カールマルクスと資本論

理論劇画 マルクス資本論理論劇画 マルクス資本論
(2009/04/01)
門井 文雄、紙屋 高雪 他

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1887 Karl Marx
English Edition "Capital"  Translated by Samuel Moore and Edward Aveling,Edited by Friedrich Engels

Chapter 1

カール・マルクス
資 本 論
[サミエル・ムーア訳 エンゲルス監修の英文 (Capital) の和訳] (第一章)

第一巻 資本の生産過程

第一篇 商品と貨幣

第一章 商 品

第一節

商品の要素は二つ。使用価値と
価値(価値の実体と価値の大きさ)である。


 (1)資本主義的生産を行う社会では、その富は、商品の巨大な蓄積のようなものとして現われる。その最小単位は一商品ということになる。従って、我々の資本主義的生産様式の考察は、一商品の分析を以て始めねばならぬ。

 (2)一商品は、とにもかくにも我々の面前に存在して、その特質をもって、人間の様々な欲求を満足させて呉れる。 その欲求が、例え胃からであろうと、幻想からであろうとかまわない。
 ただこの商品要素の考察という段階においては、一商品が、直接的に生存のための欲求にであれ、間接的に生産に用いるための欲求にであれ、どのようにこれらの欲求を満足させるかについては、特に知る必要はない。  

 (3)鉄や紙などの有用物を、その質と数量という視点から見て行くことにしょう。 これらのものは、 様々な特質の集合体であり、様々な用途に使える。 これらの用途の発見は 歴史的な所産である。
 また、これらの有用物の数量を計る標準的な方法も、社会的に確立されてきたものである。様々な計量方法があり、計られる物の性状の違いによるものもあれば、習慣的に用いられてきた方法もある。

 (4)ある物の有用性が、その物の使用価値である。物の有用性は空中に浮かんでいるものではなく、あくまでもその商品の物質的な特質の内に限られ、その商品の外に存在してはいない。 つまりは、一商品、鉄とかトウモロコシとかダイヤモンドとかは、一現物であり、使用価値であり、有用物なのである。
 この一商品の使用価値という特質は、その有用さの質のために必要とされた労働の量からは独立している。 我々が使用価値を論じる場合は、常に、その数量の確認が大切である。1ダースの時計とか1ヤードのリネンとか1トンの鉄とかのように。  しかしながら、商品群の各使用価値の諸々については、それしか知識を要さない商品学に任せておけばいい。
 使用価値は、使用や消費においてのみ、実現する。また、富の実体となる。それがいかなる社会的な富であろうともである。現資本主義社会においては、その富がさらに加えて、交換価値の保管物であるということが、我々の資本主義的生産様式の考察への手がかりなのである。     

  (5)交換価値は、ちょっと見た限りでは、数量的な関係に見える。あるものの有用さと他のものの有用さの比例的な関係に見える。しかもその関係は時や場所によって常に変化する関係に見える。このため、交換価値は偶然的で全く相対的なものであるように見える。しかしながら、一方では、商品とは切り離せない固有の価値にも見える。この相対性と固有という関係には言葉の矛盾を感じるだろう。これらの内容をもう少し細かく考えて行くことにしょう。

  (6 )与えられた一商品、例えば、1クオーターの小麦は、x量の靴墨、y量の絹、z量の黄金 等々と交換される。これらの商品はそれぞれ全く違う特質を有しているにも関わらず、交換される。小麦という一つの交換価値は、従って、様々な交換価値を持つことになる。
 しかし、交換した結果から見れば、x量の靴墨、y量の絹、z量の黄金 等々の交換価値は、1クオーターの小麦の交換価値ということになるので、さらに、x量の靴墨、y量の絹、z量の黄金 等々それぞれの商品は、相互に交換価値があり、交換することができることになる。
 これらの事を踏まえれば、第一に、様々な量の商品達の交換価値は同一の何かを表しているということになる。第二に、交換価値とは、一般的に、商品に含まれ、識別できる何んらかのものの、一つの表現形式・現象形式だということになる。  

  (7 )二つの商品を取り上げてみよう、トウモロコシと鉄である。それらは、それなりの比率で交換可能である。その比率がどうであれ、常に、与えられた量のトウモロコシは、ある量の鉄と、次のような等式で表わすことができる。
1クオーターのトウモロコシ=x ツェントナーの鉄
  この等式は、我々に何を語っているだろう? 二つの違った事を語っている。まずは、1クオーターのトウモロコシとx ツェントナーの鉄には、両者に共通な大きさの何かがあるということである。次いで、従って、二つの物には、1クオーターのトウモロコシとx ツェントナーの鉄以外の、ある大きさを持った何かが存在しなければならないということになる。しからば、交換価値を持つこれらの二つの商品は、両者以外の同じ大きさを持つ何かと交換することができ、それらも等式で示しうるということをも語っている。  

  (8 )簡単な幾何学図で説明してみよう。多角形の面積を求めたり比較したりする場合、我々は三角形に分解して計算する。ところで、三角形の面積は、その形とは別な、底辺の1/2と高さの積で表される。同じ様に、様々な商品の交換価値は、各商品に共通のある物で、その量の多いか少ないかで表すことができるということである。  

  (9 )この共通のある物は、商品の幾何学的特質でも化学的特質でも、その他の自然的な特質でもあり得ない。その特質は、それら商品の有用性つまり使用価値にあるのではないかと思わせる。がしかし、明らかに商品の交換は、使用価値を全く考慮することもなく実行されるものである。結果的に、ある使用価値は、量が十分対応していれば、別のものの使用価値と同じと見なされるだけである。かのバーボン老が「ある衣料は、もしその価値が他の何かと等しいなら、あたかもその何かと同じものとなる。ある物と他の物の価値が同じで、そこに差異や異存がないならば、100ポンドの価値なる鉛や鉄は100ポンドの価値の銀や黄金と同じ価値であるように、同じ価値、同じ物となる。」と云ったように、見えるだろう。勿論、様々な商品の使用価値はそれぞれ違った特質を持っている、しかし、交換価値となると、量の違いだけである。これらから分かるように、交換価値には、使用価値の1原子も含まれていないと云うことである。  

  (10 )もし、我々が、商品から、商品の使用価値を取り除いて見たとしたら、何が残っているだろうか。ただ一つ共通的な特質がそこにまだ残っている。商品を作り出した労働がそれである。しかし労働の産物だとしても、それはすでに、我々の手の中の物ではなく、変化してしまっている。
 もし、我々が、使用価値を取り除いて見たとしたら、同時にまた、使用価値であるその生産物の素材や形をも取り除いて見たとしたら、もはやそれはテーブルでも家でも糸でも、その他の有用物でもないものを見ていることになる。その物としての内容が視界から消えている。その物はもはや、家具職の労働の産物とも思えず、大工職の労働の産物とも思えず、紡績工の労働の産物とも、その他職種の労働の産物とも云えない。  その物の有用な質も、そこに込められた有用な労働も、労働の内容も見ないとしたら、もう、その物には何も残らない。しかし、それらの物に共通する何かが残るのである。それは、ただ一つのもの、同じ意味での労働、つまり「人間の労働」が、この様に子細を取り去れば、そこにあるのが見えてくるだろう。  

  (11 )さて、この生産物から諸々を取り去って残った何かを、今こそ取り上げて考察してみよう。それは、それぞれに同じ様にありながら姿は見えない。ただ一様に混ざり合った「人間の労働」の混成物、「人間の労働力」をどのように混ぜるかに関係なく混ぜ合わせた代物なのである。「人間の労働力」が注ぎ込まれた生産物、「人間の労働」が生産物となっていると、これらの考察が語っている。このように、生産物全てに共通する「人間の労働」という社会的実体の結晶を見れば、それが――価値である。

  (12 ) 商品が交換される時、それらの交換価値は、全く、使用価値から独立したあるものであると明らかに示す。我々が見て来た通りである。しかしもし、それらの使用価値を取り去っても、見て来たように、そこには価値が残存する。であるから、商品の交換価値の中に、価値を示す共通なあるものの存在が明らかである。交換されるものはいつでも、その価値なのである。
 我々の考察の進展は、やがて、交換価値が単に、商品の価値を証明するか、表現するかの形式であることを教えてくれることになるだろう。が、今の段階では、この交換価値とその形式から逆に、それから独立している使用価値の方について思考を深める必要がある。

  (13 ) かくて、使用価値あるいは有用物は、物に込められた「人間の労働」という、こまごました内容がそぎ落とされたところの価値を持つ。さて、この価値の大きさはどのようにして計量されるのだろう。明瞭そのもの、価値を作り出した実体、その物に込められた労働の量である。そして、労働の量は、その労働の期間で計量される。労働の期間の大きさは、その標準的な週,日,時間で計量される。  

 (14 ) すると、ある人は、こんな風に考えるかも知れない。その物に費やされた労働の量で商品の価値が決まるなら、愚図で、未熟な労働者の作った商品の方がより価値があることになる。なぜなら、彼の生産物にはより長い時間を要しているだろうからと。  そういうものではない。価値を作り出す労働とは、均一に混ぜ合わせられた「人間の労働」であり、一つの決まった様式で表すことのできる労働力の表現なのである。社会によって作り出されたすべての商品の価値の総計に込められた社会的な労働力の総計のことである。ここは、大勢の個々の労働力で構成された一塊りの均一な労働の集合体として見た「人間の労働」で考える必要がある。このように見れば、個々の労働単位は、他の者の労働単位と同じである。その労働の結果も同様である。つまりは、社会的な平均の「人間の労働」という性格をもったものである。一商品を作るに要する平均的時間以上の時間は必要もなく、社会的に必要とされる時間を越える時間も必要がない。通常の生産条件において、かつ平均的な熟練と集中力をもってある物を生産するに要する社会的な労働時間のことである。  機械を導入した英国では、ある量の糸を布にするために必要な労働時間をおおよそ1/2に減らした。手織りの場合は、従来と同じ時間を要したが、実際に、この影響を受けて、一時間の労働が、半時間の社会的労働で置き換えられ、その結果、以前の価値が半分に下がった。

 (15 ) ある物の価値の大きさは、社会的に必要とされる労働の量、または、生産物に必要とされる社会的な労働時間がこれを決めていると分かった。これらのことを踏まえれば、それぞれ個々の商品は、どれをとってもその一般的で平均的な社会的労働時間の量の生産物と見ることができる。従って、同じ商品は、そこに同じ量の労働が含まれており、また同じ時間で生産することができ、同じ価値を持っている。一商品の価値は、他の商品の価値と比例している。丁度そのものの生産に必要な労働時間が、他の物の生産に必要な労働時間と比例しているからである。つまりは、すべての商品の総価値は、まさに、総労働時間が凝結したものなのである。     

  (16 ) 一商品の価値は、もし、その生産に要する労働時間が変わらず一定であれば、一定に留まる。ただ、労働時間は、労働生産性の変化により変わってくる。労働生産性は、様々な周辺状況や、作業技量の向上や、科学の進捗や、実用的な道具類の応用や、生産の社会的組織化、生産手段の実用化・拡大化、自然条件、で変わってくる。 例えば、同じ労働量が豊作の季節なら、8ブッシェルのトウモロコシの収穫となるが、不作の季節なら、4ブッシェルの収穫に終わる。同じ労働量が、鉱脈豊かな鉱山では、貧弱な鉱山より多くの金属を産出する。 ダイヤモンドともなれば、地表にはまずなく、その発見には、非常に長い労働時間が費やされ、その多大な労働が小さな片に象徴されている。 黄金といえども、その全ての価値が今迄にまともに評価されたことがあるかとヤコブは云うが、ダイヤモンドに当てはめればなおさらのことであろう。 エッシュベーゲによれば、1823年に至る80年間のブラジルのダイヤモンド鉱山が産出した全ダイヤモンドの価格は、同国の砂糖とコーヒー農園の一年半の平均的生産額にも及ばないと云う。だからこそ、小さなダイヤモンドに、より大きな労働が費やされており、大きな価値を表す。 とはいえ、ダイヤモンド鉱脈の豊かな鉱山なら、同じ程の労働がより多くのダイヤモンドの産出となり、その価値は低落するであろう。もし仮に、僅かな労働の支出で、炭素からダイヤモンドを合成することができたら、その価値はレンガよりも小さなものとなるかもしれない。  一般的に、労働生産性が大きくなれば、その物の生産に要する労働時間は短くなり、その物に結実される労働の量は小さくなり、その価値は小さくなる。逆に、労働生産性が小さくなれば、その物の生産に要する労働時間は長くなり、その物に結実される労働の量は大きくなり、その価値は大きくなる。まとめれば、一商品の中に込められた労働の量で、その価値が変わる、労働生産性は逆の労働量の変化をもたらす。

  (17 ) なかには、価値はなくても、使用価値である物がある。人にとって有用ではあっても、なんら労働の必要がない物がそれである。空気、処女地、自然の牧場等である。 また、なかには、有用であり、人間の労働の生産物であっても、商品とはならない物もある。直接的に自分の欲求を満たすために自分の労働によって作った物は、まさに、使用価値を生み出しているが、商品ではない。商品をと云うならば、使用価値を作るだけではなく、他人のための使用価値、つまりは社会的な使用価値を作らなければならない。 (中世の農夫は、他人のために、他でもなく、領主に年貢を、教主に1/10税を生産したのである。確かに、他人のための使用価値を作っているが、この年貢や1/10税は、商品ではない。商品たるためには、他人の使用価値足らしめるために、それが交換によって、他人に渡らなければならない。) もう一つ最後に、物に有用性が欠けていれば、何物も価値は持たない。もし、無用な物であれば、そこに労働が含まれているとしても、その労働は労働とは見なさない。その労働は価値を作らない。
 


第二節

商品に込められた労働には、二重の性格がある。


(1) 最初に見たように、一商品は、自らを二つの要素-使用価値と交換価値のからまったものとして我々の前に現れた。また、価値という点から見るときには、労働が、使用価値を作るという労働の性格と同じ性格を示さないという二重の性格についても見て来た。商品に含まれる労働の二重の性格については、別の著書で、他の著者達に先がけて指摘してきたところでもある。この視点は政治経済動向の鮮明な理解のための軸足となることから、我々は、より詳細にこれを捉えておきたい。

(2) 二つの商品を取り上げてみよう。一着の上着と10ヤードのリネンである。前者は後者の2倍の価値を持っているとしよう。そこで、
10ヤードのリネン= W とすると、
一着の上着= 2W と表すことができる。

(3 ) 上着は、そのはっきりした欲求を満足させる使用価値である。その使用価値は、目的的に、作業場を設け、材料と、道具を、用いて行った、そのための特別な生産的活動の結果で実現したものである。その生産物の使用における価値によって、その労働の有用性もそこに示されている。また別な言い方をするなら、労働によって、その生産物が使用価値となっていることが、明らかに示されている。我々がその有用な効果を確認するからこそ、それを有用な労働と呼ぶ。

(4 ) 上着とリネンは二つの質的に異なる使用価値であり、またそれを作り出すには二つの違った労働の形式がある。仕立てと機織りである。これらの二つの物が、質的に違っておらず、またそれぞれ違った労働の質によって生産されていないならば、両者は、商品としての関係をもって相対することはできないだろう。上着は上着と交換されず、同じ使用価値を持つ別の物と交換されることはない。

(5 ) 多くの様々な使用価値に対して、同じように多様な有用労働が対応しており、労働の社会的分業を、目,属,種,変種に分類できるだろう。  この社会的分業は、商品の生産にとっては必要条件なのである。しかしその逆、商品の生産は社会的分業の必要条件とはならない。  とはいえ、古代インドではカースト制による社会的分業があったが、商品の生産となったわけではない。または、近くの例をあげれば、多くの工場内ではシステムごとに労働が分けられてはいるが、その分業間でそれぞれの個別の生産物をお互いに交換したりはしない。生産物がお互いに認められる商品となることができるのは、ただそれらが異なる種類の労働の結果であり、それらの労働が独立してなされており、個別の誰かが考えて行った労働である場合である。

 (6 ) それでは、要約しておこう。  各商品の使用価値には、有用な労働が込められている。明確な目的をもって行われた明確な内容の生産的活動ということである。お互いに質的な違いがない有用な労働で成り立っている互いの物は、商品として相対することはできない。 一般的に商品の形で物が生産される社会では、つまり個々の生産者が、独自の考えに基づいて行う独立した有用な労働で、かつ質的な違いがある労働によって成り立っている商品生産者の社会では、労働の社会的分業は、さらに複雑なシステムへと進展する。  

 (7 ) ところで、上着は、仕立屋に着られようと、客に着られようと、いずれの場合でも、使用価値となる。その上着とそのための労働との間には関係がない。ある状況下において、社会的分業の一独立部門として仕立て業が特別の業種になり、その労働が上着を作ったとしても同様に関係がない。誰かが仕立屋にならなくても、人類は幾千年の昔から、どこであろうと、着衣の欲求があり、衣服を作ってきた。云うまでもないが、上着やリネンは、その他の様々な物や富と同様、自然がそのまんま作り出した物ではなく、特定の欲求に対して自然にある特定の材料を利用して、その目的を持った作業、特殊な生産的な作業を行って得られたものに他ならない。 であるから、労働は、使用価値の作り手であり、有用な労働であり、社会の態様に関係なく、人類の存在にとって、必要条件なのである。 この作業は、自然が人間に課した永遠に続く作業であり、自然と人間の間で材料のやりとりが無かったなら、人間の生命もない。

 (8 ) 使用価値、上着やリネンやその他は、商品の本体で、二つの要素が組合わさったものである。つまり、素材と労働である。もし、そのものに費やされた有用な労働を取り去れば、自然が人の助けなしに成したままの材料が残る。人間が働きかける内容は、その自然的素材の形を変えることであって、自然でもやっているようなことである。それどころか、自然的素材を変形するに当たっても、常に自然の力に助けて貰っている。労働のみが、労働が作る使用価値たる物や富の源泉ではないことが分かる。ウィリアム ペティが、労働はその父であり、大地がその母である と言うように。     

  (9 ) さて、我々は、使用価値として見て来た商品から、ここで、商品の価値の方を考えてみることにしよう。

  (10 ) 前に示した仮説、一着の上着は10ヤードのリネンの2倍の価値があるという仮説、に立ち戻ってみよう。この仮説は、単に量的な違いであるが、量が違うことを示しているだけではない。我々が注目するべきものは、もし仮に一着の上着の価値が10ヤードのリネンの2倍であるとしたら、20ヤードのリネンは一着の上着と同じ価値にならねばならぬということなのである。 これらのものは、価値であり、上着もリネンもそれぞれ、そのための労働の明らかな結果であり、それぞれ同じ様に実体である。しかし、仕立てと機織りは、質的に違った内容の労働である。 ところで、仕立てと機織りを同じ人間が順に行うような場合、そのような社会的状況であるとすれば、この二つの労働はただ同一の人間の労働のいろいろであって、異なる人間の労働として明確に決められた状況とは違う。同一の人間が、今日は上着を、別の日にはズボンを作るのと同じで、労働の幅のいろいろを示すだけである。 また、現資本主義社会の中にも、いろいろな指示に基づいて、人間の労働のある部分は、仕立てに、他の部分は機織りに用いられる。多少の問題はあろうが、そういうことにならざるをえないはずである。

(11 ) もし、その生産的活動の特別な形式を見ないとすれば、すなわち、労働の有用な性格を見ないとすれば、そこには、単なる「人間の労働力」の支出以外の生産的活動はなくなる。 それぞれ違った質の生産的活動ではあるが、仕立ても機織りも、人間の頭脳、神経、筋肉の生産的支出、つまりは「人間の労働」が意味するものとなる。  異なる質の労働ではあるが、仕立てや機織りは、「人間の労働力」の、二つの違った支出形態なのである。 勿論、差異があっても、同じものであるこの労働力は、多様な支出形態に対しても支出することができるが、そのためにも、それなりの発展的な技量度に到達していなければならない。 商品の価値は、諸々を取り去った所の「人間の労働」を表しているが、一般的には、人間の労働の支出が、商品の価値を表している。 また、この社会では、将軍とか銀行家が派手な役回りを演じているが、もう一方の側の、単なる人は、みすぼらしい、だがここにこそ単なる「人間の労働」がある。これが、他に何一つ持たない労働力の支出元、平均的で、様々な大きな発展からは取り残された、普通のどうということもない個々の人間なのである。ある特定の社会では、こんなもんである。だが、真実はこうである、単なる平均的労働が、違った地方では、違った時代では、その性格を変える。 熟練労働は、単純労働をより強めたもの、いやそれ以上に単純労働を倍にしたものと考えられる、ある熟練労働の量は、単純労働のより多くの量と同じと考えられる。ところが、実際に経験していることは、熟練労働は、常に、単純労働並みのものへと小さく見なされるということである。 最も熟練した技量の労働で作られた商品でも、未熟そのものの技量の労働の生産物と同じと見なされる。未熟労働だけのある量で表される。違った種類の労働で、違った熟練比率が混ざった労働であっても、社会的な仕組みででき上がったそれらの標準的な未熟労働として低く見なされる。この社会的な仕組みは、生産者の背後に隠れてでき上がってくるため、まるで、あたかも慣習的にでき上がったかのように見える。 以下、全ての労働を、未熟で単純な労働として見ていくことにしよう。その方が分かりやすいだろう。なぜ、この熟練労働があの単純労働とみなされるのかに、煩わされることがなくなり、分かりやすくなるだろう。

(12 ) そこで、例の上着とリネンを価値として見れば、それぞれの異なる使用価値を取り去って見れば、それらの価値は、機織りとか仕立てとかの違いがある有用な労働の形を取り去ったところの労働によって表される。 使用価値としての上着とリネンは、布と糸に、特別の生産活動を組み合わせたものであるが、一方、価値としての上着とリネンは、違いを取り除いた均一な労働の泥団子のようなもので、その価値に込められた労働は、布や糸に係わる生産的関係はかえりみられることもなく、まさに、ただの「人間の労働力」の支出である。 仕立てと機織りは、上着とリネンの使用価値を作るための必要要素である。その二つの種類の労働は、違った質を持っている。しかしこれらの質を取り去るならば、いずれも同じ人間の労働という質しか無くなる。仕立てとか機織りとかの労働が、同じような物の同じような価値の実体を形づくる。

(13 ) 前に示した等式を思い出して貰いたい。上着とリネンは単なる価値ではない。ある明確な大きさがあり、我々の仮説では、一着の上着は10ヤードのリネンの2倍の値であった。では、この差がこれらの値がいつどのように生じるというのだろう。それは、リネンは上着の半分の労働しか含まないという事実による。ということは、リネンの生産に必要な労働力に較べて、上着の生産に必要な労働力はその2倍の時間にわたって支出される必要があるという事実による。

 (14 ) 従って、次のようにまとめられる。使用価値に関して云えば、商品に込められた労働はその質を考えるが、価値として見ることになれば、そこに込められた労働は量であり、とにもかくにも、純粋かつ単質な「人間の労働」とみなしてその量として見なければならないのである。 使用価値の場合は、どのようにして? とか それはなんなのか? という質問が該当し、価値の場合は、いくら? とか どのくらい時間を要したのか? という質問に該当する。 商品の価値は、ただ単に、そこに込められた労働の量で表されるものであるから、すべての商品は、それなりの比例関係にある同じ価値のものである、と云える。  

 (15 ) 上着を作るために必要な、いろいろと異なる、有用な労働の生産性に変動がなければ、上着の価値の総額は、上着の数が増えれば、増大する。 一着の上着が、x日の労働によってできたとすれば、二着の上着は、2x日の労働ということになり、以下同様の計算となる。 そこで、もし、一着の上着を作るに必要な労働期間が倍になったり、半分になったりした時には、どうなるか。倍になれば、一着の上着は、以前の上着の二着分の値に跳ね上がる。半減すれば、二着の上着が、以前の上着の一着分の値になる。どちらの場合でも、各一着の上着は、以前と同じ効用で、違いはなにもない。各一着に込められた有用な労働の質も変わらない。ただ各一着の上着に費やされた労働の量は、以前とは違っている。

 (16 ) 使用価値の量が増えれば、物質的な富の増加となる。一着の上着はただ一人にしか着せられないが、二着の上着は二人に着せることができる。 ところが、物質的な富の量の増加は、その価値の大きさの下落を同時に引き起こすことがあり得る。この逆行するような動きの起因は、労働に二重の性格があるからである。 生産力は、云うまでもなく、ある具体的な形を持った有用な労働のことであり、その特定の生産的活動が一定期間内に示す効用は、その生産性に依存している。よって、有用な労働は、その生産性の上昇・下降の比率にもよるが、多かったり少なかったりはあるものの、生産物への有り余るほどの源泉となる。だが、一方、この生産性は、価値として表した労働にはなんらの変化をも及ぼさない。前に示した様に、生産力とは、具体的な有用な労働の形を表すものであるから、それらの具体的な有用な労働の形を取り去っている価値として表した労働には、もはやなんら関係を示しえない。従ってどうしようと、生産力が変化したとしても、一定期間内になされた同じ労働は、常に同じ価値の量を産出するだけである。 だが、生産力に変化が生じれば、その具体的労働が、一定期間内に、使用価値の違った量を産出する。生産力が増大すれば、より大きな使用価値の量を、そして縮小の時はより少ない使用価値の量を産出するのである。 労働の果実を増大する、すなわち労働で作られる使用価値の量を増やすような生産力の変化が、まさにその同じ生産力の変化が、増大した使用価値の量の総価値を減らすであろう。なぜなら、この変化の結果、以前は、その生産に必要だった総労働時間が減るからである。生産力が縮小した場合はこの逆となる。     

  (17 ) 一方で、生理学的現象かのように、すべての労働は、人間の労働力の支出であり、一切を取り去った典型的な人間の労働という性格によって、商品の価値というものを作り出し、他の一方で、すべての労働は、特別な形式があり、かつ、ある目的を持っている、具体的で有用な労働という性格によって、使用価値を作り出す。



第三節

価値の形式、または交換価値


  (1 ) 商品は、使用価値の形で世界に入って来る。物品とか日用品とかであり、鉄やリネンやトウモロコシ他のようにである。これが分かりやすい、見慣れた、いつもの具体的な形であろう。 とはいえ、これらは商品であるから、二重のなにものかであり、有用な物であると同時に価値の保管物なのである。だからこそ、それらは商品であることを示し、商品の形式を持っている。商品の形式とは、すなわち二つの形式、物質的または自然的な形式と、価値の形式である。

(2 ) ここまでいろいろと見てくれば、商品の価値の実体については、マダム クイックリーの「どこでそんなものが掴めるのか」そんなことはわからない、というのとは違うだろう。 商品の価値は、その存在そのままの物質性からは、まさにその反対側にあって、その中には、物質なるものは、1分子たりとも入り込めない。 いかにその一単体商品をひっくり返して調べたとしても、価値のかけらでも残っていないかと調べても、それを捉えることは不可能であろう。 ただ、商品の価値というものが、社会的に実体化されたものという真実が分かれば、人間の労働という典型的な社会的存在がそこに込められており、表されているということが分かれば、価値はただ、商品に対する商品の社会的関係であることが明白となる。実際に、その関係の中に隠されていた価値を見つけるために我々は、商品の交換関係、つまり交換価値から考察を始めたのだ。 我々は、ここで、我々が見て来た最初の価値の形式に、立ち戻ってみなければなるまい。

(3 ) 誰もが知っていようと、いまいと、商品は人々の前では一つの価値の形式を持っている。その使用価値の様々な物体的形式とは違った際立ったしるしを表す。はっきり云えば、それが商品の価値の貨幣形式だ、ということである。 かくて、我々はどうしてもやらなければならない事に直面した。 この貨幣形式発生の過程を明らかにするということである。商品の価値関係を表す価値の表現がどのように進展してきたかである。ごく単純などうということもない交換からこの目もくらむような貨幣形式に到達したのである。 不思議なことに、この追及作業は、今だかって、ブルジョワ経済学から試みられたことがないのだ。我々がこれから行うことによって、同時に、貨幣がもたらした謎も解けるだろう。

(4 ) もっとも単純な価値関係は、云うまでもないが、ある商品を、違った種類の商品で示すことである。このようにすれば、二つの商品間の関係が、一つの商品の価値を、もっとも単純な表現で示すことになる。

A. 最初に出会う、または偶然的な価値の形式
(第三節では、A,B,C,D の 4つの 価値の形式 が記述される: 訳者注)


x量の商品A = y量の商品B または、
x量の商品Aは、y量の商品B に値する。

20ヤードのリネン = 1着の上着 または、
20ヤードのリネンは、1着の上着 に値する。

1. 相反する二つの価値表現の極、相対的価値形式と等価形式

 (1 ) この最初に出会う形式の中に、価値の形式の全ての神秘が隠されている。だからこそ、このことが我々にとって非常に難解なところなのである。  

 (2 ) ここでは、二つの種類の異なる商品 ( 我々の例では、リネンと上着 ) は、明らかに違った役割を演じている。リネンは、自身の価値を、上着で表している。ということは、上着はその価値を表すものとして使われている。 前者は能動的に演じ、後者は受動的に演じている。リネンの価値は相対的価値を表し、相対的価値形式となっている。上着は、等価であることを役目として示しており、等価形式となっている。

 (3 ) 相対的価値形式と等価形式は、ともに一体的に結合されており、互いに依存しており、切り離せない価値表現の核心なのである。がしかし、同時に、互いに排除しあう、極端に対立する同じ価値表現の両極なのである。この二つは、二つの異なった商品がその価値表現としての関係に置かれた時、それぞれ別々に当てはめられるのである。 リネンの価値をリネンで表すことはできない。 20ヤードのリネン = 20ヤードのリネン としてもなんの価値表現にもならない。それどころか、この等式は単に20ヤードのリネンは20ヤードのリネンでしかないと、交換価値をも消失した表現で、リネンの使用価値の量のことのみを示すだけとなる。リネンの価値は、だから、なにか別の商品で相対的に表現される他はないのである。リネンの価値の相対的形式は、従って、なにか別の商品 (ここでは上着であるが) の存在を等価形式として予め想定している。一方の等価を表す商品は、同時に相対的価値形式を示すことはできない。等式の右辺に置かれた ( 二つの商品のうちの二番目のもの、 後者の) 商品 (上着)は、価値を表現されるものではない。単に等式の左辺に置かれた ( 二つの商品のうちの最初のもの、 前者の) 商品(リネン)の価値が表現されるための役を務めているだけである。     

  (4 ) 勿論、等式は逆の関係をも表しているから、20ヤードのリネン = 1着の上着 または20ヤードのリネンは1着の上着に値する、ということが、逆の1着の上着 = 20 ヤードのリネン または1着の上着は20ヤードのリネンに値する の意味にもなる。がしかし、逆に置く場合は、等式の左にくる1着の上着の価値を相対的形式で表すことになり、上着に替えてリネンを、等価形式で置くと、逆に考えなければならない。 一単体の商品は、従って、同時に、二つの価値形式で同じ価値を表現することはできない。この非常に対極的な二つの価値表現形式は、互いに相手を排除しあう。

  (5 ) そして、一商品が相対的価値形式を表しているか、逆の等価形式を表しているかは、全くのところ、価値の表現における偶然的な位置による。それは、その価値が表現される商品であるか、価値を表現している商品であるかによる。


2. 相対的価値形式
 
(a.) この形式の性質と意味

(1 ) 二つの商品の価値関係の中に、商品の価値を表す、あの最初に出会った表現 (等式) が、どのように隠されているかを見つけ出すためには、我々は、初めに、後者(等価形式とした物)を量的な外観からは切り離して見て行かねばならない。 この点で、誰もが、大抵は、逆に、量的外観にとらわれ、価値関係としては何も見ず、二つの違った商品間の明確な量の比率を見て、その比率が互いを等しくしていると見てしまう。 違った物の大きさを、量的に較べるには、これらの物が同じ単位で表された場合だけなのを、忘れてしまっている。 両者が、同じ単位のものとして表わされた時だけ、同一尺度で計ることができるはずだ。

(2) 20ヤードのリネン = 1着の上着、 または = 20着の上着、 または = x着の上着となるかは、与えられた量のリネンが僅かな数の上着に値するのか、いや多数の上着に値するかのということで、どの場合も、リネンと上着の、価値の大きさを、同じ単位表現で、ある種の品物で見ているということである。であるからこそ、リネン = 上着という等式が成り立つのである。

(3 ) これら二つの商品の質の同一性が、このような等式で示されたとしても、同じ役割は果たせない。そうではなくて、ただ、リネンの価値が表されたということである。 それで、どの様にして? すなわち、他のものとも交換できる、等価を示す上着と照合することによってである。この関係によって、上着は価値の存在形態であり、価値の実体である。このような場合においてのみ、リネンもまた、同じ価値の実体となる。 リネンの方から見れば、リネン自体の価値を、自ら独立した表現でできるようになった。上着と同じ価値であり、上着と交換できると。 さて、この説明を化学式で例えてみよう。酪酸は蟻酸プロピルとは違った物質である。だが、どちらも、同じ化学的分子である炭素(C)、水素(H)、酸素(O)からできており、その比率も同じである。すなわちどちらも C4H8O2 である。もし、我々が酪酸と蟻酸プロピルを同じものと仮定してみよう。するとまず最初に、蟻酸プロピルが分子では、C4H8O2 であると分かる。次いで、酪酸が、C4H8O2 であることに言及する。従って、この二つが化学分子としては同じ構成になっている点で、同じものであるとするだろう。勿論それらの異なる物性を無視しての仮定ではあるが。

(4 ) 我々が、価値とは、商品に凝結された人間の労働に過ぎないと云うのならば、まさに、我々の分析をして、価値以外のものをそぎ落として、その事実を明らかにしたい。この価値は、だが、その物体的な形から離されたものではないことも、銘記して置きたい。また、もう一つ、それは、一つの商品と他の商品との価値関係の中にあるものなのである。一商品が価値の性格を示し得るのは、他商品との関係があってこそなのである。

(5 ) 上着とリネンを等価とすることで、我々は、前者に込められた労働を、後者のそれと同じとした。確かに、上着を作る仕立ては具体的な労働で、リネンを作る機織りとは別のものである。 しかし、それを機織りと同じと見るからには、仕立て労働を二つの種類の労働が全く同じものであり、それと同じものとみなすことである。すなわち、人間の労働という共通の性格でこれを見るということである。 なんでもこのようにして見るならば、機織りもまた、仕立てと区別できない、価値を織り込むだけの労働に、ただの「人間の労働」にしてしまう。 これが、互いに違っている種類の商品間の、等価表現なのである。様々な労働の中に、この価値を作り出す特別な性格の労働を持ち込む。異なる様々な労働が込められた異なる種類の商品を、何の違いもない、同じ質の「人間の労働」によるものにしているのである。

(6 )しかしながら、リネンの価値となる、特別な性格を表すこの労働の他にも、実は、必要なあるものがあるのである。「人間の労働力」の作動が、「人間の労働」が、価値を作るが、その労働自体が価値なのではない。 その労働が、ある物の形に込められて、凝結した状態になった時にのみ価値となるのである。 人間の労働が凝結したリネンが価値を表現するためには、物の形を持たねばならないし、かつ、リネンとは違うある物にならねばならない。そのある物とは、リネンとも共通するある物であり、さらに、その他の全商品にも共通するものである。 問題は、すでに解かれている。

 (7 ) 価値の等式で、等価を示す位置を占める時、上着は、同じ種類のあるものとして、リネンに等しい質として等式に加わる。それが価値だからである。 この等式位置では、我々は、それを、価値以外の何物とも見てはいないし、価値を表すその明瞭な物体的形式以外の何物とも見てはいない。だが依然として、上着自体は、商品としての物体であり、使用価値そのもののただの上着なのであるが。 このような上着は、我々が初めに(左辺に)置いたリネンの価値以外の何物も告げはしない。 関係がなければ、上着は何も示しはしないが、リネンとの関係に置かれた時、上着は、リネンの価値を明らかにする。あたかも、豪華な軍服を着用した時には、平服時とは打って変わって偉そうに見せるのと同じようなものである。  


 ここで、少し、訳者として、余談を書きたい。この豪華な軍服と平服の話は、普通ならよくあることと、笑いながら、その比喩的説明を含めて本文の内容を理解するであろう。読んで悩む等ということは無いだろう。だが、
 岩波文庫の向坂逸郎訳の資本論(一)では次のようになる。
 あたかも多くの人間が笹縁をつけた上衣の内部においては、 その外部におけるより多くを意味するようなものであるというのである。(p96 5行目)
 また新日本出版社 社会科学研究所監修 資本論翻訳委員会訳の資本論 1では、こうなる。
 ちょうど、多くの人間は金モールで飾られた上着の中ではその外でよりも多くの意味をもつように。(p88 8行目)

 読者は悩むどころか読むのを止めるだろう。確かに、私が訳した様な内容と、とんでもなく違っているものではないが、私の訳のように読み取るには、相当高度の日本文の勉強が必要なのは間違いないし、普通の勉強では敷居が高過ぎるだろう。

 この少し前に、問題は、すでに解かれている。
というのがあったが、私の訳で読んで来た読者には、問題がなんであって、その解答が垣間見えた瞬間を味わって来たであろう。マルクスの文章がもっと明確に述べるところを早く読みたいと思ってわくわくこそすれ、 何が問題だったのか、他にも問題があるのか、すでに解かれているというのに、なんの解答の感じも湧かないだけでなく、逆に迷路中の迷路に落ち込んだ自分を見つけて自己嫌悪すら感じるといったことは皆無だろう。岩波はこうだ。
 だが、亜麻布の価値をなしている労働の特殊な性質を表現するだけでは、充分でない。流動状態にある人間労働力、すなわち人間労働は、価値を形成するのではあるが、価値ではない。それは凝結した状態で、すなわち、対象的な形態で価値となる。人間労働の凝結物としての亜麻布価値を表現するためには、それは、亜麻布自身とは物的に相違しているが、同時に他の商品と共通に亜麻布にも存する「対象性」として表現されなければならぬ。課題はすでに解決されている。 (p95 後ろから 7~3行目)
 新日本では、
 もっとも、リンネルの価値を構成している労働の独自な性格を表現するだけでは十分ではない。流動状態にある人間的労働力、すなわち人間的労働は、価値を形成するけれども、価値ではない。それは、凝固状態において、対象的形態において、価値になる。リンネル価値を人間的労働の凝固体として表現するためには、リンネル価値は、リンネルそのものとは物的に異なっていると同時にリンネルと他の商品とに共通なある「対象性」として表現されなければならない。この課題はすでに解決されている。(p87 後ろから 5行目~p88)

 単に一部分のみを取り出しただけだから、前段の把握なしには読み取れるものではないが、それにしても、困るだろう。課題がなんだったか、そしてここまで読んで、解答がすでに垣間見えたかは、絶望的と言う他ない。
これらの訳が間違ってはいないと思うが、それにしても理解できるものを理解の外に追う訳であって、訳としての役割を全く果してはいない。

 もう一つ笑えるところを指摘しておこう。
 マダム クイックリーの登場場面(本第三節 はじめの文節(2))である。岩波は、
 諸商品の価値対象性は、かの、マダム・クィックリとちがって、一体どこを掴まえたらいいか、誰にも分からない。 (p89)
 新日本では、
 商品の価値対象性は、どうつかまえたらいいかわからないことによって、やもめのクィックリーと区別される。(p81)

 私の訳では、すでに理解している読者の皆さん方は、マダム クイックリーのようなセリフは言わないだろう となっているところだ。これにはマルクスも開いた口がふさがるまい。いかに英文の資本論が読みやすく、私でも訳せるということがお分かりいただけただろう。これらを参考にして、岩波や新日本に立ち向かうかどうかは読者の判断というものだが、新しい訳が早く読みたくなることだろう。とんだ寄り道だったか。


(8 ) 上着の生産においては、人間の労働力が、仕立ての形で、実際には、支出されなければならなかった。が、それゆえ、人間の労働がその中に蓄積された。このことから、上着は、価値の保管物となる。だが、着古してボロになったなら、その事実をちらっとも見せることはない。 価値の等式での、リネンの等価物は、ただこの局面でのみ、価値が込められたものと見なされ、価値の形としてそこにある。 例えるならば、Bの目に、Aの体形が、陛下なるものとして見えていなければ、Aが、Bに、己を「陛下」と尊称をもって呼ばせることはできないのと同じである。いや、それ以上のものが必要であろう。なにしろ、臣民の新たな父たるたびに、容貌も髪の毛もそれ以外の諸々も変わるのだから。

(9 ) この様に、価値の等式において、上着はリネンの等価物であり、その価値の形の役目を果たす。リネンなる商品の価値は、上着という商品の形によって表現される。あるものの価値は、他のものの使用価値によって表現される。 使用価値としてのリネンは、明らかに、上着とは違っている。だが、価値としてなら上着と同じであり、この場では、上着の外観を持っている。このようして、リネンは自身の物理的形状とは違った価値形式を得る。この、上着との等価によって、証明される価値という事実は、あたかも、キリスト教徒に羊の性質が見られるのは、神の小羊(キリスト)に似るからのようだ。

(10 ) そして、我々の、商品の価値の分析が語って来た全てのことが、リネン自身によって語られ、他の商品、上着、とのやりとりに至ることが分かった。ただ、その思いは、商品の言語で、その内なる関係でしか通じない言語で、その秘密を漏らす。 己の価値が、人間の労働なる、細部をそぎ落とされた性格の労働によって作られたことを我々に語るために、上着が、リネンと同じ値であり、従って価値であり、リネンと全く同じ労働から成り立っていると語る。 価値の崇高な実体が、同じリネンへの糊付けではないことを我々に伝えるために、価値が上着の形を有し、そのことがリネンに価値があることを示し、リネンと上着がまるで双子のようなものと語る。 ここで、我々は、注意しておいた方がいいかもしれない。商品の言語は、ヘブライ語の他にも、いろいろ多くの正確さの異なる方言がある。ドイツ語で、値するは、"Wertsein" と書くが、ローマン語動詞で書く、"valere" "valer" "valoir(vaut)"と較べると、多少訴求力が弱い。特に、商品Bが、商品Aに等価とする時、商品Aの価値形態表現には、明確さを欠く。 フランス語の、パリはミサに値する(Paris vaut bien messe)、をドイツ語では適切に強く表せないのだ。



 訳者余談2を書きたい。なぜなら、「パリはミサに値する」というフランス語がなぜ突然登場するのか、私の訳でも理解できないだろうと思ったからだ。
 読者は、ひょっとしたら、君主制ヨーロッパの歴史を知らなければ、資本論が理解できないのではないかと思ったかも知れない。理解するに越したことはないが、理解しなくても、資本論を読むになんら支障はないことを説明しておきたい。
 ここは、価値表現の等式の把握が主要点であることを改めて認識してほしい。パリはミサに値する を等式化すれば、
パリ=ミサ
となることだ。パリが相対的価値形式であり、ミサが等価形式となり、簡単明瞭にその内容が分かるところだ。英文なら、
Paris is worth mass

となろう。
 だが、ドイツ語や日本語を等式化すると、
パリ,ミサ=
という語順で書きあらわすことになるだろう。この点で、その表現の明瞭さが違って来る点を指摘しているのである。
 特に、日本語では、パリとミサの関係が逆になり、 ミサ,パリ= になったとしても同じ印象に読める。そうなると、ミサは、パリに値する と読んでいるかも知れない。これではフランスの歴史のなんたるかの感覚が生じないかも知れない。あくまでも、A=Bの順で、その等式上の位置を十分に確認した形で、読むことが根幹中の根幹なのである。
 この点が指摘されているので、私の訳では、等式の左辺・二つの商品の最初に書かれた商品・前者とか、等式の右辺・二つの商品の二番目に書かれた商品・後者と、くどい括弧書きを入れさせてもらった。

 もう一つ神の小羊とキリスト教徒の羊の性質の関係を書いているところがある。キリスト教について知らなければ、資本論が分からないのではないかと思うかも知れない。知るに越したことはないが、同様、特に知らなくても資本論を読むのに支障はない。もし仮に、仏陀と仏教徒の性質の形で書きあらわしたら、どうなるか。ちょっと間を置いてから書いてみよう。
 マルクスは1818年にドイツのトリールで、ユダヤ人の家庭に生まれた。6才の時、キリスト教ルター派(プロテスタント)に改宗した。( )は訳者注 だが、宗教に対しては逆の唯物論的な立場の代表とも云える人物となった。ここでは、A = B の説明例だが、それだけではないと感じる。キリスト教徒に羊の性格が生じるのは、神の小羊(キリスト)に似るからである、ではなくて、羊的な生活に押し込められた人々の実情が、キリストという心の拠り所を作り出したという唯物論を感じさせていると見る。
  仏教徒は、諦観的性質を示す。それは仏陀の悟りの境地の教えによるものであろう。となるだろう。仏教徒の諦めざるを得ない生活の実体こそ、仏陀の悟りの原因であって、その逆ではない。というところだ。マルクスが資本論を書いた時、日本は江戸時代であったことを思えば、驚愕を禁じ得ない。西欧の資本主義の格段の進展状況とはいえ、その段階で、その法則を読み切ったのだから。 とんだ寄り道2で申し訳ない。本文に戻ろう。マルクスはさらにこのA = B の説明を繰り返している。ここがどうしても理解させたい所だからと強く感じる。私の訳では足りないだろうから、読者の皆さんも、感覚を研ぎ澄ませてもらいたい。


 (11 ) さらにくり返して云うが、価値関係を表す我々の等式 (A=B) の意味は、形を持った商品Bが、商品A の価値形式となる。または、商品Bなる物体が、商品Aの価値の鏡役を演じている。 自らを、商品Bとの関係に置くことによって、自分自身(propria persona: ラテン語) の価値を、「人間の労働」により形づくられたものを、商品A自身の価値をも示す具体的実体Bを使って、Aの価値の姿を変換して見せているのだ。


(b.)相対的価値の数量的な確定

 (1 ) 価値を表現したい全ての商品は、有用な品物であり、ある与えられた量を持っている。15ブッシェルのトウモロコシとか、100ポンドのコーヒーとかである。そして、ある量のどんな商品でも、ある明確な「人間の労働」量 を保持している。従って、価値形式は一般的に価値を表さねばならぬだけではなく、ある明確な価値の量をも表さねばならない。従って、商品Aの商品Bに対する、リネンの上着に対する、価値関係の中では、価値一般としてリネンの質にも同等な後者としてだけではなく、上着(一着の上着)の明確な量が、明確な量(20ヤード)のリネンの量の等価とされるのである。

 (2 ) 等式、20ヤードのリネン = 1着の上着 または、20ヤードのリネンが1着の上着に値する、は、同じ量の価値の実体 (凝結した労働) がどちらにも込められていることを意味している。同じ量の労働時間という同じ労働の量が、その二つのそれぞれの商品には費やされていることを意味している。 しかし、20ヤードのリネンまたは1着の上着の各生産に必要な労働時間は、機織りや仕立ての生産性の変化の度に変化する。我々は、以下、このような相対的価値表現での、量的変化の影響も考えなければならない。

 (3 ) I. 上着の価値が一定で、リネンの価値が変化する場合を考えてみよう。仮に、亜麻の栽培地が疲弊して、その結果リネンの製造に要する労働時間が2倍になったとしたら、リネンの価値は2倍となろう、そうなれば、20ヤードのリネン=1着の上着という以前の等式に替わって、20ヤードのリネン=2着の上着という等式としなければならない。その結果、1着の上着には、今や20ヤードのリネンに込められた労働時間の半分しか含まれないこととなる。 別の場合、仮に、織機が改良されれば、この労働時間は半分に縮小する、その結果、リネンの価値は1/2に下落するであろう。その結果、20ヤードのリネン = 1/2着の上着 としなければならない。商品Aの相対的価値、商品Bで表されるその価値は、Bの価値が一定であるとしても、A の価値は、一方的に上昇したり下降したりすることになる。

 (4 ) II. リネンの価値が一定で、一方の上着の価値が変化する場合を考えてみよう。もし、例えば、羊毛の収量が思わしくない場合、上着の生産に必要な労働時間が倍に成ったとすれば、20ヤードのリネン = 1着の上着 に替わって、20ヤードのリネン = 1/2の上着ということになる。逆に、上着の価値が1/2に沈んでしまえば、20ヤードのリネン = 2着の上着ということになる。この様に、仮に、商品Aの価値が一定であっても、その商品Bで表される相対的価値は、Bの価値とは逆の方向に上昇・下降することになる。

 (5 )I.とII.で違っているケースがあり、もし、それらを考えれば、同じ相対的価値の変化が、違った原因で生ずることが分かる。すなわち、等式 20ヤードのリネン=1着の上着 が20ヤードのリネン=2着の上着 となるケースで見れば、リネンの価値が倍になったか、上着の価値が1/2になったかによるし、20ヤードのリネン=1/2着の上着 となるケースなら、リネンの価値が1/2になったか、上着の価値が2倍になったかである。

 (6 ) III. リネンと上着の各生産に必要な労働時間の量が、全く同時に、同じ方向で、同じ比率で変化したとしよう、このケースでは、20ヤードのリネン=1着の上着 は変わらない。たとえその価値が違ったとしてもである。この価値の変化は、第三の商品、その価値が一定だったとするならば、それと比較すれば、直ぐに分かる。もし、全商品の価値が同時に同率で上昇・下降したとすれば、相対的価値は変わらないままである。実際の価値変化は、与えられた時間に生産された商品の量が、減ったのか・増えたのかで、明らかになる。

 (7 ) IV. リネンと上着の生産に要する各労働時間、これらの商品の価値が、同時に同方向に変化する、だが変化の比率は同じではない、あるいは方向が逆、その他等と変化する場合、これらの変化の様々な組み合わせから生じる、商品の相対的価値への影響は、I., II., III. の結果から推論できよう。

 (8 ) このように、それらの相対的表現に、実際の価値の大きさの変化が、曖昧なく または 残さず反映されることはない。等式が表しているものは、相対的価値の量である。商品の相対価値は、その価値が一定であったとしても、変化するかも知れない。その価値が一定であったとしても、その価値は変わる。結局、価値の大きさとその相対的表現に同じ変化があったとしても、その量が一致する必要もない。


3. 価値の等価形式
 
 

(1 ) 我々は、商品A(リネン)が、違った種類の商品B(上着)の使用価値の中に自らの価値を表し、同時に、後者に特別な価値の形式、つまり等価形式という名称を刻印するのを見て来た。 商品リネンは、その価値を持つ自らの内実を、物としての形以外の価値形式が認められていない上着をリネンと同等であるとする行為によって明らかにする。後者が価値を持っているということを、上着が直接的にそれと交換可能であるという事実によって、明らかにする。従って、ある商品が等価形式にあると我々が云うなら、我々は、それが直接的に他の商品と交換できるという事実を表明している。

(2 ) 一つの商品、上着が、他と等価であるとするならば、例えばリネンとだが、そして、これによって、上着がリネンと直接的に交換できるという性格的特質を得たとしても、一体どのような比率で二つが交換できるのか、知る由もない。 リネンの与えられた大きさの価値は、その比率は、上着の価値にかかっている。上着が等価形式にあって、リネンが相対的価値形式にあろうと、逆に、リネンが等価形式にあって、上着が相対的価値形式にあろうと、上着の価値の大きさは、生産に必要な労働時間により、価値形式に係わらず、独立的に決められる。しかし、上着が価値の等式において、等価の位置に置かれたならば、その価値は量的表現を得ることはない。そうではなくて逆に、商品である上着は、ただひとつ、ある品物の決まった量に対する数字を得る。

(3 ) 例えば、40ヤードのリネンは-何に値するのか?  2着の上着である。なぜなら、商品 上着は、ここでは等価の役を演じており、上着 使用価値が、リネンに対応しており、数字が価値を具体化しており、従って、上着の明確な数が、リネンの価値の明確な量を表すに十分と言える。であるから、二着の上着は40ヤードのリネンの価値の量を表す。だが、この表現は、それら自身の価値の量を表すことはできない。  皮相的にこれらの事を捉えてしまうと、つまり、価値の等式において、等価とした側の数値が、ある使用価値を持ったある品物の単純な量が、全てを表現しているかのように捉えてしまうと、ベイリーを誤らせたように、その他大勢が、彼以前にも以後にも誤まったように、おかしな理論となる。単なる量的関係を価値の表現と見間違えたところである。  正しくは、商品が等価を演じていても、その価値の量の確定については、一言も云ってはいないということである。



 次に進む前に、ベイリーがなにを見誤って、どう間違えて、どんなおかしな理論を述べたかに、ちょっと興味が湧くだろう。これが分かれば、この文章の理解ももう少しは、はっきりするんじゃないかと思っただろう。いや、訳者だけかも知れないが、なにはともあれ、余談3に、ちょっとお付き合い願いたい。  実は、単位に関係なく、価値を論じることはできないはずとマルクスが書いているところ(3節 A 2. 価値の相対的形式 (a.)この形式の性質と意味) の 本文注にすでに登場しているのである。私の訳が注をとばしているので、申し訳けないのだが、本文を急ぎたいので、後回しになった。  ベイリーは、価値形式の分析に取り組んだ稀な経済学者の一人である。でもなんの結果も得ることができなかった。その原因の一つは、価値形式と価値そのものとの区別ができなかったからである。もう一つは、実利だけのブルジョワジーの粗雑な思考の影響下にあったがためである。彼らブルジョワジーにとっては、商品の量だけが全てなのであったのだから。「量の命令が-----価値を構成する。」ということになるのである。  私も自分の訳に、安堵したところである。


(4 ) 我々に、一種の衝撃をもたらす 等価形式の第一の特異点は、使用価値が、その物ありとする形式が、その反対側にある価値の形式として、なにか驚異的現象のように、現われてくることである。

(5 ) 商品のそのままの形が、その価値形式となる。しかし、よく見てほしい。いかなる場合のいかなる商品Bにも、それが存在するのは、他の商品Aが、それらと、価値関係に入って来る時だけであり、この関係の境界線内に限られる。であるから、商品は、自分と等価関係の中に立つことはできない。また、だから、自分のあるがままの形で、自分の価値の表現に立ち入ることはできない。すべての商品は、自分の等価形式のためには、他の商品のどれかを選ぶように強いられる。そして、使用価値を受け入れる。言うなれば、他の商品のそのままの形が、自身の価値の形式なのである。

(6 ) 商品の物質的存在や使用価値の計量に用いられる一つの方法は、この点を説明するのに役に立つ。一つの砂糖の固まりは、形があって、重い。だから重量がある。だが、この重量を見たり触ったりすることはできない。そこで、我々は、予め重量が決められた様々な鉄片を取り出してくる。この鉄、まさに鉄であるが、砂糖の固まりとは違って、重量の証明の形式以外の何物でもない。それにも係わらず、砂糖の固まりをそれなりの重量として表すために、我々は、それを鉄との重量関係の中に置くのである。この関係においては、その鉄は、その物は、重量以外はなにも表していない。ある量の鉄は、従って、砂糖の重量の測定という役割を果たす。そして、砂糖の固まりの中に込められている重量との関係から、重量の証明の形式を表す。この鉄が演じる役目は、砂糖やその他のものが鉄との間で、ただ、その重量が確定されねばならぬという関係内においてのものである。それらの物が重くもなく、この関係に入ることができないならば、この物は、他のものの重量を表す役目を果たすことはできないだろう。  両者を天秤ばかりに乗せれば、その重量が同じようにあると実際に分かるし、その適当な量比を取れば、同重量となる。重量の計量としての鉄は、ただ砂糖の固まりの重量との関係を表わす様に、我々の価値の表現である物質対象 上着は、リネンとの関係においてのみ価値を表す。

(7 ) 砂糖の固まりの重量を示す鉄は、共に双方にある自然的物性である重量を表している。ここまでが例えである。実際には、上着はリネンの価値を示すものではあるが、双方にある自然的特質を表すものではない。紛れもない社会的なあるもの、それらの 価値 を表している。

(8 ) 商品の相対的価値形式-例えばリネン-は、ある商品の価値を表す。そのある商品は、その物質や性質とはまったくかけ離れた何か別の物で、例えば、上着のようなものである。このそれ自身の表現が、そのものの底に横たわる、ある社会的な関係を指し示す。 等価形式は、その逆である。この形式の神髄は、物としての商品自体-上着-であり、そのままで、価値を表す。そして、自然的自体のまま価値形式が付与されている。勿論、このことは、価値関係が存在している期間に限って、うまく維持されるもので、その時、上着は、リネンに対して等価の位置に立っている。 だから、ある物の特質は、他の物のそれらとの関係の結果である、ではなくて、それらが、価値関係にあることのみを明かしているだけなのである。にもかかわらず、上着は、その特質が直接的に交換可能であるとか、重さがあるとか、我々を暖かく保って呉れる能力があるとかの、それらの特質がごく自然に付与されているからこそ、等価形式が付与されているかのようにある人の目には現われる。 この形式は、その謎めいた性格ゆえに、その形式が完璧な発展を経て、貨幣の形で、彼らの目の前に現われるまでは、ブルジョワ政治経済学者の注目からは、逃れていたのである。 彼は、黄金や銀の不思議な性格をなんとかうまく説明しようと試み、あまり目映えのしない商品に金銀の代理をさせてみたり、あの時この時で等価の役割を演じた可能性がある全ての商品のカタログを列挙したりして、満足を更新し続けるばかり。 彼は、この 20ヤードのリネン= 1着の上着 という最も単純な価値の表現が、すでに、等価形式の謎の解法として提示されているにもかかわらず、僅かな推察力すら持っていないのである。

(9 ) 等価の役を果たす商品の本体は、あらゆる子細を取り去ったところの人間の労働を形づくっており、同時に、ある特別な有用かつ具体的な労働の生産物でもある。すなわち、この具体的労働が、子細内容を持たない人間の労働を表現するための媒体となるのである。 一方で上着が、子細内容のない人間の労働の実形以外の何ものでも無いと云うならば、他方では、実際にその中に込められた仕立て労働は、子細内容のない人間の労働を実現した形式以外の何ものも示さないであろう。 リネンの価値表現において、仕立て労働の効用は、布を作るのではなく、ある物を作ることであって、それを我々は、直ちに価値と認めるのであるが、つまり、労働の凝結物とするにある。ただし、この労働は、リネンの価値を実現した労働と区別することはできない。 価値を映す鏡としての役割を果たすために、仕立て労働は、自身の子細内容を取り去った人間の労働一般以外の質を映してはならない。

(10 ) 仕立てには、機織りと同様、人間の労働力が支出される。従って、両者は、人間の労働という一般的特質を保持する。従って両者は、価値の生産という場合、この点からのみ、考慮されねばならないであろう。これに関してはなにも神秘的なものはない。 しかし、価値の表現になると、話のテーブルは完全に一回転する。例えば、機織りがリネンの価値を作り出したという表現が、どうして、機織りによってではなく、人間の労働の一般的特質によってとなるのか?と。機織りとは逆の別の具体的労働(ここの例では、仕立てであるが)という特定の形式によってなのかと。機織りの生産物の等価を作るという具体的労働によってとなるのかと。 ただ、上着という実形形式が価値の直接的表現となり、そこで、仕立てという具体的労働形式が人間の労働一般の明白なる直接的体現となるからである。

(11 ) ここのところが、等価形式の第二の特異点である。具体的労働が、その反対側にある、子細内容を持たない人間の労働を示す形式となるからである。

(12 )この具体的労働が、我々のケースでは仕立てであるが、示しかつ直接的に特定されるのは、他に変えることができない人間の労働であるからこそ、その他各種の労働をも示すのであり、リネンに込められた人間の労働をも示すのである。 であるからまた、他の多くの商品が労働を指し示すように、個々の労働が、そのままで同時に、直接的に、その性格を社会的な労働として示すのである。 一生産物が直接的に他の商品と交換できる様になるのは、これがその理由だからである。 我々は、今、等価形式の第三の特異点に立ち会っている。すなわち、個々の労働がそのままで、その反対側にある、社会的な労働形式となることである。

(13 ) 等価形式の第二・第三の特異点は、これらの様々な形式を最初に分析した偉大な思想家に立ち戻って見れば、よりよく理解できるであろう。思考形式、社会形式、自然形式等々、そしてそれらの中の一つに価値形式の分析がある。その思想家の名は、アリストテレスである。

(14 ) 彼は、最初から、商品の貨幣形式は、単純な価値形式のより発展したものであり、適当に並べた他の商品の中での、一商品の価値の表現であると、はっきり述べている。彼がこう云っているからである。
5つのベッド = 一軒の家
(clinai pente anti oiciaV ギリシャ語併記)
という表現は、
5つのベッド = 沢山の貨幣
(clinai pente anti . . . dson ai pente clinai ギリシャ語併記)
というのと同じ
であって、区別できない、と。
 さらに、彼は、この価値関係がこのような表現に達するためには、つまり、家がベッドと同等であるためには、家がベッドの質を持たねばならない、と見ている。もし、そうでなければ、これらの明白に異なる物と物を、同一基準でもって、較べることはできない、と。
 彼は云う。「交換は、物と物が同等であり、同じ基準で計ることができなければ、成立するはずがない。」
 が、彼をして、ここまでは来るものの、ここで止まってしまう。そして、さらなる価値形式の分析をあきらめた。
 「現実では、その通り交換されているのだが、違うものが、同じ基準で計られるというようなことは-質的に同等なものとして計れることは-あり得ない」(out isothV mh oushV snmmetria : ギリシヤ語)と。
 このような同等化は、実際の現実にはあり得ない何かでしかなく、従って、単なる「実用上の、当座しのぎの、辻褄合わせみたいなものでしかない。」(th men oun alhqeia adunaton: ギリシャ語) という分析結果で終わったのである。

(15 ) 何が、これ以上の分析の障害となったのか、彼自身が我々に語ってくれている。価値概念の欠落であった。何が同等のなにかなのか、何が、家で表現されるベッドの価値を認めるところの、共通のものなのか?
 アリストテレスは、本当に、そんなものがあるはずもないと云う。何故ないのか?ベッドと較べることで、家はそれに等しい何かを表してはいないか。云うまでもないが、ベッドと家とを共に同等として表しているものがあるではないか。-そう、それが、人間の労働である。

(16 ) 分かりそうなものであるが、アリストテレスには、商品に帰属する価値が、単なる全ての労働の、均一の人間の労働の、従って、同等の質である労働の表現形態であるということが見えていなかったという重要な事実が分かる。
 ギリシャ社会は、奴隷制度の上に成り立っていた。そこでは、これが当たり前のことであり、人やその労働力は同等ではないのである。  価値表現の秘密は、全ての労働が、同等・等価で、人間の労働として一般化しているからこそ解けるのであって、人間の平等が普通に既定の概念として定着するまでは、解読され得ないのである。つまり、多くの労働の生産物が商品の形をとる社会において、すなわち、主な、人と人の関係が、商品の所有者であることで初めて解けるのである。
 アリストテレスの天才の輝きが、商品の価値の表現を同等の関係から見つけ出したことは、見事であるが、彼の生きた特異な社会の中では、只一つ、真実が、人間の平等の上に成り立つものであるがゆえに、発見にたどり着けなかったのである。



 またしても、訳者余談4 を書きたくなった。等価形式の特異点として三点が示された。整理するつもりはない。読者の方が多分優れた認識に至っていると思うからである。私が書きたいところは、アリストテレスの見えなかった歴史的状況と、今の我々が置かれた社会的歴史的状況とどの程度の違いがあるかの方なのである。確かに自由、民主主義、一人一票、貨幣さえあればなんでも買える。だが、もしアリストテレスがここにいたら、この壁が越えられたか。多くのブルジョワ経済学者達にとっても、この壁は余程高いのだから、ひょっとしたら、ケインズ顔負けの、「巨額な金融負債と公金の投入が、価値を作るはずはないが、緊急的措置として、価値を維持するための実用上の辻褄合わせなのではないか」とか云うんじゃないかと、余計な心配をしてしまった。お待たせして申し訳なかった。




4. 最初に出会った価値形式を全体的に見れば
 
 

(1) 最初に出会った、商品の価値の形式、その等式には、他の、違った種類の商品との価値関係の表現が含まれている。また、各そのものの交換関係の表現が含まれている。  商品Aの価値は、商品Bが直接的にこれと交換できるという事実によって質的に表わされる。また、その価値は量的にも、Bのある決まった量が、ある決まった量のAと交換できるという事実によって表される。  他の言葉で云うならば、商品の価値は、交換価値の形式となることで、独立性と明確な表現を獲得する。  この章の初めの所では、一商品は、使用価値であり、また、交換価値であると、ごく普通に簡略化して述べているが、正確に述べるならば、これは間違っている。  一商品は、使用価値または有用な物であり、価値である。それは、それ自身を、このように二重のものとして明らかにする。そして直ぐに、その価値は独立した形式を得て、すなわち交換価値の形式となる。  だが、この形式は、それぞれが他の違った種類の商品と、価値関係や交換関係に置かれた時にのみ明確になるものであって、互いに別々に離されている場合では何も明らかにはしない。  間違いを訂正したところであるが、上記の表現様式は障害にはならない。簡単な省略的表現として見れば、適切である。

(2) 我々の分析は、商品の価値の形式または表現が、その価値の本質に発していることを明らかにした。また、価値とその大きさが、交換価値の表現形態から発しているものではないことをも、明らかにした。 ところが、重商主義者達や、昨今の再唱者 フェリエやガニイやその他の者ばかりでなく、その正反対側に居る自由貿易主義者の近代的行商人のバスティアまでもが、次のような妄想を示す。重商主義者達は、価値の表現である質的な所に特別の関心をもっているが故に、当然ながら、商品の等価形式、貨幣の中にその完全さを獲得するものにしか関心を示そうともしない。また、自由貿易主義者の近代的行商人達は、逆に、どんな価格ででも彼らの手持ち商品を減らしていかなければならないことから、相対的価値形式の量の方に最も強い関心を示す。 その結果として、彼らには、価値もなければ、価値の大きさもない。単に商品の交換関係による表現ばかりとなる。日々変わる商品群の価格リストで見る交換関係ばかりとなる。 ロンバード通りで、これらの混乱した思考にそれなりの衣装を着せるのが仕事のマックロードは、最上の学問的美装を施して、(金銀と君主付与特権に固執する)迷信的な重商主義者達と(個人の自立へと)啓蒙された自由貿易主義者の行商人達の間を渡り歩くのに(単に粉飾的に)成功した。 (申し訳ないが、( )は訳者の勝手な注として付けたもの)

(3) AのBに対する価値関係を現わす等式の中に含まれる、Bから見た、Aの価値の表現の詳細は、この関係内において、Aの物体としての形はただ使用価値を表しており、Bの物体としての形は、単に、価値の形式か様相を表していると、示している。 どの商品にも内的に存在する、対立または対照性というべき、使用価値と価値が、二つの商品がこの様にお互いの関係に置かれることによって、外的に明らかにされる。価値を表示しようとするある商品はただ直接的に使用価値を呈する、一方の価値を表示された商品は、ただ直接的に交換価値を呈する。従って、最初に出会った商品の価値形式は、使用価値と価値、という対照性を商品の中に含んでいる形式ということがはっきりした。

(4) すべて、労働の生産物は、如何なる社会であれ、使用価値である。しかしそれが商品となるには、それ相応の社会の発展が、ある明確な歴史的段階に到達していなければならない。その段階では、有用な品物の生産に費やされる労働が、その物の客観的な質として表されるようになっていることである。それは価値ということである。であるから、最初に出会った価値形式は、労働の生産物が歴史的に商品となった初期の形式でもあると云える。また、価値形式の発展に歩調を合わせ(pari passu:ラテン語)て、そのような生産物が少しづつ商品へと変形して行ったのであると云える。  

(5) 我々は、価値形式の発展に触れれば、最初に出会った価値形式では不足していることに、すぐに気づくであろう。それは、ほんの萌芽にすぎない。これから価格形式へと成熟する前には一連の脱皮を経なければならない。

(6) 商品Bによる、商品Aの価値の表現は、単にAの使用価値から価値を排除しており、従って、商品Aを、一つの単一の商品Bとの交換関係に置く。だが、Aとその他の多くの商品との、質の同等性表現や量の比率値表現からは、依然として、遠く離れている。最初に出会った商品の相対的価値形式は、一つの他の商品との、一対一の、等価形式を知らせるだけである。リネンの相対的価値形式においては、このように、上着が等価形式を表し、または直接的に交換できることをも表す。が、ただ一商品リネンとの関係においてのみに限られることなのである。

(7) この最初に出会った価値形式ではあるが、簡単な変形で、より完成した形式へ進む。確かに、最初に出会った価値形式においては、商品Aの価値は、一つの、ただ一つの他の商品によって表されることになる。だが、その一つの商品は如何なる種類のものでも、上着でも、鉄でも、トウモロコシでも、何でも該当させられるだろう。しからば、Aは、これとでも、あれとでも、との関係に置く事ができるから、一つとの関係以外にも、この同じ物をして、他の多くの商品との間の関係という、違った形の、最初に出会った価値形式を得た。この可能となる表現の数は、ただ、この物から識別できる違った種類の商品の数で制限されるだけである。Aの価値の表現は、従って、最初に出会った価値表現とは違う、どんなに長くならべてもいい、一連の価値表現へと変換できる。



 
B. 全体的または拡大された価値形式


 

z量の商品A    = u量の商品B または
          = v量の商品C または
          = w量の商品D または
          = 商品E または
          = その他の または

(20ヤードのリネン = 1着の上着 または
          = 10ポンドの茶 または
          = 40ポンドのコーヒー または
          = 1クオーターのトウモロコシ または
          = 2オンスの黄金 または
          = 1/2トンの鉄 または
          = 10ポンドの茶 または
          = その他 ) または


1. 拡大された相対的価値形式
 
(1 ) 単一の商品の価値、例えば、リネンは、かくして、数えきれない程の商品世界の品々によって、表現される。他のすべてのいかなる商品もかくて、リネンの価値の鏡となる。故に、この拡大表示は、この価値が自身を、その真実の光の中に、なんの違いもない人間の労働の凝結物として示す最初の瞬間となる。それらを作り出した労働が、明らかに、姿を表し、そこに立っている。労働がその他の様々な人間の労働を等しいものと指し示している。人間の労働の形式がなんであれ、仕立てであろうと、農耕であろうと、採鉱であろうと、なんであろうと、関係ない。すなわち、その労働が作り上げたものが、上着だろうと、トウモロコシであろうと、鉄や黄金であろうと、全く関係ない。リネンは、今、その価値形式に基づき、社会的関係の中に立っている。もはや、単なる他の一商品との関係ではなく、商品世界の全てとの関係にある。商品として、世界市民の如く。また、この終のない価値等式の連鎖が、同時に、商品の価値を意味している。その使用価値の特定の形や種類がどうであれ、なんの違いもないのである。

(2 ) 最初の形式、20ヤードのリネン = 1着の上着、は、他の物が表れても当然の、全く偶然の等式であり、これらの二つの商品がある一定の量で交換可能というのもまた偶然と言える。次に表れた形式は、前とは違って、背景がこれを決めており、偶然的外観からは本質的に違っていると分かる。 リネンの価値が、たとえ、上着やコーヒーやまたは鉄とか、または、多くの異なる所有者の財産である、数えきれない様々な商品で表されたからといって、その価値の大きさを変えることはなく、そのままである。 二人の個々の商品所有者間の偶然的関係は消え去る。ここでは、それらの商品の交換が価値の大きさを決めるのではなく、逆に、価値の大きさがそれらの交換比率を決めると、分かりやすいものとなる。

2. 特別の等価形式
 
(1 ) 個々の商品、上着、茶、トウモロコシ、鉄、その他は、リネンの価値の表現として登場し、等価を示し、故に、その物の価値を示す。これらの商品の物体としての形は、今では、多くの中の一つという、特別の等価形式を示す。同様、いろいろと違った商品の形は、そこに込められた、多様で具体的で有用な様々な種類の労働が、なんの違いもない「人間の労働」であって、それが作り出した、またはそれを明示している、数多くの形であることを示している。

3. 全体的または拡大された価値形式の欠陥
 
(1 ) まず第一点として、この価値の相対的表現は、未完成である。なぜなら、ここに表された等式の連鎖に終りがない。次々と新しい種類の商品が現われ、新たな価値を示す物が供給されるたびに、連鎖が長くなる。第二点は、脈絡のない勝手な価値表現の多色の寄せ集めだから。そして、最後に、それぞれの商品の相対的価値が、この拡大された価値形式で表現されるものとなるならば、ならざるを得ないが、それらの相対的価値は、様々なケースで異なり、価値を表す終りのない連鎖となる。
 この拡大された相対的価値形式の欠陥は、等価形式にも反映する。それぞれ単体の商品の物体としての形が、他の多くの数えきれないものの中から、特別の等価形式となるのだから、全体として見れば、お互いに排除しあうばかりの等価形式の断片の他にはなにも受け取れない。また同様に、それぞれの特別な等価に込められた、特別で、具体的で、有用な種類の労働は、ただ、特別の種類の労働で表され、その結果、人間の労働一般を余すところなく表すものとはならない。確かに、これらの多数の、特別な、具体的な労働の形式を全体的に集めれば、適当なその表明になるとはいえ、それでもこの場合は、無限の連鎖に完結はなく、統一的概念にはなりえない。

(2 )しかしながら、拡大された相対的価値形式は、下に記すように、他でもなく最初に出会った相対的表現または、初期的な等式の行並べである。

20ヤードのリネン = 1着の上着
20ヤードのリネン = 10ポンドの茶 等々

これらそれぞれは、逆の等式でも同じ内容を表す。

1着の上着 = 20ヤードのリネン
10ポンドの茶 = 20ヤードのリネン 等々

(3 ) 実際に、ある人物が、彼のリネンを多くの他の商品と交換するとしたら、その価値は、他の商品の数々で表される。と言うからは、いろいろな商品の所有者は、それらをリネンと交換したのであって、彼らの様々な商品の価値は、一つの、彼らから見て同じ物、第三の商品、リネンによって表されている。もし、我々が、20ヤードのリネン = 1着の上着 または = 10ポンドの茶、等々という行並びの等式の左右を逆にしたら、ということは、これらを、逆の関係で書き表したら、その行並びは、何を意味するかということであろう、そこで、やってみれば、

C. 一般的価値形式


 
          1着の上着
         10ポンドの茶
      40ポンドのコーヒー
   1クオーターのトウモロコシ = 20ヤードのリネン
        2オンスの黄金
         1/2トンの鉄
         x量の商品A
           その他


1. 価値形式の変化した性格
 

(1 ) 全ての商品は、この形式では、それらの価値を、[1]最初に出会った価値形式で表している。なぜなら、一つの単一の商品で表しているからである。[2]統一された形式で表している。なぜなら、一つしかない同じ商品で表しているからである。この価値形式は、最初に出会った形式であり、すべての商品にとって同じ形式となっている。従って、一般的形式といえる。

(2 ) 前掲のAとBの形式は、一商品の価値を表す場合のみに適しており、それを、その使用価値または物体的な形から、明確に識別している。

(3 ) 最初の形式、Aは、次のような等式をもたらした。
一着の上着 = 20ヤードのリネン
10ポンドの茶 = 1/2トンの鉄

(4 ) 上着の価値は、リネンに等しい。茶のそれは、鉄に。しかし、リネンに等しいとされようが、また鉄にとされようが、これらの二つの等式は、リネンと鉄ほどに違う。これらの形式は、簡明だが、労働の生産物が、偶然とか時々とかで交換される、初期の段階での便宜上でしか表れない。

(5 ) 二番目の形式、Bは、最初のものから見れば、より的確な方法で、商品の価値をその使用価値から識別する。もし、上着の価値ということになれば、上着が自身の物の形をありとあらゆる形に変えたとしても、それが、上着を除く、リネンやら、鉄やら、茶やら、以下省略、ありとあらゆる物と等しいとして対照される場に置かれる。 一方、様々なものに対応する一般的価値表現は、この形式Bでは、直接的に排除される。なぜなら、それぞれの商品の価値の等式において、他の全ての商品が今や、ただそれぞれの等価形式として現われるからである。 拡大された価値形式が現実に存立するものとなる最初は、特定の労働の生産物、例えば畜牛が、今までは例外的であったものが、習慣的に他の様々な商品と交換されるようになった時からである。

(6 ) 三番目で最後の、発展した形式は、全商品世界の価値を、ある一つの、その表現目的のために特別に切り離して置かれた商品で表す。すなわち、リネンである。かくて、リネンとそれらとの同等性によって、それらの価値を我々に示す。 あらゆる商品の価値は、今や、リネンと等価とされることによって、それ自身の使用価値から区別されるだけでなく、他の全ての使用価値からも切り離され、これこそが事実であるが、あらゆる商品に共通するものによって表される。 この形式によって、初めて、商品は、効果的に、お互いの価値としての関係に持ち込まれる。または、交換価値として表される。

(7 ) 二つの以前の形式は、それぞれの商品の価値を、一つの単一の、種類の違う商品か、またはそのような多くの数々の商品で表した。両方とも、言うなれば、それぞれの単一の商品の価値を見出す特別のやりとりで、それぞれ以外の助けはなくてもよい。 一般的価値形式、Cは、全商品世界の共同作業から導かれるものであって、これ以外から導き出されるものではない。商品は、その価値を、他の全ての商品によって一般的表現を得ることができる。同時に、それらの価値を、同じ等価物で表すことになる。すべての新たな商品は、この一揃いの中に加わらねばならない。かくして、商品の価値的存在は紛れもなく、社会的な存在であることが証明される。この社会的存在は、他でもなく、それらの社会的関係の全体によって、表される。であるから、それらの価値形式は、社会的に承認されるべき形式でなければならない。  

(8 ) 全ての商品が、今、リネンに等しいとされたのであるから、質的に同一の価値一般であるばかりでなく、その価値の大きさも比較可能となる。それらの価値の大きさを、一つでかつ同じ物質、リネンで表すことから、それらの価値の大きさもまた、互いに、他のものと較べられる。例えば、10ポンドの茶 = 20ヤードのリネン、また40ポンドのコーヒー = 20ヤードのリネン。であるから、10ポンドの茶 = 40ポンドのコーヒーと。他の表現で示せば、1ポンドのコーヒーには、1ポンドの茶に含まれる価値の、わずか1/4の価値-労働-しか含まれていない。

(9 ) 商品の全世界を包含する、相対的価値の一般形式は、他の全ての商品から隔離されて、ただ等価の役割を演じさせる、ある一つの商品-ここではリネン-を、全世界的な等価物に変換する。リネンの物体としての形が、今や、全商品の価値の共通的な形と見なされる。だから、それが、全てまたはそれぞれと直接交換できるものとなる。物質リネンが、あらゆる種類の人間の労働の、目に見える化身、人間の労働 の社会的結晶状態となる。機織り、特定のもの、リネン、を生産するある私的な個人の労働が、こうしたことから、社会的な性格、他のあらゆる種類の労働と等質の性格を持つことになる。 数えきれない行並びの等式、価値の一般形式は、それぞれ、リネンに込められた労働が、他の全ての商品に込められたものと同等であることを網羅する。そして、さらに、機織りを、区別できない「人間の労働」の表明の、一般形式に変える。 これらのことによって、商品の価値である労働が、様々で具体的な労働形式や有益な現実の仕事等々をはぎ取った労働という、見えにくい面ばかりでなく、それらの目に見える形をその労働自体として表すようにもなるのである。 価値の一般形式は、全ての種類の現実の労働を、人間の労働一般という共通的な性格に、また、人間の労働力の支出に要約する。

(10 ) 価値の一般形式は、全ての労働の生産物を、ただの区別できない「人間の労働」の凝結物として示すものであるが、そのことによってまた、商品世界の社会的な核心を見せる。であるから、この形式が、商品世界において、人間の労働としてのあらゆる労働によって与えられた商品の性格が、商品に特別の社会的性格を付与すると、明白に示すのである。


 
2. 相対的価値形式と等価形式の相互依存的な発展
 

(1 ) 相対的価値形式の発展の度合いは、等価形式のそれにも連動して行く。しかし、次の点をしっかりと把握しておきたい、後者の発展は、前者の発展の結果であり、その表現であるに過ぎない。

(2 ) 初期の、または別々な、一つの商品の相対的価値形式は、ある他の商品を別々の等価物に変換する。拡大された相対的価値形式は、一つの商品の価値の表現をその他全ての商品によって表しているのではあるが、それらの他の商品に、違った種類の特別な等価物の性格を与えることになる。そして最後の形式は、特別な種類の商品が世界的な等価物の性格を得る。なぜならば、他の全ての商品がそれを自分らの価値を一律に表す物とするからである。

(3 ) 相対的価値形式と等価形式の対立関係、価値形式の両極は、その形式の対立のまま、同時に発展させられる。

(4 ) 最初の形式、20ヤードのリネン = 1着の上着 は、すでに、未確定以上の、この対立関係を含んでいる。この等式を、我々が前から、または後ろから読めば、そのリネンとその上着の演ずる役割は違っている。あるケースでは、リネンの相対的価値が、上着によって表される。また他のケースでは、上着の相対的価値が、リネンで表される。この最初の価値形式では、従って、両極的対立は把握しにくい。

(5 ) 形式、Bは、ただ一つ単一の商品が、その時、その相対的価値を極限まで拡大することができる。そして、全ての他の商品を、この一つの商品に対する等価物とするからこそ、その限りにおいて、拡大された形式を得る。ここでは、我々は、この等式を逆にすることはできない。20ヤードのリネン = 1着の上着 の単行式とは違うのである。それの一般的性格への変更なしには、拡大された価値形式から一般的価値形式への変換なしにはできないのである。

(6 ) 最後に、形式、Cは、商品世界に、一般的社会的相対価値形式を与える。なぜならば、全ての商品が、ただ一つを除いて等価形式から排除されるからである。その一つの商品、リネンは、それ故に、他の全ての各商品と直接的な交換可能性という性格を得る。なぜならば、この性格は、他の全ての各商品には与えられないからである。

(7 ) 世界的等価の形を表す商品は、その一方で、相対的価値形式からは排除される。もし、リネンが、または他のいずれかの等価役を努める商品が、同時に相対的価値形式をも分担するとすれば、自己の等価役を努めることにもなる。すると、我々は、20ヤードのリネン = 20ヤードのリネン という等式も持つことになる。この同語反復は、価値も、価値の大きさも表さない。世界的等価の相対的価値を表すためには、我々は、形式Cをなんとか逆にしなければならない。この等価は、他の商品と共通するような相対的価値形式は持っていない。だが、その価値を相対的に表すというなら、他の商品の終りの無い行並べということになる。

