自分の人生にとって、これならば情熱をかけてやり遂げたいと心の底から出会えるものにめぐり合うための探求の旅に出ることのほうが大切だといえる。そのためには絶対的に芸術的な素養がなければ、自分の生き方の道しるべは見つかっていかないのである。


■実はこのジェイク・デ・ニーロは現代の日本男児そのものである


腕っ節の強さと有言実行を取り除けば、恋人に対する嫉妬の深さや切れやすい所と孤独に弱いところ、そして浮気性な所など、現代の日本の若者のステレオタイプとも言えるだろう。現在においても本作を見ていて身につまされる部分が多いのは、そういった極めて普遍性のある人物描写にあるのだろう。

特に弟とヴィッキーの関係を疑い弟をボコボコにしてしまうプロセスは極めて現在的である。一人の人間の猜疑心が大切な人たちをも巻き込んでしまう経緯と、それによって生み出される決定的な孤独。

そして、孤独の中拘置所に入れられ拘置所の壁を殴りつけるジェイク。「WHY WHY・・・」と繰り返す彼の姿はまさしく大切なものを自分自身の手でぶち壊してしまったこの手。そう頂点に登りつめたこの手に対する一つの答えを導き出そうとしている瞬間でもある。自問自答を繰り返すことによって、人はより弱くなっていくかより強くなっていくのである。


■スコセッシが何故白黒で撮ったのか


ラモッタの自伝の始まりのくだりが全てを物語っている。「夜ときおり過去を振り返ると自分の人生が古い白黒映画になって頭に浮かんでくる。なぜ白黒なのかは分からないが、そうなのだ。その映画はもちろんA級ではなくB級で、薄暗いシーンが続いてオープニングもエンディングもない」

他に白黒で撮影された理由として、ボクシング・シーンの血にチョコレートを使用することにした為である。そして、もう一つの要因として当時のボクシング映画の象徴であった『ロッキー』シリーズとの差別化である。


■デ・ニーロ・アプローチ


プロボクサーの体形を作る為に『ロッキー』でスタローンが雇っていたトレーナーとジェイク・ラモッタ自身をコンサルタントとして雇い毎日デ・ニーロはトレーニングに励んだという。半年間毎日30分のスパーリングをこなし築き上げたデ・ニーロの姿を見て、実際のヴィッキーも惚れ込んだほどだったと言う。さらに、実際の兄弟愛を築き上げるために、撮影前のトレーニングの段階でデ・ニーロはジョー・ペシと同居生活をした。

ボクシング・シーンの撮影終了後4ヶ月間撮影は一時中断された。その間デ・ニーロはイタリアに渡り、有名なレストラン巡りを始める。そして、体重は68キロから97キロに。

デ・ニーロは、ある時記者にこう答えた「興行的な成功は期待してなかったからね。私達は作りたい映画を作りたいように作る。今から50年後にも通じるような意義深い映画を作ることのほうが大事だ。私はすぐに消えてなくなるような映画じゃなくて、未来に残る映画に参加したい。あの種類の映画は、どれがどれとは言わないが、名前を出さなくてもわかるだろうが、違った実績でのみ認められてる」「それは『ロッキー』のことですか?」「名前を出したのは君だよ。私は言わないぞ」。ちなみにスタローンとデ・ニーロは親友である。

ここで勘違いしている昨今の役者が心しておかないといけないことだが、デ・ニーロ・アプローチとは本作で言えば6年間などの長い月日を経て作り上げられるアプローチ方法なのである。その根本にあるものはリサーチングであり、体形を変えるという行為ではないのである。ただ必然性が体形を変えさせただけなのである。その6年間の道のりとは以下の道のりである。


■レイジング・ブルまでの道のり


『ゴッドファーザーPART2』(1974)撮影中に原作を読んで気に入ったデ・ニーロが、ボクシングに全く興味がないスコセッシに映画化を提案したところから始まった。そして、スコセッシは本作こそ黒澤明の『羅生門』スタイルで撮るべきだと主張したという。基本的には脚本は二人に任されたが最後のリライトは、5週間かけてイタリアでスコセッシとデ・ニーロによって行われたという。

この頃のスコセッシは『ニューヨーク・ニューヨーク』(1977)の失敗もあり、ドラッグにまみれていた時期であり、デ・ニーロはそういった崖っぷちのスコセッシを復活させようと必死だったという。1800万ドルの予算で製作され2300万ドルの収益をあげた。そして、1980年アカデミー主演男優賞と編集賞を受賞した。結果的にこの作品の成功が、ドラッグ漬けのスコセッシを復活させることになったのである。


■最後まで倒れなかったぜ


最後にマーロン・ブランドの『波止場』(1954)のセリフを鏡の前でチェックした後に、舞台への出番となったジェイクが、シャドーボクシングを太った身体でする。「俺がボスだ!俺がボスだ!」と呟きながら。

― 破滅を描いた作品ではなく再生を描いた作品
プロボクサーとして世界チャンピオンにまで登りつめた男が、人生を没落していく様をとらえた映画だという捉え方は、まず明確に間違っている。この作品はまずジェイク・ラモッタ自身の自伝を元に撮りあげている作品なのである。彼が自分の半生をゆっくりと見つめなおすゆとりがもてたということ自体が勝利であり、再生である。

そして、彼の没落の一瞬を見て、それ見たことか。とせせら笑う観客に対して問いかけているのである。あなたはそれほどの頂点に登れなかったか、もしくは登ろうとしなかったから落ちる時の落差が少ないだけだと。破滅と再生を経験することの凄さとそういうことが体験できているジェイク・ラモッタという人物は間違いなく尊敬すべき人物である。

ジェイク・ラモッタ本人が本作初めて見たときにこうつぶやいたという「とんでもないくそ野郎だな。こいつは」こう余裕を持って言える男が果たして人生の敗北者だろうか?

ちなみにステージに立つジェイクに話しかける男役でマーティン・スコセッシ監督がカメオ出演している。そして、ウェブスター・ホールの観客の一人にジョン・タトゥーロがエキストラ出演している。


■最後に


そこでパリサイ人たちは盲人であった人を もう一度呼んで言った。〝神の栄光の前に正直に答えなさい。あの人が罪人であることは私たちには分かっている〟すると彼は言った。〝あの方が罪人であるかどうか私は知りません。ただひとつの事だけ知っています。私の見えなかった目が今は見えるということです〟《新約聖書 ヨハネによる福音書第9章24-26より》

- 2007年5月13日 -

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%82%A4%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%83%A2%E3%83%83%E3%82%BF#.E3.83.AC.E3.82.A4.E3.82.B8.E3.83.B3.E3.82.B0.E3.83.BB.E3.83.96.E3.83.AB

ジェイク・ラモッタ





移動先: 案内、 検索


ジェイク・ラモッタ


基本情報


本名
ジアコーベ・ラモッタ

通称
Bronx Bull
Raging Bull

階級
ミドル級

身長
173cm

リーチ
170cm

国籍
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国

誕生日
1921年7月10日(94歳)

出身地
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
ニューヨーク州ニューヨーク市ブロンクス区

スタイル
オーソドックス

プロボクシング戦績


総試合数
106

勝ち
83

KO勝ち
30

敗け
19

引き分け
4
テンプレートを表示

ジェイク・ラモッタ(Jake LaMotta、男性、1921年7月10日 - )は、アメリカ合衆国の元プロボクサー。本名ジアコーベ・ラモッタ(Giacobe LaMotta)。ニューヨーク州ニューヨーク市ブロンクス区出身。元世界ミドル級王者。無尽蔵のスタミナを誇り打たれ強く前に出続けるアグレッシブな試合ぶりから「ブロンクス・ブル (Bronx Bull)」や「レイジング・ブル (Raging Bull)」のニックネームを持つが、KO率はそれほど高くない(28%)。



目次 [非表示]
1 来歴
2 引退後
3 レイジング・ブル
4 通算戦績
5 脚注
6 関連項目
7 外部リンク


来歴[編集]

1921年、イタリア人の父とユダヤ人の母の元に生まれる。幼少期から、近所の大人たちを楽しませるために父親に強制され、他の子供と戦い投げ銭を稼いでいた[1]。彼を補導した警察官にジムへ連れて行かれボクシングを始める。

1941年、19歳でプロデビュー、類稀なタフネスとスタミナと恐れを知らぬブルファイトで徐々に実力と知名度を上げていく。この過程において史上最高の選手と評される拳聖シュガー・レイ・ロビンソンと対戦し(計6度の対戦のうちの2度目)、10回判定勝ちでロビンソンにアマ・プロを通じ初の黒星を与えた選手であり、ロビンソンとは生涯で6度も対戦し1勝5敗となったが、6度の対戦は全てがいずれもボクシング史上に歴史を残す激戦であった。

1947年11月14日、ビリー・フォックスに4回TKOで敗れるが、マフィアが仕組んだ八百長試合でラモッタがわざと負けたと疑いをかけられ、ラモッタは出場停止処分を受ける。後にラモッタは、八百長試合で負けることを受け入れ、さらにマフィアに2万ドルを支払うことで世界ミドル級王者マルセル・セルダンに挑戦できたことを、アメリカ上院議会で証言する[1]。

1949年6月16日、世界ミドル級王者マルセル・セルダンに挑戦。ブルファイターの両者は前評判に違わぬ大激戦を展開するが、セルダンの腕が脱臼し10回TKOでラモッタが世界王座を獲得した。再戦が決定したが、試合地のアメリカへ向け乗っていた飛行機がアゾレス諸島で墜落しセルダンは死去した。この世界ミドル級王座を、激闘の末に2度の防衛に成功した。

1951年2月14日に3度目の防衛戦で因縁のライバルシュガー・レイ・ロビンソンと対戦。ロビンソンは終始パワフルな攻撃を見せるが、ラモッタは打たれても打たれても倒れずロビンソンが休むと怒涛の攻撃を見せる。しかしワンサイドで打たれまくったラモッタは遂に13Rにストップを宣せられる。この試合は「セントバレンタインデーの虐殺」と呼ばれることになる。

この後ラモッタは勝敗を繰り返し1954年に引退。

引退後[編集]

引退後はバーを経営し、コメディ芸人と俳優に転身。映画に出演するなど活躍した[1]。

1958年、自身のバーの男性客に未成年の少女を紹介したとして、懲役刑の宣告を受け、刑務所に6ヶ月間服役する[2]。

国際ボクシング名誉の殿堂博物館入りをしている。

90歳を越えた現在も各地でサイン会を開くなど健在である。

レイジング・ブル[編集]

ラモッタは世界王者や波乱万丈の人生に加えエキセントリックな性格の持ち主としても知られ、自伝を基に映画『レイジング・ブル』が作られた。この作品は高い評価を受け、ラモッタ役の主演ロバート・デ・ニーロは第53回アカデミー賞主演男優賞を獲得している。

少年時代からワル同士の友人だったロッキー・グラジアノも元世界ミドル級王者である。ラモッタの王座奪取より2年前の1947年に世界王座を獲得、エキサイティングな強打者として大きな人気を博した。グラジアノも又、彼の波乱万丈な人生を描いた自伝を基にポール・ニューマン主演の映画『傷だらけの栄光』が作られ、高い評価を受け大ヒットした。引退後、両者はブロードウェイに揃って立つなどショービジネス界で活躍した。

通算戦績[編集]

106戦83勝30KO19敗4分

脚注[編集]

1.^ a b c “Biography”. ジェイク・ラモッタ公式サイト. 2014年7月31日閲覧。
2.^ “Jake LaMotta - A Fall From Grace”. 2014年7月31日閲覧。

関連項目[編集]
男子ボクサー一覧
世界ボクシング協会(WBA)世界王者一覧
国際ボクシング名誉の殿堂博物館
世界ボクシング殿堂

外部リンク[編集]
公式ウェブサイト
ジェイク・ラモッタ - Myspace

ジェイク・ラモッタの戦績 by BoxRec

前王者
マルセル・セルダン 第39代WBA世界ミドル級王者

1949年6月16日 - 1951年2月14日
次王者
シュガー・レイ・ロビンソン

| 未分類 | コメント(0)

Mr.BOO ! ミスター・ブー ■サミュエル・ホイの歌いいよなぁ(ある意味今風) オープニングからサミュエル・ホイのかなり弾けてる広東ポップスが流れる。しかし、歌詞の意味は 俺たちは貧しい労働者 働きづめでクタクタだ 給料はスズメの涙 本当にツラいよ 上司は いつも 犬のように吠えてる 昇給など望めたものじゃない 死ぬほど働くだけだよ 文句一つ こぼさずに 強盗でもしたい気分さ 努力すれば成果があるなんて こんな不景気じゃ そんなの夢物語だ くそったれ 俺たちは貧しい労働者 金のために働く労働者 あまりに惨めで 心が沈んでしまうよ この世は生き地獄 幸せとは縁がない 生きるだけで大変だ 努力すれば成果があるなんて こんな不景気じゃ そんなの夢物語だ くそったれ 俺たちは貧しい労働者 金のために働く労働者 あまりに惨めで 心が沈んでしまうよ という歌詞である。ぞっとすることに現在の日本にぴったりな歌詞ではないか?政府は景気は上がってます。と嘘八百並べ立て若者にはほとんどチャンスを与えるつもりはない。こんなリアルな現状をコメディのオープニング主題歌にするところがマイケル・ホイの非凡さだろう。そして、この作品の中で流れる音楽がまた70年代チックなチープさがあってかなりナイスなのである。

































http://summaars.net/mrboo.html

Mr.BOO!ミスター・ブー   半斤八両 / THE PRIVATE EYES(1976・香港)
■ジャンル: コメディ
■収録時間: 100分

■スタッフ
監督・脚本 : マイケル・ホイ
製作 : レイモンド・チョウ
撮影 : チャン・ヤオ・チュウ
音楽 : サミュエル・ホイ&ザ・ロータス

■キャスト
マイケル・ホイ(ミスター・ブー)
サミュエル・ホイ(キット)
リッキー・ホイ(チョンボ)
シー・キエン(悪党)
テレサ・チュウ(ジャッキー)
リチャード・ン(警官)
Mr.BOO!ミスター・ブー


「この映画今付き合ってる彼女に一緒に見ようと言ったら、最高にキモがられるだろうな」まさしくそんな言葉の勲章がよく似合う作品である。しかし、冒頭のミニスカ・ネーちゃん。ミスター・ブーの出っ歯、それを見て笑っていた倍賞千恵子。ビートたけしのダサイ吹き替え、そして、あの超イカス亀の子ギブス。「こんな映画が1976年度香港No.1なんだぜ」中国本土じゃ天安門事件まっさかりのオール人民服状態だったにもかかわらず。そういった全ての観点を含めてオレは惚れるね。



■あらすじ


赤字続きの探偵社を経営するミスター・ブー(マイケル・ホイ)の元で、カンフーだけはめっぽう強い青年キット(サミュエル・ホイ)が働くことになる。そんなある日、映画館の館主から、爆破予告の脅迫を受けたので調査してくれという以来が舞い込む。


■決して字幕で見るな!マジ笑えんから


この作品に関して言えば、日本語吹き替え版で見ることのみを謹んで推奨する。もちろん目的は広川太一郎による吹き替え無法地帯を堪能するためだ。元々本作の原題は『半斤八両』(どっちもどっちといった意味)だが、1979年に日本公開された時に、配給会社の東宝東和がミスター・ブーと命名した。以降ミスター・ブー・シリーズとして1979年に3本連続公開された。そして、本作が日本公開第一作目にあたる。

しかし、この公開当時のキャッチフレーズ当時はいけてるセンスだったのか?〝なんでも笑ってごまかそうとする・・・お前は誰だ!どこから来た!〟これってやっぱり『スーパーマン』とかけてるんだろうな?ともかくベタ。さらにこう記されている。〝グッバイ・アメリカン!5分間に3回の大爆笑に自由の女神もズッコケた!<007>を打ちのめし、<ジョーズ>さえも喰いちぎったと~んでもない映画 ― いま世界の若者たちの合言葉は ミスター・ブー〟

マジカ?しかし、いいねぇ~~~!〝グッバイ・アメリカン〟この超ださすぎるフレーズ。絶対このキャッチ考えたヤツ英語喋れないだろうなオーラ満開のこの単語の組み合わせ。コイツ間違いなく30年は生まれるの早かったかも・・・しかも5分間に3回という妙に中途半端な時間の区切りもナイスなセンス。しかも最後には世界の若者たちの合言葉はミスター・ブーと言い切るところが素晴らしい。

日本でしかこの作品をミスター・ブーと呼んでいないにもかかわらずこのミスター・ブー人気の世界征服を高らかに謳いあげる当時の映画配給会社の胡散臭さが抜群にナイス。ただし、この当時香港旅行に行って「ミスター・ブー」と香港人に合言葉を発したヤツラは間違いなく恥かいただろうな。


■サミュエル・ホイの歌いいよなぁ(ある意味今風)


オープニングからサミュエル・ホイのかなり弾けてる広東ポップスが流れる。しかし、歌詞の意味は

俺たちは貧しい労働者 働きづめでクタクタだ 給料はスズメの涙 本当にツラいよ
上司は いつも 犬のように吠えてる 昇給など望めたものじゃない
死ぬほど働くだけだよ 文句一つ こぼさずに 強盗でもしたい気分さ 努力すれば成果があるなんて
こんな不景気じゃ そんなの夢物語だ くそったれ
俺たちは貧しい労働者 金のために働く労働者 あまりに惨めで 心が沈んでしまうよ
この世は生き地獄 幸せとは縁がない 生きるだけで大変だ 努力すれば成果があるなんて
こんな不景気じゃ そんなの夢物語だ くそったれ
俺たちは貧しい労働者 金のために働く労働者 あまりに惨めで 心が沈んでしまうよ

という歌詞である。ぞっとすることに現在の日本にぴったりな歌詞ではないか?政府は景気は上がってます。と嘘八百並べ立て若者にはほとんどチャンスを与えるつもりはない。こんなリアルな現状をコメディのオープニング主題歌にするところがマイケル・ホイの非凡さだろう。そして、この作品の中で流れる音楽がまた70年代チックなチープさがあってかなりナイスなのである。


■いいねえこのミニスカ美女


Mr.BOO!ミスター・ブー Mr.BOO!ミスター・ブー
やはりオープニングはこうでないと!厚底サンダルの美脚美女を追跡するミスター・ブーの姿は、実は探偵業の名を借りた追跡エロおやじである。この姿が強烈にオレのハートを鷲掴みにした。しかも、この女性のファッションって今どきの夏に歩いててもそんなにおかしくないファッションではないか?まさしくファッションは繰り返されるである。

本作において、サミュエル・ホイの吹き替えをビートたけしが、リッキー・ホイの吹き替えをビートきよしがしている。しかもかなりグッジョブ!をしている。『悪漢探偵』(1982)でサミュエル・ホイのファンになった人にとってはハンサムなイメージのサミュエル・ホイの吹き替えの声がビートたけしというのは心外だろうが、オレにとってはこの役のサミュエルはせこい男の役なのでツービート時代のたけしの声はドンシャにはまっていると思う。


■マジでやめとけ字幕版は


そして、ホッとさせるこの瞬間。『燃えよドラゴン』でブルース・リーと死闘を演じた伝説の男シー・キエン(1913- )が、ちゃんと五体満足な姿で出演しているのだ。この作品では、間抜けな強盗団のボスをオーバーアクション気味に演じている。

この作品の基本的なストーリー・ラインは、ドジでせこくてしかもケチという探偵社の社長ミスター・ブーと助手2人が繰り広げるドタバタ喜劇である。しかも、その喜劇のクオリティの低さ=すべり具合をいかに声優陣がフォローするかという点のみがポイントである、極めて珍しい角度における鑑賞が楽しめるコメディである。


■何気にすごい裏方揃いだぜ!


Mr.BOO!ミスター・ブー Mr.BOO!ミスター・ブー
ミスター・ブーと言えばやはり厨房シーンにつきるだろう(倍賞千恵子も爆笑してた)。出っ歯のべたな変装姿で、ブルース・リー並みに腸詰めをヌンチャク代わりに振り回すシーン。それにしてもこの時の顔マジやばすぎだろ。クンフー映画と武侠映画が主流だった香港映画界にこんな不細工な変装をしたおやじがスーツを着て、ソーセージを振り回すのだからまさに『小さな文化大革命』である。

香港映画の概念の中になかなか定着しなかったコメディという分野を定着させたマイケル・ホイの功績は確かにすごい。彼の存在により、ジャッキー・チェン、チャウ・シンチーというスーパー・スターが誕生したといっても過言じゃないだろう。しかも、この作品何気に武術指導がサモハン・キン・ポーである。

実際のところサミュエル・ホイもカンフーの使い手という役柄ではあるが、ホイ兄弟はカンフーは全く出来ないのでアクション・シーンは大変だったという。この武術指導のアシスタントとして、デビューしたてのジャッキ-・チェンも参加していた。ちなみにこの作品のプロダクション・マネージャーとしてジョン・ウーの名前がクレジットされている。マイケル・ホイと『男たちの挽歌』、『フェイス・オフ』のジョン・ウー。「まさかジョン・ウーのルーツがミスター・ブーとは・・・」最も似つかわしい2人がこんな所で一緒にコメディ作っていたとは驚きだ。


■またパクリが分かりやすいんだな


Mr.BOO!ミスター・ブー Mr.BOO!ミスター・ブー
「知らぬが仏 知ってキリスト」と広川節が炸裂すれば、「コマネチ!」とビートたけしギャグも炸裂する。そんな中勿論ミスター・ブーのベタなコントも絶え間なく展開される。特にミスター・ブーらしい代表的なネタを上げるとすると、探偵用のカメラなのだが、実は真正面を撮る振りをしながら真横を見ることが出来るという優れものを使用して、早速ミスター・ブーが対象人物に気づかれないように監視しようとカメラを覗き込んでる隣にビキニのぴちぴちギャルの姿が・・・

もちろんお約束どおり、ぴちぴちギャルの姿に気をとられてカメラごとプールに逆さ落ちするミスター・ブー。前年(1975年)公開の『ピンクパンサー2』ネタのまんまパクリだが、このオレを再び共感させるこのエロおやじなベタベタさこそがミスター・ブーなのである。


■だから絶対やめときなよ字幕版見るのは


ミスター・ブーことマイケル・ホイ(1942- )は、なんと中学教師、広告代理店勤務を経て、1968年から香港TVBの番組司会を務め、人気タレントとなった変り種のコメディアンだ。そんなブーの吹き替えに関して広川太一郎は語る「正直な話、『ミスター・ブー』ってギャグも古くて、セリフも面白くない。それで、TV局の担当の人が、このままやったんじゃイマイチだから面白くしてくれていいよ、ってなことを僕に言ってくれたわけ。じゃあ、僕なりのマイケル・ホイを作ろうってことで、あることないこと入れちゃったんだよね。台本は一応あったけど、それを元に内容をまったく変えちゃった部分もあるし、内容は変えずにダジャレを入れてセリフを変えちゃったこともある。面白くないものを面白くするっていう、非常に乱暴な決断なんだけど、そうしちゃったんだ。ま、他の喜劇物に関しては、あそこまでやらないけどね(笑)。あの場合はお許しが出たから」と。

ちなみに2005年の8月25日にミスター・ブーDVD発売記念でマイケル・ホイが来日した時、ホイは広川太一郎と初対面したわけだが、その時は広川太一郎はこう語っていた。「日本の喜劇の場合だと、弱虫だけども正義感が強い、お人よしだけども実は・・・とかですよね。ところがこのMr.Booはどことなく性格悪いんですよね。(笑)日本の人たちにそこのおかしさ、ギャップをセリフでわかってもらおうと、日本語としてのオリジナリティを僕なりに作った、っていいますかね」と。うん・・・確かに一流の声優の言うことはなかなか奥が深い。


■なぜか多くのドイツ車


この作品には多くドイツ車が登場する。フォルクスワーゲンのビートル、メルセデス・ベンツSクラス、ポルシェのカレラ。しかもビートルは、サミュエルの無謀な運転によってぼこぼこに潰されてしまい。最終的にはニュー・ビートルのカブリオレ状態に変形するのである。しかし、予断だがいつ見てもカレラの走りは美しい。


■リチャード・ンは相変わらず


Mr.BOO!ミスター・ブー
リチャード・ン(1939- )。このオヤジが登場すると必ず裸になりたがるという伝説がある。そして、この作品でももちろんセミヌードになっている。『五福星』(1983)『スパルタンX』(1984)『大福星』(1985)『七福星』(1985)『奇蹟 ミラクル』(1989)『ヴィッキー・チャオのマイ・ドリーム・ガール』(2003)などかなりの話題作に出演しているオヤジだが、トレードマークはしゃくれた顎とヒゲで、どことなくとぼけたエロオヤジを演じさせたらこのオヤジの右に出るものはいないと言われている。(誰が言った??)

1983年には、『五福星』の透明人間のふりをしてピチピチギャルの裸を堂々と覗く亀仙人並みのエロおやじを演じ、何が認められたのか分からないが、第三回香港アカデミー主演男優賞にノミネートまでされたのである。しかもこのオヤジ伊達にリチャードとは名乗っていないのである。約15年間、1970年までイギリスで暮らしていたのである。16歳から渡英しているので、バリバリの帰国子女なのである。

ラブホテルで浮気している有閑マダムとポルシェに乗ってる警官(リチャード・ン)を追跡するミスター・ブーとサミュエル。見事に部屋に侵入するサミュエルだが、逃げ場がなくなりゴージャスなバブルバスに忍者さながらの水団の術で身を潜めるのである。それにしても、水団の術というのは、中国人も知っているのか?さらに気になるのが、一警官がポルシェのカレラを所有できるほど英国支配のときの警官隊は恵まれていたのだろうか?それにしても、香港のラブホテルのこのいかがわしい雰囲気がなんともナイスである。

このラブホの雰囲気、オレの家の近くの20年は優に放置されてる幽霊が出ることで有名な廃モーテルに雰囲気が似ていてなんとなく愛着が沸く。


■これが元祖か?


Mr.BOO!ミスター・ブー
多くの悪がき達がこのシーンに影響を受けたはず。そう便器にすぽんとするヤツを顔面に直撃させるシーンである。かく言うオレも小学生のときテレビでミスター・ブーが放映された次の日に同級生にこんなことしてしまい先生から大目玉をくらいました。というぐらい小学生時代に見たミスター・ブー3本の指に入る影響的シーンである。残りの2つはソーセージ・ヌンチャクと小人にブーがしばき倒されるシーンである。

やっぱり昔のゴールデン洋画劇場全盛期は良かったもんだ。絶対に次の日に小学生のクラスメイトの半数は影響受けまくりだったからなあ。特にブルース・リーやジャッキー・チェンの放映された次の日は燃えたもんだ。


■いいねぇ~アンジーちゃん


Mr.BOO!ミスター・ブー アンジー・チウ
アンジー・チウ 趙雅芝(1953- )。ミスター・ブーの秘書ジャッキーを演じていた彼女は、1973年ミス香港に4位入賞した女優である。現在もすごく美しい女優で主に、テレビ・ドラマで活躍しているらしい。彼女1971年~1975年までJALのスチュワーデスをしていただけあって、日本語、英語にも堪能だという。身長164cmの彼女の物腰は、特にミスター・ブーを介護するシーンにおいて、スチュワーデスで培われた本物のホスピタリティーを感じるのである。

そして、チョンボ(リッキー・ホイ)が、最後に「今後は最低週に2日の休みはくださいね。たまにはジャッキーと社交マージャン(エッチなことのほのめかし)もしたいですから」と言ってジャッキーにビンタかまされて映画は終了するのである。


■1970年代はある意味マイケル・ホイの時代でもあった


Mr.BOO!ミスター・ブー
この作品は、香港で1976年度年間興行成績No.1に輝いた。8,531,700香港ドルの興行収入をあげている。ちなみにマイケル・ホイ作品は、1972年のデビュー作『大軍閥』での興行収入第二位を皮切りに、1974年からは、『Mr.Boo!ギャンブル大将』でNo.1。1975年『天才興白痴』でNo.1と3年連続香港の興行収入No.1に輝く。そして、1978年に『Mr.BOOインベーダー作戦』もNo.1に輝き、1981年に『新Mr.BOO!アヒルの警備保障』でもNo.1を獲得するのである。

マイケル・ホイのこの頃の作品は、とにかく目で見て分かるドタバタ劇がストーリーなどほぼ無縁に展開されるのである。ミスター・ブーのキャラクターは、まさしく初期のサイレント時代のチャップリンのいけずな浮浪者を取り入れている。こうしていいものを取り入れていきつつ香港独特のムードもかき集めて作られた作品がこれなのである。

そして公開当時、大ヒットを収めた理由の一つとして、忘れてはならないのが、マイケル・ホイのキャラクターつくりの見事さなのである。マイケル・ホイは探偵社の社長で、サミュエルとリッキーはその部下である。社長=上司は、たえず部下にいけずで、自分が優秀な人間と思い込んでいる。しかし、最終的にはサミュエルとリッキーが成功するのである。

ドタバタ・コメディとはストーリー・ラインではなく、キャラクターの相関関係が重要なのである。そして、その部分をマイケル・ホイは、見事に押さえていたのでこの作品が画期的な大ヒット作品へと飛躍したのだろう。


■ミスター・ブーと呼ばれるための10ヶ条


さて最後に日本公開時にパンフレットの裏に記載されていた、「ミスター・ブーと呼ばれるための10ヶ条」を紹介しておこう。

1. 永遠に2枚目でない男であること
2. ケチ、しかし貯金はゼロの男であること
3. 吉野屋の牛丼と、養老の滝の牛丼、どちらがうまいか毎日食べ比べてみるような男であること
4. カラオケで「うまい!プロになれ」と言われて、本当にレコード会社に売り込みに行くような男であること
5. 時々、ネクタイのしめ方を忘れて鏡の前で1時間、真剣に悩むような男であること

6. 「人生は賭けだ」とえらそうなことをいいながらパチンコをやり、いつも負けて後悔するような男であること
7. 女性には全く関心がないような顔をして、毎日パンツを変え、エチケット・ライオンと、ワキガを気にしてエイト・フォーを欠かさず使用するような男であること
8. もちろん女を愛し、男にも同等の愛情行為を向けられるような男であること
9. 映画は東和しか見ないといいながら、何とかタダで映画を見ようと努力するような男であること
10. 決して、人を憎まないいい性格の男であること

- 2007年7月10日 -

| 未分類 | コメント(0)

犬神家の一族 ■犬神家の呪い 犬神佐兵衛が巨万の富を稼ぎ出した方法は、戦争中に麻薬を軍部に密売したことによるらしいのだが、どうやらこういうことは実際に特務機関により戦時中に行われていたらしい。しかし、それ以上にある意味怖いのは、この作品に関わった多くの出演者が麻薬で逮捕された事実である。 まずは本作公開の翌年1977年に高峰三枝子の長男が覚醒剤所持及び密売関与の容疑で逮捕されている。ちなみにこの時保護観察になったこの長男の保護司となったのが小暮実千代であった。さらに1978年に川口浩の弟川口恒と妹晶も覚醒剤所持により逮捕されている。 













http://summaars.net/inugamike.html

犬神家の一族   (1976・角川春樹事務所)
■ジャンル: サスペンス
■収録時間: 146分

■スタッフ
監督 : 市川崑
製作 : 角川春樹 / 市川喜一
原作 : 横溝正史
脚本 : 長田紀生 / 浅田英一 / 岩下輝幸 / 日高真也 / 市川崑
撮影 : 長谷川清
音楽 : 大野雄二

■キャスト
石坂浩二(金田一耕助)
高峰三枝子(犬神松子)
小沢栄太郎(古館弁護士)
坂口良子(女中はる)
島田陽子(野々宮珠世)
犬神家の一族


〝湖畔の逆さ死体〟〝スケキヨのマスク〟〝ヨキ、コト、キク〟まさに角川〝お祭り〟映画第一弾に相応しい傑作。日本的様式美に溢れる映像と不屈の名優たちの熱気と坂口良子の可愛さに満ち溢れた横溝ワールドの決定版。次作『悪魔の手毬唄』にて成就されるこの世界観の構築の過程を堪能せよ。


■あらすじ


犬神佐兵衛(三国連太郎)の遺言状の公開と共に、次々と起こる奇怪な殺人。遺言状の立会人である金田一耕助(石坂浩二)が事実の解明に乗り出すのだが、そこには過去の衆道の契り、姦通といった事実が浮かび上がる。遺産相続を巡り暗躍する犬神家の一族の醜い欲望の中に隠された悲しい過去・・・


■70年代の角川映画は〝お祭り〟映画だった


犬神家の一族
70年代の角川映画は〝お祭り〟映画だった。それはクオリティが高いとか低いとかそういう話ではなく。一種の熱狂できる村のイベントみたいな部分があった。そして、この時代にはまだ過去の芸達者な〝祭り人〟たちが存在していた。

やがて、角川春樹に追随し、多くの〝お祭り〟映画が生まれたがそれは、段々と芸達者な人々の不在な〝祭り〟ではなくただの見掛け倒しの映画に成り下がっていた。それは現在において益々加速し、本作のリバイバルなぞは既にネタのつきた日本映画界の象徴となってしまった。

本来ならば新しいシナリオを発掘しようとする努力くらいすべきなのだが、もはや簡単に金儲けをしようとする過去を食い物にする発想でしか映画人の多くは動いていないのである。有能は〝産みの苦しみを経験〟し、無能は〝産まれたものを盗み取る経験〟をするのである。


■偉大なるオリジナル版『犬神家の一族』


そういった意味においては角川春樹は素晴らしい映画製作者の一人だった。その考え方やバブル思考的な所は置いておいてであるが、彼が日本映画に残したプラスの遺産は大きい。そして、彼は間違いなく〝産みの苦しみを経験〟した一人であった。

とにかくこの作品は空回りではないパワーに満ち溢れている。一方、言うまでもないがリバイバル版は明確に空回りだった。見ている途中に〝詐欺〟〝こけおどし〟〝拝金主義〟〝役者の線の細さ〟〝時間の浪費〟という言葉が頭によぎるくらいの「昨今量産されているこけおどし映画の一つ」だった。

全ては役者の芝居に対する姿勢である。小沢栄太郎、高峰三枝子この2人がこの作品において恐ろしいほどのウェイトを占めている。栄太郎が脇をがっちりと引き締め、高峰が根幹をがっちりと引き締める。だからこそ安心して2人の若き役者=石坂&島田は、その世界観の中で演じきることが出来たのだ。

2人の名優の生み出した重厚さがあったからこそ横溝ワールドが映像として再現できたのである。


■重厚さを生み出す第一の要素はやはり役者ありき!


オープニングに日本家屋の佇まい自体を描写することは古来より多くの日本の映画人が行ってきたことだが、市川崑のそれも実に美意識に溢れる映像美である。そして、大広間に控える犬神家の面々と金の屏風。さらには高峰三枝子(1918-1990)の「お父様。ご遺言は?」の一言。この一言がさらりと言える所が素晴らしい。こういうシーンで最近の女優がよくやる溜めの芝居なんてものを彼女の場合はしない。

さすがに感情表現の能力に長けていた高峰は良く知っている。感情の表現において溜めの芝居は、舞台においては効果を発するが、クローズアップが多用される映画においては不要である。映画においてやり過ぎなくても十分に実際の人間の何十倍もの大きさで映し出されるので感情の起伏は目立ちすぎるほど目立つのである。

最近の女優、男優の芝居の青臭さが中年俳優においても目立つのは、ここが理解できていないからである。テレビでいつもやっている。または舞台でやっている芝居を映画でしていたら、臭い芝居に見えてしまうのである。ましてや映画と張り切って熱演する類いの邦画は、あまりにも青臭すぎて見ちゃいられないのである。

「お前はどういう風に自分が映し出されるか考えてないのか?」現在の俳優は、昔の俳優よりも、ダメでも技術でカバーしてくれと言う馴れ合いの芝居が増えていることなど、観客は100も承知で感じているのである。

やや脱線したが、話を本編に戻そう。高峰三枝子の姿の次に遺言の管理を任されている小沢栄太郎(1909-1988)が映し出される。三国連太郎→高峰→小沢→島田という流れでこの作品は始まる。この冒頭の流れがわずか数十秒で観客を昭和22年の犬神家の陰鬱な古き日本のおどろおどろしい世界に誘うのである。

そして、もはや最後にバトンを渡された島田陽子は黙っているだけで許されるのである。つまり、島田陽子が話さずとも価値を生み出すことの出来る空間を三名優が作り出してあげているのである。これが役者の〝見えざる名演の効果〟なのである。


■建築・音楽・漢字→佇まい・淑やかさ・整然さ=和の空間


『ルパン三世』でお馴染みの大野雄三の音楽がいい間合いで鳴り響く。特にテーマ曲が実に淑やかさに満ちていて素晴らしいのだが、それ以上に素晴らしいのが、蛙か鵺が鳴いてるような、冒頭を始め所々に奏でられる不協和音の使用である。セピア色で犬神製薬の歴史が映し出される時に流れる音の組み合わせなども実に素晴らしい。

うるさいだけの音楽が幅を利かせる騒音ではないこの和の雰囲気をベースにした音の作りを聞いていると、「日本人よそろそろ無理はせずに〝和の音感〟に振り返ってみなよ」と言いたくなる。

そして、このタイトル・クレジットの〝漢字の配列の美意識〟の美しさ。黒と白こそが古来からの日本的な様式美の基本である。そして、〝斧(よき)、琴、菊〟〝佐清・佐武・佐智〟〝松子・竹子・梅子〟という見事な漢字の組み合わせによる世界観の構築も、この作品の成功の根幹を担っていると言えよう。これらの要素が古くからの日本家屋の佇まいと相成って最高の魅力を発する結果になったのである。


■やっぱり坂口良子がイチバンかわいい!


