柔術プリースト 144 関西柔術界の重鎮 新川武志登場(敬称略)

Jiu Jitsu Priest #144

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ギメンデス サトシ マルキーニョスが大暴れ! COPA BULLTERRIER 2014  オカロックがチャールズガスパー 弘中邦佳をコムロックで極めて葬る!

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大衆 もしくは権力相手に顔色をうかがい媚を売り野獣が牙を抜かれた情報化された現代 それは格闘技と武道においても同じことが言える

http://sanmarie.me/matsuda
§ 野獣亡きあと

今、もし、優作が生きていて、ライブでこのような映画を制作したとしたら、果たして世間は両手を広げて迎え入れただろうか。

演出が過激だとか、性格がワガママだとか、重箱の隅を突くような批判を浴びせて、血祭りに上げないだろうか。

今、伝説として懐かしむからこそ、誰もが「いい映画だ」と惜しんでくれる。

でも、これが、明日にも大手の映画館で公開されるとすれば、多分、口汚く罵る人の方が多いのではないか、と思ったりする。

いちびるな。

自惚れるな。

なにカッコつけてんだよ、アホか、てめえ。

そんな声が聞こえてくるんだな、ネットの隅々から。

たとえ優作がいたにせよ、日本の映画界は、もう二度とこんなアクの強い作品は作らないだろう。

あり得ない設定でも、主演俳優の独壇場でも、「映画ってのはね、とことん面白くなきゃ」そんなエンターテイメントに撤したような作品は、手がける人もないし、演じる人もないと思う。

いわば、誰も彼もが小さくまとまって、波風立てないように媚び売ってるような感じ。

冒険もしないし、ワガママも言わない。

まして、「伊達邦彦を演じるために、足を5センチ切断して、理想の身長になりたい」などと、サイケな妄想に取り憑かれ、狂気の限界まで役に近づこうとするような役者さんは、少なくともメジャーな舞台にはもう二度と現れない。出たとしても、潰される。そういう青臭い土壌が、今の日本の客層にはある。

だから、つまらない。見る方も、作る方も、つまらない。

今の若い世代もさぞかし退屈だろうと思うよ。

次から次にアイドルグループや人気作品は登場するけども、酔えるほど面白くないもの。

まさに素人に毛が生えたような役者ばかりが世間の顔色を窺って、嫌われないよう、叩かれないよう、ビクビクしながら物を作ってるような感じ。

でも、それは、必ずしも作り手や演じ手が著しく衰えたからではない。

ネットや口コミを通じて、くだらない批判がワッと飛び込んでくるようになったからだ。

批判やスキャンダルはプロの宿命とはいえ、物には限度がある。

聞くに値する批判ならともかく、言いがかりとしか思えないようなクレームをあちこちに書き散らされて、それでも自分の世界観を貫こうなんて強い気持ちになれたら大したもの。たとえ当人にヤル気があっても、周りが顔色を窺って止めさせる。

ことなかれ主義がクリエイティブな世界をも浸食して、中身が空っぽになりつつある、それが今のエンターテイメントだ……というのは、言い過ぎだろうか。

多くのファンは、「今、もし優作が生きていたら」と輝くようなキャリアを思い描かずにいない。

でも、一方で、今のエンターテイメントに優作のような俳優の生き場所があるのだろうか、とも思う。

完璧主義の優作のこと、今の世の有様に苛立ち、憤死してたかもしれない。

野獣が野獣らしく生きられたのは80年代まで。

野獣亡きあと、エンターテイメントの世界も急速に乾いていった。

優作と一緒に自由も死んだ。

伊達邦彦が愛したニーチェの言葉を借りるなら、クリエイティブな世界における本当の意味での「自由」を、オレたちが殺してしまったのだ。何かあると、万匹の犬が訳も分からず一斉に吠えたてる、くだらない意見の海の中で。

『自由な表現』──それによって、世界がもっと面白く有意義に変わることを誰もが期待したけども、現実はかえって逆の方向に後退したような気がする。

ツールや技術がどう、というよりは、元々、本当の意味での個人の自由を受け入れる精神的土壌を欠いているからだろう。

まだ俳優や映画監督や脚本家が「特別な存在」であり、表現することが本当に才能ある一部の人たちだけに許された時代は、彼らのアクの強い主張も仰ぎ見るしかない歴然たるボーダーがあった。

でも、その境界線もぼやけ、誰もが一流、誰もが平等の錯覚に陥っている今は、他を圧倒するような本物のキラメキは、モグラを刺激する太陽でしかない。

牙を剥いた野獣さえもがんじがらめにして窒息死させる土壌においては、野獣であるそのこと自体が罪なのだ。

かくして、時代が変わる前に、優作はこの世の人ではなくなった。

あるいは映画の神様が、誇り高き野獣がズタズタにされる前に、そっとねぐらに帰してやったのかもしれない。

「もし、今、優作が生きていたら」と思う時、その才能を惜しみながらも、早すぎる死がかえって幸いしたのではないか、と感じる人は、きっと私だけではないはずだ

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早川光由vs渡辺直由 日本トップ スパーリング動画



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須藤元気主催の柔術イベント 一騎討 優勝は細川顕!  そして須藤元気のダンスに隠されたメッセージ ビルゲイツを遥かに凌ぐ財力を持つ真の支配者階級 ロスチャイルド一族とビルダーバーガー そしてイルミナティなる現実から目をそらせるための胡散臭いインチキ陰謀論の為のありもしない架空の産物の役割とは?







http://libpsy.com/sudougenki/1428/

須藤元気さんのダンスに隠されたメッセージ(解説)

こちらの記事のカテゴリーは [心理学・精神医学]です。

須藤元気Twitter

先日、格闘家の須藤元気さんにTwitterでフォローされました。

向こうから急に来てフォローして下さいました。ありがとうございます。

前回は、ジャーナリストの津田大介さんが同じようにフォローして下さいました。
他にも脳機能学者の苫米地英人さんも私をフォローしてくれていますし、著者の中田安彦さん、藤森かよこさん、古村治彦さん、佐藤研一朗さん、廣瀬哲雄さんもいます。
私は、河村たかし名古屋市長にフォローされて、その後、大村秀章愛知県知事と一緒にパーティーにも呼ばれました。
(その時の写真はFacebookにアップしました)

いよいよ豪華になってきたなという感じです。

過去に受けたメンションで言えば、社会学者の宮台真司さん、経済学者の池田信夫さん、評論家の宇野常寛さん、経済学者の田中秀臣さん、ブシロードの木谷高明さん、高須クリニックの高須克弥さん、金投資にてジム・ロジャーズとも親しい豊島逸夫さん等とやり取りがあります。

自分では意識していませんが、何か私に引き寄せるものがあるのかもしれません。恐縮です。

今回、須藤元気さんにフォローされたのも偶然ではないような縁を感じます。

確かに私は須籐元気さんの著書は昔から何冊も購読しています。
そんな須藤さんの著書の中でも個人的に気に入ってるのが、初期に出した「風の谷のあの人と結婚する方法」です。

ジブリ映画「風の谷のナウシカ」のナウシカという二次元キャラと結婚する方法ですが、半分冗談のように面白おかしく人生哲学が書いてあります。「マリオでもスタート取っていても穴に落ちたら死ぬ」など分かりやすい例えをされているので好きです。
また須藤元気さんは格闘前にアニソンの電波ソングを聞いて羞恥心からテンション高めるなどオタク傾向があり、そんなところも私と似ています。

上記の本のデザインも、ジェームス・アレンの「原因と結果の法則」(↓)をおそらく元にしているでしょう。
このことに気付けている人は少ないと思います。こちらの本も私にとっての人生の聖書なのでオススメです。↓


さて、この御縁を担いで、今回は須藤元気さんのダンスに隠されたメッセージを解説・解釈したいと思います。

このように須藤元気さんは昔から格闘をしつつも、高校の頃からスピリチュアルな方向に目覚め、それを自分のキャラクターのスタイルとして昇華しています。

現在は、ダンスユニット「WORLD ORDER(ワールドオーダー)」を結成して、ロサンゼルスのマイクロソフトのオープニングイベントで踊ったりと国際的に評価されています。


このダンスは2011年度から、毎年、いろんなバリエーションで進化していくので面白いです。

今回は2013年度板が公開されました↓
WORLD ORDER(ワールドオーダー)2013


ただ今回はメッセージ性は低いように思います。

前回の2012年度板はモロでした。

WORLD ORDER(ワールドオーダー)2012


ここではマヤ暦の発祥地メキシコで「ワールドオーダー」とパワーエリート(ビルダーバーガー)を完全に皮肉っています。

ここでパワーエリートについて少し解説します。

知っている人はとっくに知っていると思いますが、この世界には世界を支配する支配層が公然と存在しています。
それは「パワーエリート」と専門用語(社会学者・ライト・ミルズが提唱)で呼ばれています。
アメリカの最高支配層であり、政治・財界あらゆる面で影響を及ぼします。
人種はユダヤ人に限らず、多種多様です。年に一度、スイスでビルダーバーグ会議というのを開いて集まって世界情勢を決めるので「ビルダーバーガー」とも呼ばれます。
表では大統領や政治家が「ダボス会議」を行い、裏ではカネを牛耳る経営者が「ビルダーバーグ会議」を行います。
これらは表裏一体ですが、ビルダーバーガーの方が圧倒的に力が強いです。

単純に言えば「世界一お金を持っている人」です。
「え?それならビル・ゲイツや、ウォーレン・バフェットじゃないの?」と思うかもしれませんが、それは「個人」であって、しかも資産を申告かつフォーブスランキングに申請した「個人」に限られます。
「財団」や「総資産」ではないのです。
「会社」の規模や「オーナー」で見れば更なる上位が存在します。

例えば、三菱の社長は長者番付けに上がりませんが、三菱財閥は200兆円ほどの総金融資産があります。
三菱の親にはアメリカのシティグループがありますが、そのオーナーのデヴィッド・ロックフェラー率いるロックフェラー財団が1000兆円です。
ちなみにロスチャイルド家はもっとファミリーが大きいので測定不能です。少なくてもこの倍以上はあります。
ビル・ゲイツの金融資産が7兆円、日本の国会審議に掛けられる一般会計が90兆円ですから、規模が大きすぎるわけです。
詳しくはこちらの本をどうぞ↓


このような「財団が存在しない」ようにするために、「胡散臭さで煙に巻く」という役割を担っているのが、フリーメイソン(イルミナティ)です。
おそらくこの話が出てくると、宇宙人説とか、爬虫類説とか、UFO説とか、俗にいう陰謀論と揶揄される意味不明な話が出てきて「胡散臭い。そんなもの存在するか。」と聞いている人が思考停止するわけです。それが狙いです。

普通に公然と存在する財団の金融資産の話をしているのに、おもしろいことに急に幽霊の話にすり替えられてしまうのです。

話を須藤元気さんに戻すと、そのようなことを風刺してか、ダンスの中で仕込んでいます。

明らかだったのは2011年のロサンゼルスのマイクロソフトでのオープニングイベントでのダンスです。

WORLD ORDER(ワールドオーダー)2011


→ 最初に世界の首都
→ 次にスイスの飛行機(NWOは国際決済銀行BISから来ました)
→ アメリカ建国のフリーメイソンのワシントン
→ 2:20で会場でまず線
→ 奥行きのある体系(次元を上げる表現)
→ 前の規則的(数学的)な動きから
→ 2:50で合掌から立体的な動き(中心の須藤元気は動かない。円と縁の表現→唯識)
→ 不規則な因果律の表現
→ 円から四角形(仏教の○△□)
→ 3:33でイルミナティのマークを作る。
直後一瞬だけ目の部分の須藤元気が右にずれるのは「右目(プロビデンス)」を伝えるため
→ 4:05以降は「千手観音」(元ネタは中国障害者芸術団)
→ 4:15から千手観音の波
→ 加速→苦(死?)→ 円(縁)で終わり

須藤元気さんの著書等から彼の考えを察する限り、この解釈で概ね合っていると思います。

※肝心の試合ですが 待て ブレイク がやたら多くてつまらん試合が多かったですね…

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レイシストが支配する国ニッポン マイノリティに対する政治家の本音がこれですわ 世の中ネトウヨだらけ

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柳生一族の陰謀  支配者への反逆は元々歴史には記録されないことが多い

「数々の歴史にも家光の首は落ちたという記録はない。

  しかし、こうした支配者への反逆は

  元々歴史には記録されないことが多いのである。

  事実、これに似た悪夢は、その後もしばしば現れて

  支配者達の心胆を寒からしめたのであった」


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野性の証明 社会の不条理に対する野性の怒り



http://tfilm.tv/12118-nikogda-ne-sdavatsya.html

野性の証明 (角川文庫)野性の証明 (角川文庫)
(2013/07/01)
森村 誠一

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http://blogs.yahoo.co.jp/d0nchan888/31853539.html
人間は、一皮むけば、野性そのもの 『野性の証明』より ☆☆

2013/2/22(金) 午後 10:42
一般小説
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『野性の証明』 著者 森村 誠一 

野性とは、久しく聞かなくなってきた言葉である。

いつの間にか、時代の中で影が薄くなってきたのだ。

野性であることの価値が評価されなくなってきている。

あの人には野性味があるなどと言うのは、誉め言葉ではなくなったのかもしれない。

女性も、野性味のある男性に魅力を感じなくなってきた。

ホストまがいの洗練されたイケメンがお好みのようである。

きっと、もはや、ターザンはお呼びじゃないようである。

青年の顔から、ギラギラした野性的な面差しが見られなくなってきた。

スポーツ選手においてでも、そうである。

むせ返る汗と泥にまみれた高校球児よりも、スマートなハンカチ王子がもてはやされる。

社会の不条理に対する野性の怒りも、深く沈潜してしまっているようだ。

健康的に小麦色に日焼けした夏子さんの代わりに、ロゼット化粧品の様な白子さんがもてはやされる。

健康美よりも、病的なダイエットによる華奢なスリムボディが流行りである。

いやはや、世の中、見渡してみると、どうも、むき出しの野性は歓迎されなくなってきたようである。

人は、成熟社会の豊かさの中で、野性を限りなく去勢されてきているようである。

しかし、ともかく、この小説が世に問われた昭和の末には、まだ、野性は、その存在価値を主張していたようである。

この小説は、野性の持つ得体の知れない凄味がテーマになっている。

おじさん、今の時代の気分の中で、改めて、この野性と言う言葉に、大いに鮮度感を持ったのだ。

もともと、人間は牙を隠し持つ野獣的存在である。

一皮剥けば、当然、丸ごと野性そのものなのである。

ところが、現在、野性は、心の奥底に何重にも塗り込められてしまっているようだ。

人間本来の本能を率直に表現しにくい時代になってきたのである。

この小説では、そのベールに覆われてしまいそうな野性本来の真価を問いかけようとしているのである。

自衛隊の特殊情報部隊。それは、過酷な訓練により、人間を極限状況に追いやることで、人間本来の野性を呼び起こし、超人的殺人装置として仕立て上げていく組織である。

こうして、訓練された研ぎ澄まされた野性を密かに隠し持つ自衛隊特殊部隊出身の主人公が、不祥事を覆い隠すために、自衛隊と言う隔絶された社会から、現実社会へと放逐されるのである。

そこで、遭遇する現実社会の凶悪な権力統制の仕組みや利権を貪る地方都市の政治家と警察までも巻き込んだ、その利権構造。

主人公の野性は、それを、ひた隠しにしながら、その巨大な悪の構造へと、たった一人で立ち向かっていくのである。

いつ、野性のベールがはぎ取られ、野性が牙をむくのか。

結末に、野性の本質が証明されていくのである。

おじさん、この作品は、本物の森村誠一さんの面目躍如たる作品であると思う。

読んで損がない作品である。

いやもう、野性を失ってしまったかのような昨今、是非読んでもらいたい作品である。

今こそ、自分の奥底にある野性を、一人一人が証明していかなければならないような気がする。

森村誠一さんの作品は、確実に、初期のものが良い。

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イスラム武装組織(実はPMC民間軍事会社)に捕まった自称民間軍事会社のネトウヨのアホぶり  世田谷一家殺害事件には米軍特殊部隊が深く関与している

http://blog.goo.ne.jp/syokunin-2008/e/a89dc7bca2c1c5e8d6d3d3a086bc83c5
傭兵(民間軍事会社社員)だったハイジのおじいさん

2014年08月24日 | 社会




『冬でも町に下りないでアルムで一人暮らしする人間嫌いで偏屈な祖父(アルムのおんじ)』

日本人に絶大な人気があるアニメ『アルプスの少女ハイジ』では、幼い5歳の少女ハイジは両親を亡くし叔母のデーテに育てられていたが仕事の都合で、アルムの山小屋にひとりで住んでいる、ハイジの祖父である無口なおじいさん(アルムおんじ)に預けられ、ヤギ飼いの少年ペーターと知り合う。
この物語ではデーテのペーター以上の最重要人物である祖父(アルムのおんじ)の過去が何故か謎でほとんど描かれていないのです。
アニメ『アルプスの少女ハイジ』には描かれていないが原作によると若い時に傭兵としてイタリアで沢山の人を殺していた暗い過去があるらしいのである。だから自分の故郷にかえって来ても人里を慣れた山(アルム)に篭り一人暮らしをしていた。(昔のスイスは土地は狭く資源も産業も無い。とんでもなく貧しかったのでネパールのグルカ兵のように仕事の無い若者は仕方なく傭兵として外国で戦って家族を養っていた)ところが、これでは幾ら真実でも血生臭すぎて子供用アニメでは描け無い。

『ランボーとトラウトマン大佐』

アクション俳優シルヴェスター・スタローンの1982年の最も有名なハリウッド映画『ランボー』では、ベトナム帰還兵が社会から孤立して州兵や警察(一般市民)に追い詰められた挙句破れかぶれで街にかえり、破滅的な破壊と殺戮を繰り返す。
このランボーの暴走を止めたのが元上官のトラウトマン大佐だった。
映画では『あんたに頼まれて必死で戦った。・・ところが帰国したら 「赤ん坊殺し」とか悪口の限りを並べやがって』と子供のように泣きじゃくるランボーをトラウトマン大佐が『もう終わった。終わったのだ』と諭す。
映画ではランボーは説得に応じて投降するが原作の小説『First Blood』『一人だけの軍隊』では大佐は上官では無くて特殊部隊の過酷な訓練スクールの校長であり最後にランボーを殺している。
トラウトマン大佐はランボーは自分の最高傑作であり、(歩く殺人兵器の)ランボーの命では無くて警察や州兵の犠牲を心配しているのだと語っている。(トラウトマン大佐の言葉が真実なら、安直なハリウッド映画の結末の『投降』では無くて、小説の筋書きにある悲惨な結末の『殺害』の方が相応しい)
ひょっとすると、アルプスの少女ハイジにでてくる『アルムのおんじ』とは、何事もなく平穏に歳をとった『もう一人のランボー』だったのかもしれない。

『街中を歩く殺人兵器の恐怖』

ミレニアムの最後の日(大晦日)に発覚した世田谷一家殺害事件を、季節外れの今頃テレビで特集記事を行っていたが、証拠類は山ほど存在するのに日本の警察は逮捕できない。証拠類や特殊な殺害方法から、たぶん何らかの齟齬が起きて米軍特殊部隊が関係しているので日本としては手が出せない。自衛隊の特殊部隊の訓練中の事故を扱った角川映画の『野生の証明』とそっくり同じことが東京都内で起きたのでしょう。
今では世界的に有名なPMC(民間軍事会社)ですが、日本にもある警備会社とは少しも似ていない。
PMCは南アでは30年ほど前からアメリカでは20年程前から相次いで設立されたのですが、アパルトヘイトの廃止や冷戦崩壊で、必然的にそれまで『人間狩り』を行っていた暗殺部隊とか特殊部隊の大リストラが起きてしまう。
南アとかアメリカの民間軍事会社社員(傭兵)とは、その経歴が普通の元米軍兵士とは大違い。彼等はトラウトマン大佐が育てたランボーと同じ『ヒトゴロシ』の専門家中の専門家なのです。
PMC(民間軍事会社)の傭兵ですが、彼等は一般に良く知られた職業軍人とは似て非なるもので、社会の緊張緩和の結果、失職して仕舞った『人間狩』を行っていた暗殺部隊を組織化したものだった。(特殊部隊の失業対策とか、破壊と殺戮の専門家のリサイクルとか)
『赤ん坊殺し』のランボーや韓国映画『シルミド』の暗殺部隊の様な危険極まりない連中を一般社会に野放しにすると、あちこちで世田谷一家殺害事件が起きてしまうのです。
やむなくPMCのような組織化(一般社会からの隔離)が、南アフリカやアメリカでは必要悪として絶対に必要になったのである。

『PMC(民間軍事会社)としてのISIS(イスラム国)』

トルコからシリア北部に不法入国し、戦闘地域で武器を持った状態て捕まった自称日本版PMC(民間軍事会社)のCEOですが、ISISに拘束された時カメラマンだといいながらカメラが無く『自衛目的』と称して自動小銃を持っていたのですから、これでは『殺してくれ』といっているのと同じである。
(このような場合に正規の戦闘員なら捕虜として扱われるので助かる可能性もある。ところが戦場では武装したスパイなら最悪であり、見せしめとしての処刑は軍事常識である)
可哀想ですが、リアル世界とバーチャル世界の区別が出来なかったのです。
典型的な頭が空っぽで目が節穴にネットウヨの悲劇であり、相手が本物のISISなら外国人の身代金目的以外は即座に殺されているでしょう。
今回能天気な日本人ネットウヨを拘束したISIS(イスラム国)ですが、イスラム教過激派武装組織と見るよりも、地元のアラブ世界だけではなくて欧米諸国などの世界中から集めた外国人傭兵を12000人ほど抱えているPMC(民間軍事会社)であると考えた方が判り易いでしょう。
ISISですが、中東におけるアメリカの最大の同盟国であるだけではなく危険極まりないイスラム原理主義のワッハーブ派を国教とするサウジアラビヤや湾岸諸国が事実上の雇い主(スポンサー)であることは公然の秘密である。

『決して売ってはいけないもの(人間の命)を売るPMC(民間軍事会社)』

労働者とは自分が持っている唯一の資産である労働力を時間売りして生活しているが、売春婦のように体を売ることも民間軍事会社の傭兵のように命を売ることも無い。
この日本版の民間軍事会社を設立したと言う勘違いネットウヨ男ですが、たぶん安倍晋三と同じで、顧客に『安全を売る』仕事だと誤解したのですよ。たぶん。
民間軍事会社ですが、売っている商品とは間違いなく『人間の命』である事実を、『防衛だ』とか『安全だ』とか『平和だ』のという表面的に無難で美しい言葉で擬装しているだけ。
今の日本では自衛隊員も『安全が担保されていない』とフクシマの原発事故から逃亡する。
自分の命や健康を売る仕事といえば、今のフクシマの原発作業員ですね。派遣社員が解禁されたとは言え、今でも擬装請負は違法行為なのですが東電では6次下請け7次下請けなどは当たり前。これ等をヤクザが仕切っている無法国家なのである。
東電によると去年とは大違いで、今年から作業員の人数が二倍になり、なんと1日に5000人を超えている。
我が日本国ですが人口が1億を超えているが、それでも自分の一つしかない命を売る人間がそんなに多いはずが無い。遅かれ早かれフクシマが行き詰るのは目に見えていますが、この絶体絶命の非常時こそ人間の命を売る日本版PMC(民間軍事会社)が活躍する時であろう。

『共同通信によると』

『湯川さん、反体制派支援が目的か 拘束の過激派が声明』
【ダマスカス共同】シリア北部アレッポで過激派「イスラム国」に拘束されたとみられる湯川遥菜さん(42)=千葉市花見川区=が自らのシリア入りについて、同国のアサド政権打倒を目指す反体制派武装勢力が必要とする機器や物資を供給するため、現地の状況を調べることが目的だと話していたことが18日分かった。
拘束前、湯川さんに同行し、イスラム国とも戦闘を続けるシリア反体制派の有力武装組織「イスラム戦線」の地区幹部が明らかにした。
一方、イスラム国は18日までにインターネットを通じて「ハルナ・ユカワを拘束した」とする犯行声明を出した。
(2014/08/19 )

『辻褄が合わないマスコミの報道姿勢』

それにしても日本のマスコミ報道が不思議である。
『殺した』とのネット上の情報が複数あり、しかも相手のISIS側は戦闘中を理由に交渉を拒否しているのですから、普通に考えれば既に殺されている可能性の方が遥かに高い。
何故か、マスコミは間違った印象操作を行っているのです。
幾ら規模が大きくても単なるテロ組織であるISISを何故マスコミ全員が、ISISが『自分で名乗っている』からといって『イスラム国』(IS)と呼ぶのだろうか。
昔から名乗っていたのでは無くて、今回はISISが突如として『イスラム国』を名乗ったのである。(それなら又思いつきで別の名称を名乗る可能性も十分ある)
ISISの身内や同調者以外、今のようにISISを『イスラム国』と呼ぶ義理は少しも無い。
ISISを『イスラム国』の名称で呼ぶこと自体が、自分たちがISISに同調している事実をマスコミが理解していないのである。(21世紀の現代において、政教一致のカリフ制国家を主張すること自体、腹立たしいブラックジョーク以外の何ものでも無い)

『巨大なPMC(Private Military Company 民間軍事会社)としてのイスラエル国』

巨大なイスラム教過激派のテロ組織でしかないISISが突如として『イスラム国』を名乗ったら、欧米や日本のマスコミが全員同じように『イスラム国』の名称を使う不思議ですが、これはイスラエルの先例がある。
イスラエルの建国ですが、まさに今のISISの『イスラム国』建国とそっくり同じなのです。
ユダヤとイスラムの宗派の違いと半世紀の時間差があるだけで、何から何まで同じであり少しも違いが無い。(イスラエル国とイスラム国は、どちらもアブラハムをを先祖とする一神教で教義がほとんど同じ)
中東地域では突如イスラエルやISISなどの正体不明の危険な集団が現れた場合には人々は『とりあえず逃げる』のが最善の策なのですね。イスラエルのテロでパレスチナ人が逃げた空白を突いて建国されたのが今のイスラエル国なのです。
(このような戦争難民には帰還権が保障されているが、パレスチナ人難民の帰還権を認めれば即座にイスラエルは消滅する)
3方向から完全に封鎖してパレスチナ人を情け容赦なく殺すイスラエル軍ですが、全てがアメリカの提供した弾薬とアメリカの資金とアメリカの装備である。(言葉を変えれば『人』『もの』『金』のすべてが欧米の白人のキリスト教諸国が提供し運営されている)
現実問題として『イスラエル』とは近代国家というよりも巨大なPMC(民間軍事会社)として存在していることになり、それなら、雇い主(欧米)の事情が変わり契約解除した瞬間に倒産(消滅)する宿命を持っている。

わかりやすい、『本当のイスラエル問題』

ある日、見知らぬ奴が家にやってきた…
奴は言う、『今すぐ此処を出ていけ、俺の先祖は平安時代までずっと此処に住んでいた。ここは俺の土地だ』。
何を言っているんだ、千年前まで住んでいたって…そんなの俺の知った事か、
続けて奴は言う、『証拠もある。俺が先祖代々拝んできた祠も此処にあるだろ』。
こいつは正気じゃない。奴が拝むのは勝手だが、この祠は俺の家が先祖代々守ってきたものだ。
懐からナイフを取り出して奴は言う、『俺のバックには有名な組がついている。組長もそうだと言っている。』
俺はつぶやく、 そんな、馬鹿な・・・

『元祖PMC(民間軍事会社)的なウクライナ・コサック』

日本では歴史的にPMC(民間軍事会社)的なものとして思い浮かぶのは、伊賀や甲賀の忍者集団や戦国最強の鉄砲集団だった根来衆や鈴木孫市の雑賀衆であろう。
かれらは異能な特殊能力を買われて戦国大名や本願寺に雇われて大活躍するが、徳川幕府の鉄砲同心(根来組)や御庭番(甲賀の服部半蔵の諜報組織)として生き延びた以外は、すべて亡ぼされて歴史の闇に埋もれている。
国家権力(国軍)とは別組織である独立した『軍事集団』としてのPMC(民間軍事会社)的なものとして世界で一番有名で大規模だったのがロシア民謡の『ステンカ・ラージン』など数々の伝説があるウクライナコサックであろう。
黒海北岸のドン川流域の最強の自衛組織としての騎兵集団(コサック)は、時には反抗もするが大概はロシア政府を助けて(雇われて)第一次世界大戦まで大活躍していた。
ロシア革命以後、完全に姿を消していたと思われていたコサック軍ですが、何と何と、欧米のマスコミ報道では100年ぶりにウクライナ紛争で復活、再登場したらしいのです。
それなら、これは日本の伊賀や甲賀の忍者集団とか雑賀の鉄砲衆が21世紀の現代に再登場したのと同じ意味で、本当ならたいへん愉快である。
多くの皆さんが根本的に勘違いしているのですが『マスコミの報道』とは、真っ赤な嘘の代表のような悪名高き『大本営発表』を含めて、全てある意味では『真実』なのである。
(『真実の全部』ではないが、かといって『全部嘘』でも無い。必ず『真実の一部』が含まれている)
歴史的にPMC(民間軍事会社)的ではあるが、コサックとはそもそもウクライナ土着の民間自衛武装組織であり、欧米マスコミの『外国の介入』との言い分は根本的に無理がある。
そもそもウクライナの国軍は、東部の同胞に対しては戦意がほぼゼロだった。
ウクライナの正規軍は最初から戦う意思が無いので使い物にならない。(ロシア領なったクリミヤ半島に駐留していた2万人近いウクライナ軍は抵抗するどころか、逆に9割以上はロシア軍に編入されている)
欧米の『ロシアの侵略』とのマスコミ報道と、現実のウクライナ情勢が180度逆さまなのである。
欧米が支援するウクライナのキエフ政権が、ネオナチや欧米のPMC(民間軍事会社)の外国人傭兵を使ってウクライナ東部の市民を攻撃しているらしいのである。
アメリカやウクライナはマレーシア機の撃墜など、わざと騒動を煽って目いっぱい限界まで危険度を高めているが、実はウクライナの大騒動自体には何も意味が無い。
アメリカですが、人々を間違いに誘導する赤いニシン(a Red herring レッドへリング)として迷惑極まる意味不明の巨大な『猫ダマシ』を真面目に行っているのである。

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2014サンパウロオープン プルーマ級のパウロミヤオが無差別級で優勝! 相手はスペルペサード級~ぺサディシモ級のAntonio Carlos Farias Mugnaimi







相手重量級選手の成績はこちら トップ中のトップです
http://www.ibjjfrankings.com/AthleteResults/Athlete?selectedAthlete=Antonio%20Carlos%20Farias%20Mugnaimi$GF%20Team$Male

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柔術プリースト 143 柔術DVDレビュー

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これぞ柔術の醍醐味! 無差別級 ぺナ級の中村大輔 塚田市太郎 がメイオぺサード級アブダビワールドプロ王者マルキーニョス相手に大奮戦!







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柔術界の実質的リーダー カーロス派グレイシー一族のボス カーリーニョス インタビュー日本語翻訳 グレイシーバッハ徳島さんのサイトより

http://graciebarratokushima.jp/140728/
マスター・カーロス・グレイシーJr.インタビューPart1

2014年7月28日 Category - インタビュー

マスター・カーロス・グレイシーJr.が柔術と歴史について語った貴重なインタビュー。
日本語訳拙いですが、全てのGBメンバーに読んでほしい。
伝統について

「私の父(カーロスグレイシーSr.)は小さいころ、やんちゃで社会に適応するのが難しい子供であった。
外出してはトラブルを起こす父に、祖父は日本学校に連れて行き格闘技を習わせた。
父が言うには柔術を始めて彼の人生は完全に変わり、それ以降トラブルを起こすこともなくなった。
彼のエネルギーは全て柔術に向かい、夢中で練習した。

父はコンデコマ(前田光世)と親しくなり、彼の性格、人格に大きな影響をうけた。
コンデコマが去り、学校が閉鎖されたとき、父は自分の兄弟に柔術を教えはじめた。
リオデジャネイロに移り、最初のグレイシー柔術の道場を開いた。
道場は大きくなり、カーロスは弟エリオ・グレイシーの父親代わりになり、
強い絆で結ばれ二人は協力して働いた。
21才になる前に、父はテレゾポリスに移住し、エリオがブラジルの柔術界のリーダーになった。」
ファミリーについて

「山中にあるテレゾポリスの家が皆が一緒に育った家でした。
リオに道場を持っていたエリオは金曜にテレゾポリスに来て日曜まで家族と一緒に過ごした。
その家での経験が今も自分の心の中にある。
ファミリーのたくさんの子供が一緒に住み、強い結束を持っていたことは、自分の人生に大きな
影響を与えたし、それに似たものを再び作りたいといつも思う。

グレイシーアカデミーはリオにあり、ファミリーの中で十分な年齢になった若者は
リオに行き、エリオのアパートに住み、道場で働いた。
年齢は低い子供はテレゾポリスに住み、父カーロスが面倒をみた。

テレゾポリスの家には18ベッドルームがあり、
107,000平方フィートの大きさがあった。
家にはおおよそ30人の子供が住んでいた。
年長の兄や姉達が子供を連れて住んでいたからだ。
父はファミリー全員を集めて、みなと生活することを望んだ。
テレゾポリスの家には全てのことにルールがあった。
例えば、父は独自のダイエットシステムを作り、家族全員がそれに従った。
食べるもの、食べ合わせ、食べる時間などなど。

ファミリーが強い絆で結ばれていたあの家での経験が、自分の人生に多くの影響を与えた。
自分の兄弟や従兄弟に10年ぶり再会しても、そこでの経験を皆が心に共有している。
自分がコミュニティーの中で生活するのを好むのは、子供の頃のその経験があったからだ。
当時われわれが持っていたその幸福感を、自分の子供や、生徒などに伝えていきたいし
それに似たものをみなに体験してほしいと思う。
自分のメンタリティとしては常にコミュニティーやグループの中で人々の中に囲まれて
生活したい。それが私の家族から受け継いだ大きな教訓である。」

http://graciebarratokushima.jp/140801/


マスター・カーロス・グレイシーJr.インタビューPart2

2014年8月1日 Category - インタビュー

Part1
http://graciebarratokushima.jp/140728/
の続き

マスター

「これから自分の通ってきた道、いかに柔術を習ったか、
そしていかに全てが起きたかについて話します。

グレイシーファミリーの関心事の中心は柔術であった。
誰が一番才能があるか、誰が一番努力しているかなどなど。
16才になった者はリオデジャネイロに行き、グレイシーアカデミー
のアシスタントもしくはインストラクターになった。
道場がファミリーの収入の中心であったからだ。
子供達はテレゾポリスの家で遊び、トレーニングし、勉強し、柔術を学んだ。
叔父エリオがまとめ役となって子供に柔術を教えた。
エリオがファミリーに柔術を教えるヘッドインストラクターであった。
父カーロスは既にリタイアしており、当時は既にクラスを教えてなかった。
父は礼儀を教えたり、精神的、教育的な部分の世話をしていた。
生活の中で我々がどういう態度、ふるまいをすべきかなど。
柔術のトレーニングの部分のみに夢中にならないよう指導していた。

自分にとって最初の柔術の先生はエリオであった。
エリオが長となりいかに練習すべきかの方向性を示していた。
しかしリオのグレイシーアカデミーでクラスを教えていたメインは
兄ホーウスと従兄弟のホリオンであった。
エリオは何が良くて、何が悪いかを正しに道場へきていた。
いかに練習すべきか、いかに人として振舞うべきか、
道着は常にきれいにしておかなければならないなどなど
道場が機能的に運営できるよう、厳格にチェックしにきた。
しかし毎日練習でトレーニングし、柔術を習ったのはホリオンとホーウスであった。
彼らからは多くのことを学んだし、多くの借りがある。
彼らのような最高の先生から柔術を習った私はラッキーな人間だと思う。

しばらくしてホリオンはアメリカに移住した。
ホーウスは道場を離れて別の町に自身の道場を開いた。
ホリオン、ホーウスにかわって私とヒクソンがグレイシーアカデミーの
メインのインストラクターとなり数年間、そこでクラスを指導した。
その後、私もグレイシーアカデミーを離れ、兄ホーウスの道場を手伝い始めた。」
道場

「ある週末…兄ホーウスがハングライダーに出かけ岩に衝突して死んだという知らせ
を受けた。予期せぬ出来事であった。みなが突然のことに大きなショックを受けた。
なぜならホーウスはずば抜けたカリスマ的存在であり、皆に大きな影響を与え
当時のブラジルの柔術界を牽引し、皆の尊敬を集めていた偉大なリーダーであったからだ。
全ては突然に起こった。彼は道場、二人の息子を含む家族を残し、30歳弱でこの世を去った。

道場はリーダーを失い、誰が後任になるのかを聞いてきた。
彼の妻から私に電話があり「あなたが後任になってほしい」と伝えてきた。
兄のホブソンも私が適任であろうと言った。
最終的には生徒達が会議し、私を呼んだ。
「あなたがここに来て指導することが、道場が継続できる唯一の方法だ。
あなたはここでずっと指導していたから、他に道場を守れる適任者はいない」
私は数年間クラスを教え、道場の構築に力を注いだ。

その後、道場のあったコパカバーナより環境が良く、安全な場所に移動することにした。
そういう理由がありバッハ・ダ・チジューカに移転した。
新しい場所ではより地域に密着した道場にしたかったので、名前をグレイシーバッハとした。
なぜなら当時、従兄弟や甥の多くも私と一緒にトレーニングしていたので
道場名をカーロス・グレイシーJr.にしたくなかった。
みなが好んで一緒になれるグループに価値を置いた。
グレイシーバッハとは一個人ではなくグループにフォーカスを与えたネーミングです。」
挑戦

「グレイシーバッハは成長し続けた。多くの生徒は黒帯になり、彼らとは10年~15年と
一緒にいた。そういう意味でこれらの生徒達との関係はファミリーといえる。
自分の家族以上に彼らとは時間を過ごしてきたからだ。
今日、グレイシーバッハは世界中に広がる大きな組織となった。
私は彼ら生徒達が自分の哲学や信念を引き継ぎ、
組織の重要なポジションで働けるよう準備しなければならなかった。
彼らには私がグレイシーバッハの内部で作りたかった精神を傷つけることなく
私の仕事を引き継ぐ能力があります。
私が父や先人達から学んだ全ての知識、私がたてたビジョンや目標を
これらの生徒達に伝えることができた。
だから彼らの活躍が現在の組織およびブラジリアン柔術界の発展を牽引しているといえる。
この手法は私の父がエリオに柔術界を託した時に学んだ。
父はエリオを呼び「エリオ、今日からお前が柔術が発展のためのリーダーだ」と伝えた。
なぜそうしたかというと、父はエリオの人格をみて、エリオこそこの仕事を託すに
最適な人物だと判断したからだ。
エリオは偉大な選手であり、柔術を発展させた偉大なリーダーであった。
彼が強敵を戦うことが柔術の発展に繋がった。

グレイシーバッハが大きくなり、数多くの道場が増えはじめたときに、私は自分自身に問うた。
「私が各グレイシーバッハ道場にいられないのにどういしたからいいんだ?」
グレイシーバッハは世界規模の大きな組織になり、私はほとんどの道場には訪れたことがない。
「どうすればインストラクター達に私の影響を与えられるのか?」
「どうすれば自分の教える技術を彼らに伝えられるのか?」
「どうすれば我々ののやりかたを彼らができるようになるのか?」
そこで私は自分の道場でやってきたこと全てを紙に書いてまとめる必要があると思った。
そしてインストラクター達に全ての要素を練習に落としこめるよう教育した。
なので今日のグレイシーバッハを見るに、キーパーソン達がカリキュラムやその他
のシステムを発展させることにより、世界中どこにいても同じようにグレイシーバッハの
ベネフィット(利点)が持てるようになった。
これが挑戦だ。思い返すに10年前だと考えられなかった。
一日一日、我々はゴールに近づいている。グレイシーバッハの道場が世界の反対側にあっても
100%繋がっている。常に連絡をとり、同じ基準に沿うようになっている。
大きな挑戦は簡単なことではない」
ビジョン

「今のブラジリアン柔術のビジョンについて語ると、スポーツ競技として5大陸まで広がり大きく発展した。
世界中に広がり、グローバルスポーツになると同時にローカルスポーツにもなっている。
なぜなら各々の道場は地域を代表に地域に密接な関係性を築いているからだ。
これらのことが遠方で小さな都市に道場が存在することをも可能にしている。
情報発信地は大きな都市や大きな道場である。
なので情報の交換が柔術が発展、拡大を進める燃料だと思う。

その他をいえば、多くの指導者達は生徒への教育的な部分や、道場が属する地域への貢献に
力を注いでいる。これらは柔術の普及にとって非常にポジティブな部分だと思う。

競技ではブラジル人が以前程、圧倒的ではなくなっていきている。
世界中色んな地域からワールドクラスのアスリートが輩出されている。
ブラジリアン柔術は調和的な発展をしている。

今日の自分の目標は、生きている間に世界中の各都市に柔術道場があるのを見ることだ。
自分の仕事と貢献が済んだとき、それを見ることができればと思う。」


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CIA 兼 統一教会 安倍晋三の正体


【拡散希望】 自民党安倍晋三氏 統一教会人身売買... 投稿者 tairanomunemori


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武術 武道の嘘八百 迷信シリーズ 柳生新陰流の真剣白刃取り 実は作り話で本当は無刀取りというノウハウ 現実にやれば頭が真っ二つにされることが実験で結果が出ています 極真のやらせ八百長演武でもない限り成功はしません!

http://blog.goo.ne.jp/lemon-stoism/e/2d0d844f016647ee3f2f6c5d0546a13a

真剣白刃取りはできない!二指真空把もできない!