(8 ) だからこそ、拡大された相対的価値形式 または形式、Bは、それを、等価商品に対する特別の相対的価値形式として示す。



3. 一般的価値形式から貨幣形式への移行
 

(1 ) 世界等価形式は、一般的価値形式である。であるから、如何なる商品でもその役を果たすことができる。ではあるが、もし、一商品が、世界等価形式 ( 形式C ) を引き受けたと見られれば、それは、他の全ての商品から外され、それらの等価となる限りにおいてのみ、また、それら全商品がその形式を演じる限りのことなのである。そして、この排除が、最終的に、一つの特定の商品に限定された時から、まさに、この時から以外にはあり得ないが、商品世界の相対的価値の一般的形式は、明確な論理性と一般的社会的正当性を得る。

(2 ) ある特定の商品が、この様に社会的に認知された等価形式が、その物体としての形が、貨幣商品または貨幣としての役割を果たすものとなる。それが、その商品の特別の社会的機能となる。その結果、その社会的独占は、商品世界において、世界等価の役割を演じる。商品群の中のそれぞれは、形式Bでは、それぞれが、リネンの特定の等価を示した。形式Cでは、それぞれがリネンに対する共通的な相対的価値を表した。この主要な位置が、一つの特定の-すなわち、黄金によって確立されることとなった。そこで、もし、形式Cにおいて、リネンを黄金に変えるとすれば、どうなるか、



D. 貨幣形式



(1 )    20ヤードのリネン
          1着の上着
         10ポンドの茶
      40ポンドのコーヒー
   1クオーターのトウモロコシ = 2オンスの黄金
         1/2トンの鉄
         x量の商品A
           その他

(2 )形式A から 形式Bへの発展の変化、そして後者から形式Cへの発展の変化は、本質的なものである。だが、形式Cから 形式 D へのそれでは、単に黄金が等価形式となり、リネンの位置に入っただけで、あとはなんの違いもない。形式 D の黄金は、形式Cではリネンだったのと同じで、世界等価である。変化はただこれだけである。直接的かつ世界的交換可能性 - 他の言葉で云えばその世界等価形式 - が、ここに、社会的な習慣によって、最終的に、黄金という物質と同じ物になったのである。

(3 ) 黄金は、今や、全ての商品と対応する貨幣である。それはただ、以前から、普通の一つの商品として、それらに対応して来たからである。他の全ての商品と同様、一等価物としての役割を果たす事ができた。また、個別の交換で、単純な等価物として、または、他から見れば、特別の等価物として、役割を果たすことができた。それが次第に、制約の変化はあるものの、世界等価として用いられるようになった。そして、商品世界の価値の表現という独占的な地位を占めるや、貨幣商品となった。それから、それ以前にはあり得ないが、形式 D は、形式Cとはっきり区別され、一般的価値形式が、貨幣形式へと変化したのである。

(4 ) 最初に出会った一商品の相対的価値表現、例えばリネンと、また同様一商品としての黄金。後者は、貨幣の役を演じるので、この等式が、これら商品の貨幣形式である。リネンの貨幣形式は従って、
20ヤードのリネン = 2オンスの黄金 または
もし、2オンスの黄金が鋳貨刻印されて、2 英ポンドであれば、
20ヤードのリネン = 2英ポンド

(5 ) 貨幣形式の概念を持つための難しさは、世界等価形式と、必然的な結論である 一般的価値形式 形式Cの必要性を、明瞭に理解することにある。後者は、形式Bから演繹的に推論できる。拡大された価値形式は、我々が形式A で見て来たところの 20ヤードのリネン = 1着の上着、または、 x量の商品A = y量の商品Bという基本的要素から成り立っている。
単純な商品形式こそ、貨幣形式の萌芽なのである。




第四節

商品の物神崇拝とそれに係わる秘密


(1 ) 最初、商品は、ごくありふれた物であり、簡単に分かる物として現われる。だが、その分析は、本当のところ、非常に奇妙な物で、形而上学的な名状しがたいものに満ちており、神学的な微妙なものであると示す。 使用する上での価値ということなら、何も神秘的なものはない。人間の欲求を満たすという特質から見たり、人間の労働という特質から見ても、何も神秘的なものはない。人間が、彼の生産により、自然が与えてくれた素材の形を、彼にとって有用なものに作り変えたということは、白昼に陽を見るが如く明らかである。例えば、材木の形は、そこからテーブルを作ることによって変えられる。だとしても、依然として、テーブルは、日常に見るように、ふつうの材木である。 ところが、一歩、商品へとなるやいなや、とんでもないあるものに変身する。テーブルが脚で床の上に立っているだけではなく、他のあらゆる商品との関係で、テーブル頭で立つ。そして、テーブル頭の頭脳から、テーブル回しというのがあるが、それ以上の珍妙不可思議なグロテスクな幻想を、まき散らす。

(2 ) だからといって、この商品の神秘的な性格が、それらの使用価値から発しているものではない。価値の要素を決めている性質から生じるものでもない。なぜなら、第一に、労働の有用な種類や、生産的活動がどう変化したとしても、それは、生理学的事実であるところの、人間の生物としての機能であり、その性質や形がどうであろうと、本質的に、人間の頭脳や、神経や、筋肉 その他の支出ということだからである。第二に、価値の量を決める、すなわち、その支出の継続時間、または労働の量といったものの土台を形成することをも見れば、その量と質の明白な違いも全く自明である。如何なる社会状態であろうと、ものを生産するために費やす労働時間は、発展段階に違いがあれば同じようにではないものの、人類にとっては、必然的に関心を持つ事柄である。そして、最後に、人間がお互いのために何らかの方法で仕事をする瞬間から、彼らの労働は、社会的な形式を得る。

(3 ) それでは、いつから、労働の生産物の得体の知れない性格が、商品の形となるに及んで生じるのであろうか。まさに、その時からである。あらゆる種類の 人間の労働 は、その生産物によって、全てが同じ価値であることを具体的に示めされる。その支出の継続時間による、労働力の支出で計量される価値として、労働の生産物の価値の大きさという形式で示される。そして、最後に、生産者の相互関係が、彼らの労働の、社会的性格が、自ずと関係づけするのだが、生産物間の社会的関係の形式をも、もたらす。

(4 ) 商品は、かくて、神秘的な物となる。そこでは、単純に、人々の労働の社会的性格が、労働の生産物にスタンプされているかのように、客観的な性格として現われるからであり、また、生産者の関係が、彼らの独自の労働の総計なのであるが、その社会的関係が、彼らの間に存在しているのではなく、かれらの労働の生産物間にあるように現わされるからである。神秘の理由は、ここにある。労働の生産物が、商品に、つまり社会的な物になり、その本質がある時は、感じられ、ある時は感じられないためである。 一連の例えとして、物からの光が我々に感じられるのは、我々の視神経の主観的興奮ではなく、目から離れた場所にある客観的な何かの形があるからである。だが、見るという行為では、あるものから、他のものへと、実際の光の動きがなければ始まらない。ここでは外部のものから目に、である。物理的な物質間の物理的関係ということである。商品では違う。商品としての物の存在と、商品としてスタンプされた労働の生産物間の価値関係には、物理的特性とかそれらに生じる物的関係といったつながりは全くない。そこにあるのは、明らかに、人と人との関係であって、それが人々の目には、物と物の関係という幻想的な形として、見えるのである。そこで、この類似的なものを見るためには、宗教世界という霧に囲まれた領域に頼らなければならない。その世界では、人間頭脳の生産物は、あたかも生命を授けられた独立した存在であるかのように現われ、互いと人類との関係に浸入する。商品の世界で云えば、人々の手が作った生産物の中に浸入する。これを、私は、労働の生産物に取りつく物神崇拝と呼ぶ。商品として生産されるやいなや、商品の生産から切り離すことができないものとなる。

(5 ) この商品の物神崇拝の出因は、前記の分析から分かるように、労働の社会的性格という特異点にあり、それが生み出したものである。

(6 ) 一般的に云うなら、有用な品物が商品となるのは、ただひとつ、それらが、私的個人の労働、または個人のグループが他とお互いに独立して仕事をなすからである。これらの私的個人の労働の総合計が社会の労働の総結集を形成する。彼らが、彼らの生産物を交換するに至らなければ、生産者もまた社会的な接触には入らない。交換行為なければ、各生産者の労働の特別なる社会的性格もその姿を見せない。他の言葉で言い換えるならば、個人の労働が、それを、社会の労働の一部であると主張するのは、他でもなく、生産物間の直接的交換行為が確立され、間接的に、それらを通じて、生産者間の関係が生じるからである。後者への、すなわち、一個人の労働と他のそれとの結合的関係は、個人間の仕事を通じての、直接的社会的関係としてではなく、まさに、個人間の材料的関係と物の社会的関係として現われる。ただ交換されることによってのみ、労働の生産物は、有用な物としての彼らの様々な存在とは別に、価値を、一つの同一的な社会的地位を得るのである。  この、生産物の有用な物であることと、もう一つ価値であることの区分は、実際に重要なものとなる。まさに交換が、その先を学ぶ。かくて、有用な品物が交換されることを目的に生産され、その価値としての性格を、生産に入る前に、勘定することになる。この瞬間から、個人的生産者の労働は、社会的に、二重の性格を得る。一方で、明確に有用な労働として、明確な社会的欲求を満たさねばならない。そして同時に生ずる労働の社会的な区分の一端として、全ての労働の集合体の一部分たる地点を保持しなければならない。他方で、個人的生産者自身の様々な欲求を満足させることができる、ただ、あらゆる種類の有用な個人の労働の相互交換可能性が、社会的な事実として確立されている限りではあるが。かくして、それぞれの生産者の私的で有用な労働は、他の全てのそれと同等なものとなる。最も異なる種類の労働の同等化は、ただ、それらの非同等部分をそぎ落とし、共通のものだけに減らして、すなわち、人間の労働力の支出または、人間の労働 とした所で、可能となる。個人の労働が持つ、二重の社会的性格は、日々の労働のうちに、生産物の交換から、わずかにでもその一端が彼の脳に写る時に現われる。 この様に、彼自身の労働が持つ社会的に有用な性格が、生産物は有用でなければならないだけではなく、他人にとっても有用でなければならず、また、社会的性格が、彼の特定な労働が、他の全ての特定の種類の労働と同じであるという条件を形づくり、全ての物理的にも違った品物を、労働の生産物に、一つの共通の質を持つものに、すなわち、価値を持つものにする。

(7 ) 従って、我々の労働の生産物を、他と、価値としての関係に置けば、これらの品物が、均一化された 人間の労働 の物質的な受け皿を成しているのが見えるということではない。全く逆で、いつでも、交換によって、まさにこのことによって、我々の異なる商品を、価値として同じとするのである。また、それらの品物に費やされた異なった種類の労働、人間の労働 を同じとするのである。我々は、この事に気づいていなくても、そうしているのである。だから、価値は、そのラベルにどう書かれていようと、さまようことはない。むしろ、価値は、全ての生産物を社会的な判別しがたい記号に変換する。後に、我々は、この奇妙な記号の解読を試み、我々自身の社会的生産物の秘密の後ろにあるものを得ようとする。有用な物を価値とスタンプするために、あたかも、社会的な生産物が言語であるかのように。 最近の科学的な発見では、労働の生産物が、価値であると言うならば、それらの生産に使われた人間労働の物的表現であるという。 たしかに人類発展の歴史上画期的なことである。 だが、 労働の社会的性格が生産物自身の客観的性格であることを、霧を晴らすように明らかにするものではない。 事実は、我々が取り扱っているもの、すなわち商品の生産という特別の生産形式では、特別に社会的な性格を持つ私的な労働は、個々に独立して行われているが、その性格ゆえにそのようなあらゆる種類の労働を等質と成す、それが人間の労働であるからである。従ってその性格は生産物に価値の形式を表す。-この事実は生産者には、前述の発見があろうとなかろうと、真実であり、それ以上のものはありもしない。丁度、科学的に空気のガス成分が発見されたからといって、大気になんの変化も生じないごとく、である。  

(8 ) なんと言っても、生産者の現実的な関心事は、交換において、彼らの物に対してどの程度の他の物が得られるかということである。どの程度の比率で、交換が可能となるかである。これらの比率が、習慣により、ある定常的なところに行き着くのであるが、それがあたかも生産物の自然的特質からもたらされるように現われる。まるで、1トンの鉄と2オンスの黄金が等価であるのは、1ポンドの鉄と1ポンドの黄金が同じ重量であるかことのごとくである。物理的にも化学的にも違った性質であるにも係わらずにである。 生産物に一度このことが印象づけされると、価値を持つという性格が、他のそれぞれと、価値の大きさとして相互に、単に繰り返し繰り返しなされることから、定着性を得る。これらの大きさについては、生産者の行為、予想や、意志から独立して常に変化する。彼らにとっては、彼ら自身の社会的行動が、彼らによって律せられるものではなく、逆に、品物の行動の形式が、生産者を律するかのように思えるだろう。 全ての異なる種類の私的な労働、互いに独立的に行われる労働、さらにその中で社会的部分の一端として発展させられた労働の、ただその積み重ねだけから、比率が、社会が彼らに求める量的比率に到達するまで削られ続ける、という科学的な確信が芽生えるまでには、それ以前に、商品の生産の完全な発展が必要であろう。そして、なぜというなら、偶然的かつ止むことなく変動する商品間の交換関係の中で、かれらの生産に必要な社会的労働時間が、強制的に、あたかも自然法則のごとく立ち現れるからである。重量の法則が、まさに家が崩れ落ちるときに、聞こえてくるようにである。 労働時間で価値の大きさが決まるということが、商品の相対的価値の現実の変動に隠されて、一つの秘密になる。 この発見は、生産物の価値の大きさの決定に関して、単なる偶然性という外観を取り去るが、依然として、決定がなされる様式を変えることには至らない。

(9 ) 人の脳に写る、社会生活の形式や、またそれに繋がるそれらの形式の科学的な分析についての認識は、現実の歴史の進展の流れとは逆の方向となる。彼は、その発展の過程がすっかりでき上がった祭りの後で、彼の手の内に入った結果を元に、後追いで認識に取りかかる。商品であると生産物にスタンプした性格やら、すでに確立されたことを、商品の流通を準備するためへの必要事項としたり、商品が当たり前に自然の安定性を得ているとしたり、社会生活の形式が自明であるとか、意味も分からずに、それらの物事が不変のものと目に写っている。従って、商品の価格の分析、それのみが価値の大きさを決定に導くと考えたり、価値としてのそれらの性格の確立には、全ての商品の共通の表現を貨幣で表すことそれのみで、十分と考えたりする。だが、それは、ただの商品世界の最終的な貨幣形式なのだが、その事が、逆に、私的労働の社会的性格や、個々の生産者の社会的関係を説明するよりも、実際には、覆い隠してしまう。私が、上着やブーツをリネンとの関係に置いたのは、それが、一切の子細を取り外した 人間の労働 という世界等価の化身だからであるが、この事が、かれらの見解ではすっかり消え失せているのがよく分かるだろう。それだけではなく、上着やブーツの生産者のそれらの品物をリネンと較べる時に、云うまでもないがここではリネンが、金や銀と同じ世界等価であるから較べているわけだが、それらの品物がかれらの私的労働と社会的な労働の集合体との関係を表わす。が、このこともかれらの見解では同様すっかり消え失せている。

(10 ) ブルジョワ経済学の範疇には、このような形式が詰まっている。それらが考える内容は、明確な、歴史的な生産様式、すなわち、商品の生産、の条件やら関係やらを、社会的正当性のもとに、表現するものである。 であるから、商品の神秘の全て、商品の形をとる限りでの労働の生産物の回りを取り囲む奇術や魔法の全ては、我々が他の生産形式に行ってしまえば、消える。

(11 ) ロビンソン クルーソーの体験は、政治経済学者のお好みのテーマであるから、彼の島に、見に行ってみよう。普通の人であるが、二三の欲求を満足させねばならない。だから、いろんな種類の有用な仕事を少しはしなければならない。道具や家具を作り、山羊を飼い馴らし、魚を釣り、狩猟をする。彼のお祈りやその関係は取り上げない、それが彼の楽しみの一つであり、それを息抜きとみているのだから。彼の仕事は様々であるが、彼は、彼の仕事の形式がどんなものであれ、一人の活動であり、ロビンソンのそれでしかないことを承知している。であるから、その労働を構成するものは、様々な様式の人間の労働の他にはなにものもない。必要が、彼に、彼の時間を正確に彼の違った種類の仕事に分配するように強いる。彼の全般的活動において、ある種類のそれが他よりも大きな部分を占めるかどうかは、困難性とか、その場合の多少にもよるし、目指す有用な効果の達成がそれなりのものであるといったことによる。我が友ロビンソンは、直ぐに経験から学び、難破船から救出した時計、会計簿、そしてペンとインクで、ブリトン生まれよろしく、帳簿をつける。彼の資産台帳には、彼に帰属する便利な品々のリストがあり、またそれらの生産に必要な作業内訳もあろう、そして最後に、それらの物に彼が費やした労働時間が、平均的にどの程度の量であったか正確に記されたであろう。ロビンソンと、彼自身が作り出した富であるこれらの物との関係は、この通り、極めて単純かつ明解である。セドレイ テイラー氏ですら、なんの苦もなく分かるものである。だが、それらの関係で、価値を決める本質的なものの全てが揃ったわけではない。


訳者余談5を書く。ロビンソンは人間の労働、それも平均的な労働力の支出量も帳簿に記した。それに、もしかしたら、私の想像とは違って、ロンドン市場にこれらの制作物を持ち込む機会のくることを前提にしていたかもしれない。船を調達し、海図を手に入れ、様々な品々を購入すべく、金銀も用意して、その過程で難破したのであるから、商品やら交換やら貨幣やらの知識に遜色は無かろう。すると、彼は価値を確信していたかも知れない。違うとは思うが、つまりそこに交換が潜在しており、社会的な関係を持って、品々を作ったなら、価値を決める本質的なものの全てが整っていることになる。無いのはその機会のみだが、それも予想の範囲として潜在も含めるなら、ロビンソンは商品の価値を作り出していることになる。読者の皆さんは、私の味方だと思うが、果してどうなんだろう。 なぜ、こんな事を余談として記したかは、先人の訳にある。その訳はこうなっているからである。

M・ビルト氏すら、特別に精神を緊張させることなくとも、これを理解できるようである。そしてそれにもかかわらず、この中には価値の一切の本質的な規定が含まれている。

含まれていないというのが、この本の訳者の訳なのだが、含まれているという。ロビンソン物語を子供読みでは私のようになると思うが、ロビンソンの本質的存在をどう見るかで、違いが生じるのか、先人の訳に何か特別の考えがあるのかである。 英文はこうなっている。 And yet those relations contain all that is essential to the determination of value.


(12 ) 光を浴びるロビンソンの島から、我々を、闇のとばりに包まれた中世ヨーロッパへ移してみよう。ここでは、独立した人とは違って、誰もが誰かに頼っているのを見る。農奴と領主、家臣と君主、信者と教主。人々の依存性が、生産の社会的関係を形作っている、丁度、その生産の原則によって、別々の生活圏があるかのようである。だが、人々の依存性・従属性が社会の基礎的任務であるからと言って、かれらの実際の労働やその生産物がそれとは違った幻想的な形式をとる必要性はない。それらの形は、社会の中のやりとりであり、サービスの種類であり、支払いの種類なのである。ここに見られる特異でかつ自然な労働の形式は、商品の生産を基本とする社会における労働形式とは違って、その一般的で、そのままの労働が、直接的に、労働の社会的な形式なのである。強制される労働が、商品生産の労働のように、適切に時間で計られたとしても、農奴の誰もは、領主のサービスに支払うものが、彼自身の労働力の決まった量であることを知っている。教主に差し出される1/10税が、彼の祝福よりも多いという事実を知らない者はいない。だから、違った階級の人々が行うそれぞれの役割がどうであれ、かれらの労働行為の中の個々間の社会的関係が、かれらの互いの人間関係としてことごとく現われるのである。そして、労働の生産物間の社会的関係の形が、偽装されることもなく、そこにあるのである。

(13 ) 共同的な労働、直接的な協同労働の例に行って見たいが、全ての文明化した人類の歴史の発端では、自然の成行としてこのような発展段階があったはずだが、もう戻る道理もない。いや、手近に、百姓の家族に見られる家長制の生業があるではないか。そこでは、一家が使用するために、トウモロコシや、牛や、糸や、リネンや、衣服の仕立てがなされている。これらの違った品々は、家族ということでの、労働の沢山の生産物である。とはいえ、彼らの間での商品ではない。違った種類の労働、耕作、牛の世話、糸紡ぎ、機織り、仕立ては、様々な生産物を産み出す。それらは彼等自身のものである。そして、直接的に社会的機能となる。それが彼等家族の機能だからである。商品の生産の上に作られた社会と同様、それらには、自然発生的な発展が見られる労働の区分のシステムが備わっている。家族内での仕事の配分、数人のメンバーの作業時間の調整は、年齢や性別の違いによって、また季節によって変わる自然の条件によって、巧みになされる。個々それぞれの労働力が、ごく自然に、家族の全労働力の決まった比率のように仕事をなす。そして、だから、個々の労働力の支出の大きさ、その継続時間は、ここでは、彼等の労働の社会的性格の極めて自然なものとして現われる。

(14 ) いろいろと見てきたが、道筋を変えて、自由な個人からなる社会を今度は描いてみよう。そこでは、生産としての仕事を共同の形で行っており、全ての違った個々の労働力は、社会の労働力の組み合わせのように用いられる。ロビンソンの労働の全ての性格が、繰り返されているが、違いがある。個々のそれではなく、社会のそれである。彼によって作られた全ての物は、なにもかもひっくるめて、彼自身の個人労働の結果であり、そして端的に、彼自身の使用のための物である。我々が見ている社会の全生産物は、社会的な生産物である。その一部は、次の生産のために使われるが、それも社会的なものに変わりはない。その他の部分は、構成メンバーによって、生活のために消費される。であるから、この部分の彼等への分配が必要になる。この分配の様式は、社会の組織や、生産者達によって得られた歴史的発展の度合いによって変わってくるであろう。各個々の生産者の、生活のための分配量は、単に、商品の生産で行われるのと同様に、彼の労働時間で決められると確信する。この場合、労働時間は二つの役割を演ずる。その時間の配分は、明確な社会的計画に基づき、そこで行われる違った種類の仕事と共同体の様々な欲求との間の適切な比率で保持される。もう一つは、各個々によりなされた共同労働の比率を計ることに供され、個々の消費分として予定された全体量の中からの受け取り分を決めることになる。 個々の生産者の、彼等の労働とその生産物の両方に係わる社会的関係は、ここでは完璧に単純で、分かりやすい。また単に生産だけではなく、分配に関してもである。

(15 ) 宗教的世界はなんと言おうと、現実世界の投影である。だから、商品の生産の上に成り立つ社会では、その社会の生産者達は、彼等の生産物を商品や価値としてお互いに取り扱うという社会的関係に入ることになり、そこでは、彼等の個々の私的な労働が均一化された標準的人間の労働という小さなものに変えられてしまう。そんな社会で、ブルジョワジー的発展がより一層はっきりして来る中で、ますます個々の特徴を失う人間のカルト依存心情に寄り添うキリスト教が、(古き教義のカトリックよりも個人的自由を許容する)プロテスタントが、(神が作った社会ではあるが、やがて自然の法則で発展するという)理神論等がもっとも適応する宗教の形式となる。 ( )は訳者注 古代アジアや古代の生産様式では、生産物の商品への転換が見つかる、だからまた、人の商品生産者への転換も見つかる。彼等は、集団から外れた従属的な場所に居住させられるが、原始的な集団が、崩壊に近づけば近づく程重要な存在となる。商業国家、と適切に呼ばれるものが、古代世界の隙間に現われる。インタームンディアのエピキュロスの神とか、ポーランド社会の細穴に住むユダヤ人とかのように。これら古代の生産の社会組織は、ブルジョワ社会と較べれば、極端に単純で、透明である。しかし、見るところ、彼等は個人としては未成熟であり、原始種族集団の仲間と繋がっているへその緒が切れてはいない。彼等のような特殊な集団が生まれたり、存在したりするのは、ただ、労働の生産力の発展が、低い段階を越えておらず、従って、物質的な生活の範囲での社会関係が、人と人の間、人と自然の間でも、それに相応して狭いからである。この狭さが、古代の自然崇拝に投影する。また、他の民族的宗教の要素に投影する。  現実社会の宗教的投影は、いずれにしても、最終的には消え去る。日々の生活の実践的な関係が、人々に十分な知識と仲間や自然に対する合理的な関係を提供するようになれば、消え去る。

(16 ) 物質的生産の進展に依拠する社会の生活の実態は、いずれ、自由な協働をする人々による生産として扱われ、ある決まった計画に従って、これらの人々によって行われるようになるまでは、神秘のベールを取り除くことはない。このためには、ある程度の物質的な基礎づくりが社会に求められる。または、そのための条件づくりが求められる。それらは、発展の長く苦しい過程の自然的な生産物のように現われる。

(17 ) 不完全とはいえ、政治経済学は、この通り、価値とその大きさを分析した。そして、これらの形式の下にあるものを発見した。だが、いまだかって、次の疑問を発してしていない。なぜ、その生産物の価値が労働によって表されるのかと。またなぜ、その価値の大きさが労働時間で表されるのかと。*33

 本文注: *33 古典経済学の主な欠陥の一つは、商品の分析、そして特に、それらの価値の分析によって、価値が交換価値となる形式の発見に、失敗していることである。アダム スミスやリカードというこの学派の最上の代表者でさえ、価値の形式をなんの重要性もないものとして取り扱っている。商品固有の形質にはなんの係わりもないものとして見ている。その理由は単に彼等の関心がもっぱら価値の大きさばかりに注がれていたからではなく、もっと深いところにその理由がある。労働生産物の価値形式は最も抽象化されたものであるのみでなく、最も世界的に普遍化されたものなのである。だが、ブルジョワ的生産の生産物によって取得されたものであり、社会的な生産の特別なる種類の生産によって取得されたものとスタンプが打たれている。それゆえ、その特別なる歴史的性格をそれに与えている。かくてもし我々がこの生産様式をいかなる社会においても自然によって永遠に固定化されているものとして取り扱うならば、我々は必然的に価値形式の、そしてその結果として商品形式の、そしてそのより発展した貨幣形式や資本形式等々の本質的な差異内容 を見落とすはずである。(フランス語 イタリック) その結果として、我々は、これらの経済学者が、労働時間が価値の大きさを計るものであると完全に認めていながら、貨幣やその完璧化された一般的等価概念について、奇怪で矛盾した概念を持つのである。このことは、彼等が銀行業を取り上げる時、日常会話で貨幣の定義を取り上げる場合に、もはや理屈が合わなくなって、持った桶から水が漏れ出すという驚くべき珍事を披露するのを見ることで分かる。このような概念が復古的な重商主義 (ガニー等) の再来をももたらす。彼等のそれは、価値には何もなく、ただ社会的な形式だけと見る。またはその形式をありもしない幽霊のようなものと見る。はっきりと言っておくが、これがあの古典的政治経済学の見解なのである。私は、その古典的政治経済学とは ウィリアム ペティ以後、ブルジョワ社会における現実の生産関係を考察してきた政治経済学と理解している。俗流経済学とは対照的な地点に立って考察してきた経済学と理解している。さて、俗流経済学は、外観のみを扱う。遠い昔に述べられた科学的経済学の文言をあいもかわらず繰り返す。そしてブルジョワの日常用に最も気になる現象のまことしやかな説明を捜す。後の残り全部は、いかにも格好がつくようにそれらをまとめることであり、ブルジョワジーが、これぞ自分の世界であり、自らにとって最上のありうべき世界なりと、自己陶酔する陳腐な概念を、永遠に続く真理とでも宣言することである。

  (本文に戻る) 価値・価値の大きさ、労働・労働時間、かれらの空疎な文句でも、間違いようがない文字を商品の上にスタンプしている。商品は社会の状態に属していると。そこでは、人が制御するのではなく、商品の方が人間を支配している。この空文句はブルジョワジーの知性に、生産的労働そのものが、自然から賦課された、自明の不可欠事項であると顕れる。まさに、ブルジョワジー形式以前の社会的生産方式をブルジョワジーが取り扱うようなものだ。キリスト以前の宗教儀式をキリスト教の神父が執り行うみたいなもんだ。

(18 ) いったいどこまで行くと云うのか、幾人かの経済学者は、商品に内在する物神崇拝、または労働の社会的性格の物体的外観に惑わされてあらぬ所に行ってしまう。いろいろあるが、中でも、交換価値の形成に関して、自然が演じる役割は、という馬鹿げた退屈な口論がそれである。交換価値とは、その物品に授けた労働の量を表す明確な社会的方法であるから、交換の過程で確定されるものであり、自然がなにもそれに係わることはない。

(19 ) 商品の形式を取る生産物、または直接交換のために作られる生産物の生産様式は、最も一般的であり、ブルジョワ的生産の最も萌芽的な形式である。であるから、その外観は、歴史上早い時期に作られた。ただ、現在今日と同じような優越的支配や独特の挙動はない。それゆえに、その物神崇拝的性格は、比較的簡単に見通せた。しかし、より具体的形式に直面するようになると、この単純な外観も消えた。どこからこの重金主義の幻想が生じたのか? その金や銀が、通貨を務めると、生産者間の社会的関係を表すことなく、奇妙な社会的特質を表す自然的な物となった。そして、重金主義を蔑視する近代経済学は、資本を取り扱う段になるといつも、その迷信的幻想を白昼のもとに明解に連れ出さない。経済学が、地代は大地から生じ、社会から生じるものではないという重農主義的幻想を放棄してから、かなりの年月が過ぎているではないか?

(20 ) 先を急ぐ前に、商品形式に関する別の例でもう一度納得してみよう。もし、商品自身が話したら、彼等は次のように云うだろう。「多分、人々の興味の対象は、我々の使用価値であろう。だが、それは我々の物ではない。ただ、我々に属する物は、我々の価値である。我々の商品としての自然な交流がそれを証明している。お互いの目には、我々はただ交換価値以外の何者でもない。」 さて、今度は、それらの商品が経済学者の口を通して喋るとどうなるだろう。「価値-(交換価値)は、品物の特質である。富-(使用価値)は、人のそれである。価値はその意味から交換を含む必要性がある。富は含む必要がない。」「富-(使用価値)は、人の帰属物である。価値は商品の帰属物である。人や集団は富であり、真珠やダイヤモンドは価値である。...真珠やダイヤモンドは、価値がある。」真珠やダイヤモンドのように。  真珠やダイヤモンドに、交換価値を発見した化学者はいまだかってどこにもいない。ところが、この化学的要素の経済学的発見者は、まあとにかく特別の批判的眼識を持っているとかいうが、物の使用価値は物に属し、それらの物的特質からは独立しているという。一方、それらの価値は、それらの物としての部分を形成するという。  これらの見解の云わんとしていることは、以下のことはあり得ない状況だということだ。物の使用価値は交換なしに実現され、人と物との直接的関係そのものであり、一方それらの価値は、交換によって実現される、それこそ社会的な過程そのものなのにだ。  さて、われらが良き友人を思い起こしてみよう。ドグベリーだが、彼は隣人のシーコールに、「顔つきは、富の贈り物だが、読み書きは、自然にもたらされる」と云った。誰がここで間違えているだろう。


[第一章 終り]







最初の長い第一章が終わった。価値や貨幣が見えたであろう。 アリストテレスやロビンソンの話も面白いが、全ての違った個々の労働力が、社会の労働力の組み合わせのように用いられる社会という未来も登場した。改めてその歴史的視野の凄さを感じるところである。本物の資本論を読む楽しさを実感したはずだ。いよいよ、第二章へである。 第二章へ進む 第一章の最初へ戻る目次序文に戻る

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カール・マルクス
カール・ハインリヒ・マルクス
Karl Heinrich Marx
1875年8月24日のマルクスの写真
生誕 1818年5月5日
Flag of Prussia 1892-1918.svg プロイセン王国、ニーダーライン大公国県(ドイツ語版)、トリーア
死没 1883年3月14日(満64歳没)
イギリスの旗 イギリス・イングランド・ロンドン
時代 19世紀の哲学
地域 西洋哲学
学派 唯物論
科学的社会主義、共産主義
若いころはヘーゲル左派(ヘーゲル学派急進派)
研究分野 自然哲学、唯物論
科学哲学
歴史哲学
倫理学
社会哲学、政治哲学、法哲学
経済学、各国の近現代史、政治学、社会学、資本主義経済の分析
主な概念 唯物弁証法、唯物史観
疎外
階級闘争
剰余価値の搾取
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カール・ハインリヒ・マルクス(ドイツ語: Karl Heinrich Marx, 1818年5月5日 - 1883年3月14日)は、プロイセン王国(現ドイツ)出身のイギリスを中心に活動した哲学者、思想家、経済学者、革命家。1845年にプロイセン国籍を離脱しており、以降は無国籍者であった。彼の思想はマルクス主義(科学的社会主義)と呼ばれ、20世紀以降の国際政治や思想に大きな影響を与えた[注釈 1]。

フリードリヒ・エンゲルスとともに、包括的な世界観および革命思想として科学的社会主義、いわゆるマルクス主義を打ちたて、資本主義の高度な発展により共産主義社会が到来する必然性を説いた。資本主義社会の研究をライフワークとし、それは主著『資本論』で結実した。『資本論』に依拠した経済学体系はマルクス経済学と呼ばれる。

目次

1 概要
2 生涯
2.1 出生と出自
2.2 幼年期
2.3 トリーアのギムナジウム
2.4 ボン大学
2.5 ベルリン大学
2.6 大学教授への道が閉ざされる
2.7 『ライン新聞』のジャーナリストとして
2.8 結婚
2.9 フォイエルバッハの人間主義へ
2.10 パリ在住時代
2.10.1 「人間解放」
2.10.2 そして共産主義へ
2.11 ブリュッセル在住時代
2.11.1 唯物史観と剰余価値理論の確立
2.11.2 共産主義者同盟の結成と『共産党宣言』
2.12 1848年革命をめぐって
2.12.1 ベルギー警察に逮捕される
2.12.2 共産主義者同盟をパリに移す
2.12.3 ケルン移住と『新ライン新聞』発行
2.12.4 革命の衰退
2.12.5 武装闘争とプロイセンからの追放
2.12.6 フランスを経てイギリスへ
2.13 ロンドン在住時代
2.13.1 ディーン通りで赤貧生活
2.13.2 自分の雑誌とアメリカの新聞で文芸活動
2.13.3 共産主義者同盟の再建と挫折
2.13.4 ナポレオン3世との闘争
2.13.5 グラフトン・テラスへ引っ越し
2.13.6 『経済学批判』と『資本論』
2.13.7 プロイセン帰国騒動
2.13.8 ラッサールとの亀裂
2.13.9 メイトランド・パークへの引っ越し
2.13.10 第一インターナショナルの結成
2.13.11 プルードン主義・労働組合主義・議会主義との闘争
2.13.12 リンカーンの奴隷解放政策を支持
2.13.13 ラッサール派の親ビスマルク路線との闘争
2.13.14 普仏戦争をめぐって
2.13.15 パリ・コミューン支持をめぐって
2.13.16 バクーニンの分立主義とユダヤ陰謀論との闘争
2.13.17 インターナショナルの終焉
2.13.18 『ゴータ綱領批判』
2.14 晩年の放浪生活
2.15 死去
3 人物
3.1 健康状態・体格
3.2 趣味・嗜好
3.3 家計
3.4 人間関係
4 思想
4.1 エンゲルスとの関係
4.2 「決定論」
4.3 ユダヤ人観
4.4 労働者観
4.5 戦争観
4.6 各国観
4.7 植民地観
5 評価
6 家族
7 マルクスの著作
8 脚注
8.1 注釈
8.2 出典
9 参考文献
10 関連項目

概要

マルクスは、その生涯の大部分を亡命者として過ごした。生国はプロシアだったが、1849年にパリに追放され、のちにロンドンに居住して、そこで死んだ。彼は、生涯をひどい貧困の中で過ごし、生前はあまり有名ではなかった。しかし、ロンドンでの彼の運動と著作は、その後の世界の社会主義運動に大きな影響を与えた。

マルクスの死後、十九世紀終わりから二十世紀初めにかけて、世界中にできた社会主義政党は、皆何らかの形でマルクス主義を採用した。マルクス主義の核心は、階級闘争と社会主義社会建設のための理論であり、経済的搾取と社会的不平等を根絶することを目指していた。マルクス主義の一派である共産主義は、レーニンによって、1917年のロシアで最初の革命を成功させ、コミンテルンが各国で創設した共産党は、世界中の注目と議論を惹き起こした。

マルクスの理論の中心は、ヘーゲル哲学を基礎とした弁証法哲学と政治経済論である。マルクスは、当初ヘーゲルの観念論から出発し、のちに自分の革命的政治観に行き着いた。マルクスは、沢山の論文、パンフレット、レポートを書き、幾つかの著作を出版した。生前出版した著作には、「聖家族」(1845年)、「哲学の貧困」(1847年)、「ルイ・ボナパルトのブリュメール18日」(1852年)、「経済学批判」(1854年)と「資本論」(1867年)がある。マルクスの死後、彼の盟友だったフリードリヒ・エンゲルスによって「フランスにおける階級闘争」、「ドイツ・イデオロギー」、「フォークト氏」、「賃労働と資本」、「ゴータ綱領批判」、「賃金、価格、および利潤」などが出版された。

マルクスの世界観の核心は、彼の経済システム論ではない。マルクスは、経済学を批判的に扱っている。また、彼の経済理論は、アダム・スミスやリカードに多くを拠っている。「資本論」は、経済の専門的分析というよりも、社会経済問題に対する制度と価値の考察を通じた規範的分析である。マルクスが「資本論」で訴えているのは、人類の救済であり、彼の理論で最も卓越していた点は、経済学というより歴史理論と政治学である。

マルクスの思想の中心は、唯物史観である。唯物史観は、経済システムが観念を規定するという考えと、歴史の発展は経済構造によって基礎づけられているという考えからなる。前者の考えは、ヘーゲル哲学を唯物論的に解釈し直したもので、後者の考えは、弁証法哲学を歴史理論に応用したものである。[2]
生涯
出生と出自
ブリュッケンシュトラーセ(当時はブリュッケンガッセ)にあるマルクスの生家(ドイツ語版)。
この家は1928年にドイツ社会民主党(SPD)によって買い取られ、以降マルクス博物館として保存されている。国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)政権下で社民党が解散していた時期にはナチ党機関紙の本部になっていた。戦後再興した社民党によってマルクス博物館に戻された[3]。

1818年5月5日午前2時頃、プロイセン王国ニーダーライン大公国県(ドイツ語版)に属するモーゼル川河畔の町トリーアのブリュッケンガッセ(Brückergasse)664番地に生まれる[3][4]。

父はユダヤ教ラビだった弁護士ハインリヒ・マルクス(ドイツ語版)[5][6]。母はオランダ出身のユダヤ教徒ヘンリエッテ(Henriette)(旧姓プレスボルク(Presburg))[5]。マルクスは夫妻の第3子(次男)であり、兄にモーリッツ・ダーフィット(Mauritz David)、姉にゾフィー(Sophia)がいたが、兄は夭折したため、マルクスが実質的な長男だった[7]。また後に妹が4人、弟が2人生まれているが、弟2人は夭折・若死にしている[7]。

マルクスが生まれたトリーアは古代から続く歴史ある都市であり、長きにわたってトリーア大司教領の首都だったが、フランス革命戦争・ナポレオン戦争中には他のライン地方ともどもフランスに支配され、自由主義思想の影響下に置かれた。ナポレオン敗退後、同地はウィーン会議の決議に基づき封建主義的なプロイセン王国の領土となったが、プロイセン政府は統治が根付くまではライン地方に対して慎重に統治に臨み、 ナポレオン法典の存続も認めた。そのため自由主義・資本主義・カトリックの気風は残された[8][9][10]。

マルクス家は代々ユダヤ教のラビであり、1723年以降にはトリーアのラビ職を世襲していた。マルクスの祖父マイヤー・ハレヴィ・マルクスや伯父ザムエル・マルクス(ドイツ語版)もその地位にあった[11]。父ハインリヒも元はユダヤ教徒でユダヤ名をヒルシェルといったが[12]、彼はヴォルテールやディドロの影響を受けた自由主義者であり[6][13][14]、1812年からはフリーメーソンの会員にもなっている[15]。そのため宗教にこだわりを持たず、トリーアがプロイセン領になったことでユダヤ教徒が公職から排除されるようになったことを懸念し[注釈 2]、1816年秋(1817年春とも)にプロイセン国教であるプロテスタントに改宗して「ハインリヒ」の洗礼名を受けた[12][18][19]。

母方のプレスボルク家は数世紀前に中欧からオランダへ移民したユダヤ人家系であり[20]、やはり代々ラビを務めていた[7][21]。母自身もオランダに生まれ育ったので、ドイツ語の発音や書くことに不慣れだったという[20]。彼女は夫が改宗した際には改宗せず、マルクスら生まれてきた子供たちもユダヤ教会に籍を入れさせた[7][22]。叔父は欧州最大の電機メーカーであるフィリップスの創業者リオン・フィリップスであった[23][24][25]。
幼年期
ジメオンガッセ(当時はジメオンシュトラーセ)にあるマルクスの育った家(ドイツ語版)

一家は1820年にブリュッケンガッセ664番地の家を離れて同じトリーア市内のジメオンシュトラーセ(Simeonstraße)1070番地へ引っ越した。

マルクスが6歳の時の1824年8月、第8子のカロリーネが生まれたのを機にマルクス家兄弟はそろって父と同じプロテスタントに改宗している。母もその翌年の1825年に改宗した[7][26]。この時に改宗した理由は資料がないため不明だが、封建主義的なプロイセンの統治や1820年代の農業恐慌でユダヤ人の土地投機が増えたことで反ユダヤ主義が強まりつつある時期だったからかもしれない[27][28]。

マルクスが小学校教育を受けたという記録は今のところ発見されていない。父や父の法律事務所で働く修司生による家庭教育が初等教育の中心であったと見られる[29][3]。 マルクスの幼年時代についてもあまりよく分かっていない[3]。
トリーアのギムナジウム

1830年、12歳の時にトリーアのフリードリヒ・ヴィルヘルム・ギムナジウム(ドイツ語版)に入学した[30]。このギムナジウムは父ハインリヒも所属していたトリーアの進歩派の会合『カジノクラブ』のメンバーであるフーゴ・ヴィッテンバッハが校長を務めていたため、自由主義の空気があった[31][32][33]。

1830年にフランスで7月革命があり、ドイツでも自由主義が活気づいた。トリーアに近いハンバッハ(ドイツ語版)でも1832年に自由とドイツ統一を求める反政府派集会が開催された。これを警戒したプロイセン政府は反政府勢力への監視を強化し、ヴィッテンバッハ校長やそのギムナジウムも監視対象となった。1833年にはギムナジウムに警察の強制捜査が入り、ハンバッハ集会の文書を持っていた学生が一人逮捕された[31][33]。ついで1834年1月には父ハインリヒもライン県(ドイツ語版)県議会議員の集まりの席上でのスピーチが原因で警察の監視対象となり、地元の新聞は彼のスピーチを掲載することを禁止され、「カジノクラブ」も警察監視下に置かれた[34][35]。さらにギムナジウムの数学とヘブライ語の教師が革命的として処分され、ヴィッテンバッハ監視のため保守的な古典教師ロエルスが副校長として赴任してきた[33][36]。

マルクスは15歳から17歳という多感な時期にこうした封建主義の弾圧の猛威を間近で目撃したのだった。しかしギムナジウム在学中のマルクスが政治活動を行っていた形跡はない。唯一それらしき行動は卒業の際の先生への挨拶回りで保守的なロエルス先生のところには挨拶にいかなかったことぐらいである(父の手紙によるとロエルス先生のところへ挨拶に来なかった学生はマルクス含めて二人だけで先生は大変怒っていたという)[36]。

このギムナジウムでのマルクスの卒業免状や卒業試験が残っている[20]。それによれば卒業試験の結果は、宗教、ギリシャ語、ラテン語、古典作家の解釈で優秀な成績を収め、数学、フランス語、自然科学は普通ぐらいの成績だったという[37]。卒業免状の中の「才能及び熱意」の項目では「彼は良好な才能を有し、古代語、ドイツ語及び歴史においては非常に満足すべき、数学においては満足すべき、フランス語においては単に適度の熱意を示した」と書いてある[20]。この成績を見ても分かる通り、この頃のマルクスは文学への関心が強かった。当時のドイツの若者はユダヤ人詩人ハインリヒ・ハイネの影響でみな詩を作るのに熱中しており、ユダヤ人家庭の出身者ならなおさらであった。マルクスも例外ではなく、ギムナジウム卒業前後の将来の夢は詩人だったという[38]。

卒業論文は『職業選択に際しての一青年の考察』。「人間の職業は自由に決められる物ではなく、境遇が人間の思想を作り、そこから職業が決まってくる」という記述があり、ここにすでに唯物論の影響が見られるという指摘もある[39]。「われわれが人類のために最もよく働きうるような生活上の地位を選んだ時には、重荷は我々を押しつぶすことはできない。何故なら、それは万人のための犠牲だからである」という箇所については、E.H.カーは「マルクスの信念の中のとは言えないが、少なくとも彼の性格の中の多くのものが、彼の育ったところの、規律、自己否定、および公共奉仕という厳しい伝統を反映している」としている[40]。他方ヴィッテンバッハ校長は「思想の豊富さと材料の配置の巧みさは認めるが、作者(マルクス)はまた異常な隠喩的表現を誇張して無理に使用するという、いつもの誤りに陥っている。そのため、全体の作品は必要な明瞭さ、時として正確さに欠けている。これは個々の表現についても全体の構成についても言える」という評価を下し[41]、マルクスの悪筆について「なんといやな文字だろう」と書いている[42][注釈 3]。


ボン大学
1836年ボン大学学生時代のマルクス

1835年10月にボン大学に入学した[43]。大学では法学を中心としつつ、詩や文学、歴史の講義もとった[44][45]。大学入学から三カ月にして文学同人誌へのデビューを計画したが、父ハインリヒが「お前が凡庸な詩人としてデビューすることは嘆かわしい」と説得して止めた[46]。マルクスの作った詩はそれほど出来のいい物ではなかったという[44]。

また1835年に18歳になったマルクスはプロイセン陸軍(ドイツ語版)に徴兵される予定だったが、「胸の疾患」で兵役不適格となった。マルクスの父はマルクスに書簡を出して、医師に証明書を書いて兵役を免除してもらうことは良心の痛むようなことではない、と諭している[47]。

当時の大学では平民の学生は出身地ごとに同郷会を作っていた(貴族の学生は独自に学生会を作る)。マルクスも30人ほどのトリーア出身者から成る同郷会に所属したが、マルクスが入学したころ、政府による大学監視の目は厳しく、学生団体も政治的な話は避けるのが一般的で決闘ぐらいしかすることはなかったという。マルクスも貴族の学生と一度決闘して左目の上に傷を受けたことがあるという[48]。しかも学生に一般的だったサーベルを使っての決闘ではなく、ピストルでもって決闘したようである[49]。

全体的に素行不良な学生だったらしく、酔っぱらって狼藉を働いたとされて一日禁足処分を受けたり、上記の決闘の際にピストル不法所持で警察に一時勾留されたりもしている(警察からはピストルの出所について背後関係を調べられたが、特に政治的な背後関係はないとの調査結果が出ている)[50]。こうした生活で浪費も激しく、父ハインリヒは「まとまりも締めくくりもないカール流勘定」を嘆いたという[51]。

1836年夏にトリーアに帰郷した際にイェニー・フォン・ヴェストファーレン(ドイツ語版)と婚約した[52][53][44]。彼女の父ルートヴィヒ・フォン・ヴェストファーレン(ドイツ語版)は貴族であり、参事官としてトリーアに居住していた[54][55]。イェニーはマルクスより4歳年上で姉ゾフィーの友人だったが[56][57][51]、マルクスとも幼馴染の関係にあたり、幼い頃から「ひどい暴君」(イェニー)だった彼に惹かれていたという[58]。

貴族の娘とユダヤ人弁護士の息子では身分違いであり、イェニーも家族から反対されることを心配してマルクスとの婚約を1年ほど隠していた。しかし彼女の父ルートヴィヒは自由主義的保守派の貴族であり(「カジノクラブ」にも加入していた)、貴族的偏見を持たない人だったため、婚約を許してくれた[52][59][60]。
ベルリン大学
マルクス在学中から10年後の1850年のベルリン大学を描いた絵。

1836年10月にベルリン大学に転校した[61][62][63]。ベルリン大学は厳格をもって知られており、ボン大学で遊び歩くマルクスにもっとしっかり法学を勉強してほしいと願う父の希望での転校だった[62][64][65]。しかし、マルクス自身は、イェニーと疎遠になると考えて、この転校に乗り気でなかったという[66][67][65]。

同大学で受講した講義は、法学がほとんどで、詩に関する講義はとっていない[68][69]。だが、詩や美術史への関心は持ち続け、それにローマ法への関心が加わって、哲学に最も強い関心を持つようになった[62]。1837年と1838年の冬に病気をしたが、その時に療養地シュトラローで、ヘーゲル哲学[注釈 4]の最初の影響を受けた[73][74]。

以降ヘーゲル中央派に分類されつつもヘーゲル左派寄りのエドゥアルト・ガンスの授業を熱心に聴くようになった[75][76]。また、ブルーノ・バウアーやカール・フリードリヒ・ケッペン(ドイツ語版)、ルートヴィヒ・アンドレアス・フォイエルバッハ、アーノルト・ルーゲ、アドルフ・フリードリヒ・ルーテンベルク(ドイツ語版)らヘーゲル左派哲学者の酒場の集まり「ドクトル・クラブ(Doktorclub)」に頻繁に参加するようになり、その影響で一層ヘーゲル左派の思想に近づいた[77][78][79][80]。とりわけバウアーとケッペンから強い影響を受けた[81][82][83]。ちょうどこの時期は「ドクトル・クラブ」がキリスト教批判・無神論に傾き始めた時期だったが、マルクスはその中でも最左翼であったらしい[84][85]。

ベルリン大学時代にも放埓な生活を送り、多額の借金を抱えることとなった。これについて、父ハインリヒは、手紙の中で「裕福な家庭の子弟でも年500ターレル以下でやっているというのに、我が息子殿ときたら700ターレルも使い、おまけに借金までつくりおって」と不満の小言を述べている[86][87][88]。また、ハインリヒは、自分が病弱だったこともあり、息子には早く法学学位を取得して法律職で金を稼げるようになってほしかったのだが、哲学などという非実務的な分野にかぶれて法学を疎かにしていることが心配でならなかった[89]。

1838年5月10日に父ハインリヒが病死した。父の死によって、法学で身を立てる意思はますます薄くなり、大学に残って哲学研究に没頭したいという気持ちが強まった[90][91]。博士号を得て哲学者になることを望むようになり、古代ギリシャの哲学者エピクロスとデモクリトスの論文の執筆を開始した[84][78][92]。だが、母ヘンリエッテは、一人で7人の子供を養う身の上になってしまったため、長兄マルクスには早く卒業して働いてほしがっていた。しかし、マルクスは、新たな仕送りを要求するばかりだったので、母や姉ゾフィーと金銭をめぐって争うようになり、家族仲は険悪になっていった[91]。

1840年にキリスト教と正統主義思想の強い影響を受けるロマン主義者フリードリヒ・ヴィルヘルム4世がプロイセン王に即位し、保守的なヨハン・アルブレヒト・フォン・アイヒホルン(ドイツ語版)が文部大臣(ドイツ語版)に任命されたことで言論統制が強化された[93][78][94][注釈 5]。ベルリン大学にも1841年に反ヘーゲル派のフリードリヒ・シェリング教授が「不健全な空気を一掃せよ」という国王直々の命を受けて赴任してきた[93]。

そのようなこともあって、マルクスは、ベルリン大学に論文を提出することを避け、1841年4月6日に審査が迅速で知られるイェーナ大学に『デモクリトスとエピクロスとの自然哲学の差異(Differenz der Demokritischen und Epikureischen Naturphilosophie)』と題した論文を提出し、9日後の4月15日に同大学から哲学博士号を授与された[95]。この論文は文体と構造においてヘーゲル哲学に大きく影響されている一方、エピクロスの「アトムの偏差」論に「自己意識」の立場を認めるヘーゲル左派の思想を踏襲している[96][97][98][注釈 6]。
大学教授への道が閉ざされる
ブルーノ・バウアー。
若い頃のマルクスのヘーゲル左派・無神論仲間だったが、後にマルクスによって批判される。晩年は無神論や共産主義から離れた。

1841年4月に学位を取得した後、トリーアへ帰郷した[101][102]。大学教授になる夢を実現すべく、同年7月にボンへ移り、ボン大学で教授をしていたバウアーのもとを訪れる。バウアーの紹介で知り合ったボン大学教授連と煩わしがりながらも付き合うようになった[102]。しかしプロイセン政府による言論統制は強まっており、バウアーはすでに解任寸前の首の皮一枚だったため、マルクスとしてはバウアーの伝手は大して期待しておらず、いざという時には岳父ヴェスファーレンの伝手で大学教授になろうと思っていたようである(マルクスの学位論文の印刷用原稿にヴェストファーレンへの献辞がある)[103]。

ボンでのマルクスとバウアーは『無神論文庫』という雑誌の発行を計画したが、この計画はうまくいかなかった[104][102]。二人は夏の間、ボンで無頼漢のような生活を送った。飲んだくれ、教会で大声をだして笑い、ロバでボンの街中を走りまわった。そうした無頼漢生活の極めつけが匿名のパロディー本『ヘーゲル この無神論者にして反キリスト者に対する最後の審判のラッパ(Die Posaune des jüngsten Gerichts über Hegel, den Atheisten und Antichristen)』をザクセン王国ライプチヒで出版したことだった[105][104]。その内容は、敬虔なキリスト教徒が批判するというかたちでヘーゲルの無神論と革命性を明らかにするというもので、これは基本的にバウアーが書いた物であるが、マルクスも関係しているといわれる[102][104]。

やがてこの本を書いたのは敬虔なキリスト教信徒ではなく無神論者バウアーと判明し、したがってその意図も明らかとなった[105]。バウアーはすでに『共観福音書の歴史的批判』という反キリスト教著作のためにプロイセン政府からマークされていたが、そこへこのようなパロディー本を出版したことでいよいよ政府から危険視されるようになった。1842年3月にバウアーが大学で講義することは禁止された。これによってマルクスも厳しい立場に追い込まれた[104][105][106][107][108]。

マルクスのもう一つの伝手であった岳父ヴェストファーレンも同じころに死去し、マルクスの進路は大学も官職も絶望的となった[107]。
『ライン新聞』のジャーナリストとして
マルクスが編集長を務めていた『ライン新聞(ドイツ語版)』

1841年夏にアーノルト・ルーゲは検閲が比較的緩やかなザクセン王国の王都ドレスデンへ移住し、そこで『ドイツ年誌(Deutsch Jahrbücher)』を出版した。マルクスはケッペンを通じてルーゲに接近し、この雑誌にプロイセンの検閲制度を批判する論文を寄稿したが、ザクセン政府の検閲で掲載されなかった[109][110][102][111][注釈 7]。

ザクセンでも検閲が強化されはじめたことに絶望したマルクスは、『ドイツ年誌』への寄稿を断念し、彼の友人が何人か参加していたライン地方の『ライン新聞(ドイツ語版)』に目を転じた[111]。この新聞は1841年12月にフリードリヒ・ヴィルヘルム4世が新検閲令を発し、検閲を多少緩めたのを好機として1842年1月にダーゴベルト・オッペンハイム(ドイツ語版)やルドルフ・カンプハウゼン(ドイツ語版)らライン地方の急進派ブルジョワジーとバウアーやケッペンやルーテンベルクらヘーゲル左派が協力して創刊した新聞だった[113][114][115][116][117][注釈 8]。

同紙を実質的に運営していたのは社会主義者のモーゼス・ヘスだったが、彼はヘーゲル左派の新人マルクスに注目していた。当時のマルクスは社会主義者ではなかったから「私は社会主義哲学には何の関心もなく、あなたの著作も読んではいません」とヘスに伝えていたものの、それでもヘスはマルクスを高く評価し、「マルクス博士は、まだ24歳なのに最も深い哲学の知恵を刺すような機知で包んでいる。ルソーとヴォルテールとホルバッハとレッシングとハイネとヘーゲルを溶かし合わせたような人材である」と絶賛していた[119]。

マルクスは1842年5月にもボン(後にケルン)へ移住し、ヘスやバウアーの推薦で『ライン新聞』に参加し、論文を寄稿するようになった[120][121]。6月にプロイセン王を支持する形式をとって無神論の記事を書いたが、検閲官の目は誤魔化せず、この記事は検閲で却下された。また8月にも結婚の教会儀式に反対する記事を書いたのが検閲官に却下された。当時の新聞記事は無署名であるからマルクスが直接目を付けられる事はなかったものの、新聞に対する目は厳しくなった。最初の1年は試用期間だったが、それも終わりに近づいてきた10月に当局は『ライン新聞』に対して反政府・無神論的傾向を大幅に減少させなければ翌年以降の認可は出せない旨を通達した。またルーテンベルクを編集長から解任することも併せて求めてきた。マルクスは新聞を守るために当局の命令に従うべきと主張し、その意見に賛同した出資者たちからルーテンベルクに代わる新しい編集長に任じられた[122]。

このような経緯であったから新編集長マルクスとしては新聞を存続させるために穏健路線をとるしかなかった。まず検閲当局に対して「これまでの我々の言葉は、全てフリードリヒ大王の御言葉を引用することで正当化できるものですが、今後は必要に迫られた場合以外は宗教問題を取り扱わないとお約束いたします」という誓約書を提出した[123]。実際にマルクスはその誓約を守り、バウアー派の急進的・無神論的な主張を抑え続けた(これによりバウアー派との関係が悪くなった)[124][125]。プロイセン検閲当局も「マルクスが編集長になったことで『ライン新聞』は著しく穏健化した」と満足の意を示している[126][127]。

また7月革命後の1830年代のフランスで台頭した社会主義・共産主義思想が1840年代以降にドイツに輸出されてきていたが、当時のマルクスは共産主義者ではなく、あくまで自由主義者・民主主義者だったため、編集長就任の際に書いた論説の中で「『ライン新聞』は既存の共産主義には実現性を認めず、批判を加えていく」という方針を示した[128][129][130][131][注釈 9]。また「持たざる者と中産階級の衝突は平和的に解決し得ることを確信している」とも表明した[123]。

一方で法律や節度の範囲内での反封建主義闘争は止めなかった。ライン県議会で制定された木材窃盗取締法を批判したり[注釈 10]、ライン県(ドイツ語版)知事エドゥアルト・フォン・シャーパー(ドイツ語版)の方針に公然と反対するなどした[126]。

だがこの態度が災いとなった。検閲を緩めたばかりに自由主義新聞が増えすぎたと後悔していたプロイセン政府は、1842年末から検閲を再強化したのである。これによりプロイセン国内の自由主義新聞はほとんどが取り潰しにあった。国内のみならず隣国のザクセン王国にも圧力をかけてルーゲの『ドイツ年誌』も廃刊させる徹底ぶりだった[126][135]。マルクスの『ライン新聞』もプロイセンと神聖同盟を結ぶロシア帝国を「反動の支柱」と批判する記事を掲載したことでロシア政府から圧力がかかり、1843年3月をもって廃刊させられることなった[136][137][138][139]。

マルクス当人は政府におもねって筆を抑えることに辟易していたので、潰されてむしろすっきりしたようである。ルーゲへの手紙の中で「結局のところ政府が私に自由を返してくれたのだ」と政府に感謝さえしている[140]。また『ライン新聞』編集長として様々な時事問題に携わったことで自分の知識(特に経済)の欠如を痛感し、再勉強に集中する必要性を感じていた[141]。
結婚

年俸600ターレルの『ライン新聞』編集長職を失ったマルクスだったが、この後ルーゲから『独仏年誌(ドイツ語版)』をフランスかベルギーで創刊する計画を打ち明けられ、年俸850ターレルでその共同編集長にならないかという誘いを受けた。次の職を探さねばならなかったマルクスはこれを承諾した[142][143]。

ルーゲ達が『独仏年誌』創刊の準備をしている間の1843年6月12日、クロイツナハにおいて25歳のマルクスは29歳の婚約者イェニーと結婚した[144][145][146][147]。

前ヴェストファーレン家当主ルートヴィヒは自由主義的な人物で二人の婚約に反対しなかったが、今の当主フェルディナント(ドイツ語版)(イェニーの兄)は保守的な貴族主義者だったのでマルクスのことを「ユダヤのヘボ文士」「過激派の無神論者」と疎み、「そんなロクデナシと結婚して家名を汚すな」と結婚に反対した。他の親族も反対する者が多かった。だがイェニーの意思は変わらなかった[148][149]。

これについてマルクスは「私の婚約者は、私のために最も苦しい闘い ―天上の主とベルリンの主を崇拝する信心深い貴族的な親類どもに対する闘い― を戦ってくれた。そのためにほとんど健康も害したほどである」と述べている[149]。
フォイエルバッハの人間主義へ
ルートヴィヒ・フォイエルバッハ
マルクスは彼から人間主義的唯物論の影響を受けつつ、その人間観が経済的基礎に裏付けられていないと批判した。

マルクスの再勉強はヘーゲル批判から始まった[150]。その勉強の中で『キリスト教の本質(ドイツ語版)』(1841年)を著したフォイエルバッハの人間主義的唯物論から強い影響を受けるようになった。フォイエルバッハ以前の無神論者たちはまだ聖書解釈学の範疇から出ていなかったが、フォイエルバッハはそれを更に進めて神学を人間学にしようとした[151][152]。彼は「人間は個人としては有限で無力だが、類(彼は共同性を類的本質と考えていた[153])としては無限で万能である。神という概念は類としての人間を人間自らが人間の外へ置いた物に過ぎない」「つまり神とは人間である」「ヘーゲル哲学の言う精神あるいは絶対的な物という概念もキリスト教の言うところの神を難しく言い換えたに過ぎない」といった主張を行うことによって「絶対者」を「人間」に置き換えようとし、さらに「歴史の推進力は精神的なものではなく、物質的条件の総和であり、これがその中で生きている人間に思考し行動させる」として「人間」を「物質」と解釈した[154][155][156][157]。

マルクスはこの人間主義的唯物論に深く共鳴し、後に『聖家族』の中で「フォイエルバッハは、ヘーゲル哲学の秘密を暴露し、精神の弁証法を絶滅させた。つまらん『無限の自己意識』に代わり、『人間』を据え置いたのだ」と評価した[158]。マルクスはこの1843年に弁証法と市民社会階級の対立などの社会科学的概念のみ引き継いでヘーゲル哲学の観念的立場から離れ、フォイエルバッハの人間主義の立場に立つようになったといえる[159][160]。

マルクスは1843年3月から8月にかけて書斎に引きこもって『ヘーゲル国法論批判(Kritik des Hegelschen Staatsrechts)』の執筆にあたった[159][161]。これはフォイエルバッハの人間主義の立場からヘーゲルの国家観を批判したものである。ヘーゲルは「近代においては政治的国家と市民社会が分離しているが、市民社会は自分のみの欲求を満たそうとする欲望の体系であるため、そのままでは様々な矛盾が生じる。これを調整するのが国家であり、それを支えるのが優れた国家意識をもつ中間身分の官僚制度である。また市民社会は身分(シュタント)という特殊体系をもっており、これにより利己的な個人は他人と結び付き、国会(シュテンデ)を通じて国家の普遍的意志と結合する」と説くが[162]、これに対してマルクスは国家と市民社会が分離しているという議論には賛同しつつ[163]、官僚政治や身分や国会が両者の媒介役を務めるという説には反対した[164]。国家を主体化するヘーゲルに反対し、人間こそが具体物であり、国は抽象物に過ぎないとして「人間を体制の原理」とする「民主制」が帰結と論じ、「民主制のもとでは類(共同性)が実在としてあらわれる」と主張する。この段階では「民主制」という概念で語ったが、後にマルクスはこれを共産主義に置き換えて理解していくことになる[165]。
パリ在住時代

『独仏年誌』の発刊場所についてマルクスはフランス王国領ストラスブールを希望していたが、ルーゲやヘスたちは検閲がフランスよりも緩めなベルギー王国王都ブリュッセルを希望した。しかし最終的には印刷環境がよく、かつドイツ人亡命者が多いフランス王都パリに定められた[166][167][168]。

こうしてマルクスは1843年10月から新妻とともにパリへ移住し、ルーゲが用意したフォーブール・サンジェルマン(フランス語版)の共同住宅でルーゲとともに暮らすようになった[169][170]。
「人間解放」
『独仏年誌(ドイツ語版)』に掲載された『ヘーゲル法哲学批判序説(ドイツ語版)』
この著作からマルクスは「非人間」のプロレタリアート階級を中心にした「人間解放」を訴えるようになった。

1844年2月に『独仏年誌』1号2号の合併号が出版された。マルクスとルーゲのほか、ヘスやハイネ、エンゲルスが寄稿した[171][172][173]。このうち著名人といえる者はハイネのみだった。ハイネはパリ在住時代にマルクスが親しく付き合っていたユダヤ人の亡命詩人であり、その縁で一篇の詩を寄せてもらったのだった[172][173][注釈 11]。エンゲルスは父が共同所有するイギリスの会社で働いていたブルジョワの息子だった。マルクスが『ライン新聞』編集長をしていた1842年11月に二人は初めて知り合い、以降エンゲルスはイギリスの社会状況についての論文を『ライン新聞』に寄稿するようになっていた[175][176]。エンゲルスは当時全くの無名の人物だったが、誌面を埋めるために論文を寄せてもらった[173]。マルクスは尊敬するフォイエルバッハにも執筆を依頼していたが、断られている[177]。

マルクス自身はこの創刊号にルーゲへの手紙3通と『ユダヤ人問題によせて』と『ヘーゲル法哲学批判序説(ドイツ語版)』という2つの論文を載せている[178][177][139]。この中でマルクスは「ユダヤ人はもはや宗教的人種的存在ではなく、隣人から被った扱いによって貸金業その他職業を余儀なくされている純然たる経済的階級である。だから彼らは他の階級が解放されて初めて解放される。大事なことは政治的解放(国家が政治的権利や自由を与える)ではなく、市民社会からの人間的解放だ。」[179][180]、「哲学が批判すべきは宗教ではなく、人々が宗教という阿片に頼らざるを得ない人間疎外の状況を作っている国家、市民社会、そしてそれを是認するヘーゲル哲学である」[181]、「今や先進国では近代(市民社会)からの人間解放が問題となっているが、ドイツはいまだ前近代の封建主義である。ドイツを近代の水準に引き上げたうえ、人間解放を行うためにはどうすればいいのか。それは市民社会の階級でありながら市民から疎外されているプロレタリアート階級が鍵となる。この階級は市民社会の他の階級から自己を解放し、さらに他の階級も解放しなければ人間解放されることがないという徹底的な非人間状態に置かれているからだ。この階級はドイツでも出現し始めている。この階級を心臓とした人間解放を行え」といった趣旨のことを訴えた[182][183][184][185]。こうしていよいよプロレタリアートに注目するようになったマルクスだが、一方で既存の共産主義にはいまだ否定的な見解を示しており、この段階では人間解放を共産革命と想定していたわけではないようである。もっともローレンツ・フォン・シュタインが紹介した共産主義者の特徴「プロレタリアートを担い手とする社会革命」と今やほとんど類似していた[186]。

しかし結局『独仏年誌』はハイネの詩が載っているということ以外、人々の関心をひかなかった[187]。当時パリには10万人のドイツ人がいたが、そのうち隅から隅まで読んでくれたのは一人だけだった。まずいことにそれは駐フランス・プロイセン大使だった。大使は直ちにこの危険分子たちのことをベルリン本国に報告した[188]。この報告を受けてプロイセン政府は国境で待ち伏せて、プロイセンに送られてきた『独仏年誌』を全て没収した(したがってこれらの分は丸赤字)。さらに「マルクス、ルーゲ、ハイネの三名はプロイセンに入国次第、逮捕する」という声明まで出された[189][190][191]。

スイスにあった出版社は赤字で倒産し、『独仏年誌』は創刊号だけで廃刊せざるをえなくなった[192][193][194][191]。マルクスはルーゲが金の出し惜しみをしたせいで廃刊になったと考え、ルーゲを批判した[195]。そのため二人の関係は急速に悪化し、ルーゲはマルクスを「恥知らずのユダヤ人」、マルクスはルーゲを「山師」と侮辱しあうようになった。二人はこれをもって絶縁した。後にマルクスもルーゲもロンドンで30年暮らすことになるが、その間も完全に没交渉だった[196]。


そして共産主義へ
フリードリヒ・エンゲルス(1840年頃)。
1844年に『聖家族』を共著してから親しくなり、以降生涯を通じて最も近しいパートナーとなった。

マルクスは『独仏年誌』に寄稿された論文のうち、エンゲルスの『国民経済学批判大綱(Umrisse zu einer Kritik der Nationalökonomie)』に強い感銘を受けた[197][198]。エンゲルスはこの中でイギリス産業に触れた経験から私有財産制やそれを正当化するアダム・スミス、リカード、セイなどの国民経済学(古典派経済学)を批判した[199]。

これに感化されたマルクスは経済学や社会主義、フランス革命についての研究を本格的に行うようになった。アダム・スミス、リカード、セイ、ジェームズ・ミル等の国民経済学者の本、またサン=シモン、フーリエ、プルードン等の社会主義者の本を読み漁った[197]。この時の勉強のノートや草稿の一部をソ連のマルクス・エンゲルス・レーニン研究所が1932年に編纂して出版したのが『経済学・哲学草稿(ドイツ語版)』である[200][201]。その中でマルクスは「国民経済学者は私有財産制の運動法則を説明するのに労働を生産の中枢と捉えても、労働者を人間としては認めず、労働する機能としか見ていない」点を指摘する[202]。またこれまでマルクスは「類としての人間」の本質をフォイエルバッハの用法そのままに「共同性・普遍性」という意味で使ってきたが、経済学的見地から「労働する人間」と明確に規定するようになった[203][204]。「生産的労働を行って、人間の類的本質を達成することが人間の本来的あり方」「しかし市民社会では生産物は労働者の物にはならず、労働をしない資本家によって私有・独占されるため、労働者は自己実現できず、疎外されている」と述べている[205][206]。またこの中でマルクスはいよいよ自分の立場を共産主義と定義するようになった[207]。

1844年8月から9月にかけての10日間エンゲルスがマルクス宅に滞在し、2人で最初の共著『聖家族』を執筆を約束する。これ以降2人は親しい関係となった[208][209]。この著作はバウアー派を批判したもので、「完全なる非人間のプロレタリアートにこそ人間解放という世界史的使命が与えられている」「しかしバウアー派はプロレタリアートを侮蔑して自分たちの哲学的批判だけが進歩の道だと思っている。まことにおめでたい聖家族どもである」「ヘーゲルの弁証法は素晴らしいが、一切の本質を人間ではなく精神に持ってきたのは誤りである。神と人間が逆さまになっていたように精神と人間が逆さまになっている。だからこれをひっくり返した新しい弁証法を確立せねばならない」と訴えた[210]。

また1844年7月にルーゲが『フォールヴェルツ(ドイツ語版)』誌にシュレージエンで発生した織り工の一揆について「政治意識が欠如している」と批判する匿名論文を掲載したが、これに憤慨したマルクスはただちに同誌に反論文を送り、「革命の肥やしは政治意識ではなく階級意識」としてルーゲを批判し、シュレージエンの一揆を支持した[211][212][213]。マルクスはこれ以外にも23もの論文を同誌に寄稿した[214]。

しかしこの『フォールヴェルツ』誌は常日頃プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世を批判していたため、プロイセン政府から目を付けられていた。プロイセン政府はフランス政府に対して同誌を取り締まるよう何度も圧力をかけており、ついに1845年1月、フランス外務大臣フランソワ・ギゾーは、内務省を通じてマルクスはじめ『フォールヴェルツ』に寄稿している外国人を国外追放処分とした[215][216][214][217][218]。

こうしてマルクスはパリを去らねばならなくなった。パリ滞在は14か月程度であったが、マルクスにとってこの時期は共産主義思想を確立する重大な変化の時期となった[219]。
ブリュッセル在住時代

マルクス一家は1845年2月にパリを離れ、ベルギー王都ブリュッセルに移住した[220][221]。ベルギー王レオポルド1世は政治的亡命者に割と寛大だったが、それでもプロイセン政府に目を付けられているマルクスがやって来ることには警戒した。マルクスはベルギー警察の求めに応じて「ベルギーに在住する許可を得るため、私は現代の政治に関するいかなる著作もベルギーにおいては出版しないことを誓います。」という念書を提出した[216][222]。しかし、マルクスはこの確約は政治に参加しないことを意味するものではないと解釈し、以後も政治的な活動を続けた[223]。またプロイセン政府はベルギー政府にも強い圧力をかけてきたため、マルクスは「北アメリカ移住のため」という名目でプロイセン国籍を正式に離脱した。以降マルクスは死ぬまで無国籍者であった[224]。

ブリュッセルにはマルクス以外にもドイツからの亡命社会主義者が多く滞在しており、ヘス、詩人フェルディナント・フライリヒラート、元プロイセン軍将校のジャーナリストであるヨーゼフ・ヴァイデマイヤー(ドイツ語版)、学校教師のヴィルヘルム・ヴォルフ(ドイツ語版)、マルクスの義弟エドガー・フォン・ヴェストファーレン(ドイツ語版)などがブリュッセルを往来した[225]。1845年4月にはエンゲルスもブリュッセルへ移住してきた[226]。この頃からエンゲルスに金銭援助してもらうようになる[227]。
唯物史観と剰余価値理論の確立

1845年夏からエンゲルスとともに『ドイツ・イデオロギー』を共著したが、出版社を見つけられず、この作品は二人の存命中には出版されることはなかった[228][229][230]。この著作の中でマルクスとエンゲルスは「西欧の革新的な哲学も封建主義的なドイツに入ると頭の中だけの哲学的空論になってしまう。大事なのは実践であり革命」と訴え、バウアーやフォイエルバッハらヘーゲル後の哲学者、またヘスやカール・グリューンら「真正社会主義者」[注釈 12]に批判を加えている[232][233]。マルクスは同じころに書いたメモ『フォイエルバッハに関するテーゼ』の中でもフォイエルバッハ批判を行っており、その中で「生産と関連する人間関係が歴史の基礎であり、宗教も哲学も道徳も全てその基礎から生まれた」と主張し、マルクスの最大の特徴ともいうべき唯物史観を萌芽させた[234]。

さらに1847年には『哲学の貧困』を著した。これはプルードンの著作『貧困の哲学(仏:Système des contradictions économiques ou Philosophie de la misère)』を階級闘争の革命を目指さず、漸進主義ですませようとしている物として批判したものである[235]。この中でマルクスは「プルードンは労働者の賃金とその賃金による労働で生産された生産物の価値が同じだと思っているようだが、実際には賃金の方が価値が低い。低いから労働者は生産物と同じ価値の物を手に入れられない。したがって労働者は働いて賃金を得れば得るほど貧乏になっていく。つまり賃金こそが労働者を奴隷にしている」と主張し、剰余価値理論を萌芽させた[236]。また「生産力が増大すると人間の生産様式は変わる。生産様式が変わると社会生活の様式も変わる。思想や社会関係もそれに合わせて変化していく。古い経済学はブルジョワ市民社会のために生まれた思想だった。そして今、共産主義が労働者階級の思想となり、市民社会を打ち倒すことになる」と唯物史観を展開して階級闘争の必然性を力説する[237]。そして「プルードンは、古い経済学と共産主義を両方批判し、貧困な弁証法哲学で統合しようとする小ブルジョアに過ぎない」と結論している[238]。

1847年末にはドイツ労働者協会の席上で労働者向けの講演を行ったが、これが1849年に『新ライン新聞』上で『賃金労働と資本(ドイツ語版)』としてまとめられるものである。その中で剰余価値理論(この段階ではまだ剰余価値という言葉を使用していないが)をより後の『資本論』に近い状態に発展させた。「賃金とは労働力という商品の価格である。本来労働は、人間自身の生命の活動であり、自己実現なのだが、労働者は他に売るものがないので生きるためにその力を売ってしまった。したがって彼の生命力の発現の労働も、その成果である生産物も彼の物ではなくなっている(労働・生産物からの疎外)。」[239]、「商品の価格は、その生産費、つまり労働時間によってきまる。労働力という商品の価格(賃金)も同様である。労働力の生産費、つまり生活費で決まる」[240]、「資本家は労働力を購入して、そしてその購入費以上に労働をさせて労働力を搾取することで資本を増やす。資本が増大すればブルジョワの労働者への支配力も増す。賃金労働者は永久に資本に隷従することになる。」といった主旨のことを述べている[241]。
共産主義者同盟の結成と『共産党宣言』
共産主義者同盟の綱領として書かれた革命実践の小冊子『共産党宣言』

パリ時代のマルクスは革命活動への参加に慎重姿勢を崩さなかったが、唯物史観から「プロレタリア革命の必然性」を確信するようになった今、マルクスに革命を恐れる理由はなかった。「現在の問題は実践、つまり革命である」と語るようになった[242]。

1846年2月にはエンゲルス、ヘス、義弟エドガー・フォン・ヴェストファーレン(ドイツ語版)、フェルディナント・フライリヒラート、ヨーゼフ・ヴァイデマイヤー(ドイツ語版)、ヴィルヘルム・ヴァイトリング、ヘルマン・クリーゲ(ドイツ語版)、エルンスト・ドロンケ(ドイツ語版)らとともにロンドンのドイツ人共産主義者の秘密結社「正義者同盟」との連絡組織として「共産主義通信委員会」をブリュッセルに創設している[243][244][245]。しかしマルクスの組織運営は独裁的と批判される。創設してすぐにヴァイトリングとクリーゲを批判して除名する。そのあとすぐモーゼス・ヘスが除名される前に辞任した。マルクスは瞬く間に「民主的な独裁者」の悪名をとるようになる[246][247]。その一方、マルクスはフランスのプルードンに参加を要請したが、「運動の最前線にいるからといって、新たな不寛容の指導者になるのはやめましょう」と断られている。この数カ月後にマルクスは上記の『哲学の貧困』でプルードン批判を開始する[248]。

新たな参加者が現れず、停滞気味の中の1847年1月、ロンドン正義者同盟のマクシミリアン・ヨーゼフ・モル(ドイツ語版)がマルクスのもとを訪れ、マルクスの定めた綱領の下で両組織を合同させることを提案した。マルクスはこれを許可し、6月のロンドンでの大会で共産主義通信委員会は正義者同盟と合同し、国際秘密結社「共産主義者同盟 (1847年)」を結成することを正式に決議した[249][250]。またマルクスの希望でプルードン、ヴァイトリング、クリーゲの三名を「共産主義の敵」とする決議も出された[251]。

合同によりマルクスは共産主義者同盟ブリュッセル支部長という立場になった[251]。11月にロンドンで開催された第二回大会に出席し、同大会から綱領作成を一任されたマルクスは1848年の2月革命直前までに小冊子『共産党宣言』を完成させた[252][253]。一応エンゲルスとの共著となっているが、ほとんどマルクスが一人で書いたものだった[254]。

この『共産党宣言』は「一匹の妖怪がヨーロッパを徘徊している。共産主義という名の妖怪が」という有名な序文で始まる。ついで第一章冒頭で「これまでに存在したすべての社会の歴史は階級闘争の歴史である」と定義し、第一章と第二章でプロレタリアが共産主義革命でブルジョワを打倒することは歴史的必然であると説く[255][256]。さらに第三章では「似非社会主義・共産主義」を批判する[注釈 13]。そして最終章の第四章で具体的な革命の行動指針を定めているが、その中でマルクスは、封建主義的なドイツにおいては、ブルジョワが封建主義を打倒するブルジョワ革命を目指す限りはブルジョワに協力するが、その場合もブルジョワへの対立意識を失わず、封建主義体制を転覆させることに成功したら、ただちにブルジョワを打倒するプロレタリア革命を開始するとしている[258]。そして最後は以下の有名な言葉で締めくくった。

共産主義者はこれまでの全ての社会秩序を暴力的に転覆することによってのみ自己の目的が達成されることを公然と宣言する。支配階級よ、共産主義革命の前に恐れおののくがいい。プロレタリアは革命において鎖以外に失う物をもたない。彼らが獲得する物は全世界である。万国のプロレタリアよ、団結せよ[259]。

1848年革命をめぐって
1848年革命のヨーロッパ。

1847年の恐慌による失業者の増大でかねてから不穏な空気が漂っていたフランス王都パリで1848年2月22日に暴動が発生し、24日にフランス王ルイ・フィリップが王位を追われて共和政政府が樹立される事件が発生した(2月革命)[260][261][注釈 14]。この2月革命の影響は他のヨーロッパ諸国にも急速に波及した。全ヨーロッパで自由主義・民主主義・社会主義・共産主義・ナショナリズム・民族統一運動など「進歩思想」が燃え上がった。これを1848年革命と呼ぶ。

ドイツ連邦議会(ドイツ語版)議長国であるオーストリア帝国の帝都ウィーンでは3月13日に学生や市民らの運動により宰相クレメンス・フォン・メッテルニヒが辞職してイギリスに亡命することを余儀なくされ、皇帝フェルディナント1世も一時ウィーンを離れる事態となった。オーストリア支配下のハンガリーやボヘミア、北イタリアでは民族運動が激化。イタリア諸国のイタリア統一運動も刺激された[265]。プロイセン王都ベルリンでも3月18日に市民が蜂起し、翌19日には国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世が国王軍をベルリン市内から退去させ、自ら市民軍の管理下に入り、自由主義内閣の組閣、憲法の制定、プロイセン国民議会(ドイツ語版)の創設、ドイツ統一運動に承諾を与えた[266][267]。他のドイツ諸邦でも次々と同じような蜂起が発生した[268]。そして自由都市フランクフルト・アム・マインにドイツ統一憲法を制定するためのドイツ国民議会(フランクフルト国民議会)が設置されるに至った[269]。こうしたドイツにおける1848年革命は「3月革命」と呼ばれる。
ベルギー警察に逮捕される

