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世界最大の柔術イベント ムンジアル2013 CM

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かつて日本にもジャーナリズムは存在した! 中国電力に潰されたプルトニウム元年!

中国電力を怒らせた番組『プルトニウム元年』

「我々は、子孫の安全をないがしろにして、放射能という悪魔と繁栄や豊かさを引き換えに取引している」
20年前に放送された番組の最後で、広島で被ばく患者を多数診断してきた原田医師が語った言葉が重く響く。今も何ら変わりがない。

 原子力規制委員会が断層調査をする方針を固めた青森県・六ヶ所村の使用済み核燃料再処理施設(今年10月に完工予定)は、原子力ムラの描いてきた「核燃料サイクル計画」の中で特に重要な位置を占める。高速増殖炉「もんじゅ」に供給されるプルトニウムを生み出す役割を担う予定だからだ。
 その施設の建設反対運動の模様から始まる広島テレビ制作のドキュメンタリー<プルトニウム元年・隠される被ばく>(1993年8月放送)が秀逸だ。20年前に放送された『原子力』の危険性を伝える報道番組だが、当時、中国電力が広島テレビのスポンサーを降板するほどの大きな波紋を呼んだ。
 政府とマスコミによる原発推進の誘導を指摘するなど渾身の取材によるその内容は、そのまま「現在、進行中の日本の問題」と重なる。

広島テレビ「プルトニウム元年」第3作(1993年8月放送)

動画投稿者 gataro-clone  画面右下の拡大マークをクリックすると全画面になります↑
(動画が削除されている場合は、@y_itoh 宛ツイート又はメールでご一報下さい。別サーバーを設定します。)


【内容】

(3分~)中電・浜岡原発での労働で被ばくし「白血病」で亡くなった島橋伸之さんのこと
関連記事:
『子どもを守りたい~年7㍉シーベルトの被曝で息子を失った母、語る』OurPlanet-TV 5/18/2011
(高校卒業後、浜岡原発で8年間働く間に年間7mSvの被曝(積算で50mSv)をし白血病に罹患、亡くなった若者の母親が語る。)
(14分~)
チェルノブイリ原発事故7年後の衝撃映像。広河隆一氏(お若い!)も登場
「・・チェルノブイリの事故から7年。ここでは、今、ばらまかれた放射能が子どもたちに牙をむいて襲いかかっている。人体に蓄積された放射能が、今、潜伏期を終え、白血病と甲状腺がんで牙をむきはじめている。・・広河さんは、前年この病院で会った子どもたちに一人も会えなかった。大半が死亡していたのだ。」
「原発から30キロ以上離れた地域には国際機関によって安全宣言が出され、それによって住み続けた住人に被害が出ているのだという。ホイニキ中央病院の副院長は『事故後、5~8年で甲状腺がんの発病が増えている現状。次に乳がん、その次に骨のがんの発病が、といった具合に増えていくでしょう。』と語る」
(17分~)広島とチェルノブイリで軽視された内部被ばくについて
広島原爆による内部被ばくを認めたくない米国が設立した調査機関ABCCの愚かさ。
そして、チェルノブイリ原発事故について1991年に「住民の健康への影響は大したことはない」というずさんなチェルノブイリ報告をまとめたのは、そのABCCの影響を強く受けた放射線影響研究所長の重松逸造氏である。
関連記事:
『知られざる放射線研究機関の実態』
(26分~)放射線被ばくの遺伝性(がんや奇形など)について
英国セラフィールドにある使用済み核燃料再処理施設の子どもには白血病の罹患が多い

(31分~)被曝労働について
浜岡原発の空々しいコメントや故・平井憲夫氏の講演会映像など。
平井氏は「下請け労働者は架空の病院による健康診断書を作成して原発労働に従事!」と。
関連記事:
『原発がどんなものか知ってほしい(故・平井憲夫氏)』
(38分~)高速増殖炉「もんじゅ」について
ナトリウムを使用して冷却することの危険性

(39分~)原発の1年分の放射能を1日で放出する使用済み核燃料再処理施設(青森県・六ヶ所村)

(42分~)プルトニウム利用を促進させるため、記事を装った政府広報や脱原発を要求する株主提案を一蹴する電力会社の株主総会の模様など

【関連記事】

・『日本が直視すべき内部被ばくの恐るべき現実』

【「週刊現代」の記事より】

 電力会社から多額のスポンサー料を貰っているメディア。原発政策を批判出来なくなっている構図が1992年に広島テレビで放映された原発を扱ったドキュメンタリーをきっかけにして見えてくる。
 広島テレビ報道部ディレクター(当時)岡原氏を中心に制作された「プルトニウム元年」は、原発の問題に正面から取り組んだ番組で珍しかったため、放送後は大変な反響があったという。1993年までに3本が制作されたが、3本目を放送した後に問題が起こったという。
 当時を知る広島テレビの関係者は、「放送終了から間もなく、中国電力の広報担当者が番組制作者のところをたずねてきて、第3作目の原発で働く労働者の健康問題について触れた内容が一方的過ぎるということを伝えに来た」という。
 その後、中国電力が広島テレビの新番組のスポンサーを降りると通告。中国電力からはスポンサー料として数千万円が支払われる予定だったため、かなりの打撃だった。「プルトニウム元年に問題があったのは明らかだった(当時の広島テレビ関係者)」。「プルトニウム元年」は第4作目の構想もあったが作られることはなかった。




















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御用マスゴミのNHKで唯一原発に危機を唱えたジャーナリスト堀潤(現在は辞職に追いやられる)の番組が政治屋の圧力によって潰される 北朝鮮と全く変わらぬファシズム国家 日本

http://hibi-zakkan.net/archives/27696131.html
NHKを退職し、ネットなどの独自メディアで情報配信をする 堀潤さんの番組が政治家からの圧力で潰された件が話題

カテゴリ:マスコミ参議院選挙



http://gendai.ismedia.jp/articles/-/35756


THE 言論統制
いらん情報を暴く奴は、排除しちゃうぞ☆(ゝω・)vキャピ










北朝鮮と変わらないね。

これから参院選に向け、権力側と反対側に位置するメディアは色々な圧力があるでしょう。

こういう情報はどんどん集めておきたいと思いまする。


堀潤「発信は誰にも止められない」
http://ch.nicovideo.jp/horijun/blog/ar245029

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世界の最強武術を体得せよ スパルタ軍

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ウイルスを警告しても被曝は一切警告しない不思議の国 日本のメディアたち ちなみにこの映像は海外製作です

隠された被曝労働〜日本の原発労働者




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あこう堂さんのブログより 続闘魂

http://blog.livedoor.jp/akoudou2008/archives/1538522.html

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国際金融マフィアと須藤元気の関係

http://ameblo.jp/parody/entry-11540282019.html
元格闘家・須藤元気はミルミナティの走狗か?
テーマ:パロディ




2002年、K-! WORLD MAXでデビューして以来、「変幻自在のトリックスター」との異名とともに人気抜群だった。

その須藤は2006年6月、歌手デビューした。同年12月31日の試合に勝利したにもかかわらず、突然、引退を表明。

その後、映画の監督や拓殖大学レスリング部監督を務める傍ら2009年、パフォーマンスユニット「WORLD ORDER」を結成し同名の曲をiTunes先行配信で発売。作詞・作曲も手がけている。

2012年3月、647人でロボットダンスを同時に踊り、ギネス世界記録を達成。

現在、弱冠35歳の須藤はロスで開催されたマイクロソフト主催WPC2011のオープニングイベントに出演し大きな話題を呼ぶ

国際的なアーティストとして評価の高い須藤だが実はどうも腑に落ちないことがある。

そもそも「ワールドオーダー」とは国際金融マフィアのNew World Order-新世界秩序と無関係ではない。

Orderとは秩序という意味もあるが、実際は「友愛組合」とか「結社」という意味がある。さらに「命令」という意味もある。

恐らく隠された意味は「支配」ではないだろうか。従って「新世界支配」が正しい、と私は考えている。

須藤はプロモーションビデオ『Permanent Revolution』の中でフリーメイソンの日本グランドロッジ・ビル前を走り抜くシーンをあえて挿入している。これはいかにも唐突だが、須藤はフリーメイソンへの忠誠心の現れなのだろう。いやいや、もっと言えばフリーメイソン側が須藤に託したパフォーマンスだ、と解すべきだろう。

須藤元気は限りなく“うさん臭い”存在だ。

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世界の最強武術を体得せよ 血の島 ルアー

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被曝治療83日間の記録 東海村臨界事故 放射線が身体にいい? これを見てモノを言え

被曝治療83日間の記録 東海村臨界事故

被曝治療83日間の記録 東海村臨界事故 投稿者 shinnosuke003

http://matome.naver.jp/odai/2135044778008890201
【被曝】被曝者の治療が凄まじい!体の内部を破壊する放射能の恐ろしさ!!【原発】日本史上で最も最悪の臨界事故、『東海村JCO臨界事故』。茨城県那珂郡東海村に所在する住友金属鉱山の子会社の核燃料加工施設、株式会社ジェー・シー・オー(以下「JCO」)が起こした原子力事故(臨界事故)である。日本国内で初めて、事故被曝による死亡者を出した。


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お気に入り追加 歴史に埋れさせてはいけない臨界事故!

お気に入り詳細を見る ▼東海村JCO臨界事故(バケツ臨界事故)


出典blogs.yahoo.co.jp
事故の概要

東海村JCO臨界事故は、1999年9月30日に、茨城県那珂郡東海村に所在する住友金属鉱山の子会社の核燃料加工施設、株式会社ジェー・シー・オー(以下「JCO」)が起こした原子力事故(臨界事故)である。日本国内で初めて、事故被曝による死亡者を出した。

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出典blog-imgs-12.fc2.com

1999年9月30日、JCOの核燃料加工施設内で核燃料を加工中に、ウラン溶液が臨界状態に達し核分裂連鎖反応が発生、この状態が約20時間持続した。これにより、至近距離で中性子線を浴びた作業員3名中、2名が死亡、1名が重症となった他、667名の被曝者を出した。

国際原子力事象評価尺度(INES)でレベル4(事業所外への大きなリスクを伴わない)の事故。

お気に入り詳細を見る ◼事故原因
本事故の原因は、旧動燃が発注した高速増殖炉の研究炉「常陽」用核燃料の製造工程における、JCOのずさんな作業工程管理にあった。

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出典stat.ameba.jp
マニュアルを無視した作業

JCOは燃料加工の工程において、国の管理規定に沿った正規マニュアルではなく「裏マニュアル」を運用していた。一例をあげると、原料であるウラン化合物の粉末を溶解する工程では正規マニュアルでは「溶解塔」という装置を使用するという手順だったが、裏マニュアルではステンレス製バケツを用いた手順に改変されていた。事故当日はこの裏マニュアルをも改悪した手順で作業がなされていた。具体的には、最終工程である製品の均質化作業で、臨界状態に至らないよう形状制限がなされた容器(貯塔)を使用するところを、作業の効率化を図るため、別の、背丈が低く内径の広い、冷却水のジャケットに包まれた容器(沈殿槽)に変更していた。

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出典tokuteisuta.blog24.fc2.com

その結果、濃縮度18.8%の硝酸ウラニル水溶液を不当に大量に貯蔵した容器の周りにある冷却水が中性子の反射材となって溶液が臨界状態となり、中性子線等の放射線が大量に放射された。ステンレスバケツで溶液を扱っていた作業員の一人は、「約16kgのウラン溶液を溶解槽に移している時に青い光が出た」と語った。

お気に入り詳細を見る ▼労働者の被曝


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・直接作業をしていた3人ー大内久さん、推定16~20シーベルト以上の被ばく、1999年12月21日なくなられました。
・篠原理人さん、推定6~10シーベルの被ばく、2000年4月27日に亡くなられました。
・横川豊さん、推定1~4.5シーベルトの被ばく、一時白血球がゼロになり危険でしたが、その後退院されました。
シーベルトは被ばく線量の単位、致死量は6~7 シーベルトといわれます。
大内さん、篠原さんの死因は放射線被ばくによる多臓器の機能不全です。以上の3人の方は、1999年10月6日、急性放射線症で労災に認定されました。

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出典hatajinan.blog61.fc2.com

救急隊員3人 事故の内容を知らされずに出動し、13 ミリシーベルト被ばくしました。
臨界終息のための作業をした人たちや東海事業所の従業員・政府関係機関の職員など最大で120ミリシーベルトに達してします。その他に50ミリシーベルトを超えてしまった人は6人もいます。(放射線を扱う作業に従事する人は年間50ミリシーベルトを限度にしています。この数字は胸につけた線量計によるものです。)

お気に入り詳細を見る ▼被曝治療83日間の記録
〜東海村臨界事故〜




お気に入り詳細を見る ▼至近距離での被曝の症状


出典livedoor.blogimg.jp

強い放射線を浴びても、細胞はほとんど死なない。
ただ、細胞分裂ができなくなるので、再生できなくなり、一定期間後(今ある細胞が寿命を迎えて死んだ時)に症状が表れ始める。

お気に入り詳細を見る 具体的に言うと、腸の粘膜細胞が全部剥がれるので、栄養吸収できなくなってとんでもない下痢になる
皮膚が全部垢になって剥がれおちて、下の生肉がむき出しになる(大火傷と同じ症状)
血球を作る骨髄細胞が消滅して、免疫がなくなる(エイズと同じ症状)・・・などなど。

脳や神経の細胞はずっと生き続けるため、意識・感覚はそのまま死ぬまで生き地獄が続く。

お気に入り詳細を見る ▼破壊された染色体


出典rikanet2.jst.go.jp
染色体

染色体はいわば生命の設計図である。人は毎日大量の細胞を失い、同時にそれを作り上げながら生きている。

たとえば人の表皮細胞は、毎日約4000万個ずつ失われ、ほぼ同じ数だけ作り上げれられる。そのための設計図が染色体なのだ。

染色体が破壊されたということは、今後二度と新しい細胞が作られないということだった。

お気に入り詳細を見る ▼引き延ばされた死


出典livedoor.blogimg.jp

事態は、この染色体の不吉な予言のとおりに進行した。

たとえば大内の腕は、入院したときは少し腫れているように見えるだけだった。

しかし一ケ月ほどたつと、皮膚は剥がれ落ち表面は赤黒く変色した。

お気に入り詳細を見る その腕は明らかに、広島・長崎の被曝者と同じ腕だった。

大量の中性子に染色体をズタズタにされることで、大内の体は、いわばじわじわと死に蝕まれていったのだった。

大内は事故から83日後の、12月21日に他界した。享年35歳。

あるいは、一瞬で済むはずだった死が、その苦痛が、83日間に「引き延ばされた死」と呼べるのかもしれない。

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日本財界の黒幕 許永中と極真空手 松井章圭との黒い繋がり

http://jiro.banzai.cx/index.php?p=&d=blog&c=&type=article&art_id=172
松井館長脱税事件の真相





昨日、極真会館の松井館長が旧グッドウィル・グループによる人材派遣会社の買収の仲介手数料として受け取った約100億円の所得の申請方法に誤りがあったとして、約30億円を追加課税されたとマスコミで報じられた。



■極真会館・松井章圭館長に30億円追徴課税

(YOMIURI ONLIN)

http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20111110-OYT1T00799.htm





私は3年前に『FACTA』という雑誌でグッドウィル折口元社長と松井館長のキナ臭い巨額な資金のやりとりについての記事を読んでいた。



なので、今回の松井館長の脱税事件の報道を知った時、「はは~ん、密室で行われたM&Aの100億という巨額な仲介手数料のことね」とピンときた。



松井館長は「申告の際の認識の違い」ということで30億円追加課税して解決したことにしようとしているようだが、今回の事件は氷山の一角で根はかなり深いと思われる。



90年前後から数年間、松井館長が極真から離れていた時期があったが、どうもこの頃に闇の世界との繋がりができたようだ。



<松井は90年代にはイトマン事件などで暗躍した希代の詐欺師、許永中のボディーガードや、許永中が乗っ取ったKBS京都の専務になった画商、福本邦雄(故竹下登首相の側近)の周辺にいた。だから許の人脈なども引き継ぎ、経済界や政界にも顔が利く。その人脈の一人が折口なのである。>(『FACTA 2009年7月号 』より)



現在、松井派の道場で修業する身として松井館長を批判はしたくないが、事件が表に出てしまった以上、憶測などによる混乱を避けるためにも今回の事件の真相と思われる『FACTA』に掲載された記事をここに紹介することにした。



_____________________________

折口雅博の「密約」反故で180億脱税

『FACTA 2009年7月号 』より

http://facta.co.jp/article/200812043.html





2年近く前の本誌07年8月号のスクープである「グッドウィル折口の『致命傷』」以来、何度か取り上げてきた謎の事件だ。折口雅博前会長が創業した人材派遣「グッドウィル・グループ」(現ラディアホールディングス)による、同じ人材派遣の最大手「クリスタルグループ」買収で「消えた380億円」の疑惑に、ようやく特捜のメスが入るのだ。





中澤・緋田・松井トリオ



特捜部・国税当局が標的にしているのは、クリスタル買収のために組成された匿名投資組合「コリンシアンパートナーズ」の管理者である公認会計士、中澤秀夫である。謎だらけのこの買収劇のキーマンだ。



すでに昨年10月16日、東京国税局が脱税容疑で強制調査(査察)に入っている。8カ月かかってようやくその全貌が明るみに出てきた。



まず、380億円はいかにして消えたのか。グッドウィルはコリンシアンに対し06年秋、自らが100%出資しているファンド「人材サービスファンド」を通じて883億円を出資した。それ以外にも別の出資者が303億円を出資しており、コリンシアンにはこの時点で計1186億円が滞留していた計算になる。



クリスタルの創業者かつオーナーの林純一は同年10月31日、自らの資産管理会社が保有するクリスタル株90・92%をコリンシアンに総額500億円で売却する。その代金を支払っても、コリンシアンには差し引き686億円が残っていた。



この後、12月28日には「人材サービスファンド」がコリンシアンから離脱。グッドウィルは883億円の巨費を投じたものの、3対1の出資分に応じてクリスタル株のおよそ68%を取得したにとどまった。



「濡れ手で粟」だったのは303億円の出資者である。「人材サービスファンド」の離脱後、コリンシアンは解体され、残った現金686億円とともにクリスタル株23%を労せずして受け取っているからだ。差し引き383億円の荒稼ぎである。



本誌08年12月号「折口雅博『消えた380億円』の謎に査察」で報じたように、密室で行われたこの買収劇の役者はほんの一握り。折口、林を除くと、登場人物は中澤を入れても3人だ。残る2人とは……。



緋田(あけた)将士――30歳そこそこだが、関西で港湾荷役などの人材派遣を生業としていて、その関係から林と近しい間柄となり、現在はUAコンサルティングを中核としたグループを設立、投資家として売り出し中だ。



「金持ちと金持ちをつなげるだけでカネは転がり込んでくるのよ。俺を見てみなよ」



緋田は上機嫌になると自らのビジネスの要諦をひけらかす。その言葉通り、緋田の生活はバブル絶頂期を彷彿とさせる派手さ。左腕には一個1千万円以上の腕時計をはめ、運転手つきのロールスロイス・ファントムか、キャデラックのストレッチリムジンを乗り回すギンギラギン紳士である。「金持ちと金持ちを結びつけた」結果なのだろう。



松井章圭――空手家の大山倍達が創始した極真会館館長である。緋田とは旧知の間柄だが、松井は90年代にはイトマン事件などで暗躍した希代の詐欺師、許永中のボディーガードや、許永中が乗っ取ったKBS京都の専務になった画商、福本邦雄(故竹下登首相の側近)の周辺にいた。だから許の人脈なども引き継ぎ、経済界や政界にも顔が利く。その人脈の一人が折口なのである。





エビなしで釣った大魚



クリスタルを売りたがっていた林、そのクリスタルを買いたがっていた折口。その橋渡しをすれば大儲けができる――緋田と松井の意見が一致するのに時間はかからなかったろう。グッドウィルによるクリスタル買収の案件は、中澤に持ち込まれた。



中澤が考えたスキームは単純極まりない。タネ明かしをすると、彼ら3人が303億円のエビで、686億円のタイを釣ったというのは幻だったのだ。エビは存在しない。



中澤は、コリンシアンに折口からの出資金883億円が振り込まれたのを確認すると、その残高証明書を林のもとに持参した。林は自分の会社を折口に売る気がなかったため、出資者(コリンシアンの買収者)がグッドウィルだということは極秘にされていた。その残高証明書で中澤は林からクリスタル株の90.92%を預かり、出資額に応じて約68%を折口に渡したのだ。つまり、エビなしでタイを山分けにした。



だが、報酬は莫大だった。コリンシアンの管理者だった中澤にはおよそ180億円。林、折口をつないだ緋田、松井にはそれぞれ100億円の報酬が支払われた。緋田が言うとおり、「金持ちと金持ちをつなげた」だけで無から有を生む手品だった。



しかしこの単純な買収スキームにはまだからくりが残されている。



折口に渡った以外のクリスタル株23%はどこに行ったのか。国税当局はそこに強い関心を示している。鍵はM&Aが成立した時点で、折口と中澤が交わした密約にある。残りの23%は後日、折口が全株買い取るという密約があったらしい。しかし、グッドウィル・グループが崩壊し、折口も会長を辞任して渡米、密約は反故にされた。困ったのは中澤である。株式を折口に買い取らせて仲介料180億円の税金を支払う算段をしていたからだ。中澤は23%のうち、20%を譲り受け、残りを緋田、松井に均等に分けたという。



税金対策を含めクリスタル(後にグッドウィル・プレミア)株の処理に困った中澤に、入れ知恵をしたのが投資家、鬼頭和孝だ。鬼頭が香港に持つペーパーカンパニー(鬼頭はダミー会社を30社余り所有)に対し、中澤は時価の100分の1にも満たない1億円で売却、その会社の名義として税金を逃れようとした。



それを突き止めた国税当局は鬼頭に事情聴取した。脱税幇助の罪を問われることを恐れた鬼頭は、自らの関与を全面的に否定している。中澤も「脱税の意図はなかった」と全面否定の構えのようだ。が、特捜部は脱税で起訴に持ち込めると見る。



株式市場を無法地帯としてきた中澤、鬼頭らの「宴の終わり」は近い。残された密室の2人、緋田と松井はどうなるのか。せしめた各100億円は投資の失敗で跡形もない。国税当局の見解は修正申告とのこと。根はまだ残る。(敬称略)

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事件の全貌がわかりやすくなると思うので2008年12月号の記事も下記に転載する。

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折口雅博「消えた380億円」の謎に査察

『FACTA 2008年12月号』より

http://facta.co.jp/article/200907046.html





規制緩和を追い風に「人材派遣」と「介護」で時代の寵児となったが、2007年以降、数々の違法行為を指摘されてグッドウィル・グループ(現ラディアホールディングス)の経営から離れ、今はニューヨークで逼塞している折口雅博・前会長の周辺がにわかに騒がしい。



今度は、一世一代の大博打といわれた人材派遣最大手、クリスタルグループ買収に関する疑惑である。06年10月、約5千億円の売上高を誇るクリスタルを買収するファンドが立ち上がり、グッドウィルが883億円(約75%)、他の投資家が303億円(約25%)を出資した。



その後、クリスタルのオーナー、林純一に渡った買収資金は500億円であることが判明、差額の686億円を手に入れた「グッドウィル以外の出資者」に関心が集まった。



出資分を差し引くと、単純計算で383億円のもうけ。「濡れ手で粟」とはこのことか――。



国税当局はこの“浮利”を見逃さなかった。クリスタル買収ファンドを立ち上げた公認会計士の中澤秀夫に脱税の疑いがあるとして、東京国税局は10月16日、強制調査(査察)に着手した。





密室M&Aに加わった面々



大阪市中央区に公認会計士事務所を置き、東京でも港区にファンド関連の事務所を構える中澤は、ワールド創業者のひとり、畑崎廣敏をはじめとする富裕層に人脈を持ち、M&A(企業の合併・買収)などに精通する公認会計士として知られる。



人脈や知識だけでなく、リスクを恐れずに業績不振企業の資金調達にかかわる“度胸”もある。京都に本社を置き、違法派遣の摘発には子会社をつぶして対処、そのために100社以上のグループ企業を抱えるなど確信犯の林が、会社売却を考えた際、人を介して大阪の中澤に話が持ち込まれるのはごく自然だった。



林には条件があったという。



「同業者には売らないこと」



クリスタルの事業価値を最も知る人材派遣業者への売却を禁じた林の真意は、林が一度も口を開いたことがないので不明。ただ、プロの中澤は一計を案じる。ファンドによる購入、それも二つのファンドを介してグッドウィルの痕跡を消した。



買収ファンドへの883億円(75%)の出資とはそういう意味である。まず883億円を投じて「人材サービスファンド」を立ち上げ、そこが買収ファンドの「コリンシアン投資事業有限責任組合」を通じてクリスタルを買収した。では、「濡れ手に粟」の出資者とは誰なのか。



この不可解な買収劇が報じられた(本誌07年8月号)前後から、本誌は大阪と東京の中澤事務所に取材依頼を続けたが、返事はなかった。代わりに、緋田将士というキーマンに行き着いた。



ファンド関係者の証言――。



「広島の呉の出身で、20歳のころから港湾荷役などの人材派遣をやっていた。そのさばきのうまさと度胸のよさが気に入られて林さんにかわいがられ、関西で仕事をするようになった。グッドウィルによるクリスタル買収は、林さんの意向を受けた緋田氏が、旧知の松井(章圭)氏に相談して始まったもの。このM&Aを機に彼は衣料、飲食、不動産、投資などの事業を本格展開していった。まだ30歳と若く、これから大きく成長すると思う」



緋田がM&Aの仲介者で、買収ファンドの出資者であることは間違いないようだ。買収後の06年11月、緋田はUAコンサルティングを設立、これを核にUA(ユナイテッドエイジア)グループとして、各種事業に進出した。緋田と「飲み友だち」だという若手ベンチャー経営者の緋田評が興味深い。



「度胸がよくてカネ払いがいい。芸能人とのつきあいもあるし、よく遊ぶ。買収ファンドへの出資では、相当儲けたようで、その年の暮れに六本木で開いたクリスマスパーティーは、ド派手だったね。ただビジネスはしっかりしている。浮ついてもいない。投資で儲けるつもりはないと、実業に力を入れている」



その緋田の知人が、空手の極真会館を率いる松井章圭館長である。松井は、極真空手を世界に広めた大山倍達の後継者として各界に幅広い人脈を持つ。折口は松井人脈のひとりであり、青少年の空手道選手権などでグッドウィルは極真会館の協賛企業となっていた。









5千億円企業のM&Aは、林―緋田―松井―折口という人脈のなか、“密室”で行われた印象が強い。同業への直接売却はイヤ、という林の意向を尊重すればそうなるわけで、松井も本誌には「出資者のひとり」と認めたが、その他の出資者については口を閉ざし、容易に浮かび上がってこない。



では、国税が緋田や松井といった出資者ではなく、M&Aのスキームを描いた中澤に査察を入れたのはなぜか。



「中澤はもちろん“右腕”とされる鬼頭和孝も、香港やシンガポールにファンドを持ち、資産家のカネを運用している。彼らが手がけたのはクリスタル買収だけではない。千年の杜(現東邦グローバルアソシエイツ)、トランスデジタル、ビービーネットなどの上場企業の資金調達や経営にも関与している。そうしたカネの流れの総体を押さえるには、中澤から入るのが適当だったのだろう」(中澤の周辺関係者)





暗躍する「慶応コンビ」



鬼頭もまだ34歳と若く、クリスタル買収への関与は、緋田同様、飛躍のチャンスをもたらした。



前号で記したように、07年3月、新株予約権(MSワラント)を引き受けることにより、トランスデジタルを傘下に収め、同時期に千年の杜でもファンドを通じて、実質的に支配している。



両社買収におけるパートナーは、中澤というより慶応大学の先輩で、業績不振企業の資金調達を軸にした錬金術では有数の“実績”を持つ黒木正博(旧リキッドオーディオ・ジャパンのオーナー)だった。



離合集散の激しい彼らの人間関係を追うのは容易ではないし、その時々の利害でくっついているだけだから、探ってもあまり意味はない。査察を受けた中澤はこうボヤいているという。



脱税なんてとんでもない。鬼頭に資金の処理を任せていたらチャンとしていなかっただけ。たまり(隠匿したカネ)はないし、逆に買収ファンドの出資者から受け取っていない報酬がある……。



グッドウィルへの売却を知ったクリスタルの林オーナーは烈火のごとく怒り、それを鎮めるために折口は「退職慰労金」を名目に30億円を支払い、それを国税は高額すぎるとして課税処分している。



なぜ折口は法外な利益が緋田や松井など「他の出資者」に発生するスキームを容認し、さらに林問題の解決に“身銭”を切ったのか。その理由として「不労所得が暴力団筋に流れ、表沙汰にしたくなかったからではないか」と国税は疑っている。徹底解明が求められる。(敬称略)

______________________________

 



先週開催された世界大会が感動的な大会だっただけに世界大会の盛り上がりに水を差すような松井館長の事件は甚だ残念な出来事である。

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日本刀の歴史 雙環大刀の正体は実は粗悪な昭和刀 日本刀で暴れた倭寇を撃退した最強の武器の正体は何と竹!

無題

http://blog.livedoor.jp/whokilledxxxxx/archives/11167017.html
日本刀と朝鮮刀と斬魄刀と

この刀を見た日本人は
誰でも間違い無く日本刀だと思いますよね?

では
コレは日本刀でしょうか?

その答えはアトで書きます


コレはノキアの歴代携帯電話の機種です


今の若い子が
この写真だけを見たら
携帯電話が小さく進化したのは解るケド

上の写真だけでは
実際の携帯電話の歴史は解りませんよね?




知ってるヒトは知っているのですが
かつての携帯電話には
こんな姿の時代もあったからです



この写真は誰でしょう


正解はAKB48の板野友美です

かなり今とは顔立ちが違う気もしますが…

何ごとにも歴史というのがあるという事だけは解りますよね?





この刀を見た日本人は
この刀を日本刀だとは思わないですよね?

では
この刀はドコの刀でしょうか?



正解は
コレは日本刀です

コレは唐様太刀と呼ばれるタイプのモノで
神事などの儀仗として発達した飾り太刀です



この絵で聖徳太子が持ってる様なタイプの刀ですね

名前の通り中国伝来の刀です

推古天皇が

「馬ならば日向の駒太刀ならば呉のまざび」と詠んだほど
元々は日本の刀鍛冶は発達してませんでした

その理由は
いくつかありますが
最大の理由は鉄鉱石が無かったからです




戦とは無関係だった公家衆が持つ刀は
時代が飛鳥から江戸になろうと
日本古来よりの直刀を帯刀しています

ある意味ではコレが伝統的な日本刀です
よく日本刀と云われ
頭に思い描く日本刀の様に湾曲していませんね

ナゼ湾曲していったのでしょうか?



この刀もあまりピンと来ないかもしれませんが日本刀です
蕨手刀と呼ばれるタイプの日本刀です

主に蝦夷(エミシ)が使っていた刀です


同時期に大和民族が使っていたのは
公家が持っていた様な刀の装飾品を外した直刀です

大和朝廷の征夷軍が日本平定の際に
蝦夷と対峙し
蕨手刀の威力を知って
対蝦夷対策のために改良され
湾曲していったと考えられています

その証拠に

今の日本刀に近い毛抜形太刀というモノが登場してきます


そして
源氏と平氏が戦う武士の時代に「太刀」というジャンルの刀が登場します



おおよそ
頭で思い描く日本刀に似てきますね

さて
この「太刀」と
室町時代後半から江戸時代に作られた刀を
「打刀」と呼んで分けて考えます



上が「太刀」で下が「打刀」です



単純にその違いを書きますと違いは反り具合です


この様に日本刀と一口で云ってもイロイロな形があるのです


日本刀の進化は鉄鉱石が採れない事から
砂鉄や岩鉄などを用いた直接還元法である
和式蹈鞴製鉄という独自の生産技術を進化し続けると共に
蝦夷との対峙や
幾度の戦乱を超え1000年以上も掛けて進化したモノです


さて
その威力は凄まじく
1419年に起きた応永の外寇では
1万7千人の李氏朝鮮軍と600人の対馬武士が戦った際に
対馬武士20人の死者に対し
李氏朝鮮側は死者は2000人でした

当時の李氏朝鮮軍の鎧は
動物の革で作ったモノであり
日本刀では鎧ごと朝鮮軍を簡単に斬り殺す事が出来ました
それに対して李氏朝鮮の武器では
日本刀を防ぐ前提で作られてた日本の鎧を破る事が出来なかったからです

あまりの壊滅っぷりに
対馬での朝鮮軍の弱小っぷりを詳細に見た中国人を帰還させるかどうかを
左議政の朴誉と右議政の李原が議論したホドです
(左議政と右議政とは副首相に相当する地位です)


武器とは進化するモノです

コレは同じ時期の中国での倭寇退治を描いた絵ですが



竹を持ったヒトが何人かいるのが解りますか?


彼らはナゼ竹を持っているか解ります?

コレは狼筅という武器なのです

枝が付いた竹に刃を付け
枝による防御で日本刀により切っ先を切り落とされないようにした
対日本刀用の槍なのです


竹という植物の属性として硬いけど大変しなやか
コレが日本刀に効果的だったのです
日本刀を持つ倭寇が叩き斬ろうとしても
しなって切断できなかったのだ
しかも
日本刀で切り払われても
残った枝が相手を傷つけ
さらに小枝に挟まると脱出もすぐにはできないで困ったという




そしてコレが実物です

程宗猷は「単刀法選」という日本刀を研究した本を書き
ソレを参考に
倭寇対策として日本刀を元に「苗刀」が開発されます



コレが苗刀です

さらに戚継光という明の武将が日本の陰流剣術目録を
日本から取り寄せ研究し「辛酉刀法」という刀術を編み出しました



ちなみに
宮本武蔵ですら倒せなかった柳生石舟斎の柳生新陰流とは
上泉信綱が陰流を研究し打ち立てた新陰流を元としてます
陰流剣術は日本で著名な剣術流派です

中国にとって
日本刀を持つ倭寇が
どれだけ驚異だったかはコレで解りますよね?

ソレだけ日本刀は驚異的な殺傷能力があったのです



さて話を戻します
この刀は一体ドコの刀でしょう?



この写真の刀は
朝鮮出兵で日本軍を撃退したとして韓国では国民的な英雄
李舜臣の愛刀である「雙環大刀」です


この写真の通り肖像画とともに
雙環大刀が博物館にて絶賛展示中です

この様に堂々とDVDのパッケージでも「雙環大刀」を持っています

では
つまり写真の刀は朝鮮刀だったの?

独自の進化を遂げてきた筈の日本刀にソックリでは?

では実は日本刀のルーツは朝鮮にあるなんて飛躍しないでください


応永の外寇も
事の発端は
倭寇に国土を好き放題蹂躙される事に
李氏朝鮮が怒り
李氏朝鮮が国の威信を賭けて倭寇の本拠地である対馬に攻めたのです
まぁ…見事なまでに敗戦しましたが

見事な敗戦から
同じく中国の苗刀の様に日本刀を真似して作られた刀では?

この様に考えるのが普通でしょうね

しかし
そんな資料も記録もありません

日本の蹈鞴製鉄のような
砂鉄を原料として直接還元法を行なった形跡すら発見された事もありません

そもそも
朝鮮刀は鋳型に鉄鉱石を流し込むという方法で作っており
ルイス・フロイスが
「朝鮮の刀は短くて役に立たない」と述べている通りです



コレが伝統的な朝鮮刀です



コレが李氏朝鮮末期の武官の姿です
脇差程度の短な刀しか持っていません


韓国のTVドラマだと
こんなカッコで
長い刀を持ってますが嘘です


韓国の映画だと
こんなカッコで
日本刀とソックリな刀を持ってますが嘘です



この短刀が朝鮮刀です


くどい様ですが
この武官が小脇に挟んでいるような刀が
伝統的な朝鮮刀であって
韓国には
大統領が鞘から抜いた様な
日本刀に似た歴史的に価値がある長剣などは存在しません


基本的に
中国も朝鮮も倭寇が登場した頃の主要武器は槍で剣術ではありません

では
結局の所は李舜臣の刀は一体…?


当たり前ですが日本から輸入した日本刀です

日本刀の威力に驚いた朝鮮人は
中国が日本刀対策として
兵器研究や武術を興したのとは違い日本から輸入したのです

つまり
写真の正体は韓国国内にある日本刀だったのです

しかし
日本刀を輸入しても
その日本刀を研げる人間がおらず
スグに錆びてしまい
全くもって朝鮮国内で普及もしませんでしたが…

「朝鮮勢法」という剣術がありますが
中国の軍学者だった茅元儀が作った「武備傅」を複写して
「武芸図鑑通史」を作成し
ソレに記載されている剣術の事を指しますが
一切オリジナルではありません



武芸図鑑通史は現存していますし
挿し絵からも日本刀の様な刀が描かれていますが
戚継光の「辛酉刀法」です大韓剣道会が2011年の世界陸上で演舞をしていますが
1980年代より創作された剣術であって
その冠に「朝鮮勢法」を付けただけです



韓国の博物館に赴くと
ほとんど展示されている朝鮮刀は
歴史的な価値が無い刀ばかりです

日本統治時代に作られた刀ですが
その説明文はありません

そして
実は博物館に飾られている
李舜臣の愛刀である「雙環大刀」すら何の根拠も伝承も無いのです

この刀の正体は
大東亜戦争期に
物資不足から自動車部品であるスプリングを加工して作られた
軍刀(昭和刀)なのです

李氏朝鮮時代の武官が持っていた刀を
美術館や博物館で探す方が相当に苦労します

一方で
スプリングで作成された日本軍刀を
韓国国内で探すと簡単に見つかりますし

韓国土産に朝鮮刀を買おうと思ったら
柄や鞘を朝鮮風にアレンジされた刀ですら
いくらでも簡単に見つかります

ナゼ伝統的な朝鮮刀は
ほとんど姿を消し
ドラマの影響力か
何なのか知りませんが
この一連の韓国での動きをどう思うのか?

ソレは個人で感じ方は違うと思いますが…

個人的にはBLEACHの刀剣など
アニメや漫画などの想像上の刀を作成してくれる店は
日本には何件もあります
ソレと変わらない気がします


つまり
朝鮮刀は
この様にBLEACHで黒崎一護の使用する斬魄刀を
床の間に飾てるだけだと私は思います

参考資料
永山光幹「刀剣鑑定読本」
井沢元彦「逆説の日本史6巻」
櫻井よし子「海峡は越えられるか?日韓歴史論争」

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大山倍達 宮本武蔵 の虚像と実像

http://blog.livedoor.jp/whokilledxxxxx/archives/19108489.html
天下無双の兵法家宮本武蔵と地上最強の空手家大山倍達(崔永宜)

バガボンドという漫画を知っていますか?

バガボンドは吉川英治原作の「宮本武蔵」をモチーフに井上雄彦が脚色した漫画で
その単行本は
国内で6000万部以上の発行部数を誇り海外でも2200万部以上の発行部数を誇る漫画です

宮本武蔵
二天一流の開祖で生涯に於いて一度も敗北を喫した事が無い「天下無双」の兵法者

宮本武蔵が書き記した「五輪書」には

「1000日の稽古を以て鍛とし
10000日の稽古を以て錬とする」という言葉があります

コレが「鍛錬」という言葉の語源ですが
「鍛」として基礎が定着するまでに約3年の歳月が必要で
「錬」として1つの道として揺るぎなく完成するまでには約30年の歳月が必要
つまり
剣の道を極める為には継続的な努力や精進が大切だと説いた言葉で
「鍛錬」という言葉を産み出した事でも有名ですね

その伝説的な生涯は
古くは浄瑠璃や歌舞伎や武侠小説の題材として江戸時代より庶民に親しまれ
現在でも映画にドラマに小説の題材として扱われます

伝説的な決闘といえば

宝蔵院槍流の2代目宝蔵院胤舜との死闘
吉岡清十郎との蓮台寺野での死闘
吉岡伝七郎との三十三間堂での死闘
吉岡一門100余名との一乗寺下り松での死闘
伊勢での鎖鎌の達人宍戸梅軒との死闘
巌流島での佐々木小次郎との死闘などがあります

ちなみに
宮本武蔵が回顧録的な剣術指南書「五輪書」を書き
ソレを参考に
宮本武蔵の養子だった宮本伊織が「小倉碑文」を作り
その「小倉碑文」を参考に
二天一流の師範だった丹治峯均が「兵法大祖武州玄信公伝来」を書き
明治時代になって
宮本武蔵遺蹟顕彰会が
「兵法大祖武州玄信公伝来」を参考に「顕彰会本」を編纂し
その「顕彰会本」を参考にして吉川英治の「宮本武蔵」は書かれ
吉川英治の「宮本武蔵」を参考に井上雄彦は「バガボンド」は描かれています
ある意味で
宮本武蔵が自らの半生を振り返った「五輪書」より継がれる正当な伝承という事です

さて
宮本武蔵が武者修行の礼儀を無視した形で
京都「最強」と謳われ
足利将軍家指南役でもあった「吉岡流」に勝負を挑み
当主の吉岡清十郎を蓮台寺野で
弟の吉岡伝七郎を三十三間堂で相次いで打ち破り
私怨に燃えた吉岡一門総勢100余名と宮本武蔵が一乗寺下り松で決闘し
それ打ち破った為に吉岡一門は滅亡した事になっていますが…

医者であり郷土研究家の福住道祐の書き記した「吉岡伝」
天道流剣術と武田流兵学を学んだ兵法家の日夏繁高の書き記した「本朝武芸小伝」
国学者だった柏崎永以の書き記した「古老茶話」によると

宮本武蔵が「吉岡流」の吉岡憲法と戦い
宮本武蔵が試合中に「大流血」したので
勝敗の決着を付ける事無く試合を終えたので引き分けだったと書かれています

まず
吉岡憲法というのは個人名ではなく「吉岡流」の当主が代々名乗るモノです

宮本武蔵と同時代の当主は四代目吉岡憲法こと吉岡直綱です
吉岡清十郎という名前ではありませんが当主は彼ですし
実際に宮本武蔵と戦った史料もありますので
吉岡清十郎を指す人物という事になりますよね?

この吉岡直綱
大阪の陣では豊臣方として参戦したために
大坂の陣で豊臣敗戦後は浪人狩りを恐れ剣術から足を洗い
染物屋として天寿を全うしてます(笑)

弟の吉岡又市は(伝七郎という名前ではありませんが…)
1684年に福住道祐の書き記した「吉岡伝」を参考にすれば
兄の吉岡憲法と宮本武蔵の戦いの後に
宮本武蔵から試合の申込みがあったので快諾したが
宮本武蔵が決闘場所に現れず「不戦勝」だったと書かれています

コレでは
どうも一般的に語り継がれている決闘の逸話と随分と違いますよね?

少し話は逸れますが
京都最強と謳われた「吉岡流」ですが
室町時代末期に京都に存在した剣術8流派が統合されて出来た流派で
将軍家指南役になった理由も
単純に8流派が統合してしまい京都には「吉岡流」しか存在しなかったからです(笑)

ですから
何ら実績も無い「吉岡流」は
創設された瞬間から12代将軍の足利晴元の将軍指南役になったのですが

13代将軍の足利義輝のように剣術に造詣が深い将軍の場合には
将軍家指南役に「新陰流」を選び

14代将軍の足利義昭は
剣術に興味がなかった為に
将軍家指南役に「吉岡流」を選んでいます

つまり
「たしなみ」程度に剣術を学ぶ場合には
将軍家は「吉岡流」を選んでいる事が解ります(笑)

ただ
将軍家憲法指南役だったのは事実ですし
当然ですが稽古の際に生傷は絶えませんので
稽古で負った治療の為に生薬に吉岡一門は精通してました

当時の染料の原材料は生薬と同じく薬草です
吉岡一門の門下生だった中国人の李三官から染色技術を学び
四代目吉岡憲法は
黒褐色の染物「憲法染」を発明します


黒染めには高い技術が必要で吉岡流が販売する「憲法染」は
良心的な価格で絶大な人気を誇り
京都に存在する染屋の多くが
この「吉岡流」から技術を学び「暖簾分け」された門下生の為に
京都の染色業者には
吉岡姓が現在でも多数を占め
今では日本伝統色の1つとして「憲法黒」が存在します

吉岡直綱(憲法)には2人の弟がいます
宮本武蔵に不戦勝で勝った吉岡又市と吉岡清次郎です
名前からしても宮本武蔵が戦った吉岡清十郎に異常に近いですよね?

1613年に豊臣秀頼が方広寺大仏殿を再建した際に
落成の祝宴の能が開催されたのですが
一般庶民は祝宴の拝観が許されていませんでしたので
一般庶民が拝観しないように雑踏警備の参加していた只見弥五左衛門に
拝観しようとした吉岡清次郎は咎められブチキレました

只見弥五右衛門を殺害しただけでは怒りが収まらず
周囲にいた一般人の多くの人々を殺傷します
キレすぎです(笑)

その騒ぎに駆けつけたのが
京都所司代板倉勝重の家臣だった大田忠兵衛ですが
彼に吉岡清次郎は斬られ死亡してます

いずれにせよ
宮本武蔵と戦って死んだワケではありませんし
宮本武蔵によって吉岡一門が断絶されたなどという事はありません(笑)

宝蔵院槍流の2代目当主だった宝蔵院胤舜との死闘
鎖鎌の達人だった宍戸梅軒との死闘に関しては
「五輪書」にすら記述が存在しませんし
他に何ら裏付けになる史料がありませんので
丹治峯均による創作だった可能性が非常に高いです

それに
「鍛錬」の語源になった

「1000日の稽古を以て鍛とし
10000日の稽古を以て錬とする」という言葉ですが

実はコレ
世阿彌陀佛が書き記した能の芸道書「風姿華傳」の
「1000日を以て初心とし
10000日を以て極みとする」という言葉のパクリです(笑)

「風姿華傳」は明治時代になるまで一般には流通しておらず
徳川家康や細川幽斎など一部の能愛好家のみが所持していた秘伝の書です

武芸者だった宮本武蔵が簡単に読めるワケがなく
剣の道を極めようとしたら
偶然にも能の道を極めようとした世阿彌陀佛と
求道者同士ですので同じ境地に辿りついたとも考えられるワケですが
実は
五輪書を書いた頃の宮本武蔵は
「風姿華傳」を所持していた数少ない人物の細川幽斎の孫にあたる細川忠利の元におり
「風姿華傳」を読もうと思えば読めたワケです(笑)

ただ
大阪の陣では水野勝成の食客として
徳川御三家の1つ尾張藩の家老だった寺尾政成の要請で道場の開設をし
姫路藩主だった本田忠刻の食客として明石市の都市計画をしたり
肥後藩の細川忠利に食客として招かれています
宮本武蔵が対した実績も無い無名の兵法家だったとは思いません
宮本武蔵が武勇伝も含め相当に自分の実力を盛った可能性は高いと思います


さて
史上最強の空手を自負する「極真会館」
この開祖で初代館長だった大山倍達こと崔永宜



その半生は
梶原一騎原作の漫画でTV化された「空手バカ一代」で有名ですね
昭和33年に大山倍達が描いた「what is karate?」は
世界25万部を売り上げ
現在でも世界で一番発行部数がある武道書であり
ドキュメント映画「史上最強のカラテ」シリーズは大ヒットし
一大「空手ブーム」を築き上げ
世界140カ国に支部を持ち門下生は1200万人以上を誇ります

古くは灰色熊を素手で倒しアントニオ猪木とも闘ったウィリー・ウィリアムス
K1で「かかと落とし」を武器に一躍スターに登り詰めたアンディ・フグ
同じくK1で「一撃伝説」を作り上げたフランシスコ・フィリオ
今や世界最高峰の格闘技イベントとなったUFCで優勝したジョルジュ・サンピエール
など幾多の外国人選手が尊敬して止まない大山倍達

大山倍達の半生を振り返れば

1940年
16歳の時に来日し山梨少年航空学校に入学
1940年9月
松濤館流空手を船越義珍に師事し空手を始めます
山梨少年航空学校卒業後に陸軍士官学校に受験するも不合格
その頃拓殖大学の学生だった木村政彦が
柔道界最高の栄誉だった「天覧試合」で優勝を成し遂げた事に感動し
1941年
拓殖大学司政科に入学し政治家を志します
同年末に大東亜戦争が勃発し在学中のまま学徒出陣で徴兵され
終戦間際に
海軍の特攻隊に志願したが出撃できず終戦を迎えます
1945年9月
復員し東京都杉並区天沼町に永和空手道研究所を創設し
空手の武者修行と称し道場破りを繰り返したため
身を隠す必要性に迫られ「山篭り」を敢行し空手の修行に励む
1947年
京都で開催された戦後初の全日本空手道選手権に出場し優勝
1952年
渡米在米プロレスラーだったグレート東郷の兄弟という設定「マス・東郷」の名前で
全米各地でプロレスラーやボクサーと対決する傍ら空手のデモンストレーションとして
ビール瓶の首から上の部分を手刀打ちで切り落とし観客は驚嘆し
「Hand of God」と形容され全米で名を轟かせた
帰国後は47頭の牛を素手で倒し(そのうち4頭は即死)
「猛牛と戦う空手」とゆドキュメント映画が公開され
その後は多くの武道家と交流し世界各地を巡り様々な格闘技を研究し
国際空手道連盟・極真会館を設立した

という来歴ですが…

極真の意味は
「1000日を以て真とし
10000日を以て極みとする」ですが
宮本武蔵と同じく
世阿彌陀佛が書き記した能の芸道書「風姿華傳」の
「1000日を以て初心とし
10000日を以て極みとする」という言葉のパクリです(笑)
そして
極真会館を設立するまでの来歴は99%が嘘です


「牛殺し」やビール瓶の手刀切りに代表される神業にトリックなど無く
鍛え抜かれた肉体に偽りがあるワケではありません

日本柔道界の英雄である木村政彦やグレーシー柔術の指導員ミツ山下は
「大山倍達は間違い無く日本屈指の打撃系選手だった」と
その強さを認めています

極真会館を設立する際に資金を拠出した著名人の中には
初代極真会館の会長にも就名され内閣総理大臣にもなった佐藤栄作などがいます

では
ナゼ大山倍達は半生を「嘘」を付く必要があったのか?
偽りの武勇伝により自身のカリスマ性を上げる事が目的だったのでしょうか?

