日本は内需で潤った国 円安輸出で景気は良くはならない  アベノミクスは詐欺である

http://ameblo.jp/shyusui/

$バカ国民帝国日本の滅亡◇FooL JAPAN!◇

人間が、組織という「巨人」に喰われていく…

1%に課税せよ!不平等是正!ゲームではない経済を!


$バカ国民帝国日本の滅亡◇FooL JAPAN!◇

グローバル・ハゲタカ資本から国民の財産を守れ!
◆権力・・・とは、欲で釣り、暴力で脅すこと。ゆえに無欲で死を恐れぬ者は無敵である。
それが絶対的自由を得た完全に自立した個人である。

◆自立した個人とは、ことば(マコト)の刀を差したサムライをいう。
◆法にしたがうとは、自らの良心にしたがう・・・ということ。

【アベタリズムで日本は沈没する?】

( -。-)b では、聞こう。日本の景気がよいときはどんなときだ?どうなると景気がよくなるんだ?

( -。-)日本が儲かるのは、円安の時か?円高の時か?γ(▽´ )ツハーイ、円安ですうー!ヾ( `▽)ゞ円安!!

(☆。☆) ほおおお~!Σ(゚д゚;) え?何?違うの?

(☆。☆) なんで、そう思うの?Σ(~∀~||;) えー!だって、テレビや新聞で・・・・

(☆。☆) ほおおおおー!(^▽^;) え?え?え?違うんでっか?

(-。-;) まあよい。なんで円安だと日本は景気がよくなるの?

(*゜▽゜ノノ゛☆そりゃあ、輸出企業が日本の景気を引っ張ってくれるからですよ~!(☆。☆)え?なぜ?

о(ж>▽<)y ☆ だーって、日本は輸出立国じゃないですかあ!(☆。☆)ほお!

(☆。☆) じゃあ、日本は無資源国って、信じているクチなんだよね?(´0ノ`*)あん?なに言ってんの?

(☆。☆) じゃ、もういちど聞くけど、なぜ日本は輸出立国だと思うの?(ノ´▽`)ノえ~!だって新聞が・・・

∑(-x-;)p じゃあ、例の株雑誌『ZAI』の株漫画を見なよ。
バカ国民帝国日本の滅亡◇FooL JAPAN!◇ バカ国民帝国日本の滅亡◇FooL JAPAN!◇
ヾ(。`Д´。)ノ労働力が市場原理で安く買いたたかれる賃金デフレ、これがデフレの原因だ。

(・ε・)b これを全世界規模で連鎖させたのが現実のグローバリゼーション!

(`ε´)b 国境を越えて自由にものが移動する環境は、第一に、労働力を安く買いたたくため・・・

(ノ゚ο゚)ノ また、そうなったとき、自由に国境を越えられる無国籍のグローバル企業が絶対に有利になる。

∑(-x-;)b そういうことで、あらゆる「貿易障壁」とやらを取っ払いたいのだ。

(ノ゚ο゚)ノ その動きに日本はお付き合いしてしまった。p(`ε´) 現実は内需大国だったのにだ!

バカ国民帝国日本の滅亡◇FooL JAPAN!◇ バカ国民帝国日本の滅亡◇FooL JAPAN!◇

\(*`∧´)/内需立国なのに輸出企業を優遇することで、日本の景気はさらに、よくはならなくなる。

(`Δ´) だいたい、中国市場を取りに行くとか言って、市場規模ははるかに日本が大きかったのだ。

川・ε・川9m それを「輸出優先」「貿易黒字確保」などと言って、中国にわざわざ投資してきた。

(`(エ)´)ノ_彡中国を国策として日米は大きくしてきておいて、今頃「中国の脅威」などと言っている。

( ̄へ  ̄ 凸 (貿易赤字にして)日本に投資してりゃよいものを中国に投資して貿易黒字を拡大していれば・・・

(=`(∞)´=) 日本で不景気が続いて当たり前だろ~!!

(  ̄っ ̄) この孔徳秋水にも論破されるような3流エコノミストは、給料返せってんだ。このサギやろう!

日本経済悪化の原因は輸出だった

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柔術はストリートファイト 喧嘩で使えるのか? 結論 フツーに使えます むしろ今時柔術知らないで実戦云々語るのはモグリ

http://letsbjj.jugem.jp/?eid=41

寝技って何?



JUGEMテーマ:ブラジリアン柔術



ねわざって何?

え?急に話戻ったな。

ちょっと、オッサンの成長記録みたいな感じで
どんどん話が進んで行っていってたけど、初心者や、これから始めたいって人には
謎な事が多々あると思って、たまにこうやって時間が巻戻ることもあります。
なお、PC版の右にある目次は時間軸通りに並べてあるのでよろしく。


ねわざとは。
まず、格闘技において寝技(ねわざ)っていうのは
組み合った二人が、そのままもつれこんで倒れたところからの
戦闘術の事である。といえばわかりやすいかな?


わからないな。


おっさんは喧嘩したことある?


まぁ子供の頃に何度か・・。


ケンカでどんな風に戦った?


いやぁ、どうだったかな。たしか数発殴られたところで
周りのみんなに止められたかも・・。


ケンカで殴られないようにするにはどうすればいいと思う?


さぁ、よければいいのかな?


ボクサーみたいに?無理じゃない?
避けるのは訓練が必要。でも、クリンチなら比較的、すぐできるでしょ?





抱きつくってこと?それなら無意識でやったかも。


そう。打撃は距離を詰められると出せなくなるんだ。


いや、でも、シウバなら膝出すよ。


ヴァンダレイ・シウバ
かつてPRIDEミドル級絶対王者と呼ばれた、シュートボクサー。
首相撲からの膝蹴りが、雨あられのように繰り出されられる事から
ついたあだ名が”戦慄の膝小僧”。漫画のように盛り上がった僧帽筋が特徴。



っていうかケンカでシウバが出て来たら走って逃げろ。
そういう話をしているんじゃないんだよ。


要するに、一般的にあまり喧嘩をしない人の
イメージだと、K1みたいに、立ったまま
蹴ったり、殴ったりするイメージがあると思うんだけど
それは立ち技なんだよ。実際ケンカは一対一だったら
つかんだり倒したり、ぐちゃぐちゃになることが多い。


K1でも、クリンチはあるし、蹴りが外れたら
転ぶこともあるでしょ?
問題はそのあとだよ。そのあと実戦だと
相手を倒したり、倒れている相手に組み付くこともあるでしょ?


柔道みたいに?


そっちの方が話がはやいわ!!
そう。柔道みたいに寝た後に抑え込んだり
絞めを狙ったり、関節技を狙うのが寝技(ねわざ)ちゅーんだよ。


最初から柔道みたいに。っていってよー。


・・・・。



実際のストリートファイトの映像を見てみよう。
これは寝技を使って喧嘩に勝った、とある坊やのお話だ。



この短パンの坊やは寝技の訓練をしていると、一目でわかる。
まず、相手の打撃をかいくぐり、片足タックルを取りに行っている。
最初は相手の左足を狙っていたけれど、すぐに相手のけり足にチェンジしているのもいい反応だ。
しばらく、押し問答の末、脚を刈って、テイクダウン。
そこから、バックを狙いにいくが。相手が暴れて下になる。
しかしすかさずクローズドガードを作って相手の頭を引き打撃を打てないようにしている。
相手が立ったのに合わせて、素早く左足を相手の左側頭部にかけて
腕を引っ張り、すかさずアームバーを取りに行く。見事だねぇ。


しかし相手は持ち上げて、下にたたきつける。下がコンクリじゃなくてよかった。
芝生だったから助かった。そこから、打撃を数発もらうが、脚を伸ばして
相手との距離を取りオープンガードの攻防。近寄ってくる相手に再びアームバーだ。
今度は逃げられなかったね。相手はたまらずに声を出して痛みを訴える。
ひょっとしたら折れたかもしれないね。あぁ怖い。


柔術の寝技は、こういった事を怪我をしない範囲で訓練するんだよ。
この動画はたまたま、柔術をやっている坊やが勝ったけど
もっと打撃の強い人だったり、下がアスファルトだったりしたら
悲惨なことになってたと思う。喧嘩はしないのに限る。


寝技がどういうものかわかった?


すげーすげー。もっと見たい。


欲しがるねぇ。よし


初心者はこれを見て萌えなさい!!

グレイシーチャレンジ←クリックするとyoutubeに飛ぶ。


これはグレイシー一家がやっていた
誰でもいいんで、私を倒したら10万円あげます。という
逆道場破り企画だね。


グレイシー一家はアメリカで
グレイシー柔術を広めるために、新聞広告で
なんでもありのケンカマッチを催したんだね。
お金が欲しい腕自慢が、続々と謎の格闘技
グレイシー柔術にボコられる動画は、見ていてかなり面白い。


グレイシーチャレンジは、そのうち興行にしようぜって流れになって
第一回アルティメットファイティングチャンピオンシップ(UFC)にたどり着くわけだ。
それから現在のUFCにまで続いているんだよ。


グレイシーは性格が悪いから、グレイシーチャレンジの証拠動画をきちんととって
後から、文句言われないようにしてたんだね。(それを今YOUTUBEにアップするところが性格が悪い!!w)
日本人だとプロレスラーの安生洋二が、道場破り(ヒクソンに日本で試合してもらおうと直談判)
して、ボコボコにされたんだよ。その時の動画もあるらしい。


私はヒクソンよりも安生の方が好きだ。マジかっこいいと思った。

寝技の事が少しは分かった?

グレイシーチャレンジやべぇ!!

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伝説のキックボクサーにして伝説の空手家大沢昇と大沢食堂  地上最強の極辛カレー  懐かしき真剣勝負を愛し擬似真剣勝負 八百長プロレスのUWFと戦った格闘技探検隊が愛した店



http://rocketnews24.com/2013/03/20/306017/

【激辛グルメ】激辛マニアも気絶するほど辛い『大沢食堂』の極辛カレーを食べてみた

沢井メグ
2013年3月20日
コメント6

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世の中に「激辛マニア」は大勢いるが、これを食べずにしてマニアを名乗るべきではないと言われるカレーがある。元キックボクサー大沢昇氏が自ら厨房に立つ「大沢食堂」の極辛カレーだ。

ここに「真の激辛マニア」を名乗る2人の男が現れた。一人はロケットニュース24の佐藤記者、そしてもう一人がニコニコ生放送「暗黒放送Q」の横山緑氏だ。「普通の辛さじゃ僕許しませんからね!」と息まく緑氏。この2人が雌雄を決するべく、極辛カレーに挑戦したぞ!

・簡単には注文させてくれない「極辛カレー」
「極辛カレーを頼むッ!」早速、注文したところ、お店の方に「本当に大丈夫ですか? 本当に食べられるんですか?」と、止められてしまった。

「いやいや、我々は真の激辛マニアですよ、何言ってるんですか」と注文しようとする2人。しかし、お店の方はすごい勢いで何度、何度も止めてくるのだ。そこまでして止めるのなら何故メニューに載せているのだろう……。

お店の人の真剣な目にビビりながらも、2人は「真の激辛マニア」なので、制止をふりきって注文した。 

・食べる前からすでに辛い!! 緑氏「湯気が痛いッ」
お店の方の忠告を無視して注文した「極辛カレー」。むむむ……これはッッ!! 赤い。カレーなのに赤い。実際にカレーを目の前にして、驚愕する緑氏。どうやら、カレーから立ち上る湯気がすでに辛い、いや、痛いらしい。一方の佐藤記者は薄目を開けて、ニヤニヤしている。一体何を考えているのか。

・時が止まるほどの辛さ! 「メラゾーマを食べている!」「息をするだけで痛いッ」
早速カレーを口にした2人。なんだか一瞬顔色が変わった気がしたが、ガツガツ食べ始めたぞ。緑氏によると、ドラクエの炎の上級呪文・メラゾーマを食べているようだという。「辛くて美味しい」と連呼する緑氏、黙々とスプーンを運ぶ佐藤記者。さすが2人とも「真の激辛マニア」を名乗るだけのことはある……。

と感心したのもつかの間、食べ始めてわずか2分で手が止まった。どうやら口のなかが痛いらしい。「呼吸をするだけで口が痛い」というのだ。ティッシュで口を拭ったり、水を頻繁に飲んでいる。そうこうしているうちに緑氏のスプーンは完全止まってしまった。「ちょっと休憩しているだけ」とは言っているが、大粒の涙をこぼし始めたではないか! だ、大丈夫か!?

・勝負の結果は!?
結局、最初に大口をたたいた緑氏は「今日は小食なので……」とあえなくギブアップ。辛いためではなく、あくまで「今日は小食」だと主張していた。

一方、佐藤記者は何とか完食。「伝説の男、大沢さんがそこ(厨房)にいると思うと、意地でも食わねばと思いました」と、涙目で語っていた。意地で完食したのなら「真の激辛マニア」とは言えないのでは……。

これまでも多くの猛者が太刀打ちできなかった「極辛カレー」。その辛さが気になる人は「一口極辛」というお試しメニューがあるので、まずはそちらで辛さを確かめてみるといいだろう。

ちなみに、ロケットニュース24のグルメ担当のKuzo記者は、食べて一瞬気絶してしまったほど辛かったという。このほかのメニューも定評がある。辛いもの好きには必見のお店である。

・今回訪問したお店のデータ
店名 大沢食堂
住所 東京都文京区本駒込2-1-5
時間 11:30~13:30 / 18:00~22:00
休日 日曜、祝日、水曜ランチタイム

model:横山緑、フードクイーン・佐藤
Report : 沢井メグ
Produce:Kuzo.

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▼極辛カレーに挑戦した2人

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▼これが極辛カレーだ!

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▼いただきます!

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▼あれ、どうかされましたか?

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▼泣いて……る?

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▼「あの……」

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▼「今日は小食なんで」

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▼佐藤記者た完食したようだ

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▼但し目の焦点があってない

http://rocketnews24.com/2012/03/04/188670/

【激辛グルメ道】「俺は激辛マニアだ!」と自負している人は『大沢食堂』で「極辛カレー」を完食したら認める / 食べられなきゃタダの甘ちゃん

2012年3月4日
コメント13

「俺は激辛マニアだ!」と自慢したり自負したり威張っている人がいるが、本当に激辛マニアだと自負するのなら『大沢食堂』で「極辛カレー」を完食したら認めるとしよう。正直いって、そこらへんの激辛カレーとはレベルが違う。次元が違う。すべてが違う。

『大沢食堂』は、東京・駒込にあるいたって普通の食堂だ。カレーやラーメン、チャーハンなどが美味しい店として地域住民たちに愛されている。しかし! ひとつだけ他の料理とは違うレベルの「とんでもないカレー」が存在する。それが極辛カレーなのである。

B級グルメ評論家の空条海苔助氏はこの極辛カレーに対して「日本や海外であらゆるカレーを食べてきましたが、『大沢食堂』の極辛カレーほど辛いカレーはありませんでした。世の中のどの料理よりも辛い料理が、ここの極辛カレーといえるでしょう。私はすべて食べることができましたが、あまりに辛くて耐えきれず、帰り道にゾンビのようにフラフラしちゃいました」と言っている。

そんなにも辛いとは……。食べてみたいような、食べたくないような……。ちなみに、シェフは元キックボクシングチャンピオンらしく、残すと怒られそうなので「辛すぎても食べるしか選択肢がない」という噂も……。もしあなたが激辛が好きというのであれば、試しに食べてみるといいかもしれない。しかし、尋常ではない辛さなので、どんな状態になったとしても自己責任で!

ちなみに、極辛カレーを注文したとしても辛さを抑えて作られることがあるらしい。食べられそうにない客には弱めの極辛カレーを出すという噂があるのだ。本当の極辛カレーを食べたい人は、「どんな辛い食べ物も平気なので本当に一番辛い極辛カレーをください」と言って注文しよう。重ねて言うが食べるなら自己責任で。

・激辛男 佐藤記者の評価
激辛度: ★★★★★
ウマミ: ★
コスパ: ★★
コメント: この世で一番辛いカレー確定です。普通の辛さのカレーは美味しいらしいですが、この辛さは味どころではない。普通の辛さのカレーはウマミ★★★★です。

・B級グルメ評論家 空条海苔助の評価
激辛度: ★★★★★
ウマミ: ★
コスパ: ★★★
コメント: 食べたあとにフラフラしました。このカレーより辛いカレーがあったら教えてください。ないと思います。普通レベルの辛さのカレーの美味しさは★★★★ですね。スパイシーで食材の美味しさも感じてかなりイイです。

・今回ご紹介したお店の詳細データ
店名 大沢食堂
住所 東京都文京区本駒込2-1-5
時間 11:00~14:00 / 18:00~23:00 ラストオーダー30分前
休日 日曜、祝日

Photo: RocketNews24.

「うおおお! 気絶しそうになったけど食べたぞー!」という人がいたら、ブログやTwitterなどに写真を載せるなどして報告してほしい。記事として紹介させていただくかもしれない。


http://media.excite.co.jp/ism/030/04challenge.html

一食必殺のストマック破壊アーマゲドン料理『極辛カレー』が泣く子も気絶させると評判なのが、東京は巣鴨にある大沢食堂。「世界一辛いカレーを食わせる」という噂が全国の激辛マニアたちの辛味欲をかき立て、寝しなに唐辛子を丸かじりするような猛者達が毎日ひっきりなしに現れては禁断の味覚兵器・極辛カレーに挑むが、その想像を超えた未知の辛さの前に次々と壮絶KOされ、滅多なことでは完食を許さないというのだから恐るべし!!

 人間という生き物は、未知なる危険があると聞けばそれを回避したいと思う心よりも「あぶねぇあぶねぇっつったって、やってみなきゃあナンボあぶねぇかもわかんねぇべ?」という悪戯な興味が勝ち、本能として体験を強いるもんである。死なない程度で済むんだったら、クフ王の墓の上にカセットコンロ置いてお好み焼きさえ作りかねない無茶な生き物……それが男というもの! 「どうせ死ぬならカレーで死にたい!」というエンセン井上のTシャツの文句みたいなムリヤリな欲求が首をもたげてしまった以上、俺も男だ! これはもう、大沢食堂に行って極辛カレーを実食するっきゃない! 気がつけばいつの間にか国道17号線をキックボードぶっとばして北上し、激辛大魔境総本山・大沢食堂のド真ん前に辿り着いたのだった。

 男の勝負はファーストコンタクトが肝心。「一度ナメられたら男って奴はそれで終いなんだよ」という若き日の梶原一騎先生が言った言葉を噛みしめるように、入店早々こいつはタダ者ではないなというオーラを全身からバリバリに漂わせることに努める。事前に野良イヌをいじくり回した手で目をゴシゴシ擦って眼球を存分に充血させておき、口の端からヨダレをダラダラ垂らしながら思いつく限りの適当なリリックでジュディ・オングの『魅せられて』を熱唱。文金高島田+ネグリジェ+出刃包丁という小粋なファッションに身を包み威圧感たっぷりに暖簾をくぐった。

 しかして慢心する俺の目に飛び込んできたのは、「大沢」と気合いの入った字で書き殴られたトランクスをはきガッツポーズをとる筋骨隆々とした男の、たたみ2畳分は優にあろうかという特大ポートレイトであった。その写真に写った男こそ誰であろう、大沢食堂店主・大沢昇氏の若き日の姿である!

 大沢昇……本名・藤平昭雄。極真空手史上に名を残す伝説の空手家である。大山倍達総裁をして「僕が知っている限りで一番稽古をしたのは藤平だよ!」と言わしめた極真随一の稽古狂いはゲロを吐くほど過酷な稽古を毎日続け、稽古のしすぎで失神してもなお起きあがっては稽古を続けたと言われ、『稽古の虫』の異名を取った。小兵ながらその豊富な練習量と根性に裏付けされた卓越した格闘センスは極真史上最強だとして名前があがることも少なくない。1964年、タイでの極真VSムエタイの歴史的一戦での勝利を境にして、同年末にはプロボクサーとしてデビュー。1968年にはキックボクサーに転向し、通算成績は56勝8敗3引き分け(なんと50KO!)。そのガッツ溢れるファイトは本場タイでも『ビッグ・ハート』と讃えられた。

 そう! 極真空手で培った己の打撃でムエタイ越えに挑んだのと同様に、大沢昇は己の作る極辛カレーでも激辛の本場・タイを凌駕しようというのである! 事実タイ人でも大沢の極辛を完食出来る者は稀であり、「タイでもこんな辛いカレーねぇよ!」と捨て台詞を残して帰っていくらしい。まさに地上最強のカレー!! ネグリジェ姿で食いきれるほど甘っちょろいものではないと判断した俺は、オフィシャルスタイルの白ラン姿に着替えて席に着き、並辛、中辛、極辛とあるカレーメニューの中から迷わず一番キッツイ奴を注文。押忍! 極辛一丁、頼んまーす!

 「ヤメといた方がいいよ~」……アレレレ? 不敵なニヤニヤ笑いを浮かべた大沢さんにあっさり制止されてしまった。極辛が殺人的に辛いため、一見の客はまず中辛カレーから食すことを勧められるのだ。中辛とはいってもあくまで大沢食堂独自の基準値に則った辛さの値なので、何が中なのかさっぱりわからないほどこちらも殺傷能力アリアリらしい。だがここで引き下がっては男がすたる。「オラ、ここの極辛カレーさ食いたかったなスけ、八戸から夜行ン乗ってはるばる来たなッス!」とかなんとか適当なウソ訛りを交えて懇願すると、大沢さんは嬉しそうに頷いて「遠いところからわざわざ食べに来てくれたんならしょうがないねぇ~。ホントに辛いけど、いい?」と、極辛カレーを出してくれた! 汚い手段でありつけることになったが取りあえずヒャッホー! 

 ……そうして出てきたカレーを見た途端、言葉を失った。パッと見は何の変哲もない町の食堂カレーの素朴な外見。だが、その色彩たるや地獄の血の池のような濃紅色をしており、更には煮詰められた過剰な唐辛子フレグランスが鼻腔にザクザク突き刺さる。鬼気迫る極辛カレーの佇まいに飲まれそうになるも、(味わう前から負けることを考えるバカがいるかよ!)と、己の中の小さなアントニオ猪木が俺の心にビンタを張り、気合いを入れ直して遂に一口目をパクリ! ……アレ? 辛いというより旨いよ、これ! 気絶するほど辛いとか、辛さに関する情報ばかりに踊らされ肝心の味を云々するのを忘れていたが、カレーとして純粋に味が良く、ただの虚仮威しのビックリ料理ではないことを知る。うまい、うますぎる! と十万石饅頭でも食すように調子に乗ってガツ食いしたのだが、それも3分の1を食いきるところまでだった……。頭上を通り過ぎた超音速旅客機の轟音が数秒遅れて届くように、突如として舌にラウドな激痛が走る! あまりに辛すぎて味蕾が瞬時に反応できない味のソニック・ブーム現象が起きていたのだ! イダダダダダ舌が痛い痛いイタイんでーす! 間違って塩酸飲んでもこれほどまでには口の中痛くねえよ、絶対! 続いて涙鼻水リンパ液他、体中のありとあらゆる体液が沈没前の客船から逃げだすネズミのように我先にと一斉にぶわーっと飛び出してくる! あまりの辛さになんか耳も聞こえなくなり、ジージージージー頭の中で巨大なアブラゼミが鳴きだす始末。辛いという感覚が限界点を超えた時、胃腸が蠕動運動を停止するぐらいまでは想像できたが、三半規管が狂い出すとは思いも寄らなかった。うっかりするとカレーが辛くて幽体離脱までしかねない……。

 喝だ! 己に喝を入れ直さなくては! ひとりブッチャーVSテリー・ファンク方式で咄嗟に自分の二の腕をフォークで突き刺し流血し、3次元空間に己の意識を戻すことに成功。そして怒濤のカレーかっ込みラストスパート! 口と胃袋の中が火炎ビンを丸飲みしたようにヒートし、このまま食い続けるとファンタスティック4のヒューマン・トーチに変身してしまうのではないかという不安な気持ちを押し殺しながらも、死にものぐるいでなんとか完食達成! だが最後の一口を飲み込んだところで俺は意識を失い、極辛カレーと俺の壮絶な死闘は、ダブルKO劇で幕を閉じたのだった……。

 大沢食堂の極辛カレー、それはただの激辛いカレーではない。「極辛」とかいて「ゴクカラ」ではなく「キョクシン」と読むに相応しい、カレーの形をした男の根性試しなのである。この極辛を日に2度食べる猛者も実際いるそうなので(!)、是非貴兄もこの「味の百人組手」に挑み、見事完食して男を上げて欲しい。押忍!!

http://efight.jp/news-20130529_17456

【ニュース】伝説の格闘家が作る、極辛カレーの大沢食堂が40年の歴史に幕



2013/05/29(水)UP




閉店後、看板を下ろす大沢昇氏

 極辛カレーで有名な大沢食堂(文京区本駒込)が5月28日(火)の営業をもって惜しまれながら閉店した。近々閉店の噂を聞きつけ、ファンは連日列をなした。

  店主の大沢昇氏(70)は極真空手、ボクシング、キックボクシングで活躍し、身長155cmの小兵ながら、1968年、全日本キックボクシング協会のバンタム級初代王者となり1973年30歳で引退。キックボクシングの戦績は67試合中、KO勝ちが50試合と驚異の強さを誇った。引退後、大沢食堂を始め、以来40年、グローブをフライパンに変え厨房で腕を振るい続けた。

 現役当時、多くのムエタイ選手をKOしてきた大沢氏だが、店を開店してからも食べに来たタイ人を辛さでKOしてしまうほどの「極辛カレー」(写真)を開発。
チャレンジャーが毎日のように現れ人気を博した。

 閉店の理由としては年齢による引退、としているが厨房の機敏な動きからは年齢の衰えは感じさせない。

 閉店後、今の気持ちを尋ねると「なんか肩の荷が下りた感じだよ。やっと一段落ついた感じだな。まだ人生の一段落だ。皆様に支えられて40年、一言で40年って言うけど長いんだよ。過ぎてみればあっと言う間だけどな」。そしてこれからのことを尋ねると「日本のどこかにいるよ。ちっちゃいから誰にもみつかんないよ(笑)」と安堵感の中にも、また何かを始めそうなアクティブさを感じさせた。

http://efight.jp/oyama_dojo-20130123_10930

最終回「猛者たちの凄すぎるエピソード vol.6 藤平昭雄(大沢昇)」





 1989年、ボクがゴング格闘技編集部に入った時、毎月の校了(雑誌製作に関する編集部の全ての作業が終了すること)はだいたい深夜~朝方にかけてだった。それが終わるとみんなで巣鴨の青果市場近くにあった食堂へタクシーで行き、打ち上げをするのが恒例だった。

 その食堂とはキックボクサー大沢昇こと、極真の歴史にその名を残す藤平昭雄が経営する「大沢食堂」だった(現在は巣鴨から千石へ移転)。当時、大沢昇の名前は知っていたので、もの凄く怖い人だというイメージがあり、ビールをもらう(ボク以外は常連なのでセルフサービスだった)のにもビクビクしていたものだ。

 しかし、毎月行っている内に持ち前の図々しさで大沢さん(ここからはあえて“さん”付けで)とすっかり親しくなり、「会長! ビールもらいますよ~!」と慣れた調子で勝手に冷蔵庫からビールを出したり、ぎょうざを大盛りにしてもらえたりした。

 大沢食堂と言えば極辛カレーが名物で、その辛さたるや相当なものらしい。~らしいというのは、ボクは1度中辛カレーにチャレンジして、それ以上に辛いカレーを食べられる自信がなかったから食べたことがないのだ。

 こんな伝説がある。朝まで営業していたのでタクシーの運転手もよく立ち寄るのだが、初めて来た運転手が極辛カレーを注文したのだという。大沢さんは「ウチのカレーは辛いから中辛にしておいた方がいいよ」と言ったのだが、その運転手は辛いものに自信があったらしく、断固として極辛がいいと言い張ったそうだ。そして出てきた極辛カレーを一口食べてビックリ。「こんな辛いもの食べられるか!」と怒り出した。いわゆる逆ギレだ。すると大沢さんは「食べられますよ」とそのカレーを表情ひとつ変えずにパクパクと食べ、運転手はあっけにとられていたという。

 そんな大沢さんだが、極真史上に残る“稽古の虫”として知られる人物だ。大山倍達総裁が「極真の歴史上 ・・・

http://blogs.yahoo.co.jp/sawada0906/37533860.html

嗚呼、大沢食堂!


3
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2013/5/31(金) 午後 11:54
ひとりごと
格闘技
.




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2013年5月28日

あの、大沢食堂が閉店・・・ッ!


イメージ 2


















【大沢食堂とは?】







極真空手黎明期の猛者であり

キックボクシングの王者としても名を馳せた大沢昇(本名:藤平昭雄)先生が

自ら腕を振るう食堂である

(氏の経歴や活躍はここでは省くが、興味ある方は名前をクリック)









大山総裁に稽古をし過ぎて怒られたなんて伝説!


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※写真の人物が店主である大沢昇先生である!











ここの名物はなんといってもカレーライスである





辛さは4段階 



並 中辛 大辛 極辛







ネットで検索すると『激辛カレーの聖地』とのこと。

日本の激辛カレー史上、最強の辛さを誇るお店!!







この極辛カレーが、HKさん曰く

殺人的辛さなのである!


(極辛(キョクシン)カレーと呼ぶ人も・・・!)
















さるるは空手バカ一代のファンとして、いつかこのお店に行きたいと思っていた。

そして東京に行った際に、大沢食堂に来訪したのである!









大沢昇(店長)

「空手してんの?」











さるる

「おッ、おーッ、おッ・・・・・押忍!(感涙)」








若き日の大沢昇先生(右)

イメージ 1









極辛カレーを挑戦しようとしたけれど

さるるは、あまりもの辛さに断念してしまったのである・・・!





姫路カレー協会の会長の役職にあるにもかかわらず、である!

姫路から東京に新幹線に乗って来たのに、である!





それほどの辛さだったのである!









その時の記事はコチラ

 ⇒ http://blogs.yahoo.co.jp/sawada0906/35728546.html











いつか・・・いつか、必ず・・・東京に行って



今度こそ食べてみたかった



極辛カレー!










しかし もう 永遠に口にする事は出来ない





これは・・・現実なんだ




















【受け止めなければいけないことなんだ】

イメージ 4











空手ファンのみならず、グルメブロガーにとっても

そして、日本カレー史上にとっても







これは大きな損失である!













おつかれさまでした!

大沢先生!

イメージ 8











大沢先生とお話しできたことは

一生の思い出です!









≪著名人からも惜しむ声が・・・。≫





HKさんの大沢食堂の記事【受け止めなければいけないことなんだ】

http://blogs.yahoo.co.jp/daion4989/30584326.html





太尊先生の大沢食堂の記事【大沢食堂で極辛カレーを食す胸の谷間に目が釘付けな動画 】

http://blogs.yahoo.co.jp/shogeki6675/31736581.html





マッチョ先生の大沢食堂の記事【全ての極真戦士にとっての“悪夢の日” 】

http://blogs.yahoo.co.jp/dancyo42/24696147.html











※ ちなみにこの記事の70%はHKさんの記事からの流用である!

(あまりにもHKさんの記事の完成度が高すぎて・・・。)

http://ameblo.jp/japaneasy1/entry-10006366426.html

殺すつもりで辛くしているカレー『大沢食堂』
テーマ:微グル
[殺すつもりで辛くしているカレー]
店名:大沢食堂
業種:カレー
住所:東京都文京区本駒込2-1-5
営業時間: 11:00~14:00/18:00~23:00
定休日:日曜・祝日
席数:19席(カウンター5席、テーブル席14)




皆さんにここの極辛カレーを試して欲しくて
今日はこの店を紹介しています!







039




●極辛カレーライスを食べてください
 とにかく辛いカレーを食べたいというのならモチのロン、
『大沢食堂』をイチオシする。ここのカレーは、
日本のどこのカレー屋よりも辛い。
それどころか、インドのカレーも敵わない辛さを体験できる。
つまりここは世界最強の辛さを体験できるカレー屋なのだ。
日本中のカレー屋、インド中のカレー屋で様々なカレーを
体験してきた私がそう思うのだから、あながち間違いではないと自負する。


しかし、人によっては最強ではなく、最凶になるかもしれない。
色々と問題があるのだ……。まあ、ここで極辛カレーを食べずして、
カレー通を名乗るのは1000年早いといえるだろう。
カレー通にとって体験しておく価値はあるので、
ブログを読んで行きたいと思ったのなら、是非行って頂きたい。
翌日のトイレ事情に不安がなければだが。


 『大沢食堂』に辛さを求めて来店したのであれば、
極辛カレーライスを食べないわけにいくまい。
語弊を覚悟して大変失礼な表現をさせてもらうと、
美味しさを求めて行くのであれば、他店のカレー屋に行くべきである。
カレールーの濃厚な風味、肉から染み出たコクのある味わい、
それらを『大沢食堂』の極辛カレーライスで求めてはいけない。
極辛カレーライスを、腹を満たすためや風味を
楽しむために食べるのは大間違いである。


 ここ『大沢食堂』は、キックボクシング全日本バンタム級

初代王者の大沢昇氏が店主をしている、
ある意味最強のカレー屋だ。
店主は大変気さくなものの、奥に秘める恐ろしさ……
いや、強さを感じるので、どんなに辛くて食べれなくても、
残すわけにはいかない。
まだ食べる前からそのような恐怖感に駆られる。
店主から無言の圧力が醸し出されているのだ。
「ゴゴゴゴゴゴ……」という擬音が聞こえてくる勢いである。


 つまり、私が言いたいことはただひとつ。
あなたが『大沢食堂』に入るとき、
「極辛カレーライスを食べる」という考えではなく、
「極辛カレーライスに挑戦する」という気持ちで
入って頂きたいということだ。
そうでなければ、あらゆる意味でノックアウトを食らうのはあなた。
辛くても逃げ場なし。覚悟を決めてほしい。


●とりあえず騙される
 『大沢食堂』には、とても常連客が多い。
極辛カレーライスの辛さの虜になった人達だ。
彼らならば、容易に極辛カレーライスを注文することができるだろう。
しかしあなたが初めての来店であったり、
まだ店主や店員に顔を覚えられていない状態の場合、
最初から極辛カレーライスを食べることは難しい。
これは、完食できないという意味ではない。
いくらお願いしても、極辛カレーライスを注文させてくれないのだ。


筆者  極辛カレーライスひとつお願いします。
店員  え、辛いですよ。
筆者  辛くていいですよ。
店員  でも、本当に辛いですよ。
筆者  辛いの好きなんです。極辛カレーライスでお願いします。
店員  お客さん、本当に大丈夫?
筆者  いや、大丈夫です。
店員  ホントに辛いよ!!
筆者  ……。


 ……といった感じである。つまり店としても、
極辛カレーライスの辛さを知らないヒヨッコに最初から
極辛カレーライスを食べさせたくないのである。
それは店としての良心か、はたまた「お前に食べれるはずがない!!」
という気持ちなのかわからない。とにかく食べさせたがらないのである。


 ほとんどの一見さんは、店員の「やめといたほうがいいよ」攻撃で
大辛や中辛にレベルを引き下げて注文するのだが、
何度も引き下がらずに極辛カレーライスを食べたいという意思を伝えると、
なんとか注文を受け付けてくれる場合がある。
そんな場合でも「ラッキー♪」と思うのはまだ早い。
本当の極辛カレーライスが出ない場合が多いからだ。
多分、本当の極辛カレーライスは食べれないだろうという気持ちから、
辛さを抑えた極辛カレーライスを作るのだろう。
なので、いくら注文できても本物の極辛カレーライスである保障はない。


 しかし、私の知人によれば、
コワモテの連中を集めて店員に「空手部なんです」と言って注文をすると、
最初から本物の極辛カレーライスを出してくれるらしい。
格闘家ならば極辛カレーライスの辛さに耐えれると
店主が判断するからだろうか。




040




●暴力的な辛さ
 辛いカレーは、一緒に飲むドリンクの種類によって、
その辛さの度合いを変化させる。
まず、いちばん一般的なのは水(お冷)だ。
とりあえず舌を癒すのに無難なドリンクであろう。
特に良いのは濃いラッシーだろう。甘めのヨーグルトドリンクが、
舌が感じている辛さを拭ってくれるのだ。
辛さを消す力は科学的にも証明されている。
辛いカレーには乳飲料が最適なのだ。








 では、辛いカレーと相性の悪いドリンクとは何だろうか? 
私の経験による自論でしかないが、コーヒーやコンソメスープ、
コーラは、舌の感じている辛さを何倍にも増す。
しかし私が最もカレーと最悪の組み合わせと考える飲み物は……


味噌汁である。


 アツアツの味噌汁ほど、舌で感じている辛味を倍増させるものはない。
牛丼チェーンの松屋は、カレーに味噌汁が無料でつく。
無料だからこそ飲むが(もちろん美味しいから飲むが)、味噌汁はカレーに絶対に合わない。
味噌汁は辛さを倍増させるだけでなく、舌の感覚を麻痺させてしまうため、
料理の味を堪能することができなくなってしまうからだ。


 まあ、私が言いたいことは、もうおわかりだろう。
『大沢食堂』はカレーライスに熱い味噌汁がついてくる……。
極辛カレーライスの辛さで舌がダメージを受け、
その辛さから逃れるために味噌汁を口に含んだが最後、
信じられない辛さが舌と喉を襲う。どんなに辛くともお冷で舌を癒し、
味噌汁は最後に落ち着いてから飲むのがいちばん良い。
それが極辛カレーライスからの逃走経路だ。


 最初に味噌汁を飲み干すという手もあるが、
なかなかカレーに手をつけないあなたを、店員の注目が襲うので覚悟を。
まあ、キックボクシング全日本バンタム級初代王者の
大沢昇氏があなたをいちばん熱く睨んでいるわけだが……。


●食べ残しは……
 極辛カレーライスは、辛ければ辛いほどオレンジ色をしている。
その色、本物の極辛カレーライスかどうか判断するというのも手だ。
しかし、見た目はオーソドックスなカレーライスと変わった点はない。
美味しそうな香りが漂ってくる。


 さて、極辛カレーライスの辛さは……




ぎゃああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!




ぢっ、ぢぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!


ど、どどどどどどどどんな文章で表現したらよいだろうか!?
目薬と間違えてタバスコを眼球にさした痛みに近いかもしれない。
もしくは、麻酔なしで虫歯の治療をドリルする感じだろうか!?!?!?!?!?!?!?!?
とにかく、すさまじく刺激的である!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
まさしく、インド人もショック死である!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
 しかし、どんなに辛くても残してはいけない。
店主は、キックボクシング全日本バンタム級初代王者の大沢昇氏である。
残してからどうなっても、私は関知しないない。


 筆者は『大沢食堂』の中辛カレーライスも頂いたことがある。
有名なだけでたいして深みのないカレー屋が
多数ある中、素材の風味が活きた、味わい深いのカレーだと感じた。
確かに『大沢食堂』のウリは極辛カレーライスだが、
中辛カレーライスも堪能するに値する味であると保障しよう。
まあ、いちばんのウリはキックボクシング全日本バンタム級
初代王者(しつこい?)の大沢昇氏の無言の恐怖感だろうが……。







え? それでこのカレー、全部食べれたのかって?

食べましたよ。「もう、10万円払ってでもここから逃げ出したい」と思いました。

カッコつけて楽勝ムードで注文したからには、

食べないで残して帰ることほど、カッコ悪い事はありません。

でも、帰り道、フラフラして何度も何度も倒れそうになりました。

多分、もう食べない……というより食べれない。

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去年までのエボラ感染の常識が今年はまったく通用していないことは医療従事者の二次感染が続発している現状を見れば明らかなのです。ところが、何故かマスコミはエボラウイルスの変異については語りたくないらしい。エボラ出血熱は3週間から4週間毎に2倍2倍の速度で拡大しており、治療法もワクチンも無い。

http://blog.goo.ne.jp/syokunin-2008/e/504d48598ca0813b1e3335efeb7fdb35

エボラ安全神話をばら撒くオバマやWHOの怪

(過去の、南アフリカやコートジボアールの患者数は各一名限りである。
2014年度の感染ではナイジェリア、マリ、セネガルも各1名の発症者が入国したがナイジェリアの20人に二次感染以外は無事収束している。
現在の感染地帯はギニア、リベリア、シエラレオネの西アフリカの3カ国の範囲に限定されている)

『過去の知識や経験が役に立たない恐怖』


1976年から2013年までの37年間、エボラ出血熱はコンゴ民主共和国のエボラ川周辺の過疎地帯の小集落にほぼ限られていたことから中央アフリカに生息するコウモリやサルなど野生動物が感染源『ウイルスの宿主』であると信じられていた。
遠く離れた西アフリカのリベリアの首都モンロビアでパンデミックが起きた2014年はギニア、シエラレオネの3カ国にほぼ限定されている。
去年までのエボラ感染の常識が今年はまったく通用していないことは医療従事者の二次感染が続発している現状を見れば明らかなのです。ところが、何故かマスコミはエボラウイルスの変異については語りたくないらしい。
エボラ出血熱は3週間から4週間毎に2倍2倍の速度で拡大しており、治療法もワクチンも無い。
今後の見通しですが、最悪なら100年前に第一次世界大戦時に世界規模で流行して戦争よりも多い5000万人の死者を出したスペイン風邪の再来の危険性がある(スペイン風邪との名前だが、実は欧州に出兵したアメリカ軍兵士が広めた新種のインフルエンザ)

『州政府VS連邦政府』

NHKニュースによると、アメリカでは、28日現在、エボラ出血熱の流行が続く西アフリカからの乗り継ぎ便が到着する空港がある州を中心に少なくとも8つの州で、渡航者や現地で患者と接触した医療従事者などに対し、外出を禁止する隔離策など、独自の対策が導入されています。
一旦強制隔離を決定した東部ニューヨーク州では、若干緩和して現地でエボラ出血熱の患者と直接接触した人は、医療従事者も含めて、最大3週間、自宅からの外出を禁止し、保健当局の職員が訪問して体温など健康状態を調べる。
東部ニュージャージー州も医療従事者を含めて患者と直接接触した人は自宅からの外出を禁止し、州内の住民でない場合、自宅まで搬送するか、州が用意した施設に隔離する。
南部ジョージア州は、患者と直接接触した人は州が用意する施設で隔離し、現地で患者と接した医療従事者については、最大3週間、保健当局に、健康状態を報告することを求め、行動の制限については、状況に応じて判断する。

アメリカの州政府のエボラ出血熱についての強制隔離に批判的なのが連邦政府(オバマ大統領)である。
オバマ大統領は28日、感染が広がり続ける西アフリカに派遣されているUSAID=アメリカ国際開発庁のチームと現地の情勢を協議。アメリカで二次感染した女性の看護師が回復したことなどを受けて、『封じ込めることができる』と強調し、国際的な取り組みを主導して、西アフリカで治療に当たる医療従事者などを支援していく考えを示しました。
ニューヨーク州やニュージャージー州のように現地で患者の治療に当たった医療従事者に対し、外出を禁止する隔離策を導入する動きは支援のため現地に行こうと考えている医療従事者が萎縮しかねないと批判した。

『エボラ出血熱の西アフリカ3カ国の現状を報じないマスコミの怪』

西アフリカ3ヶ国では、エボラウイルスの感染が広がり、感染者が1万人を超えるなど危機的に対して国連は9月、『エボラ緊急対応ミッション』をガーナの首都アクラに発足させたが感染症の大規模拡大での現地支援では、国連では前例のない。
エボラ緊急対応ミッションのアンソニー・バンベリー代表は、28日『新たな感染の40%から70%が亡くなった患者の遺体を触ることなどから生じている』と次々に患者が亡くなり遺体の埋葬が追いつかず、家族などを通じて感染がさらに拡大している現状から、『これから11月にかけて治療施設や遺体を安全に埋葬するチームを大幅に増やすことで感染を阻止できる』。『感染拡大に歯止めをかけられるかどうかは、今後、1か月間にどれだけ現地で支援活動を強化できるかにかかっている』と訴えた。

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ブラジリアン柔術教則本カバー表・3枚

http://bjjplus2013.blogspot.jp/2014/10/world-master-ibjjf-jiu-jitsu.html
11月上旬に早川先生は柔術教則本も出ます。(詳細は後日お伝えします)。マスター世界一の肩書きをプロフィールに加えれるか、超注目です

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メタモリス5 止まったら死ぬ?赤丸急上昇中のゲイリートノンの常に動き続けて畳み掛けるスタイルvs教科書的な正統派エリオ派スタイル柔術家にして怪力ストロンゲストマン ザックマックスウェル

Metamoris 5: Zak Maxwell vs. Garry Tonon

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柔術プリースト152 時間無制限デスバトル TOKYO IPPON FESTIVAL 2014 アンデウソン・タカハシが時間無制限デスマッチで嶌崎公次に一本勝ち! 塚田市太郎は加古拓渡に一本負けしてしまい時間無制限デスマッチで3連敗!(敬称略)

TOKYO IPPON FESTIVAL 2014

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拳の眼さんより 技術とは"目的を達成するための手段"である。 手段を使うためには相手をにらみ、勇気を持ってステップ・インしなくてはならない。 闘志なき技術は、張り子の虎だ。 相手に難なく破られるだろう。もし、読者の中のプロ、アマ・ボクサーが本書の中から小手先の技術だけを参考として読んでいるとすれば、それは読み違いだ。 その誤解を招いたとしたら、それは本書の罪であり、誤読をしたボクサーは敗北という罰を受けるだろう。ボクシングでは、ひるんだ方が負ける。 勝つためにはまず闘志において相手に勝ることだ。

http://blogs.masoyama.net/?eid=476#sequel

三田雄士、カルメン・ミタ共著「カポエイラ」(2005年)



JUGEMテーマ:格闘技全般



カポエイラ
自由を希求した奴隷たちの生きる術
その始まりに形などなく
その終わりはどんなに優れた指導者にも予想がつかないもの
*
メストレ・パスチーニャ



はい、今回は大山倍達総裁もお気に入り? ブラジルの格闘技カポエイラ(カポエラ/カッポエーラ)の技術書、「はじける肉体の即興芸術 カポエイラ」を紹介します。


カポエイラ1.jpg


カポエイラと言えば、「空手バカ一代」を皮切りに、いくつかの漫画などに登場していましたので、名前は知っている人も多いでしょう。 しかし、映画「地上最強のカラテ」でも少しだけ映像があった程度で、恐らく90年代までは真の姿は不明でした。 ぶっちゃけ、逆立ちして回転して蹴る、みたいな、よく分かる様な分からない様なw
カポエイラの話自体は、1900年代初頭には日本に伝わっていた模様です。 日系移民や移民を検討していた家族、それから柔道家辺りでは少しは知られていたかも。 当時、移民する人向けにポルトガル語の教本とか、ブラジルの文化紹介本などが割と出てた様ですからね。
本書の著者ではありませんが、日本で最初にカポエイラの道場を開いたとされる、カポエイラ・ヘジョナウ・ジャパオの代表、矢部良氏は、マーク・ダカスコス主演のアメリカ映画"Only the strong"(1993年)を見てカポエイラを学びたいと思い、ブラジル大使館に問い合わせて単身ブラジルに渡航したそうですから、こういった技術書のある現在は、どれだけ恵まれているのやら。


カポエイラ2.jpg
「オンリー・ザ・ストロング」


まぁ、80年代に日本に上陸したブレイクダンスにもカポエイラの影響がありますので、そうとは知らずにカポエイラのエッセンスに触れていた日本人は少なからずいたとは思いますけどね。

さて、では本書の作者の紹介。 …先に違う人を紹介しちゃったけどw
カポエイラ・アウマ・ネグラ日本支部長の三田雄士氏と、カルメン・ミタ氏による共著で、スタント俳優もなされているそうです。 1998年に在日ブラジル人よりカポエイラを学び渡伯、ここでもカポエイラを学んだ本格派。 ミタ氏は、本場ブラジルでもカポエイラの大会で準優勝を果たす実績を持ち、日本でもインストラクターとして、ダンサーとして活躍されているそうです。

さて、カポエイラとはなんぞや、著者はこう記しています。

「ダンス? それとも格闘技?」
カポエイラを初めて見た人は、こう尋ねる。 しかし、本当はどちらでもない。 意地悪な言い方だが、「カポエイラはカポエイラだ」と私は答えている。 それは、カポエイラの姿をひと言で説明するにはあまりにも多様で、むしろダンスだ、武術だ、といった先入観が、カポエイラの本当の理解を妨げると思うからだ。
ちなみに、カポエイラの本国ブラジル人は、「カポエイラは、格闘技であり、ダンスであり、武道であり、そこにはアクロバットがあり、音楽がある、そしてアフリカンカルチャーを含む、ブラジルの誇る身体文化だ」という。 加えて、「カポエイラをする」にあたるブラジルポルトガル語が、jogar/brincar/lutarなど多岐にわたることも興味深い。
(中略)
できれば、この本を読み終えられたあなたが、「ああ、カポエイラはダンスでも格闘技でもなく、やっぱりカポエイラなんだな」と、その独自の面白さを感じてもらえれば本懐である。


カポエイラ8.jpg


ちなみに本書に登場するカポエイリスタ(カポエリスタ)とは、カポエイラの闘士を指します。
それでは、目次。

◆はじめに
第1章 カポエイラってなんだ?
肉体を駆使した即興のゲーム
カポエイラに「勝ち負け」はない
カポエイラの集大成――ジョーゴ
第2章 知られざるカポエイラの歴史
いまだに議論の絶えないカポエイラの起源
迫害とともに歩んだカポエイラの歴史
カポエイラの2大巨匠パスチーニャとビンバ
第3章 カポエイラ魂① 実践基本動作
カポエイラの基本的な動き――ジンガ
カポエイラの基本的な動き――攻撃
カポエイラの基本的な動き――防御
第4章 カポエイラ魂② 実践発展動作
カポエイラの発展動作――地面を使った移動・回避
カポエイラの発展動作――アクロバット
カウンターアタックとテイクダウン
着地と空中感覚を得るシントゥーラ・デスプレザーダ
メストレ・ビンバのセクエンシア
秘伝――カポエイラの約束組み手
忘れてはならないカポエイラの手ワザ
カポエイラの秘伝!? 秘密のリズム
第5章 カポエイラには原始のリズムが欠かせない!
カポエイラと切り離せない音楽
カポエイラで用いられる楽器
エネルギーを充溢させるカポエイラの歌
終 章 よきカポエイリスタになるために
カポエイリスタは総合芸術家
カポエイラとともに歩む人生
◆「あとがき」に代えて


カポエイラ5.jpg


【囲み記事】
コラム①カポエイリスタのニックネーム=アピリード。 ちなみに、私は「シンバ」。 /②カポエイラのユニフォームはなぜ白い? /③カポエイラの帯、コルダオンって何? /④カポエイラ最強説!? 前田光世を打ち負かし、大山倍達をたじろがす /⑤カポエイラの歌ホーダに神様が舞い降りたサイン
ビバ! カポエイラ①技と同じように大切な哲学 /②調和の取れた美しいジョーゴ /③自分が生きるカポエイラ /④カポエイラはサーカスではない /⑤稽古そのものを楽しもう /⑥カポエイラに大切なのはリズム /⑦カポエイラでリズム感を…… /⑧カポエイラは人生そのもの

目次にもありますが、カポエイラには大会はあっても、勝敗を追究する様な事は無いそうです。 ジョーゴ(組手)をホーダと呼ばれる土俵の様な円の中で行い、肉体言語でコミュニケートしながら楽しく技術を向上させて行くのがポイントなんですかね。
学ぶ事の楽しみ、技術向上の喜び、こういった事は日本のスポーツ界では忘れがちですから、見習って欲しい所。 強くなりたい、そう願った理由は人それぞれですが、カポエイラのあり方は貴重じゃないかな。

んでは、歴史について。
実はカポエイラ発祥について、未だ定説が無い様です。 本書には3つの有力な説がありました。
1つは逃亡奴隷の共同体で生まれたという説。 白人から逃げ、森の奥地で生活していた奴隷が生み出したという事ですね。 カポエイラの歌にはこの共同体キロンボに関する物が多いそうで、有力視されている模様。
次に、アフリカアンゴーラ地方の「シマウマの舞」を発祥とする説。 アフリカにはカポエイラでも用いられるビリンバウという楽器や似た音楽などがある事から、非常に有力な説らしいです。
そしてセンザーラ(奴隷小屋)から誕生したという説。 ブラジルの奴隷は白人が反乱を防ぐ為に異部族を混ぜて管理していた結果、文化が融合して誕生したという説ですね。
ちなみにブラジル外務省の紹介文書によれば、カポエイラはブラジル先住民インディオの「消え失せたジャングル」(mata extinta)を意味する言葉が語源だという説を取り上げています。 つまりは、先住民の格闘技術が源流となり、黒人奴隷たちに伝えられ、発展したという説。
まぁ、話を総合すると、源流は不明ではあるものの、先住民の持つ文化と、アフリカ奴隷の持つ文化が融合した、という事になるんでしょう。


カポエイラ6.jpg


そして、カポエイラ迫害の歴史へ。 1892年に正式に違法となったカポエイラ(ブラジル外務省の資料によれば1890年)は政府機関により弾圧されます。 以下本書の記述。

ことにカポエイラは集団性を喚起し、奴隷たちに自信を芽生えさせ、反乱を起こす危険性が懸念されていた。 カポエイリスタは、2ヶ月半年以下の懲役、また指導者には、さらには重い刑が言い渡されたという。 よしんばカポエイラ以外の罪を犯して検挙されたとしても、その被疑者にカポエイラの経験が見られた場合、さらに厳しい処分が追加されたという。

尚、ブラジル外務省の資料の方が細かいので、そちらを参考にしましたが、カポエイリスタと警察の間に何度も衝突があったそうで、特にリオデジャネイロにて「カポエイラ軍団」と呼ばれる集団が何度も大暴れしたとか。 1888年の奴隷解放や翌年の共和国宣言にカポエイリスタが関与していたとして、間もなくブラジル共和国にて違法となった、という事ですね。


カポエイラ7.jpg


多分、こういう事です。 奴隷解放により自由を謳歌し始めた元奴隷たちは、元々の貧困とか、社会的地位辺りが問題だったんでしょうけど、ギャングが抗争なんかにも使ったりしてたと。 そうなると、法治国家としては問題にせざるを得ないですよね。 禁止にはこういった背景があった様です。

ちなみに、1938年翻訳の「ブラジル刑法」にはカポエイラについて、こんな事が書かれていました。

第十三章 浮浪人及カポエイラニ關スル罪

第四百二條 浮浪人及ビカポエイラガ十八歳乃至廿一歳ナル時ハ一年乃至五年間農事監獄ニ収容セシム
第四百三條 カポエイラヲ行フ際、殺人、傷害ノ罪ヲ犯シ若クハ公私ノ別ナク之ヲ侮辱シ又ハ公ノ秩序安寧ヲ紊シ又ハ武器ヲ携帯セル時ハ之ニ該當セル刑ヲ累加ス


カポエイラ10.jpg


結果、カポエイラの勢力は弱まりますが、文化として伝承して来たカポエリスタたちの努力により、1930年代からの近代カポエイラ史が始まります。

1932年、メストレ・ビンバ(マノエウ・ドス・ヘイス・マシャド)はサルバドールに初のカポエイラ道場を開き、上流階級も学びに来るほど社会に受け入れられました。 ビンバは、約束組手や教授法を作り、格闘技性を向上させます。 ビンバの創始したカポエイラは、ヘジョナウ派(ヘイジョナール派)と呼ばれており、ビンバ自身もトレース・パンカーダス(三撃手)と称され、敵を倒すのに3打で事足りたそうです。
そして近代カポエイラ史に欠かせないもう1人、メストレ・パスチーニャ(ヴィンセンチ・フェッヘイラ・パスチーニャ)が1941年に同じくサルバドールに道場を開設。 アンゴーラ派と呼ばれるスタイルの中興の祖と評されるほど、カポエイラに貢献しました。
現在では、このアンゴーラ派、ヘジョナウ派の他に、コンテンポラニアという派があるそうです。 1940年前後には誕生したとされていますが、実戦指向の強いヘジョナウ派にカポエイラショーで多用されていたアクロバチックな動きを加味したものだった様で、現在我々が目にするカポエイラとはこのコンテンポラニアみたいです。 本書には流派の違いも載っていますので、詳しくはそちらを参考にw

さて、カポエイラの技法は非常にリズミカルで、最初に学ぶカポエイラの基本はジンガと呼ばれる前後にクロスステップを繰り返す、三角形を描く様な歩法です。 これをカポエイラの曲に合わせてステップを踏む様です。 基本的に全ての技はこのジンガから始まる事になっているので、基本こそ前蹴りですが、全体的に回転系の技が多いです。


カポエイラ3.jpg


そして逆立ち技。 漫画の様にずっと逆立ちし続ける事は無いでしょうけど、一連のモーションを文章に書き起こすとしたら、やっぱり回転しながら逆立ちとか、そう言った誤解を生みかねない文章になるのも致し方ないかな。 実際梶原一騎先生はそういう想像をしちゃった訳だしw


カポエイラ4.jpg


後面白いのは、飛び技以外にも足払いが多い事。 特にカポエイラの特徴だと言える、手と足を地に着けた状態での蹴りによる足払いですね。 必然的に姿勢が低くなるし、香港映画で良く見掛ける中国拳法の掃腿とはまた違った趣があります。

最後に、カポエイラの歌。 まぁ私もカポエイラの曲がちょっと気に入って、CDとか持ってたりw


カポエイラ9.jpg


楽器を鳴らしながら円になってジョーゴ…実に楽しそうです。 実際この音楽という要素は非常に大事な様で、映画"Only the strong"でも生徒が弓状の楽器、ビリンバウを命懸けで取りに行くシーンがありましたっけ。 本場ブラジルでは結構アドリブも利かせてたりするそうなので、ただ機械的にリズムを奏でれば良いという物でも無いんでしょうね。

カポエイラに興味のある人は、本書と一緒に動画をオススメしますw


という事で、三田雄士、カルメン・ミタ共著「はじける肉体の即興芸術 カポエイラ」でした。
カポエイラは踊りと融合しているせいか、独特な風格がありますね。 派手な技に目が行き、実戦性に懐疑を持たれる方もいるでしょうけど、何も知らずに対戦したら幻惑されそうですw
あぁ、ちなみに私が何度か名前を挙げた映画「オンリー・ザ・ストロング」はカポエイラ映画の傑作だと思います。 ストーリーはともかく、全編カポエイラアクションは熱いw
残念ながら日本ではVHS以降出てないっぽいです。 私はアメリカからDVDを買いましたけどw
見た事無い方にはオススメしたい所なんですが、入手は困難かな。
そう言えば、スクエニのリズムゲーム「バスト・ア・ムーブ」でもカポエイラが出てたので、よくプレイしてたなぁ…。 とか書いてたら、久々に収録曲の「噂のカポエラ」を聞きたくなったので堪能中w
今回はここまで、それでは、また。


参考文献:
ブラジル刑法 鈴木榮藏著 ブラジル法制研究所 1938年
フルコンタクトKARATE9月号別冊 格闘王15 マーシャルアーツ・マニア 福昌堂 1997年
はじける肉体の即興芸術 カポエイラ 三田雄士、カルメン・ミタ共著 現代書林 2005年

参考映像:
ONLY THE STRONG, Twentieth Century Fox Film, 1993

http://blogs.masoyama.net/?eid=429#sequel

【レビュー】長田龍太著「続・中世ヨーロッパの武術」(2013年)



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はい、えー今回はですね、以前紹介した同著者の「中世ヨーロッパの武術」の続編となりますw
私は割と昔から中世ヨーロッパ時代の武術に興味を持ってまして、あれだけ多種多様な武器がありながら、本当に大雑把な技法だったのかな、という疑問、日本やアジアの武術とどう違うのかという、完全に文化の違う地域の武術を知りたかったんですね。


続中世ヨーロッパの武術1.jpg


現代の日本社会においては、多分私の少し上の世代以降はゲームや漫画などを通じて中世ヨーロッパの武具については多少なりとも知識があると思います。 しかしそれは西洋から見たサムライやニンジャに対する理解を我々日本人が見て違和感を憶えるのと、どれほど違うのだろうか、というのもありましてねw
やっぱり本当の所を知りたい訳です。 本書はそんな私の欲求を満たす物に仕上がっています。






それでは、まず目次から…。

第1部 概説

第1章 歴史
第2章 概念
第3章 流派
第4章 訓練


続中世ヨーロッパの武術2.jpg



第2部 武器解説

第1章 ロングソード
第2章 鎧での戦闘
第3章 ハーフソードと殺撃
第4章 両手剣
第5章 ファルシオンとメッサー
第6章 バックラー
第7章 サイドソード(レイピア)
第8章 サイドソートとダガー
第9章 サイドソードとケープ
第10章 二刀流
第11章 バスケットヒルト・ソード
第12章 スモールソード
第13章 レスリング
第14章 ボクシング
第15章 ダガー
第16章 スタッフ・長柄武器
第17章 鎌・大鎌・フレイル・棍棒
第18章 騎乗戦闘
第19章 ドュアルテ王の乗馬技術
第20章 盾
第21章 決闘用の大盾
第22章 飛び道具
第23章 イスラムの武器・防具


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コラム

トゥール・フランセ
ロングソード
聖職者と武器
人骨に見る武術の威力
実在の名剣
剣の握り方
剣の製作法

第3部 技解説

技解説の前に
第1章 ロングソード
第2章 イギリス式ロングソード術
第3章 ハーフソードと殺撃
第4章 剣とバックラー
第5章 ファルシオンとメッサー
第6章 両手剣
第7章 サイドソード
第8章 サイドソードとダガー
第9章 サイドソードとバックラー
第10章 サイドソードとタージ
第11章 サイドソードと盾
第12章 サイドソードとケープ
第13章 二刀流
第14章 スモールソード
第15章 バスケットヒルトソード
第16章 馬上戦闘
第17章 レスリング
第18章 ダガー
第19章 ボクシング
第20章 決闘用の大盾
第21章 ポールアックス
第22章 長柄武器
第23章 パイク・ロングスタッフ
第24章 ハルバード
第25章 クォータースタッフ
第26章 鎌・大鎌・フレイル・棍棒
第27章 異種武器戦闘
第28章 イスラムの武術

付録

参考文献
文献略称一覧
語句紹介


さぁ、目次だけで私なんかは興味深いですが、中世ヨーロッパの武術というのは、近代化された徒手格闘術以外はほぼ絶えてしまったと言われており、現在愛好家が本書と同じく中世の技術書を参考に復元しているところです。
様々な技術書や文献を元に書いている本ですが、前回控え目だった武器その物の解説が結構占めてます。
第1部の概説には前回は載っていなかった歩法や、攻撃線の概念、攻撃方法など、ありましたが、一際興味を惹かれたは―特にドイツ式剣術で主流の技法だったという「バインド」ですね。


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バインド


バインドとは、中国拳法では良く見掛けますね、塔手というヤツに近いです。 剣を互いにクロスさせた所から闘いを展開するという事ですから、ほぼ同じかな。 技としては巻き技や、相手の技を制限させる為に交えた剣の角度を直角に近付けたり、梃子の原理という概念など、面白いですねぇ。 そういう技術がある事は以前海外から取り寄せたレイピア術の本にもありましたが、改めて興味深いと思いました。 ここからの技術も後半には載っています。
ついで、当時の風習についても触れているのですが、当時のヨーロッパでは他の職人と同様にギルド(組合)に所属し、各地域の日本で云う道場へと遊学し、様々な技術を身に付けたり、という事をしていた様です。 これは日本でも結構あった話で、道々で剣術修行をしながら旅をする武士もいましたね。 本書によれば10ヵ国以上の国で剣を学んだ剣士もいた模様。
他にも各地域の剣術の特徴についても書いていますが、イタリア式はかなり早い段階で幾何学を応用したりと、科学的な技術を模索してますねぇ。 何故かウィリアム・バートン=ライトのバーティツにも1項目設けてますが、これは中世に当て嵌まるのかな? あ,バーティツとは、柔術を学んだバートン=ライトがイギリスで創始した柔術の一派で、かのシャーロック・ホームズが学んだというバリツがこのバーティツだと言われています。


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この西洋の道場で学ぶ技術の基本が6週間というのも面白いですねぇ。 現在でもアメリカとかだとサマースクールとか6週間ですし、米軍も最初の6週間に基礎を学びます。 この6週間というのはこの頃からの伝統なんでしょうかw
ちなみにイギリスのギルドだと封建制度らしいですね、階級があった様です。 下から順に生徒、自由生徒、準師範、師範、そしてギルドを支配する4人の老師。 まぁ、筆者なりの訳なので、マスターを老師にするのはどうかとちょっと思ったw
そしてこの6週間の鍛練が終了すると、昇段試験?があるそうです。 これは娯楽としても親しまれていた様です。 それぞれ手順があったり、チャンピオンになると様々な優遇を受けたり、面白い事が書いてありますね。
んで、第2部の武具編。 基本となる長剣(ロングソード)から始まり、鎧の説明など、実にマニアックにバリエーション豊かに書かれていますね。 フル装備の甲冑を着込んで雪原での戦において、熱中症で死ぬ騎士もいたというから、強固であっても通気性など様々な問題があった事も記してあります。
他にも盾や他の剣、レイピアや二刀流、レイピアと闘牛士の様にケープを持ったりと、実に面白い。 無論レスリングやボクシングといった徒手格闘術、短剣術、槍などの長柄武器、そして前回も少しありましたが大鎌とか、ヌンチャクと同じく脱穀器機から武器になったという、これまたヌンチャクと同じコンセプトで作られたフレイルもありましたね。


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それから…騎士の誉れでしょうね、馬上戦闘に必要な馬具についても細かく書いてました。 それから騎馬によるチャージ(突撃)で有名なランスと、突撃時の衝撃を緩和する防具と、ホント細かいw
飛び道具も石投げ器のスリングから投げ斧、はたまた銃までと範囲も広いですねぇ。 あぁ、後イスラムの武器にも触れていました。

ここまで来てようやく技術編ですよw 技術編には師匠と弟子、女弟子が当時の文献の装束を元にモデルとなって技術を披露しています。
長剣によるカウンター技、そしてイギリス式ロングソード術…防御が困難で「防御不能」と名付けられた技なんかも載ってますね。 正確に言うとコンビネーション技です。 フェイントを駆使し、同じ動きで違う技を出して突きから切り下ろしと、それぞれ違う軌道を描く技で追い込む訳ですね。


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西洋の剣術は、片手でも使えるという事で、日本刀よりも長く使えます。 刃渡りの話じゃないですよ、正対する形になってしまう両手持ちよりもリーチが長く出来るという事です。 これがどう影響するかと言うと、足などの下段攻撃を敢行するのにリスクが低くなる為、結構足斬り技術があります。
突きにしても日本刀で行うよりも伸びを感じるんじゃないかなぁ。 また、両刃の為、掛け蹴りで後頭部を蹴る様に切り行ったりと、中々にバリエーションがあります。 また、ハーフソードと呼ばれる刃を握って使う技法があるので、接近戦での鍔迫り合いも日本とは少々異なっています。 ハーフソードは棒術の様に扱える為、短棒術で見掛ける関節技も含まれていますね。 思った以上に精妙だなぁ。 …6週間で身に付くのかは疑問だけどw


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そしてバックラーという小さい盾、これは日本的には斬新ですね。 基本は受けるだけで無く、盾を持って相手を制しつつ攻撃するのがポイントっぽいです。
純粋な両手剣の技術や型も載ってますね。 二刀流もw ただ、両手共同じ位置に構えるというのがちょっと面白いです。 見た感じ、受けながらというよりも払いながら攻撃するのがメインなのかな。
現在でもフェンシングで見掛ける技法もページを割いて載ってますね。 興味深い所では左利きの剣士への技法とか。
後、当時の証言から再現したという、銃兵に対しての戦闘法。 盾を構えて突進し、運良く接近出来たら銃剣で攻撃するのを受け、反撃に転じていたという。
馬上戦闘も面白かったですね。 馬上での狩りの説明から始まって槍術、鞍から投げ落とす投げ技や掴み技、関節技の類までw


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今回のレスリング技術は武器までさり気なく使ってますね。 全部は紹介出来ないのでアレですが、前回は触り程度だった鎌や大鎌の技術が割と載ってました。
最後は…イスラム武術の技術ですかね。 落馬させる為の技術や、剣術、組み技が紹介されています。


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中世ヨーロッパの武術に丸で興味の無い人にはお勧めしませんが、少しでも異国の、異なる時代の武術に興味があるなら、オススメですw
取り扱い範囲が厖大な為、一つ一つの掘り下げが甘いかと思いきや、読むのに時間が掛かるほど面白かったですね。 特に、武術家ならずとも、漫画家とかゲーム屋とか作家さんには色々面白い本じゃ無いかなぁ。
どうです? 1冊。


という事で長田龍太著「続・中世ヨーロッパの武術」でした。 ザクっとカットして書こうかなとも思ったですが、私の琴線に触れたので…w
何せ、本書の取り扱い範囲は多少知ってると言ってもまぁ、未知の世界ですからね。 日本の武術と色々比較しながら読んだりしました。 片手、両手、片刃、両刃と武器特性の違いも含めて考えながら読みましたw

そう言えば今月20日に小島一志さん親子で「芦原英幸正伝」が出ますね。 どういう内容になるのか知りませんが、どれだけ掘り下げるのかな、非常に興味あります。
んで、遂に梶原一騎先生原作の真樹日佐夫先生主演のあの「カラテ大戦争」がDVD化しましたね!
まだ購入してませんし、既にビデオ版をDVD化して持ってたりするので、買おうかどうか悩みどころですが、真樹先生の勇姿が見られますよ!
今回はここまで。 それでは、また。





http://blogs.masoyama.net/?eid=358#sequel

望月昇著「最強格闘技 ザ・ムエタイ」(1989年)



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さて、ムエタイですムエタイ。
多分80年代後半くらいまでは極真的には最大のライバルでした。 特に雑誌、「ゴング格闘技」(日本スポーツ出版社版)が極真とムエタイを大きく取り扱っていましたし、極真に限らず、グレイシー柔術以前の日本格闘技界においては黒船だったと言えます。
今回紹介する望月昇著「最強格闘技 ザ・ムエタイ」は、当時殆ど存在しなかったムエタイの入門本であり、現在でもスタンダードな本としての地位を確立していると思います。


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何か97年に同じ筆者が同じページ数で同じ出版社から「神秘の格闘技 ムエタイ―最強必殺技をものにする」という本を出している様ですが、こちらは未見です。 多分表紙が変わっただけじゃないかなぁと思いますが…。




ムエタイがいつから日本に知られる様になったのか、その辺りはよく分かりませんが、TBSで放映していた「兼高かおる世界の旅」で有名なジャーナリストの兼高かおる氏の「世界たべある記」にはこんな記述がありました。

毎週末には開かれるタイ・ボクシングに私は行ってみることにした。 戦前タイ・ボクシングを映画でみて、その物凄さをよく覚えていたからであった。 私の記憶では殴る、蹴る、とっくみあうの、凡そ日本でみるボクシングのルールを無視した乱暴狼藉のきわまるものであったのである。

兼高氏は1928年生まれなので、1930年代半ばから41年末辺りまでにニュース映画だか記録映画を見たんでしょうか。 これが発掘されれば、世界最古のムエタイ映像になるかも知れませんw まだ荒縄巻いて闘ってる映像だったのかなぁとか、見てみたいですねぇ。
で、その後、日本ボクシング界がボクシング隆盛の時代に同じアジアで国交のあるタイから選手を掻き集める過程で実態はよく知られていないものの「タイ拳」(タイ式拳法)の名称で広まります。 ここで活躍プロモーターが日本キックボクシングの父、野口修氏ですね。


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ムエタイ初上陸


1959年にはムエタイの選手を招聘し、国際式ボクシングの会場でエキシビションマッチを開催、64年の極真VSムエタイをタイでプロモート、そして66年に大阪でキックボクシングの大会を開催と着実に歩んでます。 空手側でも戦後の技術書にはタイの拳法については一言二言書かれるケースが多々あり、日本拳法空手道の山田辰雄先生は「空手ボクシング」のルールを確立させるに辺り、ムエタイの選手を招聘し、研究してます。
大雑把に日本におけるムエタイ史を書くとこんな感じでいいのかな?
第二次世界大戦中に帝国陸軍の駐留兵も見てたんでしょうが、大陸に駐留した武道家から中国拳法の話を聞く事はあっても、ムエタイの話は殆ど聞いた事がありません。 当時は劇場でやってたらしいですけどねぇ。
さておき、本書の紹介に入りましょうか。 長いプロローグでしたw
まずは目次から。

基礎知識編

白兵戦の技術から生まれたムエタイ
過酷な試合ルール
ムエタイのトレーニング
ムエタイの基本用語
Ⅰ技術
Ⅱ急所
闘いの舞(ワイクル)

実技編

タン・ガード・ムエイ(構え)
全てはタン・ガード・ムエイから

ティー・ソーク(ヒジ打ち)
敵の顔面を全ての角度から攻撃するティー・ソーク
腰の回転で振抜くティー・ソーク・トロン
胸とアゴを同時に攻めるティー・ソーク・ラーン
投げ技に対抗する変形ティー・ソーク・ラーン
強烈、全体重を乗せて叩きつけるティー・ソーク・ボン
ムエタイのウルトラC ソーク・クラブ
ティー・ソークをいかに防ぐか


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ティー・カウ(ヒザ蹴り)
敵の内蔵を破壊するティー・カウ
ティー・カウの基本 ティー・カウ・トロン
ティー・カウ・トロンと蹴り足側の手の用法
蟻地獄の恐怖 ゴッ・コー・ティーカウ
1発KOの殺し技 ティー・カウ・コーン
ゴッ・コー・ティーカウの防ぎ方
ムエタイの大技 カウ・ロイ

テッ(まわし蹴り)
ブロックした腕をもへし折るテッの威力の秘密
テッの種類
伝統空手におけるまわし蹴りとの違い
テッの基本 テッ・スィークルーン
意外、敵の正面を蹴るテッ
敵のパンチ攻撃を殺すテッ・スィークルーン
秘技、一瞬にして2度蹴るテッ・クルン・ケーン・クルン・カウ
死にもつながる首へのテッ・カン・コー
足の筋肉・靱帯組織を切断するテッ・ラーン
敵を転倒させるテッ・ラーン
テッに対する完ぺきな防御 ヨック・バン
テッ・カン・コーはスウェー・バックでかわせ

ティープ(ストッピング)
パンチ攻撃から身を守るティープ

トイ(パンチ)
蹴りに対するカウンター攻撃としてのトイ

コンビネーション(連続攻撃)
コンビネーション攻撃の重要性
コンビネーションパターン1
コンビネーションパターン2
コンビネーションパターン3
コンビネーションパターン4
コンビネーションパターン5
コンビネーションパターン6
コンビネーションパターン7
コンビネーションパターン8
コンビネーションパターン9
コンビネーションパターン10
コンビネーションパターン11
コンビネーションパターン12
コンビネーションパターン13
コンビネーションパターン14
コンビネーションパターン15

本書によればムエタイの歴史は13世紀まで遡るとも言われており、16世紀のアユタヤ王朝では当地で有名なナレスワン王が、ビルマ1の戦士と素手で一騎討ちを行い勝利した際に使ったのがムエタイだったとされています。
タイ映画「マッハ!!!!!!!!」で話題になった古式ムエタイというのがありますが、まぁ、そっちの話はいずれ。

ともあれ、本書はムエタイの基本技術紹介がテーマとなっているので、そんなに掘り下げた本ではありません。 しかしこの手の基本書すら殆ど無かった事を考えると、どれだけマニアックな市場だったんだろうと愕然としてしまいますw
後、本書の特徴ですが、肘や膝を使った技術の紹介に相当数のページを割いている点でしょうか。


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それと…タイ語での技の名称を紹介してくれてる事。
そうそう、ヤンキー用語で「ゲソパン」とか「モモカン」とか呼ばれてた(「カツ入れる」って言い方もあった気がしますが、知人に当たっても誰も知らなかったので超ローカルなのかも)太腿への膝蹴りも載ってますね。
私もその後タイ人と知り合った際にちょっと役に立ってますw 発音を直されたりもしますが、タイの学校の教師が日本に交換留学で来た際にもワイクーを教えて貰う切っ掛けになりましたし、タイの英雄サマート・パヤカルンの試合に同行して汗を拭かせて貰った事を一生の自慢としていたタイ人学生とも盛り上がれましたw


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ちなみに私、右の廻し蹴りを出す時は斜めにステップインして蹴ってましたが、こういうのは本来ムエタイの技術ですよね。 こっちの方が蹴り易いと考えて蹴ってたのか…ちょっと記憶に無いんですが、ひょっとしたらこの本の影響かもです。
そう言えばハイキックはムエタイでテッ・カン・コーと呼びますが、カン・コーは頸部を指すそうで、大山倍達総裁の技術書を読まれた方はピンと来るかな?


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そう、極真で言う廻し首蹴りですね。 …まぁ、今はこういう名称も存在しないでしょうけどw これは背足で蹴る結果、獲得された技術じゃないかなぁと思います。 中足ならこめかみを蹴りに行きますからね。
あぁ、そうだ、本書で廻し蹴り→後ろ廻し蹴りのコンビネーションを「チャラケー・ファード・ハーン」と言うのを知ったんだった。 ワニが尻尾を振って首を一撃するという意味らしいのですが、確かその前だったかなあ、76年に猪狩元秀先生がサタンファーソープラティープを逆転KOした話を、「ゴング格闘技」で「ワニ蹴り」を蹴った瞬間にマッハパンチが炸裂!みたいな事が書いてあって、どんな蹴りやねんと思ってたんですw

こんな感じでムエタイを代表する技術については懇切丁寧にページを割いて書いてあり、 こういうムエタイの基礎的な技術について知りたい方にとっては必須本だったと思います。
過去形なのは…ここ10年くらいで有名なキックボクサーやムエタイ戦士による良質な技術書が出始めたからですw
それでも、ムエタイ本の先駆者としての栄光は揺るぎないと思いますね。


と言う事で、望月昇著「最強格闘技 ザ・ムエタイ」でした。
キックボクシング本は1969年出版本を2種類紹介しましたが、ムエタイに関しては初紹介ですかね。
ネタは色々あるので今後も他の本を紹介するでしょうが、先にこの本を紹介したかったのです。
出版されたのが89年ですので、UWFから始まる格闘技ブーム真っ盛りですかね。 キックボクシング界だと、オランダキック界を筆頭に、ヨーロッパやオーストラリア辺りからの外国人選手が熱かった時代かな。 まだヘビー級こそ数は少なかったですが、重量級の選手が日本にも来日する様になり、後のK-1にもかなりの影響を与えた事でしょう。
まぁ、でも当時のキックファンはやはりマニアックな客層だったんだろうなぁ。 この頃にもっと努力してればブラジリアン柔術並の競技人口を得られたかも知れませんねぇ。 というか沢村忠ブームを生かせなかったのがな…。 この辺りは護身を掲げて、まずアマチュアありきの空手やブラジリアン柔術とは違いますね。 あ、便宜上ムエタイとキックボクシングを纏める形で記事を書いてますが、別物ですのでお間違い無い様w
ファイトマネーやプロモートで稼ぐという発想では無く、指導料で稼ぐという発想(元々は伝播が目的ですが)がキックには足りなかった。 今みたいに新空手もありませんし、プロありきの競技の競技人口が少ないのは致し方無いかも知れません。 せっかくアマのムエタイもあるので、もっと盛り上がって欲しいんですけどね。
ちなみに大山倍達総裁VSブラック・コブラですが、これは不明ですw 現在のところ、「可能性はある」としか言えませんね。 いや、興味深い調査の情報が上がっては来てますが、当ブログで紹介するのは、表に出てからかなぁ。
と、気になりそうな話を書いたところで、今回はここまで。
それでは、また。

http://blogs.masoyama.net/?eid=413#sequel

【レビュー】百田尚樹著「「黄金のバンタム」を破った男」(2012年)


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先日の台風時に電車が動き出したらしいというので駅まで行ったらまだ止まってたんですよね。 そこで本屋に入ってふと見付けた1冊が、今回紹介する百田尚樹著「「黄金のバンタム」を破った男」ですw


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いつだったか、ファイティング原田をテーマにしたノンフィクションが出た、というのはどこかで目にしていたんですが、読みたいなぁと思いつつ失念してまして、文庫化して尚且つ本屋大賞を受賞されるまですっかり忘れてました。

百田尚樹先生と言えば映画化が予定されている「永遠の0」の作者として今話題の人物だと思います。 私も零戦物は多々読んでおり、幼少の頃は「零戦燃ゆ」を見に行きましたし、原作も通読してます。 ちなみに連載時の挿絵を纏めた画集も持ってますw プラモも結構作ってたりするので、同映画を楽しみにしてる1人ですw
なので、あぁ、この人が書いてたのか、と期待して読んでみたら…これが存外に面白いw
まぁ、面白さが伝わるかどうかは私の力量に掛かっているのでアレですが、熱い時代のボクシングに対する筆者の熱い思いがひしひしと伝わる名作だと思います。
まずは紹介文ですかね。

打たれても打たれても前に出る男は、こんなにも美しい――敗戦から十余年、十九歳で世界王座についたファイティング原田。三年後、史上最強と言われていた「黄金のバンタム」エデル・ジョフレを破り、日本人初の二階級制覇。だが時代の寵児となった原田の前に、世界の強豪が立ちはだかる。一九六〇年代、日本人を熱狂させた男の戦いを描きつつ、昭和の"熱"を見事再現した傑作ノンフィクション。『リング』を改題。


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んで、目次。

第一章 日本ボクシングの夜明け
第二章 ホープたちの季節
第三章 切り札の決断
第四章 スーパースター
第五章 フライ級三羽烏
第六章 黄金のバンタム
第七章 マルスが去った
第八章 チャンピオンの苦しみ
第九章 「十年」という覚悟
解 説 増田俊也


本書は戦後の日本ボクシング前夜から始め、…これは本文中何度も繰り返されるんですが、現在より圧倒的に困難であった世界戦をメインとして展開されます。 以前紹介した1952年のボクシング本「ボクシング・テキスト」にも出版社の拳闘社のスローガンとして「世界選手権を日本人の手に!!」とありましたが、これは白井義男戴冠前でもあり、本当に切実だったんでしょう。
日本ボクシング界にとって、世界に挑戦出来るだけでも大変な事であり、ましてや世界王者になるというのは、夢のまた夢だったと、そんな時代の話です。 現在は複数のボクシング団体がありますが、ファイティング原田の時代は1団体で現在より圧倒的に少ない階級しかありませんでした。 どれだけ才能があろうと運が無ければ、そして誰か1人でも自分より強い人間がいれば王者になれない―そんな時代だった訳です。 例えば筆者はこの世界チャンピオンの価値についてこう書いています。

この本を読んで下さっている若い読者に繰り返して言いたいのだが、昔の世界チャンピオンと現在の世界チャンピオンの価値は等価ではない。 当時、世界チャンピオンは八階級に八人しかいなかった。 世界でたったの八人である。 現在は十七階級、しかも複数の団体がそれぞれチャンピオンを認定していて、主要四団体だけでも七十人前後のチャンピオンがいる。 中には複数の団体に認められた統一チャンピオンもいるが、一方で暫定チャンピオンがいたりして、正式には何人の世界チャンピオンがいるのか、相当なマニアでもすぐには答えられない状態だ。
つまり昭和三十年代の世界チャンピオンの価値は現在の八倍以上の価値がある。 乱暴な言い方を敢えてするが、昭和三十年代の世界ランク七位以内のボクサーなら、今なら全員世界チャンピオンになれるということだ。 逆に言えば、現在の世界チャンピオンの八人のうち七人は当時なら世界ランカーどまりということになる。

この後も複数階級制覇に価値があったのは昔だ、と続くのですが、確かにその通りだと今更ながらに痛感しますね。 この辺りは実は極真にも言える事でしょう。 本当に強いのは誰だったのか、今となっては詮無き話ですが。
この時代のボクシングの世界チャンピオンは本当に価値があった、そしてファイティング原田は本当に凄かったんだ、という事を再確認させる1冊です。
そして話は原田の最初のタイトル、世界フライ級チャンピオン戴冠後から、この過酷な時代に8年間無敗を誇った「黄金のバンタム」エデル・ジョフレとの試合について描かれます。 私は知らなかったんですが、この「黄金のバンタム」、今ではバンタム級全体を指す言葉として使われてたりするんですね。 昔の「ゴング格闘技」読者である私からするとジョフレを指す言葉というのは常識だったのですがw
エデル・ジョフレは…そうですね、マンガだと、「あしたのジョー」のホセ・メンドーサ、そして「はじめの一歩」のリカルド・マルチネスのモデルであろう人物がジョフレです。 マンガの中での取り扱いを思い浮かべて貰えればどれだけ強い相手だったのか想像付くかと。
1965年5月18日、名古屋で行われた世界バンタム級タイトルマッチ、エデル・ジョフレ対ファイティング原田の15回戦は、原田圧倒的不利の予想の中でゴングが鳴りました。 というか、恐らく身内以外で勝ちを予想した人間はいなかったんじゃないでしょうか。


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4ラウンドまでまさかの原田攻勢で進む中、5ラウンドのジョフレの反撃により悲壮な雰囲気に陥る場内、しかし原田はこれを凌ぎそして盛り返し、15ラウンドを終え、2-1で原田の判定勝ち、2階級制覇となります。


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この事は広く世界でも報道され、"Up set"(番狂わせ)と海外で報道しているケースもありました。
その後、1969年の最悪のホームタウンデシジョンだった豪州のジョニー・ファメンションとの対戦を経て、翌年のリターンマッチ後、原田はグラブを壁に掛け、10年間の激闘に幕を下ろします。 日本を熱狂させた男の、闘いの終焉でした。
引退後も原田は世界最高のボクサーの1人として数々の賞讃を受けます。 日本人ボクサーからはただ1人、国際ボクシングの殿堂に選ばれており、世界中の尊敬を受けるボクサーとなりました。
知らない方には「こんな凄い日本人がいたんだ」と、そしてご存じの方は最高のボクサーの軌跡を、本書を通じて今一度振り返ってみるのをオススメしますw


と言う事で、百田尚樹著「「黄金のバンタム」を破った男」でした。
いや格闘系ノンフィクションの中でもトップクラスの快作じゃないかなぁ。 素で面白かったです。
また「あしたのジョー」好きな方には、このボクシング黄金時代にどれだけ梶原一騎先生が影響されたかが伺えるんじゃないかと思います。 私なんかは読んでて「あぁ、これはあのエピソードの元ネタ、あれはこの選手の元ネタ」とか思い浮かべつつ読んでましたw
新しい本なのであまり引用していませんが、名言も多く、読んでてテンションが上がりましたね。 そう言えばフライ級三羽烏の1人、青木勝利のキックボクシング転向騒動というのは本書でも触れられていなかったですが、これはボクシング界のタブーなんだろうか?


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今回はここまで、それではまた。


参考文献:
Fairbanks Daily News Miner, 5/19/1965
ファイト 7/5, 1969年
U.S.ネーヴァル・インステテュート刊行 アメリカ海軍航空隊 訓練要綱 ボクシング・テキスト 拳闘社 1952年
ゴング1月号増刊 日本名ボクサー新100人 日本スポーツ出版社 1983年
「黄金のバンタム」を破った男 百田尚樹著 PHP研究所 2012年

http://blogs.masoyama.net/?eid=347#sequel

【レビュー?】長田龍太著「中世ヨーロッパの武術」(2012年)



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アレやんなきゃなーとか思いつつダラダラしてしまった今日この頃、如何お過ごしでしょうか?
ちなみにアレとは、大会ネタの2種類ですw
近日中には取りかかる予定ですが、結構手間が掛かるので、のんびり行くつもりです。

さて、今回はまた変わった本を紹介しようかなーと、取り出してみたのはこちら「中世ヨーロッパの武術」。
全671頁の超大作ですね。 出版社はマニアックな解説本に定評のある新紀元社。 特定のシナリオやら小説を書かれる方は割と必須な気がする本を出し続けてますね。


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本書は図解を多く使っているので、技法を理解するのに容易いでしょう。 元の教本から見易くしていると思いますし、この辺り、親切です。




中世の武術と言うのは殆ど絶えてしまった為あまり知られていません。 70年代以降の生まれの人ならゲームやアニメで中世っぽい武器を見る機会は多くあったのですが、西洋の剣士が剣を振り回す様を見るのは映画でも数えるほどでしょう。 ダガーや棍棒から両手持ちのグレートソードまで武器だけは知ってるという人の方が多い筈です。

とりあえず目次から行きましょうか。

第1部 概説
第1章 中世から近世までの戦闘様式の変遷
第2章 フェシトビュッフとは?
第3章 ヨーロッパ武術の基本理念
第4章 構えとは?
第5章 攻撃線とは?
第6章 防御について


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第7章 刃の握り方
第8章 攻撃の基本
第9章 歩法
第10章 流派紹介


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第2部 技紹介
技解説の前に
第1章 ロングソード


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第2章 レスリング
第3章 ダガー
第4章 ハーフソード


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第5章 殺撃
第6章 武装格闘術
第7章 槍
第8章 ポールアックス
第9章 ファルシオン
第10章 片手剣とバックラー
第11章 騎乗戦闘
第12章 ショートスタッフ
第13章 ロングスタッフ
第14章 クォータースタッフ
第15章 ウェルシュフック
第16章 バックソード
第17章 ハルバード
第18章 レイピア
第19章 モンタンテ
第20章 鎌と大鎌


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第21章 棍棒とフレイル
第22章 異種武器戦闘

付録
フェトビュッフの著書
文献略称一覧
フェトビュッフ書評
参考文献
語句紹介

コラム
子ども用の武器
剣の製作年代
中世以前の剣
中世の剣の重さ
決闘の種類
練習用の道具
パイリング・ダガー
中世の決闘
剣術に対する誤解
鎧の名称について
鎧の価格
新発明の武器
ランスレスト
フェシトビュッフ未掲載武器
リヒーテナウアー十八傑
モンテの鎧
鎧の厚さと硬さ
モンテのアドバイス

ちょっと西洋の武器に詳しい人なら、目次だけでもニヤニヤしちゃうんじゃないですかね。 私なんかも富士見書房の「コレクション」シリーズは中学の頃から読破してましたし、「ロードス島戦記」の「月刊コンプティーク」版リプレイ(全揃は国会図書館でも閲覧不可)は全部持ってる人なので読んでて楽しいですw


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古典的な中世ファンタジーは大体90年代に入るまでに読んだんじゃないかなぁ。

閑話休題。
目次に何度か出ているフェシトビュッフとはドイツ語で「戦いの本」という意味だそうで、言い換えれば戦闘教本か技術書でしょうか。 本書はそれらを元に書かれており、かなり当時の実状に沿った本だと思いますね。
で、ヨーロッパ武術の基本理念が載っていますが、これは興味深い。 27の原則の内、"4つの根本原則"と定義付けられたものがあります。 以下がその4つの原則。
1.判断
2.距離
3.時間
4.位置
時間とは…これも面白いんですが、相手より速く動く事が勝利への一歩とするのはまぁどこでも一緒ですが、単純なハンドスピードでは無く、一動作するのに要する時間を指します。 これは日本武術にも通じますね。 動作の最適化というか、無駄な動きを削るというのは東西変わらぬ事なんでしょう。

んで、流派紹介。 本書では4つの国の武術にとりあえず分類されています。 以下がその分類。
・ドイツ式武術(リーヒテナウアー式/14世紀半ば~17世紀終わり頃)
・イタリア式武術(不明~19世紀)
・イギリス式武術(不明~18世紀)
・スペイン式武術(16世紀半ば~19世紀中頃)
それぞれ特徴や理念が載っており、どれも興味深いですね。 イタリア式の「テンポ」やスペイン式の「円運動」が特に興味を惹かれました。

そして技。 西洋の剣術は堅牢な鎧もあってか、斬るというよりも叩き付ける使い方が多かったと言われてます。 その為か、長剣では日本の剣術よりも刃や平で受ける傾向ある様です。 見た感じも払いや巻き込み系のカウンターが多いですね。


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そして接近しての投げや金的蹴りなど、荒っぽい技も結構載ってます。 大胆なところでは、相手の剣の刃を掴むというものまで載ってますねぇ。

本書では中世のレスリングには、あまり寝技が無い事を指摘しています。 武器や対多人数の可能性を否定しない武術では、止めを刺す時以外は寝技に行くメリットはありませんからね。 なので現在ではスタンドレスリングと呼ばれる物が主流になります。 打撃あり、禁じ手無しですから、かなり実戦的ですね。 63手載ってるので、レスリングの古流に興味がある人にもお勧めかもです。


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また、身体を使うという事から、古流柔術に良く似た技も結構見受けられます。

鎧を着た相手に対する技法も多く載っており、サーコート(鎧の上に着る服とかマント)を切り取って兜の目に詰め込む目潰し、なんてのがありました。 他には杖術にも似たハーフソード(むしろ鎧通しに近いかも)とか、片刃のファルシオン、各槍術とか。 レイピアでは有名なダガーと組み合わせた二刀流やケープを使った技法。 棍棒やフレイルも面白いですね。


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そして殺撃。 剣の柄の部分で攻撃する技法は本書を読むまで知りませんでした。 最も強い打撃力を出す技術だそうですが、日本刀では絶対に出来ません。


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中世ファンタジー系RPGや小説が好きな方にオススメな1冊ですが、古流武術に興味のある方にもオススメだと思います。 東西の戦闘に対する見解の相違を比べてみるのは面白いと思いますよ。


という事で、長田龍太著「中世ヨーロッパの武術」でした。
日本の戦国時代が長らく続いた様な状態だったヨーロッパでは、幕府が統治する事も無く日本の様にじっくりと武術を追求する様な環境に無かったと言われています。 結果、日本は武器の近代化に遅れ、ヨーロッパでは常に武器の近代化に迫られ、古流武術が淘汰されたそうです。
その為伝承者は殆どおらず、近年までは一部の研究者以外にはその技術が知られる事はありませんでした。 しかし現在ではThe Association for Renaissance Martial Arts(ARMA/ルネッサンス武術協会)という団体を筆頭に―恐らく日本の武術団体に影響されたのでしょうが―中世からルネッサンス期の西洋武術の復興と研究/保存を目的とした団体がいくつか誕生しています。
現在活動している中世専門の刀鍛冶もいますが、これもドキュメンタリーで見た限りですが、多分に日本の刀工に影響を受けています。
アートとは術の事ですが、同じアートでも美術等の有形文化財は永く愛好家たちに愛され、今も多くの人々に感動を与えているのに、一方の武術といった無形文化財は文献より復元する他無い、というのは実に残念な事です。 武術も貴族の嗜みだった筈なんですけどねぇ。
アジアの場合は民間伝承の武術が多かった結果、伝承された人口が多かったのが現在まで残っている理由じゃないかと思ってます。
武術の大衆化はコマーシャリズムだと批判する向きもありますが、如何にその武術が素晴らしかろうと、人が知らなければ無いに等しいです。 哲学的に言えば、知られなければそれは存在していないという事です。
グレイシー柔術とてブラジルではともかく、世界から見れば90年代まで「存在しない格闘技」でした。
武術の保存について、正しい手段がどれかは分かりませんが、宣伝しただけでとやかく言う様な事があってはいけないと思います。

それでは、また。

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【レビュー】黒井克行著「テンカウント 奇跡のトレーナー松本清司」(2003年)



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今回はボクシング界きっての名トレーナー、松本清司氏の生涯を書いた黒井克行著「テンカウント 奇跡のトレーナー松本清司」を紹介してみようかと思います。


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私が最初に松本氏を知ったのは岡村篤著「BOXER」の第3巻かな。 中継で見てた試合にもおられたみたいですので、セコンドに立つ姿は以前から見ていたんでしょうけどね。
筆者はノンフィクションライターの黒井克行氏。 本著にも登場するリング禍の犠牲者となった選手の身内で、学生時代に身内の事故に遭遇し、そして松本氏に惹かれて行く事になります。





まずは略歴。 松本清司は1936年、熊本生まれ。 幼少の頃からガキ大将で、進駐軍の列車を止めた事もあったそうです。 鎮西中学でボクシングと出会い、後に生涯をボクシングに捧げる事になります。 ちなみに鎮西中学というのは柔道の木村政彦先生の母校ですので、松本氏はその後輩になります。


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松本氏はその後鎮西高校に入り、明治大学とボクシングに明け暮れ好成績を修めるも当時はボクシングで飯が食えず、プロは断念。 しかし大学の先輩で元日本フライ級チャンピオンの米倉健司の要請を受けてトレーナーへ。 意向は試行錯誤しながらトレーナーとしてセコンドとして数々の選手を育て上げ、ヨネクラジムの黄金時代に貢献しました。 また、最優秀トレーナーに贈られるエディ・タウンゼット賞の第1回受賞者でもあります。 1994年11月12日、心不全の為死去。 同年8月の世界ジュニア・バンタム級チャンピオン、川島郭志の初防衛戦が最後のリングとなりました。

んで、目次。

第一章 倒さなければ倒される
第二章 闘争本能という悪魔
第三章 ボクシング職人
第四章 アウトボクシングとカウンター戦法
第五章 東日本新人王戦決勝
第六章 インファイトの哀しみ
第七章 鉄のガード
第八章 フリッカージャブとカットマン
第九章 テンカウント
あとがき


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まず出だしが良いんですよね、この本。 世界ジュニア・フライ級チャンピオン具志堅用高とそのトレーナーだった福田洋二氏のエピソードで始まりますが、世界戦前のキャンプで大雨により練習を中断した所、具志堅選手がクラブハウス内を延々と走り続けるという話です。 後に具志堅選手はこの時の事をこう語っています。

「僕は怖いんですよ。 怖いから、もしこの日練習を休んでいたら、世界タイトルマッチ当日、控え室で出番を待っている間に、
『ああそういえば、俺、あの時あそこへ行った時、雨降って練習休んだから今日負けるんじゃないかな』
って、思っちゃうかもしれないんですよ。
その時に、自分の心に打ち勝つために、
『俺、あの時雨降りだったけど、一時間半クラブハウスで一生懸命に走ったよな。 他の連中だったら絶対に休んでいるかもしれない。 けど、俺はやったから絶対に負けないんだ』
って、自分の心を勇気づけたり、元気づけるためにやったんですよ」

練習によって培った自信、ギリギリの試合になればなるほどこういう気持ちが役立つでしょう。 んで、それを見守る福田氏の言葉もいいですね。

「僕は選手を絶対に信用しないんです。 世界チャンピオンだろうと何だろうとです。 だから、情け容赦なく厳しく鍛えるんです。
ただ、一日だけは信用してあげます。 それは試合の当日です。 一生懸命にトレーニングをやってきて、僕はリングという舞台に上げるんだからその選手に対しては一日間だけ信用します。
しかし、その日一日だけで、試合が終わった翌日にはもう信用しないんです。
楽しい? 楽しくはないですよ。 楽しくはやりたいけれども、選手は一生懸命です。 必死なんです。 それを引っ張っていく立場としては、それ以上の気持ちでやらないと二人の間に信頼は生まれません。 選手になめられたら終わりですから」

しかしこんな福田氏が自分はまだまだヒヨッ子だと、松本氏と比べて自分を分析しています。 どれほど尊敬していたかは本書の節々にも書かれています。

さておき、松本清司の指導方法というのは、一言で言えば「見つめる」ことだそうです。 自分が管理する全てのボクサーの全てを見つめ、促す。 万人を指導するのには向かない様に思いますが、教え子の一人、元日本ライト級チャンピオンの成田城健はこう語ってますね。


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「手抜きをするのは簡単だけど、苦しくてもそれができないんですよ。 自分一人くらい力を抜いてもわかるわけがないと思っても先生には全部お見通しなんです。 僕らに背中を見せていても不思議とこれがわかってしまうんですよ。 よく背中にも目が付いていると言われる人がいますが先生がまさにそれですよ」

しかしそんな松本氏もトレーナーになって間もない頃は鬼軍曹と鳴らしており、「死ぬ一歩手前までとことんやれッ!」と竹刀を片手に練習生をシゴキ抜いていたそうです。 しかしとある選手が眼筋麻痺に陥り引退する事になった時、自分の指導を見つめ直しトレーナーとして再出発を果たします。
まぁ、こうやって書くと頑固な人っぽいですよね。 しかしメンタルケアにも長けていた様で、愛煙家のボクサーには試合の前日にタバコを一本吸わせてやったりして当人が発奮したと語ってます。
まぁ、こういった感じで名トレーナーとしての秘訣を、実際に教えを受けた選手たちの口から語られます。


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トレーナーとはボクサーにとって非常に重要でありながら、あまり光が当たりません。 しかし指導者の立場に立つ方には興味深い本なのでは無いでしょうか?


