Jiu Jitsu Priest #204


生田誠のバリカタ柔術RADIO #32

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朝鮮半島からの強制連行は太平洋戦争以前にも存在していた! 豊臣秀吉の朝鮮出兵! 薩摩だけでも三万七〇〇余人! 日本の奴隷貿易 奴隷狩りの実態

http://hypertree.blog.so-net.ne.jp/2011-07-28

No.33 - 日本史と奴隷狩り [本]

No.22, No.23 の「クラバートと奴隷」では、スレイヴ(奴隷)の語源がスラヴ(=民族名)である理由からはじまって、中世ヨーロッパにおける奴隷貿易の話を書きました。そこで、中世の日本における奴隷狩りや奴隷交易のこともまとめておきたいと思います。


山椒大夫


日本における「奴隷」と聞いてまず思い出すのは、森鷗外の小説「山椒大夫」です。この小説は「人買い」や「奴婢(奴隷)」が背景となっています。以下のような話です。


陸奥の国に住んでいた母と2人の子(姉が安寿、弟が厨子王)が、筑紫の国に左遷された父を訪ねていきます。途中の越後・直江の浦(現在の直江津)で人買いにつかまり、母は佐渡の農家に売られ、2人の子は丹後・由良の山椒大夫に売られます。2人の子は奴婢として使役されますが、姉は意を決して弟を脱出させ、自らは入水自殺します。弟は国分寺の住職に救われ、都に上って関白師実もろざねの子となります。そして丹後の国守に任ぜられたのを機に、人の売買を禁止します。そして最後の場面で佐渡に旅し、鳥追いになっていた盲目の母と再会します。

物語のはじめの部分において、二人の人買いは親子三人を拉致したあと「佐渡の二郎」は母親を佐渡へ売りにいき「宮崎の三郎」は安寿と厨子王を、佐渡とは反対の方向へ海づたいに買い手を探して南下します(宮崎は今の富山県の地名)。その南下の様子を「山椒大夫」から引用すると、次のとおりです。



こうして二人は幾日か舟に明かし暮らした。宮崎は越中、能登、越前、若狭の津々浦々を売り歩いたのである。

しかし二人が穉おさないのに、からだもか弱く見えるので、なかなか買おうというものがない。たまに買手があっても、値段の相談が調ととのわない。宮崎は次第に機嫌を損じて、「いつまでも泣くか」と二人を打つようになった。

宮崎が舟は廻り廻って、丹後の由良の港にきた。ここには石浦という処に大きい邸やしきを構えて、田畑に米麦を植えさせ、山では猟かりをさせ、海では漁すなどりをさせ、蚕飼こがいをさせ、機織りをさせ、金物、陶物すえもの、木の器、何から何まで、それぞれの職人を使って造らせる山椒大夫という分限者(注:金持ち)がいて、人ならいくらでも買う。宮崎はこれまでも、よそに買手がない貨しろものがあると、山椒大夫が所へ持ってくることになっていた。

港に出張でばっていた大夫の奴頭やっこがしらは、安寿、厨子王をすぐに七貫文に買った。


森鷗外「山椒大夫」より


この小説の主題は、物語の山場での「安寿の自己犠牲」だと思いますが、背景となっているのは「人商人」「人身売買」「奴隷(奴婢)」の存在です。上の引用でも明らかなように、宮崎の三郎のような「人商人(=人身売買を行う商人)」が存在し、それが定常化していて、奴隷を買う者も定常的に存在したというのが、この小説が成り立つための重要な背景となっているのです。

もちろん小説はフィクションなので、この通りのことがあったわけではありません。しかし鷗外は日本における「山椒大夫伝説」をもとに、歴史小説としてこの物語を書きました。特に、仏教の教化と普及のために説教僧が町々・村々を廻って語り伝えた「説教節」の定番である「さんせう大夫」がもとになっています。「さんせう大夫」の結末は小説と違って、山椒大夫が厨子王の報復によって実の息子にのこぎりで首を切られて死に、その息子も民衆に処刑されるという「勧善懲悪」のストーリーのようです。つまり、勧善懲悪のための説教節ということは、物語の成立の背景である中世の日本において「人商人」や「人身売買」「奴隷(奴婢)」が、説教節を聞く村人や町人にとって、少なくとも不自然でない程度に事実としてあったと推測できます。


人商人


説教節だけでなく、平安時代から室町時代にかけての謡曲・お伽草紙・古浄瑠璃には「人商人」による拉致・誘拐や人身売買をテーマにしたものが多数あります。この時代、実態として「人商人」や人の売買が存在したようです。

日本の歴史を振り返ってみると、大化の改新以降の律令制においては「奴婢」と呼ばれた奴隷が存在し、その売買も認められていました。また明治・大正時代まで続いた遊女や娼婦の場合のように「人身売買スレスレの雇用契約」もあったわけです。

しかし一般的に人身売買は国禁であり、平安から鎌倉時代にはそれを禁じる法令が何度も出されました。もちろん飢饉のときに親が子供を売るようなことはあったわけで、黙認されたケースもあったようです。しかし原則的には人身売買は違法です。ましてや人を拉致・誘拐して売るのは犯罪です。このような誘拐のことを「かどわかす(拐かす)」と言いました。古くは「かどわかす」に「略」の字をあて、人を誘拐して売ることを「略売りゃくばい」などとも言いました。「山椒大夫」に描かれているのは、まさにそういった状況です。しかし実態としてあったにしろ、それはれっきとした犯罪なので「人商人」の活動は記録には残りにくいわけです。

一方「有事」の時、つまり戦争の時には、人を奴隷として略奪・拉致し売買することは容認されていたし、戦争の手段として行われていました。それを記録した公的文書、武士の日記、私的な記録文書もたくさん残されています。世界の歴史だけでなく日本の歴史においても「戦争は奴隷の最大の発生源」だったのです。

以降は、日本の戦国時代における「奴隷狩り」「奴隷売買」の話です。


雑兵たちの戦場


戦国時代における「奴隷狩り」や「奴隷売買」を詳述した本として、藤本久志・立教大学名誉教授の『新版 雑兵たちの戦場 - 中世の傭兵と奴隷狩り - 』(朝日選書。2005)があります。以降は、この本の内容から奴隷狩り・奴隷売買の部分を紹介します。


新版 雑兵たちの戦場.jpg
【新版】 雑兵たちの戦場
中世の傭兵と奴隷狩り
(朝日選書 777)

カバーは「大坂夏の陣図屏風」左隻(部分)
奴隷狩りの様子が描かれている
まず本のタイトルになっている「雑兵」ですが、雑兵とは「身分の低い兵卒」を言います。一般に戦国大名の軍は次の4つの階層から成っていました。

①武士

  100人の軍があったとして、武士は10人たらずが普通だった。

②侍

  悴者かせもの、若党、足軽などと呼ばれる。武士に奉公し、主人とともに戦う。侍は武士のことではない。

③下人

  侍の下。中間ちゅうげん、小者こもの、あらしこ、などと呼ばれる。戦場では主人を助けて馬を引き、槍を持つ。

④百姓

  夫ぶ、夫丸ぶまるなどと呼ばれる、村から駆り出されて物を運ぶ人夫。


雑兵とは②③④を言っています。この雑兵の視点からみた戦場を記述したのが「新版 雑兵たちの戦場」です。


戦場における「濫妨狼藉」と「苅田」


我々が暗黙に思い浮かべる戦国時代の「戦場」というと、NHKの大河ドラマに出てくるものが代表的です。そこでは大名を総大将とし、家臣団が戦争を指揮し、武士が戦うという姿です。もちろん雑兵は武士の手足となって矢を放ったり、鉄砲を撃ったり、突撃したり、物資の輸送にあたります。このような戦場のイメージは、①武士の視点からみた戦場、ないしはNHK大河ドラマ視点の戦場です。

しかし②③④の雑兵の視点からみた戦場は違った様相になります。その代表が、戦争の一部として行われた「濫妨狼藉(らんぼうろうぜき)」と「苅田(かりた)」です。

戦国時代の戦争では、城を攻める時にはまず雑兵が敵国の村に押し入り、放火、略奪、田畑の破壊をするのが常道でした。濫妨とは略奪を意味します。何を略奪するかというと、人と物です。物は農民の家財、貯蔵してある穀物、牛馬などです。濫妨はまた「乱取り」とか「乱妨取り」、「乱妨」とも呼ばれていました。狼藉とは暴力行為です。従って「濫妨狼藉」は現代用語の「乱暴狼藉」とは少し意味が違うので注意が必要です。

田畑の破壊・作物の略奪を苅田と言いました。小早川隆景たかかげの戦術書『永禄伝記』は、大名・毛利元就の戦法を伝えたものと言われています。その「攻城」の項に「苅田戦法」が記述されています。苅田戦法の結果はどうなるのか。「新版 雑兵たちの戦場」で藤本さんは次のように記述しています。



春先なら苗代の早苗やまだ青い麦が荒らされ、夏なら実った麦は奪われ、田植えのすんだ田も荒らされ、秋なら熟した畠作や稲が奪われ、冬にも収穫を収めた倉や家が焼かれ、穀物が奪われる。ことに3~5月には、実った麦をねらう「麦薙ぎ(むぎなぎ)」が、また7~9月には実った稲を狙う「稲薙ぎ(いねなぎ)」が集中した。


「新版 雑兵たちの戦場」(37ページ)


苅田の目的は「麦や稲を奪い取る」「敵国を兵糧攻めにする」「敵国の村々を脅かして味方につける」などでした。被害にあう農民は悲惨な状況になるわけですが、これが戦争の実態だったようです。


奴隷狩り


日本史と奴隷狩りというテーマなので、以降は濫妨(=略奪)の中の「人の略奪・奴隷狩り」に焦点を絞りたいと思います。

「人の略奪」は、戦国時代の各種記録で「人を捕る」「生捕る」「人取り」などと記述されています。生け捕られた人は、もちろん成人男子もいますが、女や子供がかなりの割合を占めていました。

略奪した人をどうするのか。一つは、町人や富農の下人として強制労働に従事させます。それはもちろん略奪した雑兵の下人という場合もあったでしょうが、「山椒大夫」のようにニーズのあるところに売るわけです。売買には商人(人商人)も介在しました。また後で紹介しますが、外国へも転売されたのです。

一部の生け捕られた人は、親族などが身代金を支払って身柄が返却されました。これはもちろん身代金を支払えるほど裕福な階層ということが前提です。身代金の授受にも「人商人」や海賊が介在して手数料を稼いだようです。


戦国の奴隷狩り・九州


戦国の各地の奴隷狩りの実態です。ます九州の島津藩ですが、著者の藤本さんは島津藩の家臣が書いた『北郷忠相日記』『蒲生がもう山本氏日記』『北郷時久日記』などにみられる戦闘の記録を分析して、次のように書いています。



こうした島津軍の戦闘の記録で、いま注目したいのは、「人を捕る」「生捕る」という記事の多いことである。そのうち「敵三人打取り・・・・・・一人生捕る」というように、同じ戦場で「打取り」(戦闘で首を取る)と対になった「生捕り」は、捕虜になった兵士たち(戦争捕虜)のようでもある。

だが「男女・牛馬、数知れず取る」「人を取ること四百人余り」という数多い男女の略奪、それに「童子一人生捕る」「人三人かどい候」という小さな生捕りは、とても戦争捕虜とは思えない。なお「下々の者(が)壱人取る」とか、「足軽七人、したの者三人取る」というのをみると、戦場の人取りの主役もその犠牲者も、下層の雑兵や人夫に集中していた気配がある。
(18ページ)


同じ九州ですが、肥後の小大名であった相良氏の年代記『八代日記』に記録された戦争の様子も分析されています。



「取る」「生取る」など人取りの表記は島津方の日記によく似ており、累計二一四四人にのぼる。しかも生取りの数は戦死者(打取り)よりも明らかに多い。まるで、敵は殺すよりむしろ生かして捕らえよう、としているかのようである。

戦場で人といっしょに奪った牛馬の数も多く、また海へ漁に出た者や山で薪取りをする者までも生け捕っている。戦いの規模もみな小さい。「夜討」とか「伏草」というのは、夜の闇にまぎれた忍びの工作をいい、正規軍の正面きった城攻めというより、雑兵たちの仕掛けた、略奪目当てのゲリラ戦、というふうである。
(20ページ)


戦場における人取りが日常的に行われていたことがうかがえます。


戦国の奴隷狩り・武田藩


甲斐・武田藩の軍書である『甲陽軍鑑』にも、雑兵たちの乱取りの記述が数々出てきます。『甲陽軍鑑』には武田信玄が上杉謙信と戦った北信濃の戦場が記述されていますが、その内容の解説です。



北信濃に進出した武田軍は、信越国境の関山(新潟県妙高市)を越え、春日山城(上越市)近くまで進入し、村々に火を放ち、どさくさに紛れて女性や児童を乱取りし、生捕った越後の人々を甲斐に連れ帰って、自分の召使い(奴隷)にした、という。「越後の者をらんどり」、「らんぼうに女・わらんべを取り」の、乱取り・乱妨の被害は女性と児童に集中していた。

なお『甲陽軍鑑』が、この作戦で武田軍は越後を占領こそしなかったが、略奪に大成果をあげた、それもみな信玄の威光のお陰だ、と力説しているのも見逃せない。戦国の戦争には、明らかに乱取り目当ての戦争もあり、大名さえ強ければ、それは思いのままであった。
(28ページ)


『甲陽軍鑑』には雑兵たちの乱取りを非難する記述があります。しかし、乱取りそのものを否定しているわけではありません。戦いの勝ち負けそっちのけで乱取りに熱中するのは困る、と言っているのです。戦闘を妨げない限り乱取りは勝手、というのが当時の通念だったようです。雑兵たちに恩賞があるわけではありません。彼らを軍隊で活用するには、戦いの無い日には「乱取り休暇」を設け、敵城が落城したあとは褒美の略奪を解禁した・・・・・・藤本さんはこう解説しています。


戦国の奴隷狩り・上杉藩


では、一方の上杉謙信はどうだったのか。謙信は武田信玄との戦いだけでなく、関東から北陸一円を戦場としました。永禄9年(1566)2月、上杉軍が関東に遠征し、常陸の国の小田城を攻め落としたときの様子が文書に記録されています。



小田氏治の常陸小田城(茨城県つくば市)が、越後の長尾景虎(上杉謙信)に攻められて落城すると、城下はたちまち人を売り買いする市場に一変し、景虎自身の御意(指示)で、春の二月から三月にかけて、二十~三十文ほどの売値で、人の売り買いが行われていた、という。折から東国は、その前の年から深刻な飢饉に襲われていた。
(35ページ)


上杉軍の人取りは、小田城だけでなく、常陸の筑波の城や上野の藤岡城でもあったとの記録があります。小田城の例のような「城下での人の売買」は「人商人」の介在を強く示唆しています。

以上、島津、肥後、武田、上杉の事例をあげましたが、このほか『新版 雑兵たちの戦場』には、紀伊や奥羽の事例が掲げられています。戦争における奴隷狩りは全国的な現象だったようです。


食うための戦争


戦国時代の戦争における濫妨(略奪)の大きな要因は、戦争が「食うため」「略奪が目当て」という側面を強く持っていたからです。上杉謙信の出兵の記録が分析されています。謙信は関東、北信濃、北陸へ20回以上にわたって出兵していますが、その出兵時期を調査すると2つのパターンが浮かび上がります。晩秋に出兵して年内に帰る「短期年内型」と、晩秋に出かけて戦場で年を越し春に帰る「長期越冬型」です。



北信・北陸など、国境を越えてすぐの近い戦場では、ほとんどが作荒らしか収穫狙いの短期決戦であった。それに比べると、春日山から遠い関東の戦場は、秋の収穫狙いから、冬季の出稼ぎ型(口減らし型)の長期戦争が多かった。
(96ページ)


上杉謙信の出兵には明らかな「季節性」があるのです。北陸はともかく、北信濃や関東への出兵は武田氏や北条氏といった強豪が相手です。いくら謙信と言えども「自分の都合のよい時だけに出兵する」ことなど、本来は無理なはずです。にもかかわらず上杉軍に見られる「戦争の季節性」は端境期(はざかいき)の「飢え」と深い関係がある、と(新潟出身の)藤木さんは分析しています。二毛作の出来ない越後では、春から畠の作物がとれる夏までが食料の端境期であり、深刻な食料不足に直面しました。これを乗り切るための「冬場の口減らし」は切実な問題であり、そのための出稼ぎが関東への出兵だった・・・・・・、というわけです。雪のない関東に出兵すれば、補給がなくても濫妨で食いつなげる。出兵した軍隊の分の食料は「助かる」わけです。一種の「公共事業」ですね。もっとも、軍が敗北して壊滅状態になったのでは元も子もありません。しかし謙信は強かった。謙信が越後の人々から英雄視されたのは当然だと考えられます。

冬場に雪に閉じこめられる越後だけでなく、作物の凶作による飢饉や、戦争の苅田による農地の荒廃により「食うこと」は戦国時代には極めて切実な問題でした。戦争には「食うための戦争」という側面が強くあるのです。


秀吉の天下統一と人身売買の禁止(天正18年 1590)


秀吉の天下統一は、今まで述べた濫妨狼藉と人の売買に終止符を打ち、戦争の惨禍を絶つという大きな意味がありました。秀吉は平定した土地に「人身売買の禁止令」を次々と出していきます。天正18年(1590)に奥羽に出された秀吉令は、


① 人の売り買いはすべて停止せよ。
② 天正16年以後の人の売買は無効。したがって、買い取った人は元に戻せ。
③ 以後、人の「売り」「買い」はともに違法。

という内容です。戦場と人の売買は同時に封じ込めないと平和にはならなかったのです。

天正18年(1590)の北条氏滅亡と奥羽地方平定を最後に、日本から戦場はなくなりました。しかし「秀吉の平和」が日本全国を覆ったまさにその瞬間、朝鮮出兵の大号令が出されたのです。


朝鮮での奴隷狩り(文禄元年-慶長3年 1592-1598)


朝鮮出兵(文禄・慶長の役。1592-1598)の大本営は、肥前・名護屋城(佐賀県唐津市)にありました。常陸・佐竹軍に従軍した武士が、名護屋城に到着して見たものを国元に書き送った書簡が残されています。それによると



朝鮮の戦場では勝ち戦が続き、戦場で生け捕られた男女が日ごと名護屋の港へ送りここまれている。自分もそれを確かに見た。首を積んだ船も来ているそうだ。
(59ページ)


とのことなのです。藤木さんは



敵の首は大名の手柄として秀吉の首実験に備え、戦功を認めてもらうためであったが、男女の生捕りは海賊商人たちの船に積まれ、名護屋・呼子よぶこの一帯に広がる舟入りから、名護屋の町へ歩かされていたのであろう。
(59ページ)


と解説しています。

朝鮮の戦場における濫妨狼藉は相当のもので、たとえば島津軍の兵は船を使って川伝いに奥地まで入り込み、苅田や乱妨を働いていた、と本にあります。石田三成は島津義弘に島津軍の逸脱ぶりを警告したほどです。しかし、ほかならぬ秀吉自身が「捕まえた朝鮮人の中から腕利きの技術者や女性たちを選び出して献上せよ」という命令を出していました。秀吉も日本軍の大がかりな奴隷狩りを見越して、その一部の召し上げようとしていたわけです。


秀吉の命令の「腕利きの技術者」ということで思い出されるのが、島津軍に捕えられて薩摩に連行された朝鮮の陶芸職人たちですね。薩摩焼のルーツです。薩摩焼の窯元の一つである沈壽官家は現代まで15代続いています。

朝鮮の戦場における奴隷狩りをまとめて、藤木さんは以下のように説明しています。



一五九八年のイエズス会による奴隷売買者破門令の決議は、こう告発していた。日本人が無数の朝鮮人を捕虜として日本に連行し、ひどい安値で売り払っている、とくに長崎一帯の多くの日本人は、ポルトガル人に転売し巨利をあげるために、日本各地を廻って朝鮮人を買い集め、また朝鮮の戦場にも渡って、自ら朝鮮人を略奪した、と。

日本の国内で朝鮮人を買い、外国に転売した奴隷商人やその斡旋人は、戦場で活躍した兵士たちか、長崎の商人たちであった。イエズス会の宣教師が「日本人は計り知れぬほどの朝鮮人を捕虜にし、彼らを日本に連れ帰った後、捨て値で売り払った」と書いていたのは、このことであった。また一五九六年度、長崎発のフロイスの年報も、朝鮮から連行されて長崎に留まっている、多数の男女に布教したが、その数は一三〇〇人以上にのぼった、と記していた。その頃、長崎や平戸は世界有数の奴隷市場として知られていた。
(65ページ)



朝鮮の戦場から連行された人々の運命を追って、大作『文禄・慶長役における被擄人の研究』を著した内藤雋輔しゅんぽ氏によれば、奴隷狩りはとくに朝鮮南部の諸州に集中し、侵略初期の文禄(壬辰)戦より、末期の慶長(丁酉)戦の方が十倍もの惨状を呈し、略奪連行された人々は、島津領の薩摩だけでも三万七〇〇余人はいた、との見方もあるという。
(66ページ)


徳川幕府の重要な外交課題は朝鮮との復交であり、数万にのぼった被虜人の返還問題でした。しかし正規の外交ルートで故郷に返されたのは、朝鮮側の正史(李朝実録)や各種記録を合わせても7500人程度だったようです。

朝鮮出兵をもう一度振り返ると、秀吉は日本から戦場を駆逐したとたんに、朝鮮侵略をはじめているわけです。このことの重要な意味について藤木さんは次のように書いています。



秀吉の平和というのは、国内の戦場にあふれていた巨大な濫妨エネルギーに、新たなはけ口を与えることで実現され、それと引き替えにして、ようやく国内の戦場を閉鎖することができた。だから秀吉は、名誉欲に駆られ、国内統一の余勢をかって、外国に侵略に乗り出したというより、むしろ国内の戦場を国外(朝鮮)に持ち出すことで、ようやく日本の平和と統一権力を保つことができた、という方が現実に近いことになるだろう。
(206ページ)



大坂の陣(慶長19年-20年 1614-1615)


秀吉が死に、関ヶ原の合戦があり、時代は江戸時代になりました。しかし徳川幕府が天下を支配するようになって以降も戦争がありました。もちろんそれは、大坂冬の陣と夏の陣です。



江戸初期の村人にとっても、戦争は魅力ある稼ぎ場であった。慶長十九年(1614)冬、大坂で戦争が始まる、という噂が広まると、都近くの国々から百姓たちがとめどなく戦場の出稼ぎに殺到しはじめていた。
(106ページ)


『新版 雑兵たちの戦場』のカバー絵になっている「大坂夏の陣図屏風」(大阪城天守閣蔵。重要文化財)には、町なかで兵士が人や物の略奪を働く場面が克明に描かれています。兵士たちの具足には「葵の紋」もあります。徳川軍そのものが奴隷狩りをしていたわけです。

大坂夏の陣図屏風(部分).jpg興味深い文書があります。幕府は戦争が終わった後の「落人改あらため令」の中で、大坂より外で略奪した人を解放し返せ、との命令を出します。この幕令をうけた蜂須賀軍は、ただちに自軍の奴隷狩りの実状を調査し、その結果を「大坂濫妨人ならびに落人改之帳」という文書にして幕府に提出しました。この文書によると、略奪された人の数は、



男 女 計
奉公人 17 33 50
町人 29 47 76
子ども 35 16 51
合計 81 96 177


です(奉公人は「武家の奉公人」の意味)。これを見ると、成年男子は全体の4分の1に過ぎず、明らかに女と子供が多数を占めています。

蜂須賀軍は「自軍の人取りはすべて戦場の行為であり、合法だ」と主張していて、それを証明するのが「濫妨人改之帳」を提出した狙いでした。蜂須賀軍の戦場での人取りだけでこの数字です。全幕府軍の戦場・戦場外での人取りの総計は、相当の数にのぼったと推定されます。

大坂の陣が終わった直後にも、徳川幕府は「人身売買の停止令」を出しました。人の略奪や人の売買が日常の街角に持ち込まれていたからです。それを抑え込んでこそ平和が実現できたのです。


秀吉の奴隷問答(天正15年 1587)と奴隷貿易


時代を少しさかのぼります。戦国時代の日本国内と朝鮮における奴隷狩り・奴隷売買は、その帰結として「奴隷貿易=海外への奴隷の輸出」を引き起こしました。16世紀の日本には、いわゆる南蛮人が多数来日し、船舶の往来も激しかったからです。

秀吉は天正15年(1587)年の4月にに南九州の島津氏を降し、全九州を平定します。そして6月に博多に軍を返すと、日本イエズス会・準管区長、ガスパール・コエリョに対し「ポルトガル人が多数の日本人を買い、奴隷としてつれていくのは何故であるか」と詰問します。コエリョはその事実を認めつつも「ポルトガル人が日本人を買うのは、日本人がこれを売るからだ」とつっぱねました(1587年のイエズス会・日本年報による)。



秀吉の平和の下で、日本の人身売買が初めて深刻な外交問題として論じられたことになる。その秀吉の言い分を『九州御動座記』がこう代弁していた。


伴天連ばてれんら・・・・・・日本仁にほんじんを数百、男女によらず、黒舟へ買い取り、手足に鉄のくさりを付け、舟底へ追い入れ、地獄の苛責かしゃくにもすぐれ、・・・・・・見るを見まねに、それを所(九州)の日本仁、何れもその姿を学び、子を売り親を売り妻女を売り候由、つくづく聞召きこしめし及ばれ・・・・・・

バテレンは、日本人が人を売るからポルトガル船が買うのだと言い、秀吉は、バテレンやポルトガル船の奴隷商売を日本人が真似ているのだ、と反論する。いずれにせよ、現実に九州の領主たちやバテレンと結託した黒船が、日本から数多くの男女を買い取っては、東南アジアに積み出していたのは事実であった。後段は「子を売り親を売り妻女を売り」と、貧しさゆえの子女の身売りを連想させるが、前段はむしろ「日本仁を数百、男女によらず、黒舟へ買い取り」と、男女の大がかりな海外流出ぶりを示唆している。
(41ページ)


ポルトガルの日本貿易において、奴隷は東南アジア向けの重要商品だったのです。


No.22「クラバートと奴隷(1)スラヴ民族」と、No.23「クラバートと奴隷(2)ヴェネチア」で、ヨーロッパにおいて非キリスト教徒のスラヴ民族が奴隷の供給源になった歴史を書きました。最初は中央ヨーロッパ、その次は黒海沿岸のスラヴ民族です。しかし大航海時代を経てヨーロッパ人が世界に拡散すると、奴隷の供給源も世界に拡散していった。非キリスト教徒に満ち溢れていた世界は、キリスト教布教の対象であると同時に奴隷の供給源となった。その一つが、ヨーロッパからみた東の果て(極東、Far East)の日本だった、というわけです。

ポルトガル国王は「日本人奴隷の輸出が布教の妨げになる」というイエズス会からの訴えに基づいて、1570年3月12日(元亀元年)に日本人奴隷取引の禁止令を出します。また、それ以降もたびたび禁止令が出されます。イエズス会も1596年に、日本人奴隷を輸出したものは破門にすると議決しました。

これらのことは裏を返すと、各種の禁令にもかかわらず奴隷貿易が続いていたことを示しています。そもそもイエズス会自身が、もともと日本から少年少女の奴隷を連れ出すポルトガル商人に公然と輸出許可の署名を与えていたのでした。

秀吉はコエリョと激論した直後の天正15年(1587)6月18日、有名な「バテレン追放令」を出します。この内容は


◆ バテレンの追放
◆ キリスト教への強制改宗の禁止
◆ 神社仏閣の打ち壊しの禁止

が骨子ですが、その第10条は


◆ 日本人奴隷の海外禁輸、および国内での人身売買の禁止

です。「バテレン追放」の理由は「キリスト教への強制改宗」「神社仏閣の打ち壊し」とともに「日本人奴隷の海外輸出」というわけです。


東南アジアの日本人奴隷と傭兵


奴隷だけでなく、16世紀から17世紀初頭にかけて大量の日本人が東南アジアに渡りました。この時期、東南アジアではスペイン・ポルトガルと、オランダ・イギリスが激突していたわけで、日本は傭兵や武器の供給基地となっていたのです。

東南アジアに渡った日本人は「おそらく10万人以上にのぼり、住み着いた人々もその1割ほどはいた」と推定されています。その日本人を「分類」すると、一つは自ら海を渡った人たちで、海賊、船乗り、商人、失業者、追放キリシタンなどです。二つめは西欧人に雇われて渡海した人で、伝道者、官史、商館員、船員、傭兵、労働者です。三つめが奴隷や捕虜です。

日本人傭兵は東南アジアでの戦争や抗争に大きな影響をもちました。有名なのは山田長政ですが、彼は日本では徳川方の小大名・大久保氏に仕えた駕籠をかつぐ下僕だったようです。それがシャムの内乱に雇われ、日本人傭兵隊をひきいて活躍し、最後は毒殺されました。

本の中で、スペイン領であったフィリピンの様子が紹介されています。



一五九二年(文禄元)、マニラ市外の日本町区域に隔離さされた日本人奴隷や傭兵たちは、一六〇三年(慶長八)中国系住民の大暴動が起きたときには、四百~五百人が総督に雇われて、その鎮圧に駆使され、先住民の反乱の抑えにも利用され、自らも暴動をくり返すようになっていた。一六二〇年代のマニラ近郊に住む日本人は、実に三千人にも達していた、という。
(271ページ)


スペイン・ポルトガルが日本人傭兵を駆使していたことは、



イエズス会のカブラルは、すでに一五八四年(天正一二)、日本人を雇い入れて中国を武力で征服しよう、「彼らは打続く戦争に従事しているので、陸・海の戦闘に大変勇敢な兵隊」だ、とスペイン=ポルトガル国王に提案していた。
(270ページ)


との記述でも分かります。


キリスト教を布教するはずの神父が中国征服とその方法論を国王に提案するのも、ずいぶん変な話なのですが、当時の宣教師の一面が如実に現れています。中国は「征服しないとキリスト教が広まらない国」と判断したのでしょうか。神の恩寵を中国人に与えるために征服しよう、という論理でしょう。

スペイン側だけでなく、オランダ側も大量の日本人傭兵を使っていました。日本の平戸商館はオランダ(東インド会社)の軍事行動をささえる東南アジア随一の兵站基地であり、さまざまな軍事物資が平戸から積み出されていたのです。最大の主力商品は銀です(世界遺産・石見銀山を思い出します。No.30参照)。それ以外に、武器・弾薬、銅・鉄・木材・食料・薬品などです。

元和6年(1620)の末、オランダとイギリスは連合して新たに「蘭英防禦艦隊」を結成し、平戸を母港とします。翌年(1621)の7月、両国の軍隊は、台湾の近海で捕らえた日本行きのポルトガル船とスペイン人宣教師を幕府に突き出します。そして幕府に「マニラ(スペインの拠点)・マカオ(ポルドガルの拠点)を滅ぼすために、二千~三千人の日本兵を派遣してほしい」との要請を出すのです。


秀忠令(元和7年 1621)


幕府は英蘭の日本兵派遣要請を拒否します。そして拒否しただけでなく、幕令(秀忠令)を出します。その骨子は


① 人身売買の停止
男女を買い取って異国へ渡海することを停止せよ。
② 武器輸出の停止
武具の類を異国へ渡してはならぬ。
③ 海賊の停止
海上における海賊行為をやめよ。

です。

①は、傭兵に陽には触れていません。しかしオランダ側が作った秀忠令のオランダ語訳には「雇用であれ人身売買であれ」と詳しく記載されています。幕府の意図は人身売買と傭兵による日本人の海外流出の阻止であり、オランダ側もそう受け取ったわけです。

当時の東南アジア情勢を考えると、日本は極めて危険な状況にありました。日本は戦争物資と傭兵の補給基地になっていたからです。特定の外国の依頼で「公式に」出兵したりするものなら、その敵対国からの日本侵略の口実を作ることにもなります。幕府の出兵拒否と秀忠令は、日本が新たな戦乱に巻き込まれるリスクを無くすための当然の処置でしょう。

オランダはこの秀忠令に困惑し、回避しようと努力したようです。しかし、平戸がある松浦藩は外国船の臨検をはじめ、武器を押収しました。秀忠令は実行され、日本人奴隷の海外流出はようやく止まりました。戦国期から続いた「公然の」人身売買も最終的に終りを迎えたのです。

幕府が鎖国に踏み切り、それを完成させるのは、秀忠令から18年後(寛永16年 1639)です。


「奴隷狩り」から見る日本史


これ以降は『新版 雑兵たちの戦場』を読んだ感想です。戦国時代の「奴隷狩り」の実態をみると、その後の、


◆ 秀吉による天下統一
◆ 人身売買の禁止
◆ 鎖国(=人の往来を禁止し、交易を中国・朝鮮・オランダに限定する)
◆ 徳川幕府による社会の安定と国内平和の維持

という歴史経緯の重要性が理解できたような気がしました。

大名同士が戦争で争い「濫妨狼藉」や「苅田」を繰り返していたのでは、農地は荒廃し、農村からは人が奴隷となって流出します。その流出は、奴隷船によって海外にまで及びます。奴隷にならないまでも農地が荒れると食べていけなくなり、農民は浮浪民化し、都市に流入して社会不安を引き起こすでしょう。「人商人」が暗躍し、犯罪が多発し、それがまた社会不安を助長する。

この状況は悪循環となり、各藩の経済力にダメージを与えるでしょう。そうなれば藩の財政も苦しくなるし、日本全体の国力も低下します。天下統一の大きな意味は「戦場を日本から無くし、濫妨狼藉の負のスパイラルを断ち切り、人民の生活を安定させ、国力を回復する」ということではないでしょうか。おりしも東南アジアでは欧米の列強が争っていて、その火の粉は日本にも降りかかりつつあります。統一と安定は必須の事項でした。

その後の徳川幕府は、藩の集合体という「日本のかたち」を前提として、戦国状態に再び戻るのを避けるための徹底的な施策をとったのだと思います。その例ですが、秀吉の刀狩り・鉄砲狩りからはじまり、江戸時代は「武装解除社会」ないしは「軽武装社会」になります。

武士の命は刀と言いますが、刀は戦争の雌雄を決するものではありません。刀は戦闘の最後の接近戦や白兵戦のためのものです。戦争で重要な武器は長槍であり、弓矢などの「飛び道具」であり、戦国時代以降はもちろん鉄砲です(その後、大砲になる)。優秀な戦国武将は鉄砲を徹底的に利用しました。



1600年の関ヶ原の戦いを頂点とする戦争では、東西両軍合わせて約6万丁の鉄砲が動員されたというから、おそらく日本全体では10万丁に近い鉄砲があったと推定される。その当時、ヨーロッパ最大の陸軍を誇ったフランス王の軍隊には、鉄砲は1万丁しかなかったというから、全ヨーロッパを合わせても、日本一国に及ばなかったであろう。

(堺屋太一『日本とは何か』講談社 1991)


江戸時代直前の日本は世界有数の武装社会だったわけです。それが江戸時代になると一転して鉄砲を捨てて「武装解除社会」「軽武装社会」になる。あれだけ短期間で高度に発達した鉄砲鍛冶の技術も、急激に失われていきました。武士の刀は自衛のための武器と考えるべきでしょう。江戸期における「武士」とは、武器を自衛のための最低限のものにとどめ、「士 = 教養や徳のある立派な人間」として生きる、ということだと思います。

この状況は、戦場の再来をなくしたいという、戦国期の反動ではないでしょうか。江戸時代の意味は、戦国期の「雑兵の視点からみた戦場」の実態を知ることによって理解が進むと、この本を読んで思いました。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%AB%E3%83%88%E3%82%AC%E3%83%AB%E4%BA%BA%E3%81%AB%E3%82%88%E3%82%8B%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E3%81%AA%E3%81%A9%E3%81%AE%E3%82%A2%E3%82%B8%E3%82%A2%E4%BA%BA%E3%81%AE%E5%A5%B4%E9%9A%B7%E8%B2%BF%E6%98%93

ポルトガル人による日本人などのアジア人の奴隷貿易





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ポルトガル人による日本人などのアジア人の奴隷貿易(ポルトガルじんによるにほんじんなどのアジアじんのどれいぼうえいき)では、主に16世紀以降のポルトガル人による日本人などのアジア人の奴隷貿易について述べる。ポルトガルにおいては古くから奴隷制が存在し、古代ローマ、ウマイヤ朝など時代を通じてそのあり方が変化してきた。15世紀以降の大航海時代になると、黒人を奴隷とする大西洋奴隷貿易が盛んになるが、ポルトガル人のアジアへの進出に伴い、アジア人を奴隷とする奴隷貿易も行われるようになっていった。



目次 [非表示]
1 概要 1.1 アジア人の奴隷
1.2 マカオおよび中国沿岸部における奴隷交易
1.3 奴隷の取扱い
1.4 奴隷制の禁止

2 脚注
3 参考文献
4 関連項目
5 外部リンク


概要[編集]

アジア人の奴隷[編集]

ポルトガル人が日本人に1543年に初めて接触したのち、16〜17世紀を通じ、ポルトガル人が日本人を日本で奴隷として買い付け、ポルトガル本国を含む海外の様々な場所で売りつけるという大規模な奴隷交易が発展した[1][2]。多くの文献において、日本人を奴隷にすることへの抗議とともに、大規模な奴隷交易の存在が述べられている[3][4][5][6][7][8][9][10][11][12]。日本人の奴隷たちはヨーロッパに流れ着いた最初の日本人であると考えられており、1555年の教会の記録によれば、ポルトガル人は多数の日本人の奴隷の少女を買い取り性的な目的でポルトガルに連れ帰っていた。王であったセバスティアン1世は日本人の奴隷交易が大規模なものへと成長してきていたため、カトリック教会への改宗に悪影響が出ているのではないかと懸念し、1571年に日本人の奴隷交易の中止を命令した[13][14]。

日本人の女性奴隷は、日本で交易を行うポルトガル船で働くヨーロッパ人水夫だけでなく、黒人水夫に対しても、妾として売られていた、とポルトガル人イエズス会士ルイス・セルケイラ(Luís Cerqueira)が1598年に書かれた文書で述べている[15]。日本人の奴隷はポルトガル人によってマカオに連れて行かれ、そこでポルトガル人の奴隷となるだけでなく、一部の者はポルトガル人が所有していたマレー人やアフリカ人の奴隷とさせられた[16][17]。

豊臣秀吉は自国の民である日本人が九州において大規模に奴隷にされていることを大変不快に感じ、1587年7月24日にイエズス会の副管区長のガスパール・コエリョに手紙を書き、ポルトガル人とタイ人とカンボジア人に命じ、日本人を買い付けて奴隷にすることを中止し、インドにまで流れ着いた日本人を連れ戻すよう言い渡した[18][19][20]。秀吉はポルトガル人とイエズス会をこの奴隷交易について非難し、結果としてキリスト教への強制改宗が禁止された[21][22]。

文禄・慶長の役で捕虜として日本に囚われていた数万人のうち一部の朝鮮人もまた奴隷としてポルトガル人に買い付けられてポルトガルに連れて行かれた[23][24]。 歴史家は、秀吉はポルトガル人による日本人奴隷売買に立腹し激怒したが、同時に秀吉自身も日本における朝鮮人捕虜の大規模な交易に関わっていたことを指摘している[25][26]。

ポルトガルの首都リスボンには少なくとも1540年には中国人の奴隷がいた複数の記録がある[27]。現代の歴史家によると、中国人が初めてヨーロッパを訪れたのは、ポルトガル人侵入者におそらく中国南部の沿岸で奴隷にされた中国人の学者がポルトガルに連れて行かれた1540年(あるいはその数年後)という。その中国人はポルトガルの歴史家ジョアン・ド・バロス(João de Barros)に購入され、共に中国語の文書をポルトガル語に翻訳する作業に従事したという[28]。

16世紀のポルトガルにおいて中国人奴隷の数は「わずかなもの」であり、東インド人、改宗イスラム教徒、アフリカ人奴隷の方が圧倒的に多かった[29]。1562年10月23日に記録された遺書には、エヴォラに住んでいたドナ・マリア・デ・ビリェナ(Dona Maria de Vilhena)という金持ちの上流階級の婦人のアントニオという名前の中国人奴隷についての記載がある[30][31][32][33][34][35][36][37][38][39][40][41][42][43]。アントニオはエヴォラにおいて男性の奴隷に付けられた3つのありふれた名前の1つだった[44]。D. マリアは彼女が保有していた奴隷の中で特に彼を用い、彼女のために仕事を言いつけていた。それはアントニオが中国人だったからである[45]。D. マリアが保有していた15人の奴隷のうち、中国人奴隷が1人、インド人が3人、改宗イスラム教徒が3人であったことは彼女の社会的な地位が高かったことを表している。なぜなら中国人奴隷、改宗イスラム教徒奴隷、インド人奴隷は奴隷のうちで評価の高いものであり、黒人奴隷と比べて高価であったからである[46]。彼女が死んだ時、D. マリアは12人の奴隷を彼女の意思と遺言により自由の身分にしており彼らに合計1万〜2万ポルトガルレアルのお金を遺している[47]。マリア・デ・ビリェナの父親は上流階級の男性で探検家のサンチョ・デ・トバル(Sancho de Tovar)でありソファラの提督であった。彼女は二回結婚し、一回目の結婚相手は探検家のクリストバン・デ・メンドンサ(Cristóvão de Mendonça)であり、二回目はディーウの提督のシマン・ダ・シルベイラ(Simão da Silveira)であった[48][49][50]。

中国人の子供たちはマカオで誘拐され、まだ幼いうちにリスボンで売り払われた[51][52]。フィリッポ・サッセッティ(Filippo Sassetti)はリスボンの大規模な奴隷集落において、大部分の奴隷がが黒人だったものの、いく人かの日本人、中国人の奴隷を見かけたと報告している[53][54][55][56][57]。

ポルトガル人は中国人や日本人などのアジア人奴隷をサハラ以南アフリカ出身の奴隷よりもずっと「高く評価していた」[58][59]。ポルトガル人は知性や勤勉さといったものを中国人や日本人奴隷の特質であると見なしていた。このことが奴隷としての高い評価に繋がった[60][61][62][63]。

1595年にポルトガルにおいて中国人及び日本人奴隷の売買を禁ずる法律が制定された[64]。

マカオおよび中国沿岸部における奴隷交易[編集]

16世紀以降、ポルトガルは中国の海岸部に交易のための港と居住地を確保しようとした。しかしながら基地を確保しようとする初期のこのような活動は、例えば寧波や泉州において行われたが、中国人に壊滅させられてしまった。引き続いて今度はポルトガル人入植者が暴力的な侵入を行い、略奪をし、しばしば奴隷狩りを行った[65][66][67][68][69]。 ポルトガル人のこのような振る舞いに対する不満が中国側の省の長官に届き、ポルトガル人の居住施設の破壊とその居住者の一掃が命じられた。1545年に、6万人の中国兵がポルトガル人が住み着いていた場所を急襲し、1,200人の居住者のうち800人が殺害され、25艘の船と42艇のジャンクが破壊された[70][71][72][73]。

マカオでは、ポルトガルの初期植民地時代にあたる17世紀中葉までに、約5千人の奴隷が居住していた。さらに2千人のポルトガル人と、増え続ける中国人がおり、中国人は1664年には2万人に達した[74] [75]。 奴隷の数はその後数十年の間に千人から二千人へと減少した[76]。ほとんどの奴隷はアフリカ出身であった。しかしアジア一帯からの出身の奴隷も含まれていた。すなわち、中国人、日本人、マレー人、インドネシア人そしてインド人である。そのほとんどが女性で、多くはポルトガル人の現地妻となっていた[74] [77]。

1622年6月24日、オランダ共和国がマカオの戦い(Battle of Macau)においてマカオを攻撃した。目的はこの地域をオランダ領にすることであった。オランダ軍はコルネリス・ライエルスゾーン(Kornelis Reyerszoon)隊長に率いられた800名の強力な侵略軍であった。数的に劣勢であったポルトガル側はオランダ軍の攻撃を撃退し、攻撃が繰り返されることはなかった。ポルトガル側の大多数はアフリカ人奴隷であった。そしてわずか2〜30人のポルトガル人の兵士と司祭が支援したが、この戦いの犠牲者の大多数はアフリカ人奴隷であった[78] [79] [80] [81]。敗北の後、オランダの総督のヤン・クーンはマカオの奴隷たちについて「我々の民を打ち負かし追い出したのは彼らだ」と述べている [82] [83] [84] [85]。 1800年代の清朝の時期に、イギリス領事は、ポルトガル人が未だに5〜8歳の子どもを人身売買していると記している[86] [87] [88]。

1814年に嘉慶帝が大清律例・礼律・祭祀の「禁止師巫邪術」の項に1つの条文を付け加えた。これは1821年に改訂が行われ、1826年に道光帝によって公布された。その条文により、ヨーロッパ人、すなわちポルトガル人キリスト教徒で、キリスト教への改宗を反省しない者については新疆にあるイスラームの都市に送り、奴隷の身分にするとされた[89]。

奴隷の取扱い[編集]

ポルトガルへの輸送の途上では、奴隷たちは縛られ、手錠・南京錠および首輪によってお互いにつなぎ合わされた[90]。ポルトガル人の所有者らは、奴隷たちが死なない限り、奴隷を鞭で打ったり、鎖で縛り付けたり、高温に熱した蝋や脂肪を奴隷の皮膚に注ぎかけたり、好き放題のやり方で奴隷に罰を加えた[91]。 ポルトガル人は奴隷が自分の財産であることを示すために人間用の焼き印も用いていた[92]。

奴隷制の禁止[編集]

奴隷交易を非難する声は大西洋奴隷貿易が行われたかなり初期から挙がっていた。その期間のヨーロッパにおいて奴隷制に対する非難を行った初期の人物の1人がドミニコ会のガスパル・ダ・クルス(Gaspar da Cruz)(1550- 1575)であり、彼は奴隷交易業者たちの「自分たちはすでに奴隷にされていた子供らを「合法的に」買っただけだ」という言い分を退けた人物である[93]。

大西洋奴隷貿易が行われた初期の時期から、国王はアフリカ人以外の奴隷貿易を止めさせようと考えていた。ポルトガル人に珍重された中国人奴隷の取引は[59]中国当局の官吏の要請に応じる形で取り組まれた。もっとも彼らは一般的に行われてもいたマカオや中国領内における人々を奴隷化する行為について特に反対していたわけではなかったが[94]、何回かに渡って奴隷を領外に運びだすことを止めさせようと試みられた[95]。1595年にポルトガルで民族的に中国人である奴隷の売買を禁止する布告が出された[52][94][96]。そして1744年に清の乾隆帝が中国人の取り扱いを禁止した。さらに1750年に繰り返して命令を出した[97][98]。しかしこれらの法律は奴隷貿易を完全に止めさせることはできず、16世紀には少人数の中国人奴隷がポルトガル南部のポルトガル人奴隷主によって所有されており(29〜34人)[要出典][52]、1700年代まで続けられていた。アメリカ大陸の植民地では、ポルトガル人は中国人、日本人、ヨーロッパ人及びインディアンを砂糖のプランテーション農場で奴隷として働かせるのを中止した。[いつ?] それはアフリカ人奴隷に限定された。[要出典]

ポルトガル本土およびポルトガル領インドにおけるあらゆる形態の奴隷制の廃止はポンバル侯爵セバスティアン・デ・カルヴァーリョの布告を通じて1761年に行われた。続いて1777年にマデイラで行われた。大西洋奴隷貿易はイギリスの圧力の結果、1836年にはポルトガルおよび他のヨーロッパ勢力にとって確実に違法なものとなっていた。しかしながらアフリカのポルトガル植民地においては奴隷制が確実に廃止されたのは1869年であり、米国およびイギリスとの奴隷交易の抑制のための協定に続くものであった。1822年にポルトガルから独立したブラジル帝国では、奴隷制は最終的に1888年に廃止された。

脚注[編集]

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2.^ “Europeans had Japanese slaves, in case you didn’t know…”. Japan Probe. (2007年5月10日) 2014年3月2日閲覧。
3.^ HOFFMAN, MICHAEL (2013年5月26日). “The rarely, if ever, told story of Japanese sold as slaves by Portuguese traders”. The Japan Times 2014年3月2日閲覧。
4.^ “Europeans had Japanese slaves, in case you didn’t know…”. Japan Probe. (2007年5月10日) 2014年3月2日閲覧。
5.^ Nelson, Thomas (Winter 2004). Monumenta Nipponica (Slavery in Medieval Japan). Vol. 59. Sophia University.. p. 463.
6.^ Monumenta Nipponica: Studies on Japanese Culture, Past and Present, Volume 59, Issues 3-4. Jōchi Daigaku. Sophia University. (2004). p. 463 2014年2月2日閲覧。.
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8.^ Kwame Anthony Appiah, Henry Louis Gates, Jr., ed (2005). Africana: The Encyclopedia of the African and African American Experience (illustrated ed.). Oxford University Press. p. 479. ISBN 0195170555 2014年2月2日閲覧。.
9.^ Anthony Appiah, Henry Louis Gates, ed (2010). Encyclopedia of Africa, Volume 1 (illustrated ed.). Oxford University Press. p. 187. ISBN 0195337700 2014年2月2日閲覧。.
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14.^ Monumenta Nipponica: Studies on Japanese Culture, Past and Present, Volume 59, Issues 3-4. Jōchi Daigaku. Sophia University. (2004). p. 463 2014年2月2日閲覧。.
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参考文献[編集]
Dias, Maria Suzette Fernandes (2007), Legacies of slavery: comparative perspectives, Cambridge Scholars Publishing, p. 238, ISBN 1-84718-111-2

関連項目[編集]
奴隷貿易
人買
バテレン追放令
千々石ミゲル
からゆきさん
ポルトガル海上帝国

外部リンク[編集]
日本人女性人身売買考
Studies on Slavery コラム:大西洋奴隷貿易時代の日本人奴隷
日本人奴隷の謎を追って  サンパウロ 日本語新聞
戦国時代ごろ、ポルトガルが日本人を奴隷として売買していたらしい。このことについて掲載のある資料はないか。 | レファレンス協同データベース | 国立国会図書館

http://www.marino.ne.jp/~rendaico/jesukyo/iezusukaico/zinshinbaibaico.htm
日本人女性人身売買考



 (最新見直し2009.6.27日)

【「日本人女性人身売買考」】
 「豊臣秀吉の『伴天連(ばてれん)追放令』」で触れたが、ここで改めて「日本人女性人身売買」について考察する。

 豊臣秀吉側近の軍記作者にして「九州御動座記」の著者であるの大村由己は次のような文面の手紙を遺している。
 「…今度、伴天連ら、能時分と思い候て、種々様々の宝物を山と積み、いよいよ一宗繁昌の計賂をめぐらし、すでに後戸(五島)、平戸、長崎などにて、南蛮航付きごとに完備して、その国の国主を傾け、諸宗をわが邪法に引き入れ、それのみならず、日本仁(人)を数百、男女によらず、黒船へ員い取り、手足に鉄の鎖をつけ、舟底へ追入れ、地獄の呵責にもすぐれ、そのうえ牛馬を買い取り、生ながら皮を剥ぎ、坊主も弟子も手づから食し、親子兄弟も礼儀なく、ただ今世より畜生道のあリさま、目前のように相聞え候。見るを見まねに、その近所の日本仁(人)いずれもその姿を学び、子を売り、親を売り、妻女げどうを売り候由、つくづく聞こしめされ、右の一宗御許容あらば、たちまち日本、外道の法になるべきこと、案の中に候。然れば仏法も王法も捨て去るべきことを歎きおぼしめされ、添なくも大慈大悲の御思慮をめぐらされ候て、すでに伴天連の坊主、本朝追払の由、仰せ出され候……」

 (「株式日誌と経済展望」氏の2006.8.25日付け「NHKの大河ドラマの「功名が辻」は単なるホームドラマ」より転載)

 「★阿修羅♪ > Ψ空耳の丘Ψ42」のTORA氏の2006.1.27日付け投稿「日本の歴史教科書はキリシタンが日本の娘を50万人も海外に奴隷として売った事は教えないのはなぜか?」、くじら氏の2009.5.10日付け投稿「Re: 日本の歴史教科書はキリシタンが日本の娘を50万人も海外に奴隷として売った事は教えないのはなぜか?」を参照する。

 「島原半島最南端、口之津港が火薬一樽と交換に売られていった少女の積出港でした。火山灰土壌で米がとれぬ同地の農民にとり、過酷な領主からの取り立てを逃れる手段として、悲しい選択をせざるを得なかったのでした。南蛮船渡来の地として知られる口之津港は、キリスト教が戦国時代のこの国で一番最初に根付き、大半の領民はキリスト教へと改宗、熱心に信仰を守っていました。その後、秀吉の九州征伐、宣教師の国外追放令を経て、キリスト教禁止令が出され、さらに鎖国政策がとられ貿易の利がなくなると、そのしわ寄せはすべて領民にかかります。この世に生きる希望を断たれた人々はついに島原の乱を起こし、三万七千人もの人々が燃え盛る炎のなか命を絶たれるに至りました。口之津歴史資料館では戦国時代から近代にまで続く人身売買の歴史を垣間見せてもらえます」。  


 徳富蘇峰の「近世日本国民史」の初版に、秀吉の朝鮮出兵従軍記者の見聞録がのっている。
 「キリシタン大名、小名、豪族たちが、火薬がほしいぱかりに女たちを南蛮船に運び、 獣のごとく縛って船内に押し込むゆえに、女たちが泣き叫ぴ、わめくさま地獄のごとし」。

 山田盟子氏は、「ウサギたちが渡った断魂橋」(新日本出版社)のP26-27文中で次のように記していると云う。
 「 ……肌の白いみめよき日本の娘らが、秘所をまるだしにつながれ、弄ばれているのは、奴隷らの国にまで、日本の女が転売されていくのを、正視できるものではない。われわれのみた範囲で、ヨーロッパ各地で五十万ということはなかろう。ポルトガル人の教会や師父が、硝石と交換し、証文をつけて、インドやアフリカにまで売っている。いかがなものだろう」。

 山田盟子氏の「ウサギたちが渡った断魂橋」は、  「天正遣欧使節」の次のような遣り取りを記していると云う。


 「(ミゲルを名乗った有馬晴信の甥の清左、マンショを名乗った大友宗麟の甥の祐益らは、)行く先々でおなじ日本人が、数多く奴隷にされ、鉄の足枷をはめられ、ムチうたれるのは、家畜なみでみるに忍びない」、「わずかな価で、同国人をかかる遠い地に売り払う徒輩への憤りはもっともなれど、白人も文明人でありながら、なぜ同じ人間を奴隷にいたす」。

 すると大村純忠のさしむけた少年マルテーは、「われらと同じ日本人が、どこへ行ってもたくさん目につく。また子まで首を鎖でつながれ、われわれをみて哀れみをうったえる眼ざしは辛くてならぬ……肌の白いみめよき日本の娘らが、秘所をまるだしにつながれ、弄ばれているのは、奴隷らの国にまで、日本の女が転売されていくのを、正視できるものではない。われわれのみた範囲で、ヨーロッパ各地で五十万ということはなかろう。ポルトガル人の教会や師父が、硝石と交換し、証文をつけて、インドやアフリカにまで売っている。いかがなものだろう」。

 これら人売のことでは、ポルトガル王のジョアン三世から、ローマ法王庁に、「ジパングは火薬一樽と交換に、五十人の奴隷をさしだすのだから、神の御名において領有することができたら、献金額も増すことができるでしょう」という進言があり、イエズス会からの戦闘教団が、一五四一年四月七日、八年をかけて喜望峰まわりで日本へと着いたのだという。


 これにつき、「天正遣欧使節記」(デ・サンデ著/雄松堂書店)は、上述のミゲル、マンショ、・マルチノ(マルテー)の発言につき、意味内容が多少異なる形で次のように記している。

 「レオ ちょうどよい機会だからお尋ねするが、捕虜または降参者はどういう目に遭わされるのだろう。わが日本で通例やるように死刑か、それとも長の苦役か。

 ミゲル キリスト教徒間の戦争で捕虜となったり、やむをえず降伏する者は、そういう羽目のいずれにも陥ることはない。つまりすべてこれらの者は先方にも捕虜があればそれと交換されるとか、また釈放されるとか、あるいはなにがしの金額を支払っておのが身を受け戻すのだ。というのも、ヨーロッパ人の間では、古い慣習が法律的効力を有するように決められ、それによってキリスト教徒は戦争中に捕われの身となっても、賤役を強いられない規定になっているからだ。だがマホメット教徒、すなわちサラセン人に属する者に対しては、別の処置が取られる。これらの者は野蛮人でキリストの御名の敵だから、交戦後も捕えられたまま、いつまでも賤役に従うのである。

 レオ そうすると、キリスト教徒なら、その教徒間では戦争中に捕虜となっても、賤役に従えという法律に拘束される者は一人もないわけだな。

 ミゲル そうしたことで市民権を失った者はただの一人もない。それはまた今もいったように、古来の確定した習慣で固く守られている。それどころか、日本人には慾心と金銭の執着がはなはだしく、そのためたがいに身を売るようなことをして、日本の名にきわめて醜い汚れをかぶせているのを、ポルトガル人やヨーロッパ人はみな、不思議に思っているのである。そのうえ、われわれとしてもこのたびの旅行の先々で、売られて奴隷の境涯に落ちた日本人を親しく見たときには、道義をいっさい忘れて、血と言語を同じうする同国人をさながら家畜か駄獣かのように、こんな安い値で手放すわが民族への激しい怒りに燃え立たざるを得なかった。

 マンショ ミゲルよ、わが民族についてその慨きをなさるのはしごく当然だ。かの人たちはほかのことでは文明と人道とをなかなか重んずるのだが、どうもこのことにかけては人道なり、高尚な教養なりを一向に顧みないようだ。そしてほとんど世界中におのれの慾心の深さを宣伝しているようなものだ。

 マルチノ まったくだ。実際わが民族中のあれほど多数の男女やら、童男・童女が、世界中の、あれほどさまざまな地域へあんな安い値で攫って行かれて売り捌かれ、みじめな賤役に身を屈しているのを見て、憐憫の情を催さない者があろうか。単にポルトガル人へ売られるだけではない。それだけならまだしも我慢ができる。というのはポルトガルの国民は奴隷に対して慈悲深くもあり親切でもあって、彼らにキリスト教の教条を教え込んでもくれるからだ。しかし日本人が贋の宗教を奉じる劣等な諸民族がいる諸方の国に散らばって行って、そこで野蛮な、色の黒い人間の間で悲惨な奴隷の境涯を忍ぶのはもとより、虚偽の迷妄をも吹き込まれるのを誰が平気で忍び得ようか。

 レオ いかにも仰せのとおりだ。実際、日本では日本人を売るというような習慣をわれわれは常に背徳的な行為として非難していたのだが、しかし人によってはこの罪の責任を全部、ポルトガル人や会のパドレ方へ負わせ、これらの人々のうち、ポルトガル人は日本人を慾張って買うのだし、他方、パドレたちはこうした質入れを自己の権威でやめさせようともしないのだといっている。

 ミゲル いや、この点でポルトガル人にはいささかの罪もない。何といっても商人のことだから、たとえ利益を見込んで日本人を買い取り、その後、インドやその他の土地で彼らを売って金儲けをするからとて、彼らを責めるのは当らない。とすれば、罪はすべて日本人にあるわけで、当り前なら大切にしていつくしんでやらなければならない実の子を、わずかばかりの代価と引き換えに、母の懐から引き離されて行くのを、あれほどこともなげに見ていられる人が悪い。また会のパドレ方についてだが、あの方々がこういう売買に対して本心からどれほど反対していられるかをあなた方にも知っていただくためには、この方々が百方苦心して、ポルトガル追うから勅状をいただかれる運びになったが、それによれば日本に渡来する商人が日本人を奴隷として買うことを厳罰をもって禁じてあることを知ってもらいたい。しかしこのお布令ばかり厳重だからとて何になろう。日本人はいたって強慾であって兄弟、縁者、朋友、あるいはまたその他の者たちをも暴力や詭計を用いてかどわかし、こっそりと人目を忍んでポルトガル人の船へ連れ込み、ポルトガル人を哀願なり、値段の安いことで奴隷の買入れに誘うのだ。ポルトガル人はこれをもっけの幸いな口実として、法律を破る罪を知りながら、自分たちには一種の暴力が日本人の執拗な嘆願によって加えられたのだと主張して、自分の犯した罪を隠すのである。だがポルトガル人は日本人を悪くは扱っていない。というのは、これらの売られた者たちはキリスト教の教義を教えられるばかりか、ポルトガルではさながら自由人のような待遇を受けてねんごろしごくに扱われ、そして数年もすれば自由の身となって解放されるからである。さればといって、日本人がこういう賤役に陥るきっかけをみずからつくることによって蒙る汚点は、拭われるものではない。したがってこの罪の犯人は誰かれの容赦なく、日本において厳重に罰せられてよいわけだ。

 レオ 全日本の覇者なる関白殿Quambacudonoが裁可された法律がほかにもいろいろある中に、日本人を売ることを禁じる法律は決してつまらぬものではない。

 ミゲル そうだ。その法律はもしその遵守に当る下役人がその励行に眼を閉じたり、売手を無刑のまま放免したりしなかったら、しごく結構なものだが。だから必要なことは、一方では役人自身が法律を峻厳に励行するように心掛け、他方では権家なり、また船が入って来る港々の長なりがそれを監視し、きわめて厳重な刑を課して違反者を取り締ることだ。

 レオ それが日本にとって特に有益で必要なこととして、あなた方から権家や領主方にお勧めになるとよい。

 ミゲル われわれとしては勧めもし諭しもすることに心掛けねばなるまい。しかし私は心配するのだが、わが国では公益を重んずることよりも、私利を望む心の方が強いのではなかろうか。実際ヨーロッパ人には常にこの殊勝な心掛けがあるものだから、こうした悪習が自国内に入ることを断じて許さない。それはそうと、このあたりで以前の話に戻ることにしてはどうだろう」。

 (「愛・蔵太のもう少し調べて書きたい日記」の2006.3.13日付け「[日本人奴隷]50万人もの日本の若い女性がキリシタンや大名によって売り飛ばされた」という証拠の史料はなかなか見つかりませんでした」より転載)


 TORA氏が「阿修羅空耳の丘43」の2006.1.27日付投稿「日本の歴史教科書はキリシタンが日本の娘を50万人も海外に奴隷として売った事は教えないのはなぜか?」、 2006.3.6日付投稿「明治から大正にかけて、30万人もの日本の若い女性が売られたり騙されたりして、海外に売られていった」で採りあげている。出所は「株式日記と経済展望」で、出典は「日本宣教論序説(16) 2005年4月 日本のためのとりなし」のようである。これをれんだいこ流に意訳整理する。

 鬼塚英昭氏の著「天皇のロザリオ」(P249~257)は、次のように述べている。

 「徳富蘇峰の『近世日本国民史』の初版に、秀吉の朝鮮出兵従軍記者の見聞録がのっている。『キリシタン大名、小名、豪族たちが、火薬がほしいぱかりに女たちを南蛮船に運び、獣のごとく縛って船内に押し込むゆえに、女たちが泣き叫ぴ、わめくさま地獄のごとし』。ザヴィエルは日本をヨーロッパの帝国主義に売り渡す役割を演じ、ユダヤ人でマラーノ(改宗ユダヤ人)のアルメイダは、日本に火薬を売り込み、交換に日本女性を奴隷船に連れこんで海外で売りさばいたボスの中のボスであつた。

 キリシタン大名の大友、大村、有馬の甥たちが、天正少年使節団として、ローマ法王のもとにいったが、その報告書を見ると、キリシタン大名の悪行が世界に及んでいることが証明されよう。

 『行く先々で日本女性がどこまでいっても沢山目につく。ヨーロッパ各地で50万という。肌白くみめよき日本の娘たちが秘所まるだしにつながれ、もてあそばれ、奴隷らの国にまで転売されていくのを正視できない。鉄の伽をはめられ、同国人をかかる遠い地に売り払う徒への憤りも、もともとなれど、白人文明でありながら、何故同じ人間を奴隷にいたす。ポルトガル人の教会や師父が硝石(火薬の原料)と交換し、インドやアフリカまで売っている』と。

 日本のカトリック教徒たち(プロテスタントもふくめて)は、キリシタン殉教者の悲劇を語り継ぐ。しかし、かの少年使節団の書いた(50万人の悲劇)を、火薬一樽で50人の娘が売られていった悲劇をどうして語り継ごうとしないのか。キリシタン大名たちに神杜・仏閣を焼かれた悲劇の歴史を無視し続けるのか。

 数千万人の黒人奴隷がアメリカ大陸に運ばれ、数百万人の原住民が殺され、数十万人の日本娘が世界中に売られた事実を、今こそ、日本のキリスト教徒たちは考え、語り継がれよ。その勇気があれぱの話だが」。


 かなり護教的な論調で解説しているが、奴隷売買に言及している。


 (注)「愛・蔵太のもう少し調べて書きたい日記」の2007.9.4日付けの「[日本人奴隷]日本人奴隷の売買を禁じた秀吉の発令(?)は「バテレン追放令」ではありません」によれば、冒頭の「秀吉の朝鮮出兵従軍記者の見聞録」は不正確で、実際は「秀吉の九州出兵の記録であるところの、大村由己の『九州御動座記』」が正しいとのことである。

 なお、日記氏は、「火薬一樽につき日本娘50人」の根拠は明らかでないとして次のように述べている。
 さらに、「火薬一樽につき日本娘50人」と似たようなフレーズ・テキストは、この世に存在する書物としては、『天皇のロザリオ』中以外には、存在が確認できませんでした。「記録は省かれています」も何も、あったもんじゃありません。

 れんだいこ主宰の「人生学院掲示板№2、703」の「出入りの住人」2008.10.22日付け投稿「「日本人女性人身売買考」について」の指摘を受け、書き直しさせていただいた。謝謝。

 2008.10.22日 れんだいこ拝

 鬼塚氏の指摘は、若桑みどり著「クアトロ・ラガッツィ(四人の少年の意)」(天正少年使節と世界帝国)P.414~417」でも裏付けられている。若菜氏は、徳當蘇峰「近世日本国民史豊臣時代乙篇P337-387」からの引用で次のように述べている。但し、肝腎の「火薬一樽につき日本娘50人」の記述を省いている。
 「植民地住民の奴隷化と売買というビジネスは、白人による有色人種への差別と資本力、武カの格差という世界の格差の中で進行している非常に非人間的な『巨悪』であった。英雄的なラス・カサスならずとも、宣教師はそのことを見逃すことができず、王権に訴えてこれを阻止しようとしたがその悪は利益をともなっているかぎり、そして差別を土台としているかぎり、けっしてやむものではなかった」(p.416〉。

  この説明の後、売られた女性たちの末路の悲惨さを記している。かなり婉曲に触れていることになる。

 秀吉は、準管区長コエリヨに対して次のように命じている。
 「ポルトガル人が多数の日本人を奴隷として購入し、彼らの国に連行しているが、これは許しがたい行為である。従って伴天遠はインドその他の遠隔地に売られて行ったすぺての日本人を日本に連れ戻せ」。

 2002.7.9日付北國新聞の「バテレン追放令」も当時の「宣教師達による日本人女性人身売買」について触れている。豊臣秀吉のバテレン追放令第10条の「日本人を南蛮に売り渡す(奴隷売買)ことを禁止」を紹介し、次のように述べている。
 「バテレン船で現実に九州地方の人々が外国に奴隷として売られていること―などが分かる。秀吉の追放令は、ある意味で筋の通った要求だった」。

 日本の娘などがキリシタンによって奴隷として売りさばかれた史実は、さまざまな文献資料によっても証明されている。日本の歴史教科書では、秀吉のキリシタン弾圧は教えても、日本女性が奴隷としてキリシタンたちが海外売りさばいた事は教えていない。高山右近などのキリシタン大名が出てくるだろうが、娘たちを火薬一樽で娘50人を売った事などはドラマには出てこない。それでは、秀吉がなぜキリシタン弾圧に乗り出したかが分からない。ましてや宣教師のザビエルなどが改宗ユダヤ人であることなどと指摘する歴史教科書はない。


【「株式日記と経済展望」氏の「日本人女性人身売買考」】
 これらを踏まえて、「株式日記と経済展望」氏は次のようにコメントしている。

 今年のNHKの大河ドラマは山内一豊が主人公ですが、信長、秀吉、家康の時代のドラマです。また同じNHKでは「そのとき歴史は動いた」と言う番組でも戦国時代のことをよく取り扱います。その中で秀吉とキリシタンの関係を扱ったものがありましたが、日本の娘などがキリシタンによって奴隷として売りさばかれた事は扱わなかった。

 この事は、さまざまな文献資料によっても証明されているから事実なのですが、日本の歴史教科書でも、秀吉のキリシタン弾圧は教えても、日本女性が奴隷としてキリシタンたちが海外売りさばいた事は教えないのはなぜか。そうでなければ秀吉がなぜキリシタン弾圧に乗り出したかが分からない。

 ましてや宣教師のザビエルなどが改宗ユダヤ人であることなどと指摘するのは歴史教科書やNHKなどでは無理だろう。しかしこのようなことを教えないからユダヤ人がなぜヨーロッパで差別されるのかが分からなくなる。彼らは金になれば何でもやるところは現代でも変わらない。

 なぜこのような事実が歴史として教えられないかと言うと、やはりGHQなどによる歴史の改ざんが行なわれて、キリスト教や白人などへのイメージが悪くなるからだろう。もちろんキリシタン大名などの協力があったから日本女性を奴隷として売りさばいたのだろうが、彼らは日本人の顔をしたキリシタンだった。

 おそらく大河ドラマでも高山右近などのキリシタン大名が出てくるだろうが、娘たちを火薬一樽で娘50人を売った事などはドラマには出てこないだろう。しかしこのようなことがキリスト教に対する日本国民のイメージが悪くなり、キリスト教は日本ではいくら宣教師を送り込んでも1%も信者が増えない。かつてキリスト教は人さらいをした宗教と言うDNAが埋め込まれてしまったのだろう。

 歴史教科書などではキリスト教弾圧を単なる異教徒排斥としか教えていませんが、信長にしても秀吉にしてもキリシタンに対しては最初は好意的だった。しかし秀吉に宣教師たちの植民地への野心を見抜かれて、だんだん危険視するようになり制限を設けたが、神社仏閣の破壊や日本人を奴隷として売りさばく事が秀吉の怒りに触れて弾圧するようになったのだ。

 現代にたとえれば竹中平蔵などがキリシタン大名として宣教師たちの手先となって働いているのと同じであり、日本の銀行や保険会社などを外資系ファンドなどに売りさばいてしまった。戦国時代に日本の娘を奴隷として売りさばいたのと同じ行為であり、竹中平蔵は高山右近であり、アルメイダのような改宗ユダヤ人が日本乗っ取りを狙っている。(「日本の歴史教科書はキリシタンが日本の娘を50万人も海外に奴隷として売った事は教えないのはなぜか?」)


 戦国時代のことは資料も限られたものしかないから、正確な事はわかりませんが、キリシタン追放令の10条に日本人を南蛮に売り渡すのを禁止している事からも、日本の若い娘が大勢連れ去られて売春宿に売られていたようだ。あとは天正少年使節団などがヨーロッパの各地で日本女性が売春婦として働かされていることなどが記録として残っている。

 このように戦国時代も明治大正時代も大勢の日本女性が売春婦として売り飛ばされたのですが、現代の日本人としては認めたくない事実なのだろう。(「明治から大正にかけて、30万人もの日本の若い女性が海外に売られていった」)


 現代人が明治大正の貧しい時代のことを知らないのは、明治以降の日本の歴史を詳しく教えないからであり、テレビや映画などで描かれる明治大正の貧しい農家の様子を知る事は難しい。小林多喜二の「蟹工船」などの小説やプロレタリア文学などの作品などを読めば当時の貧しい農家の様子は分かるのですが、女は女郎として売られ、男は人夫として売られた。

 からゆきさんと呼ばれた海外に売り飛ばされた日本の若い女性は20万にとも30万人とも言われますが、多くが20歳足らずで病気などで亡くなった。親たちはどのような事情で子供を売り飛ばしたのか分かりませんが、当時の貧しさを知らなければ親を責める訳にもいかないでしょう。しかしこれほどの大勢の女性が海外に売られたのに多くの人がこの事を知らない。

 だから戦国時代といわれた100年余りの間に50万人もの日本の若い女性がキリシタンや大名によって売り飛ばされたと言う事も大げさな話ではないのでしょう。しかし株式日記を読んだ読者にはこれを「既知外テキスト」として切り捨てる人もいる。私はデタラメを書いているつもりはないのですが、それほど現代の日本人は日本の歴史を知らないのだ。(「明治から大正にかけて、30万人もの日本の若い女性が海外に売られていった」)


http://www.daishodai.ac.jp/~shimosan/slavery/japan.html





 コラム:大西洋奴隷貿易時代の日本人奴隷
__Column : Japanese Slaves in the Age of the Middle Passage

(Sorry, Japanese language only)

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 天正15年(1587年)6月18日、豊臣秀吉は宣教師追放令を発布した。その一条の中に、ポルトガル商人による日本人奴隷の売買を厳しく禁じた規定がある。日本での鎖国体制確立への第一歩は、奴隷貿易の問題に直接結びついていたことがわかる。

 「大唐、南蛮、高麗え日本仁(日本人)を売遣候事曲事(くせごと = 犯罪)。付(つけたり)、日本におゐて人之売買停止之事。 右之条々、堅く停止せられおはんぬ、若違犯之族之あらば、忽厳科に処せらるべき者也。」(伊勢神宮文庫所蔵「御朱印師職古格」)

 日本人を奴隷として輸出する動きは、ポルトガル人がはじめて種子島に漂着した1540年代の終わり頃から早くもはじまったと考えられている。16世紀の後半には、ポルトガル本国や南米アルゼンチンにまでも日本人は送られるようになり、1582年(天正10年)ローマに派遣された有名な少年使節団の一行も、世界各地で多数の日本人が奴隷の身分に置かれている事実を目撃して驚愕している。「我が旅行の先々で、売られて奴隷の境涯に落ちた日本人を親しく見たときには、 こんな安い値で小家畜か駄獣かの様に(同胞の日本人を)手放す我が民族への激しい念に燃え立たざるを得なかった。」「全くだ。実際、我が民族中のあれほど多数の男女やら童男・童女が、世界中のあれほど様々な地域へあんなに安い値でさらっていって売りさばかれ、みじめな賤業に就くのを見て、憐 憫の情を催さない者があろうか。」といったやりとりが、使節団の会話録に残されている。この時期、黄海、インド洋航路に加えて、マニラとアカプルコを結ぶ太平洋の定期航路も、1560年代頃から奴隷貿易航路になっていたことが考えられる。
 秀吉は九州統一の直後、博多で耶蘇会のリーダーであったガスパール・コエリョに対し、「何故ポルトガル人はこんなにも熱心にキリスト教の布教に躍起になり、そして日本人を買って奴隷として船に連行するのか」と詰問している。南蛮人のもたらす珍奇な物産や新しい知識に誰よりも魅惑されていながら、実際の南蛮貿易が日本人の大量の奴隷化をもたらしている事実を目のあたりにして、秀吉は晴天の霹靂に見舞われたかのように怖れと怒りを抱く。秀吉の言動を伝える『九州御動座記』には当時の日本人奴隷の境遇が記録されているが、それは本書の本文でたどった黒人奴隷の境遇とまったくといって良いほど同等である。「中間航路」は、大西洋だけでなく、太平洋にも、インド洋にも開設されていたのである。「バテレンどもは、諸宗を我邪宗に引き入れ、それのみならず日本人を数百男女によらず黒舟へ買い取り、手足に鉄の鎖を付けて舟底へ追い入れ、地獄の呵責にもすくれ(地獄の苦しみ以上に)、生きながらに皮をはぎ、只今世より畜生道有様」といった記述に、当時の日本人奴隷貿易につきまとった悲惨さの一端をうかがい知ることができる。
 ただし、こうした南蛮人の蛮行を「見るを見まね」て、「近所の日本人が、子を売り親を売り妻子を売る」という状況もあったことが、同じく『九州御動座記』に書かれている。秀吉はその状況が日本を「外道の法」に陥れることを心から案じたという。検地・刀狩政策を徹底しようとする秀吉にとり、農村秩序の破壊は何よりの脅威であったことがその背景にある。
 しかし、秀吉は明国征服を掲げて朝鮮征討を強行した。その際には、多くの朝鮮人を日本人が連れ帰り、ポルトガル商人に転売して大きな利益をあげる者もあった。--奴隷貿易がいかに利益の大きな商業活動であったか、このエピソードからも十分に推察ができるだろう。

池本幸三/布留川正博/下山晃共著
『近代世界と奴隷制:大西洋システムの中で』
人文書院、1995年、
第2章コラム、pp.158-160 より転載

◎ 関連文献等については、下山研究室にお問い合わせください。
◎ 関連情報や関連文献を E-mail またはフロッピーでお送りください。
 E-mail shimosan@daishodai.ac.jp

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からゆきさん





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サイゴン在住のからゆきさん
仏領インドシナの切手やサイゴンのスタンプが押されている
からゆきさん(唐行きさん)とは、19世紀後半に、東アジア・東南アジアに渡って、娼婦として働いた日本人女性のことである。長崎県島原半島・熊本県天草諸島出身の女性が多く、その海外渡航には斡旋業者(女衒)が介在していた。「唐」は、漠然と「外国」を指す言葉である。



目次 [非表示]
1 概要
2 からゆきさんの労働条件
3 関連文献
4 脚註
5 関連項目
6 外部リンク


概要[編集]

からゆきさんとして海外に渡航した日本人女性の多くは、農村、漁村などの貧しい家庭の娘たちだった。彼女たちを海外の娼館へと橋渡ししたのは嬪夫(ピンプ)などと呼ばれた斡旋業者、女衒たちである。代表的な女衒として長崎出身の村岡伊平治がいる。こうした女衒たちは貧しい農村などをまわって年頃の娘を探し、海外で奉公させるなどといって、その親に現金を渡した。女衒たちは彼女たちを売春業者に渡すことで手間賃を得た。そうした手間賃を集めたり、投資を受けたりすることによって、みずから海外で娼館の経営に乗り出す者もいた。

こうした日本人女性の海外渡航は、当初世論においても「娘子軍」[1]として喧伝され、明治末期にその最盛期をむかえたが、国際政治における日本の国勢が盛んになるにつれて、彼女らの存在は「国家の恥」であるとして非難されるようになった。1920年の廃娼令とともに海外における日本人娼館も廃止された。多くが日本に帰ったが、更生策もなく残留した人もいる。