坂口良子 犬神家の一族
金田一耕助を演じる石坂浩二(1941- )と女中を演じる坂口良子(1955- )。この2人が本作のいい息抜きになっている。そして、言うまでもない事実だが、坂口良子が映画史上類い稀なる可愛らしさに満ちている。特に金田一と初対面の時のあの疑いの眼差し。更に旅館で金田一がフケを落とした時のあの表情すべてが愛らしさに満ちている。

この坂口良子演じる女中はるちゃんが作った昼食を平らげた金田一に「全部私がこしらえたのよ。何が一番おいしかったぁ?」と尋ねるシーンがある。仕事に熱中し上の空で「なまたまごぉ~」と答える金田一に「まぁ~ひどい!」と障子をびしっと閉めるはるちゃん。本当におどろおどろしい空間で、ホッとさせてくれる掛け合いである。

「探偵さ~ん・・・これからどこ行くの?探偵に行くの?ついていってあげましょうか?ついてくわぁ~」と言いながら風呂敷に包まれた洗濯物を背負いながら、がに股気味に追い掛けてくるはるちゃん。そして、金田一に逃げられた後の表情が何とも可愛すぎる。なんかはるちゃんの一連のシークエンスを見ているとこの作品自体が「坂口良子のために作られた作品」と錯覚するほどにはるちゃんが輝いてるのである。

ちなみにはるちゃんが女中をしている那須ホテルの日本家屋の雰囲気が実に美しいのだが、この那須ホテルのロケは今も長野県佐久市に存在する井出野屋旅館で行われた。実際は真正面に諏訪湖の絶景が広がっているわけではないが、古きよき日本の情感に満ちている旅館である。石川県・和倉温泉にもこういった日本家屋の温泉旅館があるが、凄く癒される空間である。


■島田陽子の美しさが日本映画界を制覇していた時代


島田陽子 犬神家の一族
島田陽子(1953- )扮する珠世の登場シーンの美しさ。沈むボートから珠世を救出するシーンでのコマ送り、静止画の組み合わせのセンスがかなり良い。珠世のような強い意志を持ってはいるが、自己主張が激しいわけでもないという奥ゆかしい深窓の美女を演じさせると当時の島田陽子は抜群にはまる。丁度同じ頃に作られた『白い巨塔』(1978~1979)とほとんど同じ役柄ではあるのだが、この頃の島田陽子の魅力は、手の届かない品のよさにあったのである。

あの瞳孔が開く目はこういった作品や、ハマー・ホラーにはぴったりである。川口恒に襲われ、乳首がぽろりと見えるところなどもハマー・ホラーのヒロインの役割そのものである。


■それにしても個性的な役者が勢揃い


犬神家の一族

「嘘です!その遺言状は偽物です!」

しかし、本作は濃い役者が多く出演している。三姉妹の残りの2人を演じるのは『静かなる決闘』(1949)で可憐な令嬢を演じた三條美紀(1928- )と草笛光子(1933- )である。この三姉妹の存在感の妙こそが本作の見所でもあるのだが、遺言状のシーンでのこの三者の迫力はちょっと常人ではない。

そして、忘れてはいけないのがこの頃なぜか大作映画の主役を張っている事の多い『あしたのジョー』ことあおい輝彦(1948- )である。彼が佐清と青沼静馬を演じているのだが、声の使い分けといいかなりいい芝居をしている。それにしても静馬仕様のマスクはなかなか素晴らしい出来である。そして、何度見てもマスクを捲り上げると顔面破壊された顔の下半分が映し出されるシーンはグロテスクである。

犬神の残りの兄弟を地井武男(1942- )と川口恒が演じている。さらに金田龍之介、小林昭二、大滝秀治、三木のり平も出演しているが、特に印象的なのはこの2人である。「しょれでわ~」とかやたら舌足らずな三谷昇と盲目の琴の師匠を演じる岸田今日子(1930-2006)である。ちなみに高峰三枝子の出世作『暖流』(1939)の原作者・岸田國士は彼女の父親である。

そして最後に忘れてはいけないのが、「世の中の人間には二種類しかいない。悪いヤツか、いいヤツ」と言っていい人そうな表情をする加藤武である。そう「よし!わかった!」の署長さんである。


■横溝ワールドといえばこれ!


犬神家の一族
湖上に逆さまに突き刺さり、脚だけ浮き上がっているマネキンのような死体。もうこの発想は美しいとしか表現しようがない。さらには、菊人形のオブジェの一つとして陳列された死体の首と琴糸で絞殺され、屋根の天窓に晒される死体。

こういった死体の見栄えは決して素晴らしい出来ではないのだが、何よりもイカスのが発見した時のリアクションなのである。まずは菊人形の首を発見する金田一君の驚きようはかなり強烈!「うううう~~」と雄たけびを上げるのである。

さらに発見者のテンションはどんどん上っていくのだが、次に天窓の死体を発見する川口晶なぞは「ギュエエ!」と千葉真一ばりの気合とも悲鳴ともつかぬ声をあげて硬直してクサイ失神をしてくれるのである。そして、きわめつけは同じく晶が発見する逆立ちオブジェの発見シーン。

本物のガマガエルを抱きしめながらキチガイの風体で「面白いことしてるわね~あたしも仲間に入れてよ」と呟くのである。かなり壊れてる感たっぷりで怖すぎる・・・

しかし、この死体発見のリアクションこそが東宝・横溝ワールドの楽しみ方の一つなのである。恐らく全5シリーズ通して最高のリアクション・シーンは『病院坂の首縊りの家』で風鈴にぶら下がった生首を発見する金田一と草刈正雄と小沢栄太郎と清水紘治のシーンである。


■そして、最後は高峰三枝子の名演


高峰三枝子
「おだまんなさい!大体あんたは何なんです!あなたは何の権利があって人の家のことに首を突っ込むんです!」

この時の高峰三枝子の吊り上がった狐のような目つきの迫力。そして、金田一から色々な新事実を聞かされ、変化する驚きの表情からは、色気さえも漂ってくるほどに悲しい女の艶やかさがにじみ出ていた。

特に佐清との対面シーンなんかは観客をぐいぐいと引き込んでいく見事な芝居を見せてくれている。皆の前で自白する時の物の怪のような美しさ。そして、最後の殺害シーンで小道具係のミスにより、鮮血を顔面に浴びながらも熱演するシーン。このシーンは誠に痛い演出上のミスであり、高峰もただただ芝居を続けることだけに専念する結果となったが、それはそれで魅力的だった。

そして、物語は終焉を迎え、金田一が報酬の計算をする余韻。このラストにおける小沢栄太郎の素晴らしい安堵感漂うオヤジっぷり。やはりこういった横溝ワールドには、爽やかな人情味溢れる締めくくりが重要である。そして去っていく金田一の哀愁をもって物語は締めくくられるのである。


■犬神家の呪い


犬神佐兵衛が巨万の富を稼ぎ出した方法は、戦争中に麻薬を軍部に密売したことによるらしいのだが、どうやらこういうことは実際に特務機関により戦時中に行われていたらしい。しかし、それ以上にある意味怖いのは、この作品に関わった多くの出演者が麻薬で逮捕された事実である。

まずは本作公開の翌年1977年に高峰三枝子の長男が覚醒剤所持及び密売関与の容疑で逮捕されている。ちなみにこの時保護観察になったこの長男の保護司となったのが小暮実千代であった。さらに1978年に川口浩の弟川口恒と妹晶も覚醒剤所持により逮捕されている。


■空前の横溝正史ブーム巻き起こる


この作品の公開に前後して、角川書店は〝横溝正史フェア〟を開催した。そして、空前の横溝正史ブームが巻き起こることになった。一方映画の方も、邦画史上最高のメディア広告戦略により、結果的には1976年の邦画興行収入第二位(15.6億円)に輝いた。ちなみに第一位は『続・人間革命』だった。

本作の成功により角川春樹事務所の第二弾映画作品として『人間の証明』が製作されることになるのである。こうして新しい邦画の流れが始まったのである。そして、東宝にて石坂浩二主演で更に金田一シリーズ4作が作られることになるのである。

- 2007年8月9日 -

http://asait.world.coocan.jp/kuiper_belt/section4E/kuiper_section4E.htm#section4E

アヘン帝国 --- 汚れた歴史

「アヘン」というと、一般的には「アヘン戦争」の「英国」を思い浮かべる人が多いと思います。 しかし「アヘン帝国」と呼ばれる国があるとすれば、これは戦前の日本です。 一時期、日本のアヘンの生産量はほぼ世界のアヘン生産量に匹敵しました (1937 年には全世界の 90%)。 例えば、次の本で「アヘン帝国」の呼称を使用しています。(これは本の紹介ページです、 本の題目も訳してみました。1997 年に出版されたかなり有名な本のようです。)

Opium Empire: Japanese Imperialism and Drug Trafficking in Asia, 1895-1945
(アヘン帝国:アジアにおける日本の帝国主義と麻薬の取引、1895-1945)


追加
最初はここに書かれている内容は少し理解できなかったのですが、以下の内容を書き上げたあとで 再度読んでみると、色々よくわかるようになっていました。ほんのわずかな内容紹介ですが、 読み直してみると、私が以下に書いたことはほぼこの本に書いてあるであろうと確信を持ちました。 但し、これは研究書のようで、日本の帝国主義を研究している修士、博士課程の学生に適当であると、 締めくくっていますから、原書を読もうとする意気込みはさすがに持ち合わせていません。 なお、この本で使用されている資料は、出版されているものもありますが、 出版されていないものもあり、出版されていない文書は多くが日本の外務省の記録文書のようです。
私も英文のページから簡単に理解できることを整理しようと思いこの記事を書くことにしました。 「満州帝国とアヘン」という標題で書き始めたのですが、 満州以外のアヘンの話も関係することになり、結局「アヘン帝国」と変えることにしました。 なお、しばらくして英文のページだけでは底をついたので、日本語のページも調べることになりました。

先進国 (G8) はすべて、中国への「アヘン」輸出に手を染めています。 従って「中国」を食い物にした点では先進国はすべて有罪です。 しかし 1913 年に英国はインドのアヘンを中国に出荷することを停止します。 一方 1911 年頃から、欧米 (特に英国と米国) は「モルヒネ」を東洋に輸出しますが、取引相手は日本でした。 「モルヒネ」は神戸を経由してそのまま「中国」に再輸出されました。 「モルヒネ」を直接「中国」に輸出することが国際条約で禁止されていたためのようです。 (モルヒネを製造していた英国の企業は日本が国際条約に違反していることを知っていたはずです。) もうこの頃になると、中国への「麻薬」の輸出はほとんどすべて日本の手によっていました。 あとはますますひどくなるだけのようです。「アヘン戦争」によって「アヘン」が 中国になだれ込みますが、それよりもずっとひどいことが日本によって引き起こされた。 にもかかわらず日本ではほとんど語られていません。

中心にある諸悪の根源は、「アヘンの専売制」です。 最初はこれは日本独自のものかと考えていたのですが、 これはヨーロッパ各国が植民地でしていたことの真似のようです。 中国国内には例えば香港などでアヘンの専売制がありました。 恐らく英国が真っ先にしたことと思われ、日本国内におけるアヘンの専売制も 基本的には英国の真似であったことになります。 しかし、その規模では日本は他を圧倒的に凌駕しました。 日本は最終的には「満州帝国」でアヘンを生産し、関東軍の占領下におけるアヘン (あるいは広く麻薬 -- モルヒネ、ヘロインを含む) の流通を一手に独占します。 しかもアヘンの消費量を増やすために、アヘン中毒を大量に作ります。 中国侵略はむしろアヘンを売りさばくための戦争であったと考えたほうが よいくらいです。


注意
次のページで、英国の東インド会社が 1793 年にアヘンの売買に専売制を 導入したことが記されています。
Opium throughout history

なお、以下ではインターネット上で読める英文のページを少しずつまとめていますが、 全体で矛盾していることがあるかもしれません。 内容が多岐にわたり、紆余曲折があるため関連性があるページを部分的にまとめることぐらいしかできていません。 また日本軍とアヘンに関しての英文の書籍は随分沢山あるようですが、これに関しても目を通しているわけではありません。


注意

「アヘン帝国」の前半を書き終えようとした頃に、次のページを 見つけました。

Asian Holocaust : WMD Opium, Sex Slaves, Nanjing Massacre Pillage, Slavery, WMD Unit 731, 100, 516

このページには色々なページにリンクが張ってあります。 このページでは、日本が中国でしたことを「国家によるテロ」(state-terrorism) と呼び、 米国は共産圏との対決の理由から「国家によるテロ」を隠蔽したのではないかと 言っています。あとあと見るように、日本は中国の人を手当たり次第に麻薬中毒にして 搾り取るようなことをしています。これは地域住民に対する無差別攻撃です。 地域住民に対する無差別攻撃は通常「テロ」と呼ばれますから、確かにこれは「国家によるテロ」です。 しかし、アヘン帝国日本による「麻薬テロ」と呼ぶほうが雰囲気が出ているような気がします。 東京裁判では日本の「戦争犯罪」の大半が隠蔽されているようで、これは共産圏との 対決の理由からであったようです。 例えば「731部隊」のことが「東京裁判」で取り上げられなかったのは 人体実験の資料を手に入れるための米国による取引とされていますが、 ひょっとすると日本を「共産圏」に対する砦とするために協力者を確保する意図があったのかもしれません。

また上記のページには「1820 年においてさえ、世界の GDP の 1/3 が中国で生産されていた」 と言っています。中国がとても豊かな国であったため、世界中から狙われたのでしょう。 最後には日本だけに食い物にされますが ....

日本を経由した麻薬

日本は中国に麻薬を蔓延させますが、他国の麻薬を中国に持ち込んでいたこともあります。

Japan as an Opium Distributor (アヘンの販売業者としての日本)

の中で、筆者は 1919 年 2 月 14 日のニューヨーク・タイムズの記事を引用しています。この記事の主要部は、「アヘン帝国の興隆 -- 台湾」 の箇所で触れることにします。今はこの記事の中ほどで書かれている部分を引用するのに留めます。


カルカッタのアヘン売り場で日本はインドのアヘンの重要な購入者の一つになった。...... インド政府によって売られたアヘンは日本政府の許可の下に神戸に船で送られ、神戸で青島 (チンタオ) 向けの船に積み替えられる。この貿易ではとても多くの儲けがあり、日本の代表的な企業のいくつかが 興味を示している。

訳注: 1913 年には英国は中国政府の要請の下に、インドのアヘンを中国に持ち込まなくなりました。 しかし、カルカッタではアヘンは販売され続けたのです。カルカッタにおけるアヘンの販売はオークションですから、 直接的に中国にアヘンを持ち込まずに、 しかもアヘンで儲けるための極めて巧妙な方法を英国が取り入れたことになります。 無論、最終的にアヘンを中国に持ち込んだ日本も悪い奴です。


追加
1919 年 2 月 14 日のニューヨーク・タイムズの記事は全文を読むことになりました (「アヘン帝国の興隆 -- 台湾」を参照)。そこで、わかったことですが、 このとき持ち込まれたアヘンは中国の広域に持ち込まれたようです。該当箇所を引用すると

強調しなければならない点は、このアヘンは日本に輸入されたのではないことである。 神戸港で積み替えられただけで、ここから日本が支配する鉄道で済南まで運び込まれ、 山東省を通り抜けて、上海、揚子江流域に持ち込まれた。
この鉄道は恐らく、第一次大戦でドイツの租借地である青島を制圧したときに あわせて支配したのでしょう。日本は麻薬の密貿易のために鉄道をよく利用していたことが はっきりします。
「アヘンの販売業者としての日本」の筆者は 1919 年 3 月のプトナム・ウィール (Putnam Weale) による記事を引用しています。


否定することが出来ない点は、(中国における) 海関 (Maritime Customs) の日本人弁務官が事務所を持っている港では すべて、密貿易のセンターが設立され、アヘンやその派生製品がまったく堂々と密輸され、 日本が年間に持ち込むモルヒネは (これは国際条約によって禁止されてはいるが) いまや 20 トン程度であろうと 言われている。この量は一つの国を中毒にするに足るものである。

訳注: 「海関の日本人弁務官」(Japanese commissioners of Maritime Customs) の正確な意味 (あるいは役目) は知りませんが、前後関係から大体はわかります。日本からの輸出品は 中国における日本の税関を通すだけでよかったのです。このようなことが 可能となったのは、日清戦争の結果、下関条約で締結された日本と中国の通商条約 (不平等条約) の結果です。日本が中国と締結した通商条約は、アヘン戦争の勝利国が中国と締結した通商条約と 類似のものです。この件に関しては
Treaty of Shimonoseki - Wikipedia (下関条約 - 英語版 Wikipedia)
をご覧ください。(英語版の Wikipedia では第一次アヘン戦争と 第二次アヘン戦争を総称してアヘン戦争と呼んでいますが、日本語版の Wikipedia は前者を単にアヘン戦争と呼び、 後者をアロー戦争と呼んでいます。) 日本政府の許可さえあれば、日本人は中国に麻薬を持ち込むことが でき、(これはとてもよくないことですが) ヨーロッパの国々と対等になったのです。 しかし、この記事が書かれた頃は欧米各国が中国の麻薬から手を引いており、しかも桁違いに大量の モルヒネを日本が中国に持ち込んでいますから、 とても風当たりが強くなったのです。

追加
1919 年 2 月 14 日のニューヨーク・タイムズの記事には次のことも書かれています。 中国における港ごとで事情が少しずつ違っているようです。

更に、青島の場合には、条約によって中国海関の独占的権利が日本政府に委譲され、 日本政府が興味を持てば、密貿易であれ、そうでなかれ、税関が関与することがなく 遂行することができた。1905 年 12 月 2 日の条約の第三条 -- これは 1915 年 8 月 6 日 の条約で永続的なものとなったが -- 日本政府の証明書があれば、青島に上陸する物資は 税関の検閲を受ける必要がなかった。このようにして、アヘンの非合法な輸入のみならず、 武器の不正な輸入の道を開いたのである。
1905 年は日露戦争の「ポーツマス条約」の年ですが、 関連して中国と条約を締結しているようです。 1915 年は「対華21ヶ条要求」の年ですが、日付が少し違っています。 但し関連して結ばれた条約があるようですから、基本的には「対華21ヶ条要求」 と思ってよいと思います。
更にマクドナルドによる本

A. J. Macdonald, Trade Politics and Christianity in Africa and the East, M.A., formerly of Trinity College, Cambridge, 1916
(表題の訳 : アフリカと東洋における商業方針とキリスト教)

から次のように引用しています。この本が 1916 年に書かれた本であることに注意します。


アヘン中毒 (opium habit) を撲滅しようとしたが、その結果モルヒネが流通することとなった。 北中国 -- とりわけ満州 -- におけるモルヒネ中毒はすでに広範囲になっている。 中国政府はこの災いに警戒態勢を取っている。しかし抑圧する試みは麻薬業者 -- 主に日本人 -- の行動によって妨害されている。麻薬業者は中国政府、日本政府の規制をかいくぐっている ... 中国はモルヒネ漬けになっている。--- 中略 --- 営口では, 2000 人ものモルヒネ中毒が 1914 - 1915 に死亡した。モルヒネの場合にはアヘンよりもはるかに急速に中毒が進行する。.... モルヒネはまだ東洋では、まとまった量では生産されていないし、モルヒネの摂取に必要な 皮下注射器の製造をすることが出来ない。 大量に生産されているのは、英国、ドイツ、オーストリアである... この取引には エジンバラの 2 つの企業とロンドンの企業が従事しており、貿易は日本の業者が実行している。 商業取引所の報告書によれば英国から東洋へのモルヒネの輸出はこの数年の間に極端に増大している。
1911 5.5 トン
1912 7.5 トン
1913 11.25 トン
1914 14 トン


訳注: 上の文章では日本政府も麻薬の規制をしているかのように表現していますが、 これはないです。本の著者もそこまで理解していなかったのでしょう。 Japan as an Opium Distributor (アヘンの販売業者としての日本) は The opium monopoly (アヘンの専売制) の記事の一部です。直前で The indian opium monopoly (インドのアヘンの専売制) についても触れています。インドからのアヘンの輸出量に関しての表がありますが残念なことに少し不鮮明です。 しかし、この表に関連してなされている議論は紹介することができます。 1913 年には英国はインドから中国にアヘンをほとんど持ち込まなくなりますが、 1911 年からアヘンが日本に輸出されていることを最初に指摘しています。また同時に 1910 年から アヘンが英国に輸出されていることも指摘しています。つまり、筆者は上のモルヒネは インドのアヘンを加工したもので、それを日本に輸出したものだと暗に言っているのです。 この場合、英国も日本もどちらも悪い奴なのです。
更には次のようにも述べています。。


新聞 (The Japan Advertiser) によると、中国におけるモルヒネの取引は新局面を迎えた。 最近の主なアヘンの販売業者は日本人で、製造業者は英国人であったというプトナム・ウィール (Putnam Weale) の 話を引用し、更に次のように続けている。モルヒネは英国から日本へ大量に輸出されていたが、この麻薬を英国から 輸出することが許可制となったため、日本への出荷は 1917 年の 600,229 オンス (17 トン) から、 1918 年にはその 1/4 となった。 別の新聞 (The Japan Chronicle) は絶対的に信頼できる情報からの話として次のように伝えている。 それによると、1919 年の最初の 5 ヶ月には米国から神戸に 113,000 オンス (3.2 トン) のモルヒネが届き、 神戸港で中国行きの船に積み替えられた。 この数値は全てではなく、単に (The Japan Chronicle が) 実際に知っている量であるとのことである。 ポール・S・ラインシュ (Paul S. Reinsch) 博士は、アメリカの中国駐在の公使をやめたあとに、 中国で販売することを目的としたモルヒネの出荷を止めるためにどのようなこともすると述べ、 さらにこれは中国への麻薬を売ることを禁止した国際条約に対する挑戦であると述べた。


注意

1. ジャパンタイムス (The Japan Times, 創業 1897 年) は自社の歴史を

Our Company
に書いていますが、それによると 1940 年に The Japan Advertiser (Tokyo) と The Japan Chronicle (Kobe) を吸収したと書いています。 だから、上で述べていることは、まさしく日本で発行された英字新聞に掲載された記事です。 この記事に限らず、あちこちで引用されているのは、中国、日本などの英字新聞に載った記事、 あるいは記事を載せていたジャーナリストに関連するものが多いようです。 一々詳しく調べるのが大変なので、そこまでしていませんが、 今回に関しては、たまたまかすかな記憶があったので The Japan Times のホームページを調べました。

The Japan Times は朝日新聞ほどは歴史がありませんが、日本で最初に発行されたのは 英字新聞です。その真似をして、日本の新聞ができました。 その意味ではジャーナリズムとしては英字紙の方がはるかに伝統があります。


2. 興味ある記事があるので、それも引用します。1919 年 1 月 15 日 (大正 8 年) の 報知新聞の社説です。社説では 私がここで引用しているような英文の記事に関して、日本政府が関係してはいないと勝手に決め付けています。 日本政府の許可なくしては、神戸港での積み替えや、満州への密輸が不可能です。 とても大量の麻薬でこっそり持ち込むことができるような代物ではありません。

支那に於ける阿片モルヒネ密輸入 : 社説

日本ではこのようにしか報道されなかったのです。これは神戸大学の 新聞記事文庫 で見ることができる昔の新聞です。日本は太平洋戦争に突入してから、報道管制が敷かれたとされていますが、 それ以前からまともな報道をしていないのです。報知新聞はあからさまな嘘を社説で主張したのです。 端的に言えば日本の全ての報道は、 中国における日本軍の「麻薬テロ」の積極的な協力者というべきであり、 組織として A-級戦犯というべきです。 残念なことに現在でもこれは変化していないと思います。


「アヘンの販売業者としての日本」を書いた人は、「ウィール (Weale) は英国人で、そのため日本のことばかりを責めているが、 売った奴 (カルカッタのアヘンの場合であればインド政府、ひいては英国政府、モルヒネの場合であれば 英国政府、米国政府) にも責任があるのではないか」と書いています。


1. 国際条約とは 1912 年におけるハーグの国際条約のことです。詳しいことは次をご覧ください。 1. THE HISTORY AND DEVELOPMENT OF THE LEADING INTERNATIONAL DRUG CONTROL CONVENTIONS
2. International Opium Convention - Wikipedia
3. 万国阿片条約 - Wikipedia
日本語版の Wikipedia の記述から、1912 年に条約が調印されましたが 「ドイツの提案により即時の批准を求める物ではなく、大半の国は批准しなかった」のですが、 第一次世界大戦の終了により、ベルサイユ条約 (1919 年 6 月) で各国が批准することになります。 ドイツが条約の批准を遅らせましたから、ドイツも麻薬で儲けていたことが確実です。
2. あとで見ることになりますが、1919 年の「ニューヨークタイムス」の記事には、 モルヒネは日本で製造されるようになったと書いてあります。しかし、上の記載を見ると 1919 年にも日本は米国から輸入しています。モルヒネが不足したためのようです。
3. 日本においてモルヒネが最初に製造されたのは星製薬 (星製薬 - Wikipedia) による製造 (1911 年) が最初のようです。 しかし、この段階ではまだ大量生産がおこなわれていなかったようです。日本語のホームページでは 中々事実関係がはっきりしませんが、ともかくも色々検索すると
星新一:人民は弱し 官吏は強し (新潮文庫) (文庫), Amazon.co.jp

の内容に関連する記述があちこちに見えます。 この作品は星新一 (小説家、SF 作家) が、父・星一の星製薬創業・発展期における苦闘を描いた作品とのことです。 ですから当然内容は美化されたものです。例えば

1. アヘンの闇
2. クロカル超人の面白半分日記

にその内容の一部が紹介されています。これはブロッグですぐにも消えてしまいそうなリンクですが少なくとも次がわかります。 星製薬は「ドイツの塩酸モルヒネ製造装置」を入手して、台湾にモルヒネ工場を作ったことと、 1917 年 (大正 6 年) に星製薬以外がモルヒネの製造に加わった。 次の項目「アヘン帝国の興隆 - 台湾」で詳しい議論をしますが、1919 年には日本のモルヒネが中国に怒涛のように 乱入しており、第二次大戦の終了まで続く「アヘン帝国日本」が牙をむいているのです。 その元凶を作ったのが星一のようです。この人は極悪人です。

読者のページ~2005年4月~

にも、星新一の上の作品が紹介されており、 それによると、1917 年に星製薬以外にモルヒネの製造に加わったのは 現在の大日本製薬・三共・武田薬品工業のようですから、 星一のみが悪い奴というわけでもないようです。

ドイツ製のモルヒネ製造装置は満州にも登場します。大体、モルヒネの大量生産装置を売る奴も買う奴も まともな人間ではないのですよ。

少しだけ疑問があります。星一がいつモルヒネの大量生産を 始めたのかという点です。日本語のページで何度も検索し、次を見つけました。

31-1165 W64-4 (PDF)

これによると、「第一次世界大戦でドイツからモルヒネの供給が途絶えたとき」に台湾でモルヒネの 大量生産に成功したとしています。 第一次世界大戦は 1914-1918 年ですが、1917 年に至るまでの数年間、モルヒネ製造は星製薬の独占 のようですから、第一次世界大戦に入った直後の 1914 年から 1915 年頃にモルヒネの 大量生産に成功しているのでしょう。朝鮮では 1914 年にアヘンが禁止され、モルヒネがとって代わっています (この点に関してはあとで言及します) が、これは欧米のモルヒネではないかと思います。

4. 「営口」は遼東半島の付け根にある港町です。
満州国の地図 (日本語)


上の話がいつ頃のことか、少し年表を見てみましょう。

1879 アヘン専売法
1894 - 1895 日清戦争
1895 台湾が日本の支配下
1904 - 1905 日露戦争
1906 南満州鉄道 (満鉄), 日本の会社
1910 日韓併合(朝鮮半島が日本の支配下)
1911 辛亥革命
1914 - 1918 第一次世界大戦
1914 日本はドイツの租借地の青島を占領
1918 - 1922 外満州、内満州支配 (シベリア出兵)
1919 ベルサイユ条約
1922 青島を中国に返還

満州国 (あるいは満州帝国) は 1932 年にならないとできませんが、第二次アヘン戦争 (1858 年) の結果、 外満州 (現在のロシア極東) がロシアのものとなり、 19 世紀の終わりには、満州 (正確には内満州) はロシアの影響下にありました。 しかし、日露戦争の結果、日本はロシアに取って代わり、満州を影響下に置くことになりました。 具体的には南満州鉄道が日本のものになりました。

あとあと見るように 1911 年に英国は中国と「インドのアヘンを中国に持ち込むことを禁止する条約」を結びます。 これで、中国は麻薬の空白地帯となりますが、同じ頃起きた 辛亥革命の結果、中国は内乱状態になります。 絶好の機会とばかりに、 日本が 1911 年から 1914 年に英国から神戸を経由して中国にモルヒネが持ち込んだのでしょう。 日本語の Wikipedia (南満州鉄道) によると、満鉄設立時の路線は下の図のようです。 南満州鉄道には

南満州鉄道附属地 - Wikipedia

があり、ここは外の法律が適用されない植民地のようなものであったようです。 警察もありましたが、これは日本の植民地であった関東州の警察です ( 関東州の警察 -Wikipedia )。 従って麻薬の密輸にはとても都合よくできていたのです。 関東州は日本の植民地でしたから、日本政府の許可さえあれば、大連に麻薬を持ち込み、 それを更に南満州鉄道で搬入することなど造作もなくできたことでしょう。 南満州鉄道は「麻薬鉄道」と呼んでもよいかもしれません。




注意
もともと南満州鉄道は中国領を走るロシアの鉄道でしたが、 日露戦争の結果日本がロシアから譲渡されたものです。 この点を理解するためには、もう少し背景を述べる必要があります。 もともと極東ロシアは外満州 (外満州 - Wikipedia) と呼ばれ、後に満州と呼ばれた場所 (内満州) と 合わせた地域は中国領でした。 しかし 19 世紀中ごろにロシアの侵略により外満州がロシアの領地になります。 さて日清戦争の結果、中国の弱体ぶりが露呈され、その結果、中国はヨーロッパ各国から 色々むしりとられます。 日清戦争 -Wikipedia によると 1. ロシアは旅順と大連
2. ドイツは膠州湾 (青島)
3. フランスは広州湾
4. 英国は九竜半島 (香港)
を手に入れます。更にロシアは内満州を事実上の自国領とするために、鉄道を建設したのです。 日露戦争の結果、日本はこのロシアの権利を譲り受けました。 中国領における外国の鉄道という非常に奇妙な事実は、従ってロシアの中国侵略から生じたものです。 しかしだからといって日本の中国侵略が合法化できると言えるものでもありません。
アヘン帝国の興隆 -- 台湾

ここでは次のページからの引用を中心にまとめます。 このページはとても短いので、書いてあることが正しいかどうか すこし考える必要があります。

Korean Opium for Japan's Wars (日本の戦争のための朝鮮のアヘン)

このページに書かれていることは、 第二次大戦前の朝鮮と台湾におけるアヘンに関しての状況、及び関連している日本人の名前 (主に軍人) です。 まず台湾に関する記述ですが、少し翻訳します。



日本政府の公式な統計によると 1900 年には台湾に 169000 人の アヘン中毒がいた。

当初は、アヘンを吸うことは台湾では非公式に認められ、 日本が軍事拡大のために多額の予算が必要となったときアヘン政策が変化した。

日本は台湾人がもっと多くのアヘンを吸うように奨励しようとした。

上の最後の三行はは恐らく日本語の Wikipedia では真っ向から否定することだと思われます。 そこで論理から話を進めることにしましょう。戦前の日本にはおよそ産業らしい産業がありませんでした。 日清戦争、日露戦争いずれの場合にも、英国から戦争のために艦船を購入しています。 この費用はどこから捻出したのでしょうか ? 民生段階の産業が発展してない限り、軍事予算に手が回らないはずです。 例えば、現在の北朝鮮には産業らしい産業がありません。 輸出できるとしたら、食糧です。しかし、食料を大量に輸出すれば 自国民が飢えます。それ以外には「麻薬の輸出」しかないと思われます。 北朝鮮には偽札の印刷もありますが、これは除外しましょう。

しつこく繰り返しますが、まだ日本では産業革命に至っていなかったというべきです。 産業に関してははるかに先進国である「英国」でもアヘン戦争後、アヘンの利益は 産業革命にまわりました。どうやって「産業革命」を遂行しながら 「巨大な軍事予算」を工面することができたでしょうか ? 産業革命にも「巨大な資金」が必要となります。1904 年に八幡製鉄所がようやく完成した ばかりで、まだ国内で機械を作ることができず、機械類はほぼ全部輸入品であったはずです。 民生用の機械も輸入品で軍事用の船舶も輸入品なのです。どのようにして 資金を工面したのでしょうか。アヘンに手を出したと考えるのが最も自然です。 しかも積極的に国策としてアヘンの輸出に手を出したというべきです。


ここで少し脱線して、英語版の Wikipedia に掲載されている製造業の国別生産高の 相対比率のグラフ (1750 年-1900 年) をご覧ください。 日本の生産高は相対的にはほとんど増えていません。この間むしろ減っているくらいです。 (だから、日本は実のところ産業革命に乗り遅れたのです。) また米国が 1830 年頃、まったく 0 に等しかったにもかかわらす1900 年頃に世界一になっていることがわかります。 ドイツもかなり増えています。

オリジナル : Image: Graph rel share world manuf 1750-1900
このグラフに、日本語名を挿入して次のグラフを作成しました



次のページも製造業の国別生産高の相対比率のグラフ (1880 年-1938 年) ですが、残念なことに日本は含まれていません (ここに掲載されている国よりは低かったことが確実)。 1938 年に米国が世界の 30 % を生産しているのがわかります。

Relative Shares of World Manufacturing Output 1880-1938

最初のグラフを見ると、19 世紀になって英国は日の出の勢いとなっており、アヘン戦争などしなくても よさそうに思えます。どういうことがおきたと思いますか ? 19 世紀に入ると、 英国には比較的豊かな市民が増え始めます。この人たちは中国製の陶磁器、茶を購入し始めます。 現在の米国と似たようなことがおき、一般市民は輸入品ばかり購入するようになったのです。 この結果、英国から更に大量の銀が中国に流出することになるのです。英国のみならず、欧米がすべて このようになります。つまり産業革命の結果、一過的には英国は赤字に転落するのです。おとろしや.... もうしばらくすれば、例えば日本は明治以後に英国から機械をじゃかすか購入し始めますから、英国としては これでよくなることになります。日本は欧米に追いつくために必死になりますが、差がつくばかりとなります。


もとの話に戻りましょう。台湾に関しては、

Japan as an Opium Distributor (アヘンの販売業者としての日本)

にも記述があります。台湾が麻薬に関しての拠点であったことを示しています。 この中で、筆者は1919 年、2月14日のニューヨークタイムスに掲載された記事を引用しています。 モルヒネに関連する記事ですが、少し長めに引用します。(翻訳です。)


1919 年、2月14日のニューヨークタイムスの記事


去る12月21日の North China Herald 誌のレポーターは

「日本政府は秘密裏に中国および極東の他の国におけるモルヒネの流通を育成している」
と告発して、更に次のように続けている
「日本はモルヒネ及びその製造と摂取に必要な器具を中国に輸入することに関しての禁止条約の 加盟国であるにもかかわらず」麻薬の流通は日本銀行の資金援助および中国における 日本の郵便の援助を受けている
と断言している。
もはやモルヒネはヨーロッパでは購入することができない
(訳注: モルヒネの売買が規制されたことを意味する)
とレポーターは書いている。製造の中心地は日本になり、モルヒネは日本人自身によって製造されている。 毎年、文字通り何千万円もの資金が日本のモルヒネの代金として、 中国から日本に送金されている .....
(訳注: 金額は当時のものですから、今日では非常に大きな金額です)

と記述し、更に次のように述べています。



南中国では、モルヒネは中国人の行商人によって売られている。 彼らは台湾人であることを証明するパスポートを保持し、従って日本政府の保護下にある。 中国における日本の薬屋 (ドラグストアー) はすべて大量のモルヒネの在庫を かかえている。日本の薬の行商人は巨額の利益を生むモルヒネに目がいっている。 日本人が優勢な場所ではどこでも、(モルヒネの) 商売が繁盛している。 大連経由ではモルヒネが満州と隣接する省に流通し、青島経由ではモルヒネが山東省、安徽省、江蘇省に 流通し、台湾からはモルヒネはアヘンとそれ以外の禁制品と共に、エンジンつきの漁船で 中国本土のどこかに運ばれ、そこから福建省と広東省の北部の至る所に配布されている。 ありとあらゆる場所で、治外法権の保護の下、日本人によって売りさばかれている。

(訳注: この場合の日本人は台湾人を含む)

ここに登場する台湾人は、台湾の暴力団だと思われます。アヘンは日本国内においては (当時の台湾を含む)、アヘンは政府の専売ですから、この台湾の暴力団は日本政府の 方針で動いていることになります。また 1919 年頃、台湾系の暴力団が日本のパスポートを保持して、 中国本土で活発に活動していたことを意味します。現在では外交官用の パスポートを所持していない限り治外法権ではありませんが、当時はどうだったのでしょうか ? 暴力団が外交官用のパスポートを持っていたことも考えられますし、 日清戦争の結果日本のパスポートを所持していれば、中国で治外法権だったかもしれません。


追加

最初これを書いた時は色々なことが不明だったのですが、 その後下関条約で締結された通商条約で、日本がアヘン戦争の勝利国と同じ待遇を得たことに気がつきました。 それで色々なことが明らかとなりました。
1. 最恵国待遇と治外法権
日本語版の Wikipedia (下関条約 -- Wikipedia) では、日本は「最恵国待遇」を得ることになったとしか書いてありません。 そこで英語版の Wikipedia (Extraterritoriality (治外法権) - Wikipedia) を調べたところ事情がはっきりしました。以下その部分的な翻訳です。


治外法権で歴史的に最も有名なものは恐らく、いわゆる 不平等条約の下で 19 世紀の中国と日本における ヨーロッパ国籍者に関連するものである。 第一次アヘン戦争の結果、南京条約で中国に治外法権が押し付けられた。 とりわけ、上海は 2 つの治外法権の領域である「国際居留地」(International Settlement) と「フランス居留地」(French Concession) があったため、外国人の活動の中心地となった。 この治外法権は公的には第二次大戦後にようやく終了したのである。

日本は「最恵国待遇」の名の下に、1858 年に締結された米国、英国、フランス、オランダそして ロシアとの条約で治外法権を押し付けられた。 しかしながら、1894 年にロンドンで調印された「日英通商航海条約」を通じて 西側諸国との不平等状態の改善に成功した。

中国における非外交官の治外法権は 20 世紀の様様な時に終止符を打っている。 ドイツとオーストリア・ハンガリーは中国が第一次世界大戦で連合国側についたときに 治外法権を失っている。ソビエトは 1924 年に中国における権限を放棄し、 米国と英国は 1943 年に権限を放棄し、イタリアと日本は 第二次大戦で中国と戦争状態となったため権限を放棄し、 最後にフランスは 1946 年に権限を放棄した。

要するに、この時代に「最恵国待遇」を得ることは、その国で「治外法権」であることを意味していたのです。

「日英通商航海条約」は 1894 年 7 月 16 日です。この直後に日清戦争が勃発し、 1895 年 4 月 17 の下関条約では、今度は日本が不平等条約を中国に押し付けることになります。 日本は「不平等条約」の被害国であると同時に加害国であるのです。 この「不平等条約」によって中国で麻薬を売ることができたのですから、 この事実は日本史の教科書では述べられることはないと思います (歴史の捏造)。

2. 日本の郵便局と麻薬
2008 年 3 月 18 日のインターナショナル・ヘラルド・トリビューン (IHT) の記事で 「ニューヨーク・タイムズの 1923 年までの記事がニューヨーク・タイムズのホームページで無料で読むことができる」 とあったので、早速探してみることにしました。 1919 年 2 月 14 日の記事は、ニューヨーク・タイムズの過去の記事の中から、"North China Herald" で 検索するとすぐに見つかります。 次の最初が検索で出てくるトップページ (記事の最初の部分), 2番目が記事全部です (PDF)。
◦ CHARGE THAT JAPAN AIDS OPIUM TRADE
◦ 本文 (PDF)

ここには今まで出てこなかった部分があります。少し引用します。事情が非常によくわかります。


中国におけるモルヒネの主だった配布機関は日本の郵便局である。 モルヒネは小包として輸入される。 中国における日本の郵便局の小包は、中国の税関の検査を受けることが許可されていない。 中国の税関が許可されていることは、日本の送り状に記載されている小包の中身と称するものを知ることのみである。 にもかかわらず、モルヒネはこの方法で、何トンも中国に持ち込まれた。 消極的に見積もっても、1 年を通じて日本が中国に持ち込むモルヒネの量は 18 トン程度にのぼり、 この量が着実に増加していることに関しての痕跡がある。
ニューヨーク・タイムズの記事は随分引用したので、全文を翻訳することにしました。
1919 年、2 月 14 日のニューヨーク・タイムズの記事


ニューヨークタイムスの記事に登場する場所の地図を描いてい見ると次のようになり、 海岸地帯に近いところはほとんど日本の麻薬が浸透していたことがわかります。 (地図は Wikipedia の地図から作成しました。)



