あこう堂さんのブログより 高専柔道には時間いっぱいまで亀で守るという七帝柔道の戦法は存在しない

http://blog.livedoor.jp/akoudou2008/archives/1605790.html

上記リンク先で描かれているのを見て前にも感じたことですが

週刊大衆連載のキムラで木村政彦相手に高専柔道OBの薬師丸が亀で守りきる

という描写は漫画の嘘になる

当時の高専柔道では分け役は存在(これに関しては北の海で超ど級の富野相手に白帯が引き分けるという描写があるので分け役自体は存在したと思われる)しても時間いっぱい亀で守るという試合は無かったんでしょう
仁木先生は高専柔道の試合自体には参加してはいなかったそうですが高専の先輩であるあの平田鼎先生を初めとする高専の先人に高専柔道を叩き込まれたそうですから
高専の試合のお話もよく聞いていたでしょうしまず亀で守りきるという戦法が無かったというのは間違いないでしょうね

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安易に技術の使用禁止に走りどんどん見世物ショーへと変化する柔術界にキーナンコーネリアスが怒りを爆発!













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シャンジ&サウロヒベイロ兄弟がサーファー式潜水トレーニングを実践



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ヒーガンマシャード門下黒帯のぶ焼きさんのヒクソン・グレイシー Podcast 日本語訳

http://cafe.quietwarriors.com/?eid=871454

2014.07.30 Wednesday
ヒクソン・グレイシー Podcast 日本語訳
こんなタイトルの記事だと皆さん、ついに私が3時間以上のPodcastを聞いたのかと思われるかもしれませんが、そんなことは残念ながらありません(笑) 

再三の催促にもかかわらず、「えー、そんな長いのは聞くのめんどくさい」という態度にしびれを切らし、のぶ焼きさんが訳してくれました!! さすがのぶ焼きさん、柔術への愛の深さの違いですかね。ありがとうございます。

ということで、ジョー・ローガンのPodcast、日本語訳(というか説明というか)です。



日本の雑誌や本でも取り上げられた、ジナスティカ・ナチュラルを通して無の境地を体現した話などからトークをはじめ、ヒールフックをありとするのはどう思うのかというエディ・ブラボーの質問に、解剖学的な見地からの危険性を説明しながらも、メタモリスルールやアブダビなどのプロレベルの経験値の高い柔術家にはありにしていいと思う、という的確な返答。

そしてホーウス・グレイシー、カーロス・グレイシーJr.とサンボの試合に参戦した話、ホーウス・グレイシーという、ヒクソンの目標であった彼からタップを取った後も彼を尊敬し、メダルはいかなる時も彼に譲った話、ホーウスがハンググライダーの事故で亡くなった後、グレイシーの代表となる覚悟をした話などで会話は温まる。

●本題である「新組織JJGF」について
今柔術界最大の問題は、柔術の有効性が失われていっているということ、現在のチャンピオンはダブルガード(護身術観点からはありえない競技者双方がお尻をつけた状態)で相手に何もさせないでアドバンテージを狙うなど、護身要素の失われた柔術で、効率よくメダルを取ることの技術や戦略に力を入れているため、白帯や紫帯などのダイナミックな柔術のほうが見てておもしろい。

JJGFでは、実戦や護身術で有効なガードを使うなど、柔術の進化の方向性を提示するためにも、また正しい情報を柔術社会に伝えるためにも、コミュニケーション手段として、世界の柔術道場から全アスリートのデータを集め、グーグルやフェイスブックのようなデーターベースをつくりあげるなど、よいサービスを提供したい。
またこの組織は、決して他の現在ある柔術競技組織と競い合うようなものではなく、世界の競技柔術の統合を目指すのが目的である。
 
柔術を正しい方向に導くため、マスター評議会を設置。マスター評議会は、赤帯、赤黒帯など競技柔術で功績を残した者や、柔術の本流を知る柔術界の重鎮らによって構成される(話のイメージから想像すると、スターウォーズのヨーダを中心としたジュダイの評議会のようなもの) 
柔術界で素行の悪い者を評議にかけ審議もする(←これは他のインタビューにて)


(マスター評議会イメージ、だそうです、笑)

そして気になるJJGFの新しいルールは、アドバンテージの廃止。
このようなハーフポイント、つまりもう少しでポイントとなるようなものを追いかける方向性はおかしいので、ポイントのみ。
ダイナミックな試合展開のためにも、膠着状態に対しては厳しくマイナスポイントを与える。
このようなポイントシステムとは別に、スーパーファイト的なメタモリスルールのようなものを検討中。

グレイシーワールドのルールは、全部は賛成できないとヒクソンは言う。極めれなかったら両者共欠場になるのはフェアではないから、何らかの方法で勝者を決めるべきだと。

それに対し、エディが自分の大会について話す。延長戦などで使われるサドンデスマッチ(先にポイントをとったものが勝利を得る)だと、レスリングの強い者が勝ってしまうので、サッカーのフリーキックのような一人ずつ攻撃する機会が与えられる、例えば一方の者がバックマウントのポジションから時間内に極めを狙い、その後もう一方がバックマウントから極めを狙う、というエディの大会で採用しているルールを、エディがヒクソンに提案。
ルールは、マスター評議会でまだまだ審議の余地があると話しながらも、エディの他のスポーツを研究する姿勢、そしてその才能を評価して、マスター評議会の下の組織図にあたる開発評議会に招聘。もちろんエディはハッピー。

この新組織は、現在のチャンピオンを標準に考えるのではなく、8柔術人口の85%を占める新世代の柔術家(白帯、青帯)に、柔術が本来あるべき方向性を教えられるものを提供したい。

ある柔術の指導員が、護身術を習いたい言う生徒に対し、「それならクラブマガ(イスラエルの軍事目的に開発された護身術)のレッスンを受けろ」と返したという話を聞いたヒクソンは、それは悲しいと言う。
タフだが護身的有効性を失ったテコンドーのようなスポーツ化の道は、柔術に辿ってほしくない。そのためにもアドバンテージのような不完全なポイントを排除し、柔術社会の統合を目指すことにより、他のスポーツのように大きなスポンサーなどが介入し、柔術社会が発展することを望んでいる。

●MMAについて
ヒクソン自身バーリートゥードはしたことあるがMMAはしたことがない。MMAは、まったく違うスポーツであり、必要な要素がまったく違う。ボクシングのようにラウンドがあり、減量なども大きな要素になる。
また現在のMMAは、接戦の場合パンチ一つでも多い方が判定勝ち、というのはどうしてもフェアとは思えない。

ホイス・桜庭戦の再戦については、ヒクソンは「K-1 Dynamaite!! ロサンゼルス」が行われたことをエディに話されるまで知らなかった。もちろん結果も知らずにいた。またUFCで試合をせず日本で試合をすることになった理由であるホリオンとのトラブルなども話す。ホイスがUFCでキモ戦の後に欠場することになったとき、なぜヒクソンがキモと試合をしなかったという質問に対しても、ホリオンサイドとの関係があまりいいものではなかったため、と説明する。

エディのシステムとして有名なラバーガードのように相手をトラップするような戦術は、実はヒクソンやヘンゾが初期のバーリトゥードで多用していたのを目にしてエディが研究したのだが、MMAではどう思いますか?というエディの質問に対しヒクソンは、父であるエリオ・グレイシーが使ったガードのほうがいいが、そのトラップした戦法とエリオのガードを混ぜるのがいいのではないか、と自身の戦闘理論を語る。

●現女性UFC王者のロンダ・ラウジーについて
彼女は選ばれた者であり、今までやってきたものが体に染み付いてる。そんな相手に平均的な技術能力の者が勝てるわけはない、と彼女を賞賛。
(Rondaをポルトガル語発音で「ホンダ」というので、なぜかストリートファイターのエドモンドホンダを想像してしまうのは僕だけでしょうか、笑)


(この画像を入れろとの指示あり、笑。私はまったく知らないのですが・・・)

●青木真也選手について
ブドーチャレンジ(ヒクソン主催の柔術大会)で優勝した青木の跳び十字、跳び三角など、彼の技は正確で極めがよいと賞賛し、メタモリスのクロン戦では彼の得意技を出させない戦法で戦わせたと語る。

●その他
日本の雑誌や書籍で取り上げられた安生洋二の道場破りの話や、高田戦でMMAにグローブを導入することを提案して総合格等技イベントPRIDEでのルール作成の手伝いをしたことなどを話す。
これも書籍などで扱われたルタリブレとの抗争の話、またビデオカメラ担当は当時12歳のハイアン・グレイシーだったことなども語る。
(アメリカでは書籍が出版されなかっため、初めて耳にする情報にアメリカのヒクソン・ファンはすごく興奮みたいです)

安生道場破リ事件のテープを公開してほしいというアメリカのファンに対し、JJGFをもっと宣伝できるようになるのなら、という交換条件をあげるヒクソン。「柔術社会の発展のためにビジネスマンの顔を見せるニュー・ヒクソン」には賛否慮論あると思いますが、元妻のキムのマーケティング手腕で作られた寡黙なサムライ・ヒクソンとはまた違った渋さがありました。

●スポーツで非合法とされてるドラッグについて、
競技能力に関係のないドラッグも含まれてると思うが、筋力増強などのドラッグはフェアではないので、反ドーピングの方向性をとる。

●最後に
ヒクソンは今、クロンのところで週に2回護身術を中心にした柔術を教え、月に一度セミナーをしている。食べるもの、食事、人間関係など、お金で買えないプライスレスなものに重点を置いて生活している。ヒクソンが一番情熱を注いでいる柔術のため、残る人生をJJGFに捧げたい。健康であり、健康的な性欲(聞いてて一瞬耳を疑ったけど、すかさずもエディが失礼のないようにツッコミを入れている 笑)を持てるようなクオリティーのあるライフも持つことが大切だと言う。ギブアップなど存在しない死闘を演じてきたライフだった。グレイシーという家族、伝統で育ってきたヒクソンの中にギブアップ(諦める)という文字はない、と、熱い柔術家ヒクソンのインタビューであるが、ジョー・ローガンとエディ・ブラボーに「また話をしに来るよ」と言いながら、いい雰囲気のなか幕を閉じた。



ということでのぶ焼きさん、こんな長編ありがとうございました!!(ちなみにこんなに訳してもらって言うのもなんですが、「日本語編集 by maria」って書いてもいいかしらん? 原文を公開したい、爆)

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パレスチナ人大虐殺の黒幕 世界を支配し動かす殺人株式会社 イスラエルのアイゼンベルグ一族とカナダのブロンフマン一族  シーグラムの経営一族ブロンフマンはマフィアであり、ブロンフマン一族の殺した人間の数は、イスラエルのアイゼンベルグ一族と並び、「世界最高峰」を競っている。

http://oujyujyu.blog114.fc2.com/blog-entry-389.html

今後100年世界を支配する者はブロンフマン一族
アメリカのマフィアの「故郷」はカナダにあり、その育ての親はブロンフマン一族。
ブロンフマン一族は1898年にルーマニアからカナダへ移住して来た。
後にウクライナのガリツィア地方から膨大な数の難民が亡命を求めた時、ブロンフマンのアルバータ州だけが難民を受け入れる事になる。こうしてカナダのアルバータ州がウクライナ・マフィア=ロシアン・マフィアの拠点となる。
近年、ロックフェラーの権勢が衰え、ロシアン・マフィア、ロスチャイルド等の勢力が、米国政界でも強くなり、ロックフェラー「のみが支配者ではない」権力分散化が起こっている。
アルバータ州は世界最大のオイル・サンド(原油を含む砂)生産地でもあり、エネルギー産業が発達した地域でもある。アルバータ州単独でのオイル・サンドの埋蔵量は、原油換算で2007年現在の「世界全体の原油埋蔵量」を上回る。今後、世界の石油大国はロシアでもサウジアラビアでもなく、アルバータ=ウクライナ・マフィアとなる。
原油代替としてのオイルサンド
イルサンド[1] (Oil sand、油砂(ゆさ)[2])あるいはタールサンド(Tar sands)とは、極めて粘性の高い鉱物油分を含む砂岩のこと。原油を含んだ砂岩が地表に露出、もしくは地表付近で地下水などと反応し、揮発成分を失ったものと考えられている。色は黒ずみ、石油臭を放つことが特徴。油分が石炭を乾留した時に出るコールタールに似ていることから、始めタールサンドと呼ばれたが、実際の成分は石油精製から得られるアスファルトに近い。
母岩が砂岩ではなく頁岩の場合にはオイルシェール (Oil Shale) と呼ばれる。
世界中に埋蔵されているオイルサンド、オイルシェールから得られる重質原油は約4兆バレルで通常原油の2倍以上と推定されており、石油燃料代替資源として注目を浴びている。オイルサンドから1バレルの重質原油を得るためには、数トンの砂岩を採掘し、油分(ビチューメン)を抽出する必要があり、大量の廃棄土砂(産業廃棄物)が発生する。従来の原油と比較して生産コストが高く、さらに廃棄土砂の処理に多額の費用がかかるため、長い間不採算の資源として放置されていた。かつて第2次世界大戦中、石油資源の枯渇した日本軍部が満州のオイルサンド採掘に取り組んだこともあり、1970年代のオイルショックの際には日本の国家プロジェクトとしてオイルシェール生産プラント実験が行われた[3]。カナダ・アルバータ州では現在の油価高騰が起こる数十年前より大規模な露天掘りが行われ、カナダ原油生産の相当部分を占めるようになった。一方、ベネズエラでは地下に埋蔵があるため通常原油のように坑井を通して採掘される。




オルタナティブ通信より転用

今後100年世界を支配する者
 1920年代のアメリカ、禁酒法の時代はマフィアの全盛期であった。有名なマフィア、アル・カポネは、この時代カナダからのウィスキー密輸で富を成し、全米に権力を振るった。

 そのカポネにウィスキーを提供していたのが、カナディアン・ウィスキーの最大手メーカー、シーグラム社であり、その経営者がカナディアン・マフィアのブロンフマン一族であった(注1)。

 ケネディ大統領の父も、後にFBI長官になるエドガー・フーバーも、ブロンフマンの部下としてカポネにウィスキーを運搬し、一族の代表が政治家として出世する資金を形成した。

 アメリカのマフィア、そしてアメリカの政治権力者の「故郷」はまさにカナダにあり、その育ての親はブロンフマン一族であった。

 カポネにウィスキーを提供していたエドガー・ブロンフマンの妻アン・ローブは、日露戦争資金を日本に貸付けた銀行クーン・ローブの経営者の娘であった。この銀行が2007年現在、日本の郵便局を「乗っ取った」リーマン銀行=ゴールドマン・サックスとなる。この銀行は、ブッシュ大統領一族により経営されている(拙稿「郵便局=北朝鮮」を参照)。

 エドガーの子息には、ミンダ・ブロンフマンのようにオーストリア貴族アレイン・ド・ギンズブルク男爵、つまり穀物商社ドレフュスの経営者と結婚した者が居る。

 また、フィリス・ブロンフマンのようにランベール銀行経営者の娘ジーン・ランベールと結婚した者が居た。後にイスラエル建国資金を提供するCNN・TV、米国NO.1のメディア企業AOLタイム・ワーナー・ランベールの経営銀行ランベールである。

 ブロンフマン一族は、カナダの穀物地帯アルバータ州のモルト・ウィスキー用の大麦農場を、この武器密輸商でもある穀物商社ドレフュス社の支援の下、次々に乗っ取り、ウィスキー帝国を作り上げて行く。もちろん乗っ取り資金はブッシュ一族のリーマン銀行から融資を受ける事になる。

 ブロンフマン一族のウィスキー帝国は、アルバータ州の穀物支配によって形成され、ADM(アーチャー・ダニエルズ・ミッドランド)=ドレフュスがその戦略を練り上げていた。

 また、米国内では鉄道王であるブッシュ一族に見習い、ブロンフマンは穀物輸送用のグレートノーザン鉄道を乗っ取り、さらに石炭、鉄鉱石、核兵器原料のウラン鉱山をカナダで開発する資源企業ブラスキャンを創立する。資金はブッシュ大統領一族とランベール一族=イスラエルから来ていた。

 ブロンフマンのウィスキー製造技術は、後に親戚でもある穀物商社ドレフュスが米国内でADMと名前を変え、エタノール生産を開始する技術の基礎を作り上げる。


 1898年にルーマニアからカナダへ移住して来たブロンフマン一族は、故郷ルーマニアが共産主義国になりソ連の支配下に入った事に激しい怒りを持ち、後にウクライナ独立運動がソ連により弾圧され、ウクライナのガリツィア地方から膨大な数の難民が亡命を求めた時、世界中が難民受け入れを拒否する中、ブロンフマンのアルバータ州だけが難民を受け入れる事になる。こうしてカナダのアルバータ州がウクライナ・マフィアの故郷となる(注2)。

 アルバータ州は世界最大のオイル・サンド(原油を含む砂)生産地でもあり、エネルギー産業が発達した地域でもある。アルバータ州単独でのオイル・サンドの埋蔵量は、原油換算で2007年現在の「世界全体の原油埋蔵量」を上回る。今後、世界の石油大国はロシアでもサウジアラビアでもなく、アルバータ=ウクライナ・マフィアとなる。

 本原稿記事の目的は、今後100年以上に渡り世界の支配者になり、世界のエネルギー支配者になるアルバータの権力者の出自を明らかにする事にある。

 穀物商社ドレフュス、カナディアン・ウィスキー=エタノールエネルギー産業、核兵器産業、マフィア。これ等ブロンフマンの「資産」の全てが、ソ連=ロシアの穀物、原油、天然ガス、核兵器を密売するウクライナ・マフィア形成へと引き継がれて行く。

 また、米国にウィスキーを密売して来たブロンフマンの部下のマフィア達は、後に創立されるCIAの実働部隊として雇用され、ブッシュ大統領一族を影から支える事になる。

 ブロンフマンの親戚となったランベール一族は、後にイスラエルを建国し、アラブ諸国を威嚇する核兵器ミサイル企業アイゼンベルグ等の創立に関与して行くが、このイスラエルの核兵器ミサイル産業で営業・開発を担当していたリチャード・パールという男が、2007年現在のイラク戦争の計画をブッシュ大統領の国防政策会議議長として策定する事になる。

 ソ連=ロシアの石油、穀物、核兵器、麻薬を密売した利益をロシアン・マフィアが自由にイスラエルに持ち出せるようにしたジャクソン・バーニック法は、このパールとブロンフマン一族が作成する事になる(注3)。

 バーニック法により、ウクライナ=ロシアの穀物、原油、天然ガス、核兵器等の「資産」は、イスラエルの支配下に置かれた。それをコントロールしていたのは、カナダの穀物、エネルギー、核兵器マフィア、ブロンフマンであった。このカナダを拠点にしたドレフュス、カーギル(世界最大、石油王ロックフェラーが経営)等が米国の穀物、エネルギー、核兵器を支配下に置く事になる。


チベット問題の本質・・・金で殺人を請負うマフィアと中国政府の一体化



ペットボトル入りの水として世界最大手のボルヴィック。メーカーはヨーグルト等で有名なフランスのダノン社。その世界規模での流通を担うのが、イスラエルを本拠地としたシーグラム社。

元々、ウィスキーで有名なシーグラム社は、ウィスキーの水割り用にボルヴィックを流通させて来た。日本ではシーグラムと提携したキリン・シーグラム社=現在は改名し、キリン・ディスティラーズ社が水=ボルヴィックを流通させている。

このシーグラム社は、カナダでハドソン・ベイ鉱業等のウラン採掘を行う、世界有数の核兵器原料メーカー。核兵器による人類滅亡の危機は、シーグラム社がウランを売り、金儲けするために生み出されて来た。


世界最大の火薬メーカー=デュポン社が火薬の生産を止めれば、世界中で戦争がストップし戦争で死ぬ人間が居なくなるが、デュポンは火薬の生産を金儲けのために続けている。このデュポンの最大株主として、経営を担っているのがシーグラム社である。

イスラエルでパレスチナ人の殺害を止めようとしないテロ組織イルグンの活動資金は、シーグラム社から出ている。

シーグラムの経営一族ブロンフマンはマフィアであり、ブロンフマン一族の殺した人間の数は、イスラエルのアイゼンベルグ一族と並び、「世界最高峰」を競っている。

金で殺人を請け負う殺人専門マフィアの2大組織が、イスラエルのアイゼンベルグ一族とイスラエル=カナダのブロンフマン一族である。


ブロンフマン一族は、初代からベルギー貴族ランベール一族と血縁関係にある。世界最大のメディア企業AOL・タイムワーナー・ランベールの経営一族である(現在AOLだけ分離状態にある)。ブッシュ大統領の銀行リーマン・ブラザースと一体化し、ランベールはCNN・TVを経営している。ランベール=リーマンから、ライブドア堀江は資金提供を受けていた。

EUの設立当初の本部は、ブリュッセルのランベール銀行の重役室に置かれていた。EUを「誰が作ったか」を、それは明確に示している。


ブロンフマンのマフィア帝国は、メディア面ではカナダの企業コングロマリット=ブラスキャンという形を取っている。

現在、日本に上陸している世界最強の「乗っ取り屋」ブラックストーン・グループは、このブラスキャンの末端企業である。

ブラックストーンの共同経営者が、中国政府である。つまり「金で殺人を請け負うイスラエル・マフィア」と、中国政府が一体化している。

http://inri.client.jp/hexagon/floorA4F_ha/a4fhc300.html#top

暗黒街のユダヤ紳士たち


~ ユダヤ・ギャングの実態 ~

 