第二次世界大戦後、からゆきさんの存在は「戦前日本の恥部」として一般に知られることは少なかったが、1972年の山崎朋子『サンダカン八番娼館』の出版によって広く知られるようになり、以後、からゆきさんについてのルポルタージュや研究書が現れた。

からゆきさんの主な渡航先は、シンガポール、中国、香港、フィリピン、ボルネオ、タイ、インドネシアなどアジア各地である。特に当時、アジア各国を殖民支配していた欧米の軍隊からの強い要望があった所へ多く派遣された。 また、さらに遠くシベリア、満州、ハワイ、北米(カリフォルニアなど)、アフリカ(ザンジバルなど)に渡った日本人女性の例もある。

20世紀後半、逆に日本に渡航し、ダンサー、歌手、ホステス、ストリッパーなどとして働いた外国人女性は「ジャパゆきさん」と類似した呼称で呼ばれた。

からゆきさんの労働条件[編集]

からゆきさんとして有名な北川サキの、大正中期から昭和前期のボルネオの例では、娼婦の取り分は50%、その内で借金返済分が25%、残りから着物・衣装などの雑費を出すのに、月20人の客を取る必要があった。「返す気になってせっせと働けば、そっでも毎月百円ぐらいずつは返せたよ」というから、検査費を合わせると月130人に相当する(余談だが、フィリピン政府の衛生局での検査の場合、週1回の淋病検査、月1回の梅毒検査を合わせると、その雑費の二倍が娼婦負担にさせられていた)。

普段の客はさほど多くないが港に船が入ったときが、どこの娼館も満員で、一番ひどいときは一晩に30人の客を取ったという。一泊10円、泊まり無しで2円。客の一人あたりの時間は、3分か5分、それよりかかるときは割り増し料金の規定だった。

現地人を客にすることは好まれず、かなり接客拒否ができたと見られる。しかし、月に一度は死にたくなると感想を語り、そんなときに休みたくても休みはなかったという。

関連文献[編集]
村岡伊平治 『村岡伊平治自伝』、南方社、1960年(復刻版、講談社、1987年、ISBN 978-4061840379)
山崎朋子 『サンダカン八番娼館 - 底辺女性史序章』、筑摩書房、1972年(ISBN 978-4480810267)
矢野暢 『「南進」の系譜』、中央公論社<中公新書>、1975年
森崎和江 『からゆきさん』、朝日新聞社、1976年(朝日文庫、1980年、ISBN 978-4022602350)
倉橋正直 『北のからゆきさん』、共栄書房、1989年(ISBN 4-7634-1005-9)
倉橋正直 『からゆきさんの唄』、共栄書房、1990年(ISBN 4-7634-1009-1)
山谷哲夫 『じゃぱゆきさん - 女たちのアジア』、講談社文庫、1992年(ISBN 978-4061853225)
倉橋正直 『島原のからゆきさん - 寄僧・広田言証と大師堂』、共栄書房、1993年(ISBN 4-7634-1012-1)
白石顕二 『ザンジバルの娘子軍』、社会思想社、1995年(ISBN 978-4390115339)
山田盟子 『波よ語っておくれ - 北米からゆきさん物語』、リトルガリヴァー、2001年(ISBN 978-4947683502)

脚註[編集]

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1.^ その稼ぎが資本となりまたその人数が日本人の進出の手がかりともなって、娘子軍と言われた。

関連項目[編集]
ジャパゆきさん
人身売買
日本人墓地
女衒
人買
売春
慰安婦 - 日本の慰安婦
棄民
南進論
サンダカン八番娼館 望郷 - からゆきさんを題材にした映画。
羅紗緬
日本の売買春
ポルトガル人による日本人などのアジア人の奴隷貿易

外部リンク[編集]
からゆきさんの小部屋
ヤンゴンの日本人墓地
からゆきさんの唄
南洋及び東洋に於ける賣笑婦 日本娘子軍の發展 『姦淫及び売笑婦』沢田順次郎著 (新興社, 1935)

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カロパリジャンのベアナックルファイト








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アルメニアのトップ柔道家にしてサンビスト 柔術黒帯でもあるカロパリジャン先生の教則動画

Karo Parisyan








日本の柔道家の場合
柔道家は柔道だけやっているのがフツーですが

アルメニアとかロシアとかグルジアとか旧ソ連圏 モンゴルなどの共産圏の柔道家は柔道だけでなくサンボとレスリングといった他の組み技格闘技とクロストレーニングしているのがフツーだったりします
よってサンボの王者とレスリングの王者 蒙古相撲 ボフなどの地元の組み技格闘技の横綱と

柔道の王者を兼任している例がよく見受けられますね

ちなみにヒョードルはサンボだけでなく柔道家でもあり柔道の国際大会にも出ています

ちなみにちなみに
カロパリジャンといいハルートテルジャンといいゴーカーシビシアン門下はキャッチレスリングのジーンレーベル門下でもありますから
キャッチレスリングのノウハウも継承しているんでしょうな

こりゃ豪華で豊富な技術体系ですわ

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福島第1原発事故の汚染水対策と称して、地中を凍らせて地下水が原子炉建屋に流入するのを防ぐ凍土遮水壁の工事を2014年3月からトレンチでの試験的凍結作業を始めているが何故か凍らない。凍土方式の遮水影は完成すれば、全長1・5キロもの距離に1メートル間隔で30メートルの深さまで凍結管を埋めるとの前代未聞の大工事である。ところが予想に反して凍土壁が、まったく凍らない。仕方なく無理やりドライアイスや氷を百数十トンもぶち込むも、矢張り何故か凍らない。8月には凍らない部分にセメントや粘土で詰めても矢張り凍結(止水)が無理なのです。(フクシマの地下で何が起きているのか)











http://blog.goo.ne.jp/syokunin-2008/e/83f663bc8e7df52ff5f1fb8cce003d8d


福島第一原子力発電所の「怪霧」と海側遮水壁

2015年10月28日 | 放射能と情報操作




視界を遮る白い帯は撮影ミスでもレタッチミスでもない。昨秋頃からフクイチ上空に現れるようになった謎の霧が今回訪れた際も出現した  週プレNEWS 10月25日(日)

『フクイチ周辺にだけ発生する“怪しい霧”に“異様な日焼け”が警告するものとは』

福島第一原発事故から4年半――。『週刊プレイボーイ』本誌では当時の総理大臣・菅直人氏とともに、“フクイチ沖1.5km”の海上から見た事故現場の現状をリポートしたーー。
フクイチで今も続いている危機は、前回記事(「元総理・菅直人が初めての“フクイチ”海上視察!」)で指摘したベント塔の老朽化だけではない。
事故発生以来、港湾内外の海水から検出される放射性物質の濃度も上昇するばかりなのだ。
これは構内の地面から流れた汚染水と、フクイチ施設の地下を流れる汚染地下水が海へ漏れ出ている影響としか考えられない。
さらに、1~3号機から溶け落ちた大量の核燃料デブリが地中へメルトアウトして、地下水流の汚染をより高めている可能性もある。
そこで本誌は、フクイチ沖1500mの「海水」1リットルと、海底(深さ15m)の「海砂」約3㎏を採取し、専門機関に測定を依頼した。
その結果、事故当時に大量放出された「セシウム137」(半減期約30年)と「セシウム134」(同約2年)が検出され、やはりフクイチ事故の影響が続いていることがわかった。

(自然界には存在しない半減期が13時間しかない核種テルル123の検出)

さらに重要なのが、セシウムと同じくウラン燃料が核分裂した直後に放出される「ヨウソ123」(同約13時間)が、何度か変化して生まれる同位体の放射性物質「テルル123」(同約13時間)も微量ながら検出されたことだ。
この海水は、採取1日後から約47時間をかけて測定したので、微量ながら「テルル123」が検出されたことは「採取の数十時間前くらいにフクイチからメルトアウトした核燃料デブリが核分裂反応を起こした?」という見方もできるのだ。
では「海砂」の測定結果はどうか。
船上に引き上げた限りでは、泥を含んだ様子もなく、生きたハマグリの稚貝も交じるきれいな砂だった。しかし測定結果を見ると、海水よりも多くの放射性物質を含んでいた。
まず注目されるのが、核燃料そのものといえる「ウラン235」(同約7億年)と「セシウム134」「セシウム137」。それ以外に「タリウム208」(同約3分)、「アクチニウム228」(同約6時間)、「ラジウム224」(同3・66日)、「ユーロピウム」(同4・76年)など、セシウムよりも半減期が短い放射性物質もいくつか検出された。
採取に立ち会った、フクイチ事故の汚染拡大パターンを研究する長崎大学院工学研究科の小川進教授(工学、農学博士)は、こう分析する。

「このウラン235は自然界にも存在しますが、やはり採取場所からみてフクイチ事故で放出されたと判断すべきでしょう。そして、これは放射線科学の教科書的内容ともいえる基礎知識ですが、ウラン燃料が原子炉内で核分裂すれば、今回この海砂から検出された、すべての〝短半減期核種〟が発生します。

(ほぼ確実な福島第一原発地下の核燃料デブリの間欠的な再臨界)

しかし、もうフクイチの原子炉は存在しないので、これらの短半減期核種とウラン235の発生源は、デブリの臨界反応とみるのが理にかなっています。もしデブリが建屋の地中へ抜けているなら、海の汚染を防ぐのは至難の業になるでしょう。
ただ、ひとつ気になるのは、3号機だけで使われていたウラン+プルトニウム混合燃料(MOX燃料)のデブリから発生するはずのプルトニウムが、この砂から検出されていないことです。もしかしたら3号機のデブリだけは、まだ格納容器内の底にとどまった状態なのかもしれません」(小川進教授)
今年5月に1・2号機の格納容器内へ投入した探査ロボットの映像からは、今のところデブリの落下位置は突き止められていない。
しかし、フクイチ付近の海で放射能汚染が急に高まった昨年前半あたりから、1・2・3号機それぞれのデブリの位置と反応に大きな変化が起き始めた可能性がある。
かつてフクイチ構内を作業員として取材したジャーナリストの桐島瞬氏が、こう推理する。
「事故後しばらくは、1・2・3号機から蒸気や煙状の気体が出ていたと現場の作業員が話していました。いまだに中のことはよくわかっていないので、3号機のデブリが1・2号機とは違った場所で発熱しているとも考えられます。


(季節外れの濃い霧は陸側からでも海側からでもなく、福島第一原発敷地内の原子炉建屋から直接立ち上っているように見える)

(大爆発から4年半が経過したのに、観測する度に最高値を更新し続ける福島第一原発の不思議)

もうひとつ気になるのは、一昨年から海際近くの汚染水くみ出し井戸などで、濃度の高い“トリチウム”が検出されるようになったことです。
この放射性物質は“三重化水素”とも呼ばれ、急速に水と結びつき、その水を放射能を帯びた特殊な水に変えます。
フクイチの原子炉周辺は濃い霧に包まれることが多いのですが、これも放出量が増えたトリチウムの影響ではないかという意見も聞かれます」
空気中の水(水蒸気)と三重化水素が結びつけば分子量が大きくなるので、当然、霧が発生しやすくなる。
そういえば今回の海上取材でも、南側の4号機から北側の5・6号機にかけて、約1㎞幅、厚さ20mほどの霧の帯がフクイチ構内の地上から高さ30~40m、巨大な原子炉建屋の上部3分の1ほどの空中に浮いていた。
6、7月頃の福島県沿岸には「やませ」と呼ばれる冷たい風が吹き寄せ、浜通りの海岸地帯では朝晩に霧が立つことが多い。
実際、今回の船上取材でも朝9時に久之浜港を出て、しばらくは沿岸のあちこちに霧がかかり、福島第二原発にも薄霧の層がたなびいていた。
しかしフクイチの霧は、どうも様子が違った。
気温の上がった昼近くになっても、他の場所よりも濃い霧の層がしつこく居座り続けた。
少し強く海風が吹くと一時的に薄れるが、しばらくするとまたモヤモヤと同じ場所に霧の塊が現れた。
この海上取材から10日後の8月2日には、3号機燃料プール内に落下した大型瓦礫を撤去する作業が行なわれた。その際にも、3・4号機付近から濃霧が湧き出すように見えるニュース画像が話題になった。


(気温30度を超える真夏日の8月2日に行われた福島第一原発3号基燃料プールに落下していた20トン超の燃料交換機取り出し作業では、一番気温が上がる13時頃から濃霧が漂っているので、解説なしで『写真』だけ見るなら真冬のような有様。
気象庁によると浪江町の8月2日の最高気温は31・3度、平均風速1・5メートル、日照時間は11時間の典型的な真夏日だった)

このフクイチ上空の“怪霧”について、船上取材に同行した放射線知識が豊富な「南相馬特定避難推奨地域の会」小澤洋一氏も、後日、あれは気になる現象だったと話してくれた。
「私は昔から海へ出る機会が多いのですが、フクイチだけに濃い霧がかかる現象は記憶にありません。
凍土遮水壁の影響で部分的に地上気温が下がっているとも考えられますが、トリチウムが出ているのは事実なので、その作用で霧が発生する可能性は大いにあると思います。
だとすれば、あの船上で起きた“気になる出来事”にも関係しているかもしれません」
その出来事とは、取材班全員が短時間のうちにひどく“日焼け”したことだ。
フクイチ沖を離れた後、我々は楢葉町の沖合20㎞で実験稼働している大型風力発電設備「ふくしま未来」の視察に向かった。
この時は薄日は差したが、取材班数名は船酔いでずっとキャビンにこもっていたにもかかわらず、久之浜に帰港した時には、菅氏とK秘書、取材スタッフ全員の顔と腕は妙に赤黒く変わっていた。つまり、曇り状態のフクイチ沖にいた時間にも“日焼け”したとしか考えられないのだ。

(除染が事実上不可能な三重水素「トリチウム」の汚染)

「トリチウムは崩壊する際にβ(ベータ)線を放射します。これは飛距離が1m以内と短い半面、強いエネルギーを帯びています。私たちが1時間ほどいたフクイチ沖1500mの空気にも濃度の高いトリチウムが含まれていたはずで、それが皮膚に作用したのではないでしょうか」(小澤氏)
だとすれば、我々は、トリチウムによるβ線外部被曝を体験したのか…。
とにかく、今回訪れた福島県内では多くの新事実を知ることができた。
まず実感したのは、福島復興政策の柱として進められている除染事業が、避難住民を帰還させるに十分な効果を発揮しているか非常に疑わしいことだ。
また、フクイチ事故で行方知れずになった燃料デブリが地下水、海洋汚染のみならず今後もさらに想定外の危機を再発させる恐れもある。
やはりこの事故は、まだまだ厳重な監視が必要なステージにあるとみるべきなのだ。
今回の現地取材に同行した菅直人氏は、フクイチ事故当時の総理としての行動と判断が賛否両論の評価を受けてきたが、今後も政治生命のすべてを「脱原発」に注ぐと宣言している。
また機会をあらためて、次はフクイチ構内への同行取材を成功させ、事故現場の現状を明らかにしたいものだ…。
(取材・文/有賀訓、取材協力/桐島瞬、撮影/五十嵐和博)



『やっと完成した謎だらけの海側遮水壁の不思議』

週プレNEWSが摩訶不思議な福島第一原子力発電所の『怪しい霧』を報じた10月25日(日)、翌日の26日にもっと怪しい海側遮水壁をマスコミが一斉に報じていた。
読売新聞や日本経済新聞は、『汚染水流出、40分の1に…「海側遮水壁」完成』と題して、
『東京電力福島第一原子力発電所で、汚染された地下水が港湾へ流出するのを防ぐ「海側遮水壁」が26日、完成した。』
『同原発では、放射性物質を含む地下水が推計で1日約400トン、港湾に流れ出ている。遮水壁の完成で流出量は1日約10トンまで減る見通しで、汚染水対策が前進する。
東京電力は2012年4月、汚染された地下水が海に漏れ出ないようにするため、1~4号機建屋近くの護岸に鋼管(直径約1・1メートル、長さ約30メートル)を打ち込んで建設する「海側遮水壁」の工事を始めた。しかし、完全に閉じると行き場を失った地下水があふれる恐れがあるため、全長約780メートルのうち約770メートルを造ったところで工事を中断していた。』
と報じているが、そもそもこれ等の新聞社は全員今まで海側遮水壁については沈黙を守っていた。
凍らない凍土方式の陸側遮水壁は以前から報道していたが、海側の遮水壁は『完成させる』と決まるまで、一切報じていないのである。
マスメディアが怖がって誰も報じない謎の海側遮水壁を、いままで唯一報じていたのが日本共産党機関紙赤旗だけなのです。
ところが、今回赤旗は1日遅れの27日になって『海側の遮水壁完成』と題して、記事と解説を書いているが、流水量が1日400トンとする他のメディア(読売、朝日、産経)などと違い1日当たり290トン。(共同通信や27日報道の毎日新聞は流水量を書いていない)
東電によると、今まで海側遮水壁の開口部を通じて放射性セシウムが1日当たり16億ベクレル。全ベータ(ストロンチウムなどベータ線を出す放射性物質)が1日当たり70億ベクレルが海に流出していたという。(トリチウムもベータ線を出すことに注意)



『初めから地下ダム(遮水壁)建設を主張していた小出裕章や馬淵澄夫』

福島第一原発の地下に大量の地下水脈が通っている事実は、4年半前のレベル7のメルトダウン事故発生時から心配されていた。
小出助教は最初から地下ダム(遮水壁)建設の大事さを指摘していた。
日本政府も馬渕補佐官をトップにして事故から2ヵ月後には予算1000億円、工期2年の地下ダムを決定。発表する寸前で、なぜか延期になる。(これは東電の株主総会対策(債務超過による破綻の回避)だったといわれている)
ところが政財官マスコミ総がかりの『管下ろし』で菅直人首相が失脚。野田佳彦に首相が変わると直ぐさま10月には正式に造らないと決定される。
ところが何故か2013年になって、海側だけ水ガラスによる遮水壁(スクリーン)を東電が作り出した。
(★現在東電が進めている前代未聞の凍土方式の陸側遮水壁ではないことに注意)



地下水の流れですが、これは自然現象であり2011年の3・11福島第一原発事故とは無関係である。
ところが2013年になってから東電が突然1日1000トンが原発敷地内に入っていると言い出した。(入ってくる量が1000トンなら同量が海に流れている)
流れ来る水と、流れ去る水は必ず同一。違いがあっては駄目です。
今までは流れの障害となる遮水壁の類は、一切なかったのですよ。
この時東電は、1000トンの内400トンが毎日毎日原発建屋地下に流れ込んでいると発表している。
原子炉の核燃料の冷却水として毎日東電はメルトスルーして空っぽの原子炉内に400トンも給水していた。(原子炉への冷却水の注入は4年半前から現在まで絶えることなく毎日毎日1日当たり400トンの同水量を続けている)

『もともと地下水で「沼」状態だった福島第一原発原子炉建屋の地下』

福島第一原発の敷地ですが、元々は海抜30メートル以上の崖になっていたが、原子炉冷却用の海水汲み上げの経費削減目的で海抜10メートルまで掘り下げて原子炉やタービン建屋を建設している。
この為に、阿武隈山系からの豊富な地下水が原子炉建屋敷地に大量に流れ込むようになっていた。
原子炉建屋の直ぐそばの山側にある12本の汲み上げ井戸(サブドレーン)ですが、原発事故後に掘ったものではなくて事故以前から存在していた。
サブドレーン(汲み上げ井戸)は、大量の地下水で建屋建物に働く浮力を防止する目的で東京電力が掘ったもので、4年半前の福島第一原発事故までは1日当たり850トンもの地下水を汲み上げて海に放流していた。
(★今回の海側遮水壁の完成では、2年前の東電発表が正しければ流入している地下水量は現在のマスコミ発表の2倍以上。サブドレーンでの汲み上げが無いと原子炉建屋地下の水位がに急激に上昇する危険性が有る)



『真夏恒例の怪談話以上に恐ろしい、背筋も凍るフクシマの恐怖の凍らない凍土遮水壁』

福島第1原発事故の汚染水対策と称して、地中を凍らせて地下水が原子炉建屋に流入するのを防ぐ凍土遮水壁の工事を2014年3月からトレンチでの試験的凍結作業を始めているが何故か凍らない。
凍土方式の遮水影は完成すれば、全長1・5キロもの距離に1メートル間隔で30メートルの深さまで凍結管を埋めるとの前代未聞の大工事である。
ところが予想に反して凍土壁が、まったく凍らない。仕方なく無理やりドライアイスや氷を百数十トンもぶち込むも、矢張り何故か凍らない。
8月には凍らない部分にセメントや粘土で詰めても矢張り凍結(止水)が無理なのです。(フクシマの地下で何が起きているのか)

『フクシマで、最初から逃げ腰の東京電力や日本政府』

東京電力は公的な記者会見で、確実なコンクリート製の地下ダムではなくて、何故凍らない無駄な凍土壁にこれ程執着する『不思議』を質問され、『凍土壁なら可塑性があるから』と説明している。
(恒久的な地下ダムで水の流れを遮断した場合とは違い、『氷の壁』なら何時でも電源を切れば簡単に御破算に出来る)
フクシマの凍土遮水壁ですが、東電として『何らかの成算』があったから実行した話では無い。
凍土遮水壁では、話の出発点が180度逆さま。
もしもフクシマの地下の『水の流れ』を遮断した場合、その後に『何が起きるのか』がさっぱり判らない。
フクシマの現状が把握出来ない。今後に全く自信が無い東電(日本政府)は、鉄やコンクリートの地下ダム方式では無くて、何時でも撤収が可能な凍結管による凍土遮水壁に拘ったのである。
東電も原子力規制委員会も政府も、関係する全員が誰一人も核燃料が全量落下しているフクシマの原子炉地下の様子がさっぱり判っていない。
恐る恐るへっぴり腰で、何時でも中止して逃げれるように『地下水を止めよう』と思ったので、前代未聞の1・5キロメートルにもおよぶ凍土遮水壁を造った。
政府も東電も関係者全員が最初から失敗した時の『逃亡』を考えているのです。
フクシマの現場のみんなが自分たちの行動に自信が無く、完全に浮き足立っているが、これでは成功するものでも失敗する。(敗北するのは確実な流れである。これでは決して勝てない)

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低線量被曝で原発作業員30万人中531人が白血病で、209人がその他のがんで死亡

http://blog.goo.ne.jp/syokunin-2008/e/8b609a8ab9e9aeefdcdd8d97460e4232


「小児甲状腺がん50倍」津田敏秀教授の小さな嘘

2015年10月20日 | 放射能と情報操作




『福島県の甲状腺がん発症率、日本全体と比べ20~50倍』2015/10/07(水)

東京電力福島第1原発事故後、福島県で見つかっている子どもの甲状腺がんの多くは被ばくで発症したものだと主張する分析結果を岡山大の津田敏秀教授(環境疫学)らの チームがまとめ、国際環境疫学会の6日付の学会誌電子版に発表した。 別の疫学専門家からは「結論は時期尚早」との指摘がある。
研究チームは、福島県が事故当時18歳以下だった約37万人を対象にした昨年末時点までの甲状腺検査の結果を分析。
年間発症率は事故前の日本全体と比べ、20~50倍と算出した。さらに福島県内でも地域によって発症率が最大2・6倍の差があった。
(共同通信)

『福島の甲状腺がん発生率50倍…岡山大・津田教授が警告会見』2015年10月10日 日刊ゲンダイ
 
岡山大大学院の津田敏秀教授(生命環境学)が6日付の国際環境疫学会の医学専門誌「エピデミオロジー(疫学)」に発表した論文に衝撃が広がっている。福島県が福島原発事故当時に18歳以下だった県民を対象に実施している健康調査の結果を分析したところ、甲状腺がんの発生率がナント! 国内平均の「50~20倍」に達していた――という内容だ。
8日、都内の外国特派員協会で会見した津田教授は「福島県では小児や青少年の甲状腺がんの過剰発生がすでに検出されている。多発は避けがたい」と強調した。
福島県で原発事故と子どもの甲状腺がんの因果関係を指摘する声は多いが、権威ある医学専門誌に論文が掲載された意味は重い。国際的な専門家も事態を深刻に受け止めた証しだからだ。
津田教授は会見であらためて論文の詳細を説明。原発事故から2014年末までに県が調査した約37万人を分析した結果、「二本松市」「本宮市」「三春町」「大玉村」の「福島中通り中部」で甲状腺がんの発生率が国内平均と比較して50倍に達したほか、「郡山市」で39倍などとなった。

津田教授は、86年のチェルノブイリ原発事故では5~6年後から甲状腺がんの患者数が増えたことや、WHO(世界保健機関)が13年にまとめた福島のがん発生予測をすでに上回っている――として、今後、患者数が爆発的に増える可能性を示唆した。
その上で、「チェルノブイリ原発事故の経験が生かされなかった」「事故直後に安定ヨウ素剤を飲ませておけば、これから起きる発生は半分くらいに防げた」と言い、当時の政府・自治体の対応を批判。チェルノブイリ事故と比べて放射性物質の放出量が「10分の1」と公表されたことについても「もっと大きな放出、被曝があったと考えざるを得ない」と指摘した。
一方、公表した論文について「時期尚早」や「過剰診断の結果」との指摘が出ていることに対しては「やりとりしている海外の研究者で時期尚早と言う人は誰もいない。むしろ早く論文にしろという声が圧倒的だ」「過剰診断で増える発生率はどの程度なのか。(証拠の)論文を示してほしい」と真っ向から反論。「日本では(論文が)理解されず、何の準備もされていない。対策を早く考えるべき」と訴えた。
「原発事故と甲状腺がんの因果関係は不明」とトボケ続けている政府と福島県の責任は重い。
(日刊ゲンダイ)



『悪い警官(山下俊一、鈴木真一)と良い警官(津田敏秀)の騙しの極悪コンビ』

29年前の1986年に起きた旧ソ連(現ウクライナ)のレベル7のチェルノブイリ原発事故の健康被害としてIAEAやWHOが公式に認めているのは6000人の小児甲状腺がんの発症だけなのです。(小児の白血病などは放射能以外でも発症するので認めない)
ところが、分母となるウクライナ6000万人とベラルーシ1000万人合計約7000万人の積算値の総数が6000人なのである。(人口200万人の福島県なら170人程度の総合計数になる)
人口比なら約12000人に一人程度の小数が数年から十数年の間に発症しているが、チェルノブイリ以前は年間の小児甲状腺がんはゼロか数人程度だった。もちろん福島県も前年はゼロだった。
日本の福島県の総人口は200万人でベラルーシの5分の1。チェルノブイリ原発事故のウクライナとベラルーシの合計人数なら35分の1である。
日本は検査が始まったばかりだが、人口比なら既にチェルノブイリの総積算数に迫っている。
小児甲状腺がんがピークとなる原発事故から9年後の2020年に向け、これから幾何級数的に猛烈な勢いで発症数が増えるのは誰にも止められない。
『他県と比べて福島県は50倍悪い』との今回の津田教授ですが、その『他県と比べて』は小さな嘘で、真実は『同時期のチェルノブイリよりもフクシマは50倍以上、比較出来ないほどトンデモナク悪い』。
津田論文はフクシマの核事故から3年目までの数値(129人)であり、ほんらいなら被害が少ない時期である。フクシマが今後チェルノブイリと同じ経過を辿るとしたら、10000人以上が今後小児甲状腺がんを発症することになる。
ところが津田論文では、その肝心の事実を丸ごと誤魔化して隠蔽した。
悪い警官(日本のメンゲレ山下俊一、鈴木真一)も良い警官(津田敏秀)も目的は同じで、『日本人がパニックを起こさない』ことが最優先されているのである。


『嘘には「統計の嘘」と「普通の嘘」の二種類がある』

2011年3月11日原発4基が同時に暴走する未曾有の福島第一原発事故が発生する以前の小児甲状腺がんの発症数は厚生労働省の統計数字では100万人あたりゼロから1人である。(1000万人あたり1人程度)
ところが今回岡山大学大学院の津田敏秀教授(生命環境学・環境疫学)らの研究グループが取上げている数値は、厚生労働省の30倍の『100万人あたり3人程度』(国立がんセンター)
今まで日本国内のマスコミが取上げていた日本甲状腺学会の『小児甲状腺がんは100万人当たり1人から2人』よりも遥かに大きい数字である。
出されている比率が数十倍も違っている小児甲状腺がんの発症率ですが、厚生労働省の数字も甲状腺学会の数値も国立がんセンターの数値も、分母が違っているだけで、実は全ての数字が正しい。
全ての住民を分母として計算した厚生労働省と、子供だけの人口を分母にした場合や診察した病気の子供を分母とした場合(甲状腺学会や国立がんセンター)の場合では大きく違って当然なのである。
放射能被曝ではない自然由来の成人の甲状腺がんの場合には大きく性差があり、女性は全ての悪性新生物(癌)の中で2%程度。男性では0・5%。(全体では1%)
現在の時点でも福島県では2000人に1人程度の小児甲状腺がんが発症してるが、もしも放射能被害では無くて自然由来の甲状腺がんだとすれば、甲状腺以外の『その他の癌』が100倍(20人に1人)も発症していることになるが、これでは福島県の子供達は全員が超高齢者だとの笑えない笑い話である。
癌は基本的に年寄りの病気であり小児がんは非常に珍しい。
(人口3億人のアメリカの小児癌は年間2000人が発症するが、日本も福島第一原発事故から半年後の2011年8月の厚生労働省の資料でも年間2000人程度の数字)



『避けられない「敗戦」を挙国一致で無意味に先送りする日本的悲劇』

ほんの僅かの思考力とか常識があれば、悪い警官(山下俊一、鈴木真一)も良い警官(津田敏秀)も同じ穴のムジナ『騙し』の極悪コンビであることは一目瞭然。何の疑問も無い。
今の日本のマスコミですが、残念ですが先祖帰りしていて、ほぼ挙国一致の大本営発表に堕落している。
まさにプロパガンダそのものなのですが、それでも全国紙よりも縛りが比較的ゆるい地方紙の方が、あるいは日刊ゲンダイとかプレイボーイの様なエロ系のメディア、フライデーのような写真週刊誌では、時たま厳しい検閲の隙間から真実の欠片が見えることが有る。
18歳以下だった県民36万7685人の検査対象者に対して、4年が経過した現在でも検査人数は8割の30万人弱しか終わっていない。
2割の7万人弱の人々は検査を拒否したのか、それとも検討委の方が排除したのか。何れか原因は不明だが、検査自体を受けていない。
しかし、どちらにしても、とんでもないことですよ。2割もの人々が最初から検査を受けていない事実は重大問題であり、ひょとすると最も大事な真実が隠されている可能性が有るのですが、・・・・残念ながら未だに原因不明のままで終わっている。
今回の津田教授の『通常の50倍近くも高い。』ですが、これは善意の勘違いか、政治的な(意識的な)悪意ある計算間違い。たぶん後者である。
真実はもっと恐ろしい。
1986年に起きたレベル7のチェルノブイリ事故よりも、同じレベル7だが、フクシマの方が100倍近くも悪いのです。
枝野幸男が何度も言っていたように、放射能は食べても直ぐに健康に影響しない。しかし、DNAを傷つけるので時間が経過すれば、確実に健康に影響する。
正しくは、同時期のチェルノブイリよりもフクシマの方が、『100倍近くも高い。』
3・11フクシマの核事故当時、マスコミは何度も福島第一原発から放出された放射能汚染物質の量が、チェルノブイリの10分の1だと言っていた。
大爆発して数千メートルも高空まで吹き上げたチェルノブイリとは大きく違い、フクシマの爆発規模は数百メートルのキノコ雲だった。
汚染した範囲が数千キロもの広範囲だったチェルノブイリの比べて、フクシマは最大でも数百キロ。
高濃度汚染地域の半径は10倍から100倍ものとんでもないク大きな差が有るが、半径が10倍なら、面積では100倍ですよ。チェルノブイリの10分の1の放射能が、100分の1の面積を汚染すれば、放射能の汚染濃度は10倍になる。
フクシマの汚染濃度は桁違いなのですから、今のように、とんでもない数字が出てくるのは最初から予想していた範囲なのです。

『何かを待っているのか?[先送り」を続ける日本のカタストロフィ』

民主党の野田佳彦総理が、『嘘つきとは呼ばれたくない』との中学生の論理で政権を放り出した日付とは、フクシマの小児甲状腺がんの二人目が出た日だったのです。マスコミは二人目なのに何故か『一人目』だと言い張って誤魔化した。
安倍自民党への大政奉還選挙の投票日とは、その野田首相がフクシマの冷温停止を宣言した記念日だった。
その安倍内閣が3人目の小児甲状腺がんを発表した日付が、何と、北朝鮮の核実験で騒然となり新聞号外が出る大騒ぎの真っ最中。
10人を『3人確定。7人疑い』と、二つに分割して誤魔化したのですが、すでに医学的な最終検査はすべて終わっている。
『確定』と『疑い』とは、全摘出手術の後か前か(before and after)の違いだけ。
ほぼ、詐欺か手品なのです。
ところが、これを何と、日本共産党(志位和夫)までが安倍晋三に協力して、半年後に迫った参議院選挙に自民党が勝つようにアシストする。
間違いなく、日本の政治が終わっている。

『4年前3・11直後に菅直人首相の提案した自民民主の大連立救国内閣と、今年志位共産党委員長が提案した自民抜きの救国政府の類似性』

落ちこぼれの安倍晋三が韓国旅客船セオゥル号船長と同じ、低脳で無責任な悪党であることは間違いないでしょうが、高偏差値の知的エリートである志位和夫が(今回は津田敏秀が)、実はその低脳の悪党が選挙で勝つようにアシストしているのですよ。これは駄目ですね。
必死になって真実を隠しているらしい、志位和夫や津田敏秀ですが、『何かを待っている』らしいのですよ。
何をまっているのかは謎だが、全員で先送りを続けているのですが、もう時間が無い。
最後の、カタルシスは目の前ですよ。45度以上傾いたセウォル号と同じで沈没は絶対に避けれない。
一定程度隠すことは可能だが、永久に隠すことは誰にとっても絶対に不可能なのです。
だんだん幾何級数的に事態は悪化していくだけ。もはや隠せない。
本当なら、セオゥル号の沈没と同じで、先送りには何の意味も無いが、何故か日本では、挙国一致で全員で『何か』を待っているらしいのです。
ひょっとしたらですが、日本がバンザイする前に、アメリカがバンザイすると思っているのかもしれません。
あるいは日米同時にバンザイ宣言をして、そのドサクサに紛れて何もかも『無かった事にする』心算かもしれません。

『政府や検討委の手品のタネアカシは1年も前に終わっている』

この『逝きし世の面影』では何度も詳しく書いたが、去年8月の福島県検討委の発表で、日本の玉音放送が終わっている。
今回のブログ記事の冒頭に掲げた『図 2.実施対象年度別市町村』にあるように、なんと、そもそも一番最初の『平成 23 年度検査実施市町村(13 市町村)』の意味は、決して平成23年度(2011年度)に一時検査を実施した市町村の意味ではない。
『年度』とは、その年の4月1日から翌年の3月31日までの期間であり、それなら前の年度と後の年度が重複することはないが、福島県検討委に限っては重複する。
期日が来ても終わらず、だらだらと続いていたのである。
検討委発表では、何と、平成23年度調査と平成24年度調査と平成25年度調査が重なる三つ巴現象さえ起きていた。
検討委の『年度』の意味は期間を指していたのではない。
実は、なんと、年度表記の後にさりげなく書いてある括弧(13市町村)の場所だけを意味していた。
年度だと言っていたのは擬装で、実は放射能汚染度別に検査していたことを、検討委自身が1年以上も前に暴露している。
去年8月に検討委は福島県の子供達37万人中8割の30万人を検査して、『地域と発症数には差が無い』から、→『放射能の影響は無い』との声明を発表したのですが、この時に検討委は『図 2.実施対象年度別市町村』とのトンデモナイ図を添付していた。
口で喋った内容とは逆に、『図2.実施対象年度別市町村』を見れば小児甲状腺がんの発症と放射能との直接的な関連は一目瞭然である。
ほぼ三流詐欺師の手口である。
『放射能は安全安心。心配ない』との表向きの発表とは別に、誰にも分からないように(本当は)70年ぶり2度目の玉音放送がコッソリと行われていた。
ところが70年前に玉音放送と同じで敗戦の文字が何処にも無いので、・・・目論見の通りに誰にも分からない。
その下劣極まる手品ですが、1年も前に検討委自身が種明かしを行った。
それなら、この時点で『終わっている』のですが、腹立たしいことに、1年後の現在でもだらだらと面白くも無い、ネタバレの手品が今でも続いているのですから不思議である。
全員で、フクシマを『無かった事にしたい』。厳しい現実よりも甘い夢を見続けたいのである。

http://blog.goo.ne.jp/syokunin-2008/e/61f59f3776d4cb3ceb2d2bf717b64893


癌の早期検診「不利益も知って」専門家

2015年10月22日 | 社会




『生活習慣病(高齢者の病気)だといいながら、小学生相手に「将来クラスの2人に1人ががんになる」と脅す郡山市』

福島県郡山市が小学生の子供たち全員に配布している『クラスの2人に1人はガンになる』との驚愕的な全8ページの小冊子。(中川恵一東大医学部准教授が監修)
福島第一原発事故の放射能の影響を調べる小児甲状腺検査で、郡山市では2013年の8月から10月にかけて沢山の発症者が確認された時期と重なったことから市民が余りにも非常識な市当局の対応に怒りを爆発させた。
(郡山市は検討委の『図 2.実施対象年度別市町村』にある、『平成 24 年度検査実施市町村(12 市町村)』であるが、郡山市で小児甲状腺がんの検査が本当に実施された時期は翌年の平成25年度(2013年度)だった。
『年度』とは本来なら時期を示すが、福島県検討委に限っては時間では無くて場所を意味していた。
具体的には検査時期が放射能の汚染度合い別に区割りされていて、放射能汚染が一番酷い地域を最初に、比較的汚染されていない地域を最後に調べることで小児甲状腺がんの発症率が同一になるように細工していた)
小学生に配られたパンフレットの表紙には『将来クラスの2人に1人ががんになる?!』とあり、続けて『30人のクラスだったら、将来がんになる人は15人、がんで死ぬ人は10人になることに!』という刺激的な文言が並ぶ。
最早助からない末期がん患者などを対象とした緩和ケアの専門家である中川恵一准教授ですが、今回は小学生の子供相手でも容赦なく何時もの中川節が炸裂する。
ドクター中川は『命には限りがあります』としたうえで、『日本人のがんの知識は非常におそまつ』と断定し、『人はいつか死ぬ』、『生きてきて死ななかった人間は1人もいない』、『人間の死亡率は100%』、『限りある命を大切に生きよう』などと何時ものように上から目線で説教しているのである。
小学生の子供相手に喋っている事実を失念しているのだろうか。
レベル7の福島第一原発事故後の福島県の小学生を、丸っきり手遅れの中高年の末期がん患者扱いしているのである。
余りにも常識はずれな無茶苦茶にも程がある暴言の数々。この人物ですが、本当は何が言いたいのだろうか。
実に不思議だ。
郡山市保健所地域保健課によると、『がん検診受診率の向上』が目的だというが、フクシマのレベル7の核事故から4年目を向かえて天地が引っくり返る。今までの正誤や善悪が逆転してしまい、『確実な常識』(原理、原則)が無残にも崩壊してしまったのである。
何と現在の我がニホン国の専門家では逆に、『がんの早期検診の不利益』を言い出していた。

『(最悪なら発癌の危険性まである)癌の早期検診「不利益も知って」専門家』

10月21日付け毎日新聞では北斗晶さんの手術を機に、『乳がん検診の希望殺到』との記事を掲載しているが、記事のタイトルが紙面とウェブ上とで違いすぎる。
ネット記事のタイトルは、『乳がん検診:「人ごとでない」北斗さん報道で希望者が急増』毎日新聞 2015年10月20日 19時46分(最終更新 10月20日 21時34分)である。
ところが同じ記事が紙面では(ウェブ上には無い)『専門家「不利益も知って」』との大きなサブタイトルが付いていて読者にがん検診の危険性を警告しているのである。
毎日新聞の記事の前半部分では、
『タレントの北斗晶さん(48)が9月下旬、乳がんで右乳房の全摘出手術を受けたことをきっかけに、乳がん検診の受診希望者が急増している。』が、
続けて、
『早期発見早期治療で死亡率が下がる場合もあるが、専門家は「検診の不利益も知ったうえで受診の判断をしてほしい」と呼びかけている。』と、安易ながんの早期検診の動きに警告する。
後半部分ではもっと露骨である、
『こうした動きに対して聖路加国際病院(東京都中央区)放射線科乳房画像診断室の角田博子室長は「検診を受けていれば絶対に大丈夫と考えないで」と呼びかける。
がんにはさまざまな種類があり、進行が非常に速いがんは、検診による早期発見が難しい場合がある。
進行が非常に遅く、生きている間に症状が表れないがんは、検診で発見されると本来必要のない治療を受ける「過剰診断」となる恐れもある。
また結果的には良性腫瘍でも精密検査の負担が大きい「偽陽性」の問題もある。
X線を乳房に照射するマンモグラフィー検査を必要以上に受けると放射線被ばくによる乳がんの誘発リスクも生じる。
角田室長は「検診の利益と不利益を正しく知り、賢く検診と付き合ってほしい」と話した。』と癌の早期検診が万能ではないて『不利益がある』(最悪なら発癌の危険性まである)恐ろしい事実を指摘する。

『今まで「絶対に正しい」とされていた一般常識がコペルニクス的に180度変わる恐怖』

『フクシマの放射能で医療の敗北宣言?』
レベル7のフクシマの核事故の大爆発から4年目直前の今年2月5日(木)毎日新聞社が発行する医学雑誌編集長・高野聡の『MMJ編集長のコラム記事では、今回(10月21日記事)と同じように、がん検診や早期発見が『利益だけではなく、実は不利益も伴う。』ことを警告していた。
今までの一般的な常識医学とは正反対の『がん検診の利益が不利益より上回るのは(確実なのは)3例だけだった』と断定する。
『がん検診は大切だが、早期発見は万能ではない。』と結論付けている。
その2週間後の2015年2月18日毎日新聞連載記事『がん社会はどこへ』最終回が見出しが、『医師も人間  医療は不確実』。
この記事のサブタイトルの一つ目が『特別な治療は無い』、二つめが『両者が意識改革を』、そして最後の三つめの小見出し(結論部分)が『許しあう気持ちを』である。
2月5日毎日新聞の『早期検診は不利益を伴なう』との記事だけでも不気味だが、『医師も人間 医療は不確実』との18日記事と合わせて読むと『医療の専門家や大手マスコミが何を主張しているのか』が明瞭で、余計に不気味さが極まる。
多くの日本人は今まで日本の医療を全面的に信用していて、医者に依存(判断を丸投げ)していたのに、今さら『医療は不確実』で『医師も人間』と突き放されても うろたえ慌てて意味も無くおろおろするばかりである。
専門家(医者)が、『不確実なのだから→間違って当然だ』(今まで『間違っていた』が、どこが悪い)とケツをまくって開き直っているのである。
今までの日本なら決してありえない種類の出来事が、いま目の前で進行しているのですから恐ろしい。

『毎日新聞の10月21日記事の紙面の編集』


10月21日付け毎日新聞のウェブ上のタイトルは『乳がん検診:「人ごとでない」北斗さん報道で希望者が急増』だが、毎日新聞紙面の見出しは『乳がん検診の希望殺到』と『専門家「不利益も知って」』と、読者に対して明確にがん検診の危険性を警告している。
紙の新聞ではネット記事とは違い、当該記事の掲載されている位置とか見出しの大きさ、前後の他の記事などの『編集作業』が実は当該記事の内容以上の、重要な意味を持っている場合が多い。
今回の記事の左横は大きく『花嫁 奪われた未来』との危険性をしらないままアスベスト(石綿)工場で働き、石綿関連病で倒れたアスベスト被害の記事である。
記事の真下はもっと露骨に、福島第1原発3号機の原子炉格納容器の内部初調査の記事だった。
3号機の格納容器内部にカメラが入るのは初めて。空間の放射線量は毎時1シーベルトと極めて高く、汚染水の水位は底面から約6.5メートルで、推定値とほぼ同じだった。温度は空間部で26~27度、水中で約33~35度だった。(熔け落ちた数千度もの核燃料デブリは遥か地下深くに落ち込んでいて格納容器の中には無い。核デブリの位置がまったく不明)
『がんの早期検診には不利益がある』と『安全だと言われていたアスベストの50年後の中皮腫の危険』と『空っぽの福島第一原発3号基の格納容器の放射能汚染』とを三つ並べた毎日新聞編集部の思惑とは果たして何であろうか。(この三つの記事の下は『マイナンバーを住民票に誤記載』の小さな記事)
毎日新聞の編集局が意識して行ったとすれば政治的意図は明らか。
日本が連合国にポツダム宣言を受諾したと連絡した1945年8月10日から玉音放送がある8月15日の間、『それとなく読者に日本の敗戦をほのめかす』(どうか皆さん、隠されている裏の意味を察してくれ)との何とも分かり難い高等戦術なのである。

http://blog.goo.ne.jp/syokunin-2008/e/3dbe1dfc5aa11cc384ed43355ea31060

低線量被曝で原発作業員30万人中531人が白血病で、209人がその他のがんで死亡

2015年10月24日 | 政治

『がん死亡リスク、低線量被ばくでも増加 欧米の原発作業員分析』
2015/10/22 〔共同通信〕

欧米の原子力施設で働く30万人以上を対象にした疫学調査で、100ミリシーベルト以下の低線量被曝(ひばく)でも線量に応じてがんによる死亡リスクが増えたとする分析結果を、国際チームが22日までに英医学誌BMJに発表した。
国連科学委員会などは被曝線量が100ミリシーベルト以下では明確な発がんリスク上昇を確認できないとの見解を示している。
チームは100ミリシーベルト以下でも白血病のリスクが上昇するという調査結果を既に発表。英国、米国、フランスの原発などで1944~2005年の間に1年以上働いた約30万8300人のうち、白血病以外のがんで死亡した1万9064人について分析した。
分析の結果、被曝がなくてもがんで死亡する可能性を1とした場合、1ミリシーベルトの被曝ごとに1万分の5程度死亡リスクが上昇すると推計され、上昇率は高線量のデータと同程度だったという。1万9064人のうちでは、209人が被曝により増えたがん死と推定されるとしている。
2015年10月23日(金)日本経済新聞
金子勝 @masaru_kaneko
欧米の原子力施設で働く30万人以上を対象にした疫学調査で、100mSv以下の低線量被曝でも線量に応じてがん(白血病)による死亡リスクが増えたとする分析結果を、国際チームが英医学誌BMJに発表。
住民は防護服も被曝手帳もなしのままだ。

『白血病 低線量でもリスク増 国際がん研 作業員30万人調査』
毎日新聞2015年7月2日

低線量の放射線を長期間浴びることで、白血病のリスクが上昇するとの疫学調査結果を、国際がん研究機関(本部フランス)などのチームが英医学誌ランセット・ヘマトロジーに発表した。
欧米の原子力施設で働く30万人以上の被ばく線量と健康状態のデータを分析した。
低線量被ばくの健康影響を統計的に示した研究は少なく、東京電力福島第1原発などで働く作業員や、放射線機器を扱う医療従事者の健康管理に役立つ可能性がある。
国際放射線防護委員会(ICRP)の、一定の線量を超えないと健康影響は出ないとする考え方は見直しを迫られそうだ。
チームは過去約60年間、フランスと英国、米国の原発や核燃料施設などで1年以上働いた約30万8300人の健康状態と被ばく線量の関係を統計的に分析。
結果は、被ばくがなくても白血病を発症する可能性を1とする「相対リスク」を考えた場合、1ミリシーベルトの被ばくごとに相対リスクが1000分の3程度上昇するという内容。100ミリシーベルト以下の低線量でもリスクはなくならない。
作業員の年間被ばく線量は平均1.1ミリシーベルト、積算線量は平均15.9ミリシーベルトで、531人が白血病で死亡。リンパ腫なども調べたが、明確なリスク上昇は確認できなかった。
ICRPは100ミリシーベルトを超すと発がんリスクが高まると指摘。それより低い線量では、健康影響を懸念する専門家と、心配ないとする専門家で意見が分かれている。
今回の研究費は、米エネルギー省や日本の厚生労働省などが拠出した。
調査妥当か検証を 
放射線医学総合研究所の明石真言理事の話
今回の調査結果は母集団が30万人以上という点で低線量被ばくの疫学調査としては最大の規模であり、注目すべき貴重なデータと言える。・・・日本の原発作業員について被ばく限度の引き下げを検討する必要が出てくるかもしれない。
【ワシントン共同】(一部抜粋)

『米原英典 独立行政法人 放射線医学総合研究所 放射線防護研究センター規制科学研究プログラムリーダー』 がんサポート 2011年9月

広島・長崎原爆被爆者の健康影響が放射線影響研究所による1950年代から続けている広島・長崎の被爆者の追跡調査からがんの発症者(白血病は死亡者)を放射線量別に推定している。
100ミリシーベルト未満では1・8%だが、100~200ミリシーベルト未満で7・6%となり、線量が増えるほど発癌リスクが増える。
原爆被爆者12万人を対象とした調査から、200ミリシーベルト以上の大量の放射線では被爆線量が高いほどがんになりやすいく、被爆から2~10年後に白血病患者が増え、それ以後には白血病以外のがん患者が徐々に増える。
100ミリシーベルト未満の低線量被曝の発がんリスクは広島・長崎の被爆者の追跡調査から明確にされていなかったが、それでも100ミリシーベルト未満の被爆が要因で増えた白血病の死亡は3万387人中では4人。白血病以外のその他のがんは被曝後20年の長い潜伏期間がある。(一部抜粋)


『福島原発「事故後作業で白血病」、初の労災認定
厚労省「因果関係の否定できず」』
2015/10/20 日本経済新聞

厚生労働省は20日、東京電力福島第1原子力発電所事故後の作業に従事し、白血病を発症した40代男性について「被曝(ひばく)と疾病の因果関係が否定できない」として労災認定したと発表した。同原発の事故後の作業を巡って、白血病を含むがんで労災認定が認められたのは初めて。
厚労省や東電などによると、労災が認められたのは40代前半の元作業員。2011年11月~13年12月の間に1年半、複数の原発で放射線業務に従事し、うち12年10月~13年12月は福島第1原発で原子炉建屋のカバーや廃棄物焼却設備の設置工事に当たっていた。
作業時には防護服を着用していたという。
男性の業務全体の累積被曝量は19.8ミリシーベルトで、福島第1では15.7ミリシーベルトだった。
その後、白血病を発症し、14年3月に労災申請した。現在、通院治療を続けている。
厚労省は13日に専門家による検討会を開き、国の認定基準に照らして労災に当たるとの意見で一致。20日に富岡労働基準監督署(福島県いわき市)が労災を認定した。
男性には医療費全額と休業補償が支給される。

『労災認定の基準は年5ミリシーベルト』

放射線被曝による白血病の労災認定基準は1976年に定められ、「被曝量が年5ミリシーベルト以上」かつ「被曝開始から1年を超えてから発症し、ウイルス感染など他の要因がない」とされている。
厚労省は「労働者補償の観点から業務以外の要因が明らかでない限り、基準を満たせば認定してきた。科学的に、年5ミリシーベルトを超えると白血病を発症するというわけではない」としている。
厚労省によると、これまでに、福島第1での作業後に被曝と関連する疾病を発症したとして、労災申請したのは今回のケースを含めて8件。うち3件は不支給となり、1件は取り下げ、3件は調査中だという。
東電によると、福島第1では現在、1日平均約7千人が働いている。年5ミリシーベルトを超える被曝をした作業員は14年度に6600人に上り、増加傾向にあるという。
原発で重大な事故が起きた際に緊急作業に当たる作業員の被曝線量の上限は100ミリシーベルトとされているが、作業員が働ける期間を長くするため、来年4月以降は250ミリシーベルトに引き上げられる。
被曝線量が累積100ミリシーベルトを超えると発がんリスクがわずかに上昇するとされる。100ミリシーベルト以下の低線量被曝が健康に与える影響はよく分かっていない。
福島第1の事故後の作業以外で、原発で働いて白血病や悪性リンパ腫などのがんを発症し、労災認定された人はこれまでに13人いる。
2015/10/20日本経済新聞



『東電御用達のルポルタージュ漫画「いちえふ」 恐怖のHP(ホット・パーティクル)』

覆面擬装作家『竜田一人』が描くルポルタージュ漫画『いちえふ』ですが、間違いなく東京電力の福島第一原発の事故現場を知っている関係者が書いている。
ところが、現場の経験者なら誰であれ絶対に犯さない初歩的な(素人の一般人の常識的な)『間違い』が描かれているのである。
しかも、それが漫画の売り(核心部分)だったから尚更不可解である。基本的に有り得ないのです。
原発村の御用学者の腹立たしい『独演会』状態。
誰でも知っているように、そもそも電離作用がある放射線を遮断するなら鉛の厚板が必要である。(今回白血病で労災認定された作業員も重い鉛のベストを着用して作業していた)
幾ら全面マスクとガムテープで空気を密閉しても、いわゆる『防護服』の様な薄い布地では最初から放射線の防護は絶対に無理だった。
全面マスクとか防護服ですがガンマ線の被曝では、気休めにもならない。
しかし、では何故暑いし息苦しい全面マスクや防護服で『何』を密閉しているのか。
放射性微粒子HP(ホット・パーティクル)の汚染を防ぐのが唯一の目的なのである。
(『防護服』などと呼ぶから放射線防護服と勘違いする。正しくは放射能汚染物質微粒子の防護服である)
原発作業員にとっての最大の問題点は政府やマスコミの宣伝する(測定しやすいし、目立つ)ガンマ線の外部被曝では無い。
漫画『美味しンぼ』に描かれていた福島第一原発事故後の放射能の被害の一つの『鼻血の原因』であるHP(ホット・パーティクル)によるアルファ線の内部被曝を防ぐのが全面マスクとか防護服の本当の役目なのです。
漫画『いちえふ』を読めば誰でも分かるように、この漫画のメインの内容は全面マスクと防護服である。
ところが肝心の目的が漫画『いちえふ』では完璧に無視されていて、曖昧に誤魔化されているのである。
HP(ホット・パーティクル)問題は一切描かれていない。
漫画『いちえふ』で繰り返し描かれているのが空間線量(ガンマ線のミリシーベルの値)である。
なぜ放射線被曝と放射性微粒子による被曝とを『いちえふ』では意識的に混同して誤魔化す必要があるのか。
覆面作家『たった一人』は半年で被曝量が20ミリシーベルに達したので、雇用主から事実上解雇されていると主張しているが余りにも嘘くさい。(漫画では鉛の放射線防護服をを着用していない)
メルトダウン事故後に政府は上限を一気に五倍増の100ミリシーベルトまで拡大したが、雇用主は放射線障害で訴えられる(労災)リスクを回避する目的で20ミリを限度に雇わない。(過去に年5ミリシーベルトの被曝量でも労災が認められている)原発作業員は20ミリシーベルトの被曝で、事実上の『雇い止め』を行っているのである。



『放射性微粒子(HP ホットパーティクル)は健全な原子炉からは外部に漏れない』

東京電力の福島第一原発の事故現場ですべての作業員が恐れているのは、マスコミなどが大騒ぎする放射線(ガンマ線による外部被曝)ではない。
『放射能の埃』(放射性微粒子)によるアルファ線やベータ線の内部被曝なのである。
福島第一原発の汚染地域の区割りは、放射線量の高低では無くて、汚染物質(放射性微粒子)の有無と量によって決められている。
体を透過する放射線(ガンマ線)による外部被爆よりも、放射性微粒子による内部被曝(アルファ線)の被害が甚大なのは、現場の常識以前のイロハのイの話なのです。
極端な話なら、たとえ空間線量が100ミリシーベルトでも汚染されていなければ安全であり、マスクも防護服も着用しない。
逆に空間線量が1ミリシーベルトでも放射性微粒子の量が多ければ汚染地帯であり、あの宇宙服の様な徹底的な防御が必要なのである。

『原発再稼動に大賛成。摩訶不思議な原発漫画「いちえふ」の覆面(顔なし)の作家』

住所不明、本名不詳、経歴不明の異例の『顔なし』の覆面漫画作家の『たったひとり』氏は、日本の多くの人々が大反対する原発の再稼動は人材の育成(技術の伝承)で、ぜひとも必要との露骨で悪質極まる宣伝広報を繰り返し行っていた。
東京電力など電気事業連合会や日本政府の代弁者なのである、
そもそも自分が半年で雇用限度の20ミリシーベルトに達して首になったことを忘れているのか。
正体不明、この顔なしの小悪党ですが現場での経験の積み重ねが大事な土木作業などとは大違いで、原発作業が被曝量の上限値のために原理的に『人間の使い捨て』である恐ろしい事実を隠しているのである。

『フクシマの放射能汚染の深刻化が原因で事実上消滅した大都市のホームレスのブルーシートのテント村』

新潟県の泉田知事は再稼動すれば今でも人が集まらず不足しているのに、間違いなく作業員不足で福島第一原発の収束作業が破綻すると指摘している。(4年前の福島第一原発の作業員は1日3000人程度だったが、現在は1日7000人に増えている)
レベル7の3・11核事故から4年半が経過した現在、大都市の公園や河川敷に沢山あったブルーシートのテント村(失業した元派遣社員)が完璧に消滅しているが、だれも騒がない不思議。
アベノミクスで改善されたのは株価でけで雇用は改善していない。
それならブルーシートのテント村消滅の原因とは、放射能の危険性が高いフクシマに駆り集められホームレスが全員が居なくなった。(善良な日本人は、この恐ろしい事実を誰も認めたくない)
いくら人手不足でも、ホームレスの様な質の低い労働者をわざわざ雇うような企業は限定されている。
薄々全員が気がついているのだが、事実上フクシマの放射能の除染現場とか原発の作業員の様な危険な誰もやりたがらない仕事しか日本国内には存在しないのである。

『水にも熱にも酸にも溶けないガラス化した不溶性セシウムの恐怖』

2014年9月21日(土)午後11時30分放送だったNHKのサイエンスZERO シリーズ 原発事故(13)が安倍晋三のお友達の籾井会長の横槍で一旦はお蔵入りしていたが、3ヶ月遅れで12月21日の日曜日夜に放送されている。
『福島第一原発の事故で大量に放出された放射性物質・セシウム。これまでは放射線量などをもとに調査されていたが、その実際の形態はよく分かっていなかった。しかし、電子顕微鏡を用いた巧みな調査で、セシウムは不溶性の球形粒子として存在するものも多いことが明らかになった。
この粒子が肺に入ると、従来想定されていた水溶性粒子に比べて長くとどまるために、内部被ばくの影響が強くなるのではないかと危惧されている。』
NHKの籾井会長が放送中止にしたのが『なるほど』、『放送中止も当然だ』と納得する凄まじい放送内容。
まさに『驚くべき内容』なのである。
今まで知られていた、水溶性の放射能汚染物質が体内に入っても、100日程度で半減してしまいセシウムの被曝の影響は比較的小さい。
ところが12月21日の『3ヶ月遅れサイエンスZERO』が存在を証明した、水にも熱にも酸にも溶けないガラス化した不溶性セシウムは(食べた場合には排泄されるが)肺胞に入った場合には半永久的に出て行かず、極めて有害なベーター線を出し続けるのである。
NHKのサイエンスZEROの、『不溶性のセシウム』ですが、(発見されたばかりで、まだまだ未解明な部分が多いが)人体への致命的なダメージは計り知れないほど恐ろしい。
『不溶性セシウム』とは鉱物として非常に安定しているアスベストと同じで、一度人体に取り入れると肺胞の奥から出て行かない。
物質として、まったく無害なアスベストでも30年後には中皮腫が発症する。
ところが、ガラス化した不溶性セシウムは電磁波であるガンマ線よりもはるかに強力で電離作用も大きい(電子の流れである)ベータ線を出すのである。
もしも不幸にも不溶性セシウムを吸い込んだ場合には、『30年後の中皮腫』のアスベストの被害など問題にもなら無い程の、短時間で甚大な被害が予想されるのである。

『電離作用が大きいベータ線は細胞が全部死ぬから安全だ!』

NKH放送では『IAEAの専門家』の言葉として『不溶性セシウムのベーター線で付近の細胞が死滅するので安全だ』との、吉本新喜劇の池野めだかのギャグの低級なパクリを真面目に語っていた。この大馬鹿者が。不真面目な冗談は止めてほしい。
もしも21日放送の『3ヶ月遅れサイエンスZERO』が正しければ我が日本国ですが、もう終わっているのです。(少なくとも安倍晋三やお友達の籾井に乗っ取られたNHKは終わっている)
安倍晋三首相ですが本来ならパルチザンに捕まって愛人もろとも処刑され逆さ磔にされたイタリア王国首相のベニート・ムッソリーニのように、怒り狂った群集に殴り殺されているのが相応しいが、日本人の一般大衆は死んだネズミの如く大人しく誰も何も言わない。
スポコン漫画『巨人の星』の星一徹のちゃぶ台返し以上の、あっと驚く、凄まじいちゃぶ台返しを籾井NHKが目の前で行っているのに、誰も気が付かないとは面妖である。
本当に誰も目の前のちゃぶ台返しに気が付かないのだろうか。
それとも全員気が付いているのだが余りにも結果が恐ろしすぎるので、『気が付かないふり』で誤魔化しているのだろうか。
いずれかは不明だが、それにしても不思議な話である。

http://blog.goo.ne.jp/syokunin-2008/e/33db44e6dc8aa71f52a7eb1182a9f053

「小児甲状腺癌50倍」津田敏秀教授に噛み付いた原発ムラ御用学者列伝

2015年10月26日 | 放射能と情報操作

『新自由主義命の自称マクロ経済学者池田信夫』

池田信夫 blo 2015年10月13日『津田敏秀氏の「福島で甲状腺癌20~50倍」は誤りだ』
『大手メディアは無視したが、ハフィントンポストが「福島の子供の甲状腺がん発症率は20~50倍」という津田敏秀氏の外人記者クラブでの発表を報じている。私は疫学の専門家ではないが、Togetterで専門家から多くの批判が出ている。
一見してわかるのは、この記事のずさんさだ。次の図は何を示すのか、数値の単位は何なのかも書いてない。「20~50倍」という数値は、津田氏の論文の要旨にも出てこない。』
と信夫君は相変わらずである。
そもそも、疫学の専門家である津田敏秀氏の外人記者クラブでの発表に対して『専門家から多くの批判が出ている』事実はない。
批判しているのは『放射能は安全安心。心配ない』との御用学者だけである。心ある学者は全員沈黙している。
『一見してわかるのは、この記事のずさんさだ。』とは笑止。
まさに池田信夫blogのことであろう。
『次の図は何を示すのか、数値の単位は何なのかも書いてない。』て批判する言葉を失う水準である、そもそも津田論文の元になっているのは福島県検討委の2014年8月24日の図であることは明らか。
何も知らないで発言するから恥をかく。
そもそも池田信夫は10月8日の外人記者クラブでの津田発表を少しも読んでいないのである。
慌てる乞食はもらいが少ない。
たぶん日本語の漢字が読めない御馬鹿で有名な麻生太郎のように、見出しだけ読んで『お家の一大事』と大慌てて噛み付いたのだろうが、それにしても信夫君は進歩が無い。
新進気鋭の政治学者白井総の『永続敗戦論』に対しても、『3・11のレベル7の核事故発生時にスピーディを米軍に提供したが肝心の日本人被災民には伏せた』事実を書いたこと不満に思い、少しも読まずに放り出したと正直に告白しているが今回も同じ態度なのである。

『津田論文の基本資料は福島県検討委と国立がんセンターの公式発表』

『「20~50倍」という数値は、津田氏の論文の要旨にも出てこない。』とは呆れるやら驚くやら。
基本となっている数値は国立がんセンターが公表している全国平均年間罹患率3/100万を知らないで喋るから赤っ恥をかくことになる。
津田論文の基準としているのは公式な国立がんセンターの統計数字や福島県検討委の甲状腺検査結果の公式発表なので、今回の池田信夫のように津田論文を頭から否定するとは、自動的にこれ等の公式な発表自体を否定することになる。
今回の津田論文ですが、反原発の護憲左派は認めたくないだろうが、実は福島県検討委の小児甲状腺がんの責任者である鈴木真一福島県立医大教授や山下メンゲレ俊一とまったく同一の検査手法と判断を行っている。
反原発派が蛇蝎の如く毛嫌いしている鈴木真一やメンゲレ俊一と、180度逆に『神』(救世主)の如く扱う津田敏秀ですが、基本的にまったく同じなのです。
違っているのは『原発事故から4~5年間は小児甲状腺がんは絶対に無関係だ』との、その結論部分だけなのです。(岡山大の津田教授は『関係が無いとは言えない』との立場)
岡山大の津田敏秀ですが、何と原発の放射能被害には被曝してから発症するまで4年間の潜伏期間が有るとの立場なのである。(健康体が1年で末期がん、2年で死亡した福島第一原発の吉田所長の悲劇を知らないのだろうか)

『原子力村エアー御用学者筆頭の菊池誠』

菊池誠 @kikumaco
これはやっぱりだいじなことなので繰り返しておきたいのだけど、甲状腺被曝の主な原因となる放射性ヨウ素131は半減期が8日と短いので、とっくの昔になくなっています。
だから、今から甲状腺被曝が増える心配はしなくていい。
つまり、甲状腺癌が被曝由来かどうかも慌てて結論づけなくていいわけ
2015年10月8日 21:39
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10月8日の『福島の子供の甲状腺がん発症率は20~50倍』との岡山大学津田敏秀教授(疫学)にすぐさま反応した菊池誠ですが、基本的に意味不明。この人物は何が言いたいのだろうか。
ニセ科学批判で一時は護憲左派の政治ブログにまで絶大な信用を得ていた阪大の菊池誠だが4年半前の3・11のフクシマのレベル7の核事故発生時に、余りにも露骨な反原発に対する異様な敵意に、自分の信者たちにまで呆れかえられた愚か者である。
『反原発はサルになる』との暴言を吐いた極右国粋主義者の石原慎太郎の同類項なのだが国立大学物理学教授の看板で、今まで善良な市民を騙していた小悪党である。
今回は少しだけ反省して、『放射能は安全安心。心配ない』と言わないで、変化球を投げているが、意味は以前と同じ。少しの変化も無い。
菊池誠の手口ですが、一つの記事に対して数百のコメント数を誇った kikulog当時と同じ作戦で信奉者の応援ツイートでの相乗効果(複合汚染)による姑息な印象操作なのである。
純真な一般市民の劣情に訴えて一時は絶大な支持を得たルサンチマンの権化である橋下徹よりも、『ファシズムとの親和性』(大衆扇動の類似性、巧妙に擬装された反知性主義と反共権威主義の共通点)という意味では菊池誠( kikulog)のほうがより危険性が高い。(ただし橋下徹のようなカリスマ性が無いので実害は小さい)

『新しい市民参加型の菊池誠式プロパガンダ(印象操作、世論誘導)の功罪』

ツイート①
津田氏は、発症率が20~50倍となるのは、スクリーニングや誤差の範囲などでは説明ができないと主張するが、そもそも全国発症率の3/100万が、比較対象のデータとして適切かどうかという検証はなされているのだろうか?
ツイート②
実際には津田氏は国立がんセンターが求めた全国平均年間罹患率3/100万を基準値とし、これに潜伏期を4年と想定して掛けた12/100万を福島県下9地域の甲状腺がん罹患率と比較しています。この方式だと3県の甲状腺がん罹患率は基準値の74/4=18.5倍
ツイート③
国立がんセンターが求めた罹患率は自覚症状が出てから医療機関を受診し診断が確定した人の数をもとに算出した値ですから、自覚症状のない人をしらみつぶしに検査した福島県の甲状腺検査結果と比較すること自体意味のない値ですが、津田論文ではその議論は全くなし。
菊池誠 @kikumaco
ところが、甲状腺被曝の原因になる放射性ヨウ素はとっくになくなってるから、この津田さんの立場にはまったく意味がないんだよね
2015年10月8日 20:54
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『まったくの逆効果(ヤブヘビ)だった反科学の菊池誠グループによる津田論文バッシング』

滑稽というか、哀れと言うか。なんとかして10月8日の『福島の子供の甲状腺がん発症率は20~50倍』との岡山大学津田敏秀教授(疫学)の主張を否定したかった菊池誠ですが、結果は180度逆になる。
50倍の基準となる国立がんセンターが求めた罹患率は自覚症状が出てから医療機関を受診し診断が確定した人の数をもとに算出した値。
対して福島県検討委の数字は、自覚症状のない人をしらみつぶしに検査した甲状腺検査の結果。
本来、意味が大きく違っていて今回の津田教授のように同列に論じては駄目なのです。
50倍では無くて、最低でもその10倍。たぶん数百倍になるので、最低でも福島県は他県の数百倍。たぶん比較出来ないほど数千倍~数万倍も悪い。(だから津田教授以外の、他の学者が全員小児甲状腺がんについては沈黙する。あまりにも目の前の現実が恐ろしすぎるのである)
人口が福島県の5倍の1000万人のベラルーシの小児甲状腺がんの発症数はレベル7のチェルノブイリ事故が起きた1986年は2人だった。しかし事故から1年目には2倍の4人、2年目には5人、3年目には6人と少しずつだが確実に増えていく。
徐々に増えていた小児甲状腺がんだが、チェルノブイリ事故から四年目の1990年には突然十数倍に爆発的に増えている。
現在日本のフクシマの場合は、検討委が出しているのは大部分は3年目までの数値であるが、それでも爆発的なトンデモナイ数値になっている。

『フクシマがもう無茶苦茶であることは関係している全員が熟知している』

福島県検討委(東電や日本政府)の発表ですが、小児甲状腺がんの発症者を『確定』と『疑い』の二つに分ける手法で『少しでも放射能被害を小さく見せる』との姑息な印象操作でマスコミを間違った結論に誘導しているのですが、意味は『日本人がパニックを起こさない』ようにとの親心。
今回の津田論文も同じインチキくさい手法が使われています。
民主党から政権を大政奉還された安倍晋三自民党政権が2013年2月に初めて『3人確定、7人疑い』と小児甲状腺がんの検討委発表を行った。
この時に記者会見で責任者の福島県立医大の鈴木真一教授が、全摘出手術後に病理検査したものだけが『確定』とすると説明している。
10人が小児甲状腺がんを発症してるのですが、『確定3人』と誤魔化した、鈴木真一は、検討委が細胞診断などすべてのがん検診が終わった段階でも、『疑い』とする根拠とは、擬陽性と擬陰性がそれぞれ10%存在するからだと説明したが、今回の津田教授も同じ説明を記者会見で行っている。いくら悪質極まる御用学者としても呆れ返ったトンデモナイ話である。
日本国内のマスコミ発表では『3人確定7人疑い』だが、このとき検討委トップの山下俊一はアメリカでの講演で『10人が小児甲状腺がん』だとはっきりと言い切っている。
小児甲状腺がんの発症を検討委が『確定』と『疑い』に二分割するのは日本人向けの印象操作、世論誘導の類(プロパガンダ)であり医学的な意味は少しも無い。

『有識者全員が不都合な真実を隠す、ニホンムラの恐怖』

毎日新聞は2013年2月に鈴木教授の説明で『疑いとは小児甲状腺がんの可能性が80%』との記事を書いていいるが、細胞診断だけでも90%以上(95%程度)の精度があるし、CT映像とかエコー検査などそれ以外の検査と併用するのでベテランの医師ならほぼ100%近い検査精度がある。
今回の津田教授ですが、福島医大や検討委と同じ『明らかな間違い』をしているのですが、これは『意識的な勘違い』でしょう。
その意味するところは、『日本人がパニックを起こさない』ようにとの親心なのである。
今回外国特派員協会で記者会見した津田教授の論文は、『英語論文で先に国際学会で発表されて これから日本語に翻訳される』のですが、これは大変重要な意味を持っている可能性があります。
日本人でも幼児期から外国で暮らしいていて外国語が母語の例もあるが、普通は日本語が母語ですよ。ですから英語論文でも元々は日本語論文で書いたものを英訳したもの。
今回の場合なら英文と日本語分が同時に発表出来る。現時点で英文しか公式発表していないとすれば、別の思惑が考えられます。

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日本柔術界に最新技術を情報として広めた先駆者 柔術新聞 ブスさん 岩井洋一インタビュー

http://letsbjj.jugem.jp/?eid=114

http://letsbjj.jugem.jp/?eid=115

http://letsbjj.jugem.jp/?eid=116

アメーバ時代の柔術新聞だけでなく2ちゃん時代のコテハン時代から情報を発信していたブスさんこと岩井さん
この人がいなけりゃ日本柔術界の技術革新は今でも遅れを取ってたかもしんないです
特にべリンボロ

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ミッドナイト柔術新聞

ミッドナイト柔術新聞

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BJJ-WAVE

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橋本欣也さんの柔術VT本場ブラジルレポート

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BJJ-WAVE  柔術とVTの本場 ブラジル編

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柔術プリースト 203 バリカタ柔術RADIO 31

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安生たちにこっそり柔術をUインター時代に教えていたのってやっぱジョーモレイラ道場?
キングダム時代にリックルーセロなんて人も出てましたっけ

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人種差別 レイシズムと戦った黒人たちのドラマ ルーツ

動画:Roots 1 さらば母なる大地

動画:Roots 2 誇り高きマンディンカの戦士

動画:Roots 3 我が妻 我が娘

動画:Roots 4  愛する者たちの別離

動画:Roots 5 自由への賭け

Roots 1 さらば母なる大地

Roots 2 誇り高きマンディンカの戦士

Roots 3 我が妻 我が娘

Roots 4  愛する者たちの別離

Roots 5 自由への賭け

Roots 6 fin 新たなる天地を求めて

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%84_(%E3%83%86%E3%83%AC%E3%83%93%E3%83%89%E3%83%A9%E3%83%9E)

ルーツ (テレビドラマ)





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ルーツ


ジャンル
テレビドラマ

放送期間
1977年4月23日 - 30日

放送国
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国

制作局
ABC

製作総指揮
デヴィッド・L・ウォルパー

監督
デヴィッド・グリーン
ジョン・アーマン
ギルバート・モーゼス
マーヴィン・J・チョムスキー
ジョーグ・スタンフォード・ブラウン
ロイド・リチャーズ

原作
アレックス・ヘイリー『ルーツ』

脚本
アーネスト・キノイ
ジェームズ・リー

プロデューサー
スタン・マーガリーズ

出演者
レヴァー・バートン
シシリー・タイソン
ルイス・ゴセット・ジュニア
チャック・コナーズ
ヴィック・モロー
ロイド・ブリッジス
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テレビ

ドラマ


関連項目[表示]



















『ルーツ』(Roots)はアレックス・ヘイリー原作の小説『ルーツ』を基にした1977年制作のアメリカ合衆国のテレビドラマ(ミニシリーズ)である。



目次 [非表示]
1 概要
2 タイトル
3 キャスト
4 関連項目
5 脚注
6 外部リンク


概要[編集]

アメリカという国家の歴史上、最も暗い側面のひとつである黒人奴隷の問題を真っ正面から描き、社会現象と言えるような大反響を巻き起こした。ドラマが放送されると、中には部屋の電話線を抜いて着信を絶ちドラマに見入る者も現れ、キジー(Kizzy)などアフリカの名前が人気になるなど、人種・民族を問わず好評を博した。

西アフリカのガンビアで生まれた黒人少年クンタ・キンテを始祖とする、親子三代の黒人奴隷の物語を描いている。続編の『ルーツ2』では、その後(南北戦争で奴隷制が廃止されて以降)の一族の物語が描かれ、最後には原作者アレックス・ヘイリー(俳優が演じている)も登場する。

作品自体高い評価を受けてプライムタイム・エミー賞 作品賞 (ミニシリーズ部門)を受賞した。

アメリカではABCが1977年4月に8日連続で放送、平均視聴率45%を記録した[1]。日本ではテレビ朝日が1977年10月2日から8日連続で午後8時枠で放送、平均視聴率23.4%(ビデオリサーチ調べ、関東地区)を記録した[2]。2015年には、BS-TBS『火曜デラックス』の枠において、4月7日から4回シリーズで放送される。

主人公のクンタ・キンテを演じたレヴァー・バートンは無名の大学生だったが、この一作で人気と知名度を獲得した。クンタ・キンテの母親役にシシリー・タイソン(マイルス・デイヴィスの元妻)、ルイス・ゴセット・ジュニア、チャック・コナーズ、ヴィック・モロー、ロイド・ブリッジスなど、多くの有名俳優が出演した。アメリカンフットボールのスター選手だったO・J・シンプソンもアフリカの戦士役で出演している。クインシー・ジョーンズによるテーマ音楽も有名である。

1974年頃からミニシリーズ(1回あたり2時間ほどという長尺ドラマを短期集中で放送する)という番組形態が流行し、1976年『リッチマン・プアマン』など、同様のドラマシリーズが制作されていたが、『ルーツ』の大ヒットにより、以後この種のミニシリーズが多数日本でも放送されるようになった。

日本でも「ルーツ」が流行語となり、自分のルーツ探しが流行った。ルーツという英語はこの時点で外来語として定着し、今日に到っている。日本語版がテレビ朝日で放送された際は、トヨタ自動車と日産自動車というライバル会社が同時にスポンサーになっており、期待度と注目度がいかに高かったかがうかがえる。

タイトル[編集]
第1話:「さらば母なる大地」
第2話:「誇り高きマンディンカの戦士」
第3話:「我が妻 我が娘」
第4話:「愛する者たちの別離」
第5話 「自由への賭け」
第6話:「新たなる天地を求めて」

キャスト[編集]