外満州 - Wikipedia (極東ロシア) に 「1918 年から 1922 年までの間、日本軍は シベリア出兵に伴い、短期間ではあるが外満州と内満州 (いわゆる満州) とをあわせて支配した」とあります。 ニューヨークタイムズの記事は日本軍のシベリア出兵の頃に書かれたものです。 従って、日本軍は出兵するたびに麻薬を持ち込んでいることが非常にはっきりします。 つまり、日本軍は軍事行動を取れば必ず麻薬を持ち込んだようです。 軍事費の捻出のために他ならないようです。

台湾からもモルヒネを持ち込んでいますが、 「日本を経由した麻薬」で述べたように、台湾にはすでに星製薬のモルヒネ工場があります。 ここで製造されたモルヒネが中国になだれ込んだと考えて差し支えないようです。 極めて大量のモルヒネを星製薬が製造したことはほぼ確実です。 従って、モルヒネが痛み止めなどの医療目的ではなく「麻薬」として製造しているということを ちゃんとよくわかっていたと思います。

大連、青島経由のモルヒネはどこで製造されたものでしょうか ? 日本でモルヒネが出来るようになったにもかかわらず、アメリカからモルヒネを購入して中国に 持ち込んでいますから、この可能性もあります。 しかし、次の「アヘン帝国の興隆 -- 朝鮮」で、第一次大戦の終わる頃には朝鮮で大量のモルヒネが生産され、 これが満州を経由して中国で売りさばかれていたことがわかります。


注意
1. North China Herald は英国人のホンリー・シアマン (Honry Shearman) 等が 1850 年 8 月 1 日 に上海で創刊した新聞です。1864 年 7 月に North-China Daily News が創刊されると、 North China Herald は週刊になり、土曜日に刊行され、 North-China Daily News の補足の 形を取ることになります。そして 1941 年に太平洋戦争が勃発したときに廃刊となりました。 1919 年 5 月 4 に始まる「五四運動」 (The May 4th Movement) について書かれたページ
The May 4th Movement
でも North China Herald の記事を引用しています。かなり影響力があった新聞のようです。
2. モルヒネはアヘンから製造しますが、
Morphine - Wikipedia
によれば、製造過程で sulphuroic-acid が必要であると書いてあります。 これはタイプミスで硫酸 (sulphuric-acid) ではないかと思います。更に 水酸化アンモニウム (ammonium-hydroxide, アンモニア水) もしくは炭酸ナトリウム (sodium-carbonate) が必要です。当時、このような物質は化学工業地帯以外では入手できなかったと思います。 つまり、モルヒネ工場は化学工業地帯にあり、しかもアヘンの生産地に近い場所にあった。 ドイツ製の機械があればモルヒネの大量生産ができたようですから、原料さえあればよい。
3. (追加) あとで読み直してみると、言葉足らずであった点に気がつきます。 硫酸と水酸化アンモニウムは化学肥料の工場でできます。化学肥料の工場を作れば、 そこに住んでいる人たちにとって見ればとてもありがたい話ですが、モルヒネ製造の原料ともなりますから これは諸刃の刃であることになります。

もう少し上の文章からわかる点があります。「ヤクの運び屋」は麻薬中毒の可能性が高いです。 (今回色々と英文のページを探しているうちに常識になりました、) そこから判断すると、このページが書かれた頃台湾ではモルヒネが流通しており、モルヒネ中毒が 増えていたことがわかります。一般に「アヘン」の消費が少なくなったからといって 「麻薬の根絶」に近くなるわけではありません。「中毒地帯」では「アヘン」 の代わりに「モルヒネ」や「ヘロイン」の消費が増えることがあり、一般にはこうなる場合のほうが 多いようです。 従って上の文面だけから、この記事が書かれた頃「台湾」では「アヘン」の代わりに 「モルヒネ」が取って代わろうとしていることが非常に高い確率で断言できます。

何ゆえ、ここまで書いたのかというと、日本語の Wikipedia を調べているときに 「後藤新平」 ( 後藤新平 - Wikipedia) という人物に行き当たりました。「後藤新平」は台湾で「阿片漸禁策」 を取り、「アヘン」を成功裏に根絶したと書かれていました。 単に「アヘン」の代わりに「モルヒネ」になっただけと考えるほうが自然です。 日本語の Wikipedia では後藤新平が台湾総督府民生長官となったのが 1898 年で、 1906 年に南満州鉄道の初代総督となったとしています。 ニューヨークタイムスの新聞記事は 1919 年です。 従って、台湾においては麻薬の撲滅はおよそありえなかったであろうと断言して 差し支えないと思われます。 麻薬中毒は横行していたはずであり、日本国政府の金の卵の一つであったと想定されます。 素直に判断すれば「後藤新平」は台湾を食い物にする政策を提唱したのです。 個人的な事実ですが、子供のときに、終戦まで台湾にいた人から「台湾には 麻薬中毒が多かった」という話を聞いた記憶があります。

あとで「後藤新平」のことに関していくつかの記述を見つけました。「アヘン帝国」の一番最初に引用した本の紹介ページ

Opium Empire: Japanese Imperialism and Drug Trafficking in Asia, 1895-1945
(アヘン帝国:アジアにおける日本の帝国主義と麻薬の取引、1895-1945)

では、元の本から次のように引用しています。


1898 年の台湾の民生長官であった後藤新平は 台湾人のアヘン使用に関しての方針を決め、 一方で中毒していないものが中毒しないようにし、 他方ですでに中毒になっている者に関しては政府の管理下で引き続き使用を 認めるものであった。中毒している者は登録する必要があった。 しかしジェニングス (Jennings、本の著者) が説明するように、 1920 年代の後半には、アヘン中毒で登録していない者は登録している者と 同じくらいの数になった。台湾人の中にはアヘン使用を恥辱と感じる者はいなかった。 その結果、よく儲かる専売制となり、製薬局 (Medicine Manufacturing Bureau) -- 後の専売局 -- に協力をする御用紳士は国際市場から生アヘンを輸入し、 吸引用のペーストにして配布した。一時期アヘンの売り上げは台湾政府の 年収の 20 % 以上を占めるに至った。アヘンの売り上げは 1918 年にピークに達し、 800 万円以上であった。ジェニングズは 1897 年から 1941 年の 台湾政府の収入と、麻薬の収入を表にしている。

「御用紳士」とは何のことか意味が不明ですが、日本の統治に協力をした 台湾人のことではないかと思います。 少なくともこの文章から日本語の Wikipedia の「後藤新平」の記述が不正確であることがわかります。 また本の著者であるジェニングスは 「二反長 (にたんおさ) 音蔵 (おとぞう)」のことも書いているようです。 変わった名前の日本人で、漢字がわからず閉口しましたが、何度かトライして 正確な漢字にたどり着きました:

二反長音蔵 - Wikipedia

これによると、「二反長」の読みは「にたんちょう」で、二反長音蔵の子である二反長半次郎 (にたんちょう はんじろう) は小説家・児童文学作家でペンネームを「二反長 (にたんおさ) 半 (なかば)」というそうです。 二反長半の作品

『戦争と日本阿片史 阿片王二反長音蔵の生涯』 - 父・音蔵の生涯と彼が関わった戦前期のアヘン製造の記録。

から「二反長音蔵」のことがわかるようです。 「二反長音蔵」はケシの栽培とアヘン販売に携わったようで、英文の本の紹介ページでは「アヘン王」として 扱われています。しかも、 二反長音蔵 - Wikipedia には、「星一」、「後藤新平」がその協力者であると書かれています。 要するに、この 3 人は「麻薬王」なのです。「二反長音蔵」は満州、内モンゴルで 活発に行動したそうです。

後藤新平 - Wikipedia の記述が更に不正確であることも別の記述から見付けることになりました。 1898 年 (明治 31 年) に後藤新平は「台湾総督府民生長官」となっていますが、

後藤新平の阿片商売

によると、その 2 年前の 1896 年に「台湾総督府衛生顧問」になっているようです (但し、このページでは ミスタイプをしていて 1986 年になっている)。しかも、そうなった理由は


そのさらに前年の一九八五年、内務省衛生局時代に、内務大臣と首相兼台湾事務局総裁という立場の伊藤博文に対して、 大変な長文の「台湾島阿片制度施行に関する意見書」を提出していたからであった。

注意: ここの一九八五年も一八九五年のミスタイプです。
としています。このことに関しては別のページ
読者のページ~2005年4月~
(このページでは「二反長半」による「音蔵」の伝記などを参考にしています。)

にも言及があり信頼できると思われます。しかも、このページには次のようなことも記されています。


 また、二反長音蔵もケシ栽培を管轄する内務省衛生局長・後藤新平に建白書を提出します。 台湾を専売制にするには、アヘンを輸入しなければなりません。 インド・イラン・トルコなどから台湾に輸入されるアヘンは 明治31年では149t・171万円になりました。 音蔵はこのアヘンを日本国内で自給すれば、貴重な外貨の流出を防げると建白し、 そのケシ栽培を自分たちにやらせてくれと願い出て、認可されました。 つまりアヘンの専売制は、台湾でのケシ栽培禁止とセットになっていたので、 音蔵はそこに目をつけたのです。  こうして、音蔵たちの作ったアヘンは、台湾総督府に納められ、 それを使って星一はモルヒネを製造し、音蔵・新平・一は旧知の間柄になっていきました。

要するに後藤新平はもともと「ケシ栽培を管轄する内務省衛生局長」であったのですが 「アヘンで儲けること」を提唱して「台湾府衛生顧問」となり「台湾総督府民生長官」と昇進したのです。 更に、後藤新平の阿片商売 では「アヘン漸禁策」は後藤新平の創意ではなく、考え方としては台湾総督府の前任者の時代からあったとしています。

Opium throughout history

には次のような記述があります。


1878 年に英国は、アヘンの消費を削減する目的で「アヘン法」(Opium-Act) を 成立させた。新制度の下では、アヘンの売却は、登録された中国のアヘン喫煙者、 登録されたインドのアヘン食者に限定された。一方、ビルマではアヘンの喫煙は 厳格に禁止された。

訳注: インドではアヘンを食べたようです。

従って、台湾における「アヘンの専売制」は まさしく英国が植民地でしていたことの真似に他ならないことがわかります。 また文中で中国のことが出てきますが、これは中国における英国の植民地 (上海、香港など) の ことを指しています。また「アヘンの専売制がアヘンの消費の削減に役に立つ」などという、 ふざけた論理は英国の主張の受け売りであることも明白です。

もう一点、 後藤新平 - Wikipedia の記述から、満鉄総裁になってから


台湾時代の人材を多く起用するとともに30代、40代の若手の優秀な人材を招聘し、 満鉄のインフラ整備、衛生施設の拡充、大連などの都市の建設に当たった。

としています。「インフラ整備」ではほとんど確実にアヘンの儲けを使っているはずです。 こう考えると、後藤新平は「台湾総督府民生長官」であったときに、(英国の真似をして) アヘンの儲けで「台湾」 のインフラ整備を実行し、更に「満鉄総裁」となってからもアヘンの儲けで「満鉄」の インフラ整備をしたことになります。このようなことを積極的に推し進める考えを持っていたからこそ、 「台湾総督府民生長官」にもなり「満鉄総裁」にもなったのではないでしょうか ? 後藤新平は 1919 年 (大正 8 年) に拓殖大学の学長になっていますが、 拓殖大学の前身は台湾協会学校ですから、これの設立にもほぼ確実に麻薬の儲けが使われている ことになります (植民地におけるインフラ整備は麻薬の儲けに依存している)。


注意
一般に通常の方法では、植民地はもうかりません。 一応これは一般的によく知られた話だと思うのですが、念のため その一つの例を挙げることにします。 ジブラルタル - Wikipedia は現在でも英国の植民地です。かなり以前の英字紙で英国はジブラルタルをスペインに 返却したいらしいと書いてありました。往時はここは戦略上の拠点だったのですが、 近年は、英国政府からすると金食い虫になっており、領有権を手放すほうが経済的に 得策であるようでした。しかし、住民投票の結果は英国領であること望む声が多かったのです。 英国領であるほうがよい生活ができるからのようですが、逆に言えば英国からすると 経済的な損失となるようです。
最後に、ニューヨークタイムスの記事で思いつくことを色々列挙します。
1. 一般に、日本語の Wikipedia では、第二次大戦に関する記述はとても不自然です。 「阿片漸禁策」によって、麻薬の根絶ができるわけがありません。 しかし、ここに述べているようなことは日本の報道では一切否定されることが目に見えています。 後藤新平は東京放送局 (のちの NHK) の初代総裁 (1924 年) になったようですから、とりわけ NHK はあくまでも否定するはずです。


2. 1912 年のハーグにおける国際条約 ( 万国阿片条約 ) について、一点付け加えます。 第一条では加盟国は「生アヘンの生産と流通を制限するための効果的な法律ないしは規則を制定する」 ことが義務付けられているようです。日本もその条約の加盟国であったため、見かけ上は条約を遵守する立場で あったはずです。従って「アヘン専売法」にせよ「阿片漸禁策」にせよ、見かけ上は麻薬抑制を目的としたもので あるとされたはずです。
3. 青島はドイツの租借地でしたが、第一次世界大戦が始まるとすぐに日本に占領されます。 ニューヨークタイムスの記事から判断すると、その直後から青島経由で、モルヒネを中国に 持ち込んでいたと考えるほうが自然なようです。 従って日本軍は占領すればすぐにも麻薬の活動を開始した。 一方でドイツは各国が万国阿片条約の批准を遅らせるようにしむけています。 従って、ドイツも麻薬で儲けていたと考えるほうが自然で、 そのため青島はドイツの麻薬ルートであった可能性があります。従って青島占領と共に日本がその麻薬ルート を引き継いだと考えることもできます。無論規模を拡大したことは言うまでもないことです。
4. ここで引用されているニューヨークタイムスの記事はとても有名なようです。他でも引用されています。
The Japanese Drug Supply (日本の麻薬の供給)


アヘン帝国の興隆 -- 朝鮮

以下述べることには「興亜院」が登場します。例によって年表を付け加えます。

1879 アヘン専売法
1894 - 1895 日清戦争
1895 台湾が日本の支配下
1904 - 1905 日露戦争
1906 南満州鉄道 (満鉄), 日本の会社
1910 日韓併合(朝鮮半島が日本の支配下)
1911 辛亥革命
1914 - 1918 第一次世界大戦
1914 日本はドイツの租借地の青島を占領
1919 ベルサイユ条約
1918 - 1922 外満州、内満州支配 (シベリア出兵)
1922 日本は中国に青島を返還
1920 年代 中国北東部で日本の商人たちが麻薬取引
1929 世界恐慌
1931 満州事変
1932 満州国設立
1933 国際連盟から脱退
1936 興亜院の設立
1939 里見機関の設立
〃 独、ポーランド侵入
1941 真珠湾攻撃
1945 日本の降伏

Korean Opium for Japan's Wars (日本の戦争のための朝鮮のアヘン)

における、朝鮮に関する記述に移りましょう。書いてある内容は以下の通りです。



朝鮮北部ににおけるアヘン畑に関してはほとんど報道されていない。 (日本による) 占領下では 朝鮮の北部で農民たちは強制的にアヘンを生産させられていたが、 これは中国における「アヘン作戦」のためであった。 この秘密の「アヘン作戦」は 日本の公式な組織である「興亜院」 (China Affairs Board) の命令のもとに 東京政府の国策として完全に承認されて実施された。

訳注 : (1) アヘン畑というよりケシ畑というほうが正確ですが、原語でアヘン畑 となっています。雰囲気がよく出ていると思います。
(2) 原語では China Affairs Board となっていますが、興亜院 のことと思われます。これはあとで確認できました。 (「Japan Times に載った記事、その 1」をご覧ください)


興亜院は中国における占領地の政治、経済、文化面の責任を取った。 興亜院は近衛文麿 (Prince Konoye) と 当時の戦争、海軍、経済、外交に関連する省の代表によって運営された。 日本のアヘン取引は中国人の抵抗する意思を弱体化し、そして 日本の軍事、経済進出の資金を提供することを目的とした。
訳注 : 「アヘン取引」という訳語はよくないかもしれません。原語は「opium trafficking」で、 ずっと犯罪色が強いような気がします。

アヘンの生産地は現在の北朝鮮のようです。 現在の北朝鮮による麻薬の輸出と何らかの結びつきがある可能性があります。 「興亜院」は昭和 13 年 (1938 年) にできた組織で、 「政務・開発事業を統一指揮する為に設けられた」ようです。 従って、それ以前から「アヘン作戦」は実施されていたと考えるほうが適切で、 「朝鮮」においては日韓併合の直後からこのような活動があったと考える方が自然です。

日本語の Wikipedia によると、興亜院の長は総裁で内閣総理大臣が兼任しています。従って「アヘン作戦」 は日本国政府の方針です。

さて「アヘン作戦」とはどのようなものなのでしょうか ? 上で引用したページには 記述がありませんが、色々な英文のページから判断するとつぎのようなものです。


1. 必要とあれば、無料でアヘンを敵地にばらまきます。 (アヘン煙草とでも言ってよいと思うのですが、 箱に入っており、簡単に手渡しができたようです。)
2. これでアヘン中毒を蔓延させます。
3. ころあいを見計らい、戦争をふっかけます。敵の兵士がアヘン中毒ばかりであれば、 これで簡単に勝利できます。(これが関東軍の戦争の仕方でした。)
4. 占領した地域で、更に大量にアヘン中毒を作ります。
5. これでいくらでもアヘンが売れることになり、戦費が確保できることになります。

これって、戦争ですかね ? 暴力団の手口と似ていると思いませんか ?

最近では暴力団もあまり表立って、こんなことをしませんが、 麻薬中毒にしておいてから搾り取るのは基本的に暴力団の手口です。 だからこれは「麻薬テロ」です。そして、これが日本国政府の国策であったようです。 従って、当時の日本は「国」とは呼べないと思います。むしろ「暴力団」と呼ぶべきで、 「戦争」によって「占領地」が増えるというよりは、 「暴力団の抗争」によって「麻薬取引の縄張り」を広げるものであったと言ってよいと思います。 その意味からは「興亜院」は暴力団の組事務所の規模を大きくした組織で、 当時の日本の内閣総理大臣は「暴力団組長」と考えたほうが事実に近いと思います。

「アヘン帝国」の最初に引用した本の紹介ページ

Opium Empire: Japanese Imperialism and Drug Trafficking in Asia, 1895-1945
(アヘン帝国:アジアにおける日本の帝国主義と麻薬の取引、1895-1945)

には「朝鮮」に関することも記述していることに気がつきました。付け加えます。


朝鮮では、アヘンが 1914 年に禁止されるまでに、 モルヒネが麻薬中毒の選択肢として取って代わっていた。 そして 1929 年までは、支配国である日本はモルヒネを抑制する法律を 制定しようとはしなかった。第一次大戦の終わる頃には、 日本の専売制の下における麻薬の生産は多量の余剰を作り上げていた。 これは、満州における日本の占領地 と北部中国を経由して、中国で成功裏に売りさばかれた。 日本が「中国」の至る所に麻薬を密輸することを止めさせようとしなかったため、 国際連盟でごうごうと非難を受けた。ジェニングスはいかにして 日本が、よく儲かる政府の専売によって、中国における麻薬の使用を 奨励したのかを説明している。彼は、中国における占領地から、 世界的な規模での麻薬の売買を遂行することが日本の計画であったと断言をしている。 ジェニングスの語るところでは、ラッセル・パシャ (Russell Pasha) は 1937 年の国際連盟の「アヘンに関しての諮問委員会」の議場で 「世界中の非合法の麻薬のほぼすべては日本に責任がある」と断言をしている。


注意
1. 1912 年のハーグにおける 万国阿片条約 - Wikipedia の結果、見かけ上は麻薬撲滅に協力しなければいけないため、1914 年にアヘンが禁止されたのでしょう。 しかし、代わりにモルヒネとなっていますから、これは単に見せかけ以外の何物でもありません。
2. 第一次大戦は 1914 年に開始して 1918 年に終了しています。第一次大戦の終わるころ 朝鮮で麻薬の余剰ができたと書いていますが、 1914 年にアヘンが朝鮮で禁止されていたと書いてありますから、 この「余剰の麻薬」はモルヒネのはずです。 従って、第一次大戦が終了する頃には、 すでにモルヒネ工場が朝鮮にあったことを意味しています。 ところが、日本におけるモルヒネの大量生産は第一次大戦開始後のことで、当初は星製薬の 独占でした (台湾)。これ以外の製薬会社がモルヒネの大量生産を開始するのは 1917 年です。 おそらく、このときに朝鮮にモルヒネ工場ができたと思われます。 そうすると 1917 年までモルヒネをどのようにして手に入れていたのでしょうか ? 「日本を経由した麻薬」で紹介をした欧米のモルヒネの 一部が朝鮮に持ち込まれたのに相違ありません。
3. 1929 年頃から、日本は朝鮮でモルヒネ使用を抑制しようとしたと書いてあります。 しかし本当の意図がそうであるか否か少し疑問です。 1929 年は世界恐慌が起きた年で、これ以後世界的に麻薬が売れなくなり、価格が下落するためです。 1932 年に満州国ができ、中国侵略が開始されるのもこの世界恐慌の影響だと思われます。 あとでわかりますが、このときに満州国では数千人以上の朝鮮人の麻薬の売人が投入されます。 すると、満州帝国が設立された頃、麻薬の活動の中心地を 朝鮮から満州に移動したようです。 しかし、麻薬中毒が一瞬にして消えうせることはありえませんから、 朝鮮内部でもある程度の麻薬の活動が残ったと思われます。

4. 朝鮮のモルヒネが中国で売りさばかれたことに関して次も注意する必要があります。

対華21ヶ条要求 - Wikipedia (1915 年)
これは、第一次世界大戦で日本がドイツの植民地である青島などを占領したあとで、 中華民国の袁世凱政権に要求したもので、最大の要求は「ドイツが山東省に持っていた権益を日本が継承すること」 ですが、それ以外にも「日本人が南満州で自由に往来できて、各種の商工業などに自由に従事すること」があります。 この日本人には朝鮮人が入ることに注意してください。従って朝鮮におけるヤクの売人が自由に行き来でき、 また麻薬を自由に売りさばけることになり、 麻薬の密輸に極めて好都合であったことになります。 (日本はヤクの売人には日本人を使ってはいません。日本人が麻薬中毒になることを恐れたためです。)

「アヘン帝国の興隆 - 台湾」で述べたように 1919 年には日本のモルヒネが青島と大連経由で中国に なだれ込んでいますが、これは「対華21ヶ条要求」を中国が受け入れた結果ではないかと思います。 つまり、「対華21ヶ条要求」は軍事的な要求に見えますが、実は麻薬を中国に持ち込むことを 前提にした要求であったとも考えることができます。


少し疑問になることがあります。それは日韓併合が 1910 年である点です。 併合後わずか 7 年でモルヒネの製造を開始し、それを輸出に回している。 あまりにも事態の進展が急であるように思われます。 しかし、この疑問点は次の記事ではっきりしました。

Country Guide : KOREA (washingtonpost.com)

朝鮮の歴史について書かれている箇所を部分的に翻訳します。


日本の支配は日清戦争 (1894 - 95) と日露戦争 (1904 - 5) のあとで強化した。 日露戦争の時には日本の軍隊は満州を攻撃するために朝鮮を通った。 この軍隊は決して撤退することがなかった。そして 1905 年に日本は 朝鮮を保護国とすることを宣言し、そして 1910 年に正式に朝鮮を併合した。

つまり、日露戦争が始まってから、日本軍はずっと朝鮮に居座っていたのです。 日本は戦争をするたびに麻薬を持ち込んでいますから、1904 年以後、朝鮮は ずっと麻薬漬けであったと思われます。恐らく当初はアヘンで、そのうち 欧米のモルヒネとなり、終にはモルヒネを朝鮮で生産することになったのでしょう。

満州ではモルヒネどころかヘロインも登場します。これは、アヘンでは 中毒になるのに時間がかかるためなのです。多分同じ理由から、朝鮮でもアヘンよりは 効き目の速いモルヒネを使用したのでしょう。

1905 年に日本が朝鮮を保護国にしたという記述は次にも見られます。

朝鮮の歴史 - Wikipedia

この件に関しては次も参考にする必要があります。

桂・タフト協定 - Wikipedia
(米国がフィリッピンを手に入れ、日本が朝鮮を手に入れる。日米間の秘密協定)

アヘン帝国の勝利 -- アヘン撲滅運動とその敗北

最初は次のページ

The Tarnished Crusades (汚れた聖戦)

の最初の部分だけ読んで記述していましたが、このページに書かれていることは とても多く、簡単に判断できないことに気がつきました。 全部に目を通そうとすると、とても大変なので、最初の主だった箇所を翻訳することだけにすることにします。



1906 年、中国政府はアヘン撲滅運動を開始し、アジアにおける麻薬取引の進展に関して、 3番目の大きな流れが開始された。英国政府が公認してきた麻薬取引がついに消えうせ、一時的にではあるが、 徹底的に (アヘンが) 消えうせた。しかし、アヘンが希少となるにつれ、 そしてそのため金を使いまくる麻薬中毒者が代替物を渇望し、更には病気の治療で探し求める者が増えるにつれ、モルヒネ、 ひいてはその派生物であるヘロインが登場することとなった。 また、中国のアヘンの供給が一時的に停止したため、東南アジアの麻薬取引のパターンが変化した。

1906 年の皇帝の布告により、10 年間で中国のアヘン問題を撲滅することが発表された。中国の外交官である Tang Shao-yi は、彼自身がアヘン中毒から社会復帰した人であり、すでに 1904 年に英国政府と交渉を 始めていた。英国帝国政府は 1908 年に有効となる条約を締結し、インドから香港、中国へのアヘンの 輸出を徐々に減少することに同意した。 しかしながら。多くの英国政府の官僚は -- とりわけインドを支配していた官僚は -- この決定に心から歓迎したわけではなく、効果的な撲滅運動に関しての中国の決意と能力に疑念を表明し続けた。 中国で (アヘンを) 製造するようになってからは、インドの (アヘンの) シェアが減少し、 アヘンはもはや、中国貿易で重要なものではなくなっていた。しかしインド政府はまだ中国にアヘンを売ることによって 年間 300 万ポンドの収入を手に入れていた。インドの経済省の言い分では

もしも、我々が長年の間甘受しつづけた収入を犠牲にしてまで、中国政府に協力することを 要請されるのであれば、我々としても、我々の利益となるように極力配慮し、我々に不都合とならないような 方策を取る事を要求する権利を持つ。

英国帝国政府は、中国政府が外国のアヘンを差別するような方法を取るのであれば断固反対をすると主張した。 この事実は、英国は、政府の利益のための「アヘン専売」の技を完全なものとしていたが、 中国政府が、輸入したアヘンあるいは国内で産出したアヘンを統制し、削減することを目的にして 「アヘン専売」を導入することに、断固として反対したのである。 撲滅運動が開始された年には、中国がアヘンの販売を制限したため、 アヘン商人たちが怒り狂ってわめきたてた事件が随分あった。アヘン商人たちが英国政府の官僚の庇護を受けている点に関しては ほとんど変化がなかったのである。

アヘン撲滅運動は 1911 年の革命以前に中国政府が取り組んだ 全ての改革の中で最も成功したものであった。 非常に多くのアヘン屈が閉鎖され、そして多くの場合に、地方官僚は効果的に行動して、(ケシの) 栽培を除去した。 撃退運動が力を強め、(アヘンの) 供給が少なくなると、結果として価格が高騰した。 儲けることを視野において、英国は、インドから中国への輸出を制御することはせずに、単に削減することを 同意したのみであった。 この違いは明白で、インドからの輸出は 1907-1911 年において、実際は若干増加したのである。

にもかかわらず、英国政府の態度には変化が起きていた。 1909 年、上海で国際会議が開かれ、植民地支配の国に対してアヘンの貿易を中止するように 圧力が加えられた。 英国政府の官僚たちは、中国の (アヘン) 撲滅運動が効果を示していることの証拠を提供し、 より懐疑的な同僚たちも無視することができなくなることになった。 インド政府でさえ、アヘン商人たちの不満をあびせかけられていたものの、もっと急速に禁止することに あまり反対しなくなっていった。

訳注: 1909 年の上海の国際会議に関しては THE HISTORY AND DEVELOPMENT OF THE LEADING INTERNATIONAL DRUG CONTROL CONVENTIONS を参照のこと。 万国阿片条約 - Wikipedia には「万国阿片委員会」として紹介されています。

その結果、1911 年に中国と英国はインドのアヘンを輸出することに関して、より厳しい制限を加える 2番目の条約を締結した。更に、英国と中国の合同の視察で、域内における (アヘンの) 生産が 中止された省に関しては、英国のアヘンは排除された。 1911 年から 1915 年にかけて、中国のほぼすべての省から、少々性急な視察があるにせよ、ないにせよ、 外国のアヘンが消えうせた。インドから密輸されるアヘンが少々表面化することは あったが、大規模な公的な (アヘンの) 貿易は終に終焉を迎えたのである。

利用できるアヘンの量を削減することに伴い、中国の撲滅運動は大量のモルヒネの 登場を招くこととなった。このモルヒネはヨーロッパにおいて中東のアヘンから精製されたものであった。 モルヒネはアヘンの主要な麻薬成分であるが、モルヒネ中毒の危険性に関してはすぐには 気づかれることがなかった。1880 年代には中国におけるヨーロッパの宣教師は、アヘン中毒の 治療のためにモルヒネを使用し、「イエスのアヘン」と名前が付けられていた。1902 年に至るまで 中国へのモルヒネの輸出には制限が加えられなかった。.....1903 年以降、重税が課せられ、 流通が地下にもぐった。

撲滅運動の最中に、モルヒネは治療法としても麻薬としても使用された。 モルヒネはアヘンの喫煙者よりも発見が難しかった。 もっと重要な点は、モルヒネはアヘンよりもずっとよく効き、密輸するのにとても簡単であったため、 極端に安かった。1909 年、英国政府の化学者はモルヒネを飲み込めば、アヘンの喫煙と同じ麻薬効果がある -- しかし 10 分の 1 の値段で -- と報告している。 中国の中毒者はモルヒネを飲み込んだり、吸ったりすることを好んだが、注射器を使えばもって安くなった。 注射器では 1 オンスのモルヒネは 1000 回分 から 2000 回分になる。しかしながら、一般に、 中国で最も貧しいものが麻薬を注射器で摂取した。

最初は、中国に侵入したモルヒネは、欧米のもので、これは日本を経由していた。 日本政府は国内ではモルヒネ使用を厳しく制限していたが、 日本人たちは中国でモルヒネを販売するようになり、後には中国で生産するようになった。 1920 年までに、日本経由で一年間で中国に持ち込まれるモルヒネの量は、ある評価によれば、 中国人一人当たり 4 服分に足るものであるとされている。

......中略 .....

中国は一つの国ではなくなった。北京で中国政府を主張する政府 (軍閥、warload) がいくつも現れ、 ますます弱くなり、ただ名前のみとなっていった。 軍隊には資金が必要であった。1918 年における見せかけの政府は、 よく儲かるアヘンの取引の復活を奨励した。.... 中略 .......

英国領インドが、中国市場へアヘンを輸出することを停止することについに余儀なく同意したが、 東南アジアの他の植民地の「(アヘンの)専売」に (インドのアヘンを) 売ること、および 東南アジアの他の植民地の「(アヘンの)専売」が (中国に) 輸出することに関しては このような制約が課されてはいなかった。 そのため (アヘンの) 商売が繁盛した --- 中略 --- 植民地国家が麻薬の取引に関しての国際的な非難を無視できなくなったとき、 政府の (アヘンの) 専売はアヘンの制御のためであると宣伝され、 公的に推し進めることによって、利益を得続けたのである。 ---- 以下略 ----

上の話に続いて、辛亥革命後の中国各地の軍閥 (warload) の話、上海のヘロイン、外国人が果たした役割、 蒋介石の話などが続きます。あまり長くなるのでここらでおしまい。


追加
文中で出てくる Tang Shao-yi の漢字表記は 唐紹儀 のようです。
1. Tan Shaoi - Wikipedia
2. CAMPAINS: China Man - Time

これは中国の側から見た事件の姿です。日本の側から見れば、麻薬王(二反長音蔵、後藤新平、星一) あるいは製薬会社の策謀が見えるだけなのですが、...いずれにせよ、アヘン帝国が中国の 「アヘン撲滅運動」に勝利したことになります。「このとき歴史が動いた」のです。

Opium throughout history

によれば、1843 年にエジンバラのアレクサンダー・ウッド (Alexander Wood) 博士が モルヒネを注射器で摂取する方法を発見したとのことです。 最初は、医療目的であったようです。上の記事と比較すると「モルヒネを注射器で摂取する方法」 はすぐには広まらなかったようです。注射器を大量生産していなかったためかもしれません。

syringe - Answers.com

によると、注射器の大量生産は 19 世紀後半に始まるようです。

英国は、インドのアヘンを中国領には持ち込まなくなりましたが、 植民地 (上海、香港) などではアヘンの専売制を続けています。

アヘン帝国の支配構造

「満州帝国」(manchukuo) と「アヘン」(opium) を AltaVista で検索すると色々なページが検索されます。 例えば、

Annotated Bibliography Part 6

ここには次の本が引用されています。 (題目は「日本とアヘンの脅威」とでも訳すべきです。)

Merrill, Frederick T. Japan and the Opium Menace.
New York: Institute of Pacific Relations and the Foreign Policy Association, 1942.

この記事の一部を翻訳します。これは 1938 年の 5 月初旬の日本軍の占領下における中国中部のアヘンの事情に関して まとめた部分です。 完全に事態を把握できていないので、うまく翻訳できませんが、 恐るべきことが起きていたことがはっきりします。

記事の翻訳をする前に少し予備知識が必要です。 1937 年 12 月に日本軍が南京を占領し、その直後、かの有名な南京大虐殺がおき、 数ヶ月後の1938 年 3 月 28 日に南京に傀儡政権

中華民国維新政府 - Wikipedia

が設立されています。記事の内容はこの 1, 2 ヶ月後のことで、中国中部と言っているのは南京の傀儡政権の統括する地域 (江蘇省、浙江省、安徽省 + 南京市、上海市)のことでしょう。

Wikipedia の地図から作成した地図



また記事の中では、麻薬が大連と天津から輸入されたとしています。日本語版の Wikipedia によると北京に傀儡政権

中華民国臨時政府 (北京)

が 1937 年 12 月 14 日に成立したとあります。英語版の Wikipedia には統括地域は

河北省、山西省 + 北京市、天津市 + 一部の内モンゴル

とあります。ここに天津市が含まれていることに注意します。以上で予備知識はおしまいです。記事の内容に移りましょう。


1. 中国政府によって設置されたアヘン撲滅のための 政府部局が日本人もしくは日本人によって 設置された傀儡政権の干渉によって事実上機能が停止した。
2. アヘン、ヘロイン及びその他の麻薬の輸入が 完全に自由になった。 ありとあらゆる大量の麻薬が -- とりわけ日本の支配下にあった大連と天津から -- 輸入された。
3. アヘンとその他の麻薬は問題としているすべての地域に 自由に配布され、例えば南京のように、 それまではまったくアヘンが見られなかった地方や都市で公然と 取引されるようになった。
4. アヘンの専売事業は、日本人と朝鮮人のアヘン組織の系列に 集約された。彼らは日本政府及び傀儡政権と親密な関係により、きわめて強力であった。 新たに組織化された中国のアヘン組織は、 一つの都市全体 -- 例えば蘇州市 -- の麻薬ルートの統括をまかされた。
訳注   訳しにくいので「アヘン組織」としましたが、原語は opium ring です。opium は「アヘン」で、ring は「ギャング」の 意味です。だからこれは「アヘンを扱っている暴力団」の意味です。

5. アヘンや他の麻薬の末端の売人には、中国の最も低い身分に 属し、日本の植民地である上海にいた者が採用された。 彼らの多くは犯罪者であった。 この麻薬販売の特徴点は、売春婦をしばしば雇ったことにある。 売春婦たちには中国籍のものも日本籍のものもおり、 また日本兵によって連れまわされて破綻した中国の女性もいた。
訳注   日本籍のものには、台湾人も朝鮮人も含まれることに注意してください。

6. 日本によって設置された傀儡政権は麻薬取引の 収益を公然とアヘン窟のライセンス料として徴収したり、 支配的なアヘン組織からの上納金として獲得した。 多くの中国人の地方官僚は麻薬売買に直接関与することで 報酬を得た。
7. アヘンやその他の麻薬は、中毒していない人や 麻薬摂取をしたくない人にも強制的に摂取させた。 アヘン摂取に関してのプロパガンダ (訳注  健康によいなどのでまかせ) があり、 中国の労働者は頻々として麻薬の形で給料の一部を受け取っていた。
8. このような事態の結果、アヘンと麻薬の消費は急激に増大し、 麻薬中毒が広範囲に広がることとなった。

この記事からわかることは、日本政府は麻薬を売るために、 日本や朝鮮の暴力団組織を使って麻薬ルートを作り、麻薬の直接の売人は 中国の暴力団を使ったことがわかります。上の記事には直接「暴力団」とは 書いてありませんが、麻薬の売買を常日頃から手がけている人たちを使ったことが 明白で、日本語ではこのような人は暴力団と呼ばれると思います。 (英文のページには「ヤクザ」の記述も見られますが、最近の日本語では「ヤクザ」 とはあまり言わずに「暴力団」と言っていると思います。)


注意
あとで、わかりますが満州では何千人もの朝鮮人がアヘン屈で働かされていました。 従って、ほぼ確実に、満州の売人たちが中華民国維新政府の統治下に投入されたようです。 麻薬の売人は麻薬中毒になる可能性が多いです。そのため、直接日本人を売人にすることはなかったようです。

追加
満州の売人たちが投入されて理由は、つぎのように考えると説明ができます。 まず世界恐慌により麻薬の価値が下がり、 朝鮮半島の麻薬の売人と関東軍の収入が激減し、 その結果、満州に進出し、満州国が設立されます。 このとき、朝鮮半島の麻薬の売人は関東軍と行動を共にします。(こうしないと飯が食えない) しかし、満州国においては農民たちの骨の髄まで絞るようなやりかたで、 麻薬で絞りたてますが、おそらくこのようなことをすると社会全体が貧しくなり、 結果として、麻薬の売れ行きがじり貧となる可能性があります。 また世界恐慌後も麻薬の単価がどんどん下がった可能性もあります。 こうなると再び、麻薬の売人と関東軍の収入が減ることになり、 新天地を求めて、日中戦争を吹っ掛けた可能性があり、 占領地で再び満州でしたことと同じことを繰り返そうとしたと考えられます。 麻薬の単価が下がっていれば、よりひどいことをしなければならなかった可能性があります。
また各「暴力団」は一つの (都) 市を縄張りとして与えられていることがわかると 思います。したがって、今日の広域暴力団の下部組織に類似しています。

最初に、この記事を読んだときは愕然としましたが、よく考えてみれば当たり前で あることがわかりました。末端の麻薬の売人はギャングないしは暴力団です。 普通の人が麻薬の売人にはなれませんから、これは当たり前です。 通常、商品の流通過程では「卸」があって「小売」があります。 末端の麻薬の売人は「小売」です。「卸」になることが出来る人は普通の人でしょうか ? まず間違いなくギャングないしは暴力団で、当然、広域暴力団の構造と似ることになります。 末端の売人は中国人に売るのですから、中国人の方がよいですが、「卸」の売人は、一応誰でも儲けたいですから 日本人ということになりそうです。これも広い意味の日本人 (朝鮮人、台湾人) でよいはずです。

文中には日本人、朝鮮人が登場しますが、これは恐らく麻薬の産地の理由からです。 あとで見るように、満州における麻薬の産地は熱河省と吉林省です。

天津は熱河省に近いので、文中に登場する天津経由のアヘンは熱河省のアヘンのようです。 あとで見るように満州には何千人もの朝鮮人がアヘン屈で働かされていましたから、 麻薬の「卸」を担っているのが日本人であっても朝鮮人であっても不思議ではありません。

さて大連経由の麻薬はどうでしょうか ? 近くには吉林省があり南満州鉄道で結ばれています。 しかし、今まで見てきたように北朝鮮にはアヘンの産地がありました (場所は不明ですが、モルヒネなどの 理由から、あるとすれば、鴨緑江南部の重化学工業地帯の近くです)。 しかし、満州国ができてから以後は麻薬の活動の中心地が、朝鮮から満州に移動したようですから、 多分、吉林省の麻薬だと思われます。


注意
国と暴力団とのかかわりは、それほど不自然ではありません。 現在の北朝鮮のことを思い出してください。北朝鮮は麻薬を輸出していますが、 その日本における窓口が北朝鮮系の暴力団であることはよく知られていることです。 このため北朝鮮系の暴力団は資金面で祖国に貢献していることになります。 この点から第二次大戦前および戦中の日本は現在の北朝鮮と似ているといえるかもしれません。
アヘン帝国の支配者たち

この項目は、「満州国」に関するもので、直前の「アヘン帝国の支配構造」は「中国中部」に 関するものです。最初にこれを書いたときは地理的な違いに気がつかずに書いていました。 しかし、どの地域でも末端の麻薬ディーラーは中国人のようです (当然ギャング、あるいは暴力団)。 そして、中間に「卸のディーラー」がいます。「アヘン帝国の支配構造」では、これも (朝鮮もしくは日本の)「暴力団」です。 常識的には「満州国」の「卸のディーラー」も暴力団であったと考えるほうが自然です。以下これを前提にします。

事実をまとめるために、もう一つの記事を引用します。英語版の Wikipedia で 色々調べているうちに、1 週間以内に途中で次の記事の内容が変わりました。

Economy of Manchukuo (満州国の経済)
アヘンに関する箇所はこのページの下の方にあり、次をクリックすると該当箇所に行きます。
Economy of Manchukuo (満州国の経済のアヘンの項)

最初はこの記事にアヘンの内容が記載されて いませんでした。少し妙だと思ったのですが、色々調べていくうちに記事の内容が 基本的に変化しました。現在のページにはアヘンのことが記載されています。 但し「この記事が正確かどうかに関しては議論がある」(The factual accuracy of this article or section is disputed.) の一文が付けられていて、以前のページにリンクが張ってあります。 (追加:2009 年 10 月にはこれは消えています。正しいと判断されたようです。) 以前のページには今述べたように英語圏では常識化している満州帝国のアヘンの記述がありませんから、 現在のページの方が信頼性があると思われます。 決定的な個人名が登場します。少し紹介をします (翻訳)。 1932 年の 3 月 1 日に満州国ができていることを予備知識にしてください。



1932 年 の 11 月には組織化されたアヘンの専売があり、 三井財閥が、さもこれが国内における麻薬の多量の消費を抑える目的のためとか称して、アヘンを栽培していた。 固定された栽培地が熱河省と吉林省の北西に設定された。 1934-35 年の間の栽培面積は 480 平方キロメートル、1 平方キロメートルあたり 1.1 トンを生産していたと評価されていた。 また、多くの非合法の栽培もされ、非常によく儲かるため、この危険な麻薬を効果的に抑制することに障害となった。 秘密の日本人の商人のグループである "Nikisansuke" が関与した。

このグループは以下から構成されていた。 (訳注 : 英文の Wikipedia 内にリンクが張ってあって日本語表示があるものは日本語表示もつけています。)
1. Hoshino Naoki(星野 直樹) (noted Japanese Army thinker)
2. Tojo Hideki (東条 英機) (Japanese Army politician and leader in nation)
3. Kishi Shinsuke (Merchant and right-wing supporter)
4. Matsuoka Yosuke (松岡 洋右) (Japanese Army follower and foreign affairs minister)
5. Aikawa Gisuke (Japanese Chairman of Manchukuo Zaibatsu)
6. Kuhara Fusanosuke (Right-wing thinker)

専売は、1 年あたり 2000 万円から 3000 万円の利益を生み、満州国の産業発展に資金供給をした。

軍隊は兵士によるアヘンと麻薬の使用を禁止したが (これを破れば、日本の市民権を剥奪された)、 劣等種族の士気をくじくために使用することには許可を与えた。

関係者の一人である星野 直樹は満州国のアヘン専売局の儲けを抵当にして、 日本の複数の銀行から多額のローンを取り決めた。 別の当局者によれば、満州国の分も含め中国全体の麻薬の収入は日本軍によって年間 3 億円と評価されている。

類似の、アヘン専売制は日本が支配したアジア全体にあった。
1. アヘンの産地は以下の通りです。




以下は英語版 Wikipedia の 満州国の地図 の縮小図です。日本語で書かれた地図です。


2.「商人」(merchant) は少し変なのですが、あとで別の理由が判明します。 「Japan Times に載った記事、その 4」をご覧ください。 しかし、次のように考えてもよいです。ギャング映画でギャングのボスがマーチャント(merchant、商人) と呼ばれていれば、 ほとんど確実に「ヤク」を扱っている奴のことです。 映画ではギャングたちはビジネス(buisiness、仕事) という言葉もよく使います。これは「ヤク」の取引です。 英語は使われる局面で意味が基本的に変化してしまいます。今、麻薬の話をしています。裏世界の話です。 だから、この場合にマーチャント(merchant、商人) は特別な意味を持つことになるのです。

秘密の日本人の商人のグループの "Nikisansuke" とはいったい何のことでしょうか ?