マルクスは、2月革命後にフランス臨時政府のメンバーとなっていたフェルディナン・フロコン(フランス語版)から「ギゾーの命令は無効になったからパリに戻ってこい」という誘いを受けた[270][271][272]。マルクスはこれ幸いと早速パリに向かう準備を開始した[273][271]。

その準備中の3月3日、革命の波及を恐れていたベルギー王レオポルド1世からの「24時間以内にベルギー国内から退去し、二度とベルギーに戻るな」という勅命がマルクスのもとに届けられた[274]。いわれるまでもなくベルギーを退去する予定のマルクスだったが、3月4日に入った午前1時、ベルギー警察が寝所にやってきて逮捕された[275]。町役場の留置場に入れられたが、「訳の分からないことを口走る狂人」と同じ監房に入れられ、一晩中その「狂人」の暴力に怯えながら過ごす羽目になったという[273]。同日早朝、マルクスとの面会に訪れた妻イェニーも身分証を所持していないとの理由で「放浪罪」容疑で逮捕された[276]。

マルクス夫妻の逮捕についてベルギー警察を批判する意見もあるが、妻イェニーは「ブリュッセルのドイツ人労働者は武装することを決めていました。そのため短剣やピストルをかき集めていました。カールはちょうど遺産を受け取った頃だったので、喜んでその金を武器購入費として提供しました。(ベルギー)政府はそれを謀議・犯罪計画と見たのでしょう。マルクスは逮捕されなければならなかったのです。」と証言している[276][277]。

3月4日午後3時にマルクスとイェニーは釈放され、警察官の監視のもとで慌ただしくフランスへ向けて出国することになった。その道中の列車内は革命伝染阻止のために出動したベルギー軍人で溢れかえっていたという。列車はフランス北部の町ヴァランシエンヌで停まり、マルクス一家はそこから乗合馬車でパリに向かった[276]。
共産主義者同盟をパリに移す
1848年のパリ

3月5日にパリに到着したマルクスは翌6日にも共産主義者同盟の中央委員会をパリに創設した。議長にはマルクスが就任し、エンゲルス、カール・シャッパー、モル、ヴォルフ、ドロンケらが書記・委員を務めた[278][279]。議長マルクスはメンバーに赤いリボンを付けることを決議して組織の団結力を高めたが、共産主義者同盟は秘密結社であるから、この名前で活動するわけにもいかず、表向きの組織として「ドイツ労働者クラブ」も結成した[280]。

3月21日にはエンゲルスとともに17カ条から成る『ドイツにおける共産党の要求』を発表した。ブルジョワとの連携を意識して『共産党宣言』よりも若干マイルドな内容になっている[281][注釈 15]。

マルクスは革命のために必要なのは詩人や教授の部隊ではなく、プロパガンダと扇動だと考えていた[283]。しかし在パリ・ドイツ人労働者には即時行動したがる者が多く、ゲオルク・ヘルヴェークとアデルベルト・フォン・ボルンシュテット(ドイツ語版)の「パリでドイツ人労働者軍団を組織してドイツへ進軍する」という夢想的計画が人気を集めていた。フランス臨時政府も物騒な外国人労働者たちをまとめて追い出すチャンスと見てこの計画を積極的に支援した。一方マルクスは「馬鹿げた計画はかえってドイツ革命を阻害する。在パリ・ドイツ人労働者をみすみす反動政府に引き渡しに行くようなものだ」としてこの計画に強く反対した[284][283][272]。ヘルヴェークとボルンシュテットが「黒赤金同盟」を結成すると、マルクスはこれを自分の共産主義者同盟に対抗するものと看做し、ボルンシュテットを共産主義者同盟から除名した(ヘルヴェークはもともと共産主義者同盟のメンバーではなかった)[285]。結局この二人は4月1日から数百人のドイツ人労働者軍団を率いてドイツ国境を越えて進軍するも、バーデン軍の反撃を受けてあっというまに武装解除されてしまう[284][283][286]。

マルクスはこういう国外で労働者軍団を編成してドイツへ攻め込むというような冒険的計画には反対だったが、革命扇動工作員を個別にドイツ各地に送り込み、その地の革命を煽動させることには熱心だった[287]。マルクスの指示のもと、3月下旬から4月上旬にかけて共産主義者同盟のメンバーが次々とドイツ各地に工作員として送りこまれた[288]。フロコンの協力も得て最終的には300人から400人を送りこむことに成功した[287]。エンゲルスは父や父の友人の資本家から革命資金を募ろうとヴッパータールに向かった[289]。
ケルン移住と『新ライン新聞』発行
『新ライン新聞』1848年6月19日号

マルクスとその家族は4月上旬にプロイセン領ライン地方ケルンに入った[289]。

革命扇動を行うための新たな新聞の発行準備を開始したが、苦労したのは出資者を募ることだった。ヴッパータールへ資金集めにいったエンゲルスはほとんど成果を上げられずに戻ってきた[290][291]。結局マルクス自らが駆け回って4月中旬までには自由主義ブルジョワの出資者を複数見つけることができた[290][286]。

新たな新聞の名前は『新ライン新聞』と決まった。創刊予定日は当初7月1日に定められていたが、封建勢力の反転攻勢を阻止するためには一刻の猶予も許されないと焦っていたマルクスは、創刊日を6月1日に早めさせた[292][286]。

同紙はマルクスを編集長として、エンゲルスやシャッパー、ドロンケ、フライリヒラート、ヴォルフなどが編集員として参加した[290][292]。しかしマルクスは同紙の運営も独裁的に行い、ステファン・ボルン(ドイツ語版)からは「どんなに暴君に忠実に仕える臣下であってもマルクスの無秩序な専制にはついていかれないだろう」と評された。マルクスの独裁ぶりは親友のエンゲルスからさえも指摘された[292][注釈 16]。

同紙は「共産主義の機関紙」ではなく「民主主義の機関紙」と銘打っていたが、これは出資者への配慮、また封建主義打倒まではブルジョワ自由主義と連携しなければいけないという『共産党宣言』で示した方針に基づく戦術だった[294][295][296]。

プロレタリア革命の「前段階」たるブルジョワ革命を叱咤激励しながら、「大問題・大事件が発生して全住民を闘争に駆り立てられる状況になった時のみ蜂起は成功する」として時を得ないで即時蜂起を訴える意見は退けた。またドイツ統一運動も支援し、フランクフルト国民議会にも参加していく方針を示した[297]。マルクスは国境・民族を越える人であり、民族主義者ではないが、ドイツの「政治的後進性」は小国家分裂状態によってもたらされていると見ていたのである[298]。外交面ではポーランド人やイタリア人、ハンガリー人の民族運動を支持した。また「革命と民族主義を蹂躙する反動の本拠地ロシアと戦争することが(革命や民族主義を蹂躙してきた)ドイツの贖罪であり、ドイツの専制君主どもを倒す道でもある」としてロシアとの戦争を盛んに煽った[299]。
革命の衰退
パリの6月蜂起でフランス軍に殲滅された蜂起労働者たちの死体を描いた絵画

しかし革命の機運は衰えていく一方だった。「反動の本拠地」ロシアにはついに革命が波及しなかったし、4月10日にはイギリスでチャーティスト運動が抑え込まれた[300]。6月23日にはフランス・パリで労働者の蜂起が発生するも(6月蜂起)、ルイ=ウジェーヌ・カヴェニャック将軍率いるフランス軍によって徹底的に鎮圧された[300][286]。この事件はヨーロッパ各国の保守派を勇気づけ、保守派の本格的な反転攻勢の狼煙となった[296][301]。ヨーゼフ・フォン・ラデツキー元帥率いるオーストリア軍がロンバルディア(北イタリア)に出動してイタリア民族運動を鎮圧することに成功し、オーストリアはヨーロッパ保守大国の地位を取り戻した[302]。プロイセンでは革命以来ルドルフ・カンプハウゼン(ドイツ語版)やダーヴィト・ハンゼマン(ドイツ語版)の自由主義内閣が発足していたが、彼らもどんどん封建主義勢力と妥協的になっていた[303]。5月から開催されていたフランクフルト国民議会も夏の間、不和と空回りした議論を続け、ドイツ統一のための有効な手を打てなかった[295]。

革命の破局の時が迫っていることに危機感を抱いたマルクスは、『新ライン新聞』で「ハンゼマンの内閣は曖昧な矛盾した任務を果たしていく中で、今ようやく打ち立てられようとしているブルジョワ支配と内閣が反動封建分子に出し抜かれつつあることに気づいているはずだ。このままでは遠からず内閣は反動によって潰されるだろう。ブルジョワはもっと民主主義的に行動し、全人民を同盟者にするのでなければ自分たちの支配を勝ち取ることなどできないということを自覚せよ」「ベルリン国民議会は泣き言を並べ、利口ぶってるだけで、なんの決断力もない」「ブルジョワは、最も自然な同盟者である農民を平気で裏切っている。農民の協力がなければブルジョワなど貴族の前では無力だということを知れ」とブルジョワの革命不徹底を批判した[304]。

マルクスの『新ライン新聞』に対する風当たりは強まっていき、7月7日には検察官侮辱の容疑でマルクスの事務所に強制捜査が入り、起訴された[305]。だがマルクスは立場を変えようとしなかったので、9月25日にケルンに戒厳令が発せられた際に軍司令官から新聞発行停止命令を受けた。シャッパーやベッカーが逮捕され、エンゲルスにも逮捕状が出たが、彼は行方をくらました。新聞の出資者だったブルジョワ自由主義者もこの頃までにほとんどが逃げ出していた[306]。

10月12日に戒厳令が解除されるとマルクスはただちに『新ライン新聞』を再発行した。ブルジョワが逃げてしまったので、マルクスは将来の遺産相続分まで含めた自分の全財産を投げ打って同紙を個人所有し、何とか維持させた。

しかし革命派の戦況はまずます絶望的になりつつあった。10月16日にオーストリア帝都ウィーンで発生した市民暴動は同月末までにヴィンディシュ=グレーツ伯爵率いるオーストリア軍によって蹴散らされた。またこの際ウィーンに滞在中だったフランクフルト国民議会の民主派議員ローベルト・ブルム(ドイツ語版)が見せしめの即決裁判で処刑された[307]。プロイセンでも11月1日に保守派のフリードリヒ・ヴィルヘルム・フォン・ブランデンブルク伯爵が宰相に就任し、11月10日にはフリードリヒ・フォン・ヴランゲル元帥率いるプロイセン軍がベルリンを占領して市民軍を解散させ、プロイセン国民議会も停会させた[308]。
武装闘争とプロイセンからの追放
1849年5月18日に赤刷りで出した『新ライン新聞』最終号

プロイセン国民議会は停会する直前に納税拒否を決議した[309][310]。マルクスはこの納税拒否の決議をあくまで推進しようと、11月18日に「民主主義派ライン委員会」の決議として「強制的徴税はいかなる手段を用いてでも阻止せねばならず、(徴税に来る)敵を撃退するために武装組織を編成せよ」という宣言を出した[311][312][313]。

フェルディナント・ラッサールがデュッセルドルフでこれに呼応するも、彼は11月22日に反逆容疑で逮捕された[314]。マルクスも反逆を煽動した容疑で起訴され、1849年2月8日に陪審制の裁判にかけられた[314]。マルクスは「暴動を示唆」したことを認めていたが、陪審員には反政府派が多かったため、「国民議会の決議を守るために武装組織の編成を呼び掛けただけであり、合憲である」として全員一致でマルクスを無罪とした[311]。

この無罪判決のおかげで『新ライン新聞』はその後もしばらく活動できたが、軍からの警戒は強まった。3月2日には軍人がマルクスの事務所にやってきてサーベルを抜いて脅迫してきたが、マルクスは拳銃を見せて追い払った。エンゲルスは後年に「8000人のプロイセン軍が駐屯するケルンで『新ライン新聞』を発行できたことをよく驚かれたものだが、これは『新ライン新聞』の事務所に8丁の銃剣と250発の弾丸、ジャコバン派の赤い帽子があったためだ。強襲するのが困難な要塞と思われていたのだ」と語っている[315]。

5月にフランクフルト国民議会の決議したドイツ帝国憲法とドイツ帝冠をプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世が拒否したことで、ドイツ中の革命派が再び蜂起した。とりわけバーデン大公国とバイエルン王国領プファルツ地方で発生した武装蜂起は拡大した。亡命を余儀なくされたバーデン大公はプロイセン軍に鎮圧を要請し、これを受けてプロイセン皇太弟ヴィルヘルム(後のプロイセン王・ドイツ皇帝ヴィルヘルム1世)率いるプロイセン軍が出動した[316][317]。

革命の機運が戻ってきたと見たマルクスは『新ライン新聞』で各地の武装蜂起を嬉々として報じた[318]。これがきっかけで5月16日にプロイセン当局より『新ライン新聞』のメンバーに対して国外追放処分が下され、同紙は廃刊を余儀なくされた。マルクスは5月18日の『新ライン新聞』最終号を赤刷りで出版し、「我々の最後の言葉はどこでも常に労働者階級の解放である!」と締めくくった[318][319][320]。マルクスは全ての印刷機や家具を売り払って『新ライン新聞』の負債の清算を行ったが、それによって一文無しとなった[318][320]。

パリ亡命を決意したマルクスは、エンゲルスとともにバーデン・プファルツ蜂起の中心地であるカイザースラウテルンに向かい、そこに作られていた臨時政府からパリで「ドイツ革命党」代表を名乗る委任状をもらった。そこからの帰途、二人はヘッセン大公国軍に逮捕されるも、まもなくフランクフルト・アム・マインで釈放された[321]。マルクスはそのままパリへ亡命したが、エンゲルスは逃亡を嫌がり、バーデンの革命軍に入隊し、武装闘争に身を投じた[321][322][323]。
フランスを経てイギリスへ

6月初旬に「プファルツ革命政府の外交官」と称して偽造パスポートでフランスに入国。パリのリール通り(フランス語版)に居住し、「ランボス」という偽名で文無しの潜伏生活を開始した[324]。ラッサールやフライリヒラートから金の無心をして生計を立てた[325]。

この頃のフランスはナポレオンの甥にあたるルイ・ナポレオン・ボナパルト(後のフランス皇帝ナポレオン3世)が大統領を務めていた[326]。ルイ・ボナパルトはカトリック保守の秩序党(フランス語版)の支持を得て、教皇のローマ帰還を支援すべく、対ローマ共和国戦争を遂行していたが、左翼勢力がこれに反発し、6月13日に蜂起が発生した。しかしこの蜂起はフランス軍によって徹底的に鎮圧され、フランスの左翼勢力は壊滅的な打撃を受けた(6月事件)[327][328]。

この事件の影響でフランス警察の外国人監視が強まり、偽名で生活していたマルクスも8月16日にパリ行政長官からモルビアン県へ退去するよう命令を受けた。マルクス一家は命令通りにモルビアンへ移住したが、ここはポンティノ湿地(フランス語版)の影響でマラリアが流行していた。このままでは自分も家族も病死すると確信したマルクスは、「フランス政府による陰険な暗殺計画」から逃れるため、フランスからも出国する覚悟を固めた[329]。

ドイツ諸国やベルギーには戻れないし、スイスからも入国を拒否されていたマルクスを受け入れてくれる国はイギリス以外にはなかった[329]。
ロンドン在住時代
ディーン通りで赤貧生活
マルクスが暮らしていたディーン通り(英語版)28番地の住居。マルクスのブルー・プラークが入っている。

ラッサールら友人からの資金援助でイギリスへの路銀を手に入れると[330]、1849年8月27日に船に乗り、イギリスに入国した[331]。この国がマルクスの終生の地となるが、入国した時には一時的な避難場所のつもりだったという[332]。

イギリスに到着したマルクスは早速ロンドンでキャンバーウェル(英語版)にある家具付きの立派な家を借りたが、家賃を払えるあてもなく、1850年4月にも家は差し押さえられてしまった[333]。

これによりマルクス一家は貧困外国人居住区だったソーホー・ディーン通り(英語版)28番地の二部屋を賃借りしての生活を余儀なくされた[334][335][336]。

プロイセン警察がロンドンに放っていたスパイの報告書によれば「(マルクスは)ロンドンの最も安い、最も環境の悪い界隈で暮らしている。部屋は二部屋しかなく、家具はどれも壊れていてボロボロ。上品な物は何もない。部屋の中は散らかっている。居間の真ん中に油布で覆われた大きな机があるが、その上には彼の原稿やら書物やらと一緒に子供の玩具や細君の裁縫道具、割れたコップ、汚れたスプーン、ナイフ、フォーク、ランプ、インク壺、パイプ、煙草の灰などが所狭しと並んでいる。部屋の中に初めて入ると煙草の煙で涙がこぼれ、何も見えない。目が慣れてくるまで洞穴の中に潜ったかのような印象である。全ての物が汚く、埃だらけなので腰をかけるだけでも危険だ。椅子の一つは脚が3つしかないし、もう一個の満足な脚の椅子は子供たちが遊び場にしていた。その椅子が客に出される椅子なのだが、うっかりそれに座れば確実にズボンを汚してしまう」という有様だったという[337][338]。また当時ソーホー周辺は不衛生で病が流行していたので、マルクス家の子供たちもこの時期に三人が落命した[339]。その葬儀費用さえマルクスには捻出することができなかった[340][341][342]。

それでもマルクスは毎日のように大英博物館図書館に行き、そこで朝9時から夜7時までひたすら勉強していた[343]。のみならず秘書としてヴィルヘルム・ピーパーという文献学者を雇い続けた。妻イェニーはこのピーパーを嫌っており、お金の節約のためにも秘書は自分がやるとマルクスに訴えていたのだが、マルクスは聞き入れなかった[344]。また、レイ・ランケスターといった博物館関係者とも親交を得た。

生計はエンゲルスからの定期的な仕送り[注釈 17]、また他の友人(ラッサールやフライリヒラート、リープクネヒトなど)から不定期に金の無心、金融業者から借金、質屋通い、後述するアメリカの新聞への寄稿でなんとか保った。没交渉の母親からさえ金の無心をしている(母とはずっと疎遠にしていたので励ましの手紙以外には何も送ってもらえなかったようだが)[347]。

しかし1850年代の大半を通じてマルクス一家はまともな食事ができなかった[344]。着る物もほとんど質に入れてしまったマルクスはよくベッドに潜り込んで寒さを紛らわせていたという[345]。借金取りや家主が集金に来るとマルクスの娘たちが近所の子供のふりをして「マルクスさんは不在です」と答えて追い返すのが習慣になっていたという[334][345]。


自分の雑誌とアメリカの新聞で文芸活動
1864年の『ニューヨーク・トリビューン(英語版)』

エンゲルスが参加していたバーデン・プファルツの武装闘争はプロイセン軍によって完全に鎮圧された。エンゲルスはスイスに亡命し、女と酒に溺れる日々を送るようになった。マルクスは彼に手紙を送り、「スイスなどにいてはいけない。ロンドンでやるべきことをやろうではないか」とロンドン移住を薦めた[348][349]。これに応じてエンゲルスも11月12日にはロンドンへやってきた[350]。

エンゲルスやコンラート・シュラム(ドイツ語版)の協力を得て新しい雑誌の創刊準備を進め、1850年1月からドイツ連邦自由都市ハンブルクで月刊誌『新ライン新聞 政治経済評論(ドイツ語版)』を出版した[351][352][353][354][355]。同誌の執筆者はマルクスとエンゲルスだけだった。マルクスは『1848年6月の敗北』と題した論文を数回にわたって掲載したが、これが後に『フランスにおける階級闘争(Die Klassenkämpfe in Frankreich 1848 bis 1850)』として発刊されるものである[352]。この中でマルクスはフランス2月革命の経緯を唯物史観に基づいて解説し、1848年革命のそもそもの背景は1847年の不況にあったこと、そして1848年中頃から恐慌が収まり始めたことで反動勢力の反転攻勢がはじまったことを指摘した[356]。結局この『新ライン新聞 政治経済評論』はほとんど売れなかったため、資金難に陥って、最初の四カ月間に順次出した4号と11月の5号6号合併号のみで廃刊した[357][353]。

ついで1851年秋からアメリカ合衆国ニューヨークで発行されていた当時20万部の発行部数を持っていた急進派新聞『ニューヨーク・トリビューン(英語版)』のロンドン通信員となった[344]。マルクスはこの新聞社の編集者チャールズ・オーガスタス・デーナと1849年にケルンで知り合っており、その伝手で手に入れた仕事だった[358]。原稿料ははじめ1記事1ポンドだった。1854年以降に減らされるものの、借金に追われるマルクスにとっては重要な収入源だった[344][359]。マルクスは英語が不自由だったので記事の執筆にあたってもエンゲルスの力を随分と借りたようである[360]。

マルクスが寄稿した記事はアメリカへの愛がこもっており、アメリカ人からの評判も良かったという。アメリカの黒人奴隷制を批判したサザーランド公爵夫人(英語版)に対して「サザーランド公爵家(英語版)もスコットランドの領地で住民から土地を奪い取って窮乏状態に追いやっている癖に何を抜かしているか」と批判を加えたこともある[361]。マルクスと『ニューヨーク・トリビューン』の関係は10年続いたが、1861年にアメリカで南北戦争が勃発したことで解雇された(マルクスに限らず同紙のヨーロッパ通信員全員がこの時に解雇されている。内乱中にヨーロッパのことなど論じている場合ではないからである)[362]。
共産主義者同盟の再建と挫折

1849年秋以来、共産主義者同盟のメンバーが次々とロンドンに亡命してきていた。モルは革命で戦死したが、シャッパーやヴォルフは無事ロンドンに到着した。また大学を出たばかりのヴィルヘルム・リープクネヒト、バーデン・プファルツ革命軍でエンゲルスの上官だったアウグスト・ヴィリヒ(ドイツ語版)などもロンドンへやってきてマルクスの新たな同志となった。彼らを糾合して1850年3月に共産主義同盟を再結成した[363][364][365]。

再結成当初は、近いうちにまた革命が起こるという希望的観測に基づく革命方針を立てた。ドイツでは小ブルジョワ民主主義組織が増える一方、労働者組織はほとんどなく、あっても小ブルジョワ組織の指揮下におさめられてしまっているのが一般的だったので、まず独立した労働者組織を作ることが急務とした。またこれまで通り、封建主義打倒までは急進的ブルジョワとも連携するが、彼らが自身の利益固めに走った時はただちにこれと敵対するとし、ブルジョワが抑制したがる官公庁占拠など暴力革命も積極的に仕掛けていくことを宣言した。ハインリヒ・バウアー(Heinrich Bauer)がこの宣言をドイツへ持っていき、共産主義者同盟をドイツ内部に秘密裏に再建する工作を開始した(バウアーはその後オーストリアで行方不明となる)[366][367]。

しかし1850年夏には革命の火はほとんど消えてしまった。フランスでは左翼勢力はすっかり蚊帳の外で、ルイ・ボナパルトの帝政復古か、秩序党の王政復古かという情勢になっていた。ドイツ各国でもブルジョワが革命を放棄して封建主義勢力にすり寄っていた。革命精神が幾らかでも残ったのはプロイセンがドイツ中小邦国と組んで起こそうとした小ドイツ主義統一の動きだったが、それもオーストリアとロシアによって叩き潰された(オルミュッツの屈辱)[368][369]。

こうした状況の中、マルクスは今の好景気が続く限り、革命は起こり得ないと結論するようになり[370]、共産主義者同盟のメンバーに対し、即時行動は諦めるよう訴えた[371]。だが共産主義者同盟のメンバーには即時行動を求める者が多かった。マルクスの独裁的な組織運営への反発もあって、とりわけヴィリヒが反マルクス派の中心人物となっていった。シャッパーもヴィリヒを支持し、共産主義者同盟内に大きな亀裂が生じた[372][373]。

1850年9月15日の執行部採決ではマルクス派が辛くも勝利を収めたものの、一般会員にはヴィリヒ支持者が多く、両派の溝は深まっていく一方だった。そこでマルクスは共産主義者同盟の本部をプロイセン王国領ケルンに移す事を決定した。そこには潜伏中の秘密会員しかいないが、それ故にヴィリヒ派を抑えられると踏んだのである[374]。だがこの決定に反発したヴィリヒ達は共産主義者同盟から脱退し、ルイ・ブランとともに「国際委員会」という新組織を結成した。マルクスはこれに激怒し、この頃彼がエンゲルスに宛てて送った手紙もこの組織への批判・罵倒で一色になっている[375]。

共産主義者同盟の本部をケルンに移したことは完全に失敗だった。1851年5月から6月にかけて共産主義者同盟の著名なメンバー11人が大逆罪の容疑でプロイセン警察によって摘発されてしまったのである[376][377]。しかもこの摘発を命じたのはマルクスの義兄(イェニーの兄)にあたるフェルディナント・フォン・ヴェストファーレン(当時プロイセン内務大臣)だった。フェルディナントは今回の陰謀事件がどれほど悪質であったか、その陰謀の背後にいるマルクスがいかに恐ろしいことを企んでいるかをとうとうと宣伝した[378]。これに対抗してマルクスは11人が無罪になるよう駆け回ったものの、ロンドンで証拠収集してプロイセンの法廷に送るというのは難しかった。そもそも暴動を教唆する文書を出したのは事実だったから、それを無害なものと立証するのは不可能に近かった。結局1852年10月に開かれた法廷で被告人11人のうち7人が有罪となり、共産主義者同盟は壊滅的打撃を受けるに至った(ケルン共産党事件)[379][380][381]。

これを受けてさすがのマルクスも共産主義者同盟の存続を諦め、1852年11月17日に正式に解散を決議した[377]。以降マルクスは10年以上もの間、組織活動から遠ざかることになる[379]。
ナポレオン3世との闘争
マルクスが厳しく批判したフランス皇帝ナポレオン3世

一方フランスでは1851年12月に大統領ルイ・ボナパルトが議会に対するクーデタを起こし、1852年1月に大統領に権力を集中させる新憲法(フランス語版)を制定して独裁体制を樹立した[382]。さらに同年12月には皇帝に即位し、ナポレオン3世と称するようになった[327]。

マルクスは彼のクーデタを考察した『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』を執筆し、これをアメリカの週刊新聞『レヴォルツィオーン』に寄稿した[383][384]。この論文は「ヘーゲルはどこかで言った。歴史上のあらゆる偉大な事実と人物は二度現れると。彼はこう付け加えるのを忘れた。最初は悲劇として、二度目は茶番として」という有名な冒頭で始まり[383]、ナポレオン3世に激しい弾劾を加えつつ、このクーデタの原因を個人の冒険的行動や抽象的な歴史的発展に求める考えを退けて、フランスの階級闘争が何故こうした凡庸な人物を権力の座に就けるに至ったかを分析する。[383]。

ナポレオン3世は東方問題をめぐってロシア帝国と対立を深め、イギリス首相パーマストン子爵と連携して1854年からクリミア戦争を開始した。マルクスはロシアのツァーリズムに対するこの戦争を歓迎した[385]。ところが、自分が特派員になっている『ニューヨーク・トリビューン』は反英・親露的立場をとり、マルクスを困惑させた。マルクスとしては家計的にここと手を切るわけにはいかないのだが、エンゲルスへの手紙の中では「同紙が汎スラブ主義反対の声明を出すことが是非とも必要だ。でなければ僕らはこの新聞と決別するしかなくなるかもしれない」とまで書いている[386]。

一方でマルクスは英仏にも疑惑の目を向けていた。「偽ボナパルトとパーマストン卿がやっている以上この戦争は偽善であり、ロシアを本気で倒すつもりなどないことは明らか」というのがマルクスの考えだった。マルクスはナポレオン3世もパーマストン子爵もツァーリ(ロシア皇帝)と秘密協定を結んでいると思いこんでいたそれは極端な意見だったが、実際クリミア戦争はクリミア半島セヴァストポリ要塞を陥落させたところで中途半端に終わった[385]。

ナポレオン3世は1859年にサルデーニャ王国宰相カミッロ・カヴールと連携して北イタリアを支配するオーストリア帝国に対する戦争を開始した(イタリア統一戦争)。この戦争は思想の左右を問わずドイツ人を困惑させた。言ってみれば「フランス国内で自由を圧殺する専制君主ナポレオン3世がイタリア国民の自由を圧殺する専制君主国オーストリアに闘いを挑んだ」状態だからである。結局大ドイツ主義者(オーストリア中心のドイツ統一志向)がオーストリアと連携してポー川(北イタリア)を守るべしと主張し、小ドイツ主義者(オーストリアをドイツから排除してプロイセン中心のドイツ統一志向)はオーストリアの敗北を望むようになった[387]。

この戦争をめぐってエンゲルスは小冊子『ポー川とライン川』を執筆し、ラッサールの斡旋でプロイセンのドゥンカー書店から出版した[388][389]。この著作の中でエンゲルスは「確かにイタリア統一は正しいし、オーストリアがポー川(北イタリア)を支配しているのは不当だが、今度の戦争はナポレオン3世が自己の利益、あるいは反独的利益のために介入してきてるのが問題である。ナポレオン3世の最終目標はライン川(西ドイツ)であり、したがってドイツ人はライン川を守るために軍事上重要なポー川も守らねばならない」といった趣旨の主張を行い、オーストリアの戦争遂行を支持した。マルクスもこの見解を支持した[390]。

マルクスが警戒したのはナポレオン3世の帝政がこの戦争を利用して延命することとフランスとロシアの連携がドイツ統一に脅威を及ぼしてくることだった[391]。そのためマルクスはプロイセンがオーストリア側で参戦しようとしないことに憤り、「中立を主張するプロイセンの政治家どもは、ライン川左岸のフランスへの割譲を許したバーゼルの和約に歓声を送り、またウルムの戦いやアウステルリッツの戦いでオーストリアが敗れた時に両手をこすり合わせていた連中である」と批判した[392]。また「オーストリアは全ドイツの敵であり、プロイセンは中立の立場を取るべき」と主張するカール・フォークト(ドイツ語版)を「ナポレオン3世から金をもらっている」と批判した[393][394]。

しかしナポレオン3世を批判するあまり、イタリア統一運動を妨害し、ハプスブルク家による民族主義蹂躙を支持しているかのように見えるマルクスたちの態度にはラッサールも疑問を感じた。彼は独自に『イタリア戦争とプロイセンの義務(Der italienische Krieg und die Aufgabe Preussens)』という小冊子を執筆し、プロイセンは今度の戦争に参戦すべきではなく、ナポレオン3世が民族自決に基づいて南方の地図を塗り替えるならプロイセンは北方のシュレースヴィヒとホルシュタインに対して同じことをすればよいと訴えた。マルクスはこれに激怒し、ラッサールに不信感を抱くようになった[395]。この論争についてフランツ・メーリングは「ラッサールはロシアの危険性を軽視し過ぎだったし、一方マルクスとエンゲルスはロシアの侵略性を過大評価しすぎた」としている。
グラフトン・テラスへ引っ越し
1861年のマルクス

1855年春と1856年夏に、妻イェニーの伯父と母が相次いで死去した。とくに母の死はイェニーを悲しませたが、イェニーがその遺産の一部を相続したため、マルクス家の家計はラクになった[396][397]。

マルクス家は悲惨なディーン街を脱出し、ロンドン北部ケンティッシュ・タウン(英語版)のグラフトン・テラス(Grafton Terrace)9番地へ移住した[396]。当時この周辺は開発されていなかったため、不動産業界の評価が低く、安い賃料で借りることができた。イェニーはこの家について「これまでの穴倉と比べれば、私たちの素敵な小さな家はまるで王侯のお城のようでしたが、足の便の悪い所でした。ちゃんとした道路がなく、辺りには次々と家が建設されてガラクタの山を越えていかないといけないのです。ですから雨が降った日にはブーツが泥だらけになりました」と語っている[398]。

引っ越してもマルクス家の金銭的危機は続いた。最大の原因は1857年にはじまった恐慌だった。これによって最大の援助者であるエンゲルスの給料が下がったうえ[399]、『ニューヨーク・トリビューン』に採用してもらえる原稿数も減り、収入が半減したのである[400]。結局金融業者と質屋を回る生活が続いた[401]。マルクスは1857年1月のエンゲルス宛の手紙の中で「何の希望もなく借金だけが増えていく。なけなしの金を注ぎ込んだ家の中で二進も三進もいかなくなってしまった。ディーン通りにいた頃と同様、日々暮らしていくことさえ難しくなっている。どうしていいのか皆目分からず、5年前より絶望的な状況だ。私は既に自分が世の中の辛酸を舐めつくしたと思っていたが、そうではなかった。」と窮状を訴えている。エンゲルスは驚き、毎月5ポンドの仕送りと、必要なときにはいつでも余分に送ることを約束する。「(エンゲルスはそのとき猟馬を買ったばかりだったが、)きみときみの家族がロンドンで困っているというのに、馬なんか飼っている自分が腹立たしい」[402]。

終わる気配のない困窮状態にマルクスとイェニーの夫婦喧嘩も増えたようである。この頃のエンゲルスへの手紙の中でマルクスは「妻は一晩中泣いているが、それが私には腹立たしくてならぬ。妻は確かに可哀そうだ。この上もない重荷が彼女に圧し掛かっているし、それに根本的に彼女が正しいのだから。だが君も知っての通り、私は気が短いし、おまけに多少無情なところもある」と告白している[403]。

特に1861年に『ニューヨーク・トリビューン』から解雇されると困窮が深刻化した。マルクスが鉄道の出札係に応募したほどである(悪筆のため断られている。)[399]。
『経済学批判』と『資本論』
『資本論』初版のタイトルページ

マルクスの最初の本格的な経済学書である『経済学批判』は、1850年9月頃から大英博物館で勉強しながら少しずつ執筆を進め、1857年から1858年にかけて一気に書きあげたものである。1859年1月にこの原稿を完成させたマルクスはラッサールの仲介でドゥンカー書店からこれを出版した[404]。『経済学批判』は本格的な経済学研究書の最初の1巻として書かれた物であり、その本格的な研究書というのが1866年11月にハンブルクのオットー・マイスネル書店から出版した『資本論』第1巻だった[405]。そのため経済学批判の主要なテーゼは全て資本論の第1巻に内包されている[406]。よってこの二つはまとめて解説する。マルクスは『資本論』の中で次の主旨のことを主張した。

「人間が生きていくためには生産する必要があり、それは昔から行われてきた。ある場所で生産された物が別の場所で生産された物と交換される。それが成り立つのは生産物双方の使用価値(用途)が異なり、またその価値(生産にかかっている人間の労働量)が同じだからだ。だが資本主義社会では生産物は商品にされ、特に貨幣によって仲介されることが多い。たとえ商品化されようと貨幣によって仲介されようと使用価値の異なる生産物が交換されている以上、人間の労働の交換が行われているという本質は変わらないが、その意識は希薄になってしまう。商品と化した生産物は物として見る人がほとんどであり、商品の取引は物と物の取引と見られるからである。人間の創造物である神が人間の外に追いやられて人間を支配したように、人間の創造物である商品や貨幣が人間の外に追いやられて人間を支配したのである。商品や貨幣が神となれば、それを生産した者ではなく、所有する者が神の力で支配するようになる」[407]

「ブルジョワ市民社会の発展は労働者を生み出した。この労働者というのは労働力(自分の頭脳や肉体)の他には売れる物を何も所有していない人々のことである。労働者は自らの労働力を商品化し、資本家にそれを売って生活している。資本家は利益を上げるために購入した労働力という商品を、価値以上に使用して剰余価値を生み出させ、それを搾取しようとする(賃金額に相当する生産物以上の物を生産することを労働者に要求し、それを無償で手に入れようとする)。資本家が剰余価値を全部消費するなら単純再生産が行われるし、剰余価値の一部が資本に転換されれば、拡大再生産が行われる。拡大再生産が進むと機械化・オートメーション化により労働者人口が過剰になってくる。産業予備軍(失業者)が増え、産業予備軍は現役労働者に取って代わるべく現役労働者より悪い条件でも働こうとしだすので、現役労働者をも危機に陥れる。こうして労働者階級は働けば働くほど窮乏が進んでいく。」[408]

「商品は、不変資本(機械や原料など生産手段に投下される資本)、可変資本(労働力購入のために投下される資本)、剰余価値からなる。不変資本は新しい価値を生まないが、可変資本は自らの価値以上の剰余価値を生むことができる。この剰余価値が資本家の利潤を生みだす。ところが拡大再生産が進んで機械化・オートメーション化してくると不変資本がどんどん巨大化し、可変資本がどんどん下がる状態になるから、資本家にとっても剰余価値が減って利潤率が下がるという事態に直面する。投下資本を大きくすれば利潤の絶対量を上げ続けることはできる。だが利潤率の低下は生産力の更なる発展には妨げとなるため、資本主義生産様式の歴史的限界がここに生じる」[409]。

そして「労働者の貧困と隷従と退廃が強まれば強まるほど彼らの反逆も増大する。ブルジョワはプロレタリア階級という自らの墓掘り人を作り続けている。収奪者が収奪される運命の時は近づいている。共産主義への移行は歴史的必然である」と結論する[410]。
プロイセン帰国騒動

1861年1月、祖国プロイセンで国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世が崩御し、皇太弟ヴィルヘルムがヴィルヘルム1世として新たな国王に即位した。即位にあたってヴィルヘルム1世は政治的亡命者に大赦を発した[411]。これを受けてベルリン在住の友人ラッサールはマルクスに手紙を送り、プロイセンに帰国して市民権を回復し、『新ライン新聞』を再建してはどうかと勧めた[411][412]。マルクスは「ドイツの革命の波は我々の船を持ち上げるほど高まっていない」と思っていたものの、プロイセン市民権は回復したいと思っていたし、『ニューヨーク・トリビューン』の仕事を失ったばかりだったのでラッサールとラッサールの友人ハッツフェルト伯爵夫人ゾフィー(ドイツ語版)が『新ライン新聞』再建のため資金援助をしてくれるという話には魅力を感じた[411]。

マルクスはラッサールと伯爵夫人の援助で4月1日にもプロイセンに帰国し、ベルリンのラッサール宅に滞在した。ところがラッサールと伯爵夫人は貴族の集まる社交界や国王臨席のオペラにマルクスを連れ回す貴族的歓待をしたため、贅沢や虚飾を嫌うマルクスは不快に感じた[413]。マルクスがこういう生活に耐えていたのはプロイセン市民権を回復するためだったが、4月10日にはマルクスの市民権回復申請は警察長官から正式に却下され、マルクスは単なる外国人に過ぎないことが改めて宣告された[414]。

マルクスが帰国の準備を始めると、伯爵夫人は「仕事の都合が付き次第、ベルリンを離れるというのが私が貴方に示した友情に対するお答えなのでしょうか」とマルクスをたしなめた[415]。だがマルクスの方はラッサールやベルリンの人間の「虚栄的生活」にうんざりし、プロイセンに帰国する意思も『新ライン新聞』を再建する意思もすっかりなくしたようだった。とくにラッサールと数週間暮らしたことはマルクスとラッサールの関係に変化を与えた。マルクスはこれまでラッサールの政治的立場を支持してきたが、このプロイセン帰国でドイツの同志たちの「ラッサールは信用ならない」という評価を受け入れるようになった[415]。
ラッサールとの亀裂
フェルディナント・ラッサール
マルクスの友人の社会主義者だが、マルクスと違いヘーゲル左派の影響を残していたので国家に依存した。対資本家で封建主義者と共闘することも厭わなかった。

1862年の夏、ラッサールがロンドン万博で訪英するのをマルクスが歓迎することになった。先のベルリンで受けた饗応の返礼であったが、マルクス家には金銭的余裕はないから、このために色々と質に入れなければならなかった。しかしラッサールは、マルクス家の窮状に鈍感で浪費が激しかった。また彼は自慢話が多く、その中には誇大妄想的なものもあった。たとえばイタリアのマッツィーニやガリバルディもプロイセン政府と同じく自分の動かしている「歩」に過ぎないと言いだして、マルクスやイェニーに笑われた。しかしラッサールの方は、マルクスは抽象的になりすぎて政治の現実が分からなくなっているのだとなおも食い下がった。イェニーはラッサールの訪問を面白がっていたようだが、マルクスの方はうんざりし、エンゲルスへの手紙の中でラッサールについて「去年あって以来、あの男は完全に狂ってしまった」「あの裏声で絶えまないおしゃべり、わざとらしく芝居がかった所作、あの教条的な口調!」と評した。帰国直前になってようやくマルクス家の窮状に気付いたラッサールはエンゲルスを保証人にして金を貸すが、数か月後、返済期限をめぐってエンゲルスから「署名入りの借用書」を求めてマルクスともめる。マルクスは謝罪の手紙をだしたが、ラッサールは返事をださず、二人の関係は絶えた[416]。

プロイセンでは、1861年12月とつづく1862年4月の総選挙で保守派が壊滅的打撃を被り、ブルジョワ自由主義政党ドイツ進歩党(ドイツ語版)が大議席を獲得していた[417]。軍制改革問題をめぐって国王ヴィルヘルム1世は自由主義勢力に追い詰められ、いよいよブルジョワ革命かという情勢になった。

ところがラッサールは進歩党の「夜警国家」観や「エセ立憲主義」にしがみ付く態度を嫌い、1863年に進歩党と決別して全ドイツ労働者同盟(ドイツ語版)を結成しはじめた[418]。そしてヴィルヘルム1世が対自由主義者の最終兵器として宰相に登用したユンカーの保守主義者オットー・フォン・ビスマルクと親しくするようになりはじめた。これはマルクスが『共産党宣言』以来言い続けてきた、封建制打倒まではプロレタリアはブルジョワ革命を支援しなければならないという路線への重大な逸脱だった。

不信感を持ったマルクスはラッサールの労働運動監視のためヴィルヘルム・リープクネヒトをベルリンに派遣した。リープクネヒトは全ドイツ労働者同盟に加入し、ユリウス・ファールタイヒ(ドイツ語版)ら同盟内部の反ラッサール派と連絡を取り合い、彼らを「マルクス党」に取り込もうと図った[419][420]。また、マルクスはラッサールとともにビスマルクから国営新聞の編集に誘われた時もその反ビスマルク的姿勢から拒否してる[421]。

ところがラッサールは1864年8月末に恋愛問題に絡む決闘で命を落とした[422]。ラッサールの死を聞いたエンゲルスは冷淡な反応を示したが、マルクスの方はラッサール不信にも関わらず、「古い仲間が次々と死に、新しい仲間は増えない」と語って随分と意気消沈した。そして伯爵夫人やラッサールの後継者ヨハン・バプティスト・フォン・シュヴァイツァー(ドイツ語版)に彼の死を惜しむ弔辞を書いた[423][424][注釈 18]。

ラッサールの死で最も有名な社会主義者はマルクスになった[426]。
メイトランド・パークへの引っ越し

1863年11月に母ヘンリエッテが死去した。マルクスは母の死には冷淡で「私自身棺桶に足を入れている。この状況下では私には母以上の物が必要だろう」と述べた。遺産は前仮分が多額だったのでそれほど多くは出なかった[427]。しかしともかくもその遺産を使って1864年3月にメイトランドパーク・モデナ・ヴィラズ1番地(1 Modena Villas, Maitland Park)の一戸建ての住居を借りた[428]。家賃と税金はこれまでの住居の倍だったが、妻イェニーはこの家を「新しいし、日当たりもいいし、風通しも良い住み心地のいい家」と絶賛している[429]。

さらに1864年5月9日には同志のヴィルヘルム・ヴォルフが死去した。ヴォルフは常にマルクスとエンゲルスに忠実に行動を共にしていた人物であり、彼は遺産のほとんどをマルクスに捧げる遺言書を書き残していた。マルクスは彼の葬儀で何度も泣き崩れた。ヴォルフは単なる外国語講師に過ぎなかったが、倹約家でかなりの財産を貯めていた。これによってマルクスは一気に820ポンドも得ることができた。この額はマルクスがこれまで執筆で得た金の総額よりも多かった[430]。マルクスがこの数年後に出した資本論の第一巻をエンゲルスにではなくヴォルフに捧げているのはこれに感謝したからのようである[431]。

急に金回りが良くなったマルクス一家は浪費生活を始めた。パーティーを開いたり、旅行に出かけたり、子供たちのペットを大量購入したり、アメリカやイギリスの株を購入したりするようになったのである[432]。しかしこのような生活を続けたため、すぐにまた借金が膨らんでしまった。再びエンゲルスに援助を求めるようになり、結局1869年までにエンゲルスがその借金を肩代わりすることになった(この4年間にエンゲルスが出した金額は1862ポンドに及ぶという)。この借金返済以降、ようやくマルクス家の金銭事情は落ち着いた[433]。

1875年春には近くのメイトランド・パーク・ロード41番地に最後の引っ越しをしている。以降マルクスは死去するまでここを自宅とすることになる[434]。
第一インターナショナルの結成
第一インターナショナル(国際労働者協会)のロゴ

1857年からの不況、さらにアメリカ南北戦争に伴う綿花危機でヨーロッパの綿花関連の企業が次々と倒産して失業者が増大したことで1860年代には労働運動が盛んになった[435]。イギリスでは1860年にロンドン労働評議会(英語版)がロンドンに創設された[436]。フランスでは1860年代以降ナポレオン3世が「自由帝政(フランス語版)」と呼ばれる自由主義化改革を行うようになり[437]、皇帝を支持するサン・シモン主義者や労働者の団体『パレ・ロワイヤル・グループ(groupe du Palais-Royal)』の結成が許可された[438]。プルードン派やブランキ派の活動も盛んになった[439]。前述したようにドイツでも1863年にラッサールが全ドイツ労働者同盟を結成した[440]。

こうした中、労働者の国際連帯の機運も高まった。1862年8月5日にはロンドンのフリーメーソン会館(英語版)でイギリス労働者代表団とフランス労働者代表団による初めての労働者国際集会が開催された[441]。労働者の国際組織を作ろうという話になり、1864年9月28日にロンドンのセント・マーチン会館(英語版)でイギリス、フランス、ドイツ、イタリア、スイス、ポーランドの労働者代表が出席する集会が開催され、ロンドン労働評議会(英語版)のジョージ・オッジャー(英語版)を議長とする第一インターナショナル(国際労働者協会)の発足が決議されるに至った[442]。

マルクスはこの集会に「ドイツの労働者代表」として参加するよう要請を受け、共産主義者同盟の頃から友人であるヨハン・ゲオルク・エカリウス(ドイツ語版)とともに出席した[443]。マルクスは総務評議会(執行部)と起草委員会(規約を作るための委員会)の委員に選出された[444][445]。

マルクスは早速に起草委員として規約作りにとりかかった。委員はマルクスの他にもいたものの、彼らの多くは経験のない素人の労働者だったので(労働者の中ではインテリであったが)、長年の策略家マルクスにとっては簡単な議事妨害と批評だけで左右できる相手だった[446]。マルクスもエンゲルスへの手紙の中で「難しいことではなかった。相手は『労働者』ばかりだったから」と語っている[446]。イタリア人の委員がジュゼッペ・マッツィーニの主張を入れようとしたり、イギリス人の委員がオーエン主義を取り入れようとしたりもしたが、いずれもマルクスによって退けられている[447]。唯一マルクスが譲歩を迫られたのは、前文に「権利・義務」、協会の指導原理に「真理・道義・正義」といった表現が加えたことだったが、マルクスはエンゲルスの手紙の中でこれらの表現を「何ら害を及ぼせない位置に配置した」と語っている[446]。

こうして作成された規約は全会一致で採択された[447]。後述するイギリス人の労働組合主義、フランス人のプルードン主義、ドイツ人のラッサール派などをまとめて取り込むことを視野に入れて、かつての『共産党宣言』よりは包括的な規約にしてある(結局ラッサール派は取り込めなかったが)[448]。それでも最後には「労働者は政治権力の獲得を第一の義務とし、もって労働者階級を解放し、階級支配を絶滅するという究極目標を自らの手で勝ち取らねばならない。そのために万国のプロレタリアよ、団結せよ!」という『共産党宣言』と同じ結び方をしている[449]。
プルードン主義・労働組合主義・議会主義との闘争
1867年のマルクス

インターナショナルの日常的な指導はマルクスとインターナショナル内の他の勢力との権力闘争の上に決定されていた。他の勢力とは主に「プルードン主義」、労働組合主義、バクーニン派であった[450](バクーニンについては後述)。

フランス人メンバーはフランス革命に強く影響されていたため、マルクスがいうところの「プルードン主義」「小ブルジョワ社会主義」に走りやすかった。そのためマルクスが主張する私有財産制の廃止に賛成せず、小財産制を擁護する者が多かった。また概してフランス人は直接行動的であり、ナポレオン3世暗殺計画を立案しだすこともあった。彼らは「ドイツ人」的な小難しい科学分析も、「イギリス人」的な議会主義も嫌う傾向があった。ただフランス人はインターナショナルの中でそれほど数は多くなかったから、マルクスにとって大きな脅威というわけでもなかった[451]。

むしろマルクスにとって厄介だったのはイギリス人メンバーの方だった。インターナショナル創設の原動力はイギリス労働者団体であったし、インターナショナルの本部がロンドンにあるため彼らの影響力は大きかった[452]。イギリス人メンバーは労働組合主義や議会主義に強く影響されているので、労働条件改善や選挙権拡大といった社会改良だけで満足することが多く、また何かにつけて「ブルジョワ議会」を通じて行動する傾向があった[453]。インターナショナルはイギリスの男子選挙権拡大を目指す選挙法改正連盟(英語版)に書記を送っていたものの、その指導者である弁護士エドモンド・ビールズ(英語版)がインターナショナルの総評議会に入ってくることをマルクスは歓迎しなかった。マルクスはイギリスの「ブルジョワ政治家」たちが参加してくるのを警戒していた。ビールズが次の総選挙に出馬を決意したことを理由に「インターナショナルがイギリスの政党政治に巻き込まれることは許されない」としてビールズ加入を阻止した[454]。
リンカーンの奴隷解放政策を支持

1861年にアメリカ南北戦争が勃発して以来、イギリス世論はアメリカ北部(アメリカ合衆国)を支持するかアメリカ南部(アメリカ連合国)を支持するかで二分されていた。イギリス貴族や資本家は「連合国の奴隷制に問題があるとしても合衆国が財産権を侵害しようとしているのは許しがたい」と主張する親連合国派が多かった。対してイギリス労働者・急進派は奴隷制廃止を掲げる合衆国を支持した。この問題をめぐる貴族・資本家VS労働者・急進派の対立はかなり激しいものとなっていった[455]。

これは様々な勢力がいるインターナショナルが一致させることができる問題だった。ちょうど1864年11月には合衆国大統領選挙があり、奴隷制廃止を掲げるエイブラハム・リンカーンが再選を果たした。マルクスはインターナショナルを代表してリンカーンに再選祝賀の手紙を書き、アメリカ大使アダムズに提出した[456][455]。マルクスはエンゲルスへの手紙の中で「奴隷制を資本主義に固有な本質的諸害悪と位置付けたことで、通俗的な民主的な言葉使いとは明確に区別できる手紙になった」と語っている[455]。

この手紙に対してリンカーンから返事があった。マルクスは手紙の中でリンカーンにインターナショナル加入を勧誘していたが、リンカーンは返事の中で「宣伝に引き入れられたくない」と断っている。だがマルクスは「アメリカの自由の戦士」から返事をもらったとしてインターナショナル宣伝にリンカーンを大いに利用した[457]。実際そのことが『タイムズ』に報道されたおかげで、インターナショナルはわずかながら宣伝効果を得られたのだった[455]。
ラッサール派の親ビスマルク路線との闘争
プロイセン王国宰相オットー・フォン・ビスマルク

ラッサールの死後、全ドイツ労働者同盟(ラッサール派)はラッサールから後継者に指名されたベルンハルト・ベッケルとハッツフェルト伯爵夫人を中心とするラッサールの路線に忠実な勢力とヨハン・バプティスト・フォン・シュヴァイツァー(ドイツ語版)を中心とする創設者ラッサールに敬意を払いつつも独自の発展が認められるべきと主張する勢力に分裂した[458]。

そうした情勢の中でシュヴァイツァーがマルクスに接近を図るようになり、同盟の新聞『ゾチアール・デモクラート(社会民主主義)』に寄稿するよう要請を受けた。マルクスとしてはこの新聞に不満がないわけでもなかったが、インターナショナルや(当時来年出ると思っていた)『資本論』の販売のためにベルリンに足場を持っておきたい時期だったので当初は協力した。しかしまもなく同紙のラッサール路線の影響の強さにマルクスは反発するようになった[459]。結局1865年2月23日にエンゲルスとともに同紙との絶縁の宣言を出すに至った。その中で「我々は同紙が進歩党に対して行っているのと同様に内閣と封建的・貴族的政党に対しても大胆な方針を取るべきことを再三要求したが、『社会民主主義』紙が取った戦術(マルクスはこれを「王党的プロイセン政府社会主義」と呼んだ)は我々との連携を不可能にするものだった」と書いている[460][461]。

このマルクスとラッサール派の最終的決裂を受けて、1865年秋にプロイセンから国外追放されたリープクネヒトは、ラッサール派に対抗するため、アウグスト・ベーベルとともに「ザクセン人民党」を結成しオーストリアも加えた大ドイツ主義的統一・反プロイセン的な主張をするようになった[462][463]。ラッサール派の小ドイツ主義統一(オーストリアをドイツから追放し、プロイセン中心のドイツ統一を行う)路線に抵抗するものだった[462]。

もっともビスマルクにとっては労働運動勢力が何を主張し合おうが関係なかった。彼は小ドイツ主義統一を推し進め、1866年に普墺戦争でオーストリアを下し、ドイツ連邦を解体してオーストリアをドイツから追放するとともにプロイセンを盟主とする北ドイツ連邦を樹立することに成功した[464]。マルクスはビスマルクが王朝的に小ドイツ主義的に統一を推し進めていくことに不満もあったものの、諸邦分立状態のドイツ連邦が続くよりはプロイセンを中心に強固に固まっている北ドイツ連邦の方がプロレタリア闘争に有利な展望が開けていると一定の評価をした[465]。リープクネヒトとベーベルも1867年に北ドイツ連邦の帝国議会選挙に出馬して当選を果たした[466]。

マルクスはリープクネヒトはあまり当てにしていなかったが、ベーベルの方は高く評価していた。ベーベルは1868年初頭にシュヴァイツァーの『社会民主主義』紙に対抗して『民主主義週報』紙を立ち上げ、これを起点にラッサール派に参加していない労働組合を次々と取り込むことに成功し、マルクス派をラッサール派に並ぶ勢力に育て上げることに成功したのである[466]。そしてその成功を盾にベーベルとリープクネヒトは1869年8月初めにアイゼナハにおいて社会民主労働党(ドイツ語版)(アイゼナハ派)を結成した[467]。

マルクスもこの状況を満足げに眺め、フランス労働運動よりドイツ労働運動の方が先進的になってきたと評価するようになった。
普仏戦争をめぐって
普仏戦争で進軍するプロイセン軍。
1871年1月18日にヴェルサイユ宮殿で行われたプロイセン王ヴィルヘルム1世のドイツ皇帝即位式。白い軍服がビスマルク。

1870年夏に勃発した普仏戦争はビスマルクの謀略で始まったものだが、ナポレオン3世を宣戦布告者に仕立てあげる工作が功を奏し、北ドイツ連邦も南ドイツ諸国もなく全ドイツ国民のナショナリズムが爆発した国民戦争となった。亡命者とはいえ、やはりドイツ人であるマルクスやエンゲルスもその熱狂からは逃れられなかった。

開戦に際してマルクスは「フランス人はぶん殴ってやる必要がある。もしもプロイセンが勝てば国家権力の集中化はドイツ労働者階級の集中化を助けるだろう。ドイツの優勢は西ヨーロッパの労働運動の重心をフランスからドイツへ移すことになるだろう。そして1866年以来の両国の運動を比較すれば、ドイツの労働者階級が理論においても組織においてもフランスのそれに勝っている事は容易にわかるのだ。世界的舞台において彼らがフランスの労働者階級より優位に立つことは、すなわち我々の理論がプルードンの理論より優位に立つことを意味している」と述べた[467][468]。エンゲルスに至っては「今度の戦争は明らかにドイツの守護天使がナポレオン的フランスのペテンをこれ限りにしてやろうと決心して起こしたものだ」と嬉々として語っている[469]。

もっともこれは私的な意見であり、フランス人も参加しているインターナショナルの場ではマルクスももっと慎重にふるまった。開戦から10日後の7月23日、マルクスはインターナショナルとしての公式声明を発表し、その中で「ルイ・ボナパルトの戦争策略は1851年のクーデタの修正版であり、第二帝政は始まった時と同じくパロディーで終わるだろう。しかしボナパルトが18年もの間、帝政復古という凶悪な茶番を演じられたのはヨーロッパの諸政府と支配階級のおかげだということを忘れてはならない」「ビスマルクはケーニヒグレーツの戦い以降、ボナパルトと共謀し、奴隷化されたフランスに自由なドイツを対置しようとせず、ドイツの古い体制のあらゆる美点を注意深く保存しながら第二帝政の様々な特徴を取り入れた。だから今やライン川の両岸にボナパルト体制が栄えている状態なのだ。こういう事態から戦争以外の何が起こりえただろうか」[470][471]、「今度の戦争はドイツにとっては防衛戦争だが、その性格を失ってフランス人民に対する征服戦争に墜落することをドイツ労働者階級は許してはならない。もしそれを許したら、ドイツに何倍もの不幸が跳ね返ってくるであろう」とした[472][473][474][475]。

戦況はプロイセン軍の優位に進み、1870年9月初旬のセダンの戦いでナポレオン3世がプロイセン軍の捕虜となった。第二帝政の権威は地に堕ち、パリで革命が発生して第三共和政が樹立されるに至った[476]。共和政となったフランスとの戦いにはマルクスは消極的であり、「あのドイツの俗物(ビスマルク)が、神にへつらうヴィルヘルムにへつらえばへつらうほど、彼はフランス人に対してますます弱い者いじめになる」「もしプロイセンがアルザス・ロレーヌを併合するつもりなら、ヨーロッパ、特にドイツに最大の不幸が訪れるだろう」「戦争は不愉快な様相を呈しつつある。フランス人はまだ殴られ方が十分ではないのに、プロイセンの間抜けたちはすでに数多くの勝利を得てしまった」と私的にも不満を述べるようになった[477]。

9月9日にはインターナショナルの第二声明を出させた。その中でドイツの戦争がフランス人民に対する征服戦争に転化しつつあることを指摘した。ドイツは領土的野心で行動すべきではなく、フランス人が共和政を勝ち取れるよう行動すべきとし、ビスマルクやドイツ愛国者たちが主張するアルザス・ロレーヌ併合に反対した[478][472]。アルザス・ロレーヌ割譲要求はドイツの安全保障を理由にしていたが、これに対してマルクスは「もしも軍事的利害によって境界が定められることになれば、割譲要求はきりがなくなるであろう。どんな軍事境界線もどうしたって欠点のあるものであり、それはもっと外側の領土を併合することによって改善される余地があるからだ。境界線というものは公平に決められることはない。それは常に征服者が被征服者に押し付け、結果的にその中に新たな戦争の火種を抱え込むものだからだ」と反駁した[479][480]。

一方ビスマルクはパリ包囲戦中の1871年1月にもドイツ軍大本営が置かれているヴェルサイユ宮殿で南ドイツ諸国と交渉し、南ドイツ諸国が北ドイツ連邦に参加する形でのドイツ統一を取り決め、ヴィルヘルム1世をドイツ皇帝に戴冠させてドイツ帝国を樹立した。その10日後にはフランス臨時政府にアルザス・ロレーヌの割譲を盛り込んだ休戦協定を結ばせることにも成功し、普仏戦争は終結した。これを聞いたマルクスは意気消沈したが、「戦争がどのように終わりを告げようとも、それはフランスのプロレタリアートに銃火器の使用方法を教えた。これは将来に対する最良の保障である」と予言した[481]。
パリ・コミューン支持をめぐって
ティエール政府の軍隊により逮捕されるパリ・コミューンのメンバー。

マルクスの予言はすぐにも実現した。休戦協定に反発したパリ市民が武装蜂起し、1871年3月18日にはアドルフ・ティエール政府をパリから追い、プロレタリア独裁政府パリ・コミューンを樹立したのである。3月28日にはコミューン92名が普通選挙で選出されたが、そのうち17人はインターナショナルのフランス人メンバーだった[482][483]。マルクスはパリは無謀な蜂起するべきではないという立場をとっていたが、いざパリ・コミューン誕生の報に接すると、「なんという回復力、なんという歴史的前衛性、なんという犠牲の許容性をパリジャンは持っていることか!」「歴史上これに類する偉大な実例はかつて存在したことはない!」とクーゲルマンへの手紙で支持を表明した[483][484]。しかし結局このパリ・コミューンは2カ月強しか持たなかった。ヴェルサイユに移ったティエール政府による激しい攻撃を受けて5月終わり頃には滅亡したのである[485][472][483]。

マルクスは5月30日にもインターナショナルからパリ・コミューンに関する声明を出した。この声明を後に公刊したのが『フランスにおける内乱(Der Bürgerkrieg in Frankreich)』である。その中でマルクスは「パリ・コミューンこそが真のプロレタリア政府である。収奪者に対する創造階級の闘争の成果であり、ついに発見された政治形態である」と絶賛した[486][487]。そしてティエール政府の高官を悪罵してその軍隊によるコミューン戦士2万人の殺害を「蛮行」と批判し、コミューンが報復として行った聖職者人質60数名の殺害を弁護した[488]。またビスマルクがフランス兵捕虜を釈放してティエール政府の軍隊に参加させたことに対しては、自分が以前が主張してきたように、「各国の政府はプロレタリアに対する場合には一つ穴の狢」だと弾劾した。[488]。

その後もマルクスは「コミューンの名誉の救い主」(これは後に批判者たちからの嘲笑的な渾名になったが)を自称して積極的なコミューン擁護活動を行った。イギリスへ亡命したコミューン残党の生活を支援するための委員会も設置させている[489]。娘婿ポール・ラファルグやジュール・ゲードなど、コミューン派だったために弾圧された人々はこうしたネットワークを拠点にマルクスと緊密に連携するようになり、のちのフランス社会党の一翼を形成することになる。

しかしパリ・コミューンの反乱は全ヨーロッパの保守的なマスコミや世論を震え上がらせており、さまざまな媒体から、マルクスたちが黒幕とするインターナショナル陰謀論、マルクス陰謀論、ユダヤ陰謀論が出回るようになった[注釈 19]。この悪評でインターナショナルは沈没寸前の状態に陥ってしまった[493][494]。

こうした中、オッジャーらイギリス人メンバーはインターナショナルとの関係をブルジョワ新聞からも自分たちの穏健な同志たちからも糾弾され、ついにオッジャーは1871年6月をもってインターナショナルから脱退した[495]。これによりマルクスのイギリス人メンバーに対する求心力は大きく低下した。マルクスの独裁にうんざりしたイギリス人メンバーは自分たちの事柄を処理できるイギリス人専用の組織の設置を要求するようになった。自分の指導下から離脱しようという意図だと察知したマルクスは、当初これに反対したものの、もはや阻止できるだけの影響力はなく、最終的には彼らの主張を認めざるを得なかった。マルクスは少しでも自らの敗北を隠すべく、自分が提起者となって「イギリス連合評議会」をインナーナショナル内部に創設させた[493]。

マルクスの権威が低下していく中、追い打ちをかけるようにバクーニンとの闘争が勃発し、いよいよインターナショナルは崩壊へと向かっていく[496]。
バクーニンの分立主義とユダヤ陰謀論との闘争
ミハイル・バクーニン
ロシア貴族出の革命家でマルクスの旧友だったが、インターナショナルでは地方団体独立を主張して中央のマルクスと敵対。更にユダヤ陰謀論からマルクスの正体を怪しんだ。

ミハイル・バクーニンはロシア貴族の家に生まれがら共産主義的無政府主義の革命家となった異色の人物だった。1844年にマルクスと初めて知り合い、1848年革命で逮捕され、シベリア流刑となるも脱走して、1864年に亡命先のロンドンでマルクスと再会し、インターナショナルに協力することを約束した。そして1867年以来スイス・ジュネーブでインターナショナルと連携しながら労働運動を行っていたが、1869年夏にはインターナショナル内部で指導的地位に就くことを望んでインターナショナルに参加した人物だった[497][498]。

バクーニンは、これまでマルクスを称賛してきたものの、マルクスの権威主義的組織運営に対する反感を隠そうとはしなかった[499]。彼はマルクスの中央権力を抑え込むべく、インターナショナルを中央集権組織ではなく、半独立的な地方団体の集合体にすべきと主張するようになった。この主張は、スイスやイタリア、スペインの支部を中心にマルクスの独裁的な組織運営に反発するメンバーの間で着実に支持を広げていった[500]。しかしマルクスの考えるところではインターナショナルは単なる急進派の連絡会であってはならず、各地に本部を持ち統一された目的で行動する組織であるべきだった。だからバクーニンの動きは看過できないものだった[501]。

しかもバクーニンは強烈な反ユダヤ主義者であり、インターナショナル加盟後も「ユダヤ人はあらゆる国で嫌悪されている。だからどの国の民衆革命でもユダヤ人大量虐殺を伴うのであり、これは歴史的必然だ」などと述べてユダヤ人虐殺を公然と容認・推奨していた[502]。だからマルクスとの対立が深まるにつれてバクーニンのマルクス批判の調子もだんだん反ユダヤ主義・ユダヤ陰謀論の色彩を帯びていった[503]。たとえば「マルクスの共産主義は中央集権的権力を欲する。国家の中央集権には中央銀行が欠かせない。このような銀行が存在するところに人民の労働の上に相場を張っている寄生虫民族ユダヤ人は、その存在手段を見出すのである」[504]「この世界の大部分は、片やマルクス、片やロスチャイルド家の意のままになっている。私は知っている。反動主義者であるロスチャイルドが共産主義者であるマルクスの恩恵に大いに浴していることを。」「ユダヤの結束、歴史を通じて維持されてきたその強固な結束が、彼らを一つにしているのだ」「独裁者にしてメシアであるマルクスに献身的なロシアとドイツのユダヤ人たちが私に卑劣な陰謀を仕掛けてきている。私はその犠牲となるだろう。ラテン系の人たちだけがユダヤの世界制覇の陰謀を叩き潰すことができる」といった具合である[502]。

ヨーロッパ中でインターナショナルの批判が高まっている時であったからバクーニンのこうした粗暴な反ユダヤ主義はインターナショナル総評議会にとっても看過するわけにはいかないものだった。総評議会は1872年6月にマルクスの書いた『インターナショナルにおける偽装的分裂』を採択し、その中でバクーニンについて人種戦争を示唆し、労働運動を挫折させる無政府主義者の頭目であり、インターナショナル内部に秘密組織を作ったとして批判した[505]。同じころ、バクーニンの友人セルゲイ・ネチャーエフがバクーニンのために送った強請の手紙を入手したマルクスは、1872年9月にオランダ・ハーグで開催された大会においてこれを暴露した。劇的なタイミングでの提出だったのでプルードン派もバクーニン追放に回り、大会は僅差ながらバクーニンをインターナショナルから追放する決議案を可決させた[506][507]。
インターナショナルの終焉

バクーニンを追放することには成功したマルクスだったが、ハーグ大会の段階でインターナショナルにおけるマルクスの権威は失われていた。イギリス人メンバーがマルクスの反対派に転じていたし、親しかったエカリウスとも喧嘩別れしてしまっていた[508]。

ハーグ大会の際、エンゲルスが自分とマルクスの意志として総評議会をアメリカ・ニューヨークに移すことを提起した。エンゲルスはその理由として「アメリカの労働者組織には熱意と能力がある」と説明したが、そうした説明に納得する者は少なかった。インターナショナル・アメリカ支部はあまりに小規模だった[509][510]。エンゲルスの提案は僅差で可決されたものの、「ニューヨークに移すぐらいなら月に移した方がまだ望みがある」などという意見まで出る始末だった[510][511]。『ザ・スペクテイター(英語版)』紙も「もはやコミューンの運気もその絶頂が過ぎたようだ。絶頂期自体さほど高い物でもなかったが。そこがロシアでもない限り、再び運動が盛り上がる事はないだろう」と嘲笑的に報じた[511]。

なぜエンゲルスとマルクスがこのような提案をしたのか、という問題については議論がある。マルクスは大会前に引退をほのめかす個人的心境をクーゲルマンに打ち明けており、彼が『資本論』の執筆のために総評議員をやめたがっていたことは周知の事実だった。このことから、マルクスはインターナショナルを終わらせるためにこのような提案をしたのだという見解がでてくる[512]。しかしこの説には疑問が残る。というのも、ハーグ大会でマルクスたちはむしろ総評議会の権限を強化しているし、大会後のマルクスとエンゲルスの往復書簡の内容はどのように読んでも彼らがインターナショナルを見限ったと解釈できるものではないからだ。したがってもう一つの説として、マルクスは本部をアメリカに移すことによってインターナショナルを危機から遠ざけ、ハーグ大会での「政治権力獲得のための政党の組織」(規約第7条付則)の決議に沿うようにアメリカで社会主義政党結成を支援していたインターナショナルの幹部フリードリヒ・アドルフ・ゾルゲらアメリカのマルクス主義者を通じてその勢力を保とうとしたのではないか、という解釈も生まれる[513]。

しかし結局のところ、アメリカでのインターナショナルの歴史は長くなかった。最終的には1876年のフィラデルフィア大会において解散決議が出され、その短い歴史を終えることとなった[506]。

インターナショナルの再建にはその後13年待たなければならない(マルクスはすでに死去)。再建された第二インターナショナルは、イギリス労働党、フランス社会党、ドイツ社会民主党、ロシア社会民主党といった有力政党を抱えるヨーロッパの一大政治組織になった。第二インターナショナルはドイツのベルンシュタインからロシアのレーニンまで多様な政治的色彩をもつ党派の連合体だった。


『ゴータ綱領批判』
ヴィルヘルム・リープクネヒト
基本的にマルクスに忠実な部下だが、アイゼナハ派とラッサール派の合同はマルクスの意に沿わぬ形で行い、マルクスから『ゴータ綱領批判』で批判を受けた。

ドイツではラッサール派の信望が高まっている時期だった。インターナショナルも衰退した今、アイゼナハ派のリープクネヒトとしては早急にラッサール派と和解し、ドイツ労働運動を一つに統合したがっていた。ドイツの内側にいるリープクネヒトから見ればマルクスやエンゲルスは外国にあってドイツの政治状況も知らずに妥協案を拒否する者たちであり、政治的戦術にかけては自分の方が把握できているという自負心があった[514]。

すでにアイゼナハ派はオーストリアも加えたドイツ統一の計画を断念していたし、ラッサール派も1871年にシュヴァイツァーが党首を辞任して以来ビスマルク寄りの態度を弱めていたから両者が歩み寄るのはそれほど難しくもなかった。ただ対立期間が長かったので冷却期間がしばらく必要なだけだった。だからその冷却期間も過ぎた1875年2月にはゴータで両党代表の会合が持たれ、5月にも同地で大会を開催のうえ両党を合同させることが決まったのである[515][516]。

この合同に際して両党の統一綱領として作られたのがゴータ綱領(ドイツ語版)だった。ラッサール派は数の上で優位であったにも関わらず、綱領作成に際して主導権を握ることはなかった。彼らはすでにラッサールの民族主義的な立場や労働組合への不信感を放棄していたためである。そのためほぼアイゼナハ派の綱領と同じ綱領となった[517]。リープクネヒトはマルクスにもこの綱領を送って承認を得ようとしたが、マルクスはこれを激しく批判する返事をリープクネヒトに送り、エンゲルスにも同じような手紙を送らせた[514]。

この時のマルクスの手紙を後に編纂して出版したものが『ゴータ綱領批判』である。マルクスから見れば、この綱領は最悪の敵である国家の正当性を受け入れて「労働に対する正当な報酬」や「相続法の廃止」といった小さな要求を平和的に宣伝していれば社会主義に到達できるという迷信に立脚したものであり、結局は国家を支え、資本主義社会を支える結果になるとした[518]。

マルクスは、綱領に無意味な語句や曖昧な自由主義的語句が散りばめられていると批判した[518]。とりわけ「公平」という不明瞭な表現に強く反発した[519]。自分の著作の引用部分についてもあらさがしの調子で批判を行った[520]。ラッサール派の影響を受けていると思われる部分はとりわけ強い調子で批判した。綱領の中にある「労働者階級はまず民族国家の中で、その解放のために働く」については「さぞかしビスマルクの口に合うことだろう」と批判し[520]。「賃金の鉄則」はラッサールがリカードから盗んだものであり、そのような言葉を綱領に入れたのはラッサール派への追従の証であると批判した[520]。

また綱領が「プロレタリアート独裁」にも「未来の共産主義社会の国家組織」にも触れず、「自由な国家」を目標と宣言していることもブルジョワ的理想と批判した[520]。

リープクネヒトはマルクスからの手紙をいつも通り敬意をこめて取り扱ったものの、これをつかうことはなく、マルクスやエンゲルスも党の団結を優先してこの批判を公表しなかった[518][521]。ゴータ綱領は、わずかに「民族国家の中で」という表現について「国際的協力の理想へ向かう予備的段階」であることを確認する訂正がされただけだった[521]。ゴータ綱領のもとにドイツ社会主義労働者党が結成されるに至った。これについてマルクスは口惜しがったし[521]、この政党を「プチブル集団」「民主主義集団」と批判し続けたが[522]、マルクスの活動的な生涯はすでに終わっており、受けた打撃もそれほど大きいものではなかったという[521]。

マルクスの死後、ドイツ社会主義労働者党ではマルクス派が優勢になり、1891年にはドイツ社会民主党と党名を変更する。そのとき、ドイツ労働運動界の長老だったエンゲルスは、ラッサール主義からの脱却の意図を込めて長らく非公開だったこの『ゴータ綱領批判』を出版した。


晩年の放浪生活
1882年のカール・マルクス

マルクスは不健康生活のせいで以前から病気がちだったが、1873年には肝臓肥大という深刻な診断を受ける。以降鉱泉での湯治を目的にあちこちを巡ることになった。1876年まではオーストリア=ハンガリー帝国領カールスバートにしばしば通った[523]。1877年にはドイツ・ライン地方のバート・ノイェンアール=アールヴァイラー(Bad Neuenahr-Ahrweiler)にも行ったが、それを最後にドイツには行かなくなった。マルクスによれば「ビスマルクのせいでドイツに近づけなくなった」という[524]。1878年からはイギリス王室の私領であるチャンネル諸島で湯治を行った[525]。

1880年秋からイギリス人社会主義者ヘンリー・ハインドマンと親しくするようになった。ハインドマンは1881年にイギリスでマルクス主義を標榜する社会民主主義連盟(英語版)を結成する。この組織にはエリノア・マルクスやウィリアム・モリスも参加していたが、ハインドマンが1881年秋に出版した『万人のためのイギリス』の中で、『資本論』の記述を無断で引用した(マルクスの名前は匂わす程度にしか触れていなかった)ことをきっかけに、日頃ハインドマンを快く思っていなかったマルクスは彼との関係を絶った。彼の社会民主主義連盟はその後もマルクス主義を称したが、エリノアやウィリアム・モリスもマルクスの死後脱退し、社会主義同盟を結成することになる。マルクス自身は死の直前でハインドマンと和解したが、エンゲルスはその後も社会民主主義連合を批判した[526]。結局、イギリス労働運動はケア・ハーディやトム・マンらの独立労働党(のちのイギリス労働党)に収斂することになる。イギリス労働党は第二インターナショナルの議会派の一翼を形成する。

1881年夏には妻イェニーとともにパリで暮らす既婚の長女と次女のところへ訪れた。マルクスは1849年以来、フランスを訪れておらず、パリ・コミューンのこともあるので訪仏したら逮捕されるのではという不安も抱いていたが、長女の娘婿シャルル・ロンゲ(フランス語版)がジョルジュ・クレマンソーからマルクスの身の安全の保証をもらってきたことで訪仏を決意したのだった[527]。

パリからロンドンへ帰国した後の1881年12月2日に妻イェニーに先立たれた。マルクスの悲しみは深かった。「私は先般来の病気から回復したが、精神的には妻の死によって、肉体的には肋膜と気管支の興奮が増したままであるため、ますます弱ってしまった」[528]と語った。エンゲルスはイェニーの死によってマルクスもまた死んでしまったとマルクスの娘エリノアに述べている[529]。

独り身となったマルクスだったが、病気の治療のために1882年も活発に各地を放浪した。1月にはイギリス・ヴェントナー(英語版)を訪れたかと思うと、翌2月にはフランスを経由してフランス植民地アルジェリアのアルジェへ移った[530][528][531]。北アフリカの灼熱に耐えかねたマルクスはここでトレードマークの髪と髭を切った[532]。アルジェリアからの帰国途中の6月にはモナコ公国モンテカルロに立ち寄り、さらに7月にはフランスに行って長女イェニーの娘婿ロンゲのところにも立ち寄ったが、この時長女イェニーは病んでいた。つづいて次女ラウラとともにスイスのヴェヴェイを訪問したが、その後イギリスへ帰国して再びヴェントナーに滞在した[533][532][534]。
死去

1883年1月12日に長女イェニーが病死した。その翌日にロンドンに帰ったマルクスだったが、すぐにも娘の後を追うことになった。3月14日昼頃に椅子に座ったまま死去しているのが発見されたのである。64歳だった[535][536][537]。

その3日後にハイゲイト墓地の無宗教墓区域にある妻の眠る質素な墓に葬られた。葬儀には家族のほか、エンゲルスやリープクネヒトなど友人たちが出席したが、大仰な儀式を避けたマルクスの意思もあり、出席者は全員合わせてもせいぜい20人程度の慎ましいものだった[538][539]。

葬儀でエンゲルスは「この人物の死によって、欧米の戦闘的プロレタリアートが、また歴史科学が被った損失は計り知れない物がある」「ダーウィンが有機界の発展法則を発見したようにマルクスは人間歴史の発展法則を発見した」「マルクスは何よりもまず革命家であった。資本主義社会とそれによって作り出された国家制度を転覆させることに何らかの協力をすること、近代プロレタリアート解放のために協力すること、これが生涯をかけた彼の本当の仕事であった」「彼は幾百万の革命的同志から尊敬され、愛され、悲しまれながら世を去った。同志はシベリアの鉱山からカリフォルニアの海岸まで全欧米に及んでいる。彼の名は、そして彼の仕事もまた数世紀を通じて生き続けるであろう」と弔辞を述べた[540][541]。

マルクスの死後、イギリスでは労働党が1922年に労働党政権を誕生させる。フランスでは1936年に社会党と共産党による人民戦線内閣が誕生。ドイツではドイツ社会民主党がワイマール共和国で長く政権を担当する。そしてロシアではレーニンの指導するロシア革命を経て、ソヴィエト連邦が誕生した。

マルクスの遺産は250ポンド程度であり、家具と書籍がその大半を占めた。それらやマルクスの膨大な遺稿はすべてエンゲルスに預けられた。エンゲルスはマルクスの遺稿を整理して、1885年7月に『資本論』第2巻、さらに1894年11月に第3巻を出版する[542][543][注釈 20]。

マルクスの墓は1954年に墓地内の目立つ場所に移され、1956年には頭像が取り付けられている。その墓には「万国の労働者よ、団結せよ」という彼の最も有名な言葉と『フォイエルバッハに関するテーゼ』から取った「哲学者たちはこれまで世界をさまざまに解釈してきただけである。問題は世界を変革することである」という言葉が刻まれている[545]。
マルクスのもともとの墓(ロンドン、ハイゲイト墓地)
1954年に移されたマルクスの新しい墓(ロンドン、ハイゲイト墓地)
東ドイツ時代に建てられたマルクスとエンゲルスの銅像(ドイツ・ベルリンのマルクス・エンゲルス・フォーラム(ドイツ語版))
東ドイツ時代に建てられたマルクスの巨大頭像(ドイツ・ケムニッツ)
ソ連時代に建てられたマルクス像(ロシア・モスクワ・革命広場(ロシア語版))
マルクスとエンゲルスの像(中華人民共和国・上海)
マルクスの肖像画(北朝鮮・平壌・外国貿易省)
マルクス、エンゲルス、レーニン、スターリンの肖像画を掲げての行進(東ドイツ・ベルリンのマルクス・エンゲルス広場(ドイツ語版))


人物
1867年のカール・マルクス
健康状態・体格

小柄で肥満体形だった[546]。娘婿のポール・ラファルグは舅マルクスの体格について「背丈は普通以上で肩幅は広く、胸はよく張り、四肢はバランスが良い。もっとも脊柱はユダヤ人種によく見られるように、脚の割に長かった」と評している。要するに短足で座高が高いので座っていると大きく見えたようである[547]。

マルクスは病弱者ではなかったが、生活が不規則で栄養不足なことが多かったので、ロンドンで暮らすようになった頃からしばしば病気になった[548]。肝臓病や脳病、神経病など様々な病気に苦しんだ[549]。『資本論』第1巻を執筆していた頃にはお尻のオデキに苦しみ、しばしば座っていることができず、立ちながら執筆したという。この股間の痛みが著作の中の激しい憎しみの表現に影響を与えているとエンゲルスが手紙でからかうと、マルクスも「滅びる日までブルジョワジーどもが私のお尻のオデキのことを覚えていることを祈りたい。あのむかつく奴らめ!」と返信している[550]。

また新陳代謝機能に障害があり、食欲不振・便秘・痔・胃腸カタルなどに苦しんだ。この食欲不振を打ち払うために塩辛い物をよく口にした[551]。オットー・リュウレ(ドイツ語版)は著書『マルクス、生涯と事業』の中でここにマルクスの極端な性格の原因を求め、「マルクスは食事に関する正しい知識を持っておらず、ある時は少なく、ある時は不規則に、ある時は不愉快に食べ、その代わりに食欲を塩っ辛い物で刺激した。」「悪しき飲食者は悪しき労作者であり、悪しき僚友でもある。彼は飲食について何も食わないか、胃袋を満杯にするかの二極だった。同じく執筆について執筆を全く面倒くさがるか、執筆のために倒れるかの二極だった。同じく他者について、人間を避けるか、誰もが利益せぬ全ての人と友になるかの二極だった。彼は常に極端に動く」と述べる[551]。