2008-10-28 00:34:53 | スポーツ・芸能・文芸


 『世界まる見え!テレビ特捜部』が紹介した番組で、真剣白刃取りが本当にできるか検証したものがあった。実際に日本刀を振り下ろす速度で人形に向かって真剣を振り下ろし、マシーンの手(手はゴムでできている?)が真剣白刃取りを試みた。

 しかし、真剣を振り下ろすスピードと刀の切れ味に負け、手は切られ頭に刀が当たってしまった。何度やっても真剣白刃取りは失敗。素手で真剣白刃取りを行えば、刀をはさんだとしても、振り下ろす日本刀のスピードと切れ味に負け、肉を切り裂かれて頭にあたる。つまり、真剣白刃取りはできないのだ。

 また、同番組では飛んでくる矢を手でつかみ止める技も検証した。番組では手で握ることでつかみ止めようとしていた。北斗の拳で言えば、二指真空把のようなものだろう。実験では人間の手のつかむ速さをインプットしたマシーンに飛んでくる矢をつかませようとしたが、人間の手のつかむ速さでは矢をつかむタイミングがあったとしても矢をつかまないうちに矢が手の中を通り抜けてしまうため、止めることはできなかった。手のつかむ速さを5倍にしたところ、見事矢をつかみ止めることができた。

 つまり、人間の動きでは飛んでくる矢を掴み止めることはできない。二指真空把も勿論できない。

http://blog.goo.ne.jp/hiroyukisaku/e/5665e949353dc2e4ce2aa80a5ae56259


◎「真剣白刃取り」は無理と言うか、フィクションである

2012-05-12 12:06:53 | HKT48 AKB48


◎「真剣白刃取り」は無理と言うか、フィクションである

★「真剣白刃取り」とは、頭上から降りおろされた刀を両手で受け止めて防御する技であるが、実際に行うのは無理である。

・人間の反応速度では、真剣のスピードに追いつけない

・演武で実演した極真会館の空手家がいますが、あくまでも演武であり、約束事であるから見た目は可能であるように見えているだけである(相手は無意識にブレーキをかけ力をゆるめるか、途中で刀を止めている。本気で切れば殺人罪を犯してしまうから)

・また、実戦においては、ごていねいにそのまま刀を上から真下へ降り下ろすとは限らない。刀がどこから来るかわからないから、どこで受け止めればよいか予測できない

・たとえはじめ相手が上段に構えていたとしても、途中で刀を降り下ろすコースを変化させたら、手で受け止めるのは不可能で、必ずどこか切られておしまいである

・そもそも、真剣を持った相手に対して、素手で相手の間合いに入るなどは無謀であり、武道家ならばわざわざそんな危険なバカなことはしないだろう

・武器を持っている相手には、まず近づかない、逃げるか、避けるかする

・避けられなければ、まわりにあるものでも、身につけているものでも、コインでも、ボールペンでも、何でもいいから投げつけるかして、相手をひるませるか攻撃してそのスキに逃げる

・どうしても避けられない間合いに入ったとすれば、手ではなく、足を使って相手をひるませるか攻撃して(もし可能であれば相手の武器をうばう)そのスキに逃げる

☆合気道で「太刀取り」という相手の刀をうばう技があるが、その中の形に「真剣白刃取り」というのがあるが、両手で刀を受け止めるものではない

☆新陰流に「無刀取り」という技があるが、「真剣白刃取り」とは別物である

・「無刀取りとは、おのれが刀を持たない時にも、切られぬように種々の道具を使う技であって、人の刀を取る芸ではないこと」
・「無手で相手の刀を取るのを名誉とするものでない」
・「無刀取りは、彼我の間合がどれほどあれば敵刀があたらないか、すなわち間積りをすることが肝心」
・「無刀取りは、敵刀があたらない間合では取れないこと。すなはち、切られて取る心がけがなければならないこと」


http://ameblo.jp/mogurohukujirou/entry-11671478089.html

柳生新陰流。2013/11/06



2013-11-06 07:03:07
テーマ:知っても得にならない雑学。

おはようございます。爺ダニ。
最近は街中へ飲みにも出ずマジ…真面目な爺である。

(本当は金欠病ナリよ…誰かゴチして下さいよ…爺にお酒を「お・も・て・な・し」すると福の神の爺だからきっと良いことがありますよ!!)

昨日は借りたい映画がありTSUTAYAに行く為に学校から急坂を下りケロロ軍曹電車に乗り歩くこと約1.5キロ。

結局借りたいDVDはなく、ただ疲れただけだったダニ。しかし、爺は真面目にアパートに帰ると洗濯、干し、野菜中心の夕食作り…年寄りの模範ナリ。

さて、爺の自慢話はこるくらいにして、本日も知っても得にならない雑学をご紹介します。

時代劇でお馴染みの「柳生新陰流」の秘技…「真剣白刃取り(しんけんしらはどり)」。

「真剣白刃取り」とは、敵が振り下ろす刀を両手の素手でパッと挟み込む技だ。

これは柳生十兵衛ではなく柳生宗巌(やぎゅうむねよし)が徳川家康の前でお披露目した技と言われるのが「真剣白刃取り」だ。

爺が幼少期には木の切れ端の棒を真剣にみたて友人が振り下ろす棒を良く「真剣白刃取り」…と叫びながら遊んだが、ほとんどが失敗して頭に当たり、タンコブを作った。

この柳生新陰流の「真剣白刃取り」…実は作り話。

実際は二代目…「柳生宗矩(やぎゅうむねのり)」が著した「兵法家伝書」では「無刀取り(むとうとり)」という技。

「無刀取り」とは…。
刀を持っていないときに斬られないようにさまざまな道具を使う技などが記述されているそうだ。

素手でパッ…と真剣を挟み込む技。
やはり、遊びでもタンコブを作るだけだったようだ。

さて、本日は水曜日。本日も「明るく」「元気に」「笑顔で」過ごしていきましょう。

爺は皆様方の「ご健康」と「少しの幸せ」が訪れることをお祈りしています。

ケロロ軍曹電車ナリ。

photo:01



本日の癒しダニ(重複御免)

photo:02



爺。

※フィクションではなく現実の無刀取
しかしこれを型ではなく現実の実戦でやるには無理がある…

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競技人口としては「(アメリカでの)感覚的には」、 フォークスタイル対五輪式で1000:1 カレッジスタイルレスリング アメリカで寝技の競技 柔術が受け入れられた理由 それはアメリカで最もメジャーなレスリング カレッジスタイルが寝技の柔道ならぬ寝技のレスリングだからである!











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素人がNCAAレスリングについて解説してみました その1?
記事タイトルの通り素人のブログ管理人がNCAAレスリング(主にDivision1を中心)に
ついて少し解説してみます。

1回で説明し切るのは無理ですが続くか分らないのでタイトルは「その1?」となります。 

この記事はNCAAレスリングを全く知らない人に対して手探りで知ったことを
MMAファン目線の管理人なりに説明していく物になります。

なので本当に詳しい方から見れば突っ込み所があったり、知識の詰め込みが甘かったりするかも
しれません。その辺をご了承して頂くとありがたいです。

またこの記事で出てくる用語は他の記事などで説明したことがあり、改めて説明することもあります。
この記事で使いたかったこともあったので今まであえて言及していなかったことにも触れていきます。


NCAAとは?

早速なのですけどNCAAについてWIKIなどの力を借りて説明します。

といいますかWIKIを見ればこの記事を見ずとも殆ど分ってしまうんですけどねf^_^; 

公式サイト↓
http://www.ncaa.com/
WIKI↓
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%A8%E7%B1%B3%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E4%BD%93%E8%82%B2%E5%8D%94%E4%BC%9A

National Collegiate Athletic Associationを略してNCAAで日本語では全米大学体育協会。
設立されたのは1906年なので2011年現在105年の歴史があることになりますね。

NCAAは米国カレッジ最大のスポーツアソシエーションで、その中でもスポーツの強い学校はDivision1と
分けられDiv1に及ばなかった学校はDivision2へ、Div2に及ばなかった学校はDivision3へとカテゴリー分け
されます。

※Division1などの呼称は略しDiv1またはD1などとされています。
以降この記事でもこの呼称を使います。

特にDiv1の年に一度開催されるスポーツ大会トーナメントは米国カレッジ最大規模と呼ばれています。

日本のPRIDEなどに参戦していたマーク・コールマンやケヴィン・ランデルマンらが「レスリング全米大学王者
」などと言われていましたが、それはNCAA Div1で王座獲得したことを指しています。

レスリングで五輪出場や国際大会で上位の実績を残している米国選手の多くはDiv1レスラーです。

NCAAレスリング大会は米国で非常に高い人気を誇り毎年数万人を越す観衆が集まっています。その人気は止
まる所を知らず年々増え続け、今年の観衆は104260人にも昇りそれまでの過去最高観衆数97336人の記録を
更新しました。

後で説明するのですけどNCAA Div1は30を越すカンファレンスが存在し
レスリングに参加しているカンファレンスは10。

下位Divで活躍していた選手でも良い成績を残せれば上位Divに編入出来(例:キング・モーのDiv2→Div1など)
NJCAA(短大)から各Divに進学することも多いです。

また学校自体がDiv2→Div1へと昇進することがあり逆に降格することもあります。
例:北コロラド大学はDiv1→Div2→Div1と変動していますよね。

NCAAに属していない小規模カレッジスポーツアソシエーションであるNAIAの一校リンデンウッド大学が
来年よりDiv2へと昇進します。

Div1、Div2、NAIAは奨学金が出ますがDiv3は出ません。


カンファレンスとは?

上記でも少し触れているのですが現在NCAA Div1レスリングを形成している
以下10(100校以上)のカンファレンスが存在しています。

Atlantic Coast Conference
Big 12 Conference
Big 10 Conference
Colonial Athletic Association
Eastern Intercollegiate Wrestling Association
Eastern Wrestling League
Mid-American Conference
Pacific-12 Conference
Southern Conference
Western Wrestling Conference

カンファレンスとはその地域または複数地域のカレッジの集まりのことです。
例えばPacific-12 Conferenceは西米国の12校。Big 10 Conferenceが最も層が厚いと言われていますね。

NCAA Div1本戦トーナメントの前に年に一度各カンファレンスで選手権(予選)が行われそこでの王者は
本戦T出場権を獲得し、また王者でなくとも成績の良い選手数人が出場権を得ます。

今年は1階級に約30人以上の選手が予選通過し本戦Tに出場しました。

よくブログ内で実績にBIG10 王者、BIG12 2位という選手がいますがそれは
カンファレンスでの実績という事になるのですよ。

ジェイク・ロシュルトなどは3度のDiv1本戦T王者で4×オールアメリカンですが
所属していたカンファレンス(BIG12)では一度しか王座獲得出来なかった所に注目したいです。

TJ・ディラショーはPAC12 4位でしたが本戦Tでは10位と好成績を残しました。


栄誉

NCAAは勿論スポーツトーナメントなので結果に伴う栄誉や実績があります。

大学4年間なので年に一度獲得できる栄誉は在学の間四度の獲得チャンスがあり、ここでは主にDiv1の
それを簡単に説明していきますね。

()内はMMA参戦しその栄誉を獲得している選手の名をいくつか記しています。

ダン・ホッジトロフィー
http://www.win-magazine.com/win-awards/hodge-trophy/

4×ダン・ホッジトロフィー
3×ダン・ホッジトロフィー
2×ダン・ホッジトロフィー(ベン・アスクレン)
ダン・ホッジトロフィー(エリック・ラーキン)

ダン・ホッジトロフィーは過去の3×Div1王者で五輪銀メダルを獲得しているダニー・ホッジの名から取られた
トロフィーです。プロレスラーとしても活躍していたので日本ではそちらの方が有名かもしれませんね。

ホッジは3度のDiv1トーナメント決勝戦で3回ともピンフォールで勝利しています。
これはNCAAの歴史の中でも2人しかいない偉業です。

このトロフィーの贈呈は1995年より始まり他の栄誉と違う所は王者やオールアメリカンなどは各階級、各Divより
誕生しますがダン・ホッジトロフィーはDiv1の中でも全階級から毎年最もピンフォール勝利数、戦績、マット上
でのゲームの支配性、スポーツマンシップなどが優れた選手のみ獲得できます。

※基本的に1人と言うことになるのですが、稀に成績がタイだった場合1人以上が同時に獲得できる
こともあります。

現在の獲得者はNCAAの歴史の中で僅か15人しかおらず、
複数獲得者は2人です。

王者

4×王者
3×王者(ジェイク・ロシュルト、スティーブン・アバス)
2×王者(ベン・アスクレン、ジョニー・ヘンドリクス、コール・コンラッド、ケヴィン・ランデルマン)
王者(エリック・ラーキン、フィル・デイヴィス、ジョシュ・コスチェック、ブロック・レスナー、マーク・ムニョス)
 
呼んで字のごとくトーナメントの王者です。

カンファレス予選などで敗北しても本戦トーナメントに参戦権を得れば獲得出来る可能性はありますが
本戦で王者になるには勿論1敗も許されません。

4×Div1王者はNCAAの歴史の中でもカエル・サンダーソンやパット・スミスなど獲得した選手は
極めて少ないです。

オールアメリカン

4×オールアメリカン(ベン・アスクレン、エリック・ラーキン、ジェイク・ロシュルト、ジョニー・ヘンドリクス、フィル・デイヴィス)
3×オールアメリカン(グレイ・メイナード、ジェイコブ・ヴォルクマン、シェーン・ローラー、ランディ・クートゥア)
2×オールアメリカン(ブロック・レスナー、ケイン・ヴェラスケス、マーク・ムニョス、マット・ヒューズ、アーロン・シンプソン)
オールアメリカン(フランキー・エドガー、マイケル・チャンドラー、キング・モー、CB・ダラウェイ、ネイサン・コーイ)

オールアメリカンは毎年各階級トーナメントでベスト8に入った選手の中からメディアなどの投票によって
1人だけ選出される「全米を代表するに相応しい選手」です。

王者がオールアメリカンを獲得することが多いのですがトーナメントなので組み合わせの運などもあるでし
ょうし、ランス・パーマーの様に1度も王座獲得できずとも4度オールアメリカンに選出されている選手もいます。

ジェイ・ヒエロンなどは本戦Tで5位を獲得していますが
オールアメリカンには選出されていませんね。

トップ12

トーナメントで12位までの選手をトップ12と呼びます。

チャーリー・ブレネマン、スコット・ジョルゲンセンなどがその実績に該当しています。

ベスト8とトップ12では後者の選手(9~12位)はオールアメリカンの選考対象から外れ
壁があります。

カンファレンス王者

上の「カンファレンスとは?」の項で説明した通りでそのままの意味です。

ベン・アスクレン、エリック・ラーキン、ジョニー・ヘンドリクス、フィル・デイヴィスなどが
その実績に該当し複数の王座を獲得しています。

Qualifier(予選通過者)

Qualifierは各カンファレンスで行われた予選で本戦トーナメント出場権を得たことを指します。
予選通過者と呼んでいきます。

こちらも「カンファレンスとは?」の項でも説明したのですけどカンファレンス選手権王者も予選通過者となり
また王者でなくてもカンファレンスで好成績を残し出場権を得た選手もそれに当てはまります。

この実績はそれ以上の実績があれば省略されることが多く、例えば
4×オールアメリカンを獲得しているジョシュ・コスチェックは言うまでも無く4×予選通過者です。

本戦Tでオールアメリカンやトップ12などに入れなかった場合の選手にこの肩書きが付くことが有ります。

ラシャド・エヴァンス、ジェラルド・ハリス、マイク・ピアース、ニック・カトーン、ケニー・ロバートソン
などがこの実績に該当しています。


ルールの違い

カレッジレスリングは通常の国際ルールのレスリングとルールが違うと言われています。

それが何を意味するかと言いますと両方に専念する選手も居ますけど
五輪や国際大会、ナショナル大会で上位実績を目指す場合は国際ルールを行いカレッジに通いながら
カレッジスタイルに専念しない選手もいます。

ダン・ヘンダーソンはNCAA本戦での実績は殆どありませんが複数の全米大学選手権王者、全米選手権王者を
獲得し2度も五輪出場していますね。

マット・リンドランドもNCAA本戦の実績は殆ど無く複数の全米レスリング王座を獲得し
五輪では銀メダルを獲得しています。

逆にランディ・クートゥアなどはDiv1本戦Tで3×オールアメリカンを獲得しカレッジスタイルならヘンダー
ソンやリンドランドより上ですが五輪では補欠選手でした。

ラミコ・ブラックモンはDiv1で目立った実績はありませんでしたが、カレッジ卒業後ナショナル大会で
優勝などしカレッジの実績では遥か格上であるジョシュ・コスチェックをポイントで破っています。

2008年五輪フリースタイル・レスリング55kg級金メダルを21歳で獲得したヘンリー・セユードは
高校時代あまりにも成績が良かった為米国レスリング連盟からオファーを受けカレッジには通わず
国際ルールに専念していました。

カエル・サンダース、上武洋次郎選手、ベン・アスクレンらの様に国際&カレッジの両方で高い実績を
持っている選手は本当に凄いのでしょうね。


トーナメント形式

毎年3月上旬に各カンファレンスで選手権が行われ予選通過者達が決まり、
本戦Tも3月中旬~下旬辺りに3日間かけ行われます。

10の階級に(125~285lb)それぞれのトーナメントには毎年約30人近くが参戦しています。

最初に行われる本戦Tは文字通り本戦であり1(王者)~2位を決めるものになります。

そして次に本戦での敗者達(2位以外)を集め再度Tを行います。
これは2位以降の順位を決めるものです。
(第二Tと呼んでいきます)

ブロックは二つに分けられ本戦で良い結果を残した選手ほどシード扱いとなり、
本戦Tでベスト4だった場合第二Tでは準決勝から参加出来ます。

オールアメリカンの選考対象となるベスト8などもこのTで決められますね。



とりあえずこの辺までで。
後日追記したり、その2を作ったりするかもしれません。

ここまで見てくださった方有難うございますm(--)m 

http://blog.livedoor.jp/akoudou2008/archives/1541192.html
あなたの道場「あこう堂」日記:カレッジレスリングと七大柔道

http://kakuchu.blogspot.jp/2013/03/mma.html
ソネンさん、MMAレスリングの奥義を語る
<訳者より>
今回の記事は非常に価値のあるものだと思います。MMAファンだけでなく、これからMMAに転向したいと思っている人や、すでにMMAに転向した人にとっても極めて重要な示唆に富んだ内容だと思いますので是非読んでみてください。オススメです。
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テクニック・トーク チェール・ソネンが語る、MMAレスリングで成功を収めるためのシンプルさとは
記者  Luke Thomas

Silva vs. Sonnen

MMA fightingより
画像はUFC公式より

基本的な質問から始めよう、優れたMMAレスリングは何によって構成されているのか?エリート・アマチュア・レスラーという肩書きはMMAの成功を何ら保証するものではない、それでもMMAを通してレスリングを学ぶのには最高の経歴であり、歴史的に見ても何よりも役立つのは広く認められていることである。言い換えれば、レスリングのスキルが必須だからといって、彼らが必ずしも成功するとは言えないのだ。

MMAでの成功を約束する特定のバックグラウンドやスタイルというものはあるのだろうか?純粋なレスリングはMMAにおいてどれだけ価値があるのか?MMAで全くレスリングの経歴が無い者にとって、レスリングの能力を獲得するにはどのような方法がベストなのか?

チェール・ソネン、レスリングのNCAA-オールアメリカンの時と同様、UFCミドル級からライトヘビー級に見事に転向した男は、このインタビューで詳細に語ってくれた。なぜしばしばエリート・レスラーが彼らの技術を転用する際に困難に陥るのか、MMAにおける現在のレスリングの位置づけとはどのようなものなのか、エリート・レスラーがMMAファイターに転向する際に最も適したキャンプはどこか、レスリングのどのスタイルが実際の試合に最も適応しやすいのか、単純だが非常に効果的なレスリング・ゲームが全ての人にとって必要なのはなぜなのか、他多くのことを語ってくれた。

全音声と文字起こしは以下。
(動画リンクはこちら)

記者ルーク・トーマス:

ある選手のレスリングの経歴のレベルと、MMAでレスリングを用いて到達したレベルの間に相関性が無いのはなぜでしょうか?だからたとえば、オリンピック選手やそれに類するような人たちで彼らのMMAレスリングが「はぁっ!?」というような場合があったり、D-Ⅱプログラム出身の人が私たちの度肝を抜くような場合があります。なぜこういうことが起こるのか、あなたはどう考えますか?

チェール・ソネン:
一部のMMAファンの間には、レスリングとは何かということに多大なる誤解がある。私が知るレスリングの一要素であり、私たちが最も重きを置いて鍛えたのはテイクダウンだった。だが、オリンピック選手権ではテイクダウンを一切取らなくても勝つことが出来る。そして私はMMAファンがそのことにさえ気づいているかどうかわからない。NCAA選手権で一度もテイクダウンを取らなくても勝つことはできる、そして実際にそれはかなりよくあることだ。文字通り一度もテイクダウンで得点しないのも可能だ、また文字通りテイクダウンで一度も得点がないということは早々あるものでもない。しかし、それに重点を置かないということは極めて一般的なことだ。

だから私が言いたいポイントは、ある者がレスリングマットの上で素晴らしいレスラーとなり、多くの証明書をひっさげてくることはできる。実際、たった今キューバのファイターでヨーエル・ロメロという選手がいて、私の知る限りにおいてその世代の中では最も優れたレスラーだ-カエル・サンダーソン、レス・ガッチェス、ヨーエル・ロメロの世代の中では-だが、彼はテイクダウンではあまりスコアを獲得しなかった。彼はティルツ・アンド・ターンズ、そしてトップでのディフェンシブなテクニックでポイントを取った。

(参考動画 ティルツ・アンド・ターンズ)



なので彼がMMAの世界に入ってきた時、それは彼がトップになれるということを意味するものではないし、そしてそれこそが本当に多くの人が誤解していることだ。

それは私の二つ目の質問に関連するのですが、『MMAにおいて最も価値のあるものは何か?』ということについて実際のところどうなのでしょうか?もしあなたがホジャー・グレイシーに聞けば、彼はこう答えるでしょう、BJJの技術の多くは-スポーツBJJは-価値が無い類のものだと。たとえば本当のスパイダー・ガードのように、ギ(胴着)を握る必要があるようなものは。他にもあります。X・ガードは、優れたバランスを持つ選手ならば上を取ってパウンドを落としてくるでしょう。だからレスリングはどの程度‐純粋なレスリングは‐MMAの文脈では役に立たないものなのでしょうか?

私が言えるのは、使えるテクニックはわずかに二つくらいのものだろうということだ。本当にたかだか二つ程度だ。今のは派生したものは省いてあるが、それでもこれがMMAになるんだ。これが皆の求めるものだ、どの(コンバット)スポーツでもだ、反則行為をしたいのなら、MMAでは何でもやりたいことができる。完璧な例としてはダーティ・ボクシングだろう。ボクシングマッチにおいて、相手の首根っこを掴んで空いてる手で相手を殴ることができない理由はなぜか?それが非常に効果的だからだ。だからそれを反則にしなければいけなかったんだ。レスリングでも多くのロックの仕方が同じことで、レスリングにおいては手を組み合わせてロックすることは許されていない。その理由は、もし手を組み固めてしまったらもう一方の選手はずっと逃れられないかもしれないからだ。そうなったらレスリングは最初にそのロックを仕掛けた奴が勝つような戦いになってしまうだろう。

だから反則行為を見つけだして、すぐにそれを実際に使い始めたいとして、その行為がMMAでは正式に合法だと認可されているのならば、すなわちそれは最も効果的だ。グレコ‐ローマンレスリング、私がやっていたものだが、頭を使ってブロックすることは認められていなかった。もしさる紳士が頭を押し当ててきたら、すべての攻撃はシャットダウンされてしまう。そしてそれは当然やったら反則な行為とされてしまった。私は自分が戦ったある男を知っている、名前はマイケル・ビスピンと言うのだが、彼はこれっぽっちもレスリングが出来ないのだ、しかし、彼は私が一生を通じてやったら反則行為ですよと言われて育ってきた頭という部位を押し当て、1ラウンド丸々全部自分を封じ込めてしまったのだ、私がそのことを理解できるまでだ。

君の疑問に答えていることを望むよ。君はホジャー・グレイシーのコメントを持ち出したが、そうだ彼は今のUFCでは最も素晴らしく、震え上がるようなサブミッションを使う奴だ。だがもし私があと二つ以上の要素を持ち込むことが出来たら、彼を完全に封じ込めてしまうだろうね。彼は相手のバックを取るのが好きで、そしてチョークで試合を終わらせようとするだろう。もしあれを持ち込むができたら、彼は本当に制限されてしまうだろう。しかし偉大なファイターとはわずかに一つか二つのことに秀でているだけなのだ。

ということは特に価値があるものとは?

レスリング・テクニックでいえば、もし体に組み付くことができたら、これはアンダーフック・ポジション(脇を差している状態)を取ることを意味してるのだが、そこから自分の手をロックすることができるし相手の体をコントロールすることができる。これがナンバー1だろうね、それか相手の頭をコントロールすることかな。そして私が「ボディ」と言う時はもちろんそれは相手のお尻のところまでのことだし、世間の人が言うところのダブル・レッグ・シチュエーションという奴だね。MMAにおけるダブル・レッグはレスリングでやるのとは完全に別物だ、なぜなら姿勢が別物だからだ。真っ直ぐに立っているのに対して屈んで体を折り曲げているし、パンチをかわすのに対してレスリングでは相手の肘を掴み、伝統的なエルボー・プルかスライド‐バイをするからだ。

だからレスリングで本当に役立つことはたったの二つだけだ。レスラーはMMAで活躍することが多いが、それはただいくらかタフな連中である場合が多いというだけのことで、パンチが空を切る中で成長する空手のシチュエーションとは違う。レスリングのシチュエーションでは選手は毎日他の誰かを掴み押さえ込んでいる。空手の選手はグッド・シェイプで荒事に慣れており、長時間続けることに慣れてるし、出場したときに怪我をしたり傷つくことにも慣れているし、それら全てはとてもいいことだ。レスラーはそううまくいかない。なぜならレスリングのテクニックは他のテクニックよりも優先されてしまうからだ。

私はわずかにレスリングをやっていましたが、それはとてもお粗末なものでした。私はただの趣味人で、だから私はとてもアマチュア的な立ち位置から話しています。しかし私の有利な位置からすれば、自分にはMMAレスリングの位置づけはMMAにおける柔術の立ち位置と同じように見えます。というのも柔術は選手たちがオフェンスよりもディフェンスにおいてより優れているといえるからです。人々はいつもジョルジュ・サンピエールは素晴らしいMMAレスラーだと言いますが、彼はテイクダウンを実行できる数少ない選手の一人というだけです。優れたMMAレスラーについて考えるとき、そのほとんどの場合はジョゼ・アルドのような選手のことを考えます、彼はただリンプ・レッグス(シングル・レッグのディフェンス、足を引きずって抜く動き)でシングル・レッグから逃れ、ダブル・レッグの試みから逃れるだけです。この特徴にご賛同いただけますでしょうか?

RIO DE JANEIRO, BRAZIL - JANUARY 14: Jose Aldo(L) knees Chad Mendes (R) in a featherweight bout during UFC 142 at HSBC Arena on January 14, 2012 in Rio de Janeiro, Brazil. (Photo by Josh Hedges/Zuffa LLC/Zuffa LLC via Getty Images)

まず一つ目に私が気に入らないのは、どうして君がそんなにへりくだった質問をしたのかということだ、私は君たちリスナー全員に主張させていただきたい、ルーク・トーマスは私があらゆる角度からMMAを理解しようというときに一緒に仕事をして、かつてないほどの重圧を感じてきた偉大なる精神の持ち主だ。そして彼はしばしば自分自身をひどく追い込みたがるようなときがあった。しかしそのことで沈み込むようなこともなかった。この男は天才だ。

二つ目に、諸君、ジョルジュ・サン・ピエールは一つのレスリング・テクニックを持っている、ジョルジュ・サン・ピエールは押したり引いたり殴りつけたり相手と組み合ったりなんてできやしない。彼は一つテクニックを持っている、それはダブル・レッグだ。もしそのダブル・レッグを無しにしたら彼はあのポジションを取るためにだいたい三つの異なった体勢をとるだろう、そして彼が試合に臨む時、相手の行動次第で大体六つの異なったフィニッシュをするだろう。私はMMAにおいて彼をベスト・レスラーと呼ぶだろう、しかしまた私は別の場所で、「ジョルジュはレスリングのことについてはごくわずかにしかわかっていない。」と言うだろうね。もしレスリング・マッチに参加したいのなら、ジョルジュはコーチやトレーニングをしてもらうには相応しくない男だ。

だが彼は研鑽を積み一つのポジションを極めた。繰り返すが彼はおよそ三つの体勢と五つのフィニッシュを持っている。彼は超人だ。私は彼がジョシュ・コスチェックのような男を乗り越えてきたのを見ているし、その光景はまったく信じがたいものだったよ。だが繰り返そう、それはたったひとつのポジションによってだ。君達には覚えておいていただきたい、本当に優れた者とは、偉大なる者とは、たった一つか二つのことをうまくやるのだ。マイク・タイソンはアッパーカットが使えただけだ、しかし偉大なる者とはたった一つか二つの道具だけしか必要としないのだ。

見渡してみれば、皆レスリングを練習していますが、彼らはテイクダウンを仕掛ける者に対して、それを止めることばかり巧くなっています。これにはご賛同いただけますか?

100パーセント、完璧にそのとおりだ。その理由はレスリングにある。もし私がレスリングの練習に行き、ずっとレスリングの練習をしたとする-私の地元の大学でレスリングをやったとする-しかし私は100の異なる動きに出くわすだろう。それはレスリング・デイの一部分にすぎない。このポジションを取ろうとする、そしてこのポジションを使って巧く動こうとする、そしたら100くらいの異なった動きに出くわすことになるだろう。MMAにおいてはたった一つか二つのそういう動きがあるだけだ。だから防御的な姿勢から、レスリングを止めるためのレスリングを学なくてもいいのだ。ダブル・レッグを止めるための素早いスプロールだけを学べばいい、たぶん他にも必要かな。ホジャーが言ったようなものは全部切り捨てられるんだよ。

そのためにいいベースはありますか?そしてこれが私が言いたいことです。ヘンリー・セジュードはMMAで我が道を行こうとしているし、心情的には彼のあり様も理解できますが、しかしもしスカウトに彼のレスリングのやり方を見てもらうように頼んだらどう言うでしょうか-彼は競技的だし、彼は素早いし、彼は素晴らしい動きをしている、豪快な投げもあるね。さて、これらの要素を思い浮かべてみて、MMAでの成功に結びついたでしょうか?

その望みは極めて少ない。もしヘンリー・セジュードが株だったら、私はその株に大量に投資していただろうね。彼の仕事理念、競争能力、駆け引きの巧さ、マットでのコントロール、これらのことはうまく機能すると思うだろう。だが違う、これらのテクニックを目にすることはないんだ。

ここで完璧な例を紹介させてくれ。この国で、グレコ‐ローマンレスラーはまずフリースタイルをやらない。フリースタイルができなかった奴らがグレコ‐ローマンに行くんだ。今私はグレコ‐ローマン・ガイだし、それが本当に真実であると君に直接教えてやることができる。だが、フリースタイルの選手としてより優秀なアスリートになればなるほど、より優れた選手からは遠ざかり、素晴らしいテクニックから離れていくことになるのだ、グレコ-ローマン・レスラーはMMAにおいてはいつも彼らよりうまくやってきた、ランディ・クートゥアからダン・ヘンダーソン、マット・リンドランド、そして私だ。私達はいつもフリースタイルの連中よりも成功を収めてきたが、彼らも私達も誰一人としてそれが何故なのかはわからなかった。

私はその理由の大部分が姿勢によるものであることを主張したい。ヘンリー・セジュードと出くわしたら、彼は体を折り曲げて屈んだ状況にいるだろう。彼は腰を曲げて後ろに引き、頭をマットのほうに下げた状態を維持するだろう。グレコ-ローマンの場面では真っ直ぐに立って高くしたり低くしたりするが、それはMMAやボクシングの場面で使う姿勢と同じなのだ。そしてフリースタイルの連中は多くが相手の攻撃を外し、足か尻を取ることにばかり精を出すが、それは彼らが屈んだ状態でそうやるのに非常に慣れているからで、それに対してオクタゴンでは真っ直ぐに立つことを強制されてしまうんだ。

ジョーダン・バラフスや、ミスター・アンクル・ピックことケール・サンダーソンなどの選手はどうなると予想しますか?



繰り返しになるが、ケールはMMAでは絶対にアンクル・ピックを取れはしないだろう。それはまずうまくいかないだろうね、掴むための靴が無ければ機能しないだろう。彼は滑ってしまうだろう。ツルツルした足首で滑って外れてしまうだけだろうね。君はアンクル・ピックを持ち出したが、そのことが出たら私はまたヨーエル・ロメロのことに戻らなきゃならない。君達リスナーのほとんどが彼が誰なのかを知る気もないだろうが、しかし私はちょっぴりファンなんだよ、なぜって彼は私と同世代だからね。

(参考動画 ケール本人によるアンクル・ピックのデモンストレーション)


彼もまたストライクフォースで戦い、彼はフェイジャオ・カバウカンチに負けています。

彼がフェイジャオに負けたのは事実だ、そうあれは結局のところフェイジャオがコミッションのお役所仕事に助けられた試合だったが、しかしヨーエルは見事に生き残った、負けはしたけれども‐彼はストライクフォースで0勝1敗で‐彼はUFCに移籍した。彼はデビュー戦を控えている。

だがポイントは、そうだ、あれらのテクニックは使えないだろう、ジョーダン・バロフスのダブル・レッグですらな。MMAでダブル・レッグが使えるだろうか?もちろん、恐らくだが、最も効果的で、MMAで高確率のテイクダウンだ、しかし彼の体勢ではうまくいかないだろう。彼は体を折り曲げないだろうし、アーム・ドラッグをしていないだろうし、マットに両膝をついて、その状態からマットを蹴って飛びつくようなこともないだろう。彼はダブル・レッグをアップライト・ポジションからやらなければいけなくなる。ジョーダン・バロフスのダブルレッグは全て彼の頭が相手の頭の下にある状態からスタートする、そしてそこから彼は上に向かう動きに移行するんだ。彼は自分の頭が真っ直ぐ起きていて、そこからダブル・レッグをやるために下に向かっていく動きに適応しなければならないんだ。

(参考 ジョーダン・バロフスの高速ダブル・レッグ)



彼にそれができるだろうか?ああ、彼はきっとせいぜい数ヶ月でできるだろう、だがMMAは今も変わり続けている。同じ状態じゃないだろうし、それはケールだってそうだ。ケールの最大の得点テクニックはオクタゴンでは機能しないだろう、だが、ケールがリングの中で相手を引きずり倒す方法を見つけ出すことがないとも限らないと思っている。

私が数人のレスラーと話したとき、彼らは私にこう言って来ました、「なあ聞いてくれ、ダブル・レッグはずっと成功率が高いって言うじゃないか、よく知らないが、シングル・レッグ・スウィープよりもだ。でも真実じゃないだろう、だってそいつはマジでレスラーが使う技だぜ。でも自分にはダブル・レッグはレスリングのどのレベルにおいてもより使いやすいツールな気がするんだ。ジョーダン・バラフスのダブル・レッグは大抵のMMAジムの平均的な連中よりもずっと優れているだろうけど、でも彼らはもっとずっとたくさん仕掛けてくるんだろ?賛同するかい?」

ああ!まったく、完全に同意だ!私はMMAにシングル・レッグが存在するのを信じていなかった。私がそれを教えるときは常に相手に自分の足を好きにさせる。皆を自分の周りに集め、彼らを座らせ、彼らは自分がテクニックを披露しているのを見ている。私は相手に足を与え、そして一同に尋ねた、「こいつは私の足を取るだろうか?」彼らは全員ハイと言った。そして私は言った、「よしもう一回見てろよ、彼は私の足を取るかな?」そして彼らはハイと言った、そして私は言った、「もう一度見てなさい、彼は私の足を取るかな?それとも私が彼の両手を取るかな?」そしてこのあたりで皆はようやく理解し始める、シングル・レッグは、みなシングル・レッグは望んでいないのだ、と。自分は満足して相手にシングルを取ることを許可して試合を始める。

私達がツリートップ・テイクダウンかラン・ザ・パイプ(両方ともシングル・レッグの派生の一つ)を見ないのはなぜでしょう。一般的に言われるように、MMAにおいてはシングル・レッグはあまり効果的ではないのでしょうか?

(参考動画 上 ツリートップ・テイクダウン 下 ラン・ザ・パイプ)





本当はそんなことはないし、シングルを取って倒す奴を見ないということはないだろう。私は(勇信)岡見が二度も、本当にわずかにシングルっぽいことをやって、驚くべきことにヘクター(ロンバード)を見事に倒したのを知っている、週末にかけてのことだ。だが本当はあれじゃない。私はランディ・クートゥアがワン・レッグ・テイクダウンに行くのが大好きなのを知っている、彼がヘビー級のときだ。彼は股の付け根の可能な限りギリギリの高さまで入って、真っ直ぐに持ち上げて下に落とす、彼の頭をレバーのように使ってね。ああいう動き方は、自分が思うに大部分はそうせざるを得なかったんだと思う。なぜならあれらヘビー級選手というのは非常に大きいから、彼はただ自分の腕を相手の体に回して包むことができなかっただけなんだ。だがそうだね、皆は本当にシングルを見ることはないだろうね。相手の一方の足にひとっ飛びに組み付くことができる奴じゃなければね。でももし両足とも抱え込めたら飛びつく理由はないね、特に相手を掴み挙げてマットから浮かせるならね。重力に関する単純な物理学の話だ。

あなたが言わんとするのは誰でしょうか、たとえばエディンボロ(大学)出身のクリス・ハニーカットなどがそうだと自分は思っているのですが・・・。

(参考動画 クリス・ハニーカットのカレッジレスリングの試合)



おおそうだね、エディンボロ、うん、彼は今AKAだね。

彼は招集された、そうですよね?人々は彼がD-1でしたことを見ていました。明らかに彼もまた興味をそそられる選手です。しかし私が思うに世間やキャンプは現在こういう選手を見出し、より素早く彼らのような存在を高いレベルのMMAに転向させるのに秀でています。あなたが世の中を見回したとき、誰がそれをうまくやっていると言えるでしょうか?またその理由は?

私には君の質問がどのアスリートがそれをうまくやっているのか、それともどのプログラムが選手募集に優れているのか、どちらを聞いているのかよくわからなかった。だが選手募集は本当に進んでいる‐少なくともレスラーにとって‐AKAはダニエル・コーミエを獲得した、近年記憶にある中では最も尊敬すべきレスラーの一人だ、競技者としてだけでなくコーチとしてもね。モー・ローワルに、ケイン(ヴェラスケス)も手に入れた、彼ももちろんそこの出身だし、ジョン・フィッチに、彼らはコスチェックもしばらくの間獲得していたね、彼らは全員とても優れたレスラーだし、だからこそ他の優秀なレスラーを招き寄せるのも至極簡単なことだったろう。だがわかるだろう、たくさんの連中がいて‐そして彼らは必ずしもレスリングで王者になる必要が無い‐だから私が思うにMMAへの転向はずっと早いほうがより良いのだろう。

もう一度リスナーのために言うが、一度もテイクダウンを取ることなくレスリングの国内王者になることはできる。それは確かにそう頻繁に起こることじゃない、だがそれに極めて近い状態なんだ。一試合で一度はテイクダウンを取ろうとする連中はたくさんいる、だがそれはトップを取って過度のポイントを得て次のラウンドに進むためだ。そしてそれはMMAでは機能しない。テイクダウンを取ろうとする別の連中がいて、それはすべてマットの上でのことだ。彼らは殴り、両膝の上で止まり、素早く這い登って、それからトップに出てくるんだ。MMAのような格闘スタイルのイベントにおいてうまくやれるような類のレスラーは爆発力で潜り抜けられる奴で、マットの上で時間を過ごす必要もないし、対戦相手を殴り、相手の足を外してさっさと上を取ればいい。

そういう理由からあなたはハニーカットがうまくいくと信じていますか?彼はテイクダウンで試合を決める権威ですし、彼は強いフィジカルを持った大男です。

そうだね、彼は大きくて荒々しい男だ、自分はハニーカットの信奉者だよ。私は彼がMMAに来たときはめちゃくちゃ興奮したね。私は彼をここに呼び寄せて引き抜くことを望んでいたんだが、でも彼らがあの男を掬い上げてしまったね、うん、私が思うに彼はうまくいくと思うよ。彼は君が言うように荒くれ者だし、彼は大きな体格を持った奴だ、テイクダウンを取りに飛び込んでいくだろうね。

もう一つ重要なのは彼がトップを取るときのことだ。外国人のレスラーがとてもうまくやったり、チャンピオンでいるのを見たことが無い理由の一つであり‐ヨーエル・ロメロ、もう一度、彼に戻るのだが‐これまで大勢の選手が転向してきた。ウラディミール・マチュシェンコはいい例だろう。彼はオクタゴンの中ではこれっぽっちもレスリングができないが、UFCに所属する選手の中ではもっとも立派なレスラーの一人だ、だが大勢のファンはそのことすら知らなかった。アメリカでは、相手を寝かし続けることができる奴が評価される。アメリカでは、下になった状態から立って離れることができる奴が評価される。だから他の国ではテイクダウンが起こったときに、立ち上がって逃げる努力をしないし、また相手を寝かせ続ける努力もしないんだ。もし倒されて15秒ほどそのままでいたら、レフェリーはトップにいる選手に相手を立たせるよう強要し、それから試合を続行するだろう。

だからこういう外国人選手の多くは、どうやってそれをやるのか知らないんだ。彼らはテイクダウンを取っても、自分のように危機対応をして、すぐに飛び起きて相手の足を取りに行くような選手が相手だった場合、一気に疲れてしまってテイクダウンが役に立たなかったということになるんだ。なぜなら相手を寝かしつけてそれを活かすことができなかったし、立った状態に戻されて疲れてしまうからだ。外国人のレスラーにとってそれが大きな問題なんだよ。もう一つの問題として、もし自分たちが外国人選手をテイクダウンしたら彼らを一日中漬け続けることができるだろうね、私たちが人生の殆どを費やしてきたことこそ、相手を寝かし続けるということだからさ。外国人選手は立ち上がって逃れるということに慣れていないんだよ。

それが理由さ、そう、「もしオリンピックがなくなったら、ロシア人はMMAに参戦するだろうか、ウクライナ人は・・・」って多くの記事で書かれたり(話したり)するのを見かけるね。彼らは挑戦はできるだろう、だが彼らのレスリングのスタイルは馴染まないだろうね。

一般的に、ロシアのMMAへのコネクションはサンボと、わずかに柔道の分野を通してであると言われていますが、彼らは国際レスリングを支配しています。あなたはアメリカン・フォークスタイルは世界共通の一般的なフリースタイルよりも明らかにMMAの本質に近いものであるという考えです。

私はそれは確かだと思っている。国際的なフリースタイルや国際的なグレコ‐ローマンでさえ、それはMMAへの転向に際してあまりにも、あまりにも制限されたものなのだ。そしてもう一度言うが、もし下になった状態から起き上がって離れることができなかった場合、ホジャー・グレイシーのような類のスタイルでなければ本当に大変な危機に陥ることになる、そこがどういう場所か気にしないからだ。そしてもう一つは、テイクダウンを使うのは凄まじい労力が必要ということだ。もし試合でテイクダウン狙いで一生懸命戦うとして、相手が飛び起きて立ち上がってきたら、すぐさま自分のバッテリーは空っぽになって、さあその状態で戦いに戻らなきゃいけなくなる。レスリングでは普段何回か練習することもあっただろう。その激しい練習をやらされるんだよ。それは外国人選手にとって本当に難関となるんだ、それをたくさん見てきたよ。トム・ワトソンはちょうどとても優れた外国人レスラーを倒したけど、彼は相手を叩きのめしたね、でもそれも同じ問題なんだ、私は彼の名前が思い出せないんだが、君なら私が誰について話してるかわかると思う。チアゴ・シウバが彼からタップを奪ったし、トム・ワトソンがちょうどぶっとばした相手だ。

スタニスラフ・ネドコフ

おお、彼は素晴らしい男だ、素晴らしいファイターだ、そして彼は素晴らしいレスラーだ、だが、彼らは変換してないんだよ。それは同じものじゃないんだ。

これが私たちがずっとMMAレスリングと呼んでいるものであり、これこそが私が言わんとしていることです。あなたはダニエル・コーミエがインサイド・トリップ(内掛け)を仕掛けるのを見たはずです、そして時折足を掴んで軸足を蹴り払う選手を見たと思います。しかし一般的に言われていることは、トリップは価値がある、しかしもしそれに過剰に頼る選手をがいたとしたら、たぶんその選手は最高のレスラーではないということを意味するのだろう、ということです。それからデミアン・マイア、彼はトリップを上達させてきました。私は彼に捕まって転ばされずにすむ選手を知りません。あなたはあれをなんて呼ぶのでしょうか?彼の基礎である柔術テイクダウンの範囲にあるもので、彼はそれを高レベルのアートにまで高めたのでしょうか、それともあれもまたMMAレスリングなのでしょうか?