という事で黒井克行著「テンカウント 奇跡のトレーナー松本清司」でした。
日本で一番有名なトレーナーは「あしたのジョー」の丹下段平かな。 でもトレーナーとしてはそんなにレベルが高かった訳では無いでしょう。 時代背景もありますが、矢吹丈という逸材を見出し磨き上げはしたものの、他に大成した選手はいません。
今だったら「はじめの一歩」の鴨川源二でしょうか。 同漫画ではトレーナーもトレーナー同士の闘いを描いていたり、カットマンとしても活躍してます。


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ちなみに鴨川会長の場合は「はじめの一歩」の世界でも名伯楽と認識されているみたいです。
で、前述したボクシング漫画の名作「BOXER」。 著者は元プロボクサーの岡村篤先生で、実話を元に描かれたのが同書です。


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単行本で全3巻ですが、2巻までは道半ばで断念した選手や世界に向かっている選手などの話を、最後の3巻は松本清司氏の生涯について描かれてます。 今回紹介した本の内容について大体載ってますので、どうせなら両方読んで頂きたいですね。
それでは、また。

参考文献:
BOXER 第3巻 岡村篤著 講談社 1997年
テンカウント 奇跡のトレーナー松本清司 黒井克行著 新潮社 2003年
はじめの一歩 第90巻 森川ジョージ著 講談社 2009年

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【レビュー】ジョン・ブルックフィールド著「握力王」(2004年)



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昔の武道家は握力に関する伝説がチラホラありました。 本土に紹介された当時の唐手には唐竹を握り潰すという伝説がありましたし、木村政彦先生は自身も握力計を握り潰したと語られていた様に、握力に関するエピソードに事欠きません。
そして、大山倍達総裁…。 大山総裁は握力を使った最高の演武がありましたね。 そう3本指による硬貨曲げです。 他には、石や煉瓦を引き千切ったり、陶器皿を指で摘んで、摘んだ所だけ千切ったとか。


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で、今回紹介する「握力王」は、握力を鍛える事に取り憑かれた男たちの鍛練法や技の数々が披露されています。 著者のジョン・ブルックフィールドは、ナンバー4と呼ばれる166kgのグリップを閉じた握力の持ち主で、トランプ千切りも出来るそうです。




では目次。

序章

~第1章~ 握力王たち
現代のグリップマスターたち
現代の握力王

~第2章~ 握力強化は"握る"だけではない
握力は"握る"だけでは向上しない
競技に適した握力強化
まずは"親指"の強化から
親指の過伸展によるケガ

~第3章~ 握りつぶす力
錆び付いたペンチを使った『ワイヤーカッティング』
ペンチとバケツを使った『ペンチリフティング』
90cmハンマーを使った『ダブルハンマー・スクィーズ』
プレートローディング式の『グリップマシン』
小袋を使った『バッグキャッチング』
グリッパーを使ったトレーニング
理想的な頻度、回数、セット数は?

~第4章~ ピンチ力を強化する
鉄床、薪、プレートを使った『ワイドグリップ・ピンチグリップ』
重量プレートを使った『レギュラーグリップ・ピンチグリップ』
斧のヘッドを使った『アックス・ヘッド・リフティング』
自宅でもできる『ロープクライミング(綱登り)』
ハンマーを使った『フィンガーウォーキング』

~第5章~ ブロックを負荷にした運動
鉄アレイの鉄球部分を使った『ブロックトレーニング』
『ブロックトス(ブロック投げ)』
『ファーマーズウォーク』
『クリーン&プレス』
『スナッチリフト』
『フィンガーリフト』
『フォロー・ザ・リーダー』
握力強化にブロックトレーニングは欠かせない!


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著者とその妻


~第6章~ 太いダンベルでトレーニングする
5cm以上のシャフトが理想
ダンベルを保持する練習から始めよう
『ケトルベル』でトレーニングする

~第7章~ 指や前腕のための強化種目
ウォーミングアップとして活用できる『リストカール』
手首を極限まで強化する『カーリング・プレート』
指、手の瞬発力を鍛える『サンド・グラブ』
強靱な手首を作る『レバー・リフト』
太い前腕を作る『リストローラー』
指先の力を養う『ジョン・オッタスキー流ベースボール・リフト』
簡単だが効果は大きい『指先で行なうプッシュアップ』
"指を開く力"も必須『フィンガーエクステンション』
"指を開く力"も必須『フィンガーエクステンション』その2
"指を開く力"も必須『フィンガーエクステンション』その3

~第8章~ 日常の肉体労働と、仕事中に用いられる器具の活用

~第9章~ ゴールとそのためのトレーニングプログラム
小さいゴールをクリアし、大きなゴールを目指す
自分の身体からの声を聞く

~第10章~究極の握力技、"鋼鉄曲げ"
キミには曲げられるか?
"大釘曲げ"のための握力強化法
鉄棒で様々な形を作る『スクロールワーク』
究極の"蹄鉄曲げ"

~第11章~持久力を試してみよう
キミにできるか?(その1) "ジャガイモ潰し"
キミにできるか?(その2) "持久力バケツ持ち"
キミにできるか?(その3) "トランプちぎり"
キミにできるか?(その4) "カーリング・プレート"
キミにできるか?(その5) "背面大釘曲げ"
まとめ

~第12章~これってホント?
コイン曲げ、コインちぎり
テニスボールを破裂させる
缶潰し
線路に使われている釘曲げ
あなたは信じる?

~参考1~ 握る部分が太くなっているダンベルを手に入れる方法
~参考2~ ケトルベルを自作する

あとがき

日本で神と呼ばれる握力王 新沼 大樹


本書では前述した通り、数々のストロングマンや鍛練方法を紹介してます。


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その中に大山倍達総裁と同じ様な事をやってる方もいましたね。 難易度はどっちが上か分かりませんが。 この方はアル・ウォールマンという人物でこう書かれてました。

しかし、ウォールマンの披露した技の中に、これまでどんなストロングマンたちもやったことがないような技が2つあった。 まずひとつは、分厚いガラスでできたビンやコップを指先でつまみ、割ってしまうという技だ。 彼は分厚いガラス容器をテーブルの上に置き、指先だけを容器の縁に当てて、つまみ上げるようにして指先に力を入れる。 すると、分厚いガラス容器はいとも簡単に底の部分までひびが入って割れてしまうのだ。

あまり知られていませんが、握力と言っても掌で握る力と指で摘む力は異なります。 本書ではそれらを含めて総合的に鍛える手段を披露してますね。 ワールドクラスのデッドリフターでも指で摘む力は平均的なレベルだと本書にありますが、なるほどなと思ったものです。 高校時代に確か140だか160だかベンチで挙げるアメリカ人がいましたが、当時70kgくらいでピーピー言ってた私と腕相撲したら私が勝ちましたしねw 当時確か右の握力が72kgだったかなぁ。 以降は計ってないのでどこまで伸びたのかは知りませんが、今思えばベンチで挙げる重量と変わらない握力があったのか…。 毎日3本か2本で指立て100回と拳逆立ち1分をやっていた頃の話です。

この中で空手に一番役立ちそうなのは、バッグキャッチングですかね。 巾着みたいな小さい袋にナットや砂などを詰め込み、片手で掴んで上に投げ、掌を下にして落ちてくる袋を掴むというトレーニングですが、瞬発的な握力を鍛えるのに良いそうです。 似た様なトレーニングではブロックトスというのも紹介されてますね。


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レバーリフト

そして興味深いのはレバーリフト。 これは沖縄伝統のチーシーを使った鍛練に良く似てますね。


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据石(チーシー)

それから、指を開く力を鍛える方法も載ってます。 これをやるとバラ手とかデコピンが強くなりそうですね。 罰ゲームに備えて鍛えるのも良いでしょう。 空手をやってる人でもレッグエクステンションは得意でもレッグカールは苦手って人、いますよね? これは大山総裁が言う所の「裏筋肉」になるでしょう。 裏筋肉とは個人差がありますが、大山総裁による目安はこんな感じ。

①陰になりやすい内側の部分、あるいは比較的、末梢的、末端的部分の筋肉。
②右利き、左利きなどという利き腕、利き足とは反対側の手足とかかわる部分の筋肉。
③生活習慣や運動パターンなどによって異なるが、その人がその行動をおこなう場合、あまり頻度(同じことが繰り返し起こる度数)の高くない部位の筋肉。

で、フィンガーエクステンションとは指を開く事を指しますが、この指を開くというのは日常的には負荷が掛からない行為であり、末端的部分ですので、裏筋肉に該当します。 こういう鍛練も空手に役立つかも知れませんね。

…とここまで書いておいてなんですが、過伸展によるケガの注意も喚起されています。 筆者は執筆の5年前に知人から大きな鉄の塊を貰い、それを使って摘む力を養成しようとしたところ、大き過ぎた塊を無理に掴んだ為、親指に痛みを憶えたそうです。 しかしそのまま鍛練を継続した結果、5ヵ月ほど親指が痛み、5年経っても時々痛むそうです。 その教訓を踏まえて、こう語っています。

このように、親指の過伸展によるケガは簡単に起きてしまう。 だからこそ、つまむ力、いわゆるピンチ力の強化には慎重にならなければならない。
確かに、より大きなものや、より太いものをつかんだりつまんだりすると、より強烈な負荷が手や指にかかってくるだろう。 しかし、あくまでも常識的な範囲で行うこと。 自分の手の大きさではとてもつかめないような大きな道具を無理に使ってはならない。

最後にここに触れましょうかw コイン曲げ。 著者本人は自分でも出来ないし、見た事も無いそうですが、かつてのストロングマンがやっていたという話自体は信用してる様ですね。 ただ、コインの硬度が昔とは違い、更にアメリカ以外の国のコインはそこまで硬く無かったのだと判断してます。


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大山倍達が曲げた10円玉


元々ヨーロッパの方で良く行われていた演武だそうで、アメリカでは難しいだろうとの事。 やるならイギリスのペニーやヨーロッパのコインでの挑戦を進めてますね。 ちなみにこういうコイン曲げが行われていた1900年代前半は、何度も曲げて千切る人もいた様で私も写真を見た事があります。 ただ、知ってる限り皆両手でやってますね。 片手っていうのはどれくらいいるのかなぁ。

本書は空手家にとっては面白い本だと思います。 元々沖縄の…特に那覇手では握力(と言うか指)を鍛える為に様々な鍛練具を作り鍛え込んでました。 そして大山総裁も結構握力を重要視してましたよね。


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錠形石(サーシー)による鍛練


特に正拳の破壊力には欠かせないと。 大山総裁は他にも木刀や弓を引いて握力を鍛えたそうです。
彼らの様な握る事を追求して来たプロのやり方に学ぶのはいかがでしょう?


という事で、ジョン・ブルックフィールド著「握力王」でした。 本書は「アイアンマン」の増刊ムックとして刊行された訳書という変わった本ですが、色々と脱帽しますねw
翌年には第2弾で世界最強のグリッパーを攻略するというテーマでみっちりな「握力王vol.2」が出ていますが、続きという訳ではありません。 こっちを紹介する予定は今の所ありませんが、興味があれば併せてどうぞ。
今の選手はどれくらい握力や指を鍛えているのかは知りませんが、武術としてみれば鍛えて然るべき箇所だと思いますので、忘れないで欲しいですね。
それでは、また。


参考文献:
ダイナミック空手 大山倍達著 日貿出版 1967年
強くなれ! わが肉体改造論 大山倍達著 講談社 1985年
月刊大山倍達 第三号 2004年
アイアンマン3月号増刊 握力王 ジョン・ブルックフィールド著 フィットネスジャパン 2004年
アイアンマン7月号増刊 握力王vol.2 河北健訳 フィットネスジャパン 2005年

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【レビュー?】 ジョー小泉著「ボクシングは科学だ」(1986年)



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さて、先月はリフレッシュしてたので、今月は通常ペースで更新したいですねぇ。 とりあえず来週の土曜は更新出来ませんけどw その代わりこの記事を上げながら次回予定の記事を2本準備中です。


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先日、知人のプロボクサー(元キックボクサー)が2勝目を挙げたので、何となく記念してジョー小泉氏の「ボクシングは科学だ」を紹介します。





ジョー小泉氏はご存じの方も沢山いらっしゃるかと思いますが、アメリカボクシング界の権威である"Ring"誌のナット・フライシャー翁に若干17歳で見初められ、郡司信夫氏を除けば日本ボクシング界を代表する評論家です。 小泉氏の活躍はボクシング界に少なからず影響を与え、2008年にはアメリカにある2つのボクシング殿堂で同時に殿堂入りするという快挙を成し遂げています。 後、世界有数のボクシング映像蒐集家としても知られていますね。


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本書はベースボール・マガジン社の「ボクシング・マガジン」連載記事「ボクシング・アラカルト」を書籍化したものですが、私が最初に氏の名前を認識したのは「フルコンタクトKARATE」の連載かな。 それ以前にも知らなかっただけで、世界戦の解説なんかでも見てたんじゃないかなぁ。 今みたいに団体が増えて採点基準が多様化する前は、私もよく採点表を付けながらボクシングを見てたんですけどね。
んでは、目次。 というか目次長いですw

1話/アゴを「かするパンチ」がこわいのはなぜだろう
2話/シフト・ウエートの話
3話/"幻の右"コークスクリュー・ブローだった
4話/パターソンの"ボクシング・テキスト"に見る長身ボクサー攻略法
5話/マウスピース一つにもボクシングの歴史がある
6話/「体重無差別」からジュニア・クラス増設までの系譜
7話/サウスポー・スタイルの研究――なぜ昔は嫌われたのだろう…
8話/"マキ割り"トレーニング"に注目しよう
9話/リズミカルなボクシングなら疲れない
10話/ワン・ツーの「ワン」には目つぶし効果がある
11話/タフネス、あるいは"アゴの弱さ"を克服する法
12話/「日本人ボクサーはボディが弱い」という俗説について
13話/ミス・ブローを少なくする方法
14話/スランプに悩むA君にその脱出法を教えよう
15話/日本人ボクサーが打てないパンチについて
16話/「右アッパー」という名の凶器について
17話/ダウンさせたらニュートラル―・コーナーに行け
18話/相手のボクシングを殺すテクニックに注目しよう
19話/1回でKOされないためのウオーミング・アップの重要性
20話/野球のフィールディングを見て思った防御動作のスピード


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21話/中島成雄の殊勲はチームワークの勝利
22話/うまくウエート・コントロールしよう
23話/中島の成功にみるボクサーの減量再考
24話/ジャブはリーチの長い選手の専売特許ではない
25話/相手の体の「生き死に」を見切るタイミングについて
26話/ビデオ・テープを盲信する危険性について
27話/「探り針」という名の戦法を再考しよう
28話/ヒット・アンド・アウェイ戦法の表と裏
29話/ダブル・パンチの効果を見直そう
30話/クロス・カウンターでない右クロスもある
31話/右クロス・カウンターに対する防御
32話/中島成雄の敗因分析
33話/スナップの重要性を考え直そう
34話/左ストレートでも相手を倒せる
35話/ボクサーの出血を早く止めてやろう
36話/ミット打ちの長所と短所について
37話/ボクシングにおける"相性"について
38話/"クリンチ・ワーク"を研究しよう
39話/韓国の元振ジムで感じたこと
40話/"ブランク"がボクサーの体に及ぼす影響


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41話/集中攻撃(詰め)の効果について
42話/きみは具志堅用高になれるか
43話/レナードVSハーンズ戦の技術分析
44話/高いガードはブロッキングじゃない
45話/ディフェンスにおける"主"と"従"
46話/日本人ボクサーの歴史的・構造分析
47話/インサイドから打つことの重要性
48話/忘れ得ぬファイトとその教訓
49話/"手打ち"パンチの効用について
50話/WBAによるパナマ医療報告
51話/エディのアドバイスを聞いてみよう
52話/"名伯楽"中村会長に聞く
53話/"セコンド"という名の補佐役について
54話/闘志なくして技術は生きない
55話/ルピタ・ジム、メーン・ストリート・ジムで考えたこと
56話/2つの世界タイトル戦を振り返って
57話/ボクシングの"道具"を点検してみよう
58話/千里馬がデトロイトで学んだこと
59話/3つの新型ミットを試してみた
60話/バンコク・釜山観戦旅行日記


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61話/ニューヨーク・デトロイト日記
62話/これがクロンクのボクシングだ
63話/ボクシングのルールを見直してみよう
64話/オリンピック大会がボクシングに与えた問題提起
65話/ボクシングにおける"リラックス"の効果を考え直そう
66話/WBCのボクシング・テキストを紹介しよう
67話/ペイジ対コーツィー戦を考え直してみよう
68話/プロ・ボクシングの将来像――ある擁護論


ボクシングは本書タイトルにある通り、科学的な研究が多く成されている格闘技です。 科学と言うのは平たく言えばある対象を実験、検証し結果を体系付けて一般法則を見つけ出す、または応用するという事になるんですかね。
例えば強いパンチ力の育成、防御技術、減量や止血も全て一定の理論に基づいてます。 勿論、精神が肉体を凌駕するという事もありますが、それとて人事を尽くした後の話でしょう。


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本書でも技術論に傾倒する事への注意が喚起されています。 例えばこんな感じ。

技術とは"目的を達成するための手段"である。 手段を使うためには相手をにらみ、勇気を持ってステップ・インしなくてはならない。 闘志なき技術は、張り子の虎だ。 相手に難なく破られるだろう。
もし、読者の中のプロ、アマ・ボクサーが本書の中から小手先の技術だけを参考として読んでいるとすれば、それは読み違いだ。 その誤解を招いたとしたら、それは本書の罪であり、誤読をしたボクサーは敗北という罰を受けるだろう。
ボクシングでは、ひるんだ方が負ける。 勝つためにはまず闘志において相手に勝ることだ。

古流の武道家や空手家でも技術偏重主義者は結構いますが、そう言った方々には耳の痛い所じゃないですかね。
確かこの本を読んだのは私が高校生の時ですが、リングの上だけが闘いじゃないんだなぁと思った記憶があります。 そしてボクサー同士の対決だけが全てじゃないと。
感心したのはセコンドの話ですね。 出血したボクサーを1分間のインターバルの間に止血する方法があれほど細かいとは思ってなかったんですよw 圧迫止血から始まってアドレナリンで血管を収縮させ、トロンビン(血液凝固剤)やアビテン(吸収性止血剤)血を止めるとか、エンスウェル(腫れ止め金具/氷嚢よりも効果が高いらしい)という特殊な道具とか、とかく感心したものです。


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本書は他にも興味深い話が多く載ってます。 86年の本ですが、今の技術もこの延長線上にあるので目を惹く話もあるかと思います。
歴史的な話も多く載ってますので、読み物としても面白いんじゃ無いかな。 本質論やトレーナー、セコンドの話も載ってますし、むしろボクサーじゃない人にこそ面白いかも知れません。 興味のある方は是非ご一読。


という事で、ジョー小泉著「ボクシングは科学だ」でした。
ちなみに私は中学生の頃、親の仕事の関係で海外に行く事になったのですが、転校先の日本人学校には何故かボクシングクラブがあり、そこに籍を置きましたが、あれですね、ダッキングして突っ込んでくる相手にはついつい膝を入れてしまいそうになりますねw 今から考えれば馬鹿らしいんですが、ベルトラインより下に入られると下突きを打とうという考えに至らず、バックステップを繰り返したり膝を上げてしまったものです。
先生からは「左のジャブは速いが、右はパンチがあるけどダメだ」と言われましたね。 何かな―と思ったら、テレフォンパンチだったんですね。 確か神奈川のインターハイで上位に行ったとかって先生でしたけど。
後、マウスピースが共有でしてね、洗面器に水入れてそこに突っ込んでるのを使うんですが、それが嫌でマウスピースを外してスパーをしたんです。 そしたら大して打たれて無いのに、練習終わってコーラ飲んだらヒリヒリするなぁと。 で、吐き出してみたらチェリーコーク状態w こんな簡単に口の中は切れるんだなって実感した瞬間でした。
まぁ、私のボクシング経験なんかどうでも良いんですが、やっぱり昨今のボクシング団体の乱立振りとか、王者の細分化はどんどん権威を奪っている気がします。 これは極真も人の事は言えませんけどね…。
それにしても後楽園ホールはやっぱりイイですね。
それでは、また。


参考文献:
ボクシングは科学だ ジョー小泉著 ベースボール・マガジン社 1986年

http://blogs.masoyama.net/?eid=282#sequel

【レビュー?】ブルース・テグナー著"SAVATE : FRENCH FOOT FIGHTING"(1960年)



JUGEMテーマ:格闘技全般


さて、極真ジムシリーズはまだ国会図書館に行ってないので今日も別のネタをやります。
今回はですねぇ、サバットを扱ってみようかと思い、ブルース・テグナ―著"SAVATE : FRENCH FOOT FIGHTING"を紹介します。


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この人物、「空手バカ一代」に登場するブルース・オテナなる人物の元ネタでは? と目されている人物ですね。




ブルース・オテナ、多分スペルは"Bruce Otena"ですが、方々を探し回ったんですが極真会館への在籍確認も出来ず、同名の人物の実在すら見付けられませんでした。 似た名前だとベンジャミン(ブルース)・オルテガという方がアリゾナ州にいるんですけどねぇ。 梶原一騎先生の「四角いジャングル」でベニー・ユキーデがオテナと対戦していますが、その様な記録もありませんw
名前なんかはこちらのUS IDENTIFYってサイトで調べたりしてるんですけどねぇ。
やっぱり某海外古参支部長が作った話じゃないかなぁと。
あ、ちなみにテグナ―先生は出版当時、谷派糸東流の名誉五段で、免状によればアメリカで第1号みたいです。


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さておき、サバットー「空手バカ一代」で有名になったのはサファーデという名称でしたがーは、フランスの格闘技というのは知られているものの、日本国内ではマイナーな存在です。 よって日本では適当な資料があんまり無いんですよね。 それでテグナ―先生の本な訳ですが、この方もちゃんと伝統的なサバットを伝えているのか些か怪しいのですw


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と言うのはですね、アメリカでは実力はともかく、多くの本を出してとても有名な方ではあるんですが、あまりの多くの武術についての本を出版しており、色々混ざってるんじゃないかと訝しんでる訳です。 柔道、糸東流空手、柔術、合気道、太極拳、サバット他諸々の本を出しているという、何というか無節操さが気になりますw まるでアメリカの松田ry…げふんげふん。 伝統的なサバットを知りたい私としては実に悩ましいですね。
では、目次。

WHAT IS SAVATE?
SAVATE FIGHTING STANCE
BALANCE
FEINTING WITH FEET AND HANDS
ADVANCING AND RETREATING
SAVATE TRAINING AND CONDITIONING
Toe Pivots
Sit and Leg Stretch
One-Foot Balance
One & Two Leg Deep knee Bend
8-Count Coordination Exercise
Leaping Exercise
Leg Movements (In Preparation for Proper Kicking) - Sitting Leap
Jumping Rope - Leg Stretching Using Bar
Striking at Small Object With Hands & Feet
VULNERABLE AREAS of Body (for Striking)
STRIKING POINTS (Parts of Foot to use in Striking Opponent)


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VERTICAL KICKS
Forward With Toe: Stepping
Forward With Toe: Leaping
Kickng Methods: Forward, Circular
SIDE KICKS
Horizontal & Vertical Rear Kick: Toe
REAR AND SIDE KICKING METHODS (CIRCULAR, STAMPING, SLASHING, SWINGING)
STAMPS: Stepping, Leaping, Rear
FRONT LATERAL KICK (CHASSE CROINSE)
REAR LATERAL KICK (CHASSE)
PREPARATION FOR ATTACK: All High Kicks
SAVATE HIGH KICKS
Hands on Ground: Horizontal and Vertical
Facing Oppponent: Standing
Leaping, One Foot: Front and Side
Leaping, Two Feet: Front and Side
Leaping, One Knee, Both Knees


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BLOWS WITH FISTS

Straight, Stand Still
Straght, Leaping
Cross - Uppercut
1-2 Blow - Body Blows & Variation
Jab, Cross, Hook: To Chin and Body
Attacking Methods: Jab & Cross - Counter - Cross and Return Jab
BLOCK AND COUNTER: High and Low
ATTACKING METHODS: 1-2 to Body
ATTACKING METHODS: 1-2 to Body and Chin
ATTACKING METHODS: Uppercut, Punch, Kick
SAVATE DEFENSES AGAINST KICKING
Block, Dodge, Parry, Leap
Dodge & Counter Forward Kick
Parry Forward Kick
Circular Kicks: Block and Parry - Stamps
Knee - Toe


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SAVATE DEFENSES AGAINST FISTS
Block, Dodge, Parry, Leap
Straight Blow: Parry and Kick
Defense Against Fists: With Kicking Counters
DEFENSE AGAINST CLOSE - IN ATTACKS
DEFENSE AGAINST LONG - RANGE ATTACKS
DEFENSE AGAINST SURPRISE ATTACK
DEFENSE AGAINST TRAINED BOXER
DEFENSE AGAINST GENERAL FRONTAL ATTACK
DEFENSE AGAINST REAR CHOKE
CLUB DEFENSE: SIDE
CLUB DEFENSE: STRAIGHT
KNIFE DEFENSE: OVERHEAD
KNIFE DEFENSE: LOW
SAVATE SPORT MATCHES

1960年出版なので連続写真も少々判り辛く、ベーシックな技術書としては正直オススメ出来ませんね。 何せ技名も載ってませんし。 …日本の空手というのは、段階を経て基本技術学ぶという点において、最も優れた武術なんじゃないかと思い始めましたw

ここからは本書には載ってない話ですが、歴史について色々書いてみます。 公式サイトとは少々見解が異なりますが、これも1つの説だと思って下さいw
サバットは17世紀頃にマルセイユ地方を中心に始まった、上体を使わずに決められた枠の中で蹴り合うという競技だったと言われています。 サバットー"La savate"とは"古い靴"の事を指す事から分かる通り、履いている靴を当てに行くのが蹴りの特徴です。


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手元にあるアメリカの武道辞典によればこのサバットの源流は不明ではあるものの、マルセイユの水夫が航海中に行っていた、体調を保つ為のストレッチ蹴りが必須だった話を掲げています。 この水夫たちがフランスの港の路地や酒場で喧嘩に使い始め、これらが"ショソン"(スリッパの意)と呼ばれる様になったそうです。
で、公式サイトには書いていませんが、このショソンは彼のナポレオンの軍隊における非公式な制裁…尻を蹴り上げる行為を"La savate"と呼ぶ様になりました。 前述した武道辞典では"ブーツ"と訳すのがベストだろうと書いていますね。 1800年代初頭になるとこのショソンはパリ出身の兵士によって一般に知られる様になります。


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1824年、ミッシェル・カスーがパリにジムを開設、上流階級(王族を含む)に護身術としてサバットを紹介します。 このカスーが実質的な創始者だと言えるでしょう。 カスーはサバットの技術を体系付けます。 カスーは膝や脛への打撃を重要視し、手は開いて金的攻撃に備え、掌底突きを主としたとか。


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こうしてサバットがショソンの人口を超える様になり、元祖ショソンの修業者がカスーの道場破りを敢行する様になりますが、カスーは負ける事は無かったそうです。 しかしサバットとショソンの邂逅は、上段と中段の蹴りをサバットにもたらす事になりました。 このサバットは1830年にイタリアにサバットジムが出来ているので、かなり広がったと思っても差し支え無いでしょうね。

1832年、カスーの愛弟子シャルル・ルクールはロンドンでベアナックル・ボクシングを学んだ後、パリに戻って来ます。 ルクールはこのボクシングとサバットを融合させ、"La boxe Francaise"(フレンチ・ボクシング、以降もサバットと書きます)を完成させます。 また、ルクールはグローブも導入してより安全な練習方法を開発します。


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ベアナックル・ボクシングから手技を導入した結果、競技化も早くロンドン・プライズ・ルール(ベアナックル・ルール)を参考にした競技があちこちで開催され、1850年になるとルイス・ヴィニュゾンー通称"カノン・マン"(カノン砲を肩に背負ってリングに上がっていたそうです)が最初のメジャーなチャンピオンとして君臨します。


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ルイス・ヴィニュゾン


ヴィニュゾンの弟子、ジョセフ・シャルルモン(英語読みの名前しか分からなかったです)が1862年にヨーロッパ各地を来訪し様々な格闘技と対戦、無敗で帰国すると各地で学んだ闘技をサバットに取り入れます。 フェンシングの理論やフットワーク、レスリングの技術と更なる手技や蹴り技の向上…特に上段への蹴り技の有効性を存分に証明したのがこのシャルルモンだそうです。 彼が取り入れた技術の中にはフェンシングの技法を使った杖術(既に帯刀は違法でした)もあり、80秒に140回の突きを出すほどの実力を誇ったとか。 杖の間合いから組み技の間合いまで4つに分類したのも氏の功績です。
この後、サバットの選手はボクサーといくつもの対戦記録を残しており、ジョン・サリバンと闘ったという話もありますね。 手元にある新聞だと、キッド・マッコイと対戦した記録が残ってます。 また、これはボクサーとしてですが、ジャック・デンプシーと闘ったフランス人ボクサー、ジョージス・カーペンティアもサバット出身です。


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キッド・マッコイとサバットの対戦


こうして隆盛を極めたサバットですが、1930年頃からの国際式ボクシングの流行、そして2つの大戦がサバットを滅亡の危機に押しやります。 しかし戦後フランス在住の柔道家がフランス柔道協会下にサバットを保護し、1960年代半ば頃から次第にサバット復興の気運が盛り上がります。 1975年になって柔道協会から独立。 現在では国際連盟も誕生し、世界各地で活動中です。

ぶっちゃけ本書はあんまりオススメしませんw もっとより良いサバット本があればまたいずれ紹介したいなーと思います。


という事で、ブルース・テグナ―著"SAVATE : FRENCH FOOT FIGHTING"でし、た? 何かメインが本書じゃなかったですねw
で、ずらーっとサバット史を詳細に書いてみたんですけど、ジャパン・サバット・クラブの見解とは少々違います。 ベースは参考文献にありますが、武道辞典"The Original Martial Arts Encyclopedia"と"Black belt"誌です。 最近だと参考文献にある「フルコンタクトKARATE」にサバットの技術が多数載ってますが、歴史的な部分があんまり無いのが残念。 でも技名とかフランス語で載ってるのが嬉しいですね。 フランス語読めないから、今回書いた読み方も間違ってたりするかもですw
洋行帰りの柔道家や留学生から話は行っていたんでしょうけど、サバット自体は割と昔から日本で知られてたみたいなんですよね。 多分日本初登場は1969年3月に日本テレビと協同ジムが開催した、キックボクシングの「世界戦シリーズ」だと思います。 日本、タイ、フランスの3国でキックの試合をやったんですよね。


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その時に来たのがクロード・シモノとクリスチャン・ギョームというサバットのチャンピオンだそうです。 その後女子選手なんかも呼んでます。
そして、サバット尻蹴飛ばし伝説。 記事に書いた通り、間違いでは無い様ですw
ただ、「空手バカ一代」ではサファーデと呼んでますが、元ネタとなる「世界ケンカ旅行」ではサバットと書いてあるんですよね。


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わざわざフランス語読みに替えたのでしょうか。 後不思議なのは、「空手バカ一代」では

・・・・当てるポイントは 足刀・かかとなどでなく ほとんどが すねを主武器にたたきこんでくる

とありますが、「世界ケンカ旅行」にはそんな記述はありませんw 現実のサバットには「蹴りは必ず靴で当てなければならない」というルールがあり、全然別の格闘技の事を書いている様です。 …実はこのネタをあんまり進んでない元ネタシリーズの方で扱おうと思ってたんですが、先に整理の為にこっちで扱う事にしました。

今回はここまで。 それでは、また。

※年号が間違っていた箇所を修正しました。(2013/09/01)

参考文献:
Washington Post, 4/30/1916
BLACK BELT March 1967, BLACK BELT INC., 1967
Bruce Tegner, KARATE THE OPEN HAND AND FOOT FIGHTING, Thor Publishing co., 1959
Bruce Tegner, SAVATE : FRENCH FOOT FIGHTING, Thor publishing co., 1960
John Corcran, Emil Farkas, Stuart Sobel, The Original Martial Arts Encyclopedia, Pro-Action Publishing, 1993
ファイト 1969年4/15、5/15 新大阪新聞社 1969年
格闘技通信 第14号 ベースボール・マガジン社 1987年
格闘技通信 第15号 ベースボール・マガジン社 1987年
月刊フルコンタクトKARATE 2010年9月号 福昌堂 2010年
世界ケンカ旅行 大山倍達著 河出書房 1968年
ジュニア入門百科 キックボクシング 宇津球道著 ひばり書房1969年
KCコミックス 空手バカ一代 第9巻 原作:梶原一騎 漫画:つのだじろう 講談社 1974年

http://blogs.masoyama.net/?eid=252#sequel

【レビュー?】松田隆智著「謎の拳法を求めて」(1975年)



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えー今回は当ブログ初かな、中国拳法ネタです。 「先に太氣拳やれ!」とか言われそうですが、この方の本、「謎の拳法を求めて」(1975年)を紹介します。 新版、改訂新版というのもあるみたいですが、手元にあるのは旧版のみです。


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著者はウチでも「近代カラテ」の記事で何度か登場してますね、松田隆智先生です。 かつて「週刊少年サンデー」で連載していた「拳児」の原作者であり、それ以前に連載していた「男組」では中国拳法の知識を提供しています。 武道界での功績はとりあえず置いておきますが、サブカル/漫画界には多大な影響を及ぼしているんじゃないかなぁ。




松田先生が紹介した中国拳法、八極拳の外門頂肘(頂心肘?)とか沖捶らしきものは拳法と全く無関係な漫画でも見掛ける事ありますし、近作だと「鋼の錬金術師」で主人公が使っていた肘技は八極拳のものでしたね。


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3Dポリゴン格闘ゲームに登場する中国拳法は正に松田先生の影響下にあり、セガの「バーチャファイター」シリーズで登場する中国拳法には燕青拳や八極拳(心意把の技も)、蟷螂拳がありますし(余談だが私はサラ使いで、コンボ池サラを良く使ってましたw)、コーエーテクモゲームスの「デッド・オア・アライブ」シリーズでは心意六合拳や陳氏太極拳(技の中には八卦掌もある)、バンダイナムコゲームスの「鉄拳」シリーズでは流名はあれですが、登場する技術に八極拳や心意六合拳の技がありましたね。
まぁ、色々影響を与えているのだという事をご理解頂ければ幸いです。 それではまず目次。


第一章 評論篇
道は理想でなく今必要なもの
武道修業は精神修養になるか
師と徒
三年かかって良師を探せ
白紙でなければ絵はかけぬ
西洋武術と東洋武術
理論武術と実戦武術
幹と枝葉
武道と禅

第二章 空手編
空手時代
空手源流考
功夫ブームと空手ブーム
ブルース・リーの虚像と実像
試合は武術を骨抜きにする

第三章 古武道編
古武道時代
必殺剣法・示現流
日本伝統の拳法
柳生心眼流
諸賞流
神秘の大東流合気柔術

第四章 中国拳法編
謎の拳法を求めて
日本における中国武術観
中国の破門
太極拳について
超能力と武術
当て身の原理
拳法の魂ー勁
中国の忍術
剣と刀
ケンカ・真剣勝負・他流試合
ボクシングと拳法
自分の歩いた中国拳法の門派
質実剛健の形意拳
迅速果敢の蟷螂拳
一撃必殺の八極拳
千変万化の八卦掌
日本武術と中国武術の交流
急所・つぼ・三年殺し
毒手・毒薬・かくし武器
猛練習とシゴキ
秘伝とは何か
完成への道

あとがきにかえて


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「拳児」


劇画「拳児」を読まれた方なら、目次を見ただけで色々思う所があるかと思いますが、主人公の拳児の道程は、松田隆智先生の体験談をベースにしており、指導格のキャラクターはほぼ全員実在の人物で、名前も似せていますし、顔も良く似ています。 「拳児」の原作と言っても過言じゃないかも知れませんねぇ。
例えば空手家の高山双八は金澤弘和、八極拳の張仁忠は張世忠、劉月侠は劉雲樵、蘇崑崙は蘇焜明(後に昱彰と改名)といった風に、見る人が見ればニヤリとするかも知れません。


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劉雲樵


後に中国拳法を誤解させたとか、八極拳最強伝説など、批判を浴びる事もありますが、佐藤金兵衛先生、笠尾恭二先生と並んで日本に中国拳法を広く紹介した立役者である事は間違い無いでしょう。 まぁ、最大の貢献者はブルース・リーを始めとした香港映画だとは思いますが。


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さておき、本書では実に時代的なんですが、中国拳法や古武術には念力/超能力を開発する事が出来る様な事も書いてますねぇ。 ちょうど出版の前年にユリ・ゲラーが来日しており、つのだじろう先生が自身の漫画で超能力を紹介していた時期ですので、達人の武勇伝や感覚的な技術を超能力に求めたとしても不思議じゃないでしょう。 今では笑って否定される方も多いでしょうが、ロマンがありましたよね。 この辺は西野流呼吸法ぐらいまでがピークかな。
そしてこれが一番有名でしょうね、発勁の話。 まずは前段階として人間の体はその大半が水で構成されていると位置付け、衝撃の与え方によっては人体内に波紋を起こさせ、内部から破壊するという北派中国拳法の発想を紹介してます。 今風に解釈すれば浸透力の高い打撃でしょうか。


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で、勁。 松田先生はこう説明してます。

…勁の語は、「能力」を意味する場合と、「圧縮された力」を意味する場合があり、前者の場合には「化勁(相手の力を消す」「聴勁(相手の動きを察知する)「粘勁(相手にくっついてしまう)」など多くの種類があり、後者には「発勁」といって、自分の発揮できる最大限の威力を、爆発させる方法をいう。
この発勁の場合の"勁"は、よく"力"と混同されやすいが、両者はまったく別の性質のものであり、「力」は人間の生理作用によって生まれる筋力であり、その性質は滞おり(力む)、散じやすく浮いている。
これに対して「勁」は力を瞬間的に統一することによって生まれ、その性質は活発で、沈んでいて、鋭い。
この性質は鉄にたとえた場合、「力」は精煉される前の"鉄鉱"であり、「勁」は精煉された"鋼鉄"である。
具体的に説明すると、たとえば両手でタオルを強く引きちぎる場合、両手でタオルを強く引っ張って「ビリビリ」とちぎるのは「力」であり、一瞬の間に「プツッ」とちぎるのは「勁」である。
または"走り高飛び"の競技で、助走している間にはたらくのは「力」であり、いざ跳び上がる時に地を踏み切るためにはたらくのが「勁」である。
この発勁を成功させるためには、動作と呼吸を一瞬間のうちに一致させることが必要で、それぞれ発勁にかなった呼吸法と動作を、正しく行なわなければならない。

後段をざくっとカットしましたが、まぁ、平たく言うと瞬発力を伴う力、かな。 尤も、これは松田先生が学んだ発勁の話なので一般的にどうかは知りません。 やった事無いですしw 呼吸法ってのは多分逆腹式でしょうけど。
ここを読んだ感じだけだと、そんなに摩訶不思議な超能力的な何かじゃあ無いんですけど、気を集めるとか凝縮させるとかって言葉がかなりの誤解を生んだ様に思いますね。 最終的に「ドラゴンボール」のかめはめ破まで行き着いてしまいましたがw

んで、当ブログ的にはここに触れねばなりませんね。 大山倍達総裁との関係です。 松田先生は高校生の頃に大山総裁の家に居候して、大山総裁や浅草の剛柔会で空手修業も行っており、結構可愛がられたそうです。 この時に太氣拳の澤井健一先生や大東流の吉田幸太郎先生を紹介され、大山総裁から頂いた本で日本の武術を知ったりと、図らずも後の松田先生の世界を開いてます。 ちなみに松田先生は今でも有段者名簿に本名の松田鉦で載ってますね。
以前紹介した「近代カラテ」では1967年の時点でこう書かれています。

略歴、
昭和12年6月6日生れ29才、
愛知県岡崎市生れ、
岡崎北高校出身
各種の職業を経験したが、武道に専心するために、現在、無職、
大山師範に目白時代に師持した。 17才当時。
各種の武術に打ちこみ、目下、中国拳法殊に内家の拳法について研究中である。

時期はちょうど佐藤金兵衛先生に学んで居た頃でしょうかね。 更に遡ると、松田先生は1956年の「月刊空手道」(空手時報社)で学生空手修業者を集めた座談会「十代の意見」に登場していたりしますw ついでに同号に松田先生の投稿もあります。 手紙を投稿した後に上京し、座談会に出たとの事。 ちなみにこんな投稿でした。


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奥が座談会時の松田隆智


☆月刊空手道に対する希望。
一、対談者
①山田辰雄先生、藤田西湖先生。
一、写真
①牛と闘っている大山先生。 ②自由組手のスナップ(各師範と各大学幹部)
一、道場拝見。 日本拳法研究会
一、 その他。
宮城長順先生松村宗秀先生の鍛練法を詳しくお知らせ下さい。
以上ですが、今度愛知県(主として名古屋市内)の松濤館流の学校で学生連盟を作る事になりました。 理由は、今迄名古屋空手クラブとして行って来た訳ですが、クラブの師範の方が暇がないので、これから(九月一日)学生ばかりで連盟を作り、師範無しで練習することになりました。
僕はこの事について非常に残念に思います。
ー中略ー悪いくせ気がつかない内に出来てしまう様で大変困っていますー後略ー

ちなみに手紙にある山田先生や藤田先生にもお会いしたそうです。 どちらも大山総裁が知ってらっしゃる方ですので、居候した場所が非常に良かったんでしょうw で、多分松田先生が研究家としてのスタートは極真の機関誌「近代カラテ」(1967年)なんですよね。 最初のレポートにはこう書かれています。


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1967年時の研究(PC向け拡大版)

岡崎市に住う、大山師範目白時代の弟子、松田鉦氏より、珍しい貴重な、研究レポートが届きました。
「中国拳法」について、実地にやって見るかたわら、多くの資料探索の旅などを行なって集めたもので、日本での研究の資料不足の中で、良くその労を惜しまず、現在も尚、研究中であります。
この度この内のごく、取っかかりの事として、レポートされたものを送られて来ました。 これからも尚、一層の研究の中で、不備な点、不明な点があばかれて行く事でしょう。

こうして諸流を研究する内に台湾に辿り着き、そこから大陸へと赴き、数々の拳法を紹介した氏の功績は、決して色褪せる事は無いでしょうね。


という事で、松田隆智著「謎の拳法を求めて」、でした。
現在の松田先生は「最高の突き」を求めて日々鍛練中だそうです。 最近も本を書かれていますが、まだ読んで無いのでその詳しい事は知りません。 ただ「月刊秘伝」の特集記事は読みましたけどね。 「リアル拳児の現在」って記事。 結構面白かったです。


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「拳児」は好きな漫画ではあるのですが、最後の闘いから最終話に不満がありますw 後、後半の戦闘で主人公が相手の技名を言うシーンが何度かあるんですが、その辺に緊迫感の欠片も無いのがちと残念ですね。
それでは、また。

…アレ? 何か今回は本編よりも寄り道が多かった気が…w


参考文献:
月刊空手道 1956年10月号 空手時報社 1956年
近代カラテ 1967年6月号 近代カラテ研究所 1967年
近代カラテ 1967年7月号 近代カラテ研究所 1967年
週刊少年サンデー 1974年40号 小学館 1974年
月刊秘伝 2005年12月号 BABジャパン 2005年
謎の拳法を求めて 松田隆智著 東京新聞出版局 1975年
八極拳 劉雲樵著 大柳勝訳 新星出版社 1985年
拳児 第3巻 原作:松田隆智 画:藤原芳秀 小学館 1988年
拳児 第12巻 原作:松田隆智 画:藤原芳秀 小学館 1990年

http://blogs.masoyama.net/?eid=240#sequel

【レビュー】「空手道 保存版」(1977年)



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さて、今回は「月刊空手道」で和道流の大塚博紀先生の生誕120周年という事で特集をされているので、こちらでも大塚先生が登場している本を紹介してみようかなぁ、と。
全日本空手道連盟が国際空手道連盟を無視したり意識してみたりしていた1977年に発行した「空手道 保存版」という本ですね。 この年には同じ創造という出版社から「空手道名鑑」を発行する等、組織として充実しつつある時期だと思います。 ちなみに翌年には福昌堂版の「月刊空手道」が創刊されてますね。



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それでは、まず目次から。

・カラーグラビア 試割
・グラビア 空手道のあゆみ
・巻頭言 "新しい歴史を創る"
・空手道の歴史とWAKOの展望
(江里口栄一・金城裕・金子治司・富木謙治・藤原稜三)
・明正塾前夜 和道会、最高師範 大塚博紀
・琉球唐手術の先達者 神道自然流、最高師範 小西康裕
・父・摩文仁賢和を語る 糸東流、最高師範 摩文仁賢栄
・沖縄空手家の素顔 錬武会、最高師範 玉得博康
・グラビア 第一回世界空手道選手権大会他
・格闘技の歴史
(江里口栄一・富木謙治・中村信二・今村嘉雄・藤原稜三)
・全日本の覇者・浜口淳一郎の素顔
・北支戦々に咲いた唐手 空手道七段 西園隆俊
・空手の"空"は"無" 糸洲流、師範 儀間真謹
・学連の優勝校・拓殖大学
・第三回世界空手道選手権大会他


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・自衛隊を制覇した富士学校
・大学OB青春時代を語る
(渡部俊夫・髙木房次郎・堀口健一・伊藤公夫・杉山晏・石塚彰・藤原稜三)
・東大・草創期の想い出 新潟大学名誉教授 松田勝一
・船越先生と私 (財)全空連、常任相談役 大竹一蔵
・アメリカの空手道 アメリカ松濤館・師範 大島劼
・空手道が結ぶ人類の平和 フィリピン協会長 ダンテ・ナガタロン
・日本精神と空手道 マダカスカル協会長 クロード・ジョゼ
・アメリカ空手道の発展史 アメリカ空手協会会長 ケーラー・アトキンス
・女姿三四郎・山口和歌子の素顔
・国際指導員が語る世界の空手道
(金沢弘和・東恩納盛男・藤井久臣・塩満公文・荒川通)
・空手道試合の使用技の分析 田辺英夫・田中鎮雄
・形の名称 藤原稜三
・沖縄空手道の系譜 編集委員会
・四大流派の基本形(和道流・剛柔流・糸東流・松濤館流)
・全日本学生空手道連盟主要加盟校一覧
・宮城長順先生の理念を追求…
・全身反応時間と空手道の技術 道原伸司
・ギャング・エイジのチビッ子空手家
・(財)全日本空手道連盟公認指導員 講習用テキスト (財)全日本空手道連盟提供
・財団法人 全日本空手道連盟 制定 試合規定・審判規定 三本勝負
・酒蔵道場から卋界の夢を馳せて…
・空手のある風景 金子治司
・参考文献
・近代空手道関係年譜
・全国空手道総覧
・全日本学生空手連盟名簿
・全国各主要道場一覧
・財団法人 全日本空手道連盟・都道府県連盟名簿
・財団法人 全日本空手道連盟役員一覧
・執筆者略歴紹介


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興味深い記事は多々あるのですが、特に対談が面白いですね。 日本合気道協会の富木謙治先生が対談に参加されているのですが、富木先生は冨名腰義珍先生が講道館で披露した本土初演武を実際に見てらっしゃいますし、貴重な話が多数登場します。 でも当時の演武はそれほど印象に残らなかった様です。 そして以前コメント欄に書きましたが、徳三宝先生の話が登場します。

藤原 講道館で船越さんの演武を見た徳さんが、唐手術なにするものぞということで他流試合を申し込んだところ、船越さんが、いやそれはできないと断ると奮然として夜中に叩き起してまで迫ったというのです。 そこで船越さんも弱り果てて嘉納師範にこういう申し入れを受けて迷惑している、唐手とはそういうことのためにやるものではないと苦情を訴えたというのです。 嘉納師範が驚いて師範代の人に言いつけて二度とそういうことを言ってはならぬと強く叱りつけたという話です。
徳三宝さんは、中学時代以後は東京で暮らしておりましたけれど、もともとは奄美大島の出身でしょう。 だから唐手術をいくらか知っていたのではないでしょうか。

富木 奄美大島地方に唐手術が伝わっていたという記録はないでしょう。 徳さんが唐手術を知っていたということは考えられませんねぇ。 ただあの人若い頃は大変な暴れ者で二度も嘉納師範に破門を言い渡されておりますけれど、大正六年に破門を許されてからは相当おだやかになったのです。 その後早稲田にも見えるようになり、笠原君やレスリング協会長の八田一郎君は徳さんにきたえられた学生なんです。 しかしそういえば、あれは大正十年の二月頃だったと思うけれど、ボクシングのライトヘビイ級のチャンピオンだったアド・サンテルに挑戦したことがあったなあ。 そうするとあまり温和になったとはいえないかもしれんねえ。(笑) あの挑戦事件も嘉納師範の反対で中止になりましたものね。 しかし、その話は誰方から聞いたのですか。


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話題は歴史から武道論、試合論と多岐に亘りますが、全空連のルール問題とその改良(現行のノータッチからタッチへの進化等)、そして富木先生の合気道競技化の話は面白いですね。 如何にして武道の形を維持して競技化するというのは皆さん苦労されている様です。 そしてちらりと飛び出す極真批判w

江里口 外国人には当ててかつ体勢がくずれないということが、武道の基本であるということが、なかなかのみ込めないんです。

富木 たとえば、昔、ゴムのない時代には木刀をもって師匠の前で弟子同志が試合をやる訳でしょう。
お互いに打った心算りで直前でとめる。
これを傍で師匠が見ていて、よし「一本」と判定する。 ところがこれは一般化はできません。
当てなければ素人は判らん訳ですから。 しかし当てるとなると、こんどはむちゃくちゃな結果になる。
そこのところをどうやるか、結局形を正しく修練し、その練度を評価する段階が必要であると共に、皮を切らして肉を切るという体当たり的な技の部分は、竹刀なら竹刀で試合でもむことも必要だと思います。 この両面を日本の武道の特色にしたいと思うんです。 私、剣道にもそれを言っている。
ただ、試合オンリーになるとこのルールなら当てりゃいいだろうということになって、訳の判らない奴が迫力でくるんだから、やっぱりちゃんとした日本の武道らしい基本、足の運び、姿勢、そういうものをちゃんとやるためには、形の部分はなんらかの方法で残さなきゃいかんと思いますね。

江里口 幸いにも、私が関係している全日本空手道連盟は、先生が指摘されたように「形」と「組み手試合」の二本建てで採点しておりますが、全く違った解釈をしているのもいるんです。
たとえば、大山培達(※原文ママ)さんが率いている極真会空手は、組み手試合と並行して板を割ったり、カワラを割ったりして何枚割れなければ次の組み手のランクに移れないというような方式をとっている。 カワラを割ったり、板を割るということは、筋力の鍛練或いは力試の一方法です。 それを逆に形に入れ替えているのです。

この辺りは武に対する考え方の違いですよね。 「崩れても出た技が有効なら技である」というのも1つの考え方ですしね。 ちなみに1976年の極真のルールでは規定枚数の4枚を割らないと次の試合に臨めないという事になっています。 で、形に関しては競技化はしないと言っているので、この辺りも思想の違いでしょうね。


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70年に発足した国際組織WUKO(世界空手道連合=WKFの前身)の創立以来の目標であるオリンピック参加を目指すという話も少し出てますが、江里口先生は大山総裁と同じく、何が何でも一本化しなければならない、とは考えていない様です。

大塚博紀先生のインタビュー。 船越義珍先生を最初期からご存じの大塚先生の話は貴重です。 例えば本部朝基先生の話。

ただ日本語があまり上手ではなかったですね。 しかし、人柄は実にいいですし、頭も非常にきれる人でした。 実力という点では抜群です。 ボクシングのピストン堀口をを相手にして、自由に遠慮なくうちこんで来いと言いましたが、堀口君の拳は本部さんに全部さばかれて一拳もあたらなかったのです。 堀口君は小西康裕君の道場で剣道の練習もしておりました。 ともかく本部さんは文句なく強い人という印象です。 それに本部さんは沖縄の大名出身ですから汪洋でしたね。 船越さんをいじめたという人もおりますが、そんな小さな人柄ではありませんよ。 度量は大きいです。

そして個人的に非常に興味のある小西康裕先生ですね。 先の大塚先生の話と相反する所がありますので、載っけてみます。 小西先生によれば、自由組手の導入を主張された大塚先生と、それを拒否した船越先生の間で仲が難しくなったとの事。

船越さんと本部さんは大変仲が悪くて、船越さんが『本部は無教育だから何をするか判らぬので困る。 あれはまるで猿だ』と酷評すれば、本部さんの方は『船越の唐手は偽物だ、あれは蛇見線引にすぎぬ』と冷笑する有様であった。
私は、本部さんから、本部さんが船越さんに決闘を挑み、足払いで船越さんを倒して、強拳を顔面に突きだして降参させたという話を聞いたことがあるが、実際に見たわけではないので真偽のほどは保証できない。 しかし、これらの内紛問題は、『唐手宗家の争い』として、当時の大新聞である、東京日日、報知、都の各紙に大々的に報道されているから知っている人は案外多いと思う。


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後、面白かったのが大学OBの対談。 船越先生の話が色々載っています。 少々長いですがこんな感じ。

渡部 これは、先輩の野口さんや江上さんに聞いた話だけれど、船越さんが宿舎の下を通っている時、二階から放尿した奴がいて、それが船越さんの頭にかかった。 それを見た弟子達が怒って、なぐろうとしたところ、船越さんが怒ってはいけません。 洗えばいいのですとさとしたというのです。
それでさすがの江上さんも黙ってしまった。 船越さんという人はそういう人柄なんです。 私は理屈なしにそういう人柄が好きなんですよ。

髙木 今日は放談ということだから少し自由な気持で話すけれど、船越さんと箱根へ行ったことがある。 小幡さんも一緒だった。 その夜は飲んで寝ることになった。 私が船越さんに生意気にも『空手とは何だ』と訊いたところ、船越さんは『髙木君、その外は何だ』というから『観水楼ですよ』と答えた。 すると『そこは何だか知っているか』 『知りません』 『川だよ、下りられるか』 『さあどうでしょう』 『そういうことを事前に見ておくのが空手なんだよ』 と言ったまま寝込んでしまった。 ところが、そのあとが問題なんだ。 夜中に女中が来てじいさんが女中部屋に入ってきて動かないというんだ。 ともかく仕末して夜が明けると、その女中に顔をあたらせながら、おお痛いなどと大仰な声をだしてたわむれている。(笑)

渡部 その方は絶倫だった。 そして若さを誇る気配があったね。

藤原 私の方は戦前通った遊廓の名前まで調べたけれど、相当なものでああったことは確かです。 頻度数の高いのは新宿三光町だ。(笑)

渡部 湯島あたりでも遊んでいた。 私は湯島の待合へ行って、そこで船越さんの名前を聞いてびっくりしたことがある。 こんなところで会ったらえらいことになると思って、早々に退散した経験があるんだ。

髙木 何んでも女を買いにいって、ていねいにおじぎをするというんだ。 どうもありがとうございますといってね。(笑)

渡部 実際、稚気に富んでいたね。

髙木 あのじいさん、本当に愛すべきところがあったなあ。

伊藤 船越さんは嘉納治五郎師範を尊敬していたね。 その頃、私の学校は水道橋でしょ。 稽古が終ると船越さんを送っていかなければいけない。 それでタクシーに乗せて講道館の角までくると、必ず脱帽して深く頭を下げるんだ。

渡部 嘉納師範に対する態度は実に立派だった。 もっとも嘉納先生が偉大ですからね。

伊藤 省線や市電に乗っていても、講堂館(※原文ママ)の前を通るときは同じでしたよ。 あの頃は宮城や靖国神社に礼をする人はいない。 船越さんは私達に、講道館に礼をするのは、嘉納治五郎先生の魂がここにあるからだと説明しましたね。


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あんま長いとあれなんで、最後に大山総裁の先輩である大竹一蔵先生の話で終えましょう。 空手とボクシングを研究して、怒られたという話が出て来ます。

富名腰先生が怒って、私達を破門すると申されているというのだ。 私は仰天して直ちに先生の許に参上した所、先生は静かに申されるのであった。
「君等が形や約束組手の稽古に、疑問や不安や不満をもつ気持が判らない事はない。 然し、実際には、それは未だ修業の足りないことからきているのだ。 本来武道としての空手は、生命をかけた真剣勝負以外に試合はないものだ。 ボクシングは、凡ての危険な手を封じることによって安全なスポーツとして近代化されたものだ。 従って、裏拳にしても、肘打ちにしても、武道として有効な手は皆危険だから反則にしている。 どんな防具をつけても、マッチとして空手をやることは邪道だ」と。 然し間をおいて又申された。
「拳闘にも配眼や足捌き等に学ぶ事もあるかも知れない。 その意味で、君が望むなら許すから、拳闘は拳闘としてこれを習い、空手は空手として、従来通り修業することを奨めたい」と。 私は目が覚めて開けた思いに打たれた。 そして、物の判った有難いお訓しに感激した。

大竹先生が大山総裁と親しかったのは、こういうボクシングの背景がある様に思いますねぇ。 晩年まで交流があった様ですし。


という事で、「空手道 保存版」でした。 近代空手史に興味のある人にとっては面白い本だと思いますが、基本的には船越義珍よりの空手史となります。 東京を中心として語る以上は致し方ありませんけどね。 関西中心で同じ様な本を作ればまた違った内容になるでしょう。 そういうのも見たいですけどw
かなりボリュームの多い本ですから、今回転載した箇所も極一部だったりします。 興味のある方には是非手に取って読んで頂きたいものです。
しかし、世界大会では街頭パレードをやり、皇族を招聘したりと、笹川良一氏は政治力あるなぁ…。

ちなみに、全空連と国空連は成立時期からしてライバル関係にあります。 全空連が今の全空連となったのは1964年(財団法人申請は67年、認可は69年)。 国空連も同じ年ですね。 そして第1回全日本空手道選手権大会は69年、これまた極真の全日本と同じ年です。
それでは、また。

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【レビュー】丸島隆雄著「講道館柔道対プロレス初対決 -大正十年・サンテル事件-」(2006年)



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さて、今回は2006年に出版された丸島隆雄著「講道館柔道対プロレス初対決 -大正十年・サンテル事件-」を紹介します。

有名な話ですので、ご存じの方も多いでしょうが、これは1921年、アメリカのレスラー2名が来日し、講道館の柔道家に試合を申し込み、一部の柔道家が試合を受け闘った、というお話です。



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表題のサンテルとはアド・サンテル、かつてプロレス世界ライトヘビー級王者として名を馳せたアメリカのトップレスラーで、かのルー・テーズに関節技を仕込んだレスラーの1人として有名でもあります。 また、テーズの代名詞であったバックドロップを沖識名と共にアドバイスを与えて完成に導くという貢献も果たしていますね。 多くの柔道家、柔術家とリングで対戦した経験を持っており、後述しますが対柔道、柔術のエキスパートであったと思って戴いても差し支え無いかと思います。


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そんなサンテルが日本にまで乗り込んで講道館柔道に対して闘いを挑む…この事件の始まりからその後、そして事件の真相にまで鋭く切り込んだのが本作となります。
では、まずは目次。

はじめに
第一章 サンテル、講道館に挑戦す
第二章 講道館柔道と嘉納治五郎
第三章 柔道の海外発展
第四章 プロレスの隆盛とサンテル
第五章 サンテル対日本柔道
第六章 サンテルの挑戦に対して
第七章 決戦前夜
第八章 日米国際試合
第九章 闘いのあと
第十章 「サンテル事件」の破門
終 章
あとがき


アド・サンテルは「鉄人ルー・テーズ自伝」で多大な賛辞を得ており、テーズ自身はこう説明しています。

アド・サンテル……ジョージ・トラゴスと並び、1910年代から1920年代のライト・ヘビー級で無敵を誇った伝説的な強豪だ。 関節技の技術にかけては、多分トラゴスと互角、いやそれ以上の評価を得ていた男である。

サンテルはかのサイエンティフィック・レスラー、ジョージ・ボスナーの元で修業した経験を持ちその経歴を持って講道館五段で、当時渡米して柔道指導をしていた伊藤徳五郎と1916年に対戦、3度対戦し1勝1敗1分の記録を残し、イギリスやアメリカで活躍した三宅太郎とも対戦し勝利と、1921年に日本に乗り込むまで充分な実績を積んでいました。


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三宅太郎


通説ではサンテルが日本に来て講道館に挑戦状を叩き付けた、という事になっていますが、本書によれば対戦相手こそ決まっていなかったものの、対戦その自体は講道館側も事前承諾していたのでは無いか、という提示がなされています。 例えば当時の報道でサンテル来日時に講道館四天王の1人として有名な山下義韶ー本エピソードの15年ほど前にアメリカでセオドア・ルーズベルト大統領やアナポリスの海軍学校での指導経験があるーを始めとして複数の有段者が出迎えていたと言う様な事実を紹介しています。 他にも講道館の藤村二段が当時の新聞でこう語っている様ですね。

…「両選手と試合する日本の柔道家は、廿八日に講道館有段者廿名の中から人選し、尚お試合規則は講道館長嘉納治五郎氏山下講道館八段三崎彌彦氏其他の幹部が協議の上で全部決定する筈であるが、サンテル君には講道館の四段及び五段、ウェバー君には二段と三段とか顔合せることになるだろう。 尚お、今度の試合は国際的競技だから互に真剣に勝負を争うのは勿論で、日本柔道かは何れも猛烈な稽古をして居る」


「これは私のめざした柔道ではない」

と、講道館の柔道を見て呟いたという晩年の嘉納治五郎が、自身が創始した筈の柔道を見て否定したという、そんな葛藤の片鱗が本書でも現れています。 結局サンテル事件において、講道館はサンテルの挑戦を無視し、試合には関与しない事を明言し、同試合に出場した柔道家は以後、有段者として待遇しないという決定を下しています。 つまり段位剥奪ですね。 選手関係者合わせて7名に処分が下された様です。
しかし嘉納治五郎自身は本来、

『レッスリングと柔道の試合は講道館としては許さぬが館員が無断で出演しても大目に見る』

と黙認の立場を取っており、本来段位剥奪という強硬な処置に出るつもりは無かった、そこに講道館内部での軋轢が描かれて行きます。 ここで下された裁定は後々まで講道館に受け継がれ、柔道家がプロに参戦する際の判例になっているのかも知れませんね。 とは言え、この段位剥奪は1923年2月頃に解かれた様ですが。

さて、本書ではクライマックスとなるアド・サンテルとヘンリー・ウェーバーVS日本柔道勢ですが、日本からは児島光太郎門下の増田宗太郎、清水一、永田礼次郎、そして庄司彦男の4名。 1921年3月5日と6日の2日間、靖国神社の相撲場で行われました。
3本勝負の結果は以下の通り。
初日
ウェーバー VS増田(引分)
サンテルVS永田(無効)
2日
ウェーバーVS清水(勝:清水)
サンテルVS庄司(引分)


サンテル事件米新聞.jpg


海外での報道


結果だけ見ると日本勢はその威信を守り通したと言えますが、当時の識者たちの手記を見ると日本勢の不利は如何ともし難く…と言う意見が多かった様です。 特に日本ボクシング界の父、渡辺勇次郎は2日目のサンテル庄司戦を審判した上で、柔道というか日本の封建的な姿勢に対し、酷評をしています。
本書では更にルール問題、プロアマ問題を論ずる当時の意見を採り上げており、この辺りは勉強になります。 特に大村一蔵の意見は面白かったですね、興行を通じて柔道家の経済的自立を促すという内容でした。

つまり本書はサンテル事件を通じて柔道の在り方を問い質しているといえるんじゃないでしょうか。


という事で今回は丸島隆雄著「講道館柔道対プロレス初対決 -大正十年・サンテル事件-」でした。
このエピソード自体は既に小島貞二先生の本で知っていた訳ですが、ここまで詳細に書かれると圧巻ですね。 あとがきによれば丸島氏もまた、小島先生の「力道山以前の力道山たち」からこの話を知ったという事ですから、勝手に共感を憶えてしまいますw
事件のみならず、武道の在り方、プロアマ問題と多岐に亘って書かれてありますので、参考になるかと思います。 写真が一切出て来ない、というのが本書の最大の欠点かと思いますが、それを差し引いても面白かったですね。
それでは、また。


参考文献:
Mansfield News, 11/22,1909
The Lowell Sun, 12/2,1914
Ogden Standard-Examiner, 4/7,12/4,1921
力道山以前の力道山たち 小島貞二著 三一書房 1983年
講道館柔道対プロレス初対決 ー大正十年・サンテル事件ー 丸島隆雄著 島津書房 2006年

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【レビュー】小沼保編著「本部朝基と山田辰雄研究」(1994年)



JUGEMテーマ:空手


さて今回は私がTwitterで呟いた事からリクエスト戴きまして、日本拳法空手道の源流本部朝基先生と流祖山田辰雄先生を書いた「本部朝基と山田辰雄研究」を紹介します。
編著者の小沼保先生は日本拳法空手道の重鎮です。 本部朝基先生についてはいくつか本がありますので、またその内紹介するかと思いますので、今回は触りだけですかね。



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本書は前半を本部朝基先生、後半を山田辰雄先生に分けてご自身が書かれた資料を再編して掲載してあります。
それでは、目次からどうぞ。


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右:本部朝基 左:山田辰雄


発刊にあたり

琉球拳法空手術達人 本部朝基
一 本部朝基先生名誉のためはじめに記す (明治四年廃藩置県と琉球)
二 キング誌掲載「唐手拳闘大試合」挿し絵の間違い (大正一四年)
三 「沖縄拳法唐手術」組手編出版 (大正一五年)
四 「私の唐手術」基本編出版 (昭和七年)
五 「形」の名称より考察する唐手術ーーナイハンチとはナイパンチ
資料=「肉彈相搏つ唐手拳闘大試合」 (月刊『キング』誌より)

現代空手道の父・日本拳法空手道宗家 山田辰雄
まえがき
一 山田辰雄遺文・その思想と行動
二 『空手拳法家四態と稽古に就いて』 ー山田辰雄寄稿ー
三 『武道としての空手』 ー山田辰雄寄稿ー
四 新スポーツの発足と其企業化計画草案大綱発表 (昭和三十四年)
五 日本拳法空手道教本創刊号 (昭和三十六年十月発刊)
六 全日本空手競技連盟第一回競技大会開催
七 『あなたの心とからだをまもる護身術』 ー山田辰雄稿ー
八 ヒロ・マツダ (プロレスリング重量級世界チャンピオン) 故郷に錦を飾る
九 空手対ムエタイ (タイ式ボクシング) 試合の始まり

終わりに


本部先生の著書については何度か関連本に転載されていますので、ことさら本書の紹介で取り上げるまでも無いですかね。 しかし何度見ても近接距離で相手の動きを封殺する展開は興味深いです。 ちなみに本部先生の受け手は山田先生です。
名著「私の唐手術」から本部先生実演のナイハンチ初段の写真が載っていますので、興味がおありの方は是非。 で、ナイハンチの語源についても面白い洞察がありました。 ちょっと引いてみます。


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ナイハンチ初段


ハ、筆者は唐手の形の名称「ナイハンチ」の語源、意味をかねてから調べており「日本語の沖縄方言」ではわからなかったが「沖縄語の今帰仁放言」にナイ「パンチ」na' i「panci」〔名〕唐手の型の一種とパン「ちュ」ン pan「cu」n〔動・規1ヵb〕①はじく。 弾力によって飛ばす②(三味線を)弾く③針やかみそりの先で、皮膚をつついて血をを出す民間療法の一。 の言葉があることを知り「琉球拳法唐手術」が「ナイパンチ」の形に深く秘されており、それを本部朝基先生が武の真実として正確に伝承されたことがはじめてわかったのである。

何故この言葉が本部先生と関係あるのかは、本書を読んで見て下さいw
そして「キング」誌に掲載された本部先生の伝説の唐手対ボクシング試合が全文転載してありました。 しかし挿絵の空手家の顔はどう見ても船越義珍先生w


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船越義珍


この事は本書でも本部先生が触れています。


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「キング」誌


当ブログ的に興味深い話がこの「キング」誌に載っていましたので、載っけておきます。 空手と牛の関係は昔からあったのだ、という事が分かるかと思います。

野牛を打ち殺す
唐手は身體 全體を武器とする必要から、拳は卷藁、据俵、鐵板等に打ちつけて堅め、足は鐵や石の下駄を履いて蹴る力を出す。 現在唐手術の大家である富名腰義珍氏の先輩鉢峯と云ふ人の如き、琉球八重山で野牛の暴れるのを、『こいつ!』とばかり例の鐵拳を脳天に食はせると、遉が獰猛な野牛もクル〱ッと廻つて死んで了ったと云ふ。 實に拳の強さは一つの驚異とも云ふべく、一時この拳は法律上凶器と同様に見なされた程である。

そして山田先生のパートに入ります。 山田辰雄先生の略歴は本書によるとこんな感じです。


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山田辰雄


1905年、兵庫県明石出身。 小学生の頃に竹内佐一より柔術を学び、その後2、3の先生より古流柔術の指南を受け、
1922年、講道館で柔道開始、同年富名腰義珍に空手指導を受ける。
1924年、当時大阪在住だった本部朝基より空手を学び始める。
1926年、「沖縄拳法唐手術」組手編で、本部朝基の相手を務める。
1939年、商工大臣中島知久平(中島飛行機創業社長)の身辺警護の任に着く。
1941年、本部朝基、沖縄へ帰郷。
1945年、日本大学歯科空手部師範、日本大学工科空手部師範、日本拳法空手道師範となる。
1959年、新スポーツ「空手ボクシング」の企業化を志し、1960年には「タイ国拳法選士団」の招聘を目指す。
1961年、「日本拳法空手道教本」創刊号を発刊。
1962年、全日本空手競技連盟 第一回競技大会を開催/NHK「私の秘密」で、新しい空手競技を披露。
1967年、5/28 山田辰雄、逝去。


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と、見ても分かる通り、空手の本土上陸初期から関わっているのが山田先生です。 小西康裕先生や大塚博紀先生と比べても比する経歴だと言えるでしょう。 なので戦後、山田先生が会合で何か発言しても反対出来るクラスの先生はあまりいなかった様ですw
大塚先生によれば、松濤館で天才と呼ばれた船越義珍先生の三男、義豪先生は上京したての頃、山田先生の紹介で千住の木工場に勤めていたという事ですから、本当に初期から関わっていたのが伺えますね。 ちなみにその後義豪先生は当時東大生だった松濤館の桧物十三先生が東大レントゲン室に引き取り、技師となります。

さておき、本書には山田先生の寄稿文がいくつか掲載されていますが、結構辛口で面白いですねぇ。 ちょっとその辛口な部分を引いてみます。

空手拳法家には四種あります。
其の一は、真の空手家で、人格・技術共に秀いで充分の実力ある人のことを云い、
其の二は、話空手家と称し、相当稽古を積み技術もあり、年齢、体質、素質等に於いて充分その技術もありながら、実力を発揮未充分の嫌いはあるけれども、後進を指導し得る人で、
其の三は、型空手家と云い、汎く型を習い集め、人目には立派やかな型を使い、素人目には立派な空手家の如く見えるも、実質は空手体操家に過ぎない人であり、
其の四は、口空手家と称し、空手拳法をあたかも神秘的なものの如くなし、伝説的な誇大なることのみ説き、門外漢をして之れを誤認せしめ、他よりして斯道に対し、軽悔の念を抱かしめる自称大家です。
右の如くですから充分認別稽古されることを望むものです。

そして空手ボクシングから始まる新しい空手競技の模索ですね、これも面白い。 従来競技とこの新ルールの空手の違いを山田先生が掲げていますので、引用してみましょう。

(一)打たない空手試合に於いては
イ、 判定の不明瞭な点。 (空砲を以って射撃の競技を行い優劣を競う)
ロ、 偶発的負傷を多く見ること。
ハ、 当てないことを前提とする為に、力一杯肉弾相争うことが不可能である故価値が少ない。
ニ、 打たれた場合如何にすれば大きな衝撃を最小に止めるか、打たれ強さ、耐える強さを養うに困難。
ホ、 現実の場に於て最も必要なる無意識の攻防の技術の習得困難。
へ、 例・実際の場合相手の胸部に直突する場合背骨を突折る位の考えで行って漸く当る程度のことが多い。 しかるに寸前に止めることを意識して攻防を行った場合に於ては、言をまたない。 等々。
(二)危険防止と疼痛を除ける為に身に剣道の如き完全防具を纏とうことに依って力一杯技を競う事が出来ると思って行っている試合形式に於ても次の如く
イ、 打って相手に如何に最大の衝撃、効果を与えられるかの研究が困難。
ロ、 打たれる技術即ち打たれた場合如何にすれば大きな衝撃を最小で止めることが出来るか、亦打たれて耐える強さを養う困難。
ハ、 打たれて凡そ疼痛がないため本能的防禦の技術の修得が出来ない。
ニ、 凡そ体力に頼り微妙な技術が生まれて来ない。
ホ、 道具に因る動作の制限、体育的に問題がある。 亦見ていて迫力に乏しい。

こうして誕生した空手競技ですが、1962年10/29に後楽園で大会を開くまでになります。 この時は大山道場から大山倍達総裁を始め何人かの門下生が見に行ったみたいですね。
競技規則を見るとボクシングに近いです。 グローブ、肘サポ、グローイングカップを着用し、服装は上半身は裸か半袖シャツ、下半身はショートパンツ又はロングパンツ、マウスピースは着用自由、足は素足でウェイトは4階級。 競技時間は3分3~5ラウンド、リング上で行われた様です。 反則は以下の通り。

反則行為
(イ)グローブの親指で対手の目を突く事。
(ロ)対手の背後(耳依り後)を攻撃する事。
(ハ)対手に咬みつく事。
(ニ)股間を攻撃する事。
(ホ)膝関節を蹴る事。 顔面に対する頭突膝打ち。
(ヘ)立ち上りかけて居る対手に攻撃を加える事。
(ト)倒れて居る相手に攻撃を加える事。
(チ)ロープを握って対手に攻撃を加える事。
けい背椎に危険を及ぼす逆をとる事。
(リ)競技中に言語を発する事。



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NHKで放送された空手試合


実戦派の間で新しい空手競技に関する機運が盛り上がって来た時期の先陣を切ったのが山田先生だと言えるでしょう。 当時の大山道場ではタイ遠征の話も出ており、後の極真会館本部ビルではタイ人を招いてキックの研究をしたそうです(正確な年度は不明)。 そして1961年、「日本拳法空手道教本」を作るにあたってタイ人を招聘した様で、本書の案内手引書にはこうあります。

(ロ)この図は他流の研究の一部を示したもので、タイ式拳法の練習の図を示したもの。 人物タイ国人で前タイ拳法の第一位とかであつたと云うカウキー氏であります。

このカウキーという人物は山田侃先生とスパーリングしたエタイ元ウェルター級1位カウイという選手の事だと思われます。


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ムエタイ戦士カウイ


こうして実際に当てる空手の競技化を進め、最終的には杉並ジムという形でキックのリングに上がる事になり、創生期のキックに多大な貢献を残す事になります。 残念ながら、山田先生はその隆盛を目にする事無く亡くなられてしまいましたが、今でも山田侃先生率いる杉並ジムはキックの世界で活躍し続けています。


という事で、小沼保編著「本部朝基と山田辰雄研究」でした。
山田辰雄先生は大山倍達総裁と親しかったというのはよく知られていますが、山田先生は大山総裁について、生前こう語っていたそうです。

萩原 山田辰雄先生も、大山さんのことを「いつでも死ぬ覚悟を持っているから気をつけろ」と言っていました。
山田 「空手をやるのなら彼ぐらいのつもりでやらないといけない」とも言っていました。 精神的な面、肉体的な面に関しては私の親父も一目置いていました。
(中略)
山田 当時の空手家の大家なんてのはみんな小さかったです。 小さければ強いはずも無い。 私の親父も「大山さんは力も強いし、精神的にもしっかりしているし、体重もある」と言って買っていました。


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旧全日本空手道連盟


本書を読むと、山田先生の思想は大山倍達、そして極真会館にも受け継がれていると感じますね。 晩年まで大山総裁がよく仰っていたとある言葉、これも元は山田先生が言っていた言葉なんですよねぇ。
それでは、また。


参考文献:
月刊フルコンタクトKARATE 2004年7月号 福昌堂 2004年
空手道 株式会社創造 1977年
本部朝基と山田辰雄研究 小沼保編著 壮神社 1994年
月刊空手道 合本復刻(創刊号~第10号) 金城裕編 榕樹書林 1997年

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【レビュー?】空手による人体破壊の解説本(1969年)



JUGEMテーマ:空手


さて、中学校の武道必修化、という事で意外に研究の進んでいなかった武道の危険性がクローズアップされて来つつありますね。 個人的には指導者として未熟な教師をその任に当たらせるのは反対です。
海外…特にアメリカでは訴訟大国である、というのも理由かと思われますが、医学的アプローチは日本よりも豊富だと思います。 ボクシングに関する医学的研究は世界トップクラスですし、空手が流行してからは自身の拳の負傷に関する研究論文なんかも見ましたが中々面白かったですね。 他には柔道の絞め技で絞めて落ちてから回復するまでの論文、これは絞め技によって掛かり具合が違うという結果が提示されており興味深かったのを憶えています。 意義ある様だったらその内紹介しようかな。


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という事で、今回は1969年にアメリカで発行された"The Medical Implications of Karate Blows"を紹介します。 アメリカでは何度か再販されているので、名著に該当するのかな。 訳すと…「空手の打撃の医学的意味」、と言った感じでしょうか。 空手の打撃で与えうる損傷を解剖学的に23箇所に分類して解説するという本です。 頭蓋骨の損傷から内臓、靱帯と幅広いのも特徴ですね。
著者はブライアン・アダムス氏、アメリカの歌手みたいですが、ケンポーカラテのエド・パーカー先生門下で主席師範(主席指導員?)を務めていた人物の様です。


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では、まず目次から。

Contents

Introduction
1 Striking the Forehead
2 Striking the Ears
3 Striking the Temple
4 Striking the Eye
5 Striking the Bridge of the Nose
6 Striking the Spot Under the Nose
7 Striking the Jaw
8 Striking the Throat
9 Striking the Back of the neck


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鼻骨の破壊


10 Striking the Collar Bone
11 Striking the Solar Plexus
12 Striking the side of the Rib Cage
13 Striking the Diaphragm
14 Striking the Spleen
15 Striking the Kidney
16 Striking the Elbow
17 Striking the Bladder
18 Striking the Groin
19 Striking the Spine
20 Striking the Thigh
21 Striking the Back of the Knee
22 Striking the Front Knee Joint
23 Striking the Shin Bone


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それぞれ眼球、瞼、眼窩の損傷の解説


…こういうのって高校の保健体育の授業以来なんで、結構英単語忘れてるなぁ。 確かテストで300単語位のテストがあって、割と成績良かったのにスッカリ忘れてしまいましたw なので辞書を引き引き読んでいます。 いやまぁ、解剖図があるので単語が分からなくても読めるんですけどね。 正直、英語要らない本です。


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肋の破壊


閑話休題。本書はですね、打撃による理想的な結果を解説した本、というのが正しい認識だと思います。 実際に打撃格闘技を経験された方ならよく御承知の通り、実際に人体を叩いてもこうなるとは限りません。


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膝の靱帯の破壊


本書に書かれた様な結果を出そうとするなら、相手を固定して叩く、と言った昔の空手に立ち返るしか無いかも知れませんねぇ。 実際、相手を固定しての打突が多く紹介されています。 現在の掴まない、もしくは離れた位置からの打撃、意図的に危険な急所を反則とした現代空手の競技で、こう言った結果を出すのは難しいかと思います。


と言う事で、"The Medical Implications of Karate Blows"でした。
武道は心身を鍛えるとか、護身の為とか言っても、やはり人を倒したり制圧したりする技術で構成されている訳で、その辺は認識しないといけないと思うんですよね。
車の運転だってそうです。 危険な物を危険と認識した上で学ぶべきだと思います。 逆に認識が無い指導者が一定の覚悟が無い学生に義務教育として教えるのはどうかな、と。
格闘競技というのはある種の矛盾の上で構成されています。 人を「安全に倒す」という大いなる矛盾の上で競い合う訳ですからねぇ。 技術を向上させるのに、あるいはアトランダムな自由攻防の元で闘うのは意義ある事ですが、本来こう言った…人によっては卑怯と揶揄するであろう技術も知っておくべきでしょうね。
そう言えば大山倍達総裁は技術書の中でこう書いていました。

上半身の武器としては他に、頭と肩、歯がある。

試し合いでは無い闘争とは、綺麗事では無いのだ。 そういう事を考えされられる1冊でした。
それでは、また。 …あれ、さっき本文を締めたのに、また締めたw


参考文献:
Brian Adams, The Medical Implications of Karate Blows, A.S.Barnes and Co., Inc., 1969
100万人の空手 大山倍達著 東都書房 1969年

http://blogs.masoyama.net/?eid=160#sequel

【レビュー】ブルース・リー著"TAO OF JEET KUNE DO"(1975年)



JUGEMテーマ:格闘技全般

さて、レビューになっていない事で定評のある当ブログですが、今回は今なお熱心なファンを育むブルース・リーの名著"TAO OF JEET KUNE DO"を紹介してみます。 ちなみに私、リー本人の著作以外は殆ど関連本を持っておらず、雑誌しか所有していないので、色々浅いかと思いますが、その辺りご容赦を。


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"TAO OF JEET KUNE DO"初版





この本、映画「ドラゴン ブルース・リー物語」(1993年)の劇中では生前に出来上がっています。


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映画「ドラゴン ブルース・リー物語」


確かに当初、1971年に出版を企画してはいたのですが、映画俳優としての仕事が忙しくなり、仕上げる事が出来なかったそうです。 そこで死後、7冊に纏められていた原稿を元に他の資料を加え、妻のリンダ・リーやダン・イノサントといったリーの思想を理解する人物の協力を経て完成されました。
リー自身が書いたノートが中心になっているという事もあって、写真は表紙のみ、後は手書きの絵となっています。 そして、この本に掲載する予定だったと思われる写真は後にダン・イノサント氏の編集を経て4冊の技術書で使われています。 こちらの方はまたいずれ紹介する機会もあるかと。


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何版まで出たのかは知りませんが、ベストセラーとなり、今でも版数を重ねています。 で、本書は多分4タイプに分けられると思います。 1つは初版といくつかの版で見受けられる無印版、その後出たのが右下に"BEST SELLER"と書かれた版…最も流通しているのがこのタイプでしょう。 そしてコレクターズ・エディションとして限定発売されたハードカバー版。 最後に今年発売された最新の増補版。 何か色々増えてるみたいで、初版より40ページくらい増えてるみたいです。 私の手元にあるのは初版だけですから、他の版についてご紹介は出来ませんので悪しからず。
それではまずは目次から。

CONTENTS

Zen
Art of the Soul
Jeet Kune Do
Organized Despair
The Facts of Jeet Kune Do
The Formless Form

PRELIMINARIES
Training
Warming Up
On-Guard Position
Progressive Weapons Charts
Eight Basic Defense Positions
Some Target Areas


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QUALITIES
Coordination
Precision
Power
Endurance
Balance
Body Feel
Good Form
Vision Awareness
Speed
Timing
Attitude

TOOLS
Some Weapons from JKD
Kicking
Striking
Grappling
Studies on Judo and Ju-Jitsu

PREPARATIONS
Feints
Parries
Manipulations

MOBILITY
Distance
Footwork
Evasiveness

ATTACK
Preparation of Attack
Simple Attack
Compound Attack
Counterattack
Riposte
Renewed Attack
Tactics
Five Ways of Attack

CIRCLE WITH NO CIRCUMFERENCE
IT'S JUST A NAME


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本書が他と一線を画すのは写真を使った技術書では無く、絵とテキストで構成された要訣というか、コツが中心となっている点です。 写真が無かったのが幸いしたのかも知れませんが、全て手書きの絵と文章で書かれているというのは面白いですね。 その為技術の他に、リーの各戦闘技術に対する考え方を養わせる様に思います。 その意味で言えば思想書、とするのが正しいのかも知れません。

しかしベースそのものはやはりブルース・リーが取得した技術ですので、ジークンドー修行者以外の方には、自分の格闘術へのカスタマイズが必要でしょうね。


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また、他の格闘技の研究ノートも興味をそそります。 リーが所有していた技術書から描き起こしたのでしょうが、元ネタとか探すと面白いんじゃないかと思います。 特に接近単打を得意とする詠春拳と通ずる物があるのか、ボクシング関係の描き起こしが非常に多いですね。
私が発見した元ネタのいくつかを掲載しておきます。 私はたまたま見付けただけですが、こういうのを専門で調べてる人っているんでしょうか?