酒好きであり[8]、またヘビースモーカーだった。マルクスがラファルグに語ったところによると「資本論は私がそれを書く時に吸った葉巻代にすらならなかった」という。家計の節約のために安物で質の悪い葉巻を吸い、体調を壊して医者に止められている[552][553]。
趣味・嗜好

詩や劇文学を愛好した。古代ギリシャの詩人ではアイスキュロスとホメーロスを愛した。とりわけアイスキュロスはお気に入りで、娘婿のラファルグによればマルクスは1年に1回はアイスキュロスをギリシャ語原文で読んだという[554]。ドイツ文学ではゲーテとハイネを愛していたが、ドイツから亡命することになった後はドイツ文学への関心は薄れていったという。亡命後のドイツ文学への唯一の反応はワーグナーを「ドイツ神話を歪曲した」と批判したことだけだった[555]。フランス文学ではディドロの『ラモーの甥』のような啓蒙文学とバルザックの『人間喜劇』のような写実主義文学を愛した[556]。特にバルザックの作品はブルジョワ社会を良く分析したものとして高く評価し、いつかバルザックの研究書を執筆したいという希望を周囲に漏らしていたが、それは実現せずに終わった[557][558]。逆にシャトーブリアンらロマン主義作家のことは嫌った[555]。ロンドン亡命後にはイギリス文学にも関心を持った。イギリス文学ではやはりなんといってもシェイクスピアが別格だった。マルクス家は一家をあげてシェイクスピアを崇拝していたといっても過言ではない[558]。フィールディングの『トム・ジョーンズ』も愛した[558]。またロマン主義を嫌うマルクスだが、ウォルター・スコットの作品は「ロマン類の傑作」と評していた[558]。バイロンとシェリーについては、前者は長生きしていたら恐らく反動的ブルジョワになっていたので36歳で死んで良かったと評し、後者は真の革命家であるので29歳で死んだことが惜しまれると評している[558]。イタリア文学ではダンテを愛した[553][559]。

前述したように食欲不振に苦しみ、それを解消するためにハム、薫製の魚料理、キャビア、ピクルスなど塩辛い物を好んで食べたという[553]。

チェスが好きだったが、よくその相手をしたヴィルヘルム・リープクネヒトに勝てた例がなかった。マルクスは彼に負けるのが悔しくてたまらなかったという[560]。

「告白」というヴィクトリア朝時代に流行った遊びでマルクスの娘たちの20の質問に答えた際、好きな色として赤、好きな花として月桂樹、好きなヒーローとしてスパルタクス、好きなヒロインとしてグレートヒェンをあげた[561]。

他人に渾名を付けるのが好きだった。妻イェニーはメーメ、三人の娘たちはそれぞれキーキ、コーコ、トゥシーだった[559][562]。エンゲルスのことは「安楽椅子の自称軍人」(彼は軍事研究にはまっていた)という意味で「将軍」と呼んだ[563][564]。ヴィルヘルム・リープクネヒトは「幼稚」という意味で「ヴィルヘルムヒェン(ヴィルヘルムちゃん)」[462]。ラッサールは色黒なユダヤ系なので「イジー男爵」「ユダヤのニガー」だった[565]。マルクス自身もその色黒と意地悪そうな顔から娘たちやエンゲルスから「ムーア人」や「オールド・ニック(悪魔)」と渾名された[566][562][559]。マルクス当人は娘たちには自分のことを「ムーア人」ではなく、「オールド・ニック」あるいは「チャーリー」と呼んでほしがっていたようである[350]。
家計

ロバート・L.ハイルブローナーは「もしマルクスが折り目正しく金勘定のできる人物だったなら、家族は体裁を保って生活できたかもしれない。けれどもマルクスは決して会計の帳尻を合わせるような人物ではなかった。たとえば、子供たちが音楽のレッスンを受ける一方で、家族は暖房無しに過ごすということになった。破産との格闘が常となり、金の心配はいつも目前の悩みの種だった」と語っている[567]。

マルクス家の出納帳は収入に対してしばしば支出が上回っていたが、マルクス自身は贅沢にも虚飾にも関心がない人間だった[568]。マルクス家の主な出費は、マルクスの仕事の関係だったり、家族が中流階級の教育や付き合いをするためのものが大半だった。マルクスは極貧のなかでも三人の娘が中流階級として相応しい教養をつけるための出費を惜しまなかったが、そのためにいつも借金取りや大家に追われていた。

マルクスは定職に就くことがなかったため(前述のように一度鉄道の改札係に応募しているが、断られている)、マルクス家の収入はジャーナリストとしてのわずかな収入と、エンゲルスをはじめとする友人知人の資金援助、マルクス家やヴェストファーレン家の遺産相続などが主だった。友人たちからの資金援助はしばしば揉め事の種になった。ルーゲやラッサールが主張したところを信じれば、彼らとマルクスとの関係が断絶した理由は金銭問題だった。1850年にはラッサールとフライリヒラートに資金援助を請うた際、フライリヒラートがそのことを周囲に漏らしたことがあり、マルクスは苛立って「おおっぴらに乞食をするぐらいなら最悪の窮境に陥った方がましだ。だから私は彼に手紙を書いた。この一件で私は口では言い表せないほど腹を立てている」と書いている[325]。エンゲルスの妻メアリーの訃報の返信として、マルクスが家計の窮状を訴えたことで彼らの友情に危機が訪れたこともある[568]。しかしエンゲルスは生涯にわたって常にマルクスを物心両面で支え続けた。『資本論』が完成した時、マルクスはエンゲルスに対して「きみがいなければ、私はこれを完成させることはできなかっただろう」と感謝した[568]。
人間関係

マルクスは亡命者だったので、ロンドン、ブリュッセル、パリなどの亡命者コミュニティの中で生活した。

マルクスを支えたのは、イェニー、イェニーヒェン、ラウラ、エリノアなどの家族の他、エンゲルスのような親友、リープクネヒトやベーベルのような部下、ヴォルフやエカリウスのような同志たちだった。マルクスはロンドンで学者コミュニティと接触があったようで、生物学者や化学者といった人たちと交流があった。ドイツの医師であるクーゲルマンとは頻繁に手紙のやり取りをしている。マルクスはダーウィンの仮説を称賛していて、自分の著した『資本論』をダーウィンに送っている。ダーウィンは謝辞の返信をだしているが、『資本論』自体はあまりに専門的すぎて最後まで読んでいなかったらしい。

マルクスは組織運営の問題や思想上の対立でしばしば論敵をつくった。マルクスの批判を免れた人には、ブランキ、ハイネ、オコーナー、ガリバルディなどがいるが、プルードン、フォイエルバッハ、バウアー、デューリング、マッツィーニ、バクーニンなどは厳しい批判にさらされた。

批判者からは以下のような意見が見られる。

1848年8月、当時ボン大学の学生だったカール・シュルツはケルンで開催された民主主義派の集会に出席したが、その時演説台に立ったマルクスの印象を次のように語っている。「彼ほど挑発的で我慢のならない態度の人間を私は見たことがない。自分の意見と相いれない意見には謙虚な思いやりの欠片も示さない。彼と意見の異なる者はみな徹底的に侮蔑される。(略)自分と意見の異なる者は全て『ブルジョワ』と看做され、嫌悪すべき精神的・道徳的退廃のサンプルとされ、糾弾された。」[569]。

アーノルド・ルーゲは「私はこの争いを体裁の悪い物にしたくないと思って極力努力したが、マルクスは手当たり次第、誰に向かっても私の悪口を言う。マルクスは共産主義者を自称するが、実際は狂信的なエゴイストである。彼は私を本屋だとかブルジョワだとか言って迫害してくる。我々は最悪の敵同士になろうとしている。私の側から見れば、その原因は彼の憎悪と狂気としか考えられない」と語る[195]。

ミハイル・バクーニンは「彼は臆病なほど神経質で、たいそう意地が悪く、自惚れ屋で喧嘩好きときており、ユダヤの父祖の神エホバの如く、非寛容で独裁的である。しかもその神に似て病的に執念深い。彼は嫉妬や憎しみを抱いた者に対してはどんな嘘や中傷も平気で用いる。自分の地位や影響力、権力を増大させるために役立つと思った時は、最も下劣な陰謀を巡らせることも厭わない。」と語る[570]。

マルクスの伝記を書いたE・H・カーは「彼(マルクス)は同等の地位の人々とうまくやっていけた試しがなかった。政治的な問題が討議される場合、彼の信条の狂信的性格のために、他の人々を同等の地位にある者として扱うことができなかった。彼の戦術はいつも相手を抑えつけることであった。というのも彼は他人を理解しなかったからである。彼と同じような地位と教育をもっていて政治に没頭していた人々の中では、エンゲルスのように彼の優位を認めて彼の権威に叩頭するような、ごく少数の者だけが彼の友人としてやっていくことができた」と評している[373]。

マルクス主義者のフランツ・メーリングさえも「(マルクスが他人を批判する時の論法は)相手の言葉を文字通りとったり、歪曲したりすることで、考え得る限りのバカバカしい意味を与えて、誇張した無軌道な表現にふけるもの」と批判している[571]。メーリングはラッサールはじめマルクスが批判した他の社会主義者を弁護することが多いが、彼はその理由として「マルクスは超人ではなかったし、彼自身人間以上のものであることを欲しなかった。考えもなく口真似することこそは、まさに彼が一番閉口したことであった。彼が他人に加えた不正を正すことは、彼に加えられた不正を正すことに劣らず、彼の精神を呈して彼を尊敬することなのだ。」と述べている[572]。
思想
エンゲルスとの関係

マルクスとエンゲルスは生涯盟友として活動していたため、その思想はつねに一致していたとしばしば捉えられる。確かに彼らは頻繁に往復書簡で思想交流をしていたために大きな意見の違いはなかったが、マルクスとエンゲルスの思想の差異を指摘する研究者もいる。

たとえばエンゲルスは『反デューリング論』でマルクス主義が一貫した体系という性格をもっていることを指摘したが、マルクス自身は自分の論稿を常に一貫した体系として提示したわけではなかった。またエンゲルスは『自然弁証法』で弁証法哲学が自然科学の領域にも応用できることを示したが、これについてマルクスは「ぼくは時間をとって、その問題についてじっくり考え『権威たち』の意見を聞くまでは、あえて判断をくださないようにしよう」と返信している[573]。

とはいえマルクスとエンゲルスは、多くの領域の著作を執筆段階で密接に意見を交換し合って執筆しており、基本的な認識及び価値観を共有していることは明らかである。エンゲルスはマルクス死後、マルクスの著作の正当性を管理する立場に立った。
「決定論」

マルクスの思想体系は「経済決定論」だという批判がしばしばある。その含意は、社会や政治や心理の発展過程はすべて経済に規定されているとマルクスは考えていた、というものである[574]。また、カール・ポパーやアイザイア・バーリンはマルクスがヘーゲル主義的な「歴史決定論」に陥っていると批判している[575]。

マルクスがヘーゲルの言う「理性の狡知」の論理をしばしば用いたのは事実だが、マルクス自身は人間の主体性や歴史の偶然性を度々認めている。たとえばイーグルトンはマルクスが初期の著作で人間の類的存在と歴史に対する能動的な役割を認めていたことを指摘する[576]。またマルクスは『フォイエルバッハ・テーゼ』で「環境の変革と教育に関する唯物論の学説は、環境が人間によって変革され、教育者自身が教育されなければならないことを忘れている」と書いているし[577]、『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』では、マルクス自身がプルードンが歴史的決定論に陥っていると批判している[578]。

E.H.カーは、カール・ポパーやアイザイア・バーリンがマルクス主義を歴史決定論であると批判したことに触れて、マルクスの立場は決定論ではなく、因果関係の重視であると反論している[579]。カーはマルクスの「もし世界史にチャンスの余地がなかったとしたら、世界史は非常に神秘的な性格のものになるであろう。もちろん、このチャンスそのものは発展の一般的傾向の一部になり、他の形態のチャンスによって埋め合わされる。しかし、発展の遅速は、初め運動の先頭に立つ人々の性格の『偶然的』性格を含む、こうした『偶然事』に依存する」という発言を引用して、マルクスが単純な歴史決定論ではないより精緻な態度をとっていることを指摘している。
ユダヤ人観

マルクスは自分がユダヤ人であることを否定したことも、逆にそれを積極的にアピールしたこともなかった。これはマルクスの娘エリノア・マルクスが自分がユダヤ人であることを誇りを持ってアピールしていたのと対照的であった[580]。マルクスは自由主義的なライン地方に生まれ育ち、6歳のときに親の方針でキリスト教に改宗していたのでハイネやラッサールのようにユダヤ人の出自で苦しむということは少なかった[581]。

しばしば見られる批判として、マルクスはユダヤ人を蔑視していた、というものがある。マルクスがラッサールのことを「ユダヤのニガー」と渾名したことや[注釈 21]、マルクスが若い頃に書いた『ユダヤ人問題によせて』でユダヤ人のことを悪徳な貸金業者として描写したことがその根拠となっている。

『ユダヤ人問題によせて』でマルクスは、ブルーノ・バウアーがユダヤ人を解放するには彼らをユダヤ教からキリスト教に改宗させればよいと主張したのに反論して、国家がユダヤ人を排除していることが職業へと向かわせていると指摘し、「実際的ユダヤ教」と「賤業」とを比喩的に同一視しながら、「クリスチャンがユダヤ人となり」、遂には人類全体を「実際的」ユダヤ教から解放する必要があると言っている[584]。また、「他方、ユダヤ人が自分のこの実際的な本質をつまらぬものとみとめてその廃棄にたずさわるならば、彼らは自分のこれまでの発展から抜けでて、人間的解放そのものにたずさわり、そして人間の自己疎外の最高の実際的表現に背をむけることになる。」ともいい、「ユダヤ人がユダヤ人的なやり方で自己を解放したのは、ただたんに彼らが金力をわがものとしたことによってではなく、貨幣が、彼らの手を通じて、また彼らの手をへないでも、世界権力となり、実際的なユダヤ精神がキリスト教諸国民の実際的精神となったことによってなのである。ユダヤ人は、キリスト教徒がユダヤ人になっただけ、それだけ自分を解放したのである。(中略)ユダヤ人の社会的解放はユダヤ教からの社会の解放である。」とも言っている[584]。
労働者観

マルクスやエンゲルスは労働者を軽蔑していたという主張がある。

レオポルト・シュワルツシルト(ドイツ語版)は「マルクスとエンゲルスは公にはプロレタリアートを人類の救済者と呼び、その独特の優れた性格を賛美してやまなかった。だが私的にはプロレタリアートについての彼らの言葉はますます尊大に侮蔑的になってきた。エンゲルスはマルクスへの報告の中で、まるでプロイセン軍の軍曹が新兵に向かって用いるような言葉でプロレタリアを語っている。『あいつら』、『あの駄馬たち』、『何でも信じる愚かな労働者』」と主張する[585]。マルクスに批判的なシュロモ・アヴィネリ(英語版)も「プロレタリアートが自らのゴールを設定し、他からの援助なしにそれを実現する能力に関してマルクスが懐疑的であったことは様々な資料からうかがい知れる。このことは革命は決して大衆から起こることはなく、エリート集団から発するものだという彼の見解とも一致する」と主張する[586]。ロバート・ペイン(英語版)も「マルクスは人間を侮蔑していた。とりわけ彼がプロレタリアートと呼んだ人種を」と主張する[586]。

一方フランシス・ウィーン(英語版)は、アヴィネリの批判について「様々な資料」というが何のことなのか具体的に指摘していないと批判し、そこには「雑魚に対するマルクスの侮辱は世界的に知れているので実証するまでもない」という態度があると批判する[587]。マルクスが労働者を侮辱した例としてアヴィネリが上げるヴィルヘルム・ヴァイトリングについては「マルクスはヴァイトリングに対して実に寛大だった。その信念のために罰せられた哀れな仕立て職人を邪険に扱うべきではないと言ったのは他でもないマルクスであり、二人の関係にひびが入ったのはマルクスが最下層の人間を侮蔑していたからではなく、ヴァイトリングの耐えがたいほど自己中心的な政治的および宗教的な誤謬のせいであった。むしろヴァイトリングが労働者階級ではなく中産階級者だったらもっと激しい攻撃を加えていただろう」と述べている[587]。

またウィーンは、同じくアヴィネリがマルクスから侮辱を受けた労働者の同志として例示するヨハン・ゲオルク・エカリウス(ドイツ語版)についても、マルクスは彼自身悲惨な生活を送っていた1850年代を通じてエカリウスの生活に気をかけていたことを指摘する。ワシントンにいる同志のジャーナリストに依頼してエカリウスの論文が新聞に掲載されるよう取り計らったり、またエカリウスが病気になった時には、エンゲルスに依頼してワインを送ったり、エカリウスの子供たちが死んだ時にも葬儀費用を稼ぐための募金活動を行ったことを指摘した。そして「にもかかわらず、マルクスはただの仕立職人には狭量な軽侮の念を抱いていたなどという旧態依然たる戯言を未だに繰り返す研究者がなんと多いことか」と嘆いている[588]。
戦争観

マルクスは戦争を資本主義社会や階級社会に特有の付随現象と見ていた[589]。だが労働者階級が戦争に対して取るべき態度については、戦争の前提と帰結から個別に決めていく必要があると考えていた[589]。とりわけその戦争がプロレタリア革命にとって何を意味しているかを最も重視した[590][591]。

1848年革命中の『新ライン新聞』時代には、諸国民の春に対してヨーロッパの憲兵として振舞ったロシアと開戦すべきことを盛んに煽ったし[299]、クリミア戦争も反ロシアの立場から歓迎した[385]。イタリア統一戦争では反ナポレオン3世の立場からオーストリアの戦争遂行を支持し、参戦せずに中立の立場をとろうとするプロイセンを批判した[390]。普墺戦争も連邦分立状態が続くよりはプロイセンのもとに強固にまとまる方がプロレタリア闘争に有利と考えて一定の評価をした[465]。

しかし弟子たちの模範になったのは、普仏戦争に対する次のようなマルクスの立場だった。普仏戦争勃発時、マルクスは戦争を仕掛けたナポレオン3世に対してドイツの防衛戦争を支持したが、戦争がフランス人民に対する侵略戦争と化せば、その勝敗にかかわらず両国に大きな不幸をもたらすだろうと警告した。「差し迫った忌まわしい戦争がどのような展開を見せようと、すべての国の労働者階級の団結が最後には戦争の息の根を止めるだろう。公のフランスと公のドイツが兄弟殺しにも似た諍いをしているあいだにも、フランスとドイツの労働者たちは互いに平和と友好のメッセージを交換し合っているという事実。歴史上、類を見ないこの偉大な事実が明るい未来を見晴らす窓を開けてくれる」[592]。

マルクスのこの立場は、職業軍人による十九世紀的な戦争から、二十世紀的な国民総動員へと戦争の性格が変わっていくにつれ、彼の弟子たちにますます重視されるようになった。
各国観

プロイセン政府に追われてからのマルクスは、基本的にコスモポリタンで、『共産党宣言』には「プロレタリアは祖国を持たない」という有名な記述がある。そのため、労働貴族が形成されつつあったイギリスの労働者階級や、ナポレオン三世の戴冠を許したフランスの労働者階級のナショナリズムにはしばしば厳しい批判を行っている[593]。他方、イギリスのチャーチスト運動やフランスのパリコミューンを遂行した労働者の階級意識は評価するなど、マルクスの各国観は民族的偏見というよりはむしろ階級意識が評価の基準だった[483]。ヨーロッパ列強に支配されていたポーランドやアイルランドの民族主義については、これを支援している。またマルクス自身はドイツ人だったが、自分をほとんどドイツ人とは認識していなかったようである。プロイセン政府は専制体制と評価し、これを批判していた。

十九世紀、ヨーロッパの憲兵として反革命の砦だったロシアには非常に当初厳しい評価を下している。E.H.カーはこれをスラブ人に対するドイツ的偏見と解釈していた[594]。マルクス自身はロシアの将来について、「もし農民が決起するなら、ロシアの一七九三年は遠くないであろう。この半アジア的な農奴のテロル支配は史上比類ないものとなろう。しかしそれはピョートル大帝のにせの改革につぐ、ロシア史上第二の転換点となり、次はほんとうの普遍的な文明を打ち立てるだろう」と予測している(『マルクスエンゲルス全集』12巻648頁)。1861年の農奴解放令によって近代化の道を歩み始めて以降のロシアに対しては積極的に評価し、フロレンスキーの『ロシアにおける労働者階級の状態』を読み、「きわめてすさまじい社会革命が-もちろんモスクワの現在の発展段階に対応した劣ったかたちにおいてではあれ-ロシアでは避けがたく、まぢかに迫っていることを、痛切に確信するだろう。これはよい知らせだ。ロシアとイギリスは現在のヨーロッパの体制の二大支柱である。それ以外は二次的な意義しかもたない。美しい国フランスや学問の国ドイツでさえも例外ではない」と書いている(『マルクス・コレクション7』p.340-342)。更に死の2、3年前には「ロシアの村落的共同体はもし適当に指導されるなら、未来の社会主義的秩序の萌芽を含んでいるかもしれぬ」とロシアの革命家ヴェラ・ザスーリッチに通信している[595]。
植民地観

マルクスは、『共産党宣言』では、ポーランド独立運動において「農業革命こそ国民解放の条件と考える政党」を支持し[596]、1867年のフェニアンによるアイルランド反乱の際には、、植民地問題をイギリスの社会革命の一環として捉えるようになる。マルクスによれば、当時イギリスに隷属していたアイルランドはイギリスの地主制度の要塞になっている。イギリスで社会革命を推し進めるためには、アイルランドで大きな打撃を与えなければならない。「他の民族を隷属させる民族は、自分自身の鉄鎖を鍛えるのである。」「現在の強制された合併(すなわちアイルランドの隷属)を、できるなら自由で平等な連邦に、必要なら完全な分離に変えることが、イギリス労働者階級の解放の前提条件である」[597]。

他方、マルクスのインド・中国論にはオリエンタリズムという批判がある(たとえばサイードのマルクス論)。しかし一方でマルクスのインド・中国論はヘーゲル的な歴史観によるものだという解釈もある[598]。マルクスによれば、イギリスのインド支配や中国侵略は低劣な欲得づくで行われ、利益追求の手段もまた愚かだった。しかしイギリスは、無意識的にインドや中国の伝統的社会を解体するという歴史的役割を果たした。マルクスによれば、この事実を甘いヒューマニズムではなく冷厳なリアリズムで確認するべきである。「ブルジョワジーがひとつの進歩をもたらすときには、個人や人民を血と涙のなかで、悲惨と堕落のなかでひきずりまわさずにはこなかったではないか」。

ヨーロッパによって植民地、半植民地状態におかれたインドと中国の将来については、マルクスは次のように予測した。

「大ブリテンそのもので産業プロレタリアートが現在の支配階級にとってかわるか、あるいはインド人自身が強くなってイギリスのくびきをすっかりなげすてるか、このどちらかになるまでは、インド人は、イギリスのブルジョワジーが彼らのあいだに播いてくれた新しい社会の諸要素の果実を、取り入れることはないであろう。それはどうなるにしても、いくらか遠い将来に、この偉大で興味深い国が再生するのを見ると、期待してまちがいないようである」[599]。

「完全な孤立こそが、古い中国を維持するための第一の条件であった。こうした孤立状態がイギリスの介入によってむりやりに終わらされたので、ちょうど封印された棺に注意ぶかく保管されたミイラが外気に触れると崩壊するように、崩壊が確実にやってくるに違いない」[600]。
評価

マルクスの伝記作家フランシス・ウィーン(英語版)は「20世紀の歴史はマルクスの遺産のようなものだ。スターリンも毛沢東もチェ・ゲバラもカストロも ―現代の偶像も、あるいは怪物も、みな自らをマルクスの後継者と宣言して憚らなかった。マルクスが生きていたら彼らをその通りに認めたかどうか、それはまた別問題だ。実際、彼の弟子を自称する道化たちは、彼の存命中からしばしば彼を絶望の淵に追いやることが少なくなかった。たとえば、フランスの新しい政党が自分たちはマルキシストであると宣言した時、マルクスはそれを聞いて『少なくとも私はマルキシストではない』と答えたという。それでも彼の死後、百年のうちに世界の人口の半数がマルキシズムを教義と公言する政府によって統治されるようになった。さらに彼の理念は経済学、歴史学、地理学、社会学、文学を大きく変えた。微賎の貧者がこれほどまでに世界的な信仰を呼び起こしながら、悲惨なまでに今なお誤解され続けているのは、それこそイエス・キリスト以来ではないだろうか」と評する[601]。

同じくマルクスの伝記を書いたE.H.カーは「マルクスは破壊の天才ではあったが、建設の天才ではなかった。彼は何を取り去るべきかの認識においては、極めて見通しがきいた。その代わりに何を据えるべきかに関する彼の構想は、漠然としていて不確実だった。」「彼の全体系の驚くべき自己矛盾が露呈せられるのはまさにこの点である」と述べつつ、「彼の事業の最も良い弁護は結局バクーニンの『破壊の情熱は建設の情熱である』という金言の中に発見されるかもしれない。」「彼の当面の目標は階級憎悪であり、彼の究極の目的は普遍的愛情であった。一階級の独裁、―これが彼の建設的政治学への唯一の堅固で成功した貢献であるが― は階級憎悪の実現であり延長であった。それがマルクスによってその究極の目的として指定された普遍的愛情の体制へ到達する可能性があるか否かは、まだ証明されていない」「しかしマルクスの重要性は彼の政治思想の狭い枠を超えて広がっている。ある意味でマルクスは20世紀の思想革命全体の主唱者であり、先駆者であった」と評している[602]。

同じくマルクスの伝記を書いたアイザイア・バーリンは「マルクスは自分の思想が他の思想家に負うていることを決して否定しようとはしなかった。」「マルクスの求める指標は目新しさではなく、真理であった。彼はその思想が最終的な形を取り始めたパリ時代の初期に他人の著作の中に真理を発見すると自己の新しい総合の中にそれを組み入れようと努力した」「それゆえマルクスが発展させた何らかの理論について、その直接の源流をたどってみることは比較的に簡単なことである。だがマルクスの多くの批判者はこのことにあまりにも気を遣いすぎているように思える。彼の諸見解の中で、その萌芽が彼以前や同時代の著作家たちの中にないようなものは、恐らく何一つないといっていい[注釈 22]。」「マルクスはこれら膨大な素材をふるいにかけて、その中から独創的で真実かつ重要と思えるものを引き出してきた。そしてそれらを参照しつつ、新しい社会分析の方法を構築したのである。」「この長所は簡明な基本的諸原理を包括的・現実的にかつ細部にわたって見事に総合したことである」「いかなる現象であれ最も重要な問題は、その現象が経済構造に対して持っている関係、すなわちこの現象をその表現とする社会構造の中での経済力の諸関係に関わるものであると主張することによって、この理論は新しい批判と研究の道具を作り出したのである。」「社会観察の上に立って研究を行っている全ての人は必然的にその影響を受けている。あらゆる国の相争う階級、集団、運動、その指導者のみならず、歴史家、社会学者、心理学者、政治学者、批評家、創造的芸術家は、社会生活の質的変化を分析しようと試みる限り、彼らの発想形態の大部分はカール・マルクスの業績に負うことになる」「その主要原理の誇張と単純化した適用は、その意味を大いに曖昧化し、理論と実践の両面にわたる多くの愚劣な失策は、マルクスの理論の名によって犯されてきた。それにも関わらず、その影響力は革命的であったし、革命的であり続けている」と評する[604]。

マルクスの若いころの伝記を書いた城塚登はマルクスは元々経済学の人ではなく、哲学の人であり、「人間解放」という哲学的結論に達してから経済学に入ったがゆえに、それまでの国民経済学者と異なる結論に達したと主張する[605]。そんなマルクスのことをフェルディナント・ラッサールは「経済学者になったヘーゲルであり、社会主義者になったリカード」と表現した[606]。
家族
マルクスと妻イェニー(ドイツ語版)、次女ラウラ(ドイツ語版)、四女エリノア。エンゲルスとともに。
マルクスの非嫡出子を儲けたマルクス家のメイドのヘレーネ・デムート(ドイツ語版)

1836年にトリーア在住の貴族ルートヴィヒ・フォン・ヴェストファーレン(ドイツ語版)の娘であるイェニー(ジェニー)(ドイツ語版)と婚約し、1843年に結婚した[607][149]。マルクスは反貴族主義者だが、妻が貴族であることは非常に誇りにし、妻には「マダム・イェニー・マルクス。旧姓バロネッセ(男爵令嬢)・フォン・ヴェストファーレン」という名刺を作らせて、商人や保守派相手にはしばしばそれを見せびらかした[608]。また困窮の時でもドイツの男爵令嬢にみすぼらしい恰好をさせるわけにはいかないとイェニーの衣服には金を使い、債権者を怒らせた[609]。

マルクスの伝記作家は概してヴェストファーレン家の貴族としての家格を誇張しがちであるが、実際にはヴェストファーレン家は由緒ある貴族というわけではなく、ルートヴィヒの父であるフィリップ(ドイツ語版)の代に戦功で貴族に列したに過ぎない。同家はスコットランド王室に連なるなどという噂もあるが、ヨーロッパでは多くの家がどこかで王室と繋がっているため、それは名門であることを意味しない。ルートヴィヒはトリーアの統治を任せられていたわけではなく、一介の役人としてトリーアに赴任していただけである。プロイセン封建秩序の中にあってヴェストファーレン家など取るに足らない末席貴族であることは明らかであり、実質的な生活状態は平民と大差なかったと考えられる。ただ末席貴族ほど気位が高いというのは一般によくある傾向であり、その末席貴族の娘がユダヤ人に「降嫁」するのは異例と言えなくもない[610]。

イェニーの兄でルートヴィヒの跡を継いでヴェストファーレン家の当主となったフェルディナント(ドイツ語版)は、マルクスとは対極に位置するような徹底した保守主義者であり、妹を「国際的に悪名高いユダヤ人」から引き離したがっていた[611][149]。また彼は1850年代の保守派の反転攻勢期にプロイセン内務大臣となり、時の宰相オットー・フォン・マントイフェルの方針に背いてまでユンカーのための保守政治を推し進めた人物でもある[612]。一方イェニーの弟エドガー(ドイツ語版)はマルクス夫妻の良き理解者であった。初期のマルクスの声明にはよく彼も署名していたが最後までマルクスと行動を共にしたわけではなく、後に渡米し、帰国後には自堕落に過ごしていた[613][614]。

マルクスとイェニーは二男四女に恵まれた。マルクスは政治的生活では独裁的だったが、家庭ではおおらかな父親であり、「子供が親を育てねばならない」とよく語っていた[562]。晩年にも孫たちの訪問をなによりも喜び、孫たちの方からも愛される祖父だった[615]。

長女ジェニー・カロリーナ(ドイツ語版)(1844年-1883年)は、パリ・コミューンに参加してロンドンに亡命したフランス人社会主義者シャルル・ロンゲ(フランス語版)と結婚した[616][617]。彼女は父マルクスに先立って1883年1月に死去している[618]。

次女ジェニー・ラウラ(ドイツ語版)(1845年-1911年)は、インターナショナル参加のために訪英したフランス人社会主義者ポール・ラファルグと結婚したが、子供はできなかった。ポールとラウラは、社会主義者は老年になってプロレタリアのために働けなくなったら潔く去るべきだ、という意見をもっていて、1911年にポールとともに自殺した[619]。彼らの自殺は当時ヨーロッパの社会主義者たちの間でセンセーションを巻き起こした。

長男エドガー(1847年-1855年)は義弟エドガー・フォン・ヴェストファーレンに因んで名づけられた[620]。マルクスはこの長男エドガーをとりわけ可愛がっていた。娘に冷たいわけではなかったが、息子の方により愛着を持っていた[621]。1855年4月のエドガーの死にあたってマルクスは絶望し、この3カ月後にラッサールに送った手紙の中で「真に偉大な人々は、自然の世界との多くの関係、興味の対象を数多く持っているので、どんな損失も克服できるという。その伝でいけば、私はそのような偉大な人間ではないようだ。我が子の死は私を芯まで打ち砕いた」と書いている[622]。

次男ヘンリー・エドワード・ガイ(1849年-1850年)はイギリス議会爆破未遂犯ガイ・フォークスに因んで名付けたが[563]、ディーン通りに引っ越す直前に幼くして突然死した[623]。

三女ジェニー・エヴェリン・フランセス(1851年-1852年)もディーン通りの住居で気管支炎により幼い命を落としている[624]。

四女ジェニー・エリノア(1855年-1898年)は、三人の娘たちの中でも一番のおてんばであり、マルクスも可愛がっていた娘だった。とりわけ晩年のマルクスは彼女が側にいないと、いつも寂しそうにしたという[625]。彼女はイギリス人社会主義者エドワード・エイヴリング(英語版)と同棲するが、このエイヴリングは女ったらしで、やがて女優と結婚することが決まるとエリノアが邪魔になり、彼女を自殺に追い込む意図で心中を持ちかけた。エリノアは彼の言葉を信じて彼から渡された青酸カリを飲んで自殺したが、エイヴリングは自殺せずにそのまま彼女の家を立ち去った[要検証 – ノート]。明らかに殺人罪であるが、エイヴリングが逮捕されることはついになかった[626]。

ヴェストファーレン家でイェニーのメイドをしていたヘレーネ・デムート(ドイツ語版)(愛称レンヒェン)は、イェニーの母がイェニーのためにマルクス家に派遣し、以降マルクス一家と一生を共にすることになった。彼女は幼い頃から仕えてきたイェニーを崇拝しており、40年もマルクス家に献身的に仕え、マルクス家の困窮の時にはしばしば給料ももらわず無料奉仕してくれていた[627][191]。彼女は1851年にディーン通りのマルクス家の住居においてフレデリック(フレディ)・デムートを儲けた[628]。フレディの出生証明の父親欄は空欄になっており、里子に出されたが、1962年に発見されたアムステルダムの「社会史国際研究所」の資料と1989年に発見されたヘレーネ・デムートの友人のエンゲルス家の女中の手紙からフレディの父親はマルクスであるという説が有力となった[629]。

このエンゲルス家の女中の手紙や娘のエリノアの手紙から、マルクスの娘たちはフレディをエンゲルスの私生児だと思っていて、エリノアはエンゲルスが父親としてフレディを認知しないことを批判していた事が分かる[630]。エンゲルス家の女中の手紙によれば、エンゲルスは死の直前に人を介してエリノアにフレディはマルクスの子だと伝えたが、エリノアは嘘であるといって認めなかった。それに対してエンゲルスは「トゥッシー(エリノア)は父親を偶像にしておきたいのだろう」と語ったという[631]。

ちなみにフレディ当人は自分がマルクスの子であるとは最後まで知らなかった。彼はマルクスの子供たちの悲惨な運命からただ一人逃れ、ロンドンで旋盤工として働き、1929年に77歳で生涯を終えている[632]。
マルクスの著作
1973年に東ドイツで出版された『資本論』

『デモクリトスの自然哲学とエピクロスの自然哲学の差異』(Differenz der demokritischen und epikureischen Naturphilosophie)(1840年)
『ヘーゲル国法論批判(Kritik des Hegelschen Staatsrechts)』(1842年)
『ヘーゲル法哲学批判序説(ドイツ語版)』(1843年)
『ユダヤ人問題によせて』(1843年)
『経済学・哲学草稿(ドイツ語版)』(1844年)
『聖家族』(1844年、エンゲルスとの共著)
『ドイツ・イデオロギー』(1845年、エンゲルスとの共著)
『哲学の貧困』(1847年)
『共産党宣言』(1848年、エンゲルスとの共著)
『賃金労働と資本(ドイツ語版)』(1849年)
『フランスにおける階級闘争(Die Klassenkämpfe in Frankreich 1848 bis 1850)』(1850年)
『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』(1852年)
『経済学批判要綱』(1858年)
『経済学批判』(1859年)
『フォークト君よ(ドイツ語版)』(1860年)
『剰余価値理論(ドイツ語版)』(1863年)
『価値、価格と利益(ドイツ語版)』(1865年)
『資本論』(1巻1867年、2巻1885年、3巻1894年。2巻と3巻はマルクスの遺稿をエンゲルスが編纂・出版)
『フランスにおける内乱(Der Bürgerkrieg in Frankreich)』(1871年)
『ゴータ綱領批判』(1875年)
『労働者へのアンケート(ドイツ語版)』(1880年)
『ザスーリチへの手紙(ドイツ語版)』(1881年)


脚注
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注釈

^ なお、2005年のイギリスBBCのラジオ番組の視聴者投票でもっとも偉大な哲学者に選ばれた[1]。
^ プロイセン政府は1815年にもドイツ連邦規約16条に基づき、ユダヤ教徒の公職追放を開始した。この措置とユダヤ人迫害機運の盛り上がりの影響でこの時期にユダヤ教徒から改宗者が続出した。ハインリヒ・ハイネやエドゥアルト・ガンスらもこの時期に改宗している[16]。マルクスの父ヒルシェルは当時トリーア市の法律顧問を務めていたため、やはり公職追放の危機に晒された。彼ははじめ改宗を拒否し、ナポレオン法典を盾に公職に止まろうとした。その主張は地方高等裁判所長官フォン・ゼーテからも支持を得ていたが、プロイセン中央政府の法務大臣(ドイツ語版)フリードリヒ・レオポルト・フォン・キルヒアイゼン(ドイツ語版)から例外措置はありえないと通告された。結局ヒルシェルはゼーテからの勧めで最終手段として改宗したのだった[17]。
^ ヨーゼフ・シュンペーターはマルクスの著作の傾向を看破したものとしてこの評価に注目しており、「マルクスがこの種の文体を使った時は、いつも何らかの隠さなければならない弱点があると見てよい」と評している[41]。
^ ヘーゲルは、当時プロイセンで最も高名な哲学者だった。ヘーゲルは、「この世の全てのものは矛盾をもっているので、不可避で否定を持つが、絶対的なもの(彼はこれを精神と見た)の意思に従って、否定から否定へとジグザグに動いて矛盾を解消して、より理性的な状態へと近づけていく運動である」と考えた。この概念で把握することを弁証法という[70][71]。ヘーゲルのこの考えに従えば、理性的なものは必ず現実に現れてくるはずだし、現在の状態は、必ず理性的な部分があるということになる。ヘーゲルは「理性の最高段階は国家であり、あらゆる矛盾は国家によって解消される」と考えた。そして、プロイセン王国こそがそれを最も体現している国であるとした。プロイセン政府にとっては、フランス革命的な西欧自由主義への対抗として、都合のいい哲学であった。しかし、ヘーゲルは1831年に死去し、その思想の継承者たちは右派・中央派・左派に分裂した。自由主義・啓蒙主義思想から封建主義的なプロイセンの現状の批判する左派は、現実の中に理性を探すのではなく、理性によって現実を審査すべきとしてヘーゲル批判を行うようになった。若き日のマルクスも、このヘーゲル左派の立場に立った[72]。
^ 前王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世は優柔不断な性格の王でヘーゲル派のカール・フォム・シュタイン・ツム・アルテンシュタイン(ドイツ語版)を文部大臣にしていたため、これまでヘーゲル左派への弾圧も比較的緩やかであった[94]。
^ デモクリトスとエピクロスはアトム(原子)を論じた古代ギリシャの哲学者。デモクリトスはあらゆるものはアトムが直線的に落下して反発しあう運動で構成されていると考えた初期唯物論者だった。これに対してエピクロスはデモクリトスのアトム論を継承しつつもアトムは自発的に直線からそれる運動(偏差)をすることがあると考えた[99]。近代まで長らくエピクロスはデモクリトスに余計なものを付け加えた改悪者とされてきたが、自由主義の風潮が高まると哲学的観点から再評価が始まった。デモクリトスのアトム論では人間の行動や心までもアトムの運動による必然ということになってしまうのに対し、エピクロスは偏差の考えを付け加えることで自由を唯物論の中に取り込もうとしたのではないかと考えられるようになったからである。ヘーゲル左派もエピクロスをストア派や懐疑主義とともに自分たちの「自己意識」の立場の原型と看做した。マルクスもそうした立場を踏襲してエピクロスとデモクリトスを比較する論文を書いたのだった[100]。
^ ルーゲはマルクスの論文を含む掲載を認められなかった論文を1843年にスイスで『アネクドータ(Anekdote)』という雑誌にして出版している[112]。
^ この新聞は自由主義的だが、ライン地方がプロイセン領であること自体は受け入れており、親仏的・反プロイセン的カトリック新聞『ケルン新聞』への対抗としてプロテスタントのプロイセン政府としても必ずしも邪魔な存在ではなく、その発刊に際しては好意的でさえあったという[114][118]。
^ ただしこの論説のなかでマルクスは「プルードンの洞察力ある著作については研究の必要がある」ともしている[132][129][133]。
^ 農民が森林所有者の許可なく木材を採取することを盗伐として取り締まる法案。マルクスはこの法案を貧民の慣習上の権利を侵すものとして反対した。ただしこの法案は森林所有者の財産権保護だけを目的とする物ではなく、当時凄まじい勢いで進んでいた森林伐採を抑えようという自然環境保護の目的もあった。そちらの観点についてはマルクスは何も語っていない[134]。
^ 仮借ない批判で知られるマルクスだが、不思議なことにハイネだけは最後まで批判しなかった。マルクスとハイネの意見が相違しなかったからではない。ハイネはプロレタリアートが勝利した世界に芸術や美術の居場所はないと感じ取り、共産主義を好んでいなかった。また1856年に死去した際には神に許しを請う遺言書を書いている。このような「反共」や「信仰への墜落」にも関わらず、マルクスはハイネに対して何らの非難も発しなかったのである。マルクスの娘のエレナによれば「父はあの詩人をその作品と同じぐらい愛していました。だから彼の政治的弱さはどこまでも大目に見ていたのです。それを父はこう説明していました。『詩人というのは妙な人種で彼らには好きな道を歩ませてやらねばならない。彼らを常人の尺度で、いや常人ではない尺度でも図ってはならないのだ』」[174]。
^ ブリュッセル時代にもモーゼス・ヘスとマルクス・エンゲルスはしばしば共同で研究をしていたが、ヘスは哲学的観点が抜けきれず、階級闘争など過激な路線を嫌い、階級間を和合させようとしたため、マルクスたちから「真正社会主義者」という批判を受けた[231]。
^ たとえば貴族や聖職者がブルジョワへの復讐で提唱する「封建主義的社会主義・キリスト教的社会主義」、ブルジョワの一部が自分の支配権を延命させるべく主張する「ブルジョワ社会主義」、大工業化で零落した小ブルジョワによるギルド的な「小ブルジョワ社会主義」、哲学者が思弁的哲学の中だけで作っている「真正社会主義」、プロレタリアート革命なしで階級対立と搾取の無い世界を実現できるかのように語る「空想的社会主義」などである[256][257]。
^ ルイ・フィリップ王は1830年の7月革命で復古王政が打倒された後、ブルジョワに支えられて王位に就き、多くの自由主義改革を行った人物である。しかしその治世中、労働者階級が台頭するようになり、労働運動が激化した。1839年に社会主義者ルイ・オーギュスト・ブランキの一揆が発生したことがきっかけで保守化を強め、ギゾーを中心とした専制政治を行うようになった[262]。1847年の恐慌で失業者数が増大、社会的混乱が増して革命前夜の空気が漂い始めた。そして1848年2月22日、パリで選挙法改正運動が政府に弾圧されたのがきっかけで暴動が発生[261]。23日にはギゾーが首相を辞し、24日にはルイ・フィリップ王は国外へ逃れる事態となったのである[263][264]。
^ たとえば『共産党宣言』では「あらゆる相続権の廃止」「全ての土地の国有化」となっていたのを、『ドイツにおける共産党の要求』では「相続権の縮小」「封建主義的領地の国有化」としている。また国立銀行の創設の要求について「国立銀行が貨幣を硬貨と交換するようになれば、万国の両替手数料は安くなり、外国貿易に金銀が使用可能となる」とブルジョワ目線で説明を付けている[282]。
^ マルクスの独裁ぶりを象徴するのがケルン労働者協会会長で共産主義者同盟にも所属していたアンドレアス・ゴットシャルク(ドイツ語版)をつまらないことで激しく糾弾したことだった。ゴットシャルクはこれにうんざりして共産主義者同盟から離脱してしまった。マルクスのゴットシャルク批判は方針の相違では説明を付け難い。フランシス・ウィーンは、「嫉妬がからんでいたということだけは言えるだろう」としている。ウィーンによれば、マルクスは自分の統括下にない組織や機関に批判的だったし、貧しい人たちへの医療活動で知られる医者のゴットシャルクは編集発行人のマルクスより多くの信奉者を得ていた。[293]。
^ エンゲルスはロンドンに来た後、ロンドンの新聞社に務めることを夢見ていたが、その夢は叶わず、他の自活の手段も見つけられなかったので父親と和解し、1850年12月からマンチェスターにある父の共同所有する会社で勤務するようになった[345]。とはいえこの頃エンゲルスの給料も年100ポンドを超えることはなかったと見られており、また父の代わりにマンチェスターの大世帯をやり繰りしなければならなかったのでマルクスにやれる金にも限度があった[346]。
^ これについてマルクスの伝記を書いたE・H・カーは「マルクスはラッサールに腹を立てていた。彼を軽蔑したり、時には憎悪したこともあった。彼に対して陰謀を企みもした。しかしラッサールには常に生々しい情熱、力強い人格、自己犠牲の献身、紛う方なき天才の閃きがあり、これがために否応なくマルクスから尊敬を、ほとんど愛情さえ勝ち得たのである。マルクスはエンゲルスの冷静な批判の影響を受けたが、それに完全に納得したことは一度もなかった。恐らくマルクスがゲットーのユダヤ人を軽蔑していたにも関わらず、目に見えぬ、自分には気づかれぬ人種的親近性があったのであろう。二人の意見と性格がどれほど違っても、マルクスがラッサールに無関心であったことは一度もなかった。ラッサールの死はマルクスの生涯においてもヨーロッパ社会主義の歴史においても、一時期を画した」と評している[425]。
^ たとえば『フレイザーズ・マガジン(英語版)』は「インターナショナルの影響について我々はあまり目にすることも耳にすることもないが、その隠された手は神秘的かつ恐ろしい力で革命装置を操っている」と書いた[490]。『ペルメル・ガゼット(英語版)』紙は「マルクスは生まれながらのユダヤ人であり、政治的共産主義を生み出すことを目的とする途方もない陰謀の長である」と書いた[491]。フランスのある新聞は「マルクスは陰謀家の最高権威であり、ロンドンの隠れ家からコミューンを指揮した。インターナショナルは700万人の会員を擁し、全員がマルクスの決起命令を待っている」などと報じている[492]。
^ 『資本論』第4部こと『剰余価値学説史』は、エンゲルスの死後カール・カウツキーの編集で出版されたが、これが本文の改竄を含んでいるという理由で、ソ連マルクス=レーニン主義研究所により編集し直された。これは構成および各節の小見出しが上の研究所の手になるものである。その後、未編集の草稿の状態を再現した「1861-63年の経済学草稿」が日本語訳でも出版されている。『資本論』に関するもの以外にもマルクス、エンゲルスの死後に発見された著作やノートには同様の問題をはらんでいるものがあり、特に1932年のいわゆる旧MEGAに収録された『ドイツ・イデオロギー』は原稿の並べ替えが行われ、廣松渉から「偽書」と批判された(詳細は『新編輯版 ドイツ・イデオロギー』(岩波文庫)の「解説」および『廣松渉著作集』、岩波書店、第八巻参照)。『経済学・哲学草稿』は旧MEGA版、ディーツ版、ティアー版などの各版で順序や収録された原稿が異なる[544]。
^ マルクス自身も色黒のユダヤ系であったが、マルクスはラッサールが色黒のユダヤ系なのを捉えて彼が黒人系ユダヤ人であると揶揄していた。エンゲルスへの手紙の中で「彼(ラッサール)の頭の髪の伸び方(縮れ毛)がよく示している通り、彼はモーセがユダヤ人を連れてエジプトから脱出した際に同行したニグロの子孫である。彼の母親か父親がニガーと交わったのでない限り。片やドイツとユダヤの混ぜ合わせ、かたやニグロの血、この二つがこの奇妙な生き物をこの世に誕生させたのだ。この男のしつこさは紛れもなくニガーのそれである」と書いている[565][582][583]。
^ バーリンはその例として、唯物論はスピノザやドルバック、フォイエルバッハに負うところが大きいこと、「人類の歴史は全て階級闘争」とする歴史観はシモン=ニコラ=アンリ・ランゲ(フランス語版)やサン=シモンが主張していたこと、「恐慌の周期的発生の不可避」という科学的理論はシスモンディの発見であること、「第四階級の勃興」は初期フランス共産主義者によって主張されたこと、「プロレタリアの疎外」はマックス・シュティルナーがマルクスより1年早く主張していること、プロレタリア独裁はバブーフが設計したものであること、労働価値説はジョン・ロックやアダム・スミス、リカードら古典経済学者に依拠していること、搾取と剰余価値説もシャルル・フーリエがすでに主張していたこと、それへの対策の国家統制策もジョン・フランシス・ブレイ(英語版)、ウィリアム・トンプソン(英語版)、トーマス・ホジスキンらがすでに論じていたことなどをあげる[603]。

出典

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江上照彦 『ある革命家の華麗な生涯 フェルディナント・ラッサール』 社会思想社、1972年(昭和47年)。ASIN B000J9G1V4。
エルンスト・エンゲルベルク(ドイツ語版) 『ビスマルク 生粋のプロイセン人・帝国創建の父』 野村美紀子訳、海鳴社、1996年(平成8年)。ISBN 978-4875251705。
大内兵衛 『マルクス・エンゲルス小伝』 岩波書店、1964年(昭和39年)。ISBN 978-4004110668。
太田恭二 『マルクスとエンゲルスその生涯と学説』 紅玉堂書店、1930年(昭和5年)。
E・H・カー 『カール・マルクス その生涯と思想の形成』 石上良平訳、未来社、1956年(昭和31年)。ASIN B000JB1AHC。
鹿島茂 『怪帝ナポレオンIII世 第二帝政全史』 講談社、2004年(平成16年)。ISBN 978-4062125901。
コーリン・ガンブレル 『カール・マルクス』 湯浅赴男訳、西村書店〈リバー・ブックス〉、1989年(平成元年)。ISBN 978-4890131105。
小泉信三 『小泉信三全集〈第7巻〉』 文藝春秋、1967年(昭和42年)。ASIN B000JBGBO4。
外川継男、左近毅(編) 『バクーニン著作集 第6巻』 白水社、1973年(昭和48年)。ASIN B000J9MY6U。
小牧治 『マルクス』 清水書院〈人と思想20〉、1966年(昭和41年)。ISBN 978-4389410209。
レオポルト・シュワルツシルト(ドイツ語版) 『人間マルクス』 竜口直太郎訳、雄鶏社、1950年(昭和25年)。ASIN B000JAPR54。
城塚登 『若きマルクスの思想』 勁草書房、1970年(昭和45年)。ASIN B000J9OBWA。
ロバート・L.ハイルブローナー 『入門経済思想史 世俗の思想家たち』 八木甫、浮田聡、堀岡治男、松原隆一郎、奥井智之訳、筑摩書房、2001年(平成13年)。ISBN 978-4480086655。
アイザイア・バーリン 『カール・マルクス その生涯と環境』 倉塚平、小箕俊介訳、中央公論社、1974年(昭和49年)。ASIN B000J9G9Z2。
アイザイア・バーリン 『思想と思想家』 福田歓一、河合秀和監修、谷福丸訳、岩波書店〈バーリン選集 1〉、1983年(平成5年)。ISBN 978-4000010009。
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フランツ・メーリング 『マルクス伝1』 栗原佑訳、大月書店〈国民文庫440a〉、1974年(昭和49年)。ASIN B000J9D4WI。
フランツ・メーリング 『マルクス伝2』 栗原佑訳、大月書店〈国民文庫440b〉、1974年(昭和49年)。ASIN B000J9D4W8。
フランツ・メーリング 『マルクス伝3』 栗原佑訳、大月書店〈国民文庫440c〉、1974年(昭和49年)。ASIN B000J9D4VY。

関連項目

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山本七平『日本はなぜ敗れるのか』より 従軍慰安婦は旧日本軍指揮下にあることを明記

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山本七平『日本はなぜ敗れるのか』より



日本はなぜ敗れるのか 敗因21ヵ条 (角川oneテーマ21)日本はなぜ敗れるのか 敗因21ヵ条 (角川oneテーマ21)
(2012/10/01)
山本 七平

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山本七平
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出典がまったく示されていないか不十分です。内容に関する文献や情報源が必要です。(2014年7月)
中立的な観点に基づく疑問が提出されています。(2006年10月)
独自研究が含まれているおそれがあります。(2014年7月)

山本 七平(やまもと しちへい、1921年12月18日 - 1991年12月10日)は、山本書店店主。評論家として、主に戦後の保守系マスメディアで活動した。

目次

1 経歴
1.1 年譜
1.2 受賞歴
1.3 イザヤ・ベンダサンとの関係
1.3.1 山本による説明
1.3.2 山本死後の扱い
2 思想
3 学術上の業績
4 エピソード
5 評価
6 著書
6.1 日本論
6.2 自らの軍隊経験を中心に述べたもの
6.3 評伝
6.4 中国古典に関するもの
6.5 コラム・時事評論
6.6 聖書・キリスト教関連
6.7 その他
6.8 全集
6.9 イザヤ・ベンダサンの著作
7 翻訳
8 参考文献
9 脚注
10 関連項目
11 外部リンク

経歴
年譜

1921年12月18日 - 東京府荏原郡三軒茶屋(現在の東京都世田谷区三軒茶屋)で、クリスチャンの両親(山本文之助、八重)の間に長男として生まれる。名の「七平」は神の安息日(日曜)生まれから命名される。兄弟姉妹は姉2人と妹1人。父方のいとこおばの夫は玉置酉久(大石誠之助の次兄)。
1937年 - 青山学院教会で洗礼を受ける。
1942年9月 - 太平洋戦争中のため、青山学院専門部高等商業学部を21歳で繰り上げ卒業する。10月、第二乙種合格で徴兵され、陸軍近衛野砲兵連隊へ入隊。その後、甲種幹部候補生合格、愛知県豊橋市の豊橋第一陸軍予備士官学校に入校する。
1944年5月 - 第103師団砲兵隊本部付陸軍砲兵見習士官・野戦観測将校(のち少尉)として門司を出航、ルソン島における戦闘に参加。1945年8月15日、ルソン島北端のアパリで終戦を迎える。同年9月16日、マニラの捕虜収容所に移送される。
1947年 - 帰国。
1956年 - 世田谷区の自宅で聖書学を専門とする出版社、山本書店株式会社を創業する。のち山本書店は新宿区市ヶ谷に移転。
1970年 - イザヤ・ベンダサン著『日本人とユダヤ人』を山本書店より発売する。
1979年 - 大平内閣の諮問機関「文化の時代」研究グループの議長を務める 。
1984年 - 中曽根内閣の諮問機関「臨時教育審議会」の第一部会専門委員を務める 。
1991年 - 膵臓癌により自宅で死去した。遺骨の一部はイスラエルで散骨された。

受賞歴

1973年 - 第35回文藝春秋読者賞受賞
1981年 - 第29回菊池寛賞受賞
1989年 - 和歌山県文化表彰にて文化賞受賞

イザヤ・ベンダサンとの関係
山本による説明

当初『日本人とユダヤ人』の著者ではないかと言われることについて、山本は「私は著作権を持っていないので、著作権法に基づく著者の概念においては著者ではない」と述べる一方で、「私は『日本人とユダヤ人』において、エディターであることも、ある意味においてコンポーザーであることも、否定したことはない。」とも述べている[1]。

後に、1987年のPHP研究所主催の研究会では以下のように説明している。

山本書店を始めた頃に帝国ホテルのロビーを原稿の校正作業にしばしば使用していたら、フランク・ロイド・ライトのマニアということがきっかけで、ジョン・ジョセフ・ローラーとその友人ミンシャ・ホーレンスキーと親しくなった。キリスト教が日本に普及しないのはなぜかという問題意識のもと、3人でいろいろ資料を持ち寄って話し合っているうちに、まとまった内容を本にしたのが『日本人とユダヤ人』である。ベンダサン名での著作については、ローラーの離日後はホーレンスキーと山本の合作である。ローラーは在日米軍の海外大学教育のため来日していたアメリカのメリーランド大学の教授で、1972年の大宅壮一ノンフィクション賞授賞式にはベンダサンの代理として出席した。ホーレンスキーは特許関係の仕事をしているウィーン生まれのユダヤ人、妻は日本人[2]。
山本死後の扱い

稲垣武は、上記研究会での説明および夫人の山本れい子の証言をもとに『怒りを抑えし者』(PHP研究所、1997年)「第9章ベンダサンとその時代」において、『日本人とユダヤ人』は、2人のユダヤ人(ローラーとホーレンスキー)との対話を参考とはしているが、構成も文章も山本のものと結論付けている。

同様に、『山本七平ライブラリー』編集部もライブラリー13および14(文藝春秋、1997年)の奥付の初出一覧の脇に、ベンダサン名の諸作品はほぼ山本の著作、もしくは山本を中心とする複数の外国人との共同作業、と考えられるというコメントを付している。

2004年『日本人とユダヤ人』が角川oneテーマ21シリーズ(角川書店、2004年)から山本七平名で出版されたり、ベンダサン名で連載された「ベンダサン氏の日本歴史」(『諸君!』文藝春秋1973年1月以降22回掲載)が山本著『山本七平の日本の歴史』(ビジネス社、2005年)として単行本化されるなど、山本の死後10年以上経過してからはベンダサン名の著作が事実上山本のものとして扱われることが多い。

『七平ガンとかく闘えり』(KKベストセラーズ、1994年)では、息子である良樹の筆で、ベンダサンはあなたではという母の問に対して「まあ、そういうことなんだよ」と答えたと記されている(34ページ)。
思想

日本社会・日本文化・日本人の行動様式を「空気」「実体語・空体語」といった概念を用いて分析した。その独自の業績を総称して「山本学」と呼ばれる。

山本は、『現人神の創作者たち』のあとがきで、「もの心がついて以来、内心においても、また外面的にも、常に『現人神』を意識し、これと対決せざるを得なかった」と語っている。山本は、クリスチャンであるだけでなく、父親の親族に大逆事件で処刑された大石誠之助をもっていた。これらのことが、山本の日本社会・日本文化・日本人に対する思考の原点であるといえよう。

特に、日本人のかつての教養であった中国古典に関する論考には独特なものがあり、『論語の読み方』『「孫子」の読み方』『帝王学―「貞観政要」の読み方』など、多数の論考がある。山本によれば、これらの漢籍に対する研究は、内村鑑三ら、戦前のキリスト教徒が「キリスト教徒なら孟子を読むべきだ」と主張していたこと、山本の父が内村の雑誌を読んでいたことに起因しているといっている[3]。特に『「孫子」の読み方』には、旧日本軍の将校時代に感じた「余りにも非論理的な精神力万能主義の為に旧日本軍が負けた」という考察から、精神論を廃した「孫子」を再度捉え直そうという姿勢が見られるという[4]。

その山本が、最も力を入れて執筆した作品が、『現人神の創作者たち』と『洪思翊中将の処刑』である。前者は、「そんなに打ち込んでは命がもたないよ」と言われながら執筆されたものであり、後者は、「一番書きたいものを書いてくれ」と請われて執筆したものであった[要出典]。

『現人神の創作者たち』は、いかにして尊皇思想が生まれたかを探求した作品である。山本は、日本に亡命してきた明の儒学者朱舜水を起点とし、山崎闇斎、浅見絅斎、安積澹泊、栗山潜鋒、三宅観瀾らの議論を追いながら、尊皇思想が形成されていく様子を描いた。そして、その尊皇思想が、社会全体にどのような影響を与えたかを、元禄赤穂事件をめぐる当時の言論状況をたどることであきらかにしたのであった。山本は、尊皇思想の影響は今もなお残っているのだと語っている。

『洪思翊中将の処刑』は、朝鮮人でありながら帝国陸軍で中将まで昇進した洪思翊を扱った作品である。洪は、帝国陸軍の軍人である一方で、抗日運動家と秘密裡に関係を持ち、その家族を支援するなど(自身が抗日運動に参加することは拒んでいる)、きわめて複雑な生き方を強いられた人物であった。山本の洪に対する執着の理由のひとつは、そこにあったと思われる[独自研究?]。洪は、太平洋戦争後、戦犯として処刑されるが、軍事法廷において一言も発することはなかった。山本は、この作品で、その沈黙の意味をあきらかにしようとしたのであった。
学術上の業績

山本学は、社会学の中心理論である「構造-機能分析」に限りなく近いという専門の社会学者からの指摘がある。したがって山本の本は社会学を学ぶ者にとって重要な文献となるようである[5]。

山本は終始一貫して在野の評論家として過ごしたが、在野の期間が長かった小室直樹などから評価され、アカデミズムでもしばしば取り上げられた。1979年に『日本資本主義の精神』が刊行されたとき、世は経済体制は資本主義と社会主義のどちらが優れているか、ということがまだ真剣に議論されていた時代である。この山本の本はユニークな日本人・日本経済論として読まれ、あまり重要視はされていなかったようであるが、のちのソ連解体や共産圏諸国の改革を経ると、現在では資本主義か社会主義かという経済体制はあまり重要ではなく、その国に資本主義の精神があるか、あるとすればどのような特徴を持った精神かということが重要で、その特徴によってその国の経済の強みや弱みが生まれる、ということが理解されてきているようである。したがってこの山本の本は、早い時期に日本の資本主義の精神の特徴を論考していた点で、高く評価されるべきものと思われる[6]。

『現人神の創作者たち』は、日本の政治思想史、天皇制研究で他の代表的な研究、たとえば丸山真男『日本政治思想史研究』『現代政治の思想と行動』、藤田省三『天皇制国家の支配原理』などに匹敵する研究という評価もされている[7]。
エピソード

「臨時教育審議会」の委員の会合が終わった後のインタビューで、「もちろん制限はあると思います。国が教育をするわけじゃないですから」と答えていた。教育の主体はあくまで親、ということを言いたかったものと思われる。戸塚ヨットスクールの問題については、「暴力では教育はできないんですね、聖書にも~という話があって、暴力では教育はできないんですね」と答えていた。また家庭内暴力については、「飽食暖衣、逸居して教なくんば即ち、禽獣に等し、ということですね」と答えていた。
外国人を相手にした講演会で、日本の家庭において、女性の地位が低いのはなぜかという質問に答えて、「では皆さんの国で、亭主が自分の給料を全て妻に渡す国がどれくらいあるか」と反論した。
小室直樹との親交は長く、小室が研究に没頭して倒れ入院したとき、山本は小室の生活を支援するため、小室が『ソビエト帝国の崩壊』(光文社、1980年)を執筆するための手助けをした。いくつかの偶然が重なったとはいえ、結果的に小室を論壇に登場させたその功績は大きいと思われる。また山本と小室には、二人の長時間にわたる討論によって成立した『日本教の社会学』という本がある。
『小林秀雄対談集 歴史について』(文藝春秋 1972年)で、小林秀雄が、河上徹太郎、今日出海との対談で『日本人とユダヤ人』に触れ、「ベンダサンという人が『語呂盤』という言葉を使っている」ことを紹介し、「フランスの教育におけるテーム(作文)の重大性というものはとても日本では考えられぬということを、以前パリにいたとき、森有正君がしきりに言っていた。テームの問題には、数学の定理まであるということを彼は言っていた。面白く思ったから覚えているのだが、それが、今度ベンダサンの本を読んで、はっきりわかった気がした。」「もっと微妙なことを言っているが、まあ読んでみたまえ。面白い。」と述べている。

評価

『私の中の日本軍』において、自らの軍隊経験から、日本刀は2~3人切ると使い物にならなくなると主張した。刀は鉄製品であり鈍らでも1人目の首が切れて4人目が切れないなどありえない。無抵抗の捕虜の首を切ったのか?武装した軍人の体をヘルメットごと切ったのか?民間人を洋服ごと切ったのか?手が滑って石に当たって刃がが大きくかけたのか?切った人は精強な軍人なのか?疲労困憊していた初年兵なのか?同じ刀を使った場合でも、状況によって切れ味は1,000倍も違う。この部分は、文学者の文学的表現と言われる。また、戦地という劣悪な状況下で日々酷使され、満足に手入れも出来ず自然とナマクラになってしまった刀に限った話[8]であり、本来の日本刀の性能について誤解を招くものだという批判がある[9][10]。さらに、同書における『戦ふ日本刀』からの引用は、自説に都合の良い部分のみを引用した不正確なものだという批判もある[11]。また、山本は本多勝一との百人斬り競争における論議において、イザヤ・ベンダサンの名義で、持論である「日本刀は2~3人斬ると使い物にならなくなる」という論理を中心に本多を批判した。この論理はこの論争の後に一般に広がった。
浅見定雄は、『にせユダヤ人と日本人』において、『日本人とユダヤ人』における翻訳の誤りを指摘し(たとえば、聖書の「蒼ざめた馬」を山本は間違った訳であると言うが、これは正しい訳であるなど)、山本の語学力を批判した。山本が訳者となった、浅見自身の師である聖書学者の著書を題材に、山本が高校生レベルの英文を理解できず、明らかな誤訳をしていることも具体的に示し、「ヘブル語やアラム語はおろか、英語もろくに読めない」人物だと批判した。また浅見によると『日本人とユダヤ人』によって、一般に流布されていた「ユダヤ人は全員一致は無効」という話も、実は完全な嘘あるいは間違いであり、「こんな無知な人が何をどう言おうとも、現代イスラエル国の裁判所や国会で全員一致が無効とされるわけではなく、また世界各地のユダヤ人が、さまざまな集会から家族会議まで、あらゆる生活場面で全員一致をやっている事実が消えてなくなるわけでもない」と批判した。また「ニューヨークの老ユダヤ人夫婦の高級ホテル暮らし」というエピソード[12]も、実際にはあり得ない話で、「この話は全部、一つ残らず、まったく、ウソ」であると指摘した。そして、同書が「小説ではなく評論」である以上、「解釈の違いは別にして評論の対象は実在しなければならない」にも関わらず「本書は作り話の上に成り立っている」ことから、「本書の価値はゼロどころかマイナス」であると指摘した。
浅見は他にも、あるホステルの主人が、ユダヤ人を「においで嗅ぎ分けた」という話[13]や、「関東大震災で朝鮮人が虐殺されたのは、体臭が違うからと語った老婦人」なども、山本がでっち上げた作り話だと断じた。浅見はこの他にも、数多くの誤りを指摘している。
山本は、かつて田中角栄が有罪となったロッキード事件でコーチャン氏がアメリカ議会の公聴会で宣誓したか否かについて「キリスト教徒は誓わない」と断じて当時の宣誓文を翻訳した宗教学者佐伯真光の訳文を批判し、両者で激しい論争となった。晦渋な文章をもって曖昧な論を操る山本に対し、無駄のない精緻な論理と文献学の綿密な手法、該博な現代アメリカの宗教に関する学識をもって反駁した佐伯によって完全に論破された。その経緯は本多勝一編『ペンの陰謀』「佐伯/山本論争」に詳しい。その際、山本がなぜそうした誤解をしたのかが分析され、彼が“not~at all”という熟語を知らないという学者としては信じがたい事実がかえって明るみに出た。山本は「空気」に代表される独特な直感からの論考に一定の評価があるが、かえってその独自な直観に頼りすぎ過信しすぎて時に事実を尊重せず、また晦渋な文章に表れるように論理的思考の欠如は否めず、根本的に学問の基礎訓練が不足していたと言わざるをえない。
稲垣武は『怒りを抑えし者 評伝 山本七平』で山本を絶賛した。
小室直樹は、『論理の方法』(東洋経済新報社、2003年)の中で、丸山真男の業績について論じているところで、「丸山教授の偉いところは、知識がそんなに少なくても大発見をしたところです。驚くべき大発見をしています。物事の本質を見抜く能力が凄い。その意味で山本七平氏もよく似ています。山本氏もそれこそ典型的な浅学非才の人。キリスト教の大家なんて言うのは嘘です。専門家と称する人が『聖書』の読み方が間違っているなどと言うのだが、あの人の偉いのはそんなところにあるのではない。ほんの僅かな知識で本質をずばりと見抜く。だから日本史なんて少ししかやらないにもかかわらず、崎門の学、山崎闇斎の学こそ明治維新の原動力になったということをはっきり知っている。」と書いている。
辛口の書評で知られた谷沢永一には、「昭和四十五年から六十二年まで、足かけ十八年間における山本七平の著作三十二冊から、その急所を引き出し、山本学の大筋を読者に眺めわたしていただきたいとひそかに願った」として書かれた著作があり、たとえば『「空気」の研究』について、“この「空気」というのはちょっとコメントをつけにくいが、言われたらいちどにわかることである。これを最初に持ち出した着眼はすごいと思う。日本人のものの考え方、意思決定の仕方に、もしエポックを見つけるとするなら、この『「空気」研究』が書かれたときではないか。”と述べている[14]。
山本は著書『空想紀行』で偽フォルモサ人のジョルジュ・サルマナザールが書いたとされる偽書『台湾誌』を紹介した。イギリス社交界でもてはやされた偽のフォルモサ人(フォルモサは台湾列島にあるオランダ人が領有した台湾とは別の島と主張)であるサルマナザールと、本当に中国で18年間布教をし極東情勢を知っていたイエズス会のファウントネー神父の真贋対決で、サルマナザールは縦横無尽の詭弁で勝利を得た。サルマナザールは極東情勢が殆ど伝わっていなかった英国で、イギリス国教会と対立するイエズス会が極東情勢を故意に隠蔽していると非難し、ファウントネー神父もその陰謀の片棒をかついでいるとするなどの詭弁を繰り返しているが、山本はこのときのサルマナザールの詭弁の論法を分析し、『対象そのものをいつでもすりかえられるように、これを二重写しにしておくこと。これは"フェロモサ"と"タイワン"という関連があるかないかわからない形でもよいし…』などと細かく分析し『以上の原則を守れば、今でも、だれでも、サルマナザールになれるし、現になっている。』と記述している。これは自らが偽ユダヤ人として活躍した山本の面目躍如たるものがあるとする人もいる[15]。
自らを外国人と称し、発言に重みを増す行為はヤン・デンマンやポール・ボネなども行っていたとされる。また、『醜い韓国人』の著者が韓国人ではなく日本人ではないかと言われた際にも、韓国側から当時公然の秘密であったイザヤ・ベンダサンの事例が提示され(雑誌SAPIO)、日本の出版界の体質が批判された[16]。

著書
日本論

存亡の条件 日本文化の伝統と変容 ダイヤモンド社、1975年 のち講談社学術文庫
比較文化論の試み 富山県教育委員会、1975年 のち講談社学術文庫
日本人と原子力 核兵器から核の平和利用まで 対論:小松左京、今井隆吉、秦郁彦 ワールドフォトプレス 1976
「空気」の研究 文藝春秋、1977年 のち文庫
日本人と聖書 対談集 TBSブリタニカ、1977
受容と排除の軌跡 主婦の友社、1978年
日本人の人生観 講談社学術文庫、1978
日本資本主義の精神 なぜ、一生懸命働くのか 光文社カッパブックス、1979年 のち文庫、PHP文庫
勤勉の哲学 日本人を動かす原理 PHP研究所、1979年 のち文庫
日本人的発想と政治文化 日本書籍、1979年
「あたりまえ」の研究 ダイヤモンド社、1980年 のち文春文庫
日本人と「日本病」について 岸田秀対談 文藝春秋、1980年 のち文庫
日本教の社会学 小室直樹対談 講談社、1981年
日本人の社会病理 小此木啓吾対談 講談社 1982 のち文庫
日本的革命の哲学 日本人を動かす原理 PHP研究所、1982年 のち文庫
現人神の創作者たち 文藝春秋、1983年、ちくま文庫上下 2007年
一九九○年の日本 福武書店、1983 「一九九○年代の日本」PHP文庫
近代日本の虚像と実像 大濱徹也対談 同成社 1984
西暦2000年そのとき日本は 柳田邦男共編 講談社 1984
日本型リーダーの条件 講談社 1987 のち文庫
日本人とは何か。神話の世界から近代まで、その行動原理を探る PHP研究所、1989年 のち文庫
日本人の土地神話 日本経済新聞社 1990
日本人とアメリカ人 PHP研究所 1993
山本七平の日本の歴史 ビジネス社、2005年
なぜ日本は変われないのか さくら舎、2011年

自らの軍隊経験を中心に述べたもの

ある異常体験者の偏見 文藝春秋、1974年 のち文庫
私の中の日本軍 文藝春秋、1975年 のち文庫
一下級将校の見た帝国陸軍 朝日新聞社、1984年 のち文春文庫

評伝

洪思翊中将の処刑 文藝春秋、1986/ちくま文庫上下 2007
近代の創造 渋沢栄一の思想と行動 PHP研究所 1987
昭和天皇の研究 その実像を探る 祥伝社、1989、のち同黄金文庫
江戸時代の先覚者たち 近代への遺産・産業知識人の系譜 PHP研究所 1990
徳川家康 プレジデント社、1992/ちくま文庫上下、2010.12

中国古典に関するもの

論語の読み方 いま活かすべきこの人間知の宝庫 祥伝社ノンブック、1981年
帝王学 -「貞観政要」の読み方 日本経済新聞社、1983年 のち文春文庫、日経ビジネス人文庫
参謀学 -「孫子」の読み方 日本経済新聞社、1986年 のち文庫
指導力 -「宋名臣言行録」の読み方 日本経済新聞社、1986年 のち文庫
現代の処世 飽食時代の菜根譚 講談社 1986

コラム・時事評論

無所属の時間 新しい視点を生む物の見方・考え方 旺史社、1975年 のちPHP文庫
「常識」の研究 日本経済新聞社、1981年 のち文春文庫
時評「にっぽん人」 読売新聞社、1981年
派閥 なぜそうなるのか 南想社 1985 「「派閥」の研究」文春文庫
「御時世」の研究 文藝春秋 1986
「常識」の非常識 日本経済新聞社、1986年 のち文春文庫
「常識」の落とし穴 日本経済新聞社、1989年 のち文春文庫

聖書・キリスト教関連

聖書の常識 日本人は知らなすぎる 講談社、1980年 のち文庫、「聖書の常識・聖書の真実」講談社+α文庫
聖書の旅 白川義員写真 文藝春秋、1981 のち文庫
旧約の風景 善養寺康之写真 講談社 1982
ガリラヤの道 善養寺康之写真 講談社 1984
山本七平の旧約聖書物語 三省堂、1984年 のち徳間文庫
十字架への道 善養寺康之写真 講談社 1984
人間としてみたブッダとキリスト 山本七平・宗教を語る 原書房 1984
歴史の都エルサレム 善養寺康之写真 講談社 1984
ビジネスマンのためのマーシャール 講談社 1988
禁忌の聖書学 新潮社 1992 のち文庫
山本家のイエス伝 山本れい子、山本良樹共著 山本書店、1996年 「すらすら読めるイエス伝」講談社+α文庫
山本七平とゆく聖書の旅 山本良樹編 山本書店 1997

その他

現代の超克 ダイヤモンド社、1977年
イスラムの発想 アラブ産油国のホンネがわかる本 対話 加瀬英明 徳間書店 1979
空想紀行 講談社、1981年
夏彦・七平の十八番づくし 私は人生のアルバイト 山本夏彦 サンケイ出版、1983年 のち中公文庫
人間集団における人望の研究 二人以上の部下を持つ人のために 祥伝社ノンブック、1983年
意地悪は死なず 山本夏彦対話 講談社、1984年 のち中公文庫
「色即是空」の研究 般若心経の読み方 増原良彦共著 日本経済新聞社 1984
小林秀雄の流儀 新潮社 1986 のちPHP文庫、新潮文庫
危機の日本人 日本人の原像と未来 角川書店、1986年
一つの教訓・ユダヤの興亡 講談社 1987
経営人間学 「資本主義の精神」の先駆者たち 日本経済新聞社 1988
乱世の帝王学 山本七平の武田信玄 徳間文庫 1988
人を動かす人を活かす 星野仙一対話 かんき出版 1989
昭和東京ものがたり 1-2 読売新聞社 1990
父と息子の往復書簡 東京-ニューヨーク 山本良樹 日本経済新聞社、1991年
漢字文化を考える 中西進共編著 大修館書店 1991
静かなる細き声 PHP研究所、1992年
民族とは何か 村松剛、渡部昇一対談 徳間書店 1992
人生について PHP研究所、1994年 のち文庫
宗教について PHP研究所、1995年
指導者の帝王学 歴史に学ぶ現状打破の思想 PHP研究所 1996
宗教からの呼びかけ 山本書店 2000
日本はなぜ敗れるのか-敗因21か条 角川ワンテーマ21、2004年

全集

山本七平ライブラリー 1-16 文藝春秋、1997年
山本七平全対話 1-8 学習研究社、1984-1985年

イザヤ・ベンダサンの著作

日本人とユダヤ人(山本書店、1970年)のち角川文庫
日本教について あるユダヤ人への手紙(文藝春秋、1972年)のち文庫
にっぽんの商人(文藝春秋、1975年)のち文庫
日本教徒 その開祖と現代知識人(角川書店、1976年)のち文庫
日本人と中国人 なぜ、あの国とまともに付き合えないのか 祥伝社 2005

翻訳

人間の歴史 ミハイル・イリーン 岩崎書店 1954
文明の歴史 イリーン 岩崎書店 1954
ルネッサンス イリーン 岩崎書店 1955
からだの科学 頭から足のさきまで A.ノヴィコフ 山本書店 1956
生物の生態 N.J.ベリール 山本書店 1956
歴史としての聖書 ウェルネル・ケラー 山本書店 1958
聖書の生いたち F.ケニヨン 山本書店 1959
概説聖書考古学 G.アーネスト・ライト 山本書店 1964
旧約聖書の人びと 全4 F.ジェイムズ 山本書店 1967-1968
聖書の考古学 ガーリャ・コーンフェルト 講談社 1981
聖書をこう読む マンフレート・バルテル 小川真一共訳 講談社 1982
日本人への警鐘 ラッセル・ブラッドン ダイヤモンド社 1983
権力の解剖 「条件づけ」の論理 J・K・ガルブレイス 日本経済新聞社 1984
アッティラ王が教える究極のリーダーシップ ウェス・ロバーツ ダイヤモンド社 1990

参考文献

稲垣武 「怒りを抑えし者 「評伝」山本七平」(PHP、1997年) ISBN 4569553230
会田雄次・佐伯彰一対論 「山本七平と日本人 一神教文明のなかの日本文化をめぐって」(廣済堂出版、1993年) ISBN 4331504182
高澤秀次 「戦後日本の論点 山本七平の見た日本」(ちくま新書、2003年) ISBN 4480061193
山本れい子他 「山本七平 ガンとかく闘えり」 (山本書店、増補改訂版1999年)
小室直樹 『日本資本主義崩壊の論理』(光文社、1992年) ISBN 4334012655
谷沢永一 『山本七平の叡智』(PHP研究所、新版2007年) ISBN 4569693466

脚注

^ 山本七平「ベンダサン氏と山本七平氏」『実業の日本』1977年10/1(1899号)49-50頁
^ 山本七平「一出版人の人生論」『Voice』PHP研究所、1992年3月、特別増刊山本七平追悼記念号、28-30頁
^ 『論語の読み方』の冒頭の文章より
^ 文庫版『「孫子」の読み方』(日経ビジネス人文庫)所収の守屋淳による解説。守屋によれば、この書物の孫子の解釈は、元軍人として東南アジアで幾度も死線をくぐり抜けた山本の体験が如実に反映されたものとして、戦争を体験していない学者に比して貴重なものであるという。
^ 『日本教の社会学』(講談社)参照
^ 文庫版『勤勉の哲学』(PHP文庫)の中の解説、小室直樹『日本資本主義崩壊の論理』(光文社)など参照
^ 小室直樹は、『三島由紀夫が復活する』(毎日コミュニケーションズ)の中で、「戦後における天皇制研究のきわめてすぐれたものとして、我々は、丸山真男教授と彼の門下生によるもの、山本七平氏によるものを持っている。」と書いている。ここでの、彼の門下生とは藤田省三、山本七平氏によるものとは、『現人神の創作者たち』を指していると思われる。小室の『天皇恐るべし』(ネスコ)、『天皇の原理』(文藝春秋)などの論考には上記書物からの影響が見られる。
^ 旧日本軍の軍人が持っていた日本刀の一部は「本来の日本刀の性能」からすれば粗悪なものであったという事実はあるものの、当時の将校私物軍刀々身の大半は本鍛錬の日本刀であり、軍官給品初め現代科学の力を使った特殊軍刀はそこらの日本刀を凌駕する性能や耐久性を持っていた。また、両者とも関の孫六や「先祖伝来の宝刀」(波平)などの俗に言われる名刀を使用し、それを報道されているのでこの場合には全く当てはまらない。また「軍刀=全てが粗悪」といった誤り偏った風評や偏見が今もなお蔓延っている事実を考慮する必要がある。
^ 秦郁彦「いわゆる「百人斬り」事件の虚と実(二)」『政経研究』2006年2月
^ 日本刀を用いた通り魔殺人事件が1985年9月19日に下関で起きているが、山口大学医学部付属病院精神科に通院していた犯人(当時37歳)は、亡くなった父親が箪笥にしまっていた日本刀を持ち出し母親ら4人を殺害、さらに6人に重傷を負わせている。
^ 秦郁彦「いわゆる「百人斬り」事件の虚と実(二)」『政経研究』2006年2月 P96-P97
^ 英語版(リチャード・ゲイジ訳)の『日本人とユダヤ人』からは完全にこのエピソードはカットされている。浅見は、英訳本では、原書の記述の中で、アメリカ人の常識から見て事実ではない、おかしいと思える箇所が多数にわたり説明無しにカットされたり勝手に書き換えられており、この部分のカットもその一例であると指摘している。
^ 浅見は、この記述も英訳本からはカットされていることを指摘している。もしカット無しに英訳されていたら、この部分だけでも裁判となり、事実調査が行われただろうと述べている。
^ 『山本七平の智恵』(PHP研究所、1992年)
^ 原田実『トンデモ偽史の世界』楽工社
^ 『醜い韓国人』は韓国人協力者はいるものの、韓国人なら当然知っているような事柄にも誤りがあり、ほとんどの内容は加瀬英明が書いたものとされている。