ソレを解き明かすには曺寧柱という人物が鍵を握っています


曺寧柱
1908年朝鮮慶州北道に生まれ
1932年に京都帝国大学法学部に入学します
その頃の曺寧柱は
「共産主義革命こそが日本に併合された朝鮮人を解放できる唯一の道」と考え
日本共産党の外郭団体「日本赤色救援会」に加入し
街宣デモやビラ配りなどに積極的に参加していました
その傍ら心身を鍛える為に「義方会」に入部します

「義方会」は
大日本武特会傘下の武道学校と
満州建国大学で柔道の師範を務め
石原莞爾が主催する「東亜連盟協会」の幹部でもあった
福島清三郎が設立した「義勇会」の空手部門で
立命館大学空手部主将の山口剛玄によって創設された会派で
同時に「東亜連盟京都支部」の役割も同時に担っていた団体です

「東亜連盟」とは
アジア的理想国家(楽土)を西洋の「武」による統治(覇道)ではなく
東洋の「特」による統治(王道)で作り上げよう
つまり
「王道楽土」とも呼ばれる「大アジア主義」を具現化しようとした愛国団体です

共産主義にドップリ漬かっていた曺寧柱と
「大アジア主義」を具現化するべき団体の「義方会」では
思想的には180度違うのですが
曺寧柱は祖国を憂い「共産主義」に目覚めただけでしたので
偶然にも心身を鍛えようとして所属した「義方会」の
「大アジア主義」に感銘を受け強烈な石原莞爾信奉者に変貌し
同時に空手にも情熱的に打ち込み「義方会」ナンバー2の師範代まで登り詰めました

そして
この「大アジア主義」の思想を広めようと
1939年に帰国して釜山で東亜連盟の講演会を開催し同志を募ります

この講演会の聴衆者の中に若き大山倍達がいたのです
講演内容に感銘を受けた大山倍達は
1939年に釜山より密航し来日し曺寧柱に弟子入りします

義方会には協和塾という外国人留学生専用の寮があり
大山倍達もソコに入寮し「大アジア思想」を学びつつ空手を学ぶ事が出来ました

ちなみに
大山倍達は少年時代に中国武術の「18技」を習ったと自著で述べていますが
実際には曺寧柱から剛柔流の「18(セーパイ)」という型を学んだ事を指します(笑)

ですから
松濤館流空手を船越義珍に師事し空手を始めたというのは嘘で
「義方会」に入会し空手を学んだのであり
「義方会」の教える空手は「剛柔流空手」であり流派すら違います(笑)

松濤館流の記録を辿れば
大山倍達が入門した記録は存在しませんが
1943年に大山倍達らしき人物(大山猛虎)が松濤館流に入門し
1944年に昇段試験を受けていますが
コレが大山倍達と断定はできませんが
仮に大山倍達だったとしても師事した時期が違います(笑)

1945年9月
大山倍達は戦地から復員し
東京都杉並区天沼町に「永和空手道研究所」を創設したという事ですが…嘘です(笑)

大東亜戦争に敗戦したからといって
「大アジア主義」自体に間違いは無いと考えていた曺寧柱は
金天海が
「日本帝国主義と軍閥の撲滅」
「天皇制の廃止」
「労働農民の政府樹立」
「朝鮮半島の完全独立と民主政府の樹立」を高々と宣言し
「在日朝鮮人連盟」を結成し日本共産党と共に
武装闘争を日本国内で繰り返す事に危機感を持ち
東京都杉並区天沼町に「在日朝鮮建国促進青年同盟」を立ち上げます

「在日朝鮮建国促進青年同盟」の本部は
戦前に移民訓練所があった場所です
その本部(移民訓練所)には武道場が併設されていたので
曺寧柱は空手と「大アジア思想」を在日朝鮮人に学べる施設として
「在日朝鮮建国促進青年同盟」の本部敷地内に「永和空手研究所」も作ったのです
そして
大山倍達はこの「在日朝鮮建国促進青年同盟」で
「建設隊隊長」や「訓練部長」と千葉支部長を任された幹部でありました

ナゼを支部長を任されたのかといえば
大山倍達は軍人として「徴兵」などされておらず
「徴用工」として終戦まで舘山に昭和電工舘山工場で働いており
舘山に生活基盤があり土地勘があったからです(笑)

拓殖大学に入学して学徒出陣で軍隊に入隊したハズでは?…と思うかもしれませんが

そもそも
大山倍達は「山梨少年航空学校」などには入学していません(笑)
実は曺寧柱が身元保証人になって大山倍達は「山梨航空技術学校」に入学しています
この学校は飛行機整備士を育成する学校であって
パイロットを育成する学校ではありません(笑)
そして
拓殖大学の卒業名簿には大山倍達も朝鮮名の崔永宜も存在しません
ちなみに
本科・予科(旧大学制度では本科に入る前に予備課程があった)留学生も含め
入学した生徒は中途退学した生徒も含め総て記録された生徒名簿というモノがありますが
生徒名簿にも大山倍達の名前はありません
大山倍達が拓殖大学に在籍しておらず
大学生でないので学徒出陣に招聘される事はありません(笑)

話を元に戻して
金天海の設立した共産主義系の「在日朝鮮人連盟」と
曺寧柱が設立した「在日朝鮮建国促進青年同盟」は対立が先鋭化し
北朝鮮と韓国の代理戦争の様相を呈し日本各地で抗争事件を引き起こします

もし半生が正しいのであれば
大山倍達は「在日朝鮮人連盟」と血で血を洗う抗争の繰り広げられる最中に
1年半も山篭りしていた事になります(笑)


実際には
1970年にアメリカに掲載された
「MAS OYAMA SEARCH FOR THE ULTIMATE CHALLENGE」によれば
GHQ主催で山王ホテルで開催されたダンスパーティで
大山倍達はヤクザ構成員を撲殺し指名手配を受けています

また
大山倍達自身が数々の雑誌のインタビューで終戦直後に
何らかの事件を犯し小沢専七郎衆議院議員が
大山倍達の刑を助命嘆願をした逸話がある通り
山篭りしたのは空手の修行の為ではなく
山篭りせざる得ない環境に追い込まれていたからです

1947年
京都で開催された戦後初の全日本空手道選手権に出場し優勝した
コレに関して
大山倍達自身も小島一志に対し
「自分の伝説が総て実話ぢゃない」と前置きした上で
空手バカ一代の原作者が「梶原一騎」のデッチ上げだったと認めた上で

「正式に云えば空手の選手権では無く武道大会の様なモノだった
だから空手だけではなく柔道や剣道も重量挙げもやっていた
戦後の復興期に国民に勇気づけようと開かれたモノだ」


武道禁止令が1946年にGHQによって発令されていましたので
京都座で開かれたのは見世物としての「イベント」ですが
主催者は曺寧柱で
「優勝したのが嬉しかったのか舘山に電話をしてたよ」と曺寧柱自身も述べていますし
武道大会自体が開催された事実は当時の新聞からも確認できます

この様に半生を振り返る際に
曺寧柱との関わりがある部分に関して虚偽の逸話を語っている事が解りますよね?

ソレは大山倍達が田中清玄との出逢いがあったからだと思います
日本右翼で戦後の政財界の黒幕の1人であると同時に
和同流など伝統空手の普及に力を入れいたのですが
伝統空手界から「異端」と呼ばれた大山倍達に興味を持ち
そして大山倍達の人柄に触れ大山倍達の熱烈な支持者になり
佐藤栄作や小沢専七郎など国会議員と引き合わせ
合気道のカリスマだった塩田剛三や他武道家と大山倍達を引き合わせたのも田中清玄です

大山倍達の妻である智弥子が花嫁修行をしていた場所であり
2人が結婚するに際には媒酌人も務め
そして
極真会館設立の際や極真世界大会の資金面でバックアップもした人物です

さて
ココで金天海が率いる「在日朝鮮人連盟」と
曺寧柱が率いる「在日朝鮮建国促進青年同盟」の抗争ですが

戦後動乱期に愚連隊として名を馳せた「町井一家」の組長の町井久之(鄭建永)と
曺寧柱と出逢い「大アジア主義」の思想に感銘を受け
構成員1600人を超える政治結社「東声会」を設立し
在日朝鮮人連盟など在日朝鮮人共産勢力瓦解を標榜します
といっても
警察は政治結社と認めず山口組らと同じく10大広域指定暴力団に認定するのですが(笑)

この出逢いにより
曺寧柱は児玉誉士夫と知り合う事になります

児玉誉士夫は
戦前にスパイ活動や抗日スパイの暗殺など非合法な業務を請け負い
非合法の業務で得た資金(現在の価値に換算すると4000億円)を持て余していました
終戦直後は
巣鴨プリズンに収監されていたのですが
ココで国粋主義者の辻嘉六と知り合い鳩山一郎や岸信介などに資金提供し
また夕張炭鉱の労働組合を共産デモ鎮圧の為に明楽組を派遣し
政財界の黒幕へと変貌していきます

児玉誉士夫は
武装闘争を繰り返す日本国内の共産主義勢力を駆逐する為には
ヤクザと右翼の大同団結による力による封じ込めしかないと考える様になり
日本・韓国・台湾・在日朝鮮人らが協力し共産主義勢力打破する
「東亜同友会」構想を打ち立てます
いうならば「大アジア主義」の焼き直しの様な考えという事もあり
町井久之を介して曺寧柱も児玉誉士夫と協力関係を築く事になります

しかし田中清玄は同じ右翼でも
児玉誉士夫の考えには賛成出来ず対立し
町井久之が率いる「東声会」の構成員だった木下陸男に銃撃されます
田中清玄は一命を取り留めたのですが
この事件により
全国のヤクザ・右翼の大同団結は不可能となり頓挫し
児玉誉士夫は
文鮮明率いる統一教会と共に勝共連合結成に奔走していきます

個人的には
この田中清玄と児玉誉士夫の対立が
曺寧柱との関係を隠す原因ではないかと思います

児玉誉士夫側である
久保木修己統一教会初代日本会長は極真全国大会の大会相談役であり
北米極真会館会長を務め
統一教会の系列新聞である世界日報は
極真第一回全国大会の協賛企業として名を連ねていますが
大山智弥子夫人は
「主人も私も家族も「統一教会の信者なんですか?」と云われる事が一番嫌だった」と
回顧録で述べていますし
「実際に統一教会が極真会館を支援してて
主人が信者なら
極真本部道場建て替えに数十年も時間を費やす必要なんでないでしょ(笑)」

恩師である曺寧柱に義理を立てる意味では
勝共連合側の統一教会を関係を拒む事も出来無かったと想像できます

しかし
大山倍達は何らかの決断をしたのでは無いでしょうか?

単純に
日本の右翼との関係を隠すのであれば
田中清玄との関係性も隠すハズですが堂々と対談した模様が紙面として掲載されています

曺寧柱と大山倍達の関係は
町井久之の半生を綴った書籍や
戦後動乱期の在日朝鮮人の歴史に関係する書籍では簡単に見つけられるのに
極真会館の公式プロフィールには曺寧柱の名前は一切掲載されていません
もちろん対談の記事なども存在しません

「私が殺したヤクザの妻が夫の遺体に寄り添い号泣している悪夢を見始めた時から
自分がいつでもヤクザの組長になれる可能性があると知った
しかし
自分の人生を変える覚悟ができ空手の指導者を選択したのです」

大山倍達はアメリカの雑誌のインタビューで述べた
この言葉が総てだと個人的には思います

半生を偽った理由は
大山倍達は自らが「民族運動」に加担していた歴史を総て消したかったからであり
ソコには「民族運動」との決別のメッセージが込められいるのだと個人的には思います

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極真空手 大山倍達の嘘 より リンク先がネトウヨ臭いですが 大山倍達氏の経歴詐称が描かれています

http://www.tamanegiya.com/ooyamamasutatuitikousatu22.9.4.html
大山倍達の嘘


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大山倍達とはある意味最も朝鮮人らしい朝鮮人である

大山倍達にみる知られざる在日特権「重婚」

力道山にみる朝鮮人による戸籍捏造

大山倍達「極真の歴史」にみる捏造

大山倍達 身延山・清澄山 山籠り伝説の嘘

大山倍達「眉剃り」逸話の嘘

大山倍達が隠す空手、人生の師である曺寧柱氏

統一教会と極真会館との関係

全日本空手道選手権大会優勝という嘘


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文責はすべて、酒たまねぎや店主の木下隆義にございます。


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複数の戸籍と名前を使い分ける在日朝鮮人

大山倍達にみる知られざる在日特権「重婚」

平成22年6月23日水曜日晴れのち雨 △

 「大山倍達正伝」(小島一志 新潮社)という本には、大山氏の死後に南朝鮮に「正妻」と三人の息子が残されていて、我が国に残された「正妻」と二人の娘との存在が問題になった事が書かれているそうです。

 この事を例に但馬オサム氏が、「知られざる帰化在日特権『重婚』」という文を「民主党政権崩壊」(撃論ムック オークラ出版 平成二十二年刊)に書かれています。

 (以下の引用ページはこの本よりのものです。)


 この但馬氏の文は私にとって非常に驚きでした。


 それによると、大山倍達氏は我が国に大山智弥子、南朝鮮に洪順浩という二人の、共に「正式」の婚姻手続きを踏んだ合法的な、共に大山氏にとって「初婚となる」妻がいたそうである。

 


 大山氏は昭和二十六年に智弥子夫人と入籍しているが、この時は大山氏の朝鮮籍に夫人が入籍している。

 その後、昭和四十三年に家族揃って日本に帰化し、通名「大山倍達」を本名としている。

 洪順浩夫人とはそのたった五年後の昭和四十九年に南朝鮮で「崔永宣」として入籍している。

 つまり、道場生に対してクソ偉そうに人生を説き、少年誌少年マガジンでは人生相談コーナーまであり、「財産を残していたら、私の墓に唾を吐きかけろ」とまで書いた「人格者」のはずの大山倍達氏は、その生涯にわたり大正十二年(一九二三年)生まれの日本人「大山倍達」と大正十一年生まれの南朝鮮人「崔永宣」と生年が一年違う二つの国籍を使い分けていたことになる。


 ちなみに、我が国も南朝鮮も二重国籍は認めていない。


 これはどういうことか。


 我々は、外国人が日本国籍を取得した場合、元の国籍が自動的に消滅するものと考えがちだが、実は戸籍抹消の手続きは帰化した本人にゆだねられ、抹消の有無は自己申告であり、それに関して国家間での照会もないという。

 つまり、本人が元の国籍を抹消せずに放置しておけば事実上の二重国籍となってしまうのである。

 そして、「大山倍達正伝」に掲載されている事として、但馬氏は民団中央本部顧問・金致淳氏の証言を書いている。

「韓国国籍から日本に帰化した多くの人達は、意図的か無意識かにかかわらず結果的に二重国籍です」


 そして、但馬氏は戦後、朝鮮人がどのようにして「正式」な戸籍を獲得したかを書いている。


<昭和二十年の我が国の大東亜戦争の敗戦により、朝鮮人、台湾人は我が国の国籍を喪失する。

 そこで、彼等を指して、戦勝国民でも敗戦国民でもないという意味の「第三国人」という言葉が創造されるわけだ。

 第三国人は敗戦国民である日本人の及ばない数々の特権を有していた。

 略)

 彼等もいつまでも無国籍のままでいたわけではない。>


として、但馬氏は下記のように「大山倍達正伝」よりの引用として書く。


<日本政府の行政機関が麻痺状態に陥っていた終戦直後、在日朝鮮人は日本国内で簡単に「朝鮮国籍」を作る事が出来たという。

 故国・朝鮮と日本との行き来がままならなかった時代、多くの在日朝鮮人には戸籍謄本(抄本)を取得するためだけに故国に帰省する経済的余裕はなかった。

 そのため、便宜的に朝鮮の役所を代行し、戸籍謄本を発行してくれる機関が存在した>


 この機関は金致淳氏によれば、韓国大使館の前身の韓国代表部で、本部は銀座の服部ビルにあったそうだ。


 そして、但馬氏は下記のように書く

 <日本国内で制作する「朝鮮国籍」は総て自己申告で行われ、やはり本国との照会作業などなかったという。つまり、口先三寸でどうにでもなったのだ。

 戦前戦中に徴用や出稼ぎで内地にいた朝鮮人も戦後のドサクサにまぎれて密入国してきた朝鮮人(実はこちらが大多数)も一律に「在日韓国・朝鮮人」という枠で呼ばれることに疑問を覚える人も少なくないだろうが、このような戸籍ロンダリングとも言うべきシステムが存在した事を知れば、なるほどと思うのではないか。

 おたずね者であろうが、朝鮮動乱の脱走兵であろうが、国を追われた共産主義者であろうが、日本に密入国し新しい朝鮮戸籍を作ればアラ不思議、「差別と貧困と闘いながら律儀に生きる在日同胞」様の一丁出来上がりなのだ。

 問題はそれだけではない。当時はまだGHQ統治下であり、日本人も朝鮮人も配給制度で日々の食糧を得ていた時代である。当然ながら、より多くの食糧を得ようと不正の戸籍申請をする者も後を絶たなかった。姓名の一文字や生年月日を変えることによって複数の戸籍を取得するのである。

 日本人が竹の子生活で飢えを凌いでいた時代、朝鮮人の中にはかなり羽振りのいい者たち(大山もそうだった)がいたというが、その秘密の一端にはこういった種々の不正行為にあったことだろう。

 また、在日韓国・朝鮮人の多くが通名の他に複数の韓国名を持つ理由もこのあたりに起因しているのかもしれない。

 ちなみに、大山は生涯に渡って、本名の崔永宣を筆頭に、崔猛虎、大山猛虎、大山虎男、大山信達、それに大山倍達の名を使い分けていた。

 大山の生年の一年違う日本製「朝鮮籍」はこのような過程で作られた偽造戸籍であると正伝は断言する。

 帰化申請の際には、この偽造戸籍をもとに新たな日本国籍が作られたのだ。そして、祖国・韓国にもまた崔永宣名義のまっさらな戸籍が残っていることを確認した上で大山は帰化に踏み切ったという。

 これが大山の「重婚」を可能たらしめたカラクリであると正伝は明かしている。>

P百二十四~P百二十五


 これらの事実は、在日朝鮮人がどのようにして我が国で生きてきたか、そして、今の生きているかをよく現しているとおもいます。



 ただ、但馬氏がここに書かれているような

 <昭和二十年の我が国の大東亜戦争の敗戦により、朝鮮人、台湾人は我が国の国籍を喪失する。

 略)

彼等もいつまでも無国籍のままでいたわけではない。>

と敗戦度同時に朝鮮人らが我が国の国籍を失ったかのように書くのは間違いであり、多くの誤解を招く。

 すでに当ホームページにて浅川晃広名古屋大学専任講師の論文を引用させていただいて書いたように、終戦前から我が国に引続き在留する朝鮮人は対日講和条約発効と同時に日本国籍を失ったわけであり、国籍喪失の「通達」は昭和二十七年四月に出されている。つまり、朝鮮人、台湾人は我が国が敗戦したと同時に日本国籍を失ったわけではない。


 それと、但馬氏が引用して指摘している朝鮮人の戦後の混乱期における朝鮮籍の獲得の仕方については別の事である。

 日本国籍を持ったままでも朝鮮国籍を取得した方が数々の「特権」を得られた時代であるから、朝鮮人は当然のごとく、その特権のために朝鮮名を取得したことは想像が容易に出来ることである。

 それを現在も、在日朝鮮人は銀行口座、身分証明書などに悪用している。

 それは在日朝鮮人の脱税などの犯罪をみれば明らかである。

 犯罪の温床である在日朝鮮人の通名という偽名を一日も早く禁止する必要がある。


 続く



 今日、七時過ぎに小川と名乗る輩から電話(0×0-1605-2038)にて四名の予約があったが、来店せず。

 三名様来店。

 Mさん来店。

 小胡子さん来店。

 ホロン部員Yさん来店。

 今日は一通り飲む。

 記憶はあり。サルよりマシ。


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日名子暁の書く在日朝鮮人

本当にいわれなき偏見か

7月12日追月曜日晴れのちくもり一時雨 ○

 下記は日名子暁氏の文章です。

<戦後、焼け跡・闇市の中から誕生したパチンコ(正確には戦前から存在していたが、一挙に花が開いたのは戦後)

 娯楽の乏しい時代、手軽に遊べるゲームとして、瞬く間に全国規模でブームを呼んだ。

 略)

パチンコ業界を支えていたのは、いわれなき偏見と差別のもとに職業選択の自由のなかった在日朝鮮・韓国人たちであり、

 その七割を彼らが占めていたのだ。>

(「別冊宝島 北朝鮮利権の真相」平成十五年刊 宝島社)

「パチンコ利権アンダーグラウンド 二〇兆円民族産業に群がった魑魅魍魎」日名子暁P一五六~一五七


日名子暁氏は「別冊宝島 占領日本」においても「在日」について下記のように書いている。


 <変見と差別を加えたのは誰だ

 終戦後のドタバタ始末記

 現在まで続くいわれなき偏見と差別

 それは日本人が生み出したものだ>

 

 このように大きく見出しで書いている。

 そして、内容は下記のようなものです。


<いまだに出自を隠すものも多く存在する。

 それには「第三国人」と呼ばれた日本の敗戦直後から彼らが職業選択、結婚など人間の基本的人権にかかわる問題で、いわれなき偏見と差別を受け、現在でもそれが続いている歴史が存在するからだ>

(「別冊宝島 占領日本」宝島社 平成十八年刊)

「在日」P七十六


 その理由として、田中宏の著書「在日外国人」(岩波新書 平成三年刊)よりの引用として当時の吉田茂首相よりマッカーサー司令官への英文の手紙の翻訳を掲載している。


以下引用

<「朝鮮人居住者の問題に関しては、早急に解決をはからなければなりません。彼らは、総数一〇〇万に近く、その約半数は不法入国であります。

 これらすべての朝鮮人がその母国たる半島に帰還するよう期待するものであります。

 その理由は、次の通りであります。

 現在および将来の日本の食糧事情からみて、余分な人口の維持は不可能であります。

 米国の好意により、日本は大量の食糧を輸入しており、その一部を在日朝鮮人を養うために使用しております。

 略)一

 朝鮮人のために負っている対米負債のこの部分を、将来の世代に負わせることは不公平であると思われます。

 大多数の朝鮮人は、日本経済の復興にまったく貢献しておりません。

 略)二

 朝鮮人の中に犯罪分子が大きな割合を占めております。

 彼らの多くは共産主義社およびそのシンパで、最も悪辣な種類の政治犯罪を犯す傾向が強く、常時七千名以上が獄中にいるという状態であります。

 略)三

 さて、朝鮮人の本国送還に関する私の意見は次のとおりです。

原則として、すべての朝鮮人を日本政府の費用で本国に送還すべきである。
日本への残留を希望する朝鮮人は、日本政府の許可を受けなければならない。許可は日本の経済復興に貢献する能力を有すると思われる朝鮮人に与えられる
 略)四 」

  「在日外国人」より>


 そして続いて日名子氏は下記のように書く


 <この書簡は、四十九年前の八月のものと思われる。

 この吉田茂首相が事実誤認と朝鮮民族に対する偏見、朝鮮半島、中国本土に浸透する「共産主義」への異常な警戒などを基にしていることが、今日では簡単に読み取れる。

 しかし、吉田首相を支持する当時の国民の多くも首相と同じ朝鮮民族に対する考えを持っていたのではあるまいか。

 その結果、戦後長く続き、今日でも残っている「在日朝鮮人」に対する偏見と差別を生み出したのだ。

 五十二年四月二十八日、サンフランシスコ講和条約の発効により、朝鮮人、台湾人ら旧植民地の人々に対する処遇は正式に決定した。それは正式に日本国籍を彼らに失わせるものであった。

 しかも、選択権(本国か日本か)も与えない一方的な内容であった。

 加えて、もし、日本国籍を希望するならば「帰化」申請すべきだ、として朝鮮、台湾と日本の歴史や在日朝鮮人たちの意見をまったく考慮しなかった。

 その後、外国人登録、指紋押捺問題と「在日」をめぐって混乱は続いていく。>

引用終わり

(「別冊宝島 占領日本」宝島社 平成十八年刊)

「在日」P七十七


 日名子氏の引用先の著者である田中氏もこの書簡について

<多くの事実誤認と民族的偏見に満ちていることは、あきらかである>

 と書いている。

田中宏の著書「在日外国人」(岩波新書 平成三年刊)p七十一


田中氏の著書には日名子氏が略している箇所には下記のように書かれている。


略)一

このような輸入は、将来の世代に負担を課すことになります。


略)二

さらに悪いことには、朝鮮人の中で犯罪分子が大きな割合を占めております。彼らは、日本の経済法令の常習的違反者であります。


略)三

戦後の朝鮮人による起訴犯罪事件数は次のとおりです。

(詳細省略、一九四八年五月末までで、九万一二三五名の朝鮮人が犯罪に関与したという数字をあげている)


略)四

上述のような見解を、原則的に閣下が御承認下さるならば、私は、朝鮮人の本国帰還に関する予算並びに他の具体的処置を提出するものです。

敬具 

                        吉田茂

連合国最高司令官 

 ダグラス・マッカーサー元帥



 いわれなき差別というが、日名子氏も

<吉田首相を支持する当時の国民の多くも首相と同じ朝鮮民族に対する考えを持っていたのではあるまいか。>

と書くようにこの時代に我が国国民がどうしてこのような考えを持っていたか考えがおよばないのであろうか。


 朝鮮人の戦後の闇市その他での醜い行状は多くの人に語られている事実であり、ましてや、戦後わずか四年しか経っていないこの時期であるなら、我が国国民はリアルタイムで朝鮮人の醜さを体験している時である。

 吉田元首相のこの書簡は今現在読んでもその内容に間違いが無い事が何よりも証明している。


 アホな民主党政権にはこの吉田首相の書簡にある

 <このような輸入は、将来の世代に負担を課すことになります。朝鮮人のために負っている対米負債のこの部分を、将来の世代に負わせることは不公平であると思われます。>

という箇所を読んでほしいものである。



 続く



 朝起きると、あっちこっちが筋肉痛。

 やっぱ、最低週二回はスポーツセンターに行きたいもの。

 今日はちょっとドジり、ネット接続が部屋でできず、テレビも何もないのでニュースが入ってこなかったが、Oさんよりの電話で、売国奴である千葉景子氏と松岡徹氏の落選を知る。

 慶事なり。


 「大山倍達正伝」を読み終える。

  酒は飲まず。


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日名子暁の書く在日朝鮮人

本当にいわれなき偏見か2

7月13日火曜日曇り一時雨 △

 日名子氏が「別冊宝島 占領日本」で略し(隠し?)、書かなかった吉田元首相書簡の中の

<朝鮮人の中で犯罪分子が大きな割合を占めております。彼らは、日本の経済法令の常習的違反者であります。>

とはどういうことか。


 先に、日記で大山倍達の「複数の戸籍と名前を使い分ける在日朝鮮人」という題名で重婚という犯罪を例に挙げたが、このことを書いている但馬オサム氏は、戦後GHQ統治下における複数の戸籍を取得した在日朝鮮人の犯罪について書いています。


 <当時はまだGHQ統治下であり、日本人も朝鮮人も配給制度で日々の食糧を得ていた時代である。

 当然ながら、より多くの食糧を得ようと不正の戸籍申請をする者も後を絶たなかった。

 姓名の一文字や生年月日を変えることによって複数の戸籍を取得するのである。

 日本人が竹の子生活で飢えを凌いでいた時代、朝鮮人の中にはかなり羽振りのいい者たち(大山もそうだった)がいたというが、その秘密の一端はこういった種々の不正行為にあったことだろう。

 また、在日韓国・朝鮮人の多くが通名の他に複数の韓国名を持つ理由もこの辺りに起因しているのかもしれない。

 ちなみに、大山は生涯にわたって、本名の崔永宣を筆頭に、崔猛虎、大山猛虎、大山虎男、大山信達、それに大山倍達の名を使い分けていた。

 大山の生年の一年違う日本製「朝鮮籍」はこのような過程で作られた偽造戸籍であると正伝は断言する。

 帰化申請の際には、この偽造戸籍をもとに新たな日本国籍が作られたのだ。そして、祖国・韓国にもまた崔永宣名義のまっさらな戸籍が残っていることを確認した上で大山は帰化に踏み切ったという。

 これが大山の「重婚」を可能たらしめたカラクリであると正伝は明かしている。>

「民主党政権崩壊」(撃論ムック オークラ出版 平成二十二年刊)

「知られざる帰化在日特権『重婚』」 但馬オサム P百二十四~百二十五


そして、但馬氏の引用元となった「大山倍達正伝」(小島一志・塚本佳子 新潮社)には下記のような記述がある。

(ちなみに、塚本氏は非常に多くの参考文献よりの引用および多くの方にインタビューされております。

 参考文献がたった一冊!という日名子氏とはえらい違いです。)


<「終戦直後、日本国民や在日朝鮮人はGHQの指揮のもと、配給制度によって日々の食糧を割り当てられました。

 戸籍に準じて食糧の量が決定されるため、配給をたくさんもらおうと偽造の戸籍を作った在日朝鮮人がいました。

 戸籍は簡単に作れました。名前の一字を変えるとか、生年月日を変えるだけで、まったく別人の戸籍が出来上がります。」

(金致淳談)

「戸籍の作成が自己申請だったことで、結果的に複数の戸籍を持っていた朝鮮人も少なくなりませんでした。

 戦後、一旦は朝鮮に帰ったものの生活苦のため再び日本に密航で戻って来る人も多く、渡日後、名前や生年月日を変えて戸籍を申請した人もいたと言います。

略)」

(羅基台談)>

「大山倍達正伝」P二百六十七


 これが、当時の吉田首相が

<彼らは、日本の経済法令の常習的違反者であります。>

 とマッカーサー宛の書簡に書いた朝鮮人の姿です。

 

  そして、それは敗戦国日本でも日名子氏が「戦勝国になった」と朝鮮人同様に勝手にアホ脳内変換して書く「三国人」になった朝鮮人の日常的な醜い行為でもあります。

 (当時、併合し日本であった朝鮮は日本として戦って敗戦したのであり、決して「戦勝国」ではない。アホ丸出し)


<「大山倍達伝説」における有名な逸話、「白昼堂々、日本女性を暴行する米兵たちが後を絶たず、正義感に駆られた私は彼ら米兵たちを連日のように叩き歩いた」という武勇伝の客観的な真偽を問いたいと思ったからである。

 私が調べた限りでは、少なくとも大山が言うようなアメリカ兵による性犯罪は決して日常的なものではなかった。GHQによる日本統治は、容易に女性を襲えるほど秩序の乱れたものではなかったのである。もちろん、すべての兵士が品行方正だったとは言わない。なかにはMPの監視の目を盗んで犯罪行為を行なう兵士もいただろう。

 長い戦争における緊張からの解放に、羽目を外す兵士がいたとしてもなんら不思議ではない。

 GHQがどれだけの罰則規定を設けようとも、いつの時代にも厳罰など者ともしない犯罪者は存在する。それはアメリカ人も日本人も同様だ。

 むしろ、大山が書くような日本女性に対する暴力を公然と行なったのは、田岡一雄が「山口組三代目 田岡一雄自伝(電撃編)」で描いたように、不良「三国人」であり、前述したソ連軍兵士たちであった。>

「大山倍達正伝」P百五十八~百五十九




<一九四六年に入っても、「三国人」たちによる列車の無賃乗車や公共施設の不法占拠、旧日本軍基地からの物資の掠奪などの不法行為は減るどころかむしろ増え続けていた。

 ちなみに、建青や建同が事務所として使用していた旧海外同胞訓練所や旧陸軍大学校も日本政府の許可なしに不法占拠したものだ。

 日本政府および日本国民にとって、「三国人」たちによる暴力的行為は、もはや見逃せる限界を超えつつあった。そこで日本政府は、日本警察に取締りの権限を与えるようGHQに要請を出す。

 そして、GHQは、日本政府の要請に応える形で新たな指令を発表した。

 一九四六年四月四日、GHQは「鉄道利用の台湾人および朝鮮人の取締りに関する総司令部覚書」を」発令。

 鉄道を不正に利用する朝鮮人や台湾人を取り締まる完全な権限が日本警察に与えられた。

 さらに、四月三十日には「朝鮮人の不法行為に関する総司令部覚書」が発表される。

 本発令によって鉄道に関してだけでなく、不法行為を働く朝鮮人全般を取り締まる権限を日本警察は得たことになる。

 ただすぃ、日本警察は捜査・逮捕の権限は手にしたものの、それらを現実に実行した場合、その旨を直ちに最寄りの進駐軍部隊またはMPに連絡する義務を負わされた。これはすべての掲示・民事事件に対する裁判権はGHQが有することを意味した。>

「大山倍達正伝」P百八十七



 <この吉田茂首相が事実誤認と朝鮮民族に対する偏見、朝鮮半島、中国本土に浸透する「共産主義」への異常な警戒などを基にしていることが、今日では簡単に読み取れる。>

という日名子氏の文章は、戦後長期間にわたった朝連と民団・健青という朝鮮人団体の抗争が続き、それはGHQの命令により昭和二十三年九月八日(一九四八年)共産主義者の集まりである朝連ならびに民青が解散させられた(我が国政府はどちらも解散を訴えたが、GHQは友好関係にあった民団を守った)後も抗争が続いた事を無視している文章である。



歴史、歴史というのであれば、朝鮮人こそどのように我が国に来たのか、そしてどのように生きてきたのか。自らの歴史を偽らずに見て語る事が大切である。

いくら国技だからといっても。


 

 そして、この本はいわゆる「大山倍達伝説」の一つについても下記のように書いている。


 <大山が厚木航空隊の決起に参加したと書かれているものが少なくない。しかし、厚木航空隊の決起は計画的かつ組織的であり、参加者のほとんどは下士官以上の海軍飛行兵だった。軍隊にも入隊していない大山に、参加出来る余地がないのは明白だ。

 暴動が終息し、マッカーサーをはじめとする連合国軍が厚木飛行場を去った後、人の絶えた厚木飛行場には朝鮮人や台湾人が蟻のように群がり、掠奪の限りを尽くしたと多くの記録に記されている。

 戦中・戦後の大山を知るある朝鮮出身者は匿名を条件に、

「大山さんは厚木飛行場の物資強奪に参加した首謀者の一人だった。その証拠に大山さんが着ていた飛行服には厚木航空隊の紋章が入っていた」と語っている。>

「大山倍達正伝」P百五十



 私は大山倍達という人の人間性ついては、彼の本部道場の建設の時に多くの人の世話になりながらそれを隠匿している下記のこの著書の文章に尽きると思う。

 

 <だが、後に創作された「大山倍達伝説」では、ほとんどの協力者が隠匿され、毛利松平と佐藤栄作だけが資金援助をしてくれた人物として際立った紹介をされている。大山は曹寧柱や同胞はもちろん、柳川次郎の名前すら表に出すことを嫌った。

 言い換えるならば、大山は極真会館総本部を建設する際に協力してくれた人物を毛利松平(さらに佐藤栄作)に集約することで自らの出自である朝鮮・韓国の影や、ヤクザ、右翼といった立場の人々の存在すら闇に葬ろうとしたのである>

P二百三十七


続く



 今日は天候のせいで河岸に魚が薄いので活けの烏賊は仕入れせずというより、仕入れ出来ず。タケ~

  

 営業前に「一笑」の板長さんが送ってきたばかりだというホタルイカの沖漬けと活け締めの石鰈を持って来てくださる。



ororesama777さん来店。

 小胡子さん来店。

 初めてのお客様二名様来店。

 Wさん御夫妻来店。

 今日は売国奴どもが一部落ちたということでドンチャン。

 ついでに、一応私の誕生日つうことでもドンチャン。

 今日は飲んだわりには記憶あり。

 サルよりマシ。

 


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力道山にみる朝鮮人による戸籍捏造

8月2日月曜日晴れ 暑い ○

 故大山倍達氏の戸籍偽造については既に書いたが、同様なことが元プロレスラー力道山にもある。

 

 <本籍・長崎県大村市から東京都中央区日本橋浜町に転籍。

 父・百田巳之助

 母・たつ

 の長男として出生>

 これが大相撲を廃業した関脇力道山・故百田光浩氏が廃業した昭和二十五年十一月二十一日に就籍届けとして提出した時のものである。

 養子でもなく、実子として届けられている。

どこにも

<本籍:咸鏡南道浜京郡龍源面新豊里三七番地 

父亡金錫泰

母巳

三男 金村光浩>

という朝鮮がわかる文字が無い。

何処にも記されていないのである。


養子でなく、実子として昭和二十五年に届けられているのであるから当然と言えば当然であるが、その偽造戸籍が受理されているのである。


 どのような経過を経てこんな偽造戸籍が認められたのかは不明であるが、同様の朝鮮人がいないとも限らない。

 いや、戦後の混乱期を経て、他にはいないと考える方がおかしいだろう。


 我が国には、そんな朝鮮人がい~~~~~っぱいいそうである。




 今日は何もせず、何もする気になれず、ゴロゴロと部屋で過ごす。

 朝起きてすぐにシャワーを浴びて、夕方も風呂に入り、寝る前にもシャワーを浴びる。

 今年もまだ一度もエアコンの電源を入れていない。

 今日は酒は飲まず。


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大山倍達「極真の歴史」にみる捏造

8月3日火曜日晴れ ○ 8月4日一部追記

 国際空手道連盟極真会館(松井派)のホームページには「極真の歴史」として下記のように書かれている。

 

http://www.kyokushinkaikan.org/ja/about/history/1920-1989.html

魚拓

http://megalodon.jp/2011-0831-1022-04/www.kyokushinkaikan.org/ja/about/history/1920-1989.html

<1923年7月大山倍達誕生

 1943年日本航空隊に入隊

 1946年4月 早稲田大学体育学科入学。

      10月 同校を中退して身延山に入山、武道精進に励む。

 1947年9月 京都丸山公会堂での全日本空手道選手権に出場して優勝。

 1948年4月 生涯を空手にかける決意をし、清澄山入山。18ヶ月の修行を行う。>

 

 同じくホームページには用語集「大山倍達」として下記のように書かれている。

 

http://www.kyokushinkaikan.org/ja/glossary/a/post-43.html

魚拓

http://megalodon.jp/2011-0831-1031-41/www.kyokushinkaikan.org/ja/glossary/a/post-43.html



 

 <国際空手道連盟極真会館創始者。

  1923年6月4日生まれ。

 幼少の頃より拳法を学び、14歳で山梨少年航空学校に入学。15歳のときに船越義珍先生(日本に初めて空手を紹介した人)の門下生となる。

その後、拓殖大学、早稲田大学に学び、身延山での修行を経て1947年9月に戦後初めて開催された全日本空手道選手権大会で優勝。

1948年4月より清澄山にて1年8ヵ月の山籠り修行を敢行し>




 これらにはすでに書いた生まれた年をはじめ多くの嘘が書かれている。

 しかし、同じ国際空手道連盟極真会館のホームページで<1923年7月大山倍達誕生><1923年6月4日生まれ。>と違っているのも珍しい。

 新暦、旧暦としても、ちょっと問題なんじゃない?

 

 昭和十八年(一九四三年)日本航空隊入隊というのは大嘘である。

 日本人だったら自分の軍歴について「日本航空隊入隊」などと書く者はいない。

 そもそも「日本航空隊」などというものは無いからである。

 あるのは海軍および陸軍であり、それぞれに航空隊があるだけである。普通だったら海軍航空隊、陸軍航空隊と書くと思う。

 当然、海軍、陸軍とも航空兵の養成過程は異なる。



 


 大山氏の著書には

<山梨少年航空学校>

<山梨の少年航空学校>

(「ダイナミック空手」「一〇〇万人の空手」「闘魂」など)


 <山梨少年航空技術学校>

(「極真カラテ 二十一世紀への道」)


<そうした戦況下で、学徒出陣が決まり、私も短い間であったが、あこがれの山梨少年航空隊に入隊した>

(「わが空手修行」)


 入学時期

<中学二年の時>

「ダイナミック空手」


その他の著書

<一九三八年もしくは一九三九年>

私は「大山倍達正伝」(小島一志・塚本佳子 新潮社平成十六年刊)P九十六~九十七より引用


 「バラ雲会」(山梨航空技術学校・卒業生の会)による平成十四年に出された「学校法人日本航空学園健学七十周年記念誌」には

<昭和十七年九月 山梨航空機関学校 二期生 繰り上げ卒業>

<昭和十七年当時 左から宮井、松岡格、大山倍達>

というキャプションの写真が二枚あるそうです。

 平成十四年に出されたものであるから、「大山倍達」という名前になっているそうです。

 「大山倍達正伝」(小島一志・塚本佳子 新潮社平成十六年刊)P九十八


 つまり、大山氏は昭和十五年四月に「山梨航空技術学校」に入学し、昭和十七年九月に繰り上げ卒業している。


 そして、大山氏(当時は崔永宣)は卒業後の昭和十八年度の追加募集として陸軍士官学校を昭和十八年春に受験するが合格出来なかった。


 これについて、「大山倍達正伝」の小島一志氏との共同執筆者である塚本佳子氏は

 <確かに永宣は小学校時代から勉強嫌いで成績も悪かった。山梨航空技術学校では、小・中学校時代よりは真面目に授業を受けたとはいえ、学んだのはあくまでも飛行機の整備技術が中心だった。

 陸軍士官学校の試験は一般科目である国語、数学、理科、歴史、地理、外国語の六科目にわたって行われた。

 永宣の堅強な体格と人並みはずれた運動能力から考えて、彼が身体検査で落とされたとは考えにくい。

 ならば試験の得点が合格基準に届かなかったと理解するのが妥当だろう。>

p百四

と書きながら、

<ただ、私達は永宣が不合格になった理由として、もうひとつの可能性を推測している。

 略)

 仮に永宣が東亜連盟運動に深く関与していなかったとしても、以上の事実だけで彼が「危険思想の持ち主」として特高にマークされても何ら不思議ではなかった。>

p一〇五

と、思想的な理由により陸士を受からなかった可能性を書いているが、勉強嫌いで成績が悪かった者が、当時、「一高、海兵、陸士」といわれ、ましてや最難関の一高よりある意味入学するのが難しいといわれた海軍兵学校と並び称せられた陸軍士官学校が受かる筈がありません。

 ましてや

 <陸軍士官学校に対して海軍には海軍兵学校があった。ともに士官を養成するための高等教育機関である。だが、予科練は下士官養成所でありながらも飛行兵の育成を目的としていたため、軍人を目指す若者たちに絶大な人気があった。入学試験のレベルも陸軍士官学校や海軍兵学校以上の難関だった。>

p百四


 とは、ワザとボケているのかわかりませんが、多くの著書を参考文献として引用しこの本を書いている塚本氏らしくない余りにも醜い間違いです。


 下士官の方が難関で、士官が簡単であれば誰でも士官の養成学校を目指すでしょう。そうなると、下士官より士官が多い頭でっかちな軍隊ができてしまいます。

 

 蛇足ながら、私の父は「予科練」ならぬ乗る飛行機もない土方仕事ばかりで「ドカレン」と言われた終戦末期の甲種飛行予科練習生十六期だったが、「兄弟で飛び抜けて頭が良かったのは、江田島(海軍兵学校)に行くことができた一番上の兄貴だった」とよく言っていました。


 ちなみに私の父が属していた宝塚海軍航空隊は、予科練の教育訓練隊であり、航空機がなく、昭和二十年六月末に解隊後に淡路島・阿那賀に練習艦となっていた戦艦「春日」の二十センチ砲を流用した要塞構築のために従事していた隊員は、昭和二十年八月二日、鳴門海峡において飛来した艦載機(グラマンといわれているが不明)による攻撃により機帆船に乗船していた百名の隊員のうち八十二名が戦死されている。

 父はその機帆船には乗船していなかったが、父のお世話なった上官の御一人が乗船して戦死されたと生前に聞いた事があります。


 戦死された隊員八十二名の墓は、鳴門海峡を望む淡路島の鎧崎の桜ヶ丘英霊墓地にあります。

 この英霊墓地は淡路島出身の三洋電機創立者である井植歳男氏など多くの方々のお力により健立されたものです。

 昭和四十年の開眼供養には父も参列させていただいたそうです。

 

 今日の毎日新聞で昨日、菩提所である淡路島の春日寺において法要が営まれた事を報道していました。

 

 いわゆる「大山倍達伝説」では軍隊に入隊し、特攻隊に志願した事になっている。

 「大山倍達正伝」でも、小島一志氏に語った大山氏のエピソードとして下記のような事が書かれている。

「グライダーの操縦は戦闘機乗りの基本なんです。

 私は飛行機の整備も技術も一番だったが、グライダーの操縦も誰にも負けないくらいうまかった。

 終戦間際、「桜花」という名の戦闘機があってね。グライダーのように飛ぶという新型戦闘機でした。沖縄では、この「桜花」に乗って特攻隊として敵艦にぶつかっていく計画があったんです。

 上官に申し出て「桜花」の特攻隊入りが決まりかけたところで終戦になってしまったのよ」 

「大山倍達正伝」(小島一志・塚本佳子 新潮社平成十六年刊)P九十七




 一式陸攻に抱かれていき、敵上空にて放たれロケット推進で飛ぶという純粋な特攻兵器として開発された桜花が、敵機を撃墜することを主任務とする戦闘機というジャンルに入るかなどという議論以前に、嘘を平気でつける人間としての醜さをさらけ出しているように思えてならない。


<学徒出陣が決まり、私があれほど苦労した航空兵に、こんどは航空隊のほうからお出迎えがくるくらいに、難なく入隊する事が決まった。千葉県の陸軍航空隊である。>

<山梨少年航空学校の前歴を買われて、またここでも整備兵に回されてしまった>

<館山の航空隊からは、飛行機の都合がつきしだい、連日のように、敵艦と刺しちがえに行く神風特別攻撃隊が出陣していた>

<私が、特別攻撃隊員に編成されたのは、七月に入ってからであったが、八月十五日ごろが、私の出番であったと思うのだ>

「闘魂」より

 私は「大山倍達正伝」p百二十三よりの引用。


 国際空手道連盟極真会館(松井派)のホームページの「極真の歴史」には書かれておりませんが、用語集に書かれている拓殖大学についても、

<私は木村政彦に憧れて拓殖大学に入った>

<木村との出会いは拓殖大学の空手部道場だった>

<山梨航空技術学校(卒業時点では「山梨航空機関学校」と改称)を卒業した翌年、拓殖大学に入学し、そこで木村と出会った>

と多くの大山氏の著書に書かれている木村政彦氏との出会いの場として必ず出てくる「拓殖大学入学」も嘘であると「大山倍達正伝」は断定しています。

 ましてや、仮に大山氏が拓殖大学に入学したとしても、木村氏と出会う事は不可能であったのです。

 なぜなら、昭和十六年に拓殖大学を卒業した木村政彦氏は大山氏と「違って」昭和十七年に召集され終戦まで兵役についていたからです。

 それだけでなく、

<拓殖大学側が下した最終的な回答は次のようなものだった。

「卒業名簿には大山倍達の名前はありません。崔永宣、崔猛虎、大山猛虎、大山虎男などの登録もありません。

 生徒名簿には本科、予科(旧制大学制度における本科に入る為の予備課程)、留学生を含め、入学した生徒はすべて記録されています。それは中途退学した生徒も同様です。

 名簿に記載されていない以上、大山氏が拓殖大学に在籍していた事実はないと答えざるを得ません」>

「大山倍達正伝」p百十六


 拓殖大学に入学していない以上、学徒出陣はあり得ず、まして、海軍基地である館山より陸軍による特攻等あり得ないだけでなく、神風特攻隊は海軍であり陸軍で用いる事は無い。

「大山倍達正伝」に平成十六年八月二十六日号の「週刊新潮」掲載の「戦後六十年『特攻体験』を騙った男たち」の中で大山倍達氏も掲載されていた事をあげ、この日高恒太郎氏の記事の最後に海軍兵学校最後の卒業生(七十四期)で「神風特別攻撃隊古鷹隊」三十六名の一人として特攻指名された元日航機長、信太正道氏(当時七十七歳)の言葉を掲載している。

<「特攻体験は利用価値大なんです。右翼の会に行くと上座に座らされる。特攻は時代の流れの中で利用されて来たと思います。

 彼等は本当の戦争を知らない。現実に特攻体験を持つ者は特攻を勇ましく語ったりしないものです」と断じる。死の淵を覗いたトラウマはそれほど深いのだ。>

「大山倍達正伝」p百二十七


 平気で「特攻隊の生き残り」と吹聴し、自分の経歴を嘘で塗り固める事ができる人間性が問題だろう。


 普通は軍歴とはだれでもスラスラと言えるものであり、大山氏のようにコロコロ変わるものではない。


 大山氏は特攻隊の生き残りなどでないどころか、軍隊経験も無い「徴用工」として千葉県館山に配属されていたのであることを「大山倍達正伝」p百二十一に書いている。



「1947年9月 京都丸山公会堂での全日本空手道選手権に出場して優勝。」


 一九四七年とは戦後まだ二年しか経過していない時であり、GHQが発令した「武道禁止令」により禁止されておった時代です。

 試合空手が試合化されたのが、一九五〇年代半ばであり、公開された試合として最も古いのが、昭和二十九年(一九五四年)十一月、当時「全日本空手道連盟」を名乗っていた練武会が行ったもので、全空連が認める史上初の大会は、昭和三十二年一〇月に東京体育館で開催された日本空手協会主催の全国空手道選手権大会である。

 そして、大山氏自身が小島氏に語ったエピソードとして

「戦後初の全日本選手権優勝というのは間違いなんです。あれは梶原一騎のつくり話です」

 と書いている。

「大山倍達正伝」p三百九十七




「1948年4月 生涯を空手にかける決意をし、清澄山入山。18ヶ月の修行を行う。」

 

 大山氏自身が生前「清澄山の山籠りによって空手に開眼した」と語っていたらしいが、これも嘘であることが「大山倍達正伝」に書かれている。

 <大山がは千葉健青の大幹部であり、自ら直系の部下である建設隊を率いる立場にあった。そんな大山が一年半もの間、建青の活動を離れることが不可能なのは言うまでもない。

 略)

 ここでなによりも重要なことは、「大山倍達伝説」で一年半におよぶ山籠りを行ったという逸話は、大山が民族運動に関わった「過去」を隠滅するための方便であったという点である。>

「大山倍達正伝」p百二十一



 許永中のボディガードをしていたという話もある文章圭氏(通名松井章圭氏)が代表を務めるところだけの事はあって、この程度の嘘は嘘のうちに入らないと平気なのだろうか。

 それとも、「大山倍達正伝」に小島氏に語った大山氏の言葉として書かれている

「伝説というのはね、いかに大きな嘘をついたかに価値があるんだよ」

「大山倍達正伝」p三百四十五

とでもいうことなのだろうか。


 ちなみに、文氏こと松井氏は極真の空手の大会で、日本人として日本代表選手団の主将を務めていた。



 

 今日、朝鮮学校無償化の方向というニュースがあったが、とんでもないことである。

 北朝鮮の在日犯罪組織である朝鮮総聯の支配下にありその指示に従っている。

(衆議院北朝鮮による拉致問題等に関する特別委員会 平成二十二年三月十五日)


 今回も朝鮮総連が指示を出し、金正日が支那に言った時の映像を流し、個人崇拝を強めるようにしている。

(平成二十二年六月六日産経新聞)

 

 そのような学校の無償化をするなど、お笑いである。

 まあ、我が国はわざわざ銭を払ってまで支那の脅威を高めているのだが・・・・



 メチャヒマ。

 初めてのお客様二名様来店。

 Iさん来店。


 酒はちょっとだけ飲んでサッサと寝る。


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大山倍達の嘘 追記

空手、人生の師である曺寧柱

8月10日火曜日晴れ一時大雨のち晴れ △

 極真会館大石道場オフィシャルホームページには創始者である大山倍達氏について下記のように書かれている。

http://www.kyokushin.ne.jp/index_sousai.html




大山 倍達(おおやま ますたつ)

 1923年6月4日生まれ。

 幼少の頃より拳法を学び、13歳のとき山梨少年航空学校に入学。  1938年3月、松濤館空手の創始者・船越義珍に初めて空手を学ぶ。

 拓殖大学、早稲田大学に学び、1947年全日本空手道選手権大会で優勝。


 

 同様に、極真館城南大井町支部のホームページには下記のように書かれている。


創始者大山倍達の軌跡

http://www.kyokushinkan-jyonan.com/sokuseki.htm

魚拓

http://megalodon.jp/2011-0831-1018-26/www.kyokushinkan-jyonan.com/sokuseki.htm


このページは極真空手の創始者であられる故・大山倍達が命がけで、実戦空手を世界に普及させてきた歴史である。

鍛え抜かれた鋼の肉体を持ち、己の身一つで世界を渡り歩き、極真の名を世界中に広めた偉大な足跡が書かれている。

その神秘的と言える神技でゴットハンドと唱われ世界中に1200万人を越える弟子を育てた業績は計り知れない。

現在、空前の格闘技ブームと言われているが、その基となったのが、故・大山倍達であることは誰もが認める事実であ

り、故・大山倍達なくして現在の格闘技ブームを語ることができないのである。


1923年7月27日、東京出身。9歳の頃から拳法を学び、38年3月、松濤館空手の創始者・船越義珍に初めて空手を学ぶ。

47年、戦後初の全日本空手道選手権優勝。以後、プロレスラー、ボクサー空手家を

相手に無敵を誇り遂には猛牛をも倒した。54年5月、大山道場設立。国際空手道連

盟極真会館総裁。十段。 1994年4月26日永眠



1923.07 大山倍達  大正12年7月27日東京市に生まれる

1925.03 満州へ渡り、姉の家へあずけられる。


ソウルの小学校入学。この頃より十八手の中国拳法を学び中学2年の時に初段を取得。


1939.03山梨少年航空学校入学。


1939.09日本に始めて空手を紹介した船越義珍先生の門をたたく。

1941.04拓殖大学に入学し、在学中に空手2段を取得。太平洋戦争。


1945.09終戦により復員。東京都杉並区天沼町に永和空手道研究所を創立し空手の研究に従事。


1946.04早稲田大学体育科入学


1946.09吉川英治著の「宮本武蔵」に感銘を受け、吉川英治と知遇を得る。


1946.10身延山に入山し空手の修行に精進する。


1947.09京都円山公会堂で開催された、戦後初めての全日本空手道選手権大会に出場し優勝。

1948.04生涯を空手道に捧げる事を決意し、千葉県清澄山に入山し18ヶ月間の修行を行う。



 極真館城南大井町支部は朝鮮生まれを隠し、東京出身と醜い嘘を平気で書いている。


 そして、一九三八年三月、一九三九年九月と日付は違うが、いずれも、日本に始めて空手を紹介した船越義珍先生の門をたたく。

となっている。

 船越先生は昭和十四年に東京都豊島区雑司が谷に松濤館道場が完成して移るまで、同じく東京本郷区(現文京区)真砂町道場にて活動されていたはずだが、山梨の航空学校に入って半年でいったい何処の「船越先生」の空手道場に入門したのだろう。

不思議だな~

(しかし、せめて、同じ道場の同じページのホームページなんだからウソでも日付ぐらい合わせろよな。アホ過ぎる!!!!)