 

第1章
初期のユダヤ・ギャング
第2章
「禁酒法」と
ギャングのシンジケート化
第3章
マイヤー・ランスキー
第4章
「全米犯罪シンジケート(NCS)」
第5章
「シンジケート合法化計画」と「ADL」
第6章
エドガー・ブロンフマン
第7章
全米を震撼させた
「ADL」の不法スパイ事件

↑読みたい「章」をクリックすればスライド移動します

 

 

 

■■第1章:初期のユダヤ・ギャング


●ギャング映画は西部劇と並んでハリウッド制作映画の二大ジャンルである。日本のヤクザ映画が単なる犯罪映画でないように、ギャング映画も単なる犯罪映画ではない。成功の段階を登りつめて最後に悲劇的な死を遂げるのが、ギャング映画のヒーローの典型的な運命である。

ユダヤ・ギャングを描いた映画としては、1984年に制作された名作『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』(ロバート・デ・ニーロ主演)が有名である。ニューヨークの貧民街に育ったユダヤ移民の少年たちがギャングになり、その後崩壊していくまでの40年にわたる壮大なストーリーを描いている。

 


『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』

(1984年制作/ロバート・デ・ニーロ主演)

ニューヨークのユダヤ・ギャングの友情、愛、
裏切りを描いた一大叙事詩的大作

 

●こうしたユダヤ・ギャングは、架空の存在ではなく、実際に数多く存在した。

1907年のことだが、ニューヨーク市警察のシオドア・ビンガム長官は、2000枚の犯罪者カードの顔写真を見せて、そのうちの1200人はロシア系ユダヤ人移民だと断言した。翌1908年には、1冊の公的報告書を出し、その中でニューヨークに台頭してきたユダヤやイタリア、それにアイルランドの犯罪シンジケートについて詳しく報告するとともに、ニューヨークの押込み、かっぱらい、売春婦のヒモの50%は、やはりロシア系ユダヤ人だと主張した。実際、1907年にニューヨークで有罪判決を受けた2848人の犯罪者のうち、ユダヤ人は460人もいた。


●ビンガム長官と、彼の右腕のペトロシーノ警部補は、ニューヨークにおける犯罪者の地下活動を厳しく取り締まり、それなりの成功を収めた。悪名高いイタリア人マフィア、アル・カポネの叔父、ジョニー・トリオは、ニューヨーク市警察から絶えず圧力をかけられ、その結果ニューヨークからシカゴへ追いやられてしまった。

しかし、ビンガム長官は、ユダヤ人の組織「ADL(ユダヤ名誉毀損防止連盟)」から「ユダヤ人を中傷した」という理由で攻撃を受けるようになる。「ADL」はビンガムを反ユダヤ主義者呼ばわりする運動を繰り広げ、ビンガムはニューヨーク市警察長官の地位を追われてしまった。この結果、イタリア人およびユダヤ人双方のギャングの活動は隆盛を極めることになった。

 


「ADL」のシンボルマーク

 

●このように、アメリカの組織犯罪“業界”では、イタリア人マフィアと並んで、ユダヤ人が大きな役割を果たしていたのである。

古くはマー・マンデルバウム(マンデルバウムおばちゃん)というドイツ生まれのユダヤ人女性が有名だった。彼女は、ニューヨークのクリントン街79番地で、数十年にわたってアメリカ最大の故買屋(盗品専門のディーラー)を営んでいた。配下の泥棒や強盗は100人以上もいて、盗品売買業の網はフランスにまで広がっていた。ワイロ漬けにした警察と、ニューヨーク組織犯罪史上その名も高い民主党組織「タマニー・ホール」の庇護を受け、あらゆる法の抜け穴に通じた弁護団をかかえて、商売は繁盛した。マンデルバウムおばちゃんがカナダに逃げ出したのは、1884年のことだった。

 

  
(左&中央)20世紀初頭のニューヨーク市「ロワー・イーストサイド地区」
の風景。この地区に東欧系のユダヤ移民の多くが住んでいた。
(右)同じくニューヨークのユダヤ移民たち(1905年)

貧困、過労、貧弱な食事に加えて、過密で不潔な住居、
新鮮な空気と日光の不足など、ここには病気を蔓延させる
あらゆる条件が揃っていた。最も恐れられたのは結核だった。
それは「ユダヤ病」とか「仕立て屋病」として知られるようになり、
1906年の「ロワー・イーストサイド地区」のユダヤ人の1000人中
12人が結核におかされていた。(病人の90%は家で看病されて
おり、貧しい人々はなかなか病院に行こうとはしなかった)。

 

●20世紀に入ると、ニューヨークのユダヤ・ギャングはますます力をつけるようになる。

腕も組織も行き届いたアメリカ第一のスリ団の親分がエイブ・グリーンタールという名のユダヤ人なら、やはりユダヤ人のロジー・ハーツが経営する売春宿に、船から下りたばかりの移民の娘を連れこんで、アメリカでの初仕事をやらせるのもユダヤ・ギャングの一団だった。

ニューヨークのさまざまな客商売からゆすり取る“保険金”もユダヤ・ギャングの大きな収入源だった。とくに、あやしげな商売をやっている者が“保険金”の支払いを拒否すると、きまって警察の手入れを受けた。


●1912年に起こったユダヤ人の賭博場経営者ハーマン・ローゼンソール殺害事件で、この警察とユダヤ・ギャングの癒着が暴露されたとき、ラビ(ユダヤ教指導者)のユダ・マグネスを長とする「ユダヤ人自警団」が組織された。

ユダヤ人の悪行に心を痛めていたドイツ系ユダヤ人ヤコブ・シフと、当選したばかりでまだ腐敗していなかったニューヨーク市長ゲイナーの支援を受けて、「ユダヤ人自警団」は、暗黒街の魔窟を閉鎖したり、何人かのユダヤ・ギャングを逮捕したりした。

(この「ユダヤ人自警団」に逮捕されたユダヤ・ギャングの一人、ヨゼフ・「ヨスキー」・トブリンスキーは、過去に“保険金”支払いを怠った馬車業者の馬290頭に、毒を食わせたという経歴の持ち主だった)。

 


アメリカ・ユダヤ人の中心的存在だった
ドイツ系ユダヤ人のヤコブ・シフ

東欧ユダヤ人の出現によって
在米ユダヤ人の評判が落ちる
ことを心配し、様々な対策を練った

 

●だが、この「ユダヤ人自警団」の活動は焼け石に水だった。

ユダヤ・ギャングはアメリカ暗黒街の一角に隠然たる勢力を保持し続ける。1897年に小商人の息子として生まれたユダヤ人、レプケ・ブックホルターの主な稼ぎ場所は「労働争議」だった。配下のガンマンたちは、資本家のためにスト破り、労働組合のために機械の打ち壊しをやっては、双方から報酬をせしめた。

(1939年に殺人のかどで電気椅子に座ったとき、レプケ・ブックホルターの年間収入は1000万ドルに達していた)。

 

 

●ユダヤ移民史に詳しいある研究家は、次のように述べている。

「移民社会では単身男性が多く、また貧しい女性が多かったので、売春が広がっていた。ユダヤ人売春婦が他の民族集団に比べて比率的に多かったわけではないとしても、隣接して住むイタリア系に比べると多かった。ユダヤ人のイーディッシュ語新聞は『妻、娘、あるいは許婚(いいなずけ)と一緒に歩くならば、アレン街、クリスティ街、フォーサイス街は避けたほうがよい』と読者に警告した。」

「当時、『白人奴隷取引(ホワイト・スレイヴリー)』が大きな問題となっていた。その業者の過半数がユダヤ人であり、その中心はニューヨークであった。結婚の約束を信じて東ヨーロッパからだまされて連れてこられ、到着するとすぐに売春宿に連れ込まれた。英語を話せないので、助けを求められず、『囚人』となり、結局は売春婦になるといった事例があったのである。」

「マイケル・ゴードンの『金のないユダヤ人』には、生きるために売春をやらねばならなくなった東欧系ユダヤ人女性の例が出てくる。 〈中略〉 悲劇を生んだのは、売春だけではなかった。1905年、モーリス・フィッシュバーグは、東欧系のユダヤ人の間では稀だった自殺がニューヨークで増加しつつあり、『きわめてしばしばユダヤ人の自殺を聞いた』と報告している。多くの者が逆境に圧倒されて死を選び、『ガス自殺』という言葉がイーディッシュ語新聞のありふれた見出しになったという。」

「アメリカ化して移民世代の抑制心を失った第二世代の中から多くの犯罪分子が生まれた。ユダヤ人ギャングたちは、イーストサイドを震えあがらせた。ギャングは同地域の暗黒街から『貢ぎ物』を要求した。泥棒、賭博師、売春宿の経営者から利益の分け前を徴収しただけでなく、商店主からも『保護金』を要求した。食堂を開こうとすると、ギャングに『みかじめ料』を支払わねばならないことがあったし、行商人は手押車で営業する権利に対して1ヶ月あたり1~2ドルの割前金を強制されたりした。またストライキが起こるとギャングはスト破りの暴漢を派遣して企業から金をまきあげた。」

「映画『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』はユダヤ系二世ギャングの世界を描いたものである。荒唐無稽な点も多いが、主人公たちが『ガキ』だったころのロワー・イーストサイドの描写は秀逸である。 〈中略〉 ロワー・イーストサイドは、いつも市内の犯罪分子をその周辺にひきつけてきたのであり、ユダヤ人はその『犠牲者』であった。ユダヤ人は偏見や差別の対象となり、『ユダヤ人いじめ』は日常茶飯事だった。

他の民族集団によるユダヤ人攻撃に反撃した者たちの一つが、ユダヤ人ギャングだったのである。 〈中略〉 アメリカでのユダヤ人迫害に対して、ユダヤ人たちは結束し、『ブナイ・ブリス』 『アメリカ・ユダヤ人委員会』 『アメリカ・ユダヤ人会議』などの組織を作っていった。」

 

 

 

■■第2章:「禁酒法」とギャングのシンジケート化


●1919年6月30日に制定された「禁酒法」により、5%以上のアルコールを含む飲料は、製造・輸入・販売が禁止された。この法律で、アメリカ人は飲酒の楽しみを奪われることになる。しかし、長年の習慣を簡単に変えられず、密造酒がはびこることになり、ギャングたちは密造酒で大もうけをした。「禁酒法」ができてからというものの、ギャングたちの事業はまさに全盛を極めるに至った。

この時期の大きな特徴は、ギャングのシンジケート化である。有力なボスの下に組織が作られ、縄張りが協定ないしギャング間の抗争の結果定められ、ギャング間の連合が形成されて一種のカルテル化が行なわれた。ギャングのボスたちは定期的に集まって、仲間に有利なカルテル化の戦略を練った。こうして全国的な「犯罪シンジケート」ができ上がっていった。


●この時代のギャングは一般に、アル・カポネやラッキー・ルチアーノ、ジョニー・トリオといったイタリア系マフィアが有名であるが、禁酒法時代の組織犯罪はユダヤ・ギャングによっても支配されていた。





●公正な歴史家、論評家として有名なポール・ジョンソンは著書『ユダヤ人の歴史』の中で次のように書いている。

「ニューヨークでユダヤ人犯罪者は一般的なユダヤ型犯罪の他に、保護料のゆすり、放火、競争馬に毒を盛る犯罪に集中した。ここでもユダヤ人社会は矯正学校を含む犯罪防止運動でこれに応えた。このような努力は三流のユダヤ人犯罪に対しては非常に効果的であった。実際、禁酒法がなければ、1920年代末までにユダヤ人犯罪組織は小グループになっていたであろう。しかし禁酒法がアルコールの違法取引を合理化し組織化する機会をずる賢いユダヤ人に提供したため、彼らはその誘惑に抵抗することはできなかった。

ユダヤ社会学の権威であったアルトゥル・ルピンが書いているように、『キリスト教徒はその手で犯罪を犯すが、ユダヤ人は頭脳を使う』のである。」

 

 

 

 

■■第3章:マイヤー・ランスキー


●ユダヤ・ギャングの中で最も有名なのがマイヤー・ランスキーである。

彼は1902年にベラルーシ(白ロシア)のグロドノで生まれ、本名をスホフラニスキーといった。彼が両親に連れられてアメリカに渡ってきたのは1911年のことだった。

 


ユダヤ・ギャングの中で最も有名な
マイヤー・ランスキー

 

●ランスキー自身は、アーノルド・ロススタインというユダヤ人の賭博王の支援を受けていた。アーノルド・ロススタインは、ニューヨークに登場した最初の犯罪ボスである。彼はデイモン・ラニャンの小説で「頭目」として描かれ、スコット・フィッツジェラルドの『華麗なるギャツビー』で登場人物のモデルになった。

このアーノルド・ロススタインが1928年に暗殺されると、マイヤー・ランスキーは押しも押されもせぬシンジケート・ボスの地位に就いた。

 


ユダヤ人賭博王
アーノルド・ロススタイン

 

●ランスキーは、少年時代からの友人ラッキー・ルチアーノ(イタリア・マフィアの大ボスで、本名はサルヴァトーレ・ルカーニア)と組んで、「殺人会社(Murder Inc.)」すなわち銃を使う名うての殺し屋集団をつくり、それによって北米のすべての都市に、密売酒と麻薬の流通ルートを支配する全国的犯罪連合をつくっていった。

 


イタリア・マフィアの大ボス
ラッキー・ルチアーノ

 

●マイヤー・ランスキーのほかにも、大物ユダヤ・ギャングがアメリカとカナダに現れた。

こうしたギャングの中でも特筆すべき存在が、カナダにおけるサム・ブロンフマン率いる「ブロンフマン・ギャング」と、アル・カポネの帳簿係と会計をしていたジェイコブ・グツィク(別名グリージー・サム)である。

また、クリーブランド、デトロイト、シカゴの五大湖周辺に根を張ったサミュエル・コーエン(別名サミー・パープル)やモリス・ダリッツ、それにマックス・フィッシャー率いる悪名高い「パープル・ギャング」、ニュージャージーからボストンへの酒と麻薬の流通路を支配した「ジョセフ・レインフェルド・シンジケート」といった集団である。

 

 
(左)ユダヤ人サミュエル・コーエン (右)ユダヤ・ギャング団「パープル・ギャング」

 

●マイヤー・ランスキーと親しいユダヤ・ギャングの殺し屋べンジャミン・シーゲル(別名バグジー)は、禁酒法時代にウイスキーの密売と麻薬で稼いだ資金を基にネバダの砂漠の中にギャンブル王国を築いた。組織犯罪全盛期に儲けた資金のその他の部分は、ハリウッドの映画制作会社に注ぎ込まれた。

べンジャミン・シーゲルは、ラスベガスをつくったユダヤ人として、アメリカ犯罪史および文化史に名を残すことになった。(後にシーゲルはランスキーによって「排除」され、ランスキーがラスベガスのボスになる/1947年6月。シーゲルの遺体はハリウッド共同墓地に埋葬された)。

ちなみに、彼の生涯は1991年に映画化されている。

 

 
(左)ユダヤの殺し屋ベンジャミン・シーゲル(別名バグジー)
(右)彼がつくったラスベガス(ホテル「ザ・フラミンゴ」)


 
1947年6月20日、べンジャミン・シーゲルは愛人の
邸宅に居るところをヒットマンに銃撃されて殺された



『バグジー』(1991年制作)

(ウォーレン・ビーティー主演)

何もなかったネバダの砂漠に、ネオン輝く
ラスベガスを作った実在の人物、ベンジャミン・シーゲル
(別名バグジー)の半生を描いた作品である

 

●禁酒法時代にあっても、ユダヤ・シンジケートは、イギリスと秘密の特別な関係があったおかげで大いに繁栄した。

カナダやカリブ海にある引き渡し地点までスコッチ・ウイスキーを自由に配送することができる「イギリス酒造評議会」を支配していたのは、ほかならぬウィンストン・チャーチル(後のイギリス首相)その人であった。そして引き渡した地点からはランスキー・シンジケートの所有する船が、極上の酒をアメリカへ運び込んだ。当時の警察の記録は、アメリカの東海岸や五大湖の湖岸線を支配していた「ユダヤ海軍」について言及している。

 


イギリスのウィンストン・チャーチル

 

 

 

■■第4章:「全米犯罪シンジケート(NCS)」


●人種間でバラバラに仕切られていたアメリカのマフィアを統一したのは、ほかでもないユダヤ系であった。それまで「殺し・抗争」だったアメリカのギャングのあり方を、「金・協調」という方向に変えたのである。

ユダヤ・ギャングの大ボス、マイヤー・ランスキーは、その勢いが最も強かった頃、悪名高いシシリー・マフィアを完全に支配していた。このシシリー・マフィアも「全米犯罪シンジケート(NCS)」に加わっていた組織の一つであった。

 


ユダヤ・ギャングの大ボス
マイヤー・ランスキー

 

●「全米犯罪シンジケート(NCS)」は、フランクリン・ルーズベルトのニュー・ディール推進機関で全米の公共事業の監督に当たった「全米復興庁」を範にとり、「合法的」組織犯罪を目指すランスキーの夢に沿ってつくられた組織である。「全米犯罪シンジケート」の地方組織の構成方法は「全米復興庁」のやり方の模倣であり、意志決定は等しくそれぞれの地方組織を代表する「全米委員会」で下された。

「全米委員会」はニューヨーク、ニューオーリンズ、シカゴのような伝統的にギャングの中心地であった主要都市だけではなく、全米のすべての地域社会に組織犯罪を拡めることを目的として組織されていた。また「全米委員会」は、犯罪シンジケートへの法規制強化と国民一般の反感をもたらす可能性があるギャングの抗争を未然に防ぐ自警団組織をつくる狙いをも持っていた。禁酒法時代のシカゴにおける「カポネ戦争」は犯罪シンジケートを著しく弱体化させたが、ランスキーはこのような些細な抗争で自分の大計画が潰れることのないよう心掛けたのである。


●ランスキーは1930年代を通じて、彼のあり余る資金を投入できる新しい市場を獲得するのに忙しかったが、彼の非合法な活動の主たるものは、ありとあらゆる種類のギャンブリングであり、その経営には綿密な計画と自己規制が求められた。

ランスキーはこの仕事を見事にこなし、ボス中のボスと呼ばれた。彼のリーダーシップには狂いがなく、彼はマフィアの頂点に立ち、ギャングの世界における権威となった。ランスキーは、アメリカ最大の犯罪組織「全米犯罪シンジケート」の会長として、50年間もこの組織を運営し続けた。

 


ボス中のボスとして、マフィアの
頂点に立ったマイヤー・ランスキー

 

●1940年7月、アメリカとイギリスの情報部は、いわゆる「暗黒街工作(オぺレーション・アンダーワールド)」を始めた。

この「暗黒街工作」の目的は、シシリー上陸から開始する将来のヨーロッパ攻略に備え、シシリー・マフィアの中でこれはという人物を連合国側に取り込むことであった。この時に、ランスキー、ルチアーノの両人はアメリカ海軍情報局の情報提供員として働いた。

今世紀における麻薬(ヘロイン)交易の復活を助けたのは、この時のアメリカ大統領ルーズベルトとランスキーとの間に交わされた密約だった。ランスキーは、戦争中に東海岸を守り、のちにはフランスの港湾の独占権を社会主義者の手から奪い取ったことと引替えに、ヘロインの密輸を免除されたのである。

また、この取引の一部として、ルチアーノが第二次世界大戦後に釈放された。彼はすぐに、キューバにヘロイン密輸の根拠地を設立する行動に移り、のちにはマイアミのサントス運輸に支配権を移した。

 


第32代アメリカ大統領
フランクリン・ルーズベルト

 

●『ヘロインの政治学』の中で、アルフレッド・マッコイは次のように語っている。

「第二次世界大戦末期、消費者の需要が過去50年間で最低に落ち込み、犯罪シンジケートが混乱を起こしたときに、アメリカは国の重要な社会問題だったヘロインを根絶する絶好の機会をもった。だが、政府はこれら犯罪組織に致命的打撃を加える代わりに、CIAおよびその戦時中の前身OSSを通じ、シシリーとアメリカのマフィア、コルシカの地下組織が国際的麻薬交易を復活させることのできる状況を作り出したのだ。」


●こうして、第二次世界大戦を経てマフィア組織は急速にCIAに接近する。政府もまた、各国との裏面工作にマフィア組織を活用するようになる。

なかでも1952年のキューバ、バチスタ政権の返り咲き劇の主役はランスキーであった。彼はその実績から、キューバにおける利権のほとんど全てを握った。カジノ、売春、ヘロインと、まさにキューバは彼にとって金の成る木そのものであった。





●ところで、「全米犯罪シンジケート」の最高幹部にアブナー・ツビルマンというユダヤ人がいた。

ツビルマンはニュージャージー州アトランティック・シティのボスであり、「全米犯罪シンジケート」の設立時からの一員でハリウッドに多額の投資をしていた。彼はまた、ランスキーとベンジャミン・シーゲルが私的に運営していた「全米犯罪シンジケート」の暗殺部隊である「殺人会社(Murder Inc.)」の当初からの構成員でもあった。この「殺人会社」は、これまで判明しただけでも800件を超える殺人契約が実行されたという。

この「殺人会社」には、「ザ・ジャッジ」として知られ、FBIが「合衆国の最も危険な犯罪者」と呼んだユダヤ人ルイス・レプケ・ブチャルターも所属していた。

 