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ドン・ドレガー氏の著書(1969年)


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ブルース・リーの描き起こし


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コークスクリュー・ブロー


ここで、日本語版をちょっと紹介してみます。 私が知っている限りでは3種類です。


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残念ながらカバー無し


最も古いのはコンコルド東通の「秘伝載拳道への道」(1976年)です。 発売時に直接購入した訳では無いので、詳しくは知りませんが、どうも当時のジークンドーの通信教育講座でのみ入手可能だったとか。 本来のカバーは出来のよろしくないリーのイラストだった為皆カバーを棄ててしまい、現在ではカバー付の方がレアですw ここに掲載した画像もカバー無しです。
本書にはリーの親友だと言う風間健氏が係わっていますが、一般販売されなかった事から海賊版説が付きまとっています。 まぁ、真相は知りませんけどね。


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ついで福昌堂から出版された「魂の武器 載拳道への道」(1980年)。 思えば私が初めて買ったブルース・リー本ですねぇ。 こちらは風間氏が編著として色々文章を再構築されていますが、中身は"TAO OF JEET KUNE DO"です。 副題が「載拳道への道」ですので、当然と言えば当然ですね。
内容の方ですが、写真が大量に追加された上、掲載順がかなり変化しています。 それにしても、著作権者から許可を得た痕跡が無い様に思いますので、ちょっと怖いw


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最後がキネマ旬報社の「載拳道への道」(1997年)。 これは原著のコピーライト表記もある、ちゃんとした翻訳本です。 そして日本で読むならこれがベストの訳本でしょう。 現在では高値が付いているみたいですが、私もこちらの版をおすすめします。


という事でブルース・リー著"TAO OF JEET KUNE DO"でした。

ところで、ブルース・リー極真門下生説というのがあります。 劇画「空手バカ一代」を始めとして大山倍達総裁の何冊かの著作でも書かれていますが、これは事実ではありません。 そもそも大山総裁は海外の孫弟子レベルまで把握する事はまずありません。 誰かが報告しなければね。


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トラックスーツは別売りです


じゃあ誰が吹き込んだか? ここから先は私の推察でしかありませんが、恐らくハワイの古参支部長でしょう。 というのも、極真を学んだ形跡の無いエド・パーカー、ブルース・テグナ、ブルース・リーと言った方の極真の門下生説は、全てハワイ支部を挟んでいるからです。 この支部長は割と頻繁に日本に来ておりましたので、師匠の前で良い顔をしたかったんじゃないかなーと思っています。


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眼球まで動きます


しかし、この手元にあるホットトイズのブルース・リーフィギュアを見てるとファンが羨ましいですw
極真関係のフィギュアは無理としても、千葉真一氏のボロボロ道着のフィギュアとか出してくれないかな…。
それでは、また。

参考文献:
Donn F. Draeger & Robert W. Smith, ASIAN FIGHTING ARTS, Kodansha International Ltd., 1969
Bruce Lee, TAO OF JEET KUNE DO, Ohara Publications, Inc., 1975
秘伝載拳道への道 ブルース・リー著 風間健・灰田匡江訳 コンコルド東通 1976年
魂の武器 載拳道への道 ブルース・リー著 風間健編 福昌堂 1980年
ボクシングは科学だ ジョー小泉著 ベースボール・マガジン社 1986年
ジークンドーへの道 ブルース・リー著 奥田祐士訳 キネマ旬報社 1997年

参考映像:
ドラゴン ブルース・リー物語 1993年

http://blogs.masoyama.net/?eid=140#sequel


【レビュー】近代ボクシングの父、ジェームズ・コーベットの技術書(1912年)



JUGEMテーマ:格闘技全般

先週末は増田俊也先生の「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」に明け暮れたのと所用で珍しく更新しませんでしたので、結構久々な感があります。

という事で、今回は近代ボクシングの父と呼ばれ、1892年、史上初のクインズベリー・ルール(グローブマッチ)による世界ヘビー級タイトルマッチを制したジェームズ・コーベットの技術書を紹介します。 ボクシング史を変えた世紀の一戦から20年後の出版ですね。 …手元にあるのは2008年に出た復刻版ですがw


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軽く略歴。 ジェームズ・J・コーベットは1866年にサンフランシスコに生まれ、ボクシングを学びながら後に銀行に勤める事となります。 銀行でも非常に礼儀正しく、次第に実力を付けていくコーベットは"ジェントルマン・ジム"と呼ばれる様になり、1890年頃から当時無敵の王者だった英雄ジョン・L・サリバンとの対戦を迫ります。


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サリバン


そして1892年9月7日、遂にニューオリンズで史上初のクインズベリー・ルールによるタイトルマッチが開かれました。


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The Boston daily Globe(09/08/1892)


この試合でコーベットは近代ボクシングの基礎となるヒット・アンド・アウェイやジャブ、フックといったテクニックを駆使し、21ラウンド目、サリバンをKOしました。 ベアナックル・ボクシングの象徴であったサリバンを倒した事で、米ボクシング界は近代化の道を歩み始めます。


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The World(09/11/1892)


この試合は当時全米で遍く報道され、サリバンの地元、ボストンでも暫く誌面を飾っていました。 ショックの激しさからか、「ジョンは最後の攻撃で無様に負けた」等と書かれていましたねぇ。 ニューヨークの"World"紙では、試合前から多数の絵を使って報道するなど、全社挙げての特集でした。 コーベットの父親すら、サリバンを倒した息子に怒って、暫く口を聞かなかった、なんて話があるくらいですから、どれほど衝撃的だったかが伺えます。


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The World(09/11/1892)


さて、そんなコーベットの技術書"SCIENTIFIC BOXING"、「科学的」なんて言葉は丁度1910年頃からアメリカで流行り始めた言葉ですが、コーベットのボクシングスタイルを表現するのにこれほど適した言葉も無いでしょう。
それでは、まずは目次。 序文をジェームズ・ジェフリーズが書いています。 ジェフリーズは後にコーベットからタイトルを奪った、ボブ・フィッシモンズを倒して世界王者になり、コーベットからの挑戦を退けた事もあります。 この2人は仲が良かったのか、ジェフリーズと史上最強のヘビー級王者との呼び声も高い、ジャック・ジョンソンとの試合直前にスパーリングをしている写真が載っていました。


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左:ジェフリーズ 右:コーベット


Preface
Introduction: Boxing as a Science

PART ONE: FUNDAMETALS

How to Stand
A Good Position
Ready for Infighting
The Crouch
Blocking
Ducking
A Short Arm Punch
At the Call of Time
On Guard
The left lead
One Way to Block
Crossing on the Jaw
Ducking a Lead
Left Lead With Guard
Left Hook for the Body
Landing on the Solar Plexus
Side Stepping
Hook Blows
Infighting
Blocking a Swing
The Upper Cut
The Kidney Punch
A Stomach Punch
The Knockout Blow


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PART TWO: FOULS

Holding
Using the Elbow
Hitting When Down
Misuse of the Glove
Butting
Another Foul

PART THREE: RULES FOR BOXING

Marquis of Queensberry
Police Gazette Revised Queensberry Rules
London Prize Ring Rules
Amateur Athletic Union Rules

ADDENDUM

A Recollection of the Fight Between John L. Sllivan and James J. Corbett

色々興味深くありますが、まず近代ボクシングで最も重要なのはフットワークであると断言している点を挙げたいですね。 しかし構えを見ると、まだまだ素手時代の構えから抜け出せていない様に思います。


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ジャブは写真だけ見ると何となくですが、実戦空手で名を馳せた、本部朝基を彷彿とさせますねぇ。 また、ジャブに対抗する手段として、上段受けや、カウンター、ダッキングしてのボディブロー等、現代に通じる物があります。


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左:ジェフリーズ 右:フィッシモンズ


そしてフィッシモンズが考案したとされる「鳩尾打ち」の説明。 これはコーベット自身が実際にやられ、タイトルを奪われているという実証付きです。
それから…KOパンチ。 KOパンチの大半は顎を横から打ち抜いて発生するとありますね。


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で、ルール。 現在のボクシングルールの基礎となったクイーンズベリー・ルールや、同ルールを"Police Gazette"紙が改訂した物。 そしてロンドン・プライズ・リング・ルール、所謂素手で闘うベアナックル・ファイトですね。 全部で29項目あったので訳しませんが、15番目のルールがちょっと気になりました。 投げられたか、倒れた相手に攻撃すると反則、とあるのですが、どの状態までがダウンかの説明があります。 片膝、片手がリングに着いた場合、そして両膝が着いている場合もダウンと見なされると。

ちなみに本書の魅力は当時のボクシングを知る、というだけで無く、当時の強豪の写真が多数収録されているところにあると思います。 流石に名前を見ても分からない選手の方が多いですが、日本ボクシングの父、渡辺勇次郎が対戦した世界チャンピオンの写真があったので良しとしましょうw


という事で、今回は1912年に出版された元世界ヘビー級王者、ジェームズ・コーベットのボクシングの技術書を紹介しました。 当時の技術書らしく全て1枚の写真で解説している為、現在の技術書と比べれば物凄く不親切です。 現在、ベアナックル時代の技術書が無いか、折を見て探していますが、中々出て来ませんね。 今回掲載した新聞を見れば分かる通り、1890年代以前では写真を使った技術書の出版も難しいでしょうし。
ところで、本編でも少し触れましたが、その内渡辺勇次郎も記事にしようかと思い、良い評伝を探しています。 アメリカ時代の資料は30紙位揃いましたので、後はある程度アメリカ時代を書いた評伝があれば書けそうです。 という事で、心当たりのある方、お教え下さい。
それでは、また。

参考文献:
The World, 1982
The Boston daily Globe, 1982
JAMES J. CORBETT, SCIENTIFIC BOXING THE DELUXE EDITION, Promethean Press, 2008(Originally published in 1912)
凄くて愉快な拳豪たち 梶間正夫著 ベースボール・マガジン社 1986年

http://blogs.masoyama.net/?eid=129#sequel

最近、韓国の格闘技団体を紹介した映像が日本やタイで話題を呼んでいます。 Kyuktooki(韓国語で「格闘技」の意)という格闘技で、映像を見る感じ、投げのあるムエタイ…つまり昔の日本のキックルールとかシュートボクシングのルールに近いですね。 他にも絞め技もあるみたいですから、総合格闘技と言いたいのかも知れません。
まぁ、これだけなら話題になる事はありません。 日本にもよくある話ですし、そもそも日本のキックボクシングは完全に競技格闘技なので、まず技術あってルールで制限した所謂武術の近代化とは違い、ルールがあって、その範囲内で競わせるという従来の格闘技とは違う経緯があります。 その為、キックボクシングという武術は存在しません。





話は戻しますが韓国のKyuktookiなる格闘技は、1970年代に設立されたそうで、その源流が何とエジプトだそうですw エジプトの戦士は素手にバンテージを巻いて闘う、というのがルーツみたいですが…コスチュームは2種類。 テコンドー風の襟が黒い道着と、男はキックパンツ(トランクス)にレガース、グローブにパープラチアット(腕輪)と、殆どムエタイw しかし、紹介動画ではムエタイの事には触れておらず、エジプトが源流であるかの様に言っていた訳です。
これを見たタイ人が大激怒! ついでに韓国による歴史歪曲に悩まされている日本人も合流し、お祭りとなっています。 んで…さっき2chの東アジアニュース速報+を見てたら、この事が紹介されていましたので、転載しておきます。

1 [―{}@{}@{}-] Korean Monkeys (韓国猿)@動物園φ ★ [] 2011/09/10(土) 10:08:32.69 ID:???
韓国の総合格闘技がタイの国技であるムエタイのパクリだとする主張と関連動画がネット上で広がり、タイのネットユーザーらの反発が高まりつつある。韓国メディアは、「日本の一部ネットユーザーらの悪意あるわい曲主張が醸し出した騒動だ」として「嫌韓感情の拡散が憂慮される」と報じた。
動画サイトのユーチューブに上げられた「韓国キックボクシング、格闘技ドキュメンタリ」という韓国の格闘技を紹介する動画が騒動の原因となった。
この動画では、韓国格闘技チャンピオン出身のチョン・ヨンハン(37)城南市議会議員が、韓国格闘技の由来と試合方式などについて説明。「武術は手に包帯を巻いて肉体のみで戦うエジプト武士から由来した。わが国では70年代に関連団体が登場して本格化した」と紹介。また動画では、ムエタイにはない投げ技や絞め技などが紹介されている。
韓国メディアは、この動画を見た日本の一部の嫌韓ネットユーザーらが「韓国が空手や剣道に続き、今度はムエタイまでパクって自分のものだと言い張っている」と主張していると伝えた。
1年ほど前にユーチューブに掲載された同動画は、その間にあまり注目されていなかったが、日本人の「韓国格闘技はムエタイのパクリ」とする主張をタイのネットユーザーが事実として受け入れ、現地ネットユーザーらの「反韓感情」が高まったと指摘した。
タイのネットユーザーらは、動画内の格闘技選手が着用しているパンツがムエタイ選手が着用するパンツと似ているという理由だけで、韓国格闘技がムエタイのパクリだと主張しているという。
動画はユーチューブだけでなく、武術関連サイトにも上げられており、韓国への非難が殺到している。
動画に出演していたチョン議員は、今回のパクリ説について「わが格闘技は厳格に総合武術であり、ムエタイと全く違う」として「これをわい曲したり、わい曲されたことを事実として受け入れるならば、
武術人としての資格がない」との見方を示した。(編集担当:永井武)

「韓国格闘技はムエタイのパクリ?」日本人とタイ人がわい曲=韓国 2011/09/10(土) 09:48


最後は、1969年に沖縄で行われたキック対空手の大会ですね。 漫画でもこれを元にしたエピソードがありましたね。 当日は200mmを越す雨が朝から降り続いたせいで、立ち見席でも太腿近くまで冠水していた様です。 そして試合の方は…。

出る選手、出る選手が一ラウンドでバッタバッタと倒されるのを見て、びっくりしたのは観衆だけではありません。 この「空手とキックの対決」に出る選手を一手にひきうけた、沖縄少林寺拳法の師範、つまり、試合に出場した沖縄の選手の先生は、
「こんなはずじゃなかった……。」
と、心からおどろいてしまいました。


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そして翌日の興行。

しかしながら、この日も出場するはずだった空手の選手たちは、約束の時間がきてもひとりもあらわれないのです。 いそいで人をやって問い合わせると、
「師範はブラジルに行くといっていた。」
という返事。 沖縄の人たちに、
「必ずキックを打ち破って、沖縄空手の強さを思いきり見せつけてやる。」
と豪語していただけに、沖縄にいられなくなってしまったのです。

http://blogs.masoyama.net/?eid=114#sequel

山口剛玄著「剛柔の息吹」(1969年)



JUGEMテーマ:空手

先日色々と珍しい物が手に入りました。 極真の第1回と第2回全日本の開催告知パンフレットと、参加申込書です。 未だにプログラムは入手していませんが、まぁ、この手の物は縁ですので、入手出来ればラッキーという事でw


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第1回全日本に関しては以前「現代カラテマガジン」で出場者名簿が記載された事がありますので、他に色々な書籍を合わせてその内記事にしたいと思います。 現在、この大会を開催するに当たって揶揄した記事を探しておりますので、その辺りが揃ったら書けるんじゃ無いかと。 昨日池袋の日本武道具店で第10回全日本のプログラムを入手しましたので、これで未入手な全日本大会のプログラム(第26回まで)は第1、2、5、6回となりました。 ここから先を入手するのは大変ですw




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という事で、今回は極真の源流の1つで、最も強く影響を受けた剛柔会の山口剛玄先生の自伝、「剛柔の息吹」を紹介したいと思います。 本が古くて開いてスキャンするのが怖いので、基本的な画像は別からスキャンしてますw それではまず目次から。

序文
閑院純仁、木村篤太郎、追水久常、田中伊三次、野田天涯

第1章 幼少期・学生時代
生い立ち
武道と信仰の好きな子供/十八交を結ぶ健児の社/空手の手ほどきをうける/外
昭和新撰組
立命館に入学新撰組屯所を借りる/島原遊郭明渡執行でヤクザ橋本組と対決/外
鞍馬山の荒行
剛柔流開祖宮城先生より宗家を継承/人間完成の修行へ/満州国の人材養成に奔走


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第二章 満蒙時代
壮途
石原将軍に満州行を説かる
北満、黒竜江省に赴任
市協議会議長と特別任務兼ねる/ノモンハン事件勃発ソ連工作員捕う/東亜武道使節団結成内地へ
本緩湖で労務者対策
共産匪の工作員潜入防止に空手道場
不穏な空気漂う間島省へ
独立運動?M君を熱誠込めて説く/暁の一斉手入れ大蜂起を未然に防止
共産匪の跳梁する熱河省
密偵同士の謀殺暗殺が日常茶飯事/敵の密偵三人を蹴り肱打ち手刀で倒す/中国拳法竜雲流との試合/匪賊の大襲撃に捨身の空手で戦う/外

第三章 終戦・捕虜生活
ゲ・ペ・ウの取調べ
ゲ・ペ・ウの仁義/銃殺するぞと銃口の前に立たす
捕虜収容所
収容所で空手を見せソ連兵の度肝抜く/監獄下番の暴れ者丸井と対決/外
帰国
暁に祈るの吉村隊長を制裁/ナホトカで民主裁判にかけられる


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第四章 戦後・再建の道
復活した剛柔流の歩み
教職員の持つ赤旗引き裂き訴える/絶望感で自決を決意/神秘的体験で再建へ/外
神への奉仕
木曽御嶽山との奇縁/霊的現象の実際
剛柔流と空手界の未来図
全日本空手道連盟成る/日本空手道専門学校設立の計画/米国各地に支部道場

第五章 むすび(神道、武道、ヨガの三位)
はじめに
道は無限
一、神道
水晶球の行/火断ち木食/剛柔神殿/猫の妙術(参考資料)
二、武道
剛柔流小史/剛柔流空手道の理念/実技編…剛柔会制定形
三、ヨガ
ヨガの権威野田先生の教えうく/ヨガとは/精神面から見たヨガ/ヨガ行法/ハタヨガ/呼吸法/サマーデイに至るまで/クンボハカ/七つのチャクラ/ヨガ修行の第一歩/ヨガと健康/弛緩法の実際/本能完治力


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付・全日本剛柔会役員、支部道場名簿
[写真頁]
剛柔流基本形並びに組手解説
呼び運動/基本練習/構え/三戦/転掌の使い方と変化/蹴り/スーパールンペー/サイファー/センチン/サンセールー/シソーチン/太極受小手鍛え/セーサン/セーパイ/クルルンハー/蹴りと受け/真剣取り/弛緩法/鉄扇の使い方/サイの使い方/クサリの使い方

ヨガの神経系統秘図
中国古文献武備誌


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ここで、山口先生の略歴を紹介。 1909年鹿児島生まれで、本名は山口実美。 幼少の頃から地元の名門、薩摩示現流に学び、ある時「ジキジンドッコ」(鹿児島弁で「琉球人の拳」)を近所に住む沖縄出身の大工、丸田武雄から学ぶ。
1928年、関西大学法学科専門部に入学してからは有志と共に「ゲンコツ組」を設立、校内の風紀取締りを自主的に行う。 その後学生たちから慕われていた同大学教授解雇に反発し、退学処分になる。
1929年、立命館大学に再入学。 相撲部と応援団に身を置き、壬生の新撰組屯所跡地を借りて「昭和新撰組」を名乗り「剛柔流空手道拳法道場壬生屯所」設立。 当時まだ武徳会に加盟していなかった空手は異端扱いだったが、武徳会柔道部幹部の福島清三郎(義方会道場主宰)の理解を得て義方会の隣に「振興館」という剛柔流の空手道場を設立。 間もなく武徳会に空手が認められ、振興館は山口を筆頭に義方会の空手部として再スタートする。
1931年、立命館の同窓生の紹介で、剛柔流開祖、宮城長順と面会、指導を受ける。 暫く後、宮城より剛柔流の継承者となる事を命じられ、剛柔流の本を正すという意味で、「山口剛玄」と名乗る様に言われる。 強く責任を感じた山口は、鞍馬山で精神修養に励む。 以降、その生涯で幾度も山籠もりを重ね、時には眉を剃り落とした。


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1938年、当時京都師団長だった石原完爾に勧められ、満州へ。 特務士官として従軍、空手の経験を生かして数々の修羅場を潜り抜ける。 また、39年には東亜武道大会満州代表使節団として一時帰国する。
終戦後はソ連の捕虜となり、GPUの尋問を受けて収容所暮らしを余儀なくされる。 帰国直前には「暁に祈る」で有名な吉村を制裁する。
1947年、日本に帰国。 一時は敗戦後の日本に絶望して自決も考えるが、思い直し翌年浅草に道場を設立、その一方で日本の赤化を憂い、「公安興信所」を開設して公安関係の情報活動を始める。
1950年5月、「全日本空手道剛柔会」設立。 全国に呼び掛けて3万人が集結する。 53年、宮城長順逝去。
1963年、第1回剛柔会全日本選手権開催。 64年、「全日本空手道連盟」結成。 剛柔会も参加する。
1965年、国際空手道剛柔会結成。
1989年5月20日、急性心不全の為、逝去。

略歴と言うにはちょっと長いかも知れませんね。 「剛柔の息吹」は1969年発行ですので、63年以前の情報はこの著書から書いていますが、以降は「月刊空手道」記事から抜粋しており、情報量に差があります。
この本の巻末では写真で型の用法や掌底、弧拳の使い方などを山口先生が実演されており、貴重な一品だと思います。 そして極真、というか大山倍達総裁の源流だな、と実感しますねぇ。


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他にも組織図というのが載っていますが、アメリカの支部長には大山道場でも稽古をしていたピーター・アーバン先生、漫画「空手バカ一代」にも登場したドナルド・バック先生の父親だと聞いていますがダン・バック先生の名前があります(ドナルド・バックはドナルド"ダン"バックとも呼びますので、ひょっとしたら本人が掛け持ちしている可能性もありますが、ドナルド・バック先生の道場のワッペンには剛柔流の記載がありません)。 そして…大山総裁が山籠もりをした際、大いにお世話になった小沢専七郎氏が顧問として名を連ねています。 他にもいくつか興味深い方が名を連ねていますが、まぁ、その辺りはいいでしょう。 色々な関係が推察出来て楽しいですけどねw


という事で、今回は山口剛玄先生の著書を取り上げてみました。 現在ではかなりレアになっている様ですね。 いくつか心当たりを見たんですが、売ってませんでした。
個人的に、ですが剛柔会の先生には非常に良くして戴いた経験がありますので、極真の源流という事を差し引いても大好きな流派ですw 大山倍達総裁より20歳ほど若い先生だったと思いますが、「大山さんは強かったらしいなー」とか「極真とは兄弟みたいなもんだ」とニコニコしながら仰っていたのは今でも忘れられません。
昨年はDVDが出ましたし、ご一緒に如何でしょう?
それでは、また。


参考文献:
A. Sonny Palabrica, "The CAT", BLACK BELT March 1966, BLACK BELT INC., 1966
剛柔の息吹 -空手道の真髄- 山口剛玄著 栄光出版社 1969年
月刊「空手道」3月号別冊 空手道創世神話 月刊空手道編集部編 福晶堂 2003年

http://blogs.masoyama.net/?eid=74

若木竹丸著 「怪力法並に肉体改造 体力増進法」(1938年)



JUGEMテーマ:格闘技全般
黄金週間真っ最中ですが、皆様はどうお過ごしでしょうか? 私はいつもの如く、ネタの選定に苦労しておりますw

という事でですね、今回は若木竹丸先生の名著、「怪力法並に肉体改造 体力増進法」(以下「怪力法」)を紹介したいと思います。


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極真関係者には大山倍達総裁が師事したウェイトトレーニングの師として有名ですが、一般には、大山倍達も師事した日本のウェイトトレーニングの先駆者として知られています。
さて、この「怪力法」は非常に入手困難な1冊で、西田幸夫先生(現・極真清武会主宰)が探し求めて20年経ってから復刻版を入手したとか、小沼保先生(日本拳法空手道師範)も同書を求めて何十年も神田町に通い、「あの本は怪物だ」と武道古書の取り扱いに定評のある高山書店で言われたと回想するほどレアな本でした。 また、この本の復刻に尽力を尽くした重量挙げでオリンピック代表にもなった窪田登先生(現吉備国際大学学長)は、この本を1950年から探し求め、68年になって入手したそうです。


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現在知られている限りでは1938年初版が第一書院から500部出版され、87年に谷口書店から250部復刻。 90年に壮神社から1000部復刻、そして体育とスポーツ出版社より05年に復刻(部数不明)されたのが最後ですかね。 まぁ、実際には告知無しで復刻した版もあるとか言われてたりしますが、この辺りは不明。 当時日本併合下にあった朝鮮半島でもこの本が売られていたという話を聞いていますので、もっとあったのかも知れません。 私はこの最後に復刻された版を定価の7140円で入手しましたが、現在ネットで見ると最低でも2万円程度はする様です。 しかし、専門書を揃えている書店ではまだ手に入るかも知れませんね。 2年ほど前ですが、池袋か新宿のジュンク堂に2冊ほど定価で置いてあるのを見た記憶があります。 ちなみに若木先生にはもう1冊「筋肉美体力増強法」という本を40年に大新社から出版していますが、こちらを見た事はありませんねぇ。

著者の若木竹丸先生のエピソードは非常に面白いのですが、この辺りは黒崎健時先生が書いた「私は見た! 昭和の超怪物」をレビューする時か、「武道家列伝」でやりたいと思いますので、ここでは割愛。
ともあれ、本書は函入りで470ページ超という豪華本です。 しかし若木先生に言わせれば、

「怪力法に載せたトレーニング方法は僕の行なった種目の全てではない。 考えられるあらゆる形のトレーニング種目を試みている。 それら全てを載せたらとても一冊の本ではおさまらないであろう」

という事です。 それでは恒例の目次から…とその前に、久々に言っておきますが、当ブログではなるべく原文のまま記載するのを目標としていますので、Windows以外…Macやケータイからだと文字化けして読めない文字が出てくるかと思います。 その場合は大変申し訳ございませんが諦めるか、Windowsで見て下さい。

健康は萬能なり

著者アルバム

著者の餘技

各種新聞雑誌等(掲載一部記事)

簡單主要筋肉解剖圖


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モデルと絵は若木竹丸

男子理想肉體美

ヘルメス型 ヘラクレス型 筋肉美體育家略傳(寫眞と記事)

貴重な参考資料

著者の雑記帳(思ひ出すが儘に)

若木式 自轉車チューブ運動法(但し一本五銭の古チューブを利用す)


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チューブトレーニング

若木式 椅子式運動法

若木式 一擧二人體育法

若木式 個人徒手體育法

若木式 健康維持輕運動

若木式自動車チューブ運動法(但し古チューブを利用す)

(附錄)腕角力 (一名・若木式腕角力必勝法)


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若木式・腕角力練習機


一見平凡なれど事實價値ある體育法

鐵亞鈴運動法

著者の工夫による セメント亞鈴の製法


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セメントバーベルの製法

力技界の大恩人 ユーヂェン・サンダウ氏

扨て諸君、愈々待望の 鐵亞鈴(セメント亞鈴)運動を初めませう

最も有名なる 世界的力技者(列傳)

超人的力技

種々なる力藝(順序不同)

しかし今読んでも遜色の無い筋力トレーニングをこの時代に紹介した若木先生は偉大ですね。 バーベルを使ったトレーニングのみならず、チューブトレーニングなんかも載っていますし、現在空手家が行う指立て伏せを自身が創案したとして掲載してありました。 また、1つの動作を連続写真で見せる手法も、当時としては斬新だった事でしょうね。


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26歳当時の若木先生がどれだけの怪力を誇ったかを挙げてみます。
身長:163.2cm
体重:65.6kg
胸囲:133.2cm
上腕:51.3cm
フロアプレス:212kg
レスラーブリッジ:147kg
ベンチプレス:228kg
ショルダーブリッジ:250kg
筋力の極限に挑み続けた若木先生の1つの成果がここにあると思います。
定価でも少々値の張る本ではありますが、興味のある方は是非。


という事で、若木竹丸先生の名著「怪力法」を紹介してみました。 本文中には書きませんでしたが、確か極真時代の竹山晴友先生も若木先生の元に訪れてお話を伺ったとか、「パワー空手」で読んだ様な気がします。 面倒だったので調べていませんがw
後、本文中にも触れましたが、色々と面白いエピソードもお持ちです。 このレビューが終わらないと書けないなーと思っていた黒崎健時先生の本にもいつでも手を付けられる様になりましたので、その時に改めて若木先生のエピソードについて書きましょうか。
次回は、芦原英幸先生の古記事の予定です。
それでは、また。

※「私は見た! 昭和の超怪物」、レビューしました。

参考文献:
力道山以前の力道山たち 小島貞二著 三一書房 1983年
私は見た! 昭和の超怪物 黒崎健時著 スポーツライフ社 1989年
月刊パワー空手 1990年10月号 パワー空手出版社 1990年
月刊フルコンタクトKARATE 2005年1月号 福晶堂 2004年
怪力法並に肉体改造 体力増進法(復刻版) 若木竹丸著 体育とスポーツ出版社 2005年

http://blogs.masoyama.net/?eid=73

【古書】「アメリカ海軍航空隊のボクシング講座」(1952年)



JUGEMテーマ:格闘技全般

さて、昨日はワルプルギスの夜だった訳ですが、まぁ日本人には関係ありませんね。
それにしてもすっかり暑くなって来ました。 朝晩はまだ肌寒い日もありますが、日中は東京で25度を超える日もあります。

という事で今回はジョー小泉氏も名著として名を挙げる、1952年発行の「アメリカ海軍航空隊のボクシング講座」を紹介してみます。


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USネーヴァル・インスティテュート社が発行した同書を、拳闘社が許諾を得て出版したのが1952年の3月です。 よって、日本初のボクシング世界王者、白井義男氏もまだ全日本王者です。 当時の同社のスローガンが、

世界選手権を日本人の手に!!

となっている事からも、まだ戴冠前だというのが伺えますね。


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日本王者時代の白井義男


では、まずは目次。

第1章 ボクシングの歴史
◆初期の歴史 ◆ギリシア時代のボクシング ◆中世紀のボクシング ◆イギリスに於けるボクシング ◆ボクシングを規制するルールの變還 ◆グローヴの時代 ◆アメリカに於けるボクシング ◆教育機關に於けるボクシング ◆ゴールデン・グローヴ

第2章 アメリカ海軍航空體育プログラムに於けるボクシングの位置
◆ボクシングはパワーを發達させる ◆ボクシングは共同動作を發達させる ◆ボクシングは知能を必要とする ◆ボクシングは壓追下に反撃する能力を要求する

第3章 ボクシングに於ける施設、装具及び安全について
◆施設ーボクシング・ルームー専用化されたボクシング・ルームーリングーバツグー運動具ー装具の組識

第4章 ボクシングを教える順序と方法
◆適正な指導順序 ◆ボクシングを教える方法 ◆クラスの組織と課程 ◆レツスン・プランのサムプル

第5章 ボクシングのコンデイシヨンニグ(※原文ママ)
◆心理学的コンデイシヨニング ◆生理的コンデイシヨニング ◆専門的トレーニング

第6章 ポジシヨン(姿勢) ムーヴメント(動作) 及びヒツテイング・パワー(打撃力)
◆オンガード・ポジション ◆フツトワーク ◆ヒツテイング・パワー(打撃力) ウエスト・ビヴオツト(腰部旋回)

第7章 ストレイト及びベント・アーム・ブロウ 並にテクニツクーレフト・リード
◆チンに左ジヤブーテクニツク ◆チンに左ジヤーブデフエンス ◆左ジヤブのデフエンス分析 ◆チンに左ジヤブーカウンター・アタツク ◆ボデイに左ジヤブーテクニツク ◆ボデイに左ジヤブーデフエンス ◆ボデイに左ジヤブーカウンター・アタツク ◆ボデイに左ジヤブーコンビネーション ◆チンに左フツクーテクニツク ◆チンに左フツクーデフエンス ◆チンに左フツクーカウンター・アタツク ◆チンに左フツクーコンビネーション ◆ボデイに左アツパーカツトーテクニツク ◆ボデイに左アツパーカツトーデフエンス ◆ボデイに左アツパーカツトーカウンター・アタツク ◆ボデイに左アツパーカツトーコンビネーション


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リターンジャブからカウンターまで


第8章 ストレイト・ライトーベント・アーム・ブロウ並にテクニツク
◆チンにストレイト・ライトーテクニツク ◆チンにストレイト・ライト・デフエンス ◆チンにストレイト・ライトーカウンター・アタツク ◆チンにストレイト・ライトーコンビネーション ◆チンに右フツクーテクニツク ◆チンに右フツクーデフエンス ◆チンに右フツクーカウンター・アタツク ◆チンに右フツクーコンビネーション ◆ボデイにストレイト・ライトーテクニツク ◆ボデイにストレイト・ライトーデフエンス ◆ボデイにストレイト・ライトーカウンター・アタツク ◆ボデイにストレイト・ライトーコンビネーション ◆ボデイに右アツパーカツトーテクニツク ◆ボデイに右アツパーカツトーデフエンス ◆ボデイに右アツパーカツトーカウンター・アタツク ◆ボデイに右アツパーカツトーコンビネーション


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コンビネーション

第9章 フェインテイング及びドローイング、クリンチング及インフアイテイング
◆フエインテイング ◆ドローイング ◆クリンチング ◆インフアイテイング

第10章 リング・サイエンス
◆リング・クラフトの分析 ◆リング・ジエネラルシツプの分析 ◆テイム・ストラテジイとハンドリング

第11章 マツス・ボクシング・ドリル(アメリカ海軍航空隊のボクシング教授要綱)

附録
◆アメリカ海軍航空隊のボクシング・レツスン・プラン ◆ボクシング語彙 ◆ハワイ・ボクシング・コミツシヨン・ルール(巻尾)

目次であらかた分かるかと思いますが、単純な技術書では無く、トレーナー向けへの書でもあります。 そして52年出版(原著は49年らしい)でこれだけハイレベルの技術書があるというのは驚嘆に値しますね。 ジャブ1つとっても複数の種類を紹介しており、今でも通用するレベルだと思います。


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クリンチの対処とインファイト

巻末にはルールと詳細な規約が載っており、他にも契約の巻き方までと、この1冊があれば選手育成から興行まで、一通り出来るんじゃないでしょうか。 拳闘からボクシングへの発展期に、多くのボクシング関係者がこの本を読んでいたのかも知れません。


つー事でボクシングのレア本を紹介してみました。 今回は目次が全てというか、あまり語る事は無いですw
まぁ、他流ネタでプロレスが多かったので、バランス取ろうかと思ったのが今回の記事ですね。
手抜き感ありありな記事ですが、たまにはこういうのも良いでしょうw
それでは、また。

参考文献:
U.S.ネーヴァル・インステテュート刊行 アメリカ海軍航空隊 訓練要綱 ボクシング・テキスト 拳闘社 1952年
ボクシングは科学だ ジョー小泉著 ベースボール・マガジン社 1986年

http://blogs.masoyama.net/?eid=61

【書評】ルー・テーズのバイブル”Wrestling”(1926年)



JUGEMテーマ:格闘技全般

さて、この度の震災では極真関係者も色々尽力を尽くしており、義援金や支援物資をまとめて与野党に渡したり、また、独自で物資を被災地に運んだりと見えない所で活躍されている様です。 この辺りは全国組織を持つ団体の強みだと思いますが、分裂していなければもっと効率良い支援が出来ただろうなぁと思います。
あれから3週間も経過してしまうと、直接被害に関わっていない地域では過去の話になってしまうでしょうが、過去の震災と比べても非常に大きな支援を世界各地から戴いております。 しかしそれが被災者に行き届かないというのは政治の怠慢なんでしょうかね。 何せ震災後、いや震災中にいきなりド素人のボランティアを募集する様なのが今の日本政府ですしねぇ。 国民の為にお金を使おうと言う気が無いんでしょうか、この丸投げ内閣は。

まぁ、私の政治的主張をやり過ぎると本家大山倍達総裁の連載「拳の眼」になってしまうのでさておき、金曜日は新社会人が街に溢れていましたね。 お昼時はどこもかしこもリクルートスーツ姿の集団が見受けられました。 当ブログは年齢層が高そうなのでそう言った若い方はあまり見ないでしょうけど、頑張って下さい。
では本編。


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ここに古びた一冊の本がある『レスリング』というシンプルな題名のもので、発行は『サンドウ&ルイス・ライブラリー』とある。 発行されたのが'26……すなわち、いまから丁度60年前の本である。 ルイスとは、有名なヘッドロックの鬼、”絞め殺し”エド・ストラングラー・ルイスのことであり、サンドウとはビリー・サンドウという、ルイスのトレーナーだった男のことである。
(中略)
…テーズは、『レスリング』を取り出して、
「これは、私がルイスに弟子入りした……そうだな17か、18の時に、ルイスから手渡された本でね。 世界チャンピオンになってからも大切にトランクの片隅に入れていたもんさ。 ルイスが世界チャンピオンだった頃に、彼がプロ・レスリングのサブミッション・ホールドを、一つ一つ写真入りで解明したもので、当時の私達にはバイブル(聖書)的な本だったんだよ」

と、プロレス評論家の流智美氏がまだ「週刊プロレス」の増刊号扱いだった「格闘技通信」の第2号に寄稿した記事を読んだ時から、この本に興味がありました。


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エド・”ストラングラー”・ルイス

しかし1926年の本、「レスリング」…正式名というかシリーズ名”The Sandow-Lewis Library”を日本で入手するのはほぼ不可能です。 その為長年この事について失念していたのですが、2008年になって復刻される事となり、今私の手元にある訳です(何かそれ以前にも再版されてたっぽいですがw)。
流氏が1冊と書いていたのですが、実は8冊あり、復刻版では3冊に纏められています。 まずはいつもの様に目次から行きましょうか…と思ったのですが、目次が無かったのでとりあえず各本のタイトルを。


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”The Sandow-Lewis Library”(全3巻/復刻版)

Volume I: Fundamentals of Health, Muscular Development, Wrestling
Volume II: Essentials of Physical Development
Volume III: Muscular Development by Kinetic Stress Method(Part One)
Volume IV: Muscular Development by Kinetic Stress Method(Part Two)
(再販ではここまでが”Physical Conditioning”として1巻になっている)
Volume V: Self-Defense
(再版ではここまでが”Self-Defense”として1巻になっている)
Volume VI: Wrestling(Part One)
Volume VII: Wrestling(Part Two)
Volume VIII: Wrestling(Part Three)
(再版ではここまでが”Wrestling”として1巻になっている)

この内、流氏がルー・テーズから貰ったという本はVol.VIIですね。
それでは、各巻についてさらっと解説。
Vol.I~IIは、ストレッチやこれはちょっと以外でしたが、腹式呼吸法について詳しく取り扱っていました。


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腹式呼吸法



そしてVol.III~IVは所謂チューブトレーニングと、これはちょっと面白かったですね、ヘッドロック・ダミーという鍛錬具による絞め技の鍛錬等があります。 以前本書の著者であるエド・ルイスがリング上で顔の描かれたボールみたいなのにヘッドロックしている写真を見た事があるのですが、この本に載っているダミーだと云う事を知りましたw

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ヘッドロック・ダミー(中にスプリングが入っている)


次はVol.V、護身術です。 ルイスは第1次世界大戦で兵士たちにこれを指導したと、本書にはあります。 ではその内容はと云うと…のっけから対角棒、対銃となっています。 その後に素手になっているのですが、普通は逆じゃないかなぁ。
柔術の本は1904年頃から海外で出版され始めていたので、結構影響を与えている様な気がします。 最も、1674年にオランダで書かれた護身術教本には柔術に良く似た動きがありますので、行き着くところは皆同じなのかも知れません。


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1674年にオランダで発売された護身術教本

興味深いのは、普通の裸絞めのみならず、コートの襟を使った絞め技や指、手首を極める技術でしょうか。


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襟絞め

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首絞めへの対処法


巻末には”Go-Behind”というビリー・サンドウが戦時中に兵士に指導したテイクダウンの技術が載っていました。


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”Go-Behind”


最後にVol.VI~VIIIのレスリング。 エド・ルイスのレスリングは、後にUWFやその支持者によって半ば伝説化された感じがしないでも無いですが、”Catch-As-Catch-Can”というスタイルです。
19世紀の末頃にアメリカで流行っていたグレコ・ローマン・スタイルをあっという間に駆逐して一気に支持を得たのがキャッチ・スタイルで、グレコとは違い腰から下へのホールドが許可され、決着はフォールとギブアップのみの為、結果が分かりやすくスピーディだった事が人気の秘訣だった様です。 また、時の大統領セオドア・ルーズベルトもホワイトハウスでレスリング試合を行い、”精力的な生活”の一部に欠かせないと推奨してたそうです。 柔術の話を以前書きましたが、この大統領は本当に武術が好きなんですねぇ。
このランカシャー・スタイル・レスリング(1870年代にイギリスから輸入された、キャッチの基礎)とラフ・アンド・タンブル(武器の使用以外は全て有効で、目玉をえぐり出すのが最も効果的だとされたルール。 後に各地で禁止され比較的マイルドなルールに変化した)、カラー・アンド・エルボー(襟と袖を持つ、所謂ジャケット・レスリング)のテクニックと柔術を融合させたアメリカ産のキャッチ・スタイル・レスリングが生まれるきっかけとなったのは、どうやらウィリアム・マルドゥーンというグレコ時代のチャンピオンが日本から来たソラキチ・ハマダと交流を持ったところに行き着く様ですが、私の専門ではありませんのでこの位にします。 要はこのキャッチ・スタイルで頂点に立ったのが本書の著者であるエド・ルイスです。


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本書の中でも誇らしげにキャッチは”American Style”だと書いており、ヨーロッパから来たグレコ・スタイルのチャンピオンや、柔術チャンピオンを撃退したと書かれていますね。
さて、技術的な部分を見て行きましょうか。 投げ技よりも、固め技、絞め技、関節技が中心となっています。 現在のアマレスでも見られる様な、柔道で云えば横四方固めの形で首と足を抱え込んでロックする技術や、これは流石と云うべきか、フルネルソンからクォーターネルソンまで、首を固める技術が沢山ありますねぇ。


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とにかくバックポジションを取ってからの技術が豊富です。 そうそう、返し技やエド・”ストラングラー”・ルイスの代名詞となったヘッドロックも複数ありました。 それからポジショニングも色々と書いてありましたね。


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5種類目のヘッドロック


様々な武術を研究するのは、自身を向上させる為にも重要だと思います。 今回紹介したキャッチ・スタイルは古流に該当する武術ですが、たまにはこう云うを研究してみては如何でしょうか?


という事で、かの”鉄人”ルー・テーズに、
「全盛期のエド・ルイスにシュート・マッチで勝てるかといわれたら……自信がない」
と言わしめた、エド・ルイスの技術書を取り上げてみました。
日本では、日本の古流武術に対しての研究は物凄いのですが、海外の古流レスリングに関しては殆ど知られていません。 まぁ、当然と云えば当然なんでしょうけど、エド・ルイスと同時期に活躍したアド・サンテルの様に、日本へ来て講道館に挑戦状を叩き付けたキャッチ・スタイルのレスラーもいたんですから、もう少し知られていても良い様な気がします。 あ、この事を扱った本もその内レビューしたいですね。 あれは面白かったです。
そういえば以前修斗で活躍したアメリカのエリック・パーソンという選手がいた事を憶えていらっしゃる方もいるでしょうが、この方は現在こういった古流レスリングの研究もされている様です。 その内総合で見られる様になるかも知れませんね。
私の専門は「極真空手」なので、こちらには詳しい方だとは思いますが、他の空手や武術に関してはさほど詳しくありません。 その為、この記事でも間違いがあるかと思いますが、ご指摘戴ければ訂正致します。
それでは、また。

参考文献:
Graeme Kent, A PICTORIAL HISTORY OF WRESTLING, The hamlyn publishing Group Ltd., 1968
Billy Sandow and Ed "Strangler" Lewis, The Sandow-Lewis Library: Physical Conditioning, Paladin Enterprises, Inc., 2008
Billy Sandow and Ed "Strangler" Lewis, The Sandow-Lewis Library: Self-Defense, Paladin Enterprises, Inc., 2008
Billy Sandow and Ed "Strangler" Lewis, The Sandow-Lewis Library: Wrestling, Paladin Enterprises, Inc., 2008
週刊プロレス増刊号 NO.176 格闘技通信 NO.2 ベースボール・マガジン社 1986年
リングサイド プロレスから見えるアメリカ文化の真実 スコット・M・ビークマン著 鳥見真生訳 早川書房 2008年

http://blogs.masoyama.net/?eid=165

【レビュー】黒崎健時著 「私は見た! 昭和の超怪物」 (1989年)



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さて、今回はウチに検索して来られる方の多い黒崎健時先生の著作「私は見た! 昭和の超怪物」をレビューします。


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タイトルだけ見ると学研ムーブックスみたいですよね。 でも基本的なテーマは怪力でその名を馳せ、数々の有名格闘家にウェイトトレーニングを指南して来た若木竹丸先生についてです。 つまり若木先生を指して「昭和の超怪物」と言ってる訳です。
若木先生については一度その著書をレビューしていますので、そちらをご参考下さい。 それでは序文を紹介しましょうか。



たいへんな人物がこの世に出たとき、その人は、十年に一人の天才だとか、二十年に一人の怪物だとかの言葉で賞賛を浴びる。 こうした言葉にしたがって、私が若木竹丸先生を呼ぶならば、それは「一世紀に一人出るか出ないか」の大傑物であると断言できよう。 今後ふたたび、力技界に先生のような人物はおそらく出ないと思う。
私はこうした人物に出会い、教えを乞い、意見を交わす機会にめぐまれた。 そしておのれの幸運に多いに感激した。 このような経験は、私にとっても初めてのものだった。
私はこうしたすばらしい経験を自分だけのものにするのではなく、本書を通じて読者、とくに日本の未来を担う若い人たちと共有したいと思った。
若木先生の本当の姿の何分の一かでも知ってもらえれば、それは何十冊ものトレーニング書を読むことより、はるかに大きな意義があると思う。 そして自らの稽古に大いに参考となろう。
志と目標、情熱と執念、創意と工夫……。
これらを身をもって示したのが若木竹丸先生である。 先生の経験とその運動精神を学ぶことこそ、我々がいま背負っているさまざまな問題や困難を解決するための入口であると、私は考えている。
しかし、偉大な天才も結局は普通の人間であるに過ぎない。 若木竹丸がやったことを我々がやれないことはないのである。 いや、絶対やらねばならない。 それは若木先生その人が説いていることなのである。

平成元年 初夏

黒崎 健時



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ついで目次。

第1章 鉄人は一朝一夕にしてならず
「こころ」の貧困
やる気を持つ
ときには動物になれ
まず汗をかけ
おのれを燃焼せよ
好きこそものの上手なれ
迷いを持つな
大胆にかつ謙虚であれ
繰り返すことで慣れる
肉体を全開する
身体で考える
常識を越える


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第2章 若木怪力法の秘密
超怪物・若木竹丸
若き先生との出会い
怪物の人となり
ボディ・ビルダーと若木竹丸
若木先生とボクシング
若木先生と柔道
若木怪力法と大山倍達、木村政彦
身体づくりに賭けた情熱
創意と工夫こそ若木怪力法の真髄
時と場所と手段を選ばず

第3章 若木怪力法から何を学ぶか
若木先生とその時代
精神と肉体の統一
努力の過程を知る
孤高の精神を学ぶ
苦を楽にする
まず基礎体力をつくる
「科学的トレーニング」に異議あり
時間を有効に使う
一流になる条件


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第4章 対談・若木竹丸&黒崎健時
サンダウ伝記との出会い
ボクシングにおける体づくり
初めて語る相撲歴
努力と工夫で記録を伸ばす
強くなるのは本人の気持ち次第


要約すると第1章は黒崎先生自身の体験から精神、肉体論。 第2章からが若木先生の評伝とそのエピソードに見る教訓等、そして第4章が対談です。
当ブログ的にまず目に付くのは第2章の「若木怪力法と大山倍達、木村政彦」でしょうが、先にボクシングと柔道のエピソードから。


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渡辺勇次郎


1931年頃、若木先生は当時目黒にあった日本拳闘倶楽部(日倶)に入門しようと出掛けると、早速リングで手合わせする事になります。 当時20歳だった若木先生ですが、既に4年近く身体を鍛えており、2年ほど前からはボクシングを学ぶ日を思いボクシングの為の鍛練を行っています。 そこで既に現役を離れて久しいとは言え「日本ボクシングの父」と呼ばれる渡辺勇次郎会長(当時44歳)が実力を試した所、パワーで勝る若木先生が圧倒してしまい、道場破りの様相を呈して来ます。 次に当時鳴り物入りでプロに転向したばかりで無敗だった徐廷権氏が若木先生に挑みますが、徐氏も何回もダウンを喫してしまいます。 ちなみに徐氏はこの翌年には世界バンダム級6位となる逸材でした。 他にはアマでウェルター級チャンピオンだというS氏も問題にならなかったと言います。 残念ながらこの噂がボクシング界に流れてしまい、他のジムでも断られてしまい、ボクシングの選手になるのは適いませんでした。 その後若木先生はこの様に話しています。

「もし私がタイソンと同年代に生まれていたら彼とやりたかったね。 身体は僕の砲が小さいけれど、負けない気がする。 実際私はどんなパンチがきたって大丈夫だと思う。 それがたとえタイソンのパンチであってもね」

柔道に関しては村田与吉三段(当時)や専修大学柔道師範の芦野博五段、後には木村政彦と言った強豪が怪力法を学びに来ており、村田三段には怪力法を教える代わりに柔道を学んでいました。 特に寝技にはかなりの自信があったとの事。 そこで若木先生は講道館に赴き、段を取りたいと申し出ます。 有段者が数人現れ何段を取りたいのかと聞くので、こう答えます。

…若木先生は「四段を何人負かしたら五段になれますか」と尋ねると、彼らは「君は何段ですか?」と言うので、若木先生は「私は級も段も持ってはいない」と答えた。
彼らは若木先生の頭がどうかしていると思ったのか、「そんなことは許されない」と言い、それ以後若木先生を相手にしなくなったという。

さて、黒崎先生は大山倍達総裁の話にも言及します。

私が師事していた大山倍達先生も、おそらく若木先生からトレーニングのヒントを得ていると思う。 だから「大山空手は空手じゃない。 ボディビルだ」という批判をする者もいた。 しかしこうした批判は「若木怪力法」の本当の姿を見ていないから言えるのである。
(中略)


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大山先生も、最も重要なのは、「力」、ついで「スピード」、第三に「技」と言っている。 これは、筋力、パワーがいかに重要かを説いたものである。 大山先生が世界的な格闘家となって活躍できたのも、不断のトレーニングによる体力づくり、パワーアップをはかったからである。
じっさい大山先生は、自分が世界を股にかけて活躍できたのも、バーベル・トレーニングによる鍛練の賜物だということを言っている。 まことに正しいトレーニング法だったわけだ。
また「木村の前に木村なし。 木村の後に木村なし」といわれた不世出の柔道家、木村政彦氏もまた若木トレーニング法の実戦者だった。

そして黒崎先生は若木先生から何を学ぶべきか、こう結論付けています。

若木先生から何を学ぶか。 それは結局のところ「執念」なのではあるまいか、と私は考えている。
強くなりたいという執念こそが、若木竹丸を創り上げたのである。 そして強くなるためには人の十倍、二十倍の練習を積むのは当たり前だと考える。 若木竹丸の本質はここにあると思う。 そして私はこの考え方がたまらなく好きだ。


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他人と同じ時間だけしか練習しないが、より短時間で効果を出そうという考え方を、私は否定する。 いや短時間で効率を求める考え方は必要なのかもしれない。 運動の効率性を私は否定しない。
しかし短時間で人の二倍、三倍の効果があるならば、人よりもっと練習すれば、二十倍、三十倍の練習をやったことになるのではないか。 こういう考えを持たなければならない。 若木竹丸こそ、まさにこの考え方を実践したのである。
だからこそ、若木先生は一流になったのである。 はたから見るとバカバカしいことでも、当然のようにやった。 そうした努力の積み重ねだったのである。

最後の第4章は黒崎先生と若木先生の対談ですが、互いに謙遜したり、時に噛み合ってなかったりと色々面白いですが一部だけここに書き出します。


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黒崎 では、パンチの強さはどのようにして作ったのですか?
若木 そうですネー。 私の場合一番大きな役割をはたしているのはプロン・プレスとショルダー・ブリッジという二種目の寝差しですね。 ベンチプレスは後に出て来ましたが、私には今似てベンチ・プレスなど必要としません。 もちろんベンチ・プレス結構ですよ。 両方共ボクシングのパンチ養成には有効なものとは思いますが、ベンチ・プレスなるものは常にヒジを両脇より下げて行うものであるため、両脇で止めるプロン・プレスやショルダーブリッヂの方がどうしても相手にパンチを送る速度が早くなり、距離も近くなる。 なにしろ相手の顔面にいかに早くパンチを送るかが問題ですから。 一瞬早く相手に届くプロン・プレスやショルダー・ブリッヂの方がボクシングでは有利であることは考えるまでもありません。
格闘家を志すならプロン・プレスかショルダー・ブリッヂをやればいいのです。 猫もシャクシもベンチ・プレスで、特に外人がやってるから優れてるとでも思ってるのでしょう。
黒崎 そりゃー分かりますが、それならベンチ・プレスでやる時に両肘を両脇より下げなければいいわけでしょう。
若木 勿論そうなります。 でも、それならわざわざベンチの上でやる必要もないと思います。 大体格闘技は床の上でやるものでしょう。

***

黒崎 理にかなっていますね。 では、一つお聞きしますが、先生が考える、ジャブを強くするためのバーベルでの差しかたなんかありますか。
若木 ハイ、これは僕独特のものですが、寝差しで二~三十回はワンセットで楽に差せるバーベルを使用します。 そのバーベルを途中まで差して止め、それを出発点としてそれから先だけのトレーニングをやるわけです。 それも出来るだけ早く突き出すのです。 あるいは、三分の二まで差し、そこで止め、後の三分の一だけの差しを早差しするわけです。 それもジャブ同様の早さで。 始めはちょっとぎこちないですが慣れると楽にできます。 ただ、一つ注意すべき点は、早く突き出せるようになった時、シャフトが手から離れでもしたら大変ですから、紐を輪にしてシャフトに結び、手の甲や、手首にひっかけておくと安全です。

***

黒崎 日倶へ行った時のことですね。 入門しに行ったのですが、結果は試合ということになりましたね。 門を叩く前に先生なりの心構えが何かあったと思いますが、いかがでしたか。
若木 これはきっと黒崎先生と同じだと思うのですが、万が一、戦うことになれば、相手がさーこいと、十分に構えているところに飛び込む先制攻撃ですね。 もちろん、この先制攻撃も間合の取りかたが問題ですが……。
黒崎 強靱な肉体を持っていれば「打たれても痛くないんだ」という自信の裏づけになるわけで先生の考えは大変理にかなってますね。 ところで日倶へ行って実際にボクサーと戦ったわけですが結果はどうだったのですか?
若木 渡辺勇次郎氏や徐廷権氏等と戦かった時、彼等が打ってきたパンチはまるで体にこたえなかった。 反対に僕のパンチが入るたびに彼等をはぶっとびました。
黒崎 そうでしょうね。 先生の太い腕でブロックすれば、相手のパンチなどきかないでしょうし、その力で打てば相手は確実にすっとんだでしょう。
若木 それについて先生に一言いっておきたいことがあります。 と申しますのは、渡辺勇次郎氏が私と戦った時は氏が現役を引退して十年もたった時で、全盛時の力は勿論無くなった時だと思いますし、また、徐廷権氏は私と戦った翌年、世界七位になったとはいえ、フライかバンタムという軽量でした。 だから渡辺氏が引退十年後もなお指導していたとはいえ、もはや昔日の面影はなく、僕の方が強かったからとて自慢にもならないし、ましてや当時の私より三階級ばかり下の軽量級の徐廷権氏など負かしたからとて何の誇りにもならないことなのです。 (中略)


徐廷権.jpg


徐廷権


ところで、私が渡辺勇次郎氏や徐廷権氏を相手に彼等を問題にしなかったという事が知れ渡りますと、ボクシングの専門記者達が騒ぎ出して、最初にその記事をベースボールマガジン社発行のボディビル誌に載せた小島貞二氏などは、今後この様な記事は書かないでもらいたいと言われた様です。 ところが、しばらくして徐廷権氏が日本に何か用事で来ました。 そこで記者が渡辺氏対私、徐氏対私の拳闘での件を問いただした様です。
それから何日かして小島氏からこんな葉書が私宛てに送られて来ました。 その葉書の後半に……いま徐廷権が日本に来ていて、中村金雄さんが「プロボク誌」の記事でインタビューしたそうですが、例のあなたの一発でのびた話は、きいても向こうが話題を外らしたそうです、今でもショックなのでしょう、取材記者よりききました。 ……と。

***

黒崎 先生が目的のために無我夢中でやっていたことが、自然に限界を伸ばしていったわけで、自分の持っている一〇〇パーセントの力、時にはそれを超えるような力を毎日出していったのでしょう。 苦しい時も何度かあったでしょうが、それを、歯を食いしばってやってったからこそ、超怪物の体づくりができたのですね。 想像しただけでも夢中になってトレーニングしている姿は大変楽しいですね。
ところで、苦しい時にはどんな工夫をされて乗り切りましたか?
若木 人は誰れかが見ていると一生懸命やりますね。 それは私とて同じです。 でも私の場合、見てくれる人は一人もおりません。 ですから、練習で疲れてくると、かならず仮想の相手を作るわけです。 次第に運動が苦しくなって来た時にですね、こんなことを考えるんです。 まず最初に私が持ち上げて、次は仮想の相手が持ち上げることにするのです。 その間、私は休むのですが、キチッと心の中で時間を計って、仮想の相手が終わり、次は自分の番という具合いにします。 最高に苦しくなったら、仮想の相手をもう一人増やして、三人で競いあうようにするんです。 さあ、こんどはお前の番だという様にして。 相手がいれば苦しいなんて思ってられないですから。


という事で黒崎健時先生の「私は見た! 昭和の超怪物」でした。
若木竹丸先生との対談ではインタビュアーに徹するというちょっと珍しい一面が見られますね。 色々と面白い話をされているのですが、残りは直接ご覧になって下さいw
ところで徐廷権氏とのスパーリングですが、記録を見ると若木先生と対戦した年の4/20がデビュー戦で、大体毎月2~3回試合を行っているのですが、8月だけは全く試合がありません。 正確には7/23~9/16まで試合が無かった様です。 という事は…7月末か8月中に対戦したのかなぁと思ってたりします。 徐氏の当時の実力は、デビュー戦から翌年の8/11に負けるまでに32戦23勝9引き分けという記録を打ち立てていますので、体重差があったと言っても若木先生の実力は本物だったと思います。
それでは、また。

参考文献:
Masutatsu Oyama, What is Karate? EVERYONE CAN PRACTICE KARATE MYSTERIES, Tokyo-News Co., 1958
ゴング1月号増刊 日本名ボクサー新100人 日本スポーツ出版社 1983年
私は見た! 昭和の超怪物 黒崎健時著 スポーツライフ社 1989年

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戸隠流忍術はインチキ流派 捏造流派である

http://blogs.masoyama.net/?eid=451#sequel

さて、戸隠流ですが、「武芸流派大事典」(初版)ではその伝承について疑問を呈してますw 曰くこんな感じ。

高松寿嗣が、大正後の忍術読物の流行を利用して新しく編成した系譜である。 戸田真竜軒の口伝による伝承という。 戸田真竜軒(一心斎)は明治十三年に七十三歳にて死去。 高松はそれより四年後の生誕。
(中略)
…しかし、その系譜は、諸伝の資料や口伝を参照して、潤色を加えた点が多く、文献上実在の人物も、実際より年代を古くしているなど、なかなか苦心の労作である。


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系譜上では、戸田真竜軒の次が高松寿嗣、という事になっているんですね。 この辺りも疑惑の対象になってるという。

ちなみに当時誰も知らなかったという初見先生伝の骨法(堀辺正史先生の伝では無い)の系譜を見ると、玉虎指頭術から玉心流骨法、本体玉心流(出雲流骨法)、義鑑流骨法、虎倒流骨法と分かれたそうです。 大山倍達総裁の著作にも骨法の話は出て来ますが、これは多分森川先生から聞いた話じゃないかな、と思います。
元々森川先生と大山総裁はご近所さんだったんですよね。 それでかなり親しかったそうですから、色々な話をしたんでしょう。 森川先生も様々な武道家に取材を通じて知り合いながらも、当代一流の武道家であると大山総裁を讃えており、亡くなられるまで親交がありました。
今回はこれまで。 それでは、また。

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拳の眼 さんより 史上最強の柔道家 木村政彦ネタ

http://blogs.masoyama.net/?eid=280#sequel

【古記事】木村政彦「柔道日本一だった頃」(1967年)



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さて、ロンドンオリンピックも終わりましたし、今回は1967年の「文藝春秋」に載った木村政彦先生の寄稿文を紹介します。


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これが書かれたのは、世界柔道選手権でオランダのアントン・ヘーシンクやウィレム・ルスカが3大会連続で金メダル(無差別、重量級など)の他、64年の東京オリンピックでも金を奪取しており、日本柔道の凋落が嘆かれた頃でしょうか、当時の柔道家の不甲斐なさを叱咤する内容となってます。
それでは、どうぞ。









妙な質問だが、と前置いて、人からよくきかれる。
「現役時代のあなたなら、ヘーシンクとやって勝てたろうか」
と。 勝てる、と私は答える。 自信をもってそう答える。 単なる強がりではない。 私はいろいろな柔道家をみてきた。 彼らと戦ってもきた。 その系列にヘーシンクをはめこんでみる。
見きるという言葉がある。 相手の実力を、戦う前に見てはかる。 私の物差しではかってみたとき、ヘーシンクはどうか。
なるほど戦後に現れたどの柔道家より、おそらく彼は強い。 しかし戦前には、その彼を優に上まわると考えられる猛者が何人かいた。 古くは栗原民雄、野上智賀雄、牛島辰熊、私と同時代では中島正行、広瀬巌、くだっては平野時男……。
ヘーシンクを最強にしている現在のレベルそのものが、昔にくらべて落ちている。 いまの大将、副将クラスは昔の先鉾とどっこい、いや下手をするとそれよりも劣るのではないか。 それほど水準が落ちている。 いたずらに"昔はよかった"式のことを、私はいっているのではない。 昔はそれだけのことをした。 稽古量においても精神のもち方においても、柔道の打ちこみ方がいまとはまるで違っていた。
ニッポン柔道の危機が叫ばれている。 私にいわせれば、なるべくしてそうなったのである。 いまの柔道はあまりにスポーツ化しすぎている。 たとえば一流と称される選手のからだつきをみてみよう。 ほとんどがデブデブに肥満している。 彼らに一日の稽古量をたずねてみるといい。 大抵が二時間前後と答える。 適度の運動である。 レクリエーションである。 ふとるはずなのだ。
昔はゼイ肉なんぞつくひまもないくらい、しぼりにしぼったものだ。 デブデブに肥満した一流選手のからだつき――それがいまの柔道のあり方を象徴している。 からだつきだけではない。 精神のもちようにおいても弛んでいる。
さきごろ日本選手権をとった岡野が、世界選手権試合でソ連のサンボ上りの初段に逆手をとられ、"参った"をした。 肩胛骨を痛めたという。 なんというザマであるか。 なぜ折れるまで頑張らないのか。 絶対に負けない、ましてや弱音を吐かない――それこそがチャンピオンというものである。
過日、柔道七段で評論家の長沼弘毅氏が、朝日新聞のコラムで私のことをこう書いておられた。
「(木村は)昭和十二年に優勝してから十二年間、立ってよし寝てよし、完全不敗の常勝将軍で押し通していた。 ぼくは、こんにちまで、木村君のような柔軟で変り身が早く、一瞬の隙をも見のがさず、大技小技をぶつけていく選手を見たことがない」
過褒のお言葉である。 これを見た編集部の求めに応じて、日ごろ感じていることの一端を述べてみる気になったのも、いまの柔道があまりに歯がゆいからである。 昔の柔道はどうだったのか。 少しく思い出話を許していただきたい。

入門初日に仮死状態

小学四年のとき、ふとしたいたずらがもとで、教師から折檻を受けた。 散々に殴られ、柔道で十五、六回も投げ飛ばされた。 全身アザだらけ、フラフラになって家へ帰った。 自分も柔道をおぼえて、その教師を投げ返してやりたいと思った。 それが私が柔道を始めたきっかけである。
翌日、木村又蔵という人がやっていた道場に入門した。 海軍上りの柔道三段とかいう人だった。 この人が私をつかまえて、
「手初めにカッポイうってやろう」
という。 いきなり和つぃの上に馬乗りになって首を絞める。 たちまち私は仮死状態におちこんだ。 気がついて立ち上ると、目がまわってフラフラする。 咳が出る。 この咳が一週間ぐらい止まらない。 頸動脈を絞めるべきところを、どうやら又蔵先生、気管を絞めたらしい。 私の根性を試したにしても、実に荒っぽい入門テストだった。


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鎮西中学時代


私が育った熊本は柔道の盛んなところで、中でも鎮西中学の柔道がつよかった。 私はその鎮西中学にひっぱられた。 学校で稽古したあとは町道場へ通い、一日に五時間くらい稽古した。 父の仕事は河川での砂利の上げ下ろしで、それを小さいときから手伝うことで私の腰は自然つよかった。
中学四年のとき、私は四段になっていた。 この年の全国中学柔道選手権で、鎮西中学は優勝した。 決勝戦の相手は京都一商。 タックルの上手な学校だった。 サッとタックルして相手に尻もちをつかせ、あとはダニのように喰いついて固めてくる。
私は講道館の本にはない腕がらみを工夫していて、飛びこんでくる奴の手を逆にとる。 ボキッと音がして、最初の相手は病院へ。 それから向うはタックルができない。 私は三人抜いて優勝をきめた。
東京の大学から私を勧誘にきた。 早稲田、慶応、明治……ほとんど全大学からきた。 鎮西中学の先輩に、牛島辰熊という人がいた。 いまの野球少年が長島、王に憧れるように、そのころの柔道少年はみなこの人を目差していた。 全日本の選手権を二度とり、警視庁、学習院の指南をしていた。 私はこの人に師事することにした。
私は牛島家の住みこみ書生になり、拓殖大学予科へ通った。 牛島先生の家は赤坂台町にあった。 毎朝一里ぐらい走らされたが、特に月の初めの日は、目黒の不動さんまで先生を先頭に書生一同十名ぐらいで走る。 そして不動の滝に打たれながら合掌する。 この行事は、四季を問わなかった。
牛島先生から、私は背負い投げ、大内刈り、寝技をひきついだ。 そのころ警視庁に大谷晃という人がいた。 中学のころ、私の評判を聞いてやってくる講道館や武専の専門家とわたり合って、私は五分の戦いをしていた。 で、上京にも相当の自信をもっていたが、この大谷先生には子供のように投げられた。 世の中には強い人もいるものだな、とただただ驚かされた。 五尺二、三寸で二六、七貫。 肥満体にみえるが、鍛えに鍛えてゼイ肉はない。 背が低いから重心が安定している。 岩のような人だった。 この人から背負い投げ、足払い両方、左右釣りなどを習得した。
拓大予科一年のとき、全国五段選抜リーグがあった。 これに出場した私は、警視庁の猛者・大沢貫一郎に投げ飛ばされ、脳震盪をおこした。 ついで武専四年で当時は東京で敵う者がないといわれた阿部謙四郎に、思うようにふりまわされて敗れた。

真夜中の打ちこみ

翌日、私は荷物をまとめていた。 故郷へ帰ろうと思ったのである。 そこを牛島先生の知人に諫められた。 これからやらなくてどうする、というわけだ。 発奮した私は、その日から稽古量を倍にした。
六時に起床。 庭掃除をすませてから空手の稽古。 麦わらの束を相手に手刀で突いたり叩いたり、手首打ち、ひじ打ち……左右それぞれ三十分間やる。 これで指、手首、ひじを強くする。 朝食をとったあとは警視庁の稽古に参加。 これが午前十一時ぐらいまで続く。
ついで学校へいき、授業を夢うつつに聞いたあと、午後二時ごろから学校の道場で稽古をする。 これが約三時間。 つぎに町道場――満豪開拓義勇道場にいき、ここで二時間。 帰宅して夕食をとり、腹が落ちついたところで腕立て伏せ連続千回やる。
汗みどろになったところで風呂屋へいく。 途中の坂道を利して、ウサギとびで何度も登ったり下りたりする。 風呂に入る前に一日の稽古を反省してみる。 部屋に帰ってから、今度は鉄亜鈴を一時間。 そこで床に入り、午前一時ごろに起きる。
真夜中は精神統一ができる。 そこで庭の松の木に打ちこみを千回。 つまり松の木を仮想の敵として、これに技をかけるのである。 幹に巻いた麻縄をつかみ、木に向って背負い、釣りこみ腰、大外刈り、足払い……得意の技をかけてみる。 人間が相手なら、それなりの実力しかでない。 根をはった木を投げる気持の技なら、人間なんぞ軽いものになる道理だ。
幹に、裸の腰をもっていくと、すり傷がつく。 この傷をみれば、腰が下から入ったのか上から押したのかがわかる。 上から腰をもっていったのでは、技がきかない。 下から入って押し上げるようにしなくてはいけない。 傷をみながら、自分の技を固めていく。 幹にチョークで線をひき、その下を狙って腰を入れていく。 腰にチョークがつくようでは、まだいけない。
大外刈りの刈り足は、木を相手ではそのスピードがわからない。 で、後方にローソクを十本ほど並べておき、刈り足の巻き起す風がローソクの火を何本目まで消すか。 そんなテストを重ねて、刈り足にスピードをつけていく。 相当にスピードがついたと思うころ、講道館にいって試してみる。
かかるわ、かかるわ。 面白いように相手が倒れる。 それも足を真上に頭から落ちる。 受身ができない。 で、一日に脳震盪をおこすのが五、六人でる。 のちに日本選手権の決勝戦で、相手に大外刈りの予告しておき、その通り大外刈りできめたことがある。 それも真夜中にやった努力と工夫のおかげだった。


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柔道家にはガニ股がつきものである。 しかし、これでは重心の移動が完全ではない。 真直ぐに足がでない。 それに気付いてから約四ヶ月、日常生活の最中にも注意をし、とうとう私は自分のガニ股を矯正した。 いまでも私は真直ぐに、いく分すり足で歩く。 妙な歩き方だが、柔道にはこれが一番いい。
大事な試合が近づくと、三ヵ月前から酒と煙草を断つ。 セックス・コントロールにも意をくばる。 禁欲がすぎると夢精をする。 これはどうにも精神を萎えさせる。 意気すこぶるあがらなくなる。 で、試合の十日前に、玉ノ井か亀戸にいって、心いくまで放出する。 次の日から新たなる精力を貯めていくわけだ。 ちなみに当時の吉原は、玉ノ井や亀戸の倍のお金がかかり、貧乏書生には無縁だった。

関節と脊椎がよわい

帰郷を思い止まってから一年、私は拓大対警視庁の試合で、大沢貫一郎を今度は逆に思うさまあしらった。 ついで講道館へ稽古にきていた阿部謙四郎をとらえ、羽目板に十数回叩きつけて溜飲を下げた。 このときの稽古は両者とも熱して、喧嘩みたいだった。 私が公式戦で負けたのはこの二人だけ。 あとは何百試合とやったが、負けを知らない。
昭和十二年に最初の日本選手権をとった。 このときに当った中島正行、これはつよかった。 生涯の相手のうち、一番手ごわかったと思う。 互いに壮絶な技の応酬となり、数段低い場外に落ちること数度。 頭はコブだらけ、体はアザだらけの凄い試合だった。 もっとも印象の深い試合である。


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拓大時代


十五年の天覧試合での優勝は、学生生活の最後を飾るものだった。 このときに当った広瀬巌、これもつよかった。 彼は戦後に醍醐を投げている。
十七年に応召、内地勤務の防諜隊だった。 軍隊生活にはこんな思い出がある。 同僚をかばったのが古兵にみつかり、腕立て伏せをやれといわれた。 これなら得意だ。 一時間やれといわれた。 これなら得意だ。 一時間やれといわれたのを一時間半やった。 さすがに床が汗で濡れた。 生意気だと思ったのだろう。 古兵が木銃で私の尻を打った。 瞬間、尻の筋肉を固くしたので、木銃がはねかえった。
「この野郎、立て」
立ったところへムチが飛んできた。 とっさに空手の構えで防いだ。 それを見た古兵が逃げ出した。 本気で手向かうとみたのであろう。
戦後は熊本でしばらく石炭商をした。 ある日のこと、私が橋の上で立ち小便をしているところへ、六人アメリカ海兵隊員が通りかかり、私を咎めた。
「何が悪い」
と口答えする私に、彼らは殴りかかってきた。 えたりやおう、六人をことごとくノックアウトしてやった。 それが縁でアメリカ海兵隊に柔道を教えることになった。 MPが私のことを調べて教授を依頼してきたのである。
私が柔道を離れた二十五年ごろから、柔道界は石川隆彦、ついで醍醐敏郎―吉松義彦の時代を迎えている。 私はすでにこの三人を破っていた。 石川を投げたのは十五年の天覧試合の決勝で、開始後四十二秒の大外刈り。 醍醐と吉松はそれぞれ二十二年と二十三年、生活に追われてロクに稽古も出来ないまま試合に臨み、問題にしなかった。
こうして手前ミソを並べるのも、柔道のレベルが年々おちていく様子をいいたいからである。 私は五尺六寸で二十二貫。 決して大きくない。 最近では百九十センチで百十キロなどというのがザラにいる。
たしかに体は大きくなったが、いまの連中は関節と脊椎がよわい。 すぐに腰椎ヘルニアをおこす。 柔道にもっとも大事な握力と背筋がよわい。 見てくれはいいが、なかみがうすいのである。 加えて稽古量が足りない。 さらには精神力において欠ける。
たとえば私が教えている学生に、夜中に起きて木に打ちこみをやれとすすめる。 出来ない。 なぜか、ねむくてダメだという。 少々殴ってみても、もうひとつ気合いが入らない。 これはどういうことなのだろう。
オリンピックを前にして、ヘーシンクを倒す会とかいうのに招かれたことがる。 天理大の道場で稽古するヘーシンクを、柔道界の幹部や一流選手がとまいて見ている。
「見ているだけじゃなく、候補選手は出ていって彼とやってみたらどうか」
と私はいった。
「いや、大事な持ち駒だから、稽古でやられたとあっては希望がなくなる」
というのが幹部の答えだった。 最後まで候補選手は稽古に出なかった。
「本番に勝機をつかむための稽古じゃないか。 そんなことをいっていると、負けるぞ」
私はそういった。 結果はその通りになったのである。 このときの稽古に、八幡の古賀というのが出ていった。 内股の切れ味で鳴る選手である。 古賀は盛んに内股で攻めるが、ヘーシンクは一向に動じない。 そのうち、
「ちがう、ちがう」
といいいざま、古賀に内股の手本を教え始めた。 これが面白いようにきまる。 内股で鳴らした古賀が内股で投げられている。 次つぎに挑戦する日本選手を散々に投げとばしたヘーシンクは、鼻歌を歌いながらひきあげていく。
〽なにがなんでも勝たねばならぬ。
村田英雄の「王将」だった。 そのうしろ姿をみながら、私は口惜しいともなんともいいようのない思いにかられた。

要は気力の問題なのだ

私の考えでは、柔道はスポーツではない。 武道と心得るべきである。 小器用な技の応酬でこと足れりとするものではない。 日本刀で人を斬るには、脳天からツマ先まで斬りさげるほどの迫力がなければならない。 柔道の技も同じこと。 生死を賭けた争いと心得るべきである。 負けを考えてはならない。 そういう心構えで、日ごろの鍛練がおこなわれるべきなのだ。
いまの柔道はあまりにスポーツ化している。 さらにいえば、投げ技にかたよった講道館ルール一本やりではなく、昔の高専大会のような固め技を自由に許すルールの大会もあっていいのではないか。


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いまの選手は総じて持ち技の数が少なすぎる。 内股なら内股一本やり。 これではせっかくの技も死んでしまう。 私ならヘーシンクに、いろいろ技を休みなくかけてみる。 オリンピックのヘーシンクをみながら、私はここであの技、あそこでこの技……スキをいくらでもみつけることができた。
ヘーシンクの巨体に、日本人はついにかなわないのか。 かつて私が倒した松本安市、伊藤徳治らはヘーシンクに負けない体軀の持ち主だった。 その彼らが私より小さく見えたものである。 要は気力の問題なのだ。
努力と工夫いかんで、ヘーシンクを倒すことも可能なはずである。 あの巨体の一瞬のスキを捉えて、ヘーシンクをみごとに横転させるほどに自分を鍛えてみようとする若者はいないのか。 やればやれるはずなのだ。
人間は死に臨んだとき、一生を振りかえってみるときく。 そのとき、精一杯に生きた、という確信がもてなかったら、さぞかし淋しいだろう。 私には、精一杯に柔道をやった、という思いがある。 自分のすべてを柔道に賭けてみようという若者は、当節、いなくなったのだろうか。


という事で、木村政彦先生の記事でした。
長らく世間から忘れられていた木村先生ですが、この頃は海外勢の躍進に「あぁ、木村政彦がこの場にいたら…」と嘆く柔道家がいたんでしょうね。 翌年、翌々年と立て続けに自伝や技術書が刊行されています。
しかし記事を読むと、さり気なく、これ書いていいのかなぁ? 的なのがチラホラありますねw 今ならカットされそうな記述とか。
前にTwitterでも書きましたが、同じ空手、柔道を学んだ大山倍達総裁と木村先生の最大の違いに、手首に対する考え方というのあります。 大山総裁は手首を柔らかくしたい派で、巻藁を相当やり込んだ修業時代を経て、巻藁をやり過ぎると手首が固くなるから良く無いと言います。 一方の木村先生は、巻藁を突いて手首を固くする事を推奨しています。
この違いは何でしょうね? 結局の所、木村先生はどこまでも柔道家で、手首を取られるという発想が無かったのかな。 大山総裁は型でも転掌をよく見せていましたし、古い技術書では手首を柔らかく使う技術が多く載っています。 道着の襟でも掛けて(引っ掛けて)おり、握る事に否定的でした。 まぁ、開手型の多い剛柔流を学んだのと、大東流に触れたのが直接の要因なんですかねぇ。 順序や理解度は違えど、両者とも空手、柔道、ボクシング、レスリングと日本と欧米の打撃、組技と学んだのにこういう違いが出るというのは面白いと思います。 でもどちらも握力を誇るほど鍛え込んでるんですよねw
それでは、また。

http://blogs.masoyama.net/?eid=142#sequel
【古記事】”鉄人”木村の秘密(1954年)



JUGEMテーマ:格闘技全般


という事で、先週増田俊也先生の「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」を読んでいたので更新しませんでした。 まぁ、今回は…何度か便乗してますがw それにちなんで、1954年の木村政彦と力道山が対戦した日本選手権大会のパンフレットに載っていた記事を載っけてみます。
で、記事後にちょっと書こうかな、と。


木村力道戦パンフ.jpg


”鉄人”木村の秘密
●ブラジルでの”真剣勝負”物語●


白崎秀夫





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"木村の前に木村なく、木村の後に木村なし"とは、筆者が勝手に云い出した古臭い形容句であるが、しかもなお、充分に真実の重みとひびきだけはもつ。 二十才、五段にして握った全日本の覇権を、プロに転向する迄の満一二年間他に譲ったことがなく、数百回の試合中敗れたのは三回のみ、というような選手は柔道史上空前であり、又恐らくは絶後であろう。 柔道や相撲、拳闘などの格闘競技はもちろん、他の競技でもこれほど永い生命を保ち続けた選手を求めるとすれば、フィンランドの長距離走者"超人"ヌルミやテニスのチルデンの他に、格好な誰の名を挙げることができるであろうか。 まことに、かっての木村こそは無数の遊星群を従えて自転する、柔道界の燦たる太陽であった。
"だが君、今日の力道山とのプロ・レスの試合を前にして、過去の柔道選手としての木村の強みを称賛したところで仕方がないじゃないか。 裸でやるプロ・レスと柔道じゃまるで要領が違うんだから" というような声がそちこちから聞こえそうな気がする。 御説、まことに御尤もである。 しかし、従来の日本に於けるプロ・レスの試合から、木村の実力の全貌を誰が正確に測定できるだろうか。 のみならず、競技の性質から見ても、プロ・レスラー木村の実力の殆どが柔道に負うことが確かである以上、もう少し木村の柔道について語ることをお許し願いたい。


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木村の天分を発見し、以後十年殆ど寝食を共にして、彼を"不敗の鉄人"に仕立て上げたのは、往年の全日本選手権保持者で全身これ闘魂、寝業の名手として雷名一世に鳴った牛島辰熊氏であった。 牛島氏が少年木村に稽古をつけながら「強くなれ、強くなれ」とイガ栗頭に涙の拳骨を揮ったというのは有名な逸話である。 されば木村の柔道は牛島氏のそれに似て、天賦の膂力に物を云わせた強引無双の大外落し、一本背負等に攻めて攻めやまず、立業で取れぬと見れば忽ち寸分の隙から寝業につけ込んで得意の腕がらみ(プロレスで云うリスト・ロック)絞め、抑え込みにうち取り、終始一貫ひた押す重戦車の如く相手に攻勢をとらせる事のない壮烈なものであった。 因みに記録に表れた彼の極め技は、腕がらみ最も多く、大外落し、絞め、抑え込み、一本背負という順序になっている。
二十五年木村はプロ柔道に転向したが、翌廿六年渡米、プロ・レスラーとして米国各地に凡そ百五十回転戦敗れたのは数回だけ、とは彼自身の語るところである。 だが、その記録の内容については断片的な米誌の紹介以外の資料をもたぬ筆者としては、何ともこれを許すことが出来まい。


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木村政彦の試合広告


たゞ、二十七年山口等と共にブラジルに渡った際、南米一円に勇名を轟かすNO・1エリオ・グラッシィと演じた、"真剣勝負"については、充分資料もあるので御紹介したい。 大体ブラジルには明治三十五年頃移住したコンデ・コマこと前田光世六段の柔道を今なお承え伝えて、南米を訪うプロ・レスラーや柔道家に挑戦する一派があることは、石黒敬七旦那お得意の海外武勇伝にも明らかな通り。 彼らの"柔道"たるや徹頭徹尾寝技を主にしたもので、柔道着も上衣が上膊をほんの僅か蔽うだけ、ズボンと膝まで、"真剣勝負"のルールをいえば、投げても抑え込んでも勝にはならず、首でも脚でも逆は一切お構いなし、試合時間無制限、一方が"参った"の合図をするか、ノビてしまうまで闘うという凄惨きわまりないものである。


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木村がエリオに挑戦したのは、一行中の加藤五段が先ずエリオの挑戦を受けて、邦人の集結地サンパウロで邦字紙サンパウロ新聞主催の元に闘ったところ、見るも無残な敗北を喫してしまったからだ。 血の気の多い邦人がサンパウロ新聞社に押しかけて日本のNO・1木村との決戦を迫たてやまなかったのである。 不測の事故を憂慮して首都リオの大スタジアムに移された会場には、カフェ副大統、日本在外事務所々長らを初め埋め尽す観衆三万五千。 数百名の武装警官が厳重警戒を布く中に、エリオふたゝび勝つか、木村よく後輩の復讐をとげるか、何れを勝つにしても相手を不具者にするような負傷を与えねば納まりそうもない、鬼気迫る勝負は開始された。
六尺有余のエリオ・木村の立業を極度に警戒しつゝ低く構え、自若して立ち向う木村と睨み合いしばしやがてエリオ、豹のように木村の膝もとにフライングタックル。 尻もちをつく木村の足をとって、得たりと逆に行かんとすれば木村もとより寝業は望むところ、忽ちハネ返してもみ合い数分、ついに馬乗りとなるやエリオの首を両手に抱えながら金剛力に首も頭も抜けよ、砕けよと烈しくマットに叩きつける。 さすがのエリオ、早くも頸椎を痛めて弱りながらも、必死の膂力をふりしぼって木村の体をハネ返そうとする一瞬、木村十八番の腕がらみ、忽ちに極ってギクッと異様な音。 みるみる全身の力が抜けて蒼白になつるところを、エリオの弟タオルを投げ込んで、木村の勝、この間七分四秒であった。 エリオはそのまゝ病院に担ぎ込まれ酸素吸入で蘇生はしたが、全快までに五十余日の入院を要したと伝えられている。


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当日の試合ルール


だが、さて、筆者には今日の力道山との勝負を予想するなどということは到底できない。 第一には、今日用いられてる従来の"国際ルール"なるものを双方選手やレフェリーが如何に運営するか、ということで勝敗は左右されるであろうからであり第二には、先にもふれたように、筆者が木村と力道山の実力を比較するに足る根拠を持ち合わせていないからである。 それゆえ、相手は何せよ三十才三十貫今を盛りの力道山、三十七才二十四貫の木村では体力的に適うまいという常識論にも筆者は何ら反対するものではない。 仮に木村の実力の絶頂時を二十五才天覧試合優勝当時とすれば既にそれから十二年経ち、又力道山との体重差六貫というのはいかなる格闘競技、例えば柔道に於いても対等に試合するための限界を超えるものであるから。 さりとて筆者は、この説に無条件に参加するものではない。木村の体には、割合人に知られていない左のような秘密もあるのだから。
木村の心臓には、昔から著しい結滞がある。 トントンと二つ打って一つ休み、又トントンと打つ。 このため、渡米中にもドクターから試合出場を止められたことも一再ならずあったが、やがてその結滞は何万人に一人しかいない異常に強健な心臓に表れる症状であることが証明されたという。 異常な心臓は、恐らく異常な彼の強さの一つの理由であったのであろう。
今春のシャープ兄弟と力闘した際にも、彼の皮膚だけには殆んど汗の流れるのが見えなかった、これが理由でもあろう。
最後に、筆者は関係者並に観客各位に切望したい。 彼らに勝敗の帰趨にのみ心を奪われることなく、本日の試合を従来のアメリカ直輸入版のプロレスから、日本的な伝統、日本人の民族性に、よりよく合致した、真剣でフェアなプロレス日本版への発展の、意義ある契機とせられんことを。


えー今回も興味深いですね。 白崎秀夫は白崎秀雄先生ですね。 何度か増田先生の本にも出ています。 その白崎先生が「木村の前に木村なく、木村の後に木村なし」と言い出したとか。
それから石黒敬七先生がこの時点で既にグレイシー柔術を紹介していたらしいという事。 これは是非読んでみたいですね。 ちなみに1956年に石黒先生が出した「柔道世界武者修行記」には、コンデ・コマの話はあってもそこから先の事は書いていませんでした(バッとチェックしただけなので、見落としの可能性有り)。
んで、木村政彦先生の心臓の秘密。 増田先生も書いて無かったし、今は忘れ去られた逸話かも知れませんが、あの寝る間も惜しんでの猛稽古を支えていたのは、この心臓にあったと断言する人もいたくらいでした。 自伝とか読んでいても分かるのですが、とに角疲労からの回復が、異常なほど早いんですよね。

で、増田先生の本の中で、大山倍達総裁と一緒に渡米した遠藤幸吉氏の発言。 色々と反論したいので書いてみます。
と言っても既に当ブログで回答しているので、アレなんですが…。
まず、遠藤氏の、

大山のあれは嘘。 ぜんぶ嘘。 大山はあっちでプロレスなんてやってない。 私は見たことがない。

これは新聞資料により事実で無い可能性が高いです。 以下が1952年当時の記録より判明した巡業日程の一部。 この頃、グレート東郷、大山倍達、遠藤幸吉の3人で東郷ブラザーズというトリオを組んで巡業していました。

5/5 ・コウ東郷 対 ジェリー・ミーカー
・グレート東郷 対 ジム・ドビー


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遠藤幸吉の試合記事


5/6 ・マス東郷 対 ジェリー・ミーカー
・グレート東郷 対 イワン・ラスプーチン



大山倍達の試合記事


日程を見れば分かる通り、5/5にコウ東郷(遠藤幸吉)が対戦したレスラーと その翌日にマス東郷(大山倍達)が対戦しています。 一緒に行動していて知らない事は無いでしょう。
で、遠藤氏とG東郷が仲違いして途中からハワイに渡った、とありますが…じゃあこれがいつの話か。 遠藤氏は「大山倍達とは何か?」の中でこう語っています。

ーーいやあ、まいりましたね(笑)。 じゃあマス大山と一緒に行動してたのは、何ヶ月ぐらいなんですか?
遠藤 5カ月か半年近くだね。

えーと、大山、遠藤コンビがアメリカ本土に着いたのが、4/2頃です。 遠藤氏の発言から最短で見積もると、9月頃までは一緒に行動していたという事になりますね。 で、遠藤氏が言うには、その後大山総裁とG東郷は2~3カ月ぐらい共に行動したと。 ところが、大山総裁は7/22に米本土を発ってハワイへ、そして9/16にハワイ発の客船で帰国しています。


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大山倍達の帰国を報道する記事


じゃあ、遠藤氏はいつ別れたかと言うと、当時の大山総裁の手紙によれば、7/15、ハワイの新聞によれば7/17に米本土を発ったとあります。 …つまりはLAで別れるまで、皆一緒に居たって事ですね。
ついでに言えば、木村先生はLAで東郷ブラザーズと会い、真逆の事を聞かされています。

まあ、 いっちゃなんだけど、 プロレスのほうじゃ遠藤は”芸”も下手だし、商売にあんまりならなかったけど、 『大山君のほうがテレビでカバーしてくれたんだ』 ってグレート東郷がいってましたね。 それで遠藤君には 『もうお前、 そんなにいうなら日本へ帰れ』 と、 『この辺で別れよう』 といったんだそうですよ、 東郷がですね……。 東郷が 『ずいぶん困ったもんだ』 といってね、 『負けるのが嫌だ』 ちゅうてね」

人の感情ってのは複雑な物ですねぇ。 誰だって自分が良い立場に居たいものです。 ついでに、遠藤氏が事実を語っていないと思われるので、1953年の「週刊サンケイ」を否定するのは短絡過ぎるかと。 大山総裁の記録を証明する物が何も無いとするならば、遠藤氏の証言を証明する物も何一つ無いのだと言う事です。

それから最後に…これはTwitterにも書きましたが、大山総裁が語っていた明大柔道部の「末木」、これ、初出は1974年に出版された真樹日佐夫先生の「空手バカ一代 マス・大山 血闘十番勝負」です。 まぁ、試合の中身はまるで違うんですけどねw 以下引用。

とはいえ、曾根康造自身は講道館での指導のほうに忙しく、同道場の事実上の責任者は師範代格とされていた。 その男の名は、末木といった。
末木はまだ学生の身で、N大柔道部の主将の座にあった。 絞め技の威力には特に定評があり、学生柔道界の雄としてその名前だけは門外漢であるマス・大山の耳にもとどいていた。

色々書きましたが、この「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかった」のかはメッチャ面白いです。 レビューはもう沢山の方が書いておられますので、書きませんが、ウチのブログなんかに興味のある方にはオススメです。 またその内、復讐に燃える木村先生の「柔道チョップ」の記事でも書こうかなぁ…。
それでは、また。
http://blogs.masoyama.net/?eid=138#sequel

【レビュー】木村政彦著「基本動作と技の変化 柔道教室」(1985年)



JUGEMテーマ:格闘技全般

さて、今週は木村政彦ラッシュなので、木村政彦先生の本のレビューをしようかと思います。
尚、私は柔道経験が皆無に等しいです。 学校でも柔道じゃなく相撲をやらされましたし。 まぁ、UWF全盛時に柔道やってた友達と乱取り紛いな事を学ランでやってましたがw
やる機会は無かったものの見るのは好きで、期待されていなかった頃の野村忠宏氏のオリンピック優勝を予想してたりしましたねぇ。 ちなみに柔道漫画は「帯をギュっとね!」が一番好きですw


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それでは本編。 今回は1985年に柏書房から出版された「基本動作と技の変化 柔道教室」という本ですね。 木村先生の本でも最晩年になりますかね。 ベースボールマガジン社から出版された自伝「わが柔道」と同じ時期に刊行されました。 表紙は山下泰裕先生と斎藤仁先生の全日本柔道選手権大会の1コマです。
本書の狙いについては序文で木村先生自身が語っておられますので、ちょっと書き出してみますか。


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本書は、このような観点のもとに私が柔道入門以来、牛島辰熊先生、故大谷晃先生初め、多くの指導者の教えを貪欲に吸収し、成長しながら、一方あらゆる試合に出場して対戦した達人、錬士の抜群の技を研究し、これを打破する工夫に腐心しながら自分なりに心血を注いで体得した技や数々の大試合で実施し成功した実戦的技術を選び、文章による表現力の不足を嘆息しつつ解説を試みたしだいである。
実戦に勝つことを目的とし、自己の体位、体質に最も適した技術を創意工夫した点、先達の諸先生が著述され世に出た幾多の解説書と多少相違する点もあるかと思われるが、その点はあらかじめ了解いただきたい。

それでは、恒例の目次から。


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第一章 投技編 1
■投技の基本動作
1■姿勢 2■組み方 3■体の移動 4■八方崩し 5■受身


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■手技の練習
1■体落 2■背負投 3■一本背負投
■腰技の練習
1■払腰 2■跳腰 3■釣込腰 4■移腰 5■腰車 6■腰技の受け方
■足技・捨身技の練習
1■出足払 2■送足払 3■支釣込足 4■払釣込足 5■大外刈 6■大内刈 7■小内刈 8■小外刈 9■内股 10■巴投

第二章 寝技編 2
■寝技の基本動作
1■寝技の入り方 2■寝技返し 3■帯取り返し
■抑込技の練習
1■袈裟固 2■肩固 3■上四方固 4■縦四方固 5■横四方固


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■関節技の練習
1■腕緘 2■十字固 3■腕固 4■膝固
■絞技の練習
1■十字絞 2■裸絞 3■送襟絞 4■片羽絞 5■三角絞 6■立ち絞

第三章 技の連絡変化
1■投技の連絡変化(自分)→(自分) (相手)→(自分)
2■寝技の連絡変化

【付録】講道館柔道試合審判規定

では投技編の解説から。

柔道の投技には、相手を倒す際に最も使用する体の部分から手技、腰技、足技の三つの部門に分類される。 しかしながら、これらの分類は便宜上のものであって、たとえば、手技である背負投を施す場合にも左右の手の引き、腰、さらには相手を跳ね上げる下半身のバネなどが一体となって相手に働きかけてこそ投げることができるものであって、決して一部分のみによって効果が得られるものではない。
それ故に技の習得法としては、打込練習において、まず相手を投げる方向を見定め、それに対して自分の正しい手の引き、または腰の位置、足の払いなどを理に従って反復作用させることである。


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興味深いのは背負い投げの説明で、肘関節や腰椎を痛めがちなので、背負いの技術が向上したら同系統の一本背負いに転向を勧めているところでしょうか。 そして一本背負いでは大きい選手が一本背負いを使わない事に不満を抱いている模様です。 長身の外国人と対戦する時は自分より長身になるのだから、弱点となる腰の線を狙う一本背負いが必要になる、と解いています。

そして木村先生の代名詞、大外刈りです。

大外刈は、相手の右足に重心が乗るように引き崩して自分の右足をその外側より出し、後方から強く刈り倒す技である。 この技が本当に効果をもたらしたときは、相手は受け身をするのが困難で、後頭部を打ち、脳震盪(のうしんとう)を起こす場合がある。 また、半身に倒れても直ちに体側に入り、抑込に連絡することもできる。
ここで解説する大外刈は、筆者独特の技であり、したがって、他技と左右の引き手、刈り足の方向が異なっているので注意されたい。


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●上達を図るための単独練習
①左足親指の上に体の重心が乗るようにして一歩進め、さらに右足を左足に添って踏み出す。 重心が崩れないように道場、または道路を歩く練習をする。
②刈り足を強くするために右手で軽く柱につかまって片足で立ち、右足を伸ばしてできるだけ遠くを刈る。 この場合、刈り足が上にあがらないように畳と平行に刈ることが必要。 この動作を一日千回ずつ行う。 また、大外刈りは刈り足が重要な役割を果たすので、足の力を試すため、後方に火をつけたローソクを何本か立て、刈り足のまき起こす風でローソクの火を何本消すことができるか試してみるのも方法である。

寝技編では章の始まりでこの様に書かれています。

寝技も投技と同様に抑込技、関節技、絞技の三つに分類される。 抑込技は相手を上部から常に渾身の力を込めて抑えるのではなく、抑込技の中でも最も一般に使用される崩上四方固を例にとれば、抑え込んだ相手がのがれようとして力を出すその瞬間、極度に力を込めて相手の力を制圧するのが要領。 相手が力を封じられ、初めの状態にかえったときは、自分も共に幾分力を抜き元にかえる。 このように相手の意図を事前にくじくことが大切である。
また、関節技は相手の肘関節に苦痛を与えて参らせるもので、その代表とされるのはテコの原理に従った腕緘(うでがらみ)である。曲げる角度によっては小さな力で大きな力を容易に制圧することができるが、少しでも違えば、いかに力を出しても徒労に終わる場合がある。 そのために相手が苦痛を訴える急所や角度を熟知することが大切。


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寝技の達人であった木村先生らしく、寝技の入り方だけでも6種類、入る際の足の抜き方や寝技の返し方もちゃんと抑えています。 また三角絞めのところでは高専柔道の事に触れていますね。


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戦前、高専柔道華やかなりし頃、相手を制御する最も巧妙な技として駆使され、その奥義をきわめた幾多の名手が輩出されたものであるが、最近に至ってはその妙技に接することができないのは柔道発展のためにまことに残念である。 ぜひともこの技を工夫、研究して活用したいものである。

最後に技の連絡変化という項目がありますが、これはコンビネーションですね。 自分が仕掛けて堪えた場合と、相手が仕掛けた際の返しを説明されています。


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という事で便乗してみました。 冒頭で木村政彦ラッシュと書きましたが、今週はまず辰巳出版のプロレス誌「Gスピリッツ」の21号に木村政彦先生のプロレスラー時代の海外遠征記録が特集されるそうです。 9月28日発売との事。 そして30日は増田俊也先生の「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」が発売、ちょっとした木村政彦ブームになっている様ですね。
木村先生の「わが柔道」も値段が高騰している様で、Amazon価格で5000円(文庫版も同様)を超えていました。 亡くなられた後は文庫版にもなっているのに、ちょっと異常な値ですねぇ。 昔は中古で300円くらいからあったので、私も手元に3冊くらいありますがw まぁ、今回紹介した様な技術書や「鬼の柔道」なんかは元々1万以上はしていましたけど。
以前書いた木村先生と塩田剛三先生の対談や木村先生が大山倍達総裁について語った記事にアクセスが集中している位ですから、木村政彦という英雄に何か惹かれる人が多いのかも知れませんねw
それでは、また。

参考文献:


http://blogs.masoyama.net/?search=%CC%DA%C2%BC%C0%AF%C9%A7



【古記事】 塩田剛三と木村政彦の対談(1987年)



JUGEMテーマ:格闘技全般
前にも書きましたが週末は家にいないので、平日にちょっと記事書いてたりします。

今回は「ゴング格闘技」の2011年7月号で最終回を迎えた、増田俊也先生の連載「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」に便乗し、達人として名高い合気道養神館の創始者塩田剛三先生と、最強の柔道家と謳われた木村政彦先生の対談記事を紹介したいと思います。 雑誌「フルコンタクトKARATE」の1987年12月号に掲載された物ですね。
それでは、どうぞ。


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ーーお2人は、拓大時代の同級生だとお聞きしましたが。

塩田 当時の拓大ではね、俺と木村ともうひとり空手の福井の3人が拓大三羽烏と呼ばれていたんだな。
木村は人見知りする方で、福井とは口を聞かなかったが、俺はなぜか木村とも福井とも気があって、2人とつきあっていたんだ。

木村 福井はそんなに強かったか。

塩田 福井は、中山正敏さんや高木正朝さんと拓大に初めて空手部を作ったんだね。 ケンカは強いが、クセがあって柔道や、合気道はどうってことない、と言っていた。 じゃ、やってみようと俺が受けて、2人で体育館でやったんだ。 右の正拳突きから右の前蹴りを狙ってきたんだが、サッと左へよけて右腕で拳をはさむようにして左腕で、福井の右肘をたたいたらポンと飛んでいった。 奴は、肘をしばらく痛めてね、それで当時無名だった合気道を修行していた俺も三羽烏の仲間に入れさせてもらったんだ。(笑)


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木村 塩田は俺と腕相撲で勝負したこともあった。 いや、強かったな。 俺は身長170センチで85キロだったが、塩田は154センチで47キロだった。

塩田 木村は、10回やって10回負けたとどっかでしゃべってたが、実際は3回やって初めの2回だけ俺が勝ったんだよ。 もっとも、3回目は手を抜いたけどな。(笑)

ーー塩田先生は、何か特別な鍛錬をしていたんですか。

塩田 いや、合気道はね、体によどみを作らないために筋肉を鍛えてはいけないんだ。 しかし、若い頃はそんなことわからないから、植芝先生に隠れて鉄アレイを持ち上げたりして、見つかるとよくおこられた。 しかし、若いうちは体に力をつけたいと思うのは自然で、理屈はあとでいいから、とにかく目一杯稽古してればいいんだ。
(中略)
朝5時から夜9時まで目一杯やったよ。 若い頃はそういう時期が必要だと思う。 ここにいる木村なんか”稽古の鬼”だったんだ。 有名な”3倍の努力”という言葉があるけど、彼は本当にそれをやり通した。

木村 まあ、人と同じように寝てちゃだめだね。 昭和15年の天覧試合の前は毎日10時間半はやっていたから寝る間はなかった。
大学時代は、朝4時半に起きて、牛島先生の塾生だったから、掃除をして、そのあと巻きワラを左右千回ずつ突く。 巻きワラを突くとね、親指の握りがしっかりとするしね、腕や肘や、引きつけるときの手首も強くなる。
それから警視庁に行って10時頃から稽古する。 1時間ちょっとぐらいかな。 それから拓大で3時間くらいやって,講道館で夜の6時頃からやって、8時から11時までは深川の町道場でやった。


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木村政彦


ーーそれで稽古は終わりですか。

木村 いや、家へ帰ってきて食事をしてフロに入ってから独りで稽古をやった。 腕立て伏せをまず千回、それからボディビル、80キロのバーベルをベンチプレスで600回挙げる。 これだけで1時間くらいかかった。
それから、もみじの木に打ち込みを千回。 ものすごい太いもみじの木にね、柔道の帯を巻いて打ち込みするんだが、毎日千回もやってるとすぐ切れちまうんだな。 金がかかってしようがない。(笑) それでロープを持ち出してやってた。
それから大外刈りの稽古。 当時、警視庁と講道館で、俺が大外刈りをやると、1日平均10人脳しんとうを起こしていたので、稽古のときは使ってくれるなと言う。 これを聞いて奮発してね。 よし、脳しんとうではおさまらないようにしてやろうと思ってね、大外刈りの研究を徹底してやることにした。
(中略)
こんなことをやってると、夜中の2時頃になってしまう。
しかし、これですぐに寝てはダメだ。 人間は寝たら死んだのと一緒だ。 人が死んでも、自分だけは生きている稽古をしようと。 そういう訓練をすれば勝負に効果があるんじゃないかと思って。 体をつねって、寝ない訓練をする。 朝の4時頃までね。 いつも、朝の一番列車が通って、”あー、夜が明けるな”と思っていた。 一睡もしないときの方が多かったな。 でも、それには、秘訣があってね、学校で寝てた。(笑)

塩田 あんたは授業中いつも寝とったな。 木村が我々のクラスにいたから、誰も落第しなかった。 ケツから押し上げてくれたから。

木村 ふとんの中で、寝ないでいると1日の稽古の状況が頭の中に浮かんでくる。 だいたい100人くらいの人間と1日稽古をしたが、次から次へと人間が出てきて、あのときかけた技はこうで、どうだったか、というのが出てきて、技をかけた瞬間がストップモーションになる。 それでこの技は、いいとか悪いとかわかる。
(中略)

塩田 まあ、今の若い人間にそれだけ稽古をしろと言っても無理だろうな。
今の柔道の連中じゃ、木村にはかなわない。 今やらしても、山下や斎藤あたりはコロンコロンやられるよ。
大外刈りひとつとっても、切れが違う。 今のような体力の競い合いじゃなくて、木村は技で投げていた。 どんなでかい奴でも、一発でふっとんでいたからな。


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塩田剛三

木村 俺はね、大きい相手とやると、これは投げやすいと思う。 日本人で百キロもある奴は、しまっていないからだ。 稽古不足だからこいつは脂肪がついていると思ったんだ。

ーー木村先生から見て山下や斎藤は稽古不足ですか。

木村 さー、技術面から見ると、真からその道を研究しているようには思えないな。
(中略)
柔道をやるとガニ股になるため、左足を踏み出すとき、どうしても開きぎみになる。 これゃいかんというんで、俺は歩き方を変えた。 爪先をまん前に向けてスッスッと歩くんだ。 だから、普段歩いている時でも、足サバキの稽古になった。
力を一点に集中しないと、上体の力で投げることになる。 だから今の柔道じゃ相撲には勝てないよ。 本当は相手がでかければ、それだけくずしやすい。 体重があるから、ちょっとくずせば自分の体重がかかっていく。

塩田 今の柔道にはくずしが無い。 だから階級制になって、小さい者が大きい者を倒すことができなくても良くなっている。

木村 柔道のとらえ方が違う。 俺らの頃は、相手が突いたり蹴ったりしてきても対応することを考えた武術だった。
勝負には勝つか負けるかしかない。 山下が遠藤とやったときも、あの試合はハッキリと山下が負けていた。 試合開始直後に遠藤が山下にカニバサミをやって倒したが、なぜ引き分けで延長なのか? カニバサミが禁止技なら遠藤の反則であり、OKなら遠藤の勝ちだ。
試合の結果は一生ついて回るものであり、主催者のルールの解釈で選手の勝敗が左右されるのはおかしいんだ。
私らの頃は、試合はそのまま勝負だった。 雌雄が決するまで40分間、全日本の決勝で戦ったこともある。
俺は、試合で敗けることは死ぬことと同じだと思った。 その覚悟でやっていたから、試合では1度も敗けたことはなかった。

塩田 死ぬと言っても、死に直面したことのない人間には、その覚悟もわからんよ。

木村 この前、拓大の総長がね、「木村さん、あなたは死んでも物事をやりとげると言いましたけど、死んでしまったら元も子もないじゃないか」と言うんだ。 私は、この人は武道を徹底してやったことがない人だと思った。 私が言いたいのは、本当に死ぬ覚悟があれば、訓練の度合いが違うんだ、ということだ。

塩田 頭で理解してもらおうとしてもダメなんだ。 命がけっていう言葉は簡単だけど、それを実行に移すには自分を無くさにゃいかん。

木村 そうだ。 本当に無くなるからね。 死ぬというのは、どういうものかと思ってね、自分が試合に負けたら死んで見せるという気持ちを見せるとはどういうことかと思ってね、短刀を机の上に置いておいたんだ。
(中略)
本当に死ねるかどうか、ある時、ウーッと自分の腹に短刀を刺して見た。
(中略)
よし、あとは短刀を引っぱれば自分はいくな、と思った。 そこから先は気合だからね。 一気に引けばいい。 そのときに安心した。 よし、自分は本当に死ぬことができると確信を持った。

塩田 真に迫ってる、木村政彦って男は本当に大したもんだよ。 そこまでいけば恐いものは無い。
拓大もすごい男を出したもんだ。 木村のような武の神髄を極めた男を出した大学は拓大以外にない。 拓大はもっと誇りを感じるべきだな。 東大なんて知識だけだからな。(笑) 頭じゃなく、実際に自分を捨てて体験する、体得ってことはなかなかできないんだ。

木村 塩田も、命がけを何度も体験してるんだろ。 当時はいろいろあったからな。

塩田 命がけねえ……。 まあ、もう昔のことだから話してもいいだろう。
(中略)
それまで、合気道の練習をしてても自分が強くなったかどうかわからなかったんだが、日本を発つ時、先生が、「塩田はん、あんたはもうどこへ行っても負けんから」と言ってくれた。 それでも自信はなかったんだが、この事件をきっかけに、死に直面したとき、いかに自分を捨ててしまうかを学んだような気がする。
日本へ帰ってから、日本全国の警察予備隊に指導に回ったが、1度もおくれを取ったことはない。

木村 命を捨てるっていえばね、俺は本当に自分の命を捨ててしまったような不思議な経験があるんだ。
(中略)
稽古に行ったとき、学生が82名もおってね、全員が猛練習していた。 当時は強かったんだ。 高等師範といえば。 よろしくお願いしますって言ったら道場に上げてくれてね、かかり稽古だ。 俺が学生選手権をとったもんだから、こいつをブッ倒せって相手は向かってくる。 こっちは投げられまいと必死だ。 膝でも着いたら一本になると思ったからね。
1人5分でやって、70人目くらいかな。 やってるうちに気が遠くなって、それでも奮起してやってたら意識不明になって、前のめりにブッ倒れた。 しかし、自分の体は動いてるんだな。 気を失ったけども攻防の技術を尽くして戦っている。 それから自分がどこに行ったのかわからない。 見ると、高等師範の学生が15人くらい集まって、道場の片隅で何か見てるんだ。 俺は稽古をしながら、あいつら何を集まって見てるんだろうと思って、ソーッと見ると、誰かが長々とノビている。 上からのぞいて見ると、アッ俺じゃないか。(笑)
ノビてる俺の顔を見ると安心立命だね。 本当ににこやかに寝ている。 その寝姿がいいんだよ、本当に魅力的に感じた。

塩田 どっちが現実なんだろう。

木村 それがね、どっちが本物かと思いつつ俺がここにいるなら死んだのは誰かなと思いながら稽古は終わった。
人間っていうのは、死ぬ寸前、霊界に行く前にね、何かがあるんじゃないのかな。

塩田 よく死ななかったな。

木村 7時間ぶっ続けだからな。 一度も膝を着かなかった。 もうろうとしていたが、帰るときには鼻歌を歌いながら帰っていったら、みんなびっくりしていた。(笑)

塩田 今、木村が言ったように、霊というか精神力の驚異を俺も目のあたりにしたことがある。
(中略)
肉体は滅びても精神は向上せにゃならん、というのが、先生の考えだったから、だから”ワシが昇天する前が一番強い”と先生は言っていたが、それも証明する話がある。
先生はガンで亡くなられたんだが、死の数日前、もう骨皮スジエモンになっているのに、いきなり「稽古しよう!」と布団からハネ起きた。 絶対安静なものだから屈強の内弟子が止めようとすると、4人とも家の中から庭先までブン投げられたんだ。
木村がさっき無意識で戦っていた話をしたけど、それは合気道の極意でもあるんだ。

ーーお2人の達人に、一般の人がどのように稽古すれば、その極意に近ずけるのか、そのヒントを教えて下さい。

木村 むろん稽古するしかない。 しかし、今の人にただ稽古をしろっていったってダメだろう。 ムダな稽古はしたくないだろうしな。 ただし、これだけは知っておくといい。 稽古には段階があるんだ。
始めは強くなろう強くなろうと思って稽古をするけど、それじゃ芸がない。 ある段階になると、人はまわりの人から強く思われたいんだ。 強いところを見せたいから相手を投げたい。 でもそれじゃダメだ。 自分はどういう技をマスターしたいのか、その意志をはっきり持ったら、相手から投げられようが、どうしようが関係ない。
俺は大外刈りにこだわってきたから、負けても大外刈りだった。 その技をマスターしようと思ったら、初心を貫徹する。 稽古で裏を取られてカーッとなるんじゃ、せっかくの技が我流で固まってしまう。 そこで、今まで研究したもんが何もならなくなる。