 また、

 <一九三八年九月、松濤館、船越義珍の門下生となる>

 <一九四〇年四月、拓殖大学司政科に入学>

 極真会館による大山倍達死亡時発表の公式履歴

「大山倍達正伝」p三百七十二

 と、公式略歴もなっている。


 大山氏が密航し日本本土に渡って来たのは昭和十四年(一九三九年冬)である。

 すぐに、船越先生に師事出来る筈もないのは明らかである。ましてや、一九三八年だとまだ朝鮮にいるときである。


 大山氏が船越先生とのかかわりはごく僅かである。


 現実には、先に書いたように大山氏は一九三九年冬に釜山より下関まで密航し我が国に渡ってきたのである。

 そして、大山氏は船越先生の松濤会には

 昭和十八年(一九四三年)六月入門

 一九四四年二月十八日に行われた第十六回昇段審査会で初段位を船越義珍氏より允許。

 松濤館の記録では「大山猛虎」と記されている。

 その後、大山は、同年九月、朝鮮人徴用令によって召集されるまで松濤館道場で稽古に励んだ。

 その間一年三ヶ月である。

「大山倍達正伝」P三百七十八


 これが大山氏と船越先生との関わりの総てである。



 船越先生よりも大山氏は恩に感じ、その名前を明らかにしておくべき方がいる。

 その方の名前は曺寧柱(そうねいちゅう)氏である。


 大山氏は朝鮮半島より密航し昭和十四年(一九三九年冬)に来日してから昭和十五年三月までその時は三ヶ月であったが、空手を一番最初に習い、その後も昭和三十年代極真会館を設立まで師弟関係が続いていた曺寧柱氏との関わりを一切隠している。

 曺寧柱氏は千九百八年(戸籍上は一九一一年)朝鮮慶尚北道に生まれ、一九三二年京都帝国大学法学部に入学する。

 日本共産党の外郭団体「日本赤色救援会」に加入し、街頭運動の実戦部隊として活動する。

 一九三三年秋に自主退学し、一九三四年立命館大学予科に再入学する。その後、立命館大学法経学部に移る。 

 その頃、曺寧柱氏は共産主義運動の限界に直面する。

 空手は「義勇会」空手部として立命館大学入学後に始める。


「義方会」は大日本武徳会傘下の武道専門学校および「満州建国大学」で柔道の師範を務めていた福島清三郎氏が創立したもので、福島氏が立命館でも柔道を教えていた縁で、空手部主将の山口剛玄氏と知遇を得て、義勇会に空手部門が創設される。

 義方会は創立者の福島氏が東亜連盟協会(石原莞爾が主宰者)の幹部であった関係より、東亜連盟京都支部の役割も担っていた。

 これを切っ掛けに、曺氏は熱烈な石原信奉者、そして東亜連盟運動家へと変貌していく。

 「大山倍達正伝」P八十三~四


 大山氏が曺寧柱氏に初めてあったのは、釜山で行われた東亜連盟の講習会においてであり、その時曺氏は「民族協和」について熱く語っていたそうである。

 この時、曺氏は義方会の空手の師範代でもあった。

 一九三九年冬に大山氏は釜山より下関まで蜜航し我が国に渡る。


 大山氏は我が国に密航後、すぐに世話になったのが曺氏である。

 義方会に併設されていた協和塾という東亜運動を行う外国人留学生寮より義方会に通い剛柔流空手を学ぶことになる。

 

 当時、大山氏の兄・永範氏は「朝鮮人留学生御三家大学」のひとつである日本大学で学んでいた。

 ちなみに、後の二つは明治大学、中央大学である。

「大山倍達正伝」P九十一

 

 昭和十五年四月(一九四〇年)に曺氏は大山氏が「山梨航空技術専門学校」に入るときも身元保証人となっている。



 大山氏は拓殖大学には入学していないのも先に書いた通りである。


<1945.09終戦により復員。東京都杉並区天沼町に永和空手道研究所を創立し空手の研究に従事。>


 これも嘘である。復員という意味を調べればわかることだが、復員とは戦時編制の軍隊を平時体制に戻し、兵員の召集を解除すること。また、兵役を解かれて帰省することであり、軍隊に入隊していないのに復員もクソも無い。

 それより

 永和空手道研究所は「在日朝鮮建国促進青年同盟」(建青)中央本部が置かれていた杉並区天沼にある建物は、戦後、朝鮮人が元移民訓練所(海外同胞訓練所とも呼ばれた)を不法占拠し、そこにあった武道場を「永和空手道研究所」としたものである。

 杉並区天沼町に永和空手道研究所を取り仕切っていたのは曺寧柱氏であり、決して、大山氏が創立したものではない。


 このように、大山氏の姿勢は、恩人である曺寧柱氏の存在を隠すことにより、戦後の健青の幹部としての活動を隠している。

 それは、同じ東亜連盟を通じて石原莞爾陸軍中将を終生師と仰ぎ、元民団中央本部長でありながら後に石原莞爾平和思想研究会の顧問となった曺寧柱氏の姿勢とは大きく異なるものである。


 

 このように国際空手道連盟極真会館、極真会館大石道場、極真館城南大井町支部のホームページは、大山氏の経歴で一番大きな嘘は大山倍達氏が生まれたところを隠しているばかりでなく、極真館城南大井町支部においては東京出身などと嘘を書いている。

つまり、大山氏が昭和四十三年に帰化するまで朝鮮人だった事を隠している事である。

 あと、武道家として大山氏という人間というものがよく現されているのは、武道家が自分の師を隠している事である。大山氏が空手を最初に学んだのも、一番お世話になったのも船越義珍先生ではない。

 同じ朝鮮人である曺寧柱氏である。

 大山氏、そして、その弟子の人たちは日本に最初に空手を紹介したという船越先生の御高名を利用しているだけである。

 大山氏の一番の醜いところは恩人であり、師である曺寧柱氏の存在を平気で隠す事のできるというそのどうしようもなく腐った性根である。

 大山氏の経歴にはその他にも多くの嘘がある。



 今日、アホの管総理がアホ談話を発表したそうです。

 我が国を何処まで貶めれば気が済むのであろうか。

 


 


 河岸にて大雨に遭遇。

 Yさん二名様で来店。

 二名さま来店。

 Wさん御夫妻来店。

 ホロン部員Yさん来店。

 Mさん来店。

 ドンチャン。

 記憶あり。サルよりマシ。


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大山倍達

山籠り伝説の嘘 清澄山

9月21日火曜日晴れ 暑い △

 大山倍達氏の身延山における長期の山籠りが嘘であることが当時の状況より証明されているが、「生涯を空手に捧げる事を決意」して山籠りをしたという清澄山の場合はどうか。


<千葉県の清澄山に一人こもって一年八ヶ月の間、修行をし、麓の猟師や子供から「あっ、天狗がいた」と言われた」>

「ダイナミック空手」


<空手の限界を試すべく、ふたたび山にこもり、修行に専念する事にした。千葉県清澄山に草庵をあみ、

 略)

 厳しい修行を二年間続けた>

「一〇〇万の空手」



<上京してGHQや暴力団との私闘によって追われる身になった大山は清澄山に籠り、一年半の修行を行った。(身延山の記述は無し)>

「わが空手修行」


<1948年4月 生涯を空手に捧げる事を決意し、清澄山に入山し18ヶ月間の修行を行う。>

国際空手道連盟極真会のホームページより


<1948.04 生涯を空手道に捧げる事を決意し、千葉県清澄山に入山し18ヶ月間の修行を行う。>

 極真館城南大井町支部ホームページより


 清澄山のこのような一年半に渡る長期の山籠りについてもウソであると「大山倍達正伝」には記されています。


<改めて清澄山の山籠りについて考察する。

 金致淳は「大山さんが山に籠ったのは、曺先生の勧めで山梨の山に入った時だけだったと思います。それ以後、大山さんが山に籠ったという話は曺先生からも聞いたことはありません」と言う。

 KPI通信相談役で、当時の大山と交流があった千原徳士も「私が大山さんと知り合ったのは大山さんがアメリカに行く前ですが、大山さんの口から山に籠ったという話は聞いたことがありません。もし一九五〇年直前に清澄山に籠っていたというならば、大山さんがそのことを言わないはずないと思いますが・・・・・・」と語る。

 元極真会館の重鎮である黒崎健時(黒崎格闘技スクール会長)は、大山の山籠りについて次のように言う。

「私が大山道場に入門したのは昭和二十八年(一九五三年)頃です。田園コロシアムでの牛との格闘の前の年だったと思いますが、私は大山先生と合宿という形で清澄山に入りました。私を含め数名の弟子が一緒でした。大山先生が言う清澄山の山籠りというのはこのことをさしているんじゃないでしょうか」

 大山が田園コロシアムで牛との戦いを披露したのは一九五六年十一月十一日である。黒崎の記憶が正しいならば、大山が黒崎を伴って清澄山で合宿を行ったのは一九五五年ということになる。

 この時の合宿に同行した人物として共田徳龍(在日本大韓体育会常任理事)がいる。一九八六年一月号の「月刊パワー空手」において共田は証言する。

「清澄山の修行に加えていただいたのはこの(注・大山と出会った)一ヶ月ほど後です。

中略)

大学(法政大学)を休んで参加したわけですが、先生のそばで一緒に稽古していたのが岩村(博文)さん(注・極真会館大阪道場責任者)と黒崎さんの二人でした。この人たちに出会った事も、十八歳の私には大きな衝撃でした」

 略)

 黒崎、共田が大山とともに行った清澄山の「山籠り」は映画「世界最強のカラテ キョクシン」の中でも紹介され、合宿時のスナップ写真も現存している。

略)

共田の語る稽古は、後に大山が著書などで紹介した清澄山での稽古と酷使している。

ところで、清澄山の山籠りの詳細について、後の「大山倍達伝説」に近い内容の逸話を大山が初めてメディアに語ったのは、黒崎たちと清澄山で合宿を行った翌一九五六年四月三十日付けの「東京毎夕新聞」においてである。

 大山とスポーツ評論家・郡司信夫との対談が「神速果敢」という囲みのコラム欄に掲載されている。

 前半部分では「初めて山に入ったのは昭和二十二年七月です」と年代に一年のずれがあるものの、前述した金致淳の証言とほぼ同様の事を大山は語っている。ただ、ここでは身延山が「天城山」となっている。

 後半部分では、大山は清澄山の山籠りについて自らの思い出話を披露する。以下引用する。

「その後、どうせ空手をやるなら、日本一になってやろうと決心して、日蓮上人が悟りを開いた千葉県の清澄山に入ったんです。その時は、裾から二キロぐらい山の中に小屋を作りまして、八代という弟子と二人で入ったんです。

略)

山に入るときは丸坊主になって、髪と修行する競争をするつもりだったんですが、やはり町に行きたくて、どうしようもなかった。なにくそと思うんですが駄目なんです。そこで曺先生に苦痛を訴えたんです。その時の先生の返事が、「先天的天才はあり得ない。後天的努力によってのみ天才となり得るのだ。武道を究める者で酷寒炎暑、煩悩に耐えなかったものがあろうか!眉を剃れ!」と、切々たる文章で綴ってあったんです。それで、また心を奮い立たせて眉毛を片方ずつ剃って、町へ出られないようにしたんです。眉毛は伸びが遅いですからね・・・・。一日五時間ぐらい稽古をしたんです。そのうち、町の子供達が「天狗がいる」といって見に来ましたよ。清澄山には三年入っている予定でしたが、月々仕送りしてくれた小沢伝七郎氏が昭電事件で芦田均氏と一緒に入ってしまったので、生活費がなくなって、一年半で下ってしまいました」

略)

以上の経過から考えて、「大山倍達伝説」における清澄山の山籠りに関する逸話は、一九五五年の黒崎たちとの合宿の体験を翌年の「東京毎夕新聞」さらには「月刊空手道」の中で、「一九四八年から一年半(時には二年)に行った清澄山での山籠り」とすり替えて語られた「虚構の物語」が原点だと私達は推測する。

略)

「もし大山先生が戦後の一時期に清澄山に籠ったとするならば、それは山籠りではなく合宿のような短期のものだったのではないか」(黒崎健時談)

 私達には黒崎の言葉こそが真実を突いているように思える。また、戦中、戦後の大山をよく知る鄭達鉉(元「韓国新聞」論説委員)が「時折、館山の山に籠って数日間、瞑想したりしていたようです」と語っていることからも、大山が暇を見つけては清澄山に限らず、近所の山などに数日間籠り、精神修養を行っていた可能性も否定出来ない。>

「大山倍達正伝」P四百八~四百十一


 つまり、大山氏は身延山でも清澄山でも長期の山籠りはしていないのである。しているのは合宿であり、短期の精神修養的なものである。


 

 あほらし


 今日は飲んべえの会について、醴泉の蔵元である山田社長、磯自慢の寺岡社長に電話で相談をさせていただく。

 醴泉は十一月二十日土曜日。磯自慢は十二月十二日日曜日と決定。



 Wさん御夫妻来店。

 初めてのお客様来店。

 Kくん、Mさん、Mさんと来店。

 Tさん来店。

 ドンチャン。

 記憶あり。

 サルよりマシ。



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大山倍達

山籠り伝説の嘘 身延山

9月20日月曜日晴れ

 大山氏は下記のように自分の山籠りによる空手修行について書いています。

<暴力団にも狙われていたので身延山に籠り一年間の修行をし、人恋しさを眉を剃って耐えた>

戦後初めての全日本空手道選手権で優勝した後、

「ダイナミック空手」


<終戦を迎え、

 中略

 人間と空手との関係についてもっていた自分の考えを確かめる為に、身延山の寺に入って修行をした>

「一〇〇万の空手」


「闘魂」および「続ケンカ空手」では、どちらも清澄山の山籠りについて多くの紙面が割かれている。山での稽古の様子が詳細に描かれ、ともに修行の辛さに耐える為に自らの眉を剃ったと記されているが、だが両著とも身延山の記述は無い。

「大山倍達正伝」P四百六


<上京してGHQや暴力団との私闘によって追われる身になった大山は清澄山に籠り、一年半の修行を行った。(身延山の記述は無し)>

「わが空手修行」


<私は山に籠っての修行を三度経験している。一度目は、山梨県身延山に。二度目は千葉県清澄山に。そして三度目は、同じく千葉県の青堀山にである。>

身延山への山籠りは<MPに追われて、この追っての目をかわすために山に籠ったというのが真相に近い>

清澄山には<生涯を空手の道に捧げるべく決意をして二年間籠った><清澄山で眉を剃った>

「極真空手 二十一世紀への道」


(大山氏の著書に掲載されていたとされる文章については、私は「大山倍達正伝」P四百六より引用)


<1946年10月 同校(木下注 早稲田大学)を中退して身延山に入山武道精進に励む。>

国際空手道連盟極真会のホームページより

 

<1946.10身延山に入山し空手の修行に精進する。>

 極真館城南大井町支部ホームページより



 このように、大山氏の著書だけでなく、極真会のホームページに現在でも書かれているように戦後、昭和二十五年までの間に山籠りをして空手修行をした事になっていますが、著書により書いてある事に統一性が無い。そして、少なくとも空手修行の為の一年以上に及ぶ長期の山ごもり自体が嘘であることが「大山倍達正伝」に書かれている。


 <大山がは千葉健青の大幹部であり、自ら直系の部下である建設隊を率いる立場にあった。そんな大山が一年半もの間、建青の活動を離れることが不可能なのは言うまでもない。


 略)


 ここでなによりも重要なことは、「大山倍達伝説」で一年半におよぶ山籠りを行ったという逸話は、大山が民族運動に関わった「過去」を隠滅するための方便であったという点である。>


「大山倍達正伝」p百二十一





 大山氏は戦後昭和二十五年前半まで、生活基盤は徴用され、終戦まで千葉県の房総で役務についていたので、千葉県館山市にありました。

 終戦後、在日朝鮮建国促進青年同盟(健青)本部では「訓練部長」「建設隊隊長」の肩書きを持ち、千葉と東京を行き来していた。

 健青の武闘派集団「安房支部」のリーダー格であり、戦後七年間を剛柔流空手の修行と朝連との抗争に費やした。

(「大山倍達正伝」P三百八十六より木下が抜粋)


 少なくとも昭和二十五年までのこのような時に、長期の山ごもり修行などできる筈はありません。


 そして、下記のように一時期の山籠りが記されています。

<「それでも後に、清澄山の山籠りだけは時期も一九四八年四月からの約一年半から二年間とほとんど「定説化」されている。しかし、清澄山の山籠り以前の話になると、大山の言葉は一転して不安定になる。だが、この曖昧な言葉や記述でしか表現されていない初期の山籠りは、内容が不安定であるがゆえに、逆に一面の真実が存在するとも言える。例として、初期に行われた山籠りについての大山の言葉を紹介する。以下は、一九八九年九月号の「月刊武道空手」に掲載された大山の回想談である。

「私が初めて山籠りを行ったのは確か昭和二十二年、身延山のさらに一つ奥にある七面山と呼ばれている山であった。そこの寺に入り、寺の雑用をさせてもらいながら空手の稽古を行ったのである。それでは、なぜ山籠りなど行ったのか。事実を言うならば、当時私は警察、MPから指名手配になっており、世間から身を隠すために山に入ったのだ。

中略」

身延に入ったのは確か秋だったと思う。落葉が舞い出した頃、寒かったのを覚えている。決して意気揚々としていた訳ではなく、どこか寂寥感に包まれながら、世間から逃げる形で山に入ったのである。これが、そもそもの山籠りのきっかけであり、真実である」

 

 健青と朝連との抗争に祭し、尖兵として前線で活躍していた大山は、同時に敵対する朝連の刺客からから追われる身でもあった。大山によれば、「月刊武道空手」のインタビューがそうであるように、GHQ兵士たちとの私闘の末、MP(米軍憲兵)や警察から逃げる方便として身延山(ときに七面山や天城山だったりする)に籠ったのが「山籠り」のきっかけだったという。だが大山が朝連の刺客をMPや警察にすり替えているのは明白である。

 終戦直後の大山をよく知る金致淳が「天沼時代、曺(寧柱)先生と剣道の中村藤吉先生の勧めで山梨の山に籠った」と語り、身延山久遠寺直末寺の住職である泉和彦の証言からも、たしかに大山は一九四六年の一時期、身延山久遠寺に籠っている。>


「大山倍達正伝」P四百七~四百八


 このように身延山には行っているが、長期の山籠りはしていないというより当時の大山氏はそれができる状況ではない。


 今日も朝起きるとあちこちが筋肉痛。

 シャワーを浴びてゆっくりしてから、午後より買い物に出かける。

 古本屋さんではあまり欲しいものが見つからず、何も買わなかった。

 「アミノバイタルプロ 120p」が無く、注文して帰宅。

 今日は酒は飲まず。


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大山倍達

「眉剃り」逸話の嘘

9月23日木曜日雨 ○

 大山倍達氏の著書には身延山及び清澄山においての山籠りにおいて眉を剃って耐えたという話が出てきます。


<暴力団にも狙われていたので身延山に籠り一年間の修行をし、人恋しさを眉を剃って耐えた>

「ダイナミック空手」


<「闘魂」および「続ケンカ空手」では、どちらも清澄山の山籠りについて多くの紙面が割かれている。山での稽古の様子が詳細に描かれ、ともに修行の辛さに耐える為に自らの眉を剃ったと記されているが、だが両著とも身延山の記述は無い。>

大山倍達正伝」P四百六


<生涯を空手の道に捧げるべく決意をして二年間籠った><清澄山で眉を剃った>

「極真空手 二十一世紀への道」


 この「眉剃り」ついても大山氏が得意の嘘であることが大山倍達正伝に記されています。

<「山中での荒行を度重ねるにつれて好きだった酒、煙草、一切の媚薬を止めてしまった。苦しくなり里が恋しくなっても帰る気がおこらないように眉毛を剃り落として山中に入ったことがあったが、予定の日数を経て帰る時になっても眉毛は中々生えず閉口したこともあった」

 これは大山の著書の記述ではない。大山にとって剛柔流の師とも言える山口剛玄が自著「剛柔の息吹」(栄光出版社)の中で記した文章である。また一九七八年二月、沖縄剛柔流の重鎮であり宮城長順の直弟子である八木明徳(沖縄空手剛柔会会長)と酒井節雄(宮城長順先生顕彰会顧問)を交えた座談会において、山口は自らが行った鞍馬山での山籠りについて以下のように語っている。

「私はね、学生時代鞍馬山に入っちゃったんです。学生時代に滝に打たれたり、禅を組んだりして、鞍馬山にこもったのが、私の山籠りなんです。そういうことから剛柔流をやるんだったら、剛と柔と、それを会得しなければならないと、眉毛を剃って行に入りました」

 ちなみに、「剛柔の息吹」が発売されたのは一九六六年であり、大山が「ダイナミック空手」の発売の直前に当たる。だが、剛柔流を学ぶ山口の門下生にとって、山口が一九三〇年代の初期に鞍馬山に籠ったという話は有名な逸話となっている。

 立命館大学で山口と同時代を過ごした岡村光康、岩上長興たち剛柔流の長老は、山口の山籠りの証言者である。山口が山籠りに臨んで自分の眉を剃り落したという話も古くから剛柔流空手の門下生の間で語り継がれてきた。山口の三男で、現在の剛柔会を率いる山口剛史も次のように言う。

「父が鞍馬山に籠り、眉を剃って修行したという話は、私が生まれる以前、父が学生時代の話です。でも、父は折に触れて、このような話を私達息子に語って聞かせてくれました。眉を剃った話は、当然修行は辛いわけですから、眉毛を剃ってしまえば恥ずかしくて山から下りられなくなるだろうと思ってやったと聞いています。

 でも眉を剃ったのはいいけれどもなかなか生えてこなくて後悔したという話も、子供の頃何度も聞かされました。父は生涯を通じて山籠りの修行をしていました。

 鞍馬山の山籠りは京都時代の話ですが、東京に出てきてからは毎年、木曾の御岳山に籠って修行をしていました」


 大山の清澄山(ときには身延山)の山籠りの「伝説」に欠かせない「眉を剃った」逸話は明らかに山口剛玄の体験談の借用である。

 大山は、この逸話を山口自身または曺寧柱から聞かされたと思われる。実際、大山の著書には曺寧柱(または曺と思われる先輩)の勧めで眉を剃ったと記したものもある。ならば山口の体験に倣って大山も眉を剃って修行に励んだ可能性も皆無とは言えない。

 だが、清澄山はもちろん、初期の身延山での修行が決して長期間にわたるものではない以上、大山が実際に自らの眉を剃って修行をしたというエピソードの信憑性は限りなく低いと言わざるを得ないだろう。少なくとも、この逸話は大山のオリジナルではない。>

「大山倍達正伝」P四百十三~四百十四


 そして、切り抜き、手紙など多くの資料を取リ置きしている大山氏だが、この何度も登場する逸話のもとになった曺寧柱氏の手紙について、小島一志氏は


<ところで、「神速果敢」の中で大山が触れている「曺寧柱からの励ましの手紙」について、後年の大山の著書でも何度か紹介されている。だが少なくとも私は大山が保管していたファイルの中から、それに相当する書簡を見付ける事は出来なかった。>

「大山倍達正伝」P四百十一


としている。


あほらし


今日はお彼岸、「秋季皇霊祭」だが、秋分の日とわけのわからない日になっている。

 祝日のうえ雨だし、どうせどなたもいらっしゃらないだろうと思って、店をいろいろと片付けていたら、初めてのお客様来店。Oさん来店。

 いや~オチャピーでなくてよかった。

 飲まず。

 当然、サルではない。

 頭の程度はそうかもしれんが。


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大山倍達という人間の精神構造

8月12日木曜日雨のち晴れ○

 既に書いたように、大山倍達氏は昭和四十三年(一九六八年)に我が国に帰化して朝鮮系日本人となったが、それには、その前年の昭和四十二年に二十八年ぶりになる南朝鮮への帰国が大きな切っ掛けになっている。

 その帰国により、大山氏は自分の南朝鮮での戸籍が健在であり、帰化してもそのまま朝鮮人としても生きられる事を知ったのである。

 南朝鮮における大山氏は本名・崔永宣として一九二二年六月四日に生まれたものとして戸籍が存在し、そのために重婚が可能で、日本で知り合った二十七歳(一応)年下の朝鮮人女性と昭和四十九年(一九七四年)結婚し、南朝鮮に家庭を持ち三人の子供を作った。


 この大山氏の姿勢は、南朝鮮における彼自身の著書「世界ケンカ旅行」の翻訳版であり、空手がすべてテコンドーとされている「風のファイター」への巻頭へ掲載された

<今回私の祖国でこの本を発行し、たくさんの人に読んでいただけると聞いてこれ程嬉しいことはない。私の人生の中でも忘れられない栄光だ。

 略)

 特にテコンドー人たちに希望と意欲を抱いてもらえるならば、これ以上望むことはない。

 1973年 崔永宣>

「大山倍達正伝」p二百七十三

 という大山氏の言葉がよく物語っている。


 それは、「KPI通信」(一九八三年三月一日付け)においても同様です。

 日本国籍を取得したことについて

<私は日本国籍を方法論的に取得しただけである。

 中略)

 日本で事業をやる以上、日本の国籍を持たなければ困る>

<全ての点でよかったと思います>

 と言いながらも

<しかし、三十何年間日本に住んでいても日本人に馴染めないということです。ボクシングでは日本人が負けると良く寝られる。日本の飯を食い、水を飲み、日本の空気の中で生活しているというのに、日本人の味方になれないんです。その底辺に何かがあるんですね。私はそれは解らない。日本人が勝つとクソーと思う。死ぬまで直らないでしょう。>

「大山倍達正伝」p二百五十一およびp二百八十四

<大山自身、伝統流派を学び、その第一人者として一九五〇年代に名声を得た。現在のように「全空連」と「極真会館」、「伝統派空手」と「実戦空手」、さらに「寸止め制」と「直接打撃制」といった対照的な図式が成立するのは一九六〇年代以降のことである。

 一九七〇年代に入ると、梶原一騎原作による「空手バカ一代」を中心に、大山倍達の空手はその修業時代から伝統流派の異端児として「邪道空手」「ケンカ空手」と呼ばれていたという「大山倍達伝説」が喧伝されることになる。

 大山自身もこれを好んで吹聴した。

 だが、それは大山による潤色に過ぎない。一九四〇年代から一九五〇年代後半までの間、大山は常に伝統流派の中心にいた。剛柔流、松濤館のみならず、沖縄空手の研究にも勤しんだ。

 更に大山は空手以外の格闘技の修練にも精力的に臨んだ。柔道、古流柔術、合気道、中国武術>

「大山倍達正伝」p三百五十六




 空手の世界に生きながら、自分自身がやっていたのはテコンドーとして描かれた「風のファイター」という朝鮮で出版された著書ではそれを否定する事も無く、巻頭での文章を掲載している。

 大山氏の醜い人間性、それは、寸止め空手と他流派の空手を軽蔑しながらも、その伝統派空手の世界に自分を置き、自分が一番お世話になった剛柔流重鎮であった曺寧柱氏の存在を隠し、松濤会の船越義珍先生に師事した事だけを大きく押し出している姿勢にも良く現れている。


 めちゃヒマというより、今年初めてのオチャピー。

 飲みに行く気にもなれずにサッサと寝る。


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大山倍達追記

9月3日金曜日晴れ △

 大山倍達氏について帰化した事を書いてある「国際空手道連盟極真会館総本部」というところのホームページを見つけました。


http://www.mas-oyama.com/bin/mas-oyama/siteup.cgi?category=1&page=0


<1923.6.4(新暦7月27日)父・崔承玄、母・芙蓉の4男として、この世に生を受ける。

1931  満州の姉の家が経営している牧場に預けられる、

ここで働いていた武術の達人「李相志」から「借力」という拳法を習う。

1937.4山梨航空技術学校に入学。

1946.4早稲田大学体育学科に入学。

1946.10早稲田大学を中退して身延山に入山

1947.9京都丸山公会堂で開かれた戦後初の全日本空手道選手権に

出場して優勝。

1962この年に日本国籍に帰化する。>


 相変わらず、嘘の羅列ですが、今まで調べた極真関係で唯一帰化について書いてありました。まあ、どこにも朝鮮から我が国に帰化とは書いてないのですけど



 <ここで働いていた武術の達人「李相志」から「借力」という拳法を習う。>

 「借力」という拳法を習った事はない。

 <1937.4山梨航空技術学校に入学。>

 大山氏は同校に入学したのは昭和十五年(一九四〇年)四月であり、昭和十七年九月に繰り上げ卒業している。


 <1947.9 京都丸山公会堂で開かれた戦後初の全日本空手道選手権に

出場して優勝。>

 すでに書いたが、戦後二年しか過ぎないGHQの占領下にある我が国で全日本空手道選手権など開かれていない。


 <1962この年に日本国籍に帰化する。>

 大山氏が家族そろって帰化したのは昭和四十三年(一九六八年)であり、其の五年後に南朝鮮でも洪順浩夫人とそのたった五年後の昭和四十九年に南朝鮮で「崔永宣」として入籍し平気で重婚をしている。


 どうしてこう嘘を書く必要があるのでしょうか?

 あほらし



 今年も、店先に置いてある柑橘類の鉢に蝶の幼虫がいるのを見つけました。

  

 ヤモリは東京都レッドリストに掲載され、絶滅危惧種になったというニュースが七月頃ありましたが、当店でも毎年見たガマガエルとヤモリは今年は一度も見ていません。

 やっぱ、いなくなっちゃったのでしょか。

 IさんEさんと来店。

 Oさん二名様で来店。

 Tさん来店。

 Nさん来店。

 Wさん御夫妻来店。

 Kさん来店。

 ドンチャン。記憶あり。サルよりマシ。


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統一教会と極真会館との関係

9月7日火曜日晴れ ××××

 私の部屋の近所に朝鮮の気違い宗教「統一教会」の拠点の一つがあります。

 

 

 この統一教会は極真会館とも密接な繋がりがありました。


<大山ひいては極真会館と友好関係にあることは極真会館関係者ならば周知の事実だった。

 実際、「月刊パワー空手」には統一教会の関係紙「世界日報」の広告が常時掲載されており、全日本選手権でも「世界日報」は「大会後援」に名前を連ねていた。> 

「大山倍達正伝」(小島一志・塚本佳子 新潮社平成十六年刊)P五八〇




<統一教会に関する噂

 大山倍達が統一協会の信者であるという噂は、ずいぶん前に耳にしたことがある。

 実際、統一協金とは不可分の存在である世界日報は、古くからの全日本大会のスポンサーであるし、一九八四年に行なわれた第三回世界大会には、日本統一協全会長の久保木脩己が、大全特別相談役として副委貝長の席に座り、顔写真入りでパンフレットにメッセージを寄せたこともある。

 その後の大会では役員から久保木の名前こそ消えたものの、世界日報は現在でも極真会館の有力なスポンサーの一つとして名前を連ねている。

 極真全館、大山倍達と統一協会の繁がりは古く、時期的には第一回全日本大会が行なわれた一九六九年より少し前から付き合いが始まったようだ。両者の橋渡し役となったのは、現在は極真を離れアメリカで他流派を興しているO兄弟である。O兄弟の父親は当時の日本統一協会にあって、金銭の出入りをかなり自由に任されるほどの大物で、日本におけるコネクションが欲しかった統一協会と、スポンサー不足に悩んでいた極真全館との利害が一致し、ある種の協力関係が生まれた。

 では実際に大山倍達が信者だったのかという問いに対しては、智弥子未亡人は言下に否定した。

「確かに主人は統一協全に何人か友人がいました。久保木さんがよくうちに訪ねてきた時期もあります。まあ、どっちが呼んでたのかは知りませんけどね。最初はおだてられて協力してたんじゃないですかね。

 でも、主人が信者でなかったことは断言できますね。もし本当に主人が信者だったのなら、協会からお金を借りるなりして、新しい本部の建物だってもっと早く建っていたはずですよ。それに主人がお世話になっていて、こんなことを言うのも何ですが、うちは私も娘もみんな統一協会が嫌いでしたから」

 智弥子未亡人はこんなエピソードも語ってくれた。

「何年か前に協会の方が会館に来て、主人に壷を持たせて写真を撮っていったことがあったんですよ。そしたらその写真が霊感商法みたいなことをやっている会社の広告に使われてしまって。『大山総裁は統一協会の信者なんですか』という電話が会館に何本もかかってきて。あの時は本当に怒ってらっしゃいましたよ。そんなこともあって、ここ最近はあまり協会の方とのお付き合いも少なくなっていたようてすね」

 しかし、昨年十月に行なわれた全日本大会のパンフレットを見る限りでは、極真会館と統一協会の関係はいまだに現在進行形である。後援には世界日報の名前があり、相談役の中にも日本統一協全の実力者である、梶栗玄太郎の名前が見える。

 ある意味ではこれまで付かず離れずの関係を続けてきた極真会館と統一協会だが、大山倍達の死によってそのパワーバランスに狂いが生じつつあるという説もある。これをきっかけに関係は薄れていくのか、それとも大山倍達存命中には考えられなかったような介入を許すのか。取材を行なった何人かの関係者からは、後者の事態を危惧する声が圧倒的に多かった。>

「大山倍達未亡人・独占取材! 極真会館の跡目争いとゴッドハンドの生涯」 (宝島30 94年9月号)



 O兄弟とは大山茂氏、泰彦氏の兄弟であろう事は間違いない。

 そして、この久保木修己氏に関しては、下記のような記述がある。




<久保木修己(くぼき・おさみ)略歴

1931年、中国丹東市(旧満州安東市)生まれ。終戦とともに引き揚げ、13歳で帰国。慶応中等部では野球部に所属、甲子園にも出場。慶応大に在学中、立正佼成会に入会、会長秘書を務める。

1962年世界基督教統一神霊協会(統一教会)に入会。1964年、会長就任。1970年、朴正煕大統領と会見。同年、日本武道館でWACL(世界反共連盟)世界大会を開催し、議長を務めた。1971年、蒋介石総統と会談。同年、ローマ法王(パウロ6世)と会談した。


国際勝共連合会長、国際文化財団理事長、アジアサファリクラブ会長、国際友好釣連盟会長、北米極真空手会長、世界日報社会長、世界平和連合会長等を歴任。中華民国中華学術院名誉哲学博士。1998年、逝去。67歳。

著書に、『愛天愛国愛人』(世界日報社)、『愛こそすべて』(光言社)、『久保木修己講演集』(光言社)、監修として『文鮮明師と新ソ連革命』(光言社)、『文鮮明師とダンベリーの真実』(光言社)等、遺稿集として『美しい国・日本の使命』(世界日報社)がある。>


 何も関係ない人間が北米極真空手会長を務める・・・・・・


 Wさん御夫妻来店。

 初めてのお客様二名様来店。

 Aさん来店。

 Aさんから頂いた空軍五十周年記念バッジ

 

 

 営業終了後、Aさんと久々に歌舞伎町ゴールデン街へ。

 何軒ハシゴしたか覚えていない。

 ドンチャン。

 記憶無し。

 気が付いたら当店の床で寝ていました。なんで、床なんだろう・・・・・

 サル以下


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大山倍達空手修行の嘘

支那での修行

10月11日月曜日晴れ ○

 「空手バカ一代」に描かれた大山倍達氏がただの一度だけ敗北したという陳老人について、大山氏の南朝鮮の息子さんたちが筆者であるという「我が父チェ・ペダル」には下記のように書かれている。

<真相を語ろう

 父は中国での修行行脚の中で、太極拳の達人とされる陳老人の噂を耳にした。

 これを聞いた父は、すぐさま情報を求めて探しまわり、なんとかその老人に会う事ができた。しかし実際に会った陳老人は体も小さく、既に動くのもままならぬほど老いていた。父は失望を禁じえなかった。

 だが実際に対戦は叶わなくとも、二人でお茶を飲み互いの武術を論じ合う仮装対練はできる。父は陳老人にこれを申し入れ、二人で仮装対練を行ったという。すると父の目には、老人の小さな体が次第に大きく映り始め、その武術世界に頭を垂れざるを得なくなったというのだ。

 「陳老人の太極拳には、しなやかではあるがとてつもない破壊力が宿っていた。相手の攻撃を巧妙に利用してケガを負わせる武術こそ、まさに太極拳の極意だ。そこで私はハッとしたんだ。実戦空手家としての自分は、それまで強く、早く、直線的なものを至上としていた。ところがこの老人は柔らかで滑らかな動きによって、力を入れずとも相手を倒してします。これはかなわないと思ったよ」

 その後、父は陳老人と何週間かをともに過ごし、太極拳の柔軟性と強靱性との調和を学んだという。

 これを話作りの好きな人が「倍達の敗北」と表現したのだろう。>

「我が父チェ・ペダル」(ボム・ス・ファ 金至子訳 アドニス書房 平成十八年刊)P三十六

 


 親子というものはこういうものなのでしょうか。

 それとも、「息をするように嘘をつく」という朝鮮人の血なのでしょうか。

 戦前に大山氏は支那において空手修行業行脚をやってはいませんし、戦後まだ国交回復もしていない支那において、何週間も滞在し空手修行などできる筈がありません。

  だいたい、支那語がわからん大山倍達氏がどうやって「お茶を飲み互いの武術を論じ合う仮装対練」とやらをやったんだ!


 


 他にも

<日本に着いた父は、姓を「大山」と改めた。来日した頃、何かと世話を焼いてくれた同じ職場の女性の姓が大山だったというのが理由のようだ。また後に、名も変えた。遠く離れても祖国と倍達民族を忘れまいと「ヨンウィ」から「倍達」に改めたのだ。

 大山倍達の名を得た父は、一九四三年、日本航空隊に入隊。しかしそこでの生活は、父が当初思い描いていたような平穏なものではなかったようだ。理由は、彼が「朝鮮人である」というただ一点による。つまり差別だ。

 同期生をはじめとする日本人から何かと言いがかりをつけられる。またどこかで喧嘩が起れば、たとえ無関係であれ濡れ衣を着せられ罰せられる。だが、当時の日本では往々にして見られたこのような差別は、周囲の者が父の腕っぷしを知るにつけ、徐々に収まっていったという。当時のこうした状況を指して父は「日本人には、力のある者に対し畏れの念を抱くようなところがある。自分より強い者には意外と簡単に頭を垂れるのだ」と語っていた。>

「我が父チェ・ペダル」P九十~九十一


 ここまで嘘を連ねると、もう呆れるより朝鮮人というものに対して哀れみさへ覚えます。

 名を奪われたをほざいているアホ朝鮮人の逆のパターンですが、戦前に日本に一人で渡ってきた大山「少年」が勝手に名前を変えられる筈もなく、通名として名乗っただけである。ましてや、ありもしない日本航空隊などというものに入隊できるはずもありません。

 何度も書いているように、大山氏は徴用工であり軍隊に入隊してません。

 それだけでなく、お約束の差別、差別と騒ぐアホ。 

 そして、「力のある者に対し畏れの念を抱くようなところがある。自分より強い者には意外と簡単に頭を垂れるのだ」とは、支那に対して奴隷国家として朝鮮民族がやってきたことです。


 <一九四一年に拓殖大学に入学した父は、それから二年間、船越義珍の私設道場に通い詰めた。船越義珍とは、近代空手の祖と呼ばれる、松濤館の創始者だ。ここで空手の奥深さを知り、ますます空手に没頭したという父はまた、同時期に宮城長順の弟子でもあった朝鮮人チョ・ヒョンジュンと出会い、剛柔流空手道にも接したという。>

「我が父チェ・ペダル」P九十一

 

すでに書いたように大山氏は、拓殖大学には入学していない。そして、これも書いたように、船越先生の松濤会には昭和十八年(一九四三年)六月入門一九四四年二月十八日に行われた第十六回昇段審査会で初段位を船越義珍氏より允許。松濤館の記録では「大山猛虎」と記されている。

 その後、大山は、同年九月、朝鮮人徴用令によって召集されるまで松濤館道場で稽古に励んだ。その間一年三ヶ月である。

「大山倍達正伝」P三百七十八

 ましてや、大山氏は「剛柔流空手道にも接したという。」のではなく、剛柔流空手をやっていたのであり、それは極真会館を名乗るまで続いた。


 昨日、スポーツセンターに行った時に、よく一緒になる方から教えていただいたチューブを使ったトレーニングメニューを新しく加えてやったせいもあり、いつもと違った箇所が筋肉痛。


 秋晴れの気持ちのいい一日であったが、午後より食事に出かけただけで、後は部屋でゴロゴロしていた。

 酒は飲まず。


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「我が父チェ・ペダル」に見る空手修行の嘘

10月14日木曜日くもり ×××× 

大山倍達氏の南朝鮮の御子息が書いたとされる「我が父チェ・ペダル」には、大山氏はいわゆる「全国空手道選手権大会」にて優勝したのち、自分の道場の看板を掲げたが、数日もしないうちに周辺の空手道場から続々と挑戦状が舞い込んだ。それも、大山氏が朝鮮人だからとタカをくくっての事だと書いています。

(「我が父チェ・ペダル」P一〇六)

 あまりにもその挑戦者の数が多く面倒になって全国行脚し道場破りをした事になっている。


 最初の犠牲者として、京都の名門、「二条道場」というところがでてきます。この道場には「二条十傑」と呼ばれる辣腕の弟子が十人もおり、いずれも空手界では名の知られた強者だそうです。

 その強者十人を十分余で倒し、副館長もたった一発で病院行きにしたそうです。

 そして、その一件は、目撃者たちの口によって瞬く間に世間に知られるようになり、翌日の新聞各紙は、出航の錨を上げた大山氏の全国行脚を次のような見出しで伝えたそうです。


<「空手界の宮本武蔵!二条道場を焦土化する。」

 「悪夢の巡礼者、日本中の空手界に挑戦。」

 「実戦空手の野獣、大山倍達。誰が彼を阻むのか?」>


 残念ながら、これらの「全国紙」の見出しはネットでの検索では見付ける事はできませんでした。

 もちろん「大山倍達正伝」にも掲載されておりません。ハイ!


 その後、二本貫手で電話帳だけでなく防具まで突き抜くことができる達人などを撃破後、最後は横浜に住む「空手の神仙」と呼ばれ、日本中の空手家から尊敬されている七十歳の空手家に試合を挑みますが、何度申し込んでも受けてもらえず、全国行脚は終わるそうです。

 この間、不意の襲撃に備えて日に何度も宿替えをしてさへ、毎晩のように石が投げられるという四面楚歌の中、全国を回ったそうです。

(あまりにもアホらしいので「我が父チェ・ペダル」P百八~百十三をハッショリました)


全国行脚を終えた後、牛との格闘をやり、「猛」牛を倒します。

これにより、大山氏は人気者になるそうです。

以下引用

<素手で牛を殺した男。その評は、一気に父を日本中の人気者とした。ある年には、日本の青少年たちが尊敬する人物十人に父の名が挙がるほどだったというし、若者たちの中には父のヘヤースタイルやラフな服装を真似る者が続出したと聞く。>

(「我が父チェ・ペダル」P百十六そのままです)


(別にお笑いの為に書いてるとは思わないのですが、朝鮮人はともかく、大山氏のあのヘヤースタイルをまねるアホな日本人はいないと思います。・・・・)


下記のように続きます。



<だが、こうして大山倍達のカリスマ化が進む中、慌てた日本の武道界から声明が発せられた。

 彼等は、極真空手をあくまで邪道として非難したのだ。

 剣道界と柔道協会は父の牛との苦闘を評価せず、彼を武道界の邪悪な者と酷評した。空手界は、父が朝鮮国籍の人間であると御丁寧にも触れ回り、その実戦空手はチンピラのケンカとかわらないとまで罵倒した。>

「我が父チェ・ペダル」P百十六


 なんで、剣道界と柔道界が非難声明を出す必要があるのでしょう。

 もうアホかと。


そして、柔道家を「実戦勝負」で半身不随に追い込んだ大山氏はついに、天覧試合にて六連覇を成し遂げた柔道家からの挑戦を受けます。

会場は東京の「国技館」です。


<柔道チャンピオンの日本人と空手チャンピヨンの朝鮮人の対決は、人々の大きな関心を呼んだ。この話題性は、会場が東京の国技館に決定すると、さらに大きなものとなった。

 当日、国技館いっぱいに柔道チャンピオンへの声援がこだまする中、父は冷静に戦況を予測していた。

「相手は、自分より四十キロは重い巨漢。そしてサンボと柔道を得意としている。その利を活かすため、俺を掴まえてから極め技を仕掛けてくるに違いない」

 略)

 相手の足の指に全体重をかけ、力一杯踏みつけたのだ。

「ぐきっ!」

 なにかの折れる音が、大観衆が詰め掛けた国技館にこだました。

 柔道の達人の足の親指が折れたのだ。実戦では、胴や頭部などの急所を狙う以外に、手や足の指を骨折させただけでも相手は抵抗出来なくなる。

 足の指をやられた相手は、もはや重心を保てなくなっている。父は続けて、肘の強烈な一撃を相手のあごに入れた。あごがくるりと回り、大の字になってた俺、男はもう起き上がらなかった>


「我が父チェ・ペダル」P百二十二~百二十三


 残念ながら、「国技館」で行われたというこのものすごい試合の記録も私の拙い力では発見する事はできませんでした。

 ただ、柔道の天覧試合としては

 御大礼記念天覧柔道大会(昭和四年五月)

 皇太子殿下御誕生奉祝天覧武道大会(四回戦進出者のみ)を対象とした(昭和九年五月四日~五日)。

 皇紀二千六百年奉祝天覧武道大会(四回戦進出者のみ)を対象とした(昭和十五年六月十八日~二十日)

 ぐらいしか見付ける事ができませんでした。


 天覧試合六連覇とはどこの柔道家のお話なのでしょう。


 柔道家はこの「我が父チェ・ペダル」にも登場する、大山氏も柔道界最強の柔道家と認めている木村政彦氏ではなかったのでしょう?