 
(左)アブナー・ツビルマン (右)ルイス・レプケ・ブチャルター。
 FBIは彼を「合衆国の最も危険な犯罪者」と呼んでいた。

 

●禁酒法時代の間、アブナー・ツビルマンは「ビッグ・セブン」の一員であった。

「ビッグ・セブン」とはランスキーの仲間たちからなる東海岸のグループで、カナダから密輸入した密売酒の配給を取り仕切っていた。この酒はユダヤ人サム・ブロンフマン一味がカナダで製造したものであった。

1935年、ツビルマンは、ブチャルターの指示により、ニュージャージーでのライバルであるユダヤ・ギャングのアービング・ウェクスラー(別名ワキシー・ゴードン)とアーサー・フレゲンハイマー(別名ダッチ・シュルツ)を排除(暗殺)した後、同州のシンジケートすべてのいかがわしい商売を一手に引受けることになった。そしてついにはラスベガスの賭博カジノ、ハリウッドの映画スタジオにまで手を拡げるに至ったのである。(ブチャルターは1944年にシンシン刑務所で殺人罪により処刑された)。


●ツビルマンが病に倒れ、再開された政府の捜査にランスキーがひっかかる恐れが生じたとき、シンジケートの「全米委員会」はこのニュージャージーのボス、ツビルマンの「排除」を決定した。

1959年2月27日、ツビルマンはニュージャージー州ウエスト・オレンジにある部屋数が20室にも上る自分の豪邸の地下で死んでいるのが発見された。地元警察は彼の死を「自殺」と考えたが、実際は他ならぬ彼自身がその設立に手を貸した「殺人会社」によって殺されたのである。





●1960年代に入ると、「全米犯罪シンジケート」はケネディ兄弟によって激しい攻撃を受けるようになる。彼らの妥協のない態度は、ジョン・F・ケネディが言った次の言葉に要約されている。

「遠慮せず、徹底的に調査を続けろ。ここには、1つしか規則はない。もし奴らが悪なら、単に傷つけるというようなことでなく、完璧に殺してしまわねばならない。」

 

 
(左)ジョン・F・ケネディ (右)実弟のロバート・ケネディ

 

●1961年、大統領にジョン・F・ケネディが就任し、司法省長官に弟ロバート・ケネディが就任すると、ケネディ内閣はかつてないほどのスケールで、シンジケート撲滅作戦に乗り出した。ケネディ兄弟は伝統的マフィアの本流、シカゴにまでその手をのばしていった。

この時、ロバート・ケネディはシンジケートに対して大がかりな戦略を練っていた。その大戦略とは、FBI、国税庁、商務省など連邦政府の全機能をフルに動かして、シンジケートの本拠地であるラスベガスを直撃することだった。

1963年の10月には、この大戦略のプランは完成していた。だが、いよいよという時になって、このプランは中止された。敢行直前にケネディ大統領が暗殺されたからである。

 


ジョン・F・ケネディ暗殺の瞬間(1963年11月)

 

●本拠地ラスベガス直撃は中止されたものの、ケネディ兄弟がシンジケートに与えた打撃は大きかった。

ロバート・ケネディが司法長官になってから、司法官の対シンジケート作戦部はそのサイズが4倍に拡大され、起訴対象のリストに挙げられたマフィアの数は2300人にのぼった。


●ロバート・ケネディは著書『正義の追及』の中で、次のような具体的数字を挙げて、アイゼンハワー時代との相違を説明している。

「1963年の前半6ヶ月のうちに、我々は171人のシンジケート・メンバーを起訴に持ち込んだ。3年前の同じ時期には24人だった。1963年全期を通して、我々がかち得た有罪判決は、160件に達した。3年前は35件だった。 〈中略〉 1962年、司法省管轄の検事達が法廷で過した時間は809日、法廷外の調査に費やした時間は7369日にのぼった。2年前の数字は法廷で283日、調査に1963日だった。」


●しかしこのロバート・ケネディも何者かに暗殺された……。

 


ロバート・ケネディも凶弾に倒れ死亡(1968年6月)

 

 

 

■■第5章:「シンジケート合法化計画」と「ADL」


●晩年のマイヤー・ランスキーは、様々な罪に問われて逃げ続けた。1971年にイスラエルへの入国も試みたが成功せず、結局はマイアミ・ビーチに戻り、厳重な護衛付きで一種の隠遁生活を送った。

非合法の活動を60年以上続ける中で、刑務所で過ごしたのは総計3ヶ月半に過ぎなかったというのであるから、いかに彼が法の網をくぐることに巧みであったかが分かる。

 


ユダヤ・ギャングの大ボス、マイヤー・ランスキーの墓

アメリカ最大の犯罪組織「全米犯罪シンジケート」の
会長を、法の網をくぐりながら50年間も務めた

 

●ランスキーは1983年1月15日、4億ドル以上の財産を残して肺ガンで亡くなった。

(彼の生涯は映画化された)。

 


『ランスキー アメリカが最も恐れた男』

(1999年制作/ジョン・マクノートン監督)

ベンジャミン・シーゲル、ラッキー・ルチアーノといった
大物マフィアと共に、巨大シンジケートを築き上げていった
マイヤー・ランスキー。彼の半生を描いた実録アクション。

 

●ところで、マイヤー・ランスキーは大きな夢を持っていた。

それは、大犯罪を行なっても人目につかぬようまともな体裁を装うことにより、政府のいかなる検察官も手出しができないようにした上で、北米の犯罪地下シンジケートを世界最強のビジネス・金融集団につくり変えることであった。そしてイスラエルを「買収」し、そこを自分の「合法的」組織犯罪帝国の世界本部とすることであった。

 


「合法的」組織犯罪帝国を作り上げることを
夢見ていたマイヤー・ランスキー。彼は
数字に強く、経済学の研究書を読み、
経済感覚が秀でていた。

彼は「マネーロンダリング」の
 創始者とも言われている。

 

●シオニズムに反旗をひるがえしたユダヤ人ジャーナリスト、ポール・ゴールドスタインとジェフリー・スタインバーグによると、「ADL(ユダヤ名誉毀損防止連盟)」はランスキーの犯罪組織を受け継いでいるという。

「ADL」とは、1913年に設立されたユダヤ人組織である。「ADL」は、第二次世界大戦後に大規模な組織再編が行なわれ、全米各界の最も“優秀”なユダヤ人を選抜して、「全米委員会」(合計303人)が構成された。その下に「全米執行委員会」が置かれ、その会長にニューヨークのユダヤ教ラビ、ロナルド・B・ソベールが就いた。

 


反シオニズムのユダヤ人ジャーナリスト
ポール・ゴールドスタインとジェフリー・スタインバーグ

 

●この「ADL」の実態について、彼らユダヤ人ジャーナリストは次のように告発している。

「20世紀への世紀の変わり目頃に創設された当初から、ADLは組織犯罪におけるユダヤ組織のための最初の防衛機関であった。警察や新聞が、勢力を拡大する全米犯罪シンジケート中におけるユダヤ・ギャングの役割を解明しようとでもすれば、ADLはこれを『反ユダヤ主義者』として攻撃した。」

「ADLは、20世紀における最も強力なユダヤ・ギャング、マイヤー・ランスキーが築き上げた組織犯罪帝国を受け継いだ組織である。ADLが戦後、組織の立て直しを図った際、全米犯罪シンジケートと全く同じ方法で組織を再構成したばかりではなく、その統括母体を『全米委員会』と呼ぶようにしたのは決して偶然ではない。ADL全米委員会の名誉副会長に名を連ねる人々を見ていると、ユダヤ・ギャングと彼らの手先となって働いている政治家からなる犯罪者リストを眺めている気分がする。」

「ADLは反ユダヤ運動に対抗するものと言われるが、ADL自体どれほど多くの麻薬取引に関わっていることだろうか。世界の麻薬取引のほとんど全てに関係していると言ってもよいだろう。」

 


「ADL」のシンボルマーク

 

●また、彼らユダヤ人ジャーナリストの調査によれば、ランスキーによる「シンジケート合法化計画」の鍵を握るのは、腐敗した銀行家と腐敗した弁護士の存在であるが、この合法化計画の中で「ADL」は重要な役割を果たしているという。

彼らは次のように告発する。

「ADLと犯罪シンジケートとの最も古くかつ強力な結び付きは、組織犯罪集団の御用達であったニューヨークの銀行の一つ、『スターリング・ナショナル銀行』に見ることができる。組織犯罪の専門研究家によると、この銀行はマイヤー・ランスキーに非常に近いシンジケートの仕事仲間フランク・エリクソンにより、1929年に設立されたものである。ADLの活動に詳しい金融界筋の情報によると、1978年以後、同団体はADL財団を含むそのすべての銀行、投資活動を同銀行へ移していた。」

「ADLは、今日アメリカや西ヨーロッパ、ラテン・アメリカのすべてのユダヤ人社会にその触手を伸ばしている。この組織は多くの地方の弁護士会を支配することによって、また州および連邦裁判所の判事の選任に影響力を行使することによって、アメリカの司法機構のほとんどすべてを密かに支配している。またADLは大手銀行や金融機関の枢要な地位に工作員を送り込んでいる。さらに米国上下両院の議員は、ADLの名誉副会長だなどと世間では取り沙汰されている。また、ADLは、数多くのアメリカの警察幹部を、イスラエル政府およびユダヤ・ロビーの手先として抱き込むことに成功している。」

「ADLが全米委員会のメンバーに強力な政治・金融の大物たちを揃えていることから、その専門スタッフは人に接触する場合でも、影響力を行使する場合でも、絶大な力を発揮することができる。ADL全米委員の銀行や企業とのコネクションのおかげで、ADLの資金調達活動はフォーチュン誌が調べた全米大手500社や大手商業銀行、さらには全米すべてのマスコミの取締役会のメンバーにまで行き及んでいる。このようにADLは、カネで買うことも可能な政治警察力の提供というサービスを行なうのと同時に、自分たちに貢物を納めるか、それとも『反ユダヤ主義』の烙印を押されたいのかと言っては、大手米国企業や銀行をゆすっている。」

 

 

 

 

■■第6章:エドガー・ブロンフマン


●現在、ランスキーの築き上げた犯罪組織のトップには、「ADL」の最高幹部で、世界的ウイスキー製造メーカー「シーグラム社」の会長であるユダヤ人エドガー・ブロンフマンが座っている。

「シーグラム社」は世界200ヶ国で100億ドル以上の飲料を販売する巨大飲料会社であり、同社には「VO」「セブン・クラウン」といった人気ブランドがある。

 


「シーグラム社」の会長
エドガー・ブロンフマン

「ADL」の最高幹部でもあり、
「世界ユダヤ人会議」の会長でもある

 

●初代ブロンフマン(エチェル・ブロンフマン)は、1889年、ルーマニアのベッサラビア地方から年季奉公人としてカナダにやって来た。彼はカナダに着くとすぐに売春業を始め、1915年、カナダで「禁酒法」が施行されると酒の密輸に手を出した。さらにその儲けで、ブロンフマンは麻薬の密売にも手を染め、あらゆる犯罪に関与した。

やがて、アメリカが「禁酒法」を制定すると、ブロンフマンは大規模なアメリカヘの酒の密輸業を組織し(もちろんアメリカのユダヤ・ギャングとチームを組んで)、巨富を得た。そしてこの資金をもとに、「シーグラム社」を設立したのである。

(ちなみに、「ブロンフマン」とはイーディッシュ語で文字通り「酒屋」の意である)。


●ブロンフマン一族は禁酒法時代を通じて、マイヤー・ランスキーの「全米犯罪シンジケート」向けウイスキーの有力供給者だった。アメリカ政府の記録によると、1920年から1930年の間に3万4000人以上のアメリカ人が、ブロンフマンの醸造した酒を飲んでアルコール中毒により死亡したという。


●初代ブロンフマンの息子フィリス・ブロンフマンが、ジーン・ランバートと結婚したことで、ブロンフマン家はロスチャイルド家の一員となった。そして3代目のエドガー・ブロンフマンは、1957年に「シーグラム社」の社長に就任し、いまや「世界ユダヤ人会議」の会長であり、「ADL」の名誉副会長でもある。また彼は、アメリカ多国籍企業の中でも最大かつ最強の企業の一つである「デュポン社」の過半数を支配している大株主でもあった。


●エドガー・ブロンフマンは、投資銀行「ローブ・ローデス商会」のユダヤ人オーナー、ジョン・ローブの娘と結婚して、ウォール街との接近も深め、アメリカの民主党に多額の献金をして、陰でアメリカ政治を動かすと言われるほどにその政治力を拡大していった。(エドガー・ブロンフマンは、大リーグ「モントリオール・エクスポズ」のオーナーだったことでも名高い)。


●また、ブロンフマン一族は、熱烈なシオニストとして知られている。

第二次世界大戦が終わった時、サム・ブロンフマンは「イスラエル・ユダヤ更正全国協議会」を設立した。もっともその名前の趣旨に反し、この組織の主たる目的はパレスチナのユダヤ人地下組織「ハガナ」向けに武器を密輸することだった。

ブロンフマン一族に限らず、もともと古くからユダヤ人犯罪シンジケートは積極的にシオニズム運動を支援してきた。ランスキーの言い分によると、ユダヤ人犯罪シンジケートはアメリカのシオニスト組織に何百万ドルも献金してきたという。

 

 

 

●1980年代半ば、ドイツの雑誌記者とのインタビューで、エドガー・ブロンフマンは「世界ユダヤ人会議」の会長として次のように答えている。(「世界ユダヤ人会議」は1936年に創立され、世界70ヶ国のユダヤ人を擁している)。

 

【問】 「世界ユダヤ人会議」の前会長ナフム・ゴールドマンは、イスラエル国家の様々な行為について、大変批判的な発言をしていましたが、現会長のあなたからはそのような批判が聞かれませんね。

【答】 もちろん私だって、多くの問題でイスラエルに対して大変批判的に臨んでいますよ。〈中略〉 しかしここで、ナフム・ゴールドマン前会長と私の違いをはっきり言っておきます。私は次のような確信に達したのです──イスラエルに対するあらゆる攻撃は、ユダヤ人に対する攻撃である、と。誰であろうと、ユダヤ民族とイスラエル国家の間を裂こうとする者は、大きな過ちを犯しているのだ、と。

【問】 イスラエルとその政策は、非ユダヤ人にとって、あらゆる批判の対象外であるべきだ、と言うのですか? これはまた現実的ではありませんね。

【答】 ……〈中略〉……ユダヤ人であるという事実と、ユダヤ民族の未来はイスラエル国家にあるという認識との間には、実に密接なつながりがあるのです。

【問】 反ユダヤ主義という非難を受けずに、イスラエルの一定の政治活動を批判するのが、どんなに難しいことか、あなたには分かりますか?

【答】 私が妻の弟を犬畜生と罵ることはできても、あなたには許されていないのと同じことですよ。


※ このインタビューから分かるように、エドガー・ブロンフマンによれば、イスラエルの問題に非ユダヤ人は一切口を出すなというわけだ。

 



 

●ところで、1972年、「モントリオール犯罪委員会」はエドガー・ブロンフマンの甥、ミッチェル・ブロンフマンを、カナダ暗黒界の大ボス、ウィリー・オブロントの犯罪仲間と認定する報告書を提出している。

この報告書によるとウィリー・オブロントとミッチェル・ブロンフマンの関係は「不法活動にまで及び、彼らは相互にあるいは共同で犯罪行為に関与していた……、お互いの間で特別に便宜を図り合い、これによって高利貸し、ギャンブル、不法賭博、有価証券の絡む取引、脱税および買収等の事柄で互いに利益を獲得した」とされている。

1970年代半ば、ウィリー・オブロントとミッチェル・ブロンフマンのもう一人の仲間、サム・ローゼンはともに麻薬資金洗浄行為の罪で投獄された。


●1989年、高齢化したエドガー・ブロンフマンの後を継ぎ、エドガー・ブロンフマン・ジュニアが「シーグラム社」の社長に就任(エドガー・ブロンフマンは会長に退く)。ジュニアは松下電気から「MCA」をユダヤ人の手に買い戻したことでも名高い。ブロンフマン家は「デュポン社」の大株主として知られていたが、この「MCA」買収のためにわざわざその株を手放している。

その後、ジュニアはユダヤ・コネクションを利用してスティーブン・スピルバーグ監督の新会社「ドリームワークス」と契約。同社の作品の独占的配給権を確保している。彼は「タイム・ワーナー」にも資本参加していることでも知られ、有線放送局「USAネットワーク」を17億ドルで買収。最近では、世界最大のレコード会社「ポリグラム」も買収するなど、メディア界への進出に積極的な意欲を見せている。

 


エドガー・ブロンフマン・ジュニア

 

●このブロンフマン一族の築き上げた莫大な財産は、「ケンプ」や「キャディラック・フェアビュー」と呼ばれる投資会社を通じて管理されている。「ケンプ」は100億ドルといわれるブロンフマンの不動産や株を所有するとともに、石油会社や化学会社などの企業をその傘下に収め、大ブロンフマン帝国を陰から支えている。

また、エドガー・ブロンフマンの従兄弟であるエドワードとピーターの兄弟は、シーグラムとは別に独自の財閥である「ヒース・エドパー」財閥を作り上げている。同財閥には複数の保険や鉱山関係の企業が含まれており、その資産は数十億ドルに達するといわれている。

 

 

 

■■第7章:全米を震撼させた「ADL」の不法スパイ事件


●1993年3月頃、「ADL」の不法スパイ事件が公にされた。それはサンフランシスコにおいてであった。サンフランシスコのADL事務所からアメリカ人たちの個人さらには団体の秘密ファイルが次々に出てきたのであった。

しかも「ADL」がそれをどこから手に入れたのかと言えば、サンフランシスコの各警察署に勤める警察官を通してであったのである。それらの秘密ファイルはすべて警察が所持していた内容そのものだったのである。

 

 

●「ADL」は多額の資金をわいろとして使って多くの警察官を抱き込んでいった。また警察官たちを豪華なイスラエル旅行に誘い、イスラエルの情報機関モサドの下で訓練させていたのである。その訓練とはアメリカの警察から秘密ファイルを入手するにはどうすればよいか、各個人および団体を秘密調査するための心得などであった。


●このことを明らかにしたのはサンフランシスコの地元新聞社であった。したがって初めは「小さな報道」でしかなかった。この地方紙はいわゆるユダヤ系新聞社ではなかったのである。やがてサンフランシスコを中心としてカリフォルニア州全域で、この「ADLスパイ事件」は騒がれるようになっていった。

しかしいわゆるメジャー系にしてユダヤ系とされる大手マスコミは、それをことさらに取り上げようとはしなかった。しかし騒ぎが大きくなるにつれ、彼らもそれを取り上げざるを得なくなり、ついに『ロサンゼルス・タイムズ』がそれを取り上げたのであった。

しかしなおアメリカ全体が「ADLスパイ事件」で震撼するには、数ヶ月を要した。それはカリフォルニア州全体で取り上げられたとはいえ、その地域に封じられたままの状態だったのである。


●『ワシントン・ポスト』紙が、ようやく「ADLスパイ事件」を取り上げたのは、1993年10月になってからである。

 


『ワシントン・ポスト』の記事(1993年10月22日)

 

●のちに「ADL」は、サンフランシスコだけではなく、シカゴやアトランタでもスパイ活動を行なっていたことが判明した。彼らは東部においても警察官を買収し、警察の秘密ファイルを手に入れていたのである。


●アメリカ人は、自分たちの国で恐るべき私設秘密警察機関が暗躍していたことに驚愕した。「ADLスパイ事件」で15の団体および7人の個人が、公民権法違反として「ADL」を訴えた。

同じ頃、シオニスト組織の発行する「ワシントン・ジューイッシュ・ウィーク」は、「ADLのスパイ事件」を全米に報じた『ワシントン・ポスト』を痛烈に批判する記事を載せた。


●この「ADLスパイ事件」は、「ADL」の不正をアメリカ国民に公にしたという意味では画期的な事件であるといえる。しかし、多分、そのうち何事もなかったかのように、たち消えてしまうであろう。前出の反シオニズムのユダヤ人ジャーナリスト、ジェフリー・スタインバーグは次のように語る。

「第三者がADLの不正について触れると、ADLは自分たちは反ユダヤ勢力によって攻撃されていると、問題の質をすり替えてしまう。アメリカでは人種問題や反ユダヤ主義を犯罪として取り締まる法律ができてしまっている。ADLはこれをフルに使って、自分たちは反ユダヤ主義の被害者なのであると裁判所に訴えるわけである。このADLの強力な組織の前にいかなる勢力も対抗することはできなかった。それゆえにADLは我が物顔でアメリカを闊歩するようになったのである。 〈中略〉 

アメリカの総人口約3億人の中でユダヤ人の数はわずか600万人でしかないにもかかわらず、もし本当の力を1つにまとめれば、驚くべきことにADLはアメリカにおける最大の、そしておそらく最強の私設秘密警察機関であるということになるだろう。」

 

─ 完 ─

 

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★ 追加情報

「ADL」にスパイ行為で有罪判決

◆ADL Found Guilty Of Spying By California Court
http://www.rense.com/general24/adl.htm

http://blog.goo.ne.jp/yamanooyaji0220/e/d6070925e98eb89842b44bd0585801ac

ショール・アイゼンベルグ
2012-07-28 09:06:57 | 資料

 日本に対する情報工作がどのような形で進められるかをより広い角度から眺めるために、政治、金融面での単なる情報工作の枠を超えた秘密工作の中身を見る必要がある。それにはイスラエルの誇る一人の人物が携わっている。