私立PDD図書館、百科辞書、「に」

には次のような解説があります。


「にきさんすけ」(ニキ三スケ) とは

満州の実力者のことで、東条英機・星野直樹の「二キ」と、 鮎川義介(ヨシスケ)・岸信介(ノブスケ)・ 松岡洋右(ヨウスケ)の「三スケ」

としてあります。「満州の実力者」と書いていますが、 実のところ英文の Wikipedia のニュアンスからは「アヘンの流通の独占」を目的としたグループと読み取った方がよく、 「ヤクの帝王」と呼ぶほうがふさわしい人たちです。 英語版の Wikipedia の方は一名多く、日本語表示から「岸信介」 が入っていることがわかります。英文のほうは読みが正確でないのではっきりしませんでしたが、 これでようやく事実が明らかとなりました。

これが、満州における麻薬の下部組織を統括する中枢であったようです。 すなわち、日本軍の支配する満州における麻薬の流通組織は 今日の広域暴力団とよく似ており、その中枢が「ニキサンスケ」であったわけです。

冷静に考えると「暴力団」と「軍隊」の間の垣根が低く、 「政府」と「暴力団」の垣根も低い非常に異常な世界です。 「軍隊」や「政府」の発想も「暴力団」にきわめて近く、むしろ国ごと広域暴力団であったと 言ったほうが的を得ているような世界ではないでしょうか ?

日本が占領した「他のアジア」の国でも麻薬の専売制があったことから判断をすれば、 「大東亜共栄圏」とは実のところ「アジアの人々をヤク漬け」にすることを 目標としたものであったことになります。

「ニキサンスケ」の記述は

The Japanese Drug Supply (日本の麻薬の供給)

にも見られます。ここでは次の本から引用しています。

John G. Roberts, Mithui: Three Centuries of Japanese Buisiness, Weatherhill, New York, 1991
(表題の訳,  三井 : 日本のビジネスの 3 世紀)

表題の「ビジネス」には皮肉が込められています。三井はまっとうな「ビジネス」をしていたときも あるが、裏世界の「ビジネス」をしていたときもある、と言っているのです。 引用されている箇所を、ここでもそのまま引用します。



星野により設立されたアヘン専売局により、 アヘンは満州国政府の重要な収入源であった。 それに先立つ 100 年前の中国の別の場所で英国がしたことの例にならい、 関東軍は社会の抵抗を弱めるためにアヘンを使用し、 更に満州国と中国の占領地で意図的に麻薬中毒を奨励した。

新たに麻薬中毒を作る方法はモルヒネを含んだ薬の配布、あるいは 人気のあったタバコ「ゴールデンバット」の特別仕様 -- 吸い口に少量のヘロインを含んだもの -- の配布であった。 これらの色々な麻薬は、三井やそれ以外の商社がきわめて 合法的にアヘン専売局に提供していた。その結果 不幸な犠牲者に幸福感をもたらすとともに ニキサンスケの悪党たちにも幸福感を与えることとなった。 なぜなら、これにより年間 2000 万円から 3000 万円の収入が 得られ、満州国の産業開発の資金源となったためである。 (これは 1948 年の東京裁判で提示された証言に基づいている。)

東京裁判の証言では更に、星野は満州国のアヘン専売局 の儲けを留置権の形で抵当に設定し、日本の (複数の) 銀行から 多額のローンを取り決めた。別の当局者は 満州を含む中国における麻薬化政策からの収入は 日本軍によって年間 3 億円と評価されていると言っている。

アヘンの専売制を導入したのはどうやら英国が最初のようです。 「ニキサンスケ」とか、3 億円の収入とかいったものは 東京裁判での証言に基づくものであることがはっきりしました。なお、上のページでは 「2 キ 3 スケ」では 4 人の「スケ」をあげており、 英語版の Wikipedia の記述と同じになっています。

更に又、次の本からも引用しています。

Violet Sweet Haven, Gentleman of Japan : A Study in Rapist Diplomacy, Ziff-Davis, New York, 1944

これもそのまま引用することにします。



占領地で野火のように広がっていく 危険な中毒を放置することが、薦められることであるかどうかを東京の自由主義者が 問題にしたとき、この考えは直ちに踏みにじられてしまった。 儲けが絡んだ場合のよくある話であった。 ハルビンや大連の麻薬工場は三井および Suzuki 銀行によって 資金が提供され、ドイツ製の機械が設置された。

... 1931 年の満州占領時に、日本は、より速く利く麻薬、ヘロインと モルヒネを導入し、中国人をより速く堕落させた。 侵略の結果日本軍にわかったことは、 アヘンを吸っている中国兵は真っ先に降伏し、 奉天の麻薬常習者は一般市民の中で、もっとも問題がないことであった。

日本の傀儡政権である満州は、今日、世界中の合法的なアヘンの供給の 20 倍を生産しており、 真珠湾攻撃の前には、その一部が米国で高値で売られた。 この金で、日本は中国とそして我々と戦うための銃器を購入した。

日本帝国軍は、まだ満州に残っていたアヘン禁止法を停止して、 百姓たちに通常の穀物の代わりにケシを栽培することを強制した。 百姓たちが拒否をすれば、生アヘンが生産された場合に相当する 地税が課せられ、応じることがなければ土地を失うことになった。

日本の将軍達は自分たちにとってアヘンが利益あるものにするだけではなく、 実際には百姓たちが麻薬中毒となるように強制したのである。 アヘンパイプでは、あまり事が運ばないことにいらだって、 将軍たちはハルビンや大連に生アヘンをヘロインやモルヒネに 変える工場を開設した。

日本人が支配するアヘン屈で仕事をさせるために 朝鮮の麻薬の売人を何千人も引きずりこんだ。 まもなくして、豊かな店 (rich store) の 3 倍ものアヘン屈ができることになった。 危険な「白い麻薬」のために、百姓たちはより金をはたき、 より貧乏となった。 売人たちは「新しい種類のタバコ」を最も安いタバコよりも安く売ったり、あるいは無料で配った。 このタバコは最も哀れな人の間で人気が出ることになった。これはお買い得品などではなかった、 それにはヘロインが詰まっていたからだ。そして、麻薬中毒がこの地域全体に吹き荒れることになった。


注意
1. 文中の「Suzuki 銀行」は何のことか不明です。鈴木商店 のことかもしれません。しかし「鈴木商店」(あるいは「鈴木財閥」) は満州国ができるまえに (世界恐慌で) 消滅しています。あるいは上で述べている麻薬工場は満州国が設立される前に出来ているのかもしれません。 しかし
The History of Corporate Ownership in Japan (PDF)
によると鈴木財閥のグループには銀行がなく、資金はグループに属していない台湾銀行に依存しています。 また最盛期には鈴木財閥は大量の小麦を満州から英国に輸出していますから、 何らかの関連があったのかもしれません。
2. 朝鮮から、麻薬の売人を導入していますが、これは、朝鮮にも麻薬が蔓延していたことを意味します。 しかも、何千人もの麻薬の売人を導入できたということは、 朝鮮における麻薬の浸透状況もかなりひどかったことを意味しています。 従って、満州国において「麻薬の儲け」が満州国の産業開発の資金源になる以前に、 すでに朝鮮半島でも同様であった可能性が高いようです。 日本は朝鮮のインフラ整備に多額の資金を投与したようですが、 おそらくほぼ確実にこれは麻薬のもうけであったと思われます。


追加
3. 日本が満州を占領したのは世界恐慌によって、麻薬の価値が暴落し、 その結果関東軍の収入が底をついたためと考えることができます。 麻薬の価値が暴落し、麻薬の売人たちの収入と共に関東軍の収入も激減したのです。 そのため、関東軍の満州進出とともにヤクの売人も満州に進出することになったようです。

満州では満州国が成立する以前に、麻薬工場があっても不思議ではありません。 次の理由です。

対華21ヶ条要求 - Wikipedia (1915 年)

この条約の第 2 号の 2 で日本が満州で工場建設をする自由が与えられました。 また第 2 号の 3 で日本人が満州を自由に往来する権利が与えられました。 日本人の中には当然朝鮮人が含まれます。従って、朝鮮のヤクの売人は 自由に満州を往来できたことになります。

最後にこのページでは日本の麻薬プログラムの代表選手を列挙しています。これも付けておくことにしましょう。 (原文には、肩書きや、捕虜収容所で残虐行為にかかわったなど色々書いてありますが、日本語に訳すのが至難なので、麻薬に関連するコメントのみを つけてあります。) 氏名は日本語の Wikipedia へのリンクとなっています。 この人たちの経歴には麻薬とかかわったことが一切載っていません。注意して (あるいは疑いを持って) 経歴を読めば、どれだけドス黒いことが起きていたかがわかります。

麻薬プログラムの代表選手

土肥原賢二 - Wikipedia 満州の軍の麻薬取引に深くかかわった
板垣征四郎 - Wikipedia  
木村兵太郎 - Wikipedia  
東條英機 - Wikipedia  
賀屋興宣 - Wikipedia 占領軍の出費の資金繰りのために
中国人に麻薬を売ることを早くから提唱した。
小磯國昭 - Wikipedia  
南次郎 - Wikipedia  
鈴木貞一 - Wikipedia 日本の中国における麻薬取引にかかわった。

論理的事実から断言できること

「アヘン戦争」の結果、アヘンが中国になだれ込みますが、 麻薬中毒の結果、中国の人々の健康が蝕まれます。しかし実際はこれは重要視されていないようです。 問題となるのは、この結果「銀」が中国から大量に流出したことです。 この理由から中国は英国と交渉して、インドからのアヘンの流入に規制をかけようとしたのです。

アヘン (日本語版の Wiki)

によれば、明治維新後に日本国内でアヘンの規制がおきているようですが、最大の問題点は 人々の健康ではなく、金、銀の流出が問題であったと思われます。当時の貿易は 通常は銀で、密貿易であれ、対価は銀です。国内に銀がなくなれば何も輸入できなくなります。 そのため麻薬の輸入はどうあっても防ぐ必要があったのです。

麻薬中毒になれば、ちょっとした病気でも死ぬ可能性が増えますし、冬が越せなくなることも あるようです。事実、中国では多くの中毒患者が死亡したようです。しかし、当時の感覚では 人が死ぬことさえあまり問題とされていないようで、単に銀が国外に流出しないように することの重要性の方が高かったようです。

では、アヘンの輸出に関してはどうであるかという点ですが、 道義的な問題を意識することなく、平気でしたであろうと思われます。 しかもこうすれば貴重な銀が手に入ります。 いつ頃から、日本は中国にアヘンを輸出していたのでしょうか ? 日清戦争の戦場を思い出してください。


1. First Sino-Japanese War - Wikipedia
2. Image:First Chinese Japanese war map of battles.jpg (オリジナルの地図)
日清戦争の軍隊の移動と交戦図 (英語版 Wikipedia の縮小図)

日本は艦船を朝鮮半島、遼東半島、台湾などに展開し、 戦争で勝利を得ています。これは簡単でしょうか ? そこが、日本にとって自分の庭のようであれば、 非常に簡単なはずです。日本の艦船は当時の貿易 (あるいは密貿易) 上の理由から、海路にとても習熟していたと 考えるほうが正しいと思います。そうでなければ、とても戦争をするなど無理な話です。 当時の日本の艦船が移動したルートは恐らく貿易ルートであったと考えるべきです。 つまり、日本は朝鮮半島、遼東半島、台湾などと貿易 (あるいは密貿易) をしていたと判断したほうがよいと 思います。では何を輸入していたか ? これはいくらでもあると思います。 問題は何を輸出していたのかです。輸入だけして、輸出をしないことは有り得ません。 すぐに銀が枯渇します。

ここで、なぜアヘン戦争が起きたのか、その原因を述べる必要があります。 19 世紀前半になっても、世界中でもっとも豊かな国は中国でした。つまり、何でもある国です。 この国から輸入したいものがいっぱいあります。(絹、陶器、おそらくありとあらゆるものです。 ヨーロッパに持っていけばいくらでも売れます。) ところが、英国は中国に何か売るものが あったでしょうか ? 英国は産業革命により、繊維製品が安く生産できるようになっていましたが、 これは木綿です。中国には絹があります。木綿など買うはずないじゃありませんか ? その他、産業革命の結果色々なものが英国でできるようになりましたが、ほとんどどれも 豊かな中国で売れるはずもなかったものです。東インド会社はそのため慢性的な赤字でした。 そしてついにアヘンに手を出したのです。そしてその結果戦争となりました。


注意
1. 英国と中国の貿易は広東を経由していました。 ここだけが唯一の入口でした。広大な中国から見ればごく一部の物資が貿易の対象となっただけです。 従って、英国からの輸入品を購入する可能性があるのは一部の富裕層で、木綿など 購入する可能性はありえませんでした。しかし、アヘンはすべての中国人が対象となりえます。 アヘン戦争の結果、中国の多くの港が開港されることになりますが、これでも英国製品は あまり売れなかったと思われます。
2. 今日、麻薬の摂取はよくないこととされ、どの国でも禁止されています。 しかし、これはハーグなどの国際条約の結果、国際的な啓蒙活動があったためであると思われます。 何でも自由なアメリカでは麻薬を禁止する法律を単独では作ることができず、 このハーグの国際条約をテコにして、ようやく法律を作ることができたのです。 麻薬を売ることが人の道に反すると考えるのは現代人の考えです。
3. 日清戦争以前に、日本の軍隊が朝鮮半島、遼東半島、台湾に麻薬を 密輸していたと次のように考えてもあたりまえです。北朝鮮の軍隊は日本に麻薬を密輸している話は 有名ですが、これは何のためにしているのでしょうか ? 諜報活動の一環と考えることもできますが、 いざ戦争が起きたときの日本上陸のための準備です。日清戦争以前に、日本の軍隊は、 朝鮮半島、遼東半島、台湾に上陸する作戦の準備をしているはずです。現在のようにレーダがなく、 また不審船が発見されても航空機で追跡するなどということは出来ませんから、確実に 上陸作戦の準備をしています。この際に経費が必要となりますから、麻薬の密輸もついでに 実行したことは火を見るよりも明らかです。麻薬は儲かりますから、一度手を染めれば、 あとで足を洗うことは出来ないと思います。
4. 欧米諸国は中国に麻薬を輸出しなくなります。これは無論麻薬に関しての国際条約の こともありますが、別の側面があります。輸出用に国内で麻薬を生産すると、結局 自国内に麻薬中毒が出現し、国内問題を抱えてしまいます。しかし植民地で生産をすれば、 この危険性があまりありません (無論植民地では麻薬がはびこる)。これは広く知られていたことではないかと思います。 日本も植民地ができれば、本土で麻薬を生産しなくなったのではないかと思います。

産業革命の先進国である英国ですら、豊かな中国に売れるものはほとんどなかったのです。 中国には何でもあったからです。では日本はどうでしょうか ? そう考えればもはや明白です。明治維新後、日本は中国、朝鮮、台湾と貿易 (あるいは 密輸) をすることになったはずです。このときは広東を経由していませんから、 富裕層を対象にした貿易 (密輸) ではなかったとは思われますが、 輸出品の中で多くの割合を占めたものがアヘンだと思われます。 どこの国 (現在の G8) も中国にアヘンを輸出していますから、日本も同様であったと思われます。 当初は国内でアヘンを生産し、その後、台湾、朝鮮、満州が日本に組み込まれていくにつれ アヘンの生産地が植民地に移動していったと考えれば、すべてつじつまがあいます。


追加
前にも引用しましたが
読者のページ~2005年4月~
によると台湾における「アヘンの専売制は、台湾でのケシ栽培禁止とセットになっていた」ようですから、 台湾ではケシは栽培されなかったようです。 外国 (インド・イラン・トルコなど) や内地におけるケシの栽培 (二反長音蔵) でアヘンを供給したようです。 この時期には麻薬を国内で生産すると、国内で中毒が蔓延する危険性を認識していなかったようです。
北朝鮮の軍隊が麻薬の密貿易に手を染めているようですから、 明治時代の日本の軍隊が麻薬の密貿易に手を染めていたと考えることはとても 自然ではないかと思います。


日本語版の Wikipedia のアヘンの項目 (アヘン - Wikipedia) の中の「日本におけるアヘン史」で


1879年(明治12年)5月1日には薬用阿片売買竝製造規則(阿片専売法)を施行した。 この法律において、政府は国内外におけるアヘンを独占的に購入し、許可薬局のみの専売とした。 購入は医療用途のみとし、購入者及び栽培農家は政府による登録制とした。 この専売制は日清戦争の戦需品として、政府に利益をもたらした。

と述べています。注目すべきはこの最後の行です。いかにも医薬品 (痛み止め) として、 アヘンが使用されたかのように見えますが、戦争で負傷兵の手当てをするのは日本軍です。 負傷兵の手当てのために、いくらアヘンを使用しても日本政府に利益が出るはずがありません。 むしろ損失となるだけです。 ですから、この最後の行は戦地でアヘンを売って儲けたと解釈する必要があります。 また「戦需品」と言っていますから、戦争をするための資金となったことも意味していると思います。 当然のことながら、日清戦争の準備のためにもアヘンが使用されたことは火を見るよりも明らかです。

Japan Times に載った記事、その 1 (興亜院と里見甫)

ここまでの内容を書き終えた後で、2007 年 8 月 30 日の The Japan Times に次の 4 つの記事が載りました。
1.Japan profited as opium dealer in wartime China (2007/8/30)
2.Opium King's ties believed went to the top (2007/8/30)
3.Japan followed West by drug-peddling in China (2007/8/30)
4.Narcotics trade boosted army scrip (2007/8/30)

以下この記事を 4 部に分けて紹介します。最初の記事は 1940 年頃の中国中部に関することで、 内容を理解するためには、当時の状況を理解する必要があります。最初は年表です。

1936 興亜院の設立
1937 日中戦争の開始
1938 南京占領、傀儡政権の設立
1939 里見機関の設立
〃 独、ポーランド侵入
1941 真珠湾攻撃
1945 日本の降伏

次は、中国中部における日本の支配に関することです。
1. 中華民国臨時政府 (北京) - Wikipedia 1937 年 12 月 14 日に北京に設立した傀儡政権 (河北省、山西省 + 北京市、天津市 + 内モンゴルの一部)
2. 中華民国維新政府 - Wikipedia 1938 年 3 月 28 日に南京に設立した傀儡政権 (、江蘇省、浙江省、安徽省 + 南京、上海)
3. 蒙古聯合自治政府 - Wikipedia 1939 年に内モンゴルに設立された傀儡政権

以上の傀儡政権は蒋介石の「中華民国」と対立するために、 1940 年にまとめられて、形式的に 中華民国南京国民政府 - Wikipedia (傀儡政権) が設立されます。もっとも国としての機能がなかったようです。

次の最初の地図は Wikipedia の熱河省の地図から作ったもので、 2 つめの地図は 英語版の Wikipedia (日本軍の占領地の地図) の地図を縮小したものです。



Japan Times の最初の記事は 日本人が書いた記事で、里見 甫 (さとみ はじめ) による (麻薬に関しての) 報告書が国会図書館で見つかったというものです。 この報告書は誰もが閲覧できるものです。 更に報告書は China Affairs Board (興亜院) に宛てたものであろうと書かれています。 (原文は, China Affairs Board の後ろに括弧をつけてローマ字で Ko-a-in と書いてあります。) 「アヘン帝国の興隆 -- 朝鮮」の項目で China Affairs Board は興亜院のことであろうと書きましたが、 これで裏付けられました。

この報告書が興亜院に対するものであると結論されたのは、 この文書に 1941 年 4 月 10 日付の及川源七 (興亜院の総務長官) 宛てのメモが付属していたためです。 (日本語版 Wikipedia の興亜院 の項目で「興亜院の人事」が書かれており、及川源七の名前が記載されています。)

興亜院の長は総裁で内閣総理大臣が兼任していましたから、これで日本政府が戦時下の中国における 麻薬取引に直接関与したことが文書で明らかになったことになります。

里見甫によるアヘン取引組織は「里見機関」として知られていますが、 Japan Times では Hung Chi Shan Tang と言っています。 これに関して Japan Times は次のように述べています。


「Hung Chi Shan Tang (里見機関) の概要」と題された文書は、上海に拠点を置く企業の歴史を明らかにしている。 この企業は、里見甫が代表となり、上海を含む日本の占領下の中国中部の支配的なアヘン取引業者であると思われ、 1944 年初頭まで活躍した。


Hung Chi Shan Tang (里見機関) は技術的には 「1938 年に南京に設立された日本の傀儡政権」によって特別に認可を受けた私企業である


Hung Chi Shan Tang (里見機関) が 1939 年に設立された理由の 1 つは、 「アヘン事業を日本の戦時統制下に置くことである」と里見甫が文書内で述べている。

また、文書に付属のメモの中で


「帝国政府の将来の利益のために (借り受けた) 資金を管理し、投資する」と里見甫が 誓約している

つまり、「里見機関」は完全に日本政府の統制の下にあり、日本政府のためのみの組織であることが 文書で裏付けられたことにもなります。

Japan Times の記事で、里見機関の扱った麻薬に関する記述を幾つか列挙します。


文書によれば 1941 年に Hung Chi Shan Tang (里見機関) は 600 万 liang あるいは 222 トンの アヘンを地方レベルの中国人ディーラーに売りさばいた。

訳注 : liang は昔の日本の重さの単位である「両」 (両 - Wikipedia) に相当するもののようですが、 地域によって若干重さが違うようです。

この記述からは、里見機関は直接中国人ディーラーに売りさばいたことになりますが、 「アヘン帝国の支配構造」で書いたことと食い違っています。 「アヘン帝国の支配構造」では、小売のディーラは中国人ですが、 卸のディーラは日本人もしくは朝鮮人です。 里見甫の報告書にはディーラがどこの国籍であるかという点は触れていないと思います。 よしんば、ディーラのことが記述してあっても、組織名であると思われます。 従って「アヘン帝国の支配構造」で記述した広域暴力団の組織はそのまま残っており、 これが里見甫の客であったと思われます。


里見はまた次のようにも報告している。 彼の企業は、モルヒネやコカインを中国の市場価格で直ちに売ることが出来、 市場価格は帳簿価格の倍である。

Japan Times では内モンゴルのアヘンに関して次のように触れています:



1937 年に設立された内モンゴルの傀儡政権は収入を増やすため、組織的にケシを栽培し、 取引をした麻薬取引業者の最大手が Hung Chi Shan Tang (里見機関) である。 1942 年にはアヘンの収益は当初予算の 28 パーセントにも達した。

里見は更に文書の中で「アヘンはモンゴル政府が外貨を獲得できる唯一つの物資なので、 我々は販路拡大に最大限の努力をした。」とも述べている。

Japan Times は里見機関が内モンゴルのアヘンに付け加え、イランからもアヘンを輸入し、 更に満州の熱河省からも輸入したことを述べ、次のように述べています。


1941 年に里見機関が売りさばいた 600 万 liang (= 222 トン) のうちで、 400 万 liang は内モンゴルのもので、 160 万 liang はイランのものである、 と文書で述べている。


注意
途端に内モンゴルのアヘンが登場して、少し違和感があります。 しかし、次のように考えると十分ありえることであることがわかります。 まず、満州の熱河省ですが、これはもともと内モンゴルでした。満州国を設立するときに 組み込まれたのです。従って、内モンゴルには熱河省と同じような場所があるはずで、 そこでアヘンが生産されても不思議ではありません。
英語版の Wikipedia の Economy of Manchukuo (満州国の経済のアヘンの項) では、1934-1935 の満州国では 1 平方キロ当たり 1.1 トンで栽培面積は 480 平方キロメールとしていましたから 生産量は 528 トン程度となります。それに比べると里見甫の扱ったアヘンはかなり少ないことになります。 上の記述で注意する点は、里見甫の扱っているアヘンが新規に設立された内モンゴルの傀儡政権、 およびイランのアヘンを扱っていることです。

1940 年に、南京の傀儡政権、北京の傀儡政権、および内モンゴルの傀儡政権 をあわせて、汪兆銘政権ができて、蒋介石の「中華民国」の向こうを張って まったく同じ名前の「中華民国」と称しました。国旗までまったく同じでした。 ややこしいので「中華民国南京国民政府」とも呼ばれているようです。 (但し、国としてのまとまった機能はあまりなかったようです。) 「満州国」ができたときに麻薬活動の中心を「朝鮮」から「満州国」へ移したようですが、 「中華民国南京国民政府」の樹立にあわせて、麻薬活動の中心を「満州国」から 「中華民国南京国民政府」に移そうとしたのかもしれません。

Japan Times の 2 つ目の記事では、里見甫と岸信介、あるいは広く政治家との関連を追及しています。 その中に次のくだりがあります。


「上海やそれ以外の都市からのアヘンの売り上げは直接東京に渡った。 調査の結果、東条内閣の時にはこのような金は内閣の秘密資金として割り当てられ、 国会議員の補助に使用された。これは戦後、日本と協力関係にあった 中国の指導者を裁くための南京裁判で Mei Sze Ping が書面で提出したものの中に記載されている。

里見甫は東京政府から金を借りて、里見機関を設立したようで、 その理由からも、また既存の麻薬の流通組織との摩擦を解消するために、 東京に金を提供したのかもしれません (ワイロ)。 一方で里見甫は新しいやり方を導入しようとしたようで Japan Times の最初の記事の中に次のようなくだりもあります。


モンゴルと満州国からのアヘンはすべて空輸され、昨年度、航空会社 (中華航空, Chinese Aviation Airway) に対する支払いは軍票で 300 万円に達した。

日本語の Wikipedia の「里見甫」の項目にはかなり嘘があります。「戦後はA級戦犯として起訴されるが無罪釈放。」 と書かれていますが、Japan Times の最初の記事には


東京裁判のときに里見は A 級戦犯として逮捕されるが、不明な理由から、起訴されることがなかった。

無罪釈放ではなく、裁判を受けていないのです。理由が明示されないまま不起訴処分となったのです。

Japan Times に載った記事、その 2 (アヘンの専売制)

Japan Times の 3 番目の記事に、アジアにおけるヨーロッパの植民地でも (満州国などと同様に) 財政の 10 % から 50 % がアヘンの売り上げで占められていたとしています。例えば英国領のインド、香港、シンガポール、 ポルトガル領のマカオ、オランダ領の東インド (現在のインドネシア)、フランス領のインドシナです。

このことは英文のホームページで独立に確認することになりました。 知りたかった点は第二次大戦ではインドシナ、インドネシアなどは日本が占領しますが、 ここでも日本軍は麻薬の専売制を導入するはずです。どのような形態をとっていたのか 調べようとしたことから、いくつかのページがヒットしました。その中のひとつに次があります。

Economic Histories of the Opium Trade (アヘン取引の経済史)、 ピッツバーグ大学、 Siddharth Chandra

ここでは、植民地の財政にアヘンの売り上げが計上されている国として、Japan Times で述べている ヨーロッパの植民地以外に日本領の台湾が挙げられています。(満州は必ずしも植民地でないので ここには含まれていないようです。) 指摘されている点をいくつか挙げることにしましょう。部分的な翻訳です。 英文が読める人は原文を読んでください。



19 世紀後半に世界中でアヘンの消費が増大します。しかしながら20 世紀初頭に倫理的な問題に関しての 議論が激しくなると各国は見かけ上は植民地および本国でのアヘンの消費量を削減する方向になります。 例えば、オランダは (植民地の) 東インドでのアヘンの製造と販売を自国の管理下におきます。 アヘン専売制度 (Opium Regie) と呼ばれる制度が導入されますが、これはフランス領のインドシナ の制度を真似たものです。これでオランダ領の東インドでアヘンの消費が削減できるかどうか 大いに疑問です。明らかに、アヘン専売制度の導入直後の 10 年間ではアヘンの売り上げは ずっと増え、政府に多大の利益をもたらしました。

引用しているページには表も掲載されています。それも引用することにします。 (価格は 100 万ギルダーです。インフレ補正はしていないとのことで、* がついているものに関しては、 アヘンと塩の専売の総計から計算したもので過小評価しているかもしれないとのことです。 表の出所に関してオリジナルの説明をご覧ください。)

オランダ領東インドにおける政府予算に占めるアヘン専売の寄与

年 A :アヘン
の収入 B :総収入 A/B (%) C :アヘン
の利益 C/A (%)
1914 35.0 281.7 13.5 26.7 76
1915 32.6 309.7 11.2 25.2 77
1916 35.3 343.1 10.8 28.4 80
1917 38.2 360.1 11.4 30.4 80
1918 38.8 399.7 10.2 30.1 78
1919 42.5 543.1 8.2 33.2 78
1920 53.6 756.4 7.5 41.6 78
1921 53.3 791.8 7.1 42.1 79
1922 44.2 752.6 6.2 34.5 78
1923 37.6 650.4 6.1 30.1 80
1924 35.3 717.9 5.1 28.1 80
1925 36.6 753.8 5.2 28.7 78
1926 37.7 807.9 5.2 29.1 77
1927 40.6 779.1 5.7 31.4 77
1928 42.8 835.9 5.7 34.6 81
1929 40.9 848.5 5.3 32.7 80
1930 34.5 755.6 5.3 27.1 79
1931 25.3 652.0 4.6 19.0 75
1932 17.3 501.8 4.5 12.3 71
1933 12.7 460.6 3.7 8.6 68
1934 11.1 455.2 3.2 7.2* 65*
1935 9.5 466.7 2.6 6.1* 64*
1936 8.9 537.8 2.2 5.7* 64*
1937 11.5 575.4 2.5 7.7* 67*
1938 11.9 597.1 2.6 8.0* 67*
1939 11.5 663.4 1.7 8.6* 75*
1940 11.7 --- -- 8.5* 72*

原文では更に次のように続けています。



しかしながら、1900 年から 1936 年のアヘンの消費量は、ずっと縮小しています。 このような統計量は
1. 専売制は実際にアヘンの消費を抑えることを意図したもの
2. 専売制はアヘン問題に取り組むのに有益であった
という議論に使用されている。実際のところ 1936 年が 参照の年に使用されたのは不運なことであった。1929 年に始まった 世界恐慌は 1936 年に至るまで -- とりわけ貿易に依存したアジアでは -- 影響があったためである。 世界恐慌における収入の激減と多くの経済における公的なアヘンの価格が 柔軟でなかったため、アヘン消費者の合法的アヘンの購買力が極端に落ち、 合法的アヘンの消費が激減することとなった。

更に原文では、上で引用した表から折れ線グラフを描き、1929 年から 1936 年までの グラフの部分に「世界恐慌」と記しています。 つまり、アジアでは 1929 年から 1936 年までを「世界恐慌」としているのです。

原文では、もう少し分析していますがこのあたりでやめることにしましょう。


注意
1. アヘンの専売のことを Opium Regie を呼んでいますが、普通の英語では Regie ではなく monopoly です。regie はフランス語です。
2. 最初にも述べたように、この項目を書く当初の目的は東南アジアが日本の支配下に置かれたときに どのようにして「麻薬の専売制」を導入したかを知ることが目的でした。 しかし、すでにヨーロッパの植民地である東南アジアでは「アヘンの専売制」が敷かれており、 日本による占領で変化した点は、アヘンが中国から導入されるようになったことぐらいであろう と結論することになりました。 一応、第二次大戦の日本の占領地ではどこでも麻薬がはびこっていたことの再確認になりました。 日本軍が行く所はアヘン屈ばかりができるのです。
3. 「アヘンの専売制」に関しては朝鮮半島のことが言及されていませんが、 これは朝鮮半島ではアヘンが禁止されていたためだと思われます。 アヘンは禁止されていましたが、非常に多くのモルヒネ中毒がいたはずです。


追加
1. 「アヘン取引の経済史」の著者の主張する所は 麻薬の専売制がアヘンの消費を削減したのではなく、 アジアで 1936 年まで続く世界恐慌がアヘンの消費を削減したのだと言っているのです。 1936 年までアジアでは世界恐慌が続いたのだ、という主張を吟味するために 日本のことを考えます。 日本における輸出品で当時中心となっていたものは「生糸」でこれ以外にめぼしいものがありませんでした。 「生糸」の輸出先は米国でした。 世界恐慌により「生糸」の輸出は半減し、元に戻らなかったのです。 そして真珠湾攻撃 (1941 年) により貿易が中断しました。 ですから、確かに表の経済では日本における世界恐慌は日本が米国に宣戦布告を するまで続いているのです。 米国からすれば女性が贅沢を控える程度のことではなかったかと 思われますが.....
2. 「アヘン取引の経済史」で述べていることは植民地政府が提供する合法的なアヘンのことで、 非合法なアヘンでは価格の暴落があったはずです。 世界恐慌の時に遼東半島や朝鮮半島に駐留していた関東軍はどうなったのでしょうか ? 朝鮮半島では、アヘンは非合法化され代わりに合法的なモルヒネが流通していたはずです。 このモルヒネの値段を下げなければ販売が激減し、 値段を下げても利益が激減するはずです。 一方、関東軍は、中国にもアヘンやモルヒネを輸出していたはずですが、 こちらは非合法なものですから需要供給の関係から売値が暴落したはずです。 ここで関東軍はにっちもさっちも行かなくなったはずです。 そのため、満州を領地に組み込み麻薬中毒を大量に作る必要が起きたと考えてよいと思います。 これが満州国ができた理由だと思われます。

Japan Times に載った記事、その 3(軍票)

Japan Times の載った記事には「軍票」のことにも触れています。これは当然触れないといけないのですが、 この「軍票」に関しては、英文のページから多くの事実を調べることができませんでした。 まず困るのが対応する英語です。「millitary yen」あたりが該当しそうなのですが、 Japan Times では「army scrip」と表現しています。そのためインターネットの英文検索では困難を極めることに なります。