()内は日本語吹き替え版。 [3]
クンタ・キンテ(トビー):レヴァー・バートン(池田秀一)→ジョン・エイモス(?<テレビ版>、池田秀一<ビデオ、DVD版>)1750年生。ガンビアのマンディンカ族出身。村で尊敬されているイスラム教の聖者の孫に当たる。17雨(雨季のことで1雨が1年。数え年)で太鼓の材料の木材を探していて白人に捕まり、アメリカに奴隷として売られ、トビーと名づけられる。何度か脱走を試み、制裁として片足を面白半分に切断される。花壇の世話係から御者になる。奴隷でありながら、誇り高く生き、アフリカ人としてのあり方を変えなかった。原作ではキジーが売却された後のことは描かれていないが、ドラマではキジーが仲良くなった奴隷と元の農場に戻り、父の死を知る原作にはないシーンがある。それによれば、彼は1822年に亡くなったと同じ農場にいる住民が語っている。
オモロ:タルマス・ラスラーラ(石丸博也)クンタ・キンテの父。息子を厳しく、愛情深く育てる。
フィドラー:ルイス・ゴセット・ジュニア(瀬下和久)バイオリン弾き。クンタ・キンテの友人。演奏者として方々に出入りし、聞き込んだニュースを奴隷たちに面白おかしく聞かせる。自分を買い戻すための金を貯めている。ドラマではクンタ・キンテの教育を任され、親代わりの一面を持っていた。1790年キジーが生まれてしばらくして亡くなる。
エームズ:ヴィック・モロー(田中信夫)クンタ・キンテが最初に売却された農場の監督係。脱走のおそれがある彼に厳しく当たる。
ベル:マッジ・シンクレア(此島愛子)クンタ・キンテが最終的に売られた農場の料理女。のちにクンタ・キンテの妻となる。クリスチャン。クンタ・キンテが売られてきたときから好意を持っていたが、アフリカ人としての彼の生き方にはついていけない。なお、過去に結婚歴があったものの、死別している。キジーが売られた後、彼女も別の農場に売られたことを同じ農場にいる住民が語っている。
キジー:レスリー・アガムス(藤田弓子<テレビ版>、鈴木弘子)1790年生。キジーとは、マンディンカ語で『ここに留まる(そのまま)』という意味。クンタ・キンテからアフリカの話を繰り返し聞かされる。白人の少女の学校ごっこの生徒役をやっていたので、ある程度読み書きができる。恋人の奴隷の若者のためにパスを偽造したことから、制裁として売り飛ばされる。売却先の主人モーアに強姦され、ジョージを生む。ジョージがイギリスから帰る前年に亡くなっている。
トム・モーア:チャック・コナーズ(小林清志)キジーが売却された先の農場主。いわゆるプア・ホワイトであったが闘鶏で財を成す。のちに闘鶏でイギリス人との賭けに負け破産。ジョージの家族を売却することになる。原作では、キジーが売却される白人の名前はトム・リーである。
チキン・ジョージ:ベン・ベリーン(内海賢二<テレビ版>、三ツ矢雄二<ビデオ、DVD版>)1806年生。キジーの一人息子。機知に富む遊び人。闘鶏に天才的な才能を示し、闘鶏師となり、借金のカタとはいえ、イギリスに渡ることになる。帰国後にトムから解放証明書をもらい、自由の身となる。南北戦争にも兵士として参加している。1889年に亡くなる。享年83歳。
マチルダ:オリビア・コール(後藤加代)ジョージの妻。非常に信心深いクリスチャンで、遊び人の夫の行状にも辛抱強く耐えている。
ルイス:ヒリー・ヒックス(後藤敦)ジョージの息子。
アイリーン:リン・ムーディ(丸山真奈実)ジョージの息子で長男トムの妻。

関連項目[編集]
クンタ・キンテ島(旧称ジェームズ島) - ガンビアにある島で、かつての奴隷貿易の拠点。本作主人公の名に因み2011年に改名。世界遺産「クンタ・キンテ島と関連遺跡群」を構成する。
コンタキンテ - お笑い芸人。芸名は本作の主人公から付けられた。
安岡章太郎 - 作家。原作小説を日本語に翻訳。

脚注[編集]

1.^ 引田惣弥『全記録 テレビ視聴率50年戦争―そのとき一億人が感動した』講談社、2004年、137頁。ISBN 4062122227
2.^ 『全記録 テレビ視聴率50年戦争―そのとき一億人が感動した』137-138頁。
3.^ 1977年の吹き替え後、ビデオ版発売の際に再度吹き替え直し、その音声がDVDにも収録されている。池田秀一『シャアへの鎮魂歌 我が青春の赤い彗星』廣済堂文庫、2009年、65頁。ISBN 9784331654583

外部リンク[編集]
インターネット・ムービー・データベース(英語) 『ルーツ』
ワーナー海外TVドラマシリーズ(公式Facebookページ)

http://africandiasporanow.blogspot.jp/2014/05/blog-post.html

「ルーツ」の主人公クンタ・キンテはムスリムだった!: 掘り起こされるもうひとつの黒人奴隷の物語



 1970年代の大ヒットテレビドラマ『ルーツ』は、アメリカへのムスリム文化の導入を告げるパンドラの箱を開けていた?

by 大竹秀子



1977年に『ルーツ』は大ヒットし、テレビのミニシリーズの走りとなった


「ルーツ」(DVD)を観ていて驚いた。主人公のクンタ・キンテがムスリムだったからである。ムスリムをヒロイックな主人公としたテレビドラマが全米の茶の間をわかせる!9/11後のいまでは、想いもよらないことである。


 「ルーツ」は1976年に出版されたアメリカの黒人作家アレックス・ヘイリーのベストセラー小説だ。1977年にABC局で8日間にわけてミニシリーズ化された時には、最高で1日に3630万世帯で視聴され、番組を観たい人たちのため「劇場は閑古鳥が鳴き、ソーシャルイベントはキャンセルされる」ほどの人気を呼んだ。自らの先祖を探す「ルーツ探し」は全米の熱気をかきたて、「ルーツ」ということばが日本を含め、世界にひろまった。

 ペーパーバック版で912ページにもおよぶこの大河小説は、こんな文章で始まる。

 「1750年の早春、西アフリカ、ガンビアの沿岸から4日間川を遡ったジュフレという村で、オモロ・キンテとビンタの間に男の子が生まれた」。

 アレックス・ヘイリーの6代前の先祖とされる主人公クンタ・キンテの誕生である。数行後に、こう続く。

 「先祖の言い伝えによると、初めて生まれた男の子には両親だけでなくその家族にもアラーの特別の祝福がもたらされる。キンテという家名は、高貴であり永遠に続くという誇り高い了解がそこにはあった」。

 キンテ一族はマンディンカ族の血筋だとされる。マンディンカ語を共通言語とするこの部族は、マリ帝国の子孫だ。13世紀から17世紀半ばまで栄え、サハラ砂漠を超えて交易を行い中東と西アフリカをつないだこの帝国は、イスラム教を西アフリカに広めたことでも知られている。

 テレビ映画では、この血筋と先祖から受け継いだ文明がクンタ・キンテのアイデンティティを生涯、支える。奴隷狩りにアメリカに運ばれ新しい名を強要され一族の名である姓を奪われても、彼には「アフリカ」と「自由」の記憶がまざまざとあり、それが奴隷の身でもつぶれないあらぶる魂をたきつけ続ける。そのために彼は、忍従に甘んじるしか生き方を知らないアメリカ生まれのほかの奴隷から浮き上がり異質な人になってしまうのだが、奴隷主の目をあざむきながら「自由」への希求を失わない姿勢は、その他大勢の奴隷たちの憧れの的ともなるのである。自分はこんな境遇にあるべきではないとする確固とした自負心と誇り、逆境をしいる奴隷制や奴隷主に対する反抗心、その想いを支えたアイデンティティのひとつがイスラム教であったとこの物語は暗然とではあるが示唆している。



 ムスリム奴隷というこのアイデンティティに対しては、本の出版直後に批判の声があがったらしい。マニング・マラブル編のBlack Routes to Islam(『イスラム教のブラックルーツ』)序文によると、ある批評家は「キリスト教の船長が仕切る奴隷船の船倉で、鎖につながれたクンタ・キンテや仲間たちがアラーへの祈りを捧げる」シーンを取り上げ、こんなことはありえない、こんなのは(1960年代と1970年代に勢いを得た)ブラック・ムスリムとブラック・パワー勢力を喜ばせようとするヘイリーの創作だと決めつけた。万一、奴隷の中にムスリムがいたとしてもそんな信仰は奴隷船の中ですぐさまかき消され、何の痕跡も残さなかった、アメリカにムスリム奴隷など、存在しなかったというのが当時の社会通念だったのだ。



新大陸でのムスリム奴隷の水脈






 だが、これが間違いだったことがここ20年あまりの研究で明らかにされている。1998年に初版が出されたServants of Allah: African Muslims Enslaved in the Americas (『アラーのしもべ:南北アメリカのアフリカン・ムスリム奴隷』)の著者シルヴィアン・A・ディウフ(Sylviane A. Diouf)は、2013年に再出版となった15周年版の序文でアメリカ国内での9.11後のムスリムへの強い関心が自著を思いもよらぬ静かなベストセラーにしたと驚きを語っている。

 ちなみに2001年は、1501年にスペインが黒人奴隷を初めて「新大陸」に連れて来てから500周年にあたっていた。だが、新大陸にムスリム奴隷が上陸したのは、しばらくたってからのことだ。かつてイスラム教王国に支配されていた歴史をもつキリスト教国スペインとポルトガルは、まっさらの新大陸にイスラムの種をまかないよう当初は細心の注意を払った。キリスト教に改宗した奴隷以外は新大陸への売買は禁止されたし、その後も厳罰を与えて新大陸の奴隷にキリスト改宗を強いた。だが結局、南米やカリブ諸国、特にブラジルではムスリム奴隷の水脈は絶えることなく続き、1835年のバイーアでの反乱をはじめ、ムスリムは数多くの奴隷たちの反乱で指導的役割を担うことになった。



奇妙な別格扱い

 これに対して国内でムスリムとの戦いが起きたことのなかった英国は、改宗にさほどこだわらなかった。それなのに逆にムスリムの痕跡が稀薄で水脈が絶えてしまったのは皮肉なことだ。北米でのムスリム奴隷について発見されている資料は数多くないが、点在はする。それを見るとムスリムが威厳とリーダーシップもつ人々として一目置かれていたことがわかると、前述書でマラブルは述べている。中でも、ジョージア州の沖合にあるサペロ島(Sapela Island)に住んでいたムスリム一族のビラリ(Bilali)という名の長老は、そのカリスマ性で知られ、19世紀末にはこの人物をテーマに子供向けの本が2冊も出版されたという。




オマール・イブン・サイード

 また、オマール・イブン・サイード(Omar ibn Said, 1770 - 1864)のような学者もいた。この人は37歳の時にセネガルで捉えられアメリカに売られ生涯、奴隷の身から免れなかった。表向きはキリスト教に改宗したと見せかけていたが、実はイスラム学者でアラビア語で自伝的エッセイを書き残している。有名人だったのだろう。1846年にノースカロライナの地元紙は彼のことを記事にとりあげ「高貴な家系に生まれたアラブ人」と記載し、「フラニ族と呼ばれる17世紀にアフリカに移住したアラビアのイスラム教徒の子孫で、この部族は、移住に際して彼らの偉大な予言者の宗教と共に文字ももたらした」と説明した。サイードは長生きしたため写真も残っているが、その顔ははっきりと「(サブサハラアフリカの)黒人」であり「アラブ人」ということばから連想される民族性はみられない。

 だがイギリスの影響が強かった当時のアメリカでは、アフリカのムスリムをアラブ、オリエント、ムーアの血と直結させ、ほかのその他大勢のアフリカ人と一線を画そうとする見方が支配的だった。アフリカのムスリムを「非黒人化」扱いしようとしたのだ。この企てをヘンリー・ルイス・ゲイツは、こう解釈する。当時の啓蒙思想の視点からみると文字を持つ(アラビア語の読み書きができる)ということは「理性の証」だった。アフリカの黒人に理性の証拠をみせてもらっては、困る。奴隷制や植民地支配を支える人種階層のイデオロギーが揺るぎかねないからだ。ディウフもこう論じている。「『生粋』のアフリカ人が知性も文化も備えているにもかかわらず奴隷にされていると考えるよりは、高貴なムスリムは実はアフリカ人ではないのだと言う方が都合がよかったのだ」



分断の道具、そして植民地主義のお先棒かつぎ

 これとは別に、フラニ族、マンディンカ族など多くのムスリム奴隷は顔かたちや肌の色がほかのアフリカ人よりヨーロッパ人に近いとみなされていた。このため、アメリカでは、ほかの奴隷よりも高い位置に置かれることが多かった。馬車の御者やほかの奴隷の監督役の任をまかされ、反抗的な奴隷について告げ口をしたり、反乱の動きがあればこれをつぶした。厚遇されて奴隷仲間よりも主人の側につくムスリム奴隷は、奴隷主側にとっては分断して支配するための格好の道具だったのだ。






 マニングによると、さらにアメリカのムスリムたちは、アメリカの植民地主義のお先棒までかつがされた。19世紀はじめ、解放した奴隷はアフリカに帰ってもらうのが一番だと考えた人々が、その名もアメリカ植民地化協会(America Colonization Society)を創設し、シエラレオネにアメリカの植民地を作ろうと企画した。リベリア建国の試みだ。解放奴隷にアメリカ国内で反乱でも起こされたら厄介だし、いてもらってもろくなことはない。彼らを「植民者」としてアフリカに送り返してはどうだろう。特にアラビア語の読み書きが出来るムスリムは、西アフリカでの入植に絶好だ。西インド諸島を通さない直接貿易の拠点がアフリカにできれば経済的にも一挙両得ではないか。

 ただひとつ困ることがあった。アメリカ植民地化協会の主要メンバーは、福音主義者とクエーカー教徒、そしてチェサピーク湾岸の奴隷所有者たちだった。福音主義者としては、どうせアフリカに送るのなら、入植者にはやはり現地でキリスト教を布教してほしい。アフリカに帰るだけではまずいのだ。アフリカに帰りたい一心で、突如、キリスト教に改宗しキリスト教の伝道者としてアフリカに戻ったムスリムもいた。だが、リベリア建設をアメリカ国内から自由な黒人を追放しようとする動きだとみる奴隷廃止論者たちはこのような企画に迎合するムスリム奴隷たちに激怒した。



もうひとつの奴隷の物語

 話は『ルーツ』に戻る。西アフリカを訪れ、村の語り部のことばで自分の先祖はこの村から来た、自分のルーツはここだという確信を得たとアレックス・ヘイリーは断言した。だがいまでは、その物語の多くは、フィクションだったことが明らかにされている。ヘイリーは後に、「私はただ人々に寄る辺となる神話を与えようとしたのだ(I was just trying to give my people a myth to live by.)」と語ったと伝えられる。

 ヘイリーは、1965年に出版された『マルコムX自伝』の共著者でもある。マルコムXのインタビューをもとにしたこの自伝にもまた、事実と異なる部分がいくつも指摘されている。だが、その「事実の改ざん」がマルコムX自身によるものか、ヘイリーによるものかは、わかっていない。

 ヘイリーが、著作を通して築こうとした神話とは?おそらくは、ヘイリーの中に、そして彼の本を受け止める読者の中に、愛と忍従と赦しの奴隷や黒人の物語に「そろそろ勘弁してくれ」という思いがあったのではないだろうか。アンクル・トムもマーティン・ルーサー・キングもマンデラも最後は赦すことを期待される。キリスト教色に塗りつぶされたこれらの物語は美しく聞こえるが、ある意味、大変「身勝手」でもある。神に祝福されるあの世を前提としない限り、あるいは聖者へとワープしない限り、被害者は踏んだり蹴ったりされて終わるのである。

無力でやられっぱなしでお慈悲を頼りに生きるしかない過去だけしかなかったというのでは、なんだかしょぼい。誇らしい過去とアイデンティティがあってもいいじゃないか。クンタ・キンテの物語やビラリやオマール・イブン・サイードなどのムスリム奴隷に関する歴史研究は、忘れ去られてしまったアフリカの記憶への風穴をあけ、誇り高いもうひとつの奴隷の物語をかいま見せてくれるのである。

 「ジャーナリズムが扱うのは、事実。小説が扱うのは、真実」と言った人がいる。ヘイリーが描いた神話がそのような真実を求めたのだとしたら、アフリカン・ディアスポラの新しい研究はその「真実」が実は「事実」でもあったことを明らかにしつつある。

http://dain.cocolog-nifty.com/myblog/2008/10/post-a116.html

これはスゴい!2008年No.1スゴ本。

ルーツ1 ルーツ2 ルーツ3

 読もう読もうそのうち読もうと思っていても、タイミングというものがある。

 アレックス・ヘイリーの「ルーツ」は、まさに今だと感じた。強制的に連れてこられ、家畜のように働かされ、実質的に米国を支えてきたアフリカ系アメリカ人――その末裔が大統領になろうとしているのだから。

 だから読んだ、30年の積読を経て。

 合衆国の黒歴史ともいえる黒人奴隷の問題を真正面から描いた本書は、1977年のピューリッツァー賞を受賞し、世界的ベストセラーとなり、TVドラマ化され、一大センセーションを巻き起こした。「クンタ・キンテ」といえば、ご存知の方もいらっしゃるかと。

 本書の体裁は「小説」なのだが、著者が12年かけて自分の祖先を調べあげた集大成でもあるため、ファクト(事実)とフィクションを掛け合わせた「ファクション」と呼ばれている。親子七代、200年に渡る壮大な物語をまとめると(まとめられるのか!?)、「あらゆるものを奪いつくされ、失いつくしたとしても、それでも一歩一歩、自分の生活を築いていく系譜」になるだろうか。

 白人社会の黒人への仕打ちは、今あなたが想像したとおりで合ってる。どうかフィクションであってくれと祈りたくなるような強烈さだ(なかでも奴隷船の描写はかなりキツい。ここだけ劇薬指定)。そして、何度も脱走を図るクンタ・キンテに白人がやったことは、文字通り息を呑んだ。あまりの非道さに、思わず本から目を背けた。だが、クンタ・キンテは「人」ではなかったのだ。それが「あたりまえ」の時代。

 もちろん、そのパラダイムは合衆国の歴史の中でゆっくりとシフトしていく。しかし、そのスピードはあまりに遅く、情報はなかなか伝わらない。歴史の回転がもう少し早ければ避けられたはずの悲劇的運命に、宿命のように突入する。

 読者は、歴史の鈍重さにもどかしい思いをするとともに、米国が何よりも大切にする「自由」が、いかに高い代償を払ってきたかを知ってゾっとするに違いない。Tumblrで知ったんだが、

   ないから生まれるんだ
   中国人は道徳心が無いから儒教が生まれた
   日本人は勇気がないから武士道が生まれた
   アングロサクソンはずるいからフェアプレーの精神が生まれた

 これに、「アフリカン・アメリカンは束縛されてきたから、自由が生まれた」が加わる。アメリカンにとって「自由」は特別な言葉かもしれないが、アフリカン・アメリカンが言うと、いっそう深みが加わる。

 問題は「色」だけではない。裕福な白人と貧乏白人、奴隷と自由黒人、先住インディアンと混血、メソジストとバプチスト、開拓民と新興移民――「色」に限定されない差別問題がわんさとでてくる。

 著者は、黒人奴隷の一人に、こう言わせる「肌の色が白いからといって憎むのは、肌の色が黒いからといって憎むのと同じではないか」。問題を白と黒の差別だけに限っていては、白と黒の問題自体も解決できない。もうひとつ視点を上げ、そこを抜け出す必要を訴えているのだ。

 それでも、読み進めると不安になってくる。クンタ・キンテだけで半分以上を費やしているので、大丈夫だろうか、終われるのか?という気になる。冒頭に家系図があり、壮大なネタの開示にもなっている。著者ヘイリーにたどり着くまで、たくさんの血縁のバトンがリレーされるのだから、この調子でいけるのだろうかと心配になってくる。

 しかし、その心配をヨソに、現代に近づくにつれ「語り」のスピードは加速度を増す。それこそ「今」の引力に吸い込まれるかのように、ぐんぐんと時間経過が増していく。黒人の歴史は混血の歴史でもある。アフロ、アイリッシュ、インディアン…さまざまな種を併呑しながら、怒涛の勢いで歴史が迫ってくる。

 そしてラスト数ページ、「あっ」と驚いた。

 「どんでん返し」ではない。新事実や新解釈なんてない。ヘイリーは真っ正直にこの物語を書く経緯を説明し、その動機に従って"ルーツ"をたどり始める。その件を読んで初めて、この長い長い話は、形を変えた現代の伝承でもあったことに気づかされる。血のバトンの"ルーツ"を遡行するとき、そこまでの長い長い語りが、それこそ走馬灯のように読み手の内側を照らし出す。

 そして、彼が「その場所」で見たものを知ったとき、彼と同じようにむせび泣いているわたしがいた。このファクションは、円環を成している!

 興奮冷めやらぬまま最終ページになってしまう。もっともっと読みたかった。話の途中でいなくなった人たちは、どうなったんだろう? どこへ行ってしまったんだろう? 幸せなその後を送れたのだろうか? 別離は突然かつ音沙汰なしなので、後ろ髪を引かれるように読んできたのに。

 本書のサブタイトルは、"The Saga of an American Family"だという。ああ、確かに。アメリカの黒人を代表者を選ぶならば、クンタ・キンテのような奴隷の子孫を真っ先にあげなければならない。そう、現実にそうなるように――

――などと書いてきて、ハタと気づく。バラク・オバマは確かに「アフリカ系アメリカ人」だが、"African American"と聞いて真っ先に思い浮かべるクンタ・キンテたちの末裔ではないことに。

 African Americanは、いわゆる"Black"を政治的に正しく表現するための語で、必ずしもアフリカから強制的に連れてこられた人の子孫に限らない。あたりまえっちゃーあたりまえなのだが、自発的にやってきた人も"African American"と呼ぶ(ネタ元:wikipedia : African American)。バラク・オバマは後者にあたるのだが、みんな(特に米国の有権者)は知っているよね、常識的に考えて。でもなんだろう、この肩透かし感は。勝手に思い込んだわたしのあやまりなんだけれど。

 「ルーツ」に圧倒されたからだろうか。いずれにせよ、生きてるうちに読んでおきたい本が、生きているうちに読めてよかった。そういえるスゴ本。

http://gogonyanta.jugem.jp/?eid=4852

ルーツ 全6話 / Roots



アレックス・ヘイリーが1976年に発表した一族の自伝小説『ルーツ』を原作にした1977年のテレビドラマシリーズ。製作費660万ドル。第1話の音楽をクインシー・ジョーンズが担当し、シリーズ通してのテーマ音楽も彼の手による(YouTube)。

本作に出演したことで知名度を上げた俳優が多い中で、当時NFLの花形選手だったO・J・シンプソン(1話目のファンタの父役)や、同じ1話目で主人公クンタ・キンテの母親としてマイルズ・デイヴィスの1967年のアルバム『Sorcerer』でカバーを飾った女優のシシリー・タイソン(彼とはその後1981年に結婚し7年後離婚している。マイルズにとって最後の結婚となった。彼女は74年にテレビ映画『ジェーン・ピットマン/ある黒人の生涯』で110歳まで生きた実在の黒人女性を演じていて、ぜひとも見たいのだけど、日本ではビデオやDVDが出ていない・・・)、悪い上院議員役のバール・アイヴスは1958年の『大いなる西部』でアカデミー助演男優賞を受賞しているなどすでに著名な役者も出ている。

また、女優ジェニファー・ジェイソン・リーの父親ヴィク・モローが前半の敵役エームズとして、オスカー俳優ジェフ・ブリッジスの父ロイド・ブリッジスはクライマックスでの同じく敵役エヴァン・ブラント役で出演。デイヴィス船長を演じたエドワード・アズナーは『カールじいさんの空飛ぶ家』でじいさんの声を担当。チキン・ジョージの先輩闘鶏師ミンゴ役のスキャットマン・クローザースは『シャイニング』で家族を助ける黒人ディックを演じた俳優となる。

第1話が1977年1月23日に始まり、最終話の30日まで8日間連続で放映された。DVDでは各90分ずつの全6話になっているが、初回時はDVD区分での第3話が45分ずつに分割され2日分(25日と26日分)となり、第4話と第5話も同じく45分ずつに分けられ、そのうち第4話前半が5日目の27日、その後半と第5話前半がひとつのエピソードとして28日に流れ、残りの第5話後半が7日目29日に放送された。平均視聴率は約45%。日本でも同年10月にやはり同じく8日連続で放映され、平均平均視聴率23.4%を記録した。ウィキペディアによると、"ルーツ"という言葉は流行語となり、このドラマを境に日本語に"定着"したそうだ。


冒頭に、このドラマは"アメリカの激動と勝利を描いた作品"と紹介されているように、18世紀中盤にアフリカ西海岸から奴隷として強制的にアメリカへ連れてこられたクンタ・キンテを始祖とする黒人一族の苦難の歴史が綴られるが、それは同時に民主主義国家の盟主としてアメリカが辿った道程の一側面であり、誇り高く"勝利"と宣言しても良い出来事を映し出している。

本作を手に取ったは、『それでも夜は明ける』を見たからだ。作品賞を始め、オスカー3部門を獲得した『それでも夜は明ける』は映画として面白いかは別にして、とても教育的な作品であり、その政治的な"正しさ"ゆえにかなり窮屈に感じもするが、衝撃的であることは間違いない。

黒人が人種差別を受けているのは知っている。90年代、スパイク・リーらが撮っていた同時代の差別を告発する映画を見た。もちろん、60年代の公民権運動も理解している。30年代のジャズエイジ、まだまだ白人と黒人が同じステージに立てなかったのも知っている。リンカーン大統領が立派だったのもスピルバーグ映画を見なくても常識だ。そして、南北戦争以前、アフリカから連れてこられた黒人奴隷が南部の広大なプランテーションで綿花摘みをし、白人の所有物として扱われていたのも学校で習ったし、何かの本で読みもした。

『それでも夜は明ける』(昨年のクエンティン・タランティーノ監督の『ジャンゴ 繋がれざる者』も同様)の何が衝撃だったかといえば、アフリカ系アメリカ人に向けて白人が侮蔑という意識すらほとんどなく日常的に"ニガー"という今では大変忌避されている言葉を投げかけていることだ。それを描写できることに驚かされた。ヒップホップでは黒人ラッパーたちが互いにNワードで呼び合うし、それを聴く白人たちも真似するようになっている。若い黒人の中にはNワードに拒否感がないと公言する者もいる。以前ほど拒否感はなくなっているのかもしれないが、それでも公の場でその言葉を他人種が黒人に向けていうことに私はためらいを覚える。黒人にとって長い受難の歴史を象徴するような言葉だからだ。

でも、その時代を描くにはその言葉を使うしかない。白人の奴隷監督が、"そこのアフリカ系アメリカ人、ちょっとこっち来い"ではおかしいからだ。正しい歴史の姿を知り、そこから現代に生きるには何が正しく何が間違っていて、皆が幸せに生きるにはどうするべきかを学ばなくてはならない。だから、黒人をNワードで呼ぶ必要がある。おためごかしは人の判断を誤らせる危険性すらある。

同時期に漫画『はだしのゲン』が"差別的な表現が多い"として大阪の学校の図書室から撤去されていたというニュースがあり、思うところがあった。人を傷つける言葉を表現の場からただ抹殺するだけでは何の解決にもならない。その歴史的背景を積極的に認識させることで、使ってはいけない理由が明らかになり、相互での理解が進む。そう前向きに考えたい。

ともかく、『ジャンゴ』や『それでも夜は明ける』では南北戦争以前の白人が黒人を使役するアメリカ南部が、おそらくそのまま描かれている。ハリウッドが今にしてどうしてこの時代を舞台にするのか不明だけど、過酷な労働を強いられるプランテーションなどの描写がショックだったのと同時に、これまでこうした映画が作られなかったのだろうかという疑問が浮かんだ。黒人が列になって綿摘みをしている光景は見たことがあるので、全面的に描かれてなくても回想シーンなどであったのかもしれないが、それでもこの時代を黒人視点で捉えた作品は思いつかなかった。

検索して出てきたのが、この"電話線を抜いて着信を絶ちドラマに見入る者も現れ"るほど大ヒットし、社会的にも大きく影響を与えたという本作だ。

『それでも夜は明ける』は北部の自由黒人が南部で12年間奴隷生活を送ることを通して、奴隷制度の実態をつぶさに報告する。130分間という短い中で黒人への虐待を詰め込んだ。結果的にひとつの作品としては賞に値するものになったかもしれないが、本シリーズは同じことを約540分かけ、じっくり映し出す。しかも黒人にはアフリカという故郷があることを教えもする。本作がいくら誉れ高い名作と称されても約40年も前の作品であり、ならば新しい教育的な映像作品を、とスティーヴ・マックィーン監督が思ったわけではないだろうが、今一度歴史を顧みる作品を制作し、苦しみを繰り返してはならないと宣言するのはとても大事なことだ。アメリカという国は駄目なことも多くやるが、こういう自助能力は日本以上に健全に発揮され羨ましくなる。


記事の最後にあらすじを書いているが、以下は各エピソードでそれぞれ気になったり良かったりしたシーンを挙げてみた。

第1話:三角貿易でアフリカからアメリカに運ばれてきた黒人奴隷は時期によって意識の差に開きがあったことが繰り返し描写される。主人公クンタ・キンテは十代でアフリカ西海岸から連れてこられたために、最後までイスラム教を捨てなかった。また、アフリカ人(とはいっても広大な大陸でそこには様々な民族が暮らしているわけだけど)が文化的な生活を営み、特にクンタ・キンテのマンディンカ族は憎しみの連鎖を拒否し、平和主義を貫く部族と描かれている。

第2話:トビーが脱走を図った後の教育係フィドラーの独白、"自由の味ってのはどんなだ?アフリカン。いいものか?"が印象的だ。ジャズの歴史の本を読んだ時にあった記述で、奴隷船はそのあまりの臭気に3~4回使うと廃船となったそうだ。

第3話:この回ぐらいからNワードが頻繁に使われ始める。船旅中は主に"モンキー"呼ばわりだった。字幕では、"お前"が当てられている。トビーがベルにすり鉢をプレゼントする話が良い。アフリカから連れこられたアカン族の男から、"故郷のことを忘れるな。覚えておいて子供たちに伝えろ"との教えを受けたトビーは、"ここの黒人は故郷を持たぬ新しい部族のようだ。故郷を知らないから自分すら分からない"と自身の思いを語る。右も左も分からなかったトビーに親身になってくれたフィドラーが死んだ時に、第2話でのエピソードと彼の"死ねば自由だ"という言葉を受けて、トビーは亡骸にこう語りかける。"自由の味はどうだ。いいもんだろ?"。

第4話:キジーより数歳年上の白人のアンお嬢様がラブレターを貰っただけでひどく興奮するシーンがある。貞操観念とまで大それた捉え方はしないが、アメリカが今のように恋愛に"フランク"になったのはいつ頃からなのだろうとは考えた。トビーの薫陶を受けて育った娘キジーはその"意識"の高さからサム・ベネットとの結婚を破談にしてしまう。ただ、サムが語るように、"毎日が辛いから今を楽しく生きている"というのも生き方のひとつではあるのだろう。この回ではトム・モーアの妻が、夫が黒人女性を好むことに苦しむ様子も描かれている。

第5話:貧乏白人ジョージ・ジョンソンは黒人奴隷と共に働いてきた期間が長いためか黒人への差別意識を持たない変な白人だ。『ヘルプ 心がつなぐストーリー』でのシーリア・フットのよう。白人が黒人を厳しく支配(差別)するからこそ両者が円滑に生活ができるのだと、黒人のトムたちがジョージに諭すおかしな展開は笑うに笑えない。

第6話:南北戦争が北部の勝利で終わり、法の上では奴隷制度が廃止されるが、それでもトムは仲間にこう呼びかける。"自由の味は素晴らしい。が、腹を満たしてくれるわけではない。白人の世界で稼ぐ方法を学ばなければならない"、と。ほとんどの黒人が手に職がない状況で明日から自由といわれても、難しい。また、白人は白人たちで戦争に負けた自身の"痛み"を黒人を虐げることで乗り越えようとする。リンチを受けたトムを見て幼い息子バドすらも復讐を誓うが、ジョージ・ジョンソンの妻マーサはこう教える。"肌の色で人を恨んではいけない"。

アメリカに強制的に連れてこられたクンタ・キンテの子孫がついに自分たちの意志で住む場所を決め、その足で新天地に辿り着き、"私たちは自由なんだ"と宣言する姿は、自分の肌の色が黒ではなく、黄色であってもやはり感動的だ。




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できるだけ簡潔なあらすじ

<第1話:さらば母なる大地>
1750年、アフリカ西岸に位置するガンビアにあるマンディンカ族のジュフレ村で、父オモロと母ビンタの間に息子クンタ・キンテが生まれる。1765年、15歳になったクンタ・キンテは村の通過儀礼を経験するが、その後奴隷狩りに捕まり、アメリカに向けての過酷な船旅が始まる。


<第2話:誇り高きマンディンカの戦士>
奴隷船の船内で、クンタ・キンテの通過儀礼で教官だったレスターが船倉の黒人を束ね、暴動を扇動するも鎮圧される。1967年、140人の黒人を乗せ出航した船は98人に減らし、米国東海岸のメリーランド州・アナポリスに到着。黄金の三角貿易の意義や、イギリスの"タウンゼンド諸法"について話題に上る。同年10月、黒人たちは競売にかけられ、クンタ・キンテはメリーランドのすぐ南に位置するバージニア州で暮らすジョン・レイノルズに、故郷で一瞬親しくした同族の女の子ファンタはカルバート卿に売られる。クンタ・キンテは"トビー"と改名させられる。レイノルズの信任厚い黒人のフィドラーがトビーの教育係になる。レイノルズ農園の現場監督エームズは取れたての黒人は駄目だと当初からトビーを警戒。作付が煙草から綿花に。農園に連れてこられて4ヶ月後、トビーは鎖を断ち切り逃亡を図る。が、エームズらによって捕えられ鞭打ちを受ける。クンタ・キンテは"トビー"名を受け入れる。


<第3話:我が妻、我が娘>
9年後の1976年。がっしりとした体格の立派な青年に成長したトビーは表面上は従順な黒人奴隷として振る舞いながら、今もイスラム教を信仰し、"サフォー"と呼ぶ故郷のお守りを身につけている。カルバート農園に売られた同郷のファンタのことも忘れておらず、再び脱走しついに長年の夢が叶うも、マギーと改名していた彼女は母国語を忘れ、奴隷としての生を受け入れていた。トビーは白人が自分の全てを奪っていくことに改めて憤る。自由を求めて"北部"に行こうと提案するが断られる。ジョン・レイノルズが差し向けた奴隷狩りに見つかり、トビーは右足の甲から先を切り落とされる。トビーはジョンの弟で医者のウィリアム・レイノルズのおかげで一命を取り留める。兄ジョンは弟ウィリアムへの借金の肩代わりとして"財産"であるフィドラーとトビーを譲ったため、ふたりはウィリアム農園に移り住む。

アメリカ独立戦争が始まり2年が経った4年後の1780年(字幕では"2年"とあるが、開戦は1775年)、必死に看病してくれた年上の黒人奴隷ベルを憎からず思っているトビーは彼女の口利きのおかげで、ジェネルヴァと共に脱走したルーサーの代わりに主ウィリアムの御者となり、彼が兄嫁と逢引きするのを手伝う。アメリカが勝利し、ジョージ・ワシントン将軍が大統領に選ばれたと話題になる中(独立が認められたパリ条約は1783年。実質的な戦闘終結は1781年の"ヨークタウンの戦い"。ワシントンが初代大統領に選ばれたのは1789年)、トビーはベルにようやくプロポーズする。ある夜、トビーは太鼓の音に誘われアカン族の男に出会う。彼からルーツを忘れなという教えと共に北部では解放運動があり、自由になれると聞く。若いトビーに白人に従順であれと教え込んだフィドラーが奴隷の身の上にうみ始め、そのまま最期を迎える。トビーとベルに娘"キジー"が生まれる。マンディンカの言葉で"ここに留まる"を意味する。かつてクンタ・キンテの父オモロがアフリカの地でしたように、星空の下で神の祝福を娘に授ける。逃げようとの太鼓の合図が聞えてくるが、トビーはベルのもとに戻る。"ここはホームではないが家族がいる"。


<第4話:愛する者たちの別離>
16年後の1806年。年頃のキジーにはノアという彼氏がいる。農園主で医者のウィリアム・レイノルズとその兄嫁との子供ではないかと噂されているアンの幼馴染として育ったキジーは、黒人には禁止されている字の読み書きができた。数年ぶりにアンと再会し、人種の隔てなく言葉を交わすが、やがて彼女もまた黒人よりも白人が、女性よりも男性の方が優秀だという当時の考えに染まっていることが明らかに。北部に行けばクエーカー教徒が助けてくれると信じ、ノアは脱走を図るも、1週間後捕まる。彼のために通行書をアンの筆跡で捏造したキジーは、母ベルの嘆願空しく、バージニア州のひとつ南にあるノースカロライナ州キャズウェル郡のトム・ムーアに売られる。その夜、キジーはトムに犯される。手当を受けながらキジーは男の子を生んでトムにこの報いを受けさせると誓う。

18年が経った1824年。キジーの息子ジョージはよくしゃべり陽気な青年に成長している。キジーは彼に実の父親を教えず、また復讐も諦め、その成長だけを生きがいに暮らしている。そのジョージはトムが趣味で手掛けている闘鶏で才能を発揮する。トム宅を訪れた闘鶏師の御者で伊達男サム・ベネットとキジーは良い仲になり、結婚を申し込まれる。1日だけ遠出を許されたふたりはキジーの両親が暮らすウィリアム農園に向かう。しかし、母ベルは売られ、父トビーは2年前に亡くなったことを知らされる。"パパの夢は涸らさない。あたしたちが自由になる日まで"と墓前で誓う。墓碑にある"トビー"の文字を消し、クンタ・キンテと新たに刻む。キジーはサムに、"あなたは自由なはずの魂まで奴隷になっている"と告げ、結婚話を断る。


<第5話:自由への賭け>
17年後の1841年、ノースカロライナ州のトム・ムーア農園。アフリカ出身の黒人奴隷トビーの娘キジーのひとり息子チキン・ジョージは幼馴染で牧師の娘マチルダと結婚し、トムとルイスのふたりの息子を授かる。闘鶏大会の帰り、バージニア州で起きた黒人奴隷の反乱(実際は1831年)の首謀者ナット・ターナーを探す白人と遭遇。その乱の影響で人種対立が表面化し、ムーア農園でも白人のトム夫妻が黒人を恐れる。その後ナットは馘首されたと伝えられる。ジョージは地主ジェームズ付きの闘鶏師から自分を買えば黒人でも自由になれると教わる。また、キジーはジョージにトムが実の父であると告げる。闘鶏大会で一世一代の大勝負に出たトムとジョージはイギリス人貴族に負け、借金のかたに有能なジョージは英国に連れて行かれる。別れ際、ジョージは母キジーから教わったように息子たちに自分が誰なのかを忘れるなと告げる。2~3年で帰国する予定だったジョージから便りがない。ある日、水を求めてムーア農園に立ち寄った馬車にアン・レイノルズが乗っていて、キジーと再会を果たすが、アンは知らんぷりをし、キジーは意趣返しする。農園経営が思わしくなく、トムは黒人奴隷を手放す。

14年後の1861年。サム・ハービーの農園で暮らしている妻マチルダや息子たちのもとに立派な格好でチキン・ジョージが帰郷。直前にトム宅に寄り、解放証明書を手に入れていた。家族と感動の再会を果たすも、母キジーは前年に亡くなっている。しかも、証明書を得ても60日間州に留まると奴隷に逆戻りさせられるという州法があると知らされ、ジョージは再び家族と離れる。南北戦争が始まり、南部連合がサムター要塞を攻略した(1861年4月)というニュースに白人たちが湧きかえる。チキン・ジョージの長男で鍛冶屋のトムは町で備蓄食料を泥棒したと間違えられる。その張本人で貧乏白人ジョージ・ジョンソンと妻マーサがトムの家に物乞いにやって来る。彼の名前がジョージであることから一家と打ち解け、ジョージはハービー農園の監督に雇われる。1864年、ジョージの妻マーサが死産。南軍の負けが濃厚になると、エヴァン・ブラント大尉の弟ジェミー・ブラントが軍を脱走しトムに助けを求めてくるが、彼の企みが明らかになると、トムは盗みの件での恨みもあり彼を溺死させる。


<第6話:新たな天地を求めて>
1865年4月9日、南軍のリー将軍が戦争終結を南部各州に告げる。それは奴隷制の廃止をも意味した。戦争で足に障害を負ったエヴァン・ブラントの営む雑貨屋にも黒人が買いに来るようになり、南部の白人は忌々しく思う。6日後の4月15日、奴隷解放に尽力したリンカーン大統領が暗殺される。アーサー・ジャスティン上院議員の悪巧みが始まる。白人たちは夜間、黒人を襲撃するようになる。火を付けられたハービー農園は経営が立ち行かなくなり、上院議員に土地を売る。その際サム・ハービーは黒人たちの借金の帳消しを申し出て議員は了承したものの、トムら黒人たちにはそのことを認めず、農園から出ていくのは自由だが、借金を踏み倒した罪で逮捕されると脅す。

一方、鍛冶屋のトムは馬の蹄鉄に細工をし、自分たちを襲う白人の特定を図り、仲間の反対を押し切り法律で訴えようとその証拠を町の保安官に持ち込む。保安官はエヴァン・ブラントに黒人の思惑を話し、職務上巡回判事に申告しなくてはならず、どうにかしてくれと頼む。かくして白頭巾で顔を隠した集団が誕生する(実際のクー・クラックス・クランは退役軍人ネイサン・ベッドフォード・フォレストが1865年12月24日にテネシー州プラスキで設立)。エヴァンら白人たちはトムを木に縛り付け鞭打ちを行う。ジョージの機転で死は免れる。トムはジェミー・ブラントから以前奪った銃を取り出し、復讐しようと意気込むが、そこにチキン・ジョージが帰ってくる。南北戦争にも参加したジョージは息子たちに戦術を授ける。保安官からトムが提出した告訴を取り下げ、トム自身もエヴァンの前で従順に振る舞う。警戒する上院議員は通告なしで農園の巡回をブラントに提案。予想していたチキン・ジョージは逆にジョージ・ジョンソンにロバ6頭を農地拡大のために欲しいと上院議員らに提案させる。そのロバを荷馬車に繋ぎ、チキン・ジョージを先頭にノースカロライナ州の西に位置するテネシー州ローダーデール郡ヘニングを目指す。

そして現代。原作者であり、クンタ・キンテから数えて7代目の子孫で1921年生まれのアレックス・ヘイリーが、クンタ・キンテの娘キジーの息子チキン・ジョージは83歳まで生き、その長男トムとアイリーンの末娘シンシアが幼い彼に家族の歴史を教えてくれたと回想する。強く印象に残っていたその記憶を頼りに、退職後の1963年から12年かけて調べ、執筆したのが原作の『ルーツ』だと語り、物語の幕が下りる。

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はすみとしこ、海外の有名極右政治家らと並んで「シリア難民に対して最悪の反応をした7人」に選ばれる

http://blog.livedoor.jp/chuuseijap/archives/45588091.html


はすみとしこ、海外の有名極右政治家らと並んで「シリア難民に対して最悪の反応をした7人」に選ばれる


はすみとしこの難民侮辱イラストの件(これとこれ)の続き。


7 of the worst reactions to the Syrian refugee crisis
October 12th, 2015 3:00PM
https://stepfeed.com/more-categories/big-news/7-of-the-worst-reactions-to-the-syrian-refugee-crisis/ (魚拓)

1. Donald Trump (U.S. businessman and presidential candidate)
2. Toshiko Hasumi (Japanese artist)
3. Viktor Orban (Hungarian prime minister)
3. Fred Johnson (British mayor of a South Wales town)
4. Heinz-Christian Strache (Austrian far-right leader and Vienna mayoral candidate)
5. Fox News
6. Ben Carson (U.S. presidential candidate)
7. Nikolaos Michaloliakos (leader of Greece’s Golden Dawn political party)

シリア難民問題に最悪の反応をした7人

1. ドナルド・トランプ(アメリカのビジネスマンおよび大統領候補者)
2. はすみとしこ(日本の画家)
3. オルバーン・ヴィクトル(ハンガリーの首相)
3. フレッド・ジョンソン(イギリスのサウスウェールズ町長)
4. ハインツ=クリスティアン・シュトラーヒェ(オーストリアの極右指導者およびウィーン市長候補者)
5. FOXニュース
6. ベン・カーソン(アメリカの大統領候補者)
7. ニコラオス・ミハロリアコス(ギリシャの政党・黄金の夜明けの党首)

ホルホルホルッ!日本人として誇らしい限りです!
海外の人々にも我が日本がレイシストの楽園であることを改めてご理解頂けて感無量です!

しかもこれ、はすみとしこ以外はみーんな有名極右政治家や有名メディアばっかりなんだよな。
無名の漫画家に過ぎないはすみとしこがそこに並んだということはそれだけあの難民侮辱イラストは海外では強烈な悪意を持った最悪のレイシストイラストと受け取られたということだな。
これはホルホル不可避だねwww

ちなみに元ソースにはそれぞれの人物についての詳しい説明も書かれてるが、俺は短文はともかく長文の英語は自力で翻訳できないから「脱「愛国カルト」のススメ」の記事からはすみとしこについての説明の日本語訳を引用させてもらう。


はすみとしこのヘイトな世界2:「シリア難民に対して最悪の反応をした7人」に堂々選ばれる
http://netouyobuster.blog.jp/archives/1042636731.html

(前略)

Right-wing Japanese artist Toshiko Hasumi seems to think Syrian children are choosing to be refugees for all the benefits it provides. Say what?

(日本の右翼画家はすみとしこは、シリアの子供たちが利益を得るために自ら難民になることを選んだと考えているらしい。何言ってんだ?)

The caption with this cartoon reads, “I want to live a safe and clean life, eat gourmet food, go out, wear pretty things, and live a luxurious life… all at the expense of someone else. I have an idea. I’ll become a refugee,” according to the BBC.

(このマンガに書かれた文章は以下の通りだ。「安全に暮らしたい清潔な暮らしを送りたい 美味しいものが食べたい自由に遊びに行きたい おしゃれがしたい贅沢がしたい何の苦労もなく生きたいように生きていきたい 他人の金で。 そうだ難民しよう!」)

Although the artist argued she didn’t specifically label the girl as Syrian, she admits to have modeling the image after a photo of refugee child living in Lebanon. Clarifying her position further, Hasumi claimed she was only attacking “fake refugees”. Apparently she believes some people are just fleeing bombed out homes, bullets and dead family members for kicks and giggles.

(この女の子がシリア人だと明言されているわけではないが、作者はレバノンに実在する難民の女の子の写真をモデルに浸かったと認めている。さらに自分の立場を明白にしようと、「なりすまし難民」だけを非難しているのだと主張している。どうやら彼女は、遊びたいがために、爆撃を受けた家を棄て、銃弾から逃げ、死んだ家族を置いてくる人がいると思っているらしい)

(後略)

「Right-wing Japanese artist」(日本の右翼画家)としっかり書かれてることに注目。
誰だよ「日本の愛国者を右翼なんて言うのは韓国人だけ!」とかほざいてたネトウヨはwwww

ネトウヨよ、これがはすみとしこに対する海外の反応だ。
はすみとしこを擁護するネトウヨは海外の極右ネット民のネオナチ書き込みを引用して「世界もこのイラストを称賛している!」とか捏造していたが、海外のまともなネットニュースは上記の通りはすみとしこをボロクソに評してる件。
まあ中世ジャップランドと違って欧米社会の人権意識はガチで高いんだから当然だわな。

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柔術プリースト 202 バリカタ柔術RADIO  30

Jiu Jitsu Priest #202


生田誠のバリカタ柔術RADIO #30

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アラブの石油王 アブダビ王族主催アブダビグランドスラムUSA2015 動画



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西村大樹 結構、アニメ監督とかをしている人にも、差別主義者がいるよ。あまりに酷いな中国人・朝鮮人を蔑視する発言を繰り返している人が。間違いを指摘したら、保守速報をプリトアウトしたものを持ってきて、「ここに書いてある!』と怒鳴り散らされたことがあるよ。

http://togetter.com/li/831054

西村大樹氏の発言を受けて、オタクとネトウヨの関係性を改めて取り上げてみようと思った。※「オタク=ネトウヨ」は悪質なレッテル貼りですが、その手の人が多いこと自体は事実
アニメ演出家の西村大樹氏が「アニメスタッフにも差別主義者がいる」というツイートをしているのを発見したので、以前から疑問に思っていた、「往年の漫画家たちには『左翼』が多いのにどうして今のオタクはネトウヨになってしまうのか」という疑問について他の方との議論を中心にまとめてみました。
最後は過去に作成したものや他の方が作成したまとめのリンクを貼りますので、そちらもご参照願います。

※補足
コ 続きを読む





西村大樹 @taiki_nishimura 2015-05-31 19:18:17
結構、アニメ監督とかをしている人にも、差別主義者がいるよ。あまりに酷いな中国人・朝鮮人を蔑視する発言を繰り返している人が。間違いを指摘したら、保守速報をプリトアウトしたものを持ってきて、「ここに書いてある!』と怒鳴り散らされたことがあるよ。






西村大樹 @taiki_nishimura 2015-05-31 19:24:14
名の知れたアニメスタッフが、裏じゃ人種差別的思考の元、「中国人と朝鮮人を追放すべき!」とか話していたりするからね。そんな彼らも、中国や韓国ナシではアニメを作れない現実があるのにね。






西村大樹 @taiki_nishimura 2015-05-31 19:32:46
こども向けアニメで「いじめはダメ!」という作品を作っていながら、中国人と朝鮮人に差別発言をし、排斥を訴えている人とかね。






西村大樹 @taiki_nishimura 2015-05-31 19:39:53
陰謀論というか、デマを「左翼や在日勢力が捻り潰している真実」と捉えて、外国人差別・排斥を訴えているアニメスタッフもいた。社長がキレて、二度と発注しなくなったが。






西村大樹 @taiki_nishimura 2015-05-31 19:45:57
大川隆法の霊言『御嶽山噴火・広島大水害の背景に「安倍政権の保守回帰の攻防」?』……こんなことをいう人を信じる人もいるんだ。その事実も考えるべきだよな。 the-liberty.com/article.php?it…






西村大樹 @taiki_nishimura 2015-05-31 19:51:40
何年か前、テレビ局のプロデュサーが
スタジオに入るなり、「中国人観光客で電車が混んでいた。中国人は電車に乗るなよ」と、本人は冗談のつもりだったのだろうが、自分は気になり「そういう発言は、冗談でもするものではない」と真面目に注意したことが。コイツとは、二度と組むつもりはありません。






西村大樹 @taiki_nishimura 2015-05-31 20:02:31
アニメ業界で差別的・排他的な発言をする人は、映画やテレビ業界より多い感じがするんだよな。ここ数年で、同人誌関係の知人にも、差別的・排他的な思考や発言をする人が増えてきた感じがする。不安な人が多く、不安の原因を外国人と考えている人もいるような。






サイレントトラベラー @slpolient 2015-06-05 07:50:09
@taiki_nishimura 不思議ですよね。往年の名漫画家やアニメ制作者たちで政治的な言動を取っている人には「左翼」的な人も結構多いのですが。手塚治虫、ちばてつや、宮崎駿、高畑勲、安彦良和、米沢嘉博……などといった錚々たる面々はみんな「左翼」です。






サイレントトラベラー @slpolient 2015-06-05 08:33:18
西村大樹氏のツイートを見る限り、アニメ関係者にネトウヨは相当浸透しているらしい。前々から言っているように、アニメや漫画関係者にネトウヨ的な考え方をする人が多いのは、オタクバッシングの影響だと私は思っている。






西村大樹 @taiki_nishimura 2015-05-31 19:11:00
自分の不確かな感情を、確かなものにしてくれるなら、たとえそれが事実無根であっても弱い人は信じるてしまうんだ。事実でなくても、自分の感情の正しさを担保してくれるものだから。





往年の名漫画家は「サヨク」が多い。

宮崎駿氏や高畑勲氏が労働組合の活動家であったことは知る人ぞ知る事実だが、池田理代子氏や安彦良和氏など学生運動に参加していた人も数知れず。

自民党が作成した改憲漫画が話題になった時に議論した内容を紹介します。



CDB@なっちはカイゼル髭だよ! @C4Dbeginner 2015-05-05 00:11:31
たぶん自民党が本当に改憲漫画を描かせたいのは国民的人気作品を描いたトキワ荘世代の大御所漫画家なんだけど、この世代は軒並みガチガチの反戦護憲だからね。手塚治虫・水木しげるの二大潮流のどっちも護憲。よくオタクとウヨ思想の関連性が言われるけど、当然ながら漫画文化全体がそうではない。






CDB@なっちはカイゼル髭だよ! @C4Dbeginner 2015-05-05 00:28:52
ちばてつや先生なんかあれほどの大御所なのに反戦漫画展となったら南京市の南京大虐殺記念館に出向いてサイン会までやったりするわけです。終戦の満州で父の友人の中国人一家の屋根裏部屋に匿われて帰国できたという「戦場のピアニスト」的体験がある。 goo.gl/p4okNS






CDB@なっちはカイゼル髭だよ! @C4Dbeginner 2015-05-05 00:32:52
というわけで改憲派が下手にウケを狙って弘兼憲史先生とかオタク世代のネトウヨ漫画家なんか担ぎ出した日にはね、今まで沈黙を守っていたこのレジェンドクラスの超大御所世代が実体験の血が通ったカウンター反戦護憲漫画をぶっ描き始めるんで下手に動けないわけですよ。まああと20年は無理だね






『ヴァティカンの正体』筑摩新書/岩渕潤子 @tawarayasotatsu 2015-05-05 00:43:42
・・・だと良いですが、彼ら(レジェンド・クラス)はあと20年も元気でいられないでしょうから、やっぱり心配。 @C4Dbeginner @nakano0316






CDB@なっちはカイゼル髭だよ! @C4Dbeginner 2015-05-05 01:01:32
@tawarayasotatsu はだしのゲンの中沢啓治先生とか、亡くなる方も増え始めてますからね…






さかなちゃん☆ウクレレ歌人←β崩壊 @sakana20001 2015-05-05 00:37:30
@C4Dbeginner 松本零士とかはどうなんでしょうね。






CDB@なっちはカイゼル髭だよ! @C4Dbeginner 2015-05-05 00:55:23
@sakana20001 ちばてつや先生が南京まで出向いた反戦漫画展「私の八月十五日展」、松本零士先生も寄稿してるんですよ。右に流れそうで流れない。変人伝説は数知れずですが…
mainichi.jp/shimen/news/20…






サイレントトラベラー @slpolient 2015-05-05 00:47:25
@C4Dbeginner 古い時代のオタクは左翼の方が多いですよね。作り手が左翼だったから。
ただ、今のオタクが右翼と結び付いたのは、宮崎勤事件以来のバッシングにより、既存メディアへの強い不信感が生まれたからだと思います。






サイレントトラベラー @slpolient 2015-05-05 01:12:18
@C4Dbeginner 政治家レベルでは右の方が規制推進寄りなのに、規制推進派の声が大きい市民団体には左の方が多いのも、オタクが右傾化した原因の一つと考えられます。左寄りの規制推進派市民団体の人脈は慰安婦団体の人脈とかなり重なります。






CDB@なっちはカイゼル髭だよ! @C4Dbeginner 2015-05-05 01:14:58
@slpolient 宮崎駿→押井守→庵野秀明と見ていくとわかりやすいですよね。まあ「富野がいるだろ!」「西崎という石原のダチがいてだな」みたいな話はともかく






サイレントトラベラー @slpolient 2015-05-05 06:50:58
@C4Dbeginner オタクバッシングとネトウヨの関係についてはこちらもご覧ください。
CRACが「オタクをつぶす」と発言してますし、その点はあまりに不条理を感じます。
togetter.com/li/696165
togetter.com/li/699189






サイレントトラベラー @slpolient 2015-05-05 06:56:27
@C4Dbeginner マスコミのオタクバッシングの影響で被害者意識が強まり、そこに「在日特権」なんて言説が出てくれば、「オタクは差別されてるのに、在日は差別を口実に特権を享受している」という不公平感から信じてしまう人が多々出てもおかしくないのでは。






CDB@なっちはカイゼル髭だよ! @C4Dbeginner 2015-05-05 07:30:54
@slpolient オタクバッシングそんなすごいかなあ?むしろエヴァンゲリオンあたりで「オタクは金になる」って気がついた社会が全力で乗っかり始めた感じがあるんだよね。アイドル文化にしても今みたいに大人がアイドルの握手会に並ぶことを公然と肯定するようになったわけだし






サイレントトラベラー @slpolient 2015-05-05 07:36:52
@C4Dbeginner 私は宮崎勤事件の時を生で知らない世代ですが、当時に比べれば今ははるかにマシだと思います。と言ってもオタクと犯罪を結びつける論調は依然としてあります。露骨な物は減りましたが、既に強い被害者意識が確立されたので犯罪報道でオタクに言及されると反発は強いです。






CDB@なっちはカイゼル髭だよ! @C4Dbeginner 2015-05-05 08:01:58
@slpolient 「おかしくないのでは」っていうのはネトウヨになったオタクの内面として連続性があるという話としてなら聞けますが、「理不尽ないじめを受けたから無関係の第三者を突然殴り始めてもおかしくないのでは」って、社会の正当性・倫理性の問題としてはそりゃおかしいですよ。






サイレントトラベラー @slpolient 2015-05-05 08:16:48
@C4Dbeginner おっしゃる通りです。私は「内面として連続性がある」という意味で「おかしくないのでは」と発言しました。「在日特権」の主張の本質は、マルクス主義における「資本家」が「在日」にすり替わったものだと思います。






CDB@なっちはカイゼル髭だよ! @C4Dbeginner 2015-05-05 08:19:44
@slpolient 「すり替えちゃ駄目じゃん」という話であって、「オタクを批判するな。さもないと少数者を叩くぞ」という話ではないのでは…批判に対しては正面から反論できる場があるわけですし。






CDB@なっちはカイゼル髭だよ! @C4Dbeginner 2015-05-05 09:00:59
@slpolient リプライありがとうございます。これについてはまた夜に書きたいと思います。よかったら読みに来てまた何か書いてください。






サイレントトラベラー @slpolient 2015-05-05 09:08:48
@C4Dbeginner 失礼いたしました。元来オタク文化の担い手の多くが「左翼」だったにもかかわらず、今日では「オタクとウヨ思想の関連性」が言われるようになった背景について、あなたがどのような見解を持っているのか是非とも知りたいと思います。






CDB@なっちはカイゼル髭だよ! @C4Dbeginner 2015-05-06 01:16:57
マイノリティへの敵意に連結させてしまうのは今朝論外と話したけど、それを脇に置いても「オタクバッシング」というのは当事者から見ればたぶん実感なんだと思う。多くのオタクが「何もしてないのに叩かれている」と思っている。でもむろん違う。何もしていないところに文化が生まれるはずがないから。






CDB@なっちはカイゼル髭だよ! @C4Dbeginner 2015-05-06 01:28:11
オタク表現がある種の暴力性を持っていることというのは、ある時期までは当事者たちに自覚されていたと思う。大塚英志の指摘ではマンガのオタク文化は70~80年代に少女漫画の絵を男子が真似して描き始めたところから始まっている。そもそもあれは女子の領域に男子が侵犯してはじまったものなんだ。






CDB@なっちはカイゼル髭だよ! @C4Dbeginner 2015-05-06 01:34:53
同人誌文化という例をとるとわかりやすいけど、法律に照らせばどう言いつくろっても完全に著作権アウトなんだよね。それはコミケをNHKが特集し、同人誌出身のプロ漫画家が何人出ても根本的に変わらない。誰かプロの漫画家が「いや俺は自分の漫画の同人誌は許せない」と訴えたら100%勝てない。






CDB@なっちはカイゼル髭だよ! @C4Dbeginner 2015-05-06 01:39:01
もちろん現在、多くの出版社や漫画家が同人誌を黙認しているし、肯定的な言及も多くある。そういう文化の中から多くの描き手が育ってきたという事実もある。でもそれは本質的にこの文化が「何かを侵犯して成立してきた文化であり、今もそうだ」ということを帳消しにしたり、正当化するものではないわけ






CDB@なっちはカイゼル髭だよ! @C4Dbeginner 2015-05-06 01:48:00
同人誌の著作権の構造を別の「性」という問題に移せば、言うまでもなく児童性表現の問題がある。極端なエロ同人が例に上がりやすいけど、たとえば商業誌に載っているような人気漫画だって海外の基準ではアウト、というのは普通にあるんだよね。これも単に「黙認」の問題であって、決して公認ではない。






CDB@なっちはカイゼル髭だよ! @C4Dbeginner 2015-05-06 01:58:15
この「黙認と公認の意識差」が重要なんだと思う。「侵犯の自覚」と言い換えてもいいと思うけど。オタク文化って、いわばコロンブスがアメリカ大陸を発見したみたいに他者の領域を侵犯して成立した巨大国家なわけですよ。最初から神に与えられた当然の領土じゃないわけ。そこに対する自覚があるかどうか






CDB@なっちはカイゼル髭だよ! @C4Dbeginner 2015-05-06 02:05:33
もちろん、どんな表現も他人を傷つけるし領域を侵犯する。そもそも表現とは侵犯そのものだと言ってもいい。だからこそ日本国憲法第21条は「表現の自由」を規定しているわけだ。でもそれは、表現によって傷つけられた人が怒りや悲鳴の声を上げてはならない、という規定ではないわけですよ。絶対に。






CDB@なっちはカイゼル髭だよ! @C4Dbeginner 2015-05-06 02:18:26
でもその怒りや悲鳴は、多くの場合「叩かれた。何もしていないのに」とオタクたちに受け止められる。何もしていなくはないわけです。上の世代から受け継いだフォーマットで、気がついた時にはそこにあったために「何をしているのか」が見えなくなっているだけなんですよ。そこが最大の問題だと思う。






CDB@なっちはカイゼル髭だよ! @C4Dbeginner 2015-05-06 02:31:15
有川浩さんの「図書館戦争」を読んでて感じるのもそこでさ、あの「表現の規制と自由」ってテーマで小説を書いているにも関わらず、主人公たちに内面的な葛藤がほぼゼロってありえないじゃない?押井守のパトレイバーは柘植と後藤の、ガンダムはシャアとアムロの論争だった。それが物語じゃないですか。






CDB@なっちはカイゼル髭だよ! @C4Dbeginner 2015-05-06 02:36:22
でもあの小説が若い世代に受けたのってそこだと思うんだよね。あれって仲間でサークルを作って小説を書いたりしてる子たちにとってのセカイ系小説なんだよ。自分たちの表現の自由ウェーイ、で、何か遠くで文句を言っているやつらがいる。「やつら」がなぜ文句を言っているのかは小説では書かれない。






CDB@なっちはカイゼル髭だよ! @C4Dbeginner 2015-05-06 02:40:36
たとえば上の世代が「図書館戦争」の設定で小説を書いたとしたら、敵の「良化隊」に柘植やシャアにあたるアンチテーゼとしての敵役を置かないわけがない。「お前たちの擁護する表現の自由で傷つく人たちがいる」って、そこから物語が始まるわけじゃないですか。あの小説、いないことになってるからね。






CDB@なっちはカイゼル髭だよ! @C4Dbeginner 2015-05-06 02:52:09
たとえば北原みのり氏はロリコン表現規制派とされていて、別件で逮捕された時には非難と揶揄の対象になった。でも実は法規制のプランを提示したことはないし、非難のポイントもはっきりと定型を取っていない。でも言いたいことはたぶんシンプルだ。「いるよ!被害者はいる!たとえ虚構でも!」ってこと






CDB@なっちはカイゼル髭だよ! @C4Dbeginner 2015-05-06 03:03:08
もちろんかつて成立しかけた「非実在青少年」に対する法規制が正しいとは思わない。ただ同時に「非実在被害者」に対して罪悪感を持つかどうか、というのはオタクにとって実は大きなテーマだと思っている。非実在に対して何の罪悪感も責任も感じないなら、そもそもそこには愛も感情も存在しないからだ。





青島幸男、永六輔、大橋巨泉、田原総一郎、野坂昭如……といった錚々たる面々が並ぶ、1970年代から80年代にかけて存在した左派ミニ政党の革新自由連合の賛同者の中に、赤塚不二夫、加藤芳郎、ジョージ秋山、手塚治虫、はらたいら……と大物漫画家の名前もあります。



有田芳生 @aritayoshifu 2014-01-04 11:08:59
五木寛之が革新自由連合を構想したのは1976年、翌年の参院選挙で10人を擁立、全国区で全員当選をめざす。青島幸男が属する二院クラブを発展させ、参議院本来の使命を実現するのを目的にした。ところが五木が消えた。(矢崎泰久『人生は喜劇だ』) pic.twitter.com/FQ7mHWNmBd








トキワ荘通り協働プロジェクト協議会が在特会活動家の後援を告知⇒炎上⇒中止に - NAVER まとめ




豊島区と地元商店街協働で進める地域活性プロジェクト「トキワ荘通り協働プロジェクト協議会」のツイッターが27日、在特会に関わりのある漫画家のワークショップを告知。...




トキワ荘通り協働プロジェクトに富田安紀子氏が参加するとの騒動の件について、少し議論をしたので、その点についても取り上げます。



浦嶋嶺至@お仕事募集中 @urashima41 2015-05-28 16:58:09
【トキワ荘通り協働プロジェクト協議会が在特会活動家の後援を告知⇒炎上⇒中止に - NAVER まとめ matome.naver.jp/odai/214327253… 】この件、中止になったから不問ではなくて、企画をした(持ち込んだ)のが誰だったのかを明らかにすべきと思う。






サイレントトラベラー @slpolient 2015-05-28 16:59:59
@urashima41 なんか「オタク=ネトウヨ」という偏見をますます強化しかねない案件ではないかという気がします。






浦嶋嶺至@お仕事募集中 @urashima41 2015-05-28 17:05:58
.@slpolient 誰がどんな思想信条を持とうと個人の自由とは思うんです。けれど、そうした人物をあの場所=韓国人留学生の描いたシャッター画の隣接する空間に招くというのは既に政治的な問題です。企画者は確信犯だったのか、無自覚であったのかが問われると思っています。


サイレントトラベラー @slpolient 2015-05-28 17:12:31
@urashima41 それにしても、手塚治虫を始めとして、往年の大物漫画家には「サヨク」的な人が多いのにその点はあまり気にされませんよね。反原発派がアトムを引き合いに出して「手塚治虫は原発推進派だ」と勝手に思い込んで叩いていた事もありました。事実は逆ですが。


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浦嶋嶺至@お仕事募集中 @urashima41 2015-05-28 17:17:15
@slpolient 30年くらい前手塚が存命の頃はむしろ原子力で動くアトムを引き合いに「推進派」寄りだったのを、コミックボックス才谷氏が無理矢理「ボクは原発反対なんです」という言質を引き出した経緯があります。科学の楽観的未来としての原子力は肯定してたのは当時無理からぬ事でした。






鐘の音@10th両日参加 @kanenooto7248 2015-06-05 23:52:57
オタク=ネトウヨ&ネトウヨ=殺していい→オタク=殺していい って連中にここ最近絡まれるケースが多くて辟易してるんだけど。なんとかならねーかな。






鐘の音@10th両日参加 @kanenooto7248 2015-06-05 23:57:31
すぎやまこういちがアレだから、ゲームミュージック作ってる奴みんなネトウヨ、とか、在特会参加漫画家がいるから漫画家全員在特会、とか馬鹿なくくりをする奴はいないのだが、何故か、「オタク=ネトウヨ」という構図を振り回す馬鹿は枚挙にいとまがない。






鐘の音@10th両日参加 @kanenooto7248 2015-06-06 00:03:56
大体、在特会員が筋金入ったオタクというのには違和感がある。というのも、デモするよりもイベントを駆けまわるだろう。オタクなら。






鐘の音@10th両日参加 @kanenooto7248 2015-06-06 00:02:52
以前は、在特会員=全員オタクだ!! みたいなことを言ってた奴も居たが、全然そんなこともなく。

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柔術プリースト201 バリカタ柔術RADIO29

Jiu Jitsu Priest #201


生田誠のバリカタ柔術RADIO #29

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--日本側の作品を拒否した理由は「彼らは、政治活動を禁ずるこの私有施設で許可を得ず記者会見をやった。主催者側の意向を無視して文化を語る場で政治活動を始め、その政治宣伝の内容が歴史的事実の否定を禁止するフランスの法律に抵触していると忠告したのにやめなかった。彼らはルールと法を破った」 --歴史的事実の否定とは「彼らは、日本政府も認めている慰安婦の存在すら認めていない。こうした極右思想・団体とは戦う」 --誤解があったのでは「いや、彼らはルールと法を破った。日本の漫画愛好家はいつでも歓迎だが、ルールに従えないのなら来ないでほしい」ジャップカルトの歴史捏造が世界でも通用すると思ったら大間違いだ。













http://blog.livedoor.jp/chuuseijap/archives/44729486.html



ジャップが描いたシリア難民侮辱イラスト、世界で批判の対象に



「そうだ難民しよう」 日本のイラスト、世界で批判の対象に
2015年10月05日 20時18分更新 文● 盛田 諒(Ryo Morita)
http://ascii.jp/elem/000/001/056/1056797/ (魚拓)


Shocked+deeply saddened anyone would choose to use an image of an innocent child to express such perverse prejudice http://t.co/JfXeuQAWAE
— Jonathan Hyams (@jonathanhyams) 2015, 10月 3

「何の苦労もなく生きたいように生きていきたい 他人の金で。そうだ難民しよう!」──。日本人作家によるイラストが、世界規模で議論を呼んでいる。

イラストは9月上旬に、作家がFacebookにアップロードしたもの。

8月末に起きた、トルコで溺死した難民男児が発見される事件があり、世界中の報道機関が写真つきでとりあげた。記憶している読者も多いだろう。

作家はこの事件について、家族はもともとトルコ在住であり、政府援助を受け取るために母子家庭を装って難民申請をしていたのだという意見を書き、件のイラストをつけてFacebookに投稿した。

この投稿自体にも賛否両論があったが、さらに投稿から数週間がたち、投稿以上に、過激なイラストそのものが侮辱的だという非難が集まりはじめた。

やがて、イラストがもともと問題の事件と無関係の写真を描きうつしたもの(トレース)という指摘があったことも手伝い、非難が爆発。「ヘイトアートだ」「よくもこんなことが言える」と厳しい声がぶつけられるようになった。このイラストは、ブログやオンラインメディアなどを通じて世界規模でとりあげられるようになり、報道機関が作家を「レイシスト」(差別主義者)と批判する見出しをつけるなど、英語圏でも議論を呼んでいる。

イラストの元になった写真はシリア国境付近のレバノンにある難民キャンプにいた6歳の少女。元になった写真を撮影したとする、写真家のジョナサン・ハイマス(Jonathan Hymas)氏はTwitterにNGO団体セーブ・ザ・チルドレンのために撮影したものだと、書いている。

ジョナサン・ハイマスは「無邪気な子供のイメージを選んでこんな邪悪な偏見を表現する人がいることに衝撃と深い悲しみをおぼえている」「窮状にあるシリア人に対する恥ずべき誤解だ」と悲しみをあらわしている。
問題のイラストはこれ。すご速の記事より転載。

836af8b8.jpg




>安全に暮らしたい
>清潔な暮らしを送りたい
>美味しいものが食べたい
>自由に遊びに行きたい
>おしゃれがしたい
>贅沢がしたい
>何の苦労もなく生きたいように生きていきたい
>他人の金で。

>そうだ難民しよう!

…最低だな。これを描いたジャップが。
これ描いた奴はイスラム国にぶっ殺されても文句言えんな。
さすがは世界最悪のレイシスト国家の一つジャップランドだな。

しかもこれ描いた「はすみとしこ」って奴、すご速の記事によるとネトウヨ漫画家らしいな。
同じくすご速の記事から「はすみとしこ」のイラストを転載。

c58da06a.jpg


田母神マンセーw

ま  た  キ  モ  オ  タ  ネ  ト  ウ  ヨ  か

ほらやっぱりキモオタはネトウヨだった。
どうしてこうキモオタっていつもネトウヨとセットになってるんだろうな。
ほんとこいつら社会に害悪しかもたらさない害虫だな。

しかも本題の記事にあるように今回の本題のイラスト自体、写真をトレースしたものなんだよな。
ちょっと検索したら実物が出てきた。



そして本題の難民侮辱イラストと比べてみると…。

44fa8107.jpg
836af8b8.jpg




服の模様以外、完全一致。

こりゃ完全に名誉毀損ですわ。
写真の少女に対してはもちろん、撮影者のハイマス氏に対してもな。
実在の男性をホモ漫画に使ってオナニーのネタにする腐女子と言い、どうしてキモオタってこういう他人の名誉を踏みにじる下劣な絵を平気で描けるかなあ。
こいつら人間じゃない。ニホンヒトモドキだ。

どうして我々日本人はつくづくこんな最低最悪の愚劣な民族なのか。
マジで日本人であることが恥ずかしくて仕方がない。

ちなみにこれ英語圏でもしっかり報道されてるから。

‘Racist’ illustration of refugee girl sparks ire among Japan’s netizens
http://www.japantimes.co.jp/news/2015/10/02/national/social-issues/racist-illustration-refugee-girl-sparks-ire-among-japans-netizens/

ジャジャジャジャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアップwww

http://blog.livedoor.jp/chuuseijap/archives/44894780.html



難民侮辱イラストを描いた「はすみとしこ」は幸福の科学関係者だった!


ジャップが描いた難民侮辱イラストの件の続き。
なんとあのイラストを描いた「はすみとしこ」は幸福の科学の関係者であることが判明した。


難民侮辱イラストに対し、元写真を撮影した写真家が「衝撃と深い悲しみ」「恥知らずな誤表現」と糾弾、幸福の科学との関連も
2015年10月5日20:00 by 深海
http://buzzap.jp/news/20151005-syrian-refugee-girl-photo/ (魚拓)

(前略)

◆幸福の科学との関係

なお、はすみとしこは2013年に藤井実彦がフランスのアングレーム国際漫画際で従軍慰安婦を巡る嫌韓漫画を展示しようと企てて強制撤去されたことで知られる「論破プロジェクト」の関係者です。

「論破プロジェクト」の起こしたプロジェクトの中に「4コマ漫画「テキサス親父とゆかいな仲間達」「華麗なるプロパガンダの世界」スタート」なる項目がありますが、この「華麗なるプロパガンダの世界」(閲覧注意)は作:藤井実彦、画:はすみとしことクレジットされており、両者が関係していることが分かります。

また、週刊新潮は2014年2月6日発売号でこの「論破プロジェクト」の藤井実彦代表が幸福の科学の信者であることを報じている他、2014年2月4日には幸福実現党の矢内筆勝総務会長が自らのBlogで幸福実現党が「論破プロジェクト」を後援していたことを公式に認めています。

幸福実現党は公式には「論破プロジェクト」への後援を終了していますが、この問題は単なる1個人によるヘイトスピーチというだけでは終わらないかもしれません。

論破プロジェクトwwww
ああ、あのフランスで総スカンを喰らってジャップの歴史認識の異常さを世界に向けて改めて浮き彫りにした「論破されプロジェクト」のことねwwwww
まさかあれに参加してた奴だったとはな。

どうしてこうネトウヨって必ずと言っていいほどカルトかキモオタのどちらかとセットなんだろうな。
幸福の科学だけでなく靖国神社も日本会議も統一教会も生長の家etc.もカルトだしな。
そもそも大日本帝国自体も天皇カルト国家だったしな。

俺が思うにネトウヨは科学的根拠のない捏造された歴史観(=歴史学者が実証したものでない歴史観)に基づいて日本マンセーする愛国ファンタジー野郎だから、同じく科学的根拠のないファンタジーの世界に生きてるカルトやキモオタとの親和性が高いのだろう。

そしてそういうファンタジーを海外でも白昼堂々開陳して大恥をかくというw


【慰安婦漫画】韓国展実施を後悔、仏主催者「すべて不満」
2014.2.2 21:46
http://www.sankei.com/world/news/140202/wor1402020001-n1.html (魚拓)
http://www.sankei.com/world/news/140202/wor1402020001-n2.html (魚拓)

【アングレーム(フランス南西部)=内藤泰朗】フランス・アングレーム国際漫画祭実行委員のニコラ・フィネ氏(アジア担当)は2日までに産経新聞のインタビューに応じ、韓国政府の展示が引き起こした「すべての出来事」に対して不満を抱いていることを明らかにした。フィネ氏との一問一答は次の通り。

--韓国の作品の政治メッセージに問題はないのか

「答える立場にない。彼らが何をしたいのかまでは知らない。芸術家は自分の意見を表現する権利がある」

--韓国の展示に満足か

「(批判など)展示がもたらしたすべての出来事に不満がある。もっと違った形でやることができた。しかし、もう起きてしまったことだ。主催者は(この結果に)だれも満足していない」

--日本側の作品を拒否した理由は

「彼らは、政治活動を禁ずるこの私有施設で許可を得ず記者会見をやった。主催者側の意向を無視して文化を語る場で政治活動を始め、その政治宣伝の内容が歴史的事実の否定を禁止するフランスの法律に抵触していると忠告したのにやめなかった。彼らはルールと法を破った」

--歴史的事実の否定とは

「彼らは、日本政府も認めている慰安婦の存在すら認めていない。こうした極右思想・団体とは戦う」

--誤解があったのでは

「いや、彼らはルールと法を破った。日本の漫画愛好家はいつでも歓迎だが、ルールに従えないのなら来ないでほしい」

ジャップカルトの歴史捏造が世界でも通用すると思ったら大間違いだ。

ジャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアップwwww

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日本史の教科書には日清戦争や日露戦争を 日本の現代化の中に位置づけていますが、当時の日本人が日本の現代化を達成できたと 考えた理由は「ヨーロッパの国々と同様に日本も中国をアヘンで食い物にできるようになった」 からなのです。このような観点は日本史の教科書にはでてきません、つまり日本史の教科書、あるいは 世界史の教科書はこの点で完全に嘘をついている、あるいは捏造をしているのです











http://mail2.nara-edu.ac.jp/~asait/kuiper_belt/KuiperBelt.htm
以下、一連の頁は 2006 年秋頃から 2010 年頃までに書いたものです。 それ以後は、時々ミスタイプの修正や、追加をしていますが、元の文章の内容を変更していません。

ページの最終校正年月日 : 10/18/2014 20:27:07

新聞と嘘、あるいは誤報道

-- 目次 --

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1.前書き ◦追加:戦前における日本の新聞記事の捏造に関して
◦追加:日本は何故、日中戦争をしたか ◾第二次大戦前の日本の産業構造
◾中国では誰が麻薬を購入したか ?
◾経済の破綻
◾どの程度満州国は麻薬に依存したか、あるいは犠牲者の数は ?