 その人物の名前はショール・アイゼンベルグ。極東で過去50年間工作に従事してきた億万長者である。彼はイスラエルのためだけではなく、アメリカの情報組織のためにも働いてきた。事実、アイゼンベルグは極東での米・イスラエル共同作戦の橋渡しをする重要人物の一人だった。だが、彼の活動や事業は極東にとどまらない。これから見るように、アイゼンベルグの世界を股にかけた行動力は、国家や文化といった彼のアイデンティティーを超えたもので、静かなる 「へンリー・キッシンジャー」 とさえ言うことができる。

 ビジネスマンと言うにはあまりにも秘密の部分が多いアイゼンベルグという人物を正しく捉えるには、彼の出生地、1926年のドイツのミュンへンにまで遡らなけれぱならない。何人かのイスラエルのジャーナリストが彼の出生の真実を探ろうと試みたが、イスラエル当局から咎められた。そうしたイスラエルのジャーナリストの一人、イーガール・ラヴィブは、アイゼンベルグが組織犯罪に関与していた多くの事件を暴露しようとした件で三ヵ月の禁固刑に処せられた。こういった妨害があったにせよ、彼の出生地はミュンへンだと推定される。彼の両親は、ポーランドに属するガリチアのユダヤ人で、19世紀終わりごろにドイツへやって来た。

 彼の子供時代、それにそのころの彼の両親のことは秘密のままである。だが、アイゼンベルグ一家はナチが政権を取ってからも急いで脱出することはせず、1938年までドイツに留まっていた。少年だったアイゼンベルグは、1938年から39年にかけて出国を計画した。ドイツアルプス越えの脱出は難しくはない。偽旅券を手に彼はとうとうスイスに逃れた。そして猛威をふるうドイツ軍を避けながら、スイスから西ヨーロッパに移動を開始した。彼に関する記録を見ても、どのようにして彼がこのヨーロッパにまたがる逃避行を無事やりおおせたのかは決して分からない。いずれにしても、1940年の終わりにはアイゼンベルグはオランダにいた。


 戦時下のドイツを脱出


 ここで注目する必要があるのは、1938年以降にドイツから脱出できたユダヤ人がほとんどいなかったという事実である。ドイツにおいてはナチの手でユダヤ人法が1933年から34年にかけて制定された後、1936年からはユダヤ人狩りと強制収容所への移送が始まった。1938年までに、在独ユダヤ人は事実上全員が収容所に送り込まれつつあった。ドイツにいたもう一人のユダヤ人、ハインツ(後にへンリー)・キッシンジャーも、同胞が被った運命を逃れるべく1938年にドイツを脱出したというのは、何とも皮肉である。

 当時のドイツ国内で一体何が起こっており、また何百万人ものユダヤ人が脱出できなかったにもかかわらず、特定のユダヤ人がどうしてドイツから出国できたのかを理解するためには、今まで語られていなかったことを話す必要がある。どのようにしてキッシンジャー一家は脱出できたのか。ゲシュタボが捕えにやって来る前に、ショール・アイゼンベルグのような比較的貧しい労働者階級のユダヤ人がどうして脱出することができたのか。

 ヨーロッパにおけるシオニストの組織は比較的弱体であり、ユダヤ人の移民を担当するユダヤ機関で、その頭文字を取ってモサドと呼ばれていた組織には、ヨーロッパのユダヤ人を救うだけの資金も能力もほとんどなかった。ドイツにいたユダヤ人の間では、シオニズムは大きな運動にはならなかった。彼らは自分たちが良きドイツ人としてドイツに同化していると思っており、その多くは第一次世界大戦ではドイツのために戦った。したがって、アイゼンベルグやキッシンジャーのケースはもっと注意深く調べてみる必要がある。

 歴史的に見て、ドイツにいたユダヤ人はドイツ共産党を牛耳っていた。社会民主主義者、共産主義者を問わず、労働者階級による政治運動が始まった当初から、ドイツのユダヤ人はこの運動を主導し支配してきた。また、当時ドイツのユダヤ人の多くはドイツ共産党(KPD)の党員であり、モスクワの支配下にあった地下組織の共産主義インターナショナル(コミンテルン)に参加していた。コミンテルン、それにソ連中枢のスパイ機関(NKVD)とソ連軍情報部(GRU)第四局は、幹部諜報部員をヨーロッパから徴募するという秘密の方針を立てていた。モスクワと関係のある家族に特に目がつけられ、多くの場合、単に個々人の機知や賢明さに基づいてヨーロッパから連れ出された。


 キッシンジャーとは何者か


 だが、ドイツのユダヤ人には脱出のための特別の手が差し出された。シオニスト機関は、在独ユダヤ人についてはパレスチナに喜んで移住する者だけを受け入れた。つまり後にイスラエル国家となるパレスチナに移ることを約束した者だけを助けたのである。

 国際救助委員会といった組織を通じて何とか脱出しようとした人々もいたが、彼らはソ連や英米の諜報員の人たちだった。したがって、アイゼンベルグとかキッシンジャーのような人たちが、少年時代にこういった情報組織の一つにその才能ゆえに抜擢され、後にこの情報組織とのコネで出世したということは充分有り得る。

 いずれにしても、アイゼンベルグとキッシンジャーの両者について言えるのは、二人のナチス・ドイツから脱出した経緯、そして後に情報合戦の国際舞台で大きな役割を果たすようになったことを考え併せるとき、もともといかなる基盤もなかったところからどうしてかかる権力者の地位にまで上りつめることができたのかが、不可解だということである。ところでキッシンジャーは大々的に名前が売れ、世間の脚光を一身に浴びているのに対し、アイゼンベルグの方は全くその逆である。


 上海から日本ヘ


 世界が第二次世界大戦に突入した後、アイゼンベルグはオランダを出て中国の上海に移ろうとした。一体全体、どういうわけでアイゼンベルグのような人間が、上海のような場所で骨を埋めようなどと考えたのか。当時の上海は陰謀が渦巻く世界、堕落、生き馬の目を抜く激烈なビジネスといったことが同時に起こる所として、その評判は凄じいものだった。

 上海に行こうとしたことは、アイゼンベルグのミステリーの中でも極めて興味深く、かつ陰謀の臭いのするところである。というのは、上海は、日本、ソ連、イギリス、ドイツ、アメリカをはじめ、すべての国の対中諜報活動の拠点が置かれた街であったからである。この街はまた、ロシア人とユダヤ人亡命者の世界最大の共同体が存在した場所でもあった。

 上海は、当時の主だった情報機関のために働いていた工作員や情報提供者、スパイたちの巣窟だった。そして亡命ユダヤ人の多くは、コミンテルンやGRUの情報組織のメンバーだった。イギリス人のために活動した者もいたし、日本人のために働くようになった者も一部いた。


 ゾルゲと共に日本潜入


 ソ連が上海で行った極めて重要なスパイ工作は、アメリカ人女性のアグネス・スメドレーを使ったものである。裕福なアメリカの上層階級出身のスメドレーは、共産主義運動に参加し、その後極東におけるソ連の諜報活動の中でも最も重要な工作に従事するため上海へやって来た。彼女を操っていたのがかの悪名高いソ連スパイ、リヒャルト・ゾルゲだった。ゾルゲは当初コミンテルンのために働いていたが、後にGRU第四局に移った。当時の日本の政策を潰すために、彼は日本人だけではなく中国人の共産主義者、ドイツ系ユダヤ人、その他のヨーロッパ人たちを採用した。

 1920年代から1930年代にかけ、従来からあった上海のソ連情報組織は、この工作によって強化された。共産主義者は様々な政治工作を仕掛け、第四局も極めて巧妙な秘密工作を行った。それによってクレムリンは、この地域における日本軍の作戦に関する詳細な情報を入手することができた。彼らは日本による真珠湾攻撃に関する情報も事前に入手していた。

 リヒャルト・ゾルゲは、ソ連のGRU第四局の中心的工作員であった。アイゼンベルグがゾルゲの率いる諜報グループの一員だったという直接的な証拠はないにしても、ゾルゲが東京の在日ドイツ大使館におけるソビエト・スパイのトップになったときに、彼が日本に移ったことは極めて深い興味をそそる事実である。ゾルゲは、日本に入り込むために、それまでの8年間を自らの偽装のために費やしている。彼は日本国内での活動のために人脈を作り、要員を徴募し、訓練を行っていた。その人脈の中にショール・アイゼンベルグも含まれていたと思われる。



 永野重雄氏とのコンタクト


 1940年に来日した彼は、日本財界の大物の一人である永野重雄氏と出会う。永野氏は新日本製鉄の創始者で、戦後における日本経済の復興を指導した人物である。

 戦時中アイゼンベルグが何を行っていたかについての記録はないし、彼もそれを明らかにすることを拒んでいる。だが終戦直後、永野氏との関係を通じてアイゼンベルグは、当時の日本で大手としては唯一の金属と武器のスクラップ会社を設立した。


 アイゼンベルグは日本国籍を有していた。アメリカ進駐軍当局は、占領下の日本人がある種の事業を始めることは禁じていたが、アイゼンベルグに対してはそれを全く自由に始めて良いと認めた。彼が一大事業集団を築き上げることになった手初めの大プロジェクトは、オーストラリアとフィリピンから鉄鉱石を買付け、それを日本の鉄鋼メーカー、とりわけ新日本製鉄の前身である八幡製鉄に売るというものだった。彼の事業は急拡大し、また日本の製鉄業界と進駐軍双方に持っていたコネを通じて、アイゼンベルグは日本財界による戦後初の訪米を計画た。彼はアメリカ政府との交渉においては日本の製鉄業界を代表して事に当たった。

 この訪米旅行に際し、アイゼンベルグはスクラップ金属事業と軍事機密を扱う事業を興し、それらを統合した。彼は帰国後は、進駐軍当局向けに台所の流し台から浴槽まで様々な家庭用品をつくる工場を三つ建てた。また彼は、事業拡大とともに日本国内での政治権力をも手にするようになった。日本人が独立した力を行使できないような場合には、アイゼンベルグが大抵その肩代りを行った。


 日本発進の網をはる


 そういう中で、アイゼンベルグが一躍世界的なビジネス・コネクションを手に入れるきっかけとなったのは、イギリス政府が同国の国有会社であるインぺリアル・ケミカル・インダストリーズ(ICI)の日本での代表者として彼を指名したことだった。

 イギリスの大手国有企業の例にもれず、ICIもイギリス情報機関の秘密工作やスパイ活動に利用された。アイゼンベルグがICIの仕事をすることになった時、イギリス情報機関は日本国内での活動にはある程度の歯止めをかけた。というのも、ダグラス・マッカーサー将軍がイギリス人や彼らの情報活動に対し終始敵意を抱いていたからである。

 戦時中、マッカーサーはイギリスのアメリカ国務省への政策介入を非難したことがあっし、戦略事務局(OSS)がつくられた裏にイギリスの意図が働いていたとして、南西太平洋地域での軍事作戦にOSSが介在することを拒否した。日本の情報記録を調べてゾルゲ一味の背景と実体を暴いたのも、マッカーサー配下の軍情報部だった。マッカーサー側近の軍情報将校だった人によると、その関係者の中にショール・アイゼンベルグという名前が挙がったことがあったが、ビジネスの絡みから、彼の件は別にされてしまったという。


 日本財界ヘの深き恨み


 アイゼンベルグだけを他から切り離すことによって、アメリカ政府筋はアイゼンベルグの日本での事業をさらに拡大し、韓国にまで展開する途を開いた。実際、彼にとっては韓国の事業拠点の方が日本の拠点より重要になった・アイゼンベルグが最初に韓国に行った時は、オーストリアのパスポートを使っていた。彼はオーストリア人ではなくなっていたのだが、「ユダヤ人」 と言われることを恐れて義父が彼のためにオーストリアのパスポートを用意してやったのである。

 引退したアメリカの外交官の1人が、アイゼンベルグの活動について次のように語っている。

 「当初、韓国へは一種の国際金融業務を行う形で入った(アイゼンベルグが韓国で事業を開始したのは停戦後の1953年だった)。アイゼンベルグは成功する見込みの無いことに手を出し、これに資金を注ぎ込むことによって、彼が利用しようと目を付けていた一部の地元人士の信頼を勝ち取ろうとしていた。」

 アイゼンベルグは韓国で建設とエネルギー業務に進出し、それによって得た利益で韓国産業の発展に大きな貢献を果たした。彼が韓国への進出を決意した理由は、アメリカによる軍事占領が終った後、今日でもアイゼンベルグ自身が憤慨している通り、日本の大手企業の多くが彼を追い出しに掛かったことにある。

 1982年1月14日付 『ニューョーク・タイムズ』 紙に載ったアイゼンベルグの数少ないインタビュー記事の一つの中で、彼は日本との関係を次のように述べている。

 「我々は日本で数多くの新しい事業に着手したが、日本人がその成果を横取りしてしまった。25年あるいは30年前には日本人は我々を必要としたが、今では我々を必要としていない」 と。

 アイゼンベルグは、今なお日本人に対する恨みの気持ちをはっきりと持っている。1950年代に日本人が彼を追い出してしまったことをアイゼンベルグは決して許してはいない。アメリカの情報関係者の中には、アイゼンベルグの恨みから、ADLのジャパン・バッシング計画は徹底したものになると見る人たちがいる。


 アイゼンバーグとADL


 1950年代、60年代にわたって、アイゼンベルグは原材料の手当や資金調達に自分が持っている南米コネクションを利用し、それによって極東における自らの帝国拡大を図った。彼の大がかりな帝国の中枢となっている企業は、1960年にパナマにおいて設立されたユナイテッド・ディべロップメント・コーポレーションである。

当時の彼の事業は、電力、製鉄、鉄道、電話、セメント、繊維、化学、潅漑、コーヒーの各分野にわたっていた。また彼の事業は約40ヵ国にも及んでいた。アメリカにおける彼のコネクションは、シオニスト・ロビーの大物たちが関係する金融ネットワークに及んでいるが、その中でも鍵となる人物は、フィリップ・クラツニックである。

 フィリップ・クラツニックは、アメリカのシオニスト・ロビーの中でも最も力のある人物の一人である。彼はカーター大統領の下で商務長官を務めたばかりではなく、ブナイ・ブリスとADLを今日のアメリカの社会の中で最強の組織に変身させた人物でもある。

 ブナイ・ブリスの会長を20年間務めた後も、シカゴに住むクラツニックは、企業や金融機関とのコネクションを通じてティッシュ一族と同等の力を依然有している。シオニスト・ロビーがアメリカの政治を締め付ける力を強固なものにすることができたのは、カーター政権時代のことだった。クラッニックは、ソル・リノヴィッツをカーター政権内に招き入れた。リノヴィッツは、クラツニックとアイゼンベルグの友人であるだけではなく、彼らの仕事上でのパートナーでもある。


 見えざるユダヤ組繊の網


 個々の人物たちのこうした強力な結び付きは、単に強いコネを持った人たちが存在しているというだけではなく、世界中に及ぶ巨大な組織の存在によって裏打ちされているということである。

 カーター政権の財務長官だったウェルナー・マイケル・ブルメンソールという一人の人物がいる。中国の上海で育ったブルメンソールは、ナチから逃れたドイツ系ユダヤ難民の1人である。今日、ブルメンソールは、ミシガン州に本拠のあるべンディックス・コーポレーションのトップであり、今も国際通商政策を陰で操っている。彼が上海にいた時、アイゼンベルグとは親しい友人の間柄だったのではないか、という質問については2人ともそれを否定する。だが、2人が同じような経歴をへていることと、互いに密接に関係するようになっているという事実は、何かがあることを示唆している。

 個々の人たちがこのように結び付き、政治的経済的連携を図ることができたのは、ロックフェラーやロスチャイルドの後ろ楯のおかげである。彼らの情報活動の拠点は、今日でもアメリカ、イギリス、イスラエルの三ヶ国である。

 アイゼンベルグ、クラッニック、リノヴィツといった人物からなるこの人脈ができたのは、単に運が良かったからとか、ロスチャイルド家の支援があったからというだけのものではない。これには、もう1人の不可解な人物、ティボー・ローゼンバウムが果たした役割が大きい。彼はハンガリー出身のユダヤ人でジュネーブにスイス・イスラエル貿易銀行を設立した。ロスチャイルドが3分の1を直接出資していたこの銀行が、スパイ工作の隠れ蓑として利用されたアイゼンベルグの数多くのハイテク企業に資金を供与したのである。

 スイス・イスラエル貿易銀行の役員にアブラハム・ファインバーグが名を連ねている。彼はイスラエル建国の際、シオニズムの主流を占めた軍事組織であるハガナを支援したアメリカ人グループの代表だった。また、役員としてフィリップ・クラツニック、デヴィッド・グラヴィエの名前もある。グラヴィエは極めて示唆に富んだ人物である。


 利用された「パキスタンの核」


 1960年代にローゼンバウムが設立したスイス・イスラエル貿易銀行の別会社として、もう一つの銀行が設立された。それを動かしたのがクラツニックと、アルゼンチン生まれのユダヤ人デヴィッド・グラヴィエだった。このもう一つの銀行は、アメリカン・バンク・アンド・トラスト(ABT)と称した。CIAとモサドが所有するこの銀行は、麻薬の利益の洗浄(ローンダリング)を行う機関であった。

 彼らのビジネスの相手だったショール・アイゼンベルグは、そこで借受けた資金をいくつかの秘密プロジェクトのために使った。そのプロジェクトの一つが、パキスタンでの原子力発電所建設であった。これによりパキスタンは原爆用の材料を得ることができるようになった。

 1970年代に 「イスラムの核」 が大きな話題になったことがあった。ガイス・ファラオンというエジプト人と、その仲間のロジャー・タマラズというレバノン人の2人が、アイゼンベルグとブロンフマンになり代わってパキスタンとの取引に当たった。この取引にはカナダ政府も絡んでおり、同国政府はカナダ型重水原子炉の輸出認可状をアイゼンベルグの会社に交付していた。この取引を受けて、アメリカ人とイスラエル人からなるこのような人たちは、パキスタンが原爆を開発しつつあると叫んで一大宣伝を開始した。

 だがこのキャンべーンの狙いは、パキスタン人が原爆を手にするのを阻止することではなく、イスラムや第三世界の国々による核兵器開発技術の入手に反対する世論を世界中に起こすことだった。つまり、国情の不安定なイスラム国家が原爆をつくる目的でそれに必要な技術を手に入れようとするのを、「文明」 諸国が見過ごすことなどどうしてできようか、という世論を巻き起こしたかったのである。彼らは結局のところ、そんな国の原爆開発に手を貸してはいけない、という見本にパキスタンを仕立てたのである。

 つまりアイゼンベルグたちがパキスタンの原子力発電建設に手を貸した際密かに狙っていたのは、アラブやイスラムのどの国であろうと原子力技術に手でも出せば、即ちそれが西側の利益にとって 「脅威」 となるという風潮を生み出すことであった。またパキスタンで原子力発電計画が持ち上がったその時に、当時の大統領ズフィカル・アリ・ブットがより過激なイスラム原理主義者の手で倒されたことも思い出してみるべきである。へンリー・キッシンジャーは、パキスタンが原子力エネルギーを持つことを望んでいるとして、ブットを公に攻撃していた。そして1981年6月にイスラエル空軍がイラクの原子炉を急襲したときに、このパキスタンの 「事例」 が再確認されたわけである。

 ABTが麻薬の資金洗浄を大々的に行っている銀行の一つだということは、前に述べた通りであるが、リノヴィツのパートナーであったデヴィッド・グラヴィエは、ABTのカネ4千5百万ドルを横領した罪と麻薬の資金洗浄行為に関与した罪で起訴された。

 だが1978年、偶然とおぽしき飛行機事故によってグラヴィエは消えてしまった。ところでグラヴィェの活動を調査した中で興味深い点の一つは、彼がラテン・アメリカのいくつかのテロ組織に資金を供給していたことである。さらにここで触れておかねばならないのは、1978年のパナマ運河協定の交渉の際、オマル・トリホスを相手にこれを行ったのがADLのトップでもあったリノヴィッツだったことである。トリホスはその後1982年に飛行機事故で暗殺された。


 ノリ工ガだけが悪玉か


 すでに述べた通り、アイゼンベルグがラテン・アメリカに最初の本格的な会社を設立したのはパナマにおいてであり、それは1960年のことだった。そしてパナマでトリホスが暗殺された後その後釜に座ったのが、今やその座も追われてしまったマヌエル・ノリエガだった。ノリエガは日本の協力を得て第二パナマ運河を造ろうとしていた。事実、1980年代初頭に、駐日パナマ大使が新日本製鉄の最高首脳だった永野氏を訪ねてこのプロジェクトに対する支援を申し入れている。だが、このプロジェクトが大きく前進したのは、ノリエガがニカラグアのコントラ支援をアメリカとイスラエルから求められ、それを呑まされた時のことであった。

 その際、ノリエガはイスラエル情報部の工作員であったマイク・ハラリと親密な関係を持つようになった。

 ハラリはノリエガの顧問になった。ノリエガが第二パナマ運河計画の達成を望んだにもかかわらず、ハラリや彼のイスラエルとアメリカの友人たちは、コントラの援助資金を調達するために麻薬を扱うアイゼンベルグの組織を築き上げ、マスコミはヒステリックな反ノリエガ・キャンペーンを張り、彼に 「麻薬王」 のレッテルを貼ってこれを葬ろうとした。そしてブッシュ政権はノリエガを引きずり下ろしてしまったが、ハラリとその仲間の工作員の方は見逃した。