Japan Times の記事を参照する前に、英語版の Wikipedia

Japanese military yen -- Wikipedia

書かれていることを引用します。香港に軍票が導入されたときの部分に関しての翻訳です。



1941 年 12 月 25 日に香港の英国殖民地政府が日本の帝国軍隊に降伏した後、 日本の新占領政府は翌日から軍票が香港の法廷貨幣であることを布告した。 日本の占領政府は香港ドルの使用を非合法化し、ドルを円に両替することに 最終期限を設定した。それ以後にドルを所持するものは拷問されることとなった。 軍票が 1941 年 12 月 26 日に始めて導入されたときの 香港ドルと円の為替レートは 2 対 1 であったが、1942 年の 10 月には 4 対 1 と なった。

ドルを手に入れて、日本軍は中立地帯であるポルトガル領のマカオで補給と戦略物資を購入した。

日本は 1944 年に戦争継続に絶望的な努力を払い、香港における日本の軍政府は更に 多くの軍票を流通させ、結果としてハイパー インフレーションを招くこととなった。

これで Japan Times の記事に戻ることが出来ます。記事では早稲田大学教授の Hideo Kobayashi の 意見を次のように引用しています。(翻訳がへたくそにみえますが、 日本語の英訳を再度日本語にするのはとてもやりにくいです。)



国会図書館で見つかった文書から明らかとなった点は、 1940 年代の蒋介石の yuan (元, 圓) に基づく法定貨幣から、 経済覇権を奪取して、軍票を助勢するためにアヘンを使用したことである。 軍票の価値を支えるためにアヘンが使用されたと言われていたが、 どのようにして運用され、どれだけ (アヘンが) 使用されたのか 始めて具体的に明らかとなった。

国会図書館で見つかった文書では里見甫が、アヘンの価格を「元」ではなく、(軍票の) 「円」に 変更したことを報告しており、これが上の議論の根拠を与えているようです。なお、蒋介石 政府の法定貨幣 yuan は漢字ではどのように書くのか少しわからないので可能性のある漢字 (元, 圓) を 列挙しています。軍票のことに関しては次も参考になります。

軍票

ここには「日露戦争・青島出兵・シベリア出兵・日中戦争・太平洋戦争に際して発行され、 日清戦争の時には印刷されたが発行されなかった」としています。 以下見るように、軍票は単独ではかなり危なかしいですが、麻薬とコンビを組めば、比較的に 安定するようです。従って、軍票が発行された場所には麻薬中毒が累々と存在したことになります。

色々なページを引用しましたが少し整理をする必要があります。 第二次大戦前の多くの国では紙幣の価値を保障するために金などと交換可能でした (金本位制, Gold Standard)。 ただ単に紙幣を印刷するだけではインフレになる可能性があります。 日本軍の占領下では、強制的に軍票を使用させたようですが、これだけでは紙幣の価値を 保障することが出来ません。 端的に言って日本の軍票は「金本位制」ではなく「アヘン本位制」を取ったと言えばわかりやすいでしょうか。 これが、Japan Times に掲載されている記事で述べていることです。 また、これは日本軍が軍票を使用し始めた当初からこうであったようです。

しかし、これが可能となるためには、占領下の住民がアヘン (あるいは広く麻薬) を価値あるものと しないといけません。従って、占領下で麻薬が蔓延していないと、軍票の意味がなくなります。 そのため、占領地で麻薬中毒がいなければとても困ることになります。 通常は日本軍は敵地を攻める前に、敵地で麻薬を蔓延させる下工作をしていますから、 占領と同時に軍票が効果を持ったことでしょう。 しかも軍票以外の (敵の) 貨幣 (yuan) では麻薬を購入できないようにでもすれば、 貨幣の移行は極めてスムースに行くはずです。しかし、いくら麻薬で価値を保障されていても あまりに軍票を乱発すれば、ハイパーインフレーションととなることが必定のようです。

通常、戦争では直接の戦闘員よりも補給 (logistic) に従事する非戦闘員の方が多くなります。 ところが明治以後、第二次大戦に至るまでの日本軍には補給らしい補給がなく、ほとんど現地調達です。 そのための軍票なのです。しかしこれはとても危険です。麻薬が浸透しておらず、しかも食糧事情が極めて悪化している場所を 占領しなければならないとしたらどうなるのでしょうか ? この話は「南京大虐殺」で述べることにします。


注意
日露戦争で軍票が使用されています。日露戦争では海戦もありますが、満州も戦場となっています。 ここで軍票が使用されたようです。従って、この際にも、麻薬が持ち込まれたはずです。 日露戦争 (1904-1905) のときは、まだ清国が存在していますが、 清国が麻薬撲滅運動を開始するのは 1906 年です。(日露戦争の終了の翌年にこの様な活動を 開始したのはひょっとすると日露戦争であまりに麻薬が蔓延したせいかもしれません。 英国も中国に協力しなければならなくなったのかもしれません。) 従って、日露戦争の時点では比較的容易に麻薬を売りさばくことができたはずです。 日本は戦争をする前に、その下工作として、戦場となる場所であらかじめ麻薬を蔓延させていますから、 この場合も同様であったと思われます。軍票と麻薬のコンビを組ませることが、 極めて有効であることに気がついたのは恐らく日清戦争のときだと思われます。 このときは、あらかじめ準備していなかったので間に合わなかったのでしょう。
Japan Times に載った記事、その 4(商人)

Japan Times の 3 番目の記事では次のように述べています。(翻訳)



英国は 1913 年にインドから中国へのアヘンの出荷を停止した。

そしてヨーロッパ各国と日本は 1912, 1925, 1931 年に開催された 3 つの国際会議 で署名をし、アヘン事業を政府の制御下に置き、段階的に縮小する義務を負うこととなった。

しかし、日本は中国北東部で日本の商人たちによるアヘンその他の麻薬の 取引を野放し状態にして抑制することがなかったため、 1920 年代の中ごろから英国に代わり、国際連盟 (League of Nations) で 国際的な非難の主要な対象となることになった。

少しややこしいので、この時期の前後の主な出来事をまとめます。

1904 - 1905 日露戦争
1906 南満州鉄道 (満鉄), 日本の会社
1918 - 1922 外満州、内満州支配 (シベリア出兵)
1920 年代 中国北東部で日本の商人たちが麻薬取引
1931 満州事変
1932 満州国設立
1933 国際連盟から脱退
1936 興亜院の設立
1938 南京占領、傀儡政権の設立
1939 里見機関の設立

Japan Times の記事の中の「中国北東部」と言っているのは満州、もしくはその周辺のことでしょう。 ここで気になる言葉があります。「商人」(merchant) です。 普通の言い方では「麻薬のディーラー」を「商人」とは呼びません。 このような書き方をしているのは、記事を書いている人が 色々下調べをした文献の中に「商人」(merchant) と書いてあったから、 そのままここに書いた可能性が大きいです。 英語では参考にした文献に書いてあるように記述するのが普通です。

「アヘン帝国の支配者」で説明をしたように 満州ではアヘンを独占的に扱う組織があり、 「ニキサンスケ」と呼ばれる「商人」のグループが流通部門を独占していたとされています。 これは英語版の Wikipedia に書かれていることでした :

Economy of Manchuko -- Wikipedia (満州国の経済のアヘンの項目 -- 英語版 Wikipedia)

従って、英語版の Wikipedia の「満州国の経済のアヘン」の項目における「商人」(merchant) が Japan Times の「商人」(merchant) に由来していると考えるほうがよいようですが、 この時点ではまだ満州国はできていません。 満州国が設立されれば、国内でアヘンの専売が始まるはずです。そのときアヘンの専売を 一手に独占する人たちも英語圏で「商人」(merchant) と呼ばれた可能性が高いと思われます。 そして、この人たちが「ニキサンスケ」であったと思われます。

英語版の Wikipedia の「満州国の経済のアヘン」の項目における「商人」(merchant) の 組織は満州国の設立以来あったはずです。 日本語版の Wikipedia の 鮎川義介 を読むと、鮎川義介は満州重工業開発株式会社の総裁で

当時の満州国の軍・官・財界の実力者、松岡洋右(満鉄総裁)、岸信介(産業部次長)、 東條英機、星野直樹らと並んで「2キ3スケ」とあだ名された。
としています。 日本語の Wikipedia で岸信介の経歴を調べると、

1936 渡満、満州国国務院実業部総務司長
1937 産業部次長 (「産業開発 5 ヶ年計画」)
1939 総務庁次長

満州国の産業が色々な意味でアヘンと結びついていたと考えれば、産業部次長の時が最もアヘンと近いようです。 「アヘンの権限を独占する組織の構成メンバー」は例えば次のようなものであったのではないでしょうか ? 満州国は傀儡政権ですから、表面的な肩書きは意味を持たず何らかの (アヘンを統括する) 裏の組織があったはずです。 (なお、星野直樹は満州国の建国以来から満州国の (裏の) 代表ですから、少し別格かもしれません。 また東条英機は総理大臣となりますが、満州国内にもアヘンを統治する組織は続いたはずです。)


秘密組織のメンバー (満州国のヤクの帝王たち)

1. 満州国の代表 (星野直樹)
2. 関東軍の代表 (東条英機)
3. 南満州鉄道 (満鉄) の代表 (松岡洋介)
4. 満州国財閥の代表 (鮎川義介)
5. 満州国国務院産業部次長 (岸信介)

何らかの意味でアヘンに関連しそうな組織名が出るように書いてみたのですが、 どうでしょうか。 岸信介は、実務担当と判断できそうです。英語版の Wikipedia の「満州国の経済のアヘン」の項目には 鮎川義介を満州国財閥の座長 (chair man) としており、更に もう一名 (Kuhara Fusanosuke) が入っています。これは久原房之助のようで、鮎川義介と 同じような立場の人です。財閥の代表が代わったのかもしれませんし、あるいは代表が 2 名いたときが あるのかもしれません。

英語版の Wikipedia の記述で、「ニキサンスケ」のメンバーの肩書きがカッコつきで 記入されています。そのなかに、「商人」(merchant) と記されているのは「岸信介」のみです。 恐らくは「岸信介」(あるいは産業部次長) が組織のただ一人の実務部門の担当者で、 直接麻薬に関連する可能性が極めて高かったのではないかと思います。


少し蛇足ですが、南満州鉄道で走っていた蒸気機関車は国内の蒸気機関車より、 とても速かったようです。特急アジアが最高時速 110 km で走っていたことが記されています。

瀋陽蒸気機関車博物館

には、最高時速 130 km の蒸気機関車も見ることが出来ます。 しかし

ドイツ国鉄05形蒸気機関車

を見ればわかりますが、05 002 型が 1930 年代に最高速度 200 km を記録しています。驚くべきことに、 これと同じシリーズの 18 201 型はまだ動くことができ、21 世紀に入って、最高時速 180 km を記録したそうです。次に説明があります。

Fastest Steam Locomotive

この下のほうに写真がありますが、次をクリックしても写真を見ることが出来ます。(うまくジャンプできなければ一旦元に戻って再びクリックしてください。)

18 201: The world's fastest currently operational steam locomotive
(18 201:現在稼動可能な蒸気機関車で世界最速)


追加
蛇足を書いた目的を書くことを忘れていました。 当時の日本の技術はトップクラスでは到底ないことを書きたかったのです。 満州の蒸気機関車は米国などの機関車のイミテーションなのです。 自力で開発したのではない。蒸気エンジンもエンジンなのです。 エンジンの製造は日本は不得手あったはずなのです。部品が多いせいです。 蒸気エンジンにせよ、ディーゼルエンジンにせよ、 構成部品の数が多ければ、 当時の日本は最先端の製品を作ることができなかったのです。 これは戦後にも反映し、日本はエンジン製造では欧米に太刀打ちできなかったはずなのです。 突破口は電車です。電気モーターは部品の数が多くないので、 高性能化することができ、新幹線ができたのです。 だからこちらの方が早く、新幹線よりはずっと後になって、自動車の製造で世界レベルとなることができたのです。
南京大虐殺

「アヘン帝国の支配構造」に書いたように戦争中における「日本政府による麻薬事業」 により「南京」における麻薬中毒が全人口の 1/8 に達しています。このような事態になる前に 有名な「南京大虐殺」が起きています。

狭い意味の南京には城壁があり、日本語の Wikipedia では南京城と呼んでいます。 これを含む行政区も南京 (南京特別行政区, Nanjin Special Municipality) と呼ばれています。 この広い意味での南京の行政区には当時 150~160 万人の人が住んでおり、 南京城の中には常時は 20~25 万人の人が住んでいたようです。 しかし南京城が落城したときには、ここにずいぶん大勢の人が避難していたようです。 1937 年 12 月 13 日のことでした。 戦争はこれで終結したかのように見えましたが、 その後 6 週間にのぼる日本軍による大量殺戮が開始されたのです。

2007 年 12 月 13 日は、南京大虐殺の 70 周年記念にあたり、 Japan Times にもこれに関連した記事が載りました。

Nanjing Massacre certitude: Toll will elude (南京大虐殺は確実 : 犠牲者の数で一致せず)

それによると、現在では「南京大虐殺」があったことに関しては 日本の歴史学者も認めているようですが、犠牲者の数で中国と 日本の歴史学者と大幅な開きがあるというものでした。 中国の公式な犠牲者の数は南京城内で 30 万人であり、 日本の歴史学者は、広い意味の南京の行政区で 1 万人から 20 万人を 超える程度とのことでした。 この記事はかなり偏見を持っており、 日本人が書いた記事であることは署名を見なくても明らかです。

偏見を持っているように感じたのは、次の点です。「日本軍の将校が 軍の規律を守らせることができなかった」とあった点です。 ここまで私が書いた内容を読めば関東軍には軍隊の規律がなかったことは 明白です。あるとすれば軍隊の規律などではなく暴力団の規律です。 戦争を吹っかける前に敵地に麻薬を蔓延させ、いざ占領すれば 大量の麻薬中毒を作るような組織が軍隊といえるはずもありません。 あったとすれば、暴力団の規律で、これはでたらめとなるのが必定です。

しかし、単にこのように述べるよりは、 英語版の Wikipedia で少しは南京大虐殺のことを調べる方がよいであろうと 思い少々時間をかけることにしました。

Nanking Massacre -- Wikipedia


中国と日本の間に、犠牲者の数で隔たりがあることも書いてありましたが、 Japan Times の報道ほど離れてはおらず、日本の歴史学者は犠牲者の数を 10 万人から 20 万人考えており、 日本、中国以外の歴史学者は 15 万人から 30 万人程度と考えていると指摘していました。 そのあとで 2007 年の 12 月の 12 日に、すでに公開されている米国の文書の中に 新たな文書が発見され、更に 50 万人の犠牲者が明らかになったと指摘していました。 これを最初に読んだのが一昨日 (2007 年 12 月 13 日) です。少し文脈が理解できずに何度も読んでいましたが、 そのうち、これにリンクが張られていることに気がつきました。次です。

U.S. archives reveal war massacre of 500,000 Chinese by Japanese army
(米国の公開公文書から日本軍により 50 万人の中国人が殺戮されたことが明らかとなった)

新華社通信 (Xinhua News Agency) のインターネット版です。 新聞記事 (2007-12-12 20:45:20 ) ですから そのうち読めなくなる可能性があります。少し詳しく引用します。基本的には 1937 年の南京占領に至るまで、日本軍は 50 万人の中国人を殺戮したというものです。 明るみに出されたのは 2 つの電信文です。



日本が南京を占領した翌日の 1937 年 12 月 14 日に、 米国の駐独大使であった ウィリアム・エドワード・ドッド (William Edward Dodd) は ベルリンからルーズベルト大統領に電信を送っており、 その中で次のように述べています。 「今日、極東からの報道は以前にもまして悪化し、日本軍の残虐行為に 関してのあなたと国務長官の発言を読みました。 当地における日本の大使は 2,3 日前に日本が 50 万人以上の中国人を 殺したことを豪語していました。」

もう一通の電信は、 1938 年 1 月 25 日、上海の米国領事であった クラレンス・E・ガウス (Clarence E. Gauss) が国務長官の コーデル・ハル (Cordell Hull) に宛てた報告で、その中で 同時期の南京周辺の都市にいた米国の宣教師によって目撃された 日本軍の残虐行為を述べています。

この 2 つの電信文は中国の歴史学者 Wang によって、 公開されている (おびただしい数の) 文書の中から 発見されたもののようです。 またこれは上海で出版されている Academic Monthly に掲載された論文に 述べられていることのようです。その中で Wang さんは「電信文から判断すると虐殺は南京に始まったのではなく、 日本軍が上海から南京への進撃途中に始まったことがわかる」としています。

新華社通信の記事の最後あたりで、電信文に出てくる日本の駐独大使は Shigenori Togo であると しています。漢字がわからなくて探すのがちょっと難しかったのですが東郷茂徳のようです :

東郷茂徳 (日本語版 Wikipedia)


追加
殺戮の件はそのうち米国も知ることになり、 そうなれば再び日本は非難されることになりますから、 東郷茂徳は、 自分の方から攻勢に出て、米国の外交をひっかきまわしたのでしょう。 これは日本政府の指示にもとづいているはずです。 つまり、この時点での日本政府は関東軍による 50 万人もの 中国人の殺戮を了解していたのです。
南京占領までに 50 万人を殺戮していますから、南京城内で 30 万人の犠牲者がいたという 中国の主張はまず間違いないように思われます。


なぜここまで大量の殺戮をしたのかが疑問でしたが、しばらく考えるうちに非常に自然な解答があることに気がつきました。 まず、Japan Times では、南京が落城したときに投降した数千名の中国兵は食糧不足から 殺戮されたと述べています。これに関しては、日本の歴史学者にも異論はないようです。 Japan Times は日本軍はそのとき、極端に食糧不足であったという点にも触れており、それが規律を 維持できなくなった理由であるとも述べています。それ以上に関して、実際の犠牲者の数で -- とりわけ 日本の歴史学者と中国の歴史学者で -- 一致を見ていないということを指摘しています。

ここでもう少し単純に考えることにします。常時は南京城内に 20~25 万人の人がいたとしましょう。 日本軍の侵略から、城内に逃げ込む人が現れるのが当然です。どのくらいまでの人が逃げ込めるでしょうか。 恐らく近郊には、城内にゆかりの人がかなりいるはずですから、逃げ込めるだけの人が逃げ込んだと 考えるのが普通です。日本の歴史学者には 50 万人の人がいたと考えている人がいるようです。 これを採用することにします。これで極めて深刻な問題が登場します。衛生上の問題もありますが、 水と食料です。 この状態で落城したとしましょう。水と食料の問題はこれで解決するでしょうか。 日本軍は軍票を乱発して、食糧問題を解決できるでしょうか ? 常時は南京城内に 20~25 万人しかいなかったのですから、その程度の人数分の 食料しか確保できないと考えてよいと思います。おそらく、この食料は近郊の農村から荷車などで 常時補給できる食料の上限であると思われます。今日、都会では職を手に入れることが出来れば いくらでも人口が増えます。(逆に職がなくなれば人口が減ってしまいます。) これが可能なのは 流通網が整備されているからです。南京は当時の蒋介石の中華民国の首都ですが、 物資の流通網は整備されていたとはいえないと思います。流通網が整備されていないから、 投降した数千名の中国兵を皆殺しにしたのです。食糧確保が出来なかったからです。 それでは、戦火を避けて南京城に逃げ込んでいた一般市民はどうでしょうか ? 南京城内に食料が登場すれば、この人たちが殺到したはずです。 いくら軍票があっても、食糧確保に極めて困難なことになっていたはずです。 しかも、南京は日本軍が占領下に置くまでに麻薬がなかった場所です。軍票があまり 意味を持っていなかった。

余剰の食料を手に入れるために、日本軍は余剰の住民をシステマチックに殺戮したのです。 これが最も簡単な説明だと思います。50 万人いる中で 30 万人を殺せば 20 万人が残ります。 これで余剰の食料を手に入れたのでしょう。上海から南京に至るまで同様な問題に直面し、 同じように極めてシンプルな解決を与えたと考えるほうがよいのではないかと思います。 あまりに短期間の間にあまりに大量の殺戮は困難ではないかという点が日本の歴史学者の論拠の ようです。しかし、日本の軍隊が飢餓状態にあったとすればそれも説明が付くのではないかと思います。


英語版の Wikipedia には南京大虐殺の生々しい写真が掲載されています。 以下にそれを掲載します。 写真は日本の新聞に掲載されたものもありますが、 コピーライトが (日本の法律に照らし合わせても) すでに消滅しているとのことです。


日本軍が南京に行進する写真、一般市民の恐怖がこれで開始されます。






松井石根の南京への入場。馬で入城していることに注意してください。燃料がなくなっており、距離がある場所からの食料の調達が不可能ととなっていることがわかります。食料の調達は南京城内でしかできない。




生き埋めにされる中国市民




Murase Moriyasu による「私の従軍中国戦線」から (著者の漢字名が不明), 死体だらけ




殺されて埋められる市民たち




首を切られた一般市民たち


英字紙などでは虐殺された人の写真をよく見ることがあります。 上の写真を見ると、公然と写真が撮影されていることがわかります。 殺戮を隠蔽するどころか、その逆なようです。 日本の歴史学者が言っているように軍隊の規律がとれなくなって、殺戮が起きたのではなく、 ほぼ確実にシステマチックな殺戮と考えるほうが正しいと思います。 またこのような写真が撮影された状況から判断をしても、南京城内で 30 万人もの犠牲者があったとする 中国の主張は納得できるものです。



百人の首を軍刀で切り落とした人は当時日本で英雄扱いされました。
首を切られた人たちはほぼ確実に一般市民です。




「南京大虐殺」に関しては次のページも参考になるようです。

Japanese Army's Atrocities -- Nanjin Massacre

このサイトには写真も掲載されています。英文の Wikipedia の写真と重複している部分があります。 次がそのトップページです。全部で 6 ページあります。「Next Page」と書いてあるボタンを押すと 次のページに移動し、「Previous Page」と書いてあるボタンを押すと、前のページに戻ります。 写真はクリックするとすべて大きなものが表示されます。(あまり見ないほうがよいです。悲しくなります。 主だった箇所にリンクを張るためにしているだけです。)

Japanese Army's Atrocities (page 1 of 6)


英語版の Wikipedia には「南京大虐殺のメモリアル ホール」(Nanjing Massacre Memorial Hall) の記述があります。この建物の入口には犠牲者の数 (300000) が記されています。 (日本の歴史学者はこの数値を目の敵にしています。) 12 月 14 日の IHT (= International Herald Tribune) には 新たに付け加えられた陳列物の写真がありました (Reuter)。犠牲者が埋められていた土地をそのまま切り出して、 断面を見せています。おびただしいばかりの石化した骨が見えますが、残念なことに写真をこのページに載せることが できません。

Nanjing Massacre Memorial Hall - Wikipedia

Image:Nj06.jpg - Wikipedia の縮小図



英語版の Wikipedia の「南京大虐殺」の最後に別の意味で興味ある写真があります。 マンチェスターガーディアン (Manchester Guardian) の新聞記者である ティンパレー (H.J.Timperley) はこの電信文を書きますが、 上海で差し押さえられ、日本の外務大臣の広田 弘毅により, 1938 年 1 月 17 日にワシントンの日本大使館に転送されます。 通信文は途中で米国により傍受され、解読されました。





この通信文の内容は 1994 年 9 月に NARA (= National Archive and Record Adrministration) により 出版されています。テキストの内容は


上海に数日前に帰ってきてから南京と周辺で日本軍が虐殺をしたという報道があり、これを調査した。 信頼できる目撃者の口頭による証言および非常に信頼できる人からの手紙から 日本軍がアッチラたちのやり方にも似た方法で行動をとり、また行動をとり続けていることの 確証を得ることになりました。最低限 30 万人もの中国市民が殺され、しかも冷血な 方法で殺された。強盗やレイプが横行している。しかもか弱い子供たちも対象となっている。 何週間も前に戦争が終わったのにもかかわらず市民に対する不条理な暴行が報道され続けている。 良心的な日本人は非常に恥ています。 南京における日本軍の非難すべき行動により、緊張感が高まり、 上海でも日本兵が凶暴に振舞う事件が起きている。 North China Daily の今日の報道ではとりわけ目まぐるしく変化する事件を 報道している。その事件では酔っ払った日本兵が女を手に入れることができず、 酒を要求し 60 才過ぎの 3 人の女性を撃ち殺し、何人かの一般市民を負傷させた。


追加
1. 大変なことを見落としていました。 「マンチェスター ガーディアン」とは昔の名前で現在は「ガーディアン」です。 日本の全国紙など及びも付かないような世界のトップクラスの新聞です。
The Guadian - Wikipedia
差し押さえられたのは恐らく「マンチェスター ガーディアン」に掲載される記事だったのです。 「ガーディアン」に掲載される記事は日本の全国紙などよりははるかに信頼されています。 従って、上の内容は決定的な意味を持ち、それだけでもって 30 万人の犠牲があったことが事実として世に受け入れられます。
2. 「マンチェスター ガーディアン」(あるいは「ガーディアン」) のように著名な新聞であれば、 情報提供者は南京政府の高官であった可能性があります。南京城への出入りは恐らく自由ではなく、 (日本軍のスパイが侵入することを防止するために) 身元検査でもしていたとが 確実で、城内の人口を把握していたことも確実だと思います。
3. また外務大臣がワシントンの日本大使館に電信を転送したというのであれば、 その内容の重要性、あるいは信ぴょう性も増すと考えることもできます。 つまり、電信の内容が真実で、その内容が米国にすでに知られているかもしれないという懸念から 日本大使館に注意を促したのだとも考えることができます。内容に根拠がないのであれば 外務大臣が転送するはずがない。


暗号を解読したことが出てきますが、これは「パープル暗号」であると思います。 1 年以上前の日本語の Wikipedia の「パープル暗号」の記事はとてもいいかげんなものでしたが、 最近とても良くなっていることに気が付きました。信頼できる内容です:

パープル暗号 - 日本語版 Wikipedia

「パープル暗号 (機械)」は第二次大戦中に日本の外務省が使用した暗号機械で、海軍によって提供されたものです。 海軍は数学者の「高木貞二」のアドバイスからこれを全面的に信頼したようです。 陸軍は別の暗号機を使用していましたが、暗号機を信頼しておらずあまり使用されることはなかったようです。

パープル暗号は戦争前から完全に解読されており、 電信による連絡はすべて内容が米国、英国に筒抜けでした。


参考

パープル暗号の解読はすさまじかったようです。これは戦況にも影響を与えています。 ノルマンジー大作戦が開始される前に、ドイツは連合軍によるノルマンジー上陸に備え、 ノルマンジーを要塞化しますが、その詳細な内容を当時のドイツの日本大使館に 教えています。そして、その詳しいデータがパープル暗号によって日本本国に送信されました。 英国がこれを傍受し、解読していました。このおかげで、ノルマンジー上陸作戦を具体化できた ようです。

しかしパープル暗号の解読は反面、米国の油断を招いたのではないかと思います。 真珠湾攻撃のとき日本軍は電信を一切使用しませんでした。


追加

現在では、日本語の Wikipedia のパープル暗号の項目には年譜まで付いています。 私が書いたノルマンジー大作戦のことと、年譜のことが若干矛盾しそうにも見えます。 日本語の Wikipedia には「フランス戦線の視察報告が解読される」と あり、ノルマンジー上陸作戦に貢献と書いてあるからです。 私が、どこかの英文の頁を読んだときには、解読されたのは 1 度ではなく、何度もです。 全部が全部解読されているのに性懲りもなく電信を送り続けているのです。 ちょろっと滑稽だったので、よく記憶しています。 最新鋭の機械を使っているつもりなのでしょう、膨大な電信文を送っており、 これが全部解読されていたのです。笑い話になりそうです。

英語版 Wikipedia のパープル暗号 に掲載されている写真の縮小版



第二次大戦中の米軍の暗号解読を担当したのは 「軍部安全保障局」 (Armed Forces Security Agency) でこれが戦後「国家安全保障局」(NSA = National Security Agency) となります。上のパープル暗号機は NSA もしくは付属の博物館に展示してあるものだと思います。 NSA のホームページの 下に Photo Gallery があり、 ここにエニグマ (独の暗号機) と一緒に写真が掲載されています。 パープル暗号はエニグマと同様に観光用に陳列してあるはずです。


追加 2

2008 年 9 月 29 日に、ワシントンからの共同通信の英語ニュースが Japan Times に載りました。 ほぼ同じ記事を次で読むことができます。

• Message in old cipher led to Adm. Yamamoto's death: U.S. documents+
• Message in old cipher led to Yamamoto's death: U.S. documents
ここに、JN25 という暗号が登場します。色々調べているうちに英語版 Wikipedia
Japanese naval codes - Wikipedia (日本の海軍の暗号)
に解説されていることに気が付きました。

パープルは海軍が外務省に提供した暗号ですが、 海軍自身は基本的に違う暗号を使用していたことがわかりました。JN は Japanese Navy (日本海軍) の頭文字で、JN25 というのは 25 番目の暗号の意味だそうです。 JN25 は時と共に随分変化したようで、 1941 年 12 月 7 日の真珠湾攻撃の直前に基本的に変化したそうです。 しかし、このバージョンの JN25 は 1942 年の 5 月末までには、十分に解読が進み、 アメリカによるミッドウェー海戦 (1942 年 6 月 4 日 から 7 日) の勝利を導いたようです。 暗号解析には IBM のタビュレーティングマシンも使用され、 また日本の公文書、書簡は紋切り型の決まり文句で始まっていたため、 クリブ (crib) と呼ばれる暗号解析の手法が可能であったようです。

•クリブ - 日本語版 Wikipedia
•Crib (cryptanalysis)

真珠湾攻撃以前の暗号文書は多くが手渡しで伝えられていたため、JN25 の解読率は 10% にも ならなかったようです。しかし、真珠湾攻撃以後非常に多くの暗号文が電信で送られたため、 1941 年の末には、暗号解析に十分な資料が手に入り、わずか 5 ヶ月で JN25 の解読に成功したことになります。

最初に引用した新聞記事では、山本五十六が前線視察することを通知する 暗号化された電信文 (1943 年 4 月 13 日付) が傍受、解読されて、 待ち伏せにあった山本五十六の飛行機が撃墜されて、戦死することが書かれています。 新聞記事にはこのとき使用された暗号はすでに、 旧式になっていて、旧式の暗号を使い続けたから、 山本五十六が戦死したのだと書いています。新聞には JN25E14 と書かれていました。後の 3 桁がマイナーバージョン を意味するのでしょう。 JN25 のバージョンは随分変化し、変化した直後は解読を最初からやり直さなければならなかったこと もあるようです。JN25 は結局 JN40 となるようですが、 こちらのほうは 1942 年の 9 月の日本のエラーから手がかりがつかめ、 1942 年の 11 月までには完全に解読できるようになっていたとのことです。 だから、暗号のバージョンを上げていたところで、山本五十六が 最後まで生き延びれたかどうかは、疑問ではないかと思います。

年表

非常にややこしいので、年表としてまとめることにしました。

  1793 英国の東インド会社が「アヘンの専売制」を導入
  1878 英国が中国の植民地およびインドでアヘンの登録制を導入
登録したもののみがアヘンを購入できる
(台湾の「阿片漸禁策」と同様にアヘンの消費を抑制するとしたふざけた主張)
明治12 1879 アヘン専売法
明治27 1894 日清戦争が開始
日清戦争中、日本はアヘンで多大な利益を得る
明治28 1895 日清戦争が終了 (下関条約)
台湾が日本の支配下
中国との通商条約で日本がアヘン戦争の勝利国と対等の立場 (不平等条約)
(日本も中国に阿片を持ち込めるような条約)
明治31 1898 後藤新平が台湾総督府民生長官
阿片漸禁策 (1878 年に英国が植民地で導入した方式と類似のもの)
見かけ上の論理とは別に単に麻薬で儲ける政策
明治37 1904 日露戦争 (1904-1905)
(軍票の使用開始)
明治38 1905 桂・タフト協定
(米国がフィリッピンを手に入れ日本が朝鮮を手に入れるための秘密協定)
日露戦争が終了 (ポーツマス条約)
日本が朝鮮を保護国化
明治39 1906 南満州鉄道 (満鉄)、日本の会社
(日本が恒久的な麻薬ルートの確保)
中国がアヘン撲滅運動開始
英国と中国間にインドのアヘンの持ち込みを停止することを目的とした協定を締結
明治43 1910 日韓併合
明治44 1911 英国と中国間に二度目の協定(インドのアヘン持込の段階的停止)
辛亥革命
大正元 1912 ハーグにおける万国阿片協定
大正 2 1913 英国によるインドから中国へのアヘンの持込が事実上終了
この頃、ヨーロッパのモルヒネが日本により中国及び朝鮮に持ち込まれる
英国のモルヒネはインドのアヘンを加工したもの
大正 3 1914 第一次世界大戦開始
青島占領 (日本が麻薬ルートの確保)
朝鮮でアヘンが禁止 (朝鮮はモルヒネ化)
この頃台湾にモルヒネ工場
大正 4 1915 対華21ヶ条要求
(この結果、ドイツが山東省に持っていた権益を日本が継承,
また日本人が南満州で自由に往来する権利と、工場などを作る権利を確保
麻薬の密輸に好都合となる)
大正 6 1917 朝鮮にモルヒネ工場
朝鮮のモルヒネが満州を経由して大量に中国に持ち込まれることとなる
大正 7 1918 シベリア出兵開始
シベリア出兵で日本は外満州 (極東ロシア) と内満州 (いわゆる満州) を占領
(広範囲の麻薬ルートを獲得)
台湾のアヘンの売り上げがピーク (800 万円以上)
大正 8 1919 ニューヨークタイムズの記事
(この頃日本のモルヒネが中国に怒涛のように乱入)
ベルサイユ条約 (第一次世界大戦終了)
(多くの国により万国阿片条約が批准される)
大正11 1922 シベリア出兵終了
中国へ青島返還
昭和 4 1929 世界恐慌
昭和 6 1931 満州事変
昭和 7 1932 満州国成立
星野直樹はアヘンの専売のために日本の銀行 (複数) から多額のローンを取り決める
満州国に朝鮮の麻薬の売人が大量に投入される
満州国が麻薬活動の中心となる
昭和 8 1933 リットン報告書、日本が国際連盟から脱退
日本に対する経済制裁成立せず (米国が国際連盟の一員ではなかったため)
昭和 9 1934 1934-35 年、満州におけるアヘンの栽培面積は 480 平方キロメートル、
1 平方キロメートルあたり 1.1 トン、1 年あたり 2000 万円から 3000 万円の利益
昭和11 1936 興亜院の設立
麻薬政策の一本化、内閣総理大臣が掌握
昭和12 1937 日中戦争の開始
南京占領
昭和13 1938 南京傀儡政権の設立
南京傀儡政権の下でアヘン、ヘロインなどの麻薬が大量に流通する
満州の麻薬の売人たちが大量に南京傀儡政権の領土に投入される。
昭和14 1939 里見機関の成立、(日本政府から資金提供を受ける)
里見機関は内蒙古のアヘン、イランのアヘンを持ち込む
昭和16 1941 真珠湾攻撃
昭和20 1945 日本の降伏
昭和23 1948 東京裁判

http://asait.world.coocan.jp/kuiper_belt/section4F/kuiper_section4F.htm

アヘン帝国の土壌

皇国史観

最初から色々な事実には気が付かないものです。 「アヘン帝国 -- 汚れた歴史」を書いていたときに、英語のページの随所に日本人が中国人を「劣等種族扱い」をしていることが 指摘されていたのですが、その本当の理由には気が付きませんでした。 最初は当時の日本人の方が多少とも現代化しているから、その理由かな... などとも 考えていました。しかし、時間がたつにつれ「皇国史観」という言葉が とても深い深層意識の中から浮かび上がってくることに気が付きました。 もうとうの昔に忘れてしまった言葉です。

「皇国史観」とはどういうものか、色々なところに説明があるでしょうが、 これは要するに



天皇は神 (あるいは現神 (あらがみ)) であって、日本は神の国である

ということです。「神の国」以外の人間は「劣等種族」なのです。だから平気で 強制的に麻薬中毒にして、絞る取るようなことをしたのです。また、こうすることこそが 神の僕 (しもべ) たる義務であり、「お国のため」なのです。

以前、アメリカで連続殺人の犯人 (serial killer) が殺人現場に



Call me God (私を神と呼べ)

というメッセージを残していたことを思い出しました。これは映画ではなく実際の事件です。 日本でもこの事件は報道されたと思いますが、このメッセージには触れていませんでした。 人を殺してばかりいると、自分が神にでもなったつもりになるのでしょうか ? 同じように



罪のない人たちを強制的に麻薬中毒にして、絞り取り立てる

ことは、神の領域に近くなるのかもしれません。 また自分たちが神の立場、あるいは神に近い立場であれば、 理不尽な行動は、より神としての自覚を与えたことになるのかもしれません。


注意
この「皇国史観」は日本人にとって、よかったものでしょうか 「皇国史観」は天皇に立場が近ければ近いほど、有利なのです。 より遠ければ、理不尽な犠牲が、より要求されます。 各地の歴史的な土木工事で、よく耳にするのが「人柱」です。 古 (いにしえ) の時代から、日本の技術力の頂点と称するものには 常に「人身御供」や「いけにえ」が付きまとっています。 「皇国史観」にもこの「いけにえ」が付きまとっていると考えるべきです。
英国の 2 度のアヘン戦争は、ビクトリア女王のときに起きています。 英国が中国にアヘンを輸出することに関して、ビクトリア女王は、 積極的に奨励した、とどこに書いてあったと思います。また当然儲けの一部もビクトリア女王に渡っていたと思います。

同じことは日本にもあてはまらないでしょうか ? 明治天皇のときに、英国と同じように日本でも 2 つの戦争 (日清戦争、日露戦争) を引き起こし、このどちらでもアヘンで多大な利益を獲得し、 それ以後は、日本によって更に多量の麻薬が中国に持ち込まれます。 上流階級 (上級士族、上級華族、皇族、天皇) は、すべて日本が中国を麻薬漬にして 儲けていることは承知していたでしょうし、またそれを奨励していたことは ほぼ間違いないはずです。 また英国と同様にそれで利益を得ていたことでしょう (無論麻薬の儲けの多くが軍費などにつぎ込まれますが、それだけで すむはずもないことは火を見るよりも明らかです)。 原動力は「皇国史観」にあります。 あるいは、むしろ中国、あるいはアジア全域を麻薬漬にすることこそ 「皇国史観」なのです。「大東亜共栄圏」という言葉もありますが、 「大東亜共栄圏」はむしろ「皇国史観」の派生事項です。


注意
興亜院を作ったのは近衛文麿であり、彼は貴族です。 興亜院は色々な機能があるように見えますが、基本的には「内閣総理大臣による麻薬取引の一元化」です。 従って近衛文麿は犯罪者です。日本語の Wikipedia の近衛文麿に「戦犯容疑」などと、たわけたことが 書いてありますが、戦犯容疑以前にただの犯罪者です。 アヘン帝国で貴族が果たした役割は極めて大きく、そして薄汚いのです。
「皇国史観」と言えば「右翼」のことを想起することが多いと思います。 この日本語の「右翼」を英語に翻訳するときには恐らく right wing (右翼) とは ならないと思います。right wing でもよいかもしれませんが、yakuza (ヤクザ) と するほうが普通だと思います。現代では日本語ではあまり「ヤクザ」という言葉を使用せずに 代わりに「暴力団」を使用するほうが多いので、結局、日本語から英語に翻訳し、 更に日本語に翻訳しなおすと、「右翼」は「暴力団」となります。