関連項目

正論
香山健一
渡部昇一
日本学
日本人論
比較文学
山本七平賞
場の空気

外部リンク

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近頃のテレビ番組ですが、日本が外国人から見て素晴らしいとか、あるいは日本人が世界で大活躍しているとの趣旨の、何とも嬉しいような恥ずかしいような。日本国の良さを大宣伝するとの目的で各テレビ局が、同じような『同工異曲』の類似番組ばかりを作っているのである。 一斉に始まった、この日本を最大限ヨイショするとの、ポジティブなナショナリズム高揚番組の氾濫ですが、なにか変ですよ。 一昔前には『ここが変だよ。日本人』と言う番組があったのですが、『日本は素晴らしい』との自慢番組のテレビ業界での氾濫ですが、在特会の見苦しいヘイトスピーチとか出版界での嫌韓嫌中のヘイト記事の出版物の氾濫と対になった、究極のナショナリズムの姿なのかも知れない。 病的に極限まで右傾化する我が日本国ですが、もう、最後の最後の日本崩壊(カタストロフ)の直前に辿り着いているのですよ。多分。









http://blog.goo.ne.jp/syokunin-2008/e/4986915eb7848bb5d5c739c476179e7b


褒めてもらいたい日本人 
2015年03月30日 | 社会
(とうとう富士山の大噴火が始まる?にも見えるが、実は2015年3月25日。メキシコ、サン・ニコラス・デ・ロス・ランチョス市近郊のポポカテペトリ火山の火口から煙と灰が上がる)

積極的自閉症「自慰」ナショナリズム『超大国アメリカと組んで中国を封じ込める心算だった安倍晋三』

『気が付けば、一人ぼっちの日本』
『価値観外交』とか『地球儀を俯瞰する外交』を標榜して短時間で世界50カ国を訪問して膨大な額の援助と引き換えにして『中国包囲網』を構築してアメリカに褒めてもらおうとした日本国の安倍晋三首相であるが、早々と『中国封じ込め』を宣言したのが裏目に出た。
このような相手がある戦略は公言するものでは無い。
封じ込める相手にこちら側の思惑が気付かれない様に、密か裏に回って誰にも判らないように行うから成功する。
『北斗の拳』のようにワザをかける前に堂々と公言するのはプロレスとかアニメの世界だけである。(アメリカのキューバ封鎖は国力が月とすっぽん程の違いがあったからで、日中では逆に中国の方が数倍も日本より経済規模が大きい。しかも、そのアメリカでも半世紀後に『封じ込め』政策の失敗を認めている)
日本が画策した無理筋の中国包囲網(封じ込め)ですが、気が付けば日本の引きこもり(日本封じ込め)の結果に終わりそうである。
中国が主導したアジアインフラ投資銀行(AIIB)であるが、イギリスなどG7の先進国やサウジアラビアやロシアなど大産油国、南シナ海で中国と敵対しているベトナムなど東南アジア諸国だけでは無くて韓国や台湾、カナダ、ニュージーランドやオーストラリアなど親米同盟国が軒並み参加を表明する事態になり、いまや日米を除くほぼ全ての世界の主要国がバスに乗り遅れないように先を争う参加する有様になっいてる。
安倍晋三の『価値観外交』(中国包囲網の強化)の大失敗(日本の孤立化)は誰の眼にも明らかなのである。

『「日本っていいよね」がブーム あふれる日本アゲの正体』

近年、“日本っていいよね”ブームが起きている。テレビ各局は日本大好きな外国人が登場する番組を競うように放送。書店をのぞけば、『世界が見た日本人もっと自信を持っていい理由』『そして日本経済が世界の希望になる』といった本がズラリと並ぶ。
精神科医の香山リカさんは日本人の持つ欧米への強いコンプレックスを払拭したいのだろう、とこの状況を分析している。
長く日本で暮らす外国人はどう感じているのか。お笑いコンビ「パックンマックン」のパトリック・ハーランさんが言う。
『日本人が自分たちをヨイショしているという否定的な見方がありますが、普段は気づかない自国の良さをきちんと理解し、そこを伸ばせばいいと思う。確かに少し大げさな部分もありますが、海外ではアニメやゲーム、禅、茶道、武士道など、文化的な面で以前より注目されているのも事実。武術は、日本へ学びに来る外国人も多く、競技人口が減っていくなかで生き残り策としても大切。今こそ日本を世界にアピールできる大チャンスなんです』

上智大学の吉野耕作教授(社会学)は、番組をどう捉えるかは視聴者しだいだと強調する。
『視聴者には、自分も海外に出ていきたいという気持ちと、日本の良さを確認したいという二つのベクトルがある。それは個人の経験や感じ方によります』

香山さんは、内向きのベクトルへ大きく進んでしまう理由は国内の不安にあるという。
『本当は国ではなく自分自身をほめてもらいたいが、今は個人を承認してもらえる機会が少ない。
雇用不安や社会とのつながりを保てないで、自分が何者かという属性がどんどん削がれていく。
そして最後に残るゆるがない属性が日本人。努力しなくてももてる肩書みたいなものです。個人として満たされていないから、最後の拠り所が“日本人である私”なのでしょう』

肩書は日本人──。こんな寒々しい響きだけが残らなければいいのだが。
週刊朝日 2015年1月30日号より抜粋

『日本を「ポジる」番組が増えている! 香山リカ「ナショナリズムとして末期的」』

NHKの朝ドラでは外国人ヒロインが活躍、バラエティー番組ではハーフタレントがもてはやされる。近ごろは、海外で暮らす日本人を取り上げた番組も多い。
共通するのは“日本を持ち上げる”妙な感じだ……。
『朝の情報番組でも、外国人旅行客に日本のいいところを聞くというコーナーがある。
好きで日本に来ているのだから、いいことを言うに決まっているのに、視聴者から評判がよく、数字がとれると聞きます』

そう話すのは、精神科医の香山リカさんだ。「日本最高!」というポジティブすぎるテレビ番組を「ポジナショナリズム」と呼んで論評する。
『プロ野球ファンが、絶対に勝てない状況で前向きに勝利宣言することを『ポジる』という。
マイナス要因にまったく目を向けず、日本は世界から愛されているという根拠のない自信をもっている。ナショナリズムとしては末期的な状況です』

外国人が日本を語る形式の番組は過去にもあった。1998年から4年間放送された「ここがヘンだよ日本人」(TBS系)だ。しかし香山さんは「今、こんな番組を作ったら、自虐番組だとか反日番組だとか言われて大変なことになるでしょうね」と苦笑いする。

「日本を批判する番組は、やっぱり今の時代と逆行していると思います」
そう語るのは「世界ナゼそこに?日本人」(テレビ東京系)の総合演出を担当するプロデューサーの水谷豊さんだ。秘境と呼ばれるような遠い異国で暮らす日本人に密着する内容。このように、海外で暮らす日本人を紹介するバラエティー番組も、ここ数年で急増していて「世界の村で発見!こんなところに日本人」(テレビ朝日系)、「世界の日本人妻は見た!」(TBS系)などがある。

「10年くらい前は、あまり知られていない国を取り上げても視聴率はよくなかった。今はそんな国でも数字がとれるから不思議ですね」(水谷さん)

 世界の隅々にまで目を向けた番組は一見グローバル化の表れのようだが、日本の内側を見つめ直す意図があるという。
「海外で暮らす日本人は、望郷の思いをもって生活しています。味噌汁がまったく飲めない場所で、味噌汁を飲んで自国を懐かしみ、その良さを再認識する感覚。こうした日本人心をくすぐるものを視聴者は求めているのだと思います」
週刊朝日 2015年1月30日号より抜粋

『日本ヨイショのポジティブナショナリズム』

近頃のテレビ番組ですが、日本が外国人から見て素晴らしいとか、あるいは日本人が世界で大活躍しているとの趣旨の、何とも嬉しいような恥ずかしいような。日本国の良さを大宣伝するとの目的で各テレビ局が、同じような『同工異曲』の類似番組ばかりを作っているのである。
一斉に始まった、この日本を最大限ヨイショするとの、ポジティブなナショナリズム高揚番組の氾濫ですが、なにか変ですよ。
一昔前には『ここが変だよ。日本人』と言う番組があったのですが、『日本は素晴らしい』との自慢番組のテレビ業界での氾濫ですが、在特会の見苦しいヘイトスピーチとか出版界での嫌韓嫌中のヘイト記事の出版物の氾濫と対になった、究極のナショナリズムの姿なのかも知れない。
病的に極限まで右傾化する我が日本国ですが、もう、最後の最後の日本崩壊(カタストロフ)の直前に辿り着いているのですよ。多分。
今の日本ですが、1945年8月15日の敗戦の少し前と酷似していて、何から何まで少しも違いが無い。(国際連盟の常任理事国だった時代の日本は世界五大国の一つだったし、今の国際連合下の日本は世界第三位の経済大国)
世界の常識とは隔絶した特殊な日本的悪弊が蔓延して、社会全体を蝕んでいるが誰にも止めれない悲劇。

『加藤周一の「日本人とは何か」と似ているようで180度逆の今のポジナショナリズム』

知の巨人加藤周一1919年~2008年(大正8年~平成20年)によれば、
日本人を『一言』で説明すれば、『国学』の本居宣長以来『日本人とは何か』との問いを、しきりに発して倦むことがない特異な国民であるといえる。わが国で『日本人とは何か』という問いが繰り返されるのは、実は日本人であることが、何を意味するかが、はっきりしないところが原因している。
なぜ、はっきりしないのか。
日本人は、例えばイギリス人にとってのフランス人のような自分を相対化出来る他者を持つことが歴史的に一度も無かった。日本人は、基本的に自分自身を客観視することが出来ないで、今まで来てしまったので『日本人とはなにか』がよく分からない。
『自分を客観視する』とは、『他者の目で自分自身を見つめなおす』ことに他ならないのである。この、『他者の目』が日本では圧倒的に不足していた。
英仏や独仏の国民は、お互いに相手を見ている。
欧州人は相手を観察するだけではなく、相手の目の中に映った『自分自身の姿』を観察することに歴史的に慣れている。他人の目はこの場合に、『自分自身が何であるか』を知るための鏡だ。
国境を接する他国民を観察し、その結果と比較することによって、自分自身の定義が容易になるだろうという程度の話ではない。
それ以前に、もしも他人の目の中に『自分を写す鏡』を見出すことが出来ないなら、何処に自分自身の姿を客観視する手法があるだろうか。他人を観察するのと同じようには人は『私』(自分自身)を観察することは理論上不可能なのだ。
しかし不幸にも、日本人は一度も他国民の目の中に自己の姿を読むことが出来なかった。今までは、いかなる他国民も日本を客観的には見ていなかったからである。
(一般的欧米人で日本の位置が正確に答えれるものは少ない。今でも多くの欧米人たちは韓国と日本とを世界地図の上で正確に区別出来ない。)
西洋人の目に映った日本とは今ならソニーやホンダ・トヨタ、戦の時は神風特攻隊の操縦者、過去に遡ってはたかだか江戸時代の版画の巧妙な素描家にすぎなかったということである
ところが日本側でも相手を見ていなければ問題は簡単で、その場合には今のように『日本人とは何か』との問い自体が生まれない。
(加藤周一の、『他人の目で中で「私」自身が客観化されていなければならない』ですが、これは『私』を『自分の子供』と言い換えれば誰にでも納得出来るだろう。
自分の子供を客観視出来る親は滅多にいないどころか、世の中に一人もいないのである)

『彼我の非対称性』

問題点の大きさ深刻さは、実は日本人は必死になって絶えず『外を見ていた』が、外からは見られていなかったという一方的な関係によるとことに尽きる。
中国と日本の関係は数千年(記録が残っているものだけでも1500年)の長い歴史があるにもかかわらず(国交回復した1970年代以降の期間を含めて)長い期間、独仏のように相互作用を含むものではなかった。西洋と日本の関係も同じである。
日本が必死になって異常な関心を集中して先進的な『外側』(古代中国や近代の西洋)を見つめていたときに、当の相手は(独仏がお互いを見つめているようには)日本を見つめてはいなかったのである。
西欧に対する強い関心と相手の無関心は必然的に『日本とは何か』との問いを呼び覚まさずにはおかない。すなわち反省がはじまるのである。
しかし、反省では『日本人とは何か』の決定的な答えは得られない。
『得られない』以上、同じ反省は時代毎に繰り返されるほか無かったのである。
しかも『日本人とは何か』という問いの核心は、実は我々自身とは何か』という問いであり、この『われわれ自身とは何か』との問いの核心は、『われわれは何を欲するのか』という意思の問題である。
しかしこの場合、過去の日本人にはこのような特徴があったとの答えは、『日本人とは何か』の答えにはならないのである。
何故なら、過去の日本人は、現在はもういない。
同じ意味で未来の日本人も何処にもいないので、『日本人とは何か』の核心は、今現実の日本に存在している『自分自身とは何か』という意味の『問い』だった。
その意味では本居宣長の(今までの、あるいは大昔の)『日本とは何か』との国学の発想は根本的な誤解(勘違い?)であると主張している。

『反性することを忘れた日本人』ほめてもらいたい日本人

他に比べて際立った日本人の最大の特徴とは、大昔から極最近まで『延々と反性を続けていた』ことではないだろうか。
ところが、ここにきて突然反省することを止めてしまった日本人たち。
(1352年前の663年に『我等先を争はば、敵自づから退くべし』とのおごり高ぶる(反性を忘れた)超ポジティブな倭国軍は白村江の戦いで唐と新羅連合軍に大敗している。400年ほど前にも豊臣秀吉が明と朝鮮の連合軍に対して同じ間違いを犯している。70年前にもソ連やアメリカの連合国相手に同じ間違いを犯して大敗している)
『日本人とは何か』の加藤周一が、今の日本で勃興した異様なポジナショナリズムを見て『何と言うか』と想像すれば実に興味深い。
(こんな日本人は今まで『見たことが無い』と言うだろうか。
それとも70年前の敗戦直前の日本人と『そっくり同じだ』と言うだろうか)

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柔術プリースト 173


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gスピリッツ安生洋二インタビュー 聞き手 和良コウイチ ヒクソンに道場破りを敢行し返り討ちにあい木村浩一郎 平直行らが最強のフッカーと呼んだ男 キムラ5巻販売中

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原田 久仁信、増田 俊也 他

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gスピリッツの安生洋二インタビューが秀逸でしたので購入
大変コアで面白い内容でした
やっぱゴッチは足関節技はトゥーホールド系しか知らないっぽいようですね

ちなみに聞き手は技術論では格闘技ジャーナリズムでは草分けと言っていい和良コウイチさん(90年代以前格闘技マスコミで専門家として技術語れそうな人ってこの人と朝岡氏くらいだったような…90年代以前 他の人は谷川氏含めて皆プロレスマスコミからの転入組で技術に関しては全くの素人で初心者以下の技術の知識しか持っていなかったんですよね…当時は…)

高円寺のロビンソンの道場でもロビンソンは膝十字とかアキレスとかは教えなかったそうですし
教えているのは他の日本人のインストラクターだって話らしいし

あと2月にキムラの5巻が出ていたとの話なのでさっそくそれも購入

キムラと七帝柔道記
新シリーズが開始されましたが案の定北大1年最強の沢田の恩師奥田義郎のエピソードはコミック版でも語られずじまい…
単行本でも奥田義郎先生のエピソードだけカットされてたんであのお話は奥田義郎先生の関係者からクレームが来たのだろうか…
丁度 柔道事故が問題化された時期と重なったというのもあるでしょうし…

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大阪寿司の名店 本福寿司 閉店

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http://www.hon-fuku.co.jp/c03/

これだけの素材と技術 こだわりと歴史を持つ関西寿司の名店が今年の2月に閉店したそうです
ああ…あそこの鯖寿司がもう食べられないのか…
ガキのころから当たり前のようにあっただけに油断しまくってました…orz

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『こんな民主主義国家 見たことが無い』 Q、――ところが、日本人には、それを判断する情報すら与えられていないんですよ。新聞が選択肢すら報じないものだから。 A、   日本のエリートの上の方で、物事が決まっている。大きな新聞はそちらの方を見て記事を書いている。そんな印象ですね。新聞社は読者の側に立って、権力を見ていない。権力者の側に立って、国民を見下ろしている。そんなふうに感じます。こんな新聞を国民は信じますか? 











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http://blog.goo.ne.jp/syokunin-2008/e/4caa166ef4ee06b72d0a92896c74f367


権力者の側に立って、「国民を見下ろしている」日本のマスメディアの愚劣

2015年03月27日 | 政治




『NYタイムズ東京支局長指摘 直撃インタビュー 』アメリカ側から見へる日本の真実の姿

『国の根幹が変わるのに、新聞が反論を載せない異常』
 相変わらず安倍政権の支持率は高いが、不思議なことだ。庶民にアベノミクスの恩恵はまったくないし、イスラム国の人質事件は最悪の結末に終わった。政治とカネの醜聞が噴出し、大臣がまた辞任した。そんな中で、安倍政権は平和憲法をかなぐり捨てる法整備を進めているのに、世論は怒るわけでもない。その理由を尋ねると、来日して12年になるニューヨーク・タイムズ東京支局長のマーティン・ファクラー氏からは明快な答えが返ってきた。
『報じない大メディアが悪いのです』。

Q、――この調子でいくと、今月中にも自衛隊が世界中に出ていって、戦争協力する法案が提出されることになります。国の形が完全に変わってしまうのに、日本人は関心も示さない。どう思いますか?
A、   こうなっているのは2つの大きな要因がありますね。ひとつは自民党一強、野党不在の政治状況。もうひとつはメディアが安倍政権を怖がって批判を控えていることです。

Q、――やっぱり、怖がっているように見えますか?
A、  見えますよ。日本はいま、これまでとは全く異なる国家をつくろうとしている。憲法に基づいた平和主義を守るのではなく、米国や英国の仲間になろうとしている。果たして、それでいいのか。大きな岐路、重要な局面に立っているのに、そうした議論が何もないじゃないですか。これは本当に不思議なことです。恐らく多くの国民は、戦後以来の大きな変化が起こっていることすら知らないんじゃないですか。私は何も新聞に反安倍のキャンペーンをやれと言っているわけではないんです。安倍政権はこういうことをやろうとしているけれども、そこにはこういう問題点や危険性がある。こういう別の意見もある。せめてさまざまな立場の見方を紹介して、幅広い議論を喚起することが必要なんじゃないですか。

『権力を見ない新聞を国民が信じますか?』

Q、――しかし、それすら大新聞はめったにやらない。何か安全保障の問題はタブー視されているような印象すらありますね。
A、  なぜ、タブー視されるのでしょうか。9・11の直後、米国では国を守るためには団結しなければダメだという危機感がメディアの批判精神を鈍らせました。これは大きな失敗でした。あの時こそ、メディアは冷静になって、きちんとブッシュ政権に問うべきだったんです。本当にイラクに大量破壊兵器はあるのか。本当に、この戦争をしなければいけないのか。しかし、それをやらなかった。それと同じ失敗を日本のメディアは犯そうとしていますね。いま、日本の国家はどういう危機に直面しているのでしょうか? 台頭する中国への不安や懸念ですか? イスラム国の脅威ですか? そんな小さなことでジャーナリズムが批判精神を失うのでしょうか。

『政治利用されるISIS(イスラム国)人質事件』

Q、――イスラム国の人質事件ではニューヨーク・タイムズ紙に掲載された風刺画が非常に印象に残っています。「イスラム国は平和主義から逸脱する日本を後押しするか」というタイトルで、車夫(=日本人)の鼻先にイスラム国の旗をぶら下げ、「憲法改正」の車を走らせる安倍首相が描かれていた。キャプションには「安倍晋三“大統領”は復讐を呼びかけた」とあった。
A、  ニューヨーク・タイムズの論評を扱う部署には複数の風刺画家がいます。そのうちのひとりがアイデアを提示した。私が関わったわけじゃありません。

Q、――ということは、米国人は一般的に安倍首相のことを、そういう目で見ているということですね?
A、   そうだと思いますね。ひとりがアイデアを出して、みんながそうだね、と賛同したわけでしょうからね。

Q、――それなのに、日本の大メディアは風刺画どころか、安倍政権が人質救出に何をしたのか、しなかったのか。イスラム国と戦う国への2億ドル支援演説の是非もほとんど論じていませんね。
A、   私は中東で調査をしたわけではありませんが、東京から見ている限り、安倍政権はあらゆるルートを駆使したわけではないでしょう。最初からあきらめていたように見えます。身代金の支払いにしても早い段階から拒否しているし、この事件を政治的に利用し、テロに屈しないと宣言して米英の一員であることを国内外にアピールするのが狙いだったように感じました。

Q、――人質救出に全力を挙げると言っていましたけどね。
A、   政治っていうのは、みんなそんなもんですよ。オバマ政権も一緒です。ただ違うのはメディアが政府の言い分をうのみにするかどうかです。私は列強の仲間入りをしたいという安倍首相が悪いとは言いません。彼は素直に自分のやりたいことをやっている。それは就任前の言動から容易に推測できたことです。問題はそれに疑問も挟まず、従って何の質問もせず、説明も求めないメディアの方です。だから、安倍首相が積極的平和主義を唱えれば、多くの国民が何の疑問も持たずに“そんなもんか”と思ってしまう。ここが危険なところです。

『ごく一部の人が管理し動かしている日米同盟』

――積極的平和主義で、米国と一緒になって戦う。それが日本を守ることになる。こういう主張の政治家、官僚、学者、評論家たちは、米国がやっていることが正義であるという大前提に立っていますね。ただし、そういう人々の多くは、アーミテージ元国務副長官に代表されるジャパンハンドラーと呼ばれる人としか付き合っていない。このほど、ファクラーさんが出された孫崎享さん(元外務省国際情報局長)との対談本、「崖っぷち国家 日本の決断」(日本文芸社)の中には、こういうことが書いてあって、本当に驚きました。ハンドラーという言葉は「犬を扱う」ようなイメージだというし、そのジャパンハンドラーの人々が米国を動かしているわけでもない。これは非常におかしなことだと思います。
ジャパンハンドラーの人々は非常に保守的で、オバマ政権にも入っていないし、決して米国の意見を代表しているわけではありません。それなのに、自民党の政治家や外務省の官僚はジャパンハンドラ―に頼ってしまう。

『ジャパンハンドラー(知日派)とは軍産複合体などの既得権益集団のことだった』

Q、――対談本でファクラーさんは、「ジャパンハンドラーは『既得権益集団』で、コンサルティンググループなどをつくり、強欲な商売をしている」とおっしゃっていた。
A、   鳩山政権の時に脱官僚を唱えた瞬間、日米関係がぶっ壊れたでしょ? あんなにすぐ壊れるものかと驚きました。このことは日米のパイプがいかに細いかの裏返しです。一部の自民党の政治家や官僚とジャパンハンドラーとの付き合いしかないのです。日米関係に関わっている人は非常に少数で、そういう人が同盟関係を管理している。だから、普天間基地の移転問題にしても辺野古しかないという結論になってしまう。もっと幅広い人脈と付き合っていれば、さまざまな意見、選択肢が出てくるはずです。

Q、――集団的自衛権についても、それが日米同盟では当たり前ということになってしまう。
A、   確かに戦後70年間、米国と一緒にやってきて、ある意味、安全だった過去の実績はあります。でも、今後もそれでいいのか。平和憲法を捨てず、平和主義を貫く選択肢もあるし、鳩山政権や小沢一郎氏が唱えたようなアジア重視の道もある。どちらがいいかは国民が考えた上で決めるべきです。

『こんな民主主義国家 見たことが無い』

Q、――ところが、日本人には、それを判断する情報すら与えられていないんですよ。新聞が選択肢すら報じないものだから。
A、   日本のエリートの上の方で、物事が決まっている。大きな新聞はそちらの方を見て記事を書いている。そんな印象ですね。新聞社は読者の側に立って、権力を見ていない。権力者の側に立って、国民を見下ろしている。そんなふうに感じます。こんな新聞を国民は信じますか? 

Q、――このまま米国追随路線をエスカレートさせたら、この国はどうなっていくと思われますか?
A、   イスラム国のような事件がまた起こりますよ。米英豪仏などと同じ一員になれば、彼らの敵が日本の敵にもなる。日本人はそこまでの覚悟をしているのでしょうか。いずれにしても、民主主義国家でこれほど異常な一党支配の国は私の知る限り、見たことがない。戦前と似ていると言う人がいますが、野党不在で政権と違う意見を許さないという雰囲気においては、似ているかもしれません。健全な民主主義に不可欠なのは議論なのに、それを忘れているとしか思えません。
2015年3月16日日刊ゲンダイ

元外務省国際情報局長(日本版CIA)の孫崎亨氏(写真右側)との対談本『崖っぷち国家 日本の決断』 (日本文芸社、2015年2月)も出版している。

▽マーティン・ファクラー 1966年生まれ。ダートマス大卒業後、イリノイ大、カリフォルニア大バークレー校で修士。ブルームバーグ東京支局、AP通信東京支局、ウォールストリート・ジャーナル東京支局などを経て、ニューヨーク・タイムズ東京支局長。近著に「崖っぷち国家 日本の決断」(日本文芸社)。

『オバマには極めて近いが既存のジャパンハンドラーとは遠いマーティン・ファクラーNYタイムズ東京支局長』

建前として不偏不党と掲げる日本の新聞社とは大違いで、アメリカのニューヨーク・タイムズ紙やワシントン・ポスト紙は露骨にオバマ大統領支持を鮮明にしている。
今回の安部晋三首相とジャパンハンドラーとの癒着、安倍政権と日本の大新聞との同衾を厳しく批判するマーティン・ファクラーNYタイムズ東京支局長のインタビュー記事ですが、単なるアメリカの一新聞社の外国特派員の見解であると見るよりも、オバマ政権の本音部分(日本の世論に向けた観測気球)だと解釈するほうが正解だろう。
そもそも対テロ戦争を始めた(宗教右派に近い)ブッシュ共和党政権に対して『チェンジ』をスローガンに成立したのが現民主党オバマ政権である。
オバマ大統領の最初の外国賓客は何と日本国の首相だったが、右翼靖国路線の麻生太郎に対する隠すことが出来ない軽蔑感や嫌悪感は露骨な水準だったのである。
その意味で今回の『こんな民主主義国家 見たことが無い』とのニューヨーク・タイムズ東京支局長の発言内容ですが、極右路線の安倍晋三首相の暴走に対して、オバマの堪忍袋の緒が切れかかっている可能性が有るのですから恐ろしい。

『日本の安倍政権が掲げる「積極的平和主義」とは、大昔の「八紘一宇」のことだった』

安倍晋三が唐突に言い出した積極平和主義ですが、・・・この言葉の意味が、マスコミの有識者には、誰にも分からない。勿論自民党員にも判らない。
共産党とか社民党など左翼は『地球の裏側でも戦争する心算か』と心配するが、自民党一の切れ者である高村自民党副総裁は、地球の裏側どころか必要なら『地球の外側でも戦う』と答えている。
自民党一の知恵者でも『積極平和主義』で自衛隊とウルトラマンとかガンダムとを混同しているのである。
もう、無茶苦茶。何でも有りなのです。
知識とか経験、教養が有る有識者ほど判らない不思議な安倍晋三首相の主張する積極平和主義ですが、参議院予算委員会での三原じゅん子自民党女性局長と麻生太郎副総理と質疑答弁では、安倍の『積極平和主義』とは、ズバリ『八紘一宇』のことだったのです。
誰にも分からない安倍晋三の積極平和主義ですが、その答えとして、今回参議院でのボケとツッコミの掛け合い漫才『八紘一宇』ですが、これ程分かりやすい話も無い。
19世紀のパックス・ブリタニカや、20世紀のパックス・アメリカーナの劣化コピーが大日本帝国の掲げた八紘一宇だった。
その『八紘一宇』ですが失敗したからと言って、大成功したパックス・ブリタニカや、パックス・アメリカーナの真似なのです。(一方が悪いなら、もう一方も悪い)
本来責められるべきは日本の八紘一宇(コピー)ではなくて本家本元の米英列強の覇権主義こそ責任が有る。

『八紘一宇の裏側は、鬼畜米英』八紘一宇と鬼畜米英は別々では無く、二つで一つのセット

失敗したスローガンの八紘一宇ですが、大成功したパックス・ブリタニカや、パックス・アメリカーナの真似なのですが、本物と正面衝突して70年前に崩壊する。
それで今度は安倍晋三の積極平和主義では、パックス・アメリカーナとセット(二人三脚)で八紘一宇を実行するとの話なのでしょうが、『アフガン戦争』とか『イラク戦争』での失敗で、始める前からもう寿命が尽きています。
パックス・アメリカーナも八紘一宇も同じで、賞味期限が、とっくの昔に終わっていた。
賞味期限切れ食品のラベルを張り替えただけの『食品擬装』事件と同じで、昔失敗した『八紘一宇』を新しく『積極平和主義』と名前を変えても成功するはずが無い。
(また、アメリカ大統領のオバマが日本の右翼政治家の安倍や麻生を嫌うのは当然で、八紘一宇と鬼畜米英は別々のスローガンでは無くて、二つで一つのセット『一つのコインの裏表』だったのである)
そもそも戦後レジームからの脱却なら、復活するべきは米英の猿真似(二番煎じ)の八紘一宇では無くて、日本独自の素晴らしい四文字熟語のスローガン、『鬼畜米英』である。
ところが、安倍晋三らの『なんちゃって右翼』の場合には、鬼畜米英では無くて、アメリカ命の対米従属の植民地根性なのである。(白井総の永続敗戦論によると、日本の敗戦を否定する『八紘一宇』がアメリカと正面衝突することが分かっているので、日本の右翼の場合には底無しの低米従属の売国路線によってバランスをとってアメリカからの攻撃を防止している)
基本的に右翼国粋主義騒動の全ての元凶は、70年前の日本の敗戦とその否定なのですから根が深い。

http://blog.goo.ne.jp/syokunin-2008/e/bdc8ff93af866ddd0c76eb7046c67161


3月末の締め切り迫るアジアインフラ銀行

2015年03月26日 | 経済


『アメリカが土壇場で方針転換か』

世界第二位の経済規模を誇る中国が年内設立を目指すアジアインフラ投資銀行(AIIB)への、日本など世界の対応が注目されているが、日本とアメリカを除くサウジアラビアなど産油国やドイツ、イギリス、フランス、イタリアなど欧州の有力国、オーストラリアや韓国までが今月末までに参加表明する可能性が極めて高い。
3月内の参加表明がAIIBの運営に特別な権限を有する創設メンバーに名を列ねる条件であり、どうせAIIBに参加するなら創設メンバーに加わる方が国益に合致するとの判断なのである。
日本が参加を遅らせてきたのは、米国のアーネスト大統領報道官が『参加する計画はない』と中国が主導するAIIBに否定的な態度を表明したことに尽きるでしょう。
(参加に消極的なAIIBとは対照的に、アメリカが主導しているなら逆にISD条項の様な毒饅頭付きのTPPにも、内容の如何にかかわらず日本は積極的に参加している)
アメリカ(オバマ大統領)は世界銀行やIMF、そのアジア版で日米が主導するアジア開発銀行(ADB)などの、今までのアメリカを盟主とする既存の国際金融秩序を、中国のAIIBが脅かすことを警戒している風に思われていたのである。
ところが最後の最後、土壇場になって肝心のアメリカの態度がぐらついていると言うか、今までの米国単独覇権から、米中合作での国際金融秩序の構築に向かっているようなのである。
ここに来て日本の麻生太郎財務大臣も条件付ながら加盟の可能性を言い出したが、加盟期限の3月末までは僅かしかない。今さら条件交渉など『加盟しない言い訳』程度にしか聞こえないだろう。(参加不参加が日本の国益では無くて、アメリカ政府の顔色一つで決まるとは情けない限りで有る)
3月31日の締切日は目前に迫っているが、日本がAIIBの創立メンバーに参加するかどうかは、経済問題だけに留まらず今後の日本国の将来にとっての大きな岐路になることだけは間違いない。
(悪く勘ぐれば、日本を将来性が有るアジアインフラ投資銀行(AIIB)に入れないために、アメリカはわざと最初の時期に否定的な言動を行っていた可能性まである)

『日本のGDPがマイナス成長なのに、株価だけが高騰し20000円台に迫る』

7000円台だった株価が2012年末に『輪転機をグルグル回す』と安倍晋三が言っただけで、あれよあれよというまに上昇して、今(3月23日終値)では日経平均1万9754円をつけ、2000年4月以来の高値を更新。一本調子の株価上昇で2万円の大台突破は時間の問題となってきた。
現在の株価高騰の主役は外国の投機筋で、3月第2週から5週までの買越額は1兆円程度と言われている。
輪転機をグルグル回して市場に日本円が溢れれば、消費不況によるリアルな経済現場はマイナス成長なのですから、行き場の無い膨大な『余剰資金』が株式市場などバーチャルな金融市場に流れ込み株価を高騰させるのは何の不思議も無い。特に今回は老後の年金資金までが賭博(株式取引)につぎ込まれたのですから(実体経済とは無関係に)もっと高騰したのは当然だった。
運用資産137兆円と世界最大級の年金積立金管理運用独立行政法人(GPIF)の資金が元本が保証されない株取引につぎ込まれている。(本来これらの年金資金の運用先は元本割れが無い国債等が主流だったのである)
GPIFは昨年末時点で日本株27兆1330億円分を保有、運用資産全体の19・8%を占めた。1部上場の全企業の時価総額合計(約573兆円)の約5%を持っていると言うから無茶苦茶。
幾ら世界最大の年金資金といえど無尽蔵ではない。
山高ければ谷深しで、今のように無制限に公的資金が流れ込んでいる間は外国のハゲタカ投資家が群がって日本の株価が上がるが、元々投機目的での日本買いなのですから下がれば売り逃げに走る。
今の株高ですが人為的な操作(国家ぐるみの違法なインサイダー取引)なのですから、その原因である公的資金の流入が止まった途端に必ず大暴落する。
株式相場に対する公的資金の注入(官製相場による高値誘導)は始めるのは簡単だが、『金の切れ目が縁の切れ目』で、ネズミ講と仕組みが基本的に同じであり一度始めると出口が無くて、倒れるまで永久に続ける必要がある。
最後の破滅(膨らむだけ膨らんだ後のバブル崩壊)まで一直線なのである。(だから今まで極右国粋主義で暴走する安倍晋三以外、誰も行う者がなかったのは当然だった)

『分水嶺を越えた安倍人気(景気マインドが逆転するとき)』

現在も続く不思議な安倍人気の高止まり現象ですが、全ては株高から来る景気回復の幻想であり、株価が下落すれば安倍(自民党)人気も連動して下落する。(だから年金資金まで注入して無理やり株価を吊り上げている)
世論調査ですが、今まで経済が『良い』方向に動いていると『悪い』方に動いているとの割合が3対1の比率(超強気のブル相場)だった。
ところが、去年から今年にかけて正反対に逆転(弱気のベア相場)。多くの人々は株価が上がっているがGNPがマイナス成長である日本の現実にやっと気がついて、将来を不安に思っているのである。
公的資金の注入以外の、株価吊り上げの一方の主役である海外のヘッジファンドは日本の株価を天上まで、吊り上げるだけ上げると、一斉に売りに転じて株価下落を引き起こす。
最後は空売りで巨額の利益を獲得することは1991年のバブル崩壊で実証済み。
株価ですが、一旦下がり始めれば今までの反動で歯止め無く下がり始めて仕舞うのですから恐ろしい。
政府の中長期経済見通しを考えるとPER(株価収益率)は15倍程度が妥当だが、現在の株高で日経平均で18倍前後とやや高い。日経平均が2万円の大台にのるとPER(株価収益率)は20倍超になり割高感が強まり、いよいよ相場の天井(バブル崩壊)が見えてくる。

『日銀、株保有10兆円に 自己資本の3倍超』

25日付け日本経済新聞によると、日銀が保有する株式(上場投資信託=ETFを含む)の時価が10兆円を突破した。年3兆円のペースで買い増し、公的年金に次ぐ日本の大株主に浮上している。
株価が下落したときに買いを入れる手法で相場を下支えし株高の呼び水となった。ただ残高は自己資本の3倍以上になっており、3兆円の買い入れペースを長期間続けられるかは微妙だ。
日銀は13年4月の異次元緩和導入時に日本株に連動するETFを年1兆円購入すると決めていたが、現在では異次元緩和の上限の3倍増までに無制限・無原則に増やしているのである。
近い将来の破綻が確実視されている日銀や年金基金による掟破りの株式の購入ですが、その目的が一時的な安倍晋三(自民党)の支持率維持(景気回復を擬装して日本人全部を騙して勘違いさせる)だったとしたら目も当てられない。
現在進行中ののヘッジファンドなどハゲタカ外資の日本株の買い入れは決して長期的な保有など考えておらず、短期での利ザヤ稼ぎ(売り抜け)である。
ところが日銀とか年金基金が購入した日本株は膨大すぎて最初から売りぬけが出来ない仕組みなのである。(日銀や年金基金が売りに転じれば自動的に日本の株価が大暴落して大損する)

『上場企業 14年度の自社株買い、3.3兆円』株主還元強化で7割増、リーマンショック時に迫る

時事通信によると、上場企業による自社株買いの総額が2014年度は約3兆2900億円に達し、前年度実績(約1兆9500億円)を約7割上回る見込みであることが24日、アイ・エヌ情報センター(東京)の調査で分かった。
08年度以来の規模で、資本効率の向上を求める市場の圧力を受け、株主への利益還元策にもなる自社株買いを企業が強化している様子が浮かび上がった。
同センターの調査によると、14年度に入ってこれまでに自社株を取得したのは505社。08年度はリーマン・ショック後の株価下落の中で1000社超の企業が計約3兆7100億円の自社株買いを実施した。それに比べると、14年度は1社当たりの取得額が大きいのが特徴だ。
相次ぐ自社株取得の背景とは、株主資本を使ってどれだけの利益をあげたかを表す指標であるROE(株主資本利益率)の向上を求める市場や株主の圧力がある。自社株買いは分母に当たる株主資本を小さくするので企業の業績とは無関係にROEの数値が向上する。(株主としてはROEが高い方が利益になる)

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メタモリス6煽り ジョッシュバーネットvsサイボーグ

Metamoris 6

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柔術アート

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放射能被害を少しでも気にするなら、何故フクシマの放射性プルームの被害が小さいと思われる関西地域など西日本にしなかったのだろうか。これでは放射能の危険から逃げたことにならない。 喫煙による肺癌リスクを熟知しているので今まで長年吸い続けていたニコチン含有量の多い両切りピースをニコチン量が低いマイルドセブンに切り替える愛煙家と同じで、(気持ちは判らないでもないが)これでは『気休め』にもならない。 高ニコチンから低ニコチンへの切り替えは自分や家族の健康には何のプラスにもならない。無駄にJTなど煙草業者を儲けさす結果になるだけである。 喫煙による肺癌が怖いと知っているなら(煙草の害を避ける気が少しでもあるなら)、キッパリと禁煙する以外の道は何処にも無いのである。 放射能で今までの家が住めなくなったのに大金をはたいてまで、わざわざ放射能汚染地域に再度家を建てるなど狂気の沙汰である。(今まで必死で続けている日本政府やマスコミによる放射能被害の完全隠蔽の破綻が明らかになるのは時間の問題であり、再度の移転は必至の情勢である)


















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「ダーウィン賞」考
2015年03月20日 | 政治
『ダーウィン・メダルとダーウィン=ウォレス・メダル』

ダーウィン・メダル(Darwin Medal)はイギリスの王立協会が2年に一度、優れた業績を挙げた生物学者に授与する賞で、進化論のチャールズ・ダーウィンの名前にちなみ生物学における世界最高レベルの賞とされる。
生物学の最高権威であるダーウィン・メダルに名称が似ている『ダーウィン=ウォレス・メダル』は、『種の起源』の前年に出された、チャールズ・ダーウィンとアルフレッド・ウォレスの共同論文『変異型がもとの種より無限に遠ざかる傾向について;および自然が選択によって変種と種を永続させることについて』がロンドンリンネ学会で発表された1858年7月1日の50年後に当たる1908年に第一回の受賞が行われ、以後ロンドンリンネ学会から進化生物学を大きく発展させた人物に対して50年に一度送られる賞である。(2008年にリンネ学会は第三回目の受賞者を発表し、今後は50年ごとではなくて毎年授与されると発表した)
1859年出版の有名なダーウィンの『種の起源』であるが、ダーウィンは長年論文の構想を練っていたが、進化論が『人は神が自分に似せて創った』との聖書の記述と対立するために(宗教界や世間からの攻撃を恐れて)長年出版を躊躇っていたという。ところが、アルフレッド・ウォレスが同じ『進化論』の研究を進めている事実を知り、ウォレスに先を越されないようにと急遽不完全な草稿(仮説)と言う形で発表された経緯が有る。
大慌てで出版された有名なダーウィンの『種の起源』ですが、これは学術論文としては完全作では無かったのである。(ダーウィンの『種の起源』が出されていなければ、『進化論』はウォレスの名前で出されていた)

『ダーウィン賞の受賞者たち』

世に『ダーウィン賞』という名前のアメリカ人的なブラックユーモア賞がある。もちろん有名な『進化論』のチャールズ・ダーウィンから名が取られているが、愚かな形態・方法で死んだ者へ死後に贈られる『賞』である。(死ななくとも生殖能力を失うと授賞できる)
ある受賞者は切手不足で爆発物入りの封筒を差し戻され、自分の爆弾で爆死した。またのひとりはエレベーターのロープをエレベーター内にいながらにして盗もうとし、ロープ切断後、エレベーターもろともビル高層から落下、落命、受賞した。
ある授賞者は男らしさを証明するために恋人の前でオートマチック拳銃でロシアンルーレットを行ったが、弾丸が自動装填される仕組みなので1発目で命中して死亡、授賞した。
死んだ愚か者は、世界の遺伝子プールから自分の遺伝子を消し去ることで『人類の進歩に多大な貢献をした』、との設立理念で1985年に『ダーウィン賞』が設立されている。
デイリーメールが報じたところによると、『ダーウィン賞』の組織者らが調べたところ、何故か受賞者は女性より男性の方が遥かに多かった。318人の受賞者のうち女性はわずか38人だった。
ダーウィン賞は30年前の1985年からだが『不可解なことに、受賞者の9割が男性だった』と賞の組織者らは語っている。ダーウィン賞によって男が10倍も女より愚かであることを証明されている。

『日本人受賞者はゼロだが、その候補者たちなら大勢いるダーウィン賞』

ネットウョが救いがたい愚か者だからと言って、その反対の『護憲左派』(ネットサヨ)が賢いとの原則は何処にも無いのである。何と、この両者はミラー(鏡像)の関係だったのである。
アメリカにおける原理主義(福音派など宗教右派)の危険性を書いた記事に対して、『自分の周りには一人もいない』(だからアメリカには原理主義者はいない)と何万字ものコメントを送ってくる無政府主義者。そもそも外国人(日本人)の無政府主義者に近寄るアメリカの原理主義者など誰もいないことに気が付かない。
無関係な記事に『ダーウィンの進化論は間違いだ』と突然言い出す獣医さん。この獣医さんによると『強いものが生残る』とのダーウィンの説では『強いトラが繁栄し、弱い小動物は絶滅する』と主張する。小中学校の授業で完全に落ちこぼれても、何故大学の獣医学科を卒業出来たのかは永遠の謎である。
このバカ話(笑えない笑い話)には続きがあり何時もは至ってまともな記事を書いている他の護憲左派のブログ主までが『進化論とは、そもそもトラとネズミの生存競争の話ではない』との当然の指摘を一切無視。150年前に決着が付いている話を振出に戻すことは誰にも出来ないとの当然の常識が無い。ネット世界は珍獣動物園だったのである。(他の記述が幾ら正しくとも、ダーウィンの進化論を真正面から否定しては全てが嘘くさくなる)
日本で最初にダーウィンの進化論を講義したのは『種の起源』出版の18年後1877年(明治10年)、大塚貝塚の発見で有名なアメリカ人生物学者モースであるが19世紀当時の学生たちは真剣に最新の科学を聞いていたが、21世紀の今では逆に日本人の知的水準が退化しているのだろうか。

『誤報を口実に朝日新聞を叩いて、自社の購読数を伸ばそうとした読売新聞』

このダーウィン賞候補の筆頭なら、読売のナベツネであろう。読売新聞ですが世界最大の1000万部を超えている新聞社であり、もちろん日本の新聞業界では最大(第一人者)である。
その業界一位の読売が(自分の部数を伸ばそうとして)業界二位の朝日をW吉田誤報で大バッシングする前代未聞の騒動が勃発する。
ところが、結果は叩かれた朝日新聞は半年間で45万部も落ち込んだが、叩いた読売新聞は朝日以上の66万部も減らして、このままの比率で減ったら15年後に部数はゼロである。
今まで、今回の朝日叩きの様な『誤報』を理由にしたバッシングが一度も起きなかった理由は簡単で、新聞業界全体の信用を落す自殺行為だったから、今までは誰一人も行う者がなかったのである。
そもそも全ての物事に共通する大原則ですが、トップ(第一人者)とは自分ひとりだけでは無くて、否応なく競争者(ライバル)を含自分自身以外の全部の代表でも有るのです。
その第一人者(新聞業界第一位)の読売が、誤報で業界第二位の朝日を叩けば『朝日の信用問題』だけには留まらず、必ず現在のように新聞業界全体の信用度が極限まで凋落する。
新聞読者は4年前のフクシマの核事故では、全てのマスコミが大誤報を際限なく垂れ流すのを全員が目撃していた。
いまさら朝日新聞を誤報でバッシングしても白けるばかり。
そもそもダブル吉田を『誤報だった』と認めて謝罪した朝日新聞が不思議である。(古今東西、今までに似た例が一つも無い)
日本軍従軍慰安婦の吉田証言の話は、誰も覚えていない40年も前の話。正しかろうが間違っていようが今では何の問題もない歴史的な逸話の一つである。
もう一つの吉田調書は悪質で、所長命令に背いてメルトダウンして危機的なフクシマから9割の職員が逃亡した4年前の深刻な実話である。
それを後になって(事態が一段落して)から吉田所長が『後で考えたら』第二原発まで逃げた方が良かったと言ったことから、遡って『9割逃亡は誤報』と決め付ける不思議。
そもそも東電執行役員である吉田が一度は『9割逃亡』を事実を認めていることこそが最重要問題なのです。
『後から考えたら』など言い訳としても胡散臭いだけでは無くて信用度はゼロ。その時の事実関係の正誤(誤報であったか否か)ではまったく意味が無い戯れ言である。
吉田所長の命令に反して、9割もの原発職員が逃亡していた事実は微動だにしない。

『マスコミが14日夜の自衛隊の逃亡を報じないから、東電職員の逃亡の事実が見えない』

そもそも3号基が大爆発した3月14日夜には(最高司令官である菅直人首相の指示を無視して)自衛隊員が福島県民など一般市民を放置して、福島第一原発から『安全が担保されていない』として100キロ圏内から逃亡している。
もしもの時(国家の非常時用)に用意されている自衛隊が福島第一原発から全部逃亡しているのですから、単なる一般人である東京電力の原発職員が浮き足立ち、9割が逃げたのは何の不思議も無い。
ところが大手マスコミが大本営発表で『自衛隊の100キロ圏からの逃亡』の不都合を絶対に報道しないから、話の辻褄が合わなくなっているだけなのである。
一般人である東電職員は9割逃亡なのですが、なんちゃって軍隊の自衛隊は10割が逃亡したのですから、その腰抜け振りには呆れ返る。(こんな救いがたい不真面目で無責任な根性なしの腰向け連中の自衛隊に、殺し殺される本物の戦争が出来ると思っているらしい護憲左翼の誤解にも困ったことである)


『SHINE!ばいいのに』
shineの読みはシャインで意味は「光」で、英単語である。決してローマ字で『死ねばいいのに』と読んではいけない。

『日本の建国以来の価値観とは「世界征服」(八紘一宇 はっこういちう)だったとは絶句』

三原じゅん子参院議員(自民党女性局長)と麻生太郎副総理(財務大臣)とが参議院予算委員会の質疑で、大日本帝国の世界征服のスローガンだった八紘一宇(はっこういちう)を天まで持ち上げる。
ことあるごとに日本の歴史認識(戦争責任とか植民地支配、日本軍従軍慰安婦問題)を執拗に非難する韓国のパク・クネ大統領に対する最大・最高の応援歌(反日行為?)である。
敗戦から70年が経ったからと言って今頃になって軍国日本の象徴的スローガンである八紘一宇(はっこういちう)を持ち出すなど、到底言い訳できない致命的なオウンゴールとなる。
丹波哲郎は『あの世とこの世は地続きだ』といった。
ところが、麻生太郎とか三原じゅん子の頭の中では八紘一宇の旗印で世界征服を企んだ挙句に70年前に滅んで今では跡形も無い超軍事大国である大日本帝国と、地理的に同じ日本列島に存在するがまったく別の平和国家『日本国』とが地続きで一つながり『違いが無い』のである。
『あの世とこの世』が地続きではないように、世界帝国を目指して近隣のアジア諸国に恐れられた大日本帝国と日本国は決してひと続きではない。
『あの世とこの世』、『大日本帝国と日本国』は、事実としても論理としても断絶している。(断絶していなければ自動的にトンデモないことが起きて仕舞う)
もしも、本当に大日本帝国と今の日本国とが『同じ』で有るなら即座に『世界平和の敵』として連合国(国連加盟国)からの武力制裁の対象になる事実はポツダム宣言や国連憲章に明記されているのです。
大日本帝国は1945年5月9日にナチス・ドイツが降服した後も自らの負けを認めず、世界中を相手に無意味に戦争を継続した挙句にヒロシマナガサキへの核攻撃とソ連軍の参戦で8月15日にやっと降服しているが、もう一度『八紘一宇』のスローガンを叫んで同じことを繰り返す心算なのであろうか。
去年は憲法9条を堅持した日本人全部がノーベル平和賞候補になった。
ところが、八紘一宇を堅持するつもりの日本の右翼国粋主義の方は間違いなく全員が『ダーウィン賞』の最有力候補である。
『建国以来、大切にしてきた価値観』どころか、1936年(昭和11年)2月24日のクーデター未遂(二・二六事件の決起趣意書)から公式になったのが『八紘一宇』であり、まあ昭和の『軍国日本』の『建国以来、大切にしてきた価値観』(昭和にできた造語『流行り言葉』程度)なのである。
八紘一宇は『日本書紀』の中にある神武天皇の『掩八紘而爲宇』が元(初出)なのだが、そもそも神武天皇は伝説上の人物で実在しないし、古事記や日本書紀は漢文(中国語)で書かれていて記述の半分以上は生粋の中国人が編纂している。(ネイティブな中国人なら決して間違えない漢文の誤りが一部にあり日本人編者も書いていたことが分かる)1500年前の神武の時代に、大八島(関東東北以西の日本列島)以上の『世界』などという概念はありえません。
大八島とか大八洲国、大八洲とも呼ばれるが、『 古事記』『日本書紀』では、本州・九州・四国・淡路・壱岐・対馬・隠岐・佐渡などの西日本の『八つの島』を指す言葉。当時は朝鮮半島どころか、北海道も沖縄県(琉球諸島)も倭国の範囲には含まれていなかった。



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2008年09月22日 | 宗教

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政治

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逝きし世の面影
政治、経済、社会、宗教などを脈絡無く語る
続「ダーウィン賞」考(早川由紀夫の火山ブログ)
2015年03月22日 | 放射能と情報操作
『フクシマ放射能リスクの評価と管理 事故直後、1年後、2年後、、、』

2011年
1月
2月
3月 11日 M9.0地震
4月 8日 放射能汚染地図(初版)、福島中通りの汚染
   25日 このままだと福島県がつぶれる。命か生活か。
   28日 福島県のコメ
5月
6月 18日 放射能汚染地図(改訂版)、首都圏東部・北関東・一関の汚染
7月
8月 12日 京都五山送り火で使う陸前高田の松からセシウム
9月 8日 福島県ナンバーの車がこわい
10月 27日 避難区域と除染区域の線引き。そして強制移住の是非。
11月
12月 7日 訓告
   14日 ことし福島で生産されたコメを全部食うと何人死ぬか、答えは2人だった。意外と少ない。
2012年
1月
2月
3月
4月
5月 23日 北九州市のがれき受け入れ問題
6月 24日 首相官邸前デモの人数調べ
7月 28日 放射能汚染地図(七訂版)印刷。八訂版を含めて16万部。
8月 16日 家族分離避難の線引き、首都圏から九州への母子避難は行き過ぎ
9月
10月
11月
12月
2013年
1月
2月 11日 島薗東大シンポ。福島残留を支援してはならないを意見変更。
3月 11日 甲状腺検査への疑念
4月
5月
6月
7月
8月
9月 10日 実効線量は芝生測定の5分の1
10月 5日 科学によるリスク評価ができていなかった2年半を反省する。
    6日 追加被ばくマップ。年1ミリ追加は福島県外にもはや存在しない。
11月
12月
2014年
1月
2月
3月
4月
5月
6月
7月
8月
9月
10月
11月
12月
2015年
1月
2月 26日 放射能恐怖症は認知バイアスのひとつ
3月
2015/03/17(火) 早川由紀夫の火山ブログ

『あの早川由紀夫が、コペルニクス的にもう一度「転向」するとき』

『ガッツ石松的な恐怖のブーメラン』
火山学者の早川由紀夫群馬大教授は4年前の3・11で政府やマスコミが3時間後にはメルトダウンして大量の放射能を撒き散らしている時にいち早く火山灰の被害予測の手法を用いてフクシマの放射能汚染予測図を公開して、その科学的な手法は絶賛されている。
ところがその後は(勇み足?)『福島県での農産物の生産流通はオウム真理教がサリンを撒き散らした無差別テロと同じ』と発信して、大論争を巻き起こす。ネット世界でも放射能被害で数多くの論争を繰り返していたが、相手は福島医大副学長の山下俊一が憑依した現職の医師か医学関係者とおぼしき御用学者のネット工作員である。(ところが早川由紀夫は火山には詳しくても医学では素人だった)
プロ棋士を相手にして平手で囲碁が勝てる素人がいないように、医学者と医学論争をして勝てる素人は普通はいないのである。
最後には絶対に負ける。(部分部分ではアマチュアでも勝てるが、プロは盤上全体の戦略を考えていて一部を殺すことで少しずつ全体を優勢にしていく)
心配していた通り、その後あの早川由紀夫は丸め込まれて『安全・安心。放射能は何の心配も無い』と言い出して現在に至っている。
転向して『放射能は怖くない』と言いながら、2013年の中頃には如何も疑いだして、2014年にはフクシマも放射能も『一言』も語らない。今年に入ったら以前よりもっと語らない状態が続いたが再度の転向(ガッツ石松的360度の変更)でブーメランのように元々の位置に戻ってきそうである。



『命の危険が目の前に迫っているのに、人々は何故逃げないのか』

早川由紀夫の火山ブログの最新記事は『私の本棚』なのですが、その最後に紹介している本のタイトルが、ズバリ『人はなぜ逃げおくれるのか』であり、副題が『災害の心理学 』(集英社新書)広瀬 弘忠(2004/01/16)である。
11年前の2004年1月が所版なので広瀬 弘忠の本では4年前の2011年の3・11大震災や、それに続くフクシマの放射能汚染での人々の退避行動を問題としていない。
ところが、3・11大震災とそれに連動したフクシマの未曾有の核事故での人々の対応を見事に言い当てているのである。
死ぬことが分かっているのに、人々は『何故逃げなかったのか』の答えですが、広瀬 弘忠によると(単純化すると)『人は皆、「自分だけは死なない」と思っている』と短く要約できるのである。
(別の言い方で説明すれば、丸っきり『ダーウィン賞』受賞者の心理状態なのである)
自分だけは死なないと(漠然と)思っている。
このため巨大災害時に人々はどんな心理状態になるのかといえば、『災害時には必ずパニックの群集心理が生じる』というのは大きな間違いで、むしろ危険度が高ければ高いほど、正常性バイアスが働き、人々はゆっくりと鈍感にしか反応しない場合が多い。

『放射能パニックを恐れてメルトダウンの事実を2ヶ月も隠した日本政府の愚劣』

4年前に世界で初めて原子炉4基が同時に暴走するフクシマの核事故が発生した時に、日本の人口で4割、面積で三分の一が放射能で深刻に汚染する可能性が出たが、極悪で低脳の菅直人民主党政権はコンピューターによる放射能拡散予測システムSPEEDI(スピーディ)を福島県や米軍には公開したが、肝心の福島県などの一般市民には公開しなかった。
為政者は、日本人のパニックを恐れたのである。
しかし災害や事故の際にパニックが起こることは滅多にない特殊例なのである。(だからパニックによる事故が起きればマスコミで大ニュースになる)
現実は『パニック神話』とは逆に、広瀬 弘忠が指摘するように『人は皆、「自分だけは死なない」と思っている』のである。
だから逃げ遅れて、大勢が命を失ったのである。
3・11大震災の死者行方不明者の9割は大地震の半時間後の津波被害者であり、もしも速く逃げていれば全員が助かっていた。
3・11では地震直後の気象庁の津波予想値は最大で3メートル。津波高の数倍もの高さの堤防が有る地域の住民は多くが避難しなかった。
(正しい津浪高を気象庁が発表されたのは半時間後で、そのときは大津波が日本列島沿岸を襲っていて最早手遅れだった)
3・11から4年後の日本ですが、旧ソ連のチェルノブイリ原発事故の基準なら強制疎開の高レベル汚染地域に大勢の日本人の一般市民が逃げ遅れて、そのまま留まっている。
日本政府やマスコミの流すその場しのぎの無責任な安全神話(大本営発表)を信じて汚染地域にそのまま居住している様は恐ろしい。
最新の発表では何と、日本一地価が上昇している住宅地は穏やかに放射能に汚染した福島県いわき市だった。(福島県内では一番汚染度が低いが、それでも大部分は年間被曝量が1ミリシーベルトを大きく超えている)

『放射能安全神話に転向前の、健全だった早川由紀夫の火山ブログ』

『ニセ科学批判運動の真の目的』
菊池誠をリーダーとするニセ科学批判クラスタと放射能安全を強調するクラスタは、かなりの部分が重なる。
ニセ科学批判クラスタがこれまで攻撃対象としてきたのは、血液型性格診断、水からの伝言、マイナスイオン、ホメオパシーなどである。既存科学の体系と対立する主張を批判する科学的な社会運動だと一見みえた。
しかしほんとうにそうだったのだろうか。
科学の体系と反することを許さないも、科学の輝かしい業績を踏みつけにすることを許さないも、彼らの運動にとってつけた理由だったようにいまは思われる。
彼らの真の理由そして目的は、現社会体制の維持継続を不安にさせる要因を早期につぶすことだったのだろう。
そう考えると、菊池誠をリーダーとするニセ科学批判クラスタが今回科学をかなぐり捨てて、やみくもに放射能安全を強調する側に立ったことがよく理解できる。
原発こそが、ほんらい彼らがもっとも力を入れて批判すべきニセ科学だったはずだ。運転で生じる毒を始末するすべをもっていない技術なのだから。
ニセ科学批判の人たちは権威あるい当局と親和性が高い。その本質はもともと「御用」にあったとみられる。
2012/05/12(土)早川由紀夫の火山ブログ

『早川由紀夫先生。貴方は偉い!!』

この早川由紀夫の火山ブログ記事の最後から2行目が『・ニセ科学批判の総本山だったkikulog。 いま何が書いてあるか知らない。』であるが、、3・11で原発が炎上爆発した後も、余りの能天気な御用ぶりにブログが炎上爆発していた。
4年前のフクシマのメルトダウンに連動して菊池誠自身がメルトダウン。
一時は完全閉鎖されていたkikulogですが、売りだったコメント欄を全部閉鎖して読者からの反論を封じて、しかも年数回程度の頻度にして密かに復活を画策している模様である。
ブログ記事最後の『・ニセ科学批判とは何か 2011年1月5日まとめ』から判ることは、何とこの早川由紀夫は、フクシマの起きる1年前の2010年5月ごろからメルトダウン発生の2011年2月26日まで、菊池誠@kikumaco本人やその取り巻き連中を相手にして、ネット(Twitter)上で延々と偽科学について論争を繰り広げていたのである。

『少しも懲りることなく賽の河原で石を積む早川由紀夫』

早川由紀夫大せんせい。あんたは偉い。感激しました。そんなことをする暇な国立大学教授など一人もいないでしょう。
誰にも真似が出来ない偉業である。ただただ感心すると言うか。頭が下がると言うか。
このフクシマの爆発炎上の半年前の菊池誠大阪大学物理学教授vs早川由紀夫群馬大学教授のネット上の科学論争では、最初は数を頼んだkikulog側が陳腐で非科学的な世間の常識的な『建前論』で攻勢に出るが、徐々に劣勢になり最後は『科学の本質』を主張する早川由紀夫の一方的な勝利宣言で終わっている。
kikulog(菊池誠)が勝てるのは科学の本質に疎い素人相手で、しかも集団で一人を追い詰めるから成功した。
連戦連勝だったkikulog(菊池誠)。ところが、相手が科学的手法の専門家(科学の一つの火山学者)の場合は勝手が違い、勝てなかったのである。(水商売で裁判闘争を起こす山形大学准教授のapjさんが乱入するハプニングが有るが)このニセ科学の論争は早川由紀夫の一人舞台となり最後に菊池誠一派は一言も反論できず、すごすごと引き下がる。

『Twitterのつぶやきマッシュアップメディアの一部を紹介すると、』

早川由紀夫 @HayakawaYukio 2011-01-15 11:08:10
ニセ札は定義できる。なぜなら紙幣がきちんと定義できているからだ。
グッチのニセモノも定義できる。なぜならグッチがきちんと定義できているからだ。しかしニセ科学は(万人が認める)定義できない。なぜなら科学に(万人が認める)定義がないからだ。
早川由紀夫 @HayakawaYukio 2011-01-15 11:08:26
たとえば広辞苑は科学を次のように定義している「体系的であり、経験的に実証可能な知識」この定義はそれなりの長所をもつが、そのニセモノを定義できるほど精緻な定義ではない。経験的に実証可能かどうかの判定を万人が同意するのはしばしば困難である。
早川由紀夫 @HayakawaYukio 2011-01-15 11:12:30
定義できないニセ科学というレッテルをもちだして、「ニセ科学だからよくない」のキャンペーンを展開するのは、よくない。
あまりに恣意的である。よくない理由はニセ科学とは別のところに求められなければならない。差別であるとか詐欺であるとか。
早川由紀夫 @HayakawaYukio 2011-01-16 06:02:48
ほとんどの「ニセ科学」は、科学的に間違っていると指摘するだけでことが足りる。
早川由紀夫 @HayakawaYukio 2011-01-16 16:24:20
「ニセ科学は消費者の生活を脅かすものです。 きくち | 2007.08.29 at 09:57 PM」 同ページコメント欄
返信 RT お気に入り
早川由紀夫 @HayakawaYukio 2011-01-16 16:33:20
「ニセ科学批判へのお誘いですが、「コミットできそうな人はしてください」であって、気軽に誘うようなことはしていません。ただ、コミットしない場合も活動の意味は認めて邪魔をしたり足を引っ張ったりはしないでください、ということは広く伝えたい。
早川由紀夫 @HayakawaYukio 2011-01-16 16:34:07
やって(社会的)意味のある批判は、法的紛争に直結していますので、最後は法廷に出て訴訟に対応する覚悟のある人しかやっちゃいけないんです。」 Posted by: apj | 2007.08.26 at 05:31 PM 同ページコメント欄
早川由紀夫 @HayakawaYukio 2011-01-16 21:22:37
「ニセ科学」はすべて、科学的に間違っていると指摘するだけでことが足りる。
早川由紀夫 @HayakawaYukio 2011-02-26 07:02:03
作用メカニズムが不明の因果関係は科学ではない。疑似科学である。
それが役に立つなら使えばよい。疑似科学が役に立つ例である。疑似科学(ニセ科学)だけを理由に何かを排斥するひとは愚かである。
早川由紀夫 @HayakawaYukio 2011-02-26 07:02:18
偽薬効果のメカニズムはわかっていないが、確実に効果があるので医療現場でしばしば使われる。大噴火の推移パターンに物理モデルとメカニズムの裏打ちはないが、過去の類似例が未来を予測するときに参考になる。どちらも科学ではないが、実社会では採用される。
返信 RT お気に入り
早川由紀夫 @HayakawaYukio 2011-02-26 07:37:26
疑似科学(ニセ科学)がそれだけで悪だと主張する人が、科学の定義をきちんとさせて、その特定対象が科学に当てはまらないことを説明する責任を負う。話はそれからだ。

『儒教的道徳とも西欧民主主義(多数決原理)とも無縁な「科学」の持つ本質部分』

そもそも『科学』には正誤はあるが善悪は無い。しかも科学的な真理は普遍的であり150年前のチャールズ・ダーウィンとアルフレッド・ウォレスの進化論の先陣争いのように、正しい場合には『誰がやっても同じ』違いが無いなのである。
それなら本来は知識や権利の独占(特許とか著作権)とは一番遠い存在が科学なのですが、理研のSTAP騒動では、その特許問題が本質であり、そのために著作権が云々(既存の科学論文のコピペ騒動)まで発生するバカ騒ぎに成る。小保方晴子博士の『論文に書いていないレシピが有る』など爆笑もの。
Ladybird さんの『事実を大切に』では、
『科学と権威はイコールであってはならないでしょう.しかしNHKも民放も,その道の権威やら「最先端」やらが大好きですね.
科学の基本は事実を事実として受け容れること.今の日本では「事実こうである」よりも「こうあって欲しいから事実はこうである」という発想が大手を振って通用しています.科学が衰退しています.
まず事実を素直に認めること.事実の前に素直に頭を垂れるべきという点では,小学生でも大学教授でも,その道の「権威」様も,何ら違いはありません.この,あきれるばかりの平等性が,科学の科学たるゆえんではないでしょうか.』

『エアー御用学者の筆頭にあげられている「菊池誠」の本当の素顔とは、』

4年前の3・11以前には私も何度もインチキ臭いkikulog(菊池誠)のニセ科学批判を取上げているが、彼らは何と『偽科学と間違った科学は違う』なる禅問答の様な話を平気で行っているのです。
科学の進歩には間違いは付き物であり、ノーベル賞を受賞した山中伸弥クラスの超一流科学者でも打率は一割程度。(9割は間違い)
他所のブログのコメント欄で菊池誠本人を名乗る人物に『偽科学と間違った科学』の部分を尋ねるが勿論まともに答えることはせず逃げ回る。当時はネット世界では疑うことを知らない善良な菊池誠信者が大勢いたのである。
フクシマ以前のkikulog(菊池誠)ですが更新回数が多いばかりかコメント数が桁外れ。3桁にも及ぶ膨大な読者のコメントに菊池誠本人が必ず返答すれば、相手は何しろ超忙しい筈の一流国立大学の物理学教授なのですから、コメント読者は大感激してそれ以後はkikulog(菊池誠)信者の一人になり布教活動に精を出すシクミなのです。
ところが、この『菊池誠』ですが自分のブログ(kikulog)だけでは無く、自分の取り巻きの読者(ニセ科学批判教の信者)のブログにも頻繁に登場して長いコメントを残している。
何と反対派のブログにまで登場して細々と反論、同じように長いコメントを繰り返していた。kikulogは一つの記事に数百ものコメントがつくので読むだけでも一日仕事。
『菊池誠』ですが物理的に一人では絶対に不可能だったのですよ。多分この男は自分のクローン(アルバイトの学生)を秘密裏に多数作って何事かの社会実験を行っていたのでしょう。(3・11フクシマの放射能で菊池誠の呆れた御用ぶりが明らかになるまで、このインチキ作戦は大成功していた)
菊池誠は物理学教授を名乗っているが大阪大学の仕事ではサイバー関連のトップ(大阪大学のサイバーメディアセンターの長)であり、職業としてのネット工作員??だったのである。

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http://blog.goo.ne.jp/syokunin-2008/e/6adf4634cffd1f7cff36cb9a1389a5e8


ダーウィン賞症候群 メルトダウン四年目いわき市地価上昇率1位に
2015年03月24日 | 放射能と情報操作
『公示地価 福島・いわき市、住宅地で上昇率トップ10を独占』

地価の上昇には、さまざまな要因、そして背景がある。2015年の公示地価が発表された。全国で見てみると、住宅地については下落の幅が減少。そして、商業地は下落が止まり、横ばいになった。
首都圏では、2014年に開業した虎ノ門ヒルズ周辺で9.8%上昇したほか、オリンピックへの期待で、軒並み地価が上がっている。
しかし、2015年の特徴は、北陸新幹線効果。
開業に沸く石川・金沢市では、商業地の上昇率が17.1%と、全国トップになった。
そして、富山市でも地価が上昇した。
そんな中、住宅地の上昇率で、トップ10を独占した都市がある。
それが、福島・いわき市。
真新しい住宅が立ち並ぶ、いわき市は、地価の上昇率が17.1%と、全国で最も高い数字となった。
住宅地の地価で、上昇率のトップ10を独占した福島・いわき市。
中でも、全国No.1の上昇率となったのが、「いわき市泉もえぎ台1-25-8」。
この周辺では、ある変化が起きていた。
住民は「昔は、7軒、8軒しかなかった。(この1年でも変わった?)変わった。家がものすごく増えた」と話した。
この1年で、住宅が急増。
近くの小学校は、数年前と比べて、児童数がおよそ3割増え、県内最大のマンモス校になった。
子どもたちは「(教室足りない?)足りない。6年4組が音楽室で勉強している」と話した。
住民が急増している理由は、福島第1原発の事故を受け、避難してくる人が相次いでいるため。
避難対象となっている地域に近く、気候も似ていることから、移り住む人が多いといわれている、いわき市。
不動産鑑定士の吉村英博氏は「移転需要が全市的に広がっている。逆に言うと、全市的に宅地が不足している」と話した。
移住したいという人の増加により、土地が不足。
このことが、地価を押し上げていた。
さらに、土地が不足する中、注目を集めているのが中古物件。
全国でも4番目の上昇率となったのが、「いわき市中央台鹿島1-5-3」。
新しく住宅を建てる土地がないのにもかかわらず、地価は上昇を続けている。
不動産鑑定士の吉村氏は「震災直後から、移転需要の集中した地域で、更地はほとんどなくなった。中古住宅つきの高めの取引が目立つようになった」と話した。
このように、いわき市の住宅地の地価が上昇する一方で、避難者のふるさとでは、原発事故による避難の指示が解除されず、居住できない状況が続いていて、住宅の荒廃が進んでいる。
東日本大震災から4年、原発事故の影響による、いわき市の地価の上昇は、避難の長期化とともに、しばらく続くとみられる。
03/18 FNNニュース

『ダウン症候群と、ダーウィン賞症候群』

ダウン症候群( Down syndrome)は一般的にはダウン症と呼ばれていて、21番染色体が 1本余分に存在することによって発症する先天性の疾患群で、多くは知能や成長が遅れて長生きできないといわれている。高齢出産ではダウン症の発症率が高まるが治療法は無い。
『ダーウィン賞症候群』とは、フクシマの放射能被害で今までの自分の家が住めなくなった多くの人々が罹患した恐ろしい症状(正常性バイアスによって起きた後天的な認知障害)である。
今までの生活を変えれない高齢者に多く発症して、知能や判断力が低下して長生きできないと言われているが治療法が無い。
極悪利権集団である原子力ムラの鉄の五角形(政治、官僚、財界、学会、報道の五者の野合による悪のペンタゴン)による『安全・安心。心配ない』との洗脳によって起きた70年遅れの『挙国一致』『一億玉砕』『八紘一宇』の復古現象である。致命的な認知障害を伴う死に至る恐ろしい病である。
政官財学報の鉄の五角形『原子力ムラ』ですが、4年前の3・11以前には『日本の原子力発電所は安全・安心。心配ない』としていたのに、真っ赤な嘘がばれたフクシマ以後は『日本の放射能は安全・安心。心配ない』と言い換えて誤魔化している。
当たり前ですが、勿論言っている本人を含めて誰一人(本心では)言葉どうりに信じてはいないが、表向きでは全員で信じているふりをしている。
最も重篤な『ダーウィン賞症候群』患者でも、当たり前ですが人間のDNAを傷つける『放射能が怖い』程度は知っているのである。
放射能が生命の基本である遺伝子を損傷するので、原発事故の猛烈な放射能汚染で住み慣れた故郷を追われた人々は先を争って福島県内では汚染度が低いと言われている『いわき市』に土地を求め家を建てているので国土交通省の公示地価が全国一の上昇率となった。

『喫煙による肺癌が怖いと知っているが、それでもタバコが止めれない愛煙家』

放射能被害を少しでも気にするなら、何故フクシマの放射性プルームの被害が小さいと思われる関西地域など西日本にしなかったのだろうか。これでは放射能の危険から逃げたことにならない。
喫煙による肺癌リスクを熟知しているので今まで長年吸い続けていたニコチン含有量の多い両切りピースをニコチン量が低いマイルドセブンに切り替える愛煙家と同じで、(気持ちは判らないでもないが)これでは『気休め』にもならない。
高ニコチンから低ニコチンへの切り替えは自分や家族の健康には何のプラスにもならない。無駄にJTなど煙草業者を儲けさす結果になるだけである。
喫煙による肺癌が怖いと知っているなら(煙草の害を避ける気が少しでもあるなら)、キッパリと禁煙する以外の道は何処にも無いのである。
放射能で今までの家が住めなくなったのに大金をはたいてまで、わざわざ放射能汚染地域に再度家を建てるなど狂気の沙汰である。(今まで必死で続けている日本政府やマスコミによる放射能被害の完全隠蔽の破綻が明らかになるのは時間の問題であり、再度の移転は必至の情勢である)






『4年が経過し、放射能被害が本格化する5年目に突入したフクシマで、地価上昇率全国1位のいわき市』

4年前のフクシマのレベル7の核事故により、双葉町、大熊町、飯館村など福島第一原発周辺の13市町村(検討委発表では平成23年度実施市町村)の放射能汚染は猛烈で住民の立ち入りが禁止されいるのある。
メルトダウンして爆発した福島第一原発とは1000メートル級の阿武隈山地によって隔てられている福島県の中通り地区にある県庁所在地の福島市や県内最大の人口の郡山市など12市町村(平成24年度実施市町村)は、全村避難の飯館村など福島第一原発周辺の13市町村と比較すれば、汚染度がワンランク低い。
福島県内では、メルトダウンした福島第一原発から一番遠い会津若松市やいわき市などそれ以外の34市町村(平成25年度実施市町村)の放射能汚染度合いは、原発周辺の12市町村や中通りの12市町村に比べればですが、『それなりに低い』ことは事実である。
ただし、この『汚染度が低い』の意味は、猛烈な放射能汚染で住民の立ち入りが禁止されいる双葉町大熊町飯館村など福島第一原発周辺の13市町村(平成23年度実施市町村)よりも、ほんの少しの時間差(1~2年程度)が有るだけ。
放射能に猛烈に汚染されている事実そのものには、少しも違いが無いのである。

『フクシマのメルトダウン事故で、正常な論理的安全思考もメルトダウンする』ダーウィン賞症候群

いわき市ですが、同じ原発事故の放射能被害で原発立地の双葉町大熊町、猛烈に汚染した隣接する飯館村よりも比較的安全(少しまし)であるが、決して『安全・安心。心配ない』との意味ではない。
検討委の発表した小児甲状腺がんの発症率では、1年目の双葉町大熊町、飯館村など住民立ち入り禁止地域と、2年目の福島市郡山市など中通り地区と、3年目の会津若松市やいわき市とが、まったく『同じ数値』なのである。
ところが、その猛烈な放射能汚染地域である福島県いわき市が、国土交通省が18日に発表した全国地価公示で、上昇率一位になる日本の不幸。
チェルノブイリ原発事故なら住民を疎開させている年間被曝量が1ミリシーベルト以上の汚染地域に、避難するどころか自分でわざわざ家を建てて住む(移住する)など理解に苦しむ。
『喉もと過ぎれば熱さ忘れる』とは言うが、悪いことは全て忘れる能天気というか。完全に狂っているというか。
フクシマの不幸は4年前に終わったのではなく、日本人にとっての本当の地獄が始まるのは4年目が過ぎた『これから』なのである。
フクシマが大爆発して膨大な量の放射能を撒き散らし大量の小児甲状腺がんが発症しているのだが、今でも大勢の人々は危険性が認識出来ないで、政府やマスコミが垂れ流す『安全・安心。心配ない』との空念仏を信じている。
正常性バイアスで多くの人々は『自分だけは死なない』と思っているので、(判断を政府やマスコミなど『権威』に丸投げして)急いで逃げることをせず先送りして仕舞う。
パニックに陥って暴走するどころか、命の危険が目の前に迫っていても緩慢にしか行動できないのである。



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2013年08月28日 | 放射能と情報操作

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福島の子供を描いたアニメが国際賞を受賞するも、日本のマスコミは一切報道せず!作者は日本人学生!「Abita(アビタ)」



http://saigaijyouhou.com/blog-entry-1519.html

福島の子供を描いたアニメが国際賞を受賞するも、日本のマスコミは一切報道せず!作者は日本人学生!「Abita(アビタ)」

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ドイツに在住している日本人学生が作ったアニメが国際賞を受賞しました。このアニメのタイトルは「Abita(アビタ)」で、福島原発事故の放射能汚染で苦しむ子供が主人公になっています。欧州だけではなく、世界中で様々な賞を受賞しており、色々な所で取り上げられているようです。

しかしながら、日本ではマスコミが報道した痕跡が殆ど見られず、完全に無視されているような状態となっています。アビタはユーチューブなどの動画サイトで見ることが出来るので、興味のある方は是非とも見てみてください。

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BS朝日1 史上最強の父から息子へ…ヒクソン・グレイシー受け継がれる魂

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史上最強の父から息子へ…ヒクソン・グレイシー受け継がれる魂

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史上最強の父から息子へ…ヒクソン・グレイシー受け継がれる魂

2015年3月29日(日) 11時00分~11時55分 の放送内容

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最終更新日:2015年3月22日(日) 1時5分

敵と向き合うより、家族と生きることを選んだ“史上最強の父親"の物語。絶望の淵からはい上がった父子の思い、そして三代にわたって継承されるグレイシー柔術の魂とは?
番組内容

20世紀、日本発祥の柔術から発展させた“グレイシー柔術"を父親から学び、400戦以上も無敗を誇った男がいた。 ヒクソン・グレイシー。“生きる伝説"ともささやかれた彼だが、突然、闘いの舞台を去る。理由は、長男の死…。その死は、次男クロンの人生をも変えことになった。兄の進もうとしていた闘いの道に、自ら本気で飛び込むことを決意する一因となったのだ。今やクロンは、父の重責を引き継ぐまでに成長した。その第一歩である総合格闘技のデビュー戦が決まった時、父ヒクソンは、息子の側で入念な準備を支え、見守った。試合の直前、父・ヒクソンは、クロンへこう問うたと言う。「死の覚悟はできているか?」 三代に渡って継承される最強のグレイシー柔術の誇りとは?そして、絶望の淵からはい上がった父と子の思いとは? 敵と向き合うより、家族とともに生きることを選んだ“史上最強の父親"の物語。

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風化されつつある時津風部屋力士暴行死事件

時津風部屋力士暴行死事件
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http://matome.naver.jp/odai/2140125609447392101


まとめ【15代時津風(山本順一)】
時津風部屋力士暴行死事件とは、大相撲時津風部屋の17歳の少年(時太山、序ノ口力士)が、愛知県犬山市の宿舎で暴行(私刑)を受け死亡した事件。新弟子リンチ死事件とも呼ばれる。

更新日: 2014年08月12日


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時津風部屋力士暴行死事件(ときつかぜべやりきしぼうこうしじけん)とは、大相撲時津風部屋の17歳の少年(時太山、序ノ口力士)が、愛知県犬山市の宿舎で暴行(私刑)を受け死亡した事件。新弟子リンチ死事件とも呼ばれる。



出典
時津風部屋力士暴行死事件 - Wikipedia




















けいこ中に急死した時津風部屋の序ノ口力士、時太山(ときたいざん)


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image.blog.livedoor.jp




けいこ中に急死した時津風部屋の序ノ口力士、時太山(ときたいざん)


時津風部屋力士暴行死事件【15代時津風(山本順一)】








時津風部屋力士暴行死事件【15代時津風(山本順一)】


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stat.ameba.jp




時津風部屋力士暴行死事件【15代時津風(山本順一)】


時津風部屋力士暴行死事件【15代時津風(山本順一)】







2007年6月26日、同年春に時津風部屋に入門した少年(当時17歳)が稽古時間中に心肺停止状態となり、搬送先の犬山中央病院で約1時間後に死亡が確認された。救急車で少年を搬送した犬山市消防本部は、巡業先を管轄する愛知県警犬山署に「労働災害の可能性あり。不審死の疑い」と連絡していたが、病院の医師は死因を急性心不全と診断、犬山署は虚血性心疾患に変更して発表した。

稽古中に倒れ死亡した少年の遺体に残された外傷や「死亡した力士はマリファナを使っていた」という証言、少年に死因の責任を転嫁する少年の師匠・15代時津風(山本順一)の発言などから、死亡した少年の両親が死因を不審に思い、地元の新潟に遺体を搬送し、同月28日、新潟大学医学部で公費承諾解剖を実施したことから暴行の事実が発覚した。

検察側の主張によると、少年が稽古や人間関係の厳しさから部屋を脱走したことに15代時津風が憤慨し、6月25日にビール瓶で額を殴り、さらに数人の力士に「かわいがってやれ」と暴行を指示したとされる。翌26日も通常は5分程度のぶつかり稽古を30分ほど行い、少年が倒れた後も蹴りを入れたり、金属バットで殴打するなど集団暴行した。警察の任意取調べに対して15代時津風や数人の兄弟子力士が容疑を認めた。
こうした事態を受け、日本相撲協会は2007年10月5日に15代時津風を解雇した。相撲協会が年寄を解雇したのは1997年1月の16代山響(元小結・前乃臻)以来2例目、部屋持ち親方としては史上初のことであった。なおその後、2010年の大相撲野球賭博問題でも部屋持ち親方が解雇されている。

