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ブルース・リーの哲学

http://matome.naver.jp/odai/2137336683158949001

武道家【ブルース・リー】の哲学的名言

ブルース・リーの哲学的名言集

更新日: 2014年05月01日

[face1000さん] face1000さん

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"Don’t think, feel 考えるな、感じろ"

出典Don’t think feel!!ブルース・リーの名言集! — 777NEWS

出典matome.naver.jp

何かについて考えすぎると、それを成し遂げることは到底不可能である。

"物理的であれ、なんであれ
いつも自分のやることを制限してしまうと
それはあなたの行動、人生にも広がってしまう。

限界などない、停滞期があるだけだ
そこに留まってはいけない。"

出典ブルース・リー lostinterview 〜彼自筆名言

"パンチに予備動作を加えてはいけない。瞬時に打て。"

出典m-hatomune.cocolog-nifty.com

常に自分自身であれ 自分を表現せよ

自分の中に信念を持て

行動に裏打ちされた現実的な夢追人であれ。

"並みの強さは歯を食い縛る程度の努力で得られるが
それでは人並みだ
並みの強さは努力で誰でも得られる
だがその上を目指すのであれば限界を超え続けなければならない"

出典ブルース・リー lostinterview 〜彼自筆名言

"優れたフットワークは、どのようなパンチやキックも打ち負かす"

"<三つの鍵>シンプルさ。直接性。自由。"

"武道家は2つの問いかけをする必要がある
自分が何をしたいのか。
何が最速で、もっとも効率的かつ効果的に目的を達成できるか。"

出典ブルース・リー lostinterview 〜彼自筆名言

出典matome.naver.jp

スタイルは、我々の考えを固定化させてしまう。
というのは、パンチやキックを出す時にも、
その流派のやり方で行わなければならないからである。
しかし、その方法というのは、
経験や理論に裏打ちされたものではないのである。
それは誰かが何世紀も前に考えたもので、
それが今でも素晴らしいとは限らない。
スタイルとは、絶対的なものではないのだ。

"増やすな、捨てろ。"

出典Don’t think feel!!ブルース・リーの名言集! — 777NEWS

"ある人物のことを知りたければ、他の誰かと一緒に行動している時の様子を観察すればよい。"

出典Don’t think feel!!ブルース・リーの名言集! — 777NEWS

"<他人を傷つけないようにしよう>私は自ら進んで人を傷つけようとは思わないし、たやすく傷つけられるつもりもない。"

"人間はいつも成長している
人間はパターン化された思考を行動によって、
行動を制限されると成長をやめるものだ。"

出典ブルース・リー lostinterview 〜彼自筆名言

出典blog.livedoor.jp

知るだけでは不十分だ
実際に応用しなければならない
意識があるだけでは不十分だ。
実行しなければならない

"全ての武道とは、川下に流れていく水のようであるべきで、
決してよどんではいけない
それは変化する事が目的ではなく、進歩する事が目的なのである。"

出典ブルース・リー lostinterview 〜彼自筆名言

"敵と戦うとき、勝敗は意識のなかから消し去るべきである。 状況に応じて動けばいい。"

出典matome.naver.jp

誰が正しくて誰が間違っている、誰が誰より優れているなどと考えるな。賛成も反対もするな。

"「鉄則を学び、鉄則を実践し、やがて鉄則を忘れる。
形を捨てた時、人は全ての形を手に入れる。
スタイルを何も持たない時、人はあらゆるスタイルを持つことになる」"

出典ブルース・リー lostinterview 〜彼自筆名言

"武術家の肉体は武器である。にもかかわらず、武器の手入れを怠る人間が、なんと多いことだろう。"

出典blog.livedoor.jp

誰かからの助けを期待す るのではなく「自助が肝心 だ」と思わなくてはならな い。

「そもそも限界というものはあり得ない。
ただ水面が永遠に広がり、最果てはない。
しかし、それでもそこに留まっていてはいけない。
その結果、命を落としても、それはそれまでの話しなのだ。」

"自己実現が重要だ。 それと私が皆に言いたいのは、
「自己 イメージ」の実現ではなく、 「自己」の実現に向かってほしいとい うことだ。
誠実な自己表現のために、自分の内側 をよく観察してほしい。"

出典ブルース・リー lostinterview 〜彼自筆名言

出典www.lastday.jp

「皆が皆、勝つ方法を学びたがる。しかし、決して負ける方法は学ぼうとしない。負けを受け入れること、
即ち死を学ぶことは死から解放されることだ。このことが理解できれば、自由に流れ、調和していくことができる。流れることは、無心への道だ。明日からは、野心を抱かずに死の芸術を学ぶべきだ。」

"心を空にしろ"

出典Don’t think feel!!ブルース・リーの名言集! — 777NEWS

"戦う者には、鷹のように鋭い目、狐のように狡猾な頭、猫のように素早い動き、豹のような獰猛さ、コブラのようなスピード、そしてラクダのような忍耐力が必要だ。"

"「私は「できると思うからできる」という古くからの格言を重視し始めている。思っていることに対し、強固な目的意識、忍耐力、そして思いを実現したい燃えるような情熱を加えれば、誰でも必ず目標を達成することができるだろう。」"

出典真戦組・李小龍師祖語録

"皆が隣人を救うのなら、救済のない 人は存在しない"

出典ブルース・リー lostinterview 〜彼自筆名言

Amazon ブロマイド写真★ブルース・リー『燃えよドラゴン』白黒/グッド

板やレンガを割ることは、相手を倒すことと同じではない。
板を何枚割れたからといって、相手を倒せるという保証にはならない。
板は殴り返してこないからね。

"悲観的な考え方は、成功を遠ざける。楽観的な考え方は、成功に導く信条である"

出典Don’t think feel!!ブルース・リーの名言集! — 777NEWS

"俺はお前のために生きているのではない。お前も俺のために生きているのではない。"

出典Don’t think feel!!ブルース・リーの名言集! — 777NEWS



<空こそ出発点なり>私のカップに入っている水を味わうには、君はまず自分のカップを空にしなければならない。友よ、経験によらず得た固定観念は全て捨て去り、ニュートラルな状態に戻るのだ。このカップが凄く役に立つのはなぜだか知ってるかい?中が空っぽだからなんだよ。

出典blog.goo.ne.jp

<行動の見返り>行動した者だけが学ぶことができる

"<一歩で目標に手が届く人はほとんどいない>自分という存在をコントロールする方法には、金庫の鍵の組み合わせと似たところがある。一度取っ手を回しただけで金庫が開くことはめったにない。一つひとつの前進、後退が目標達成へのワンステップなのである"

"・パンチとは目標を「打つ」のではない。「打ち抜く」のだ。"

出典blog.goo.ne.jp

<恐怖を理解すること>自らの恐怖心を理解することが、物事を本当に見るということの始まりである。

"「重要なのは日ごとに技量が増えることではなく、
減らすのを心掛けることだ。
つまり実質に関係ないものはどんどん捨てることである。」"

出典ブルース・リー lostinterview 〜彼自筆名言

Amazon ブロマイド写真★ブルース・リー『燃えよドラゴン』白黒/睨み構える

状況など気にするな。機会は作り出せ。

"私は、あなたちの賛同を得ようとしているのでもなければ、
影響を与えて自分の考えに傾けさせようとしているのでもない。
もしあなたたちが今までの押し着せのやり方を無批判に
受け入れることをやめるようになってくれたなら、それに勝る喜びはない。"

出典ブルース・リー lostinterview 〜彼自筆名言

"誰が正しくて誰が間違っている、誰が誰より優れているなどと考えるな。賛成も反対もするな。"

出典Don’t think feel!!ブルース・リーの名言集! — 777NEWS

出典f.hatena.ne.jp

この世で最大の勝利は自分自身に勝つことである。

"( 周囲を見ろ。 日々が勉強だ。 自分自身を研究 するんだ。

自己表現をし、自分に誠実であれ。 成功した誰 かを真似するな。 自分であればいい。 だがそれが香港の人は分からない。 いつも誰かの模倣 。 自分のルーツから創り出そうとしない。

自分らしさとは何か? 大事なは人生について 考え理解することだ。 だが悲しいかな人間というものは表面的なものに踊らされる。 日和見的 に状況に流されやすい動物だ)"

出典ブルース・リー lostinterview 〜彼自筆名言

"<柔軟性こそ生である>柔軟であれ。人は生きている時は柔軟である。死ねば人は固くなる。人の肉体であれ、心であれ、魂であれ、柔軟が生であり、硬直は死である"

出典www.stickam.jp

優れた武術家はどんな時も緊張せず、相手に備える。無念無想の境地で敵を読む。

"成功とは、真心を込めた真摯な態度で何かをすることである"

出典Don’t think feel!!ブルース・リーの名言集! — 777NEWS

"「心を空にしなさい。水のように、形態や形をなくしなさい。
水をカップに入れると、カップになる。水をボトルに入れると、ボトルになる。
水をティーポットに入れると、ティーポットになる。
水は流れることができ、衝突することもできる。水になりなさい。わが友よ。」"

出典真戦組・李小龍師祖語録

出典detail.chiebukuro.yahoo.co.jp

幸せであれ。しかし決して満足するな

3:45

YouTube

死亡遊戯 OST 01

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ブルース・リーのワンインチパンチGIF動画

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専門誌にも載らない 日本初の柔術黒帯世界王者 八木沼志保 インタビュー

http://bjjplus2013.blogspot.jp/2014/07/blog-post.html

世界柔術選手権・黒帯ルースター級優勝!【第一弾】
世界柔術選手権を終えて約一ヶ月経ちますが、BJJPLUSでは日本人初の黒帯で優勝した八木沼志保選手(ネクサセンス)のインタビューを行いました。八木沼選手の経歴、女子柔術家としての歩み、世界柔術選手権優勝までのお話しを3回に別けてお伝えします!

――もう何度も言われているでしょうが、改めて世界柔術優勝おめでどうございます。


八木沼 有難うございます。私個人としてはサンボ、柔術を長く続けたご褒美として受け取っています。大き過ぎるプレゼントのような気もしますが(笑)。

――国内の反響は凄かったです。

八木沼 大勢の方が喜んで頂けたのが、一番嬉しかったです。Facebookでも顔は知っているけども話したこと無い女性がメッセージくれたり。JBJJFの全日本選手権でも表彰して頂けて、ちょっと恐縮です。中井先生には本当にお世話になっていて、ジムの国際ID登録が間に合わった時に、私は一時的パラエストラ東京所属にしてもらったり、黒帯も中井先生にサイン頂き、本当に感謝しています。

――そもそも八木沼選手はサンボの選手ですが、スポーツ歴、格闘技歴を教えてください。

八木沼 中高は陸上をやっていて、全く格闘技経験がなくサンボを始めたのは29歳の頃。単純に「体を動かしたい」と思っていて兄と話していたら、当時流行っていたPRIDEを兄が見ていて、ヒョードルがものすごく強かったので適当に「サンボでもやれば?」と促されて(笑)。調べたらアンプラグド国分寺の前進道場『鈴木道場』が近くにあったので、やってみようかな、と。

――いきなり格闘技、しかも女子が少ないサンボは怖くなかったですか?

八木沼 柔道のように制約が多い競技なら途中で止めていたかもしれませんが、サンボは講師の田中康弘先生の技が凄く面白かったんです。スグにサンボに魅了されて、週2回のクラスは欠かさず練習に行き、田中先生の専門学校の練習会にも混ぜたもらってましたね、暇だったんで(笑)。男性ばかりの練習に混ざるのも、最初は無我夢中だったからあまり気にならず。当時は自分もまだ下手で本気でスパーリングするしかできなかったから、男性の方が良かったんです。男性相手に練習するのもいつしか普通と感じてしまった。それしか見てないから、それが普通。今は命知らずだったな、とは思いますけど(笑)。

――サンボの試合出場はいつ頃から?

八木沼 一年経った頃でしたね。ただ私の階級にはなかなか相手に恵まれず、サンボ連盟側が“参考試合”としてフジメグさん(藤井惠)に頼んでくれた事もありました。

――格闘技歴1年少しで世界のフジメグですか(笑)

八木沼 試合は簡単に一本、こちらが正座状態から強引に膝十字もらいましたね。後から聞いたら、「八木沼は素人だから手加減してくれ」と頼まれていたそうです(笑)。

――その後は全日本サンボ選手権を連覇しています。


八木沼 同階級不在で不戦勝か、重たい階級との参考試合ばかりで。それで柔術にも出てみようかな、という感じでしたね。

第2回に続きます。

http://bjjplus2013.blogspot.jp/2014/07/blog-post_4.html

世界柔術選手権・黒帯ルースター級優勝!【八木沼志保インタビュー第二弾】
日本人初!世界柔術選手権・黒帯ルースター級で優勝を果たした八木沼志保選手(ネクサセンス)のインタビュー第二弾。女性サンビストが、柔術に挑んだ理由、そして昼柔術の事などを語ります!

第一弾はコチラ!
http://bjjplus2013.blogspot.jp/2014/07/blog-post.html

――最初はサンボ練習のみで、柔術試合に出ていたという事ですか?

八木沼 そうですね。サンボで勝てる……と調子に乗っていたから全然勝てなくって。別にサンボも強くなかったのに(笑)。正直な話、最初は柔術が苦手でした。当時はルーチがあまりとられなく、クロスガードに引き込まれて敗退、という事があって。ただ自分では負けた気がしなくって。

――それでも、徐々にハマっていった、と。

八木沼 試合が好きだったんです。柔術もまだ女子の競技人口は少ないし、本来の階級では戦えないけれど、相手はいる。柔術を学ばないと勝てないのはわかったけど、当時所属していたアンプラグド国分寺には柔術の試合に出る人はほとんどいなかったんです。だから試合に出続けて、改善点を浮き彫りにして、道場で柔術を主にやっている方とスパーして修正して、また試合に臨むを繰り返していました。

――そして次第に勝てるようになった、と。

八木沼 そうですね。試合は対戦相手がいれば毎月1回ぐらいは出ていて、青帯の頃は現在プロの日下美代子さん、茶帯の頃は同じくプロの富松恵美さんと試合しましたね。お互い下になりたくないから、柔道出身でもないのにずっと8分間立ち技で戦い続けたりして(笑)。他にもいろんな女性柔術家と試合できて、女性と試合できるのは喜びでしたね。

――次第に女子柔術人口も増えて、女子練習会なども徐々に行われるようになってましたね。

八木沼 最近は女子練習会はちょっと減ってますけどね。一時期は茂木康子さんが定期的に開催してくれて、茂木さんが女子柔術家達を引っ張っていってくれてまして。茂木さんは試合にも常に出場していて、自分より年上の女性選手がいることは心強かった。私もまだまだ頑張ろう…とは思いましたね。

――今後は八木沼選手が引っ張っていく、と?

八木沼 いや、湯浅麗歌子さんも黒帯なったから、テクニカルで強いし、指導力もある彼女が今後引っ張っていくんじゃないですかね。最近は熱心の女の子も増えてきて、白青でも上手くて、私の時とは違うな、と。私自身は確かに経験値はありますが、ただ自己流なので。他人に教えるほどのものはないという感じですかね(苦笑)。

――一番多い時の練習量はどれくらいだったのですか?

八木沼 (練習も)多い時で週10回はやってましたね。3部練習の日もありました。ほとんどスパーリングがメイン。次第にアンプラグド国分寺にも柔術家が増えてきて、帯が下の方であろうと凄い技術を持っていれば訊いて試す。パラエストラ東京さんの昼柔術にも通って。スパーリングや試合が、面白かったんですよ……今でもですけどね。

――女性で昼柔術に参加するとは、凄いですね。


八木沼 私が行き始めた当時は女性では阿部恭子さん(2012年世界柔術女子アダルト黒帯ライトフェザー級3位)がいたのが大きかったですね。体重も近かったから何度もスパーしましたが一回もパスできませんでしたね(笑)。多分2010年か11年ごろぐらいから湯浅さんが来るようになりました。最近は怪我や忙しくなったりで顔を出せていないのですが。黒や茶帯のガロ級の男性の方々とのスパーは特に勉強になります。

http://bjjplus2013.blogspot.jp/2014/07/blog-post_7.html

世界柔術選手権・黒帯ルースター級優勝!【八木沼志保インタビュー第三弾】
世界柔術王者・八木沼志保選手のインタビューラストの第三です。謙虚に技術を学び続け、そして世界王者になっても反省し続ける姿勢には、本当に感服させられるものがありました。なかなか出来るものではありません。柔術は積み重ねることでも強くなれる、そんなインタビューになっています!

第一弾はコチラ!
http://bjjplus2013.blogspot.jp/2014/07/blog-post.html

第二弾はコチラ!
http://bjjplus2013.blogspot.jp/2014/07/blog-post_4.html

――今年3月いっぱいで所属していたアンプラグド国分寺が閉館になり、植松直哉先生のネクサセンスに移籍しましたね。

八木沼 日本国内の試合はずっとパワーで勝っていたんですけど、国際試合ではパワーが同等だけに、技術の差を痛感していたんです。改めて技術を学びたいと考えた時に、前々から何度か出稽古におじゃましていたネクサセンスに決めました。植松先生の教える基礎運動から目から鱗で。植松先生の的確な技術は、本当に勉強になります。

――植松先生は世界柔術でもセコンドに付いてましたね。

八木沼 そうなんです、植松さんがセコンドについて心強かったのですが、自分が指示通りに動けない。今回優勝はしたけども、自分的な駄目な試合だったと思います。運が良かったんです、本当に。

――運といえば、世界柔術直前に女子黒帯ルースター級新設が決まるなど、確かに風は向いていた印象はあります。

八木沼 やっと本来の階級で試合ができるな、っと。それでも2キロほどは減量しましたけどね。

――トーナメントも3人出場でした。

八木沼 最初は行ったらメダルだ……と思っていたけども、大会が近づくにつれて負けたくない思いが強まった。負けてメダル貰うのは嫌だなと思うようになってきて。皆は「チャンスだ!」なんて煽られてましたが、凄く強いかもしれないし……と内心ビクビクで。でも組合せの関係で決勝戦の相手の試合も事前にみれて、レティシア・ヒベイロ、ミッシェル・ニコリニのようなスーパー黒帯のレベルはない事がわかって、少し安心できて。やはり黒帯になれば選手歴も長いので、年齢層も高かったんですよ。一回戦の相手は37歳、もう一人は子供がいたし。お互い疲れて、ゼイゼイ言ってて(笑)。

――試合は八木沼選手が上をキープし続けましたね。

八木沼 今回3人共多分 “上”が得意なタイプで、私は自分から積極的に技を仕掛けはしないが、襟引いてバンバン煽ったので、多分相手がイヤになり一人目も、決勝も引き込んでくれました。練習では下はやるけど、試合では手堅く上攻めになっちゃいますね。やっぱりまだまだです。世界王者にはなったけど自分が強いという自信はないし、柔術にしろ、サンボにしろ、経験を積むほど天井知らずの世界だと実感させられます。

――連覇を掛け来年も出場を?

八木沼 いや、今年で世界柔術は最後にしようかと。怪我も多く、自分を追い込めず、10分間戦うのがキツくなってきましたね。しれっと気が変わって出るかもしれませんが(笑)。国内の柔術試合はタイミングが合えば出たいと思ってます。

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名門トライフォースの動画より 柔術vs柔道  渡辺直由vs小斎武志  サウロヒベイロvsディーンリスター ギ スパーリング

トライフォース

ラストの大根役者ドラマは必見!




早川光由・山本大気 テクニック復習 サウロヒベイロセミナー1999
サウロヒベイロvsディーンリスターのギのスパー


IBJJ Pro Leage 2012 Light Feather weight qualifying matches




渡辺直由vs小斎武志(こさいたけし) ストライプル杯2003


http://www.47news.jp/CN/200611/CN2006110901000741.html
小斎武志
95年の全日本学生体重別選手権95キロ級優勝。
体重無差別で争う全日本選手権や、ロシア国際大会などにも出場歴がある。

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柔術死亡事故 連盟表明

http://bjjplus2013.blogspot.jp/2014/09/blog-post_37.html

ブラジリアン柔術の道場において死亡事故について、日本ブラジリアン柔術連盟・中井会長が声明発表
既に報道されている通り、愛知県警豊のブラジリアン柔術道場で稽古をしていた男性が、スパーリング中に意識を失い、病院搬送後に死亡する事件が起きました。柔術は比較的安全とはいえ、やはり格闘技であり、怪我や事故の可能性はゼロではありません。ただ今回は心臓発作が原因という情報もあり、柔術が原因かはまだ分からない段階です。現在は警察による原因追求が行われている最中なので、柔術=危険という印象を与えないためにも、落ち着いて続報を待ちましょう!