塩田 基本だよな。 基本を身につけないうちに絶対にその先に行けない。
俺が植芝先生に教わったときは、毎日何を教わるのかわからなかった。 ものすごい高度なことをやる日もあれば、翌日は基本的なことをやる。
今、自分が合気道を指導する立場になって自分の経験から数少ない基本を取り出して、まずそれを徹底して身につけさせるようにしてる。

木村 俺が独りで練習してるときも、ほとんど基本の繰り返しだった。
でも、ある程度のところまで行ったら、伝統的な型をそのまま反復するだけじゃなく、その動作の持つ意味を理解しなくちゃいけない。
どこに相手を投げるか、こっちに投げるか、投げる方向が違ってくると、それによって手の引きとか腰の落とし具合が全然違ってくるんだよね。 ここに投げるんだと決めれば、それに対する手の引き、腰の位置、脇のしめ方、腰の入り方が決まってくるわけ。 それを今の人は研究せず、昔の型をそのまま繰り返している。 人間は背の高い人もいれば低い人もいる。 それによって、技も変わってくるんだ。 理論を理解できないと、その人にあった技を研究することはできない。

塩田 技を徹底して体に浸み込ませれば、あとは相手に対しても自然に技が出る。 木村が無意識で戦ったというけど、それは徹底して技を体に浸み込ませた上でのことだ。 ああして投げてやろう、こうして投げてやろうと思っているうちはダメだ。
おそらく木村のような達人は無意識にやってるんだろうけど、合気道では、それを呼吸力と言う。 力でない力、相手に併せて自然に出る力だ。 リズムといってもいいね。
呼吸は3種類あって、「吸う」、「吐く」、「止める」がある。 吸う息は相手を誘うが、吐くときは極限の力を出すとき、止めるときは瞬発的な動きをするときなんだが、この3拍子に、中心線を合わせる。 どんなときでも頭と足の先を結ぶ中心線を崩さなければ、相手に投げられない。
自分の方から、この技をかけてやろう、と気が先走ると技があとに来るから、そこにズレができる。 息との関連性がない。 しかし、呼吸と動作が一致すれば、あとは相手との呼吸を合わせるだけで良い。 相手の動きに応じて自分が反応できるわけだ。
知らぬ間に相手の体を崩して、投げることができる。 これが自然体だ。
木村が、どんなに大きな相手でも投げ飛ばすことができたのは、自然体をマスターしてたからだろう。
木村が選手権をとったときは無になっていら。 相手が木村の思うように動いてくれるんだ。 自然が味方してるんだから。

木村 自然かどうか知らんが、自分は試合の前の日から勝つのはわかっていた。 勝つか負けるか試合の前の日に正座して考えるんだ。 禅と同じでね、すると自分の勝つ姿が浮かんでくる。 そうしたら神仏に明かりをつけて、勝利を祈願すると、翌日はどんな相手も小さく見えて、そして前の日に見た通りに勝つんだ。 試合の前の日には勝つか負けるか煩悩になやまされるからね。 塩田がいうように、煩悩を払って、自然体で臨むようにしていたのかもしれないな。

塩田 合気道も柔道も、動作は違っても、根本は同じなんだ。 山の登りにはいろいろあっても頂上は同じようにね。

木村 登るには稽古しかない。

塩田 若いうちは自分の持っているものを全てハキ出すくらいに打ち込め。 闘志でも腕力でも出しきることが大事だ。 極意だの自然体だのは、年をとってから考えればいいことで、若いうちはガムシャラに突進していくことだ。

木村 武道の国、日本の伝統を受け継ぐ若い人間に登場してきてもらいたいもんだな。


如何でしたでしょうか?
ところで、増田俊也先生の「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」の最後の最後に興味深い話が出ていましたね。 実話なのかどうか、裏を取れる話では無いのですが、一挙に伝説が広がった感じがします。


大山倍達と木村政彦2.jpg
在りし日の大山倍達と木村政彦

それと大山倍達総裁の話も少し出ていました。
早く書籍化して欲しいものです。

それから、今号の「月刊フルコンタクトKARATE」2011年7月号に、不動禅少林寺拳法の特集が載っていましたが、その中に元金剛禅少林寺拳法の白蓮会館館長 杉原正康館長と、元不動禅少林寺拳法の太道奥旨塾宗師 中井道仁宗師の対談がありましたが、この中でちょうど当ブログで連載中の「極真空手と少林寺拳法の抗争」について話しているところがありました。 それにしてもタイムリーな記事だw

それでは、また。


http://blogs.masoyama.net/?eid=37



木村政彦、大山倍達を語る (1985年)



JUGEMテーマ:空手
2日連続はちょっと久々です。
今回は「ゴング格闘技」で絶賛連載中の増田俊也先生の「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」に便乗? して不世出の柔道家で大山倍達総裁の尊敬する先輩だった、木村政彦先生のインタビューを掲載してみます。 これは「月刊パワー空手」の1985年3~5月号のインタビューをベースに、「真説 大山倍達」(基佐江里著、気天舎)で不足分を補完していますので、一部掲載時とは違う箇所があります。 また執筆スタイルの変更により、聞き手の口調が変化している部分もありますが、書き方は雑誌掲載時で統一しています。
今回も長文ですよ、って…毎回言ってる気がしますw でも画像は過去最少かも知れませんw


大山倍達、木村政彦と遠藤幸吉.jpg


ーー極真会館の大山倍達館長は木村先生に憧れて拓殖大学に入学されたとお聞きしています。 一番最初のお二人の出会いのことからお伺いしたいのですが
あれは私が学部の3年生のときですかね、 ええ、 そのとき「大山だ」ってね、 ある人が紹介してくれて。 そのとき初めて会ったわけです、 拓大で。 彼は、 まだずっと私より年下ですからね、 1年生のころだったと思いますね。
(印象は)なかなかピシッとしてですね、 礼儀正しくて、 好青年だなあと思いましたね。
ーー当時先生は宮内庁の天覧試合とかで優勝なされて、 近寄り難い存在でいらしたと大山館長はおっしゃっているんですが……
話はね、 二言三言ね、「お前が大山か」と、 「オレは木村だ」ということで、 話したぐらいですねそのときは。
それから、 ちょうどそのころだったと思うんですが、 京都の義蜂会(※原文ママ、義方会)の道場に合宿に行きましてね、 そこで大山さんも、 京都のほうに空手修業に来て……、 そこで京都で何回もお会いしたと、 それから親密の度合いを深めた、 ということですね。

(中略、木村の空手修業と義方会の話)

ーー大山館長のことになるんですが、 先生のいらしたその義蜂会の道場に、 大山館長も訪ねていらしたわけですか
ええ、大山さんとですね、 大山さんもなんか京都に用事で来ていらしてですね、 その相先生(※原文ママ、曺寧柱のこと)の道場によくおいでになったようですよ。 相先生は、 立命館大学の先生をしとったわけですね。 で、 ときどき道場に来て稽古をつけてくださる。 そのときに大山さんも私も、 併せて指導にあずかっていたと、 いうことなんですね、 ええ。
ーー先生も、大山館長と組手とかおやりになったことあるんですか、 実際に……
いや、それはやったことないですね。 そりゃあね、 もしやっても片方はね、 本物だしね。 当時はそれほど本物じゃなかったようですけど、 修業の途中ですからね、 それでも本物を目指して必死に、 相当に修業の執念を持ってやっていますからね。 こっちは柔道と併せてやっているだけですから、 プロとアマですよね、 いうならば……。
ーー木村先生と大山館長はコンビを組まれて、 国内を巡業してまわられたということもお聞きしていますが……
私と大山さんと、 それと遠藤幸吉ですね、 プロレスラーになった。 この3名ですね。 また、 他の地方地方の柔道家を呼んで、 参加させて、 興行に当たらせて。 試合をしたりなんかしました。 あれはいつごろだったかはっきり覚えていませんが、 昭和28年ごろだったですかね。
ーー興行では実際にどういうことをおやりになったんですか
各地に興行師がいて、 そこを大山さんと遠藤幸吉と私と、 三人でまわって歩いたわけなんです。 試合をしながら、 ファイトマネーをもらってね。 興行師が入場料をもらって、 こっちのほうはファイトマネーもらって。
そして大山さんがお金を曲げたり、 あれは……木を割ったり、 それから板を割ったり、 石を割ったりしてましたね。
ーー大山館長が銅貨を曲げるのも実際にご覧になっていらっしゃるわけですか
ええ、 みんな一緒ですからね。 私のほうは、 もっぱらプロレスのほうだったんですけどね。
ただ大山さんはね、 もう義蜂会の道場の時代からはだいぶたっているわけですから、 興行の最中でもこうして見ていると「お、 ずい分こう成長したな」と、 思いましたですね。
そして彼は、 酒も飲まないんです……。 酒は飲んだって、 せいぜい盃1、 2杯ですね、 うん。 だから一遍私が酔っ払わしたことがあるんですよ。 ジュースの中に酒入れてね、 ワッハッハッハ……。
「ジュースだ」といってね、 飲ましたら酔っ払っちもうて……。 だからそのとき、「ああ、 これは酒飲まんな」と思うたんです。


大山倍達と木村政彦.jpg


ーー大山館長は実際に”強い”というイメージはありましたんですか
それはね、 ちょっとね。 ええ、 そのころ(客の)飛び入りをやらせましてね。 田舎の相撲取りやらね、 柔道家なんか飛び入りしてくるわけですよ。 それで、 時たまその、 一度ね、 柔道五段の人がね、 田舎ではまあ、 前々は日本でも鳴らした柔道家ですよ。 名前はいえませんが、 まだ若い人だったですけどね。 その人が飛び入りしてきて……。 それでワシ、
「お前止めろ……」
こう盛んにいうんだけどね、 勝ったら賞金がもらえるもんだから、
「ぜひともやらせろ、 オレは金を稼ぎたいんだから」
ちゅうてやね、 聞かなかったと。 それで私も、
「それならやれや、 そのかわり覚悟してやれや」
ちゅうたんですよ、 私が。 そしたら今度は、 相撲あがりがね、 柔道あがりと一緒に来たんです、 二人で。 それで私が、
「大山さんやるか?」
ちたらね、 大山さんいうわけですよ。
「やっていいけど、 危いですよ……」
と。 だからまた私ね、 責任もあるから向こうの柔道と相撲の人にですね、
「あんたたち、 やっぱり危いから止めろ」
と、 止めに入って……。
ところがですね、 もうリングの上に、 試合場に上がっているわけですから、 向こうとしても引っ込みがつかんのです。 それに、 興行を見に来ているお客さんも大勢いるわけですから。 それで結局、 やることになりましてね。
まず、相撲あがりと最初にやることになったんです。 そしたら、 四股を踏んでね、 なんかバーンとこう突いていったんですね、 鉄砲を。 鉄砲で突いてきたと。 したら大山さんはね、 一つをパッと交わしたと。 その一つ、 もう一方の突いてきた手をスッと上段で受けてね、 軽くおなかに入れたんですよね、 突きを。 そしたら、 一発で倒れたんですよ、 ほんのちょっとお腹に入れただけで……フッハハハハ……。
それで、 その次にね、 柔道家なんですよ。 これは体も大きかったですけどね。一八〇センチぐらいあったですか。 こいつがやにわに大山君に組みついてね、 投げようとした。 したら大山君は、 ここ(口のあたり)を押さえて、 顔面を押さえたら相手はどうしようもないでしょう。 そしてこう、 グーッと押して、 そのまま突き出したわけです。 相手は技をかけようとするんですが、 こう口を押さえられていますから、 手も足も出んのですよ。 子供と大人の遊びでしたね、 あれは……。 それで場外に出てからワシが飛び出していって、 大山さんに
「もう止めなさい」
といったんです。 そこで大山さんも手を離して……。
ほで今度はね、 どうしてもその柔道家は納得がいかんわけですよ。 こう押さえられたから負けたんだ、 ちゅうてですね。
それでお客さんも
「もう一度やらせろ」
いうてですね。 そしたら大山さんが
「二人一緒でいいですよ」
って。
それで二人とやることになって、 前と後ろから、 どこからでもいいということで、 やって……。
そうしたら、 私はね、 前の男に気をとられて、 前のほうを先にやっつけるんだろうと思っていたんですよ。 ところがそうじゃないんですね。 前ばかり見ていたら、 先に後ろの、 柔道の男を廻し蹴りでですね、 後ろ蹴りですか、 右のほうの足でバーンと蹴って。 その足でまた、 前の相撲取りのお腹を蹴って……。 一発、 二発で片がついてしまったんです。
それで、
「誰か希望者は?」
と、 また挑戦者を募った。 そしたらもう、 誰もね、 その威力にびっくりして、 黙して語らずです。
ーー挑戦した二人はどうなったのか。
「その威力にみんなびっくりしてですね。 それで
「こういう状態だから、もう飛び入りするな」
と、 私が言うわけですよ。 ほで、 両方とも病院に行きましたよ。 脇腹を蹴られた相撲取りは肋骨を折ってですね、 二本ぐらい折れたそうですよ、 ああ。 だから、 その後はですね、
「飛び入りする人は(前に)こういう例がありますから」
と。
「飛び入りを無理にご希望の方はやってもいいですけど、 前例みたいなことになるといけないから、 なるだけ飛び入りはしないでください」
とね、 お客さんに言うわけなんですよ。
ーー仮に負けると、 賞金はどれぐらい払うことになっていたのか。
今の金にして三〇万円ぐらいですね。


***


「私生活の面でも、 大山さんはたいへん真面目な人でしたね。 当時はま、 若かったし、 ある程度やんちゃ(無茶)もやったと、 いうような傾向でしょうけれども、 全般的に真面目ですね。
だから、 ああいった道に厳しく進む人たちというのは、 身を律するということをね、 常に考えとったんじゃないですか。 たとえば、 大山さんは、 道で会ってもね、 道で会って一見ならず者風の男に声をかけられる。 因縁というんですか、 因縁をつけられても手は出さなかったですよ。 相手のほうから肩からぶつかってきて、 数人ですごんでみせても、《スミマセン》と一生懸命謝っていましたね。 だから、 私のほうで出ていって《あんたたち、 この人には勝てないから止めなさい》と、 いうことが何回かありました」

(中略)

「……彼はそれほど身体が大きくないもんだから、 私なんか一緒に並んで歩いていると相手がこう、 彼のほうにバーンと突き当たってくるわけです。 それで、 《この野郎!》と突っかかる。 そんなときでも大山さんは《スミマセン》と頭下げて、 一切相手にしませんでしたね。
だから私はそれ見て、 この男はやっぱりたいしたもんだなと、 こう思いました。 むしろ私のほうがやんちゃ坊主だなと、 反省させられたですね。
道を歩いてるときだけでなく、 飲み屋でも同じようなことがありましたね。 あれもやっぱり興行の最中だったですけれども、 二人で一杯飲み屋に入って、 ま、 酒を飲んでおったと。 彼は酒飲まんから、 ジュース飲んで……、 私は酒を飲んでいた……。 そのときですね、 何かこう隣りにいた男が文句をつけてきて、 しきりに大山さんに何かいってるわけですよ。 そのうちだんだん険しい言葉になってきて、 しまいには《表に出ろ!》と……、 いうたわけですねその男が。 この時も彼は、 大山さんは、
《スミマセン》
と。 この一言でもう、 出なくてすむわけですよ。 でも、 そうなると酔ってることもあるから、 素人さんはますますのぼせて、 突っかかっていくわけですね。 あんまりうるさくなると今度は私が出ていって、
《この人と渡り合ったらあんた、 大変なことになるぞ》
と。 制止に入る……。 まあ、 ちょっとね、 ああいう人と一緒にいると傍におる者が警戒しますよ。 傍にいる者が神経をすり減らす、 気を遣うんですね。 手出しでもさせたら大変ですから、 相手に怪我でもさせて、 万一のことにでもなったら大変だということで……。 それに、 誰よりもその、 大山さん自身に迷惑のかかることですから。
ま、 とにかくですね、 その当時……、 ある程度その興行を見て大山さんの空手の威力を見て知った人達っていうのは、 私達がこう道を歩いていても、 避けて通るようになってましたですね。」


木村政彦プロ柔道.jpg


(中略、木村の勝負論、柔道論について)

ーーそういったトレーニングをお一人でなさるということは大変なことだと思います。 現在大学でも柔道をご指導なさっていらっしゃるわけですが、若い方々をご覧になっていかがですか。
確か大山さんもそうだったんじゃないかと思いますが、 一人で練習やるということは、団体でやるより遥かに苦しいものなんです。 ちょっと油断するとすぐに甘えが出て来ますから……。 現在の人は、 今はなんでも道場が中心ですから、 みんなと一緒に柔道の訓練をやると。 柔道に限らずいろんなスポーツでも競技でもなんでも、みんな一緒になってやるということであれば、 辛い訓練でもある程度耐えることがこれはできるわけですよ、 ね。
だけれども、 一人だとなかなかそうはいかない。 たとえば腕立て500回やれといったら、 みんなと一緒であればできちまう、 と。 ところが一人でやるとなると、 同じような内容の訓練でも団体でやるときの2倍にも3倍にも負担が生じてくるわけです。 ということは、 強くなる道において一人でやるということがいかに大事かと、 いうことがいえるわけなんですね。

(中略、三倍努力について)

ーーそういった努力に努力を重ねられて、 それでしかも決死の覚悟で試合場に臨まれた。 その先生の目からご覧になって現在の選手はいかがでしょう。
それはね、 ま、 試合に出ても試合後においてもですね、 隔靴掻痒の思いですね。 今の人たちは勝っても負けてもね、 負けても「ま、 精一杯やったからいいや」と、 いうような安堵感があるわけですね。 そして、 最近の試合をする人たちは、 試合が終わってからも、 別にそれほど残念だとも思っていないようなんですね。 この次勝てばいいんだ、 と。 この次ある程度訓練をすればいいんだというような気持ち。 それでもまあ、 試合に負けたから、 それなりの訓練はやってのけるわけです。 試合後ですね、 次の試合のために……。
だけども、 その訓練状態も、 2週間ぐらいはなんとか身の入った訓練をやるけれども、 その後はまた試合に負けた口惜しさを忘れちゃうわけですね。 「よし、 オレは相手を倒すために、 負けたヤツに勝つために命を賭けて訓練をするんだ」っていう気持ちも最初のうちは多少あったんでしょうけれども、 自然にこう月日が経つうちに、 また元の普通の気持ちに戻ってしまう。 訓練自体もだんだんと粗雑になっていく。 だからそういったのは、 本当の訓練じゃないわけなんですね。 昔の人はこれは、 大山さんでも、 同じような気持ちを持たれていると思うんですね。 血の小便が出てもね、 自分はどんなことしてでも「ここで生きていくんだ」と。 この道をどんなことしてでも極めてやるんだ、 と ーこういう根性を持ってやるっていうことは大切でしょうね。 死が怖くない、 死は怖くないというね、 そういう境地でもって訓練するということが ”強くなる道” であると、 いう思いを私は強くしているんです。
ーー先生はつまり、 勝負は勝つためにあるんだという……。
そうですね。 試合ちゅうのはこう、 負けるためにあるもんじゃなくて、 勝つためにあるんですよ。 だから手前ミソですけども、 今の人とおよそ決断力が違うと、 いうことですね。


如何でしたでしょうか? 先輩後輩の間柄であった大山倍達と木村政彦。 途中、木村先生の発言で「大山さん」から「大山君」に変わるところがありますが、元々「大山君」か「大山」と呼んでいたのでしょう。 話に力が入った時に思わず「大山君」という風に戻ったんでしょうかね。
また、大山総裁の身体が小さいという発言がありましたが、これは「ゴング格闘技」(2010年10月号)にある通り、175cm、75kgの大山総裁に対して、170cm、85kgの木村先生にはまだまだ線が細かったのだと思います。 1952~53年頃の総裁の写真と、55~56年頃の写真を見比べると分かりますが、後者では腕も太く、かなり上半身ががっしりしているので、この頃には80kg強までビルドアップされていたんじゃないでしょうか。


1955年頃の大山倍達.jpg
1955年頃


ちなみに47年頃の写真だと胸囲はそこそこあるのですが、体重は70kgも無さそうに見えます。

本当は大山総裁の話だけ載せようと思っていたんですが、木村先生の勝負に賭ける覚悟が面白くてそのまま載せました。 まさに勝負師ですね。 他にも面白い話…例えば握力計の話とか、義方会で道場破りと対戦した時の話等も面白かったのですが、今回は主が大山総裁ですので、カット致しました。
木村先生は、空手雑誌だとこれが初インタビューですかね? それ以外だと「フルコンタクトKARATE」(1987年12月号)に合気道の塩田剛三先生との対談、「武道空手」(1989年7月号)のインタビュー…他何かありましたっけ? 「格闘技通信」でも1つあった気がしますが、ちょっと調べるのが面倒なのでパスw

それでは、また。

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手下の岸信介 同じく手下の児玉誉士夫たちの背後に存在した影の総理 麻薬王 里見甫

http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/burogu30.html#279

-NO279~284-



------------「阿片王」(里見機関)と関東軍軍事機密費------------

 里見甫は、満州事変勃発直後、関東軍第4課の嘱託辞令を受け、密命を帯びて、半官的な「聯合」と民間経営の「電通」を合併させるために動いた人物である。そして「一国一通信社」というメディア統合に力を発揮し、満蒙通信社(後の満州国通信社・略称国通)を設立させた。それは満州にとどまらず、その後、日本国内の通信統制に発展していったという。そうした里見甫の新聞記者、国通時代の活動が「続 現代史資料ー12ー阿片問題」岡田芳政・多田井喜生・高橋正衛編(みすず書房)の付録に「里見甫のこと」と題して、伊達宗嗣名で、詳しく紹介されている。
 しかしここでは、敢えてその部分をカットして、彼のもう一つの活動、すなわち阿片工作に関わる部分のみを抜粋する。戦中「大陸新報」の社長をつとめ、里見甫と親しく、戦後自民党代議士となった福家俊一の証言によると、「里見は、上海の阿片の総元締めだった。その莫大な阿片のあがりが関東軍の軍事機密費として使われた。関東軍が一株、満州国政府が一株、甘粕が一株という形でもっていた」という。
(「阿片王ー満州の夜と霧」(新潮文庫)の著者佐野眞一は、関係者をしらみつぶしに当たり、里見甫はもちろん、「里見甫のこと」の著者「伊達宗嗣」についても、里見の晩年の秘書的存在だった人物でるが、伊達順之介の息子(伊達一族の末裔)ではなく、本名は「伊達弘視(ダテヒロミ)」であると、その素性を明らかにしている。)
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                                 里見甫のこと
                                                             伊達宗嗣
     はじめに

 わが国の阿片問題について語るとき、避けて通ることのできないのが、「里見機関」(宏済善堂)の存在である。主宰者の里見甫(リーチェンプ)(東亜同文書院13期=大正5年6月25日卒業 昭和40年3月21日歿、享年68歳)は、戦後、極東国際軍事裁判でA級戦犯として、巣鴨拘置所に収容されたが、何故か無罪放免になった。その理由について里見は、「供述調書を読んだ米国の情報関係者が、利用価値があるとみて釈放してくれたのではないか」と、多くを語るのを避けていたが、ロッキード事件で公然化した米国流の「司法取引」が行われたのかも知れない。
 法廷に提出されたのは、供述調書の一部で、阿片取引の収益金の具体的な用途、とくに軍の情報謀略工作関係については、大部分が隠蔽されたと、里見は語っている。

 後年、ベトナム戦争当時、米国がベトナム半島の山岳民族(阿片栽培が唯一の現金収入)に対し情報工作を展開するに当たって、里見機関の阿片工作のやり方が流用され、グリーンベレーの送り込みには成功したものの、反面、米軍内部に大量の阿片吸引患者の発生を余儀なくされ、本国送還による戦力低下とともに、米国内における阿片吸引患者の激増をみたことは、関係者の知るところであり、阿片の持つ危険な両面性を遺憾なく物語っている。

 里見が阿片謀略工作に手を染めたのは、参謀本部支那課長であった影佐貞昭大佐が初代の参謀本部第8課長(謀略担当)になったとき(昭和12年11月)影佐に懇望されたことによるもので、昭和12年から終戦までの8年間にすぎない。それも軍が阿片取引に深入りするのを心配された天皇が、しばしば侍従武官に「どうなっているのか?」と御下問になるので、里見に旨を含め、軍の隠れミノとするため発足させたもので、侍従武官を務めた塩沢清宣中将(陸士26期)が、里見の没後筆者に詳細に説明してくれた。

 里見と軍の関係については後述するが、この間の消息を伝える意味慎重な撰文が、里見の墓誌銘に刻まれている。

  「凡俗に堕ちて、凡俗を超え
  名利を追って 名利を絶つ
  流れに従って 波を揚げ
  其の逝く処を知らず」

 撰文は里見の後輩で、新聞記者時代から陰に陽に里見を見守ってきた大矢信彦(東亜同文書院16期=大正8年6月29日卒業)。書は1期先輩の清水董三(東亜同文書院12期=大正4年6月27日卒業)の筆になる。墓誌は元満州国熱河禁烟総局長から経済部次長、国務院総務庁次長になった古海忠之(戦後、中国戦犯として撫順収容所で18年間服役し、帰国後、岸信介元総理の世話で東京卸売りセンター所長)が

  「……昭和7年満州で新聞聯合社専務理事岩永裕吉、総支配人古野伊之助の協力を得て国通を設立した。時に37歳。支那事変の拡大とともに大本営参謀影佐貞昭の懇望により上海に移り大陸経営に参画、国策の遂行に当たった。……」

と記している。
 阿片工作については直接触れていないが、「大陸経営」とは汪兆銘政権、国策とは宏済善堂の経営つまり阿片工作の遂行であったことは、指摘しておかねばなるまい。ちなみに「里見家之墓」の五文字は、岸元総理の書いたものである。墓地は千葉県市川市の里見公園を見下ろす安国山総寧寺の境内にある。

     新聞記者・国通時代 ・・・(略)

     里見機関

 当時阿片市場として最大なのが上海であった。阿片の最大供給国はは英国で、インド阿片を持ち込んでいた。わが国の三井、三菱両財閥もペルシャ阿片の確保に鎬を削り、上海租界の運搬は専ら青幇(清幇)の手に委ねられ、その販路を牛耳っていた。
 大使館付武官補佐官で上海陸軍特務部の楠本実隆大佐(陸士24期)が、販路の確保を里見に持ちかけたが、その背景には影佐の特命があった。当時塩沢大佐は経済課長で上海後方建設の主任で、中支那新興会社の創立に当たり、満鉄から人間と事務所を調達、日本国内からは鉄道省、日銀など各機関から若手キャリア組を出向させた。佐藤栄作元総理はこの時、鉄道省から派遣されている。中支那新興会社は海軍と提携し、子会社として鉱山会社を現物出資の資本金100万円で発足した、維新政府設立第1号の鉄鉱会社が2000万円で発足した。当時上海だけは陸海軍武官府を構成、他の各地とは異なり陸海の協力は密で、海軍は津田静枝中将がその任に当たっていた。
 これら上海後方建設の合弁会社が続々と設立されるにつれ、既存の維新政府財源では予算がなくなり、次第に阿片の収益金に目をつけるようになり、その責任者として里見に白羽の矢を向けたのである。

 軍の信頼が厚く「滅死奉公(滅私奉公?)」の念に燃えていた(塩沢の評価)里見に、謀略の元締めである影佐第8課長が特命を下したわけで、ナショナルエージェンシーの確立、ハルビン工作に手腕を発揮した里見に阿片工作でも、軍の期待が賭けられていた。
 阿片工作の対象として期待した青幇のボス杜月笙は巧みに上海から重慶に逃れた。里見との出会いはなかったのである。国民政府の参議少将の肩書きを持つ杜月笙としては、莫大な阿片の独占権を目の前にしながら、里見の手を振り切った。替って上海租界に入った大物が盛宣懐である。武漢大冶の漢冶萍公司の総経理である盛は維新政府の鉄鉱会社に大冶の鉄鉱石を供給、維新政府は利ザヤを稼いで八幡製鉄(現新日鉄)に売るという形である。盛は阿片癮者で、里見の手から阿片を供給され、ここに奇妙な実業家と虚業の結び付が生まれている。

 また軍は昭和12年秋の大場鎮の戦闘で、日本軍の損害が大きく、攻めあぐんだすえ、里見に対策を求めた。里見は伝手(ツテ)を求めてフランス租界で敵将と極秘裏に会見、折衝の結果、支那軍総退却の合意を取りつけたが、約束が実行されるかどうかに一抹の不安を持った軍当局は、その代償金の金額前渡しを、ニセ札で行なおうと主張したが、里見は烈火の如く怒り、「日本の武士道いずくにありや」と責め、真札を贈って信義を守った。敵将も里見との約束を守って、打合せ通りの日時に合図の号砲を発射し、これに応じて開始された日本軍の総攻撃と同時に、敵は全線にわたる総退却にうつり、前日まで寸土も許さなかった大場鎮の堅塁は、大した犠牲もなく陥落した。(新聞通信調査会報1965年5月号「里見甫さんのあれこれ」佐々木健児=元同盟通信記者)
 これなど里見機関の真骨頂を示すもので、日本内地で大場鎮陥落の提灯行列が行われた戦闘の裏面史である。

 阿片の収益は主として軍の特務機関工作に使われたが、日本が設立した傀儡政府=蒙疆政府、華北政府、維新政府などいずれも阿片の収益で赤字を補填する形になっており、大東亜聖戦を呼号した軍の在り方が疑われる所以でもあるが、戦争末期、中国民衆が上海でわが国の阿片工作機関である宏済善堂に対する攻撃を始め出してから、阿片の収益は次第に低下、里見機関のカネは軍関係者によってむしり取られてゆく。軍関係者だけでなく、政治家もコネを頼って里見機関のカネを狙い、昭和17年4月の翼賛選挙では岸も元総理(当時商工大臣)が500万円(当時)の資金調達を依頼したことは有名な話になった。新聞ゴロも里見が新聞記者をやっていた関係上セビリにゆく者が多く、里見機関はこれら悪性日本人の資金供給源となっていたことは否めない。したがって里見は中国民衆の抗議を潮時とみて地下に潜伏、上海の表面から消えた。終戦引揚までその消息は杳としてわからなかった。

--------------日本の阿片政策と日本非難の国際世論---------------
阿片問題の前に
 またしても、あなたは「なぜ日本ばかり批判するのですか?」との批判をいただいた。でも、私は日本を批判しているのではなく、過去の歴史的事実を素直に認め、そこから出発したいだけである。
 敗戦が濃厚になると、日本が組織をあげて軍関係の文書の焼却や様々な証拠物件の湮滅に力を注いだことはよく知られている。にもかかわらず、そうした事実を伏せ、隠蔽された歴史的事実について、何も調べたり研究したりすることなく歴史を語ろうとする動きを、私は座視できない。
 「子供たちが日本人としての自信と責任を持つことのできるような教科書をつくる」という主張に異論はないが、そのために歴史の一面だけをみたり、真実を隠したりしてはならないと思うのである。

 また、先頃、「日本は19世紀の後半以降、朝鮮半島や中国大陸に軍を進めることになるが相手国の了承を得ないで一方的に軍を進めたことはない」と公言したり「廬溝橋の仕掛け人は中国共産党」などと主張する田母神俊雄なる人物が、航空自衛官の最高位の(第29代)航空幕僚長であった現実に衝撃を受けた。地道な調査や事実の検証、科学的分析などに基づいて築き上げられてきた史論を無視して、目先の利益のために歴史を詐るような人間が、航空自衛官の責任ある地位にあったことに驚くとともに、正しい歴史認識の重要性を思い知らされたのである。そこで日本の過去の”あやまち”に目をつぶり、先の戦争を正当化するような動きに抗して、あまり知られていない歴史的事実などをも詳しく学びながら、様々な書籍からその重要部分を抜粋し、アップロードすることにしたのである。

阿片問題について
 いちはやく、国家の財源確保のために阿片を利用したのはイギリスであり、イギリスが持ち込む大量の阿片の流入を阻止しようとした清国との間に、「アヘン戦争」(1840年)が勃発したことは、世界史を学んだ日本人には常識となっている。そして、アヘン戦争に勝利したイギリスが、南京条約によって香港の割譲や軍費の賠償、その他様々な利権を得たことが、理不尽極まりない帝国主義的行為であったことを否定する者は、もはやいないだろうと思う。
 その後、中国におけるアヘンの使用が拡大していった結果、いろいろな社会問題が発生し、1900年代に入ると阿片問題に対する国際的な取り組みを求める声が高まっていく。そして、万国阿片委員会( International Opium Commission ) が開催され、1912年にオランダのハーグにおいて「ハーグ阿片条約」が調印されるに至るのである。
 ところが、日本が財源確保のために阿片を利用するようになるのは、この国際条約調印後のことである。したがって、イギリスとはちがい、日本の場合は、国際条約違反のかたちで阿片を利用せざるを得なかったために、表向きには「漸禁政策」をかかげつつ、裏で大量の阿片取り引きをしたのである。それは、特務機関などを利用して巧妙に行われた。したがって、阿片に関する公文書などは、表向きのもの以外はほとんど残されていない。だから、日本人の多くは「アヘン戦争」は知っていても、日本の「阿片政策」については、ほとんど知らないというのが実態ではないかと思う。

 下記は、阿片問題に関して、日本が世界各国の非難の的になっていたと論じている部分を「続・現代史資料(12)阿片問題」(みすず書房)から抜粋したものである。下段は、同書の「外務省関係電報および文書」の28に入っているものであるが、日本の阿片取り引きがアフリカにまで手をのばしつつあったことが「”アフリカ”ヨ用心セヨ」で分かる。
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解説より(xxxi~xxxii)

 ・・・
 日本は1930(昭和5)年以後、先進国の中で唯一の”阿片の悪者”の国とされていた。ジュネーブにある国際聯盟の阿片委員会では、中国を筆頭とする、英、仏などから常時非難されている国であった。また東京裁判の里見甫を裁いた法廷に提出された多くの検察側の証拠文書には、満州事変前の1936年5月9日付「在上海アメリカ財務官の報告」をはじめ、アメリカ大使館、在済南アメリカ領事の報告など詳細をきわめた日本の中国での阿片政策の実情がのべられている。坂田組の活動や、「大北京の『ヘロイン』業の『親分』としての二人の支那人」の報告(1941年3月19日附上海駐在アメリカ財務官報告)には、劉と常という二人の親分の所行を説明し、さらに「日本領事警察ハ『ヘロイン』商売ヲナス日本人又ハ朝鮮人ヲ保護スルト云ハレテイマス……」と、2人の親分と日本領事館の関連までのべている。

 日本はジュネーブの国際聯盟により、また中国ではアメリカなどの外交官から調査、監視を受けていた。在中国のアメリカ大使館などの阿片に関する報告は、アメリカの新聞で報道された。このような状況で日本の外交官は、任地が中国なら、まさに国策に従って中国での阿片確保の任務を遂行し、任地がアメリカになると、アメリカを始めとする国際世論の日本非難の防遏(ボウアツ)に懸命にならざるを得ない。しかしなんといっても、国策遂行に従事する在外各地の公使、総領事、領事の活動は、はじめて知ることのできる事実である。

 また58電は楠本実隆大佐、根本博大佐(のち中将、この時は北支那方面軍特務部総務課長)の行動が、外務大臣に報告されている。このように外務電は所管外交事項のみならず、陸軍がいかに阿片に関与していたかを示し、一方イランの阿片輸入をめぐり、あくまで利益追求に徹する三井物産、三菱商事の”商人ぶり”と(52,55電)あいまって、阿片の入手、確保に日本が官も民も、うって一丸となって狂奔していたかがうかがえる。
 第2部25の打合会議で、「本年1000箱手ニ入レタルモアト見込ナシ、イラン、アト500箱ノミシカ輸出シエナイ」云々とあるが、(309頁)この間の消息は外交電の166,167,170が示している。
 興亜院や中国の各連絡部という阿片政策の第一線に従事する官庁と外務省が連動して、日本史上未曾有の量の阿片を取り扱った時代を物語る資料である。
 ・・・(以下略)
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                          外務省関係電報および文書

28(p506)

 国際的疑惑ノ焦点ニ立ツ日本ノ「麻薬」取引ニ就テ
   聯盟総会ニ於テ頒布サレタ怪文書
                              内務省衛生局  保見吉亮
 寿府ニ於テ、排日的色彩濃厚ナリト定評ノアルブランコ氏経営ノアンチ、オピウム、インフホーメーション、ビューローニ於テ作成ノ上昨秋ノ国際聯盟総会ニ出席ノ各国代表部ニ配ラレタト云フ「支那ニ於ケル麻薬ノ実状ヲ語ル」トデモ云フ小冊子ガ最近外務省ヨリ送付サレタ、小冊子ノ内容ハ4ツノ項目即チ
1、支那ニ於ケル麻薬ノ害毒
2、日本人ノ薬品貿易ガ北支那ヲ蠧毒ス
3、上海ニ於ケル英国阿片結社ノ反響
4、”アフリカ”ヨ用心セヨ
ヨリ成テ居リ…

 ・・・
 (4) 結論
  △「新シイ教示ニ就テ」
支那人ハ平和ヲ好ム国民デアル、彼等ノ国民性ハ外来者ヲ容易ク受入レ、ソシテ智識ヲ求ムル性質カラ外国人ノ教ヲ速ニ採用スル、之ガ何故斯カル行商人ガ彼等ヲ害毒吸煙ニ転向セシムル事ガ成功シタルカノ理由デアル

北支ノ殆ンド全部ノヘロインハ天津、青島ヲ経、大連ヨリ密輸セラレタ、最モ信ゼラレル報告ニ依レバ日本人ハ数所ノ工場ヲ大連ニ置キ毎月支那ヘ数百万ダラーニ相当スルヘロインヲ販売シツツアリト云フ、ヘロインハ阿片ヨリ作用ハ劇烈デ一度習癖ヅケラレタ人間ハ之ヲ停止セシムルコトハ甚ダ困難デアル、小生ハ幾多ノ本薬品ノ癮者カラ聞イタ所デハヘロインヲ使用シテ5年以上生キタ人ノアルヲ聞キシコトガナイ、私ノ遭ツタ之等ノ不幸ナ人々ハ総ベテ其習慣ヲ日本人及鮮人ニ教示サレ、供給ハ全部日本人又ハ鮮人ヨリ得タルトノコトデアル、彼等ハ何レモ若シ逃レ得レバ是レヲ止メタイトノ切実ナル願ヲ持ツテヰル、或ル吸煙所デハ親子2人デ此ノニッポンノ毒ヲ吸ツテヰルノヲ見タ、天津ニ於テ小生ハ或ル男ガ13歳ノ児童ニヘロイン煙草ヲ吸ハセテ居ルノヲ見タ、各階級各職業ノ婦人及ビ子供ガ此吸烟所ノ観客トナル、小生ハ幾多ノ美シイ、イイナリヲシタ15歳前後ノ支那娘ガヘロインヲ吸ツテ居ルノヲ見タ、彼等ハ一月前習癖ニ陥ツタコトヲ小生ニ述ベタ
彼等ハ何レモ青ク神経質デアツタ、内2人ノ女子ハ近々2時間以内ニヘロイン3瓦(グラム)以上ヲ使用セリ

  △「”アフリカ”ヨ用心セヨ」
1924-1925ゼネバ阿片会議ニ於テ日本代表杉村(陽太郎)氏ハ若シ日本ガ古来外国ニ征服サレナカツタ亜細亜ニ於ケル唯一国ナリトセバ之ハ日本ガ阿片吸煙及麻薬摂取ヲ絶対シナタツタ為デアルト声明シタ、本声明ハ日本ハ麻薬ガ政治上危険デアルコトヲ知ツテヰタコトヲ示スモノデアル、東洋ニ於ケル日本ノ政策ハ日本ガ致命的武器ノ利用法ヲ知ツテ居ル証左デアル、台湾、朝鮮、満州国ノ専売法ハ日本ノ力ニヨツテ出来タモノデアル、支那人ハ組織的ニ日本人ニ害ハレツツアリ

今ヤ日本ハアフリカニ目ヲ注ギツツアル事ガ報ゼラレル、次ノ一文ハ1933年9月21日ノロンドンデリー、ヘラルドカラ抜載サレタモノデアル
「日本ハアフリカニ足場ヲ獲得、移民之ヲ以テ来潮セン」(東京金曜日発)日本ハ移民地トシ新市場トシテアフリカニ於ケル独立国タル最後ノ大帝国タルアビシニア(エチオピア)ニ土地ヲ獲タ、1年前日本ノ使節ガ日本人ノハケ口ヲ求メ彼等ノ貨物ノ為メ、新市場ヲオクベクアビシニアニ行ツタ、今日ニ於イテハ日本ノ新聞該使節ノ成功ニ就キ詳細ヲ報告シテヰル

此ニュースハ英国、仏国及ビ伊太利ヲ心配サセルデアラウ、アビシニアハ前記三国ガ有スル広大ナル権益間ノ緩衝地帯デアリ且同国内ニ於テモ之等三国ハ各広大ナル勢力範囲ヲ有シテ居ルカラデアル、

日本ハ今ヤ之等ノ三ケ国ニ向ツテ挑戦シタ、日本使節ハエチオピア帝国大皇帝ラス・タハリ(ハレイ・セラシュ1世)陛下ヨリ綿ノ栽培ニ適セル豊穣ナ土地160万エーカー払下ノ許可ヲ得タト伝ヘラル、ノミナラズ日本ハエチオピアニ於テ罌粟栽培ノ独占権ヲ獲タトノ事デアル、右ノ土地ニ日本人ヲ送ルタメ移民機関ヲ作ラントシツツアリテ間モナク日本人ノ群ガ西ニ移動スルデアラウ、日本人ノ商人ハ其生産物ノ為メニ新市場ヲ開クニ困難ヲ感ゼズ、即チ日本人商人ハ官憲護送ノ下ニ国内ニ其ノ商品ヲ売リ廻リ重ネテ次ノ注文ヲ取リツツアル         ー(完)ー

-----------------日中戦争の秘密兵器=麻薬-----------------

 「続・現代史資料(12)阿片問題」(みすず書房)の中に、「人物往来」(昭和40年9月号)で取り上げられた山内三郎の「麻薬と戦争ー日中戦争の秘密兵器」という論文が、一部カットしたかたちで掲載されている。そして、筆者の山内三郎についてヘロインを製造した製薬会社の社長で、一時期ヘロイン患者であった人物であると紹介されている。国策としての日本の麻薬政策や戦争とのかかわりの実態を赤裸々に暴いている元製造業者の貴重な論文である。第一章から印象深い項目を抜粋する。
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                          麻薬と戦争ー日中戦争の秘密兵器ー

                                                山内三郎(元南満州製薬KK社長)
第1章 日・支麻薬外交

  麻薬の金城湯池・シナ ─ 略 

  優秀な日本製ヘロイン ─ 略

  爆撃機で運びこむ
 支那大陸における日本人のヘロイン製造人たちは、甘い蜜に群がる蟻のようにその数を増やしていった。満鉄総裁が彼等の商いを奨励し、関東軍がそれを保護助成した。あたかもそのやり方は、かつてイギリスが阿片を片手にトルコ、ペルシャ、インドを無血で東進したごとく、日本はヘロインをもって、支那大陸侵略の野望を充たさんとしたのである。 

 満州を拠点として、やがて日本のヘロイン勢力は、北支から中支、南支へと伸びていった。蒋介石政権は、ヘロインを含む麻薬の一切を禁止したのだったが、麻薬業者から吸いあげる利益が、大きな政府の財源となったことで、却って公許の吸烟所を設置したりして、とても根絶やしにするだけの熱をもたなかった。

 それまで支那の秘密結社である青幇、紅幇、洪幇などの主たる財源は阿片であり、なかでも青幇(チンパン)は、大幹部の蘇嘉才、張粛林、杜月笙などが大阿片商人であったから、彼等のもつ勢力に対して、蒋の国民政府がいかに麻薬の粛正を計っても無駄といわなければならなかったのである。杜月笙など、大阿片商人でありながら国民政府の最高顧問格で、軍事委員長をも兼ねていたのだから、その複雑さが想像できようというものだ。

 日本人の現地でのヘロイン生産に併行して内地の大日本製薬、星製薬などの製品は、支那各地の政商を通じて盛んに売りこまれた。一般には陸軍のやり方は、日本人のヘロイン商人を保護して、彼等からのリベートによって○○機関、××機関の機密費を賄う方法をとっていたが、海軍などは有名な児玉機関などのように、直接ヘロインによる利益によって莫大な軍事費を蓄積していくのだった。

 中支から南支といった遠距離のヘロイン輸送は、内地から爆撃機などによって大量が運ばれている。大手の製薬会社は、夜を日についでヘロイン製造に熱を入れ、原料の阿片などは、印度洋を不自由な船で送ってくるのではとても間に合わず、国内でケシの栽培が奨励された。
 ケシは、水田の裏作として植えられ、北海道や樺太では、ケシを栽培するための開墾が進められた。

 支那大陸での日本のヘロイン商売は、先述した2つの大きな目的をもった国策として、大正の中期から、ついに太平洋戦争で日本が、敗れるまで続けられた。とくに日本軍が仏印に進駐し、やがてタイ、ビルマなどを掌中に入れた昭和17、8年頃には、阿片の入手経路は東南アジアの各地に及び、内地で生産される阿片に加えて、支那に売られるヘロインの量は非常な増加をみたのだった。

 冀東防共地区 ─ 略

 悲鳴をあげた蒋介石
 <145字略す>
 世界から総スカンを食った満州<国>であったから、国際聯盟には無論加入しておらず、そのため、万国阿片会議に出席する義務ももっていなかった。だから、公然と阿片吸烟所が満州各地に設けられていたのである。
 満州建国の3年前、昭和4年に、私は青島に渡り、ヘロイン製造の技師として働いたが、建国後、昭和8年10月には大連に移り、ここでヘロイン製造にのり出し、翌9年には大連市小崗子に資本金5万円の”南満州製薬会社”を創設した。
 表てむきは医薬品エーテルの製造で、原料のアルコールは三菱系の満州酒醸から手に入れていた。実際には、ヘロイン製造は工場内で行なわれず、3人一組の作業員が十数組に分かれて、現地に転在するリンゴ園の中でこっそりと進められたのである。
 3人一組になるのは、ヘロインの結晶を濾過するのに用いるハンド・ポンプを動かす係、エーテル運びなどの雑役、それに結晶づくりの3つの仕事の分担があったからだ。

 一組の生産高は一昼夜でおよそ10キロ。年間約500~1000万円の利益が上がり、人件費から、役人との接渉費、その他種々のリベートなどがまかなわれたのである。
 リベートの主なものは原料(粗製のモルヒネ)を運んでくれる者、それを保護してくれる将校、憲兵などに支払われた。たまには取締り当局の網にかかることがあって、私たちが出頭したときなどに、憲兵が官憲に手をまわしておいてくれるのである。そのため、日頃から彼等と親しくしておく必要があったし、それに使うための渉外費を出すだけの儲けは充分にあったのであった。

 ヘロインは驚くほどよく売れた。阿片吸烟所はもちろん、一般の家庭内でも公然と吸烟は行われた。
 当局の取締りもあくまで一応のもので、それほど徹底したものはなかった。街の売春婦の館とか、料理屋の一室とか、風呂屋の奥の部屋などで、合図をすればたちまち吸烟の準備がなされたのである。

 街に氾濫しているヘロインは、いつどこででも手にいれることができたし、もし満州人と腹を割って話し合いたいという段になれば、まずヘロインか阿片の一服が交換されるのであった。
 街角にごろごろしている苦力(クーリー)なども、煙草の先端に白粉を附着させて一服するのである。その魔性はともかく、なぜあれほど支那・満州の民衆にヘロインや阿片が流行したのであろう。安定を欠いた。他民族に侵され、国威を恢復した例しがなかった。満州なども、王道楽土、五族協和が叫ばれながらも、実際は日本軍閥の沃野となったに過ぎなかった。夢がなく、希望がないところに麻薬ははびこっていくのである。
 蒋介石政府は、日本と満州国からのヘロインの密輸が年々増加していくのに悲鳴をあげて、国際聯盟や万国阿片会議に提訴を続けるのであったが、実際に開かれた阿片会議などでは、日本はいつも、のらりくらりと受け流すばかりであった。

---------------日中戦争の秘密兵器=麻薬  NO2----------------

 前回に続き「続・現代史資料(12)阿片問題」(みすず書房)の「麻薬と戦争ー日中戦争の秘密兵器」(山内三郎)「第2章 ヘロイン戦争」から「ヘロイン 戦闘機に化ける」と「アメリカのいやがらせ」と題された部分を抜粋する。「ヘロイン 戦闘機に化ける」では、日中戦争が、麻薬で得られた利益によって支えられていた事実が分かる。
 また、「アメリカのいやがらせ」は、アメリカ国際聯盟阿片会議委員であったF・T・メリールの論文の要約であり、この論文で、万国阿片会議や国際聯盟阿片会議の概略と、当時日本がそれらの会議の意向に沿わず、非難の的になっていたことが分かる。
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第2章 ヘロイン戦争

  ヘロイン 戦闘機に化ける

 日本人のヘロイン製造業者に対しての日本軍、とくに憲兵隊から渡された”安導権”は、彼等にとって全く何にも変えがたい宝であったといえるだろう。その保護がなければいかに支那・満州の官憲が弱腰であったからといって、あれほど安全な商売をやっていけるはずはなかった。
 ヘロイン商売で上がる利益を何らかの形で軍に還元することを考えた彼等は、直接現金を寄附するかわりに、さかんに飛行機を買ってこれを献納した。陸軍の戦闘機の献納者名簿にはヘロイン屋の名が数多く記されてあった。戦闘機1機が5万円という時代であったが、5万円の金は人間一生寝て暮らせるだけの金額でもあった。そんな大金を、ぽんと軍のために投げ出すのはヘロイン屋をおいてなかったし、彼等にはそうするだけの理由が充分あったのである。もとはといえば、陸軍が稼がせてくれた金であった。

 献納者は正装で献納式に参加した。彼等に整列する部隊の前で讃辞が送られ、表彰状を受けるのであった。そして、”われらこそ国策に沿って、軍のために、日本のために働くものである”という大義名分を得て、さらにヘロイン商売に熱を入れるのだった。

 軍人の中には、部隊将兵の慰安という名目で、直接ヘロイン屋のところへやって来て、寄附を申し付けるチャッカリ屋もいた。こうして狐と狸は手と手をとり合って支那大陸に魔手を伸ばしていったのである。

 [以下140字略す]
 日本人がヘロイン商売をする場合は、原料であるモルヒネ・バーゼを手に入れる製造人と、その製造人から規程の工賃をもらって、モヒ・バーゼにアセチルを加えて、薄桃色のジ・アセチル・モルヒネを作る”チル屋”と、さらに塩酸ヘロインを作る”結晶屋”、製造販売部である”大卸し”、そして”仲卸し”までを受け持つことになる。製品はそれから先、”小卸し”を経て”零売人”から消費者へと受けつがれるが、”小卸し”から先の販路はすべて朝鮮人の仕事となっていた。
 したがって”製造人”から”仲卸し”にいたるまでの日本人が担当するすべての部門に伴う「危険」は、日本の軍部によって面倒がみられたわけである。
 先ほど述べたように、私は大連の小崗子で、結晶づくりをやっていたが、私の場合、製品は主に奉天の”大卸し”に運搬した。
 ヘロインの白粉を運搬するには、支那官憲の目を逃れるために、まず大連市内の名のあるデパートから缶入りの「焼のり」を買って来て、これを運搬人たちの馴れた技術(実際それは特殊技術といってもよいほど巧妙であった)で中味をヘロインと入れ替え、奉天に搬入するのである。
 だから、運搬人の家庭には「焼のり」が氾濫した。女や子供は「焼のり」ばかりを食わされるハメとなり、一流デパート製の高価な「焼のり」は最低のおかずになり下がってしまった。泣く子供に「焼のり」を食べさせるぞ!と脅かしたぐらいである。

 最後に”零売人”に納められたヘロインは、表面はタバコ屋の店構えをもった吸烟所や、一般家庭の吸烟者に売り捌かれた。それらはいうまでもなく、すべて中国人であった。”零売人”は消費者が粉といえば粉、注射といえば注射でその求めるものを与えてやるのであった。そして、”製造人”から”零売人”にいたるまでいずれの部分に手入れがあったとしても、手入れを食ったものは、誰からそれを手に入れたか、また、何処にそれをもっていくのかを絶対に口にすることはなかった。秘密を守ることが、ヘロイン関係業者に与えられた最大の掟であったからである。

 日本軍への、彼等(主に製造人)からの献納飛行機にしたところで、決して献納者がヘロインで儲けた金で飛行機を購入したなどということは、誰の口の端にものぼらなかったのであった。

夕日と拳銃と麻薬 ─ 略

匪賊の出没するところ…… ─ 略

「天下の国土を求む」 ─ 略

アメリカのいやがらせ
 <以下999字略す>
 さて、日本の軍部、とくに満州に本部をおく関東軍の支那大陸に対する軍政の側面に、麻薬売買人庇護政策があるということで、国民政
府は再三に渡って万国阿片会議だとか国際聯盟に提訴を続けていたが、ここでアメリカ国際聯盟阿片会議委員であったF・T・メリールの
論文要約を紹介しよう。
 メリール委員は、支那政府から渡された日本の阿片謀略に関する資料をもとに、以下の論文を作成したものである。

 『アヘン問題は最初米国の提唱によって1909年(明治42年)日米支独その他列国委員を上海に招集し、アヘン煙吸烟禍に関する事項討議の目的をもって開かれた。
 ついで1911年、各委員をヘーグに招集して会議を開き1912年の国際アヘン条約の締結を見た。だが、各国の批准を得るに至らず、条約は空文に等しかった。その後1913年─1914年と再度ヘーグで会議をもち、条約の実施時期を1914年12月31日と定めた。だがこれも、米国、支那、両国以外の国の批准が得られないまま欧州第1次大戦の勃発となり中断となった。
 
 1919年(大正8年)大戦の平和条約の締結せらるるや、右条約中にアヘン煙禁禍に関する条約の挿入が(共同提唱)され、第290条第1項前段においてアヘン条約に関する事項を規定し、締結国は本条約実施後12ヶ月以内に右の条約実施に、必要なる国内法を制定すべきことを規約した。(中略)

 支那人の大多数はアヘン喫煙に強い執着力を有しているが、その責任は英国にある。
 英国は19世紀の中葉を通じて通商帝国主義の野望から支那のアヘン奨励を保護した。それによって過去50年というもの、支那は、自国用に多量のアヘンを栽培し、保護して来た上に、トルコ、インド、およびイラン諸国からこれを輸入した。
 支那の下層民は、生活程度がすこぶる低く、かつ非常な圧制に苦しめられている。そこでアヘンに慰めを求めることになり、やがては習癖となって悲しむべき状態に至っている。かれらは無教育で、出世の望みも明日の生活の保証もなく、西欧人が当然と考える娯楽でも、支那民衆の99パーセントまではこれを享有することができない。
 支那人は祖先崇拝の民で、子孫を残すということを非常に大事に思っている。そうしてアヘンは媚薬であると考えて、これを多量に用いると子孫を増加し得ると考える迷信も手伝って、これに親しみ、支那人のアヘン喫煙者はいまや1500万から5000万人の間にあるといわれている。
 この数から推論すると1人が1カ年に約400匁のアヘンを必要とすることになる。1906年ごろには、全支那のアヘン愛好者は、全国民の3割から4割といわれ、アヘン供給の少ない場所では、もっぱらモルヒネ、ヘロインによってまかなわれていた。(中略)
 1936年5月25日から6月5日までの間に開かれた第21回国際聯盟阿片委員会では、支那委員の提出した諸報告の検討が行なわれた。それによると、支那における1935年中のアヘン禁止法の違反者で、死刑に処せられたものは964人、没収されたアヘン36977ポンド、モルヒネ439オンス、ヘロイン1760オンスであった。(中略)

 日本は国内に強力な警察を有し、内地にはアヘンの脅威なるものは全然存在しない。日本が支那と満州における、アヘン密売抑圧に進展を示さないのは信じられない。支那人は、日本人が支那民族を堕落せしむる目的でアヘン麻薬の密売を助成すると非難するが、国際聯盟のアヘン委員会は、日本の努力のいかんでは、満州国および北支のアヘン麻薬抑圧も不可能ではあるまいと信じている。
 1936年6月アヘン委員会の第21回会議で、同会は日本にアヘンとアヘン剤のの製造売買禁止と、これに対する刑罰の重課を勧告した。支那の利益保護と東亜における文化の指導者たる立場から、日本が真剣になって北支と満州におけるアヘンの根絶に努力せんことを切望してやまない」

第3章 麻薬亡国時代 ─ 略
第4章 戦後の麻薬 ─ 略

-----------田中隆吉尋問調書-阿片・麻薬売買と軍事機密費-----------

田中隆吉という人物は、関東軍参謀や陸軍省兵務課長・同局長など、長く軍の要職にあり、自身様々な謀略工作に直接関わった軍人である。そのため、極秘情報も含めて、重要な日本軍の情報の多くをつかんでいた。その田中隆吉が、東京裁判の法廷では、検察側証人として、大勢の戦争責任者を告発し、検察活動に協力したのである。「日本のユダ」といわれる所以である。
 しかしながら、彼の陳述は、戦争の事実を解明するためにきわめて貴重であり、歴史的資料として価値あるものであると思う。

 彼は自身の著書「日本軍閥暗闘史」(中公文庫)の中で、「元来機密費なるものは、その使途には、何らの制限がないのみならず、会計検査の適用も受けない。従ってもし責任者がその用途を誤るときはいかなる罪悪をも犯し得るのである。満州事変以来陸軍の機密費が、軍閥政治を謳歌しこれに迎合する政治家、思想団体などにバラ撒かれたのは、私の知れる範囲だけでも相当の額に上る。近衛、平沼、阿部内閣等でも、内閣機密費の相当額を陸軍が負担していたことも事実である。これらの内閣が陸軍の横車に対し、敢然と戦い得なかったのは私は全くこの機密費に原因していると信じている。これらの内閣は陸軍の支持を失えば直ちに倒壊した。また陸軍の支持を受くる間は陸軍と一体であったから、この機密費の力は間接的に陸軍を支持する結果を生んでいた。軍閥政治が実現した素因の一として、私はこの機密費の撒布が極めて大なる効果を挙げたことを拒み得ない。東条内閣に至っては半ば公然とこの機密費をバラ撒いた。東条氏が総理大臣と陸軍大臣と内務大臣を兼ねたとき、土産として内務省に持参した機密費は百万円であった。…」などと、軍の機密費が日本の針路を左右した事実を明らかにしている。そして、その多額の機密費が阿片・麻薬売買から生み出されたことを、下記の陳述は物語っているのである。「東京裁判資料 田中隆吉尋問調書」粟屋憲太郎・安達宏昭・小林元裕編 岡田良之助訳(大月書店)の阿片・麻薬問題にかかわる尋問部分の一部抜粋である。
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                             田中隆吉に対する尋問(第3回)

 日 時 1946年2月25日10時30分~12時  13時45分~17時20分
 場 所 日本 東京 明治ビル
 出席者 田中隆吉
     ウイリアム・T・ホーナディ中佐 尋問官  J・K・サノ 通訳   インジバー
     グ・ナイデン 速記者

 ・・・
  問 戦闘が終わったのちに、占領地域で麻薬の使用を拡大しようとしたのは、どのような目的からでしょうか。私の質問の意味は、それが、攻撃前に進出のための武器として使用されたということではなく、中国側代表が国際聯盟に告発したこと、つまり、日本軍が占領地域において中国人民の心身を弱らせ、彼らをより柔順にし、抵抗をやめさせたうえで、占領地域の人民を撲滅するために麻薬の使用を奨励していたという意味です。そのことをどう思いますか。

  答 支那側によるその見解は、正しいものであります。と言うのは、日本軍がそのような結果を得ることを意図したかどうかはともかく、彼らは、占領地域ではかなり自由に麻薬売買にかかわってきたのであり、その結果だったからです。われわれは、占領地域における日本人の麻薬売買の結果から判断して、支那側がそういう見方をするのを非難するわけにはいきません。あなたが言及された支那人の撲滅は、人びとがその売買に携わるかぎりでは、実際のところ、二次的に考えられたことでした。彼らが真っ先に考えたことは、金を儲けることでした。それだけのことであります。大東亜戦争の終結近くになって、日本政府は麻薬売買による収益のありがたさを評価しだしたように思われます。そのようなことは、私が兵務局の職を退いたのちに起こったのであり、私は、それについて、それこそ徹底的に調査すべきであると真剣に主張します。

  問 それでは、1942年以後、中国における阿片売買ならびに、それによる収益については、東京の政府から以前にもまして直接の指揮監督があったという意味でしょうか。

  答 そうであります。私が職を辞したあと、東条内閣は、南京政府に対して3億円の借款、つまり、汪精衛政府に対して借款を与えましたが、その金は実際には、彼らのもとには届けられませんでした。その代わりに、私の推察によれば、里見体制の時期に麻薬売買によってその組織の手中に蓄積された利益が、前述の借款を与えるために使用されたのであります。児玉誉士夫は、まだ権力を握っていなかったと思います。借款に充当されたといわれる3億円は、確かいずれも戦犯容疑者である青木一男と阿部信行との間で分配されました。たぶん、阿部は、病気のため、巣鴨プリズンに入っていません。(ホーナディ大佐のメモーこれら両人はプリズンに収監されている。)それから、石渡荘太郎。これらが、前述の金を分け合った人物として私のもとに報告された名前であります。実を言えば、青木は、われわれが無条件降伏した当時、横浜正金銀行から多額の預金を引き出しました。そのような次第で、今次戦争の終結間近に、阿片がらみの金がどのような役割を果たしたかがご想像いただけます。

  問 その3億円は中国における阿片売買によるものであったという意味ですか。

  答 それが結論です。

  問 将軍、その情報源はどこか、教えていただけますか。

  答 私個人の情報提供者から聞きました。そのうちいつかまた私が来たとき、その人物をあたなに紹介しましょう。彼は、その話をしてくれるでしょう。

  問 それはありがたい。将軍、中国における阿片・麻薬売買による利益が、定期的に横浜正金銀行に預け入れられていたかどうか知っていますか。

  答 そのような資金は、いくつかの銀行、例えば台湾銀行や横浜正金銀行に分散されたものと思いますが、しかし、それは、私の憶測であります。かつて東条が陸軍大臣であった当時、天皇裕仁は、多数の日本軍人がなぜ上海の銀行にこれほど預金をもっているのか、という質問をされました。東条は、事情調査のため、直接に日本から憲兵を派遣しました。調査の結果、それらは、個々の官吏がもっている預金ではなく、支那政府に引き渡されたと推測される資金ではあるが、特務機関の名義で保有されていることが判明しました。そのようなわけで、それらの資金も、麻薬売買の結果として蓄えられた金であるというのが、私の推論です。東条はこれについてすべてのことを知っているはずです。この事件は、私が兵務局を退職する直前に起こりました。

  問 あなたが兵務局の職から退かれたのは、昭和何年でしたか。

  答 昭和15年、つまり、1940年の終わりに近いころ〔1942年9月〕でした。私は、この問題を追及しませんでした。前述の行為は、官吏個人の利己的動機のために行なわれたものではなかったからであります。

  問 それは、特務機関の機密費を得るためだったのですか。

  答 私は、必要に応じて彼らが支那政府に金を引き渡すことができるようにするため、前述の方法で金が蓄えられたのだと、むしろそう考えています。  

  問 先日、あなたは、里見の名は甫(ハジメ)であると言いました。それで間違いありませんか。

  答 はい。

  問 ところで、私は、ウールワース大佐が、彼の名前に関連して京都のほか、内務省についてもメモを作成したことを知っています。それが何についてであったか、覚えていますか。

  答 彼は軍人ではないので〔彼のことを〕知るのに最も手っ取り早い方法は、内務省を利用することだ、とたぶん申したのであります。

  問 そこに行けば、彼の所在と、彼の活動がどのようなものであったかを突き止めれらるということですか。

  答 住所に関するかぎりは、内務省で教えてもらえます。

  問 さらにまた、阿片売買に関連して、あなたは、北京に駐在した塩沢〔清宣〕将軍に言及しました。先日、あなたが供述したその所見は、どのようなものだったのですか。

  答 北支での麻薬売買に関する政策は大東亜省連絡事務所〔大使館事務所〕の前身である北京の興亜院〔華北〕連絡部によって統制されていました。その部局の長官〔心得〕が、この塩沢でした。彼は、東条大将の一番のお気に入りの子分でした。彼は里見の大の親友でもありました。塩沢は、北京から東条へしばしば資金を送っていました。戦争中であったため、上海地域で使用された阿片は、その量のすべてが北支から供給され、そのようにして、当然、多額の金が塩沢の手元に蓄えられました。塩沢のもとで、専田盛寿少将という私の友人が働いていました。彼は私に、塩沢は、しばしば飛行機を使って東条のもとに金を送った、と語り、そのことでひどく腹を立てていました。それが原因で専田は、興亜院の職を辞することを余儀なくされました。昨年9月に大阪で私が専田に会ったとき、彼は私に再び同じ話をして不満を表明しました。そのようなわけで、私は、里見と塩沢は、阿片売買において互いに協力していたとの結論に達したのであります。東条内閣が倒壊したさいに塩沢もまた、興亜院から追い出され、どこかの師団長〔第119師団長〕に任ぜられました。復員省を通じて探せば、彼の現在の所在を突き止めることができるはずであります。

 問 それから、専田の所在もですか。

 答 専田盛寿も、復員省を通じて追跡できるでしょう。

 問 それで、彼の陸軍での階級は少将でしたか。

 答 現在は少将で、当時は大佐でした。

 問 塩沢の名のほうは何といいましたか。

 答 塩沢清宣、現在は中将です。当時は少将でした。大東亜戦争が勃発すると、ペルシャおよびトルコからの阿片の海上輸送が止まってしまったため、北支からの阿片がきわめて重要な要因となり、その結果、北支からの阿片の価格が上昇しました。トルコ産およびペルシャ産の阿片が入って来なくなると、上海地域への阿片供給のほとんどすべてが、北支からのものになりました。終戦に近いころは、里見が売買〔部門〕の最高の地位にあったのではなく、児玉誉士夫という人物が担当していました。したがって、里見と並行してこの児玉誉士夫を調べなければ、阿片売買の全容を明らかにすることはできません。私は、私が聞いたこと、をあなたにお話しているにすぎません。

 問 どのような情報筋からですか。

 答 その情報は、どちらかと言えば風聞として私の耳に入ったものであります。児玉の数百万円は、そのような筋からのものです。

 問 さてそれでは、退出する前に、時刻が遅くなりましたが、今夜お尋ねしておくべき質問が一つあります。先日、あなたは、興亜院が阿片組織についての情報をたくさんもっているであろう、と供述されました。ここに楠本〔実隆〕少将に関するカードがありますが、それには、アメリカ総領事バトリックからの1940年の報告に基づき、興亜院の楠本と津田〔静枝〕提督が、実際に宏済善堂ならびに上海の専売組織全体を指揮監督していたと書かれています。それは長い話になりますか。そうであれば、後日それを取り上げることにしましょう。

 答 わたしはその事情を詳しく知っております。

 答 話が長くなりますか。そうであれば、後日に回しましょう。

 答 それに関しては、すでに退役(ママ)していた楠本中将と津田提督が麻薬売買について、里見に全面的な援助を与えたということ以外は、あまりお話しすることはありません。そのお陰で彼は大成功したのです。彼らがどのような方法で彼を援助したかは知りません。津田提督の所在については、海軍復員省〔第2復員省〕をつうじて知ることができます。楠本の所在は、陸軍復員省〔第1復員省〕をつうじて知ることができるでしょう。楠本は、おそらく、今も外地にいるでしょう。津田静枝提督は、東京にいると思います。

------------田中隆吉尋問調書と阿片・麻薬問題 NO2---------------

阿片・麻薬問題に関する田中隆吉の陳述は、第3回の尋問で集中的になされている。田中隆吉は、ホーナディ尋問官を驚かせるほど、阿片・麻薬問題に関する知識を有していた。それは、彼が関東軍参謀という立場にあったことや、内蒙工作の推進者であり、「綏遠省のアヘン収入を押さえること」を主たる目的とした綏遠事件の主謀者だったことなどによる。しかしながら、彼は自分自身の阿片・麻薬問題とのかかわりについてはまったく語っていない。事前にアメリカ側関係者と取り引きがあったのか、自分自身の阿片・麻薬問題との関わりについてはまったく触れることなく、他人のそれとの関わりについては、知り得た事実をすべて語ろうとするかのごとき姿勢で、問われていないことまで、いろいろな局面で進んで語っている。その一部を「東京裁判資料 田中隆吉尋問調書」粟屋憲太郎・安達宏昭・小林元裕編 岡田良之助訳(大月書店)から抜粋する。
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第1回尋問 1946年2月19日 
        尋問官 ウィリアム・T・ホーナディ中佐 (p16~p17)

 ・・・
 
  問 満州事変のことで土肥原将軍は、満州事変直前の2年間、自分は日本で歩兵〔第30〕連隊を指揮していて、中国にはいなかった、と私に言っていますが。

  答 そうです。と言うのは。土肥原将軍は宇垣大将の側近にいて、宇垣は彼を国内から出さなかったからです。宇垣大将は、常備軍兵力の削減による軍備制限を唱えましたが、土肥原将軍は、宇垣との結びつきゆえに、当時の現役軍人からは快く思われていませんでした。土肥原将軍が陸軍部内で信望を得ることができなかった別の理由は、彼が、いささか利己的かつ自己中心的だと思われ、その結果、大目に見てもらえなかったことにあります。さらに別の理由は、たぶん、彼が長年にわたり支那で暮らし、同地で豪奢な生活を送っていたということ、さらにまた特務機関には常に多額の資金があったので、当然ながら、ある程度の妬みを招いたということもあります。

  問 それは機密費だったのですね。

  答 そうです。

  問 それで、特務機関は、この資金の使途を、通常の経路、つまり大蔵省をつうじて明らかにしなくてもよかったのですね。

  答 彼は彼が適当と考えればどのような方法であろうと、その資金からどれほどの額でも使用することができました。彼に求められていたのは、明細の記載されていない簡単な領収書をもらっておくことだけで、しかも、そのような領収書も、しばしば偽造することが可能でした。過去にそのような事実があったゆえに、特務機関のほとんどすべての指導者は、厳しい批判を免れませんでした。

  問 特務機関がもっていたそのような機密費の主たる出所の一つは、阿片や麻薬の販売だったのですね。

  答 満州事変以前は、機密費は、主として政府から供給されていました。満州事変以後、とりわけ支那事変以後は、そして、それにもましてとくに大東亜戦争以後は、たった今あなたが言及されたような活動が実際に行われました。私は、兵務局長を務めていたころ、彼らのなかの何人かを、そのような活動をしたがゆえに処罰しなければなりませんでした。調書に書かれているいることは事実であると確信しております。私は、主として、あなたのお考えを裏付けるために以上の供述を行っていることになります。

  ・・・
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第7回尋問  1946年3月16日  
         尋問官 ジョン・F・ハメル少佐  (p85~p86)

  ・・・

  問 東条は、関東軍憲兵隊司令官在任中に、麻薬取引にかかわりましたか。

  答 彼は、何らのかかわりももっていませんでした。

  問 彼は、取引にかかわった人たちに保護を与えましたか。

  答 与えました。

  問 どのようにしてですか。

  答 最近、満州で自殺した甘粕正彦を支援することによってです。

  問 東条は、どのように彼を支援したのですか。

  答 甘粕は、苦力(クーリ)を満州に送り込む組織を動かしていました。また同時に、甘粕は、阿片を扱う満州専売局に密接な関係をもっていました。この満州専売局は、甘粕の団体ともきわめて密接でした。そのような理由で、甘粕は、終戦時まで東条の政治参謀長の役を務めました。また、彼〔東条〕を支援するために多額の金を提供することもしました。

  問 東条は、甘粕がこれらの活動にかかわっていることを、知っていたのですか。

  答 彼がそれを知るのを妨げるような事実は何も思いつきません。直接にであれ間接にであれ、彼が阿片売買にかかわるようになったのは、東条が陸軍大臣になったあとであります。東条夫人は、もって生まれた資質によりまるで政治家みたいでした。東条夫人は、甘粕に対して非常に好意的でした。甘粕が彼にどのような援助を与えているかについては、おそらく、東条夫人のほうがよく知っていました。

  ・・・ 
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第15回尋問  1946年3月23日  
          尋問官 ジョン・F・ハメル少佐  (p165~p166)

  ・・・  

  問 彼(畑俊六)は、1938年2月に松井に代わって中支那派遣軍司令官になりましたか。

  答 はい、なりました。彼は、上海に行きました。

  問 彼は、その時以後、翌年〔1938年12月〕後任者に交代してもらうまで支那事変と戦争を続けてきたのですか。

  答 そうです。彼は、上海駐在中、原田熊吉中将の進言により上海で阿片専売制度を発足させました。

  問 どのような経緯でそれを発足させたのですか。

  答 当時、原田将軍は、畑大将の指揮下にあった特務部の政務〔特務〕部長でした。この阿片専売計画は、もともと里見甫によって発案されたものであります。

  問 里見は、その計画を実行したのですか。それとも、その発案者だったのですか。

  答 里見こそが原田に勧告を提示した人物であり、原田がこれに修正を加えたのち畑大将に提示し、次に畑大将を介して日本の内閣にそれを承認してもらい、最終的に内閣に計画を採択してもらったのであります。里見は、その専売計画を実行するよう、畑大将によって任命されたのです。

  問 阿片専売による収益はだれが受け取ったのですか。

  答 阿片専売の利益は、傀儡南京政府、日本陸軍および里見の間で三等分されました。

  問 日本陸軍とは、それは、畑の指揮下にある軍隊のことですか。それとも、日本陸軍全体のことですか。

  答 その金は、特務部が受け取ったのですから、畑の指揮下にある軍隊がそれを使ったものと考えるのが妥当であります。

  問 その金の一部は、東京の軍部に渡ったのですか。

  答 そうです。

  問 それは、日本政府が関東軍に対する資金調達のためにつかったのですか。

  答 事実として、阿片売買による利益は、満州国政府の国庫に入り、そのうえで今度は関東軍のために使われました。

  問 それは、満州での阿片取引のことですか。

  答 私としては、その点についてのはっきりした情報はもっていません。と言うのも、阿片取引に関する指揮監督はすべて、上海から行われていたからです。したがって、里見と難波を調べれば、必要な情報を得ることができます。

  ・・・

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第16回尋問  1946年3月25日  
          尋問官 ジョン・F・ハメル少佐  (p174~p175)

  ・・・

  問 彼(有末精三)は、中国駐在中に阿片取引に従事しましたか。

  答 従事したと思います。

  問 彼は、それとどのような関係があったか知っていますか。

  答 彼は、北京で浪人たちを指揮監督しました。

  問 彼は、華北政府の日本人顧問だったのですか。

  答 彼は、あるいは日本政府代表であったかもしれません。しかし、彼は、北京地域を管理し、間違いなく、阿片の売人と多分関係がありました。

  問 彼について、ほかに何か知っていますか。

  答 東京に戻って来たあと、彼は、特別なことは何もしませんでした。彼は、ドイツが勝つものと、停戦の日までずっとそう信じていたと思います。彼の評判は大変悪くなり、有末の言うことの逆に考えておけば間違いなかろう、と言われるほどでした。

  問 彼の評判は、なぜそんなに悪かったのですか。

  答 彼は、余計なことをやたらに言いすぎるために、評判をすっかり落としたのです。

  問 ほかに何かありますか。

  答 例えば、彼は、イタリアとドイツが勝ものと信じていました。有末とムッソリーニは、とても親しい友人同士でした。

  ・・・

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第20回尋問  1946年4月1日  
       尋問官 ジョン・F・ハメル少佐
             ジェイムズ・J・ロビンソン(米海軍大尉)  (p199~p200)

  ・・・

  問 将軍、あなたは、設置の話が出ていた大東亜省の前身である大興亜院の職員がだれであったか知っていますか。

  答 設置の話が出ていた大東亜省の前身である大興亜院は、次の人物に率いられていました。

    初代総裁〔総務長官〕は柳川平助、第2代総裁は鈴木貞一、第3代総裁は及川源七でした。
    大東亜大臣は、就任順に青木一男、重光葵、東郷茂徳、でした。

  問 興亜院の職員のなかには、阿片取引にかかわった者がいましたか。

  答 興亜院の鈴木貞一のもとで働いていた毛利英於莵です。現在、そういった連中は結束を強めつつあり、彼らは、それはたんなる投機的事業であり、今次戦争の原因とは何の関係もなかった、と公言しています。それに答えて私は、満州および支那における阿片取引は、人道に対する犯罪であったと非難する記事を新聞に投稿しました。毛利英於莵は、東京にいるはずで、彼から、支那における阿片取引に関する内部の実行計画についてさらに詳しく話してもらえます。この人物は、阿片売買についてだれよりも多くの情報を提供できるはずです。彼は里見と難波のごく親しい友人です。

 ・・・


 一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。青字が書名や抜粋部分です。赤字は特に記憶したい部分です。「・・・」は段落全体の省略を、「……」は、文の一部省略を示します。 

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アメリカが戦争犯罪を免責した悪魔の軍医 731部隊の実体

http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/index.html#topkoumoku
-NO45~53-


---------------三光作戦・三光政策(燼滅・掃蕩作戦)-------------

 「三光作戦」とは、日本軍が中国を侵略した際に行った軍事的・計画的残虐行為に対し中国人が命名したものであるという。「光」という字には「すっかり無くす」とか「徹底して行う」という意味があり、殺光=殺しつくす、焼光=焼きつくす、搶光=奪いつくすの三つを合わせ「三光」として、日本軍の軍事的・計画的な残虐行為を非難する意味を込めて三光作戦・三光政策と呼んだというのである。

 中国の華北一帯に抗日根拠地をもつ中国共産党八路軍のゲリラ活動に手を焼いた日本軍は、この広い地域を無人地帯(無住禁作地帯・無人区)にし、この地域の住民は「集家併村」と称して一定の場所(集団部落)に囲い込むか、燼滅・掃蕩し、地域住民と密着してゲリラ活動を展開する八路軍を地域住民から切り離すとともに、八路軍とその抗日根拠地の存続を不可能ならしめようと意図したのである。

 集家併村(集団部落の設置)は、万里の長城線以北の関東軍側が主として先行し実行したようであるが、中国の人々はその集団部落を家畜同様に扱うところと言う意味で「人圏」と呼んだとのことである。実際この集団部落で多くの人が餓死・凍死・病死したという。

 三光作戦は1940年8月、華北の八路軍が「百団大戦」と名づけた攻勢に出て、日本軍の小拠点を占領し、鉄道や炭鉱、通信線などに大きな被害を与えたため、北支那方面軍の第一軍参謀長田中隆吉少将が「敵根拠地ヲ燼滅掃蕩シ敵ヲシテ将来生存スル能ハザルニ至ラシム」と命じて反撃に出たのが端緒であると考えられている。「燼滅目標及方法」として

1.敵及土民ヲ仮装スル敵 2.適性アリト認ムル住民中16才以上60才迄ノ男子(殺戮)
3.敵ノ秘匿シアル武器弾薬器具爆弾等 4.敵ノ集積セリト認ムル糧秣 5.敵ノ使用セル文書(押収携行止ムヲ得ザル時ハ焼却)
6.適性部落(焼却)

と命令しているのである。

 したがって、岡村寧次大将が北支那方面軍総司令官に就いた1941年7月には、すでに三光作戦は始まっていたといえるが、就任後ただちに「晋察冀辺区粛正作戦」を発動し、八路軍を危機的状況に追い込んだため、中国側は日本軍・北支那方面軍兵団長会議において、北支那方面軍総司令官岡村寧次が三光作戦を画策したものであるとして、最高責任者は岡村寧次大将としているとのことである。

 国際法で禁じられている毒ガスの使用ももちろん大問題であるが、いわゆる「三光作戦」の最大の問題は、むしろ地域住民に密着してゲリラ活動を展開する八路軍に手を焼いた日本軍が、地域住民(一般民衆)そのものを敵視し、燼滅・掃蕩・剔抉の対象にしたということであろう。

 その犠牲者について、姫田光義氏は「華北根拠地での被害を総計すると少なく見積もっても247万人以上という数字が出てくる。この中には強制連行された人びとのその後の運命はカウントされていない」という。(「三光作戦」とは何だったのかー中国人の見た日本の戦争ー姫田光義 岩波ブックレット)

 下記は、元日本軍の小林実氏の証言を「中国侵略の空白ー三光作戦と細菌戦」アジアの声第12集(戦争犠牲者を心に刻む会編)より抜粋したものである。
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 私の部隊は長城線におりまして、中国共産党の八路軍を敵として徹底的に戦った部隊でございます。長城線は万里の長城にありました。長城線の両側に住民の家があったり、人が住んでいると、抗日の民兵が「満州」から入ってきたり向こうに出たりして日本軍の作戦の邪魔になります。あるいは八路軍が入って来てそこに拠点を作る。それでは日本軍が統治するのに具合が悪いということで、無住地帯つまり「無人区」を日本軍が設けたのです。
 その地域にある中国人の部落は、15軒から20軒という小さな部落までも全部焼き払っちまったんです。証言にもありましたように、全部家を焼いてしまったうえで、日本軍の都合のよい所に、ある程度大きな集団部落を作りました。その無住地帯、無人区の状況から申し上げます。
 無住地帯は一つや二つ、三つじゃないんです。日本軍が無人区をつくるためにとった作戦は、徹底的に部落の人たちの家を焼いたり、あるいは壊したりすることです。ある地域のここからここまでと決めた区域は全部家を壊して焼いてしまうという作戦だったものですから、軍隊がみんな行ってただ家を壊すだけでなく、火をつけて焼いてしまいました。その結果住民たちが、自分の着物やら家財道具を持って別のところへ引っ越さざるを得ないんですが、日本軍はそんなことにはお構いなく、無住地帯にするため人が住んではいけない、家があってはいけないということにして、全部火をつけて焼いちゃったんです。
 黙っていればみんな無住地帯にされ、殺されたりするといことを察知した農民たちは、家や家財道具をそのままにして、どんどんと余所へ逃げ出しました。
 それを知った日本軍は、統治できないところに逃げられては困るからと軍隊を出して銃で農民たちを押さえ、全員を数珠つなぎに縛って部隊へ連れてきた。そして、その人たちをみんな殺したんです。そういう状況ですから、あちらでもこちらでも日本軍に抵抗した農民やご婦人がいましたが、捕まえてきて全員射殺しました。あるいは、中国には地下に掘った野菜貯蔵庫というのがあるんですが、その中へ捕らえて来た住民を全員手を縛って押し込めて、上から火を付けて、生きたまま焼き殺してしまったんです。
 それでもまだ農民たちは抵抗しました。そして抵抗しながら逃げまわるのを日本軍が捕まえてくると、穴を掘りまして、抵抗した若い農民をその前に座れせて、そして日本軍の初年兵に「人を突く練習だ」、あるいは「人を殺さなかったら戦争にならないんだ」と命令して銃剣で突かせ、その穴に農民を放り込んで、上から土をかけて埋めました。
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 さらに続けて、残虐この上ないことも証言している。
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 特に中国で犯した残虐行為として、中国の城壁がありますが、捕まえてきた中国の人たち、八路軍あるいは抵抗した農民の首を斬り落として、その生首を全部、城壁の上に20も30も並べておいたことがあります。
 その晒された首を見て、殺された人の両親や兄弟には、遠くからでも自分の息子や親戚の人たちの首がどれかわかるので、それを夜ひそかに取りに来るんです。そのことがわかっているから日本軍は銃を持って待ち伏せて、取り戻しに来た人達をみんなその場で射殺しました。・・・



-----------三光作戦・三光政策(燼滅・掃蕩作戦)ー冀中作戦-------------

 北支那方面軍司令官岡村寧次の五一大掃蕩の一環として、聯隊を指揮し冀中作戦を展開した陸軍少将の証言と、その被害者の証言を「中国侵略の空白ー三光作戦と細菌戦」アジアの声第12集(戦争犠牲者を心に刻む会編)より抜粋する 
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                           中国の戦犯管理所で書いた供述書
                                        陸軍第59師団歩兵第53旅団長 陸軍少将 上坂 勝

(一)「冀中侵略作戦」
  1942年5月下旬河北省安平県安平北方滹沱川及潴龍川中間地区おいて北支方面軍により計画され、大百十師団長中将飯沼守の指揮 命令に依り実施せられたものであります。
  師団命令の要旨「師団は安平北方滹沱川及潴龍川中間一帯の地区を掃蕩し、八路軍根拠地を覆滅せんとす。歩兵第163聯隊は一部を 以て定県より主力を以て保定ー徐水間の地区より前記の地区に向ひ進出すべし。進出日時はX+1日正午とす。本作戦間各部隊は努めて機 会を求め地下壕の戦闘に赤筒及緑筒を使用し、その用法を実験し作戦終了後所見を提出すべし。各聯隊に赤筒及緑筒○○個を交付す」

 以上の命令により私は聯隊長として本部、通信班、第一大隊、第二大隊、第三大隊、歩兵砲中隊約1500名を抽出し、この侵略作戦に参加しました。

・・・

(1)第一大隊方面(北疃村事件 ── 編者)
 第一大隊は5月27日早朝定県を出発し、侵略前進中、同地東南方約22粁の地点に於いて八路軍と遭遇しました。大隊は直ちに主力を展開して之を包囲攻撃し、八路軍戦士に対し殲滅的打撃を与えたのみならず、多数の平和住民をも殺害いたしました。
 大隊は此の戦闘に於いて赤筒及緑筒の毒瓦斯を使用し、機関銃の掃射と相俟って八路軍のみならず、逃げ迷う住民をも射殺しました。又部落内を「掃蕩」し多数の住民が遁入せる地下壕内に毒瓦斯赤筒、緑筒を投入して窒息せしめ、或いは苦痛のため飛び出す住民を射殺し刺殺し斬殺する等の残虐行為をいたしました。私は此の戦闘に於いて第一大隊をして八路軍戦士及住民を殺害すること約800人に上り、又多数の兵器や物資を掠奪さしました。以上は第一大隊長 大江少佐の報告によるものです。

(2)聯隊主力 
 聯隊は北たん村滹沱川北岸地区に進出し左の師団命令を受けました。
───「上坂部隊は某村より某村に亘る地区を粛正掃蕩し該地区に框舎を構築すべし」。之に基き私は聯隊長として以下の命令を下しました。──「各大隊は其の担任地区を粛正掃蕩し該地区内に框舎を構築すべし、各大隊担任地区の境界次の如し(略)」(但第一大隊は警備態勢に復帰しました)。此の掃蕩戦では地下壕内に赤筒、緑筒を使用しました。即ち地下壕内に遁入した住民や八路軍戦士に対し此の毒瓦斯を壕内に投げ込み両方の入り口を閉塞して中国人民に多大の災害を与えました。其の殺人は約300名で住民中には多くの八路軍が混入しありと推測して居ます。以上は各大隊及東軍医大尉の報告に依り推定いたしました。

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                            井戸の周りで沢山の人が死んでいた
                                                          李振忠(リチェンチョン)
・・・
 虐殺事件の歴史的背景 
 1942年5月27日に日本軍が三光作戦の中で行った惨殺事件は、住民側に大きな被害を与えました。殺された人の名前と死体の確認ができた者だけで800人を超えています。北たん村というのは決しておおきな村ではありません。事件当時220世帯が住んでいましたが、事件後まだ地下道には掘り出されていない死体が多数ありました。虐殺によって38世帯の家族が一家全滅させられたのです。中国のごく普通の村になぜこれほどの被害が日本軍によって加えられたのか、その歴史的背景を述べさせていただきます。
 1937年7月7日に廬溝橋事件が勃発しますと、北たん村のすぐ近くある定県が日本軍に占領されましたが、国民党軍は抵抗しないで南へ撤退してしまいました。その後村の人々は共産党軍に加わり、ありったけの力で日本軍に抵抗しました。北たん村は見渡す限りの平野にあって、住民たちは日本軍から逃げようとしても隠れる所がありません。そこで村民は日本軍に対抗する手段としていろいろ工夫を凝らして地下道を掘る方法を編み出しました。その後地下道は改築され、当時の地下道は高さが2メートル、幅は二人の人が通れるくらいでした。村民はその地下道を利用して戦いました。
 日本の兵隊が多ければ地下道に入って身を隠し、反撃しませんでした。敵が少ない時は村民は銃とか地雷とか粗末な武器で抵抗し、大敗させました。また、隣の村の若者たちもゲリラを組織して抵抗したので、日本軍も新しい方法をとるようになりました。
 1942年5月、日本軍は抗日根拠地を殲滅するため新しい戦略を打ち出し、華北で食糧や資源の大規模な掠奪を始めました。
上坂部隊が村を襲う
 そして5月27日、北たん村は陸軍第百十師団第百六十三聯隊の上坂勝に率いられた部隊に襲われました。
 近くに迫っていた2~3000人の兵力が北たん村に動員されてやってきたのです。日本軍が攻撃してくるとの情報が届いた時、村に残っていた八路軍の兵士は、少数しかいませんでした。村民は地下道に逃げました。27日朝、村は日本軍に包囲され、戦闘が始まりました。粗末な銃や地雷で必死に戦いましたが、兵力でも武器でも日本軍の方が圧倒的に勝り、八路軍は弾丸が尽きて地下道へ入ってきました。日本軍は八路軍の兵士が見えなくなったので懸命に探し、午後から地下道の入り口が次々に発見され、結局地下道の出入り口のほとんどが発見されました。
 日本軍は携帯していた毒ガス弾を次々に地下道に投げ込み、毒ガスを外に出さないように出入り口の上を濡れた布団などで塞ぎました。地下道の中は大混乱状態になりました。子どもたちの泣き叫ぶ声があちこちであがりました。地下道の中にいた人々は唐辛子のような匂いと火薬の匂いが目にしみて、涙が出るし鼻水が出るし、非常に苦しみ始めましたが、地下道の出入り口がほとんど全部日本軍によって塞がれていたので外へ出られず、バタバタと沢山の人が死んでいきました。体の丈夫な者や若い人は必死に外へ出ようとしていました。地下道には八路軍の兵士もいましたが大部分は村民で、幸い脱出できても外に待ち構えていた日本兵に銃殺され、若い者は日本軍に捕まっても抵抗したため木に縛り付けられて銃剣で突き殺されました。日本兵は死んだ後も銃剣で何度も突き刺していました。
  


--------------- 関東軍第731部隊(石井部隊)細菌戦部隊-------------

 関東軍第731部隊の部隊長石井四郎は「1945年ー8ー15終戦当時メモ」に、東京から新京に駆けつけた軍司令官が731部隊の内実発覚を恐れ<徹底的爆破焼却>を命じたと記録しているようであるが、その軍司令官である当時の参謀本部作戦課朝枝繁春主任本人も、1997年テレビ朝日ザ・スクープの取材に対し、
「人間を使って細菌と毒ガスと凍傷の実験をやったことが世界にばれたらえらいことになり、直に天皇に来る。貴部隊の過去の研究ならびに研究の成果、それに伴う資材、一切合財を完璧にこの地球上から永久に抹殺・消滅・証拠隠滅してください」
と石井に告げたと答えたそうである。
 また、その朝枝は新京でソ連軍の捕虜となっているが、シベリアに連行される際、軟禁されているハルピンの副市長官舎で、ひそかに関東軍首脳を集め、口裏を合わせる会合を開いている。その時の合意内容は
「かねてソ連より睨まれている防疫給水部 ── 石井部隊のことは必ず調査を受けることになるでしょうし、内実が発覚すれば、国際問題になります。ひいては陛下に………でありますから、あの部隊は統帥系統のものでなく、軍政系のもので、陸軍省医務局の管轄下にあり、参謀本部や出先の関東軍司令部の知ったことではないということに………。ただ、全く知らないといえば、却って疑われる。間接的に聞いたことにして、誰かと訊問されたら、太平洋で死んだ者の名を出すことに……」
ということである。この会合に顔を揃えたのは、「731」青木冨貴子(新潮社)によると、終戦時の関東軍総司令官山田乙三大将、秦彦三郎総参謀長、瀬島龍三参謀ら20名ほどであったという。
 したがって、信じ難いことではあるが、下記のような被害者の証言は事実と認めないわけにはいかない。下記の証言は「中国侵略の空白(三光作戦と細菌戦)」アジアの声12集(戦争犠牲者を心に刻む会編)よりの一部抜粋である。同じような悲惨な体験の証言が多数あることを忘れてはならないと思う。

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                            私が目撃したペスト菌投下【寧波】
                                                    細菌戦被害者 何祺綏(ハーチスイ)

 1940年10月27日の午後、一機の日本軍機が寧波に飛んで来て、上空をぐるぐる旋回し、何か物を投下しました。その時の様子は、黄色のけむりが撒かれたような感じでしたが、はっきり見えました。投下した物はいったい何なのか、その時は全然分かりませんでした。地上に落ちた物をじっと見てやっと分かりました。それは小麦、小麦の粉、トウモロコシなどの穀物と、ノミがいっぱいでした。それがペスト菌に汚染されたノミだったのです。
 当時私の父は開明街に店を開いていました。元泰酒店という酒屋で、この辺りはお店ばかりでした。住居と店はちょっと離れていました。27日にノミが投下されて、29日に隣の豆乳の店の主人夫婦が発病しました。昔は車が無かったから、人力車に乗せて病院に運ばれました。29日にペストを発病して、まもなく亡くなったんです。その後の数日間、死者の数はだんだん増えていきました。・・・

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                         日本軍は家族を奪い、我が家を没落させた
                                                         細菌戦被害者 何英珍
 ・・・
 日本軍国主義者は中国の東北、華北、華中を占領しました。華中の湖南省は日本軍による被害が最も大きかった被災地区の一つです。日本軍は至る所で、強姦、略奪、殺人、放火といったあらゆる悪事をしました。
 常徳ではさらに非人間的な細菌戦を行いました。私の家は細菌戦の被害をこうむった多くの家庭の中のひとつです。平穏無事であった家庭で、20日も経たない内にペストのために6人の命を奪われてしまったのです。飼っていた犬までも難を逃れることはできませんでした。なんと悲惨だったことか。
 私の家で最初に日本軍の細菌戦によって殺害された人は兄の妻、つまり私の義理の姉の熊喜仔でした。幼い時から我が家で暮らしてきた彼女は、当時満30歳になろうとしており、三児の母親でした。彼女は毎日あれこれと忙しく働き、子どのの世話をしながら家族全員の生活を営む、良妻賢母の主婦でした。ある朝、朝食が済み後片付けを終えて便所に行こうとした彼女は突然倒れてしまいました。みんなで彼女を助け起こし寝台に寝かせましたが、もはや言葉が話せず、高熱で昏睡状態に陥りました。呼吸が困難になり、首のリンパ腺が腫れ上がったので、みんなはジフテリア(白喉病)に罹ったかと思い、漢方の薬を調合して喉に当てました。しかし、まもなく彼女の顔は紫色に変わり、体にも紫の斑点が現れ、気息奄々の状態になりました。そして、昼近い頃、息を引き取りました。みんなは非常に悲しみました。とくに頼り合って生きてきた兄は泣き潰れました。大人たちの話によると、義姉は二日前から寒気がし、熱があると言って体の不調を訴えていました。でも、体を休めるように勧められても立ち働いていたので、日本軍機が撒布したペスト菌に感染していたのだとは、最初は誰も思いませんでした。
 人が死ぬと、中国では普通遺体を棺に入れて土の中に埋葬します。今日のように火葬したら、遺体を焼却し跡を残さないといって、不幸者、大逆罪と思われます。けれど、当時の政府はペスト患者は一律に隔離し、遺体は全て野外に運んで火葬させました。ですから、私たちは火葬されるのを恐れて、義姉が亡くなるとすぐ門を閉ざしました。泣くことさえ大きな声ではできず、深夜になって、小さな舟を借りて家の後ろにある河からこっそり遺体を運び出し、河の向こうの徳山に埋葬しました。
 家で二番目に日本軍の細菌戦によって殺された人は義理の兄、二番目の姉の夫で、名前は朱根保と言い28歳でした。元々彼は私の家で仕事の手伝いをしていて二番目の姉と結婚し、男の子が生まれて我が家の一員となりました。義姉が亡くなってから、彼はその葬式を営んだりしており、体の丈夫な彼が義姉の後を追っていくとは思いもよりませんでした。義姉が亡くなって三日目、朝食が終わって、彼は袋詰めの唐辛子を粉にして販売するため、ベランダ(支柱で支え、水面に張り出して作られた部屋)に担ぎ上がって日干しをしようとしました。しかし、階段口まで行って、突然倒れました。症状は義姉の時とほぼ同じでした。私たちは気が気でなく、父が中心となって、どうすべきか相談しました。こんな病気だから治療に出してもその甲斐がない無いばかりか、出ていったら最後もう戻ってこれないでしょう。家で十分療養したら、体も丈夫だから、もしかしたら危険な状態から脱し、九死に一生を得ることができるかもしれない。私たちは万にひとつの希望にすがり、側で見守っていました。しかし、みんなの期待とは裏腹に義兄の病状は悪化し、その日の夜亡くなりました。翌日の夜、またこっそりと彼の遺体を運び出し、徳山に埋葬しました。

・・・

 家ではまた子ども二人がペストに感染しました。一人は私の可愛い弟・何毛で当時わずか二歳でした。もう一人は亡くなった義姉の次女・何仙桃で、同じくわずか二歳でした。二人は相次いでなくなり、厳家崗に住む母方の祖母の家の近くに埋葬されました。

・・・

 父と兄は少しある家財道具を捨てきれず、常徳に残りました。また、江西の郷里に親戚を訪ねていった父の兄と弟に手紙を出し、家で起きた不幸を知らせたので、二人のおじさんは日に夜をついで家に向かいました。ある深夜、二人はこっそり常徳市内に潜り込み、不気味な家に戻りました。
 当時の二人の悲しい心境と疲れ切った様子は想像できることでしょう。伯父の何洪発は50歳近くで、叔父の何洪源は、40歳過ぎでした。二人は家に戻ると避難することを拒みました。そして、何日も経たない内に、二人はペストに罹り、相次いで亡くなりました。二人の遺体もこっそり運び出され、徳山に埋められました。
・・・
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 細菌戦被害地の調査は、日中国交正常化まではいろいろな意味で限界があった。1990年代に入ってやっと日中相互の情報を突き合わせた本格的な調査が実施され始めたようである。「中国侵略の空白(三光作戦と細菌戦)」アジアの声12集(戦争犠牲者を心に刻む会編)によるとその被害状況は現時点で、およそ下記の通りである。

●寧波では、1997年9月「侵華日軍細菌戦寧波調査委員会」が設立され、すでに判明しているペスト死亡者106名以外の調査活動が 始められている。コレラによると思われる死亡者が多数発生していることが判明している。