2007年10月9日、解雇された15代時津風こと山本順一(以下、山本)の後継として部屋を継承するために時津海正博が急遽現役を引退して、16代時津風を襲名した。時津海の引退と年寄襲名により、日本相撲協会は平成19年11月場所番付に於いて、引退した時津海が位置する予定であった西前頭11枚目を空位にするという措置を取った。これは時津海が年寄時津風として番付に掲載されることにより、番付上の重複を避けるためである。幕内の番付で空位が発生したのは、一部年寄の専横に抗議の声を上げ、1873年(明治6年)11月場所番付で力士名を墨で塗り潰された当時の東京相撲関脇・小柳、前頭筆頭・高砂以来、実に134年ぶりという珍事となった。

愛知県警は死因特定の遺体の組織検査の結果、長時間にわたる殴打や圧迫を受けて壊死した筋細胞から、血液に漏出したミオグロビンやカリウムが、通常よりも高い値で検出され、これが挫滅症候群の症状を示すものだったため、死亡の原因になったと判断した。火の点いた煙草を押しつけたと思われる火傷の跡などもあり、暴行と死亡との因果関係が立証されたため、2008年2月7日、山本と少年の兄弟子3人を傷害および傷害致死容疑で逮捕した。また遺族に無断で遺体を火葬しようとしたことも発覚しており、暴行の事実を隠蔽しようとした疑いがもたれた。また、同年2月29日に、これとは別の兄弟子3人(うち1人はこの時点で引退済)が、愛知県警に書類送検された。

兄弟子の1人は自身の公判において、脱走した少年を連れ戻した父親が部屋にとどまることを懇願した2007年6月20日、少年は部屋の屋上で喫煙し吸い殻を階段から投げ捨てており、日頃から近隣住民の苦情を受けていた山本の妻がこれに憤慨し暴行を指示したと証言している。
なお、この暴行の際十両以上の力士は不在だったとされている。
逮捕に際し大相撲主催者であり部屋の上部団体に当たる日本相撲協会は一定の反応は示したものの、のちに平常通り活動を行っている。なお、力士への稽古指導が刑事事件へ発展したのは、日本相撲協会が発足して以来初めてのことである。
日本相撲協会による事情聴取についてマスメディアが駆け付けた際に時津風部屋所属力士が憤慨しカメラマンに暴行する事件も発生している。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%82%E6%B4%A5%E9%A2%A8%E9%83%A8%E5%B1%8B%E5%8A%9B%E5%A3%AB%E6%9A%B4%E8%A1%8C%E6%AD%BB%E4%BA%8B%E4%BB%B6








時津風部屋力士暴行死事件【15代時津風(山本順一)】


出典
www.officiallyjd.com




時津風部屋力士暴行死事件【15代時津風(山本順一)】


時津風部屋力士暴行死事件【15代時津風(山本順一)】








遺体の状況


出典
yaplog.jp




遺体の状況


時津風部屋力士暴行死事件【15代時津風(山本順一)】







『火葬することに遺族は抗議した』について詳細説明





親方は遺族に無断で、名古屋で火葬しようと企てる。(死亡診断書があれば法的に可能)

葬儀屋の職員が、遺族親戚が立会わない火葬は極めて異例と不審に思った。

親方、葬儀屋に「火葬はまだですか」「一刻も早く火葬してください」と催促。
葬儀屋、遺体に刻まれた無数の傷を発見。

葬儀屋の職員は、新潟の両親に電話して、『本当に火葬しても構わないのですか?』と尋ねる。

すぐに父親は電話で親方に抗議。親方に火葬の中止を求める。

親方「もう既に日取りは決まってある」「今さら勝手な事を言うな」と父親の要望を却下。

父親、葬儀屋に電話。葬儀屋、名古屋の火葬を直ちに取りやめ、遺体の搬送を行う。

遺体は両親の新潟に搬送され、両親と涙の対面をした。
(遺体の付き添いは葬儀屋の職員だけ、相撲部屋の関係者は一人も来なかった)

http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1037036.html











YouTube


時津風部屋 時太山リンチ事件










時津風部屋


http://www.sumo.or.jp/sumo_data/sumo_beya/detail?id=tokitsukaze




http://www.geocities.jp/buffie7wolf/IMG_03311.jpg


所在地〒130-0026
東京都墨田区両国3-15-4







元時津風親方の実刑確定へ 力士暴行死事件で懲役5年





大相撲時津風部屋で2007年の名古屋場所前に起きた序ノ口力士斉藤俊さん=当時(17)、しこ名時太山=の暴行死事件で、最高裁第3小法廷(寺田逸郎裁判長)は30日までに、傷害致死罪に問われた元時津風親方の山本順一被告(61)の上告を棄却する決定をした。懲役5年とした二審判決が確定する。29日付。

 一審名古屋地裁、二審名古屋高裁の判決はいずれも、死亡直前のぶつかりげいこを制裁目的の違法な暴行だったと判断し、死亡との因果関係も認定。「犯行を主導しており、共に暴行を加えた兄弟子らに比べて責任は重い」と指摘した。

 一審は懲役6年を言い渡したが、二審は山本被告が一審判決後に日本相撲協会の退職金約1580万円を遺族に支払い、被害弁償が計約6460万円となった点を酌み、懲役5年に減刑した。

 二審判決によると、山本被告は07年6月25日、夕食の席で斉藤さんをビール瓶で殴った上、兄弟子に指示し木の棒などで殴らせた。翌日にはぶつかりげいこの名目で約30分間、土俵にたたきつけ、金属バットを使って暴行するなどして外傷性ショックで死亡させた。

 同じく傷害致死罪に問われた兄弟子3人は08年12月、名古屋地裁でそれぞれ執行猶予5年が付いた懲役3年~2年6月の判決を受け、控訴せず確定している。

http://www.sponichi.co.jp/sports/news/2011/08/30/kiji/K20110830001517560.html








時津風部屋の力士暴行死事件の兄弟子3人に対する判決公判で、亡くなった斉藤俊さんの遺影を抱え名古屋地裁に向かう父正人さん


出典
www.47news.jp




時津風部屋の力士暴行死事件の兄弟子3人に対する判決公判で、亡くなった斉藤俊さんの遺影を抱え名古屋地裁に向かう父正人さん


時津風部屋力士暴行死事件【15代時津風(山本順一)】








元時津風親方の実刑確定へ 力士暴行死事件で懲役5年


出典
stat.ameba.jp




元時津風親方の実刑確定へ 力士暴行死事件で懲役5年


時津風部屋力士暴行死事件【15代時津風(山本順一)】







時津風部屋の力士暴行死事件 兄弟子3人執行猶予刑 相撲協会は解雇処分





【2008年12月25日】 日刊スポーツによると、2007年6月に日本の大相撲・時津風部屋の序の口力士だった時太山(斉藤俊)さん(当時17歳)が暴行死した事件で、傷害致死罪に問われた兄弟子3人に対して、12月18日(UTC+9)名古屋地方裁判所は判決を言い渡し、3人に対していづれも執行猶予付き有罪判決を言い渡した。これを受けて日本相撲協会は同日付を持ってこの3人を解雇処分とした。
芹沢政治裁判長は「刑事責任は重い」とした上で、先代の時津風親方・山本順一被告(58歳。傷害致死で起訴済み)が指示したとして、怒涛(伊塚雄一郎。26歳)、明義(木村正和。25歳)の2被告にはいづれも懲役3年(求刑はいづれも3年6ヶ月)、時王丸被告(藤居正憲。23歳)については懲役2年6ヶ月(同3年)と、3人全員に執行猶予5年の有罪を言い渡した。判決は「弟子が親方の指示に逆らうことが極めて困難なことは複数の相撲部屋関係者からも口をそろえている。犯行は山本被告の指示で行われた」としている。
中日スポーツによると、日本相撲協会の武蔵川理事長は会見で「3月6日に開催した理事会で、(3人の力士が)有罪になった場合は解雇処分とするという決議がなされている。師匠の現・時津風親方からも控訴しないと報告を受けたので、師匠に3人の解雇処分を通告しました」と話した。また現・時津風親方も「今回のことで協会や相撲ファンの皆さんにご心配をおかけしたことをお詫びします」と謝罪し、3人に対しても「今後も彼らを見てあげたい」と話している。

http://ja.wikinews.org/wiki/%E6%99%82%E6%B4%A5%E9%A2%A8%E9%83%A8%E5%B1%8B%E3%81%AE%E5%8A%9B%E5%A3%AB%E6%9A%B4%E8%A1%8C%E6%AD%BB%E4%BA%8B%E4%BB%B6_%E5%85%84%E5%BC%9F%E5%AD%903%E4%BA%BA%E5%9F%B7%E8%A1%8C%E7%8C%B6%E4%BA%88%E5%88%91_%E7%9B%B8%E6%92%B2%E5%8D%94%E4%BC%9A%E3%81%AF%E8%A7%A3%E9%9B%87%E5%87%A6%E5%88%86








検察側の冒頭陳述を聞く(左から)伊塚、木村、藤居の各被告=名古屋地裁、イラスト・市川章三


出典
www.asahi.com




検察側の冒頭陳述を聞く(左から)伊塚、木村、藤居の各被告=名古屋地裁、イラスト・市川章三


3被告は、伊塚雄一郎(25)=怒濤(どとう)=▽木村正和(25)=明義豊(あきゆたか)=▽藤居正憲(23)=時王丸(ときおうまる)。弁護人は、情状面で一部争う姿勢を示し、動機について「前親方の指示に従わざるを得なかったことと、被害者の奮起を願ってやったことだ」と述べた。







他にもある現役でなくなった力士






他にもある現役でなくなった力士


出典
livedoor.blogimg.jp




他にもある現役でなくなった力士


時津風部屋力士暴行死事件【15代時津風(山本順一)】







実刑判決の元時津風親方死亡





弟子への暴行死事件で、実刑判決を受けた大相撲の元時津風親方、山本順一さんが、肺がんで亡くなっていたことがわかった。64歳だった。



出典
【訃報】弟子への暴行死事件で実刑判決の元時津風親方死亡




















元時津風親方死亡


出典
livedoor.blogimg.jp




元時津風親方死亡


実刑判決を受けた大相撲の元時津風親方、山本順一さんが、肺がんで亡くなっていたことがわかった。




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空手の押忍のルーツは旧日本海軍で葉隠説は眉唾である

http://www.fsinet.or.jp/~fight/illust/gal3/OOYAMA.HTM

“押忍!”は誤り?!(「オス」の語源)

 一般に空手の人たちに付き物だと思われているのが「押忍!」という言葉。師匠が教えを説き、「押忍!」と答える門弟たち。しかし、これは本来、別の意味の言葉だったとしたら……。
 小林孝裕氏(1921-1986)著の『続海軍よもやま物語』(光人社1980年)の「オスッとオッス」と題する章によると、海軍用語の「オスッ」は「お早うございます」が簡略化され、その結果「オ」と「ス」が残ったもの。発音は「オスッ」であって「オッス」ではなかったそうだ。当然、挨拶の言葉で、士官・下士官兵を問わず同輩か目下の者相手に広く使われたという。
 大山倍達総裁は海軍出身ではない。おそらく戦後、復員兵たちが用いているのを聞きかじった若者たちが乱用するようになったのだろうが…。小林氏によると、

 若者のグループは、リーダーがなにか注意をあたえるのにたいして、「わかった」の代わりに、「オスッ」「オッス」と返事をしているようだが、あまりいただけない。かといって、語源はかくかくしかじかであると、教えてやる元気もなくなった。

ということである。「押忍」とは「オスッ」という挨拶・掛け声に合わせて後から漢字表記を当てはめて新たな意味を生じた言葉と考えるのが妥当なようだ。

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高専柔道のルールをあこう堂さんが紹介してくれています

http://blog.livedoor.jp/akoudou2008/archives/1634587.html

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柔術アート

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福島第一原発作業員が死んでも大してニュースにすらならないのが今のご時世

http://kyojinsokuho.ldblog.jp/archives/43839122.html

【悲報】福島第一原発作業員 死ぬ・・・・


2015年03月17日 05:00

カテゴリ一般ニュース
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1: 名無し 2015/03/16(月) 21:51:57.04 ID:iF3PjBmL0.net BE:586999347-PLT(15001) ポイント特典

sssp://img.2ch.sc/ico/004.gif
 東京電力は16日、福島第1原発の放射能汚染水の増加抑制策として、1~4号機建屋周囲の地下を
「氷の壁」で囲む凍土遮水壁について、4月に一部で凍結を開始できるとの見通しを明らかにした。
先行して凍結させる予定の建屋山側(西側)のうち、
凍りにくいとみられている60メートル程度で運用を始める方針。

 3月中に着手する計画だったが、1月に

作業員が死亡

した労災事故を受けた安全点検で作業が中断し、
1カ月程度遅れた。山側全体の凍結は5月に始めたい考え。
福島県楢葉町で16日開かれた政府と東電による廃炉・汚染水対策現地調整会議に報告した。
http://www.jiji.com/jc/zc?k=201503/2015031600588

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アベノミクスで不動産投資とか言ってた奴はどこに行った? 1000万円が8万円に…

http://fxmatome.net/?p=11197

「アベノミクスで不動産投資」とか言ってた奴はどこに行った? 1000万円が8万円に… 「空き家」を持っていると大損



2015.03.17
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1: 海江田三郎 ★ 2015/02/28(土) 20:02:39.49 ID:???*.net


http://gendai.ismedia.jp/articles/-/42251

■1000万円が8万円に

千葉県郊外に住む両親が亡くなって以来、10年間にわたって「空き家」となった実家を所有してきた、佐野義之さん(67歳・仮名)が嘆く。

「新しい法律ができていたなんて、まったく知りませんでした。私は東京在住で、千葉の実家に戻る気はありません。でも自分が生まれ育った家を壊すのは忍びないと思って、何となくそのままにしていた。でも税制上の優遇措置がなくなるなら、もう空き家のままの実家を持っているわけにはいきませんよ」

2月末から密かに施行されようとしている、「空き家対策特別措置法」をご存知だろうか。
更地の6分の1だった固定資産税の税率が更地と同様になり、空き家を持つ人は従来の6倍の税負担を背負わされる恐れがある新法だ。
昨年7月に公表された総務省の統計では、全国に存在する空き家は820万戸を突破。その中には、いわゆる廃屋になっていて、
倒壊の恐れがあったり、ホームレスのたまり場になっていたりする住宅も少なくない。

そんな「危険な空き家」を減らすため、というのがこの特別措置法の大義名分だ。国土交通省によると、施行後から自治体ごとに空き家を調査し、5月末を目処に廃屋同然になっている物件を「特定空き家」と認定。所有者に管理をするよう、「指導」を行っていくという。

この「指導」に従わない場合は、いままで更地の6分の1だった固定資産税の優遇措置が外されるのだ。

「何が『特定空き家』の基準なのかは未だ定まっていません。おそらく、その選定は各自治体任せになるでしょう。
つまり、毎月のように通ってきちんと管理をしている人を除き、誰もがこれまでの6倍の税金を支払わされる可能性があるんです」(住宅ジャーナリスト・榊淳司氏

いつの間にか法案が通り、気づけば施行が決まっていたこの特別措置法。だが、この存在に気づいて慌てて空き家を売りに出しても、待っているのは厳しい現実だ。
前出の佐野さんが語る。

「不動産屋を回り続け、ようやく『買ってもいい』と言ってくれる人が現れたのは、10軒目くらいだったでしょうか。
でもその買値は、何と8万円。父がいくらで千葉の家を建てたのかは知りませんが、100坪程度の間取りからいって
1000万円くらいは間違いなくしたはずです。それが8万だなんて……。しかも、その不動産屋は『家を壊して更地にしてくれなくてはダメだ』と言ってきたんです」

家屋の解体を業者に委託した場合、かかる費用は200万円程度が相場。佐野さんはつてを頼り、何とか安くしてもらえる業者を探したが、それでも150万円程度に抑えるのがやっとだった。

「さらに、解体だけでなく、実家の荷物の整理にもカネがかかる。それも、業者に委託すると200万円近い見積額でした。合計で350万円の費用をかけて、8万円で実家を売る。千葉郊外とはいえ、実家は一応大通りに面し、裏は公民館です。まさかこれほどの大損になるとは、思いもよらなかったですね。
年間6万円程度の固定資産税が6倍になっても、空き家を持ち続けるのがいいのか。それとも、350万円の損を被ってでも売ったほうがいいのか。
毎日妻と話し合っていますが、結論はまだ出せていません」

■家は資産ではなく負債

少子高齢化が進む一方で、新築物件が年間約100万戸のペースで建築されているのが、現在の日本の不動産業界。
それだけに、東京・大阪といった都市部ですら、六本木や麻布といった「超」一等地を除いて、住宅が余りはじめている。
地方ならばなおさら、今後買い手がつかない空き家は増えていく。それをそのままにするべきか。それとも損を覚悟してでも売るべきか。

「もはや迷っている場合ではない」と力説するのは、不動産コンサルタントの牧野知弘氏だ。

「私の知人は、バブル期に1億4000万円で買った横浜市内の高級住宅街の家を3000万円で売りに出したが、1年経ってもまったく買い手がつかない。物件によっては横浜ですらこんな状況なんですから、地方となれば、もう値段を気にしている場合ではない。
また、資産価値のなくなった家をそのままにしておけば、困るのは子供かもしれない。『貸せない』、『売れない』、『自分も住まない』、三重苦の家を相続すれば、維持管理費用と税金を払い続けるだけになる可能性があるからです。
不動産が『資産』だった時代は終わり、これからは郊外の住宅を中心に多くの不動産が『負債』になっていく。空き家を持っている人は、まずその認識を持ち、現実と向き合うことが重要です」

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蟹工船



http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%9F%B9%E5%B7%A5%E8%88%B9

蟹工船
小林多喜二 > 蟹工船

蟹工船(かにこうせん)

1 カニを漁獲し、船上で缶詰に加工する工場施設を備えた漁船(工船)。
2 小林多喜二の小説。1.が作中の舞台となっている。本項で詳述。

『蟹工船』(かにこうせん)は、『戦旗』で1929年(昭和4年)に発表された小林多喜二の小説である。いわゆるプロレタリア文学の代表作とされ、国際的評価も高く、いくつかの言語に翻訳されて出版されている。

小林は1933年2月20日没で、著作権が失効しているため、本作は青空文庫にて無料で読むことができる[1]。

この小説には特定の主人公がおらず、蟹工船にて酷使される貧しい労働者達が群像として描かれている点が特徴的である。蟹工船「博光丸」のモデルになった船は実際に北洋工船蟹漁に従事していた博愛丸(元病院船)である。

目次

1 あらすじ
2 現実の蟹工船
3 再脚光
4 舞台版
5 漫画版
6 映画
6.1 1953年
6.1.1 スタッフ
6.1.2 キャスト
6.2 2009年
6.2.1 スタッフ
6.2.2 キャスト
7 読書感想文(2008年)
8 関連項目
9 脚注
10 外部リンク

あらすじ

蟹工船とは、戦前にオホーツク海のカムチャツカ半島沖海域で行われた北洋漁業で使用される、漁獲物の加工設備を備えた大型船である。搭載した小型船でたらば蟹を漁獲し、ただちに母船で蟹を缶詰に加工する。その母船の一隻である「博光丸」が本作の舞台である。

蟹工船は「工船」であって「航船」ではない。だから航海法は適用されず、危険な老朽船が改造して投入された[2]。また工場でもないので、労働法規も適用されなかった [3]。 そのため蟹工船は法規の真空部分であり、海上の閉鎖空間である船内では、東北一円の貧困層から募集した出稼ぎ労働者に対する資本側の非人道的酷使がまかり通っていた。また北洋漁業振興の国策から、政府も資本側と結託して事態を黙認する姿勢であった。

情け知らずの監督である浅川は労働者たちを人間扱いせず、彼らは劣悪で過酷な労働環境の中、暴力・虐待・過労や病気で次々と倒れてゆく。転覆した蟹工船がロシア人が救出したことがきっかけで異国の人も同じ人間と感じ、中国人の通訳も通じ、プロレタリアートこそ最も尊い存在と知らされるが、船長がそれを「赤化」とみなす。学生の一人は現場の環境に比べれば、ドストエフスキーの「死の家の記録」の流刑場はましなほうという。当初は無自覚だった労働者たちはやがて権利意識に覚醒し、指導者のもとストライキ闘争に踏み切る。会社側は海軍に無線で鎮圧を要請し、接舷してきた駆逐艦から乗り込んできた水兵にスト指導者たちは逮捕され、最初のストライキは失敗に終わった。労働者たちは作戦を練り直し、再度のストライキに踏み切る。
現実の蟹工船
実際の蟹工船

夏場の漁期になると貨物船を改造した蟹工船と漁を行う川崎船が北方海域へ出て三ヶ月から半年程度の期間活動していた。 蟹工船は漁をしていない期間は通常の貨物船として運行しており、専用の船があったわけではない。 蟹の缶詰は欧米への輸出商品として価値が高かったため、大正時代から昭和40年代まで多くの蟹工船が運航されていた。

1926年(大正15年)9月8日付け『函館新聞』の記事には「漁夫に給料を支払う際、最高二円八〇銭、最低一六銭という、ほとんど常軌を逸した支払いをし、抗議するものには大声で威嚇した」との記述がある。逆に、十分な賃金を受け取ったという証言もある。「脱獄王 白鳥由栄の証言」(斎藤充功)において、白鳥由栄(1907年生まれ)は収監以前に働いていた蟹工船について「きつい仕事だったが、給金は三月(みつき)の一航海で、ゴールデンバット一箱が七銭の時代に三五〇円からもらって、そりゃぁ、お大尽様だった」と述べている。大正15年に15歳で蟹工船に雑夫として乗った高谷幸一の回想録では陸で働く10倍にもなると述べているが、単調な1日20時間労働で眠くなるとビンタが飛ぶ過酷な環境で大半は1年で辞めるところ、高谷幸一は金のために5年も働いたと証言している[4]。

小説発表後も、1930年(昭和5年)にエトロフ丸で、虐待によって死者を出した事件もおきている。

蟹工船形式の操業は、戦後も続き、1970年代、200カイリ経済水域の設定による北洋漁業廃止まで行われていた。
再脚光

再脚光のきっかけは作者の没後75年にあたる2008年(平成20年)、毎日新聞東京本社版1月9日付の朝刊文化面に掲載された高橋源一郎と雨宮処凛との対談といわれる[5][6]。同年、新潮文庫『蟹工船・党生活者』が古典としては異例の40万部が上半期で増刷され例年の100倍の勢いで売れた。5月2日付の読売新聞夕刊一面に掲載[7]。読者層は幅広いが、特に若年層に人気がある[8]。毎日新聞等では、日本共産党党員が近年増加しているのは蟹工船等の影響もあるのではないかと論じられた[9]。2008年の新語・流行語大賞で流行語トップ10に「蟹工船(ブーム)」が選ばれた[10]。 2006年(平成18年)以降、イタリア語版、韓国語新訳版、台湾からの中国語新訳版、大陸での中国語旧訳再版、「マンガ蟹工船」と合本の中国語新訳版、フランス語版、スペイン語版などが各地で出版され、世界的な反響を呼び起こしている。

島田雅彦は、「労働現場からのベタな報告でしかない」「はっきり言ってあまり面白くない」と評している[11]。
舞台版

1930年 - 新築地劇団が上演(タイトルは「北緯五十度以北」だった)。
1968年 - 東京芸術座が初演。全国巡演へ。演出は村山知義。脚本は大垣肇。美術は松下朗。
1983年 - 東京芸術座が再演。
1987年 - 劇団はぐるま座が上演。
2009年 - 劇団俳優座が上演。脚本・演出は安川修一。
2010年 - 東京芸術座が上演。脚本は大垣肇。演出は“村山知義による”印南貞人・川池丈司

漫画版
漫画
関連項目[表示]

東銀座出版社版 2006年(平成18年)刊行。帯に井上ひさしの推薦文があった。講談社+α文庫から2008年(平成20年)に再刊。両者とも解説は島村輝。
2007年(平成19年)9月27日、白樺文学館多喜二ライブラリーにて無料公開された[12]。
イースト・プレス刊「まんがで読破」シリーズのひとつとして、2007年(平成19年)10月に発売。特に主人公のいない群像劇である原作に対し、森本という労働者が主役に据えられている。
新潮社『週刊コミックバンチ』2008年38号(8月発売)より2008年10月まで、原恵一郎・作画による連載があった。
『劇画 蟹工船 覇王の船』(作画:イエス小池) - 宝島社文庫より2008年10月に発売。

[icon] この節の加筆が望まれています。
映画
1953年

俳優山村聰の主演・初監督作品で1953年(昭和28年)9月10日に公開。
スタッフ

製作:現代ぷろだくしょん
監督・脚本:山村聰
製作:山田典吾
音楽監督:伊福部昭
演奏:東京交響楽団
撮影監督:宮島義勇
撮影:仲沢半次郎
特殊撮影:佐藤昌道
照明:吉田章、織間五郎
録音:空閑昌敏
美術監督:小島基司
美術:渡辺竹三郎
編集:今泉善珠
監督補佐:青山通春
特殊技術:奥野文四郎
協力:勝山町漁業協同組合

キャスト

のんだくれの松木:山村聰
倉田:森川信
踊り子:若原春江
娼婦:日高澄子
夏ちや:中原早苗
箕面:河野秋武
新船医・谷口:森雅之
母親:河原崎しづ江
監督・浅川:平田未喜三
工場長・藤野:御橋公
船長:山田巳之助
:谷晃
タイワン田辺:小笠原章二郎
:浜村純
:久松晃
海軍少尉:小笠原弘
重役・右橋:林幹
周旋屋:武田正憲
木下:花沢徳衛
金比羅の辰:今成平九郎
大船頭・和田:石島房太郎
船頭・黒岩:伊丹慶治
:木田三千夫
:市村昌治
協力出演:前進座、東京映画俳優協会、劇団東芸、少年俳優クラブ

2009年

2009年(平成21年)7月4日に公開。DVDは2010年(平成22年)1月21日発売。

主題歌はNICO Touches the Wallsの「風人」。
スタッフ

監督・脚本:SABU
音楽:森敬
編集:坂東直哉
製作委員会メンバー:IMJエンタテインメント(現:C&Iエンタテインメント)、メディアファクトリー、マッシヴクリエイションズ、ローソンチケット、IMAGICA、スモーク
配給:IMJエンタテインメント(現:C&Iエンタテインメント)
上映時間:109分

キャスト

漁夫・新庄:松田龍平
監督・浅川:西島秀俊
雑夫・根本:高良健吾
漁夫・塩田:新井浩文
雑夫・清水:柄本時生
雑夫・久米:木下隆行(TKO)
雑夫・八木:木本武宏(TKO)
雑夫・小堀:三浦誠己
雑夫・畑中:竹財輝之助
漁夫・石場:利重剛
漁夫・木田:清水優
雑夫・河津:滝藤賢一
雑夫・山路:山本浩司
雑夫・宮口:高谷基史
雑夫・大沼 : 木下春樹
雑夫・小池 : 佐々木一平
漁夫・中井 : 岡田卓也
漁夫・末村 : 澤原崇
ロン:手塚とおる
雑夫長:皆川猿時
役員:矢島健一
船長:宮本大誠
無電係:中村靖日
給仕係:野間口徹
中佐:貴山侑哉
釜焚き係・大滝:東方力丸
ミヨ子:谷村美月
清水の母:奥貫薫
石場の妻:滝沢涼子
久米の妻:内田春菊
和尚:でんでん
畑の役人:菅田俊
清水の父:大杉漣
久米家の通行人:森本レオ
缶詰作りの工程のエキストラ:西本英雄(『週刊少年マガジン』掲載の「もう、しませんから。」による。9巻に収録)

読書感想文(2008年)

2007年(平成19年)、白樺文学館主催で蟹工船の読書感想文コンテストが行われた。特色として、漫画版の感想文でも可とした点、当時話題となっていた「ネットカフェ難民」に因みインターネットカフェからの感想文応募部門が設けられた点が挙げられる。2008年(平成20年)2月20日に小樽で授賞式が行われた。
関連項目

女工哀史
労働基準法
階級闘争
プレカリアート
蔵原惟人
ピンハネ
人身売買
あゝ野麦峠
太陽のない街
ブラック会社に勤めてるんだが、もう俺は限界かもしれない(「現代の蟹工船」と評されることも)
足利市(ロケ地となった栃木県の市)
パワーハラスメント
ブラック企業
ベーリング海の一攫千金

脚注

^ 小林多喜二 蟹工船(青空文庫)
^ 日本には航海法という法律は存在しない、これは小説の創作である。船舶安全法が出来たのは作者の死後である。
^ ただし、当時は労働基準法など労働者の権利を定めた法律もなかった
^ 蟹工船興亡史100頁高谷幸一さんの話
^ プロレタリア文学:名作『蟹工船』異例の売れ行き(毎日新聞、2008年5月14日付) - 毎日jp(毎日新聞)[リンク切れ]
^ 週刊現代、2008年6月7日号 48頁-49頁
^ 「蟹工船」悲しき再脚光 異例の増刷、売り上げ5倍[リンク切れ] (読売新聞・本よみうり堂・出版トピック、2008年5月2日付)
^ 「蟹工船」重なる現代 小林多喜二、没後75年 (朝日新聞、2008年2月14日付)、今、若者にウケる「蟹工船」 貧困に負けぬ強さが魅力? (朝日新聞、2008年5月12日付)、【断 佐々木譲】蟹工船の次に読むもの[リンク切れ] (産経新聞、2008年5月25日付)
^ 共産党:新党員2万人確保 中央委総会で方針[リンク切れ] (毎日新聞、2008年7月13日付)、共産党、新規党員増加 「蟹工船」「資本論」ブームで?[リンク切れ] (産経新聞、2008年8月3日付)
^ “08流行語大賞/「蟹工船」入賞/名ばかり管理職・後期高齢者も”. しんぶん赤旗. (2008年12月2日)
^ 島田雅彦「小説作法ABC」(新潮選書) ISBN 978-4-10-603631-6 76頁
^ 白樺文学館多喜二ライブラリー『マンガ蟹工船』を無料公開!!2007年9月27日

外部リンク


『蟹工船』:新字新仮名 - 青空文庫
白樺文学館
キーワード「小林多喜二 蟹工船」(日本共産党公式サイト)

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今の日本人の多くが誤解しているが、核兵器とは『使えない兵器』ではない。 実戦に使う目的で開発されていて、アメリカ軍では実際の核戦争を真剣に準備していた。 日本の唯一の同盟国アメリカは終始一貫して核の先制使用を公言していて、真面目に『人類滅亡』までを考えていたのですが、これは矢張りキリスト教が持つ終末論(新約聖書のヨハネ黙示録)を抜きにしては理解出来ないでしょう。 合理的な日本人的な発想では、このアメリカの『核の先制使用』は到底まともでもないし、理解も出来ない『狂気』そのものである。












http://blog.goo.ne.jp/syokunin-2008/e/d7f7d222c4cbab9a44c1612fd3f52fce


ずっと地獄の釜の蓋の上で踊っていた日本人

2015年03月16日 | 軍事、外交


『冷戦下、米沖縄部隊に核攻撃命令 元米軍技師ら証言』もしかしたら1962年で終わっていた日本と世界

冷戦下の1962年、米ソが全面戦争の瀬戸際に至ったキューバ危機の際、米軍内でソ連極東地域などを標的とする沖縄のミサイル部隊に核攻撃命令が誤って出され、現場の発射指揮官の判断で発射が回避されていたことが14日、同部隊の元技師らの証言で分かった。
キューバ危機で、核戦争寸前の事態が沖縄でもあったことが明らかになったのは初めて。
ミサイルは、核搭載の地対地巡航ミサイル「メースB」で、62年初めに米国施政下の沖縄に配備された。運用した米空軍第873戦術ミサイル中隊の元技師ジョン・ボードン氏(73)=ペンシルベニア州ブレイクスリー=が証言した。
(2015/03/14) 【共同通信】

もしも沖縄米軍のミサイル部隊による核攻撃命令が実行されていれば、即座にソ連からの報復の核攻撃があり米軍基地が集中する沖縄や極東米軍司令部がある座間や横須賀に近い首都東京が壊滅、日本の大部分が消滅している。
ウクライナ危機(クリミヤ併合)に関連してロシアのプーチン大統領は、『クリミア情勢(アメリカの対応)如何ではロシアの核戦力が臨戦態勢に入ったかも知れない』と語っている。
プーチンは、『ロシアはクリミア情勢が思わしくない方向に推移した場合に備えており、核戦力に臨戦体制を取らせることも検討していた。しかし、それは起こらないだろう、とは考えていた。』と説明している。
3・11の現実を見た日本人全員が、今まで地獄の釜の蓋の上で踊っている状態だったことに気が付いた。
突然自分たちが乗っている蓋が裏返れば、全員が否応無く地獄に真っ逆さまに墜落する。
(日本でのマグニチュード9クラスの大地震や大津波は1000年毎に必ず繰り返されていて、次の大震災は1000年後かも知れないし明日かも知れない)

『現場判断(疑問点)で危うく人類滅亡を回避する』

3月15日付け毎日新聞の西日本版(大阪本社)の報道では、当時の戦争警戒警報が最高ランクでは無く一段下だったことや、ソ連の極東地域以外にも攻撃対象が広がっていた(多分他の攻撃目標は中国や北朝鮮)ことから『不必要に戦争を拡大している』との疑問から、沖縄米軍の『現場判断で回避』して危機一髪で人類が滅亡する第三次世界大戦(全面核戦争によるハルマゲドン)が回避されたようなのです。
14日共同記事の続きとして毎日新聞では、
『別の元米兵も取材に応じ、誤った発射命令が出たことを認めた。
ボードン氏によると、メースBは配備以降、読谷村の発射基地で、同氏らが連日検査して24時間体制で発射命令に備えた。62年10月28日未明、嘉手納基地ミサイル運用センターからボードン氏が担当するミサイル4基の発射命令が無線で届いた。
しかし、4基の標的情報のうち「ソ連向けは1基だけだった」ため、「なぜ関係ない国を巻き込むのか」と疑問の声が上がった。別の標的国を同氏は明らかにしていないが、2200キロ超のミサイルの射程から中国とみられる。
また米軍の5段階の「デフコン(防衛準備態勢)」が1(戦争突入)でなく2(準戦時)のままだった。
不審に思った発射指揮官が、発射作業を停止させた。後に命令は誤りと分かったという。
誤った命令が出た経緯は不明だが、28日(米東部時間27日)はキューバ上空で米軍偵察機が撃墜され、緊張が最も高まった時期で、米軍内に混乱があったとみられる。』3月15日毎日新聞

『ずっと地獄の釜の蓋の上で、陽気に踊っていたアメリカの狂気』人類を救った1991年の冷戦崩壊

1963年制作・1964年に公開されたスタンリー・キューブリック監督の『博士の異常な愛情 または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか』は、限りなく実話に近い映画であったらしい。
グリーンランドのB52の墜落事故ではアメリカ軍基地の極近くの海氷上に墜落したのですが、基地に落下していたら自動的に第三次世界大戦が勃発していた。
頻発したこれ等の核事故ですが、歴史の年表と比べれば完全に朝鮮戦争とかキューバ危機などの政治や外交と連動している。
今の日本人の多くが誤解しているが、核兵器とは『使えない兵器』ではない。
実戦に使う目的で開発されていて、アメリカ軍では実際の核戦争を真剣に準備していた。
日本の唯一の同盟国アメリカは終始一貫して核の先制使用を公言していて、真面目に『人類滅亡』までを考えていたのですが、これは矢張りキリスト教が持つ終末論(新約聖書のヨハネ黙示録)を抜きにしては理解出来ないでしょう。
合理的な日本人的な発想では、このアメリカの『核の先制使用』は到底まともでもないし、理解も出来ない『狂気』そのものである。
冷戦構造の崩壊で、24年前の1991年に中止されるまで、アメリカ軍は1年中365日24時間10000メートル以上の高空に12機以上の水爆搭載のB52を待機させていて、人類滅亡の核戦争勃発をじっと待っていた。
海でも戦略核ミサイルを搭載して原子力潜水艦が一年中浮上すことなく深海に潜んで、じっと第三次世界大戦を待っていた。
現在はB52による空の常時待機は中止したが、海の核ミサイル搭載の戦略原潜の待機は今でも続いている。
昔に核搭載の飛行機が時々落ちていたのは実は当たり前であったのですが、核兵器を弾薬庫ではなくて、不安定な飛行機とか潜水艦に常時積んでいた意味は、考えたら恐ろしい。
特に問題は沖縄近海沖永良部島沖での核事故で、これは爆撃機ではなくて、ごく小さい対地攻撃機A-4スカイホークですよ。(たった一人のパイロットがジハードを決意すれば自働的に人類は核戦争に突入する)
大きなB52戦略爆撃機ではなくて、こんなものにメガトン水爆を常時搭載していた事実は、狂気以外の何ものでもないが、日本のマスコミでは取り上げない。
グリーンランドのデンマークも住民が住んでいた地域まで汚染したスペインでも、問題が本格的に議論されだしたのは極最近で冷戦崩壊後。
ところが我が日本国ですが普天間基地問題でも判るように冷戦が終わっていないのですから、沖永良部島沖の核事故が解明されないのでしょう。
米軍の核撤去を妨害しているのはアメリカ軍ではなくて、対米従属命の日本国の外務省らしい。
09年の初めての日本公式訪問のオバマ大統領の広島訪問を妨害したのは藪中外務事務次官など日本外務省であったと報道されています。


関連資料
『水爆搭載の米軍機、沖縄近海に水没』

(1989年05月米ニューズウィーク誌)1965年(昭和40年)に米海軍艦載機が水爆を搭載したまま沖縄近海に水没し、米海軍はこの事故をもみ消したと報じた。
この海軍機は1メガtの水爆B43を1個搭載したA4Eスカイホークで、空母タイコンデロガから転落、水没した。
ベトナムでの任務を終え、横須賀に向かう途中。当時は非核三原則はまだなかったものの、日本政府の核持ち込み禁止政策に反して、核搭載艦が日本に寄港していたことになる。
落下時に核兵器は機体を外れ、灰色の煙を噴きながら沈んだ。
沖永良部島の東約300kmの水深4800mの海域で、艦は速度を緩めることなく現場を去っている。
同空母は30個以上の核を積載していたとの乗組員証言も。流出したプルトニウムでの魚介類の汚染も心配され、平和団体や被爆者が日米両政府に抗議電を打つなど反核運動に広まった。なお、7月7日に『海域からの異常放射能は検出されず』と発表された。

『水爆搭載の米軍爆撃機B52がスペイン沖で墜落』

(パロマレス米軍機墜落事故)1966年(昭和41年)1月17日、スペイン南部パロマレス上空で哨戒警戒中の米軍爆撃機B52が空中給油機と衝突して墜落。
搭載していた水素爆弾(B281・45メガトン)4個のうち1個は海上に落ち、3個が地上に落下した。
核爆発はなかったが、2個は起爆用の通常火薬が爆発してプルトニウムとウランが飛散した。住民に犠牲者はなかったとされている。米軍は兵士を大量投入して周囲の土約2000トンを除去。事故から80日目に海底から残る1個を回収。
これだけの大事故であったにもかかわらず、これまで放射能汚染に関する調査はろくに行なわれておらず、41年後の2007年になって、やっと本格的調査が行われる。
スペイン政府は事故から38年後の2004年に、地表に放射性物質が漏れた9ヘクタールの土地の買収を決定、2007年初めまでにフェンスで封鎖を終えた。
『過疎の村であったが経済開発が進み、農地整地や造成に伴う土壌の移動で住民が放射能のさらされる可能性が出てきたから』とスペイン政府関係者は述べている。

『B52が北極圏のグリーンランド沖でも墜落して水爆が未回収』

(チューレ空軍基地米軍機墜落事故)1968年(昭和43年)1月21日、水爆搭載のアメリカ空軍のB-52爆撃機が起こした墜落事故。
4発の水爆(1.1メガトンB28FI)を搭載していたB52は、バフィン湾上空を飛行中に機内で火災が発生し、機体はデンマーク領グリーンランドのチューレ米空軍基地付近、ノーススター湾に墜落、核弾頭が破裂・飛散し、大規模な放射能汚染を引き起こした。
1995年、デンマークにおいて、政府が1957年の非核化方針に反し、グリーンランドへの核兵器の持ち込みを黙認していたという報告書が公開される。
アメリカ空軍は1960年代に、来るべき人類滅亡の最終戦争(第三次世界大戦)の為に核武装したB52戦略爆撃機をソ連国境沿いに常時12機以上を飛行(24時間10000メートル高空での空中待機)させていたが冷戦崩壊後の1991年に中止したとされている。
2007年、米空軍のB52戦略爆撃機が8月末、 誤って核弾頭6個を搭載したまま米本土上空を飛行していたとCNNが報道して大問題になる。
国防総省は、核兵器管理上の深刻なミスとして、事実関係の調査に乗り出した。
ブッシュ米大統領にもこの事実は伝えられたという。
CNNによると、このB52は8月30日、ノースダコタ州の空軍基地を出発、 数時間飛行してルイジアナ州にあるバークスデール空軍基地に着陸した。 核弾頭を誤って搭載していたことは着陸するまで気付かなかったという。〔共同〕

『繰り返される核事故の不の連鎖』

1986年9月の米連邦議会会計検査院の報告による核兵器生産工場の放射能汚染の発覚までの37年間(1950年から1986年)に、61件の核関連の事故(商業用をのぞく)が起きていた。
これは米軍関連だけでも少なくとも年間1・65件の高確率で毎年毎年必ず核事故が発生していたことになる。
我々人類は何も知らずに(何も知らされずに)、ずっと地獄の釜の蓋の上で踊っているような存在だったのです。
内訳は、爆撃機、攻撃機、輸送機など航空機関連が最大で33件。
次いで母艦をふくむ(原子力)潜水艦がらみで14件だが、アメリカ合衆国をはじめとする他の国家での原潜や核事故は、各国がその動き自体を第一級の軍事機密としているために、ほとんど明るみに出ていない。
このため実際に発生した核事故は米連邦議会会計検査院報告よりもっと多数で深刻であった可能性もある。
上記以外の主だったものを挙げると、
1950年米B-36 爆撃機 カナダ沖太平洋上で故障3,000m上空から核兵器を投棄。
1957年米B-36 爆撃機 ニューメキシコ州カートランド基地近郊核兵器を誤投下。
1957年米C-124 輸送機 大西洋上でエンジン故障,核兵器の輸送中核兵器を投棄2個は発見できず。
1957年米B-47 爆撃機フロリダ州(核兵器搭載)墜落。
1957年米B-52 爆撃機ワシントン州フェアチャイルド基地(核兵器搭載)墜落。
1958年米B-47 爆撃機ジョージア州ハンター基地上空で空中接触事故、2,400mより海中投棄,核兵器は発見できず。
1958年米B-47 爆撃機 サウスカロライナ州フロレンス核兵器を誤投下。
1959年米B-52 爆撃機ケンタッキー州ハーディンスバーグ上空,KC-135 空中給油機と衝突墜落核兵器2個は回収された。
1960年米B-47 爆撃機アイルランド付近の大西洋上,2機が空中衝突(核兵器搭載)墜落。
1961年米B-52 爆撃機(核兵器搭載)空中爆発。(ユタ州モンティセロ上空)
1961年米B-52 爆撃機ノースカロライナ州ゴールズボロ上空で空中分解。(墜落直前に搭載核兵器投下,24Mt 2個,1個の核兵器は 6重の安全装置の最後の 1個で危険を免れる,その後暗号電波による電子ロックが追加される)
1961年米B-52 爆撃機(核兵器搭載)カリフォルニア州ユバ上空墜落(2個の核兵器は落下時に機体から外れたが爆発せず)
1964年米B-52 爆撃機メリーランド州アパラチア山脈カバーランド墜落(核兵器 2個は無傷で回収)
1964年米B-58 爆撃機インディアナ州バンカーヒル基地戦略空軍指令センター付近の滑走路上で炎上(核兵器 5発の 1部が炎上,放射能汚染発生)

『水没した原子炉』(核兵器装備の原子力潜水艦の沈没)

空以上に見え難い海底の核事故は厳しい軍事機密の壁により不完全な報道しかないが、今までに恐るべき数の原子力潜水艦の事故が起きている。
1963年年米原子力潜水艦スレッシャー号ボストン東方350Kmの海底25,00mに沈没129名死亡。(沈没原因は不明だがオーバーホール後の潜航試験中に復水器用海水取入れパイプが破損するなど原子炉事故が続発していた)
1968年米原子力潜水艦スコーピオン号大西洋アゾレス群島沖沈没99名死亡。(原因不明,10月に海底3,000mで発見)
1968年ソ連原子力潜水艦K-27バレンツ海で炉心溶融事故で沈没、9人死亡。
1969年米原子力潜水艦ガトー号白海入口のバレンツ海でK-19ソ連潜水艦と衝突大破。(原子炉据付部で衝突)ガトー号側は対潜ミサイルサブロックと3発の小型核魚雷の発射用意を命令。
1970年ソ連ノベンバー級K-8原子力潜水艦ビスケー湾4,700 mに沈没、52名死亡。
1970年ソ連エコー2型原子力潜水艦が米原子力潜水艦トートグ号と衝突、ソ連側が沈没。
1971米原子力潜水艦ウッドロー・ウィルソン号グアム島アブラ湾でメルトダウン寸前事故。(冷却システムの急激な圧力低下)
1971年3月 ソ連沿岸で米ソ原潜が衝突、詳細不明。
1974年米原子力潜水艦ピンタード号ペトロパブロフスク付近でソ連原子力潜水艦と潜航中に正面衝突。
1974年米原子力潜水艦マジソン号が北海でソ連原子力潜水艦と潜航中に衝突。(マジソン号は 3mの損傷,両艦とも沈没寸前)
1986年旧ソ連ゴルフ型原子力潜水艦K-219西大西洋ハワイ沖で原子炉の一部が爆発、その後沈没。乗員4人死亡、116人は米艦に救助される。
1989年ソ連マイク級原子力潜水艦K-278コムソモレッツがノルウェー沖で火災1,685mに沈没42人死亡核兵器2個が海没。
2000年ロシア北方艦隊のオスカーII型原子力潜水艦のクルスク K-141(18,000t) が、炉心に約2トンの核燃料を搭載したままバレンツ海の110mに沈没118名死亡。
旧ソ連(ロシア)の原子力潜水艦の外国軍艦との衝突事故は15件で多くは米国の軍艦、特に原子力潜水艦との衝突が多いとみられる。
1986年米連邦議会会計検査院報告、1992年に米は水上艦船,攻撃潜水艦等の海外核の撤去するとの新核政策を発表している以来、軍事的核事故は報告されていない。

注、
A-4スカイホークは主翼を折り畳まずに航空母艦のエレベーターに積載できる軽量小型の機体規模で、折り畳み機構や爆弾倉を省略した単座の艦上攻撃機。
搭載されていた1メガトン水爆B43はデルタ翼下パイロンに外部兵装されていた。
B-52戦略爆撃機ストラトフォートレス(成層圏の要塞の意味)1952年初飛行1955年運用開始だが、半世紀以上経った現在も現役である。これほどの長寿は極めて異例だが当面は2045年まで就航予定で、それ以降もさらに延長される可能性もある。

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小林多喜二虐殺事件

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小林多喜二虐殺事件

 

1903年(明治36年)10月13日、小林多喜二(たきじ)は秋田県の貧農の長男として生まれた。4歳の冬、一家はパン工場を経営していた伯父を頼って北海道へ渡った。小林は伯父の援助で小樽商業学校から小樽高等商業学校(現・小樽商科大学)へ進学した。

商業学校時代から、絵や詩などの創作をしていたが、高等商業学校へ入ると交友会誌に幾つかの小説を発表した。卒業後、北海道拓殖銀行に入り、その頃からマルキシズム、社会科学の勉強にのめり込み、労農運動に関心をもつようになり、作品もプロレタリア文学への指向を示し始める。

1921年(大正10年)に、プロレタリア文学は『種蒔く人』の創刊に始まり、1924年(大正13年)の『文芸戦線』の創刊、1925年(大正14年)の日本プロレタリア文芸連盟の結成へと次第に勢力を伸ばしていく。

1923年(大正12年)9月1日の関東大震災(死者9万1802人、行方不明者4万2257人)、その他、大正末期から昭和初めにかけて、世界恐慌による経済不況、農村恐慌が相次ぎ、社会不安が増大した。そんな時代を背景に、弾圧によって壊滅した共産党が1926年(昭和元年)、同志たちの手で密かに再建された。

1928年(昭和3年)2月、第1回普通選挙が行われた。共産党は、前年のコミンテルン・テーゼで大衆的公然活動の方針を打ち出していたので、徳田球一らの党員を労農党の候補者として立候補させ、8人の当選者を出した。この選挙のとき、多喜二は労農党候補の応援演説隊に加わって活躍した。

3月15日未明、田中義一内閣はいつの間にか復活していた共産勢力に脅威を感じ、共産党、労農党などの関係者約3600人を全国で一斉に検挙し、これらの団体の結社を厳禁した。この3.15事件で、小樽でも500人以上が逮捕された。

同年暮れ、多喜二は3・15事件をテーマにした小説『一九二八年三月十五日』を雑誌『戦旗』に発表した。編集部では検閲を通すため、かなりの削除、伏字をしたが、発売禁止になった。だが、秘密組織の配付ルートを通して8000部以上が売れ、大きな反響を呼び、多喜二の名は知られるようになった。

『一九二八年三月十五日』(ほるぷ出版/1980)

翌1929年(昭和4年)、多喜二が『蟹工船』を発表。『蟹工船』は帝国海軍に保護されてカムチャツカに出漁する蟹工船労働者たちの悲惨な労働の様子と労働者が組織的闘争に立ち上がっていく姿を活き活きと描いている中編小説。

8月、『読売新聞』紙上で多数の作家、評論家が『蟹工船』を「本年度上半期の最高作」として推薦した。単行本になると、当時としては驚異的な3万5000部が売れた。

『蟹工船・党生活者』(新潮文庫/1954)・・・2008年(平成20年)1月9日付けの『毎日新聞』東京本社版朝刊文化面に掲載された作家の高橋源一郎と雨宮処凛(かりん)の対談で、2人は「現代日本で多くの若者たちの置かれている状況が『蟹工船』の世界に通じている」と指摘。ワーキングプア問題と絡んで、『蟹工船・党生活者』(新潮文庫/1954)が異例の売れ行きを示している。新潮社では3月に7000部、4月に2万部を増刷したが、これは例年の5倍の発行部数だという。

同年、多喜二が非合法活動のため、北海道拓殖銀行をクビになる。

翌1930年(昭和5年)、多喜二は共産党員としてプロレタリア文学や党の文化活動をするため上京した。その後、治安維持法違反で半年間、刑務所に入れられ、出所するも弾圧がますます激化し、1932年(昭和7年)4月、宮本顕治たちとともに地下に潜ったが、この年は波瀾の年だった。1月28日、上海事変勃発。2月9日、東京市本郷区(現・東京都文京区/本郷区と小石川区が統合して文京区となる)で、前蔵相・井上準之助が「血盟団」の小沼正(おぬましょう)によって暗殺される(血盟団事件)。3月1日、満州国建国宣言。3月5日、三井合名(ごうめい)理事長の団琢磨が血盟団員により射殺される。5月15日、犬養毅(いぬかいつよし)首相が陸海軍将校によって射殺される。

宮本顕治・・・1908年(明治41年)10月17日生まれ。政治家。文芸評論家。1931年(昭和6年)3月、東京帝国大学(現・東京大学)経済学部卒業。5月、日本共産党に入党し、日本プロレタリア作家同盟に加盟。1932年(昭和7年)4月、プロレタリア文学運動への弾圧をきっかけに地下に潜る。

多喜二は住所を転々としながら小説や論文を次々と発表した。『改造』『中央公論』の原稿料は直接、杉並の借家に住まわせていた母親宛てに送らせていた。

多喜二は潜行中に白石ふじ子と結婚した。ふじ子は党員ではなく銀座の会社の事務員だった。特別高等警察(特高)は2人の結婚を知り、ふじ子を尾行して家に踏み込んだが、多喜二は間一髪で逃れた。ふじ子は逮捕され、会社もクビになった。

特別高等警察・・・大逆事件(幸徳事件)を契機として、1911年(明治44年)、警視庁に特別高等警察課が設置されたのが始まりで、その後、大阪、京都などにも増設され、1928年(昭和3年)には全国に配置された。これは1925年(大正14年)5月に施行される治安維持法に備えての設置で、共産主義や反体制の言論、思想、社会運動を弾圧した秘密警察。1945年(昭和20年)10月、敗戦直後、民主化を求める世論の中で、特高は治安維持法とともに廃止になった。

大逆(たいぎゃく)事件・・・1910(明治43年)5月、信州の社会主義者宮下太吉ら4人が「爆発物取締罰則違反」で逮捕された(明科事件)が、その逮捕者が社会主義者の幸徳秋水とつながりを持っている者であったことを利用して、政府が天皇暗殺の一大陰謀事件を捏造し、幸徳をはじめとする全国の社会主義者を一網打尽に抹殺しようと計画を立て実行。これで26人が逮捕され、24人に死刑判決が下された。翌日には死刑判決を下された24人のうち、12人が無期懲役に減刑され、残りの12人が処刑された事件。

多喜二は警察のどんな拷問にも音をあげない強い男だったが、その反面、大声で話し、笑い、ふざけるのが好きな子どもみたいな性格だった。そういう人柄をふじ子やその他の多くの人々は敬愛した。そのため、多喜二は潜行生活は続けることはできたが、裏切り者のために逮捕された。

1933年(昭和8年)2月20日、多喜二は東京都港区赤坂でプロレタリア作家同盟(委員長・江口渙)の仲間である今村恒夫と会い、その後、共産青年同盟の責任者である三船留吉という男と会うはずだった。だが、待ち合わせの場所にいたのは三船ではなく築地警察署の特高刑事だった。三船は前年に逮捕されて以来、スパイになっていた。

その後、多喜二は築地警察署に連行され、丸裸にされて3時間以上に及ぶ執拗な拷問を受けた。このときの特高警察部長は安倍源基で、部下であった毛利基特高課長、中川成夫警部、山県為三警部の3人が直接に手を下している。

多喜二はぐったりした姿で留置場に投げ込まれたが、ただならぬ様子に同房の者が看守を呼んだ。特高の連中もやってくる。多喜二は意識が朦朧とした状態のまま、警察裏にある築地病院に担架で運ばれた。だが、午後7時45分、死亡した。31歳だった。警察では翌日の午後までこの死亡を伏せておき、死因は心臓麻痺と発表された。

『あの人はどこで死んだか』(主婦の友社/矢島裕紀彦/1996)によると、多喜二は1903年(明治36年)10月13日生まれ、ということなので、死亡時は満年齢では29歳だが、数え年齢では31歳ということになる。サイト「無限回廊」では戦前の事件に関しては数え年齢で表記しているので31歳ということになる。

ちなみに「数え年齢」とは生まれた時点で「1歳」とし、次の年の元日を迎えた時点で1年加えて「2歳」となる、というように、以後元日を迎えるごとに年齢が加算される計算法で、「数え年齢」と「満年齢」は常に1歳か2歳違いとなる。この「数え年齢」から「満年齢」に変わるのは1950年(昭和25年)以降。

翌21日夜、多喜二は母親・セキの東京都杉並区馬橋の家に運ばれた。左右の太ももは多量の内出血ですっかり色が変わり、大きく膨れ上がり、背中一面に痛々しい傷痕。手首にはきつく縛り上げられてできた縄の痕。首にも深い細長の縄の痕。左のコメカミ下あたりにも打撲傷。向う脛に深く削った傷の痕。右の人差し指は骨折、、、。

セキは変わり果てた息子の体を抱きかかえて揺さぶり叫んだ。

「ああ、痛ましや。痛ましや。心臓麻痺で死んだなんて嘘だでや。子どものときからあんなに泳ぎが上手でいただべに、、、心臓の悪い者にどうしてあんだに泳ぎがでぎるだべが。心臓麻痺だなんて嘘だでや。絞め殺しただ。警察のやつが絞め殺しただ。絞められて息がつまって死んでいくのが、どんなに苦しかっただべが。息のつまるのが、息のつまるのが、、、ああ、痛ましや。痛ましや」

同志たちは死因を確定するため、遺体解剖を依頼したが、どの大学病院も警察を恐れて拒否した(「警察が付近の病院に遺体の解剖をさせないように圧力をかけた」と書いてある参考文献もある)。

多喜二の死を知った人たちが次々と杉並の家を訪れたが、待ち構えていた警官によって弔問客は次々と検挙された。宮本百合子も逮捕され、築地署に連行された。

宮本百合子・・・1899年(明治32年)2月13日生まれ。旧姓・中條(ちゅうじょう)。本名・ユリ。小説家。評論家。日本女子大学英文科中退。17歳のときの初作品『貧しき人々の群』で天才少女として注目を集める。プロレタリア文学、民主主義文学の作家として活躍。1931年(昭和6年)、日本共産党に入党。翌1932年(昭和7年)、文芸評論家で共産党員でもあった9歳年下の宮本顕治と結婚。

『貧しき人々の群ほか(宮本百合子名作ライブラリー)』(新日本出版社/1994)

葬儀は3・15事件記念日の3月15日、築地小劇場で労農葬として執り行われることに決まったが、当日、警察によって江口葬儀委員長のほか、関係者が逮捕され、葬儀は取り止めになった。

参考文献・・・
『20世紀にっぽん殺人事典』(社会思想社/福田洋/2001)
『犯罪の昭和史 1』(作品社/1984)
『あの人はどこで死んだか』( 主婦の友社/矢島裕紀彦/1996)

「小林多喜二」の画像

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蟹工船 小林多喜二

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蟹工船
小林多喜二


+目次



「おい地獄さ行(え)ぐんだで!」
 二人はデッキの手すりに寄りかかって、蝸牛(かたつむり)が背のびをしたように延びて、海を抱(かか)え込んでいる函館(はこだて)の街を見ていた。――漁夫は指元まで吸いつくした煙草(たばこ)を唾(つば)と一緒に捨てた。巻煙草はおどけたように、色々にひっくりかえって、高い船腹(サイド)をすれずれに落ちて行った。彼は身体(からだ)一杯酒臭かった。
 赤い太鼓腹を巾(はば)広く浮かばしている汽船や、積荷最中らしく海の中から片袖(かたそで)をグイと引張られてでもいるように、思いッ切り片側に傾いているのや、黄色い、太い煙突、大きな鈴のようなヴイ、南京虫(ナンキンむし)のように船と船の間をせわしく縫っているランチ、寒々とざわめいている油煙やパン屑(くず)や腐った果物の浮いている何か特別な織物のような波……。風の工合で煙が波とすれずれになびいて、ムッとする石炭の匂いを送った。ウインチのガラガラという音が、時々波を伝って直接(じか)に響いてきた。
 この蟹工船博光丸のすぐ手前に、ペンキの剥(は)げた帆船が、へさきの牛の鼻穴のようなところから、錨(いかり)の鎖を下していた、甲板を、マドロス・パイプをくわえた外人が二人同じところを何度も機械人形のように、行ったり来たりしているのが見えた。ロシアの船らしかった。たしかに日本の「蟹工船」に対する監視船だった。
「俺(おい)らもう一文も無え。――糞(くそ)。こら」
 そう云って、身体をずらして寄こした。そしてもう一人の漁夫の手を握って、自分の腰のところへ持って行った。袢天(はんてん)の下のコールテンのズボンのポケットに押しあてた。何か小さい箱らしかった。
 一人は黙って、その漁夫の顔をみた。
「ヒヒヒヒ……」と笑って、「花札(はな)よ」と云った。
 ボート・デッキで、「将軍」のような恰好(かっこう)をした船長が、ブラブラしながら煙草をのんでいる。はき出す煙が鼻先からすぐ急角度に折れて、ちぎれ飛んだ。底に木を打った草履(ぞうり)をひきずッて、食物バケツをさげた船員が急がしく「おもて」の船室を出入した。――用意はすっかり出来て、もう出るにいいばかりになっていた。
 雑夫(ざつふ)のいるハッチを上から覗(のぞ)きこむと、薄暗い船底の棚(たな)に、巣から顔だけピョコピョコ出す鳥のように、騒ぎ廻っているのが見えた。皆十四、五の少年ばかりだった。
「お前は何処(どこ)だ」
「××町」みんな同じだった。函館の貧民窟(くつ)の子供ばかりだった。そういうのは、それだけで一かたまりをなしていた。
「あっちの棚は?」
「南部」
「それは?」
「秋田」
 それ等は各※(二の字点、1-2-22)棚をちがえていた。
「秋田の何処だ」
 膿(うみ)のような鼻をたらした、眼のふちがあかべをしたようにただれているのが、
「北秋田だんし」と云った。
「百姓か?」
「そんだし」
 空気がムンとして、何か果物でも腐ったすッぱい臭気がしていた。漬物を何十樽(たる)も蔵(しま)ってある室が、すぐ隣りだったので、「糞」のような臭いも交っていた。
「こんだ親父(おど)抱いて寝てやるど」――漁夫がベラベラ笑った。
 薄暗い隅(すみ)の方で、袢天(はんてん)を着、股引(ももひき)をはいた、風呂敷を三角にかぶった女出面(でめん)らしい母親が、林檎(りんご)の皮をむいて、棚に腹ん這(ば)いになっている子供に食わしてやっていた。子供の食うのを見ながら、自分では剥(む)いたぐるぐるの輪になった皮を食っている。何かしゃべったり、子供のそばの小さい風呂敷包みを何度も解いたり、直してやっていた。そういうのが七、八人もいた。誰も送って来てくれるもののいない内地から来た子供達は、時々そっちの方をぬすみ見るように、見ていた。
 髪や身体がセメントの粉まみれになっている女が、キャラメルの箱から二粒位ずつ、その附近の子供達に分けてやりながら、
「うちの健吉と仲よく働いてやってけれよ、な」と云っていた。木の根のように不恰好(ぶかっこう)に大きいザラザラした手だった。
 子供に鼻をかんでやっているのや、手拭(てぬぐい)で顔をふいてやっているのや、ボソボソ何か云っているのや、あった。
「お前さんどこの子供は、身体はええべものな」
 母親同志だった。
「ん、まあ」
「俺どこのア、とても弱いんだ。どうすべかッて思うんだども、何んしろ……」
「それア何処でも、ね」
 ――二人の漁夫がハッチから甲板へ顔を出すと、ホッとした。不機嫌(ふきげん)に、急にだまり合ったまま雑夫の穴より、もっと船首の、梯形(ていけい)の自分達の「巣」に帰った。錨を上げたり、下したりする度に、コンクリート・ミキサの中に投げ込まれたように、皆は跳(は)ね上り、ぶッつかり合わなければならなかった。
 薄暗い中で、漁夫は豚のようにゴロゴロしていた、それに豚小屋そっくりの、胸がすぐゲエと来そうな臭(にお)いがしていた。
「臭せえ、臭せえ」
「そよ、俺だちだもの。ええ加減、こったら腐りかけた臭いでもすべよ」
 赤い臼(うす)のような頭をした漁夫が、一升瓶(びん)そのままで、酒を端のかけた茶碗(ちゃわん)に注(つ)いで、鯣(するめ)をムシャムシャやりながら飲んでいた。その横に仰向けにひっくり返って、林檎を食いながら、表紙のボロボロした講談雑誌を見ているのがいた。
 四人輪になって飲んでいたのに、まだ飲み足りなかった一人が割り込んで行った。
「……んだべよ。四カ月も海の上だ。もう、これんかやれねべと思って……」
 頑丈(がんじょう)な身体をしたのが、そう云って、厚い下唇を時々癖のように嘗(な)めながら眼を細めた。
「んで、財布これさ」
 干柿のようなべったりした薄い蟇口(がまぐち)を眼の高さに振ってみせた。
「あの白首(ごけ)、身体こったらに小せえくせに、とても上手(うめ)えがったどオ!」
「おい、止せ、止せ!」
「ええ、ええ、やれやれ」
 相手はへへへへへと笑った。
「見れ、ほら、感心なもんだ。ん?」酔った眼を丁度向い側の棚の下にすえて、顎(あご)で、「ん!」と一人が云った。
 漁夫がその女房に金を渡しているところだった。
「見れ、見れ、なア!」
 小さい箱の上に、皺(しわ)くちゃになった札や銀貨を並べて、二人でそれを数えていた。男は小さい手帖(てちょう)に鉛筆をなめ、なめ何か書いていた。
「見れ。ん!」
「俺にだって嬶(かかあ)や子供はいるんだで」白首(ごけ)のことを話した漁夫が急に怒ったように云った。
 そこから少し離れた棚に、宿酔(ふつかよい)の青ぶくれにムクンだ顔をした、頭の前だけを長くした若い漁夫が、
「俺アもう今度こそア船さ来ねえッて思ってたんだけれどもな」と大声で云っていた。「周旋屋に引っ張り廻されて、文無しになってよ。――又、長げえことくたばるめに合わされるんだ」
 こっちに背を見せている同じ処から来ているらしい男が、それに何かヒソヒソ云っていた。
 ハッチの降口に始め鎌足(かまあし)を見せて、ゴロゴロする大きな昔風の信玄袋を担(にな)った男が、梯子(はしご)を下りてきた。床に立ってキョロキョロ見廻わしていたが、空(あ)いているのを見付けると、棚に上って来た。
「今日は」と云って、横の男に頭を下げた。顔が何かで染ったように、油じみて、黒かった。「仲間さ入(え)れて貰えます」
 後で分ったことだが、この男は、船へ来るすぐ前まで夕張炭坑に七年も坑夫をしていた。それがこの前のガス爆発で、危く死に損(そこ)ねてから――前に何度かあった事だが――フイと坑夫が恐ろしくなり、鉱山(やま)を下りてしまった。爆発のとき、彼は同じ坑内にトロッコを押して働いていた。トロッコに一杯石炭を積んで、他の人の受持場まで押して行った時だった。彼は百のマグネシウムを瞬間眼の前でたかれたと思った。それと、そして1/500[#「1/500」は分数]秒もちがわず、自分の身体が紙ッ片(きれ)のように何処かへ飛び上ったと思った。何台というトロッコがガスの圧力で、眼の前を空のマッチ箱よりも軽くフッ飛んで行った。それッ切り分らなかった。どの位経(た)ったか、自分のうなった声で眼が開いた。監督や工夫が爆発が他へ及ばないように、坑道に壁を作っていた。彼はその時壁の後から、助ければ助けることの出来る炭坑夫の、一度聞いたら心に縫い込まれでもするように、決して忘れることの出来ない、救いを求める声を「ハッキリ」聞いた。――彼は急に立ち上ると、気が狂ったように、
「駄目だ、駄目だ!」と皆の中に飛びこんで、叫びだした。(彼は前の時は、自分でその壁を作ったことがあった。そのときは何んでもなかったのだったが)
「馬鹿野郎! ここさ火でも移ってみろ、大損だ」
 だが、だんだん声の低くなって行くのが分るではないか! 彼は何を思ったのか、手を振ったり、わめいたりして、無茶苦茶に坑道を走り出した。何度ものめったり、坑木に額を打ちつけた。全身ドロと血まみれになった。途中、トロッコの枕木につまずいて、巴投(ともえな)げにでもされたように、レールの上にたたきつけられて、又気を失ってしまった。
 その事を聞いていた若い漁夫は、
「さあ、ここだってそう大して変らないが……」と云った。
 彼は坑夫独特な、まばゆいような、黄色ッぽく艶(つや)のない眼差(まなざし)を漁夫の上にじっと置いて、黙っていた。
 秋田、青森、岩手から来た「百姓の漁夫」のうちでは、大きく安坐(あぐら)をかいて、両手をはすがいに股(また)に差しこんでムシッとしているのや、膝(ひざ)を抱えこんで柱によりかかりながら、無心に皆が酒を飲んでいるのや、勝手にしゃべり合っているのに聞き入っているのがある。――朝暗いうちから畑に出て、それで食えないで、追払われてくる者達だった。長男一人を残して――それでもまだ食えなかった――女は工場の女工に、次男も三男も何処かへ出て働かなければならない。鍋(なべ)で豆をえるように、余った人間はドシドシ土地からハネ飛ばされて、市に流れて出てきた。彼等はみんな「金を残して」内地(くに)に帰ることを考えている。然(しか)し働いてきて、一度陸を踏む、するとモチを踏みつけた小鳥のように、函館や小樽でバタバタやる。そうすれば、まるッきり簡単に「生れた時」とちっとも変らない赤裸になって、おっぽり出された。内地(くに)へ帰れなくなる。彼等は、身寄りのない雪の北海道で「越年(おつねん)」するために、自分の身体を手鼻位の値で「売らなければならない」――彼等はそれを何度繰りかえしても、出来の悪い子供のように、次の年には又平気で(?)同じことをやってのけた。
 菓子折を背負った沖売の女や、薬屋、それに日用品を持った商人が入ってきた。真中の離島のように区切られている所に、それぞれの品物を広げた。皆は四方の棚の上下の寝床から身体を乗り出して、ひやかしたり、笑談(じょうだん)を云った。
「お菓子(がし)めえか、ええ、ねっちゃよ?」
「あッ、もッちょこい!」沖売の女が頓狂(とんきょう)な声を出して、ハネ上った。「人の尻(しり)さ手ばやったりして、いけすかない、この男!」
 菓子で口をモグモグさせていた男が、皆の視線が自分に集ったことにテレて、ゲラゲラ笑った。
「この女子(あねこ)、可愛(めんこ)いな」
 便所から、片側の壁に片手をつきながら、危い足取りで帰ってきた酔払いが、通りすがりに、赤黒くプクンとしている女の頬(ほっ)ぺたをつッついた。
「何んだね」
「怒んなよ。――この女子(あねこ)ば抱いて寝てやるべよ」
 そう云って、女におどけた恰好をした。皆が笑った。
「おい饅頭(まんじゅう)、饅頭!」
 ずウと隅(すみ)の方から誰か大声で叫んだ。
「ハアイ……」こんな処ではめずらしい女のよく通る澄んだ声で返事をした。「幾(なん)ぼですか?」
「幾(なん)ぼ? 二つもあったら不具(かたわ)だべよ。――お饅頭、お饅頭!」――急にワッと笑い声が起った。
「この前、竹田って男が、あの沖売の女ば無理矢理に誰もいねえどこさ引っ張り込んで行ったんだとよ。んだけ、面白いんでないか。何んぼ、どうやっても駄目だって云うんだ……」酔った若い男だった。「……猿又(さるまた)はいてるんだとよ。竹田がいきなりそれを力一杯にさき取ってしまったんだども、まだ下にはいてるッて云うんでねか。――三枚もはいてたとよ……」男が頸(くび)を縮めて笑い出した。
 その男は冬の間はゴム靴会社の職工だった。春になり仕事が無くなると、カムサツカへ出稼(でかせ)ぎに出た。どっちの仕事も「季節労働」なので、(北海道の仕事は殆(ほと)んどそれだった)イザ夜業となると、ブッ続けに続けられた。「もう三年も生きれたら有難い」と云っていた。粗製ゴムのような、死んだ色の膚をしていた。
 漁夫の仲間には、北海道の奥地の開墾地や、鉄道敷設の土工部屋へ「蛸(たこ)」に売られたことのあるものや、各地を食いつめた「渡り者」や、酒だけ飲めば何もかもなく、ただそれでいいものなどがいた。青森辺の善良な村長さんに選ばれてきた「何も知らない」「木の根ッこのように」正直な百姓もその中に交っている。――そして、こういうてんでんばらばらのもの等を集めることが、雇うものにとって、この上なく都合のいいことだった。(函館の労働組合は蟹工船、カムサツカ行の漁夫のなかに組織者を入れることに死物狂いになっていた。青森、秋田の組合などとも連絡をとって。――それを何より恐れていた)
 糊(のり)のついた真白い、上衣(うわぎ)の丈(たけ)の短い服を着た給仕(ボーイ)が、「とも」のサロンに、ビール、果物、洋酒のコップを持って、忙しく往き来していた。サロンには、「会社のオッかない人、船長、監督、それにカムサツカで警備の任に当る駆逐艦の御大(おんたい)、水上警察の署長さん、海員組合の折鞄(おりかばん)」がいた。
「畜生、ガブガブ飲むったら、ありゃしない」――給仕はふくれかえっていた。
 漁夫の「穴」に、浜なすのような電気がついた。煙草の煙や人いきれで、空気が濁って、臭く、穴全体がそのまま「糞壺(くそつぼ)」だった。区切られた寝床にゴロゴロしている人間が、蛆虫(うじむし)のようにうごめいて見えた。――漁業監督を先頭に、船長、工場代表、雑夫長がハッチを下りて入って来た。船長は先のハネ上っている髭(ひげ)を気にして、始終ハンカチで上唇を撫(な)でつけた。通路には、林檎やバナナの皮、グジョグジョした高丈(たかじょう)、鞋(わらじ)、飯粒のこびりついている薄皮などが捨ててあった。流れの止った泥溝(どぶ)だった。監督はじろりそれを見ながら、無遠慮に唾をはいた。――どれも飲んで来たらしく、顔を赤くしていた。
「一寸(ちょっと)云って置く」監督が土方の棒頭(ぼうがしら)のように頑丈(がんじょう)な身体で、片足を寝床の仕切りの上にかけて、楊子(ようじ)で口をモグモグさせながら、時々歯にはさまったものを、トットッと飛ばして、口を切った。
「分ってるものもあるだろうが、云うまでもなくこの蟹工船の事業は、ただ単にだ、一会社の儲仕事(もうけしごと)と見るべきではなくて、国際上の一大問題なのだ。我々が――我々日本帝国人民が偉いか、露助が偉いか。一騎打ちの戦いなんだ。それに若(も)し、若しもだ。そんな事は絶対にあるべき筈(はず)がないが、負けるようなことがあったら、睾丸(きんたま)をブラ下げた日本男児は腹でも切って、カムサツカの海の中にブチ落ちることだ。身体が小さくたって、野呂間な露助に負けてたまるもんじゃない。
「それに、我カムサツカの漁業は蟹罐詰ばかりでなく、鮭(さけ)、鱒(ます)と共に、国際的に云ってだ、他の国とは比らべもならない優秀な地位を保っており、又日本国内の行き詰った人口問題、食糧問題に対して、重大な使命を持っているのだ。こんな事をしゃべったって、お前等には分りもしないだろうが、ともかくだ、日本帝国の大きな使命のために、俺達は命を的に、北海の荒波をつッ切って行くのだということを知ってて貰わにゃならない。だからこそ、あっちへ行っても始終我帝国の軍艦が我々を守っていてくれることになっているのだ。……それを今流行(はや)りの露助の真似(まね)をして、飛んでもないことをケシかけるものがあるとしたら、それこそ、取りも直さず日本帝国を売るものだ。こんな事は無い筈だが、よッく覚えておいて貰うことにする……」
 監督は酔いざめのくさめを何度もした。

 酔払った駆逐艦の御大はバネ仕掛の人形のようなギクシャクした足取りで、待たしてあるランチに乗るために、タラップを下りて行った。水兵が上と下から、カントン袋に入れた石ころみたいな艦長を抱えて、殆んど持てあましてしまった。手を振ったり、足をふんばったり、勝手なことをわめく艦長のために、水兵は何度も真正面(まとも)から自分の顔に「唾」を吹きかけられた。
「表じゃ、何んとか、かんとか偉いこと云ってこの態(ざま)なんだ」
 艦長をのせてしまって、一人がタラップのおどり場からロープを外しながら、ちらっと艦長の方を見て、低い声で云った。
「やっちまうか※(感嘆符疑問符、1-8-78)……」
 二人は一寸息をのんだ、が……声を合せて笑い出した。