日本ブラジリアン柔術連盟・中井会長が、連盟ブログにて現在報道される柔術事故について、以下の声明を発表しましたので、今回紹介します。

---------------------------------------------
過日、報道にあります通り、ブラジリアン柔術の道場において死亡事故が発生いたしました。
現在、様々な情報が錯綜しておりますが、当連盟でも事実関係を確認中です。

とても残念な事態ですが、今回、事故が起きた道場は、日本ブラジリアン柔術連盟(以下JBJJF)には
非加盟であったため、確認には時間を要しております。ご了承下さい。

JBJJF加盟各アカデミーにおかれましては、今後、より一層の安全を確立しつつ、
また改めて常日頃の事故防止の体制をご確認いただけますようお願い申し上げます。

なお、これからブラジリアン柔術を始めようという方々には、連盟の認可した指導員のいる
「JBJJF加盟アカデミー」に御入会頂く事を推奨致します。

今後もJBJJFはブラジリアン柔術の健全な競技普及を目指し、その姿勢を変えずに
邁進していく所存でございます。
ご理解とご協力を賜りますようお願い致します。

最後になりますが、このたび事故で亡くなられた方のご冥福をお祈り申し上げます。

一般社団法人 日本ブラジリアン柔術連盟
会長 中井祐樹
----------------------
BJJPLUSとしても、亡くなられた方のご冥福をお祈り申し上げます。

また、柔術新聞さんでは、個人的な事故の原因追求、そして亡くなられた方の家族に募金を募る、と発表しています。BJJPLUSも微力ながらご協力させて頂ければ、と思っております。

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すでに放射能汚染は、福島県から北へ宮城県、南へ栃木県、群馬県、山梨県、長野県、茨城県、埼玉県、千葉県、東京都、神奈川県、静岡県にまで拡大し、ヨーロッパのEUを含む43ヶ国と地域がこれら12都県などからの農産物輸入を禁止または規制している。ドイツ放射線防護協会は、乳児、子供、青少年は1キロあたり4ベクレル以上、大人は8ベクレル以上のセシウム137を含む飲食をしないよう提言しているが、当事国の日本では1キロあたり500ベクレルというとてつもなく高い基準を設定してしまい、499ベクレル以下はすべて安全として、超危険な食品が流通しているのだから、このままでは大変なことが起こる。

http://blog.goo.ne.jp/jpnx05/e/7db9b9c10cba75e735418c29fc7a3b0f

広瀬隆「首都圏の放射能と汚染食品の恐怖」絶対食べてはいけない汚染食品を埋めつくしたと同じレベルの東京

2013-10-01 01:19:41 | 放射能汚染



広瀬隆「首都圏の放射能と汚染食品の恐怖」

 絶対に食べてはいけない汚染食品をぎっしり埋めつくしたと同じ土地、それがチェルノブイリ第4区である。このような上で、あなたは生活したいだろうか。その土地で食べ物を栽培したり、幼い子供が生きられると思うだろうか。
 ところがそれが東京の平均的な土なのである。

http://dot.asahi.com/news/domestic/2012092600571.html より

(更新 2011/9/20 18:12)

いよいよお米の収穫時期に入って、主食の放射能汚染問題が深刻になってきた。

 すでに放射能汚染は、福島県から北へ宮城県、南へ栃木県、群馬県、山梨県、長野県、茨城県、埼玉県、千葉県、東京都、神奈川県、静岡県にまで拡大し、ヨーロッパのEUを含む43ヶ国と地域がこれら12都県などからの農産物輸入を禁止または規制している。ドイツ放射線防護協会は、乳児、子供、青少年は1キロあたり4ベクレル以上、大人は8ベクレル以上のセシウム137を含む飲食をしないよう提言しているが、当事国の日本では1キロあたり500ベクレルというとてつもなく高い基準を設定してしまい、499ベクレル以下はすべて安全として、超危険な食品が流通しているのだから、このままでは大変なことが起こる。

 これまで多くの人は、カウンターで放射能の高さを測って自衛してきたが、これらの数値は、空間線量である。それはヨウ素やセシウムのような放射性物質が出す、遠方まで到達するガンマ線を測定した値である。しかし、お待ちなさい。汚染食品の問題は、体内被曝によって起こるのだ。

 茨城県つくば市の気象研究所では、物質が気体になる温度(沸点)4265℃のテクネチウムと、沸点4639℃のモリブデンが検出されているのである。

 したがって3月に福島の原子炉でメルトダウンした核燃料の温度は、2000℃をはるかに超えて、3000℃から4000℃にもなっていたと考えられる。沸点は、ヨウ素が184℃、セシウムが671℃、ストロンチウムが1382℃なので、これらの危険な放射性物質は、ほとんどすべてが気化する温度をはるかに超えていたのだ。プルトニウムでさえ、沸点はモリブデンより1400℃以上も低い3228℃である。そうなると、当然、内部被曝で特に重大な影響をおよぼすストロンチウムとプルトニウムが、ガス化して大量に放出されたと、私は考えている。

 これらストロンチウムが出すベータ線と、プルトニウムが出すアルファ線は、ガイガーカウンターでは、まったく検出できない。日本の各地の、土壌および食品の汚染を知る場合に最も重要な指標は、したがって空間線量より、どれほどの放射性物質が福島原発から放出され、それがどこに、どれほど降り積もったかという沈着量なのである。

 市民グループの「放射能防御プロジェクト」が首都圏の土壌汚染を実際に調査した結果をインターネット上で公開してくれたので、首都圏の人間はこれを誰もが見なければならない。ほぼ6月時点での、植え込みや庭、公園などにおける土壌の放射性セシウムの沈着量が出ている。測定した都県によってサンプリングの数は異なっているので、平均値だけが危険度を正確に示すのではないが、東京の測定地点は56ヶ所と多いので、かなり正確な指標と見てよい。
 この数値を見ると、東京の平均でさえ、チェルノブイリ原発事故の後にソ連政府(当時)が汚染区域の第4区として指定した危険地帯とほとんど変らないのである。
 第4区とは住民を強制避難はさせないが、厳重に健康管理をおこないながら危険地域に放置してきた場所にあたり、放射性セシウムが1平方メートルあたり3万7000~18万5000ベクレルである。放射能の単位1キュリーは370億ベクレルなので、1平方キロメートルあたり1~5キュリーに相当する。東京の平均はこの1キュリーとほぼ同じなのだ。

◆事故再発なら食料自給の危機◆

「1平方キロメートルあたり1キュリー」とは、どのような危険度の場所か? 大病院では、1キュリーの放射性物質を扱うことはない。人間の体内で問題になるのは、ピコキュリー、つまり1兆分の1(1/1,000,000,000,000)キュリーである。チェルノブイリ原発事故後、日本が定めた食品輸入禁止基準は、放射性セシウムについて「食品1キロあたり370ベクレル以下(1億分の1キュリー以下)」であった。これが、横浜税関などの検査官が飛び上がって驚いた危険物である。この1キロあたり370ベクレルという危険なセシウム汚染食品の比重を水と同じ1と仮定した場合、これを1平方キロメートルの面積に10センチの厚さで敷きつめた状態が、「1平方キロメートルあたり1キュリーの汚染地帯」ということになる。
 絶対に食べてはいけない汚染食品をぎっしり埋めつくしたと同じ土地、それがチェルノブイリ第4区である。このような上で、あなたは生活したいだろうか。その土地で食べ物を栽培したり、幼い子供が生きられると思うだろうか。
 ところがそれが東京の平均的な土なのである。しかし東京都の食料自給率は1%なので、1300万都民はすべての食料をほかの土地に頼っている。都道府県別の食料自給率は、図2の通りで、主に北海道・東北地方・北陸地方が大生産地にあたる。この三つの地方が全国に占める農地の割合は51%にも達する。主にこの広大な範囲が、福島原発事故によって汚染されたのだ。
 ここに厳格な規制を適用すれば、食べ物がなくなるために、致し方なくドイツの子供の基準の100倍超というとてつもなく高い基準を定めて、日本人みながパクパク食べている。
 幸いにも日本列島の背骨には山があり、そこが分水嶺となって、現在までの日本海側の汚染度は、太平洋側に比べてかなり低い。だが野田佳彦内閣が発足し、この総理大臣は、原発の再稼働に熱心な男で、加えて、原子力安全・保安院と原子力安全委員会というまったく信用できない腐敗した「原発マフィア」どもが、首相命令に従ってこれからその再稼働にお墨付きを与える作業に入っている。
 日本人よ、よく聞け!
 これから次の大地震と大事故が迫っているのだ。原発すべての廃炉を実現するのに一刻の猶予も許されない日本で、原発再稼働に踏み切って、今度、新潟の柏崎刈羽か、静岡の浜岡か、北海道の泊か、日本海側あるいは西日本の原発で事故があれば、もう日本人には食べるものがなくなる!!
 よりによって、九州では食料自給率上位の佐賀県と鹿児島県だけに原発がある。先月末に連続講演会で南九州を回る途次、鹿児島湾をフェリーで横断した時、桜島がドーンと噴火する姿を目にして、私は言葉を失った。原発再稼働を目指す政治家に命を預ける愚かな国民であれば、もう日本は、そう長くないだろう。 (構成 本誌・堀井正明)
     *
ひろせ・たかし 1943年生まれ。早大理工学部応用化学科卒。『原子炉時限爆弾--大地震におびえる日本列島』(ダイヤモンド社)、『FUKUSHIMA 福島原発メルトダウン』(朝日新書)など著書多数。本連載をまとめた『原発破局を阻止せよ!』(朝日新聞出版)が8月30日に緊急出版された


週刊朝日




http://blog.goo.ne.jp/jpnx02/e/69094d9812aca04fcd780c9fc9c79fcd より

NHKで放送された、サイエンスZERO
「原子炉で何が起きていたのか」
http://www.dailymotion.com/swf/video/xkzyb0 約30分

一部書き起こし

地震から7分すぎ 1号機 
非常用冷却装置(IC)が正常に起動したが、急激な冷却を防ぐため、
手動でICを停止。この後、津波により高さ15mまで浸水し、全ての電源を喪失、
電動の冷却装置も使えなくなった。

原子炉の中の状態が把握できない、緊急事態に陥った。

原子炉の中の温度が上がり続けると、
燃料を冷やしていた水が蒸発。

水位が下がりはじめ、燃料棒全体がむき出しに。

いわゆる空焚きの状態。

空焚きになってから、40分後、メルトダウンが始まった。

3月11日、夕方5時すぎ、溶融開始。

メルトダウンは急速に進んだ。

メルトダウン開始から数分後、燃料が一部溶け落ちはじめた。
メルトダウン開始からおよそ4時間20分で
すべての燃料が溶け落ちてしまった。

事態は悪化し続け、燃料が圧力容器を破り、
格納容器に落ちる、メルトスルーがおきたのだ。

炉内計装管(原子炉内のいろいろな情報を
測定するためのセンサーが入っているパイプ)が溶けて、
圧力容器の真下に5cmの穴が開いた。

そのうちの1つの温度変化 (図)

温度上昇を続け、午後7時37分、1450℃に達した・・・




原発構造上の弱点があきらかに

3月12日、水素爆発により建屋が破壊された1号機、
なぜ、このようなことが起こったのか?

溶けた燃料から出た水素が建屋の中に溜まったことが、
水素爆発の原因とされている。

注目したのは、格納容器の圧力。

プラントで計測されたデータ(格納容器)
設計上の最高気圧の2倍程度になった。

(解説)この図はプラントで計測されたデータ(格納容器の圧力)からプロントしたデータ、
格納容器の圧力は12日未明から上昇し、設計上の最高圧力の4.3気圧を
大幅に超える7.5気圧程度で安定している。
このデータが水素が漏れ出したことを示している。

格納容器の中から気体が漏れ出す現象は、
1970年代に既に報告されていた。

そこには、格納容器の設計上の弱点があった。

アメリカで原子炉の稼動前に、格納容器の機密性を
確かめる実験が行われた。

格納容器に空気を送り続けたところ、
圧力がある一定のレベルに達したところで、
高止まりしたのだ。

格納容器の接合部から、空気が漏れ出していた。

---書き起こし終わり---



設計上の不備が指摘される福島第一原発。製造元のアメリカでは、その欠陥が認められていたが……。

英考塾http://eikojuku.seesaa.net/article/224227068.html より



今回のNHKの調査では、原子炉の「設計の不備」を問題として取り上げている。

福島第一原発の原子炉は、アメリカ製である。

福島と同じタイプの原子炉が、アメリカ・ノースカロライナ州の「ブランズウィック」原発でも使われている。

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今回注目されたのは、このアメリカの原子炉で1970年代に行われた「ある実験」である。

この実験では、原子炉内部に大量の空気が送り込まれた。原子炉がどれくらいの「圧力」に耐えられるか、その限界を調べるためである。

その結果、ある一定の圧力を超えると、原子炉内部の「圧力の上昇が止まる」ということが確認された。


原子炉内部の「圧力の上昇が止まる」とは、どういうことか?

空気を送り続けているのにも関わらず「圧力の上昇が止まる」ということは、どこからか「空気が漏れている」ということを意味する。穴が空いたタイヤに空気を送り続けるようなものである。

これは原子炉としては、「致命的な欠陥」である。なぜなら、「空気が漏れる」ということは、外部に「放射性物質が漏れ出す」ということを意味するからである。


原子炉は、一個の塊から削り出して造られるわけではないので、必ずどこかに「つなぎ目」がある。

一番大きな「つなぎ目」は、原子炉上部の「ふた」の部分である。この「ふた」は燃料棒を交換する際の出入口ともなっている。

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この「ふた」は、シリコンゴムの「パッキン」とボルトで強固に密閉されているはずだった。しかし、上記の実験の結果は、どこかにできたスキマから空気が漏れ出していることを示している。

シリコンゴムには、「高温により縮む」という性質がある。圧力が高まれば温度は上昇する。高温でパッキンが縮めば、当然そこにスキマが生まれることになる。

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3.11の津波後、その原子炉の圧力は、なんと限界の2倍近くまで上昇した。

そして、その後の圧力はアメリカで実験された時とほぼ同じ数値に落ち着いた。

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つまり、原子炉の圧力が急上昇した時に、「ふた」と本体の間にスキマができ、そのスキマから中の気体が外に漏れ出し圧力が一定になったと考えられるのである。

この原子炉の圧力の上下とシンクロするように、原発正門の放射能の数値は急上昇している。






弱々しい原子炉であった「マークI」。福島第一の事故推移は、アメリカのシミュレーション通り。

英考塾http://eikojuku.seesaa.net/article/224348312.html より

アメリカ国内では、原発の「安全性」に対する激しい議論が巻き起こる。

その時、スリーマイル島の原子炉を差しおいて槍玉に上がったのが「マークⅠ(ワン)」という原子炉。この原子炉は、他の原子炉に比べて、あまりにも「格納容器が小さい」ため、事故の危険が高いとされたのだ

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日本のテレビ、新聞だけが、グローバル・エリート(ロスチャイルド、ロックフェラー、モルガンなどの国際銀行家たちと血族、そして彼らに忠誠を誓った超エリート)、グローバリズム(究極的には「世界政府」ということ)、グローバル・コモンズやアジェンダ21のことを一切報道しないので、国民はまったく知らない。

http://kaleido11.blog.fc2.com/blog-entry-3060.html

在庫一掃!アベ―ジョ5人は秋の衆院解散までのつなぎか?
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「私の感覚では“女子力開花内閣”かな(笑) さすがに、わが党にはたくさんの人材がいるなと思いましたね(笑)」。安倍晋三が、改造人事でご満悦です。(やっぱりサンケイ 大笑)
左から順に、法務大臣・松島みどり、総務大臣・高市早苗、経済産業大臣・小渕優子、女性活躍担当兼行政改革担当大臣・有村治子、国家公安委員長兼拉致問題担当大臣・山谷えり子。
やっと不気味な石破の顔を頻繁に見なくて済むと思ったら、これは、あんまりだ。きっと胃薬が売れるぞ。

ウォール街は関心薄、それでも瞬間視聴率内閣、始動!

テレビ番組では視聴率が落ちてくると、グラビア・アイドルを露出させて、瞬間視聴率を高めるのが常套手段になっている。

では、アベノミクスの虚構が明らかとなった今、安倍のプロパガンダ・メディアの捏造世論調査にのみ支えられている安倍内閣。権力を渇望するゴマすり大奥女、アベージョ5人組の投入で、果たして晋三の望み通り、支持率は上がるのか。

欧米メディアは、「ウォール・ストリート・ジャーナル日本版は驚くべき発見をした。安倍晋三首相を含む閣僚19人中、15人が右翼団体・日本会議のメンバーなのだ」と、コテコテの右寄り偏向内閣の末期を書きたたている。

「日本会議」の政治的主張は、日本右翼保守勢力の主要な「奮闘目標」をほぼ網羅している。例えば憲法改正、「自虐」的歴史教育への反対、首相の靖国神社参拝の推進、天皇の「元首化」、「領土領海」の防衛、在日外国人への参政権付与への反対、選択的夫婦別姓への反対などだ。(Record China 9月4日)

つまり、「統一教会→勝共連合→日本会議」、そして、自民党というわけ。
端的に言えば、2000年5月の森喜朗の「神の国」発言に、その本質を見ることができる。

何を言ってもいいが、侵略戦争を「正義の戦争」と国民を洗脳し、特攻隊を美化する風潮を創るのは止めさせなければならない。彼らは、日本兵の犠牲者が出てても、エアコンの効いた快適な部屋で美食にたるんだおなかをさすりながら、ウソ泣きをすればいいのだから。それが、集団的自衛権の行使によって、中東で繰り返されようとしている。

しかし、欧米勢がもっと気になっているのは、ウォール街がどう反応するだ。
9月4日のウォールストリートジャーナルの社説には、彼らの本音について、このように書かれている。

安倍晋三首相が3日発表した内閣改造は、約束された「第3の矢」、つまり構造改革が近く果敢に実施されると示唆するには十分ではない。

西川公也氏の農林水産相就任も、環太平洋連携協定(TPP)の自由貿易交渉にとって良いニュースのはずだ。西川氏はTPPの党対策委員長として活躍してきた。このため農水相就任によって、TPP交渉の最終段階を指揮できるかもしれない。

日銀による量的緩和の拡大は、安倍氏が期待していたほどに経済的な救いをもたらさなかった。物価はわずかに上昇したが、2015年に2%にするとの目標到達軌道に乗るには不十分だ。
円安になっても、日本の製造業界は競争力が低下し続けており、生産拠点を海外に移している。

今回の内閣改造は、安倍氏に悪いニュースから一息つかせ、一般国民のムードを押し上げる効果があるかもしれない。

よく見ている。こういうことだ。

「アベノミクスは、賞味期限切れだろう。年末に向けて、TPPでちょっとは盛り上がるかもね。
日銀による量的緩和は下手するとスタグフレーションに入っちゃうよ。産業の空洞化は止まらないね。
でも、アベ―ジョ5人組で、国民の気分も少しは和むのかな」。

この女性閣僚たちがお星様発言を繰り返すことで、逆に“視聴率”は「モラトリアム状態」に入るだろう。「わけわかんない」と。

原発再稼動、「日本版FEMA」、インターネット世界統治、徹底的に日本売り~

まず、私たちは、内閣の重要ポジションに女性が就いたことを見落としてはならない。
特に注目されるのは、経済産業大臣・小渕優子と総務大臣・高市早苗の二人。

小渕優子は、父・小渕恵三首相の急死に伴って、「ジバン(地盤)、カンバン(看板)、カバン(鞄)」を一気に引き継ぎ、同情票によって国会議員になった女性。当選後、初のマスコミのインタビューに、こう答えた。「まだ何も分かりませんが、一生懸命、勉強していきたいと思いますので、どうぞご支援のほどよろしくお願いします」。これを周囲で聞いていた地元支持者の愚民たちは、拍手喝采。

彼女が、国民を危険に晒して、ひたすら経済界のために原発再稼動を進めるのだ。「まだ何も分かりません」が原発再稼動。腹がイタイ。

総務大臣・高市早苗。

「原発事故で死者いない」、3.11後すぐに「エネルギー政策合同会議事務局長にして地下式原発議連」、「日本には優れた原子力技術があるのだから輸出しないともったいない」・・・彼女のトンデモ発言は枚挙にいとまがない。
彼女の無知で破廉恥な白痴発言の数々は、すべてが権力者とスポンサーである財界に寄り添うためである。これほど厚顔無恥で馬鹿な議員はいない。