 日本の提案によるノリエガ政権下での第二パナマ運河建設が、建設資金のみならずそれに必要な技術供与についてもこれを行うことで日パ両国間の合意が成立した後になって、アメリカとイスラエルによって阻止されたのは不思議ではなかろうか。

 アイゼンベルグの活動に対する資金援助の構図をさらに幅広く辿っていくと、一味のリストの中にもう一人の金融界の人物の名が挙がってくる。その名はエドムンド・サフラ。リパブリック・バンク・オブ・ニューヨークのオーナーであるとともに、アメリカン・エキスプレスを買収、顧問の一人にヘンリー・キッシンジャーを招き入れた人物である。

 サフラは、シリアのアレッポで生まれたユダヤ人で、ブラジルで成長した。彼は自分の銀行であるジュネーブ貿易開発銀行を通じてアメリカン・エキスプレスを買収した。サフラはアルゼンチン出身のいかがわしい銀行家デヴィッド・グラヴィエに融資を行っており、またアメリカン・エキスプレスが投資銀行のシェアソン・リーマンを買収する際には、ジョン・サムエルズを自分の手先に使っている。サフラをもともと支援していたのは、イスラエル・ディスカゥント銀行のオーナー、レカンティ一族である。サフラ、ブロンフマン、アイゼンベルグ、クラッニック、キッシンジャーは同じ組織に属する仲間である。


 マルコス政権転覆の真相


 このように見てくると、中南米やアジアで情報活動を展開するアイゼンベルグが、1977年当時のイスラエル外相モシェ・ダヤンの訪中などといったイスラエルのための特別な工作にどういうわけで携わってきたかが理解できる。アイゼンベルグが所有するジェット機で、ダヤンはネパール、ビルマ、タイへと飛んだ。その表向きの目的は、イスラエルとこれらの国との関係改善を図るということだった。が、それは共産中国政府を貿易、技術面で支援するというアイゼンベルグの真の目的を隠すためのものにすぎなかった。1979年までに彼は中国政府の最高幹部との関係を取り付けるのに成功し、その結果、中国で15件の大がかりなプロジェクトを成約することができた。

 こうしたコネクションによって、アイゼンベルグは北京飯店に事務所を構えるに至った。彼は同ホテルの最上階の3フロアーを占有し、そこでビジネスを展開している。また彼はもう1人のアメリカ人実業家、アーマンド・ハマーとの間でいくつかの合弁事業をも行っている。ハマーは、彼らの人脈の中でも重要な役割を果たしており、一貫してクレムリンとの関係を保ってきている。2人の合弁事業には、4億6千5百万ドルに上る中国の石炭開発事業も含まれる。しかし今日に至るまで、このプロジェクトはいまだ実行に移されていない。

 その一方で、アイゼンベルグは銃などの小火器類とハイテク武器の開発製造につき、共産中国政府と合弁契約を結んでいる。この事業を実行するために、彼は日本の商社を真似てアジア・ハウスと称する自分の商社を1979年に設立した。この事業を指揮する拠点は、テルアヴィブ郊外のサヴィオンに置かれ、アジア・ハウスのニューヨーク支店は、39番街東4番にあるアイゼンベルグ所有のビルの中に置かれている。東京、チューリッヒ、ロンドン、マニラにある賛沢なアパートや建物、そして自宅を彼は連絡事務所に使っている。

 北京飯店にある住まいを拠点に、アイゼンベルグは中国人と組んで中距離ミサイル技術をぺルシャ湾岸のアラブ諸国に売っている。イスラエルは共産中国が持っている対アラブコネクションを利用することができれば、これらアラブの国々を監視できるばかりでなく、必要とあらば鍵となる技術を送り込むことさえ可能となる。そして、皮肉な事実であるが、これによってイスラエルにはこれらアラブの国々にどう対処していけぱ良いかが分かることになり、西側にとってみればイスラエルはどうしても必要な存在になってくる。

 どうしても必要な存在であること、このことはアイゼンベルグの組織がCIAおよびフィリピンの債務の引受人であるアメリカン・インターナショナル・グループ(AIG)と一緒になって、1986年2月にマルコス政府の転覆を企てたフィリピンにおいても見られる。

 いわゆる民主主義の旗の下、国務省・CIA・イスラエルからなるグループが、政権内部の人間を使ってマルコスの引きずり下ろしを目論んだ。フィリピン国内の隅々にまで浸透した腐敗は誰の目にも明らかであった。だがフィリピンは実は民主主義を打ち立てるためではなく、貸し付けた資金の回収をより容易に行うためにこのグループが体制の変革を企てようとした最初の国にすぎなかったのである。

 アメリカが立てたコラソン・アキノ大統領は、マルコスに比べて操りやすい人物である。AIG社は今もフィリピンの債務保証人だが、この会社の経営者はモーリス・グリーンバーグという。元CIA次長のボビー・レイ・インマンによると、グリーンバーグは当時CIA長官だったウィリアム・ケーシーと殊のほか親しい間柄だった。ケーシーはニューヨークとロンドンの金融勢力のお気に入りだが、これら金融グループがフィリピンに資金を貸付けていたことが、マルコスの追い落しにつながっている。

 フィリピンにも拠点を持っていたアイゼンベルグとグリーンバーグは、マルコス打倒に必要な資金を提供した。この打倒計画は比較的容易なものだった。というのも、マルコスの友人たちは私兵を抱えており、その私兵を訓練したのがイスラエル人だったことから、もしアキノによるクーデターに抵抗する者があれば、イスラエル人がアキノ女史の側に寝返って、彼らの知り得た秘密情報や手の内を明かしてしまうということも有り得たからである。


 イラン・コン卜ラ事件の黒幕


 以前、アイゼンベルグとグリーンバーグが組んで極東最強の企業、C・V・スター・コーポレーションの乗っ取りを図った。彼らが持っている銀行とのコネクション、とりわけエドムンド・サフラが仕切るジャンク・ボンドを使った工作を利用することによって、アイゼンベルグとグリーンバーグ連合は強引に事を運び、C・V・スターを乗取ってしまった。同会社はこの地域における旧来からのアメリカの利権の橋頭堡ともいうべき存在だった。

またレーガン政権のイラン・コントラ工作にイスラエルを絡ませたのも、アイゼンベルグの事実上のコネクションによるものであった。アイゼンベルグのビジネス上のパートナーであるイスラエル・エアクラフ卜・インダストリースの創始者アル・シュイマーと、シャー時代にイラン国内におけるモサドの活動の指揮を取っていたジェイコブ・ニミロッドの両名は、イランのムヅラー(イスラム教の律法学者)たちとのコネクションをオリヴァー・ノース中佐、リチャード・セコード将軍、並びに元CIA幹部のセオドア・シャクリーに提供した。アイゼンベルグはイラン・コントラ事件で中心的役割を果たした黒幕の一人であったが、それが公にされることは決してなかった。

 金融、経済面におけるアメリカの力の後退につれ、この勢力はアメリカに獲物を求めて入り込み、そこに自分たちの牙城を築くことに成功した

(「ユダヤの告白」 P・ゴールドスタイン J・スタインバーグ 共著 エノク出版より引用)


麻薬帝王 里見甫(はじめ)

日本に訪れた昭和初期の大不況で、生活に困った日本人の多くは中国大陸に渡った。それは日本のヤクザ、暴力団も同じであった。

その中で、三井、三菱といった大財閥に資金を出資させた右翼の大物、里見甫(はじめ)の昭和通商という企業は、目立たないが最大手の企業。

里見がそこで扱うのは麻薬、アヘンであった。

「殺人株式会社」の軍事部門アイゼンベルグは第二次世界大戦中、戦後におけるイスラエルの建国を目指して日本に「研修」に来ていた。

米国最大のマフィア組織であるアイゼンベルグと、日本の大物右翼、ヤクザである里見甫はここで出会う。

ショール・アイゼンベルグは、1940年に新日鉄(当時の八幡製鉄)の会長であった永野重雄の娘と結婚している。

中国大陸のアヘン市場は、アヘン戦争以降、英国軍部と結び付いたイラク出身のサスーン財閥の独占市場であった。

里見は三井、三菱を背後にした資金力と飛び抜けた商才で、中国の地下経済を支配する青パン、紅パンと呼ばれる秘密結社にまで幅広く人脈を広げ、一時期は英国を始めとしたアングロサクソンを排除し、中国のアヘン市場を支配下に置いた。

その背後には、サスーンを中国アヘン市場から追い出し、次の世代の中国アヘン市場を狙うアイゼンベルグ社(後にイスラエル建国の中心となる)と里見との提携があった。 

この昭和通商で、里見甫の部下として「金儲け」のため麻薬売買を担った人物達の中に、吉田茂、右翼の大物、児玉誉士夫、そして岸信介、佐藤栄作、池田勇人がいた。

第二次世界大戦中、中国大陸で満州帝国国務院に勤務する一方、里見甫の経営するアヘン密売会社「昭和通商」で、吉田茂等と共にアヘン密売に従事し、満州帝国建設資金を調達していた岸信介は、戦後、戦争犯罪人として巣鴨拘置所に収監される。

巣鴨から釈放されると岸は、満州帝国の日本語新聞「大陸新報」の社長であった福家俊一と密談を重ね、日本に新しい政党を作る準備を始める。

福家は満州時代、アヘン密売を巡り里見の情報屋として、新聞「大陸新報」の情報ネットワークを駆使し他のアヘン密売組織を「摘発」し、里見は福家の情報の下、他の密売人を次々に殺害して行った。

福家は戦後、里見のアヘン資金を日本の政界に持ち込むエージェントとして、岸首相、福田赳夫首相、美濃部亮吉東京都知事の選挙資金を拠出する「政界仕掛け人」と呼ばれる事になる。

戦後、中国国民党を支持していたサスーンは、中国共産党とは折り合いが悪く、最終的に共産党が政権を取ると、サスーンは中国のアヘン市場を失う事になる。

このときのサスーン追い出しは、早い話が、「殺人株式会社アイゼンベルグ」がサスーン関係者を皆殺しにしたということである。以来、中国のアヘン市場はアイゼンベルグ社が独占している。その本拠地はイスラエル。

 ロッキード事件では、なぜか田中は逮捕されたが、同様にワイロを受け取っていた後の首相中曽根康弘は、全く逮捕されなかった。中曽根は現在も、日本の政界の「大御所」として生き残り、「ご意見番」となっている。

この同じ「ワイロ」を受け取った中曽根と田中の、日本の政界・マスコミ、そして警察の「扱いの違いは」、余りに異常である。同じ犯罪を犯しても、一方は刑務所、一方は後に首相。

この中曽根にワイロを渡していたのは、第二次世界大戦中、中国で麻薬密売を行っていた右翼のボス・児玉誉士夫であり、児玉は後に病気により死期が近づいた時、「自分はCIAの対日工作員であった」と告白している。

児玉の第二次世界大戦中の中国での麻薬密売、そのボスであったのが、後にイスラエルを建国するショール・アイゼンベルグであり、児玉が中曽根に渡した資金は、このアイゼンベルグの資金であった。

アイゼンベルグ社は現在、北朝鮮の核兵器を製造している、世界有数の核兵器・原子力発電メーカーであるが、日本に原子力発電を導入したのが中曽根であり、中曽根は科学技術庁長官時代、「密かに日本の核兵器開発を指示した」人物である。

核兵器・原子力発電所メーカー=アイゼンベルグから、ワイロをもらい、日本に原子力発電を導入し、核兵器開発を指示した中曽根。

田中は航空機購入を巡る「ワイロ」で逮捕されたが、原子力発電所・核兵器・購入を巡る「ワイロ」は、「揉み消された」。

アイゼンベルグと、それをバックにした中曽根には、恐ろしくて誰も手が出せない?

こうした「勢力をバックにした」政治家である「からこそ」、中曽根は後に首相となり、現在も政界の「大御所」「ご意見番」となっている。


1942年 OSS(アメリカ戦略諜報局)設立

 第2次世界大戦中、スパイ組織の必要に迫られたルーズベルト大統領は第1次大戦の英雄ドノヴァンに創立を依頼する。ドノヴァンは.英国スパイ組織MI6の協力と、後にイスラエルの建国者となるショール・アイゼンベルグにスパイ技術の指導を受け、OSS(後にCIA)を創立する。



 戦後、ドノヴァンはCIA創立の経験から世界各国でスパイ組織を創立。スパイの養成担当として活躍する。CIAの資金で電電公社(後のNTT)を創立する時、日本側代理人として創立を指揮したのがドノヴァンである。

アイゼンベルグは後に英国スパイ組織MI6と協力し、イスラエルのモサドを創立する。

モサドは後に、MI6の「スパイ技術指導者」となる。米国CIAは、このMI6の下部組織として形成される。

吉田茂、岸信介、池田勇人(と、その末裔達)、イスラエル(アイゼンベルグ=日系イスラエル人)=モサド、中国共産党、スエズ=ドレフュス(つまりロスチャイルド)は、現在も、アジアの麻薬流通のパイプに「共に、ぶら下がった」仲間である。

このパイプが、今後、ロスチャイルド・アジア帝国の動脈になる。

 もちろん中国にも、この帝国に反対する者達が居る(生粋の共産主義者のように)。イスラエル・米国にも、この帝国建設に乗り遅れたネオコン派=ブッシュ一族が居る。

しかし、このアジア帝国建設の原動力は、「逆らう人間を全て殺害し口封じする」、アイゼンベルグ一族の「殺人株式会社」であり、スエズの水事業の共同経営者ビヴェンディを経営するカナディアン=イスラエル・マフィアの殺人者集団ブロンフマン一族である。

 第二次世界大戦後、中国大陸に残ったロスチャイルド一族の者達は、アイゼンベルグによって皆殺しにされ、中国の麻薬市場を奪われた。ロスチャイルドは何一つ、反撃が出来なかった。アイゼンベルグの前では、ロスチャイルドは「小さくなって震えるだけである」。

世界には、いくら多額の金を積んでも「決して言う事に従わない」人間も居る。思想・信念を持つ者は、金では動かない。しかし「決して言う事を聞かない」人間は、殺害し口封じすれば良いだけである。

世界を動かしているのは金の力では無い。どれだけ、たくさんの人間を平然と殺害出来るか、が「問題を解決する」。

世界を動かしているのは、ロスチャイルド等の富豪の資金力などではなく、人間を平然と大量に殺害する殺人集団である。

◆1992年のポンド暴落に際し、空売りにより100億ドルを越えると言われるほどソロスは大儲けした。ソロスは麻薬合法化のキャンペーンに力を入れている人物でもある。「タバコへの批判は、麻薬へ切り替えるための布石である」との噂もあるのだが、その噂もソロスの合法化キャンペーンの勢いを見ると真実みが出てくる。

 なぜ麻薬をそんなにも推進するのか?麻薬は売る側にとって、とにかく儲かるのである。そのソロスの背後にいた強力な裏部隊の一人としてアイゼンベルグの名前をアメリカ国務省の金融情報の専門家は挙げている。

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大虐殺国家イスラエル 難民キャンプも病院も攻撃

http://tanakaryusaku.jp/2014/07/0009795
【ガザ発】 難民キャンプの子供ら殺害、病院も攻撃


2014年7月29日 04:09 このエントリーをはてなブックマークに追加 Yahoo!ブックマークに登録 livedoorクリップ Clip to Evernote


変わり果てた妹(12歳)に最後の別れを告げる兄。=28日夕(日本時間:29日未明)、ガザ市内のモスク 写真:筆者=
変わり果てた妹(12歳)に最後の別れを告げる兄。=28日夕(日本時間:29日未明)、ガザ市内のモスク 写真:筆者=

 イスラエルという国家による同時無差別テロが起きた。

 28日午後5時(日本時間午後11時)頃、ガザ市内の 通り にイスラエルの無人攻撃機から対人ミサイルが発射された。ミサイルは 通り で遊んでいた子供たちを直撃、10人が死亡した。

 現場は「シャーティ難民キャンプ」の前。血まみれの肉片とサンダルが散乱していた。

 殺されたのは同難民キャンプの子供たちだった。祖先は1948年のイスラエル建国で故郷を追われた。祖先が難民として流れ着いた地で、子孫はイスラエルに殺されたのである。

 病院の医師が爆撃に遭った子供たちの死亡を確認すると、ファミリーや近隣の青年たちが遺体をモスクまで運んだ。

 「エルサレム(イスラエル)は数100万のパレスチナ人を殺すつもりだ」「アラー・アクバル」…怒りの合唱がガザの街に響いた。

 モスクで短い祈りを済ませるとすぐに埋葬した。墓地の上空を無人攻撃機が不気味な飛行音をあげながら旋回する。つい1~2時間前、子供たちに対人ミサイルを撃ち込んだ機体だろう。

 子供たちはラマダン明けで真新しい衣装に身を包み、親に買ってもらったオモチャで遊んでいた最中だった。

子供たちは何が起きたのか分からないままに死んでいったのだろう。=28日夕(日本時間:29日未明)、ガザ市内のモスク 写真:筆者=
子供たちは何が起きたのか分からないままに死んでいったのだろう。=28日夕(日本時間:29日未明)、ガザ市内のモスク 写真:筆者=

 ほぼ同時刻に、ガザ市のアル・シファ病院がイスラエル軍に爆撃された。壁が破壊されるなどしたが、奇跡的に死傷者は出なかった。(第一報は死者2人、傷者10人だった)

 アル・シファ病院は世界各国から緊急医療支援の医師らが訪れ負傷者の治療にあたっている。

 ガザでは最も安全な場所であると思われているため、病院の庭や軒先は避難者で一杯だ。あわや大惨事になるところだった。

 ◇

読者の皆様。田中はカードをこすりまくってガザに来ております。借金です。ご支援よろしくお願い致します。

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原発ゼロで貿易赤字は原子力マフィアの大嘘 原発再稼働しても止まらぬ貿易赤字 貿易赤字の原因は原油価格の高騰と アベノミクス による 円安 である

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Metamoris 4 古豪対決 サウロヒベイロvsコンプリド

Metamoris 4: Countdown (Saulo Ribeiro vs. Rodrigo Medeiros)

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ヒーロングレイシー先生のVine動画 ループチョーク



vine動画がInternet Explorerのブラウザで視聴できない時はFirefoxのブラウザで視聴して下さい

ちなみにループチョークだけでこんだけ教則ものが出ています

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ジェームス・クリンガーマン Loop Choke Seminar ★教則DVD★

ループチョークの決定版DVDが新発売!

ジェームス・クリンガーマンによるこのDVDは、ブラジリアン柔術においてうまく使われていないループ・チョークのすべてを徹底解説しています。

そのポジションへの入り方、グリップ、セットアップ、そしていつグリップを持ち替えるのか、相手がエスケープした場合の対処方法、アドバンスのフィニッシュの仕方、そして「Wild Wild West Choke」までも収録。

ただの「首の回りの襟を使ったチョーク」ではありません!