私はそれをMMAレスリングとは呼ばないだろう、なぜならマイアのしていることはまさにレスリングでは反則だろうからだ。だがそれは私の最初のポイントに戻ってくる、何が反則か見つけ出してそれを使い始める、なぜならそれが反則にされたのはそれが最も効果的だから、というところにだ。マイアがやっていることは組み合わせであり、自分にとって、あれは私たちがバックヤード・レスリングと呼ぶものだ。彼はそこからひたすらに突き進み、うまくそれらを機能させているんだ。もちろん、彼はある程度のレスリングと柔道の要素も混ぜ込んでいた。

私はマイアによってその技術の犠牲になった。私は彼をフェンスに押しつけて、自分の好きなポジションに入った。彼は自分と交差するように足を運んで、自分を完全に宙に放り投げた。私はマットに激しく叩きつけられながら思った、「一体全体何が起こりやがったんだ!?」、そして「どうした?自分はどうやったんだ、あれは間違いなくいい動きだったはずだ。」

それは異なるやり口だった、そして君はダニエル・コーミエについて言及したが、彼は異なる階級にいる。彼が落としてくるまで待ちたまえ。彼がヘビー級を相手にできたいくつかのことは、ライトヘビー級では変化しているだろう、そしてダニエルは危機対応できるし美しいテクニックも実行できるだろう。もっとも最近ではいつでもというわけにはいかないがね。「1つのテクニックに、1つのスコア、良いレスリングで使うのは3つか4つ。」もし私がレスリングができる選手と戦っているなら、自分の最初の攻撃は通用しないだろう。もし自分の最初の攻撃が通用したなら、それは間違いなくレスリングが出来ない相手と戦っているということだ。

私はデューク・ルーファスには話したのですが、私たちがベン・アスクレンがより良いストライカーに転向する場合について話していたとき、私が彼の話からわかったことは、距離を取ってのジャブこそがベン・アスクレンにとって実用的であろう唯一のものだということです。だがグラウンドにおいては彼はまだ望みがありました。彼が持つ希望とは、彼は一度火がついたら相手をグラウンド&パウンドで痛めつけ始めるということです。彼が火種になった論争の一つに、距離を取って打つ打撃とグラウンド&パウンドではわずかに筋肉のグループが異なるのではないかというのがありました。そのコンセプトについて話し、加えてレスリングについて尋ねるならば、純粋なレスリングは競技者に対して、MMAとは運動的に異なったことを要求するのでしょうか?レスリングはわずかに停止よりも全力疾走のように見えますし、全力疾走をしては止まりという感じですが、実際はもし25分戦おうものなら、それはほとんど持久力トレーニングのようなものです。運動的には何が違っているのでしょうか?

私は運動的な違いがあるかは知らない、しかし間違いなく異なるアスリートだ。私はレスリングが本当に達者なアスリートを見てきた、ベン・アスクレンもそうだが、マラソン・スタイルのペースの選手は、あるペースからスタートして相手に対してノンストップでいる。それがアスクレンだろうとニック・ディアズだろうと、彼らは相手に対して同じペースでい続けるだろう。私はまた開始して全力疾走する選手も知っている、彼らはあるペースでスタートして、ズドン!だ。そして彼らは大爆発して彼らのポイントに到達し、最高潮に達し、そして今じゃ戻って休んでいる、という具合さ。彼らは全てを遅くして、相手が出てくるのを待って、ズドン!また大爆発という訳さ。

私はスポーツによってその違いが出るのだとは思わない。だがコーチのルーファスがベン・アスクレンについて言ったことには賛成させて頂きたい。彼が相手とグラウンドになったとき、脱出するのはとても難しい、そして彼は相手のバッテリーをあっという間に吸い取ってしまう。彼が手を相手に接触させた瞬間に、相手は疲れ始めてしまうのだ。そして彼は相手の上に乗り続け、窒息させ、そしてもう相手は絶対に距離を取ることはできない、自分の攻撃を始める自由は絶対に得られないのだ。

ベン・アスクレンは非常に効果的な動きをしている、だがそうだね、このスポーツではエキスパートである必要は無いんだ、あの男を見れば、ねえ、彼はまず確実に手をうまく働かせる必要がある、彼のキックボクシングもだ、もし彼がUFCのようなハイレベルの場所で競争しようというならね。

カイル・デイクとデイビッド・テイラーが最終的には恐らく165ポンドで試合することについて何か予想していることはありますか?

私には何の予想もないよ。私もその試合に興奮してるし、その試合はレスリングのためにも組まれるべき重大な試合だ。私は本当にその試合がなくならない事を祈っている。それというのも彼らの内の一人は短期間で試合をしなきゃいけないし、彼らは二人ともチャンピオンだからね。私は彼ら二人をとても尊敬しているんだ。試合がもう待ちきれないよ。君に一つ教えてあげよう、ルーク、実は私の予想はあるんだ。君と私はその試合を見逃さないだろうからね。

この対談の全体のテーマは、もし私があなたに尋ねるのなら、「何が素晴らしいMMAレスリングを作り上げるのか?」ということです、今、あなたは何と答えるでしょうか?

MMAレスリングを作り上げるだろうものとは、何が機能するかを理解するということだ。もし君がレスラーで君がMMAに転向しようとしている場合、その逆も然りだが、君はほとんど全てのものを投げ捨てる必要があるということを理解しなければいけない。まさにホジャーが言うとおり、「おいサブミッションはMMAじゃ機能しないぜ」、それから彼は先に進んで全員を極めるんだ。本当にホジャーが言おうとしていたことは、ほとんどのサブミッションは使えない、だがまだわずかに使えるものがある、ということだ。だから自分たちが使えそうなわずかな技が何かを分析しようぜ、そして毎日そいつを練習しよう、自分たちのその技の攻撃と極めがより良くなって、敵のその技へのディフェンスを上回れるようにさ、ってね。そしてそれが自分がレスリングについて言おうとしたことだよ。自分の修練がきつくなることを恐れてはいけない、先に進むのを恐れてはいけないんだ。

「なあこのレスリングってもんは本当に何の役にも立ちゃしねえな、だが相手を地面に引きずり倒せる要素が二つくらいはあるじゃねえか。」

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というわけでソネンさんが語るMMAレスリングの奥義でした。これはレスリングに限らず、MMAという競技の奥義であり、真髄と言ってもいいものではないでしょうか。もうこれからはソネンさんではなく、ソネン教授とお呼びしたほうがいいかもしれません。マジでMMA学という学問を起こせそうなほどの博識と慧眼だと思います。

アマチュアでの実績に対して、結果が伴わない選手というのは非常によく見かけます。しかしなぜそういういことが起こるのかを選手としてここまで理論的に説明できた人はこれまで見たことがありませんでした。その理由は「MMAとその他のコンバット・スポーツは似て非なるもの」だからです。レスリングの要素があるからといってそのままレスリングが使えるわけではないですし、それはボクシングも空手も全て同じことです。そこでは適切な変換作業が求められます。ただここを同一視する人は本当に多いと感じます。MMAは様々な格闘技の要素を組み合わせて構成されている全くの別競技、という視点は鑑賞に必須です。サッカーとフットサルとセパタクローと蹴鞠は共通で使える技術やフィジカルがあるが、全ては違うルールに基づく別の競技なのです。

そして自分が一番感心したのは、「他の競技では反則とされていることで、MMAでは合法な行為とは、すなわち最も効果的なものである」という指摘です。

ソネンさんはダーティ・ボクシングを例に挙げて、クリンチをして相手を殴りつけるのがボクシングで反則なのは、それが最高に効果的だからだ、としています。これは全くの同感です。ここで思い出されるのが、ライトヘビー級王者ジョン・ジョーンズとそのブレインであるグレッグ・ジャクソンの存在です。彼らがMMAで好成績を残してきた理由は、まさにこの点にあると自分は思っているからです。

代表的な例はジョーンズの関節蹴りとエルボーの多用でしょう。この二つは打撃系格闘技では禁止されている場合がほとんどの技です。エルボーはキックボクシングの一部で許可されているだけですし、関節蹴りにいたっては立ち技競技では全て禁止になっているほどの危険な技です。しかしUFCのルールはどこを見渡してもこれが禁止だとは一言も書いていません。つまりこれは合法な行為なのです。

アマチュア・スポーツの多くは、危険な技や、一方的に有利に運べてしまう技術などを反則とする傾向にあります。これは選手の安全性確保と、競技がより白熱し拮抗するための工夫でもあります。つまり有利で一方的ないわゆる「ハメ技」「壊し技」ほど、禁止される傾向にあるわけです。

ということは、各競技で早い段階で禁止になった技の中には、今のMMAに革命を起こすような技が眠っているのかもしれません。たとえば柔道の脇固めや河津掛けに蟹挟み、レスリングでの頭を使ったホールド、空手の関節蹴り、ボクシングでの肘や足へのローブローにクリンチ・パンチなど、現在でもすでに有効に使われている反則技は枚挙に暇がありません。そして自分はここにとてもロマンを感じます。いつか誰かが、まったく予想もしなかった競技から、予想もしなかった技術を持ち込んでMMA界に旋風を巻き起こすのでは、と色々と妄想してワクワクしてしまいます。

MMAの醍醐味はまさにここにあります。極めて限定的な状況下で競うスポーツの洗練された技術も面白いですが、それらはルールの枠を外すと大部分が使えなくなってしまうために、MMAでは「何がMMAで使えるのか」という創意工夫の比重が大きくなります。つまり工夫次第では、どんな強者も倒す秘策を編み出しうるわけです。この相手を倒すための試行錯誤こそ、自分が鑑賞したいポイントの一つでもあります。

そしてこの創意工夫こそ、他のスポーツからMMAに転向する際に必須の「変換作業」ということになります。自身の得意なものをMMAで活かそうというときに次々と使えないものを切り捨てていき、最後に残ったわずか数個の技術こそが自身に成功をもたらす最大の武器になるのだと思います。

MMAとは自分のやっていたスポーツの延長ではなく、自分の競技で反則となっていることも許される全く別のスポーツなのだ、この立場に立って初めて選手のキャリアはスタートするのだと思います。この視点を持たない選手が適応できずに消えていくのでしょう。

他にも言いたいことはありますが、ソネンさんが言ったことは全面的に同意です。ペース運びが違う選手は全く別種のアスリートだという指摘や、テイクダウンができるからといってレスリングが巧いわけではないということなど、自分が前から感じていたことをほぼすべて、極めてわかりやすく説明してもらえた感じです。またレスリングのスタイルによるMMAへの適応力の違いがその姿勢にあったというのは目から鱗の指摘でした。また「本当に偉大なる選手が使う技術はわずかしかない」というのは、格闘技に限らず全ての分野での真理であるということも経験的に理解していた自分にとって、再確認できたという意味でも非常に有益でした。

これからMMAに転向したいという方、今選手だという方にもこの話は非常に有益だと思いますので、是非参考にしてみてください。MMAファンの皆様は、この記事を読むことによってさらにMMAが楽しくなるのではないかと思います。そして皆でプロフェッサー・ソネンに敬意を評しましょう。素敵な講義をありがとう、プロフェッサー・ソネン! これからも岡見さんをよろしくお願いします!

http://mmaplanet.jp/36321

【Interview】リコ・チャッパレリに聞く、フォークスタイル・レスリングの神髄、フリースタイルとの違い
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2014.08.05

Interview
Special

カレッジレスリング,
リコ・チャッパレリ,
七帝柔道

Rico Chiapparelli in R-1 gym【写真】カレッジレスリング、フォークスタイルとは何なのか、リコ・チャッパレリが語ってくれた(C)MMAPLANET

「フリーやグレコでなく、カレッジスタイルを経験してきたから米国人レスラーはMMAに馴染みやすい」。そんな意見をリコ・チャッパレリの口から初めてきいたのは、1998年のことだった。

当時、彼の言っていることがまるで理解できていなかったが、UFC人気が急激に上がり、世界のMMAがケージ+トップ重視になった頃から、ようやくその真意をなんとなく理解できるようになってきた。NCAAなど米国のカレッジレスリングの試合を目にすると、それはまるで打撃のないMMAに見える。ただし、フォークスタイルと呼ばれるグランドコントロールに優れたレスリングを日本で体験することはできない。

6月某日、Team OTOKOGIという日本を代表するMMAトレーニング・チームで組技を指導するネクサセンス代表・植松直哉――日本を代表するグラップラーが、その神髄を確かめるべくLA近郊イングルウッドのR-1ジム、リコ・チャッパレリの下を訪れた。

1987年にNCAA D-1を制し、アイオワ大で名将ダン・ゲイブルの指導を受けたチャッパレリは、ヘンゾ・グレイシー門下グレイグ・キューカックの下で柔術も学び、rAwチームというレスリング上がりのMMA集団を創った。その性格からか、あまり表舞台に現れないチャッパレリだが、誰もがその実力を認めている。チャッパレリを通じ、植松は亀返しなどグランドコントロール、そしてテイクダウンの指導を受けフォークスタイルを肌で感じた。

この訪問の模様は8月12日発売の月刊秘伝に掲載されるが、その際、リコが語ったフリースタイルとフォークスタイルの違い――をここで紹介したい。レスリングが相手を組み伏せるコンバットスポーツだった時代のエッセンスを受け継ぐ、カレッジレスリング、フォークスタイル・レスリングの神髄とは。

――NCAA D-1王者だったリコですが、日本人にとってレスリングとは五輪で行われているフリースタイルであり、グレコローマンを指します。カレッジレスリング、いわゆるフォークスタイル・レスリングの知識をあまり持っていません。フリースタイルとカレッジ、どのような違いがあるか説明してもらえますか。

「フリースタイルのようなものなんだ。ほんと、変わりはない。ただ、ペースがゆっくりしている。それはよりコントールが重視されているからなんだ。どの国にだって、ビジネスの事情にあったレスリングがあるだろう。日本ならスモー、我々はフォークスタイル、ヨーロッパのキャチ・アズ・キャッチ・キャンからの流れだ。ピン・コンビネーションのね。フリースタイルとの違いは、よりコントロールを重視し、ライディングタイムが与えられ、何よりもエスケープ・ポイントが設けられている点が大きいだろう。それとリバーサリングもね。下になっている人間が上になると、テイクダウンと同じだけポイントが入る。

テイクダウンをした時に、一気にピンにいくのがフリースタイルで、フォークスタイルはじっくり攻める。パーテルでも下を選ぶ選手が多い。立って向き合い、離れると1P入るからだ。そういう戦略が成り立つんだよ。フリースタイルにパーテルがあった時は、皆バックを選んでいたはずだ。その方が圧倒的に有利だからね」
【写真】アイオワ大時代のリコ・チャッパレリの雄姿。「ダサいシングレットを着ないといけなかったんだ」と、大学卒業後トップモデルとして活躍していた彼は当時を笑って振り返る(C)IOWA University

【写真】アイオワ大時代のリコ・チャッパレリの雄姿。「ダサいシングレットを着ないといけなかったんだ」と、大学卒業後トップモデルとして活躍していた彼は当時を笑って振り返る(C)IOWA University

――同じキャッチ・アズ・キャッチ・キャンがルーツでも、ポイント方法が違うので、スタイルも変わっていったということですか。

「技術的な面でいえば、フォークスタイルは抑えている時に腕をクラッチしちゃいけない。だから腕力でなく、ボディで相手をコントロールする必要がある。フリースタイルは腕を組むから、そこから攻防が少ない。組まれた方もクラッチを剥がすのに懸命になる(笑)。フォークスタイルを戦ってきた米国のレスラーは、MMAになって打撃有りでも相手をコントロールできるんだ」

――なるほどッ!! ボディで相手を抑えることができるので、余った手でパンチを入れることができると。ずっとMMAを見てきたのに、リコに言ってもらうまで分かっていませんでした。ベン・アスクレンはNCAAでは2度優勝していますが、五輪ではメダリストではありません。でも、コントロール力は五輪メダリストよりもあるということですね。

「フリースタイル・レスラーは、グラウンドのコントールなんてできないよ。彼らがアスクレンより劣っているんじゃない。そういう競技のなかで戦ってきたんだから、当然なんだよ。フリースタイル・レスラーは、相手が立ち上ることを気にする必要がない。多くのコンバットスポーツは、攻めることばかりに重点が置かれるようになった。だから、投げて立ち上がることを気にする必要はない。

フォークスタイルは立ち上がられるとポイントを失うから、立たせないようディフェンスが発展している。凄くテクニカルなんだ。殆どの人が理解できないけどね(笑)。フリースタイルやグレコの連中は、腕を組んでいないと相手を抑えることができない。ブラジリアン柔術のグラウンドが優れているという意見が多いけど、柔術家は胃で相手をコントロールすることはできないんだ。だから、スポーツ柔術ではフィニッシュにいくまでの動きに、セルフディフェンスとはなりえない奇抜な動きが見られるようになった」

【Interview】リコ・チャッパレリ<02> 「フリースタイルは、柔道が辿ってきた道を辿ろうとしている」
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2014.08.06

Interview
Special

カレッジレスリング,
リコ・チャッパレリ,
七帝柔道

Rico Chiapparelli and Naoya Uematsu【写真】植松直哉とリコ・チャッパレリ。個人レッスン後、植松が日本に招待するのでセミナーを開いてほしいと伝えると、「日本は遠いからいいや」と笑顔で語っていたチャッパレリ。レスリング&MMA界の仙人と化しているが、彼の技術をこのまま埋もれさせるのは、格闘技界にとって損失だ(C)MMAPLANET

12日発売の月刊秘伝に掲載される――カレッジレスリング・レポート。日本を代表するグラップラー、そしてMMA組技コーチの植松直哉が、フォークスタイル・レスリングの達人リコ・チャッパレリの下を訪れ、亀返しの指導を受けた。その際、チャッパレリが語ったフリースタイルとフォークスタイルの違い――。

前編に引き続き、後編では1987年にNCAA D-1を制し、バルセロナ五輪候補だったチャッパレリが、コンバットスポーツして戦いに勝つことだけから、見て楽めるエンターテイメント・スポーツへの変化に際し技術が変わる、カレッジレスリングがレスリングらしさを残すことができた理由、そして七帝柔道にも言及する。

<リコ・チャッパレリ インタビューPart.01はコチラから>

――競技柔術ではフィニッシュにいくまでの動きに、セルフディフェンスとはなりえない奇抜な動きが見られるようになったというリコの意見、本当にその通りだと思います。

「ただね、レスリングも同じで、本当に重要な動きばかりしていると、ブーイングや『もっと動け』って野次られる(笑)。フリースタイルでもフォークスタイルでも、スモーでも同じだろう。柔術、サンボ、柔道も同じだ。だから、柔道も投げ優先で、一つの投げや30秒で勝負が決まるようにルールは変わってきた。今のフリースタイル・レスリングがその典型だね」

――フリースタイル・レスリングは、ほぼグラウンドの攻防は見られなくなりつつあります。

「そう。フリースタイルはコンプリートなレスラーでなくても良いんだ。フォークスタイルは、コントールが重要になってくるから、レスラーとしてよりコンプリートだ。フリースタイルは、柔道のようになってきた。いや、柔道が辿ってきた道を辿ろうとしているという表現の方がしっくりくるかな。

柔道は観客が見て、楽しめるスポーツになっただろう? 寝技が続くことはない。柔術のように足を一本抜いて、観客がわくなんてこともない。そういうビジネスベースに乗ったんだよ、柔道もフリースタイルも。ビジネスベースに乗ったという点でいえば、カレッジレスリングは米国最大のレスリング・トーナメントなんだ。

USオープンなんかよりもずっと大きい。いってみれば、世界最大のレスリング・トーナメントなんだよ。そういうビジネスベースに乗って、カレッジのルールだって変化が合ったよ。けれども、フリースタイルのように根幹が変化したり、目まぐるしく変わることはなかった」

――フォークスタイルは古くからのレスリングのエッセンスを残しているということでしょうか。

「アメリカのエッセンスを残しているんだ(笑)。4年に一度、注目されるレスリングよりも、毎年盛り上がるレスリングの方が人々だって夢中になれる。アメリカ人にとってレスリングといえば、カレッジスタイル。フォークスタイル・レスリングのことを言うんだ」

――米国の国民性だと、五輪でメダルを取ることに躍起になり、そこをファンのサポートするように感じるのですか。

「伝統だからだよ。強烈にサポートする州も残っている。世界選手権や五輪レスリングには、彼らがやっていけるフォームが必要になり、レスリングは形を変えたんだ。一方、カレッジの場良いはオクラホマやアイオワだと、カレッジレスリングの試合に1万5000人以上の観客が集まる。

彼らにとって、米国代表なんて関係ない、アイオワ大やオクラホマ州立大の方が大切なんだ。カレッジフットボールと同じだよ。ファンの興奮度は、レスリングの世界選手権とNCAAは全く違う。そういうことだから、カレッジはスタイルを大きく変える必要がなかった。これだけ人気があるんだからね。柔術もそうだ。寝技を喜ぶファンがいるんだから、柔道のようにはなっていない」

――フリースタイルは、レスリングとして完璧でないと言われましたが、技術的にも失っているモノが多いということでしょうか。特にグラウンドでは。

「ほとんどのケースでね。ライディングからピンへの動きにもっと余裕を持たせないと。1秒や2秒で、動きが遮断されるような展開ばかりだからね。とにかくポイントが入ると、人々が喜ぶと思っているから、押し出しのようなルールを制定したこともあった。柔道と同じだ。みんな一本が見たい、ピンが見たい、MMAならKOが見たい。柔術ならサブミッションだ。そういう要求にルールがすり寄っていくのは、どのスポーツに見られることなんだ。
【写真】ホールディングダウン(抑え込み)の際の重心を置く位置を植松直哉に指導するリコ・チャッパレリ(C)MMAPLANET

【写真】ホールディングダウン(抑え込み)の際の重心を置く位置を植松直哉に指導するリコ・チャッパレリ(C)MMAPLANET

カレッジでも勝つためにテイクダウンだけを目指す人間もいる。テイクダウンディフェンスを磨いてね。アイオワ大時代、倒されて立てなかったから俺達の時代はNCAAを制覇できなかった。俺達はスタンドでアグレッシブなレスリングをしていた。それがダン・ゲイブルのやり方だったんだ。俺はそうじゃないだろうって思っていたけどね(笑)。

トップからは強かったけど、下になるとそれほどでもなかった。ホクラホマ州立大はレッグライディングっていうイメージだったな。そんな風に大学の特色もあったよ。ポイントがある限り、皆が最も効果的な攻撃を模索するんだ。本来はそれがテイクダウンからピンを取ることなんだけど……、それも相手あってのものだからね」

――ところで、今回は植松直哉氏がフォークスタイル的なグラウンドコントールをリコに習いたいと訪れ、亀返しのテクニックを指導しました。

「テイクダウンの指導はよくしたけど、ああいうことを聞いてきた日本人は初めてだったよ」

――植松氏は現役を退いた今も、時折り七帝柔道という高専柔道の流れをくむ、寝技が残る柔道の試合には出場しています。そして七帝柔道には引き分け要員的な選手がいて、彼らはドローに持ち込んで勝ち残り戦から、実力者を外していくために戦っている選手がいて、いわゆる亀の態勢が非常に頑強なんです。

「ハハハハ。それは競技者じゃないな。勝利を目指さない戦いなんて……(苦笑)。強い人間と戦い、跳ね返されることで成長できる。それを最初からドローで良いというのは、あんまり考えられない思考だな。なぜ、試合場にいる? ドローを狙うため? アメリカでは考えられないなぁ。それでタートルポジションが頑強になったのか……、なるほどなぁ(笑)。う~ん、ギがあれば特にそうなのかもなぁ。ノーギじゃ、耐えられないだろうな。ドローはアメリカじゃ『kiss your sister(何も面白くない)』って言われているんだ。俺もシスターでなく、他の女の人にキスしたくて生きてきた。ハハハハハハ」


植松直哉に亀返しを指導した技術解析など、カレッジレスリングが特集された月刊秘伝は8月12日の発売となります

http://ameblo.jp/wrestlewrestle/entry-10843248653.html

片足のチャンピオンはレスリングの本質を教えてくれる
テーマ:レスリングの考え方
 日本レスリング協会サイトに、片足の選手が全米学生大会で優勝したと紹介されていました。アリゾナ州立大学のアンソニー・ロブレス選手です。



レス協サイトの記事はこちら

 そのハンディを克服した凄さはいうまでもないのですが、この選手の優勝にはレスリングの特徴が現れているようにも思います。敢えてそちらの視点から書いてみます。
 
 この映像を見る前からおそらくジョンスミスのような極端に低いスタイルなのだろうなあと予想していたのですが、実際に見てみると、さらに低く、もう完全に「三つん這い」といえるような体勢からスタートします。そして不思議なことに相手もその体勢に合わせてくるんですね。おそらく普通の構えで攻めていけばローシングルか何かで簡単に取られてしまうのでしょう。そして、上からがぶられないだけのスピードとパワーを兼ね備えているのだと思います。
 こうなるとほとんど寝技に近い状態のレスリングが前提になります。ということは何が起こるかというと、足がないことがさほどハンディでなくなる可能性が出て来るんですね。むしろあるはずの足がない訳ですから、相手からするとかえって攻めにくい可能性さえ出て来る。少なくともそんな練習をすることなど絶対にありませんから、どちらが不利なのかということは一概に言えないようにも思います。映像を見ているとそのような雰囲気が伝わってきます。
 
 レスリングは「スタンドから始まる」というのは、もしかしたら我々の思い込みでしかないのかも知れません。入不二さんが見抜かれた二本足と四本足の間という特徴はもしかしたらレスリングの攻撃スタイルそのものを根本的に引っ繰り返す可能性さえあります。今回のロブレス選手の快挙は自信の障害をアドバンテージに変えてしまうのと同時に、レスリングという競技の特徴を最大限利用した発想の転換があったからということも言えるのだと思います。おそらく立ち技前提の柔道ではこのような快挙は有り得ないはずです。
 
 ただ、NCAAはカレッジスタイルですから、寝技がかなりのウェートを占めるという点で有利に働いた可能性はあります。現在のフリースタイルであのスタイルはどうなるのでしょうか(まさかあの姿勢を堅持することは反則になることはないですかね。よく分からないのですが)。クリンチ勝負になったらどのような扱いになるのでしょうか。是非見てみたいところです。
  
 いずにしても、この快挙は我々が「当たり前」と思っているレスリング的常識を根本的に引っ繰り返してくれたという意味でも快挙なのだと思います。

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日本の増税は特権階級の利権を守るためのシロモノでしかない 特権階級の利権『特別会計』

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http://blog.goo.ne.jp/jpnx05/e/6b4743b0497a832e8a1ff90eb3fa8ecd

消費税引き上げは国家暴力>特権階級の利権『特別会計』を削減すれば、消費税増税分も賄える
2014-08-21 17:49:31 | 未分類

<消費税引き上げは国家暴力>

特権階級の利権『特別会計』を削減すれば、

消費税増税分も賄える

18. 2013年3月19日 00:54:25 : 3taPELhWjo

Euphoria 
2012/04/01 00:25
http://alisonn.blog106.fc2.com/blog-entry-284.html より

国民の無知に付け込み搾取が実践されています。消費税倍増が確定されながら、行政執行者の権益は1%も縮減されることはありません。370万人の官吏、あるいは独立行政法人、特殊法人、特殊会社に属す100万人の準官吏、3万人規模の天下り官吏OB、これらの給与、福利厚生は未曾有の自然災害と破局的な原発事故の最中においても聖域であるわけです。

行政コストおよび財投債(外郭団体の借金)の償却、天下り補助金を合算すれば70兆円規模の国税・地方税を上回ることは概述の通りであり、消費税引上げによって見込まれる13兆円の新規歳入は、特別会計を僅か4%程度削減すれば捻出できる程度の金です。

そもそも社会保障の補填財源として導入されたはずの消費税は公約に反し一般財源化され、納税者はすでに200兆円規模の積立金を逸失しているのですから、この国の徴税制度とは詐欺であり、財政運営とは欺瞞に他なりません。

企業群は僅か8年少々で内部留保を100%上積みしているのですが、過去20年における減税策により負担は年間5兆円ベースで軽減され、さらに輸出税還付3兆円、高額所得者減税が5兆円規模でこれに加わります。13兆円という符号がここで一致するわけであり、すなわち消費税率引上げとは、エスタブリッシュメントの優遇を経済弱者の負担として付け替える国家暴力に過ぎません。

経団連は企業献金に対し政党がどの程度に呼応して政策実行するのか、つまり合法的斡旋収賄の費用対効果を「政党評価表」で5段階評定しているのですが、大企業減税、消費税引上げ、TPP加入すらこれにおいて執拗に謳われていた項目です。議会制民主主義とは虚妄であり、政策は資本に等価交換されています。

さらに敷衍すれば、経団連グループはすでにAlien(外資)の資本傘下に与され、事実上この国の経済者団体はCSIS(米国戦略国際問題研究所)の実働部隊であり、存置されるGHQ(General Headquarters=連合軍司令部)に他なりません。国家破綻へ直面する今際においてすら、この国はかくも多層的に搾取されています。

この国のシステムとはチリのピノチェト政権、アルゼンチンのビデラ政権に等しく、統治者が既得権益を担保に規制改革を実践し、産業資本及び社会資本を粛々と侵略者へ献呈するNeocolonialism(新植民地主義)の発展形態です。米国の圧倒的暴力を後ろ盾に成立した両国の政権が関税撤廃、労働規制撤廃、金融自由化、民営化などに狂奔した結果、国家資本が国外流出し、株価・通貨は暴落、国民生活が破綻した挙句デフォルトへ追い込まれました。

我々の社会においても歪なフリードマン(新自由主義型)経済の導入により資本の自由化が推進され、ドル建債券の引受、企業買収の簡易化、キャピタルゲイン、インカムゲインという不可視的な金融スキームによって、毎年にわたり35兆円の地方税収入を越える金が海外流出しているわけです。政治機構および官僚機機構とは米国直轄の経済傭兵集団(Economic Hitman)と見なすべきでしょう。

年収200万円以下の労働者および生活保護受給者が、それぞれ1000万を突破し、国民生活が加速的に疲弊する事由は経済の停滞ではなく、植民地主義の席巻であることは語るまでもありません。人類史上最もドラスティクな略奪が横行しているにかかわらず、当事者達は自覚もなく飼い慣らされ、野蛮な奴隷統治は絶望的にたやすく遂行されています。

(引用終了)



結局、税と社会保障の一体改革とは、消費税増税と社会保障切り捨て、

国民負担増と大企業優遇の「一体改革」となってしまっている

16. 2014年4月01日 16:31:54 : INN3xQPL7Y より
消費税増税の目的は、

社会保障の安定・充実と財政健全化の同時達成であったはずだ。

しかし、14年度の消費税率引上げに伴う増収分を

5兆円と見込んだにもかかわらず、

社会保障の「充実」分には0.5兆円しか充当されていない。

また、社会保障「安定」の内実は、自助・自己責任を推し進め、

家族に負担を押し付ける事実上の社会保障「切り捨て」である。

基礎年金国庫負担割合2分の1の恒久化に約2.95兆円を注ぎ込んでいるが、

年金支給額の減少だけでなく、

無年金・低年金の問題は放置されている。

さらに、消費税増収分が、「おカネに色はない」がゆえに、

公共事業や防衛予算への流用・膨張を招き、

財政の健全化どころか財政の悪化を招いていると断じざるを得ない。

結局、税と社会保障の一体改革とは、

消費税増税と社会保障切り捨て、国民負担増と大企業優遇の「一体改革」となってしまっている。





社会保障制度の持続のために消費税を上げたんでしょ?

では何故、自民党は国土強靱化なんて言って、

莫大な税金を土木事業に使うんだろう?

01. 2014年6月15日 17:53:35 : E9nhcBr9gQ
だから社会保障制度の持続のために消費税を上げたんでしょ?
これから10%にするんでしょ?

増税分は全額、医療、福祉、年金などの社会保障制度に使うんでしょう?

スーパーにも張り紙がしてある。「消費税増税分は全額社会保障に使う」と。

では何故、自民党は国土強靱化なんて言って、莫大な税金を土木事業に使うんだろう?

自民党は何故「金がないから増税」と言っておきながら、法人税を下げるんだろう?

自民党は何故、金がないのにオリンピックなんていう「究極の無駄遣い」のイベントを誘致したんだろう?
(アスリート達はいいだろうね。だって開催国は予選無しでオリンピックに出られるんだから)

自民党は何故、金がないのに自分たち議員の年金は温存しているんだろう?

公務員もちゃっかり給料が上がっているし。公務員は国に雇われているんだから、その国が借金だらけで立ち行かないというなら、何故給料が上がるの?
民間企業なら、賃金カット、ボーナスカットじゃないの?

自民党は何故、国民をだまして巻き上げた年金を株なんかに投資するの?株ってギャンブルでしょ?ギャンブルは胴元が勝つんだよ。国民の年金をアホノミクスのみせかけのために寺銭にしないで欲しい。

安倍が総理の椅子に一日長く居座る度に、日に何兆円も年金がなくなると思うのは私だけ??

・・・・・・

消費税は公共事業に使われる!法案提出者も認めた。
”消費増税法案”とは、消費税を公共事業にも使える法案
http://blog.goo.ne.jp/jpnx05/e/ac4d476e31a84ae411f00eaec53acd2a
2012-08-07





財務省・厚生労働省による予測データ

人口ピラミッドを変えない限り、負担率だけが上がる生き地獄社会になる

36. 2014年6月17日 12:38:07 : scMOBYhkCU
財務省・厚生労働省による予測データ
2035年の社会保障給付費は、今より80兆円近く上って189.6兆円
国民負担率は40%から56.4%へ上がる。
消費税は23.4%に上げている。

人口ピラミッドを変えない限り、負担率だけが上がる生き地獄社会になる。





一般会計と特別会計合わせた社会保障費の伸びは年3.4兆円

消費税10%が丸々社会保障費に充てられても、5年も持ちません

25. 2014年6月17日 03:31:49 : scMOBYhkCU
一般会計と特別会計合わせた社会保障費の伸びは年3.4兆円。
よく言われる1兆円は一般会計だけの分です。

消費税10%が丸々社会保障費に充てられても、5年も持ちません。

世界最速で高齢化社会になる日本の破綻は決定事項。

一刻も早く若者を弱体する現社会保障制度を破綻させるのが、若者の務め。

既得権益者の高齢者は、破綻するのが判っていても現行制度にしがみつきます。



年金が国家ぐるみのネズミ講って、本当?
292964 厚労省発表の「年金納付率」は大ウソだった
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=292964 より
14/07/30 PM06

厚労省が発表した、「国民年金の納付率60%以上回復」は大嘘だった。
河野太郎が、厚労省資料を入手。「真の年金納付率は約40%」にすぎない。

年金制度の破綻は誰もが知るところ。当然納付率も若い世代は圧倒的に少ないものになっている。

NEWSポストセブンリンクから引用
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
河野太郎氏が「真の年金納付率」の資料入手 衝撃的数字並ぶ


 厚労省が「60%を回復した」と発表している国民年金の納付率は大ウソである。カラクリは保険料納付の免除者(384万人)や学生などの猶予者(222万人)を国策で増やして「納付すべき人(分母)」から除外することで、見かけの納付率をアップさせるというものだった。

 本誌7月4日号では、河野太郎・代議士が厚労省から入手した資料をもとに「真の年金納付率」が約40%にすぎないことを報じた。その河野氏が、このたび新たな厚労省資料を入手した。年齢層ごとの「真の年金納付率」だ。その数字は衝撃的なものだった。
 
●20~24歳:21.4%
●25~29歳:31.7%
●30~34歳:38.2%
●35~39歳:42.1%
●40~44歳:43.0%
●45~49歳:42.9%
●50~54歳:47.5%
●55~59歳:53.7%
 
 若い世代は特に納付率が低く、20代前半では2割しか保険料を払っていない。学生は猶予制度があるという事情もあるが、もはや「年金崩壊」といえる状況だ。

※週刊ポスト2014年8月8日号



「国民年金はすでに破たんしている」と、改めて河野太郎氏が指摘
http://www.asyura2.com/14/senkyo166/msg/800.html
投稿者 笑坊 日時 2014 年 6 月 15 日 10:06:13: EaaOcpw/cGfrA



2012/01 THEMIS

源泉徴収分も返らないぞ

公的年金崩壊へ-政府官僚の詐術に騙されるな

積立金約113兆円が
特殊法人への融資や官僚の天下り団体へたれ流しされていた

http://blog.goo.ne.jp/jpnx05/e/9bbd4d38791b100333e4dad15fd4f4b1



↓画像あり

Hiroshi @kaze2014 · 4月5日

日本の消費税は事実上、世界最高。

http://saigaijyouhou.com/img/20140405110508zeiritu.jpg/ …

ヨーロッパより低いとよく言われるが、

住宅・教育など必需品の控除が多く、

支援制度が充実しているので、

日本と比べるとかなりちゃんと税の分配を行っています。



税収の2/3が『特別会計』という官僚のやりたい放題の金庫に入っていく。

こんな国は世界では一つもない。
http://blog.goo.ne.jp/jpnx05/e/49eba7dc75c9499c5fb84e67f88f1422
2014-08-08



【米軍駐屯費】なぜか世界中で日本だけが

血税から膨大な費用を支払っています
http://blog.goo.ne.jp/jpnx05/e/0640f35212c2ae45493466be781bdfc2
2014-08-19

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原子力産業マフィアはロスチャイルドが作った

http://blog.goo.ne.jp/jpnx05/e/4d1461c214887a4599c9c21434f98abc

原子力産業のしくみはロスチャイルドが作った ※1回目の紹介
2014-08-22 20:17:06 | 【原子力産業は、ロスチャイルドが作った】

*『原発大震災の超ヤバイ話』著者:安部芳裕
 「原子力産業のしくみもロスチャイルドが作った①~⑫」を紹介します。1回目の紹介

お金のしくみを作ったのがロスチャイルドなら
原発のしくみを作ったのもやはりロスチャイルドだった!