この女性が、今度は総務大臣に就くというのです。

総務省は、「日本版FEMA」の創設と、インターネットを始めとする通信業界を所管している。何を意味するのか。

アメリカのFEMAとは、ブレジンスキーが計画して、世界政府にアメリカを組み込ませて共産主義の国に作り替える時、国民の暴動を鎮圧するだけでなく、ワシントンの機能をすべてを引き継がせるために作られた機関です。つまり「超政府」となる。
そのために、米軍、州警察、州の軍隊すべてを支配下に置くことができる強大な権限を持つにいたる世界支配層のための私的軍隊として機能できるような、いくつかの法律がすでに通っている。

日本版FEMAも、最終的には、経済界とウォール街のボディーガードになるはずだ。
自民党は、少し先かもしれないが(しかし、国民には知らせないで)、政府に抵抗する国民は、裁判所の令状なしですぐに収容所に入れることができる権限を与えようとするだろう。自民党の議員は、実は無能しかおらず、アメリカの模倣をすることしか能がない。彼らは何も知らないし、理解できる頭がない。

そして、安倍内閣は、「日本版FEMA創設」を公式に宣言した。

インターネットに関しては、国連、外交問題評議会(CFR)、王立国際問題研究所(RIIA)、三極委員会が「インターネット・ガバナンス世界委員会」を立ち上げ、グローバル・エリートがインターネットを全地球的に手中におさめた後は、世界を監視対象にしようとしている。

日本のテレビ、新聞だけが、グローバル・エリート(ロスチャイルド、ロックフェラー、モルガンなどの国際銀行家たちと血族、そして彼らに忠誠を誓った超エリート)、グローバリズム(究極的には「世界政府」ということ)、グローバル・コモンズやアジェンダ21のことを一切報道しないので、国民はまったく知らない。

今年の4月14日、安倍首相は、これを推し進めるアメリカ合衆国のアスペン研究所の議員プログラム訪日議員団による表敬を受けた。
それは確定的な出来事だった。日本のマスコミの坊や君たちは、この意味を深く理解できない。

結論から言おう。

この改造内閣によって、安倍政権はアイドリング・タイムに入る。
だから、在庫一掃セールで、安倍に擦り寄る大奥女性議員にエサをやった。しかし、この組閣は解散のためのもの。
女性閣僚たちに「遊ばせておいて」、自分たちは、じっくり集団的自衛権、秘密保護法、憲法改正が実現できる条件を整えようというのだ。

山本太郎参議院議員は、山本太郎・参院議員は「秋に解散される可能性は50%」と警告している。(画像クリックで動画)

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しかし、官房長官は、今日のNHKの番組で「早期の衆院解散は考えていない」と記者会見で明言。
いやいや、そうではなく、安倍晋三は日本を軍事大国化し核武装させるためなら、菅官房長官さえ簡単に裏切るだろう、ということ。

早期解散の話は、今年の春にすでに出ている。
「早期解散!? 争点を「集団的自衛権の行使」から農協改革へ」

アベノミクスも先行き不透明、辺野古移設問題、11月の福島知事選の行方、アメリカも、11月4日に迫った中間選挙で下院のねじれが解消することは難しい状況。オバマの先行きも怪しい(しかし、彼は運気がいい)。これが、自民党にとって陣形をととのえる最後のチャンス。

現役キャリア官僚の危機感「日本は戦争へ向かう。自分は日本から逃げる」。秘密保護法と集団的自衛権の行使が容認されれば、以降は、坂道を転げ落ちるようにして世界支配層の奴隷システムに組み込まれてしまう。
だから、安倍晋三は、アベ―ジョ5人組なんて、内心ではどーてもいいと思ってる。

それより、まんまと一杯喰わされた状態になっている北朝鮮の拉致被害者奪還でサプライズを演出しようというのか。小泉純一郎の二番煎じは効くのか。効かないだろう。安倍晋三には、小泉ほど芝居の才能がない。

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巨大マスゴミとネトウヨ政権のやらせ プロレス 北朝鮮化したニッポン

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http://kaleido11.blog.fc2.com/blog-entry-2863.html

北朝鮮・拉致再調査は安倍とメディアが結託した「やらせ」
やはり!
政権浮揚のためなら拉致被害者さえ“利用”する――。
薄汚い安倍政権の正体見たりだ。
もうこの犯罪的行為を働く輩を逮捕しろ!

突然の「北朝鮮の拉致被害者再調査」日朝合意の報は、支持率アップのための仕掛けだった

もう、この政権は汚れきって、収拾がつかないところまで来てしまった。
国民にとっての最大の脅威は、北朝鮮だ、中国だ、尖閣だ、ではなく、安倍晋三とその閣僚たち、そして、これと結託した官僚とマスメディアの共謀の構図でしょう。

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世界中に、これだけの致命的な嘘をついてきて、どうやって経済を浮揚させるというのだろう。
きっと、世界の投資家たちは、ワシントンがすでに見切りを決めたように、安倍晋三の閣僚たちが二度と赤絨毯を踏むことがないことを祈っているでしょう

この完全に狂った男に残された選択肢は、早期解散選挙に進み、再び不正選挙によって勝利することだけです。

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同行記者が内幕暴露 “やらせ”だった拉致再調査「電撃会見」
(日刊ゲンダイ 2014年6月2日)

政権浮揚のためなら拉致被害者さえ“利用”する――。
薄汚い安倍政権の正体見たりだ。

先週5月29日夕、安倍首相が突然、「北朝鮮の拉致被害者再調査」の日朝合意を公表した、ぶら下がり会見。

記者に囲まれた安倍は「拉致問題の全面解決は最重要課題のひとつ。
全面解決へ向けて第一歩となることを期待している」と得意満面だったが、この電撃会見、実は安倍のパフォーマンスのために用意周到に仕組まれた“デキレース”だった。

“デキレース会見”の内幕を明らかにしたのは5月31日のTBSの「報道特集」。

26~28日にスウェーデン・ストックホルムで開かれた日朝外務省局長級 協議を取材した政治部の法亢順記者が登場し、「3日目(の協議)は(日本側は)さっさと終わらせて帰る予定だった。
安倍首相がシンガポールに外遊に行く前 に(内容を判断して)発表する時間をつくるため」などと発言したのだ。

さらに法亢記者は、安倍政権は当初、合意内容について「総理が大々的に会見を開く」と決めていたものの、「ランクを落としてぶら下がり会見」になり、最終的に「官房長官会見に変えた」と暴露。

協議終了直後、外務省の伊原純一・アジア大洋州局長が現地で記者団に「北朝鮮は拉致問題の議論を拒否する姿勢ではない」とのコメントにとどめたのも、「控えているな」と感じたという。

大マスコミがグル

この発言が事実であれば驚きだ。法亢記者の解説通りなら、大新聞・テレビの同行記者は、日朝両政府の協議はとっくに「合意」に至り、安倍政権の公表のタイミングも把握していたことになる。

ところが、安倍会見の直前まで、大新聞・テレビは、日朝協議について「再調査合意せず」「交渉決裂」と連日報道。

協議が決裂したように見せかけながら、 29日夕の臨時会見も「突然」決まったように報じ、「日朝協議に進展か」、「交渉の扉が開く」などと盛り上げ役に徹したわけだ。

報道機関が安倍のサプライズ 演出に一役買っていたことになる。「やらせ」のような会見だ。

そもそも安倍は今回の拉致被害者再調査を大手柄のように喧伝(けんでん)しているが、内容は08年に福田政権下で北と合意し、あっさりホゴにされた「日朝実務者協議合意」とほぼ同じ。

しかも、安倍は04年の自民党幹事長時代、北朝鮮の拉致再調査について、「(北が)知らないふりをして(日本と)一緒に調査するというのは、時間延ばし以外の何物でもない。

拉致問題は金(正日)総書記がすべてを話せば一秒で解決する」と断じていた。安倍自身が金正恩第1書記に直談判したならともかく、かつて自ら茶番だと批判した再調査を大げさに発表するなんて、まさに茶番だ。

「拉致事件は北朝鮮による国家的犯罪です。
ですから本気で向き合わなければ解決しません。
ところが、今の安倍政権を見る限り、政権浮揚に利用したいという動きにしか見えません。
メディアは安倍政権に取り込まれ、政権のヨイショばかりしている。どうしようもありません」(元外交官の天木直人氏)

メディアが政権にゴマをする姿は北朝鮮と同じ。何だか日本はかの国とソックリになってきた。

この安倍晋三という男と、彼の政権の言うことは、すべてが「嘘」である。

これら大マスコミの編集委員、報道局長らが、「たかが寿司接待」で、安倍に同調。国民に煙幕報道を展開してきたわけです。
まったく、太平洋戦争のときと酷似してきました。

何度でも過ちを繰り返す愚鈍な政治家とマスコミの犯罪者たち。どうすれば、これほど愚劣な人間に育つのだろう。反面教師として、ぜひこの子たちの親御さんに訊いてみたい。

5月15日(木) 【首相の一日】 卑しいマスコミの編集委員たち
(東京新聞 5月15日  首相の一日)

8時6分、東京・西新橋のすし店「しまだ鮨」。田崎史郎時事通信解説委員、島田敏男NHK解説委員ら報道関係者と会食。10時15分、東京・富ケ谷の私邸。

【寸評】
ここには書かれていませんが、この他に、小田尚(たかし)読売新聞論説委員長、粕谷賢之日本テレビ網報道局長この他に毎日新聞の山田孝男特別編集委員、朝日新聞の曽我豪編集委員が食事に同席。

曽我豪は、麻生太郎のゴーストライターの一人だと言われてます。
安倍晋三にしても、麻生太郎にしても、日本語の読み書きが満足にできないのですから、彼らが論文や記事を書けるわけがないことぐらい、しっかり承知しておきましょう。彼らは、ゴーストライターの書いたものを読み上げているだけです。

欧米のメディアは、ときとしてデタラメを書きます。日本のメディアも、もちろんデタラメを書きますが、それより前に情報を出さないのです。

いわゆる「オフレコ」といって、政治家から政敵に不利な情報として「ここだけの話だよ」と意図的にリークされた後、支援している政治家のために書きたてるのが、こうした新聞の褒められない委員たちです。

欧米の新聞記者は、このような食事会には出ていきません。
たかだか、寿司を食べさせてやるぞ、くらいで、のこのこ出かけていく時点で、こうした人間は終わっているのです。

どうしようもない人たち。哀れと言うしかない。

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3000万トン の 放射能汚染物 が存在する 福島県11市町村 の 仮置き場 大本営と化した日本大手マスゴミたち 真実は海外でもなければ入手できない国ニッポン

http://blog.goo.ne.jp/syokunin-2008/e/f4184e55240a8aa92176bfd453e20913
3000万トンの放射能汚染物を175万トンに値切る環境省の愚
2014年09月28日 | 放射能と情報操作
『日本政府(安倍晋三)の姑息な印象操作』

福島第1原発:汚染土など仮置き場175カ所175万トン

毎日新聞 2014年09月26日 20時59分
環境省は26日、国が直轄で除染する東京電力福島第1原発周辺の福島県11市町村の仮置き場に関し、7月末時点の状況を発表した。除染で出た汚染土壌やがれきなどの廃棄物を一時的に保管する仮置き場は175カ所で、搬入された廃棄物は計約175万トンに達した。

同省が国直轄の除染について仮置き場の状況を発表するのは初めて。

 搬入作業を終えた77カ所の仮置き場では、廃棄物を入れた除染袋を覆う保護シートの破れなどのトラブルをこれまでに計18件確認し、いずれも修復した。放射性物質が漏れた恐れはないという。(共同)

『溺れる者は藁をもつかむ替わりに、ばればれの恥ずかしい嘘を繰り返す』

『追い詰められた小悪党は手品で誤魔化す』
前環境省大臣は石原慎太郎の息子以外の取りえが無い石原伸晃で今回問題となっているフクシマの放射能汚染廃棄物の投棄場所で『金目』発言を行って顰蹙を買っていた。現在の環境大臣(第20代)は望月 義夫(67歳)衆議院を6期努めた初入閣組みで、典型的な小物の在庫処分大臣。
環境省ですが、福島第一原発事故による小児甲状腺がんの爆発的な発症では、福島県検討委発表にあわせて『 福島は他の3県と同じ』なる摩訶不思議なインチキ数字を出して、姑息な印象操作を繰り返していた悪しき実績がある。
今回の環境省発表も動機は同じで、何とかして汚染土壌が3000万トンも天文学的に膨らんだ絶望的なフクシマの現状を誤魔化したいのであろう。責任ある立場の日本政府が下手糞な詐欺師か手品師紛いのお粗末極まる擬装を行うようでは世も末である。
(年収175万円ならその日暮らしの悲惨なワーキング・プアだが、3000万なら最高クラスのアッパー・ミドルで余裕たっぷり、金の心配が無く優雅に暮らせる)3000万トンもの汚染物は到底動かせ無い。動かせば二次被害の発生が避けられないのである。

『インターネット記事と紙の記事が違っていた毎日新聞』

ネット上にある毎日新聞(共同通信)の記事では、国の直轄事業として行ってる除染作業で発生したフクシマの放射能汚染土壌などの、野積みされたビニールシートのフレコンが175万トンであるかの様に、記事を読んだ人が誤解するような書き方なのである。
普通の善良な読者なら全員が、汚染物の総量が175万トンだと勘違いする。(他の意味には取りようが無い)ところが同じ共同通信記事を報じた9月27日(土)朝刊は、もう少し長い。この毎日新聞の記事に(ネット記事には無い)続きがあるのである。
今まででも、紙面に制約がある新聞紙上では無くて、ネットの方が長いことは時たま起きていた。
しかし今回は『今までの例』とは逆で、毎日新聞大阪本社(西日本版)記事では福島県の『除染作業』で汚染土壌は3000万トン(10トン積みの大型トラックで300万台分)に達している事実を報じている。
(今までは、マスコミは不都合過ぎるので報じなかったが、)
以前から経済学者の金子勝慶応大学教授がネット上で、大型トラック300万台もの輸送は物理的に到底無理であり、しかも野積みされた簡易なフレコンが次々と破れている事実を指摘していた。

『政府では無くて、無政府状態の日本国の政府(環境省)発表の悪事の数々』

悪質な手品か詐欺を繰り返す環境省ですが、今までも摩訶不思議な都市伝説紛いの嘘八百をマスコミと二人三脚で垂れ流してきた。
あまりにも不真面目すぎるのである。
3年半前の2011年 3月11日に原子炉が4基も同時に暴走する未曾有の福島第一原発事故が発生する。
奇しくも3・11から丁度1年半後の2012年9月11日、福島県の18歳未満の子供たち対象の甲状腺検査で『初めての小児甲状腺癌』が発見されたと発表されている。
2ヶ月後の11月17日、二人目の小児甲状腺癌の発生。
日本のマスメディアが大混乱に陥って、二人目の発症なのに8万人分の検査で『最初の一人が見つかった』と偽装発表。
野田佳彦首相は即座に衆議院を解散、政権を自民党に大政奉還している。
小児甲状腺がんの3人目の発表は安倍政権成立から3ヵ月後の、2013年2月13日、北朝鮮の核実験で新聞号外が出る騒ぎに紛れて、『3人確定、7人疑い』(実は10人が発症)だった。
『小児甲状腺癌3人確定、7人疑い』の発表の直後の3月8日に出されたのが、『福島は他県と同じ』とのタイトルの環境省の『他3県の約4400人分の調査結果』だった。
マスコミ発表の『見出し」だけは『他県と同じ』なのですが、福島では10人が発症していて、他県はゼロなのですから、天と地以上の絶対的な違いがあったのである。
余りにも愚かしい環境省の御粗末で姑息な印象操作である。(この環境省発表では、確かにAB判定では同等の数値だった。ところが、直ちに二次検査を要するC判定は他の3県は0人。対して福島県はC判定が76人である)
ところが時間とともに事態は益々悪化する。
2014年2月7日、小児甲状腺がんの『33人確定、41人疑い』(朝日の合計人数は75人)と発表。
慌てたのが環境省ですぐさま 、『甲状腺がんの発見頻度変わらず 福島と他県で 環境省』とのタイトルで『28日、福島県外の子ども約4400人の甲状腺検査で、1人ががんと診断された』と発表した。
この2014年2月28日に環境省の出した日付が無い資料ですが、なんと、実は丁度1年前に出されたの2013年2月の『他県と同じ』と同一だった。
もちろんタイトルまでが使いまわしの手抜きである。
環境省は、2013年3月8日発表の『資料の使い回し』が発覚しないように、1年前では県名の表示だったところを、長崎市と甲府市、青森県弘前市と都市名に変えているのと、調査人数が『計4365人』とあった部分を『約4400人』と、書いてある事実は同じでも、微妙に印象を変えている。
(内容が決定的に違うのは、1年前の発表では無かったのに1年後には同一資料なのに1人が小児甲状腺がんであることでしょう。なんとも恐ろしい話である)
環境省ですが、明らかに自分たちの姑息過ぎる御粗末な『悪事』の事実を知っているのである。
それにしても日本政府や政府の悪事に同調する日本の全てのマスコミが恥ずかしい悪党であることは疑いない。

『日本政府の完全なアンダーコントロール下のマスコミ』
東京オリンピック誘致のブラジル、リオデジャネイロでの安倍晋三の福島第一原発のアンダーコントロールは嘘八百であったが、日本の報道機関の方は共産党機関紙赤旗を含めて完璧に言論統制(アンダーコントロール)に成功している。
挙国一致の大本営発表の恥ずかしい嘘八百を大政翼賛会で垂れ流しているのが、今の日本の現状なのである。
フクシマがにっちもさっちもいかない。日本としては最早『お手上げ』で解決方法が無く、バンザイ状態なのである。(安倍晋三が手の施しようが無い低脳でも日本のキャリア官僚が無能な小悪党でも、フクシマで何か良い解決策が有ったなら、とっくの昔に実行している)

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本場フィリピンでのフィリピン武術のスパーリングイベント 

フィリピン武術の実用性は大変高く
日本の古武術や中国武術などの伝統武術は実戦では全く使い物にはならず糞の役にも立たないと断言するグレイシーバッハのインストラクター カゼカムニエスがフィリピン武術とジークンドーに限っては絶賛し
マシャード兄弟の道場ではフィリピン武術のクラスがあったり
あんまし知られてはいませんがパラエストラの中井祐樹先生もフィリピン武術を学んでいるのだとか

そのフィリピン武術の本場フィリピンでのスパーリングイベント





この手の実戦派の急先鋒がマシャード柔術の門下生でもありダンイノサントの門下生でもあったドッグブラザーズだったりします
最近でも
この過激なカリトゥードを実践しているドッグブラザーズ
日本でもセミナーを開催されたとのことです

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時間無制限 柔術デスバトル  決闘の勝利者は加古拓渡!  塚田市太郎 まさかの三連敗! (敬称略)








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ノーギであろうとベリンボロは有効である! ジョアオ・ミヤオ








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オレンジページで柔術特集

オレンジページ 2014年9月17日号 [雑誌]オレンジページ 2014年9月17日号 [雑誌]
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柔術プリースト 148 黒帯世界王者ギメンデスが日本再上陸で大暴れ!

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ただ高専柔道は試合で亀が使えるんですよ。ただ亀になると面白くないんです。それに亀には負けないことは出来ても、勝つことは絶対出来ないんです。でもブラジリアン柔術はポイント制で、亀にバックを取ればビッグポイントになるでしょう。これが素晴らしい! 攻防が進展しない膠着状況を作らせない試合形式を考え出したわけですから。これは僕にとって画期的なことでした。まさに目からウロコが落ちました。

http://blog.livedoor.jp/paraestra_weekly/archives/27993911.html
1994年の中井祐樹(インタビュー篇)

June 06, 2013 04:36
ー中井さんは大学時代に柔道部だったんですよね。

中井 ええ。高校ではレスリング部だったんですけどね。実は大学に入ったら、極真をやろうと思っていたんですよ。もう寝技はいいから打撃をやろうと。ところが北大に入学して、ふと読んだ柔道部の紹介文に「普通の柔道とは違う」的なことが書いてあるんですよ。それでああ、これ見ておきたいなと思って見学に行ったんですよ。そしたら友達で柔道2段の奴がすでに入部してて、そいつが関節を極められまくってるんですよ。これは凄いぞと思って、その場で入部しちゃったんです。

 中井選手が入部した北大柔道部は、高専柔道の流れを引いたクラブであった。高専柔道とは戦前に行われていた、高校専門学校柔道大会と、そこで行われていた柔道の総称で、その特徴は寝技中心の柔道であることだ。ルールも講道館とは違って、いきなり寝技に引き込むことが認められ、一本勝ち以外は全て引き分けとなってしまう。そのため日本柔道史上、最も高度に寝技が発達したのだ。三角絞めはこの高専柔道が創り出した技である。戦争によって一時行われなくなったが、戦後7つの旧帝国大学(北大、東北大、東大、名大、京大、大坂大、九州大)によって引き継がれ、現在でも毎年7月に七帝戦として、15人の勝ち抜きトーナメント戦が行われている。

中井 僕は寝技ではそう簡単には負けないと思ってたんですよ。でも全然かなわないんですよ。一年にしては、強烈に脇が固いと言われましたけどね。「亀」になったら鉄壁で、もう先輩がとれないんですよ。ああこういう引き分け方があるんだなと思いましたよ。「初っぱなから分けられたのはお前が初めてだ」なんて言われて。「ああ、これは俺のための柔道だ」と思って、どんどんのめり込みましたよ。高専柔道の特徴は、とにかく執念が凄いんですよ。素質のない奴らが白帯から始めて、寝技の柔道をやるんですよ。立ち技は全然知らないのに。寝技は実力差があっても引き分けられるんですよ。素質がない人が頑張れる柔道、なんか弱い人のためのグレイシーと似てますよね。(笑)普通の柔道とは全然違うから、誰も知らない超マイナーでしたけど。

ー生活はもう柔道一本?