●常徳では、1998年3月侵華日軍731部隊細菌戦受害調査委員会がつくられ、過去の調査を基に各村に入って調査がされ、ペスト感 染死亡者は11か村、2425人の名前が報告された。その後の調査では、5000人近くが死亡しているという。

●義烏では、1998年2月「義烏市侵華日軍細菌戦調査委員会」が発足し、9月には義烏市周辺46か村1070人がペストで死んだと
 名簿を添えて発表した。調査は続行中であるという。

●衢州では、1998年10月「侵華日軍細菌戦受害舎調査班」をつくり、12月までに161人のペスト死者名簿を作成した。この後も
 さらに大々的な調査を行う予定であるという。

●江山では、1998年3月「江山細菌戦受害調査小組」が組織され、200人以上のコレラによる死者と90人のチフス死亡者が確認され ている。


-------------- 731部隊(参謀本部作戦課ー井本熊男業務日誌)---------------

「中国侵略の空白(三光作戦と細菌戦)」アジアの声12集(戦争犠牲者を心に刻む会編)に、日中戦争中最大規模の細菌戦が行われた浙贛作戦<セッカンサクセン>(1942年)を前に、関東軍軍医を集めて行われた講演(関東軍牧軍医「細菌戦ニ就イテ」満州帝国軍医団雑誌46号1942年)の一節が出ている。
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 ”細菌戦は、敵に決して気付かれないようにやらなければならない。できれば、自然流行のようい、もともとそこに、菌があったかのような状態で、撒かれるのがいちばんよい。そのために事前に入念に「兵要衛生地誌」を調べておく必要がある。”
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 こうした作戦が、戦後の細菌戦の実態調査を困難にさせた原因のひとつになったようである。
また、「中国侵略の空白(三光作戦と細菌戦)」には、加害者側の細菌戦実施の証拠と して、下記のようなことも取り上げられている。
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 1993年8月14日日本の朝日新聞は、一つの記事を掲載しました。日本防衛庁防衛研究所図書館が保存している日本陸軍軍官の業務日誌に次のようなことが書かれていました。1941年11月4日、一機の爆撃機は、中国湖南省の常徳で、ペスト菌を持つノミを36キロ散布した。二週間後、ペストの大流行という「戦果報告」云々と。
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 この日本陸軍軍官の業務日誌について「中国侵略の空白(三光作戦と細菌戦)」には詳しいことは書かれていないが、「日本軍の細菌戦・毒ガス戦731部隊国際シンポジウム実行委員会編(明石書店)によると、それは参謀本部作戦課員であった井本熊男大佐の業務日誌のようで、その内容は下記の通りである。
(二)1941年の細菌戦------------------------------------------
 1941年11月の常徳に対するペスト菌攻撃も、大陸指に基づいて行われた。「井元日記」には「ホの大陸指発令」と記されているのである。(9月16日)。飛行機からの細菌撒布の模様は次のように記されている。

 4/11[11月4日]朝目的方向の天候良好の報に接し97軽一キ出発〔4字分抹消〕。0530出発、0650到着。霧深し。H〔高 度〕を落として捜索、H800附近に層雲ありし為、1000m以下にて実施す(増田〔美保〕少佐操縦、片方の開函不十分。洞庭湖上に 函を落す)。
 アワ36kg、其後島村参謀捜索しあり。
 6/11常徳附近に中毒流行〔中略〕
 20/11頃猛烈なる「ペスト」流行、各戦区より衛生材料を集収しあり。
  判決
 「命中すれば発病は確実」(「井元日記」11月25日)

 ペストノミ(「アワ」)が常徳に投下されたことは、日本側の資料によっても確証されたことになる。
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 なお天皇の命令は「大陸命」で「大陸指」は参謀総長の発令であるという。そして、「大陸指」の案文は天皇に提出することが慣例であったという。したがって、細菌戦は天皇を中心とする日本軍(陸軍中央)の作戦であるということなのである。ソ連の侵攻時その証拠隠滅が最重要課題であったわけがそこにあったといえる。


------------大量餓死者を出した戦場:ガダルカナルほか--------------

 日本人が目を背けてはいけない歴史的事実として、第二次世界大戦における日本軍の無謀な作戦によって、多くの人が尊い命を落とさざるを得なかったこと、特にほとんど全ての戦場で大量の「餓死者」を出したことがあると思う。そこで、「餓死した英霊たち」藤原彰(青木書店)から一人の青年将校のガダルカナルにおける状況を記した文を抜粋するとともに、餓死者の概数を拾い出しておきたい。
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 12月27日(1942年)
 今朝もまた数名が昇天する。ゴロゴロ転がっている屍体に蠅がぶんぶんたかっている。
どうやら俺たちは人間の肉体の限界まできたらしい。
 生き残ったものは、全員顔が土色で、頭の毛は赤子の産毛のように薄くぽやぽやになってきた。黒髪が、ウブ毛にいつ変わったのだろう。体内にはもうウブ毛しか生える力が、養分がなくなったらしい。髪の毛がボーボーと生え……などという小説を読んだこともあるが、この体力では髪の毛が生える力もないらしい。やせる型の人間は骨までやせ、肥える型の人間はブヨブヨにふくらむだけ。歯でさえも金冠や充填物が外れてしまったのをみると、ボロボロに腐ってきたらしい。歯も生きていることを初めて知った。
 この頃アウステン山に不思議な生命判断が流行り出した。限界に近づいた肉体の生命の日数を、統計の結果から、次のようにわけたのである。この非科学的であり、非人道的である生命判断は決して外れなかった。
 
 立つことの出来る人間は………寿命30日間
 身体を起こして坐れる人間は………3週間
 寝たきり起きられない人間は………1週間
 寝たまま小便をするものは………3日間
 もの言わなくなったものは………2日間
 またたきしなくなったものは………明日

 このようにガ島での第一線部隊の食糧欠乏がもたらした凄惨な状況が描かれている。
 こうした状況に陥っている第17軍にたいしても、大本営は11月16日、ガ島において持久戦をせよと命令した。この命令に接したときのことを、第17軍参謀長小沼治夫少将は次のように書いている。

 輸送、補給が続く状況に於いては持久戦が成立するが、輸送補給が杜絶し第一線将兵が飢え杖をついて辛うじて歩行して居る「ガダルカナル」の第17軍が持久任務を受けて何時迄持久し得るやの回答は単に「敵の大攻勢を受ける迄持久し得」というに止まる。………
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●ガダルカナル
 上陸人員 31,400名  途中離島 740名  撤収作戦で収容 9,800名  戦没者 20,860名
 戦死 5,000~6,000名  広義の餓死者15,000名 
 ブーゲンビル島、ニュージョージア、レンドバ、コロンバンガラなど中部ソロモン諸島を含めると
 ソロモン群島の死没者の4分の3に当たるおよそ66,000名が餓死と考えられる。
 また、ラバウルなどビスマルク諸島の餓死者はおよそ27,500名である。
 したがって、この方面の餓死者は 93,500名を下らない数になるという。
 (広義の餓死とは、栄養失調がもとで病死した者も餓死に含めるということである。)

●ポートモレスビー
 作戦参加(南海支隊)人員 5,586名  補充人員 1,797名 損耗人員 5,432名 残人員 1,951名

 歩兵第41聯隊   戦死約2,000名余(3割が弾丸 7割が病死) 負傷病気で後送約300名  生存者約200名 
 堀井混成旅団(南海支隊) 15,000名 救出3,000名 
 
●ニューギニア
 第18軍及び海軍第9艦隊計148,000名  生還者13,000名
 第18軍司令官安達中将(自決)の遺書には
 「又作戦三載の間十万に及ぶ青春有為なる陛下の赤子を喪い而して其の大部は栄養失調に起因する戦病死なることに想到する時御上に対し奉り何と御詫びの言葉も無之候……」
 
 厚生省によると、東ニューギニア(上記ポートモレスビーとニューギニア)の戦没者は127,600名で、関係者の回想や報告を基づい て計算すると約114,840名が餓死と考えられる。

●インパール(ビルマ戦線)
 兵力 303,501名  戦没者 185,149名  帰還者 118,352名 
 烈兵団の村田中隊の割合で概算すると全体では、戦病死(広義の餓死)約145,000名となる。

●孤島
 太平洋の孤島に置き去りにされて餓死した兵も多い。人数が示されているウェーク島では
 死没者陸軍 921名 栄養失調による病死者 834名 戦死者87名 で餓死が90%を上回る。
 死没者海軍 810名 栄養失調506名 戦死 204名
 厚生省調査では、中部太平洋の戦没者247,200名 およそ123,500名が病死、餓死である。

●フィリピン 
 動員兵力 613,600名  戦没者 498,600名 
 第30師団の場合は、総員15,500名  戦死2,518名 病死2,137名 生死不明 5,593名 
 生存者 3,024名(生死不明者はほとんど戦病死であるという)
 全体では、戦没者498,600名のうち、約400,000名が餓死とみることができるという。
   
●中国戦線
 戦没者総数 455,700名  帰還者数 1,528,883人(陸軍軍人軍属 1,050,000人)
 大陸打通作戦(湘桂作戦)の場合 戦死11,742名  戦傷22,764名  戦病66,543名
 第20軍の芷江作戦の場合 戦死695名  戦傷死 322名  戦病死 2184名  合計3201名
 中国戦線全体では、227,800名が栄養失調を原因とする病死であると考えられている。

 その他の地域を含め全体としてみると、軍人軍属の戦没者230万名のうち140万名を餓死とみることができるというのである。(戦没者は一般邦人30万、内地での戦災死者50万を加えると310万である)


--------------731部隊ー細菌攻撃開始はノモンハン---------------

 中国に於ける被害実態の調査研究の進展や日本軍関係者の業務日誌の発見、また、アメリカの調査記録や秘密裏に取得した資料、さらにはロシアのハバロフスク裁判の起訴準備書類や公判記録その他の発見・研究によって、日本軍細菌戦部隊の実態は少しずつ解明されつつある。しかし、まだ不明なことがいろいろあるという。そして、その不明な部分が日本政府による隠蔽と大きく関わっているというのである。そうだとすれば日本の将来は暗いと言わざるを得ない。アメリカから返還されたという資料の所在が分からないなどということは、常識では考えられないことだと思う。
 また、「731」青木冨貴子(新潮社)には、信じられないような事実が報告されている。アメリカの人権団体から招かれ、アメリカ人とカナダ人の前で講演する予定であった篠塚良雄氏氏(少年隊として15歳で満州に渡り、平房の731部隊に所属、細菌培養の仕事を手伝わされ、ノモンハンの前線基地に細菌を運んだことがあるという)が「人道に反する残虐行為に加担した疑い」で入国を拒否され強制送還されたというのである。それが1998年6月25日のことであるというから驚く。しかも、戦犯として裁かれるべき当時の幹部は、過去に蓋をしたまま生き延び、要職に就き、追及もされず、アメリカへの入国も自由であるというから開いた口がふさがらない。日本政府の隠蔽体質や戦後処理の問題であると思う。補償の問題も含め、政府自らが一日も早い根本的解決に踏み出してほしいと願うものである。
 「731部隊と天皇・陸軍中央」吉見義明/伊香俊哉(岩波ブックレットNO389)から、ノモンハン事件での細菌攻撃の部分を抜粋したい。

ノモンハン事件:細菌攻撃開始---------------------------------------

 平房で細菌などを使ったさまざまな攻撃方法が模索されているさなかの'39年3月26日、参謀本部作戦課と関東軍防疫部との間で会議がもたれた。出席者は、作戦課側が課長の稲田正純大佐と課員の井本熊男少佐・荒尾興功少佐、防疫部側が部長の石井四郎軍医大佐、北条円了軍医少佐、パイロットであり石井の娘婿でもある増田美保薬剤大尉、石井の右腕とも称される増田知貞軍医中佐などという顔ぶれであった。
 この会議で参謀本部側は「○○〔細菌〕作戦研究の結果」を石井部隊側から聴取したが、会議後井本は日誌に「さらに研究を重ね自身を得たる後実地試験に取りかかることが肝要なり」と記した(「井本日記」)。参謀本部内で細菌戦の試験的な実施が考慮され始めたのである。そしてまもなく開始されたノモンハン事件において関東軍防疫部による細菌攻撃が実施されたのである。
 '39年5月中旬「満州国」と「外蒙」(モンゴル)も国境線付近のノモンハンで日本軍とソ連・モンゴル人民共和国軍の衝突が起きた。この第一次ノモンハン事件は、日本側の敗北でまもなく終結したが、関東軍はソ連軍への報復を企図し、6月末に第二次ノモンハン事件を開始した。しかし8月20日に開始されたソ連軍の総攻撃の前に、関東軍諸部隊は総崩れとなった。日本側の敗北が決定的となったこの8月末に細菌攻撃が実施された。
 この攻撃に参加した石井部隊の元少年隊員は1989年に次のように証言している。攻撃部隊を率いたのは、関東軍参謀の山本吉郎中佐で、攻撃の目的は「日本軍の陣地に近いホルステン川(ハルハ川の支流)の上流から病原菌を流し、下流のソ連軍に感染させる。」ことにあった。8月末に二度の出撃がなされたが、菌液投入に成功したのは9月に入った三度目の出撃であった。この時15名ほどの攻撃隊は、22~23個の腸チフス菌入りの石油缶をを携行し、腸チフス菌を培養したゼリー状の液を川にぶちまけたのである。(『朝日新聞』1989年8月24日)
 この山本中佐の攻撃以外に、碇常重軍医少佐率いる決死隊による同様の決戦が行われたとの供述が戦後のハバロフスク裁判においてなされているが、詳細はいまだ不明である。
 ノモンハン事件での細菌攻撃は、効果がなかったようである。石井部隊長はチフス菌を川に撒いても効果がないことを知っていながら、作戦を実施したとさえいわれている。効果があるかどうかという問題よりも、細菌を兵器として使用してみせるというデモンストレーションが石井にとって必要だったのかもしれない。しかしとにかくこのノモンハン事件での使用は、現在のところ日本側での証言のある最初の細菌攻撃であることに間違いない。なおノモンハン事件自体は、日本の惨敗のまま終結へ向かった。

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日本軍関係者の細菌戦実施事実関係記録文書(業務日誌)とは、下記の四つである。

●参謀本部作戦課員 井本熊男大佐 業務日誌
●陸軍省医務局医事課長 金原節三軍医大佐 陸軍省業務日誌摘録
●陸軍省医務局医事課長 大塚文郎軍医大佐 備忘録
●参謀本部作戦課長 参謀本部第一部長 真田穣一郎少将 業務日誌

 これらの日誌では、細菌戦攻撃作戦は「ホ号」「ほ号」「保号」「○ほ」などと暗号で呼ばれていたという。

 
                           
-------------旧日本軍 細菌戦部隊-生体解剖 軍医の証言-------------

 「731部隊と天皇・陸軍中央」吉見義明/伊香俊哉(岩波ブックレットNO.389)によると、731部隊とは日本陸軍が細菌兵器の研究・開発のためにつくった中心部隊であり、731部隊だけにとどまらず、下記のように組織を拡大し、細菌戦を展開していったという。石井四郎軍医中将が中心であったことから、これらを総称して石井機関とか石井部隊というようである。こぢんまりと密かにやっていたのではないことがわかる。
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 ① 1932年 東京の軍医学校に防疫研究室設置。
 ② 1933年 背陰河に「統合部隊」設置。
 ③ 1936年 ハルピン市平房に関東軍防疫部(石井部隊〔のち731部隊〕)編成。
 ④ 1936年 長春に関東軍軍馬防疫廠(若松部隊〔のち100部隊〕)編成。
 ⑤ 1939年 ノモンハン事件で細菌戦実施。
 ⑥ 1939年 北京に甲第1855部隊編成。
 ⑦ 1939年 南京に栄第1644部隊編成。
 ⑧ 1939年 広州に波第8604部隊編成。
 ⑨ 1940年 浙江省で細菌戦実施。
 ⑩ 1940年 牡丹江・林口・孫呉・ハイラルに石井部隊の支部設置。
 ⑪ 1941年 湖南省常徳で細菌戦実施。
 ⑫ 1942年 浙贛(セッカン)作戦で細菌戦実施
 ⑬ 1942年 シンガポールに南方防疫給水部(9420部隊)編成。
 ⑭ 1943年 安達に実験場設置。
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 旧日本軍は細菌戦の他に生体解剖や人体実験をやったことでも知られているが、下記は元陸軍軍医の証言の一部である。「細菌戦部隊」731研究会編(晩聲社)より 
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                       陸軍病院の軍医として
                                                         元陸軍軍医 湯浅 謙
手術演習
 二回目の手術演習は、その年の秋です。憲兵隊からもらい下げてきた二人の中国人を、生体解剖しました。演習の課題としては、腸管の切開と縫合、咽頭部の気管切開、睾丸の摘出などをやりました。日本の病院では経験できない手術なのに、「これらはすべて戦地で軍人が負傷したときに役立つ」と、生きている中国人を殺したのです。
 そのほかでは、病院長の特命を受けて、中国人の生体解剖の終わった人の脳の皮質をはぎとり、500ccのアルコール瓶10本に詰めたことがあります。これは日本の臓器製薬会社の研究・開発用として内地へ送られた、と聞きました。またある時は、衛生兵の初年次教育のおり、解剖学を一日も早く覚えさせるために、一人の中国人を生体解剖して皆に見せたことがあります。
 一九四三年(昭和18年)の12月には軍医の集団教育が行われました。弾丸摘出手術の練習のため太原監獄内で4人の中国人を看守が拳銃で射ち、その体に入った弾丸を摘出する手術にかかわりました。切開や縫合手術などの実地訓練を、より多く積むためです。その後1945年(昭和20年)、私が潞安(ロアン)陸軍病院の庶務主任であった時、北支那方面軍から機密命令が降りてきました。内容は「手術演習の実施計画を立てて提出するように」というものでした。そのため、私は1ヶ月おきに演習を行う計画を立てて提出しました。幸いに、当時は部隊の移動のため実施できませんでしたが。手術演習に人体が必要になると憲兵隊に電話し、トラックで衛生兵が犠牲となる中国人を取りに行きました。憲兵隊で受け取ると、病院側は領収書を憲兵隊に提出するといったかたちで手術演習は準備されました。こうして私は3年6ヶ月の間、7回にわたって14人の中国人を生体解剖し、殺害しました。 

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 下記は、731部隊看護婦の「石井四郎」に関する証言であるが、731部隊が何であるかをよく示していると思う。こういう人間が何の裁きも受けなかったことをどう考えたらよいのだろう。上記と同じ「細菌戦部隊」より一部抜粋である。
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                     731部隊の看護婦だった
                                                    元731部隊・看護婦赤間まさ子
箝口令
 新京に着いた日の夜、私たちは敗戦を伝えられたのです。停車していた列車の窓から、険しい形相の部隊長石井四郎が大声で怒鳴りました。
 これからお前たちを内地に帰す。しかし部隊で見たこと、聞いたこと、体験したことは、今後いっさい誰にもしゃべるな。もしもしゃべったことがわかったら、この俺が草の根わけてもどこまでも探すぞ!」
 まるでライオンのような声でした。
 暗闇の中でしたので、副官が太いろうそくを持っていたのですが、隊長の顔がろうそくで不気味に照らし出されていました。あのときの隊長の顔のこわかったことといったらありませんでした。恐ろしかった。恐くて体が震え上がってしまいました。
 私は帰国してからもその言葉が忘れられなくて、部隊でいっしょだった友達にはいっさい連絡をとらなかったため、そのときの友達を失ってしまいました。もしも、命令に背いたことがわかったら……そう考えるだけでこわくて……。あのときの隊長の声は、今も耳にこびりついています。


-----------------石井部隊-”マルタ”生体実験-----------------

 下記は、人間を単なる「物」として扱っていたとしか言いようのない残酷な生体実験とその人集めの証言であり、「細菌戦部隊」731 研究会編(晩聲社)より抜粋したものである。
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                            終生の重荷
                                                  731部隊・教育部 千田 英男
地獄に通じる道
 中央廊下を過ぎる階段を下りる。ここは地獄に通じる道。靴音がコツ…コツ…コツ…と不気味に響く。私の足どりは重かった。鉄の扉を 押し開けると警備詰所があって、屈強な若者たちがモーゼル拳銃を肩にして屯している。
「ご苦労さん」
「ご苦労様です」
 挨拶の後、当然のことながら顔写真の貼ってある出入許可証を提示しなければならないのだが、顔馴染みの私にはそれは必要なかった。
「今日の”丸太”(マルタ)は何番…何番…何番…10本頼む」
「ハイ、承知しました」
 ここでは生体実験に供される人たちを”丸太”と称し、一連番号が付されていた。数人の警備員が棍棒を手にして先に立っていって施錠 をはずすと、頑丈そのものの鉄扉が開いて中庭にでる。その中央に二階建ての”丸太”の収容棟がある。四周は三層の鉄筋コンクリート造りの建物に囲まれていて、そこには2階まで窓がなく、よじ登ることもはい上がることもできない。つまり逃亡を防ぐ構造である。屋上を仰ぐと、四つの角には万一備えて大きな投光器が下をにらむように居座っていて、これと同じ構造のものが反対側にもあって、通称七、八棟と称していた。

・・・

「何番…何番…何番…」
 この人たちにとっては、地獄からの招きにも似た呼び声とともに、分厚い鉄製の扉が開けられたくくり戸から、一人また一人と腰をかが めて出てくる。チョコチョコと小幅にしか歩けないほどの短い鉄鎖の音が、廊下にもの悲しく響く。両足にガッシリとはめられた足かせが 痛々しい。……

生体実験
 昭和17年(1942年)春のことだった。入営以来の住み馴れた東満国境の部隊から関東軍防疫給水部に転勤になったとき、私に与え られた職務は教育部付きとして各支部に配属される衛生兵の教育だった。それが終了した後、第一部吉村班に出向ということになった。 ここは主として凍傷に関する研究を担当していて、私が行ったとき、たまたま喝病〔原文ママ〕の生体実験が行われている最中だった。 それまでこの部隊は防疫給水、特に濾水機の製造補給が主な任務と聞いていた私には、初めて接する部隊の隠された側面にただ驚くばかりであった。堅牢なガラス張りの箱に全裸の人間を入れ、下から蒸気を注入して人工的に喝病にかかりやすい気象条件を作り出して罹患させ、臨床的、病理的に観察し、その病因を究明するためのものだった。
 時間が経過するにつれ全身が紅潮し汗が滝のように流れ出る。いかに苦しくとも束縛されていて身動きもできない。やがて発汗が止まる。苦渋に顔が歪み、必死に身悶えする。耐えかねて哀訴となり、怒号となり、罵声となり、狂声と変わっていくあの凄まじい断末魔ともい える形相は、今もって脳裏にこびりついて離れない。私は初めて見るこの凄惨な光景をとても直視するに忍びず、一刻も早く逃げ出したかった。それにしても平然としてこのような実験に取り組んでいる人たちは、果たしてどんな神経の持ち主なのであろうか。……

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                         ”特移扱”で中国人を731へ送った
                                                               憲兵 三尾 豊
”特移扱”について
 ”特移扱”〔特殊移送扱い〕と申しますのは、憲兵が逮捕した人々を関東軍司令官の命令で731部隊に人体実験の材料として送る、そ の扱いを秘匿するための呼称です。”特移扱”の文書には、ソ連の諜報員と”反満抗日軍”、それから軍・国家に不利な者と書いてありました。その人たちのなかには、旧”満州国”政府に勤務する中国人もいました。中国人のことですから当然、日本政府に対して不満を持っている。そのような事実がわかれば軍・国家にとって不利であるということで、731部隊に送る対象になったわけです。 
 ご承知のように、”満州国”は傀儡政権で、”満州国”皇帝は関東軍司令官の指導のもとに動いていたわけでありますから、そこにいる、勤務している中国人は日本軍の支配に満足するはずはありません。
 さらにそこに浮浪者と書いてありますが、浮浪者はいったいなぜこのような対象になったのか。
 当時毒ガスをさかんに研究していたんです。731部隊で毒ガスを研究して、そして広島の大久野島で毒ガスの生産をしていました。毒ガスを空輸して、そして安達あるいはその先の孫呉、またハイラル、チチハルなどで毒ガス実験をさかんにやっておりました。一回の毒ガス実験で少なくとも30~40名の実験要員が必要です。ところがこのチチハルとか孫呉で実験する時にはもっと多い数が必要で、そうし ますと実験する材料が足りなくなる、そうすると憲兵が捕らえて送り込む”特移扱”だけでは足りないんです。そこで浮浪者(開拓団の入 植によって土地を収奪された農民は都市に流出し、浮浪者になる)が731部隊の材料にさせられるわけです。
 1943年(昭和18年)10月、新京警察長官三田正夫は新京憲兵隊長の依頼によって浮浪者80名を100部隊に送ったと言ってい ます。三田さんは横浜の方で最近亡くなられましたが、警察長というのは日本流にいいますと警視総監ですね。100部隊というのは731部隊の姉妹部隊で、もと新京の寛城子(かんじょうし)という所にありまして関東軍病馬廠のことです。そこでは731とまったく同じことをやっていました。そこに送って実験に使いました。1943年3月に牡丹江警察局警正原口一八が、25名を731部隊牡丹江支部に送ったと供述しています。このようにして”特移扱”とは、本来正規の司法手続きとって裁判にかけるべき人を何の手続きもなく、いつでもどこでも勝手に憲兵が捕らえ、そして憲兵の判断によって731部隊に送る、そしてあの非人道きわまる実験に供出したわけです。



-- -----------------”特移扱”ー731部隊へ移送----------------

 前に、憲兵として牡丹江、チチハル、大連の各憲兵隊に所属していた三尾豊氏の「”特移扱”で中国人を731へ送った」と題された文の一部を「細菌戦部隊」731研究会編(晩聲社)より抜粋したが、今度は、その被害者の文の一部を、「日本軍の細菌戦・毒ガス戦(日本の中国侵略と戦争犯罪)」731部隊国際シンポジウム実行委員会・編(明石書店)より抜粋する。
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                         三 1941年の「牡丹江事件」の顛末
                                                                  張 可偉
                                                                  張 可達
 1937年日本は長期にわたって計画を練っていた中国侵略戦争を発動した。全民族を指導し団結して抗日戦を呼び掛けた中国共産党は、世界の反ファッショ闘争に呼応して、一団の優秀な党員をソ連が指導する極東軍事情報組織と協力合作して、無形戦線の闘争を展開した。中国東北部で日本軍が居座った主要な重鎮である。牡丹江、ハルピン、チチハル、長春、瀋陽、大連に秘密の電信基地を設立し、敵の動向を監督し、政治的、軍事的情報を集めて随時上級に報告した。

 …張維福は送信・発信を受け持ち、妻の龍柱潔は暗号の解読を分担した。 …

 1941年6月22日、ドイツファシズムは信義に反して、突然ソ連に対して大規模な侵攻を開始した。既に中国の武漢、広州及び主要都市を略奪していた日本侵略者は喜んだ。彼らは張鼓峰やノモンハンの教訓を受け入れず、ナチスドイツと呼応してソ連の極東地域の領土を奪おうと画策したのだ。日本の外相松岡は、天皇に上奏して「今こそ、千載一遇の機会だ」と進言した。7月上旬、日本の大本営は『関東軍特別大演習』を命じて、演習の名目で大挙して増兵し、7月の下旬になると関東軍の総兵力は70万人に達した。もし、大本営の命令があれば日本はソ連の背後から一撃を加える用意を整えていた。中国の軍事当局は日本陸軍の絶大部分の兵力を牽制する必要があり、ドイツ軍に対して力をそがれていたソ連軍は、前後に敵を受けるかたちになり牡丹江からの重要情報に注目した。日本軍はいよいよ活発になった地下の電信機におそれと怒りを抱き、一分でも一秒でも早くこれを除去しようと躍起になった。関東軍は1939年に優秀な憲兵を選んで、特別に批准して彼らのいう『ソ連諜報活動』の調査に、特別憲兵隊「86部隊」を組織し、研究を重ねて、二種類の電波探知機を作り出した。日本軍は先ず「ソ連の情報活動が最も活発な牡丹江地区」でこれを使うことに決定した。…

 日本の特設憲兵隊「雨宮班」は特に長春から牡丹江に派遣されて来て、作られたばかりの電波探知機を使って、夜を日に継いで頻繁に発信される「怪電波」の発信基地を探した。
 7月16日の朝、ようやく夜が明けはじめた頃、一晩中電信機で交信した張維福夫婦は、電信機や暗号表などを片付けると、仕事を始めるまでの間少し休息をとろうとしていたが、この時すでに、牡丹江憲兵隊と長春から来た応援の「捜査班」は、張維福の家を取り囲み、飛び込んだ彼らはその場で張維福を逮捕し、庭を接している近隣の家々も捜査し、外の馬の飼料桶の中から電信機を見つけ出した。日本憲兵は張維福、龍柱潔を激しく殴りつけ、さらに彼らの幼子たち(わずか二歳の兄と生後何ヶ月かの弟)をも床に投げつけて……写真を撮り、査問した。そして全員を牡丹江憲兵隊に連行した。張維福一家といささかでも繋がりがある者たちを一斉に憲兵隊に連行して拷問し、尋問を繰り返した。次の日に朱之盈夫婦と孫朝山、呉殿興などが相次いで捕らえられ、二年後には林口県の五河林鎮に隠れていた敬恩瑞も捕らえられた。彼らは非人間的な厳しい拷問を受けた後に、五名の地下工作者全員がハルピン憲兵隊の「特移扱い」によって平房の「731部隊」に送られ殺害された。…

 1945年以後に、牡丹江地下組織の破壊に参加した日本憲兵隊の内山軍曹、川口中尉、山村中佐は日本に逃げ帰って、アメリカの「GHQ」に行き、「牡丹江事件」の材料を米側に渡した。これはアメリカの第二次世界大戦以後の冷戦のために資料提供したことになり、アメリカ軍から代償として戦犯を免れた。
 1943年には、日本憲兵隊は牡丹江電信基地の破壊と同じような手口で瀋陽、大連などの地下電信基地を破壊した。この二つの電信基地の破壊によって逮捕された、趙福元、史順臣、王耀軒、沈徳龍、李忠善、王学年などの愛国志士たちは「731部隊」に連行されて殺害された。

 注 筆者は、文中の張維福、龍柱潔夫婦の遺児。兄、張可偉。弟、張可達。



-NO54~62-


              731部隊 ハバロフスク裁判 柄沢十三夫証言

 日本の敗戦後、アメリカは四回にわたって「731部隊」の調査団を日本に派遣し、部隊関係者の尋問を基にした調査報告書を入手しているという 。その調査報告書は、「論争731部隊」松村高夫編(晩聲社)によると下記の通りである。
 第一次 サンサース・レポート(1945年11月1日付)
 第二次 トンプソン・レポート (1946年5月31日付)
 第三次 フェル・レポート   (1947年6月20日付) 総論のみ
 第四次 ヒルー・レポート   (1947年12月12日付)
 そして、人体実験に関する内容が明らかにされたのは、1947年の第3次(フェル・レポート)と第4次(ヒル・レポート)であるという。
 第1次や第2次の尋問で秘匿されていた事実が明かされることになったのは、後にハバロフスク裁判で人体実験の生々しい実態を証言する川島清(731部隊第4部細 菌製造部長)と柄沢十三夫(731部隊第4部細菌製造部第1班班長)の供述により、その事実をつかんだソ連が、「日本は2000名の満州人と中国人を殺すという恐ろしい犯罪を犯し、石井将軍、菊池大佐、太田大佐が関わっている」としてアメリカ側に3人の尋問要求をしたことがきっかけになったようである。ソ連から尋問要求があったので、アメリカが独自に尋問し、調査し、関係者に報告 書を書かせるなどしてまとめたものが、上記フェル・レポートおよびヒル・レポートであるというのである。こうしてアメリカは731部 隊の研究成果を独占入手する代わりに、石井四郎以下731部隊関係者を戦犯免責するという取り引きを行い、決着を謀ったのである。ソ連とアメリカの間では、どのような「駆引き」があったのか知りたいと思う
 下記は、その柄沢十三夫証言の「戦争と疫病(731部隊のもたらしたもの)」松村高夫他5名(本の友社)からの一部抜粋である。
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 私ハ、安達駅ノ特設実験場デ野外ノ条件下ニ於ケル人間ノ感染実験ニ2度参加シマシタ。第一ノ実験ハ、1943年末、炭疽菌デ行ワレマシタ。コノ実験ノタメニ、特設実験場ニ連レテコラレタ10名ノ被実験者ガ使用サレマシタ。コレラノ人々ハ、五米間隔デ特殊ノ柱ニ縛リツケラレテイマシタ。コレラノ人々ノ感染ノタメニハ、被実験者カラ50米ノ所ニアッタ榴散爆弾ガ使用サレマシタ。此ノ爆弾ハ電流ニヨッテ爆発セシメラレマシタ。此ノ実験ノ結果、一部ノ被実験者ハ感染サレマシタ。彼等ニ対シテ或ル措置ガ施サレタ後、彼等ハ部隊ニ連レテ行カレマシタガ、其ノ後、私ハ、罹炭疽シタ被実験者ガ死亡シタコトヲ報告カラシリマシタ。


----------731部隊調査報告書:ヒル・レポート(総論)抜粋---------

 下記は、アメリカによる731部隊関係者の尋問を基にした調査報告書であり、中国戦犯管理所における関係者の自筆供述書やハバロフスク裁判公判書類などとともに、731部隊や日本軍の細菌戦にかかわる重要文書の一つである。「論争731部隊」松村高夫編(晩聲社)よりその一部を抜粋する。
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                ヒル・レポート(「総論」)
                                       APO 500
                                       1947年12月12日
件名:細菌戦調査に関する概要報告
宛先:オルデン・C・ウェイト
   化学戦部隊主任
   国防総省、25、 ワシントンD.C.

1 前文
 文書命令AGAOーC200.4(47年10月15日)(A表)に依り、エドウィン・V・ヒル博士(DrEdwinV.Hill)とジョーゼフ・ヴィクター博士(Dr.Joseph Victor)が、日本の東京に1947年10月28日に到着した。調査は下記の要領で実施された。極東軍総司令部GⅡ副参謀長チャールズ・A・ウィロビー(Charles A Willourghby)准将の全面的協力により、我々はGⅡの全ての施設を利用でき、任務は大いに促進された。尋問した人たちから得られた情報は任意によるものであることは特筆すべきである。尋問のあいだ戦争犯罪の訴追免責を保証することについては、全く質問がだされなかった。

2 目的
 A 細菌戦に関し日本側要員から提出された諸報告書を明確にするのに必要な追加情報を得るため
 B 細菌戦諸研究施設から日本に移送された人間の病理標本を調査するため
 C その病理標本の意義を理解するのに必要な説明文書を得るため

3 方法
 A 細菌戦に関してハルビンまたは日本で研究した以下の人たちを尋問した。
  主題      尋問した医師              (表が示されているが省略)
  エアゾール   高橋正彦 金子順一
  炭疽      太田 澄
  ボツリヌス   石井四郎
  ブルセラ    石井四郎 山之内裕次郎 岡本耕造 早川清 
  コレラ     石川太刀雄 岡本耕造
  毒ガス除毒   津山義文
  赤痢      上田正明 増田知貞 小島三郎 細谷省吾 田部井和
  フグ毒     増田知貞
  ガス壊疽    石井四郎
  馬鼻疽     石井四郎 石川太刀雄
  インフルエンザ 石井四郎
  髄膜炎     石井四郎 石川太刀雄
  粘素      上田正明 内野仙治
  ペスト     石井四郎 石川太刀雄 高橋正彦 岡本耕造
  直物の病気   矢木沢行正
  サルモネラ   早川清 田部井和
  孫呉熱     笠原四郎 北野政次 石川太刀雄
  天然痘     笠原四郎 石川太刀雄
  破傷風     石井四郎 細谷省吾 石光薫
  森林ダニ脳炎  笠原四郎 北野政次
  つつが虫    笠原四郎
  結核      二木秀雄 石井四郎
  野兎病     石井四郎  
  腸チフス    田部井和 岡本耕造
  発疹チフス   笠原四郎 有田マサヨシ 浜田トヨヒロ 北野政次 石川太刀雄
 
 載物ガラス目録

 B 金沢で我々に提出された病理標本は全く無秩序な状態にあった。この標本を事例番号順に整理し、標
   本の一覧表をつくり、標本を目録に記入することが必要だった。

 C 尋問した人から得た情報は、笠原四郎博士の場合を除いて記憶によるものである。笠原博士は、孫呉
   熱の実験をした三つの主題の温度表とそれに関連する臨床データの記録を所有していた。(表T、U)

4 諸結果
 A 省略

 B 金沢の病理標本は、ハルビンから石川太刀雄によって1943年に持ってこられた。それは約500
  の人間の標本か ら成っている。そのうちの400だけが研究に適した標本である。ハルビンで解剖さ
  れた人間の事例の総数は、岡本耕造博士によれば、1945年に1000以下であった(表R)。この
  数は石川博士が日本に帰ったときのハルビンに現存していた数より200多い。最初に提出された標本
  目録の結果からして、多くの標本が提出されていないことが明らかであった。しかしながら、最初に提
  出されたよりも著しく多い標本の追加的コレクションを入手するには、多少催促するだけでよかった。
   左の表は、様々な疾病毎の事例数と研究に適した標本の事例数である。(以下省略)

 C 個々の調査者から特別の説明文書を入手した。実験に関する彼らの記述は別の報告書に収めてある。
  これらの説明文は、一覧表で示された病理標本をわかりやすく説明するものであり、人間および植物に
  対する伝染病の実験の程度を示すものである。

5 この調査で収集された証拠は、この分野のこれまでにわかっていた諸側面を大いに補充し豊富にした。
 それは、日本の科学者が数百万ドルと長い歳月をかけて得たデータである。情報は特定の細菌の感染量で
 示されているこれらの疾病に対する人間の罹病性に関するものである。かような情報は我々の研究所では
 得ることができなかった。なぜなら、人間に対する実験には疑念があるからである。これらのデータは今
 日まで総額25万円で確保されたのであり、研究にかかった実際の費用に比べれば微々たる額である。
  さらに、収集された病理標本はこれらの実験の内容を示す唯一の物的証拠である。この情報を自発的に
 提供した個々人がそのことで当惑することのないよう、また、この情報が他人の手に入ることを防ぐため
 に、あらゆる努力がなされるように希望する。
                                エドウィン・V・ヒル M.D.
                                主任、基礎科学
                                キャンプ・デトリック、
                                メリーランド



-------------フェル・レポート:731部隊調査報告書-------------

 下記は、アメリカから派遣されたノバート・H・フェルが731部隊関係者の尋問を基にして作成した調査報告書であり、アメリカが日本軍の人体実験について調査した最初の報告書である。アメリカが日本軍の人体実験の調査に乗り出したのは、ソ連が石井四郎(731部隊長)、菊池斉(第一部細菌研究部長)、太田澄(第二部実践研究部長)の3人の尋問を要求したことがきっかけであったという。ソ連は抑留した川島清(731部隊第四部細菌製造部長)と柄沢十三夫(同部第一班細菌製造班班長)から731部隊の情報を得て、3人の尋問を要求したのである。ところが、アメリカは独自に調査をし、731部隊関係者の戦犯免責と引きかえに、その研究成果を独占入手したのである。下記はその第3次の調査報告書であり「フェル・レポート」といわれるものである。この調査報告書は、参謀本部作戦課員井本熊男「業務日誌」(防衛研究所に23冊あり、現在は閲覧禁止になっているという)や中国戦犯管理所における関係者の自筆供述書、またハバロフスク軍事裁判公判書類等とともに、731部隊細菌戦にかかわる重要文書の一つである。「論争731部隊」松村高夫編(晩聲社)よりその一部を抜粋する。
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                 フェル・レポート(「総論」)

主題:日本の細菌戦活動に関する新情報の要約
宛先:化学戦部隊部隊長
経由:技術部長、キャンプ・デトリック
   司令官、キャンプ・デトリック
発信:PP─E部門主任、キャンプ・デトリック

1 1947年2月中に、極東軍のG─Ⅱから、日本の細菌戦活動に関する新しいデータが入手可能だろうとの情報を得た。その情報は主として日本の細菌戦組織(防疫給水部)のさまざまな旧隊員たちから極東軍最高司令官宛に送られた多数の匿名の手紙にもとづいている。それは満州の平房にあった細菌戦部隊本部における人間に対して行われた各種の実験について記述していた。G─Ⅱはこの情報が十分信頼できるので、集められた情報に評価を下すため、キャンプ・デトリックの使節を現場に派遣するという要請を正当化できると考えた。

2 筆者は1947年4月6日付の命令にもとづき極東軍総司令部のG─Ⅱとの一時的任務のため、日本の東京に到着した。筆者は4月16日に到着するや、集められたファイルを吟味した結果、その情報は日本の旧細菌戦組織の指導的隊員たちを再尋問することを正当化するのに十分なほど信頼できそうだとするG─Ⅱの代表たちの意見に同意した。次々に幸運に恵まれた状況にあったことや、一人の有力な日本人政治家(彼は合衆国に対して全面的に協力することを真摯に望んでいるようである)の助力が得られたこともあって、最終的には細菌戦に従事してきた日本人の重要な医学者に全ての事実を明らかにすることに同意させることができた。得られた結果は次のようなものである。

 A 細菌戦計画における重要人物のなかの19人(重要な地位に就いていた数人は死亡している)が集ま
  り、人間に対してなされた細菌戦活動について60ページの英文レポートをほぼ1ヶ月かけて作成し
  た。このレポートは主として記憶にもとづいて作成されたが、若干の記録はなお入手可能であり、これ
  がそのグループには役立った。このレポートの多岐にわたる詳細な記述は後述する。

 B 穀物絶滅も大規模な実験が行われていたことが判明した。この研究に携わっていたグループは小規模
  で、植物学者と植物生理学者が各1名と少数の助手たちから成っていた。しかし研究は9年間にわたり
  活発に行われた。その植物学者は非常に協力的であり、結局植物の病気に関する研究について10ペー
  ジの英文レポートを提出した。成長ホルモンの研究は行われていなかったが、植物の病原体は広範囲に
  研究されていた。キャンプ・デトリックでなされるこの双方の研究とも日本人が行っていたものであ
  り、加えてその他多くのことも注目されていた。菌類、細菌そして線虫類に関しては、とくに満州およ
  びシベリアで成育する穀類と野菜については実際に全種類についてそれらの影響を調べている。

  例えば…以下8行省略

 C 爆弾あるいは飛行機からの噴霧による細菌戦病原体散布のさいの粒子のサイズの決定および水滴の飛
  散について、理論的に・数学的に考察した興味あるレポートを得た。

 D 中国の市民と兵士に対して12回の野外試験を行った。その結果の要約、および関連した村と町の地
  図が提出された。この要約および採用された戦術の簡単な記述は、後に述べる。

 E 風船爆弾計画に関わっていた一人から短いレポートを得た。このレポートでは、細菌戦の病原体の撒
  布のために風船を使用することが大いに注視されたと記されているが、この目的遂行のためには不満足
  だったと指摘されている。しかしながら、もし望むならば、風船爆弾に関する完全な詳細な記述は、当
  初からその計画に携わっていた他の人々から得られるかも知れない。

 F 細菌戦の指導的将校の一人がスパイおよび破壊活動に与えられた一連の漏洩を記した原本の文書を得
  ている。この文書の翻訳された要約は、キャンプ・デトリックの手中にある。

 G 家畜に対する細菌戦研究は平房とは全く別の組織が大きな規模で行っていたことが判明した。そのグ
  ループの20人の隊員がレポートを書いており、それは8月中には入手可能となろう。

 H 細菌計画の中心人物である石井将軍は、その全計画について論稿を執筆中である。このレポートは細
  菌兵器の戦略的および戦術的使用についての石井の考え、さまざまな地理的領域での(とくに寒冷地に
  おける)これらの兵器の使用法、さらに細菌戦についての石井の「DO」理論のすべての記述が含まれ
  るだろう。この論稿は、細菌戦研究における石井将軍の20年にわたる経験の概要を示すことになろ
  う。それは7月10日頃に入手可能となろう。

 I 細菌戦の各種病原体による200人以上の症例から作成された顕微鏡用標本が約8000枚あること
  が明らかにされた。
   これら標本は寺に隠されたり、日本南部の山中に埋められていた。この作業すべてを遂行あるいは指
  揮した病理学者が、現在その標本の復元、標本の顕微鏡撮影、そして各標本の内容、実験上の説明、個
  別の病歴を示す、英文の完全なレポートを準備している。このレポートは8月末頃入手可能となろう。

 J 自然的および人工的ペストのすべての研究についての合計600ページにのぼる印刷された紀要も手
  中にある。これらの資料はともに日本語であり、まだ訳されていない。

3 研究室および野外実験に使われた人間の実験材料は、各種の犯罪のため死刑判決を受けた満州の苦力とのことであった。アメリカ人あるいはロシア人の戦争捕虜が使われたことは、(何人かのアメリカ人戦争捕虜の血液が抗体検査に使われたのを除けば)一度もなかった、と明確に述べられていた。この主張が真実でないことを示す証拠はない。人間の実験材料は他の実験動物と同じ方法で使用された。すなわち、彼らを使って各種病原体の、感染最小量及び致死量が決定された。また、彼らは予防接種を受けてから、生きた病原体の感染実験を受けた。さらに彼らは爆弾や噴霧で細菌を散布する野外実験の実験材料にさせられた。これらの実験材料はまた、ペストという広範な研究で使われたことはほぼ確実である。人間について得られた結果は、多少断片的である。それはどの実験でも統計的に有効な持論が得られるほど十分に実験材料をつかうことができなかったからである。しかしながら、炭疽菌のような最も重視されていた病気のばあいには、数年間に数百人が使われたようである。

4 人間を使った細菌戦活動についての60ページのレポートの多岐にわたる詳細な記述の要約は、次の通りである。特記なきときは、ここで示されたデータは、全て人体実験によるものである。
【以下(1)の(d)以外は項目のみとする】
(1) 炭疽
  (a)感染量あるいは致死量
  (b)直接感染
  (c)免疫実験
  (d)爆弾実験
     野外試験の完全な細部の記述と図表がある。ほとんどのばあい人間は杭に縛りつけられ、ヘルメ
    ットとよろいで保護されていた。地上で固定で爆発するものあるいは飛行機からとうかされた時限
    起爆装置のついたものなど、各種の爆弾が実験された。雲状の濃度や粒子のサイズについては測定
    がなされず、気象のデータについてもかなり雑である。日本は炭疽の野外試験に不満足だった。し
    かし、ある試験では15人の実験材料のうち、6人が爆発の傷が原因で死亡し、4人が爆弾の破片
    で感染した。(4人のうち3人が死亡した)。より動力の大きい爆弾(「宇治」)を使った別の実
    験では、10人のうち6人の血液中に菌の存在が確認され、このうちの4人は呼吸器からの感染と
    考えられた。この4人全員が死亡した。だが、これら4人は、いっせいに爆発した9個の爆弾との
    至近距離はわずか25メートルであった。
  (e)牧草の汚染
  (f)噴霧実験
  (g)安定性
  (h)事故および実験による感染
(2)ペスト
  (a)感染あるいは致死量
  (b)直接感染
  (c)免疫実験
  (d)爆弾実験 
  (e)結果…
  (f)安定性
  (g)ペストノミ
(3)腸チフス、パラチフスAおよびB型、そして赤痢(細菌性)
  (a)腸チフス
  (b)パラチフスAおよびB型
  (c)赤痢
(4)コレラ
  (a)感染量
  (b)免疫実験
  (c)噴霧実験
  (d)安定性
(5)馬鼻疽
  (a)感染量
  (b)免疫実験
  (c)爆弾実験
  (d)噴霧実験
(6)流行性出血熱(孫呉熱)
(7)結論(60ページのレポートの最終部分)
 前記以外にも各種の病気が細菌戦研究の初期の段階で研究された。その中には、結核、破傷風、ガス壊疽、ツラレミア(野兎病)、インフルエンザ、それに波状熱(ブルセラ症)があった。結核菌の静脈注射で全身的な粟状結核の急激な感染は起こせるが、呼吸器によって人間に感染させることは容易ではないことが判明した。一般的に、日本が研究した細菌戦用病原体のうち二種類だけが有効で、炭疽菌(主に家畜に対して有効と考えられた)とペストノミだけだったと結論できる。日本はこれらの病原体で満足していたわけではない。それは彼らはそれらに対する免疫を作るのはかなり容易であろう、と考えていたからである。
 細菌戦の野外実験では通常の戦術は、鉄道線路沿いの互いに1マイルほど離れた2地点にいる中国軍に対して、1大隊あるいはそれ以上をさし向けるというものだった。中国軍が後退すると、日本軍は鉄道線路1マイルを遮断し、予定の細菌戦用病原体を噴霧か他のなんらかの方法で散布し、ついで「戦略的後退」を行った。中国軍はその地域に24時間以内に急拠戻ってきて、数日後には中国兵のあいだでペストあるいはコレラが流行するというものだった。いずれの場合も、日本はその結果の報告を受けるため汚染地域の背後にスパイを残そうとした。しかし彼らも認めているのだが、これはしばしば不成功に終わり、結果は不明であった。しかし12回分については報告が得られており、このうち成果があがったのは3回だけだったといわれている。高度約200メートルの飛行機からペストノミを散布した2回の試験において特定の地域に流行が起きた。このうちひとつでは、患者96人がでて、そのうち90パーセントが死亡した。鉄道沿いに手でペストノミを散布した他の3回の試験では、どの場合も小さな流行は起こったが、患者数は不明である。コレラを2回そして腸チフスを2回、鉄道の近くの地面および水源に手動噴霧器でまいたところ、いずれのばあいも効果があるという結果を得た。

 筆者は、日本人が思い出せるだけ詳細に真実の話を我々に語ったと信じている。しかしながら、おそらくさまざまな報告を分析したのちに我々は回答可能な質問をすることができるだろう。我々が大規模生産という点でも、気象学の研究という点でも、実用的軍需生産という点でも、日本より十分優れていることは明白である。(石井将軍は大規模生産のために固形培養基の使用を主張した。というのは、石井は毒性は液状培養基では保存されないと信じていたからである。)良好な気象学のデータの欠如と軍需生産の分野の貧弱な進言によって、陸軍のなかや、陸軍と科学者の間や、科学者自身のなかのさまざまな職種の間に意見の相違が絶えず存在した。平房の部隊は実際空軍や□(判読不能)からなんの援助も受けていない。しかしながら人体実験のデータは、我々がそれを我々や連合国の動物実験のデータと関連させるならば、非常に価値があることがわかるだろう。病理学的研究と人間の病気についての他の情報は、炭疽、ペスト、馬鼻疽の真に効果的なワクチンを開発させるという試みにたいへん役立つかもしれない。今や我々は日本の細菌研究について完全に知ることができるので、化学戦、殺人光線、海軍の研究分野におけるかれらの実際の成果についても有益な情報が得られる可能性は大きいようである。

                     ノバート・H・フェル
                     PP─E(パイロット・プラント・エンジニアリング)部門主任      


----------特移扱→丸太(マルタ)ハバロフスク裁判の証言-----------

 アメリカから派遣され、731部隊関係者の尋問を基に、はじめて日本軍の人体実験に関する調査報告書を作成したノバート・H・フェルはその調査報告書「フェル・レポート」の中で、

3 研究室および野外実験に使われた人間の実験材料は、各種の犯罪のため死刑判決を受けた満州の苦力とのことであった。アメリカ人あるいはロシア人の戦争捕虜が使われたことは、(何人かのアメリカ人戦争捕虜の血液が抗体検査に使われたのを除けば)一度もなかった、と明確に述べられていた。この主張が真実でないことを示す証拠はない。

と報告している。そしてフェルに続いて来日し、調査に当たったエドウィン・V・ヒルは、その第4次の調査報告書の最後に

 さらに、収集された病理標本はこれらの実験の内容を示す唯一の物的証拠である。この情報を自発的に提供した個々人がそのことで当惑することのないよう、また、この情報が他人の手に入ることを防ぐために、あらゆる努力がなされるように希望する。
                                    
と書いている。この二人の調査報告書を、ハバロフスク裁判の証言などと考え合わせると、戦犯免責に通じる”取り引き”の結果による”事実の歪曲”の疑惑を感じざるを得ない。第1次や第2次の尋問では、人体実験に関しては秘匿していたのである。また、ハバロフスク裁判では、下記のような裁判なしの”特移扱”に関するいくつかの証言があるのである。「消えた細菌戦部隊」常石敬一(ちくま文庫)よりの抜粋である。

山田乙三大将(関東軍司令官)の証言------------------------------
生きた人間を使用する実験は、私の前任者梅津大将又は植田大将に依って認可されたものであります。之に関して認める私の罪は……其の続行を黙認したこと……。実験のために囚人を送致すること、即ち所謂「特移扱」も、矢張り私の前任者植田大将又は梅津大将が認可したのでありますが、私も此の認可を廃止しなかった……」。
------------------------------------------------
 また、佳木斯(チャムス)で憲兵隊長を務めていた橘元憲兵大佐はハバロフスク裁判に証人として出廷し、次のように証言している。

橘元憲兵大佐の証言--------------------------------------
 1940年、私は、佳木斯市の憲兵隊長の地位にありました。其の時、私は初めて、第731部隊の存在と其の業務を知るようになりました。……当時、何らかの嫌疑で憲兵隊が拘引し検挙した者の一定の部類を、吾々は実験材料として第731部隊に送致していました。吾々は、此等の者を、予備的な、部分的取調べの後、裁判に附さず、事件送致せずに、憲兵隊司令部より吾々が受領した指令によって第731部隊に送っていました。是れは、特殊の措置でありましたので、、斯かる取扱は「特移扱」と呼ばれていました。……私の佳木斯憲兵隊長在職中、私の隷下憲兵隊本部によって少なくとも6人が第731部隊に送られ 、此等の者は、其処から戻らず、実験に使用された結果、其処で死亡しました。
------------------------------------------------

 憲兵隊の判断だけで、裁判なしで実験材料とされ殺される、それが「特移扱」なのである。そして、「特移扱に関する件通牒」にはその対象が列挙されている。さらに、フェル・レポートに反し、ロシア人を第731部隊に送ったという下記のような証言がある。これは、ハルビン特務機関の管轄下にある保護院の院長補佐で、情報調査課長であった山岸健二元陸軍中尉のハバロフスク裁判における証言である。

山岸健二元陸軍中尉の証言------------------------------------
 特務機関長秋草少将の署名入りのハルビン日本特務機関の指令書に依って情報調査課の勤務員は、私の同意を得て現存の罪証資料に依って名簿を作成し、収容所所長飯島少佐の承認を経て、飯島少佐は之に捺印しました。飯島は上述の名簿を報告の為秋草特務機関長の許に持っていきましたが、特務機関長は常に吾々の意見に同意し、殺戮の為吾々が予定したソヴエト市民を第731部隊に移送することを許可しました。
------------------------------------------------

 上記の証言によると、石井部隊に送られ、人体実験の材料とされて殺されたのは中国人や朝鮮人、モンゴル人だけでなく、ソ連人(ロシア人)も含まれている。ただ、ソ連人は特務機関から送られ、それ以外の人々は憲兵隊から送られたということである。そして、保護院から石井部隊に送られたソ連人は約40人であったという。
 これら”特移扱”の人たちは、石井部隊では”丸太”と呼ばれ、「石井部隊-”マルタ”生体実験」で紹介したように

「今日の”丸太”(マルタ)は何番…何番…何番…10本頼む」
「ハイ、承知しました」

などと、物として扱われていたのである。


----------------陸軍軍医学校跡地の人骨問題----------------

 1989年7月22日、新宿区に建設中の厚生省予防衛生研究所の建設現場から多数の人骨(警察発表では35体)が発見された。同現場は、旧陸軍軍医学校の跡地であり、満州の第731部隊(細菌戦部隊)と関係の深い防疫研究室が存在していた場所でる。この防疫研究室は1932年8月、後に第731部隊の部隊長に就任する石井四郎を主幹として新設された研究室である。当然のことながら、特移扱”で”丸太”とされ、人体実験によって殺された人たちの骨ではないかと考えられた。問題は、そうした指摘を受けた政府や、発見時の警察の対応である。「消えた細菌戦部隊(関東第731部隊)」常石敬一(ちくま文庫)から、とびとびにその問題部分を抜粋する。
------------------------------------------------
 ・・・
 こうした状況証拠から人骨はそこに軍医学校があった1929年から1945年までに投棄されたのだろうと判断された。 そのため新宿区は厚生省に対して、人骨発見の約2週間後の8月5日付で「人骨の身元確認調査について」という文書を出している。厚生省は3日後の8日に、「当方としてはこれを行う考えはない」という返事をしている。この後9月5日までにさらに2回新宿区は厚生省に人骨の身元調査・鑑定を求めるが、厚生省は2度とも拒否の回答をした。
 新宿区は厚生省に身元調査・鑑定を要求しても埒が明かないので、9月21日に当時の区長山本克忠が、区として独自に人骨の鑑定・身元調査を行うことを区議会本会議で表明した。
 鑑定はすぐには開始されなかった。新宿区が各研究者に打診すると、すぐに承諾が得られた。しかし彼らが所属する科学博物館や医科大学などに正式に依頼すると、館長や学長が断ってくるのだった。科学博物館は文部省の一部門であり、厚生省に配慮して鑑定を断ったのではないかと考える人もいた。また医科大学は付属病院を持っており、厚生省の意向に逆らうことは利益にならないのだろう、と指摘する人もいた。この間、新宿区の鑑定が進まないのは厚生省の無言の圧力があるためではないかと推測された。
 こうした状況のため、翌90年4月3日に人骨が鑑定抜きで埋葬されてしまうことを恐れる人々があつまり、「軍医学校跡地で発見された人骨問題を究明する会」(以下では「骨の会」と略記する)が結成された。会である以上代表を置く必要があるということで、筆者が代表を務めることとなった。

人骨の鑑定
 人骨の鑑定は紆余曲折を経て発見から2年後、新宿区の依頼で札幌学院大学教授の佐倉朔が1991年秋から行った。鑑定結果は「戸山人骨の鑑定報告書」(以下では「鑑定書」と略記する)として翌年4月に公表された。「鑑定書」はB五判で、本文18ページ、B4の表2枚、それに写真102枚からなっている。「報告書」の要約をさらに短くまとめると次のようになる。

 一,人骨が土の中にあった年数は数十年以上であるが、また百年以下である。
 二、人骨の数は頭蓋骨でみると62体分はあり、その他の部分を考えると100体以上にのぼる。
 三、性別は3対1で男性が多い。
 四、人種的にはほとんどがモンゴロイドであるが、単一ではなく、かなり多様な人種にわたっている。
 五、十数個の頭骨には脳外科手術の練習をしたような跡がある。それ以外の頭骨の中には銃で射ぬかれた
   跡のあるもの、切られた跡のある者、刺された跡のあるものがあった。

 ・・・

 これはどのように考えても、発見された人骨は医学の教育・研究機関と、そしてこの場合は軍医学校と、関わりのある骨である。人骨軍医学校とが関係あることは鑑定前から推測されていた(仮説)ことであり、今紹介した鑑定もそうした判断をしている(確認)。科学的には仮説が実験その他で確認され、それでひとつの事実となる。

・・・

 鑑定結果の公表で当初の警察の発表に少し疑問が生まれた。人骨は掘り出された直後に警察が鑑定し、土の中での経過年数を測定した。そのときに、「鑑定書」が明らかにした、人骨に実験あるいは手術の痕跡があったこと、銃や刃物で傷つけられた痕跡があったことを見落としていたのだろうかという疑問だ。もしそうだとすればずさんな鑑定だったということになる。
 もうひとつの可能性は、7月22日の朝発見され、公表が24日になされたが、その2日間でなんらかの隠ぺい工作がを行おうとすればできたということである。土地の管理者としての厚生省は、佐倉鑑定がスタートするまで、骨の管理者である新宿区に対して一貫して身元調査はする考えがなく、「すみやかな埋葬」を主張していた。初めから警察は厚生省の意向をくんで不十分にしか鑑定結果を発表していなかったとも考えられる。
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 日本軍は、撤退を余儀なくされたとき、また玉砕が避けられないと判断したとき、あらゆる証拠の隠滅を図った。第731部隊の撤退は象徴的である。日本軍の証拠隠滅は徹底していた。そして、その隠蔽の体質が日本政府にしっかりと受け継がれているように思えてならない。
 指摘される前に進んで調査し、事実を公表するとともに、適切な措置をとるべきであったと思う。  



--------------背陰河(ペイインホー)の東郷部隊---------------

 1932年8月、2年間にわたるヨーロッパ視察旅行から帰国した石井四郎を主幹として陸軍軍医学校に防疫研究室が設立された。しかし石井は、この時すでに満州に部隊を創設し細菌戦(生物戦)の実地研究を行っていたという。秘密保持の必要のない防御のための生物兵器研究は陸軍軍医学校の防疫研究室で行い、日本国内ではできないような人体実験を伴う攻撃用生物兵器の研究は満州で行うというのが彼の基本的な考えであったのである。
 「標的・イシイ-731部隊と米軍諜報活動」常石敬一編訳(大月書店)によると、1932年8月に石原莞爾中佐(当時)の後任の関東軍作戦主任参謀となった遠藤三郎中将は『日中十五年戦争と私』の中で次のように書いているという。
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 1932(昭和七)年私が関東軍作戦主任参謀として満州(現東北)に赴任した時、前任の石原莞爾大佐から”極秘裏に石井軍医正細菌戦の研究を命じておるから面倒を見てほしい”との依頼を受けました。寸暇を得てその研究所を視察しましたが、その研究所は哈爾賓(ハルビン)、吉林の中間、哈爾賓よりの背陰河(ペイインホー)という寒村にありました。高い土塀に囲まれた相当大きな醤油製造所を改造した所で、ここに勤務している軍医以下全員が匿名であり、外部との通信も許されぬ気の毒なものでした。部隊名は「東郷部隊」と云っておりました。被実験者を一人一人厳重な檻にに監禁し各種病原体を生体に植え付けて病勢の変化を検査しておりました。その実験に供されるものは哈爾賓監獄の死刑囚とのことでありましたが、如何に死刑囚とはいえまた国防のためとは申せ見るに忍びない残酷なものでありました。死亡した者は高圧の電気炉で痕跡も残さない様に焼くとのことでありました。
 本研究は、絶対極秘でなければならず、責任を上司に負わせぬため作戦主任参謀の私の所で止め、誰にも報告しておりません。石原参謀から面倒を見てほしいと申送られましたが具体的に私のすることは何もありませんので、研究費として軍の機密費20万円を手交し目的を逸脱せぬ様厳重に注意しておきました。ところ或る時細菌の試験以外に、健康体に食物を与えて水を与えず、あるいは水を与えて食物を与えず、または水と食物を共に与えずして幾日の生命を保ち得るか等の実験もしていると聞き、本来の目的を逸脱した医学的興味本位の研究と直感し、石井軍医正を招致して厳重に叱責し、今後もし目的を逸脱した実験をするが如きことがあれば一切の世話を打ち切ると宣言したこともありました。
 その後在職期間さらに一回現場を視察しましたが試験場が整備されているほか格別変わったことはありませんでした。
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 背陰河の東郷部隊は、後の平房の「満州第731部隊」の前身であり、当初から人体実験をやっていたことが明らかにされているのである。 


---------ハバロフスク裁判 731部隊孫呉支部長 西俊英の証言---------

 石井四郎の15年間にわたる研究の最大の成果は、体内にペスト菌を入れた”ペストノミ”を利用した生物兵器(細菌兵器)の開発であろうと言われるが、1940年夏の寧波(ニンポー)に対するペストノミを利用した攻撃について、西俊英はハバロフスク裁判で、下記のように証言しているという。「標的・イシイ-731部隊と米軍諜報活動」常石敬一(大月書店)よりの抜粋である。
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 (答)。私は1940年の中国中部への第731部隊派遣隊の活動に関する映画を見ました。先ず映画には、ペストで感染された蚤の特殊容器が飛行機の胴体に装着されている場面がありました。ついで、飛行機の翼に撒布器が取附けられている場面が映され、更に特別容器にはペスト蚤が入れてあるという説明があって、それから4人或いは5人が飛行機に乗りますが、誰が乗るか判りません。それから飛行機が上昇し、飛行機は敵方に向かって飛翔しているという説明があり、次いで飛行機は敵の上空に現れます。次いで飛行機、中国軍部隊の移動、中国の農村などを示す場面が現れ、飛行機の翼から出る煙が見えます。次に出てくる説明から此の煙が敵に対して撒布されるペスト蚤であることが判ってきます。飛行機は飛行場に帰ってきます。スクリーンに「作戦終了」という字が現れます。ついで、飛行機は着陸し、人々が飛行機に駆け寄りますが、これは消毒者で、飛行機を消毒する様子が上映され、その後、人間が現れます。先ず飛行機から石井中将が姿を現し、ついで碇少佐、その他の者は私の知らない人です。この後「結果」という文字が現われ、中国の新聞及びその日本語翻訳文が上映されます。説明の中で、寧波附近で突然ペストが猛烈な勢いで流行し始めたと述べられています。最後に、終りの場面で中国の衛生兵が白い作業衣を着てペスト流行地区で消毒を行っている様子が上映されています。正に此の映画から、私は寧波附近で細菌兵器が使用されたことをはっきりと知るようになりました。
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 この映画は石井四郎が、陸軍上層部への宣伝用に作ったものであるという。(この攻撃で、99人のペストによる犠牲者が出たことを、中国保健省が発表している) 西俊英は第731部隊牡丹工支部の尾上正男支部長とともに、ソ連の捕虜となった孫呉支部の支部長で、ハバロフスク裁判の12名の被告の一人である。


----------731部隊調査報告書”サンダース・レポート”抜粋---------

 下記は、アメリカが日本の第731部隊の調査にあたり、関係者に報告書を書かせたり、関わった人間を直接尋問したりして把握しようとした内容の項目である。「標的・イシイ(731部隊と米軍諜報活動)」常石敬一(大月書店)の「サンダース・レポート資料76」からの一部抜粋である。レポートの全内容がおよそつかめるものであると思う。
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全般的要求                               1945年8月20日
生物戦……情報局〔MIS〕、科学部
     化学戦部隊〔CWS〕、特別計画部
 日本の生物(細菌)戦のすべての面について情報がほしいが、とくに必要な項目は以下の通りである。
  生物兵器用病原体の研究・開発、製造
  生物戦における日本の攻撃および防御の手段
  生物戦用砲弾
  生物兵器の使用方法
 日本の生物戦情報でとくに必要なのは以下の通りである。
一、生物戦研究
 a、どんな機関【(一)軍(二)民間】が生物戦の活動を進め、そして支配していたのか。
 b、日本が生物兵器用病原体として使用をもくろんで実験していた微生物はなにか。以下の対象別に記せ。
 (一)人    詳細な技術情報を求む。
 (二)動物       〃
 (三)植物       〃
 c、細菌爆弾あるいは砲弾その他に充填していた、あるいはすることになっていた病原体はなにか。詳細な
  技術情報を求む。
 d、生物戦研究の中心となった大学およびその他の研究機関はどこか。それぞれが実験していた病原体はな
  にか。
 e、生物戦研究および開発にたずさわっていたのはどんな人物か(陸海軍人、医者、科学者、細菌学者、技
  術者その他)
二、生物戦の指令──日本の陸軍および海軍は生物戦に関してどんな指令をだしていたか。
三、生物兵器による攻撃のための訓練
 a、攻撃的兵器としての生物兵器の使用について各部隊(とくに挺身遊撃隊、謀略部隊、憲兵隊その他)で
  どんな訓練が行われていたか。
 b、この訓練を受けもった組織はどこか。
 c、攻撃的兵器としての生物兵器の使用法を教えられたのは陸軍および海軍(航空部隊も含む)のどの部隊
  か。
 d、日本軍が生物戦を実際に行ったのはそんな時にそして誰に対してか。
四、生物兵器使用法──生物兵器用病原体の散布方法として考えられていた、あるいは採用されていたのは
  どんな手段だったか(爆弾、砲 弾、噴霧その他)
五、対生物戦防御(生物戦に対する備え)
 a、対生物戦防御に関して採用されていた、あるいは考えられていた特別な方法は。軍隊の場合、民間人
  (都市)の場合
  (一)生物学的(免疫)
  (二)化学的(殺菌、消毒その他)
  (三)物理的(特別なガス・マスクおよび衣服)
 b、対生物戦防御を受けもっていたのはどんな部隊か(たとえば防疫給水部隊)。
六、生物戦用戦術──日本の生物戦の戦術および戦略について得られる情報はどんなものか。
七、生物戦情報
 a、日本は他国の生物戦についてどんな情報をもっていたか。それは日本の生物戦にどんな影響を与えた
  か。
 b、日本はドイツからなにか特別な生物戦情報を得ていたか。
八、生物戦の機密保持──日本の生物戦のすべての面についての情報を制限し制御するためにとられていた
  措置はどんなものだったか。
九、生物戦政策──生物兵器の使用(謀略的使用でなく大規模使用も含む)についての日本の政策はどんな
  ものだったか。
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 上記の項目にしたがって調査が進められ、まとめられたのが「サンダース・レポート」である。そして付録として下記のようなインタヴュー(すでに戦犯免責が決定していたため、戦犯としての証拠集めではないということで、”インタヴュー”という言葉が使われているようである)の内容を記録したものが多数付けられている。この時点では、日本側に真実を秘匿する姿勢が読み取れるのである。
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付録29-Aーa

主題──生物戦
日付──1945年9月20日
対象──出月三郎大佐、軍医学校防疫研究室室長、井上隆朝大佐、軍医学校細菌学教室室長
聞き手──M・サンダース・中佐、W・ムーア中佐、H・E・スキッパー少佐
 一、これら軍医は生物戦との関係を問われて、防疫研究室は防疫面の責任を負っていたと答えた。
 二、防御部隊についての問いには、それは防疫給水部隊(WPU)であるという答が返ってきた。
 三、野戦における生物戦部隊の組織と詳細を図示するよう求めたところ、以下のような図が示された。
       ┌──────┐  
       │ 師団司令官 │
       └───┬──┘
      細菌戦部隊(225人)
      (中佐あるいは少佐)
 四、各師団の防疫給水部の仕事は以下に示されるものだった───
  a、流行病の予防
  b、浄水
  c、疫学調査
 五、より大きな恒久的な施設をもった部隊ではワクチンの生産もっしていた。さらに各部隊とも攻撃の
   任務はなく、任務としては予防医学上の活動が考えられていただけだった、という事実が強調され
   た。
 六、師団の防疫給水部隊の装備は次の通りだった──
   濾水機(トラックに積み、モーターで動く濾過装置)4台──部隊によっては濾水機2台だけで、
   そのほかに水や物資の運搬にトラック28台をもっている場合もあった。
 七、軍の防疫給水部は師団のそれの二倍で、司令官は大佐だった。
 八、恒久的施設である本部の組織は軍や師団の防疫給水部隊のそれとは少し違っていた。恒久的施設で
   ある本部は次の場所に置かれていた──
  a、ハルビン(満州)
  b、北京(中国)
  c、南京(中国)
  d、広東(中国)
  e、シンガポール(マラヤ)
 九、以下のような質疑応答が記録されている──
問 検査を受ける濾水機はどこに置かれていたか。
答 軍医学校である。一部は爆撃を避けるために新潟に移された。
問 生物戦に対して防疫給水部以外の防御策もっていたか。
答 防毒衣とマスクだけだった。
問 防御手段としてガス・マスクについて研究したことはないか。
答 ない。
問 とくに対生物戦防御用の防御衣を作っていたか。
答 ペスト研究者用にのみ作っていた。
問 生物兵器によって攻撃されることを考えていたか。
答 考えていた。(出月大佐は、先の戦争ののち各国が生物戦の攻撃面の研究を行っていると聞いていた、
  とのべた。)
問 軍医学校では生物戦の攻撃面についてどんな研究をやっていたか。
答 なにもやっていなかった。生物戦の攻撃的側面についてはなにも研究していなかった。
問 攻撃された場合、最も使われそうだと考えていたのはどんな生物兵器用病原体だったか。
答 腸チフス菌および腸管系細菌である。
問 通常の注意で十分であると考えていたか。
答 我われは、日本兵の最大の弱点は各自の衛生に関してきちんとした知識をもっていないことだと考え
  ていた。この弱点のために、水を  沸かし食料の調達に注意することが力説された。
問 日本で生産されたワクチンの種類は。
答 a、腸チフス
  b、パラチフスA、パラチフスB
  c、ペスト
  d、髄膜炎
  e、発疹チフス
  f、ヲイル氏病
  g、天然痘
問 生物戦の攻撃面の研究はいっさい行われていなかったと理解すべきなのか。
答 攻撃に関する研究はなにもしていなかった。敵の攻撃を避ける研究だけやっていた。これらの研究は
  軍医学校で行っていた。
問 どんな防御の研究をしていたのか。
答 各地域の風土病の研究であった。たとえば満州では発疹チフス、中国南部ではマラリアの研究である。
問 生物戦用爆弾についてなにか知っているか。
答 なにも知らない。
問 我われは日本が生物戦用爆弾を保有しているというレポートをそれぞれ独立の情報源から得ている。
  この爆弾の特徴については全レポートが一致している。
答 これは戦略的(?)事実である。これは我われの責任範囲外のことであり、当然のことながらそれに
  ついてはなにも知らない。
問 これについて知っているのはだれだ。
答 参謀本部の人間である。
問 参謀本部のだれだ。
答 我われは知らない。
問 攻撃面の知識なしに、どうやって実効の上がる防御の研究ができるのか。
答 一般的な措置はとれると信じていた。
問 防御についての研究の記録類をみせてもらいたい。
答 建物のほとんどが焼失し、それとともに生物兵器について書かれていた医学研究の資料も失われた。
 十、インタヴューはこれで終わり、日本の軍医たちは戦略、そして攻撃の研究について権限と責任のある
   参謀本部の人物をつきとめるよう積極的に努力すると約束した。
 評価──これは生物戦についての最初の会談だったが、まったく不満足なものだった。日本の軍医の言
   っていることが本当なら、この側面の防御はまったく稚拙で粗っぽいものである。出月および井上
   両大佐が召喚されたのは、特定の活動にたずさわっていた将校としてインタヴューすることを率直
   に求める現在のGHQの方針によるものだった。こうして彼らは生物戦に関係していた将校として
   求められ、それに応じたものだった。
    生物戦の研究についての話の内容が腸管系の病原体に限られ、風土病が強調されていたことに注
   意する必要があろう。情報不足は否定しえないが、これらの言明が我われの情報活動によるレポー
   トと一致することが興味深い。また防疫給水部と生物戦とは結びついているというレポートとも一
   致している。
    本インタヴューは不満足なものであり、陸軍省の医務局長を召喚することに決定した。


----------731部隊調査報告書”トンプソン・レポート”抜粋---------

 下記は、アメリカが日本の731部隊について調査した第2次の報告書である。この時には、まだ731部隊の実態を正確に把握していなかったようである。「標的・イシイ(731部隊と米軍諜報活動)」常石敬一(大月書店)からの一部抜粋である。
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陸軍補給部隊
キャンプ・デトリック 
フレデリック、メリーランド

            日本の生物戦研究・準備についてのレポート

報告──アーヴォ・T・トンプソン獣医中佐
1946年5月31日

        序文
 本レポートの調査は、1946年1月11日から1946年3月11日まで行われた。これは1945年12月26日付のワシントンの高級副官部〔AG〕室から東京のアーヴォ・T・トンプソンへの手紙による行動命令AGPOーAーOー201の第1項にもとづいて行われた。

        目次
  一、要約
  二、結論
  三、日本の生物戦研究・準備についてのレポート
   補遺一、ハルビン地区の見取図
   補遺二、
    a、関東軍防疫給水部の組織図
    b、関東軍防疫給水部の任務の概要
   補遺三、
    a、ハルビン研究所の平面図(石井)
    b、ハルビン研究所の平面図(北野)
    c、平房施設の平面図(石井)
    d、平房施設の平面図(北野)
    e、平房研究所で行われていた業務の概要
   補遺四、 
    a、イ型爆弾の詳細  
    b、ロ型爆弾の詳細  
    c、ハ型爆弾の詳細 
    d、ウ型爆弾の詳細  
    e、旧式宇治型爆弾の詳細
    f、ガ型爆弾の詳細
    g、宇治五〇型爆弾の詳細

        要約
日本の生物戦研究・準備
 一、日本は軍の手で生物戦の攻撃と防御の両面において大規模な研究を行っていた。日本海軍の生物戦
   への関心は防御面に限られていたようである。
 二、日本陸軍の生物戦研究・開発は主に石井四郎中将によって支配され動かされていた。この活動の遂
   行は正式の命令を受けておらず、軍陣予防医学のひとつとして行われていたと述べているが、研究
   の進捗状況からみて、生物兵器研究・開発がすべての面について大規模に行われていたこと、およ
   び陸軍最高幹部の公式の認可と支援があったことは明白である。
 三、ソ連や中国による生物兵器の謀略的使用に対し防御手段を開発する必要があったという申し立ては、
   石井が日本において生物戦研究・準備を行うために展開した論理であった。攻撃的武器としての生
   物兵器の開発はまったく考えていなかった、と彼は強調した。
 四、満州ハルビン近郊の平房の施設は主要な生物戦の研究と開発のセンターだった。同じ分野の研究は
   東京の陸軍軍医学校で行われていた。生物戦は軍事上の問題で極秘事項のため、民間の科学者およ
   び研究施設は動員されなかった。
 五、生物兵器用病原体として考えられていたのは、ウィルスやリケッチアのほかに、腸ーパラチフス、
   コレラ、赤痢、炭疽、鼻疽、ペスト、破傷風それにガス壊疽の病原体であった。野外実験に使われ
   たのは病原性のない菌と、人獣共通の病原体、すなわち炭疽菌と鼻疽菌の二種類に限られていた。
 六、日本が研究していた生物兵器用病原体の散布方法には、爆弾、砲弾、飛行機からの噴霧、および謀
   略的手段があった。病原体の効果的な散布手段開発の中心が爆弾の開発であったことは明らかであ
   る。そのため1940年までに飛行機から投下する爆弾が9種類開発され、試験された。その中に
   は地面を汚染するもの細菌の雲を作るもの、それと破片による傷口から感染を起こすための破片爆
   弾などが含まれていた。
 七、砲弾は多目的用の砲弾を生物兵器散布用に改造したものについて予備的な実験が行われただけであ
   る。砲弾による散布は実用的ではなかった。飛行機からの噴霧も数回の予備的実験の結果同じ結論
   に到達した。
 八、ハ型爆弾と宇治五〇型爆弾は平房で開発された散布手段の中で最も有効なものと考えられていた。
   両方ともいくつかの大きな欠点があったが、石井は爆弾専門家の手でこれらの欠点を直し改良を加
   えれば、どちらも有効な生物兵器となりえた、と信じている。
 九、防疫と濾水の強化が生物戦に対する最も有効な防御策である、と日本は考えていた。防疫給水部の
   各本部および支部が戦場での伝染病の発見、予防、それに流行の制圧の仕事を受け持っていた。憲
   兵は生物戦発生の可能性の調査、証拠の収集、それに謀略工作員の逮捕といった補助的な仕事を行
   った。
 十、日本は生物戦の攻撃面の研究・開発で大きなシンポを達成しているが、結局実用的な武器として生
   物兵器を使用するまでにはいたらなかった。

        結論
 調査担当者の意見は次の通りである──
 一、日本の生物戦研究・準備について、おのおの別個とされる情報源から得られた情報は見事に首尾一
   貫しており、情報提供者は尋問において明らかにしてよい情報の量と質を指示されていたように思
   える。
 二、情報のすべてが記憶にもとづくものとされているのは、すべての記録は陸軍省の命令で破棄された
   と言われているためである。しかしいくつかの情報、とくに爆弾の図面は非常に詳細で、証拠書類
   が破棄されたという説明には疑問がある。
 三、尋問全体を通じて、生物戦における日本の研究・準備、とくに攻撃面の研究・開発の規模を小さく
   みせたいというのが彼らの願望であることは明白である。
 四、軍だけで生物兵器の研究・開発をし、民間の科学力を全面的に動員しなかったことは、軍の各部門
   との協力を欠いたことと相まって、生物兵器を実用的な武器として開発するうえで障害となった。
 五、生物兵器が実用化されていても、日本がそれを使ったとは思えない。すなわち彼らは化学兵器によ
   る報復を恐れていた。知りえたかぎりでは、日本はアメリカの生物戦研究・準備についてなんの情
   報ももっていなかった。

-NO63~72-


------------ソ連検察官による731部隊関係者の尋問要求-------------

 下記は、「ソ連検察官による何人かの日本人に対する尋問要求」に関わる文書である。この文書を受け取る以前のアメリカによる731部隊の調査報告書(サンダース・レポートおよびトンプソンレポート)には、人体実験や中国への生物兵器による攻撃については、触れられておらず、解明されていなかったのである。このソ連の尋問要求が出されて以降、アメリカの関係機関の間でさまざまな文書のやり取りがあり、右往左往したことが「標的・イシイ(731部隊と米軍諜報活動)」常石敬一(大月書店)の資料からうかがい知ることができる。資料の一部を抜粋する。
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89

主題──尋問要求
発信──連合国軍総司令部 国際検察局
あて先──GーⅡ
                                                         日付──1947年1月9日
注一、マッカイル中佐が話し合った結果、ソ連側の国際検察局から調査部を通じてGーⅡに、同封の覚え書が送付された。覚え書についての説明は不要である。覚え書に対する適切な措置について当部に対して助言を求める。
同封書類一通(極東国際軍事裁判 ソ連よりの覚え書)。

      覚え書

あて先──ウィロビー少将、GーⅡ部長、連合国軍総司令部
経由──国際検察局調査部
発信人──ヴァシリエフ少将、極東国際軍事裁判所ソ連次席検察官
 国際検察局のソ連代表部には、関東軍が細菌戦の準備をしていたことを示す材料がある。
 これら材料を証拠として軍事裁判所にだすには、関東軍防疫給水部すなわち満州731部隊でかつて活動していた人物について数多くの補充的尋問が必要である。
 それら人物は、
 一、石井軍医少将、防疫給水部第731部隊長
 二、菊池斉大佐、防疫給水部第731部隊第一部長
 三、太田大佐、防疫給水部第731部隊第四部長(かつて第二部長を務めていた)
 これらの人物は、彼らが戦争に細菌を使用する目的で細菌の研究を行っていたこと、またこれらの実験の結果として多くの人びとを殺していることについて証言することとなる。この調査が完了し、材料が裁判所に提出される前に、本調査に関する情報が拡散することのないよう予備的な措置を講じるのは妥当なことと信じる。すなわちこれら証人から、この調査についてだれにも言わないという約束をとりつけ、予備的な尋問は陸軍省の建物内では行わない、ということだ。
 前述のことに関連して、1947年1月13日に前述の尋問ができるよう国際検察局を通じて助力していただきたくお願いする。尋問はとくにこの目的のために用意された場所で、本調査について口外しないという約束をとりつけたうえで行われる。
 このほかに当方は貴下に対し、国際検察局のソ連代表部に防疫給水部第731部隊元第二部長村上隆中佐、および同部隊元総務部長中留金蔵の所在について文書で知らせるよう要求する。これら文書は彼らを裁判にかけるために必要である。
                                                              ヴァシリエフ少将
                                                 極東国際軍事裁判所ソ連次席検察官
                                                                 〔R・G331〕
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90

極東軍総司令部
参謀部、情報局
                                                            1947年1月17日 
主題──日本の細菌戦実験
あて先──極東軍、GーⅡ参謀副長
 一、以下に報告する言明は東京のソ連検察局のメンバー、ソ連軍のスミルノフ大佐から得られたものである。本情報は陸軍
  省情報局の日本部から陸軍省に生物戦の補遺レポートとして送付するよう勧告する。
 二、前記主題についてのソ連の関心がGーⅡに知らされたのは1947年1月7日国際検察局のワルドーフ氏が、ソ連から生
  物戦についての尋問のため日本人の引き渡しを求められている、と述べたときである。GーⅡから国際検察局に、ソ連に対
  して要求の理由を覚え書きとして提出させるよう指示した。その結果が添付の覚え書(同封書類一)である。そのときソ連
  に、マッカイル中佐がこの問題について彼らと会談する用意がある、と告げ、会合は1947年1月15日9時から東京の陸
  軍省で行うことになった。
 三、出席者は以下の通りである。
    R・P・マッカイル中佐 極東軍、GーⅡ
    O・V・ケラー少佐 化学戦将校
    A・J・ヤヴロツキー 極東軍、GーⅡ、通訳
    D・L・ワルドーフ 連合軍総司令部、国際検察局
    レオン・N・スミルノフ大佐
    ニコライ・A・バゼンコ少佐 ソ連軍将校
    アレックス・N・クニフ ソ連通訳
 四、マッカイル中佐はスミルノフ大佐に、ソ連がこの問題で尋問を必要とすることになった材料あるいは情報の説明を求め
  た。スミルノフ大佐はクニフ氏を通じて次ぎのように述べた。
    「終戦からまもなく満州第731部隊第四部の川島将軍と彼の補佐役柄沢少佐を尋問した。彼らは次のように証言した。
   すなわち日本軍は細菌戦の大規模な研究を平房の研究所、および安達の野外実験場で、満州人や中国人馬賊を実験
   材料として使って行っていた。実験の結果、合計2000人が死亡した。平房には発疹チフスを媒介するノミを大量生産す
   る装置やコレラ菌や発疹チフスの病原体を大量に培養するベルトコンベヤー・システムが2基あった。ノミは3ヶ月で45
   キログラム生産された。コンベヤー1基で1ヶ月に、コレラなら140キログラム、発疹チフスなら200キログラムの病原体
   を培養した。」
    「発疹チフスを媒介するノミの生産は次のようにして行われた。発疹チフスに感染させたネズミを4500個の特別な缶の
   中に入れ、ノミに刺させる。しばらくして、缶の中の電灯をつけ、感染したノミをネズミから引き離し、着脱できるノミ容器に
   追い込む。ノミを大量に集める。ネズミを刺してから7時間後には、刺したノミは感染している。」
    「平房では人間は監房にいれられ、研究室で培養される各種培養菌の効力についてのデータを得るため、いろいろな
   やり方で感染させられた。人間はまた囚人護送車で安達に送られ、杭に縛りつけられ、実戦におけて細菌を散布する
   方法、主に飛行機からの爆弾投下あるいは噴霧によって細菌を浴びせられた。犠牲者は平房に戻され、観察された。」
    「前記情報はソ連にとってあまりにも途方もないことだったので、ソ連の細菌戦専門家が呼ばれた。彼らは再尋問を
   行い、平房の廃墟を調べ、この情報を確認した。(平房施設は日本軍が破壊した。それがどんな具合かについてはっき
   りさせるため、マッカイル中佐は次のように質問した。問──大佐は『平房の廃墟』と言われた。それは爆撃によるのか、
   それとも戦闘の結果か。)」
    「平房の施設は、日本軍の手によって、証拠隠滅のために完全に破壊された。すべての文書が破棄され、わが方の
   専門家は廃墟を写真に撮ろうかと思い悩むこともないほどひどい破壊状況だった。」
    「日本軍は満州人や中国人2000人を殺すという恐るべき犯罪を行い、それには石井将軍、菊池大佐、それに太田大
   佐が関与している。(ソ連側が尋問を望んでいる日本人の名前である。) ノミや細菌の大量生産も非常に重要である。
   ニュールンベルク裁判でドイツの専門家は、ノミを使って発疹チフスの病原体を蔓延させることは細菌戦の方法として最
   高のものと考えられる、と証言している。日本はこの技巧を保有しているように思える。この情報を入手することはソ連に
   とってだけでなく、アメリカにとっても意味があるだろう。これら3人の日本人の尋問を、戦犯となることは免れないという
   ことは言わずに行い、彼らに尋問について口外しないと誓わせることを要求する。」
 五、会談で得られる情報は、すでにアメリカが知っていること、あるいは、これまでの調査官が疑っていたことと一致する。
  生産量についての数字は新しいものだ。人体実験は疑っていた。平房の施設が文書ともども完全に破壊されたという情
  報は、これまでに得られた情報と一致している。以下の秘密レポートをみよ。
         a、〔サンダース・レポート〕
         b、〔トンプソン・レポート〕 
                                                         ロバート・P・マッカイル
                                                               中佐、歩兵
                                                              〔R・G・331〕
 

--------731部隊に関するアメリカのトップシークレット-----------

 下記は「ソ連検察官による何人かの日本人に対する尋問要求」が出されて以降のアメリカ軍のやり取りの一部である。(連続したものではなく特徴的な文書のみを取り上げている)「標的・イシイ(731部隊と米軍諜報活動)」常石敬一(大月書店)からの抜粋である。(注目したい文を抜粋者が赤字としている)
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97

連合国軍総司令部

                                         APO500 
                                     1947年3月27日
    参謀長への要約報告
 一、本文書はソ連による旧日本軍の細菌戦専門家の引き渡し要求に関してのものだ。
 二、アメリカは優先権をもっており、その人物の尋問はすでに行い、彼のもたらした情報は米軍化学戦部
   隊の手にあり、最高機密〔トップシークレット〕となっている。 
 三、ソ連はこの人物の確保を何度か試みている。我われはかくまってきた。ソ連は日本人専門家が戦犯で
   あると主張し、自分の主張を通そうとしている。
 四、統合参謀本部の指示は、訴追はさせず、連合国軍総司令部の監督下で尋問させよ、それは極東軍にい
   ない専門家の助けがいるかもしれない、である。
 五、覚え書は次の通り進言する。
  a、陸軍省に専門家二人を送るよう電報を打つ。
  b、ソ連に対し日本人専門家の引き渡しを拒否する手紙をだす。
  c、統合参謀本部が承認した尋問へ向けて動くよう国際検察局に紹介状をだす。
                                         C・A・W
                                       〔R・G331〕
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98

                                      1947年4月1日
発信──陸軍省、ワシントン
あて先──極東軍最高司令官
番号──W95265
 1947年3月29日のC51310についてノバート・H・フェル博士を尋問を行う人物として化学戦部隊〔CWS〕は選んだ。尋問者は1人で十分と考えられる。貴下がとくに2人の必要性を示せば別だが。フェル博士は、4月5日にワシントンを出発する予定である。
                                          サインなし
                                        〔R・G331〕
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99

                                         APO500
                                     1947年4月10日
高級副官部〔AG〕000・5(ソ連)
覚え書、あて先──K・ドレヴヤンコ中将、対日理事会、ソ連代表委員

   主題──覚え書1087,1947年3月7日

 一、〔省略〕
 二、貴下の覚え書1087の第3節について。日本の石井将軍および太田大佐をソ連に引き渡すことは
   できない。というのは中国あるいは満州において日本が行ったとされる行為について、ソ連には戦
   犯訴追の明確な権利がないように思えるからである。
 三、貴下が第3節で言及している人物についてはすでに連合国軍総司令部の国際検察局とも連絡をとり、
   極東国際軍事裁判所のソ連の次席検察官と協力しての尋問を考慮中である。しかし共同尋問は戦犯
   調査ではないし、また今回の尋問許可は将来の要求の先例となるものではないことに留意すべきで
   ある。
                                    最高司令官に代わって
                                    ジョン・B・クーレイ
                                      大佐、高級副官部
                                          高級副官
                                       〔R・G331〕
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108

SFE188/2
1947年8月1日
国務・陸軍・海軍3省調整委員会極東小委員会

   ソ連検察官による何人かの日本人に対する尋問

参考資料──SWNCC351/2/D 事務局員による覚え書

 一、同封書類は参考資料への回答として作業グループから3省調整委員会に提出されたレポートである
   が、小委員会での審議のため回覧する
 以下省略

同封書類

    ソ連検察官による何人かの日本人に対する尋問

      問題
 一、1947年5月6日付の極東軍最高司令官の電報C52423に対する回答作成。同電報は、日本の
   生物戦情報を情報チャンネル内に留め置き、そうした資料を「戦犯」の証拠として使用しないよう進
   言している。
     問題となっている事実
 二、付録「A」をみよ。
     考察
 三、付録「B」をみよ。
 四、次のように結論された──
  a、日本の生物戦研究の情報はアメリカの生物戦研究プログラムにとって大きな価値があるだろう。
  b、入手したデータは付録「A」の3節にその概要が示されているが、現在のところ石井および彼の
    協力者を戦犯として訴追するに足る十分な証拠とはならないように思える。
  c、アメリカにとって日本の生物戦データの価値は国家の安全に非常に重要で、「戦犯」訴追よりは
    るかに重要である。
  d、国家の安全のためには、日本の生物戦専門家を「戦犯」裁判にかけて、その情報を他国が入手で
    きるようにすることは、得策ではない。
  e、日本人から得られた生物戦の情報は情報チャンネルに留め置くべきであり「戦犯」の証拠として
    使用すべきでない。
      勧告
 五、次のように勧告する──
  a、3省調整委員会は前記結論を承認せよ。
  b、3省調整委員会の承認後、統合参謀本部は、軍事的な観点から問題がなければ、付録「D」のメッ
    セージを極東軍最高司令官に送付することとする。
  c、本問題について今後の通信はすべて最高機密〔トップシークレット〕に指定すること。

付録「A」

      問題となっている事実
 一、第1節で引用されている電報の第2部は、日本の生物戦の権威、石井将軍は、彼自身、上官および部
   下に対して、文書によって「戦犯」免責が与えられるなら、日本の生物戦プログラムを詳細に述べよ
   う、と言っている。石井と彼の協力者たちは現在まで文書による免責がなくてもそうした情報を任意
   に提出してきたし、またしつつある。
 二、日本の細菌戦専門家19人が人間を使った生物戦研究について60ページのレポートを書いている。
   9年間にわたる穀物の破壊についての20ページのレポートも作成された。獣医学分野の研究も10
   人の日本人科学者によるレポートが書かれつつある。日本の病理学者1人が、生物戦の実験に使われ
   た人間および動物の解剖から得られた顕微鏡用標本8000枚の顕微鏡写真の収集と作成を行ってい
   る。石井将軍は生物戦の全分野についての20年にわたる彼の経験をまとめている。
 三、(以下抜粋者が省略)

付録「B」

      考察
 一、日本の生物戦情報の価値
  a、石井および彼の仲間からすでに得た情報は、アメリカの生物戦研究のいくつかの面を確認し、補足
    しそして補充するうえで大きな価値があることがわかったし、また、将来の新しい研究を示唆して
    いるようである。
  b、この日本の情報は、生物兵器用病原体の人体への直接効果をみるための科学的にコントロールされ
    た実験から得られた唯一のデータである。これまで生物兵器用病原体の人体への効果は動物実験の
    データからみつもるしかなかった。
    そうしたみつもりは不確実であり、一定のやり方での人体実験から得られる結果と比べれば、はる
    かに不完全なものである。
  c、人体実験の結果のほかに、日本の動物および穀物に対しての実験からも非常に重要なデータが得ら
    れた。この生物戦情報が任意に提出されていることは、他の分野でももっと新しい情報が得られる
    ことの前ぶれかもしれない。
 二、「戦犯」訴追を避けることの利点
  a、ソ連は日本の技術情報のごく一部しか入手しておらず、また「戦犯」裁判はそうしたデータを各国
    に完全に公表することになるため、そうした公表はアメリカの防衛および安全保障の観点から避け
    るべきである、と思われる。また石井と彼の協力者を「戦犯」訴追することは、新たな技術的およ
    び科学的な情報の流れを止めることになる、と信じられる。
  b、この情報を「戦犯」の証拠に使うことは日本占領アメリカ軍への日本の協力を非常にそこなうこと
    になる、と思われる。
  c、実際上、石井と彼の協力者に対して、日本の生物戦についての彼らからの情報は情報チャンネルに
    留め置かれると約束することは、本政府は生物戦にかかわり、そこで戦争犯罪を行った人物を訴追
    しない、と約束するのと同じことである。こうした了解はアメリカ国民の安全にとって、石井と彼
    の協力者がこれまでもたらし、また今後もたらし続けるであろう情報ゆえに、大きな価値をもつで
    あろう。しかし、次のことに留意しておく必要がある。すなわち奉天地区でのソ連の独自の調査
    は、アメリカ人捕虜が生物戦の実験に使われていて、それら実験の結果として命を落としていた証
    拠をつかむかもしれない。さらにそうした証拠をソ連検察官が目下の東京裁判の日本のA級戦犯の
    何人かへの反対尋問の際に、とくに石井生物戦部隊がその一部であった関東軍の1939年から
    1944年までの司令官、梅津への反対尋問の際にもちだすかもしれない。さらに、ソ連検察官が
    梅津への反対尋問で、石井生物戦部隊が人体実験を行っていた証拠をもちだす可能性は強い。彼ら
    の人体実験は、本政府が目下ニュールンベルクでドイツの科学者および医学者をそれゆえに訴追し
    ている人体実験とそう違うわないものである。

付録「C」〔省略〕

付録「D」

    極東軍最高司令官へのメッセージ

 以下の電報は2部から成っている。
 第1部。1947年5月6日のC52423について。三Bと五の進言は承認する。生物戦について石井と彼の協力者から得られた情報は情報チャンネルに留め置かれ、「戦犯」の証拠として使用されることはない。〔以下省略〕
 第2部。前記問題についての全通信文を最高機密に指定する。
                                    〔R・G153〕