(P231から)原発は過疎の村の貧しさの上に成り立っています。

現場の作業労働者は、地元の農民や漁民、あるいはホームレスの人が、

放射線の怖さを教えられないまま被曝し、人知れず死んでいっています。

----------------

原子力産業のしくみもロスチャイルドが作った①

 ドイツの物理学者ヴィルヘルム・レントゲンが1895年にエックス線を発見したことから原子力産業はスタートしました。

 翌年、フランスの物理学者アンリ・ベクレルが、偶然にもウラン鉱石から発する天然の放射線を発見します。放射能の量を現す単位「ベクレル」は彼の名にちなんでいます。

 その後、ピエールとマリのキュリー夫妻が放射性物質の研究を行い、ポロニウムとラジウムを発見しました。彼がが「放射能」という用語を作り、原子力エネルギー研究の先駆けとなります。

 この研究に目をつけたのが金融王ネイサン・ロスチャイルドの曾孫アンリ・ロスチャイルドです。アンリはキュリー夫妻のスポンサーとなってラジウム研究所を建て、キュリー基金を設立しています。これから伸びる可能性のある分野には惜しげもなく投資し、産業として育て、やがて投資に見合う利益を回収するのがロスチャイルド一族です。

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平直行先生も学んでいる古流柔術の伝統医学

http://kenbiki.jp/shiritai/know/question/04/01.html

柳生心眼流島津師範が語る柳生心眼流の歴史と筋整流法との出会い

我国の武術は「活殺自在」を目的として、武士の表技として発達してきた。その過程で高度な殺伐な殺法を、独特な柔術の医療法として活用してきた。日本は明治元年(1868)の西洋医学の採用によって、急速な西洋医学吸収時代へとなって行く。明治四年には廃藩置県と共に武士の根幹となる帯刀が禁じられ、明治六年の「全国城郭在廃の処分令」で、武士の居城は崩壊して武士社会も完全に消滅した。文明開化思想は古い伝統は軽視されて、やがて伝統の医療文化は排除の方向へと動き始めていく。
新しい文明開化の思想による時勢の流れは、武家に変わる高官や貴族社会になり、人の体をさわり揉み解す行為は身分の低き者たちの業として蔑まされ、近代国家の移行と共に時代遅れと軽視されていった。明治七年の医制改革では武術に伝わる活法療法は完全に無視されて、多くの道場は壊滅的な崩壊連鎖を招き絶滅状態となり、万を数える流儀が完全に消滅して暗黒時代に成っていった。そうした中でも武士の剣技を捨てて柔術を生かした僅かな人たちによって秘技が保もたれ、永い年月の間、秘技は個人的に伝承されて来たが、其の多くの古老も今は消え去って行った。
武術に伝わる療法は、稽古による骨折脱臼やスジ(筋)損傷に対する先人の知恵と経験の結晶である。活法に伝わった技法を「骨抜き・スジ抜き技」といい、柔術の殺法技の応用である。相手を倒す為に骨の絡みを知り尽くし、其の骨の絡みを脱転させ、絡みの弱点を攻めて折断させる。活法技法は折傷した骨や脱転した骨頭を、元の正しい骨絡に戻す「骨の抜き入れ」とか、「骨の接(継)ぎ」技法である。柔術伝書にはこれらについて「正體・正体・正胎」などと書かれている。
ただし、損傷した骨へ対して骨抜き(ほね継ぎ)をして元の位置に復しても、「スジ抜き」の技法を行わずに固定してしまうと、長期間の固定により乱れたスジ(筋)は硬化して苦しみを残してしまう。楊心古流柔術を修めた私の父は、「骨の絡みを正したならば、スジ(筋)の絡みを正して直しておかないと、後に廃人となる」と強く戒めていた。柔術の古式医療術は、乱れた筋の絡みの筋道を、正しく建て直す事が第一技法とされている。
前回に柔術(やわら)医術で紹介した(本誌2009年3月号)「指の窪み」の秘伝は、長年に渡り口外しないで来た。この技法は基本となる秘伝で、口伝を受けると、 筋肉を探り、脱転した筋の位置を知り、緩めて元の位置に戻す事のできる柔術医術の秘技である。 柔術の医術は半世紀を超えて、大正九年(1920)の医制改革で公認されたが、その実態は西洋医学を基本とした教育法となり、一部の骨絡(接骨技法)や経絡(鍼灸ツボ療法)は命脈を保ったものの多くは失われ、特に古来の柔術技法であった骨継ぎの骨絡や筋絡は取り入れられずに幻となった。
私の父は楊心古流を極め、柔術に伝わった筋絡法のスジ(筋)引き・揉み・弾き技法に、私も幼くして接する機会が多かった。後になって柳生心眼流の相沢富雄恩師に出会い、柳生心眼流のスジ(筋)揉み技法を本格的に学んだ。相沢師匠が死去した後には星国雄師匠に師事し、宿泊して柳生心眼流の揉み療治の多くを学ぶ事ができた。
柔道整復学校に入り、国家資格を得てから多くの人々と出会った。しかし、私が学んだ筋絡法の揉み技術法は、他の人が行わない特殊技法であった事を初めて知って、ビックリしたのは遠い思い出である。長い治療生活において、他院で治療の改善が見られない多くの難病患者に出会って来た。そうした時も、筋絡により一度も臆すること無く向き合い、柳生心眼流柔術に伝わる筋絡技法で短時間で治療効果を上げることができた。
柳生心眼流 こうした秘伝を受け継いだ幸福を感じているが、流儀の「他言しない」という戒めに従って、職業的な技法の為もあり、これまで他人には口外せずに隠し切って使用してきた。しかし私も七十一歳となり、この世に祖先の遺産を残す年齢となって来た。こうした時期に小口先生と思わぬ奇遇な出会いを得て、柔術のスジ抜き技法と小口先生の学ばれたケン引き技法がほぼ同根であろう事を知り、共に胸襟を分け合うことができた。小口先生の学ばれた技法は、私が学んだものとは若干違うものの、基本的な考え方から実際の施術には多くの共通性があり、驚かされた。小口先生は自分が学ばれた技術をさらに理論立てて発展されており、私自身「このような表現の仕方があったか」と改めて思った次第である。
このような新たな刺激も受け、私も来年はさらに隠してきた秘伝技法の一端を公開して、次の世代の若い人に伝えたいと思いだしている

「月刊秘伝」(BABジャパン)2月号より

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柔術プリースト 142

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そして人々は戦争に走った 少年H

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水谷豊×伊藤蘭夫婦共演作品 『少年H』1/3(Movie)【HD... 投稿者 hoshipi324


水谷豊×伊藤蘭夫婦共演作品 『少年H』2/3(Movie)【HD... 投稿者 hoshipi324


水谷豊×伊藤蘭夫婦共演作品 『少年H』3/3(Movie)【HD... 投稿者 hoshipi324

http://www.shonen-h.com/index.html

http://yamanasi-satoyama.blog.ocn.ne.jp/blog/2013/09/post_f87b.html
映画、「少年H」・・・戦争の恐ろしさを市井の人々の日常から描いた名作

この映画の中で誰も戦争反対などと大声で言いません。誰も、戦争はいやですねなどと言いません。なぜ大東亜戦争が起きたか説明もありません。

戦争が突然、神戸で平穏に暮らしていた妹尾一家を深い悲しみの淵へ落とし込んだのです。

洋服の仕立てで暮らしていた主人と妻と少年Hと妹の4人家族に起きた悲しいエピソードを水彩画を描くように静かにつづった作品です。

エピソード1:

少年H(肇)の父は神戸の外人住宅地へ出入りし、洋服の仕立てをしていました。少年Hはよく父と一緒に行って、フランス人やドイツ人が父を大切にしている様子を見ていました。戦争が始まるとフランス人は繁盛していたレストランをたたんで帰国します。父と別れを惜しみながら、記念に洋服の仕立てを注文します。悲しげな別離です。

エピソード2:

近所のうどん屋の青年が少年Hを可愛がります。夜にうどん屋の2階の自分の小部屋に少年Hを招き、コーヒーを淹れ、レコードを聞かせてくれます。レコードは藤原義江のオペラ、「女心の歌」です。手回しのレコードが”風の中の女心・・・”と悲しげに唄っています。

ある夜、多数の警官が、このうどん屋を襲い、何時も、風の中の女心・・・と唄っていたお兄ちゃんを逮捕してしまうのです。お兄ちゃんの部屋にいた友人も、そして、うどん屋の親父さんも逮捕されました。アカ(共産主義者)だったと言うのです。

H少年は彼らと2度と会えませんでした。

エピソード3:

少年Hの家に洋服の仕立てを頼みに来ていた青年がいました。

少年Hは「男ねえちゃん」と呼び慕っていたお兄ちゃんです。昔、女形の役者をしていましたが当時は町の映画館の映写技師をしていました。少年Hに映画をタダで見せてあげると約束をしていました。

しかし赤紙が来て、その約束を果たすこともなく老いた母を独り残して出征して行きます。

しばらくしたある日の夜に憲兵が2人、少年Hの家を荒々しく訪ねます。出征した筈の「男ねえちゃん」が出征していないと大声で怒ります。

その何日も後に少年Hが変わり果てた「男ねえちゃん」の遺体を偶然発見するのです。古い工場の廃墟の梁にぶら下がっている姿です。

妹尾河童の原作ではこのぶら下がっている状況をもっと凄惨に書いていますが、映画ではボンヤリした姿だけで助かりました。

エピソード4:

妹尾一家はアメリカから来た女性の宣教師の勧めでクリスチャンになっていました。毎週、日曜日の礼拝に一家で出席して祈っていたのです。

その宣教師のおばさんが戦争が起きたのでニューヨークに帰ります。そして

ニューヨークの摩天楼の絵葉書を少年Hへ送ってくれました。

アメリカ人と手紙のやり取りをしている。父は外人居留地の外人と仲良くしている。クリスチャン一家です。こんなことが重なって妹尾一家はスパイ一家だという噂が広まります。

ある日突然、特高が来て、父を連行してしまいます。ものすごい拷問です。仕立て屋と知っている特高が父の手の指を拷問にかけ仕立て仕事が出来ないように痛めつけます。しかし父は耐え抜きます。私は洋服の仕立てをしているだけです。スパイではありませんと、耐え抜きます。少年Hだけが父が特高の拷問に耐え抜いたことを知っています。しかし母や妹には一言も言いませんでした。

エピソード5:

そして終戦の直前に神戸の大空襲です。父は消防隊の一員として出かけます。

妹はすでに疎開していたので、母と少年Hが2人だけで降り注ぐ焼夷弾の火に水をかけ消火につとめます。しかしもうだめです。火の勢いが凄すぎます。

そこで少年Hと母が渾身の力を振り絞って、父の大切に使っていたミシンを路上に運び出したのです。

戦争が終わりました。父が焼け焦げたミシンを丁寧に修理しました。やがて仕立て屋をまた始めたのです。少年Hも家から離れ、独立して、ペンキ屋に就職します。元来、絵画の上手だった少年Hの楽しげな仕事ぶりの光景で映画がおわります。

実は悲しいエピソードはもっとあります。県立の神戸第二中学校に進学した少年Hと2人の配属将校との確執や、終戦後の彼らのひどい変身ぶりも描かれています。

第二次大戦では300万人の日本人が死にました。妹尾一家は皆生き延びたのです。幸運な一家です。

しかしこの映画は、この幸運な一家の戦争中の悲しいエピソードを描いて、戦争の恐ろしさを表現したのです。監督をはじめキャストの映画人としての集中力が結集している傑作です。

昔、「二十四の瞳」という映画もありました。なにか共通している点もありますが、違うのです。是非、一度映画館へ足を運んで下さい。

戦前生まれの私にとっては、再現された昔の神戸の町を走る自動車や市街電車の風景が流れるだけで心が切なくなります。当時の私の悲しみの数々が胸にせまり、さびしげな映画音楽を聞いただけでジーンとなります。

それはそれとして、

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

写真の出典は全て、http://eiga.com/movie/57981/です。

「少年H」の画像9 ・

「少年H」の画像3



「少年H」の画像10 ・

「少年H」の画像2 ・

「少年H」の画像1 ・

====あらすじ======================

作家・妹尾河童の自伝的小説で、上下巻あわせて340万部を突破する

ベストセラーを、「ホタル」「鉄道員(ぽっぽや)」の降旗康男監督が映画化。

太平洋戦争下という時代に翻弄されながらも、勇気や信念を貫いて生きた

家族の激動の20年間を描き、実生活でも夫婦の水谷豊と伊藤蘭が夫婦役で

映画初共演を果たした。昭和初期の神戸。名前のイニシャルから「H(エッチ)」と

呼ばれる少年・肇は、好奇心と正義感が強く、厳しい軍事統制下で誰もが

口をつぐむ中でも、おかしなことには疑問を呈していく。Hはリベラルな父と

博愛精神に溢れる母に見守られ成長し、やがて戦争が終わり15歳になると

独り立ちを決意する。

監督;

キャスト:   降旗康男
水谷豊     妹尾盛夫
伊藤蘭     妹尾敏子
吉岡竜輝   妹尾薫(H)
花田優里音  妹尾好子
小栗旬    どん屋の兄ちゃん
早乙女太一  オトコ姉ちゃん
原田泰造    田森教官
佐々木蔵之介 久門教官
國村隼     吉村さん
岸部一徳    柴田さん

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中国武術の毒手功とは実は発勁 暗勁(浸透勁)の異名でありそれらが鉄砂掌(掌を漢方薬で癒して行う鍛錬法)とごっちゃになって伝わり広まった迷信である! よって毒手 触れたら死ぬ というものは現実には存在しない! 漫画だけの世界の話である! そして中国武術の鍛錬法 鉄砂掌とは?

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http://yusin6.blog77.fc2.com/blog-entry-666.html

8月セミナー“聴勁”について
 え~、8月の月例セミナーのテーマは“聴勁”でございます。

 7月が“読み(目付け)”だったのですが、視力が弱い人にとってはハンデがあるやり方ではありました。

 特に眼振の病気があると言われる方もいらして、「目付け以外の読みの方法はあるのか?」との御質問も頂戴していました。

 無論、あります!

 聴勁というのは、「力を聴く」という意味なんですが、基本的には皮膚感覚(触覚)で察知するものなんですね。

 聴くと言うと耳で音を聴くイメージがあると思いますが、要するに、五感(視覚・聴覚・触覚・嗅覚・味覚)をフル活動させて用いる訳ですね。

 このうち、視覚は目付けなんですが、聴覚と触覚を駆使して敵の攻撃を察知しようとするものが聴勁だと思ってもらっていいでしょう。

 何だか、座頭市みたいですが、目の見えない人は聴覚が異常に鋭敏になると言われますね。それと同時に触覚も鋭くなるようなんです。盲目の人がマッサージ業を営む理由がここにあります。

 人間って、身体のどこかが悪くなると、それを補うために他の器官が発達するんです。

 だから、野口整体なんかでは「目が悪くなったら逆に使え。そうしないと休ませると機能が落ちる一方になる」なんて指導をするそうです。

 きついトレーニングを始めると最初はしんどいけれど、段々慣れていくでしょう? 身体の適応能力なんですね。

 よって、休み過ぎると身体は弱くなってしまうんですよ。

 ところで、嗅覚と味覚は武術と関係ないと思われますか?

 いや、そんなこともないんですよ。昔は毒殺も武術の裏技だったので、嗅覚と味覚でそれを察知するのも重視されたんですよね。

 これは別に忍術だけに伝わっていたんじゃないんですね。昔の古武術は医術も伝承していたから薬方も研究されていたんですよ。

 それはともかく、聴勁で最も根本になるのは、“推手”です。

 つまり、触れたところから相手の攻撃しようとする意志を読んで、先に潰していくものです。

 何故、触れただけで読めるか? それは、攻撃の意欲がわくと筋肉が微細に収縮して圧力が出るので、その接触している接点の圧力変化を読む訳です。

 催眠術の暗示効果で“観念運動”というのがあるのはご存じでしょうか?

 糸に五円玉を吊るして片手の指先で吊るしておいて、「右に揺れる」「左に揺れる」「右に回る」「左に回る」と声をかけることで、五円玉が独りでに言われた通りに動き出すもので、気功団体なんかでもパフォーマンスでやって見せたりします。

 これは、言葉の暗示によってイメージが発生することで、無意識に筋肉に信号が送られて、イメージの通りに動く無意識の反射運動なんです。

 推手の上手い人になると、その微かな接点圧力の変化まで読むことができるようになり、徐々に相手に触れなくとも察知できるようになります。

 そうなると、それこそ空気の流れの変化まで察知するように聴くことができる。だから、“聴勁”と呼ばれる訳ですね~。

 で、セミナーでは、この推手の訓練法と、更に推手からの打撃技や逆技、崩し技などまで解説指導する予定です。

 目付けの場合は触れ合う前の間合から始まりますが、聴勁は触れてからが勝負になりますので、その触れていく要領についても指導しようと思っています。

 前回の目付けがうまくできなかった人は、聴勁を駆使することで多彩な戦法が使えるようになりますし、また、通常の打撃技をすべて封殺してしまうことができますから、総合格闘技なんかにもかなり有効性が高いのではないかな~?と思っています。

『オルトロスの犬』という番組で、「触れただけで人を殺せる特殊能力」の持ち主が登場していましたが、それに近い技が駆使できるようになってしまいます。

 白猿通背拳らしい技の遣い手で酔鬼張三という実在の武術家がいて、その逸話に、車夫と口論になった張三が、車夫の胸に軽く触って立ち去ったところ、一瞬遅れて車夫は昏倒してしまい、助け起こされた時にはもう絶命していた・・・というものがあります。

 これは暗勁(浸透勁)の高度なレベルに達した人の打撃技の様子です。

 もちろん、私はこんな技はとても使えませんが、軽く打った会員が、翌日、身体がだるくて起き上がれなかった・・・といった事件が3~4回はあり、それ以後、なるべく威力が浸透しないように注意するようにしています。

 浸透勁の打撃法は、その場で大したことがなくても、後から後遺症が出る危険性があるのです。これで打たれると、何とも言えない気持ちの悪い溶けた鉛がズーンと体内に浸透し沈殿してくるような不快な感触があります。

 私は実験でわざと打たせてみて解ったんですが、本当にこれは危険だと思います。太極拳なんて、こればっかりですからね~。本当に陰険な拳法だと思いますよ・・・。

 力が後ろに抜けるようにふっ飛んだ方が安全なんですね。

 ちなみに、“毒手”というのがありますけれど、毒薬に浸して鍛える鉄砂掌や朱砂掌のイメージで、「打たれると毒が浸透して・・・」という刃牙が柳龍光にやられたアレを思い浮かべるかもしれませんね。

 しかし、毒手という言葉の意味は、殺人的な暗勁(浸透勁)の打撃技の異称なんです。

 大体、劇毒に浸して鍛えたりすれば手の方が爛れて壊死してしまうでしょう? 毒を遣うのなら、暗器(隠し武器)に塗るとか飲食物に混ぜるとかした方が効率的ですよね。


 おっと・・・何か、ヤバイ方向に話が進んじゃいましたね?

 まあ、推手の実戦性の背景を知ってもらいたいと思ったんですが、稽古する分には楽しくやりましょうね。

 実際、格闘技には非常に応用が効くと思いますよ。


追伸;游心流壮年部フルコンタクト派?の会員さんが試合でカカト落としを食らってKOされてしまった・・・との連絡を受けていたんですが、定期稽古会で試合の様子を聞きました。何と、相手は57歳だったそうで、その年齢でカカト落としを繰り出すというのはビックリ! これはもう負けても仕様が無いな~と思いましたが、試合内容的にはかつてない調子の良さを感じて満足できたそうでした。が、「やっぱり、慢心したのか(カカト落としを)食らったのも全然覚えてませんでした」とのことで、この敗戦はむしろ得難い経験なんじゃないかな~?と思いました。ただ、試合当日ではなくて後日、鞭打ちみたいに首が痛くなってしまったそうで、多分、頸椎がズレたりしているんだろうな~と思いました。直接打撃制試合はやはり注意しないと後遺症が出ますからね。皆さんも御注意くださいませ・・・。

※鉄砂掌とは?







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http://www33.ocn.ne.jp/~nighthawk/Bujutu.html

2.修行

 今にして思うと、メチャクチャしていたもんである。

 大学に入って、私は一人、修行を続けた。少林寺拳法、合気道などのサークルもあったが、私は酒が全くダメで、体育会系のノリで殺されるのは勘弁して欲しかったので(恐ろしいことに、私が入学した年にも誰か一気で死んだらしい)、そっちには所属しなかった。
 当時私は、「武術」(福昌堂刊、季刊)という中国武術雑誌を愛読するようになっていた。
 これには、基本的な套路(型)やその技術がかなり詳細に記載されており、私の知らない武術を多数取り揃えて紹介してあった。
 また、同時に私が影響されたのが、「カラテ黙示録」という琉球空手のマンガ(劇画)であった。北斗の拳以降、このテの絵にも抵抗がなくなった私は、かなりこういう劇画を読み漁ったものである。「さるまん」にオマージュされた「野望の王国」、「流れ板竜二」「包丁無宿」……それはどうでもいい。
 そんな中に、「カラテ黙示録」はあった。
 覇城流空手という、「気」を操るという謎(笑)の琉球空手を修行する主人公の復讐の物語であるが、その修行法の中に「大気拳(大気至誠拳法、大成拳もしくは意拳)」という武術の訓練法「立禅」があった。
 当時私は、立禅という訓練法を知らなかったが、しかし確かに「中国武術らしい」解説も有ったため、少々試してみることにした。
 この立禅というもの、確かに鍛練としては厳しいものであった。当初10分出来ればよかった程度であったが、2ヶ月後には1時間、なんとか立っていられるまでになった。ただし、毎日ただ1時間立っているのは非常に辛く、その後は30分程度に止めた。何しろ、爪先に全体重がかかるので、30分以上やっていると、足先が痺れて感覚がなくなってくるのである。通常の正座による痺れとは違い、血行が妨げられて痺れるので、かなり「まずい」痺れ方なのである。
 その頃になって、初めて気功法を調べる気になり、そこで大抵の気功法や、太極拳、前出の大気拳などにも同様の訓練法があることを知った。これで訓練法に確信を持った私は、以後かなりの期間、これを続けていくことになる(今は時々)。
 同じ頃、私は様々な訓練方法を試すために、武術の鍛練法の書籍をいくつか入手した。
 今にしてみると、凄まじく胡散臭く、かなりいい加減な鍛練方法もあったし、「武術」誌にて「金儲け主義のエセ武術家」として吊し上げられていた呉某の書籍も混じっていた(伝承や知識に関してはある程度伝説や伝承などに基づいてはいた)が、その中で、実際にやってみようと思ったものがあった。
 それが「カラテ黙示録」にも出てきた

「鉄砂掌」

である。

 「鉄砂掌」

とは、手を鉄のごとく硬く鍛え上げる鍛練方法である。
 が、これを行うには様々な注意がある。必ず鍛練が終わったら、気功と薬液によるマッサージを欠かしてはならないのである。
 中国武術の鍛練は、気功や漢方薬を併用するものが多い。特殊な鍛練になればなるほど、身体を壊さないためにも必ずこれらの方法は併用される。中国武術には、実際かなりムチャクチャな鍛練方法があり、確かに気功や漢方でも使わないと身体を壊すようなものが多々ある。
 例えば八極拳の「鉄山靠」では、身体を立ち木に叩きつけて鍛練する。もしくは、二人一組になって、互いに背中をぶつけ合いながら鍛える。これはやってみればわかるが、慣れないと身体に衝撃が浸透し、息が詰まるような思いをする。そこで、最初は軽く打ちつけ、徐々に強く打ちつけるようにしていくのである。
 が、これで思い切りぶつけることが出来るようになると、今度は内臓に影響が出てくるのである。私の場合は、これを20回もやった日は、必ず下痢を起こした。要は、受け身もとらずに床にバタンバタン倒れているのと同じであるから、衝撃が身体にまともに浸透するのである。これでは確かに、調子が悪くならない方がおかしい。が、八極拳の強烈な打撃力は、こうして培われていくのである。
 そこで私は、気功(調息)を必ず靠法の後に行うこととした。これで胃腸の調子はかなり良くはなった。本来は打ち身の内服薬(雲南百約など)を服用するのが好ましいのだが、生憎近くに漢方薬を扱っている店がなかったこと、決して安いものではなかった(苦笑)ことから、気功法でとりあえず収めていたのである。
 これらの鍛練も、慣れればどうということはなくなるのであるが、その「どうということはない」レベルにするのがまず一苦労で、そこからさらに「武術として使い物になる」レベルにしていかなければならないのである。
 私の相手は専ら電柱と大学の壁(笑)であり、誰かと組んでやることはなかった。

 話が逸れたので戻す。
 
「鉄砂掌」

は、手先をメチャクチャ強力に鍛えるもので、これでひっぱたかれると、下手をすると骨の一本や二本、簡単にポキリといくという、とんでもないものである。
 同じような鍛練に

「朱砂掌」

というのがある。これは通称

「毒手」

という、胡散臭い拳法マンガでお馴染みの、爪の先ほどの傷で相手を死に至らしめる、という奴である。
 私自身、この

「朱砂掌」

の鍛練方法の詳細は知らないため、また知っていたとしても、そのために揃える薬草や毒物が手に入る保証もない為、試す機会はなかったし、実際に功が成っている人にも、幸いにも出会ったことはない。何しろこの

朱砂掌

、傷をつけるのではなく、打っただけで相手を殺すと言われており、握手しただけでも相手に毒が回るという。功が成った場合、その手は朱色になっているところから、この名が付いたという。
 話を

鉄砂掌

にもどす。こちらは鉄砂、実際は酢酸鉄を手に染み込ませ、強固にするものである。毎日酢に鉄を溶かしたものを手に塗ってマッサージし、鉄砂袋という緑豆を詰めた袋を叩く。終わったら、今度は打ち身の薬と、鉄中毒を防ぐ為の薬に手を浸してマッサージする。これを繰り返すことで手に鉄分が染み込み、また打撃鍛練を併せて行うことで、より一層強固になる。功が成る頃には、手が鉄分で黒光りするようになる。

鉄砂掌

の所以である。
 私は一応酢を買ってきて釘をブチ込んで、酢酸鉄を作ってはみたものの、実際にはちょっと使っただけで使うのをやめた。これを使うには、鉄中毒を防ぐ為の薬液が必要であったからである。
 そのため、私は専ら鉄砂袋での鍛練と、ここでもまた気功による調息で間に合わせた。鉄砂袋は、古くなった靴下を重ねて、中にBB弾を大量に詰めて作った。緑豆がいいとされているが、それに最も近いのがBB弾であるため、これで代用はできる。豆のように腐ったりカビが生えたりしないため、むしろこちらの方が都合はいい。
 これを、暇なときにパシパシ叩き、また指先でドスドス突く。叩くのも掌、手の甲、手刀と様々な叩き方をして、まんべんなく鍛える。同時に指立て伏せなども行い、当時は五十回ぐらいはできたものである。ただし、今では十回がせいぜい。人間、怠けるとダメになるのがよく解る。
 これをやったおかげで、今でも私の手はそこそこ強さを保っている。ジュースの鉄缶程度なら殴って簡単にへこむし、指先で突いてへこませることもできる。
 ただし、この

副作用として、私はかなり視力を落とした。

指先の無茶な鍛練は、指先に集中しているという視神経系のツボに悪影響を及ぼす、と後に知り、貫手を鍛え過ぎた空手家が数多く目を悪くしていることも知った。

そういうことは早よ言わんかい、とそれを書いてある本に一人でツッコんだものである(笑)。もっとも、同じ頃私はワープロやファミコンを購入し、それが原因だという噂もある(自爆)。

 それはともかく。
 鍛練というものは毎日欠かしてはならない、という経験則の元に、私は日常の鍛練を行ってきた。
 日常の鍛練とは、ほんのちょっとしたことである。
 常に、何か殴る。蹴る。「おめーはまた電柱殴るし」と言われようと、止めてはならない(笑)。手頃なものがあれば、とりあえず殴る。これが鉄則(笑)。
 あと、私は自転車を愛用していた。これがまた、足腰の鍛練と持久力の維持に一役買っていた。
 留年した(T_T)その年、私はかなり時間をもてあましていた。かといって、ただのんべんだらりんと生きていたのでは、人生無駄遣いである。底無し沼のごとくハマりこんだTRPGの資料作りと平行して、私は自転車で長距離を走るようになった。
 大学が日本で最も標高の高い大学であった為、繁華街から離れていくと、どこへ行っても山がある。授業のない日は、朝までTRPGの資料を作り、その後寝る前夜明け頃、完全に朝日が見える頃まで山の方へと自転車を走らせ、誰もいない坂道をただのんびりと、時折トラックのスミを浴びせられながら下って帰る。
 途中、手頃な空き地で蹴って殴って套路を行い、また下って帰る。
 そんな生活が1年続き、進級と同時に舞台はさらに山奥へと移る。

http://www.gaopu.com/dict009.html

「五毒手」少林七十二芸の五十三
少林七十二芸の一つ。別名「陰手功」「五雷尊」とよばれる。硬気功に属する。手上
陰柔之勁を専門に練習する。五毒を泥の中に混ぜ、更に砂鉄と泥を均等に混ぜ合わせ、
代の上に載せ、毎日手で打つ、練功の後は薬を煎じた水で手を洗う。これを長く続け
れば功なる。
(指導者が居ない場合、非常に危険な技術です、真似をしないようにしてください)

「朱砂掌」少林七十二芸の十六
少林七十二芸の一つ。内功類に属する。別名「紅砂手」と呼ばれる。
手掌を専門に鍛える。
(指導者が居ない場合、真似をしないようにしてください)

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Eddie Bravo Invitational メタモリスにライバル団体出現 エディブラボー主催 EBI ゲーリートーナン メタモリス解説者ジェフグローバーが大活躍!

Eddie Bravo Invitational (FULL) from ManMadeMonster on Vimeo.











http://www.eddiebravoinvitational.com/

https://www.facebook.com/pages/EBI-Eddie-Bravo-Invitational/764895616876494

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知られざるもう一つのムンジアル 本場ブラジルで行われたCBJJEムンジアル ノーカット版動画





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旧日本の大虐殺 旧ソ連軍の大虐殺 韓国軍の悪名高いベトナム戦争の大虐殺 戦争に一切の正義などない 戦争に加わる 賛成する 沈黙することは虐殺に加わることと 見殺しにすることと同義である!

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%B3%E3%83%8B%E3%82%A3%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%B3%E3%83%8B%E3%83%A3%E3%83%83%E3%83%88%E3%81%AE%E8%99%90%E6%AE%BA

フォンニィ・フォンニャットの虐殺
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フォンニィ・フォンニャットの虐殺
Phong Nhi massacre 8.jpg
犠牲者を収容するアメリカ海兵隊員(J・ボーンアメリカ海兵隊伍長撮影撮影)
各種表記
ハングル: 퐁니•퐁넛 양민 학살 사건
漢字: 퐁니•퐁넛 良民 虐殺 事件
発音: ポンニ・ポンノッ ヤンミン ハッサル サゴン
2000年式:
英語表記: Pongni / Pongneot yangmin haksal sageon
Phong Nhi and Phong Nhat massacre
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フォンニィ・フォンニャットの虐殺
各種表記
クォック・グー: Thảm sát Phong Nhất và Phong Nhị
漢字・チュノム: 惨殺豐一且豐二
北部発音: タムサット・フォンニャット・ヴァー・フォンニィ
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両胸をえぐり取られた上に銃撃を加えられて瀕死の21歳の女。写真撮影後に病院に徹送されたが「お母さん、お母さん…」と母を呼びながら妹達の前で息絶えた[1](J・ボーンアメリカ海兵隊伍長撮影)
至近距離から撃たれ前頭部を吹き飛ばされた2名の妊婦(J・ボーンアメリカ海兵隊伍長撮影)[2]
アメリカ軍の手当を受ける負傷した少女(J・ボーンアメリカ海兵隊伍長撮影)
殺害された子供(J・ボーンアメリカ海兵隊伍長撮影撮影)[2]
韓国軍に焼かれた住民(J・ボーンアメリカ海兵隊伍長撮影)[2]
ロバート・モレヘッド・コックアメリカ陸軍大佐が監察官として作成した虐殺事件の報告書(1970年1月10日)[3]
ベトナム議会に補償を求める遺族の嘆願書[4]

ライダイハン
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ライダイハン
Lai Đại Hàn/라이따이한
ベトナムの旗韓国の旗
総人口

1500-30,000[1]人
居住地域
ベトナム・韓国など
言語
ベトナム語・朝鮮語
ライダイハン
各種表記
ハングル: 라이따이한
漢字: -
発音: ライタイハン
2000年式・MR式: Raittaihan
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ライダイハン
各種表記
クォック・グー: Lai Đại Hàn
漢字・チュノム: 𤳆大韓
北部発音: ライダイハン
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ライダイハン(越:Lai Đại Hàn、𤳆大韓)とは、大韓民国(以下、韓国)がベトナム戦争に派兵した韓国人兵士による現地ベトナム人女性に対する強姦などの性的交渉によりもうけられた子供、あるいはパリ協定による韓国軍の撤退とその後の南ベトナム政府の崩壊により取り残された「敵軍の子」の意味で、迫害された[1]。

ライ「𤳆(チュノム表記、U+24CC6、「男」偏に「來」旁[2])」はベトナム語で動物を含む「混血雑種」を意味する蔑称で[1]、ダイハンは「大韓」(朝:대한)のベトナム語読みであるが、卑語であることから「ライダイハン」という語そのものがベトナムの公式文書に現れる例は少ない[3]。韓国では、ベトナム語からの借用語として取り入れられ、「ライタイハン」(朝:라이따이한)のように発音される。

ベトナムと韓国が1992年に経済交流を再開して後に発生した混血児は「新ライダイハン」と呼ばれる[1]。

目次

1 ライダイハンの数と原因
2 背景
2.1 引用
2.1.1 韓国軍の虐殺行為
2.1.2 虐殺行為の詳細
3 韓国政府の対応
4 韓国マスメディアの反応
5 アメラジアン
6 脚注
7 参考文献
8 関連項目

ライダイハンの数と原因

ライダイハンの正確な数は、諸説ありはっきりしない。1500人(朝日新聞・1995年5月2日)、2千人(野村進)、最小5千人・最大3万人(釜山日報)[1]、7千人、1万人以上(名越二荒之助[4]など)などの説がある。彼(彼女)らの中には父親の記憶を持たず、朝鮮語を話せず、写真だけが唯一残された思い出という者がいる。[5]韓国との混血児は名乗りでないとの主張もある[4]正確な調査が行われないまま、援助団体が支援を主張したため、数が膨れ上がったとの批判もある[6] 原因については韓国軍兵士による強姦、兵士や民間人が「『妻』と子供を捨てて無責任にも韓国に帰国したこと[1]」とする現地婚[7]、「ベトナム人には美人が多いので、女は皆、慰安婦にさせられた。[4]」とする慰安婦(非管理売春)などと複数のことが言われている。

ただし、南ベトナム解放民族戦線が放送によって、韓国軍による拷問や虐殺事件、あるいは婦女子への暴行事件を連日報じていた[4]ことは事実であり、各地の韓国軍による虐殺、暴行事件の生存者の証言に共通する点としても婦女に対する強姦が挙げられている[8]。

戦闘終了後の治安維持期に入って、ようやく韓国軍は表向きに兵士の行動を律したが、その後も猛虎師団(英語版)、青龍師団(英語版)、白馬師団(英語版)などの兵士が村の娘を強姦して軍法会議にかけられる事件が頻発している[9]。他方、韓国軍の兵士がベトナム人の母と子を置き捨てて帰国したため、軍司令部が再志願させてベトナムに戻し、結婚式を挙げさせた旨が伝えられている[9]。
背景

当時、韓国の朴正煕政権は反共を国是とし、分断国家としてのシンパシーを訴えて派兵を推進した。安聖基は「参加する方では『男に生まれたからには、一度は戦場に赴かねば』という気風がありました」とも指摘している[10]。南ベトナムに派兵された韓国軍は、2個師団プラス1個旅団の延べ31万名。最盛期には5万名を数えた。また、「ベトナム特需」を当てこんだ産業資本や出稼ぎの民間人も進出し、これも最盛期には2万人近く[11]がベトナムに赴いた。

一説には韓国軍は30万人を超すベトナム人を虐殺したとも言われ、ベトナムでは村ごとに『「ダイハン」の残虐行為を忘れまい』と碑を建てて残虐行為を忘れまいと誓い合っていると主張する人もいるが[12]実数に関する明確な証拠、文章が残っているわけではない。

こうした中でライダイハンは、これら韓国人男性とベトナム人女性との間に生まれた[7]。

兵士や出稼ぎの民間人による本国への送金は、年に1億2千万ドルを数え、1969年の韓国の外貨収入の2割に達した[11]。アメリカによる軍事・経済援助、日韓基本条約による資金援助と合わせて、漢江の奇跡の基礎となった。
引用
韓国軍の虐殺行為

ベトナム戦争が終わり、南北ベトナムが統一して既に四半世紀が通ぎた。そして韓国ではここ数年、あの戦争をめぐり長らくタブーとされてきた過去について、かつてない議論が進められている。その過去とは、ベトナム戦争に参戦した韓国軍によるベトナム民間人の虐殺問題だ。

最初にタブーを破ったのは、韓国のハンギョレ新聞社[13]が発行する週刊誌『ハンギョレ21』だった。同誌は1999年、韓国軍がベトナム戦当時に起こした虐殺事件について記事を掲載したのだ(5月6日号)。この記事を書いたのは、韓国人歴史研究者のク・スジョン。彼女はベトナム戦争の韓国軍の残虐行為が記されたベトナム側の資科を入手し、韓国の市民団体の一行とともにベトナム現地で検証を始めたのだ。ある地域で、猛虎部隊(韓国軍部隊)等による1か月間の作戦で1200名もの住民が虐殺されたという66年当時のベトナム側の報告を紹介しながら、同時に生存者たちの証言に基づき虐殺の様子を具体的に描いている。

例えば、生存者の証言からは韓国軍による民間人虐殺の方法にいくつか共通した類型があったようだと、同記事には記されている。以下、その部分を略して引用する。

大部分が女性や老人、子供たちである住民を一か所に集め、機関銃を乱射。
子供の頭を割ったり首をはね、脚を切ったりして火に放り込む。
女性を強姦してから殺害。強姦しながら拷問。妊産婦の腹を、胎児が破れ出るまで軍靴で踏み潰す。
トンネルに追い詰めた村人を毒ガスで殺す……等々。

日本の戦争責任を追及してきた韓国の人々にとって、自国軍が虐殺をしていたのだという告発は、苦いものであったに違いない。

続いて同誌の2000年4月27日号には、住民虐殺を行なったという元軍人による加害証言が掲載された。戦争当時、一般住民とゲリラを区別するのは難しく、我が身を守るためには仕方なかったのだとその元軍人は述壊した。しかし同時に、今やその行為に罪の意識をもち、韓国政府がベトナムに謝罪し被害者に補償することを望むという彼の声も、同誌では伝えられた。

これと前後して米誌『ニューズウィーク』が「暴かれた英雄の犯罪」と題してベトナム戦争での韓国軍の虐殺問題を取り上げた(2000年4月21日号)。ク・スジョンらの調査を紹介しつつ、「8000人以上の民間人を殺した韓国軍の虐殺行為の数々」が明らかにされつつあると、7ページにわたり大々的に報じたのだ。タブーであった虐殺事件についてのこれらの報道に対し、韓国国内では激しい反撃が起きた。

同年6月27日には、ベトナム戦に従軍した退役軍人ら2000人余りがハンギョレ新聞社に乱入しコンピュータなどを破壊した。彼らは「大韓民国枯葉剤後遺症戦友会」のメンバーで、国のために闘った戦友を冒涜されたと激しく抗議したのだ。ベトナムへの韓国人派兵は64年に始まり、延べで30万人以上の兵士を送り込んだ。米国に次ぐ大派兵であった。この戦争で約5000人の韓国人が死んだ。ハンギョレ新聞社に乱入した元兵士たちがそうであったように、アメリカ軍が散布した枯れ葉剤の被害に苦しむ元兵士らが、今も韓国には多い。

ベトナム戦争当時、韓国軍総司令官だった蔡命新は、先の『ニューズウィーク』でのインタビューで「誰に対しても償う必要はない。あれは戦争だった」と明言している。アメリカ軍によるソンミ事件などの虐殺行為がベトナム戦争当時から国際的に批判を受け議論の的となったのとは対照的に、韓国軍による虐殺行為については、こと韓国国内では長く沈黙が保たれてきた。

(中略)また全斗煥・盧泰愚両大統領がベトナム戦争で武勲を挙げた軍人であったという政治事情もあり、ベトナム戦での過去は、韓国では幾重にもタブーであり続けた。しかし、冷戦終結と韓国の民主化により、このタブーは破られた。(中略)韓国の歴史教科書には、ベトナム戦争についてほとんど記述はされていない。中学生向けの国定教科書に記されているのは「そして、共産侵略を受けているベトナムを支援するために国軍を派兵した」の約1行のみだ。

— 佐藤和、「被害者史観韓国を揺るがすベトナム民間人虐殺の加害責任」 『SAPIO』 2001年9月26日号

虐殺行為の詳細

1965年から1966年の間、プウエン省のタオ村で、韓国軍は、ほとんど大部分が婦人の村人42人を狩り立て、やがて小火器を浴びせ、全員を殺害した。1966年1月11日から19日の間、ジェファーソン作戦の展開されたビンディン省では、韓国軍は300人以上の住民を捕まえ、拷問を加え、更にまた400人以上のベトナム人を殺した。1965年12月から1966年1月の間に、韓国軍は、ビンディン省のプレアン村では数百戸の家々を炎上させ、一方キンタイ村を完全に掃討した。同じ省の九つの村々で韓国軍は、民間人に対して化学兵器を使用したのである。

1966年1月1日から同月4日までの間に、ブン・トアフラおよびヨビン・ホアフラ地方で、韓国軍は、住民たちの所有物を残らず略奪したうえ、住民の家やカオダイ教の聖堂を焼き、さらに数千頭の家畜を殺した。彼らは、また仏教寺院から数トンもの貨幣をくすね、それから人民を殺したのである。

「ある村が、わが軍の支配下に陥ると、その次の仕事はベトコンから村人たちを分け離すことなのだ」こう言ってのけたという韓国軍将校の話しが引用された。ナムフュン郡で、韓国軍は4人の老人と3人の妊婦を、防空壕の中へ押し込め、ナパームとガスで殺した。アンヤン省の三つの村では110人を、またポカン村では32人以上を、こうしたやり方で、殺したのである。

1966年2月26日、韓国軍部隊は、137人の婦人、それに40人の老人と76人の子供も一緒に、防空壕の中へ押し込めて、化学薬で殺したり、全員を盲にさせたりした。1966年3月26日から28日にかけて、ビンディン省で、韓国軍は、数千におよぶ農家と古寺院を炎上させ、若い女性や年老いた女性を集団強姦した。8月までに、勇猛な朝鮮人たちは、ビンディン省における焦土作戦を完了した。

フーカット郡(英語版)では、3万5千人の人たちが、死の谷に狩り立てられ、拷問を完膚なきまで加えられてから全員が殺された。10月には、メコン河流域では、裸で両手ないしは両足の19人の遺体が川から引揚げられた。これらは、いずれも陵辱された少女たちの遺骸であった。この事件に先立って、同じ地域で共同作戦中の米軍と韓国軍が、昼日中に結婚の行列を襲い、花嫁を含め7人の女性を強姦した、との報道もあった。かれらは、結婚式に呼ばれた客の宝石を残らず奪ったうえ、3人の女性を川の中へ投げ込んだ。

放火、銃剣による突き殺し、拷問、強姦、強奪こんな記事は、ほとんど毎日のように続いている。母親の胸に抱かれたいたいけな乳幼児でさえも、非人間的な殺人行為を免れることができないのだ。これは、たった一都市に起きた南京大虐殺どころの話ではないのだ。これこそ、アメリカの新聞の力をもってしても、中国の南京で起こった話を語ることのできない、今日のベトナム民族大虐殺なのである。つまり今日では米軍および韓国軍の検閲官が全強権を発動し、事実が明るみに出るのを妨げているのである。

(中略)なぜ在ベトナム韓国軍がかくも攻撃的で残酷であるかという理由は、彼らが、アメリカが与えてくれた援助に対してお返しをするためであり、さらにまたそれは韓国民に対して彼らが、アジアにおいて平定の役割を演ずることができるのだという誇りと確信の感情を与えるためである、と1967年5月、ソウル政府当局は日本人記者に説明した。

— D・W・W・コンデ、『朝鮮-新しい危機の内幕-』新時代社、1969年

韓国政府の対応

ライダイハンが表面化した後も、韓国政府による積極的な援護策は取られていない。しかし韓国の民間団体[1]やキリスト教団体とベトナム政府の支援により、支援施設(職業訓練学校)が設立され[14]、無償での職業訓練と朝鮮語の教育が行われた。ただし、ライダイハンの支援よりも、ベトナム国民を対象とした活動になっているとの批判がある[6]。