中井 勉強はしなくなって、留年しました。その時まで勉強といえば、僕にとってマークシートを埋めることだったんです。でもそれは物を知ってるということとは別なんですよ。だから大学に入って、論文やレポートとなると全然ダメ。もう愕然としちゃったんですよ。「俺って何なんだ!」ってね。それで60年代のロックを聞き出したり、哲学書を読んだりするようになったんです。カミュとかニーチェ、ドストエフスキーなんかを。とにかくなんでも総合的に自分に取り入れなきゃだめだと思ってましたから。ちょうどその頃シューティング(=修斗)がプロ化したんですよ。それを本で知って、技術的にいろいろ出来る格闘技は他にないでしょ。自分の思想の盛り上がりと、シューティングのコンセプトがピッタリ重なったんですよ。だから将来俺はこれをやるしかないんだと思ったんです。大学は僕のいるべき場所じゃないと思ってましたけど、柔道をやるためだけに在籍していました。そして4年の時に、北大は七帝戦で優勝したんですよ。これで区切りはついたなと思って、退学届けを出したんです。2年間思いを温めていたシューティングをやるために。その後1ヶ月働いてお金を貯めてから、横浜ジムに入るために上京したんです。

ーなんで横浜ジムを選んだんですか?

中井 いやぁリストとか見ると、一番最初に載ってるじゃないですか。(笑)だからアテはなかったんですけど、もう頭ん中はシューティングやることしかありませんでしたから。結局、ジムで花市場の住み込みの仕事を紹介してもらったんですよ。デビューは入門してから8ヶ月後(=1993年4月26日)でした。

ー則次宏紀選手(現・ナゴヤファイトクラブ代表)と対戦して、チキンウイング・アームロックで勝ったんですよね。

中井 僕はしつこいぐらい、アレは腕搦みだと言い続けているんですけどね。頼むからチキンウイングなんて書かないでくれと。それから腕ひしぎ逆十字固めっていうのも変ですよ。これはプロレス的な文法なんですよ。正十字というのがあるわけじゃないでしょ。腕ひしぎ十字固めでいいんです。十字逆という言い方はありますけどね。“逆”というのは関節技のことですから。

ーデビュー後はシューティング・オープントーナメント(※注1)に出場して、その後朝日(昇)さんとやったんですよね、朝日さんは寝技も得意ですよね。

中井 やっぱりシューティングにもこういう人はいるんだと思いました。下から取ってくるでしょ。嬉しかったですね。僕をボコボコにしてくれる人がいたんで。

ーそして今年(=1994年)。今年はいろいろありましたね。

中井 なんか風向きが、急にこっちに向いてきたみたいですね。まあグレイシーの影響なんですけど。

ーグレイシーを意識したのはいつからですか?

中井 バーリ・トゥード・ジャパンオープン(94)からですね。グレイシーって高専柔道そっくりなんですよ。だからなぁんだと思って。これ俺のスタイルだなと。それまでのシューティングに対する認識っていうのは、打投極を全て均等に出来なきゃいけないと思ってましたから。でも例えば柔道の技を全部できなきゃ柔道じゃないかというと、そうじゃない。得意技が背負い技しかなくとも試合で勝てるんです。総合格闘技でも同じなんですよ。

ー高専柔道での得意技はなんだったんですか?

中井 返しからの抑え込みでしょうね。引き込まれたときは“絡みつき”。

ーえっ、噛みつくんですか?

中井 別に相手を歯で噛む分けじゃないんですけど、この“絡みつき”というのはグラウンドでは重要な技術なんですよ。アトゥ・カチャが僕を攻める時もこれ使ってたんですよ。じわーっと方で入って、脚を担ぐようにして内側から腕で巻き込むんです。そしてもう一方の足を、自分の足で絡むようにして、相手をコントロールするんですよ。こんなことせずに、バッと攻めてもいいんですけど、「足が利く」相手にはそれじゃ技はかからないんですよ。

ー足が利く?

中井 「足が利く」というのは、足を自在に動かして、足で相手をコントロールする技術をもっていることをいうんです。ディス・イズ・寝技ですよ。とにかくグレイシー柔術と高専柔道は、技術的にまったく同じです。ただ高専柔道は試合で亀が使えるんですよ。ただ亀になると面白くないんです。それに亀には負けないことは出来ても、勝つことは絶対出来ないんです。でもブラジリアン柔術はポイント制で、亀にバックを取ればビッグポイントになるでしょう。これが素晴らしい! 攻防が進展しない膠着状況を作らせない試合形式を考え出したわけですから。これは僕にとって画期的なことでした。まさに目からウロコが落ちました。ただこれがバーリ・トゥードになると、僕は亀になってからの固さがあるんですよ。大学1、2年の頃の練習では、亀にさせられまくってましたから。だから僕はアトゥの攻めにも取られなかったんですよ。これがあの試合のポイントです。たぶんアトゥは1ラウンドで勝てると思ってたでしょう。

ーアトゥが中井さんの上になった時は、観客もみんな「やられた」という雰囲気になりましたからね。

中井 (爆笑)ほんと、ざまあみろですよ。亀が技術として確立されているということは、ほとんど理解されてないですからね。でも最初から亀を狙ってたんじゃないんですよ。アトゥが巧いから、亀にさせられたんですよ。僕は亀になるつもりなんて全然なかったんですから。亀になったのは、朝日さんとやったとき以来でした。

ーところでアトゥ戦と草柳戦、どっちが嬉しかったですか?

中井 草柳戦ですね。未来に繋がっていくようなものを感じましたから。とにかく究極の寝技を見せたいですね。でも僕の使ってるのはシューティングの寝技ですよ。柔道の寝技じゃない。確かに高専柔道に大きな財産は貰ってます。でも極める技はシューティングの技です。高専柔道の経験は、技と技の連絡動作、技の繋ぎの動きに生きてるんですよ。

ー確かに高専柔道の寝技のほうが、空間の密着度や体重のかけ方を重視したものだと思います。グレイシー柔術の強さも、それと同質のものですよね。

中井 そうなんです。でもこういう技術が注目されるなんて、以前は考えられなかったんですけどね。とにかくピターっとくっついていく。寝技ではこれが重要です。下になった時に上の相手を返すなんて、それ以前の初歩も初歩、当たり前のことですからね。

ーでも寝技というものは、見るよりもやるほうが楽しめるものじゃないですか。だからバーリ・トゥードの成功は、見ただけでは判りにくい寝技の攻防に、スリリングさを加えたことがポイントだと思います。

中井 そうですね。ブラジルへの柔術留学にも行ってみたいですね。柔術のトーナメントへ出てみるのも面白いし。

ー高専柔道とグレイシーの対戦なんて、もう格闘技ロマンですね。ところで来年の目標はなんですか?

中井 総合格闘技の試合にこだわっていきます。寝技の強い人間が勝てる土壌が、総合格闘技にはあることを証明したいんです。そして本当に寝技ができる人が、もっとシューティングに参加して欲しいと思ってます。

ー個人的な目標は?

中井 来年は早い時期に川口さん、桜田さんの二人とやりたいですね。もちろん自信はありますよ。

[出典]格闘技通信(1994年/ベースボールマガジン社)
    若林太郎 記名原稿


■解説 / 若林太郎(2003.10.21.筆 / 2013.6.3.加筆)

 中井さんが1994年11月7日の後楽園大会でプロ修斗第3代ウェルター級王者になった直後に、雑誌「格闘技通信」で行われたインタビューです。今回のアップにあたり柳澤健さんの「1964年のジャイアント馬場」へのオマージュで、「1994年の中井祐樹」とタイトルを付けてみました。
 このインタビューが行われたのは、伝説となったバリジャパ95のほぼ半年前。修斗内でホープと見なされていた中井さんが、格闘技界で注目を集め始めたのがこの頃でした。格闘技メディアによる中井祐樹インタビューはこれが初めて。個人的に面識はあったものの、私が中井さんとじっくり話をしたのもこの時が初めてでした。
 当時フリーライターだった私がインタビューアーと指名されたのは、格通関係者で唯一高専柔道の存在を知っていたからでした。当時は格闘技メディアやマニアにも、高専柔道の存在を知っている人は皆無といってもいい時代でした。
 高専柔道についてきちんと説明したのも、「絡みつき」や「足が利く」といった表現を解説したのも、おそらくは格闘技雑誌ではこの記事が始めてではなかったかと思います。そういう意味で、実は歴史的なインタビューといえるかもしれません。
 この頃のプロ修斗は「プロ・シューティング」と呼称するのが一般的で、「ST」と表記されるのが普通でした。公式に正式名を「修斗」、英語名を「SHOOTO」で統一すると宣言したのは、95年11月7日の後楽園大会から。中井さんがタイトルを獲得してから、ちょうど1年後のことでした。
 インタビューの最後で翌95年の目標を聞かれた中井さんが語った、「総合格闘技の試合にこだわっていきます。寝技の強い人間が勝てる土壌が、総合格闘技にはあることを証明したいんです」という思いが、VTJ95への激闘に繋がっていきます。
 最後に名前が出てくる川口さん、桜田さんは、当時のライトヘビー級チャンピオン川口健次さんと、ミドル級チャンピオン桜田直樹さんです。当時はまだ初代シューター全盛時代の末期で、修斗のトップに立つには初代シューターに勝たなければという雰囲気がありました。
 この言葉を受けてか、95年1月の後楽園大会ではメインでモーリス・ローミンペルを破った桜田さんに対し、中井さんがエプロンに駆け上がって挑戦を表明するというちょっとプロレスチックな一幕もありました。
 バリジャパ95での負傷が無ければ、この年の修斗は中井さんの世代交代闘争がマッチメイクの中心となっていたはずです。少なくとも当時プランナーだった私は、そう考えていました。ちなみに佐藤ルミナ選手が注目を集め始めるのはさらに1年後、96年からのことです。
                  ◇
 当初この解説文は、上記のインタビューに至る当時の修斗の状況を詳細に解説する文章への改訂作業を行っていました。しかし書いていくうちに、どんどん内容がふくらんであまりにも分量が多くなってしまい、それに伴って様々な確認事項も出てきた為、今回の解説については2003年にパラエストラ公式HPにアップした解説をちょっと膨らませたモノにとどめることにしました。
 今回書き起こした新・解説文については、「1994年の中井祐樹(プロシューター中井祐樹の時代)」というコラムに独立してまとめ、来週以降に発表したいと思っています。
 なお下の写真はウェルー級王座獲得後、修斗協会の浦田会長によって読み上げられ、中井さんに授与された認定証です。

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インバーテッド・デラヒーバガード スパイラルガードの名前の謎

http://blog.livedoor.jp/paraestra_weekly/archives/26657543.html

中山巧コラム「スパイラルガード」命名秘話

May 08, 2013 21:45
 スパイラルガードは、海外ではインバーテッド・デラヒーバガードと呼ばれています。日本ではスパイラルガードをいう呼び方が定着していますね。
 これはそもそも15年以上前にパラエストラ東京で私の師匠である中井祐樹先生が
この技を好んで使っておられ、私もこの技でポンポンバックを奪われていました。
 私は中井さんに「なんか知らん間にバック取られてるのどうやってるんですか?」と聞くと、「こうやって足を螺旋状に巻き付けるガードをして…」と教えて下さり、「へー、すごいですね!なんて名前のガードですか?」と聞くと、「いや、特に名前はないよ」と仰るので、「足を螺旋状に巻き付けるのが特徴的やから、スパイラルガードとかいいんちゃいます? スパイダーガードぽくてカッコいいし。」中井さん「いいね!」…と最後はフェイスブック的な感じでしたが。
 その後中井さんは全国津々浦々をセミナー行脚されていたので、おそらく説明し易い「スパイラルガード」という言葉を使用されていたのでしょう。
 何年かしていつの間にか定着していましたね。当時は吉岡大さん(プーさん)もこの技で猛威を奮っていました。誰もが気づけばバックを奪われていましたね。
 最近の流行といえば何と言ってもベリンボロ。これもいつの間にかバックを奪われてる系ですね。次はどんな形からバックを奪う技が生まれてくるのか? はたまた、極め系の技が流行りだすのか? ダブルガードが廃れて柔道(立ち技)回帰へ?(^_^;)
これからも柔術には目が離せませんね!

[出典]パラエストラ大阪ブログ


■解説 / 若林太郎(2013.5.8.筆)

 今年で創立10周年を迎えるパラエストラ大阪のタクミこと中山巧支部長が、「パラエストラ大阪ブログ」に2013年4月26日にアップした文章です。興味深い内容だったので転載をお願いし、快諾していただいたのでここにアップします。スパイラルガード命名当時、中山支部長はパラエストラ東京の所属でした。ちなみに下の写真はその当時、青帯時代のタクミ選手です。
 もともと「パラエストラ大阪ブログ」でのタイトルは「スパイラルガード秘話」だったのですが、ちょっとだけ変更させてもらいました。その他、若干の改行と全角半角を直しただけで、ほとんど中山支部長が書いたままの状態でアップしてあります。
 なおパラエストラ大阪では、創立10周年を記念して来たる5月26日(日)に「中井祐樹柔術セミナー」が開催されます。セミナーの詳細については、パラエストラ大阪ブログまたはパラエストラ大阪公式ホームページを参照して下さい。

中山ミニ

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日本人が史上初めて柔術を体験したセミナー

http://blog.livedoor.jp/paraestra_weekly/archives/26606555.html
グレイシー柔術セミナー体験記@1994

May 07, 2013 23:15
ツアー参加者グレイシー柔術体験に一番乗り!
体験して初めてわかったグレイシーの凄さ。

 格闘技界今年最大の話題という感じになってきたグレイシー柔術を、デンバーで遂に体験した。
 体験セミナーが行われたのは、ツアー中日の3月11日。U大会当日の午前9時から12時の3時間に渡って行われた。
 このセミナーにはツアー参加者のほぼ全員が参加した。サンボ衣を着ている者がいるかと思えば、大道塾の道衣を着た参加者も。さすがは格通読者だ。
 セミナーの講師はホリオンを初め、ホイラー、そして今年80歳になるエリオも道衣を着て参加。木村政彦と闘ったエリオに直接指導して貰えるなんて!
 セミナーは、ヘッドロックへの対応、そのままグラウンドになった時の対応、馬乗りされた時にポジションを入れ替える方法、その後の展開という順番で進んでいった。
 その技術を実際に学んでみて思ったのは、グレイシー柔術は柔術というより極めて柔道的であるということだ。
 寝技を重視して技術体系の中軸に置いているあたり、古い形の柔道をイメージさせた。打撃への対応技術があることを除けば、おそらく戦前に行われていた高専柔道に非常に近いのではないだろうか。
 高専柔道とは、大正3年に京都帝大が『第1回全国高等学校専門学校柔道大会』を京都武徳殿で開催したことに始まる、高等学校および専門学校の対抗戦である。
 高専柔道の特徴は、絞め技、関節技を中心に寝技を高度に発展させたスタイルにある。その中には足搦み(膝関節を極める技)、足挫き(アキレス腱固め)、足の大逆(膝十字固め)や、腕を逆に極めたまま背負い投げで投げる“十字背負い”(結局此の技は試合では使われなかったらしい。)などというビックリするような技が見られる。
 その中でも特に三角絞め(当時は三角緘み、三角逆とも呼ばれた)は、高専柔道の最大の発明といえるだろう。エリオを破った木村政彦も高専柔道出身である。
 技術的には柔道的だと感じたグレイシー一家だが、柔術に対する取り組み方は、非常に柔術的であった。流派を興した創始者の子供達が、幼い頃より生活の一部として柔術を学び、流派を守っていく。これはまさに日本柔術の伝承スタイルそのものである。
 チョークスリーパーには力が必要ないことを証明するために、見事な技を披露してくれたホリオンの子供は、まだ小学校低学年ぐらいに見えた。そんな子供が確実にチョークスリーパーを体得しているのである。グレイシーの強さの秘密はここにある。

[出典]格闘技通信(1994年/ベースボールマガジン社)
    若林太郎 記名原稿

■解説 / 若林太郎(2003.10.21.筆 / 2013.5.7.加筆)

 1994年3月に行われた第2回UFCでのグレイシー柔術セミナーを、格闘技通信にレポートとして書いた原稿です。2003年にパラエストラ東京公式ホームページにもアップしましたが、今回の再アップに際してこの解説を加筆しました。
 同大会には当時大道塾所属だった市原海樹選手が出場したこともあって、マスコミやファンが大挙してツアーに参加。それもあって、滞在先のホテルで日本人向けのセミナーが実現した時のもの。「日本ブラジリアン柔術事始(1)」で「日本格闘技界とブラジリアン柔術のファースト・コンタクト」と表現したのが、このセミナーでした。
 参加者には作家の夢枕獏さんや、漫画家の板垣恵介さん、平直行さんもいて、指導陣にはエリオを始めホイス以外の息子達が勢揃い。ただ当時、ホイスやホリオン、そしてホイラーぐらいは顔を知っていましたが、まだ長髪をゴムで纏めていた未来日のヒクソンはほとんど誰も認識していませんでした。
 この時点で私はまだ中井さんとは出会っておらず、高専柔道は知っていましたが七帝柔道の存在は知りませんでした。セミナーを受けて、「これって高専柔道じゃん!」と一人で興奮していたものの、他に高専柔道を知る参加者は一人もおらず。当時格闘技通信の編集長だった谷川貞治さんや夢枕獏さんに、一生懸命そのことばかりを説明していた気がします。
 上記のレポートでもセミナー自体より高専柔道の説明に字数を割いている事が、恥ずかしながら当時の興奮ぶりを現している気がします。誌面に掲載された写真に付けられた下記のキャプションを読んでいただければ、セミナー自体の雰囲気もなんとなく感じていただけるかもしれません。たぶん格闘技通信に「高専柔道」の文字が載ったのは、創刊当時の柔道特集以来だったのではないでしょうか。
 ちなみに当時はUFCのことを、U大会とかアルティメット大会と呼んでました。グレイシー柔術も、福昌堂の「フルコンタクトカラテ」誌ではグレーシー柔術という表記するのが通例でした。
 20年近くたった現在読むとニュアンスが伝わりにくいのは 、「グレイシー柔術は柔術というより」「柔術に対する取り組み方は、非常に柔術的」という部分。ここでの「柔術」は日本の古流柔術を指します。いまでは単に「柔術」と書けばイコール「ブラジリアン柔術」ですが、この原稿を書いた段階では「柔術=古流柔術」というのが当然の認識でした。いまや隔世の感がありますが、それがこの原稿を書いた時代の空気でした。思えば遠くへ来たもんだ。

●自ら参加者に首を絞めさせるエリオ。本当に極まっていないとOKしない。武道家だ!