 もうアホかと。

 


 その後、柔道チャンピオンとの対決から間もおかず、またもや挑戦状が送られてきます。

 今度は剣道高段者だったそうですが、それを真剣白刃取りで受け止めた後、相手のあごに二段蹴りを炸裂させ、悲鳴と共に二.三メートル吹っ飛ばします。

 これも、もう引用もアホらしいのではっしょりました。「我が父チェ・ペダル」P百二十五あたり


 暴力団から送り込まれたナイフを持った男を渾身の一撃で、殺してしまいます。

 その他にも、今まで戦った柔道家、剣道家などは障害者として生きていくしかなかったそうです。

 「我が父チェ・ペダル」P百二十六~百二十七あたり。

 私闘や正当防衛で相手を殺したり片輪者にしても、不思議とどういうわけか警察のお世話にもなっていません。


 三十対一 武蔵野大決戦

 え~と、なんと、「三十人対一人」という日本の武道界が揺れた決戦だそうです。

 もうすでに、今まででも随分揺れていると思いますが、まだ、揺らしたらなかったようです。

 <そして、ある日、日本の武道界が揺れた。

 空手の加藤七段を代表とした武道界の連合勢力が、父を断罪するとの声明を発表したのだ。断罪の名目として挙げられていたのは、日本各地の道場破壊行為や先の男(木下注 殺してしまった暴力団から送り込まれた刺客)の遺族との不適切な関係などなど。彼等は男の遺族との噂を非難する声を追い風に、目の上の瘤である父を葬り去ろうと画策したのだろう。

 父は怒った。

略)

 父は箱根山から戻るとすぐに加藤七段の道場を訪ね、武道界との連合勢力との対決を宣言した。

 決戦の場として定められたのは、武蔵野の荒野。父に対して、日本の武道界から最先鋭クラスの者たちが三十人以上選ばれたという。「武蔵野大決戦」の始まりだ。

 対決に先立って、父は決闘場所となる武蔵野の荒野を下見した。地勢や障害物を調べ、戦いのイメージトレーニングをするためだ。

 そして数日後、決戦の場に立った父の前には、実戦派の沖縄空手の修練生十余人と、剣道のある一門の上位弟子八人、天覧試合で優勝した柔道家ら七人の顔があった。>

「我が父チェ・ペダル」P百三十二~百三十四あたり。


 アホらしいからめちゃはっしょりまして、大山氏はすべてノックアウトして勝ちます。

 まるで、宮本武蔵と吉岡一門です。数も同じぐらいだし。



もうどうでもええです。

 アホらしくなってきましたので、このアホ本からの引用は止めます。

 このアホな本は「我が父チェ・ペダル」という大山氏の子息たちのよって書かれたとして朝鮮で出版され、我が国でも翻訳出版され、大山氏の後継者と「された」松井章圭氏が推薦文を書いている。


<本書は、傑出した武道家であり、教育者である大山倍達と韓国の息子が紡ぐ、すべての親と子へ捧げる愛の記録である>

と、


 もうアホかと。


 Oさんお二人様で来店。

 Sくん来店。


 営業終了後、「アンブラ」さん、「エムズバー」さんとハシゴ。

 記憶なし。

 サル以下


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大山倍達の嘘

全日本空手道選手権大会優勝という嘘

10月13日水曜日曇りのち一時雨

大山倍達氏が優勝したと「いわれている」戦後初の昭和二十二年に開催された「はず」の全日本空手道選手権大会については


<一九四七年、春。京都の丸山公会堂で、それまでにない規模の空手大会が催された。大会には、当時いくつにも分派していた空手流派のほとんどが参加し、自派の優位性を示そうとそれぞれが代表選手を送り込んでいたため、空手の大会としては珍しく、多くの人々の関心を集めていた。

 また、普段は無視されがちな空手大会に人々の耳目が集まった理由の一つには、一人のスター選手の存在も挙げられる。その選手とは、優勝候補筆頭であり「首切りの達人」との異名を持つ、南波だ。首切りとは、南波の得意技である回し首蹴りが、囚人の首切りを彷彿とさせるために着けられた呼称だという。

 前年、南波はこの首回し蹴りで中国から来た詠春拳(至近距離で敵の攻撃を処理しながら相手の急所を攻撃するのが特徴)の拳士を破り、半身不随に追い込む攻撃を見せた。敗戦により息消沈していた当時の日本人にとって、これは非常に痛快な出来事だった。そのためこの大会でも、多くの観衆が南波の勝利を見ようと丸山公会堂に押し寄せたのだ。

 では一方で、我々の父である大山倍達はどうであったか。実は父は、大会があると聞いても、自分が参加することなど考えもしなかったらしい。それでも父が会場に足を運んだのは、他の空手家たちがどうやって優勝者に選ばれるのかを単純にその目で確かめたかったからだという。

 

 大会では、相手に触れる直前で攻撃を止める寸止めルールによって勝敗が決められていた。結果、優勝者となったのは、やはり首回し蹴りの達人、南波。

略)

優勝者である南波の前に進み出て、大声で挑戦状を叩き付けたのだ。

略)

この時点で、観衆のほとんどは父をせせら笑っていたという。

略)

そして、父への反感は、彼が朝鮮出身者であることが伝えられると、さらにヒートアップした。

「朝鮮野郎が、優勝カップが欲しくて強がるんじゃあねえ。ここは町内道場じゃあねえんだぞ」

略)

 観衆には、父が今にも南波の攻撃を受けて倒れるとしか思えなかったし、誰もがそう願っているような会場の雰囲気だった。

 だがこの時、南波の蹴りをかわす父の目には、南波の弱点が映っていた。寸止め試合ばかりで勝負してきたためか、南波は顔のガードが甘かったのだ。父はローキックで南波の重心を崩して懐に入るや、素早く左のジャブから右のストレートへとつなげるワンツーを浴びせた。そして慌てた南波が繰り出す手刀をかわしてコンビネーションブローを華血、そのまま一気に攻め落としたのだ。

その光景は、会場に居合わせた全空手家にとって信じられないものだったはずだ。>

「我が父チェ・ペダル」P一〇二~一〇八


 朝鮮人は息をするようにウソを言うというがまさにそのとおりです。


 そして、大山氏の著書だけでなく、現在も多くの極真会道場のホームページには此の事が記されています。


国際空手道連盟極真会館(松井派)のホームページには「極真の歴史」として。

http://www.kyokushinkaikan.org/ja/about/history/1920-1989.html

<1947年9月 京都丸山公会堂での全日本空手道選手権に出場して優勝。>


極真会館大石道場オフィシャルホームページには下記のように書かれている。

http://www.kyokushin.ne.jp/index_sousai.html

<1947年全日本空手道選手権大会で優勝。>


極真館城南大井町支部のホームページには、創始者大山倍達の軌跡 として下記のように書かれている。

http://www.kyokushinkan-jyonan.com/sokuseki.htm

<47年、戦後初の全日本空手道選手権優勝。>



 これについてもすでに書きましたが、大山氏が優勝したという京都丸山公会堂で行われたという昭和二十二年全日本空手道選手権大会そのものがありません。



 <大山が戦ったという「全日本空手道選手権大会」は単に記録として残っていないだけでなく、時代的に考えても大きな矛盾を秘めている事がわかる。当時、試合ルールが存在しなかったことは明白なのだ。大山は「試合は寸止めだった」と公言してきたが、そもそもこの時代「寸止め制」は存在しなかった。更に言うならば、一九四六年にGHQが発令した「武道禁止令」により、武道は試合は勿論稽古そのものが禁じられていた。このような背景の中、一九四七年に空手の大会が開かれた事自体、極めて非現実的な話である>

「大山倍達正伝」P三百九十六


 <大山との関係が親密になった一九九〇年頃、私は機会を見計らって大山に大会の件を質した。

略)

 私(木下注 小島一志氏)の質問に大山はあっけらかんと答えた。

「全日本大会なんていうものはないんだよ」

 私は言葉に詰まった。大山は続けた。

「私の武勇伝は数知れずありますが、みんな真実なんてことはないんです。

略)

戦後初の全日本選手権優勝というのは間違いなんです。あれは梶原一騎のつくり話です」


 いまとなれば、「そういう伝説を本で書いたのは総裁自身ではないか」と憎まれ口のひとつでも返したくなるが、当時の私は大山の言葉を疑わなかった。

「あれは正式に言えば空手の選手権ではなくて、言わば武道大会のようなものだった。だから空手だけでなく柔道や剣道も参加していたかな。重量挙げもやっていた。戦後の復興期に国民に勇気づけようとして開かれた武道大会でした」>

「大山倍達正伝」p三百九十七


ではその大山氏が出場し優勝したという極真会館関係者に信じられている「いわゆる」全日本空手道選手権とはどういう大会だったのか。


 <大山倍達が語る通り、確かに大山が「武道大会」に出場したのは事実である。

 しかし、厳密に言うならば、それは「武道大会」と呼ぶには余りにも違和感を伴うイベントであった。

 一九四七年夏、日本中に大被害をもたらしたキャスリン台風が関東を襲った数日後であったという。

 <<九月二十六日、八日京都大阪で体育奨励会主催で体育大会(柔道、空手、重量挙げ、器械体操)があり、主催側も是非との要望がある故、三、四人出場させたい。私も行くから君も同伴されたい>>

「先輩からこんな手紙をもらったので、腕試し程度の気持ちで私も京都に行きました。会場は丸山公会堂だった」と大山は言った。手紙の送り主については大山は名言を避けたが、私は曺寧柱であると確信している。

 では、大山が参加した「体育大会」とはいったいどのようなものだったのか?

 次に紹介する「京都新聞」の記事が唯一現存する記録である。長年、伝説となってきた大山が優勝したという「全日本大会」の真実を伝える証拠としてメディア初公開と言ってもいいだろう。

 これは、一九四七年九月二十八日付けの日曜日版、第二面(社会スポーツ欄)の左下に小さなベタ記事として掲載された。全文を引用する。

「京都座の体育大会圓心倶楽部並に京都文化協会共催京都府、市後援の体育大会は二十七日午後一時と6時の二回にわたり京都座で挙行。まず器械体操で元オリンピック選手が金棒、平行棒に神技に近い美しいフォームをみせる。重量挙げでは斯界の第一人者井口選手がオリンピック種目を紹介すれば古技空手道もまた真剣かつ壮絶な妙技を公開。続いてスポーツ柔道の新路打開に努力を続ける柔道界の人々が警棒の型、護身の方

型、極の型等を公開した後、呼物日本体育奨励会(関東)対京都軍の対抗戦に意義のある体育大会の幕を閉じた。

 柔道対抗戦=日本体育奨励会二対一京都軍 

 先鋒 徳永四 引分  溝水四

    坂本四 引分  渋谷四

    牧野四 引分  中井四

 中堅 三輪四 膝車  多田四 ×

    篠原五 内股  今井五 ×

 副将 山森五 引分  堀部五

 大将 野口五 大外返 広川五 ○

 審判 西六段

 (氏名下の数字は段位)」

 

 大山に送られた手紙の内容とほぼ同様の種目が行われたことが、この記事から理解出来る。

 さて、ここで第一に問題となるのが会場である。「京都新聞」の記事からもわかるように、この「体育大会」は「京都座」が会場として使われた。しかし、大山の著書をはじめとするあらゆる資料や大山の言葉は、一貫して「京都丸山公会堂」となっている。だが、私達が調べた限りでは、京都には現在も昔も「丸山公会堂」という名称の体育館も公会堂も、また劇場も存在しない。>

「大山倍達正伝」P三百九十八~四百


つまり、大山倍達氏自身が数多くの著書に書いてきた、戦後初めておこなわれたという「全日本空手道選手権大会」だけでなく、その会場であったという「丸山公会堂」等と言うものは存在しないのである。

 では、大山氏が出場し「優勝」したという大会はなんであったのか。


 これについて小島氏は下記のように記しています。


<新京極の歴史に詳しい井上恭宏(株式会社左り馬代表取締役社長)は

「京都座は、戦後三軒あった劇場のうち二番目の規模でしたが、最も明治時代の建物らしく京都の人達に人気がありました。舞台の前は広い畳になっており、後方にせり上がる形で椅子席もありました、

 演目は芝居と映画の上映がほとんどでした。」

 大山が出場した「体育大会」について記憶がないのはもちろん、京都座でスポーツや武道の試合が開催された記録はない筈だと井上は言う。

「娯楽施設ですから、いろいろな見世物も行われていました。でも現在、公共の施設で開かれるようなスポーツの大会や試合が行われる事はないと思います。もし柔道や空手の試合が行われたとしても、それはあくまで見世物で、いわゆる慰安興行のようなものだったのではないでしょうか」

 大山が出場したという「全日本空手道選手権大会」もしくは「武道大会」の実体は、「体育大会」と銘打たれた見世物興行だったのである。午後一時の六時の二部制で行われていたという事実が、芝居等と同じショーであったことの傍証と言える。>

「大山倍達正伝」P四百~四百一


そして、大山氏が出場したという「全日本空手道選手権大会」というこの見世物興行を主催した「圓心倶楽部」については小島氏は次のように書いています。


<この「体育大会」を主催した「圓心倶楽部」とはいかなる団体なのか?大山の言葉によれば「旧大日本武徳会のOBたちが作った団体」ということになる。

 格闘技研究家の宮田玲欧は「曺寧柱氏が関係した事から、旧義方会または東亜連盟関係の組織ではないか」という。残艶な事に、私達はあらゆる手段を使っても圓心倶楽部に関する資料を見付ける事はできなかった。

 ただ、曺が「私の知人が関わった組織」と雑誌の質問に答え、私にも「京都の私の仲間が作った」と語った事から考えて、曺が実質的な黒幕であり大山が幹部として活動していた在日朝鮮建国促進青年同盟(健青)が便宜的に名乗った団体名ではないかと私は推測する。

 第一部・第四章でも言及したように、戦後、健青は活動資金の調達を目的に多くの興行を行っている。ボクシング興行に始まり歌謡ショーやサーカス紛いの見世物まで、健青は積極的にスポーツ芸能の興行を行っていた。また当時、「対共産主義活動」を通して健青はGHQと友好関係にあった。興行と言う名目ならば、武道禁止令によって禁じられていた柔道の試合も許可された可能性は高い。

 ちなみに、GHQによる武道禁止令が正式に解除されたのは一九五〇年である。ただ、実質的には一九四八年頃から制限が緩やかになったと言われている。

 木村政彦が優勝した戦後初の全日本柔道選手権大会も一九四九年に行われた。だが、一九四七年に柔道や剣道、弓道の大会が開かれた公式記録はない。

 いずれにせよ。圓心倶楽部心という組織の名前が大山が出場した「体育大会」以外、一切記録として残されていないのは極めて不自然である。

 京都では名門中の名門と言われた京都座を会場として採用する為に健青が圓心倶楽部を名乗ったとするならば、総ての疑問は解決する。大山に送られた曺の手紙に書かれていたように、大山は健青幹部として空手の演武を披露する目的で、曺と京都に(同伴)した。そして大山の見事な演武を顕彰して記念のトロフィーが贈られた。

 これが、「大山倍達伝説」のなかで伝えられてきた京都丸山公会堂で開催された第一回全日本空手道選手権大会の真相である>

「大山倍達正伝」P四百二~四百三


つまり、大山氏のいう「全日本空手道選手権大会」とは、身内の朝鮮人関係団体がやった銭集めの見せ物興行だったわけです。


あほらし


営業時間前に初めてのお客様がいらしてくださる。

其の後、これまた初めてのお客様二名様来店。

そして、ず~とご来店はなし。

営業終了前にSさん来店。

ドンチャン。

記憶は少しはあったと思う。

猿よりマシ。


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大山倍達正伝に見る創氏改名の真実

平成23年2月10日木曜日晴れ △

 売国新聞である変態新聞(毎日新聞ともいう)は、朝鮮人の肩を持ち、嘘を平気で書いている。

 昨年の記事だが下記のように書いていた。

 <日本語や神社参拝強要 ごう慢さを後悔--杉山とみさん(89)

 日本の植民地時代の韓国・大邱(テグ)。1921年夏、帽子店を営む両親のもとに生まれた。現地の女子師範学校を卒業し、太平洋戦争が始まった41年、今の小学校にあたる達城国民学校で初めて教壇に立った。

 現地ではこのころ、朝鮮語教育が禁じられ、日本名に改名させられていた。杉山さんも子どもたちに軍歌を教え、神社に参拝させた。日本語が分からない子どもと朝鮮語が分からない教師。出席もとれず、悪戦苦闘した。>

平成22年8月12日毎日新聞 平和の糧に:背負ってきた65年/2 韓国の国民学校で教員、杉山とみさん 


 ハングル文字を普及させたのは、日本統治時代の政策であり、ましてや、朝鮮語の禁止と言うが、朝鮮語は一九三七年(昭和一二年)まで必修であり、非常時にさいしての「国語(日本語)」の奨励策はあったが、朝鮮総督府による朝鮮語使用禁止という政策はない。

 京城帝国大学法文学部に、朝鮮語・朝鮮文学と朝鮮史学の二講座があった。大東亜戦争中にいわゆる皇民化教育がなされたときでも、この二講座には何らの制限も加えられなかった。



 

それだけでなく、日本名を名乗っていたと言うが、それは法的にはほとんどが通名であった事実を隠している。

 日記に何度も書いているが、洪思翊中将、金貞烈大尉など日本軍の将校として朝鮮名のまま活躍した朝鮮人も多く存在する。

 

<「創氏」が個人事に行われたものではなく、「家族」を代表する家長の名前で行われた事実である。

 つまり「設定創氏」であれ「法定創氏」であれ、家長が朝鮮名を「氏」とすれば、その家族は自動的に同じ朝鮮名のまま戸籍に登録された。

 また、「設定創氏」によって家長が日本式の「氏」を名乗れば、家族も皆同じ日本式の「氏」となった。結果的に「法定創氏」によって、それまで使っていた朝鮮式の「氏」を名乗り続ける朝鮮人も少なくなかった。

 一方、「改名令」は強制でなく、あくまでも「任意」だった。「改名」を行う場合、まず裁判所の許可を得る必要があった。

 その後に、役所に手数料を払い届け出をした。「改名」が強制でなかった事は事実だが、「改名」の際に日本式の名前が推薦された事も事実である。

 資料によれば、朝鮮在住の朝鮮人のうち、「改名」を行ったのは最終的に九・八%に過ぎず、在日朝鮮人で「設定創氏」の手続きをした人達も十四・二%でしかなかった。

 つまり八十五・八%の人達の名前は「創氏改名」の手続きを経たものではなく、いわゆる通名でしかなかった。

 ちなみに、創氏改名によって夫婦は同じ苗字を名乗る事が義務付けられた。>

「大山倍達正伝」P百十一


 <大山氏が山梨航空技術学校に提出した書類に記された「崔永宣」ではなく、その時代に名乗った「大山虎雄」は創氏改名でなくあくまで通名である。大山氏の実家は戦中・戦後を通じて「崔」を氏姓にしていたからである。

 大山氏が個人で「創氏」の手続きをするのは不可能だったのだ。>

p百十一~百十二

 

 言葉を奪ったと言いながら、人口の二十%しか日本語がわからなかった。

 勝手に我が国に来ておきながら、「強制連行された」と嘘をいい、

 名前を奪われたと言いながら、今でも偽名を平気で名乗る朝鮮人。

 いくら偽証が国技だと言っても、いい加減にして欲しいものです。

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極真空手の知られざる内幕 統一教会 在日暴力団 田中清玄との関係

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http://kyokushin-hiho.seesaa.net/article/19674410.html
四天王・添野師範逮捕で明るみに出た極真会館の大スキャンダル(前編) (噂の真相 81年1月号)


レポーター 池田草兵(ルポライター)


極真の実力者・添野逮捕の不可解さ

 九月十九日、午前六時。埼玉県警の機動隊一〇〇名がバス二台に乗って、極真会館都下・埼玉支部長・添野義二師範の恐喝未遂容疑にたいする家宅捜索ならび逮捕のために、所沢市美原町の添野道場に到着した。
 その、数時間前には毎日、読売、東京新聞をはじめ、各スポーツ新聞の社会面に"極真の猛虎・添野逮捕"の記事が用意されて輪転機のなかで捻りをあげていた。
 このような事件は、逮捕取り調べが進展して犯罪が立証できるようになって各報道関係に発表されるはずだが、すでに逮捕の前日には埼玉県警捜査四課から情報が流されていた。添野師範自身も家宅捜索の過程で、新聞の記事をみながら逮捕されたのではなかろうか。記事の内容は、添野師範の自叙伝『いつの日か男は狩人』(けん出版発行)を、同じ極真会館の岩見弘孝氏を脅迫して販売したというものである。
 同事件では極真会館西野希智堆(態谷支部長)、高橋高志(川越支部長)も逮捕されたが、この二人は現在、極真会館道場を再開している(その事情については後述)。
 ここに一見単純な恐喝事件が実は、極真会館内部の関係者が絡み付いた、ドス黒く根の深い複雑な事件であることが窺える。結局、警察では、目下処分保留のままとなっている。新聞記事にあった自叙伝の強制的な販売(恐喝)に関する被害届はその後、一件も警察にでてこなかったのである。
 やむなく別件の恐喝未遂容疑を新たに用意したが、これも極真会館内部の密告者によるものであった。前回と同様密告した人物まで、が逆に逮捕されるという添野再逮捕劇であった。
 手の混んだ別件再逮捕劇の裏側には、警察としての体面もあったと思われるが、極真会館の内部事情が添野事件に関与していたためでもある。
 筆者、添野事件の取材を開始した時、極真会館にたいする一つのイメージ(恐怖感覚)を持っていたが、そのイメージをいったん白紙に戻して、ジャーナリストとして取材を敢行していくうちに、劇画(空手バカ一代他)やマスコミで活字になっている極真会館は商業的な側面があるにせよ、あらゆることが虚像でぬり固められていることに驚いた。これについて、新格闘術黒崎道場の黒崎健時師範は「マンガはマンガとして見るべきで、マンガにのせられるのは異常だ。実名が登場するから錯覚をおこすんだよ」、そして「極真会館の大山倍達館長についていえば、マンガとか本で書かれていることを逆に解釈すれば間違いはないでしょう」と明確に語ってくれた。
 添野事件の取材が進行していくうちに、極真会館は実像と虚像が織り交ざっており、虚像ともいえる部分を剥していかなければ、真相はなにも書けなくたってしまうことが明らかになってきた。筆者としては、勇気をもって筆をとることにした次第である。
 残念なことには、極真会館館長大山倍達氏に添野事件について取材を申し込んだが、女性事務員に「大山館長は全国大会で忙しいので」と断わられ、再三取材を申し込むと事務担当のイトウ氏を通じて「愛弟子については、なにも語りたくない」との返答があっただけであった。一方「事件の当事者添野師範も「事件で迷惑をかけたので、いまは反省しており自重したい。だから事件に関しての取材はいまは勘弁してほしい」とのことであった。
 まさにマスコミタブーへの挑戦というわけだ。


四天王添野師範逮捕のシナリオ

 添野師範は、極真会館の四天王の一人として活躍してきた。十六歳のときに入門して十七年間、極真会館館長大山倍達氏を師と仰ぎ空手の道を純粋に突き進んできた男である。その彼が、結局大山館長に裏切られ、陰謀と内部抗争によって、三十三歳の誕生日を一人留置場で迎える破目となったのである。事件を境に極真会館を除名され、現在新格闘術『士道館』の首席師範として創設の準備に奔走しているという。
 事件の発端は、逮捕される二ヶ月前の七月中旬に溯る。当時極真会館の都下および埼玉地区の責任者であった添野師範は所沢市、熊谷市、川越市等の主だった都市や伊豆の大島などに分支部を設置していた。極真会館本部(池袋)を取り囲むように、その数三十カ所、最大なる支部に成長させた功労者でもある。
 極真会館の支部組織は、全国各地を区割し各支部が重複しない措置が採られている。ところが、埼玉県戸田市に西田幸雄氏が極真会館道場を開設したことから、本事件の内部抗争が始まるのである。
 埼玉地区の責任者である添野師範に、なんの相談もなく道場を開き、目と鼻の先(約一キロメートル)にある添野道場蕨支部の周辺にポスターを貼りまくったのである。某師範は語る。「添野に一言いってやれば協力して仲良くやっていけたのに、添野が再三再四電話しても不在だし、連絡もくれないので大山館長に会いに行って相談したらしい」。
 ところが、大山館長に「盧山初雄が全国大会のチャンピオンになったら、どこへでも道場をだしてやると約束したので、戸田は盧山、の支部にする」といわれたらしい。盧山初雄氏は極真会館本部の許可を得て埼玉南支都長に着任し川口に道場を開設したばかりであった。“添野道場側は西戸田支部長にたいして「礼儀として武道をわきまえることをしてもらいたかった」とのべているものの、極真会館の添野師範にたいする陰謀はその頃から巧妙な手口によって正体を現わし始めていたようだ。添野本人も薄々気がついていながらも、この時点では半信半疑であったようだ。
「以前、盧山川口支部長は、北朝鮮の大川という人物がスパイ容疑で警察に逮捕されたとき、盧山も関係しているということで極真会館を除名されていた。ところが、どういうわけかそれを簡単に復帰させたことがある」と極真会某師範が語っているように、いったん除名処分になっても簡単に復帰できるケースもあるようだ。さらに極真会館を去った山崎照朝氏も「極真会館のおかしいところは、除名になった人間がある日突然復帰するところだ」と指摘する。
 除名処分を食っても、何らかの根拠と本人の自己批判があれば、すんなり復帰させるというのも、ひとつの"見識"ではある。それが添野師範の場合には適用されたかったところが、いかにも"ご都合主義"を思わせる。


大山ワンマン体制下の内部抗争

 マスコミで活字にこそなっていないもののいま、極真会館内部にあるものは陰謀と矛盾、虚像と実像がうずまいている。多くの優秀な武道家たちも極真会館を去り離れていった。
 黒崎健時師範、大沢昇師範、中村忠師範、第一回世界大会のチャンピオン佐藤勝昭師範、山崎照朝氏、芦原英幸師範、二宮城光師範、そして添野義二師範と名を出したらきりがなくなる。そのなかには、自ら脱会した武道家もいれば除名になった武道家もいる。その武道家の人たちは「極真会館にはいかなる理由があれ戻らない」という。
 これだけの人物が極真会館で育ち成長し集まったのは確かに事実だ。ある意味では武道家としては一流の人たちである。言葉では言えない超えたものがあればこそ一流の才能のある武道家たちが極真会館の名のもとに集まり、精神を肉体を鍛え一流の武道家として成長したのである。そして、去っていった--。
 なぜなのだろうか、添野事件を通していろいろな武道家たちに意見を聞くと「大山館長という人は、自分の弟子が大きくなると締め出すんですよ、普通なら喜ぶが大山館長は反対なんですよね」と去っていった武道家たちは口々に語ってくれた。そして「大山館長にしてみれば、添野君が伸びて力が大きくなると恐しくなって手を打ちはじめたんです」ともいう。
 元極真会館某師範は大山館長について、「自分は神様だ、カッコいいと思っており、それで添野を悪者にした。師弟とは親と子の関係も同じだ。それを自分の子供が悪いことをしたからといって突き落す。親なら自分の子供が悪いことをしたらかばうものだ。それを平気で大義名分の為に突き落す大山館長は神様でもなんでもない」と怒りをぶちまける。
 この発言のなかに極真会館の虚像ともいえる部分が窺える。それは、神様大山倍達が存
在していると同時に実像の部分で人間大山倍達が存在しているのであろう。ときとして人間は実像と虚像を履き違えるものである。神が大義名分にこだわるだろうか、自分の立場にこだわるだろうか。そんなことを考えるのは人間だけである。最近除名になったA師範は、「僕は人間で結構、神様なんかにはならない。大義名分はどうでもいい。賊軍結構。もし武将の時代だったら僕は殺されていますよ。織田信長の本能寺のときのように。もし大山館長を殺してもいいと言われれば殺してやりたいですよ。現代ではそんなことは許されませんから、こちらからはやりませんがもし、僕に万が一があったら、それは大山館長の仕業であると言い切れます。そのときのために決死隊をつくったんです。道場生のなかには大山館長を殺すといっている連中もいるが、こちらからは絶対に手を出してはいけないって言い聞かせてあるんです。僕が殺されたときに殺れってね」
 と、語るA師範の言葉にはいまの率直な心境が表われているようだ。そして「大山館長に殺られる可能性はありますよ」と語った裏には、一年半前に大山館長の指令で、北海道の高木支部長が四国の芦原支部長を殺しにヤクザ者(拳銃所持)を一人つれて、北海道から船に乗って四国に渡ったことがあるからだという。四国に着いた高木支部長は芦原師範に電話して「大山館長の命令で殺しに来た」といって通達したが、逆に芦原師範に返り討ちにあって片目が失明してしまったのだという。このとき高木支部長と一緒にいたヤクザ者は拳銃を持っているのにも拘らず逃げてしまったのである。
 ここにも、極真会館の内部抗争はあったのだ。極真会館の内部抗争と陰謀は組織の宿命として常に存在しているのであろう。陰謀と内部抗争に関係しない唯一の方法は強くならないことだ。だが、武道家としては強くならなくては意味がないわげだから、ここにジレンマがある。添野師範も内部抗争の被害者の一人であることだけは確かなようだ。


自叙伝恐喝未遂事件の"真相"

 はなしは前に戻るが、添野逮捕のニカ月前に極真会館内部の人たちによる、添野師範の追い出し作戦(陰謀)が極秘のうちに進められていたのである。結局、機動隊員一〇〇名が動員され家宅捜索、逮捕といったなんともモノモノしい大袈裟な行動が狙いであったのだろう。
 山崎照朝氏は「最初、はなしを聞いたときはビックリしたんです。(添野は)拳銃は持っている、麻薬はやっている、傷害だ、博打はやってるで二十件位の犯罪があり懲役五年は間違いないっていうんですよ。間違っていたら腹を切るなんていう人もいて驚いたんです。この話は、添野が逮捕される二週間ぐらい前に大山館長から直接聞かされました。大山館長はオロオロして、心配しながら僕に何度も相談されました」
 七月中旬には、すでに警察は内偵していた。建築会社のSさんが「七月二十五日頃だったと思いますが警察から電話があって、添野さんが恐喝をやっているっていうんですよね。そんあことをするような人間ではないといったんですが……」
 自叙伝『いつの日か男は狩人』は、新聞などの報道によると、"自費出版"と書かれていたが、地元(所沢市)の唯一の出版杜である「けん出版」が、実際は、添野師範の功績を認めたうえで発行したものである。現在、発行部数は二万五千部で事件が報道されてから、かなりの返本があり、停滞打撃を受けているという。けん出版の社長浅野兼次氏は、「まるで、恐喝するためにつくった本みたいにかかれているが、一度もそんな事件はなかったんです。岩見という人は添野師範といっしょに極真に入門したが、いつも添野師範のことを自慢していたんですがね」とその間の事情を語ってクビをかしげる。
 自叙伝に関する恐喝未遂事件の真相について関係者の証言を総合すると、所沢のスナック『バロン』で福田という友人と一緒に酒を飲んでいた岩見氏が、添野道場の門下生のイノマタ氏(元キック・ボクサー)がくると、急に添野師範の悪口を言ったのである。イノマタ氏が注意すると岩見氏が突然殴ってきたのであった。殴られたイノマタ氏が驚いて殴り返すと喧嘩になったのである。このことに腹をたてた岩見氏が警察に殴られたことだけを告げたため、イノマタ氏は警察に呼ばれて事情を聴取された。警察では原因が岩見サイドにあることを知ったので、今度は岩見氏を呼び出して説教をしたのである。自分の方に分がないのを知ると、添野師範の悪口とイノマタ氏の両人に謝罪すると共に、添野師範の自叙伝二千冊を購入することを自分の方から約束していったという。(実際は本は一冊も購入していなかった)
 これが新聞などで報道された自叙伝の恐喝未遂容疑である。当然、起訴されず処分保留になったのは先に述べた通りである。埼玉県警は体面を考えたのかそれとも、極真会館と何か関係していたのかは不明だが、別件の恐喝未遂容疑を用意したのである。それも極真会館の関係者同士の事件であった。


他の関連事件の"真相"

 まだある。吉川元入間支部長(極真会館)の頭髪を剃ったことで起訴になった事件である。吉川元入間支部長は暴力団の準構成員あつかいされている人物。“一年ぐらい前には、拳銃の不法所持で逮捕されたり、所沢駅で無低抗の駅員を外人と二人で撃って逮捕されたこともある。このとき、添野師範は破門を申しわたしたのである。以前入間市で、闘道会館という空手道場をやっていた(現在閉鎖)吉川元支部長は、添野道場清瀬支部(小林茂雄支部長)の女性門下生E子(当時女子高生)に手を出して、女房子供をほったらかしてE子と深い関係に落ち込んでいった。このとき以来E子の性格は変わり、夜遊びはするし派手好みになっていった。このことを心配した両親に相談を受けた添野師範は、吉川元入間支都長のところにいって説得したが聴き入れず、妻子を捨てE子と同棲するようになった。添野師範としては捨て置けず再び説得すべく吉川元支部長のところに行ったら、狭山警察署のパトカーを呼んだりしたという。結局、狭山警察署員から「よく話し合いなさい」と言われ、数日後吉川は兄と一緒に添野道場を訪れたが、反省の色は見せず、逆に「添野師範の奥さんが道場生とあやしい関係にある」などと言い、添野はやむなく頭を坊主にしたという。この世界によくある話である。もし、これが犯罪ならスポーツの世界は犯罪者だらけになってしまうではないか。
 ついでにもうひとつの事件を紹介すると、高橋川越支部長(極真)が証券会社の社員A氏に、無断で名前を使われ、数百万円の損害ができたので脅してくれと添野師範が頼まれた一件だ。高橋川越支部長は「会社の社長だから舐められたら困る」といって証券会社のA氏を添野道場に呼び出した。このとき、添野師範はかなり強く脅したことを本人も認めているという。証券会社のA氏は「一五〇万円で勘弁してくれ」と頼んだが高橋支部長は納得しなかった。(添野師範はその日以降一度も証券会社のA氏とは会っていない)その後日、数回にわたって五百万円を取ったのは、高橋川越支部長であった。そのお礼として一五〇万円を添野に渡したらしい。高橋川越支部長、西野熊谷支部長の二人は、添野事件に関係して逮捕された、ところが、彼ら二人は現在極真会館の支部長として存在しているのは前述した通り。除名されるべきはずの両名が極真会館のなかで大手を振るっているのは、なんとも不思議なことである。 以上が関係者の証言だ。
 ここに、添野事件は陰謀と内部抗争によって社会的に経済的に壊滅させようとする糸口がハッキリみえているといえまいか。この件について山崎照朝氏は「西野、高橋が逮捕されているのに道場をやっている。陰謀を認めざるを得ないと語る。そして添野事件に関した極真会館の内部事情について「添野は出てきているのに、極真会館の郷田師範をはじめ何人かは三年から五年の懲役で間違いなく入るよと言っている。入らなければ腹を切るという奴もいたそんなわけで仕組まれたと思わざるを得ない。今回の事件は、こじつけの起訴だ。納得できない。彼らがわかってやったのなら、本当に腹を切ってもらいたい」と、極真会館の陰謀説を主張すると共に責任(この場合、腹切り)をとるべきであると語る。事件は単純な事件ではなく、内部事情が複雑に絡みついた事件であることを裏付ける山崎氏や関係者の発言が後をたたない。
 なぜ、このような事件や陰謀が極真会館内部に起こりうるのだろうか。極真会館に関しては大山倍達館長が最高責任者である。この事件が陰謀的事件であるとすればこの事件の責任は大山館長にあるといっても過言ではないだろう。


驚くべき極真会館スキャンダル

 そこで、今回の事件を通して大山倍達館長はどんな人物かということを、極真会館の関係者の"内部告発"をもとに極真会館と大山倍達氏の実体にスポットをあててみることにした。
 内部告発者は二、三人の師範だげにとどまらず、その数は増えつづけていくのであった。今回の事件で、逮捕取り調べをした警察官の一人は「大山倍達氏は戦時中特攻隊にいたという話があったので調べてみると、その事実はないのです」と証言。このように大山館長の自伝には偽りがいくつかある。大山館長は空手をやるまえはプロレスラーでありボクシングをやっていた。「体が大きいのはレスラーだったからですよ」、と大山館長の古き友人のN氏は切り出して、「大山館長はお金にキタナイんですよ。それで現在は付き合っていませんし、付き合いたくもたいですね。」
 これについて、黒崎道場の黒崎健時師範も「大山館長は、いつも生徒に月謝を納めろと言ってた。武道家として先生としての立場は、精神肉体を鍛える人であるべきはずが、大山館長はお金のことをなんべんも言っていた。それは事務所で管理すればいいんであって、先生はあくまでも教えるという立場だけでいいんですよね。
 以前、私が極真会館で師範をやっていたときに、僕の名で除名になった人たちがいたんです。その人たちはなんで除名にたったかというと月謝を納めてない人。それと、外国から来た研修生」。
 ダソクながら"外国から来た研修生"の除名理由は極真関係者の女性といっしょに酒を飲んだり体をいじったり乱交パーティまがいのことをしたため、という。
 この手の"色もの"話は大山館長にも、いろいろあるらしい。
 一年半ぐらいの前の北海道大会のときに、北海道の高木支都長から十六歳の女学生を紹介された大山館長は、売春容疑で警察に逮捕された。この事件は北海道の新聞には報道されており、なぜか「空手家O」という名前になっている。
 黒崎師範は、大山館長の女性問題についてエピソードをいくつか話してくれた」。「通訳をしていたM嬢」「本部にいた女性事務員のK嬢」、「亭主持ちのお手伝いさん」などだが、これも精力絶倫のゆえのようだ。
 英雄は色を好むということわざがあるが、社会的な問題(未成年との売春、間男)を超えたところでの女性関係は、武道家としての作法以前の社会的な道徳問題ではないだろうか。ここにも大山館長の知られざる人間像が浮上してくる。
 次は八百長の証言である。第二回世界大会において八百長事件が少なくとも四つは存在していたという。元極真会館某師範は証言する。
 添野師範は第二回世界大会の会場(武道館)で、大山館長から呼びだされたという。「添野、館長命令だ。ウィリー・ウィリアムスとの試合で八百長をやれ」。と添野師範に指令したというのである。
 大山館長は、大会前にこう語ったという。「絶対に日本人が優勝しなければいけない。外国人に負けてはいけない。チャンピオンは日本人のなかから出なければいけない。これは館長命令だ」。その館長命令が八百長命令と変わっていったのは、ウィリー・ウィリアムスの強さゆえだった。
 大山館長は添野師範に「いいか、三瓶(啓二)とウィリー・ウィリアムスの試合でウィリーが三瓶の襟を掴むから反則負けにしろ。これは館長命令だ」といって添野師範の襟を掴んで説明した。極真会館の八百長の手口は二つある。片方八百長と両方八百長である。ウィリーと三瓶の試合は両方八百長であった。つまり、ウィリーも知っていたのである。だから三瓶選手の襟をわざとつかんで自ら反則負けになったのである。添野師範はウィリーと三瓶選手の主審であった。
 新聞記事を見るとウィリー狂乱と書かれていた。ウィリーはくやしい気持を表現したのではないだろうか。なんとも奇っ怪な話ではないか。<次号つづく>


http://kyokushin-hiho.seesaa.net/article/19695629.html
四天王・添野師範逮捕で明るみに出た極真会館の大スキャンダル(後編) (噂の真相 81年2月号)


レポーター 池田草兵(ルポライター)



ウィリー・三瓶戦八百長の証言

 ウィリー・ウィリアムスは強い。
 極真会館ではナンバー・ワンであった。他の空手の流派をあわせても超一流の強さを誇る武道家である。地上最強の空手家である。
 ウィリーは国際空手道連盟(極真会館)が主催する「第二回世界大会」の会場(武道館)に於て、八百長試合で反則負けになる自分の運命に怒りが爆発した。
 両手を高々と上げて叫んだ声は、地の底から天井まで響きわたったが、言葉にはならなかった。「わざと反則負けになったんだ、俺が正々堂々と勝負をすればチャンピオンなんだ」とウィリーは言葉にして叫びたかったに違いない。もし、ウィリーが八百長試合だといってしまったら極真会館のイメージ・ダウンは当然としても存在すら危険な状態になるだろう。それは極真会館という流派は強さのみ追求してきた組織であるからだ。にもかかわらず裏にまわって八百長の数々をやっていたとなれば、真の武道家はいなくなるのも当然のことである。ウィリー自身、武道家としての誇りまで失なわれてしまうのである。言葉のかわりに"ウオー"と叫んだのは、自分の運命(強さ)を憎んで誇りを捨てなかった戦士の姿がそこにあったのではないだろうか。
 この八百長試合の真相は、極真会館館長大山倍達氏がウィリーの師であるニューヨーク支部長の大山茂師範に"黒い指令"を出したのである。大山師範は館長命令には逆らえず従わざるを得なかった。なんとかウィリーを納得させて試合に出場させたのである。一方大山館長は、試合会場に於て主審の添野師範を呼び付けて同じ指令を出して完全な八百長試合を成立させたのである。
 試合開始直後からウィリーは三瓶(選手)の襟を掴んだのである。そして、結局、添野主審は両名を引き離して"反則"を宣言したのである。この試合の会場で、高い入場料を払って見ていた多くの観客は「不可解だ」と思ったに違いない。目の肥えた人たちは「八百長」であると言い切っていたし、視聴者の誰の目にも不可思議な試合だと気がついたはずである。
 ウィリーと三瓶の試合は片方八百長であった。三瓶選手だけが知らなかったのである。元極真会館某師範は「三瓶選手は日本の選手のなかでは体も大きくて根性もある。確かに日本の選手のなかでは強い。だがウィリーには絶対負ける、ウィリーは強すぎる」と断言している。
 この世界大会の八百長は他にもあったと語るこの某師範は「いまは極真会館の人間だからどの試合が八百長であるといえない。私も近々除名になると思うんだ、その前に退会するつもりでいる。そのときは発表します。いま言えることは少なくとも四つの八百長があったということです。そのなかでいちばん大きな八百長は、ウィリーと三瓶の試合であると思っていただいて間違いない」とも証言してくれた。
 それを裏付けるようにスポーツ誌の編集者のA氏は「大会会場の控室で大山館長と某師範が八百長の話しをしているのを一緒に聞いていたが、どうも東選手との試合のいくつかは八百長だったらしいです。詳しい内容については関係者だから勘弁してほしい」と語る節々に八百長が表面化し始めていることに半ばあきらめている様子が伺えるのであった。前号では取材に応じてもらえなかった主審の添野師範に再度ウィリーと三瓶の八百長試合について取材すべく出向いて行くと添野道場の看板は、極真会館の名が外され「新格闘術士道館」とかわっていた。あいにく添野師範は黒崎健時師範の黒崎道場に打ち合わせの為出かけており不在であったが添野夫人が取材に応じてくれた。
「添野は八百長試合のあった当日の夜は一睡もできずくやしがっていた」と語ってくれた。「たとえ三瓶選手が負けてもいいから正々堂々と試合をやらせたかった。第二回世界大会でウィリーがチャンピオンになってもいたしかたたい、次の大会でウィリーよりも強い選手を育てればいいんだ。外国人に負けることをこだわること事体異常だ。本当に嫌な審判をやらせられた」と夜中に蒲団のなかでひとり言を咳きながら男泣きをしていたと、当時(一年前)の記憶を少しずつ思い出しながら添野夫人は証言してくれた。
 添野師範は極真会館内部の陰謀によって除名されるまで大山館長への信頼は絶対的に存在していた。どんな命令にも従ってきた故に、つらい出来事を他の人より多く味わってきたようだ。そんなとき添野夫人はいつも陰から見守っていたのである。それから数日後、添野師範に会うことができたので八百長試合の事実を確認すると前回とはうって変わって「僕が審判をしていたので良く知っている」と明確に証言してくれた。
 そして、"地上最強の空手"というイメージを創った劇作家の梶原一騎氏も「外人(ウィリー)が優勝したっていいじゃないか、結局は自分のところの弟子には変わりないんだから」と語る心境には大山館長の不思議な行動に理解ができないといったことを暗に示しているようであった。
 以前、テレビで笹川良一氏が「極真会館はコマーシャル空手だ」と発言したことが思いだされる極真会館八百長事件の一幕である。


アントニオ猪木・ウィリー戦にも噂が

 極真会館八百長事件に続いて、もうひとつの情報が取材の先々で筆者の耳に入ってきた。それは「アントニオ猪木VSウィリー・ウィリアムスの"格闘技世界ヘビー級選手権"の二月二七日決戦は八百長」であるといった噂であった。そこで筆者は、噂の真相を解明すべく取材を開始したのである。
「二・二七決戦」当時のポスターやチラシなど見ると「卍固めか熊殺しか、格闘技総力戦争の火蓋は切られた」というキャッチ・フレーズで大々的に宣伝されていた。
 格闘技世界ヘビー級選手権とは、チャンピオンであった猪木がプロレス、プロボクシング、マーシャルアーツ、柔道、空手などのトップクラスの格闘家たちに呼びかけて、力と技を競い合った"格闘技戦争"のことである。いわばプロレスの猪木が強いのか他のジャンルの格闘家が猪木を超えられるのかといった異種格闘技選手権である。この選手権試合では、元プロポクシングヘビー級チャンピオンの"ホラ吹きクレイ"ことムハメッド・アリ、ウィリアム・ルスカ、アンドレ・ザ・ジャイアントなどの猛者たちが猪木と激烈に闘った。これらの格闘家たちに対して猪木は十四戦十三勝一分(引分けはムハメッド・アリ)の戦歴を残したチャンピオンである。そして格闘技世界へビー級選手権は、猪木のプロレス専任のため最終戦を残すだけとなった。最後の挑戦者は熊と実際に闘い、熊を殺した極真会館三段のウィリー・ウィリアムスに決定した。
 二・二七決戦は「力道山VS木村」決戦の再来といわれた。会場の蔵前国技館は超満員(一万二千人)の観衆で埋まり、リングサイド席は五万円の入場料であった。興行収入は一説によると一億五千万円ともいわれているが実際は六~七千万円位であったようだ。テレビ(テレビ朝日、水曜スペシャルで生中継)の放映料だけでも七千万円といわれている。この二・二七決戦は、不満とシラケの極真会館第二回世界大会の八百長事件とは反対に観客を興奮させ実に楽しませてくれた試合であった。この二・二七決戦八百長説は極真会館の機関紙「パワー空手」の記事などでも暗にほのめかしてあるように関係者の間では常に話題になっていたようだ。
 試合の立会人である劇作家の梶原一騎氏は「このような試合で八百長という言葉そのものがおかしい。八百長でなげれば殺し合いになる。醜い殺し合いをしない前提で力と技を競い合うものだ。極真会館の大山(館長)が言っている殴って殺してしまえ、病院に入れちゃえなんて突拍子もない事を言っていたらプロレスの世界では毎試合死人が出てしまうことになる」と意味深な発言。
 八百長でなければケンカである。プロレスや空手などの格闘技が合法的な殺人ゲームに発展するとすれば、社会的にも大きな問題になるだけでなく法治国家として許されるはずがない。大山館長が殴って殺してしまえと発言するだけでも社会的にも大問題であると同時に、危険思想の持主ということになる。これはプロレスや空手だけでなくボクシング、柔道、相撲などでも同じことがいえるだろう。確かなことはこの試合には事前の打ち合せがあったことだ。
 二・二七決戦のプロモーターである新格闘術総師・黒崎健時師範は「猪木は三千試合も経験しているが、ウィリーにとってはデビュー戦である。誰もいない山の中で闘えば若いウィリーが勝つかも知れないが、大勢の観衆が見ている四角いリングでは経験豊富な猪木が有利である」と解説する。
 試合前からウィリー絶対不利説があらゆる関係者の間から持ち上がった。猪木は百戦錬磨の超一流のプロレスラーである。ウィリーにとってはデビュー戦ということで極真会館への体面も考えたうえで事前に打ち合わせが行われたのだ。


関係者たちの証言構成

 そもそもこの試合の発端は、格闘技世界一を名乗る猪木に対して「けしからん」と怒った極真会館の大山館長の発言で、極真会館の連中が騒ぎだしたことに始まる。そこでニューヨーク支部長の大山茂師範が「ウィリーとやらせましょう」といったのである。つまり火を焚付けたのは大山館長なのである。だがウィリーは、この試合の直前に極真会館を破門させられ、大山師範は謹慎処分を食ったのである。最強の空手を名乗る極真会館が格闘技世界一の猪木に挑戦するのは理解できるが、挑戦するウィリーに不安を抱いて身の安全(破門)を考える極真会館のやり方は理解に苦しまざるを得ない。
 元極真会館S師範は「大山館長は小心者である。なにか起きるとビクビクオロオロしてすぐ逃げる。最初ウィリーと猪木の試合は金になるからやろうよと言ったのも館長なんです」と語る。
 梶原氏は『大山(館長)はウィリーと猪木の闘いは三〇秒でウィリーが勝つと言っていた。三〇秒で勝てなかったのは梶原、黒崎、大山茂、レフリーのユセフ・トルコがウィリーにセーブをかけたと機関紙の『パワー空手』に書いているが冗談を言っちゃいけないよ。ウィリーが三〇秒で勝つなんてありえない。たとえ相手がシロウトでも必死に逃げ回れば空手の達人ですら三〇秒じゃ無理。格闘技なんてある程度のレベルまでいったら差はない。一流のプロレスラー、ボクサー、空手家だって勝負をやるたびに変わるんだ」と語る心境のなかには、試合の際、大山館長が梶原氏をはじめ関係者に対して黒い殺人指令(その事情は後述)を出したことに怒りが爆発しているようだ。そして「俺がこのような発言をするのは、大山(館長)が命を狙うと聞いたからだ」。と語気を強める。
 猪木にしても今日のプロレス黄金時代を築いたことから判断しても実力は水準以上のものを持っていればこそであり、絶大な人気もともなっているのではなかろうか。それはどのスポーツの世界でも同じことがいえる。たとえば野球の長島や王の人気は、実力があればこそファンばスターとして認めるのである。自分はスターだ、カッコいいだけではスポーツの世界では認められない。アイドルとスターは違うのである。実力があって回りの人間が応援し合ってこそスターの存在がある。そこには自然と謙虚な態度が必要なのである。ところが大山館長は、劇画などマスコミで有名になり神様などと呼ばれて本人も思いこみ有頂天になって真の心を忘れていたのではあるまいか。
 そのことについて元プロレスラーであり力道山や猪木にプロレスの技を教えたユセフ・トルコ氏(現在は実業家)は「いまの大山(館長)があるのは梶原先生のお蔭だ。原点に戻って考えろ。空手の世界で強ければそれでいいんだ。だからといって他の格闘をチャカしちゃいけない。極真会館には大山(館長)というガンがある」と、世界に羽ばたき大きくなれるはずの極真会館が、それをできない理由だと指摘している。
 極真会館は日本では、梶原氏の劇画やマスコミの力で有名になったが、海外では知られていないのである。特にアメリカではカンフーは知られているが極真会館の知名度はほとんどないのである。これは海外旅行をした読者ならご存じのはずである。劇画と現実は違うのである。
 アメリカで大山館長が有名であるとすれば、プロレス時代にグレート・トーゴウとタッグチームを組んでいた頃の「マス・トーゴウ・ブラザーズ」の知名度ぐらいはあるかも知れないが、いまではそれすら知っているアメリカ人も少なくなっているはずである。
 トルコ氏は昔から大山館長と仲がよくなかったという。大山館長の恩師のグレート・トーゴウをホテル「ニューオータニ」で殴ったこともあった。大山館長は「けしからん、復讐してやる」と口で言ったものの現実には何もなかったという。トルコ氏は「力道山が生きていたとき、大山(館長)は逃げまわっていた。力道山が生きていれば今日の大山はない。ところが故人になると、ケンカを売ったら力道山は逃げていったと嘘をつく。それにしても梶原先生を殺せ!という大山は卑劣だ。いつでもオレが大山の相手になってやる」と怒る。
 その他、極真会館の演武のなかにも八百長はあるという。大山館長の専売特許ともいえる「ビールビン切り」は、芦原師範が考えて大山館長におしえたのである。ビールビンを火にあて焼いて水に漬けるとヒビが入る。そこを目がけて手刀で打つと簡単に割れるのである。また十円硬貨を指で折り曲げるのもトリックである。黒崎師範は「硬貨を二つのベンチで曲げても簡単には曲がるものではない。ましてそれを指で曲げることなどできない」と断言する。
 これらの八百長演武について大山館長の空手の師である城秀美氏は「大山館長はサーカスの軽業師をやっていた。だからトリック的演武はうまいはずだ」と解説してくれた。
 また、大山館長を有名にした牛との格闘(牛殺し)は、牛の角が弱くなる時期で簡単に角が折れる仕掛があったとか、牛は人間になついている(人を襲うことのない牛)のを選んで格闘したとか極真会館関係者の間では噂されている。こうした話は極真会館をめぐるホンの一握りのエピソードである。