◦追加:日露戦争に関して
◦追加:第二次世界大戦における死亡者数
◦追加:原爆投下が是非とも必要であったこと
◦追加:マンハッタンプロジェクト
◦追加:原爆のみが残酷であるか
◦追加:南京大虐殺の犠牲者数が 30 万人と考えてよい根拠 ◾ 追加:南京大虐殺の時点で南京城に余剰の人口がいたとするもう一つの根拠
◾ 追加:南京城における食料補給に関して上限があることの根拠

◦追加:中国や東南アジアにおける犠牲者はどのようにして死亡したか ?
◦追加:日本の国旗に関しての訂正
◦追加:慰安婦問題に関して
◦追加:慰安婦問題に関して、その 2

2. 冥王星とカイパーベルト








3. 野口英世






4. 戊辰戦争



5. 明治維新 --- 誰が活躍したか ?



6. 地震と耐震建築 --- 日本は先進国であったか ?


7. 鉄の製造





8. アヘン帝国 --- 汚れた歴史













9. アヘン帝国の土壌



10. 産業革命














11. 硫黄島の戦い






12. 鉄の歴史










13. もう古くなった記事のこと





14. 水俣病









15. 最近のこと
















1. 前書き

新聞にはよく嘘が書かれています。ここではそんなことをまとめてみることにしました。 私は英字新聞を購読しています。一つが IHT (International Herald Tribune) で もう一つが The Japan Times です。2 つも朝刊を購読しているのは妙に見えますが、 大昔は Asahi Evening News を購読しており, これが IHT に変化したため、妙なことに なっているわけです。The Japan Times と IHT はかなり毛色が違っていることがわかったので 以後、両方を購読しております。

日本語の新聞に関してはインターネットで読んだり、食堂で読んだりしており、 購読はしていません。英字紙の内容と比較して、随分変なことになっていることに 気がつくことがあります。ここではこのようなことを紹介したいと思います。

読売新聞  朝日新聞  毎日新聞  日経  産経

私はこれ以外に、インターネットで英語ニュースも見ており。その上での判断です。 (以下のページには Video へのリンクがあり、画面は大きくないですが、ちゃんと TV ニュースを 見ることができます。個々のニュースは数分ですが連続して見ることができ、とても 長時間楽しめます。日本の新聞社、テレビのホームページにある動画ニュースなど比較にならないほど立派で、 しかもタダです。)

• CBS 
• Yahoo News
• Buisiness with Reuters - International Herald Tribune

なお、このページでは英語版の Wikipedia の絵をダウンロードして使用しています。 絵を使用している箇所には元の画像への直接のリンク、 あるいは画像が掲載されているページへのリンクがあります。 英語版の Wikipedia の絵は使用に若干の条件があります。 これに関してはリンクをたどって説明を読んでください。絵によって使用条件が違いますから注意してください。 使用条件によってはコピーライトに抵触します。

ある程度、本文を書いてから、前書きを少し付け加えることにしました。 特定の報道機関が嘘の報道をすれば、そのうち誰かが嘘に気が付きます。 しかし、「冥王星とカイパーベルト」で触れるように、日本の全ての報道機関が、異口同音に 嘘の報道をしており、また教科書にも嘘が述べられていました。従って、嘘が伝えられていることに 気が付いた日本人は恐らく皆無であったと思われます (但し、天文学関係の学者、研究者は嘘が伝えられていることを 知っていたはずです)。しかもこの場合には、冥王星が惑星から 陥落するまでの 1 年間もの間、日本の全ての報道機関が恣意的に嘘の報道をしているのです。 だから、これは何らかの意図があったものと思われます (はっきりした理由は私にはわかりません)。個々の新聞記者、あるいはテレビの記者が 何も知らずに報道したことはあったかもしれませんが、報道組織としては当然のことながら外電に 目を通していたはずで、組織としては嘘であることを承知の上で報道していたはずです。

色々書いていくうちに、これが今に始まったことではなく、戦前からあったことに気が付くことになりました。 「アヘン帝国 -- 汚れた歴史」でこのことに触れますが、前書きでも触れたほうがよいと考え、 かいつまんで整理しておくことにします。 まず「アヘン帝国」とは「日本」のことで、「英国」のことではありません。 戦前の「日本」は大量に麻薬を中国に持ち込みますが、 当時の日本の新聞、ラジオはどのように報道したであろうかと、 そのうち疑問になってきました。「日本を経由した麻薬」で述べますが、インターネット上で 当時の「報知新聞」の「社説」を発見してしまいました。 その当時も日本には「英字紙」があり、こちらの方では、正確な情報が伝えられていたようです。 しかし、「報知新聞の社説」は「英字紙」の記事を真っ向から否定する内容でした。 しかし冷静に読み取れば「英字紙」の方が信頼性があることがすぐにわかります。 つまり「報知新聞の社説」は「捏造」です。 当時の日本の全国紙、放送局 (NHK の前身である東京放送局も当然ここに含まれます) は 日本が国家として汚いことをしていても、「捏造報道」で帳尻を合わせていたのであろうと 断言できることになりました。 しかも日本の報道機関はすべて歩調を合わせて捏造したと考えて差し支えないようです。

麻薬のことに関しては「日本が麻薬で儲けている」という点を誰も認めたくなかったため、 まったく同じようにして「捏造報道」に徹したのでしょう。 戦局が不利になった場合には報道管制がしかれますが、それ以前に、 もともと日本の報道はジャーナリズムと呼べるような代物ででなかったと断言できることになりました。

ここまで書いて、しばらくの間「アヘン帝国」のことはそのままにしていたのですが、 時間が経過するにつれ、頭の中で整理ができてきました。英語版の Wikipedia ではアヘン戦争のことを

1. 第一次アヘン戦争 (1839-1842), 中国と英国の間の戦争
2. 第二次アヘン戦争 (1856-1860), 中国と英国、フランス、ロシア、米国の間の戦争 (但し、米国、ロシアは 軍隊を派遣しなかった)

と書いています。日本語の Wikipedia では第一次アヘン戦争を単にアヘン戦争と呼び、 第二次アヘン戦争をアロー戦争と呼んでいます。

さて第二次アヘン戦争からしばらくして、日清戦争 (1894-1895) の結果、下関条約が 締結されます。これには台湾などの領土に関することがありますが、 関連して締結された通商条約では日本はアヘン戦争の勝利国と同じ立場を得ることになりました。 これは英語版の Wikipedia に書かれていることです (Treaty of Shimonoseki - Wikipedia)。 つまり日本は中国に自由に麻薬を持ち込めるようになったのです。 少し考えてみればわかることですが、戦勝国の日本が中国と条約を結べば、 それは、それ以前の条約 -- アヘン戦争の勝利国と中国が結んだ条約 -- の 類似となるのに決まっています。これは当たり前です。

当然のことながら日清戦争以前から (ヨーロッパ各国の真似をして) 日本は中国、朝鮮、台湾にアヘンを 密輸していたはずですから  「日清戦争」を第三次アヘン戦争と呼ぶほうが 事態をより正しく理解できると思います。

中国の側から見れば、19 世紀から「アヘン戦争」が繰り返し、何度も勃発し、 第二次大戦が終了するまで続き、当初は対戦国がヨーロッパの国であったものが、 そのうち日本だけになってしまったと考える方が理解しやすいと思われます。日本史の教科書には日清戦争や日露戦争を 日本の現代化の中に位置づけていますが、当時の日本人が日本の現代化を達成できたと 考えた理由は「ヨーロッパの国々と同様に日本も中国をアヘンで食い物にできるようになった」 からなのです。このような観点は日本史の教科書にはでてきません、つまり日本史の教科書、あるいは 世界史の教科書はこの点で完全に嘘をついている、あるいは捏造をしているのです。

日中戦争に関しての日本史、世界史の教科書の捏造は巨大なものですが、それにもまして 産業革命に関しても捏造をしています。こちらの方もまさるとも劣らないくらいな巨大な嘘です。 本来産業革命には蒸気エンジンを使用して、色々なことが機械化されたから産業革命なのです。 19 世紀英国には蒸気エンジンを使用したパワーショベル (蒸気ショベル), ロードローラー (蒸気ローラー), 農業用のトラクター (蒸気トラクター) が登場し、しかもごくありきたりなものになっていたようです。 20 世紀初頭の日本にはおよそこのようなものはありませんでした。 にもかかわらず、20 世紀初頭に英国と同様に日本でも「産業革命」 が遂行されたとされています。従って、これも完全な捏造と呼ぶべきです。 また世界史の教科書における「英国の産業革命」の記述も、そもそもこの「日本史における」捏造を前提にした上での 捏造と思われます -- 嘘を隠蔽するために別の嘘が必要となる。 この嘘はどうやら、日中戦争がアヘン戦争の延長線上にあることを隠蔽するためのものではないかと 思われます。戦費を麻薬の儲けでまかない、しかも麻薬の儲けでインフラ整備をしたこと (当然ここには鴨緑江の水豊ダムが入るはずです) を隠すために、20 世紀初頭に 日本で産業革命が遂行されたとして、ごまかしているのでしょう。

日本語の産業革命という言葉には嘘が満ち満ちています。 第二次大戦中にタイとビルマを結ぶ泰緬鉄道 (いわゆる「死の鉄道 -- death railway」)が建設されますが、 このときはすべて手作業です。象も使ったようですが機械は使用していません。 熱帯のジャングルの中での作業ですからとても犠牲が多くなりました。 (これは最初から予測されたはずですから、この工事を強行した人たちは殺人犯です。) 有名な話ですが、産業革命という言葉を前提にすれば、これはありません。 (追加:産業革命以後には鉄道建設に蒸気ショベルを使用するのが普通で、 この時の連合軍の捕虜たちは 100 年以上昔の時代遅れの作業を強制された。) 熱帯における土木工事としては、これ以前に米国によるパナマ運河の建設があります。 このときには 102 台の蒸気ショベルが投入されています。 これが本当の産業革命です。もしも日本が 20 世紀初頭に産業革命を遂行していたのであれば、 泰緬鉄道の建設には機械力を投入できていたはずです。 あるいはそもそも産業革命が遂行されていたのであれば、断じて戦争をすることはなかった。 少なくとも日中戦争はしなかったはずです。

追加 : 戦前における日本の新聞記事の捏造に関して

戦前の報知新聞の捏造記事のことに関して触れましたが、神戸大学の 新聞記事文庫 は随分と充実してきたようで、これ以外にも随分捏造記事の存在を調べることができそうです。 検索にはかなり時間がかかりそうですが、とりあえず少々見つけました。

残存阿片焼棄  支那の阿片禁止と日本 (大阪毎日新聞 1919.1.7(大正8))

の記事では「ノース・チャイナ・デイリー・ニュース」の記事のことに触れています。 記事が長いので「モルヒネ」で検索しないと該当箇所が表示されません。記事の末尾に書かれていることです。 「ノース・チャイナ・デイリー・ニュース」の記事は 当時のニューヨーク・タイムズにも引用された記事で、私も本文中で引用しています。 何度も部分的に翻訳したので、結局全訳しました。次をご覧ください。これと大阪毎日新聞 (現在の毎日新聞) の 記事を比較してみてください。

1919 年、2 月 14 日のニューヨーク・タイムズの記事

ニューヨーク・タイムズに掲載されたのが 2 月 14 日ですから、大阪毎日新聞に掲載された 1 月 17 日より後です。 ともかくも、「ノース・チャイナ・デイリー・ニュース」の記事が随分反響を呼んだ記事であることがはっきりします。 書かれていることは「アヘン帝国」日本によりどのようにして、大量の麻薬、とりわけモルヒネが中国大陸に持ち込まれているかに 関することです。この「ノース・チャイナ・デイリー・ニュース」の記事に関して 大阪毎日新聞は何も根拠にせずに単に「荒唐無稽」と片付けています。 しかし新聞記者は当時、台湾にも朝鮮半島にも日本のモルヒネ工場があることは 重々承知しているはずで、そこで大量にモルヒネが生産されていることなど常識であったはずです。 また「ノース・チャイナ・デイリー・ニュース」を原文で読むことができるのであれば 「下関条約」等の本当の内容を理解することができたはずです。 従って、大阪毎日新聞は 1919 年 1 月 7 日に意図して捏造記事を掲載したと考えてよいと思われます。

例えば、次の記事を見れば日本本土でアヘンが栽培できたことがわかります。 しかも薬用だと思えるようなふざけた書き方をしている。 届け出をすれば「薬用アヘン」が栽培できるなどということは基本的に話がおかしい。狂っている。

阿片令愈施行  届ければ栽培が出来る (大阪朝日新聞 1919.2.20(大正8))

大量にアヘンやモルヒネが薬用として必要となることはなく、 この新聞記事はあからさまに日本政府の麻薬犯罪の手助けをしていることになります。

次のような記事もあり、この記事では日本がアヘン、モルヒネを中国に持ち込んでいることを 確かに認めています。

阿片モルヒネの密貿易  (其根本禁絶) (読売新聞 1921.2.24(大正10))

しかし「ノース・チャイナ・デイリー・ニュース」の記事を前提にすると、 モルヒネは郵送で中国に持ち込まれており、郵便局の協力なしでは不可能なのです (この協力の際に当然モルヒネの持ち込み料、つまり関税を支払っている)。 またアヘンに関しては中国の港における日本の海関の協力、あるいはアヘンの関税を支払って 中国にアヘンを持ち込んでいるのですから、読売新聞の記事は笑止千万なのです。 密貿易というよりは正規の手続きを踏んで、税関を通しているのです。 但し、その税関の管理をするのが日本人であるだけなのです。 この記事を書いた記者も重々事情に通じていたはずで、 アヘン、モルヒネの関税が日本政府の収入になっていることぐらいはすぐにもわかるはずです。 「密貿易」としていることこそが捏造記事なのです。 しかし、あまりにあからさまな嘘なので煮ても焼いても食えない。

以上から、戦前の報道機関は「アヘン帝国日本」のアヘン事業に関しての、 よりよき協力者であり、支持者であったと言うべきなのです。 無論ここには NHK の前身である東京放送局が含まれているはずです。

東京放送局の初代総裁は後藤新平で、 後藤新平は麻薬の利益でインフラ整備をした人ですから、多分東京放送局にも 麻薬の利益が投入されているはずです。 従って、 どのような放送がされたのかは推して知るべしです。

麻薬に関しての戦前の報道はあまりに人を食った捏造をしていると考えてよいと思います。 いずれにせよ、独立の報道機関としての組織は戦前の日本には存在しなかったと言ってよいと思います。

追加 : 日本は何故、日中戦争をしたのか ?

「アヘン帝国」のことや「産業革命」の章を読んでもらえれば、何ゆえ日本が中国と戦争をしたのかの 理由はわかると思うのですが、一応、ここでまとめておくことにします。

第二次大戦前の日本の産業構造

戦争をすれば国が疲弊します。本来必要である社会的なインフラなどに国の予算が流れずに、 その代わりに武器弾薬などに予算が流れますから、これは当然なことになります。 だから大規模な戦争をすれば、軍事産業は潤うことになりますが、社会全体としては 景気は悪くなります。これは常識的なことです。 ところが、奇妙なことに、日清戦争、日露戦争においては、日本の景気がよくなります。 だからありえないことが起きているのです。 この特殊な状況は次のように説明する以外にはありえません。


1. 日本軍は戦地で麻薬で儲ける
2. 武器弾薬の必要性から、獲得された資金が軍事産業に流れる
3. これが他の産業に波及して、景気がよくなる

無論ある程度の国家予算が戦争遂行のために使用されたことは当然でしょうが、 それよりも麻薬の収入がはるかに大きいはずです。 膨大な戦費はほぼ麻薬の売り上げでまかなわれていたはずですから、 これは当然の結論です。

「日清戦争」、「日露戦争」で日本の景気がよくなるのは、麻薬の収入によっているわけで、 従って、産業構造はとても「いびつ」で「脆弱」なものであったことになります。

中国では誰が麻薬を購入したか ?

第二次大戦前の日本の農家は、現金収入があまりなかったことはよく知られていることだと思います。 その理由は、農家が農産物を出荷することが困難であったからです。 江戸時代の年貢は米でしたが、明治になってから税金は現金で支払わなければならなくなり、 このため、明治時代には、自作農が極端に減って小作農となってしまいます。 これは農産物を現金化することが困難であったことを如実に示す事実です。 従って、第二次大戦前の日本の農家は手持ちの現金はほとんどなかったのではないかと思われます。

ところが、第二次大戦前の中国の農民は、貧しいことには変わりはないようですが、 銀の形で貯蓄をしていました。日本はほとんど山岳地帯で、山道ばかりしかありませんが、 中国では恐らく、荷馬車が通れるような道が縦横にあったのではないかと思います。 少なくとも、農作物を現金化することが日本よりも容易であったと思われます。 なお中国南部には縦横に運河がありますから、農作物の輸送はとても簡単であったはずです。 だから、第二次大戦前の中国では農産物を現金化することが容易で、 従って、農民は貯蓄をすることができていた。

中国の農民が持っていた銀は、英国による「アヘン戦争」を誘発したものです。 日本では道路網の未整備から農産物の現金化が困難で、そのため 日本の農民は中国の農民のように貯蓄は持っていなかったであろうと思われます。 従って、ヨーロッパの国々が日本にアヘンを持ち込む危険性は随分少なかった であろうと思います。中国が狙われたのはその富によるのです。農民たちが個々に 持っている「お宝」はそれほど多くはなかったと思いますが、全体としては 巨万の富であったはずです。


注意
1. 無論都市部でも麻薬は売れますが、大半が農村ですから、 そこがターゲットになってないと、売り上げは増えないことになります。
2. 辛亥革命後は、貨幣は紙幣に変わったのではないかと思いますが、 第二次大戦前の中国の農民は銀を持っていたのです。 関東軍はこれをよく知っていた。 貯蓄をするときは銀の形の方が信頼できたのか、あるいは先祖伝来の貯蓄が 銀であったのかに関してはよく知りません。
3. 江戸時代までの貴族、侍にしてみれば農民たちから絞るとることは正義であったわけですが、 明治以後は日本の農民たち (= 兵隊) の力を借りて、貴族、侍たち (= 当時の日本の支配者層) が 麻薬によってアジアの農民たちから絞るとることが正義となったのです。

経済の破綻

「満州国」ができるのは 1931 年で、これは 1929 年に起きた世界恐慌の 2 年後のことです。 日本が中国侵略をしたのは日本の経済が破綻したためです。 日本の経済はきわめて「いびつ」で「脆弱」であったため、 米国のように自力で世界恐慌の荒波を乗り切ることができなかったのです。

2008 年 9, 10 月に世界経済の破綻が目前に迫ったのかの感がありました。 これを見ていると、1929 年の世界恐慌がどのようなものであったのか、 感覚的に理解できることになりました。 世界の経済があっという間に枯渇していく状況はぞっとするようなことです。 経済的に進展している国の方が被害の度合いが少なく、 またこのような国々では国が大規模な資金を市場に投入することが でき、被害を少なく抑えることができることも見ることになりました。 経済的に発展していない国では随分大変なことになるようです。

1929 年の世界恐慌のときにどのようなことがおきたのでしょうか ? 日本にもまともな輸出品があり、これは「生糸」でした。 主に米国向けで、女性用のストッキングの原料です。 世界恐慌の結果米国の女性はストッキングをあまり買わなくなり、 その結果、「生糸」の輸出が半減します。 このあたりまでは、現在の経済的に未発展な国と同じことになります。


注意
1. 産業革命の結果、米国の市民は比較的豊かとなり、多くの女性が絹のストッキングを 身に着けるようになり、日本から米国への輸出が増え、これが日本の表の経済を 支えてきました。日本の輸出品の主だったものはこの生糸の輸出だったのです。 これが世界恐慌で半減し、あとで復活することはありませんでした。 だから表の経済だけでは輸入できるものは半減したことになり、 日本はお陀仏になったのです。
2. 日本経済に比べて、米国経済はうまく行ったようです。しかし、私はこの点に関して 歴史教科書を鵜呑みにしています。歴史教科書の指摘することは いわゆるニュー・ディール政策で、公共事業です。 これが本当に正しかったのかどうかは熟知していません。 しかしこの時期、米国が大変であったことに関してはある程度の認識を持っています。 世界恐慌は何とかクリアーしても、あとで世界大戦に日本が参戦したことにより、 米国は戦争に応じるために、巨額の債権を発行しなければなりませんでした。 これで米国が滅びるといわれた時があったのではないかと思います。 しかし、私としてはこの時期、日本がしていたことを前提にすれば、日本が先に滅びたことは望ましく その復興に期待することがより正しかったのではないかと思います。

歴史の教科書に書かれていることはここまでですが、 日本の場合には更に未曾有の破局がおきかけていたのです。 世界恐慌の結果、世界的に価格が暴落したものがあります。麻薬です。 景気が悪くなって麻薬中毒ですら麻薬を買えなくなったためです。 日本の経済は麻薬に依存していましたから、これで対処の方法がなくなることになります。 麻薬の売れ行きを増やすための経済政策などあるはずがない。 その結果、直接的には関東軍が「ひぼし」になりかかったのです。

しかし満州を支配してしまえば、より多くの農民を麻薬中毒にすることができます。 麻薬が蔓延していても、麻薬に手を出していない農民の方が多かったと思いますが、 直接の支配下において有無を言わせず中毒にしてしまえば、不足となった 収入源を補うことができたのです。 こうしなければ、関東軍は消滅の危険に直面したであろうことは火を見るよりも明らかです。

関東軍の目的としたものは中国の農民たちの「虎の子」だったのです。 これが日中戦争の目的でした。


注意
1. 日本の領土が増えれば、世界恐慌のせいで国内で青息吐息であった企業が そこに進出をして多少息を吹き返すことはできたでしょう。 しかし、関東軍としては、運転資金がなくなればすぐにでも自分自身の存続の問題に直面することになります。 現地調達の宿命です。 だから関東軍としての直接の目的は中国の農民たちの「虎の子」に他なりません。 資金難に陥った暴力団のようなものです。日本史の教科書ではこの時期を「世界恐慌と軍国主義の台頭」 と言って表現していますが、これは正確な言い方ではありません。関東軍は一般の人を無差別に 麻薬中毒にしようとしたわけで、このような一般市民に対しての無差別な攻撃のことを現在では「テロ」 と呼びます。従って「世界恐慌とテロリズムの台頭」という言い方の方が当時の日本を適切に表現する 言葉です。この点に関しても日本史の教科書には嘘がある。
2. 日中戦争が世界恐慌の結果であることを日本人の多くが認めているのではないかと思います。 その理由は 2008 年に起きた世界的な不況が始まった頃、欧米の政治家、あるいは英字紙の報道では随所で 1929 年の世界恐慌と比較をしていました。ところが日本の政治家や邦字紙の報道では 1929 年の 世界恐慌の時点との具体的比較をせず、むしろ無視をしていたのです。つまり、満州侵略、日中戦争が 世界恐慌の結果であることをちゃんとよく理解しているため、具体的な比較をすることが できなかったのです。まともな経済政策などせずに麻薬に頼ったことをよく知っているから、 経済的な比較ができないのです。

3. 当時の中国の農民の持っていた「虎の子」の目的を書き忘れていました。 この「虎の子」は通常は断じて手につけてはいけない金なのです。 これは飢饉の時のみに手をつけることができる金なのです。 従って、正常な状態では農民から、この「虎の子」を絞るとることは断じて不可能で、 どうあっても完全に麻薬中毒にする必要があったのです。 しかし、農民たちの最後の「虎の子」まで搾り取ってしまえば、 また別の犠牲者を求める必要が出てきます。

満州国の建国のために麻薬が必要であったと考える向きがありますが、 こう考えるよりは、麻薬の価格が暴落して、関東軍の収入が激減し、これを補うために、より大量の麻薬中毒を 作る必要性から満州国が建国されたと考える方が自然です。 つまり国を作るために麻薬の収入が必要であったと考えるよりは、 麻薬の収入を増やすために (あるいは麻薬の収入が落ち込んだため) 支配地を増やしたのです。 これを示唆する事実があります。満州国に投入された麻薬の売人は朝鮮人です。 つまり朝鮮半島では麻薬で絞るとることがじり貧となったため (当然これは世界恐慌が引き金となっています)、 満州国に新天地を求めたのです。 また、その後南京にも侵略をしますが、直後に大量に投入された麻薬の売人は満州国の 麻薬の売人なのです。 満州における麻薬の儲けが少なくなったため、麻薬の売人が移動したと考える方が自然です。 はっきりしている点は、大量に麻薬を投入しても、そのうち利益がじり貧と なり、その時点で新天地が必要なのです。麻薬によって骨の髄までしゃぶりとるようなことをすれば当然こうなります。 1937 年の 7 月 7 日の盧溝橋事件から日中戦争の幕が開きますが、 これは関東軍による大々的な麻薬テロの開始なのです。 従って「日中戦争の原因は満州における麻薬の儲けがじり貧となったため」であると考えて差し支えないと思われます。

4. 日本語の Wikipedia ( 満州国の経済) には『総額26億円を投資する「満州産業開発5カ年計画」』のことが記載されていますが、 これの原資は麻薬です。また産業開発と称するものは軍事産業で、武器弾薬の製造に他なりません。 武器弾薬の製造は満州を支配し、中国への麻薬の浸透を図ることを目的とするものですから、 満州国は国というよりは「麻薬売り上げ機関」と考える方が適切です。 また満州国にあった肥料工場はモルヒネの原料を提供できたはずですから、 何から何まで麻薬尽くしであったことになり、満州国にとって良いことは何もなかったのです。 また満州国にあった工場、鉱山はそのすべてが廃液などを垂れ流しており、 その跡地は深刻な土壌汚染を被ることとなり、死の大地と化したようです。

世界恐慌の余波は第二次大戦まで続いているのです。関東軍は農民から絞る取る「虎の子」が 枯渇すれば、また新天地を目指して、そこで再び「虎の子」を搾り取ったのでしょう。


追加
序文に、「日本は何故、日中戦争をしたのか ?」を 付け加えている前後に、田母神航空幕僚長の懸賞論文の話が報道に載りました。 「日本は侵略戦争をしたわけではない」との内容のようで、 アパグループによる懸賞論文であったとのことです。 事情が不明でしたが、2008 年 11 月 20 日の Japan Times に記事が載り、かなり 事情がはっきりすることになりました。まとめると 1. アパグループと安倍晋三は深いつながりがあり、 アパグループの推薦から、安倍晋三総理が田母神を航空幕僚長に抜擢したらしいこと
2. 田母神はロジスティック部門などを歴任しただけで、 航空幕僚長に抜擢される理由がほとんどなく、 田母神の歴史観の理由から抜擢されたらしいということ
ちょっと半信半疑になりましたが、次の頁を見つけました。
アパグループ - Wikipedia

どうも、確実なようです。アパグループには耐震偽造問題も 関係しており、それにも安倍晋三が関連しているようです。 安倍閣僚は「靖国閣僚」で占められていたことも、Japan Times で 指摘しており、紛れもない事実のようです。しかし、耐震偽造問題まで関連しているとは....

もう少し、思い出したことがあるので付け加えます。この事件の直後に、どこかの邦字紙で小さな記事を 読んでおり、それによるとアパグループは自衛隊との契約で随分儲けているようです。 これを前提にすると、自衛隊は特定の業者に儲けさせ、その利益を特定の政治家に還元させるようなこと をしているとも考えられます。田母神はロジスティック部門の担当でしたから、これが可能な立場で あったはずです。あるいは自衛隊が組織としてこのようなことをしているのかもしれません。 歴史観の問題よりも、金による結びつきのほうが大きいのかもしれません。

どの程度満州国は麻薬に依存したか、あるいは犠牲者の数は ?

満州国の硬貨にはケシの花が描かれているそうで、 満州国の経済 (?) は基本的にアヘンに依存しているように思え、 最初は満州国の財政にどれほど麻薬の売り上げが占めていたのか調べようとしました。 今では正確な数値を覚えていないのですが、満州国の予算の 10 % 以内ぐらいであることが どこかのページで書かれていました。私が「アヘン帝国」で書いてあることを読めば、 これはおかしいと思うはずです。そんなに少ないはずがない。 「満州国におけるアヘンの専売制」のみを問題とすると、この間違いに陥り、 どこかおかしいが理由が不明な状況になります。 原因は極めて明白で、関東軍の収入は満州国の予算に含まれていないからです。 だから、「満州国におけるアヘンの専売制」は一方で存在しているが、関東軍は独自に麻薬を売っているはずなのです。 だから問題は「満州国の予算」+「関東軍の予算」の中に占める麻薬の売り上げがどれだけであるかを 調べないといけないのです。おそらくこのデータは存在していない。 従って、何らかの推論をせざるをえません。

そこで、これに近い状態の国 (?) を考えます。 日本は内モンゴルにも傀儡政権を作りますが、この場合には、関東軍は軍事的に深く関与していないと 思われ、内モンゴルの傀儡政権の予算に占める麻薬の売り上げあたりが参考値になります。 これは 20%~30% です。また本文中で「アヘンの専売制」に関連して触れた個所で、 オランダ領東インド (現在のインドネシア) における 1914 年の政府の総収入における アヘンの収入の割合は 10 % を少々超える程度であることが判明します。 ヨーロッパの植民地では陸軍を積極的に投入していません。 これは補給で困るためです。だからヨーロッパ人の植民地支配には海岸地帯の拠点地域のみを 支配することが多いはずで、従って、 内陸部まで多量の陸軍を展開した旧日本軍の方法はとっていないのです。 補給の困難さを関東軍は現地調達で克服しました。 つまり麻薬です。従って 「満州国の予算」+「関東軍の予算」に占める麻薬の売り上げの比率は、 オランダ領東インドの 10 % をはるかに超えていたはずで、内モンゴルの比率の 20 %~30 % 程度では ないでしょうか ? あるいはこれより多いかもしれません。


注意
別の面からの議論も補足します。非常に広い地域を継続的に軍事力だけで支配することが可能でしょうか ? しかも陸軍だけでこれが可能でしょうか ? このようなことに関して、随分以前にどこかで記事を何度も読んだ気がします。 結論は単純で、これは単に不可能なのです。一時的な支配は可能でしょうが、財政的な理由から不可能となります。 多量に陸軍を投入すれば、国家予算の何割かが軍事費として必要となり、それが継続するようなことがあれば 財政破綻するからです。 一つには多分、ベトナム戦争で泥沼状態になった時に、米国が (空軍の代わりに) 更に大量の陸軍を投入すれば勝機があるのでは ないかという議論に対する反論ではなかったかと思います。(無論英字紙に書いてあったことです。) あるいは、植民地時代のヨーロッパ諸国がしたことの解説であったのかもしれません。 従って、原理的に不可能なことを日本が満州国でしたことになります。 ゲリラが頻々と発生するはずですから、軍隊の規模も非常に大きくする必要があり、 財政的負担が計り知れないものとなるはずです。 だから軍事力で満州を支配下に置くためには 満州国の予算の何割かに相当する財政的基盤が必要となるはずなのです。 これが麻薬の売り上げで処理されたはずですから、その儲けは巨大なものであったことになるはずだ、と言いたいのです。
以上は直接の麻薬の売り上げです。しかし、更に問題があります。麻薬の売り上げがもたらす波及効果です。 例えば、関東軍は麻薬の売り上げで軍事物資を手に入れようとするはずです。 軍事工場ができていればこれにより、軍事工場は利益を手に入れることができ、法人税の形で満州国の 収入となるはずです。波及効果も含めて考えると税収は 2 倍にはなるはずですから、結局、 「満州国の予算」+「関東軍の予算」における広い意味の麻薬の儲けは 50 % を越えたと考えてよい と思われます。

以上のように膨大な儲けが麻薬によって提供されたはずなのです。 従って、その犠牲者の数はけたたましく多かったはずなのです。 私が書いた文章の中では、麻薬中毒の比率がはっきり書かれているのは、 南京の場合のみです。南京城が陥落して、直後に南京大虐殺が起きますが、その後数カ月には、 南京市民に占める麻薬中毒の数は全人口の 1/8 に達しました。これはまず間違いのない数値です。 最初はとても多いとは思いましたが、全員ではないと考えました。 しかし、これは間違っていたのです。関東軍が麻薬中毒にしようとしたのは家計を支えている人です。 彼らが現金を持っているからです。扶養家族を麻薬中毒にしても骨のずいまでしゃぶれないからです。 具体的には職場の給料が麻薬で支払われた時があったのです。南京は都会ですから、 多くは雇用者で職場を通じて麻薬中毒にされた。もしも 4 人家族であれば、家計を支えている人 全員を麻薬中毒にすれば全人口の 1/4 となります。子供の数が多く、年寄りも扶養家族に入っていれば、 1 家族当たり 8 人であっても不思議ではありません。ともかくも南京では、各家族の家計を支えた人 をほぼ全員を麻薬中毒にしたのです。(無論中国の支配者層はここには入っていない。)

では満州や朝鮮半島の場合はどうだったのでしょうか ? 上のような具体的な数値が登場しません。 ここには欧米系の人がいなかったからなのです。とりわけ、朝鮮半島に関しては 当時は欧米系の人がおらず、おそらくすべてが秘密になった。 少なくともインターネット上の英文の記事で確認できることはほとんどありません。 但し、満州国が建国された後で、何千人もの朝鮮の麻薬の売人が満州国に登場しますから、 朝鮮半島も麻薬漬けであったことがはっきりするまでです。 欧米系の人たちは、香港などの植民地がありますから、中国南部に住んでいた人もいると思います (宣教師を含む) が 中国北部の満州に関しては訪れることはあったにせよ、そこに住むことはなかったはずです。 南京の場合には欧米系の人たちの目の前で 事件が展開されたから広く知られることになったのですが、 満州国や朝鮮半島の場合にはこれがなかった。 だから詳しい目撃情報は残っていないのです。

よしんば残っているにせよ、色々隠蔽されている可能性があります。 例えば、日韓併合の後に朝鮮半島ではアヘンは禁止されています。こう聞けば、朝鮮半島には 麻薬中毒がなかったと思ってしまいそうですが、単にモルヒネが代わりとなっただけなのです。 どのような形で隠蔽されているか想像できませんが、関東軍が南京でしたことは、 それが最初であったはずがないのです。 しかし、満州は都会ではなく、住民は大半が農民です。 だから南京のように効率よく麻薬中毒を作れなかったかもしれません。 しかし、いずれにせよ各家族の家計を支える人を全員麻薬中毒にしようとしたのに他ならないはずなのです。 そうでなければ満州国における膨大な麻薬の収入がありえないためです。

満州国は一応アヘンの専売制をしいたわけで、恐らく台湾などと同じように、 登録さえすれば麻薬を購入できたのかもしれません。この登録者から麻薬中毒者の数が 判明するのかもしれませんが、台湾でも麻薬中毒の登録者は、登録していない中毒者と 同じくらいの人数であったそうです。だから、公式の麻薬中毒者の数は信頼できません。 それと、もう一つ問題があります。 専売制ですから、一応儲けは満州国政府の国庫に納まるはずですが、 こうではなかったはずです。関東軍も独自に資金源が必要で、これは満州国政府とは 独自に存在しなければなりません。つまり独自の麻薬の販売です。従って、これは満州国のアヘンの 専売制に矛盾しているように見えます。 (麻薬の儲けの調停をしたのがニキサンスケと思われます。 麻薬に関しての方針を決めたのは満州国政府ではありえないのです。 ニキサンスケに関しては本文参照のこと。) 満州国は傀儡政権ですから表面的なことでは何も判断できないのです。 では、どの程度の麻薬中毒者がいたのかですが、南京の場合には 1 割を超えていましたが、 これよりは少ないであろうと思われますが、1 割をそれほど下回ることはないと憶測します。 もしも、これよりかなり下回ることがあれば必ずや強制的に麻薬中毒を作ったはずだからです。 (関東軍の発想に焦点を合わせた憶測です。)

追加 : 日露戦争に関して

2009 年 12 月 9 日の Japan Times に日露戦争に関しての共同通信の記事が載りました。 恐らくインターネットで日本語の記事が読めるはずだと考えて、ヤフーで 検索したところ同じ記事が見つかりました。但し Japan Times の英文の記事の方が 長く書かれていました。

日本、ロシア主戦派の同盟案黙殺 日露戦争直前、新史料発見

このリンクはそのうち消えると思われますから、冒頭の部分を引用させてもらいます。


日露戦争開戦1カ月前、ロシア側の主戦派の一人と考えられていた 政治家が戦争を回避しようと日露同盟案を準備しているとの情報を得ながら、 日本政府が黙殺していたことを示す新史料を、和田春樹東大名誉教授が7日までに発見した。 日露戦争についてはこれまで、 作家司馬遼太郎氏が小説「坂の上の雲」で論じた「追いつめられた日本の防衛戦」とする見方も根強く、 日露戦争前史を見直す貴重な発見と言えそうだ。

Japan Times に載った英文の記事の方が少し長く色々解説が付いています。 但し、英文の記事は 1 点間違えています。 日本が 1910 年から 1945 年まで朝鮮を占領したとしているからです。 実際は、日露戦争の時には満州が戦場とはなりましたが、朝鮮半島は日本軍の通り道であり、 日露戦争が終わった後もこの軍隊は朝鮮から撤退しなかったのです。 (「アヘン帝国 -- 汚れた歴史」を参照)


注意
1. 日露戦争の時に、日本軍が朝鮮半島を占領し、日露戦争後も撤退しなかった事実は 日本語の資料では探しにくい可能性があります。 これを想定していなかったので、最初は調べるのに随分大変でした。 一端、これに気が付くと、簡単に英文のページで検索できるようになりました。 なお、日本史の教科書には、日露戦争直後に日本が朝鮮を保護国化する事実が書かれているはずで、 これが日本軍が朝鮮半島から撤退しなかった事実を暗に示しています。
2. 日韓併合のことは日本語のホームページで登場するのみと言ってよいと思います。 英語圏のページでは、「日露戦争の時に日本軍が朝鮮半島を占領し、日露戦争後も撤退しなかった」と書いてあるだけで、 日韓併合のことを書いてあるページはほとんどないと思います。 日本の軍隊の占領下で、日本が占領下の国との条約を結んだにせよ、 およそ条約といえるはずがない。そんなことを歴史的事実と称するのであれば、 これは歴史学者による歴史の捏造に他なりません。だから日本史の教科書もこの点で捏造している。 正しい認識は「日本の軍隊は日露戦争の開始時点で朝鮮半島の占領を開始し、太平洋戦争の終了時まで占領し続けた」です。
3. 記事全文を読めばわかりますが、ロシア側の同盟案はロシアが満州を取り、 日本が朝鮮半島を取るものです。日本側としてはこんな和平案など論外だったようです。 戦争に駆り立てられたのではなく積極的に侵略した。

いずれにせよ、日露戦争の開始時点で、朝鮮半島は日本軍の支配下に置かれたのです。 もともと朝鮮半島の支配にクレームをつける可能性のあったのは中国とロシアでしたが、 中国は日清戦争で排除され、次いで日露戦争によりロシアが排除され、 日本は朝鮮半島を完全に支配したのです。 日韓併合は表面上の帳尻合わせなのです。 日本の朝鮮半島の支配は日露戦争に始まり、太平洋戦争の敗北で終了したのです。

以上の点を合わせて考えると、日清戦争、日露戦争は朝鮮を日本の支配下に置き、 ひいては満州を影響下におくための戦争であったことが とてもはっきりします。防衛戦であるはずがない。

英文の方の記事では司馬遼太郎の小説「坂の上の雲」(および NHK ドラマ) のことにも触れ、 この本ではロシアが日本を戦争に駆り立てたと主張していると続けています。 素直に考えれば、日清戦争、日露戦争が日本の朝鮮支配、ひいては中国を侵略する意図から起きたことは明らかです。 朝鮮半島を麻薬漬けにすれば、随分儲かったでしょうから、この点からも 防衛の戦いなどではなかったことは明白なことです。

もう一点興味ある事実があります。共同通信は日本中の新聞社に配信しているはずです。 また各新聞はホームページで自社の新聞に掲載した記事を無料で読めるようにしています。 そのため、適当なキーワードで検索すれば、上の共同通信の記事が検索されるはずです。 10 社未満の新聞社がこれでヒットしました。見てみるとどれも地方紙です。 だから、結論として全国紙 (読売、朝日、毎日など) は共同通信の記事を握りつぶした。 また NHK のニュースでも取り上げられることがないことは明白だと思います。 これが公共放送の実態なのです。

追加:第二次世界大戦における死亡者数

次の図は World War II casualties - Wikipedia (第二次世界大戦における死亡者) にあるグラフを日本語化したものです。 赤が軍人、橙色が民間人、赤+橙色が全死亡者数 (単位は 100 万人)、 青色は 1939 年における人口数に対しての死者の比率 (%)。

中国でどういうことが起きていたのか非常にはっきりします。 民間人の死者が非常に多い。



目盛の数は死者の数を表しており、% の方の目盛りの単位が少し不明。 だから傾向のみを表していると思ってください (歴史家によっても評価が違いますが、 日本の場合には軍人の死亡者はおよそ 200 万人で、全死亡者の比率は全人口の 3.78 % です) なお、中国、インドネシア、仏領インドシナの場合は戦争によってもたらされた飢餓と病気による死者も含んでいるようです (最近は犠牲者の数をこのように計算するようです)。 なお、ビルマにおける死者には当然「死の鉄道」の建設に従事した人が含まれています。 (ビルマは英国領でしたから仏領インドシナには属していない。)

この表からわかることは、自国が戦場になれば民間人の死亡者が極端に増えることが わかります。また、日本には核爆弾が投下されましたが、 それによる死者はほとんど問題にならないくらい少ないことがわかります。 中国、インドネシア、インドシナにおける民間人の死者は日本と比べると信じられないくらい 多いのです。


注意
1. これを書いている最中にふと気が付いたことがあります。 「南京大虐殺」の時や「死の鉄道」の建設時には食糧不足だったのですが、 これには共通の原因があるのではないかと思ったためです。 当時の輸送網は現在の輸送網ほど発展していないので、 人口が増えればすぐにも食糧不足になるはずです。 日本軍は現地調達ですから、これではどこへ行っても、 その場所で食糧不足となるはずです。 (そのため、通常は軍隊の移動時には自前の食料を持参することは鉄則で、これは常識です。災害援助の場合も同様です。) ビルマ以外の東南アジアの国でこのようになった実例があるはずです。 調べてみると次のページがヒットしました。
The Battle for Singapore
日本軍によるシンガポール陥落の話です。 思った通りで、3 年半に及ぶ日本の支配下で食糧が極端に不足したようです。 これでは、戦闘の巻き添えを食わないにせよ、 東南アジアでは日本軍が存在すれば、必ず食糧難になることが必定です。 また、日本軍は東南アジアにおいて、欧米の各国よりは、はるかに麻薬に依存した支配体制を築いたのは 間違いないと思われます。食糧確保と連動しているためです。また「南京大虐殺」のことを思い出せば、 食料不足から民間人を虐殺したことがあっても少しも不思議ではない。
2. もっと別の観点から議論する必要もあります。 そもそも昔の国は多くが食料に関して、自給自足でした。 つまり、供給可能な食料により、全人口が決まります。 このような国に、10 万人の軍隊が登場し、食糧を調達するとします。 そうすれば、10 万人分の食料が不足します。 極端な食料の配給制になるか、10 万人が餓死するかのいずれかです。 おそらくどちらも起きるでしょう。 シンガポールでは配給の食料では飢えをしのぐことができず、闇市ができ、食料の値段が暴騰します。 従って、これは貧しい人にとっては事実上の死刑を宣告されることになるのです。 東南アジアの至る所でこれが起きた。さらに付け加えれば、「死の鉄道」では日本兵も飢えに苦しみますが、 シンガポールでは地元の人が飢餓に苦しむ中で、日本兵はまともに食事を取ることができていた。 従って、日本軍は憎悪の対象であり、日本軍は治安維持に大いに力を注ぐ必要があった。
3. 10 万人の食料が不足するようなことは、大規模な地震の時にはよくあることです。 つまり食料を持参していない 10 万人の軍隊が侵略すれば、 震災と同じようなことになる。 私の勤務先は非常に小さな国立大学です。 学内で数十人から数百人ぐらいの集会がある場合には、 恐らく弁当を持参することを注意しているはずです。 周囲に食堂やコンビニがほとんどないためです。 ずっと昔のセンター入試の時に、弁当を持参していない受験生がいたようで、 そのときはコンビニのサンドイッチやお弁当がすっかりなくなって戦争騒ぎのように なったことを覚えています。 こうなると、日本軍が侵略する時に、侵略地に食糧倉庫のようなものがあれば、 飢えをしのげるはずですが、なにもない場所に侵略したら食料は一切手に入らないはずです。 食糧倉庫がありそうなのは都会です。 田舎に食料はありそうに見えますが、収穫をすればすぐに出荷し、 自分たちに必要な食料を残すだけだと思います。もしもこのような箇所に出兵すれば どうなるのでしょうか ? 軍票で食糧を購入しようにも誰も売ってくれないはずです。 手元にあるのは自分たちが食べる食料だけだからです。結果は目に見えています。 食糧目当ての強盗殺人です。南京大虐殺では 30 万人が殺されます。 これは余剰の人口を殺害して食料を手に入れるためだと思われますが、 その進撃途上でも 50 万人を殺害しています。この場合には食糧を手に入れるための 強盗殺人と思われます。
4. 「第二次世界大戦における死亡者数」を追加したのは 2010 年の夏に読売新聞で
第二次大戦で米国が核爆弾を日本に投下したのは間違いで、オバマ大統領は日本に謝罪すべきではないか
との記事を読んだことが直接のきっかけでした (上記の内容を前提とすれば読売新聞の記者はまともじゃない)。 2011 年の 4 月に再び読み返してみると、 そのとき、気が付かなかったことを思い出すことになりました。 「アヘン帝国 - 汚れた歴史」を書いた時は、 日本の敗戦に至るまでの日本政府による麻薬犯罪をできる限り調べることを目的としたのですが、 そのとき「南京大虐殺」のことも色々知るハメことになりましたが、これは当面棚上げにしたのです (的が絞れなくなりそうだったためです) 。 最後になって「南京大虐殺」のことも追加で書き、原因が食料不足によるとほぼ断言できると書きましたが、 その時は、すでに目を通していた別のページの内容を忘れていたのです。およそ次の内容です。
日本軍が南京城を攻め落とした時に、南京市の高官が日本軍に「南京市では 30 万人の食料が不足している。 食料を援助してもらいたい」と懇願した。
この結果起きたことは、日本軍による南京市民の大量虐殺でした。 懇願した南京市の高官は絶望的な事態に気が付いたはずなのです。自分が 30 万人分の食料が不足していることを しゃべらなければ、30 万人が殺されるようなことにはならなかったはずなのです。 日本軍を信用したことを深く後悔したと思います。(日本軍は信用してはならなかったのです。そして類似のことが 東南アジア全域で起きたはずなのです。) あとは推測ですが、この内容をマンチェスター・ガーディアンの新聞記者に情報提供したのです。 従って、日本軍によって差し押さえられた「30 万人殺戮の電信文」はそもそも 世界に訴えるマンチェスター・ガーディアンの記事だったのです。だから食糧不足が虐殺を生んだことは明らかなのです。
追加:この新聞記者による回顧録のようなものもあり、かなり有名な本だと思います。 この本を読めば全てが書いてあるはずです。実際に何が起きたのかは余りに明らかで、議論の余地がありません。

5. 太平洋戦争直後、日本は食糧不足に直面します。 この原因は、戦前の日本は現在の北朝鮮のように食糧増産をしようとせず、 戦争ばっかりしていたからです。中国大陸や東南アジアから日本人が帰国すると、 人口が増え、食糧が賄い切れなかったのです。 そう考えると、戦前の日本人は中国、東南アジアなどで食糧の搾取をすることにより、 食糧を確保できていたことになります。 著しい食糧不足は、戦前の日本にはなかったのですが、 これは他国に飢えを押し付けていたためです。これができなくなって、 第二次大戦直後に今度は日本人が飢えた。


追加

最近は第二次大戦中の日本の戦争犯罪のことを書いた日本語のページが随分増えており、 東南アジアでも日本軍による虐殺があったことが確実にわかることになりました。 こうなると、考えが少し進むことになります。「日本軍ははたして何も考えずに現地補給に徹しようとしたか?」、 「食糧が手に入りにくい場所があることは想定しなかったのか?」。 こうなることは当然すぐにも思いつくことです。 だから、これは最初から想定していたはずです。解決方法は人口を減らすための虐殺、 あるいは食糧目当ての強盗殺人しかないことはあらかじめわかっていたことです。 現地補給を前提にすれば必ずこうしなければならないことがあることは 目に見えています。しかし、これは司令官の一存でできることでしょうか? このように考えれば、あらかじめ了解されていたことが明白です。 しかも、麻薬政策に関しては日本政府の了解事項でしたから、 食糧不足の場合には『人口を減らすための虐殺、あるいは食糧目当ての強盗殺人』は日本国政府の了解事項 あるいは命令と考えるのが自然です。

この状況は次の点からも明らかです。「アヘン帝国」/「南京大虐殺」の中で触れていることですが、 日本軍が南京に進軍途上で 50 万人の民間人を虐殺する話が登場します。 これを当時の駐独大使である東郷茂徳が米国の駐独大使に豪語しているのですが、東郷茂徳が独断でこの話をするわけがありません。 日本国政府の指示でこの話を持ち出したのに相違ないのです。従って、日本国政府は日本軍による『食糧目当ての強盗殺人』を 十二分に理解しているのです。ではこれはいつ始まったことなのでしょうか? 恐らく日清戦争、日露戦争に始まっている。あるいは明治維新に始まっていると言う方が正解だと思います。 (大規模な戦争にならなくても小規模な小競り合いはいくらでもあったはずです。) 皆殺しにしてしまえば、ほとんど証拠が残らないので「食料の現地調達」が始まった時点でこれが登場していると考えるべきなのです。 そして何十回、あるいは何百回も虐殺が起きた。おそらく虐殺された人の累計を考えれば 南京大虐殺が -- 30 万人という数が -- 取るに足らない問題のように思われるはずです。(2011 年 9 月)

『食糧目当ての強盗殺人』が実際はもっと古くからあるのかもしれません。 あるいはそう思っている人がいた可能性があります。 子供の時に、読んだのか聞いたのかの記憶がないのですが、日本軍による中国、東南アジアへの侵略と、 日本武尊 (やまとたけるのみこと) の東征とを比較していたからで、この時も食糧は現地補給なのです。 だから、日本軍は神と同じことを繰り返しているわけで、 少なくとも日本が戦争に負けるまでは『食糧目当ての強盗殺人』は神のなせる業であって英雄なのです。 そして、この事実を重々承知している国会議員がいるはずです。これが靖国神社に参拝をする本当の理由だからです。 (2011 年 9 月、再度追加)

日本国政府は別の点から「食糧目当ての強盗殺人」をせざるを得なかった可能性があります。 戦前の日本は食料に関して自給自足でした。つまり食料の生産効率が極めて低く、 余剰の食料がなかったのです。この状況で軍隊を大きくし、軍事産業を育てようとします。 そうすると、食糧不足となることは目に見えています。 例えば農民を無理に兵士にしたり、軍事産業に従事させれば食糧を生産する人の数が不足します。 これが現在の北朝鮮で起きていることです。 こういう状況になれば、補給なしに戦地に兵士を送り出すことにより食糧不足が多少は改善されるはずです。 しかし、農業人口は減りますから、口減らしのために更に農民を兵士として戦地に送ります。 そうすると、またまた食料の供給が減ることになります。あとは破局になるまで続くだけ.... これは明治維新から始まっているのです。 食料増産のことを歯牙にもかけなかった明治維新は破局の始まりだったのです。 このような自己矛盾からの脱出はすべてをチャラにして食糧増産から始めないといけないのです。 これは敗戦があって始めて可能であったのです。 (少し明白となったので再度追加、2011 年 9 月)

再度付け加えます。戦前の日本は現在の北朝鮮と全く同じように極端な食糧不足に陥っていたことが明白になると、 いつこれが顕著になったのかと考えることになりました。おそらく日露戦争の時です。 このとき日本軍は朝鮮半島から撤退をしませんでした。最初は単に朝鮮半島の併合を目指したものだと 考えたのですが、このとき撤退はあり得なかったのです。日本に撤退をすれば、食糧不足となるため 軍隊を解散し、兵士は農業に復帰せざるをえないはずだからです。 産業国でもない日本が大きな陸軍を持つことができるようになったはずですから、 これは断じて選択肢には入らない。 もう一度、撤退せざるを得ない状況になります。世界恐慌の時です。このとき朝鮮半島に駐留する軍隊の 一部にせよ、撤退すれば、日本国内における食糧不足となるため、撤退した軍隊は解散をざるをえません。 従って選択肢は満州侵略しかなかったのです。 日本の陸軍は随分大きくなりますが、その食料はすべて外国で略奪した食料によって賄われているのです。 そして、この軍隊は絶対に日本に撤退させることはできないのです。撤退すれば日本国内で食糧不足となるからです。 つまり、当時の日本は現在の北朝鮮とおなじように極端に食糧不足なのですが、 他国の食料を強奪することによって、それが顕在化しなかっただけのことなのです。 日本の敗戦と同時に、アジア各国にいた日本軍は日本に戻らざるを得なくなりますが、 彼らはすぐにも自分たちの食料をまかなうために農業に復帰したのです。こうしなければならないのです。 従って戦前の日本は国内における極端な食料不足をアジア各国に押し付けることによって生計をたてていたのです。 そしてこれによる被害者が膨大な数になったのです。 (2011 年 9 月)

このような状況を前提にすれば、 米国が第二次大戦末期に日本に核爆弾を投下したことは当然正当化してしかるべきだと思います。 もしも、核爆弾を投下しなければ、犠牲者は中国、インドネシア、 インドシナで増え続けたことでしょうから、 この状況では核爆弾を投下しないことは人間性に対しての背信行為に他ならないと思われます。

追加:原爆投下が是非とも必要であったこと

第二次大戦末期に日本に原爆を投下したのは日本による「本土決戦」を阻止するためでした。 これは子供の頃色々と聞かされていたのですが、最近では新聞記者の方で事情を知っていない人 が多く、何もかもが風化されて、原爆投下が間違いであったかの記事しかなくなりつつあるようです。 本土決戦がどのようなものであったのかは

松代大本営跡

を読めば事情が理解できます。 沖縄陥落の後、日本は大本営を松本に移転して、本土決戦をすることが現実的なものとなっていたのです。 新聞も NHK も徹底抗戦論、本土玉砕論の一色、あるいはむしろ扇動していたと思います。

少し話を脱線します。核兵器には大陸間弾道弾のような戦略核兵器がありますが、 これとは別に戦術核兵器があります。 日本に投下されたのは戦術核兵器です。戦略核兵器は実際に使用することがほとんどなく、 核軍縮のようなことで問題とされたのは最近に至るまでもっぱら戦略核兵器の方でした。

戦術核兵器の方はこれとは別に、米国とロシアが常に温存していました。 これは当初はほとんど問題にもされず、核軍縮の対象になっていませんでした。 そのうち大抵の核兵器は通常兵器で代替が可能となって行きますが、 一部の戦術核兵器には極めて重大な用途がありました。 それが明らかになったのは、 同時テロ以後、ビン・ラーデンが潜んでいると思われるアフガニスタンの洞窟の破壊のために 特殊な爆弾 -- 岩盤貫通用の爆弾 -- が使用された時点です。 英字紙では デイジーカッターと称していたと思うのですが、 日本語のウィキペディアには少し違うことが書いているので、英字紙の記者が間違えたのかもしれません。 呼び名はどうであれ、岩盤貫通用の爆弾は以前は核爆弾でないと無理でアフガニスタンの 戦争の頃にようやく通常爆弾で可能となったのだと思います。これは英字紙に書いてありました。

米国もロシアも戦術核兵器を温存していたのは、 核爆弾に岩盤貫通能力があるからなのです。 これがないと、地下深くに設営された防空壕を破壊できないからなのです。 広島、長崎に核爆弾が投下されたのは、この時点で米国が岩盤貫通用の爆弾を 手に入れたことを誇示するためだったのです。 (単に殺傷能力だけを問題とすれば、焼夷弾を多量に使う方が効果があり、核爆弾は無用の長物です。) 広島、長崎のどちらでもはるか上空で爆発させていますから、 随分広範囲に被害が広がりましたが、地表に近い所で爆発させれば、 地上に大穴があいたはずなのです。 素人から見た場合には単に新型爆弾ですが、 軍人から見れが、これで松本大本営の意味が完全になくなったのです。 これにより、日本には「本土決戦」のオプションがなくなり、 無条件降伏に追い込まれたのです。 大本営にしてみれば平民がどれほど殺されようと問題ではなかったはずですが、 大本営や皇居の安全な避難場所がなくなったのです。 人々の苦しみを救うために無条件降伏をしたのではありません。 支配者の安全な避難場所がなくなったためです。 昭和天皇が 玉音放送で述べていることは口から出まかせなのです。 単に核爆弾のせいで松本大本営が意味を失ったため白旗を掲げただけなのです。

核爆弾の目的は最初から岩盤貫通能力にあったのかもしれません。 日本が地下要塞にたてこもることは目に見えていたので、 核爆弾の製造はどうあっても必要で、 しかもその能力を大本営に誇示する必要があったのでしょう。 もしも、核爆弾の製造が遅れ、松本大本営が機能を開始していたのであれば、 最初に投下されたのは松本大本営であったはずです。

こうした状況はある程度知らされていたのですが、 私も少しずつ忘れかけているようです。「本土決戦」ともなれば日本人の全人口の 半分以上は死んでも不思議ではないので、いずれかの時点で核爆弾を投下すべきであったと思います。 どれだけ多くの平民が殺されようと一顧だにしないような大本営や天皇に、安全な避難場所が なくなったことを示すことによって始めて無条件降伏を引きだすことができたのだと思います。 一方、中国や東南アジアでのむごい状況を考えれば直ちに核爆弾を投下すべきでした。 多くの人命を守るためにはこれ以外に選択肢はなかったのです。 又一方で日本の報道という報道が 戦争を扇動していたのですから (これはまともな報道とは到底言えない)、 これしかないじゃないですか。 むしろ、原爆の投下により、日本人は新聞や NHK の魔力から一時的にせよ、解放されたのではないでしょうか ?

また日本が戦争に突入したのが麻薬の利益のためだけですから、 当時の日本は、どのような観点からもまともな国家とみなすことはできません。 しかもこのような国の理由により、犠牲者が膨大に増え続けていたとすれば、どうすればよいでしょうか ? 現代でもかっての日本ほどひどい国はない。

なお戦術核の核軍縮は進んではいません。 岩盤貫通能力を備えた通常爆弾は米国だけが開発しただけで、 ロシアはまだ持っていないためです。ロシアはまだ核爆弾の持つ岩盤貫通能力に固執しているのです。 これが明らかとなったのはオバマ大統領が核軍縮に戦術核を含めようとして、 ロシアに蹴られたせいです。 最近の日本語の新聞記事でこのことを少しだけ触れていましたが、 英字紙ではもう少し大きく取り上げていました。

例年 8 月になると広島の原爆のことが新聞記事となり、ふとまた思い出したので付け加えました。 (2013 年 8 月)

追加:マンハッタンプロジェクト

どのようにして、米国は核爆弾を開発することになったのでしょうか ? 核爆弾の研究を手がけたのは、ドイツが一番最初で、 対抗上、英国も研究を手がけます。 米国も一応研究には着手しますが、あまり熱意を入れていませんでした。 これが変化したのは真珠湾攻撃 (1941 年 12 月) によっています。 核爆弾の開発として知られるマンハッタンプロジェクトは 1942 年 - 1946 年の間続きました。

もしも米国が戦争に参加すれば、太平洋戦線とヨーロッパ戦線のどちらにも参加しなければならなくなります。 これには膨大な戦費が必要となります。 日本は中国と太平洋戦線の 2 つの戦線を戦わなければなりませんが、 中国における戦争は現地調達という名の略奪ですから、 予算的な負担はほとんどありません。 太平洋戦線における戦費のみが問題となります。 日本政府はこれを十分に承知して真珠湾攻撃を敢行したのです。

昔、真珠湾攻撃をしたときに、直前に米国に対して「宣戦布告をした」と教わりましたが、 最近これが嘘であることに気が付きました。 電信が米国の日本大使館に送信されたのは真珠湾攻撃の直前かもしれませんが、 暗号化されているので解読することに時間がかかり、 実際に米国政府に手渡されたのは真珠湾攻撃が開始された後でした。 解読に時間がかかることはあらかじめすぐわかることで、 米国から日本への電信文の処理に関しても同様であったはずですから、 この時間差は意図したものと考えて差し支えがありません。 だから、真珠湾攻撃は意図的に「宣戦布告」をせずに実施したのです。


追加
1. 「宣戦布告」の電信文が米軍により傍受されていても、解読するにはやはり時間がかかるため、 真珠湾攻撃を事前に察知することはいずれにせよ不可能であったことでしょう。
2. 日本が米国を攻撃したのは経済制裁により、原油を手に入れることができなくなったからで、 これは日本による中国侵略が原因でした。 中国侵略の基本的な目的は「ヤクの利益」ですから、 アヘン帝国日本は「ヤクの利益堅持」のために米国を攻撃したことになり、 「ヤクの儲け」こそが「国益」だったのです。 「ヤクの儲け」こそが日本の経済をささえていたからです。

事実がどうであるにせよ、日本政府が真珠湾攻撃よりも前に宣戦布告をしていると 言い張れば、これは水掛け論になります。 いずれにせよ、これで米国は太平洋戦線とヨーロッパ戦線の両方で戦うことを 余儀なくされ、それまでは反戦一方の議会の全面的な協力が得られることになりました。 しかし米国にとって、これは非常に不利な戦いでした。 最も問題となるのが戦費です。 2 箇所で戦争をするのですから、通常の 2 倍必要となります。 そのため、なるべく早く戦争を終結しないといけなくなります。 だから、新型爆弾の製造計画を本格化したのです。 核爆弾が作られる原因を作ったのが日本の卑劣な真珠湾攻撃なのです。 極めて卑劣ですから、誰もが必死になったのでしょう。わずか数年にして核爆弾ができてしまいました。

基本的には戦費は国債でまかなうことになります。 次の表が、1931 年から 1946 年までの米国政府の 収入と支出です。単位は 10 億ドルです。 (この表は Series E bond - Wikipedia に掲載されているものです。)




収入

支出

赤字

累積赤字

1939 6.6 9.4 2.9 48.2
1940 6.9 9.6 2.7 50.7
1941 9.2 14.0 4.8 57.5
1942 15.1 34.5 19.4 79.2
1943 25.1 78.9 53.8 142.6
1944 47.8 94.0 46.2 204.1
1945 50.2 95.2 45.0 260.1
1946 43.5 61.7 18.2 271.0

マンハッタンプロジェクトに必要であった予算は、当時の価格で 20 億ドル (今日の貨幣価値では 220 億ドル) であったそうです。 だから、1946 年の累積赤字の 1 割弱です。 1946 年の累積赤字は現在の貨幣価値では 11 倍すればよいようですから、 現在の貨幣価値ではほぼ 3000 億ドルとなり、 1 ドル 100 円とすれば日本円にして 30 兆円になります。 2006 年における日本の国債発行残高 671 兆円で、 そのときの日本の税収入は約 50 兆円だそうです (この内容は 日本国債 - Wikipedia による) 。 現在の日本政府の赤字の方がよりけたたましいのですが、 税収との比率を考えると当時の米国の比率の方が分が悪いです。

国債の信用不安が起きるとどうなるか、ということは最近のギリシャの報道 (2010 年) で知ることになりました。 だから、当時の米国は戦費の工面でタイトロープを渡っていたことになり、 なるべく早く戦争を終結する必要があった。 しかし、これは別に米国だけの事情でもなく東南アジアの国々にしても同様であったのです。 もしも、核爆弾を投下しなければ、戦争はずっと長期にわたったことは火を見るよりも明らかです。 米国にとっても都合が悪いし、他の国々にとっても事情は同様であったと考えるべきです。

核兵器の根絶という話もありますが、ある意味で楽観できる面があります。 核兵器を保持し続けると困る点は、何十年かに一度、必ず更新しなければなりません。 新規に作るよりも廃棄が問題となります。 だから余剰の核兵器はそのうちなくなります。 しかし、北朝鮮のように新規に核兵器を持つようなこともありますから、 恐らく完全な根絶は難しいと思います。

核兵器は何十年かに一度廃棄処分にしないといけなく、 必要経費の負担が膨大となりますが、これは毒ガスについても あてはまります。第二次大戦中に日本が中国で製造した毒ガスを 現在、日本が処理しなければならない羽目になっています。 中国における毒ガスは実地に、こっそりと使用したと考える方が自然ですから、 日本は第二次大戦中における非人道的な武器の使用に関して他国を攻める立場にはない。 もっとも、より多くの人を救うと言う点からは、 第二次大戦における米国の核爆弾の投下は人道的観点も持ち合わせている。

もう一点付け加えるべきです。 当時の日本の報道は 「100 人切り」を英雄扱いしていました。 日本人はこれに拍手喝さいしていたのです。 報道にあおられていた、あるいは洗脳されていたとは言え、 このような行為を英雄とみなす人たちは非あらずとは言えないと思います。 少なくとも、まったくの無実とは言えない。 しかし、このような状況にせよ、あくまでも原爆投下の責任を更に追及するのであれば、 罪を問うべきなのは当時の報道 (朝日、毎日、読売、NHK) に他なりません。米国大統領ではありません。 報道こそが、戦争をあおり、世論を誘導したのですから。


追加
この一連のページは 2010 年より前に書いて放置しており、 「マンハッタンプロジェクト」と「「第二次世界大戦における死亡者数」は 2010 年の 8 月に 付け加えています。この理由は 2010 年の 8 月に読売新聞が
第二次大戦で米国が核爆弾を日本に投下したのは間違いで、 オバマ大統領は日本に謝罪すべきではないか
との記事があったためです。戦争を扇動し続けたのが報道 (朝日、読売、毎日、NHK (東京放送局)) であったことは 明白なため、これが筋違いであること書きたかったらです。 その後 3013 年の 8 月にまた新聞記事の理由から「原爆投下が是非とも必要であったこと」 を挿入しました。読めばわかるように原爆投下がなければ、報道 (朝日、読売、毎日、NHK (東京放送局)) の理由から、 戦争が継続されたはずで、その結果、人口は半減し、復興があり得なかったことが明白です。 (2013 年 8 月)
日本の報道は事あるごとに「東京空襲」のことをさも多大な被害が出た事件であるとしていますが、 「東京空襲」の犠牲者の数は中国、東南アジアの犠牲者の数と比べると、取るに足らないという事実を 日本の報道は何も述べていはいない。つまり現在でも洗脳報道は継続しているのです。

追加:原爆のみが残酷であるか

2013 年 8 月に久しぶりにページに追加しましたが、 読売新聞に「広島平和記念資料館」の話が載っていたので、 もう少し追加しておきます。

一般に戦場の光景の描写はとても気持ち悪いもので、 日本の新聞には詳細な描写がありません。 日本人の記者は安全な場所で記事を書いているからかもしれません。 一般に、英字紙には凄惨な描写があります。 大量虐殺のような場合に現場に居合わせなくても、 目撃者がいれば、目撃者によるむごたらしい証言が掲載されることが多いです。

例えば「南京大虐殺の犠牲者数が 30 万人と考えてよい根拠」の中で、 「重機関銃があれば大量虐殺が可能であること」を書きますが、 これは英字紙で読んだ記憶があったからです。 重機関銃による銃創は、被弾箇所が手足以外の場所であれば、 止血の方法がありません。これも実際見たことがあればとてもむごいことがわかり、 正視できるものではないようです。(日常的にこのような光景を目にすれば戦闘から解除されても 正常な心理状態にもどらないことが多々あるようです。) 手足のみ被弾した場合には軍医がいれば命を取りとめる可能性があります。 これもこのようなシーンを目撃すればもう少しリアルに表現できるはずですが、 あらすじだけ述べることにします。 まず、丸く結んだタオル (もしくはロープ) のようなものが必要です。 あまり大きい輪ではなく、腕ないしは足が入り、ある程度ゆとりがあるようにします。 これを被弾箇所から心臓に近い部分に挿入し、今度は太い棒をタオルに通して、 テコの原理で締め上げます。十分に締めあげられるように輪は少し大きめでないといけません。 ここまですれば一応止血が完了します。この作業は秒単位で実行する必要があります。 そうでないと出血多量で死に至るためです。 しかし、まだこれでも不十分なのです。血が通わなくなった場所は すぐにも壊死が始まるからです。だから血が通わなくなった場所はノコギリで切断する必要があります。 骨を切断する必要があるので、このノコギリは軍医の必需品です。 モルヒネで麻痺させてから、骨を切断するのですが、 このシーンもリアルな描写があるととても気持ち悪くなります。 切断を終えれば始めて「治療」が完了で、運が良ければ一命を取りとめます。 これが野戦病院で行われることです。 私はこの光景を自分の目で見たわけではありません。 実際にこれを目撃した人であれば、この凄惨な状況を実にリアルに表現してくれます。

以上は重機関銃による銃創から運よく救われる話です。 重機関銃による大量虐殺の場合の話ではありません。 太平洋戦争の渦中で凄惨な光景が繰り広げられたのは、 日本よりもむしろ中国、東南アジアにおいてなのです。 原爆のみが残酷なわけではない。

日本語版の Wikipedia の項目

南京大虐殺紀念館

でははっきり述べていませんが、 展示品の中には 犠牲者が埋められていた土地をそのまま切り出して、断面を見せているものがあり、 ここにおびただしいばかりの石化した骨が見えます。。 以前に、IHT (= International Herald Tribune) に写真が掲載されていたのでよく覚えています。 白黒の写真でしかなかったのですが、慄然としたことを覚えています。このような骨の山は掘ればいくらでもでてくるそうです。

追加:南京大虐殺の犠牲者数が 30 万人と考えてよい根拠

1週間ほど前に、河村名古屋市長の発言があり、更には石原東京都知事の発言があり、 どれも南京大虐殺がなかったものとしていました。 更には今日 (2012 年 3 月 1 日)、毎日新聞 (インターネット版) がアホな記事を載せていました。 このページは 2010 年頃に追加するのをやめていたのですが、もう一度追加することにします。

犠牲者の数が何故 30 万人前後で、それを下回ることがないであろうという点は、 事実を列挙して議論することは徒労となります。 反論する人は事実を認めないためです。ここではそのようなことを使用せずに 単に次の点から議論します。
1. 日本軍は北京から南京まで進撃するが、食糧を持参していなかった。
2. 南京には城壁があり、その中には常時二十数万人の人が生活しており、 これが食料を確保できる上限の数である。

日本軍が北京から南京まで進撃する時、真っ先に何が起きるか ? 世界の紛争国を見ていると常識的にわかることは、これにより大量の難民が出る。 北京から南京までの距離が 1000 km 程度なので、難民の規模は数百万人程度のものとなる。(現代人の常識!) 難民はどこへ逃げるか ? 一番簡単なのは南京城に逃げ込むことです。 しかし、入りきれない。従って逃げ込めることが可能な人のみが逃げ込んだ。 逃げ込んだ人たちにしてみればこれは実に幸運なことであった。 逃げ込める可能性があるのは南京城内に親類などがいる人たちです。 これで一家族で住んでいた場所に二家族以上住むことになる。 短期間であればこれでも可能で、三十万人近くの人が逃げ込んだと考えてよい。 逃げ込める上限の数の人が逃げ込んだ。

南京城を攻め落とした日本軍は平和的に食糧確保ができなかったはずですから、何かをした。 食糧目当ての強盗殺人しかないことは目に見えています。 30 万人殺すことが不可能であるかも知れないという議論があるようで、 最初はこの議論に振り回されていましたが、そのうち簡単に殺せることに 気が付きました。小学校や中学校の校庭には千人ぐらいが集まることができます。 つまり、少し広い広場に千人ぐらいの人間を集めることは極めて容易です。 この広場は周りが壁で囲まれて逃げ道のないものでないといけません。 ここで重機関銃を掃射すれば簡単に全員を殺せます。(これは大量虐殺の普通の方法で、現在でもこの方法が使用される。) 重機関銃の弾丸は口径が大きいので簡単に人間の体を貫通し、人が密集していれば、 1 発で数十名は簡単に殺せるはずです。口径が大きな弾丸が人間の体を貫通すると、 弾丸が入る場所と出る場所が爆発したような具合になり、体組織がぐちゃぐちゃになります。 こうなると臓器に損傷がなくても確実に出血死です。だから数分間重機関銃を掃射して、 あとほったらかしにすれば、千名程度が簡単に死に絶えます。

だから重機関銃があれば何週間もかけて、三十万人ぐらいの民間人を殺すことは造作もないことです。 どういう名目で、千名程度を広場に集めたのか ? これは決まっています。『食糧を配布するから、 家族全員で広場に集まれ』とでもすれば十分です。これによりある地区の住民を皆殺しにしてから、 無人の家の食料を強奪した。 余剰の人口がなくなるまで、これを続けた。 これをするために日本軍は犠牲者の数を一々数えたか ? そんなことをするわけがない。 暴騰していた南京城の食料の価格がもとの値段に戻るまで殺し続けた。 食料の価格は難民のせいで、高騰しきっていたはずですから、これが元の値段に戻るためには、 人口が元の人口を下回ることがないといけないし、余剰の人間に日本軍も入る。 食料の価格が下がれば、あとは住民を麻薬漬けにして、食糧確保を平和裏に行うことができ、 日本軍としては、これでハッピーエンドであった。

余剰の人口がそれほど多くなければ、別のオプションがあります。 日本軍は必要な食料を確保して、残りを配給にする。これはシンガポールで取った手段です。 シンガポールの場合は実際は、配給が非常に少なく、闇市ができたそうですが、 それでも形だけでも配給にすることができた。 南京の場合には余剰人口が多すぎ、型式的にも配給にすることができなかった。 この点から考えても、常時の人口の倍をはるかに超える人口がいた。

以上から、ほとんど予備知識なしに、あるいは物的証拠がなしでも、三十万人殺しがあったことが確実となります。 つまり陪審員による裁判では確実に司令官が有罪となる。あるいは、これは日本政府の了解事項であったはずですから、 これだけでも、天皇は死刑に値する。

東京裁判のことはよく引き合いに出されていますが、 この裁判は戦争犯罪を裁く法廷としては随分寛容に処理され、 しかも非常に速く結果を出してしまっています。 これは、ソビエトの理由からです。 (ソビエト以外の) 連合国は『毒 (戦争犯罪者) を以て毒 (ソビエト) を制した』のです。

明治維新の時に日本は英国やフランスの援助を受けています (軍事教練など)。 これはロシアの南下を阻止することが目的で、 第二次大戦後もそのような立場に変化がなかったことになり、 日本における戦争犯罪者を完全に裁いたわけではなく、まったくその逆なのです。 型式的な処分があったまで....。

第二次大戦後、日本において「国旗」と「国歌」を変更する話が登場しています。 これは当然「汚れた歴史」から解放されたかったからです。(どれほど薄汚いかに関しては私もよく知ってはいませんでしたが.. ) しかし、無論反対する人の方がいたし、こちらの方が勢力があった。 理由は明白で、東京裁判が極めていい加減に、形式的に処理したたため『毒 (戦争犯罪者)』 が居残り続けたためです。もしも仮にまともな「戦争裁判」がなされていれば、 『毒 (戦争犯罪者)』を一掃できたでしょうが、連合国にとってはソビエトの『毒』の 方がもっと重要なことであった。 「戦争裁判」は通常随分長期間になるのが普通ですが、東京裁判だけはすぐに終わった。 必然的な理由があったのです。

追加:南京大虐殺の時点で南京城に余剰の人口がいたとするもう一つの根拠

南京城は密閉されていますから、新規に家屋を作ることができなかったはずです。 従って、ここで生まれた人の多くは成長した後は城の外に出なければならなかったはずです。 つまり、城外に住んでいるが、実家が南京城にある人が多かったはずです。 中国は日本と類似の生活習慣があり、盆や正月の時には実家に帰る習慣があると思います。 従って、日本軍の進撃によって、南京城に逃げ込んだのは、このような人たちがまず考えられます。 南京城には食糧の供給で上限があるはずですが、年に 2 度の短い期間であれば、 食糧不足の危険もあまりないはずです。だから南京城は盆や正月の時と同じようなことになった。 しかし短期間であれば問題がないことも長期になれば重要な問題となったはずなのです。

これを付け加える理由は南京城がそれほど簡単に出入りできたわけではないと思われるからです。 それは、南京城だけは日本軍によって陥落するまでは、麻薬中毒がいなかったからです。 従って、麻薬の売人は南京城に自由に出入りできなかった。だから、特別な人のみが出入りを許されていた。 人が大勢ここに集まる典型的な実例が盆と正月のはずで、 この時には例えば南京で生まれたことがわかれば入城を許可されるというようなことがない限り、 古い習慣との両立があり得ないためです。 盆と正月の時には家族がどれだけ増えていたのか想像ができませんか ? この点からも南京城が陥落した時に、城内には通常の人口の倍以上がいたと、 自然に断言できないでしょうか ?

今日、虐殺があった場合に犠牲者を数えることができるのはまれだと思われます。 このような場合には統計学を使用するのが普通です。サンプルから全量を推測するわけですが、 これは非常に正確で、現代の我々の生活では至る所で活躍しています。 虐殺の犠牲者の数とは違いますが、選挙速報では誰も疑問に思っていないはずです。 当選確実となれば、間違いはありません。しかし、南京城の場合には出入り口には検問があったことが 確実で、実際の人口を把握していた可能性の方が大きいです。 だからいずれにしたって、殺害された犠牲者の数は容易に決定できるはずです。 この数値を決定することは不可能であると主張する歴史学者は統計学も否定していることになります。

追加:南京城における食料補給に関して上限があることの根拠

南京城の食料は最初は荷車のようなもので城内に持ち込んでいたと考えたのですが、 これは水運によっていることに気が付きました。港があるからです。 しかし、これは十分ではなかった。燃料が枯渇していますから、エンジン付きの船は使用できません。 従って、帆船によって城内の補給をまかなった。南京城が建設された時は帆船による補給を前提にして 都市設計がされているはずです。 エンジン付きの船舶を使用すれば、かなり補給が増大することが確実ですが、 帆船しか使用できない以上、南京城がデザインされた時以上の補給能力がない。 従ってデザイン時における人口よりも多くの人口を長期間維持することは不可能なはずです。 もしも仮に、東京の食料の補給を帆船で賄わなければならなくなれば、東京の人口は江戸の人口まで 激減せざるを得ません。

食糧以前に燃料が枯渇していたことの根拠には戦車が登場しないことがあります。 北京から南京までの距離が 1000km 程度で、もしも戦車が使用できたのであれば、 進撃はずっと速かったはずです。日本軍の戦車は対人兵器でしかありませんが、 戦車を使用できたのであれば、北京から南京までの進撃に数ヵ月もかかるはずがない。 当然、中華民国政府も戦車を保有していたと考えるべきで、 こちらも戦車を使用してはいない。だから日本に対しての欧米による原油の輸出制限が実施される以前から、 中国においては燃料が枯渇していた。 従って、日本に対しての原油の全面的な輸出制限が実施されるはるかに以前から、 部分的な輸出制限が存在していたのに相違ないのです。 これはイランからの原油の輸入制限と同じようなものです。

追加:中国や東南アジアにおける犠牲者はどのようにして死亡したか ?