●平(直行)が首を極めにいっても、ホリオンは涼しい顔。平曰く「これ極まってるんですけど…」

●第3回U大会出場が噂される平(直行)とホイラーのスパーリングが実現。これが見られただけでもツアー参加者は得をした。

●最初は見学していた夢枕獏さんも思わず参加。何度も動きを確かめていた。

●チョークに力が必要ないことを実証するため、ホリオンは息子に技をかけさせた。ちなみに受けはグラップラー刃牙の板垣恵介氏。

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老若男女を問わない 79歳の現役柔術家もいるマーシャルアーツ  それが柔術

http://blog.livedoor.jp/paraestra_weekly/archives/26658989.html

ブラジリアン柔術は 日本にルーツを持ち ブラジルで育まれた 寝技中心の格闘技だ。
今やBJJの略称と共に
世界中に広まっている。
その目的、効用は千差万別、多種多様。
世界最強を目指すもよし、
運動不足解消するもよし。
身体を動かして運動の心地よさを知り、
技術を追求して知的好奇心を満足させる。
試合出場を楽しむ事も、
練習だけを楽しむ事も、
帯の昇格を目指す事も、
いろんな道衣を集める事も、
すべてが楽しい生涯スポーツ。
強く 楽しく 美しく。
洋の東西を問わず、
老若男女を問わず、
小さな子供から
79歳の鉄人まで
世代の壁を乗り越えて、
言葉の壁も乗り越えて、
身体と心で語り合う
Martial Arts Communication。
いい汗をかいて、
本気で熱中して、
仲間ができて、
チームができて。
ドキドキしたり、
悔しくなったり、
熱くなったり出来るもの。
楽しくて、
楽しくて、
気持ちいい。
そんな魅力溢れる ブラジリアン柔術の 基本のキの字を
日本の第一人者 中井祐樹が
なんだかちょっと 気になってる そんなアナタにお届けします。
今からやるなら これしかないと断言しましょう!
はじめよう ブラジリアン柔術

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中井祐樹先生の柔術トレーニング論 実は人類史上初 柔術は「決まると思ったらゆっくり関節技を掛けること」「決められたら早めに降参すること」という練習コンセプトを、ほとんど人類史上初と言っていいほど明確に謳って世界中に広がった。

http://blog.livedoor.jp/paraestra_weekly/archives/30278418.html

折るまで勝てない? 〜プロとアマを分かつもの〜

August 03, 2013 12:16
 先日とある大会で、タップをしたり声をあげたのですぐ技を解いたところ、レフェリーが気づいてわざとなのか、気づかなかったからなのか試合が続行され敗れたという「事件」があった。我々はこのような事例をどう考えれば良いのか、考察してみたいたい。
 まず私の考えを単刀直入に言えば、レフェリーが止めるまで試合は終わっていない。よって、レフェリーの判断を待たずに自分の了見で技を解いしまうと、試合に勝てないという事態も起こり得る。
 折ってケガをさせたくないという気持ち自体は、何ら責められるものではない。寧ろ奨励されてもおかしくない位だ。しかし試合の結末は、あくまで主審を含めた第三者が断を下すものである。それが競技スポーツの「掟」だ。
 私が「その本来持つ魅力を失わずに、より多くの人々に格闘技を普及させるための条件を最も揃えている」という理由で、ベーシック種目に据えているブラジリアン柔術は「決まると思ったらゆっくり関節技を掛けること」「決められたら早めに降参すること」という練習コンセプトを、ほとんど人類史上初と言っていいほど明確に謳って世界中に広がった。これは私の道場でも浸透している概念だ。
 柔術が普及すると共に、今では上記のスローガンを格闘技を楽しんで行う際の最低限のエチケットとみなす向きさえ確立された、と言っていい。
 「あそこのジムは壊し系」のような言い方や、「ケガをするから〇〇(技)は止めて欲しい」という練習交渉(?)も珍しいことではなくなった。格闘技を壊し合いそのものと捉える向きには不思議な言い回しだと感じるだろうが、これは別に悪いことではない。
 ただ試合で前述のようなケースが後を絶たない現状を鑑みると、関節技で結果的に破壊してしまうこと自体があたかも悪いことと思われる風潮に与することは、やはりある種の選手を結果的に弱く(勝てなく)してしまうことは否めない。
 パンチやキックによるKOは「見応えがある」と称えられやすいのに、関節が折れる図は何故だか目を背けたくなる。実際に受けるダメージの危険度、特に脳などへの重大な事故に直結する危険度は、KOのほうが高いにも関わらずである。その感情は私にさえある、と正直に告白しよう。でもそれと勝負の世界とは別の話だ。
 仮に私が少年選手のセコンドに付いたら、「相手の腕をへし折って来い」とはまず言わないだろう。それはそうだ。しかしプロ選手、殊に関節技が得意な選手には「体が強く、痛みを感じない選手かもしれないぞ。ぶっ壊す位でなければこっちがやられるんだ。手加減は絶対するな」というニュアンスのことは言うだろう。
 矛盾している、と人は言うかも知れない。でも、プロは勝たねば次がないかも知れぬ。試合結果は最優先事項なのだ。
 それでは、アマチュアである大多数の方々の場合はどうなるか。アマチュアだからそこまで切羽詰まった話じゃない、と私なんかは言うんじゃないかと人は思うであろう。
 しかし、私の答えは「プロのケースと全く同じ」だ。意外だろうか? しかし考えてみて欲しい。勝利を希求する気持ちにプロもアマもない。勝つか、負けるかが単に決まるだけのことだ。だから、私の道場には、「プロ練」が存在しないのだ(拙コラム「パラエストラ流 道場論」参照)。
 ただ「勝つことに懸ける姿勢が、アマとプロを結果的に分けている要因だ」とだけは確実に言えるだろう。プロより「強い」アマなどゴマンといるから、逆に強さはあまり問題ではないと私は考える。
 では以上のことを踏まえて、練習のガイドラインを提示してみたい。道場での練習では「レフェリー」がいないケースがあるため、「ゆっくり関節、早めにタップ」を貫く。
 これが出来ない者は、稽古相手を確保しづらくなるだろう。でも、彼らにも当然だが道はある。稽古相手をあらかじめお願いして用意する「アポイント制」だ。実戦に近い「極め合い」がやりたい方は意外といるものだ。これがプロ練に近いと言えば、近い。
 話が飛ぶようだが、ある練習をしたいが付き合ってくれる相手がいない、と嘆くケースがあるが、これも同様、「アポイント制」を使うと良い。
 詰まるところ言い方は変な感じだが、道場での練習は「パーティー」に近い。人数が多い方が基本的に盛り上がるし、人が一人いるかいないかで全く違う集合体になる。苦手な人間しかいない、なんてことも多々あるだろう。
 私は思う。予測不能なことに対処できるように努めるのが真の「練習」なのだ、と。弱点克服など様々なトライを施し、日々の稽古を楽しんで欲しい。


■解説 / 若林太郎(2013.8.3. 筆)

 2011年4月にスタートした「パラエストラ東京news」用に、2011年10月10日に中井祐樹が書き下ろしたもの。出典元の「Nakai Column」リンクからでも読めますが、コラム系はこちらに集約すべく再掲載しました。今週のアップはこれにて終了です。


http://blog.livedoor.jp/paraestra_weekly/archives/29146312.html
MMA用「柔術ドリル」

July 04, 2013 15:51
 MMAはケガの恐れが大いにあることから、試合と全く同様の練習をするのが実は難しいスポーツである。全力でパウンドを打ち合うような寝技練習は、身体へのダメージの蓄積を考えるとまったく不合理的だ。ゆえに、細かくシチュエーションを区切って練習する事、そしてそれを統合したトータルなイメージ作りをすることが、「メイン」の練習になるといえるだろう。
 前者のように場面や目的を限定した練習が、いわゆる「ドリル練習」である。パラ東では「MMA柔術ドリル」や単に「柔術ドリル」と呼ばれるフォーマットを、今回はご紹介したいと思う。(以前はブラジリアン柔術との対比から、“アメリカン柔術”ドリルと呼んでいたが、このコラム化を機に未来を考え、打ち止めにしたい。)
 これは実利的な柔術の稽古法で、何らかのグラウンド・ポジションからスタートする。上の者はトップポジションであり続けたり、タップを奪うまで。一方、下の者はガードに戻すだけでは良しとせず(ここが重要。危険であることに変わりないからだ)、スタンドかつ離合いまで戻すか、上のポジションになるか、極め返すことを目指すというもの。シンプルだが、MMA指向の方のみならず柔術愛好家にも、本来的には有効な稽古法であるはずだ。
 我々はこのドリルが、これからの時代の「寝技乱取り」になるべきだと考えている。私は「寝技」という言葉を便宜的使用以外、敢えて封印している(拙コラム「グラップリングとは呼ばない。」参照)。だが、このまま使い続けるとするならば、「寝て掛ける技」というイメージの他に、このドリルが気づかせてくれるような「寝かせ続ける技」、「寝かせられない技」、「寝ない技」という意味も含まれなければならないと考えるからだ。
 また、前回のコラムでご紹介した立ち技、いわゆる「10秒レスリング」と組み合わせれば、膨大な量を要すると思われがちな組み技のフリースパーリングの時間を短縮できる可能性さえある、と指摘しておきたい。実際、多くの選手がスパーリングに時間を割きすぎて、技術練やフィジカルトレーニングや他の練習時間を取れていないように見受けられるとの印象を持つのは、私だけではないだろう。
 話をドリル内容に戻すと、更に留意するべきは、ブラジリアン柔術で言うところの「〇〇ポジション」だけにとらわれてしまうと、「足りない」ということだ。そう、レスリング的要素はどうしたって重要さを増してくる。
 例えば「がぶり」であったり、「小手巻き」された・した状態からであったり、腋を差す・差さないでも全然違ってくるだろう。そう考えれば、グラウンドであるという前提条件も不要となるかもしれない。とにもかくにも、課題を常に念頭に置くべきなのだ。
 よって日々の稽古は、その練習法に随時工夫を加え、様々な部分練習を編み出し、そして確実にこなしていくことが肝要だと思われる。
 「MMAの本質は?」と問われれば、「やりたいことを実践することとリスクを極小に抑えることが、局面の大小に関わらず、絶えず変化を伴って訪れるスポーツである」と、私は今のところ答えるだろう。新時代に向かって、練習で掘り起こせるものはたくさんある。苦しみ、同時に楽しんで頂きたい。


■解説 / 若林太郎(2013.7.4.筆)

 2011年4月にスタートした「パラエストラ東京news」用に、2012年2月15日に中井祐樹が書き下ろしたもの。出典元の「Nakai Column」リンクからでも読めますが、コラム系はこちらに集約すべく再掲載しました。
 先週掲載した「立ち技練習には最大限10秒のグラウンドを。」に続く、中井さんの練習論です。「多くの選手がスパーリングに時間を割きすぎて、技術練やフィジカルトレーニングや他の練習時間を取れていないように見受けられる」との指摘は、多いにうなづけるところがあるのではないでしょうか。
 漫然とスパーリングするだけでも、充分に楽しめてしまうのが格闘技というスポーツの特長でもあります。もちろん楽しむことを目的に格闘技を学ぶのも、それはそれで有意義なことです。
 しかし競技者として自分を高めていくことを考えるなら、常にテクニックやフィジカルを高めていくことは必要不可欠でしょう。それは自分と向き合う、ストイックな作業でもあります。そこに気がつけるかどうかが、トップ・アスリートと普通のアスリートを分ける分岐点なのだと思います。

http://blog.livedoor.jp/paraestra_weekly/archives/28912902.html

「立ち技」練習には最大限10秒のグラウンドを。

June 28, 2013 10:15
 これから、日々の指導内容の記事の中でたびたび紹介している練習法を、このコラムでも改めて取り上げていきたいと思う。今回は立ち技の練習のコツを挙げたい。
 私どもの道場における「立ち技」ドリルには、打撃の有るもの(総合)と無いものとが存在し、どちらも10秒以内に限りグラウンドの攻防も認めている。
 さらに打撃無しの「立ち技」ドリルは、大きく2種類に分かれる。いわゆる「10秒レスリング」である。直接足に「タックル」することをOKとするものと、しないものである。実践してみれば分かると思うが、両者は全く違う様相のドリルである。
 前者を「フリースタイル」と呼称し、後者を「足掛けグレコ」(妙な言い回しだが)や「首相撲」などと呼んでいる。今ならさしずめ、「ノーギ柔道」とも呼んでもいいかもしれない。
 呼び名を変えるのも、各選手の意識のレヴェルに応じ変わってくるのが現実的であろう。グラウンドを欲しないレスリングも当然、ありうるわけだ。
 もちろんいずれも、サブミッションは「可」だがやはりこれもグラウンドは10秒でブレイクとなる。
 これは我々が、長い時間を掛けて生み出したパラ東流「レスリング」である。MMA志向の方には、自信を持ってお勧め出来る練習メニューなので、是非活用して頂きたい。
 では、「なぜ10秒なのか」に言及しておきたい。実験してみれば分かるのだが5秒では短すぎて、投げられたら「負けだ」と諦めるクセがつく懸念があり、逆に10秒以上ではその後の局面に変化が起きにくい。
 立ち技とグラウンドの接合部での判断力を磨きやすいので、現在は10秒を採用しているのである。但し、カウントする人間は必要になる。パラ東では私や、手の空いた者で対応している。
 瞬時に状況を判断し、上のポジションをキープしたり、より良いポジションに移行したり、タップを奪ってしまっても当然、良い。投げられたり、下になったり或いはなりそうになっても、サブミッションに移行したり、リバーサルしたり、立ち上がったり自然にできるようになってくる。
 柔道やサンボの選手が、チャンスと見るや瞬時に決めるような切れ味のある動きが出来るのは、「ブレイクが早い」ためである。このことを想起して頂きたい。
 ただし種々の競技に生かすには、秒数の増減はあっても良いかもしれない。創意工夫を凝らして頂ければ、と思う。
 「立ち技の乱取りには少しの寝技を、寝技の乱取りには少しの立ち技を」と述べたのは、柔道の柏崎克彦先生(国際武道大学)であった。まさに慧眼と言うほかない。
 現代MMAは、簡単に倒れない「立ち力」が前提にある。しかし、投げられたり、下になることを全否定しても始まらない。そうなる可能性は、どんな選手にもあるのだから。
 MMAや柔術を標榜する者が、そのままの稽古体系でスタンドを向上させることができないのだとしたら、危機的状況にあるのだということを自覚する必要がある。
 我々が我々自身による、MMA目線のレスリング(もしくは相撲)を生み出せなければ意味がない。
 以上のことが当たり前になれば、レベルは飛躍的に上がることは間違いない。
 制限のない「フリースパーリング」が好きなのは、基本的に構わない。一番楽しい技術練習だからだ。
 ただ、それだけではかなり高い意識を持てなければ、練習のための練習になってしまう危険性があることを肝に銘じておきたい。
 究極的には、上記の「立ち技」に、ある条件を予め設定してからの各種ドリルを組み合わせられれば、より質の高い練習が実現できるであろうことは私が保証する。


■解説 / 若林太郎(2013.6.28.筆)

 2011年4月にスタートした「パラエストラ東京news」用に、2012年1月25日に中井祐樹が書き下ろしたもの。出典元の「Nakai Column」リンクからでも読めますが、コラム系はこちらに集約すべく再掲載しました。なお中井さんの練習論は、次回転載予定の「MMA用 柔術ドリル」に続きます。

http://blog.livedoor.jp/paraestra_weekly/archives/28345788.html


スパーリングが始まる前に礼をしよう

June 13, 2013 23:38
 試合に勝つ練習にするために、ちょっとした工夫を加えてみたい。実戦と練習のミゾを埋める法は、実はいくつも考え出せる。
 パラエストラ東京・中井クラスで実践しているのは、「スパーリング等の開始前に礼(挨拶)を済ませておく」ことだ。タイマーやゴングが鳴ったら、逆に再びの挨拶はもう要らない。
 意外に思われる向きはおられるだろうか? こんな簡単な工夫で、身体のモードチェンジを迅速に行う訓練を常に行うことが出来るのだ。
 そうでなければ、どうしてもなんとなく量をこなす練習、練習のための練習になりやすいのだ。大事なのは「質で」ある。
 私が長年、考えさせられてきたのは、「握手しようと手を差し伸べたら引き込まれた、もしくはタックルを食らった」とか「グラブを合わせようとしたら、殴られた」などのケースの被害者(?)は圧倒的に日本人選手であることだ。なぜこのことを誰も指摘しないのだろう。
 長時間をこなす「乱取り」が日本文化であることは、重々承知している。一種の技術練だ。ベーシック(=準備期)に採用することに異存があるわけではないが、実戦(=試合)は1〜2時間続けて闘うわけではない。
 ここが、「練習横綱」が生まれやすい一因となりうるのである。長時間の「乱取り」では、1本1本の集中力が若干、欠けがちになるからだ。それでは限定された時間で闘う「試合」の感覚との間に、質的な差ができてしまう。
 これに関連するが、今夏のキッズのBJJ全日本大会の時にレフェリーが握手をさせていないのに気がついた。桑原幸一・JBJJF審判部長に尋ねると、ブラジルの本部の方針で「握手は義務ではない」のだそうだ。
 世界への普及を視野に置くIBJJFは、挨拶の方法が国や文化によって違うことを考慮に入れ、開始時の「コンバッチ」だけをルールで定めているのだ、と。
 これは、ストンと合点がいった。同じことだ。「始め」の合図の前に挨拶をしておく。時間が始まってから挨拶をすること自体、実戦らしくない。重ね重ね、指摘しておく。
 少なくとも、試合6〜8週前からは、実戦を完璧に想定したモードに入っていかなければならない。挨拶はスパーリング前に済ます。小さな工夫ではあるが、「チリも積もれば山となる」の言葉もある。「想定外の事態」も、世界では言い訳にしかならない。
 万が一の油断に繋がらないようにするには、日常の細かな発想から世界モードに切り替えていくことが必要なのだ。まさに「千里の道も一歩から」である。世界を目指す日本人選手の健闘を、心から祈る。


■解説 / 若林太郎(2013.6.13.筆)

 2011年4月にスタートした「パラエストラ東京news」用に、同年12月12日に中井祐樹が書き下ろしたもの。出典元の「Nakai Column」リンクからでも読めますが、コラム系はこちらに集約すべく再掲載しました。
 世界柔術は終了したばかりですが、それはまた来年の世界柔術へ向けての闘いが始まったことを意味します。誰にでも与えられた時間は一緒です。もちろん、普段の生活環境や仕事環境によって、練習時間には差が出てくるかもしれません。単に「練習量」と聞くと、安易に練習した時間の量と考えてしまいがちですが、重要なのは質の高い、密度の濃い練習の量がどれだけあったかという事なんだと思います。漫然と長く練習しただけ通用するほど、世界というステージは甘くはありません。。
 練習に対して高い意識を持って臨むこと。それしか練習の密度を濃くしていく方法はないのだ思います。強い選手が強いのには、必ず理由があります。試合で勝つ人間は、やはり勝つべくして勝っているのです。そしてその鍵は、各々の心の中にあるのです。自分との闘い。それこそが本当の意味での世界予選です。

中井ミニ

http://blog.livedoor.jp/paraestra_weekly/archives/27238390.html
パラエストラ流 道場論(ちょっとだけ解説付き)

May 21, 2013 02:29
 私は自分の道場を「万人に開かれたものにしたい」という思いで、これまで運営して来た。またこれからも、ずっとそうしていくつもりでいる。
 パラエストラ東京に「プロ練習」は、基本的に存在しない。世界レベルの者と初心者が同じ場所で研鑽できる、いわゆる「クラブチーム」型で常にありたいという思いがあるからだ。もっともプロ(とか白帯)だけで練習している「状況」というのは、当然あり得るのだが。
 それでも人は育つ。試行錯誤する。巣立つ。私はその背中を押してやるだけだ。それに後発の人間は、必ず私や今のレベルを超えてゆく。必ず、だ。
 私自身、血筋があるわけではなく、何を心得ているわけでもない、只の人だ。ただずっと格闘技が好きで(嫌いにならないで)、今日まで来ただけだ。
 強かろうと弱かろうと、大きかろうと小さかろうと、思想や信念に違いがあっても、どんな人間でも構わない。そんなことより、触れ合うことだ。
 意見が同じでなくても、全く構わない。そんなことより、直に言葉を交わすことだ。
 そのためには社会に「道場」が必要だ、と思っているのだ。身体ごとぶつかれる、道場という「場」が。
 そんな中から意志を持った人間が、道場をステップボードにして芽生えてくれたら、これに勝る喜びはない。

[出典]パラエストラ東京news
    中井祐樹 記名原稿


■解説 / 若林太郎(2013.5.20.筆)

 2011年4月にスタートした「パラエストラ東京news」に、同年8月18日にアップしたもの。お盆中の連日アップということもあって短めですが、パラエストラのキャッチフレーズ「Martial Arts Communication」を言い表した、中井さんの本音だと思います。これをさらに短いセンテンスにまとめると、ツイッターのトップにある「格闘技で人生を豊かにできると確信する男。」という言葉になるのだと思います。

http://blog.livedoor.jp/paraestra_weekly/archives/26940223.html
キング・オブ・スポーツ路線(ちょっとだけ解説付き)