(収録内容)
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Loop Choke from Guard 2
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Wild Wild West 2
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(英語)

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購入数



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世界王者サンドロ・”バタータ”サンチアゴは、ホベルト・”ゴルド”・コヘアとハウフ・グレイシーの黒帯。
現在は来たカリフォルニアのハウフ・グレイシーのアカデミーで指導しています。
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(収録内容は全2巻)
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クロングレイシーのスケートボード バランストレーニング







http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%82%B1%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%9C%E3%83%BC%E3%83%89
スケートボード

スケートボーディング
スケートボード(Skateboard)とは、一枚の板に車輪が付いた乗り物(運動用具)。単にスケート(Skate)と呼ばれる他、日本ではスケボーと略して呼ばれることもある。

スケートボードに乗ることはスケートボーディング(en:Skateboarding)。日本の愛好者間では「滑る」とも呼ぶ。スケートボードに乗る人間はスケートボーダー(Skateboarder)またはスケーター(Skater)[1]。



目次 [非表示]
1 概要
2 スケートボーディングの種類
3 歴史 3.1 1960年代(第一世代)
3.2 1970年代(第二世代)
3.3 1980年代(第三世代)
3.4 1990年代(第四世代)
3.5 2000年代

4 主なスケートボードトリック
5 スケートボード用語 5.1 各パーツ

6 法律上の扱い 6.1 日本

7 関連項目
8 脚注
9 外部リンク


概要[編集]





一般的なスケートボード
通常は四つの車輪を持つ一枚の板に足を固定せずに立って乗る。全長31インチ(約78cm)程度のものが一般的。

日本でのプロ認定や各種競技会は日本スケートボード協会(AJSA)が行なっているが、フラットランドに関しては日本フラットランドスケートボード協会(JFSA)が執り行っている。

スケートボーディングの種類[編集]
ストリート(Street)/ パーク(Park)ストリート(街中)に存在する斜面、縁石、手摺り等を技に利用する事から発展し、それらと同様の構造物を設置したスケートパークも作られる様になった。フリースタイル(Freestyle)/ フラットランド(Flatland)ボードに逆立ちする、ボードを横に倒して乗る、ボードを立てて乗るといった様々な技をフラットランド(平地)のみで行う。バーチカル(Vertical)/ バート(Vert)大型のハーフパイプ(バーチカルランプ)でジャンプ等を行う。スラローム(Slalom)一列に並べたパイロンを潜り抜けながら進んで行く。




ストリート






パーク






フラット






バート






スラローム


歴史[編集]

用語については#スケートボード用語と#主なスケートボードトリックを。
スケートボーダーについてはプロスケートボーダー一覧を参照。

1960年代(第一世代)[編集]

ローラースケートを流用した木製四輪キックスクーターからハンドルを取ったものが原型と言われている[2]。その後カリフォルニアのサーファーが水を抜いたすり鉢状のプールで乗り始めた事から流行が本格化する。当時は「サイドウォークサーフボード」「ロックライダー」などと呼ばれていた。ウィール(車輪)の材質はゴム、鉄、プラスチック、粘土など。

1970年代(第二世代)[編集]





スラローム向け




プール
それまでの単なるサーフィンの練習用のものから、グラスファイバーを使ったスラローム向けの小さめ(幅約15cm)の板と、合板を使ったランプ向けの大きめ(幅約25cm程)の板に分派した。ウィールはポリウレタンが一般化する。

プレイスタイルとしては、ボウルやハーフパイプを備えたスケートパークが建設され、様々な技が生み出される。パーク以外でもフラットランドスケートボーディングが発達する。1978年にはアラン・ゲレファンドがランプ(斜面)で手を使わずにボードを浮かせる技「ノーハンドエアリアル」を開発する。この技は彼のニックネームである「オーリー(Ollie)」の名で広まった。

またこの時代より、大きめの板の「裏側」に着目して飲料水メーカーなどのグラフィックが描かれる様になる。この裏面のグラフィックアートが、その世代の流行を反映しながら今日まで続いている。

有名なところではZ-Boysが世間に名を知らしめた時代である。

1980年代(第三世代)[編集]





アラン”オーリー”ゲレファンド




トニー・ホーク
トニー・ホークやクリスチャン・ホソイがバートランプで名を馳せた。 また、フラットランドで活躍したロドニー・ミューレンが平地でのオーリーを開発し、ストリートスタイルの発展に大きく貢献する。この頃から優秀なスケーターにはスポンサーがつき、シグネチャ・モデルのスケートボードが登場する。また、バスケットシューズを発展させたスケートボード専用シューズが登場する。

この時代にはロックミュージックの一つスラッシュメタルが「スケートロック」とも呼ばれてスケーターに支持され、スケートボード裏面にはレコードジャケットのようなグラフィックが主に用いられた。
ボード
材質は楓の合板が一般化する。デッキ(表面)の縦にコンケーブ(凹み)、更に滑り止めとして、前足部及び後ろ足部に荒い紙やすり状のグリップテープが張られ、デッキ裏にはスライドをし易くする為のレールガードが付けられた。テール部にも角度(キックテール)がつけられた。また1970年代からもあった小技だが、オーリーの成功率をより高く、高さもより飛べるようにつま先を引っ掛ける為のU字型の簡易ドアノブをノーズに付けるのが流行した。競技
バートランプで発展したトリックがストリートでも用いられる。マーク・ゴンザレスがオーリーを駆使して様々な場所を攻め、スケートボーディング誌を華々しく飾った。[3]環境
1970年代から活発な活動をしていたZ-BOYSのトニー・アルバが設立した「アルバスケーツ」を筆頭に、スケートボードの宣伝が各社により活発になった。また本格的にスケートボードウェアーを開発するメーカーも現れた。「THRASHER」をはじめとするスケートボード専門誌が設立され、世界的にも広く普及し始めた。
1990年代(第四世代)[編集]





第4世代のボード。磨り減ったテールを除けば、形状と大きさは殆ど変わらない。
ヒールフリップ・スライド・マニュアルなどのプレイスタイルを主体とし、文字どおり街頭の建造物を使用したストリートスタイルが発展する。デッキ裏面には時代の流行音楽を反映し、ハードコアパンクやオルタナティブロック、ヒップホップ調のグラフィックがあしらわれた。また、有名企業の商標をパロディしたものも流行した。
ボード
デッキの寸法は(幅187.5×縦800mm (7.5"×32") )程に収斂されて行く。ボードを水平回転させるトリックが発達したため、どちらが前後になっても問題ないようにノーズとテールは同じ形になり、トリックの成功率を上げるためコンケーブも強めになる。トリックの多様化でボード全面を使う為、デッキ表側全面にテープが貼られる。ウィールの直径は50~56mm。逆にそういった主流からはずれ、サーファーやスノーボーダー向けに意図的なスライドやボードの傾斜を意識した特殊なボードも開発されてゆく(下記ギャラリー参照)。




ロングスケートボード(en:Longboard)。長さや形状は様々。






フローボード(en:Flowboard)。深いバンクが可能。

競技・環境
スケートボードの宣伝がさらに活発になり、ビデオマガジンが発売された。また、スケートボードやシューズのブランドがスポンサーとなり、プロスケートボーダー4~6名のチームによる活動を始めた。[4]
2000年代[編集]

従来のスケートボードはストリートスタイル普及の結果、街頭の建造物がスケートボーダーにより破壊される問題が発生し、街頭でのスケートボーディングが一部制限される。代わりにストリートセッション中心の公共スケートパークが増え、パークスケートボーディングが発展した。

主なスケートボードトリック[編集]





オーリー




ボードスライド




ノーズグラインドプッシュ(Push)
地面を蹴って進む、一番の基本チックタック、チクタク(Tick tack)
前輪を左右交互に振って進むフェーキー(Fakie)
後ろ向きに進むマニュアル(Manual)
前輪を浮かせるウィリー走行。後輪だとノーズマニュアルボンレス(Boneless)
片手でボードを掴みながら片足で地面を蹴って飛ぶオーリー(Ollie)
テールを蹴りながら人間がジャンプし、更にノーズも蹴ってボードを浮かせるキックフリップ(Kick flip)
オーリーをしながら爪先でデッキを横に蹴って回すヒールフリップ(Heel flip)
オーリーをしながら踵でデッキを横に蹴って回すハンドプラント(Hand plant)
ボードに乗ったままランプや地面に片手を着いて逆立ちするスライド(Slide)
デッキをセクションに当てて滑る技。ノーズスライド、ボードスライド、テールスライドなどグラインド(Grind)
トラックをセクションに当てて滑る技。50-50グラインド、5-0グラインド、Kグラインド、ノーズグラインドなど。前方はボード、後ろはトラックを掛けてグラインドするトリックもある。体重とボードの掛け方でスミスとフィーブルに分けられる。
スケートボードでは背中側に曲がる(または技をかける対象物が胸側にある)事をフロントサイド(F/S)、腹側に曲がる(または技をかける対象物が背側にある)ことをバックサイド(B/S)と呼称する。回転時の呼称に関してはサーフィンと逆である。ただし、スケートボードの場合、ランページのコーピングなど、対象物の高い位置での動きは、サーフィンのリッピングと同じ名称動きとなる。従って、サーフィンのトップターンを基準にして名称が付けられたと考えるのが妥当である。

スケートボード用語[編集]
ノーズ(Nose) - デッキ前方
テール(Tail) - デッキ後方
レギュラースタンス(Regular stance) - 左足が前になる乗り方。
グーフィースタンス(Goofy stance) - 右足が前になる乗り方。
スイッチ(Switch) - スタンスの変更

各パーツ[編集]





逆さにしたトラック。この状態での上部がハンガー。下部がベースプレート




スケートボードなどに広く使われる608番ミニチュアベアリングデッキ(Deck) - 足場となる板。カエデ合板が使われる。
トラック(Truck) - デッキとの固定部分から車軸までを一まとめにした部品。左右に傾ける事で進行方向が変わる。
ウィール(Wheel) - 車輪。ポリウレタン製
ベアリング(Bearing) - ウィール内にはめ込む回転部品。ボールベアリング
グリップテープ(Grip tape) - デッキ上面に貼る紙やすり状のすべり止め。
キングピン(Kingpin) - トラックのベースプレートとハンガーを固定するボルト。ナットの締め具合でトラックの動作量を調節する。
ブッシュ(Bush) - キングピンで挟むエラストマー。硬さによってトラックの動作量が変わる。
アクスル(Axle) - ウィールを通すシャフト。トラックのハンガーを当てる技名にも使われる。
アクスルナット - 外側のベアリングを留める為のナット。
ワッシャー- アクスルに通す円形状の部品。ナットとベアリングが直接触れないように両者の中間に入れる。ベアリングとスペーサーの間に入れることもある。
スペーサー- ベアリング同士の間に入れる部品。アクセルナットの締めすぎによるベアリングの破壊を防ぐ。
ビス - トラックをデッキに取り付ける際に使う部品。デッキの表面から差込、裏面でナットで留める。大別して六角タイプとプラスタイプがある。ボルトやハードウェアと呼ぶこともある。
ハンガー トラックの上半分。

法律上の扱い[編集]

日本[編集]

「ローラースケート#日本におけるローラースケート」も参照

日本の法律上にスケートボードの定義は無いが、道路交通法で定められた禁止行為である「交通のひんぱんな道路において、球戯をし、ローラー・スケートをし、又はこれらに類する行為をすること」[5]が公道上でスケートボードを規制する根拠とされており[6]、実際に逮捕・検挙者も出ている[7][8]。

関連項目[編集]
プロスケートボーダー一覧
スケートパーク
フィンガーボード (玩具) - スケートボードのミニチュア版。指で扱う。
フィラデルフィア - JFKプラザ(en:LOVE Park)やフィラデルフィア美術館など有数のストリートスポットを抱え、東海岸のスケートボーディングのメッカとなっていたが、景観破壊が進んだ為にスケートボードが全面禁止となった。これにボーダーが反発し、石膏で出来た「スケートの石碑」を、街中のあらゆるスケートスポットに置くなどの行動に出た[要出典]。
ストリートボード - 旧スネークボード。デッキを三分割したスケートボード
フリーラインスケート - スネークボードの前後を分離し、ウィールを縦一列に並べたもの
キャスターボード
ロードコーン - オーリーの高さの指標として用いられる事が多い。立てた状態を飛べればオーリーをマスターしているといえる。
スケート - スケートボードの略称。ただし、日本ではアイススケートを指す場合が多い。
スケートサイクル - 2つの車輪が真ん中の軸で一個に繋がった手錠型スケートボード

脚注[編集]

1.^ 年少のスケーターを指す「キッズスケーター」は和製英語。
2.^ 映画「バック・トゥ・ザ・フューチャー」にそのパロディがあり、時代こそ1955年となっているが、舞台はスケートボーディング発祥の地カリフォルニアである。
3.^ 特にカリフォルニアの一角には、ゴンザレスが特に攻め込んだ『ザ・ゴンズ』というポイントもあった。
4.^ 具体的には「FLIP」「ALIEN」「DC SHOE」など。
5.^ 道路交通法第76条4項3号
6.^ 商店街を猛スピードで走るスケボー。どうしたらいいの? - Blue Ocean Lesson 教えて!中田先生 - TOKYO FM 80.0MHz - 中田光一知・望月理恵
7.^ GATE スケートボード BLOG: 迷惑スケボー男を逮捕=駅前で乗り回し、苦情85件−大阪
8.^ 繁華街でスケボー、4人検挙 道交法違反容疑 大阪 朝日新聞 2013年8月31日


http://st-style.com/sports/2533.html

スケートボードカルチャー入門・スケートボードの歴史
Posted by Daniel on 5月 8, 2012 // Comments Off

スケートボードカルチャー入門・スケートボードの歴史


スケートボードカルチャーの発祥の歴史


スケートボードというストリートスポーツのカルチャーは、発祥から数十年経った今もスタイルやテクニック、ファッションに至るまで年々と進化している。
スケートボードという愛称で親しまれ日本に輸入された、この人気ナンバーワンのストリートスポーツの発祥は
1940年代から1950年代にアメリカはカリフォルニア州で生まれた。



1950年代の、カリフォルニアの若者の間では、サーフィンがブームであった。
しかし、サーフィンは海でやることから、波が無いとき、サーフィンを楽しむ事が出来ない。
カリフォルニアのサーファーは、波のない日にもサーフィンを楽しみたいと思ったことから、板に小さい車輪をくっ付けて遊び出した。
こうして最初のスケートボードが生まれた。



スケートボードの最初の発明者は誰なのか知られておらず、ある特定の1人が発明者ではないのかもしれないが
1950年代のカリフォルニアサーフコミュニティーから出現したと考えられている。

当初のスケートボードは木の板で作られ、木のスクーターを基にして作られたが、1959年までには
正確に設計された「Roller Derby Skateboard」というバージョンが作られ、サーフショップで購入することが出来るようになった。





1960年代に始まったスケートボードブームと安全の問題


スケートボードは、元々マイナーなストリートスポーツで、サーファーの二次的なスポーツであったが、しばらくすると人気ストリートスポーツとして盛んになってきた。
1960年代の前半には、50,000,000台のスケートボードが販売され、ローカルなスケートボードの大会が開かれた。

しかし、急激なスケートボードのブームのせいで、スケートボードを製作している会社が安全の検証をしないまま、耐久性の弱いスケートボードを販売していた。
1965年頃までに、怪我や死亡事故がなどが増え、スケートボードのブームは終焉をむかえた。






スケートボードの技術の進歩とスケートボードのカルチャーとしてのブーム再来


1960年代以来、スケートボードのブームが終わったが、ハードコアなスケートボードファンはその後もスケートボードをやり続けた。
しかし、スケートボードの技術はまだ未成熟で、多くの怪我や事故の恐れがあった。
1972年に、Frank Nasworthy(フランク・ナスワージー)という人物は、ウレタン製の車輪を発明し、もっと強いスケートボードを作れるようになった。
スケートボードの走りの性能がスムーズになり、ウレタン製の車輪が道をグリップできるようになり、以前より安全にスケートを楽しめるようになった。
そして、様々な実験的なオーリーやトリックが可能になった。





スケートボードの大会とスケートパークの時代


1975年に、カリフォルニア州のDel Marという街でスケートボードのスラロームとフリースタイルの大会が行われた。
Zephyr Crew(ゼフィール・クルー)というスケートボード団体は素晴らしいフリースタイルトリックやジャンプをショーケースで披露した。

1976年に、フロリダでは世界で最初のスケートパークが作られた。
スケートパークが建てられる前は、スラロームとフリースタイルの中心のスケートテクニックが多かったが、スケートパークのブームも手伝って
バーティカル系のスケートボードが流行った。また、スケートボードのデザインも変化していき、ボードはやや長くなり、通常のスケートボードが9インチ以上になった。

バーティカル系スケートパークが流行した後、スケートボードのアートカルチャーも進化していった。
様々なジャンプやトリックが可能になったことにより、スケートをプレイ中にもボードの裏のデザインが見られるようになってきた。
1970年代の後半まで、大抵のスケートボードの裏のデザインには、イラストが描いてあった。
パンクとニューウェーブの音楽がスケーターに人気だった。





スケボーのベーシックテクニックの「ollie」(オーリー)誕生の話


1978年に、Alan Gelfandというスケーターは「ollie」(オーリー)というトリックテクニックを生み出した。
1970年の後半には、スケートーパークだけではなく、プールスケーティングが人気になった。

カリフォルニア地方独特の温暖な気候、乾燥した空気という特徴により、プライベートプールの水がなくなり、水が空になったプールがいいスケートエリアになった。
しかし、ここでも怪我が絶えなかったことから、プールスケーティングは禁止された。
また、1980年代の前半には、スケートパークの保険料も上がり続け多くのスケートパークが閉鎖された。
しかし、その後もハードコアなスケーター達はスケートボードをやり続け、Tony Hawks(トミーホーク)などの有名なスケーターが現れた。
スケートボードの大会は、その後も続いたが、ファンが少なく賞金も少なかった。





スケートボードのテクニックの種類紹介


・フリースタイル(Freestyle)とフラットランド(Flatland)
ボードに逆立ちする、ボードを横に倒して乗るなどのテクニックがフラットランド

・ストリート(Street)とパーク(Park)
街中にある斜面、縁石、手すりを技に利用する事から発展したテクニック、これらと同様のデザインを復元したたスケートパークも作られた。

・バーチカル(Vertical)とバート(Vert)
大型のハーフパイプ(バーチカルランプ)でジャンプするテクニック

・スラローム(Slalom)
並べたパイロンを潜り抜けながら進んでいくテクニック。




4回目のスケートボードブーム到来


1990年代の前半に、不況のせいもあり、スケートボード業界がスランプに入った。
しかし、1995年にエクストリームスポーツ(ExtremeSports)のテレビ番組でスケートボードが紹介されてから、またスケートボードのブームが始まった。
そして、Vans、Etniesなどのスニーカーメーカーが次々にスケートボード用のスニーカーを販売し始めたことにより、スケートボードとストリートファッションのカルチャーが見事にミックスされた。そうしてストリートカルチャーの一種になっていった。

その後、スケートパークの安全とスケートボードの技術が向上したことにより、初めてスケートボードは始めてメインストリーム層に定着していった。

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柔術プリースト 139

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欧米でヒンズースクワット ヒンズープッシュアップの源流といえばインド人レスラー グレートガマですが日本のヒンズースクワット ヒンズープッシュアップの源流はカールゴッチではなくインド人レスラー ダラ・シン

Hindu Squat

Hindu push up

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プロフィール
高木圭介
昭和44(1969)年6月4日、神奈川県川崎市生まれ。神奈川大学レスリング部を卒業後、1993年に東スポ入社。プロレス&格闘技、社会、レジャー、特集部などを担当後、現在は運動部所属。 2006年10月、本紙携帯サイト「東スポ芸能」のスタートと同時に当コラムはスタート。2009年10月から晴れて、紙面でも連載開始。世の中の重箱の隅を愛する〝長期連載〟。

393:昭和30年、ヒンズースクワット伝来
2013年02月07日



http://www.tokyo-sports.co.jp/blogwriter-takagi/746/
<2012年11月=東スポ携帯サイトより>


 女優の森光子さんが11月10日、心不全のために亡くなった。享年92。

 森さんと言えば、上演2017回にも及ぶ舞台「放浪記」があまりに有名。87歳まで舞台上で〝でんぐり返し〟を披露し続けた元気の秘訣を聞かれた際、必ずや森さんが口にしていたのが「毎朝のヒンズースクワット」だった。

 同じく年齢を超越して活躍し続ける黒柳徹子(79)も、元気の秘訣に関する質問には「ヒンズースクワット」と答えるのが常。森さんが「徹子の部屋」にゲスト出演した際には、2人揃ってヒンズースクワットを披露したこともある。

 一般的に高齢女性(失礼!)と呼ばれる彼女たちの元気の秘訣が揃いも揃ってヒンズースクワット! 森さんは専属トレーナーに薦められたそうだが、黒柳はテレビ番組で共演したジャイアント馬場さんから「老化は足腰から始まる。これを毎日やりなさい」と薦められたそうだ。

 単語として、すっかり一般化されている「ヒンズースクワット」だが、その発信源はプロレス界。昭和35年、力道山道場に入門した馬場とアントニオ猪木が、数千回にも及ぶヒンズースクワットによってしごかれ、道場の床に汗の水たまりができた(蒸発はしなかったのだろうか?)という伝説が残されるほど。

 かつて世間にヒンズースクワットを啓蒙した人物と言えば、猪木、カール・ゴッチ、山本小鉄さん、そして漫画「1・2の三四郎」だったものだが、ここ数年は森光子さんと黒柳徹子が「高齢女性にも効果アリ」というオプションをも含め、スクワット啓蒙の急先鋒となっていた。

 そんなヒンズースクワットを日本に伝えた人物とは、昭和30年に日本プロレスに来日したインドの強豪ダラ・シンだ。

「外人レスラー=悪党」という記号が当たり前だった時代、正統派レスリングで力道山を苦しめたダラ・シンは強い印象を残した。少年時代にその試合ぶりを見た猪木や立川談志、放送作家の高田文夫らはダラ・シンから強烈なインパクトを受けたことを語っている。

 そんなダラ・シンが、来日の置き土産としてインド式鍛錬法・ヒンズースクワットを力道山に伝授。それが力道山道場の伝統となり以降、日本のプロレス界に脈々と受け継がれ、やがては日本のスポーツ界に大きな影響を与えたのだった。

 日本に仏教や稲作文化を伝えたのは渡来人、キリスト教を伝えたのはフランシスコ・ザビエル、そしてヒンズー・スクワットを伝えたのがダラ・シンであることを日本国民は忘れてはならない。

 レスラー引退後もインドで俳優、議員として活躍したダラ・シンは、日本でスクワットを啓蒙し続けた森光子さんより4か月ほど早い、7月12日に83歳で亡くなっている。

 ダラ・シンは昭和41年にも実弟のサーダラ・シンを伴って来日。馬場&吉村道明組が保持するインターナショナル・タッグ王座に挑戦した記録も残っているのだが、このダラ・シンが昭和30年に来日したダラ・シン本人かどうかは今もって謎とされている。

 数年ぶりに来日したダラ・シン兄弟への期待は絶大で、当時の本紙には「ダラ・シン兄弟が6月27日の午後12時30分にエアー・インディア112便にて羽田空港へ到着!」「午後3時からホテル・ニュージャパンにて調印式」などと、前代未聞の興行以外の広告が掲載されたほど。その後の公開練習でもダラ・シン兄弟が披露する運動法、食事法のすべてが「ヨガの秘術」として紹介されているのも面白い。

 現在、スクワット啓蒙の源流であるプロレス界では、ヒザへの負担、スクワット数千回世代の選手が皆一様に若いうちにヒザを壊している事実を踏まえ、昔ながらのヒンズースクワットは準備運動として、せいぜい200回程度に留めておくのが主流となっている。

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コシティ Indian Clubsを最も詳細に教えているRichard Maguire先生の動画より 5


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コシティ Indian Clubsを最も詳細に教えているRichard Maguire先生の動画より 4









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コシティ Indian Clubsを最も詳細に教えているRichard Maguire先生の動画より 3









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コシティ Indian Clubsを最も詳細に教えているRichard Maguire先生の動画より 2










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コシティ Indian Clubsを最も詳細に教えているRichard Maguire先生の動画より

ハッキリ言うと日本人でまともにコシティ Indian Clubsをまともに回転させながら運動している人は皆無ゼロですね
レスリングの日本代表の先生の動画も見ましたがまともに回転させるんじゃなくてただ振っているだけ
きちんと出来ているのはカールゴッチ系 大昔の新日本系のレスラーくらいですね
日本人では

よってコシティ Indian Clubsのやり方を勉強するんなら上手い人たち インド人やイラン人パキスタン人だけでなく欧米人のやり方を参考にするといいです
私も欧米人の先生たちの動画見て3kg ヒロッタは5kgで回転させながら振ることが出来ました
といっても私の場合は超ド下手糞で全然上手に出来てないんですが…
ヒロッタは上手く回転させてました
でもそれでも一番簡単なメニューでしかないんですよね









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ブドージェイクのTWIBJJ より 珍しく秘密主義のヒクソンが独自のノウハウを公開 ヒクソン式肩ブリッジとか基本の立ち方 立った時のベース バランスの取り方とか




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ヒクソンが安生道場破り返り討ちを告白 これは特に目新しい情報でもないなぁ

http://blog.livedoor.jp/nhbnews/archives/52390617.html

【ネット映像】 ヒクソンの回想~ジョー・ローガンのネットインタビューに答えて( vs 安生編) < gryphon

https
Kinya Hashimoto:橋本欽也

https://twitter.com/KinyaBJJ
7月24日
ジョー・ローガンのポッドキャスト、YouTubeで見れます。

https://www.youtube.com/watch?v=QH5dBdpIiJw

エディ・ブラボーもゲスト参加。まじ面白いから英語がわかる人はぜひ!