"八百長"当日のプロセス

 さて、世界格闘技ヘビー級選手権試合の数日前。猪木宅の玄関から身長二メートルのウィリーと並んで数名の男が入っていった。関係者の一人は「ウィリーは猪木の自宅で秘かに二人で練習をしていた」と証言する。一方極真会館側では、大山館長が添野師範を本部に呼び出して黒い殺人指令を言い渡した。
「添野、よく聞け、二・二七決戦のとき一ラウンドに乱闘に持って行き、新日本プロレスの新間寿営業本部長と猪木を殺せ。その乱闘で梶原一騎と黒崎健時も刺せ」これは刑法にある"殺人教唆"である。
 当の黒崎師範は「なにを思って殺せと言ったのかいまだに分らない。殺れば極真会館は終りだ。十年かかって築きあげた組織が殺人を実行したら壊滅する」と解せない命令にクビをかしげる。(大山館長サイドのコメントが得られない以上、推測するしかないが、黒崎氏がプロモートし、梶原氏が立会人であったため、金儲けにならない大山館長が怒ったとしか考えられないのだが……)
 二・二七決戦の当日、添野師範は館長命令に従って特攻隊員(道場門下生)百五十名を結成して会場の蔵前国技館に乗り込んだ。特攻隊員たちはメリケン、チェーンなどの武器を隠しながら準備していたのである。そして館長命令を遂行すべく会場のなかに全員消えていったのである。これも刑法でいう兇器準備集合罪である。
 極真会館関係者の某氏は「添野師範の門下生が会場を警備していた。武器などを隠し持っているのを知っていながらも形式的なボディ・チェックを簡単に済まして入場させていた」と証言する。
 ここに黒い殺人指令の全容が表面化するに致ったのは、極真会館の内部抗争ともいえる陰謀的な添野事件(前号にて詳しく前途)で被害者である添野道場(現在士道館)側の発言で明るみに出たのである。
 このような殺人教唆を白昼堂々と命令している極真会館の大山館長に、警視庁捜査四課と添野事件を担当した埼玉県警捜査四課が現在ある容疑で内偵しているとの情報が噂されている。
 この殺人教唆の被害者といえる梶原氏は、「チンピラ芝居みたいなことを言っているのなら軽蔑する。まだ大山(館長)とは義兄弟だ。殺せと言ったことが本当なら解消してもいい。そんな不可思議なことを言ったら大山の右腕左腕で守ってきた人たちは全員シラケてしまう」と語る端々に怒りが感じられた。
 格闘技世界ヘビー級選手権の会場は、超満員の観衆が見守るなか午後七時四五分に試合は開始された。
 ウィリーは、ミステリアスな感性と深い思考力を持った格闘家であるが、興奮した会場の雰囲気に終始上がりっぱたしだった。デビュー戦のウィリーの緊張した姿があった。
 試合のルールは、ウィリーが8オンスのグローブをつけ交換条件として猪木の寝技は五秒間と決められていた。試合は一ラウンドから場外に縺れ込んだ。梶原氏は「ウィリーは、リングの外に落ちると必ず猪木の上になる。あの反射神経は大したものだ」。と語るように、猪木は場外に落ちると必ず下になってウィリーに殴られていた。そこで添野師範は、黒い殺人指命を遂行するチャンスとばかり猪木に近づこうとしたが、プロモート役の黒崎師範に腕を押えられ、行けずじまい。添野道場側は「猪木と新間営業本部長はやるつもりでしたが、黒崎師範と梶原先生に対してはなにもやるつもりはありませんでした。私の感触では館長は試合を潰すことが目的のように思われました」と証言する。
 試合の結果は、四ラウンド一分二四秒場外乱闘から猪木が左ワキ腹打撲。ウィリーは右ひじケン破裂でドクター・ストップがかかり引分けとなった。この試合の四ラウンド目に、添野師範は、リングに上がりウィリーのグローブをハサミで切り外ずして素手で猪木をやれと一人気を吐いた。そして試合後控室に新間営業本部長が数名のプロレスラーをつれてきて、大山師範とケンカになり、添野師範は新間営業本部長にヒザ蹴り一発をくらわせた。新間氏は苦しそうにうずくまったという。
 試合の翌日、添野師範は「ひとり踊らされたみたいだ、黒崎師範にタクシーのなかで猪木とウィリーの試合は、力と技の競い合いである、大山館長がいっている殺し合いでたいと聞かされたときはガクッとした」と正直に語ってくれた。大山館長をはじめ極真会館サイドでは最初から殺し合いと感違いしていたのである。
 黒崎師範、添野師範、梶原氏など試合に関係した極真会館側。そして新日本プロレス関係者の証言を総合すると、前述したようにリングの止での試合なら猪木が絶対有利であり強いが、誰もいない山中での試合だったらウィリーが勝つ可能性もあるということであった。結局、極真会館の顔を立てて引分けした結果と思われる。それにしても猪木の試合進行のかけひきは、"千両役者"ものだった。
 格闘技世界ヘビー級選手権のウィリーVS猪木戦の興行は、梶原氏(立会人)にとって一円の収入もなく出費だけで終った。一方プロモーターの黒崎師範も出費が重み結局赤字となった。黒字は新日本プロレスのテレビ放映料によるものだけである。梶原氏は「このような興行は一回では儲からない、二度三度と興行するうちに利益があがるのである」と語り、大山館長が儲けていると勘ぐっているんじゃないかともらす。
 この間、大山館長は、試合の数日前から日本を出国してカナダ、アメリカから何度も添野師範に電話をしていた。試合が終ると、帰国して四人を殺していないのを知ると、添野師範を本部に呼びだして怒ったのである。いまにして思えばこの頃から大山館長の添野追放の気持が芽生え始めていったのではなかろうか。


添野事件とは何だったのか

 添野師範が極真会館を除名されたのは事件発生前の九月八日であった。国際空手道連盟(財)極真会館では緊急評議会が開かれた。
 出席者は大山館長、河合大介評議員長、風呂中斉評議員(講談社)、館孫蔵弁護士であった。この緊急評議員会で、添野義二都下埼玉支部長、森井義孝埼玉支部理事長、芦原英幸愛媛支部長ら三名の除名が決定された。
 九月十一日。大山館長は添野師範を本部の館長室に呼びだした。大山館長は「お前は二代目(極真会館)だ。なにか悪い事はしていないか。埼玉県警の押岡警部から連絡があり添野はヤクザ者で逮捕は時間の問題だといっている」と尋ねたのである。添野師範は、極真会館内部の陰謀的事件を知らず「なにも悪い事はしていません」と答えたのであった。
 既に除名処分が九月八日に決まっているのに三日も過ぎてから「お前は二代目だ」と言う大山館長の不思議な行動と発言は理解に苦しむところだ。
 添野事件は、都下埼玉支部の勢力が大きくなり分支部が増えることによって極真会館側が各支部を吸収して利益の拡大を計るために郷田師範をはじめ盧山埼玉支部長らが手先となって画策した事件であることは本誌前号で述べた。それに便乗した大山館長にも責任はあるだろう。この添野事件によって極真会館関係者の多数の逮捕者(西野熊谷支部長、高橋川越支部長他)を出しながら添野師範以外は処分されず、極真会館の看板を出して空手の道場を開いているのは明らかな矛盾である。しかも裁判の結果もみずに除名処分にした性急な行動にも矛盾だらけの組織であることが窺えまいか。添野師範が逮捕され留置所にいる時にも大山館長は、一度も差入れもせず電話の一本もかけず突き放したのである。かつて破門され近々破門を解かれるという話が伝えられているウィリーも「極真にはアイソがつきた。いかなる理由があれ復帰する気はない」と全面否定。
 添野夫人は「子供(小一)が学校に行くと、上級生(五・六年生)にいじめられて泣いて帰ってくるのです。学校に行きたくないという子を叱り付けて無理矢理学校に行かせました。こんな極真会館は全私財を投げ売ってでも潰してやりたい気持です。血も涙もないと思いました」。つらい毎日を振り返り涙を浮かべて心境を語る。
 新格闘術士道館という名は、留置所のなかで考えた名であるという。所沢警察の留置場のなかで「最初は大山館長の悪口を警察官から聞かされると怒っていたのが、やがて極真会館の陰謀と気がつくと、留置場の壁を手が腫れるまで叩き悔しがっていた」と留置場で同室だったテキ屋のS氏は証言する。
 極真会館側は添野師範が逮捕留置されているとき「三年から五年は刑務所に入る。だから添野道揚をやめて極真会館についてこい」と各分支部に"通告"したのである。
 城西大学空手部の阿部主将は「押忍。極真会館から何度も電話があり添野師範とは手を切れ、三年から五年は刑務所に入ると言われた。でも我々は添野師範を信じていました」。城西大学空手部は、添野師範が創設者となり貢献してきたところである。そこまで極真会館は陰謀の手段をとるのである。城西大学空手部全員の襟から極真会館のバッチが外され道場から大山館長の写真も消えていたのが印象的であった。
 添野道場(士道館)側は「添野のいまの心境は新選組の土方歳蔵と同じ。極真会館にいる人たちは、極真会館の名でなんとかしようとしている人たちが残っている。逮捕される前、全盛期は三千人いた門下生が現在二百人しか残っていない。これから試練はあるが武士道に反しない真の武道を志ざすつもりです。また強いだけでなく、他の流派とも交流しながら楽しめる空手をやるつもりです」と反省を踏まえてこれからの方針を語る。
 結論を急ごう。「全国に散在する極真会館の支部は金で買える」との噂がある。取材調査すると、千葉県支部長の小嶋幸男氏は洋服屋であるにもかかわらず支部長になっている。S師範は「空手のできない人が支部長を金で買っている。広島支部長の森周治、愛媛支部長の高見成昭もそうだ」と証言する。
 性急な判断かも知れないが、結局のところ組織を拡大し、権力の座についた大山館長にとって武道への志は、いつしか金に置き換えられていったように思えるのである。
 今回の取材を通して、明るみに出た極真会館の内幕の数々は、まだある。筆者の机の上は資料が山と積まれている。それにしても残念なことは、極真会館・大山館長側が「除名した弟子のことは何もいいたくない」と取材に応じてくれなかった点だ。
 最後に、添野師範が大山館長に対して、いつでも真相を明らかにするためマスコミ対決の用意があることを告げて欲しいと語ったことをつけ加えておこう。〈了〉


極真会館大山倍達と劇画界の首領・梶原一騎の義兄弟神話の崩壊 (噂の真相 81年5月号)


レポーター 池田草兵


http://kyokushin-hiho.seesaa.net/article/19695629.html
極真会館スキャンダル第三弾!


 本誌一月号、二月号で連続掲載した「添野逮捕で明るみに出た極真会館の大スキャンダル」は様々な反響を呼んだ。おそらく、極真会館につきまとう恐怖のイメージがマスコミ関係者に浸透しているため、"さわらぬ神にたたりなし。といった自主規制意識が働いた結果、マスコミタブーとなっていたためであろう。本誌発売後、各方面のマスコミが取材に動き始めたのも事実である。しかし、いずこも途中で企画を中止、活字としては日の目を見なかったのである。極真会館に恐れをなしたのか、一部マスコミではコワモテとして知られる劇画界の首領(ドン)・梶原一騎への"遠慮"なのか定かではないが、ある種タブーの空気が編集者たちの歯止めになったことだけは確かだろう。
 それと同時に梶原一騎の『空手バカ一代記』に象徴される極真神話の内実があまりにも生々しく、スキャンダラスであったこととも無関係ではあるまい。
 その後、極真会館サイドからは、郷田師範、盧山師範、西野熊谷分支部長、西浦和分支部長、久米事務局長、"極真応援団"平岡正明といった面々が入れかわり立ちかわり抗議にやってきた。結局、前回の取材で拒否の意志表示をしていた大山館長が三日にわたる長時間インタビューに応じてくれた。筆者としては、前回の特集は、大山館長の取材拒否にあったため、やむなく、極真を除名されたり、去っていった人物、極真に近い第三者の取材で構成せざるを得なかったが、今回は、双方の主張を盛り込んで、より"真相"に近いレポートとしてアタックすることができた。


梶原一騎と大山館長の確執

"あらゆる犯罪は革命的である"という平岡正明の言葉を借りるならば、"あらゆるスキャンダルは革命的である"。クサいものにフタの精神では、世界にはばたく極真も先が見えている。当レポートは、あくまでも極真の組織活性化のプロセスへの布石となれば、の思いをこめてお届けする。
 今日ある、極真会館及び大山館長の伝説は、マスコミが大きく関与してきたからである。
 マスコミの協力と援護射撃がなければ、いかに優れた空手流派であっても町道場の域から抜け出すことは不可能である。その意味でイの一番に登場する極真会館の大功労者は、劇画界の首領(ドン)梶原一騎(劇作家)であることは誰しも認めるところだ。空手ブームを日本中に巻き起こした劇画『空手バカ一代』が極真会館に大きく貢献したからである。
 梶原と空手界の首領(ドン)・大山倍達(極真会館館長)との仲は、友情を超えたところに存在する「義兄弟」という名の契りで緒ばれている。それは、二十年間の長き交友関係で自然と誕生したキズナであると思われる。
 だが、最近になって大山館長と梶原の仲が急に冷え始めて反目するようになってきたのである。二人の間を知る関係者の殆どが「一年に一回は定期的なケンカで、年中行事である。今回の反目も元の鞘に納まり近い将来解決するのでは」と見るのは、おそらく両者の関係には第三者には知りようのない根の深い事情が絡み付いているためであろうが、そう簡単に仲直りするといえるかは疑問である。 ここに某関係者スジから入手した極秘資料の中に、梶原と大山館長の不仲を証明する二人の間で取り交わされた内容証明がある。日付は昭和五六年二月二一日で、梶原の秘書室長川島茂が大山館長に発送した内容証明である。少し長いが全文を載せる。二人の確執が赤裸々に伝わるはずである。
《貴下は梶原一騎・黒崎健時、両氏をはじめとする、物心両面にわたる援助、協力によって今日の地位を得たにもかかわらず、昭和五五年二月二七日、蔵前国技館にて行われた、アントニオ猪木、ウィリーウィリアムス戦に際し、その興業収益金の分配をめぐり、貴下には当然その権利がないものと判断した。同興業プロモーター黒崎健時らに対し、元極真会館埼玉支部長添野義二の証言によれば、その判断を不満とした貴下は「もし、ウィリーウィリアムスがアントニオ猪木に敗北するような事態が生じた場合、極真会の信用にかかわる」との貴下自身の判断に基づき、同興業の主たる関係者である、
 元極真会館師範代現新格闘術黒崎道場主 黒崎健時、
 元極真会館審議委員長 作家梶原一騎、
 新日本プロレス(株)代表取締役 アントニオ猪木、
 同マネージャー 新間寿
の殺害を極真会館埼玉支部長添野義二ほかに下命し、これに同調した約二十名の門下生と共に添野らは同試合会場内を徘徊した、この間貴下は支部視察と称し、渡米し現地から国際電話により、添野に対し前記下命事項を伝達続行した。
 幸いにも同試合は、両者引分けに終ったものの、もし猪木が勝利を治めるような事態が生じたならば同試合の主たる関係者である黒崎健時、梶原一騎、アントニオ猪木、新間寿に対する貴下の殺害命令は推行未遂、もしくは推行されたであろう。その事は試合当日貴下の下命に従った添野の新間寿マネージャーに対する膝蹴りによる暴行の事実(全治一週間)からも充分見分できる。
 この暴行の現場に多数の報遺関係者等がおり、その事実の一切を関係当局に訴えるべきだ、との声があったが新間は格闘枝の将来を考えこの事件を不問にした。
 帰京後の貴下は、同試合内容、及び新間のダメージが少なかった点を大いに不満とし、後にこの件に関する実行行為者である、当時極真会館埼玉支部長添野義二に対し喝責し、責任を感じた添野は自暴自棄となり、暴行恐喝行為を行い、この事態をいち早く知った貴下は、添野逮捕を予測し極真会館の体面維持のため破門処分とした。
 昭和五三年五月頃、埼玉支部吉川某、北海道支部長高木某などを梶原の許え拳銃携帯で送りこむ如きは言語道断である。
 高木某は同じく貴下の教唆にて愛媛支都長芦原英幸殺害の目的で同人の居住地である愛媛県松山におくり、同人に面会を求めたところ貴下の教唆によるものと自白しその罪の一切を認めた。同自白の一切をテープに収録し証拠として必要の時期まで芦原の手許に保管し、いつでも関係当局に証拠品として提出の用意がある。
 尚、梶原主宰の三共映画(株)から一億円もの大金を映画撮影権利金として受領しながら、その条件である数回の海外出張協力に僅か一度のみしかロケ隊と同行せず、その他クライマックス世界大会運営上の公開を憚る理由も重なり当映画『最強最後のカラテ』は無残な失敗に終った。
 現在まで良識ある我々は、貴下自身及び、貴下の関連したすべての違法行為(北海道におけるハレンチ行為)に対し、極真会館の将来を考慮し、不問にしていたが、現在に至り貴下の一連の行為に対し、誠意ある謝罪を求めるものであり、万一それが実施されない場合、我々はあくまでも、公正な立場から全マスコミをはじめ、あらゆる関係当局に、この事実を公開するとともに、必要手続を行う考えでいる。
 最後に小生も昨年までSPとし警視庁に奉職し、実兄は現在本庁警部の要職にある事を付記しておく。
  昭和五六年二月二十日
 大山倍達殿
 附紀
 尚貴殿は最近、梶原一騎氏の実弟、真樹日佐夫(本名高森真土)氏を特攻隊と称する門下生一〇名を組織して大怪我をさせよと担わせ、弟思いのある梶原氏の追求を封ぜんと企んだ旨を、現在極真会館、本部道場生の真樹氏の後輩が名を称して真樹氏の母親の元え身辺の要心してほしいと電話連絡が入っている事実がある。
 尚この事実は、元愛媛支部長芦原英幸氏、又元埼玉支部長添野義二氏の両名の元えも本部に残る後輩から連絡が入っている旨を附記しておく》(以上が原文のまま)
 かなり誤字が多いが、梶原の大山館長に対する怒りが窺える内容証明である。
 これに対し極真会館側は、樋口都久二事務局員を通し梶原に内容証明で返答している。


梶原文書に対する極真側の態度

《拝復 昭和五六年二月二一日付、貴殿よりの「内容証明」の内容につきお答えいたします。
 先ず当会館の今日の発展が、梶原先生並びに無数の支持者による御助勢と同時に、極真カラテ創始者大山倍達館長のそれを上まわる血と汗と涙の精神の賜物であることは、万人の認めるところと信じます。
 また大山館長が、常日頃梶原先生に対し十数年前から現在に致るまで、一部下々の無責任な噂はいざ知らず万年一日の如く、その友情と尊敬の真情を抱いていることは十分に御承知おき頂く必要があります。
 総じて右の「内容証明」文中の御指摘の事項は、失礼な表現をお許し願えるのであれば荒唐無稽なる類であり、本来は無視することも許されるものと思われるのでありますが「礼節と信義」を尊ぶ極真精神に則り、御返信差し上げる次第であります。
 尚この間、右の「内容証明」を発せられるような貴殿の誤解を生んでいるものがあるとすれば、それは何等かの虚偽情報が作為的に貴殿に提供され、大山館長と梶原先生、真樹氏の間に離間を図るべくその信頼関係をことさらに破壊しようと試みたものと言わねばなりません。このことは時間の経過をもって証明されるでありましょう。
 《ウィリー、猪木に関する御指摘について》
 大山館長はこの件に関し全く関係しておりません。梶原先生のご存知の通りであります。
 《添野恐喝事件に関する御指摘について》
 当件は誠に残念な事柄であり、大山館長は師弟の間柄であるだけに大いに困惑していることを率直に申し上げたいと思います。
 《高木某、吉川某による殺人教唆云々との御指摘について》
 当件は全くあづかり知らぬものであり、理解に苦しむところがあります。
 《海外ロケに関する御指摘について》
 大山館長は撮影に支障無きよう自ら海外支部に赴くばかりでなく、行くことの出来ない所に対しては国際電話を通じて、再三再四撮影協力に対する指示をしております。撮影進行に対し何等の支障も無かったことは梶原先生の良く知るところであります。
 《特に黒崎健時氏につき述べられた点について》
 下々に大山館長と黒崎先生の不仲を云々する者があるようですが、大山館長は同氏とは三十数年来の弟子であり、かつ良き友人であり、折に触れてその武勇や人柄を紹介し、その都度「彼については一緒に居なくとも逢わなくとも、その心情と言動はハッキリとわかる」と明言され、その友情と尊敬の念の不変であることを吐露し続けていることをお伝えしたいと思います。
 《特に梶原先生につき述べられた点について》
 大山館長はこれまで、名文が立つ申し出についてただの一度も拒否したことは無く、約束した事柄は必ず守り実行してきました。このことは大山館長が「友清とは斯くあるもの」と誇りにしているところであります。梶原先生も同じ御心情であらせられるものと確信するところであります。
 よって梶原先生街自身或は真樹氏、親愛する御母堂に対し、殺害云々があろう筈がありません。
 以上、貴殿からの「内容証明」に対し事務局に於いて応答するべき責があるものと考えますので回答を準備いたしました。敬具
 昭和五六年二月二六日
 川島茂殿》(原文のママ)
 この内容証明をみる限り梶原が肩スカシを食わされた格好となっている。梶原と大山館長の内容証明は、代理人の秘書同士によって行なわれたものだが、二人の不仲を決定的に物語るものといえよう。


梶原との離反は極真内部からも要請が

 極真会館の伝説は、梶原がマスコミでイメージを定着させて神話化した。それは大山館長だけでなく誰しもが認めることである。
 その伝説をつくってきた当の二人の関係が決定的に破産するような周囲の動きもある。
 極真会館春季全国支部長会議が二月に開催され、全支部長(約三十名)は、梶原と真樹師範の両名は、極真会館にとって不必要であるといった内容の決議文を、全支部長の名を連記して作成したのである。某支部長は「梶原先生の大功労は認めるが、いまや極真会館のガンだ」と語気強く不満を語る。盧山支部長も「梶原氏と縁を切るという方向で支部長会議は進んでいる。その意味で館長はつき上げられている。問題は切り方です。後を残さないように切ることです」という。
 現在、全支部長の決議文は大山館長の手元にあるらしく最後の決定を踏みとどまっている段階と思われる。大山館長は「人間別れ際が大切だ。キレイに別れるためには時間が必要」といい、梶原について「あくまで我慢するところまで我慢する」と語る。
 だが支部長の殆どが梶原を嫌がっているのは事実であるようだ。それは極真会館の伝説を創りだした劇画『空手バカ一代』の連載に問題の原因もあるものと思われるのである。
 大山館長は『空手バカ一代』の連載中に「梶原先生は、極真会館の審議委員長だから全支部長を万遍なく載せてくれ」と頼んだが、見解の相違から問題が起きたというのである。梶原は「彼(大山館長)の言う万遍なく載せてジェラシーを起こさないでやって下さいというのも一理ある。だが力のない支部長は載せられない。有能な青年空手家の添野、芦原、大山茂といった自他共に認められる人たちを出してこそ話になる」と作家としての立場を主張する。元極真会館某支部長は「千葉の小嶋幸男支部長は、道場開きのときの演舞で角材割りをやったが、自分の肋骨を折って救急車で運ばれ入院したエピソードがある」と証言するように、実際は劇画の主人公にはふさわしくない支部長が数名いるのも事実である。
「問題はここから生まれた」と言って大山館長は、一冊の本を机の上に置いた。『わが空手日々研鑚』(講談杜)とタイトルのついた大山倍達著の単行本である。このなかに「梶原君」と書いてあったことに「梶原は激怒した」というのである。『日々研鑚』の担当編集者風呂中斉は、極真会館の評議委員も兼ねている人物である。講談杜では、『日々研鑚』、『一〇〇万人の空手』、『わが空手五輪書』『私の空手道人生』『極真会館世界を征く』(写真集)、『一撃必殺空手いのち』『マス大山空手百科事典』(近刊)など大山倍達著(極真会館編)が出版されている。
 風呂中は「大山空手には興味があったが講談社で取り扱う人物(大山館長)であるかどうか迷った。ところが『少年マガジン』で『空手バカ一代』が連載されて社(講談社)も認めたということになって、最初に『空手道人生』という本ができた」と『空手バカ一代』の実績があればこそ大山倍達著の本も出版されたといきさつを語る。が、極真会館側は『空手バカ一代』が始まる数年前に『一〇〇万人の空手』は出版されたと主張する。
 問題が起きた『日々研鑚』の「梶原君」事件について風呂中には「これは誰が書いたという問い合わせが梶原氏からあってからおかしくなった」という「それで、どしゃ降りの雨の中、夜中の二時から、五時にかけて十数回も電話があって、梶原氏が女房に私を叩き起こせといわれた。これは常識を疑う行為である」と語る。結局、「梶原君」と表現した部分は削除された。関係者の証言によると「内
容があまりにもいいのでヤキモチを焼いたのでは……」と抗議は梶原の嫉妬であると分析する。


極真の変貌と添野切りの狙い

 昭和五三年三月十日付で梶原は財団法人極真奨学会の理事と極真会館の審議委員長を辞任した。その後に、梶原が『空手バカ一代』連載前から交際しかわいがっていた有能空手家の芦原師範と添野師範が、昭和五五年九月八日付で極真会館から除名された(本誌一・二月号で詳述)。梶原は「俺が審議委員長なら除名など絶対にさせない、いまは顧問だから……」と語気強く残念がる。
 だが極真会館の支部長たちの一部は梶原が認める添野師範と芦原師範の二人を恐れ嫌がっていたのも事実である。盧山埼玉支部長は「添野は日本の北半分をもらったと言い、地図を広げて何々県は俺のものだとか勝手に決める。その支部長は、たまったものではありませんよ。芦原は西を制覇するとか言っていた。この二人には、他の支部長たちにとっては恐怖を感じる存在でした」と除名になった両師範について語る。一方、この度の事件で懲役三年、執行猶予四年の判決が出た添野師範(現新格闘術士道館主席師範)は「何を恐れ嫌がる必要がある。男なら堂々としていればいい。武道家として自信があるのなら受けて立つべきだ。本気で他の支部を制覇することはできないと知っているはずだ。だが、いまは"士遺館"という名で全国制覇する。それは極真会館の師範ではできないことであった」と再出発について語る。そして、日本格闘術連盟の会長である梶原は当然新格闘術士道館を支援しているのである。
 添野師範の再出発について「士道館」の荒井広事務局長は「北海道に城西大学と立正大学の両空手部OBによる所属道場と新潟、伊豆大島にも同道場を発足させた。現在日本全国に十数ケ所の士道館所属道場が誕生している。この中でも川越の二百坪の道場は三月二一日に完成した。また秩父に二千坪の総本部道場が六月一四日に道場開きをする予定である。事件後多くの後援者によって、この様に励まされている。また五月二日に、ホテル・グランドパレスで発足会。五月三十日には後楽園ホールで新格闘術世界チャンピオン藤原敏男、斉藤京二、内藤武士、紅斗志也他の格闘士らによって士道館の発会試合が行なわれる。藤原は"六ヶ月ぶりのリングで腕がうずいている"」と語っているそうである。ともあれ、"邪道空手""ケンカ空手"として攻撃的な魅力で売りだした極真会館は、格調高い理念のある空手を目指し変貌しつつあるようだ。それは、極真空手が単に強い空手だけでなく思想を持ちはじめ、三大流派の一つとして本流の道を歩きだしたものといえる。
「本流になることによって、攻撃的な空手家(添野、芦原両師範)が排除され、不必要になったのでは…。いまの極真空手は守りの空手であると思う」と格闘技評論家の一人が語るように、極真会館の伝説にある恐怖的な強さのイメージは消えつつある。いまや"紳士的"な武道家ばかりが極真に多く残っているのが何よりの証拠であると語る人たちもいる。ここに、前回のレポートで書いた極真の添野師範追放の真意な見てとることもできよう。
 大山館長自身も「極真会館は曲り角に来ている」と現状を認める。これは時代の流れによるものでもあろう、戦後の動乱期に、大山空手は誕生した。そして高度経済成長時代に極真会館は、梶原の手によってさらに伝説化された。
 大山館長は「全支部長及び極真会を支持してくれる数多くの人たちの力で、過渡期を乗り超えられる」と自信を持って語る。だが極真空手の今後の課題は決して容易ではないと筆者はみる。


毎日が報じた脱税事件の舞台裏

 二月一八日、毎日新聞の社会面に「極真会館一億一千万円の脱税で摘発」という記事が大きく載った。大山館長が経営する「マス・大山エンタープライズ」が東京国税局に所得隠しで摘発されたという事件である。この「マス・大山エンタープライズ」の監査役に俳優の藤巻潤(本名藤巻公義)がいる。大山館長の二人目の夫人・昭子さん(元ミス東京)の弟なのである。このマス・大山エンタープライズは、昭和五一年六月二九日に設立された。極真会館関係の興行やテレビ、会員への空手着などを販売する極真会館の翼下にある有限会社である。この一億一千万の脱税のうち一億円は、梶原が経営する三協映画(株)ら映画『最強最後の空手』の撮影協力金として五千万円の手形二枚で支払われたもの。この際大山館長は「映画製作に全面協力し、協力料として一億円を受領する。協力が期待するものでなかった場合は返済する」という趣旨の念書を書いている。大山館長は「映画が不振の場合、半分の五千万は梶原氏に返すつもりでいた」と語るが、国税局側は、三協映画が『最強最後の空手』製作の原価に計上されているので、借入金に根拠なしと判断した。大山館長は「あれは脱税ではないよ。第二回世界大会のとき映画『最強撮後の空手』を撮影することになった。そのとき世界大会の協力金として一億五千万円くれと言った。梶原先生は、一億五千万円を東映で借りてくるので、五千万円は(撮影)経費で使用して、一億円を世界大会の費用にしようと言った」と脱脱について否定するが、実際は仮装隠ぺいによる脱税にかけられ重加算税の対象となり、法人税本税と合わせて二千三百万円が追徴されたのであった。
 一方、梶原側は「大山(館長)が一億円を借りていると言っているが、本当なら税務署の立合いのもとで返済しろといいたい。借入金なら俺のところに借用書がなくてはいけない。それが領収書があるんだから。税務所が入るということは、警察が入るということのジャブなんだよ、フェイントなんだよ」と語気を強める。この脱税問題だけではなく、あらゆるところで、梶原と大山館長の両者は食い違いがある。
 梶原は「映画の撮影のときアントニオ猪木は、最高に協力してくれるが、金は一円も請求しない。大山(館長)は見習うべきだ」と金より宣伝効果が大切であると語るいまや梶原と大山館長の両者は、まったく油と水である。


マス・大山カラテスクールにも火種が……

 最近極真会館には、昭和四九年十一月一日付で梶原プロダクションに譲渡されているマス・大山空手スクールの問い合わせ電話が殺到しているという。電話の内容は「通信教育を受けるためにお金を支払って十四日以上過ぎているのに連絡もない」というもので一カ月に、五十件位になるという。
 大山館長は「金だけ受け取って品物を送らない。毎日こんな電話で休まる暇がない。校長は名だけで関係ないとはいえない。当然責任もある。これから弁護士と相談して辞任する方向にいきたい」と語る。
 マス・大山カラテスクールは、極真会館で赤字経営だったために梶原プロに七千万で譲渡したものである。その目的は、極真会館が主催する第二回世界大会の資金蓄積にあったといわれている。この赤字で存在していた、マス・大山カラテスクールは、真樹師範の必死の努力で再生させて、いまは成功しているという。だが金銭問題になると梶原と大山館長の意見が食い違うのである。梶原側は「七千万円払った」と言い、大山館長側は「第一回世界大会のときに、三干万円を梶原先生から借りた。そして二千万円を寄贈してくれた。全部で五千万円です」という。そして「譲渡契約にあるパーセンテージは、最初の頃は貰っていたが、いまは貰っていない。給料も最初十万円貰っていたが、ここ、二~三年は給料はありません」と大山館長は語る。
 梶原は「大山(館長)は、俺のお陰で二億円近く儲けている。マス・大山カラテスクールを譲渡したときに、空手着の販売権はこっちにあった。それをマス・大山エンタープライズなんて会杜設立して販売する。これは違約だよ。『カラテ・マガジン』を売った後に『パワー空手』を出版する。細かく言えば、みんな約束違反だ」という。梶原と大山館長の両者は、まったく相反するといった言い分がなされているのである。
 こうした事情を踏まえて極真会館側は次なるマスコミ対策の布石として、梶原の残した遺産のなかからいくつかマスコミ人脈を開発しはじめているようである。極真会館の陰には、常にマスコミと密着作戦があるようだ。マスコミを利用して大きくなった組織の宿命なのでおろう。大山館長の本を手掛ける出版社の数は十数社。発行された大山倍達著作の単行本は、これまで三十数種類に及ぶ数にのぼっている。一方マスコミ関係者の間では、大山館長支持派と反支持派(梶原派)に分裂しつつあるといわれている。
 マスコミによって大きくなり、神話化されてきた極真会館、そして大山館長は、いま、避けられない試練の渦中にあることは確かなようだ。極真会館の館長室に飾られた、梶原、大山両人が仲よく並んでいる写真の撤去も時間の問題というそうである。〈敬称略〉
〈取材協力・本橋信宏〉

http://kyokushin-hiho.seesaa.net/article/19374836.html
大山倍達未亡人・独占取材! 極真会館の跡目争いとゴッドハンドの生涯(前編) (宝島30 94年9月号)

大山倍達死後、その遺言が偽造されたものだと訴える遺族たち。
これまで頑なに沈黙を守ってきた智弥子未亡人が
巷間流布されるさまざまな噂に対して、はじめてその重い口を開いた!

石山永憲

 六月二十六日、雨のそぼ蹄る青山葬儀場を訪れた弔問客の人々は、異様な光景を目にすることとなった。葬儀場の庭に駐車した車を、約百名の屈強な若者が取り囲み、その人垣の中に骨箱と位牌を抱えた喪服姿の女性が一人、雨に打たれながら立っていた。
 この日、青山葬儀場で行なわれていたのは、四月二十六日にこの世を去った大山倍達の、極真会館主催による全館葬だった。そして骨箱を抱えていた二人の女性は、大山倍達の次女の恵喜さんと、三女の喜久子さんである。その二人が雨に打たれながら抱えていたのは、本来ならば葬儀場の祭壇に置かれているはずの大山借達の遺骨だった。世界各国から約六千名の弔問客が集まった実の父の葬儀で、なぜ二人の娘はこのような異常とも言える行動をとらなければならなかったのだろうか。


偽造された遺言状?

 創始者大山倍達を失った今、極真会館は後継を巡るお家騒動に揺れている。それが露見したのは六月二十日に、恵喜さんと喜久子さんがマスコミ関係者を集めて、抜き打ちで行なった記者会見からである。二人の娘は父、大山倍達が残したとされる遺言の作成過程に、あまりに疑わしい点が多く、偽造の可能性が高いことから、遺言そのものの無効を訴えた。この記者会見はテレビ、雑誌、スポーツ紙などに取り上げられ、一気に極真会館の内紛が露見することとなる。
「確かに記者会見を開いたり、父の葬儀の場であんなことをやったことで、たくさんの人たちに迷惑をかけてしまったのは申し訳ないと思っています。でも、あそこまでやらないと、今の私たちの立場や考えは、誰にもわかってもらえないと思ったんです」
 大山倍達が死の一週間前に口述筆記させたとされる遺言には、極真会館の今後の運営、自分の後継(元世界王者の松井章圭を指名)、家族に対するケア、そして追記というかたちで、韓国と北海道にいる自分の愛人と子供に対するケアのことが記されている。しかしその遺言には肝心の本人の署名がない。この件については極真全館の山田雅俊・東京城西支部長は次のようなコメントを出している。
「遺言を作成した時点て総裁はかなり衰弱しておられましたので、緊急遺言ということでこういう形式のものになりました。こういう形式の遺言は法律上も認められております」
 それに対して大山倍達未亡人の智弥子さんは、憤慨しながらこう答える。
「前日まで主人は自分でトイレにも行っていたんですよ。自分の名前すらサインできなかったということは絶対にありません」
 ちなみに現在この遺言は、家庭裁判所の審査待ちである。ただし遺族側によれば、かなり偽造の可能性の高い遺言でも、家裁の審査はパスしてしまうということで、審査が下った後に、改めて遺言の内容について民事訴訟を起こす予定だという。
 このように極真会館と大山家は泥沼状態とも言える対立を続けているが、この対立を巡って現在、周囲ではさまざまな憶測や噂が乱れ飛んでいる。
 そのいくつかを例にあげれば、関西の政財界の大物がバックにからんでいる、背後で暴力団関係者が暗躍している、どうも統一協会も関係しているらしい……。
 これらの噂の中には、おそらくまったく見当違いのものもあるだろう。極真全館にとっても遺族側にとっても、このような噂がひとり歩きし、増幅していくことこそがもっとも憂慮すべきことではないだろうか。そこで本稿では、従来されてきた報道よりもいま一歩踏み込んだかたちでの取材を行ない、これらの噂の真否を検証していきたいと思う。
 さて、今回の騒動について詳しく語る前に、あらためて大山倍達という人間の一生を検証しておく必要がある。それも、敢えて今まで語られなかった部分にまで光を当てていくことにしよう。それを避けていては、今回の騒動や現在流れている噂の数々の底辺にあるものが解明できないからだ。


毛利松平と柳川次郎

 今回の取材にあたって、大山倍達の人生の最大の理解者であり、また証人でもありながら、夫の死による心労で今までマスコミに対して沈黙を守っていた智弥子夫人が、初めてインタビューに応じてくれた。
 俳優の藤巻潤の実の姉である智弥子さんが大山借達と結婚したのは、戦後の混乱期、一九四六年のこと。空手修行のための山籠りや海外武者修行でほとんど家に戻らぬ夫の留守を守りつつ、三人の娘を育て上げた。夫の収入がなかった時期には、質屋通いをしながら生計を支えたこともあるという。
「今の本部道場ができた頃、ヤクザみたいな人がいっぱい出入りしてたんですよ。母はこれではいけないというんで、自分一人でそういう人たちをほうき片手に、みんな追い出しちゃったそうです」(三女・喜久子さん)
 智弥子夫人の口から語られる大山借達の生涯は、ある意昧では脚色や創作の多かったという『空手バカ一代』(梶原一騎原作)以上にドラマチックなものだった。
「本当に大山倍達と暮らした五十年間は毎日、いや一秒一秒がドラマでした。本当に凄い人でしたよ。ヤクザかといったらそれは違う。かといって生真面目な人間かといったらそれも当たらない。大山倍達をただの空手バカという人もいますけど、私は決してそうは思いません」
 大山倍達が一代で築き上げた極真会館は、国内だけでなく全世界に支部を持ち、門下生の数は今や累積で一千二百万人という膨大な数に達したという。夫人の語るとおり、大山倍達が単なる空手バカであれば、牛を素手で殺す超人的な強さを身につけることはできても、極真会館をここまで巨大な組織に築き上げることはできなかっただろう。
 大山倍達には極真会館を築き上げていく過程で、決して忘れることのできない二人の協力者がいた。
 一人は極真会館会長を長く務めた元衆議院議員の毛利松平。そしてもう一人は、山口組の中でももっとも戦闘的な組織と言われた柳川組組長として、戦後のヤクザ世界にその名を残した柳川次郎(晩年は魏志と改名)である。
「毛利先生との出会いなんか本当にドラマでしたよ。戦後間もない頃に、毛利先生がビジネスのトラブルに巻き込まれて、ある所に監禁されてしまったんですよ。そのまま放っておけばリンチされて殺されてしまうところだったらしいんです。その場に主人が用心棒みたいな感じでいたんです。でも毛利先生が命が危ないにもかかわらず、とても堂々としていらしたんで、『こういう人を殺してしまっては日本のためにならない』と思って、主人と二人きりになった時に逃がしてあげたんで
すね。主人は最後まで自分の名前は名乗らなかったんですが、毛利先生は他の人から主人が『大山』と呼ばれていたのを覚えていたそうです」
 この時に命を救われたことがきっかけとなり、毛利松平は極真会館会長(一九六四年の発足当初は副会長)として、大山倍達を生涯後援していくことになる。現在の本部道場も、毛利氏の紹介による銀行の融資がなければ、あわや人手に渡る一歩手前だったという。
 さてもう一人の協力者である柳川次郎との出全いは、何人かの証言や大山倍達の著書にある記述から、終戦直後のことだったようだが、今回の取材でははっきりした時期やきっかけをつかむことはできなかった。ただ、柳川次郎は一九四六年六月に強盗容疑で逮捕され、その後六年間服役しているため、出会ったのはそれ以前ということになる。
 柳川次郎こと梁元錫が同胞の仲間とともに、神戸三宮の焼け跡で食うために喧嘩三昧の日々を送っていた頃、大山倍達こと崔永宜もまた空手の道を志しつつも、日々の糧を得るためにさまざまなことに手を染めていた。腕っぷしを買われて、ヤクザの用心棒をやったことも少なからずあったという。
 そんな中で故国に帰還することなく、日本で"在日"。として生きていくことを選んだ二人は出会い、生涯を通じての友としての契りを結ぶことになる。
 大山倍達が自らの肉体の強さを極めることによって、日本社会の中でのし上がっていこうとしたのに対し、柳川次郎は"極道"として、非合法の世界で生き抜こうとした。
 対照的に見える両者の生きざまではあるが、ともに人生を生き抜く上でのテーマは力だった。ある意味では大山倍達と柳川次郎は、戦後の日本社会において、生産手段も教育機会も奪われ、差別の中で生き抜かねばならなかった"在日"の、合わせ鏡のような在存であったと言えるのではないだろうか。
 柳川次郎は一九六九年に柳川組を解散した後、ヤクザ世界から引退して日韓友愛親善会を設立し、民間外交の旗手として活耀した。その時期から晩年まで特別相談役として極真会館に関わり、海外支部設立の際には少なからぬ助力を盟友大山倍達に与えたという。


田中清玄との出会い

 ここに昨年十月に開催された、極真会館主催の第二十五回全日本空手道選手権大会のパンフレットがある。このパンフレットを見て驚かされるのは、大山倍達と極真会館の驚くべき人脈の広さである。
 この時にはすでに毛利松平と柳川次郎は他界していたが、彼らの生前に劣らぬ多彩な面々が顧問、相談役に名前を連ねている。
 政界からは会長には福田赳夫。顧問に大内啓伍、海部俊樹、倉成正。相談役にも亀井静香、河野洋平、中山正輝、三塚博といった大物政治家が、呉越同舟といった感じでずらりと並んでいる。
 この年の大会には名前こそないものの、極真会舘の過去の歴史を紐解くと、歴代の自民党の大物政治家が総登場といった感がある。まず極真会館創立時の会長が佐藤栄作。顧問には三木武夫、園田直、竹下登、安倍晋太郎といった自民党の総理大臣経験者、派閥の領袖クラスの面々が並び、相談役にはあの田中角栄も名を連ねたこともある。
 確かにスポーツの大会に、このようなかたちで政治家が役員として名前を連ねることは決して珍しいことではない。しかし、文部省管轄下にある体育協全に所属していない(体協には寸止め系の全日本空手道連盟が所属)極真会館の大会に、これだけの政治家が名前を連ねるのは不可解といえば不可解である。
 この疑問については、大山倍達の古い弟子の一人が答えてくれた。
「空手の道場、とくに極真のように町道場を母体としている場合、けっこう有力な集票母体になるんですよ。道場生には二十代前半の、本来なら浮動票となる年代の人間が多い。しかも上下関係がしっかりしているから、ほんの少しの運動でかなり確実な票を期待できるというわけです。極真の国内で最初の支部というのは愛媛支部だったんですけど、愛媛というのは毛利先生の選挙区なんですよね。ですからそこに支部長として最初に派遣された人は、支部の運営だけでなく、毛利先生の身辺警護と選挙運動の手伝いもするよう、大山先生から命令を受けていたそうです」
 また政治家以外では戦後の政財界に多大な影響力を持った田中清玄も、ここ十年は極真会館の顧問、相談役として名前を連ねていた。田中清玄が表立って極真会館に関わったのは比効的最近だが、大山倍達との付き合いはかなり古くからのものだった。
「私と主人が結婚したのは、昭和二十一年の六月のことでした。式は、井の頭公園でお弟子さんの前でボートに乗ってそれで終わり(笑)。その後、主人と一緒に田中(清玄)先生のところに結婚のご報告に行ったんです。それ以前から主人は田中先生にはずいぶんお世話になっていたみたいですね。その時に田中先生はこうおっしゃったんです。『大山さん、結婚すると言っても、どこに住んで何をやって食べさせるんだ。そんなこともちゃんとできないで、人の大事なお嬢さんを貰いましたと言っても、人生は通らないよ。君がちゃんと生活できるようになるまでは、奥さんは私たち夫婦が預かっておきます。家庭を持てる状態になったら、いつでも迎えにいらっしゃい』で、それから一年近く田中先生のところで坊ちゃんのお守りのようなことをしながら、お世話になったんです」
 毛利松平、柳川次郎、そして田中清玄。いずれも大山倍達の生涯を通じてのよき理解者であったが、若き日に彼らの知遇を得ていたというあたりが、彼の持つ運命の強さを感じさせる。
 そんな致々の出全いを五十年近く側で見てきた智弥子夫人は、当時を回想しながらこのように語った。
「主人は本当に並の星の下に生まれた人じゃなかったですね。あんな破天荒な行き方をしたのに、理解して応援してくれる人はたくさんいましたからね」


統一教会に関する噂

 大山倍達が統一協会の信者であるという噂は、ずいぶん前に耳にしたことがある。
 実際、統一協金とは不可分の存在である世界日報は、古くからの全日本大会のスポンサーであるし、一九八四年に行なわれた第三回世界大会には、日本統一協全会長の久保木脩己が、大全特別相談役として副委貝長の席に座り、顔写真入りでパンフレットにメッセージを寄せたこともある。
 その後の大会では役員から久保木の名前こそ消えたものの、世界日報は現在でも極真会館の有力なスポンサーの一つとして名前を連ねている。
 極真全館、大山倍達と統一協会の繁がりは古く、時期的には第一回全日本大会が行なわれた一九六九年より少し前から付き合いが始まったようだ。両者の橋渡し役となったのは、現在は極真を離れアメリカで他流派を興しているO兄弟である。O兄弟の父親は当時の日本統一協会にあって、金銭の出入りをかなり自由に任されるほどの大物で、日本におけるコネクションが欲しかった統一協会と、スポンサー不足に悩んでいた極真全館との利害が一致し、ある種の協力関係が生まれた。
 では実際に大山倍達が信者だったのかという問いに対しては、智弥子未亡人は言下に否定した。
「確かに主人は統一協全に何人か友人がいました。久保木さんがよくうちに訪ねてきた時期もあります。まあ、どっちが呼んでたのかは知りませんけどね。最初はおだてられて協力してたんじゃないですかね。でも、主人が信者でなかったことは断言できますね。もし本当に主人が信者だったのなら、協会からお金を借りるなりして、新しい本部の建物だってもっと早く建っていたはずですよ。それに主人がお世話になっていて、こんなことを言うのも何ですが、うちは私も娘もみんな統一
協会が嫌いでしたから」
 智弥子未亡人はこんなエピソードも語ってくれた。
「何年か前に協会の方が会館に来て、主人に壷を持たせて写真を撮っていったことがあったんですよ。そしたらその写真が霊感商法みたいなことをやっている会社の広告に使われてしまって。『大山総裁は統一協会の信者なんですか』という電話が会館に何本もかかってきて。あの時は本当に怒ってらっしゃいましたよ。そんなこともあって、ここ最近はあまり協会の方とのお付き合いも少なくなっていたようてすね」
 しかし、昨年十月に行なわれた全日本大会のパンフレットを見る限りでは、極真会館と統一協会の関係はいまだに現在進行形である。後援には世界日報の名前があり、相談役の中にも日本統一協全の実力者である、梶栗玄太郎の名前が見える。
 ある意味ではこれまで付かず離れずの関係を続けてきた極真会館と統一協会だが、大山倍達の死によってそのパワーバランスに狂いが生じつつあるという説もある。これをきっかけに関係は薄れていくのか、それとも大山倍達存命中には考えられなかったような介入を許すのか。取材を行なった何人かの関係者からは、後者の事態を危惧する声が圧倒的に多かった。


韓国と日本

「主人は国籍なんて自分の好きなように、生きやすいように選べばいい。今は日本に住んで、日本の人たちにお世話になって、生活の地盤もこっちにある。だから日本を大事にするのは当たり前だ。また、韓国の故郷だって自分が生まれ育った場所だから、さびれれば淋しいし、切れないものはあるっておしゃっ
てましたよ」
 その著書を読んでも、大山倍達は日本人以上に日本的な精神を大事にした人間だった。その一方で、晩年まで自分の故国である韓国から来た人間には親身になって世話を続けたという。
「本当に大変でしたよ。頼まれれば嫌と言えない人だったので、いつも家族以外の人がうちに寝泊まりしてましたからね。日本人の人もいましたけど、やっばり韓国の人が多かったですよ。あちらから絵やバレエを習いに来た若い人たちをうちでお世話して」
 大山倍達は一九六八年に日本国籍に帰化している。智弥子夫人によれば自分から望んでのことではなかったようだ。
「法人認可や土地登記の問題で帰化しないと面倒なことが多いから、頼むから大山君、帰化してくれと毛利先生に頼まれたんですよ」(智弥子夫人)
 日本人としての大山倍達。韓国人としての崔永宜。一人の人格の中に存在しながら、いずれも人一倍国を愛した。だからこそ当人の内面には少なからの葛藤があったことが想像できる。
「父はよく私たちに言ってました。『君たちは日本人なんだからね。日本人の心を忘れてはいけないよ』って。そのくせ怒った時なんか急に韓国語で怒鳴りだしたりして。父が韓国人だったということを聞いたのは、私が十八歳くらいの時ですね、道を歩いていた時に急に『お前、知ってるのか』って。私は小学校からインターナショナル・スクールに通ってましたから、そんなことは大したことじゃないと思ってたんで、『知ってるよ』って言ったら黙り込んじゃいましたけどね」(三女の喜久子さん)
 大山倍達は四年に一度開催される世界大会の際には、代表選手を前にして「日本が優勝できなければ、君たちは腹を切れ」という訓示を行なうのが常だった。ある意味では過剰なまでの国粋主義者であったと言える。
 その一方では、自分の同胞である人間には、やはり特別な感情を抱くことが多かったようだ。実際、大山倍達が遺言で後継者に指名したとされる人物が、韓国籍の松井章圭という発表がされた時にも、「やはり最後は同じ血の人間を選んだか」という感想を抱いた関係者も少なからずいたという。
 生涯韓国と日本という二つの祖国を愛し続けた大山倍達。しかしいずれの祖国への愛も、あまりに大きすざたがゆえに、大山倍達はある意味で、最後までボヘミアンとしての生涯を全うせざるをえなかったように思える。


新興宗教の教祖

 大山倍達という人間をここまでいくつかの角度から眺めてきたが、私自身が感じたことは、彼が新興宗教の教祖に非常に近い素養を持った人間であるということだ。
 実戦空手という概念は、宗教で言えば現世利益に近いものである。新興宗教の多くが、あるかないか分からのあの世のことよりも、現世での利益をアピールしたことによって、数多くの信者を獲得していった。同じように大山倍達は、実際にケンカに強くなるということを入口に、全世界に一千二百万人の弟子を持つに至った。
 現世利益といえば、以前に大山倍達を取材したライターがこんな話をしてくれた。
「私が取材した時には、白帯の稽古の指導を大山さんがやっていたんですけど、稽古中に延々と言い続けているんですよ。『強くなりなさいよ、強くなったら綺麗な彼女ができるからね。綺麗な奥さんが来るからね』って。約二時間の間、それを言い続けていたんです」
 また、生前に大山倍達と付き合いのあった古い知人はこんな証言をしてくれた。
「大山さんには怖いもんなんかないでしょうって聞いたことがあるんですよ。そしたらあるよって。何と答えたと思いますか。食えないことがいちばん怖いよって。大山さんはしみじみした表惰でこう答えたんですよ」
 劇画に登場する大山倍達は、あくまでストイックな武道家として描かれていた。しかし現実の大山倍達はあくまで人間的だ。戦後間もない時には生きるために非合法なことにも手を出し、組織を運営するためには多少ヤバイ宗教とも付き合う。
 大山倍達が生涯の師としたのは、宮本武蔵だった。しかし大山倍達は知っていたのではないだろうか。あれだけ武術を極めた武蔵が目標としていたことは、あくまで好条件での仕官だったことを。そしてついに生涯満足のいく仕官の口には就けなかったことを。
 人は大山倍達のことを"ゴッドハンド"と呼んだ。武道、格闘技の世界においては、これほどのカリスマ性を持ち、神に近い存在として語られる人間は、大山倍達をもって最後となるだろう。
 しかし、現実の大山倍達はあくまて人間的すぎるほど人間的で、それゆえに周囲の人間を引きつけ続けた人間だったのだ。そしてそのあまりに広範囲な人間関係が、今回の騒動の伏線となったのだった。(つづく)