 祝津(しゅくつ)の燈台が、廻転する度にキラッキラッと光るのが、ずウと遠い右手に、一面灰色の海のような海霧(ガス)の中から見えた。それが他方へ廻転してゆくとき、何か神秘的に、長く、遠く白銀色の光茫(こうぼう)を何海浬(かいり)もサッと引いた。
 留萌(るもい)の沖あたりから、細い、ジュクジュクした雨が降り出してきた。漁夫や雑夫は蟹の鋏(はさみ)のようにかじかんだ手を時々はすがいに懐(ふところ)の中につッこんだり、口のあたりを両手で円(ま)るく囲んで、ハアーと息をかけたりして働かなければならなかった。――納豆の糸のような雨がしきりなしに、それと同じ色の不透明な海に降った。が、稚内(わっかない)に近くなるに従って、雨が粒々になって来、広い海の面が旗でもなびくように、うねりが出て来て、そして又それが細かく、せわしなくなった。――風がマストに当ると不吉に鳴った。鋲(びょう)がゆるみでもするように、ギイギイと船の何処かが、しきりなしにきしんだ。宗谷海峡に入った時は、三千噸(トン)に近いこの船が、しゃっくりにでも取りつかれたように、ギク、シャクし出した。何か素晴しい力でグイと持ち上げられる。船が一瞬間宙に浮かぶ。――が、ぐウと元の位置に沈む。エレヴエターで下りる瞬間の、小便がもれそうになる、くすぐったい不快さをその度(たび)に感じた。雑夫は黄色になえて、船酔らしく眼だけとんがらせて、ゲエ、ゲエしていた。
 波のしぶきで曇った円るい舷窓(げんそう)から、ひょいひょいと樺太(からふと)の、雪のある山並の堅い線が見えた。然(しか)しすぐそれはガラスの外へ、アルプスの氷山のようにモリモリとむくれ上ってくる波に隠されてしまう。寒々とした深い谷が出来る。それが見る見る近付いてくると、窓のところへドッと打ち当り、砕けて、ザアー……と泡立つ。そして、そのまま後へ、後へ、窓をすべって、パノラマのように流れてゆく。船は時々子供がするように、身体を揺(ゆす)った。棚からものが落ちる音や、ギ――イと何かたわむ音や、波に横ッ腹がドブ――ンと打ち当る音がした。――その間中、機関室からは機関の音が色々な器具を伝って、直接(じか)に少しの震動を伴ってドッ、ドッ、ドッ……と響いていた。時々波の背に乗ると、スクリュが空廻りをして、翼で水の表面をたたきつけた。
 風は益々強くなってくるばかりだった。二本のマストは釣竿(つりざお)のようにたわんで、ビュウビュウ泣き出した。波は丸太棒の上でも一またぎする位の無雑作で、船の片側から他の側へ暴力団のようにあばれ込んできて、流れ出て行った。その瞬間、出口がザアーと滝になった。
 見る見るもり上った山の、恐ろしく大きな斜面に玩具(おもちゃ)の船程に、ちょこんと横にのッかることがあった。と、船はのめったように、ドッ、ドッと、その谷底へ落ちこんでゆく。今にも、沈む! が、谷底にはすぐ別な波がむくむくと起(た)ち上ってきて、ドシンと船の横腹と体当りをする。
 オホツック海へ出ると、海の色がハッキリもっと灰色がかって来た。着物の上からゾクゾクと寒さが刺し込んできて、雑夫は皆唇をブシ色にして仕事をした。寒くなればなる程、塩のように乾いた、細かい雪がビュウ、ビュウ吹きつのってきた。それは硝子(ガラス)の細かいカケラのように甲板に這(は)いつくばって働いている雑夫や漁夫の顔や手に突きささった。波が一波甲板を洗って行った後は、すぐ凍えて、デラデラに滑(すべ)った。皆はデッキからデッキへロープを張り、それに各自がおしめのようにブラ下り、作業をしなければならなかった。――監督は鮭殺しの棍棒(こんぼう)をもって、大声で怒鳴り散らした。
 同時に函館を出帆した他の蟹工船は、何時の間にか離れ離れになってしまっていた。それでも思いっ切りアルプスの絶頂に乗り上ったとき、溺死者(できししゃ)が両手を振っているように、揺られに揺られている二本のマストだけが遠くに見えることがあった。煙草の煙ほどの煙が、波とすれずれに吹きちぎられて、飛んでいた。……波浪と叫喚のなかから、確かにその船が鳴らしているらしい汽笛が、間を置いてヒュウ、ヒュウと聞えた。が、次の瞬間、こっちがアプ、アプでもするように、谷底に転落して行った。
 蟹工船には川崎船を八隻のせていた。船員も漁夫もそれを何千匹の鱶(ふか)のように、白い歯をむいてくる波にもぎ取られないように、縛りつけるために、自分等の命を「安々」と賭(か)けなければならなかった。――「貴様等の一人、二人が何んだ。川崎一艘(ぱい)取られてみろ、たまったもんでないんだ」――監督は日本語でハッキリそういった。
 カムサツカの海は、よくも来やがった、と待ちかまえていたように見えた。ガツ、ガツに飢えている獅子(しし)のように、えどなみかかってきた。船はまるで兎(うさぎ)より、もっと弱々しかった。空一面の吹雪は、風の工合で、白い大きな旗がなびくように見えた。夜近くなってきた。しかし時化(しけ)は止みそうもなかった。
 仕事が終ると、皆は「糞壺」の中へ順々に入り込んできた。手や足は大根のように冷えて、感覚なく身体についていた。皆は蚕のように、各※(二の字点、1-2-22)の棚の中に入ってしまうと、誰も一口も口をきくものがいなかった。ゴロリ横になって、鉄の支柱につかまった。船は、背に食いついている虻(あぶ)を追払う馬のように、身体をヤケに振っている。漁夫はあてのない視線を白ペンキが黄色に煤(すす)けた天井にやったり、殆(ほと)んど海の中に入りッ切りになっている青黒い円窓にやったり……中には、呆(ほお)けたようにキョトンと口を半開きにしているものもいた。誰も、何も考えていなかった。漠然とした不安な自覚が、皆を不機嫌にだまらせていた。
 顔を仰向けにして、グイとウイスキーをラッパ飲みにしている。赤黄く濁った、にぶい電燈のなかでチラッと瓶(びん)の角が光ってみえた。――ガラ、ガラッと、ウイスキーの空瓶が二、三カ所に稲妻形に打ち当って、棚から通路に力一杯に投げ出された。皆は頭だけをその方に向けて、眼で瓶を追った。――隅の方で誰か怒った声を出した。時化にとぎれて、それが片言のように聞えた。
「日本を離れるんだど」円窓を肱(ひじ)で拭(ぬぐ)っている。
「糞壺」のストーヴはブスブス燻(くすぶ)ってばかりいた。鮭や鱒と間違われて、「冷蔵庫」へ投げ込まれたように、その中で「生きている」人間はガタガタ顫(ふる)えていた。ズックで覆(おお)ったハッチの上をザア、ザアと波が大股(おおまた)に乗り越して行った。それが、その度に太鼓の内部みたいな「糞壺」の鉄壁に、物凄(ものすご)い反響を起した。時々漁夫の寝ているすぐ横が、グイと男の強い肩でつかれたように、ドシンとくる。――今では、船は、断末魔の鯨が、荒狂う波濤(はとう)の間に身体をのたうっている、そのままだった。
「飯だ!」賄(まかない)がドアーから身体の上半分をつき出して、口で両手を囲んで叫んだ。「時化てるから汁なし」
「何んだって?」
「腐れ塩引!」顔をひっこめた。
 思い、思い身体を起した。飯を食うことには、皆は囚人のような執念さを持っていた。ガツガツだった。
 塩引の皿を安坐をかいた股の間に置いて、湯気をふきながら、バラバラした熱い飯を頬ばると、舌の上でせわしく、あちこちへやった。「初めて」熱いものを鼻先にもってきたために、水洟(みずばな)がしきりなしに下がって、ひょいと飯の中に落ちそうになった。
 飯を食っていると、監督が入ってきた。
「いけホイドして、ガツガツまくらうな。仕事もろくに出来ない日に、飯ば鱈腹(たらふく)食われてたまるもんか」
 ジロジロ棚の上下を見ながら、左肩だけを前の方へ揺(ゆす)って出て行った。
「一体あいつにあんなことを云う権利があるのか」――船酔と過労で、ゲッソリやせた学生上りが、ブツブツ云った。
「浅川ッたら蟹工の浅か、浅の蟹工かッてな」
「天皇陛下は雲の上にいるから、俺達にャどうでもいいんだけど、浅ってなれば、どっこいそうは行かないからな」
 別な方から、
「ケチケチすんねえ、何んだ、飯の一杯、二杯! なぐってしまえ!」唇を尖(と)んがらした声だった。
「偉い偉い。そいつを浅の前で云えれば、なお偉い!」
 皆は仕方なく、腹を立てたまま、笑ってしまった。
 夜、余程過ぎてから、雨合羽を着た監督が、漁夫の寝ているところへ入ってきた。船の動揺を棚の枠(わく)につかまって支(ささ)えながら、一々漁夫の間にカンテラを差しつけて歩いた。南瓜(かぼちゃ)のようにゴロゴロしている頭を、無遠慮にグイグイと向き直して、カンテラで照らしてみていた。フンづけられたって、目を覚ます筈がなかった。全部照し終ると、一寸立ち止まって舌打ちをした。――どうしようか、そんな風だった。が、すぐ次の賄部屋の方へ歩き出した。末広な、青ッぽいカンテラの光が揺れる度に、ゴミゴミした棚の一部や、脛(すね)の長い防水ゴム靴や、支柱に懸けてあるドザや袢天(はんてん)、それに行李(こうり)などの一部分がチラ、チラッと光って、消えた。――足元に光が顫(ふる)えながら一瞬間溜(た)まる、と今度は賄のドアーに幻燈のような円るい光の輪を写した。――次の朝になって、雑夫の一人が行衛(ゆくえ)不明になったことが知れた。
 皆は前の日の「無茶な仕事」を思い、「あれじゃ、波に浚(さら)われたんだ」と思った。イヤな気持がした。然し漁夫達が未明から追い廻わされたので、そのことではお互に話すことが出来なかった。
「こったら冷(しゃ)ッこい水さ、誰が好き好んで飛び込むって! 隠れてやがるんだ。見付けたら、畜生、タタきのめしてやるから!」
 監督は棍棒を玩具のようにグルグル廻しながら、船の中を探して歩いた。
 時化は頂上を過ぎてはいた。それでも、船が行先きにもり上った波に突き入ると、「おもて」の甲板を、波は自分の敷居でもまたぐように何んの雑作もなく、乗り越してきた。一昼夜の闘争で、満身に痛手を負ったように、船は何処か跛(びっこ)な音をたてて進んでいた。薄い煙のような雲が、手が届きそうな上を、マストに打ち当りながら、急角度を切って吹きとんで行った。小寒い雨がまだ止んでいなかった。四囲にもりもりと波がムクレ上ってくると、海に射込む雨足がハッキリ見えた。それは原始林の中に迷いこんで、雨に会うのより、もっと不気味だった。
 麻のロープが鉄管でも握るように、バリ、バリに凍えている。学生上りが、すべる足下に気を配りながら、それにつかまって、デッキを渡ってゆくと、タラップの段々を一つ置きに片足で跳躍して上ってきた給仕に会った。
「チョッと」給仕が風の当らない角に引張って行った。「面白いことがあるんだよ」と云って話してきかせた。
 ――今朝の二時頃だった。ボート・デッキの上まで波が躍り上って、間を置いて、バジャバジャ、ザアッとそれが滝のように流れていた。夜の闇(やみ)の中で、波が歯をムキ出すのが、時々青白く光ってみえた。時化のために皆寝ずにいた。その時だった。
 船長室に無電係が周章(あわ)ててかけ込んできた。
「船長、大変です。S・O・Sです!」
「S・O・S? ――何船だ※(感嘆符疑問符、1-8-78)」
「秩父丸です。本船と並んで進んでいたんです」
「ボロ船だ、それア!」――浅川が雨合羽(あまがっぱ)を着たまま、隅(すみ)の方の椅子に大きく股(また)を開いて、腰をかけていた。片方の靴の先だけを、小馬鹿にしたように、カタカタ動かしながら、笑った。「もっとも、どの船だって、ボロ船だがな」
「一刻と云えないようです」
「うん、それア大変だ」
 船長は、舵機室に上るために、急いで、身仕度(みじたく)もせずにドアーを開けようとした。然し、まだ開けないうちだった。いきなり、浅川が船長の右肩をつかんだ。
「余計な寄道せって、誰が命令したんだ」
 誰が命令した?「船長」ではないか。――が、突嗟(とっさ)のことで、船長は棒杭(ぼうぐい)より、もっとキョトンとした。然し、すぐ彼は自分の立場を取り戻した。
「船長としてだ」
「船長としてだア――ア※(感嘆符疑問符、1-8-78)」船長の前に立ちはだかった監督が、尻上りの侮辱した調子で抑(おさ)えつけた。「おい、一体これア誰の船だんだ。会社が傭船(チアタア)してるんだで、金を払って。ものを云えるのア会社代表の須田さんとこの俺だ。お前なんぞ、船長と云ってりゃ大きな顔してるが、糞場の紙位えの価値(ねうち)もねえんだど。分ってるか。――あんなものにかかわってみろ、一週間もフイになるんだ。冗談じゃない。一日でも遅れてみろ! それに秩父丸には勿体(もったい)ない程の保険がつけてあるんだ。ボロ船だ、沈んだら、かえって得するんだ」
 給仕は「今」恐ろしい喧嘩が! と思った。それが、それだけで済む筈がない。だが(!)船長は咽喉(のど)へ綿でもつめられたように、立ちすくんでいるではないか。給仕はこんな場合の船長をかつて一度だって見たことがなかった。船長の云ったことが通らない? 馬鹿、そんな事が! だが、それが起っている。――給仕にはどうしても分らなかった。
「人情味なんか柄でもなく持ち出して、国と国との大相撲がとれるか!」唇を思いッ切りゆがめて唾(つば)をはいた。
 無電室では受信機が時々小さい、青白い火花(スパアクル)を出して、しきりなしになっていた。とにかく経過を見るために、皆は無電室に行った。
「ね、こんなに打っているんです。――だんだん早くなりますね」
 係は自分の肩越しに覗(のぞ)き込んでいる船長や監督に説明した。――皆は色々な器械のスウィッチやボタンの上を、係の指先があち、こち器用にすべるのを、それに縫いつけられたように眼で追いながら、思わず肩と顎根(あごね)に力をこめて、じいとしていた。
 船の動揺の度に、腫物(はれもの)のように壁に取付けてある電燈が、明るくなったり暗くなったりした。横腹に思いッ切り打ち当る波の音や、絶えずならしている不吉な警笛が、風の工合で遠くなったり、すぐ頭の上に近くなったり、鉄の扉(とびら)を隔てて聞えていた。
 ジイ――、ジイ――イと、長く尾を引いて、スパアクルが散った。と、そこで、ピタリと音がとまってしまった。それが、その瞬間、皆の胸へドキリときた。係は周章(あわ)てて、スウィッチをひねったり、機械をせわしく動かしたりした。が、それッ切りだった。もう打って来ない。
 係は身体をひねって、廻転椅子をぐるりとまわした。
「沈没です!……」
 頭から受信器を外(はず)しながら、そして低い声で云った。「乗務員四百二十五人。最後なり。救助される見込なし。S・O・S、S・O・S、これが二、三度続いて、それで切れてしまいました」
 それを聞くと、船長は頸とカラアの間に手をつッこんで、息苦しそうに頭をゆすって、頸をのばすようにした。無意味な視線で、落着きなく四囲(あたり)を見廻わしてから、ドアーの方へ身体を向けてしまった。そして、ネクタイの結び目あたりを抑えた。――その船長は見ていられなかった。
 ……………………
 学生上りは、「ウム、そうか!」と云った。その話にひきつけられていた。――然し暗い気持がして、海に眼をそらした。海はまだ大うねりにうねり返っていた。水平線が見る間に足の下になるかと、思うと、二、三分もしないうちに、谷から狭(せ)ばめられた空を仰ぐように、下へ引きずりこまれていた。
「本当に沈没したかな」独言(ひとりごと)が出る。気になって仕方がなかった。――同じように、ボロ船に乗っている自分達のことが頭にくる。
 ――蟹工船はどれもボロ船だった。労働者が北オホツックの海で死ぬことなどは、丸ビルにいる重役には、どうでもいい事だった。資本主義がきまりきった所だけの利潤では行き詰まり、金利が下がって、金がダブついてくると、「文字通り」どんな事でもするし、どんな所へでも、死物狂いで血路を求め出してくる。そこへもってきて、船一艘でマンマと何拾万円が手に入る蟹工船、――彼等の夢中になるのは無理がない。
 蟹工船は「工船」(工場船)であって、「航船」ではない。だから航海法は適用されなかった。二十年の間も繋(つな)ぎッ放しになって、沈没させることしかどうにもならないヨロヨロな「梅毒患者」のような船が、恥かしげもなく、上べだけの濃化粧(こいげしょう)をほどこされて、函館へ廻ってきた。日露戦争で、「名誉にも」ビッコにされ、魚のハラワタのように放って置かれた病院船や運送船が、幽霊よりも影のうすい姿を現わした。――少し蒸気を強くすると、パイプが破れて、吹いた。露国の監視船に追われて、スピードをかけると、(そんな時は何度もあった)船のどの部分もメリメリ鳴って、今にもその一つ、一つがバラバラに解(ほ)ぐれそうだった。中風患者のように身体をふるわした。
 然し、それでも全くかまわない。何故(なぜ)なら、日本帝国のためどんなものでも立ち上るべき「秋(とき)」だったから。――それに、蟹工船は純然たる「工場」だった。然し工場法の適用もうけていない。それで、これ位都合のいい、勝手に出来るところはなかった。
 利口な重役はこの仕事を「日本帝国のため」と結びつけてしまった。嘘(うそ)のような金が、そしてゴッソリ重役の懐(ふところ)に入ってくる。彼は然しそれをモット確実なものにするために「代議士」に出馬することを、自動車をドライヴしながら考えている。――が、恐らく、それとカッキリ一分も違わない同じ時に、秩父丸の労働者が、何千哩(マイル)も離れた北の暗い海で、割れた硝子屑(ガラスくず)のように鋭い波と風に向って、死の戦いを戦っているのだ!
 ……学生上りは「糞壺(くそつぼ)」の方へ、タラップを下りながら、考えていた。
「他人事(ひとごと)ではないぞ」
「糞壺」の梯子(はしご)を下りると、すぐ突き当りに、誤字沢山で、

雑夫、宮口を発見せるものには、バット二つ、手拭一本を、賞与としてくれるべし。
                  浅川監督。

 と、書いた紙が、糊代りに使った飯粒のボコボコを見せて、貼(は)らさってあった。



 霧雨が何日も上らない。それでボカされたカムサツカの沿線が、するすると八ツ目鰻(うなぎ)のように延びて見えた。
 沖合四浬(かいり)のところに、博光丸が錨(いかり)を下ろした。――三浬までロシアの領海なので、それ以内に入ることは出来ない「ことになっていた」。
 網さばきが終って、何時(いつ)からでも蟹漁が出来るように準備が出来た。カムサツカの夜明けは二時頃なので、漁夫達はすっかり身支度をし、股(また)までのゴム靴をはいたまま、折箱の中に入って、ゴロ寝をした。
 周旋屋にだまされて、連れてこられた東京の学生上りは、こんな筈(はず)がなかった、とブツブツ云っていた。
「独(ひと)り寝だなんて、ウマイ事云いやがって!」
「ちげえねえ、独り寝さ。ゴロ寝だもの」
 学生は十七、八人来ていた。六十円を前借りすることに決めて、汽車賃、宿料、毛布、布団(ふとん)、それに周旋料を取られて、結局船へ来たときには、一人七、八円の借金(!)になっていた。それが始めて分ったとき、貨幣(かね)だと思って握っていたのが、枯葉であったより、もっと彼等はキョトンとしてしまった。――始め、彼等は青鬼、赤鬼の中に取り巻かれた亡者のように、漁夫の中に一かたまりに固(かたま)っていた。
 函館(はこだて)を出帆してから、四日目ころから、毎日のボロボロな飯と何時も同じ汁のために、学生は皆身体の工合を悪くしてしまった。寝床に入ってから、膝(ひざ)を立てて、お互に脛(すね)を指で押していた。何度も繰りかえして、その度(たび)に引っこんだとか、引っこまないとか、彼等の気持は瞬間明るくなったり、暗くなったりした。脛をなでてみると、弱い電気に触れるように、しびれるのが二、三人出てきた。棚(たな)の端から両足をブラ下げて、膝頭を手刀で打って、足が飛び上るか、どうかを試した。それに悪いことには、「通じ」が四日も五日も無くなっていた。学生の一人が医者に通じ薬を貰いに行った。帰ってきた学生は、興奮から青い顔をしていた。――「そんなぜいたくな薬なんて無いとよ」
「んだべ。船医なんてんなものよ」側(そば)で聞いていた古い漁夫が云った。
「何処(どこ)の医者も同じだよ。俺のいたところの会社の医者もんだった」坑山の漁夫だった。
 皆がゴロゴロ横になっていたとき、監督が入ってきた。
「皆、寝たか――一寸(ちょっと)聞け。秩父丸が沈没したっていう無電が入ったんだ。生死の詳しいことは分らないそうだ」唇をゆがめて、唾(つば)をチェッとはいた。癖だった。
 学生は給仕からきいたことが、すぐ頭にきた。自分が現に手をかけて殺した四、五百人の労働者の生命のことを、平気な顔で云う、海にタタキ込んでやっても足りない奴だ、と思った。皆はムクムクと頭をあげた。急に、ザワザワお互に話し出した。浅川はそれだけ云うと、左肩だけを前の方に振って、出て行った。
 行衛(ゆくえ)の分らなかった雑夫が、二日前にボイラーの側から出てきたところをつかまった。二日隠れていたけれども、腹が減って、腹が減って、どうにも出来ず、出て来たのだった。捕(つか)んだのは中年過ぎの漁夫だった。若い漁夫がその漁夫をなぐりつけると云って、怒った。
「うるさい奴だ、煙草のみでもないのに、煙草の味が分るか」バットを二個手に入れた漁夫はうまそうに飲んでいた。
 雑夫は監督にシャツ一枚にされると、二つあるうちの一つの方の便所に押し込まれて、表から錠を下ろされた。初め、皆は便所へ行くのを嫌った。隣りで泣きわめく声が、とても聞いていられなかった。二日目にはその声がかすれて、ヒエ、ヒエしていた。そして、そのわめきが間を置くようになった。その日の終り頃に、仕事を終った漁夫が、気掛りで直(す)ぐ便所のところへ行ったが、もうドアーを内側から叩(たた)きつける音もしていなかった。こっちから合図をしても、それが返って来なかった。――その遅く、睾隠(きんかく)しに片手をもたれかけて、便所紙の箱に頭を入れ、うつぶせに倒れていた宮口が、出されてきた。唇の色が青インキをつけたように、ハッキリ死んでいた。
 朝は寒かった。明るくなってはいたが、まだ三時だった。かじかんだ手を懐(ふところ)につッこみながら、背を円るくして起き上ってきた。監督は雑夫や漁夫、水夫、火夫の室まで見廻って歩いて、風邪(かぜ)をひいているものも、病気のものも、かまわず引きずり出した。
 風は無かったが、甲板で仕事をしていると、手と足の先きが擂粉木(すりこぎ)のように感覚が無くなった。雑夫長が大声で悪態をつきながら、十四、五人の雑夫を工場に追い込んでいた。彼の持っている竹の先きには皮がついていた。それは工場で怠(なま)けているものを機械の枠越(わくご)しに、向う側でもなぐりつけることが出来るように、造られていた。
「昨夜(ゆうべ)出されたきりで、ものも云えない宮口を今朝からどうしても働かさなけアならないって、さっき足で蹴(け)ってるんだよ」
 学生上りになじんでいる弱々しい身体の雑夫が、雑夫長の顔を見い、見いそのことを知らせた。
「どうしても動かないんで、とうとうあきらめたらしいんだけど」
 其処(そこ)へ、監督が身体をワクワクふるわせている雑夫を後からグイ、グイ突きながら、押して来た。寒い雨に濡(ぬ)れながら仕事をさせられたために、その雑夫は風邪をひき、それから肋膜(ろくまく)を悪くしていた。寒くないときでも、始終身体をふるわしていた。子供らしくない皺(しわ)を眉(まゆ)の間に刻んで、血の気のない薄い唇を妙にゆがめて、疳(かん)のピリピリしているような眼差(まなざ)しをしていた。彼が寒さに堪えられなくなって、ボイラーの室にウロウロしていたところを、見付けられたのだった。
 出漁のために、川崎船をウインチから降していた漁夫達は、その二人を何も云えず、見送っていた。四十位の漁夫は、見ていられないという風に、顔をそむけると、イヤイヤをするように頭をゆるく二、三度振った。
「風邪をひいてもらったり、不貞寝(ふてね)をされてもらったりするために、高い金払って連れて来たんじゃないんだぜ。――馬鹿野郎、余計なものを見なくたっていい!」
 監督が甲板を棍棒(こんぼう)で叩いた。
「監獄だって、これより悪かったら、お目にかからないで!」
「こんなこと内地(くに)さ帰って、なんぼ話したって本当にしねんだ」
「んさ。――こったら事って第一あるか」
 スティムでウインチがガラガラ廻わり出した。川崎船は身体を空にゆすりながら、一斉に降り始めた。水夫や火夫も狩り立てられて、甲板のすべる足元に気を配りながら、走り廻っていた。それ等のなかを、監督は鶏冠(とさか)を立てた牡鶏(おんどり)のように見廻った。
 仕事の切れ目が出来たので、学生上りが一寸の間風を避けて、荷物のかげに腰を下していると、炭山(やま)から来た漁夫が口のまわりに両手を円く囲んで、ハア、ハア息をかけながら、ひょいと角を曲ってきた。
「生命(えのぢ)的(まと)だな!」それが――心からフイと出た実感が思わず学生の胸を衝(つ)いた。「やっぱし炭山と変らないで、死ぬ思いばしないと、生(え)きられないなんてな。――瓦斯(ガス)も恐(お)ッかねど、波もおっかねしな」
 昼過ぎから、空の模様がどこか変ってきた。薄い海霧(ガス)が一面に――然(しか)しそうでないと云われれば、そうとも思われる程、淡くかかった。波は風呂敷でもつまみ上げたように、無数に三角形に騒ぎ立った。風が急にマストを鳴らして吹いて行った。荷物にかけてあるズックの覆(おお)いの裾(すそ)がバタバタとデッキをたたいた。
「兎が飛ぶどオ――兎が!」誰か大声で叫んで、右舷のデッキを走って行った。その声が強い風にすぐちぎり取られて、意味のない叫び声のように聞こえた。
 もう海一面、三角波の頂きが白いしぶきを飛ばして、無数の兎があたかも大平原を飛び上っているようだった。――それがカムサツカの「突風」の前ブレだった。にわかに底潮の流れが早くなってくる。船が横に身体をずらし始めた。今まで右舷に見えていたカムサツカが、分らないうちに左舷になっていた。――船に居残って仕事をしていた漁夫や水夫は急に周章(あわ)て出した。
 すぐ頭の上で、警笛が鳴り出した。皆は立ち止ったまま、空を仰いだ。すぐ下にいるせいか、斜め後に突き出ている、思わない程太い、湯桶(ゆおけ)のような煙突が、ユキユキと揺れていた。その煙突の腹の独逸(ドイツ)帽のようなホイッスルから鳴る警笛が、荒れ狂っている暴風の中で、何か悲壮に聞えた。――遠く本船をはなれて、漁に出ている川崎船が絶え間なく鳴らされているこの警笛を頼りに、時化(しけ)をおかして帰って来るのだった。
 薄暗い機関室への降り口で、漁夫と水夫が固り合って騒いでいた。斜め上から、船の動揺の度に、チラチラ薄い光の束が洩(も)れていた。興奮した漁夫の色々な顔が、瞬間々々、浮き出て、消えた。
「どうした?」坑夫がその中に入り込んだ。
「浅川の野郎ば、なぐり殺すんだ!」殺気だっていた。
 監督は実は今朝早く、本船から十哩ほど離れたところに碇(とま)っていた××丸から「突風」の警戒報を受取っていた。それには若(も)し川崎船が出ていたら、至急呼戻すようにさえ附け加えていた。その時、「こんな事に一々ビク、ビクしていたら、このカムサツカまでワザワザ来て仕事なんか出来るかい」――そう浅川の云ったことが、無線係から洩れた。
 それを聞いた最初の漁夫は、無線係が浅川ででもあるように、怒鳴りつけた。「人間の命を何んだって思ってやがるんだ!」
「人間の命?」
「そうよ」
「ところが、浅川はお前達をどだい人間だなんて思っていないよ」
 何か云おうとした漁夫は吃(ども)ってしまった。彼は真赤になった。そして皆のところへかけ込んできたのだった。
 皆は暗い顔に、然し争われず底からジリ、ジリ来る興奮をうかべて、立ちつくしていた。父親が川崎船で出ている雑夫が、漁夫達の集っている輪の外をオドオドしていた。ステイが絶え間なしに鳴っていた。頭の上で鳴るそれを聞いていると、漁夫の心はギリ、ギリと切り苛(さ)いなまれた。
 夕方近く、ブリッジから大きな叫声が起った。下にいた者達はタラップの段を二つ置き位にかけ上った。――川崎船が二隻近づいてきたのだった。二隻はお互にロープを渡して結び合っていた。
 それは間近に来ていた。然し大きな波は、川崎船と本船を、ガタンコの両端にのせたように、交互に激しく揺り上げたり、揺り下げたりした。次ぎ、次ぎと、二つの間に波の大きなうねりがもり上って、ローリングした。目の前にいて、中々近付かない。――歯がゆかった。甲板からはロープが投げられた。が、とどかなかった。それは無駄なしぶきを散らして、海へ落ちた。そしてロープは海蛇のように、たぐり寄せられた。それが何度もくり返された。こっちからは皆声をそろえて呼んだ。が、それには答えなかった。漁夫達の顔の表情はマスクのように化石して、動かない。眼も何かを見た瞬間、そのまま硬(こ)わばったように動かない。――その情景は、漁夫達の胸を、眼(ま)のあたり見ていられない凄(すご)さで、えぐり刻んだ。
 又ロープが投げられた。始めゼンマイ形に――それから鰻(うなぎ)のようにロープの先きがのびたかと思うと――その端が、それを捕えようと両手をあげている漁夫の首根を、横なぐりにたたきつけた。皆は「アッ!」と叫んだ。漁夫はいきなり、そのままの恰好(かっこう)で横倒しにされた。が、つかんだ! ――ロープはギリギリとしまると、水のしたたりをしぼり落して、一直線に張った。こっちで見ていた漁夫達は、思わず肩から力を抜いた。
 ステイは絶え間なく、風の具合で、高くなったり、遠くなったり鳴っていた。夕方になるまでに二艘を残して、それでも全部帰ってくることが出来た。どの漁夫も本船のデッキを踏むと、それっきり気を失いかけた。一艘は水船になってしまったために、錨(いかり)を投げ込んで、漁夫が別の川崎に移って、帰ってきた。他の一艘は漁夫共に全然行衛不明だった。
 監督はブリブリしていた。何度も漁夫の部屋へ降りて来て、又上って行った。皆は焼き殺すような憎悪(ぞうお)に満ちた視線で、だまって、その度に見送った。
 翌日、川崎の捜索かたがた、蟹(かに)の後を追って、本船が移動することになった。「人間の五、六匹何んでもないけれども、川崎がいたまし」かったからだった。

 朝早くから、機関部が急がしかった。錨を上げる震動が、錨室と背中合せになっている漁夫を煎豆(いりまめ)のようにハネ飛ばした。サイドの鉄板がボロボロになって、その度にこぼれ落ちた。――博光丸は北緯五十一度五分の所まで、錨をなげてきた第一号川崎船を捜索した。結氷の砕片(かけら)が生きもののように、ゆるい波のうねりの間々に、ひょいひょい身体(からだ)を見せて流れていた。が、所々その砕けた氷が見る限りの大きな集団をなして、あぶくを出しながら、船を見る見るうちに真中に取囲んでしまう、そんなことがあった。氷は湯気のような水蒸気をたてていた。と、扇風機にでも吹かれるように「寒気」が襲ってきた。船のあらゆる部分が急にカリッ、カリッと鳴り出すと、水に濡れていた甲板や手すりに、氷が張ってしまった。船腹は白粉(おしろい)でもふりかけたように、霜の結晶でキラキラに光った。水夫や漁夫は両頬を抑(おさ)えながら、甲板を走った。船は後に長く、曠野(こうや)の一本道のような跡をのこして、つき進んだ。
 川崎船は中々見つからない。
 九時近い頃になって、ブリッジから、前方に川崎船が一艘浮かんでいるのを発見した。それが分ると、監督は「畜生、やっと分りゃがったど。畜生!」デッキを走って歩いて、喜んだ。すぐ発動機が降ろされた。が、それは探がしていた第一号ではなかった。それよりは、もっと新しい第36号と番号の打たれてあるものだった。明らかに×××丸のものらしい鉄の浮標(ヴイ)がつけられていた。それで見ると×××丸が何処(どこ)かへ移動する時に、元の位置を知るために、そうして置いて行ったものだった。
 浅川は川崎船の胴体を指先きで、トントンたたいていた。
「これアどうしてバンとしたもんだ」ニャッと笑った。「引いて行くんだ」
 そして第36号川崎船はウインチで、博光丸のブリッジに引きあげられた。川崎は身体を空でゆすりながら、雫(しずく)をバジャバジャ甲板に落した。「一(ひと)働きをしてきた」そんな大様な態度で、釣り上がって行く川崎を見ながら、監督が、
「大したもんだ。大したもんだ!」と、独言(ひとりごと)した。
 網さばきをやりながら、漁夫がそれを見ていた。「何んだ泥棒猫! チエンでも切れて、野郎の頭さたたき落ちればえんだ」
 監督は仕事をしている彼らの一人々々を、そこから何かえぐり出すような眼付きで、見下しながら、側を通って行った。そして大工をせっかちなドラ声で呼んだ。
 すると、別な方のハッチの口から、大工が顔を出した。
「何んです」
 見当外(はず)れをした監督は、振り返ると、怒りッぽく、「何んです? ――馬鹿。番号をけずるんだ。カンナ、カンナ」
 大工は分らない顔をした。
「あんぽんたん、来い!」
 肩巾(かたはば)の広い監督のあとから、鋸(のこぎり)の柄を腰にさして、カンナを持った小柄な大工が、びっこでも引いているような危い足取りで、甲板を渡って行った。――川崎船の第36号の「3」がカンナでけずり落されて、「第六号川崎船」になってしまった。
「これでよし。これでよし。うッはア、様(ざま)見やがれ!」監督は、口を三角形にゆがめると、背のびでもするように哄笑(こうしょう)した。
 これ以上北航しても、川崎船を発見する当がなかった。第三十六号川崎船の引上げで、足ぶみをしていた船は、元の位置に戻るために、ゆるく、大きくカーヴをし始めた。空は晴れ上って、洗われた後のように澄んでいた。カムサツカの連峰が絵葉書で見るスイッツルの山々のように、くっきりと輝いていた。

 行衛不明になった川崎船は帰らない。漁夫達は、そこだけが水溜(たま)りのようにポツンと空いた棚から、残して行った彼等の荷物や、家族のいる住所をしらべたり、それぞれ万一の時に直ぐ処置が出来るように取り纏(まと)めた。――気持のいいことではなかった。それをしていると、漁夫達は、まるで自分の痛い何処かを、覗(のぞ)きこまれているようなつらさを感じた。中積船が来たら托送(たくそう)しようと、同じ苗字(みょうじ)の女名前がその宛(あて)先きになっている小包や手紙が、彼等の荷物の中から出てきた。そのうちの一人の荷物の中から、片仮名と平仮名の交った、鉛筆をなめり、なめり書いた手紙が出た。それが無骨な漁夫の手から、手へ渡されて行った。彼等は豆粒でも拾うように、ボツリ、ボツリ、然(しか)しむさぼるように、それを読んでしまうと、嫌(いや)なものを見てしまったという風に頭をふって、次ぎに渡してやった。――子供からの手紙だった。
 ぐずりと鼻をならして、手紙から顔を上げると、カスカスした低い声で、「浅川のためだ。死んだと分ったら、弔い合戦をやるんだ」と云った。その男は図体の大きい、北海道の奥地で色々なことをやってきたという男だった。もっと低い声で、
「奴、一人位タタキ落せるべよ」若い、肩のもり上った漁夫が云った。
「あ、この手紙いけねえ。すっかり思い出してしまった」
「なア」最初のが云った。「うっかりしていれば、俺達だって奴にやられたんだで。他人(ひと)ごとでねえんだど」
 隅(すみ)の方で、立膝(たてひざ)をして、拇指(おやゆび)の爪(つめ)をかみながら、上眼をつかって、皆の云うのを聞いていた男が、その時、うん、うんと頭をふって、うなずいた。「万事、俺にまかせれ、その時ア! あの野郎一人グイとやってしまうから」
 皆はだまった。――だまったまま、然し、ホッとした。

 博光丸が元の位置に帰ってから、三日して突然(!)その行衛不明になった川崎船が、しかも元気よく帰ってきた。
 彼等は船長室から「糞壺」に帰ってくると、忽(たちま)ち皆に、渦巻のように取巻かれてしまった。
 ――彼等は「大暴風雨」のために、一たまりもなく操縦の自由をなくしてしまった。そうなればもう襟首(えりくび)をつかまれた子供より他愛なかった。一番遠くに出ていたし、それに風の工合も丁度反対の方向だった。皆は死ぬことを覚悟した。漁夫は何時でも「安々と」死ぬ覚悟をすることに「慣らされて」いた。
 が(!)こんなことは滅多にあるものではない。次の朝、川崎船は半分水船になったまま、カムサツカの岸に打ち上げられていた。そして皆は近所のロシア人に救われたのだった。
 そのロシア人の家族は四人暮しだった。女がいたり、子供がいたりする「家」というものに渇していた彼等にとって、其処(そこ)は何とも云えなく魅力だった。それに親切な人達ばかりで、色々と進んで世話をしてくれた。然し、初め皆はやっぱり、分らない言葉を云ったり、髪の毛や眼の色の異(ちが)う外国人であるということが無気味だった。
 何アんだ、俺達と同じ人間ではないか、ということが、然し直ぐ分らさった。
 難破のことが知れると、村の人達が沢山集ってきた。そこは日本の漁場などがある所とは、余程離れていた。
 彼等は其処に二日いて、身体を直し、そして帰ってきたのだった。「帰ってきたくはなかった」誰が、こんな地獄に帰りたいって! が、彼等の話は、それだけで終ってはいない。「面白いこと」がその外にかくされていた。
 丁度帰る日だった。彼等がストオヴの周(まわ)りで、身仕度をしながら話をしていると、ロシア人が四、五人入ってきた。――中に支那人が一人交っていた。――顔が巨(おおき)くて、赤い、短い鬚(ひげ)の多い、少し猫背の男が、いきなり何か大声で手振りをして話し出した。船頭は、自分達がロシア語は分らないのだという事を知らせるために、眼の前で手を振って見せた。ロシア人が一句切り云うと、その口元を見ていた支那人は日本語をしゃべり出した。それは聞いている方の頭が、かえってごじゃごじゃになってしまうような、順序の狂った日本語だった。言葉と言葉が酔払いのように、散り散りによろめいていた。
「貴方(あなた)方、金キット持っていない」
「そうだ」
「貴方方、貧乏人」
「そうだ」
「だから、貴方方、プロレタリア。――分る?」
「うん」
 ロシア人が笑いながら、その辺を歩き出した。時々立ち止って、彼等の方を見た。
「金持、貴方方をこれする。(首を締める恰好(かっこう)をする)金持だんだん大きくなる。(腹のふくれる真似(まね))貴方方どうしても駄目、貧乏人になる。――分る? ――日本の国、駄目。働く人、これ(顔をしかめて、病人のような恰好)働かない人、これ。えへん、えへん。(偉張って歩いてみせる)」
 それ等が若い漁夫には面白かった。「そうだ、そうだ!」と云って、笑い出した。
「働く人、これ。働かない人、これ。(前のを繰り返して)そんなの駄目。――働く人、これ。(今度は逆に、胸を張って偉張ってみせる、)働かない人、これ。(年取った乞食のような恰好)これ良ろし。――分かる? ロシアの国、この国。働く人ばかり。働く人ばかり、これ。(偉張る)ロシア、働かない人いない。ずるい人いない。人の首しめる人いない。――分る? ロシアちっとも恐ろしくない国。みんな、みんなウソばかり云って歩く」
 彼等は漠然と、これが「恐ろしい」「赤化」というものではないだろうか、と考えた。が、それが「赤化」なら、馬鹿に「当り前」のことであるような気が一方していた。然し何よりグイ、グイと引きつけられて行った。
「分る、本当、分る!」
 ロシア人同志が二、三人ガヤガヤ何かしゃべり出した。支那人はそれ等(ら)をきいていた。それから又吃(ども)りのように、日本の言葉を一つ、一つ拾いながら、話した。
「働かないで、お金儲(もう)ける人いる。プロレタリア、いつでも、これ。(首をしめられる恰好)――これ、駄目! プロレタリア、貴方方、一人、二人、三人……百人、千人、五万人、十万人、みんな、みんな、これ(子供のお手々つないで、の真似をしてみせる)強くなる。大丈夫。(腕をたたいて)負けない、誰にも。分る?」
「ん、ん!」
「働かない人、にげる。(一散に逃げる恰好)大丈夫、本当。働く人、プロレタリア、偉張る。(堂々と歩いてみせる)プロレタリア、一番偉い。――プロレタリア居ない。みんな、パン無い。みんな死ぬ。――分る?」
「ん、ん!」
「日本、まだ、まだ駄目。働く人、これ。(腰をかがめて縮こまってみせる)働かない人、これ。(偉張って、相手をなぐり倒す恰好)それ、みんな駄目! 働く人、これ。(形相凄(すご)く立ち上る、突ッかかって行く恰好。相手をなぐり倒し、フンづける真似)働かない人、これ。(逃げる恰好)――日本、働く人ばかり、いい国。――プロレタリアの国! ――分る?」
「ん、ん、分る!」
 ロシア人が奇声をあげて、ダンスの時のような足ぶみをした。
「日本、働く人、やる。(立ち上って、刃向う恰好)うれしい。ロシア、みんな嬉しい。バンザイ。――貴方方、船へかえる。貴方方の船、働かない人、これ。(偉張る)貴方方、プロレタリア、これ、やる!(拳闘のような真似――それからお手々つないでをやり、又突ッかかって行く恰好)――大丈夫、勝つ! ――分る?」
「分る!」知らないうちに興奮していた若い漁夫が、いきなり支那人の手を握った。「やるよ、キットやるよ!」
 船頭は、これが「赤化」だと思っていた。馬鹿に恐ろしいことをやらせるものだ。これで――この手で、露西亜が日本をマンマと騙(だま)すんだ、と思った。
 ロシア人達は終ると、何か叫声をあげて、彼等の手を力一杯握った。抱きついて、硬い毛の頬をすりつけたりした。面喰(めんくら)った日本人は、首を後に硬直さして、どうしていいか分らなかった。……。
 皆は、「糞壺」の入口に時々眼をやり、その話をもっともっとうながした。彼等は、それから見てきたロシア人のことを色々話した。そのどれもが、吸取紙に吸われるように、皆の心に入りこんだ。
「おい、もう止(よ)せよ」
 船頭は、皆が変にムキにその話に引き入れられているのを見て、一生懸命しゃべっている若い漁夫の肩を突ッついた。



 靄(もや)が下りていた。何時も厳しく機械的に組合わさっている通風パイプ、煙筒(チェムニー)、ウインチの腕、吊(つ)り下がっている川崎船、デッキの手すり、などが、薄ぼんやり輪廓をぼかして、今までにない親しみをもって見えていた。柔かい、生ぬるい空気が、頬(ほお)を撫(な)でて流れる。――こんな夜はめずらしかった。
 トモのハッチに近く、蟹の脳味噌の匂いがムッとくる。網が山のように積(つま)さっている間に、高さの跛(びっこ)な二つの影が佇(たたず)んでいた。
 過労から心臓を悪くして、身体が青黄く、ムクンでいる漁夫が、ドキッ、ドキッとくる心臓の音でどうしても寝れず、甲板に上ってきた。手すりにもたれて、フ糊でも溶かしたようにトロッとしている海を、ぼんやり見ていた。この身体では監督に殺される。然(しか)し、それにしては、この遠いカムサツカで、しかも陸も踏めずに死ぬのは淋(さび)し過ぎる。――すぐ考え込まさった。その時、網と網の間に、誰かいるのに漁夫が気付いた。
 蟹の甲殻の片(かけら)を時々ふむらしく、その音がした。
 ひそめた声が聞こえてきた。
 漁夫の眼が慣れてくると、それが分ってきた。十四、五の雑夫に漁夫が何か云っているのだった。何を話しているのかは分らなかった。後向きになっている雑夫は、時々イヤ、イヤをしている子供のように、すねているように、向きをかえていた。それにつれて、漁夫もその通り向きをかえた。それが少しの間続いた。漁夫は思わず(そんな風だった)高い声を出した。が、すぐ低く、早口に何か云った。と、いきなり雑夫を抱きすくめてしまった。喧嘩(けんか)だナ、と思った。着物で口を抑えられた「むふ、むふ……」という息声だけが、一寸(ちょっと)の間聞えていた。然し、そのまま動かなくなった。――その瞬間だった。柔かい靄の中に、雑夫の二本の足がローソクのように浮かんだ。下半分が、すっかり裸になってしまっている。それから雑夫はそのまま蹲(しゃが)んだ。と、その上に、漁夫が蟇(がま)のように覆(おお)いかぶさった。それだけが「眼の前」で、短かい――グッと咽喉(のど)につかえる瞬間に行われた。見ていた漁夫は、思わず眼をそらした。酔わされたような、撲(な)ぐられたような興奮をワクワクと感じた。
 漁夫達はだんだん内からむくれ上ってくる性慾に悩まされ出してきていた。四カ月も、五カ月も不自然に、この頑丈(がんじょう)な男達が「女」から離されていた。――函館で買った女の話や、露骨な女の陰部の話が、夜になると、きまって出た。一枚の春画がボサボサに紙に毛が立つほど、何度も、何度もグルグル廻された。
…………
床とれの、
こちら向けえの、
口すえの、
足をからめの、
気をやれの、
ホンに、つとめはつらいもの。

 誰か歌った。すると、一度で、その歌が海綿にでも吸われるように、皆に覚えられてしまった。何かすると、すぐそれを歌い出した。そして歌ってしまってから、「えッ、畜生!」と、ヤケに叫んだ、眼だけ光らせて。
 漁夫達は寝てしまってから、
「畜生、困った! どうしたって眠(ね)れないや」と、身体をゴロゴロさせた。「駄目だ、伜が立って!」
「どうしたら、ええんだ!」――終(しま)いに、そう云って、勃起(ぼっき)している睾丸(きんたま)を握りながら、裸で起き上ってきた。大きな身体の漁夫の、そうするのを見ると、身体のしまる、何か凄惨(せいさん)な気さえした。度胆(どぎも)を抜かれた学生は、眼だけで隅(すみ)の方から、それを見ていた。
 夢精をするのが何人もいた。誰もいない時、たまらなくなって自涜をするものもいた。――棚(たな)の隅にカタのついた汚れた猿又や褌(ふんどし)が、しめっぽく、すえた臭(にお)いをして円(まる)められていた。学生はそれを野糞のように踏みつけることがあった。
 ――それから、雑夫の方へ「夜這(よば)い」が始まった。バットをキャラメルに換えて、ポケットに二つ三つ入れると、ハッチを出て行った。
 便所臭い、漬物樽(つけものだる)の積まさっている物置を、コックが開けると、薄暗い、ムッとする中から、いきなり横ッ面でもなぐられるように、怒鳴られた。
「閉めろッ! 今、入ってくると、この野郎、タタキ殺すぞ!」

        ×     ×     ×

 無電係が、他船の交換している無電を聞いて、その収獲を一々監督に知らせた。それで見ると、本船がどうしても負けているらしい事が分ってきた。監督がアセリ出した。すると、テキ面にそのことが何倍かの強さになって、漁夫や雑夫に打ち当ってきた。――何時(いつ)でも、そして、何んでもドン詰りの引受所が「彼等」だけだった。監督や雑夫長はわざと「船員」と「漁夫、雑夫」との間に、仕事の上で競争させるように仕組んだ。
 同じ蟹(かに)つぶしをしていながら、「船員に負けた」となると、(自分の儲(もう)けになる仕事でもないのに)漁夫や雑夫は「何に糞ッ!」という気になる。監督は「手を打って」喜んだ。今日勝った、今日負けた、今度こそ負けるもんか――血の滲(にじ)むような日が滅茶苦茶に続く。同じ日のうちに、今までより五、六割も殖(ふ)えていた。然し五日、六日になると、両方とも気抜けしたように、仕事の高がズシ、ズシ減って行った。仕事をしながら、時々ガクリと頭を前に落した。監督はものも云わないで、なぐりつけた。不意を喰(く)らって、彼等は自分でも思いがけない悲鳴を「キャッ!」とあげた。――皆は敵(かたき)同志か、言葉を忘れてしまった人のように、お互にだまりこくって働いた。ものを云うだけのぜいたくな「余分」さえ残っていなかった。
 監督は然し、今度は、勝った組に「賞品」を出すことを始めた。燻(くすぶ)りかえっていた木が、又燃え出した。
「他愛のないものさ」監督は、船長室で、船長を相手にビールを飲んでいた。
 船長は肥えた女のように、手の甲にえくぼが出ていた。器用に金口(きんぐち)をトントンとテーブルにたたいて、分らない笑顔(えがお)で答えた。――船長は、監督が何時でも自分の眼の前で、マヤマヤ邪魔をしているようで、たまらなく不快だった。漁夫達がワッと事を起して、此奴をカムサツカの海へたたき落すようなことでもないかな、そんな事を考えていた。
 監督は「賞品」の外に、逆に、一番働きの少いものに「焼き」を入れることを貼紙(はりがみ)した。鉄棒を真赤に焼いて、身体にそのまま当てることだった。彼等は何処まで逃げても離れない、まるで自分自身の影のような「焼き」に始終追いかけられて、仕事をした。仕事が尻上(しりあが)りに、目盛りをあげて行った。
 人間の身体には、どの位の限度があるか、然しそれは当の本人よりも監督の方が、よく知っていた。――仕事が終って、丸太棒のように棚(たな)の中に横倒れに倒れると、「期せずして」う、う――、うめいた。
 学生の一人は、小さい時は祖母に連れられて、お寺の薄暗いお堂の中で見たことのある「地獄」の絵が、そのままこうであることを思い出した。それは、小さい時の彼には、丁度うわばみのような動物が、沼地ににょろ、にょろと這(は)っているのを思わせた。それとそっくり同じだった。――過労がかえって皆を眠らせない。夜中過ぎて、突然、硝子(ガラス)の表に思いッ切り疵(きず)を付けるような無気味な歯ぎしりが起ったり、寝言や、うなされているらしい突調子(とっぴょうし)な叫声が、薄暗い「糞壺」の所々から起った。
 彼等は寝れずにいるとき、フト、「よく、まだ生きているな……」と自分で自分の生身の身体にささやきかえすことがある。よく、まだ生きている。――そう自分の身体に!
 学生上りは一番「こたえて」いた。
「ドストイェフスキーの死人の家な、ここから見れば、あれだって大したことでないって気がする」――その学生は、糞(くそ)が何日もつまって、頭を手拭(てぬぐい)で力一杯に締めないと、眠れなかった。
「それアそうだろう」相手は函館からもってきたウイスキーを、薬でも飲むように、舌の先きで少しずつ嘗(な)めていた。「何んしろ大事業だからな。人跡未到の地の富源を開発するッてんだから、大変だよ。――この蟹工船(かにこうせん)だって、今はこれで良くなったそうだよ。天候や潮流の変化の観測が出来なかったり、地理が実際にマスターされていなかったりした創業当時は、幾ら船が沈没したりしたか分らなかったそうだ。露国の船には沈められる、捕虜になる、殺される、それでも屈しないで、立ち上り、立ち上り苦闘して来たからこそ、この大富源が俺たちのものになったのさ。……まア仕方がないさ」
「…………」
 ――歴史が何時でも書いているように、それはそうかも知れない気がする。然し、彼の心の底にわだかまっているムッとした気持が、それでちっとも晴れなく思われた。彼は黙ってベニヤ板のように固くなっている自分の腹を撫(な)でた。弱い電気に触れるように、拇指(おやゆび)のあたりが、チャラチャラとしびれる。イヤな気持がした。拇指を眼の高さにかざして、片手でさすってみた。――皆は、夕飯が終って、「糞壺」の真中に一つ取りつけてある、割目が地図のように入っているガタガタのストーヴに寄っていた。お互の身体が少し温(あたたま)ってくると、湯気が立った。蟹の生ッ臭い匂(にお)いがムレて、ムッと鼻に来た。
「何んだか、理窟は分らねども、殺されたくねえで」
「んだよ!」
 憂々した気持が、もたれかかるように、其処(そこ)へ雪崩(なだ)れて行く。殺されかかっているんだ! 皆はハッキリした焦点もなしに、怒りッぽくなっていた。
「お、俺だちの、も、ものにもならないのに、く、糞(くそ)、こッ殺されてたまるもんか!」
 吃(ども)りの漁夫が、自分でももどかしく、顔を真赤に筋張らせて、急に、大きな声を出した。
 一寸(ちょっと)、皆だまった。何かにグイと心を「不意」に突き上げられた――のを感じた。
「カムサツカで死にたくないな……」
「…………」
「中積船、函館ば出たとよ。――無電係の人云ってた」
「帰りてえな」
「帰れるもんか」
「中積船でヨク逃げる奴がいるってな」
「んか※(感嘆符疑問符、1-8-78) ……ええな」
「漁に出る振りして、カムサツカの陸さ逃げて、露助と一緒に赤化宣伝ばやってるものもいるッてな」
「…………」
「日本帝国のためか、――又、いい名義を考えたもんだ」――学生は胸のボタンを外(はず)して、階段のように一つ一つ窪(くぼ)みの出来ている胸を出して、あくびをしながら、ゴシゴシ掻(か)いた。垢(あか)が乾いて、薄い雲母のように剥(は)げてきた。
「んよ、か、会社の金持ばかり、ふ、ふんだくるくせに」
 カキの貝殻のように、段々のついた、たるんだ眼蓋(まぶた)から、弱々しい濁った視線をストオヴの上にボンヤリ投げていた中年を過ぎた漁夫が唾(つば)をはいた。ストオヴの上に落ちると、それがクルックルッと真円(まんまる)にまるくなって、ジュウジュウ云いながら、豆のように跳(は)ね上って、見る間に小さくなり、油煙粒ほどの小さいカスを残して、無くなった。皆はそれにウカツな視線を投げている。
「それ、本当かも知れないな」
 然し、船頭が、ゴム底タビの赤毛布の裏を出して、ストーヴにかざしながら、「おいおい叛逆(てむかい)なんかしないでけれよ」と云った。
「…………」
「勝手だべよ。糞」吃りが唇を蛸(たこ)のように突き出した。
 ゴムの焼けかかっているイヤな臭いがした。
「おい、親爺(おど)、ゴム!」
「ん、あ、こげた!」
 波が出て来たらしく、サイドが微(かす)かになってきた。船も子守唄(うた)程に揺れている。腐った海漿(ほおずき)のような五燭燈でストーヴを囲んでいるお互の、後に落ちている影が色々にもつれて、組合った。――静かな夜だった。ストーヴの口から赤い火が、膝(ひざ)から下にチラチラと反映していた。不幸だった自分の一生が、ひょいと――まるッきり、ひょいと、しかも一瞬間だけ見返される――不思議に静かな夜だった。
「煙草無(ね)えか?」
「無え……」
「無えか?……」
「なかったな」
「糞」
「おい、ウイスキーをこっちにも廻せよ、な」
 相手は角瓶(かくびん)を逆かさに振ってみせた。
「おッと、勿体(もったい)ねえことするなよ」
「ハハハハハハハ」
「飛んでもねえ所さ、然し来たもんだな、俺も……」その漁夫は芝浦の工場にいたことがあった。そこの話がそれから出た。それは北海道の労働者達には「工場」だとは想像もつかない「立派な処」に思われた。「ここの百に一つ位のことがあったって、あっちじゃストライキだよ」と云った。
 その事から――そのキッかけで、お互の今までしてきた色々のことが、ひょいひょいと話に出てきた。「国道開たく工事」「灌漑(かんがい)工事」「鉄道敷設」「築港埋立」「新鉱発掘」「開墾」「積取人夫」「鰊(にしん)取り」――殆(ほと)んど、そのどれかを皆はしてきていた。
 ――内地では、労働者が「横平(おうへい)」になって無理がきかなくなり、市場も大体開拓されつくして、行詰ってくると、資本家は「北海道・樺太へ!」鉤爪(かぎづめ)をのばした。其処(そこ)では、彼等は朝鮮や、台湾の殖民地と同じように、面白い程無茶な「虐使」が出来た。然し、誰も、何んとも云えない事を、資本家はハッキリ呑み込んでいた。「国道開たく」「鉄道敷設」の土工部屋では、虱(しらみ)より無雑作に土方がタタき殺された。虐使に堪(た)えられなくて逃亡する。それが捕(つか)まると、棒杭(ぼうぐい)にしばりつけて置いて、馬の後足で蹴(け)らせたり、裏庭で土佐犬に噛(か)み殺させたりする。それを、しかも皆の目の前でやってみせるのだ。肋骨(ろっこつ)が胸の中で折れるボクッとこもった音をきいて、「人間でない」土方さえ思わず顔を抑えるものがいた。気絶をすれば、水をかけて生かし、それを何度も何度も繰りかえした。終(しま)いには風呂敷包みのように、土佐犬の強靱(きょうじん)な首で振り廻わされて死ぬ。ぐったり広場の隅(すみ)に投げ出されて、放って置かれてからも、身体の何処かが、ピクピクと動いていた。焼火箸(やけひばし)をいきなり尻にあてることや、六角棒で腰が立たなくなる程なぐりつけることは「毎日」だった。飯を食っていると、急に、裏で鋭い叫び声が起る。すると、人の肉が焼ける生ッ臭い匂いが流れてきた。
「やめた、やめた。――とても飯なんて、食えたもんじゃねえや」
 箸を投げる。が、お互暗い顔で見合った。
 脚気(かっけ)では何人も死んだ。無理に働かせるからだった。死んでも「暇がない」ので、そのまま何日も放って置かれた。裏へ出る暗がりに、無雑作にかけてあるムシロの裾(すそ)から、子供のように妙に小さくなった、黄黒く、艶(つや)のない両足だけが見えた。
「顔に一杯蠅(はえ)がたかっているんだ。側を通ったとき、一度にワアーンと飛び上るんでないか!」
 額を手でトントン打ちながら入ってくると、そう云う者があった。
 皆は朝は暗いうちに仕事場に出された。そして鶴嘴(つるはし)のさきがチラッ、チラッと青白く光って、手元が見えなくなるまで、働かされた。近所に建っている監獄で働いている囚人の方を、皆はかえって羨(うらやま)しがった。殊(こと)に朝鮮人は親方、棒頭(ぼうがしら)からも、同じ仲間の土方(日本人の)からも「踏んづける」ような待遇をうけていた。
 其処から四、五里も離れた村に駐在している巡査が、それでも時々手帖をもって、取調べにテクテクやってくる。夕方までいたり、泊りこんだりした。然し土方達の方へは一度も顔を見せなかった。そして、帰りには真赤な顔をして、歩きながら道の真中を、消防の真似(まね)でもしているように、小便を四方にジャジャやりながら、分らない独言を云って帰って行った。
 北海道では、字義通り、どの鉄道の枕木もそれはそのまま一本々々労働者の青むくれた「死骸」だった。築港の埋立には、脚気の土工が生きたまま「人柱」のように埋められた。――北海道の、そういう労働者を「タコ(蛸)」と云っている。蛸は自分が生きて行くためには自分の手足をも食ってしまう。これこそ、全くそっくりではないか! そこでは誰をも憚(はばか)らない「原始的」な搾取が出来た。「儲(もう)け」がゴゾリ、ゴゾリ掘りかえってきた。しかも、そして、その事を巧みに「国家的」富源の開発ということに結びつけて、マンマと合理化していた。抜目がなかった。「国家」のために、労働者は「腹が減り」「タタき殺されて」行った。
「其処(あこ)から生きて帰れたなんて、神助け事だよ。有難かったな! んでも、この船で殺されてしまったら、同じだべよ。――何アーんでえ!」そして突調子(とっぴょうし)なく大きく笑った。その漁夫は笑ってしまってから、然し眉(まゆ)のあたりをアリアリと暗くして、横を向いた。
 鉱山(やま)でも同じだった。――新しい山に坑道を掘る。そこにどんな瓦斯(ガス)が出るか、どんな飛んでもない変化が起るか、それを調べあげて一つの確針をつかむのに、資本家は「モルモット」より安く買える「労働者」を、乃木軍神がやったと同じ方法で、入り代り、立ち代り雑作なく使い捨てた。鼻紙より無雑作に! 「マグロ」の刺身のような労働者の肉片が、坑道の壁を幾重にも幾重にも丈夫にして行った。都会から離れていることを好い都合にして、此処でもやはり「ゾッ」とすることが行われていた。トロッコで運んでくる石炭の中に拇指(おやゆび)や小指がバラバラに、ねばって交ってくることがある。女や子供はそんな事には然し眉を動かしてはならなかった。そう「慣らされていた」彼等は無表情に、それを次の持場まで押してゆく。――その石炭が巨大な機械を、資本家の「利潤」のために動かした。
 どの坑夫も、長く監獄に入れられた人のように、艶(つや)のない黄色くむくんだ、始終ボンヤリした顔をしていた。日光の不足と、炭塵(たんじん)と、有毒ガスを含んだ空気と、温度と気圧の異常とで、眼に見えて身体がおかしくなってゆく。「七、八年も坑夫をしていれば、凡(およ)そ四、五年間位は打(ぶ)ッ続けに真暗闇(まっくらやみ)の底にいて、一度だって太陽を拝まなかったことになる、四、五年も!」――だが、どんな事があろうと、代りの労働者を何時でも沢山仕入れることの出来る資本家には、そんなことはどうでもいい事であった。冬が来ると、「やはり」労働者はその坑山に流れ込んで行った。
 それから「入地百姓」――北海道には「移民百姓」がいる。「北海道開拓」「人口食糧問題解決、移民奨励」、日本少年式な「移民成金」など、ウマイ事ばかり並べた活動写真を使って、田畑を奪われそうになっている内地の貧農を煽動(せんどう)して、移民を奨励して置きながら、四、五寸も掘り返せば、下が粘土ばかりの土地に放り出される。豊饒(ほうじょう)な土地には、もう立札が立っている。雪の中に埋められて、馬鈴薯も食えずに、一家は次の春には餓死することがあった。それは「事実」何度もあった。雪が溶けた頃になって、一里も離れている「隣りの人」がやってきて、始めてそれが分った。口の中から、半分嚥(の)みかけている藁屑(わらくず)が出てきたりした。
 稀(ま)れに餓死から逃れ得ても、その荒ブ地を十年もかかって耕やし、ようやくこれで普通の畑になったと思える頃、実はそれにちアんと、「外の人」のものになるようになっていた。資本家は――高利貸、銀行、華族、大金持は、嘘(うそ)のような金を貸して置けば、(投げ捨てて置けば)荒地は、肥えた黒猫の毛並のように豊饒な土地になって、間違なく、自分のものになってきた。そんな事を真似て、濡手をきめこむ、目の鋭い人間も、又北海道に入り込んできた。――百姓は、あっちからも、こっちからも自分のものを噛(か)みとられて行った。そして終(しま)いには、彼等が内地でそうされたと同じように「小作人」にされてしまっていた。そうなって百姓は始めて気付いた。――「失敗(しま)った!」
 彼等は少しでも金を作って、故里(ふるさと)の村に帰ろう、そう思って、津軽海峡を渡って、雪の深い北海道へやってきたのだった。――蟹工船にはそういう、自分の土地を「他人」に追い立てられて来たものが沢山いた。
 積取人夫は蟹工船の漁夫と似ていた。監視付きの小樽(おたる)の下宿屋にゴロゴロしていると、樺太(かばふと)や北海道の奥地へ船で引きずられて行く。足を「一寸(いっすん)」すべらすと、ゴンゴンゴンとうなりながら、地響をたてて転落してくる角材の下になって、南部センベイよりも薄くされた。ガラガラとウインチで船に積まれて行く、水で皮がペロペロになっている材木に、拍子を食って、一なぐりされると、頭のつぶれた人間は、蚤(のみ)の子よりも軽く、海の中へたたき込まれた。
 ――内地では、何時までも、黙って「殺されていない」労働者が一かたまりに固って、資本家へ反抗している。然し「殖民地」の労働者は、そういう事情から完全に「遮断(しゃだん)」されていた。
 苦しくて、苦しくてたまらない。然し転(ころ)んで歩けば歩く程、雪ダルマのように苦しみを身体に背負い込んだ。
「どうなるかな……?」
「殺されるのさ、分ってるべよ」
「…………」何か云いたげな、然しグイとつまったまま、皆だまった。
「こ、こ、殺される前に、こっちから殺してやるんだ」どもりがブッきら棒に投げつけた。
 トブーン、ドブーンとゆるく腹(サイド)に波が当っている。上甲板の方で、何処かのパイプからスティムがもれているらしく、シー、シ――ン、シ――ンという鉄瓶(てつびん)のたぎるような、柔かい音が絶えずしていた。

 寝る前に、漁夫達は垢(あか)でスルメのようにガバガバになったメリヤスやネルのシャツを脱いで、ストーヴの上に広げた。囲んでいるもの達が、炬燵(こたつ)のように各※(二の字点、1-2-22)その端をもって、熱くしてからバタバタとほろった。ストーヴの上に虱(しらみ)や南京虫が落ちると、プツン、プツンと、音をたてて、人が焼ける時のような生ッ臭い臭(にお)いがした。熱くなると、居たまらなくなった虱が、シャツの縫目から、細かい沢山の足を夢中に動かして、出て来る。つまみ上げると、皮膚の脂肪(あぶら)ッぽいコロッとした身体の感触がゾッときた。かまきり虫のような、無気味な頭が、それと分る程肥えているのもいた。
「おい、端を持ってけれ」
 褌(ふんどし)の片端を持ってもらって、広げながら虱をとった。
 漁夫は虱を口に入れて、前歯で、音をさせてつぶしたり、両方の拇指(おやゆび)の爪で、爪が真赤になるまでつぶした。子供が汚い手をすぐ着物に拭(ふ)くように、袢天(はんてん)の裾(すそ)にぬぐうと、又始めた。――それでも然し眠れない。何処から出てくるか、夜通し虱と蚤(のみ)と南京虫(ナンキンむし)に責められる。いくらどうしても退治し尽されなかった。薄暗く、ジメジメしている棚に立っていると、すぐモゾモゾと何十匹もの蚤が脛(すね)を這(は)い上ってきた。終(しま)いには、自分の体の何処かが腐ってでもいないのか、と思った。蛆(うじ)や蠅に取りつかれている腐爛(ふらん)した「死体」ではないか、そんな不気味さを感じた。
 お湯には、初め一日置きに入れた。身体が生ッ臭くよごれて仕様がなかった。然し一週間もすると、三日置きになり、一カ月位経つと、一週間一度。そしてとうとう月二回にされてしまった。水の濫費(らんぴ)を防ぐためだった。然し、船長や監督は毎日お湯に入った。それは濫費にはならなかった。(!)――身体が蟹の汁で汚れる、それがそのまま何日も続く、それで虱か南京虫が湧(わ)かない「筈(はず)」がなかった。
 褌を解くと、黒い粒々がこぼれ落ちた。褌をしめたあとが、赤くかたがついて、腹に輪を作った。そこがたまらなく掻(か)ゆかった。寝ていると、ゴシゴシと身体をやけにかく音が何処からも起った。モゾモゾと小さいゼンマイのようなものが、身体の下側を走るかと思うと――刺す。その度に漁夫は身体をくねらし、寝返りを打った。然し又すぐ同じだった。それが朝まで続く。皮膚が皮癬(ひぜん)のように、ザラザラになった。
「死に虱だべよ」
「んだ、丁度ええさ」
 仕方なく、笑ってしまった。



 あわてた漁夫が二、三人デッキを走って行った。
 曲り角で、急にまがれず、よろめいて、手すりにつかまった。サロン・デッキで修繕をしていた大工が背のびをして、漁夫の走って行った方を見た。寒風の吹きさらしで、涙が出て、初め、よく見えなかった。大工は横を向いて勢いよく「つかみ鼻」をかんだ。鼻汁が風にあふられて、歪(ゆが)んだ線を描いて飛んだ。
 ともの左舷のウインチがガラガラなっている。皆漁に出ている今、それを動かしているわけがなかった。ウインチにはそして何かブラ下っていた。それが揺れている。吊(つ)り下がっているワイヤーが、その垂直線の囲りを、ゆるく円を描いて揺れていた。「何んだべ?」――その時、ドキッと来た。
 大工は周章(あわて)たように、もう一度横を向いて「つかみ鼻」をかんだ。それが風の工合でズボンにひっかかった。トロッとした薄い水鼻だった。
「又、やってやがる」大工は涙を何度も腕で拭(ぬぐ)いながら眼をきめた。
 こっちから見ると、雨上りのような銀灰色の海をバックに、突き出ているウインチの腕、それにすっかり身体を縛られて、吊し上げられている雑夫が、ハッキリ黒く浮び出てみえた。ウインチの先端まで空を上ってゆく。そして雑巾(ぞうきん)切れでもひッかかったように、しばらくの間――二十分もそのままに吊下げられている。それから下がって行った。身体をくねらして、もがいているらしく、両足が蜘蛛(くも)の巣にひっかかった蠅(はえ)のように動いている。
 やがて手前のサロンの陰になって、見えなくなった。一直線に張っていたワイヤーだけが、時々ブランコのように動いた。
 涙が鼻に入ってゆくらしく、水鼻がしきりに出た。大工は又「つかみ鼻」をした。それから横ポケットにブランブランしている金槌(かなづち)を取って、仕事にかかった。
 大工はひょいと耳をすまして――振りかえって見た。ワイヤ・ロープが、誰か下で振っているように揺れていて、ボクンボクンと鈍い不気味な音は其処(そこ)からしていた。
 ウインチに吊された雑夫は顔の色が変っていた。死体のように堅くしめている唇から、泡(あわ)を出していた。大工が下りて行った時、雑夫長が薪(まき)を脇(わき)にはさんで、片肩を上げた窮屈な恰好(かっこう)で、デッキから海へ小便をしていた。あれでなぐったんだな、大工は薪をちらっと見た。小便は風が吹く度に、ジャ、ジャとデッキの端にかかって、はねを飛ばした。
 漁夫達は何日も何日も続く過労のために、だんだん朝起きられなくなった。監督が石油の空罐(あきかん)を寝ている耳もとでたたいて歩いた。眼を開けて、起き上るまで、やけに罐をたたいた。脚気(かっけ)のものが、頭を半分上げて何か云っている。然(しか)し監督は見ない振りで、空罐をやめない。声が聞えないので、金魚が水際に出てきて、空気を吸っている時のように、口だけパクパク動いてみえた。いい加減たたいてから、
「どうしたんだ、タタき起すど!」と怒鳴りつけた。「いやしくも仕事が国家的である以上、戦争と同じなんだ。死ぬ覚悟で働け! 馬鹿野郎」
 病人は皆蒲団(ふとん)を剥(は)ぎとられて、甲板へ押し出された。脚気のものは階段の段々に足先きがつまずいた。手すりにつかまりながら、身体を斜めにして、自分の足を自分の手で持ち上げて、階段を上がった。心臓が一足毎に無気味にピンピン蹴(け)るようにはね上った。
 監督も、雑夫長も病人には、継子(ままこ)にでも対するようにジリジリと陰険だった。「肉詰」をしていると追い立てて、甲板で「爪たたき」をさせられる。それを一寸(ちょっと)していると「紙巻」の方へ廻わされる。底寒くて、薄暗い工場の中ですべる足元に気をつけながら、立ちつくしていると、膝(ひざ)から下は義足に触るより無感覚になり、ひょいとすると膝の関節が、蝶(ちょう)つがいが離れたように、不覚にヘナヘナと坐り込んでしまいそうになった。
 学生が蟹をつぶした汚れた手の甲で、額を軽くたたいていた。一寸すると、そのまま横倒しに後へ倒れてしまった。その時、側に積(か)さなっていた罐詰の空罐がひどく音をたてて、学生の倒れた上に崩れ落ちた。それが船の傾斜に沿って、機械の下や荷物の間に、光りながら円るく転んで行った。仲間が周章てて学生をハッチに連れて行こうとした。それが丁度、監督が口笛を吹きながら工場に下りてきたのと、会った。ひょいと見てとると、
「誰が仕事を離れったんだ!」
「誰が※(感嘆符疑問符、1-8-78)……」思わずグッと来た一人が、肩でつッかかるようにせき込んだ。
「誰がア――? この野郎、もう一度云ってみろ!」監督はポケットからピストルを取り出して、玩具のようにいじり廻わした。それから、急に大声で、口を三角形にゆがめながら、背のびをするように身体をゆすって、笑い出した。
「水を持って来い!」
 監督は桶(おけ)一杯に水を受取ると、枕木のように床に置き捨てになっている学生の顔に、いきなり――一度に、それを浴せかけた。
「これでええんだ。――要(い)らないものなんか見なくてもええ、仕事でもしやがれ!」
 次の朝、雑夫が工場に下りて行くと、旋盤の鉄柱に、前の日の学生が縛りつけられているのを見た。首をひねられた鶏のように、首をガクリ胸に落し込んで、背筋の先端に大きな関節を一つポコンと露(あら)わに見せていた。そして子供の前掛けのように、胸に、それが明らかに監督の筆致で、
「此者ハ不忠ナル偽病者ニツキ、麻縄(あさなわ)ヲ解クコトヲ禁ズ」
 と書いたボール紙を吊していた。
 額に手をやってみると、冷えきった鉄に触るより冷たくなっている。雑夫等は工場に入るまで、ガヤガヤしゃべっていた。それが誰も口をきくものがない。後から雑夫長の下りてくる声をきくと、彼等はその学生の縛られている機械から二つに分れて各々の持場に流れて行った。
 蟹漁が忙がしくなると、ヤケに当ってくる。前歯を折られて、一晩中「血の唾」をはいたり、過労で作業中に卒倒したり、眼から血を出したり、平手で滅茶苦茶に叩(たた)かれて、耳が聞えなくなったりした。あんまり疲れてくると、皆は酒に酔ったよりも他愛なくなった。時間がくると、「これでいい」と、フト安心すると、瞬間クラクラッとした。
 皆が仕舞いかけると、
「今日は九時までだ」と監督が怒鳴って歩いた。「この野郎達、仕舞いだッて云う時だけ、手廻わしを早くしやがって!」
 皆は高速度写真のようにノロノロ又立ち上った。それしか気力がなくなっていた。
「いいか、此処(ここ)へは二度も、三度も出直して来れるところじゃないんだ。それに何時(いつ)だって蟹が取れるとも限ったものでもないんだ。それを一日の働きが十時間だから十三時間だからって、それでピッタリやめられたら、飛んでもないことになるんだ。――仕事の性質(たち)が異(ちが)うんだ。いいか、その代り蟹が採れない時は、お前達を勿体ない程ブラブラさせておくんだ」監督は「糞壺」へ降りてきて、そんなことを云った。「露助はな、魚が何んぼ眼の前で群化(くき)てきても、時間が来れば一分も違わずに、仕事をブン投げてしまうんだ。んだから――んな心掛けだから露西亜(ロシア)の国がああなったんだ。日本男児の断じて真似(まね)てならないことだ!」
 何に云ってるんだ、ペテン野郎! そう思って聞いていないものもあった。然し大部分は監督にそう云われると日本人はやはり偉いんだ、という気にされた。そして自分達の毎日の残虐な苦しさが、何か「英雄的」なものに見え、それがせめても皆を慰めさせた。
 甲板で仕事をしていると、よく水平線を横切って、駆逐艦が南下して行った。後尾に日本の旗がはためくのが見えた。漁夫等は興奮から、眼に涙を一杯ためて、帽子をつかんで振った。――あれだけだ。俺達の味方は、と思った。
「畜生、あいつを見ると、涙が出やがる」
 だんだん小さくなって、煙にまつわって見えなくなるまで見送った。
 雑巾切れのように、クタクタになって帰ってくると、皆は思い合わせたように、相手もなく、ただ「畜生!」と怒鳴った。暗がりで、それは憎悪(ぞうお)に満ちた牡牛(おうし)の唸(うな)り声に似ていた。誰に対してか彼等自身分ってはいなかったが、然し毎日々々同じ「糞壺」の中にいて、二百人近くのもの等がお互にブッキラ棒にしゃべり合っているうちに、眼に見えずに、考えること、云うこと、することが、(なめくじが地面を匐(は)うほどののろさだが)同じになって行った。――その同じ流れのうちでも、勿論澱(よど)んだように足ぶみをするものが出来たり、別な方へ外(そ)れて行く中年の漁夫もある。然しそのどれもが、自分では何んにも気付かないうちに、そうなって行き、そして何時の間にか、ハッキリ分れ、分れになっていた。
 朝だった。タラップをノロノロ上りながら、炭山(やま)から来た男が、
「とても続かねえや」と云った。
 前の日は十時近くまでやって、身体は壊(こわ)れかかった機械のようにギクギクしていた。タラップを上りながら、ひょいとすると、眠っていた。後から「オイ」と声をかけられて思わず手と足を動かす。そして、足を踏み外(はず)して、のめったまま腹ん這(ば)いになった。
 仕事につく前に、皆が工場に降りて行って、片隅(かたすみ)に溜(たま)った。どれも泥人形のような顔をしている。
「俺ア仕事サボるんだ。出来ねえ」――炭山(やま)だった。
 皆も黙ったまま、顔を動かした。
 一寸して、
「大焼きが入るからな……」と誰か云った。
「ずるけてサボるんでねえんだ。働けねえからだよ」
 炭山(やま)が袖を上膊(じょうはく)のところまで、まくり上げて、眼の前ですかして見るようにかざした。
「長げえことねえんだ。――俺アずるけてサボるんでねえんだど」
「それだら、そんだ」
「…………」
 その日、監督は鶏冠(とさか)をピンと立てた喧嘩鶏(けんかどり)のように、工場を廻って歩いていた。「どうした、どうした※(感嘆符疑問符、1-8-78)」と怒鳴り散らした。がノロノロと仕事をしているのが一人、二人でなしに、あっちでも、こっちでも――殆(ほと)んど全部なので、ただイライラ歩き廻ることしか出来なかった。漁夫達も船員もそういう監督を見るのは始めてだった。上甲板で、網から外した蟹が無数に、ガサガサと歩く音がした。通りの悪い下水道のように、仕事がドンドンつまって行った。然し「監督の棍棒(こんぼう)」が何の役にも立たない!
 仕事が終ってから、煮しまった手拭(てぬぐい)で首を拭きながら、皆ゾロゾロ「糞壺」に帰ってきた。顔を見合うと、思わず笑い出した。それが何故(なぜ)か分らずに、おかしくて、おかしくて仕様がなかった。
 それが船員の方にも移って行った。船員を漁夫とにらみ合わせて、仕事をさせ、いい加減に馬鹿をみせられていたことが分ると、彼等も時々「サボリ」出した。
「昨日ウンと働き過ぎたから、今日はサボだど」
 仕事の出しなに、誰かそう云うと、皆そうなった。然し「サボ」と云っても、ただ身体を楽に使うということでしかなかったが。
 誰だって身体がおかしくなっていた。イザとなったら「仕方がない」やるさ。「殺されること」はどっち道同じことだ。そんな気が皆にあった。――ただ、もうたまらなかった。

        ×     ×     ×

「中積船だ! 中積船だ!」上甲板で叫んでいるのが、下まで聞えてきた。皆は思い思い「糞壺」の棚からボロ着のまま跳(は)ね下りた。
 中積船は漁夫や船員を「女」よりも夢中にした。この船だけは塩ッ臭くない、――函館の匂いがしていた。何カ月も、何百日も踏みしめたことのない、あの動かない「土」の匂いがしていた。それに、中積船には日附の違った何通りもの手紙、シャツ、下着、雑誌などが送りとどけられていた。
 彼等は荷物を蟹臭い節立った手で、鷲(わし)づかみにすると、あわてたように「糞壺」にかけ下りた。そして棚に大きな安坐(あぐら)をかいて、その安坐の中で荷物を解いた。色々のものが出る。――側から母親がものを云って書かせた、自分の子供のたどたどしい手紙や、手拭、歯磨、楊子(ようじ)、チリ紙、着物、それ等の合せ目から、思いがけなく妻の手紙が、重さでキチンと平べったくなって、出てきた。彼等はその何処からでも、陸にある「自家(うち)」の匂いをかぎ取ろうとした。乳臭い子供の匂いや、妻のムッとくる膚の臭(にお)いを探がした。
………………………………
おそそにかつれて困っている、
三銭切手でとどくなら、
おそそ罐詰で送りたい――かッ!