ライダイハン自身が、韓国人である父親に対して実子であることの認知訴訟を起こし、判決により韓国国籍を取得する動きもある[15]。盧武鉉政権は2006年に、写真など客観的に立証できる手段があれば韓国の国籍を付与する法案を検討するとした[16]。

なお、韓国政府は2009年にベトナム戦争の解釈をめぐってベトナム政府と衝突するという事件があった。2009年に韓国の国家報勲処が国家報勲制度の改定作業を行い、国会に法案改正の趣旨説明文書を提出した。この文書でベトナム戦争参戦者を「世界平和の維持に貢献したベトナム戦争参戦勇士」と表現したことにベトナムが、「我々は被害者。ベトナム戦争の目的が、なぜ世界平和の維持なのか」と猛反発し、予定された李明博大統領のベトナム訪問も拒否する方針を伝えた。韓国側は、柳明桓外交通商相をベトナムに派遣し、外相会談で「世界平和の維持に貢献」の文言を削除することを約束し、李大統領のベトナム訪問を予定通り実現させた。一連の外交交渉で、ベトナム政府は「侵略者は未来志向といった言葉を使いたがり、過去を忘れようとする」と批判した[17]。

韓国政府は、ベトナムでの虐殺や強姦など、自国の過去の蛮行を公式に認めようとしていない。韓国兵の行為にはメディアも人権活動家も目を向けなかった。その根底には、韓国人の、ベトナム人に対する人種差別意識が原因との見方もある[18]。
韓国マスメディアの反応

後の韓国大統領である全斗煥は白馬師団第29連隊長として[19]、盧泰愚と同様にベトナム派兵で活躍した指揮官だった。最大の圧力団体である軍部の存在もあって、韓国ではベトナム戦争を批判的に取り上げることをタブー視する雰囲気が存在した[20]。しかし後年、徐々に国民の意識が変わり、SBSでライダイハンをテーマとしたドキュメンタリー『大韓の涙』が放送された[21][22]。

リベラル紙を発行するハンギョレ社は、1999年5月に自社の週刊誌『ハンギョレ21』にて掲載した記事を皮切りに、ベトナムでの韓国の戦争犯罪やライダイハン問題をたびたび取り上げ、韓国の世論に衝撃を与えた[20]。これに対し、韓国の海兵隊の退役軍人にて組織される「枯葉剤戦友会」などの団体は、2000年6月27日に2400名という大集団を率いてハンギョレ社を襲撃した。彼らは同社内のあらゆる事務機器を破壊し、同社幹部を監禁し、同社の従業員十数名を負傷させた[20][23]。これだけの不当かつ大規模な暴力事件が生じたにもかかわらず、警察に連行されたのはわずか42名に留まり、身柄を拘束された者は4名のみであった[23]。

フィクションでは、2007年にSBS放送で、新ライダイハンがヒロインの連続テレビドラマ『黄金の新婦』が放送された[24]。
アメラジアン

戦時下のベトナムにおいては、アメリカ軍兵士とベトナム人女性との間にも多くの二世(越:Lai Mỹ/ 𤳆美、ライミー)が産まれた。一説には1万5千人ないし2万人と言われる。詳しくはアメラジアンを参照のこと。

統一後のベトナムでは、当初、ライダイハン同様に「敵国の子」とされ、迫害の対象となった。1987年にアメリカ政府は混血児とその家族の移住を受け入れ始めたが、なおベトナムに留まる者も多かった[25]。しかし、その後、越中戦争(中越戦争とも)において中華人民共和国と敵対した関係から西側諸国とベトナムとの関係改善が割合早期に行われたことなどから、ライダイハンほど激しくはなく、ドイモイ以降の政府の親米路線により激しい迫害は見られなくなった。
脚注
[ヘルプ]

^ a b c d e f g "[조흥국교수의 동남아 들여다보기] <17> 라이따이한 문제" - 조흥국教授の東南アジアのぞき見ること <17> ライダイハン問題 (朝鮮語)、釜山日報、2004年9月18日
^ http://glyphwiki.org/wiki/u24cc6
^ Trọng Dật Dương 300 câu hỏi, 300 năm Sài Gòn TP. Hò̂ Chí Minh 1998 "Nhũng bộ Phim như "Người tình" (Pháp), “Lai Đại Hàn" (Hàn Quốc), "Miền Nam Xa Xưa" (Pháp), “Ba mùa" (Mỹ)... từng được thực hiện ở đây. 211. llạll chiêu hong llill nllãt Trước 1975, cả thành phố có 51 rạp chiếu bóng. Trong số này, có rạp ..."
^ a b c d 名越二荒之助 『日韓2000年の真実』〜ベトナムの方がのべる韓国の残虐行為〜、2002年、672頁。
^ 宮崎真子、1993年、265頁。
^ a b コ・ギョンテ "라이따이한을 팔지 말라" - ライダイハンを売るな (朝鮮語)、『ハンギョレ21』第258号(電子版)、1999年5月20日。
^ a b 野村進によれば、これら混血児たちの父親の90パーセントは韓国のビジネスマンであり、ベトナム人女性との間に子供をもうけた後に「母子を置き去りにして帰国してしまった」例が多いという。『コリアン世界の旅』 講談社、1996年、173頁。
^ 『ハンギョレ21』256号、1999年5月6日。
^ a b 亀山旭 『ベトナム戦争 -サイゴン・ソウル・東京-』、岩波書店〈岩波新書〉、1972年、p.127。第五章「ベトナムの韓国軍」では、戦時下の南ベトナムと、韓国軍や韓国人の関わりを知ることができる。『週刊アンポ』第6号(1970年1月26日)の版がベ平連のサイト[1]で読めるが、岩波版と記述に一部差異あり。
^ 宮崎真子、1993年、263頁。
^ a b 松岡完 『ベトナム戦争 - 誤算と誤解の戦場』、219頁、中央公論新社〈中公新書〉、2001年、ISBN 978-4121015969。
^ 『親日派のための弁明』金完燮(草思社)
^ 伊藤千尋、2001年、48頁。
^ 野村進 『コリアン世界の旅』より。第六章「サイゴンに帰ってきた韓国兵たち」で韓国のキリスト教団体が設立した「職業訓練学校」を訪問している。
^ "韓国人・ベトナム女性との子ども「ライタイハン」ルーツ探し訴訟相次ぐ" (日本語)、東亜日報、2002年7月26日。
^ "‘라이따이한’ 한국국적 부여 검토하겠다" - 「ライダイハン」韓国国籍付与検討する (朝鮮語)、ハンギョレ、2006年4月26日。
^ 朝日新聞 2010年1月6日
^ ジェフリー・ケイン (2013年10月16日). “韓国が戦争犯罪を認めない訳”. ニューズウィーク 2013年10月26日閲覧。
^ 池東旭『韓国大統領列伝』中公新書、2002年154頁。
^ a b c 藤原修平 (2014年7月17日). “韓国のベトナムでの蛮行暴いた新聞社 韓国軍OBに襲撃された”. NEWSポストセブン. 小学館. p. 1. 2014年7月20日閲覧。 “SAPIO 2014年8月号”
^ 『大韓の涙』 SBS、1992年9月放送。
^ 『2007 新ライダイハンの涙』(朝: 2007 新라이따이한의 눈물) SBS、2007年6月3日放送(“한국인이 베트남에 남긴 '그림자' 조명” (朝鮮語). 文化日報 (2007年6月2日). 2009年10月1日閲覧。)。
^ a b 藤原修平 (2014年7月17日). “韓国のベトナムでの蛮行暴いた新聞社 韓国軍OBに襲撃された”. NEWSポストセブン. 小学館. p. 2. 2014年7月20日閲覧。 “SAPIO 2014年8月号”
^ SBS、2008年放送(朝: 황금신부〈黄金新婦〉)。一部メディアでは『黄金の花嫁』とも表記される。“ドラマ「黄金の花嫁」 家族和解で‘有終の美’飾る” (日本語). 中央日報 (2008年2月4日). 2009年7月6日閲覧。
^ 読売新聞、1985年4月15日、1995年5月2日、1996年12月3日。

参考文献

野村進 『コリアン世界の旅』、講談社、1996年、ISBN 978-4062080118。
名越二荒之助 『日韓共鳴二千年史』、670-675頁、明成社、2002年、ISBN 978-4944219117。なお、同著は『日韓2000年の真実 -写真400枚が語る両国民へのメッセージ』(1997年)を改題改訂したもの。
宮崎真子 「『ホワイト・バッジ』にみる韓国社会」、『世界』、岩波書店、1993年8月。
朝日新聞 1992年4月24日及び12月23日、1995年5月2日、1999年1月8日。
ニューズウィーク日本版2000年4月12日号 P.24『私の村は地獄になった』
池東旭『韓国大統領列伝』中公新書、2002年
木村幹『韓国現代史――大統領たちの栄光と蹉跌』中公新書、2008年、ISBN 9784121019592
伊藤千尋「たたかう新聞 「ハンギョレ」の12年」『岩波ブックレット No.526』 岩波書店 東京 2001年

関連項目

アメラジアン
en:Field of Honor (1986 film)
韓国の戦争犯罪
韓国軍慰安婦
強姦の歴史
コピノ
コレコレア
混血
人権
戦争犯罪
竹林はるか遠く-日本人少女ヨーコの戦争体験記
全斗煥(チョン・ドゥファン)
ベトナム戦争
ゴダイの虐殺
タイヴィン虐殺
タイビン村虐殺事件
ハミの虐殺
フォンニィ・フォンニャットの虐殺

韓国軍慰安婦
慰安婦 > 韓国軍慰安婦

韓国軍慰安婦(かんこくぐんいあんふ)、または大韓民国軍慰安婦 (だいかんみんこくぐんいあんふ、한국군위안부、대한민국군위안부、Korean Military Comfort Women[1])とは、韓国軍と在韓米軍や国連軍を相手にした慰安婦。朝鮮戦争やベトナム戦争では韓国はアメリカ合衆国を基盤とした連合軍に参加したため、韓国で設置された慰安所および慰安婦(特殊慰安隊)は韓国軍だけでなく米軍をはじめとする国連軍も利用した。現在も坡州市のヨンジュコル(용주골、en:Yong Ju Gol)[2][3]などに存在している。

基地村政策沿革[4]

1947.11.14 公娼制度廃止
1950-1954 韓国軍慰安婦設置
1961.11.9 淪落行為等防止法(ko:윤락행위 등 방지법)制定
1962.6 米軍基地近隣104ヶ所を特定(淪落)地域に指定し売春取締除外
1971.12.22 政府主導で基地村浄化委員会発足
1970-1980年代 強制性病検診、基地村女性人権侵害がひどい
1990-1991年 梨花女子大元教授の尹貞玉が日本軍慰安婦問題を新聞で初めて告発。
1992年 尹今伊殺害事件(米軍兵士が基地村女性殺害) 
1996年 性病管理所閉鎖(韓国政府による管理売春終わる)
1990年代後半 フィリピン等外国人女性に代替(民営化)

目次

1 名称
2 連合軍軍政期の朝鮮における慰安婦
3 朝鮮戦争と特殊慰安隊
3.1 「特殊慰安隊」
3.2 第五種補給品
3.3 韓国軍慰安婦の類型
3.4 設置理由
3.5 慰安婦の輸送方法
3.6 設置時期と場所
3.6.1 釜山・馬山
3.6.2 江陵・春川など
3.6.3 ソウルの慰安所
3.7 朝鮮戦域における日本人慰安婦
3.8 朝鮮戦争時の慰安婦の数
3.9 強制連行
3.10 国連軍による性暴力と強制連行
3.10.1 北朝鮮人女性の強制連行
4 朝鮮戦争休戦からベトナム戦争まで
4.1 閉鎖と存続
4.2 売春業者による誘拐事件
4.3 慰安婦の自殺
4.4 韓国政府による慰安婦政策:「特殊観光」
4.5 自治体による慰安婦管理
4.6 モンキーハウス
5 ベトナム戦争時
5.1 米国の性政策
5.2 韓国の性政策
5.3 韓国軍による性暴力
5.4 ベトナム戦争時の慰安婦の数
6 全斗煥政権
6.1 基地村浄化キャンペーン
7 1990年代から現在まで
7.1 尹今伊殺害事件
7.2 フィリピン人・ロシア人等外国人慰安婦と強制売春
7.2.1 ジューシーバー問題
8 韓国と米国に対する慰安婦訴訟
9 韓国軍・米軍慰安婦問題
9.1 研究と資料閲覧禁止
9.1.1 2000年代
10 韓国の慰安婦に関する諸説
10.1 日本軍慰安所との関連
10.2 現代の妓生、キーセン
10.3 元ソウル警察署長による公娼制度復活論
11 脚注
12 参考文献
13 関連項目
14 外部リンク

名称
国連軍を相手とする慰安婦の登録が1961年9月13日に実施された。東亜日報1961年9月14日

韓国陸軍本部が1956年に編纂した公文書『後方戦史(人事編)』には「固定式慰安所-特殊慰安隊」とあり、朝鮮戦争中は「特殊慰安隊」[5][6][7][8]または「第5種補給品」[5][9]とも呼ばれた。

朝鮮戦争後は「美軍慰安婦(美軍はアメリカ軍のこと)」[10]「国連軍相対慰安婦(UN軍相對慰安婦)」と呼ばれた[11][10]。

韓国では、「慰安婦(위안부)」という言葉は、1980年代までは主に米軍・国連軍慰安婦の事を指しており、日本軍慰安婦はほとんど問題になっていなかった。しかし1990年代に日本との問題が大きくなってからは、「慰安婦」という言葉は、日本軍慰安婦に対して使われるようになり、米軍・国連軍慰安婦に対しては使われなくなった[12]。
東亜日報の「慰安婦」関連記事数[12] 年度 日本軍慰安婦関連記事数 米軍・国連軍慰安婦関係記事数
1951-55 1件 17件
1956-60 0件 36件
1961-65 0件 56件
1966-70 1件 118件
1971-75 5件 39件
1976-80 0件 20件
1981-85 4件 9件
1986-90 5件 8件
1991-95 616件 3件

ほかに蔑称の意味合いもある「洋パン(ヤン・セクシ)」[9]「洋公主(ko:양공주、ヤンコンジュ、ヤンカルボ)」[13][9][7]、また毛布一枚で米軍基地について回るという意味で「毛布部隊」[13]、ベトナム戦争時は「ディズニーランド」とも呼ばれた[14]。また米兵を相手にするフィリピン人慰安婦を「ヤンキー売春婦」「コメで動くチビ茶色のファッキンマシーン」などとする蔑称もある[15]。ほかにジューシーガール(juicy girls)、バーガール(bar girls)、ホステス(hostesses)、エンターテナー(entertainer)という言い方もされる[16][17]。

「挺身隊(정신대)」[18]・国軍挺身隊とも呼ばれた。

これらの英語表記はcomfort womanであり、日本語の慰安婦の英訳と同一である[13]。英語では韓国軍・在韓米軍慰安婦は一般にKorean Military Comfort Womenと表記される[1][13]。

もっとも朝鮮戦争やベトナム戦争におけるこの種の行為について韓国内では全く議論になっていないため、韓国最大手の新聞朝鮮日報でも「人の心を持った国なら、自国民を国営売春婦にするという発想はしない。」との記事を執筆するレベルの認識にとどまっている[19]。
連合軍軍政期の朝鮮における慰安婦

第二次世界大戦で大日本帝国が連合軍に敗北したため、朝鮮半島は1945年9月2日から、日本統治期より連合軍軍政期に移った。

朝鮮半島においては、連合軍による軍政が敷かれ日本軍将兵を相手にした慰安所、慰安婦ともにアメリカ軍に引き継がれた[16][20][13]。1945年9月には、日本軍兵站基地があった富平に米軍基地が居抜きで建設され、基地周辺にあった公娼地域も引き継がれた[13]。富平基地はキャンプ・グラント(Camp Grant)、キャンプ・マーケット(Camp Market)、キャンプ・タイラー(Camp Tyler)、キャンプ・へイズ(Camp Hayes)を網羅する広大な基地だった[13]。

第8軍の龍山基地周辺には梨泰院があり、これも日本軍将兵も利用した公娼地域であった[13]。ほかにも釜山、玩月洞、凡田洞(ハヤリア隊基地入り口)、大邱の桃源洞(チャガルマダン)、大田の中央洞などの公娼地域も同様に引き継がれた[13]。

1947年11月には公娼制が廃止されたが、1948年に米軍は公娼制廃止によって性病が蔓延したと主張し、娼婦の性病検査は1949年まで続けられた[13]。
朝鮮戦争と特殊慰安隊

1948年8月15日にはアメリカ合衆国の支援を受けて大韓民国が建国された。同年9月9日には朝鮮民主主義人民共和国が独立する。しかし、1950年より南北朝鮮の間で朝鮮戦争が勃発、1953年7月27日に休戦する。

朝鮮戦争中に韓国軍は慰安婦を募集した。韓国政府は、韓国軍・米軍向けの慰安婦を「特殊慰安隊」と呼び、設立した[10][5][21]。

大韓民国政府は、韓国軍と国連軍のための慰安所を運営した[22]。韓国軍は直接慰安所を経営することもあり、韓国陸軍本部は特殊慰安隊実績統計表を作成していた[5][6]。部隊長の裁量で周辺の私娼窟から女性を調達し、兵士達に補給した[9]。韓国軍によりトラックで最前線まで補給された女性達は、夜になると開店しアメリカ兵も利用した[9]。

韓国戦争以降1990年代まで在韓米軍の韓国駐留時[23]に大韓民国の国軍によって強行され、大韓民国の国軍と在韓米軍の性的欲求を解消する目的で強制的に集団的性行為を強要された事例もある。
「特殊慰安隊」

韓国軍が1951年-1954年まで「特殊慰安隊」という名前で、固定式あるいは移動式慰安婦制度を取り入れて運用したことは韓国陸軍本部が1956年に編纂した公式記録である『後方戦史』(후방전사)の人事編と目撃者たちの証言によって裏付けられた[24]。

韓国軍は慰安婦を「特殊慰安隊」と名付け、慰安所を設置し、組織的体系的に慰安婦制度をつくった[25][26]。
第五種補給品

尉官将校だった金喜午の証言では、陸軍内部の文書では慰安婦は「第五種補給品」とよばれた[25][27]。

軍補給品は1種から4種までだったため、そのように呼ばれた[25][27]。
韓国軍慰安婦の類型

金貴玉によれば、韓国軍慰安婦の類型には、軍人の拉致、強制結婚、性的奴隷型、昼は下女として働き、夜には慰安を強要されたり、また慰安婦が軍部隊へ出張する事例もあった[25]。

また、正規の「慰安隊」とは別に部隊長裁量で慰安婦を抱えた部隊もあった[28]。
設置理由

特殊慰安隊の設置理由は、兵士の士気高揚、性犯罪予防であり、これは日本軍慰安婦と同様のものであった[25]。計画は陸軍本部恤兵監室が行い[25]、1950年7月には韓国政府は軍作戦識見を米軍を中心とした国連軍に譲渡しており、最終的な承認は連合軍が行ったとされる[25]。韓国政府・軍は慰安婦に対して「あなたたちはドルを得る愛国者」として「称賛」されたという[29][13]。
慰安婦の輸送方法

慰安婦は前線に送られる際には、ドラム缶にひとりづつ押し込めてトラックで移送し前線を移動して回り、米兵も利用した[26][9][30]。
設置時期と場所

韓国政府は、韓国軍だけではなく国連軍のための慰安所も運営した。
釜山・馬山

朝鮮戦争が始まってほどない1950年9月、釜山に韓国軍慰安所が、馬山市に連合軍慰安所が設置され[7]、釜山日報の報道によれば、馬山の国連軍用慰安所は5ヶ所あった[31])。

1951年には釜山慰安所74ヶ所と国連軍専用ダンスホール5ヶ所が設置される[7][13]。
江陵・春川など

江陵市には、第一小隊用慰安所(江寮郡成徳面老巌里)が、他に春川市、原州市、束草市などに慰安所が設置された[25]。
ソウルの慰安所

ソウル特別市地区には以下の3ヶ所が設置された[25]。

第一小隊用慰安所(現・ソウル市中区忠武路四街148)
第二小隊用慰安所(現・ソウル特別市中区草洞105)
第三小隊用慰安所(現・ソウル特別市城東区神堂洞236)

朝鮮戦域における日本人慰安婦

朝鮮戦争では日本人慰安婦も在日米軍基地周辺、また朝鮮半島へも日本人慰安婦が連れて行かれたこともあった[32][33]。
朝鮮戦争時の慰安婦の数

総数は不明。金貴玉教授は朝鮮戦争直前の私娼の数5万人を下ることはないと見ている。なお、朝鮮戦争後には性売買をする女性は30万人余りに達したと推測されている。[24]

韓国陸軍本部が1956年に編纂した公文書『後方戦史(人事編)』によると韓国軍慰安婦は1952年における4小隊に限ったケースだけでも89人の慰安婦が204,560回の行為を行わされた[5][6]。
強制連行
韓国・アメリカ軍に捕えられた北朝鮮軍看護婦。捕えられた北朝鮮女性はレイプされたり強制的に慰安婦にさせられることもあった[8]。

韓国軍慰安婦のケースでは韓国政府やアメリカ政府による強制があったとされている[29][5][6][34]。 韓国における慰安婦はアメリカ兵に残忍に殺害されることや、アメリカ兵によるとされる放火で命を落とすこともあった[34]。
国連軍による性暴力と強制連行

崔吉城は論文「朝鮮戦争における国連軍の性暴行と売春」において、朝鮮戦争時には敵国ではない韓国において国連軍がソウル市北部の村で日中、シェパードを連れて女性を捜索し、発見後に強姦に及んだり、またジープにのって民家を訪れ女性を強制連行して性暴力をはたらいたことや、韓国人兵士が韓国人女性に性暴力や性拷問をはたらいたことを紹介している[35]。性暴力をうけたのは女性だけでなく、10歳位の男子がフェラチオを強要され喉が破裂したこともあった[35]。
北朝鮮人女性の強制連行

朝鮮戦争中に韓国軍に逮捕された北朝鮮人女性は強制的に慰安婦にされることもあった[8]。

韓国軍の北派工作員は北朝鮮で拉致と強姦により慰安婦をおいていた[6]。

捕虜となった朝鮮人民軍女軍[36]、女性パルチザンゲリラ、そのほかに朝鮮人民軍や中国の人民志願軍の占領地内の住民である朝鮮人女性のうちまだ疎開しなかった女性などが、共産主義者を助けたとの名目で強制的に性奴隷にされた。
朝鮮戦争休戦からベトナム戦争まで
閉鎖と存続

1953年7月27日の朝鮮戦争の休戦にともない各慰安所は1954年3月に閉鎖され[25]、翌1954年に「正規」の「慰安隊」はなくなったが、事実上の慰安隊が私娼の形で存続し費用は「厚生費」などの名目で支出されていた[24]。

軍隊慰安所は公式には解体されねばならなかったが、韓国政府とアメリカ政府は存続の協議のため「性病対策委員会」を設置した[13]。1957年の会議では米経済調整官室(Office of Economic Coodinator,OEC)側は、決定を韓国側で行ってほしいと韓国側に要請し、ソウル、仁川、釜山に接客業所やダンスホールを指定し設置した[13]。こうして洋公主は、国家管理によって慰安婦と「米軍同居女」の二つに分類されるようになり、東豆川や議政府という基地村が栄えていった[13]。

1955年のソウル市警察局によると米軍相手の性売買女性は61,833名であった[7]。
売春業者による誘拐事件

朝鮮では1930年代にも売春斡旋業者による少女誘拐事件が頻発したが[37]、朝鮮戦争後も売春斡旋業者による少女誘拐事件が発生している。1956年4月には「売淫ブローカー」によって少女2名が誘拐[38]。

また1956年7月11日の東亜日報は「田舎の処女誘引 売春窟に売った女人検挙」との見出しで、少女を誘拐し売春を強要した容疑で老婆が逮捕されたと報道している。
慰安婦の自殺
アメリカ軍(美軍)慰安婦2名が韓国釜山で悲観のあまり自殺したことを報じる1957年7月21日付東亜日報

韓国におけるアメリカ軍相手の女性達は自殺や中毒により死亡することもあった[34]。1957年7月21日付け東亜日報で、アメリカ軍慰安婦がわが身を悲観して自殺したと報道される[10]。1959年7月30日付け東亜日報で、慰安婦が悲觀自殺したと報道される[10]。
韓国政府による慰安婦政策:「特殊観光」

1960年代の韓国ではアメリカ軍相手の売春が国家を挙げて奨励され、国民総生産の25%を占めていた[39][13]。1962年の韓国の相場では、ショートタイムで2ドル、ロングタイムで5ドルであった[9]。固定的な性的関係を持つことによって月給をもらう女性もいた[9]。

1970年代になると、外貨稼ぎの主軸とみなされるようになり[13]、慰安婦・洋公主たちは「ドルを稼ぐ愛国者」、「真の愛国者」、「ドルを稼ぐ妖精」「民間外交官」[13]と韓国政府から称賛された[29][40][41][34][13]。

1961年、朴正煕政権は観光事業振興法を制定し、免税ビールを許可された特殊観光施設業者を指定し、赤線地帯を設立していった[13]。1962年6月には保健社会部、法務部、内務部合同で韓国国内の104カ所の淪落地域を設置、龍山駅、永登浦駅、ソウル駅、梨泰院、東豆川、議政府などもそこに含まれた[13]。国内で管理売春政策をすすめる一方、1962年4月に韓国は人身売買禁止条約に署名している[13]。

朴正煕政権は、慰安婦を新たに「特殊業態婦」という呼称でよぶようになり、特殊観光協議会と韓米親善協会が、売春の制度基盤となった[13]。

1960年代の東豆川だけで未登録の私娼が1万名のものぼり、米兵2,3名あたり1名の娼婦がいた[13]。1962年の韓国ではアメリカ兵相手の慰安婦として2万名以上が登録されていた[9][42]。韓国政府推算では1万6000名[13]。
自治体による慰安婦管理
慰安婦への教養講習が伊淡支署主催で行われていることを報ずる東亜日報1961年1月31日付

慰安婦の性病罹患が問題視されてから行政による実態調査が行われ、1959年9月の韓国保健社会省の性病保菌実態の報告では、接待婦の15.6%、私娼の11.7%、慰安婦の4.5%、ダンサーの4.4%が罹患していた[9]。1959年10月には、慰安婦の66%が性病保菌であることが検査でわかった[43][10]。

朴正煕政権は性病を規制をする目的として、慰安婦を自治会に所属させ、身元などを正確に把握させた上で相互監視を行わせる教育と管理システムを運営し、自治会長は韓国警察や韓国公務員によって選定された[18]。

1961年1月27日、東光劇場で伊淡支所主催の慰安婦向け教養講習会が開かれ、800余名の慰安婦、駐屯米軍第7師団憲兵部司令官、民事処長など米韓関係者が出席、慰安婦の性病管理について交流を行った[44]。

1961年、ソウル市社会局が「国連軍相手慰安婦性病管理士業界計画」を立案、9月13日には「UN軍相対慰安婦」(国連軍用慰安婦)の登録がソウル市警で開始された[11]。
モンキーハウス

韓国での慰安婦たちの写真や個人情報などはアメリカ軍も管理しており[18]、韓国におけるアメリカ軍相手の慰安婦は性病の疑いをもたれると韓国警察によりモンキーハウスと呼ばれる窓に柵のされた施設に、ジープやトラックにのせられ[13]、留置され強制的に薬を完治するまで飲まされることとなっていた[29]。また、性病に罹患した女性達は治るまでの間は強制的に拘置所に隔離されていたと在韓米軍の性病報告に記録されている[40][13]。また、病気ではないと証明された場合には犬のようにタグを付けることを強制された[34]。

韓国におけるアメリカ軍相手の慰安婦達は容易に行為の相手から見分けがつき易いように番号札をつけることを強制されていた[29]。 また、韓国政府は女性達に韓国を助けるために来た兵士達が満足するように清潔にしなさいと指導した[34]。
ベトナム戦争時
米国の性政策

ベトナム戦争のときに米軍は公認の慰安所でなく、現地の売春婦を買春した(慰安婦#アメリカ軍慰安婦を参照)。ベトナムでは、料金は500ピアストル(2ドル)で、女性の手取りは200ピアストル(0.8ドル)で、残りは業者のものとなった[14]。

1970年代初、アメリカ軍は韓国政府に韓国における基地村浄化事業を行うよう要求した[18]。1971年8月、吴致成内務長官が各警察署に保健当局と協力して慰安婦の性病予防策を講じ教養を強化するように命令した[22]。
韓国の性政策

ベトナム戦争に参戦するにあたり韓国政府は朝鮮戦争時と同様な「慰安隊」設置を計画したが、米軍の反対に遭い実現はしなかった(駐越韓国軍司令官)。このことがベトナムの民間女性に対する強姦事件が多発したことの一因になったとされる[45]。
韓国軍による性暴力

韓国軍兵士はベトナム人女性を多数強姦し、フォンニィ・フォンニャットの虐殺においてはレイプ後、虐殺するケースが多かったとされる[46]。韓国軍兵士によるレイプによって妊娠したベトナム人女性が生んだ父のいない混血児たちをライダイハン(𤳆大韓、ライ「𤳆(チュノム表記、U+24CC6)」はベトナム語で動物を含む「混血雑種」を意味する蔑称)といい、その数は3万人にのぼるともいわれる[47]。

韓国軍が制圧した地区で殺害されなかった女性は、ほとんど慰安婦にされたといわれる[48]
ベトナム戦争時の慰安婦の数

ベトナム戦争末期にはベトナムでは30万人から50万人の慰安婦がいた(Cynthia Enloeによる[49][50])[14]。アメリカ陸軍第1師団第3旅団(将兵4000名)ではベトナム女性60人が住み込みで相手した[14]。

1980年代までに100万人超の韓国女性が米軍の相手をした[42]。
全斗煥政権
基地村浄化キャンペーン

全斗煥政権(1980年 - 1988年)の時代には、全斗煥大統領による基地村浄化キャンペーンが実施されると売春婦とアメリカ兵との関係の発展を目指して、エチケット講義が行われるとともに頻繁に薬物療法が行われるようになった[34]。医師免許を持たない医者達の前で脚を広げることを強制され、抗生物質を打たれて死にいたる女性もいた[34][18]。女性達が逆らうと医者達に暴力を振るわれて監禁されることとなっていた[34]。
1990年代から現在まで

朝鮮戦争時に設置された束草の慰安所は休戦後、私娼の集娼地が形成され、1990年代まで軍の慰安所として機能していた[25]。1990年ころも、軍の訓練所の外に 俗に「毛布部隊」と呼ばれる私娼窟があった[24]。

韓国では旧日本軍慰安婦問題だけでなく、在韓米軍を相手にした慰安婦(売春婦)の問題も、在韓米軍慰安婦問題として社会問題にもなっている。1990年までに韓国における米軍相手の売春婦は25万から30万にのぼった[35]。
尹今伊殺害事件

詳細は「尹今伊殺害事件」を参照

1992年10月には、米兵のケネス・マークル(Kenneth Markle)が米軍専用クラブの従業員で「洋公主[13]」の尹今伊(ユン・クミ(グミ[13])[51]を殺害し、膣にコーラ瓶、肛門には傘が刺され全身に洗濯用洗剤がまかれたままの遺体で見つかるという尹今伊殺害事件が発生し、反米運動にまで発展し、翌1993年には駐韓米軍犯罪根絶運動本部が設置された[35][52]。
フィリピン人・ロシア人等外国人慰安婦と強制売春

「売春#韓国における売春の現状」も参照

1980年代までは韓国人女性達は、韓国政府やアメリカ人により在韓米軍相手の売春を強制されていた[29]。韓国人女性達への強制が終わると、ロシア人女性やフィリピン人女性達が代わりとなった[7][53]。ほか慰安婦の出身地は、ボリビア、ペルー、モンゴル、中国、バングラデシュ、キリギスタン、ウズベキスタンなどがある[53]。

1990年代以降の韓国では、在韓米軍基地の近くでフィリピン人女性達が、韓国人業者により売春を強制されていると報告された[54][55]。1990年代中ごろから2002年までに5000人のロシア人やフィリピン人女性達が密入国させられた上で売春を強制させられていた[54][56]。

2000年代の韓国では、韓国軍相手の女性達の90%がロシア人やフィリピン人女性などの外国人であるとされている[34]。2009年時点では、米軍基地近接地で売春を強制させられている女性に占めるロシア人女性の比率は減少したが、フィリピン人女性の比率は増加した[55]。なお、韓国では現在は売春は違法行為である[57]。
ジューシーバー問題

韓国でアメリカ軍を相手とするジューシーバーで働くフィリピン女性たちが人身売買の状況下に置かれている問題がある[58]。韓国では売春は違法行為であるがアメリカ軍相手の売春を行っているバーなどは当局の摘発対象外とされている[59]。アメリカ軍相手の売春を強要されているフィリピン女性たちは、フィリピンに進出している韓国企業によって韓国で歌手として働くためと称した募集に応じた女性たちである[60]。在韓米軍自身もこれらの女性たちは歌手、ダンサーになることを夢見て韓国に来たが売春を強要されていることを報じている[58]。フィリピン女性たちはヤンキー売春婦、コメで動くチビ茶色のファッキンマシーンなどの軽蔑的な呼称で呼ばれてきた[15]。1000人を超えるフィリピン女性、ロシア女性を米軍基地周辺のクラブで人身売買したとしてクラブ経営者が訴えられることもあったが韓国の裁判官は訴えを却下してきたが[61]、2002年にアメリカのフォックステレビが韓国に人身売買された女性たちが売春を強要されていることを報じると[61]、翌年からは監禁され売春を強要させられていた一部のフィリピン女性への賠償を命じる判決を出したり、フィリピン女性たちを監禁して売春を強制していた経営者に対しては執行猶予、社会奉仕の判決を下すケースも存在するようになった[62]。2000年以降、韓国の売春宿に監禁されている外国女性などが多数火事で焼死する事件が相次いでいる[16]。2009年にアメリカ軍の機関紙である星条旗新聞は、韓国でジュースをクウォーター制で売る女性たちは売り上げ次第で店主から売春を強要させられていることを明らかにしている[58]。

フィリピン政府の対応

これらの状況に対して、フィリピン大使館はフィリピン女性たちが売春を強制されているバーの監視リスト作成したり女性たちの裁判を支援する動きを見せている[63]。

米政府・米軍の勧告

2010年にアメリカ国務省は韓国の米軍基地周辺のバーで働く女性達の状況について、現在進行中の人身売買であるとする報告を行っている[58]。2012年に在韓米軍はジューシーバーで高いドリンク代を支払うことは現代における奴隷制の一つである人身売買業を支援することであるとする動画をユーチューブに投稿した[64][58]。
韓国と米国に対する慰安婦訴訟

2009年、韓国系アメリカ人の元慰安婦らが米兵との性的行為を1960年代から1980年代にわたり強制されたとして、米軍と韓国政府に対して損害賠償をもとめてアメリカで提訴した(在韓米軍慰安婦問題)。原告の慰安婦らは韓国政府は米軍のためのポン引きだったと批判している[29]。

その後、謝罪と補償を求める女性たちもいるが、韓国最高裁は売春である不法行為に基づく損害賠償請求であるとして棄却している[要検証 – ノート][65]。

2014年6月25日、米軍慰安婦で働かされたとして、韓国人女性ら122人が韓国政府を相手に国家賠償を求める訴訟を起こした[66][3][67]。支援者によると、米軍慰安婦による国家賠償訴訟は初めてとされる[68]。1947年に売春禁止法が成立していたにもかかわらず、韓国政府は1950年からの朝鮮戦争時に米軍(国連軍)を相手にした売春を認める「特定地域」を設け、女性たちを売春管理していたとされる。特定地域での管理は強制的で、慰安婦の中には欺されて連れてこられた10代の少女も居たという。慰安婦と支援団体は、第二次世界大戦時の日本軍慰安婦と同様に韓国政府は謝罪と賠償をするべきと訴えている。現時点ではまだ米国を訴えてはいない[69]。当時の朴正煕大統領が直接管理していたとする指摘もある[70]。
韓国軍・米軍慰安婦問題

韓国では、日本軍慰安婦問題について1980年代から1990年代にかけて社会問題、さらに日韓の外交問題ともなっていた。他方、1990年代後半になると、大韓民国国軍あるいは米軍にレイプされた韓国軍慰安婦の存在について韓国内で公論化され始めるようになった。

1997年にはアメリカでヤン・ヒュナ(Yang Hyunah)が韓国軍慰安婦の研究論文「Revisiting the Isuues of Korean Military Comfort Women」を発表し[71]、同年、ヒュン・S・キム(Hyun S.Kim)とJT・タカギとヘ・ジュン・パク(Hye-Jung Park)は「The Woman Outside:Korean Women and the U.S.Militaly [7]」を発表した。
研究と資料閲覧禁止

韓国軍慰安婦については1996年に韓国慶南大学教授の金貴玉が、大韓民国陸軍本部軍事監室『後方戦史(人事篇)』(1956年刊)の調査で、朝鮮戦争時に大韓民国陸軍が慰安婦を徴集していたことや、同書には当時の記録や統計がおさめられていることを明らかにした[5][6]。

金喜午(김희오)大将は韓国軍慰安婦について明らかにされたくはない恥ずかしい軍部の恥部であるが事実であると語った[8]。しかし、韓国の学会や運動団体からは韓国軍慰安婦は公娼であるし、また「身内の恥をさらすもの」「日本の極右の弁明の材料となりうる」と警告し、韓国国防部所属資料室の慰安婦資料の閲覧は禁止された[25]。
2000年代

日本でも 崔吉城が2001年に「朝鮮戦争における国連軍の性暴行と売春」を発表した[35]。

2002年2月、金貴玉と姜貞淑などにより韓国軍慰安婦の存在が公開され、朝日新聞2002年2月24日の報道では、金らは1948年の韓国政府の公娼廃止令に背いて、約3年間不法に公娼を設置・運営していたと発表した[72]。2002年の韓国メディアでは韓国軍慰安婦の存在を認める報道もなされてた[6][8]。また最近週刊新潮2013年11月28日号で「朴槿惠大統領の父は『米軍慰安婦』管理者だった」という特集記事が掲載され、そのなかで彼女たちは一人ずつドラム缶に押し込まれ「補給品」名目でトラックに積まれた、などと書いている。

しかし、2012年に、最大発行部数を誇る朝鮮日報は従軍慰安婦は日本軍の性奴隷であるが[73]、韓国軍慰安婦の存在については歪曲であると主張している[73]。
韓国の慰安婦に関する諸説
日本軍慰安所との関連

金貴玉は当時設置を行った陸軍関係者がかつて日本軍として従軍していたことなどから、「韓国軍慰安所制度は日本軍慰安所制度の延長」としている[25]。また在韓米軍基地は日本軍基地を転用したものがほとんどで、米軍は基地周辺の売春街も活用したことも背景にある[13]。

また、「慰安(婦)」という言葉が共通していることなどから韓国軍慰安婦は旧日本軍慰安婦にならってつくられたと考えられている。しかし、旧日本軍の慰安婦が民営であったのに対し、韓国軍の慰安婦は軍直営を超えて「慰安隊」として正規の軍組織となっていた点で大きく異なる。なお、日本軍慰安婦の場合は公募によるものであり、当時の公務員の平均給与を超えた高額給与が慰安婦に支払われていた(日本の慰安婦参照[24])。韓国系アメリカ人の研究者でサンフランシスコ州立大学教授のサラ・ソー (C. Sarah Soh) は2009年の著書で、慰安婦を「性奴隷」や戦争犯罪とむすびつけて描写するのは不正確であるとしたうえで、韓国政府と韓国議会が日本軍慰安婦問題を扇情的に扱い、異論を許さないまま「日帝による被害の物語」を国民に押し付け、誤導したと批判している[74]。ソー教授は「慰安婦が強制連行された」という物語は陳腐な教義[75]であり、韓国政府の政治戦略的な誇張が慰安婦問題の深い理解とその解決を妨害しているとして、韓国社会が被害者意識から脱却すること、また韓国もまた元慰安婦にトラウマを与えた共犯者であり、慰安婦制度それ自体は戦争犯罪ではなかったことを受け入れるべきだとした[74]。
現代の妓生、キーセン

詳細は「妓生」および「慰安婦」を参照

川村湊は「李朝以前の妓生と、近代以降のキーセンとは違うという言い方がなされる。江戸期の吉原遊郭と、現代の吉原のソープランド街が違うように。しかし、その政治的、社会的、制度的な支配−従属の構造は、本質的には同一である」とのべ[76]、現代のソウルの弥亜里88番地のミアリテキサスや清凉里 588といった私娼窟にも「性を抑圧しながら、それを文化という名前で洗練させていった妓生文化の根本にあるものはここにもある」と述べている[77]
元ソウル警察署長による公娼制度復活論

2012年9月にはソウル鍾岩警察署長として風俗街「ミアリテキサス」の取締りを行ったこともある漢南大学警察行政学科教授の金康子はテレビ朝鮮の番組[78]で韓国では生計のために売春業を行う女性たちへの支援制度もなく、また警察力の限界もあるとして限定的な公娼制度を導入すべきと主張した[79]。
脚注

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参考文献

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関連項目

慰安婦
売春
女衒
セックスワーカー
北派工作員
在韓米軍慰安婦問題
妓生

外部リンク

米軍と韓国人慰安婦の泥沼の歴史 1945~基地売春
ハン・ホングの維新と今日<20>基地村浄化運動(ウェブ魚拓) ハンギョレ 2012年11月30日

ゴダイの虐殺
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ゴダイの虐殺
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ビンディン省
各種表記
ハングル: 고자이 양민 학살 사건
漢字: 고자이 良民 虐殺 事件
発音: コジャイ ヤンミン ハッサル サゴン
2000年式:
英語表記: Gojai yangmin haksal sageon
Go Dai massacre
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ゴダイの虐殺
各種表記
クォック・グー: Thảm sát Gò Dài
漢字・チュノム: 惨殺𡍢𨱽
北部発音: タムサット・ゴーザイ
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ゴダイの虐殺(ゴダイのぎゃくさつ、英語: Go Dai massacre, ベトナム語: Thảm sát Gò Dài)とは、ベトナム戦争時の1966年2月26日にベトナムビンディン省で韓国軍が住民380人を虐殺した事件のこと[1]。地名の発音は、むしろ「ゴザイ」に近い。
概要

1966年2月26日[2]、南ベトナムビンディン省タイソン県ビンアン村のゴザイ集落を訪れた韓国陸軍首都機械化歩兵師団(英語版)(猛虎部隊)は住民380人を集めると一時間のうちに一人残らず虐殺した[3][4]。首都師団はゴダイの虐殺と並行してビンアン村の近隣にあるタイヴィン村で1,200人を虐殺するタイヴィン虐殺を行った。
脚注
[ヘルプ]