----------731部隊 内藤良一とサンダース 戦犯免責----------

 下記は、陸軍軍医学校の教官であり「防疫研究室」の実質的責任者であった軍医大佐内藤良一(「石井の番頭」と公言して憚らなかったという)の「マレー・サンダース中佐への秘密ドキュメント、1945年9月」の一部抜粋である。内藤良一は戦犯訴追を免れるために、一部ではあるが真実を明らかにせざるを得なかったのである。これは、「731」青木冨貴子(新潮社)によると、『週刊ポスト』誌米国駐在員安田弘道「マレー・サンダース医学博士取材報告」に続いて掲載されたものであるという。(赤字は抜粋者、BWはbiologicalwarfareの略)
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 「あなたがBWに関する調査をはじめて以来、大本営参謀本部高級将校の間では、大変な狼狽が起き、長時間に渡って、真実を答えるべきかどうかの議論がありました。
 多数意見は、敵を攻撃するようなBWは持っていないのだから、真実を話すべきだというもの。しかし、少数ながら、科学的実験がないから隠そうという意見もあった。
 後者である軍務局長、参謀本部副官は、日本が攻撃的なBWのための研究所を持っていた事実が判明すると天皇の命運にかかわることを懸念している。
 日本陸軍が防御用のためだけでなく攻撃用のBWのための組織を持っていたのは事実です。
 多くの研究者が動員され、それぞれが特別のテーマを与えられました。実験結果は、秘密を守るためということで、公表されません。又研究者は、他の研究員がなにをやっているかわからず、各研究所の責任者は常に入れ替わっています。これに加え、ロシア軍の突然の侵略と同時に、研究結果は焼かれており、ハルビンの実験報告を入手するのは不可能と思います。
 こうした情報が、参謀本部スタッフへ反するものであることを心配しています。あなたが読んだ後で焼却するように頼みたい。私はこの情報に生命を賭けている。私が情報提供したことがわかれば、殺される」
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 内藤良一が上記の「マレー・サンダース中佐への秘密ドキュメント、1945年9月」を提出するに至る経過について「731」青木冨貴子(新潮社)には、下記のような朝日新聞ニューヨーク支局小林泰宏特派員のマレー・サンダースへのインタビュー内容が取り上げられている。
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 サンダース博士は、戦後はコロンビア大学教授(細菌学)などを務め、退職後は、フロリダ州ボカラトンに医学研究所を設立、研究・治療にあたっている。大戦中は、化学戦部隊に配属され、1945年夏、フィリピンで、マッカーサー総司令官から『731』の調査を命ぜられ、日本に上陸、調査を開始した。インタビューは、同博士のオフィスで行った。同博士の記憶ははっきりしていた。
──事前情報は、どの程度あったのか。
 終戦の数ヶ月前から、満州の平房で『防疫給水部』の偽名で細菌化学兵器を開発している部隊があり、そのトップがイシイという名前であること、中国人を実験台にし、中国領土で細菌をまいたことがあることなどを知っていた。
──隊員との最初の接触は。
 調査開始後、通訳としてドクター・ナイトウがやってきた。私は最初、ナイトウが731部隊幹部とは知らなかった。今から考えると、だれが彼をよこしたのか不思議だ。ドクター・ナイトウは、その後、ミドリ十字の社長になった。彼とは、その後も非常に親しく付き合った。
──調査はどう進んだか
 最初、名前を知っていたミヤガワ、キムラといった京大教授たちに会った。だが、彼らは内部情報は何も知らなかった。
 そのうち奇妙な事態が続いた。深夜、ナイトウのいない時を狙って、731の幹部から若い兵士たちまで、こっそり私に会いに来た。細菌爆弾の設計図を渡しに来た者もいた。みんな、そのかわりに自分だけは戦犯を見逃してくれと私に頼んだ。
──内藤氏は?
 あまり協力しないで逆に私をためそうとした。1ヶ月ほどしたころ、私は『これでは厳しい尋問をする人間に任せざるを得ない』と通告した。すると、その夜、彼は徹夜をして報告書を書き、持ってきた。それにより、私は初めて全体像をつかめ、リストにより次々と幹部を尋問することが可能になった。」
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 また、安田弘道の「マレー・サンダース医学博士取材報告」の中の、下記のようなサンダースへのインタビュー内容も引用されている。
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──当時与えられた任務は?
 サンダース(以下S)日本のBW(細菌戦)の実態に津itw調べることだったが、その時私に与えられていたのは、ほんの数人の名簿だけ。この名簿に基づき、最初に会ったのがミヤガワ・ヨネジ東大医学部教授。(略)なにかの手掛かりがつかめるのではないかというのでリストアップされていたのだが、彼は何も知らないとのこと。ガッカリしたのを覚えている。それから会ったのが、日本軍の軍務局長・次官・軍医関係高級将校などで上林(神林のこと)、イズキ(出月のこと)なども含まれていたが、全員”細菌兵器の開発などやっていなかった”と百%否定。最初の十日間で調査は行き詰まってしまった。
──細菌兵器の開発は行っていないという証言を信用したのか?
S  いや信用しない。というのは、私たちは1944年の早い時期から、陸海軍情報部の報告を受け取っており、日本軍が研究していることは知っていた。
 行き詰まった時、私は内藤氏にこう語った。”このままでは、私は本国に戻り、彼らは調査を拒否していると報告せざるを得ない。この場合、どんな事態が起こるかわからない。
 そこで、彼らがもし真実を語るならば、その秘密を守り、戦争犯罪として追及しないようにするが……”
 内藤氏が応えた。”24時間待ってもらえないだろうか。どうかその間に本国へ戻るというような決心はしないで欲しい”
──なぜ、戦争犯罪にしないと約束したのか?
S 彼らが恐れているのは、戦争犯罪の点であることはわかっていたし、私の任務は、犯罪追及ではなく、全貌を知ることにあったからだ」
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 そして内藤良一は上記の「マレー・サンダース中佐への秘密ドキュメント、1945年9月」を提出したというのである。



-----------------731部隊 パウエル論文----------------

 下記は、「<悪魔の飽食>ノート」森村誠一(晩聲社)に資料として入っている「歴史に隠された一章」と題されたいわゆる「パウエル論文」の一部抜粋である。森村誠一氏が下里正樹氏の協力を得ながら、多数の元隊員の取材を重ね731部隊の全貌にせまっていた同じ時期、ジョン・W・パウエルは731部隊とアメリカの裏取引の実態を明らかにしていたというのである。彼は、米軍が朝鮮戦争で731部隊が開発したものと酷似した細菌兵器を使い北朝鮮を攻撃したことや、その攻撃に日本の専門家を使ったことを暴露して国家反逆罪に問われた。「731」の著者青木冨貴子氏によると、その裁判が打ち切られたのはロバート・ケネディが司法長官になってからのことであるという。「731」青木冨貴子(新潮社)には次のような一節もある。
 「……ドナハイの帰国が近づいて頃、モロウはクリーグ燈の照りつける法廷に初めて立った。7月22日、「中国(満州をのぞく)に対する軍事的侵略」に関する立証の冒頭陳述からはじめた。そのなかにはいわゆる「南京虐殺」も含まれた。彼は中国人4人を含む6人の検察側証人を召喚した。そのうちのひとりが8月6日に証言台に立ったジョン・B・パウエルである。パウエルは35年後の1981年、情報公開法によって入手した極秘文書に基づく論文を発表、初めて米国と石井部隊の取引を実証したジョン・W・パウエル2世の父である。父パウエルは1917年から上海を拠点に中国で活動したアメリカ人ジャーナリストだった。1942年、日本軍の捕虜になるまで日中戦争をつぶさに目撃した歴史の証人である。……」
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                   歴史の隠された一章
                               ジョン・W・パウエル 森村誠一訳
●──アメリカ人の捕虜もいた

私は、このほど米国情報公開法にもとづき永久保存の秘密文書を入手した。これによって太平洋戦争のもっとも醜悪な一面が詳細に判明した。すなわち、日本が、中国・ソ連に対して仕掛けた細菌戦争の全容がそれである。日米両国政府は、戦後の長期にわたって細菌戦争の事実を隠しとおしていたのである。
日本政府が、細菌戦の試みを隠したいと望むのは理解できる。だが、アメリカ政府もその隠蔽に関わっていたのだ。細菌を「死の兵器」に転用する日本の技術を、ワシントンが独占したいと望んだためである。
米国は、細菌戦の研究にたずさわった日本人の戦争犯罪告発を免罪し、日本人側はその代わりに自分たちの研究記録をキャンプ・デトリック──今日のフォート・デトリック──の米代表に手渡したのである。
日本側の研究記録によれば、1930年代末期には、日本の細菌作戦計画は実験実行の段階に到達していた。細菌戦は中国の軍と民間人に対して実行に移され、一定の成果をあげた。また、結果は不明であるが、ロシア人に対しても細菌戦がおこわれた。
日本は1945年までに、細菌と菌媒介動物、それらの伝播手段を、どんな国もおよばないほど大量に蓄えていた。
日本が他国を断然引きはなしていた最大の理由は、細菌研究にたずさわった科学者たちが、人間をモルモット代わりに使ったからである。少なくとも3000人の人間が細菌戦実験施設で殺された。施設の暗号名は第731部隊と呼ばれ、ハルビン南方数マイルの地点にあった。
被実験体となった人間は、実験中に死亡するかあるいは肉体的障害を受け、実験材料に適さなくなり、殺された。731部隊で殺された死者の正確な総数はわからない。が、少なくともハルビン南方以外に、二つの細菌戦用施設があった。
長春(旧新京)近くの第100部隊と、南京にあったタマ分遣隊の施設がそれである。(2つの施設では)731同様の生体実験がおこなわれていたことが知られている。
こうした話は、ここ数年来明らかにされていたことである。だが、人間モルモットの中に、戦争初期に日本軍捕虜となり、満州の捕虜収容所に監禁されていた人数不明のアメリカ兵がいたことは、ごく最近まで知られていなかった。
終戦直後、ワシントンはこの事実を知っていながら、731隊員の告発をしない旨、決定を下したのである。このほど私が入手したアメリカ政府の公式内部文書は、そのことを暴露している。
公開されたトップ・シークレット(最高機密)文書の存在は、この間の詳細を明らかにし、当時、第731隊員の戦争犯罪追求を免罪する決定を下した米国政府高官多数の果たした役割について、大きな疑惑を生じさせるものである。

●──東京発ワシントン宛秘密電報(略)
●──格安な買い物だった(略)
●──石井を免罪し資料を入手せよ(略)


-----------731部隊”細菌戦について”牧軍医中佐講演記録---------

 下記は、「<悪魔の飽食>ノート」森村誠一(晩聲社)の資料に入っている「細菌戦ニ就テ」という牧軍医中佐の講演記録(「満州帝国軍医団雑誌」に掲載されたという)のはじめの部分である。731部隊の取り組みの事実が漏れることを恐れていることがよく分かる。
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               細菌戦ニ就テー康徳9年3月6日於治安部会議室
                                      関東軍=牧軍医中佐
御紹介ヲ受ケマシタ牧軍医中佐デアリマス
命ニ依リマシテ、只今カラ約2時間ニ亘リ、細菌戦ト云フコトニ就テ御話ヲ致スコトニ致シマス。コレニツイテ御話ヲ致シマスコトハ自分ガ有ッテヰル考ヘ、例へバ日本軍若シクハ国軍ガ有ッテヰル考ヘヲ或程度一般ニ発表シマスコトニナルノデアリマス、従ッテ従来ハコノ細菌戦ト云フ字スラ何レノ国モ軍当事者ニ於テ内密ニ使用シテ他ノ適宜ノ字句ヲ代用シテ居ツタ訳デアリマス。換言スレバ細菌戦ト云フヤウナ題目ヲ以テ御話スルト云フコトハナカッタノデアリマス近頃ニ各国ガ戦時下ニコノコトヲ云ヒ出シマスシ、又日本軍並ニ国軍ニ於テモコノ問題ガ俄ニ重要性ヲ増加シテ来マシタノデ、極ク最近カラ大キナ顔ヲシテ細菌戦ト云フ字句ヲ出シタ訳デアリマス。ソレデ私ガ申スコトノ中デ奥歯ニ物ノ挟マツタヤウナトコロデ打切ル事項ハ、特別ニ研究ヲ要スル事項カ、若シクハ一般ニ御話スルコトガ具合ガ悪イト云フ事項デアリマス。従ッテ若干不明瞭ナ所ガ出来ルカモシレマセンガ此点予メ御断リ致シマス。
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 このように断った後、下記のようないくつかの点で細菌戦の有効なことを語っている。
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・・・
従ツテ斯ウ云フモノヲ兵器トシテ使フノニ、平時デアッテモ戦時デアッテモ、何時デモ使ヘル、斯ウ云フヤウニ眼ニ見エナイモノデスカラ戦時ニ使フト云フコトニナレバ一向訳ナク使ヘルト云フトコロカラ、戦サヲヤッテヰル者ニモ大砲ヤ小銃ヲ作ッテヰル所デモ使ヘル。又後方ノ所謂兵站地ト云フ所ニ於テモ使フコトガ出来ルト云フヤウナコトガアリマス。
又コノ細菌ハ、今申上ゲマシタヤウニ、眼デ見ルコトガ出来マセンカラシテ、或程度人ニ気附カレズシテ、思ヒ切ッテ使フコトガ出来マス。一ツノ弾丸ニシタラ、ソノ弾丸ダケノ効力デ終ル。爆弾デアレバ爆弾ソレダケノ効力デ終ルノガ普通デアリマスガ恰度焼夷弾ガ火災ヲ惹 スト云フ以上ニ、一回ノ細菌ノ攻撃ヲシタ後ハソレニ依ツテ続イテ、伝染病ガ流行ツテ来ル。一ツ起レバソレニ続イテ、影響ガ起ツテ来ル。斯ウ云フコトガ一般兵器ト非常ニ違フノデアリマス。又或時ニナルト、サウ云フ病気ガ何時マデ経ツテモ除キ切レナイ。従ッテソレカラ長ク伝染病ノ病原ガ続クト云フコトガ此ノ戦争ニハアル訳デアリマス。従ッて戦ヲ起コシテイル交戦国ガ御互ニ原動力デアル国民ノ日常生活ヲ脅カシテ、イロイロ精神的ニモ脅威ヲ与ヘルト云フコトガ所謂細菌戦ノ特長デアリマス。尚コレハ何故斯ウ云フ風ニ伝染病ガ起ッタカ、コレノ攻撃ヲ受ケテカラ、ドウ云フ風ニ防イダライイカト云フコトガ非常ニ処置ガシ難イノガ特長デアリマス。


---------731部隊 新妻ファイル「特殊研究処理要領」---------

 下記は、陸軍省軍務局軍事課課員、技術政策担当の新妻清一中佐の覚書である。あらゆる陸軍兵器の研究・開発を所管する軍事課の技術将校として、連合国側に知られてはまずい生物兵器の研究や開発に関わる関係部署に証拠隠滅を命じた証拠の極秘文書である。「731免責の系譜」太田昌克(日本評論社)によると、新妻中佐は阿南惟幾陸軍大臣に直接決裁を求める要職にあったという。太田昌克氏は何回も世田谷に住む新妻邸を訪れ取材するとともに、覚書や備忘録など様々な資料を入手したという。下記はその一つである。
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                 特殊研究処理要領
                                     20・8・15
                                         軍事課
一、方針
  敵ニ証拠ヲ得ラルル事ヲ不利トスル特殊研究ハ全テ証拠ヲ陰(ママ)滅スル如ク至急処置ス

二、実施要領
  1、ふ号、及登戸関係ハ兵本草刈中佐ニ要旨ヲ伝達直ニ処置ス(15日8時30分)
  2、関東軍、731部隊及100部隊ノ件関東軍藤井参謀ニ電話ニテ連絡処置ス(本川参謀不在)
  3、糧秣本廠1号ハ衣糧課主任(渡辺大尉)ニ連絡処理セシム。(15日9時30分)
  4、医事関係主任者ヲ招置直ニ要旨ヲ伝達処置、小野寺少佐及小出中佐ニ連絡ス(9、30分
  5、獣医関係、関係主任ヲ招置、直ニ要旨ヲ伝達ス、出江中佐ニ連絡済(内地ハ書類ノミ)10時

(注)B5版の便箋の表と裏に鉛筆で記されている。記録者は新妻清一中佐
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 1の「ふ号」とは陸軍内の秘匿名で風船爆弾のことである。開発を進めていたのは陸軍第9技術研究所で、登戸研究所と呼ばれ、風船爆弾以外にも中国の偽造紙幣を製造したり毒物や細菌の謀略的使用を研究、秘密戦・謀略戦を中心に非合法領域も扱う特殊機関であった。
 2はいうまでもなく、3000人ともいわれる人間を人体実験や生体解剖で殺し、ノモンハンや中国の何カ所かで細菌戦を展開した組織である。
 3は新妻中佐の証言によると種子島にあった陸軍糧秣本廠で、黒穂菌の研究をしており「ふ」号に積むことを画策していたということである。本来陸軍糧秣本廠は軍内の食糧や馬の飼料などの調達・補給を任務とするが、敵の食糧を攻撃するため、麦類の花穂を枯らす病原菌の極秘研究をしていたというのである。 
 4と5は2とも関わり、あらゆるところで国際法に反するような研究がなされたり、情報交換がなされていたことを物語っていると思われる。知られるとまずいことがあり証拠の隠滅が必要だったのである。



---------------731部隊 石井四郎 直筆ノート--------------

 「731」(新潮社)の著者である青木冨貴子氏は、2003年に「渡邊あき」を訪ね、長男周一氏から石井四郎直筆の大学ノート2冊の存在を知らされたという。「渡邊あき」は石井四郎の薦めで渡邊吉蔵と結婚し、夫婦で石井部隊に勤め、ハルビンに住んでいたときも平房に引っ越してからも石井四郎の身のまわりの世話をしていたという人である。石井四郎直筆の大学ノートは、青木氏が公にするまでは全く知られていなかった「1945-8-16終戦当時メモ」と「終戦メモ1946-1-11」である。それを受け取ったときの感動を青木氏は「731」青木冨貴子(新潮社)に下記のように書いている。
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 A5判の黄ばんだ大学ノートで、1946年のノートには表紙に「石井四郎」と本人が名前を記している。開いてみると、鉛筆で、旧漢字を使った独特の崩し文字で書かれている。判読できない文字や数字が並んでいる。表題にメモとあるように、その日の出来事や用件を綴った覚書であり、いわゆる備忘録である。丹念に読みはじめるうち、行間から石井の息遣いが次第に伝わってくるようで、わたしの手はふるえた。
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 青木氏は、重要部分を一行一行その意味するところを考察しながら書き進めているが、直筆のメモの部分のみをいくつか選んで抜粋する。(一部順不同)
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<新京に軍司令官当地訪問>
<徹底的爆破焼却決定す>
<1.工兵爆破 2.焼却 3.搬出積込 4.隊長 植村中尉を訪問 5.柴野隊出発 6.第**来訪 7.永山、江口、南棟整理>
<1)新京停車場貴賓室に徹夜>
<2)作業案を碇や況と共に作りて草地参謀と相談 指示を受けて>
<明朝早く安東に飛び、鈴木・柴野梯団を推進せしむ>
<安東へ石井部隊、東郷部隊、25201部隊を第1番に平壌へ向う様に山形参謀から大尉以下8名に厳命ずみなり>
<菊池隊154着釜 貨物汽車 ロスイキ甲は通化の停車>
<資材は全部終結して、内地に隠匿すること>
<処置、濾水キ用心 トラック、燃料運べ>
<内地へ出来る限り多く輸送する方針 丸太ーPXを先にす>
<帰帆船ならば人員、器材が輸送できる見込み>
<方針 一.婦女子、病者及び高度機密作業者は万難を排して内地に能う限り速やかに内地へ帰還せしむ>
26/8
<1.医務局 予備 復員 資材は附近の陸病へ
 2.高山、中山 復員案 一部は東一院附 明日退 研究抽出
 3.河辺、民族防御賛成 科学進攻賛成、科学の負け、犬死にをやめよ、予備帰農賛成。
 4.梅津、民族防御賛成 科学進攻賛成、静かに時を待て。多年、ご苦労を謝す。
 5.荒尾、予備賛成、説明は誰でもできる。他人の方が可。民族防御賛成、基礎科学をしっかりやること。誠心誠意、最後まで後始末を堂々。豚箱に入る約一年の期間あらん>  

<一.支線不通 暴動のため本線一日一本>
<三.昨夜、3、000朝鮮人 牡丹江終結>
<六.松村参謀は内地から平壌へ>
<皇帝は汽車で平壌迄、飛行機で東京へ>
<疎開支部を作れ><安東、平壌、京城、釜山><私服とせよ、地方人の>
<1.鈴木列車を釜山へ直行 2.野口列車も同様 3.柴野列車も同様 4.草味列車も同様>



--------------731部隊 戦後の密約 鎌倉会議--------------

 731部隊で石井四郎の身のまわりの世話をしていたという「渡邊あき」の長男周一氏から、石井四郎直筆の大学ノート2冊を受け取り、その事実や内容を初めて公にした青木冨貴子氏は、また、アメリカのメリーランド州国立公文書館で「亀井貫一郎」のファイルから文書番号57327Secretとある文書を見つけ出し、「731」青木冨貴子(新潮社)で731部隊の戦後の密約に関わる部分を明らかにしている。この文書ついては、下記のような説明がなされている。
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・・・
 いちばん目を引いたのは1950(昭和25)年4月6日付の「亀井貫一郎に関する尋問記録」と題する秘密文書だった。
「この尋問記録は、石井四郎元中将を尋問した後、エージェントHが用意した尋問記録である」
 と注が付いている。つまり石井を尋問してきたエージェントが石井本人に代わってエージェントHの質問に応答するというスタイルの調書である。内容は石井本人の尋問と考えて良いように、出来上がった調書を石井に見せ、記載された応答が正しいか確認を取り、末尾に本人の署名を求めている。
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 以下はその尋問記録の一部抜粋である。
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 「1947年3月から5月、亀井は細菌戦についての事実を確認するため懸命に努力し、米国から来たフェル博士、二世の通訳である吉橋太郎、マックフェール中佐や日本の細菌戦担当者などとともに働いた。はじめ亀井は長い時間をかけて増田大佐に細菌戦研究の結果をフェル博士に話すように説得した。次に彼は大田大佐と人体実験を担当した約20名の部下の研究者を鎌倉に呼び寄せ、正確で非常に貴重な詳細に及ぶ報告書を用意させた。また、石井隊長にはフェル博士の要望により、非常に重要な概要を東京で執筆してもらった。
 報告書を用意させるために、亀井は報告書を書く者の安全を保障し、彼らの協力を得るために、米国の意思と思われる以下の条件を提示した。」
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 そして「石井部隊の研究者たちは、以下の九項目の条件をのんで、執筆にかかったことになる」というのである。また下記の「九ヵ条の密約」が交わされたのが「鎌倉会議」であり、細菌戦実験を担当した20名が鎌倉で記した報告が、現在所在不明の60ページに及ぶ英文の「19人の医者による(人体実験)リポート」だということなのである。
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1.この秘密の調査報告はフェル博士、マックフェール中佐、および吉橋通訳とGHQのアメリカ人、そして石井と約20名の研究者のみに限定されている。
2.日本人研究者は戦犯の訴追から絶対的な保護を受けることになる。
3.報告はロシア人に対しては全く秘密にされ、アメリカ人にのみ提供される。
4.ソ連の訴追及びそのような(戦犯を問う)行動に対しては、絶対的な保護を受けるものである。
5.報告書は一般に公表されない。
6.研究者はアメリカ合衆国の保護下にあるという事実が明らかにされないよう注意が払われる。
7.主要な研究者は米国へ行くことを許可される。
8.細菌戦実験室が作られ、必要な経費が支給される。しかし、アメリカ人実験室長の下に行われる日本人研究者との共同研究はさらに考慮される。研究に基づく特別実験が予定される。
9.アメリカ人だけによる全面的な共同研究は日本の問題に良い影響を与える。
  アメリカ人とこれらの条件を決定するに当たり、8以外はすべてアメリカ人の一般的意図に基づく。
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 亀井貫一郎は東京帝国大学法学部卒で外交官としてアメリカで過ごした。サンダースが増田知貞大佐の尋問をしたとき通訳を務めている。衆議院議員(社会民衆党)として活躍したが、戦時中は大政翼賛会の東亜部長を引き受けたり、東条首相の同意を得て「財団法人聖戦技術協会」設立したりしたという。


-----------731部隊 新妻ファイル「新妻清一中佐尋問録」----------

 下記は、「731免責の系譜」で、大田昌克氏が公表したいわゆる「新妻ファイル」の中の一つである。新妻清一中佐は陸軍省軍務局軍事課課員で、あらゆる陸軍兵器の研究・開発を所管する軍事課の技術将校であった。新妻中佐は、阿南惟幾陸軍大臣に直接決裁を求める要職にあったという。
 日本の生物兵器や細菌戦について調査するためキャンプ・デトリック(現フォート・デトリック)から派遣されてきた細菌戦の専門家サンダース軍医中佐は、陸軍軍医学校の関係では調査に行き詰まり、陸軍参謀本部へ矛先を向け新妻中佐の出頭を求めたという。昭和天皇の玉音放送前に、国内外の関係部署に「特殊研究」の証拠隠滅を指示した新妻中佐である。サンダースの尋問でも、その姿勢を貫いていることが、下記の尋問録でよく分かる。「731免責の系譜」太田昌克(日本評論社)から「新妻清一中佐尋問録」の一部を抜粋する。(ヰはイに統一)
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            「新妻清一中佐尋問録」(1945年10月1日)

一 立会人 Niizuma   N
      Sander    S
      通訳     内藤

二 N アナタノ任務ハ何ンデアルカ
  S 自分達ハ科学的援助者デ コンプトン博士
                モーラント博士
                サンダー博士
    ノ3人デ「モーラント」博士ガ長デアル
    自分達ハ「ワシントン」カラノ直接ノ指令ヲモッテイル
  S 我々ノ目的ハ日本ヲ助ケルコトデアル
  S 私ハ日本陸軍ノ細菌兵器準備ニツイテ知リタイ
    戦争犯罪ト無関係ニ純科学的 ニ調査ヲスル
    私ハ前大戦後全テノ国家ガ細菌兵器ニ興味ノアッタコトヲ知ッテイル
    若シ何処カノ国ガ(アナタノ国トイフ国デナク)細菌兵器ヲ使ッタトイフ証拠ガルナラバ、ソレハ
    公開セラレ研究セラルベキ門題(ママ)デアル
  S 防衛ノ研究ニ関シテ教ヘテモラッタコトハ感謝スルガ攻撃ノ研究ニ如何ナルコトヲヤラレタカトイ
    フコトヲ知レバ感謝スル
  S 私ハ日本陸軍ノ公式ノ表ノ証拠ヲモッテイル
    1番ヨリ7番マデノ爆弾ノコトヲ書イテアル
    コノ7番ノ爆弾ノコトト一般細菌ノ活動ト細菌弾ニツイテ知ルコトガ出来レバ幸デアル
  N 盆号ヲツケタ爆弾ハナイ
  S 御前ハ細菌弾ニ就テハ何モ知ラナイト話スノカ
  N 日本ニハ細菌弾ハナイ
  S 日本ノ海軍ノ細菌弾ニツイテ知ッテイルカ
  N 知ラナイ
  S 日本ノ陸軍ハ細菌弾ヲモッタコトカ実験ヲシタコトガナイノハ確カデアルカ
  N 確カデアル

  ・・・

  S 日本の参謀本部ハ細菌兵器ヲ武器トシテ考ヘタカ
  N 使フ意志ガナカッタカラ武器トシテ考ヘナカッタ。
  S 石井部隊ノ研究ガ独立シテ行ハレルトイフコトガ可能デアルカ
  N 意味ガヨク解ラナイ
  S 関東軍ハ大本営カラ独立シテソウイフ研究ヲヤルコトガ可能デアルカ
  N 陸軍省ハ毎年指示ヲシテイル。一般指示ノ中ニハ細菌兵器ノコトハ含マレテイナイ。
  S 予算表ヲ見ルコトガ出来マスカ
  N 8月14日ニ焼イタ
  S 日本参謀本部ガ焼イタノカ
  N ソウデアル


----------731部隊 新妻ファイル「増田知貞大佐尋問録」----------

 下記は、731部隊の最高幹部で石井四郎の右腕と言われた増田知貞の尋問録である。これも「731免責の系譜」で、大田昌克氏が公表したいわゆる「新妻ファイル」の中の一つである。大本営陸軍参謀であり、陸軍省軍務局軍事課課員であった新妻中佐の尋問録とは違って、最高位幹部として直接731部隊に関わった増田大佐の尋問録には、かなりつっこんだやり取りが記録されているが、あくまで防御や研究のためであったという姿勢がはっきり読み取れる。その一部を「731免責の系譜」大田昌克(日本評論社)から抜粋する。(Mが増田大佐、Sはサンダース中佐、Nは新妻中佐である。BKは部隊内の隠語で細菌兵器の研究・開発を含む細菌攻撃や生物兵器を利用した戦争を意味する。また、Tは腸チフス菌、PAはパラチフス菌A型、PBはパラチフス菌B型、Dは赤痢菌、Cはコレラ菌、Mは炭疽菌、Pはペスト菌、<TBには触れていないが結核菌と思われる>)
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           「増田知貞大佐尋問録」(1945年10月9日、11日、16日)

 M、S、問答要旨

第1回(10月9日1400)於第1相互ビル「マ」司令部
   参列者M大佐 N中佐、通訳亀井貫一郎
      S中佐 途中より バブコック軍医中佐参加

 N、先日話シタM大佐ヲ連レテ来マシタ何デモ聞イテ下サイ
 S、病気ダッタソウダガモウ体ハ良イノカ
 M、モウ治ッタ
 S、フォワーネームハ何ト云フカ
 M、(知貞増田ト書イテ見セル)
 S、ドウ云フ経歴ノ人カ(N中佐ニ)
 N、経歴ヲスッカリ話スヨウニ(M大佐ニ)
 M、陸軍出身以来ノ経歴デ良キヤ
 S、結構ダ

   (経歴一部略)
 M、1929年~1931年迄 京都帝大微生物教室研究
   1934年~1936年迄 ドイツ、フランスニ留学
   1937年夏~1939年迄 関東軍防疫給水部
   1942年~1943年 軍医学校教官
   此ノ間モ関東軍防疫給水部ノBK関係ノ業務ニハ関与シテイタ
   1943年~1944年 ビルマニテ「マラリヤ」予防ニ従事
   1945年関東軍防疫給水部
   関東軍防疫給水部デハ第3部長ト資材部長トヲヤッテ居ッタガ前ニハ研究ノ関係モヤッテ居ッタ、何
   ノ部ノ業務モ承知シテイル
 
   (略)

 S、関東軍防疫給水部ニ就テ聞キ度イ ソレハ三部カラ成ッテ居ルダロウ
 M、イヤ違フ 四部カラ出来テオル
 S、各部ノ任務ヲ述ベヨ
 M、第一部ハ研究、第二部ハ防疫ノ実施、第三部ハ給水、第四部ハ製造デアル
 S、第一部ノ研究トハ何ノ研究ナリヤ
 M、防疫全般ニ関スル基礎研究デアル
 S、基礎研究デハワカラナイ 具体的ニ如何ナルコトヲ研究セリヤ
 M、(紙にT、PA、PB、D、C、TB、M、P、リケッチャ ヴィールス ト書イテ見セ)コンナコ
   トヲ研究シテオッタ
 S、BKの研究ハシテオラナカッタカ
 M、ヤッテ居タ
 S、ソノ細菌戦争ノ研究ニ就テ話シテ貰イ度イ
 M、BKノコトハ知ッテ居ルカラ喜ンデ話スガ其ノ前ニ一言コトワッテ置キ度イコトハ之カラ話スコトハ
   自分ノ私見デアルカラ承知シテ置イテ貰イ度イ
 S、ソレデ結構ダ
 M、今一ツ頼ンデ置キ度イノハ此ノ問題ヲ政治的ニ利用サレナイヨウオ願ヒスル、ソレニ就テ昨日N中佐
   ニ話サレタ貴方ノ「ステートメント」ヲ承知シタガ自分ハソレデ大イニ安心シテ知ッテ居ルコトヲ全
   部オ話スルコトガ出来ルト思フ
   (注 N中佐ニ話セル「ステートメント」ハコノ調査ハ大統領ニ出ストコロノ秘密報告ノ資料ヲ作ル
   ノデ公表スベキモノデハナイ寧ロ各国ノ間ニBKニ関スル問題ノ起キタトキニアメリカガソレヲ知ッ
   テ居ルト日本ニ対シ有利ニ処理シテヤルコトガ出来ル、戦争犯罪者ノ摘発ト云フコトトハ別箇ノ問題
   ダカラ安心シテ話シテ貰イ度イト云フコトヲMニ伝ヘヨノ意味ナリト記憶ス)
 S、同感ダ
 M、関防給ガBKノ研究ヲ始メルニハ一ツノ動機ガアル、満州事変ノ直後ヨリ「ソ」連ノ「スパイ」ヲ逮
   捕シテ所持品ヲ調ベタラ時々「アンプレ」ヤ瓶等ニ細菌ノ菌液ヲ充填シテ持参シテ居ルト云フコトヲ
   発見シタ、ソノ内容物ハ憲兵隊カラ部隊ニ検索ヲ依頼サレテ、ソレヨリD、C、M、等ヲ証明シテオ
   ル
 S、ソレハ一体何時頃ノコトデアルカ
 M、昭和8年頃カラ昭和13年位迄ノ間ノ事実デアル 

   (略)

 M、……コノ現物ハ最近迄関防給デ証拠物件トシテ持ッテ居タガ今度全部焼キステテシマッタ
   関東軍防疫給水部ハ自隊ノ業務遂行ノ必要上「ソ」連ノ搬入セル細菌デ人為的ノ伝染病流行ガ出来ル
   カドウカト云フコトヲ研究スル必要ヲ感ジタ、ソレガ部隊ニ於ケルトコロノBK研究ノ動機デアル
 S、ソノ研究ヲ始メタノハ何時頃カ
 M、昭和12年(1937年)デアル
 S、誰ガ研究ヲ主催シタカ
 M、研究ノ主催ハ石井隊長デアル、自分ハ最初カラ研究ノ全般ニ亘ッテ石井隊長ヲ補佐シ研究ノ実施ニモ
   関与シタ
 S、研究ハ何部デヤッテ居タカ
 M、BK研究ノ為ニ特別ノ部ハナイ、研究事項ハ細分シテ部下ノ研究者ニ割当テソレヲ秘密ノ裡ニ統合シ
   テ居タ 故ニBK研究ノ全般ニ就テ知ッテ居ルノハ石井隊長ト自分ダケデアル 
   他ノ人ハ自分ノ研究範囲カラ推測シテ話ヲスルコトガ出来ルカモ知レナイガ之ハ飽迄推測デアッテ事
   実ハ自分以外ニハ知ラナイ筈ダト思フ
 S、自分モBKニ就テハ非常ニ大キナ興味ヲモッテオルノデ是非ソノBK研究ノ状況ヲ知リ度イモノデア
   ル
 M、BK研究ト云ッテモ漠然トシテ居ルガ今日ハ軍事課ヨリノ要求ニ依ッテ砲弾ト爆弾ノコトニ関シて若
   干ノ準備ヲシテ来タカラ ソレニ就テ話シテモ良イカ
 S、大変結構ダ
 M、(「ロ」弾、「ハ」弾、「ウジ」弾ノ断面図ヲ大型ノ「セクションペーパー」ニ鉛筆ニテ書ケルモノ
   ト「イ」「ロ」「ハ」「ニ」「ウ」「ウジ」旧型、五〇型、一〇〇型「ガ」弾頭九種類ノ細菌弾ノ諸
   元表ヲ同様ノ「セクションペーパー」ニ書イタモノトヲ広ゲテ説明セリ)
   「イ」弾、蛋頭円筒弾ニシテ弾体ハ鉄ヨリ成リ長サ 500mm 直径 100mm 弾体ノ前部ニ炸薬ヲ充填シ
   弾腔ニ二立ノ菌液ヲ容レル、薬室ト弾腔トノ隔壁ガ瓦斯圧ニ対シテ弱キ壁ヨリナル、尾部ノ「リベッ
   ト」ハ構造弱ク爆圧ニヨリハズレ易クナッテオル 全備重量ハ20㎏装薬ハ黒色火薬デアッテ信管ハ着
   発信管ヲ使ッタ コノ爆弾ノ静止破裂ニ於ケル撒飛界ハ風速5米ノ際10ー15米×200-300
   米デアル

   (略)

 S、オ前ノ実験デ一番ウマク行ッタノハ「ウジ」弾カ
 M、然リ
 S、「ウジ」弾ヲ対「ソ」作戦ニ準備スル事ヲ日本軍当局ニ意見具申スル意図アリタルヤ
 M、前ニ何回モ述ベタ様ニ未ダ欠点ガ多クテ実用ニ適シナイト思ッタカラ其ノ様ナ進言ヲスル意図ハ無カ
   ッタ

   (略)

 S、貴官ハ住民地に於テ粟、麦、綿片等ニタイシテ液ヲ(飛行機のマーク)ヨリ投下シタ経験ハナイカ
 M、自分ハ御質問ト非常ニヨク似タ事ヲ「アメリカ」ノ新聞デハ見た事ガアル
   「アメリカ」ノ新聞デハコレヲ以テ日本ガBKヲヤッタト書イテアッタ様ニ思ふガ我々ニハ何等覚エ
   ノ無イ事デアル
   由来BKト云フ様ナ人ノ注意ヲヒク問題ハ兎角 ghost story ヲ伴ヒ易イモノデアルガ オ話ノ件モ
   コノ「ゴースト・ストリー」ノ適例デアルト思フ
   
   (以下略)

-NO73~81-


---------731部隊 新妻ファイル「田中淳雄少佐尋問録」---------

 下記は、増田知貞軍医大佐をして「xを出せしはあまり面白からず……」と言わしめた田中少佐の尋問録である。「x」は言うまでもなく、731部隊ではノミのことを示す隠語である。田中少佐の尋問録には「x」ばかりではなく、「Px」すなわちペストノミやネズミの増産などについてもかなり具体的に記録されており、増田大佐は「……軈(やがて)ハ少しづつ、覆面が落ちてゆくのではないかと心配致居候」と事実を知られ、戦犯として訴追される不安を隠せなかったのである。しかしながら、ペストノミ増産の中核であった田中班の責任者である田中少佐でさえ、大事なところでは事実を秘匿しようとしていることが、赤字にした部分の証言などから読み取れるように思う。「731免責の系譜」太田昌克(日本評論社)からの一部抜粋である。(Sはサンダース中佐、Nは新妻中佐、Tは田中少佐である。ヰはイに統一した。)
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                      「田中淳雄少佐尋問録」1945年10月30日)

 T・S問答要旨

昭和20年10月30日 16:00ー18:00
於京都 都ホテル(前半S私室 後半ロビー)
参列者  S中佐 Y中尉(ヤング)
       N中佐 T少佐

 N、Tヲ連レテ来マシタ
 S、御苦労デス 先ヅ話ノ初メニ当リコレハ戦争犯罪ヲ云々スルモノデ無ク飽ク迄科学者トシテ話シ度イ
 N、茲ニ昨夜T少佐ガ作業シタ記録ガアル故コレニヨリ話ヲススメ度イ コレハ何レ英文翻訳ノ上オ渡シスル
 S、ソノヤウニオ願ヒシ度イ
 T、話ノ順序ハ(一)経歴(二)今回ノ脱出経路(三)部隊ニ於ケル仕事(1)ペスト防疫実施(2)ペスト防疫予備工作トシテノ満州
   国内各地ノ鼠及鼠蚤ノ調査(3)昆虫駆除剤ノ研究(4)蚤ノ増殖法ニ就テ 説明スル

(一)経歴
  (一部略)
  1937、4月 京大農学部卒業〔昆虫学専攻)
  1941、4月 京大医学部卒業 軍医中尉任官
  1942、1月 石井部隊附ニ命課 哈爾浜に到着
  1942、3月以降 第2部(防疫の実施)ニテ主トシテ「ペスト」防疫ニ従事ス

(二)今回ノ脱出経路  

  (略)

(三)部隊ニ於ケル仕事
 部隊ノ仕事ハ秘密主義デ防諜ガ喧シイノデ自分ノ仕事ダケシカ知ラヌ 全般ノ事ハ部隊長ト増田大佐ダケガ承知デ我々下ノモノハ自分ノ 与エラレタル任務 受持ノ僅カノ部分シカ知ラナイ
 尚各資料モ皆部隊ニ残シタノデ詳細ハ不明デアルガ私ノ覚エテ居ル事ハ何デモ答ヘル
 私ハ昆虫ノ媒介スル疾病ノ防疫ヲ命ゼラレ発疹「チフス」ノ虱、「マラリア」ノ蚊、流行性出血熱ノ「ダニ」等ノ駆除ヲ命ゼラレタガ主ナルモノハ「ペスト」防疫デアッタ
(1)ペスト防疫実施
 満州ニハ従来「ペスト」常在地アリ 毎年数十乃至数百ノ患者ノ発生ヲ見ル 該ペストノ軍隊ヘノ侵入防止ノ為地方機関ト
 協力 ペスト防疫ニ従事セリ ソノ実施要領ハ
 (イ)、捕鼠殺鼠ノ励行 各戸ヨリ強制的ニ鼠ノ供出並買上実施(1944年2千万頭供出)
 (ロ)、防鼠工事ノ実施並指導 防鼠溝 清潔整頓
 (ハ)、予防接種、「ペスト」常在地附近部隊ニ5月6月2回実施
     「ペストインムノーゲン」(倉内)生菌ワクチン(春日)
 (ニ)、「ペスト」発生時ハ現地ニ出張シ右3方法ヲ強化スルト共ニ交通遮断、検疫、検診、時ニハ家屋ノ焼却、被服類ノ消毒
     等ヲ実施ス
(2)「ペスト」防疫ノ予備工作トシテ満州国内鼠及鼠蚤ノ分布並ニ其ノ季節的消長調査
 (イ)齧歯類、約25種類生棲スルモ ソノ中「ペスト」ニ関係深キハ
    溝鼠 最モ多ク82%ニシテ全満ニ広ク分布ス
       繁殖期 4月5月
    家鼠 新京以南ノ南満地方ニ多シ
    「ハタリス」 内蒙古砂漠地方ニ多シ
    「タルバカン」「ホロンバイル」地方 現在ハ少数
 (ロ)付着蚤 約42種類アルモ其ノ中「ペスト」ト関係深キモノ左ノ如シ
    「ケオプス」 P常在地ニ特ニ多ク国境附近ニハ全ク見ラレナイ、P常在地域内ノ町村ノ「ケオプス」指数は大体1.0ナリ
    (例ヘバ白城子1.5 通遼3.0 鄭家屯3.2 農安2.5 新京1.9等)
    「ケオプス」ハ冬期少ナク4月ヨリ漸増シ8月最高トナリ11月以降ニハ殆ンド見ラレズ ソノ消長ハP流行ト一致スル
    「ヤマト」
    「ヨーロッパ」 共ニ北満ニ多ク耐寒性強キ種類
    「ビデンタ」 絹毛鼠特有蚤
    「テスクオールム」「ハタリス」特有蚤
    「セランティビー」「タルバカン」特有蚤
    自然状態ニ於テハ「ケオプス」以外ノ種類ノ蚤ニP菌ヲ保菌セルヲ認メザリキ
    従ッテP防疫ニハ特ニ「ケオプス」ノ撲滅ニ重点ヲ指向セリ
(3) 昆虫ノ駆除剤ノ研究
   種々実施セルモ除虫菊「ピレトリン」等以外ニ最近有効ナルモノトシテ白樺ノ樹皮ヨリ有効成分ノ抽出ニ成功シ白樺油、
   白樺油クリーム製セリ 白樺油ナレバ30分間 白樺油クリームナレバ2~3時間有効ナリ 但シ悪臭ノ為余リ喜バレズ   
(4) 蚤ノ増殖法ノ研究
   1943年(昭和18年)P防疫ノ余暇ニ「ケオプス」ノ増殖ヲ命ゼラレタリ
(イ)、蚤増殖方法
    アブデルハルゼン氏法(1931年)ニ倣ッテ実施(原著ヲ供覧ス)其ノ中改良セル点ハ(一)、硝子瓶ノ代リニ石油缶
   (二)、金網式固鼠器(三)、蚤床ニ砂、穀物モ用フルコト可能「フスマ」ヲ混ズレバ可(四)、蚤床量ハ一缶一立
 (ロ)、蚤飼育至適温湿度
    各種文献記載ノ如ク25ー30度、70-80%
 (ハ)、集蚤 反趨光性ノ利用 西洋バス利用
 (ニ)、給血源 白鼠ヲ最良トス 廿日鼠、「モルモット」、犬、猫、山羊、デハ失敗セリ
 (ホ)、隘路
    蚤ノ生産ニハ絶対ニ白鼠ヲ必要トス 白鼠ハ北満ニテハ如何ニスルモ自活不可能デ内地ヨリノ補給ヲ必要トス 白鼠ノ
   固鼠器内ノ生命ハ約1週間ナル故 1ヶ月ニ4回取換ヲ要ス
   而モ1ヶ月後ニ於ケル1缶ヨリノ獲得量ハ最良条件ニテ僅ニ0.5瓦(1cc 約1000匹)ニシテ大東亜戦下空襲等ニヨリ内地
   ヨリノ白鼠ノ輸送極メテ困難且ツ長時日ヲ要シ 他面食糧不足ニヨリ輸送間ノ損耗約50%ナリ 
   従ッテ10瓦ノ蚤生産ニ内地ヨリノ白    鼠160頭
       100瓦ノ蚤生産ニ内地ヨリノ白    1600頭
   ヲ要スル状況ニシテ蚤ノ大量生産ヲ命ゼラレタルモ到底不可能ナル事デアッタ

 S、何故ニ「ケオプス」の増殖ヲ命ゼラレタカ ソノ目的ハ
 T、コレハ命ゼラレタ、ソノ目的ハ上司ヨリ話サレナカッタガ自分ハ科学者トシテ大体ソノ目的ヲ想像シテ居タ

   (略)

 S、生産シタ蚤ハドウシタカ
 M、1週間モスレバ全部死ンデシマッタ
 S、P菌ヲ食ハセタ事ハナイカ
 M、ソレハ既ニ印度P調査委員会ヤ米国エスケー等ガ実施シテイル所デ出来ル自信ハモッテイルガ自分ハ専門外デアルカラ
   ヤラナカッタ

   (略)

 S、Pノ攻撃方法ハドンナノガアルカ
 M、蚤ノ大量生産ニ成功シナカッタノデ攻撃ノ方法ハ実際ヤル迄ニハ到ラナカッタ
 S、「イデー」トシテハ
 M、次ノヤウナ方法ガ考ヘラレル(一)スパイニ依ル手撒キ(二)飛行機ニヨル撒布(三)「ウジ」弾ニ依ル運用(四)鼠ニ蚤ヲ附
    ケテ投下 等
 S、「ウジ」弾ヲ知ッテイルカ
 M、「ウジ」弾ヲ知ッテイルガソノ他ノ弾ハ知ラヌ
 S、弾及其他ノ野外実験ニ就テ
 M、弾ニヨル試験ハ部隊附近デ飛行機ガ飛ビ弾ヲ投下シテ爆音ヲ聞クノデヤッテイル事ハ知ッテイルガソノ結果ハ知ラナイ
 S、菌液ノ撒布ハ
 M、飛行機ノ音ノミデ爆発音ガ聞エヌカラ室内ニ居ル我々ハ何モ知ラナイ

   (以下略)


------------731部隊 新妻清一中佐宛 増田知貞大佐書簡-------------

 下記は、「田中淳雄少佐尋問録」読んだ増田知貞大佐の新妻清一中佐宛書簡である。攻撃用細菌兵器、すなわち「Px」(ペ
ストノミ) の予算を秘匿しなければ、真実が暴露されてしまうという不安を伝えている。「731免責の系譜」太田昌克(日本評論
社)からその一部 を抜粋する。読み仮名のある古めかしい表現の一部は括弧書きにした。(Sはサンダース中佐)
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               「増田知貞大佐書簡」(1945年11月9日、書き下ろし文)

   新妻中佐殿                                            11月9日1900
                                                           於秋元村
                                                               増田大佐
拝復
唯今伝書使来着 貴翰拝見仕候
京都に於て田中少佐Sに面会致候由、会見録も拝見仕候 xヲ出せしは余り面白からずと愚考致候得共(そうらえども) 軈
て(やがて)ハ少しづつ覆面が落ちてゆくのではないかと心配致居候、新人への面会は必ず何事かが暴露してゆく結果と可
相成候(あいなるべくそうろう)
但 田中少佐ハ東京小生宅にて小生等の会見録のノートを取らせし男に候間 これ位にて済みたるものと存申候
  尚内藤中佐の意見ハ○タと○ホ(同書の中では○の中にタと○の中にホ)以外ハ一切を積極的に開陳すべし と云ふ持
論に有之候間 御参考迄に申上置候
扨(さて) 御尋の攻撃防御の予算関係に有之候へども予算方面ハ実ハ小生甚研究不充分にて 特に最近のものは全く手
をつけ居不申(をりもうさず)、多分未(まだ)御地に大田大佐滞在致居候事と存じ 何卒 具体的数字ハ同大佐宛御下問被
下(くだされ)候様願上(ねがいあげ)候
(大田大佐住所 略)
尚 原則論としてハ、日本軍ハ攻撃を企図せし事無之故 予算に於いても攻撃用として予算を組し事ハ無之候筈に御座候は
ずや。唯々攻撃研究として予算を組みし事ハ可有之(これあるべく)候はんも、これハ731部隊の使用範囲内に止り 部隊令
達研究費予算内の極一少部分に過ぎず と云ふ事に可相成候(小生等の説明を基礎として論ず)
実際問題として731にて攻撃として使用仕候予算の大部分はPx関係にて、之ハ事実上の数字ハ秘匿して置かざれば、当方
の攻撃意図が暴露致候事と可相成候、
右甚(はなはだ)不満足なる御回答より出来不申 申訳御座無候得共 予算関係に触居不申(ふれをりもうさず)候故を以て
御容謝(ママ)被下度願上候(尚 大田大佐、若(もし)不在ならば、同様石山宅に留守部付佐藤主計少佐居るかも不知(し
れず) 御参考迄に)

以下略


----------ハバロフスク裁判:川島清(第四部細菌製造部長)の証言----------

 戦時中、満州で活動していた731部隊および第100部隊(軍馬防疫廠)の主力は、敗戦とともにいちはやく細菌戦の証拠隠滅を図り、日本に逃げ帰ったが、両部隊を離れていた者や支部で勤務していた関係者が逃げ遅れソ連の捕虜となった。そして、細菌戦に関わった12名の関係者が、ソ連のハバロフスクで裁判にかけられたのである。被告は山田乙三(関東軍司令官)、梶塚隆二(関東軍軍医部長)、高橋隆篤(関東軍獣医部長)、佐藤俊二(関東軍第五軍軍医部長)、三友一男(100部隊員)、菊池則光(海林支部員)、久留島裕司(林口支部員)、川島清(731部隊第四部細菌製造部長)、柄沢十三夫(第四部細菌製造第一班班長)、西俊英(教育部長兼孫呉支部長)、尾上正男(海林支部長)などであるという。(死去した2名の被告を除いて、上記裁判の被告全員が1956年12月までに日本に帰国しているという)
 この裁判で、日本軍による細菌戦に関する多くの事実が明らかになった。公判記録は1950年に日本語版、中国語版、英語版等でも出版されたというが、当初、人体実験などの研究成果を独占入手していたアメリカが、この裁判を、日本人のソ連抑留問題から目を逸らすための「でっち上げ」であるとの声明を出したりしたため、日本では正当に評価されなかったようである。しかしながら、研究が進むとともに、他の関連文書(アメリカの調査報告書を含む)や関係者の証言との整合性が確認され、徐々にその重要性が認められてきたようである。
 この記録は「細菌戦用兵器ノ準備及ビ使用ノ廉デ起訴サレタ元日本軍軍人ノ事件ニ関スル公判書類」という表題で、738ページにのぼる大冊であるという。
 その中から川島清(731部隊第四部細菌製造部長)の証言の一部を抜粋する。「戦争と疫病ー731部隊のもたらしたもの」松村高夫、解学詩、郭洪茂、李力、江田いづみ、江田憲治(本の友社)からの抜粋である。
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 1949年12月25日の公判ので川島清(第四部細菌製造部長)は、1941年の夏に731部隊の安達(アンダー)の実験場で実験の責任指導者大田澄のもとで、15人の「被実験者」を柱に縛りつけ、飛行機からペストノミを充填した爆弾を投下し実験したことを述べたのちに、「731部隊ノ派遣隊ガ中国中部ニ於ケル中国軍ニ対シテ兵器トシテ殺人細菌ヲ使用シタコトガ1941年ニ1度、1942年ニモ1度アリマシタ」と述べ、次のような証言をした。

                         川島清(第四部細菌製造部長)公判証言

  第1回目ハ、私ガ述ベマシタ様ニ1941年ノ夏デシタ。第二部長太田大佐ガ何カノ拍子ニ中国中部ニ行クト語リ、其ノ時私ニ別レヲ告ゲマシタ。帰ッテ来テ間モ無ク、彼ハ、私ニ中国中部洞庭湖近辺ニアル常徳市附近一帯ニ飛行機カラ中国人ニ対シテペスト蚤ヲ投下シタ事ニツイテ語りマシタ。其様ニシテ、彼ガ述ベタ様ニ、細菌攻撃ガ行ワレタノデアリマス。其ノ後太田大佐ハ、私ノ臨席ノ下ニ第731部隊長石井ニ、常徳市附近一帯ニ第731部隊派遣隊ガ飛行機カラペスト蚤ヲ投下シタ事及ビ此ノ結果ペスト伝染病ガ発生シ、若干ノペスト患者ガ出タトイウ事ニ関シテ報告シマシタガ、サテ其ノ数ガドノ位カハ私ハシリマセン。

 (問)此ノ派遣隊ニ第731部隊ノ勤務員ハ何人位参加シタカ?
 (答)40人─50人位デス。
 (問)1941年ニ於ケル此ノ派遣当時ノペスト菌ニヨル地域ノ汚染方法如何?
 (答)ペスト蚤ヲ非常ナ高度カラ飛行機デ投下スル方法デアリマス。
 (問)コレハ細菌爆弾ノ投下ニヨッテ行ナワレタノカ、ソレトモ飛行機カラ蚤ヲ撒布ス
   ル方法ニヨッテカ?
 (答)撒布ニヨッテデアリマス。 


---------------ハバロフスク裁判 川島清軍医少将の証言-------------

 1941年6月、731部隊の石井部隊長は、第2部長太田大佐にペストノミを充填した石井式陶器製爆弾の実験を命じた。川島軍医少将はその実験に立ち会った。そして、その時の様子をハバロフスク裁判で下記のように陳述しているのである。「消えた細菌戦部隊」常石敬一(海鳴社)よりの抜粋である。また、下段はペストノミの生産についての陳述である。
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 コノ実験ニ使用サレタ15名ノ被験者ハ部隊構内ノ監獄カラ届ケラレ、実験ガ行ワレテイタ地域デ特別ニ地中ニ埋メタ柱ニ縛リツケラレテイマシタ。……平房駅カラ特別飛行機ガ飛来シマシタ。飛行機ハ実験場地域上空ヲ飛行シ、実験場ノ上空ニキタ時20個バカリノ爆弾ヲ投下シマシタガ、爆弾ハ地上100乃至200米ノ所ニ達セヌ内ニ炸裂シ、中カラ爆弾ニ充填サレテイタペスト蚤ガ飛出シマシタ。此等ノペスト蚤ハ全地域ニ蔓延シマシタ
 爆弾投下ガ行ワレタ後、蚤ガ蔓延シ、被実験者ヲ感染サセルコトガ出来ル為、相当ノ時間待チマシタ。其ノ後コレラノ人間ヲ消毒シテ、飛行機デ平房駅ノ部隊構内監獄ニ送リ、ソコデコレラノ人間ガペストニ感染シタカドウカヲ明ラカニスルタメ彼等に監視ガツケラレマシタ。
 ……実験ハ好結果ヲ生マズ、是レハ高温、即チ非常ナ暑サニ起因スルモノデ、ソノ為蚤ノ作用ガ非常ニ弱カッタトイウコトデアリマス。
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 蚤ノ大量繁殖ノ為、第2部ニハ特別室ガ4ツアリマシタ。室温ハ一定温度、即チ摂氏30度ニ保持サレテイマシタ。蚤ノ繁殖ニハ高サ30センチ、幅50センチノ金属製ノ罐ガ使用サレ、蚤ノ居場所トシテ、此ノ罐ニモミガラヲ撒キマシタ。此ノ様ナ準備ガ終リマスト、先ズ罐ニ若干ノ蚤ヲ入レ、飼料トシテ白鼠ヲ入レ、此ノ白鼠ハ蚤ニ危害ヲ加エナイ様ニ縛リ付ケラレテイマシタ。罐ノ中ハ常ニ30度ノ温度ガ保持サレテイマシタ。



-------------731部隊 ”ペストノミ”と”白鼠”飼育農家-----------------

 新妻ファイルの「田中淳雄少佐尋問録」には「蚤ノ生産ニハ絶対ニ白鼠ヲ必要トス 白鼠ハ北満ニテハ如何ニスルモ自活不可能デ内地ヨリノ補給ヲ必要トス 白鼠ノ固鼠器内ノ生命ハ約1週間ナル故 1ヶ月ニ4回取換ヲ要ス」という一文がある。ペストノミ増産のためにネズミ不足に陥ったという記録である。まさにその時、内地(日本)でネズミの生産を飛躍的に拡大していたところがあった。埼玉県の春日部と庄和を中心とするネズミ生産地である。ペストノミ増産のために「絶対ニ白鼠ヲ必要トス」というのであるが、「白鼠ハ北満ニテハ如何ニスルモ自活不可能」ということで、ネズミ生産地が増産体制の入ったのである。そのネズミ生産地の飼育農家を中心に聞き取り調査を行い、731部隊との関係を明らかにしたのが、埼玉県立庄和高校地理歴史研究部の生徒達と遠藤光司教諭である。「高校生が追うネズミ村と731部隊」<教育史料出版会>から、ところどころ何カ所か抜粋したい。
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                       高校生が追うネズミ村と731部隊   
                                  埼玉県立庄和高校地理歴史研究部+遠藤光司(同校教諭)
・・・
 ところで、増産計画の中心は埼玉県の春日部、庄和などの古くからのネズミ生産地だった。ネズミは内地から満州へ空輸されていたのだ。私たちの町では戦時中、どこの家でもネズミを飼っていた。私の父も、生徒の家族も飼育者だった。飼育のノウハウを知っている地域でなければ、この急場は凌げなかった。731部隊の「ネズミ不足」に応えて、私たちの町のネズミ生産は爆発的に拡大する。それは、満州がネズミ取りに明け暮れたのと同時期のできごとだった。

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 ネズミ飼育は特殊な産業で、生産地は埼玉と岐阜くらい。戦時期には埼玉が全国の7割を占めていた。ミカン箱程度の飼育箱にオス一匹、メス五匹を入れ繁殖させる。「ネズミ算式」に増える子ネズミを、「ネズミ屋」と呼ばれる仲買人が買いにくる。貧しい小作人の多かったこの地域では、ネズミ飼育は副業として歓迎された。
 
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 飼育箱は、昭和初期まではミカン箱だったが、専門に作る箱職人が現れた。50センチほどの木箱で、側面の一つだけが編張りになっている。飼育の規模は、5箱程度が普通。1軒1箱の家から、軒下すべてを使い100箱飼った家まで千差万別だ。なかには、専業になり500箱飼った家もある。「100箱飼えば蔵が建つ」と言われたが、実際はそれほど儲からなかった。
 飼育はおもに年寄りの仕事だった。戦後50年がたち、飼育経験者が亡くなっている場合が多かった。子どもがペット代わりに飼う例もある。子ども同士でネズミが売買され、なかにはネズミ屋とつるんで儲ける子どももいた。ネズミを売った金を貯めて自転車を買った子どもまでいたという。しかしそういう子どもは例外で、収入は小遣い程度だったという人がほとんどである。戦時中でラットが1円、マウスが10銭ぐらい。副業として特別割がよいわけではない。
 餌はコザキを与える。コザキとは実らなかった屑米である。農家にとってはただだ同然のもので、餌代はかからなかった。コザキ以外には野菜の屑を入れておけば十分だった。床どこにはワラを敷き、ネズミはそのワラで巣を作った。ネズミは尿が濃い生物で、ワラを変えるときの臭さがこの副業のつらいところである。

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 病気も悩みの種だった。ネズミはすぐ風邪をひく。病気が流行るとあっというまに全滅した。ネズミのようすに注意するのが大変だった。餌をあげないと子ネズミは食べられてしまう。ネズミ同士の「いじめ」もあった。夏は暑さで死に、冬は寒さで死んだ。油断しているあいだに逃げられた(庄和町には、野生化した白ネズミが生息している)。……


 国立国会図書館憲政資料室には、アメリカから返還された膨大なGHQ文書がマイクロフィルムになっている。当時は軍需工場の調査が目的で、1944年夏、私はここに通っていた。18歳未満お断り、といういかがわしい場所と同じ入場制限があるため、生徒は入れないのだ。すでに埼玉県が目録を作っているので、それに従い県関係のGHQ文書をピックアップしていくその過程で、GHQによるネズミ生産者の調査報告書を偶然発見したのである。
 この文書には、飼育農家が6000軒もあったこと、集荷ルートから中間業者の利益、生産量から納入先まで詳しく書かれていた。地域のネズミ生産の概略がつかめる内容である。  

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 本書で骨格をなす情報は、そのほとんどがネズミ屋によるものである。農民アンケートはたしかに膨大な量に達したが、基本的には意識調査だった。飼育農家が知っているのは近隣のようすだけで、ネズミ生産全体のシステムについては知らなかった。飼育農家が直接会うにはネズミ屋だけで、ネズミがその先どうなるのかについては興味もなかった。
 ネズミ屋は違った。毎日飼育農家をまわる彼らは、飼育状況を把握していた。また、集荷したネズミはネズミ屋が直接、軍や研究所に納めた。当然、軍や研究所の人々と知り合いになり、そこでさまざまな情報を得た。内容は飼育方法や値段にとどまらず、今後の実験動物がどう進み、何が要求されるのか、将来の展望にも及んだ。ネズミの量と質を高めるため、軍や研究所はネズミ屋に情報を与える必要があった。彼らは頻繁に会い、強いつながりを形成していった。

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 ネズミ屋の小規模な世界を一変させたのが、田中一郎の登場である。田中は短期間にほとんどのネズミ屋を傘下に組み込み、戦時期にはほぼ独占状態を形成した。田中の組織化により、この地域のネズミの生産は飛躍的に増大。満州で731部隊が大量のネズミを「消費」していたとき、埼玉では田中がネズミ産業の活況を演出していた。

 当時の新聞にこんな記事がある(『埼玉新聞』1943年12月10日付)
 「粕壁(春日部)で小動物増産協議会
 陸軍軍医学校特定埼玉県農会指定の医科学実験動物生産実行組合主催の小動物増産協議会は、9日午後1時より粕壁町東武座において開会、国民儀礼後、田中一郎組合長の挨拶に続いて協議に移り、小動物増産が決戦下重要使命を帯ぶる為、これが増産に関する協議をなし、県官軍側来賓の訓示並に講演あり、終わって小動物増産に邁進しつつある組合員に対する慰労会に移り、講談浪花節漫才等の余興を開催した」
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 様々な苦難に直面しつつも調査を続け成長していく高校生の姿が随所に記録されている。


--------------731兄弟部隊 甲1855部隊 栄1644部隊--------------   

 「高校生が追うネズミ村と731部隊」によると、731部隊には4つの細菌戦兄弟部隊があり、それぞれの部隊員から細菌戦実行に関わる様々な証言を得ているという。

甲1855部隊
 その一つが甲1855部隊である。北京には1855部隊の施設が三つあった。
 一つは1939年、天壇行園の南西に設置された西村英二陸軍軍医大佐を隊長とする本部および司令部で、13もの出張所を持っていたという。ネズミの飼育舎は4列の舎屋があり、70室余りの部屋があった。そして、どの部屋でも数百匹から千匹ものネズミの飼育が可能であったというから大変な規模である。731部隊と同じように、内地(日本)からネズミを調達し、ペストノミを大量生産していたというのである。
 二つ目は静生生物調査所。ここは中国最大の生物研究機関だったが、1941年1855部隊によって占拠され、第2分遣隊が置かれた。ここではノミの大量生産をやっていた。
 三つめは北京協和病院。ここも接収され第一分遣隊が置かれた。ここでは人体実験が行われていたという。
 「高校生が追うネズミ村と731部隊」埼玉県立庄和高校地理歴史研究部+遠藤光司(教育資料出版会)には1855部隊で働いたとい う伊藤影明さんの証言が紹介されているので、証言を含めたその一部を抜粋する。
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                       1855部隊員の証言 

 伊藤さんはこの部隊でノミの飼育をしていた。「ノミを飼育するためにネズミを飼う。フンドシ一つになってネズミに餌をやる仕事をしていた。馬鹿だってできるよ」と語る。19室800個近い石油缶を担当した。ノミに血を吸わせるためにネズミを入れる毎日。「人間習うより慣れろでしだいにノミに愛着を感じるようになった。44年から急に増産が叫ばれ、5人だった飼育係が50人になる。一時は将校までも裸になって飼育に当たったほどだ」。その中には、ペスト感染してしまった伊藤さんの同期生もいた。埼玉でも急速なネズミ増産が始まるころである。
 1945年2月、伊藤さんは「マルタ」を見た。静生生物調査所の3階が留置所として使われ、伊藤さんはその留置所を覗き穴から盗み見た。覗いたとき「マルタ」と目があった。目だけがギョロッとしていて、いかにもうらめしそうだった。1855部隊では静生生物調査所(第二分遣隊)で「マルタ」にペスト菌を打ち、北京協和病院(第一分遣隊)で生体解剖した。伊藤さんが見たのは、すでにペスト菌を打たれ、北京協和病院へ運ばれる直前の「マルタ」だった。「その形相が忘れられない」と伊藤さんは苦しむ。この証言からは、1855部隊も大量のネズミを消費し、ペストノミを生産し、人体実験をしていたことが分かる。 
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栄1644部隊
 南京城内にあった栄1644部隊は「多摩部隊」とも呼ばれ、731部隊とともに細菌戦実行部隊として知られているが、「高校生が追うネズミ村と731部隊」の著者、埼玉県立庄和高校地理歴史研究部の生徒達と遠藤光司教諭は、その部隊員であったという小沢武雄さんと小沢さんの同期生だったEさんの証言を得て,その内容を紹介している。下記はその一部である。
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 ……その後衛生兵教育に入ると、小沢さんは細菌戦攻撃を2回命令される。
 1回目はその年の8月頃だった。5人ずつ選抜され、2機のの飛行機に分乗した。1機は離陸に失敗、小沢さんら5人だけが南京から南 西方面に40里(約150キロメートル)ほど飛んだ。飛行機は敵地の飛行場に着陸した。すでに日本軍の砲撃で、敵は陣地から撤退していた。戻ってくる敵兵を狙って、敵陣にペストノミをばらまくのが5人の任務だった。
 ペストノミはサイダービンに入れ、コルクで蓋をした。ビンはノミでいっぱいだった。小沢さんはそのビンを腰に15本ぶらさげ、さらに手に抱えられるだけ持ち、敵地に乗り込んだ。足にゲートルを巻いているものの、特別な装備はなく、手袋は軍手だった。予防接種もしていない。ノミに食われれば自分も死ぬ。ビンの蓋を開け、軒下にノミをばらまいた。無我夢中だった。作業を終えると、空きビンを土中に埋め、5人は集結した。行きは飛行機だが、帰りは歩いて戻る計画だ。陣地に戻った中国の斥候兵に見つかり、機銃を浴びた。九死に一 生をを得、南京に向かって炎天下を10日間歩いた。途中で病気になったが、別部隊に救われた。
 2回目の命令はその1ヶ月後だった。チャンチューカメ(紹興酒の甕)にコレラ、ペスト菌液を詰める。1ビンに1斗ぐらい入る。それを15個トラックに積み、南京城外の村々の井戸に甕ごと投げ込む。1つの井戸に1ビンずつだった。作業は秘密なので小隊長と小沢さん、それにもう1人の3人で行った。細菌戦の典型的な謀略活動である。 

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 小沢さんの同期生だった1644部隊員Eさんが、同じ埼玉県の加須市に住んでいる。Eさんも1943年、北支など他の細菌戦部隊と「マラリア工作隊」という特殊部隊に所属し、パラオ島に向かった経験がある。電話取材だけだったが、Eさんは、1644部隊のネズミ飼育班に属していた。1942年、ネズミの「増殖実験」を担当し、120匹ほどのラットを飼育する。ネズミそのものを増やすのが目的で、トウモロコシとコウリャンが餌だった。部隊全体でラットが何匹いたかは分からない。ラットは1644部隊の資材調達官が直接内地に行き、飛行機で運んできた。それを「動物受領」と言っており、モルモットなども運んだ。月1回くらいのペースだった。……
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--------------731兄弟部隊 波8604部隊 岡9420部隊-------------

 「高校生が追うネズミ村と731部隊」によると、731部隊には4つの細菌戦兄弟部隊があり、それぞれの部隊員から細菌戦実行に関わる様々な証言を得ているという。ここで取り上げるのは、広州の中山大学に本部を置いた波8604部隊とシンガポールの岡9420部隊である。
波8604部隊
 「高校生が追うネズミ村と731部隊」の著者、埼玉県立庄和高校地理歴史研究部の生徒達と遠藤光司教諭は、波8604部隊第1課細菌研究班に所属していた丸山茂さんからも大量の資料を受け取るとともに証言を得ている。丸山さんの証言は8604部隊の大量殺戮事件が中心であるが、ラット50万匹飼育の証言もあったという。下記はその一部である。下段は第4課病理班に所属し病理解剖を任務としていたが、後にノミの生産係になっという井上睦夫さんの証言である。
丸山茂さんの証言------------------------------------------
 大量殺戮事件のあらすじはこうである。1942年、日本軍が香港攻略をしたとき、香港は中国からの難民で溢れ、人口は200万人を超えていた。日本軍はその避難民を強制的に香港から追い出し、香港の人口を半分にした。ここに膨大な香港避難民が誕生した。殺戮にあったのは、この難民のうち水路で広州に向かった人々である。
 難民は広州市に入れなかった。広州手前にある南石頭の難民収容所に強制収容される。丸山さんの同僚の的場守嘉が、東京の陸軍軍医学校からサルモネラ菌を取り寄せ、それをお粥に混ぜ難民全員に飲ませた。毎日運びきれないほどの難民が死に、その数は2000人に及んだ。サルモネラ菌という聞き慣れない細菌は、8604部隊長佐藤俊二の得意分野で、佐藤は石井四郎と連名で、この細菌が原因の中毒事件についての論文を発表している。約3年間収容所にいた馮奇さんは「あのとき香港難民がたくさん船で来た。みんな嘔吐や下痢で死んだが原因不明だった」と言う。当時収容所ではこんな歌が流行った。「篭の鳥は高く飛べない。味付け粥を食わなきゃすきっ腹。食えば食ったで腹痛み。病気になっても薬はない。死んだら最後、骨まで溶かす池に放り込まれる。」
 死んだ難民は化骨池(かこついけ)に放り込まれる。収容所には横20メートル、縦と高さが5メートルのコンクリート製の池が二つ並んでいた。死体はその化骨池に運ばれ科学剤により溶かされた。多いときには毎日50人以上が処理される。化骨池は死体を効率よく処理するための8604部隊の発明だったが、このときはそれでも処理しきれず埋められるものもあった。現在は広州製紙工場となった同地から、1200体を超える人骨が出ている。

・・・

 この大量殺戮を実行したのは丸山さんの友人の的場守嘉だった。丸山さんはたまたま、的場が作った難民への細菌投与を示すグラフを覗いたのがきっかけで、的場からすべてを聞くことになる。的場は丸山さんに「部隊長に知れたら、おもえも無事にすむまい。一生口外するな」と念を押した。事実この後、的場だけがニューギニアの激戦地に送られ、死亡している。「部隊長による口封じだった」と丸山さんは語る。この部隊長の佐藤俊二は戦後ハバロフスク裁判にかけられる。佐藤は石井四郎の犯罪には言及したが、香港難民殺戮と化骨池については黙っていた。証言をして丸山さんは「的場の遺言ををみんなに伝えることができた」と語る。
 丸山さんの証言を機にこの事件の調査が始まり、中国では沙東迅が『日本軍の広東における細菌戦調査報告書』をまとめた。……
井上睦夫さんの証言------------------------------------------
 井上さんの任務は死体の病理解剖だった。軍医の助手として、毎日一,二体を解剖した。死体は一日に四,五体来た。解剖が追いつかず冷蔵庫に保管した。解剖は一体に3時間かかり、1日に三体がやっとだった。
 井上さんの担当は頭部だった。軍医は内臓を取り出した。舌の根元を引っ張ると、……

・・・

 1944年、井上さんはペストノミ生産の係となり、温度調節を担当した。着任するとすぐ、増産命令が出され部隊は活気づいた。ペストノミ10キロ必要というなら、15キロ作ってやろうという勢いだった。米軍が中国南海岸に上陸したら、このペストノミ作戦が威力を発揮するだろう、と信じていた。仕事は大きくノミとネズミに分かれる。日本人の担当は20人近くに増員、他に中国人クーリーを50人雇った。クーリーはネズミの世話だけで、ノミの飼育室には入れなかった。
 中山歯科大学と東門のあいだに巨大なネズミ飼育場があった。コンクリート2階建ての、長さ30間(約50メートル)もある学校のような建物が5棟並んでいた。これがすべてラットの飼育場だった。その棟の中には棚が10段あり、すべての棚に80センチほどの金網の飼育箱がギッシリ積まれていた。飼育中のネズミは、ちょっとした病気でも報告し、大切にされていた。「50万匹は多すぎる。1桁違うのでは」と思っていた私は、この話を聞き「これは本当かも」と身を乗り出した。
 ネズミはすべてラットで白ネズミだった。1943年井上さんが部隊に配属されたころ、ネズミは内地から送られてきた。港の近くの荷物省へ大量のラットが輸送された。それ以前からも送られていたという話だったが、1944年に制空権、制海権を失うと来なくなった。「それがなければずっと来ていただろう」と井上さんは語る。そのネズミもおそらく埼玉のネズミだろう。だがこの部隊については、埼玉のネズミがなくても、すでに自給による生産体制が確立していたようだ。
 ネズミ飼育場の一角にペストノミの培養室があった。レンガ造りの培養室は奇妙な建物だ。入るとまわりはすべて棚で、そこに100個以上の石油缶が並んでいる。そのなかでペストノミが生産された。床には一面に水が引かれ、中央のストーブで50センチ先も見えないほど、湯気が上がっている。危険な作業にもかかわらず、井上さんは雨合羽に長靴、軍手2枚をしただけで作業をした。
 石油缶のなかにおが屑を敷く。そこに小さな篭に入れられた、身動きのできないラットを入れる。そしてラットの上にスポイトからノミを振りかける。ノミがネズミにたかるように、ネズミには乾燥血液を振りかけておく。ラットは1週間ほどでミイラ状になり、次のと取り替えた。石油缶の横には12個の大きなビンがあった。これは石油缶を洗うとき、一時的にノミを保存する容器である。ノミに刺されたら最後なので、石油缶はホルマリンをかけてから慎重に洗った。湿気の中でノミはどんどん繁殖し、最終的には月10キログラムの生産量に達した。ここでは、ネズミにペスト菌を注射する「毒化作業」はとくになく、ペストは飼育過程で自然に伝染していくものとされている。
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岡9420部隊
 この部隊はシンガポール近郊の、マレー半島南端ジョホールバルの北東約13キロのタンポイにある精神病院「プルマイ病院」にあり、ノミの養殖場を始め、ネズミの飼育施設などもほとんど当時のまま残っているという。以下9420部隊に配属され、『ノミと鼠とペスト菌を見てきた話』を自費出版したという竹花香逸氏の証言を中心とする部分を「高校生が追うネズミ村と731部隊」埼玉県立庄和高校地理歴史研究部+遠藤光司(教育史料出版会)から抜粋する。
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 ……9420部隊は1942年、五つの細菌戦部隊の最後に編成された。前章で紹介した『真田日記』では、各部隊のノミの分担比率 を「満州53%、南方14%、南支5%、北支3%、中支1.5%、内地12%」としてある。ここでは、50万匹のネズミを有していた南支(8604部隊)の5%より、この南方(9420部隊)の「14%」のほうが大きな数字になっている。9420部隊にも大量のネズミがいただろうと推測される。
 高島氏を現地調査に踏み切らせるきっかけとなった、もう1人の証言者がいる。『ノミと鼠とペスト菌を見てきた話』を自費出版した竹花香逸氏である。竹花氏は1943年6月、9420部隊に配属、敗戦までペストノミの生産に従事する。著書はその体験をまとめたものだが、9420部隊でのネズミとノミの飼育状況を語る、私たちにとっても興味深い証言だった。この本で、竹花氏はこう書いている。
 「中安部隊はノミの養殖と、それらに関わる研究と仕事をする部隊である。ノミの飼育方法は、日光の直射をさけ、病棟のもとより舗装してある地面上に、どこから集めたのかと思われる細かいゴミを、農家の籾乾しの形そのままに、幅1メートル余り、長さ5メートルほどの飼育床が数条続いている。その飼育床の適当な位置に、鼠とり器に収められた鼠がノミの飼料として配置されている。(中略)簡単な用件が終わると中安中尉は『竹花、今日はめずらしいものを見せてやる、来い』と小さな頑丈な建物の中に誘った。室に入ると中尉はその中の18リットル缶のガラスの蓋をとった。と、缶の表面近くまで詰まったノミが互いに光を嫌って中へ中へともぐりこもうとしてうごめき、一つの大きな玉となっている。私は息をこらしていたと思う。中安中尉は『どうだ、驚いたか』といいたげな顔をしていた。あの大量のノミがその後どう処理されたか知る由もない。しかし実験に使用されたことはまずあり得ない。ノミの寝床の大量の細かいゴミとノミを区分する事は難儀のように思われるであろうが、ノミの光を嫌う性質を利用した器具で、比較的容易に分離する事ができた。」
 「江本部隊の特徴は、細菌取扱の経歴の多い技術者が多く(中略)、部隊の仕事はペスト菌株の保持、菌の殖培、毒化作業、少量のワクチンの製造、免疫に関わる研究等広範囲のようであった。この隊の重要な作業は『毒化作業』である。鼠にペスト菌を注射し、発病した鼠にノミををたからせ、ノミの胃袋にペスト菌が吸入されておれば即ち細菌兵器となる。かかる作業を毒化作業と称していた。ちなみにペスト病は鼠と人間だけが罹病する。とにかく江本部隊は梅岡部隊の中枢的な存在である」
  


-------------米軍の細菌戦 国際民主法律家協会調査団の報告書------------

 731部隊の大量のデータや情報を、関係者の戦犯免責と引き換えに米軍が独占入手し、朝鮮戦争で利用し細菌をばらまいているとの指摘があったが、それを裏打ちするかのように、埼玉のネズミは米軍の406部隊へ流れるようになった。戦後一時期、ネズミ飼育農家から「引き取ってくれ」と泣きつかれたものの、ネズミの買い手がなくなり、パニックに陥っていた埼玉医科学試験動物生産組合の田中一郎(仮名)は、取引先を日本軍から米軍GHQに乗り換え、「戦後の最盛期は戦中以上だった」とネズミ飼育農家が証言するほど、ネズミ生産を戦前以上の産業に育て上げたという。また「高校生が追うネズミ村と731部隊」埼玉県立庄和高校地理歴史研究部+遠藤光司(教育史料出版会)には、下記のような具体的な状況が紹介されている。
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 ……406部隊はウェポンキャリアという大型輸送車で、毎週月曜と木曜にネズミを取りにきた。月曜と木曜の朝には406部隊の出荷に間に合わせるため、この地域の仲買人全員がネズミを持って田中のもとに集まった。ネズミ以外では、ウサギやモルモットなども搬出したので、車はいっぱいになった。406部隊の需要は年毎に増えていき、飼育農家が足らなくなるほどだった。それはまるで731部隊へ納入していたころの活況のようだった。……
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 下記は、指摘を受けて朝鮮に調査に入った国際民主法律家協会調査団の報告書である。具体的な内容(根拠となる証拠や証言者名)の部分は、第2章の2の一部以外はすべて省略したが、「資料【細菌戦】日韓関係を記録する会(晩聲社)には詳細な報告がある。
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         Ⅱ 朝鮮におけるアメリカの犯罪に関する国際民主法律家協会調査団の報告書
                                                       (1952年3月31日)  
  注釈
 
 1、本報告署は、国際民主法律家協会の権限を持った調査団によって発表された。協会の本部事務室は、ベルギー・ブリュ
   ッセル・レグランド街70番地にある。
 2、~6(略)  

  第1章

 朝鮮民主主義人民共和国政府は、朝鮮領内における敵の国際法違反にたいして抗議することを、数回、国連に要請した。
 しかし国連は、この要求を無視した。これらの申し立ては、いろいろな調査の対象となってきたが、とくに、朝鮮を訪問した
国際民主婦人連盟によって作成された1951年5月27日付の報告書で取りあつかわれた。
 この非難の内容のきわめて重大なのにかんがみ、国際民主法律家協会理事会は、1951年9月の協会ベルリン会議の
あとをついで、朝鮮におもむき、現地で、法的調査の方法によりそれらの陳述を調査する目的のもとに、おおくの国の法律
家によって構成された調査団を組織することなった。
 調査団は、つぎのようなメンバーで構成された。
   ハイリッヒ・ブランドワイネル   クラツ大学国際法教授(オーストリア)団長
   ルイジ・ガバリエル         ローマ最高裁判所弁護士(イタリア)副団長
   ジャック・ガスター         弁護士 ロンドン(イギリス)
   マルク・ジャキエー         控訴院弁護士 パリ(フランス)
   柯 柏 年               中国人民外交学会研究委員会副主任 北京(中国)
   マリノ・ルイス・モエレンス     弁護士 ブリュッセル(ベルギー)
   レテルバ・ロドリゲス・デ・プリト 弁護士 リオデジャネイロ(ブラジル)
   ゾビア・ワシリコプスカヤ      最高裁判所判事 ワルシャワ(ポーランド)
 本調査団は、1952年3月3日から、3月29日まで朝鮮に滞在した。
 調査団員は平壌、南浦、价川、碧潼、安州、安岳、信川、沙里院、元山などの諸都市をふくむ平安南北路、黄海道、
江原道を訪問した。
 調査団に与えられた制限された時日と、戦争状態のために、自分達のまえに提出された陳述のことごとくを調査すること
はできなかった。しかし、自己の使命を完遂する上に必要なあらゆる便宜を朝鮮当局から与えられた調査団は、事件の範
囲と犠牲者の数から見て、また、事件の張本人たちが使用した方法の特殊性から見て、もっとも特徴的と思われる事件に
たいしては慎重な調査をおこなった。
 これらすべての場合において、調査団員は、関係当局から提出された報告や声明などを審議したのち、直接調査にとり
かかった。調査過程において、調査団員は、100名以上の証人に質問した。
 調査団の結論は、直接の証拠によって調査団のまえに証明され、また、あらゆる関係文件の調査によって検証された事
件にもとづいている。この報告においては、とくに、細菌および化学兵器の使用に関連する重要な証拠が分析されたし、戦
争の根源にかんれんする、歴史的意義をもつ文件が検討された。この報告に引用された都市および保護建築の爆破事件、
一般市民にたいする暗殺、拷問、殺害などは、ただ正当に検証された直接的証拠物によって証明されたものだけである。
 おわりに、調査団は、証明された事実によって、誘導されねばならないと認められる結論をくだした。(以下略)

  第2章 細菌戦

 ・・・
 
 調査団はとくに、つぎの場合について調査した。
   1 (略)
   2 1952年2月18日、平安南道安州郡大尼面鉢南里で、ハエ、クモ、甲虫が発見されたが、地面のうえの三ヵ所に、
    それぞれ1平方ヤードのなかに密集していたし、その場所はおのおの1メートルずつへだたっていた。
    そのうち1ヵ所は雪でおおわれていたが、他のところには雪がなかった。昆虫は全部生きていた。調査団がそこへつ
    いたときには、昆虫がその周辺一帯にひろがっていた。ハエは在来の朝鮮バエとちがって、異様なかたちをしていた。
    発見されたハエは長いはねをもったいたし、そのはねはややひらかれていた。胴体は大きく頭は在来のハエにくらべ
    て大きいほうであった。
     クモについていえば、在来のクモは、大きいものと小さいものの二種類に分けることができ、色は黒いのである。発
    見されたクモは、その大きさは中くらいで、体色はやや白い。ナンキン虫は、在来のものは体がまるく、やや黄みをお
    びているのにくらべて、発見されたものは体が平たく黒い体色をもっていた。この時期にこの地方で、ハエとクモがあ
    らわれたことは、以前には絶対になかった。地上の気温は、摂氏零下20度であった。
     これらの昆虫が発見された前の日の夜なかごろに、敵機は、この場所を偵察しながらきわめて低空を数回旋回した
    が、爆弾も焼夷弾も投下しなかったし、機関銃掃射もおこなわなかった。専門家たちの調査によると、これらの昆虫は
    ペスト菌に感染していることが判明した。2月25日、この部落にペストが発生した。50名の罹病者のなかで、3月11日
    までに8およそ600人の人口のうち)36名が死亡した。ペストはそれ以上まんえんしなかった。これまで、この地域に
    ペストを発生したことは一度もなかった。(6)(7) 

  第3章 化学兵器 (略)

  第4章 大量虐殺、殺害、その他の野蛮行為 (略)

  第5章 一般住民にたいする空襲 (略)

  第6章 その他の戦争犯罪 (略)

  第7章 結論

 調査団は、この報告によって発表された事実について、用意周到な考慮をはらい、また、それらの事実にたいして、文明諸
国が普遍的に承認している国際法の原則を適用した。終局的判断をくだすのは、本調査団の任務ではない。調査団がそうい
うことをする資格を持った裁判所ではない。その義務は、事実にたいする調査に極限されており、自らの意見によって、これら
の事実にあらわれた国際法違反の犯罪を指摘することに限られている。
 この報告に摘発された犯罪にたいして、弁論すべきことがあれば、それは適当な国際裁判所がこれを聴取したのち、終局的
判断をくだすべきである。
 このような立場から、調査団は、つぎのような結論に到達した。
    1 朝鮮人民軍に反対し、北朝鮮の一般住民に死と疾病を蔓延させる目的をもって、人工的に細菌を感染させたハエ
      その他の昆虫を故意に散布することによって、アメリカ軍は、1907年の陸戦法規と慣習にかんするハーグ条約の
      規定に違反し、また1925年のジュネーブ議定書にふたたび規定された細菌戦禁止にかんする、普遍的に承認され
      た法律に違反するきわめて重大な戦りつすべき犯罪を朝鮮においておかした。
    2 北朝鮮の一般住民にたいして、毒ガスその他の化学物質を使用することによって、アメリカ軍は1907年のハーグ
      条約第23条(イ)、(ホ)および1925年のジュネーブ議定書に、計画的にかつ故意に違反する犯罪をおかした。
    3~10 (略)


------------米軍の細菌戦 国際科学委員会の調査報告書------------

 朝鮮戦争で「米軍が細菌戦を展開している」という中国や朝鮮の抗議を受け、調査団を編成し調査に乗り出したのは国際民
主法律家協会だけではなかった。科学者も調査団を送り科学的見地からの厳密な調査を実施した後、結論を出したという。そ
して、1952年8月31日その結論を発表し、北京で記者会見も行ったが、極めて慎重な手続きを踏んで実施された調査の結
論は、正当に評価をされることなく、「共産主義者の宣伝」として、ほとんど無視されることとなった。世界的に有名なノーベル
賞科学者ジョリオ・キューリ博士やオーストラリア政府の閣僚ジョン・W・バートンなどが、その正しさを公表しても、状況はあま
り変わらなかったようである。調査団の一員であったケンブリッジ大学のジョセフ・ニーダム博士がイギリスに帰国した際も、わ
ずかに取り上げられる程度で、その調査内容はあまり問題にはされなかったというのである。下記は、『アメリカ軍の細菌戦
争』と題された国際科学委員会の調査報告書からの一部抜粋である。「資料【細菌戦】」日韓関係を記録する会(晩聲社)
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                         Ⅲ 『アメリカ軍の細菌戦争』 
                                               国際科学委員会1952年9月15日

もくじ
 まえがき………………………………………………………………(2)
 委員会の組織と活動………………………………………………(12)
 文書の考証…………………………………………………………(27)
 第2次世界大戦中の日本軍細菌戦との関連……………………(30)
 委員会の採用した事件分析の方法………………………………(34)
 プラーグ文書の昆虫学的資料……………………………………(37)
 ばらまかれた昆虫についての医学的注釈…………………………(45)
 植物病理学的資料…………………………………………………(53)
 朝鮮の事件(ペスト)………………………………………………(57)
 甘南事件(ペスト)…………………………………………………(63)
 寛旬事件(炭疽病)…………………………………………………(68)
 遼東と遼西の事件(呼吸器炭疽病)………………………………(71)
 大同事件(コレラ)…………………………………………………(76)
 容器または「爆弾」の型……………………………………………(80)
 捕虜諜報員の証言 ………………………………………………(97)
 捕虜飛行士の証言………………………………………………(100)
 新中国の衛生……………………………………………………(109)
 概観………………………………………………………………(113)
 結論………………………………………………………………(126)

付録

 46件の付録の表…………………………………………………(131)
 アメリカ帝国主義はどうして細菌戦を始めたかの真相
   (ケニス・L・・イノック中尉の告白)……………………………(136)
 どうしてわたしはアメリカのウォール街がやりはじめた非
 人道的な細菌戦争に参加させられたか)
           (ジョン・クイン中尉の告白)……………………(147)
 新中国の公共保健衛生運動についての覚書……………………(171)
 中国のキリスト教会と細菌戦
 (ヒューレット・ジョンソン博士……………………………………(187)
 アメリカ軍の残虐行為(国際婦人調査団報告)…………………(201)
 
 訳者あとがき………………………………………………………(268)


 まえがき

 1952年のはじめ頃から、朝鮮と中国の領土で、すこぶる異常な性質の現象がおこっているので、これらの国の人民と政府
は、じぶんたちが細菌戦争の攻撃目標になっているのだ、と主張するようになった。
 世界各国の人民は、こういう戦争のやり方を否認する意志、いや、それどころか憎悪する意志を、ずっと前から明らかにして
きていただけに、そういう事態がどんなに重大なものであるかがよくわかった。そういうわけで、国際科学委員会をつくって、現
地の証拠をしらべるべきであるといういことになった。
 委員会のメンバーは、じぶんたちの責任がどんなに重いかということを自覚していたので、先入観から免れるためにあらゆる
努力をはらい、じぶんたちの知っているかぎり一番厳密な科学的原則にしたがって、その調査をおこなった。いまここに、その
活動のくわしい内容と、委員会のたどりついた結論とを、報告書として読書のまえに提出する。この報告書をつくる仕事には、
8つの国語をつかう人たちが参加した。だから、もしそれが優雅さにかけていたとしても、あらゆる大陸の人びとにとって、明快
で、あいまいなところがなく、わかりやすくせねばならなかったためであることを、読者の方は理解してくださることと思う。

 委員会の組織と活動

 朝鮮民主主義人民協共和国の外相は1952年2月22日、また中華人民共和国外相は3月8日、アメリカ側が細菌戦をやっ
ていることに公然と抗議した。2月25日にはには、中華人民世界平和擁護委員会主席が、そのことについて世界平和評議会
にアッピールをよせた。
 3月29日、郭沫若博士は、オスロでひらかれた世界平和評議会の執行局会議の席上で、同伴してきた中国代表たちの援
助をうけ、また 朝鮮代表李箕永氏の立会いのもとで、執行局のメンバーやその他の国民代表に、問題となっている現象につ
いて、たくさんの情報をつたえた。郭博士の言明によると、国際赤十字委員会は、政治的影響力をうけることを十分に免れてい
ないので、偏見のない現地調査をする能力がないと、中国と(北)朝鮮の政府は考えているとのことであった。こういう反対論は
のちになって、国連の専門的機関である世界保健機構にもむけられた。しかし、朝中両国政府は、公平で独立的な科学者の
国際的団体を中国にまねき、両国政府の主張の基礎になっている事実を調査させることを、心から希望していた。それに参加
する科学者たちは、平和をまもるために活動している組織に関係があろうとなかろうとかまわないが、しかしその人たちは当然
人道主義的事業に貢献している著名な人物でなければならないというのであった。そして、この団体の使命は、両国政府の主
張が正しいか、正しくないかを判定することであった。徹底的な討論をつくしたのち、執行局は、そういう国際科学委員会の形
成を要求する決議を満場一致で採択した。
 そこで、オスロー会議がすむとすぐ、この問題に関係のある分野でできるだけ有名な、ヨーロッパと南アメリカとインドのひじょ
うにたくさんの科学者たちのなかから、この団体に参加する承諾をえるように努力をはらった。仮承諾の通知がまとまると、すぐ
中国科学院近代物理学研究所所長であり中国平和委員会の一メンバーであり、オスロー会議後科学委員会を組織するためヨ
ーロッパにのこっていた銭三強博士は、中国科学院と中国平和委員会の主席郭沫若の名前で招請状をはっした。この委員会
にとって最低限どうしても必要なメンバーの数が、六月中旬までにそろったので、一行はただちに中国にむかって出発した。
 国際科学委員会は、六月21日と28日に北京につき、中国科学院と中国平和委員会の代表からあたたかい歓迎をうけた。
そのメンバーはつぎのようであった。
  アンドレア・アンドレーン博士(スウェーデン)=ストックホルム市立病院管理局中央臨床研究室主任。
  ジャン・マルテル氏(フランス)=農学士、ギリニヨン国立農業大学動物生理学研究室主任 前アンラ畜産技師。イタリアと
                      スペインの牧畜学会通信員。
  ジョセフ・ニーダム博士(イギリス)=王立協会員。ケンブリッジ大学生化学サー・ウィリアム・ダン講師。元重慶駐在イギリ
                         ス大使館参事官(科学)前ユネスコ自然科学部長。
  オリヴィエロ・オリヴォ博士(イタリア)=ボロニャ大学部人体解剖学教授。前トリノ大学一般生物学講師。
  サムエル・B・ペッソア博士(ブラジル)サン・ポーロ大学寄生物学教授。前サン・ポーロ州公衆保健局長。レシフェバライバ
                         両大学医学部名誉教授
  N・N・ジューコフ=ヴェレジニコフ博士(ソ連)、ソ連医学学士院の細菌学教授兼副院長、細菌戦参加のため起訴された元
                              日本軍軍人のハバロフスク裁判の主任医学鑑定人。
  (途中参加者や接待委員会のメンバーは略)
 以下略

 文書の考証

 委員会のメンバーがはじめてあつまった時に、かれらに利用できた文書は、朝鮮と中国の政府が発表し、プラーグの世界平
和評議会書記局から、また各国にある中国当局の種種の通信機関の手で、西欧に流布された文書だけであった。
 朝鮮保健省の第1回報告(SIA/1)は、1952年1月と2月の事件を扱っているだけであった。そのなかにある資料は、国際
民主法律家協会調査団の報告書のなかでもう一度吟味された。この報告書には、朝鮮のペスト出現についての資料、それに
当然のことながら、国際調査団のメンバーのおこなった目撃証人の調査の結果がつけくわえてある。
 いちばんくわしい報告書は、中国の「アメリカ帝国主義細菌戦犯罪調査団」の二つのほうこくであった。(以下略)

 第2次世界大戦中の日本軍細菌戦との関連

 東アジアで細菌戦がおこなわれているとの主張を調査するときには、日本側が第2次世界大戦中に中国にたいしてたしかに
細菌戦をやったという事実をけっして無視してはならない。委員会としては、わりとよくこの問題についての知識をもっていた。
というのは、委員会のメンバーの一人がハバロフスク裁判の鑑定主任であったし、もう一人は細菌戦そのものが中国におこっ
ていた当時、中国で公式の職務についていたごくわずかな西欧科学者の一人だったからだ。1944年、この科学者は、自分の
任務の一つとして本国政府につぎのように報告したのである。──はじめのうちこそ大きな疑惑を感じていたが、いくつかの地
方で日本軍がペストに感染した蚤をばらまいたし、またばらまいていることを、中国軍医署のあつめた資料はあきらかに示して
いるようにおもわれる、と。それで、これらのメンバーは、ふつうなら腺ペストなど発生しないけれども、そこの条件がその蔓延に
すこぶる有利な土地に、腺ペストが発生した例を、かなりたくさんあげることができた。周知のように、腺ペストというものは、ふ
つうの状態のもとではある種のはっきりと限られた地方(たとえば福建省)にだけ発生するが、そこ以外にはひろまらないので
ある。……(以下略)

 委員会の採用した事件分析の方法(略)

 プラーグ文書の昆虫学的資料(略)

 ばらまかれた昆虫についての医学的注釈(略)

 植物病理学的資料(略)

 朝鮮の事件(ペスト)
 
  先にのべたように、日本が第2次世界大戦中にやったペストその他の細菌戦の古典的方法は、容器または噴撒の方法に
よって、ペスト菌に感染している大量の蚤をばらまくことであった。1952年のはじめから、北朝鮮のあちこちに、ぽつぽつとペ
ストの流行の中心点がたくさんあらわれた。その際いつでもそれといっしょにたくさんの蚤がとつぜんああらわれたし、そのま
えにはかならずアメリカ機がそこを通過していた。2月11日の事件をはじめ、そういう事件が7つほどSIA/1に報告されてい
るが、そのうち6件ではペスト菌が蚤のなかに見つけだされたことが証明された。文書SIA/4は、2月18日安州付近に蚤がば
らまかれたことをつけ加えている。蚤は細菌学的ににみて、ペスト菌をふくんでいることが明らかになったが、その撒布後の
20日その地区の発南里にペストが発生した。村の人口六百のうちの50人がペストニかかり、36人が死んだ。
 委員会が受けとることのできた報告によると、過去5世紀のあいだ朝鮮でペストがおこったことはなかった。ペストが流行した
一番近い中心地は、中国東北(満州)から遠く300マイルはなれた土地か、それとも福建の南方1千マイルのかなたの土地で
あった。そのうえ、2月という月は、この土地の気候からみて、人間のペストがはやるにはふつう3ヶ月以上はやすぎる。とくに、
またその出現した蚤は、自然状態でペスト菌を運ぶ鼠蚤ではなく、人蚤(plex irritans)であった。そして、この蚤は、われわれ
が中国側の同定(付録12)その他の指摘(付録19)から知っているように、第2次世界大戦中日本軍が細菌戦につかったもの
であった。……(以下略)   

 甘南事件(ペスト)(略)

 寛旬事件(炭疽病)(略)

 遼東と遼西の事件(呼吸炭疽病器)(略)

 大同事件(コレラ)(略)

 容器または「爆弾」の型(略)