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買春ヤクザの顧問弁護士橋下徹の正体 弱者を蔑む強者であり より強い者には尻尾を振る 日本の巨大メディアが叩けず海外メディアが叩けた理由 日本のジャーナリズムは死んでいる

http://blog.goo.ne.jp/syokunin-2008/e/6c2c50f41a1e885c73615e9389e40a18
「従軍慰安婦は必要だった」橋下発言の根っこ部分
『売春業者の顧問弁護士だった薄汚い橋下徹の過去(経歴)』

国連の拷問禁止委員会や社会権規約委員会の日本非難まで出る大騒ぎに発展した橋本徹大阪市長の従軍慰安婦発言であるが、そもそも『橋本発言』の原因やその後の経緯には、売春業者の顧問弁護士だった過去の橋下徹自身の経歴と密接に関連しているが、なぜかマスコミでは秘密だった。
売春業者顧問の事実は、今まで当『逝きし世の面影』ブログや一部研究者からは以前から指摘されていたが、とうとう大手マスメディアまでが取り上げる。
風向きが完全に変化したのでしょう。
5月25日毎日新聞朝刊のオピニオン紙面の投書欄で、『読者からの投稿』との形式ではあるが、今までマスコミが総出で隠蔽していた『知っている人は全員知っているが、タブーなので一般市民がまったく知らない』不都合な事実に光が当てられたのです。
今回やっと真実の断片が語られ出した意味は決して小さくない。
マスコミ総出の不思議すぎる橋下徹の『維新フィーバーの真相』の中身は想像以上に薄汚い。

『橋下発言は権力側の視点』

5月25日付け毎日新聞オピニオン欄の読者からの『橋下発言は権力者の視点』との投書が、今回の忌々しい騒動の核心部分(原因)を一番的確に捉えていると思えるので、要約せず『全文』を書き写して掲載します。
カトリック司祭林 和行 (徳島市)52
『日本維新の会の橋下徹共同代表(大阪市長)の従軍慰安婦を巡る一連の発言に対するフリーライター、井上理律子さんの「直言」を先日の本紙で読んだ。
井上さんは大阪の旧遊郭街をルポした「さいごの色街 飛田」の著者。自由意思で入った女性など一人もいなかったという取材経験から、橋下氏の発言について、社会的弱者への差別や階層社会を肯定していると受け取らざるを得ないとして、「支配階層」からの、極めて上から目線の言葉だと指摘されている。
同書によると、橋下氏はかつてはこの街の業者組合の顧問弁護士。
同じ地域にかかわった井上さんとの「違い」はどこにあるのか。
井上さんはそこで働く女性の側に立ったのに対して、橋本氏は経営者側の視点に立ったことによるものではないかと思う。
権力を持つ側と支配される側、どちらの側の視点に立って考え、そして発言するのか。結局、今回の橋下氏の発言の問題は、そこに根があるのではないだろうか。』

『摩訶不思議な不完全すぎる毎日新聞記事』

「特集ワイド:いかがなものか 橋下氏「慰安婦必要だった」に直言
◇差別、階層社会を肯定
−−フリーライター・井上理津子さん
『一連の橋下氏の発言は、社会的弱者への差別や階層社会を肯定していると受け取らざるを得ません。「慰安婦になってしまった方への心情を理解して優しく配慮すべきだ」とも言いましたが「支配階層」からの、極めて上から目線の言葉ですね。
「日本の現状からすれば貧困のため(風俗店で)働かざるをえない女性はほぼ皆無、自由意思」というツイッターでの発言には大きな疑問を感じます。私は大阪の遊郭・飛田新地で働く女性約20人に話を聞きましたが、「自由意思」で入った女性など一人もいなかった。貧困だったり、まっとうな教育を受けられなかったりして、他に選択肢がないため、入らざるを得なかった女性が大半でした。経済発展を遂げたとされる現在でさえそうなのに、戦前においては言うまでもないでしょう。』(以下省略)
毎日新聞 2013年05月16日

『忖度して自主規制(自己検閲)する日本のマスメディア』

私も奇妙奇天烈な毎日新聞の『直言』記事を詳しく読んでいる。
ところが、井上理律子氏が橋下徹が売春業者組合の顧問弁護士であった事実を著書『さいごの色街 飛田』で暴露していた事実は全く知らなかった。
普通、新聞社などマスコミは最初からタブーに抵触しそうな危ない相手は扱わない。
それで、今回も書いている『内容』は正しくはあるが、マスコミ御用達の識者(安全パイ)が語る、当たり障りのない単なる一般的な『どこにでも当てはまる、無難な意見』程度の感想しかない。
まさに、『知っている人は全員知っているが、タブーなので一般市民がまったく知らない』典型例である。
16日付け毎日新聞に掲載された『直言』記事とは、25日の投書内容と合わせて読むと、やっと筆者である井上理律子氏の主張の本当の意味が通じる、摩訶不思議な代物である。
不完全すぎるし不思議すぎる。
不思議の原因は間違いなく、橋下徹タブーを恐れた毎日新聞編集部が井上理律子の『直言』を事前に検閲して、タブーに抵触する不都合な部分を無理やり抜いたのである。
タブー (taboo) とは、ポリネシア語のtabuを語源とする言葉で、共同体内での『何をしてはならない』という忌避行動の決まりであるが、タブーとされる行動をなぜ取ってはならないのかの、合理的な説明は必要としない。
しかし、タブーを侵犯した場合に発生する恐ろしい懲罰は、共同体の構成員全員が熟知しているので、タブーの遵守は未開部族では最も大切な道徳なのです。
毎日新聞の『記事本文』の方は、まったくの欠陥商品だった。
9日遅れで投稿された一読者の投書文こそが、毎日新聞記者の書きたいメイン部分だったのである。
ヘタレの毎日新聞としては『歩くタブー』橋下徹が、新聞の評判や読者の批判よりもよほど恐ろしかったのでしょう。

『1年遅れて、売春弁護士の経歴を書こうとして、編集部の首が飛んだ週間朝日の悲劇』

2012年10月に日本維新の会の橋下徹は、『同和出身の出自を暴かれた』と週刊朝日を相手に大騒動を起こしている。
ところが橋下徹の怒りは一年遅れのインチキ臭い紛い物だった。
不真面目すぎる。
大阪市長選があった前年の2011年11月に保守系の週刊新潮や週刊文春記事では、『書かれなかった血脈』、『同和』『暴力団』の渦に呑まれた独裁者『橋下知事』出生の秘密など、上品な週刊朝日記事より余程エゲツナイ下品で愚劣な内容だった。
ところが、『けっこう毛だらけ』と冗談で笑い飛ばしている。
一昨年の記事に書かれていたは、『八尾市の同和地区に生まれ父親と叔父がヤクザ』『従兄弟が1999年に金属バット殺人事件で逮捕』『暴力団員だった父はガス管をくわえて自殺』など到底冗談ごとでない深刻な内容である。
発行部数が多い自民党に近い新潮や文春が大々的に宣伝して誰でも知っている周知の事実を、1年遅れで報道した二番煎じの発行部数が少ない週刊朝日記事に対して突然怒り出す。
奇っ怪で、まったく筋が通らない。
しかも攻撃の対象が記事を書いた週刊朝日ではなくて、週刊誌の編集にまったく無関係な(株主でしかない)朝日新聞。
不祥事で『株主に連帯責任がある』など、今まで聞いたことがない全く新しい主張である。
チンピラヤクザの『言いがかり』程度で通る筈がない無理筋である。
橋下徹は、何かまったく別のことで朝日に怒っていた。
選挙戦のネガティブキャンペーンだった単発の新潮や文春とは違い、読者は少なくても週刊朝日はノンフィクション作家佐野眞一の連載記事の初回である。
発表されている初回分では触れていないが、何れかの時点で必ず橋下徹の飛田の売春街の顧問弁護士の経歴が暴かれる。
連載記事なので(週間朝日記事を放置すると)次回以降では『隠したい経歴』が暴露されるのは時間の問題だったのである。
週刊朝日に対する理不尽な橋下徹の先制奇襲攻撃の原因は、実に解りやすい。

『光市母子殺害事件の弁護士の懲戒請求を呼びかけた橋下徹』

どれほどの凶暴で極悪な凶悪犯であれ弁護士は被告人の利益のために弁護するのが業務なのであり、刑事訴訟法では弁護人の付かない裁判は行えないと明記している。
『極悪だから弁護しない』は、絶対に通らないのである。
ところが、弁護士の橋本徹はテレビで光市事件の弁護士を『こんなことが許されるのですか。みなさん、「許されない」と思ったら弁護士会に懲戒請求を』と視聴者に呼びかける。
橋下徹に扇動された一般市民数千人が当該弁護士会に懲戒請求を行う大騒ぎに発展するが、この火付け役がテレビタレントの橋下徹弁護士。
極悪人の弁護をしたことで、弁護士が懲戒請求されるようでは裁判以前に、司法制度そのものが成り立たない。
飛田で違法な『管理売春』が行われ、売春業者の違法収益から顧問料を取っていたのが橋下徹。
人権蹂躙の極悪売春業者でも逮捕されれば正当な裁判を受ける権利はあり、その意味では弁護活動は合法であるが、違法業者から顧問料を巻き上げていた橋下徹とは立場が違う。
橋下徹は売春業者だけではなくて罰則がない利息制限法を利用した脱法高利貸し(商工ローン)の顧問弁護士もしていた。
そもそも売春も高利貸しも普通の素人が行う真っ当な商売ではなくて、通常は裏稼業のヤクザが『しのぎ』としてしきっている実態がある、
裏社会の暗躍が日本で管理売春が非合法化された原因でもあったが、橋本徹の顧問料とは、ていの良い合法的な『みかじめ料』であると見れば分かり易い。

『日本の暗く深い闇、世界一不思議な日本のヤクザ事情』

日本国では暴力団が合法化されていて、街中に組の事務所の看板が堂々と掲示されていたり暴力団構成員が組織のバッジを堂々と胸に付けて、自分が組員であることを誇示していても逮捕されない。
不思議過ぎるのである。(日本以外なら即座に警察に逮捕されるし、警察力が弱い国は軍隊が出動する)
日本のヤクザとは、例えるなら大麻吸引が合法化されているオランダの『例』を、極端に拡大解釈した様な話ですね。
日本だけの特殊な話で、世界では他に一切『似た例』が無い。
煙草よりも依存性が弱く、周りに与える害毒が比較的軽いとされている大麻(ソフトドラッグ)の合法化はオランダのように有り得ても、薬物中毒の危険性が極度に高いハードドラッグ類を合法化している国は世界中に一カ国も無い。
日本のヤクザ合法化とは、正に絶対に有り得ないヘロインなどの麻薬解禁に近い話であり、世界中に例を見ない異常事態である。
日本では『非合法化すれば地下に潜り、より悪質化する』との理屈で規制は一応あるが『存在』自体は合法である。
日本独特の暴力団合法化の無茶苦茶な屁理屈が世界に通用するなら、自動的に『ヘロイン・コカイン・覚醒剤』も『非合法化すれば地下に潜り、より悪質化する』との、とんでもない話が十分成り立つ。
禁止すれば確かに『地下に潜る』し『悪質化』するが、その『実害』は合法化して表で堂々と行うよりも必ず小さい。
だから世界中の国々は一つの例外もなく、麻薬や暴力団は『違法である』と断定して禁止している。
その唯一の例外が我が『日本国』である。
表の堅気の一般の市民社会と、普通は隠されている裏のヤクザ組織からなる特殊社会が渾然一体となってズブズブの関係なのです。

『完全に中身が腐っている、日本のマスコミ』

恐ろしい『橋下徹タブー』の売春業者顧問を全員で隠蔽する日本のマスコミとは違い、海外の目は厳しい。
日本維新の会の橋下徹大阪市長は日本外国特派員協会(東京都内)で自身の従軍慰安婦発言の釈明会見を行う。
5月27日、特派員協会としては異例の398人もの多数が集まり、参加した記者からは地下鉄サリン事件での上祐史浩オウム真理教広報部長の出席の時以来との声も出るほど盛り上がる。
大甘の談合体質の日本のマスコミとは大違い。
慰安婦問題追求に情け容赦がない。
旧遊郭街飛田の顧問弁護士の経歴が外国人記者の槍玉にあがり、橋下大阪市長はしどろもどろの釈明を行う。
売春業者の顧問弁護士だった経歴と現在の大阪市長という公的な役割との整合性を問われ橋下徹は、
『かつては顧問弁護士だったことは事実。それは、飛田の組合という「料理組合」の顧問弁護士。日本において違法なことがあれば、捜査機関が適正に処罰する。料理組合自体は違法でもない』と逃げようとするが記者席からは失笑、嘲笑が漏れる。

『詭弁を弄して恥ずかしくないのか』

会見に参加した記者からは、『名称は「料理組合」かも知れないが、飛田は、お店の二階に上がってお金を払えば買春できることは、大阪のちょっとませた中学生なら誰でも知っている。
中学生が聞いて、「橋下さん、嘘ついてはるわ!」と思うような詭弁を弄してひとりの政治家として恥ずかしくないのか』と追求される。
厳しい追及に橋下市長は薄笑いを浮かべながら『違法なことであれば、捜査機関が行って逮捕されます。以上です』と話を一方的に打ち切っている。
『なーにいってんだ』とのヤジや嘲笑で、到底橋下徹の弁明が受け入れられた雰囲気ではない。
ところが、日本の既存のマスメディアは報道機関では無く、隠蔽機関であった。
これらの外国特派員と橋本徹のやりとりは一切無視して報道していない。
翌28日朝刊やテレビニュースは橋下徹の外国特派員協会の顛末を詳しく報道しているが、飛田遊郭の話は何かのタブーなので封印して報道しない。
相手は外人記者なのですよ。
タブーとは、その共同体の内部だけに通用するルール(禁忌)であり、部外者にはまったく無関係。
いくら国内で『橋下徹タブー』を厳重に封印しても、今のように完全隠蔽は無理で、今後日本以外の世界では面白可笑しく日本の恥『政治家橋下』を大宣伝してくれるでしょう。
隠して『隠せる』なら隠蔽工作に意味があるが、今の日本のマスコミのレベルは寝小便した布団を隠す幼稚園児程度の知的水準(判断力)である。
小学生でも(必ずばれる事が分かっているので)隠さない程度の良識がある。
何故、今回は日本国内限定ではなくて外国特派員協会なので、最初から『隠せないのだ』と気がつかないのか。
心底、情けない。
日本の崩壊は、最終局面に入ているのでしょうか。

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水を多国籍企業に売り飛ばす日本 これが美しい国の正体である 貧乏人が水を飲めなくなる時代が大阪を中心に到来する

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http://kaleido11.blog111.fc2.com/blog-entry-2044.html
日本の水道をすべて多国籍企業に売り渡す自民党

Our Water Is Not for Sale!


麻生太郎が、「日本の水道はすべて民営化する」と言い出しました。
このことは無条件に、日本人の命の糧を多国籍企業に差し出すことを意味します。

麻生太郎の祖父・吉田茂も日米安保のときに、「日本の国土を米軍さんの好きなように使ってください」と、八百万の神々が住む日本の国土をあっさり献上したのです。

以来、日本は苦しみ続けているのです。「血は争えない」とはこのことです。


「日本の水道は国営だろうが、市営・町営だろうが、すべて民営化します」

「貧乏人は麦を食え」…。
1950年12月の参議院予算委員会で、当時、大蔵大臣兼通商産業大臣を務めていた池田勇人が言ったとか、言わないとか。

実際は、「所得に応じて、所得の少い人は麦を多く食う、所得の多い人は米を食うというような、経済の原則に副つたほうへ持つて行きたい」と言ったのですが、それを新聞が改ざんしたというもの。

しかし、言っている意味は、その通りですから間違いはありません。このときから、自民党は欧米型弱肉強食の新自由主義です。

さて、あれから60年以上経った今、財務大臣と金融担当大臣を兼務する麻生太郎副総理は、「貧乏人は川の水を飲め」と同じことを言ったのです。

4月19日、麻生太郎が、CSIS(米戦略国際問題研究所)で、「(安倍晋三首相に続いて)私も戻ってきました」と切り出し、「日本経済再生に向けた日本の取組みと将来の課題」というタイトルでスピーチを行いました。

その中で、「日本の国営もしくは市営・町営水道は、すべて民営化します」と発言。相変わらず、この御仁、漫画以外は読まないようです。

通訳を置いて、隣にいたジャパン・ハンドラー、マイケル・グリーンは喜びを隠すのに精一杯です。

その部分の書き起こしは、下のリンク先にあります。
http://twishort.com/24kdc

「今、色々なアイデアが実に多くの人から出されているが、その中でと思っているのは、いわゆる規制の緩和です。規制の緩和、なかんずく医療に関して言わせていただければ…

(中略)

このロボットは一つの例ですが、例えばいま日本で水道というものは世界中ほとんどの国ではプライベートの会社が水道を運営しているが、日本では自治省以外ではこの水道を扱うことはできません。

しかし、水道の料金を回収する99.99%というようなシステムを持っている国は日本の水道会社以外にありませんけれども、この水道は、全て国営もしくは市営・町営でできていて、こういったものを全て民営化します。

いわゆる学校を造って運営は民間、民営化する、公設民営、そういったものもひとつの考え方に、アイデアとして上がってきつつあります」。

00:45:00から。確かに、上のようなことを言っています。
マイケル・グリーンが麻生の発言をチェックするように付き添っています。



※次の資料に麻生副総理発言に関すること(水道、学校の公設民営)が出てくる。副総理は産業競争力会議の議長代理。
竹中平蔵主査が4月17日の産業競争力会議に提出した資料⇒
http://www.kantei.go.jp/jp/singi/keizaisaisei/skkkaigi/dai6/siryou14.pdf

上のpdfファイルの「水道の民営化」、「学校の公設民営化」の記述部分を抜き出し↓



水道事業の民営化については、小泉純一郎→安倍晋三内閣時代に出てきたものですが、安倍晋三が政権を放り出した後、福田康夫内閣で具体的に進められました。

三大水メジャーのひとつ、ヴェオリア・ウォーターの子会社が2012年4月から地方の公営水道事業を受託している

まず、フランスのヴェオリア・ウォーターが日本法人、ヴェオリア・ウォーター・ジャパンを設立。
手始めに、2012年4月から、松山市の浄水場の運転業務を受託。

外資が水道事業で攻勢、仏ヴェオリアが松山市から受託
(日本の水道事業を外資に委託するのははじめて)

世界最大の水事業会社であるフランスのヴェオリア・ウォーターの日本法人、ヴェオリア・ウォーター・ジャパン(東京都港区)が2012年4月から、松山市の浄水場の運転業務などを始める。
外資系企業が単独で日本の自治体の水道業務を受託するのは初めて。
同年5月、ヴェオリア・ウォーター・ジャパンは、広島、埼玉でも下水処理場のO&M(オペレーション&メンテナンス=運転・維持管理)事業を相次いで受託。
その後、千葉県でも、終末処理場の維持管理業務を受託しています。

ヴェオリア・ウォーターは、スエズ・リヨネーズ・デゾー(現在はオンデオ)、テムズ・ウオーター・ユーティリティーズと並ぶ世界三大水企業のひとつで、東京都の水事業でも、よく出てくる社名です。

東京水道は「世界一」のシステムで海外市場に挑む!
(nippon.com 2012年6月15日)

世界の水ビジネス市場は、2025年に86兆円、将来的には100兆円規模に成長するとも言われる成長分野だ。

ところが気がつけば、世界最先端の技術やシステムを持つはずの日本は出遅れ、代わりに市場を席巻しているのが、フランスのヴェオリア・エンバイロンメント、同じくフランスのスエズ・リヨネーズ・デゾー、英国のテムズ・ウオーター・ユーティリティーズといった “水メジャー”という構図になっている。

彼らは、東インド会社的発想で東南アジアを含む世界に進出を果たし、大規模な水道設備に投資して50年で回収するといった事業を展開している。

ちなみに、その手は日本にも伸びている。

ヴェオリアは千葉県手賀沼の浄化処理事業を、日本企業との競争入札の末、50億円で落札した。

同社はこの4月、松山市のいくつかの浄水場などの運営業務も受託している。海外に目を向けた水道のビジネスモデル構築を我々が訴える裏には、“水メジャー”の日本進出への強 い危機感がある。

フランスのヴェオリア・エンバイロンメント、スエズ・リヨネーズ・デゾー、テムズ・ウオーター・ユーティリティーズの “水メジャー3社は”別名、「ウォーター・バロン」と言われており、穀物メジャーと同様に、世界の水利権を支配しようとしている多国籍企業軍。

文字通り、人々の生殺与奪を握ろうとしていることは間違いのないことです。

ヴェオリア・ウォーターの親会社で、多国籍企業グループのヴェオリア・エンバイロメントは、水以外の事業でも中東に深く関わっており、イランとイスラエルの市電網では、たびたびイラン政府とパレスチナとの間でトラブルを起こしている企業です。



1分30秒から。
ヴェオリアは、フランスの会社ですが、首まで権利侵害に関与しています。
なぜなら、エレサレムの市電の建設に関わっているからです。

この市電は、パレスチナの領土を通りますがイスラエル人だけに利用権利があります。
ですから、エルサレムのアパルトヘイトの強化に関わっているのです。

ヴェオリアは、占領地域の水や水資源の管理にも活発に関わり、ごみの管理も担当しています。
多国籍企業のほとんどがそうですが、このヴェオリアも、シオニズムに加勢する企業のようです。

「新世界秩序」から日本に送り込まれたエコノミック・ヒットマン

さて、安倍内閣は、その命の糧である日本の水を外資の獰猛な牙の前に、そっくり差し出しますよ、と言っているのです。

日本の生命保険会社のガン保険などの保険商品の認可凍結しただけでなく、今度は水までも売り渡そうというのです。

これほど重大な決定を議会に諮るでもなく、ましてや、日本ではなく、アメリカの、それもただの民間シンクタンクであるCFR(外交問題評議会)の下請け機関で真っ先に表明するのです。

おそらく、自分の思考力を持たない安倍晋三と麻生太郎が、グローバリズムに汚染された日本の売国官僚によって、「TPP同様、水ビジネスでも日本は後れをとってはなりませぬ」などと言われて、あっさり了承したに違いないのです。


日本は世界の中でもっとも民営化率が低い国(資料は、こちらから)

そもそも、なぜ水資源の豊かな日本が水道事業を民営化する必要があるのか、この二人のデクノボーにどこかの新聞記者が訊ねたことがあるでしょうか。日本のマスコミも、この水メジャーの真の狙いが分らないのです。

竹中平蔵が産業競争力会議に提出した資料の中で、このように言っています。

「こうしたインフラは全国で約185兆円の資産規模と推計され、全国的に民間開放の動きを進めることで、少なくとも数十兆円規模の財源創出が見込まれる」。

「全国的に民間開放」と言っているのは、竹中の場合、日本企業向けではなく、グローバルな多国籍企業に対して全面開放しますよ、と言っているのです。

要するに、国民の最後の公共財を外資に売り渡して得た金で、もっと儲かりそうなことをしようよ、ということです。

竹中には特にビジョンがあるわけでもなく、彼の海の向こうにいるご主人様のご命令どおり、日本を丸裸にするまで、とことん売国をやりますよ、と言っているのです。

安倍晋三と麻生太郎の政治家として、というより人間としての重大な欠陥は、人のことをわが事として捉えることができないという共感性の欠如があることです。

彼らにとっては、「貧乏人は水を飲むな」に等しい過酷なことを国民に強いることなど、他所の国の出来事だと思っているのです。
彼らの卑しさは、その面相にくっきり出ています。

今回の麻生太郎のトンデモ発言で、安倍晋三と麻生太郎が竹中平蔵を司令塔として動いていることが、はっきり分かりました。

当然、反発が出ることを予想しているので、小泉政権時代に身につけた「抵抗勢力」、「既得権益の打破」を呪文のように唱えているのです。

案の定、この筋金入りの売国奴は、「既得権益が物凄く抵抗しますが水道事業を民営化すべきです」とのたまわっているらしい。

TPP以降、めっきり大人しくなってしまった他の自民党議員たちは、この言葉で納得してしまうのです。
彼らの目的は、国会議員になることであり、少しでも政権政党でいることなのだから。

水道事業の既得権益とは、いったい何なのか、竹中平蔵はきちんと答えるべきでしょう。
彼の手にかかると、国家の安全保障の基盤である公営水道までもが既得権益になってしまうのです。

国民のインフラに既得権益の議論を持ち出すのは、竹中のいつもの詐欺的手口であることを思い出してください。

何しろ、郵政民営化だけでは飽き足らず、NHKまで民営化しろ、といっているのですから、完全にアメリカのグローバリストの基準を日本に当てはめようとしていることは間違いのないことです。

つまり、彼は「新世界秩序」から日本に送り込まれたエコノミック・ヒットマンなのです。

竹中は徹頭徹尾、日本を崩壊させようとしているのです。彼は本気です。

大阪の水道事業民営化を利用して、労組を壊滅させようという橋下の魂胆

水道の民営化については、いち早く大阪府市が推進を表明しています。

橋下は、もともと大阪府内42市町村が運営する大阪広域水道企業団に大阪市の水道事業を移管する水道統合案を進めるべく市議会の調整を図っていましたが、もし議会で否決された場合は、市自ら、市水道局の民営化を目指す意向を示唆しています。

つまり、なにが何でも大阪市の水道事業は民営化しようということなのです。

橋下徹の日本維新の会もまた竹中平蔵をブレーンとして、彼に言われるまま動いています。
橋下徹は、彼の記者会見を見れば一目瞭然、政治などちんぷんかんぷんの思考停止。

日本維新の会は、「TPP参加」、「道州制で日本分断化」を目的として創られた政党です。

橋下の水道事業民営化推進の一つだけを取ってみても、大阪府市の労組を弱体化させ、大阪府市議会を完全に自由にしようという狙いがあることは明らかです。

というのは、この男、水道事業だけでなく市営交通の民営化もセットで考えており、この両方が大阪市から切り離されれば、市労組の拠点は壊滅してしまうからです。

それが証拠に、橋下が大阪府知事時代、府の労組の影響力が強い府有地と建物を議論も尽くさず二束三文で投売り。売った先は、案の定、韓国民潭です。

橋下の改革とは、大阪の市民たちに多大な犠牲を強いるものなのです。それは、彼個人の日本人に対する私怨から出てきているのです。
大阪市民は、いつも後になってから気がつくのです。

水メジャーの関係者によって構成された国際的なフォーラムを開催して国際世論を形成する手口は、地球温暖化詐欺と同様のモデル

ヴェオリア・ウォーターなどの水メジャーがその国に触手を伸ばす第一段階は、
「公営水道事業はコストがかかりすぎて非効率的。だから民営化することは良いことだ」という世界的な世論を、学者などの“専門家”の頬を札束で叩いて作り出すことです。

ときには、子供をダシに使って、こうしてじわじわ浸透していく啓蒙戦略を取っています。

ウォーター・バロン企業は、世界的な世論を形成するため、1997年から世界水フォーラムを開催しています。

世界水フォーラムとは

世界で深刻化する水問題、特に飲料水、衛生問題における世界の関心を高め、水企業、水事業に従事する技術者、学者、NGO、国連機関等からの参加で世界の水政策について議論することを目的とする。

国際連合主催の正式な会議ではないが、各国の政府関係者や政府代表も多数参加し、閣僚宣言も出されることから、世界の水問題とその政策に関する議論に大きく影響を与えている。(Wikiより)
世界水フォーラムを主宰しているのは、多国籍の水企業スエズ・リヨネーズ・デゾー社の子会社であるマルセイユ水道サービス(SEM)会長、ルイ・フォション(Loic Fauchon)が代表努める世界水会議(World Water Council、略称:WWC)。

この世界水会議はこのように、水道事業をグローバルに展開するグローバル水企業といった、民間セクターからの影響が大きい団体であり、そのような一部の利益を代表するような民間シンクタンクが、閣僚宣言も出す世界水フォーラムを主催していることに、世界の市民団体から大きな批判があがっています。(Wiki)

要するに、国連の人口削減計画の魂胆を悟られないように、「限りある水資源の有効活用と環境開発」という大義名分の下で世界的なプロパガンダを行っているのです。

この国連の人口削減計画(グローバル・エリート最大のアジェンダ)を具体的に進めているのが世界銀行と国際通貨基金(IMF)です。

別な言い方をすれば、あらゆる人口削減政策を進めている国連システムの中の姉妹機関です。

ここに世界銀行と国際通貨基金(以下IMF)の隠された陰謀について暴露した人物がいます。

ジョセフ・E・スティグリッツ(Joseph E. Stiglitz, 1943年2 月9日 - )は、アメリカ人の経済学者で、1979年にジョン・ベーツ・クラーク賞、2001年にノーベル経済学賞を受賞しました。

現在における最も活動的かつ影響力のある経済学者の一人と言われている人物です。
彼によるとグローバル・エリートの世界銀行の目的と、その手口とは…

1)民営化を薦めて、相手国を破綻させる
 破綻した国の資産を売却するとき、10%のワイロをとっている。それはスイスの銀行の秘密口座へ。

2)資本市場の自由化の強制
 オフショアへの資金移動に課税を認めない。

3)価格決定の自由化
 物価が上がり、参入外国企業は暴利をむさぼることができる。

4)自由貿易
 とにかく、救済を受けた国に口を出させない。
の4つで、これが世界銀行による世界支配の戦略であるというのです。

1)は説明不要でしょう。
2)~4)は、まさにTPPのことです。
特に4)はISD条項のことを言っているのです。


IMFと世界銀行という「温厚な二人の紳士」は、通貨危機や飢餓に苦しんでいる国の背後から静かに近づいて、「あなたの悲痛な顔を見るに忍びない。私たちが助けてあげましょう」と囁くのです。
その誘いに乗ったが最後、「ケツの毛まで抜かれてしまう」のです。(失礼)

法外な金利で貸し付けたり、貸付の条件として国民のライフラインである水道やガス事業を国営から民営に移せ、と迫ってくるのです。

水道事業、ガス事業などのエネルギー事業は、何より安全性と安定供給が求められるはずです。本来、競争原理になじまないこうした公益事業を解体させて民営化を迫ります。

まるでヤクザの脅しのような手を使って。

時には、自分たちの資本を注入して支配するために財閥解体などの荒療治もやってのけます。近年では韓国がいい例です。

この「条件付融資」によって国家の解体を進める方法を「構造調整プログラム」といいます。

構造調整プログラムは、途上国のマクロ経済政策を改善するとともに、なるべく政府の介入を少なくし、民間セクターの活力により所得の向上を促すことで開発問題に対処する考え方です。

このプログラムの実施に向け、1980年代より、IMFと世界銀行を中心として、国際社会は発展途上国に対して、多様な支援を行いました。

結果、支援を受け入れた国は、ことごとく悲惨な目に遭わされるのです。

「融資の効果を阻害するような政治状態の国」には、「政策改善」を条件にした融資を行うようになった。この際に、対象国に課せられる要求のことを「構造調整プログラム(Structural Adjustment Program)」と呼ぶ。

このIMFの構造調整プログラムにより、アフリカや南米、アジアなどの発展途上国では、様々な経済問題(失業など)が発生し、 社会が混乱に陥ったという見解が多い。
(以上、Wikiより)
いったん、これを受け入れると、民営化された水道事業、ガス事業などは利潤の追求を優先するようになって、水供給サービスの急激な質の低下を招き、住民には、マズイ水、火力が不安定なガスが供給されるようになるのです。

競争とはいうものの、IMFや世界銀行の息のかった業者への随意契約によって委託されますから、水道料金などは好き放題にぐんぐん吊り上げられたりします。

競争とは名目に過ぎず、実質は独占です。

この例としては、南米ボリビアの水道事業があります。

南米大陸最貧国のボリビアはIMFと世界銀行の毒牙にかけられた典型的な国です。

世界銀行を受け入れたボリビアは、ほとんどの公益事業を民営化させられてしまい、国民の生きる糧である水道事業も民営化されてしまいました。

その結果、何が起こったのかというと、水道料金は以前の4倍に跳ね上がり、提供された水は細菌の入った不衛生なもので病気になる利用者が増えたのです。

このボリビアの水道事業を丸抱えで請け負ったのが、あの悪名高いべクテル社です。

べクテル社の株主は、ブッシュを始めとするネオコン政府の連中です。
株式公開されていませんから、まさに「やりたい放題」。

ボリビア国民の命は、アメリカ国民でありながら、まともな英語も話せない、このテキサスの男の手中におさめられてしまったのです。

ボリビア大統領は、米国の甘言に乗った自分がバカだった、と気が付いたのですが、時すでに遅し。

ボリビアでは反政府暴動が活発になり、それを扇動しているのが米大使であることを突き止めたボリビアの大統領は、この米大使に国外退去を命じました。

闇金まがいの高利貸しに金を借りたばっかりに、家庭の中は荒られてしまい、さらにその闇金業者は子供(ボリビア国民)をそそのかして、一家の主(あるじ)の権威を失墜させて、家ごと乗っ取ってしまうのです。

事実、IMFと世界銀行は、すべての発展途上国に対して、電気や水道、電話、ガスといっ た国有インフラの売却を融資の条件としてきました。これらは推定四兆ドルの公有財産になります。

今では、ボリビアだけでなく、南米の国々がIMFと世界銀行によって破壊されつつあるのです。獰猛なグローバル・エリートによる南米支配は着々と進められているのです。
ここで疑問に思うことがあるでしょう。

なぜIMFと世界銀行の甘言に乗って、ボリビアの公営事業をことごとく民営化し、べクテルのような不吉なグローバル企業が乗り込んでくることを受け入れたボリビアの大統領に対して、ワシントンのエージェントである米国大使が反政府軍を扇動するのか、ということです。

それは、途中で騙されたことに気がついたボリビアの大統領が、真の愛国心にめざめ、ボリビアからグローバル・エリート勢を追い出す前に、ボリビアの民衆を唆して内戦を起こし、政権転覆を図っていたからです。

そして、米ワシントンに従順な別の大統領に首をすげ替えようと企んでいたからなのです。

こうした国連、その下請けであるIMFと世界銀行の世界支配と人口削減の手口については、ジョセフ・E・スティグリッツの『世界を不幸にしたグローバリズムの正体』に詳しく書かれてあります。

世界銀行から送り込まれたべクテルによって、多くのボリビア人が殺された

今度は、方向音痴の日本がその毒牙にかけられようとしているのです。

幸い、「彼ら」は、日本では小沢一郎というワシントンに都合の悪い政治家を隅に追いやって、代わりに祖父の代から徹底した売国政策を続けてきた“自民党のプリンス”たちを、限りなく不正が疑われる選挙によって政権の座につけることに成功しました。

グローバル・エリートをボリビアから追い出した気骨のあるボリビア大統領と違って、安倍晋三と麻生太郎という忠犬が日本の政権トップに座ったお陰で、ワシントンにとっては、スムーズにことが運んでいるのです。

そのボリビアの人々は、こうして戦ったのです。

ボリビアの人々は水メジャーに殺された

Democracy Now !2010年4月19日放送
コチャバンバ「水戦争」から10年、水道民営化への民衆闘争 マルセラ・オリベラが振り返る



【内容 Democracy Now!より転載】
10年前の4月、ボリビアのコチャバンバで、同市において最も重要な天然資源の一つである水をめぐり、歴史的な争いが起こりました。
この「水戦争」はシアトルのWTO抗議行動から数ヶ月後に発生した出来事でした。

コチャバンバ市の路上で起こった米ベクテル社に対する暴動は、企業のグローバリゼーションに対する国際的な抵抗運動を象徴するものととらえられました。
この数週間、水問題に取り組む各国の活動家たちが、水戦争から10年目を迎えたコチャバンバ市に集まりました。




「金のないヤツには水を飲ませない!」。
こんなことが現実に世界の途上国で起こっているのです。

1999年、世界銀行はボリビア政府に、ボリビアで3番目に大きい都市、コチャバンバ市の公営水道会社「SEMAPA」を民営化させる計画を推し進めました。

もし民営化すれば、適切な料金で水道配管の敷設や水の供給を行うことが可能になる上、600万ドル(当時の日本円での7億円)の多国間債務(借金)を免除してやる、という条件をボリビア政府に提示したのです。

水道インフラの整備がままならず、借金に喘ぐボリビア政府は、しぶしぶ「飲料水及び衛生法」という法律を作り、コチャバンバ市の公営水道事業を民営化したのです。

まず、公営水道会社「SEMAPA」を民間企業に改組。
その後、水道事業のノウハウを持つ米国最大の建設会社ベクテル社の子会社アグアス・デル・ツナリ社が実際の運営を行ったのです。

ボリビア政府にベクテルを推奨してきたのは、ほかならぬ世界銀行でした。

世界銀行の言っていた「適正な料金で市民に水道水を供給できる」というのは、真っ赤なウソで、結果は水道料金が以前の倍以上に跳ね上がり、水道料金を払えないどころか、食事さえも満足にできない家庭が出てきたのです。

アグアス・デル・ツナリ社は、なんと、支払い不能者には容赦なく水の供給を停止し、さらに、自分たちの管理下に置いた井戸水の安い料金までも引き上げたのです。

人間は命を維持していくには水を摂取していかねばなりません。水道 水、及び井戸水の料金を払えない人々は浄水されていない水、汚染された水、腐敗水などを飲むことしか許されず、その結果、水道料金を払えない貧困層の人々は バタバタと倒れ死に至り、尊い命が次々に奪われていったのです。

べクテル社による大量殺人が合法的に、平然と行われたのです。

水道事業が民営化された翌2000年1月に、「水と生活を防衛する市民連合」が結成され、大衆の運動により市は4日間機能停止に追い込まれました。

翌月の2月に、市民は 「水は神からの贈り物であり商品ではない」というスロガーンを掲げ平和的デモを行いそれに賛同した何百万人の国民はコチャバンバ市に行進。
ゼネストが行われ政府は水道料金の値下げを約束したのです。

しかし政府は水道料金の値下げの約束を守らず、4月にIMF(国際通貨基金)と世界銀行、米州開発銀行に圧力をかけられ戒厳令を布き、抗議の沈静化を図ります。

この沈静化では、抗議する市民や活動家を逮捕し9名を殺害。約100名がひどい怪我を負わされた他、数十名が逮捕され、メディア規制がしかれるという、信じら れない弾圧が行われたのです。

しかし、このような不当な弾圧が長く続くはずがなく、IMF(国際通貨基金)と世界銀行に盲目的に従ったバンセル政権は転覆しかけま す。

結果、市民は勝利を手に入れたのです。

40年間の民営化の契約は破棄され、水道事業が公共事業SEMAPAの手に戻ったのはいいのですが、開発費の借金と、水道配管設備の工事代金など、膨大な借金が市民に負わされたのです。

さらに、ボリビア政府は契約破棄料の2500万ドル(約25億円)の賠償金を要求されたのです。
(ソース: ボリビア水戦争 ~水と公共事業は誰の物か~)

「民営化すれば、インフラ整備が進み、多くの人が水道水を飲むことができる。これはいいことだから、そうしなさい」と騙しておきながら、実際は水道代が払えないほど料金が上がり、死者が続々と出たのです。

すると、世界銀行とIMFは政府に暴力を持って市民を制止するように命令したのです。

ボリビア政府を借金のカタに取った世界銀行とIMFは、ボリビア政府に国民を殺させたのです。

その一方で、なんと、国民の不満が爆発するように仕向け、政権を打倒するように陰謀を仕掛けたのです。

世界銀行とIMFは、こうして人の弱みにつけ込んで言葉巧みに近づき、命の糧である水を取り上げてしまったのです。

そして、国民の怒りをボリビア政府に振り向けて、政府そのものを転覆させようとしたのです。
フィリピンのマニラ市では、民営化後、水道料金が一気に5倍になった

フィリピンのマニラ市も、水道事業の民営化に踏み切りましたが、結果は、ボリビア同様、水道料金が民営化前の4~5倍にも跳ね上がったのです。

ここにも悪の多国籍企業・べクテルが進出してきました。

フィリピンのマニラでは、水道を使えない人に水を売ったり分けたりすることを禁じ、公園などの今まで無料で水を飲むことができた公共水栓も使用できなくされてしまった

1997年8月、ラモス政権下のフィリピン政府は、世界銀行の提案を受け入れて、首都・マニラの水道事業を民営化しました。

マニラを東西のエリアに分けて、西側のエリアはフランスの水企業大手スエズ(現在はオンデオ)に委託され、マニラの東地区の水道事業民営化には、イギリスのユナイテッド・ユーティリティーズ(United Utilities)とアメリカのベクテル、日本の三菱商事が参加することになりました。

世界銀行、アジア開発銀行(ADB)は、水事業の効率化を謳って、これらの事業に多額の長期融資を行ったのです。

市民グループは、水は公共財であり、公共機関が管理すべきものであるとして、水の民営化を批判してきました。

水は生命維持に不可欠の物質であり、金持ちも貧乏人も等しく水に対する権利を有しており、したがってこの権利は民間セクターの利益追求の対象とされるべきではないという理由からでした。

そうした反対を他所に水道事業の民営化を強行した結果、マニラ西地区の水道料金は、公営のときの4倍に跳ね上がり、マニラの東地区に至っては5倍にも高騰してしまったのです。

水道インフラの工事は投資効率の良い地区=一定の人口密度があって中流以上の人々が住んでいる地区が優先され、貧困層では、いくら人口が密集していても、水道インフラ工事は行なわれなかったのです。

事実、低所得者層のパローラ集落の3,000世帯(人口の40%近く)が、民間水道にアクセスを許され なかったのです。
それは、水道メーター設置のための初期費用4000ペソを支払う金がなかったからです。

こうした地区にインフラ投資を行っても回収できないと踏んだ民間水道事業者は、水道管の敷設に同意しなかったのです。

さらに悪いことに、その民間水道事業者は水道が届いていない人々に水を分けたり、売ったりすることまで禁じてしまったのです。

以前は公園などの「無料で」水を供給していた公共水栓もまた、民営化されてから使用を禁止されてしまいました。
文字通り、「貧乏人は水を飲むな」という世界ができ上がっているのです。

つまり、「貧乏人は死ね」ということ。

一部、「マニラの水道民営化の失敗」から引用
水道事業の民営化は、すでにイギリス、フランス、ドイツなどヨーロッパ各国で実現されていますが、例外なく水道料金が倍以上に上がっているだけでなく、配管から水漏れがあっても、数日間、修理に来なかったり、メンテナンスの面でも、供給される水道水の水質の面でも、民営化される前より悪化しているのです。

ボリビア、フィリピンでは失敗に終ったわけですが、ブラジル、中国、南アフリカでも同様のことが起こっているのです。

世界銀行とIMFは水道事業民営化で、人口削減を進めようとしている

公営水道から民営にすると、かえってサービスの低下を招き、料金も上がるのであれば、いったい何のために各国は公営水道事業を多国籍企業に売り渡すのでしょうか。

第二次世界大戦後、「発展途上国を援助して、食糧と水を十分行き渡らせよう」という呼びかけによって、先進国から出資金を集めて設立された世界銀行ですが、実際にやっていることは、三大水メジャー(=ウォーター・バロン)と手を組んで、人為的な水不足を引き起こしているのです。

彼らの手口は、通貨危機や飢餓に苦しんでいる国に法外な金利で金を貸し付け、次の段階で、債務負担軽減と引換えに、途上国に水道民営化を迫るという方法です。

債務免除や債務の減免という甘い汁で体力のない発展途上国を誘い出し、「救済」という甘い言葉の向こう側に、否が応でも公共サービスの民営化を強制するという恐ろしい罠を仕掛けるのです。

国連のミレニアム開発目標には、地球環境や地球の水の循環サイクルを破壊しないように、水の汚染や地下水の利用を抑制すべきだとする文言は一切ありません。

近い将来、多国籍企業を経済基盤として国連が世界統一政府になるべく、各国に支配力を強めるには、その国を「水」と「食糧」で縛り付けることが大切なのです。

ボリビアやフィリピンは、国連、IMFや世界銀行の政策がまやかしであって、これらの機関がべクテルのような一民間企業によって、その国を実質支配するのを手助けしているということに気がついたのです。

今までは、水道管が自分の村まで届かず、不便だけれども公営の井戸のある場所まで行って、水を汲みに行けば、好きなだけ水を飲むことができたのです。

やっと待ちに待った水道管が敷かれたと思ったら、突然、今までの水道料金の数倍もの額の請求書が送られてきて、それを払えないと水道を止められるだけでなく、お隣さんから水道を分けてもらったり、買ったりすることも罰せられてしまうのです。

公営水道事業を民営化することによって、コミニュティさえ破壊され、酷薄な社会ができつつあったのです。



Should Access to Clean Water Be a Human Right?


なぜ世界銀行とIMFは、水道事業の民営化を迫り、これほどまでに飲料水にこだわっているのでしょうか?

なぜ、公的機関であるはずの世界銀行が、水道事業の民営化を受け入れた国に、入札ではなく、随意契約でべクテルのような企業を指定し、押し付けてくるのでしょうか?

答えは一つしかありません。

国連や世界銀行、IMFが公正中立な機関であると思っているのは私たちの思い込みで、これらの機関は人口削減を進めながら、次の世界政府の基盤となる多国籍企業に対して利益誘導を行うために存在しているということなのです。

グローバル・エリートはすべて人口削減派です。

ただし、その中でも人口削減穏健派と強行派に分かれているようです。

穏健派は、ビル・ゲイツのようにアフリカや東南アジアの貧しい国々の子供たちにワクチンの無料接種を促進したり、日本のような先進国では、子宮頸がんワクチンの接種を政府が国民に薦めるようにしたりして、不妊率を高めながら徐々に人口削減を進めていく方針を採っているようです。

TPPの混合診療なども、そのひとつで、国民皆保険を有名無実化して、延命治療を目的とした診療を打ち切るという方法。

自動的に多国籍の保険会社や製薬会社が儲かることになります。

アメリカの31の都市の水道水には、発ガン物質とされている六価クロムなど数千種類もの化学物質が入れられている

これは水道事業の民営化と切り離して見てみなければなりませんが、アメリカでは、州によっても都市によっても異なりますが、水道水にフッ化物や、発ガン物質とされている六価クロムなど数千種類もの化学物質が入れられているのです。




フッ化物を入れる理由を米・保健福祉省と環境保護庁は「歯周病などを予防するため」であると説明していますが、なぜ歯の病気を予防するために、常時、フッ化物の入った水を飲む必要があるのでしょうか。

胃や腸から吸収されて血液の中に入ったフッ化物が回りまわって歯に届くのはいったいいつのことでしょう。

実際に、子供の歯に、シミや筋が入るという症例が増えてきたため、腰の重い大手メディアでさえも政府を追及し、やっと水道水の中のフッ化物の量を減らすと言い出したのです。
(CNNのその記事)




また、全米31の都市の水道に、発ガン物質とされている六価クロムなど数千種類の化学物質が入れられていることについて、ワシントン・ポストやタイムが暴きました。

なぜアメリカ政府は、神経毒性があるフッ化物や、発がん性のある六価クロムをわざわざ水道水に入れているのでしょうか。

精神病やガンを誘発して、社会不安を引き起こしたり(アメリカでの国内テロや異常な犯罪が増えている原因)、ガンなどのさまざまな病気を引き起こし人口削減を進めていることは言うまでもありません。
(以上、『大手メディアが認めた健康に関する8つの陰謀話』)

もちろん、日本の水道にはフッ化物など入っていません。
水道事業が民営化された場合、アメリカのように何が入れられるか分かったものではない、ということなのです。

日本がTPPに参加すれば、公営水道の民営化を止められなくなる!?

ボリビアとフィリピンは、世界銀行とIMFの本当の狙いに気がついたのです。

彼らは、自力で水道事業を国民の手に取り戻し多国籍企業を追い出しましたが、その後始末は水メジャーから申し渡された膨大な額の損害賠償金と、ホリビアで流された多くの国民の血でした。

幸いなことに、ボリビアもフィリピンもTPPに参加していません。
だからこそ、国民運動によって自分たちの水を取り戻すことができたのです。

愚かにも、日本はすでにTPP交渉参加を表明し、具体的な事務手続きに入っています。

日本がTPPに参加してしまえば、水メジャーは、確実にISD条項を使って日本の公営水道の民営化を押し付けてくるでしょう。

「ヨーロッパを初め、他の多くの国々はすでに水道事業の民営化を達成している。日本だけが公営水道を開放しないのは非関税障壁であるから撤廃すべし」と、いちゃもんをつけてくるのです。

麻生太郎は、ボリビアで暴動にまで発展した水道事業の民営化について、国民的議論どころかマスコミにも発表せずに、なんと日本ではなくアメリカの一介のシンクタンクで「日本の水道は国営だろうが、市営・町営だろうが、すべて民営化します」と明言してしまったのです。

これは政府間交渉ではなく、相手はただのグローバリストのシンクタンクですから、撤回したところで問題はないはずですが、低IQの麻生にはそれさえも難しいでしょう。

これは間違いなく、「TPP交渉参加の前に、日本はもう一つお土産を用意する必要がある」とCSISのマイケル・グリーンに諭されたのでしょう。それで、このオツムの軽い男は、「あっ、そう」と日本の水道を差し出すことにした… これです。

これは水道に関する一点です。

安倍晋三と麻生太郎の政権では、ボリビアで起こったように、多くの日本国民が殺されるでしょう、間違いなく。

彼らは本気で日本国をワシントンのグローバル・エリートに売り渡し、そのご褒美として長期政権を認めさせようとしているのです。


※こうした多国籍の水メジャーによる相手国からの水資源の略奪の手口については、『世界の“水”が支配される!―グローバル水企業(ウオーター・バロン)の恐るべき実態』に書かれてあります。

2004年に刊行された本ですが、まるで現代の予言詩のように、今日のグローバル・エリートによる獰猛な水争奪戦の模様が描かれています。

また、『世界の“水道民営化”の実態―新たな公共水道をめざして』にも同じく、多国籍水メジャーの世界支配について書かれてあります。

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伝説となった谷亮子の結婚披露宴

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http://www.tanteifile.com/geinou/scoop_2003/12/21_01/
幸せいっぱい!TAWARAちゃん!Part3
~ そして伝説へ ~



12月20日。オリックスの谷佳知選手と、柔道の谷亮子(旧姓・田村)選手の超豪華結婚披露宴がとり行われ、あまつさえ全国ネットで生中継までされてしまった。


ヤワラちゃん結婚披露宴「谷亮子」に

シドニー五輪柔道女子48キロ級金メダリストの田村亮子(28=トヨタ自動車)とプロ野球オリックスの谷佳知(30)の結婚披露宴が20日、東京都内のホテルで盛大に行われた。披露宴にはオリックスの宮内義彦オーナー、トヨタ自動車の張富士夫社長ら約700人が出席。アテネ五輪に出場する野球の日本代表監督の長嶋茂雄氏は「アテネではカップルでさんぜんと輝いてほしい」と熱のこもった祝辞で盛り上げた。(日刊スポーツより記事・画像引用)



これまで、スポタンでも彼女らの結婚のネタを取り上げてきた(Part1 / Part2)。
そして、ついに18:30より行われた独占生中継に思わず釘付けになった人も多いのではないだろうか。
突っ込みどころが多かったというより、突っ込まずにスルーできるの方が少なかったようだ。

有志が作られた「披露宴画像・動画サイト」に画像がUPされているので引用させていただくと・・・



花嫁の筆舌に尽くしがたい美しさもさることながら




料理やウエディングドレスなどこだわりの数々




「どないせえっちゅうねん」というような『地球儀ウェディングケーキ』(ちなみに、何故か韓国がなかったらしい)など、いろいろな意味で“伝説に残る”結婚式だったようだ。

また、サブちゃんこと北島三郎が「祭り」を歌ったり、生中継の後の番組に出演するSMAPの面々からお祝いのメッセージが届けられたが、



「オイオイ、ネクタイが黒いぞ! それって喪服じゃないのかよ!」
と突っ込まれ、上のような画像がネット上にUPされるなどしていた。

そして、なんといっても極めつけは本人の出演による
「佳知・ヤワラちゃん 愛の軌跡 ~Power of Love~」
という再現ドラマだっただろう。



“Power of Love”・・・愛の力なのか、力ずくの愛(←誤訳)なのかは定かではないが、涙なしには見れないこのドラマ。先述の「披露宴画像・動画サイト」にて動画をUPなさっているので(神!)、見ていない方がいたら是非見て欲しい。

そして、12月21日21:00からは同じく日本テレビで特番!