May 14, 2013 22:24
 数年前からパラエストラ東京は、「キング・オブ・スポーツ路線」と銘打って(?)「ありとあらゆるスポーツに打って出る団体になろう」と非公式に宣言してきました。今回はその真意を述べたいと思います。
 そもそも私は、パラエストラ設立当初から「できることなら全団体のオフィシャルジムになりたい」と発言していたのです。当時ある雑誌のインタヴューに応えてのステートメントでしたが、完璧に本音でした。
 また古代オリンピックに於いてレスリングが主要競技のひとつであり、メインの五種競技の他の競技(短距離走、幅跳び、円盤投げ、槍投げ)をやって勝ち残った選手が、最後にレスリングを実施した故事にあやかってもいるのです。
 加えて道場を運営していく中で、例えば寝技なら寝技だけに偏重していく事で故障が増える可能性があるのかも知れないと感じたことから、道場生の身体面の健康を真に願うなら、「この道場を起点として色々なものに挑戦していく姿勢を後押しした方がより良い」と考え直すに至ったのもあります。
 更に突き詰めれば、「すべての運動は格闘技にとって何らかのドリルである」ということに気付いてしまったという私自身の変化があげられます。そうでなければ説明のつかない何人もの生徒の成長が、この私の人生観を形作ってくれました。
 以上のような諸々の要因が重なり合って、クロストレーニングを奨励し他の各スポーツや格闘技、武道や武術とも緩やかに繋がっていこう、と願っているわけです。
 今では柔道、サンボ、アマチュアレスリング、相撲は勿論のこと、キック等の打撃系競技や各種総合系とグラップリング系、だいたいどこに行ってもパラエストラ・グループの姿を見つけることが出来るはずです。
 更にモンゴル相撲や沖縄角力などの民族的格闘技に挑む方や、陸上競技会やマラソン、トレイルランニングなどのランナー達、ボルダリングなどのクライマー達など、いろいろなスポーツに挑む方が続々増えてきました。しかも嬉しいことに、所属の欄にはパラ東の名を記入してくれている方もいらっしゃいます。これからはフットサルなどの球技や、水泳やトライアスロンなどを嗜む方も出てくるのではと考えています。
 たとえ、スピンオフして始めたものの方が人生における比重が高くなってしまっても、それはそれで全然悪いことじゃありません。格闘技はいつ始めても、いつ再開しても、出来るものです。門戸は、いつでも開かれています。

[出典]パラエストラ東京news
    中井祐樹 記名原稿


■解説 / 若林太郎(2013.5.14.筆)

 2011年4月にスタートした「パラエストラ東京news」用に、同年8月16日に中井祐樹が書き下ろしたもの。同newsブログはほぼ毎日更新を目標としていたのですが、お盆休館中にはアップすべき開館スケジュールがありません。そこで事前に書き始めてもらい、休館中のコラム4本の集中アップとなった次第。出典元の「Nakai Column」リンクからでも読めますが、コラム系はこちらに集約すべく再掲載しました。なお「キング・オブ・スポーツ」は、アントニオ猪木率いる新日本プロレスが標榜していたキャッチコピー。この辺の引用センスが、プロレス黄金期に育った中井さんのルーツを思わせます。
 パラエストラ・ネットワークにおけるキング・オブ・スポーツ路線の先駆者は、パラエストラ東京の西岡仁さんと石井基善さん。舗装路以外の山野を走るランニングスポーツであるトレイルランニングに取り組み、先日も国内最長のレース「ウルトラ・トレイル・マウントフジ(ULTRA-TRAIL Mt.FUJI=略称UTMF)」で完走を果たしています。先日NHKでも「UTMF」のドキュメントを放送していましたから、ご覧になった方もいらっしゃるのでは。(同番組のエンディングに、石井さんらしき人が写っていたような気がしたのは私だけでしょうか。)
 西岡さん、石井さん以外では、パラエストラ大阪の足利紫津子選手が、昨年6月10日の「第11回オールジャパンアームレスリング選手権大会」で優勝を果たしています。私たちが情報を把握していないだけで、ネットワーク各支部には様々なスポーツにチャレンジしている方がまだまだいらっしゃると思います。そんな皆様の活躍振りも、どんどんPARAESTRA NETWORK NEWSに掲載させていただきたいと思っております。大会出場や入賞などの際にはぜひご一報いただければ幸いです。

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柔術ルール 90年代前半は何でもありだった? ブラジレイロ以降 競技イベントが活発になりかつての柔術の荒々しさが無くなった?

http://blog.livedoor.jp/paraestra_weekly/archives/29696041.html

ブラジリアン柔術ルール・徹底検証@1998

July 19, 2013 11:17
祝・全日本ブラジリアン柔術大会開催企画
ブラジリアン柔術ルール・徹底検証@1998

 7月25日、パレストラTOKYOにて日本ブラジリアン柔術連盟(BJJFJ)によるルール講習会が行われた。これは8月16日に行われる第1回全日本ブラジリアン柔術大会に備えて行われたモノで、8月8日(土)には正道会館東京本部でも同様の講習会が行われる模様。
 これまでパレストラではブラジルなどで使用されているルールを参考に、最もスタンダードだと思われるルールをBJJ JAMやCOPAで採用してきた。柔術を志している選手にとって常識として認知されてきた同ルールだったが、今回の講習会で全日本で使用されるルールとは多くの相違点があることが確認された。
 なんといってもルールは、試合の根幹をなすべきもの。試合において最も悔しいことは、ルールを知らなくて負けることである。そこで今回はこのBJJFJ認定ルールについて徹底的にレポートすることにした。
 今回講習を行ったのは、ブラジリアン柔術連盟の役員としてルールを管理する役職にあるという黒帯6段のエジソン・レアンドロ・ダ・シルヴァ氏。エジソン氏は93年と96年のブラジル大会シニアクラス・プルーマ級チャンピオンでもあるという。通訳を行ったのはグレイシー・ジャパン代表にしてBJJFJ会長の渡辺貴真氏である。
 エジソン氏によればブラジリアン柔術ルールは、多くの変遷を経て今の形になっているという。当初はポイントも1ポイントのものが4種類あるだけだったが、現在はより複雑化する傾向にある。ヒクソン・グレイシーなどがインタビューで「柔術らしさが失われてきた」指摘しているのはこの部分である。
 グレイシー一族によって長年の研鑽が続けられてきたブラジリアン柔術だが、競技としての歴史はそんなに古いわけではない。むしろきちんとした世界大会などが行われるようになったのは、ここ数年の事なのである。
 連盟の会長であるカルロス・グレイシーJrは、オリンピック競技を最終目標としているだけあって、ルールの整備を推進したい意向のようである。となると柔道がそうであったように、柔術も競技としての変容の時期を迎えつつあるのかもしれない。
 とにかく今回のルール講習会を受けてみた感想としては、思ったよりポイントが細かいということに尽きる。根本的な認識の違いや、細かい部分での発見も多く、なんの知識もないまま全日本に望んでいたらと思うとゾッとさせられた。
 というわけで、まずは大会概要、そしてルールという順番に見ていきたいと思う。
 *  *  *  *  *
 このルール講習会はパレストラの後、8月6日(木)にシューティングジム大宮で、8月8日(土)には正道会館でも開催された。渡辺会長からは、中井、平、エンセンという各代表にも審判の要請を出すことを表明していたが、エンセンはこれを固辞。パレストラ・中井代表は、要請があれば受けるという姿勢でいる。
 ルール以外で話題の焦点となったのが、青帯としてのエントリーの問題。これまでブラジリアン柔術では自分と同等か一つ下の帯は自由に発行できるとされてきた。また下の帯が上の帯に勝つことはないとされていただけに、青帯選手から勝利をあげた選手は青帯昇格という見方をされたいた。
 しかし今大会では、黒帯の発行した青帯以外は青帯エントリーを認めないという事になったのである。これは、実は帯を持っていないのにブラジル人だというだけで、紫帯だ茶帯だと偽って指導するものが現れだしているという事情があるとのこと。今後はすべての柔術家にライセンスを発行し、それにより帯を連盟が管理していくことになるという。つまりいくら帯を絞めていても、ライセンスをもっていなければニセ帯ということになるわけだ。
 これは世界に先駆けて日本の連盟で行われるもので、続いてアメリカでも施行し、最終的にはブラジルでもという意向を連盟は持っているようだ。まだ黎明期にある日本で、帯管理システムをまず運用してみたいということなのだろう。
 今後は、このライセンスがないと海外の大会にもエントリーできないということになるという。その分、連盟主催の全日本などで好成績を挙げた選手には、連盟がスポンサーと協力し、パンアメリカンや世界選手権への出場に対して渡航費の支給を行うことも考えているという。また今大会終了後には、白帯上位入賞者に対し青帯への昇格講習が行われるとの情報もある。
 とにかく柔術の公式戦に出場するためには、今後ライセンスが必要となるわけだ。連盟では、今回の全日本に出場しない選手の登録も受付ている。しかしこの登録を行うためには連盟の認めるアカデミーに所属していることが必要となる。そこで問題がひとつ。連盟の公認アカデミーになるにはどうすればいいのか?
 実は今回JFCNメンバーであるクラブVTSが、全日本出場を目指して連盟に問い合わせをした所、「紫帯以上の指導者がいること」というのが条件だということがわかった。これはなかなか厳しい条件である。
 今までであればアメリカやブラジルの大会で優勝して帯を徐々に上げていくという方法論もあったが(むろんこれも至難の方法ではあるが)、海外の大会に出場する場合でも、今後は連盟のライセンスが必要ということになると、連盟に加盟するためには現在の加盟道場か、海外の有力道場の傘下に入るしか方法がなくなってしまう。いわゆるフリーの柔術家というのは存在できなくなるわけだ。
 もちろん良師を探しだし、そのもとで練習に励むのは格闘技の基本プロセスであり、連盟がきちんとした管理を行っていくためには必要な措置であろう。例えば正道会館柔術クラスにはカーリー・グレイシーという師がおり、エンセンにはマチャドという師がいる。そういう意味では大会戦績だけで帯を上げ、特定の師を持たなかった中井祐樹&パレストラというのは、やや特異な存在ということになる。しかし、今後はパレストラ・パターンは不可能に近くなるわけで、フリー選手にとっては受難の時代が訪れたといえるかもしれない。
 しかし柔術だけでなく、修斗も同様にフリーを認めない方向に動き出している。特に修斗の場合、グローブを着用して顔面を殴る技術を含んでいるため練習や試合に対するキチンとした知識を持った指導者が不可欠となる。
 その先駆けとして今年になってから修斗コミッションによって、まずプロがライセンス化されている。これは選手だけでなく、レフェリー、マネージャー、セコンドに対しても発行されており、マネージャーのいない選手はプロ活動ができないことになっている。
 アマチュアに関しての整備はまだ先になりそうだが、不慮の事故を防ぐためにもなんらかのラインが引かれることになりそうである。
 やはり競技としてきちんと成立させるということは、
それなりのきまりや義務も生まれてくるということなのだ。日本の総合格闘技は普及期から、完成期に向かいつつあるのである。話を柔術に戻そう。
 柔術の競技化自体は普及という面で見ると必要なことだし、パレストラとしても異論はない。しかし総合格闘技と違い、柔術はまだこれから普及していかなくてはならない段階だ。ゆえにパレストラでは今後も、参加資格と問わないBJJ JAMのようなワンマッチ大会やオープントーナメントをどんどん開催していく予定だ。とりあえずオフィシャルな大会は連盟にまかせて、
誰にでも楽しめる練習の延長戦上の試合を企画していこうというのが、パレストラの方針ということになる。
 と同時に、東京と札幌のパレストラ会員のためにも、またJFCNに加盟していただいている友好サークルのみなさんのためにも、代表・中井祐樹がいよいよ本格的に黒帯奪取へ向けて動き出すことになりそうだ。
中井代表が黒帯に昇格してしまえば、JFCNの中でも実力に応じて連盟認可の帯を発行できることになる。そうなると連盟への正式加盟への道も開けてくるわけだ。
 というわけで、中井代表は10月にサンパウロで開催されるブラジレイロ(ブラジル選手権)に照準を絞って選手モードに入る予定。みなさんの応援、よろしくお願いいたします。

[出典]パレストラ・ニュース3号(1998年)
    若林太郎 記名原稿


■解説 / 若林太郎(2013.7.19.筆)

 1998年頃にパラエストラ内部向けに出したB5版のフリーペーパー『PARAESTRA NEWS』の第3号用に、私が書いた記事原稿です。第1回全日本BJJ前に行われた連盟主催のルール説明会がレポートされています。
 たしか『PARAESTRA NEWS』に掲載した後も、地方大会のパンフに転載して載せていたのではなかったかと思います。ちなみに当時は「パレストラTOKYO」のように地区名はローマ字表記していました。
 今回同時アップの中井さんのコラム同様、第1回全日本BJJ開催直前の空気感を感じて頂ければ幸いです。

酒2

http://blog.livedoor.jp/paraestra_weekly/archives/29443457.html

MMA全盛時代の柔術とは。

July 12, 2013 12:05
 何でもありの“新”柔術を欲する声を、たまに聞く。
 その心は、現行のブラジリアン柔術(以下BJJ)のルールが格闘技として禁止技が多く、物足りないというものだろう。やはり、柔術への人々の期待は大きいものがある。
 柔術は本来、徒手の技法すべてを含むもの。扱う範囲が広いからこそ一人一人の理想のルールや戦法が異なり、論争は絶えることがない。まさに「民」の格闘術である。
 ヒールフックやカニバサミ、首への決め技など、競技BJJが禁止としている技法には確かに、格闘技を格闘技たらしめる危険な魅力が満ちている。これらをすべて認めた道衣ルールは、確かに面白いかもしれないとは思う。
 ただ、現実として今のBJJルールだからこそ、最大公約数的に世界中に広まったことも見逃せないと思う。先立つものは場か、人か。ニワトリと卵の関係のようだ。
 はじめからMMAを想定してポイント化し、道衣をベースとすることで理解しやすくし、レスリングなど既成の格闘技愛好者にはサブミットする魅力を伝え、オリジナルを編み出すプロレス好きの心も満たす。
 BJJはとりもなおさず、夢のプレMMAであり、理想的な柔道であり、サブミッション・レスリングではあったのだと思う。しかし時代は巡った。
 現在隆盛のMMAは、トラディショナルな柔術とはかけ離れてしまっているように見える。その無念さが何らかの、組織的でなく、ルール的な改革を望む声につながってくるのだろう。
 その意味において、MMAこそ新柔術そのものであるが、ドリルとしてのトラディショナルな柔術の価値はなんら変わることはない。
 グレイシー柔術の成立過程の時代は、MMAはちゃんと成り立ってはいなかった。それが今との違いだ。進化させるべきは、あくまで各々の柔術観である。僕はそう思う。


■解説 / 若林太郎(2013.7.12.筆)

 2011年4月にスタートした「パラエストラ東京news」用に、同年12月20日に中井祐樹が書き下ろしたもの。出典元の「Nakai Column」リンクからでも読めますが、コラム系はこちらに集約すべく再掲載しました。
 何でもありの“新”柔術と言えば、慧舟會の創始者である西良典さんが94年にスタートさせた「ザ・トーナメント・オブ・J」を思い出します。「道衣ありの総合をやりたいんですよね」という西さんの思いを具現化したこの大会、ルールの明文化や選手ブッキング、マッチメイク、当日の進行ディレクター、ビデオの監督と、私もいろいろなことをやらせて貰いました。「ザ・トーナメント・オブ・J」という名称も、93年にスタートしたJリーグにヒントを得て、私が考えたネーミングです。
 慧舟會東京本部が設立された後は、寝技のみの「JJグラップリングトーナメント」、総合ルールの「JJトライアルトーナメント」も開催されるようになり、98年にはパラエストラや愛知の四王塾も参加して「新日本柔術」旗揚げが宣言されましたが、その活動はプレ大会の開催のみに留まりました。もうそれも、15年前に話になりました。
 MMAもブラジリアン柔術も、すっかり競技として確立された感のある昨今ですが、メタモリスルールに強い魅力を感じ、空道が確実に世界に広がっているのを見るにつけ、「何でもありの柔術」や「道衣ありのMMA」にはまだまだ可能性が眠っているような気がします。私自身がそこで何かをする気は、さすがにありませんが。

中井ミニ

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意外と知られていない日本柔術の歴史(古流柔術の歴史ではありません BJJ ブラジリアン柔術です) そういえば昔は優勝してジャムとか日本酒もらいましたっけ…

http://blog.livedoor.jp/paraestra_weekly/archives/26606837.html
日本ブラジリアン柔術事始(1)1993 - 1995

May 07, 2013 23:24
渡辺孝真氏の練習会から歴史が始まった。
中井祐樹はプロシューターから柔術家へ。

 日本のブラジリアン柔術の歴史は、1993年初頭にスタートしている。大学入試に伴いブラジルより帰国した渡辺孝真氏(現AXIS柔術アカデミー代表)の主宰する練習会が、東京・新宿スポーツセンターで始まったのがその端緒だ。UFC以前の1年間は、渡辺氏が大学の友人を勧誘しての練習会であり、人数も5人程度の小規模なものであったという。
 この年11月12日に開催された第1回アルティメット・ファイティング・チャンピオンシップ(以下UFC)は、世界中にグレイシー一族とブラジリアン柔術の存在を知らしめることになる。その影響で日本の格闘技雑誌でも競うようにブラジル情報を掲載し始め、翌94年3月の第2回UFCには日本から市原海樹選手(当時、大道塾所属)が参戦したこともあって、数多くの格闘技&マスコミ関係者が観戦のため渡米。この時滞在先のホテルで行われたグレイシー柔術セミナーが、公式な意味での日本格闘技界とブラジリアン柔術のファースト・コンタクトだったといえるかもしれない。
 1994年7月。浦安にあった東京ベイNKホールで行われた第1回バーリ・トゥード・ジャパンオープン(以下VTJ)にヒクソン・グレイシーが初来日し、トーナメントで優勝。これを見て触発されたヘウソン・グレイシー門下のエンセン井上氏が、スーパータイガーセンタージム(→シューティングジム大宮→PUREBRED大宮)入り。当時同ジム所属で、プロ修斗第3代ウェルター級王者になる直前の中井祐樹がブラジリアン柔術との初遭遇を果たしている。
 94年12月、当時UWFインターナショナル所属だったプロレスラー・安生洋二選手が、ロサンゼルスのヒクソン・グレイシー道場に「道場破り」を敢行したが、返り討ちに。ヒクソンのマウントパンチで顔を腫らし、バックマウントからのチョークで落とされる写真がプロレス&格闘技専門誌に掲載され、国内にグレイシー幻想は最高潮に。直後には、マスコミ向けに道場破りの映像公開も行われた。(一般には公開せず。)
 1995年4月20日、日本武道館でのVTJ95で中井祐樹が準優勝。決勝のヒクソン戦は裸絞めで敗れたものの、修斗新時代の扉を開く快挙であった。しかし1回戦のジェラルド・ゴルドー戦では、サミング攻撃で右目を負傷。この時の眼疾のため、中井本人はシューターとしての活動停止を余儀なくされることに。しかしこれが、中井が修斗から柔術へシフトしていく切っ掛けとなった。
 95年5月には、パンクラスの東京ベイNKホール大会に、当時のトップ柔術家の一人であったアラン・ゴエスが初来日。フランク・シャムロックと熱戦を繰り広げた。
 今年の9月26日に行われたプロ修斗駒沢大会「バーリ・トゥード・パーセプション」で、ジョンジャック・マシャド(当時はジアン・マチャドと表記)と中井祐樹の柔術マッチが、目玉カードとして急遽実現。ちなみにこの時採用された柔術ルールは、細かい設定は無く20本一本勝負であった。(※現在でいうところのメタモリス・ルールに近かった。)
 「どうせやるなら、一番強い選手とやりたい」という中井の希望で決定したマシャド戦だったが、5分31秒、三角絞めで一本負け。この時代、柔道以外で国内に道衣を着て練習できるところはほとんど無かった。中井は試合に備え、木口道場サンボクラスや、この頃寝技に傾倒していた骨法への出稽古で調整を行ったという。

[出典]バイタル柔術(2003年/日本スポーツ出版社刊)
    若林太郎 記名原稿


■解説 / 若林太郎(2013.5.7.筆)