ジョー・ローガンのポッドキャスト、いま配信中のヒクソンゲスト回は必聴!新連盟のことはもちろん、ホーウスのことやvs安生戦、vsウゴのビーチファイト、ルタvs柔術の話などなど初出しエピソード満載。これ、まんま日本語訳したらかなり読み応えあるはず、ゴンカクあたりがやればいいのに!

===============

※…という橋本氏のツイートを
http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20140725

で紹介したら、コメント欄で一部を
あの「Poet」さんが訳してくれました!!!



Poet 2014/07/26 01:48
な、長いよ。安生に関するところだけ。2:11:30頃から。

==========================
VTJ95が終わった直後だ。
WWFみたいなプロレス団体でUFO(ママ)というのがあって、そこのチャンピオンのタカダが雑誌で、ヒクソンをやっつけてやるとか言ってたんだ。その2,3ヶ月後、日本の友人から連絡があって、公式な返事をしたほうがいい、人々は、あなたがタカダを恐れていると考えるかもしれないと言うんだ。

そこで、私は手紙を書いた、私は、あなた方のリングでは戦わない、真剣勝負でないfixed fightの場で試合をするのは流儀に反する。でも、こちら側のイベント、VTJでもいい、に出てくれれば試合をしよう、なんならストリートファイトでもいい、しかし真剣勝負でないイベントには出られないと。

そうしたら、今度はアンジョーが色々と言い出したらしい。しばらくして、私が家にいたら、道場のアシスタントから日本人が来ていると連絡があった。私は、ビデオカメラをバッグに入れ、11才のホクソンを連れて車に乗った。
ハイウェイを運転しながら手にテーピングをした。道場に着いたら、外は日本のカメラマンでいっぱいだった。道場に入るとスーツを着た日本人が「ミスターグレイシー、私はUFO(ママ)の代表です。正式にあなたを招待したい」と言うんだ。

私は、「言ったはずだ。私は真剣勝負でない場では戦わない」
「でも、誇りのためならストリートでも戦うと言いましたね?」
「いいでしょう。」
「ファイターは、ここに来ています。」

私は生徒にファイターを入れろ、レポーターは入れないようドアに立っていろと命じた。アンジョーが醜い顔で入ってきた。私は誓約書にサインしろと言った。アンジョーが醜い顔で色々言うと、UFOの代表は、「ミスターグレイシー、誓約書にサインしないと戦えないのですか?」と言うんだ。「そうだ」と言ったら、外に出て、「ヒクソンは戦わなかった。チキンだ。」って言うに決まってる。

だから、「いや、必要ない。さぁ、戦おう。」と言ったんだ。
戦いが始まり、私はすぐにアンジョーを倒し、バックを取った。でも、すぐに眠らせてしまうのではなく、罰を与えたことを皆に見せようと思った。そこで一度顔を向けさせ、顔面を殴り、血だらけにしてから眠らせた。血の海の中にね。その後、プレスを中に入れたんだ。アンジョーは写真を撮られないよう顔を隠して出て行った。

3,4日後、アンジョーは、また道場に現れて、謝りたいと言って、サムライヘルメットを土産にくれた。そして、彼は日本に帰っていった。

日本に帰ってから、アンジョーは「不意打ちにあった」とプレスに言った。プレスは見てないからな。私はアシスタントにビデオを持って日本に行き、記者発表するように言ったんだ。

その後、タカダと戦うなら(fixed fightでない)新しいイベントを立ち上げるというから了承したんだ。


==================================


終始、汚らわしいものを思い出したみたいに不快な表情のヒクソンでした。

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ヒクソングレイシーがポッドキャストで 濃い内容 マニアックな裏話 を大公開!





























http://btbrasil.livedoor.biz/archives/55604282.html
【ニュース】ヒクソン新連盟、JJGFの積極的なプロモーション
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7/18(金)、オフィシャルサイトの公開と共に全貌が明らかになりつつあるヒクソン・グレイシーが作った新連盟、Jiu Jitsu Global Federation、略してJJGF。

広報担当のトニー・パセンスキーからヒクソンへのインタビューのオファーがあったことは既報の通りですが、そのインタビューが無事に終わり、そこで新連盟を作った意図や今後の方針などが語られました。

日本向けのインタビューの他にブラジル・TATAME誌、アメリカ向けにはジョー・ローガンのポッドキャストなど積極的なプロモーション活動をしているようです。

またこのインタビューでは新連盟のことの他にもマスターカウンシルなる柔術評議会を作りたいという意向も明らかに。

これは柔術コミュニティー全体の意見を聞くためのひとつの場として柔術界の重鎮を招待し、そこで意見交換や新たな試みなどを話し合っていくというもの。

すでにこの評議会に参加表明しているのはジョアオ・アルベルト・バヘット、アルバロ・バヘット、フラビオ・ベーリンギ、ペドロ・サウアーら赤帯・赤黒帯の重鎮らがズラリ!

他にもカーロス・グレイシーJr.やマーシオ・フェイトーザにも招待状を送っているというから、その返答が気になるところです。

さらに評議会では一般の人もヒクソンに直接質問できるような質問コーナーも設けるというプランも。

もしこれが実現したら技術的なことはもちろん、柔術の歴史的な史実などもグレイシー柔術~ブラジリアン柔術の生き証人ともいえるヒクソンに聞ける画期的なこととなるはず!

またエディ・ブラボーも参加メンバーに名を連ねている若手育成のためのデベロップメント・カウンシルも組織されるようです。

ヒクソンの新連盟JJGFは連盟の運営だけでなく様々な試みもあるようなので今後の動向にも注目でしょう。

今回行ったヒクソンの1時間以上にも渡るロングインタビューは来月発売のFight&LifeとJiu Jitsu NERDに掲載予定。

乞うご期待!

http://cafe.quietwarriors.com/?eid=871449

ヒクソン・グレイシーの新連盟JJGF
ヒクソン・グレイシーの新連盟が7月18日に発足です。



名前はJiu-Jitsu Global Federation (JJGF) 。

http://www.jjgf.com/
(まだウェブサイトは何もないですが)

実は私がヒクソンが何かをするということを聞いたのは1年程前なので、やっとか~という気がしないでもないですが。

その頃はまだ具体的には聞いてなかったのですが、具体的に何をすると聞いたのは冬頃だったかな?

教則DVDで有名な柔術オタク、トニー・パセンスキーがこの連盟でフルタイムで働くということで、今年の初めだったかに(記憶があいまい)今までアカデミーで柔術指導をしていたのをやめました。

他の友達もこれに関わってるのですが、とにかく絶対の絶対の絶対に口外しないでほしいということで、厳重に口止めされており、トニーも秘密ということで詳しくは教えてくれませんでした。

というのも、今までいろんな人が連盟発足しようとすると、すぐさま○B○○Fに潰されてきているので(あれ、こんなこと書いてもいいのかしらん?笑)、発表したくなかったのでしょう。

とにかくすべての準備が整うまで一切外部に漏れたくないようでした。

やっと準備が整ったようで、昨日発表になりました~。

一応プロモビデオらしいんですが、見ても特に何もありません(笑)


ということで、詳しいことは正式に発足となる18日まで待たないといけないようです。

それにしても今まで散々いろんな人が連盟を作ろうとしてきたからか、イマイチ柔術界では話題になってないし、「うおーーー、ヒクソンが!」という反応もないようなのですが、詳しいことが発表になって、みんなのド肝を抜くような内容だったらもっと話題になるかな?

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椿三十郎と伝説の弧刀影裡流逆抜き不意打ち斬り


Tsubaki Sanjuro-001 投稿者 Yeppudaa5678


Tsubaki Sanjuro-002 投稿者 Yeppudaa5678



弧刀影裡流逆抜き不意打ち斬り





http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%A7%E5%88%80%E5%BD%B1%E8%A3%A1%E6%B5%81%E5%B1%85%E5%90%88%E8%A1%93
弧刀影裡流居合術

弧刀影裡流居合術(ことえりりゅういあいじゅつ)は、九州出身の野瀬庄五郎が西南戦争に従軍した経験から編み出した居合術。

車返し、風切りなど9本の形があったという。

黒澤明の映画『椿三十郎』のラストで主演の三船敏郎が繰り出した技は、この流派の形(抜き手、切りかかる手に切りつけるもの)を参照して殺陣師の久世浩(久世龍)が編み出したものだとされる。 『「映画を愛した二人」黒沢明 三船敏郎』によると「逆抜き不意打ち斬り」という名で、心臓を切る技とされる。 映画では相手の室戸半兵衛役の仲代達矢が抜刀するより早く帯刀の刀を左手で逆手に抜き(元になった弧刀影裡流の技では順手に抜く)、刀の峰に右手を添えて刀を押し出して仲代達矢の右腕の下付近を切ったように見える。三船敏郎は早く抜くために普通の刀より5寸(15cm)ほど短い刀を使用したという。

http://blogs.yahoo.co.jp/aonisai0719/54786696.html

椿三十郎の居合抜き

2008/5/7(水) 午後 0:05
居合道
格闘技

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椿三十郎の映画が封切られたのは昭和36年のゴールデンウイーク。高校生だった。熊本市内の映画館に見に行った。その前の「用心棒」が凄まじい立ち回りで驚かされた。評判がよかったので、東宝映画は2匹目のどじょうを狙った。その椿三十郎の最後はあの名シーン、仲代達也と三船敏郎の決闘である。あれは居合抜き、だと知った。その迫力に圧倒された。

居合をやりたいというきっかけはこれだった。いつかはやってみよう。そう思っていたが、なかなか道場が見つからない。

やっと探したのが、昭和47年。「居合道入門」加茂治作著、を購入し、巻末の道場のリストから、杉並の道場を探し出した。大麻という師範だったようだが、高齢だった。入門後、半年もしないうち、道場閉鎖。その先生がなくなられ道場が閉鎖されてしまった。無双直伝英信流という流派だった。

模擬刀を購入したので、その本をみながら真似事はやっていた。

2002年9月、鎌倉居合道協会をネットで探し出し、始めた。杉並の道場から、30年たっていた。

無双直伝英信流か夢想神伝流という流派しか知らなかった。居合道に関することはあまり知らなかった。

そういうのはどうでもよかった。やっとここまで来たのかと思った。5年間夢中でやった。

2007年9月、「斬ることはご法度」という妙な申し合わせを知って、唖然。武術ではない。どこかでだれかが変な解釈してしまってそれがなぜか通ってきた。踊りをやってる場合ではない。そういう流派に通うのはやめだ、と抜刀術に変えた。

私の思っていた居合道と、どこか違っていたのだ。あの椿三十郎のシーンとはまるで違う世界だったのだ。


あの椿三十郎の最後のシーンの殺陣の指導はは久世竜。

シナリオには「これからの二人の決闘は、とても筆では掛けない。長い恐ろしい間があって、勝負はギラッと刀がいっぺん光っただけで決まる」、これだけである。

孤刀影裡流(ことえりりゅう)という抜刀の流派の技。「逆抜き不意打ち斬り」である。西南戦争のとき野瀬庄太郎という九州出身の人が編み出した。実践から割り出した迫真の剣法である。九州でのロケ中(1942年)、久世竜は偶然この居合抜きを知った。あたためていたその技を、椿三十郎の最後のシーンに使ったのでる。

孤刀影裡流、これがあのシーンのオリジナル。実践向きの居合抜きである。出演者達には真剣がどれだけ重く、そんなに簡単ではないことを実際に「巻きわら斬り」をやらせて、黒澤明は覚えさせた。

居合抜き、抜刀術、速く抜いて、素早く斬る。こういうことを習いたかったのだが、今の無双直伝英信流にはその片鱗もない。

三船敏郎も仲代達也もあのシーンのために相当稽古をしたらしい。

最終的には、三船敏郎の刀は(もちろん模擬刀)、5寸短くしたのだという。

孤刀影裡流の宗家野瀬庄五郎は、それを難なく抜いていたのだから、当時の武人たちの身体能力の凄さがわかる。


青葉塾道場
http://www.ningenkobo.com/aikidou

http://ameblo.jp/sya-to/entry-11562234963.html
逆抜き不意打ち斬り(椿三十郎)に挑戦!
2013-06-28
テーマ:パフォーマンス
映画『椿三十郎』より。
世界中の度肝を抜き、未だにこれを超える殺陣は無いとさえ言われている伝説の居合い抜刀「逆抜き不意打ち斬り」に挑戦。

元映像=> 椿三十郎ラスト

$俳優沙人(しゃと)の日記


※『弧刀影裡(ことえり)流居合術』を元に殺陣師の久世浩(久世龍)氏が編み出したそうです。

映画では刀身を15cm短くして抜きやすくしてたそうですが、僕は刀身の長さはそのままに(合金だしねw)「体捌き」で抜きやすくしてみました♪最後には「逆手(握り)」じゃ無く「順手(握り)」でも抜けるようになってます(^^)v

手では無く「身体」で抜くと言う“術”を知ればこその挑戦でしたグー

いや~ 体捌きって、本当に素晴らしいものですね!
それではまた ご一緒に楽しみましょう♪

さよなら
さよなら

ではまたパー
懐かしの映画番組解説風にw

http://uneyama.exblog.jp/3391844

間が開いてしまいました。

このところ、更新していませんでしたね。
間が開いてしまいました。

ある一社から、正式に面接のオファーがありました。
…今まで動いて出てきたところは、殆どが書類を送った途端、ナシのつぶてか、断りの手紙になってしまう。

A社に居た事が問題なのか、それとも経歴そのものが問題なのか。

こればかりは、理由を明らかにしてくれないと、全く分かりませんが、理由が明らかになる企業は、殆ど無いのが実情ですからね。

で、オファーは良いものの…
来週の23日の日曜日なんですよね(汗)。

で、ここが落ちたら、自分とこの事務所で頑張らないといけない、と言う事で、家族一同意見が一致しております。


今月末までには、はっきりすると思いますので、その時は、またまたここで発表致しまする~!




さて。
とある番組で、情報を知ったので検索してみたら、その時は…

■福井晴敏氏「椿三十郎」「用心棒」をリメイク
時代劇マガジンvol.14より。
・椿三十郎
08年正月東宝系、森田芳光監督。
脚本はオリジナルを使用。

・用心棒
09年正月東宝系、崔洋一監督。
ハードボイルドな話に作り替えるらしい。

という書き込みを見ました。

で、昨日になってまた調べて見ると、↓こんなニュースが。
SANSPO.COM > 芸能

…う~~~~~~~む。
「椿三十郎」か~~~~~~~。

実は、
三船&黒澤映画の中でも、一番大好き!な映画なのです。

あらすじは、一人の浪人が、お家騒動に嫌々巻き込まれ、やる気と血気たけは盛んだがそれ以外何も無い役立たずな若者どもの尻拭いに奔走させられ、しまいに何故かお家騒動を鎮めてしまうという、実に爽快なストーリーなのだが(笑)、ワタクシには、三船敏郎以外、この役どころはムリだと思っている映画。

だから、何もオリジナルの脚本のまんま映画化しなくても良いと思うのですが、皆さんはどうお思いになるだろうか?

織田裕二さんと三船さんとでは、個性が違い過ぎるし、時代が違い過ぎるからです。


さて。
この映画には、最後の最後にある途轍もない事が隠されています。




…それは。
最後の殺陣なのです。

というのも。
どんな時代劇でも真似された事がありません!

何故なら。
あまりにも凄すぎて、真似ればどこのものかが一瞬で分かるからなのです。


ここでは、わざわざ隠しているので、ある程度詳しく書くと…

主人公と若者達の前に、悪党の参謀役(仲代達矢さん)とにらみ合い、にらみ合い、にらみ合い…それが続き、双方抜刀し、抜き打ち(※居合い)で斬り合うも、三船さんが一瞬にして仲代さんの『右脇』を一刀の下に切り捨てるというものです。

ここで、何故『右脇』と強調したのか?

ここに、この殺陣のとんでもなさが隠されています。



通常、二人の剣士が向かい合い、剣を居合いに抜き合えば、互いに腹か『左脇』を斬るか、頭を一刀両断か、右に袈裟懸けするように斬り合う筈です。

そして、カメラワークの問題で、手前(左側)に主人公が居て、相手が向こう(右側)に居れば、主人公の背中で、相手を隠してしまう筈なのです。

しかし。
この映画では、三船さんは、寧ろ仲代さんに隠れてしまう。それどころか、仲代さんの時代劇史上、空前絶後の大きな血飛沫が一番手前に映っているのです。

これは、普通の殺陣とカメラワークではありえません。



でも。
これが異常に考えられるのは、常識に囚われているからなんです。

本来。
武士は、必ず右利きというのが、武士としてあるべき姿です。左利きは、作法として許されなかったのです。

つまりは。
通常、刀は『右手』で抜くものなんです。

しかし、です。
この殺陣では、実は、『左手』で抜いているんです!