注意
英語の Yakuza は日本語の「マフィア」と同じような使い方をされ、 これは「スシ」などと同様に日常的に使用される英語です。 英語版の Wikipedia
Yakuza - Wikipedia (ヤクザ)
には、「ヤクザ」の一種として「右翼」が紹介されています。 戦前の右翼の資金源は麻薬で、また最近の右翼の資金源は「業界紙を強制的に購読させること」 にあるようですから、暴力団と考えて差し支えないと思います。区別すること自体がおかしい。
平民の場合はどうだったのでしょうか ? ある程度インテリであれば、新聞報道を信じたはずで、 よもや記事が捏造されているなどと考えたことはなかったはずです。 この「阿片帝国 --- 汚れた歴史」で紹介をした「報知新聞の社説」のような「捏造記事」があるとは 到底考えなかったと思います。 麻薬に関しては、色々な噂が飛び回っていたでしょうが、 その原動力が国家にあることに関しての直接的な認識は薄かったと思われます。

「皇国史観」の中核を担ったのは上流階級 (上級士族、上級華族、皇族、天皇)、 暴力団、右翼であったことは明白です。彼らこそが麻薬で儲けていたからです。 従って



中国、あるいはアジア全域を麻薬漬にすることこそ「皇国史観」である

ともう一度断言したいと思います。

日本の歴史の捏造 -- 皇国史観とのかかわり

日本の歴史は恐らく捏造だらけです。私は子供のときに、2 度にわたる「元寇」 (文永の役 (1274年), 弘安の役 (1281年)) で神風が吹いたから日本が救われたと、教わりました。しかしこれは嘘でした。

元寇 - Wikipedia

にも、「神風が吹いたから日本が救われた」とは書いていないと思います。しかし「神風」 に関しての日本語の Wikipedia の記述はさえないものになっています。 この件に関しては偏見を持っていない外国人の方が的確に理解しているようです。

順番に話をしないといけません。 しばらく前に、「元寇」のことを書いた英文のページに遭遇しました。 いまでは多分そのページがありません。そのときページ内から次の PDF ファイルに リンクが張ってあり、PDF ファイル自身は読むことができます。

In Little Need of Divine Intervention (PDF)

このファイルは、次の本の一部です。

Conlan, Thomas, In Little Need of Divine Intervention, Cornell University Press, 2001
(トーマス・コンラン, 神の助けなど必要ではなかった、コーネル大学出版、2001)

また、そのとき見ることができた電子版の「蒙古襲来絵詞」も次で見ることができます。(英文です。)

Scrolls of the Mongol Invasions of Japan

現存する「蒙古襲来絵詞」は色々修復された結果、もとの姿をとどめていないようで、電子版の「蒙古襲来絵詞」では、 後世にどのように補正されたのかを比較説明をしています。 上の本の著者が中心となっている「Scroll Project」(巻物プロジェクト) だそうです。

コンランの本の一部しか PDF で読めませんが、それでも背景が非常によくわかります。少し紹介することにしましょう。 「蒙古襲来絵詞」の作者である竹崎季長 (たけざきすえなが) に関して、コンランは本の中で 次のように書いています。


竹崎季長の物語の中では、お祈りばかりで、甲佐大明神を褒め称えることばかりですが、 竹崎季長は蒙古を打ち破ることにおいて、神の助けがあったとは言っていません。 「神風」という言葉は、元寇に関しての鎌倉幕府の文書にも同様に登場はしておらず、 13 世紀の朝廷に仕える人の日記にのみ見受けられます。

一般に文永の役では蒙古軍は 90000 人、弘安の役では 140000 人いたと されていますが、これはあまりに多い数値であるとコンランは述べています。 その根拠は史上最大と言われるノルマンジー上陸作戦の規模との比較です。 コンランはノルマンジー上陸作戦の連合軍は 156000 人としています。 英語版の Wikipedia (Invasion of Normandy - Wikipedia) では 100000 人としています。現在でも 100000 人を移動させようとすれば途方もないことが必要です。

実際の軍隊の人数を評価するのはかなりむつかしく、 コンランは、文永の役の蒙古軍は 2,3 千人、日本軍の方も同程度。 そして弘安の役の蒙古軍は 1 万人もいなかったのではないかと書いています。


注意
1. 地震等の天災で 10 万人規模の被災者があった場合の 水や食料の確保は信じられないくらい困難ですから 10 万人規模の軍隊が当時、洋上を移動すること自体 不可能であったと思います。
2. 元寇のときの日本軍の総数は色々不明なのですが、 日本の地方には参戦に割り当てられた侍 (or 御家人) の数が記録として残されているものがあり、 そこから、コンランは (日本各地への割り当てが均等であると仮定して) 日本軍全体の人数を推測しています。 日本軍のほうの人数が推測できれば、戦闘状況から蒙古軍の人数が推測できます。

文永の役に関しては、蒙古軍は大宰府まで到達していませんから、 九州制圧など、まったくありえない話で、 日本側としては神頼みをする必要がなかったのです。 従って、コンランが述べるように


撤退した蒙古軍が、その理由を台風のせいにした

と考えるほうが、よほど納得できます。

元寇 - Wikipedia

では、広橋兼仲の日記『勘仲記』に文永の役における蒙古軍の撤退に関して


伝聞として逆風が吹いたことを記されている

と書いています。この逆風が悶着を起こしそうですが (つまり台風めいたものかもしれない憶測を残す可能性がありますが)、 これも無論コンランの本の中で適切に評価され、 「逆風」だから「中国に帰るのに都合のよい風である」と書かれています。 直前に蒙古側の司令官が重傷を負っていますから、その理由から撤退したのに 相違ないのです。


注意
元は日本のみならずヨーロッパにも侵入しており、 元の戦闘方法はヨーロッパの歴史にも残っています。 コンランは、こちらの方も参考にしています。 またコンランが元寇のことに興味を持ったのは「神風特攻」に関連して、 本当に「神風」が吹いたかどうかに興味を持ったからのようです。
英語版 Wikipedia の 元寇防塁の 縮小図


文永の役の後に防塁が築かれ、これにより、 弘安の役には蒙古軍は博多に上陸さえできなくなります。 このときは台風が襲来したようですが、 台風が来なくても、そのうち蒙古軍の方の食料が尽きることが 目に見えていますから、「神風」と称するものではなかったことに なります。コンランは


13 世紀を通じて、日本が「神の国」であるとの信仰は、朝廷に仕える少数の人と 僧侶以外に広まっていたという証拠がない。

訳注   面倒なので priest を単に僧侶と訳しました。 寺以外に神社も入っていると思います。

とも書いています。どういうことかというと、 朝廷は蒙古軍を撃退するために、 異国調伏 (いこくちょうぶ) の祈祷をしたようです。 要するに、京都の朝廷は我々の祈祷が蒙古を撃退したのであって、 鎌倉幕府が撃退したのではないと、言ったのでしょう。

もっとも、蒙古側の方の資料にも負け戦の理由を 日本の朝廷の祈祷のせいにしています。 元 (蒙古) は日本のような辺地の弱小国を攻略できなかったことによって 面子を失いたくなかったのです。 だから、負け戦を朝廷の異国調伏の祈祷が引き起こした 超自然現象にしたのです。

いずれにせよ「神風」が吹いたという歴史はそもそも始めからなかったのです。 従って「神風特攻」などが歴史的な観点からは、はじめからナンセンスなのです。 しかし、明治以降「神風」が吹いたことが歴史的事実とされ、日本は「アヘン帝国」の道を歩むことになったのです。


注意
弘安の役の際に台風によって「元」の船が随分沈みます。 この話は「鉄の製造」/「日本の海軍は強かったのか ?」で述べた話と 矛盾するように見えます。中国の本来の外洋船であるジャンクであれば 簡単には沈みません。沈んだ船は高麗で作られた平底の船でジャンクでは ありません。経費節約のため安物ですませたようです。
外国人排斥 -- 皇国史観とのかかわり

ここで少し話を変えましょう。 ごく最近まで、英字紙には「日本人は人種差別主義者 (racist) だ」とよく書かれていました。 在日外国人からすると、理不尽な差別待遇があるからでした。 Japan Times には色々な記事が掲載され、日本人が判断しても 意外な事実が書かれていたと思います。

また外国人に不利益な法律の多くが在日朝鮮人をターゲットにしたものであることも 何度も書かれており、 恐らく日本の事情に詳しい人 --- 日本に住んでいなくても Japan Times の 購読者 --- であれば、常識的なことになっていたと思います。 しかも現在であれば、英語さえ読めれば、インターネットで世界中の誰もが Japan Times の記事を読むことができます。


注意
1. 「アヘン帝国」の後半で Japan Times に載った記事のことを紹介しましたが、 この記事は世界中の人が読んでいます。 随分多くのサイトが、この一連の記事にリンクを張っています。 そのようなサイトでは「現在では日本人もこのようなことを認めるようになったのだ」とも 書いていますが、およそこれは見当違いです。邦字紙はこれを記事にしなかったからです。


2. 日本で「在日朝鮮人をターゲットにした法律を作っていた」ということは、 日本人が、がちがちの「人種差別主義者」(racist) であったことのあらわれなのですが、 それを理解している日本人は極めて少ないと思います。

Japan Times の記事では、在日朝鮮人がターゲットとなっている法律にせよ、 十分に注意する必要がある (読者は欧米系を対象としていた) とも言及していたと思います。 またあるときには、警察官の職務質問を受けたときの応答の仕方にも アドバイスが書いてありました。 本国でしているような応対では絶対にダメでこれも十分に注意しないといけないと しており、日本の警察は令状なしに簡単に拘束できるとも言及していました。

「皇国史観」は現在では死語に近いと思いますが「外国人差別」という形で 戦後もずっと痕跡をとどめていたのです。


注意
このような記事が色々出た後で、国連の調査団が日本に訪れたと思います (21 世紀に入ってからのことです)。 わずか一日しか日本に滞在しませんでした。そのとき、どこかの大臣が 「1 日しか滞在しないのに、何もわかるはずがないじゃないか」と言っており、 それが全国紙でかなり大きな記事になっていました。 私は「発言した大臣も、これを記事にした全国紙も、ものすごくアホだ」と思いました。 英字紙に克明に書かれていることで世界中で誰もが読むことができるのに .... 調査をするにしても単に確認だけですむことです。 しかし、よく考えてみれば、邦字紙のほうは私が知っていることを承知の上で --- 英字紙にたたきまくられていることを承知の上で --- さも問題であるかのように記事にした可能性もあります。
私も外国人差別のことには詳しくありません。 Japan Times に載った外国人差別の記事では私の方が何も知らないことの方が 多かったです。しかし、現在ではかなり改善されていると思います。 外国人差別のことが新聞で書きまくられたからです。邦字紙ではないですよ、 英字紙によってですよ。

身近でも驚いたことがありました。 私は非常に小さい国立大学の教員をしています。 教員数が少ないですから毎年のように色々な委員をさせられます。 数年前には入試委員をしていました (21 世紀にはなっていました)。 このとき驚くべきことを知りました。日本には多くの朝鮮人学校があります。 この朝鮮人学校は日本の高校とはみなされていないことを始めて知りました。 国立大学の受験資格は



6 年 + 3 年 + 3 年

の教育を受けていること、という制約があります (どこの国からの留学生にも適用されているものです)。 このため朝鮮人学校の生徒は「大検」を受検しないといけないということでした。 韓国の高校を卒業した者は国立大学の受験資格があったので問題とされたのでした。

文科省からの通達により、各国立大学の自由裁量となり、本学では (確か、他の国立大学の真似をしたと思いますが) 朝鮮人学校の受験者からは その学校のカリキュラムと授業のシラバス (授業計画) の写しを提出してもらうこととし、 それを見て、入試委員会で受験資格があるかどうかを判断することになったのではないかと 思います (最終的には教授会で審議)。

しかしですね、韓国系の朝鮮人学校では韓国の高校と同じ教育がされているはずで 教科書も同じはずです。しかも韓国の高校を卒業していれば、日本の国立大学の 受験資格があるのです。やはり少しおかしい。

「皇国史観」による「外国人差別」の伝統は制度の中に組み込まれてしまっていて、 明示的に問題が提起されない限り、書類の山の中に隠蔽されてしまっているのだと いうことが非常にはっきりすることになりました。

私も元々の「皇国史観」は知りません。知るというよりは感覚的に 理解が難しいというほうが正解です。 「皇国史観」は現在のイスラム教の「原理主義」に近いのではないか とも思います。 イスラム教の「原理主義」も麻薬で儲けることがあるようで、しかも又 「自爆テロ」はかっての日本の「特攻」につながるもので かなりの共通点があるのではないかとも思います。

それにしたって、何も関連しない人を道連れにしなくても よいじゃありませんか。テロと言えば、日本の場合には「国家による麻薬テロ」 と言うべきですが、 古い時代の日本人に文句を言いたくなります。

最後にもう一つ付け加えるべきでしょう。 かっての「皇国史観」を残しているものがもう一つあります。 いわずと知れた「君が代」です。 あきれるくらいに「君が代」斉唱を強制している自治体があります。 「皇国史観」を前提にすると、これは問題がありすぎるのですが、 もうこのあたりでおしまいにすることにしましょう。


注意
ふと気が付いて、Altavista で「君が代」(kimigayo) と「アヘン」(opium) で検索してみました。 やはりヒットします。100 件ぐらいあります。「日の丸」も出てくる。出てくるのは現代の日本に関しての批判的なページです。 「アヘン帝国」を書き始めてから、いつのまにか「君が代」は「ヤクの歌」、「日の丸」は 「ヤクの旗」と言うべきだな、と思っております。

| 未分類 | コメント(0)

グレイシーマガジン始めとする欧米の柔術メディアがBerkutを完全無視 IBJJFとBerkutの敵対関係









柔術新聞さんがロシアの巨大柔術イベント Berkutを欧米メディアが完全無視していることに関して言及
プーチン政権が人権侵害を繰り返しているとのコメントですが
欧米自体がイスラエルのパレスチナ人権侵害を支援しているような国ですので
欧米にロシアの事はとやかくは言えないかと…

単純にグレイシー一族が深く関わっている欧米のIBJJFらと
ロシア人が中心となったロシア式BJJのBerkutとで
縄張り争い 主導権争いが勃発したと考えていいんでわ?

政治的にロシア云々いうのも
欧米の柔術には西側のセレブが柔術愛好者であることが多いから
彼らに配慮したとか?

確かISの先輩テロリスト アルカイダのビンラディンの偽死亡情報を知ってヘンゾが大喜びしていましたが
私的に見たら

自作自演でしょ

としか見えなかったですなぁ

| 未分類 | コメント(0)

16歳の少女柔術家が公園の野試合で高校レスリング部男子をボコボコにする




| 未分類 | コメント(0)

マタンゴ 「東京だって同じことじゃありませんか?みんな人間らしさを失って・・・同じですよ」 「あの島で暮らしていた方が幸せだったんですよ」 マタンゴの原色の豊かな色使いと同じようにネオンに輝く夜の都会が映し出される。どちらも人為的に作り出された破壊行為の象徴とでも言わんばかりの対比。人間らしさとはすなわち自然との調和だと訴えかける一連のセリフの後に、振り返る村井・・・。 彼の顔はケロイド状になっていた。あの放射能で汚染された島から生き延びる方法なぞ存在しない。実はマタンゴは救いだったという皮肉。放射能に犯され死を待つばかりの人間に与えられた最後の贖罪がマタンゴだった。 せめて快楽の中で、滅んでいきなさいという・・・しかし、村井にはそれはもう許されない。彼はゆっくりと放射能の後遺症の中滅んでいくしかないのである。











Attack Of The Mushroom People (1963) - Feature 投稿者 FilmGorillas

http://summaars.net/matango.html

マタンゴ   THE ATTACK OF THE MUSHROOM PEOPLE(1963・東宝)
■ジャンル: 特撮
■収録時間: 89分

■スタッフ
監督 : 本多猪四郎
製作 : 田中友幸
原作 : ウィリアム・ホープ・ホジスン 「闇の声」
原案 : 星新一 / 福島正実
脚本 : 木村武
撮影 : 小泉一
音楽 : 別宮貞雄
特技監督 : 円谷英二

■キャスト
久保明(村井研二)
土屋嘉男(笠井雅文)
水野久美(関口麻美)
佐原健二(小山仙造)
マタンゴ


少年たちは「マタンゴ族を率いるアマゾネス」水野久美のその色香に自分の中の欲望に目覚めた。大人たちは彼女の存在によって、今の生活なんか捨ててもいいと思わせる現実逃避願望を加速度的に募らせていった。そして、衝撃的な最後で知ったのは、あの心理学者もマタンゴになっていた方が幸せだったという事実。彼は都会のキノコ(ネオンを放つビルの群れ)の中で滅んでいく・・・でもどうせ滅んでいくなら久美様の色香に包まれて滅んだ方が幸せなんだ。争いもなくただフリーセックスの精神・・・ソコには60年代を包み込むヒッピー文化の先駆的精神が満ち溢れていた。


■あらすじ


7人の若者がヨットに乗り込み休暇を満喫していた。大学の心理学の助教授村井(久保明)とその恋人明子、ヨットのオーナーでもある青年実業家・笠井(土屋嘉男)とその愛人のナイトクラブの歌手・麻美(水野久美)、笠井の幼馴染のスキッパー・佐田と新進小説家・吉田、そして、船員の小山(佐原健二)の7人。しかし、ヨットが大嵐に遭遇し、難破したヨットは無人島へと流れ着いた。そして、この無人島はマタンゴという毒キノコが生息する島だった。


■和製アマゾネス・水野久美様


水野久美 マタンゴ
とにかく水野久美(1937- )様に尽きる。40年以上経った今も、前川陽子のタイトル曲をバックに不二子ちゃんボイスで肢体をくねらせるキューティーハニー並みのフェロモンを撒き散らす久美様。もうその肉感的なボディー。生肌に汗がじっとりとまとわりつく姿。目鼻立ちのはっきりとした表情。唇の濃厚さ。もうどれをとっても少年の中のキノコを育て、ヤロウどものキノコを貪り食うアマゾネスのような存在だった。

ストーリーなんて超越したこの久美様のイメージを拝む為だけでも十分に価値のある作品。なのだが・・・内容も十分に素晴らしい。孤島に流れ着いた7人が、食欲と性欲の飢餓感の狭間でドロドロした人間模様を繰り広げながらじわじわと究極の選択へと追いつめられていく。キノコとしての生を選ぶか?誇りある死を選ぶか?という究極の選択。

それは高度経済成長の日本で、肉欲と金銭欲を満たす人生を選ぶか?自分の人生をそういった欲に左右されない人生を選ぶか?という選択肢を置き換えたものとも言える。


■マタンゴとは、〝自分自身の価値観の喪失の瞬間〟


マタンゴ
だからこそこの作品は、金銭欲と覚醒剤にまみれた21世紀にこそ相応しい作品とも言える。私たちが観る映像(テレビ・映画)に登場する大半の人間は今や金銭欲と覚醒剤の幻影の中で生きるマタンゴであり、それに憧れるガキどもは、まさに久美様にいい様に導かれていったあの男の姿そのものである。

自分自身の価値観が他人に委ねられた時、その人は自分自身を見つめる鏡を叩き割ったも同然なのである。全ては他者に確認し、他者に確認し続けるからいつまでたっても自分に自信が持てず、息苦しくなる。そして、人間でいることよりも幻影の中で生きようと、精神安定剤や覚醒剤にまみれて生きていくようになる。

マタンゴとは水野久美様が体現した中毒性であり、禁断の果実であり、嫌悪すべきものに取り憑かれる快感であり、文明の放棄であり、感情の放棄でもある。


■ミニチュアの世界に住むマタンゴからの生還者


きらびやかだが無機質なネオンの溢れる夜の街の姿からこの物語は始まる。精神病院の隔離病棟の中で一人の男の独白が始まる。「僕一人だけが助かった・・・」

そして、一転して燦燦と輝く太陽の下の男女の姿。露骨なまでに合成丸出しの不自然な空間の中で、久美様が一心に太陽の恩恵を受けているかのように肉感的な肢体をさらけ出してくれる。陰鬱な冒頭からの場面転換の見事さ。

自由と友情を謳歌している若者の描写にソツがないので、後の展開に対する見事なギャップが生まれている。大半の日本人はヨットに高じるほど豊かではなかった。もちろん今でもそうだが、そんな社会的に豊かな(=過保護に育てられた)若者たちが、その鎧を脱ぎ去っていく様が本作のスパイスになっている。


■今のマタンゴの繁殖期はココから始まった


「ああいうのは(道楽息子)いくつになっても息子なんだな。オヤジのすねをかじって御託並べてる。その方がまた世間にも通用するんだ」

このセリフは、今の時代にも有効なセリフである。政治家も役者も二世が幅を利かせる現代。有権者にとってもスポンサーにとっても簡単に理解させやすく、世間に通用しやすいから能力は二の次で蔓延る構図。そこにあるのは、人間の能力を見抜いていく作業の低下と、本当に才能のある人たちの苦悩である。

そして、そういった時代に本当に才能ある人たちがより苦悩するチャンスを与えられることによって、彼らはより才能を磨き上げていくことになるのである。歴史的に凡庸な人物が表舞台に出てくるとその後必ず、激動の時代に転換していくのはそのためである。

そして、この物語の時代こそ今に繋がる始まりの時期だったのである。ココからマタンゴが氾濫し今の状況が作られてるんですよという。


■隠しスパイスそれは配役の妙


マタンゴ マタンゴ
「昔から船に女は禁物なんだよ。・・・(それは)乗ってる野郎どもの頭がおかしくなるからそう言うのさ」

小山という小悪党を演じた役者が佐原健二(1932- )だと気づかなかった。ずっとサングラスをつけ、リアル歯ぬけの状態でアクの強い役柄を一部の隙もなく演じきっていた。佐原健二と言えばどの作品においても熱血漢で真面目極まりないイメージなのだが、こういった役柄も全く違和感なく演じ上げている。

正直佐原健二を見直した。「オレはこいつを絶対生き金にして見せるぜ!たとえオマエさん方がみんな死んだとしてもな!」という守銭奴ぶりと、そんな彼が一番最初に死んでしまうという運命の皮肉。佐原が珍しく際立っていた。

一方、同じく誠実な役柄を得意とする小泉博(1926- )。役者としてはつまらない部類に入る彼が、本作においてもつまらない役柄を演じているのだが、コイツがみんなを裏切り抜け駆けの逃亡をする展開にはまんまと騙された。実はコイツが一番の悪党だったのだ。


■フンッ、みんなわたしが欲しいのよ


マタンゴ マタンゴ
東宝ニューフェイスとして売り出そうと目論まれていた八代美紀(1942-)は、完全に久美様の存在感に脇に追いやられてしまっているが、これは本多監督の確信犯的行為だろう。

「ここニッポン?」

と素っ頓狂な声を出す久美様。その口元の緩む瞬間が男心を捉えて離さない。最もかつて同い年の山本学と結婚したというのだから、山本学も幸せものだ。しかも離婚の原因は山本学の浮気というところが『白い巨塔』の里見教授のイメージからは想像できなくて凄い。

マタンゴ
「ああ・・・おいしいわぁ~~」

とキノコを頬張る久美様の姿。その赤い唇の動きの妖艶さ。この妖艶さがあったからこそ『マタンゴ』は多くの支持を勝ち取るに値する作品になった。男が食べるとその男は腐食してキノコ化し、女が食べるとその女は妖艶さを増してキノコ化していくという設定を考えたのは本多監督自身である。彼は観客心理をよく理解した監督だった。

マタンゴとはキノコであり久美様の効し難い魅力なのである。オトコなら(そう男なら)経験があるだろう。久美様のような毒婦に骨抜きにされて涙を流した経験が・・・。「このキノコは美味しいが、食べた人間をキノコに変える」に説得力を持たせたのは、久美様が恍惚の表情を浮かべ妖艶になればなるほどキノコがむくむく大きく育っていくというその存在ゆえである。


■特撮映画に志があった時代


マタンゴ マタンゴ
キノコ人間として登場する天本英世(1926-2003)。作中では彼がキノコ人間を演じていると認識できない(素顔でも遜色なしという意見不要)。しかし、スチール写真などで見てみると確かにあの天本博士の片鱗が伺える。しかもこの役柄博士自身がかってでたというのだからさすがとしか言いようがない。

しかも、このメイクのまま昼ご飯を食べに外出したというのだから筋金入りの特殊メイクバカ(褒め言葉)である。しかし、これだけ頑張って中盤の恐怖を盛り上げてくれたのだから、もっと終盤の見せ場を作ってあげても良かったんじゃないかと思うのだが・・・

ちなみにこのキノコ人間の誕生の原因は、水爆実験の後遺症である。ココに本多監督=『ゴジラ』の飽くなきこだわりの心が見られる。特撮とは少年の心を掴む為に作られるだけのモノではなく、少年の心を掴みつつ同伴した両親をも驚嘆させる次元で作ろうという高い志が伺える。


■没個性は、道連れを求めて彷徨う


マタンゴ マタンゴ
「人間は環境によって極端に利己主義になる。動物的になるそういうときにこそ、理性的行動ができなければ人間の進歩は終わりだ」

そして、最後の最後に八代美紀の没個性振りが生きてくる。この自己主張の欠けらもないか弱い女性は、マタンゴを食すことによって、自分の居場所を見つけた喜びに恍惚とするのである。そうこの女性こそ、現在の多くの女性の姿そのものだった。

自分自身で進退を決めることが出来ない女性。だからこそ彼女はキノコ化こそ今までの自分となんら変化がない安住の生活だったんだと安堵するのである。「せんせえ~せんせえ~」と先生を誘いながら。

マタンゴ マタンゴ
何故キノコ人間は人間を襲うのか?その答えは彼女のこの誘い声に示されている。没個性だからこそ、仲間を求め一緒に埋没していきたいのだ。彼女は必要に迫られて道連れを求めるのではなく、没個性につきものの寂しさと不安から道連れを求めるのである。

マタンゴの面白さ。それは強制的にキノコ人間にされるのではなく自分の意思によってキノコ人間になるという所にある。堕ちて行くことを拒めば拒むほどその快楽の虜になってしまう人間の本質。まさに処女だった女性が性の喜びを身体に教え込まれてしまうような抗し難い禁断の魅力。


■汚染された世界の唯一の救いが実はマタンゴだった


マタンゴ
「東京だって同じことじゃありませんか?みんな人間らしさを失って・・・同じですよ」

「あの島で暮らしていた方が幸せだったんですよ」

マタンゴの原色の豊かな色使いと同じようにネオンに輝く夜の都会が映し出される。どちらも人為的に作り出された破壊行為の象徴とでも言わんばかりの対比。人間らしさとはすなわち自然との調和だと訴えかける一連のセリフの後に、振り返る村井・・・。

彼の顔はケロイド状になっていた。あの放射能で汚染された島から生き延びる方法なぞ存在しない。実はマタンゴは救いだったという皮肉。放射能に犯され死を待つばかりの人間に与えられた最後の贖罪がマタンゴだった。

せめて快楽の中で、滅んでいきなさいという・・・しかし、村井にはそれはもう許されない。彼はゆっくりと放射能の後遺症の中滅んでいくしかないのである。


■アナタハンの女王


マタンゴ
本作はホジスンの原作(1907)を元に初代SFマガジン編集長だった福島正実が原案を練り上げた。一応作家の星新一の名が連ねられているが彼は口頭で軽く協力した形にすぎないらしい。

比嘉和子 比嘉和子
この作品の原案は原作のアイデアを元にアナタハン島事件を参考にして構想されたといわれている。アナタハン島事件とは、戦時中から戦後にかけてサイパンの孤島で起こった遭難した31人の日本人男性と現地滞在の日本人男女の不思議なサバイバルである。

一人の女を巡り32人の男が南海の孤島で殺し合いを繰り返した。そして、この女性・比嘉和子(沖縄生まれ)が島を逃亡し米軍に救出された時(1950年6月23日)には、男性は19人しか残っていなかった。敗戦を知らずに19人の男に囲まれ生きてきた彼女を「アナタハンの女王」と当時のメディアは騒ぎ立てた。

1953年には実録映画『アナタハンの真相はこれだ』が和子自身の主演で製作された。一方この作品に触発されたジョセフ・フォン・スタンバーグ監督は『アナタハン』という作品を日本で撮り上げている(ちなみにこの作品の特撮を担当したのは円谷英二だった)。結局比嘉和子は、1974年に52歳で脳腫瘍で死去するのだが、本作の公開当時は健在だった。

本作は『ハワイの若大将』と二本立てで公開された。そして、アメリカ、イタリアを始めとする世界中で公開及びテレビ放映されカルト的人気を誇っている。

- 2007年11月21日 -

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%8A%E3%82%BF%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%81%AE%E5%A5%B3%E7%8E%8B%E4%BA%8B%E4%BB%B6
アナタハンの女王事件





移動先: 案内、 検索



アナタハンの女王事件

残留日本人救出のために島に接岸するボート(1950年6月)
残留日本人救出のために島に接岸するボート(1950年6月)


場所
現:北マリアナ諸島の旗 北マリアナ諸島
マリアナ諸島 アナタハン島

座標
北緯16度21分10秒 東経145度40分47秒座標: 北緯16度21分10秒 東経145度40分47秒

日付
1945年 - 1951年6月

概要
孤島での共同生活中に争いが起こり、後に殺し合いに発展。サバイバル化。

原因
島内ただ一人の女性をめぐる闘争

武器
拳銃、ナイフ

死亡者
行方不明者と合計で13名(女性絡みが3名、他は過酷な生活環境による過労死)





アナタハン島の全景
アナタハンの女王事件(アナタハンのじょおうじけん)とは1945年から1950年にかけて太平洋マリアナ諸島に位置する孤島アナタハン島で発生した、多くの謎が残る死亡事件。別名「アナタハン事件」「アナタハン島事件」。



目次 [非表示]
1 概要
2 その他
3 関連映画
4 関連書籍
5 脚注 5.1 注釈
5.2 出典

6 関連項目
7 外部リンク


概要[編集]





比嘉和子(1952年)
サイパン島から北方約117キロに位置するアナタハン島は、東西の長さ約9キロ・幅3.7キロの小島で、最高点は海抜788メートルというなだらかな小島であった。

この太平洋の孤島アナタハン島で、1人の女「比嘉和子[注釈 1]」と32人の男達が共同生活していくうちに、男性達がその女性を巡って争うようになり、男性が次々に行方不明になったり殺害されたりしたことで島はサバイバルの様相を見せた事件である。

南洋興発株式会社社員の妻である比嘉和子、同社社員の男性上司、帝国陸海軍の軍人・軍属31人の計32人(日本人)は当初は全員で共同生活を送っていた。しかし、そのうち全員が1人の女性を巡って争うようになり、1945年8月の停戦までに行方不明者が2人出た。米軍は拡声器で島の住人達に日本の敗戦を知らせたが、アナタハン島の日本人は誰も信じなかった。

1946年8月、彼らはB-29の残骸を発見し、残骸の中から発見された4丁の拳銃を組み変え、2丁の拳銃が作られた。これ以降、銃の存在が権力の象徴となり、以来女性を巡って、男性達の間で公然と殺し合いが行われるようになった。

この後、1950年6月、米国船の救出によって女性が脱出し、翌1951年6月には生き残った男性19人も救出された。この事件で死亡した男性は行方不明を含め13人にのぼった。

アナタハン島の女を巡る一連の怪事件が戦後、大々的に報道され、日本国内で「アナタハンブーム」となり、女性のブロマイドがとても売れた。女は男を惑わす女として報道され、大衆の好奇の目に晒された。映画化もされた。

終戦の混乱と米国信託統治の関係から権力空白地帯で発生した事件のため、現在でも死亡の原因について不明な点がある。

その他[編集]

渡邉恒雄は当時週刊のタブロイド紙であった読売ウイークリーの若手記者時代に、アナタハンで暮らす日本人の情報をいち早くつかんでいた。当てもなく訪ねた三浦半島城ヶ島の漁師から偶然仕入れた話だったが、デスクが読売新聞に報告せず、ウイークリーの特ダネにしようとした結果、同紙が出る前日に毎日新聞が同じ話を社会面のトップで報じたため、特ダネを逃している[1]。

関連映画[編集]
『アナタハン島の眞相はこれだ!!』(1953年、新大都映画) - 事件を猟奇的に扱ったもので和子本人が出演。
『アナタハン』- 原題:The Saga Of Anatahan(1953年、東宝、ジョセフ・フォン・スタンバーグ監督)
『グラマ島の誘惑』(1959年、東宝・東京映画、川島雄三) - 事件をモチーフとしたコメディ、飯沢匡の戯曲「ヤシと女」の映画化。
『東京島』(2010年、ギャガ、篠崎誠監督) - 事件をモチーフに舞台を現在に置き換えている。

関連書籍[編集]
丸山通郎『アナタハン』(東和社 1951)
丸山通郎,田中秀吉『アナタハンの告白』(東和社 1952)
大野芳『絶海密室』(新潮社)1998
『戦後未解決事件史』(宝島社)
『東京島』(新潮社)桐野夏生・著(本事件を元に創作)
『QUEEN BEE』(祥伝社)魔木子・作(本事件を元に創作した漫画作品)

脚注[編集]

注釈[編集]

[ヘルプ]
1.^ 生年は1922年ないし1924年とされており、没年は1972年ないし1974年とされている。但し、享年は49(数え年51)と一致している。ノンフィクション作家前坂俊之は生没年を(1922-1972)としている。1944~45年では「当時24歳」と表記されているものが散見される。

出典[編集]

[ヘルプ]

1.^ 渡邉恒雄 『君命も受けざる所あり』 日本経済新聞出版社、2007年、91-92頁

関連項目[編集]
ハーレム
サークルクラッシャー

外部リンク[編集]
OZmail 東京島 <映画> 木村多江
前坂俊之オフィシャルサイト(人物研究)

http://ww5.tiki.ne.jp/~qyoshida/jikenbo/064anatahan.htm

No.064 孤島に女1人と男32人。アナタハン島で起こった、女をめぐっての殺し合い

戦中から戦後にかけて、太平洋の小島・アナタハン島に日本人の女が1人と男が32人取り残されてしまった。軍に救助されるまでの6年間、女をめぐっての殺人や行方不明者が相次いだ。

▼アナタハン島の比嘉和子(ひか - かずこ)



サイパン島から北の方へ約117kmの場所に位置する「アナタハン島」。太平洋・マリアナ諸島の小島である。長さは約9km、幅は約3.7kmの小さな島で、島の中心部はジャングルになっている。無人島ではない。

終戦間近の昭和19年(1944年)、当時この島には日本企業である「南洋興発」が進出しており、ここでヤシ林を経営していた。

比嘉和子(ひか - かずこ)(24)はこのアナタハン島に住んでいた。和子の夫・正一が南洋興発の社員であり、アナタハン島に転勤になったためだ。

島にいる日本人は、比嘉和子と夫の正一、そして夫の上司である中里(仮名)の3人。この当時和子は、夫と同居はしていたものの、夫の上司である中里とも夫婦同然の関係となっていた。

そしてその他に、島に元からいる原住民が45人ほど住んでおり、中里や和子の夫は、この原住民たちを雇って農園を経営していた。


この時、時代は戦争中であり、サイパンも激戦地となりつつある時だった。ある日、和子の夫はパガン島にいるはずの妹が心配になり、妹を迎えに行くと言って島を出ていった。だが間もなくサイパンは攻撃され、和子の夫はそれっきり消息不明になってしまった。

夫が島を出ていってから2日後、アナタハン島は米軍の空襲を受ける。爆撃の中、和子と中里はジャングルに逃げ込み、命だけは何とか助かったものの、家に戻ってみるとあたりは焼野原となっていた。

飼っていた40頭の豚と20羽のニワトリはかろうじて残っていたが、住む所にも着るものにも困るような生活になってしまった。

夫が出て行ったため、島に残っている日本人は、和子と夫の上司である中里の2人だけになってしまった。これからは2人で力を合わせて生きていくしかない。この、中里もサイパンに妻と子供がいたのだが、間もなく和子と中里は、夫婦生活を始めるようになった。


▼31人の日本人が流れつく

昭和19年(1944年)6月12日、この日、アナタハン島の近海を、トラック諸島に向けて進んでいた日本のカツオ漁船の数隻が、米軍の攻撃を受けた。

これによりカツオ漁船は、3隻が沈没し、1隻が大破した。沈没した3隻の乗組員たちは何とか脱出し、アナタハン島に泳ぎ着いた。また、大破した1隻も何とかアナタハン島まではたどり着いたものの、そこで更に空襲を受け、この1隻も焼失してしまった。

漁船4隻分、合計31人の男たちがアナタハン島にたどり着くこととなった。彼らは大半が20代で、最年少は16歳の少年だった。この31人のうち、10人は軍人で、21人は軍属船員であった。

乗って帰る船のなくなった彼らは、仕方なくこの島で生活を始めた。島内を歩いてみると、バナナやパパイヤなどが自然に生えていた。タロイモもあったので、食べ物は何とかなりそうだ。

彼らは最初は乗っていた船ごとに分かれて生活していたが、そのうち全員で共同生活をするようになった。

漂着して来た男たちは、すぐに和子や中里とも出会った。和子も中里も、この遠く離れた地で同じ日本人に出会ったことを喜び、食糧を分け、怪我の手当てもしてやった。




ヤシガニ : 
オカヤドカリ科のヤドカリ類。
成体は甲長15cm、体重は1kgを
超える。
成体は完全に陸生で、
日中は穴の中で過ごし、夜間、
ココヤシの木などに
昇って果実を食う。
だが、元々47人しかいなかった島に31人も増えたのだ。食糧がいずれ不足してくることは容易に想像出来た。飲み水は漂着していたアメリカ製のドラム缶に雨水を溜めることによって確保していったものの、予想通り、豚やニワトリは食べつくして食べるものに困るようになってしまった。

彼らは海で魚を獲(と)り、果物の栽培を始め、コウモリやトカゲ、ネズミ、ヤシガニなども獲(と)って食べた。生きるための戦いが始まった。

何とか食糧確保が軌道に乗ってくると、原住民からヤシの樹液を使って酒を造る方法を習い、みんなで酒を飲めるほど、食生活は落ち着いてきた。

だが食べるものは何とかなったものの、他のものは圧倒的に足りない。服もろくにないような生活であり、和子は木の皮で作った腰ミノに上半身裸という姿、他の男たちは元から着ていたボロボロの服や、木の葉で前を隠すだけという格好だった。


昭和20年(1945年)8月、日本の敗戦で戦争は終結した。だが、島に残された彼らはそのことを知らない。

終戦を知らせる米軍の呼びかけが再三に渡って行われたが、島内の日本人でそのことを信じる者は誰もいなかった。米軍がビラをまいて投降を呼びかけたが、ビラを拾う者さえいなかった。

日本の領土でなくなった島からは原住民が全て逃げ出し、島の中には日本人だけが残されることとなった。

この島に残っている女性は比嘉和子ただ1人。そして男は32人。

当然、女をめぐっての争いが予想された。島に漂着して来た者の中で最年長の男が、この島に元々いた和子と中里に、夫婦になるように提案してきた。2人が皆の前で結婚してくれれば、他の者もあきらめがついて、島内での争いを防ぐことが出来るだろうと考えたのである。

和子と中里は島で結婚式を挙げ、2人だけ皆とは離れた所に住んでもらった。


▼拳銃を手に入れた2人

昭和21年8月、彼らは山の中で、墜落した米軍の戦闘機・B29の残骸を発見した。残骸の中からパラシュートを6つ、缶詰、他にも生活に役立ちそうなものを色々と見つけた。