第二次世界大戦における民間人の死亡者数は「追加:第二次世界大戦における死亡者数」から 随分多いことがわかり、最初はどのようにして死亡したのか原因がわかりませんでした。 グラフの 1 目盛りが 200 万人ですから、中国では 1600 万人の民間人の犠牲者があり、 インドネシアでは 400 万人の民間人の犠牲者があります。 日本が第二次世界大戦に参戦するのが 1941 年 12 月の真珠湾攻撃ですが、 日中戦争は 1937 年の 12 月から開始しています。日本が無条件降伏をするのが 1945 年ですから、 日本において、日中戦争は太平洋戦争のおよそ 2 倍の期間があり、これから判断をすると、 日中戦争における犠牲者数は太平洋戦争における犠牲者の 2 倍と考えて差し支えないはずです。 つまり日中戦争における中国の民間人の犠牲者は 3200 万人程度と考えてよいはずです。 このような大量の犠牲者はどのようにして生じたのでしょうか ?

日中戦争だけのことを問題にすると原因が分からなくなりますが、 もう少し一般的に考えればこれは明らかです。現代では世界で紛争が勃発した時、 国連では戦争自身のことよりも 難民のことが問題とされます。犠牲が起きるのは難民たちが餓死することによっているからです。 従って、国連による食糧援助がすぐにも開始され、 膨大なロジスティクスが起動を開始します。 10 万人の水と食料の補給は震災の場合に登場しますが、 これだけでも信じられないような努力が必要です。 しかし難民の場合には数百万人規模となり、水と食龍の補給には 気が遠くなるくらいの巨大なロジスティクス・マシンが必要となります。 これは常識で誰もが知っていることです。 この常識を日中戦争に当てはめれば、おのずと事態が明らかとなります。

日本軍が北京から南京までの 1000 km を進撃する際には、 数百万人ぐらいの難民が生じたことは間違いない。 これは現代の常識です。 ましてや、食糧を全く保持していない日本軍は、 食糧目当ての強盗殺人しかしないでしょうから、 人々が着の身着のままで逃亡したはずです。 この難民はどうなるでしょうか ? 助けたくてもどうにもなりません。 規模が大きすぎるからです。従って、大半が餓死をした。 国際的支援がなければ、必ずこのようになる。これも現代の常識です。 南京大虐殺だけのことを問題とする傾向しかありませんが、 北京から南京までの進撃により、難民が生じ、この大半が犠牲となったのであれば、 犠牲者の数は数百万人となります。

紛争による犠牲者の内訳でもっとも多いのが難民が餓死することによっていることと、 そして太平洋戦争が始まる前で、もっとも戦闘が激しかったのが、 北京から南京への進撃であることを考えれば、 この時点で大量の難民が生じ、そして大半が餓死をしたと考えるのが 現代における最も普通の考え方です。

食料を持参していない日本軍による食糧目当ての強盗殺人はおそらくほとんど目につかなかった。 街道沿いには餓死者の遺体が累々としていたでしょうから、 死体が目に入るのが普通の世界となっていたはずです。 「日本軍は勇猛果敢だよ」などという台詞は冗談にもなりゃしない。

追加:日本の国旗に関しての訂正

「アヘン帝国」において、麻薬商人 (?) たちのトレードマークを「日の丸」の旗としていましたが、 これは間違いであることに気がつきました。英語で flag of rising sun とあったので、 単に「日の丸」の旗と思ったのですが、 旭日旗の間違いでした。 朝鮮半島、中国で麻薬商人の旗として知られた (恐れられた) ものです。 「アヘン帝国」日本あるいは「暴力団帝国」日本を象徴する旗です。この旗の下に、 日本は国家として、 膨大に多くの人々を麻薬漬けにして搾り取っていったのです。

何箇所、間違えているのかわからなくなっているので、ここで訂正をしておきます。(2013 年 8 月)

2014 年 7 月に韓国の「ワン・ピース展」がマンガに登場する旭日旗の理由から中止になりました。 この背景は「アヘン帝国」を読んでいただければ理由が明白です。 アジアの人にとり旭日旗はナチ・ドイツの ハーケンクロイツと同じ意味だからです。 ハーケンクロイツはドイツは使用することが法律で禁じられているのに関わらず 同等の旭日旗は日本で堂々と使用されている。日本人は気が変じゃないかと思う。 (2014 年 7 月追加)

追加:慰安婦問題に関して

「慰安婦」に関しては、以下のページでは取り上げていません。 これは当時の日本軍内部の問題で、 英文のインターネットの資料では調べることができるはずがないためです。 1, 2 週間前に読売新聞が自宅の郵便受けに印刷物を 配布しており、そのままにしていたのですが、ふと中身を少し見てやろうかと考え、封を切ると

朝日「慰安婦」報道は何が問題なのか

という冊子が入っていました。ここには「民間業者が慰安婦を集めていた」ことが記述され、 「民間業者」が日本軍と結びついていたか否かを問題としています。 朝日新聞がどのように報道したとか、 朝日新聞が誤報であるとしたことや、読売新聞の議論などはあまり興味を 持っていないのですが、私はこの「民間業者」とは何を指しているのかが、直ちにわかってしまったので、 これに関して追加したいと思います。これは「アヘン帝国」の記述を読めば、 すぐわかる事実ですが、ずいぶん長くなってしまったので、ここで別に整理します。 説明が少し長くなりますが、我慢してください。

関東軍には軍人以外のグループが常に随行していました。 彼らは麻薬の売人達でした。 しかも関東軍と麻薬の売人達は不可分の関係でした。 関東軍の一兵卒は軍票で給料をもらっており、これで自分たちの食料などを調達したと思われます (現地調達の一つの方法、食料に関しては食料倉庫を差し押さえる手もありますが、 一兵卒が個々に軍票を使用したことは間違いありません。)。 軍票とは日本銀行が発行する日本の本物の紙幣のことですが、軍票には 「日本の紙幣と交換できない」との一文が記載されている点が違うのみです。 本物の日本の紙幣とほとんど同じですが、これで買い物をするためには、 この紙幣が価値を持っていないといけません。これを可能とするために、 関東軍に随行する麻薬の売人達は軍票以外では麻薬を購入できないようにしたのです (関東軍の命令)。 また軍票が広く流通するには、麻薬中毒が随分多くいないといけません。

関東軍はある場所に侵攻する前に、あらかじめその場所の人々を麻薬漬けにしています。 これは当然のことながら、麻薬の売人達による準備作戦です。 (南京侵攻の場合には例外的にこれができませんでした。) だから、麻薬の売人達は関東軍の次の侵攻場所をあらかじめ教えられ、 その場所の人々 (中国軍も含む) を麻薬漬けにする下工作をしているのです。 これにより中国軍を弱体化する重大な役目も担っている。 そして頃合いを見計らって (勇猛果敢な ?) 関東軍が侵攻することになり、弱体化していた 中国軍を撃破して目的としていた地域を支配下に置きますが、 この時までに住民たちには麻薬が蔓延しており、軍票が完全に使用できる状態になっています。 関東軍は軍票のみを合法的な通貨として使用する命令を与えていますが、 この命令だけでは軍票が通貨として流通することを保証するわけでなく、 軍票が価値あるものとされるためには何らかの別の条件 -- この場合には麻薬の 蔓延が必要となるのです。 (きわめて薄汚いやり方です。) 自明なことですが、麻薬の売人達は関東軍のために敵地の偵察もしているはずで、 彼らは関東軍と一心同体なのです。 また関東軍も麻薬の売人も共に麻薬の利潤を追求する点ではお仲間で、 この点からも 2 者は一心同体なのです。 しかし麻薬で商売をするような人たちは暴力団 (あるいは犯罪者集団) と呼ぶべきで、 犯罪者組織が関東軍と協調行動をとっているのです。


注意
1. アヘンのみでは簡単に麻薬中毒にできません。少し時間がかかります。しかし ヘロインを浸み込ませたタバコ ( ゴールデンバット) を吸わせればすぐにも麻薬中毒になるようです。 これは関東軍が採用した手段ですが、軍人は直接これに関与せずに、 関東軍の指示のもとに麻薬の売人達がこれをしたと思われます。
2. 通常、軍隊には補給部隊があり、これは戦闘部隊と同じ、もしくはそれ以上の規模になります。 中国における日本軍には補給部隊がなく、その代替に「麻薬の売人」が麻薬を売っていたのです。 これにより「麻薬の売人」達は補給部隊の役目を担い、 また敵地も偵察しと思われますから、偵察部隊の役割を果たしていたわけです。 補給部隊の仕事にせよ、偵察部隊の仕事にせよ、これらはれっきとした軍務です。 従って、彼らを「民間人」と呼ぶのは正確ではありません。
3. 関東軍による侵攻の多くが偶発的に勃発したこととされていますが、これは嘘です。 その理由は関東軍の戦闘方法にあります。関東軍にとって侵攻するまえに目的とした場所で麻薬を蔓延させるという 下工作が必要だからです。もっとも実際にこの任務を遂行したのは麻薬の売人達です。 地域住民あるいは中国兵に麻薬を蔓延させるには かなりの時間が必要で、しかもこの準備作戦なくしては関東軍が侵攻することはありえないためです。 従って、関東軍の侵攻の前に必ず準備期間が必要となるため偶発的に戦闘が勃発することはありえないのです。 恐らく、南京侵攻はただ一つの例外と思われます。この時には大量虐殺により、 余剰人口を減らし、制圧後に (職場を通じて) 地域住民の働き手をほとんどすべて麻薬中毒にした。

ではなぜ麻薬の売人達は関東軍の言うことを聞いていたのでしょうか ? 無制限に大量の麻薬を手に入れることができたのは関東軍だけだからです。 彼らにとり関東軍は金のなる木だったのです。また逆に関東軍にとっても 麻薬の売人は金のなる木だったのです。

以上のように関東軍に随行する麻薬の売人達と関東軍は不可分の関係を持っており、 麻薬の売人達は直接軍事行動に関与していませんが、軍事行動にかかわる重要な 作戦を担っており、彼らなくしては関東軍は存在することができなかったのです。 そのため、麻薬の売人達には関東軍の護衛が常についており、 やりたい放題のことができたのです。 但し、敵陣に侵入して麻薬を販売する場合には単独行動をとったと思われます。


注意
1. 関東軍が麻薬の売人と共同行動することは、 当然のことながら、東京政府の了解があったはずで、 むしろ命令といった方が正しいと思われます。 現地調達を可能とするためには、あるいは軍票に価値を与えるためには麻薬の売人との共同行動が 必要となるからです。このような現地調達の方法に始めて東京政府が気が付いたのは 日清戦争のときで、以後、延々と第二次大戦で敗北するまで東京政府が採用し続けた 腐りきった政策なのです。
2. 麻薬の売人達が関東軍の威光を借りて、やりたい放題のことをしたことは 英文のページに記載がありましたが具体的なことに関しては記憶がありません。 しかしこれが明らかになることになりました。 慰安婦の徴集がこれに該当するようです。

さて慰安婦を集めていた民間業者とは、どのような人たちのことであるか、 この段階で自明なことになります。「民間業者」とは関東軍に随行する麻薬の売人達で、 彼らはまともな人たちではなく、暴力団 (あるいは犯罪者集団) であることが自明で、彼らこそが慰安婦を連れまわしていたのです。 唯の民間業者が戦地を護衛なしに行動することは自殺行為ですが、 麻薬の売人達には常に関東軍の護衛が付いており、戦地であれ、あるいは関東軍の支配地であれ自由に行動がとれたのです。 彼らは地域住民にはひどく恨まれていたでしょうから、関東軍の護衛なしでは 関東軍の支配地域でも満足に自由行動をとれなかった可能性もあります。 いずれにせよ彼らは関東軍と一心同体であることにより、多くの権限を手に入れているのですから 「民間業者」が独自に慰安婦を集めたか否かを問題にすることは基本的に無意味です。 混乱に輪をかけているのは暴力団 (あるいは犯罪者集団) を「民間業者」と呼んでいることにあります。 当時の中国の法律でも麻薬は犯罪です。(勇猛果敢な ?) 日本軍が無法状態を作り出して、 麻薬を蔓延させただけなのです。 そして、その過程で日本軍が犯罪者集団と手を組んだのです。 これは当然、東京政府の了解事項と考えるべきです。読売新聞の冊子は さらにアホなことを書いているようです。

傷ついた日本国首相の威厳

との表題の説があります。 これを問題とすること自身が日本の歴史をわかっていない。 第二次大戦の時の日本の首相は東条英機で、彼こそが日本の 麻薬政策を最終的に更に強化しようとした人です。 つまり日本の歴史では総理大臣こそがかって実施された麻薬政策の立案者で、 その実行者であったと考えてよいのです。あまりに馬鹿げているので読売新聞の冊子には 目を通すことができなくなりました。 (2014 年 10 月)

追加:慰安婦問題に関して、その 2

繰り返しになるかもしれませんが、もう少し続けることにします。

関東軍は (軍事的にも) 麻薬の売人達と不可分な関係にあるのですが、 読売新聞の冊子によれば、麻薬の売人達は民間人として扱われていることが わかります。 このようになっているのは軍隊が直接麻薬を扱うことを避け、 民間人が勝手に麻薬を売っているという形式を取りたかったからだと思われます。 しかし、現実的には麻薬の卸の元締めには日本政府の意向を代表する人がおり、 これにより麻薬の売人達を統率するピラミッド構造があったというべきです。 (つまり日本国政府が主導する広域暴力団めいた組織があり、 関東軍の各部隊に付随する麻薬の売人達は広域暴力団の 下部組織の構造をとっていたはずです。) そして、満州およびそこから派生する戦線の麻薬の卸の総元締めには「岸信介」のような人がいた。 従って、慰安婦問題は岸信介のような人の制御下にあったと考えるのは 妥当なことであり、岸信介がニキサンスケの中のマーチャント (商人、merchant) と呼ばれた人 (麻薬関連の実務担当) であったことからも自明なことになります。 麻薬の売人達は暴力団がするような、あくどい仕事は何でも手を出していたと考えた方がよく、 慰安婦問題が出てきたのは、これだけにまとまって生き証人がいるからではないかと思う。 例えば人身売買のようなことがあっても不思議ではなく、 問題とされたことがないのは単に証人がいないからだけだとしても不思議ではない。 麻薬の売人達は極悪非道な人間たちで関東軍とその点で同列であった。

時代により、あるいは場所により、岸信介のような立場をとった人は、 他にもいると思われます。(麻薬の売人達を統制下に置くには 彼らに回す麻薬の量で簡単に操作できる。言うことを聞かなければ 彼らに回す麻薬を減らせばよい。こうすると麻薬の売人が付随する戦闘部隊も 打撃を蒙るため、部隊の司令官も要求に応じるはずです。) いずれにせよ麻薬の売人達の行動を制御できた人は 岸信介のような人しかなく、このような人の行動には日本国政府の意向が強く 反映されたのに相違ないのです。 従って、慰安婦問題も日本国政府の掌握下にあったと言ってよいと思われます。 しかしこれを野放しにした。麻薬の儲けの方が優先度が高かったからでしょう。 当然のことながら、これは民間の問題ではなく、関東軍、ひいては日本国政府の 問題であったはずです。

しかし、このように考えると少し別の観点があることがわかります。 話が飛躍するように思えるかもしれませんが、1980 年代以前には 議員 (とりわけ国会議員) は暴力団組長との密接な関連を誇示し、 これにより政治家としての本分を全うしているかのような発言が報道されていたと思います。 ある国会議員は「普通の人など人間的に信頼できるわけでなく、 暴力団組長こそが人間的に信頼できるのだよ」とも言っていたと思います。 このような歴史的事実は関東軍と暴力団との密接な関連を強く示唆するものです。 世襲の国会議員はずいぶん多くいますが、数世代前には暴力団と密接に結びついていたのです。 国会議員が靖国神社に参拝するのであれば、彼らは我々に暴力団に敬意を払うべきである と主張するようなものです。

暴力団撲滅運動は古くから日本にありますが、いつごろこれが現在のような形態を とることになったのでしょうか ? 欧米人が金銭問題の決着をつけるために随分と裁判をしていましたが、 1970 年代の日本の報道 (全国紙) はこれを随分と否定的に報道していました。 報道によれば、暴力団こそが金銭問題の決着に有益であり、 欧米人は何もわかっていないとしていました。

しかし流れが変わります。1980 年代に野村証券がロンドン支店を開設し、 半年ぐらいはまともな状況にあったようですが、 直後に英国の著名な新聞 (ガーディアンと思うがはっきり記憶にない。) が、 第 1 面のすべてを割いて野村証券が暴力団と密接な関連を持っていることを 報道しました。 この事実は英字紙 (多分 Japan Times) に大々的に報道され、 私はショックになりました。 邦字紙でも報道されていましたが、扱いはきわめて小さく、 しかも冷やかなもので、金融機関が暴力団と接点を持たずに金銭問題を 解決できるわけでがないではないかとの考えがにじみ出ているようでした。 しかし、この報道後に野村証券のロンドン支店には一切客がこなくなり、 ロンドン支店が東京本社に泣きついたそうです。 これで、野村証券が暴力団との関連を断絶せざるを得なくなったとのことです。 これは日本の報道にとっては予想外のことではなかったかと思われますが、 これを機に日本の企業と暴力団の関連が徐々に薄まっていく機運が 生じたのだと思います。 つまり日本における暴力団撲滅運動を開始したのは -- あるいはこれを可能としたのは -- 日本人によるものではなく、いわゆる外圧であったのです。 このような事実も関東軍と暴力団との深いつながりを示唆するものです。

もう一つ付け加えましょう。1960 年代ごろの邦画では (私は見たことがありませんが) 常に暴力団 (当時はヤクザと呼んだ) は正義であり、警察は悪であったようです。 芸人たち (主に歌手) は暴力団組長を「親分さん」と呼び、 『地方公演が成功したのは「親分さん」のおかげ』と発言していることが報道されていました。 彼らは暴力団組織を全面的に肯定していたのです。 また歌 (演歌 ?) などでも暴力団礼賛の歌が随分多かったと思います。 この当時、もてはやされた人でいまだにコンサートを開いている人もいるようです (北島三郎)。

以上を集約すると昔の日本人は暴力団を正義と受け止めているのです。 この代表例が「清水の次郎長」です。彼が正義の人と呼ばれたのは 明治維新の時に日本国政府に貢献したからのようです。 この点から、明治政府は暴力団を重要視していたと判断できます。 これが関東軍と結びつく麻薬の売人につながっていくような気がします。 (軍に専従する麻薬の売人は日清戦争や日露戦争の時から存在していると思われます。 これが明治維新以来の富国強兵なのです。) 古い世代の日本人は暴力による統制を是とし、これを正義と呼んでいたのです。(2014 年 10 月)





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3. 野口英世

これも、かなり前にさかのぼります。しかし 21 世紀にはなっていたと思います。 ほぼすべてが AP の記事で、色々報道された内容を思い出すことから順に書き下したものです。 英字紙の報道は最近では、インターネットの検索で傍証を得ることができますが、 これに関しては無理でした (私の検索の仕方が下手なのかもしれません)。しかし、AP の記事は随分と色々と数多くあったので、 一応信じることができると考えています。

なお日本ではこのようなことは報道されることはないと思います。 報道が積極的に嘘をついているというようりは、むしろ消極的な嘘をついているというべきです。 日本の報道はこれで「国民の知る権利」を守っていると称しているようです。

医療による黄熱病の根絶 --- これが詐偽

英字紙に載った AP の記事は次のようなものです。 WHO (= World Health Organization, 国連世界保健機関) の通達から始まっています。

「医療による黄熱病の根絶」を目的とした医師の集団が 資金の供給を製薬会社、医療機関などに依頼しているが、これは 詐欺であるから協力しないようにと、WHO が世界中の関連する民間企業、公的機関、国 に文書で通達したそうです。

何ゆえ詐偽であるのか、ということを先に説明する必要があります。 昔、第二次大戦前に「医療による黄熱病の根絶」を目指した医者の集団がアフリカにいました。 当時はアフリカはヨーロッパの植民地でこそありましたが、 今日のような内乱につぐ内乱ということはありませんでした。 植民地ではありましたが、徐々にアフリカの人たちの生活レベルが向上していったようです。 ともかくも、「医療による黄熱病の根絶」を目指した医者たちの 活躍が功を奏したかのように徐々にアフリカで黄熱病の発生が少なくなっていきました。 これはとてもすばらしい話で、彼らは祖国で英雄扱いされることになりました。 一人ではなく、何名もいたそうです。

しかし、事情は激変することになります。第二次大戦後、 アフリカはヨーロッパから独立しますが、すぐ間もなく、どの国も内乱状態になってしまい、 その結果、黄熱病が再び活発となり、現在では手に負えないくらいになっています。 「医療による黄熱病の根絶」はないのです。ただ蚊の発生を防止するだけでよいのです。 生活レベルが向上し、衛生的な環境になれば、蚊の発生を防ぐことができ、 「黄熱病を根絶」することが可能となるだけなのです。 少し冷静になって考えればもともと「医療による黄熱病の根絶」はまぎれもない詐偽に他なりません。

当然のことながら WHO は 「医療による黄熱病の根絶」を目指した医者たちを英雄視しないようにと、 各国政府に依頼したそうです。その結果ヨーロッパ各国はこれに応じ、 「黄熱病」がらみの英雄はヨーロッパからは姿を消しました。 WHO としては「医療による黄熱病の根絶」を 目指す医師たちは詐欺師にほかなりません。 しかし、これは偏見を持たずに考えれば当たり前のことだと思います。

では、ここで問題になります。「詐欺師」達は何を考えて、そうしようとしているのか ? アフリカに住んで何の得があるか、です。最近は日本人もよく知っていることですが、 後進国ではわずかなお金でもとても価値が高くなります。 つまり、治療行為と称して、お大尽(おだいじん)の生活を送ることができるためです。 これも AP の記事で指摘してあったことです。 アフリカのジャングルには電気もガスもありませんが、下男や下女がいれば困ることは ないはずです。

日本政府は WHO の要請には応じなかったようです。「野口英世」が 千円札になったのはこの頃だったと思います。WHO の文書は逆効果だったようで、 この頃から「野口英世」が「復権」してしまったかのようで、小学校の国語の教科書にも 登場するようになったようです。 もう少しはっきりと言ったほうがよいようです。私は WHO の通達の理由から、恣意的に 「野口英世」を千円札にしたりしたのだと思っています。

アフリカは戦争だらけになってしまっていますが、WHO は色々考えているようで、 黄熱病を防ぐための一つの方法として DDT の散布を考えているようです。 「ぼうふら」の発生を防止することが「黄熱病の根絶」のための唯一つの方法です。 DDT は強烈な消毒薬で、日本でも第二次大戦後に大量に使用されましたが、 大量に散布すると人間に危険になるようです。そのためいつの間にか欧米のみならず日本でも使用が 禁止されています。WHO が考えているのは、少量の DDT の散布のようです。 これでも効果がかなり長時間続くため、DDT の危険性と、黄熱病の危険性を はかりにかけて、どの程度であれば効果的でかつ安全であるかということが 調べられていると英字紙で報道されていました。

黄熱病は昔からアフリカで蔓延していたか ?

昔、ずっと子供のときに教師が野口英世のことに関連して「アフリカ人は頭が悪いからジャングルに住んでいるのだ」 とふざけたことを言ったのを覚えています。

誰もすき好んでジャングルに住むはずないじゃないですか。 どうしてこうなったか、これは英字紙で何度も読むことになって、覚えてしまいました。 まず、ヨーロッパ人たちの侵略で、アフリカが植民地化されます。 ヨーロッパ人たちは奥地まで侵略していません。大抵は海岸地帯、川沿いの地域に 限定されていました。 そのため、アフリカの人たちは、ヨーロッパの侵略者から逃げる為に、 暮らしやすい場所からジャングルに 移動するしかありませんでした。これが最初の悲劇です。 ジャングルに逃げ込むことによって黄熱病の危険が出てきました。 当時のアフリカには文字があったとも言われています。 その痕跡がすべて消えたのもこの頃です。


注意
1. どこで読んだのか記憶にありませんが、 戦艦による艦砲射撃が侵略の重大な手段で あったと思います。 小火器のみでは少ない兵士で広大な土地を完全に 支配下に置くことが困難であったためです。 日本の幕末の「薩摩と英国」、「長州と英国」の戦争では英国側は艦砲射撃しかしなかったことを思い出してください。
2. 植民地時代に戦艦の役割が重要であったことは、映画にも出てきます。 英字紙の記事を読んだあとで、たまたま映画を見たのですが、 この映画の中でアフリカの植民地時代の財宝を探す話が登場します。 探し当てるのは砂漠に埋もれた当時の戦艦でした。 これは植民地時代に川があったことを意味し (従って砂漠ではなかった)、 また略奪に戦艦を使用したことを意味していると思います。 英字紙の記事を読んだ後だったので、映画の背景が 史実にある程度忠実であることがわかりました。

二度目の悲劇は奴隷狩りです。主にアメリカで労働力とし奴隷を使用するようになり、 そのため、アフリカ各地で奴隷狩りが横行することになります。 奴隷商人たちは、ヨーロッパの植民者たちよりはずっと内陸まで手を伸ばして奴隷狩りを したようです。これで更にアフリカの人たちがより奥地に逃げ込むことになります。 従って、より黄熱病の危険が増えました。 黄熱病を蔓延させるきっかけを作ったのはヨーロッパ・アメリカの侵略者たちです。 その中の一部の人たちが「医療による黄熱病の撲滅」と称したことは、 暴力団による慈善事業のようなものです。

第二次大戦後はアフリカ諸国は独立こそしましたが、内乱ばかりになり悪循環の連続になりました。 その結果、アフリカの人たちは更にジャングルの奥に逃げることになしました。 これが第三の悲劇です。 これでよりいっそう黄熱病の危険が増えました。

AP の記者は「これは先進国、あるいは人類にとって非常に危険なことである」 と書いています。ジャングルの奥地に行けば行くほど、 黄熱病のみならず、まだ見ぬ未知の病原菌 があるからです。エボラなどはこの実例の一つで、 戦争の難民たちがジャングルの奥へ奥へと避難するにつれ、 非常に危険な病原菌が次から次へと発見されたようです。 ジャングルで怖いのは、猛獣がいるよりも何よりも、 未知の病原菌がいる可能性があるからです。しかも人類が一旦未知の病原菌と 接触すれば、瞬く間に世界に広がる可能性があります。この一例として AP の記者は エイズをあげていました。


参考
上の説明は少し不十分です。病原菌には宿主がいます。 宿主が死ねば、病原菌も死ぬことになります。そのため病原菌が生存するには 共存できる宿主がいなければなりません。これがジャングルの中にいるのです。 蝙蝠かもしれないしサルかもしれません。そのため、もともとの宿主が死滅しない限りは 病原菌の根絶はありえません。危険なのはこのような宿主と人間界が接点を持つことです。
ヨーロッパ人が侵略する前は、黄熱病はほとんど ほとんど問題とならなかった可能性のほうが大きいようです。 現在、黄熱病が激増しているのは、アフリカの人たちが更にジャングルの奥で 生活するようになり、そのため、更に衛生状態の悪い場所に住まざるを得ないためです。 ずっと昔はこうではなかったわけです。 わずか、数百年の間に残酷な変化があったことになります。


参考
医療だけによって救うことができる人がどれだけいるでしょうか ? アフリカで死ぬ原因でもっとも多いのが餓死です。栄養失調になると、 真っ先に影響を受けるのが子供たちです。手足がものすごく細くなって、腹が膨れてしまっている 子供たちをテレビで見ることがありますが、この状態になると栄養を自分で吸収できなくなり、 放置すればまずまちがいなく死ぬそうです。確かに治療することができます。 病院があればベッドの数ほどの子供たちを救うことができます。しかし、難民がでた場合には 死に直面する子供たちの数は 100 万人以上になります。医療のみではほとんど無益です。

しかし、栄養失調状態になった子供たちを救う手段が最近できたようです。 以前であれば、牛乳にミネラルなどを調合した特別な食事を与える方法がありましたが、 この方法では、非常に衛生状態のよい病院のような場所でしか調合できませんでした。 このような特別食を作っている会社がフランスにあります。難民が発生した場合に 赤十字に特別食を納品して稼いでいる会社ですが、これだけで生計を立てています。 この特別食の困難な点は牛乳と混ぜることにあります。 牛乳を保存するための冷蔵庫も衛生的な水も必要になります。 難民キャンプではほとんど手に入らないものです。 それでなんとか、工夫しようとして 牛乳の変わりについにピーナッツバターと混ぜることに気が付きました。 21 世紀に入ってからのことです。その製品を plumpeanuts と呼びます。plump と peanuts の合成語です。plumpeanuts は袋に入っており、常温で保存できます。これを一日 2,3 回子供に 食べさせます。最初は骨と皮になってしまった子供が同じ状態のまま 2 週間ほど 続くそうです。それがある日、突然肌に赤みがさし、ほほもふっくら (plump) した 状態になります。(この変化はとても劇的なようで、母親が泣いて喜ぶとのことでした。) これが plumpeanuts の名前の理由です。一食 数十円ぐらい かかるだけです。100 万人の子供たちを救う可能性が、この時点で出現したことに なります (数十億円かかりますが、原理的には可能になったのです)。これは AP の記事でした。言葉使い方も非常に美しく、ちょっと感動しました。 インターネットで調べたところ、この記事は全世界に反響を呼んだ記事であった とのことでした。

この例からもわかるように、医療が有効であるにせよ、医療のみからでは、物理的に 人々を救うことが不可能なことの方が多いようです。


捏造された英雄達

「医療による黄熱病の根絶」を目指した医者たちは詐欺師ですが、それ以前に捏造された英雄達でした。 ヨーロッパ人はアフリカ侵略を正当化するためにアフリカを「暗黒大陸」(dark continent) と 称し、自分たちが文明をアフリカにもたらしたのだと主張したのです。その一環として 「医療による黄熱病の根絶」を目指した詐欺師達を英雄扱いしたのです。 実際のところ、アフリカに暗黒をもたらしたのはヨーロッパの侵略者に他ならなかったにもかかわらず、です。

ヨーロッパ人の侵略以前のアフリカには文明がありました。 これも AP の記事の受け売りですが、説得力があります。 ヨーロッパの近代化は中世の地中海貿易に始まります。 単純なことですが、貿易によって地中海の北側が繁栄すれば、 当然のことながら、地中海の南側も繁栄していたのです。 今日、広大なサハラ砂漠があるため、当時の状況を推し量ることが 困難ですが、サハラ砂漠が広大になったのはそれほど古い話ではありません。

ヨーロッパの侵略者達がアフリカの「図書館」を破壊したのだと AP の記者が書いています。 この「図書館」がどのようなものか判断できませんが、例えば日本の「金沢文庫」の ようなものではないかと思います。「図書館」を破壊したヨーロッパの兵士達は 文盲であったようですから非常に馬鹿たらしいことです。これで書物がすべて破壊され、 アフリカが「暗黒大陸」となり、すべてが闇にほうむられました。しかし、少し前に 当時の書物が大量に発見されたとの記事もありました。 解読には随分時間がかかることでしょう。もう誰も読めないのですから。

ここまで来ると、ヨーロッパ人は全員が納得するわけでもないようです。 誰も納得しないというほうが正しいかもしれません。 日本にも第2次大戦までの日本によるアジアへの侵略を正当化する人たちが いるのと同じです。 以上の一連の記事は歴史の見直しというようなことから書かれているのだと思います。 なお、AP の記事ではヨーロッパの具体的な国名を一切挙げていませんでした。 多分、意図してそうしたと思います。ヨーロッパがアフリカに対してした仕打ち を一般論として批判するためにこうしたのだと思います。


注意
1. 社会的なインフラをが破壊されてしまえば、どうなるのでしょうか。 アフガニスタンの状況を見ていると、ある程度の文明があるにせよ、 社会的なインフラが完全に破壊されてしまうと石器時代に戻ると思われます。 これがアフリカにおきたことだと思います。
2. 今日の日本は随分社会的なインフラが整備されており、江戸や明治時代の 人達とは比べようがないくらいに衛生的な環境に住んでいます。 病院も上下水道などと同様に社会的なインフラの一つではありますが、 医療のみが病気の根絶に重要であるというわけではないと思います。
3. アフリカが植民地化された時代にヨーロッパの軍隊がアフリカで何をしたか、 ということを本国の人たちは必ずしも知っていたわけではないと思います。 「暗黒大陸」という言葉はすべてを隠蔽するために使用されたはずです。 第二次大戦が終了するまでの日本とアジアの関係と同じようなことではないかとも 思います。

中世に至るまでは、ヨーロッパもアフリカも大して違いがなかったのではないかと思います。 しかし、ジンギスカンの侵略からヨーロッパに火薬が伝えられ、やがて武器が登場することとなり、 それが決定的な違いとなってアフリカが暗黒化したのです。

アフリカの文字に関して -- 追加

前項までが思い出して書いたもので、正確さに欠ける点があるかもしれません。 2007 年の 8 月 8 日付けの IHT にアフリカにおける古いテキストに関しての記事が載りました。

場所はマリ共和国のトンブクトゥ (あるいは ティンブクトゥ, Timbuktu) です。 ここには現在数百年以上前からの本、写本が大量に残っているそうです。 また、ここにはヨーロッパ人がほとんどおとずれていないようなので、前項で述べた 図書館の破壊と関連がないようです。(AP の記事が間違っていることもあるので正確なことは 不明です。) しかし、アフリカに書き言葉の歴史があること を指摘することはきわめて重要だと思われるので IHT (= International Herald Tribune) の 記事から少し引用することにします。


古代の本がトンブクトゥの家々に何世紀もの間、ひそかに大量に保存されていました。 IHT は family library (先祖伝来の文庫 ?) と呼んでいます。 南アフリカ共和国はここに図書館を立てる計画を持っています。 更に、欧米や中東の政府や慈善団体はトンブクトゥ市の family library に何百万ドルもの 資金をつぎ込んでいるそうです。

このようなことがおきたのは、1990 年代後半にハーバード大学のアフリカ学の Henry Louis Gates Jr. が テレビのドキュメンタリー シリーズで写本のことに触れたことがきっかけだそうです。 歴史を振り返ることにしましょう。

トンブクトゥは 11 世紀に貿易の拠点として建設され、後に巨大なマリ帝国の首都となり、 その後, アフリカが植民地化される前の巨大な Songhai 帝国の支配下におかれました。 (サラセン帝国の理由からのようですがトンブクトゥにはスペインの影響もあるそうです。) トンブクトゥはその当時の貿易の拠点として栄えます。北からはサハラを通る隊商のルートがあり、 塩、布、香料が持ち込まれ、西アフリカからは金、奴隷がニジェール川を通って持ち込まれた。

地中海や中東からは本や写本が持ち込まれ、トンブクトゥではアラビア語や土着の言葉 (Songhai 語、Tamashek 語) などで書かれて本が売買されました。 トンブクトゥには Sankore 大学があり、最盛期には 25000 人の学者がいたとのことです。 しかし 1591 年に Songhai 帝国はモロッコからの侵略者によって滅びてしまい、新しい支配者は 学者たちを迫害したため、学者たちは本とともに逃亡することになりました。

現在残っているのはこの当時の本です。

アフリカが少しづつ発展するにつれ、今まで知られていなかった歴史が明らかになっていくようです。 英語版、日本語版の Wikipedia のいずれにもこの大量の本ことは記載されていません。 トンブクトゥが 1990 年に世界遺産に指定されたことに関してはどちらにも載っています。

• Timbuktu (英語版の Wiki)
• トンブクトゥ (日本語版の Wiki)

学習指導要領 -- 追加

最近、新聞を読んでいるときに「野口英世」が小学校の学習指導要領に登場していることに気がつきました。

過去の学習指導要領

を調べてみると、平成元年の小学校の社会の指導要領に登場し、現在に至っているようです。

色々考えて「医療による黄熱病の根絶」を目的とした医師の集団が どのようなものであったのかを追記することにしました。 英字紙を読んでいくうちに自然に考えるようになったことです。

少し焦点がぼけるかもしれませんが、フランシスコ・ザビエルたちの 話をします。ザビエルは東洋でキリスト教の布教をした宣教師の一人です。 宣教師たちの資金源はどこにあったのでしょうか ? 常識的に考えると ヨーロッパ人たちの心のよりどころであるキリスト教の布教ですから いくらでもスポンサーがいると思えますが、彼らが資金的援助および物質的援助を受けたのは キリスト教の布教の理由からではありません。彼らの本来の役目はスパイでした。 訪れる国々に関しての詳細な報告書を書いているのはその理由からです。 また地図でも手に入れればそれもスポンサー (ポルトガル ?) に送っているのです。 宣教師たちの布教活動には多額の資金と、物質的援助が必要で そのためにはそれ相応のことをしなければいけなかったのです。


注意
宣教師たちの報告に基づいて、その国を植民地にするか否かの決定が下されました。
では「医療による黄熱病の根絶」を目的とした医師の集団たちは どうだったのでしょうか ? 彼らの崇高な目的のためにはスポンサーが いくらでもいたのでしょうか ? ザビエルのことを思い出せば、 いくらでもスポンサーがいると考えるほうが無理な話です。 見返りに何かをしなければなりません。 黄熱病の薬はとても高価であったことは当然で、それ以外にも 医療のためには色々な物資が必要となります。しかもジャングルの奥地ですから、 輸送に関しても問題となります。そのため 膨大な経費が必要であったことはほとんど確実です。 この状況では、彼らの役目はほぼ限定されます。つまり原住民の監視です。 不穏な動きがないかどうかを調べる役目です。 その片手間に医療があったと考えるほうが自然です。

資金はもともと当然のことながら、アフリカから略奪した物資でまかなわれていたと 考えるべきで、現地の人はこれを歓迎したでしょうか ?

では「医療による黄熱病の根絶」を目的とした医師の集団たちは 非常に危険な立場にあったのかという点です。アフリカの人たちは この医師の集団が基本的には自分たちから略奪したものを原資にしていたことは ちゃんとわかっていたはずです。資金洗浄的なことはあるでしょうが、 これが前提です。しかし、おそらくこの医師の集団たちはかなり安全であったと 思われます。その理由は彼らが医師だからではありません。 当時、ヨーロッパの国々はどのようにして植民地で自国民の安全を守ったのでしょうか ? 軍隊を広大な植民地全体には展開できません。そのかわり、ヨーロッパの国々は 植民地で自国民が殺されるようなことがあれば、その報復として、 集落を皆殺しにしたのです。こうなると恐ろしくて手が出なくなります。 これと類似の状況は日本史にも登場しています。「生麦事件」です。 生麦村で英国人が薩摩藩士に殺されたときに、英国海軍はその報復として、 薩摩を砲撃します。日本史では「英国海軍」が本国の命令を無視して 薩摩を攻撃したとされていますが、このときの英国海軍の方法は 植民地ではごく普通の方法であったと思います。1 人殺されれば 報復として何百人も殺さないといけないのです。それで始めて 自国民の安全が保障されるためです。

そのため「医療による黄熱病の根絶」を目的とした医師の集団たちの身の安全は ある程度確保されていたはずです。つまり現地の人たちは内心は恐れていた。 野口英世の場合も基本的には同じであったはずです。 ジャングルで黄熱病が発生すれば何万人もの犠牲者が出たはずで、 一つの診療所ぐらいでは処理は不可能であったはずです。 多くの人は侵略者たちの手先に治療されて欲しいとは思わなかったはずです。 実際に治療のために診療所に行ったのは極めて少数の人たちであったことでしょう。 「医療による黄熱病の根絶」を目的とした医師の集団たちの立場は到底人道的な 立場とはいえないのです。

もう一点付け加える必要があります。それは私が子供のときに小学校で野口英世の 話がどのように語られていたのかという点です。野口英世の話があれば必ずアフリカ人蔑視の 話が付きまとっていました。「医療による黄熱病の根絶」を目的とした医師の集団たちが ヨーロッパで語られたのと同様に日本でも野口英世の話が語られたのだと思います。 常に白人優位主義 (white supremacy) が前面に押し出され、日本人も白人の立場なのだ と小学校の教員が力説していたと思います。決して、人道的なことが語られていたのでは ありません。基本的に人種差別が語られていた。



http://mail2.nara-edu.ac.jp/~asait/kuiper_belt/section4E/kuiper_section4E.htm

  ページの最終校正年月日 : 03/05/2012 04:12:39

アヘン帝国 --- 汚れた歴史

「アヘン」というと、一般的には「アヘン戦争」の「英国」を思い浮かべる人が多いと思います。 しかし「アヘン帝国」と呼ばれる国があるとすれば、これは戦前の日本です。 一時期、日本のアヘンの生産量はほぼ世界のアヘン生産量に匹敵しました (1937 年には全世界の 90%)。 例えば、次の本で「アヘン帝国」の呼称を使用しています。(これは本の紹介ページです、 本の題目も訳してみました。1997 年に出版されたかなり有名な本のようです。)

Opium Empire: Japanese Imperialism and Drug Trafficking in Asia, 1895-1945
(アヘン帝国:アジアにおける日本の帝国主義と麻薬の取引、1895-1945)


追加
最初はここに書かれている内容は少し理解できなかったのですが、以下の内容を書き上げたあとで 再度読んでみると、色々よくわかるようになっていました。ほんのわずかな内容紹介ですが、 読み直してみると、私が以下に書いたことはほぼこの本に書いてあるであろうと確信を持ちました。 但し、これは研究書のようで、日本の帝国主義を研究している修士、博士課程の学生に適当であると、 締めくくっていますから、原書を読もうとする意気込みはさすがに持ち合わせていません。 なお、この本で使用されている資料は、出版されているものもありますが、 出版されていないものもあり、出版されていない文書は多くが日本の外務省の記録文書のようです。
私も英文のページから簡単に理解できることを整理しようと思いこの記事を書くことにしました。 「満州帝国とアヘン」という標題で書き始めたのですが、 満州以外のアヘンの話も関係することになり、結局「アヘン帝国」と変えることにしました。 なお、しばらくして英文のページだけでは底をついたので、日本語のページも調べることになりました。

先進国 (G8) はすべて、中国への「アヘン」輸出に手を染めています。 従って「中国」を食い物にした点では先進国はすべて有罪です。 しかし 1913 年に英国はインドのアヘンを中国に出荷することを停止します。 一方 1911 年頃から、欧米 (特に英国と米国) は「モルヒネ」を東洋に輸出しますが、取引相手は日本でした。 「モルヒネ」は神戸を経由してそのまま「中国」に再輸出されました。 「モルヒネ」を直接「中国」に輸出することが国際条約で禁止されていたためのようです。 (モルヒネを製造していた英国の企業は日本が国際条約に違反していることを知っていたはずです。) もうこの頃になると、中国への「麻薬」の輸出はほとんどすべて日本の手によっていました。 あとはますますひどくなるだけのようです。「アヘン戦争」によって「アヘン」が 中国になだれ込みますが、それよりもずっとひどいことが日本によって引き起こされた。 にもかかわらず日本ではほとんど語られていません。

中心にある諸悪の根源は、「アヘンの専売制」です。 最初はこれは日本独自のものかと考えていたのですが、 これはヨーロッパ各国が植民地でしていたことの真似のようです。 中国国内には例えば香港などでアヘンの専売制がありました。 恐らく英国が真っ先にしたことと思われ、日本国内におけるアヘンの専売制も 基本的には英国の真似であったことになります。 しかし、その規模では日本は他を圧倒的に凌駕しました。 日本は最終的には「満州帝国」でアヘンを生産し、関東軍の占領下におけるアヘン (あるいは広く麻薬 -- モルヒネ、ヘロインを含む) の流通を一手に独占します。 しかもアヘンの消費量を増やすために、アヘン中毒を大量に作ります。 中国侵略はむしろアヘンを売りさばくための戦争であったと考えたほうが よいくらいです。


注意
次のページで、英国の東インド会社が 1793 年にアヘンの売買に専売制を 導入したことが記されています。
Opium throughout history

なお、以下ではインターネット上で読める英文のページを少しずつまとめていますが、 全体で矛盾していることがあるかもしれません。 内容が多岐にわたり、紆余曲折があるため関連性があるページを部分的にまとめることぐらいしかできていません。 また日本軍とアヘンに関しての英文の書籍は随分沢山あるようですが、これに関しても目を通しているわけではありません。


注意

「アヘン帝国」の前半を書き終えようとした頃に、次のページを 見つけました。

Asian Holocaust : WMD Opium, Sex Slaves, Nanjing Massacre Pillage, Slavery, WMD Unit 731, 100, 516

このページには色々なページにリンクが張ってあります。 このページでは、日本が中国でしたことを「国家によるテロ」(state-terrorism) と呼び、 米国は共産圏との対決の理由から「国家によるテロ」を隠蔽したのではないかと 言っています。あとあと見るように、日本は中国の人を手当たり次第に麻薬中毒にして 搾り取るようなことをしています。これは地域住民に対する無差別攻撃です。 地域住民に対する無差別攻撃は通常「テロ」と呼ばれますから、確かにこれは「国家によるテロ」です。 しかし、アヘン帝国日本による「麻薬テロ」と呼ぶほうが雰囲気が出ているような気がします。 東京裁判では日本の「戦争犯罪」の大半が隠蔽されているようで、これは共産圏との 対決の理由からであったようです。 例えば「731部隊」のことが「東京裁判」で取り上げられなかったのは 人体実験の資料を手に入れるための米国による取引とされていますが、 ひょっとすると日本を「共産圏」に対する砦とするために協力者を確保する意図があったのかもしれません。

また上記のページには「1820 年においてさえ、世界の GDP の 1/3 が中国で生産されていた」 と言っています。中国がとても豊かな国であったため、世界中から狙われたのでしょう。 最後には日本だけに食い物にされますが ....

日本を経由した麻薬

日本は中国に麻薬を蔓延させますが、他国の麻薬を中国に持ち込んでいたこともあります。

Japan as an Opium Distributor (アヘンの販売業者としての日本)

の中で、筆者は 1919 年 2 月 14 日のニューヨーク・タイムズの記事を引用しています。この記事の主要部は、「アヘン帝国の興隆 -- 台湾」 の箇所で触れることにします。今はこの記事の中ほどで書かれている部分を引用するのに留めます。


カルカッタのアヘン売り場で日本はインドのアヘンの重要な購入者の一つになった。...... インド政府によって売られたアヘンは日本政府の許可の下に神戸に船で送られ、神戸で青島 (チンタオ) 向けの船に積み替えられる。この貿易ではとても多くの儲けがあり、日本の代表的な企業のいくつかが 興味を示している。

訳注: 1913 年には英国は中国政府の要請の下に、インドのアヘンを中国に持ち込まなくなりました。 しかし、カルカッタではアヘンは販売され続けたのです。カルカッタにおけるアヘンの販売はオークションですから、 直接的に中国にアヘンを持ち込まずに、 しかもアヘンで儲けるための極めて巧妙な方法を英国が取り入れたことになります。 無論、最終的にアヘンを中国に持ち込んだ日本も悪い奴です。


追加
1919 年 2 月 14 日のニューヨーク・タイムズの記事は全文を読むことになりました (「アヘン帝国の興隆 -- 台湾」を参照)。そこで、わかったことですが、 このとき持ち込まれたアヘンは中国の広域に持ち込まれたようです。該当箇所を引用すると

強調しなければならない点は、このアヘンは日本に輸入されたのではないことである。 神戸港で積み替えられただけで、ここから日本が支配する鉄道で済南まで運び込まれ、 山東省を通り抜けて、上海、揚子江流域に持ち込まれた。
この鉄道は恐らく、第一次大戦でドイツの租借地である青島を制圧したときに あわせて支配したのでしょう。日本は麻薬の密貿易のために鉄道をよく利用していたことが はっきりします。
「アヘンの販売業者としての日本」の筆者は 1919 年 3 月のプトナム・ウィール (Putnam Weale) による記事を引用しています。


否定することが出来ない点は、(中国における) 海関 (Maritime Customs) の日本人弁務官が事務所を持っている港では すべて、密貿易のセンターが設立され、アヘンやその派生製品がまったく堂々と密輸され、 日本が年間に持ち込むモルヒネは (これは国際条約によって禁止されてはいるが) いまや 20 トン程度であろうと 言われている。この量は一つの国を中毒にするに足るものである。

訳注: 「海関の日本人弁務官」(Japanese commissioners of Maritime Customs) の正確な意味 (あるいは役目) は知りませんが、前後関係から大体はわかります。日本からの輸出品は 中国における日本の税関を通すだけでよかったのです。このようなことが 可能となったのは、日清戦争の結果、下関条約で締結された日本と中国の通商条約 (不平等条約) の結果です。日本が中国と締結した通商条約は、アヘン戦争の勝利国が中国と締結した通商条約と 類似のものです。この件に関しては
Treaty of Shimonoseki - Wikipedia (下関条約 - 英語版 Wikipedia)
をご覧ください。(英語版の Wikipedia では第一次アヘン戦争と 第二次アヘン戦争を総称してアヘン戦争と呼んでいますが、日本語版の Wikipedia は前者を単にアヘン戦争と呼び、 後者をアロー戦争と呼んでいます。) 日本政府の許可さえあれば、日本人は中国に麻薬を持ち込むことが でき、(これはとてもよくないことですが) ヨーロッパの国々と対等になったのです。 しかし、この記事が書かれた頃は欧米各国が中国の麻薬から手を引いており、しかも桁違いに大量の モルヒネを日本が中国に持ち込んでいますから、 とても風当たりが強くなったのです。

追加
1919 年 2 月 14 日のニューヨーク・タイムズの記事には次のことも書かれています。 中国における港ごとで事情が少しずつ違っているようです。

更に、青島の場合には、条約によって中国海関の独占的権利が日本政府に委譲され、 日本政府が興味を持てば、密貿易であれ、そうでなかれ、税関が関与することがなく 遂行することができた。1905 年 12 月 2 日の条約の第三条 -- これは 1915 年 8 月 6 日 の条約で永続的なものとなったが -- 日本政府の証明書があれば、青島に上陸する物資は 税関の検閲を受ける必要がなかった。このようにして、アヘンの非合法な輸入のみならず、 武器の不正な輸入の道を開いたのである。
1905 年は日露戦争の「ポーツマス条約」の年ですが、 関連して中国と条約を締結しているようです。 1915 年は「対華21ヶ条要求」の年ですが、日付が少し違っています。 但し関連して結ばれた条約があるようですから、基本的には「対華21ヶ条要求」 と思ってよいと思います。
更にマクドナルドによる本

A. J. Macdonald, Trade Politics and Christianity in Africa and the East, M.A., formerly of Trinity College, Cambridge, 1916
(表題の訳 : アフリカと東洋における商業方針とキリスト教)

から次のように引用しています。この本が 1916 年に書かれた本であることに注意します。


アヘン中毒 (opium habit) を撲滅しようとしたが、その結果モルヒネが流通することとなった。 北中国 -- とりわけ満州 -- におけるモルヒネ中毒はすでに広範囲になっている。 中国政府はこの災いに警戒態勢を取っている。しかし抑圧する試みは麻薬業者 -- 主に日本人 -- の行動によって妨害されている。麻薬業者は中国政府、日本政府の規制をかいくぐっている ... 中国はモルヒネ漬けになっている。--- 中略 --- 営口では, 2000 人ものモルヒネ中毒が 1914 - 1915 に死亡した。モルヒネの場合にはアヘンよりもはるかに急速に中毒が進行する。.... モルヒネはまだ東洋では、まとまった量では生産されていないし、モルヒネの摂取に必要な 皮下注射器の製造をすることが出来ない。 大量に生産されているのは、英国、ドイツ、オーストリアである... この取引には エジンバラの 2 つの企業とロンドンの企業が従事しており、貿易は日本の業者が実行している。 商業取引所の報告書によれば英国から東洋へのモルヒネの輸出はこの数年の間に極端に増大している。
1911 5.5 トン
1912 7.5 トン
1913 11.25 トン
1914 14 トン


訳注: 上の文章では日本政府も麻薬の規制をしているかのように表現していますが、 これはないです。本の著者もそこまで理解していなかったのでしょう。 Japan as an Opium Distributor (アヘンの販売業者としての日本) は The opium monopoly (アヘンの専売制) の記事の一部です。直前で The indian opium monopoly (インドのアヘンの専売制) についても触れています。インドからのアヘンの輸出量に関しての表がありますが残念なことに少し不鮮明です。 しかし、この表に関連してなされている議論は紹介することができます。 1913 年には英国はインドから中国にアヘンをほとんど持ち込まなくなりますが、 1911 年からアヘンが日本に輸出されていることを最初に指摘しています。また同時に 1910 年から アヘンが英国に輸出されていることも指摘しています。つまり、筆者は上のモルヒネは インドのアヘンを加工したもので、それを日本に輸出したものだと暗に言っているのです。 この場合、英国も日本もどちらも悪い奴なのです。
更には次のようにも述べています。。


新聞 (The Japan Advertiser) によると、中国におけるモルヒネの取引は新局面を迎えた。 最近の主なアヘンの販売業者は日本人で、製造業者は英国人であったというプトナム・ウィール (Putnam Weale) の 話を引用し、更に次のように続けている。モルヒネは英国から日本へ大量に輸出されていたが、この麻薬を英国から 輸出することが許可制となったため、日本への出荷は 1917 年の 600,229 オンス (17 トン) から、 1918 年にはその 1/4 となった。 別の新聞 (The Japan Chronicle) は絶対的に信頼できる情報からの話として次のように伝えている。 それによると、1919 年の最初の 5 ヶ月には米国から神戸に 113,000 オンス (3.2 トン) のモルヒネが届き、 神戸港で中国行きの船に積み替えられた。 この数値は全てではなく、単に (The Japan Chronicle が) 実際に知っている量であるとのことである。 ポール・S・ラインシュ (Paul S. Reinsch) 博士は、アメリカの中国駐在の公使をやめたあとに、 中国で販売することを目的としたモルヒネの出荷を止めるためにどのようなこともすると述べ、 さらにこれは中国への麻薬を売ることを禁止した国際条約に対する挑戦であると述べた。


注意

1. ジャパンタイムス (The Japan Times, 創業 1897 年) は自社の歴史を

Our Company
に書いていますが、それによると 1940 年に The Japan Advertiser (Tokyo) と The Japan Chronicle (Kobe) を吸収したと書いています。 だから、上で述べていることは、まさしく日本で発行された英字新聞に掲載された記事です。 この記事に限らず、あちこちで引用されているのは、中国、日本などの英字新聞に載った記事、 あるいは記事を載せていたジャーナリストに関連するものが多いようです。 一々詳しく調べるのが大変なので、そこまでしていませんが、 今回に関しては、たまたまかすかな記憶があったので The Japan Times のホームページを調べました。

The Japan Times は朝日新聞ほどは歴史がありませんが、日本で最初に発行されたのは 英字新聞です。その真似をして、日本の新聞ができました。 その意味ではジャーナリズムとしては英字紙の方がはるかに伝統があります。


2. 興味ある記事があるので、それも引用します。1919 年 1 月 15 日 (大正 8 年) の 報知新聞の社説です。社説では 私がここで引用しているような英文の記事に関して、日本政府が関係してはいないと勝手に決め付けています。 日本政府の許可なくしては、神戸港での積み替えや、満州への密輸が不可能です。 とても大量の麻薬でこっそり持ち込むことができるような代物ではありません。

支那に於ける阿片モルヒネ密輸入 : 社説

日本ではこのようにしか報道されなかったのです。これは神戸大学の 新聞記事文庫 で見ることができる昔の新聞です。日本は太平洋戦争に突入してから、報道管制が敷かれたとされていますが、 それ以前からまともな報道をしていないのです。報知新聞はあからさまな嘘を社説で主張したのです。 端的に言えば日本の全ての報道は、 中国における日本軍の「麻薬テロ」の積極的な協力者というべきであり、 組織として A-級戦犯というべきです。 残念なことに現在でもこれは変化していないと思います。


「アヘンの販売業者としての日本」を書いた人は、「ウィール (Weale) は英国人で、そのため日本のことばかりを責めているが、 売った奴 (カルカッタのアヘンの場合であればインド政府、ひいては英国政府、モルヒネの場合であれば 英国政府、米国政府) にも責任があるのではないか」と書いています。


1. 国際条約とは 1912 年におけるハーグの国際条約のことです。詳しいことは次をご覧ください。 1. THE HISTORY AND DEVELOPMENT OF THE LEADING INTERNATIONAL DRUG CONTROL CONVENTIONS
2. International Opium Convention - Wikipedia
3. 万国阿片条約 - Wikipedia
日本語版の Wikipedia の記述から、1912 年に条約が調印されましたが 「ドイツの提案により即時の批准を求める物ではなく、大半の国は批准しなかった」のですが、 第一次世界大戦の終了により、ベルサイユ条約 (1919 年 6 月) で各国が批准することになります。 ドイツが条約の批准を遅らせましたから、ドイツも麻薬で儲けていたことが確実です。
2. あとで見ることになりますが、1919 年の「ニューヨークタイムス」の記事には、 モルヒネは日本で製造されるようになったと書いてあります。しかし、上の記載を見ると 1919 年にも日本は米国から輸入しています。モルヒネが不足したためのようです。
3. 日本においてモルヒネが最初に製造されたのは星製薬 (星製薬 - Wikipedia) による製造 (1911 年) が最初のようです。 しかし、この段階ではまだ大量生産がおこなわれていなかったようです。日本語のホームページでは 中々事実関係がはっきりしませんが、ともかくも色々検索すると
星新一:人民は弱し 官吏は強し (新潮文庫) (文庫), Amazon.co.jp

の内容に関連する記述があちこちに見えます。 この作品は星新一 (小説家、SF 作家) が、父・星一の星製薬創業・発展期における苦闘を描いた作品とのことです。 ですから当然内容は美化されたものです。例えば

1. アヘンの闇
2. クロカル超人の面白半分日記

にその内容の一部が紹介されています。これはブロッグですぐにも消えてしまいそうなリンクですが少なくとも次がわかります。 星製薬は「ドイツの塩酸モルヒネ製造装置」を入手して、台湾にモルヒネ工場を作ったことと、 1917 年 (大正 6 年) に星製薬以外がモルヒネの製造に加わった。 次の項目「アヘン帝国の興隆 - 台湾」で詳しい議論をしますが、1919 年には日本のモルヒネが中国に怒涛のように 乱入しており、第二次大戦の終了まで続く「アヘン帝国日本」が牙をむいているのです。 その元凶を作ったのが星一のようです。この人は極悪人です。

読者のページ~2005年4月~

にも、星新一の上の作品が紹介されており、 それによると、1917 年に星製薬以外にモルヒネの製造に加わったのは 現在の大日本製薬・三共・武田薬品工業のようですから、 星一のみが悪い奴というわけでもないようです。

ドイツ製のモルヒネ製造装置は満州にも登場します。大体、モルヒネの大量生産装置を売る奴も買う奴も まともな人間ではないのですよ。

少しだけ疑問があります。星一がいつモルヒネの大量生産を 始めたのかという点です。日本語のページで何度も検索し、次を見つけました。

31-1165 W64-4 (PDF)

これによると、「第一次世界大戦でドイツからモルヒネの供給が途絶えたとき」に台湾でモルヒネの 大量生産に成功したとしています。 第一次世界大戦は 1914-1918 年ですが、1917 年に至るまでの数年間、モルヒネ製造は星製薬の独占 のようですから、第一次世界大戦に入った直後の 1914 年から 1915 年頃にモルヒネの 大量生産に成功しているのでしょう。朝鮮では 1914 年にアヘンが禁止され、モルヒネがとって代わっています (この点に関してはあとで言及します) が、これは欧米のモルヒネではないかと思います。

4. 「営口」は遼東半島の付け根にある港町です。
満州国の地図 (日本語)


上の話がいつ頃のことか、少し年表を見てみましょう。

1879 アヘン専売法
1894 - 1895 日清戦争
1895 台湾が日本の支配下
1904 - 1905 日露戦争
1906 南満州鉄道 (満鉄), 日本の会社
1910 日韓併合(朝鮮半島が日本の支配下)
1911 辛亥革命
1914 - 1918 第一次世界大戦
1914 日本はドイツの租借地の青島を占領
1918 - 1922 外満州、内満州支配 (シベリア出兵)
1919 ベルサイユ条約
1922 青島を中国に返還

満州国 (あるいは満州帝国) は 1932 年にならないとできませんが、第二次アヘン戦争 (1858 年) の結果、 外満州 (現在のロシア極東) がロシアのものとなり、 19 世紀の終わりには、満州 (正確には内満州) はロシアの影響下にありました。 しかし、日露戦争の結果、日本はロシアに取って代わり、満州を影響下に置くことになりました。 具体的には南満州鉄道が日本のものになりました。

あとあと見るように 1911 年に英国は中国と「インドのアヘンを中国に持ち込むことを禁止する条約」を結びます。 これで、中国は麻薬の空白地帯となりますが、同じ頃起きた 辛亥革命の結果、中国は内乱状態になります。 絶好の機会とばかりに、 日本が 1911 年から 1914 年に英国から神戸を経由して中国にモルヒネが持ち込んだのでしょう。 日本語の Wikipedia (南満州鉄道) によると、満鉄設立時の路線は下の図のようです。 南満州鉄道には

南満州鉄道附属地 - Wikipedia

があり、ここは外の法律が適用されない植民地のようなものであったようです。 警察もありましたが、これは日本の植民地であった関東州の警察です ( 関東州の警察 -Wikipedia )。 従って麻薬の密輸にはとても都合よくできていたのです。 関東州は日本の植民地でしたから、日本政府の許可さえあれば、大連に麻薬を持ち込み、 それを更に南満州鉄道で搬入することなど造作もなくできたことでしょう。 南満州鉄道は「麻薬鉄道」と呼んでもよいかもしれません。




注意
もともと南満州鉄道は中国領を走るロシアの鉄道でしたが、 日露戦争の結果日本がロシアから譲渡されたものです。 この点を理解するためには、もう少し背景を述べる必要があります。 もともと極東ロシアは外満州 (外満州 - Wikipedia) と呼ばれ、後に満州と呼ばれた場所 (内満州) と 合わせた地域は中国領でした。 しかし 19 世紀中ごろにロシアの侵略により外満州がロシアの領地になります。 さて日清戦争の結果、中国の弱体ぶりが露呈され、その結果、中国はヨーロッパ各国から 色々むしりとられます。 日清戦争 -Wikipedia によると 1. ロシアは旅順と大連
2. ドイツは膠州湾 (青島)
3. フランスは広州湾
4. 英国は九竜半島 (香港)
を手に入れます。更にロシアは内満州を事実上の自国領とするために、鉄道を建設したのです。 日露戦争の結果、日本はこのロシアの権利を譲り受けました。 中国領における外国の鉄道という非常に奇妙な事実は、従ってロシアの中国侵略から生じたものです。 しかしだからといって日本の中国侵略が合法化できると言えるものでもありません。
アヘン帝国の興隆 -- 台湾

ここでは次のページからの引用を中心にまとめます。 このページはとても短いので、書いてあることが正しいかどうか すこし考える必要があります。

Korean Opium for Japan's Wars (日本の戦争のための朝鮮のアヘン)

このページに書かれていることは、 第二次大戦前の朝鮮と台湾におけるアヘンに関しての状況、及び関連している日本人の名前 (主に軍人) です。 まず台湾に関する記述ですが、少し翻訳します。



日本政府の公式な統計によると 1900 年には台湾に 169000 人の アヘン中毒がいた。

当初は、アヘンを吸うことは台湾では非公式に認められ、 日本が軍事拡大のために多額の予算が必要となったときアヘン政策が変化した。

日本は台湾人がもっと多くのアヘンを吸うように奨励しようとした。

上の最後の三行はは恐らく日本語の Wikipedia では真っ向から否定することだと思われます。 そこで論理から話を進めることにしましょう。戦前の日本にはおよそ産業らしい産業がありませんでした。 日清戦争、日露戦争いずれの場合にも、英国から戦争のために艦船を購入しています。 この費用はどこから捻出したのでしょうか ? 民生段階の産業が発展してない限り、軍事予算に手が回らないはずです。 例えば、現在の北朝鮮には産業らしい産業がありません。 輸出できるとしたら、食糧です。しかし、食料を大量に輸出すれば 自国民が飢えます。それ以外には「麻薬の輸出」しかないと思われます。 北朝鮮には偽札の印刷もありますが、これは除外しましょう。

しつこく繰り返しますが、まだ日本では産業革命に至っていなかったというべきです。 産業に関してははるかに先進国である「英国」でもアヘン戦争後、アヘンの利益は 産業革命にまわりました。どうやって「産業革命」を遂行しながら 「巨大な軍事予算」を工面することができたでしょうか ? 産業革命にも「巨大な資金」が必要となります。1904 年に八幡製鉄所がようやく完成した ばかりで、まだ国内で機械を作ることができず、機械類はほぼ全部輸入品であったはずです。 民生用の機械も輸入品で軍事用の船舶も輸入品なのです。どのようにして 資金を工面したのでしょうか。アヘンに手を出したと考えるのが最も自然です。 しかも積極的に国策としてアヘンの輸出に手を出したというべきです。


ここで少し脱線して、英語版の Wikipedia に掲載されている製造業の国別生産高の 相対比率のグラフ (1750 年-1900 年) をご覧ください。 日本の生産高は相対的にはほとんど増えていません。この間むしろ減っているくらいです。 (だから、日本は実のところ産業革命に乗り遅れたのです。) また米国が 1830 年頃、まったく 0 に等しかったにもかかわらす1900 年頃に世界一になっていることがわかります。 ドイツもかなり増えています。

オリジナル : Image: Graph rel share world manuf 1750-1900
このグラフに、日本語名を挿入して次のグラフを作成しました



次のページも製造業の国別生産高の相対比率のグラフ (1880 年-1938 年) ですが、残念なことに日本は含まれていません (ここに掲載されている国よりは低かったことが確実)。 1938 年に米国が世界の 30 % を生産しているのがわかります。

Relative Shares of World Manufacturing Output 1880-1938

最初のグラフを見ると、19 世紀になって英国は日の出の勢いとなっており、アヘン戦争などしなくても よさそうに思えます。どういうことがおきたと思いますか ? 19 世紀に入ると、 英国には比較的豊かな市民が増え始めます。この人たちは中国製の陶磁器、茶を購入し始めます。 現在の米国と似たようなことがおき、一般市民は輸入品ばかり購入するようになったのです。 この結果、英国から更に大量の銀が中国に流出することになるのです。英国のみならず、欧米がすべて このようになります。つまり産業革命の結果、一過的には英国は赤字に転落するのです。おとろしや.... もうしばらくすれば、例えば日本は明治以後に英国から機械をじゃかすか購入し始めますから、英国としては これでよくなることになります。日本は欧米に追いつくために必死になりますが、差がつくばかりとなります。


もとの話に戻りましょう。台湾に関しては、

Japan as an Opium Distributor (アヘンの販売業者としての日本)

にも記述があります。台湾が麻薬に関しての拠点であったことを示しています。 この中で、筆者は1919 年、2月14日のニューヨークタイムスに掲載された記事を引用しています。 モルヒネに関連する記事ですが、少し長めに引用します。(翻訳です。)


1919 年、2月14日のニューヨークタイムスの記事


去る12月21日の North China Herald 誌のレポーターは

「日本政府は秘密裏に中国および極東の他の国におけるモルヒネの流通を育成している」
と告発して、更に次のように続けている
「日本はモルヒネ及びその製造と摂取に必要な器具を中国に輸入することに関しての禁止条約の 加盟国であるにもかかわらず」麻薬の流通は日本銀行の資金援助および中国における 日本の郵便の援助を受けている
と断言している。
もはやモルヒネはヨーロッパでは購入することができない
(訳注: モルヒネの売買が規制されたことを意味する)
とレポーターは書いている。製造の中心地は日本になり、モルヒネは日本人自身によって製造されている。 毎年、文字通り何千万円もの資金が日本のモルヒネの代金として、 中国から日本に送金されている .....
(訳注: 金額は当時のものですから、今日では非常に大きな金額です)

と記述し、更に次のように述べています。



南中国では、モルヒネは中国人の行商人によって売られている。 彼らは台湾人であることを証明するパスポートを保持し、従って日本政府の保護下にある。 中国における日本の薬屋 (ドラグストアー) はすべて大量のモルヒネの在庫を かかえている。日本の薬の行商人は巨額の利益を生むモルヒネに目がいっている。 日本人が優勢な場所ではどこでも、(モルヒネの) 商売が繁盛している。 大連経由ではモルヒネが満州と隣接する省に流通し、青島経由ではモルヒネが山東省、安徽省、江蘇省に 流通し、台湾からはモルヒネはアヘンとそれ以外の禁制品と共に、エンジンつきの漁船で 中国本土のどこかに運ばれ、そこから福建省と広東省の北部の至る所に配布されている。 ありとあらゆる場所で、治外法権の保護の下、日本人によって売りさばかれている。

(訳注: この場合の日本人は台湾人を含む)

ここに登場する台湾人は、台湾の暴力団だと思われます。アヘンは日本国内においては (当時の台湾を含む)、アヘンは政府の専売ですから、この台湾の暴力団は日本政府の 方針で動いていることになります。また 1919 年頃、台湾系の暴力団が日本のパスポートを保持して、 中国本土で活発に活動していたことを意味します。現在では外交官用の パスポートを所持していない限り治外法権ではありませんが、当時はどうだったのでしょうか ? 暴力団が外交官用のパスポートを持っていたことも考えられますし、 日清戦争の結果日本のパスポートを所持していれば、中国で治外法権だったかもしれません。


追加

最初これを書いた時は色々なことが不明だったのですが、 その後下関条約で締結された通商条約で、日本がアヘン戦争の勝利国と同じ待遇を得たことに気がつきました。 それで色々なことが明らかとなりました。
1. 最恵国待遇と治外法権
日本語版の Wikipedia (下関条約 -- Wikipedia) では、日本は「最恵国待遇」を得ることになったとしか書いてありません。 そこで英語版の Wikipedia (Extraterritoriality (治外法権) - Wikipedia) を調べたところ事情がはっきりしました。以下その部分的な翻訳です。


治外法権で歴史的に最も有名なものは恐らく、いわゆる 不平等条約の下で 19 世紀の中国と日本における ヨーロッパ国籍者に関連するものである。 第一次アヘン戦争の結果、南京条約で中国に治外法権が押し付けられた。 とりわけ、上海は 2 つの治外法権の領域である「国際居留地」(International Settlement) と「フランス居留地」(French Concession) があったため、外国人の活動の中心地となった。 この治外法権は公的には第二次大戦後にようやく終了したのである。

日本は「最恵国待遇」の名の下に、1858 年に締結された米国、英国、フランス、オランダそして ロシアとの条約で治外法権を押し付けられた。 しかしながら、1894 年にロンドンで調印された「日英通商航海条約」を通じて 西側諸国との不平等状態の改善に成功した。

中国における非外交官の治外法権は 20 世紀の様様な時に終止符を打っている。 ドイツとオーストリア・ハンガリーは中国が第一次世界大戦で連合国側についたときに 治外法権を失っている。ソビエトは 1924 年に中国における権限を放棄し、 米国と英国は 1943 年に権限を放棄し、イタリアと日本は 第二次大戦で中国と戦争状態となったため権限を放棄し、 最後にフランスは 1946 年に権限を放棄した。

要するに、この時代に「最恵国待遇」を得ることは、その国で「治外法権」であることを意味していたのです。

「日英通商航海条約」は 1894 年 7 月 16 日です。この直後に日清戦争が勃発し、 1895 年 4 月 17 の下関条約では、今度は日本が不平等条約を中国に押し付けることになります。 日本は「不平等条約」の被害国であると同時に加害国であるのです。 この「不平等条約」によって中国で麻薬を売ることができたのですから、 この事実は日本史の教科書では述べられることはないと思います (歴史の捏造)。

2. 日本の郵便局と麻薬
2008 年 3 月 18 日のインターナショナル・ヘラルド・トリビューン (IHT) の記事で 「ニューヨーク・タイムズの 1923 年までの記事がニューヨーク・タイムズのホームページで無料で読むことができる」 とあったので、早速探してみることにしました。 1919 年 2 月 14 日の記事は、ニューヨーク・タイムズの過去の記事の中から、"North China Herald" で 検索するとすぐに見つかります。 次の最初が検索で出てくるトップページ (記事の最初の部分), 2番目が記事全部です (PDF)。
◦ CHARGE THAT JAPAN AIDS OPIUM TRADE
◦ 本文 (PDF)

ここには今まで出てこなかった部分があります。少し引用します。事情が非常によくわかります。


中国におけるモルヒネの主だった配布機関は日本の郵便局である。 モルヒネは小包として輸入される。 中国における日本の郵便局の小包は、中国の税関の検査を受けることが許可されていない。 中国の税関が許可されていることは、日本の送り状に記載されている小包の中身と称するものを知ることのみである。 にもかかわらず、モルヒネはこの方法で、何トンも中国に持ち込まれた。 消極的に見積もっても、1 年を通じて日本が中国に持ち込むモルヒネの量は 18 トン程度にのぼり、 この量が着実に増加していることに関しての痕跡がある。
ニューヨーク・タイムズの記事は随分引用したので、全文を翻訳することにしました。
1919 年、2 月 14 日のニューヨーク・タイムズの記事


ニューヨークタイムスの記事に登場する場所の地図を描いてい見ると次のようになり、 海岸地帯に近いところはほとんど日本の麻薬が浸透していたことがわかります。 (地図は Wikipedia の地図から作成しました。)



外満州 - Wikipedia (極東ロシア) に 「1918 年から 1922 年までの間、日本軍は シベリア出兵に伴い、短期間ではあるが外満州と内満州 (いわゆる満州) とをあわせて支配した」とあります。 ニューヨークタイムズの記事は日本軍のシベリア出兵の頃に書かれたものです。 従って、日本軍は出兵するたびに麻薬を持ち込んでいることが非常にはっきりします。 つまり、日本軍は軍事行動を取れば必ず麻薬を持ち込んだようです。 軍事費の捻出のために他ならないようです。

台湾からもモルヒネを持ち込んでいますが、 「日本を経由した麻薬」で述べたように、台湾にはすでに星製薬のモルヒネ工場があります。 ここで製造されたモルヒネが中国になだれ込んだと考えて差し支えないようです。 極めて大量のモルヒネを星製薬が製造したことはほぼ確実です。 従って、モルヒネが痛み止めなどの医療目的ではなく「麻薬」として製造しているということを ちゃんとよくわかっていたと思います。

大連、青島経由のモルヒネはどこで製造されたものでしょうか ? 日本でモルヒネが出来るようになったにもかかわらず、アメリカからモルヒネを購入して中国に 持ち込んでいますから、この可能性もあります。 しかし、次の「アヘン帝国の興隆 -- 朝鮮」で、第一次大戦の終わる頃には朝鮮で大量のモルヒネが生産され、 これが満州を経由して中国で売りさばかれていたことがわかります。


注意
1. North China Herald は英国人のホンリー・シアマン (Honry Shearman) 等が 1850 年 8 月 1 日 に上海で創刊した新聞です。1864 年 7 月に North-China Daily News が創刊されると、 North China Herald は週刊になり、土曜日に刊行され、 North-China Daily News の補足の 形を取ることになります。そして 1941 年に太平洋戦争が勃発したときに廃刊となりました。 1919 年 5 月 4 に始まる「五四運動」 (The May 4th Movement) について書かれたページ
The May 4th Movement
でも North China Herald の記事を引用しています。かなり影響力があった新聞のようです。
2. モルヒネはアヘンから製造しますが、
Morphine - Wikipedia
によれば、製造過程で sulphuroic-acid が必要であると書いてあります。 これはタイプミスで硫酸 (sulphuric-acid) ではないかと思います。更に 水酸化アンモニウム (ammonium-hydroxide, アンモニア水) もしくは炭酸ナトリウム (sodium-carbonate) が必要です。当時、このような物質は化学工業地帯以外では入手できなかったと思います。 つまり、モルヒネ工場は化学工業地帯にあり、しかもアヘンの生産地に近い場所にあった。 ドイツ製の機械があればモルヒネの大量生産ができたようですから、原料さえあればよい。
3. (追加) あとで読み直してみると、言葉足らずであった点に気がつきます。 硫酸と水酸化アンモニウムは化学肥料の工場でできます。化学肥料の工場を作れば、 そこに住んでいる人たちにとって見ればとてもありがたい話ですが、モルヒネ製造の原料ともなりますから これは諸刃の刃であることになります。

もう少し上の文章からわかる点があります。「ヤクの運び屋」は麻薬中毒の可能性が高いです。 (今回色々と英文のページを探しているうちに常識になりました、) そこから判断すると、このページが書かれた頃台湾ではモルヒネが流通しており、モルヒネ中毒が 増えていたことがわかります。一般に「アヘン」の消費が少なくなったからといって 「麻薬の根絶」に近くなるわけではありません。「中毒地帯」では「アヘン」 の代わりに「モルヒネ」や「ヘロイン」の消費が増えることがあり、一般にはこうなる場合のほうが 多いようです。 従って上の文面だけから、この記事が書かれた頃「台湾」では「アヘン」の代わりに 「モルヒネ」が取って代わろうとしていることが非常に高い確率で断言できます。

何ゆえ、ここまで書いたのかというと、日本語の Wikipedia を調べているときに 「後藤新平」 ( 後藤新平 - Wikipedia) という人物に行き当たりました。「後藤新平」は台湾で「阿片漸禁策」 を取り、「アヘン」を成功裏に根絶したと書かれていました。 単に「アヘン」の代わりに「モルヒネ」になっただけと考えるほうが自然です。 日本語の Wikipedia では後藤新平が台湾総督府民生長官となったのが 1898 年で、 1906 年に南満州鉄道の初代総督となったとしています。 ニューヨークタイムスの新聞記事は 1919 年です。 従って、台湾においては麻薬の撲滅はおよそありえなかったであろうと断言して 差し支えないと思われます。 麻薬中毒は横行していたはずであり、日本国政府の金の卵の一つであったと想定されます。 素直に判断すれば「後藤新平」は台湾を食い物にする政策を提唱したのです。 個人的な事実ですが、子供のときに、終戦まで台湾にいた人から「台湾には 麻薬中毒が多かった」という話を聞いた記憶があります。