 やけに大声で「ストトン節」をどなった。
 何んにも送って来なかった船員や漁夫は、ズボンのポケットに棒のように腕をつッこんで、歩き廻っていた。
「お前の居ない間(ま)に、男でも引ッ張り込んでるだんべよ」
 皆にからかわれた。
 薄暗い隅(すみ)に顔を向けて、皆ガヤガヤ騒いでいるのをよそに、何度も指を折り直して、考え込んでいるのがいた。――中積船で来た手紙で、子供の死んだ報知(しらせ)を読んだのだった。二カ月も前に死んでいた子供の、それを知らずに「今まで」いた。手紙には無線を頼む金もなかったので、と書かれていた。漁夫が※(感嘆符疑問符、1-8-78) と思われる程、その男は何時までもムッつりしていた。
 然し、それと丁度反対のがあった。ふやけた蛸(たこ)の子のような赤子の写真が入っていたりした。
「これがか※(疑問符感嘆符、1-8-77)」と、頓狂(とんきょう)な声で笑い出してしまう。
 それから「どうだ、これが産れたんだとよ」と云ってワザワザ一人々々に、ニコニコしながら見せて歩いた。
 荷物の中には何んでもないことで、然し妻でなかったら、やはり気付かないような細かい心配りの分るものが入っていた。そんな時は、急に誰でも、バタバタと心が「あやしく」騒ぎ立った。――そして、ただ、無性に帰りたかった。
 中積船には、会社で派遣した活動写真隊が乗り込んできていた。出来上っただけの罐詰を中積船に移してしまった晩、船で活動写真を映すことになった。
 平べったい鳥打ちを少し横めにかぶり、蝶(ちょう)ネクタイをして、太いズボンをはいた、若い同じような恰好(かっこう)の男が二、三人トランクを重そうに持って、船へやってきた。
「臭い、臭い!」
 そう云いながら、上着を脱いで、口笛を吹きながら、幕をはったり、距離をはかって台を据えたりし始めた。漁夫達は、それ等の男から、何か「海で」ないもの――自分達のようなものでないもの、を感じ、それにひどく引きつけられた。船員や漁夫は何処か浮かれ気味で、彼等の仕度(したく)に手伝った
 一番年かさらしい下品に見える、太い金縁の眼鏡をかけた男が、少し離れた処に立って、首の汗を拭いていた。
「弁士さん、そったら処(とこ)さ立ってれば、足から蚤(のみ)がハネ上って行きますよ!」
 と、「ひやア――ッ!」焼けた鉄板でも踏んづけたようにハネ上った。
 見ていた漁夫達がドッと笑った。
「然しひどい所にいるんだな!」しゃがれた、ジャラジャラ声だった。それはやはり弁士だった。
「知らないだろうけれども、この会社が此処(ここ)へこうやって、やって来るために、幾何(いくら)儲(もう)けていると思う? 大したもんだ。六カ月に五百万円だよ。一年千万円だ。――口で千万円って云えば、それっ切りだけれども、大したもんだ。それに株主へ二割二分五厘なんて滅法界もない配当をする会社なんて、日本にだってそうないんだ。今度社長が代議士になるッて云うし、申分がないさ。――やはり、こんな風にしてもひどくしなけア、あれだけ儲けられないんだろうな」
 夜になった。
「一万箱祝」を兼ねてやることになり、酒、焼酎(しょうちゅう)、するめ、にしめ、バット、キャラメルが皆の間に配られた。
「さ、親父(おど)のどこさ来い」
 雑夫が、漁夫、船員の間に、引張り凧(だこ)になった。「安坐(あぐら)さ抱いて見せてやるからな」
「危い、危い! 俺のどこさ来いてば」
 それがガヤガヤしばらく続いた。
 前列の方で四、五人が急に拍手した。皆も分らずに、それに続けて手をたたいた。監督が白い垂幕の前に出てきた。――腰をのばして、両手を後に廻わしながら、「諸君は」とか、「私は」とか、普段云ったことのない言葉を出したり、又何時(いつ)もの「日本男児」だとか、「国富」だとか云い出した。大部分は聞いていなかった。こめかみと顎(あご)の骨を動かしながら、「するめ」を咬(か)んでいた。
「やめろ、やめろ!」後から怒鳴る。
「お前えなんか、ひっこめ! 弁士がいるんだ、ちアんと」
「六角棒の方が似合うぞ!」――皆ドッと笑った。口笛をピュウピュウ吹いて、ヤケに手をたたいた。
 監督もまさか其処(そこ)では怒れず、顔を赤くして、何か云うと(皆が騒ぐので聞えなかった)引っ込んだ。そして活動写真が始まった。
 最初「実写」だった。宮城、松島、江ノ島、京都……が、ガタピシャガタピシャと写って行った。時々切れた。急に写真が二、三枚ダブって、目まいでもしたように入り乱れたかと思うと、瞬間消えて、パッと白い幕になった。
 それから西洋物と日本物をやった。どれも写真はキズが入っていて、ひどく「雨が降った」それに所々切れているのを接合させたらしく、人の動きがギクシャクした。――然しそんなことはどうでもよかった。皆はすっかり引き入れられていた。外国のいい身体をした女が出てくると、口笛を吹いたり、豚のように鼻をならした。弁士は怒ってしばらく説明しないこともあった。
 西洋物はアメリカ映画で、「西部開発史」を取扱ったものだった。――野蛮人の襲撃をうけたり、自然の暴虐に打ち壊(こわ)されては、又立ち上り、一間(いっけん)々々と鉄道をのばして行く。途中に、一夜作りの「町」が、まるで鉄道の結びコブのように出来る。そして鉄道が進む、その先きへ、先きへと町が出来て行った。――其処から起る色々な苦難が、一工夫と会社の重役の娘との「恋物語」ともつれ合って、表へ出たり、裏になったりして描かれていた。最後の場面で、弁士が声を張りあげた。
「彼等幾多の犠牲的青年によって、遂に成功するに至った延々何百哩(マイル)の鉄道は、長蛇の如く野を走り、山を貫き、昨日までの蛮地は、かくして国富と変ったのであります」
 重役の娘と、何時(いつ)の間にか紳士のようになった工夫が相抱くところで幕だった。
 間に、意味なくゲラゲラ笑わせる、短い西洋物が一本はさまった。
 日本の方は、貧乏な一人の少年が「納豆売り」「夕刊売り」などから「靴磨き」をやり、工場に入り、模範職工になり、取り立てられて、一大富豪になる映画だった。――弁士は字幕(タイトル)にはなかったが、「げに勤勉こそ成功の母ならずして、何んぞや!」と云った。
 それには雑夫達の「真剣な」拍手が起った。然し漁夫か船員のうちで、
「嘘(うそ)こけ! そんだったら、俺なんて社長になってねかならないべよ」
 と大声を出したものがいた。
 それで皆は大笑いに笑ってしまった。
 後で弁士が、「ああいう処へは、ウンと力を入れて、繰りかえし、繰りかえし云って貰いたいって、会社から命令されて来たんだ」と云った。
 最後は、会社の、各所属工場や、事務所などを写したものだった。「勤勉」に働いている沢山の労働者が写っていた。
 写真が終ってから、皆は一万箱祝いの酒で酔払った。
 長い間口にしなかったのと、疲労し過ぎていたので、ベロベロに参って了(しま)った。薄暗い電気の下に、煙草の煙が雲のようにこめていた。空気がムレて、ドロドロに腐っていた。肌脱(はだぬ)ぎになったり、鉢巻をしたり、大きく安坐をかいて、尻をすっかりまくり上げたり、大声で色々なことを怒鳴り合った。――時々なぐり合いの喧嘩(けんか)が起った。
 それが十二時過ぎまで続いた。
 脚気(かっけ)で、何時も寝ていた函館の漁夫が、枕を少し高くして貰って、皆の騒ぐのを見ていた。同じ処から来ている友達の漁夫は、側の柱に寄りかかりながら、歯にはさまったするめを、マッチの軸で「シイ」「シイ」音をさせてせせっていた。
 余程過ぎてからだった。――「糞壺」の階段を南京袋のように漁夫が転がって来た。着物と右手がすっかり血まみれになっていた。
「出刃、出刃! 出刃を取ってくれ!」土間を匐(は)いながら、叫んでいる。「浅川の野郎、何処へ行きゃがった。居ねえんだ。殺してやるんだ」
 監督のためになぐられたことのある漁夫だった。――その男はストーヴのデレッキを持って、眼の色をかえて、又出て行った。誰もそれをとめなかった。
「な!」函館の漁夫は友達を見上げた。「漁夫だって、何時も木の根ッこみたいな馬鹿でねえんだな。面白くなるど!」
 次の朝になって、監督の窓硝子(まどガラス)からテーブルの道具が、すっかり滅茶苦茶に壊(こわ)されていたことが分った。監督だけは、何処にいたのか運良く「こわされて」いなかった。



 柔かい雨曇りだった。――前の日まで降っていた。それが上りかけた頃だった。曇った空と同じ色の雨が、これもやはり曇った空と同じ色の海に、時々和(なご)やかな円るい波紋を落していた。
 午(ひる)過ぎ、駆逐艦がやって来た。手の空いた漁夫や雑夫や船員が、デッキの手すりに寄って、見とれながら、駆逐艦についてガヤガヤ話しあった。物めずらしかった。
 駆逐艦からは、小さいボートが降ろされて、士官連が本船へやってきた。サイドに斜めに降ろされたタラップの、下のおどり場には船長、工場代表、監督、雑夫長が待っていた。ボートが横付けになると、お互に挙手の礼をして船長が先頭に上ってきた。監督が上をひょいと見ると、眉(まゆ)と口隅をゆがめて、手を振って見せた。「何を見てるんだ。行ってろ、行ってろ!」
「偉張んねえ、野郎!」――ゾロゾロデッキを後のものが前を順に押しながら、工場へ降りて行った。生ッ臭い匂いが、デッキにただよって、残った。
「臭いね」綺麗な口髭(くちひげ)の若い士官が、上品に顔をしかめた。
 後からついてきた監督が、周章(あわ)てて前へ出ると、何か云って、頭を何度も下げた。
 皆は遠くから飾りのついた短剣が、歩くたびに尻に当って、跳ね上がるのを見ていた。どれが、どれよりも偉いとか偉くないとか、それを本気で云い合った。しまいに喧嘩のようになった。
「ああなると、浅川も見られたもんでないな」
 監督のペコペコした恰好(かっこう)を真似(まね)して見せた。皆はそれでドッと笑った。
 その日、監督も雑夫長もいないので、皆は気楽に仕事をした。唄(うた)をうたったり、機械越しに声高(こわだか)に話し合った。
「こんな風に仕事をさせたら、どんなもんだべな」
 皆が仕事を終えて、上甲板に上ってきた。サロンの前を通ると、中から酔払って、無遠慮に大声で喚(わめ)き散らしているのが聞えた。
 給仕(ボーイ)が出てきた。サロンの中は煙草の煙でムンムンしていた。
 給仕の上気した顔には、汗が一つ一つ粒になって出ていた。両手に空のビール瓶(びん)を一杯もっていた。顎(あご)で、ズボンのポケットを知らせて、
「顔を頼む」と云った。
 漁夫がハンカチを出してふいてやりながら、サロンを見て、「何してるんだ?」ときいた。
「イヤ、大変さ。ガブガブ飲みながら、何を話してるかって云えば――女のアレがどうしたとか、こうしたとかよ。お蔭で百回も走らせられるんだ。農林省の役人が来れば来たでタラップからタタキ落ちる程酔払うしな!」
「何しに来るんだべ?」
 給仕は、分らんさ、という顔をして、急いでコック場に走って行った。
 箸(はし)では食いづらいボロボロな南京米に、紙ッ切れのような、実が浮んでいる塩ッぽい味噌汁で、漁夫等が飯を食った。
「食ったことも、見たことも無えん洋食が、サロンさ何んぼも行ったな」
「糞喰え――だ」
 テーブルの側の壁には、

一、飯のことで文句を云うものは、偉い人間になれぬ。
一、一粒の米を大切にせよ。血と汗の賜物(たまもの)なり。
一、不自由と苦しさに耐えよ。

 振仮名がついた下手な字で、ビラが貼(は)らさっていた。下の余白には、共同便所の中にあるような猥褻(わいせつ)な落書がされていた。
 飯が終ると、寝るまでの一寸の間、ストーヴを囲んだ。――駆逐艦のことから、兵隊の話が出た。漁夫には秋田、青森、岩手の百姓が多かった。それで兵隊のことになると、訳が分らず、夢中になった。兵隊に行ってきたものが多かった。彼等は、今では、その当時の残虐に充ちた兵隊の生活をかえって懐(なつか)しいものに、色々想(おも)い出していた。
 皆寝てしまうと、急に、サロンで騒いでいる音が、デッキの板や、サイドを伝って、此処まで聞えてきた。ひょいと眼をさますと、「まだやっている」のが耳に入った。――もう夜が明けるんではないか。誰か――給仕かも知れない、甲板を行ったり、来たりしている靴の踵(かかと)のコツ、コツという音がしていた。実際、そして、騒ぎは夜明けまで続いた。
 士官連はそれでも駆逐艦に帰って行ったらしく、タラップは降ろされたままになっていた。そして、その段々に飯粒や蟹の肉や茶色のドロドロしたものが、ゴジャゴジャになった嘔吐(へど)が、五、六段続いて、かかっていた。嘔吐からは腐ったアルコールの臭(にお)いが強く、鼻にプーンときた。胸が思わずカアーッとくる匂いだった。
 駆逐艦は翼をおさめた灰色の水鳥のように、見えない程に身体をゆすって、浮かんでいた。それは身体全体が「眠り」を貪(むさぼ)っているように見えた。煙筒からは煙草の煙よりも細い煙が風のない空に、毛糸のように上っていた。
 監督や雑夫長などは昼になっても起きて来なかった。
「勝手な畜生だ!」仕事をしながら、ブツブツ云った。
 コック部屋の隅(すみ)には、粗末に食い散らされた空の蟹罐詰やビール瓶が山積みに積まさっていた。朝になると、それを運んで歩いたボーイ自身でさえ、よくこんなに飲んだり、食ったりしたもんだ、と吃驚(びっくり)した。
 給仕は仕事の関係で、漁夫や船員などが、とても窺(うかが)い知ることの出来ない船長や監督、工場代表などのムキ出しの生活をよく知っていた。と同時に、漁夫達の惨(みじ)めな生活(監督は酔うと、漁夫達を「豚奴(ぶため)々々」と云っていた)も、ハッキリ対比されて知っている。公平に云って、上の人間はゴウマンで、恐ろしいことを儲(もう)けのために「平気」で謀(たくら)んだ。漁夫や船員はそれにウマウマ落ち込んで行った。――それは見ていられなかった。
 何も知らないうちはいい、給仕は何時もそう考えていた。彼は、当然どういうことが起るか――起らないではいないか、それが自分で分るように思っていた。
 二時頃だった。船長や監督等は、下手に畳んでおいたために出来たらしい、色々な折目のついた服を着て、罐詰を船員二人に持たして、発動機船で駆逐艦に出掛けて行った。甲板で蟹外しをしていた漁夫や雑夫が、手を休めずに「嫁行列」でも見るように、それを見ていた。
「何やるんだか、分ったもんでねえな」
「俺達の作った罐詰ば、まるで糞紙よりも粗末にしやがる!」
「然しな……」中年を過ぎかけている、左手の指が三本よりない漁夫だった。「こんな処まで来て、ワザワザ俺達ば守っててけるんだもの、ええさ――な」
 ――その夕方、駆逐艦が、知らないうちにムクムクと煙突から煙を出し初めた。デッキを急がしく水兵が行ったり来たりし出した。そして、それから三十分程して動き出した。艦尾の旗がハタハタと風にはためく音が聞えた。蟹工船では、船長の発声で、「万歳」を叫んだ。
 夕飯が終ってから、「糞壺」へ給仕がおりてきた。皆はストーヴの周囲で話していた。薄暗い電燈の下に立って行って、シャツから虱を取っているのもいた。電燈を横切る度(たび)に、大きな影がペンキを塗った、煤(すす)けたサイドに斜めにうつった。
「士官や船長や監督の話だけれどもな、今度ロシアの領地へこっそり潜入して漁をするそうだど。それで駆逐艦がしっきりなしに、側にいて番をしてくれるそうだ――大部、コレやってるらしいな。(拇指と人差指で円るくしてみせた)
「皆の話を聞いていると、金がそのままゴロゴロ転(ころ)がっているようなカムサツカや北樺太など、この辺一帯を、行く行くはどうしても日本のものにするそうだ。日本のアレは支那や満洲ばかりでなしに、こっちの方面も大切だって云うんだ。それにはここの会社が三菱などと一緒になって、政府をウマクつッついているらしい。今度社長が代議士になれば、もっとそれをドンドンやるようだど。
「それでさ、駆逐艦が蟹工船の警備に出動すると云ったところで、どうしてどうして、そればかりの目的でなくて、この辺の海、北樺太、千島の附近まで詳細に測量したり気候を調べたりするのが、かえって大目的で、万一のアレに手ぬかりなくする訳だな。これア秘密だろうと思うんだが、千島の一番端の島に、コッソリ大砲を運んだり、重油を運んだりしているそうだ。
「俺初めて聞いて吃驚(びっくり)したんだけれどもな、今までの日本のどの戦争でも、本当は――底の底を割ってみれば、みんな二人か三人の金持の(そのかわり大金持の)指図で、動機(きっかけ)だけは色々にこじつけて起したもんだとよ。何んしろ見込のある場所を手に入れたくて、手に入れたくてパタパタしてるんだそうだからな、そいつ等は。――危いそうだ」



 ウインチがガラガラとなって、川崎船が下がってきた。丁度その下に漁夫が四人程居て、ウインチの腕が短いので、下りてくる川崎船をデッキの外側に押してやって、海までそれが下りれるようにしてやっていた。――よく危いことがあった。ボロ船のウインチは、脚気(かっけ)の膝(ひざ)のようにギクシャクとしていた。ワイヤーを巻いている歯車の工合で、グイと片方のワイヤーだけが跛(びっこ)にのびる。川崎船が燻製鰊(くんせいにしん)のように、すっかり斜めにブラ下がってしまうことがある。その時、不意を喰(く)らって、下にいた漁夫がよく怪我(けが)をした。――その朝それがあった。「あッ、危い!」誰か叫んだ。真上からタタキのめされて、下の漁夫の首が胸の中に、杭(くい)のように入り込んでしまった。
 漁夫達は船医のところへ抱(かか)えこんだ。彼等のうちで、今ではハッキリ監督などに対して「畜生!」と思っている者等は、医者に「診断書」を書いて貰うように頼むことにした。監督は蛇に人間の皮をきせたような奴だから、何んとかキット難くせを「ぬかす」に違いなかった。その時の抗議のために診断書は必要だった。それに船医は割合漁夫や船員に同情を持っていた。
「この船は仕事をして怪我をしたり、病気になったりするよりも、ひッぱたかれたり、たたきのめされたりして怪我したり、病気したりする方が、ずウッと多いんだからねえ」と驚いていた。一々日記につけて、後の証拠にしなければならない、と云っていた。それで、病気や怪我をした漁夫や船員などを割合に親切に見てくれていた。
 診断書を作って貰いたいんですけれどもと、一人が切り出した。
 初め、吃驚したようだった。
「さあ、診断書はねえ……」
「この通りに書いて下さればいいんですが」
 はがゆかった。
「この船では、それを書かせないことになってるんだよ。勝手にそう決めたらしいんだが。……後々のことがあるんでね」
 気の短い、吃(ども)りの漁夫が「チェッ!」と舌打ちをしてしまった。
「この前、浅川君になぐられて、耳が聞えなくなった漁夫が来たので、何気なく診断書を書いてやったら、飛んでもないことになってしまってね。――それが何時までも証拠になるんで、浅川君にしちゃね……」
 彼等は船医の室を出ながら、船医もやはり其処まで行くと、もう「俺達」の味方でなかったことを考えていた。
 その漁夫は、然(しか)し「不思議に」どうにか生命を取りとめることが出来た。その代り、日中でもよく何かにつまずいて、のめる程暗い隅(すみ)に転がったまま、その漁夫がうなっているのを、何日も何日も聞かされた。
 彼が直りかけて、うめき声が皆を苦しめなくなった頃、前から寝たきりになっていた脚気の漁夫が死んでしまった。――二十七だった。東京、日暮里(にっぽり)の周施屋から来たもので、一緒の仲間が十人程いた。然し、監督は次の日の仕事に差支えると云うので、仕事に出ていない「病気のものだけ」で、「お通夜」をさせることにした。
 湯灌(ゆかん)をしてやるために、着物を解いてやると、身体からは、胸がムカーッとする臭気がきた。そして無気味な真白い、平べったい虱(しらみ)が周章(あわ)ててゾロゾロと走り出した。鱗形(うろこがた)に垢(あか)のついた身体全体は、まるで松の幹が転がっているようだった。胸は、肋骨(ろっこつ)が一つ一つムキ出しに出ていた。脚気がひどくなってから、自由に歩けなかったので、小便などはその場でもらしたらしく、一面ひどい臭気だった。褌(ふんどし)もシャツも赭黒(あかぐろ)く色が変って、つまみ上げると、硫酸でもかけたように、ボロボロにくずれそうだった。臍(へそ)の窪(くぼ)みには、垢とゴミが一杯につまって、臍は見えなかった。肛門の周(まわ)りには、糞がすっかり乾いて、粘土のようにこびりついていた。
「カムサツカでは死にたくない」――彼は死ぬときそう云ったそうだった。然し、今彼が命を落すというとき、側にキット誰も看(み)てやった者がいなかったかも知れない。そのカムサツカでは誰だって死にきれないだろう。漁夫達はその時の彼の気持を考え、中には声をあげて泣いたものがいた。
 湯灌に使うお湯を貰いにゆくと、コックが、「可哀相にな」と云った。「沢山持って行ってくれ。随分、身体が汚れてるべよ」
 お湯を持ってくる途中、監督に会った。
「何処へゆくんだ」
「湯灌だよ」
 と云うと、
「ぜいたくに使うな」まだ何か云いたげにして通って行った。
 帰ってきたとき、その漁夫は、「あの時位、いきなり後ろから彼奴(あいつ)の頭に、お湯をブッかけてやりたくなった時はなかった!」と云った。興奮して、身体をブルブル顫(ふる)わせた。
 監督はしつこく廻ってきては、皆の様子を見て行った。――然し、皆は明日居睡(いねむ)りをしても、のめりながら仕事をしても――例の「サボ」をやっても、皆で「お通夜」をしようということにした。そう決った。
 八時頃になって、ようやく一通りの用意が出来、線香や蝋燭(ろうそく)をつけて、皆がその前に坐った。監督はとうとう来なかった。船長と船医が、それでも一時間位坐っていた。片言のように――切れ切れに、お経の文句を覚えていた漁夫が「それでいい、心が通じる」そう皆に云われて、お経をあげることになった。お経の間、シーンとしていた。誰か鼻をすすり上げている。終りに近くなるとそれが何人もに殖えて行った。
 お経が終ると、一人々々焼香をした。それから坐を崩して、各々一かたまり、一かたまりになった。仲間の死んだことから、生きている――然し、よく考えてみればまるで危く生きている自分達のことに、それ等の話がなった。船長と船医が帰ってから、吃(ども)りの漁夫が線香とローソクの立っている死体の側のテーブルに出て行った。
「俺はお経は知らない。お経をあげて山田君の霊を慰めてやることは出来ない。然し僕はよく考えて、こう思うんです。山田君はどんなに死にたくなかったべか、とな。――イヤ、本当のことを云えば、どんなに殺されたくなかったか、と。確に山田君は殺されたのです」
 聞いている者達は、抑えられたように静かになった。
「では、誰が殺したか? ――云わなくたって分っているべよ! 僕はお経でもって、山田君の霊を慰めてやることは出来ない。然し僕等は、山田君を殺したものの仇(かたき)をとることによって、とることによって、山田君を慰めてやることが出来るのだ。――この事を、今こそ、山田君の霊に僕等は誓わなければならないと思う……」
 船員達だった、一番先きに「そうだ」と云ったのは。
 蟹の生ッ臭いにおいと人いきれのする「糞壺」の中に線香のかおりが、香水か何かのように、ただよった。九時になると、雑夫が帰って行った。疲れているので、居睡りをしているものは、石の入った俵のように、なかなか起き上らなかった。一寸すると、漁夫達も一人、二人と眠り込んでしまった。――波が出てきた。船が揺れる度(たび)に、ローソクの灯が消えそうに細くなり、又それが明るくなったりした。死体の顔の上にかけてある白木綿が除(と)れそうに動いた。ずった。そこだけを見ていると、ゾッとする不気味さを感じた。――サイドに、波が鳴り出した。
 次の朝、八時過ぎまで一仕事をしてから、監督のきめた船員と漁夫だけ四人下へ降りて行った。お経を前の晩の漁夫に読んでもらってから、四人の外に、病気のもの三、四人で、麻袋に死体をつめた。麻袋は新しいものは沢山あったが、監督は、直ぐ海に投げるものに新らしいものを使うなんてぜいたくだ、と云ってきかなかった。線香はもう船には用意がなかった。
「可哀相なもんだ。――これじゃ本当に死にたくなかったべよ」
 なかなか曲らない腕を組合せながら、涙を麻袋の中に落した。
「駄目々々。涙をかけると……」
「何んとかして、函館まで持って帰られないものかな。……こら、顔をみれ、カムサツカのしやっこい水さ入りたくねえッて云ってるんでないか。――海さ投げられるなんて、頼りねえな……」
「同じ海でもカムサツカだ。冬になれば――九月過ぎれば、船一艘(そう)も居なくなって、凍ってしまう海だで。北の北の端(はず)れの!」
「ん、ん」――泣いていた。「それによ、こうやって袋に入れるッて云うのに、たった六、七人でな。三、四百人もいるのによ!」
「俺達、死んでからも、碌(ろく)な目に合わないんだ……」
 皆は半日でいいから休みにしてくれるように頼んだが、前の日から蟹の大漁で、許されなかった。「私事と公事を混同するな」監督にそう云われた。
 監督が「糞壺」の天井から顔だけ出して、
「もういいか」ときいた。
 仕方がなく彼等は「いい」と云った。
「じゃ、運ぶんだ」
「んでも、船長さんがその前に弔詞(ちょうじ)を読んでくれることになってるんだよ」
「船長オ? 弔詞イ? ――」嘲(あざ)けるように、「馬鹿! そんな悠長(ゆうちょう)なことしてれるか」
 悠長なことはしていられなかった。蟹が甲板に山積みになって、ゴソゴソ爪で床をならしていた。
 そして、どんどん運び出されて、鮭(さけ)か鱒(ます)の菰包(こもづつ)みのように無雑作に、船尾につけてある発動機に積み込まれた。
「いいか――?」
「よオ――し……」
 発動機がバタバタ動き出した。船尾で水が掻(か)き廻されて、アブクが立った。
「じゃ……」
「じゃ」
「左様なら」
「淋(さび)しいけどな――我慢してな」低い声で云っている。
「じゃ、頼んだど!」
 本船から、発動機に乗ったものに頼んだ。
「ん、ん、分った」
 発動機は沖の方へ離れて行った。
「じゃ、な!……」
「行ってしまった。」
「麻袋の中で、行くのはイヤだ、イヤだってしてるようでな……眼に見えるようだ」
 ――漁夫が漁から帰ってきた。そして監督の「勝手な」処置をきいた。それを聞くと、怒る前に、自分が――屍体(したい)になった自分の身体が、底の暗いカムサツカの海に、そういうように蹴落(けおと)されでもしたように、ゾッとした。皆はものも云えず、そのままゾロゾロタラップを下りて行った。「分った、分った」口の中でブツブツ云いながら、塩ぬれのドッたりした袢天(はんてん)を脱いだ。



 表には何も出さない。気付かれないように手をゆるめて行く。監督がどんなに思いッ切り怒鳴り散らしても、タタキつけて歩いても、口答えもせず「おとなしく」している。それを一日置きに繰りかえす。(初めは、おっかなびっくり、おっかなびっくりでしていたが)――そういうようにして、「サボ」を続けた。水葬のことがあってから、モットその足並が揃(そろ)ってきた
 仕事の高は眼の前で減って行った。
 中年過ぎた漁夫は、働かされると、一番それが身にこたえるのに、「サボ」にはイヤな顔を見せた。然し内心(!)心配していたことが起らずに、不思議でならなかったが、かえって「サボ」が効(き)いてゆくのを見ると、若い漁夫達の云うように、動きかけてきた。
 困ったのは、川崎の船頭だった。彼等は川崎のことでは全責任があり、監督と平漁夫の間に居り、「漁獲高」のことでは、すぐに監督に当って来られた。それで何よりつらかった。結局三分の一だけ「仕方なしに」漁夫の味方をして、後の三分の二は監督の小さい「出店」――その小さい「○」だった。
「それア疲れるさ。工場のようにキチン、キチンと仕事がきまってるわけには行かないんだ。相手は生き物だ。蟹が人間様に都合よく、時間々々に出てきてはくれないしな。仕方がないんだ」――そっくり監督の蓄音機だった。
 こんなことがあった。――糞壺で、寝る前に、何かの話が思いがけなく色々の方へ移って行った。その時ひょいと、船頭が威張ったことを云ってしまった。それは別に威張ったことではないが、「平」漁夫にはムッときた。相手の平漁夫が、そして、少し酔っていた。
「何んだって?」いきなり怒鳴った。「手前(てめ)え、何んだ。あまり威張ったことを云わねえ方がええんだで。漁に出たとき、俺達四、五人でお前えを海の中さタタキ落す位朝飯前だんだ。――それッ切りだべよ。カムサツカだど。お前えがどうやって死んだって、誰が分るッて!」
 そうは云ったものはいない。それをガラガラな大声でどなり立ててしまった。誰も何も云わない。今まで話していた外のことも、そこでプッつり切れてしまった。
 然(しか)し、こういうようなことは、調子よく跳(は)ね上った空元気(からげんき)だけの言葉ではなかった。それは今まで「屈従」しか知らなかった漁夫を、全く思いがけずに背から、とてつもない力で突きのめした。突きのめされて、漁夫は初め戸惑いしたようにウロウロした。それが知られずにいた自分の力だ、ということを知らずに。
 ――そんなことが「俺達に」出来るんだろうか? 然し成る程出来るんだ。
 そう分ると、今度は不思議な魅力になって、反抗的な気持が皆の心に喰い込んで行った。今まで、残酷極まる労働で搾(しぼ)り抜かれていた事が、かえってその為にはこの上ない良い地盤だった。――こうなれば、監督も糞もあったものでない! 皆愉快がった。一旦この気持をつかむと、不意に、懐中電燈を差しつけられたように、自分達の蛆虫(うじむし)そのままの生活がアリアリと見えてきた。
「威張んな、この野郎」この言葉が皆の間で流行(はや)り出した。何かすると「威張んな、この野郎」と云った。別なことにでも、すぐそれを使った。――威張る野郎は、然し漁夫には一人もいなかった。
 それと似たことが一度、二度となくある。その度(たび)毎に漁夫達は「分って」行った。そして、それが重なってゆくうちに、そんな事で漁夫達の中から何時(いつ)でも表の方へ押し出されてくる、きまった三、四人が出来てきた。それは誰かが決めたのでなく、本当は又、きまったのでもなかった。ただ、何か起ったり又しなければならなくなったりすると、その三、四人の意見が皆のと一致したし、それで皆もその通り動くようになった。――学生上りが二人程、吃(ども)りの漁夫、「威張んな」の漁夫などがそれだった。
 学生が鉛筆をなめ、なめ、一晩中腹這(ば)いになって、紙に何か書いていた。――それは学生の「発案」だった。
      発案(責任者の図)
  A       B         C
  |       |         |
二人の学生 ┐ ┌雑夫の方一人  国別にして、各々そのうちの餓鬼大将を一人ずつ
      │ │川崎船の方二人 各川崎船に二人ずつ
吃りの漁夫 │ │水夫の方一人┐
      │ │      │ 水、火夫の諸君
「威張んな」┘ └火夫の方一人┘
   A――――→B――――→C→┌全部の┐
    ←―――― ←―――― ←└諸君 ┘

 学生はどんなもんだいと云った。どんな事がAから起ろうが、Cから起ろうが、電気より早く、ぬかりなく「全体の問題」にすることが出来る、と威張った。それが、そして一通り決められた。――実際は、それはそう容易(たやす)くは行われなかったが。
「殺されたくないものは来れ!」 ――その学生上りの得意の宣伝語だった。毛利元就(もうりもとなり)の弓矢を折る話や、内務省かのポスターで見たことのある「綱引き」の例をもってきた。「俺達四、五人いれば、船頭の一人位海の中へタタキ落すなんか朝飯前だ。元気を出すんだ」
「一人と一人じゃ駄目だ。危い。だが、あっちは船長から何からを皆んな入れて十人にならない。ところがこっちは四百人に近い。四百人が一緒になれば、もうこっちのものだ。十人に四百人! 相撲になるなら、やってみろ、だ」そして最後に「殺されたくないものは来れ!」だった。――どんな「ボンクラ」でも「飲んだくれ」でも、自分達が半殺しにされるような生活をさせられていることは分っていたし、(現に、眼の前で殺されてしまった仲間のいることも分っている)それに、苦しまぎれにやったチョコチョコした「サボ」が案外効き目があったので学生上りや吃りのいうことも、よく聞き入れられた。
 一週間程前の大嵐で、発動機船がスクリュウを毀(こわ)してしまった。それで修繕のために、雑夫長が下船して、四、五人の漁夫と一緒に陸へ行った。帰ってきたとき、若い漁夫がコッソリ日本文字で印刷した「赤化宣伝」のパンフレットやビラを沢山持ってきた。「日本人が沢山こういうことをやっているよ」と云った。――自分達の賃銀や、労働時間の長さのことや、会社のゴッソリした金儲(かねもう)けのことや、ストライキのことなどが書かれているので、皆は面白がって、お互に読んだり、ワケを聞き合ったりした。然し、中にはそれに書いてある文句に、かえって反撥(はんぱつ)を感じて、こんな恐ろしいことなんか「日本人」に出来るか、というものがいた。
 が、「俺アこれが本当だと思うんだが」と、ビラを持って学生上りのところへ訊(き)きに来た漁夫もいた。
「本当だよ。少し話大きいどもな」
「んだって、こうでもしなかったら、浅川の性(しょ)ッ骨(ぽね)直るかな」と笑った。「それに、彼奴(あいつ)等からはモットひどいめに合わされてるから、これで当り前だべよ!」
 漁夫達は、飛んでもないものだ、と云いながら、その「赤化運動」に好奇心を持ち出していた。
 嵐の時もそうだが、霧が深くなると、川崎船を呼ぶために、本船では絶え間なしに汽笛を鳴らした。巾(はば)広い、牛の啼声(なきごえ)のような汽笛が、水のように濃くこめた霧の中を一時間も二時間もなった。――然しそれでも、うまく帰って来れない川崎船があった。ところが、そんな時、仕事の苦しさからワザと見当を失った振りをして、カムサツカに漂流したものがあった。秘密に時々あった。ロシアの領海内に入って、漁をするようになってから、予(あらかじ)め陸に見当をつけて置くと、案外容易く、その漂流が出来た。その連中も「赤化」のことを聞いてくるものがあった。
 ――何時でも会社は漁夫を雇うのに細心の注意を払った。募集地の村長さんや、署長さんに頼んで「模範青年」を連れてくる。労働組合などに関心のない、云いなりになる労働者を選ぶ。「抜け目なく」万事好都合に! 然し、蟹工船の「仕事」は、今では丁度逆に、それ等の労働者を団結――組織させようとしていた。いくら「抜け目のない」資本家でも、この不思議な行方までには気付いていなかった。それは、皮肉にも、未組織の労働者、手のつけられない「飲んだくれ」労働者をワザワザ集めて、団結することを教えてくれているようなものだった。



 監督は周章(あわ)て出した。
 漁期の過ぎてゆくその毎年の割に比べて、蟹の高はハッキリ減っていた。他の船の様子をきいてみても、昨年よりはもっと成績がいいらしかった。二千函(ばこ)は遅れている。――監督は、これではもう今までのように「お釈迦(しゃか)様」のようにしていたって駄目だ、と思った。
 本船は移動することにした。監督は絶えず無線電信を盗みきかせ、他の船の網でもかまわずドンドン上げさせた。二十浬(かいり)ほど南下して、最初に上げた渋網には、蟹がモリモリと網の目に足をひっかけて、かかっていた。たしかに××丸のものだった。
「君のお陰だ」と、彼は監督らしくなく、局長の肩をたたいた。
 網を上げているところを見付けられて、発動機が放々の態(てい)で逃げてくることもあった。他船の網を手当り次第に上げるようになって、仕事が尻上りに忙しくなった。
仕事を少しでも怠(なま)けたと見るときには大焼きを入れる。
組をなして怠けたものにはカムサツカ体操をさせる。
罰として賃銀棒引き、
函館へ帰ったら、警察に引き渡す。
いやしくも監督に対し、少しの反抗を示すときは銃殺されるものと思うべし。
                     浅川監督
                     雑夫長

 この大きなビラが工場の降り口に貼(は)られた。監督は弾をつめッ放しにしたピストルを始終持っていた。飛んでもない時に、皆の仕事をしている頭の上で、鴎(かもめ)や船の何処(どこ)かに見当をつけて、「示威運動」のように打った。ギョッとする漁夫を見て、ニヤニヤ笑った。それは全く何かの拍子に「本当」に打ち殺されそうな不気味な感じを皆にひらめかした。
 水夫、火夫も完全に動員された。勝手に使いまわされた。船長はそれに対して一言も云えなかった。船長は「看板」になってさえいれば、それで立派な一役だった。前にあったことだった――領海内に入って漁をするために、船を入れるように船長が強要された。船長は船長としての公の立場から、それを犯すことは出来ないと頑張(がんば)った。
「勝手にしやがれ!」「頼まないや!」と云って、監督等が自分達で、船を領海内に転錨(てんびょう)さしてしまった。ところが、それが露国の監視船に見付けられて、追跡された。そして訊問(じんもん)になり、自分がしどろもどろになると、「卑怯(ひきょう)」にも退却してしまった。「そういう一切のことは、船としては勿論(もちろん)船長がお答えすべきですから……」無理矢理に押しつけてしまった。全く、この看板は、だから必要だった。それだけでよかった。
 そのことがあってから、船長は船を函館に帰そうと何辺も思った。が、それをそうさせない力が――資本家の力が、やっぱり船長をつかんでいた。
「この船全体が会社のものなんだ、分ったか!」ウァハハハハハと、口を三角にゆがめて、背のびするように、無遠慮に大きく笑った。
 ――「糞壺」に帰ってくると、吃(ども)りの漁夫は仰向けにでんぐり返った。残念で、残念で、たまらなかった。漁夫達は、彼や学生などの方を気の毒そうに見るが、何も云えない程ぐッしゃりつぶされてしまっていた。学生の作った組織も反古(ほご)のように、役に立たなかった。――それでも学生は割合に元気を保っていた。
「何かあったら跳ね起きるんだ。その代り、その何かをうまくつかむことだ」と云った。
「これでも跳ね起きられるかな」――威張んなの漁夫だった。
「かな――? 馬鹿。こっちは人数が多いんだ。恐れることはないさ。それに彼奴等が無茶なことをすればする程、今のうちこそ内へ、内へとこもっているが、火薬よりも強い不平と不満が皆の心の中に、つまりにいいだけつまっているんだ。――俺はそいつを頼りにしているんだ」
「道具立てはいいな」威張んなは「糞壺」の中をグルグル見廻して、
「そんな奴等がいるかな。どれも、これも…………」
 愚痴ッぽく云った。
「俺達から愚痴ッぽかったら――もう、最後だよ」
「見れ、お前えだけだ、元気のええのア。――今度事件起こしてみれ、生命(いのち)がけだ」
 学生は暗い顔をした。「そうさ……」と云った。
 監督は手下を連れて、夜三回まわってきた。三、四人固まっていると、怒鳴りつけた。それでも、まだ足りなく、秘密に自分の手下を「糞壺」に寝らせた。
 ――「鎖」が、ただ、眼に見えないだけの違いだった。皆の足は歩くときには、吋太(インチぶと)の鎖を現実に後に引きずッているように重かった。
「俺ア、キット殺されるべよ」
「ん。んでも、どうせ殺されるッて分ったら、その時アやるよ」
 芝浦の漁夫が、
「馬鹿!」と、横から怒鳴りつけた。「殺されるッて分ったら? 馬鹿ア、何時(いつ)だ、それア。――今、殺されているんでねえか。小刻みによ。彼奴等はな、上手なんだ。ピストルは今にもうつように、何時でも持っているが、なかなかそんなヘマはしないんだ。あれア「手」なんだ。――分るか。彼奴等は、俺達を殺せば、自分等の方で損するんだ。目的は――本当の目的は、俺達をウンと働かせて、締木(しめぎ)にかけて、ギイギイ搾り上げて、しこたま儲けることなんだ。そいつを今俺達は毎日やられてるんだ。――どうだ、この滅茶苦茶は。まるで蚕に食われている桑の葉のように、俺達の身体が殺されているんだ」
「んだな!」
「んだな、も糞もあるもんか」厚い掌(てのひら)に、煙草の火を転がした。「ま、待ってくれ、今に、畜生!」
 あまり南下して、身体(がら)の小さい女蟹ばかり多くなったので、場所を北の方へ移動することになった。それで皆は残業をさせられて、少し早目に(久し振りに!)仕事が終った。
 皆が「糞壺」に降りて来た。
「元気ねえな」芝浦だった。
「こら、足ば見てけれや。ガク、ガクッて、段ば降りれなくなったで」
「気の毒だ。それでもまだ一生懸命働いてやろうッてんだから」
「誰が! ――仕方ねんだべよ」
 芝浦が笑った。「殺される時も、仕方がねえか」
「…………」
「まあ、このまま行けば、お前ここ四、五日だな」
 相手は拍手に、イヤな顔をして、黄色ッぽくムクンだ片方の頬(ほお)と眼蓋(まぶた)をゆがめた。そして、だまって自分の棚(たな)のところへ行くと、端へ膝(ひざ)から下の足をブラ下げて、関節を掌刀(てがたな)でたたいた。
 ――下で、芝浦が手を振りながら、しゃべっていた。吃(ども)りが、身体をゆすりながら、相槌(あいづち)を打った。
「……いいか、まア仮りに金持が金を出して作ったから、船があるとしてもいいさ。水夫と火夫がいなかったら動くか。蟹が海の底に何億っているさ。仮りにだ、色々な仕度(したく)をして、此処まで出掛けてくるのに、金持が金をだせたからとしてもいいさ。俺達が働かなかったら、一匹の蟹だって、金持の懐(ふところ)に入って行くか。いいか、俺達がこの一夏ここで働いて、それで一体どの位金が入ってくる。ところが、金持はこの船一艘で純手取り四、五十万円ッて金をせしめるんだ。――さあ、んだら、その金の出所だ。無から有は生ぜじだ。――分るか。なア、皆んな俺達の力さ。――んだから、そう今にもお陀仏するような不景気な面(つら)してるなって云うんだ。うんと威張るんだ。底の底のことになれば、うそでない、あっちの方が俺達をおッかながってるんだ。ビクビクすんな。
 水夫と火夫がいなかったら、船は動かないんだ。――労働者が働かねば、ビタ一文だって、金持の懐にゃ入らないんだ。さっき云った船を買ったり、道具を用意したり、仕度をする金も、やっぱり他の労働者が血をしぼって、儲けさせてやった――俺達からしぼり取って行きやがった金なんだ。――金持と俺達とは親と子なんだ……」
 監督が入ってきた。
 皆ドマついた恰好(かっこう)で、ゴソゴソし出した。



 空気が硝子(ガラス)のように冷たくて、塵(ちり)一本なく澄んでいた。――二時で、もう夜が明けていた。カムサツカの連峰が金紫色に輝いて、海から二、三寸位の高さで、地平線を南に長く走っていた。小波(さざなみ)が立って、その一つ一つの面が、朝日を一つ一つうけて、夜明けらしく、寒々と光っていた。――それが入り乱れて砕け、入り交れて砕ける。その度にキラキラ、と光った。鴎の啼声が(何処(どこ)にいるのか分らずに)声だけしていた。――さわやかに、寒かった。荷物にかけてある、油のにじんだズックのカヴァが時々ハタハタとなった。分らないうちに、風が出てきていた。
 袢天(はんてん)の袖に、カガシのように手を通しながら、漁夫が段々を上ってきて、ハッチから首を出した。首を出したまま、はじかれたように叫んだ。
「あ、兎(うさぎ)が飛んでる。――これア大暴風(しけ)になるな」
 三角波が立ってきていた。カムサツカの海に慣れている漁夫には、それが直(す)ぐ分る。
「危ねえ、今日休みだべ」
 一時間程してからだった。
 川崎船を降ろすウインチの下で、其処(そこ)、此処(ここ)七、八人ずつ漁夫が固まっていた。川崎船はどれも半降ろしになったまま、途中で揺れていた。肩をゆすりながら海を見て、お互云い合っている。
 一寸した。
「やめたやめた!」
「糞(くそ)でも喰(くら)らえ、だ!」
 誰かキッカケにそういうのを、皆は待っていたようだった。
 肩を押し合って、「おい、引き上げるべ!」と云った。
「ん」
「ん、ん!」
 一人がしかめた眼差(まなざし)で、ウインチを見上げて、「然(しか)しな……」と躊躇(ため)らっている。
 行きかけたのが、自分の片肩をグイとしゃくって、「死にたかったら、独(ひと)りで行(え)げよ!」と、ハキ出した。
 皆は固(かたま)って歩き出した。誰か「本当にいいかな」と、小声で云っていた。二人程、あやふやに、遅れた。
 次のウインチの下にも、漁夫達は立ちどまったままでいた。彼等は第二号川崎の連中が、こっちに歩いてくるのを見ると、その意味が分った。四、五人が声をあげて、手を振った。 
「やめだ、やめだ!」
「ん、やめだ!」
 その二つが合わさると、元気が出てきた。どうしようか分らないでいる遅れた二、三人は、まぶしそうに、こっちを見て、立ち止っていた。皆が第五川崎のところで、又一緒になった。それ等を見ると、遅れたものはブツブツ云いながら後から、歩き出した。
 吃りの漁夫が振りかえって、大声で呼んだ。「しっかりせッ!」
 雪だるまのように、漁夫達のかたまりがコブをつけて、大きくなって行った。皆の前や後を、学生や吃りが行ったり、来たり、しきりなしに走っていた。「いいか、はぐれないことだど! 何よりそれだ。もう、大丈夫だ。もう――!」
 煙筒の側に、車座に坐って、ロープの繕いをやっていた水夫が、のび上って、
「どうした。オ――イ?」と怒鳴った。
 皆はその方へ手を振りあげて、ワアーッと叫んだ。上から見下している水夫達には、それが林のように揺れて見えた。
「よオし、さ、仕事なんてやめるんだ!」
 ロープをさっさと片付け始めた。「待ってたんだ!」
 そのことが漁夫達の方にも分った。二度、ワアーッと叫んだ。
「まず糞壺さ引きあげるべ。そうするべ。――非道(ひで)え奴だ。ちゃんと大暴風(しけ)になること分っていて、それで船を出させるんだからな。――人殺しだべ!」
「あったら奴に殺されて、たまるけア!」
「今度こそ、覚えてれ!」
 殆(ほと)んど一人も残さないで、糞壺へ引きあげてきた。中には「仕方なしに」随(つ)いて来たものもいるにはいた。
 ――皆のドカドカッと入り込んできたのに、薄暗いところに寝ていた病人が、吃驚(びっくり)して板のような上半身を起した。ワケを話してやると、見る見る眼に涙をにじませて何度も、何度も頭を振ってうなずいた。
 吃りの漁夫と学生が、機関室の縄梯子(なわばしご)のようなタラップを下りて行った。急いでいたし、慣れていないので、何度も足をすべらして、危く、手で吊下(つりさが)った。中はボイラーの熱でムンとして、それに暗かった。彼等はすぐ身体中汗まみれになった。汽罐(かま)の上のストーヴのロストルのような上を渡って、またタラップを下った。下で何か声高(こわだか)にしゃべっているのが、ガン、ガ――ンと反響していた。――地下何百尺という地獄のような竪坑(たてこう)を初めて下りて行くような無気味さを感じた。
「これもつれえ仕事だな」
「んよ、それに又、か、甲板さ引っぱり出されて、か、蟹たたきでも、さ、されたら、たまったもんでねえさ」
「大丈夫、火夫も俺達の方だ!」
「ん、大丈――夫!」
 ボイラーの腹を、タラップでおりていた。
「熱い、熱い、たまんねえな。人間の燻製(くんせい)が出来そうだ」
「冗談じゃねえど。今火たいていねえ時で、こんだんだど。燃(た)いてる時なんて!」
「んか、な。んだべな」
「印度(インド)の海渡る時ア、三十分交代で、それでヘナヘナになるてんだとよ。ウッカリ文句をぬかした一機が、シャベルで滅多やたらにたたきのめされて、あげくの果て、ボイラーに燃かれてしまうことがあるんだとよ。――そうでもしたくなるべよ!」
「んな……」
 汽罐(かま)の前では、石炭カスが引き出されて、それに水でもかけたらしく、濛々(もうもう)と灰が立ちのぼっていた。その側で、半分裸の火夫達が、煙草をくわえながら、膝(ひざ)を抱えて話していた。薄暗い中で、それはゴリラがうずくまっているのと、そっくりに見えた。石炭庫の口が半開きになって、ひんやりした真暗な内を、無気味に覗(のぞ)かせていた。
「おい」吃りが声をかけた。
「誰だ?」上を見上げた。――それが「誰だ――誰だ、――誰だ」と三つ位に響きかえって行く。
 そこへ二人が降りて行った。二人だということが分ると、
「間違ったんでねえか、道を」と、一人が大声をたてた。
「ストライキやったんだ」
「ストキがどうしたって?」
「ストキでねえ、ストライキだ」
「やったか!」
「そうか。このまま、どんどん火でもブッ燃(た)いて、函館さ帰ったらどうだ。面白いど」
 吃りは「しめた!」と思った。
「んで、皆勢揃(せいぞろ)えしたところで、畜生等にねじ込もうッて云うんだ」
「やれ、やれ!」
「やれやれじゃねえ。やろう、やろうだ」
 学生が口を入れた。
「んか、んか、これア悪かった。――やろうやろう!」火夫が石炭の灰で白くなっている頭をかいた。
 皆笑った。
「お前達の方、お前達ですっかり一纏(まと)めにして貰いたいんだ」
「ん、分った。大丈夫だ。何時でも一つ位え、ブンなぐってやりてえと思ってる連中ばかりだから」
 ――火夫の方はそれでよかった。
 雑夫達は全部漁夫のところに連れ込まれた。一時間程するうちに、火夫と水夫も加わってきた。皆甲板に集った。「要求事項」は、吃り、学生、芝浦、威張んなが集ってきめた。それを皆の面前で、彼等につきつけることにした。
 監督達は、漁夫等が騒ぎ出したのを知ると――それからちっとも姿を見せなかった。
「おかしいな」
「これア、おかしい」
「ピストル持ってたって、こうなったら駄目だべよ」
 吃りの漁夫が、一寸(ちょっと)高い処に上った。皆は手を拍(たた)いた。
「諸君、とうとう来た! 長い間、長い間俺達は待っていた。俺達は半殺しにされながらも、待っていた。今に見ろ、と。しかし、とうとう来た。
「諸君、まず第一に、俺達は力を合わせることだ。俺達は何があろうと、仲間を裏切らないことだ。これだけさえ、しっかりつかんでいれば、彼奴等如きをモミつぶすは、虫ケラより容易(たやす)いことだ。――そんならば、第二には何か。諸君、第二にも力を合わせることだ。落伍者を一人も出さないということだ。一人の裏切者、一人の寝がえり者を出さないということだ。たった一人の寝がえりものは、三百人の命を殺すということを知らなければならない。一人の寝がえり……(「分った、分った」「大丈夫だ」「心配しないで、やってくれ」)……
「俺達の交渉が彼奴等をタタキのめせるか、その職分を完全につくせるかどうかは、一に諸君の団結の力に依るのだ」
 続いて、火夫の代表が立ち、水夫の代表が立った。火夫の代表は、普段一度も云ったこともない言葉をしゃべり出して、自分でどまついてしまった。つまる度(たび)に赤くなり、ナッパ服の裾(すそ)を引張ってみたり、すり切れた穴のところに手を入れてみたり、ソワソワした。皆はそれに気付くとデッキを足踏みして笑った。
「……俺アもうやめる。然し、諸君、彼奴等はブンなぐってしまうべよ!」と云って、壇を下りた。
 ワザと、皆が大げさに拍手した。
「其処だけでよかったんだ」後で誰かひやかした。それで皆は一度にワッと笑い出してしまった。
 火夫は、夏の真最中に、ボイラーの柄の長いシャベルを使うときよりも、汗をびっしょりかいて、足元さえ頼りなくなっていた。降りて来たとき、「俺何しゃべったかな?」と仲間にきいた。
 学生が肩をたたいて、「いい、いい」と云って笑った。
「お前えだ、悪いのア。別にいたのによ、俺でなくたって……」
「皆さん、私達は今日の来るのを待っていたんです」――壇には一五、六歳の雑夫が立っていた。
「皆さんも知っている、私達の友達がこの工船の中で、どんなに苦しめられ、半殺しにされたか。夜になって薄ッぺらい布団に包まってから、家のことを思い出して、よく私達は泣きました。此処に集っているどの雑夫にも聞いてみて下さい。一晩だって泣かない人はいないのです。そして又一人だって、身体に生キズのないものはいないのです。もう、こんな事が三日も続けば、キット死んでしまう人もいます。――ちょっとでも金のある家(うち)ならば、まだ学校に行けて、無邪気に遊んでいれる年頃の私達は、こんなに遠く……(声がかすれる。吃り出す。抑(おさ)えられたように静かになった)然し、もういいんです。大丈夫です。大人の人に助けて貰って、私達は憎い憎い、彼奴等に仕返ししてやることが出来るのです……」
 それは嵐のような拍手を惹(ひ)き起した。手を夢中にたたきながら、眼尻を太い指先きで、ソッと拭(ぬぐ)っている中年過ぎた漁夫がいた。
 学生や、吃りは、皆の名前をかいた誓約書を廻して、捺印(なついん)を貰って歩いた。
 学生二人、吃り、威張んな、芝浦、火夫三名、水夫三名が、「要求条項」と「誓約書」を持って、船長室に出掛けること、その時には表で示威運動をすることが決った。――陸の場合のように、住所がチリチリバラバラになっていないこと、それに下地が充分にあったことが、スラスラと運ばせた。ウソのように、スラスラ纏った。
「おかしいな、何んだって、あの鬼顔出さないんだべ」
「やっきになって、得意のピストルでも打つかと思ってたどもな」
 三百人は吃りの音頭で、一斉に「ストライキ万歳」を三度叫んだ。学生が「監督の野郎、この声聞いて震えてるだろう!」と笑った。――船長室へ押しかけた。
 監督は片手にピストルを持ったまま、代表を迎えた。
 船長、雑夫長、工場代表……などが、今までたしかに何か相談をしていたらしいことがハッキリ分るそのままの恰好で、迎えた。監督は落付いていた。
 入ってゆくと、
「やったな」とニヤニヤ笑った。
 外では、三百人が重なり合って、大声をあげ、ドタ、ドタ足踏みをしていた。監督は「うるさい奴だ!」とひくい声で云った。が、それ等には気もかけない様子だった代表が興奮して云うのを一通りきいてから、「要求条項」と、三百人の「誓約書」を形式的にチラチラ見ると、「後悔しないか」と、拍子抜けするほど、ゆっくり云った。
「馬鹿野郎ッ!」吃りがいきなり監督の鼻ッ面を殴(なぐ)りつけるように怒鳴った。
「そうか、いい。――後悔しないんだな」
 そう云って、それから一寸(ちょっと)調子をかえた。「じゃ、聞け。いいか。明日の朝にならないうちに、色よい返事をしてやるから」――だが、云うより早かった、芝浦が監督のピストルをタタキ落すと、拳骨で頬(ほお)をなぐりつけた。監督がハッと思って、顔を押えた瞬間、吃りがキノコのような円椅子で横なぐりに足をさらった。監督の身体はテーブルに引っかかって、他愛なく横倒れになった。その上に四本の足を空にして、テーブルがひっくりかえって行った。
「色よい返事だ? この野郎、フザけるな! 生命にかけての問題だんだ!」
 芝浦は巾(はば)の広い肩をけわしく動かした。水夫、火夫、学生が二人をとめた。船長室の窓が凄(すご)い音を立てて壊(こわ)れた。その瞬間、「殺しちまい!」「打ッ殺せ!」「のせ! のしちまえ!」外からの叫び声が急に大きくなって、ハッキリ聞えてきた。――何時の間にか、船長や雑夫長や工場代表が室の片隅(かたすみ)の方へ、固まり合って棒杭のようにつッ立っていた。顔の色がなかった。
 ドアーを壊して、漁夫や、水、火夫が雪崩(なだ)れ込んできた。

 昼過ぎから、海は大嵐になった。そして夕方近くになって、だんだん静かになった。
「監督をたたきのめす!」そんなことがどうして出来るもんか、そう思っていた。ところが! 自分達の「手」でそれをやってのけたのだ。普段おどかし看板にしていたピストルさえ打てなかったではないか。皆はウキウキと噪(はしゃ)いでいた。――代表達は頭を集めて、これからの色々な対策を相談した。「色よい返事」が来なかったら、「覚えてろ!」と思った。
 薄暗くなった頃だった。ハッチの入口で、見張りをしていた漁夫が、駆逐艦がやってきたのを見た。――周章(あわ)てて「糞壺」に馳(か)け込んだ。
「しまったッ※(感嘆符二つ、1-8-75)」学生の一人がバネのようにはね上った。見る見る顔の色が変った。
「感違いするなよ」吃りが笑い出した。「この、俺達の状態や立場、それに要求などを、士官達に詳しく説明して援助をうけたら、かえってこのストライキは有利に解決がつく。分りきったことだ」
 外のものも、「それアそうだ」と同意した。
「我帝国の軍艦だ。俺達国民の味方だろう」
「いや、いや……」学生は手を振った。余程のショックを受けたらしく、唇を震わせている。言葉が吃(ども)った。
「国民の味方だって? ……いやいや……」
「馬鹿な! ――国民の味方でない帝国の軍艦、そんな理窟なんてある筈(はず)があるか※(感嘆符疑問符、1-8-78)」
「駆逐艦が来た!」「駆逐艦が来た!」という興奮が学生の言葉を無理矢理にもみ潰(つぶ)してしまった。
 皆はドヤドヤと「糞壺」から甲板にかけ上った。そして声を揃(そろ)えていきなり、「帝国軍艦万歳」を叫んだ。
 タラップの昇降口には、顔と手にホータイをした監督や船長と向い合って、吃り、芝浦、威張んな、学生、水、火夫等が立った。薄暗いので、ハッキリ分らなかったが、駆逐艦からは三艘汽艇が出た。それが横付けになった。一五、六人の水兵が一杯つまっていた。それが一度にタラップを上ってきた。
 呀(あ)ッ! 着剣(つけけん)をしているではないか! そして帽子の顎紐(あごひも)をかけている!
「しまった!」そう心の中で叫んだのは、吃りだった。
 次の汽艇からも十五、六人。その次の汽艇からも、やっぱり銃の先きに、着剣した、顎紐をかけた水兵! それ等は海賊船にでも躍(おど)り込むように、ドカドカッと上ってくると、漁夫や水、火夫を取り囲んでしまった。
「しまった! 畜生やりゃがったな!」
 芝浦も、水、火夫の代表も初めて叫んだ。
「ざま、見やがれ!」――監督だった。ストライキになってからの、監督の不思議な態度が初めて分った。だが、遅かった。
「有無」を云わせない。「不届者」「不忠者」「露助の真似する売国奴」そう罵倒(ばとう)されて、代表の九人が銃剣を擬されたまま、駆逐艦に護送されてしまった。それは皆がワケが分らず、ぼんやり見とれている、その短い間だった。全く、有無を云わせなかった。――一枚の新聞紙が燃えてしまうのを見ているより、他愛なかった。
 ――簡単に「片付いてしまった」
「俺達には、俺達しか、味方が無(ね)えんだな。始めて分った」
「帝国軍艦だなんて、大きな事を云ったって大金持の手先でねえか、国民の味方? おかしいや、糞喰らえだ!」
 水兵達は万一を考えて、三日船にいた。その間中、上官連は、毎晩サロンで、監督達と一緒に酔払っていた。――「そんなものさ」
 いくら漁夫達でも、今度という今度こそ、「誰が敵」であるか、そしてそれ等が(全く意外にも!)どういう風に、お互が繋がり合っているか、ということが身をもって知らされた。
 毎年の例で、漁期が終りそうになると、蟹罐詰の「献上品」を作ることになっていた。然し「乱暴にも」何時でも、別に斎戒沐浴(もくよく)して作るわけでもなかった。その度に、漁夫達は監督をひどい事をするものだ、と思って来た。――だが、今度は異(ちが)ってしまっていた。
「俺達の本当の血と肉を搾(しぼ)り上げて作るものだ。フン、さぞうめえこったろ。食ってしまってから、腹痛でも起さねばいいさ」
 皆そんな気持で作った。
「石ころでも入れておけ! かまうもんか!」

「俺達には、俺達しか味方が無えんだ」
 それは今では、皆の心の底の方へ、底の方へ、と深く入り込んで行った。――「今に見ろ!」
 然し「今に見ろ」を百遍繰りかえして、それが何になるか。――ストライキが惨(みじ)めに敗れてから、仕事は「畜生、思い知ったか」とばかりに、過酷になった。それは今までの過酷にもう一つ更に加えられた監督の復仇的(ふっきゅうてき)な過酷さだった。限度というものの一番極端を越えていた。――今ではもう仕事は堪え難いところまで行っていた。
「――間違っていた。ああやって、九人なら九人という人間を、表に出すんでなかった。まるで、俺達の急所はここだ、と知らせてやっているようなものではないか。俺達全部は、全部が一緒になったという風にやらなければならなかったのだ。そしたら監督だって、駆逐艦に無電は打てなかったろう。まさか、俺達全部を引き渡してしまうなんて事、出来ないからな。仕事が、出来なくなるもの」
「そうだな」
「そうだよ。今度こそ、このまま仕事していたんじゃ、俺達本当に殺されるよ。犠牲者を出さないように全部で、一緒にサボルことだ。この前と同じ手で。吃りが云ったでないか、何より力を合わせることだって。それに力を合わせたらどんなことが出来たか、ということも分っている筈だ」
「それでも若し駆逐艦を呼んだら、皆で――この時こそ力を合わせて、一人も残らず引渡されよう! その方がかえって助かるんだ」
「んかも知らない。然し考えてみれば、そんなことになったら、監督が第一周章(あわ)てるよ、会社の手前。代りを函館から取り寄せるのには遅すぎるし、出来高だって問題にならない程少ないし。……うまくやったら、これア案外大丈夫だど」
「大丈夫だよ。それに不思議に誰だって、ビクビクしていないしな。皆、畜生! ッて気でいる」
「本当のことを云えば、そんな先きの成算なんて、どうでもいいんだ。――死ぬか、生きるか、だからな」
「ん、もう一回だ!」

 そして、彼等は、立ち上った。――もう一度!


附記

 この後のことについて、二、三附け加えて置こう。
イ、二度目の、完全な「サボ」は、マンマと成功したということ。「まさか」と思っていた、面喰(くら)った監督は、夢中になって無電室にかけ込んだが、ドアーの前で立ち往生してしまったこと、どうしていいか分らなくなって。
ロ、漁期が終って、函館へ帰港したとき、「サボ」をやったりストライキをやった船は、博光丸だけではなかったこと。二、三の船から「赤化宣伝」のパンフレットが出たこと。
ハ、それから監督や雑夫長等が、漁期中にストライキの如き不祥事を惹起(ひきおこ)させ、製品高に多大の影響を与えたという理由のもとに、会社があの忠実な犬を「無慈悲」に涙銭一文くれず、(漁夫達よりも惨めに!)首を切ってしまったということ。面白いことは、「あ――あ、口惜(くや)しかった! 俺ア今まで、畜生、だまされていた!」と、あの監督が叫んだということ。
ニ、そして、「組織」「闘争」――この初めて知った偉大な経験を担(にな)って、漁夫、年若い雑夫等が、警察の門から色々な労働の層へ、それぞれ入り込んで行ったということ。

――この一篇は、「殖民地に於ける資本主義侵入史」の一頁である。
(一九二九・三・三〇)




底本:「蟹工船・党生活者」新潮文庫、新潮社
   1953(昭和28)年6月28日発行
   1968(昭和43)年5月30日32刷改版
   1998(平成10)年1月10日89版
初出:「戦旗」
   1929(昭和4)年5月、6月号
※「樺太(からふと)」と「樺太(かばふと)」の混在は、底本通りにしました。
※複数行にかかる波括弧には、罫線素片をあてました。
入力:細見祐司
校正:富田倫生
2004年11月30日作成
2011年4月27日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。



●表記について

このファイルは W3C 勧告 XHTML1.1 にそった形式で作成されています。
[#…]は、入力者による注を表す記号です。
「くの字点」をのぞくJIS X 0213にある文字は、画像化して埋め込みました。


●図書カード

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蟹工船 ペンを武器に戦い拷問死した作家



http://kajipon.sakura.ne.jp/kt/takiji.html

ペンを武器に戦い拷問死した作家
【 あの人の人生を知ろう~小林 多喜二 】

Takiji Kobayashi 1903.10.13-1933.2.20 (享年29才)


 

シリアスな『蟹工船(かにこうせん)』がまさかの平積み!
目を疑う光景だ。80年を経て再評価され人気が爆発した
(2008 大阪・紀伊國屋書店) 『蟹工船』執筆の頃(25歳)


1931年、自宅の火鉢の前で(28歳)



  
2000年8月、初巡礼
多喜二が小樽に自分で建てた墓

2014年1月、前月の「秘密保護法・強行可決」に抗議し再訪。お墓の下半分が
完全に雪の下に!蓮華の部分に雪が積もり(左写真)鼻ヒゲのようになっていた

2014年7月 同月の集団的自衛権容認
閣議決定に抗議し3度目の巡礼。雪が
なければ墓石はこんなに高い位置

書くこと自体が生死を賭けた戦いだった…この国にはそんな歴史がある。それも明治や江戸時代の話ではなく、昭和のことだ。

特別高等警察、略して特高。手塚治虫の『アドルフに告ぐ』にも登場するこの組織は、体制に反対する労働組合員や反戦平和活動家など、政府に逆らう思想犯を徹底的に取り締まる目的で明治末期に設立され、その後敗戦まで強権をふるった。
特高は国家反逆罪や天皇への不敬罪を武器に、密告とスパイを活用して“非国民”を手当たり次第に検挙し、残忍な拷問で仲間の名前を自白させてはさらにイモヅル式に逮捕していった。

小林多喜二は1903年に東北の貧農の家に生まれた。親に楽をさせる為に苦学して小樽で銀行員になり、21歳で仕送りの出来る安定した生活を営めるようになる。小市民的な幸せな未来が目の前に約束されていた。音楽が好きな弟には、初月給の半分を使ってバイオリンを買ってあげた。

ところが、軍国化を進める政府によって、1928年3月15日未明に全国で数千人の反戦主義者を逮捕する大弾圧事件が起きた。多喜二の周辺でも友人たちが続々と連行されていった。
彼は日記に記す。
「雪に埋もれた人口15万に満たない北の国から、500人以上も“引っこ抜かれて”いった。これは、ただ事ではない。」

貧農出身の彼はもともと権力・抑圧者への反抗心を持っていたので、この3・15事件は多大な影響を与えた。保釈された友人たちから過酷な拷問の話を聞くに及んで、元来読書好きの彼は事件を小説にし世間に国家の横暴を訴える決心をした。
彼はまた、権力と戦う人物を欠点や弱さも兼ね備えた人間としてリアルに描き、安易に英雄像を作らなかった。

「私は勤めていたので、ものを書くといってもそんなに時間はなかった。いつでも紙片と鉛筆を持ち歩き、朝仕事の始まる前とか、仕事が終わって皆が支配人の所で追従笑いをしている時とか、また友達と待ち合わせている時間などを使って、五行、十行と書いていった…私はこの作品を書くために2時間と続けて机に座ったことがなかったように思う。後半になると、一字一句を書くのにウン、ウン声を出し、力を入れた。そこは警察内の(拷問の)場面だった。」(自伝)

完成した作品『1928年3月15日』は、特高警察の残虐性を初めて徹底的に暴露した小説として世間の注目を浴びたが、これによって彼は特高から恨みをかうことになり、後の悲劇を呼ぶことになる。

翌年、26歳の彼はオホーツク海で家畜の様にこき使われる労働者の実態を告発した『蟹工船』を発表する。蟹工船は過酷な労働環境に憤ってストライキを決行した人々が、虐げられた自分たちを解放しに来てくれたと思った帝国海軍により逆に連行されるという筋で、この作品で彼は大財閥と帝国軍隊の癒着を強烈に告発した。
登場人物に名前がなく、群集そのものを主人公にした抵抗の物語は、ひろく一般の文壇からも認められ、読売の紙上では“1929年度上半期の最大傑作”として多くの文芸家から推された。

しかし天皇を頂点とする帝国軍隊を批判したことが不敬罪に問われ、『蟹工船』は『3月15日』と共に発禁処分を受けてしまった。また、銀行からは解雇通知を受け取ることになる。
多喜二は腹をくくった。
ペンで徹底抗戦するために名前を変え、身分を隠して各地を“転戦”する人生を選択した。

そして運命の1933年2月20日。
非合法組織の同志と会うために都内の路上にいた所を、スパイの通報によって逮捕される。この時、逃げようと走り出した多喜二に向かって、特高は「泥棒!」と叫び、周囲の人間が正義感から彼を取り押さえたという。同日夕方、転向(思想を変えること)をあくまでも拒否した彼は、特高警察の拷問によって虐殺された。
…まだ29歳の若さだった。
※3時間の拷問で殺されたことから、持久戦で転向させる気など特高になく、明確な殺意があったと思われる。

彼の亡骸を見た者が克明に記録を残している。
「ものすごいほどに青ざめた顔は激しい苦痛の跡を印し、知っている小林の表情ではない。左のコメカミには打撲傷を中心に5、6ヶ所も傷痕があり、首には一まき、ぐるりと細引の痕がある。余程の力で絞められたらしく、くっきり深い溝になっている。だが、こんなものは、体の他の部分に較べると大したことではなかった。
下腹部から左右のヒザへかけて、前も後ろも何処もかしこも、何ともいえないほどの陰惨な色で一面に覆われている。余程多量な内出血があると見えて、股の皮膚がばっちり割れそうにふくらみ上がっている。赤黒く膨れ上がった股の上には左右とも、釘を打ち込んだらしい穴の跡が15、6もあって、そこだけは皮膚が破れて、下から肉がじかに顔を出している。
歯もぐらぐらになって僅かについていた。体を俯向けにすると、背中も全面的な皮下出血だ。殴る蹴るの傷の跡と皮下出血とで眼もあてられない。
しかし…最も陰惨な感じで私の眼をしめつけたのは、右の人さし指の骨折だった。人さし指を反対の方向へ曲げると、らくに手の甲の上へつくのであった。作家の彼が、指が逆になるまで折られたのだ!この拷問が、いかに残虐の限りをつくしたものであるかが想像された。
『ここまでやられては、むろん、腸も破れているでしょうし、腹の中は出血でいっぱいでしょう』と医者がいった。」

 
  変わり果てた多喜二の亡骸を悼む友人たち(北海道新聞)

警察が発表した死因は心臓麻痺。母親は多喜二の身体に抱きすがった。「嗚呼、痛ましい…よくも人の大事な息子を、こんなになぶり殺しにできたもんだ」。そして傷痕を撫でさすりながら「どこがせつなかった?どこがせつなかった?」と泣いた。やがて涙は慟哭となった。「それ、もう一度立たねか、みんなのためもう一度立たねか!」。

特高の多喜二への憎しみは凄まじく、彼の葬式に参列した者を式場で逮捕する徹底ぶりだった。
彼の死に対して文壇では志賀直哉だけが
“自分は一度小林に会って好印象を持っていた、暗澹(たん)たる気持なり”
と書き記した。
この国の文学界は沈黙を守ったのだ。どの作家も、自分に火の粉が降りかかることを恐れたためだ。

●墓所
多喜二の墓は南小樽の奥沢共同墓地にある。僕は墓石の裏側を見て絶句した。「昭和5年6月2日小林多喜二建立」。昭和5年(1930年)といえば、『蟹工船』発表の翌年だ。多喜二は『蟹工船』によって警察にマークされ、5月に初めて逮捕されている。そして、墓を建立した3週間後に再逮捕&起訴されており(『蟹工船』で不敬罪)、翌年1月まで約半年間、多数の思想犯が送られた豊多摩刑務所に収容されている。つまり、多喜二は当局による弾圧を日増しに実感するなか、保釈の隙をぬって自ら“小林家之墓”を建てたのだ。そこには「いま建てておかないと、ペンを握り続ければ死ぬかもしれない」という覚悟が込められているように見える。墓建立の3年後、多喜二は絶命した。

※多喜二の訃報を聞いた中国の作家・魯迅は次の弔電を寄せた--「我々は知っている、我々は忘れない、我々は固く同志小林の血路に沿って前進し、握手するのだ」。
※後年、多喜二の弟が兄の思い出を語っている--「地下活動していた兄を訪ねたときに、2人でベートーヴェンを聴きました。バイオリン協奏曲です。その第一楽章のクライマックスで泣いていた兄の姿が忘れられません」



〔緊急巡礼!2014年1月、雪中の多喜二墓参~ベートーヴェン奉納〕

2013年12月6日午後11時23分、国会で『特定秘密保護法』の強行採決が行われた。官僚機構の情報隠しや国民の「知る権利」侵害
への懸念を残したまま、自公の賛成多数で同法は成立した。運用方法によっては戦前の治安維持法に匹敵する破壊力を持っており、
僕はこの強行採決の翌月、真冬の北海道・小樽まで多喜二の墓参に向かった。彼は治安維持法違反で拷問死した作家だ。
※追記…2014年7月1日、安倍政権は集団的自衛権容認の閣議決定を強行。事実上、日本が攻撃されてなくても開戦できることに。
そんなことを現行憲法が認めているわけがなく、改憲せずに容認するのは最悪の暴挙。同月、墓前に行き民主主義を守ることを誓った。


2014.1.17 大阪から新千歳空港に降り立つ 千歳は雪が少なく安心していたら… 小樽に着くと別世界に!



まず雪下駄を借りに天狗山スキー場へ

雪下駄はリフトに乗って山頂に行かねば
借りられず、外への持ち出しは厳しかった やむなし、防寒ズボンを2重履きし、
膝まである大型ブーツを装着



多喜二が眠る奥沢墓地の入口!ここへ分け入る!
所々に身長ほどの雪穴があり息を呑む
地元のY氏が同行、さらに墓地の入口にはW氏が
待機。僕とY氏が下山不能の緊急事態に備える まったく墓地内の道が見えない。多喜二の墓の案内板
も雪の中。「とにかく行けるところまで行きましょう」

歩き始めて30歩、早くも息が切れ始める。下層の雪は堅くなっているため、新雪だけなら膝から腰の高さ。
でも、ズボッと入った足を引き上げながらの登山は恐ろしく体力を消耗する。100歩目には汗だくになっていた。



蔵王の樹氷のようになった墓石たち 幻想的な光景だ。ここが墓地とは思えない 雪がなければ墓地入口に案内板がある


僕とY氏の足跡。足が抜けきらずキャタピラ跡に似る 同じ場所!夏に来るとこのような光景


100歩目。ここから40歩先を右折 200歩目。“雪見だいふく”と化したお墓 400歩目。ここまで来ればもう一息だ



あのポールを左に曲がると彼の墓所だ!

約30分で到着!うおお!多喜二ィイイイイ!!
貴殿の好きなベートーヴェンを持ってきたよ! 持参したDVDプレーヤーを起動!交響曲第九番の
合唱を奉納!※バーンスタイン指揮、ウィーン・フィル




 
Y氏がW氏にケータイで悲願成就を報告

大自然の中で鳴り響く第九。心ゆくまで聴いて欲しい。
そして僕は戦前の世に戻さぬ事を多喜二に誓った
夏の状態(左上)と比較すると、小樽の積雪量の凄さが分かる。多喜二
の墓は元々台座が高いのに、雪下ろしで墓のてっぺんに触っている!(汗)







お墓の後方から撮影。多喜二が見ている景色!

★この動画を公開『真冬の多喜二巡礼』
(1分22秒)
「昭和五年(1930)六月二日
小林多喜二建立」とあった



写真が斜めになっているのは僕が雪穴に落ちたから!
その瞬間、なんと鎖骨まで雪に埋まった。Y氏がすぐに
引き上げてくれたから助かったものの、僕は疲労のピーク
で自力脱出は厳しかった。雪穴は表面から分からない。
まるで落とし穴。皆さん、絶対に単独で墓参しないように!


●『蟹工船』は既に著作権フリーになっており青空文庫にて無料で読める。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000156/files/1465_16805.html
●読んでいる時間がないという方は、「マンガ蟹工船」がお薦め。白樺文学館がPDFファイルで公開しており、なんとこちらもダウンロードが無料。
http://diamond.jp/series/brandnew/10086/
※上記PDFファイルを読めない方は解凍ソフトを落とせます(無料)。
http://www.adobe.com/jp/products/acrobat/readstep2.html

★墓地の入口から墓前までの墓参動画をアップした人がいます!

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柔術プリースト 171

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★日本の総人口は原発事故から急減しだし4年連続で歯止めがかからない! ★チェルノブイリ周辺諸国と全く同じことが始まっている。なんと4年で100万人減少!! 《1》2010年までは日本の総人口は【増減2万人程度の静止人口】だった。 《2》2011年から【毎年30万~20万人もの急減がつづき】4年で100万人も減っている!

soumusyoujinnkoutoukei120901010.jpg


http://blog.goo.ne.jp/jpnx05/e/a618afaa0113f2a33fbc495f48a2b8c4

チェルノブイリ周辺諸国と全く同じことが始まっている。なんと4年で100万人減少!!
2015-03-12 22:02:31 | 放射能汚染

チェルノブイリ周辺諸国と全く同じことが始まっている。

なんと4年で100万人減少!!

02. 2015年3月08日 16:23:04 : afLcw5wwVy
すでに日本人は100万人ぐらい、
通常の原因でない「被爆原因」で死んでいるのだよ。

チェルノブイリ周辺諸国と全く同じことが始まっているのだ。

しかし確率の問題であり、
【1】殆どの被爆死は、甲状腺ガンや白血病のようないかにも有名なものでなく、
 (1)心臓・循環器関係 => 
  セシウムで心筋や血管がやられ、「心不全」「心筋梗塞」「脳梗塞」 「大人のチェルノブイリハート」
 (2)筋肉系 => セシウムで筋肉がやられ「ぶらぶら病」交通事故など
 (3)脳神経系 => 同じく脳や神経がやられ、交通事故増大など
 (4)各種感染症増加 => 免疫力低下のため「チェルノブイリエイズ」
 (5)各種成人病増加 => イットリウムによる「糖尿病」「膵臓癌」など
など医者が「おどかされて隠している」ので表面に出ないだけ。

【2】いまや日本人は100万人殺されているのだが、それでも1億人の国だから、100人に1人死ぬ確率にすぎない。

 それでも100万人減っているぞ!

=========================
★日本の総人口は原発事故から急減しだし4年連続で歯止めがかからない!
★チェルノブイリ周辺諸国と全く同じことが始まっている。なんと4年で100万人減少!!
《1》2010年までは日本の総人口は【増減2万人程度の静止人口】だった。
《2》2011年から【毎年30万~20万人もの急減がつづき】4年で100万人も減っている!
http://blog-imgs-51.fc2.com/j/y/o/jyouhouwosagasu/soumusyoujinnkoutoukei120901010.jpg

★日本の10月1日現在総人口統計(単位:万人、出典:総務省統計局)
◇2000(平成12)年 1億2693万人(前年から25万人増)
◇2001(平成13)年 1億2732万人(前年から39万人増)
◇2002(平成14)年 1億2749万人(前年から17万人増)
◇2003(平成15)年 1億2769万人(前年から◇20万人増)
◇2004(平成16)年 1億2779万人(前年から10万人増)
◇2005(平成17)年 1億2777万人(▼前年から2万人減)
◇2006(平成18)年 1億2790万人(前年から13万人増)
◇2007(平成19)年 1億2803万人(前年から13万人増)
◇2008(平成20)年 1億2808万人(前年から5万人増)
◇2009(平成21)年 1億2803万人(▼前年から5万人減)
◇2010(平成22)年 1億2806万人(前年から3万人増)
・・・・ここで、福島原発事故が起こる・・・・
◇2011(平成23)年 1億2780万人(▼前年から26万人減)
◇2012(平成24)年 1億2752万人(▼前年から28万人減)
◇2013(平成25)年 1億2730万人(▼前年から22万人減)
◇2014(平成26)年 1億2709万人(▼前年から21万人減)

★福島原発事故で、首都圏・東北の頭上に【チェルノブイリの4倍、広島原爆の4023倍の放射性セシウム】がばらかまれる。いまも放射性物質は福島原発から毎時1000万ベクレル漏れつづけ東日本に降り注いでいる。
http://p.twipple.jp/5aohc
http://blog.goo.ne.jp/jpnx05/e/c61332351d06c44c1b52d1821d9c062a
http://financegreenwatch.org/jp/?p=37811


(常識1)原発事故ではほとんどの人は、癌+奇形でなく【普通の症状(心不全、神経障害、感染症、成人病)】の急激な増大要因で死んだ。
http://ameblo.jp/sunamerio/entry-11380553912.html
(常識2)東北大学大学院医学系研究科循環器内科学教授の下川宏明氏は、「福島原発事故は、その後は、心不全、ACS、脳卒中が有意に増加する非常に特殊な災害!」と発表!!心不全パンデミックと命名!
http://medical.nikkeibp.co.jp/leaf/all/gakkai/jcs2012/201203/524102.html
(常識3)「福島県下の高汚染地域と完全に一致する急性心筋梗塞」(宝島8月26日)
http://www.asyura2.com/14/genpatu39/msg/898.html
(常 識4)被爆は【遅発性】で、来年ぐらいから何十倍にも拡大する。このままでいけば、来年あたりから、東日本を中心として、放射能健康被害の訴訟で膨大な責 任問題となり国家破産する。2015年初にあたり、なぜ政権が、今突然「東京から地方への人口分散(地方創成という名の下で)」「関西への遷都(大阪都構 想という名の下で)」を応援しだしたのか、よく考えてみよう、日本人として!




朝の番組で、東京では火葬が一週間待ち

原因は、高齢化と言っていましたが、そんなはずない

12. 2015年3月10日 16:59:24 : 4LTcbX5fKf
昨日の朝の番組で、東京では火葬が一週間待ちとかいうのをやっていました。
そのため、家に遺体を置いて待機している人も居たし、
ホテルを改装した借り置き場みたいな部屋の貸し出しをしている業者まで
紹介されていました。
原因は、高齢化と言っていましたが、そんなはずないと思いました。


「近年保険金の支払いが急増

現状の保険料では維持できないため2割値上げ」との連絡が

13. んしゅら 2015年3月11日 03:23:28 : moosJgVfi0yS6 : UxAMwk7WwE
今朝のテレビの遺体安置所が不足しているニュース私も見ました。

また、住宅ローン期間中の疾病保険を契約している会社から、今日手紙が来ました。
近年保険金の支払いが急増しており、現状の保険料では維持できなくなってきたため5月から2割値上げします、というものです。
事故での怪我のみに特化し疾病を対象外にした保険の売り込みがこの3年ほど目立つようになっていますが、既に疾病保険契約していた人についても、今後はこのようなコスト増加が降りかかってくる可能性を考えねばと思いました。

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100% 柔術オンリーマガジン「Jiu Jitsu NERD」05号 アロージオシウバがお金で黒帯を授与したことが誤報である事が発覚!!

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Jiu Jitsu NERD Vol.5


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100% 柔術オンリーマガジン「Jiu Jitsu NERD」05号

『Jiu Jitsu NERD』Vol.5

出版社: JIU-JITSU NERD 編集部

種類:小冊子

言語:日本語

フルカラー:64ページ。

価格:600円

コンテンツ:



【大会レポート】

IBJJFヨーロピアン2015

IBJJFワールドマスターズ2014

IBJJFアジアオープン2014

SJJIFワールド2014

ヒクソングレイシー杯2014

DUMAU JAPAN CUP 2014

Jiu Jitsu Priest CUP 2015 TOKYO

METAMORIS 5 / POLARIS

NY BJJ PRO/REAL FIGHT

ほか



【インタビュー】

“ベアー”ヴィンス・キトゥグア

「SYRというブランドを通じて柔術コミュニティの発展に貢献できたら嬉しい」

ベアー&岩崎正寛 ハーフガード対談

「日米ハーフガードマスターが語るハーフガードの極意」

八木沼志保

「祝・BJJアワードMVP記念インタビュー」

クレバー・ルシアーノ

「ホイラー・グレイシーの黒帯五段が待望の初来日」

チョイ・ワンチョイ

「ヒクソンからAOJまで数々の道場を渡り歩いたチョイが構築した独自スタイルとは?」



【特集】

BJJ AWARD 2014 選考座談会

「2014年の日本の柔術シーンを総ざらい」

SJJIF連盟会議

「柔術をオリンピックに!知られざるSJJIFの連盟会議に初潜入」

http://btbrasil.livedoor.biz/archives/55631169.html

【告知】『Jiu Jitsu NERD』Vol.5 新発売!
01
100%柔術&グラップリング専門誌『Jiu Jitsu NERD』の最新号、Vol.5が完成、来週から発売開始します。

前号からやや時間が経過していしまいましたが、今回もフルカラー64ページで柔術情報満載の1冊となっています。

大会レポート、インタビュー&テクニックの他、2014年のBJJ AWARD選考座談会など読み物も充実。

掲載コンテンツは以下の通りです。

<大会レポート>
IBJJFヨーロピアン2015
IBJJFワールドマスターズ2014
IBJJFアジアオープン2014
SJJIFワールド2014
ヒクソングレイシー杯2014
DUMAU JAPAN CUP 2014
Jiu Jitsu Priest CUP 2015 TOKYO
METAMORIS 5 / POLARIS
NY BJJ PRO/REAL FIGHT
ほか

10
IBJJFヨーロピアン2015


11
IBJJFアジアオープン2014



12
Jiu Jitsu Priest CUP 2015 TOKYO



13
DUMAU JAPAN OPEN 2014



14
ヒクソングレイシー杯2014



<インタビュー>
“ベアー”ヴィンス・キトゥグア
「SYRというブランドを通じて柔術コミュニティの発展に貢献できたら嬉しい」

ベアー&岩崎正寛 ハーフガード対談
「日米ハーフガードマスターが語るハーフガードの極意」

八木沼志保
「祝・BJJアワードMVP記念インタビュー」

クレバー・ルシアーノ
「ホイラー・グレイシーの黒帯五段が待望の初来日」

チョイ・ワンチョイ
「ヒクソンからAOJまで数々の道場を渡り歩いたチョイが構築した独自スタイルとは?」


02
“ベアー”ヴィンス・キトゥグア



03
ベアー&岩崎正寛



04
八木沼志保



05
クレバー・ルシアーノ



06
チョイ・ワンチョイ



<特集>
BJJ AWARD 2014 選考座談会
「2014年の日本の柔術シーンを総ざらい」

SJJIF連盟会議
「柔術をオリンピックに!知られざるSJJIFの連盟会議に初潜入」


08
BJJ AWARD 2014 選考座談会


09
SJJIF連盟会議



15
世界のタタミから・ベトナム編


今回の目玉はみんな大好きSHOYOROLL創始者にしてレオジーニョの黒帯である“ベアー”ことヴィンス・キトゥグアのロングインタビュー。

知られざるSHOYROLLの歴史からこだわりが詰まったギへの思い入れ、スポンサーアスリートのことについてなど、初公開秘話が満載です。

さらにベアーは来日時に行ったセミナーのレポートに加え、同じハーフガードを得意とする岩崎正寛との技術対談&テクニック解説もあり、さながらプチSHOYROLL特集といった感じ。

ここでしか読めない濃い情報が満載のまさにナードな1冊、ぜひお買い求め頂きたいと思います!

もちろん今回も毎回恒例の道場卸を受付します。

道場卸をご希望の方は以下のメアドまでご連絡を!

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道場卸は10冊以上から受付で1冊550円、送料無料となっています。

10冊の場合は5500円、15冊の場合は8250円、20冊なら11000円です。

10冊以下のご注文の場合は定価の1冊 600円+送料82円で対応します。

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またブルテリア、イサミ各店舗、書泉グランデ、公武堂でも購入可能ですので、お近くの方はそちらをご利用下さい。

道場卸注文は3/8(日)までにご注文頂ければ発売日までにお届け可能!

さらに10冊に1枚、特製の非売品『Jiu Jitsu Priest クリアファイル』を特典で付けさせて頂きます。

多数のご注文、お待ちしております!


01
【新発売】
『Jiu Jitsu NERD』Vol.5
3/11(水)発売予定
オールカラー・64P
定価 600円
購入は通販の他、以下の取り扱い店舗でお買い求め下さい。
ブルテリア
イサミ各店舗
書泉グランデ
公武堂

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