 2003年に国内初のブラジリアン柔術の技術書として出版された「バイタル柔術」に、付録のコラムとして書いたものです。全部で4つのパートに分かれていて、この(1)が1993年から95年、(2)は1996年から97年、(3)は1997年から98年、最後の(4)が1999年から2003年の国内事情を知り得る範囲で書き記してあります。構成はほぼ2003年当時に書いた時のままですが、言い回しの良くないところや誤字の修正と、敬称、大会名の加筆など、若干の手直しをしました。
 個人的に懐かしいのはアラン・ゴエス。格闘技通信のインタビューを担当して仲良くなったオーストラリアの柔術ファイターであるラリー・パパドポロスが、当時高田馬場のあった私の仕事場に大会前日か前々日にゴエスを連れて遊びに来たのを思い出します。二人は私が蔵書していた「高専柔道の神髄」を興味深げに熟読し、「この本がほしい」とリクエストしてきました。しかし当時同書はまだ復刻されておらず、当時12000円ぐらいの値段がついていた中古市場でもなかなか見かない稀覯本。私にとっても、苦労して手に入れた貴重なお宝でした。しかし彼らの熱い願いを無下に振り切ることができず、後日コピーをプレゼントしました。
 なお「バイタル柔術」は、名著「バイタル柔道」のようなロングセラーを目指して、廃盤にせず長く出し続けることを出版の時の条件にしていましたが、版元が無くなってしまったために今は入手困難で、オークションなどでプレミアムがつくこともあるようです。
 ブラジルにおける柔術の歴史を書いた文章は、割とあちこちで見ることができますが、日本国内の普及に関するものはあまり見かけないので、少しは歴史的な意味があるかと思いアップしました。なお(2)以降も、近日中に続けてアップ予定です。

日本ブラジリアン柔術事始(2)1996 - 1997

パラ丸

http://blog.livedoor.jp/paraestra_weekly/archives/26940322.html

日本ブラジリアン柔術事始(2)1996 - 1997

May 14, 2013 22:28
正道会館に日本初の柔術クラスがオープン
中井がハワイで青帯&紫帯の部を制する

 サンフランシスコ在住のカーリー・グレイシーのもとで柔術修行を行った平直行氏(現・ストライプル代表)によって、1996年春、高田馬場の正道会館東京本部に柔術クラスが開講。これに遅れること1ヶ月、エンセン井上が埼玉県大宮市(現・さいたま市)のスーパータイガーセンタージム(現PUREBRED大宮)で柔術クラスをスタートさせた。
 96年4月、新興バーリ・トゥード・イベントだったUVF(後に消滅)のために来日したカーウソン・グレイシー軍団と、彼らに練習の場を提供した堀辺正史氏率いる日本武道伝骨法が交流。ブラジリアン柔術ルールの一端が、ベースボールマガジン社の「格闘技通信」を通して紹介された。なお4月5日に駒沢運動公園総合体育館で開催された同大会では、当時の世界王者だったヒカルド・リボーリオによってブラジリアン柔術のエキシビションが披露されている。
 続く5月26日、ホノルルで行われたヘウソン・グレイシー柔術のイン・スクール・トーナメントに、サンビストとして活躍していた竹内政司氏(現X-TREME柔術アカデミー代表)が参戦し、白帯メジオ級で優勝。ヘウソン・グレイシーより青帯を授与されている。おそらくこれが、日本人選手の海外大会初進出であり初優勝であったことは、あまり知られていない。
 96年7月7日、前年までのトーナメント形式からワンマッチ形式となったバーリ・トゥード・ジャパン96のメインで、当時5年間無敗だったプロ修斗第3代ライト級チャンピオン・朝日昇選手(現・東京イエローマンズ代表)が、ホイラー・グレイシーにリア・チョークで完敗。同大会を速報するために出された雑誌「格闘技通信」の別冊では、表紙に「日本最弱」のコピーが踊った。現役を引退し同大会ではプロデューサーとして裏方に回っていた中井祐樹は、この結果にブラジルとの技術差を痛感。「柔術で柔術家に勝つ」ため、選手としての活動の再開を決意することに。
 同年9月末頃、中井がクラス設定時間以外に参加費無料で行う練習会”昼柔術”を、当時所属していたスーパータイガーセンタージムでスタートさせた。この頃中井が初めて、高田馬場の新宿スポーツセンターで行われていた渡辺孝真氏の練習会に顔を出している。
 同年10月4日のプロ修斗後楽園大会では、この年の第1回ムンジアル(世界柔術選手権)の青帯メイオペサード級で優勝したイーゲン井上(グラッリング・アンリミテッド所属。エンセンの実兄)と中井祐樹の柔術エキシビションマッチが行われている。この時中井が巻いていた帯は、まだ白帯であった。同大会直後、中井はホノルル・グレイシー柔術オープントーナメントに出場。青帯ミディアムライト級(72.25kg以下)で優勝を果たしている。
 続く11月、骨法が後楽園ホールで開催し自主興業「他流試合B-1」において、柔術ルールを模したB2ルールで中井と、当時骨法所属だった阿部和也選手のエキシビションが行われた他、カゼカ・ムニエスによる柔術エキシビションも行われている。
 12月、烏合会の主催により「第1回日本ブラジリアン柔術トーナメント」が開催された。これは内輪だけの非公式大会であり、厳密には”全日本”という規模ではなかったが、ブラジリアン柔術の名を冠した大会は、おそらくこれが日本初であった。
 1997年2月、中井祐樹が北米に武者修行を敢行。ヘンゾ・グレイシー、マシャド兄弟、カーウソン・グレイシー、ジョー・モレイラノ道場に出稽古を行った。3月11日、大道塾が後楽園ホールで開催した「THE WARS 4」において中井と藤原正人選手(当時フリー)がブラジリアン柔術ルール8分一本勝負で対戦、これを下している。
 続く3月末、中井はホノルルで初開催となったパンアメリカン選手権にも出場し、紫帯ペナ級で優勝を果たした。

[出典]バイタル柔術(2003年/日本スポーツ出版社刊)
    若林太郎 記名原稿


■解説 / 若林太郎(2013.5.7.筆)

 2003年に国内初のブラジリアン柔術の技術書として出版された「バイタル柔術」に、付録のコラムとして書いたもの。今回はかなりいろいろな部分を修正しました。また執筆からずいぶん時間が経ったことで、最近柔術を始めたり、知ったという方には分からないであろう単語も多いと思うので、ちょっとだけ解説させていただきます。
 文中にもあるように、国内の柔術道場の嚆矢となったのが高田馬場にある正道会館東京本部に開かれた柔術クラスでした。同クラスからはトライ・フォースの早川光由代表や、ノヴァウニオン・ジャパンの阿部修代表、茂木康子選手など、多くの人材が輩出されています。
 1996年に開催されたUVFは、正式名称を「Universal Vale Tudo Fighting Championship」。当時グレイシー柔術テクニックビデオの日本版を出していた蓋世企画の関係者が中心になって行われていた格闘技イベントです。第1回大会のメインイベントでは元横綱でプロレスラーだった北尾光司選手がバーリ・トゥードに初挑戦するも、ルタ・リーブリのペドロ・オタービオ選手にバックマウントからパウンド、ヒジ打ちの連打を受けで1ラウンド5分49秒でTKO負けを喫しています。その後、VTJ96の制作を担当した会社などが主催に合流し、東京ベイNKホールで第2回大会が行われました。
 現在も変わらず東中野に道場がある日本武道伝骨法は、当時ベースボールマガジン社の「格闘技通信」が毎号大きく誌面を割いて紹介していました。当時の「格闘技通信」編集長は、後にFEG社長となる谷川貞治さんで、その上には週刊プロレスの名物編集長ターザン山本さんがいました。
 96年9月にスーパータイガーセンタージムでスタートした中井祐樹主宰「昼柔術」は、様々なジャンルの格闘家が交流する場所としてその後パラエストラ東京に引き継がれ、開始から17年たった現在も月水金、週3回のペースで行われています。
 96年11月に満員の観客を集めて行われた「他流試合B-1」では、日本武道伝骨法と和術慧舟會東京本部の5対5の対抗戦が話題となりました。それまでは知る人ぞ知る存在だった慧舟會はこの大会で大きな存在感を示し、これを境に黄金期へ向かって躍進していきます。ちなみにこの時の「B」は武道を意味するキーワードとして使われていて、格闘技通信誌上では「Bの時代」なんていうキャッチコピーもよく使われていました。
 この時中井さんと対戦した骨法のホープ・阿部和也選手は、その後フリーランスとしてプロ修斗デビュー。後にパラエストラ東京所属としてABKZのリングネームで活躍しました。またカゼカ・ムニエスはグレイシー・バッハの黒帯で、当時アメリカで出されたテクニックビデオが日本でもBABジャパンから販売されていたこともあって、国内の格闘技ファンにも知られた存在でした。2004年3月7日にディファ有明で行われたプロ柔術「GroundImpact 〜Gi-03〜」では、当時ストライプル所属だった早川光由選手と対戦、序盤に奪ったテイクダウンの2ポイントで勝利しています。
 「第1回日本ブラジリアン柔術トーナメント」を主催した烏合会は、骨法を脱退した選手たちと現デラヒーバジャパンの浜島邦明代表らで構成されていたグループでした。この大会は、練馬区谷原にある練馬区総合体育館の柔道場で夕方から行われたもの。私も噂を聞いて会場に観戦に行きました。当時同グループに参加していた藤原正人選手も、同大会に出場していたのを覚えています。やっとインターネットが、一般に普及し始めた時代の話です。
 下の写真は、97年3月の「THE WARS 4」のパンフレットの中井vs藤原戦の紹介ページ。選手紹介と見所は、共に私の筆によるものです。中井さんの紹介文には「修斗においては、他団体との交流における窓口的な存在となっている」との一文も。ここに見所全文を引用してみます。

 いまや日本柔術界のエースを呼んでさしつかえないであろう中井祐樹が、WARSに友情出場を果たす。思えば、大道塾と修斗の交流のキーマンとなっていたのは、常に中井であった。そういう意味でも、今回の中井のWARS参戦は意義深いものがある。しかもエキシビションではなく、総合格闘技界のホープと呼ばれるまでに成長した藤原正人を相手に、8分1本勝負として行われる。これは中井にとってもやさしい試合ではない。しかし、「中井よ、現役であれ」という東塾長の願いがうかがえるマッチメイクだ。しかもこの試合の審判には、修斗に柔術技術をもたらせたエンセン井上が務める。日本柔術史におけるメモリアルマッチといえる一戦である。

 中井さんが大道塾と修斗の交流のキーマンとなった経緯については、今回同時にアップする中井さんの新コラム「5/10 大道塾総本部での指導」をご覧下さい。なお次回アップ予定の「日本ブラジリアン柔術事始(3)」は、パラエストラ東京設立の1997年から98年までの出来事が書き記してあります。もちろん、次回もたっぷりめの解説付きでお届け予定です。

日本ブラジリアン柔術事始(3)1997 - 1998

http://blog.livedoor.jp/paraestra_weekly/archives/27238435.html

日本ブラジリアン柔術事始(3)1997 - 1998

May 21, 2013 02:32
中井祐樹が東京・江古田にパレストラをオープン
連盟主催の第1回全日本選手権開催される

 1997年5月、高田馬場にある正道会館東京本部を会場に、エンセン井上選手が指導していたシューティングジム大宮&シューティングジム八景の連合軍と、平直行さんが指導していた正道柔術クラスによる「修斗&正道会館柔術交流戦」が行われる。国内では、これが初の本格的なBJJワンマッチ大会であった。試合後は出場選手でだけでなく、観戦に訪れた多くの選手たちも参加して、流派を超えた合同スパーリング大会が行われた。
 同年6月にアメリカでのジョー・モレイラ杯アダルト紫帯ペナ級を再び制した中井は、続く7月にリオデジャネイロで行われたムンジアル(世界柔術選手権)にもアダルト紫帯ペナ級で出場したが、ベスト8止まり。なおこの時、同大会のアダルト青帯レーヴィ級に出場していたのが現デラヒーバジャパンの浜島邦明代表であり、同じ頃アリアンシでブラジル修行の最中だったのが現clube de JiuJitsuの和道稔之館長であった。10月、再びブラジルに渡った中井はブラジレイロ(ブラジル選手権)に出場。アダルト紫帯レーヴィ級で3位を果たした。
 1997年9月、渡辺孝真氏が京王線「明大前」駅近くにグレイシー・ジャパン(現AXIS柔術アカデミー)を開設。同時に日本ブラジリアン柔術連盟(略称BJJFJ。現在はJBJJFに変更)を立ち上げ、初代会長に就任している。続く12月1日には、中井祐樹が東京都練馬区・江古田に「パレストラ東京(現パラエストラ東京)」を開設。国内BJJシーン黎明期の主要アカデミーが出揃った。
 1998年1月11日、パレストラ東京開設記念として、道場を会場に「PARAESTRA BJJ JAM(後に東京BJJ JAMと改称)」が開催される。この時半ば強引に音楽用語から引っ張ってきた「JAM(本来の意味は即興演奏)」という言葉が、その後ブラジリアン柔術のワンマッチ大会を意味する言葉として定着。パレストラの支部展開と連動して、JAMは全国各地での開催が定例化していく。
 4月8日、大道塾が後楽園ホールで開催した「THE WARS 5」で、中井は(当時)パレストラ函館の藤本勤と対戦しポイント21-0で快勝。しかし当初予定されていた”女ヒクソン”レカ・ヴィエイラと”アマ修斗の女王”渡辺千景の一戦は、レカ側の不可解なキャンセルで行われず。
 4月19日、東京・台東リバーサイドスポーツセンターにて、パレストラ東京の主催により国内初の柔術オープントーナメントである”コパ・パレストラ(正式名称は「COPA PARAESTRA B.J.J. TOURNAMENT」)”が開催された。この第1回では白帯の下に、試合時間4分の初心者の部を設定、白帯の部と分けてトーナメントが行われた。コパ・パレストラはその後、規模を拡大。開催2年目の99年にはEAST(東京大会)、WEST(大阪大会)の2大会体制となり、3年目の2000年からはNORTH(札幌大会)、ALIVEの主催によるCENTRAL(中部・名古屋大会)、SOUTH(福岡大会)が加わり、その後東北オープンを加えて全6地区で開催されるようになっていく。
 同年8月16日、東京・高田馬場にある新宿スポーツセンターで日本ブラジリアン柔術連盟主催による「第1回全日本ブラジリアン柔術選手権」が開催された。同大会に参加した連盟公認アカデミーは、グレイシー・ジャパン、パレストラ、PUREBRED、正道柔術、谷柔術、ホチャ柔術、エルシオ柔術、名古屋BJJクラブの8団体のみであった。
 10月10日、東京・中央区総合スポーツセンター柔道場にて、パレストラ東京が「カンペオナート・パレストラ・デ・ジュウジュツ」を開催。以後パレストラの主催大会が、春の「コパ」、秋の「カンペオナート」として定着してゆく。当時は連盟主催の全日本は隔年開催と発表されており、その間を埋めるべく「カンペオナート」は翌99年から「カンペオナート・ジャポネーズ」として年々規模を拡大。名称に「全日本オープン」を唄い、ブラジレイロ日本版を目指してのプランニングが行われていく。
 12月18日、女子プロレス団体「アルシオン」(2003年に消滅)が横浜文化体育館で開催したビックマッチで女子柔術マッチをオファー。8月の全日本で女子アダルト白帯ペナ級決勝を争ったSAYAKA(小野寺サヤカ/グレイシー・ジャパン)と、佐藤愛香(当時パレストラ東京)がワンマッチで再戦。終了間際にテイクダウンを決めた佐藤愛香が勝利し、全日本でのリベンジに成功した。

[出典]バイタル柔術(2003年/日本スポーツ出版社刊)
    若林太郎 記名原稿


■解説 / 若林太郎(2013.5.20.筆)

 2003年に国内初のブラジリアン柔術の技術書として出版された「バイタル柔術」に、付録のコラムとして書いたもの。当時はまだ団体名をパラエストラに改称前だったので、あえて文中表記は旧称である「パレストラ」のままにしてあります。
 「Paraestra Weekly」への転載もいよいよ3回目。前2回までは、いわば紀元前のようなもの。やはり現在に繋がる日本ブラジリアン柔術正史は、今回出てきた1997年の日本ブラジリアン柔術連盟旗揚げをそのスタートとすべきなのかもしれません。
 その直前、97年5月に行われた「修斗&正道会館柔術交流戦」には、会場となった正道会館東京本部に多くの関係者が訪れました。当時同じ高田馬場に仕事場である「TERTIUS FACTORY」を構えていた私ももちろん観戦に出掛け、全試合を撮影。デジタルビデオテープ3本に、当時の映像が残っています。大会後の合同スパーリングには、当時K'z FACTORY所属だった植松直哉選手(現ネクサセンス代表)や、骨法の選手達も参加。試合だけでなく、そのスパーリング風景にも新たな時代が始まる前の熱い胎動のようなものを感じたことを覚えています。
 97年7月にオープンしたグレイシー・ジャパンは、「明大前」でも今のAXISと同じ場所ではなく、甲州街道に面したビルの1階にありました。
 11月29日、メインでエンセン井上vsフランク・シャムロックがマッチメイクされた「バーリ・トゥード・ジャパン97」東京ベイNKホール大会の会場ロビーでセルフコピーの道場開設チラシを配布させてもらい、パラエストラ東京のオープンさせたのが12月1日の月曜日。当初、都営12号線と呼ばれていた地下鉄大江戸線の新宿-練馬間の開業が同年の12月19日ですから、道場オープンはその前ということになります。現在も変わらぬ地下道場にまだジョイントマットも敷かれておらず、机を置いて入会受け付けを行うだけのオープンでした。それでも年内中に100人の方に入会していただきました。ちなみに栄えある会員番号1番は、バリジャパ97のペイパービュー放送で中井さんと共に解説を務めた作家の夢枕獏さん。確か解説席で、隣の中井さんと会員番号1番の約束をされたはずです。なお会員番号2番は、現・パラエストラ八王子の塩田歩支部長です。
BJJ JAM01
































 上の画像は、1998年1月11日の「PARAESTRA BJJ JAM」のパンフレット表紙です。この大会では21試合が組まれ、メインは現パラエストラ東京所属の若林次郎(当時スポーツ会館所属)vs 現・グラスコ柔術アカデミーの桑原幸一代表(当時はシューティングジム大宮所属)の一戦でした。同パンフレットから、当時の私が書いた見所を下記に転載します。(黎明期の柔術大会のパンフには一試合毎に見所を書いていました。)
 
 記念すべき第1回大会最初のメインには現・全日本サンボ王者の若林次郎選手が登場。若林選手は全日本を3度制し、世界大会へも果敢に挑戦を続ける日本のトップ・サンビストの一人であり、実力的には今大会ピカイチといえるだろう。アマレス出身のそのスタイルは、サンボの中でも変則的な部類に入る。柔術マッチはこれが初体験だが、柔道での試合体験もあり、パレストラへの出稽古を見る限りでは、ルールへの対応はほぼ問題なしである。対する桑原選手は、エンセン柔術クラスの有望株のひとり。昨年10月にハワイで行われたホノルル・グレイシー・オープンでは初戦敗退しているが、その後も成長を続けている。今回は相手が相手だけに、大物喰いに燃えまくっている。名勝負は必至だ!