 捕虜諜報員の証言

  朝鮮当局は委員会にたいして、戦争がはじまって以来諜報員が北朝鮮におくりこまれていて、細菌戦についての疫学的
情報をあつめて送るというはっきりした目的をもって、仕事をしていることを知らせてくれた。これらの諜報員の多くは捕虜に
なったが、かれらの自白はアメリカ側の諜報組織とこれらの諜報員に命令された活動に大きな光を投げかけた。もはや
SIA/17の中にある諜報員、たとえば一人の中国人と一人の朝鮮人とについてのくわしい情報が公表されている。
  委員会のメンバーには、これらの諜報員の一人とながい時間会見する機会が平壌であった。(付録36)この青年は学校
を中途でやめ、1945年南朝鮮政府の「青年団」に参加したが、アメリカ軍がついに撤退するとき、それについていった。かれ
が北朝鮮に反対したおもな動機は、あきらかに政治的信念よりも、むしろちっぽけな個人的利益であった。
  ほかに生活する道もなかったので、この証人はアメリカ軍の補助情報部隊に参加した。かれは1951年12月から1952年
3月ま でのあいだにソウルの「K・L・O」という組織でうけた政治上、軍事上、衛生上の訓練について説明した。(付録36)。そ
の組織で、かれは、ほしいとおもう情報を手に入れる技術を教えられた。細菌戦がはじまったのは、まさにこの期間であった。
かれは2月のはじめ頃、たくさんの予防注射をされたが、それがどんな性質のものであるかは知らされなかった。かれは出発
の直前まで、外国軍の将校とはぜんぜん接触がなかったが、いよいよ出発というとき、アメリカ軍の少佐が通訳を通じてかれ
に指令をあたえた。その指令のなかでは、かれの活動すべき特別の地域が指定され、アメリカ軍が知りたいとおもう病気の精
密な細目があたえられた(チフス、ペスト、コレラ、脳炎、赤痢、天然痘)。この証人は、北朝鮮の統計資料の編集制度をおしえ
られ、できれば保健省その他の政府機関と接触をしてそれを手にいれ、必要とあれば、それを盗みだせとの命令をうけた。また
かれは、食べ物にとくに注意し、昆虫が伝染病をひろめた場所で夜をすごさず、わかした水以外はのむなといわれた。「北朝鮮
は病気でいっぱいだ」と、かれはきかされた。「しかし、大丈夫おまえの注射がおまえを守るだろう」といわれた。
  そこで、証人は3月29日北朝鮮にもぐりこんで、5月20日につかまるまで、つれていっていた無線電信技師といっしょに活
動した。質問にこたえるとき、かれはむしろ口数がすくなかったが、それは協力者をかばうためのもののようであった。かれは、
北朝鮮の保健要員との接触には、ほんのわずかしか成功しなかったし、アメリカ軍司令部には、ほとんど、いやぜんぜん情報
をおくることができなかったといった。
  この証人は、北朝鮮に不法入国するまえには、細菌戦をやっていることについて、何の示唆もうけていなかったことを明らか
にした。かれはただ、北朝鮮にはたくさんの伝染病があり、南朝鮮の軍隊は「いちばん近代的な科学兵器をつかって、いい成
績をあげている」ときいていただけであった。かれが細菌戦について知ったのは、警察の告示を読んだのがはじめてであった。
  委員会としては、この証人の態度と、その使命やうけた指令についてのかれの証言とには真実性があること、この証言をう
るためには、肉体的にも精神的にも、すこしの圧迫もくわえる必要はなかったということで意見が一致した。……(以下略) 

 捕虜飛行士の証言

  1952年1月13日、アメリカ空軍の、B-26爆撃機一機が、朝鮮の安州上空で打ちおとされた。5月5日までに、その航空
士K ・L・イノック中尉と操縦士ジョン・クイン中尉は、じぶんらが細菌戦に参加したことをみとめたすこぶる長い供述をして、それ
が北京から世界に発表された。先にのべたように、これらの文書はSIA/14と15にそれぞれおさめてあり、またプラーグで発
行された小冊子のなかにも、その原稿の石版刷りといっしょにおさめてある。そのうちの細菌戦に関係のある部分はこの報告
書の付録にもいれておいた。 ……(以下略)

 概観(略)

 結論

 1952年のはじめいらい、朝鮮と中国にひどく異常な性質の現象がおこっているので、これらの国の人民と政府は、アメリカ
軍が細菌戦をやっているのだと主張するようになった。細菌戦に関連のある事実をしらべるためにつくられた国際科学委員会
は、現地に2ヶ月以上も滞在し、いまその活動をおわるところまできた。
 委員会の面前には、多くの事実があらわれたが、そのうちいくつかは首尾一貫した型をしめしており、これらの型は高い論
理性をもっていることがあきらかになった。そこで、委員会は、その努力をとくにそれらの型の研究に集中した。委員会は、つ
ぎのうような結論にたどりついた。
 朝鮮と中国の人民は、たしかに細菌兵器の攻撃目標になっている。この兵器をつかっているのはアメリカ軍部隊であり、そ
の目的に応じてじつに種々さまざまのちがった方法をつかっているが、そのうちのいくつかは、第2次世界大戦中日本軍のつ
かった方法を改善したものであると思われる。
 委員会は、論理の階段を、一歩一歩のぼって、この結論にたどりついた。委員会としては、いやいやながらそうなったので
ある。 というのは、委員会のメンバーは、こんな非人間的な技術を、各国人民の面前で、じっさいにつかうことができるなどと
は、信じたくなかったからである。
 いまこそ、すべての人民は、その努力を倍して、世界を戦争から守り、科学上の発見が人類の破滅のためにつかわれること
を食いとめねばならない。

 付録(ここではすべて省略、ただし、37は捕虜飛行士の証言としてトップページ85でリンクさせた)

-NO82~90-

------------731部隊 ハバロフスク裁判公判書類 証言------------

 下記は、「資料【細菌戦】」日韓関係を記録する会編(晩聲社)に収録されている「細菌用兵器ノ準備及ビ使用ノ廉デ起訴サレタ元日本軍軍人ノ事件ニ関スル公判書類」の一部抜粋である。
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           細菌用兵器ノ準備及ビ使用ノ廉デ起訴サレタ元日本軍軍人ノ事件ニ関スル公判書類

  緒言

 1949年12月25日より30に到る迄ハバロフスク市では、細菌兵器の準備及び使用の廉で起訴された元日本軍軍人12名の公判が行われた。
 裁判に付された者は、元日本関東軍司令官山田乙三大将、元同軍軍医部長梶塚隆二軍医中将、元同軍獣医部長高橋隆篤獣医中将、元第731細菌戦部隊部長川島清軍医少将、元第731部隊課長柄沢十三夫軍医少佐、元第731部隊部長西俊英軍医中佐、元第731部隊支部長尾上正男軍医少佐、元第五軍軍医部長佐藤俊二軍医少将、元第100細菌戦部隊研究員平桜全作中尉、元同部隊員三友一男軍曹、元第731部隊第643支部衛生兵・見習菊池則光上等兵及び元第731部隊第162支部衛生兵・実験手久留祐二、──以上の者であった。
(以下裁判長や判事、法務官、それぞれの被告の弁護士や細菌学及び医学上の諸問題に関し鑑定を下した鑑定委員会の成員の紹介が続くが省略)

 起訴状(略)

 細菌戦ノ準備及ビ実行行為ノ特殊部隊ノ編成(略)


 生キタ人間ヲ使用スル犯罪的実験
・・・
 元満州国軍憲兵団日本人顧問証人橘猛男ハ、次ノ如ク供述シタ──
   「……被訊問者ノ中ニハ、私ガ担任シテイタ憲兵隊本部特高課関係デ処置サレルベキ部類ノ者ガアッタ。此ノ部類ニ該当
   シタ者ハ、パルチザン、在満日本当局ニ対シ極度ニ反感ヲ有スル者等デアッタ。斯ル囚ニ対シテハ、私達ハ、コレヲ処置
   スベク第731細菌戦部隊ニ送致シタ故、裁判手続ハ行ワナカッタ……」(第6冊95頁)
 他ノ証人、元哈爾濱憲兵隊長木村ハ、本人立会ノ下ニ、第731部隊長石井中将ガ哈爾濱憲兵隊長春日馨トノ談話ニ於テ、今後モ、従来通リノ方法デノ「実験」用ノ被検挙人ヲ受領シ得ルコトヲ確信スル旨言明シタコトヲ訊問ニ於テ確認シタ(第2冊194頁)
 ソビエト軍ガ押収シタ在満日本当局ノ諸記録ノ中ニアッタ日本憲兵隊本部ノ公式書類ハ、1939年及ビ夫レ以後ニ囚人ノ所謂「特移扱」ガ行ワレテイタコトヲ重ネテ確証シテイル。就中、1939年、囚人30名ヲ「特移扱」ニヨり、石井部隊ニ送致スル事ニ関スル関東軍憲兵隊司令官白倉少将ノ命令第224号ガ発見サレタ(第17冊─38頁)
 囚人ノ大量殺戮ハ、被告川島清ノ供述ニヨッテ立証サレテイル──
   「第731部隊ニハ、毎年、500─600名ノ囚人ガ送致サレタ。私ハ、同部隊第1部勤務員ガ憲兵隊ヨリ囚人ノ多人数ノ組
   ヲ受領シテイルノヲ見タ。」(第3冊59頁)
   「私ハ、部隊ニ於ケル 私ノ職務上承知スル資料ニ基キ、第731部隊デハ、実験ノ結果、毎年少クトモ約600名ノ人間ガ
   死亡シタコトヲ言明シ得ル」(第3冊146頁)
   (以下略)

 同様ノ犯罪ガ第100部隊ニ於テモ行ワレ、同部隊デハ第2部第6課ガ、生キタ人間ヲ使用スル実験ヲ専門ニ担当シテイタ。
 第100部隊実験手証人畑木章ハ、同部隊ノ業務ヲ性格ズケテ、次ノ如ク述ベタ──
   「……関東軍第100部隊ハ、「軍馬防疫廠」ト称サレテイタガ、鼻疽菌、炭疽菌、牛疫菌、即チ獣疫ノ病原体ヲ培養シ、繁
   殖シテイタカラ、実際ニハ細菌戦部隊デアッタ。第100部隊ニ於ケル細菌ノ効力試験ハ、家畜及ビ生キタ人間ヲ使用スル
   実験ニヨッテ行ワレタ。是ガ為、同部隊ニハ、馬、牛及ビ其ノ他家畜ガ有リ、亦隔離所ニハ、人間ガ留置サレテイタ。私
   ハ、コレヲ直接見テ知ッテイル」(第13冊111頁)
 第100部隊ニ獣医トシテ勤務シタ他ノ証人福住光由ハ、次ノ如ク供述シタ──
   「……第100部隊ハ、実験隊トシテ、細菌学者、化学者、獣医及ビ農業技師の如キ研究員ヲ擁シテイタ。該部隊ニ於ケ
   ル全業務ハ、ソビエト同盟ニ対スル謀略細菌戦ノ準備ヲ目的トシテイタ。該部隊ノ勤務員及ビ其ノ各部員ハ、家畜及ビ
   人間ノ大量殺戮ノ為ノ細菌並ニ猛毒ノ大量用法ニ関スル研究ヲ行ッテイタ」。
   「……是等ノ毒薬ノ効力ヲ検定スル為、家畜及ビ生キタ人間ニ対スル実験ヲ行ッテ来タ……」(第13冊48頁)
   (以下略)


 ソ同盟ニ対スル細菌戦準備ノ積極化

 1941年、ソ同盟ニ対スルヒトラー・ドイツノ背信的攻撃ノ後、日本ノ軍国主義者共ハ、対ソ戦参加ノ好機ヲ待チ、細菌戦遂行ノ為ニ編成シタ細菌戦部隊及ビ其ノ支部ノ展開ト整備ヲ満州デ積極的ニ促進シタ。
 「関特演」(即チ、1941年夏ニ採用サレタ対ソ攻撃ノ為ノ日本関東軍ノ展開計画)ニ従イ、第731部隊及ビ第100部隊ハ、細菌兵器の用法ノ徹底及ビ其ノ使用ノ為、将校、下士官ノ特別教育ヲ組織シタ。
 元関東軍獣医部長高橋隆篤中将ハ、次ノ如ク供述シタ──
   「……「関特演」ト称スル作戦計画書作後成得在満各軍司令部ニ「軍馬防疫」隊ヲ編成シ、第100部隊ヨリ派遣シタ獣
   医・細菌専門家ヲ各部隊ノ長トシタ……
   此等ノ部隊編成ハ、日本軍参謀本部第1作戦部ガ発案シタモノデアル……。
   「軍馬防疫」隊ノ任務ハ、ソビエト同盟ニ対スル細菌戦及ビ謀略ノ準備ト実行デアッタ……」(第11冊53─54頁)
 被告川島ハ、1941年ニ於ケル日本ノ細菌戦準備強化ニ関シ供述シタ際、次ノ如ク述ベタ──
   「……1941年夏、独ソ戦開戦後、私ガ、石井中将ヲ訪レタ際、石井中将ハ、村上中佐及ビ太田章大佐──各部長出席ノ
   下ニ、部隊ノ活動強化ノ必要ナルコトニ就キ述ベ、細菌戦用兵器トシテノ、ペスト菌ノ研究ヲ促進スベシトノ日本軍参謀総
   長ノ命令ヲ私達ニ読聞カセタ。同命令ニハ、ペスト病ノ媒介体タル蚤ノ大量飼育ノ必要ニ関シ特記サレテアッタ。」
   (第3冊28─29頁)
 元第731部隊教育部長西ハ、ヒトラー・ドイツ対ソ攻撃当時ニ於ケル──日本ノ細菌戦待機態勢ニ就キ次ノ如ク供述シタ──
   「……1941年、ドイツ対ソ同盟攻撃及ビ満州ニ於ケル関東軍ノ満ソ国境集結時ニ於テ、第731部隊ニ於ケル効果的細
   菌攻撃用兵器ノ製造ニ関スル研究業務ハ、大体ニ於テ完成サレ、同部隊ノ爾後ノ業務ハ、細菌ノ大量生産過程及ビ細菌
   撒布方法ノ改良ニ関シテ実施サレタ。最モ有数ナ攻撃手段ハ、ペスト菌ナルコトガ判明シタ」(第7冊124頁)

・・・

 第731部隊及ビ第100部隊並ニ其ノ各支部ニ於ケル、ソヴィエト同盟ニ対スル細菌戦ノ準備活動ガ、特ニ積極的ニナッテ来タ第2期 ハ1945年デアッタ。
 被告西ハ、此ノ点ニ関シ、次ノ如ク供述シタ──
   「……1945年5月、私ガ直接、石井中将ニ報告シタ際、石井中将ハ、私ニ対シ、細菌材料、就中ペストニ関スルモノノ製
   造強化ノ必要ヲ特ニ強調シタ。石井ノ言ニヨルト、是ハ、当時、情勢ノ発展ガ、何時敵ニ対スル細菌攻撃ノ必要ガ生ズルカ
   モ知レナイ状態ニ有ッタ為デアル」(第7冊130頁)
 此ノ指令にヨリ、第731部隊ノ各支部ハ、蚤の繁殖ニ必要ナル齧歯類(二十日鼠)、鼠ノ大量捕捉、繁殖及ビ之ノペスト感染ニ関スル 業務ヲ強化シ、ソノ為各支部及ビ一般部隊ニモ特別班ヲ組織シタ(第10冊30,176,193,第2冊168頁)。此ノ時期ニ、実験業務ガ強化サレ、生産応力ヲ増大シ、細菌戦材料ヲ貯蔵スル為、設備ガ更ニ更新サレタ。
 元日本関東軍司令官山田大将ハ、彼ノ直轄部隊デアッタ細菌戦部隊ノ潜在生産応力ニ就キ訊問サレタ際、其レガ極メテ大ナルコトヲ確認シ「必要ノ場合ニハ、第731部隊ノミデモ、其ノ兵器デ、日本軍ノ細菌戦遂行ヲ確保シ得タ」ト述ベタ(第2冊6頁)

 ソヴィエト同盟及ビ其ノ軍事力ハ、帝国主義日本ノ支配閥ノ細菌戦開始ノ犯罪的企図ヲ挺折セシメタ。
 ソヴィエト軍ハ、満領ニ進出シ、敵ヲ痲痺サセル急速ナ打撃ヲ敵ニ与エ日本ノ主要ナ軍事力タル関東軍ヲ最短期間ニ撃破シ、帝国主義日本ヲ無条件降伏ノ余儀ナキニ至ラシメタ。
 被告山田ハ、次ノ如ク供述シタ──
   「……ソヴィエト同盟ガ対日戦参加シ、ソヴィエト軍ガ急速に満領内深ク進撃シ来ツタ為、吾々ハ、ソ同盟及ビ其ノ他ノ諸
   外国ニ対シテ細菌兵器ヲ使用スル機会ヲ奪ワレテ了ッタ……」(第18冊133頁)


--------------731部隊 ハバロフスク裁判 凍傷実験の証言-------------

 下記は「資料【細菌戦】」日韓関係を記録する会(晩聲社)に収録されたハバロフスク裁判の「細菌戦用兵器ノ準備及ビ使用ノ廉デ起訴サレタ元日本軍軍人ノ事件ニ関スル公判書類」から、凍傷実験に関わる部分の一部を抜粋したものである。
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        細菌戦用兵器ノ準備及ビ使用ノ廉デ起訴サレタ元日本軍軍人ノ事件ニ関スル公判書類

 生キタ人間ヲ使用スル犯罪的実験

・・・

 虐殺サレタ者ノ死体ハ、第731部隊監獄ニ隣接スル特別ノ火葬場デ焼却サレタ。事件ニ関シ訊問サレタ証人及ビ被告ハ、拷問場タル第731部隊構内監獄ニ「被実験材料」トシテ投獄サレタスベテノ者ニ対スル非人道的拷問、暴行及ビ侮蔑行為ニ就キ供述シタ。
 証人倉員ハ、次ノ如ク供述──
 「……各階ニハ、研究室用ノ数室ガアリ、中間ニハ、被実験者或ハ、田坂曹長ガ私ニ語ッタ如ク、部隊内デ丸太ト称シタ囚人ヲ収容スル監獄ガアッタ監獄ニ収容サレタ者ノ中ニハ、中国人ノ外ニ、ロシア人モ居タコトヲ私ハ確ニ 記憶シテイル。或監房ニ於テハ、私ハ、中国ヲ見タ……監房ニアッタ者ハスベテ、足枷ヲ嵌メラレテイル。3人の中国人ハ手ノ指ヲ切リ取ラレ他ノ者ハ、指ノ骨ガ露出シテイタ。 吉村ハ、是レガ彼ノ実験シタ凍傷実験ノ結果デアルコトヲ私ニ説明シタ……」(第2冊371頁)
(以下略)

・・・

 囚人ニ対スルペストソノ他ノ急性流行病感染ノ犯罪的実験ノ外、第731部隊デハ、生キタ人間ノ手足ヲ凍傷ニ罹ラセル非人道的ナ実験ガ広範ニ実施サレテイタ。囚人ニ、其ノ手足ヲ、特別ノ水入リノ箱ニ入レシメ、手足ガ凍傷ニ罹ル迄、ソノ箱カラ出サセナカッタ。
 証人古都ハ、次ノ如ク供述シタ──
 「……毎回2名乃至16名ノ足枷ヲ嵌メラレタロシア人、満州人、中国人及ビ蒙古人ヲ、寒気ニ曝シ、武器ヲ以テ脅迫シ、裸手(時ニ ハ、片手、時ニハ同時ニ両手)ヲ水ヲ入レタ桶ニ漬ケシメ、然ル後、濡レ手ヲ、10分乃至2時間の間、寒気ニ曝サシメタ。曝ス時間ハ、 気温ニヨッテ異ナッタ。而シテ、彼等ガ凍傷に罹ルヤ、之ヲ監獄内ノ研究室ニ連レ込ンダ」(第5冊317頁)
 此等ノ犯罪的実験ノ結果ハ、多クノ場合、被験者ノ壌疽、四肢切断オヨビ死亡デアッタ。此等ノ実験ノ目的ハ計画サレタ対ソ戦闘行動 ノ際ニ於ケル四肢ノ凍傷予防ノ研究デアッタ。
(以下略)


------------731部隊 ハルビン特務機関ロシア語通訳の証言------------

 731部隊の撤退は早かった。1945年8月8日ソ連の参戦の何ヶ月も前から家族持ちの部隊員に家族の帰国希望を聴取し、6月には すでに家族を帰国させていたという。そして、ソ連参戦直後の9日からすぐに証拠隠滅を中心とする撤退準備を開始し、七三一部隊は日本軍の他の部隊より一足早く撤退したのである。この時、多くの満州開拓団の人たちのことなど頭になかったのだろうか。そして、いち早く帰国した人たちは、その後の満州開拓団の人たちの悲劇をどのように感じているのであろうか。
 撤退準備の第一の課題は、人体実験の証拠を隠すことであったというが、信じがたいのは、そのときロ号棟中庭の七棟と八棟に実験目的で収監されていたいゆる「丸太」の殺害が行われたということである。また、家族を帰国させる手配をしながら、さらには、撤退準備をしながら実験目的の「丸太」は集め続けられていたことである。そして、その数がまた信じがたい。下記は「七三一部隊(生物兵器犯罪の真実)」常石敬一(講談社現代新書)からの一部抜粋である。
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 ハルビン特務機関ロシア語通訳で兵長の金城五郎は1947年7月18日、モスクワで次のように証言している。特務機関というのはス パイ機関で、敵の動静を探ることと、敵のスパイを摘発することが仕事だった。部隊で人体実験されたソ連人を送り込んだのも特務機関だった。「最後の送付は昭和20年8月13日あるいは14日にして其の数は30名以上なりき。尚其以前2~3名宛2回にわたり同部隊に 送付せる事実を余は承知せり」。彼も「実験目的は知らざるも彼等が其の結果として死亡する事は承知」していた。


-------------731部隊 米軍の細菌戦 捕虜飛行士の証言-- -----------

 下記は、『アメリカ軍の細菌戦争』と題された国際科学委員会調査団の調査報告書に「付録37」として付けられたもので、朝鮮戦争で細菌戦を展開したという捕虜飛行士の供述書である。「資料【細菌戦】」日韓関係を記録する会(晩聲社)から一部抜粋した。
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            アメリカ帝国主義者はどうして細菌戦をはじめたのかの真相(付録37)
                                           (1952年4月7日・捕虜ケニス・L・イノック供述書)

 1951年8月末の2週間、わたしは日本の岩国にいた。第3爆撃連隊は8月いっぱいかかって、朝鮮の群山に引っこしをやった。一番最後に引っこしたのは、地上学校であった。地上学校が群山にうつったのは、9月のはじめであった。わたしが岩国にいたときには、アメリカからやって来たての乗員が15人いて、みんな地上学校にかよっていた。……

・・・

 1951年8月25日の午後1時、われわれは地上学校航空教室の秘密講義に出席した。わたしの記憶では、この講義に出席したのは、10人の操縦士と15人の航空士であった。操縦士のなかには、ブロートン中尉、シュミット中尉、レマク大尉がいたのをおぼえている。航空士のなかでは、ブラウン中尉、ハーディー中尉、ド・ゴー中尉、ジーリンスキー中尉、カーヴィン中尉、ラーソン中尉と、それにわたしがいたのをおぼえている。わたしは、ラングリー飛行場でいっしょに仕事をしたことのある操縦士や航空士をのぞいて、ほかの人は誰も知らなかった。われわれの教官は民間人のウィルソン氏であった。かれ以外の教官はこの講義にだれ一人参加しなかった。
 ウィルソン氏は、この講義が細菌戦に関するものであると語った。われわれの側では、いま細菌戦をやる計画はないが、いずれやるときがくるかも知れないのであるから、講義は秘密であって、その内容は誰にも洩らしてはならないし、仲間同士でもしゃべってはいけないと、かれはいった。
 ウィルソン氏の講義はおもに、細菌戦の兵器についてであった。かれは標本をもっては来なかったが、細菌をそのまままいたり、虫やけだものにつけてまいたりする細菌撒布のいろいろの方法を論じた。ウィルソン氏の講義の内容は、次のようなものである。
 細菌をそのまままく方法。(1)チリと細菌をまぜたものをつめた爆弾をおとす。この爆弾は空中でひらき細菌のついているチリを風でまきちらす。(2)噴撒装置によって、飛行機からじかにチリをまく。こうしてチリをまいた所では、どこでも空中に細菌がちらばる。(3)細菌とチリをいっぱいつめた容器をおとす。つまり水の中にはいると口をあける爆弾か、水にぬれると口をひらくボール紙製の容器を貯水池や湖の中に投下する。この水を人や獣がつかい、また昆虫がそれらの細菌をつけて伝播する。
 昆虫をおとす方法。(1)外形は普通の爆弾のように見えるが、中には細菌をつけた虫をいっぱいつめてあり、地面にふれると口がひら き、細菌をつけた虫が外へ出るようになっている爆弾をおとす。(2)地面にふれると口がひらいて、細菌をつけた虫がとび出すようになっている、ボール紙製の容器をおとす。(3)動物に虫をくっつけばらまく。
 動物にくっつけて細菌をまく方法。(1)地面にふれると、動物を外へ出すよういなっている落下傘容器で、ねずみ、うさぎその他の小動物をおとす。その小動物には、細菌のついた、のみやしらみがくっついている。(2)舟をつかって、このようなけだものを敵の後方の海岸から陸にはなす。
 細菌をまくその他の方法。(1)細菌のついたビラ、チリ紙、封筒その他、紙で出来たものをおとす。(2)細菌のついた石けん、衣類をおとす。(3)細菌の入っているインキを入れた万年筆をおとす。(4)細菌のついた食物を敵陣におとす。また、榴弾砲や迫撃砲を使って細菌をまくことができるが、前線からの距離がちかいので、この方法をつかうのは安全でない。
 まくことができる細菌の種類は、たくさんある。あまり知られていない特別の細菌のほかに、発疹チフス、チフス、コレラ、赤痢、ペスト、天然痘、マラリヤ、黄熱病など、よく知られている病気の細菌をつかうことができる。細菌をはこぶ虫の種類は多く、いちばん普通なのは、しらみ、のみ、はえ、蚊である。……

・・・

 わたしの、次の飛行は、1952年1月6日であった。われわれは、緑八号ルート(平壌と沙里院の間)にそって飛行することになり、午前3時に出発した。搭乗員は、操縦士アモス大尉、航空士がわたし、砲手トレーシー軍曹であった。いつものように、アモス大尉とわたしは、出発一時間まえの午前2時に大隊訓練室と大隊作戦部へ報告にいった。いつもそこで、さいきんの天候と飛行任務についての通達を うけることになっていた。その夜、わたしの知らない当直将校の大尉から、黄州へ飛行し、そこで外翼の爆弾2個をおとし、それから他の 爆弾をできるだけ早く投下して、群山へかえれとの指令をうけとった。
 また、黄州では、高度500フィート、最高時速200マイルで投弾するように、かれは命令した。われわれは訓令によると500ポンド爆弾10個をつまねばならないので、高度が低すぎはしまいかと、かれに注意した。しかし、かれは、これは極秘だが細菌爆弾なのだから、この仕事については、誰にも話してはいけない、といった。かれは翼の爆弾はもう積込ずみで、われわれにかわって点検してあるから、心配はないし、かえってきた時は、不発弾として報告するように命じた。それから中隊作戦室へいった。そこで砲手にあった。かれは大隊には報告にいかなかったので、わたしの知っているかぎりでは、われわれの特殊任務のことは知っていなかった。外へでて飛行機のそばにゆくと、整備部から派遣された番兵がたっていて、翼の爆弾はもうしらべてある、とわれわれがもはや知っていることを、われわれにつげた。わたしは弾倉のなかの6個の爆弾を点検した。6個の爆弾は、普通の500ポンド爆弾であった。
 3時に黄州へむかって出発した。……(以下略)  


-----------朝鮮戦争 細菌戦 第一海兵飛行大隊参謀長の証言------------

北朝鮮や中国が細菌戦の非難をはじめて以降、捕虜になったアメリカ空軍軍人の自供が朝鮮戦争終結まで続いた。「現代朝鮮史第2巻」D・W・コンデ著陸井三郎監訳(太平出版社)によると、その数38人にのぼるというが、そのなかで、もっとも階級が高い将校の一人は5 2年7月8日に撃墜されたアメリカ海兵隊フランク・H・シュウァーブル大佐で、第一海兵飛行大隊参謀長の立場にあった人物であるという。下記はその証言の一部であるが、捕虜になった操縦士や飛行士に長時間の面接をした国際科学委員会の調査団は、「かれらは完全に正常で、申し分なく健康であるようにみえた。……したがって調査団は、飛行士の証言を真実で信頼できるものとして受けいれた。この証言は、すでに戦地で集められた厳密に科学的な観察による証拠を、実に多くの点で補完した。」と報告しているのである。
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                第一海兵飛行大隊参謀長フランク・H・シュウァーブル大佐の証言

 「朝鮮における一般の細菌戦計画は、1951年10月に統合参謀本部によって指令されたものである。この月に統合参謀本部は、極東軍総司令官(当時はリッジウェイ将軍)に指令を手わたした小規模な実験的段階から始まるが、しだいに規模を拡大して、朝鮮での細菌戦に着手するようつたえた。
 この指令は、東京の極東空軍総司令官ウェイランド将軍へわたされた。そこでウェイランド将軍は、朝鮮の第五空軍司令官エヴェレスト将軍ならびに沖縄の第十九爆撃大隊司令官をまねいて、個人的に会談した。……計画は……エヴェレスト将軍個人が口頭でひきうけ、朝鮮へ持ち帰った。なぜなら機密保護のため、この問題については文書にして捕獲されるかもしれないものはなにも朝鮮におかないことに、決定されていたからである。
 当時の基本目標は、実験場で細菌戦のさまざまな要素をテストし、得られた結果や朝鮮の情勢にもとずいて、のちに野戦実験を正規の戦闘作戦に拡大することであった。……各種の装置や容器が実験場でテストされ、各種の飛行機が、細菌爆弾の運搬手段としての適性をテストするために、使用されるはずであった。……とくに敵の反応は、利用できるあらゆる手段で、テストまたは観察をうけるはずであった。それは、敵の対抗措置はなんであるか、どのような宣伝措置をとるであろうか、敵の軍事作戦はこの種の戦争によってどの程度影響をうけるであろうかを、たしかめることであった。
 沖縄のB29は、1951年11月に細菌爆弾を使用そはじめた。それは、北朝鮮全土を対象にしたもので、無差別爆撃といえるようなものであった。……細菌爆弾作戦は、経済性と安全性の措置として、通常の夜間武装偵察と組んでおこなわれた。
 この計画における海軍の役割は、朝鮮東部海岸沖の航空母艦を使って、写真撮影とは別にF9F戦闘機(パンサー)、AD(スカイレー ダー)、スタンダードF2H(バンシー)によってはたされた。
 空軍もその作戦を拡大して、各種の飛行機の集団によって細菌戦をおこなうさまざまな方法や戦術を試みた。これが、わたくしが朝鮮に到着するまでの情勢であった。それにつづいて、つぎの主要な事件がおこった。」

 ここでシュウァーブル大佐が報告したところによると、52年5月下旬に、第一海兵飛行大隊の新指揮官ジェローム将軍が、第五空軍司 令部によばれて、細菌作戦を拡大せよという指令をうけた。指令はついで第五空軍の新指揮官バーカス将軍に、個人的に口頭で伝達された。5月25日に、参謀長のシュウァーブルや第一海兵大隊のほかの参謀部員は、バーカス将軍から指令をうけとった。この指令は、その朝から伝達され、かれらはそれについて検討したが、それは次のようなものだった──

 「朝鮮を横断する感染地帯を設け、差し止め計画を効果的にして、敵の補給品が前線に届くのを阻止する。海兵隊は、新安州と郡隅里の両地域および両地域の中間とその周辺地域をふくむこの地帯の左岸を担当する。この地帯の残り部分は、空軍が中央部を、海軍が東部すなわち右翼をひきうける。
 これらの地域はすくなくとも10日おきに汚染しなおされるはずであった。作戦は、コレラ爆弾をもちいて、6月の第一週に開始された。その後黄熱病、ついでチフスによる汚染が計画された。敵の領土上空での安全をつよめるために、細菌爆弾の投下後まで、ナパーム爆弾を機上に残しておくはずだった。これは、飛行機が墜落した場合に、ほとんど確実に証拠をいんめつするためであった。……あらゆる指示は、それが軍事機密であるだけでなくて、国家政策の問題でもあることを強調するはずであった。」

 要するにシュウァーブルの自供は、その結果が「それにともなった努力、危険、不正にいきらかでも見合うものであるという見方は聞いたこともない。全体の結果についてわたくしにいえることは失望的で無益だったということだ」というものだった。かれはつづいて述べた──

 「つぎのことは、わたくしをふくめてだれかを弁護するためにいうのではない。わたくしは、まったく直接の見聞にもとずいて、こう報告せざるをえない。アメリカが細菌兵器を使用しようとしていると最初に知らされたとき、どんな将校でも衝撃をうけ、恥ずかしい思いもする。われわれはすべて、国民や政府に忠実な将校として、そして、われわれがつねに細菌戦について聞かされていたこと──それは、第三次世界大戦で報復に使うためにのみ開発されている──を信じて、朝鮮へやってきたものとわたくしは思う。
 将校達は、朝鮮へやってくると、自分達の政府が、細菌戦をおこなっていないと世界に宣言しておきながら、自分達を完全にあざむいていたことを発見するが、そのため、政府が一般の戦争について、とくに朝鮮について言明しているその他のすべてのことを心中で疑うことになる。」

 52年の4~7月にかけて捕虜になったアメリカの空軍将校は、いずれも長文の調書をとられているが、それには共通して、細菌爆弾は日本から持ちこまれたこと、公式報告でふれる場合には、「不発弾」と呼ばれること、細菌戦を始める決定は、「1951年秋の初め」になされたこと、そりわけ、問題そのものが最高機密であることなどの点が出てくる。以前にマクアーサー将軍が望んだものとおなじような朝鮮を横断する「感染地帯」をつくる目標についても、のべられていた。飛行士は、搭乗員同士のあいだでも、この問題を口にすることを禁止されていた。そしてやがて、秘密を守る宣誓書に署名を強制された。誓約に違反すれば、軍法会議はまちがいなかった。けっきょく、細菌戦にたずさわっていた飛行士の士気は、ひじょうにひくかった。かれらは基地へ帰投すると、ナパームや細菌投下の任務を忘れようとして、大酒を飲んだ。しかしかれらの気分の底流をなすものは、無慈悲な軍命令であった。「命令は命令だ」、かれらはこういっていた。


---------------朝鮮戦争 国際婦人調査団報告---------------

 下記は、朝鮮戦争に於ける朝鮮民衆の体験をつぶさに調査し、いち早くその犯罪性を告発した国際民主婦人連盟の17カ国
の代表からなる調査団の報告書である。この報告書は24カ国語に翻訳され世界中に衝撃を与えたのみならず、この報告書
を受けて「国際民主法律家協会」が調査団を組織し、調査に乗り出したということでも、重要な役割を果たしたといえる。また、
それがさらに「国際科学委員会」の調査団派遣へと続き、朝鮮戦争において原爆使用を辞さずと宣言していた米国などの動き
を抑制し、朝鮮戦争の停戦を求める国際世論を高揚させる上で果たした役割は計り知れないといわれる。「国連軍の犯罪(民
衆女性から見た朝鮮戦争)」編・解説 藤目ゆき(不二出版)から の抜粋である。(旧字体は新字体にした)
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                             アメリカ軍の残虐行為(付録)
                                                           国際婦人調査団報告

          国際婦人調査団による朝鮮にいるアメリカ軍と李承晩軍の残虐行為調査報告書
      
 国際民主婦人連盟の招きをうけて、さまざまな婦人団体──国際民主婦人連盟やその他の婦人団体──から派遣された代表
として、わたしたちは朝鮮にいるアメリカ軍と李承晩軍のやった残虐行為を調べるために、国際婦人調査団に参加しました。わ
たしたちはヨーロッパ、 アメリカ、アジアそれにアフリカの17カ国を代表しています。調査団のメンバーは、次のような人たちで
す。団長ノラ・ロツド(カナダ)副団長リウ・チンヤン(中国)同イダ・バツハマン(デンマーク)書記ミルセ・スヴァトソヴァ(チェコス
ロヴアキア)副書記トレース・ソエニト・ヘイリゲルス(オランダ)……以下略

・・・

 各民族の、さまざまな宗教や政治的見解をもっているわたしたち婦人──その中には種々な政党員もいるいし、政党に関係
のない人もいる──は、目のまえに一つの共通の仕事をもったのです。つまり、この調査団にわたしたちを派遣した婦人たち
や、全世界の平和を愛する人たちにたいして、わたしたちが見たままの事実を、良心的に正しく伝えるという仕事です。
(……以下略)

第一章

 調査団は、朝鮮と中国の国境の一都市シニジュ(新義洲)をおとずれた。この町は、ほとんど完全に破壊されていた。残っ
た建物はひどくこわれていた。町はいく度も爆撃されたが、被害のほとんど全部は、1950年11月8日の夜3回にわたる空
襲と、11月10日、11日の空襲によるものであった。調査団がシニジュ(新義洲)をおとずれた日には、3回警報がでた。
 シニジュ(新義洲)市人民委員会の公式発表によれば、この町は1950年7月には1万4千戸に12万6千人の住民が住ん
で、働いていた。調査団は、この町にはすこしでも軍需生産に役だつような工業はなかったということをきかされた。町には軽
工業があっただけであ る。つまり、大豆、豆腐(大豆製品)の加工、靴、マッチ、塩、箸の製造である。1950年11月8日この
町は、朝鮮にいるいわゆる国連軍に属する空軍百機の爆撃をうけた。この時、総計3017あった国の家と市の建物のうち
2100が破壊され、住宅11000余戸のう ち6800戸がこわされた。5000人あまりの住民が殺され、そのうちほぼ4000人
は婦人と子供であった。17の小学校のうち16は破壊され町の19の中学校のうち12が焼夷弾で焼かれた。各派17の教会
のうち残ったのはたった2つだけであった。二つの市立病院は国際慣習の規定通りそれぞれ屋根に大きな赤十字をつけてい
たのに、焼夷弾で焼かれた。調査団のメンバーは、残った屋根にこれらの赤十字の跡があるのを見うけた。ある病院では、
26人の患者が焼夷弾の焔で焼け死んだ。調査団は、大きなプロテスタント教会が直撃弾をうけた時、250人の人たちが死
んだということをきいた。調査団が耳にした他のエピソードの中には、市営食堂の爆撃後避難しようとしている間に、30人の
母親と子供が殺されたという話があった。人口の密集している市場地区では2500人の人々が死傷した。11月8日のシニジ
ュ(新義洲)市の負傷者の総数は3155人であった。調査団のメンバーはガラクタの中から掘り出された爆弾の破片をしら
べ、次の記号を書きとめた。Amm.Lot RN-14-29 shell MJ For M 2 a MF MEL 1 Lot-GL-2-116 1944 MJBCA 2 ACT464

(一部略)

 3回にわたる大空襲が、おもに多数の焼夷弾によってやられたことは明らかであった。だが、団員たちは、なぜ被害がこの
ように広くお よんだのか、はじめはわからなかった。たまたま、わたしたちと話しあうために集まった市の、吏員や公衆の人
たちから話をきいて、やっとその理由がわかった。わたしたちと話しあった人たちは、すべて次のようにいっていた。焼夷弾の
最初の波が落とされた時、火を消そうとして街路に飛び出したものは、低く飛んできた飛行機に故意に銃撃された。市が大規
模に焼失したのは、火を消そうとしていた市民を、故意に銃撃したことに原因があった。
 市の一婦人チャン・ユンチャ(張潤子)は、彼女の父親と夫は、焼夷弾で燃え上がった自分たちの家の火を消すために水を
取ってこようとしている時、低空飛行の銃撃で殺されたといった。他の婦人キム・インタン(金仁丹)は11月8日の空襲で3人の
孫と娘をなくしたと 語った。子供たちは、かれらの燃えている家から走ってでる時、低空飛行の銃撃によって殺されたのであ
る。娘は、自分の末っ子を火の中から引きづり出したところを射たれた。キム・ホンユン(金洪潤)は、かれの妻は焼夷弾で燃
え上がった家から走り出したところを、機銃掃射で殺されたと話した。
 シニジュ(新義洲)から平壌へゆく途中で、調査団は、通過した町や村のすべてが、完全にあるいはほとんど完全に破壊され
ているのを見た。それらの町はナムシ(南市)、チェンチュ(定州)、アンジュ(安州)、スクチェン(順川)それにスンアン(順安)で
ある。大部分の村は廃墟同然であった。
                                     以上には1951年5月18日調査団の全員が署名した。


---------------朝鮮戦争 国際婦人調査団報告 第二章---------------

 下記は、朝鮮戦争に於ける朝鮮民衆の体験をつぶさに調査し、いち早くその犯罪性を告発した国際婦人調査団の報告第二章の一部抜粋である。(第一章の一部抜粋はすでにアップロード済み)「国連軍の犯罪(民衆女性から見た朝鮮戦争)」編・解説 藤目ゆき(不二出版)より抜粋。(旧字体は新字体にした)
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                             アメリカ軍の残虐行為(付録)
                                                           国際婦人調査団報告

          国際婦人調査団による朝鮮にいるアメリカ軍と李承晩軍の残虐行為調査報告書

   第二章

 調査団は、朝鮮人民共和国の臨時首都平壌をおとずれた。
 戦前、平壌は40万の人口をもっていた。煉瓦造りや鉄筋コンクリートの、大きな近代建築物がたくさんあった。またたくさんの
近代的なアパートがあったが、それらはかつては、近代式な暖房設備や衛生設備を完全にそなえていたことが、その残骸から
わかった。
 市にはまた非常に多くの工場があった。主な工業は織物、靴、種種の食料品、煙草、酒、ビール、それに肥料の製造であっ
た。 
 平壌にあった主な建物は、一つのオペラ・ハウス、、九つの劇場、二十の映画館、1945年以後に建造され、設備された一つ
の近代的な総合大学、七十三の小学校、二十の中学校、六つの専門学校、四つの工業大学であった。また二十の夜間成人
学校と、戦争勃発当時ほとんど完成されていた。一つの大きな工芸講習所もあった。
 市内は、いまはまったくの廃墟である。市内の旧地域の大部分では、たおれた家の壁だけが、灰とガラクタの山の中に、あち
こちそそりたっている。……(一部略)いままで述べた建物のほかに、多くの教会や市立病院がみんな破壊された。団員たち
は、市内でいちばん大きな小学校の廃墟を調査した。外側の壁の一つには「第七十七野砲隊用」とチョークで書いてあった。
調査団のえた証拠によれば、市内の80%はアメリカ軍が市内から退却する時に破壊した。(アメリカ軍が戦わないで退却し、
市を故意に、計画的に破壊したことは注目すべき大切な事柄である)。破壊は、今日事実上100%にたっしている。それでも
爆撃はやはりつづいている。調査団が市内でまる一日すごすうちに、5回の警報が鳴り、その同じ日に約一週間まえに落とさ
れた時限爆弾が三つ、調査団のメンバーと地方組織の代表者が話し合っていた場所のすぐ近くで爆発した。

(一部略)

 1月3日と4日に破壊された建物のなかには、市内の病院の大部分が含まれていた これらの病院は平らな屋根をもち、6千メートルないし八千メートルの高度からわかるように、どれにも大きな赤十字のしるしがついていた。これらの病院は、少なくとも1個づつの直撃弾をうけた。調査団のメンバーは地方病院の残骸を見学し、三つの大きな爆弾穴をしらべたが、そのうちの二つは深さが約4メートル、一つは7メートルもあった。市立中央病院は30メートルの高度まで降下してきた急降下爆撃機に破壊されたといわれている。
 市の建物ぜんぶが爆撃だけで破壊されたものでないことは、先に延べた通りである。事実、多くのアメリカ軍が退却するとき、爆薬で破壊したか、放火したのである。こうして破壊された建物のうちには、キム・イルセン(金日成)大学、男子中学校、オペラ・ハウス、市の諸施設、多くの食糧工場とすべての政府施設がある。アメリカ軍がこの市から退却する時、かれらは故意に市電んぽ全部に火をつけ、いくつかの橋や水道を爆破したことについても、調査団は報告を受けた。
 市を外れたところで、調査団は、河を見はらす岡の上に立つ有名な仏寺イエンムエン・サ(延命寺)の残骸を見た。二千年の間朝鮮人民の崇敬の的であったこの寺も、爆撃でこわされたのである。広々とした田圃の中にある位置から判断して、爆撃機がなにか他の目標をねらっていたと信ずることはできない。目撃者の証言によると、アメリカ軍が1950年12月平壌を退却した時、寺は無事であった。しかし、1951年1月3日にアメリカ機が多数の強力爆弾、焼夷弾、それに焼夷薬のつまった容器をこの寺にあびせたのである。
 調査団のメンバーはまた、市の有名な博物館をおとずれた。それは破壊をまぬがれたが、2千余年を経ているという有名な二つの仏像もまじえて、その宝物は盗まれていた。有名な考古学者リー・イエセン(李如星)氏は、掠奪された品物の長いリストを、団員たちに見せた。かれはまた、アメリカ軍が博物館に残したものは、北鮮の30の古墳で発見された貴重な壁画の手摺りの模造品だけだったと説明した。これらの古墳のうち6つは、朝鮮婦人を拷問するためにつかわれ、手榴弾で古墳が爆破されたときに、壁画はこわれた。
 調査団がくりかえしきかされたのは、空から市民にむけて機銃掃射をやった例であった。(調査団のメンバー自身も、防備のない田舎のまっ只中で、低空をとぶ飛行機から機銃掃射をうけて、壕に避難せねばならないことがあった。これは、農民が働いているだたっぴろい野良に機銃火をふきかけたわけであるが、前線から数百キロメートル、また市街や軍事目標物からはるかに遠くはなれたところでおこったことである。)……

(一部略)

 団員たちはまた、「強力爆弾GB5143」としるされた爆弾ケースを発見した。この爆弾は、モラン・ボン(牡丹峰)にある殿堂を破壊した爆弾の一つであった。平壌の生残りの住民たちは、原始的ではあるがなんとか工夫した壕や、自分自身で工夫をこらして穴を改造した避難所や、または爆撃された建物の残った壁の内側に住んでいる。それぞれの目的にしたがって4つのグループにわかれた団員たちは4時間近くの間、市のさまざまなところを訪れたが、その間誰一人として、四方の壁と屋根のある家を一軒も見なかった。そして、団員たちは、ガラクタの堆積の中に住んでいる多数の生き残りの家族に出あった。たとえば、カン・ボクセン(姜福善)一家は3才と8ヶ月の子供をまじえた5人家族で、平壌民主婦人同盟のこわれた本部の下の壕に住んでいた。この壕はほぼ1メートルと2メートルの広さで、家族たちは唯一の住家であるこの避難所に行くために、3メートルも深い狭い穴を這ってゆかねばならなかった。土の壁が低すぎて、大人は真直ぐに立てないのである。(以下略)
                                     以上には、1951年5月21日調査団の全員が署名した。


------------朝鮮戦争 国際婦人調査団報告 第三章から結論------------

 朝鮮戦争が始まったのは1950年6月25日であるが、米国は同月27日に国連安全保障理事会を招集し、ソ連欠席の状況のまま、朝鮮民主主義人民共和国を侵略者と決議させるとともに、国連軍を組織して介入した。「国連軍の犯罪(民衆・女性から見た朝鮮戦争)」藤目ゆき編・解説(不二出版)によると、翌1951年年頭朝鮮女性同盟が国連軍の侵略を訴え、国連軍参加国の女性たちに夫や息子を朝鮮に送らないように連帯を求めるアピールを出したという。それに応えて国際民主婦人連盟は朝鮮戦争調査のための女性委員会を組織し調査団を送った。調査団は1951年5月に戦争最中の朝鮮に入り、身の危険を感じながら調査を開始したのである。下記は、その三章から六章と結論の一部抜粋であるが、三章から六章は、一・二章とは異なり、数人ずつのグループに分かれて、様々な場所に調査に入り、それぞれのグループの参加者が調査結果をまとめて署名するというかたちのものである。一・二章同様「国連軍の犯罪(民衆女性から見た朝鮮戦争)」編・解説 藤目ゆき(不二出版)からの抜粋である。
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                          アメリカ軍の残虐行為(付録)
                                                           国際婦人調査団報告
           国際婦人調査団による朝鮮にいるアメリカ軍と李承晩軍の残虐行為調査報告書

 第三章

 調査団のメンバーは、ワンハイ(黄海)道にゆき、アナク(安岳)、シンチェン(信川)の町をおとずれた。この訪問に参加したのはエヴァ・ブリースター(オーストラリア)リ・ケン(中国)、カンデラリア・ロドリゲス(キューバ)ノラ・K・ロツド(カナダ)、マリア・オヴシヤンニコワ(ソ連)、モニカ・フエルトン(イギリス)であった。
 調査団は、ワンハイ(黄海)道の全域で12万人が占領軍に殺され、それに加えて多くの人々が空襲で殺されたということをはっきりとたしかめた。アナク(安岳)市では、19092人がアメリカ、イギリス、李承晩軍に殺されたということである。アナク(安岳)市では、調査団のメンバーは、戦前は農民銀行の倉庫であったが、アメリカ軍が牢獄に変えた建物をおとずれた。それは、、それぞれ、長さ4メートル、巾3メートルの5つの監房に区切られていた。証人たちは、これらの監房はいっぱいになって、すわることができなかったといった。
 スンサン・リ(崇山里)街194番地の一農婦ハン・ナクソン(韓洛善)は、かの女の夫キム・ボククアン(金奉寛)と義弟キム・ボククオン(金奉均)が1950年11月10日につかまり、この牢獄に投げこまれたと調査団に話した。この逮捕は二人のアメリカ人と4人の李承晩軍の兵隊によって行われた。かの女は逃げだしてかくれた。かの女は、また次のように話した。かの女の夫や義弟その他の4人は、みんな農民か労働者であり、どこかの役人であったり、労働党員であるものは一人もいなかった。多くの子供たち──その中には2才の子供もいた──が、母親といっしょにこの牢獄に入れられた。囚人たちは、15日間食物なしで監禁され、鉄棒でなぐられた。これらの殴打はアメリカ軍将校の命令で、李承晩軍の兵隊によって行われた。1951年11月25日、婦人や子供をまじえた囚人たちは、丘につれだされ、堀の中に生き埋めにされた。
 もう一人の証人キム・サンイエン(金相延)──かれはセサン・リ(世山里)街172番地に住んでいる──という年配の男は、次のように話した。かれの12人の家族は、息子、息子の妻、孫二人もまじえて全部つかまった。最初は、かれ自身が何が起こったのかわからなかった。後になってかれらは丘につれて行かれ、殺されたことを知った。市が解放されてから、かれは、かれらの死体をさがしに行き、息子と息子の妻がいっしょに縄でしばられている遺骸を見つけた。どの死体にも傷がないので、キム・サンイエン(金相延)は、かれらが生き埋めにされたのだと判断した。かれの息子は国営工場で働き、突撃労働者であったというので逮捕された。かれ自身も、10月18日につかまったが、同29日に釈放された。最後に、かれは団員たちに、かれ自身常日頃信仰ぶかい人間であったので、キリスト教徒であるアメリカ人の善行を期待しており、このような残虐行為をアメリカ人がやるなどとは、とても想像できなかったと語った。
 調査団のメンバーは、それからもう一つの監獄をおとずれた。ここでも、団員たちは、囚人がすわったり、横になったりする余地がなかったということをきかされた。囚人を殴るためにつかった道具を見せられたが、それらはアメリカ陸軍の野球用バットと同じ物であった。(このバットは証拠品としてもって帰った)。監房の外側の廊下には、血痕がはっきりと見られた。
 ……(以下略)
         以上には、黄海道をおとずれた調査団のメンバーの全員が署名した。
         1951年5月26日


 第四章

 平安南道南浦(日本帝国主義時代の鎮南浦)と、江西の調査報告。1951年5月22日──23日。
 参加者、ジレット・ジーグレル(フランス)、フアトマ・ベン・スリマン(チュニジア)、アバシシア・フオデイル(アルジェリア)、リ・チケ(ヴイエトナム)、イダ・バツハマン(デンマーク)、カーテ・フレロン・ヤコブセン(デンマーク、オブザーヴァー)。
 南浦は爆撃をうけるまえ、6万人の人口をもっていた。いまではほぼその半分が町から出ていった。
 われわれは、平安南道人民委員会委員長ソク・チヤンナム(石昌男)から、南浦にはぜんぜん軍需工業はなく、おもな工業はガラス、繊維、製陶、化学肥料であったという報告をきいた。もちろん、南浦には黄海に面する海港ではあるが、商業上でも、軍事上でも港としては重要でない。というのは、海が浅いからである。
 市には2万の建物があった。工業大学、農業大学、劇場が一つずつあったが、今ではみんなこわされてしまった。市の13の病院には、ぜんぶ赤十字の印をつけておいたが、焼夷弾でひどくこわされ、そのたった一つに修繕がきくだけである。26の学校のうち、つかえるのはたった2校しかのこらず、小っぽけな教会たった一つが、やっと破壊をまぬがれた。
 南浦のアメリカ軍選良は、1950年10月22日から12月5日までつづいた。その間に、たくさんの建物がやかれた。いっさいの食糧が破棄された。占領中、アメリカ軍は1151人の人を野獣的に殺した。そのうちの半分以上は、女子供であった。
 南浦はたえまなく爆撃されたが、一番ひどい爆撃は1951年5月6日のそれであった。わたしたちは市内を乗りまわし、また方々で車をとめて調査した。見わたすかぎり、ほとんどすべての家が完全にこわされて、地面の爆弾穴、ガラクタの山、いく本かの煙突が、以前そこに家のあったことをやっと示していた。残った建物はひどい被害をうけていた。わたしたちが立ち止まったところでは、どこでも、わたしたちのまわりに人々があつまって、かれらの最近の悲劇、かれらの近親の死亡と、家の焼失のことをわたしたちに話し、アメリカ軍に拷問されて、うけた傷を見せてくれた。
 市内のヨンドン・リ(永洞里)地区は、生存者の一人がいったように、墓場にかわってしまった。それぞれの家族ごとに、3─4人、ときには10人の家族をうしなった。一部が岡の上にあるこの地区では壁は一つものこっておらず、木々は黒焦げの幹がひかっているだけであった。一つの爆発穴のふちにたって、リ・タンエアウ(李東華─42才)という男はいった。「ここにわたしの家がありました。5月の爆撃のとき、家族の6人、家内に、2人の子供、3人の親類──をなくしました。わたしたち朝鮮人はわが国をまもります。どうか、国際婦人連盟は朝鮮のこの事業をまもって下さい。」キム・スヨン(金水永)というもう一人の男は、かれの家族10人をみんななくした。かれはいった。「朝鮮人はみんな一人のように団結しています。わたしは、わたしの感情をうまく表現できませんが、世界はきっとわかってくれるでしょう。」
 ほかの人たちは復讐をさけんでいた。
 この同じほかの地区では、わたしたちは、ひどい火傷の治療をする臨時病院をおとずれたが、それは深い地下につくってあった。それは、広さ1メートル半ばかりの低いむきだしの廊下で、岩をくりぬいて17台の寝台をおくだけの場所であった。
 ……(以下略)
       上記には、平安南道をおとずれた調査団のメンバーの全員が署名した。


 第五章

 1951年5月22日から24日まで、代表者の一団
 リウ・チニャン(中国)
 ジエルメン・アンネヴァル(ベルギー)
 エリザベエタ・ガロ(イタリア)
 ミルセ・スヴアトソヴア(チェッコスロバキア)
は、江原道文川郡のマズエン(万先)村(平壌から150キロ、元山から48キロ)と、おなじく江原道の元山港を視察した。
 代表団は平壌、江東、山東の諸郡を通過したが、これらはほとんどみんな焼けうせていた。また代表団は有名な温泉地陽徳を通過した。陽徳はいまではガラクタと廃墟のかたまりにすぎなくなっていて、その中には中学校の残骸もまじっていた。わたしたちは、夜農民が畑をたがやしているのをみた。というのは、ひる間たがやすと、アメリカ機が機銃攻撃をくわえるからである。畑はていねいにたがやされていた。
 マズエン・リ(万先里)では、農民たちは、夜しか仕事ができないのに、春の百姓仕事がふつうよりも早目におわったと、わたしたちに話した。
 マズエン・リのまわりで、代表団は、山や森や田畑や村におちてきたアメリカの焼夷弾で、ひろい山林地帯がやけてしまっているのを見た。
 マズエン・リの住民がわたしたちに話したところによると、5月23日の夜、アメリカ機が村に3つの爆弾をおとし、いく軒かの家をこわしたということである。
 キム・ソンイル(金松律)という農民は、つぎのような話をした。アメリカ軍は、1950年10月14日から12月5日まで、マズエン・リを占領していた。かれらは人民軍と5日間戦ったのち、村に侵入してきた。占領期間中、かれらは人民軍に包囲されていたので、自分たちの陣営を有利にするため、ふきんの村々をやきはらい、逃げなかった住民をつかまえ、マズエン・リにこしらえた仮監にぶちこんだ。数日してから、かれらはいく人かの婦人を釈放したが、かの女たちは山に逃げこむか、自分の家の廃墟のなかにかくれてしまった。みんなでおよそ5百人が投獄され、54人が殺され、76人が元山におくられ、いまだに行方がわからない。
……(以下略)
      この章には、北江原道をおとずれた調査団のメンバーの全員が署名した。


 第六章

 調査団のつぎのメンバーからなる一団は、朝鮮北部を視察した。
 ヒルデ・カーン(ドイツ民主共和国)
 リリー・ヴェヒター(西ドイツ)
 バイ・ラン(中国)
 トレース・ソエニト・ヘイリゲルス(オランダ)
 旅行は平壌から介川、それから煕川、江界、満浦にゆき、平壌にひきかえした。
 平壌から介川にゆく途中、調査団のメンバーは4つの小さな町──それはほとんどかんぜんにこわされていた──と、その他たくさんの焼けうせた村や農民の住宅を見た。
 メンバーは、旅行の全行程で、こわれていない町は一つも見なかったし、被害をうけていない村もすくなかった。
 調査団のメンバーは6つの山火事をみたが、そのうち2つは自分らの面前で火がついた。
 ──一つは平壌と介川のあいだで、もう一つは煕川と介川のあいだで。両方の場合とも飛行機の音がきこえ、調査団のメンバーは、地面から火柱のたつのをみたが、そのすぐ後でもえさかる火が見え、それは突然急速にひろがりはじめた。メンバーは、火が木の枝にもえうつるのを見た。この旅行の途中、調査団のメンバーは、山火事で黒くなった山腹をたくさん見かけた。
……(以下略)
 この章には、介川、煕川、江界、満浦をおとずれた調査団のメンバーの全員が1951年5月27日署名した。


 結論

 調査団のメンバーが、朝鮮の各地でいろいろの調査をしたのち、調査団は、つぎのような結論にたどりついた。
 朝鮮の人民は、アメリカ占領軍から、無慈悲で系統的な絶滅作戦をうけているが、これは人道の原則に反するばかりか、たとえばハーグやジュネーヴできめた戦争法規にも反するものである。それはつぎのような方法でやられている。
 (a)食糧、食糧貯蔵と食糧工場の系統的な破壊によって。森林や熟れた作物は焼夷弾で系統的にやかれ、果樹は切りたおされ、野良で家畜をつかって働いている農民は低空をとぶ飛行機から機銃掃射を浴びて殺されている。こういう方法で、朝鮮の人民ぜんたいが飢餓の運命にさらされている。
 (b)町から町を村から村を、つぎつぎに系統的にこわすことによって。これらの町や村の大多数は、どんなに想像をたくましくしても、軍事目標とは考えられないし、工業中心地とさえも考えられない。この系統的な破壊目的は、まず第一に朝鮮人の斗志をうちくだくこと、第二にかれらを肉体的に消耗させることであるのは明らかである。この止むことのない空襲で、住宅、病院、学校などが計画的にこわされている。灰のかたまりになってしまった町。生きのこった住民が防空壕のなかにすむほかない町にさえ、なお爆撃はつづいている。
 (c)国際法で禁止されている兵器を系統的につかうことによって。つまり焼夷弾、石油爆弾、ナパーム弾、時限爆弾、それに低空をとぶ飛行機から市民をたえず機銃掃射することによって。 
 (d)朝鮮人を残虐にみなごろしすることによって。アメリカ軍や李承晩軍が一時占領した地域では、占領期間中に、数十万の市民、老人から子供までまじえた家族のぜんぶが、拷問され、打ち殺され、焼かれ、生埋めにされた。そのほか数千数万人は、せりあうような監獄のなかで、飢えと寒さで死んでいった。これらの人びとは、何の罪もなければ、取り調べも、裁判も判決のいいわたしもなく、監獄にぶちこまれたのである。 
 これらの大衆的拷問と大衆的虐殺は、ヒトラー・ナチスが、その一時占領したヨーロッパでやったより以上のものである。
 質問をうけたすべての市民のした証言は、これらの犯罪のほとんど全部が、アメリカ軍の兵隊や将校がやったものであり、そうでない場合でもアメリカ軍将校の命令でやられたものであることを示している。だから、これらの残虐行為の全責任は、朝鮮のアメリカ軍総司令官、つまりマッカサー将軍、リッジウェイ将軍、そして自分のことを国連軍といっている侵略軍のその他の司令官が負うべきものである。これらの残虐行為は、前線の将校の命令によってなされたものであるが、その責任は、自分の軍隊を朝鮮におくり、その国連代表が朝鮮戦争にさんせいの投票をした政府にもある。
 調査団は、朝鮮にたいしてやった犯罪の責任者は、1943年の連合国宣言にきめてある、戦争犯罪のかどで告訴されねばならぬし、おなじ宣言に定めてあるように、世界の人民によって裁判されねばならぬと自分たちは確信をあきらかにする。
……(以下略)

 この報告書は、英語、フランス語、ロシア語、中国語、朝鮮語の5カ国語でつくった。


------------朝鮮戦争 米外交文書(公電・訓電)と開戦の原因------------

 当然のことながら、朝鮮戦争開戦の原因については、南北それぞれ相手側の侵略で始まったと主張し対立しているわけであるが、すでに公表されている下記のようなアメリカの外交文書(生々しい公電・訓電のやり取り)を読むと、ある程度その真実に近づけるように思われる。もちろん、韓国の李承晩政権を”アメリカの傀儡政権”と位置づけていた北朝鮮の主張についてもいろいろな面から検討しなければな らないと思う。しかし、開戦の原因やその状況についてまとめた北朝鮮側の書物を探しているが、残念ながら未だ手に入れることができない。( 北朝鮮におけるアメリカ軍や国連軍の残虐行為については、すでに三つの調査団の報告を抜粋した)朝鮮戦争開戦に関わるアメリカの外交文書については「朝鮮戦争の六日間<国連安保理と舞台裏>」瀬田宏(六興出版)からところどころを抜粋した。
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               公電(925号・926号)訓電(612号・613号)と開戦の原因


 開戦の第一報は、ワシントン時間(米東部夏時間)6月24日、土曜日の午後9時26分、受信されている。北朝鮮軍が火ぶたを切って から約6時間半後である。この公電925号の発信者は、ジョン・J・ムチオ駐韓米大使。受取人はW・ディーン・アチソン国務長官であった。「コンフィデンシャル(極秘)」となっていた。内容は以下の通りである。

「韓国軍の報告──その一部は在韓米軍事顧問団の報告によって確認されている──によると、北朝鮮軍はけさ(韓国時間6月25日朝) 数地点で韓国領内に侵入した。作戦行動は午前4時(米東部夏時間6月24日午後3時)ごろ開始され、甕津が北朝鮮軍の砲撃を受けた。6時頃、北朝鮮軍が甕津地区、開城地区、春川地区で38度線を越えたほか、東海岸のの江陵南方で上陸作戦が行われたと伝えられる。開城は、戦車約10両の加わった北朝鮮軍に午前9時占領されたと伝えられる。戦車を先頭にした北朝鮮軍は春川に接近中と伝えられる。江陵地区では、北朝鮮軍は国道を分断したようだが、戦闘の詳細は不明である。けさ、在韓米軍顧問、韓国当局者(いずれも複数)と協議中。開始された攻撃の性格と方法からみて、韓国に対する全面攻勢と思われる。
                                                                  ムチオ」

 ワシントンでは、ムチオ大使からの公電と入れ違いに、アチソン国務長官が在韓米大使館あてに短い訓電612号を送っていた。発信時間は米東部夏時間6月24日午後10時。
 「UP(現在のUPI)至急報は今夜(米東部夏時間24日夜)北朝鮮軍が境界線を越えて全面攻撃を開始したと報じている。戦車多数が使われている。(韓国)陸軍第1師団は敗退中と伝えられる。ジャック・ジェームス(UP韓国特派員)の記事。至急協議せよ。
                                                                アチソン」

 国務省が、安保理開催に向けてフル回転し始めて間もなく、ムチオ大使から2本目の公電926号が入ってきた。宛先はアチソン長官。 受信時間は米東部夏時間6月24日午後11時47分。在韓米軍事顧問団の放送「WVTP」を通じて行われた。戦争発生と、その後の戦 況などについてのムチオ大使の米軍要員向け発表を報告してきたものであった。開戦直後の緊迫した空気が文面にあふれていた。
 「本日(韓国時間25日)午後1時軍事顧問団放送を通じて以下の発表が行われつつある。
 『特別発表があるのでまってほしい。
  WVTPは、次の発表を行うことを大使から認められた。
  けさ4時、北朝鮮軍部隊が北緯38度線ぞいの数カ所で韓国の防衛地点に対して、いわれのない攻撃を開始した。現在、戦闘が38度線ぞいの数地点で進行中である。
 韓国国防軍は用意された陣地につき、北側の侵略に抵抗しつつある。韓国政府と軍は、いずれも情勢を冷静に処理中である。しかし、今のところ、北側の共産主義者が全面戦争への突入を意図しているかどうか分からない。新しい情勢は、この放送局を通じて定期的にお伝えする。ダイヤルを引き続きWVTPに合わせておいてほしい。
 軍要員は、必要なもの以外、旅行はできるだけ控えるようにおすすめする。大使は軍要員に対し、自宅か自分の部署にとどまるよう要求している。次の発表は午後3時に放送する』
                                                                  ムチオ」

 午前2時、今度はワシントンからソウルに訓電613号が飛んだ。「コンフィデンシャル」扱いである。
 「6月25日付至急電925号、同926号受信。国連安保理の行動を計画中。引き続き細大漏らさず報告の要あり。米政府全機関は警戒態勢に入った。
                                                                 アチソン」 

 今でこそ、韓国軍は陸、海、空、海兵隊四軍合わせて正規軍の兵力60万1千人、このほか正規軍予備役152万2千人、現役除隊者による郷土予備軍330万人と、自由世界アジアでは最大の勢力を誇り、装備も戦車、ミサイル、戦闘機など、近代兵器を持っているが、36年前はその日の食糧にもこと欠く状態だった。北朝鮮軍が越境してきた6月25日は、前にも述べたように日曜日で、兵舎はもぬけの カラだったという。皆週末を家族と過ごすため、営外宿泊を認めていたからだった。韓国軍首脳部は、不足する食糧を少しでも節約しようと、苦肉の策を講じたのである。
 無論、こうした慣行は北朝鮮側に筒抜けになっていたに違いない。日曜日の朝を選んで攻撃を開始したのも、韓国軍の防衛ラインが手薄になるの知っていたからだろう。韓国軍側は、北朝鮮の侵攻など、夢にも考えていなかった。北朝鮮軍が大兵力を集結しているとの情報を事前につかんでいたら、兵舎を空にするようなことはしなかったはずである。常に有事に備えていなければならない最前線の指揮官白善燁陸軍大佐でさえ、北朝鮮軍の南下を全く予期せず、部下が息せき切って敵軍の接近を知らせてきた時、前夜、景気よくあおった焼酎のおかげで、頭も上がらぬ二日酔い状態だったという。
 
 ……北朝鮮軍は開戦4日目の6月28日ソウルを占領した。38度線からソウルまでは直線距離で約45キロしかないが、ヒトラーの電 撃戦に匹敵するスピードであった。


 北朝鮮軍の南進がスターリン書記長の意思によるものであったかどうかは別として、北側に南への侵攻を決意させる誘因が、確かに存在していた。その一つは、米国の韓国向け援助の内容である。そのころ、米国の援助は、日本に対すると同様に、食糧に重点がおかれていた。軍事援助はタカが知れていた。米国議会は韓国向け援助には関心が薄く、特に下院外交委員会は、軍事援助に難色を示した。それは、米軍部が、韓国を防衛することはできないとの見方を持ち、議会でそう証言していたからでもあった。北から本格的な攻撃が行われた場合、朝鮮半島は戦略的に防衛不能であるというのである。このため、韓国国民に向けたさまざまな形の援助が大量に注ぎ込まれていたが、韓国軍に対しては、小火器と防衛用システムが供与されただけで、北朝鮮軍の航空機や戦車と対抗できる兵器は、何もあたえられなかった。こうした韓国軍の弱体ぶりは、北朝鮮軍は十分に承知していたし、北朝鮮軍を南進に駆り立てる誘因の一つとなったとされている。
 韓国側も米国に対して、防衛兵器を供与するよう特に強い要求は持ち出さなかった。「自由で独立した統一朝鮮の実現」というのが米国の政策であったし、李承晩大統領は、北朝鮮の国民が自分の到着を待ち望んであり、北に行けば熱狂的な歓迎を受け、朝鮮は統一されると信じ込んでいたという。朝鮮戦争に先立ち、38度線ぞいに頻発していた南北間の衝突について、米側では、韓国軍が北進するのではないかと、警戒さえしていた。
 北朝鮮軍南進の誘因となったと見られるもう一つの要素は、1950年1月12日のアチソン国務長官の演説があげられている。アチソ ン長官はこの日、ワシントンのナショナル・プレスクラブで、米国のアジア政策全般について、その方針をあきらかにしたもので、太平洋 における米国の防衛圏内に韓国と台湾は入らないことを示唆していた。全文ざっと7千語、おそらく1時間はたっぷりかかったと思われる 長い演説の中から、問題の箇所をを取り出してみよう。
 「太平洋地域の軍事的安全保障についての情勢はどうなっているか。また、この点に関するわれわれの政策はどうなっているか。第一に、日本の敗北と武装解除によって、われわれの安全保障のために、全太平洋地域の安全保障のために、特に、日本の安全保障のために必要とされる限り、米国が日本の軍事的防衛を引き受けなければならなくなった。私は、日本の防衛を放棄するとか、弱めるとかするつもりは毛頭ないこと、防衛は続けなければならないし、また続けられるであろうことを保証する」
 「この防衛圏は、アリューシャン列島から日本へ達し、次いで琉球諸島に伸びている。われわれは琉球諸島に重要な防衛陣地を維持しており、引き続き維持する。琉球諸島の住民のために、われわれはこれらの諸島を国連の信託統治の下におくよう適当な時期に提案するつもりである。しかし、これらの諸島は太平洋防衛圏の極めて重要な部分であり、これら諸島はいじされなければならないし、維持されるであろう」
 「この防衛圏は、琉球諸島からフィリピン群島に到達している。フィリピンとわれわれの関係、われわれの防衛に関する関係は、両国の 諸取り決めの中に含まれている」
 アチソン長官が、「米国の防衛圏」について述べた部分には「韓国」も「台湾」も出てこない。……

 
 もっとも、アチソン長官はその後で「日本に対しては、われわれは直接責任を負っており、機会があれば直ちに行動する。韓国についても、より小さい度合いで同様のことが言える」と明言しているが、こうした表現では、韓国は米国の太平洋防衛圏内に入っていないと受け 止める方が自然であろう。スターリン書記長は、この演説について知らされ、朝鮮半島で事を起こしても、米国は介入しないと判断したのではなかろうか。
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 アチソン長官の演説で「韓国」が「米国の防衛圏」入っていないことを知ったスターリンが、米国は介入しないと判断し、北朝鮮(金日成)に38度線を越えて南進することを許可したのではないかと考えられているのである。

-NO254~260


------------牡丹社事件(宮古島民台湾遭難事件)と台湾出兵------------

 「宮古島民台湾遭難事件ー宮古島歴史物語」宮國文雄著(那覇出版社)には、牡丹社事件のかなり詳しい顛末が記されている。
 その事件は、1871年秋に発生した。宮古、八重山の春立船4隻(宮古船2隻、八重山船2隻)が首里王府に年貢を納め終え帰途についた時のことである。4隻とも12端帆の当時としてはかなり大きな船であったようであるが、台風に遭遇し、まるで木の葉のように波にもて遊ばれ離ればなれになって、宮古船の1隻だけが宮古島にたどり着いたという。八重山船の1隻は行方不明のままであり、結局、残り2隻は漂流の後、台湾に漂着したのである。八重山船は西海岸に漂着したため、すぐに台湾府に保護されたが、宮古船は、台湾の南端、八瑤湾(ハチョウワン)に漂着し、言葉の通じない「牡丹社」というパイワン族の村落に迷い込んで、54名もの人たちが殺害されることになったのである。
 
 八瑤湾(ハチョウワン)に漂着した宮古船には、頭職仲宗根玄安を含む19人の役人と、従内と称する士族の随行者11名、供と称する平民の随行者21名及び船頭を含む乗組員18名の合計69人が乗っていたが、まだ波荒く危険な状況の中、我先に伝馬船に飛び乗り上陸しようとしたため、3人が波にさらわれ、溺死することになったようである。

 無事に上陸を果たした66人は、何という島かも分からないまま彷徨い、2人の男に出会っている。そして、言葉が通じないために、意思疎通がうまくできないながらも、彼等を案内人としてしばらくついていったようである。しかしながら、持ち物を略奪されるなどしたため、途中で案内を断っている。そして、その2人が「西の方に行くと耳の大きな人が住んでいて人の頭を切り取る風習がある。だから南のほうに行く方が良い」と指摘していたにもかかわらず西の方へ向い、野宿をしながら進んでいる。

 たどり着いた村は、当時の蕃社の一つで、『高士沸(クスクス)』(現牡丹郷高士)といわれる首狩りの風習が残るところであったという。ここで食事を与えられ救助されたものと思っていると、まもなく持ち物をほとんど奪われる。異常な様子の村人や蕃刀を持つ男の挙動に不信をいだいた漂着者たちは再び逃げ出す。そして「凌老生(リョウロウセイ)」という言葉の通じる老人に出会い保護されるが、追ってきた高
士沸社と牡丹社の人々は凌老生に引き渡しを迫まる。凌老生は命がけで漂着者達をかばったようであるが、蕃社の人々は、次々に漂着者達を連れ出し殺害したようである。異常な事態に気づいた漂着者達は再び四散して逃げた。そこでも、凌老生は素早く9人をかくまっている。蕃社の人々の首切りは、凌老生が2樽の酒を出せなかったために始まったという。酒に代わるものをいろいろ提示して哀願したが次々に連れ出され殺害されたというのである。

 逃げ出した漂着者のうちの3人が、「鄧天保」という人の家に逃げ込み助けられている。鄧天保は3人から事の次第を聞き、すぐに生存者の捜索に当たり6人を保護している。そして、統捕に急行し、通事の「林阿九」に事の次第を話し保護を求めたのである。林阿九は早速救助にかかり、保力庄の総頭「楊友旺」に事件の報告をして保護を求めた。楊友旺は、9人を保護するとともに、残る人々の捜索に出かけて 、さらに2人を救助したのである。また、宮古人が蕃社の人に捕らえられ留置されているという情報を得て楊友旺はすぐに駆けつけ、私財を投じて救出したという。その後12名の人々を自宅に40日間保護し、衰弱している体力の回復を図る一方で、台湾府城へ送り届ける準備を進めたのである。

 その後遭難者達12名は、楊友旺の長男に付き添われて保力庄を出発、車城に至り、車城からは海路楓港に向かい、楓港からはまた陸路で鳳山県に向かったのである。鳳山県の役人に引き渡すまで漂流者達を世話した楊友旺は、大変な負担を引き受けたことになる。漂流者達は鳳山県を出発した後は、途中で一泊して台湾府城に到着しているが、ここで、台湾の西海岸に漂着し、季成忠という人に救助された八重山船の一行と合流している。そして、その後琉球館の保護を受け、約7ヶ月半後の明治5年6月2日福州を出発して6月7日那覇に戻ったという。

 この牡丹社事件(宮古島民台湾遭難事件)の報告を受けた鹿児島県参事官大山綱良は、すぐ明治政府に事件の詳細を報告するとともに、台湾の生蕃を征伐したいと申し出ているが認められていない。さらに、54名もの人々が殺害された琉球藩からは、できるだけ穏やかに事件の処理をしてほしいとの嘆願書が出されていた。にもかかわらず、日本は2年以上が経過した1874年に台湾に出兵(征討軍3000名)するのである。まさに帝国主義的領土拡張の口実に利用されたとしか考えられない。「宮古島民台湾遭難事件ー宮古島歴史物語」宮國文雄著(那覇出版社)より、そのへんの事情を考察した部分を抜粋する。
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                               第2章 台湾征伐
 第3節 征韓に代わるもの

 西郷などが征韓論に敗れ、政府の主導権争いから下野して後に政府の頭痛の種は不平士族の問題であった。その解決策の一つとして、外征に依る下級武士の救済が必要欠くべからざる事となっていた。外征に依って下級武士を軍人として雇用することに依り彼等の経済的窮状を救うことが出来るのである。加えて農民や職人及び商人等の不満の目をそこに向けさせ、その間に政府の足腰を鍛えておき権力基盤の確立を図る。そのための外征が必要であった。政府がここで着目したのが台湾征伐である。

 明治4年11月の宮古島島民遭難事件に端を発して、早くも明治5年には大山綱良等旧薩摩藩士や長州藩士、土佐藩士等の間に台湾征伐論が台頭してきた。特に鹿児島県の士族達の間には征台について熱心な者が多く、大山綱良に至っては自ら兵を率いて台湾征伐をしたいと政府に申し出る有様で、実に好戦的でさえあった。鹿児島県参事たる大山綱良にとっては一つには鹿児島県内の下級武士の救済がその目的であり、琉球藩民は鹿児島県から見れば彼等の支配下にある者達である。それを54名も殺されて黙っている訳にはいかないと言う訳である。

 ところが、琉球藩は、清国との交流が長く続いており、親しい間柄であるため、清国に対する配慮からことを穏やかに納めたいという思いがあった。琉球藩からは鹿児島県に対して又日本政府に対しても『生存者達は清国政府関係者によって厚遇された上に送りかえされて来たのだから、出来るだけ穏やかに事件の処理をしてほしい』という嘆願書が出されていた。政府は琉球の特殊事情を知っており、加えて清国との国交関係の悪化を恐れて、大山等に対し出兵を許可しなかった。しかし、この際、琉球の帰属ついては政府は断固たる意思表示をしなければならない時期でもあった。清国に対して早晩その事についてはっきりさせなければならないということは政府の基本方針となっていた。

 従来、琉球国は日清両属の国であった。すなわち慶長14年、薩摩の琉球国に対する武力侵略以来約300年間、琉球は薩摩の植民地的支配の属国となっており、国政全般に亘って薩摩の監督下に置かれていた。薩摩は侵略直後に検地を行い、琉球国全体の総石数を算定してそれをもとに課税し、毎年膨大な年貢を薩摩に納めさせていた。一方、薩摩の侵略はるか以前から代々中国との交易を行い、琉球国王は清国皇帝に依って代々冊封を受けて来た。そのため清国は琉球国にとっては親国的な存在であった。

 薩摩は侵略後も琉球と清国との関係はそのまま維持させ、その交易に依る収入を全て吸い上げるという寄生虫的支配を行って来た。もっとも薩摩の琉球侵略の目的の第1が、この清琉貿易の利益の略奪であった。寄生虫どころか強盗にも等しい所業に依って琉球住民を吐炭(塗炭?)の苦しみに追いやっていた訳である。

明治政府は、そうした諸々の事情から琉球は日本の領土であるとして維新後は琉球国を吸収合併するための諸々の施策を講じてきた。明治5年には琉球国を琉球藩と強制的に改めさせ、琉球国王尚泰を琉球藩王と改めさせた。
 こうして琉球国はその帰属をだんだん日本側に移されて行き、明治12年には一方的に琉球処分を行い、琉球藩をして沖縄県となし、正式に日本の一部として併合した。

 明治5年に大山綱良に依って提出された上陳書によって日本政府は琉球宮古島民の台湾遭難事件を知った。しかし、当時の日本国内は諸々の国内情勢に依り征台の挙に出ることは出来なかった。しかし、明治6年になると、下級武士達の処遇の問題や、国内の不平不満民衆の宣撫の為にも何等かの手を打って国民の目を国外にそらす必要に迫られていた。その他、対清国との外交問題が続出し、清国との交渉等で苦慮していた。政府は、ここで弱腰をみせる訳にはいかぬと腹を決め、強気の外交に転ずることになる。琉球藩民殺害事件は、まさしく良い口実を与えることになる。政府は清国に対し、この事件に関する問罪の師を派遣することを決議した。

 明治6年3月9日、明治天皇は副島種臣に勅語を賜り、問罪の為の全権大使として清国に派遣し、その審理をを行わしめた。……

 ・・・(以下略)

---------------霧社事件(台湾山地原住民の抗日蜂起)--------------

 霧社事件とは、日本統治時代の台湾における山地原住民の「抗日蜂起」といえる事件である。それは台湾統治も日本の植民地政策の成功例ではなかったことを示している。いや、むしろ日本のアジア諸国に対する差別的植民地支配を象徴する事件であると思う。

 1930年(昭和5年)10月27日、日本人児童が通う霧社尋常小学校と地元民児童が通う霧社公学校および蕃童教育所の連合運動会に参集した数百名に、山地原住民が襲いかかり、日本人を狙って136名を殺害したのである。その中に、日本人の装いをしていたためにあやまって殺された4歳の子どもと、山地原住民に暴行を加えた四ツ倉商店の店員の2人の漢民族が含まれていたが、大勢の人たちが逃げまどう大混乱の情況の中で誤殺は事実上たった一人であったわけである。極めて計画的で組織的な抗日蜂起であったことが分かる。

 下記は、「昭和5年 台湾蕃地 霧社事件史」(台湾軍司令部編刊)よりの抜粋である。日本人だけを狙ったことに触れていない点や「…蕃人壮丁約300名突如トシテ暴動ヲ起シ…」とか「兇蕃…」などの表現が気になるところであるが、霧社事件の事実経過は簡潔にまとめられていると思う。
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                         昭和5年 台湾蕃地 霧社事件史

 第1章 概説(附図第1第5参照)

事件勃発ノ地タル霧社ハ台中州能高郡下ノ蕃界ニシテ有名ナル日月潭ノ東北ニ位シ附近ハ海抜数千尺ニ達スル所謂能高ノ高山地帯ナリ

霧社蕃ハ本島蕃界中蕃童教育ノ最モ進歩セル所ノ一ニシテ他蕃ニ於テハ僅ニ蕃童教育所ト称スル不完全ナル教育機関ヲ有スルニ過ザルモ同地ニ於テハ本島公学校令ニ依ル霧社公学校ヲ設ケ孜々児童ノ教化ニ努メ来タリ特ニ毎年一回慣例的ニ学芸会及運動会ヲ盛大ニ催スヲ例トセリ

事件勃発ノ当時10月26、7ノ両日ハ恰モ学芸会及運動会ノ開催日ニシテ能高郡ヨリ群守以下視学等前日ヨリ出張滞在シアリ26日無事学芸会ヲ修了シ27日ハ運動会ノ当日トテ早朝ヨリ附近在住ノ内台人ハ勿論各蕃社ノ蕃人等老幼男女数百名参集シ学校及霧社警察分室職員等ハ午前8時開会ノ予定ヲ以テ之カ準備ヲ整ヘアリシカ軈(ヤガ)テ定刻ニ至リ開会セシ刹那「マヘボ」「ボアルン」「ホーゴー」「ロードフ」「タロワン」「スーク」ノ6社ノ蕃人壮丁約300名突如トシテ暴動ヲ起シ「マヘボ」頭目「モーナルダオ」之ヲ指揮シ会場内ニ闖入シ(兇行蕃人ノ多クハ当初ヨリ参観シアラス)居合ハセタル内地人官民並学童ノ大部分ヲ銃器、蕃刀又ハ竹槍ヲ以テ虐殺シ同時ニ霧社警察分室ヲ始メ学校、郵便局並各職員宿舎及民家ヲ襲ヒ職員、家族ヲ殺戮スルト共ニ分室ニ在リシ銃器、弾薬、糧食、家具、衣類等全部ヲ掠
奪セリ此間兇蕃ノ一部ハ附近ノ通信機関及橋梁ヲ破壊シテ外部トノ連絡ヲ遮断シ同日未明ヨリ午後ニ亘リ霧社附近13箇所ノ駐在所ヲ襲ヒ其大部ヲ焼却シテ霧社同様ノ暴虐ヲ恣ニシ世人ヲシテ近代未聞ノ惨劇ニ驚愕惜ク能ハサラシメタリ

此報一度伝ハルヤ時ヲ移サス州下警官隊先ツ埔里ニ応急出動シ同時ニ軍司令官ハ州知事及総督ヨリ出兵ノ要求アリシニ依リ警察官憲支援ノ目的ヲ以テ直ニ台中大隊ヨリ歩兵1中隊ヲ埔里ニ派遣スルト共ニ飛行隊ヲシテ霧社附近ノ状況ノ捜索ヲ命シ更ニ花蓮港ノ歩兵1中隊ヲ能高峠確保ノタメ急行セシメタリ然ルニ其後状況漸次判明シ兇蕃ノ兵力意外ニ優勢ニシテ霧社一帯ノ内地人悉ク惨殺セラレ多数ノ兵器、弾薬モ亦其手ニ帰シメタリトノ情報ニ接シタルヲ以テ将来討伐ノ必要ヲ顧慮シ翌28日更ニ山砲1中隊(1小隊欠)、歩兵通信班ヲ出動シ埔里ニ増遣セリ

29日警官隊及支援歩兵中隊相踵テ霧社ニ到達ス而シテ軍ハ此日夕遂ニ台中大隊ノ主力ヲ出動セシムルト共ニ守備隊司令官ヲシテ此等諸部隊(台中大隊[1中隊欠]、花蓮港ノ歩兵1中隊、歩兵通信班、山砲中隊[1小隊欠]、及出動飛行隊)ノ指揮ニ任セシメタルモ尚飽クマテ警察官憲支援ノ関係ヲ保持シ翌30日ニ至リ守備隊司令官埔里ニ到達スル頃軍司令官ハ全般ノ状況ヲ通観シ断然兵力ヲ以テ反徒平定スルニ決シ総督ノ同意ヲ求メ同日夜ニ入リテ此旨ヲ守備隊司令官ニ電命セリ

爾来軍ハ幾多特殊困難ニ遭遇シツツ断乎トシテ武力平定ヲ敢行シ軍隊ノ勇敢ナル攻撃ハ出動数日ニシテ敵蕃ヲ悉ク「マヘボ」渓谷内ニ壓迫シ更ニ異常ナル苦心ト努力トヲ以テ之ヲ掃蕩シ遂ニ克ク兇徒ヲ膺懲シテ復タ起ツ能ハサルニ至ラシメ是ニ軍ハ出動ノ目的ヲ達成シ一部隊ヲ同地ニ残置シテ警官隊ノ支援タラシメ主力ハ11月30日ヲ最後トシ原駐地ニ撤退セリ

幸ニシテ今次ノ暴動ハ霧社蕃族ノ一部ニ限ラレ爾餘ノ蕃界ニ波及スルコトナカリシヲ以テ島内各地ノ蕃情ハ一般ニ平穏ニ経過セリ

 ・・・以下略

------------霧社事件(台湾山地原住民の抗日蜂起)の真相-------------

 「戦争を語り継ぐ」のMLで「日本人は負け戦の悔いはあっても、反省がない」という主張や「戦争の後始末をきちんとすることは、平和と民主主義を掲げる国の基本である」という主張があることを知った。さまざまな戦後処理を「パンドラの箱」と扱う限り戦後は終わらない、という。その通りだと思う。そうしたことと同じような意味で、「霧社事件」の真相もしっかりとらえ直さなければいけないのではないかと思う。

 下記は「昭和5年台湾蕃地 霧社事件史」(台湾軍司令部編刊)から「第1節 事件ノ原因」の部分を抜粋したものである。その大部分が「蕃地ハ剽悍ニシテ闘争ヲ好ミ…」とか「馘首闘争ヲ敢テスル奇怪ナル習癖…」とか「世ヲ呪ヘル数名ノ不良蕃…」、「労役ヲ好マサル傾向…」、「性質不良ノ為…」、「性兇悪ニシテ酒ヲ好ミ…」「素行常ニ治マラス…」、「兇行ノ本能的衝動ニ燃エ…」、「昔日ノ放肆ナル生活ニ憧憬シ…」等々、山地原住民の習癖や個人的性格、個人的事情に事件の原因があったかのように考えていたことが読み取れる。
 事件につながった日本側の問題としてあげているのは、木材の運搬にあたっては、引き摺ってはいけない、と命令をしたこと、賃銀支払が遅れたこと、また、事件の中心的人物「モーナルダオ」の妹と結婚した巡査が妻を捨てて行方不明になったことの3つと、吉村巡査殴打事件に絡む問題を合わせて4つである。しかしながら、「証言 霧社事件 台湾山地人の抗日蜂起 アウイヘッパハ」解説-許介鱗(草風館)を読むと、真実はかなり異なるものであったことが分かる。そして、そのとらえ方の違いの中に、当時の日本人関係者の台湾山地原住民に対する差別意識や人権無視の実態が透けて見える。台湾軍司令部の文書の中にはない「事件の原因」の主なものを、アウイヘバハの証言の中から拾うと、下記の通りである。

1 銃の押収と貸与制度
  狩猟と農業を生業とする山地人にとって「銃は男の魂であった」という。台湾総督府は、山地人からその銃を押収し、官によ
 る貸与制度を実施したのである。しかも、貸与するか否かの決定権は巡査の手に握られた。巡査は容易には銃を貸してくれ
 なかったという。今まで狩猟によって得られたもので日用必需品を手にしてきたが、それが出来なくなって生活が行き詰まっ
 たというのである。そして、巡査の任意の決定権が、様々な問題を発生させたようである。

2 出迎えの強制
  駐在所に警察の上級の偉い人が巡視に来るたびに、山地人は呼び出され、整列させられ、出迎えをさせられたという。ど
 んなに忙しいときにも呼び出され、自分の仕事ができなかったというのである。また、接待のご馳走のために、山地部落の
 ニワトリなどが持って行かれたともいう。大切な財産を取られても、我慢するしかなかったというのである。

3 山地女性の差別的利用
  台湾総督府は通訳の必要性と理蕃政策推進のために、警察官吏に山地女性と結婚させる政策をとり「蕃婦関係」を官の
 政策の一環に組み入れた。しかし、それは正式な「婚姻関係」とはみなされないので「蕃婦関係」と称されたようである。そし
 て、多くの山地人女性が捨てられた。同書には、山地人女性を捨てた何人かの巡査の実名があげられている。また、籍を
 いれてもらうことができなかったために、生まれた子は法律の適用を受けることができなかったという。それだけではなく、
 巡査の強姦や強姦まがいの行為によって生まれた私生児が、山地のあちこちにいたともいう。

4 巡査の暴力
  巡査は短気で手がはやく、ちょっとしたことでも鼻血が出るまでぶったという。吉村巡査殴打事件では、「酩酊セル頭目ノ長
 男”ダダオモーナ”ハ旧知ノ間柄ナルニ依リ来リテ執拗ニ酒ヲ奨メタルカ”ダダオ”ノ手ハ豚ノ血ニ塗レ不潔ナリシヲ以テ之ヲ断
 リシコトヨリ遂ニ父子3名ニテ同巡査ヲ地上ニ捻チ伏セ殴打セル事件ナリ」とあるが、事実は、タダオモーナが血のついた手
 で差し出したドブ酒と手掴みの豚肉の饗応を、吉村巡査が所持するステッキでたたき落としたために、その好意と尊厳が傷
 つけられたタダオモーナが殴りかかったという。(この事実は「台湾の霧社事件-真相と背景-」森田俊介著(台湾の霧社事
 件刊行会)の「樺沢巡査部長の陳述要旨」にも記述されている)

5 義務出役と無賃労働
  下記には、山地人は賃銀支払いの遅延に不満をもったとあるが、駐在所の建築や道路の補修などでは、各戸順番の割り
 当てがあり、義務出役、無賃労働が多かったという。おまけに大事なときにも自分の仕事を後回しにせざるを得ず、困ったよ
 うである。また、巡査による賃金のピンハネや意図的な支払い操作があり、支払われる賃銀に差がつけられたりもしたとい
 う。さらには、巡査の妻も家事を手伝わせることがあったという。

 下記は、事件の背景にあるこうした事実に触れていない。そこに、日本の「理蕃政策」の問題や台湾統治の問題があるのだと思う。
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                            第3章 出兵ノ経緯

第1節 事件ノ原因(附図第2参照)

蕃地ハ剽悍ニシテ闘争ヲ好ミ且伝来ノ迷信ニ依リ吉凶禍福等極メテ簡単ナル日常ノ事象ニ関シテモ馘首闘争ヲ敢テスル奇怪ナル習癖ヲ有シ一度其性癖勃発シ更ニ群集心理ノ之ニ雷同スルヤ意外ノ結果ヲ惹起ス又蕃人ノ生活状態ハ今尚原始的ナル血族団体ヲ基調トシ彼等カ自社以外ノ者ニ対スル関係ハ普通ノ個人的関係ヨリモ、寧ロ直ニ蕃社全体トシテノ問題タルコト多シ今回ノ事件ノ如キモ其惨害比較的甚大ナリシハ右ノ理由ニ基クモノトス
事件ノ直接原因トナリシモノハ予テ官憲ニ快トセス且世ヲ呪ヘル数名ノ不良蕃丁等カ謂ハハ出草(首狩り)ノ道連トシテ当時小学校宿舎用木材運搬ノ苦痛カ各社蕃人ヲ通シ相当不満ノ因トナレルヲ巧ニ利用シタルコトカ頑迷ニシテ反抗心ニ燃エタル「マヘポ」社頭目「モーナルダオ」ノ意志ニ合シ突発的ニ犯行ノ挙に出タルモノニシテ短時日ノ間ニ談議実行セラレタルモノノ如ク其主ナルモノヲ挙クレハ左ノ如シ

一、建築材料運搬ノ苦痛並賃銀支払遅延ニ対スル不平
  兇行ノ原因トシテ出役ノ苦痛ハ各蕃人ノ共ニ愬フル所ニシテ最近一年間ニ約九件ノ出役工事アリ就中最近ニ於ケル小学
  校宿舎用木材ノ運搬ハ端ナクモ彼等ニ兇行ノ動機ヲ与ヘタルモノノ如シ蕃人ハ元来勇猛ヲ以テ誇トナシ労役ヲ好マサル傾
  向アルト工事ノ関係上彼等ノ生業 繁閑ヲノミ顧ミルコト能ハサリシ事情アリ加フルニ木材運搬ニ際シテ蕃人ハ之ヲ引摺ル
  習慣ナルニ拘ラス材料ノ損傷ヲ慮リ担送ヲ命令シタルコトアリ又賃銀支払モ遅延勝ナリシヲ以テ蕃人ノ間ニ漸次不平ノ念ヲ
  抱カシムルニ至レリ

二、「ピホサッポ」及「ピホワリス」等ノ画策
  「ホーゴー」社蕃丁「ピホワリス」(推定20歳)ハ少年ノ頃ヨリ性質狡猾ニシテ官命ニ従順ナラス嘗テ其従兄「ピホナウイ」カ
  家庭ノ不和ヨリ萬大社蕃童ヲ馘首セル廉ニ依リ極刑ニ処セラレタルヲ憤リ常ニ反官的態度ヲ示シ長スルニ従ヒ益々兇暴ヲ
  振舞ヒ大正14年3月萬大社蕃人ノ出草セルニ加ハリタル廉ニ依リ労役30日ニ処セラレ又昭和3年自ラ出草ヲ企テ露見シ
  テ処罰セラレタルコトアリシカ数年前萬大社蕃婦ト入夫婚姻シ既ニ5歳ノ長子アルニ拘ラス性質不良ノ為其妻トノ折合思ワ
  シカラス同社ニ居堪ラス事件2日前「ホーゴー」社ニ帰リ悲観懊悩ノ日ヲ送リツツアリタリ又「ホーゴー」社蕃丁「ピホワリス」
  (推定31歳)ハ前記「ピホナウイ」ノ従兄ニシテ性兇悪ニシテ酒ヲ好ミ其一家ハ明治44年頃官ニ抗シタル廉ニ依リ全部極
  刑ニ処セラレタルモ当時彼ハ麟家ニ在リテ処分ヲ免レタルモノニシテ成長スルニ及ヒ官憲ヲ恨ムコト甚シク機会アラハ内
  地人ヲ鏖殺(オウサツ)セント豪語シ居レル模様ナリ而モ素行常ニ治マラス家庭不和ニシテ妻ハ之カ為縊死スルニ至リ社衆ノ
  信用ヲ失フコト甚シク自棄的態度トナレリ(蕃人ハ女性ノ信頼ヲ繋キ得サルカ如キハ最大ノ恥辱トス)    
  此等失意ノ蕃人ハ兇行ニ依リ其鬱憤ヲ晴ラスヲ常トシ最モ警戒ヲ要スヘキモノニシテ事件勃発前両名ハ極度ノ精神的苦
  悩ニ堪ヘス兇行ノ本能的衝動ニ燃エ居リシハ蔽フヘカラサル所ナリ尚「ホーゴー」社ニハ右両名ノ外数名ノ不良蕃丁アリ
  何レモ労働ヲ厭ヒ木材運搬等ニ就貴不平不満ヲ漏シ10月24日後述ノ如ク「ピホサッポ」ノ家ニ落合ヒ酒興ニ委セテ慷慨
  中血気ニ逸リ兇行決行ノ議ヲ進メテ遂ニ「マヘボ」社頭目「モーナルダオ」ヲシテ事ヲ擧ケシムルニ至リシモノナリ

三、「マヘボ」社頭目「モーナルダオ」ノ反抗心
   「マヘボ」社頭目「モーナルダオ」(推定48歳)ハ兇行ノ総指揮官ニシテ性兇暴傲岸ニシテ争闘ヲ好ミ17,8歳ノ頃ヨリ剽
  悍ヲ以テ附近ニ名アリ父「ルーダオパイ」ノ死後頭目ヲ継承シテヨリ勢力隆々トシテ霧社蕃中之ニ比肩スル者ナシ明治44
  年内地ヲ観光セルモ頑迷ニシテ時勢ヲ解セス昔日ノ放肆ナル生活ニ憧憬シ内地人ヲ駆逐シ官憲ノ覇絆ヲ脱セント企図シ
  居リシモノノ如ク大正9年及同14年ノ両度自ラ主謀者トナリテ反抗ヲ企テタルモ事前ニ発覚シ事ナキヲ得タリ又其妹ハ曩
  ニ巡査某ノ妻トナリシカ其後同人カ妻ヲ捨テテ行衛不明トナリシ事等ノ関係ニ就キテモ反感ヲ抱キ居リシ模様ナリ更ニ
  「モーナルダオ」ノ決ヲ速ナラシメタルモノハ吉村巡査殴打事件ニシテ彼ハ其非ヲ悟リ酒一瓶ヲ駐在所ニ贈リテ謝罪ノ意ヲ
  表シタルモ聴カレヅ今後如何ナル処罰ヲ受クルヤモ計ラレスト私ニ危惧シ居リシモノノ如シ

 附記 吉村巡査殴打事件トハ事件約20日同巡査カ小学校宿舎木材製材所ニ向フ途次「マヘボ」社ヲ通過スルヤ時恰モ同社ニ於テハ一蕃丁ノ結婚式ニテ蕃人約40名集合シ酒宴中ニシテ酩酊セル頭目ノ長男「ダダオモーナ」ハ旧知ノ間柄ナルニ依リ来リテ執拗ニ酒ヲ奨メタルカ「ダダオ」ノ手ハ豚ノ血ニ塗レ不潔ナリシヲ以テ之ヲ断リシコトヨリ遂ニ父子3名ニテ同巡査ヲ地上ニ捻チ伏セ殴打セル事件ナリ