あとで「後藤新平」のことに関していくつかの記述を見つけました。「アヘン帝国」の一番最初に引用した本の紹介ページ

Opium Empire: Japanese Imperialism and Drug Trafficking in Asia, 1895-1945
(アヘン帝国:アジアにおける日本の帝国主義と麻薬の取引、1895-1945)

では、元の本から次のように引用しています。


1898 年の台湾の民生長官であった後藤新平は 台湾人のアヘン使用に関しての方針を決め、 一方で中毒していないものが中毒しないようにし、 他方ですでに中毒になっている者に関しては政府の管理下で引き続き使用を 認めるものであった。中毒している者は登録する必要があった。 しかしジェニングス (Jennings、本の著者) が説明するように、 1920 年代の後半には、アヘン中毒で登録していない者は登録している者と 同じくらいの数になった。台湾人の中にはアヘン使用を恥辱と感じる者はいなかった。 その結果、よく儲かる専売制となり、製薬局 (Medicine Manufacturing Bureau) -- 後の専売局 -- に協力をする御用紳士は国際市場から生アヘンを輸入し、 吸引用のペーストにして配布した。一時期アヘンの売り上げは台湾政府の 年収の 20 % 以上を占めるに至った。アヘンの売り上げは 1918 年にピークに達し、 800 万円以上であった。ジェニングズは 1897 年から 1941 年の 台湾政府の収入と、麻薬の収入を表にしている。

「御用紳士」とは何のことか意味が不明ですが、日本の統治に協力をした 台湾人のことではないかと思います。 少なくともこの文章から日本語の Wikipedia の「後藤新平」の記述が不正確であることがわかります。 また本の著者であるジェニングスは 「二反長 (にたんおさ) 音蔵 (おとぞう)」のことも書いているようです。 変わった名前の日本人で、漢字がわからず閉口しましたが、何度かトライして 正確な漢字にたどり着きました:

二反長音蔵 - Wikipedia

これによると、「二反長」の読みは「にたんちょう」で、二反長音蔵の子である二反長半次郎 (にたんちょう はんじろう) は小説家・児童文学作家でペンネームを「二反長 (にたんおさ) 半 (なかば)」というそうです。 二反長半の作品

『戦争と日本阿片史 阿片王二反長音蔵の生涯』 - 父・音蔵の生涯と彼が関わった戦前期のアヘン製造の記録。

から「二反長音蔵」のことがわかるようです。 「二反長音蔵」はケシの栽培とアヘン販売に携わったようで、英文の本の紹介ページでは「アヘン王」として 扱われています。しかも、 二反長音蔵 - Wikipedia には、「星一」、「後藤新平」がその協力者であると書かれています。 要するに、この 3 人は「麻薬王」なのです。「二反長音蔵」は満州、内モンゴルで 活発に行動したそうです。

後藤新平 - Wikipedia の記述が更に不正確であることも別の記述から見付けることになりました。 1898 年 (明治 31 年) に後藤新平は「台湾総督府民生長官」となっていますが、

後藤新平の阿片商売

によると、その 2 年前の 1896 年に「台湾総督府衛生顧問」になっているようです (但し、このページでは ミスタイプをしていて 1986 年になっている)。しかも、そうなった理由は


そのさらに前年の一九八五年、内務省衛生局時代に、内務大臣と首相兼台湾事務局総裁という立場の伊藤博文に対して、 大変な長文の「台湾島阿片制度施行に関する意見書」を提出していたからであった。

注意: ここの一九八五年も一八九五年のミスタイプです。
としています。このことに関しては別のページ
読者のページ~2005年4月~
(このページでは「二反長半」による「音蔵」の伝記などを参考にしています。)

にも言及があり信頼できると思われます。しかも、このページには次のようなことも記されています。


 また、二反長音蔵もケシ栽培を管轄する内務省衛生局長・後藤新平に建白書を提出します。 台湾を専売制にするには、アヘンを輸入しなければなりません。 インド・イラン・トルコなどから台湾に輸入されるアヘンは 明治31年では149t・171万円になりました。 音蔵はこのアヘンを日本国内で自給すれば、貴重な外貨の流出を防げると建白し、 そのケシ栽培を自分たちにやらせてくれと願い出て、認可されました。 つまりアヘンの専売制は、台湾でのケシ栽培禁止とセットになっていたので、 音蔵はそこに目をつけたのです。  こうして、音蔵たちの作ったアヘンは、台湾総督府に納められ、 それを使って星一はモルヒネを製造し、音蔵・新平・一は旧知の間柄になっていきました。

要するに後藤新平はもともと「ケシ栽培を管轄する内務省衛生局長」であったのですが 「アヘンで儲けること」を提唱して「台湾府衛生顧問」となり「台湾総督府民生長官」と昇進したのです。 更に、後藤新平の阿片商売 では「アヘン漸禁策」は後藤新平の創意ではなく、考え方としては台湾総督府の前任者の時代からあったとしています。

Opium throughout history

には次のような記述があります。


1878 年に英国は、アヘンの消費を削減する目的で「アヘン法」(Opium-Act) を 成立させた。新制度の下では、アヘンの売却は、登録された中国のアヘン喫煙者、 登録されたインドのアヘン食者に限定された。一方、ビルマではアヘンの喫煙は 厳格に禁止された。

訳注: インドではアヘンを食べたようです。

従って、台湾における「アヘンの専売制」は まさしく英国が植民地でしていたことの真似に他ならないことがわかります。 また文中で中国のことが出てきますが、これは中国における英国の植民地 (上海、香港など) の ことを指しています。また「アヘンの専売制がアヘンの消費の削減に役に立つ」などという、 ふざけた論理は英国の主張の受け売りであることも明白です。

もう一点、 後藤新平 - Wikipedia の記述から、満鉄総裁になってから


台湾時代の人材を多く起用するとともに30代、40代の若手の優秀な人材を招聘し、 満鉄のインフラ整備、衛生施設の拡充、大連などの都市の建設に当たった。

としています。「インフラ整備」ではほとんど確実にアヘンの儲けを使っているはずです。 こう考えると、後藤新平は「台湾総督府民生長官」であったときに、(英国の真似をして) アヘンの儲けで「台湾」 のインフラ整備を実行し、更に「満鉄総裁」となってからもアヘンの儲けで「満鉄」の インフラ整備をしたことになります。このようなことを積極的に推し進める考えを持っていたからこそ、 「台湾総督府民生長官」にもなり「満鉄総裁」にもなったのではないでしょうか ? 後藤新平は 1919 年 (大正 8 年) に拓殖大学の学長になっていますが、 拓殖大学の前身は台湾協会学校ですから、これの設立にもほぼ確実に麻薬の儲けが使われている ことになります (植民地におけるインフラ整備は麻薬の儲けに依存している)。


注意
一般に通常の方法では、植民地はもうかりません。 一応これは一般的によく知られた話だと思うのですが、念のため その一つの例を挙げることにします。 ジブラルタル - Wikipedia は現在でも英国の植民地です。かなり以前の英字紙で英国はジブラルタルをスペインに 返却したいらしいと書いてありました。往時はここは戦略上の拠点だったのですが、 近年は、英国政府からすると金食い虫になっており、領有権を手放すほうが経済的に 得策であるようでした。しかし、住民投票の結果は英国領であること望む声が多かったのです。 英国領であるほうがよい生活ができるからのようですが、逆に言えば英国からすると 経済的な損失となるようです。
最後に、ニューヨークタイムスの記事で思いつくことを色々列挙します。
1. 一般に、日本語の Wikipedia では、第二次大戦に関する記述はとても不自然です。 「阿片漸禁策」によって、麻薬の根絶ができるわけがありません。 しかし、ここに述べているようなことは日本の報道では一切否定されることが目に見えています。 後藤新平は東京放送局 (のちの NHK) の初代総裁 (1924 年) になったようですから、とりわけ NHK はあくまでも否定するはずです。


2. 1912 年のハーグにおける国際条約 ( 万国阿片条約 ) について、一点付け加えます。 第一条では加盟国は「生アヘンの生産と流通を制限するための効果的な法律ないしは規則を制定する」 ことが義務付けられているようです。日本もその条約の加盟国であったため、見かけ上は条約を遵守する立場で あったはずです。従って「アヘン専売法」にせよ「阿片漸禁策」にせよ、見かけ上は麻薬抑制を目的としたもので あるとされたはずです。
3. 青島はドイツの租借地でしたが、第一次世界大戦が始まるとすぐに日本に占領されます。 ニューヨークタイムスの記事から判断すると、その直後から青島経由で、モルヒネを中国に 持ち込んでいたと考えるほうが自然なようです。 従って日本軍は占領すればすぐにも麻薬の活動を開始した。 一方でドイツは各国が万国阿片条約の批准を遅らせるようにしむけています。 従って、ドイツも麻薬で儲けていたと考えるほうが自然で、 そのため青島はドイツの麻薬ルートであった可能性があります。従って青島占領と共に日本がその麻薬ルート を引き継いだと考えることもできます。無論規模を拡大したことは言うまでもないことです。
4. ここで引用されているニューヨークタイムスの記事はとても有名なようです。他でも引用されています。
The Japanese Drug Supply (日本の麻薬の供給)


アヘン帝国の興隆 -- 朝鮮

以下述べることには「興亜院」が登場します。例によって年表を付け加えます。

1879 アヘン専売法
1894 - 1895 日清戦争
1895 台湾が日本の支配下
1904 - 1905 日露戦争
1906 南満州鉄道 (満鉄), 日本の会社
1910 日韓併合(朝鮮半島が日本の支配下)
1911 辛亥革命
1914 - 1918 第一次世界大戦
1914 日本はドイツの租借地の青島を占領
1919 ベルサイユ条約
1918 - 1922 外満州、内満州支配 (シベリア出兵)
1922 日本は中国に青島を返還
1920 年代 中国北東部で日本の商人たちが麻薬取引
1929 世界恐慌
1931 満州事変
1932 満州国設立
1933 国際連盟から脱退
1936 興亜院の設立
1939 里見機関の設立
〃 独、ポーランド侵入
1941 真珠湾攻撃
1945 日本の降伏

Korean Opium for Japan's Wars (日本の戦争のための朝鮮のアヘン)

における、朝鮮に関する記述に移りましょう。書いてある内容は以下の通りです。



朝鮮北部ににおけるアヘン畑に関してはほとんど報道されていない。 (日本による) 占領下では 朝鮮の北部で農民たちは強制的にアヘンを生産させられていたが、 これは中国における「アヘン作戦」のためであった。 この秘密の「アヘン作戦」は 日本の公式な組織である「興亜院」 (China Affairs Board) の命令のもとに 東京政府の国策として完全に承認されて実施された。

訳注 : (1) アヘン畑というよりケシ畑というほうが正確ですが、原語でアヘン畑 となっています。雰囲気がよく出ていると思います。
(2) 原語では China Affairs Board となっていますが、興亜院 のことと思われます。これはあとで確認できました。 (「Japan Times に載った記事、その 1」をご覧ください)


興亜院は中国における占領地の政治、経済、文化面の責任を取った。 興亜院は近衛文麿 (Prince Konoye) と 当時の戦争、海軍、経済、外交に関連する省の代表によって運営された。 日本のアヘン取引は中国人の抵抗する意思を弱体化し、そして 日本の軍事、経済進出の資金を提供することを目的とした。
訳注 : 「アヘン取引」という訳語はよくないかもしれません。原語は「opium trafficking」で、 ずっと犯罪色が強いような気がします。

アヘンの生産地は現在の北朝鮮のようです。 現在の北朝鮮による麻薬の輸出と何らかの結びつきがある可能性があります。 「興亜院」は昭和 13 年 (1938 年) にできた組織で、 「政務・開発事業を統一指揮する為に設けられた」ようです。 従って、それ以前から「アヘン作戦」は実施されていたと考えるほうが適切で、 「朝鮮」においては日韓併合の直後からこのような活動があったと考える方が自然です。

日本語の Wikipedia によると、興亜院の長は総裁で内閣総理大臣が兼任しています。従って「アヘン作戦」 は日本国政府の方針です。

さて「アヘン作戦」とはどのようなものなのでしょうか ? 上で引用したページには 記述がありませんが、色々な英文のページから判断するとつぎのようなものです。


1. 必要とあれば、無料でアヘンを敵地にばらまきます。 (アヘン煙草とでも言ってよいと思うのですが、 箱に入っており、簡単に手渡しができたようです。)
2. これでアヘン中毒を蔓延させます。
3. ころあいを見計らい、戦争をふっかけます。敵の兵士がアヘン中毒ばかりであれば、 これで簡単に勝利できます。(これが関東軍の戦争の仕方でした。)
4. 占領した地域で、更に大量にアヘン中毒を作ります。
5. これでいくらでもアヘンが売れることになり、戦費が確保できることになります。

これって、戦争ですかね ? 暴力団の手口と似ていると思いませんか ?

最近では暴力団もあまり表立って、こんなことをしませんが、 麻薬中毒にしておいてから搾り取るのは基本的に暴力団の手口です。 だからこれは「麻薬テロ」です。そして、これが日本国政府の国策であったようです。 従って、当時の日本は「国」とは呼べないと思います。むしろ「暴力団」と呼ぶべきで、 「戦争」によって「占領地」が増えるというよりは、 「暴力団の抗争」によって「麻薬取引の縄張り」を広げるものであったと言ってよいと思います。 その意味からは「興亜院」は暴力団の組事務所の規模を大きくした組織で、 当時の日本の内閣総理大臣は「暴力団組長」と考えたほうが事実に近いと思います。

「アヘン帝国」の最初に引用した本の紹介ページ

Opium Empire: Japanese Imperialism and Drug Trafficking in Asia, 1895-1945
(アヘン帝国:アジアにおける日本の帝国主義と麻薬の取引、1895-1945)

には「朝鮮」に関することも記述していることに気がつきました。付け加えます。


朝鮮では、アヘンが 1914 年に禁止されるまでに、 モルヒネが麻薬中毒の選択肢として取って代わっていた。 そして 1929 年までは、支配国である日本はモルヒネを抑制する法律を 制定しようとはしなかった。第一次大戦の終わる頃には、 日本の専売制の下における麻薬の生産は多量の余剰を作り上げていた。 これは、満州における日本の占領地 と北部中国を経由して、中国で成功裏に売りさばかれた。 日本が「中国」の至る所に麻薬を密輸することを止めさせようとしなかったため、 国際連盟でごうごうと非難を受けた。ジェニングスはいかにして 日本が、よく儲かる政府の専売によって、中国における麻薬の使用を 奨励したのかを説明している。彼は、中国における占領地から、 世界的な規模での麻薬の売買を遂行することが日本の計画であったと断言をしている。 ジェニングスの語るところでは、ラッセル・パシャ (Russell Pasha) は 1937 年の国際連盟の「アヘンに関しての諮問委員会」の議場で 「世界中の非合法の麻薬のほぼすべては日本に責任がある」と断言をしている。


注意
1. 1912 年のハーグにおける 万国阿片条約 - Wikipedia の結果、見かけ上は麻薬撲滅に協力しなければいけないため、1914 年にアヘンが禁止されたのでしょう。 しかし、代わりにモルヒネとなっていますから、これは単に見せかけ以外の何物でもありません。
2. 第一次大戦は 1914 年に開始して 1918 年に終了しています。第一次大戦の終わるころ 朝鮮で麻薬の余剰ができたと書いていますが、 1914 年にアヘンが朝鮮で禁止されていたと書いてありますから、 この「余剰の麻薬」はモルヒネのはずです。 従って、第一次大戦が終了する頃には、 すでにモルヒネ工場が朝鮮にあったことを意味しています。 ところが、日本におけるモルヒネの大量生産は第一次大戦開始後のことで、当初は星製薬の 独占でした (台湾)。これ以外の製薬会社がモルヒネの大量生産を開始するのは 1917 年です。 おそらく、このときに朝鮮にモルヒネ工場ができたと思われます。 そうすると 1917 年までモルヒネをどのようにして手に入れていたのでしょうか ? 「日本を経由した麻薬」で紹介をした欧米のモルヒネの 一部が朝鮮に持ち込まれたのに相違ありません。
3. 1929 年頃から、日本は朝鮮でモルヒネ使用を抑制しようとしたと書いてあります。 しかし本当の意図がそうであるか否か少し疑問です。 1929 年は世界恐慌が起きた年で、これ以後世界的に麻薬が売れなくなり、価格が下落するためです。 1932 年に満州国ができ、中国侵略が開始されるのもこの世界恐慌の影響だと思われます。 あとでわかりますが、このときに満州国では数千人以上の朝鮮人の麻薬の売人が投入されます。 すると、満州帝国が設立された頃、麻薬の活動の中心地を 朝鮮から満州に移動したようです。 しかし、麻薬中毒が一瞬にして消えうせることはありえませんから、 朝鮮内部でもある程度の麻薬の活動が残ったと思われます。

4. 朝鮮のモルヒネが中国で売りさばかれたことに関して次も注意する必要があります。

対華21ヶ条要求 - Wikipedia (1915 年)
これは、第一次世界大戦で日本がドイツの植民地である青島などを占領したあとで、 中華民国の袁世凱政権に要求したもので、最大の要求は「ドイツが山東省に持っていた権益を日本が継承すること」 ですが、それ以外にも「日本人が南満州で自由に往来できて、各種の商工業などに自由に従事すること」があります。 この日本人には朝鮮人が入ることに注意してください。従って朝鮮におけるヤクの売人が自由に行き来でき、 また麻薬を自由に売りさばけることになり、 麻薬の密輸に極めて好都合であったことになります。 (日本はヤクの売人には日本人を使ってはいません。日本人が麻薬中毒になることを恐れたためです。)

「アヘン帝国の興隆 - 台湾」で述べたように 1919 年には日本のモルヒネが青島と大連経由で中国に なだれ込んでいますが、これは「対華21ヶ条要求」を中国が受け入れた結果ではないかと思います。 つまり、「対華21ヶ条要求」は軍事的な要求に見えますが、実は麻薬を中国に持ち込むことを 前提にした要求であったとも考えることができます。


少し疑問になることがあります。それは日韓併合が 1910 年である点です。 併合後わずか 7 年でモルヒネの製造を開始し、それを輸出に回している。 あまりにも事態の進展が急であるように思われます。 しかし、この疑問点は次の記事ではっきりしました。

Country Guide : KOREA (washingtonpost.com)

朝鮮の歴史について書かれている箇所を部分的に翻訳します。


日本の支配は日清戦争 (1894 - 95) と日露戦争 (1904 - 5) のあとで強化した。 日露戦争の時には日本の軍隊は満州を攻撃するために朝鮮を通った。 この軍隊は決して撤退することがなかった。そして 1905 年に日本は 朝鮮を保護国とすることを宣言し、そして 1910 年に正式に朝鮮を併合した。

つまり、日露戦争が始まってから、日本軍はずっと朝鮮に居座っていたのです。 日本は戦争をするたびに麻薬を持ち込んでいますから、1904 年以後、朝鮮は ずっと麻薬漬けであったと思われます。恐らく当初はアヘンで、そのうち 欧米のモルヒネとなり、終にはモルヒネを朝鮮で生産することになったのでしょう。

満州ではモルヒネどころかヘロインも登場します。これは、アヘンでは 中毒になるのに時間がかかるためなのです。多分同じ理由から、朝鮮でもアヘンよりは 効き目の速いモルヒネを使用したのでしょう。

1905 年に日本が朝鮮を保護国にしたという記述は次にも見られます。

朝鮮の歴史 - Wikipedia

この件に関しては次も参考にする必要があります。

桂・タフト協定 - Wikipedia
(米国がフィリッピンを手に入れ、日本が朝鮮を手に入れる。日米間の秘密協定)

アヘン帝国の勝利 -- アヘン撲滅運動とその敗北

最初は次のページ

The Tarnished Crusades (汚れた聖戦)

の最初の部分だけ読んで記述していましたが、このページに書かれていることは とても多く、簡単に判断できないことに気がつきました。 全部に目を通そうとすると、とても大変なので、最初の主だった箇所を翻訳することだけにすることにします。



1906 年、中国政府はアヘン撲滅運動を開始し、アジアにおける麻薬取引の進展に関して、 3番目の大きな流れが開始された。英国政府が公認してきた麻薬取引がついに消えうせ、一時的にではあるが、 徹底的に (アヘンが) 消えうせた。しかし、アヘンが希少となるにつれ、 そしてそのため金を使いまくる麻薬中毒者が代替物を渇望し、更には病気の治療で探し求める者が増えるにつれ、モルヒネ、 ひいてはその派生物であるヘロインが登場することとなった。 また、中国のアヘンの供給が一時的に停止したため、東南アジアの麻薬取引のパターンが変化した。

1906 年の皇帝の布告により、10 年間で中国のアヘン問題を撲滅することが発表された。中国の外交官である Tang Shao-yi は、彼自身がアヘン中毒から社会復帰した人であり、すでに 1904 年に英国政府と交渉を 始めていた。英国帝国政府は 1908 年に有効となる条約を締結し、インドから香港、中国へのアヘンの 輸出を徐々に減少することに同意した。 しかしながら。多くの英国政府の官僚は -- とりわけインドを支配していた官僚は -- この決定に心から歓迎したわけではなく、効果的な撲滅運動に関しての中国の決意と能力に疑念を表明し続けた。 中国で (アヘンを) 製造するようになってからは、インドの (アヘンの) シェアが減少し、 アヘンはもはや、中国貿易で重要なものではなくなっていた。しかしインド政府はまだ中国にアヘンを売ることによって 年間 300 万ポンドの収入を手に入れていた。インドの経済省の言い分では

もしも、我々が長年の間甘受しつづけた収入を犠牲にしてまで、中国政府に協力することを 要請されるのであれば、我々としても、我々の利益となるように極力配慮し、我々に不都合とならないような 方策を取る事を要求する権利を持つ。

英国帝国政府は、中国政府が外国のアヘンを差別するような方法を取るのであれば断固反対をすると主張した。 この事実は、英国は、政府の利益のための「アヘン専売」の技を完全なものとしていたが、 中国政府が、輸入したアヘンあるいは国内で産出したアヘンを統制し、削減することを目的にして 「アヘン専売」を導入することに、断固として反対したのである。 撲滅運動が開始された年には、中国がアヘンの販売を制限したため、 アヘン商人たちが怒り狂ってわめきたてた事件が随分あった。アヘン商人たちが英国政府の官僚の庇護を受けている点に関しては ほとんど変化がなかったのである。

アヘン撲滅運動は 1911 年の革命以前に中国政府が取り組んだ 全ての改革の中で最も成功したものであった。 非常に多くのアヘン屈が閉鎖され、そして多くの場合に、地方官僚は効果的に行動して、(ケシの) 栽培を除去した。 撃退運動が力を強め、(アヘンの) 供給が少なくなると、結果として価格が高騰した。 儲けることを視野において、英国は、インドから中国への輸出を制御することはせずに、単に削減することを 同意したのみであった。 この違いは明白で、インドからの輸出は 1907-1911 年において、実際は若干増加したのである。

にもかかわらず、英国政府の態度には変化が起きていた。 1909 年、上海で国際会議が開かれ、植民地支配の国に対してアヘンの貿易を中止するように 圧力が加えられた。 英国政府の官僚たちは、中国の (アヘン) 撲滅運動が効果を示していることの証拠を提供し、 より懐疑的な同僚たちも無視することができなくなることになった。 インド政府でさえ、アヘン商人たちの不満をあびせかけられていたものの、もっと急速に禁止することに あまり反対しなくなっていった。

訳注: 1909 年の上海の国際会議に関しては THE HISTORY AND DEVELOPMENT OF THE LEADING INTERNATIONAL DRUG CONTROL CONVENTIONS を参照のこと。 万国阿片条約 - Wikipedia には「万国阿片委員会」として紹介されています。

その結果、1911 年に中国と英国はインドのアヘンを輸出することに関して、より厳しい制限を加える 2番目の条約を締結した。更に、英国と中国の合同の視察で、域内における (アヘンの) 生産が 中止された省に関しては、英国のアヘンは排除された。 1911 年から 1915 年にかけて、中国のほぼすべての省から、少々性急な視察があるにせよ、ないにせよ、 外国のアヘンが消えうせた。インドから密輸されるアヘンが少々表面化することは あったが、大規模な公的な (アヘンの) 貿易は終に終焉を迎えたのである。

利用できるアヘンの量を削減することに伴い、中国の撲滅運動は大量のモルヒネの 登場を招くこととなった。このモルヒネはヨーロッパにおいて中東のアヘンから精製されたものであった。 モルヒネはアヘンの主要な麻薬成分であるが、モルヒネ中毒の危険性に関してはすぐには 気づかれることがなかった。1880 年代には中国におけるヨーロッパの宣教師は、アヘン中毒の 治療のためにモルヒネを使用し、「イエスのアヘン」と名前が付けられていた。1902 年に至るまで 中国へのモルヒネの輸出には制限が加えられなかった。.....1903 年以降、重税が課せられ、 流通が地下にもぐった。

撲滅運動の最中に、モルヒネは治療法としても麻薬としても使用された。 モルヒネはアヘンの喫煙者よりも発見が難しかった。 もっと重要な点は、モルヒネはアヘンよりもずっとよく効き、密輸するのにとても簡単であったため、 極端に安かった。1909 年、英国政府の化学者はモルヒネを飲み込めば、アヘンの喫煙と同じ麻薬効果がある -- しかし 10 分の 1 の値段で -- と報告している。 中国の中毒者はモルヒネを飲み込んだり、吸ったりすることを好んだが、注射器を使えばもって安くなった。 注射器では 1 オンスのモルヒネは 1000 回分 から 2000 回分になる。しかしながら、一般に、 中国で最も貧しいものが麻薬を注射器で摂取した。

最初は、中国に侵入したモルヒネは、欧米のもので、これは日本を経由していた。 日本政府は国内ではモルヒネ使用を厳しく制限していたが、 日本人たちは中国でモルヒネを販売するようになり、後には中国で生産するようになった。 1920 年までに、日本経由で一年間で中国に持ち込まれるモルヒネの量は、ある評価によれば、 中国人一人当たり 4 服分に足るものであるとされている。

......中略 .....

中国は一つの国ではなくなった。北京で中国政府を主張する政府 (軍閥、warload) がいくつも現れ、 ますます弱くなり、ただ名前のみとなっていった。 軍隊には資金が必要であった。1918 年における見せかけの政府は、 よく儲かるアヘンの取引の復活を奨励した。.... 中略 .......

英国領インドが、中国市場へアヘンを輸出することを停止することについに余儀なく同意したが、 東南アジアの他の植民地の「(アヘンの)専売」に (インドのアヘンを) 売ること、および 東南アジアの他の植民地の「(アヘンの)専売」が (中国に) 輸出することに関しては このような制約が課されてはいなかった。 そのため (アヘンの) 商売が繁盛した --- 中略 --- 植民地国家が麻薬の取引に関しての国際的な非難を無視できなくなったとき、 政府の (アヘンの) 専売はアヘンの制御のためであると宣伝され、 公的に推し進めることによって、利益を得続けたのである。 ---- 以下略 ----

上の話に続いて、辛亥革命後の中国各地の軍閥 (warload) の話、上海のヘロイン、外国人が果たした役割、 蒋介石の話などが続きます。あまり長くなるのでここらでおしまい。


追加
文中で出てくる Tang Shao-yi の漢字表記は 唐紹儀 のようです。
1. Tan Shaoi - Wikipedia
2. CAMPAINS: China Man - Time

これは中国の側から見た事件の姿です。日本の側から見れば、麻薬王(二反長音蔵、後藤新平、星一) あるいは製薬会社の策謀が見えるだけなのですが、...いずれにせよ、アヘン帝国が中国の 「アヘン撲滅運動」に勝利したことになります。「このとき歴史が動いた」のです。

Opium throughout history

によれば、1843 年にエジンバラのアレクサンダー・ウッド (Alexander Wood) 博士が モルヒネを注射器で摂取する方法を発見したとのことです。 最初は、医療目的であったようです。上の記事と比較すると「モルヒネを注射器で摂取する方法」 はすぐには広まらなかったようです。注射器を大量生産していなかったためかもしれません。

syringe - Answers.com

によると、注射器の大量生産は 19 世紀後半に始まるようです。

英国は、インドのアヘンを中国領には持ち込まなくなりましたが、 植民地 (上海、香港) などではアヘンの専売制を続けています。

アヘン帝国の支配構造

「満州帝国」(manchukuo) と「アヘン」(opium) を AltaVista で検索すると色々なページが検索されます。 例えば、

Annotated Bibliography Part 6

ここには次の本が引用されています。 (題目は「日本とアヘンの脅威」とでも訳すべきです。)

Merrill, Frederick T. Japan and the Opium Menace.
New York: Institute of Pacific Relations and the Foreign Policy Association, 1942.

この記事の一部を翻訳します。これは 1938 年の 5 月初旬の日本軍の占領下における中国中部のアヘンの事情に関して まとめた部分です。 完全に事態を把握できていないので、うまく翻訳できませんが、 恐るべきことが起きていたことがはっきりします。

記事の翻訳をする前に少し予備知識が必要です。 1937 年 12 月に日本軍が南京を占領し、その直後、かの有名な南京大虐殺がおき、 数ヶ月後の1938 年 3 月 28 日に南京に傀儡政権

中華民国維新政府 - Wikipedia

が設立されています。記事の内容はこの 1, 2 ヶ月後のことで、中国中部と言っているのは南京の傀儡政権の統括する地域 (江蘇省、浙江省、安徽省 + 南京市、上海市)のことでしょう。

Wikipedia の地図から作成した地図



また記事の中では、麻薬が大連と天津から輸入されたとしています。日本語版の Wikipedia によると北京に傀儡政権

中華民国臨時政府 (北京)

が 1937 年 12 月 14 日に成立したとあります。英語版の Wikipedia には統括地域は

河北省、山西省 + 北京市、天津市 + 一部の内モンゴル

とあります。ここに天津市が含まれていることに注意します。以上で予備知識はおしまいです。記事の内容に移りましょう。


1. 中国政府によって設置されたアヘン撲滅のための 政府部局が日本人もしくは日本人によって 設置された傀儡政権の干渉によって事実上機能が停止した。
2. アヘン、ヘロイン及びその他の麻薬の輸入が 完全に自由になった。 ありとあらゆる大量の麻薬が -- とりわけ日本の支配下にあった大連と天津から -- 輸入された。
3. アヘンとその他の麻薬は問題としているすべての地域に 自由に配布され、例えば南京のように、 それまではまったくアヘンが見られなかった地方や都市で公然と 取引されるようになった。
4. アヘンの専売事業は、日本人と朝鮮人のアヘン組織の系列に 集約された。彼らは日本政府及び傀儡政権と親密な関係により、きわめて強力であった。 新たに組織化された中国のアヘン組織は、 一つの都市全体 -- 例えば蘇州市 -- の麻薬ルートの統括をまかされた。
訳注   訳しにくいので「アヘン組織」としましたが、原語は opium ring です。opium は「アヘン」で、ring は「ギャング」の 意味です。だからこれは「アヘンを扱っている暴力団」の意味です。

5. アヘンや他の麻薬の末端の売人には、中国の最も低い身分に 属し、日本の植民地である上海にいた者が採用された。 彼らの多くは犯罪者であった。 この麻薬販売の特徴点は、売春婦をしばしば雇ったことにある。 売春婦たちには中国籍のものも日本籍のものもおり、 また日本兵によって連れまわされて破綻した中国の女性もいた。
訳注   日本籍のものには、台湾人も朝鮮人も含まれることに注意してください。

6. 日本によって設置された傀儡政権は麻薬取引の 収益を公然とアヘン窟のライセンス料として徴収したり、 支配的なアヘン組織からの上納金として獲得した。 多くの中国人の地方官僚は麻薬売買に直接関与することで 報酬を得た。
7. アヘンやその他の麻薬は、中毒していない人や 麻薬摂取をしたくない人にも強制的に摂取させた。 アヘン摂取に関してのプロパガンダ (訳注  健康によいなどのでまかせ) があり、 中国の労働者は頻々として麻薬の形で給料の一部を受け取っていた。
8. このような事態の結果、アヘンと麻薬の消費は急激に増大し、 麻薬中毒が広範囲に広がることとなった。

この記事からわかることは、日本政府は麻薬を売るために、 日本や朝鮮の暴力団組織を使って麻薬ルートを作り、麻薬の直接の売人は 中国の暴力団を使ったことがわかります。上の記事には直接「暴力団」とは 書いてありませんが、麻薬の売買を常日頃から手がけている人たちを使ったことが 明白で、日本語ではこのような人は暴力団と呼ばれると思います。 (英文のページには「ヤクザ」の記述も見られますが、最近の日本語では「ヤクザ」 とはあまり言わずに「暴力団」と言っていると思います。)


注意
あとで、わかりますが満州では何千人もの朝鮮人がアヘン屈で働かされていました。 従って、ほぼ確実に、満州の売人たちが中華民国維新政府の統治下に投入されたようです。 麻薬の売人は麻薬中毒になる可能性が多いです。そのため、直接日本人を売人にすることはなかったようです。

追加
満州の売人たちが投入されて理由は、つぎのように考えると説明ができます。 まず世界恐慌により麻薬の価値が下がり、 朝鮮半島の麻薬の売人と関東軍の収入が激減し、 その結果、満州に進出し、満州国が設立されます。 このとき、朝鮮半島の麻薬の売人は関東軍と行動を共にします。(こうしないと飯が食えない) しかし、満州国においては農民たちの骨の髄まで絞るようなやりかたで、 麻薬で絞りたてますが、おそらくこのようなことをすると社会全体が貧しくなり、 結果として、麻薬の売れ行きがじり貧となる可能性があります。 また世界恐慌後も麻薬の単価がどんどん下がった可能性もあります。 こうなると再び、麻薬の売人と関東軍の収入が減ることになり、 新天地を求めて、日中戦争を吹っ掛けた可能性があり、 占領地で再び満州でしたことと同じことを繰り返そうとしたと考えられます。 麻薬の単価が下がっていれば、よりひどいことをしなければならなかった可能性があります。
また各「暴力団」は一つの (都) 市を縄張りとして与えられていることがわかると 思います。したがって、今日の広域暴力団の下部組織に類似しています。

最初に、この記事を読んだときは愕然としましたが、よく考えてみれば当たり前で あることがわかりました。末端の麻薬の売人はギャングないしは暴力団です。 普通の人が麻薬の売人にはなれませんから、これは当たり前です。 通常、商品の流通過程では「卸」があって「小売」があります。 末端の麻薬の売人は「小売」です。「卸」になることが出来る人は普通の人でしょうか ? まず間違いなくギャングないしは暴力団で、当然、広域暴力団の構造と似ることになります。 末端の売人は中国人に売るのですから、中国人の方がよいですが、「卸」の売人は、一応誰でも儲けたいですから 日本人ということになりそうです。これも広い意味の日本人 (朝鮮人、台湾人) でよいはずです。

文中には日本人、朝鮮人が登場しますが、これは恐らく麻薬の産地の理由からです。 あとで見るように、満州における麻薬の産地は熱河省と吉林省です。

天津は熱河省に近いので、文中に登場する天津経由のアヘンは熱河省のアヘンのようです。 あとで見るように満州には何千人もの朝鮮人がアヘン屈で働かされていましたから、 麻薬の「卸」を担っているのが日本人であっても朝鮮人であっても不思議ではありません。

さて大連経由の麻薬はどうでしょうか ? 近くには吉林省があり南満州鉄道で結ばれています。 しかし、今まで見てきたように北朝鮮にはアヘンの産地がありました (場所は不明ですが、モルヒネなどの 理由から、あるとすれば、鴨緑江南部の重化学工業地帯の近くです)。 しかし、満州国ができてから以後は麻薬の活動の中心地が、朝鮮から満州に移動したようですから、 多分、吉林省の麻薬だと思われます。


注意
国と暴力団とのかかわりは、それほど不自然ではありません。 現在の北朝鮮のことを思い出してください。北朝鮮は麻薬を輸出していますが、 その日本における窓口が北朝鮮系の暴力団であることはよく知られていることです。 このため北朝鮮系の暴力団は資金面で祖国に貢献していることになります。 この点から第二次大戦前および戦中の日本は現在の北朝鮮と似ているといえるかもしれません。
アヘン帝国の支配者たち

この項目は、「満州国」に関するもので、直前の「アヘン帝国の支配構造」は「中国中部」に 関するものです。最初にこれを書いたときは地理的な違いに気がつかずに書いていました。 しかし、どの地域でも末端の麻薬ディーラーは中国人のようです (当然ギャング、あるいは暴力団)。 そして、中間に「卸のディーラー」がいます。「アヘン帝国の支配構造」では、これも (朝鮮もしくは日本の)「暴力団」です。 常識的には「満州国」の「卸のディーラー」も暴力団であったと考えるほうが自然です。以下これを前提にします。

事実をまとめるために、もう一つの記事を引用します。英語版の Wikipedia で 色々調べているうちに、1 週間以内に途中で次の記事の内容が変わりました。

Economy of Manchukuo (満州国の経済)
アヘンに関する箇所はこのページの下の方にあり、次をクリックすると該当箇所に行きます。
Economy of Manchukuo (満州国の経済のアヘンの項)

最初はこの記事にアヘンの内容が記載されて いませんでした。少し妙だと思ったのですが、色々調べていくうちに記事の内容が 基本的に変化しました。現在のページにはアヘンのことが記載されています。 但し「この記事が正確かどうかに関しては議論がある」(The factual accuracy of this article or section is disputed.) の一文が付けられていて、以前のページにリンクが張ってあります。 (追加:2009 年 10 月にはこれは消えています。正しいと判断されたようです。) 以前のページには今述べたように英語圏では常識化している満州帝国のアヘンの記述がありませんから、 現在のページの方が信頼性があると思われます。 決定的な個人名が登場します。少し紹介をします (翻訳)。 1932 年の 3 月 1 日に満州国ができていることを予備知識にしてください。



1932 年 の 11 月には組織化されたアヘンの専売があり、 三井財閥が、さもこれが国内における麻薬の多量の消費を抑える目的のためとか称して、アヘンを栽培していた。 固定された栽培地が熱河省と吉林省の北西に設定された。 1934-35 年の間の栽培面積は 480 平方キロメートル、1 平方キロメートルあたり 1.1 トンを生産していたと評価されていた。 また、多くの非合法の栽培もされ、非常によく儲かるため、この危険な麻薬を効果的に抑制することに障害となった。 秘密の日本人の商人のグループである "Nikisansuke" が関与した。

このグループは以下から構成されていた。 (訳注 : 英文の Wikipedia 内にリンクが張ってあって日本語表示があるものは日本語表示もつけています。)
1. Hoshino Naoki(星野 直樹) (noted Japanese Army thinker)
2. Tojo Hideki (東条 英機) (Japanese Army politician and leader in nation)
3. Kishi Shinsuke (Merchant and right-wing supporter)
4. Matsuoka Yosuke (松岡 洋右) (Japanese Army follower and foreign affairs minister)
5. Aikawa Gisuke (Japanese Chairman of Manchukuo Zaibatsu)
6. Kuhara Fusanosuke (Right-wing thinker)

専売は、1 年あたり 2000 万円から 3000 万円の利益を生み、満州国の産業発展に資金供給をした。

軍隊は兵士によるアヘンと麻薬の使用を禁止したが (これを破れば、日本の市民権を剥奪された)、 劣等種族の士気をくじくために使用することには許可を与えた。

関係者の一人である星野 直樹は満州国のアヘン専売局の儲けを抵当にして、 日本の複数の銀行から多額のローンを取り決めた。 別の当局者によれば、満州国の分も含め中国全体の麻薬の収入は日本軍によって年間 3 億円と評価されている。

類似の、アヘン専売制は日本が支配したアジア全体にあった。
1. アヘンの産地は以下の通りです。




以下は英語版 Wikipedia の 満州国の地図 の縮小図です。日本語で書かれた地図です。


2.「商人」(merchant) は少し変なのですが、あとで別の理由が判明します。 「Japan Times に載った記事、その 4」をご覧ください。 しかし、次のように考えてもよいです。ギャング映画でギャングのボスがマーチャント(merchant、商人) と呼ばれていれば、 ほとんど確実に「ヤク」を扱っている奴のことです。 映画ではギャングたちはビジネス(buisiness、仕事) という言葉もよく使います。これは「ヤク」の取引です。 英語は使われる局面で意味が基本的に変化してしまいます。今、麻薬の話をしています。裏世界の話です。 だから、この場合にマーチャント(merchant、商人) は特別な意味を持つことになるのです。

秘密の日本人の商人のグループの "Nikisansuke" とはいったい何のことでしょうか ?

私立PDD図書館、百科辞書、「に」

には次のような解説があります。


「にきさんすけ」(ニキ三スケ) とは

満州の実力者のことで、東条英機・星野直樹の「二キ」と、 鮎川義介(ヨシスケ)・岸信介(ノブスケ)・ 松岡洋右(ヨウスケ)の「三スケ」

としてあります。「満州の実力者」と書いていますが、 実のところ英文の Wikipedia のニュアンスからは「アヘンの流通の独占」を目的としたグループと読み取った方がよく、 「ヤクの帝王」と呼ぶほうがふさわしい人たちです。 英語版の Wikipedia の方は一名多く、日本語表示から「岸信介」 が入っていることがわかります。英文のほうは読みが正確でないのではっきりしませんでしたが、 これでようやく事実が明らかとなりました。

これが、満州における麻薬の下部組織を統括する中枢であったようです。 すなわち、日本軍の支配する満州における麻薬の流通組織は 今日の広域暴力団とよく似ており、その中枢が「ニキサンスケ」であったわけです。

冷静に考えると「暴力団」と「軍隊」の間の垣根が低く、 「政府」と「暴力団」の垣根も低い非常に異常な世界です。 「軍隊」や「政府」の発想も「暴力団」にきわめて近く、むしろ国ごと広域暴力団であったと 言ったほうが的を得ているような世界ではないでしょうか ?

日本が占領した「他のアジア」の国でも麻薬の専売制があったことから判断をすれば、 「大東亜共栄圏」とは実のところ「アジアの人々をヤク漬け」にすることを 目標としたものであったことになります。

「ニキサンスケ」の記述は

The Japanese Drug Supply (日本の麻薬の供給)

にも見られます。ここでは次の本から引用しています。

John G. Roberts, Mithui: Three Centuries of Japanese Buisiness, Weatherhill, New York, 1991
(表題の訳,  三井 : 日本のビジネスの 3 世紀)

表題の「ビジネス」には皮肉が込められています。三井はまっとうな「ビジネス」をしていたときも あるが、裏世界の「ビジネス」をしていたときもある、と言っているのです。 引用されている箇所を、ここでもそのまま引用します。



星野により設立されたアヘン専売局により、 アヘンは満州国政府の重要な収入源であった。 それに先立つ 100 年前の中国の別の場所で英国がしたことの例にならい、 関東軍は社会の抵抗を弱めるためにアヘンを使用し、 更に満州国と中国の占領地で意図的に麻薬中毒を奨励した。

新たに麻薬中毒を作る方法はモルヒネを含んだ薬の配布、あるいは 人気のあったタバコ「ゴールデンバット」の特別仕様 -- 吸い口に少量のヘロインを含んだもの -- の配布であった。 これらの色々な麻薬は、三井やそれ以外の商社がきわめて 合法的にアヘン専売局に提供していた。その結果 不幸な犠牲者に幸福感をもたらすとともに ニキサンスケの悪党たちにも幸福感を与えることとなった。 なぜなら、これにより年間 2000 万円から 3000 万円の収入が 得られ、満州国の産業開発の資金源となったためである。 (これは 1948 年の東京裁判で提示された証言に基づいている。)

東京裁判の証言では更に、星野は満州国のアヘン専売局 の儲けを留置権の形で抵当に設定し、日本の (複数の) 銀行から 多額のローンを取り決めた。別の当局者は 満州を含む中国における麻薬化政策からの収入は 日本軍によって年間 3 億円と評価されていると言っている。

アヘンの専売制を導入したのはどうやら英国が最初のようです。 「ニキサンスケ」とか、3 億円の収入とかいったものは 東京裁判での証言に基づくものであることがはっきりしました。なお、上のページでは 「2 キ 3 スケ」では 4 人の「スケ」をあげており、 英語版の Wikipedia の記述と同じになっています。

更に又、次の本からも引用しています。

Violet Sweet Haven, Gentleman of Japan : A Study in Rapist Diplomacy, Ziff-Davis, New York, 1944

これもそのまま引用することにします。



占領地で野火のように広がっていく 危険な中毒を放置することが、薦められることであるかどうかを東京の自由主義者が 問題にしたとき、この考えは直ちに踏みにじられてしまった。 儲けが絡んだ場合のよくある話であった。 ハルビンや大連の麻薬工場は三井および Suzuki 銀行によって 資金が提供され、ドイツ製の機械が設置された。

... 1931 年の満州占領時に、日本は、より速く利く麻薬、ヘロインと モルヒネを導入し、中国人をより速く堕落させた。 侵略の結果日本軍にわかったことは、 アヘンを吸っている中国兵は真っ先に降伏し、 奉天の麻薬常習者は一般市民の中で、もっとも問題がないことであった。

日本の傀儡政権である満州は、今日、世界中の合法的なアヘンの供給の 20 倍を生産しており、 真珠湾攻撃の前には、その一部が米国で高値で売られた。 この金で、日本は中国とそして我々と戦うための銃器を購入した。

日本帝国軍は、まだ満州に残っていたアヘン禁止法を停止して、 百姓たちに通常の穀物の代わりにケシを栽培することを強制した。 百姓たちが拒否をすれば、生アヘンが生産された場合に相当する 地税が課せられ、応じることがなければ土地を失うことになった。

日本の将軍達は自分たちにとってアヘンが利益あるものにするだけではなく、 実際には百姓たちが麻薬中毒となるように強制したのである。 アヘンパイプでは、あまり事が運ばないことにいらだって、 将軍たちはハルビンや大連に生アヘンをヘロインやモルヒネに 変える工場を開設した。

日本人が支配するアヘン屈で仕事をさせるために 朝鮮の麻薬の売人を何千人も引きずりこんだ。 まもなくして、豊かな店 (rich store) の 3 倍ものアヘン屈ができることになった。 危険な「白い麻薬」のために、百姓たちはより金をはたき、 より貧乏となった。 売人たちは「新しい種類のタバコ」を最も安いタバコよりも安く売ったり、あるいは無料で配った。 このタバコは最も哀れな人の間で人気が出ることになった。これはお買い得品などではなかった、 それにはヘロインが詰まっていたからだ。そして、麻薬中毒がこの地域全体に吹き荒れることになった。


注意
1. 文中の「Suzuki 銀行」は何のことか不明です。鈴木商店 のことかもしれません。しかし「鈴木商店」(あるいは「鈴木財閥」) は満州国ができるまえに (世界恐慌で) 消滅しています。あるいは上で述べている麻薬工場は満州国が設立される前に出来ているのかもしれません。 しかし
The History of Corporate Ownership in Japan (PDF)
によると鈴木財閥のグループには銀行がなく、資金はグループに属していない台湾銀行に依存しています。 また最盛期には鈴木財閥は大量の小麦を満州から英国に輸出していますから、 何らかの関連があったのかもしれません。
2. 朝鮮から、麻薬の売人を導入していますが、これは、朝鮮にも麻薬が蔓延していたことを意味します。 しかも、何千人もの麻薬の売人を導入できたということは、 朝鮮における麻薬の浸透状況もかなりひどかったことを意味しています。 従って、満州国において「麻薬の儲け」が満州国の産業開発の資金源になる以前に、 すでに朝鮮半島でも同様であった可能性が高いようです。 日本は朝鮮のインフラ整備に多額の資金を投与したようですが、 おそらくほぼ確実にこれは麻薬のもうけであったと思われます。


追加
3. 日本が満州を占領したのは世界恐慌によって、麻薬の価値が暴落し、 その結果関東軍の収入が底をついたためと考えることができます。 麻薬の価値が暴落し、麻薬の売人たちの収入と共に関東軍の収入も激減したのです。 そのため、関東軍の満州進出とともにヤクの売人も満州に進出することになったようです。

満州では満州国が成立する以前に、麻薬工場があっても不思議ではありません。 次の理由です。

対華21ヶ条要求 - Wikipedia (1915 年)

この条約の第 2 号の 2 で日本が満州で工場建設をする自由が与えられました。 また第 2 号の 3 で日本人が満州を自由に往来する権利が与えられました。 日本人の中には当然朝鮮人が含まれます。従って、朝鮮のヤクの売人は 自由に満州を往来できたことになります。

最後にこのページでは日本の麻薬プログラムの代表選手を列挙しています。これも付けておくことにしましょう。 (原文には、肩書きや、捕虜収容所で残虐行為にかかわったなど色々書いてありますが、日本語に訳すのが至難なので、麻薬に関連するコメントのみを つけてあります。) 氏名は日本語の Wikipedia へのリンクとなっています。 この人たちの経歴には麻薬とかかわったことが一切載っていません。注意して (あるいは疑いを持って) 経歴を読めば、どれだけドス黒いことが起きていたかがわかります。

麻薬プログラムの代表選手

土肥原賢二 - Wikipedia 満州の軍の麻薬取引に深くかかわった
板垣征四郎 - Wikipedia  
木村兵太郎 - Wikipedia  
東條英機 - Wikipedia  
賀屋興宣 - Wikipedia 占領軍の出費の資金繰りのために
中国人に麻薬を売ることを早くから提唱した。
小磯國昭 - Wikipedia  
南次郎 - Wikipedia  
鈴木貞一 - Wikipedia 日本の中国における麻薬取引にかかわった。

論理的事実から断言できること

「アヘン戦争」の結果、アヘンが中国になだれ込みますが、 麻薬中毒の結果、中国の人々の健康が蝕まれます。しかし実際はこれは重要視されていないようです。 問題となるのは、この結果「銀」が中国から大量に流出したことです。 この理由から中国は英国と交渉して、インドからのアヘンの流入に規制をかけようとしたのです。

アヘン (日本語版の Wiki)

によれば、明治維新後に日本国内でアヘンの規制がおきているようですが、最大の問題点は 人々の健康ではなく、金、銀の流出が問題であったと思われます。当時の貿易は 通常は銀で、密貿易であれ、対価は銀です。国内に銀がなくなれば何も輸入できなくなります。 そのため麻薬の輸入はどうあっても防ぐ必要があったのです。

麻薬中毒になれば、ちょっとした病気でも死ぬ可能性が増えますし、冬が越せなくなることも あるようです。事実、中国では多くの中毒患者が死亡したようです。しかし、当時の感覚では 人が死ぬことさえあまり問題とされていないようで、単に銀が国外に流出しないように することの重要性の方が高かったようです。

では、アヘンの輸出に関してはどうであるかという点ですが、 道義的な問題を意識することなく、平気でしたであろうと思われます。 しかもこうすれば貴重な銀が手に入ります。 いつ頃から、日本は中国にアヘンを輸出していたのでしょうか ? 日清戦争の戦場を思い出してください。


1. First Sino-Japanese War - Wikipedia
2. Image:First Chinese Japanese war map of battles.jpg (オリジナルの地図)
日清戦争の軍隊の移動と交戦図 (英語版 Wikipedia の縮小図)

日本は艦船を朝鮮半島、遼東半島、台湾などに展開し、 戦争で勝利を得ています。これは簡単でしょうか ? そこが、日本にとって自分の庭のようであれば、 非常に簡単なはずです。日本の艦船は当時の貿易 (あるいは密貿易) 上の理由から、海路にとても習熟していたと 考えるほうが正しいと思います。そうでなければ、とても戦争をするなど無理な話です。 当時の日本の艦船が移動したルートは恐らく貿易ルートであったと考えるべきです。 つまり、日本は朝鮮半島、遼東半島、台湾などと貿易 (あるいは密貿易) をしていたと判断したほうがよいと 思います。では何を輸入していたか ? これはいくらでもあると思います。 問題は何を輸出していたのかです。輸入だけして、輸出をしないことは有り得ません。 すぐに銀が枯渇します。

ここで、なぜアヘン戦争が起きたのか、その原因を述べる必要があります。 19 世紀前半になっても、世界中でもっとも豊かな国は中国でした。つまり、何でもある国です。 この国から輸入したいものがいっぱいあります。(絹、陶器、おそらくありとあらゆるものです。 ヨーロッパに持っていけばいくらでも売れます。) ところが、英国は中国に何か売るものが あったでしょうか ? 英国は産業革命により、繊維製品が安く生産できるようになっていましたが、 これは木綿です。中国には絹があります。木綿など買うはずないじゃありませんか ? その他、産業革命の結果色々なものが英国でできるようになりましたが、ほとんどどれも 豊かな中国で売れるはずもなかったものです。東インド会社はそのため慢性的な赤字でした。 そしてついにアヘンに手を出したのです。そしてその結果戦争となりました。


注意
1. 英国と中国の貿易は広東を経由していました。 ここだけが唯一の入口でした。広大な中国から見ればごく一部の物資が貿易の対象となっただけです。 従って、英国からの輸入品を購入する可能性があるのは一部の富裕層で、木綿など 購入する可能性はありえませんでした。しかし、アヘンはすべての中国人が対象となりえます。 アヘン戦争の結果、中国の多くの港が開港されることになりますが、これでも英国製品は あまり売れなかったと思われます。
2. 今日、麻薬の摂取はよくないこととされ、どの国でも禁止されています。 しかし、これはハーグなどの国際条約の結果、国際的な啓蒙活動があったためであると思われます。 何でも自由なアメリカでは麻薬を禁止する法律を単独では作ることができず、 このハーグの国際条約をテコにして、ようやく法律を作ることができたのです。 麻薬を売ることが人の道に反すると考えるのは現代人の考えです。
3. 日清戦争以前に、日本の軍隊が朝鮮半島、遼東半島、台湾に麻薬を 密輸していたと次のように考えてもあたりまえです。北朝鮮の軍隊は日本に麻薬を密輸している話は 有名ですが、これは何のためにしているのでしょうか ? 諜報活動の一環と考えることもできますが、 いざ戦争が起きたときの日本上陸のための準備です。日清戦争以前に、日本の軍隊は、 朝鮮半島、遼東半島、台湾に上陸する作戦の準備をしているはずです。現在のようにレーダがなく、 また不審船が発見されても航空機で追跡するなどということは出来ませんから、確実に 上陸作戦の準備をしています。この際に経費が必要となりますから、麻薬の密輸もついでに 実行したことは火を見るよりも明らかです。麻薬は儲かりますから、一度手を染めれば、 あとで足を洗うことは出来ないと思います。
4. 欧米諸国は中国に麻薬を輸出しなくなります。これは無論麻薬に関しての国際条約の こともありますが、別の側面があります。輸出用に国内で麻薬を生産すると、結局 自国内に麻薬中毒が出現し、国内問題を抱えてしまいます。しかし植民地で生産をすれば、 この危険性があまりありません (無論植民地では麻薬がはびこる)。これは広く知られていたことではないかと思います。 日本も植民地ができれば、本土で麻薬を生産しなくなったのではないかと思います。

産業革命の先進国である英国ですら、豊かな中国に売れるものはほとんどなかったのです。 中国には何でもあったからです。では日本はどうでしょうか ? そう考えればもはや明白です。明治維新後、日本は中国、朝鮮、台湾と貿易 (あるいは 密輸) をすることになったはずです。このときは広東を経由していませんから、 富裕層を対象にした貿易 (密輸) ではなかったとは思われますが、 輸出品の中で多くの割合を占めたものがアヘンだと思われます。 どこの国 (現在の G8) も中国にアヘンを輸出していますから、日本も同様であったと思われます。 当初は国内でアヘンを生産し、その後、台湾、朝鮮、満州が日本に組み込まれていくにつれ アヘンの生産地が植民地に移動していったと考えれば、すべてつじつまがあいます。


追加
前にも引用しましたが
読者のページ~2005年4月~
によると台湾における「アヘンの専売制は、台湾でのケシ栽培禁止とセットになっていた」ようですから、 台湾ではケシは栽培されなかったようです。 外国 (インド・イラン・トルコなど) や内地におけるケシの栽培 (二反長音蔵) でアヘンを供給したようです。 この時期には麻薬を国内で生産すると、国内で中毒が蔓延する危険性を認識していなかったようです。
北朝鮮の軍隊が麻薬の密貿易に手を染めているようですから、 明治時代の日本の軍隊が麻薬の密貿易に手を染めていたと考えることはとても 自然ではないかと思います。


日本語版の Wikipedia のアヘンの項目 (アヘン - Wikipedia) の中の「日本におけるアヘン史」で


1879年(明治12年)5月1日には薬用阿片売買竝製造規則(阿片専売法)を施行した。 この法律において、政府は国内外におけるアヘンを独占的に購入し、許可薬局のみの専売とした。 購入は医療用途のみとし、購入者及び栽培農家は政府による登録制とした。 この専売制は日清戦争の戦需品として、政府に利益をもたらした。

と述べています。注目すべきはこの最後の行です。いかにも医薬品 (痛み止め) として、 アヘンが使用されたかのように見えますが、戦争で負傷兵の手当てをするのは日本軍です。 負傷兵の手当てのために、いくらアヘンを使用しても日本政府に利益が出るはずがありません。 むしろ損失となるだけです。 ですから、この最後の行は戦地でアヘンを売って儲けたと解釈する必要があります。 また「戦需品」と言っていますから、戦争をするための資金となったことも意味していると思います。 当然のことながら、日清戦争の準備のためにもアヘンが使用されたことは火を見るよりも明らかです。

Japan Times に載った記事、その 1 (興亜院と里見甫)

ここまでの内容を書き終えた後で、2007 年 8 月 30 日の The Japan Times に次の 4 つの記事が載りました。
1.Japan profited as opium dealer in wartime China (2007/8/30)
2.Opium King's ties believed went to the top (2007/8/30)
3.Japan followed West by drug-peddling in China (2007/8/30)
4.Narcotics trade boosted army scrip (2007/8/30)

以下この記事を 4 部に分けて紹介します。最初の記事は 1940 年頃の中国中部に関することで、 内容を理解するためには、当時の状況を理解する必要があります。最初は年表です。

1936 興亜院の設立
1937 日中戦争の開始
1938 南京占領、傀儡政権の設立
1939 里見機関の設立
〃 独、ポーランド侵入
1941 真珠湾攻撃
1945 日本の降伏

次は、中国中部における日本の支配に関することです。
1. 中華民国臨時政府 (北京) - Wikipedia 1937 年 12 月 14 日に北京に設立した傀儡政権 (河北省、山西省 + 北京市、天津市 + 内モンゴルの一部)
2. 中華民国維新政府 - Wikipedia 1938 年 3 月 28 日に南京に設立した傀儡政権 (、江蘇省、浙江省、安徽省 + 南京、上海)
3. 蒙古聯合自治政府 - Wikipedia 1939 年に内モンゴルに設立された傀儡政権

以上の傀儡政権は蒋介石の「中華民国」と対立するために、 1940 年にまとめられて、形式的に 中華民国南京国民政府 - Wikipedia (傀儡政権) が設立されます。もっとも国としての機能がなかったようです。

次の最初の地図は Wikipedia の熱河省の地図から作ったもので、 2 つめの地図は 英語版の Wikipedia (日本軍の占領地の地図) の地図を縮小したものです。



Japan Times の最初の記事は 日本人が書いた記事で、里見 甫 (さとみ はじめ) による (麻薬に関しての) 報告書が国会図書館で見つかったというものです。 この報告書は誰もが閲覧できるものです。 更に報告書は China Affairs Board (興亜院) に宛てたものであろうと書かれています。 (原文は, China Affairs Board の後ろに括弧をつけてローマ字で Ko-a-in と書いてあります。) 「アヘン帝国の興隆 -- 朝鮮」の項目で China Affairs Board は興亜院のことであろうと書きましたが、 これで裏付けられました。

この報告書が興亜院に対するものであると結論されたのは、 この文書に 1941 年 4 月 10 日付の及川源七 (興亜院の総務長官) 宛てのメモが付属していたためです。 (日本語版 Wikipedia の興亜院 の項目で「興亜院の人事」が書かれており、及川源七の名前が記載されています。)

興亜院の長は総裁で内閣総理大臣が兼任していましたから、これで日本政府が戦時下の中国における 麻薬取引に直接関与したことが文書で明らかになったことになります。

里見甫によるアヘン取引組織は「里見機関」として知られていますが、 Japan Times では Hung Chi Shan Tang と言っています。 これに関して Japan Times は次のように述べています。


「Hung Chi Shan Tang (里見機関) の概要」と題された文書は、上海に拠点を置く企業の歴史を明らかにしている。 この企業は、里見甫が代表となり、上海を含む日本の占領下の中国中部の支配的なアヘン取引業者であると思われ、 1944 年初頭まで活躍した。


Hung Chi Shan Tang (里見機関) は技術的には 「1938 年に南京に設立された日本の傀儡政権」によって特別に認可を受けた私企業である


Hung Chi Shan Tang (里見機関) が 1939 年に設立された理由の 1 つは、 「アヘン事業を日本の戦時統制下に置くことである」と里見甫が文書内で述べている。

また、文書に付属のメモの中で


「帝国政府の将来の利益のために (借り受けた) 資金を管理し、投資する」と里見甫が 誓約している

つまり、「里見機関」は完全に日本政府の統制の下にあり、日本政府のためのみの組織であることが 文書で裏付けられたことにもなります。

Japan Times の記事で、里見機関の扱った麻薬に関する記述を幾つか列挙します。


文書によれば 1941 年に Hung Chi Shan Tang (里見機関) は 600 万 liang あるいは 222 トンの アヘンを地方レベルの中国人ディーラーに売りさばいた。

訳注 : liang は昔の日本の重さの単位である「両」 (両 - Wikipedia) に相当するもののようですが、 地域によって若干重さが違うようです。

この記述からは、里見機関は直接中国人ディーラーに売りさばいたことになりますが、 「アヘン帝国の支配構造」で書いたことと食い違っています。 「アヘン帝国の支配構造」では、小売のディーラは中国人ですが、 卸のディーラは日本人もしくは朝鮮人です。 里見甫の報告書にはディーラがどこの国籍であるかという点は触れていないと思います。 よしんば、ディーラのことが記述してあっても、組織名であると思われます。 従って「アヘン帝国の支配構造」で記述した広域暴力団の組織はそのまま残っており、 これが里見甫の客であったと思われます。


里見はまた次のようにも報告している。 彼の企業は、モルヒネやコカインを中国の市場価格で直ちに売ることが出来、 市場価格は帳簿価格の倍である。

Japan Times では内モンゴルのアヘンに関して次のように触れています:



1937 年に設立された内モンゴルの傀儡政権は収入を増やすため、組織的にケシを栽培し、 取引をした麻薬取引業者の最大手が Hung Chi Shan Tang (里見機関) である。 1942 年にはアヘンの収益は当初予算の 28 パーセントにも達した。

里見は更に文書の中で「アヘンはモンゴル政府が外貨を獲得できる唯一つの物資なので、 我々は販路拡大に最大限の努力をした。」とも述べている。

Japan Times は里見機関が内モンゴルのアヘンに付け加え、イランからもアヘンを輸入し、 更に満州の熱河省からも輸入したことを述べ、次のように述べています。


1941 年に里見機関が売りさばいた 600 万 liang (= 222 トン) のうちで、 400 万 liang は内モンゴルのもので、 160 万 liang はイランのものである、 と文書で述べている。


注意
途端に内モンゴルのアヘンが登場して、少し違和感があります。 しかし、次のように考えると十分ありえることであることがわかります。 まず、満州の熱河省ですが、これはもともと内モンゴルでした。満州国を設立するときに 組み込まれたのです。従って、内モンゴルには熱河省と同じような場所があるはずで、 そこでアヘンが生産されても不思議ではありません。
英語版の Wikipedia の Economy of Manchukuo (満州国の経済のアヘンの項) では、1934-1935 の満州国では 1 平方キロ当たり 1.1 トンで栽培面積は 480 平方キロメールとしていましたから 生産量は 528 トン程度となります。それに比べると里見甫の扱ったアヘンはかなり少ないことになります。 上の記述で注意する点は、里見甫の扱っているアヘンが新規に設立された内モンゴルの傀儡政権、 およびイランのアヘンを扱っていることです。

1940 年に、南京の傀儡政権、北京の傀儡政権、および内モンゴルの傀儡政権 をあわせて、汪兆銘政権ができて、蒋介石の「中華民国」の向こうを張って まったく同じ名前の「中華民国」と称しました。国旗までまったく同じでした。 ややこしいので「中華民国南京国民政府」とも呼ばれているようです。 (但し、国としてのまとまった機能はあまりなかったようです。) 「満州国」ができたときに麻薬活動の中心を「朝鮮」から「満州国」へ移したようですが、 「中華民国南京国民政府」の樹立にあわせて、麻薬活動の中心を「満州国」から 「中華民国南京国民政府」に移そうとしたのかもしれません。

Japan Times の 2 つ目の記事では、里見甫と岸信介、あるいは広く政治家との関連を追及しています。 その中に次のくだりがあります。


「上海やそれ以外の都市からのアヘンの売り上げは直接東京に渡った。 調査の結果、東条内閣の時にはこのような金は内閣の秘密資金として割り当てられ、 国会議員の補助に使用された。これは戦後、日本と協力関係にあった 中国の指導者を裁くための南京裁判で Mei Sze Ping が書面で提出したものの中に記載されている。

里見甫は東京政府から金を借りて、里見機関を設立したようで、 その理由からも、また既存の麻薬の流通組織との摩擦を解消するために、 東京に金を提供したのかもしれません (ワイロ)。 一方で里見甫は新しいやり方を導入しようとしたようで Japan Times の最初の記事の中に次のようなくだりもあります。


モンゴルと満州国からのアヘンはすべて空輸され、昨年度、航空会社 (中華航空, Chinese Aviation Airway) に対する支払いは軍票で 300 万円に達した。

日本語の Wikipedia の「里見甫」の項目にはかなり嘘があります。「戦後はA級戦犯として起訴されるが無罪釈放。」 と書かれていますが、Japan Times の最初の記事には


東京裁判のときに里見は A 級戦犯として逮捕されるが、不明な理由から、起訴されることがなかった。

無罪釈放ではなく、裁判を受けていないのです。理由が明示されないまま不起訴処分となったのです。

Japan Times に載った記事、その 2 (アヘンの専売制)

Japan Times の 3 番目の記事に、アジアにおけるヨーロッパの植民地でも (満州国などと同様に) 財政の 10 % から 50 % がアヘンの売り上げで占められていたとしています。例えば英国領のインド、香港、シンガポール、 ポルトガル領のマカオ、オランダ領の東インド (現在のインドネシア)、フランス領のインドシナです。

このことは英文のホームページで独立に確認することになりました。 知りたかった点は第二次大戦ではインドシナ、インドネシアなどは日本が占領しますが、 ここでも日本軍は麻薬の専売制を導入するはずです。どのような形態をとっていたのか 調べようとしたことから、いくつかのページがヒットしました。その中のひとつに次があります。

Economic Histories of the Opium Trade (アヘン取引の経済史)、 ピッツバーグ大学、 Siddharth Chandra

ここでは、植民地の財政にアヘンの売り上げが計上されている国として、Japan Times で述べている ヨーロッパの植民地以外に日本領の台湾が挙げられています。(満州は必ずしも植民地でないので ここには含まれていないようです。) 指摘されている点をいくつか挙げることにしましょう。部分的な翻訳です。 英文が読める人は原文を読んでください。



19 世紀後半に世界中でアヘンの消費が増大します。しかしながら20 世紀初頭に倫理的な問題に関しての 議論が激しくなると各国は見かけ上は植民地および本国でのアヘンの消費量を削減する方向になります。 例えば、オランダは (植民地の) 東インドでのアヘンの製造と販売を自国の管理下におきます。 アヘン専売制度 (Opium Regie) と呼ばれる制度が導入されますが、これはフランス領のインドシナ の制度を真似たものです。これでオランダ領の東インドでアヘンの消費が削減できるかどうか 大いに疑問です。明らかに、アヘン専売制度の導入直後の 10 年間ではアヘンの売り上げは ずっと増え、政府に多大の利益をもたらしました。

引用しているページには表も掲載されています。それも引用することにします。 (価格は 100 万ギルダーです。インフレ補正はしていないとのことで、* がついているものに関しては、 アヘンと塩の専売の総計から計算したもので過小評価しているかもしれないとのことです。 表の出所に関してオリジナルの説明をご覧ください。)

オランダ領東インドにおける政府予算に占めるアヘン専売の寄与

年 A :アヘン
の収入 B :総収入 A/B (%) C :アヘン
の利益 C/A (%)
1914 35.0 281.7 13.5 26.7 76
1915 32.6 309.7 11.2 25.2 77
1916 35.3 343.1 10.8 28.4 80
1917 38.2 360.1 11.4 30.4 80
1918 38.8 399.7 10.2 30.1 78
1919 42.5 543.1 8.2 33.2 78
1920 53.6 756.4 7.5 41.6 78
1921 53.3 791.8 7.1 42.1 79
1922 44.2 752.6 6.2 34.5 78
1923 37.6 650.4 6.1 30.1 80
1924 35.3 717.9 5.1 28.1 80
1925 36.6 753.8 5.2 28.7 78
1926 37.7 807.9 5.2 29.1 77
1927 40.6 779.1 5.7 31.4 77
1928 42.8 835.9 5.7 34.6 81
1929 40.9 848.5 5.3 32.7 80
1930 34.5 755.6 5.3 27.1 79
1931 25.3 652.0 4.6 19.0 75
1932 17.3 501.8 4.5 12.3 71
1933 12.7 460.6 3.7 8.6 68
1934 11.1 455.2 3.2 7.2* 65*
1935 9.5 466.7 2.6 6.1* 64*
1936 8.9 537.8 2.2 5.7* 64*
1937 11.5 575.4 2.5 7.7* 67*
1938 11.9 597.1 2.6 8.0* 67*
1939 11.5 663.4 1.7 8.6* 75*
1940 11.7 --- -- 8.5* 72*

原文では更に次のように続けています。



しかしながら、1900 年から 1936 年のアヘンの消費量は、ずっと縮小しています。 このような統計量は
1. 専売制は実際にアヘンの消費を抑えることを意図したもの
2. 専売制はアヘン問題に取り組むのに有益であった
という議論に使用されている。実際のところ 1936 年が 参照の年に使用されたのは不運なことであった。1929 年に始まった 世界恐慌は 1936 年に至るまで -- とりわけ貿易に依存したアジアでは -- 影響があったためである。 世界恐慌における収入の激減と多くの経済における公的なアヘンの価格が 柔軟でなかったため、アヘン消費者の合法的アヘンの購買力が極端に落ち、 合法的アヘンの消費が激減することとなった。

更に原文では、上で引用した表から折れ線グラフを描き、1929 年から 1936 年までの グラフの部分に「世界恐慌」と記しています。 つまり、アジアでは 1929 年から 1936 年までを「世界恐慌」としているのです。

原文では、もう少し分析していますがこのあたりでやめることにしましょう。


注意
1. アヘンの専売のことを Opium Regie を呼んでいますが、普通の英語では Regie ではなく monopoly です。regie はフランス語です。
2. 最初にも述べたように、この項目を書く当初の目的は東南アジアが日本の支配下に置かれたときに どのようにして「麻薬の専売制」を導入したかを知ることが目的でした。 しかし、すでにヨーロッパの植民地である東南アジアでは「アヘンの専売制」が敷かれており、 日本による占領で変化した点は、アヘンが中国から導入されるようになったことぐらいであろう と結論することになりました。 一応、第二次大戦の日本の占領地ではどこでも麻薬がはびこっていたことの再確認になりました。 日本軍が行く所はアヘン屈ばかりができるのです。
3. 「アヘンの専売制」に関しては朝鮮半島のことが言及されていませんが、 これは朝鮮半島ではアヘンが禁止されていたためだと思われます。 アヘンは禁止されていましたが、非常に多くのモルヒネ中毒がいたはずです。


追加
1. 「アヘン取引の経済史」の著者の主張する所は 麻薬の専売制がアヘンの消費を削減したのではなく、 アジアで 1936 年まで続く世界恐慌がアヘンの消費を削減したのだと言っているのです。 1936 年までアジアでは世界恐慌が続いたのだ、という主張を吟味するために 日本のことを考えます。 日本における輸出品で当時中心となっていたものは「生糸」でこれ以外にめぼしいものがありませんでした。 「生糸」の輸出先は米国でした。 世界恐慌により「生糸」の輸出は半減し、元に戻らなかったのです。 そして真珠湾攻撃 (1941 年) により貿易が中断しました。 ですから、確かに表の経済では日本における世界恐慌は日本が米国に宣戦布告を するまで続いているのです。 米国からすれば女性が贅沢を控える程度のことではなかったかと 思われますが.....
2. 「アヘン取引の経済史」で述べていることは植民地政府が提供する合法的なアヘンのことで、 非合法なアヘンでは価格の暴落があったはずです。 世界恐慌の時に遼東半島や朝鮮半島に駐留していた関東軍はどうなったのでしょうか ? 朝鮮半島では、アヘンは非合法化され代わりに合法的なモルヒネが流通していたはずです。 このモルヒネの値段を下げなければ販売が激減し、 値段を下げても利益が激減するはずです。 一方、関東軍は、中国にもアヘンやモルヒネを輸出していたはずですが、 こちらは非合法なものですから需要供給の関係から売値が暴落したはずです。 ここで関東軍はにっちもさっちも行かなくなったはずです。 そのため、満州を領地に組み込み麻薬中毒を大量に作る必要が起きたと考えてよいと思います。 これが満州国ができた理由だと思われます。

Japan Times に載った記事、その 3(軍票)

Japan Times の載った記事には「軍票」のことにも触れています。これは当然触れないといけないのですが、 この「軍票」に関しては、英文のページから多くの事実を調べることができませんでした。 まず困るのが対応する英語です。「millitary yen」あたりが該当しそうなのですが、 Japan Times では「army scrip」と表現しています。そのためインターネットの英文検索では困難を極めることに なります。

Japan Times の記事を参照する前に、英語版の Wikipedia

Japanese military yen -- Wikipedia

書かれていることを引用します。香港に軍票が導入されたときの部分に関しての翻訳です。



1941 年 12 月 25 日に香港の英国殖民地政府が日本の帝国軍隊に降伏した後、 日本の新占領政府は翌日から軍票が香港の法廷貨幣であることを布告した。 日本の占領政府は香港ドルの使用を非合法化し、ドルを円に両替することに 最終期限を設定した。それ以後にドルを所持するものは拷問されることとなった。 軍票が 1941 年 12 月 26 日に始めて導入されたときの 香港ドルと円の為替レートは 2 対 1 であったが、1942 年の 10 月には 4 対 1 と なった。

ドルを手に入れて、日本軍は中立地帯であるポルトガル領のマカオで補給と戦略物資を購入した。

日本は 1944 年に戦争継続に絶望的な努力を払い、香港における日本の軍政府は更に 多くの軍票を流通させ、結果としてハイパー インフレーションを招くこととなった。

これで Japan Times の記事に戻ることが出来ます。記事では早稲田大学教授の Hideo Kobayashi の 意見を次のように引用しています。(翻訳がへたくそにみえますが、 日本語の英訳を再度日本語にするのはとてもやりにくいです。)



国会図書館で見つかった文書から明らかとなった点は、 1940 年代の蒋介石の yuan (元, 圓) に基づく法定貨幣から、 経済覇権を奪取して、軍票を助勢するためにアヘンを使用したことである。 軍票の価値を支えるためにアヘンが使用されたと言われていたが、 どのようにして運用され、どれだけ (アヘンが) 使用されたのか 始めて具体的に明らかとなった。

国会図書館で見つかった文書では里見甫が、アヘンの価格を「元」ではなく、(軍票の) 「円」に 変更したことを報告しており、これが上の議論の根拠を与えているようです。なお、蒋介石 政府の法定貨幣 yuan は漢字ではどのように書くのか少しわからないので可能性のある漢字 (元, 圓) を 列挙しています。軍票のことに関しては次も参考になります。

軍票

ここには「日露戦争・青島出兵・シベリア出兵・日中戦争・太平洋戦争に際して発行され、 日清戦争の時には印刷されたが発行されなかった」としています。 以下見るように、軍票は単独ではかなり危なかしいですが、麻薬とコンビを組めば、比較的に 安定するようです。従って、軍票が発行された場所には麻薬中毒が累々と存在したことになります。

色々なページを引用しましたが少し整理をする必要があります。 第二次大戦前の多くの国では紙幣の価値を保障するために金などと交換可能でした (金本位制, Gold Standard)。 ただ単に紙幣を印刷するだけではインフレになる可能性があります。 日本軍の占領下では、強制的に軍票を使用させたようですが、これだけでは紙幣の価値を 保障することが出来ません。 端的に言って日本の軍票は「金本位制」ではなく「アヘン本位制」を取ったと言えばわかりやすいでしょうか。 これが、Japan Times に掲載されている記事で述べていることです。 また、これは日本軍が軍票を使用し始めた当初からこうであったようです。

しかし、これが可能となるためには、占領下の住民がアヘン (あるいは広く麻薬) を価値あるものと しないといけません。従って、占領下で麻薬が蔓延していないと、軍票の意味がなくなります。 そのため、占領地で麻薬中毒がいなければとても困ることになります。 通常は日本軍は敵地を攻める前に、敵地で麻薬を蔓延させる下工作をしていますから、 占領と同時に軍票が効果を持ったことでしょう。 しかも軍票以外の (敵の) 貨幣 (yuan) では麻薬を購入できないようにでもすれば、 貨幣の移行は極めてスムースに行くはずです。しかし、いくら麻薬で価値を保障されていても あまりに軍票を乱発すれば、ハイパーインフレーションととなることが必定のようです。

通常、戦争では直接の戦闘員よりも補給 (logistic) に従事する非戦闘員の方が多くなります。 ところが明治以後、第二次大戦に至るまでの日本軍には補給らしい補給がなく、ほとんど現地調達です。 そのための軍票なのです。しかしこれはとても危険です。麻薬が浸透しておらず、しかも食糧事情が極めて悪化している場所を 占領しなければならないとしたらどうなるのでしょうか ? この話は「南京大虐殺」で述べることにします。


注意
日露戦争で軍票が使用されています。日露戦争では海戦もありますが、満州も戦場となっています。 ここで軍票が使用されたようです。従って、この際にも、麻薬が持ち込まれたはずです。 日露戦争 (1904-1905) のときは、まだ清国が存在していますが、 清国が麻薬撲滅運動を開始するのは 1906 年です。(日露戦争の終了の翌年にこの様な活動を 開始したのはひょっとすると日露戦争であまりに麻薬が蔓延したせいかもしれません。 英国も中国に協力しなければならなくなったのかもしれません。) 従って、日露戦争の時点では比較的容易に麻薬を売りさばくことができたはずです。 日本は戦争をする前に、その下工作として、戦場となる場所であらかじめ麻薬を蔓延させていますから、 この場合も同様であったと思われます。軍票と麻薬のコンビを組ませることが、 極めて有効であることに気がついたのは恐らく日清戦争のときだと思われます。 このときは、あらかじめ準備していなかったので間に合わなかったのでしょう。
Japan Times に載った記事、その 4(商人)