おめでとう!!柔ちゃん泣いた笑った花嫁修業独占密着!新婦の素顔  ▽谷さん手料理に感激▽爆笑イタリア珍道中▽仲良し有名人が暴露▽夫が撮影新妻(秘)映像▽母に手紙…涙の理由

おめでとう!!柔ちゃん泣いた笑った花嫁修業独占密着!新婦の素顔◇20日に行われた谷佳知・亮子夫妻の結婚披露宴の舞台裏に密着。陰で2人を支えた両親や友人たちの証言を交えながら、結婚に至るまでの経緯などを紹介する。披露宴出席者からの祝福メッセージや、仲の良い友人たちと催した独身最後のパーティーの様子を公開。また2人の知られざる秘話や、亮子さんがグッチ裕三のもとで料理修業した模様などを伝える。(日本テレビ)




・ ・・だそうだ。

探偵ファイルは、もう何も言いません。




( 探偵ファイル )


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関連サイト TAWARA(谷×柔)リンク


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日本刀で3人以上は斬れないは大嘘であった事が発覚 日本刀の殺傷力の高さと剣の暗黒時代 中国人捕虜の試し切りなど 残虐非道な虐殺行為が発覚

日本刀で鉄を斬れるか?!


試し斬り 中村泰三郎先生 梶原皇刀軒


Japanese Katana VS European Longsword - Samurai sword VS Knight Broadsword


ナショナルジオグラフィック 武士道と日本刀


日本刀ができるまで
















日本刀の職人たちVOL1 刀鍛冶


日本刀の職人たちVOL2 日本刀の研磨


日本刀の職人たちVOL3 白銀師


日本刀の職人たちVOL4 鞘師


日本刀の職人たちVOL5 塗師


日本刀の職人たちVOL6 柄巻師


日本刀の職人たちVOL7 装剣金工


http://www.geocities.jp/yu77799/nihontou.html

何人斬れるか ー日本刀の性能ー
その1 山本七平氏の「体験」




 「日本刀で人を斬るのは3人が限界」という「伝説」が、ネットの世界ではすっかりポピュラーなものになっています。このコンテンツでは、「伝説」の発生源である山本七平氏の論稿、及び当時のメディアでの報道状況などにより、この「伝説」に検討を加えることにします。

*なお、このコンテンツは、あくまで「日本刀3人限界説」についての検討であり、「百人斬り競争」の真偽にまで踏み込んだものではありません。また、「日本刀で百人斬れる」ことを実証しようとしたものでもありません。ときどきこのあたりを理解しないコメントをいただきますので、念のため。

 「日本刀三人限界説」が初めて登場するのは、山本七平氏『私の中の日本軍』の中でのことでした。そして、ネットなどでの議論を見る限り、事実上、「限界説」のエッセンスはこの本ですべて出尽くしていると思われます。

 しかし、この本における山本氏の記述は、要点を掴みにくく、かつ論理の流れを読み取りにくいダラダラとしたもので、この本からその「根拠」を明確に要約することは、大変困難です。とりあえずは、山本氏のあげる「根拠」らしきものに、検討を加えていくことにしましょう。


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 さて、氏はいきなり「日本刀で五人は斬れない」という「結論」から始めています(この段階では、まだ「三人限界説」は登場しません)。「なぜそういえるか」と言えば、氏自身が「斬った」体験があるからだそうです。


山本七平氏「私の中の日本軍」より
 日本刀神話の実態

 しかしそこにもし白兵戦の体験者がいたらすぐに言ったであろう。「・・・四、五人 ? 本当に人を斬った人間は , そういうあやふやな言い方はしない。野田少尉!  四人か、五人か― 五人だというなら貴官にうかがいたい、五人目に軍刀がどういう状態になったかを ―彼はおそらく答えられまい。というのは、彼が口にしている「とりつくろい」は、戦場での伝聞であっても、おそらく彼の体験ではないからである。そして戦場での伝聞は前にものべたが恐ろしく誇大になるのである。

 なぜそういえるか。理由は簡単である。私は体験者を知っており、そして私にも「斬った」体験があるからである―といっても即断しないでほしい、後述するような理由があったことで、私は別に残虐犯人というわけではない。しかし人体を日本刀で切断するということは異様なことであり、何年たってもその切り口が目の前に浮んできたり、夢に出できたりするほど、衝撃的なことである。そしてこれは、私だけではない。従って本当に人を斬ったり、人を刺殺したりした人は、まず絶対にそれを口にしない、不思議なほど言わないものである。

 結局、私もその一例に入るのかも知れないが、「日本刀で人体を切断した」という体験に、私も最後の最後までふれたくなかったのであろう。従ってこの一点を、自ら意識せずに、自分で回避していたのである。ある意味で、それを指摘される結果になったのが、 S さんという台湾の方からのお手紙であった。これは後述しよう。

 私は実際に人を斬殺した人間、人を刺殺した人聞を相当数多く知っている。そしてそういう人たちが、そのことに触れた瞬間に示す一種独特な反応―本当の体験者はその瞬間に彼の脳裏にある光景が浮ぶから、否応なしに、ある種の反応を示す―その反応を思い起すと、「本当に.斬ったヤツは絶対に自分から斬ったなどとは言わないものだ」という言葉をやはり事実だと思わないわけにいかない。

 だがここで、体験は後まわしにして ( また後まわしになるが ) 、まず日本刀なるものの実態と機能の客観的な評価からはじめよう。


(「私の中の日本軍」(下)P71~P72)



 

 氏の「だらだらとした文章」を味わっていただくために、あえて関係のない部分も含めて引用しました。

 さて、氏は、どんな体験をしたのでしょうか。「そして私にも斬った経験がある」「といっても・・・私は別に残虐犯人というわけではない」と思わせぶりに書いておいて、氏は、改行もなしにいきなり関係のない「おしゃべり」を始めてしまいました。読み流したら、この「おしゃべり」部分に「体験」が書いてあったか、と錯覚してしまいそうです。

 山本氏の文章は、全体にわたってこの調子。氏の文章から「論理」を読み取るのは、ちょっとした「仕事」です。


*最初に、いきなり「・・・四、五人 ? 本当に人を斬った人間は , そういうあやふやな言い方はしない」という記述を行っていますが、これは実は、「志々目証言」の「実際に突撃していって白兵戦の中で斬ったのは四、五人しかいない」の部分に対する批判です。「斬った人数」ではなく「白兵戦の中で斬った」人数ですので、戦場の混乱状態を考えればこの程度の「あやふや」さは十分許容範囲にあるでしょうし、実際のところ、ほとんどどうでもいい「クレーム」です。

 

 しかしこの「体験」、「後述するように、私の体験では「三人」は到底無理で、従ってこれは「最大限三人」と解すべきであろう」(P73)、「というのは、前述のように、私は軍刀を使用して人体を切断した経験がある」(P83)などと、何度も読者に「期待」を持たせる表現が出てきますが、いくら読み進んでも、肝心の「体験」そのものは一向に登場しません。登場するのは、何と、上の文章から80ページもあとになってのことでした。

 

山本七平氏「私の中の日本軍」より
  N兵長が水とナツメヤシの幹らしい丸太をもってきた。私は死体の手首をつかみ、その手を、その丸太を持つような形においた。タイマツを近づけさせた。K兵長は、顔をそむけて立っていた。私は水嚢の水を、死体の手にかけて泥を流した。白ちゃけた手が、真黒な土の中からのぴ、太い木をつかもうとしているように見えた。炎の赤い反射と黒煙の黒い影が、白い手の上で、ゆらゆらとゆれた。

 私は一歩下がって片膝をつき、軍刀を抜くと、手首めがけて振りおろした。指をばらばらに切るより、手首ごと切った方がよいように感じたからである。がっといった手ごたえで刃は骨にくいこんだが、切断できなかった。衝撃で材木から手がはずれ、手首に細いすじが入ったまま、また土の中へ帰って行きそうであった。私は軍刀を放り出すともう一度その手をつかみ、再び木材を持たすようにした。

 その時ふと、内地の連隊祭の巻藁切りを思い出した。繊維はすべて直角にはなかなか切れないが、斜めなら案外簡単に切れる。私は位置を少しかえ、手首から小指のつけ根の方へ、手の甲を斜めに切断しようとした。二度日の軍刀を振りあげたとき、鍔が何か少しガタが来たように感じた。しかしそのまま掘り下ろした。

 手の甲はぎっくりと切り離れたが、下の木が丸いためか、小指のつけ皮がついたままで、そこが妙な具合に、切られた手と手首とで、丸太をふりわけるような形になった。私は手をつまむと軍刀を包丁のようにして、その皮を断ち切った。鋭角に斬断された手首は、ずるずると穴の底へもどった。小指が皮だけで下がっている手の甲を、私は手早く紙で包み、土の上におき、円匙を手にすると、急いで土をかけた。

 そのまま円匙を手にしで、私は、機械的にO伍長の墓に来た。すペてが麻痺したような、一種の無感覚状態に陥っていたらしい。全く機械的に土を掘り起したが、彼の手は、どこにあるのかわからなかった。骨ならば手でなくてもよいだろう。そんな気がした。

 軍靴をはき、巻脚絆をつけた足が出てきた。私は足くぴをつかんで力まかせに引きあげた。S軍曹の手がなかなかあがらなかったのでそうしたのであろうが、その時、これが、彼のはずれた方の足だとは気がつかなかった。カが余って、まるで大根でも抜くような形で、はずれた足が、スポッと地上に出てきた。私は千切れた軍袴を下げ、切断部を水で洗うと、右膝をつき、左足の靴先で彼の靴を押え、まるで足をタテに割るような形で軍刀を振り下ろした。鋭い鋭角状に、肉と骨が切れた。おそらく、距離が近かったので自然に「挽き斬る」という形になったことと、刃が繊維に平行していたからであろう。

 私は、軍刀を抜身のまま放り出し、切断した部分を前と同じように処置し、急いで土を掘り、足を埋めなおしてから、軍刀を紙でぬぐった。暗くてよくわからなかったが、一見何も付着していないように見えた刀身や拭うと、確実に何かがべっとりとついていた。刀身は鞘におさまった。しかし、何か鍔や柄がガタガタグラグラする妙な感じがあった。しかしその状態は、もう再述する必要はないであろう。

(「私の中の日本軍(下)P152~P153)



 

 冗長、としか言いようのない文章です。ポイントを赤字で示したので少しは読みやすくなったでしょうが、実際にこの部分を本で読んだ方は、「読みにくさ」にうんざりされたのではないかと思います。

 要約すれば、氏の「体験談」なるものは、遺体の手首を斬ろうとしたが失敗した。改めて試みて、ようやく足を切断することができた。その時、「何か鍔(つば)や柄がガタガタするような妙な感じがあった」。それだけです。「予告」の表現から「三人」なり「四、五人」なりを「切り損なった」話を期待していた読者は、ここで肩透かしを食らわせられます。もっとも、ここまで「後回し」になっていると、もう誰も「期待」自体を覚えていないかもしれませんが。

 

 しかし、氏の「軍刀」の切れ味のあまりの悪さは、ちょっと意外です。後で山本氏がバイブルのごとく引用する成瀬氏によれば、「日本刀」は、「切れ過ぎる」くらいの道具であったはずなのですが・・・。

成瀬関次 「随筆 日本刀」より
 
 東大病院の整形外科医局長をして居られる伊藤京逸氏が(此の人は剣道家でもある)軍医としてやつぱり徐州戦に参加された時の感想として、「日本刀は案外に切れた。寧ろ切れ過ぎるかの感さへあつた。首を斬る位の事は、短いやつの片手斬りでもスパツと落ちた。刀の柄を、ぬれ手拭を絞るやうに持てといふ古人の教へは、切れ過ぎる余勢で自分と自分の左足などを切らぬための、その調節のいましめだ。」と、こんなことを話された。
(P42) 

 

 素肌の人間を斬ること位たわいのないことはない。素つ首などは、一尺四五寸位の脇差を片手に持つて、それで切れ過ぎる程だ。戦場では、若い士官などが、大刀を大上段にふりかぶり、満身の力をこめて敵の首をねらひ斬りにし、勢ひ余つて刀の切先何寸かを、土の中に切り込むのはまだよいとして、よく誤つて自分の左の脛などに大怪我をする。昔から、刀の柄を、恰もぬれ手拭を絞るやうに持て、と云はれてゐるのは、さうした切れ過ぎの場合に処する方法、即ち絞り止めに止める為だと云はれてゐる。

 骨を切るといふことも、思つた程ではない。死後若干時間が経過すると、堅くなつて切りにくいが、生き身は今年竹の程度だと、誰しもいふ。大体首は、中位の南瓜を横に切る程度、生き胴は南瓜に横に直径一寸二三分の青竹を一本貫いたものを切る程度と云つたら、略見当がつくであらう。切り損ずる原因の一つは、誰しもあわてること、上気してしまふことだ。それによつて見当を誤るのでよく肩骨に切り込んだり、奥歯に切りかけたりして失敗する。

(P61~P62)



 

 ではなぜ山本氏の刀は、遺体の手首を斬る、という程度のこともできなかったのか。種明かしをしますと、山本氏の持っていたのは、真正の「日本刀」ではなく、大量生産の粗悪品「昭和刀」であった、というのがその理由であったようです。

 山本氏は、「日本刀ではなく昭和刀を使った理由」をP84からP88にわたってダラダラと書いています。要約すれば、日本刀には製品の質にバラつきがあり、また「構造上の欠陥」があるので、「製品の刃物としての質が必ず一定水準以上」である「昭和刀」を選んだ、ということのようです。

 しかし、この「「昭和刀」というのは、成瀬氏の言葉を借りれば、実際にはこんな代物でした。

 

成瀬関次 「随筆 日本刀」より
  今事変では、殆ど有史以来の多数の日本刀が、大陸に渡つて、華々しい白兵戦条裡に、其の重要な役割を分担してゐて、後から後からと、いくら日本刀があつても足りない有様である。そこをねらつて現れたのが粗悪な昭和刀である。昭和刀といふのは、昭和年代に鍛へられた日本刀をいふのではなく、洋鉄を赤めて延ばして、恰も日本刀の如く偽装した、危険極まる折れ易い刀の名であることを忘れてはならぬ。

(P68)



 

 当時の新聞記事にも、「昭和刀」と「古い名刀」の違いが見えます。

「東京日日新聞」 昭和十三年一月二十一日

日本刀病院で 大和魂修理

 これが勇気の泉だ

【南京にて守山特派員十九日発】南京の目抜の通り中山路に「日本刀修理、大日本刀匠協会現地奉仕団」といふ看板が上つてからもう三日になる、何時見ても大変な盛況で凄い奴を携げて将校や兵隊さんが日夜入替はり立替はり来てゐる、剣や銃の修理所はあつても白兵戦に最も必要な日本刀の修理機関は軍の方にも備はつて居ない、肉弾相打つ白兵戦が多かつた上海から南京までの戦線では日本刀の傷み方も甚だしい、だから斯うした修理団の無料奉仕は非常に感謝され門前市をなす大繁盛を来すのも無理はない、

十九日国貨銀行の五階、仕事場を覗いて見た、団長栗原彦三郎氏、名誉顧問の伊集院兼知子爵を始め日本の刀剣界に堂々たる名を得る一流のお師匠ばかり十九名が日本刀の林の中に埋つては研(とぎ)や柄巻に余念がない、日本刀の病院、大和魂の修理工場である、上海で松井大将、長谷川中将の軍刀を研いだ一流の研師宮形光■氏等は語る
実戦において最近の鎔鉄で作つた所謂昭和刀が如何に惨めな結果になるかが今度こそはつきり判りました、矢つ張り古い名刀は何人斬つても刃が微かにこぼれる程度で立派なものです


この現地奉仕を機会に日本刀の機能を研究している栗原団長は

我々の別働隊は杭州にも派遣されこれまで北支から上海南京の各戦線を通じ既に一万七千口の日本刀を修理しました、併しこの度の事情で三万口の修理を目標にして居るのですからこれからです、日本刀の機能についていろいろ面白い結果を得ました 

いざ白兵戦といふ時に平素勇敢な人でもその持つて居る刀の柄が緩んで居たり刃がこぼれて居たりすると不思議に勇気が鈍り躊躇する傾がある、その反対に素晴らしい完全な刀を持つて居る人は日頃温順なしい人でもいざといふ時に非常な勇気が出る、躊躇せずに突撃が出来る、将校達は皆さういつて居られる、日本刀こそ勇気の泉です、それから支那兵は日本刀を最も恐れて居るらしく日本刀を振■して飛込むと催眠術にかかつたやうに無抵抗状態になつてしまふらしいですね

と語つた



 

 こんな「粗悪な」刀を使っての自分の「体験談」をもとに、「日本刀3人限界説」を打ち出しても、説得力は皆無でしょう。

http://www.geocities.jp/yu77799/nihontou2.html

何人斬れるか ー日本刀の性能ー
その2 『戦ふ日本刀』をめぐって



 
  さて、山本氏は、最初に紹介した文章に続けて、今度は成瀬関次氏の戦前の著作『戦ふ日本刀』 に話題を移しています。

 

山本七平氏「私の中の日本軍」より
 
 この連載をはじめてからいろいろな方からお手紙をいただいたが、この「日本刀」の実態については、日本人一名、中国人一名、台湾人一名からお手紙をいただいた。そしてこの三人がそろって指摘しているのが、成瀬関次著『戦ふ日本刀』という著書である。私はこの本を読んだことがなく、この三人の方も、いま「手元に本がなく記憶によるが・・・」とことわっておられるが、この本の内容のうち三人が指摘するのは、同書に記された同一事項なので、記憶によるといってもこの指摘は正しいと思うし、またそれが私の体験とも一致するので、次に引用させていただこう。

 これでみると、日本刀の欠陥は、私のもっていた軍刀が例外だったのではなく、全日本刀に共通する限界もしくは欠陥であったと思われる。そこで、この三人の方のお手紙の一部をまず台湾人S氏のから掲載させていただこう。氏は次のように記されている。


<例の「百人斬り」の話についてですが、私は議論の当初から、あれは物理的に不可能だと思っていました。私は本職が工学の教師ですからそのような発想をするのですが、私の論拠は、工学的に考えて日本刀というものがあのような連続的な使用に耐えうるはずがない、というものです。

 戦前の版で、『戦ふ日本刀』という本をかつて読んだことがあります。これは一人の刀鍛冶の従軍記で、前線で日本 刀を修理して歩いた記録です。この中で、日本刀というものがいかに脆いものであるか、という強い印象を得たことを覚えております。一人斬るとすぐに刃がこぼれ、折れたり曲がったり、柄がはずれたりするものらしいです。

 同封の切抜きは去年の九月二十八日付朝日新聞のものですが、この中にも「日本刀で本当に斬れるのはいいとこ三人」という、殺陣師(たてし)の談話があります。

 この「百人斬り」について、山本氏をはじめ多くの人が 精緻を極めた議論をしていますが、工学的見地から日本刀の効用の限界を論じた議論が皆無なのを不思議に思います。刀剣の専門家はたくさんいるはずですから、この角度から検討すれば、「百人斬り」の虚構性はたちどころに明らかになるのではないかと思います。何かのついでがありましたら、どうぞ山本氏にこの意見をお伝え下さるようおねがいいたします>


 同封の朝日新聞の切抜きは省略させていただくが、後述するように、私の体験では「三人」は到底無理で、したがってこれは「最大限三人」と解すべきであろう。

 
(「私の中の日本軍(下)P72~P73)



 

 「日本人一名、中国人一名、台湾人一名」という国際色豊かな読者から、それぞれ、当時ほとんど知られていなかった『戦ふ日本刀』について記した手紙が来、しかも三人とも「手元に本がな」い状態だった、という「偶然」が果たしてありうるのかどうか、という「疑問」はさておきましょう。

 しかしこの「工学の教師」の手紙も、奇妙です。自分から「私の論拠は、工学的に考えて日本刀というものがあのような連続的な使用に耐えうるはずがない、というもの」と断言しておきながら、自分からは「工学的な裏付け」を全く示さず、それどころか、「工学的見地から日本刀の効用の限界」を調べるよう、山本氏に依頼する、というちぐはぐなことを行っています。(そこまで断言するのであれば、断言するだけの工学的データを自分で持っていそうなものですが) そして語っている「論拠」らしきものは、「工学」とは縁もゆかりもない、「成瀬関次氏」であったり、「殺陣師の談話」であったりします。

 この手紙は実は山本氏の「創作」であり、「権威付け」をするために「工学的」云々という単語を持ち出した、という可能性も、決して否定できないように思います。

 

 さて氏は、「手紙」の表現を受ける形で、ここで初めて「最大限三人」という数字を語っています。その根拠はやはり「私の体験」だそうですが、その「体験」なるもののお粗末さは、既に見たとおりです。

(「日本刀三人限界説」の根拠が、この成瀬氏の本の記述ではなく、単なる「自分の体験」であることに、ご注意ください 。後述の通り、成瀬氏の本をいくら読んでも、「限界説」の根拠になる記述は見えません)

 


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 氏は、次章「日本刀神話の実態」でこの『戦ふ日本刀』を入手し、自分の論の「補強材料」に使おうと試みます。

 まず注意しておきたいことは、この『戦ふ日本刀』には、「日本刀三人限界説」を思わせるような記述は、一切存在しないことです。 それどころか、以下のように、成瀬氏は、「47人斬り」の話を何の疑問もなく肯定的に紹介しています。

 

成瀬関次「戦ふ日本刀」より
 或る暑い日であつた。開封城内の修理班へ時目といふ変つた姓の少尉が自身刀を持つて修理にやつてきた。苗田藩槍一筋の家に生れたと云つてゐたから、加賀百万石か、それとも支藩大聖寺、富山、上州七日市の前田かそれは聞き漏らしたが、無銘古刀の武家伝来らしいよい刀を持つてゐた。それで南京攻略の軍中三十七人を斬り、徐洲戦で十人、都合四十七人を手にかけ、縛り首は一つも斬らなかつたといふ。少尉の物斬り話には、傾聴に値するものがあつた。

 第一に、武道家は居合とランニングをやらにゃいかんと云つた。その理由は、南京物斬り三十七人中の三十人までは、後から追い縋り追い縋りして斬つた者で、ランニングの選手であつた賜物。次に居合の手にある”虎乱刀”即ち右足一足で抜き打ちに敵の背後から真一文字に切りつけ、左足一足でふり冠り、再び右足を踏んで上から切りつける。これを連続的に進行し乍らやる早業の動作であるが、その調子で斬つた。部下に中山博道先生門下の居合の達人が居て、戦地へ来てから習ひ覚えた。半年程のうちに、進行し乍ら抜打に切つて鞘に収める早業を、歩き乍ら実地にやつて見てこれも自信を得たと云ふ。つまり辻斬をやつたのだ。

 刀を見ると、血糊で白くなつている。性質のよい古刀で骨ごと斬ると、必ず刄まくれの出来るのは一つの定則であるが、中央から上、物打下にそれも型の如くに出来て居り、刄こぼれも三ヶ所、刀全体がジツトリしてゐた。少尉は話をつづける。

 「向ひ来る敵のどこが一番斬りよいかと云へばそれは敵の左右の肩で、その次が胸腹部の突きだ。敵が鉄兜をかぶつてゐる限り面打は断念したがいいし、胴と小手は実際には斬りにくいものだ。剣道では、その切りにくい面、小手、胴を目標とし、突きにくい喉を狙ふ事をやらせてゐる。困難な事に習熟させるのだと云つて了へばそれまでだが、僕かア君、切りよいところ、突きよいところを狙ふ稽古に、平生から熟達させて置いた方がよいやうに思ふね。どうだい君やア。」

 この思ひがけない掘出物の戦場武道家は、僅か中学校で剣道をやつただけだといふ。驚きの目をみはると、

「いや、もつとえらいのがゐる。それ、新聞にも出たらう。アノ百人斬りの先生は会社員で、重いものは算盤一挺といふ人間だよ。」といふ。

最後の名説はかうだ。

「対敵中は物さへ見えればそれで勝つ。この修練だけは実際に場数を踏まぬと困難だ。目の見える結果は、本能的に多勢を避けて少なきに向ひ、足もとの危ない所をよける。それから・・・」と声を落して、「強きを避けて弱きに向ふ。つまり弱さうな奴から先に片づけるんだね。」

と話を結んだ。

 成る程、宮本武蔵でも近藤勇でも、乱刄渦中で闘つた記録は絶対にない。あるとすればそれは小説だ。瞬間に自己の有利な安全な場所に就き、間一髪の間に敵の破綻を見破つてつけ込む。さうした機動的な刀法を使つたのも畢竟”目が見えた”からであって、武蔵が『兵法至極して勝つには非ず、自ら道の器用ありて天理を離れざる故』と云つた一面の機微の一つは、まさにその点にもあるのだ。次郎長の剣法も、彼が子分によく云つたといわるる『喧嘩して敵の両足が見えたら勝負はこつちのものだ。』という言葉に盡きてゐる。

 目の見えるといふ事は落ちつく事で、武道修練といふ事もその条件であり、無意識の意識がさせる別作用である。

(昭和15年発行 P77~P79)



 
 さらに成瀬氏は、「十人二十人といふ敵を斬つた」という多くの「武功談」について、「誇張や法螺でない」、というコメントを残しています。

成瀬関次「戦ふ日本刀」より

  今度の事変中、一戦ごとに一人で十人二十人といふ敵を斬つた事が新聞にも現はれ、従軍後は、各部隊でさうした功名談もよく聞き、部隊長又は隊長からも、 部下のかうした武功談を度々耳にした。実際誇張や法螺でない事は、血刀を修理して見ただけでも、それが頷けた。自分は、兵隊の撮影した 写真で、斬撃された敵屍の折重なつてゐる所を見た事があり、五月初旬、蘭陵鎮へ行軍途上、左荘といふ部落の近くで、刀傷で倒れてゐる敵の死体幾つかを見た事があつた。

(P25)


 

 さて、こんな本から、山本氏は、何とかして自説に有利な材料を捜し出そうと試みます。しかし、成瀬氏自身が「何十人斬り」の肯定を前提に記述を行っている以上、いくらこの本の記述をつまみ食い的に引用しても、山本氏の「日本刀三人限界説」の補強材料にはなりそうにないことは、言うまでもないでしょう。

 『戦ふ日本刀』が「日本刀の強さと弱さ」をさまざまな側面から語っているのは事実ですが、実際にこの本を読んだ方でしたら、「日本刀は、無限に人を斬れるスーパー兵器ではない。さりとて、三人しか斬れないような情けない兵器でもない」という印象を持つのではないでしょうか。

 「日本刀で何人斬れるか」ということは、「実験」などしようもありませんし、おそらく誰にもわからないでしょう。しかし少なくとも「最大限三人」ということはありえないし、実際の話、当時の「専門家」である成瀬氏は、条件の良い日本刀でしたら、少なくとも「数十人」は十分可能だった、と考えていたようです。


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 なお、先にあげた「47人斬り」の部分について、山本氏は次のようにコメントしています。

山本七平氏「私の中の日本軍」より
  そしてここにも「百人斬り」的自慢をする一少尉が登場して、四十七人斬りを披露し―この百人とか四十七人とかいう数が面白い―さんざん自慢した後で「いや、もつとえらいのがゐる。それ、新聞にも出たらう。アノ百人斬りの先生は会社員で、重いものは算盤一挺といふ人間だよ」といっている。言うまでもなく浅海特派員の「虚報」のことである。

 ところが相手が専門家とわかったためか彼の大言壮語がだんだん変になっていく。氏は皮肉な調子で彼の「・・・最後の名説はかうだ『・・・つまり弱さうな奴から先に片づけるんだね』と話を結んだ。成る程、宮本武蔵でも近藤勇でも、乱刄渦中で闘つた記録は絶対にない。あるとすれば小説だ・・・」と記している。こういう書き方は、戦争中の言論統制下独特のもので、わざと「名説」といい、そして「乱刄渦中で闘つたところが相手が専門家とわかったためか彼の大言壮語がだんだん変になっていく。記録は絶対にない。あるとすれば小説だ・・・」と記して、それ以上は何もいわないのである。白兵戦はいうまでもなく乱刄渦中である。

 ではなぜこういう言い方になるか。当時の軍人と今の新聞記者とはやや似た位置にあったと思われる。というのは今では「大記者」の記事を「フィクション」だなどといえばそれこそ大変で、ガリ版刷りの脅迫状(?)まで来るわけだが、当時は軍人が明言したことを「小説(フィクション)」だなどといえばそれこそ大変であった。従って「宮本武蔵でも近藤勇でも」その「記録は絶対にない」あればフィクションだと氏は言っているのであって、この少尉の言っていることをフィクションだと断言しているのではないのである。そして、それをどう判読するかは、読者にゆだねているわけである。

(「私の中の日本軍」(下)P101~P102)



 

 これまた「悪文」で、「解読」に苦労しそうな文章です。氏のコメントを、個別に見ていきましょう。


●この百人とか四十七人とかいう数が面白い

 山本氏は、どうやら、「四十七人」という数は「赤穂浪士」の話に合わせたものではないのか、と言いたいようです。しかし、元の文を読めばわかりますが、「斬った数」は、「南京攻略の軍中三十七人を斬り、徐洲戦で十人、都合四十七人」と、「内訳」が明らかにされています。「四十七人」という数の一致は、単なる偶然、と見る方が自然でしょう。


●ところが相手が専門家とわかったためか彼の大言壮語がだんだん変になっていく。

 語り手である「時目少尉」は「刀の修理」を頼みにきたのですから、成瀬氏が「専門家」である、ということは、初めからわかっていたはずです。元の文を見ても、話が途中から「だんだん変になっていく」という雰囲気のものではなく、私にはむしろ、時目少尉は、実はこうなんだよ、と悪戯っぽく告白しているように思われます。


●この少尉の言っていることをフィクションだと断言しているのではないのである。そして、それをどう判読するかは、読者にゆだねているわけである。

 どうも山本氏は、「成瀬氏は、時目少尉の話をフィクションだと考えているが、そうはっきり言うことはできないので、遠まわしにフィクションであることをほのめかしている」と言いたいようです。

 しかしこのあたり、山本氏の「解釈」は、滅茶苦茶です。元の文は、こうでした。

「(略)それから・・・」と声を落して、「強きを避けて弱きに向ふ。つまり弱さうな奴から先に片づけるんだね。」と話を結んだ。成る程、宮本武蔵でも近藤勇でも、乱刄渦中で闘つた記録は絶対にない。あるとすればそれは小説だ。

 少尉は、「47人斬り」の裏話として、「弱さうな奴から先に片づけるんだね」と告白しています。成瀬氏はそれを受けて、なるほど、「乱刄渦中で闘つた」わけではなかったわけだ、と書いています。それだけの話であり、これを、成瀬氏は実は「47人斬り」を「フィクション」だと考えていたのだ、と解釈するのは、どう見ても「 無茶」というものです。



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 ネットでは、「日中戦争という近代戦の場で、刀がそんな大きな役割を果たしたはずがない」という「思い込み」の書き込みを目にすることがあります。実際には、「銃剣突撃による夜襲」は日本軍の得意戦法でした。例えば、支那駐屯軍主任参謀、関東軍参謀副長等の要職を務め、終戦時は鈴木貫太郎内閣の綜合計画局長官の地位にあった池田純久氏の記述です。

 

池田純久氏『陸軍葬儀委員長』より

  処で、支那軍は昼は日本軍の砲火が恐いので大概夜に入つてから我陣地に襲撃して来る。然し支那軍は夜襲は下手である。小銃を射ち乍ら来攻するのであるから、すぐこちらに感ずかれてしまうのは当然である。

 一体野戦の方法の巧拙によつて、軍隊の強弱を測定する事が出来るものである。勇敢な軍隊程全く射撃なしで肉迫し、一挙に銃剣を以て突入する。

 それでも中には臆病な兵もいて、夜間行動の最中に、恐ろしさの余り無意識に発砲して全体の攻撃企図を曝露することがある。だから、夜襲しようとする軍隊は、銃に弾丸を装填せず、時には銃を縄などで巻いて弾丸が入らぬようにして置く位である。

 恰度あの川中島の戦のように「鞭声粛々夜渡河」である。その粛々として行動する事が夜間戦闘の秘訣である。

 日本軍は総じて夜間戦闘が上手であり、特に第六師団は、これを最も得意としていた。黙々として敵陣に迫り、一挙に銃剣で突入するのであるから、支那側が第六師団を恐れるのも無理はなかつた。

(同書 P54)
 



 日本刀が本当に二、三人しか斬れないものであるならば、そもそもこんな戦法は、成立するはずもありません。

 


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 最後に、この時期、いろいろなメディアを賑わせた「何十人斬り」の武勇伝を、 私の手元にある資料から、いくつか紹介しておきましょう。全部が全部真実であったかどうかまではわかりませんが、「百人斬り競争」が、決して、孤立した特異な話ではなかったことがわかると思います。

 

「支那事変 忠烈偉勲録第二輯」より


 豪瞻敵五十を薙倒す  陸軍歩兵曹長 I・Y (原文は実名)

 (略)

 今日も亦戦ひぬいたが日は暮れて行つた。相変らず雨は止まない。畜生!!何んとかしてやり度いと・・・歯がみして居るのである。○○部隊(原文通り)は払暁を期して遮二無二に敵陣を奪取しやうと云ふことになつた。そのとき○○隊のI曹長は深く決する処があつて、軽装して家伝の名刀一振を命として唯一人のM上等兵(原文は実名)を率ひて夜が未だ明け放れない前に敵陣へと肉迫した。

 往年日露の役に蘇麻堡(そまほ)の敵襲が決行せられた時に少壮の士官達は極寒零下十度の冬空に襦袢一枚に抜身の日本刀を堤(ひっさ)げて突進したことを思ひ出すのである。

 曹長は身長六尺に近い大男で、その上剣道の達人であるから十分の自信を以て居るばかりでなく、燃へるやうな攻撃精神を以て殉忠奉公の時は今であるとばかりに勇躍敵陣に踊り込んだ、そして大声に敵兵を叱咤しつつ薄闇塹壕内に切り込んだのであるから、敵は全く失心するばかりに驚いた。この隙を見て当るを得手と縦横に薙ぎ倒した。何しろ狭い塹壕の内で次から次へと切つて行く、まるで面白い程である、かうした間に夜は明け放れたので、M上等兵と協力して滅多切に斬つた。

 敵はこの勢におぢて逃げまどうありさまは実に哀れな位であつた。曹長の切り倒した敵兵は五十人以上はあつた。この時味方は全線進撃を開始したので、曹長は敵の迫撃砲と小銃を鹵獲して悠々○○本部に合した。然しこの獅子奮闘の働きにも負傷一つせなかつたことは実に天佑と云はねばならぬ。

 戦ひが済んで愛刀を調べてみたら、さすがに名刀ではあるが、刃が大部コワれて居た。

(昭和十三年発行。P165~P166)



 

「東京日日新聞」昭和十三年一月十日

 単身・敵中で阿修羅王
  
  廿余名を銃剣の槍玉  杭州戦線の大殲滅戦
 

【杭州にて六日早川特派員発】小堺、片岡両部隊の富陽における■■廿五日の大殲滅戦は杭州戦線において嘗て見ない目ざましいもので、敵の戦闘司令所はわが松木部隊の砲撃で吹ツ飛ばされ敵の損害は二千名に上り 非常な戦果を収めたが、殊にこの戦闘における歩兵部隊の活躍も物すごく組んづほぐれづの大白兵戦が展開されたのも特筆すべく、中でも広瀬部隊T上等兵(原文実名)は廿五日午後一時半頃高地でラッパを吹いて血路を開かんと逆襲に転じて来た四十余名の敵中に阿修羅のごとく殴り込み突いて突いて突きまくり廿名を銃剣で突き倒した、この時敵の拳銃弾はT上等兵の左足を貫通したがこれにひるむことなくさらに三名を突き殺したのでこの鬼神のごとき働きにさすがの敵も潰走した。

(2面右上、5段見出し)


 

「日の出」昭和十三年一月号

 南京攻略戦の花! 報国百人斬り競争

柳川武彦

  浅間部隊のK少尉は、月浦鎮附近呉家宅の白兵戦で、敵兵二十人を斬り倒した。和知部隊でその人ありと知られた剣豪H少尉は、二十七人を斬り捲つた。人梯子を組んで 陽高一番乗りをしたM大尉は、左手に軍刀を揮(ふる)つて、群がる二十数人の敵を薙倒し、突き倒し、兵士の中にも敵兵四十人を芋刺しにした猛者があつた。(以上、原文ではすべて実名)

 かういふ日本刀の奮戦談は、今度の事変で各新聞紙上を次ぎ次ぎと飾つてゐるが、なんといつても痛快無類なのは片桐部隊、富山部隊の二青年将校、向井敏明、野田巌両少尉の「報国百人斬り競争」だ。

(以下略)



 

読売新聞社編輯局編「支那事変実記」第一輯より

 (一九三七年)八月二十八日

 敵兵四十名を薙倒す

 羅店門は敵の死守する地点、和知、永津両部隊は二十七日から一斉に攻撃を開始した。夜半に至つて闘志に燃えた我部隊長の指揮する○○部隊は、夜襲により韓宅村附近を攻撃せんとして揚家村附近から南進を開始し、遙河村東側陣地区を通過せんとするや、 敵は突如右側面から攻撃を開始した。小癪なと和知部隊長は全部隊に対し、その右方に向つて攻撃前進を命じ、軍刀を引抜いて敵陣地に阿修羅の如く斬り込んだ。

 まつ先に立つて突き進んで行く隊長の身を案ずる部下将士はいよいよ勇気百倍、一発の弾丸も放つことなく敵兵の真ん中に踊り込んで片つぱしから薙ぎ倒し突き殺して進んだ。恒岡部隊長はこのとき三十余名を斬りまくつた。『四十名まで数へたんだが後はわからない』といふ某少尉の奮闘もこのときだつた。

(P320)



 

木村毅『上海従軍日録』より
 丁度その晩は、○○師団の和知部隊が羅店鎮を、千メートルの長距離突撃をして、占領した詳報の入つた晩である。

 『何しろ木村さん、こんな壮烈な白兵戦は有史以来無いですよ』

 それはさうだろう。機械的武器を以て、距離をおいて対峙すれば支那兵もなかなかよく戦ふ。だが手許に食ひこまれたら、彼等はまるでたわいが無い。わが軍が敵塹壕へ飛こむと、彼等は気を呑まれて了つて、殆んど抵抗しないから、まるで向ふから斬つてくれと云つて首をさしのべてくるやうに思へたさうだ。

 三十人斬り、二十人斬りと云ふのを、信じかねてゐる新聞もあつたが、羅店鎮でだけはそれが本当だつたやうだ。

(『改造』1937年十月増大号 支那事変特集 P152)
 
*「羅店門」という場所が共通していますので、これは、前の「支那事変実記」に書かれている事件のことかもしれません。



『東京朝日新聞』昭和十二年八月二十二日
支那兵廿名西瓜斬り 上海陣の"宮本武蔵"


【上海にて高橋特派員二十一日発】 我が東部右翼最前線柴田部隊は十九日午後から二十日払暁にかけて我に十数倍する敵軍と猛烈な戦闘を続けてこれを撃退したが十九日夕刻の戦闘において敵の正規兵、便衣隊の中に踊り込み血しぶきを浴びて敵の頭を四つ刎ね又十六名をなぎ倒した二勇士の奮戦振りが陣中の話題となつてゐる

柴田部隊の○○、○両兵曹長(原文実名)がそれぞれ二手に分れ部下数名づつ引率して敵最前線に近づくと突如空家と思はれた民家の陰から数十名の便衣隊が次々にピストルを持つて発砲して来た、その中に数名の正規兵も混つて発砲してゐる

「何を小癪な」とばかり両兵曹長は部下を指揮して猛襲する、勇敢無比の我が兵士は片つ端から敵兵を引捕へて来る 両兵曹長は勇敢にも敵中に踊り込んで日本刀を抜き放つて斬つて斬つて斬りまくる、斯くて○○兵曹長は敵の頭を四つ刎ね、○兵曹長は斬りも斬つたり十六人をなぎ倒した、

二十一日朝柴田部隊を尋ねると丁度○○、○両兵曹長が最前線出動の前を仲良く並んで一休みしてゐる所だ、両兵曹長は鞘を払つて見せてくれた氷のやうな日本刀にはまだ生々しい血がついてゐる、両兵曹長の持物も無銘であるが相当の業物だ、十六名を斬つたといふのに一ヶ所の刃こぼれもない

支那兵なんてまるで大根か蕪のやうなものさ、いくら斬つたつてちつとも手応へがない、この調子だと戦が済むまで百人以上は楽に斬つて見せるぞ

両兵曹長は豪快に笑ひ立上つて再び前線に向つた


 


 成瀬氏自身も、当時のメディアに現れた話を紹介しています。

成瀬関次「随筆 日本刀」より

  香港ニコルス山の突撃に、岡田中尉が、白刃を揮つて英兵三十六人を斬つて落した話。馬来半島メンキボルの英本国兵の堅陣に対し、板家少尉が二十三名の精兵と共に日本刀を揮つて斬り込み、一隊壮烈なる戦死を遂げてしかも敵を潰走せしめた話。シンガポール島、ブキ・テマの堅陣を屠り、南貯水池に迫った時、逆襲して来た英戦車八台中の二台に飛鳥の如く躍り上り、日本刀を揮つて敵の乗員五人を斬つて落した大江中尉の話。さては、軍刀を揮つて爆雷の電動線を切り橋梁の爆破を未然に防いだ事。一兵が短刀を以て敵の宿舎深く忍び込み、敵の将校を刺し殺した事、等々。「日本刀日本人と共にあり。」の感いよいよ深きものあるを感ぜしめずには置かない。

(P4)


 



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2009.12.13追記

「日本刀の性能」問題に関する、秦郁彦氏の見解を紹介しておきます。




秦郁彦氏「『いわゆる「百人斬り」事件の虚と実(二)』より

 ついでに解釈が分かれた日本刀の殺傷力をめぐる論争についても触れておこう。最初に問題を提起したのはベンダサン=山本七平で、山本の著書『私の中の日本車』上下(一九七五)における彼の言い分は「日本刀神話の実態」とか「白兵戦に適さない名刀」といった章のタイトルでおよその見当がつこう。

 山本が主として依拠したのは、中国の戦場で二千本の軍刀修理に当った成瀬関次の著書『戦ふ日本刀』(一九四〇)などで、自身の経験も織りまぜ、「日本刀は非常に消耗が早く、実際の戦闘では、一回使えばほぼ廃品になってしまう」(R氏)とか「日本刀で本当に斬れるのはいいとこ三人」(殺陣師の談話)とか「一刀のもとに斬り殺すほど鋭利な日本刀は実際はほとんど皆無」(成瀬関次著より)といったくだりを引用して、「日本刀にはバッタバッタと百人斬りができるものでない」と結論づけている。

 こうした山本の所論はその後の論争に大きな影響を与え、百人斬りの全面否定論者たちによって有力な論拠にされてしまう。だが山本の所論は二つの理由から、トリックないしミスリーディングと言えよう。

第一は首斬り浅右衛門の処刑法がそうだったように、無抵抗の「罪人」(捕虜)を据えもの斬りする場面を想定外としていること、第二は成瀬著から都合のよい部分だけを利用し、悪い事例を無視していることだ。

 成瀬著に目を通すと、刀や剣士の多彩な事例が豊富に紹介されていて、総合すれば日本刀の優秀性が印象づけられる。

「戦線には、何等武術の心得もなくして、実に巧妙に、如何様にも断り落とす名手が少くない。こうした今浅右衛門は、どこの部隊にも一人や二人は居る」とか、曲ることはあるが、「二千振近いものの中に、折れは一振も見なかった」とか、日中戦争では器械化戦とはいえ「他面一騎打の原始戦が盛んに行われ・・・斯く大量的に、しかも異国に於て日本刀の威力を発揮した記録は、全く前例のない事」のような記述である。

 成瀬は、さらに具体例として無銘古刀の修理にやってきた時目少尉から「南京攻略の軍中三十七人を斬り、徐州戦で十人、都合四十七人を手にかけ、縛り首は一つも斬らなかった」が、多くは後から追いすがって断ったもので、ランニング選手だった賜物という感想も聞いた。

 この少尉は中学校で剣道をやっただけというので成瀬が驚きの目をみはると、「いや、もっとえらいのがいる。それ、新聞にも出たろう。アノ百人斬りの先生は会社員で、重いものは算盤一挺という人間だよ」と、向井少尉らしき人物が引き合いに出されている。

 また『ペンの陰謀』に寄稿した鵜野晋太郎少尉は、捕虜十人を並べてたてつづけに首を切り落とした経験を書き、「人斬りが面白くなり、同期生を見ても"いい首をしているなあ"と思うようになった」と告白した。鵜野によれば、「百人斬り競争」とは「据え物断り競争」のことだという。

 白兵戦の機会はほとんどなかったはずだとか、一刀で何人も斬る前に日本刀が破損するはずといった臆断は必ずしも当らないことが知れる。
  


 (『政経研究』2006年2月 P96-P97)
  





(2004.6.20記 2006.6.7資料追加、2007.6.17資料追加 2009.12.13秦郁彦氏見解を追記)

http://www.geocities.jp/yu77799/tamesigiri.html
捕虜の試し斬り



 日本軍では、「軍刀の切れ味を試す」ための「捕虜の試し斬り」が、何の抵抗もなく行われていました。言ってみれば「面白半分の殺害」であり、「南京事件」についてどのような立場に立つにせよ、弁護することが難しい行為でしょう。
 このコンテンツでは、このような「試し斬り」の資料を紹介します。


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 まず、第十六師団長、中島今朝吾日記より。南京陥落当日の記述です。

中島今朝吾日記
◇十二月十三日 天気晴朗

(略)

一、一昨夜第一線各隊の奮闘に対し聊か謝意を表する為南京攻略後の祝酒として携行せし酒を第一に追送分配したり

一、本日正午高山剣士来着す
  捕虜七名あり 直に試斬を為さしむ
  時恰も小生の刀も亦此時彼をして試斬せしめ頚二つを見込(事)斬りたり

一、午後司令部は躍進して西山の麓にある郵便局に移り此処にて事後処理を為す

(以下略)

(『南京戦史資料集Ⅰ』 P218)


*カタカナをひらがなに修正しました。
**「中島今朝吾日記」のうち、12月13日の部分の全文は、こちらに掲載してあります。




 あっさりと読み流してしまいそうな文章ですが、想像すると背筋が寒くなりそうなシーンです。こんなことを平気で日記に記すあたり、中島師団長はこれを「残虐行為」であるとは夢にも考えていないことがわかります。

 師団長自らがこうなのですから、下士官クラスのメンタリティは容易に想像がつきます。

 

「証言による『南京戦史』」(10)より
▼住谷盤根氏の回想

(第三艦隊従軍画家、安宅乗組)
―南京陥落後の捕虜殺害― (雑誌『東郷』58年12月号)

 その時「陸軍からの問い合わせの電報があって、捕虜の処分はどうなっているか?」と第三艦隊司令部から、問い合わせがかかってきた。福岡参謀は「未だ判りません。すぐ調べて報告します」と返電して部屋の外へ出て行かれた。私は直ちに福岡参謀の後に従って、士官室に戻った。

 士官室ではこの問題を知っていて、若い中尉(名前は忘れた)が、家宝の銘刀を軍刀に仕込んだのを握って「今晩一つ試してみたいのです。未だ一度も使っていないから」と力んで士官室を出て行かれた。夕食がすんで大分たってからである。

 私も中尉に従って士官室を出て校門を降り、下関埠頭を左の方に行って、紅岸の鉄の垣根(手すりの低い棚)のところへ行った。道路の右側に捕虜が五人ずつ縛られて、ずっと遠くまで並んでいたようだが、夜の暗がりでよく見極められない。

 陸軍の兵士が、その五人を鉄の垣根のところへ連れ出し、江へ面して手すりに向こうむきに並ばせては、後ろから銃剣で突き刺すのである。その様子は、とてもまともに見ていられない。海軍中尉も、この様子を見て「とても後ろから斬りとばすことはできない」とやめてしまった。私が懐中電灯で照らすので「その電灯は離れないと返り血を浴びる」と陸軍に言われたので、これを潮時に中尉と二人で安宅に帰った。

 夕方暗いなかを陸軍兵に連れられてきた中国人捕虜の数は約千人足らずと見た。他にも捕虜があったのではないかと考えたが、ともかく何万という捕虜は、南京に関する限り、あるはずがないことは確実である。

(『偕行』1985年1月号 P32)



 

岡田酉次氏『日中戦争裏方記』より
 ちょうど南京陥落の前日の夕刻、私は朝香宮軍司令部とともに南京東方の温泉湯山に宿営したが、以下その夜突発した戦況の思い出を一、二つづってみよう。

 当時華中方面に派遣されていた諸部隊の最高司令部として、従来のそれであった上海派遣軍司令部の上に新しく中支那派遣軍司令部が設置され、その司令官として松井石根大将が引き続きこれに当たり、上海派遣軍と第十軍(柳川兵団)とをあわせ指揮することになり、空席となった上海派遣軍司令官には別に朝香宮鳩彦王中将が着任した。

 この夜同司令部は、かなりの戦災を受けている一温泉旅館の建物に陣取ったが、黄昏ともなる頃司令部の衛兵所に一騒動が持ち上がった。三方面からする日本軍の挟撃にあい、逃げ道を失い湯山に迷い込んできた敵の小部隊が司令部の西北方に現われ、たまたま宿営準備で右往左往する日本兵を認めて、司令部に機関銃撃を加えてきたのである。

 特に当軍司令官は新たに着任したばかりの朝香宮殿下とあって、副官のあわてようもまた格別である。もちろん司令部には騎馬衛兵が若干いるのであるが、進んでこれを撃退するだけの兵力ではない。副官は隷下砲兵隊の援助を求めようとしたが近傍にはいないらしく、結局近くで布陣していた高射砲を引張り出し、対空ならぬ水平の方向に発砲させてとにかく敵部隊を沈黙させた。

 この時数名の敵兵が捕虜になったとのニュースが伝わると、特に下士官連中がおっとり刀でこれに殺到せんとする光景を見せつけられ、戦場ならでの思いを深くした。おそらく伝来家宝の日本刀や高価を払って仕込んできた腰の軍刀がうづいていたのであろう。いずれにしても戦場の夢ははかなかった。

(同書 P111~P112)