^ “Words of Condemnation and Drinks of Reconciliation Massacre in Vin Dinh Province All 380 People Turned into Dead Bodies Within an Hour.”. ハンギョレ. (1999年9月2日) 2011年2月25日閲覧。
^ 『知られざる歴史の真実 世界史編』 インターナショナル・ラグジュアリー・メディア、2011年、51頁。ISBN 4905144124。
^ “총 쏘고 칼로 찌르고 독약 먹이고 1시간 만에 380명 살육한 한국군”. オーマイニュース. (2007年5月22日) 2011年2月25日閲覧。
^ “1966년 베트남 고자이 마을의 비극”. オーマイニュース. (2007年4月7日) 2011年2月25日閲覧。

関連項目

ソンミ村虐殺事件
タイヴィン虐殺
タイビン村虐殺事件
ハミの虐殺
フォンニィ・フォンニャットの虐殺‎
ライダイハン
タイヴィン虐殺
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タイヴィン虐殺
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ビンディン省
各種表記
ハングル: 타이빈 양민 학살 사건
漢字: 타이빈 良民 虐殺 事件
発音: タイビン ヤンミン ハッサル サゴン
2000年式:
英語表記: Taibin yangmin haksal sageon
Tay Vinh massacre
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タイヴィン虐殺
各種表記
クォック・グー: Thảm sát Tây Vinh
漢字・チュノム: 惨殺西榮
北部発音: タムサット・タイヴィン
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タイヴィン虐殺(タイヴィンぎゃくさつ、英語: Tay Vinh massacre)とは、ベトナム戦争時の1966年1月23日から2月26日にかけてベトナムビンディン省で韓国軍が市民1,200人を虐殺した事件のこと[1]。
概要

1966年1月23日-2月26日にかけて韓国陸軍首都機械化歩兵師団(英語版)(猛虎部隊)は南ベトナムビンディン省タイソン県タイヴィン村の15集落の村民1,200人を虐殺した[1]。2月26日には同部隊は併行してビンアン村の住民380人を虐殺した(ゴダイの虐殺)[1]。
脚注

^ a b c “Words of Condemnation and Drinks of Reconciliation Massacre in Vin Dinh Province All 380 People Turned into Dead Bodies Within an Hour.”. ハンギョレ. (1999年9月2日) 2011年3月10日閲覧。

関連項目

ゴダイの虐殺
ソンミ村虐殺事件
タイビン村虐殺事件
ハミの虐殺
フォンニィ・フォンニャットの虐殺‎
ライタイハン

執筆の途中です この「タイヴィン虐殺」は、戦争に関連した書きかけ項目です。この記事を加筆・訂正等して下さる執筆協力者を求めています(P:戦争/PJ軍事史)。

タイビン村虐殺事件
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タイビン村虐殺事件
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ビンディン省
各種表記
ハングル: 떠이빈 양민 학살 사건
漢字: 떠이빈 良民 虐殺 事件
発音: タイビン ヤンミン ハッサル サゴン
2000年式:
英語表記: Tteoibin yangmin haksal sageon
Thai Binh massacre
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タイビン村虐殺事件
各種表記
クォック・グー: Thảm sát Thái Bình
漢字・チュノム: 惨殺太平
北部発音: タムサット・タイビン
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タイビン村虐殺事件(タイビンむらぎゃくさつじけん)とは、ベトナム戦争時の1966年2月にベトナムビンディン省タイビン村で韓国軍が住民65人を虐殺した事件[1]。 

目次

1 概要
2 脚注
3 参考文献
4 関連項目

概要

1966年2月、ベトナムビンディン省に駐屯していた大韓民国陸軍首都師団(通称猛虎部隊)(en)は早朝にタイビン村(Thái Bình /太平)[要出典]を訪れ、住民68名を1ヶ所に集めると銃撃を加えるとともに手榴弾を投げつけて婦女子を含む65名を殺害した[1]。生存者はわずか3名であった[1]。

タイビン村では虐殺された犠牲者名を記した慰霊碑と事件を記録した壁画が設けられ、生存者が虐殺の証言を行っている[1]。2008年現在のベトナムでは韓国軍によって少なくとも9000名が虐殺されたとも[1]、あるいは、30万人を超すベトナム人が虐殺されたとも言われている[2]。

韓国政府は、ベトナムでの虐殺や強姦など、自国の過去の蛮行を公式に認めようとしていない。韓国兵の行為には韓国のメディアも人権活動家も目を向けなかった。その根底には、韓国人の、ベトナム人に対する人種差別意識が原因との見方もある[3]。
脚注

^ a b c d e “韓国 軍も企業もベトナム参戦”. 朝日新聞. (2008年1月28日) 2010年9月10日閲覧。
^ 『親日派のための弁明』金完燮(草思社、2002)
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参考文献

『私の村は地獄になった』ニューズウィーク日本版 2000年4月12日号 P.24 

関連項目

タイヴィン虐殺 - ゴダイの虐殺 - フォンニィ・フォンニャットの虐殺‎ - ハミの虐殺
ライタイハン
ソンミ村虐殺事件
済州島四・三事件 - 麗水・順天事件 - 聞慶虐殺事件 - 保導連盟事件 - 居昌良民虐殺事件

ミの虐殺
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ハミの虐殺
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クアンナム省
各種表記
ハングル: 하미 마을 학살 사건
漢字: 하미 마을 虐殺 事件
発音: ハミ・マウル ハッサル サゴン
2000年式:
英語表記: Hami maeul haksal sageon
Ha My massacre
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ハミの虐殺
各種表記
クォック・グー: Thảm sát Hà Mỹ
漢字・チュノム: 惨殺河美
北部発音: タムサット・ハミ
テンプレートを表示

ハミの虐殺(ハミのぎゃくさつ、Ha My massacre)とはベトナム戦争中の1968年2月25日に南ベトナムクアンナム省ハミ村で大韓民国海兵隊によって非武装の民間人135人が虐殺された事件。

目次

1 概要
2 虐殺記念碑(追悼碑)
2.1 碑文
2.2 韓国による全文削除
3 脚注
4 参考文献
5 関連項目

概要

1968年2月12日、韓国海兵隊第2海兵旅団(青龍部隊)(en)は南ベトナムクアンナム省フォンニィ・フォンニャット村で民間人虐殺事件を起こし[1]、その日のうちにアメリカ軍・南ベトナム軍によって犯行が明らかにされていたが、2月25日に再び、同じクアンナム省のハミ村で女・老人・子供・135人を虐殺した[2]。3人だけを残して全員殺害された村もあった。殺害方法は村民を広場に集め、一斉に射撃を加えたり、手榴弾を投げつけたりして実行された[3]。

フォンニィ・フォンニャットの虐殺やタイビン村虐殺事件など、このような事件がたびたび引き起こされ、9000人以上が韓国軍の犠牲になったとも[3]、あるいは、30万人を超す犠牲者数だったとも言われている[4]。

このため、アメリカ軍内部では韓国軍を完全な後方部隊とするかベトコンが完全に支配していて誰を殺しても問題とされない地域に配置転換するべきであるとした検討が行われた[5]。
虐殺記念碑(追悼碑)

ベトナムではドイモイ政策以後、各地でベトナム戦争中の虐殺記念碑(追悼碑、憎悪碑)が設置されてきた[6]。

1999年9月、韓国軍青龍部隊退役兵がハミ村を訪問し、記念碑資金25000ドルの寄付を申し出た[6]。大理石板でできた記念碑は2000年11月に完成した[6]。
碑文

碑文には、次のように刻まれた[6][7]。

青龍部隊の兵士が135人を殺した。
ここは血に染まり、砂と骨が入り混じり、
家は焼かれ、火に焼かれた死体をアリがかじり、
血のにおいが満ち満ちていた。
爆風が吹き抜けると、さらに悲惨だった。
破壊された家では年老いた母や父が呻きながら死に、
子どもたちは恐怖におびえた。
逃げた人は銃撃されて死に、
子どもは死んだ母親のもとに這って行きお乳を吸った。
もっとひどいのは、戦車で遺体を踏みつぶしたことである。
(…)
過去の戦場はすでに苦痛が和らぎ、
韓国人がここを再訪し、恨めしい過去を認め、謝罪した。
そして赦しのうえに、この石碑を建てた。

韓国による全文削除

しかし、このように書かれていた村民によって刻まれた虐殺行為についての碑文を知った韓国退役兵らは、韓国政府を通じて修正削除を要求した[6]。ハミの村民は「碑文の内容まで干渉することは受け入れられない。これは我々の歴史で過去であり真実だ」と削除要求に対して拒絶した[6][7]。

韓国政府はハノイの韓国大使館によって村民に圧力をかけ、ベトナム政府に地方自治体に村民を説得するよう指示した[6][7]。さらに地元の村の幹部を韓国に招待して接待を行い、懐柔した[6][7]。

ハミの村民は抵抗を続けたが、「歴史を歪曲して記録するより、記録しないほうがいい」として全文削除を決定し、碑文の上に蓮の絵の石板を重ねた[6][7]。ハミの村民は「これこそ歴史にフタをすることだ」と述べたという[6][7]。
脚注

^ “미국의 관심은 ‘학살은폐 책임’ 최초공개된 미국 비밀보고서의 의미… 정부는 참전군인의 명예를 위해서 진상조사에 나서라”. ハンギョレ. (2000年11月15日) 2011年2月23日閲覧。
^ Kwon, p. 1.
^ a b “韓国 軍も企業もベトナム参戦”. 朝日新聞. (2008年1月28日) 2011年2月23日閲覧。
^ 『親日派のための弁明』金完燮(草思社、2002)
^ “편견인가, 꿰뚫어 본 것인가 미군 정치고문 제임스 맥의 보고서 “쿠앙남성 주둔 한국군은 무능·부패·잔혹””. ハンギョレ. (2000年11月15日) 2011年2月9日閲覧。
^ a b c d e f g h i j 野田正彰「ベトナム人虐殺を封印する韓国人の病理」『新潮45』2014年2月号、p39-40。
^ a b c d e f 伊藤正子『戦争記憶の政治学: 韓国軍によるベトナム人戦時虐殺問題と和解への道』平凡社,2013年、ISBN-10: 4582441203

参考文献

ニューズウィーク日本版「暴かれた英雄の犯罪」「私の村は地獄になった」2000年4月12日号,p20-26
ハンギョレ2000年11月15日付「 편견인가, 꿰뚫어 본 것인가 미군 정치고문 제임스 맥의 보고서 “쿠앙남성 주둔 한국군은 무능·부패·잔혹”」
金完燮『親日派のための弁明』草思社、2002年。
Heonik Kwon (2006). After the massacre: commemoration and consolation in Ha My and My Lai. University of California Press. ISBN 0520247973.
金賢娥『戦争の記憶 記憶の戦争―韓国人のベトナム戦争』安田敏朗訳、三元社、2009年。
伊藤正子『戦争記憶の政治学: 韓国軍によるベトナム人戦時虐殺問題と和解への道』平凡社,2013年、ISBN 4582441203
野田正彰「ベトナム人虐殺を封印する韓国人の病理」『新潮45』2014年2月号。

関連項目

ゴダイの虐殺
ソンミ村虐殺事件
タイヴィン虐殺
タイビン村虐殺事件
フォンニィ・フォンニャットの虐殺
ライタイハン
慰安婦の碑

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伝説のサンビスト ビクトル古賀も体験した地獄  ソ連軍兵士の強姦、殺戮、暴行、強奪  戦後のソ連の日本人虐殺 関東軍(満州に駐留していた日本軍)は、 開拓団の老人、婦女子、小学生、幼乳児を 見棄て、見殺しにした

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http://www7a.biglobe.ne.jp/~mhvpip/Stalin.html

ソ連軍兵士の強姦、殺戮、暴行、強奪
戦後のソ連の日本人虐殺を強く非難する

                              2012年3月 Minade Mamoru Nowar
関連サイト:満州開拓団の悲惨な結末

1.凄まじかった
    鬼畜・ソ連軍兵士の強姦・残虐行為

ウィリアム・ニンモ氏の著書 『検証・シベリア抑留』 加藤隆訳 (時事通信社 1991年3月発行)
第47頁は

「要するに、満州・北朝鮮におけるソ連軍の日本人虐待は、
口ではいい表せないほどひどいものだった。
暴行と強奪は日常的だった。そして残虐な行為を犯した。

・・・とくに野獣のように乱暴なやり方で女を奪い、
抵抗するものは片っぱしから殺した。
ソ連軍の兵士たちが日本の女にしたことは、
いまでもぞっとするほど残虐なものだった」    と述べている。

強姦された日本人女性のほとんど総ては、
その後、自殺、絶望死、病死、衰弱死した。

凄まじかったソ連軍兵士の日本婦人強姦



筑紫野市湯町の二日市温泉の済生会病院旧館のはずれに小さな水子供養祠がある。

1946年、満州からの日本人民間人の引き揚げが開始されてから、博多港に上陸した
日本人引き揚げ者は約1年半で139万人に上がった。

ソ連兵や北朝鮮の保安隊兵士に強姦されて、身ごもった女性も多数いた。
上陸寸前、絶望して博多湾に身投げした女性もいたといわれる。

身ごもった女性の妊娠中絶手術が厚生省博多引揚援護局二日市保養所で行われた。
手術は、麻酔を使わないで行われたといわれる。「白い肌、赤い髪、長い指。
一目でソ連兵の子供とわかる水子もいた」といわれる。

極悪非道なスターリンの侵略戦争の犠牲となり、
何度も【地獄の責め苦】に苛まれた女性たちを慰める言葉が出ない。

戦争を絶滅して、再び、このような悲劇が起こらないことを祈るのみである。

2.【歴史の闇】に葬り去られた強姦被害



出典:『週刊朝日百科113 日本の歴史 現代③ 占領と講和』第79頁

3.凄まじいソ連軍兵士たちの強姦(レイプ)

 現在は人口約700万人といわれ、ハルビン市、大連市と並ぶ満州
屈指の大都市、瀋陽市にソ連軍が侵攻してきたのは8月19日である。
すぐにハルビン市、長春市と全く同様にソ連軍兵士たちのレイプ
(強姦)凶暴・暴行・殺戮・略奪が始まった。

中国国防大学教官の徐焔(シュ・イェン)大佐は著書の
『1945年 満州進軍 日ソ戦と毛沢東の戦略』
(朱建栄(ツウ・ジェン・ロン)訳 三五館 1993年8月発行)
第223頁~第229頁からで次のように述べている。

「ソ連軍が満州に入った時点から、その相当数の将兵は直ちに、
横暴な行為を露骨に現した。彼らは敗戦した日本人に強奪と暴行を
振るっただけでなく、同盟国であるはずの中国の庶民に対しても
悪事をさんざん働いた。

特に強奪と婦女暴行の二つは満州の大衆に深い恐怖感を与えた。
100万以上の満州に出動したソ連軍兵士の中では、犯罪者は少数と
いうべきだが各地で残した悪影響は極めて深刻なものだった。」

満州でのソ連軍の軍紀の乱れは目に余るものがあった。
彼らは白昼堂々と倉庫の中のものを盗み出し、町で売りさばき、
得た金を着服した。

夜になると泥酔状態で臭気をまき散らしながら、町中「マダム」を
捜し回った。恐れおののく庶民はドアと窓を締め切り、
ソ連軍が一日も早く帰ることを内心に祈っていた。

満州の各大都市はどこも同じような状況で、夜になるとソ連軍兵士が
街角に現れ、通行人を止めては携帯物品を強奪し、女性を追い回し、
時には銃をもって民家に押しかけることもよくあった。

瀋陽の町ではソ連軍警備司令部の憲兵がトラックで巡行するのを
よく見かけた。酔っ払いと軍紀違反者が多すぎるため、トラックで
大量に収容するからだ。逮捕されたら厳しい処罰を受けるが、
それでも軍紀違反者が後を絶たない。

ソ連軍の軍紀退廃についての中国側の最初の報告は、
満州に進出した八路軍の一番手の部隊が延安の党中央に送った電報だ。
1945年9月初めに山海関を出て瀋陽に到着した部隊は、
ソ連軍兵士による強奪事件を目撃し、また多くの中国人市民から
訴えを受けた。その報告で、ソ連軍は「軍服はボロボロで、軍紀は
はなはだ悪い」と説明し、現地のソ連軍政治部にも
「軍紀を厳粛にせよ」と申し入れた。

ソ連軍政治部は「すでに多くの措置をとって軍紀違反者を罰しており、
多い日には一日に20人以上も処刑した」と回答した。
しかしソ連軍側はまた、その原因を、兵士のファシストに対する
敵愾心に帰し、ドイツでも同じ行動をしたと弁明した。
この回答に八路軍はもちろん満足することができない。かといって
それ以上どうしようもなかった。

ソ連軍は自ら非公式に次のように背景を説明した。ドイツとの
激しい戦争で大量の死傷者を出し、兵力補給の不足を来たし、
戦争後期、多くの刑事犯も軍隊に補給した。そのため軍紀の
引き締めが十分にできず、悪質者を一部銃殺して何とか規律を維持
しているという。この説明の内容は事実かも知れたいが、ソ連軍
首脳部が軍中の非行者とその行為を真剣に取り締まらず、事実上、
野放しにしたことの責任は逃れられない。

ファシストに対する敵愾心をもって兵士の非行を説明し、
中国を敗戦国のドイツに例えた譬えたことは、
八路軍の将兵の中で憤りを引き起こした。

仮に敗戦国だったにせよ、無辜な一般市民に狭量な民族報復を
働いていいということにはなるまい。
異国で「三日間勝手にせよ」として兵士の闘志を刺激するなど、
なおさら政治の堕落だ。

ソ連軍のこのようた釈明はまさに、大ロシア主義の態度を
反映したものだと言える。その根本的な原因はスターリンの
「共産主義総本山」の意識にあり、そのため他国の人民を尊重する
教育を怠ったのだろう。

ソ連軍の一個戦車軍団が1944年末にユーゴスラビアの片隅を
通過した。その短い道程で、千件以上の婦女暴行と強奪事件を
起こした。これがユーゴスラビア国民の強い反発を招き、
のちにユーゴとソ連の関係決裂になる原因の一つになった。

ソ連軍がドイッの東部を占領した後も、強奪と暴行を繰り返し、
ドイツ人の民族感情を傷つけた。本来は親ソ的な東ドイッ政権なのに、
統治の基盤が不安定だったのは、それが一因でもあった。

満州での行為は、ソ連軍の一貫した行為の東方での継続だ。

1969年4月の中国共産党第九回全国代表大会で
毛沢東がソ連の満州出兵に触れた際、
「当時のソ連の軍紀は退廃そのものだ」と恨めしげに語った。」

4.ソ連軍兵士の凄まじい婦女暴行

若槻泰雄著 『戦後引揚げの記録 新版』時事通信社 1995年10月発行

第123頁
満州に侵入したソ連軍は、8月19日には、早くも外部との一切の通信交通を
遮断した。そして世界の目から隔絶された中で、ソ連の軍隊はほとんど例外なく、
被占領国民たる日本人の上に強奪・暴行・婦女暴行をほしいままにしたのである。

程度には若干の差はあったし、侵入直後が最も激しかった地区や、逆に日を追って
悪化したというような都市もあり、数日にして一応平静に帰した所もあれば、
占領の全期間、数ヵ月にわたった例もある。

兵器をもったソ連兵は、群れをなして日本人の各家庭や会社の事務所に押し入った。
そして手当たり次第、金めのもの時計、貴重品、衣類などを強奪する。

そして撫順など極めて少数の例外はあるが、婦人とみれば、老若を問わず
婦女暴行を働いた。

抵抗するもの、あるいは、これを阻止しようとするものは容赦なく射殺する。
窓を閉じ、扉に鍵をしめ、更には入口を釘で打ちつけていても無駄である。
軍隊が本気で民家に侵入しようとするならば、そんな程度のものを
打ちこわすのはいとも簡単であろう。家屋は無残にたたきこわされるだけだ。

しかもこの行動は「夜陰に乗じて」というわけではない。ソ連兵の強奪は
「盗む」とか、「奪う」というような段階ではなく、トラックを横付けにし、
「それはまるで運送屋のように、だれはばかることなく、せっせと運んだ」
と表現している体験記や、「何年もたった後でも、夜中エンジンの音を耳に
するとぞっとすることがあったくらいだ」という記述もある。

筆者の意見:
筆者は満鮮国境・鴨緑江河口の安東市(現・丹東市)生まれで、敗戦の翌年、
1946年10月まで同市に住んでいた。安東市は満州の中で最も治安がよかった。
それでも、ソ連軍占領中は、ソ連軍兵士の略奪・暴行が絶えなかった。
若槻教授の上記記述には何らの誇張、虚偽はない。事実を正確に述べている。

2011年1月16日夜、NHK総合テレビから、スペシャル番組『日本人はなぜ戦争へと
向かったのか 第2回 巨大組織「陸軍」暴走のメカニズム』が放送された。

日ソ戦争(ソ連の対日参戦)敗戦後65年、平和な時代の日本国民が、知りたくない、
思い出したくない、正視できないのが、1945年、満州と北朝鮮で現実に起きて
多数の日本人女性が蒙った、良心を完全に失っていた鬼畜・ソ連軍兵士たちによる
強姦(性的暴行)事件である。犠牲となった日本人女性は、無能・無策・無責任な
旧日本帝国陸軍の最高指導者たちと高級参謀たちが引き起こした満州事変と、
それに続く満蒙開拓団送り込み政策の犠牲者でもある。戦争の惨禍を引き起こさない
ために、忘れることは許されないと思う歴史事実である。

5.北朝鮮における
      強姦、暴行、殺戮、強奪

編集委員:細川護貞・大井篤・豊田隈雄・阿川弘之・千早正隆・鳥巣建之助 
『高松宮日記 第八巻』中央公論社1997年12月発行 第175頁~第176頁

「北朝鮮に侵入せるソ連兵は、白昼、街道にて、通行中の婦女を犯す。
汽車の通らぬため歩いてくる途中、1日数度強姦せらる。

2人の娘を伴う老婦人は、かくして、上の娘は妊娠、下の娘は性病に罹る。

元山か清津にては(ソ連軍に)慰安婦の提供を強いられ、(引き受け者の)
人数不足せるを(補うものを)くじ引きにて決めたり、日本婦人の全部は強姦せらる。

(慰安婦を)強要せられ自殺せるものも少なからず。



6.東ドイツにおけるソ連軍兵士の強姦犯罪

旧東プロイセン・カリーニングラード

アントニー・ビーヴァー著・川上洸訳
『ベルリン陥落1945』 (白水社 2004年8月発行)

本書の多くの頁において、1945年、凶暴なソ連軍兵士たちが、
ドイツ本土のみならず、侵入したどの地域においても、
すさまじいレイプ(=強姦)・殺戮・強奪を行った状況が、
赤裸々に述べられている。

ソ連軍兵士たちは、年齢に関係なく全ての女性をレイプ(=強姦)した。
彼らの性暴力行為は現代に生きる筆者の想像を超える凶暴さであり、
明白な【人道に反する罪】である。

第482頁
「ダーレム(ベルリン市内)の産院と修道院を兼ねる女子修道院
【ハウス・ダーレム】では、修道女、若い娘、老女、妊婦、
出産したばかりの母親が、みんな容赦なく暴行(=レイプ=強姦)された。」

第602頁
「ベルリンの二つの主要病院によるレイプ(=強姦)犠牲者の推定数は
9万5000人ないし13万人。東プロイセン、ボンメルン、シューレージエンでの
レイプ(=強姦)被害者140万人の死亡率は、ずっと高かったと考えられる。
全体では少なくともも200万人のドイツ女性がレイプ(=強姦)されたと推定される。
繰り返しレイプ(=強姦)された人も、過半数とまではいかなくても、かなりの数に
のぼるようだ。」

第614頁
「東プロイセンは、すべての被占領地のなかでいちばん悲惨な目にあった。
なによりもみじめなのは、(ドイツ本土へ)逃げ遅れた民間人の運命だった。
大多数の老若女性がソ連での強制労働に駆り立てられた。森林、泥炭地、
運河で、1日、15時間から16時間もこき使われた。2年間で半数をやや上回る
死者が出た。生き残った女性の半数近くがレイプ(=強姦)された。
大多数が結核や性病におかされた。」

第606頁 
「その夏(45年夏)を通じて、各国の新聞・雑誌はこの問題(ソ連軍兵士たちの
レイプ(=強姦))を掲載しつづけた。」

参考サイト:大戦直後のソ連軍兵士の性的暴行

参考Youtube:
2 Million German women were raped during WWII
by the Russian soldiers.

7.開拓団避難民の悲劇

2005年8月3日、NHK総合テレビから放送された『ソ連参戦の衝撃-満蒙開拓民は
なぜ取り残されたか』は、「当時、中国東北部(満州)に住んでいた国策開拓移民は、
【根こそぎ動員】で夫を日本軍に現地招集され、多くの家庭が母子老人家庭となっていた。

戦闘最前線に取り残された哀れな日本人母子老人家庭避難民は、戦闘に巻き込まれて
約3万人が死亡した。その後、病気と飢えで約21万人が死亡した」と報じている。

この番組では放送されなかったが、合田一道著『検証・満州1945年夏 -満蒙開拓団の
終焉』(扶桑社 2000年8月発行)は、満州各地の開拓団の日本人母子老人家庭避難民が、
ソ連軍と武装した中国人暴徒集団の両者に襲われて、【殺害】されたり、
【集団自決(=集団自殺)】に追い込まれたりした悲惨な状況を詳しく述べている。

財団法人満蒙同胞援護会(会長:平島敏夫 参議院議員・満鉄元副総裁)編
『満蒙終戦史 全928頁』(河出書房新社 昭和37年(1962年)7月発行)の第812頁~第813頁は
次に通り述べている。

受難は終戦時の満州在住の日本人約195万人(関東州内25万人を含む)すべての運命であった。
もちろん程度の差はある。しかしながら、ソ連軍の満州進撃の日から、遣送帰国の日まで、
不断の危機と苦難にさらされなかった日本人は、ほとんど皆無であったろう。

なかんずく、開拓農民の受難は数多くのの実例にも見られるように悲惨深刻を極めた。

この成行きは、しかし、当然ともいうべきであろう。敗戦とともに、旧満州国の権威は一挙に
崩壊した。ソ連軍の侵入、前満州国軍・蒙古軍の反乱、通信・交通の杜絶、原住民の蜂起
などが相次いで、いわゆる王道楽土は恐怖と混乱の世界に急転したのであった。

特に、ソ満国境の開拓団のなかには、ラジオさえ持たず、したがって日ソの開戦も終戦も知らず、
事実を知ったときには、関東軍(満州駐留の日本軍)と日本人役人はいち早く退避した後で、
ひとり曠野に取り残された形となったものが少なくなかった。

しかも、それまでに、開拓団の青年・壮年男子はことごとく徴兵されし、開拓団部落の大部分は
無力な老人・婦女子・子供のみであったことが混乱と悲劇を一層増大したのであった。

ごく少数の男子残留者が開拓団全員を護衛して集団南下を企図したのであったが、
この退避行の道程こそ、ほとんどが、見るも無惨な、地獄絵図となったのである。

ソ連軍または中国人暴徒の襲撃に遭って殺害され、自殺して、全滅した開拓団、及び
1,110名以上の自殺者を出した開拓団は、100団以上を算える。難民生活中の死亡を併せて、
満州の全開拓人口の約30%が死亡したものと見られる。

終戦時の満州開拓団等人口と日ソ戦争による死亡・未引揚者数
項目 開拓団 義勇隊 報国農場 合計
団数 944 102? 74 1,131
終戦時在籍者 243,488 22,828 4,112 270,428
調査済団数 847 91 67 1,005
同上在籍者 213,663 22,518 4,976 241,157
死亡者数 61,190 3,077 1,056 65,323
未引揚者数 23,746 2,218 623 26,587
帰還者数 128,710 17,223 3,297 149,230

(1953年(昭和28年)3月現在、外務省調査資料)

同書第518頁~第519頁は「全満州にわたって、終戦前後の
混乱に殉難して亡くなった人は、調査統計に出ている数でも、
207,980人となっている。恐らく実際には20万人をずっと
上まわっていたといえよう。これらの人の最後はいろいろであった。
一番多かったのが伝染病によるもので、発疹チブスやコレラで
亡くなった。ついで栄養失調によるものが多く、このため、乳幼児が
バタバタと死んでいった。各地別の死亡者数は次の通りである。」

全満州各地別死亡者調査数
地名 埋骨箇所 死亡者数
大連:関東州 2 15,000
鞍山 1 1,500
遼陽 1 800
蘇家屯 1 450
奉天 3 37,000
撫順 3 5,000
本渓湖 1 250
安東 1 3,800
延吉 2 54,536
牡丹江 1 4,000
佳木斯 1 150
哈爾浜 6 7,715
斉斉哈爾 2 2,400
熊岳城 2 60
大石橋 1 200
錦州 3 3,100
錦西 3 39
通化 2 4,500
鉄嶺 1 650
四平 1 60
公主嶺 1,000
新京 3 27,319
吉林 3,555
嫩江 1 700
興安街 4 1,999
札蘭屯 1 200
五常 8 665
延寿方正 4 380
琿春 2 955
合計 207,980

第444頁に1945年(昭和20年)8月9日、日ソ開戦当時の全満州の
日本人の人口表が掲載されている。これによると関東州を除く19省市の
人口が1,320,858人、大連:関東州の人口が228,842人、
合計1,549,700人となっている。

ちなみに、GHQ/SCAP(連合国最高司令官総司令部)が1950年に作成
した特別報告書『Special Report-Japanese Prisoners of War:
Life and Death in Soviet P.W.Camps』では
関東州を除く満州全地区が1,105,837人、大連:関東州が223,093人、
合計1,328,930人である。220,770人の差がある。
省市名 日本人人口
新京特別市 161,712
吉林省 75,233
竜江省 48,156
北安省 62,408
黒河省 14,059
三江省 65,612
東安省 61,396
牡丹江省 97,931
間島省 29,332
浜江省 41,222
哈爾浜市 78,695
通化省 15,746
安東省 36,930
奉天省 177,739
奉天市 247,765
四平省 29,150
錦州省 62,914
熱河省 11,807
興安総省 23,383
不一致補正 -20,332
小計 1,320,858
関東州:大連 228,842
合計 1,549,700

満蒙終戦史は以上の通り

 渡部昇一上智大学名誉教授の著書『昭和史 松本清張と私 大正末期~
二・二六事件』(ビジネス社 2005年12月発行)第191頁に「(1933年当時、
満州には)匪賊(ひぞく)と呼ばれるテロリストたちは推定100万人から
300万人いたといわれます。ほかにも「半農半賊=状況次第で匪賊になる」、
「宗教匪」、「政治匪=敗残兵」、「共匪=共産ゲリラ」・・・など神出鬼没、
昭和8年(1933年)だけでも、匪賊による都市襲撃は27件、列車襲撃は
72件を数えた、というデータがあります」と述べられている。これらの武装
中国人暴徒集団が一斉に、関東軍の保護を失った日本人母子老人家庭
避難民を襲って、レイプ、暴行、殺戮、強奪を行ったのである。

 渡部名誉教授が匪賊と表現されている100万人~300万人の中国人
暴徒の大部分は、旧日本帝国軍部の【満蒙開拓団】政策によって土地を
奪われた農民たちである。1931年の満州事変以後、東宮鉄男(関東軍
陸軍大尉、張作霖殺害の実行犯)、石原莞爾(関東軍参謀、満州事変の
首謀者)、加藤完治(農業指導者)、石黒忠篤らは【満蒙開拓団】政策を
積極的に推進した。かれらは、誰ひとりとして、【土地と水、特に農地の
争奪こそが人類の紛争の根源】という発想を持たなかった。果てしなく続き、
解決の曙光さえ見えないイスラエルとパレスチナの悲惨な紛争も、原因は
【土地と水の争奪】である。ソ連軍と武装中国人暴徒集団のレイプ(強姦)、
暴行、殺戮、強奪によって約24万人の開拓団母子老人家庭避難民が死亡
した。旧日本帝国軍部の【満蒙開拓団政策】と、1945年7月の【開拓団の
日本人母子老人家庭は見棄てる】方針の痛ましい犠牲者である。

 『検証・満州1945年夏 -満蒙開拓団の終焉』第53頁~第71頁は、
団員、420人あまりが【集団自決】した哈達河(ハタホ)開拓団中央
グループの悲惨な最期について、納富善蔵さんの談話を載せている。
(麻山事件)

 哈達河(ハタホ)開拓団は鶏西(チーシー)市から東へ約8キロ、当時の
ソ連との国境のすぐ近くにあった開拓団である。 哈達河(ハタホ)開拓団
中央グループは逃避行の途中に、ソ連軍の戦車隊と武装した中国人暴徒
集団に前後をはさまれて身動きできなくなり、ついに全員集団自決の道を
たどったのである。中央グループが集団自決する前に、先頭グループ
約300人も、ソ連軍と武装した中国人暴徒集団に襲われて、殺害されるもの
や、負傷者が続出して集団自決していた。
 
 「まず団長がピストルで頭部を撃ち抜き死んだ。続いてあちこちで自殺が
始まった。銃を手にした男たちが、白い布で鉢巻きをしたり、目隠しした
わが妻、わが子を撃ち殺した。短刀でわが子の胸を突き刺し自分も死んで
いく母もいた。喉を突き血みどろになって転がる者、草をわしづかみにして
もだえる者、この世のものとは思えない恐ろしい情景だった」。


NASA衛星画像

参考資料1:
蓑口一哲著『開拓団の満州 語り継ぐ民衆史Ⅲ』(新生出版 2005年6月発行)
 『第1章 哈達河開拓団と麻山事件』第7頁~第86頁
参考資料2:
中村雪子著『麻山事件 満洲の野に婦女子四百余名自決す』草思社 1983年3月発行

 同書第98頁~第102頁には、ハルビン市と牡丹江市の間にある現在の
賓県市にあった大泉子開拓団と財神開拓団の悲惨なデータを載せている。
45年8月15日現在、両開拓団合わせて、550人いた。武装した中国人暴徒
集団に襲われて殺害されたものと、自決者(=自殺者)は294人であった。
武装した中国人暴徒集団に襲われて、男手のない女子・子供・老人だけの
開拓団は、もう生きられないと観念して自決(=自殺)の道を選んだのである。
その後阿城に収容されたが病死者が続出、143人に達した。
死亡者は合計437人、全体の79.5%に達する。

 同書第244頁で、著者の合田一道氏は
「満州開拓団の人たちを死地に追いやったのは、まぎれもなく
わが国の政治であったと断言せざるを得ないのである」と述べている。

中国軍国防大学教官で、戦史研究家の徐焔(シュ・イェン)大佐は、
著書 『1945年 満州進軍 日ソ戦と毛沢東の戦略』
(朱建栄(ツゥ・ジェンロン)訳 三五館1993年8月発行)の第180頁で
「土地を日本「開拓団」に強奪された農民と、鉱山や工事現場で
強制労働に従事させられ地獄のような生活をした労働者は
憎しみが特に深く、関東軍の敗退後、彼らが最初にしたことは
こん棒、鍬などを手に、日本人や旧「満州国」の警察などに
復讐することだった」と述べている。

 1945年8月、凶暴なソ連軍兵士たちと、日本人に対する復讐意識に
もえる武装した中国人暴徒たちの、レイプ(強姦)、暴行、殺戮、強奪の
犠牲となった満州開拓団の人たちに対するインタビューを中心に、
数多くの自決者(=自殺者)を出した満州開拓団の悲惨な末路について
詳しく述べた著書、『開拓団の満州 語り継ぐ民衆史Ⅲ』(新生出版 2005年6月
発行)』の 第284頁で、著者の蓑口一哲氏は
「満州事変まで、日本から満州への農業移民は1,000人足らずであった。
満蒙開拓団という新しい政策を推進したのは、東宮鉄男(関東軍陸軍大尉、
張作霖殺害の実行犯)、石原莞爾(関東軍参謀、満州事変の首謀者)、
加藤完治(農業指導者)、石黒忠篤らである。

 当時の高橋是清蔵相は満蒙開拓団に不賛成であった。高橋蔵相の
【移民など可哀想だから良くない】という一言でいったんはしぼみかけた
この構想であるが、1932年の5.15事件(海軍将校が犬養毅首相ら政府首脳を
殺害したテロ事件)で、高橋是清は更迭されてしまう。満州国成立後、
この構想は具体化された」と述べている。

 日本を破滅に追いやった満州事変の首謀者である石原莞爾ら関東軍参謀
たちは、1945年8月の【満州開拓団の悲劇】の責任者としても、その罪を
厳しく糾弾されなければならない。

 半藤一利氏は、著書『ソ連が満洲に侵攻した夏』(文藝春秋1999年7月発行)
の第313頁で、「囚人部隊を先頭に立てたという説もあるが、(満州へ)
一番乗りで突進してきたソ連軍兵士はドイツ戦線で鍛えられた猛者が多く、
戦場で鍛えられはしたが、教育や訓練で鍛えられる余裕のなかったものが
多かった。(日本人は)時計はもとより、机、椅子、鉛筆、消しゴム・・・
何から何まで奪われた」

 「かれらが開拓団の逃避行を平気で攻撃してきたのは、
戦場の常とはいえ、許されることではない」と述べている。
保護すべき日本人母子老人家庭難民や民間人である開拓団員を
保護せずに、逆に、レイプ(強姦)・暴行・殺戮・強奪を行ったことは
【人道に反する罪】である。

 前掲書第313頁に述べられている通り、犠牲はそれらにとどまらない。
いまにあとをひく数千人の残留孤児の問題である。規律が滅茶苦茶な
ソ連軍兵士のレイプ(強姦)・暴行・殺戮・強奪によって、日本人母子老人
家庭避難民は、【子供を置き去りにせざるを得なかった】ほど、
死と隣り合わせの極限状態に置かれたのである。

 前掲書第271頁~第273頁で半藤一利氏は次のように述べている。
「日本本土では確実に、そして早急に平和と安息が訪れてきている。しかし
満州では、まさしくその正反対のことが行われようとしていた。ソ連軍の
進駐の日を境に、大小都市や町で【悪夢】がはじまったのである。市内の
治安はその日を境に混乱し、乱れに乱れていった。殺人、婦女強姦、強奪、
暴行はひんぴんとして行われだした。8月18日以降、ハルビン市はソ連兵
による強奪、暴行、強姦の街と化した。」


NASA衛星画像

You Tube:【軍歌】関東軍軍歌
(筆者は満州の国民学校で毎日歌っていた。歌詞の一部は変わっているが。)

You Tube:満州国国歌

8.奉天(現在の瀋陽)における開拓団・婦女子の悲惨な状況

米国の戦史研究家、ウィリアム・ニンモ氏は著書『検証・シベリア抑留』
(加藤隆訳 時事通信社 91年3月発行)の第46頁で次のように述べている。

「1945年8月以降、満州の日本人たちは大多数が苛酷な状況下にあった。
まず厳しい寒さ、それにインフレ、交通の悪さ、病気などで生き残ることを
困難にし、1945年~46年冬の死亡率を高めた。

日本政府は、その冬だけで11万人の日本人が死亡したと推定していた。
翌年の冬はもっと増えるだろうと予想していた。

元満州の住民はこう語った。
「それは想像を絶するほどのひどさだった。最悪なのは、たくさんの人が
飢えと酷寒のため死んだことだ。おびただしい数の避難民がソ連との国境に
近い満州北部から流れ込んできて、奉天(=瀋陽)の学校や他の施設に
収容された。

冬の間中、毎日大勢の人が死んでいくのを見た。市内にはそれを埋める
場所もなかった。近くの、人が住んでいないあたりに、縦横6メートル、
深さ4メートルの大きな穴が掘られた。死体は低温のためすでに硬く凍って
いた。それを穴の中に投げ入れ、上から薄く土をかぶせた。」」

日本経済新聞(朝刊)2006年11月27日第39面は、旧満鉄職員の話として「終戦時、
情勢が安定していた撫順に、満州全土から数万の避難民が貨物列車でたどり着いた。

服をはぎ取られた女性は米などをいれる麻袋をまとい、幼児は餓死寸前。
感染症が流行し、一日に数十人単位で亡くなった。

学校の校庭に穴を掘って入れた。寒いうちは凍っているが、夏になると
解けるから廃油で焼く」との悲惨な話を報じている。


瀋陽北部Shanyang

瀋陽南部Shanyang

9.葛根廟事件

武器を持たない無防備の約2,000人の日本人母子老人家庭避難民が奉天(瀋陽)への
避難途中、突然、警告なしに、ソ連軍戦車隊に襲撃され機銃掃射で惨殺された。
重傷を負った避難民は自殺した。生存者はわずか150人であった。
生き残った子供は遺棄孤児(=残留孤児)となった。


葛根廟・烏蘭浩特(ウランホト)・白城一帯

8月14日、満州北西部の興安(=烏蘭浩特(ウランホト)市)から避難途中の
日本人母子老人家庭避難民、約2,000人が、同市郊外の葛根廟一帯で、
ソ連軍の戦車隊に襲われ、銃撃で多数虐殺され、さらに負傷者の多くが自殺し、
生存者はわずか150名といわれるのが葛根廟事件である。

西日本新聞の『シリーズ・戦後60年』の『葛根廟(かっこんびょう)事件』は、
生き残って残留孤児となった川内光雄氏の、「一晩中、母の遺体の横で
泣き明かしました。親を失って子供たちはみな一晩中泣いていました。
負傷した多くの人たちが手りゅう弾や短刀で自決(自殺)していきました」
との悲惨な証言を載せている。


NASA衛星画像

参考資料:読売新聞大阪社会部編
『新聞記者が語りつぐ戦争⑤「葛根廟」』新風書房 1992年8月発行

 1988年8月、日中出版から出版された,
森留美子著『母よ、友よ広野で眠れ-葛根廟事件の真相』の
第108頁~第114頁で、当時、斥候として現場に居合わせ、
惨状を目にした管忠行氏は次のように語っている。

 「視界の中に、興安街から白城子に通ずる鉄道と併行している道路の上に、
黒い点の長い列が見えてきた。日本人避難民の集団が、細く長い列をつくって
現れてきた。ちょうど盆地のような地形の中に、異様な、草原に浮かぶ駆逐艦の
ような廟があり、いま、日本人避難民の長蛇の列は、草原を東西にして、せまい
盆地の中央部にさしかかったのである。