Japan Times の 3 番目の記事では次のように述べています。(翻訳)



英国は 1913 年にインドから中国へのアヘンの出荷を停止した。

そしてヨーロッパ各国と日本は 1912, 1925, 1931 年に開催された 3 つの国際会議 で署名をし、アヘン事業を政府の制御下に置き、段階的に縮小する義務を負うこととなった。

しかし、日本は中国北東部で日本の商人たちによるアヘンその他の麻薬の 取引を野放し状態にして抑制することがなかったため、 1920 年代の中ごろから英国に代わり、国際連盟 (League of Nations) で 国際的な非難の主要な対象となることになった。

少しややこしいので、この時期の前後の主な出来事をまとめます。

1904 - 1905 日露戦争
1906 南満州鉄道 (満鉄), 日本の会社
1918 - 1922 外満州、内満州支配 (シベリア出兵)
1920 年代 中国北東部で日本の商人たちが麻薬取引
1931 満州事変
1932 満州国設立
1933 国際連盟から脱退
1936 興亜院の設立
1938 南京占領、傀儡政権の設立
1939 里見機関の設立

Japan Times の記事の中の「中国北東部」と言っているのは満州、もしくはその周辺のことでしょう。 ここで気になる言葉があります。「商人」(merchant) です。 普通の言い方では「麻薬のディーラー」を「商人」とは呼びません。 このような書き方をしているのは、記事を書いている人が 色々下調べをした文献の中に「商人」(merchant) と書いてあったから、 そのままここに書いた可能性が大きいです。 英語では参考にした文献に書いてあるように記述するのが普通です。

「アヘン帝国の支配者」で説明をしたように 満州ではアヘンを独占的に扱う組織があり、 「ニキサンスケ」と呼ばれる「商人」のグループが流通部門を独占していたとされています。 これは英語版の Wikipedia に書かれていることでした :

Economy of Manchuko -- Wikipedia (満州国の経済のアヘンの項目 -- 英語版 Wikipedia)

従って、英語版の Wikipedia の「満州国の経済のアヘン」の項目における「商人」(merchant) が Japan Times の「商人」(merchant) に由来していると考えるほうがよいようですが、 この時点ではまだ満州国はできていません。 満州国が設立されれば、国内でアヘンの専売が始まるはずです。そのときアヘンの専売を 一手に独占する人たちも英語圏で「商人」(merchant) と呼ばれた可能性が高いと思われます。 そして、この人たちが「ニキサンスケ」であったと思われます。

英語版の Wikipedia の「満州国の経済のアヘン」の項目における「商人」(merchant) の 組織は満州国の設立以来あったはずです。 日本語版の Wikipedia の 鮎川義介 を読むと、鮎川義介は満州重工業開発株式会社の総裁で

当時の満州国の軍・官・財界の実力者、松岡洋右(満鉄総裁)、岸信介(産業部次長)、 東條英機、星野直樹らと並んで「2キ3スケ」とあだ名された。
としています。 日本語の Wikipedia で岸信介の経歴を調べると、

1936 渡満、満州国国務院実業部総務司長
1937 産業部次長 (「産業開発 5 ヶ年計画」)
1939 総務庁次長

満州国の産業が色々な意味でアヘンと結びついていたと考えれば、産業部次長の時が最もアヘンと近いようです。 「アヘンの権限を独占する組織の構成メンバー」は例えば次のようなものであったのではないでしょうか ? 満州国は傀儡政権ですから、表面的な肩書きは意味を持たず何らかの (アヘンを統括する) 裏の組織があったはずです。 (なお、星野直樹は満州国の建国以来から満州国の (裏の) 代表ですから、少し別格かもしれません。 また東条英機は総理大臣となりますが、満州国内にもアヘンを統治する組織は続いたはずです。)


秘密組織のメンバー (満州国のヤクの帝王たち)

1. 満州国の代表 (星野直樹)
2. 関東軍の代表 (東条英機)
3. 南満州鉄道 (満鉄) の代表 (松岡洋介)
4. 満州国財閥の代表 (鮎川義介)
5. 満州国国務院産業部次長 (岸信介)

何らかの意味でアヘンに関連しそうな組織名が出るように書いてみたのですが、 どうでしょうか。 岸信介は、実務担当と判断できそうです。英語版の Wikipedia の「満州国の経済のアヘン」の項目には 鮎川義介を満州国財閥の座長 (chair man) としており、更に もう一名 (Kuhara Fusanosuke) が入っています。これは久原房之助のようで、鮎川義介と 同じような立場の人です。財閥の代表が代わったのかもしれませんし、あるいは代表が 2 名いたときが あるのかもしれません。

英語版の Wikipedia の記述で、「ニキサンスケ」のメンバーの肩書きがカッコつきで 記入されています。そのなかに、「商人」(merchant) と記されているのは「岸信介」のみです。 恐らくは「岸信介」(あるいは産業部次長) が組織のただ一人の実務部門の担当者で、 直接麻薬に関連する可能性が極めて高かったのではないかと思います。


少し蛇足ですが、南満州鉄道で走っていた蒸気機関車は国内の蒸気機関車より、 とても速かったようです。特急アジアが最高時速 110 km で走っていたことが記されています。

瀋陽蒸気機関車博物館

には、最高時速 130 km の蒸気機関車も見ることが出来ます。 しかし

ドイツ国鉄05形蒸気機関車

を見ればわかりますが、05 002 型が 1930 年代に最高速度 200 km を記録しています。驚くべきことに、 これと同じシリーズの 18 201 型はまだ動くことができ、21 世紀に入って、最高時速 180 km を記録したそうです。次に説明があります。

Fastest Steam Locomotive

この下のほうに写真がありますが、次をクリックしても写真を見ることが出来ます。(うまくジャンプできなければ一旦元に戻って再びクリックしてください。)

18 201: The world's fastest currently operational steam locomotive
(18 201:現在稼動可能な蒸気機関車で世界最速)


追加
蛇足を書いた目的を書くことを忘れていました。 当時の日本の技術はトップクラスでは到底ないことを書きたかったのです。 満州の蒸気機関車は米国などの機関車のイミテーションなのです。 自力で開発したのではない。蒸気エンジンもエンジンなのです。 エンジンの製造は日本は不得手あったはずなのです。部品が多いせいです。 蒸気エンジンにせよ、ディーゼルエンジンにせよ、 構成部品の数が多ければ、 当時の日本は最先端の製品を作ることができなかったのです。 これは戦後にも反映し、日本はエンジン製造では欧米に太刀打ちできなかったはずなのです。 突破口は電車です。電気モーターは部品の数が多くないので、 高性能化することができ、新幹線ができたのです。 だからこちらの方が早く、新幹線よりはずっと後になって、自動車の製造で世界レベルとなることができたのです。
南京大虐殺

「アヘン帝国の支配構造」に書いたように戦争中における「日本政府による麻薬事業」 により「南京」における麻薬中毒が全人口の 1/8 に達しています。このような事態になる前に 有名な「南京大虐殺」が起きています。

狭い意味の南京には城壁があり、日本語の Wikipedia では南京城と呼んでいます。 これを含む行政区も南京 (南京特別行政区, Nanjin Special Municipality) と呼ばれています。 この広い意味での南京の行政区には当時 150~160 万人の人が住んでおり、 南京城の中には常時は 20~25 万人の人が住んでいたようです。 しかし南京城が落城したときには、ここにずいぶん大勢の人が避難していたようです。 1937 年 12 月 13 日のことでした。 戦争はこれで終結したかのように見えましたが、 その後 6 週間にのぼる日本軍による大量殺戮が開始されたのです。

2007 年 12 月 13 日は、南京大虐殺の 70 周年記念にあたり、 Japan Times にもこれに関連した記事が載りました。

Nanjing Massacre certitude: Toll will elude (南京大虐殺は確実 : 犠牲者の数で一致せず)

それによると、現在では「南京大虐殺」があったことに関しては 日本の歴史学者も認めているようですが、犠牲者の数で中国と 日本の歴史学者と大幅な開きがあるというものでした。 中国の公式な犠牲者の数は南京城内で 30 万人であり、 日本の歴史学者は、広い意味の南京の行政区で 1 万人から 20 万人を 超える程度とのことでした。 この記事はかなり偏見を持っており、 日本人が書いた記事であることは署名を見なくても明らかです。

偏見を持っているように感じたのは、次の点です。「日本軍の将校が 軍の規律を守らせることができなかった」とあった点です。 ここまで私が書いた内容を読めば関東軍には軍隊の規律がなかったことは 明白です。あるとすれば軍隊の規律などではなく暴力団の規律です。 戦争を吹っかける前に敵地に麻薬を蔓延させ、いざ占領すれば 大量の麻薬中毒を作るような組織が軍隊といえるはずもありません。 あったとすれば、暴力団の規律で、これはでたらめとなるのが必定です。

しかし、単にこのように述べるよりは、 英語版の Wikipedia で少しは南京大虐殺のことを調べる方がよいであろうと 思い少々時間をかけることにしました。

Nanking Massacre -- Wikipedia


中国と日本の間に、犠牲者の数で隔たりがあることも書いてありましたが、 Japan Times の報道ほど離れてはおらず、日本の歴史学者は犠牲者の数を 10 万人から 20 万人考えており、 日本、中国以外の歴史学者は 15 万人から 30 万人程度と考えていると指摘していました。 そのあとで 2007 年の 12 月の 12 日に、すでに公開されている米国の文書の中に 新たな文書が発見され、更に 50 万人の犠牲者が明らかになったと指摘していました。 これを最初に読んだのが一昨日 (2007 年 12 月 13 日) です。少し文脈が理解できずに何度も読んでいましたが、 そのうち、これにリンクが張られていることに気がつきました。次です。

U.S. archives reveal war massacre of 500,000 Chinese by Japanese army
(米国の公開公文書から日本軍により 50 万人の中国人が殺戮されたことが明らかとなった)

新華社通信 (Xinhua News Agency) のインターネット版です。 新聞記事 (2007-12-12 20:45:20 ) ですから そのうち読めなくなる可能性があります。少し詳しく引用します。基本的には 1937 年の南京占領に至るまで、日本軍は 50 万人の中国人を殺戮したというものです。 明るみに出されたのは 2 つの電信文です。



日本が南京を占領した翌日の 1937 年 12 月 14 日に、 米国の駐独大使であった ウィリアム・エドワード・ドッド (William Edward Dodd) は ベルリンからルーズベルト大統領に電信を送っており、 その中で次のように述べています。 「今日、極東からの報道は以前にもまして悪化し、日本軍の残虐行為に 関してのあなたと国務長官の発言を読みました。 当地における日本の大使は 2,3 日前に日本が 50 万人以上の中国人を 殺したことを豪語していました。」

もう一通の電信は、 1938 年 1 月 25 日、上海の米国領事であった クラレンス・E・ガウス (Clarence E. Gauss) が国務長官の コーデル・ハル (Cordell Hull) に宛てた報告で、その中で 同時期の南京周辺の都市にいた米国の宣教師によって目撃された 日本軍の残虐行為を述べています。

この 2 つの電信文は中国の歴史学者 Wang によって、 公開されている (おびただしい数の) 文書の中から 発見されたもののようです。 またこれは上海で出版されている Academic Monthly に掲載された論文に 述べられていることのようです。その中で Wang さんは「電信文から判断すると虐殺は南京に始まったのではなく、 日本軍が上海から南京への進撃途中に始まったことがわかる」としています。

新華社通信の記事の最後あたりで、電信文に出てくる日本の駐独大使は Shigenori Togo であると しています。漢字がわからなくて探すのがちょっと難しかったのですが東郷茂徳のようです :

東郷茂徳 (日本語版 Wikipedia)


追加
殺戮の件はそのうち米国も知ることになり、 そうなれば再び日本は非難されることになりますから、 東郷茂徳は、 自分の方から攻勢に出て、米国の外交をひっかきまわしたのでしょう。 これは日本政府の指示にもとづいているはずです。 つまり、この時点での日本政府は関東軍による 50 万人もの 中国人の殺戮を了解していたのです。
南京占領までに 50 万人を殺戮していますから、南京城内で 30 万人の犠牲者がいたという 中国の主張はまず間違いないように思われます。


なぜここまで大量の殺戮をしたのかが疑問でしたが、しばらく考えるうちに非常に自然な解答があることに気がつきました。 まず、Japan Times では、南京が落城したときに投降した数千名の中国兵は食糧不足から 殺戮されたと述べています。これに関しては、日本の歴史学者にも異論はないようです。 Japan Times は日本軍はそのとき、極端に食糧不足であったという点にも触れており、それが規律を 維持できなくなった理由であるとも述べています。それ以上に関して、実際の犠牲者の数で -- とりわけ 日本の歴史学者と中国の歴史学者で -- 一致を見ていないということを指摘しています。

ここでもう少し単純に考えることにします。常時は南京城内に 20~25 万人の人がいたとしましょう。 日本軍の侵略から、城内に逃げ込む人が現れるのが当然です。どのくらいまでの人が逃げ込めるでしょうか。 恐らく近郊には、城内にゆかりの人がかなりいるはずですから、逃げ込めるだけの人が逃げ込んだと 考えるのが普通です。日本の歴史学者には 50 万人の人がいたと考えている人がいるようです。 これを採用することにします。これで極めて深刻な問題が登場します。衛生上の問題もありますが、 水と食料です。 この状態で落城したとしましょう。水と食料の問題はこれで解決するでしょうか。 日本軍は軍票を乱発して、食糧問題を解決できるでしょうか ? 常時は南京城内に 20~25 万人しかいなかったのですから、その程度の人数分の 食料しか確保できないと考えてよいと思います。おそらく、この食料は近郊の農村から荷車などで 常時補給できる食料の上限であると思われます。今日、都会では職を手に入れることが出来れば いくらでも人口が増えます。(逆に職がなくなれば人口が減ってしまいます。) これが可能なのは 流通網が整備されているからです。南京は当時の蒋介石の中華民国の首都ですが、 物資の流通網は整備されていたとはいえないと思います。流通網が整備されていないから、 投降した数千名の中国兵を皆殺しにしたのです。食糧確保が出来なかったからです。 それでは、戦火を避けて南京城に逃げ込んでいた一般市民はどうでしょうか ? 南京城内に食料が登場すれば、この人たちが殺到したはずです。 いくら軍票があっても、食糧確保に極めて困難なことになっていたはずです。 しかも、南京は日本軍が占領下に置くまでに麻薬がなかった場所です。軍票があまり 意味を持っていなかった。

余剰の食料を手に入れるために、日本軍は余剰の住民をシステマチックに殺戮したのです。 これが最も簡単な説明だと思います。50 万人いる中で 30 万人を殺せば 20 万人が残ります。 これで余剰の食料を手に入れたのでしょう。上海から南京に至るまで同様な問題に直面し、 同じように極めてシンプルな解決を与えたと考えるほうがよいのではないかと思います。 あまりに短期間の間にあまりに大量の殺戮は困難ではないかという点が日本の歴史学者の論拠の ようです。しかし、日本の軍隊が飢餓状態にあったとすればそれも説明が付くのではないかと思います。


英語版の Wikipedia には南京大虐殺の生々しい写真が掲載されています。 以下にそれを掲載します。 写真は日本の新聞に掲載されたものもありますが、 コピーライトが (日本の法律に照らし合わせても) すでに消滅しているとのことです。


日本軍が南京に行進する写真、一般市民の恐怖がこれで開始されます。






松井石根の南京への入場。馬で入城していることに注意してください。燃料がなくなっており、距離がある場所からの食料の調達が不可能ととなっていることがわかります。食料の調達は南京城内でしかできない。




生き埋めにされる中国市民




Murase Moriyasu による「私の従軍中国戦線」から (著者の漢字名が不明), 死体だらけ




殺されて埋められる市民たち




首を切られた一般市民たち


英字紙などでは虐殺された人の写真をよく見ることがあります。 上の写真を見ると、公然と写真が撮影されていることがわかります。 殺戮を隠蔽するどころか、その逆なようです。 日本の歴史学者が言っているように軍隊の規律がとれなくなって、殺戮が起きたのではなく、 ほぼ確実にシステマチックな殺戮と考えるほうが正しいと思います。 またこのような写真が撮影された状況から判断をしても、南京城内で 30 万人もの犠牲者があったとする 中国の主張は納得できるものです。



百人の首を軍刀で切り落とした人は当時日本で英雄扱いされました。
首を切られた人たちはほぼ確実に一般市民です。




「南京大虐殺」に関しては次のページも参考になるようです。

Japanese Army's Atrocities -- Nanjin Massacre

このサイトには写真も掲載されています。英文の Wikipedia の写真と重複している部分があります。 次がそのトップページです。全部で 6 ページあります。「Next Page」と書いてあるボタンを押すと 次のページに移動し、「Previous Page」と書いてあるボタンを押すと、前のページに戻ります。 写真はクリックするとすべて大きなものが表示されます。(あまり見ないほうがよいです。悲しくなります。 主だった箇所にリンクを張るためにしているだけです。)

Japanese Army's Atrocities (page 1 of 6)


英語版の Wikipedia には「南京大虐殺のメモリアル ホール」(Nanjing Massacre Memorial Hall) の記述があります。この建物の入口には犠牲者の数 (300000) が記されています。 (日本の歴史学者はこの数値を目の敵にしています。) 12 月 14 日の IHT (= International Herald Tribune) には 新たに付け加えられた陳列物の写真がありました (Reuter)。犠牲者が埋められていた土地をそのまま切り出して、 断面を見せています。おびただしいばかりの石化した骨が見えますが、残念なことに写真をこのページに載せることが できません。

Nanjing Massacre Memorial Hall - Wikipedia

Image:Nj06.jpg - Wikipedia の縮小図



英語版の Wikipedia の「南京大虐殺」の最後に別の意味で興味ある写真があります。 マンチェスターガーディアン (Manchester Guardian) の新聞記者である ティンパレー (H.J.Timperley) はこの電信文を書きますが、 上海で差し押さえられ、日本の外務大臣の広田 弘毅により, 1938 年 1 月 17 日にワシントンの日本大使館に転送されます。 通信文は途中で米国により傍受され、解読されました。





この通信文の内容は 1994 年 9 月に NARA (= National Archive and Record Adrministration) により 出版されています。テキストの内容は


上海に数日前に帰ってきてから南京と周辺で日本軍が虐殺をしたという報道があり、これを調査した。 信頼できる目撃者の口頭による証言および非常に信頼できる人からの手紙から 日本軍がアッチラたちのやり方にも似た方法で行動をとり、また行動をとり続けていることの 確証を得ることになりました。最低限 30 万人もの中国市民が殺され、しかも冷血な 方法で殺された。強盗やレイプが横行している。しかもか弱い子供たちも対象となっている。 何週間も前に戦争が終わったのにもかかわらず市民に対する不条理な暴行が報道され続けている。 良心的な日本人は非常に恥ています。 南京における日本軍の非難すべき行動により、緊張感が高まり、 上海でも日本兵が凶暴に振舞う事件が起きている。 North China Daily の今日の報道ではとりわけ目まぐるしく変化する事件を 報道している。その事件では酔っ払った日本兵が女を手に入れることができず、 酒を要求し 60 才過ぎの 3 人の女性を撃ち殺し、何人かの一般市民を負傷させた。


追加
1. 大変なことを見落としていました。 「マンチェスター ガーディアン」とは昔の名前で現在は「ガーディアン」です。 日本の全国紙など及びも付かないような世界のトップクラスの新聞です。
The Guadian - Wikipedia
差し押さえられたのは恐らく「マンチェスター ガーディアン」に掲載される記事だったのです。 「ガーディアン」に掲載される記事は日本の全国紙などよりははるかに信頼されています。 従って、上の内容は決定的な意味を持ち、それだけでもって 30 万人の犠牲があったことが事実として世に受け入れられます。
2. 「マンチェスター ガーディアン」(あるいは「ガーディアン」) のように著名な新聞であれば、 情報提供者は南京政府の高官であった可能性があります。南京城への出入りは恐らく自由ではなく、 (日本軍のスパイが侵入することを防止するために) 身元検査でもしていたとが 確実で、城内の人口を把握していたことも確実だと思います。
3. また外務大臣がワシントンの日本大使館に電信を転送したというのであれば、 その内容の重要性、あるいは信ぴょう性も増すと考えることもできます。 つまり、電信の内容が真実で、その内容が米国にすでに知られているかもしれないという懸念から 日本大使館に注意を促したのだとも考えることができます。内容に根拠がないのであれば 外務大臣が転送するはずがない。


暗号を解読したことが出てきますが、これは「パープル暗号」であると思います。 1 年以上前の日本語の Wikipedia の「パープル暗号」の記事はとてもいいかげんなものでしたが、 最近とても良くなっていることに気が付きました。信頼できる内容です:

パープル暗号 - 日本語版 Wikipedia

「パープル暗号 (機械)」は第二次大戦中に日本の外務省が使用した暗号機械で、海軍によって提供されたものです。 海軍は数学者の「高木貞二」のアドバイスからこれを全面的に信頼したようです。 陸軍は別の暗号機を使用していましたが、暗号機を信頼しておらずあまり使用されることはなかったようです。

パープル暗号は戦争前から完全に解読されており、 電信による連絡はすべて内容が米国、英国に筒抜けでした。


参考

パープル暗号の解読はすさまじかったようです。これは戦況にも影響を与えています。 ノルマンジー大作戦が開始される前に、ドイツは連合軍によるノルマンジー上陸に備え、 ノルマンジーを要塞化しますが、その詳細な内容を当時のドイツの日本大使館に 教えています。そして、その詳しいデータがパープル暗号によって日本本国に送信されました。 英国がこれを傍受し、解読していました。このおかげで、ノルマンジー上陸作戦を具体化できた ようです。

しかしパープル暗号の解読は反面、米国の油断を招いたのではないかと思います。 真珠湾攻撃のとき日本軍は電信を一切使用しませんでした。


追加

現在では、日本語の Wikipedia のパープル暗号の項目には年譜まで付いています。 私が書いたノルマンジー大作戦のことと、年譜のことが若干矛盾しそうにも見えます。 日本語の Wikipedia には「フランス戦線の視察報告が解読される」と あり、ノルマンジー上陸作戦に貢献と書いてあるからです。 私が、どこかの英文の頁を読んだときには、解読されたのは 1 度ではなく、何度もです。 全部が全部解読されているのに性懲りもなく電信を送り続けているのです。 ちょろっと滑稽だったので、よく記憶しています。 最新鋭の機械を使っているつもりなのでしょう、膨大な電信文を送っており、 これが全部解読されていたのです。笑い話になりそうです。

英語版 Wikipedia のパープル暗号 に掲載されている写真の縮小版



第二次大戦中の米軍の暗号解読を担当したのは 「軍部安全保障局」 (Armed Forces Security Agency) でこれが戦後「国家安全保障局」(NSA = National Security Agency) となります。上のパープル暗号機は NSA もしくは付属の博物館に展示してあるものだと思います。 NSA のホームページの 下に Photo Gallery があり、 ここにエニグマ (独の暗号機) と一緒に写真が掲載されています。 パープル暗号はエニグマと同様に観光用に陳列してあるはずです。


追加 2

2008 年 9 月 29 日に、ワシントンからの共同通信の英語ニュースが Japan Times に載りました。 ほぼ同じ記事を次で読むことができます。

• Message in old cipher led to Adm. Yamamoto's death: U.S. documents+
• Message in old cipher led to Yamamoto's death: U.S. documents
ここに、JN25 という暗号が登場します。色々調べているうちに英語版 Wikipedia
Japanese naval codes - Wikipedia (日本の海軍の暗号)
に解説されていることに気が付きました。

パープルは海軍が外務省に提供した暗号ですが、 海軍自身は基本的に違う暗号を使用していたことがわかりました。JN は Japanese Navy (日本海軍) の頭文字で、JN25 というのは 25 番目の暗号の意味だそうです。 JN25 は時と共に随分変化したようで、 1941 年 12 月 7 日の真珠湾攻撃の直前に基本的に変化したそうです。 しかし、このバージョンの JN25 は 1942 年の 5 月末までには、十分に解読が進み、 アメリカによるミッドウェー海戦 (1942 年 6 月 4 日 から 7 日) の勝利を導いたようです。 暗号解析には IBM のタビュレーティングマシンも使用され、 また日本の公文書、書簡は紋切り型の決まり文句で始まっていたため、 クリブ (crib) と呼ばれる暗号解析の手法が可能であったようです。

•クリブ - 日本語版 Wikipedia
•Crib (cryptanalysis)

真珠湾攻撃以前の暗号文書は多くが手渡しで伝えられていたため、JN25 の解読率は 10% にも ならなかったようです。しかし、真珠湾攻撃以後非常に多くの暗号文が電信で送られたため、 1941 年の末には、暗号解析に十分な資料が手に入り、わずか 5 ヶ月で JN25 の解読に成功したことになります。

最初に引用した新聞記事では、山本五十六が前線視察することを通知する 暗号化された電信文 (1943 年 4 月 13 日付) が傍受、解読されて、 待ち伏せにあった山本五十六の飛行機が撃墜されて、戦死することが書かれています。 新聞記事にはこのとき使用された暗号はすでに、 旧式になっていて、旧式の暗号を使い続けたから、 山本五十六が戦死したのだと書いています。新聞には JN25E14 と書かれていました。後の 3 桁がマイナーバージョン を意味するのでしょう。 JN25 のバージョンは随分変化し、変化した直後は解読を最初からやり直さなければならなかったこと もあるようです。JN25 は結局 JN40 となるようですが、 こちらのほうは 1942 年の 9 月の日本のエラーから手がかりがつかめ、 1942 年の 11 月までには完全に解読できるようになっていたとのことです。 だから、暗号のバージョンを上げていたところで、山本五十六が 最後まで生き延びれたかどうかは、疑問ではないかと思います。

年表

非常にややこしいので、年表としてまとめることにしました。

  1793 英国の東インド会社が「アヘンの専売制」を導入
  1878 英国が中国の植民地およびインドでアヘンの登録制を導入
登録したもののみがアヘンを購入できる
(台湾の「阿片漸禁策」と同様にアヘンの消費を抑制するとしたふざけた主張)
明治12 1879 アヘン専売法
明治27 1894 日清戦争が開始
日清戦争中、日本はアヘンで多大な利益を得る
明治28 1895 日清戦争が終了 (下関条約)
台湾が日本の支配下
中国との通商条約で日本がアヘン戦争の勝利国と対等の立場 (不平等条約)
(日本も中国に阿片を持ち込めるような条約)
明治31 1898 後藤新平が台湾総督府民生長官
阿片漸禁策 (1878 年に英国が植民地で導入した方式と類似のもの)
見かけ上の論理とは別に単に麻薬で儲ける政策
明治37 1904 日露戦争 (1904-1905)
(軍票の使用開始)
明治38 1905 桂・タフト協定
(米国がフィリッピンを手に入れ日本が朝鮮を手に入れるための秘密協定)
日露戦争が終了 (ポーツマス条約)
日本が朝鮮を保護国化
明治39 1906 南満州鉄道 (満鉄)、日本の会社
(日本が恒久的な麻薬ルートの確保)
中国がアヘン撲滅運動開始
英国と中国間にインドのアヘンの持ち込みを停止することを目的とした協定を締結
明治43 1910 日韓併合
明治44 1911 英国と中国間に二度目の協定(インドのアヘン持込の段階的停止)
辛亥革命
大正元 1912 ハーグにおける万国阿片協定
大正 2 1913 英国によるインドから中国へのアヘンの持込が事実上終了
この頃、ヨーロッパのモルヒネが日本により中国及び朝鮮に持ち込まれる
英国のモルヒネはインドのアヘンを加工したもの
大正 3 1914 第一次世界大戦開始
青島占領 (日本が麻薬ルートの確保)
朝鮮でアヘンが禁止 (朝鮮はモルヒネ化)
この頃台湾にモルヒネ工場
大正 4 1915 対華21ヶ条要求
(この結果、ドイツが山東省に持っていた権益を日本が継承,
また日本人が南満州で自由に往来する権利と、工場などを作る権利を確保
麻薬の密輸に好都合となる)
大正 6 1917 朝鮮にモルヒネ工場
朝鮮のモルヒネが満州を経由して大量に中国に持ち込まれることとなる
大正 7 1918 シベリア出兵開始
シベリア出兵で日本は外満州 (極東ロシア) と内満州 (いわゆる満州) を占領
(広範囲の麻薬ルートを獲得)
台湾のアヘンの売り上げがピーク (800 万円以上)
大正 8 1919 ニューヨークタイムズの記事
(この頃日本のモルヒネが中国に怒涛のように乱入)
ベルサイユ条約 (第一次世界大戦終了)
(多くの国により万国阿片条約が批准される)
大正11 1922 シベリア出兵終了
中国へ青島返還
昭和 4 1929 世界恐慌
昭和 6 1931 満州事変
昭和 7 1932 満州国成立
星野直樹はアヘンの専売のために日本の銀行 (複数) から多額のローンを取り決める
満州国に朝鮮の麻薬の売人が大量に投入される
満州国が麻薬活動の中心となる
昭和 8 1933 リットン報告書、日本が国際連盟から脱退
日本に対する経済制裁成立せず (米国が国際連盟の一員ではなかったため)
昭和 9 1934 1934-35 年、満州におけるアヘンの栽培面積は 480 平方キロメートル、
1 平方キロメートルあたり 1.1 トン、1 年あたり 2000 万円から 3000 万円の利益
昭和11 1936 興亜院の設立
麻薬政策の一本化、内閣総理大臣が掌握
昭和12 1937 日中戦争の開始
南京占領
昭和13 1938 南京傀儡政権の設立
南京傀儡政権の下でアヘン、ヘロインなどの麻薬が大量に流通する
満州の麻薬の売人たちが大量に南京傀儡政権の領土に投入される。
昭和14 1939 里見機関の成立、(日本政府から資金提供を受ける)
里見機関は内蒙古のアヘン、イランのアヘンを持ち込む
昭和16 1941 真珠湾攻撃
昭和20 1945 日本の降伏
昭和23 1948 東京裁判



http://mail2.nara-edu.ac.jp/~asait/kuiper_belt/section4F/kuiper_section4F.htm

  ページの最終校正年月日 : 12/18/2010 12:44:56

アヘン帝国の土壌

皇国史観

最初から色々な事実には気が付かないものです。 「アヘン帝国 -- 汚れた歴史」を書いていたときに、英語のページの随所に日本人が中国人を「劣等種族扱い」をしていることが 指摘されていたのですが、その本当の理由には気が付きませんでした。 最初は当時の日本人の方が多少とも現代化しているから、その理由かな... などとも 考えていました。しかし、時間がたつにつれ「皇国史観」という言葉が とても深い深層意識の中から浮かび上がってくることに気が付きました。 もうとうの昔に忘れてしまった言葉です。

「皇国史観」とはどういうものか、色々なところに説明があるでしょうが、 これは要するに



天皇は神 (あるいは現神 (あらがみ)) であって、日本は神の国である

ということです。「神の国」以外の人間は「劣等種族」なのです。だから平気で 強制的に麻薬中毒にして、絞る取るようなことをしたのです。また、こうすることこそが 神の僕 (しもべ) たる義務であり、「お国のため」なのです。

以前、アメリカで連続殺人の犯人 (serial killer) が殺人現場に



Call me God (私を神と呼べ)

というメッセージを残していたことを思い出しました。これは映画ではなく実際の事件です。 日本でもこの事件は報道されたと思いますが、このメッセージには触れていませんでした。 人を殺してばかりいると、自分が神にでもなったつもりになるのでしょうか ? 同じように



罪のない人たちを強制的に麻薬中毒にして、絞り取り立てる

ことは、神の領域に近くなるのかもしれません。 また自分たちが神の立場、あるいは神に近い立場であれば、 理不尽な行動は、より神としての自覚を与えたことになるのかもしれません。


注意
この「皇国史観」は日本人にとって、よかったものでしょうか 「皇国史観」は天皇に立場が近ければ近いほど、有利なのです。 より遠ければ、理不尽な犠牲が、より要求されます。 各地の歴史的な土木工事で、よく耳にするのが「人柱」です。 古 (いにしえ) の時代から、日本の技術力の頂点と称するものには 常に「人身御供」や「いけにえ」が付きまとっています。 「皇国史観」にもこの「いけにえ」が付きまとっていると考えるべきです。
英国の 2 度のアヘン戦争は、ビクトリア女王のときに起きています。 英国が中国にアヘンを輸出することに関して、ビクトリア女王は、 積極的に奨励した、とどこに書いてあったと思います。また当然儲けの一部もビクトリア女王に渡っていたと思います。

同じことは日本にもあてはまらないでしょうか ? 明治天皇のときに、英国と同じように日本でも 2 つの戦争 (日清戦争、日露戦争) を引き起こし、このどちらでもアヘンで多大な利益を獲得し、 それ以後は、日本によって更に多量の麻薬が中国に持ち込まれます。 上流階級 (上級士族、上級華族、皇族、天皇) は、すべて日本が中国を麻薬漬にして 儲けていることは承知していたでしょうし、またそれを奨励していたことは ほぼ間違いないはずです。 また英国と同様にそれで利益を得ていたことでしょう (無論麻薬の儲けの多くが軍費などにつぎ込まれますが、それだけで すむはずもないことは火を見るよりも明らかです)。 原動力は「皇国史観」にあります。 あるいは、むしろ中国、あるいはアジア全域を麻薬漬にすることこそ 「皇国史観」なのです。「大東亜共栄圏」という言葉もありますが、 「大東亜共栄圏」はむしろ「皇国史観」の派生事項です。


注意
興亜院を作ったのは近衛文麿であり、彼は貴族です。 興亜院は色々な機能があるように見えますが、基本的には「内閣総理大臣による麻薬取引の一元化」です。 従って近衛文麿は犯罪者です。日本語の Wikipedia の近衛文麿に「戦犯容疑」などと、たわけたことが 書いてありますが、戦犯容疑以前にただの犯罪者です。 アヘン帝国で貴族が果たした役割は極めて大きく、そして薄汚いのです。
「皇国史観」と言えば「右翼」のことを想起することが多いと思います。 この日本語の「右翼」を英語に翻訳するときには恐らく right wing (右翼) とは ならないと思います。right wing でもよいかもしれませんが、yakuza (ヤクザ) と するほうが普通だと思います。現代では日本語ではあまり「ヤクザ」という言葉を使用せずに 代わりに「暴力団」を使用するほうが多いので、結局、日本語から英語に翻訳し、 更に日本語に翻訳しなおすと、「右翼」は「暴力団」となります。


注意
英語の Yakuza は日本語の「マフィア」と同じような使い方をされ、 これは「スシ」などと同様に日常的に使用される英語です。 英語版の Wikipedia
Yakuza - Wikipedia (ヤクザ)
には、「ヤクザ」の一種として「右翼」が紹介されています。 戦前の右翼の資金源は麻薬で、また最近の右翼の資金源は「業界紙を強制的に購読させること」 にあるようですから、暴力団と考えて差し支えないと思います。区別すること自体がおかしい。
平民の場合はどうだったのでしょうか ? ある程度インテリであれば、新聞報道を信じたはずで、 よもや記事が捏造されているなどと考えたことはなかったはずです。 この「阿片帝国 --- 汚れた歴史」で紹介をした「報知新聞の社説」のような「捏造記事」があるとは 到底考えなかったと思います。 麻薬に関しては、色々な噂が飛び回っていたでしょうが、 その原動力が国家にあることに関しての直接的な認識は薄かったと思われます。

「皇国史観」の中核を担ったのは上流階級 (上級士族、上級華族、皇族、天皇)、 暴力団、右翼であったことは明白です。彼らこそが麻薬で儲けていたからです。 従って



中国、あるいはアジア全域を麻薬漬にすることこそ「皇国史観」である

ともう一度断言したいと思います。

日本の歴史の捏造 -- 皇国史観とのかかわり

日本の歴史は恐らく捏造だらけです。私は子供のときに、2 度にわたる「元寇」 (文永の役 (1274年), 弘安の役 (1281年)) で神風が吹いたから日本が救われたと、教わりました。しかしこれは嘘でした。

元寇 - Wikipedia

にも、「神風が吹いたから日本が救われた」とは書いていないと思います。しかし「神風」 に関しての日本語の Wikipedia の記述はさえないものになっています。 この件に関しては偏見を持っていない外国人の方が的確に理解しているようです。

順番に話をしないといけません。 しばらく前に、「元寇」のことを書いた英文のページに遭遇しました。 いまでは多分そのページがありません。そのときページ内から次の PDF ファイルに リンクが張ってあり、PDF ファイル自身は読むことができます。

In Little Need of Divine Intervention (PDF)

このファイルは、次の本の一部です。

Conlan, Thomas, In Little Need of Divine Intervention, Cornell University Press, 2001
(トーマス・コンラン, 神の助けなど必要ではなかった、コーネル大学出版、2001)

また、そのとき見ることができた電子版の「蒙古襲来絵詞」も次で見ることができます。(英文です。)

Scrolls of the Mongol Invasions of Japan

現存する「蒙古襲来絵詞」は色々修復された結果、もとの姿をとどめていないようで、電子版の「蒙古襲来絵詞」では、 後世にどのように補正されたのかを比較説明をしています。 上の本の著者が中心となっている「Scroll Project」(巻物プロジェクト) だそうです。

コンランの本の一部しか PDF で読めませんが、それでも背景が非常によくわかります。少し紹介することにしましょう。 「蒙古襲来絵詞」の作者である竹崎季長 (たけざきすえなが) に関して、コンランは本の中で 次のように書いています。


竹崎季長の物語の中では、お祈りばかりで、甲佐大明神を褒め称えることばかりですが、 竹崎季長は蒙古を打ち破ることにおいて、神の助けがあったとは言っていません。 「神風」という言葉は、元寇に関しての鎌倉幕府の文書にも同様に登場はしておらず、 13 世紀の朝廷に仕える人の日記にのみ見受けられます。

一般に文永の役では蒙古軍は 90000 人、弘安の役では 140000 人いたと されていますが、これはあまりに多い数値であるとコンランは述べています。 その根拠は史上最大と言われるノルマンジー上陸作戦の規模との比較です。 コンランはノルマンジー上陸作戦の連合軍は 156000 人としています。 英語版の Wikipedia (Invasion of Normandy - Wikipedia) では 100000 人としています。現在でも 100000 人を移動させようとすれば途方もないことが必要です。

実際の軍隊の人数を評価するのはかなりむつかしく、 コンランは、文永の役の蒙古軍は 2,3 千人、日本軍の方も同程度。 そして弘安の役の蒙古軍は 1 万人もいなかったのではないかと書いています。


注意
1. 地震等の天災で 10 万人規模の被災者があった場合の 水や食料の確保は信じられないくらい困難ですから 10 万人規模の軍隊が当時、洋上を移動すること自体 不可能であったと思います。
2. 元寇のときの日本軍の総数は色々不明なのですが、 日本の地方には参戦に割り当てられた侍 (or 御家人) の数が記録として残されているものがあり、 そこから、コンランは (日本各地への割り当てが均等であると仮定して) 日本軍全体の人数を推測しています。 日本軍のほうの人数が推測できれば、戦闘状況から蒙古軍の人数が推測できます。

文永の役に関しては、蒙古軍は大宰府まで到達していませんから、 九州制圧など、まったくありえない話で、 日本側としては神頼みをする必要がなかったのです。 従って、コンランが述べるように


撤退した蒙古軍が、その理由を台風のせいにした

と考えるほうが、よほど納得できます。

元寇 - Wikipedia

では、広橋兼仲の日記『勘仲記』に文永の役における蒙古軍の撤退に関して


伝聞として逆風が吹いたことを記されている

と書いています。この逆風が悶着を起こしそうですが (つまり台風めいたものかもしれない憶測を残す可能性がありますが)、 これも無論コンランの本の中で適切に評価され、 「逆風」だから「中国に帰るのに都合のよい風である」と書かれています。 直前に蒙古側の司令官が重傷を負っていますから、その理由から撤退したのに 相違ないのです。


注意
元は日本のみならずヨーロッパにも侵入しており、 元の戦闘方法はヨーロッパの歴史にも残っています。 コンランは、こちらの方も参考にしています。 またコンランが元寇のことに興味を持ったのは「神風特攻」に関連して、 本当に「神風」が吹いたかどうかに興味を持ったからのようです。
英語版 Wikipedia の 元寇防塁の 縮小図


文永の役の後に防塁が築かれ、これにより、 弘安の役には蒙古軍は博多に上陸さえできなくなります。 このときは台風が襲来したようですが、 台風が来なくても、そのうち蒙古軍の方の食料が尽きることが 目に見えていますから、「神風」と称するものではなかったことに なります。コンランは


13 世紀を通じて、日本が「神の国」であるとの信仰は、朝廷に仕える少数の人と 僧侶以外に広まっていたという証拠がない。

訳注   面倒なので priest を単に僧侶と訳しました。 寺以外に神社も入っていると思います。

とも書いています。どういうことかというと、 朝廷は蒙古軍を撃退するために、 異国調伏 (いこくちょうぶ) の祈祷をしたようです。 要するに、京都の朝廷は我々の祈祷が蒙古を撃退したのであって、 鎌倉幕府が撃退したのではないと、言ったのでしょう。

もっとも、蒙古側の方の資料にも負け戦の理由を 日本の朝廷の祈祷のせいにしています。 元 (蒙古) は日本のような辺地の弱小国を攻略できなかったことによって 面子を失いたくなかったのです。 だから、負け戦を朝廷の異国調伏の祈祷が引き起こした 超自然現象にしたのです。

いずれにせよ「神風」が吹いたという歴史はそもそも始めからなかったのです。 従って「神風特攻」などが歴史的な観点からは、はじめからナンセンスなのです。 しかし、明治以降「神風」が吹いたことが歴史的事実とされ、日本は「アヘン帝国」の道を歩むことになったのです。


注意
弘安の役の際に台風によって「元」の船が随分沈みます。 この話は「鉄の製造」/「日本の海軍は強かったのか ?」で述べた話と 矛盾するように見えます。中国の本来の外洋船であるジャンクであれば 簡単には沈みません。沈んだ船は高麗で作られた平底の船でジャンクでは ありません。経費節約のため安物ですませたようです。
外国人排斥 -- 皇国史観とのかかわり

ここで少し話を変えましょう。 ごく最近まで、英字紙には「日本人は人種差別主義者 (racist) だ」とよく書かれていました。 在日外国人からすると、理不尽な差別待遇があるからでした。 Japan Times には色々な記事が掲載され、日本人が判断しても 意外な事実が書かれていたと思います。

また外国人に不利益な法律の多くが在日朝鮮人をターゲットにしたものであることも 何度も書かれており、 恐らく日本の事情に詳しい人 --- 日本に住んでいなくても Japan Times の 購読者 --- であれば、常識的なことになっていたと思います。 しかも現在であれば、英語さえ読めれば、インターネットで世界中の誰もが Japan Times の記事を読むことができます。


注意
1. 「アヘン帝国」の後半で Japan Times に載った記事のことを紹介しましたが、 この記事は世界中の人が読んでいます。 随分多くのサイトが、この一連の記事にリンクを張っています。 そのようなサイトでは「現在では日本人もこのようなことを認めるようになったのだ」とも 書いていますが、およそこれは見当違いです。邦字紙はこれを記事にしなかったからです。


2. 日本で「在日朝鮮人をターゲットにした法律を作っていた」ということは、 日本人が、がちがちの「人種差別主義者」(racist) であったことのあらわれなのですが、 それを理解している日本人は極めて少ないと思います。

Japan Times の記事では、在日朝鮮人がターゲットとなっている法律にせよ、 十分に注意する必要がある (読者は欧米系を対象としていた) とも言及していたと思います。 またあるときには、警察官の職務質問を受けたときの応答の仕方にも アドバイスが書いてありました。 本国でしているような応対では絶対にダメでこれも十分に注意しないといけないと しており、日本の警察は令状なしに簡単に拘束できるとも言及していました。

「皇国史観」は現在では死語に近いと思いますが「外国人差別」という形で 戦後もずっと痕跡をとどめていたのです。


注意
このような記事が色々出た後で、国連の調査団が日本に訪れたと思います (21 世紀に入ってからのことです)。 わずか一日しか日本に滞在しませんでした。そのとき、どこかの大臣が 「1 日しか滞在しないのに、何もわかるはずがないじゃないか」と言っており、 それが全国紙でかなり大きな記事になっていました。 私は「発言した大臣も、これを記事にした全国紙も、ものすごくアホだ」と思いました。 英字紙に克明に書かれていることで世界中で誰もが読むことができるのに .... 調査をするにしても単に確認だけですむことです。 しかし、よく考えてみれば、邦字紙のほうは私が知っていることを承知の上で --- 英字紙にたたきまくられていることを承知の上で --- さも問題であるかのように記事にした可能性もあります。
私も外国人差別のことには詳しくありません。 Japan Times に載った外国人差別の記事では私の方が何も知らないことの方が 多かったです。しかし、現在ではかなり改善されていると思います。 外国人差別のことが新聞で書きまくられたからです。邦字紙ではないですよ、 英字紙によってですよ。

身近でも驚いたことがありました。 私は非常に小さい国立大学の教員をしています。 教員数が少ないですから毎年のように色々な委員をさせられます。 数年前には入試委員をしていました (21 世紀にはなっていました)。 このとき驚くべきことを知りました。日本には多くの朝鮮人学校があります。 この朝鮮人学校は日本の高校とはみなされていないことを始めて知りました。 国立大学の受験資格は



6 年 + 3 年 + 3 年

の教育を受けていること、という制約があります (どこの国からの留学生にも適用されているものです)。 このため朝鮮人学校の生徒は「大検」を受検しないといけないということでした。 韓国の高校を卒業した者は国立大学の受験資格があったので問題とされたのでした。

文科省からの通達により、各国立大学の自由裁量となり、本学では (確か、他の国立大学の真似をしたと思いますが) 朝鮮人学校の受験者からは その学校のカリキュラムと授業のシラバス (授業計画) の写しを提出してもらうこととし、 それを見て、入試委員会で受験資格があるかどうかを判断することになったのではないかと 思います (最終的には教授会で審議)。

しかしですね、韓国系の朝鮮人学校では韓国の高校と同じ教育がされているはずで 教科書も同じはずです。しかも韓国の高校を卒業していれば、日本の国立大学の 受験資格があるのです。やはり少しおかしい。

「皇国史観」による「外国人差別」の伝統は制度の中に組み込まれてしまっていて、 明示的に問題が提起されない限り、書類の山の中に隠蔽されてしまっているのだと いうことが非常にはっきりすることになりました。

私も元々の「皇国史観」は知りません。知るというよりは感覚的に 理解が難しいというほうが正解です。 「皇国史観」は現在のイスラム教の「原理主義」に近いのではないか とも思います。 イスラム教の「原理主義」も麻薬で儲けることがあるようで、しかも又 「自爆テロ」はかっての日本の「特攻」につながるもので かなりの共通点があるのではないかとも思います。

それにしたって、何も関連しない人を道連れにしなくても よいじゃありませんか。テロと言えば、日本の場合には「国家による麻薬テロ」 と言うべきですが、 古い時代の日本人に文句を言いたくなります。

最後にもう一つ付け加えるべきでしょう。 かっての「皇国史観」を残しているものがもう一つあります。 いわずと知れた「君が代」です。 あきれるくらいに「君が代」斉唱を強制している自治体があります。 「皇国史観」を前提にすると、これは問題がありすぎるのですが、 もうこのあたりでおしまいにすることにしましょう。


注意
ふと気が付いて、Altavista で「君が代」(kimigayo) と「アヘン」(opium) で検索してみました。 やはりヒットします。100 件ぐらいあります。「日の丸」も出てくる。出てくるのは現代の日本に関しての批判的なページです。 「アヘン帝国」を書き始めてから、いつのまにか「君が代」は「ヤクの歌」、「日の丸」は 「ヤクの旗」と言うべきだな、と思っております。


http://mail2.nara-edu.ac.jp/~asait/kuiper_belt/section4H/kuiper_section4H.htm

  ページの最終校正年月日 : 11/25/2013 02:48:57

硫黄島の戦い

米国海軍文書「硫黄島の奪取」

「硫黄島の戦い」のことを調べようとしたのは、硫黄島の戦いでは艦砲射撃が ピンポイントであることを今まで色々と英文記事で読んでおり、本当にそうであったのかと 疑問になって調べようとしたことがきっかけでした。その最中に「米国海軍」の文書

Capture of Iwo Jima (硫黄島の奪取)

に行き当たり、読んでいくうちに、確かにそうであることに確信を持つことになりました。 (これは第二章の末尾にある複数の写真から明白です。) それと同時に、日本語の Wikipedia

硫黄島の戦い - Wikipedia

に書かれているようなことには随分と嘘がありそうだと気づき、深入りすることになり、結局「米国海軍」 の文書を全訳することになりました。次のリンクから中に入れます。


硫黄島の奪取
(米国海軍文書「Capture of Iwo Jima」(硫黄島の奪取) の翻訳)


追加
1. なお、この文書はもともと秘密文書です。いつ頃公開されたのかに関しては記載がありませんが、インターネットの 上で公開されるようになったのは 2006 年 10 月 13 日以後です。この文書に最初に気がついたのが、2008 年 10 月ごろです。 これは米国海軍の歴史センターの図書館で公開されています。 Capture of Iwo Jima からリンクをたどれます。私が最初に気がついた時には読める文書は多くなかったのですが 今ではものすごく増えており、本当の図書館みたいに変貌しています。第二次大戦のことはもとより、ずっと新しいことまで読むことができます。
2. この文書の用語で困る言葉があります。mortar は日本語では臼砲、迫撃砲の 2 種類の訳があります。 mortar の元々の意味は「臼」で、臼砲がその訳語に相当すると考えていましたが
臼砲 - Wikipedia
によると、日本語では区別しているようです。日本語では砲身の短いものを (臼のように見えるから) 臼砲と呼んでおり、 それ以外が迫撃砲のようです。英語では弾道が高いものを一括して mortar と呼んでいます。 「硫黄島の奪取」で日本軍が防御用に使用する mortar は敵から見えない位置から発射するもので、臼砲と訳す方が適切かもしれません。 但し、「硫黄島の奪取」で最もよく登場するものは「米軍」による mortar で、これは迫撃砲と訳すべきようです。 精度は高くありませんがとても連射性能に優れており、硫黄島の水陸両用戦では LCI に搭載された迫撃砲が非常に重要な役割を担います。 色々区別するのがややこしいので、mortar は一括して迫撃砲と訳しました。(誤訳であることに気が付いて grep で一括変換しました。)

この文書「硫黄島の奪取」から色々な事がわかります。 その中の幾つかを以下でまとめることにしました。

1.一枚の写真
2.米国海軍の大型艦船は何隻沈んだか ?
3.日本軍の大型の火器は効果があったか ?
4.何故、日本軍の文書がなかったのか ?
5.硫黄島の戦いの経緯
6.追加:第二次世界大戦における普通の砲撃の仕方

一枚の写真

単に、日本語版の Wikipedia に書かれていることに嘘が多いのではなく、 多分日本人は米軍の側から見た「硫黄島の戦い」をほとんど 何も知らない可能性があります。例えば、日本語の Wikipedia の載っている次の写真です。



この写真のキャプションには「迫撃砲および重砲の攻撃により擱座したLVT」とあります。 (LVT に関しては日本語の Wikipedia (LVT - Wikipedia) に解説があります。) また「第七章 その他」に詳しい解説が載っています。

写真を見れば物々しい戦争が行われたかのように見えますが、実は全然見当違いです。 米軍は上陸のときにものすごく苦しみます。日本軍の攻撃による被害も甚大なものですが、 むしろ波と砂浜のせいで随分苦しみます。硫黄島は天然の要害なのです。 大きなうねりのせいで、片っ端から小型船舶、上陸用舟艇が沈没します。 (日本軍による砲撃で沈没する船舶はそれほど多くはないようです。) 水陸両用車もキャタピラ付でないのは全部動けなくなります。キャタピラ付きの車両でも 動けなくなるものが続出します。硫黄島の砂浜は火山性の砂浜で見かけは締まっているように見えますが、 タイヤがすぐにもめり込み、砂浜から脱出できなくなります。これは砂というよりは火山灰と言う方が近いようで、 車両にとって蟻地獄なのです。 そして砂浜はゴミだらけとなります。 上の写真は、そのゴミだらけとなったありさまです。

おわかりでしょうか ? 一枚の写真の示している内容が基本的に違ってきてしまいます。 米国海軍の文書はとても興味を引くものです。

米国海軍の大型艦船は何隻沈んだか ?

硫黄島上陸日を D デーと呼び、1 日前を D マイナス 1, 1 日後を D プラス 1 のように呼びます。 硫黄島上陸作戦の直接の準備は D マイナス 3 に始まり、D マイナス 1 に至るまで 上陸準備のための砲爆と偵察が実施されます。 D マイナス 2 の 9938 時にペンサコラが北東の海岸沖で砲火を浴びます。 ペンサコラには航空機が搭載されているので、小型船ではなく、前後関係から 駆逐艦ではないかと思います。このときは砲撃戦となりますが、一応ペンサコラは 無事なようです。

D マイナス 2 の 1100 時から 1145 時の間に東海岸沖の上陸用舟艇が、かなり被害を受けます。 これは米軍が上陸を開始しようとしていると日本軍が誤解して、 ありったけの火器で反応したことによります。 このとき駆逐艦とおぼしきロイツも被弾しています。司令官が重症を負いますが、船は 無事なようです。 (以上は「第一章 語り」の 1-13 の記述)


追加
D マイナス 2 に日本軍は米軍が上陸しようとしていると誤解して、ありったけの火器で反応したことは、 日本軍が事情を何も知らなかったことによることを意味しています。 実際の上陸作戦ではおびただしい数の上陸用舟艇が殺到します。しかし、D マイナス 2 ではわずか数隻の 上陸用舟艇が岸辺に近づいただけです。 これで激しく反応したことは米軍の上陸作戦に関しての予備知識を持っていなかったことを意味しています。 哀れですが、これでは素人です。 硫黄島の海岸防衛用の大砲の操作をしたのは全くの素人だと考えて差し支えがない。
これ以外では D デーに至るまでに大型艦船が被害を受けたとの記述はないようです。 しかし D プラス 2 の夕闇に 50 機ほどの日本軍の航空機による攻撃があり、 自殺機に攻撃されて、護衛空母のビスマルク・シーが沈没します。 このとき乗船した将校 124 名、乗組員 836 名のうち生存できたのは、 将校 100 名、乗組員 513 名です。(以上は「第一章 語り」の 1-8 の記述) 本文では何名が戦死したのかの記述がないので

(124 - 100) + (836 - 513) = 347 名

が、ほぼ行方不明として処理されたと思われます。 一方「第六章 ロジスティック」の 6-9 に「海軍の戦闘による死傷者のまとめ」で詳細な記述があり、 「空母と護衛空母」の行方不明が 362 名としてあり、これが上記の 347 名に極めて近いことがわかります。 またこれ以外には 100 名を超えるような行方不明者がありません。 大型艦船が沈没するような場合、行方不明者が多量に出ることが想定されますから、 硫黄島作戦で沈没した米国海軍の大型艦船は護衛空母のビスマルク・シーのみであろうと 結論できます。

日本軍の大型の火器は効果があったか ?

D マイナス 3 よりも以前に高々度からの爆撃が数ヶ月続きますが、これではほとんど 日本軍の砲陣地などを破壊できなかったようです。日本軍の陣地は非常に小さく、鉄筋コンクリートで 固めており、しかもカモフラージュされていた。

しかし、D マイナス 2 の夕方には上陸海岸である東海岸を射程距離に収めている大砲の位置が確認されたようです。 写真撮影の結果ですが、これは D マイナス 2 に東海岸を偵察していた上陸用舟艇が ありったけの火器で攻撃を受けたことと関係しているかもしれません。 全部で 5 箇所の陣地が確認されました。 そのため、D マイナス 1 にこれらの陣地を破壊するために、 アイダホとテネシーに十字砲火が命令されています。 これは「第一章 語り」の 1-14 に記述されていることです。 結果がどうなったのかに関しては直接記述がありません。 「第六章 ロジスティック」の 6-10 に上陸隊の死傷者の詳細なデータがあり、 D デー (2 月 19 日) の戦死者が 76 名となっています。 その後の上陸隊の戦死者が毎日 200 名近くありますから、 D マイナス 1 における十字砲火によって、東海岸を射程距離においている大砲が破壊されたことが 確実です。


注意

アイダホとテネシーは戦艦であると思われます。 2 隻に十字砲火の命令が出た点から判断すると、この時ようやく戦艦が 陸の大砲の射程距離に入ったのだと思われます。 もしも、どちらかの艦船が沈没しないまでも大破しただけでも米国海軍の文書に登場するはずです。 従って、この点から判断しても守っていた日本軍に砲撃に卓越した人が少なかったと思われます。

これを裏付ける事実があります。D デー以後はできるだけ近距離から大砲の陣地を 破壊する命令が出ます。しかも、このときは十字砲火ではありません。 つまり、アイダホとテネシーの攻撃に対しての反撃がお粗末であったから、 意を強くして、至近距離からの砲撃に切り替えたのに相違ないのです。

追加: D デーにおける米軍の戦死者は多くはないですが、負傷兵は随分沢山います。 この中には大型の迫撃砲による負傷兵もいるはずです。 迫撃砲の位置確認は難しいので米軍の上陸時にはまだ多くが生きていたはずです。 しかし、浜辺を直接狙える大砲はなかったことは確実です。 迫撃砲は狙いが正確ではありませんが、大砲は狙いが正確で、もしも大砲が生きていれば、上陸用舟艇を何隻も撃沈できたはずで、 この場合には米軍に大量の戦死者が出たはずです。 上陸作戦は同時に多くの上陸用舟艇で一斉に浜辺に上陸を目指しますが、 これは上陸用舟艇が少々撃沈されても大多数の上陸隊が無傷で上陸できれば作戦が成功であるからです。 しかし、守る側からすれば大砲が生きていれば、何隻かは必ず直撃で撃沈できるはずで、 この場合には上陸軍の中に多量の戦死者が出たはずです。

また「第一章 語り」の 1-15 では

着目するに値する点は、浜辺の拠点が一旦確保されてからは、 我々の攻撃隊における死傷者 (casualties) の大多数は 激しくて正確な小火器 -- 小型の迫撃砲や手榴弾を含む -- によるものであったことである。

と書かれていますから、大型の火砲による戦死者は、それほど多くなかったことになります。

海から見える陣地に関しては古典的な直接の的打ち (まとうち) で破壊できます。 海から見えない陣地に関しても海軍による砲撃が効果があります。 この場合には上空から偵察機が、着弾を観測していないと意味がありません。 しかし、この目的のための専用の部隊があり、陣地の位置さえわかれば破壊することが 可能となります。


注意
偵察機が着弾を観測するためには、砲弾の弾道を目で追う必要があり、 発射の指示は偵察機で観測をする人が出します。また着弾するまでにかなり時間がかかるので、 偵察機は島の反対側から侵入する必要があり、ターゲットは上空から視認できる場所でないといけません。
以上のようにして、ほぼすべての大砲を破壊することができますが、 原理的に破壊することが不可能な場所があります。 これは崖の途中に設置された迫撃砲で、海から見えなければ海からの攻撃が不可能で、 また航空機による爆撃も難しいようです。 このような場所は、海兵隊が破壊しなければならなくなったようです。

「硫黄島の戦い」で米軍は 6000 名もの犠牲者を出しますが、 これは重砲によるよりは「小火器」によるものなのです。重砲では一旦使用すれば、その存在がばれてしまいます。 (口径の大きな砲では爆薬による白煙が立ち昇ります。) こうなると戦艦の艦砲射撃の餌食となるのは時間の問題となるようです。日本軍の重砲は極めて小さな防御施設に 隠匿されており、艦砲射撃の直撃を食わなければ、十分に持ちこたえられるようです。 これがまたたく間に破壊されていくようですから、硫黄島における艦砲射撃の精度はきわめて高いようです。

非常に精度が高いと思われる理由をもう少し説明します。 日本軍の陣地は分厚い鉄筋コンクリートでできていて、 土砂でこれが覆われていたようです。土砂はカモフラージュの目的もありますが、 砲爆から守る目的もあったのではないかと思われます。 そのため、攻撃するには最初に砲爆でこの土砂を引き剥がさないといけません。 これが随分と手間が食うようです。 更に、その上に戦艦の主砲の直撃を何発も食らわさないと破壊できなかったものもあったようです (あるいは全部こんな具合であったのかもしれません)。 しかし陣地が発見されれば、瞬く間に破壊されていったようですから、艦砲射撃の精度は 極めて高かったと断言できます。このようなことがなされたことは次のような写真を見れば明らかです。 これは破壊された大砲の陣地で、第二章の末尾に掲載されている写真の一つです。


土砂が丸くはぎとられており、何十発もの砲弾が正確に同じ位置に着弾している。


注意

硫黄島戦争はもうレーダーができているときです。そのため、ターゲットを目視して艦砲射撃を することはすでに時代遅れとなっています。 この時代遅れの攻撃をせざるを得なかったのです。司令官たちは不愉快極まりなかったようです。 この目視による艦砲射撃を「至近距離」 (point blank range) と呼んでいます。 拳銃のような場合には「至近距離」 (point blank range) は銃口を相手の体に突きつけるような場合で 絶対にはずさない距離です。 硫黄島における目視による艦砲射撃では、弾道はほぼ直線で、的が静止していれば、はずすはずがないのです。

波による揺れのことが問題となりそうですが、硫黄島でどのようにしたのかに関しては知りません。しかし、 非常に古い時代には例えば次のようにしていました。どこで読んだのか記憶がないので正確には言えませんが、 しくみは非常に単純です。 まず甲板に垂直に立てられた柱のようなものが必要です。 もう一つ、上部からおもりをつるした糸が必要です。船が波によってゆっくり揺れますが、 柱と糸が平行になったときに発射します。この方法では連続的に発射することはできませんが、 少なくとも、原理的には (海が荒れない限り) 波による揺れは問題となりません。 しかし硫黄島ではこのようなことをする必要さえなかったのかもしれません。 弾道がほぼ直線ですから、ターゲットが照準に補足できたときに発射するだけかもしれません。

もう少し付け加えましょう。上陸から 12 日目あたりには、海軍の出番はほとんどなくなり、 「海軍としては穏やかな日」となります。この時点での上陸隊の戦死者は 2000 名程度です。 この時までに、ほとんど日本軍の大砲、迫撃砲は破壊されたはずで、これで正規戦としての硫黄島の戦争は 決着が付いているのです。だからこれ以上戦うのは無益です。 これ以後の日本軍の死者は、硫黄島の司令官あるいは日本政府によって殺されたと考えるべきです。


注意
1. この文書では、海兵隊の活躍はあまり書かれていません。 海兵隊によって破壊される陣地も随分あったようですが、残念ながら詳細に関してはほとんど記述がありません。 この文書は一般的な報告書からの抜粋で、一般的な報告書では個々の戦闘は問題とされないようです。
2. しかし、一つだけ意外な点があります。険しい場所では 戦車は「装甲つきのブルドーザ」の後ろについていく以外に方法がなかったようです。 米軍にとって最後のよりどころが「装甲つきのブルドーザ」とは、まことに意外な事実でした。
これを最初に書いた時には、ブルドーザは道を作りながら前進するだけと思ったのですが、 それ以外にも用途がありそうです。内陸部には地雷原があったはずで、地雷探知機で地雷を探すこともできますが、 恐らくこれをしているとスナイパーの狙撃を受ける可能性の方が大きくなります。 そのような場合には、ブルドーザで土砂を押し出してしまえばよいのです。地雷が爆発しても ブレード (排土板) で爆風を避けることができますから、これで地雷原を強行突破できるはずです。 日本軍はあちこちに堀や地雷原を設置しているはずですが、これがほとんど意味を持たない。

[追加] この文章はかなり以前に書き上げたものですが、2011 年の 4 月に意外なことに気が付きました。 福島第一原子力発電所の事故で、自衛隊が戦車を持ち込み、これに排土板を装着して、 発電所のがれきを処理しようとしました。これは実際には行われなかったのですが、 硫黄島における「装甲つきのブルドーザ」は極めて効果的であったことが確認できました。 「装甲つきのブルドーザ」の発展形が「戦車に排土板を装着可能」とすることだからです。 これがあれば、塹壕をいくら掘ってもまるで無意味だからです。現代の自衛隊はそれをきわめてよく理解している。

3. 米軍の死傷者に関して付け加えておくほうがよいことがあります。 一般の戦闘員に関しては死傷者は随分いますが、 死傷者の比率がダントツに高いのは衛生兵です。彼らは危険を顧みずに負傷した米兵を 救助しようとしたためです。この点に関しては恐らく日本で語られる硫黄島戦争では 一言も言及されていないはずです。戦死者に含まれる衛生兵の比率は随分高いはずです。 米兵を撃ち倒しても、とどめをささずに放置すれば、そのうち衛生兵が飛び出してくるはずですから、 この場合は狙い打ちできます。こんなことがあったのではないかと思います。

上陸後 16 日頃から海軍は硫黄島から撤退を始めます。仕事が残っていないからです。 しかし、硫黄島の上陸隊の戦死者は最終的には 4500 名程度に膨れます。 どのような戦争であったかが、これで非常に良くわかります。ゲリラ戦です。 正規戦はほとんどなかったのです。小型武器による日本軍の不意打ち攻撃のみが 一貫してあっただけです。大型兵器では日本軍は太刀打ちできなかった。 米軍の艦砲射撃の精度を理解していなかった可能性の方が大きいと思われます。

またもう一つほぼ確実と思われる点があります。 硫黄島を守る日本軍の中に砲撃に卓越している人が少なかったのではないかと 思われる点です。一つには米国海軍の文書の至るところで砲撃が「正確であったり、 不正確であったり」して随分ムラがあるようにみえるためです。 「神風特攻」の操縦士は実際には飛行機を飛ばせるようになればすぐにも 戦地に送られたような人です。 (これは「同時テロ」の犯人像と極めてよく似ています。 彼らはかろうじて旅客機を操縦してビルに激突させることができただけです。) これと同様に硫黄島の日本軍の多くは満足に砲撃訓練を受けていなかったのではないかと 思われます。どっちみち死ぬためです。

艦砲射撃よりは航空機による爆撃の方が効果があると思っている人がいるようですが、 これは間違いです。航空機による低空爆撃を実施できるのは対空砲火を沈黙させた後です。 曳光弾などのトレーサーを使用すれば弾丸の軌跡を目で追えますから、 対空砲火の高度に降下すればすぐにも撃ち落される危険がでてきます。 米軍の文書の中では艦砲射撃と航空機による爆撃を同時に実施することで対空砲火の危険を 回避できることが判明したと書かれています。 但し、大砲が航空機を撃ち落す危険があるので相互の連携はかなり難しくなります。 艦砲射撃を同時に実施すると、対空砲火の精度がずっと悪くなり、航空機がかなり低空に侵入でき、 破壊効果がずっと改善したことが書かれています。

航空機による低空飛行は対空砲火がある場合にはずっと危険なのです。昔、ベトナム戦の最中にベトナム軍の女子中学生が ライフルで低空飛行するジェット戦闘機を何度も撃ち落としたことがあります。 これは嘘みたいな話ですが本当にあったことで、以後米軍のジェット戦闘機は低空飛行をしなくなりました。 英字紙に載っていた話です。

何故、日本軍の文書がなかったのか ?

「第四章 諜報」の 4-2 に日本軍の文書が全然残っていなかったことが 最高司令官によって指摘されています。最高司令官は全然見当が付かず、 的外れな推論をしています。

本文中の訳注にも記載していますが、これは「沖縄で集団自決の命令を書いた文書が残っていない」 ことと密接な関連を持っています。 「玉砕命令は戦争犯罪になるかもしれないから書いた記録が残されなかった」ということは 半世紀前私が小学生だったときには常識でした。

現在文書が残っていない以上そのような命令があったわけがないなどと言う 歴史学者がいることや、それが当然であるかのように主張する記事が 2008 年の 11 月頃に産経新聞に 掲載されていました。そのときは以上の事実を思い出さなかったのですが、 米国海軍の文書を訳している間に思い出すことになりました。 当時の大本営のやり方はとても卑劣なのです。 平気で玉砕命令を与える一方で、いざ降伏せざるを得ない場合に自分たちの保身を 考えていたのです。


注意
1. もっとも「玉砕命令は戦争犯罪になるかもしれないから書いた記録が残されなかった」との言質は 大本営に対しての賛辞と共に語られていたと思います。 この点は少しはっきりしないのですが、多分「天皇が戦争犯罪で裁かれないようにしたのだ」 と述べていたのだと思います。第二次大戦中に日本人は天皇の名のもとに 日本人を余りに大量に殺していますから、 その点から戦争犯罪とみなされると自認していたのではないかと思います。
2. 歴史学者、あるいはそれを引用して論を展開している産経新聞ですが、 「書かれていることのみこそが事実である」ことを前提にしています。これは正しいでしょうか ? 例えば、ワイロを受け取った政治家は領収書を書くでしょうか ? もしも、 書かれたことのみが事実であれば、ワイロで有罪となる政治家は一人もあるはずがありません。 誰もワイロの領収書を書くはずがないためです。通常記述された証拠はないと思われます。 有罪となるのはそれ以外の根拠からです。
3. 書かれていることは事実でしょうか ? 封建時代には支配者の批判は書くことができませんでした。 陰陽道の安倍清明を思い出してください。彼は天気予報もしていますが、 常に的中したそうです。これは記述された歴史です。それに反して、現代の気象庁の 予報は外れてばかりです。記述された歴史からは、現在の気象庁は安倍清明に到底及ばないのです。 どうしてこうなるのでしょうか ? 封建時代では偉い人の言っていることは常に正しく、 断じて批判してはならないからなのです。 現代では、気象予報は大体当たっているようにも見えますが、批判する人の方が多いため、 予報は全然当たっていないのです。 産経新聞の言い分では「昔の人は偉かった」であり、「陰陽道」が「気象庁」に取って代わるべきである との論を提示しているのに他なりません。
4. 書かれた歴史の代表的なものに「古事記」、「日本書紀」があり、 ここでは天皇は神です。書かれたことが事実であれば、天皇は今でも神のはずで、 病気にもならないし、死ぬこともないはずです。 「古事記」、「日本書紀」に書かれていることが事実であれば、天皇は生物学的に人間ではないはずなのです。 これは長いこと日本の学問分野の原点になっていた笑止千万なことなのです。

第二次大戦中にドイツではユダヤ人が多く殺されました。 日本では日本人によって多くの日本人が殺されました。 どちらも殺人に他ならないのです。 ドイツではナチを美化するような発言をすればそれだけで犯罪であり、実刑判決です。 これは言論の自由の埒外のことなのです。 残念なことに、日本ではこれとちょうど逆なことなっており、靖国議員が大手を振っている始末です。 本来、第二次大戦中に日本がした犯罪行為を美化することは犯罪とみなすべきなのです。 硫黄島の玉砕命令を出した大本営は犯罪者であり、 栗原中将も犯罪者であるとみなすべきなのです。


追加
2008 年の 11 月頃に出た産経新聞の記事では、 当時沖縄に在留した日本軍の将校らしき人が、「玉砕命令などなかった」、 「日本人が日本人を殺す命令を出すわけないじゃないか」 などのたわけたセリフを言っていたことを思い出しました。 少し話がそれそうですが、私が小学生の頃に読んだ子供向けの「古事記」、「日本書紀」 に言及する必要があります。人殺しの話ばっかしだったことを覚えており、 二度と読まなくなりました。天皇、貴族、侍は支配者で外国から来たわけで、八咫烏 (やたがらす) の助けを受けて侵略し、 日本人殺しをすることによって、日本国を作るわけです。これが建国の精神なのだと思います。 天皇、貴族、侍は建国の時以来の支配者で、従って農民を搾取する権利を持っていると主張したのです。 このようなことが直接「古事記」、「日本書紀」に書かれていたわけではなかったと思いますが 関連してこのような話を読んだというべきです。 このような世界では日本人殺しは美徳であり、英雄であり、神となる資格を得るのです。 殺しばっかしやっていた大国主命は神々しい神なのです。 このような話は最近はほとんど影をひそめましたが、以上のようなことは、 国学、ひいては日本の学問分野の原点であったと思っています。 どこかの田舎の美術館で見た大国主命の絵は多分戦前に描かれたもので、 これは返り血で真っ赤に染まった姿でした。 これが日本人殺しの神々しい神の姿なのだと思います。
追加 (2012 年 1 月) 天皇、貴族、侍が建国以来の支配し者であると言う考えは「古事記」、「日本書紀」よりは、 むしろ江戸時代の国学や頼山陽の「日本外史」などにあるのではないかと思い至りました。 蘭学に対抗して日本の独自性を主張する学者達が「尊王攘夷」など誘発し、明治維新となり、天皇が神となり、そしてアヘン帝国が成立したのです。 この一連の負の連鎖は密接に結びついており、逃れることができない袋小路を意味しています。 明治には農民たちは自作農から小作農に転落し、しかもまだ頻々として飢饉が続いていたはずです。 第二次大戦後までは日本政府は農業を改善しようとはせず、 江戸時代と同様に 10 年に 1 度は必ず飢饉に見舞われていたはずです。 しかし、これは歴史から抹殺されており、戦前の日本が現在の北朝鮮と非常によく似た世界であったという 認識が失われてしまっているようです。 また国学などもイスラム教の原理主義とダブって見え、 日本軍の姿もタリバンとダブって見えます。どちらもアヘンを生産させている。 誰もがこの点を言及しないのはとても不思議です。

明治維新の時も多くの外国人の援助がありましたが、日本が独自の道を歩み始めると、 これは破局しかないことになったのです。太平洋戦争の敗北で、基本的な方針転換が起き、 これも外国人に依存しています。マッカーサーの農地解放は一大転換をもたらし、 1960 年代の日本における本当の意味の産業革命を誘発したのです。 だから、日本人はどうすればよくすることができるかを全く知らなかったのです。

これは次のように考えても明らかです。明治維新は上からの改革で、 天皇、貴族、侍が現代化のために農業の改善が必要とは考えるはずがなかったからで、 このような考えは従って外国人の手によるものでなければならなかったのです。

硫黄島の戦いの経過

硫黄島の戦争はかなり長引きますが、 輸送機が空港で運航を開始する 3 月 2 日には すでに大勢が決まっていたというべきです。

海兵隊が退却するのはかなりあとにはなりますが、 空港が安全に利用できるようになれば、抵抗勢力が はびこっていようとどうだろうと、大勢には関係しないといってよいと思います。 「硫黄島戦争」の大本営による目的が日本本土の防衛であるのであれば、 米軍が硫黄島の空港を自由に利用できるようになった時点で 硫黄島の防衛は意味を失います。3 月 2 日に第一空港が開港する時点で、 沖縄戦の準備ができたことになります。異常なのはこのあとも無益な抵抗が続く点です。

なお、時刻は日本標準時ではありません。1 時間引けば日本標準時になります。 戦死者の数は上陸軍だけのもので、海軍は含まれていません。 また数値は累積数です。より詳細は「第六章 ロジスティック」の 6-10 を ご覧ください。

日付 事項 上陸軍
戦死者
D マイナス 3 2 月 16 日 • 準備砲爆、機雷などの探索
 
D マイナス 2 2 月 17 日 • 準備砲爆、機雷などの探索
• 米軍が上陸開始と日本軍が誤解して
ありったけの火器で反応
上陸用舟艇が被害、ロイツ (駆逐艦 ?) が被弾
• 東海岸を射程距離に置く大砲陣地の確認
(5 箇所)
 
D マイナス 1 2 月 18 日 • 東海岸を射程距離に置く大砲陣地の破壊,
アイダホとテネシーの十字砲火
 
D デー 2 月 19 日 • 0600 時に真っ暗闇の海上に攻撃軍が終結
(レーダー航行装置を使用)
• 0900 時に東海岸に上陸
• うねりと寄せ波により、多くの小船舶が難破、
浜辺がゴミだらけとなる
• 夜間ハラッシュの開始
76
D プラス 1 2 月 20 日   264
D プラス 2 2 月 21 日 • 日本軍の航空機による攻撃
護衛空母ビスマルク・シーの沈没、
サラトガが大破
426
D プラス 3 2 月 22 日   不明
D プラス 4 2 月 23 日 • 悪天候のため水上、陸上の弾薬が枯渇
870
D プラス 5 2 月 24 日 • 天候が好転し、浜辺掃除が進展、弾薬の補給
1021
D プラス 6 2 月 25 日   1195
D プラス 7 2 月 26 日   1347
D プラス 8 2 月 27 日 • 硫黄島に水上機の到着、探索救援活動、
1556
D プラス 9 2 月 28 日 • パラシュートによる補給開始
1616
D プラス 10 3 月 1 日 • パラシュートによる郵便物の投下
1845
D プラス 11 3 月 2 日 • 西海岸からの荷揚げの開始
• 輸送機が空港で運航を開始
2005
D プラス 12 3 月 3 日 • 任務の解除と撤退の開始
(日本軍の砲陣地がほぼ破壊)
2278
D プラス 13 3 月 4 日   2468
D プラス 14 3 月 5 日   2620
D プラス 15 3 月 6 日   2715
D プラス 16 3 月 7 日 • タスク・フォース 54 が保養のため
ウルシーに行くように 命ぜられる。
2869
D プラス 17 3 月 8 日 • 水上機基地が役目を終了
3055
D プラス 18 3 月 9 日 • タスク・フォース 51 の解散
• 夜間空母エンタープライズが退却
3191
D プラス 19 3 月 10 日   3315
D プラス 20 3 月 11 日 • 残りの全ての護衛空母が退却
3488
D プラス 21 3 月 12 日   3653
D プラス 22 3 月 13 日   3765
D プラス 23 3 月 14 日 • 0930 時に硫黄島で公式に米国国旗が掲揚
3878
D プラス 24 3 月 15 日   4112
D プラス 25 3 月 16 日 • 中部の飛行場が運用を開始
• 日本軍の組織化された抵抗の終了 (1800 時)
4206

海兵隊が完全に退却するにはまだもう少し時間が必要ですが、 3 月 17 日には日本帝国を爆撃した帰途の B 29 が硫黄島に緊急着陸しますから、 この時点で硫黄島は完全に米軍に組み込まれたことになります。

3 月 26 日の累積戦死者は 4590 名となります。3 月 3 日には大勢がすでに決しており、これ以後の日本軍、米軍の犠牲はまことに 不毛であるといわざるを得ません。

追加:第二次世界大戦における普通の砲撃の仕方

硫黄島において米軍がした砲撃 (ピンポイント) は非常に特殊な砲撃で、 一般的なものではありません。 第二次世界大戦中に米軍が採用した一般的な砲撃に関しては

M. キャンベル-ケリー/W.アスプレイ著:コンピュータ 200 年史、海文堂出版、ISBN 4-303-71430-5
(原書、M.Campbell-Kelly, W. Aspray, Computer, a history of the information machine)

に解説があります。次のように述べています。



1942 年には、ムーア・スクールは計算作業でフル回転をしていた。 建物の地下室では “アニー” という愛称で呼ばれた微分解析機が休みなく動いていた。 同じ在校生はこれについても “我々はたまにアニーを見ることを許されたが、 シャフト、ギヤ、モーター、サーボなどが複雑に絡み合った巨大な迷路にはいつも圧倒されたものだ” と述べている。その同じ建物の中で、100 人の女性コンピュータたちも卓上計算機を使いながらまったく 同じ仕事に従事していた。

これらすべての計算作業はどれも、新しく開発された火砲や従来の大砲を近代戦で 使うための “射撃表” の作成を目的としていた。始めて射撃をする者でもすぐに気づくが、 遠くの目標を撃つときにはそのまま狙うのではなく、 目標より少し上を狙わなければ命中しない。 発射された砲弾は、最初は上に上がり、なかほどで最高点に達したあと、 今度は目標に向けて落下するというように、放物線を描いて飛ぶからである。 だが射程が 1 マイル (約 1.6 km) かそれ以上になる第二次世界大戦の兵器の場合、 カンに頼ったり親指を立てて狙いを定めるやりかたでは通用しなくなった。 そんなことをしたら目標に命中させるまでに何十発もの弾をムダにしなければ ならないだろう。 この場合は考えなければならない変数があまりにも多いからだ。 飛んでゆく砲弾は前からと横からの風、砲弾の形、気温、さらにはその地点での 引力などの影響を受ける。 そこでたいていの火砲では、砲手にはポケットに入るような手帳サイズの射撃表が 渡されていて、目標までの距離がわかればその表から大砲の仰角や方位角が 決められるようになっていた。 もっと進んだ火砲では “管制装置” が備えられていて、砲手がデータを入力すると 自動的に狙いが定まった。この場合、手作業であろうと管制装置を使おうと、 同じ射撃表が事前に作られている必要があった。

典型的な射撃表には約 3000 種類の弾道データが収められている。 1 つの弾道を計算するには、7 つの変数を持った常微分方程式を 計算する必要があり、 それには微分解析機で 10 分から 20 分かかった。 休みなしに計算してもこの表を完成するのに約 30 日はかかる勘定になる。 同じように考えて、1 人の女性が卓上計算機を使って 1 つの弾道を計算するのに 1 日か 2 日 かかる。 したがって 3000 通りの弾道を計算するには、100 人の計算チームを 使っても約 1ヵ月はかかった。効率的な計算手段がないことは、 続々と開発される新しい火砲を戦線に配備する上で大きなネックになっていた。

「微分解析機」はアナログコンピュータです。詳細は上の本を参照してください。

ムーア・スクール (Moore School) は ENIAC 誕生の地でもあります。弾道計算があまりに大変なので、 電子式コンピュータの開発を目指したのです。

ENIAC 誕生50周年記念物語 ~その歴史を追って~

上の文に出てくる射撃表は firing table の訳です。 「射表」とも訳するようです。次のページの「弾道理論」を選ぶと、左のメニューに登場します。 (フレームにはリンクを張れないので、1 つ上のページにリンクを張りました)

桜と猫の砲術講堂 - 射撃理論初級編 - 目次

少し違うことが書いてあります。 例えば「コンピュータ 200 年史」には砲弾の形のことを触れていますが、 上のページにはこれがありません。 だから米国の方が弾道計算のための、より精密なモデルがあったことになります。 「射撃理論初級編」の作者は難しいことを書いていますが、「コンピュータ 200 年史」の方に 簡単に書かれていることが正しければこちらの方が非常に適切な書き方をしています。 その理由は常微分方程式を解く必要があると書かれているからです。 簡単な微分方程式であれば、決まった方法があって解くことができますが、 一般的な常微分方程式に関しては「解の存在と一意性」が知られているのみで、解は数式の形では得られません。 従って、いずれにしても計算機の力を借りないとだめなのです。 (検索エンジンで「常微分方程式 計算機」 を検索するといっぱい出てきます。) 人力でこれを処理したのですから驚くべきことです。

「射撃理論初級編」のページの作者が恐らくご存じないことだと思いますが、ballistic calculation (弾道計算) を英文のページで検索すると、 めちゃくちゃ多くのページがヒットし、これはほぼ弾道計算のソフトウェアの宣伝ページです。 以前は PC のソフトが圧倒的でしたが、最近は iPhone やスマートフォーンに対応したソフトが登場します。 米国では武器は個人が所有でき、弾道計算ソフトが簡単に利用可能なのです。 弾道計算をするには幾つかのパラメータをセットする必要がありますが、 その中で市販されている非常に多くの銃弾の一つを選択する必要があります。(すべての銃弾には対応していないようです。) 従って、弾道計算には砲弾の形がわかるか、あるいは一定でないといけないのです。 非常に多くの弾道計算ソフトがあることから判断をすると、 精度が非常に高く、人気があるのだと思われます。 「硫黄島の奪取」には砲弾が標準化されている話が登場するので、 現代の市販の弾道計算ソフトよりは簡単なものであったはずです。

日本にも (ペンシルベニア大学電気工学部の) ムーア・スクールの女性コンピュータと同じように第二次世界大戦中に弾道計算した人もいたようです。 東大の理学部の先生が計算していたようです。


追加
第二次大戦中に東大の理学部の先生が弾道計算をしていたこと記述したページは今では消えていますが、 少し意外なことに気が付きました。 米国では女性たちに計算をさせることができたのは、簡単な計算に分割して、それをさせたはずです。 これは当たり前ではなく、 計算機に計算をさせる場合と同じになります。計算機も基本的には単純な計算しかできないので、 「女性コンピュータ」の場合と同様になります。必要なものはアルゴリズムです。 つまり第二次大戦中の東大の先生はアルゴリズムという概念を知らなかった。
色々、見てみると、第二次世界大戦において、 米国の方が日本よりはるかに弾道計算を重要視していた気がします。 レーダにより、距離測定が容易になったためではないかと思います。 日本にもレーダはあったようですが、米国よりは随分遅れていた。

弾道計算に関して、もう一点述べておく必要があります。 それは弾道計算が有効であるためには、砲弾、ないしは弾丸の製品むらがあってはならないことです。 製品むらがあれば、発射するたびに弾道が変化してしまうためです。 ジェット戦闘機の機関砲は照準を合わせると自動的に弾道計算がおこなわれるはずです。 この計算はジェット機の速度変化を反映しないといけないはずなので、 ずっと計算が大変でしかも瞬時に計算できないといけない。 現代の機関砲は 1 秒間に何十発も発射され、砲弾は極めて均一に製造されているはずです。 品質管理は日本では戦後のことですから、第二次大戦中に弾道計算をすることは 日本にとってあまり意味がなかったことかもしれません。





http://mail2.nara-edu.ac.jp/~asait/kuiper_belt/section6/kuiper_section6.htm

  ページの最終校正年月日 : 12/18/2010 12:47:53

6. 水俣病

水俣病の記事を読んだときはずっと昔で私はまた小学生でした。 従って、英字紙との比較などできませんが、新聞が随分いい加減な、そして下劣な報道をすることを 初めて知ったときでした。英語版の Wikipedia には「水俣病」の項目があり、 ここに報道は被害者に好意的であったと書かれています。これは嘘といったほうがよいと思います。 執筆者に日本人がいることは確実で、口からでまかせを書いているというべきです。


注意
最近新聞に「水俣病」に関しての記事が出ていました。 かっての報道のことをよく知っていますから、もっと別な箇所 -- 英文の Wikipedia -- でも読んでやろうと思いました。しかし、ここに嘘が書いてあることに気がつきました。 少し大変でしたが、色々記憶をたどって以下を書くことにしました。
最初に何故、「水俣病」に関心を持ったのかを述べる必要があります。

何故、関心を持ったのか ?