この映画の撮影で、黒澤さんが出した注文は、「仲代を隠さないで、反対側へ行って欲しい」というもの。主人公が手前に立とうが向こう側に立とうが、これは通常の斬り合いではありえません。

これは、血飛沫をどうしても撮りたかったかららしいです。

そして、次が大きな問題となってしまった。

脚本には、意味合いとしては『電光石火、一瞬で決まる』というような事を一言書いてあっただけらしい。

当時、これを読んだ殺陣師の久世浩さんと三船さんは、めちゃめちゃ悩んだそうです。何しろ、何をどうしろという指示が一切無いのにも関わらず、注文だけは常識外れだったからです。

通常通り、右手で抜いて斬る事自体は出来ます。しかし、『右脇』を斬ろうとすれば、抜いた刀の刃を返す瞬間があり、時間的に遅れが出るので、使えない。

そこで、二人は、古武術を漁り始めました。
何か、必殺の技は無いのか?と。

そして。
彼らは、見つけました。

その名は…

弧刀影裡流居合術(※ことえりりゅういあいじゅつ)

この抜き手技に注目したのです。


通常、居合い抜きは、前述の通り、『右手』で抜きます。

しかし、この流派では、形によっては『左手』で抜くのです。

彼らが見つけたものは、刀を左の逆手で抜き、右下腕の外側で刀の峰を押し出すというものでした。


これを見つけた彼らは、一瞬にして相手の『右脇』を切り裂く、立ち技として改造しました。

そして、一瞬速く抜くために、通常の刀よりも5寸(15cm)短くしたとの事です。

そして、あの殺陣のシーンへと繋がったのです。

シーン撮影は、一発で終わったそうです。

彼らは、この技の事を『逆抜き不意打ち斬り』と後に呼んでいます。

公開時、速すぎて見えなかったという、苦情とも感動ともつかない感想が巷に溢れたらしいです(笑)。



ところで。
この殺陣のシーンには、まだエピソードがあります。

実は。
仲代さんは、血飛沫が上がるのは、仕掛けをしているから知っていたが、その量までは知らなかったのです。

で。
実際、その量を見て、『何なんじゃ?!こりゃあ~?!』とめちゃくちゃ驚いて、気持ち悪くなったそうです。

で、仕掛けのガス圧に後ろへ倒れそうになったのを気持ち悪くなっているのを我慢しながら前に倒れたそうです(笑)。

驚いて顔面蒼白になっていたのは演技ではなかったのかもしれません(笑)。



織田さんの映画では、どのような仕掛けが待っているのか分かりませんが、楽しみに待っていようと思います。

皆さんも、もう一度、この映画を楽しんで見て下さいませ。

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あこう堂さんのブログより 浅野返しと仁木返しの違い











http://blog.livedoor.jp/akoudou2008/archives/1604531.html

http://blog.livedoor.jp/akoudou2008/archives/1604613.html

http://blog.livedoor.jp/akoudou2008/archives/1604852.html

http://blog.livedoor.jp/akoudou2008/archives/1605155.html

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この世の中は大嘘だらけ アメリカの月面着陸はただの戦時プロパガンダ アメリカは安全なクリミヤ半島を飛行禁止にして、航空機の撃墜事件が頻発していた最も危険なウクライナ東部に民間機を誘導 米連邦航空局(FAA)や国際民間航空機関 (ICAO)の大失態である  ところが誰一人マスコミは指摘しない不思議

http://blog.goo.ne.jp/syokunin-2008/e/d554912541973eacf7dbebd7ee2cb0fc

月面にはためく星条旗と半世紀後のルナー・リコネサンス・オービター(LRO)

『頭の柔軟体操としてのアポロ月着陸船』

日本ではフクシマの『猫だまし』か『赤いニシン』(間違いに誘導するニセの手がかり)だとしか思えない特定機密保護法や集団自衛権、原発の再稼動など、世界ではマレーシア航空機の神隠しに続く撃墜事件にイスラエル軍によるパレスチナの大虐殺などなど。余りにも理不尽で腹立たしいことが多すぎる。
今回は視点を変えて深刻すぎる目の前の問題点を、気分転換で半世紀も前の誰も被害者がいない『アポロ計画』のお笑いモードで頭を冷やす必要があるだろう。
上に掲載した画面はアメリカのNASAが公開した解像度が0・5メートルの月探査機ルナー・リコネサンス・オービター(LRO)の超高解像度カメラの『月面にはためく星条旗』の最新映像である。
科学ジャーナリストの松浦晋也はアメリカのNASAが2009年に打ち上げた月探査機(LRO)がアポロ計画の台座を写して一般公開たことから『これでアポロ疑惑に終止符を打った』と早とちりしたのですが、現在は一切沈黙して語らない。自分の恥ずかしい勘違いに気がついたのだろう。
公開したLRO映像ですが注意深く見ると、NASAの目的がまったく逆であることが良くわかる。
半世紀前のアポロのビデオ映像と今の最新映像とが完璧に矛盾している(一致していない)のですから、どちらかが真っ赤な偽物なのである。
月面上に残されたアポロ着陸船の台座(月からの発射台)は直径が4メートル高さが3メートル一方の足の端から反対側の足の端まででも10メートル程の小ささである。(黒く見えるのは噴射痕だろうか)
今回のLROの写真にはスケールが添付されているので計って見ると、台座から星条旗までの距離は19~36メートルだった。
ところが人類で最初に月を歩いたアームストロング船長のアポロ11号では着陸船から5~6メートル程度の極近い距離に星条旗を立てていた。飛行士は余り歩きたくなかったのであろう。
11号以外の他の5回のアポロ計画では若干遠い位置に旗を立てているが、それでも10メートル以内ですよ。
半世紀前のアポロのビデオ映像では、絶対にNASAの最新のLRO映像にあるような19~36メートルも離れていないのである。(アポロの困った手抜きのお粗末映像は半世紀前に世界同時放送されていて、今でもネットでビデオ映像が見られる)
NASAによると近すぎたアポロ11号の星条旗は月からの離陸のロケット噴射の衝撃で吹き飛んでしまったが他の5本は今でも立っているとのことです。
(毎日新聞 2012年07月31日『星条旗:5本が月面に立つ 写真を分析して判明…NASA』http://mainichi.jp/select/news/20120801k0000m040024000c.html
では半世紀前のアポロの画像と最新のLROの映像の双方が同時に見られるので便利である)

『飛行士の腕が10メートルだったか、空をとんだか、カメラを投げたか』

今回掲載のLROの映像では不鮮明だが他の公開されている画像では着陸船と星条旗との間に、誰かが歩いた(何かが動いた)軌跡が明確に写っている。
ところがである。
星条旗よりも外側には軌跡が何処にも無い。これでは半世紀前のようなアポロ月着陸船とアポロ飛行士と星条旗のアングルの写真が写せない。
星条旗よりも外側には誰も足跡が無いのですから腕を10メートル以上伸ばして自分撮りしたかオウム真理教の真似で空中浮遊したかだが、これは人間わざでは無理。
普通に考えれば、アームストロング船長がビデオカメラを遠くに放り投げて写さない限りは絶対に不可能なのです。(カメラを投げた船長の名前が駄洒落で『強い腕だった』との月も凍る寒すぎるNASAの親父ギャグか)
今公開している月探査機ルナー・リコネサンス・オービター(LRO)の『月面のアポロの台座と星条旗』の最新映像で、半世紀前の『たなびく星条旗』を写すためには、飛行士の腕が10メートルか、空をとんだか、カメラを投げたかの三者択一しか無いのだが、当たり前ですがNASAが答えることは絶対にない。
『月にひるがえる星条旗』ですが、これは海兵隊の『硫黄島のすり鉢山の頂上にひるがえる星条旗』と同じで戦争では勝利宣言とか植民地の占領などの国家のオペレーション(軍事作戦)として、欠くことが出来ない象徴的な大きな意味を持っている。
半世紀前のベトナム戦争の真っ最中の『月面ではためく星条旗』ですが、これがニクソン大統領による『戦時プロパガンダである』と理解することが出来れば今までとはまったく別の景色が見えてくる。

『去るものは日々に疎し。誰もが忘れているアポロ離陸時のビデオカメラの謎』

アポロの星条旗は何回も放送されているので誰でもが知っているのだが、アポロ計画の映像の中に何処にもない不都合な代物が存在する。ところが、これはテレビでは放送出来ないのである。
実はアポロ計画では着陸船が月面を離脱して月周回軌道にまで上昇している映像がNASAによって公開されているのですよ。それなら必ず遠隔操作か自動送信によるビデオカメラが月面のどこかに残されているのです。
ところが今回のLROの映像では何処にもこのビデオカメラの姿が写ってないのである。
今とは大分事情が違っていて携帯電話は重すぎて手で持てず車載型しかなかったし、今ならカード電卓まであるが当時の卓上電子計算機は値段も車一台分の高価なもので重さも数十キロの巨大な代物。
卓上の意味は、事務机を丸々占領するとの意味があった。
離陸を撮影した無人カメラですが月着陸船を追尾して撮影して地球まで放映しているが有ったとしたらトンデモナイ大きさで、今でも月に残されたままですよ。
たぶん、すべてのアポロ計画で台座と38メートル間隔で残されているNASAの『いわゆる星条旗』(LROのflag とflag Shadow)とは、この月に残された『謎のビデオカメラ』のことなのです。
今とは違いコンピュータの性能が低いので可也の大型でないと無理なのです。それなら十分に解像度0・5メートのLROにでも捕らえられる大きな無人のビデオカメラ+自動送信装置なのである。(ポリエステル製で6ドル程度の星条旗よりも、離陸を写した無人送信カメラの方がはるかに大きい)
ところが何故かテレビでは月からの離陸映像は放送しなかった。
折角苦労して作ったのにNASAが放送しなかった理由は簡単で昔の着ぐるみのゴジラの特撮映像よりも数段劣る出来栄えで、今の美しいCG画像を見慣れた目ならオモチャにも劣る代物だった。
今離陸映像を見ると、アポロ月着陸船はゆるゆると等速で上に上がっていきワイヤで吊り下げている風にしか見えないのである。(たぶん月離陸の撮影に失敗したのだろう)

『戦争で最初に犠牲になるのは「真実」である』

1941年(昭和16)12月8日(日本時間午前0時)の日本陸軍のマレー半島・シンガポール作戦が発動されている。
これを指している早朝6時に行われた大本営発表『西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり』は虚実が入り乱れている。
西太平洋とは日付変更線(東経180度)よりも東側の海域だが、ハワイですが西経154度であり、大本営発表の『西太平洋』は無理すぎである。
ハワイは日付変更線の向こう側(12月7日)で東太平洋に属していて『西太平洋』には含まれない。しかしフィリッピン以西のシンガポールならもっ『西太平洋』には含まれない。
今、この『西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり』の大本営発表は、多くの日本人ではハワイの真珠湾のことだと信じている。しかし陸軍のマレー・シンガポール攻略戦のほうが3時間以上も早やかった。
マレー半島もハワイも西太平洋には含まれないが、日本列島は間違いなく西太平世に位置している。
大本営ですが『自衛の戦争だ』と主張した手前、日本周辺の『近い海域での開戦』だと印象付けたかったのでしょう。
今では日本軍がアメリカ本土のハワイ州を奇襲したと勘違いしている人も多いが、当時はアメリカの植民地。ハワイが正式にアメリカの州になるのは15年後の1959年。
もしも奇襲攻撃が日本陸軍のマレー半島(対英戦争)だけだったら、これは日独伊三国同盟の集団自衛権の範疇でありアメリカとしては参戦の大義を得られない。
第一次世界大戦終結から21年目のアメリカは国民の反戦世論が強すぎて、非戦の公約で当選したルーズベルト大統領は、第二次世界大戦に参戦できなかった可能性が高い。
真珠湾ですが、これは何とも不思議な自殺的な辻褄が合わない謀略的な作戦だった。
理研のSTAP細胞のデーターの切り貼りを高尚な『科学の話』だと勘違いするから辻褄が合わないが、下世話な『特許利権の儲け話』だとすれば誰でもが納得する。
アポロ計画が純粋な『科学の研究』だと勘違いするから話の辻褄が合わない。アメリカによる戦争プロパガンダ(情報宣伝戦)だと思えばすべてが納得するのである。
アポロ計画当時はアメリカが歴史上初めて負けたベトナム戦争の真っ最中ですよ。アポロ計画とベトナム戦争が無関係であると考える方が無理がある。
しかも推進した大統領は策士中の策士との悪名が高いニクソンだったが、アメリカ(マスコミ)はアポロ計画には最初から最後までニクソン大統領が積極的に関与していた事実を必死になって隠しているのである。
アポロですが科学研究では無くて、アメリカによる戦時プロパガンダである可能性が高い。状況証拠は真っ黒クロスケであり、『科学研究であり正しい』と丸ごと信じる方がどうかしている。

『小保方博士のSTAP細胞論文とそっくりのマレーシア機撃墜事件報道の怪』

科学実験では多くの場合に予想した結果に対してプラスのデーターもマイナスのデーターも両方が出てくるが、東京地検特捜部や理研のネイチャー論文のように結果を強調するように加工しては絶対に駄目。真理の探求を妨害する悪質極まる捏造なのである。
7月17日にウクライナ東部でマレーシア機が墜落して乗客乗員300人近くが死亡するが、アメリカやマスコミの発表が丸っきりの小保方博士の真似なのです。自分の主張に都合の良いプラス部分だけを強調してマイナス部分を無視している。報道と呼ぶよりも戦時プロパガンダそのものである。
マレーシア機の墜落現場はウクライナ空軍の爆撃と対抗する親ロシア系武装勢力の戦争の真っ最中ですよ。
ところがアメリカは安全なクリミヤ半島を飛行禁止にして、航空機の撃墜事件が頻発していた最も危険なウクライナ東部に民間機を誘導していた。米連邦航空局(FAA)や国際民間航空機関 (ICAO)の大失態なのである。ところが誰一人マスコミは指摘しない不思議。
今回のマレーシア機撃墜事件ではロシア側には動機が無い(大きすぎるリスクはあるがメリットが少しも無い)ので、撃墜したとすれば標的を間違った重大な過失か、それとも13年前のウクライナ軍の射程が300キロと長すぎるミサイルによって、はるか遠くの無関係な民間機を撃墜した予期せぬ偶発事故ですね。
ところが、ウクライナ側には十分な動機がある。
この点をアメリカとかNATO諸国、マスコミは軽視しているどころか完全に無視しているのは不思議である。
この場合、矢張り発射場所の特定は重要でしょう。
真相の究明には発射場所の正確な特定が一番大事なのですが、ところがアメリカは『親ロシア派の支配地域だ』と言うだけで、場所については言葉を濁して語らない。
それと、ウクライナとロシアとロシア派武装勢力以外に、もう一つの最も危険な勢力をマスコミでは完璧に無視しているのも不思議で、たぶんこれはマスコミが意識的に自説にとって都合が悪いので抜いているのですが困った話である。
今のマスコミですが、自説に都合よく研究成果を際立たせようとして生データーを加工して仕舞った丸っきり小保方シンドロームである。
ウクライナの場合にはマスコミで報道されている3者以外にも、最も動機があるネオナチ系の国家親衛隊の4者が考えられる。毎日新聞の報道でも隣接する州の財閥である知事が私費で20000人の傭兵組織を編成したと報じているのです。
ネオナチの無差別の銃撃による2月22日の政変では間髪をいれずすぐさま親ロシア系のすべての知事を入れ替えているのですが、今回の事件にも言えるが、何故かウクライナでは親西欧派はわざと騒動が起きるように誘導しているのです。
『欧米は親ロシア派犯行と非難』とあるがEUは非難決議を行っていない。今のマスコミ報道のタイトルは一方的にロシアが不利であるかような過激な見出しをつけているが、これでは信用度が低いスポーツ紙のプロレス報道ですよ。感情的過ぎて、到底報道とは呼べない水準である。
しかし発想を転換して、マレーシア機の墜落はマスコミの報道ではなくて、アメリカによる戦時プロパガンダであると見ると、すべての辻褄が合うのですから恐ろしい。
行方不明のマレーシア機についての『ディエゴ・ガルシアに決まってるじゃない!』とのお子様言葉のさる高貴なお方と同じで、ロシア自由民主党のジリノフスキイ党首は、『破壊工作が開始されるだろう。彼らは、何らかの民間旅客機を撃墜する。その後、人々は皆、飛行機に乗るのを怖がるだろう。』と一月も前に航空機の墜落を予測していた。
ジリノフスキイ党首は、『これは、挑発のよくある段階だ。欧州全体、又全人類をストレス状態に置くのだ。それは一体何のためか?ドルを救うためだ。
ドルは落ち込んでいる。落ち込みにストップをかけるためには、ああした突然の騒ぎが必要なのだ。』
何とも恐ろしい不吉なジリノフスキイの予言が今回ドンぴしゃりで的中したのだろう

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種無しチンポ安倍と原子力マフィアの風刺画像

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ヒーロン へナーが警官の絞殺事件について言及


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ヒクソングレイシー! エディブラボーからノーギの秘密のノウハウを学ぶ!






http://cafe.quietwarriors.com/?eid=871452

エディ・ブラボーがヒクソンにラバーガードを教える
エディ・ブラボーがヒクソン・グレイシーにラバーガードを教える映像。こういうのはめったに見られない絵ですね。



この中でエディがヒクソンに一生懸命言ってること、これは長年直接言いたかったんだろうなぁと思いました。

エディは柔術家がMMAでやられるのが我慢できない。だからそのためにはどうすればいいのか、ということで考え、あのエディのシステムを作り出した。

そして、この試合で柔術家はこうしてるのに、相手がレスラーでこうするから、これができない、だからこうすればいいんだ、というようなことを、いろんな例を挙げながらヒクソンに説明していきます。

エディはギを捨てたことでいろんなところから責められ、柔術の裏切者のように扱われてきました。カリーニョスすらジャンジャックに電話してエディのことで文句を言ったらしいです。が、ヒクソンはエディのことをそんな風に思ったことはないと言ってます。

エディが言うには、ギを着てトレーニングしたりムンジアルに出るのだってなんだってそれはOK、でもエディはMMAにおける柔術を向上させる、という目的のために自分を捧げたい、ということ。ギを着ていれば襟や袖を持ってできることが、ギを脱ぐと、滑ってしまって、ギでできたことができなくなる。だからギを脱いで、MMAで通用する柔術を練習するんだ、と。

エディは柔術を馬鹿にしたり、柔術より自分のシステムの方がすごいなどと言っているのではなく、柔術のためにやっているのだ、と。

俺は純血の柔術家だ!と。

それにしてもヒクソンともあろう人に自分の技術を教えられる人って、めったにいるもんじゃないですよね。

エディはこのシステムをクロンに教えたいんだそうです。クロンがMMAで、例えばレスラーと対戦してテイクダウンされて下になってしまった場合など、エディのシステムを知っていればいいからと。クロンは体もやわらかいし、とのことでした。

いやあ、動画見るの好きじゃない私がこの18分ほどの動画、全部見てしまったわ~。

他にヒクソンが今回の新連盟に関して語っているPodcastがあって、それは聞いたほうがいいよと言われたんですが、なんかめちゃくちゃ長そうでまだ聞けてない私です。聞いたらまたアサイーカフェに書きたいと思います。

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前田光世モデルの柔術キモノ登場




http://mataleaofightshop.com/shop/kimonos/maeda-conde-koma-jiu-jitsu-gi/

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メタモリス4煽り動画 キーナン・コーネリアスvsヴィニー・マガリャエス

Metamoris 4: Countdown (Keenan Cornelius vs. Vinny Magalhaes)

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これを戦争 紛争と呼ぶなかれ 一方的な大虐殺である パレスチナ人を大虐殺したイスラエル軍

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柔術黒帯世界王者レアンドロロが日本初上陸! ギとノーギで大暴れ!























http://bjjplus2013.blogspot.jp/2014/07/vs_20.html

『第3回全日本ノーギ柔術選手権』長南亮vsレアンドロ・ロ!



大盛り上がりをみせた昨日のJBJJF主催『第8回全日本キッズ柔術選手権』、『第3回全日本ノーギ柔術選手権』、『第2回東日本柔術選手権』。この日のメインイベントと称して過言ではないのが、2014年世界柔術ミドル級王者レアンドロ対、元DEEP2階級制覇の長南亮選手に他なりません! 




長南選手、水抜きしたそうでミディアムヘビー級85.5kgでOK! 格闘技マスコミの方も多数会場にいらっしゃってます。会場に到着した時点で注目の的な2人。レアンドロは柔術部門でミドル級出場なので、余裕の軽量通過。




写真: ある意味本日のメインイベント、長南亮選手vsレアンドロ・ロ選手。 あと3試合後に行われます。長南選手、水抜きしたそうでミディアムヘビー級85.5kgでOK! 格闘技マスコミの方も多数会場にいらっしゃってます。

そして14:30過ぎに試合開始!



長南亮vsレアンドロ・ロは、ポイント4-0でロの勝利! しかし、試合は長南選手がタックルでテイクダウン寸前まで追い込みアドバンテージを得て先制。スイープ2回でポイント取られるも、際の攻防では互角の戦いを見せました。近代MMAすごい!

長南選手「試合動画は昨日観ました。柔術ルールは初なので、難しい面もありましたが、やっぱり近代MMAとしてすぐに立つ、を意識して思ったよりできましたね。アキレスも入りそうで、惜しかったです」

http://efight.jp/result-20140720_36911
【柔術】長南奮闘も世界王者が勝利、3部門を制覇



2014/07/20(日)UP




eFightの試合動画
試合レポートと同時にアップする速報動画では、KOシーンはスーパースロー再生。



▲長南(下)はアキレス腱固めを仕掛けたが、レアンドロが上になってポイントを獲得

日本ブラジリアン柔術連盟(JBJJF)
「第3回全日本ノーギ選手権」
「第2回東日本柔術選手権」
2014年7月20日(日)東京・板橋区小豆沢体育館

 2014年世界柔術ミドル級王者レアンドロが参戦し、ノーギ(道衣を着ない柔術)アダルトエキスパートミディアムヘビー級トーナメントの1回戦で元DEEP2階級制覇の長南と対戦した。

 開始早々、長南が何度かタックルでテイクダウンを狙う。レアンドロは自ら下になり、長南の足の間をすり抜け、そのまま立ち上がりバックに着こうとするが、長南は反転して離れることに成功。

 反対にタックルでレアンドロに尻餅を着かせるも、レアンドロはすぐに立ち上がり、アドバンテージ(ポイントに至らずもそれに近い状態という認定)に終わる。しかし緊張感ある攻防に、場内から大きな拍手が起こる。

 テイクダウンを奪いたい長南に対し、レアンドロは自ら寝転び下から攻めようとするが、上になった長南が伸ばしてきたレアンドロの足を取ってアキレス腱固めへ。レアンドロがこれを凌いで起き上がったところで、リバーサル(上の選手をひっくり返して上下逆になること)の2ポイントが入る。

 再び下になったレアンドロはガードポジションから何度もアクションを起こす。長南はそれをディフェンスしながら、またもアキレス腱固めへ。足を取られ嫌がるレアンドロだが、長南も極めきることができず、またもそのまま上になったレアンドロにリバーサルの2ポイント。


▲レアンドロは道衣有りのトーナメントでも優勝

 以降も長南は幾度となくタックルを仕掛けていくが、レアンドロが凌ぎきってタイムアウト。ポイント4-0でレアンドロが勝利した。

 この日、レアンドロはノーギ選手権のエキスパートミディアムヘビー級とオープンクラス、道衣有りの東日本選手権アダルト黒帯ミドル級の3部門で優勝。世界王者の強さを見せつけた。

■長南のコメント
「2週間前に試合の話をもらったんですが、実はレアンドロのことを知らなくて、映像を観ることができたのは昨夜です(苦笑)。今日は完全にMMAの動きをやっただけですね。寝かされずに立つ、近代MMA。こういった動きならTRIBEで教えますよ。今回は柔術の試合に出て、D-NETとリンクさせて盛り上げていきたいと思いました。また自分もコンディションを整えて、D-NETの大会で試合をすることも考えています」

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