 ちょうどその時、我々三人のいちばん近いところにいた戦車が銃を一発うった。
それを合図に、反対側にいた戦車が動き出した。そこは日本人避難民の長蛇の
列の最後尾のあたりである。長い縦列を後ろから襲う隊形である。14台の戦車が
斜面を下りながら銃撃を始めたのである。

 【あっ?!・・・・・・・】といったきり、三人共声が出ない。

 このような無装備集団に、戦車群が襲いかかるなど、考えてもいなかった。

 戦車は無線で連絡し合っているのであろう。順繰りに、日本人避難民の列を
めがけて、稜線を下り、反転してまた登り、下りながら銃撃している。

 我々三人のいる所から200メートル近くまで上がってきて方向転換をし、また
銃撃しながら下りていく。

 戦車群の位置は太陽を背にして、日本人避難民の列を横から襲っているので
ある。避難民からは戦車が見えにくいようである。その殺戮の場を、我々三人は
東南方向から太陽を斜めに背にしている。だから眼下に展開されている虐殺の
全貌がはっきり見える。

 止まった戦車の天蓋からソ連兵が数人出てきた。機関銃の三角の銃火光が
続けざまに見えた。死にきれずにいる日本人避難民に対して、なおも仮借のない
トドメの銃撃なのであろう。非戦闘員の日本人避難民に銃撃を加え、
その上キャタピラで死体を圧し潰し、悪魔のように戦車群は去っていった。」

10.ソ連と北朝鮮が日本人の帰国を禁止・妨害-
  北朝鮮の日本徹底敵視は金日成から始まったもの

資料:太平洋戦争研究会著『図説 満州帝国』 河出書房新社1996年7月発行 第106頁


満州及び北朝鮮における日本人避難図
資料出所・防衛庁防衛研修所戦史室編『戦史叢書 関東軍(2) 関特演・
終戦時の対ソ戦』第410頁 (株)朝雲新聞社 昭和49年6月発行

1945年8月の日ソ戦争(ソ連の対日参戦)終了後、満州・北朝鮮を占領した
極悪非道なスターリンのソ連軍は日本人民間人の日本への帰国を禁止した。

極悪非道なスターリンのソ連軍は、北朝鮮占領後、満州(中国東北部)と北朝鮮との
国境の町・丹東市から韓国のソウルまでの鉄道の利用を日本人民間人に認めなかった。

極悪非道なスターリンのソ連軍は、日本人民間人の保護は徹頭徹尾行わなかった。
逆に日本人民間人に対してほしいままに
強姦(レイプ)、殺戮、奴隷狩り、暴行、略奪を行った。

この極悪非道なスターリンのソ連軍の【人道に反する】行為が、
戦闘中及び戦闘終結後の満州・北朝鮮において、
1945年~1946年に、生活手段・生活環境を失った
日本人民間人が25万人以上死亡した原因である。

特に開拓団の母子老人家庭避難民は地獄さながらの状況に置かれ悲惨であった。
冬期間は飢餓、伝染病、栄養失調、極寒、絶望感で死者の出ない日はなかった。

開拓団の母子家庭の多くの乳幼児が満州あるいは避難先の北朝鮮に遺棄された。
かれらは遺棄孤児(=残留孤児)として二重三重の苛酷な運命を背負わされ、
苦難の道を歩まなければならなかった。

筆者は、満州・北朝鮮において日本人民間人が蒙ったこの惨禍を
スターリンの惨禍と名付けて、中学・高校の歴史教科書に記載して
後世に伝えることが、亡くなられた犠牲者の方々の慰霊であると思う。

ソ連軍が38度線を越える列車の運転を止めたため、日本人避難民は徒歩で38度線を
越えて、地獄の北朝鮮から、南朝鮮の米軍占領地域に逃げ込んだ。


瀋陽-丹東(旧称:安東)-ピョンヤン(旧称:平壌)-ソウル(旧称:京城)間の
敗戦直後(1945年8月)の鉄道路線図


北朝鮮から南朝鮮への日本人避難民の徒歩避難ルート

参考資料:藤原てい著 『流れる星は生きている』 中央公論社 1984年8月発行
第6頁 避難経路図

第210頁~第231頁より抜粋引用
川を渡る苦しみ
大きな山を遠く迂回している山道には大きな石が多かった。
私の裸足の足は昨日から腫れ上っている。
足の裏が破れて血が出ていることは知っていたが、
ずきんずきんする痛みをこらえて一晩寝て起きると、
今日は化膿したのかもしれない、
奥の方がうずくように痛むのだった。

石ころ道をあえぎあえぎ登りつめた峠から見下ろす眼下には、
幾条かの銀色に輝く川の流れが進路を直角にさえぎっていた。
一家四人の前には広い川が行手をさえぎっていた。

先に行く人の渡るのをじっと見ていると、
一番深い処が私の胸ぐらいであった。
中心近くは水の流れが激しくて、
渡ってゆく人の姿勢が高くなり急に低くなったりする。

(3人の子供を1人も失うことなく)私はついに河を乗りきった。
途中で飲んだ水が妙に渋くて胃の中にいつまでも溜まっていた。

川で濡れても陽で乾くのは早い。
乾いた頃にはまた次の川が前に横たわっていた。
幾つ川を越えたか覚えていない。
大きい河、小さい川、深い川、浅い川。

初めは人の跡を見て渡ったが、みんなから遅れると、
渡る前にまず流れの早さと深さを測らねばならなかった。
やっとしっかりした棒を探し出すと、これだけが命と頼んで川に挑戦した。

日が西に傾くと、水面からの反射のために、
川の真ん中で、くらくらっとして安定を失いかけたことが何度もあった。

最後の川にはずっと下流に橋がかかっていた。
私はこの水勢では流されると思ったから、
随分下流まで河岸を歩いて行った。
半分腐りかけた橋であった。

いっそのこと、橋が落ちて四人が一緒に死ねるなら
その方が私たちにとって幸福かもしれない。

ぐらぐら揺れる橋を渡ると、荒れはてた畑が野原のように淋しく、
人家らしいものは全然なかった。
ただ橋の付近にむかし人家のあったしるしのいしずえだけがころていた。

日本人の群に合流すると私は土手の上につんのめってしまった。
呼吸をするのさえ困難である。頭がしびれるように痛くて、
意識がぽうっとした。私が貧血を起して倒れていても、
誰も言葉をかけてくれるものはなかった。

胸が針に刺されたように痛いので、眼を開けると、
私の破れはてたうす緑のブラウスを通して野薔薇が乳の下を傷つけていた。

アメリカ軍に救助される
眼を覚ました。
テントからは朝日が洩れていた。
人間らしい姿になろうとして立ち上ると、
釘を踏んだように足の裏が痛かった。

D・D・Tの消毒、予防注射、
これらに立ち会うため歩く痛さは針の上を歩くようであった。

このテント村にはすばらしく完備した医療施設があった。

医療施設で、医師は私の足の裏を見て、「ううん」とうなった。
「これはひどい、よく歩いたものですね」

医師は私を手術台に寝かせて、ピンセットでまず肉の中に入っている
石の摘出を始めた。小石をピンセットにはさんでは、
金属の容器に捨てるごとにカチンカチンと音がした。

だんだん奥の方にピンセットが入っていくとね
焼火箸で刺されるように痛かった。
ベッドにしがみついて我慢していたが、
ついに痛さのために脳貧血を起こしてしまった。

私の足の裏は完全に掘り返され、
血液にどす黒く光っている発掘物が、金属容器の底にかたまっていた。

両方の足首を包帯してから
「ひどい足でしたね」と医師は汗をふいていた。
「当分歩いちゃいけませんよ」

診療所と私のテントとは100メートルも離れていた。
この道を這って毎日通うのであった。

そのみじめな自分の姿を人に見せるのが恥ずかしかった。
診療所ばかりではない。便所にも、水貰いにも、おむつの洗濯にも
這って行かねばならなかった。

関連資料:藤原てい著 『絆(きずな)』 読売新聞社 1993年10月発行

参考資料:
読売新聞(夕刊)2006年11月24日第22面より転載
この記事は読売新聞社の許諾を得て転載しています。
複製、送信、出版、頒布、翻訳等、著作権を侵害する一切の行為を禁止します。



11.日本陸軍の日本人棄民方針
--関東軍は高級職業軍人の家族だけはいち早く避難させた!


出典:『週刊朝日百科113 日本の歴史 現代③ 占領と講和』第79頁

参考資料:関東軍文書
斎藤六郎著『シベリアの挽歌』
終戦資料館出版部 1995年5月発行


本書の第363頁~第380頁に記載されている、
大本営陸軍部の高級参謀、朝枝繁春陸軍中佐の
『関東軍方面停戦状況に関する実視報告』は

「既定方針通り、大陸方面においては、在留邦人及び
武装解除後の軍人はソ連の庇護下に満鮮に土着せしめて
生活を営む如くソ連側に依頼するを可とす」、
「満鮮に土着する者は日本国籍を離るるも支障なきものとす」
と述べている。

「既定方針通り」、「満鮮に土着せしめて」、
「日本国籍を離るるも支障なきものとす」という明確な
旧日本帝国陸軍の【棄民方針】に驚かざるを得ない。

まともな対策は何一つ考えなかったが、
大本営も関東軍(満州にいた日本軍)も
ソ連の侵攻を予測していたのである。

大本営と関東軍は、満州の農村部に住んでいた
【開拓団の日本人母子老人家庭は見棄てる】
と決めていた。

原文より6頁(表紙、第1頁、第14頁~第17頁)抜粋



12.麻山事件

日本人開拓団母子老人家庭避難民約720人が、ソ連軍戦車隊と武装中国人暴徒集団に
前後をはさまれて襲撃され、逃げ場を失って全員、集団自決(=集団自殺)した。


中国東北部(満州)ハルビン、牡丹江、麻山、鶏西一帯


麻山付近地図:資料:中村雪子著『麻山事件 満洲の野に婦女子四百余名自決す』

13.廣田内閣の満州移民推進政策は
筆舌に尽くせぬ悲惨な結末に終わった。

1937年、廣田内閣は旧日本帝国陸軍の高級参謀たちに脅かされて、
7大国策(政策)の一つとして満州移民推進を決定した。
2.26事件で陸軍将校たちのテロで殺害された岡田内閣の
高橋是清蔵相(元首相)は満州移民に反対していた。
しかし旧日本帝国陸軍の高級参謀たちは、
満州移民を満州における治安政策の基礎にしようと、
廣田内閣の政策決定を受けて満州移民を強力に推進した。

100万戸、500万人移民計画が策定された。
敗戦時の45年7月には、開拓団の団数は800を超え、
移住した開拓団員の数は約27万人といわれる。

日本の満州移民政策により、旧日本帝国陸軍(関東軍)に
200万ヘクタール以上の農地を強奪された中国農民は
雇用労働者として低賃金で酷使された。

山林、未耕地を含めると旧日本帝国陸軍(関東軍)が開拓用地として
強奪(収容)した土地は1,000万ヘクタール以上といわれる。

かなりの数の中国農民が【匪賊】となって関東軍に執拗に反抗した。

関東軍(満州に駐留していた日本軍)は、
開拓団の老人、婦女子、小学生、幼乳児を
見棄て、見殺しにした

日本敗戦と同時に、これら【匪賊】は、報復のため、一斉に
開拓団の老人、婦女子、小学生、幼乳児を襲撃した。

開拓団の成年男子(18歳~45歳)は、敗戦直前の7月10日に
日本軍(関東軍)の【根こそぎ動員】で徴兵され、その後、
極悪非道なスターリンの極秘指令で、シベリアに拉致移送され、
奴隷として重労働を強制された。
徒歩と貨車の拉致移送途上でおびただしい数の死亡者が出た。
苛酷な奴隷労働でもおびただしい数の死亡者が出た。

敗戦時、日本軍(関東軍)は、高級職業軍人の家族だけはいち早く避難させた。

【根こそぎ動員】で夫や息子を徴兵されて頼りになる成年男子を失った
開拓団の老人、婦女子、小学生、幼乳児については、
何らの保護を行うことなく、見棄て、見殺しにした。
ソ連軍侵攻予告はおろか、戦闘が始まっても
開戦・敗戦の事実すら知らせなかったのである。

日本軍(関東軍)に見棄てられ、見殺しにされた多数の開拓団の
老人、婦女子、小学生、幼乳児が、ソ連軍戦車の銃撃と
中国人の銃、鍬、こん棒などによる襲撃で殺害された。
逃げ場を失った日本人たちは集団自殺した。

逃避行から生き残って奉天(瀋陽)の窓や床板をはがされた
荒れ果てた学校、寺院、病院等の収容施設にたどりついた者も、
【着の身、着のまま】、中には麻袋だけで身を包み、所持金もなく、
飢え(餓死)、栄養失調(衰弱死)、伝染病(病死)、極寒(凍死)、
絶望(自殺)等でほとんどが死亡した。

生き残った小学生・乳幼児は遺棄孤児(残留孤児)として
二重三重の苦難の人生に耐えねばならなかった。

この日本軍(関東軍)の最高指導者たちと高級参謀たちの
【人道に反する開拓団員見殺しの罪】を見逃すことはできない。

哀れな開拓団女性たちを保護することなく、ほしいままに
強姦、殺戮、暴行、略奪を行ったソ連軍兵士たちの
【人道の反する罪】を見逃すことはできない。

14.極悪非道なソ連の独裁者、スターリン

1953年3月5日、極悪非道なソ連の独裁者、スターリンが死亡した。
スターリンの最も忠実な部下で、ソ連秘密警察の元締めであったベリヤは、
スターリンの死で権力基盤を失い、1953年12月23日、【国家反逆罪】で銃殺された。

スターリンとベリヤは【大粛清】とよばるれ反対派の徹底的殺害を行った。
やり方は、日本人に対する【戦犯裁判】と全く同じで、反革命罪、国家転覆罪、
国家反逆罪との罪名で、【エセ裁判】を行い、片っ端から一方的に
死刑宣告を行い、判決、即執行で、容赦なくぶっ殺していった。



以上


関連サイト:
シベリア奴隷労働被害 くやしい。悲しい。むなしい。情けない。

韓国従軍慰安婦問題-日本の誠実な謝罪と膨大な賠償金支払いの事実を
                韓国国民に知らせよ

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これが戦争である 補給を見捨てられ餓死した日本兵 太平洋戦争  戦没者の60%強140万人は餓死であった 餓死した英霊たちは言っている 神社で祀るよりも飯をくれ

餓死(うえじに)した英霊たち餓死(うえじに)した英霊たち
(2001/05)
藤原 彰

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http://www7a.biglobe.ne.jp/~mhvpip/PacificWar.html

太平洋戦争戦跡地
戦没者の60%強140万人は餓死であった
                              
                              2013年9月 Minade Mamoru Nowar



 

出典:藤原彰著 『餓死(うえじに)した英霊たち』 青木書店 2001年5月発行
第3頁・第4頁
はじめに-戦没者の過半数は餓死だった

第2次世界大戦(日本にとってはアジア太平洋戦争)において、
日本人の戦没者数は310万人、その中で、軍人軍属の戦没数は230万人とされている。

敗戦直後の1945年9月、東久邇内閣が発表した陸海軍人の戦没者数は50万7,000人に
すぎなかったが、調査がすすむとともにその数が増えつづけ、
1977年に厚生省が明らかにした数字では、「軍人・軍属・准軍属」の戦没者230万人、
外地での戦没、一般邦人30万人、内地での戦災死者50万人、計310万人となっている。

なお調査や遺骨収集はつづいており、正確な数は依然として明らかにされていないが、
現在では、日本軍人の戦没者230万人というのが、政府が明らかにしている概数である。

この戦争で特徴的なことは、日本軍の戦没者の過半数が戦闘行動による死者、
いわゆる名誉の戦死ではなく、餓死であったという事実である。

「靖国の英霊」の実態は、華々しい戦闘の中での名誉の戦死ではなく、
飢餓地獄の中での野垂れ死にだったのである。

栄養学者によれば、飢餓には、食物をまったく摂取しないで起こる完全飢餓と、
栄養の不足または失調による不完全飢餓があるとされている。

この戦争における日本軍の戦闘状況の特徴は、補給の途絶、現地で採取できる食物の
不足から、膨大な不完全飢餓を発生させたことである。そして完全飢餓によって起こる
餓死だけでなく、不完全飢餓による栄養失調のために体力を消耗して病気にたいする
抵抗力をなくし、マラリア、アメーバ赤痢、デング熱その他による多数の病死者を出した。

この栄養失調に基づく病死者も、広い意味で餓死といえる。
そしてこの戦病死者の数が、戦死者や戦傷死者の数を上回っているのである。

戦死よりも戦病死の方が多い。

それが一局面の特殊な状況でなく、戦場の全体にわたって発生したことが、
この戦争の特徴であり、そこに何よりも日本軍の特質をみることができる。

悲惨な死を強いられた若者たちの無念さを思い、大量餓死をもたらした日本軍の責任と
特質を明らかにして、そのことを歴史に残したい。

大量餓死は人為的なもので、その責任は明瞭である。
そのことを死者に代わって告発したい。それが本書の目的である。

出典:藤原彰著 『餓死(うえじに)した英霊たち』 青木書店 2001年5月発行
第5頁~第9頁
目次

第1章 餓死の実態
1.ガダルカナル島の戦い
①無謀な陸軍投入
②餓島の実情
③ガダルカナル戦が示したもの
④ガダルカナル以後のソロモン群島
⑤孤立したラバウル
2.ポートモレスビー攻略戦
①無謀な陸路進攻計画
②スタンレー山系越えの苦闘
③退却戦とブナ、ギルワの終末
3.ニューギニアの第18軍
①現地を知らない大本営
②死の転進行軍
③アイタベ作戦
④極限状況下の第18軍
4.インパール作戦
①20世紀の鵯越え(ひよどりごえ)作戦
②惨憺たる敗北と退却
③シッタン河谷の後退
④ビルマ戦線の死没者の割合
5.孤島の置きざり部隊
①戦理に反した守備隊配備
②とり残された守備隊
③メレヨン島の惨劇
④ウェーク島の飢餓地獄
6.フィリピン戦での大量餓死
①揺れ動く決戦構想
②餓死への道程
③フィリピン戦の特徴
④住民への加害行為
7.中国戦線の栄養失調症
①世紀の大遠征
②架空の兵姑線
③補充員の苦難
④中国戦線での死因
8.戦没軍人の死因
①戦没者の総数
②餓死者の割合

第2章 何が大量餓死をもたらしたのか
1.補給無視の作戦計画
①作戦が他のすべてに優先する
②情報の軽視
2.兵站軽視の作戦指導
①対米英開戦と兵站
②兵要地誌の調査不足と現地自活主義の破綻
③後方を担った馬の犠牲
3.作戦参謀の独善横暴
①幕僚が戦争も作戦も決めた
②作戦屋の強硬論
③人間性を欠いた作戦

第3章 日本軍隊の特質
1.精神主義への過信
①日露戦後の軍事思想
②白兵主義の欠陥
2.兵士の人権
①軍紀と服従
②無視された人権
③生命の濫費で勝利を購う
3.兵站部門の軽視
①差別されていた輻重兵科
②経理部への差別
③軍医部の地位向上策
4.幹部教育の偏向
①精神重視の教育と幼年学校
②幼年学校出身者の要職独占とその弊害
5.降伏の禁止と玉砕の強制
①日本軍の捕虜政策とその転換
②戦陣訓と捕虜禁止
③命令された「玉砕」

出典:藤原彰著 『餓死(うえじに)した英霊たち』 青木書店 2001年5月発行
第131頁~第138頁
第1章 餓死の実態
8.戦没軍人の死因

①戦没者の総数

第2次大戦(日中戦争を含めてアジア太平洋戦争)における
日本軍の戦没者の総数、その中での戦死、戦病死などの割合は、
戦争が日本の敗北に終わったこともあって、正確に数えることは
きわめて難しい。

多くの戦場が玉砕(全員死亡)に終わるか敗退してしまったので、
記録がほとんど失われている。

さらに降伏の直後に、戦争犯罪の追及を恐れて、
組織的に関連書類の大量焼却が指令された。

このため陸海軍の各部隊どころか、
市町村役場の兵事関係書類まで焼いてしまったところも多い。
軍事と戦争に関する史料が、根こそぎ破棄されてしまったのである。
このため戦没者の数にしても、数字に大差がある状況で、
戦後日が経つにしたがって、調査がすすみ、
その数が増えていくという状況にある。

調査不十分の結果もあり、敗戦直後の1945年9月の
第88臨時議会に東久邇内閣が報告した数字は、
太平洋戦争の戦没者陸海軍人50万7000人、
一般国民の死者24万1,000人、合計74万8,000人
という少ないものであった。

その後調査がすすむにつれて数は増えつづけている。
77年に厚生省援護局があげた数字では、
37年7月いらいの、
日本の戦没者は、軍人、軍属、准軍属合わせて
約230万人、外地の一般邦人死者数約30万人、
内地での戦災死亡者約50万人、
合わせて約310万人となっている。

この軍人軍属の戦没者230万人という数字は、
それより13年前の64年に、
厚生省援護局が公表した地域別陸海軍人戦没者数の
合計212万1,000人よりは約18万人多いが、
それはその後の調査の増加分を含んでいるからであろう。

この地域別陸海軍人戦没者数を次に掲げる。

この数字は、地域別ではこれより新しい公式数字はないが、
1977年の数字より約18万人少ないだけでなく、
地域によっては現在判明している数よりも過少である。

日本人全体の戦没者総数についても同様である。
政府はそれ以後、ずっと戦争の犠牲者310万人という
数を使いつづけているが、原爆による犠牲者だけについてみても、
毎年、その数は増えつづけているのだから、
この数ももっと多く修正されるべきであろう。
調査をいっそう重ねて、正確な数に近づく努力が必要である。

この日本人の死者数310万人、そのうち軍人軍属の戦没者
230万人という数字は、その後、日本政府が、
毎年8月15日の戦没者慰霊祭などの場合に、
公式にいいつづけている数字である。

この戦没者数には、朝鮮、台湾などの植民地出身者約5万人が
含まれているので、正確にいえば日本人の死者総数ではない。
また実際には、この数字は過少だという批判がある。

また、日本人の死者数だけをとり上げるのも公平ではない。
日本の侵略の対象となったアジア諸国の膨大な戦争被害に
目を向けなければならないだろう。

ただしアジア諸国民の死者数については、日本人の場合以上に
正確な資料に乏しく、集計も困難である。
何の数字も発表されていない国もあるという状況の中で、
最大の被害国である中国では、抗日戦争期の軍人の死者
380万人以上、民間人の死者1,800万人以上、
計2180万人以上という政府見解がある。

フィリピンでは、死者111万1,938人という数字を
政府が公表している。

そのほかに、フランス領インドシナの餓死者200万人、
インドネシアの被害者100万人、
シンガポールの華僑(現地で帰化した中国人)虐殺の
被害者5万人という数字もある。

したがって、総計では約3,000万人の犠牲者が出ている
であろうと推定される。

つまり戦争犠牲者の総数は不明確であり、
さらに今後の調査が必要だということである。

②餓死者の割合

軍人の戦没者230万人のうち、戦死、病死などの
死因別はどうなっているかについては、
公式の統計はまったくない。陸上自衛隊衛生学校が編纂した
『大東亜戦争陸軍衛生史』は、公刊の衛生史に当たると
いえるものだが、その中では次のようにいっている。

今次大東亜戦争においては、敗戦により、特に統計資料は
いっさい焼却又は破棄せられ、まとまったものは皆無の状況である。
従って、全戦争期間を通じ、戦傷戦病はどの位あったかと
いうことは、全く推定するよしもないのである。

「推定するよしもない」としているこの衛生史は、
戦死と戦病死の割合については、ごく初期の対南方進攻作戦の
ものをあげるだけで、その後の状況については沈黙している。

とくに、後半期の南方の餓死者続出の惨状や、中国における
戦争栄養失調症の多発などについては、まったく触れるところが
ないのである。これは、病死が多数発生するのは軍医として
恥だという感覚からかも知れない。しかし戦争の衛生史としては、
もっとも重大な問題を欠落させているというほかはない。

くりかえしていうが、日本軍人の戦没者230万人の内訳は、
戦死よりもはるかに病死が多いのである。これは衛生、給養上の
大問題であり、戦争衛生史ならば第一にとり上げて、その原因を
分析すべき事態なのである。

それでは、一体、餓死者の割合はどの位だったのだろうか。
今までみてみた各戦場別に、その割合を推定してみよう。
そのさいの、各地域別の基礎数字は、厚生省援護局の
1964年作成のものを使うことにする。実数はこれよりは
いくらかずつ多いはずである。


「第1章1 ガダルカナル島の戦い」でとり上げたのは、
ソロモン群島のガダルカナル島とブーゲンビル島、それと
ビスマルク諸島の主島ニューブリテン島のラバウルの
諸部隊である。

厚生省の統計ではソロモン群島の戦没者
8万8,200人、ビスマルク諸島は3万500人、
計11万8,700人となっている。

ガダルカナル島の場合、
方面軍司令官は、戦没者2万人、戦死5,000人、
餓死1万5,000人と述べている。
ブーゲンビル島では、タロキナ戦以後の戦没者約2万人は、
ほとんど餓死であったと推察される。

そのほかの
ニュージョージア、レンドバ、コロンバンガラなどの

中部ソロモンの諸島の場合も、ほぼ同じような比率であったろう。

したがって、ソロモン群島の戦没者の4分の3に当たる
6万6,000人が餓死したと考えられる。ラバウルの場合、
ほとんど戦死はなく、栄養失調と薬品不足のためのマラリアに
よる病死であるから、ビスマルク諸島の3万500人の
戦没者の9割、2万7,500人は広義の餓死に数えてよかろう。

したがって、この方面の餓死者は9万3,500人を下らない
数に上るであろう。


「2ポートモレスビー攻略戦」と「3ニューギニアの第18軍」
でとり上げたのは、いずれも東部ニューギニアの戦場である。
厚生省の調査では東部ニューギニアの戦没者は
12万7,600人となっている。

各部隊の報告や回想では、いずれも戦没者の9割以上が餓死だった
としている。仮に9割として計算すると、実に
11万4,840人が餓死したことになる。
この多くの若い生命が、密林の中で万斛(ばんこく)の涙を
のんで倒れていったのである。


「4インパール作戦」のインパールはインド領だが、
作戦を担当したのはビルマ方面軍であり、ビルマ戦の一部といえる。
厚生省の調査では、ビルマ(含インド)の戦没者は
16万4,500人となっている。

これは4節であげた陸軍のみの戦没者18万5,149人と
異なっており、航空部隊、海軍を加えれば、さらに数が増える
はずである。そこで述べたように、この78%、
14万5,000人か、それ以上が病死者、すなわち餓死者で
あったと推定される。


「5孤島の置きざり部隊」では中部太平洋の島々とり上げている。
厚生省調査では、中部太平洋の戦没者24万7,200人となっているが、
この中には、上陸した米軍と戦って玉砕したマキン、タラワ、クェゼリン、
ルオット、ブラウン、サイパン、グアム、テニアン、ペリリュー、
アンガウルなどの諸島が含まれている。

玉砕した島以外の各島は、米軍にとって
不必要なために無視され、戦線の背後に取り残された。

その中では、比較的島の面積が広く、ある程度の農耕地もあり、
現地自活が可能だったポナペ、モートロック、ロタ、トラック、
玉砕した2島以外のパラオ地区、ヤップ地区の島の守備隊は、
とにかくにも敗戦時まで生き延びることができた。

しかし、いっさいの補給が絶たれ、自給の手段もなく、
餓死を待つばかりとなった島も多い。

45年4月14日の海軍軍令部調によると、この時点で餓死を
待つばかりだった島は、ウォッゼ、マロエラップ、ミレ、ヤルート、ナウル、
オーシャン、クサイ、エンダービ、バカン、メレヨン、ウエーク、南鳥島で、
なお3万6470人が生き残っていた。

その人々は、地獄の苦しみを味わった後に、6~7割が
最後を遂げることになるのである。

全体として、この地域の戦死、病死の割合は半々とみてよいだろう。
すなわち、12万3,500人が病死、餓死していたといえる。


戦場別でみれば、もつとも多い50万人の戦没者を出したのが
フィリピンである。「6フィリピン戦での大量餓死」でも
述べたように、その8割までが餓死だったとみてよいだろう。

決戦場とされたレイテ島で戦った部隊でさえ、各隊の報告に
よれば、その半数は餓死だったのだから、そのほかの、
ルソンやミンダナオで持久戦を戦った大部分の部隊は、
住民がすべて敵の中で、飢えとの戦いを強いられた。

50万人の中の、40万人が餓死者だったとみることができよう。


中国本土。厚生省の分類で中国本土とされているのは、
日中戦争開始いらいの中国戦線での戦没者で、
フィリピンに次ぐ大人数の45万5,700人となっている。

37年の上海の戦いや、38年の漢口攻略戦などでは
相当数の戦死者を出したが、全体としてみれば、
戦線の広がりの割には戦死はそれほど多くはない。

「7 中国戦線の栄養失調症」で述べたように、栄養失調に
起因する、マラリア、赤痢、脚気などによる病死が、
死因の3~4割を占めていた。

そして、もっとも多くの死者を出した44年からの
大陸打通作戦では、過半数が病死となっている。
全体としては、戦死と病死の比率は、ほぼ半々と考えられる。

すなわち、中国戦場では22万7,800人が、栄養失調を
原因とする病死であろう。


その他の地域の中で、沖縄の8万9,400人と
小笠原諸島(硫黄島を含む)の1万5,700人は、
玉砕したので、ほとんどが戦死である。

次に、ソ連、旧満州、樺太千島は、降伏前後のソ連軍との交戦で
大きな損害を出しているので、その死因の多くは戦死で、
病死はとくに降伏後に多く、2割の計2万1,000人と
見積もることにする。

さらに、モルッカ・小スンダ(含西ニューギニア)とされている
地域も、ビアク島をはじめ玉砕した島が含まれている。
戦闘によるのではなく補給の欠乏で戦力を失った部隊も多い。
この地域の病死者は全体の5割、2万8,700人と推定する。

それ以外の、日本本土、朝鮮、台湾、南方では仏領インドシナ、
タイ、マレー・シンガポール、ボルネオ・スマトラ、
ジャワ・セレベスの諸地域でも、合計で23万3,500人の
戦没者を出している。

これらの地域でも、戦争末期には栄養失調が広がっており、
とくに、降伏して捕虜になってから給養不足に陥った地域もあった。

この戦没者はほとんどが病死であるが、その半分は栄養失調に
基づくものと推定してよいだろう。すなわち、11万6,700人が、
広い意味での餓死である。

今までに、各地域別に推計した、病死者、戦地栄養失調症による
広い意味での餓死者は、合計で127万6240人に達し、
全体の戦没者212万1,000人の60%強という割合になる。

これを77年以降の戦没軍人軍属212人万という総数に
たいして換算すると、そのうちの140万人前後が、
戦病死者、すなわち、そのほとんどが餓死者ということになる。


中部太平洋諸島における太平洋戦争中の日本軍軍人・軍属の戦没者は約25万人といわれる。




ソロモン諸島国・ガダルカナル島ホニアラ(NASA衛星画像)
ソロモン諸島及びビスマ-ク諸島における太平洋戦争中の
日本軍軍人・軍属の戦没者は約12万人といわれる。

2008年4月11日、NHK衛星第2放送から『兵士たちの証言 ガダルカナル
繰り返された白兵突撃』が放送された。日本陸軍が最も得意としたといわれる
【白兵突撃による夜襲】の悲惨な状景と、その後のジャングルにおける悲惨な
餓死の状景が、生き残った兵士たちの証言と共に放送された。

射撃なしで、相手を銃剣で刺し殺す、白兵突撃戦法のあまりにもの愚かさ、
戦うための食糧すら準備せず、「敵の食糧を奪って食え」という方針の
あまりにもの無謀さは、日本陸軍の最高指導者たちと、高級参謀たちの
【無謀と愚かさ】を端的に示すものである。かれらの【無謀と愚かさ】の犠牲
となってガダルカナル島で戦死した約5,000人、餓死した約1万5,000人の
犠牲者たちに深い哀悼の意を表したい。

資料出所:吉田俊雄著『日本帝国海軍はなぜ敗れたか』 第308頁~第310頁
                       文藝春秋 1995年12月発行
関連サイト:昭和戦争の惨禍の責任


フィリピン・レイテ島リモン峠所在図
フィリピンにおける太平洋戦争中の日本軍軍人・軍属の戦没者は約52万人といわれる。

研究文献:
『大岡昇平全集10:レイテ戦記(下)』筑摩書房1995年7月発行
『加賀乙彦氏の解説』第649頁~第659頁の抜粋文

レイテ島の戦いは太平洋戦争でもっとも悲惨な激戦の一つであった。
日本軍の戦死者は7万9,000人、生還した人々は数千人に過ぎなかった。
米軍は戦死者3,500人、戦傷者1万2,000人という数字がそれを示している。

日米両軍は、深山、熱帯雨林、湿地など複雑な地形と、雨期の長雨、
嵐の来襲などの苛酷な気候のなかで、大軍を動かし、死闘を繰り返した。

日本軍は強力な米軍の攻撃に、一方的に押されて撃破されて行ったのではなく、
地形を巧みに利用して米軍にしたたかな反撃を加え、ときには局地的な勝利を納めている。

小説家の腕前で臨場感溢れる描写と簡潔な文体で組み立て、
あたかも戦闘に参加しているかのような緊張を読者にあたえてくれるのが
大岡昇平の『レイテ戦記』である。
戦後、戦争についておぴただしい戦記が書かれてきたが、
この『レイテ戦記』は、それらと格段と違う完成度を誇っている。

兵土にとって戦争はなによりも肉体の苦痛である。
ずぶ濡れの行軍、大砲の部品の運搬、寒さと飢えと疲労、傷の痛みなどが、
再現されている。

飢えと疲労は、日本軍だけでなく友軍から孤立した米軍の支隊にもあった。
肉体の苦痛の極限に到達した米軍兵士同士が憎悪と憤怒で殺し合う。

リモン峠の戦闘において、日本陸軍の持つどうしようもない欠陥が明らかになる。
劣勢による攻撃という日露戦争時代の戦術、階級序列によって保守化した組織、
三八式銃のような旧式の武器、補給を忘れた現地調達主義、
玉砕を是とする戦闘精神だけでは、優秀な装備と豊富な弾薬を持つ米軍に
勝てるわけがなかった。

大岡昇平は、この旧日本軍の持っていた欠陥は、
当時の日本の持つ欠陥であったと述懐している。

歴史から教訓を汲み取らねば、
われわれは永遠にリモン峠の段階に止まっていることになる。
ただしこれは必ずしも旧日本陸軍の体質の問題だけでなく、
明治以来背伸ぴして、近代的植民地争奪に仲間入りした
日本全体の政治的経済的条件の結果であった。


フィリピン・レイテ島(NASA衛星画像)


北ボルネオ(NASA衛星画像)

北ボルネオ死の転進状況図

豊田穣著『北ボルネオ死の転進』(集英社文庫 昭和62年8月発行)
第437頁~第440頁の豊田穣氏の『あとがき』、及び第442頁~第446頁の横井幸雄氏の『解説』より抜粋転載

「世界第3の大きな島ボルネオの北部において、前人未踏のジャングルを東から西へ転進する
【死の転進】で、日本軍兵士は自滅といつた形でほとんど壊滅した。現地事情を知らぬ
旧日本帝国陸軍の参謀たちの机上の空論が悲惨な犠牲を生んだのである。

タワオ → サンダカン → ラナウ → ラブアン島は、およそ700キロである。
北ボルネオでの死者はおよそ18,000人。ジャングル内の転進で短期間に多数死亡した
例としてはガダルカナル、ニューギニア、ビルマに並ぶ悲惨な【死の転進】であった。」

【死の転進】を体験された、俳誌「杉」主宰者、森澄雄氏は日本経済新聞07年8月11日の
『私の履歴書』で、「ジャングルの湿地帯の後は2000㍍近い高地が待っていた。疲れきった
体には一歩一歩の、特に上りより下りのつらさは言いようもなかった。タワオを出て200日、
ようやくメララップにたどりついた。

この無謀な行軍で生き残ったのは、ぼくの中隊では200人中8人、小隊では50人中わずか
3人だった。皆、ジャングル内での飢えとマラリアで死亡したのである」と述べている。


フィリピン・ルソン島(衛星画像)

2007年8月16日、NHK衛星第1テレビから『証言記録 マニラ市街戦 ~死者12万人
焦土への一ヶ月』が放送された。

1945年2月3日~3月3日、牢固たる玉砕思想を持っていた【狂っていた】旧日本帝国海軍の
参謀たちは、わずか24,000人の装備劣悪なマニラ海軍防衛隊で、フィリピン人市民10万人を
巻き添えにして死亡させた【マニラ市街戦】=【無理心中作戦】を強行したのである。

山下大将率いる旧日本帝国陸軍の第14方面軍は、100万人のマニラ市民に惨禍が及ぶことを
懸念して、マニラを放棄してルソン島北部の山岳地帯へ転進していた。

【狂っていた】旧日本帝国海軍の参謀たちが強行した【マニラ市街戦】=【無理心中作戦】の、
地獄さながらのあまりにもの悲惨さに ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

亡くなられた方々に深い哀悼の意を表すると共に、あまりにも【無知で愚か】であった
旧日本帝国軍部(陸海軍)の最高指導者たちが、最後の最後まで叫び続けていた
【本土決戦】=【無理心中作戦】が行われたならば、日本全土が地獄と化して、
日本民族は滅亡していただろうと考えざるをえない。

参考資料:井口光雄著 『激闘 ルソン戦記』 光人社 2008年3月発行


ビルマ・インパール(NASA衛星画像)
ビルマにおける太平洋戦争中の日本軍軍人・軍属の戦没者は約17万人といわれる。

インパール作戦は、第15軍司令官・牟田口廉也陸軍中将が立案・強行した
【無知で愚かな無謀な作戦】であつた。
投入兵力8万6,000人に対して、帰還時の兵力は僅か1万2,000人であった。
退却路に沿って延々と続く、ウジの湧いた病死者・餓死者の白骨死体が横たわる
むごたらしい有様を、敗走する日本兵は【白骨街道】と呼んだ。
赤痢などに罹患した病死者・餓死者の遺体や、動けなくなった敗残兵は、
衛生上、敗走する日本軍よりもむしろ危険であったため、
英軍は追撃途上で、生死を問わず、ガソリンをかけて焼却した。

無事、日本に帰還した牟田口軍司令官は、戦後、
この【無知で愚かな無謀な作戦】について何らの反省・懺悔することなく、
自己弁護に終始した。「自分に責任は無かった」旨を強調する話を、パンフレット、
ラジオ、テレビ、雑誌などで機会あるごとに強調していたという。
許し難い卑劣な行為である。

研究資料:
信濃毎日新聞 2007年12月11日第1面より抜粋転載
この抜粋文は著作権者と信濃毎日新聞社の許諾をいただいて転載しています。
コピー及び転載は禁止します。

語り継ぐ生還兵 「戦場は人を狂わせる」

1944年(昭和19年)、当時25歳だった友田浩(88)さんは、陸軍の中隊長として
大敗を喫したインパール作戦のただ中にいた。20日間分の食料と弾薬を入れた
20キロのリユックを背負い、約5カ月間ひたすらジャングルを歩いた。

友田さんの隊は200人。最初から前線にいて生き残った者は5人にすぎない。
死者の7割は餓死だった。
「自分がどうして生きて帰れたか、今でも分からない。狂っていました。」
友田さんは戦場で、逃亡しようとする部下に向かって銃を撃つ中隊長を見た。
「戦争は人をおかしくさせる。でも、そうでなければ戦争なんてできない。」

進めば死ぬ。逃げ出せば、さげすまれ、やはり死が待っている。
その境遇に追いやられ、命を差し出した者を「美しい」と言い始めた日本人。
「死んでいった友のためにも、自分の国をどう守るかは真剣に議論してほしい。」
「負けると分かっていて、どんなに悔しい思いで死んでいったか。
それを語り継ぐため、私は生かされた。」
「戦争は人と人とがお互いに殺し合うことしか考えていない。
地上にこれほど無残な犯罪はない。」

88歳の友田浩さんは体が動く限り講演に出掛ける。

丸山静雄著『インパール作戦従軍記』 岩波新書 1984年6月発行 第184頁~第185頁

ビルマ方面軍兵帖参謀倉橋武夫中佐によれば第15軍の状況は次の通りである。

作戦前の総兵力15万5,000人
生還者総数3万1,000人
犠牲者総数12万3,000人
犠牲者率80%

また別の資料によれば、チンドウィン河を渡って作戦に参加した
総兵力は3個師団約10万人、戦闘の結果、戦死あるいは戦傷病死したものは約4万人、
再びチンドウィン河を渡り帰りえた者は約6万であった。
しかし、帰りえた約6万人の中、おそらく約2万人は傷病患者、残る約4万人も、大部分、
マラリア、赤痢に冒されていたであろう。

さらに別の資料によると、インパール作戦の死者は合計13万7,000人に達した
とする数字もある。

高い犠牲率
このように、資料によ.て数字には相違はあるが、共通して指摘されていることは、
犠牲者が驚くほど多かったことである。小部隊ならばいざ知らず、3個師団を擁する
大軍団で、これほど高い犠牲率を出した例が他にあるだろうか。
火器などの損粍についても、倉橋資料によると、チンドウィン河をこえて搬入した火砲、
車輌、馬匹、家畜は、その大半が破壊、殺傷され、あるいは戦場に遺棄された。

初期に退却した部隊は軽兵器(機関銃、郷弾筒、手榴弾、小銃)を持ちかえったが、
遅れて退却したものは小銃、帯剣をも捨て、水筒か飯盒を持つだけだった。
なかには、それすら持たず、杖一本にすがって退却したものも少なくなかった。
惨たる戦いの結末であった。



参考資料:高木俊朗著『インパール』 文春文庫 1975年7月発行


東部ニューギニア・ウエワク一帯(NASA衛星画像)
ニューギニアにおける太平洋戦争中の日本軍軍人・軍属の戦没者は約13万人といわれる。


東ティモール・ディリDili(NASA衛星画像)
ティモール島、カリマンタン島(ボルネオ島)、及びスラウエシ島(セレベス島)における
太平洋戦争中の日本軍軍人・軍属の戦没者は約8万人といわれる。


ニューブリテン島(NASA衛星画像)

07年8月12日、NHKから『鬼太郎の見た玉砕』が放送された。
太平洋戦争時、南太平洋・ニューブリテン島において、【狂っていた】
最高指揮官の無謀な玉砕突撃(=自殺突撃)から生き残り、
辛うじてセントジョージ岬にたどり着いた士官・兵士たちに対して、
彼らの上官であるラバウル兵団長(現地日本軍の最高指揮官)と参謀長は、
兵団参謀に、「彼ら全員を秘密裏に処分せよ(=殺害せよ)」)と命令する。

酷薄非情な兵団参謀は、軍医を射殺し、リーダーの士官2人を浜辺で自殺させ、
兵士77名を玉砕突撃(=自殺突撃)させ、自分一人、平然と司令部に帰っていく。
【狂っていた】非人道的な旧日本帝国陸軍の最高指揮官たちと参謀たちの
【思考と行動】を赤裸々に示す背筋が寒くなる怖ろしい場面が放送された。


沖縄(NASA衛星画像)
沖縄戦における軍人・軍属及び民間人の死亡者は20万人以上といわれる。

那覇市中心部:Photo by US Army

那覇市中心部:Photo by US Army

那覇市:Photo by US Army

出典:藤原彰著 『餓死(うえじに)した英霊たち』 青木書店 2001年5月発行
第233頁~第235頁
むすび

日本軍戦没者の過半数が餓死だったという事実に、
私はあらためて驚きを感ぜざるを得ない。

しかもそれはある戦場の特別な事例なのではなく、
全戦場にわたって起こっていたのである。

補給の不足または途絶による戦争栄養失調症が常態化し、
それによる体力の低下から抵抗力を失って、マラリア、赤痢、脚気などによる病死、
つまり広い意味での飢えによる死、餓死を大量発生させたのである。

それも珊瑚礁の孤島や、
人の住まない熱帯性の密林などでなく、
人口豊富なフィリピンやビルマや、
さらに、中国本土においてでさえも発生して、死因の最大を占めているのである。

これは自然の条件によってもたらされた災害や、
偶然の事情が重なって起こった不可抗力の事件ではない。

日本軍に固有の性質や条件が作り出した
人為的な災害なのである。

もともと無理で無茶苦茶な作戦を計画して実行したり、
はじめから補給を無視して栄養失調が起こるのに任せたり、
これらは、故意に作り出された人的原因による結果だった
といわざるを得ないのである。

本書はそのことに焦点を置いて、
餓死発生の原因を追及してきたつもりである。

その結論は、おおよそ次の通りである。

餓死者の大量発生が特別な場合なのでなく、
日本軍の戦場ではどこでも起こっていたのはなぜか。

それは日露戦争以後の日本軍が、
積極果敢な攻勢至上主義をとり、
このための先制主導の戦略戦術が至上とされ、
作戦担当者は、この積極主義者によって占められた。

しかも、彼らは独善と専断を育てるエリート教育を受けていた。
彼らは作戦目的が至上で、兵站や補給、給養や衛生は、
すべて作戦に奉仕すべきだとしていたのである。

それを主要ないくつかの作戦で明らかにしてきた。

それによると、
まず第一に作戦目的があり、
目的達成のために計画が立てられるが、
そのさい輸送補給、給養や衛生といった
軍隊生存の必要条件までもが作戦優先主義のために
軽視または無視されたのである。

はじめから、補給をまったく無視して計画された
ポートモレスビー攻略戦やインパール作戦はもちろんのこと、
有史いらいの最大の作戦という中国の大陸打通作戦でも、
「糧を敵に借る」のがそもそもの方針で、
大軍にたいする補給の計画が立てられていなかった。

補給の目途がまったくない太平洋の孤島に
多数の陸軍を配備して、
みすみす餓死の運命に晒したことも同じ発想である。

つまり日本の作戦には補給の重要性についての
認識がまったくなかったのである。

このことは日本軍の特徴によってもたらされたものであった。
兵士の生命を病気や飢えで失うことへの罪悪感が欠けていた
のである。

それは、そもそも、
軍隊が兵士の生命と人権を軽視していたからであった。

当然問題とされるべき大量餓死の発生が、
特別の問題ともならずに
何回でもくりかえされたことにそれが現れている。

他国の軍隊に比べて、
日本軍では戦闘の主役として、
陸軍では歩兵、
海軍では戦艦が尊重され、
それに反して兵站や輸送、補給や衛生に関する部門は
軽視され差別されていた。
そのことも餓死と無縁ではないといえる。

こうした日本軍の特質をもっともよく示しているのが、
捕虜の否定と降伏の禁止である。

国際法を無視し、日本軍人は死ぬまで戦うべきで
捕虜は恥辱であるとする考えが主流となった。

日中戦争やノモンハン事件で捕虜の禁止は定着し、
捕虜帰還者は軍法会議で重刑を受けることになった。

この捕虜を認めず降伏を許さない日本軍の建て前が、
どんな状況の下でも通用したことが、
大量餓死や玉砕の悲劇を生み出したのである。

この戦争の日本軍の場合、孤立しあるいはとり残されて、
全体の戦況に何の寄与することもなくなり、
ただ自滅を待つだけとなった部隊でも、降伏が認められない以上、
餓死か玉砕以外に選ぶ道はないという場面が多かった。

もし降伏が認められていれば、
実に多くの生命が救われたのである。

そもそも、無茶苦茶な戦争を始めたこと自体が、
非合理な精神主義、独善的な攻勢主義にかたまった
陸海エリート軍人たちの仕業であった。

そして、補給輸送を無視した作戦第一主義で戦闘を指導し、
大量の餓死者を発生させたことも彼らの責任である。

無限の可能性を秘めた有為の青年たちを、
野垂れ死にとしかいいようのない
無惨な飢え死に追いやった責任は明らかである。


藤田嗣治・サイパン島


         


藤田嗣治・アッツ島玉砕
愛国洗脳教育が旧大日本帝国を滅ぼした!