和子はこのパラシュートの布を持ち帰り、自分の服やスカートなどを始め、他の人たちの服も出来る限り作ってやった。やっとある程度まともな格好が出来るようになった。

この時、この事故現場から少し離れた所で、男たちは拳銃を4丁と実弾70発を見つけた。

拳銃はどれも壊れていて使い物にならなかったが、銃に詳しい男が拳銃を組み立て直し、「使える拳銃」を2丁完成させた。銃は、組み立てた男と、その親友の男が1丁ずつ持つことになった。

2人の男が武器を持ったことで、これまでの集団の中に力関係が発生した。2人の男は銃によって絶対的な権力を持つようになったのだ。

すぐに2人は銃で脅して和子を抱くようになった。和子には中里という夫がいたが、2人はお構いなしだった。和子は3人の男と夫婦生活を送ることになった。


それからしばらくして、不審な事件が起こった。1人の男が木から落ちて死んだのだ。この時、現場の近くにいたのは、銃を手に入れた2人の男たちだった。そして木から落ちて死んだのは、この2人とは普段から仲の悪い男だった。

島内に異様な雰囲気が流れた。
「あの2人が銃で脅して木に昇らせ、転落死に見せかけて殺したんじゃないか?」

証拠はなかったが、みんなが殺人を疑い始めた。

そして数ヶ月後、今度は銃を持っていた1人が、普段から和子にしつこく言い寄っている男を射殺した。

島内で殺人が起き始めた。

2人の支配はこの後も続いていたが、翌年の昭和22年、銃を持っていた2人の男は仲間割れを起こした。2人が酒を飲んでいてケンカになり、片方が「2、3日の間にお前、ブッ殺してやる!」と言ったのだ。

しかしこのセリフを言った方が逆に射殺された。

2人がケンカになった原因は和子のことである。和子の正式な夫である中里は、次は自分が殺される番かと恐怖した。射殺した男に和子を譲って、自分は身を引くことを宣言した。

相手の銃を手に入れ、2丁の銃を持ったこの男が今度は絶対的な支配者となった。和子とも夫婦生活を始めた。

しかし、この支配者も、それからしばらくして夜釣りをしている最中、海に転落して死んでしまった。事故なのか殺人なのか分からなかったが、不審な死に方だった。


最初に銃を手に入れた2人は両方とも死んだ。この後この2丁の銃は、中里と、岩井(仮名)という男が持つことになった。

今度は中里と岩井と和子が同居することになった。銃を持っている男が和子を手に入れることが出来るという雰囲気になってきた。

だがこの生活も長くは続かなかった。一ヶ月後、岩井が中里を射殺したのだ。岩井は中里の銃も手に入れた。今度は岩井が支配者のごとく振るまい、和子と夫婦になった。

しかしこの岩井も2年後に刺殺されてしまう。

銃を持っての権力争いに付随(ふずい)して島の中では、崖から転落して死んだ男、食中毒で死んだ男、いきなりいなくなった男などが次々と出始めた。

ここまでで、9人の男が死んだ。中には本当の事故死や病死もあったかも知れないが、殺された者が一番多いことは明らかだった。このままではいつまでも殺し合いが続いてしまう。

この状態を何とかしなければと、島の最年長の男がみんなに提案を持ちかけた。

和子を正式に結婚させ、その夫と暮らすこと、みんなはその2人に手出ししないこと、そして殺人と権力の元凶である拳銃を海に捨てることである。

幸い、最後に銃を持っていた岩井が殺されて以降、そのような支配者は現れていなかった。だが銃自体はまだ残っていたので、またいつ、銃による支配を考える男が出てきてもおかしくはない。

島の男たちは、和子に自分の好きな男を選ばせて、皆の前で結婚式を挙げ、銃は海へ捨てられた。

このことはこの島にとって大きな区切りとなった。これからは平和な島になると誰もが思ったが、現状はあまり変わらなかった。この後も4人の男が死んだり行方不明になったりした。

最初の殺人が起こってからすでに5年が経っていた。32人いた男たちは、19人になっていた。


和子に正式な夫を決めても、銃を捨てても和子をめぐっての殺人は起こる。

「どうすれば殺し合いをやめられるのか」

残った男たちは会議を開いた。そこで出された結論は「和子を処刑する。」ということだった。和子がいるから殺人が起こる。

明日、和子を殺そうということで全員が一致した。

だがその日の夜、1人の男が和子の小屋を訪ね、このことを伝えた。

「逃げろ。殺される。」


生還者の1人

比嘉和子(ひか - かずこ)

男たちの考えを知った和子は小屋を飛び出し、ジャングルに逃げ込んだ。ジャングルで野宿をする生活が始まった。女一人で夜は明かりもないような環境で、食べるものも自分で何とかするしかない。もちろん男たちに見つかるわけにはいかない。

だが、つらい逃亡生活に入って33日後の1950年6月、和子はアメリカ船が沖をいるのを発見した。すぐに木に昇ってパラシュートの布を振って大声で叫び、救助を求めた。

アメリカ船が近づいて来た時、男たちはまだ戦争終結を信じていなかったために隠れており、和子は無事、このアメリカ船によって救助してもらうことが出来た。

孤島での生活は6年間に及び、その間、殺された者と行方不明になった男は13人に昇った。


和子はこの後、サイパンに送られてそこで一ヶ月を過ごし、グアムに滞在した後、日本に帰って来ることが出来た。救助されてから和子は、この島で起こった出来事や島に残っている日本人の名前、男たちの元の所属など、出来得る限り細かく伝えた。

ただちに彼らの両親や兄弟、妻などにこのことは伝えられた。島の男たちはまだ戦争終結を信じていない。それぞれの両親、妻たちからの200通以上の手紙や日本の新聞がアナタハン島に届けられた。アメリカ軍も島から出てくるように呼びかけた。

それでもまだ、島に残った男たちは、これをアメリカ側の罠と思い、戦争終結を信じようとしない。

和子が島を出て行って1年以上経った昭和26年6月9日、一人の男がこの呼びかけに応じて投降した。自分宛てに来た手紙の封筒が妻の手作りだとはっきり確信出来たからである。この男もアメリカ船に無事救助され、残っている島の男たちに対してスピーカーで説得を行った。

6月26日、この男の呼びかけに応じ、ついに島の男たちは敗戦の現実を受け入れ、全員が降伏してアメリカ船に救助された。彼らはいったんグアムの米軍基地に送られ、その後日本に帰されることとなった。

昭和26年7月26日、飛行機で羽田に降り立った時には、全員が泣いていたという。

マスコミは大々的に報道し、羽田にも、帰還した兵士たちを一目見ようと多くの人々が訪れた。アナタハン島で生存していた男たちは、てっきり全員戦死したものと思われており、戦死の公報も送られていたため、ほとんどの男はすでに葬儀も行われていた。

奇跡の生還として、自分の遺影を持った写真などがマスコミによって報道された。

和子の本来の夫であり、島を出てから消息不明になっていた正一は、すでに帰国しており、和子が死んだものと思って、沖縄で別の女性と結婚していた。

また、アナタハンから帰って来た別の男も、妻が他の男と結婚していたり、愛人がいたりといった事態がいくつも起こった。

中には、妻が、自分の弟と結婚して子供までいたという男もいた。これは話し合いの結果、妻は本来のアナタハンから帰って来た男の妻に戻り、弟との間に出来た子供は養子として迎え入れたようである。


そして、島に流れ着いた4隻の漁船の、他のメンバーについての尋問が行われたが、生還して来た男たちは、みんな「彼らは事故死した」と証言した。だがより詳しく聞いてみると、それぞれで話が食い違い、更に追求した結果、アナタハン島で和子を巡っての殺人や行方不明事件があったことが明らかになった。

このことも大々的に報道され、新聞や雑誌では和子のことを「アナタハンの女王」「32人の男を相手にハーレムを作った女」「女王蜂」「獣欲の奴隷」「男を惑わす女」などと書きたてた。

中には、生きるために仕方なかったと同情的な記事もあったが、大半の記事は和子を非難・中傷したり、事件を面白くするような書き方であった。

人々の好奇の目は和子に集中し、和子のブロマイドが爆発的に売れた。日本はアナタハンブームになり、当分の間、話題で持ちきりとなった。

和子には舞台の話が持ちかけられ、和子の主演で「アナタハン島」という芝居が作られ、昭和27年(1952年)から2年間、全国を巡業した。

また映画「アナタハン島の真相はこれだ!」が和子の主演で製作された。ハリウッドの映画界・スタンバーグ監督による「アナタハン」も完成し、和子は時の人となった。

ただ、和子は、超がつくほどの有名人にはなったものの、それは決して良い意味で名前が知られたわけではなかった。

男をたぶらかして何件もの殺人を招いた悪女のような書き方をされており、和子は芝居が落ちついてからは沖縄で「カフェ・アナタハン」を開いて商売をしていたのだが、相変わらずの報道に沖縄に居づらくなり、本土の方へ引っ越してきた。

東京でしばらくストリッパーをやっていたが再び沖縄へ帰り、34歳の時に再婚した。新たな主人と、たこ焼きとかき氷の店を始め、店も繁盛して、ようやく平穏な生活を取り戻すことが出来た。和子が40代半ばの時に夫が死去し、和子自身も49歳で脳腫瘍により、その波乱の人生を閉じた。

| 未分類 | コメント(0)

ドラゴン危機一発  当時の香港映画は、日本のやくざ映画の影響を大きく受け、しかも残酷さを多く出すことにより観客を引き付けようとしています。 ブルース・リーの映画の中で最も出血の多い映画である事はご存知の事でしょう。 又 映像効果を生かそうとする事で非現実的な状況を作り出す事で映画である事を主張しています。 例えば 暴力シーンを現実ばなれさすことによって、これは映画の中の物語なんですというようにです。 ブルースは、反対に格闘に関しては リアル性を求めています。 主演作といえども、香港では新入りですのでかなりの部分を譲歩した事でしょう。 この事は、ある意味では彼の生徒がこの映画を見た時の感想に現われています。 ブルースに教わったスタイルと映画のそれでは違う事がそれです。 危機一発のアクション監督は、ハン・イエ・チェン(映画内のマイ社長)です。彼は、当時の香港ではアクション振り付けではポピュラーな人物です。 又 大きなアクションとブルース・リーが出るまでの香港のアクション俳優には、本物の武道家は殆どおらず 映像効果で偽者を観客に見せていたわけです。 ですから 他のブルース・リー映画にない、トランポリン・アクションなども出てきます。


















http://www.geocities.co.jp/Hollywood/2097/THE_BIG_BOSS.htm


ブルース・リーの映画的考察


ドラゴン危機一発




ドラゴン危機一発は、ご存じのようにブルースの香港帰国第1作目の主演映画です。
舞台となったタイのバンコックのペイチュンは、ブルースにとっては最悪のロケーション現場であったことは、彼が妻リンダに宛てた手紙からも容易に推測出来ることでしょう
この映画の舞台になった製氷工場は、ペイチュンで撮影されおり、大詰めのマイ社長宅のシーンは、バンコックで撮影されました。
この映画の監督は、少なくとも3人変わり その誰しもがひどい監督であった事はご存じのとおりです。
ブルースは、ペイチュンでの撮影開始後すぐに右手の人差し指を10針縫うけがを負っています。
ただでさえ環境が思わしくないペイチュンでけがをし、アクション撮影を行なわなければならない環境には、かなり厳しいものがあったように推測できます。
しかも 未開地にふさわしく、食べるものに不便があり彼の体重も58キロまで落ちてしまいました。
もしこの環境がもう少し改善されていれば、ブルースのJKDに対する短編映画が作製されていたそうです。
彼が、ドラゴン危機一発の撮影中に恐らくこの映画のアピール用だと思われますがJKDを紹介する短編映画の話がありました。
ブルースのその時の気持ちは、けがの事も体調の事もあり OKを出していません。
今となれば 非常に残念な事です。
映画を見てみると、前半部分のブルースの主演者としての出方が気になります。
当時 ゴールデン・ハーベスト社は、ショウ・ブラザーズ社から分岐して自分の会社を軌道に乗せようと四苦八苦していた状況です。
レイモンド・チョウ氏もブルースに社運をかけていた事でしょう。
一抹の不安が2主演制で何とか売れる映画に仕立て上げたかったというのがこの作品には見え隠れします。
それはドラゴン怒りの鉄拳と比べる事で良く解ります。
ドラゴン危機一発では、ジェムス・ティエンが演じるシューが前半の部分を引っ張る形で物語が進みます。
台本の無い香港映画で監督がころころ変わった実状を考慮しても、途中までは、ジェムスを主役と勘違いしていたところがあるでしょう。
しかし 途中で主役を明確にするため、ジェムスを殺さなければならなかった事がこの作品の残酷さを主張しているように思います。
当時の香港映画は、日本のやくざ映画の影響を大きく受け、しかも残酷さを多く出すことにより観客を引き付けようとしています。
ブルース・リーの映画の中で最も出血の多い映画である事はご存知の事でしょう。
又 映像効果を生かそうとする事で非現実的な状況を作り出す事で映画である事を主張しています。
例えば 暴力シーンを現実ばなれさすことによって、これは映画の中の物語なんですというようにです。
ブルースは、反対に格闘に関しては リアル性を求めています。
主演作といえども、香港では新入りですのでかなりの部分を譲歩した事でしょう。
この事は、ある意味では彼の生徒がこの映画を見た時の感想に現われています。
ブルースに教わったスタイルと映画のそれでは違う事がそれです。
危機一発のアクション監督は、ハン・イエ・チェン(映画内のマイ社長)です。彼は、当時の香港ではアクション振り付けではポピュラーな人物です。
又 大きなアクションとブルース・リーが出るまでの香港のアクション俳優には、本物の武道家は殆どおらず 映像効果で偽者を観客に見せていたわけです。
ですから 他のブルース・リー映画にない、トランポリン・アクションなども出てきます。
非常に低い予算で作られた作品ですが、ブルースを世に送り出した記念すべき作品です。
もしこの作品が辺ぴな片田舎で撮影されなかったら、ブルースを奪うありとあらゆる罠の中、この作品を完成させなければならない事になったでしょう。
ある意味においてもこの貧乏くさい作品が、その後のブルースの人生に大きな役割を果たした事は事実です。
この作品の日本における役割はどうなのでしょう。
日本でこの作品が公開されたのは、リーの死後数ヶ月経っています。
その上 燃えよドラゴンの公開後ですので ブルース・リーブームの真っ只中でした。
しかも日本で公開されたものは、英語圏向けに香港公開当時に急遽作られたものを日本でさらにアレンジしたもので、ブルースが生前に体験したものとは全く違ったイメージを植え付けるものなったと言わざるをえません。
ワーナーとの合作の燃えよドラゴンを見た後にこの作品を見た人は、恐らく落胆した事でしょう。
この映画には、インターナショナルな派手さも無く、しかもフィルム自体が古い為、画面全体にフィルム傷があり 何よりもブルースのアクションが制限されている事です。
しかし 私はこの作品がブルース・リー初体験でしたので、香港の人々と同じ感覚で見れたのかもしれません。
当時の武器社会に対して、素手で正義の為に立ち向かうチェン・チャオ・ワンに対して すごい憧れを抱いたのは事実です。
私は、ブルースの自分の人生にかける意気込みをこの作品から読み取ることができると解釈しています。
あなたは、どう思いますか?

http://kakutei.cside.com/dragon/movie/bigboss.htm



ドラゴン危機一発
THE BIG BOSS
ゴールデン・ハーベスト作品
監督/羅維(ロー・ウェイ)
香港公開/1971年10月31日
日本公開/1974年4月13日
個人的オススメ度(5点評価)…★★2



あらすじ

水害で飢饉となった香港の田舎町を離れ、タイまで出稼ぎにやって来たチェン(ブルース・リー)は、いとこのシュウ(ジェームズ・ティエン)らが働く製氷工場に勤め始めた。しかしこの工場、製氷業は建前で、本業は麻薬の密売だった。その事実に気づいた者は次々と行方不明になってゆく。不審に思ったチェンらは工場長を問い詰め、密売組織との抗争に発展する…。ブルース・リーの成人後の初主演映画。


― 安っぽさの中にひときわ光るドラゴンの原石 ―

 香港に帰ってきたブルースが、初めて主演をつとめた作品だが、日本では「燃えよドラゴン」の後に公開された。そのため、ブルースのキャラや表情が「燃えよ~」と随分違い、日本のファンは戸惑ったらしい。しかし、アクションシーンになると映画館は熱気につつまれ、歓声が沸き、プロレス会場のようであったという。ビデオもなかった当時の映画館の熱さが伺えるエピソードだ。

 舞台はタイで、ロケも実際にタイで行なわれた。当初は、共演者の田俊(ジェームズ・ティエン)が主役を張る予定だったようで、途中までは彼の方が目立っている。ところが、脇役のはずだったブルース・リーの動きと表情が余りに良いので、途中から主役を彼に代えて撮影したという。信じられない話だが、当時の香港映画界はそういう環境だった。撮影1週間前になってもシナリオすらできていなかったし、監督も決まっていなかった。台本もなく、監督の行き当たりばったり。制作費は桁外れに安く、本作も当時の日本映画の半分以下で作られた。資金調達もままならず、現地のお菓子メーカーがスポンサーについたおかげでようやく撮影をスタートすることができたらしい。最後の方でブルースが格好良く食べているスナックは、そのメーカーのものだろうか? それでも、この映画は香港で当時一番ヒットしていた映画の興行収入を軽く抜いてしまったんだから、大したものだと思う。それだけ当時の香港映画がひどかったんだろうが。





主役を降ろされた挙句、殺されてしまう田俊…ひどい(笑)。とにかく人が死にまくる


ベッドシーンはこの後の作品に登場しない。
 


 そんな環境だったから、ストーリーもひどいものである。タイの田舎町に働きにやってきた青年・チェン(ブルース)の仲間が次々と殺されて行き、最後は敵討ちをするという話。これはローウェイ(監督)が悪いのだろうが、とにかく人を簡単に殺し、最後は子供を含めた登場人物がほぼ皆殺し。当時とはいえあまりに安直すぎる。第1作目なので、シナリオにはまだブルースの意思はほとんど反映されていない。武術指導も違う人がやっているので、他の映画に比べブルースのアクションも少しイメージが違う。ナイフなどの刃物の多用で血なまぐさいシーンが多く、トランポリンを使って高く飛んだりする。実戦的な格闘を撮りたかったブルースとしては不本意な面も多かったと思う。

 ブルース以外のキャストのアクションはヘボくて見ていられないから、彼のキレのいい動きと力の入った表情だけが浮いて見える。「ビッグボス」もあまり強そうに見えないし、全然ビッグじゃない。ラストシーンではそのボスがもう死んでいるのに馬乗りになって何度も殴り続けるのだが、そこまでやらなくても…と思ってしまう。そして、「敵討ちとはいえ、人を殺したら逮捕されなきゃならない」という、いかにも香港らしいつまらん道徳観が取り入れられ、警察に連行されて終わるオチ。救いがないし、後味も悪い。

 よって、ブルース・リー映画を初めて観る人には決しておすすめできないが、なんといっても記念すべき第1作。ブルースは「燃えよドラゴン」では見ることのできない、初々しく可愛い表情をするし、唯一のベッドシーンも演じる。それを観るためだけに存在する映画といっても過言ではない。

それと邦題だが、どのへんが「危機一発」なのかが分からない。「怒りの鉄拳」とか「~への道」はまだ分かるが、「危機一発」は意味不明だ。正しい漢字としては「危機一髪」だが、敢えて「発」の字を採用したと聞くが、そのあたりも含めて適当に決めたのだろう。(2003年3月1日 哲坊)

http://www.h4.dion.ne.jp/~b3k/9ron/dennei/honbun/kiki1.htm

ドラゴン危機一発

 やはり「自称ブルース・リー未亡人」と名乗っている以上、リー先生の作品を紹介せずにはおられませんな。ブルース・リー作品の見所を解説していきましょう。
 日本で初めて上映されたブルース・リー主演作は「燃えよドラゴン」でしたが、実は子役時代を除けばこの「ドラゴン危機一発」が主演第一作なのです。
 「燃えよドラゴン」の最高にカッチョイイ彼を見た後には、ちょっとばかしショックの大きいチープすぎる作品です。私が初めてこの作品をTVで観たのは子供の頃でしたのでそれ程ショックは受けなかったのですが、さすがに大人になってから観ると どこからツッコミをいれてやろうか 悩む位貧粗です。フィルム全体に走る無数のキズは「低予算」のそれを充分に感じさせてくれます。そしてリー先生そのものもまだまだ子供っぽく、筋肉もおおざっぱで実に健康的です。それでも撮影中、63kg あった体重が 58kg まで減ってしまったそうです。

 ストーリーは、リー先生演じるチェンが、水害に襲われた中国の田舎からタイの製氷工場に出稼ぎにやってくるところから始まります。チェンは力が強くケンカにも負けた事がない位の男なのですが、母親から「ケンカをしてはダメよ。ケンカしそうになったらこのヒスイを見て私を思い出して」と渡されたペンダントをいつも首に下げています。なのにオープニングからいきなりのケンカのチャンス!
 まぁ、そこはお約束のいとこの登場で母親との約束は守られる訳ですが、このいとこのシュウ役の 田俊(ジェームズ・ティエン)、アクションがヘロヘロ! この人って香港では有名なアクション俳優だしブールス・リー作品にもよく顔を出しているんですけど・・・、どうもアクションがイマイチだと思うのは私だけでしょうか?

 で、シュウの案内で仲間達の待つ寮にやって来たチェンは、ここでシュウの妹のチョウメイ(或いはチャオメイ)と出会って、お互いに意識しちゃうんですけど、他のみんなの話している内容が あまりにシュール なので、せっかくのカワイイシーンを台無しにしています。
 チョウメイ役の 衣依(マリア・イー)はそれ程美人という訳ではありませんが、大人しそうで優しい印象があります。ただ‥‥、あのおさげのヅラは・・・・。
 実際にリー先生のことは好きだったらしく「彼に奥様とお子さんがいなかったら、私は彼からのプロポーズを待っていたでしょう」などと、顔に似合わない大胆な発言をしてましたっけ。「ドラゴン怒りの鉄拳」にも出てます。
 この作品にはマリア・イーの他に 苗可秀(ノラ・ミャオ)も氷水を売る女としてチラッと出演しています。彼女はマスコミから「ブルース・リーの永遠の恋人」と呼ばれていました。今でもなかなかの美人です。女性の趣味が悪いと言われるリー先生にしてはいい選択と言えます。

 さて、チェンは とんでもない疫病神 らしく、かれがタイにやってきてからというもの、次から次に事件が起こります。遂にはシュウまでもが巻き込まれ、『田舎が水害になったのもテメエのせいじゃねぇのか?』と思わずにはいられません。ちなみにシュウと一緒に工場長に会いに行く人、「燃えよドラゴン」にも出てました。チェックしてみて下さい。
 チェックしてほしいと言えば、この作品の中でリー先生は 右手人差し指に包帯 をしています。実はこれ、小道具のコップが割れてグサッと刺さってしまった本当のけがなんです。何せ低予算ですから、松ヤニなんて使ってられなかった訳ですよ。あ~、どこまでも貧乏臭い。

 もう一人、チェックしてほしい人物がいます。のちにキョンシー・シリーズの道士役で人気を集める 林正英(ラム・チェンイン)さんです。残念ながら彼も数年前この世を去られてしまわれましたが、彼もまた香港電影界の輝かしい1ページを飾った人物として永遠に名を残すことでしょう。でもこの作品ではまだまだ若いチンピラにしか見えません。
 さて、チェンったら突然現場監督になっちゃって、訳の分からないステキな行進 でご帰宅です。その行進にチョウメイも参加してたのに、兄のことを忘れてはしゃいでいるチェン達に、いきなりの涙攻撃です! あんたもさっき兄ちゃんのこと忘れて行進してたくせに!
 女に泣かれて困ったチェンは、シュウ達の行方を聞きに工場長の所に行くんですけど、工場長にタイのおねえちゃんが沢山いるパブに連れて行かれてベロンベロンにされちゃうんです。
 実際のリー先生は私と一緒で全くお酒はダメな人なんですけど、ここでは目がイッちゃっててカワイイ酔っ払いを演じています。
 このパブは元々売春宿らしく、この後、高校生だった私をジェラシーの渦へと巻き込むシーンへと展開します。
 でもねでもね!日本公開版の時には「女に免疫のない純情な青年」として描かれていたチェンですが、本当は 精力絶○男 としてロー・ウェイ監督は撮ってたらしいんです。そういえばオリジナル予告編を見ると、チェンがおねえちゃんをベッドに突き倒し、自分も服を脱ぎ、 ○毛ギリギリ のところまで見せて「どうだあ~!」と仁王立ちになっているのをおねえちゃんがウットリ見つめているカットが入っていました。しかもそこには「The New Idea」の文字が・・・。う~ん、それはそれで観てみたい気がします。

 次の日、売春宿から仕事場に行こうとした彼は、入り口でチョウメイとバッタリ!唐突に軽べつした顔でチェンを睨むチョウメイですが、私に言わせりゃあ『あんたもそんなとこ歩いてんじゃねえよ』です。で、あっさりと仲間達にも見損なわれちゃうチェンですが、やっとのことで社長に直接会って、シュウ達の行方を聞けることになります。
 この社長役の 韓英傑(ハン・インチェ)さんは香港で初めて・・・、ということは世界で初めて「武術指導家」を名乗った方で、数々のクンフー映画で活躍されていました。「ドラゴン怒りの鉄拳」にも顔を出されています。91年に亡くなりました。
 社長の息子役の 劉永(トニー・リュウイン)さんもブルース・リー作品ではお馴染みの方です。それにしても社長のヘアスタイル・・・・。ありゃあ一体なに分けだい?

 社長宅でチェンを出迎えたのは4匹のシェパード犬で、お約束通り一斉に襲いかかるんですけど、どう見てもスタッフが無理矢理犬を投げ飛ばしているんです。そしてこの時、ブルース・リー作品では珍しいんですけど「トランポリン」を使ったアクションを見せてくれてるんですよ。
 で、社長親子のざあとらしい芝居にまんまとひっかかったチェンは、結局シュウ達の情報を手に入れられません。そんなポンコツのチェンすらも心配してくれる優しいチョウメイを置いてまでチェンたら又も売春宿へ。『そんなにHがしたいのか?』と見ていると彼は、昔社長宅で働いていたというおねえちゃんからものすご~く重要な話を聞き出し、Hもせずに早速製氷工場へ。
 そこで、ある物と同時に氷漬けにされた マネキン! いやいや消えてしまった仲間達と 引き伸ばされたシュウの写真! いやいや 氷漬けになっているシュウを見つけます。そこに社長の息子とその手下どもが現われ死闘が始まります。
 又もブルース・リー作品には珍らしく、ナイフやらノコギリを使ったアクションが繰り広げられます。そして、ふざけているとしか思えない 人の形にカベが抜ける シーンも見ものです。
 手下どもをさっさと片付けたチェンは社長の息子と闘いますが、この時腕をナイフで切られたチェンは、その血を舐めてプッと吐き出すという「燃えよドラゴン」と同じ行動を取るんです。「燃えよドラゴン」の時はお腹の血でしたけどね。

 社長の息子もやっつけたチェンが寮に戻ってみると、何と仲間達が皆殺しに! チョウメイも行方不明。あんたトコトン疫病神だな!! って感じです。怒りに震えたチェンは、自分の荷物を全て川に放り投げ、勢い勇んで社長宅へ!!
 ・・・・・と、日本公開版ではこの後カットが変わった途端、のうのうとスナック菓子をパクつぎながらチェンが社長宅にやって来るのですが、一体その金はどこにあったんだ?! 全て川に投げ捨てたんじゃなかったのか? ・・・・と以前は思っていたのですが真実は違っていたのです。
 実はオリジナルの方では川に荷物を捨てたチェンは『もう来られないかもしれないから』と、又も売春宿に行って、それはそれは激しいプレイ を展開していたらしいのです。それが前にご紹介した○毛もギリギリのシーンです。なのでこのスナック菓子はお相手をしたおねえちゃんから貰ったか、或いはそのおねえちゃんにお金を貰って買ったかのいずれかだと推測できます。ん? じゃあ一体H代は?

 まあ、そんな事はいいとして、社長宅に着いたチェンは尚もスナック菓子を食べながら手下どもを次々に倒してゆきます。社長はと言えば、鳥カゴ片手の イカしたポーズ でお待ちかね。遂にチェンと社長の一騎打ち!!

 さあ、この後はご自身の目でお確かめ下さい。
 本来怪鳥音が入っていないこの作品、某社のビデオ化では他の作品から勝手に怪鳥音を入れられたり、音楽を替えられたりしてしまいました。
 チッ! 余計な事を・・・・・。この作品はチープなところが魅力です。

 なるべく「燃えよドラゴン」の後には観ないで下さい。

| 未分類 | コメント(0)

太陽を盗んだ男 ■太陽に照らされたい受身の姿勢が人類の本質 この作品はよく現代人の「心の闇」を描き出した作品と解釈されているが、その解釈は間違っている。この作品は「心の闇」ではなく、民主主義の本質を描き出した作品なのである。権力者はほとんどの場合、権力を握ることが目的であり、権力を握った後は、「何をしたいか教えてくれ?」と問いかけるが、返ってくる返事はいつも利己的な回答ばかりなのである。 信念なぞ存在しない惰性の中で生きるものたちによる民主主義なぞこの程度のものと憎々しくも言い放っているのである。「もし何でもできるなら?」→「即答できない」をもってして「何もない」ではなく。「もし何でもできるなら?」→「そんな力は利己的であり、拒否する」姿勢が重要なのであり、人類は絶えず「もし何でもできるなら?」に振り回されてきたからいけなかったのである。 そもそも一人の人間が「何でもできること」など許されないのである。しかし、昔から人類史上独裁者、皇帝、総統、天皇陛下といった「何でもできる」人間の存在が許されてきたのである。「太陽を盗んだ男」とは、長谷川和彦が一般人に置き換えて考えてくれという風に装った、歴史上の権力者及びそれに追随するもの達への皮肉なのである。「こうして太陽を私物化した男に世界は滅ぼされていく」と。


























http://summaars.net/taiyo.html

太陽を盗んだ男   (1979・キティ・フィルム)
■ジャンル: アクション
■収録時間: 147分

■スタッフ
監督 : 長谷川和彦
製作 : 山本又一朗
原案 : レナード・シュレイダー
脚本 : 長谷川和彦 / レナード・シュレイダー
撮影 : 鈴木達夫
音楽 : 井上堯之

■キャスト
沢田研二(城戸誠)
菅原文太(山下満州男警部)
池上季実子(沢井零子)
伊藤雄之助(バスジャック犯)
西田敏行(サラ金の取り立て屋)



日本という国が如何に偽りの民主主義の上に成り立っているのか・・・ぞっとするほどの薄ら笑いを浮かべて描き出された作品。皇居に太陽を投げ込んだ男!長谷川和彦が、原爆のように全てを破壊しつくす!黒く塗れ!そして、太陽で照らせ!ホンモノの地獄は、こうして作られていくのだ!一人の男がぼぉ~っと歩きながら・・・そう、あの皇居にいた男も同じようにしていた時に、広島に太陽は落とされ、長崎に太陽は落とされたのだ!「太陽を盗んだ男」それは皇居にのうのうと暮らしていたあの男自身の姿だった!あの男が太陽を盗み、黒く塗ったのである!


■あらすじ


堀口中学校3年3組担任城戸誠(沢田研二)は、物理担当の教師である。教師でありながら遅刻の常習犯であり、かつて熱血漢だったこの男は、学校では今や「フーセンガム」と生徒からあだ名される抜け殻のような男だった。しかし、学校が終わると彼はそそくさとボロアパートに閉じこもり自宅で原爆を作っていたのだった。


■太陽を盗んだ男=太陽を盗んだ天皇



不真面目な姿勢で、真面目な姿勢を凌駕する。それは恐るべき才能である。こういう不真面目な姿勢の作品はこっちも不真面目な姿勢で真理追究をしなければならない。つまり笑えるところは思いっきり笑い飛ばすんだ!太陽を盗んだ男を黒く塗れ!そう死の黒い雨で!

この作品の魅力は単純に言うと「一人の冴えない男が原爆を作り国家に反逆するロマン」である。そして、複雑に言うと「皇居に当時いた男が、日本国民にした行為を一人の男を通じて再現した悪夢」である。つまり「悪夢は無邪気さの中で生み出されるからこそ悪夢」ということである。いい大人が「陛下は仰せられた」と真面目な顔をして言い放てるって無邪気だよな?

本作は長谷川監督の中に抱えこまれた原爆が炸裂した作品であり、だからこそこの作品は、オンリー・ワンの輝きに満ちているのである。魅力的な作品の素晴らしい要素でもある「陳腐さ」と「時代の先取り」と「深遠さ」が混合されている作品。この三つの要素が組み合わさると「中毒性」=「常習性」を作品は持ちうることになるのである。


■お前は何がしたいんだ?



「俺は原爆を手に入れた、しかし、何がしたいんだ?」と「私は天皇に即位した、しかし、何がしたいんだ?」は同義語である。これがこの作品の真意であり、さらにそこに「私たちは何がしたくて生きてるんだ?」の次元にまで昇華するのである。

天皇陛下が情報を遮断され、官僚と政治家に利用されたように、科学・情報色々と進歩はしたが、現在に生きる私たちは何か自分で地に足をつけて生きている感じがしない居心地の悪い気持ちを心に秘めて日々過ごしているのである。だからこそ、「何でも出来る」と言われても、「じゃあ何をしたいんだ?」になってしまうのである。

日常の不満さえも、本当に自分が不満に感じてるのか?不満に感じないといけないと一般的に言われてるから感じてるのか?そういった実に分かりにくいものを抱えて生きているのだ。だからこそここまで「日本のタブー」を不真面目に描いた作品に魅力を感じるのである。

「これ作ったヤツラって、本気でバカだよな」と。日本人が最も恐れる行為。それはバカになることである。しかし、この監督は日本でも稀有な素晴らしいバカをやってのけた。そして、彼の中の平凡さが、バカをした自分と、よりホンモノ思考の自分との葛藤を生み出して、もはやモノを生み出せなくなってしまったのである。


■太陽に照らされたい受身の姿勢が人類の本質


この作品はよく現代人の「心の闇」を描き出した作品と解釈されているが、その解釈は間違っている。この作品は「心の闇」ではなく、民主主義の本質を描き出した作品なのである。権力者はほとんどの場合、権力を握ることが目的であり、権力を握った後は、「何をしたいか教えてくれ?」と問いかけるが、返ってくる返事はいつも利己的な回答ばかりなのである。

信念なぞ存在しない惰性の中で生きるものたちによる民主主義なぞこの程度のものと憎々しくも言い放っているのである。「もし何でもできるなら?」→「即答できない」をもってして「何もない」ではなく。「もし何でもできるなら?」→「そんな力は利己的であり、拒否する」姿勢が重要なのであり、人類は絶えず「もし何でもできるなら?」に振り回されてきたからいけなかったのである。

そもそも一人の人間が「何でもできること」など許されないのである。しかし、昔から人類史上独裁者、皇帝、総統、天皇陛下といった「何でもできる」人間の存在が許されてきたのである。「太陽を盗んだ男」とは、長谷川和彦が一般人に置き換えて考えてくれという風に装った、歴史上の権力者及びそれに追随するもの達への皮肉なのである。「こうして太陽を私物化した男に世界は滅ぼされていく」と。


■セスナ機で特攻せよ!


ある意味この作品の作風は、そのレベルに遠く及んでいないが、タランティーノに影響を与えている。特に『ナチュラル・ボーン・キラーズ』(1994)の原案に影響が色濃く見られる。しかし、タランティーノには哲学がないので、長谷川には遠く及んでいない。

長谷川は彼の幻のデビュー作である和製洋物ポルノ製作に協力した友人でもある俳優前野霜一郎(1955-1976)についてかつて言及していた。前野は1976年3月23日に児玉誉士夫宅にセスナ機で特攻した男である。「しかし前野よ、どうせ突っ込むんなら児玉なんてケチな事を言わないで皇居に棲んでいるあの顔面神経痛のジイサンの上に突っ込めば良かったんだよ。そうさ「天皇陛下万歳!」と叫んで。いやいや、それもまた道化芝居にすぎないだろうか」と1976年にユリイカに書き記している。

そして、長谷川は1979年に「太陽を皇居に放り投げた」のである。


■エネルギーとは何ぞや!



おいまた遅刻してやがんのフーセンガムの奴、ふざけてるよな~まったく。でもよ~うちの兄貴が言ってたんだけどさ、昔はスゲー熱血漢だったらしいぜ。あれでも・・・

何とも不穏なピアノの前奏曲の中、双眼鏡を眺める精悍な顔と、満員電車で出勤中に窓ガラスに顔がへばりつく顔の対比の見事さ。「フーセンガム」というあだ名の物理教師・城戸誠。彼は全くやる気のない教師だった。「原子爆弾の作り方」を説明する時以外は・・・。

しかし、この教師の姿は、本質的に現在の教師の姿そのものである。教育を受ける環境に生きていない生徒に、教育を与えないといけない教師。かつて、生徒の注意を削ぐものは少なかったが、今は生徒の注意が散漫になるモノで世界中が溢れかえっている。こんなモノに溢れた世の中で、どこの若者が注意して教師の話なんか聞くんだ?

城戸誠の熱血時代が、終焉したのも必然だった。彼は若者を見てこう感じたのだ。「こいつらってとことん救いようがないんじゃねえか?」と。そして、さらにこう感じた。「オレも救いようがないかもな」と。モノに囲まれることによって、捨てるものも多くなり、そして、捨てる習慣が、人生の習慣になってしまうのである。


■絶妙のバランスの悪さ=熱気


予断ではあるが、本作に水谷豊と西田敏行が出演している。実際はゲスト的な数分の出演だが、この両シーンはまさにドリフのコントの延長線上にある。これはこの映画における城戸誠のジュリーらしい一瞬であり、いわばサービス・ショットである。この作品の魅力は、あくまでも不真面目なのである。それも真面目に不真面目なのである。

猫の名前はニャロメ。ウルトラマンレオといい陳腐な不真面目さの中に、実に先鋭的な哲学を潜り込ませているのである。それも監督さえも意思しなかった状態で、無意識のうちに作り出されているものもある。この絶妙のバランスの悪さが、この作品の根幹なのである。

バランスなんてものは、熱気ではなく「あきらめが生み出したものに過ぎないんだ!そんなもの死んでるぜ!」


■天皇陛下にお話ししたいことがある!



陛下にお話ししたいことがあるんだ!陛下にお話しせねばならん!子供を・・・息子を返していただく!

そう言いながら機関銃と手榴弾を持った「八つ墓村」並みにやばい状況の戦時中の国民服姿のジジイが、城戸誠が引率する中学校のバスをバスジャックする。「皇居に行くんだ!」といい放つジジイ。この役柄を演じる伊藤雄之助(1919-1980)の迫力は恐ろしいばかりである。この作品の翌年に死去するのだが、この人の凄みが、特別出演を超えた「役柄の重み」を与えている。この役柄に説得力を与えた彼の名演は、本作のかなり重要な要素であった。

「何を教えておられるんですか?先生は」山下「理科です」城戸「こういう時は理科もあんまり役に立ちませんな」山下

菅原文太(1933- )扮する山下警部が登場する。とにかくカッコよすぎる。そして、本作はその役柄のゾンビぶりに目をとられてしまいがちだが、文太兄いの凄まじい名演ぶりを忘れてはいけない。この2人の上記の会話が、のちの戦いへとつながっていくのである。

まさに『狼の午後』陣形で逃亡を図る雄之助。しかし、山下の身を挺した獅子奮迅の活躍の前に、絶句しながら死に絶える雄之助。なんなんだよ。この叫び声は!なんでこんな声が出せるんだよ!