私は小学校 3 年ぐらいまでは都会地域に住んでいました。 その後、地方都市に引越しをしました。どこであるかは問題ではありません。 そこで私は川が赤、緑、黄色などの原色の色に染まっていることを目撃しました。 染色工場が廃液を未処理で垂れ流していたためです。 大事件ではないかと思って新聞を読んだのですが、そんなことは 一切報道されていませんでした。ともかく川はものすごく汚くて、 見ていると吐き気がするくらいひどいもので、 とても不安になりました。

こんなにひどいのだから、少しでも新聞に載っていてもよいのではないかと思い、 随分新聞を読み漁るようになりましたが、 一目瞭然のひどい状態に関して新聞は何も言及していませんでした。 しかしそのうちに 「非常に小さい記事」に意外なことが載っていることに気づくようになりました。 その結果、私がそのとき住んでいた場所と同じようなことが 日本国中の地方都市で起きているらしいということを発見しました。

「公害対策」に費用がかかりすぎると、企業は「公害対策」をしなくてもすむような 外国に工場を作ることがあります。「公害輸出」です。 しかし、ここに行くまでにもう少し前の段階があります。 大都市では廃液を未処理で垂れ流せば問題となることがあっても、 地方都市の場合であれば、 企業があればそれだけでもありがたい場合がありますから、 公害なども見て見ぬふりをすることもあるわけです。 「公害輸出」は外国に公害をしわよせすることですが、 地方都市に公害をしわよせすることがまず先にあったのでした。 これはかっての日本のみならず、現代の中国でも起きています。 最近の英字紙に、中国のどこかで川が廃液の染料で原色に染まっていること が書かれていました。これはちょうど、私が子供のときに目撃した光景と 同じようなものだと思います。

当時の新聞の小さい記事とは

さて話を先に進める前に、私が読んだ「非常に小さい記事」とは何であったのかと いうことを述べる必要があります。当時の新聞は今日の新聞と違い、 とって付けたような小さな記事があちこちにありました。 新聞には大抵方針がありますが、この小さな記事は そのような方針とは独立に登場していました。 このような小さな記事ができる理由はずっとあとにならないとわかりませんでした。 いつ頃知ったのかはもう覚えていませんが、はっきりしていることは 現在の新聞は電子的に版組みをします。この方法をとれば、最初から 活字を組んだときの結果がはっきりわかり、色々レイアウトを変更して 記事を紙面に適当に収めることができます。昔のやり方では 活字は手で拾わないといけません。その結果、どうあっても、余分なスペースが 空いてしまいます。多少は、レイアウトを変更できたと思いますが、 輪ゴムのようなもの括り直すだけのはずですから、自由度はほとんどありません。 そのため、印刷の直前になって、余分なスペースを何とか処理しないと いけなくなります。可能な方法は、小さな記事をここに挿入することです。 内容を吟味している時間がありません。空きスペースにあわせて 小さな記事を挿入することになります。この記事は本来、ボツになった記事を 小さくまとめただけのものです。このため、新聞社の方針とは 違う記事が時々登場することになります。私が読んだのはこの様な記事でした。

では当時の新聞の方針は何であったのかという点ですが、 大都市圏の理由から地方都市が犠牲をこうむる必要があっても当然ではないかと いうものです。そしてまた、環境汚染のようなことに関しては 報道が目をつむることは、基本方針であったと考えてよいと思います。 鉱山の廃液による汚染に関しては報道されていましたが、 それ以外の工場廃液に関しては恐らくおびただしい数の記事が書かれたことが 確実です。しかしほぼ全部ボツになった。新聞の組版により生ずる空きスペースに 詰め物 (どうでもよい記事) として掲載される記事に工場廃液の記事があったことからこれは ほぼ確実です。無論水俣病の記事もあり、普通の読み方では知ることが できないことも知ることになりました。

水俣病の登場

水俣病の話をする前に当時の私が知っていた予備知識を話す必要があります。 私の親たちは戦時中およびその直後に飢えを経験した人たちでした。 社会的にもそのような人は非常に多く、栄養のことはとても重要なことでした。

そのため、例えばたんぱく質を摂取しないといけないこと、ミネラル分を摂取しなければいけないことなど、 ともかく非常にうるさく教わりました。その中で印象に残っているものが あります。「鉄分のようなミネラルは高等動物は直接摂取できない」ので、 「鉄分摂取」のために「鉄粉」を食べても無理である、ということでした。 ミネラルは、プランクトンのような原生動物や植物が直接的に摂取でき、 食物連鎖によって、魚やほうれん草を食べることで人間が摂取できるというものでした。 要するに「ミネラルの摂取には魚や野菜を食べましょう」ということが 書いてありました (小学校の家庭科の教科書だったのかな ? 漫画でも描いてあったような 気がする。)

水俣病の話を聞いたとき私は直前に食物連鎖のことを聞く、もしくは読んでいます。 そのため、「日本チッソ」の工場から垂れ流された水銀が食物連鎖で 人間の体内に取り込まれることはすぐにもわかる教科書的な事実でした。


注意
「食物連鎖」という言葉は日本の新聞には余り出てこないと思います。 英字紙では一般に科学に関する記事がずっとたくさんあり、その中で比較的 よく登場する言葉です。 英語では「食物連鎖」を「food chain」と言います。 汚染した食べ物を食べないようにするには、日本ではさしずめ「食卓際の防止」 というような言い方をするのではないかと思います。英語では 「food chain への侵入の防止」という言い方をします。 この言い方では、水俣病は「food chain へ水銀が侵入した」結果起きたことです。
さて、当時の水俣病の報道に触れる前にもう一つ重要な話を 書く必要があります。

新聞記事はどのようにして紙面に載るか ?

ここで書くことは、ずっと後になって知ったことです。 しかし、これを書かないと、当時の報道のことを記述することはおよそ無益と 思えるためです。1970 年代の後半か 1980 年代の前半ではなかったかな、と思います。

朝日新聞に載った日本語の記事ですが、住民運動に関連したものではなかったかなと 思います。身近なことでありながら、ともかくも何らかの意味で政治的な 内容に関連したものであったと思います。内容自身は覚えていません。 簡単に読み飛ばした可能性があるのですが、何か気になって、 一字一句読もうとしました。ともかく当事者に体制側のグループと 住民運動をしているグループがあり、 読み方によっては体制側の言い分が正しく、別の読み方によっては住民運動を している側の方が正しいと思えるものであったと思います。 だから、不思議に思って記憶に残りました。

しばらくしてから、同じ記事の翻訳が Asahi Evening News に載りました。 前半部はほぼ同じでしたが、後半部が違っていました。 体制側のグループの方があからさまに無体なことをしていることが記載されていました。 前半部の記述から、これは確実に翻訳です。 しかし後半部の方はまるで違っています。

随分考えることになりましたが、一つだけ知っていたことがあります。 The Japan Times に外国人の翻訳家が定期的に寄稿する 記事がありました。これは 1 ヶ月に一度ほどの割合で掲載されいました。 その中に日本語から英語に翻訳するときに、日本語があいまいに書かれている場合に そのままで翻訳しようとすると誤訳になるから注意する必要があり、 そのためあらかじめ事実関係を知っていないといけないと言うものでした。

これを前提にすれば、Asahi Evening News の記者が、日本語の朝日新聞の 記者に内容を確認したかも知れない可能性があります。 しかし、これは絶対ありえないと断言できたと思います。 そのため新聞記者の生の記事が新聞に掲載されるわけではないと気づくことに なりました。つまり Asahi Evening News の記事は、記事の元になった 原稿を翻訳したのだと言うことです。 この元の記事はそのままで出るわけがなかったのです。 「住民運動側」の立場に立った記事が「朝日新聞」にそのまま載るはずが ないとわかったのでした。

気が付けば面白いようにたくさんこのような記事があることが判明しました。 つまり編集者は住民運動に水をさす方向で記事を作り変えているのだと 断言できることになりました。そしてそれが朝日新聞の新聞社としての 方針であることも明白となりました。また同時に朝日新聞の編集長が すさまじい権力を持っていることも明白となりました。

水俣病の報道

「水俣病」の最初の記事は、今では霞のようになってしまっています。 非常に混乱した記事が連続し、今となっては、それが整理されたときの 記憶しかありません。整理をすれば


1. 水俣に病気らしいものが発生し、しかもこれは生命の危険があった。
2. 診断をした無名の開業医が治療にあたっていた。
3. 無名の開業医は治療に困り、九州大学の大学病院に患者を診断して欲しい ともちかけたが、門前払いを食らった。
4. 次に、京都大学の大学病院にかけあったが、ここでも門前払いを食らった。
5. おそらくと思うのですが、何らかの中毒の疑念があったのでしょう。 これが大学病院に診断を依頼する理由であったと思います。 大学側は本当の理由に気が付き、その理由から診断を拒否したのでしょう。 (大企業が関係していた。)
6. 困り果てた無名の開業医は自分で調べざるを得なくなったようです。 当時、鉱物による中毒に関しての本は日本語訳がなく、結局原書で 読まなくてはいけなかったようです。その結果、水銀中毒であることが 決定的となり、記者会見で発表することになりました。
7. これを聞いた被害者の一部が怒り狂って日本チッソになぐりこみをかけます。

朝日新聞はもっぱらこの「なぐりこみ」の件のことを大々的に報道していたと思います。 いずれにせよ、その結果、この問題に関しての「検討委員会」めいたものが 日本政府に作られました。座長は京都大学の教官でした。

京都大学の教官は「無名の開業医」の行為を「売名」と決め付け、 「水俣病は仮病である」と断言しつづけます。「水俣病」の被害者の間には 当然温度差があり、「なぐりこみ」をかける人もあればそうでない人も いたと思います。しかし京都大学の教官は一括して全部を「百姓一揆」と 呼んでいたと思います。(損害賠償の問題が関連していた。) ここで警察力が投入されました。 当然のことながら「百姓一揆退治」です。片っ端からうむを言わせず逮捕しています。 随分むごいやり方であったと思います。 証拠があるもないも、全然でたらめでしす。単なる「百姓一揆退治」でした。


追加
「百姓一揆」には当時「道徳に反する行為」というような、ニュアンスがありました。 そのときは理由がわからなかったのですが、後で色々気がつくことになりました。 まず「正義」とは何かですが、これは「正しい義理」とでも考えればよく、 侍たちにとっては「殿様に忠実であること」なのです。 従って「百姓一揆」とは「道義」に反することであり、人の道に背くことであり、 これを退治することが「正義」なのです。 封建時代における「正義」はこの意味でしかなく、また水俣病事件の渦中では この意味が、まだ歴然として残っていたときであるといってよいと思います。 新聞記者がこの考え方を持っていたかどうか知りませんが、 最終的な記事から判断をすれば、朝日新聞の編集長はこの考えを踏襲していたと思います。 時代劇に出てくる「正義」は少しおかしいのです。 盗賊たちの処分などは大して重要ではなく、本来の意味であれば 政治を批判する者を、八つ裂きにしたり、磔にすることが「正義」なのです。 これが本来の侍たちの役目であり、第二次大戦後もそのように考える人が随分いたのです。
さて、これを取り巻く社会状況はどうであったのでしょうか。 おどろくべきことに、「旧帝大系」の教官は判で押したように「水俣病は仮病」 である意見に賛同したのです。また日本の大病院の医者たちもすべてこれに同調していました。

そのとき根拠として言っていた事は、「無機水銀は有機水銀に変化しない」からでした。 しかし、もっとも馬鹿げていることは、研究者は誰も調査をしなかった点です。 また、大手の病院の医師はすべて「水俣病の患者の診察」を拒否しました。 その上で「水俣病は仮病」であると主張しつづけたのです。 しかしこのような発言に対して拍手喝さいで受け入れた人たちがいました。 公害で苦しむ人たちよりも、当時の日本のあちこちに存在していた汚染企業でもうける人たちがいたせいです。

日本チッソが垂れ流した無機水銀は食物連鎖 (food chain) をつたって、 人間の体内に取り込まれたことは誰もすぐにわかるはずであった思います。 さて歴然とわかる点を整理しましょう。


1. 旧帝大系の研究者たちは水俣病が水銀中毒であることちゃんと知っていた。 (そうでなければ調査をしている。)
2. 大病院の医者たちも水俣病が水銀中毒であることをちゃんと知っていた。 (そうでなければ診察をしている。)

しかし、政治的理由から全員が嘘をついた。そして、誰もが嘘を付いていることを 知っていた。

水俣病と京都大学

朝日新聞ではともかくも京都大学の色々な教官の 発言を載せていましたが、そのいずれも 「水俣病は仮病」であるというものでした。 しかし、いざ本当に病気であるらしいことが 別の事実からわかることになると


「水俣病は水銀中毒とまったく同じ症状を呈する貧乏人だけがなる風土病である」

と開き直ることもありました。貧乏人だけが魚を食べていたことからこう言ったようですが、 更に「所得と相関関係があるじゃないか」と平然と言い切っており、 被害者に対する侮蔑、もしくは侮辱がはっきり読み取れる発言であったと思います。

当時、およそ京都大学の教官はすべてこのような発言をしており、 当時小学生でも知っていた「かの世界的に有名な Y 先生」もその中に入っていたと思います。 このため、「水俣病は仮病である」主張は 京都大学の大学としての立場といってよかったと思います。 朝日新聞は更にとどめの一撃として、京都大学の教官による 論説を掲載しました (「論壇」です)。それによると


1. 日本チッソの技術は水銀を垂れ流しすることによって 得られた極めて効率的な方法で「後進国アメリカ」 ごときが 真似できるようなものではない。
2. よしんばこれにより数千人 (数万人であったかもしれません) の 犠牲者が出ようと問題とする所がどこにあるか !!

でした。この論評 (これって論評ですかね) は随分記憶に残っており、 繰り返し考えることがありました。


追加
この論説 (?) を読んだあとで、当時、誰もが「日本は先進国である」と言っているが、 「日本は本当は後進国ではないのかな」と思いました。
問題とするところは執筆者が日本チッソの製造過程を熟知していたらしい という点です。京都大学は大企業に卒業生を採用させていましたが、 ほぼ確実と判断できる点は日本チッソにも卒業生が採用されている。 恐らく他の旧帝大でも同じだと思います。これが製造過程を熟知しているのでは ないかと判断した理由です。 あるいは更に突っ込んで「日本チッソ」の「水銀たれ流し方」の開発時点から 京都大学が一枚かんでいたのではないかと疑えます。


注意
1. 京都大学の教官によるこの論説は日本チッソ側からのものと考えるべきです。 何ゆえ、大学の教官が企業の立場から議論すべきか、あるいは企業の技術を 熟知しているのかは大いに疑問とすべきであると思います。 むしろ、この論評から判断すると「日本チッソ」の技術開発に 京都大学が非公式に関与したと考えるほうが最も自然だと思います。
2. 当時の日本の少々危ない公害企業はすべて地方都市で活躍しています。 「日本チッソ」の「たれ流し技術」も当然このカテゴリーに属しており、 最初から危険を承知の上で地方都市で展開した。そうすると犠牲が出ることを 承知の上で稼動したことを意味し、これは論評といささかも矛盾しないと思います。

「水俣病」は過去のこととして済ませる以前に未解明の部分が随分ありそうです。 米国では極秘文書が解禁となって、事件が起きた当時には不明であったことが 明らかとなることが随分あります。日本でもこのようなことがあって欲しいと思います。

その後、1

最初にも述べましたが、私が公害のことに関心を持ったのは地方都市に移住して、 目撃をした染色工場の廃液でした。これはともかく、とても へどが出るような光景で、見れば見るほど気持ち悪かったです。

しかし、少し気が変わることがありました。 その年の冬、記録的な豪雪に見まわれ、2 メートルを越す積雪を経験することになりました。 「雪かき」など、どだいどうするか皆目見当も付かなかったのですが、 雪が降り止んだ後で、近所の人は懸命にこれをマンホールに突っ込んでいました。 またトラックに雪を満載して、例の汚れ切った川に捨てに行きました。 染色工場の廃液は下水に流れ込み、それが川に直結していました。

そのとき、ようやく染色工場の廃液が温排水であることに気がつきました。 実際のところ、この温排水がないと雪を処分する方法がないこともわかることに なりました。

こうなると違った側面を見ることになり、以後あまり染料で汚れた川のことも 気になることがなくなりました。

その後、2

この地方都市に移住してから、5, 6 年後の中学校 3 年の 10 月に 大都会に再び引越しをしました。以前にすんでいた地方都市のほうが よかった部分にも気がつきましたが、やはり染料で汚染された川のことは 随分に精神的に影響があったようで、その後すっかり廃液による汚染のことは 興味を失ってしまいました。高校 1 年のとき「水俣病」に関して 始めて現地調査が行われました。熊本大学によるもので、 確かにプランクトンに有機水銀が検出されたというものです。 朝日新聞の記事は随分地味で、当然のことを報道しているといった体裁でした。

朝日新聞も当初から、水俣病の原因が食物連鎖であることは知っていたと思います。 新聞は随分むごいことをしているな、と思いました。

蛇足ですが、大学入試のときはすっかり「水俣病」のことを忘れており、 結局京都大学に進学しました。しかし入学した後で、いつの頃か覚えていませんが 理学部数学の N 教官が「水俣病は仮病だよ」と言っているのには辟易しました。 この前後、京都大学は大学紛争に突入しました。

何年か前に、子供時代に過ごした地方都市を訪れてみました。 川は随分きれいになっていました。また積雪対策の地下水を流すための 「装置」が道路に設置されていることにも気がつきました。どこにでもあるようなものです。

事件を振り返って

「水俣病」に関しては「都会と地方」の対決がある一方で 「個人と企業」という対決もありました。 「都会」が「地方」に犠牲を押し付けることが当然であると考えることが問題の 一面ですが、それ以外に「個人と企業」の関係も忘れることはできません。

しかし、当初は「個人と企業」の問題は「地方と都会」のすりかえられていたような 気がします。日本チッソの本社は東京にあり、被害者は水俣にいたためです。 報道は「被害者の実情」と「水俣病は仮病である」の両論併記でした。 これは公平でないと思いましたが、理由らしい理由も思いつきませんでした。

この問題がはっきりしたのは、かなり後のことで、欠陥商品がらみの ことからでした。新聞は当初「個人の意見」と「企業の意見」の両論併記でした。 これは間違いなのです。企業は自社の製品に欠陥がないことを立証する 義務を負うことになります。つまり「消費者保護法」の成立の頃から、 ようやく日本の報道にもそのような姿勢が見えることになりました。

個人と企業の対立がある場合には、企業の方に責務があると考えて報道すべきなのです。 これが「水俣病」にはありませんでした。報道はきわめて不公平な方法で事件を伝えることに終始しており、本来の報道のあり方を理解していなかった といってよいと思います。



http://mail2.nara-edu.ac.jp/~asait/kuiper_belt/section7/kuiper_section7.htm

  ページの最終校正年月日 : 12/18/2010 12:52:42

7. 最近のこと

グルジア問題のことに関して

邦字紙ではあまり正確に書いていない、あるいは世論誘導的な書き方をしているようですが、 2008 年 8 月に起きた、グルジアの武力衝突は、直接的にはグルジアによる南オセチア人の虐殺から始まっています。

邦字紙の取り扱いにも問題がありますが、外務省のホームページも同様です。

南オセチアにおける武力衝突について (外務省)

邦字紙や外務省が英字紙や外電を注意していないはずがありません。 あくまでもロシアのみが悪い奴という印象を持たせる必要があるのでしょうか。 あるいは、これが日本政府の方針で日本のメディアもそれに追随しているのかもしれません。

英字紙に載っている記事では色々なものがあります。ロシアだけが悪い奴というような記事の方が 多いかもしれませんが、それ以外にも色々な記事が掲載されており、十分に事実が判断できる と思った記事から以下の内容を構成しております。

先に手を出したのはグルジア

これ以前に、グルジアと南オセチアの間で小競り合いがあったようですが、全面的な戦争に持ち込んだのは グルジアです。英字紙でわずか数日の間に目まぐるしく報道が変化しました。 しかも、ワシントンに駐在する記者と、モスクワに駐在して、戦地を取材する記者の 双方の内容が最初は矛盾しており、何がなんだかわかりませんでした。 これ以前にはグルジアのことはほとんど何も知っていなかったのでなおさらのことです。 知っていたことは英語の綴りが Georgia で英語式に読めばジョージアになることだけです。 しかし英字紙にはかなりかいつまんでわかりやすく問題点を紹介していたので 何も予備知識のない私にもかなりはっきりすることになりました。

最終的には、ワシントンに在住する記者も、先に軍事行動を取ったのがグルジアであるように書いています。 従って、これに関してははっきりすることになりました。

地理的背景 - 問題点

南オセチアが独立されるとグルジアは非常に困ることになります。 南オセチアは面積の点からはあまり大きくありませんが、地理的にはグルジアの中心部に食い込む位置にあります。 そのため仮に南オセチアが独立でもすると、首都のトリビシは国境からわずか数十キロメートルのところに なってしまいます。そのためこれは断じて避けたいようです。また、グルジアは横に長いので、 真ん中あたりでちぎれかけるような状態になり、これまたものすごく都合が悪いことになります。

一方で、南オセチアに住んでいる人と、ロシア領内の北オセチアに住んでいる人は同じ人たちです。 中間には山脈があるようですが、トンネルでつながっており、自由な交流があるようです。

グルジアは NATO にも加盟したかったようで、またアメリカとも密接な関連を維持したかったようです。 グルジアはイラクに派兵している兵士の数では、米英に続いて NO 3 です。 いざロシアとの間で問題が起きたときに NATO やアメリカに助けてもらいたいからのようです。

モスクワ在住で戦地の報道をしていたのは、どうもフリーランスの 記者のようです。名前が書かれていましたが、所属がかかれていなかった。 戦地の報道をするのは危険なことですからフリーランスの記者に限るようです。 2, 3 度記事が掲載されましたが、最初はよく事情が飲み込めませんでした。 上に述べた南オセチアの地理的条件とか、グルジアがイラクに派兵を積極的にしていることは そこから知ったことです。

もっとも悪い奴はアメリカ、ヨーロッパ

ワシントン在住の記者の書く記事では、最初はグルジアの方が先に手を出したようには見えない書き方でしたが、 そのうち、トーンが変化し、「もっとも悪い奴は米国政府だ」と書くようになりました。 その理由は、米国政府はグルジア政府には「絶対に南オセチアに軍事行動を取るな」と強く要請していたようですが、 一方で一般のグルジアの人たちに対しては同盟関係を誇示して「いつでも馳せ参ずる」というよなパーフォーマンスを していたようです。その典型例が 2008 年 5 月か 6 月頃にグルジアを訪問したライス国務長官であったようです。 つまりこれは 2 枚舌です。米国政府としては、グルジア政府がイラク派兵にあくまでも協力してもらいために このような妙なことをしたようです。しかし、このような 2 枚舌的なアプローチはヨーロッパ各国とも 似たようなものであったようです。 そのため、グルジア軍の一兵卒は、どのようなときであれロシア軍とのトラブルが発生すれば、 米国ないしは NATO がすぐにも派兵してくれるものと信じていたようです。

ロシア軍に追い立てられてグルジア兵は「肝心な時に米軍がいてくれないじゃないか」と こぼしており、それが記事になっていました。しかし、この記事を読んだときは、上の事実を 知りませんでした。時間が前後したために、全容がわかるのに数日かかっています。

まだ問題がある部分があります。米国はグルジア兵を訓練しています。 これでグルジアの軍隊は近代的なものとなり、イラクに派兵もしてくれましたが、 実際のところ、この軍事訓練はグルジア兵からすれば、対ロシアを前提にした訓練であるようにも 捕らえたと思われます。ところが米国としてみれば、グルジアがロシア軍と対決することはとても 無理であることは十二分に知っていたから、「南オセチアには断じて軍事行動をとってはならない」 と要請していたわけです。

しかし、一般のグルジア市民や兵士からすれば、いつ何時でも、どのような理由であれ、米国や NATO が 助けてくれると思ったのでしょう。米国やヨーロッパがいたずらな夢でグルジア市民や兵士を釣っていたことになります。

グルジア政府のギャンブル

ではグルジア政府はどのように考えたかです。 グルジア軍の一兵卒とは違い、グルジア政府もロシア軍との対決ではかなうわけがないことを 知っていたはずです。ところが世界の目は北京オリンピックに釘づけになることが わかっており、ロシア政府では、いまだに影響力を行使しているプーチンが北京に 行くことになっていました。 だからグルジア政府はここでギャンブルをしたのです。うまくいけばロシア軍の派兵に時間がかかる と踏んだようです。 その間に南オセチアの人を殺せるだけ殺してしまい、いざロシアが軍隊を派兵しても、 時すでに遅し、という状態としまおうと考えたのではないかと思います。 こうなれば、もしもロシア軍がグルジアを攻めても、米国や NATO もロシア軍に自由にさせるわけにも 行かないから仕方がなく、軍隊を派遣するであろうと考えたのではないかと思います。


注意
グルジア政府がこのようなギャンブルをすることを可能にしたのは、 先にも述べたように米国、ヨーロッパの 2 枚舌外交です。 戦争をするには必ず 国民の積極的な支持が必要です。米国、ヨーロッパの 2 枚舌外交なくしては グルジア政府がギャンブルをすることはありえなかったと思われます。
北京オリンピックのときにグルジア軍が南オセチアを攻めたのは偶然ではないのです。 これは用意周到に計画されたものです。

さて、グルジアがいざ軍事行動を起こしたところ、ロシア軍は電光石火のように、軍隊を投入しました。 最初は人数はあまり多くはなかったと思いますが、これで私は勝負あったと思いました。 グルジア軍の方で撤退をする旨の報道があったのですが、モスクワ在住の記者の書いた記事では グルジアの戦車はカモフラージュしただけで撤退をしていません。 理由が理解できなかったのですが、結局、そのうち NATO や米国が軍隊を派遣してくれることを 期待したのではないかと思うようになりました。しかし、グルジア軍の方が先に南オセチア人を虐殺していましたから (数千名)、事情がはっきりしていれば、NATO や米国が単純にグルジアに協力するとも思えません。 しかし一般のグルジア人や一般の兵士は助けが来ると信じていたのです。

こうなるとロシアはどうすればよいでしょうか ? グルジアの軍事施設を空爆することです。 これしかありません。グルジア兵が NATO や米国が軍隊を派遣することを期待して撤退していないのですから、 軍事施設の空爆をする以外にありません。だからこれはやむをえないことです。

またあとあと、ワシントン在住の記者の記事でロシアはグルジアの行動を予測していたのではないだろうと 国防省が結論していることも報道していました。直前にはロシア軍はグルジア国境に集結していなかったからです。 偶発的にこうなったのであろうと判断されたようです。

ロシアの反応がすさまじく早かったため、グルジアが北京オリンピックに乗じて軍事行動を 取ったことは裏目になったようです。英字紙の方ではグルジアのことが少なくとも一面の記事になっていましたが、 邦字紙の方では、オリンピックのことばかしで当初は忘れ去られていました。 ロシアが空爆する頃になってようやく邦字紙に登場していますから、グルジアの軍事は忘れ去られていた感があります。 この点に関しては、グルジア政府が考えた通りになっています。 効果は裏目になりましたが ....

グルジアは米国、ヨーロッパにとって何ゆえ重要か ?

グルジアの重要性に関しても英字紙で報道がありました。グルジアは石油や天然ガスの産地ではないのですが、 カスピ海と地中海をつなぐパイプラインが通っています。OPEC の支配下にない石油や天然ガスを供給するための パイプラインで、ヨーロッパ、ひいては米国にとっても、エネルギーの安定供給に欠かせないものです。

本来このパイプラインは、(カスピ海から黒海に至る) ロシアを通るパイプラインの代替として建設されたものだと思います。 ヨーロッパ、米国とロシアが対決するような場合にはロシアを経由するパイプラインでは供給に 不安が残るためです。しかしながら、今回、グルジアの戦闘により、グルジアを通るパイプラインが 閉鎖され、その代わりにロシアを経由するパイプラインと陸送がそれにとって変わることになりました。 ヨーロッパ、米国からすれば、これでエネルギーでロシアに依存することになりますから 非常に妙なことになったことになります。

戦争がエスカレートする理由

当初ロシアの目指したことは、グルジアの政権交代でした。 グルジア政府が南オセチア人の皆殺しを計画したことから考えれば、これは当然なことに思われます。 しかし、例えば日本のメディアの報道するところでは、常にロシアが悪者です。 このような報道しかなければ、グルジア政府は勢いづくことになり、政権交代など ありえるはずもなくなります。こうなればロシアは更にエスカレートする意外に道がなくなります。 つまり、グルジアにおける戦闘のエスカレーションの直接の引き金は 日本などにおけるメディアの理由でもあることになります。

更に問題を紛糾させている点は、ヨーロッパ各国は南オセチアがグルジアから独立することを 望んでいないことにあります。 スペインのバスク地方の独立運動は日本でもよく知られていることですが、 ヨーロッパ各国とも類似の問題をかかえています。 南オセチアがグルジアから独立しようものなら、途端にヨーロッパ各国とも 自国の問題に降りかかってきます。 英字紙にはベルギーのことが紹介されており、内部的に 6:4 の比率で 分裂する可能性が指摘されていました。 このような、独立運動は以前とは全然違う面があります。 今日、ヨーロッパでは EU の比重がずっと高くなっており、よしんば 独立をしても、EU のメンバーであることに変化がありません。 そのため、独立運動はずっと現実味があることになりますが、 ヨーロッパ各国政府としてもこれは断じて容認したくないのです。

報道が変になった

グルジアが条約に締結する意向を示してから、ロシアが撤退することを表明する頃までに 新聞報道が少し妙になっています。そこでもう一度整理をしなおすことにしました。

「ロシアが電光石火のように軍隊を投入した」と書きましたが、これは一応軍隊の投入には 時間がかかることを前提にしています。大規模な地震があったときに、 自衛隊は救難援助をするのが普通ですが、このような場合に 24 時間以内に、移動の準備を 終えることができれば、とても速いと言ってよいと思います。だから実際の救難援助はそれよりもあとになります。 実際に戦争をするには、水、食料の準備以外に武器弾丸の準備が必要となり、更には 野営のための装備も必要となります。24 時間以内に移動の準備が整えばこれは驚異的なことです。

今回は、ロシアの戦車隊も投入されていますが、恐らく、このための移動の準備は歩兵を 移動させるよりも、もっと大変になります。48 時間以内に移動の準備が整えば驚異的な 速さだと思います。実際、ロシアの戦車隊の報道があったのは、グルジアの戦車隊が南オセチアに 進入を開始してから 2, 3 日たっています。そして、この間に南オセチアの人が多くのバスに分乗して トンネルを通って北オセチアに逃げ込んでいます。そして、その間に数千人の人が殺されているのです。 これは多いですよ。確か 2000 名という報道もありましたが、南オセチアの住民の数が 2 万人程度 ですから、2 日程度の間に 1 割の人が殺されたことを意味しています。 だから、これは無差別殺戮に近いことが起きたはずです。 英字紙の記事の中には、南オセチアから撤退するグルジア兵が「(南オセチアで) 殺しまくった」 と言っているものもありました。

どうしてこれを書くことにしたかの理由ですが、この数日間の邦字紙の報道、あるいは 英字紙の報道でも、ロシア軍が最初から南オセチアにいたかのように報道しているためです。 グルジアの戦車が南オセチアに侵略したときは新聞報道はオリンピック一色でした。 英字紙でもその傾向があったのですが、私はオリンピックのことはあまり読みたくなくて それ以外の記事を読もうとして、グルジアの侵略のことに気が付いたのです。 そのため、邦字紙のみを読んでいれば、グルジアの侵略が報道されるころには すでにロシア軍が南オセチアに進軍していますから、これで誤解が生まれたのかもしれません。 しかし、一方では「何でもかんでもロシア悪いのだ」と言っているようにも見える記事もあり、 また政治的にロシアを悪者にする記事もあるようにも見えます。だから、どうなっているのか 少し状況が不明です。

私はどういうわけだか、古典的な戦車戦がどのようなものかをある程度知っています。 多分、ベトナム戦のときの英字紙の報道からであろうと思います。古典的な戦車戦は F1 レースに 似ています。F1 レースではドライバーだけがレースで活躍するわけではありません。 ピットにいる整備工が大活躍をします。戦車戦も同じで、整備工がいないと話になりません。 だから戦車隊は全体ではとても人数が多くなります。そのため戦車隊を投入するには準備が随分 必要であると思っています。 F1 レースではタイヤ交換などが 必要となりますが、戦車戦でも同じようなことになります。砲撃を少々食らったぐらいでは 戦車は大破することはありませんが、キャタピラが不調になることは随分あるそうです。 こうなるとすぐにも修理をしなければなりません。そのまま放置すると動きが機敏でなくなりますから 的撃ちの対象となるためです。またなるべく速く戦闘に復帰しなければなりません。 その理由は戦車戦では戦車の台数が多いほうが圧倒的に有利になるためです。 だから 1 台でも多くの戦闘可能な戦車がいてくれないとだめなためです。 そのため F1 レースととてもよく似たことになります。 スペアのパーツも一杯用意していないといけないのです。 第二次大戦の日本軍では戦車は対人兵器でしかなく、戦車戦をしていませんから、このような 事実を知っている人は少ないかもしれません。

以上は、古典的な戦車戦の話で、現在では事情が違っています。 但し、どこの国でも可能であるかどうかは知りません。決定的に変えてしまったのは米国です。 サダム・フセインとの戦争で、バグダットに進撃するときに米国の戦車は 装甲を貫通する (armour piercing) 銃弾を使用しました。劣化ウラン (depleted uranium) 弾です。 古典的な戦車戦では敵味方共に消耗戦となり、どちらの戦車も最終的にはずいぶん破壊されます。 劣化ウラン弾は弱い放射性を持っていて、環境には極めてよくないようですが、 戦車戦では圧倒的な強みを見せ、破壊されたのはサダム・フセインの軍隊の戦車だけで、 その結果驚くべきことに、サダム・フセインの戦車隊が消滅してしまいました。 しかし、今回のグルジアでの戦闘にはこのようなものは使用されなかったことは確実です。 もしもロシアが使用していれば、戦車はあっという間に破壊されグルジアの戦車隊の痕跡が消滅したはずだからです。 これはなかったです。従って古典的な戦車戦が展開されたはずです。

今回、南オセチアに当初から戦車が駐留していたか どうか知りませんが、グルジアが大量に戦車を投入すればそれで勝負が決まります。 この状況でロシアができることは、より大量の戦車を投入することです。 古典的な戦車戦では、より多くの戦車を投入しないと勝つことができないからです。 市街地域で障害物があるところでは、一概に言えないかもしれませんが、 2 倍以上の台数の戦車を投入する必要があります。 古典的な戦車戦ではこうする以外に手がないのです。従って グルジアが戦車を投入した時点で、このような方向に事態が流れるしかなかったと思います。

ここ数日間の新聞記事の中にはロシア軍は最初から南オセチアにいたと、書いているものが 英字紙、邦字紙共に増えています。これはありえません。 今回の戦争は基本的には戦車戦で、グルジアが南オセチアに侵入できたのは、その時点で グルジア軍の方が圧倒的に戦車の台数で多かったせいです。


注意
南オセチアには戦車がいなかった可能性の方が大きいです。 戦車隊は規模が大きくなるので 2 万人程度の南オセチアに戦車隊が常駐していことは 考えにくいことです。防衛のためであればミサイルのほうが有効です。
その後、ロシア軍が巻き返しますが、これはグルジア軍よりも圧倒的に多くの戦車を 投入したためです。 ロシア軍の方は最後には空爆をしないといけなくなりましたが、 これは障害物が多い市街地では大量の戦車があっても、そのまま効果があらわれず、 こう着状態になりかかったためではないかと思います。

私はロシアのことは必ずしも好きではないのですが、今回の件に関しては、 ロシアの言い分の方が正しく、南オセチアの住民の命を守るためにしたことであると 判断をしています。劣化ウラン弾のようなものがあれば、グルジア軍の戦車隊を消滅させることも できたでしょうが、ロシア軍には劣化ウラン弾のようなものがなかった、 あるいはそれを使用できる状況になかったと考えれば、今回のようなことに 発展せざるを得なかったと思います。

今回のことで不明なのは何故グルジア政府が戦車隊を投入したのかという点です。 結果が目に見えています。ひょっとするとロシアが戦車隊を投入するまで 1,2 週間は かかるとふんだのかもしれません。この場合には南オセチアの住民の半数以上が 殺されていたのかもしれません。

事件の流れを再度追う

私は邦字紙を購読していません。購読しているのは英字紙 (Japan Times, IHT) のみです。 グルジアに関しての邦字紙がどのように論じているのか知りませんが、 産経新聞に関しては、日頃利用する食堂においてあるのでよく読んでいます。 産経新聞に関しては、事件を公平に論じていないです。 ロシアのみ悪者にしています。非常に腹が立つので事件の経緯を時間の流れを追って説明します。 事実関係を再確認できることを目的とします。
1. グルジア軍が南オセチアに進撃したとの報道があり、ロシア政府がグルジア軍が 南オセチアで虐殺 (genocide) をしていると糾弾。

私はこれだけの情報では事実かどうか判断できないと考えました。

2. ロシア軍が南オセチアに進軍したらしいとの報道。
ロシア政府はグルジア軍の戦車隊の南オセチアからの即時撤退を要求する声明
この後、激しい戦闘があったと思われますが、非常に短期間であった。
3. 再度、ロシア政府が、グルジア政府に対して、戦車隊の即時撤退を要求する声明
グルジア政府は、すでに撤退を始めたと声明
ロシア政府は、グルジアの戦車がカモフラージュしただけで、撤退をしていないと非難。
4. 前項の翌日ないしは翌々日に、ロシア軍による空爆
5. 空爆に関してのロシア軍による記者会見。
西側の記者と軍の代表によるやりとり。 ◦ (記者)     パイプラインの近辺に爆撃があったが、パイプラインを爆撃をしたのではないか ?
◦ (ロシア軍)  そのようなことはない。
◦ (記者)     誤爆はありえないのか ?
◦ (ロシア軍)  ありえないとはいえない。
このやりとりは非常にとげとげしいやり取りでした。

西側の記者は住民たちの生命の安全よりは パイプラインのことを問題としていることが非常にはっきりしました。

6. このあとで、南オセチアからのグルジア軍が撤退をする報道がある。 記者が撤退中のグルジア兵士に話を聞いている。グルジア兵士の返答は ◦ 「かんじんなときに米軍がいないじゃないか」
◦ 「(南オセチアでは) 殺しまくった」
と言っており、ものすごく憔悴しているようであった。

完全武装している兵士を簡単に殺しまくることはできませんから、これはグルジア軍が 一般市民を無差別に殺しまくったことを意味しています。だから、この時点で ◦ 南オセチアでグルジア軍による虐殺 (genocide) があったことが確実となった。
◦ 空爆の前に、グルジア政府が「グルジア軍が南オセチアから撤退を開始した」と声明を発表しているが、 これは嘘であったことが判明。空爆によって始めて撤退を開始。
であったことが確実となりました。

7. グルジア領内のパイプラインに関する報道。 ◦ パイプラインを管理している責任者から、グルジア領を通るパイプラインが無傷であることの回答
◦ (多分誤爆による被害を最小限に抑えるため) パイプラインが一時的に閉鎖がされたとの回答。
◦ 但し、パイプラインの中に残っている原油は 1 週間ぐらいは、圧力によって目的地で流出し続けるとのこと。


この時点で、ロシア軍の空爆はパイプラインをターゲットにしなかったことが確実であることが判明。 ロシア軍は空爆に関しても嘘はついておらず、信用してもよいらしいことがこの時点で判明。 ロシア軍の空爆のターゲットは、軍事施設、および南オセチアにおけるグルジア軍の補給の遮断を目的と したものです。今日の産経新聞では、ロシア軍によってグルジアの鉄道が破壊されたと報道していて、 ロシア軍だけが悪いかのように書いていました。間違いなく、この鉄道は南オセチアに おけるグルジア軍の補給のために使用されたものです。ほったらかしていたら、 南オセチアの人は殺しまくられるのですよ。

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バロン吉元『柔侠伝』シリーズ

2009年12月18日 03時36分30秒 | 自選 文学篇




       バロン吉元『柔侠伝』シリーズ

 
 昔、
 バロン吉元、
 という名の漫画家が、いた。

 他にはたいした作品を描かなかったが、
 たった一つ、
 『柔侠伝』、『昭和柔侠伝』、『現代柔侠伝』というシリーズを残し、
 やがて、
 僕たちの視界から、消えた。

 ネットで見ると、
 今、
 どっかの私大の教員らしいが、
 そんな今の姿には、僕は、興味もない。


 九州の小島の、不遇な武闘家の子、柳勘九郎、
 その息子柳勘太郎、
 そして孫柳勘一、
 天才的柔道家三代の生きざまを描いて見せた。

 やくざの男三代の生きざまを描いて若者から受けた、
 本宮ひろ志の『男樹』などとは、
 同じ男三代記であっても、
 本宮ひろ志には、悪いが、
 天と地ほどに違った。

 本宮ひろ志の作品群には、
 処女作の『男一匹ガキ大将』から、
 大評判の『サラリーマン金太郎』まで、
 必ず、
 オーバーアクションとでも言えばいいのか、
 ある種の「はったり性」が散りばめられていて、
 僕は、
 どうしても、高く評価する気になれない。
 本宮の作品には、「清涼剤」以上の意味は与えられない、
 と思う。


 世の文進歩派化人たちは、
 あの時期、
 つまり、
 1970年前後の漫画(当時は、もったいぶって、劇画、と呼んだ)というと、
 白土三平の『カムイ伝』を、ことさらに絶賛するが、
 僕は、
 『柔侠伝』シリーズは、
 それに負けない質を保持した作品である、
 と評価してきた。

 白土三平の登場人物たちが、
 理念が人の姿を借りたよう、
 であったのに対して、
 バロン吉元の登場人物たちは、
 理念が人の肉体に溶け込んだよう、
 に描かれていて、
 その点では、
 白土三平よりも、バラン吉本の方が、上質であった、
 と思っている。

 それと、
 『現代柔侠伝』での安保闘争期の世相の描き方は、秀逸だった。
 気取らず、気張らず、気後れせず、
 ただ淡々と、
 <反体制>を生きる人々の、
 情熱と、韜晦と、無念を、
 描き尽くしていた、
 ように、
 僕は思う。


 祖父の柳勘一が、文盲の柔術家、
 息子の勘太郎が、馬賊崩れの飛行士、
 孫の勘一が、三流私立大学の学生、
 といった風に、
 主人公は、
 その時代時代の、市井に生きる、体制への反逆児、
 と、設定されていて、
 バロン吉元の、生活姿勢と、
 庶民への、「山田洋次的ではない愛情」を感じさせられた。


 このシリーズを耽読していた頃の僕は、
 反体制気運衰退期の、
 地方大学の不良学生で、
 学校には行かず、
 先輩の下宿の本棚に並んでいるこの単行本を、
 何度も、何度も、読み返し、
 <自由>を生きる人生を夢想していた。

 いま、
 こんな放浪生活に身を任せていて、
 あの多情多感な主人公たちに、
 立場だけは似てきたかな、
 と、
 苦笑することがある。


 主人公の男も良かったが、
 出てくるヒロインたちが、
 これがまた、
 実に、魅力的だった。

 最初の女(柳勘九郎の女)の名は、忘れたが、
 その後は、
 麻子、
 茜、
 と続く。

 最初のヒロイン二人は、
 東北弁丸出しの女で、
 タバコは吸うし、大酒も飲む、
 といった描かれ方をしていて、
 ユニークだった。

 後の話だが、
 孫の勘一が、ヒロイン茜を、
「茜ちゃん」
 としか呼べないように設定されていて、
 別れた細君を、呼び捨てで呼んだことのない僕は、
 勘一に、一層の親近感を覚えたのであった。

 うん。
 どうせ別れるのだったら、
 一度くらい、妻を呼び捨てで呼んでおけばよかったな。
 僕も、
「ねえ、XXちゃん」
 だったもんな。


 最初二人のヒロインのような女性像は、
 理念的漫画家白土三平には、
 生涯、描きようもなかった。


 昭和50年代当初、
 『赤色エレジー』をうたったあがた森魚が、
 このシリーズのイメージソングを作って、
 緑魔子という女優と、デュオをやった。
 『昭和柔侠伝 最后のダンスステップ』
 という歌だった。


   あなたなんだかおセンチね もうすぐ外地におでましね
   私も最后のパーマネント この髪乱して踊りたい

   踊ろうか
   踊りましょ
   せめて今宵限りでも


 といった乙女チックな歌詞で、
 曲はレトロ、
 悪女の似合う緑魔子が、柄にもなくかわいい声を出していて、
 なかなか、よかったが、
 全然、流行らなかった。

 それが、
 僕には、
 とても、
 残念だった。


 この漫画の単行本は、全巻揃えていたが、
 米屋をやって、
 ある時期、貧乏になった時、
 蒲田の古本屋に、
 全巻5000円でたたき売り、
 まだ中学生の息子と、食事に行った。

 僕の息子の食事代にかわるなら、
 バロン吉元も、
 柳勘九郎、勘太郎、勘一も、
 きっと、笑って許してくれるだろう、

 と思った。

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月刊創 で 言論の覚悟 私の柔侠伝を執筆した鈴木邦夫の柔侠伝レビュー

柔侠伝 上巻
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http://kunyon.com/shucho/110829.html
「楯の会」も連合赤軍も夢中になった「柔侠伝」!

①初めにマンガありき、だよ。革命運動は

小林よしのりさんと(8/23) 小林よしのりさんと(8/23)

だから、何度も言ってるように、あの時代の学生運動は「マンガ」だったんです。マンガが一番、影響を与えていた。

別に馬鹿にしてるわけではない。だって、1970年3月の「よど号」ハイジャックを見たらいい。赤軍派の9人は、「我々は“あしたのジョー”である!」と言い残して、北朝鮮へ行った。又、白土三平や赤塚不二夫や手塚治虫のマンガにモロに影響を受けていた。

白土三平の『カムイ伝』『忍者武芸帳』から唯物史観を学んだ学生は多かった。さいとうたかをの『ゴルゴ13』で国際情勢を学んだ、という人も多い。「人生に必要なことは全て『ゴルゴ13』に学んだ」と言う人もいた。

又、新左翼の人達は本名を名乗らない。権力から身を守るために組織名を名乗る。コードネームというと、スパイ映画のようだからと、「ペンネーム」と言った。そのペンネームは、ほとんどがマンガの主人公だった。

高田延彦さんと(8/23) 高田延彦さんと(8/23)

乱闘も、国際情勢も、仲間のつくり方も、異性との付き合い方も、全て、マンガから学んだ。マルクスやレーニン、トロツキー、毛沢東からではない。マンガから学んだのだ。

ハイジャックの意味も知らないでハイジャックをして、人質の日野原さんに教えられたり…。

東京戦争・大阪戦争などと名前だけは日本の内戦だし、革命だが、実際はチャチなものだった。「日本のレーニン」と言われた人もいたが、今はただのお爺さんだ。マンガだ。全てはマンガだ。

勿論、右翼もマンガは読んでいた。でも、左翼と比べると、右翼の方が真面目というか、融通が利かない。ユーモア精神がない。

でも、バロン吉元の『柔侠伝』は右翼学生に人気だった。又、左翼学生にも人気だった。これは週刊『漫画アクション』に、1970年(昭和45)6月11日号から連載が始まる。

そうか。「よど号」があって、その3ヶ月後だ。僕は産経新聞に勤めていた頃だ。元「楯の会」の阿部勉氏のアパートに居候していた頃だ。右派学生運動の内ゲバがあり、私は追放され、実家の仙台で鬱屈していたが、1970年4月に産経新聞に入社し、久しぶりに上京した。

前田日明さんと(8/15) 前田日明さんと(8/15)

その時、渋谷で偶然に、阿部勉氏に会った。「これからアパートを探さなくてはならん」と言ったら、「見つかるまで僕のアパートにいて下さいよ」と言う。

高田馬場で六畳二間に、もう1人、福田俊作(やはり、「楯の会」)と住んでいた。「楯の会」の溜まり場のようになっていた。結構居心地がよくて、半年以上いた。

そしたら、1970年11月25日に三島事件が起きた。部屋には祭壇が出来、「楯の会」の人間は、連日集まって、秘密の会議をしている。マスコミも押しかける。警察は張り込んでいる。これ以上、ここにいては迷惑をかけると思い、落合にアパートを借りて、引っ越した。それ以来、ずっと落合だ。

その三島事件から、私の周りの世界も激変する。阿部勉氏や、やはり学生運動の仲間の犬塚氏、四宮氏、田原氏、田村氏…などと共に、「一水会」をつくることになるからだ。

②あの「空白時代」に衝撃を受けたマンガだ!

サスケさんと(8/15) サスケさんと(8/15)

つまり、1970年(昭和45)の5月から11月の半年間は、不思議な半年間だった。活動家にとってのエアポケットのような時代だ。もう運動に戻ることはないと思っていた。多分、一生、サラリーマンだろうと思い、新しい環境に慣れなくてはと思っていた。

そんな時代に出会った、「運命のマンガ」が、バロン吉元の「柔侠伝」だ。

居候させてくれた阿部勉氏が薦めてくれた。「これはいい!」「面白いですよ」と見せてくれた。「漫画アクション」(双葉社)の70年6月11日号から始まっている。それ以来、欠かさず読んでいた。後に、単行本になった時も、全て読んだ。

「楯の会」の人達も皆、読んでいた。かなり後で分かったが、左翼の人達も読んでいたという。連合赤軍事件の植垣康博さんは、特に好きで、後に、出所してから、静岡に「バロン」と名付けたスナックを開店したほどだ。作者のバロン吉元からとったのだ。

だだちゃ豆を食べる だだちゃ豆を食べる

今、ここに、1冊の本がある。文藝春秋編『大アンケートによる 少年少女マンガ100』(文春文庫ビジュアル版)だ。1992年発行で、580円だ。これは、歴史的な本だ。「各界有名人が選び出した史上最も面白いマンガはこれだ!」と表紙に出ている。

まずは、10位までを紹介します。
1位「あしたのジョー」 高森朝雄原作・ちばてつや漫画2位「鉄腕アトム」 手塚治虫3位「サザエさん」 長谷川町子4位「火の鳥」 手塚治虫5位「少年王者」 山川惣治6位「忍者武芸帳」 白土三平7位「猿飛佐助」 杉浦茂8位「天才バカボン」 赤塚不二夫9位「少年ケニア」 山川惣治10位「巨人の星」 梶原一騎作・川崎のぼる作画
「各界有名人」というから、平均年齢が高いのだろう。だから、昔懐かしいマンガが勢揃いしている。今の10代、20代、にアンケートを求めたら、ガラリと変わるだろう。

でも、これが、学生運動世代に影響を与えたマンガだ。山川惣治は私も小学生の時、夢中になって読んだ。「猿飛佐助」もそうだ。でも、今の若者は多分、誰も知らないだろう。

③私の人生もマンガだった

「南京!南京!」上映とトーク(8/21) 「南京!南京!」上映とトーク(8/21)

さて、バロン吉元の「柔侠伝」だ。これは全体のアンケートでは30位になっている。でも私は、これを1位に選んだ。「各人のマイベスト」も載っている。

それがこの文春文庫の楽しいところだ。「鈴木邦男(一水会代表・48歳)」の「マイベスト5」がこう紹介されている。
1位柔侠伝 バロン吉元2位少年王者 山川惣治3位矢車剣之助 堀江卓4位沈黙の艦隊 かわぐちかいじ5位へび少女 楳図かずお
「少年王者」は日本版ターザンだ。アフリカ旅行中、子供が行方不明になり、ゴリラに育てられる。たくましく育ち、ジャングルの王者になり、大冒険をする。

これは、私の人生の原点になった、学生運動、右翼運動という「ジャングル」に生き、悪い猛獣たちに襲われながら、闘ってきた。私も「少年王者」だ。

「南京!南京!」の陸川監督と 「南京!南京!」の陸川監督と

「矢車剣之助」は時代劇なのに、とびっきり、奇抜なマンガだった。こんなの、ありえない!と思われるシーンの連続だった。

地面からいきなり城が出てくる。そして、武装集団が何万と現れる。二丁拳銃で主人公は大活躍する。拳銃を撃って、壁に絵を描いたりする。そんなに弾が続くのだろうか。時代劇なのに、気球は出てくる。飛行船は出てくる。城だって、飛ぶ。

こんな奇想天外な発想は、「バカな!」「バカな!」と思いながら、大人になってから、ヒントになっているのかもしれない。「少年王者」の志と、「矢車剣之助」の発想。それが私だ!それに「柔侠伝」のロマンと武闘だよね。

『少年少女マンガ 100』には、私のコメントも出ている。「わがマンガ人生」の総括だ。

宇賀神寿一さんと 宇賀神寿一さんと

〈子供の頃から一貫してマンガは読み続けてきた。それも、かなり真面目に読み続けてきた。ほのぼのとしたマンガやナンセンスマンガは、あまり印象に残っていない。マンガによって自分の生き方を考えてきたからかもしれない。勇気、優しさ、決断…すべてマンガから学んだようだ。
 学生時代からずっと民族派の学生運動を続けてきたのも、潜在意識の中にマンガの影響があったからだと思う。だから、僕の人生そのものも、かなりマンガ的だと(いい意味でも悪い意味でも)思う。学校で学んだことはすべて忘れても、マンガから学んだことは覚えている。マンガこそが僕の教科書だったかもしれない〉

④反逆の政治マンガだ!

9月2日(金)午後7時、ネイキッドロフトでやります 9月2日(金)午後7時、ネイキッドロフトでやります

そうか。だったら、学校の教科書も全てマンガにしたらいい。そうなったら、「愛国マンガ」と「反日マンガ」の闘いになるのかな。

さて、「柔侠伝」だ。これは、長い長いマンガだ。大河マンガだ。それに、主人公は柔道家だが、正義感が強い。時の権力者とも闘う。

柔道だから体制的だろうと思うかもしれないが、それはない。時には反体制であり、左翼的だ。誰かに似ている。だから、左翼学生も熱狂的に読んだんだ。何人かが、この「柔侠伝」へのコメントを語っている。私は…。

〈この後の「昭和柔侠伝」「現代柔侠伝」を含めて、これは大河ドラマならぬ大河マンガです。柳勘九郎、勘太郎、勘三郎の三代にわたる柔道家の目を通して見た日本の激動の歴史がビシビシと伝わってきます。胸を熱くして読みました〉

鈴木、植垣さん、バロン吉元さん 鈴木、植垣さん、バロン吉元さん

明治の末から大正、昭和と続く大河マンガだ。戦争もある。敗戦の混乱もある。砂川闘争、安保闘争もある。その中で、柔道家の主人公はどう考え、どう悩み、闘ってきたか。

「『柔侠伝』の主人公は人間本来のリアルな生活臭とさまざまな煩悩をもったマンガ史上初めての“柔”のヒーローなのです」とは作者の言葉。そんな主人公の行動ひとつひとつが好ましい、と文春文庫には書かれている。

私は「親子三代」だと思ったら、今、文春文庫を見たら、何と「五代」にわたる柔道家の物語だ。

初めは明治35年(1905)だ。100年以上も続く話だ。ともかく、明治38年、柳勘九郎は柔術家だった父・秋水の志を受け継いで、講道館柔道と対決するために九州から上京する。

しかし、柔術はすでに過去のものとなり、柔道の時代になっていた。そんな時、知り合いの女性を助けようとヤクザの大親分を殺害、監獄に入る。

TBS CSの「ニュースの視点」に針谷氏と出た TBS CSの「ニュースの視点」に針谷氏と出た

大正3年、出所後、天覧試合に出場。さらに満州(現・中国東北部)に渡り馬賊となる。その後、舞台は一気に昭和11年(’36)に飛び、勘九郎の子・勘太郎を主人公にして「昭和柔侠伝」、さらにその子の勘一、勘平の「現代柔侠伝」へと続く大河マンガだ。

何と五代にわたる柔道家の物語だ。それに彼らは均(ひと)しく反逆児であり、反体制的であり、左翼の運動を助け、権力者や右翼の悪い柔道家とも闘う。柔道家が主人公だが、「政治マンガ」だ。歴史マンガだ。敵である右翼柔道家だって格好いいし、格好いい言葉を吐く。それを読んで僕らも勉強した。

⑤左右に影響を与えたマンガですよ!

バロン吉元『柔侠伝』 バロン吉元『柔侠伝』

もう随分前になるが、1976年に、前野光保という青年が右翼の児玉誉士夫邸にセスナ機で突っ込み自殺した。ロッキード事件に抗議した死だった。

この時、阿部勉氏は一水会の「レコンキスタ」に「追悼前野光保君」を書いた。その時、前野氏の写真の下に、「大義は尊皇、道は忠」と大きく書かれていた。格好いい言葉だ。

前野氏の言葉なのか、あとで阿部氏に聞いたら、「いや、『柔侠伝』に出ていた言葉だ」という。敵役の右翼柔道家が言うのだ。敵役だが、やたら格好いいし、〈思想〉がある。こんな右翼になりたいものだと思った。

私は学生時代は合気道をやり、3段だった。しかし、『柔侠伝』を読んで、やはり柔道をやらなくてはと思った。そして、かなり後になって、講道館に入門した。今、3段だ。格闘技によって教えられたことは多い。そのスタートになったのが、「柔侠伝」だと思う。

さて、9月2日(金)は、その「柔侠伝」について語ります。最も影響を受けた左右の2人。連合赤軍の植垣さんと、元右翼暴力学生の私だ。そして、「柔侠伝」の作者・バロン吉元さんを迎えて、戦後昭和史を語ります。さらにこの日は、他にもスペシャルゲストが登場いたします。お楽しみに。

〈あの全共闘時代、右も左も「柔侠伝」を読んでいた!柔侠伝で描かれる時代背景は一体何だったのか?〉

と、ロフトの案内には出ています。今週の金曜日(9月2日)夜7時からです。私も楽しみです。

【だいありー】

「アエラ」(8/29号) 「アエラ」(8/29号)
1.8月22日(月)今日発売の「アエラ」(8月29日号)に、原稿を書いた。石川知裕『悪党 小沢一郎に仕えて』(朝日新聞出版)の書評だ。面白い本だった。又、政治とは何か、政治家とは何かについて考えさせられた。佐藤優さんは、「これは小沢一郎に対する卒業論文だ」と言っていた。
 石川さんは、実は20年前、早大の学生だった時、友人に誘われて、一水会の忘年会に来たことことがあると言う。本人から聞いた。「その頃は鈴木さんも木村さんも恐かったです」。
 この日、午前中は家で原稿を書いていた。午後2時、TBSに行く。午後3時から1時間、出演。TBSのCS放送、ニュースバード内「ニュースの視点」だ。テーマは「愛国心と脱原発」だ。7月31日の「右から考える脱原発集会&デモ」を中心に話した。
 このデモの主催者の針谷大輔氏(統一戦線義勇軍議長)と2人、出演する。他に、金平茂紀キャスターも。聞き手・進行は竹内久乃アナウンサー。1時間、びっちり話をした。
 1975年頃、私がTBSに出た時のビデオも流された。まだ恐かった頃だ。この日は、原発の他、右翼とは何か、核をどう思うか、表現手段としてのデモはどうあるべきかなど、〈思想と表現〉についても話し合った。
 初め40分だったが、話してるうちに時間が足りなくなり、急遽、もう20分、延長した。CSだから出来ることなのだろう。
 「よかった」という声と同時に、「なんで右翼なんかを出すんだ」という抗議の電話も随分あったと聞いた。
 夜は、神田で市民運動の打ち合わせに出る。

イルカと泳いだ利島で(8/11) イルカと泳いだ利島で(8/11)
2.8月23日(火)午前中、原稿。午後、取材と打ち合わせ。午後6時、ANAコンチネンタルホテル。自民党の加藤紘一さんが毎年やっている「だだちゃ豆を食べる会」に出る。枝豆の中でも、特上のものが「だだちゃ豆」だ。山形出身の加藤さんらしい企画だ。
 大きな会場には、山盛りのだだちゃ豆が。それを、ひたすら食べる。私は大好きなので、黙々と食べた。736ヶも食べた。加藤さんは、中国に行ったら、ホテルの冷房が強すぎてカゼをひいたと言っていた。
 小林よしのりさんに会ったのには驚いた。2人は考えが全く違うが、本で対談した時、「加藤さんの故郷を思う郷土愛には感動した」という。それ以来、会っている。「中国問題などでは考えが違うし、洗脳してやろうと思ってます」と小林さん。
 小林さんはよく頑張っている。闘っている。「保守派の全てを敵にしてます。鈴木さんと同じ状況です」と言っていた。嬉しいですね。久しぶりに、話が出来たし、楽しかった。
 そうだ。ホテルに入る時に、バッタリ、高田延彦さんと会った。他の会合らしい。声を掛けたら、「あっ、鈴木さん、ずっと気にかかってたんですよ」と言う。ありがたいです。前は、格闘技雑誌ではよく会って話を聞いてたのに。最近はそんな機会がなくて、残念だ。又、ゆっくり話を聞かして下さい。

「土風炉」で 「土風炉」で
3.8月24日(水)午後3時、文化放送。今日は、布川事件の冤罪被害者・桜井昌司さんがゲスト。なぜ冤罪が起きるのか、なぜ逮捕され、なぜ「自白」したのか、について詳しく聞いた。
 今週の「編集長は見た!」は「サピオ」の三浦和也編集長。今日発売の「サピオ」(9月14日号)は凄い特集だ。何と、
〈田中角栄なら「今」をこう解決する〉
 いいですね。こういう特集は。例えば、震災復興のために「東北にカジノ」。災害指揮のために、「東北に第2の首都を」。経済政策は、「増税に頼らない財源を生み出す」…と。こういう政治家を失脚させたのもマスコミだったし、国民だった。愚かな選択だった。あれ以来、大政治家はいない。
 このあと、Wコロンの謎かけ。
 そして、島田紳助引退問題について話した。残念だ。天才を追放する国だ。愚かな国だ。
4.8月25日(木)、原稿が進まないので、河合塾コスモに行き、自習室で、ずーっと原稿を書く。
 夜6時半、ホテルニューオオタニ。「恵観塾」。若松孝二監督、ライターの山平重樹さんらも来ていた。
5.8月26日(金)、午前中、図書館。午後1時、神田。出版社の人と打ち合わせ。夜、久しぶりに講道館へ。ヘトヘトだ。体を動かすと気持ちがいい。
6.8月27日(土)夕方まで、原稿書き。6時、雑誌の対談。凄い人と凄い内容の話をした。
7.8月27日(日)午前中、原稿。〆切が過ぎているのに、なかなか出来ない。夜、雑誌の座談会。

【写真説明】

小林よしのりさんと(8/23)
①8月23日(火)6時、ANAコンチネンタルホテル。加藤紘一さんの「だだちゃ豆を食べる会」で小林よしのりさんに会いました。久しぶりに、いろいろとお話ししました。だだちゃ豆はおいしいね、と小林さんも食べてました。

高田延彦さんと(8/23)
②ホテルの入口で、バッタリと高田延彦さんに会いました。ビックリしました。前は格闘技雑誌の取材でよく会ってたんですが。久しぶりでした。元気でした。

前田日明さんと(8/15)
③8月15日(月)、前田日明さんです。ロフトプラスワンで。高須基仁さんプロデュースのイベントで。「憂国の士」ですよ。熱く語ってました。

サスケさんと(8/15)
④「みちのくプロレス」のザ・グレート・サスケさんにも久しぶりに会いました。「今日、靖国神社に行ってきました」と言ってました。又、政界に出てほしいですね。

だだちゃ豆を食べる
⑤大皿に山盛りに、「だだちゃ豆」があるんですよ。私は、ガツガツ食べました。

「南京!南京!」上映とトーク(8/21)
⑥8月21日(日)12時半。中野ZEROホール。問題の映画「南京!南京!」の上映とトークが行われました。抗議の街宣車がドッと来るかと思いましたが、それはなくてホッとしました。でも、警察は随分と出てました。
 映画は日本兵の苦悩を描いているし、中国軍の葛藤も…。知られざる事実も描かれてます。考えさせられる映画です。中国でも大ヒットです。ただ、「日本軍の目線だ!」「許せない!」「殺してやる!」という抗議もあったそうです。ぜひ日本でも公開してほしいです。
 上映後、陸川監督は、熊谷伸一郎さん(『世界』編集部)とトークしてました。

「南京!南京!」の陸川監督と
⑦映画が始まる前に、陸川監督に紹介してもらい、いろいろ話しました。とてもいい映画だし、勇気がある映画だと思いました。そのことは「マガジン9」にも書きました。

宇賀神寿一さんと
⑧宇賀神寿一さんも来てました。席がなくて探していたので、「関係者席」の私の隣りに座ってもらいました。昔、爆弾事件で捕まり、20年間も刑務所に入ってたんです。凄い人です。『紙の爆弾』でも対談しました。
 この日の上映会は、緊張しました。「許せん!」といって暴漢がスクリーンを切ろうとしたら、私も止めなくちゃならん。その時は、手助けして下さい、と頼んだ。それに、「爆弾を仕掛けられたら、取り外して下さいよ」。「エッ?ムリだよ」。何言ってんですか。爆弾のプロなのに。ともかく、心強い「同志」でした。

9月2日(金)午後7時、ネイキッドロフトでやります
⑨9月2日(金)午後7時、ネイキッドロフトでやります。「柔侠伝」について、バロン吉元さん、植垣康博さんと。

鈴木、植垣さん、バロン吉元さん
⑩3月に、バロン吉元さん(右)に植垣さん(中央)を紹介しました。大いに盛り上がってました。さらに9月2日です。面白い話が聞けると思います。

バロン吉元『柔侠伝』
⑪『少年少女 マンガ100』(文春文庫)の中の「柔侠伝」のところです。

TBS CSの「ニュースの視点」に針谷氏と出た
⑫8月21日(月)3時から、TBS CS「ニュースバード」内の「ニュースの視点」に出ました。「愛国心と脱原発」です。打ち合わせの時です。左から、針谷大輔氏(統一戦線義勇軍議長)、鈴木、金平茂紀キャスター、竹内久乃アナウンサー。

9.3に、横浜でデモです!
⑬9月3日(土)は、「右から考える脱原発集会&デモin横浜」です。午後4時、横浜公園で集会、5時、デモ出発です。

「アエラ」(8/29号)
⑭「アエラ」(8月29日号)。石川知裕さんの『悪党 小沢一郎に仕えて』(朝日新聞出版)の書評を書きました。

イルカと泳いだ利島で(8/11)
⑮利島に行った時の写真ですね。8月11日(木)です。「オーシャンズ11」のメンバーです。

「土風炉」で
⑯『紙の爆弾』の取材の後でしょうね。居酒屋「土風炉」でしょう。「女の子、集まって!」と白井さんが写真を撮りました。写真をコンビニでプリントしてたら、知らないお婆さんが覗き込んで、「あら、お孫さんですか」。ムッとしました。「ウルセー、愛人だよ!」と怒鳴ってやりました(心の中で)。でも、人妻の女医さんもいる。まずいな。

http://blog.ap.teacup.com/kntk123/228.html
「トークショー『柔侠伝と戦後昭和史を語る』」  バロン吉元

9月2日の金曜日、新宿 Naked Loft で開催された「『柔侠伝と戦後昭和史を語る』 バロン吉元×鈴木邦男×植垣康博」に行ってきました。

バロン吉元先生のホームページで開催を知り、台風の近づく中、東京に向かいました。翌3日には銚子電鉄の「ありがとう鉄子号」のイベントがあったのですが、こちらは台風接近により中止になり、時間を気にしなくても良いようになりました。

まず新宿の切手センターで切手を物色。特定の切手を探すにはカタログがないとどうしようもないので、ミッヘルの中古カタログ3冊を購入。重いです。

幸い雨はなく晴れてはいるのですが、突然天気雨が降り出し、びしょ濡れに。折りたたみ傘は持っていたものの、バッグから取り出す前に濡れてしまいました。

新宿タカシマヤの『玄海』で昼食は親子御膳。続いて目白の切手博物館へ。カタログは重いので新宿駅の新南口の入口にあるコインロッカーへ。新南口は高島屋のすぐそばなので便利です。ただ、改札を通ってから山手線のホームまでが遠いです。

切手博物館から歩いて高田馬場駅へ行き、そこから西武新宿線で西武新宿駅へ。北口を出ると新宿職安通りはすぐそばです。

会場の『Naked Loft』もすぐ見つかりました。まだ開場前です。


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開場にはまだ時間があるので、付近を散策。ここは新大久保コリアンタウンの一角なのですね。すごいです。初めて来ました。

午後6時30分、オープンです。

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この日のトークショーは、『柔侠伝と戦後昭和史を語る』とのタイトルで、「あの全共闘時代、右も左も柔侠伝を読んでいた」とのサブタイトルがついています。

出演はバロン吉元先生に加えて鈴木邦男さん(一水会顧問)、植垣康博さん(元赤軍兵士/スナック「バロン」マスター)、更に特別ゲストで飛松五男さん(元兵庫県警刑事)、金廣志さん(元赤軍派、15年間逃亡し時効成立)というすさまじいメンバーでした。


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司会は鈴木邦男さんが担当。観客には鈴木さんのファンでしょうか、(たぶん「柔侠伝」読者ではない)若い女性も多いです。


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鈴木邦男さんの「柔侠伝」シリーズの紹介、文藝春秋社の「大アンケートによる少年少女マンガ100』で1位に選んだ話から始まり、11時近くまで、熱いトークが続きました。


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この日の企画や当日の模様は、鈴木邦男さんや飛松五男さんのブログでも触れられています。「後刻 椎野企画から対談集発刊!!」とありますので、この日のトークショーも収録されるのでしょうか。楽しみです。

バロン吉元先生から、参加者全員に直筆サイン入りポストカードをいただきました。

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ホテルの門限が12時、新宿駅新南口のコインロッカーに荷物を預けてきたので、あせって取りに行きました。職安通りから新宿駅新南口は遠かったです。

翌3日は国会図書館に行き、漫画アクションの「柔侠伝」から「昭和柔侠伝」までを通して読んできました。欠号がけっこう多いですね。

「柔侠伝」第13話の「女山嵐」、雑誌掲載時は第12話でした。「都の西北」が第13話で、コミックス収録時に順序が変わったのですね。これまで何回か見ているはずなのに、気がつきませんでした。今回、通して読んでみて初めて気がつきました。

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