アッツ島の玉砕(降伏者ゼロ、全員戦死)

 アッツ島は、アリューシャン列島の西端に位置し、北海道の知床岬から約2,200キロである。
北海道-沖縄間の距離に相当する。島の広さは、東西約56キロ、南北約24キロである。
海岸の95%は岩壁で、平地はツンドラの湿地帯である。気候は年間を通して霧が深い。
人はほとんど住んでいない。この島は米国の領土。

 日本がアッツ島とその隣りにあるキスカ島に部隊を駐留させることにしたのは、1942年
4月18日に、米軍のドウリットル航空隊によって東京爆撃が行われたためである。
両島から、日本本土爆撃機が出撃し、日本本土空爆が頻発すれば、国民の士気に影響する
と懸念されたためである。

 旧大日本帝国陸海軍は、1942年6月-7月、アッツ、キスカの両島を占領した。当初は、
航空基地の建設を考えたが、アッツ島は各種の自然条件が悪く、一旦、あきらめた。
しかし、その後、米軍の軍事基地がキスカ島の西方にあるようだとの情報が入ったので、
再びアッツ島で航空基地建設を行うことになった。

 1942年10月、この二つ島を守るために、北海守備部隊が新しく編成された。
部隊長は山崎保代大佐であった。この北海守備部隊の中のアッツ島守備部隊は、独立歩兵
303大隊、北千島要塞歩兵隊などのほか、高射砲、工兵、無線などの隊等、総勢2,500人で
構成された。

 アッツ島守備部隊は、資材の輪送が思うように行かない中で、航空基地の建設にあたった。
米軍の上陸・攻撃は予想しておらず、防御陣地の構築は行われなかった。

 米軍は、アリューシャン列島のひとつアムチトカ島に軍事基地を建設した。1943年に入って
からは、アッツ、キスカ両島へ資材・食糧を運ぶ日本の輸送船を狙い撃ちするようになった。
日本軍の制空権、制海権は、次第に失われていった。

 アッツ島への米軍の上陸攻撃は、1943年5月12日から始まった。アッツ島守備部隊の
山崎部隊長から、「5月12日未明、米空軍の猛烈なる爆撃が開始された。次いで、約1個師団の
地上部隊が上陸した。アッツ島守備部隊は既設陣地に拠り、この敵を反撃中」との電報が入る。

 米軍はアッツ島を奪取してアッツ島守備部隊が建設中の航空基地を奪い、自らの基地に
しようと考えたのである。北方の孤島とはいえ、アッツ島は米国の領土である以上、日本軍を
居座らせておくわけにはいかないとの面子(メンツ)もあって、なんとしても、この島を奪還する
との強い意思があった。



 米軍上陸から19日目の5月29日、山崎部隊長は、北方軍の樋ロ季一郎司令官に宛てて、
「思い残す事はない。現時点で使用し得る兵力は150名。一団となって、全員残らず討ち死する
決意である。私共は永遠の生命に安住する。祖国の栄光を祈る。天皇陛下万歳」との最後の
通信を送った。アッツ島守備部隊玉砕(全員戦死、降伏者ゼロ)を伝える電報であった。

 アッツ島に上陸した米軍は、船団29隻、完全装備の兵士数約15,000人という戦力であった。
兵士数が1,500人のアッツ島守備部隊が対抗できるわけがなかった。それが19日間も持ち堪えた
のは、夜戦に持ち込んだことと、最後の一兵まで戦えとの大本営の命令があったからである。

 米軍の『公刊アメリカ軍戦史』に米軍の中隊長の証言がある。
証言の中に描かれている日本軍兵士たちの最後の姿はいたましい。

「霧の中から300~400名が一団となって近づいてくる。先頭に立っているのが山崎部隊長だろう。
右手に日本刀、左手に日の丸を持っている。どの兵隊も、どの兵隊も、ボロボロの服をまとい、
青ざめた凄まじい形相をしている。銃のない者は短剣を握っている。最後の突撃というのに、皆、
どこか負傷しているのだろう、足を引きずり、膝をするように、ゆっくりと近ずいて来る。

 われわれ米国兵は身の毛がよだった。わが一弾が命中したのか先頭の部隊長がバッタリ倒れた。
しかし、しばらくすると、むっくり起きあがり、また倒れる。また起きあがり、一尺、一寸と、這うように
米軍に迫ってきた。」

 玉砕(全員戦死、降伏者ゼロ)の最後は、このような鬼気迫るいたましい姿だった。


 北方軍の樋口司令官は、山崎部隊長に、米軍が上陸してきたら、すぐに、増援部隊を送ると
約束していた。実際、米軍が上陸したとき、樋口司令官は、逆上陸を企図して、旭川の第7師団の
一部で、増援部隊を編成し、大本営に、この部隊をただちにアッツ島へ派遣したいと申し出た。

 しかし、大本営の秦彦三郎参謀次長は札幌を訪れ、樋口司令官に対して、「残存の海軍艦艇の
現状からみて、増援部隊をアッツ島派遣することは無理。到底できない」と説明した。

 樋口司令官は、山崎部隊長に、増援部隊派遣は実行不可能と伝えて、
「一死、困難に殉ぜられたし」と打電した。
降伏を認めない以上、これは、【死ね】という宣告であった。

卑怯・非情で無責任極まる大本営作戦参謀たち(戦後、だれも切腹していない!)

 アッツ島守備部隊玉砕(全員戦死、降伏者ゼロ)経緯から次の点が指摘できる。

大本営作戦参謀たちは、明確な戦略がないのに、安易に、アッツ島に兵士たちを送った。
しかも、目的は航空基地建設のため工兵隊が主体であった。(ガダルカナル島の場合もそうであった。)

大本営作戦参謀たちは、米軍の攻撃があった場合は増援部隊を送るとしながら、実際には
制空権も制海権も失い、増援部隊を送ることができなかった。

大本営作戦参謀たちは、増援部隊を送ることができないが、米軍に降伏して捕虜になる
ことは絶対に認めないから、最後の一兵まで戦い、全員戦死せよと、司令官、部隊長、
各隊長に厳命した。これが玉砕(全員戦死、降伏者ゼロ)の実態である。

 なぜ玉砕(全員戦死、降伏者ゼロ)かといえぱ、まさに、「戦陣訓」にある、
捕虜になることは絶対に認めないという強い国家意思を、
兵士たちのみならず、日本国民全員へ徹底するためであった。

万一、仮に、捕虜になって、その後、生きて日本へ帰ってきても、
日本の社会は、捕虜になった者の復帰は絶対に認めない。だから、戦闘で負けたら、
何が何でも、【死ね】というのが戦時中の強い国家意思であつた。
そのくせ、東条英機、嶋田繁太郎などの最高指導者たちと、大本営の作戦参謀たちは、
杉山元、阿南 惟幾、大西瀧治郎など数人以外は、だれも責任をとっての切腹はしなかった。
戦後、平和な日本で、年額800万円以上の超高額の軍人恩給を終生貰い続けた。

 アッツ島玉砕(全員戦死、降伏者ゼロ)は、戦時美談として、国民の士気を鼓舞する話に
すりかえられた。『戦争哲学』の著者であり、戦陣訓制定の陰の功労者であった中柴末純
(総力戦学会会長)は、アッツ島玉砕(全員戦死、降伏者ゼロ)を評して、「生きた戦陣訓が、
まざまざとここにある。この戦陣訓を胸に生かして、アッツ島二千幾百の英魂を死なせては
ならぬ」との談話を発表している。アッツ島守備部隊は、確かに、「戦陣訓の具現者」であった。

 アッツ島守備部隊の玉砕(全員戦死、降伏者ゼロ)は、大本営の作戦参謀たちの無責任に
端を発している。大本営作戦参謀たちは、自分たちの思いこみだけで兵士たちを派遣した。

 そのことに関して、玉砕(全員戦死、降伏者ゼロ)後も、寸分の検討・反省がなかった。
すべての責任は戦場で戦う部隊に押しつけるというのが大本営作戦参謀たちの無責任極まる
図式であった。

 大本営作戦参謀たちは、自分たちの無責任を糊塗するために、「大本営発表」でアッツ島
守備部隊を英雄視する内容を国民に伝えた。

1943年5月30日17時に発表された内容:
 「アッツ島守備部隊は、5月12日以来、極めて困難なる状況下に、寡兵よく優勢なる敵に対し
血戦継続中のところ、5月29日夜、敵主力部隊に対し、最後の鉄槌を下し、皇軍の神髄を
発揮せんと決意し、全力を挙げて壮烈なる攻撃を敢行せり。爾後、通信全く杜絶し、全員、
玉砕せるものと認む。傷病者にして攻撃に参加し得ざるものは、攻撃に先だち、悉く自決せり。」

洗脳教育は、
洗脳する者と洗脳される者の双方の
判断力、思考力、道義心を大きく劣化させ、
国を滅ぼす

アッツ島玉砕後、旧大日本帝国・大本営の作戦参謀たちの玉砕戦術は、
戦況の悪化につれて、増幅され、際限なく続いていった。

アッツ島の玉砕(全員戦死、降伏者ゼロ)に続いて、タラワ、サイパン、
テニアン、ダアム、硫黄島、そして沖縄など、どこでも玉砕戦術がとられた。

戦時中、あたかも、これが日本的な戦いであると称揚された。

旧大日本帝国政府と大本営の、日本国民誑かし政策であった
【玉砕美化称揚】は、現在にいたるまで、厳密に検証・分析されていない。
民間人を巻き込んだ旧大日本帝国陸海軍の無理心中作戦である
玉砕戦術は、明確に、旧大日本帝国・大本営作戦参謀たちの戦争犯罪である。

筆者は、玉砕戦術が続いた状況、すなわち、客観的には、日本が太平洋戦争で
勝利する可能性が100%なくなった状況下においても、
旧大日本帝国陸海軍が米国に降伏することができなかつたのは、彼らが、
あまりにも徹底的な愛国洗脳教育を日本国民に対して行った
必然的結果であると考えている。

昭和天皇の「降伏する」という断固たる決意がなければ、
1945年、日本国も日本民族も、超完全に滅亡していたと思う。

1931年-1645年の日本は、軍隊と同じ様な閉鎖集団であった。

軍隊という閉鎖集団では、心理的にも、肉体的にも、上官に対する屈服や
隷属の度合いが激しい。自立や自律の思想や哲学は、リンチという暴力で
徹底的に排除される。閉鎖集団への心理的、肉体的隷属を受け入れなければ、
集団から肉体的に抹殺されるのである。

玉砕した兵士たちが残した手紙や特攻隊員たちの手記は、両親や、妻子や、
兄弟姉妹たちへの思慕だけでなく、徴兵される前に身につけた自らの価値観を
拠り所として生きて行きたかったとを訴えている。

閉鎖集団とは、非力な個人にとっては、冷酷・非情な存在であることを強く認識
することが、アッツ島玉砕から、我々が学び取らねばならない教訓である。

旧大日本帝国陸海軍の最高指導者たちは、昭和天皇から、統治権・統帥権を
簒奪して、日本国を乗っ取り、日本国民を戦争へと駆り立てた。

しかし、彼らに、一億総特攻とか、国民総玉砕などで、日本国を徹底的に
破滅させる権利、日本民族を徹底的に破滅させる権利がある筈がない。

2012年秋、愛国主義者と自称して、また、日本国民を誑かそうとする
右翼・軍国主義の政治屋が増えている。

くわばら、くわばら!

日本国民の洗脳に狂奔した旧大日本帝国陸軍

昭和天皇を傀儡化し、昭和天皇の意思をことごとく無視しておきながら、
不忠きわまる旧大日本帝国陸軍は、天皇制崇拝、「天皇陛下のために死ね」教育、
神州不滅論、皇軍不敗スローガン、暴支膺懲(ぼうしようちょう)主張
(暴虐な支那=中国を懲らしめる)、「生きて虜囚の辱めを受けるな」洗脳等、
日本国民に対するさまざまな洗脳教育に狂奔した。

「生きて虜囚の辱めを受けるな」洗脳の先頭に立っていた東条英機など、
旧大日本帝国陸海軍の最高指導者たち18人は、
昭和天皇の意思をことごとく無視して、
日中戦争を拡大し、
日独伊三国同盟を締結し、
あまりにも無謀な対米開戦に踏み切り、
筆舌に尽くしがたい
昭和戦争の惨禍を引き起こし、
挙げ句の果て、敗戦した。

しかるに、切腹して無謀な意思決定の責任をとることもなく、
おめおめと米軍に捕らわれて、
東京裁判に引き出され、
「生きて虜囚の辱め受け」、言行不一致、すなわち、
日本の最高指導者として国民に教え込んだことと、
実際に自分たちがやったこととは、
まったく異なることを実証して、恥を全世界に晒した。



【戦陣訓】なるものがあった。
旧大日本帝国陸海軍は、徴兵した召集兵士たちに対して、
「捕虜になることは絶対に認めない」、
万一、捕虜になって、生きて日本に帰ってきても、
日本の社会や家族は、捕虜になったものを絶対に受け入れない。
だから、「降伏して捕虜になるより、いさぎよく死ね」と徹底的に洗脳した。

この洗脳教育が徹底していたカウラ捕虜収容所にいた日本人捕虜たちは、
「日本が勝利して、戦争が終わり、万一、幸運にも、日本に帰国できたとしても、
家族に迷惑をかけ、社会からは迫害されるだろう。
それよりも、いさぎよく死のう」という絶望感から
「死ぬこと」を目的に集団脱走したのである。実に悲惨な事件であった。

現在、中国と韓国が行っている
愛国反日洗脳教育も両国を滅ぼす!!

関連サイト:本土決戦 1億総玉砕-国民を道連れに無理心中!




参考You Tube:ゆきゆきて神軍

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そんな五輪フリースタイル・レスリングが失いつつある”組み伏せる攻防”が生き残るのが 米国カレッジ・レスリングだ。日本で学ぶことができない、失われたレスリングを求め、 一人の日本人がLA近郊メキシコ人街に住む、カレッジ・レスリングの達人の下を訪ねた。
取材・文◎高島学 Photo by IOWA University Special Thanks to Christopher Brewer and Takashi Nakayam

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悲惨で残酷な戦争を美化した戦争神社 靖国神社の正体 長州藩の、長州藩による、長州藩の為の神社である

http://blog.goo.ne.jp/syokunin-2008/e/783b36324655c92a7679e8566a20295a
ホロコースト記念日と従軍慰安婦と靖国神社
2014年01月28日 | 社会・歴史

『国連制定の「ホロコーストの日」の1月27日』

連合国(UN)が勝利した1945年の第二次世界大戦終了から60年後の2005年に、ポーランド南部にあったナチス・ドイツのアウシュビッツ強制収容所がソ連軍によって解放された1月27日を、国連(UN)が国際ホロコースト記念日と定めている。
日本人的な常識では『人の噂も75日』で、何があっても大抵のものは数ヶ月で、長くても数年で忘れられる。
我が国では、どんな重大なミスも犯罪も、解決していても解決していなくても、しばらくたてば『そんなのもあったよねぇ』程度の小さな扱いになり忘れ去られる。
福島第一原発事故発生から2年後の総選挙で、四枚のプレートが重なる世界一の地震多発地帯にある日本列島に54基もの危険な原発をばら撒いたA級戦犯の自民党を大勝させているのですから無茶苦茶。(放射能被害はこれから本格的に始まる)
直接の関係者を除けば、突き詰めれば大抵の人にとって『どうでもいい』ことなので、『過ぎてしまえば みな美しい』と美化されるか『無かった』ことになる。
苦しみがつきまとう『記憶力』よりも、生残る為には『不都合な事実』を無かった事にする『忘却力』こそが精神衛生上は大事なのだ。
『先送り』および『美辞麗句』との合せワザで使われる場合が多い、日本人の最終兵器である『忘却』の力は凄まじい。
日本人にとっては『思い出はすべからく美しい』のである。
ところが、困ったことにグローバルスタンダードは180度逆で、そもそも『忘れない』し醜く禍々しい。
記憶が薄れるどころか、勝手に自己増殖するのである。
残酷でおぞましい過去の記憶が、人々によって繰り返し繰り返し再生産されるのであるから恐ろしい。
そもそも『ホロコースト』という言葉は旧約聖書の中の『神への犠牲』(生け贄)の意味であり以前の歴史では使っていません。
昔に『ホロコースト』は無かったが、世界的には70年以降、日本では80年に入ってから公式の言葉とされた。
全米各地に『ホロコースト』記念館が出来たのも、同じくアメリカの各大学に数千の『ホロコースト』を専門に扱う学部が出来たのも最近の話である。昔から在ったわけでは無い。

『ホロコースト+アルファとしての日本軍従軍慰安婦』

すべての普通の記憶は、時間が経てば必ず薄れる。
よって大概の恨みは時間がたてば段々小さくなっていくが、逆に強まるものも世の中にはある。
前者の例が『ヒロシマ』で、後者の例が、『ホロコースト』なのである。
殆どの日本人にとって第二次世界大戦の最大の悲劇とは『ヒロシマ』であり『アウシュビッツ』であると信じているが、実はそうでは無い。
何時の間にか、現在は第二次世界大戦の悲劇が、『ホロコースト』の悲劇一つに集約されてしまっている。
『ヒロシマとホロコーストを同列に論じるのは、ホロコースト犠牲者に対する二重の侮辱である』 との主張が、今や欧米の一流評論誌に載る事態に陥っています。
ところがヒロシマを抜いてホロコースト一つにすると、誰が考えても第二次世界大戦から太平洋戦争が抜け落ちてしまう重大な欠陥が生まれるのである、
欧米の『ホロコースト史観』を強化する目的で、ホロコースト+アルファとしての日本軍の従軍慰安婦は利用価値があった。
日本軍従軍慰安婦は極一部の研究者の間では昔から『良く知れれていた話』ではあったが、冷戦崩壊の25年ほど前から突然『世界的な大問題』に大変身しているのですから恐ろしい。
左翼護憲派の『欧米の民主主義が強化したから日本の従軍慰安婦にまで関心が集まった』は、あまりにもお人好しすぎる解釈ではないだろうか。
えげつない日本大使館前の少女像など従軍慰安婦は韓国が主役であるかに見えるのは事実ですが、実はアメリカの動きに便乗しているに過ぎない。
最初から日本叩きを目的とした訳ではないかも知れないが、ホロコーストを強化する目的で『日本軍従軍慰安婦』は大いに利用価値がある。
ドイツにとってのホロコーストが、日本の従軍慰安婦であると理解できれば、『自虐史観である』と言い張る歴史修正主義の『新しい歴史教科書を作る会』等のアホ臭い親米右翼の『日本は悪くなかった』との安易な否定は、火に油を注ぐ挑発行為なのである。
冷戦崩壊後に突然大問題となった日本軍の慰安婦問題が、日本にとって重大な結果を招く超危険物であることは、経過を冷静に考えれば誰にもわかる話である。
『従軍慰安婦』の危険性をいち早く察知した第二次世界大戦を知っている後藤田正晴や野中広務等の自民党の知恵者が河野談話や個人補償の基金創設で国難を辛くも逃げ切るのである。
ところが何も知らない阿呆の安倍晋三とかお友達のNHK会長が、折角の必死の努力を靖国参拝や従軍慰安婦の否定で台無しにしているのである。

『長州の戦争神社への参拝行為』

今の世の中では一番権威があると人々に思われているイギリスのBBC放送は、靖国神社を『戦争神社』と世界に向かって報道している。
アメリカ(イギリス)の正義は、『悪い日本』とコインの裏表の関係にあるので、『日本は悪くなかった』と言いたい安倍晋三首相の靖国神社公式参拝や従軍慰安婦否定は、今のように米英中露など連合国に叩かれるのは当然なのです。
靖国参拝は戦没者の慰霊とは無縁の、日本国を危険に晒す愚かな挑発行為なのである。
BBCは戦争神社だが、亀井静香は『靖国神社は長州神社である』といっている。
確かに靖国神社の実体は困ったことに、長州(山口県)の氏神様程度で、日本人が拝む『日本国の神様』としては不適当なのである。
亀井静香は去年8月24日に『靖国神社にもの申す 西郷ら賊軍もお祀りせよ!』と主張している。

『靖国神社は長州だけの神社ではない』
『靖国神社には毎年参拝しているが、それは対外戦争で命を落とされた方への感謝と慰霊の心からだ。
しかし靖国神社そのものには、問題がある。それは参拝の是非やA級戦犯合祀などではなく、もっと根本的なものだ。』
『明治維新以来の日本政治の問題点が、靖国神社の歴史に凝縮されている。』
『そもそも、明治4年に東京招魂社として設立されて以来、靖国神社はお国のために命を落としてきた方々の霊を慰めるための施設だ。』
『お国のために戦った人間に差別などない。』
『しかし実際には、靖国神社には戊辰戦争で賊軍とされた会津藩はじめ奥羽列藩同盟の人々や彰義隊、西南の役を戦った西郷隆盛などは祀られていない。』
『勝てば官軍、負ければ賊軍だが、結果はどうであれ、どちらも国を想う尊皇の心ゆえに戦ったことに変わりはない。』
『大御心に照らせば、敵味方に関係なく、国を想う、尊皇の心を持ち、命を落としていった人々はすべてお祀りするべきだ。』
『結局、靖国神社は明治新政府内の権力闘争をそのまま反映した施設になっている。』『つまり、官軍である長州藩中心の慰霊施設、いわば長州神社というべきものだ。』
『大鳥居を入るとすぐに長州藩の大村益次郎像が立っているが、彼は彰義隊が立てこもった上野の山を睨みつけている。これが長州神社という性格をよく表している。』
『長州閥は天皇陛下を利用し、時に「玉座を胸壁とし詔勅を弾丸と」しつつ、自らの権力を拡大していき、その帰結として先の敗戦があるとも言えるのだ。』

『長州神社を「靖国神社」にしたことが全ての元凶』

亀井静香の『靖国神社には(勝者も敗者も無関係に)会津藩はじめ奥羽列藩同盟、彰義隊、西郷隆盛など国を想い尊皇の心で命を落とした人々は全てお祀りするべきだ』との視点は当然なのである。
露骨な差別を容認するのは神様とは呼べ無い。
ところが現実の靖国神社は『勝者』と『敗者』を厳格に区別して祀っていた特異な『差別神社』なのである。
世界基準とは大違いで、何故か靖国では捕虜となって(戦闘で負けて)死んだ人が祀られていないのですよ。普通の常識ではベトナム戦争で捕虜になったマケイン元共和党大統領候補のように捕虜は『英雄』なのである。
これとは逆に靖国に祀られている軍神の中には幕末の安政の大獄で1859年に処刑された吉田松陰とか、1864年の禁門の変で御所の蛤御門に向かって砲撃したので100%逆賊である久坂玄瑞が入っているが、これは最後に長州が『勝ったから』であるとしか思えない。
靖国神社では、最終的に『勝った』か『負けた』かの基準で選んでいるらしいのである。
ところが、最後の第二次世界大戦では日本は大敗する。
勝敗を基準に『勝っているもの』だけを選んでいたのなら1945年8月15日の敗戦時点ですべては御破産であり、靖国神社そのものを解体するべきだったのでしょう。
日本の内閣総理大臣 (1956年–1957年)だった石橋湛山は戦争神社としての靖国神社の解体を主張していた。
歴代首相で一番見識が高い石橋湛山だけではなく、亀井静香も誤解しているが『東京招魂社として1871年(明治4年)に設立された靖国神社』が勘違いの元。出発点が違っているし、発想も違っている。
もちろん最終的な『結論』部分も違うのである。

『大敗から出発していた靖国神社(桜木招魂場)』

今の靖国神社は戦争に『勝つこと』に価値を見出しているが、出発点では180度逆だった。
実は明治維新の5年前の1863年(文久三年)の下関戦争で英仏蘭米の四国連合艦隊に大敗した長州の奇兵隊戦死者を高杉晋作が祀った桜木招魂場が今の靖国神社の前身なのである。
社殿が出来たのは2年後、第一次長州征伐の負け戦の後ですから、招魂場は『勝者のため』に作られたのではなくて、間違いなく『敗者の為』に作られた。
ところが、その後今まで負け続けていた長州が第二次長州征伐では、9回裏逆転満塁ホームランのような奇跡的な大勝利を手に入れる。
招魂場の目的は『敗者の長州の為』だった。ところが、1866年の長州の逆転大勝利で当初の前提が引っくり返り、『勝者の長州のために』へと180度逆に変更されて仕舞ったのです。
官軍の東征で、奇兵隊用の招魂場を長州から江戸(東京)に移動させて東京招魂社と名前を変えたが、再度1879年(明治12年)に名称を今の靖国神社に変えている。
靖国神社の成り立ちを考えれば、1868年の戊辰戦争の会津藩や1877年の西南の役の西郷隆盛など薩摩藩を厳格に差別していたのは当然だった。
逆に、孝明天皇に向かって大砲をぶっ放した日下玄瑞や、外国船の砲撃など無謀な挑発行為の攘夷を主張した今のネットウョの元祖的な吉田松陰が祭神に選ばれているのも当然であり、何の不思議もなかったのである。
そもそも靖国神社とは、『長州藩の、長州藩による、長州藩の為の神社』だったのである。


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「安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから」は8月15日の靖国神社にこそ相応しい
2014年08月15日 | 政治

『主語が入れ替わっていた、非礼極まる手抜きの安倍晋三のコピペ挨拶』

人類最初のアメリカによるのヒロシマ市への原爆攻撃の8月6日に平和記念式典で読み上げた安倍晋三首相のスピーチが、昨年の『使い回し』のコピペだったので原爆被害者団体などは『厳粛な慰霊碑の前で前年と同じ挨拶をするとは、・・』と怒り心頭。(違いは『68年前』と土砂降りの雨だったので『蝉しぐれうんぬん』を抜いただけ)
今回の8月6日のコピペのスピーチですが、前年の広島市だけではなくて8月9日の長崎市も全部が同じ。(違いは年度と地名だけの徹底した手抜きのコピペ挨拶)
コピペだったのは8月6日、9日原爆犠牲者慰霊式典だけではなく6月23日の沖縄全戦没者追悼式でも同じだったのですから扱いが公平である。スピーチの使い回しでSTAP細胞の小保方博士も真っ青の『コピペの常習犯』だった。
実は第1次政権時代の07年8月6日、9日の広島・長崎でのスピーチも内容は同じだった。同じ手抜きのコピペでも小保方博士とは年季が違っているのですから有る意味では天晴れである。
安倍晋三のコピペの手抜きスピーチですが、これは第二次安倍内閣になって二回目だから横着をして手抜きしている訳ではない。
安倍晋三首相の場合では、手抜きのコピペこそが本質である。第1次政権時代から一貫して過去の戦没者追悼式典で行っていたのである。
ところが『馬鹿の一つ覚え』、腹立たしいコピペの手抜きスピーチの安倍晋三ですが、一見すると発言しているの内容は『同じ』だったが、一番大事な主語が違っていた。
去年のヒロシマではスピーチの主語は『国民』だったのである。
ところが事実上のクーデターである集団自衛権容認の閣議決定の今年は、他は一言一句同じなのに何故か主語の国民から『民』が抜けて『国』に成っていたのですから恐ろしい。
平時なら同じでも、『国民』に対して『国』が死を強制する非常時の戦争では、他の文章が同じでも今までの主語の国民を『国』と言い換えれば、言葉の意味が180度逆になる。

『主語が義務ではない、便利すぎる日本語』

外国映画を吹き替えではなく字幕で鑑賞する唯一の国が日本なのですが、日本語表現ではほとんどの場合に主語を抜くことが暗黙の了解事項になったいる。日本語の小説などを英語などの外国語に翻訳し、もう一度日本語に翻訳すると必ず字数が何割も増えてしまうのです。
日本語は『主語』が無くても会話が成り立っているだけでは無く、『主語』を抜くことで変幻自在、融通無碍の解釈が可能なのです。
よく言われるように恋人同士の日本語会話なら『愛している』だけで良いのだが、英語の場合『I LOVE YOU』と必ず主語の『I』とLOVEの対象物である『YOU』が入る。ラテン語起源のフランス語イタリア語スペイン語や中国語などの他の言語でも同じで、『誰』が『誰』を『愛している』の言葉の主語が会話に必要で有り、無いと会話が大混乱を起こすのである。
ヒロシマの平和公園にある『安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから』の原爆慰霊碑の有名な言葉にも『誰が、誰に対して』がすっぽり抜け落ちているので、そのままでは英語などの主語のある外国語には翻訳出来ないのである。
そもそも『主語が無い』どころか述語さえあやふや。『過ち』の内容ですが『原爆である』とすれば主語は当然投下したアメリカである。(原爆慰霊碑はアメリカに原爆投下の過ちを繰り返させないとの意味になる。)
主語の『誰が』の場合は日本人とか人類全体など色々な解釈がある。
ところが、『誰に対して』なら核兵器を使用した張本人はアメリカに確定していて動かないのである。
(もしも『誰が、誰に』の主語を書き入れると、ヒロシマの原爆慰霊碑が韓国の従軍慰安婦の少女像と同じよな政治的意味を持つ)
ところが日本国は長年『アメリカの核の傘で守られている』(相互確証破壊)を国是としており、日本はいざとなればアメリカの核兵器の使用を容認しているのですよ。
日本の国是から推測すればヒロシマの慰霊碑の主語は日本人(あるいは日本国)であり、『過ち』の意味とは核兵器だけに限定されず広く『戦争』の惨禍であると解釈出来る。
『安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから』の言葉に一番ぴったりの場所はヒロシマの平和公園(原爆慰霊碑)では無くて、特異な戦争神社である『靖国神社』だったのである。

『日本独自の恐ろしい怨霊信仰としての靖国神社の成り立ち』

亀井静香は、靖国神社は明治新政府内の権力闘争をそのまま反映した施設になっている。つまり、官軍である長州藩中心の慰霊施設、いわば長州神社というべきものだ。長州閥は天皇陛下を利用し、時に『玉座を胸壁とし詔勅を弾丸と』しつつ、自らの権力を拡大していき、その帰結として先の敗戦がある。
露骨な差別を容認するのは『神様』とは到底呼べ無いし、そもそも靖国神社とは、戊辰戦争の勝者である『長州藩の、長州藩による、長州藩の為の神社』だったのである。
亀井静香は、『靖国神社には(勝者も敗者も無関係に)会津藩はじめ奥羽列藩同盟、彰義隊、西郷隆盛など国を想い尊皇の心で命を落とした人々は全てお祀りするべきだ』と主張する。
しかし多分これは勘違いでしょう。
歴史的に見れば1879年(明治12年)に戊辰戦争の戦死者を祭った東京招魂社を、現在の『靖国神社』へと名前を変えたというのが、『靖国神社』が認めた公的な成り立ちである。
しかし実は靖国神社には東京招魂社以前の、もっと古い忌まわしい歴史が隠されていた。
明治維新の5年も前の1863年(文久三年)の下関戦争で英仏蘭米の四国連合艦隊に大敗した長州の奇兵隊戦死者を高杉晋作が祀った桜木招魂場が今の靖国神社の前身なのである。
野晒し状態の桜木招魂場の社殿が出来たのは2年後、第一次長州征伐の負け戦の後ですから、招魂場は靖国神社のように『勝者である官軍のため』に作られたものでは無い。
間違いなく、惨めに敗れ去った(恨みを呑んで死んだ)『敗者』の為の施設であり、(死者の呪いや祟りを恐れた)生残ったもの達によって『怨霊鎮め』を目的として作られていた。
日本独自の怨霊信仰では、非業の死をとげた死者の魂は成仏出来ないのである。この世に留まった怨霊は現世を彷徨い続けて人々に祟る恐ろしい『呪い神』となる。
恨みを呑んで死んだ為に祟り神となった菅原道真を天神様として拝むことで、恐ろしい怨霊からの報復を防ぐ訳です。
梅原猛は法隆寺(厩戸皇子などの聖徳太子信仰)も滅亡した蘇我氏系の上宮王家を聖徳太子として祀ったと考察しています。藤原氏が消失していた法隆寺を再興したのは、上之宮王家の怨霊の封じ込めが目的であった。
高杉晋作が桜木招魂場に英仏蘭米の四国連合艦隊に大敗した長州の奇兵隊戦死者を祀った原因とは、まさに日本独自の怨霊信仰だった。
そもそもの出発点が怨霊信仰だった今の靖国神社以上に、『安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから』の言葉が似合う場所は無いのである。




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(大敗から出発していた靖国神社(桜木招魂場)の不思議。今の靖国神社は戦争に『勝つこと』に価値を見出しているが、出発点では180度逆だった。そもそも靖国神社とは、『長州藩の、長州藩による、長州藩の為の神社』だったのである)

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ヒクソングレイシーをダシに使った詐欺師たち その二 東大卒?の詐欺師にして詐欺師満載の武道雑誌 秘伝の常連 高岡英夫

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http://www33.ocn.ne.jp/~shinma/book/book016.html

高岡英夫伝説

高岡英夫プロフィール(高岡英夫 著「極意と人間」より)

 運動科学研究所所長。東京大学卒、同大学院教育学研究科修了。東京外国語大学
講師等を歴任。幼少時より武道・気功・ヨガの鍛錬と狩猟に明け暮れ、
達人の域に到る。
(略)
 夢は「運動科学の普及により、全人類が達人・名人・天才のレベルに到達できる道を
切り拓くこと」と語る

 高岡英夫入門はこちらをクリック

 ある日、高岡が「ジンブレイド」の威力を試すため、全日本スキーデモンストレーター金子氏と
高岡のどちらが速く滑れるか勝負したらしい。結果は「ジンブレイド」を使った高岡の圧勝。
「ジンブレイドを使うや、その滑りは驚異の加速を生み、スピードは逆転し、さらに
距離の20%もの、スキーの世界ではあり得ない大差が付いてしまったのである。」
この時、高岡はスキー歴23日、板も靴も素人用だったという。
 高岡は調子に乗ってこんなことまで語り始める。
「金子選手の名誉のためにハッキリ言っておくべき事は、
その時、ジンブレイドを使って滑る私のスピードには
歴史上存在したいかなるスキーヤーをつれてきても全く歯が立たなかったと考えられる
ことである」

 高岡は若かった頃、「動物を軽く超える素早さだけが本物」と、様々な鍛錬・トレーニング
を行った。その結果、
 ・腕を一振りするや掌の中に5匹のハエを捕らえた
 ・怒り狂うシェパードが飛びかかるよりも早くその背に飛び乗ってしまった
というように、動物を超える素早さを手に入れたのだった。

 以上が1995年「意識のかたち」(講談社)で高岡が語った自慢話である。これが
5年後の2000年「極意と人間」(BABジャパン)を出す頃になると、オカルト度が倍増、
新興宗教のレベルにまで達してしまう。

 「意識のかたち」の頃の高岡は、なぜ映像も残っていない過去の人物、
例えば宮本武蔵のDS図がわかるのか?ということについて、武蔵の肖像画から
DSを見出したと語っていた。
 ところが、いつ頃からか知らないが、高岡は「超越揮観」という方法で
DS図を採図するようになる。
 超越揮観とは、瞑想により・・「人類全体を無意識底でつなぐ」
”通底意識”を通し、特定の人物の身体意識の構造を見るという、とんでもない技である。
思わずオイオイと言いたくなるが、これが高岡英夫という男なのだ。
 この方法で高岡は「モーツアルト」「植芝盛平」「シューマン」さらには
「ゴルゴ13」までDS分析しちゃうのである。麻原の空中浮遊並みの凄さ
といかがわしさである。
 さらに高岡はヒクソン・グレイシーのDS分析を行い、ヒクソンの主要ディレクターの
全てをトレーニング、その機能を試したらしい。すると、
「なるほど、余りにも見事で笑ってしまうほど、ヒクソンそのものの動きが次から次へと
湧き出すように出て・・」(「極意と人間」)きたらしい・・・・。ヒクソンの動きが
出来ると言うのだから一度、彼をPRIDEかK-1、UFC、修斗、パンクラス、新日総合部門のリングに
引っぱり出すべきだ。あるいは西野流呼吸法の手を触れずに相手を投げるオヤジと
戦わせるのも面白いだろう。
 大東流合気柔術の佐川氏と意拳の王氏、両者のDSを同時に体現
して、棒や木刀を振ると空中で「バンッ!!」と爆発音がして、折れて吹き飛んで
しまったとのこと。ユリ・ゲラーや清田くんのスプーン曲げを遙かに超える衝撃だろう。

 有名人の中には、高岡の著作のファンが少なからずいる。その一人が
坂本龍一である。1998年6月、坂本は高岡と私的に会い、対談した。
 坂本の「現存する個人の身体意識が存在することは分かるとしても、
死んでしまった過去の人物、例えばクレオパトラとかの身体意識が何故
分かるのか、それはもはや存在してはいないのではないか。」
という質問に対し、高岡は一言「それは身体意識が超時空間であるからです。」
と答えた。すると坂本はあっさりと「それでしたら良く分かります」
と納得したらしい・・・本当かよ?で高岡は
「やはり世界最高クラスの人物ともなるとディレクト・システムを容易に
理解できる、ということである」と締めくくっている。

(平成16年3月6日)

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