まさにこの雄之助が「陛下に会いたい」と言った要求と、後に城戸誠が要求する「ローリングストーンズを来日させろ」という要求は、実はその要求の違いに落差なぞ存在せず、その要求の不毛さにおいて全く同義的に描かれているのである。

しかし、長谷川の天才性は、このシーンを敢えて落差を感じさせるように撮っている所にある。この老人と若者の要求の違いを見てみなよ。昔は、主張があり、今は主張がないという風にである。しかし、良く考えてみなよ。「天皇に会ったからといって何が変わるんだ?」事実は昔も今も変わってねえんだよ。

ちなみにこの皇居のシーンは、無許可でバスを突っ込ますゲリラ撮影により撮影された。しかし、このシークエンスを撮れるヤツラが日本中に今どれだけいるか?間違いなくほとんどの日本の監督は、根本的な問題に眼を背けている!そろそろ小市民的な映画ばっかり撮ってないで、長谷川のような広がりのある映画を撮ってみなよ。


■俺は東京を黒く塗りたいんだ!



原爆は誰にでも作れる。この太陽の力を君達の手に取り戻した時。君達の世界は変わる

そして、東海村の原子力発電所に侵入する城戸誠。このシーンの高揚感あふれる音楽と静止画像とコマ送り映像の組み合わせは見事としか言い様がない。インベーダー音、火炎放射器と何でもアリである。しかし何よりも興味深いのは、城戸誠が侵入前に自身の顔を黒く塗っていることである。しかも、全身黒づくめ。

黒に彩られることこそ原爆の象徴であるのである。原爆が落ちた後に必ず黒い雨が降る。そして、人々は「黒く塗られる」のである。そして、ローリング・ストーンズの曲に「Paint It Black(黒く塗れ!)」という曲がある。


■バカな私とバカなあなたの共犯関係!


季実子とならバカな共犯関係になってやるぜぇい!

そして、遂に登場する戸惑いの瞬間。そうブタブタジョッキーの瞬間である。池上季実子(1959- )扮する沢井零子の登場である。このDJの描写は見事なほどにはずしまくっている、いわば「負の描写」である。池上季実子の当時の演技力の拙さももろに露呈している。

とにかく「プルトニウム・ラブ」などつまらないネタを連発するのだが、まあ当時のラジオ空間は多分にサブイノリなのでしょうがないだろう。逆に言うと池上季実子の美貌に救われているようなものである。ちなみにこの女優さん。私が約2年に渡って付き合い、同棲した女にそっくりなのでちょっと苦手だ。

「もう涙なんか 枯れてしまった 明日からは身軽な私 風のように自由に生きるわ 一人ぼっちもああ気楽なものさ~ 目を閉じて 心も閉じて~」

そして、カルメン・マキ&OZの「私は風」の流れる中、零子と城戸誠は最初の会話を交わすのである。それにしてもこの曲の歌詞。まさに城戸の心情を歌っている素晴らしい歌詞である。


■数字に支配された女・沢井零子



「彼は、私たちみんなに夢を与えている」「原爆のアラジンの魔法のランプ」

なんてことまで零子は言い出すのだが、このバカさ加減を笑ってられない所は、実のところ冷戦下のそして、現在の核保有国の言ってる論調と零子のバカなネタが同じレベルにあるからなのである。

「俺は9番。9の次はゼロ=零なのさ」

城戸誠というバカなあなたとバカな零子が共犯関係になっていく過程で、与えられた零子の使命。それは太陽に対する崇拝だった。さあ彼女の発言と行動をさわりだけ分析してみよう。こういう所で食べると70円の豚汁も7000円に感じるわ、という薄っぺらな台詞。36本の城戸誠の髪の毛・・・。

そうゼロの女は、数字にこだわる女性=リスナーの反響に拘る女性であり、現在に生きる人々の象徴なのである。現実に向き合う人間は、非現実的な力に吸い寄せられるものである。それは計算高い人間だからこそ、自分が計算できないものは「計算できない」という一つの要素だけで惹きつけられてしまうのである。


■やっぱり猫が好き



狭いボロアパートで原爆を黙々と作るその姿。昼の抜け殻のような彼と夜の鋭い眼差しの彼の対比が実に効いている。もちろん「鉄腕アトム」の歌を口ずさむセンスのベタさぶりは失笑ものだが、このセンスのなさがある意味凶器なのである。でも想像してみなよ。物理の教師がアトムを口ずさみながら原爆作ってる姿を。

この辺りから「ヒロシマ」を象徴するものが多く登場する。その一つ目が原爆製作の合間にビールで一休みする時にテレビで流れるプロ野球のナイターゲームである。後楽園球場で巨人―広島戦である。このシーン以降、ファミリアのCM、都内を暴走するマツダのサバンナRX-7とコスモ。そして、菅原文太といった風に広島のシンボル的なモノが登場するのである。まさに東京に「原爆」がやって来た日なのである。

そして、ついに原爆は完成しその瞬間、ラジオからボブ・マーリーの「Get Up, Stand Up」が流れ、ガイガーカウンターをマイク代わりにはしゃぐ城戸の姿の無邪気さが映し出され、フェイドアウトしていく。この原爆製造過程の細かさが、本作の不真面目さに一本筋を通しているのである。


■日の丸を盗んでるヤツラの根城に忍び込め!


完成した「太陽」を抱えて、女装姿で国会議事堂に潜入するその人を喰った様な展開。そして、第一の要求が出されるのである。「ナイター中継の延長」である。しかし、この要求が通るともうそれ以上の要求は思いつかなかったのである。この描写が実に素晴らしく。「何もない」ことに対する批判的姿勢ではなく。「絶対権力」を手にしたところで、一人の人間の権力の行使などたかがしれてるんだぜ。とまさに現世においても権力を勝ち取るために「日の丸を盗んでるヤツラ」に対しての痛烈な皮肉を突きつけているのである。

「オマエらそこまで周りを貶めて、最後に何したいんだ?」と。ちなみに城戸が女装姿で国会議事堂に入るシーンも、アポなし撮影されたものである。


■ローリング・ストーンズ来日の見出しの新聞を読む男



「俺の名前は9番」

と山下に電話越しに名を名乗る城戸。当時の核保有国は非公式のイスラエル、南アを含めると8ヶ国だった。そして、第9番目が個人になるというこの発想の世界規模な新しさ。

「日立のビーバールームエアコンってのが良いらしいぜ」「住所教えてくれたら送ってやるぜ」

「5億といわずに50億ぐらいでどうかね?どうせうちの政府はろくなことに金を使わんのだから」

警察に包囲されたデパートに5億円の身代金を受け取りに現れる城戸。警察の包囲網に追いつめられていく中、トイレで歯茎から血が出ているのを見つけるシーン。すでに髪が抜け始めている城戸は自身の「原爆症」による死が近づいていることを知る。そして、ピストルを咥え自殺しようとする。彼のトイレはヨーロピアン・スタイルである。

「5億円で東京が救えるんだ、安いもんだろ」

しかし、城戸は死ねなかった。「惰性で生きてる男ほど、死を恐れるものである」これはまさに山下警部との対比である。なんとか5億円をデパートの屋上からばら撒かせることによって、その混乱に乗じて逃亡に成功した城戸だったが、彼は「太陽を失ってしまった男」となった。この東急デパート札束ばらまきシーンも撮影許可なしで撮影が行われた。


■首都高速を盗んだ男・長谷川和彦



しかし、警察の包囲の中、ターザンのように窓ガラスを突き破り「太陽」をいとも簡単に奪い返すこの不真面目な展開には誰もが唖然とするはずである。これ以降、物語は「車のアクセルを踏みしめるかのような不真面目ぶりの加速」でひたすらに暴走するのである。走れるとこまで走ったレや!的発想の元に以降進んでいく。

伝説の首都高速を何台かの車で道を塞ぎ不法占拠しての無許可カーチェイス・シーン。城戸が乗るサバンナRX-7と山下が乗るコスモLのカーチェイス。サバンナが飛び、コスモは上半部が切断されながらも走り続けるのである。コスモ廃車後は、さらにヘリの足につかまって、山下は『戦国自衛隊』のサニー千葉よりもはるかに危険な状態で銃を乱射するのである。

しかし、このシーン明らかに文太兄いが実際にぶら下がっているシーンがある。その前の廃車シーンでも凄まじい爆風と爆音に文太兄いが巻き込まれているのだがこれって芝居を越えて危険すぎじゃないか?しかも、ヘリからダイブするのだが、このダイブシーン一体何十メートルから落下してるんだ?実際このダイブシーンは予定より高度からスタントマンが落下し、両足を骨折したというというが、しかし、あの高さ。ジャッキー・チェンでも死ぬよな。普通なら。


■太陽と不死身の男



「この街はとっくに死んでいる。死んでしまっているものを殺して何の罪になると言うんだ」

「ふざけるな!お前のようなヤツに人を殺す権利などあるもんか。お前が殺していいたった一人の人間は、お前自身だ。お前が一番殺したがってる人間は、お前自身だ」

このラスト・バトルの狂気は、もはや不真面目の極みである。「山下の最後の姿」を顧みて、この役柄は、この当時の菅原文太以外できる役者がいないなと感じたときに、この役者の持つ凄みが伝わってきた。

「さぁ、いくぞ!9番!」

「あぁぁぁぁ~~!」城戸の叫び声の情けなさとターザンよ再び。そして、マジに骨折する角度で落下する沢田研二の姿。オマエたちどうしてココまであつくなれたんだ!この最後の最後のシーンで、確信した。実はジュリー(1948- )は「自分の作られた偶像」に疑問を抱いていたのだ。


■20世紀はもう過ぎ去ったぜ!長谷川和彦!



この作品は長谷川が『タクシードライバー』の脚本を書いたポール・シュレイダーの兄レナード・シュレイダーにオリジナル脚本を依頼した。彼の妻チエコは日本人であり、レナードは『ザ・ヤクザ』(1974)の原作者であり、『蜘蛛女のキス』(1985)の脚色でも有名な人である。

「何でもない普通の青年が原爆を作って時の政府を脅迫する。その第一の要求は"テレビのナイター中継を最後まで放送しろ"だった」というアイデアから脚本を監督とレナードで煮詰めていったという。原題は「The KID who Robbed JAPAN」だった。主人公の城戸誠は元々ショーケンで予定されていたという。

監督の長谷川和彦(1946- )は、広島生まれで、母が原爆投下2日後に広島市に入り放射能を浴びる。長谷川は胎内5ヵ月のため胎内被爆となった。のちに東京大学文学部英文科に進むも映画監督を目指して美学科に変わり、在学5年目の1968年大学を中退した。

1976年に中上健次原作『蛇淫』を脚色した『青春の殺人者』で監督デビュー。生涯に2作品のみという超佳作ぶりから日本でも伝説の映画監督と言われている。本作は『銀河鉄道999』の大旋風の中公開された作品だが、興行成績的には全くヒットしなかった。しかし、現在においてはカルト的という意味を遥かに超えた影響力を持つ作品として認知されている。

- 2007年8月25日 -

| 未分類 | コメント(0)

椿三十郎  ■製作委員会?ケッ・・・何が委員会だ。学級委員じゃあるまいし 三船敏郎 三船敏郎 まず最初に避けて通れないのが、リメイク版に対する言及である。端的に言うならば「この作品の本質が分かっていないからこそ、リメイクする気になれたのだろう」。この作品は完成されており、それ以上は求めることは出来ず、もし求めるならば質の悪い模造品にならざるを得ない。 森田芳光もよる年波なのか?金銭的な問題なのか?または名誉欲なのか?見事なまでに創造性の欠けらもない模造品の作成を請け負ってしまった。役者に関して言うならば、例の如くありきたりな野性味の欠けらもない安全パイそのもののキャスティングである。テレビ局に飼われた犬が野良犬を演じて、まともな観客が感嘆するとでも思っているのだろうか?相変わらずテレビ局というものは映画を舐めきっている。 このキャスティングが物語るのは、一重に織田裕二という極めてスクリーン映えしない役者に対する過剰な期待だろう。彼に最も興味のない世代は20代から30代前半といわれている。その理由は、彼からはギラギラした野性を感じない所にある。どんな芝居をしてもスターの輝きはなく、そこにはテレビ・スター織田裕二の残り香しかない。演技力はあるにしてもそれはアップの芝居にしか耐えられない。 このリメイク版においてもアップが多用されていた。しかし、映画監督なら「テレビはアップで、映画はロングショットでという基本に帰るべきだ」。それを忘れた瞬間から映画のスケール感は失われ、ただの大きな箱庭劇に終始してしまう。このリメイク版は画面の方が30倍大きすぎたような作品になってしまった。 製作総指揮・角川春樹、製作にはテレビ局の名が連ねられていれば、もう作品としてダメになることは約束されているようなものだ。それにしても、そろそろ製作委員会という括りはやめるべきだろう。学芸会のような雰囲気しか匂ってこないこのネーミング・センスはいい大人がつける代物か?どうやら日本語に対する欠落が激しいのは若者よりもいい大人の方かもしれない。































http://summaars.net/sanjuro.html

椿三十郎   (1962・黒澤プロ=東宝)
■ジャンル: 時代劇
■収録時間: 98分

■スタッフ
監督 : 黒澤明
製作 : 田中友幸 / 菊島隆三
原作 : 山本周五郎 『日々平安』
脚本 : 菊島隆三 / 小国英雄 / 黒澤明
撮影 : 小泉福造 / 斎藤孝雄
音楽 : 佐藤勝

■キャスト
三船敏郎(椿三十郎)
仲代達矢(室戸半兵衛)
加山雄三(井坂伊織)
入江たか子(睦田夫人)
小林桂樹(木村)
田中邦衛(保川邦衛)
椿三十郎


「おいっ!おまえたちも大人しく鞘に入ってろよ!」まさに今の日本人に対して皮肉に満ちたセリフ。映画を撮るにしてもお金儲けするにしても大人しく鞘に入って、権威を笠に威張り散らす小役人風情ばかりのこの日本において、「おいっ!おまえらは上にへぇ~こら、下には威張りたくって生きてけ!」と三十郎は吐き捨てる。雲のように自由な規格外なオトコが世の中から消えると、鞘ばかり立派な自称名刀が氾濫する。「一生鞘に入ってな・・・」そう嘯く三十郎に惹きつけられるのは何故だろうか?そこに現代人の失った生き様への執着心が読み取れる。


■あらすじ


廃墟と化した寺社で密談に励む9人の若侍たち。汚職の蔓延る城内に対して血判書を提出した9人だったが、それを提出した相手・大目付の菊井こそが、汚職の大元だった。そして、9人はこの寺社に呼び出されたのだった。そこに宿賃もなく寺社を一夜の寝床にしていた素浪人・椿三十郎(三船敏郎)が大あくびしながら現れる。「おめえら、危なかしいぜ!」事の顛末を耳にした三十郎が9人の若侍の助太刀をすることに・・・


■製作委員会?ケッ・・・何が委員会だ。学級委員じゃあるまいし


三船敏郎 三船敏郎
まず最初に避けて通れないのが、リメイク版に対する言及である。端的に言うならば「この作品の本質が分かっていないからこそ、リメイクする気になれたのだろう」。この作品は完成されており、それ以上は求めることは出来ず、もし求めるならば質の悪い模造品にならざるを得ない。

森田芳光もよる年波なのか?金銭的な問題なのか?または名誉欲なのか?見事なまでに創造性の欠けらもない模造品の作成を請け負ってしまった。役者に関して言うならば、例の如くありきたりな野性味の欠けらもない安全パイそのもののキャスティングである。テレビ局に飼われた犬が野良犬を演じて、まともな観客が感嘆するとでも思っているのだろうか?相変わらずテレビ局というものは映画を舐めきっている。

このキャスティングが物語るのは、一重に織田裕二という極めてスクリーン映えしない役者に対する過剰な期待だろう。彼に最も興味のない世代は20代から30代前半といわれている。その理由は、彼からはギラギラした野性を感じない所にある。どんな芝居をしてもスターの輝きはなく、そこにはテレビ・スター織田裕二の残り香しかない。演技力はあるにしてもそれはアップの芝居にしか耐えられない。

このリメイク版においてもアップが多用されていた。しかし、映画監督なら「テレビはアップで、映画はロングショットでという基本に帰るべきだ」。それを忘れた瞬間から映画のスケール感は失われ、ただの大きな箱庭劇に終始してしまう。このリメイク版は画面の方が30倍大きすぎたような作品になってしまった。

製作総指揮・角川春樹、製作にはテレビ局の名が連ねられていれば、もう作品としてダメになることは約束されているようなものだ。それにしても、そろそろ製作委員会という括りはやめるべきだろう。学芸会のような雰囲気しか匂ってこないこのネーミング・センスはいい大人がつける代物か?どうやら日本語に対する欠落が激しいのは若者よりもいい大人の方かもしれない。


■世界のクロサワとミフネ


椿三十郎 椿三十郎
三船敏郎がなぜ世界のミフネと呼ばれたのか?それはクロサワのお陰ではなく二人の相性が抜群に良かったからである。その相性が生み出したものは、こじんまりとした男ではなく、スクリーンから匂い経つ男のフェロモンだった。にやりと笑うだけで男も女も惹きつけるこの圧倒的な存在感。日本人だけでなく世界中の男女を惹きつける男の魅力。

日本映画史上〝日本人の男臭さを表現する〟領域に到達した監督はクロサワのみだった。他の監督は役者の魅力を昇華させるよりも監督の手による日本の様式美の描写が認められて世界的に評価されている。

間違いなくスクリーン映えするミフネのその魅力。それは一重にその生き方の不器用さからもにじみ出てくるものだった。映画の主役はテレビの主役とは違い、限りなく芸術家肌でなければならない。どの役者も器用さよりも不器用だった頃に素晴らしい芝居を見せてくれる。それはハリウッドの役者にせよ日本の役者にせよ同じである。

その役者が己のポリシーを捨て去り、効率よく仕事をこなした次点で役者の魅力は、スクリーンからはっきりと失われていく。スクリーンとは恐ろしいほどに役者の魅力を照らし出す。だからこそ顔のアップの多様は、大きな銅像を見せられてるような気になりうんざりさせられる。


■自由に生きなきゃ人間といえないのでは?


椿三十郎 椿三十郎
「バカやろう!逃げるつもりならはじめから出てきやしねいや!」

あくびと共に登場する浪人。無精ひげだらけの中年オヤジ。ボロボロの服装で野宿するホームレス侍。しかし、そんな生き方に思い悩む風でもなく、ただ雲のように自由に生きている感じの男。

オレは誰からも縛られたくねえ・・・風体は惨めで懐は淋しくとも、少なくとも嫌なものには嫌だと言えるだけの自由は持ち合わせてるんだ!そんな現代人がシニカルにせせら笑うような自由な生き様の三十郎。そして、現代人が本心においては羨ましい男・三十郎。

密談を広げるエリート新入社員9人は、その熱気と世間知らずの中で喧々諤々論じあっている。そこに究極の自由人三十郎が降臨する。ちなみに本作において最初に撮影されたシーンがこの寺社の境内のシーンである。1961年9月に実際の寺社の境内にてロケ撮影された。


■老若男女みんなが鞘ばっかり磨いて、実は中身の刀は錆びてんじゃねえか?


椿三十郎 三船敏郎
「ところでおい。盗み聞きっていうのはいいもんだぜ。岡目八目話してる奴より話の本筋がよく分かる」

盗み聞きによって的確なポイントを押さえる一人目の登場。それが三十郎である。そして、二人目三人目は後に登場する小林桂樹扮する木村であり、入江たか子扮する奥方であった。物事に対する判断はその渦中にいる人間よりも、得てして傍から見ている方が理解しやすい。

「てめえがバカだと思われてるのを、気にしねえだけでも大物だ」

「しかし、人は見掛けによらねえよ。危ねえ危ねえだぜ」

上記の二つのセリフは城代家老のことを言いながらも自分自身のことも言っている。最終的に9人の若侍は、2人の侍の姿に感嘆とすることになる。この作品の根幹には、若者には「もっとおめえら同世代だけじゃなく上の世代とも交わってみな」というメッセージを、一方、中年以上の大人には「おめえら若者にバカにされても気にしねえで、自分らしさに誇りを持てるか?」という問いかけがある。


■映画の中にみなぎるミフネのホンモノの凄み!


椿三十郎 椿三十郎
「礼の言葉なんかいらねえから少し金くれねえか?」

「なかなか聞きわけがいいな。いい子だ」

「こうなりゃ死ぬも生きるのも我々九人」「いや!十人だ!てめえらのやることは危なくて見ちゃいられねえや」

鞘から抜刀せずに刺客を圧倒する三十郎。ここにこの物語の一つの構図が見受けられる。9人の若者と関わるまで三十郎は殺生をしていない。そして、関わることにより一心に殺生を引き受ける。実は彼の殺生は9人の殺生でもあり、正しいことのために悪いことをしないといけないジレンマ。

それは大であれ小であれ、古来昔から人間に付き纏う宿命的ジレンマである。三十郎は人を斬る!若侍の分まで一心に引き受ける。そして、物事が解決した代償は、再び逃走であった。画して9人の侍はしたり顔で手を汚さずに栄誉を手にしたのであった。歴史上本当の功労者は得てして表には現れないものである。

「さっきの見張りは三匹だが猫だ。今のあいつは一匹だが虎だぜ」

そして、仲代達矢(1932- )が登場する。あの端正な仲代が何とも浅黒くフランケンシュタインのような様相で登場する。まさに仲代扮する室戸半兵衛と三十郎は、コインの裏表だった。


■この作品を他の監督が撮っていたなら何の変哲もない時代劇になっていたかもしれない


椿三十郎
「こう金魚のウンコみたいにつながって来られちゃ始末が悪いな」

「なんだァその面は、刀振り回してえんだろうがごめんだぜ。間抜けな味方の刀は敵の刀より危ねえ。ケツ斬られちゃかなわないからな」

クロサワ作品の中でもこの作品は魅力的なセリフの宝庫とも言える。それはそれだけ物語の中の登場人物が生きているという証拠でもある。クロサワの繊細すぎる全てに対する拘りがあったからこそ、セリフ一つ一つに命が吹き込まれているのである。

この作品の真実は、実は単純な時代劇に過ぎない作品をクロサワの手にかけてみた所にある。ただの時代劇も芸術家が撮るとこんなに違うという驚き。ミフネも輝き、仲代も輝く・・・全てが時代劇の良さを引き出し、日本の良さを引き出す相乗効果を生み出している。

映画において、最も重要なものは演出家が独特の感性を持っているかである。昨今の日本のリバイバルブームの中で見えてくるのは、拝金主義とテレビ局の知性の低さと枯れ果てた演出家と割り切った出演者の負の相乗効果が生み出した「過去を食い潰すハイエナ」の構図のみである。


■ミフネの最大の魅力はこのシーンに濃縮されている 男の可愛らしさ


椿三十郎 椿三十郎
「干し草がよく匂うこと。あたしこの匂いが大好き。あたし達よくここへ来るんですよ。ねえ伊織様」

「一度なんか伊織様の腕を枕にして本当に眠っちゃったのよ」

こういう危機管理の欠けらもない会話を交わしながら、のほほんと干し草の上でまどろむ二人の婦人。それを覗き込みながら「オイオイ」という表情を見せる三十郎のとまどいの可愛らしさ。三船敏郎(1920-1997)という偉大なる役者自身が忘れがちで、クロサワは常に気づいていたこと。それは「ミフネの最大の魅力は野性味の中にある男の可愛らしさ」を体現出来るところにあるという事だった。

クロサワ映画以外のミフネの魅力が薄れていった理由も、こういったミフネを引き出す能力を持ち合わせていない監督の作品に出演した結果でもあった。


■女性なら分かる三十郎の男っぷり


「でも助けられてこんなこと言うのも何ですけどすぐ人を斬るのは悪い癖ですよ」奥方

「あなたは何だかギラギラし過ぎてますね。あなたは鞘のない刀みたいな人よく斬れます。でも本当にいい刀は鞘に入ってるもんですよ」奥方

「だってもヘチマもねえ!ぐずぐずしてるとまた人を斬らなきゃならねえんだぜ。さあ」三十郎

人質にとられた城代家老睦田の奥方を演じる入江たか子(1911-1995)とその娘・千鳥を演じる団令子(1935-2003)。この二人がいたからこそ本作は、一本調子ではない魅力的なものに変わったと言っていいだろう。ちなみに〝化け猫女優〟入江は引退していた所をクロサワに乞われての出演となった。

おっとりとした上流婦人と、如何にも武士階級の底辺でギラギラ(もしくはダラダラ)としている三十郎の対比。しかし、全く違う立場だからこそ惹かれあう関係でもあった。奥方がもう少し若ければ、一時のロマンスが生まれかねないほど、奥方も三十郎もお互いに一目置きあっていた。

この作品の隠し味は、間違いなく四つん場になって奥方と千鳥の踏み台になる三十郎の姿だった。9人の若者はその行為をすることに気づかず彼だけがその行為に気づいた。この作品が女性に人気があるのもそういった描写にある。口先だけで小奇麗な男が氾濫する今。本当に男臭さを体現しつつも優しさを兼ね備えている三十郎のような男はなかなかいない。


■鶯の一鳴き・・・満開の椿・・・日本家屋の様式美


椿三十郎
「ところであなたのお名前は」奥方 
「あっ名前ですか? 私の名は・・・椿三十郎。もうそろそろ四十郎ですが・・・」三十郎

前作『用心棒』と同じく適当に名を名乗る三十郎。武士階級においては、名前というものは大切なものであるのだが、三十郎は自分の名前に対して全く頓着していない。ただ30代だから三十郎で、目の前の椿が満開で綺麗だから椿が苗字。その自然な風体が現代人の心をひきつけて止まないのも、ミフネがこのセリフを抜群の表情で言い放つからである。

そんな三十郎が昼寝をしていると血気盛んな若侍がぴしゃっと襖を開け閉めし、目を覚ますことになるシーンが5回繰り返されるのだが、こういった描写が面白いのもこのミフネ=三十郎の魅力が画面を圧倒しているからである。そして、そんな三十郎の魅力の極めつけのセリフは「俺は酒飲むと頭良くなるんだぜ」である。


■唯一のクロサワ作品でその魅力を発散した小林桂樹


小林桂樹 椿三十郎
「奥方は私が逃げるなんて少しもお考えなさらない。これじゃ逃げられません」

「ちょっと失礼します。わたしは押入れの中でじっと聞いてたんですがその・・・」
「貴様の出る幕か」若侍
「今すぐ引っ込みます。ただ私もあの浪人を信用しますね」

この男の本作における存在は予想以上に大きかった(勿論クロサワの意図したことだが)。この『椿三十郎』という作品は元々は、山本周五郎原作の『日日平安』をベースにクロサワが書いた脚本でフランキー堺か小林桂樹(1923- )主役で撮られる予定だった。

しかし、気弱で剣術の下手な武士の活躍を描く作品は地味だという事で東宝サイドは、その脚本に大ヒットした『用心棒』のスパイスを利かせて本作を製作する企画を出したのだった。つまり当初の作品の名残がこの木村の役柄に残っているのである。

この襖に閉じ込められる人質=木村が、誰よりも綺麗な衣服を着せられ、暢気に上げ膳下げ膳で食事まで振るわれるという発想の面白さ。果たして笑いのセンスというものはこの時代より今の方が進化しているのだろうか?私は笑いのセンスは確実に退化していると感じている。


■ミフネの殺陣の凄まじさを過小評価すべからず


椿三十郎
「類は友を呼ぶ。俺も相当悪い」室戸

「うんなかなか聞きわけがいいな いい子だ」と室戸に言われ苦笑いする三十郎。まさに似たもの同士のこの二人。三十郎が野心に目覚めれば室戸のようになるのだろう。そして、もしかしたら三十郎も昔そうだったのかもしれない。

それにしても三十郎がノーカットで殺陣を見せ付ける動きの俊敏さは、今の役者には到底真似できない芸当である。しかも二度斬りするというリアリティと刃こぼれなどお構い無しに斬り続けるフィクション性の融合の素晴らしさ。

1960年代から世界的にアクション映画におけるリアリティとフィクションの巧妙な融合が成されていく。それはジェームズ・ボンドでありセルジオ・レオーネであり、ブルース・リーであった。そして、その先導者の一人は間違いなくクロサワだった。

この作品から本格的に斬殺音が音響効果として取り入れられ、今までの時代劇の感覚に引導を渡した。いわゆる白塗り総天然色の時代劇は、白黒の汚らしいなりをしたリアリティ溢れる時代劇に脇に追いやられたのである。


■世界のミフネは白黒でこそ後光を放つ!


椿三十郎
「あなたなかなかよいところに気がつくこと。それなら穏やかでいいわ」奥方
「ねっお母様。いっそ椿屋敷だから椿を流したらどうかしら。赤い椿を合図になんてきれいでいいわ」千鳥
「私は白い椿の方が好きですよ」奥方
「赤でも白でもいいじゃねえか!とにかく椿が合図だ!ごっそり流しゃ文句あるめえ!」三十郎

椿の合図を巡って交わされる会話。そんな中でも全く緊張感のない二人のご婦人の姿を襖の仮名を苛々しながらなぞる三十郎の愉快な姿。もうこの対比が絶妙に面白い。たまりかねて三十郎が吐くセリフ「ごっそり流しゃ!」のこの台詞回しの素晴らしさ。

「おい!じじい!隣じゃこの流れを見張ってたろう?早えとここの流れに何か流してやらねえと、えれえことになるぜ」三十郎

しばらく後、室戸に捕らわれた三十郎は、機転を働かせて敵自ら椿の合図を小川に流すように仕向け、9人の若侍たちの救援を手にする。ちなみにクロサワは赤い椿をより赤く見せるためにパートカラーで赤くしようとしたが、技術的な問題もあり断念し、黒く塗りつぶしたという。


■乗った人より馬は丸顔


椿三十郎
「どうもな。このわしの間延びした馬面にも困ったものだ。昔のことだがわしが馬に乗ったのを見て、誰かこんなことを言いおったよ。乗った人より馬は丸顔」

「ありがたいことにあの男は戻ってこやしないよ。あの男はなかなかのヤツだ。でもな桁外れのああいう男はわしには困るよ」

城代家老を演じる伊藤雄之助(1919-1980)はわずかな出番ながら、ずっとこの作品に出続けていたかのような存在感を残してくれた。こういった素晴らしい役者こそ真の役者というに相応しい。役者というものどれだけセリフがあったか?や、どれだけ映ったか?ではなく、どれだけ観客の脳裏に残ったかが重要なのである。

逆に言うとテレビCMで印象に残る俳優なぞ、役者ではなくその企業の広報マンに成り下がっているという事である。とにかく印象に残ったもんが勝ちという志しの低い役者が氾濫しているからこそ、現在は素晴らしい映画なぞ出来る訳がないのである。志しの低い役者から芸術的な作品が生まれることは絶対に有り得ない。


■おい!おまえたちも大人しく鞘に入ってろよ!


椿三十郎 椿三十郎
「抜けばどっちか死ぬだけだ・・・つまらねえぜ」

西部劇を思わせる最後の三十郎と室戸の決闘シーンの緊張感。ノーカットで沈黙を見せるからこそ生み出されるその緊張感。あおりの音楽は一切存在せず無駄なアップなど一切ない。そして、一刀のもとに室戸は血しぶき(チョコレートシロップと炭酸水の混合液)と共に絶命する。

ミフネも勿論素晴らしいが、この作品においては仲代も相当に素晴らしい。彼は誰一人切らずに剣豪を演じるという離れ業を本作でやってのけている。ちなみにこの作品以降時代劇において大出血シーンの演出が頻発することになった。そのあまりの節度のなさにクロサワは、自身の作品においては出血シーンを避けるようになった。

「お見事!」若侍
「バカ野郎!利いた風なことをぬかすな!」三十郎

「気をつけろ!俺は機嫌が悪いんだ!こいつは俺にそっくりだ!抜き身だ!こいつも俺も鞘に入ってねえ刀だ!でもな・・・あの奥方が言ったとおり本当にいい刀は、鞘に入ってる」

一騎打ちに勝利した後の無常観。この無常観があったからこそ三十郎は永遠に時代を越えて存在することになった。どんな社会においても自分に最も似たもの同士こそ争ってしまう悲劇・・・いや宿命。本作において結局、三十郎は27人の侍を斬殺することになった。

「おい!おまえたちも大人しく鞘に入ってろよ あばよ!」

そして、あの白い椿のように三十郎も去っていく。心の底から土下座し感謝の気持ちと尊敬の念を表した9人の若侍たちに背を向けて「あばよ!」の一言を残して去っていく。時代劇に「あばよ!」を使うこの独創的なセンス。映画とは再現ではなく創造である。それを実践したからこそクロサワは世界的な普遍性を持ち得たのである。

- 2007年12月5日 -

| 未分類 | コメント(0)

世界最古最大の文明の一つ 黄河文明 長江文明を持つ中国の武術レポート番組  RTHK功夫傳奇 日本語翻訳字幕版 白鶴拳と日本の空手  

| 未分類 | コメント(0)

世界最古最大の文明の一つ 黄河文明 長江文明を持つ中国の武術レポート番組  RTHK功夫傳奇 日本語翻訳字幕版  蟷螂拳

| 未分類 | コメント(0)

世界最古最大の文明の一つ 黄河文明 長江文明を持つ中国の武術レポート番組  RTHK功夫傳奇 日本語翻訳字幕版  八極拳

| 未分類 | コメント(0)

世界最古最大の文明の一つ 黄河文明 長江文明を持つ中国の武術レポート番組  RTHK功夫傳奇 日本語翻訳字幕版 内モンゴル相撲 ウジュムチン・ブフ

| 未分類 | コメント(0)

世界最古最大の文明の一つ 黄河文明 長江文明を持つ中国の武術レポート番組  RTHK功夫傳奇 日本語翻訳字幕版 形意拳

| 未分類 | コメント(0)

競技柔術とは別の道を歩むエリオグレイシーから直接黒帯を授与された最後の非グレイシー一族 バレンチ兄弟の動画 8

Practicing one of the FIVE elements of our Jiu-Jitsu with my brother. #JiuJitsuIsNotJustGrappling #JiuJitsuIsASystemOfAttackAndDefense #ValenteBrothers #HelioGracie #TBT

Posted by Valente Brothers Jiu-Jitsu on 2014年4月17日


Meanwhile in Rio... #friends @joaquimvalente Training in Rio w/ our @ValenteBrothers

Posted by Valente Brothers Jiu-Jitsu on 2014年4月8日


Thursday night sparring @valentebrothers #jujutsu #valentebrothers

Posted by Valente Brothers Jiu-Jitsu on 2014年4月3日

| 未分類 | コメント(0)

競技柔術とは別の道を歩むエリオグレイシーから直接黒帯を授与された最後の非グレイシー一族 バレンチ兄弟の動画 7

Last night in Palm Beach. Be ready. :) LED Baton Defense. #100%JiuJitsu #valentebrothers #753code #heliodisciples #thebreakers

Posted by Valente Brothers Jiu-Jitsu on 2014年9月21日


Our primary technical objective is to perfect the same fundamental techniques we learned from our teacher, Helio Gracie. #Repetition #ValenteBrothers #753code #selfdefensejiujitsu @pedrovalentevb @guivalentevb @joaquimvalente

Posted by Valente Brothers Jiu-Jitsu on 2014年9月11日


Repost via"@carolbuffara: Sinto que há uma curiosidade grande sempre que posto algo relacionado ao Jiu Jitsu que pratico. Confesso que há 5 anos atras, antes de conhecer os VB's, tinha um certo preconceito com a palavra JJ, que me remetia a homens de orelha raspada rolando no tatame, manchetes de jornais com brigas e etc. Acredito que muitas pessoas devem ter esta mesma imagem quando ouvem a palavra Jiu Jitsu. Pois bem, quando conheci os irmãos Valente, e o JJ praticado em sua academia, que ao contrário do que estava acostumada, nada tem a ver com essa imagem negativa, de pitboys, conheci um novo JJ. O meu treinamento é exclusivamente voltado para a defesa pessoal, sempre com o objetivo de dar ao mais fraco a possibilidade de defesa contra o mais forte e/ou pesado.O JJ dos irmãos Valente não é apenas um sistema de defesa pessoal mas, sobretudo, um estilo de vida que conecta o nosso espírito, corpo e mente." #valentebrothers #753code

Posted by Valente Brothers Jiu-Jitsu on 2014年6月30日


Morning Sparring @Valenteabrothers #valentebrothers #753code

Posted by Valente Brothers Jiu-Jitsu on 2014年6月5日


Valente Brothers Jiu-Jitsu

Our Jiu-Jitsu #ValenteBrothers #HelioGracie

Posted by Valente Brothers Jiu-Jitsu on 2014年4月19日

| 未分類 | コメント(0)

競技柔術とは別の道を歩むエリオグレイシーから直接黒帯を授与された最後の非グレイシー一族 バレンチ兄弟の動画 6

Merry Christmas from your Valente Brothers. #LiveFromMiami #ValenteBrothers #753Code

Posted by Valente Brothers Jiu-Jitsu on 2014年12月24日


Jiu-jitsu for children at Valente Brothers. @guivalentevb #jiujitsu #valentebrothers #753code #sunnyisles #aventura #northmiamibeach

Posted by Valente Brothers Jiu-Jitsu on 2014年12月16日


"Practice does not make perfect. Only perfect practice makes perfect." #vincelombardi #valentebrothers #753code #persuitofperfection #attentiontodetails

Posted by Valente Brothers Jiu-Jitsu on 2014年11月19日


Pure Jiu-Jitsu ...

J I U - J I T S U || KEEP THE 柔 #valentebrothers #753code

Posted by Valente Brothers Jiu-Jitsu on 2014年11月17日


The classic mount armlock at 8 years old. #valentebrothers #753code

Posted by Valente Brothers Jiu-Jitsu on 2014年11月15日

| 未分類 | コメント(0)

競技柔術とは別の道を歩むエリオグレイシーから直接黒帯を授与された最後の非グレイシー一族 バレンチ兄弟の動画 5

Red belt Grandmaster #DrPedroValente Sr., 77 years young and @PedroValenteVB practicing the pisão in the mountains of Rio de Janeiro. #selfdefense #jiujitsu #pisao #haraspedrovalente #valentebrothers #753code

Posted by Valente Brothers Jiu-Jitsu on 2015年2月18日


Jiu-jitsu For Women || Persistence, hard work and discipline. Congratulations Ana Ferraz. #valentebrothers #753code #jiujitsu #selfdefense

Posted by Valente Brothers Jiu-Jitsu on 2015年2月9日


The Art of Jiu-Jitsu at VB || RJ in action! || #valentebrothers #753code #jiujitsu #selfdefense

Posted by Valente Brothers Jiu-Jitsu on 2015年2月4日


What is your excuse to not step on the tatami? || At VB, Jiu-jitsu has NO LIMITS! #ValenteBrothers #753code #HelioGracie

Posted by Valente Brothers Jiu-Jitsu on 2015年1月24日


HG Self-Defense Demo

Posted by Valente Brothers Jiu-Jitsu on 2014年12月25日

| 未分類 | コメント(0)