而シテ既ニ述ヘタルカ如ク「マヘボ」社ハ製材地ノ入口ニ当リ出入蕃人ハ悉ク同社ヲ通過シ木材運搬ノ苦痛ヲ訴フルヲ目撃シ一層反抗心ヲ昂メ此ノ如クニシテ「モーナルダオ」一家カ懊悩焦心ノ状態ニ在リタル際「ホーゴー」社蕃丁「ピホサッポ」「ピホワリス」等ノ運動会ヲ機会ニ内地人ヲ殺戮セントスルハ謀議ヲ受ケ機乗スルヘシト為シテ之ニ同意シ大事ヲ惹起スルニ至レルカ如シ 


--------------”霧社事件”天皇の「ご下問」と政府極秘文書-------------

 「霧社事件 台湾高砂族の蜂起」中川浩一・和歌森民男編著(三省堂)によると、霧社事件に関わる政府極秘文書があるという。それは霧社事件の実態と原因調査を目的として拓務省が派遣した生駒管理局長による報告書であり、その内容は総督府の『霧社事件の顛末』の内容とは全く異なる。

 極秘の印を押した生駒管理局長による『台湾霧社事件調査書』によって、政府関係者は、山地原住民が日本人を狙って136名を殺害した(ただし、その中に日本人の装いをしていたためにあやまって殺された4歳の子どもと、山地原住民に暴行を加えた店員の2人の漢民族が含まれている)霧社事件の真相をかなり正確につかんでいたことが分かる。また、この霧社事件が契機となって台湾総督府も「理蕃事業」の方針を改めたようではあるが、公式的にはあくまでも台湾総督府「石塚英蔵」名による『霧社事件の顛末』に基づいた対応がなされ、自らの非を認めることはなかった。そうした意味では、真相の把握が決定的な意味を持たなかったということである。

 事件後、味方蕃(帰順していた山地原住民)を動員し、馘首にたいして懸賞金までかけて報復ともいえる「討伐」が行われた。そして、それは第二霧社事件につながっていく。昭和初期のできごとである。山地原住民に対する差別や偏見に基づく不当な理蕃政策(当時野蛮人というような意味で蕃人とか蕃族とよばれた台湾山地原住民に対する大日本帝国政府による強制的な開化政策)が、「蕃地警察」の手によって展開された事実や理不尽な討伐によって多くの人たちの命が奪われたことを忘れてはならないと思う。
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Ⅲ 霧社事件その後

 3 真相をかくした台湾総督府

 ごまかす総督、疑う天皇

 ・・・
 事件の発生からほぼ3ヶ月、蜂起を鎮圧した台湾総督府では、石塚総督が経過報告のため上京し、参内して天皇に拝謁した。そのおりに石塚総督は”一巡査の問題に端を発し、遂に彼如き事件を発生するに至りしは誠に恐懼に堪えず”と説明し、事件のとりつくろいに努めたという。
 そのことに対して天皇は、直接的にはなんの言及もしなかったが、総督の退出後、内大臣としての牧野伸顕に向かい、”右は一巡査の問題に非ず、由来、我国の新領土に於ける土民、新付の民に対する統治官憲の態度は、甚だしく侮蔑的圧迫的なるものあるように思われ、統治上の根本問題なりと思ふが如何”と下問したと、牧野からの話しを木戸が聞き書きしている点である。

 天皇の認識は、霧社事件は偶発事件ではなく、植民政策の失敗に基づく変事ととらえたもののようである。皇太子当時の台湾巡歴にさいして、山地原住民を呼称するに「生蕃」あるいは「蕃人」の語を用いるのは侮蔑の極地ゆえ、これを「高砂族」と改めるよう指示したといわれる挿話が真実であるならば、総督府官憲の失政に事件は起因するとの考え方に天皇が帰着したのは、当然ありうる判断となる。

 こうした天皇の下問にたいして、牧野伸顕の側からは、”我国の新領土の人民に対する統治方針は、度々仰出され居るごとく一視同仁たるべきは疑いなきところなるが、其の事実は往々にして侮蔑的なる態度に出るものあるは多年の病弊にして誠に遺憾とするところ”と言上したとされている。

 牧野伸顕が、霧社事件は失政にもとづく不祥事と判断した根底には、霧社事件の実態と原因調査を目的として拓務省が派遣した生駒管理局長による復命を目にし、あるいは耳にする機会を持ちあわせたためと判断される。
 生駒管理局長による報告書と称される資料は、極秘の印を押した『台湾霧社事件調査書』であり、これは山辺健太郎が国立国会図書館憲政資料室において「牧野伸顕文書」のなかから発見し、『現代史資料』22・台湾2(1971年)の刊行にあたってこれを収載している。もっとも、戴国煇によると、生駒管理局長による復命所は、「牧野伸顕」文書とは別の構成をもつ『霧社蕃騒擾事件調査復命書』として存在するとのことである。
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総督府主張を否定した政府極秘文書

 ・・・
 霧社事件が、積年の搾取・酷使にたいする抵抗運動としての側面を色濃く持っていたことは、疑う余地がない。けれども、『霧社事件の顛末』は右の事実を認めず、”勇猛を以て誇りと為し労役を好まざる伝統的傾向”を有するにもかかわらず、不慣れな担送を命じたうえ、”賃金支払も遅延勝ちの状況”にあったことが、”不平の念を醸成したるもの”と書くにとどめてしまう。これにたいして『霧社事件調査
書』は、

  一頭目一族の私怨、一蕃丁の私行的出草、かかる事実は従来共屡々現れたる事象にして決して今回に始まりたるものにあらず、と記して、これを事件の主因とする見解を退けている。
 このような性格をもつ『霧社事件調査書』が重視したのは、”出役問題”としてとらえた搾取と酷使にかかわることがらであった。それが極秘文書であり、一般の目にふれる気づかいはなかったという条件があったにしても、総督府側の見解などは”一種の漫談に過ぎざるもの”ときめつけた事実に注意しなければならない。
 ・・・

 蕃地に於ける此種工事に関しては従来共各種忌はしき風説を耳にすること屡々なり、殊に所謂蚩々蠢々たる蕃人使役の一条に至っては世人の批難最も濃厚なる所にして、或いは蕃人に対しては所謂義務出役と称して其の労役に対し何等労銀支払の事実なしと云ふものあり、或いは蕃人従来の慣習を無視して上述の如く之に担送其他過酷なる使役を課し、苟も従はざるものに対しては常に厳重なる制裁を加へつつありきと云ふものあり(目下尚工事中なる霧社小学校の材料運搬に際して彼等に担送を強いたることが凶変の主要原因の一つなりと迄論ずるものあり)或いは蕃地に於ける労役は大は道路橋梁の修築より小は駐在警官の日常家事に至る迄凡て蕃人をして之に当らしめつつある一面に於いて、最近工事頻に起り、イナゴ駐在所あり、霧社小学校あり、霧社公学校あり、之に続くに霧社倶楽部あり、此の如く矢継ぎ早に来る過酷なる労役が遂に蕃人をして所謂自暴自棄に陥らしめたるなりとい云ふものあり、或は蕃人に対しても時に金品の支給を為したる事実なきにあらざれども、そは殆ど往返に日を要すべき遠路難路の運搬に対しても僅かに2,30銭を給する等極めて僅少のものに過ぎざるなりと云ふものあり、更に或は担当警察官の死蔵せる現金2万円を発見したりと云ふものある等巷説誠に紛々たり。然れども本件の如きは今回の凶変に対して最も緊密なる関係を有するものと認むるを以て、本調査に於いては一切の風説を排して一に事実の根本を究むることに力め、而も其の関係数字の如きは、決して適当に渉らざることに注意せり。故に是等の数字より推して苟も不条理不穏当と目すべき廉ありとせば事実の真相に伴ふ不条理不穏当は決してより少き程度のものにあらざるを断言し得るの確信を有す。督府当局は利に敏なる蕃人に対して所謂上前をはぬる等のことはあり得べからずと声明せり。只吾人の知る所に依ればタイヤル族は威武必ずしも屈すべからず、利益必ずしも□はざるべからざる一種のプライドを有すと聞けり、而も仮に当局の言の如く彼等果たして利に敏なりとせむか、之を使役するに相当の支給を為したりとせば決して其の怨恨を買ふべき筈なきと同時に、若し反対に利を伴ふことなく而も其の最も苦痛とする労役を強ふることに依て其の不平怨恨を買ひ得たること亦極めて当然の帰結なり。督府当局の声明の如きは此の厳然たる数字と事実を無視したる一種の漫談に過ぎざるものと云ふべきなり。

-----------政府極秘文書『台湾霧社事件調査書』が明かす真相-----------

 「現代史資料22台湾2」(みすず書房)の中に「霧社事件」に関わる政府極秘文書が入っている。同書編者の山辺健太郎は、「最後に入れた『台湾霧社事件調査書』というのは、極秘という印をおしたプリントで、国会図書館の憲政資料室にある牧野伸顕文書のなかから私の見つけたものである。この筆者は、事件調査のために、拓務省から生駒管理局長が派遣されていることから、おそらく生駒局長であろう」と書いている。台湾総督石塚英蔵の名による『霧社事件の顛末』や、台湾軍司令部編刊の「昭和5年 台湾蕃地 霧社事件史」と読み比べると、現実に発生した「霧社事件」の理解が、立場によってこれほど違うのか、と驚かされる。『台湾霧社事件調査書』を読めば、「証言 霧社事件 台湾山地人の抗日蜂起 アウイヘッパハ」解説-許介鱗(草風館)の中で、アウイヘバハが証言していることは、ほぼ事実に違いないことが分かる。日本人の首をはねたという霧社事件は、事件そのものも恐ろしいが、そこに至る過程も、また事件後の解釈や対応も、劣らず野蛮で恐ろしいと思う。
 以下『台湾霧社事件調査書』から、総督府の見解を批判的にとらえているところや、出役・使役の実態にふれ、特に「イナゴ駐在所移転改築工事」の「労銀」に関わって、「其の不条理なること言語道断なり」と断じている部分、および「…我が殖民史上中外に対する一大汚辱たり」と結論している部分を抜粋する。こうした文書が正しく評価され、日本のその後の政策に生かされていれば、悲惨な戦争は避けられたのではないかと思われる内容である。
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                           25 牧野伸顕文書

霧社事件調査書

第2章 原因

 彼等兇蕃は前章述ぶる如き悲壮なる決意の下に彼の戦慄すべき残虐を敢えてし而して此の頑強なる抵抗を継続す。惟ふに少なくも彼等に取りて余程重大なる原因なかるべからず。今此の機に於て其の真相を究むることは将来に於ける理蕃政策上寔に重要なる意義を有すべきことに属するを以て当局は勿論吾人と雖も飽迄其の闡明に努むるの責務あるを感ぜずんばあらず。…

 ・・・

 以上両発表を閲するに何れも甚だ冷々淡々として恰も些々たる一突発事件を取り扱うが如き態度あるに止まり、斯かる一大兇変の原因として吾人を首肯せしむべき何等の事実を発見し得ざるの憾あり。殊に2日の発表中「賦役回数の増加」の項に於て「……然るに最近各蕃社共(註、此の「各蕃社共」は多分「各蕃界駐在所共」の意味ならん、若し然らざれば各蕃社自ら進んで其の陋習改善に力めつつ而も之に含む所ありとは自家撞着なるを以てなり)争つて其の改善に力むる傾向あり。其の結果として勢ひ出役回数の増加するは免れざる所にして之に含む所ありたるものと推せらる」と説明しあり。然るに、18日の発表に於ては「……肩が痛い等と云つて居た、是等は極めて普通のことで特に彼等の恨みを深くしたような事はない」と言明して此の労役問題を原因中より排除しあり。今此の労役問題を原因中より除外することは本事変を何処迄も一の突発事件として処理する上に於ては極めて都合好きことに属すべしと雖も、事実は決して然らざるのみならず此の労役問題而も最近に於ける苛酷なる使用事件こそ寧ろ今回兇変の直接原因と認むべき事情あり。今重なる原因と目すべきものを仮に部分的原因及一般的原因の2項に分かちて詳述する所あらんとす。

第1項  部分的原因

 1 蕃婦の差別待遇  略
 2 無理解に基く拘禁 略
 3 ピホサツポ事件  略

第2項  一般的原因
 前項述ぶる所の所謂部分的原因と云ふが如きは実は殆ど対人的事実にして本兇変に対しては只一の導火線的役目を為したるに過ぎず。然れども本項述べんとする所謂一般的原因に至つては即ち然らず。例えば導火線に対する敷設地雷なり、而して其の害や普遍的なり、其の災や甚大なり、一頭目一族の私怨、一番丁の私行的出草、かかる事実は従来共屡々現はれたる事象にして決して今回に始まりたるものにあらず、然るに斯かる有り触れたる蕃界の事例に因りて何故に斯かる爆発が導かれたるか、而も其の爆発が何故に此の如く大なりしか、何故に所在響応の一大事変を惹起せしめたるか、換言すれば此の一般的原因と称するは一面より観れば正に理蕃事業に対する最高政策の当否如何に触るべき問題にして吾人の最も探求に力めむと欲する所なり。

1 出役問題

 ・・・
 尚此の使役に当たって必ずしも予算面の如き労銀を支給せざりしこと殆ど公知の事実に属するものにして、試みに最近行はれたる顕著なる実例としてイナゴ駐在所移転改築工事を引例せん。

 本工事は昭和5年3月初旬着手同3月31日竣工したるものの如く形式を整へ居れども事実は10月中旬に入りて竣工したるものにして、事務室及宿舎一棟31坪5合5勺、警手宿舎一棟15坪、浴室便所一棟4坪5合、総計51坪5勺を工費1500円(坪当たり29円40銭)にて完成したることになり居れり。而して当初の予算内訳を見るに材料費として164円50銭、労力費として1335円50銭を計上しあるも此の所謂労力費なるものは事実に於て種々なる他の経費に差し向けられ、関係書類に依れば材料費313円25銭、器具費56円45銭、職工費は167円67銭、人夫費762円63銭、合計2000円として辻褄を合わせあり(この予算超過額500円は如何なる方途によりて填充すべき意向なりしや不明なり)。而も右人夫費762円余も実は全部蕃人人夫に支払はれたものにあらざりしことは更に他の証憑書類に依りて明らかとなれり。即ち霧社分室金庫内に発見せられたる出役蕃人仕払い領収証なるもの之れなり。此の領収証には蕃人のものとも見るべき怪しげなる拇印を押捺しけり。其の総計金額は564円40銭にして前記人夫賃より更に約200円の減少なり。尚此の証憑書類に依れば、蕃人1人当たり1日40銭を支給しありて、此の564円40銭は即ち延人員1411人分の支給額に相当す。

 本工事は移転と云ふと雖も実は新築にして其の木材は霧社、バーラン、万大方面の蕃人を使役して遠く濁水渓の対岸より運搬せしめたるものなるを以て、運材其の他の人夫として坪当たり45人以上を要したるものと見るべく(当地附近に於ける類似の工事を検するに埔里武徳殿は建坪65坪にして使用延人員3380余人、即ち坪当たり約52人、又霧社小学校寄宿舎新築工事の設計書を見るに72坪余りに対して人夫3000人を計上し、即ち坪当たり41人強となり、故に今其平均を取りて仮に45人と計算す)、総計約2300人以上の運材人夫を要したるは、勿論なり。果して然らば上記762円余又は564円余の金額は到底一人当たり24,5銭乃至33,4銭以上の支給を許さざる計算なり。更に驚くべきは前掲職工費の名目の下に支出されたる867円余は実際上自ら大工左官等の役割に当りたる付近駐在所職員自身の取得額にして、之が濁水渓越を為せる2300人の人夫賃を超過し居る点にして其の不条理なること言語道断なり。

 蕃地に於ける此種工事に関しては従来共各種忌はしき風説を耳にすること屡々なり。殊に所謂蚩々蠢々たる蕃人使役の一条に至つては世人の批難最も濃厚なる所にして、或は蕃人に対しては所謂義務出役と称して其の労役に対し何等労銀支払の事実なしと云ふものあり、或は蕃人従来の慣習を無視して上述の如く之に担送其他過酷なる使役を課し、苟も従はざるものに対しては常に厳重なる制裁を加へつつありきと云ふものあり(目下尚工事中なる霧社小学校の材料運搬に際して彼等に担送を強ひたることが兇変の主要原因の一なりと迄論ずるものあり)、或は蕃地に於ける労役は大は道路橋梁の修築より小は駐在警官の日常家事に至る迄凡て蕃人をして之に当らしめつつある一面に於て、最近工事頻に起り、イナゴ駐在所あり、霧社小学校あり、霧社公学校あり、之に続ぐに霧社倶楽部あり、此の如く矢継ぎ早に来る過酷なる労役が遂に蕃人をして所謂自暴自棄に陥らしめたるなりと云ふものあり、或は蕃人対しても時に金品の支給を為したる事実なきにあらざれども、そは殆ど往返に日を要すべき遠路難路の運搬に対しても僅に2,30銭を給する等極めて僅少のものに過ぎざるなりと云ふものあり、更に或は担当警察官の死蔵せる現金2万円を発見したりと云ふものある等巷説誠に紛々たり。然れども本件の如きは今回の兇変に対して最も緊密なる関係を有するものと認むるを以て、本調査に於ては一切の風説を排して一に事実の根本を究むることに力め、而も其の関係数字の如きは決して過当に渉らざることに注意せり。故に是等の数字より推して苟も不条理不穏当と目すべき廉ありとせば事実の真相に伴ふ不条理不穏当は決してより少き程度のものにあらざるを断言し得るの確信を有す。

 督府当局は利に敏なる蕃人に対して所謂上前をはぬる等のことはあり得べからずと声明せり。只吾人の知る所に依れば、タイヤル族は威武必ずしも屈すべからず、利益必ずしも(?)はざるべからざる一種のプライドを有すと聞けり、而も仮に当局の言の如く彼等果して利に敏なりとせむか、之を使役するに相当の支給を為したりとせば決して其の怨恨を買うべき筈なきと同時に、若し反対に利を伴ふことなく而も其の最も苦痛とする労役を強ふることに依て其の不平怨恨を買ひ得たること亦極めて当然の帰結なり。督府当局の声明の如きは此の厳然たる数字と事実とを無視したる一種の漫談に過ぎざるものと云ふべきなり。

 2 人事問題    略
 3 郡警分離問題  略

第3章

 第1項 余録 略
 第2項 結論
 要するに現督府当局は久しく綱紀のの粛正を怠り監督を忽諸にし下僚をして暴戻を恣にせしめ以て蕃界一般に不平反抗の気分を醞醸せしめ、殊に理蕃関係の人事を濫りにし蕃界の事情に通ぜざるものを配置して蕃情の察知を欠き、併せて屡々勃発の動機を作らしめ、更に当局自ら蕃政閑却を暴露すべき軽々しき声明を敢へてし、特に理蕃関係官吏をして過度の弛緩気分、荒怠気分を起さしめ其の結果徒らに事態の重大を馴致せしめたり。換言すれば今次の兇変は如何に粉飾し糊塗せむとするも督府当局の所謂突発事件等にあらざること明瞭にして、既に其の失政に因りて敷設せられ、其の失政に因りて爆発せされ、而して其の失政に因りて拡大せられ、その結果200の無辜を殺戮せしめ、延いて同じく 陛下の赤子たる幾百の新付を族滅せしめつつあり。正にこれ所謂豆を煮るに萁を以てするの悲惨事にして、実に昭和未曾有の一大不祥事なると共に又我が殖民史上中外に対する一大汚辱たり。苟も其の局に当たるものは勿論吾人局外者と雖率直に明白に其の由来する所を究め以て将来の対処に資するの責務あるを感ずるものなり。蓋し此の如きは以て惨禍の幾分を讀ひ得るの方途たると共に、又以て無告の犠牲者に対する弔慰の第一義たるべきを信ずればなり。(昭和5年12月1日)

-----------霧社事件と毒ガス使用の「蕃人」(山地原住民)討伐------------

「台湾秘話 霧社の反乱・民衆側の証言」林えいだい(新評論)の中に、まさに霧社事件勃発当時(1930年10月27日)、台中州員林郡社頭小学校に教員として赴任していた河口又二の毒ガス使用に関する証言がある。信じがたい証言ではあるが被害山地原住民の多くの証言や当時の報道、軍の記録などが、それが真実であることを物語っている。山地原住民の証言の中には、当時の「蕃地」駐在所巡査の多くが、山地原住民を人間扱いしなかったために霧社事件が起こった、というものが多々あるが、総督府の理蕃政策関係者や台湾軍関係者も、同じように山地原住民を人間扱いしなかったということなのだろうと思われる。下記は、霧社事件後、日本人を殺戮した「蜂起蕃」討伐のために、毒ガスを使用したことを証す中山巡査の話しの部分を抜粋したものである。
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                     まえがき ──── 霧社事件検証の旅

1 霧社事件の生き証人たち

 毒ガス生体実験の真相

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 霧社事件が勃発する半年前の1930年(昭5)4月、河口は台中州員林郡社頭小学校に教員として赴任すると、ブヌン族の卓社(タクシャ)を中心に原住民の民族文化の調査を始めた。その頃、小学校の近くにあった派出所に勤務していた、熊本県出身の中山又雄という同年輩の巡査と親しくなった。
 10月27日午後、中山が背嚢(ハイノウ)を背負い、銃を手にして小学校の職員室にやってくると、「霧社で蕃害(バンガイ)事件が起こったので、いまから出動します」と挨拶した。
 事件勃発で台中州管内の巡査に非常招集がかかり、中山たちが鎮圧のために出動したことを数日後の新聞で河口は知った。
 約1ヶ月後、中山が社頭に帰ってきたと派出所の警手が知らせてくれた。河口は事件の様子を聞くために、派出所の官舎に中山を訪ねた。すると彼は激しい咳をしながら、苦しそうに布団の中に横たわっていた。
「どうしたんだ、その格好は?」
「毒ガスにやられた。どうして俺がこんな目に遭わんといけんのかのう……」
 日頃の中山とは別人のように、弱々しくつぶやくようにいった。手足の布団から出ている部分には水泡ができて、呼吸が困難なほど咳き込んでいた。

 中山の話によると、員林郡の巡査はまずトラックで埔里に送られた。ただちに警察隊が組織され、霧社への攻撃が開始された。霧社を占領すると中山は捜索隊本部付きとなり、水越台中州知事の身辺警護を命じられた。
 まもなく、台湾軍から派遣された鎌田支隊(鎌田少将が指揮をとっていた)が到着して、霧社分室が討伐隊本部となった。分室には鎌田少将、服部参謀、憲兵隊長、水越知事、総督府警務局森田理蕃課長が集まり、蜂起したセーダッカに対する討伐作戦会議が連日開かれた。
 11月初め、中山が参謀室にお茶を持って行くと、服部参謀と水越知事が激論しているところだった。服部参謀は、兇蕃(キョウバン)鎮圧のために、軍側は最後の手段として毒ガス弾を使用するといい、水越知事がそれに猛反対していたのだった。
「貴官らのこれまでの理蕃政策が悪いから、軍の出動という事態になったんだ。反抗する蕃人(バンニン)は一人でも生かしておくいわけにはいかん。毒ガスで皆殺しだ!」
「服部大佐、私は州知事として軍の出動を要請したが、鎮圧の手段として毒ガスを使用することだけは人道上絶対に許せません。それだけは止(ヨ)してください!」
 いまにも互いに掴みかかろうとした時、副官が駆け寄ってきて2人をなだめ、騒ぎは収まった。
 11月中旬、軍側の主力が台北に引き揚げることになり、警察隊と交代した。その頃、マヘボ渓の岩窟に籠って抵抗する蜂起蕃(ホウキバン)に対して、軍が毒ガス攻撃を行っているという噂が飛んだ。まもなく台北陸軍病院から数人の軍医将校が霧社に来て捜索隊が編成され、中山もその一員になった。隊員には奇妙な格好のマスクが渡され、軍医から装着方法の実習を受けた。
「お前たちはこれからマヘボ渓に行くことになった。毒ガスにやられた負傷者を担送して、ボアルン社の野戦病院まで届けてくれ」
 能高郡役所の江川警察課長が命令した。

 中山たち捜索隊員は、味方蕃(ミカタバン)の壮丁(ソウテイ)(蕃地の若者・壮年男性)の案内でマヘボ渓の険しい道を登って行った。倒れて苦しんでいる者を担架に載せると、2人でマヘボ社まで下ろした。休憩すると再び担架を抱え、2時間かけてボアルン社まで運んだ。負傷者は、みな生きてはいるが、全身がただれてもがき苦しんでいた。

 ボアルン駐在所前にある蕃童教育所の前に設置された臨時野戦病院では、3人の軍医がメスを持って待っていた。にわか仕立ての手術台の上に負傷者を載せると、赤い蕃布の胸をはだけてメスを入れた。それは投下した毒ガスの効果を調べるための生体解剖だった。解剖が終わった遺体は、味方蕃の壮丁たちのよって運び去られた。

 そのうち中山は意識不明に陥り、気がついた時は霧社診療所にある救護班のベッドの上だった。顔は腫れ上がり目が見えないほどで、全身に激痛が走り、明らかな毒ガス症状を呈していた。隣のベッドにも捜索隊員が入院していたが、手足に水疱状のものができて苦しんでいた。中山は心配になり、たまたまそこへ知り合いの二水駐在所の公医が派遣されてきたので、治療方法はないのかとたずねた。すると、「原因不明の病気だが、社頭へ帰って休養しておれば自然に回復するよ」といわれた。
 
 宿舎に見舞いに行った河口は、中山の症状を見て、これはただごとではないと思った。手足表面の皮膚が火傷したようにただれ、水疱状のブツブツができていた。河口は子どもの頃、天ぷら油が飛び散って火傷した時、母親が馬鈴薯をおろして金でおろして傷口につけてくれたことを思い出した。さっそく官舎にとって返し、田舎から送ってきたばかりの馬鈴薯を持って官舎へ戻った。馬鈴薯をおろして中山の手足に塗り、その上を包帯で巻いてやった。

 数日後、小学校に台中の憲兵隊から下士官2人が来て、河口を員林警察署へ連行した。
「中山がお前に何を話したか知らんが、このことは一切口外してはならない。お前が命令を聞かないで人にしゃべったら、軍法会議にかけ銃殺する!」
 一人の憲兵は肩から吊したピストルを外すと、河口に銃口を突きつけて激しい口調で口止めした。河口はその時の憲兵の態度と苦しむ中山の症状が、いまも忘れられないという。
 翌日、中山は台中陸軍病院に送られ、それ以後消息を絶った。河口は戦後、台湾から引き揚げたあと、北九州市内の中学校に勤務しつつ、霧社事件の研究を続けた。

------------第二霧社事件の陰謀-小島源治巡査部長の告白-----------

台湾霧社において、理蕃政策に抗議し蜂起した山地原住民壮丁(ソウテイ)は、日本人だけではなく、漢民族や山地原住民も大勢が集まっている運動会場を襲い、女・子どもを含む134人の日本人を集中的に斬首するなどして虐殺した。総督府は直ちに台湾全島より警察官約1000名を動員して討伐隊を組織するととに、台湾軍にも出動を要請した。そして蜂起した山地原住民「皆殺し」の討伐に乗り出すが、討伐に手こずった日本側は、その際蜂起しなかった蛮人(山地原住民)を味方蛮として利用した。蜂起蛮(蜂起した蛮人で敵蛮・反抗蛮などとも呼ばれ、投降し保護されてからは保護蛮とも呼ばれた)の首に破格の賞金をかけた日本側の作戦によるこの同族同士の殺し合いが、第二霧社事件の悲劇へと発展するのであるが「昭和の大惨劇 霧社の血桜」江川博通(森永印刷)には、第二霧社事件を嗾けた小島源治巡査部長の告白文がある。下記、秘録タウツア蛮(味方蛮)保護蛮襲撃の動因の<>内がそれである。
 この本の著者「江川博通」は、当時の事件地を管轄する能高郡警察課長であったという。彼は同書の中で、「第二霧事件と筆者の感慨」と題して「また、飛行機は日に数回波状爆撃を敢行し、焼夷弾、催涙弾、爆弾投下を続行し、その都度家は焼け、巨木は裂け倒れ、人畜にも数十の死傷をだした。斯くの如くして、反抗蛮のせん滅を期したのであるが、かかる威力を有する討伐隊が、なお且つ、いわゆる味方蛮なるものを駆り立てて、彼ら間の怨恨仇敵感を一層増長深刻化せしめ、蛮地に不穏な空気を醸成せしむる必要があるであろうかとも思った。然るにはしなくも、この後者の戦術が第二霧社事件の主因となったのである。」と書いている。

※ 当時、台湾の山地原住民を蛮人(蕃人)とか生蕃と呼んでいた(また彼らの居住地は蕃地などと呼ばれた)が、差別的であ
  るということで、その後、高砂族などと呼ばれるようになった。ただここでは著者の使った漢字(蛮)や言葉遣いに従った。
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                                 第二霧社事件

 昭和6年4月25日、台湾台中州能高郡蕃地霧社地方において、昨秋の霧社事件の際我官憲に強力した、味方蛮中のタウツア蛮が保護蛮(霧社事件の反抗蛮にして、討伐中投降したる男女514名を収容保護中の者)を奇襲して一挙に男女計190名を殺害し、その他縊死者19名行方不明者9名を出した。いわゆる第二霧社事件なるものがぼっ発した。
 ・・・(以下略)
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   秘録タウツア蛮保護蛮襲撃の動因

 私は昭和43年3月14日小島源治氏に対し、昨年9月受領した同氏よりの書簡中、理解し難い点があったので、質問状を書いたところ3月18日回答があった。それはタウツア蛮が、保護蛮を奇襲殺害したと伝聞した瞬間、私の脳裏に走った、もしかしたらと思ったものに対する回答でもあった。則ち次の通り書いてある。

 お手紙によれば、霧社事件のことを「霧社の血桜」という題名で、追想録を著作なされている由。私共33年も在住して本籍地同様の台湾霧社は、桜の名勝で観光地として有名であったが、今日では外国となり淋しさを感ずる破目に落ちたるものを追想されるとは、万感の思い出であります。歴史は幾多の犠牲的精神のこもった昔を振り返り、後生に伝えるべき当然の義務であります。宜敷御願い致します。───と前置きして筆を進めている。

 <私が前に霧社事件について終始まで完結同然だと申したのは、同事件のあったことだけを差したのではなく、霧社事件、第二霧社事件にあったことに、思いを及ぼして書いたものであります。御承知の通り、第二霧社事件の原因は、敵蛮ボアルン社、マエボ社、ホーゴー社等の蛮人を桜駐在所附近に収容して、桜社と称し、保護したことに問題があるのです。霧社事件が片付き収容中の敵蛮が耕作農業を開始し、彼らが農作に従事しているところを、味方蛮が襲って馘首するので、官憲としては味方蛮に銃器を貸与しておいては不穏情勢は絶えないとして、味方蛮に貸与銃器弾薬の返納を勧告することとなり、三輪警務部長、宝蔵寺警察課長一行は、警察隊、機関銃隊2個小隊を率いて、タウツア駐在所に来て勧告しました。私がタウツア社頭目勢力者と話し合った結果の蛮情は、今貸与銃を取られたら、われわれは味方蛮として反抗蛮討伐の際、相当の犠牲を出している。敵意はこの後にある。われわれが埔里、または霧社に出入りする際マヘボ社、ボアルン社の蛮人から、何時なんどき殺されるか知れない。貸与銃を取り上げられることは、蟹が足をもぎ取られると同然であるから、平穏になるまで貸しておいてもらいたいとの陳情があった。宝蔵寺さんも困り三輪さんと打ち合わせた結果、本日は考えてみるということになった。タウツアは至難と見た一行は、トロック社を先にすることに変更した。

 このとき宝蔵寺課長は、密かに小島ちょっと来いと駐在所裏に回った。談合はいろいろあったが、詳細は抜きにして要点だけ述べると、極秘密裏に今夜中に、保護蛮を襲撃して鬱憤を晴らさせては如何か、そして其後で銃器全部を提供させるという、内容のものだった。依って小島は、警備員に秘密に駐在所を抜け出し、タウツア蛮頭目勢力者と会い、前記話の内容を示したところ、彼らは喜んで諾し、警備員にかくれて蛮社を出発し、途中警備配置のある道を避け山越えして、夜明前に桜社を襲撃した。タウツア蛮が保護蛮の首級101個を馘首したこと、ご存じと思います。駐在所では、私が職員、警備員にも極秘にしていたため、誰一人としてタウツア社の行動を知れる者なく、桜駐在所の樺沢警部補からの電話通報で始めて知って驚いた。

 トロック宿泊中の宝蔵寺課長の命令で、小島は事件阻止のため、巡査27名を引率して、現場桜社に向かった。途中首を取った者、負傷した者たちの帰社するのに出会った。彼らの中には、桜駐在所の日本人警察から、機関銃で射たれ酷い目に合った。機関銃さえなければと、くやしがる者もあった。現場に着きなお活躍中の者をやめさせ、これを伴い帰途についた。途中まで私を迎えに来た宝蔵寺課長は、私に対し密かに言った。「警察部長さんには蛮人の出草を少しも知らず、申訳ないとあやまって呉れ、それだけでよい。他のことはなにも言わないで、ただあやまれ」と申されたので、三輪さんには申訳ないの連発であった。然し、貸与銃引き揚げは直ちにやれと申されるので、午後1時ごろまでに弾薬並びに銃器一ちょうの残りもなく押収提出した。この事件でタウツア蛮丁は機関銃のため、死者1、負傷者5~6名を出した。

 官憲では、再度の襲撃を憂い極度に恐怖している生存保護蛮の、川中島移住を説得し、1週間も経たぬ間に移住せしめた。その後味方蛮へは、反抗蛮討伐の功績により、トロック蛮にマヘボ、ボアルン両社の耕地を与え、タウツア蛮にはホーゴー社の土地を分割して与え、一部をそれぞれの土地に移住させた。私に残された問題は、タウツア蛮が無断で保護蛮を襲撃した責任者として、不届のかどで罰俸処分を受け、警部補任官も昭和9年4月6日に延期され、昭和11年3月31日依願免官となった。これも、宝蔵寺さん、三輪警務部長さん、坂口警務部長さん、並びに総督府斎藤警部さん方の大変なお骨折りで、懲戒免職にもならず、今日田舎で恩給生活をしています。昔勤めた思い出の多い霧社は、永遠に忘れられません。>

 この返事には、ロードフ収容保護蛮襲撃のことは書いていないが、前記馘首した101の首級は、スーク、ロードフ2カ所における合計である。ロードフ収容所襲撃部隊は、スーク襲撃隊と同時にタウツアを出発、文字通り胸突くような険路を、いわゆる草木も眠る丑満ごろ粛々として、蛮路を辿って攀ぢ登り立鷹に到達した。この辺一帯は標高2700メートル以上の連山で、この高地から一気にロードフに馳せ下り、源九郎義経の鵯越逆落としさながらの奇襲戦法で、本意を成し遂げたのである。かくてこの両所襲撃で大戦果を挙げた、タウツア蛮の会心の笑を面のあたりに見る心地がする。これが彼らの哀惜措く能わざる銃器弾薬を、断固全部提出をもたらしたる所以でもあり、また小島源治氏の言う、犠牲的精神発露の成果でもある。


 一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。青字が書名や抜粋部分です。「・・・」や「……」は、文の省略を示します。



-NO261~270


---------霧社事件後 密かに「保護蕃(投降してきた蜂起蕃)」を処刑---------

  霧社事件が、日本の台湾統治政策(特に山地原住民に対する理蕃政策)によって、あらゆる権限を与えられた現地駐在所の巡査の多くが、山地原住民の生活を無視し、人間扱いすることなく、様々な命令を発したために引き起こされたことは、山地原住民の訴えはもちろん、当時拓務省が派遣した生駒管理局長による調査報告書(政府極秘文書)によっても明らかである。にもかかわらず、理蕃警察と台湾軍は何ら法的手続きを経ることなく討伐隊を組織し、圧倒的な武力(毒ガスも使用)を用いて「敵蕃(蜂起した山地原住民)」の皆殺し討伐を敢行するとともに、敵蕃の首に賞金をかけて「味方蕃(蜂起しなかった山地原住民)」を利用し討伐に協力させた。
 さらに、味方蕃を嗾けて第二霧社事件を引き起こし、「敵蕃」幼老男女216人の命を奪ったことは、小島源治巡査の告白により明らかである。
 また、「ハヤクコウサンスルモノハコロサナイ」などと投降を呼びかけておきながら、投降してきた敵蕃壮丁を、密かに処刑した事実も明らかにされている。これらは、山地原住民の側からみれば、まさに悪魔の如き所業である。
 明治31年在台の官民有志が「蕃人」に関する研究のために「蕃情研究会」を設けたが、同組織を主催した持地氏は「生蕃は社会学上から見ると人間なれども国際法から見れば動物の如きなり」と語ったと言う。そうした歪んだ日本人の考え方によって、台湾の山地原住民が繰り返し残酷な仕打ちを受けたことを忘れてはならないと思う。 
 「回生録」の一部は訳者の解説・修正文にしたが、その他は「霧社緋桜の狂い咲き-虐殺事件生き残りの証言」ピホワリス(高 永清)著-加藤 実編訳(教文館)からそのまま抜粋した。(密かに処刑された山地原住民の人数が(30)と下段の「回生録」で異なっている理由不明)
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(30)日本官憲の仇憤感尚止まず
日本官憲は暗にタウツア社の者を扇動して 多数の 第二ム社事件を起こして 多数の無辜の人々を殺傷したにも不拘 尚 仇憤心止まず知らぬ振りをして昭和五年10月27日の兇行嫌疑者を調したパーラン社のローバオクルフが石川源六巡査部長に提供した密告 樺沢警部補の甘いい(ママ)誘導等に依って 次々と犯罪人の名簿が出来た 昭和6年10月15日 帰順式をやると詐って 川中島の成年男女みんな埔里まで連れて行き 婦女は2台のバスに乗せて埔里の街中をアチコチ走らせて観光と言った
成年男子は警察課の集会場に入れて坐はらせた 警戒の網が周囲にはられた すなわち着剣に実弾を入れ込んだ巡査が周囲をげん重に囲んだ 脱走を未然に防止するためであったと思ふ

先ず三輪警務部長が一場の訓示があった 彼曰く 「お前達は敵だった(反乱人)が 今日帰順式を行ふ 今日からは 又善良な大日本帝国国民となれる 只今名前を呼ぶから呼ばれた人は立て」と指示した 私達は静聴して坐ってゐた
次々と32人(如後頁)が呼ばれた 一人呼ぶ毎に2人の巡査が両側に依って腕をつかまへて留置場(拘留所)に入れた 同じ日同じ時間 にパーラン社でも家長会と青年会を併せて開会すると云ってパーラン社 カッツク社 タナカン社の成年男子をム社分室前の集会場に呼んだ ところが何もない分室主任高井九平の一場の訓示があった後 之又次々と名前を呼んで 16人留置場に入れた(後頁列名)

埔里でもム社でも入れられた人々の衣服は直ぐ脱いで 在場の代表人に渡して持たして帰へした 官吏曰く「留置された者はまだ少し用件がある 用件終り次第すぐ環へす」と 併し二度と此の世の人となって来なかった。只ピホサッポ一人だけ 埔里の死刑場からすきを見て丸はだかで故郷まで逃げて帰へったが 逮捕すべく官憲は待ってゐたし 又部落民にも捕まえて出すことを厳命してゐたので、家まで帰へることが出来ず 山の中で1ヶ月くらい生活した後 糧食拾いのためロルツオケダンと云ふ水田で糧食を探してゐるのを万大の人に見付けられて 逃げようとしたところを銃殺された
 
尚同じ日に(10月15日)万大のサッポカハをも逮捕の名簿に入れてゐたのを 万大駐在所勤務の日本人友人(サッポカハは万大駐在所勤務の台中州警手であった)から山へ行くことをすすめられて 不在にしてゐたために逮捕することが出来ず 後日逮捕する予定のところ彼サッポは其のまま事情を知って 永久に山から出て来なかった 官憲の指令に依って 捕へて役所(ム社分室)に差出すやうに探したところが万大蕃は既に川中島の帰順式 パーラン社 カッツク社 タカナン社の家長会 青年会のニュースを聞いていたので 反対に山へ行ってサッポカハの糧食をだまって提供して行った数ヶ月后 いよいよ見込みがないと知った彼サッポカハの親戚は 山の中の自殺をススメた サッポは 19年式修正村田銃の引金に足指をかけて引弾自殺をとげた
万大蕃人は自殺死体の発見を政府に報告して 事の成行きを約束した 

(31)サッポカハ其の人
サッポカハは昭和5年10月27日 政府(駐在所)の傭(ママ)人であり乍ら 真先に運動場に来て歓迎門の下で州嘱託菅野政衛の首を切て頭を地上に落とした人であり 帰へて知らぬふりでまじめに勤務してゐた 其の中に 同僚日人の中に友誼に深い人に出会って 昭和6年10月15日に逮捕されることを1日前に知らされたので 15日山へ待避して不在をした。友情に深い同僚日人も知らぬふりをして 上官に不在と報告したと云ふ

(32)逮捕された人々は何故一人も帰へって来ないム社で逮捕した16人は 夜になって闇の中に埔里の警察課留置場に押送された法律裁判もないで殺害された 食べさせる御飯を倹約したのか 或は仇の意味で殺したのか はっきりしない 後で私は乙種巡査1年をやったその机(機)会に 川中島駐在所の須知簿と云ふ最高机(機)密の帳簿を見ることが出来て 私は何げなしに読んで見た そうしたら中の記載は 川中島の歴史とか頭目 勢力者 不良青壮年等人の人となりや色々と重要なことが書いてあった
中でも 埔里で逮捕された32人のことも書いてあった 皆 同じくない日に腸炎とかマラリア 肺炎で何時獄死したと書いてあったが  事実はそうではない 埔里の梅仔脚と言ふ処に 日本人の共同墓地があった 其の付近に水田を持ってゐた平地人のお話に聞くと 約1週間通行止めの命令があった と

異常なことだから 夜になると黙って其の付近をうろついて歩いた 其の時 墓地の中で オ母さんと叫ぶ異様な泣き声もきこえた 棒で人が人を打ってゐる音もきこえたから 其のまましずかに戻ったと云ふ 
それは日本人が 10月27日兇行の疑いがあると云ふ恨みで 日本刀で音が出ないように屠殺行動に付せられたものであると考へられるそれをうち(ママ)付ける本当の証拠が次の様であった。
須知簿の記載は皆儘造(思いの儘の捏造)であり騙しにしかすぎない

(32)尊敬する井上伊之助公医
当時眉原に井上伊之助と云ふ公医が居た 少坡趾(ビッコ)の人であったとおぼいてゐる 恐らく子供の時小児麻痺に患ったのかも知らない
 後にマレッパやアチコチのヘンピな処に勤務して 困ってゐる病人を助けた 私の妻オビンタダオがタッキスナウイの遺児アウイダッキスを産む時も 井上伊之助公医が眉原から川中島へ急ぎ足で来て 接生助産(取り上げ)をして下さったと云ふてゐる 私はまだタウツアの小島源治宅に寄食してゐたから分からない

 或る日 私は台湾の図書館で書籍をあさって読んでゐたら 突然 井上伊之助の故事(お話)が出てゐた 私は詳しく読んだ 只今 脳溢血のために頭も悪くなり おぼへも悪くなったので おぼへてゐない 記事に依れば 井上伊之助公医の父は 昔に巡査(ママ)として台湾の蕃人討伐に従事してゐるうちに 蕃人から殺されたと 彼は子供でお母さんと日本に置かれてゐた 此のニュースを耳にした彼は 台湾に人を殺すような野蕃な行為をする人がゐるとは びっくりした。

 是非共は 是正しないといかないと思って 自らキリスト教の信者になって台湾に渡り 伝道の力で野蛮人を開明にみちびきたいと思った ところが官憲は 神教(神道)以外の伝道を許可しなかった 思案に困った彼は 医術を習得して病気をなほす一方 うらで伝道したいと考へた 自ら山の中を撰んだが 矢張り官憲は許さない 仕方なく まじめに病気をなほす意味で山に勤務した 私が川中島に移住し時や 10月15日は まだ眉原に務めてゐた
 15日以后 何日かしてから 彼は警察課に出頭を課長から電話で会議に呼び出された 参加の結果は 皆警察のお偉いお方ばかりであった 会議を主催してゐる偉い人が 井上公医に向かって口を開いた「留置してゐる蕃人30余人を殺したいが 手前に人の薬はないか」と 彼はビックリして返事した「私は人を助ける為に台湾に来たのだ 殺す為に来たのではない」と言って 即坐に退席したと その功労と良心が戦後数年になってから やうやく追認されて 老死后勲五等を追賞されたと書いてあった 
之から追察すると 毒殺の計画は成功しないで 日本刀の首切りで殺したものと思ふ 何ちらが野蕃か私には判らない 大東亜戦争で川中島の青年も多数徴用されて 南方綫(線)で戦死した 人的資源に困った時 自分の考へることだけで自由に自分のよいようにしてゐる日本人 今尚 戦争に川中島の青年を徴用した 全く先知後(覚)に欠けてゐる(先見の明もなければ後で悔いて覚ることもできない)と見てよい 
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回生録  第壱冊・第二冊

◎抗日戦争は如何様の状況で進行し、何の様に結束したか?

5 日憲(日本官憲の略?)は復仇に対して止まるところをしらない、第二次事件(第二霧社事件)製造して又吾々同胞216人
  の貴い生命を奪った、川中島(清流)へ移住させて後内密的に10月27日に日人(日本人)を殺害した人々を調べ上げて
  翌6年(民国20年)10月15日帰順式を理由に吾々を川中島より埔里へ連れて行き一場の訓示を終へて又次の人々を逮
  捕して永遠に帰へさなかっ
  た。

 ・・・(32人の社別 姓名 性別 推定年齢 備註は省略)

  霧社に於ては同日を利用してパーラン社頭目ワリスブニに対して家長会及青年会を召開すべく属下の壮丁を全部霧社分
  室に帯同すべく厳命を下した。ワリスブニは何の疑いもなく命に従ってパーラン社(トンタナ チェッカー フーナツ)タナカン
  社、カアツック社壮丁を午前9時霧社分室に連れて行った、計らずも此の事は日警(日本警察?)の陥阱でった。会議当
  場以上の18名は逐一検呼の下に逮捕された、後日18名は埔里に送られて処刑されたと漢民族の口述より社会に流布さ
  れた、処刑の場所は現在の電台中継所(梅仔脚共同墓地)と専らの噂である。
  日警方面に於ては、判刑の上拘留所で病死したと言ってゐるが当時拘留所犯粮食供給人の話に依ると、まさに虚構の詭
  弁である。

 ・・・(同様に18人の社別 姓名 性別 推定年齢 備註は省略)

-----------霧社敵蕃討伐、「科学的攻撃法を顧慮せられたし!」-----------

1、霧社事件で毒ガス弾が使われたという確証を求めて、様々な文書に当たり、現地に入って被害関係者に取材し、毒ガス弾
  の製造に当たったという工員をつぶさに訪ねて歩き、台湾飛行第八連隊第一中隊に配属されて霧社事件の鎮圧に出動し
  たという軍関係者にまで話しを聞いて書かれた本がある。それは「悪夢の遺産 毒ガス戦の果てに ヒロシマ~台湾~中
  国」尾崎祈美子著 常石敬一解説(学陽書房)である。読み終えたとき”「敵」も「味方」も傷つけて”という言葉に深く同感せ
  ざるを得なかった。まさにその通りであると思う。その中から、台湾軍司令官と陸軍大臣(副官)のやりとりの部分を抜粋す
  る。
2、また、「現代史資料(22)台湾2」編者山辺健太郎(みすす書房)から「台湾秘話 霧社の反乱・民衆側の証言」林えいだい
  (新評論)で取り上げられている”毒ガスを使用した「敵蕃(山地原住民)」討伐に関わる文書”を抜粋する。文書の中の敵
  兜(鉄兜)は防毒マスクのことであろうという。効果のなかった爆撃に関して「外部に対する発表は禁ずるものとす」などと
  いう文書や「敵蕃人」に取られた機関銃や小銃にかんする文書なども、当時の状況をよく物語るものとして、追加抜粋した。

3、さらに、下段は毒ガス使用を非難追求する台湾民衆党の動きに関する警務局の文書(「霧社蕃人騒擾事件経過」)の中の
  一部である。同じく「現代史資料22 台湾2」からの抜粋であるが、毒ガスの使用が、かなり広く話題になっていたことが分か
  る。

1「悪夢の遺産」から------------------------------------------
                          第一章 毒ガス戦の幕開け

 (1) 台湾・霧社事件

 「暗号ヲ以テセラレ度」

 ・・・
 そういって、彼は(春山明哲-国会図書館勤務)ガリ版刷りの紙を出した。
「これが研究会で発表したレジュメです。霧社事件の陣中日誌や憲兵隊の電文などから、毒ガス使用に関係した記述を抜き出したものがこちらです」
 そこには毒ガスをめぐる当時のやりとりが、A4用紙4,5枚にわたって、細かい字でびっしりと書き込まれていた。
 こうした記録から、催涙ガスと青酸ガスが使われたことまでは確認できるという。
「ただ致死性の糜爛ガスが使われたかどうかは不明なのです。ちょっとここの所を見てください」

  「申請
    反徒ノ退避地区ハ断崖ヲ有スル森林地帯ナルニ鑑ミ、糜爛性投下弾及山砲弾ヲ使シ(ママ)度至急其交付ヲ希望ス」 
    <昭和5年11月3日陸軍大臣宛 台湾軍司令官発>(「霧社事件関係書類綴」)

 台湾軍司令官から東京の陸軍大臣へあてられたその電文の内容は、糜爛性投下弾、つまりマスタードガスを至急送れというものだった。
「この申請にたいする返事が、これなんですが、……」
春山さんの指先を目で追いながら、私はハッとした。

   「糜爛性弾薬ノ使用ハ対外的其他ノ関係上詮議セラレス将来瓦斯弾ニ関スル事項ハ暗号ヲ以テセラレ度」
   (昭和5年11月5日台湾軍参謀長宛 副官発)(同前)

「つまり糜爛性ガスについては国際問題になるから、この先は暗号でやりとりしようといっているわけですね」
春山さんは大きくうなずいた。

「現代史資料(22)台湾2」から---------------------------------------
                           23 反乱の状態
 ・・・
 第175号 
  昭和5年11月2日午後2時20分受
                                                台中州知事
総督宛  
      軍隊よりの報告左の通御参考迄
一、戦闘に依る死傷者は悉くそれを運び去るを蕃人の風習とするを以て一日迄の托送及彼我射撃による敵の損害は詳細不明
   なるも目撃するもののみにても尠くも70~80名を下らざるが如し。
二、2日敵蕃に対し焼討を行ふ企図を有するも焼討攻撃爆撃等を以てしては地形上不徹底の虞れあるを以て エーテエテリツ
   ホスゲン等を以てする科学的攻撃法をも顧慮せられたし。
三、敵兜(鉄兜)500、擲弾筒、甲手榴弾又は其の代用品800、照明弾至急送られたし、為し得れば歩兵約一大隊(鉄兜共)増
   員望む。
四、司令部主計の配慮を乞ふ

第482号
    11月18日午後6時25分受
                                                桂警部
総務局長宛
  川西部隊は「タウツア」及「トロック」蕃人を率ゐ18日午前9時10分霧社を出発、正午石井部隊に到着せり。午後3時軍隊
 の攻撃終りたる以て同部隊は隊を二に分ち一隊は巡査5、警手9,公医1、「タウツア」蕃159名を部隊長これを率ゐ、石田
 部隊の前方森林地帯内の偵察に向ひ、他の一隊は巡査部長1,巡査5、警手16、「トロック」蕃人136名を香坂巡査部長
 引率、「マヘボ社」安達大隊占領地を出発し敵蕃の岩窟付近に接近し、催涙弾の効果を確かむべく同方面に向へり。
                                                          以上

第486号(11月18日午後11時50分受)、
                                                台中州知事 
総督宛  
       軍隊の情報
一、飛行隊は午前8時飛行を開始し、マヘボ渓の敵蕃に対し低空冒険飛行を敢行し多数の爆弾をマヘボ渓敵の根拠地に対し
  投下せり。午後は緑弾(甲一弾)の射撃効力を減殺するを虞れ飛行を禁止せしむ。
二、砲兵隊は早朝よりマヘボ渓谷岩窟に対し榴弾を猛射し、渓谷為に濛々たり。正午より約1時間緑弾(甲一弾)百発を渓谷
  に向ひ集中し、其の威力を渓谷内に充満せしめたるに、第4岩窟付近に泣声を聞きたるのみにて現在地より之を探知し得
  ざるを以て蕃人を使用し之を偵察せしむ。右偵察の為タウツア、トロック蕃約300名を午後2時頃マヘボ渓に進入せしめた
  るに、其の状況左の如し。
(1)其の蕃人は安達大隊占領地前方稜線より敵の根拠地たる岩窟(第4岩窟ならん)に近付きたるに、岩窟前にある敵の歩哨
  発砲と共に敵蕃数名(人員明瞭な  らず)設備せる掩堡に拠り交戦せり。
(2)両蕃中勇敢なる者更に近付きたるに、臭気甚しく且涙を催したるにより渓水を飲みたるに其の効力を失ひたるにより更に猛
  烈なるものに非ざれば効力無しといふ。如此敵は歩哨を配置し直ちに応戦するを以て、蕃人のみにては攻撃不可能なれば
  軍隊を更に前方に進められたしといふ。(軍隊を進めることは殊に引継当時なる関係上不可能にして、又山砲射撃に両岸に
  妨げられ命中せず、依て歩兵を使用することとせり、又旧松井大隊より接近不可能なるものの如し。)
三、午後2時頃緑弾射撃終了後、焼夷弾約10発を森林に向け射撃せるも全く其の効無きを以て、将来に於て之が使用を中止
  することとせり。
四、飛行隊は21日頃計画により撤退する如く命令せり。


第675号(11月26日午後6時40分受)
                                              台中州知事
総督宛
     軍隊の情報
  本日午前9時半より同11時迄の間に於てマヘボ渓左岸及元安達大隊占領地上方密林に対し飛行機より焼夷弾12発を投
 下せり。其の状況左の如し。
                       記
 投下と同時に白煙300程上り約30分発火し居るも延焼せず。効果大ならず。(外部に対する発表は禁ずるものとす。)


11月24日午前11時24分受
                                               坂口警視
警務局長宛
  軍隊に於ては撤退をひかへ曩に敵蕃人に取られたる機関銃並に小銃の奪還に焦慮し、憲兵分隊長自ら最前線にて警察
 に対して内密に捕虜蕃人を操縦し居るも到底見込なき模様。


号外(昭和5年11月27日午後9時受)
                                               坂口警視
警務局長宛
  予て陸軍より依頼を受けたる機関銃発見に出て向へたる石田部隊の捕虜蕃丁4名蕃婦1名は27日午後4時該銃1挺を蕃
 称リヒンカヲタツセル(岩窟の淵)より拾得、石田部隊に帰来せり。


号外昭和5年11月27日午後10時20分受
                                               台中州知事
総督宛
               機関銃に関する件
  11月27日石田部隊所在地滞留し居る憲兵は捕虜蕃人アウイパワン、同ワビコワン、同タダオパワン、同タワンキグイ、同
 マヘンモーナ及憲兵隊通訳ワイスバタン、同パラハカコンの7名をして午前6時出発せしめ、蕃称リジンガオタツセル岩窟の
 淵にモーナの長男のタダオモーナが投入せる機関銃1台を拾得、午後4時石田部隊に着するや人目を避けて憲兵隊の小屋
 に該銃を納めたり。


11月28日午前1時40分受
                                               坂口警視
警務局長宛
  27日マヘボ岩窟の淵より捕虜蕃人の持帰りたる機関銃は11年式1418号なり。


号外(11月30日午前9時受)
                                             霧社森田理蕃課長
警務局長殿
  軍隊に於て敵に奪われたる残一挺の機関銃捜査の為石田部隊にある憲兵3人は司令官の命令なりとて之が捜索、提供
 の懸賞金的金数を捕虜蕃人に示し、或は蕃人蕃婦を集めて夜半迄飲酒する等今後警察に於ける捕虜の収容上支障なき
 やを保せず、注意を与え居れり。御参考迄。

3「現代史資料(22)台湾2」から---------------------------------------
                           霧社蕃人騒擾事件経過
                                                          警務局
5 原因に対する憶説、風評の
第2 左傾分子の策動
(ハ)台湾民衆党の策動
  台湾民衆党は、11月5日内閣総理大臣、拓務大臣、陸軍大臣宛左の如き無根の電報を発送せり(本電報は通信部に於
 て、公安に害あるものとして差し止め
 たりと)。
  「今回蕃人に対し国際間に使用禁止せる毒瓦斯を以て攻撃せり、非人道の行為なり、    台湾民衆党」
 本件は一時新聞紙に誤報せられたるを根拠として軽率にも此の挙に出てたるものなり。

 ・・・

第3 流言蜚語

 (ハ)民衆党幹部蒋渭水の常備車夫林宝財は11月4日午前10時30分蒋渭水宅前掲示場に霧社事件に関する新聞記事を
    訳載したる掲示を見るべく蝟集したる群衆に対し「飛行機より毒瓦斯を投下するは不都合なり、新聞紙に発表を禁ずるも
    己に我が中国人も知り諸外国人も知悉せり、何れ国際問題となるべし」と無根の流言を放ち検束せらる。

 ・・・

--------------霧社事件 日本軍の毒ガス実戦使用開始--------------

第1次世界停戦でドイツ軍は大量の塩素ガスを使用した。およそ5000人の死者を出したという連合軍のイギリス・フランスは防毒マスクなどの装備を開発する一方で、同じように塩素ガスを毒ガス兵器として開発し使用した。それがエスカーレートし、2年あまり後にはドイツ軍が糜爛性猛毒ガスの「イペリット」を開発し使用した。1917年のことである。その1年あまり後には、イギリス・フランス両軍も防毒マスクでは防御困難なイペリットガスを開発し、実戦で使用している。その結果100万人をこえる死傷者を出したのである。第1次世界大戦終結後、これを教訓とし、化学兵器の使用を抑制しようと、1925年、戦争における毒ガスや生物兵器などの使用禁止を定めたジュネーブ議定書(正式名称「窒息性ガス、毒性ガスまたはこれらに類するガスおよび細菌学的手段の戦争における使用の禁止に関する議定書」) が調印された。

 しかしながら、日本では1929年、瀬戸内海の大久野島で兵器製造所が建設され開所式が行われている。密かに戦時国際法違反の毒ガス製造が始まったのである。そして翌年、実験段階にあった毒ガスが台湾において実戦使用された。当時台湾はすでに日本の統治下にあったため、国際連盟に訴えがあったけれども「国内問題」として調査がなされることはなかったようである。「悪夢の遺産 毒ガス
戦の果てに ヒロシマ~台湾~中国」尾崎祈美子著 常石敬一解説(学陽書房)からの抜粋である。
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               第1章 毒ガス戦の幕開け

(3)毒ガス戦の暗い闇

 毒ガス使用は実験

 Kさん(霧社事件鎮圧に出動した台湾飛行第8連隊第1中隊整備班長)の話しを聞いてから、霧社を訪れてからずっと抱いてきた謎が解けたように思えた。それはタイヤル族との戦いで日本軍は圧倒的優位な立場にあったにもかかわらず、なぜ毒ガスを使ったのかという点である。ジャングル地帯でのゲリラ戦に不慣れだった日本軍は、地形的な問題で、化学的攻撃方法=毒ガスを使う必要があった。そのことは当時の記録でも裏付けられていた。
 だが、私は、それだけの理由ではないとも考えていた。霧社での毒ガス使用は実験ではなかったのか。タイヤル族をモルモット代わりにしたのではないか。取材を通じて、そうした疑惑がだんだん大きくなっていったのである。

 「毒ガスを使ったと知って驚きましたか」という問いかけに、「別に驚きませんよ。当然くらいに思っとりました」とKさん。当時、日本軍の化学兵器が実用段階にあったことは常識だった、とかれは語った。
「私が兵隊にいく前だから、昭和3年ですよね。その頃には瀬戸内海の大久野島で毒ガスを作っていることは、たいていの者が知っていましたよ。さっきもいいましたが、日本のスパイに対する警戒がどれくらい甘かったか、ということですね。昭和4年では、もう台湾の飛行8連隊の連隊被服庫のなかに、ガスマスクがありました。みんなで、これが毒ガスのマスクじゃいうて、被ってね、これからこう……(ガスマスクをかぶる動作)。ガスマスクがありましたよ」

 日本軍の毒ガス研究・開発の歴史を調べてみると、確かに1927(昭和2)年には、すでに87式防毒面が制式化(軍が正式に採用したことを意味する)されていた。また、その翌年の夏には、台湾北部の新竹で、糜爛性のイペリットを使った毒ガス演習も行われている。(厚生省引揚援護局資料室 『本邦化学兵器技術史年表』)

 霧社事件の鎮圧で、唐突に毒ガス兵器が登場したわけではなく、実戦で使う準備が整い、使用の機会を待ち構えていたとき、霧社事件が起こった。そんなふうに考えられるのである。
 当時の記録にもこうした見方を裏付ける意見が記されている。そのひとつが台湾総督府警務局がまとめた霧社事件についての報告書にある「某官吏」の言葉だ。

 「霧社事件に軍隊の出動を見たるが僻地なる蕃地のこととて気候等の変化あり、且つ給与等行き届かざる為め出動部隊に対しては誠に気の毒なり。然れ共軍隊に執りては平素新兵器を執り幾多の訓練を重ねられ演習のみにては実際の効を知ることは能はざりしも、今回は現実に其の効果を試練せらるることにて誠に生きたる好試練なり」(前掲書『現代史資料22台湾』666ページ)

 新兵器の訓練をいくら重ねても、演習では実際の効果を知ることはできないが、霧社では現実にその効果を試すことができ、生きた好試練だった、というわけである。
 同じ記録には、「元蕃務警視加来倉太」という人の、「軍隊は此の機会に於て新兵器の実際的試験為さんとするが主たる目的なるべし」(同前644ページ)という意見も収録されていた。
 実験であったとの視点から日本軍の記録を読み直せば、いろいろな事実が浮かび上がってくる。
 毒ガスとともに新兵器とされた焼夷弾について、「焼夷弾ハ霧社事件ノ為態々試作セラレタルモノニシテ、効果大ナルモノノ如ク候故、是非共使用セラレ度意見ニ候」(日誌。11月10日)という、参謀長からの前線への電報。その使用の指導と効果を調べるために、陸軍科学研究所の担当者が現地入りしたこと。また、毒ガス弾についても「瓦斯弾(青酸及催涙弾)ノ効果試験ヲ為ス予定ナリ」という電文もあった。私はそれまで糜爛性ガスの使用についてばかりに気を奪われ、これらの電文が何を意味するのかを、深く考えていなかった。
 霧社事件鎮圧の指導にあたった服部兵次郎台湾軍参謀陸軍歩兵大佐は、「各方面とも特殊の地形特殊の対手だけに珍しい研究や経験が出来た用(ママ)であります」と記していた。毒ガス弾や焼夷弾だけでなく、第1次ハーグ条約で禁止されていたダムダム弾も、試験的に使われた。(戴国煇『台湾霧社事件──研究と資料』553ペ-ジ)
 
 実験目的で使用されたなら、必ず、その効果についての報告書が存在するはずだ。
 私は春山さんにアドバイスを求めた。ところが意外な事実を知らされた。
 霧社事件の『陣中日誌』の内容には、「戦闘詳報」と「機密作戦日誌」という二つの記録の存在が明らかにされている。これらの史料には、毒ガス使用の実態や効果について詳しく記されている可能性が高い。にも関わらず、どんなに探しても発見できないというのだ。
 私の頭には台湾大学の許教授がいった「日本側の証拠」という言葉がチラついて離れなかった。ふたつの史料の行方がわからないことが不可解に思えたのだ。

--------------毒ガスの島-地図から消された島-大久野島-------------

1929年(昭和4年)5月19日、 広島県竹原市忠海町から沖合いおよそ3キロメートルの瀬戸内海に浮かぶ大久野島で「陸軍造兵廠火工廠忠海兵器製造所」の開所式が行われた。極秘の毒ガス製造基地のスタートである。そして、大久野島での毒ガスの製造は、様々な悲劇を生んだ。それは兵器として使われたための悲劇に止まらなかった。

 毒ガスを作るための原料産出鉱山労働者などを「砒素中毒」にした。また原料の「亜砒酸」の輸送にあたった海運業者も、砒素中毒の症状に苦しんでいる。もちろん、大久野島で直接毒ガスの製造に当たった工員はもとより、大久野島で働いた人のほとんどが何らかのかたちで被毒し、生涯苦しむこととなったことはいうまでもない。また、大久野島で製造された毒ガスや化学兵器を荷造りしたり、発送したり、保管したりした旧広島陸軍兵器補給廠忠海分廠の関係者も被毒している。さらに、大久野島で製造された毒ガスを砲弾や爆弾に装填する作業をしていた北九州市の「東京第2陸軍造兵廠曽根製造所」の関係者も毒ガスに汚染され、同じように毒ガスのために慢性気管支炎などで生涯苦しむことになった。戦後毒ガスの廃棄にあたった帝人三原工場の従業員までもが被毒したという。作業中の様々な事故による死者も、関係各所で発生した。広島大学医学部第二内科研究室には被毒者の医療データが集められているという。「毒ガス島からの告発 隠されてきたヒロシマ」辰巳知司(日本評論社)によると、1991年度時点でその数は6589人である。また、慢性気管支炎とともに、被毒者を苦しめるもう一つの病に「がん」がある。被毒者の発がん率は異常に高いのである。

 中国では、毒ガスの遺棄弾による被害が跡を絶たず、今なお、多くの問題を抱えて、遺棄弾に悩まされ続けているのである。

 したがって毒ガス兵器の製造は、関係者の多くを生涯苦しめる悲劇を生んだだけではなく、現在なお新しい悲劇を生み出し続けていることを忘れてはならないと思う。日本が毒ガスの製造を開始した当時、すでにジュネーブ議定書が調印され毒ガス兵器や生物兵器の使用は禁止されていた。国際法違反を承知で製造が始まったといえる。製造は当然極秘裏に進められた。大久野島の工員は、毒ガス工場について、家族を含めて一切口外しないことを誓約させられていたし、憲兵の監視も厳しく、大久野島をのぞむ忠海の海岸線を走る呉線の列車内では、海側のよろい戸を閉め、見ることさえ許されなかったという。そうした極秘の製造と敗戦前後の証拠の隠滅は、戦後の毒ガス被害者の救済にも様々な困難を残すことになった。

 下記は「毒ガスの島 大久野島悪夢の痕跡」中国新聞社(阿座上俊英・岩崎誠・北村浩司)から、毒ガス製造の概要を記述した部分のみを抜粋したものである。
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                              第1章 悪夢の痕跡

旧日本軍と毒ガス 日中戦争から生産量が急増

 大久野島で製造したのは5種類の毒ガス。びらん性のイペリット(きい1号)とルイサイト(きい2号)、くしゃみ性のジフェニール・シアンアルシン(あか1号)、青酸ガス(ちゃ1号)、催涙性の塩化アセトフェノン(みどり1号)で、1931-37年までに陸軍が相次いで制式化(兵器として認定)した。
 中でも「毒ガスの王様」と呼ばれたイペリットについては、ドイツ式製法の「甲」、フランス式の「乙」に加え、ソ連や中国東北部など寒冷地での毒ガス戦に備えた不凍性の「丙」も、独自に開発された。

 中央大学商学部吉見義明教授(日本現代史)は、旧日本軍の毒ガスについて海外資料などから研究を続けている。米国で入手した終戦直後の米太平洋陸軍参謀第2部の報告書などを分析し、大久野島での毒ガス生産量の全容を初めて突き止め、94年夏、専門誌「戦争責任研究」で発表した。

 それによると、敗戦時までの毒ガスの総生産量は6616トン。日中戦争が始まる37年から急増し、41年には総生産量の4分の1に当たる1579トンに達した。日中戦争で最も多く実戦使用されたジフェニール・シアンアルシンは、日中戦争開戦翌年の38年、実に前年の10倍に当たる310トンを製造を製造。大久野島ではこうした毒ガスを使った13種類の化学兵器も製造しており、中国に大量に持ち込まれた「あか筒」の生産は265万発になることも分かった。これを含め、陸軍の毒ガス弾の総量は739万発にのぼっていた。

 毒ガスを日本が最初に使ったのは、30年、台湾の先住民たちが起こした暴動「霧社事件」の鎮圧の際と言われる。やがて大久野島での毒ガス製造の本格化に伴い、陸軍の毒ガス戦に向けた組織づくりも進んだ。33年には化学戦教育にあたる「習志野学校」が発足、死者も出た危険な演習で養成された約1万人の化学将校、下士官たちは、日中戦争での毒ガス実戦の中心になった。

 39年には中国東北部を支配した関東軍に516部隊と呼ばれる化学部隊が設けられ、細菌戦を展開する731部隊などとともに、大久野島から送られた毒ガスの人体実験を中国人に対し行った、とされている。
  
 国内でも毒ガス戦の準備は進められ、各地の陸軍部隊にも配備された。市民の防毒訓練も広島市、呉市などでひんぱんに実施された。戦争末期には陸軍は各地の師団司令部に「制毒隊」を組織、米軍が上陸した際の「本土決戦」の毒ガス戦に備えた。第5師団司令部のあった広島市中区の広島城にも極秘に制毒隊が設置されていた。当時の制毒隊長だった広島市中区の元会社役員富田実さん(75)は「被爆直前まで、長門市の仙崎港米軍を迎え撃つ作戦を練った」と証言する。

 大久野島で、終戦までこうした毒ガスの製造を支えたのは、一般工員や徴用工、忠海中、忠海高等女学校などの動員学徒、女子挺身隊員たちだった。
 その総数は判明しただけで約6600人。工場の稼働率の高まりとともに、島に林立する毒ガス工場群は屋外の窓ガラスまで原料の亜砒酸などで白く曇り、島の松も茶色く枯れた。風の弱い雨天には、島全体が有毒な排煙に包まれ、劣悪な労働条件は多くの毒ガス障害者を生み出していった。

 終戦後、大久野島で毒ガスの処理に当たった英連邦軍が、島とその周辺で確認した毒ガスの原液は3600トン余り。総生産量から差し引いた約3000トンが、戦地に送られたとみられる。中国政府が92年に国連へ提出した報告書では、中国に残る毒ガス遺棄弾は約200万発、毒性化学物質は約100トンにのぼり、ほとんど手つかずのまま遺棄されて、現在に至っている。

------------大久野島 毒ガス工場へ「青紙」の徴用令状-------------

毒ガスが制式化(軍が兵器として正式に採用を決定)されると、大久野島の毒ガス工場は大量生産体制に入る。
 制式化された毒ガスは、その種類によって「きい1号」(イペリット)「きい2号」(ルイサイト)「あか1号」(ジフェニール・シアンアルシン)「ちゃ1号」(青酸ガス)「みどり1号」(塩化アセトフェノン)などの秘匿名でよばれ、砲弾などにもこれらの色の帯をつけて、その内容物が識別できるようになっていた。
 イペリットは「毒ガスの王様」として知られ、ベルギーのイーペルでドイツ軍が最初に使用したためこの名がついたという。からしのようなにおいがあることからマスタードガスの別名をもつものである。
 ルイサイトは第1次大戦中にアメリカで開発され、研究にあたったルイス大佐の名をとってルイサイトと呼ばれるようになったが、「死の露」と恐れられた毒ガスである。
 「ちゃ」の青酸ガスは日本軍が、後期に最も研究に重点を置いた毒ガスで、対戦車用にガラス容器に入れて使われた。それは「ちゃ」を入れた「瓶」の「ちゃ瓶」を縮めて「ちび」と呼ばた。
 「あか」はくしゃみ性ないし嘔吐性の毒ガスで中国の戦場で多用されたものである。
 「みどり」は現在もデモ隊などに対して使われる催涙ガスである。
 ここでは「毒ガス島からの告発ー隠されてきたヒロシマ」辰巳知司(日本評論社)から、「青紙」の徴用令状を受けり、毒ガスのにおいが漂う大久野島の工場の中で危険な作業に取り組んだ徴用工の証言の部分を抜粋する。
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Ⅰ 大久野島

 第2章 毒ガス工場最盛期

 青紙の青春

 24時間態勢で毒ガスの生産が続いた大久野島で、工員らはどんな思いで生産に従事し、人生にどう影響したのか、希望入所ではなく国家総動員法の徴用令状により、ほとんどが16-17歳という未成年のまま、強制的に大久野島行かされた徴用者。「赤紙」といわれた軍隊への召集令状に相応する徴用令状「青紙」を受けとり、大久野島行きを命令されたことに対する恨みは、後遺症の進行とともに深まる。「徴用工は大久野島では消耗品同然だった」「徴用名簿をつくった人間がわかれば、いまでも告訴してやりたい」元徴用者からは、こうした怒りの言葉が飛び出す。元徴用者3人に、大久野島での青春とその後を聞いた。

▽上田春海さん(69)=広島市安佐北区=

 ・・・(略)

▽小野政男さん(70)=広島市中区十日市町=

 「大久野島での徴用期間となった1年半の間、ずっとルイサイト工場で働いた。工場から屋外に出たら、からし臭とも何とも表現しがたいルイサイト特有のにおいがしたため、調べてみると、工場内で帽子にルイサイトがわずかに付着したことがわかったことがある。すぐに医務室に行ったが、『手当はできない。手当ができるようでは兵器ではない』と軍医にいわれた。2時間後、頭痛がはじまり、三日三晩にわたり七転八倒した。かなづちで頭を殴られ続けているような痛みだった。綿の帽子に浸透したルイサイトが、ほんのちょっとだけ頭に触れただけなのに、こんな激しい痛みに襲われ、初めて自分がつくっている毒ガスの恐ろしさを知った。
 当時、悪いものをつくっているんだな、という意識はあった。毒ガスが国際法違反ということも知っていた。
 私たち徴用工だけでなく、希望して入った一般工員も自由に辞めることができなかった。半強制的な労働だったと思う。徴用工は寮生活だったが、一般工員も長く休むと憲兵が家を訪ねることもあった。
 大久野島で働いた後、軍隊に行ったが、とにかく体が疲れやすくなっていた。戦後、気管支や臓器もやられ、坂をのぼるのもしんどかった。そこで無理をした人間は大勢、死んでしまった。体は言えんぐらい悪い。
 戦中、写真屋で働いていた際に徴用され、戦後も写真館の仕事を続けた。」

▽山崎一男さん(69)=広島市南区北大河町=

 「入所して1週間、軍事訓練を受けた後、『あか筒』に配属され、箱詰め作業をした。作業部屋に入っただけでも目やのどが痛んだ。
 徴用者のなかに一人だけ妻帯者がいた。この人がある日、故意に裁断機で小指を切り落とした。軍法会議にかけられたまま消息はわからずいまでも気がかりだ。
 あの頃は、命ぜられるまま国のために毒ガスをつくった。日本軍を勝利に導くものと信じていた。いまから思うと、一枚の青紙で人生がすっかり変わってしまった。
 当時、楽しみといえば、仕事帰りに忠海にあったうどん屋で食べること。育ちざかりだったので、与えられた食事だけでは足りなかった。軍事将棋に『毒ガス』と書かれた駒があったね。」

 こうして大久野島でつくられた毒ガスは、砲弾類以外の「あか筒」「みどり筒」「みどり棒」などは島内で充てん作業が行われた後、戦地へ送られ、弾丸などへのてん実が必要な「きい」などの砲弾類用の毒ガスは、てん実工場の福岡県・曽根兵器製造所へ50キロ、100キロの鉄製専用容器などを使って運ばれた後、戦地へ送られた。また「きい」「ちゃ」などの毒ガスが、原液のまま直接中国へ送られることもあり、輸送には鉄道と船が使

-------------曽根製造所 毒ガス充填施設元工員の証言--------------

 曽根製造所で、砲弾に毒ガスを充填するなどの作業をした元工員たちは、「今、自分が日々苦しんでいる病気や、かつての同僚たちの死が、毒ガスと結びついているとは、想像もしなかった」という。そして、「何もいわなかった私たちも落度があるが、国も私たちに何も教えてくれなかった」というのである。
 忠海(大久野島で働いた人たち)では、みんな医療手帳をもらっていると聞いて驚き、補償を要求すると、厚生省の担当者は「曽根製造所で毒ガスを扱っていたという記録はありません」と拒否し、3つの証拠が必要であるとされたという。まず曽根製造所で確かに毒ガスを充填したという「歴史的証拠」。二つ目は曽根製造所で働いていたという「雇用関係を示す証拠」。三つ目は毒ガス障害についての「医学的証拠」である。
 本来これは国が調べるべきことだろうと思うが、国が調べないので、関係者は救済制度の適用を受けるまで、大変な苦労を強いられたのである。証拠隠滅をはかり、戦争責任を回避しようとした旧軍関係者の姿勢が、戦後に受け継がれた結果ではないかと考えざるを得ない。「悪夢の遺産 毒ガス戦の果てに ヒロシマ~台湾~中国」尾崎祈美子著 常石敬一解説(学陽書房)からの抜粋である。
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                      第3章 もうひとつの毒ガス工場

 (1)忘れられた毒ガス障害者

 44年目の証言

 「私たちは国の恥になることはいってはならないという風潮のなかで、戦後を生きてきました。でも、大久野島の工員たちが医療手当がもらえて、私たちがもらえないのはおかしい。このまま黙っていては運動はできません。」(朝日新聞西日本本社版1989年8月13日)
 1989年の夏、北九州市小倉南区にあった兵器工場で働いていた男女300人が、国に補償を求めて互助組織を発足させた。戦時中旧陸軍の毒ガス充填施設であった東京第2陸軍造兵廠曽根製造所(以下、曽根製造所)の従業員たちである。
 戦後44年目にして、初めて名乗りをあげた彼らの行動は、歴史の闇に埋もれようとしていた「もうひとつの毒ガス工場」の存在を再び浮かびあがらせることになった。

 曽根製造所。それは旧陸軍の毒ガス戦遂行のために、なくてはならない施設だった。
 1937年10月、日中戦争が始まった年に開設され、終戦までに約150万発もの毒ガス弾が製造された。大久野島で製造された毒ガスのほとんどが、関門海峡を渡って運び込まれ、加農砲、軽迫撃砲、野砲、山砲などの砲弾に充填された。製造された膨大な数の毒ガス弾は、旧日本軍の制式兵器として海を越え、前線に送られていったのである。

 曽根製造所には最大時、約1000人の従業員が働いていたという。毒ガス弾の製造に関わった多くの人が、戦後も後遺症に苦しみ続けることになった。大久野島と同じ状況が、ここでも起こっていたのである。
 歩くだけで肩で息をする、体がだるくてたまらない、いつも何かが咽喉につまったよう、咳が止まらなくて苦しい……。
 結成されたばかりの「曽根毒ガス障害者互助会」の会合で、会員たちが堰を切ったように健康の悩みをぶちまけた。気管支炎など呼吸器系の病気や、肺、心臓などを患う人が多く、工員仲間が次々と亡くなっていくことに、不安と恐れを抱いていた。
 「曽根製造所にいたころは、みんな若かったし、ガスがどのくらい危ないか知らなかった。戦後工員たちが上司に会っても、しゃべっちゃいけんよ、しゃべっちゃいけんよ、と言われていた。今になってみればそれがかえっていけなかったんですね」
 会員の吉岡多鶴子さんはそう語っている。(同前)
 大久野島の毒ガス障害者たちが、戦後早い時期に国への補償を求めて立ち上がったのに比べ、曽根の障害者たちはあまりにも対照的だった。
 なぜ彼らは44年も沈黙を守り続けていたのか。国からなんの補償もないまま、見捨てられたも同然の長い歳月をどんな気持ちで過ごしてきたのか。戦時中彼らは曽根製造所でどのような仕事をしていたのか。
 いくつもの疑問を抱いて、私は現地を訪ねたのだった。

----------------中国戦線における日本軍の毒ガス戦--------------

「未決の戦争責任」粟屋憲太郎(柏書房)によると、日本軍の中国戦線における大規模な毒ガス使用は、下記の北支那方面軍の晋南粛正戦からのようである。その後、中支那派遣軍も徐州会戦・安慶作戦、武漢作戦などであか筒・あか弾を多用している(武漢作戦については下段に追加あり)。1939年以降も修水渡河作戦、新墻河渡河作戦、奉新附近の戦闘、大洲鎮附近の戦闘などで毒ガス攻撃をしており、華南における翁英作戦では、最初のきい剤(イペリット)の使用が確認できるという。さらに、宣昌攻防戦での日本軍によるイペリット使用は、当時すでに国際的にも知られていたという。それは、形勢が不利になると、苦境を脱するために徐々に毒ガス兵器に頼るようになり、毒ガス兵器使用を秘匿するという配慮が影を潜めて、イペリットなどの糜爛性ガスを頻繁に使用するようになっていったことを物語っていると思われる。

 旧軍関係者その他に、日本軍の中国戦線における毒ガス使用を否定する動きがあるが、下記の毒ガス使用を秘匿しようとした軍の意図と重なって見える。しかし、この毒ガス使用の作戦命令が、天皇の裁可を得て発せられており、下記の命令も大陸指(大本営陸軍部指示)である事実を忘れてはならないと思う。当初は、知られてはならない作戦だったのである。また、これらの毒ガス戦は、著者が米国立公文書館にある国際検察局文書の中から見つけ出した陸軍習志野学校案「支那事変ニ於ケル化学戦例証集」などを中心とする日本側公文書によって裏付けされていることも重要である。
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                              Ⅴ 毒ガス作戦の真実

 中国戦線での毒ガス作戦

 ・・・
 こうして、38年4月11日、閑院宮参謀総長から寺内寿一北支那方面軍司令官・蓮沼蕃駐蒙兵団司令官に対し、占拠領域の確保安定に関して次のような命令(大陸指110号)が出された。

 「左記範囲ニ於テあか筒軽迫撃砲用あか弾ヲ使用スルコトヲ得
  (1)使用目的 山地帯ニ蟠居スル敵匪ノ掃蕩戦ニ使用ス
  (2)使用地域 山西省及之ニ隣接スル山地地方
  (3)使用法  勉メテ煙ニ混用シ厳ニ瓦斯使用ノ事実ヲ秘匿シ其痕跡ヲ残ササ
          ル如ク注意スルヲ要ス」(大陸指綴」2巻)

 こうして、あか剤の最初の大規模使用の戦場として山西省を中心とする奥地が撰ばれたことになるが、交付された資材は、北支那方面軍に、軽迫撃砲用あか弾15000発・あか筒4万本、駐蒙兵団にあか筒1万本であった。
 駐蒙兵団は、6月中に第26師団が行った綏遠省東南地区(清水河、和林格爾附近)の戦闘であか筒の使用を準備したが、「状況之ニ適セサリシ為」使用を中止した(駐蒙軍参謀長「発煙筒使用ニ関スル報告提出ノ件」1938年7月14日)。

 他方、北支那方面軍司令官は4月21日、「方軍作命甲第293号」において香月清司第1軍司令官にたいし参謀総長の命令を伝達し、岡部直三郎参謀長はあか弾・あか筒の「集結使用」を指示した(「第1軍機密作戦日誌」、以下これによる)。これをうけて第1軍司令官は5月3日、「特殊資材使用ニ伴フ秘密保持ニ関スル指示」を交付した。この文書で注目される点は毒ガス使用の企図、使用した証跡などを徹底して秘匿するために次のような指示をしていることである。
  
 すなわち、(1)ガス資材の筒・収容箱の標記を予め削除すること、(2)使用後のあか筒は蒐集して持ち帰ること、(3)教育には印刷物を使わず、被教育者以外の立入りを禁止し、修得事項の口外を禁止すること、(4)使用の場合「使用地域ノ敵ヲ為シ得ル限リ殲滅シ以テ之カ証跡ヲ残ササル如ク勉ム」ること、(5)住民の居住地域や外部との交通の便利な地点での使用を避けること、(6)毒ガス資材を「敵手ニ委セサルヲ期す」こと、(7)資材の運搬に現地住民や傭役車馬を利用しないこと、(8)毒ガスを使用したとの敵側の宣伝に対しては毒煙でなく単なる煙であると宣明すること、などである。

 国際法を意識し、いかに使用事実を秘匿するかに注意を集中している有様がよくうかがえる。このような指示は、その後の毒ガス戦でもくりかえしだされることになる。


晋南粛正戦
 1938年5月23日北支那方面軍は、徐州作戦の支作戦での毒ガス使用を決意し、第1軍に対しあか弾・あか筒の使用を許可し、これをうけて第1軍は109師団にその使用を許可し、実戦使用の段階に入った。ところが、この間に第20師団が候馬鎮・曲沃方面で中国軍の頑強な抵抗をうけ、臨汾・新絳が危機に陥る中で、27日、第1軍は第20師団にまずあか弾の使用を許可した。しかし、危機的状況が続いたために、6月15日、新任の梅津美治郎第1軍司令官は川岸文三郎第20師団長に対し、「一軍作命甲第263号」であか筒の使用をも許可し、飯田祥二郎参謀長は「主力ノ攻撃ニ際シ急襲的ニ之ヲ使用スル」よう命令した。こうして、毒ガスは晋南粛正戦で大規模に使用されることになる。第20師団には第1~第4特種指導班と迫撃第3大隊が配属されたが、「例証集」戦例11によれば18000本の中あか筒が準備されたという。
 そして万全の準備を整えた後、7月6日払暁から、曲沃南方、絳県北方高地帯の中国軍に対し、大規模なガス攻撃が行われた。第20師団の報告(第1報)によれば、その状況は次のとおりであった。

 「第20師団ハ7月6日払暁ヨリノ攻撃ニ当リ其ノ部隊正面ニ於テ儀門村及北楽村各南方高地ノ線ニ4・5千米ニ亘リ6・7千筒ノ特種発煙筒ヲ使用セリ、尚時風北北東1米70、煙ハ克ク低迷ス、最初敵ハ発煙開始ノ信号弾ヲ見テ盛ンニ射撃ヲ開始スルモ煙ノ到達ト共ニ射撃ヲ全ク中止ス
 歩兵部隊ハ直ニ南下環及南樊鎮ノ線ヲ奪取シ更ニ其ノ南方地区ニ向ヒ前進シツツアリ、但シ煙ノ一部(一割以下ナラン)ハ風向及風速ノ動揺ニ依リ我カ方ニモ流来シ一部防毒面ヲ装着スルヲ要セリ」

 ここでの「特種発煙筒」とは、毒ガスのあか筒をさす秘匿保持のための用語である。
 これは「例証集」戦例11に収録されている曲沃附近の戦闘の記述と一致する。これによれば、あか筒の放射数は約7000本で、第1線部隊はほとんど損害なく、一挙に約3粁を突破したが、北董村附近では「毒煙逆流シ成果ノ利用十分ナラザリシ部隊アリ」ともいう。
 しかし、ガス攻撃はこれだけに止まらなかった。翌7日の第20師団の報告(第2報)によれば、「曲沃南方地区ニ於テハ7日未明東韓村ヨリ南吉ニ亘リ約3粁ノ正面ニ亘リ約3千箇ノ特種発煙筒ヲ使用シ煙ハ澮河ニ沿ウ地区ヲ西方ニ流動シ次テ風向ノ変化ニ依リ曲沃西方高地脚ヲ流セル若干ノ煙ハ澮河北岸ニモ流来セリ、曲沃南方澮河北岸ノ敵ハ6日夜盛ニ射撃セルモ朝迄ニハ退却セルモノノ如シ」という状況であった。
 こうして、この戦闘では2日間に約1万本のあか筒が使用されたのである。第20師団は迫撃を続行し、運城を占領して晋南粛正戦は終了した。

 ・・・(以下略)

追加-「毒ガスの島-大久野島悪夢の傷跡」(中国新聞社)より-------------------------

 吉見教授は84年、日中戦争の「武漢攻略戦」(38年 )で少なくとも375回の毒ガス使用を裏付ける資料を米国議会図書館作成のマイクロフィルムから発見。その後も宣昌攻防戦(41年)などでの日本による猛毒のイペリット大量使用を分析した米軍の極秘文書や、終戦後に大久野島の毒ガス処理を行った英連邦軍の報告書などを次々と発掘してきた。


------------中国戦線 日本軍の毒ガス攻撃-宜昌攻防戦-------------

 国民党政府が臨時首都を置いた重慶をにらむ要衝の宜昌(重慶爆撃の中継基地)は、日本軍第13師団が守備していたが、主力部隊が湖南省長沙への攻撃で手薄になったところへ、守備する日本軍に数倍する大兵力で、国民政府軍が奪回の攻撃に出た。1941年10月のことである。
 宜昌の周囲60余りの拠点を占領され、完全に包囲されて危機的状況に陥った第13師団の師団本部は、「通常弾とともに、ありったけのガス弾を撃て」と隷下の部隊に命じ、何とか危機を脱したのである。それに関連する記述が、例証集(ワシントンの米国立公文書館にある国際検察局文書のなかから粟屋憲太郎教授が発見した陸軍習志野学校案「支那事変ニ於ケル化学戦例証集」)に残されているという。
 下記は、その宜昌攻防戦に関係する部分と、米国記者の証言の部分を『隠されてきた「ヒロシマ」毒ガス島からの告発』辰巳知司著(日本評論社)から抜粋したものである。
 中国の紀学仁教授によると、攻撃主力の2つの師団だけで1600人以上が被毒し、うち600人が死んだとのことである。防毒マスクなどの防護器材がなかったために、あと一歩のところで撤退を余儀なくされたという。
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                               第2章 宜昌攻防戦
 米国記者の証言

 日本軍の毒ガス戦のなかで、最大規模といわれる戦闘のひとつに1941(昭和16)年に起きた宜昌攻防戦がある。
 湖北省・宜昌は、揚子江で結ばれた華中の都市武漢と国民党政府が臨時首都を於いた重慶の中間点にある要衝で、揚子江沿いの港を中心に市街地が広がり、揚子江を背に三方が丘陵で囲まれた町である。現在では揚子江下りの観光名所「三峡」の大渓谷を形成する大巴山脈の入り口としても知られている。
 藤原彰・元一橋大学教授の『昭和天皇の15年戦争』(青木書店、1991年)によると、日本軍は大本営の命令により、1940(昭和15)年6月中旬、宜昌を占領し、その後、重慶に対する大規模な戦略爆撃の計画が持ち上がると、昭和天皇の意向もあり、重慶爆撃の中継地点として宜昌を再占領し、以降、陸軍第13師団が駐留した。
 宜昌の市街地近くで大規模な毒ガス戦が実施されたのは、第13師団の主力部隊が湖南省長沙への攻撃に加わり、宜昌が手薄になったところへ、中国国民党第6戦区が反転攻勢に出たことがきっかけであった。

 例証集でも、この戦闘について「きい弾及あか弾ヲ稍々大規模ニ使用シ優勢ナル敵ノ包囲攻撃ヲ頓挫セシメタル例」として取り上げ、戦闘のもようを生々しく伝えている。それによると、毒ガス戦は10月7日から11日まで実施され、きい弾1000発、あか弾1500発が使われた。例証集では実施年は書かれていないが、別の資料や証言により1941(昭和16)年の出来事であることは間違いない。気象は、10月7日から9日までは晴れ、北西の風1メートル、10日、11日は曇り、北東の風1.5メートル。この毒ガス戦の結果、「敵ノ攻撃企図ヲ挫折シタルノミナラズ密偵報其ノ他諸情報ヲ総合スルニ瓦斯ノ効果ハ大ナリシモノノ如シ」と、効果が極めて大きかったことを記している。
 例証集はさらに、この戦闘からの教訓として ①毒ガスと通常火力の併用が肝要 ②遠距離にきい弾、近距離にあか弾を使用すると効果的──の2点を挙げた。

 このように、例証集では宜昌での毒ガス戦を成功例として伝えているが、日本軍の戦闘が成功し、規模が大きくなればなるほど、犠牲も増大する。宜昌の毒ガス戦を、攻撃された側から、第3国の立場で取材・証言していた人がいた。米国INS(インターナショナル・ニュースサービス)通信社のJ・ベルデン記者である。

 ・・・

 そしてベルデン記者は10月12日、野戦病院で毒ガスによって殺されたという2人の死体を見たもようを証言している。体は茶色、赤色、黒色の斑点で覆われている、皮膚組織は破壊されているように見えた。外傷はなかった。
 翌日の10月13日、ベルデン記者は司令部で被毒した2人の中国人兵士と会った。以下は証言記録の原文翻訳である。

 「2人とも身体に非常に悪い火ぶくれの徴候がでていた。火ぶくれのいくつかは、手のつめぐらいの大きさで、他のいくつかはテニス・ボール大だった。いくつかは、皮膚がピンと張った状態でふくれあがって硬くなっており、いくつかは、身体からぐにゃりと垂れ下がり、身体が動く度にある種の液体が火ぶくれの内側で動いて、それを揺り動かしていた。火ぶくれができた部分の皮膚は、非常に白く見え、その縁はやや黄色がかって、しわがよっていた。2人にとってより危険なことは、火ぶくれが両腕・両足・腹部それに最もひどいものが背中にあることだった。1人の顔には火ぶくれが破れたところに大きな赤色・黒色・こげ茶色の斑点があらわれていた。小隊副長のこの男は非常な痛みを訴え、私たちが背中の大きな火ぶくれを見ることができるようにするために座るとき、注意して起き上がらなくてはならなかった。彼は全く食欲がなく、頭痛と熱を訴えた。

 彼は、宜昌市の外側にある飛行場を見おろせる高台である東山寺付近を攻撃中に負傷した、と私に語った。日本軍は頑強に抗戦したが 、日本軍の機関銃が激しくなり攻撃が止まるまで、時々攻撃が繰り返され、大隊長はその位置を死守するように命令した。集団はその地点に一昼夜とどまり、10月8日、日本軍はガス弾を撃った。その地区の26人のうち、8人が生きて救出された。ガス攻撃の間、多くの者が視力を失い、幾人かが咳き込み、幾人かはしゃべれなくなった。一人の分隊長は呼吸ができなかった。最初、彼は自分の症状を真剣に考えなかった。彼の目はひりひりと痛み、傷つき、彼は少し泣いた。1時間半後、皮膚がかゆくなり、25分後、身体は火ぶくれができはじめ、大層痛みだした。2時間後、無感覚で半分意識喪失の半まひ状態になった。彼は、約6時間後、自分の手足を正常に動かすことができなかった、といった。

 何が一番痛かったかと言うと、火ぶくれの中の液体が動くことが一番痛かった、と彼はいった。ガスに対して、中国軍兵士は何ができたか、と聞くと、『そこにとどまって死ぬ以外なにもできないよ』と彼は答えた。」

 米陸軍参謀第2部は、ベルデン記者の証言や中国戦線から回収した不発弾の内容の調査結果などの証拠から日本軍の毒ガス使用を確認。米軍記録「中国における日本の毒ガス使用」のなかで、「日本軍は必要な時、利益があると判断した時は、間違いなくいつでもどこでもガスを使うだろう」と結論づけた。
 また、中国人民解放軍の内部研究書「化学戦史」は、この戦闘で1600人あまりが被毒し、うち約600人が死亡した、と記述している。 

-------------日本軍の毒ガス戦 無辜の被害者 地下道の悲劇----------

中央大学の吉見義明教授は、ワシントンの国立公文書館で見付けた米軍極秘文書や米太平洋陸軍参謀第2部の報告書などによって、日本軍の毒ガス製造の全容が、ほぼ明らかになったという。そして、日中15年戦争時に日本軍が製造した毒ガス兵器は、致死性のイペリットやルイサイトを含み、実に746万発に達するというのである。また、旧陸軍造兵廠の記録の一部からだけでも、200万発の製造が確認できるという。
 ここでは、そうした日本軍の毒ガス兵器によって被害を受けた人たちの、悲惨な被害状況の一例を「日本軍の中国侵略と毒ガス兵器」歩平著ー山辺悠喜子・宮崎教四郎監訳(明石書店)から抜粋した。こうした毒ガス兵器の使用が、下記にあるように「晋警察冀軍区司令部は6月26日、全国の同胞、全世界の人びとに向け、日本軍の北疃村における残虐行為を打電公表」され 、国際的に知られることとなったと思われる。(但し、村名で・に変わってしまった文字は田へんに童である)
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                               第8章 無辜の被害者

 河北定県北疃(ペイトワン)村事件

 1942年5月下旬、日本軍第110師団は訳1500名の兵力を動員し、河北省安平県安平北の滹沱(トウオホ-)河と瀦龍(チューロン)河の間で「冀(チー)(河北)中侵略作戦」を展開した。日本軍は大量の毒ガス兵器の使用より、定県北村疃の地下道に避難していた農民を虐殺、800余の無辜の市民を毒ガスによって窒息死させるという事件を引き起こした。

 1942年5月26日、日本軍は主力をもって中国八路軍のゲリラ隊を包囲攻撃、27日払暁、付近の東城、西城、東湖、太平湖、解家荘の五か村の全農民を北疃村に追い詰めた。1000余名の農民は地下道に避難。戦闘は払暁から正午まで間断なく続いたが、中国軍は弾丸が尽き、日本軍が部落を占拠すると、定県大隊の副政治委員・趙曙光率いる一個中隊と民兵が、地下戦を行った。日本軍は八路軍との地下道戦に苦しみ、形勢が不利になると、狂ったように地下道を探す。すでに人心を失した日本軍は、地下道口を見つけるとまず、両端をふさぎ、なかに向かって毒ガス弾を投擲した。大量の「あか筒」と「みどり筒」に点火後、地下道にほうり込み、同時に柴草に火をつけて入り口に投げ入れ、すぐにふとんで入り口をふさいだ。地下道内では毒ガスがすぐに充満し、煙が立ち昇ることによって、たくさんの穴の存在が日本軍に知れ、さらに多くの毒ガス弾が投入された。地下道に隠れていた人びとは、まずヒリヒリする刺激臭、火薬臭、甘い臭いを感じ、やがて涙とくしゃみが止まらず、呼吸困難に陥った。まもなく地下道内は混乱をきたし、人びとは出口を求めて逃げ惑い、叫び声、罵り声、うめき声がうずまいた。まもなくそれらの阿鼻叫喚は次第に弱り、うめき声とあえぎ声を残すだけとなり、人びとは苦しみに土壁に爪をたて、つかみ、ころがり、5人10人と窒息して息を引き取っていった。死体のなかには、頭を地面に突っ込んだもの、自分の服をずたずたに切り裂き壁に頭をぶつけているもの、満面唾液と吐物にまみれたもの、子どもを抱いた母子や父子など無残な姿が見られた。

 40過ぎの王牛児が2人の息子を連れて地下道に入り、10歳の長男、8歳の次男は父親の両膝を枕に死んだ。32歳の李菊は、1歳にならぬ乳飲み子を抱き、赤ん坊は母親の乳をくわえたまま、ともに死んだ。