 結局、この時の試合は桑原選手がバックをキープし、ポイント優勢勝ち。エンセン柔術クラスに桑原選手ありを印象づけた試合となりました。この日は私自身も大会前半に我が弟・次郎と対戦して、腕ひしぎ十字固めで秒殺一本負け。あまりの負けっぷりに、関係者の間の冗談でヤラセ疑惑がささやかれたほどでした。
 パラエストラとして大会を主催するのはこの時が初。どうせそんなに見に来る人もいないだろうからと道場を会場したのですが、これが大誤算。次から次からと人が集まり、道場内はラッシュ時の山手線のような超満員ぎゅうぎゅう詰め状態に。かろうじて試合をする空間だけは空いているものの、壁には人がビッシリ並んでいるような有様。それだけでなく窓枠にも鈴なりに人が立ち、冷蔵庫の上でも3人が観戦しているという、いわば発展途上国の列車に人が満載されているようなカオス状態に。中にいた私にはわかりませんでしたが、なんでも一番凄い時には階段の踊り場あたりまで人が詰まっていたということです。それだけ柔術の試合が珍しく、また求められていた時代だったということでしょう。この騒乱状態に懲りた私たちは借りられる体育館を調べ、続く3月8日に開催した「PARAESTRA BJJ JAM 2」は神田にある千代田区総合体育館の柔道場で行いました。 ちなみにパラエストラ主催大会で階級のポルトガル語表記を行ったのは、この「PARAESTRA BJJ JAM 2」から。ただパンフレットでは、国際表記もカッコを付けて同時掲載しています。なお1月の「PARAESTRA BJJ JAM」では階級は国際表記のみでした。下記の写真は、初期のBJJ JAMで大会MVPに授与していた副賞の「BJJジャム」。市販のイチゴジャムのラベルを剥がして、オリジナルラベルを貼り付けたもの。この発想が、後の一升瓶トロフィー(後述)に進化していくわけです。これはパンフの表紙に使った写真なのでモノクロですが、山のように保存されているMOディスクのどれかにカラーのオリジナルデータも残っているはずなので、発見できたらアップしたいと思います。
jam

















 「THE WARS 5」に出場した藤本勤さんは、中井さんの北大柔道部の後輩。当時のパラエストラ函館は、後に北海道のトップアマシューターとして”北のルミナ”と呼ばれるようになる小林広輝さんが代表を務めており、藤本さんは副代表的な存在でした。後に藤本さんが第2代代表となったパラエストラ函館は、2012年3月にネットワークから独立、現在は「函館 MMA&JiuJitsu アカデミー Bellatleo(ベラトレオ)」として活動を続けています。
 いまだにキャンセルの理由がよく判らないレカ・ヴィエイラは、当時ドージョー柔術の所属。師であるアロイジオ・シウバ氏との来日で、日本に着いた時にはとても機嫌が良かったのですが…。レカとアロイジオ氏には、中井さんも97年10月のブラジレイロ出場時にお世話になっていたこともあって、同大会のプランニングとマッチメイクを担当した私は、不測の事態に頭を抱えることになりました。その後確か2005年にスマックガールで予定されていた藤井恵戦も、レカの来日拒否で中止となる出来事があったと聞きました。
 98年4月に初開催した「コパ・パレストラ」は、パラエストラ初の主催トーナメント。会場として使用した台東リバーサイドスポーツセンターは、予約のしやすさからその後パラエストラ主催大会の常打ち会場となっていきます。現在では柔術に聖地などと称されることもあるようです。本文中にもあるように第1回大会には試合時間4分の初心者クラスを設定。白帯と合わせ13カテゴリーに85名の参加者を集めて行われた。なお女子はガロ級のみで、アブソルートは実施せず。上画像の同大会パンフでは、国際表記も英字で小さく表記してあるが、階級はポルトガル語表記を大きく掲載してあります。記憶では、この頃から柔術では階級をポルトガル名称で呼ぶのが通例になった気がします。ちなみにこのパンフレットには各階級の見所があるだけでなく、中井さんと私、そして当時格闘技通信編集部だった朝岡秀樹氏と、当時ゴング格闘技編集部だった藁谷浩一氏による「各階級優勝者完全予想」なんていうページも。ここでは予想ページの中井さんの私の寸評のみを転載しておきます。

◎中井祐樹・寸評
「初のトーナメントだが、なかなかのメンツが揃った。徳にレーヴィ、ぺナ、プルーマの3階級は日本人が多いので(ブラジル人も!)白熱するだろう。チーム別では一歩リードしている感じもあるが、福岡、愛知、福島など、地方勢も結構あなどれないし、我がパレストラも初心者ばっかりながら元気者が多い。(ぜひ応援を!)これからもどんどんいろんな人材が出てきて、ブラジル勢に勝てるように創意工夫を重ねていきたいと、改めて思います。今日は皆さんガンバって下さい。 

◎若林太郎・寸評
「応募の出足が遅くて、一時はどうなるかと思われた今大会だがなんと85人ものエントリーが集まって、ホッとした。柔術的だけでなく、総合格闘技的な意味でも将来が楽しみな選手が多く参加してくれているのは嬉しい限り。さらに首都圏だけでなく、地方からも出場してくれたのが、これまた嬉しい。大挙して参戦してくれた四王塾や、福岡のJJJや福島のクラブVTSなどの柔術サークルの方々には、心からエールを送りたい。共に日本の柔術と総合格闘技を盛り上げましょう!

 ここでいう四王塾とは、初期のPRIDEなどでレフェリーを務めていた塩崎啓二さんが主催していた愛知県岡崎市の道場で、当時「コンプリート・ファイティング」というアマチュア総合格闘技大会を主催しており、私もちょっとだけ協力しておりました。(私のレフェリーデビューもコンプリート・ファイティングでした。)佐藤豪代表率いるクラブVTSは、後のパラエストラ福島。函館同様、2012年にネットワークから独立し、NPO法人ブレイブハートとして現在も活動中です。
 コパ・パレストラといえば思い出すのが、一升瓶トロフィー。トロフィー代わりに、日本酒の一升瓶のラベルを剥がしオリジナルラベルを貼った優勝者の副賞です。まさに勝利の美酒といったところでしょうか。なお女子階級の優勝者には日本酒ではなくワインを、ジュベニウ以下にはジュースを使ってました。我ながらなかなかいいアイディアだと思うのですが、地方開催や階級が多い時には大変な事もたくさんありました。
 買ってきたときに貼ってあるラベルは、自宅の風呂桶に水を張って瓶をいれておくと自然と綺麗に剥がれます。ですから大会前日や前々日の自宅廊下には一升瓶ケースがズラリと並び、風呂桶にはビッシリ一升瓶が。大会前は湯船に入ることができす、シャワー限定。思えば我が家族にもずいぶん迷惑をかけていました。
 大会当日には、一升瓶を2ケースも3ケースも運びこもうとして体育館の入口で警備員さんに制止され、必死にトロフィー代わりであることを説明したり、入口で一升瓶を落として割ってしまい、その匂いの処理や後始末に大わらわになったりしたことも。
 ちなみにトロフィーにつかう一升瓶は、茶色だと色バランスが悪いので、青い瓶に限定して使っていました。当時スパイダーガードの名手として知られていた柔専館の宮本泰弘さんに、神戸の王子スポーツセンターを押さえていただいて開催にこぎつけた98年の「第1回コパ・ウエスト」大会前日には、土地勘の無い神戸の街を青い一升瓶を求めて中井さんとずいぶん彷徨いました。やっと本数が揃ってビジネスホテルに戻っても、バスタブは一升瓶でいっぱいでシャワーを浴びることもできず。あの日はいま思い出しても、メロメロでした。そういえば、大会前日の出発ギリギリに東京で出来上がった大量のパンフを大阪まで一人で運んで、腰が抜けそうになったこともありました。
 ちなみコパ・パラエストラは、現在でもパラエストラ北九州によって「SOUTH JAPAN」大会が継続されており、今年も7月28日(日)に北九州市の若松武道場でに開催が決定しています。

 下の写真は第1回全日本ブラジリアン柔術選手権開催前に、連盟公認アカデミーに配布された大会要項の表紙です。(経年変化で変色してしまっていますが。)これを見るとこの時の大会名が選手権ではなく、「第1回全日本ブラジリアン柔術大会」だったことが判ります。旧BJJFJマークが懐かしいですね。第1回全日本で実施されたのは白帯と青帯のみの37カテゴリーで、173名がエントリーして行われました。最も参加人数の多かったのがアダルト白帯ガロ級と同ペナ級の12名。次がアダルト白帯プルーマ級の11名。二ケタの参加者がいたのは、この3カテゴリーだけでした。この時の入賞者はJBJJFの公式ホームページで確認することができます。実は私も出場していて、マスター白帯レーヴィ級で準優勝しています。決勝では同門で、近年まで柔術帝国軍のホームページを運営されて柔術普及に多大な功績を果たした辻垣寛さんと対戦。辻垣さんのガードを割ることがまったくできず、惨敗しました。ちなみに当時の記録によると、この時の団体戦績は以下の通り。

 1位 GRACIE JAPAN 192ポイント
 2位 パレストラ 144ポイント
 3位 PUREBRED柔術 51ポイント
 4位 名古屋BJJ 16ポイント
 5位 谷柔術 13ポイント
 6位 正道柔術 9ポイント
 7位 ホチャ柔術 2ポイント
alljapan































 今回はあまりにも解説が長くなりすぎたので、98年10月10日に開催した「カンペオナート・パレストラ」については、次回「日本ブラジリアン柔術事始(4)」で、その進化形である「カンペオナート・ジャポネーズ」と併せて解説したいと思います。ここではパンフレットの表紙画像だけを下記にアップしておきます。大会名の「PARAESTRA」の最初の「A」が三角絞めの写真になっているのがポイントです。
campeo

































 98年末に横浜文体でビッグイベント「HYPER VISUAL FIGHTING CARNIVAL ARSION'98」を開催したアルシオン(Arsion)は、全日本女子プロレスの企画広報部長だったロッシー小川こと小川宏さんが、アジャ・コング選手、吉田万里子選手、玉田りえ選手、府川由美選手らと共にこの年の2月に旗揚げした女子プロレス団体です。この時のレフェリーはエンセン井上選手が担当しました。試合は序盤から両者ともに下になることを嫌ってか引き込まず、ほぼすべての時間をスタンドの攻防に終止。場内の女子プロレスファンが「柔術って寝技の格闘技じゃなかったっけ?」と、次第にザワザワしだしたのを覚えています。女子格闘技団体の先駆けである「スマックガール」の旗揚げがほぼ2年後の2000年12月ですから、この当時女子プロレス興行で柔術マッチを行うというのはかなりアバンギャルドな試みだったのではないでしょうか。この日勝利した佐藤愛香さんは、現在レナトゥス柔術アカデミーとして活動している元パラエストラ新潟・渡辺孝代表と、後にご結婚されました。当時は佐藤さんと渡辺さん二人は、新潟からパラエストラ東京まで一緒に車で通われている遠距離会員でした。なお佐藤さんについては、2003年9月10日にパラエストラ東京公式ホームページにアップされた中井さんの「佐藤愛香のこと」と題する短いコラムがあるので、ここにそれを全文引用して今回の解説は終わりたいと思います。(誤字脱字などもあると思いますが、その辺は気がついたらちょこちょこと修正していきます。)

「佐藤愛香のこと」
 またまたご無沙汰してました。8/24付でパレストラ新潟の佐藤愛香を黒帯に認定しました。彼女はムンジアルで2001〜2003の3年連続でメダルに輝くという快挙を成し遂げました。ムンジアルで表彰台に立つことはなかなかどえらい仕事で私もまだ達成出来ておりません。まず素直に試合に強い愛香を讃えたいと思います。なぜ強いか。技術的にはまだまだ改善の余地があるけれども、まず力負けしていない。そして気持ちが強い。この2点が愛香の良さだと思います。彼女はパレストラ東京の超初期メンバーであり(98年1月23日入会)、格闘技はそれまで未経験ながら渡辺孝との2人3脚でここまで成長しました。みなさんもやってやれないことはありません。ただ、愛香の前にはアンドレザ・ピニョ、レティシア・ヒベイロ、そしてキーラ・グレイシーの3人が立ちはだかっています。彼女らをぜひ直接対決で破ることができるよう、ハッパをかけたいと思ってます。みなさんのご支援もよろしく!

◎今日のアルバム
「 フューチャー・ショック / ハービー・ハンコック」(コロムビア/1983)
 今日の練習BGMだった。たたひたすらなつかしいぜ。

日本ブラジリアン柔術事始(4)1999 - 2003

http://blog.livedoor.jp/paraestra_weekly/archives/27672695.html

日本ブラジリアン柔術事始(4)1999 - 2003

May 29, 2013 23:28
中井祐樹が日本連盟第2代会長に就任。
プロ柔術では日本勢大敗の衝撃残す。

 1999年1月、高専柔道のコンセプトを柔術に持ち込んだ団体戦「全日本チーム柔術ジャンボリー」をパレストラ東京が開催。ちなみにジャンボリーとは「わいわい騒ぐ」という意味で、音楽用語であるフォーク・ジャンボリーから頂いたもの。決して団体戦を意味することではないのだが、JAM同様定着してしまった。
 99年夏、国際ブラジリアン柔術連盟会長のカーロス・グレイシーJrから要請があり、中井祐樹が二分ブラジリアン柔術連盟の第2会長に就任。これに伴い、アカデミーだけでなくサークルの連盟加盟を制度化。パレストラが提唱していたJFCN(Jiu-jitsu Friendship Circle Network)が連盟加盟団体として格上げされ、柔術普及が加速することに。
 11月、前年開催した「カンペオナート・パレストラ」を全日本オープントーナメント「カンペオナート・ジャポネーズ・デ・ジュウジュツ」として開催。243名という過去最大の参加者がエントリーした。同大会は日本柔術界における秋の風物詩となっていく。
 99年12月11日、東京ベイNKホールで行われた「VALE TUDE JAPAN '99」の第5試合・シークレットマッチとして、中井祐樹 vs ビトー・シャオリン・ヒベイロの柔術マッチが実現。世界の頂点を相手に迎えた中井だったが、10-0の大差で判定負けを喫する。
 2000年8月17日、中井体制での初開催となる第2回全日本ブラジリアン柔術選手権が、東京・台東リバーサイドスポーツセンターで開催。加盟団体増加により、大幅に参加人数を増やしての開催となった。
 2001年4月より、プロ修斗の主催興業をスタートしたパレストラ東京では、その中に柔術マッチをミックス。試合場こそリングではあるが、1興業に1試合のペースでマッチメイクされ、プロ柔術マッチの定期開催に先鞭をつけた。この年、フロリダで行われたパンアメリカン選手権では、日本人選手が大量に入賞。本場ブラジルでも日本勢の躍進が認識されるように。
 2002年5月2日、浜島邦明氏主宰のIF-PROJECTが、プロフェッショナル柔術リーグ「GROUND IMPACT」をディファ有明で旗揚げ。中井祐樹 vs レオナルド・ビエイラ、吉岡大 vs ヒカルド・ビエイラ、朝倉孝二 vs マルコス・バルボサの豪華カードが組まれたが、日本勢は大敗。大きな衝撃を残した。
 5月31日から6月2日の3日間の渡って、第3回全日本ブラジリアン柔術選手権が台東リバーサイドスポーツセンターにて開催される。
 2002年11月、年々規模が拡大している”カンペオナート・ジャポネーズ・デ・ジュウジュツ・アベルト”が三週連続週末の6日間に渡って開催。全体で450人の参加者を集め、柔術の目覚ましい普及振りを満天下に示した。また最終日となった11月17日には国内のトーナメントとしては初めて黒帯の部が行われ、早川光由と中井祐樹がレーヴィ級で対戦。ノーポイント、アドバンテージ5-0で早川が勝利している。
 2003年2月、第2回プロフェッショナル柔術リーグ「GI-02」が開催。早川光由 vs レオナルド・ビエイラ、中井祐樹 vs アレシャンドリ・ソッカと再び豪華カードが組まれたが、日本勢のブラジル超えはならず。同大会で行われたペナ級以下&茶帯以下のジャパンカップ・チャンピオンシップでは、和道稔之が優勝を果たした。
 2003年6月1日、第4回全日本ブラジリアン柔術選手権が谷柔術の主幹により愛知県名古屋市・愛知県武道館で開催。これまで2年に1度の隔年開催だった全日本選手権は、この年から毎年開催に変更となり、以後しばらくは東西での交互開催を予定。将来的には各地区アカデミーの持ち回りとなる地方誘致方式を目指す。

[出典]バイタル柔術(2003年/日本スポーツ出版社刊)
    若林太郎 記名原稿


■解説 / 若林太郎(2013.5.29.筆)

 2003年に国内初のブラジリアン柔術の技術書として出版された「バイタル柔術」に、付録のコラムとして書いたもの。当時はまだ団体名をパラエストラに改称前だったので、あえて文中表記は旧称である「パレストラ」のままにしてあります。
 「Paraestra Weekly」への転載もいよいよ今回がラスト。最終回となる(4)は、1999年から2003年の出来事を取り上げています。書かれたのが2003年当時には、「最近の出来事」だったからでしょうか、(1)〜(3)のような熱い表現は少なく、割と起こった事柄を順にサラリと書くに止めてある印象があります。
 99年1月に初開催した「全日本チーム柔術ジャンボリー」は、1チーム5人制の団体戦トーナメント。補欠のエントリーも認められていて、出場する5人の体重合計が350キロ以内でなければならないというのがパラエストラ・オリジナル・ルールが、我ながら秀逸でした。とにかく「わいわい騒ぐ」を意味するジャンボリー(JAMBOREE)というネーミングに相応しい、楽しい大会でした。1チーム3人制の女子トーナメントも何回か開催しています。「コパ・パラエストラ」「カンペオナート・ジャポネーズ」と並ぶ1月の恒例行事でした。しかし会場である台東リバーサイドスポーツセンターがあまりにも有名になりすぎて押さえずなってしまったことと、JBJJFの組織改編によって「全日本」の名称を使って柔術の大会を行えなくなったことから、2008年の第10回大会を最期に開催がストップしてしまいました。
 私の手元に残っている、カーロス・グレイシーJrから中井さん宛に届いた会長を任命する旨の「公式招待状」の日付は「平成11年8月8日」。この時から会長・中井祐樹&副会長・谷タカオ先生という二頭体制がスタートします。
 JFCN(Jiu-jitsu Friendship Circle Network)制度とは、まだ青帯すら数が少なかったこの時代も連盟のアカデミー公認条件が「紫帯以上の指導者がいること」だったため、柔術普及のためパラエストラが独自に制定していた制度です。発案は、修斗でもオフィシャル・サークル制度をスタートさせている中井さん。当時の「J.F.C.N.制度のご案内」を以下に引用します。

■J.F.C.N.制度のご案内
パレストラでは”ともに柔術や総合格闘技を楽しむ”をコンセプトの、柔術・フレンドシップ・サークル・ネットワークを運営しています。これは大会情報の告知や、技術的な相談を目的とするものです。
 マーシャル・アーツを通じてのコミュニケーションこそ、パレストラのコンセプト。練習や試合をやりたいという貴方のいろんなサムシングを、同じ格闘技を楽しむモノとしてパレストラがヘルプします。その目的は、柔術&総合格闘技人口の底辺拡大にあります。
【登録資格】
 練習したい方なら個人でも団体でもOK。(個人の場合でも、登録用の団体名を決めていただきます。)試合をやりたい人も、練習だけしたい人も、両方OK。またこの登録によって、パレストラの傘下となるわけでも、修斗や柔術をやらなければならないということでもありません。また他競技を行うことの妨げになることもありません。

 98年に初開催した「カンペオナート・パレストラ」を99年から「ジャポネーズ」に変更し全日本オープントーナメントに格上げしたのは、当時全日本選手権が隔年開催だったからに他なりません。やはり競技普及を考えた時に、全日本の名称がつく大会の毎年開催は絶対に必要だと考えたのが最大の理由でした。しばらくは台東リバーサイドスポーツセンターが常打ち会場だったのですが、徐々に消化しきれないほどの人数が集まるようになっていきました。
 大会名を「CAMPEONATO JAPONES de JIU-JITSU ABERTO」とした2002年には11/2(土)、11/3(日)11/4(月/祝)11/9(土)11/10(日)11/17(日)と6日間に渡っての開催となりました。中井-早川戦が行われたこの年からクエストによるDVDリリースがスタート。2003年は11月23日と24日に松戸市柿木台公園体育館で、2004年は10月2日と3日に東京武道館で、2005年は11月19日と20日に再び松戸市柿木台公園体育館での開催。個人レベルで事務作業全般をこなすのはこの辺りで限界になっていました。2006年は会場を押さえられずに開催せず。最後の開催となった2005年の大会は、119カテゴリーに971名が参加。8マット2日間で全848試合を消化しました。下写真はクエストから出していただいた2002年から2005年の4大会のジャケットです。
CAMPEONATO







 99年12月、VTJ99での中井祐樹 vs ビトー・シャオリンに関しては、同時アップの「中井祐樹 シークレットマッチ」をご参照下さい。
 2001年からパラエストラ主催興業「SHOOTO GIG EAST」で行っていた柔術ワンマッチについては、稿を改めてまとめてみたいと思っています。ちなみこの「SHOOTO GIG」という大会名は、中井さん発案の「JAM」や「JAMBOREE」に習って、サステインが北沢タウンホール大会を初主催した時に私が考えたネーミングです。
 2002年にスタートしたIFプロの「プロフェッショナル柔術リーグ」。「GROUND IMPACT」で略して「Gi」というのも私のネーミングでした。原稿上では5月2日にディファ有明で行われた「Gi-UM(ウン。ポルトガル語で1)」のことしか触れていませんが、前夜には北沢タウンホールで前夜祭的な「Gi-ZERO」も実施されています。この「GROUND IMPACT」シリーズでも、プランニングやら演出、選曲、果てはリングアナウンサーまでやっていたことがありました。
 2003年に第4回大会が行われた全日本ブラジリアン柔術選手権は、東西での交互開催予定のはずが、2004年東京武道館、2005年滋賀、2006年大阪とやや迷走し、2007年から現運営体制下による東京大会が定着しました。
 JBJJF発足から今年で16年。今回解説を書くにあたっていろいろ調べましたが、資料も少ない、ネット上で検索しても出てこないデータが多々あることがわかりました。まだまだ抜けていることもいろいろあると思いますが、おいおい思い出したら補完していきたいと思います。日本ブラジリアン柔術事始、とりあえずの終了であります。

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