*「ゆう」注 岡田酉次氏の人物について、巻末の「著者紹介」を引用します。

明治30年、三重県鈴鹿市に生まれる。
陸軍経理学校、同高等科卒業ののち、東京帝国大学経済学部に入学、昭和8年卒業後間もなく参謀本部支那課に配属される。昭和11年、駐在武官として上海武官府に赴任し、以後、日華事変勃発とともに戦争の物資調達、各種工作等に従事、さらに維新政府、汪政府軍事顧問兼経済顧問当をつとめる。その間、日中和平工作に直接参画するなど、戦争終結のための裏方役としても活躍。終戦時は陸軍主計少将。
昭和33年より日本発条㈱副社長、現在(「ゆう」注.1974年)同社顧問。





 現場の兵士の体験談も、追加しておきましょう。「将校」が、「少し負傷」した「捕虜」に対して「日本刀の切味を試」そうとしたもので、明らかな「捕虜虐殺」です。


『「斉藤次郎」陣中日記』より
十二月十三日

 南京の敵は後退しつつあり我が軍の追撃に会ひ混乱の状態との情報だ、夕刻南京東方四里の一寒村に宿営する、夜七時頃大行李二大隊の熊田君外一名が敗残兵一名を捕虜にして来る、捕虜にする際少し負傷して居つた、

 一将校が軍刀で日本刀の切味を試さんとしたら少しのすきをみて逃げ出したのを自分と××君と二人で追い四、五十間逃げる敵兵を田圃中を追ふ、若松で刃をたてた銃剣を引抜いて満月に近い月光をあびて追跡する様は内地でみる活動写真の映画其のものの感がする。

 ××君より早く追いつき銃剣を以て肩先を力にまかせて一剣あびせかける。手ごたえあり其の場に昏倒してしまふ、ようやく追いついた友軍の人達が集まり先の将校が脳天を真二つに割る、昏倒して居るのを切つたのでくびをはねる積だつたのだろうが手元が少し違つたのだろう・・・自分も戦地に来て始めて人に刃を向けてみる、

 敵兵も年齢廿六七才か、これも妻子を残してやはり我等と同じく生命を賭して困難にあたつて居るかと思へば敵兵をたをした痛快なる反面、一種の悲哀の情が湧いて、めい福せよと頭を下げる・・・・

(『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』 P36)

*歩兵第六十五連隊本部通信班小行李・輜重特務兵






(2003記  2006.3.18「斉藤次郎陣中日記」追記)

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「百人斬り競争」論議の開幕

1972年、本多-山本論争

 


今や「国民的論議」にまで発展してしまった感のある「百人斬り競争」ですが、そもそもこの論争はどのように始まったのか。


例えば秦郁彦氏はこんなふうに書きますが・・・



秦郁彦『南京事件 増補版』より


 七一年、本多勝一記者は中国旅行中に南京で聞きこんだ百人斬り伝説を『朝日新聞』の連載でむし返し、ひきつづく論争の過程で、それが捕虜の「据え物斬り」だったと主張する。

(P307)



秦氏の意図はわかりませんが、おそらくこの文を読んだ方は、誰もが忘れていた「百人斬り競争」事件を、本多記者が大々的に宣伝して無理やり復活させたかのように誤解するのではないでしょうか。そんなイメージが、一般にもすっかり定着しているように思われます。

実態としては、本多氏の記事というのは、この程度のものでした。同じく秦氏が、別のメディアに発表した一文です。



秦郁彦『いわゆる「百人斬り」事件の虚と実(二)』より


 ところで本稿の主題である百人斬りに限れば、本多の記述は七一年十一月五日夕刊の一回だけ、それも二十数行にすぎない。見だしも「競う二人の少尉」と地味で、二人の実名もイニシァルも控え、AとBの仮名で通している(単行本では実名に)。

(『政経研究』2006年2月掲載 P82)




この程度の記述が、どうして今日の「国民的論争」にまで発展してしまったのか。以下、見ていきましょう。




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議論の発端は、1970年代初めに行われた、本多勝一氏と山本七平氏の、『諸君!』誌上での論争でした。その全文は、本多勝一氏『殺す側の論理』で見ることができますので、これに沿って見ていきましょう。

*なお論争時点では、山本七平氏は「イザヤ・ペンダサン」なる偽名を使っていました。しかしのちに、「イザヤ・ペンダサン」というのは実は山本七平氏のことであったことが明らかになりますので、こちらでは混乱を避けるべく、「本多氏対山本氏」という形に統一します。


論争は、山本氏の「朝日新聞の「ゴメンナサイ」」(『諸君!』1972年1月号)に幕を開けました。これに対する本多氏の反論が、「イザヤ-ベンダサン氏への公開状」(『諸君!』1972年2月号)です。この時点では「百人斬り競争」の話題は全く登場しませんので、詳細は省略します。


続いて山本氏(イザヤ・ペンダサン氏)は、「本多勝一様への返信」(『諸君』!1972年3月号)を発表しました。

ここで山本氏は、本多氏の「イザヤ-ベンダサン氏への公開状」に対して、いくつかの「不審点」を並べてみせました。最初の「不審点」は、本多氏の「公開状」というタイトルに対する「疑問」です。



イザヤ・ベンダサン(山本七平)氏『本多勝一様への返書』

まず第一の不審点でありますが、和英辞典によりますと、公開状とはオープン・レターの意味とあります。従ってこの言葉は公開書簡(オープン・レター)と同義と存じますが、私は未だかって本多様から、公開非公開を問わず一通の書簡も拝受した記憶がございません。元来「公開書簡」と申すものは、「公開書簡」と明記した手紙を相手に送り、然る後に公開すべきものであります。

(本多勝一『殺す側の論理』文庫版P136-P137)



「公開状」ということは「手紙」だろう。しかし私のところには「手紙」なんぞ来ていない。一体どうなっているんだ。・・・こんな文章を見ていると、どうも山本氏の目的は、実はどうでもいい「揚げ足取り」にあるのではないか、と思えてきます。


さて本多氏の「南京への道」レポを読み返すうちに、山本氏は、絶好の「揚げ足取り」の材料を発見しました。中国人が本多氏に語ったという、「百人斬り競争」なるものの話です。

山本氏は、これを「第五の不審点」とします。


イザヤ・ベンダサン(山本七平)氏『本多勝一様への返書』


「読まないで批評している」といわれて、「いや、おれは読んだ」などと反論を致すのは余りにユーモアがございますまい。ではここで、本多様の一文を「読まないで」引用させていただきます。






AとBの二人の少尉に対して、ある日上官が殺人ゲームをけしかけた。南京郊外の包容から湯山までの約十キロの間に、百人の中国人を先に殺した方に賞を出そう・・・。

 二人はゲームを開始した。結果はAが八十九人、Bが七十八人にとどまった。湯山に着いた上官は、再び命令した。湯山から紫金山までの約十五キロの間に、もう一度百人を殺せ、と。結果はAが百六人、Bが百五人だった。こんどはニ人とも目標に達したが、上官はいった-

「どちらが先に百人に達したかわからんじゃないか。またやり直しだ。紫金山から甫京城までので八キロで、こんどは百五十人が目標だ」

この区間は城壁に近く、人口が多い。結果ははっきりしないが、二人はたぶん目標を達した可能性が高いと姜さんはみている。



(本多勝一『殺す側の論理』P147-P148)





これだけを見ると、いかにも怪しげなエピソードです。山本氏は、これは、本多氏が中国側証人が垂れ流す「伝説」を無批判に紹介したものだ、と即断したのでしょう。こんな風に攻撃してみせました。





イザヤ・ベンダサン『本多勝一様への返書』


そして私の見るところで、本多様も、これが伝説であることを見抜いておられるはずです。もし見抜けないなら、新聞記者もルポ・ライターもつとまりますまい。

 本多様はそれを見抜きながら、何らかの理由で見て見ぬふりをされているのだと思います。とすると本多様が実名を出さないのは、もし出せばその人が、前記のように反論するかも知れぬことを恐れてでしょうか?

 「とにかくまず素材としての事実を知ること。これがあのルポルタージュの第一の目的であることは、報道の常識だよ」-と公開状にありますが、その常識が本当におありなら、なぜ「素材としての事実」から加害者の名を伏せ、なぜ伝説ではないかと思われることを事実として報道されるのでしょう。

それとも本多様は、すべての責任は天皇にあるのだから、A少尉もB少尉もその上官も共に被害者だと考えておられるのでしょうか。被害者ならばなおさらのこと、実名を明らかにしてよいはずです。

 本多様は「ベンダサン氏は、ちょっと調子にのりすぎて、ルポそのものが『ゴメンナサイ』だと書いちまったわけだ」と書いておられますが、以上のルポそのものが「日本人全部の責任です、ゴメンナサイ」という態度でないと主張されるなら、今からでも遅くありません。「中国の旅」全部にわたって本多様の知っている加害者の名を明らかにし、かつ本多様が内心これは「伝説」だと思われていることをはっきり「これは伝説にすぎないことは、ほぼ明らかだが・・・」とお書き足し下さい。

それが出来ないなら、私は、自分の書いたことを撤回致す必要を感じません。私が書いたのは、まさに、そのことなのですから。

(『諸君!』 1972年3月号)

(本多勝一『殺す側の論理』 P175-P176)



たぶん氏としては、本多氏を完全に追い詰めたつもりだったのでしょう。氏の得意満面の顔が、眼に浮かぶようです。

しかし氏は、次の本多氏の反論、「雑音でいじめられる側の眼」(『諸君!』1972年4月号)で愕然とすることになります。






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本多氏は、「まず事実を列挙しますから、じっくりお読みください」と述べて、四つの資料を呈示しました。『東京日日新聞』の記事2本、鈴木二郎「私はあの南京の悲劇の虐殺を目撃した」、志々目影氏「日中戦争の追憶―"百人斬り競争″」です。


本多勝一『雑音でいじめられる側の眼』

べンダサンサン、以上四つの資料をごらんになって、なおも、ダンコとして「伝説」だと主張いたしますか。それでは最後の手段として、この二人の少尉白身に、直接証言してもらうよりほかはありませんね。

でも、それは物理的にできない相談です。二人は戦後、国民党蒋介石政権に逮捕され、南京で裁判にかけられました。そして野田は一九四七年十二月八日、また向井は一九四八年一月二十八日午後一時、南京郊外で死刑に処せられています。

惜しいことをしました。ともうしますのは、それからまもない一九四九年四月、南京は毛沢束の人民解放軍によって最終的に現政権のものとなったからです。もしこのときまで二人が生きていれば、これまでの日本人戦犯にたいする毛沢束主席のあつかいからみて、すくなくとも死刑にはならなかったにちがいありません。そうすれば、当人たちの口から、このときの様子を、くわしく、こまかく・ぜんぶ、すっかりきいて、ベンダサンサンにもおしらせできたでしょうに。

 もちろん、自称ユダヤ人としてのあなたは、ここまで自分の論理が粉砕され、轟沈してしまっても、ぜったいに日本式に「ゴメンナサイ」なんていってはいけないハズです。たとえば、アメリカ合州国が南ベトナムの解放区を無差別爆撃したり、北爆で病院でも小学校でもかたはしから爆撃しているときなど、よくつかう論理ですが、このように当人たちがもう死刑になったあとでは、なんとでも憶測や説弁をろうすることもできますよ。

いくら銘刀で、いくら剣道の大達人でも、百人もの人間を切れるものかどうかとか。実験してみますか、ナチスや日本軍のように人間をつかって?

 かりに、百人は無理だが五十人なら可能、とかいった「実験結果」がでたとしましょう。もうこんな愚劣な議論はヘドがでそうだけれども、それでこの話が「だから伝説だ」 「だから本多のルポは全部信用できない」ということにでもなるのでしょうか。ついでに「だから日本軍は正しかった」と、いいたいのでなければさいわいです。


(『諸君!』 1972年4月号)

(本多勝一『殺す側の論理』P222-P223)



山本氏は、これらの資料を全く知らなかったに違いありません。「中国のよくわからない人物が語る怪しげな伝説」だったはずなのに、あっというまに「日本でも有名だった話」ということになってしまいました。

揚げ足をとって「完勝」したつもりだったのに、逆に見事に引っくり返されてしまった。山本氏の心境は、察するに余りあります。



そして山本氏と『諸君!』編集部は、苦し紛れに、こんなことをやってみせます。本多氏の文を借ります。



本多勝一「『諸君!』の読者"諸君"への追伸」


原稿というものは、発表以前に編集部以外の第三者には見せないことが、ちゃんとしたジャーナリズムの世界では原則とされている。

ところが、あの「雑音でいじめられる側の眼」という私の原稿を見た編集部は、ペンダサン氏が完璧にたたきのめされたことを知って、あわてた。なぜあわてたかというと、ペンダサン氏と私との論争において、この雑誌は「中立」ではなく、完全にベンダサン側を応援しているからである。

なんとか本多勝一をつぶしてやろうとベンダサン氏をけしかけたところが、反対にやられてしまった。大変だ。どうしようか。そこで編集部は、私の原稿を第三者に見せて相談した。その第三者は、たぶん複数であって、もちろんベンダサン氏も含まれていると私は推定しているが、見たという証言を得ているのは現在のところ一人である。

 こうして鳩首会談の結果とられた措置が、サンドイッチ方式であった。第一図を見ていただきたい。これはそのときの目次である。




■諸君! 四月号

本多勝一様への追伸 イザヤ・ベンダサン

雑音でいじめられる側の眼 本多勝一

「南京大虐殺」のまぼろし 鈴木明




三つの論文をかこみ、中央に私、左右からそれを攻撃する文章を特集している。掲載もこの順序になっていて、つづけて読んでいけば私の論文の効果が(編集部の意図によれば)薄まるハズになっている。

「見事」だと思う。この雑誌を出している会社の経営者が、もし反動体制側であるなら、この編集者はきっとバッテキされ、「出世」するに違いない。

 そのサンドイッチの右側で書いているのが、十年後に公開書簡を書くハズだったベンダサン氏である。しかも、この討論は一号一篇、つまりキャッチボール方式で、一月号がベンダサン氏、二月号で私、三月ベンダサン、四月私・・・という順序のはずだった。

ところがこの場合は、あんまりあわてたので、この原則を破ってまで、急拠、同じ四月号に、ベンダサン氏の「追伸」を出している。

(本多勝一『殺す側の論理』 P269-P272)



 





かくして第一期論議の「序幕」は、山本氏が大恥をかいた、という形で決着しました。

そして「序幕」に続く「第二幕」。山本氏はおさまりがつかなかったのでしょう。「私の中の日本軍」で、長大かつ難解な、「百人斬り競争批判」を展開します。そしてサポート役で登場したのが、鈴木明氏「南京大虐殺のまぼろし」です。

対抗する本多氏側は、「ペンの陰謀」を出版します。「百人斬り競争」を報道した、鈴木、浅海両記者の手記、洞武夫「南京大虐殺はまぼろしか」と題する山本氏への徹底的な反批判あたりが、大変面白く読めます。



*念のためですが、本コンテンツは、「百人斬り競争」論議がどのように始まったのかをふりかえることを目的としていますので、「第二幕」以降の「評価」までは行っておりません。



さて、「序幕」を見ればわかりますが、本多氏にとっては「百人斬り競争」はさして重要なエピソードではありませんでした。読者から見ても、山本氏の「論難」がつかなければ、そんな話もあったなあ、程度で終わってしまったに違いありません。

この小さなエピソードを「国民的大論争」に発展させた「功績」は、皮肉なことに、間違いなく山本氏・鈴木氏の側にあった。そう言って、差し支えないでしょう。




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さらに言えば、「百人斬り競争」の話を最初に「蒸し返した」のは本多氏ではなく、本多ルポに先立つこと5年の、大森実氏「天安門炎上す」(1966年)でした。参考までに、その部分を紹介しておきます。



大森実「天安門炎上す」(1966年)

夏さんは、"南京百人斬り"の日本人将校の"殺人競技"の詳細を話してくれた。(略)

南京入城に先立ち、野田巌という少尉と向井敏なる少尉が、郊外の句容山から南京入城まで"百人殺し"の競技約束をした。どちらが先に、軍刀で百人斬るかを争ったのだ。

郊外の湯山に着いたとき、城門まであと二キロだったが、向井少尉が八十九人、野田少尉が七十八人斬っていた。上官の許しを得て湯山から競技を再開し、二人が中山陵にたどりついたとき、向井は百七人、野田は百五人。しかし、これでは、どちらが先に百人斬ったか証拠がないというので、延長戦をやり、目標を百五十人にエスカレートした。

(P186-P187)






こちらは本多氏の記事とは異なり、ちゃんと、「実名」が入っています。

しかしこちらの方は、誰にも注目されることなく終わってしまいました。山本氏・鈴木氏の熱心な「宣伝」がなかったら、本多ルポの方も、これと同じように、そのまま埋もれてしまった可能性が高い、と考えます。







(2010.1.1)

http://www.geocities.jp/yu77799/nankin/hyakuningiri/uta.html
百人斬日本刀切味の歌


 


「百人斬日本刀切味の歌」というものがあります。下記の新聞記事に登場するもので、野田毅少尉によれば、「戦友の六車部隊長」がつくってくれた、ということです。



「大阪毎日新聞 鹿児島沖縄版」 1938.1.25付


二百五十三人を斬り 今度千人斬り発願
  
 さすがの“波平”も無茶苦茶

    野田部隊長から朗信


南京めざして快進撃を敢行した片桐部隊の第一線に立つて、壮烈無比、阿修羅のごとく奮戦快絶"百人斬り競争"に血しぶきとばして鎬を削つた向井俊明、野田毅両部隊長は晴れの南京入りをしたがその血染の秋水に刻んだスコアは一〇六-一〇五、いづれが先きに百人斬つたか判らずドロンゲームとなつたが、

その後両部隊長は若き生命に誓つてさらに一挙"千人斬"をめざし野田部隊長は自後の敗残兵掃討に二百五十三人を斬つた、

このほど豪快野田部隊長が友人の鹿児島縣枕崎町中村碩郎氏あて次のごとき書信を寄せたが、同部隊長が死を鴻毛の軽きにおき大元帥陛下万歳を奉唱して悠々血刃をふるふ壮絶な雄姿そのまゝの痛快さがあふれてをり、"猛勇野田"の面目躍如たるものがある・・・

目下中支にゐます・・・約五十里の敵、金城鐵壁を木ツ葉微塵に粉砕して敵首都南京を一呑みにのんでしまつた、極楽に行きかゝつたのは五回や十回ぢやないです、敵も頑強でなかなか逃げずだから大毎で御承知のように百人斬り競争なんてスポーツ的なことが出來たわけです、

小銃とか機関銃なんて子守歌ですね、迫撃砲や地雷といふ奴はジヤズにひとしいです、南京入城まで百五斬つたですが、その後目茶苦茶に斬りまくつて二百五十三人叩き斬つたです、

おかげでさすがの波平も無茶苦茶です、百や二百はめんどうだから千人斬をやらうと相手の向井部隊長と約束したです、

支那四百余州は小生の天地にはせますぎる、戦友の六車部隊長が百人斬りの歌をつくつてくれました

  百人斬日本刀切味の歌(豪傑節)

    一、今宵別れて故郷の月に、冴えて輝くわが剣
    二、軍刀枕に露営の夢に、飢えて血に泣く声がする
    三、嵐吹け吹け江南の地に、斬つて見せたや百人斬
    四、長刀三尺鞘をはらへば、さっと飛び散る血の吹雪
    五、ついた血糊を戎衣でふけばきづも残らぬ腕の冴え
    六、今日は面かよ昨日はお顔、明日は試さん突きの味
    七、国を出るときや鏡の肌よ、今ぢや血の色黒光り・・・(中略)

まだ極楽や靖国神社にもゆけず、二百五十三人も斬つたからぼつぼつ地獄落ちでせう、武運長久(われわれは戦死することをかく読んでゐます)を毎日念じてゐます、

小生戦死の暁は何とぞ路傍の石を拾ひて野田と思ひ酒、それも上等の酒一升を頭から浴びせ、煙草を線香の代りに供へられ度、

最後に大元帥陛下万々歳・・・(写真は野田毅部隊長)



(三面、上段四段見出し)




この「六車部隊長」は、第九連隊第一大隊副官、六車政次郎少尉のことと見られます。野田とは士官学校の同期であり、親しい関係にありました。また野田は「第九連隊第三大隊副官」でしたので、野田と六車は、同じ連隊の、似たようなポジションにあったわけです。

当時の新聞記事を見ると、野田の六車に対する強いライバル意識を伺うことができます。



「大阪毎日新聞 鹿児島沖縄版」 1937.12.2付


(略)

ために最近戦線から鹿児島縣川邊郡加世田町津貫小學校に勤務してゐる實父伊勢熊氏(五○)に届けられた便りにも"御期待に副ふだけの働きはこれから十分するから安心してくれ"と書いてあった。

以下○○から○○の新戰場へ移る○に書いた野田少尉の手紙である(中略)
九月十六日○○上陸以來十月十七日まで一ヶ月のうちに百○里を追撃。まるで急行列車追撃戰でした。

そのうち小○○、中○、大孫村では私の部隊が土戰部隊になつて戰ひ、幾多の戦友、部下を失ひましたが弾丸の下の度胸は十分に出來ました。

○郷では神田部隊と一足違ひで皆と逢ふことは出來ませんでしたが、同期生の加隅少尉が悠々「城山」を吟じながら戰死したことや○○少尉が名誉の戰傷を受けたことを聞いてひとしは励まされ羨ましくも思ひました。

同僚の中でも六車や山口は新聞などにも書かれるほどの手柄を樹てました。



(略)

(『「百人斬り訴訟」裁判記録集』P146-P147)





「大阪毎日新聞 鹿児島沖縄版」 1937.12.1付


百人斬り"波平"
二百本の中から選んだ銘刀
田代村出身 野田毅少尉


(略)

鹿児島県川邊郡加世田町津貫小学校長をつとめてゐる実父伊勢熊氏(五○)のもとにこの快報をもたらせば実母てるさん(四五)とともに喜んで語る
本年士官学校を出たばかりで無鉄砲盛りですからそれくらゐのことはやるでせう、この間来た手紙にも友達は皆赫赫たる武勲を立て新聞に書かれてゐるが自分はさういふ機会がなくて残念だと書いてゐました
なほ同少尉は一人息子で妹が四人ある。

(『野田毅獄中期』P6に記事写真掲載あり。『「百人斬り訴訟」裁判記録集』P146、笠原十九司『「百人斬り競争」と南京事件』P104)




さて六車少尉は、「百人斬り競争」についてどの程度の認識を持っていたのか。以下、探っていくことにしましょう。 



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六車が「百人斬り競争」について自ら語った記録としては、以下のものがあります。


六車政次郎『野田大凱の思い出』より

 北支に上陸してからは、別々の戦場で戦うことが多くほとんど顔を合わせることはなかったが、中支に転じて南京攻略を目前にした一日、南京東部の句容鎮付近で珍しく一日だけ進撃の止まった日があった。聯隊本部へ命令受領に行くと野田君も来ていて、出征以来三ヶ月振りに会った。

この時まで私はいつも聯隊本部から離れた第一線にいたので、新聞など見たこともなく、野田少尉と向井少尉との百人斬り競争の噂は知らなかった。戦斗の数は俺の方が多く、敵を斬った数も俺の方が多い筈だがとひそかに思ったものであった。

同じ聯隊の同期生であった私にもこの程度しか事情は分からないので、事実はどうであったのか知るよしもないが、ジャーナリズムの興味本位のニュース種に乗せられて犠牲になったとしか思えない。

十三年の三月に、彼は偵察将校要員となって内地の飛行学校に帰り我々より一足先に戦場を去って行った。彼と私の死と生の分れ目は、思えば紙一重であったような気がする。

(陸軍士官学校49期生会『鎮魂 第三集』 P185-P186)




これだけを読むと、六車は、「百人斬り競争」についてほとんど知らなかったかのように見えます。しかし以下に見るように、六車と野田との「接触」は、別にこの時に限ったことではありません。六車は、野田への「追悼文」という性格に配慮して、あえて曖昧な記述をしているものと考えた方が無難でしょう。


なお、「南京攻略を目前にした一日」に何が起こったかは、秦郁彦氏のインタビューでより明確になります。




秦郁彦『いわゆる「百人斬り」事件の虚と実(二)』


 その六車は、筆者へ「連隊本部で記者が野田をとり囲んでいるのを見た。ヒーローになってうらやましいと思った」と語り、吉田太計司少尉(第二大隊歩兵砲小隊長)は「十日か二週間おくれて新聞で見て"やっとるな"と思った。野田はスポーツ競技じゃないぞと連隊長に叱られたらしい」と回想した。

 (『政経研究』2006年2月 P95)

  


六車は、記者会見の現場に出くわしたようです。これは「句容」、正確には「丹陽戦後」の記者会見であると思われ、六車の手記と照合するとこれは「12月4日」の出来事であると推察されます。



この六車少尉、実は1月1日に、野田少尉と二人で30キロ離れた南京まで遊びに行っています。



六車政次郎『惜春賦:わが青春の思い出』より


陣中迎春

 昭和十三年の元旦を敵国の首都南京の郊外で迎えた。午前九時営庭に整列して四方拝の遥拝式を実施する。大隊本部陣中日誌には、

 「この日は晴天、瑞雲の中に旭光を拝し、故国に響けと万歳を三唱した。」

と記している。青春の多感な胸中に万感が去来して、感懐ひとしおであった。

 遥拝式が済んだ後初めての休日となったが、酒の特配もなく勿論将校団の祝宴もなく、気分の晴らしようがない。同期生の野田少尉と二人で、今から南京の上海派遣軍参謀長の飯沼閣下(陸軍少将、飯沼守、二十一期)を訪問しようと一決した。閣下は我々の士官学校本科時代、生徒がおやじのように敬愛した名生徒隊長である。南京までは片道三十キロ、靴の底が抜ける程戦場を歩いて来た我々には何ほどのこと事もない。若さにまかせて強行軍をして何とか本日中には帰るつもりであった。

 午前十時早速出発した。二時間も歩いた頃、幸いにも通り掛かった兵站トラックに便乗させて貰い、午後一時頃南京城内に在る軍司令部に着いた。残念ながら閣下は不在であったので、来意を記したメモを副官にことづけて辞去した。せっかく楽しみにして来た南京城内ではあるが街の見物もせず、副官の世話で兵站トラックに便乗させて貨って帰還した。

 数日後閣下からの返信が届いた。表に「片桐部隊 六車、野田少尉殿」と書かれた名刺の裏に次のように書かれていた。(P408)



 『元旦十里(一里は三・七五キロ)の道を遠しとせず徒歩にて来たりし事、青年将校の意気見るべきものありとして、殿下(上海派遣軍司令官、朝香宮鳩彦王中将)も御満足にて候。生憎要務にて他出、諸君の手柄話を聞くを楽しみに致し居りしに実に残念致候。若し今後序あらば是非に出て被下度待居り侯。 元旦』




全行程を歩いたと受け取られたことには、いささか気が答めた。(P409)






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余談ですが、この事実から、野田少尉の以下の弁明がウソであることがわかります。


野田少尉の民國36年(昭和22年)11月15日付け答辮書


「冨山大隊は昭和12年12月12日ころ、麟麟門東方において、行動を中止し、警備のため、湯水東方砲兵学校跡に集結し、同月13日ころから昭和13年1月7、8日ころまで駐留し、その後北支へ移動した。その駐留の間、将兵は外出禁止で私はもちろん外出したこともない。当時、私は、副官の職にあったので、陣中日誌及び戦闘詳報の作成、功績調査、日々の命令会報の伝達、北支移動の準備等のため、激務多忙であり、到底外出不能で南京に行く余裕は全くなかった。」

(『「百人斬り競争」裁判資料集』P158)



しかし実際には、六車の手記を読む限り、別に「外出禁止」ではなく、また「南京に行く余裕」もあったようです。



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さて六車は、「記者会見」の現場に出くわして、野田が「百人斬り競争」なるものを行っているらしい、との認識を持っていたはずです。二人だけの時に、その話題が出た可能性は高いものと考えられます。

その結果、六車は同期のライバルの「健闘」を称えるべく、野田のために「百人斬りの歌」をつくってみせた。そう考えて、特段の無理はないでしょう。



なお六車に「歌心」があるらしいことは、回想録の中でもいくつかの「歌」を披露していることから、推察することができます。



六車政次郎『惜春賦:わが青春の思い出』より



 孝陵衛(馬群西南四j)辺りから北にそれて丘陵に入ると、機関銃の銃声が聞こえて来る。大隊の戦友たちが苦戦しているのかと思うと知らず知らず足早になった。入院中休眠していた闘志がふたたび復活して血潮が騒ぐ。期せずして次ぎの句が順に浮かんだ。

 『懐かしき 弾丸の音に勇みつつ 我は帰る弾雨の中へ』

句にはなっていないが、修正はいつでも出来る。とにかく生の感じをそのままメモに書き留めた。(P401)


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 激戦の後のこのわびしさは一体何にたとえることができようか。この時に次の句が浮かんだ。
 『亡き友を しのびてねむりもあえず 火のまわり』

(P403)




既に書いたように、野田にとって六車は、「同期のライバル」でした。六車が新聞に載るような活躍をしている。自分も名を上げたい。その気持ちが、「百人斬り競争」という形に顕れた、と考えられます。

上の流れを見ると、野田が六車に「自慢話」をし、六車がそれに応えて「百人斬日本刀切味の歌」を作ってあげた、と推察することが十分に可能です。もしそうであれば、六車は「追悼文」の中では曖昧にしてみせましたが、少なくとも二人の間では「百人斬り競争」は「事実」として認識されていた、ということになるでしょう。





(2009.12.20)

http://www.geocities.jp/yu77799/nankin/hyakuningiri/alibi1.html 

「百人斬り競争」―「アリバイ」は成立するか

(1)「記者会見」は何回か?

 
 

まず最初に念押ししておきますが、「百人斬り競争」は、「南京事件」全体を考えた場合、ほとんど重要性を付与されていない、一エピソードであるに過ぎません。例え「百人斬り競争」の実在が否定されたとしても、大量の捕虜殺害・各所での民間人殺害を骨子とする「南京虐殺」の存在自体がゆらぐことはないでしょう。

にもかかわらず、「百人斬り競争」は、しばしば「南京事件」論議のひとつのハイライトであるかのように語られます。それには1970年代前半、「否定派」側にとってここが容易な「突破口」であるかのように映り、山本七平氏、鈴木明氏らがここに論議を集中させた、という事情が影響しているものと思われます。





*70年代初期、本多勝一氏が連載記事「中国の旅」の中でこのエピソードを取り上げたことが、「百人斬り競争」が再びスポットを浴びるきっかけにはなりました。しかし本多氏記事での扱いはせいぜい20数行と小さく、それも中国人が語る「伝聞情報」としての扱いでした。人名も「A」「B」とイニシャルのみです。(実を言えば、「実名を出す」ことを求めたのは、記事の信憑性を疑う山本七平氏の側でした。その後の展開を考えると何とも皮肉です)

本多氏記事に対する山本七平氏・鈴木明氏らの「反応」はいささか過剰とも言えるもので、「百人斬り競争」がスポットライトを浴びる大きな原因となりました。逆に言えば、この過剰反応がなければ、「百人斬り競争」が「国民的議論」にまで発展してしまうことはなかったのかもしれません。なおその後、本多氏らは、鈴木・山本両氏に対する再反論を「ペンの陰謀」にまとめ、第一期論争はとりあえず収束することになります。






「議論」は、2003年、「百人斬り競争」の主役であった野田毅・向井両少尉の遺族が、本多氏らを「名誉毀損」の廉で訴えたことにより再燃します。その背後では阿羅健一氏ら多数の「否定派」が原告側支援に動き、あたかも「否定派」陣営による「総力戦」の様相を呈しました。この事件で注目を受けた稲田朋美弁護士は、のち、衆議院議員(自民党)に転身しています。

訴訟自体は、朝日新聞側がいくつかの「新資料」を発見したこともあり、原告側の敗訴に終わりました。ここでは以下の通り、三回に分けて、裁判の大きな争点となった野田・向井両少尉の「アリバイ」問題に着目してみましょう。

(1)「記者会見」は何回か?(本稿)
(2)向井少尉の「負傷」
(3)「副官」は戦わないか?




*私は「百人斬り競争」の存否については判断を保留しています。以下のコンテンツは、あくまで「原告側が提起したアリバイ」をめぐるものに限定していることを、お断りしておきます。言うまでもありませんが、私は「裁判」には全く関与しておりませんので、以下は別に被告側主張を代弁するものではありません。

*よく見かける誤解ですが、「百人斬り競争」論議の争点は、「百人斬り競争と呼ぶにふさわしい競争が行われたかどうか」であり、「実際に百人斬ったか」ではありません。本多氏側においても、「実際に百人斬った」ことを主張しているわけではありません。なお東京高等裁判所判決では、「両少尉が、・・・・当時としては、「百人斬り競争」として新聞報道されることに違和感を持たない競争をした事実自体を否定することはできず」との事実認定が行われています。

*また、当時の報道記事をそのまま真に受けて「白兵戦で百人を斬った」と主張している論者も存在しません。本多氏側は、「百人斬り競争」の実態は「捕虜殺害競争」であったと思われる、との主張です。ネットではよく、「白兵戦で百人も斬れるわけがない」などと、争点を理解しない書き込みを見かけることがありますので、念のため。


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まずは、問題の新聞記事を確認します。ここでは、「大阪毎日新聞」版を採用しました。


*通常は「東京日日新聞」版が採りあげられます。しかし当時の新聞記事は、上海-大阪-東京と電送され、その過程で微妙に語句が修正されることがありましたので、大阪版の方がよりオリジナルに近いものです。両版の微妙な相違については、タラリさんによる分析があります。


昭和十二年十二月一日付
  南京めざし 快絶・百人斬り競争

   『関の孫六』五十六人を屠り 伝家の宝刀廿五名を仆す

     片桐部隊の二少尉


 常州にて【廿九日】光本本社特派員発

  常熟、無錫間の四十㌔を六日間で破つた○○部隊の快速はこれと同一距離の無錫、常州間をたつた三日間で破ってしまつた、

神速といはうか、何んといはうか仮令(たとへ)ようもないこの快進撃の第一線に立つ片桐部隊に、「百人斬り競争」を企てた青年将校が二名ある、しかもこの競争が無錫出発の際初められたといふのに、一人はすでに五十六人を斬り、もう一人は廿五人斬りを果たしたといふ。一人は富山部隊向井敏明少尉(山口県玖珂郡神代村出身)、もう一人は同部隊野田毅少尉(鹿児島県肝属郡田代村出身)である、

この二人は無錫入城と同時に直に追撃戦に移つた際どちらからともなく「南京に着くまで百人斬りの競争をしようぢやないか」といふ相談がまとまり、柔剣道三段の向井少尉が腰の一刀「関の孫六」を撫でれば、野田少尉も無銘ながら先祖伝来の宝刀を誇るといつた風で互いに競争するところあり、

無錫進発後向井少尉は部下を率ゐて鉄道線路北六、七㌔の線を大移動しながら前進、野田少尉は鉄道線路に沿うて前進することになり、いったん二人は分れ分れになったが、

出発の翌朝野田少尉は無錫をさる八㌔の無名部落で敵トーチカに突進し、四名の敵を斬り伏せて先陣の名乗りをあげたがこのことを聞いた向井少尉は奮然起つてその夜横林鎮の敵陣に部下とともに躍りこみ、五十二名の敵兵を斬り捨ててしまつた、

その後野田少尉は横林鎮で九名、威野関鎮で六名、最後に廿九日常州駅で六名と合計廿五名を斬り、向井少尉はその後常州駅付近で四名を斬り記者ら(光本、浅海、安田各本社特派員)が駅に行つたとき、この二人は駅頭で会見してゐる光景にぶつかった、

両少尉は語る

向井少尉=この分だと南京どころか丹陽で俺の方が百人くらゐ斬ることになるだらう、野田の負けだ、俺の刀は五十六人斬つて歯こぼれがたつた一つしかないぞ

野田少尉=僕等は二人とも逃げるのは斬らないことにしてゐます、僕は○官をやつてゐるので成績があがらないが丹陽までには大記録にしてみせる

記者らが「この記事が新聞に出るとお嫁さんの口が一度にどつと来ますよ」と水を向けると何と八十幾人斬りの両勇士、ひげ面をほんのりと赤めて照れること照れること


(『大阪毎日新聞』昭和12年12月1日夕刊 第2面右上 5段見出し 「野田少尉」顔丸写真あり)



 


昭和十二年十二月四日付
  百人斬り競争 後日物語

   八十六名と六十五名 鎬をけづる大接戦!

    片桐部隊の向井、野田両少尉  痛快・阿修羅の大奮戦


 丹陽にて【三日】浅海、光本本社特派員発 

 既報南京をめざして雄々しくも痛快極まる「百人斬り競争」を開始した片桐部隊の二青年将校、向井敏明少尉、野田毅少尉両勇士は常州出発以来も奮戦につぐ奮戦を重ねて二日午後六時丹陽に入城したが、かたや向井少尉はすでに敵兵を斬つた数八十六名に達すれば野田少尉も急ピツチに成績をあげ六十五と追いすがり互いに鎬をけづる大接戦となつた、

即ち両勇士は常州、丹陽たつた十里の間に前者は三十名、後者は四十名の敵を斬つたわけで壮烈言語に絶する阿修羅の如き奮戦振りである、
何しろ両勇士とも京滬鉄道に沿ふ同一戦線上で奔牛鎮、呂城鎮、陵口鎮(何れも丹陽の北)の激戦で敵陣に飛び込んでは斬り躍り込んでは斬り、中でも向井少尉は丹陽城中正門の一番乗りを決行、野田少尉も右の手首に軽傷を負ふなど、この百人斬競争は赫々たる成果を挙げつつある、

記者等が丹陽入城後息をもつかせず追撃に進発する部隊を追ひかけると向井少尉は行進の隊列の中からにこにこしながら

野田の奴が大分追ひついて来たのでぼんやりしとれん、この分だと句容までに競争が終りさうだ、そしたら南京までに第二回の百人斬競争をやるつもりだ、野田の傷は軽いから心配ない、陵口鎮で斬つた敵の骨で俺の孫六に一ケ所刃こぼれが出来たがまだ百人や二百人は斬れるぞ、大毎、東日の記者に審判官になつて貰ふワッハッハッハ

と語つて颯爽と進んで行つた

(『大阪毎日新聞』昭和12年12月4日朝刊 第11面中上 5段見出し)



 

昭和十二年十二月七日付
  百人斬り競争の二少尉

   相変らず接戦の猛勇ぶり


 句容にて【五日】浅海、光本本社特派員発 

 南京を目ざす「百人斬り競争」の二青年将校、片桐部隊向井敏明、野田毅両少尉は句容入城にも最前線に立つて奮戦、入城直前までの成績は向井少尉は八十九名、野田少尉は七十八名といふ接戦となつた

(両少尉の写真あり)

 敗けず劣らずの野田少尉(右)と向井少尉(左) (常州にて-佐藤本社特派員撮影)


(『大阪毎日新聞』昭和12年12月7日朝刊 第2面左中 3段囲み記事)



 

昭和十二年十二月十三日付
  106對105

   百人斬り競争の向井、野田両少尉

    血染の秋水輝かに南京入り


 紫金山麓【十二日】浅海、鈴木両特派員発 

 南京入りまで ”百人斬り競争”といふ珍競争をはじめた例の片桐部隊の勇士向井敏明、野田毅両少尉は十日の紫金山攻略戦のどさくさに百六対百五といふレコードを作つて十日正午両少尉はさすがに刃こぼれした日本刀を片手に対面した、

野田「おいおれは百五だが貴様は?」 向井「おれは百六だ!」・・・・両少尉は ”アハハハ” ・・・・結局いつまでにいづれが先きに百人斬つたかこれは不問、結局「ぢやドロンゲームと致さうだが改めて百五十人はどうぢや」と忽ち意見一致して十一日からいよいよ百五十人斬りがはじまつた、
十一日昼中山陵を眼下に見下ろす紫金山で敗残兵狩り真最中の向井少尉が「百人斬ドロンゲーム」の顛末を語つたのち

知らぬうちに両方で百人を超えてゐたのは愉快ぢや、俺の関孫六が刃こぼれしたのは一人を鉄兜もろともに唐竹割にしたからぢや、戦ひ済んだらこの日本刀は貴社に寄贈すると約束したよ 十一日の午前三時友軍の珍戦術紫金山残敵あぶり出しには俺もあぶりだされて弾雨の中を「えい、ままよ」と刀をかついで棒立になつてゐたが一つもあたらずさこれもこの孫六のおかげだ

と飛来する敵弾の中で百六の生血を吸った孫六を記者に示した


(『大阪毎日新聞』昭和12年12月13日朝刊 第11面左中上 4段見出し)





まとめると、次の表のようなことになるでしょう。両少尉の進行方向は、右から左。それぞれの区間の「戦果」も合わせて掲載しました。


                                    ← ← ← ← ← ← ← ← ← ←

南京 紫金山麓 句容 丹陽 常州 無錫
新聞記事による会見地点 ○ ○ ○ ○
野田少尉の「戦果」 27人 13人 36人 25人
向井少尉の「戦果」 17人 3人 30人 56人

*厳密に言えば、これは「会見地点」ではなく、「記事が発信された場所」です。従って実際の会見場所とは、ずれが生じている場合があります。
*「戦果」は、その直前地点と当該地点の間でのものです。例えば野田少尉の「常州 25人」は、「無錫-常州間で25人の戦果があった」、ということです。



これに対して、野田少尉は「南京軍事裁判」にてこう語っています。



野田少尉の民国36年(昭和22年)11月15日付け答弁書

「昭和12年11月、無錫付近において、向井少尉とともに浅海記者に会い、たばこをもらい互いに笑談戯言した。これが浅海記者と会った第1回目である。浅海記者は、当時、特別記事がなくて困っており、『あなた方を英雄として新聞に記載すれば、日本女性の憧れの的になり多数の花嫁候補も殺到するでしょう。もし新聞に記載されれば郷士に部隊の消息をも知らせることになり、父母兄弟親戚知人を安心させることになるでしょう。記事の内容については記者に任せてください。』と言った。」

「私は、まさかそのような戯言が新聞に載るとは思ってもおらず、かつ笑談戯言であるために意に止めずにほとんど忘れていた。その後、同年12月ころ、麒麟門東方で戦車に搭乗した浅海記者と行き違ったが、これは浅海記者と会った第2回目である。そのとき、浅海記者は、早口で、『百人斬競争の創作的記事は日本国内で評判になっていますし、最後の記事も既に送りました。いずれあなたも新聞記事を御覧になるでしょう。』と言い、戦車の轟音とともに別れた。このとき向井少尉は不在であった。」

「私は、翌年の昭和13年2月、北支でその記事を見たが、余りにも誇大妄想狂的であって、恥ずかしく思った。」(P157)

「『百人斬り競争』の記事は、誇大妄想狂的で日本国民の志気を鼓舞しようとするための偽作であることは浅海記者を召喚して尋問すれば明瞭であり、これが事実無根の第一の理由である。」

「浅海記者と会見したのは無錫付近と麟麟門東方との二回である。それにもかかわらず、新聞記載の回数は四回か五回であって、会見の回数より多いのは何を意味するか。記者が勝手に創作打電したことは余りにも明瞭であり、これが事実無根の第二の理由である。」

「私と浅海記者が麟麟門で会合したとき、向井少尉は不在であったにもかかわらず、新聞記事には二人で会見談話したように記載しており、これが事実無根の第三の理由である。」(P158)

(『「百人斬り競争」裁判資料集』より)



さきほどの表に、野田少尉の主張を追加しておきましょう。



南京 紫金山麓 麒麟門 句容 丹陽 常州 無錫
新聞記事による会見地点 ○ ○ ○ ○
野田少尉の「戦果」 27人 13人 36人 25人
向井少尉の「戦果」 17人 3人 30人 56人
野田少尉による会見地点 ○ ○


新聞記事によれば、両少尉は「無錫」から競争を始めており、第一回会見の「常州」において既に「戦果」を報告しています。

しかし野田少尉によれば、「競争」が始まる前の「無錫」が第一回目、そして二回目の「麒麟門」では、一方的に「記事」が既に掲載されていることを告げられただけだ、ということになります。実際の「戦果」を知る由もない浅海記者が、勝手に「戦果」を創作して記事を送ったのだ、という主張です。




なお裁判の原告側は、最初の会見地点が「無錫」ではなく「常州」であることまでは認めましたが、会見の回数については野田とほぼ同様の主張を行っています。

 

百人斬り裁判 原告側最終準備書面


したがって十一月二十九日に常州において、浅海記者と両少尉が会い、佐藤カメラマンが両少尉の写真を撮影したことは大野日記に照らしてもほぼ間違いがないと考えられる。(P27)

 佐藤振壽カメラマンは、浅海記者に呼ばれて常州で両少尉を撮影したが、そのとき、ここ(常州)から二人が「百人斬り競争」を始めると聞いた。そのときどうやって斬った数を数えるのかと聞くと、両少尉は当番兵を取替えっこして数えると答えたが佐藤カメラマンは信じなかった。佐藤カメラマンは取替えっこしただけでは結論はでないだろうというと両少尉は答えなかった。

 向井少尉が浅海記者に会ったのはこのとき一度きりであり、野田少尉が浅海記者に会ったのはこのときと麒麟門の二回である。(P28)

(『「百人斬り競争」裁判資料集』より)



さて、記事を書いたのは、主として浅海一男記者であったと思われます。浅海記者は、次のように主張しています。

 

浅海一男『新型の進軍ラッパはあまり鳴らない』


両少尉は、その後三、四回われわれのところ(それはほとんど毎日前進していて位置が変っていましたが)に現われてかれらの「コンテスト」の経過を告げていきました。

その日時と場所がどうであったかは、いま筆者の記憶からほとんど消えていますが、たしか、丹陽をはなれて少し前進したころに一度、麒麟門の附近で一度か二度、紫金山麓孫文陵前の公道あたりで一度か二度、両少尉の訪問を受けたように記憶しています。

両少尉はあるときは一人で、あるときは二人で元気にやって来ました。そして担当の戦局が忙がしいとみえて、必要な談話が終るとあまり雑談をすることもかく、あたふたとかれらの戦線の方へ帰っていきました。

(『ペンの陰謀』P347)





双方の主張が真っ向からぶつかる形です。以下、浅見氏の証言がどこまで第三者の証言によって裏づけされるか、という観点から、見ていきましょう。






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1  常州での会見

 
これについては、裁判の原告側も、最初の記者会見の場は「無錫」ではなく「常州」であることを認めていますので、今日ではこの点についての「争い」はありません。

念のために、取材に立会い、カメラ撮影を行った佐藤振壽氏の証言を見ましょう。





佐藤振壽『従軍とは歩くこと』



"百人斬り"の二将校を撮る

 社会部の浅海一男記者が、無錫から同行していた。その浅海記者が常州城門の側の旅館へ筆者を呼びに来た。

 「将校さん二人の写真を撮ってくれないか。彼らはタバコを切らしているので、タバコもあげてくれないか」というのである。
 
上海を出発する時、フィルムや食糧などの入ったリュックのすき問へ「ルビー・クイーン」の紙包を約百個入れておいた。タバコを喫いたい時、リュックをさぐると、すぐ一個や二個の紙包が見つかった。このことを浅海記者は知っていたので、二人の将校から取材するとき、筆者のタバコを当てにしたらしい。(P573-P574)

 タバコを進呈して、将校から何を聞き出すのか。私は浅海記者と将校の話に聞き耳を立てた。将校の一人は大隊副官の野田毅少尉、もう一人は歩兵砲小隊長の向井敏明少尉。なんとここから南京入城までに、どちらが先に中国兵百人を斬るかというすごい話題である。(P574)

(『南京戦史資料集Ⅱ』収録)





『週刊新潮』1972.7.29号記事


 佐藤振寿カメラマン(五八)は、現在、写真評論家としてフリーの生活を送っている。(P34)

(中略)

 「とにかく、十六師団が常州(注 南京へ約百五十キロ)へ入城した時、私らは城門の近くに宿舎をとった。宿舎といっても野営みたいなものだが、社旗を立てた。そこに私がいた時、浅海さんが、”撮ってほしい写真がある”と飛び込んで来たんですね。私が”なんだ、どんな写真だ”と聞くと、外にいた二人の将校を指して、”この二人が百人斬り競争をしているんだ。一枚頼む”という。”へえー”と思ったけど、おもしろい話なので、いわれるまま撮った写真が”常州にて”というこの写真ですよ。写真は城門のそばで撮りました。二人の将校がタバコを切らしている、と浅海さんがいうので、私は自分のリュックの中から『ルビークイーン』という十本入りのタバコ一箱ずつをプレゼントした記憶もあるな。

 私が写真を撮っている前後、浅海さんは二人の話をメモにとっていた。だから、あの記事はあくまで聞いた話なんですよ」(P35)








佐藤氏が撮影した写真にも、「常州にて」というキャプションが入っています。

「無錫」は、野田の記憶違い、あるいは「会見は競争を始める前であった」と主張するための作為的なウソである、と言えるでしょう。


*ただし佐藤カメラマンは、裁判の中で、この会見の時点では二人はまだ「百人斬り競争」を始めていなかった、という趣旨の証言を行っています。しかし同時に、「例えば野田さんが、おれが斬ったときは向井君の当番兵が勘定してるんだと。反対に向井君が斬ったときはおれの当番兵が勘定してるんだと」と、競争が「現在進行形」であると受け止めることができる証言も行っており、佐藤カメラマンの証言には混乱が見られます。(『南京大虐殺と「百人斬り競争」』P24-P26)

**私見ですが、佐藤カメラマンが言う「当番兵をとりかえっこした」というエピソードは、信憑性が低いもののように思われます。実際の話、「白兵戦の現場」においてこの「当番兵」は何をしているのか、という疑問が生じます。まさか目の前の「戦闘」に参加もせず、のんびりと「一人、二人」と数えているはずもないでしょう。



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2  句容での会見


六車政次郎は、歩兵第九連隊第一大隊副官。野田少尉は歩兵第九連隊第三大隊副官でしたから、ほぼ似たようなポジションにあった、と言っていいでしょう。

六車と野田は陸軍士官学校の同期生であり、同じ連隊に所属していましたので、お互いにライバル意識を持ちつつも戦場では親しい関係にあったようです。六車は、同期生会の文集『鎮魂 第三集』に、次のような文章を寄せています。




六車政次郎『野田大凱の思い出』より

 北支に上陸してからは、別々の戦場で戦うことが多くほとんど顔を合わせることはなかったが、中支に転じて南京攻略を目前にした一日、南京東部の句容鎮付近で珍しく一日だけ進撃の止まった日があった。聯隊本部へ命令受領に行くと野田君も来ていて、出征以来三ヶ月振りに会った。(P185-P186)

この時まで私はいつも聯隊本部から離れた第一線にいたので、新聞など見たこともなく、野田少尉と向井少尉との百人斬り競争の噂は知らなかった。戦斗の数は俺の方が多く、敵を斬った数も俺の方が多い筈だがとひそかに思ったものであった。

同じ聯隊の同期生であった私にもこの程度しか事情は分からないので、事実はどうであったのか知るよしもないが、ジャーナリズムの興味本位のニュース種に乗せられて犠牲になったとしか思えない。

十三年の三月に、彼は偵察将校要員となって内地の飛行学校に帰り我々より一足先に戦場を去って行った。彼と私の死と生の分れ目は、思えば紙一重であったような気がする。(P186)

(陸軍士官学校49期生会『鎮魂 第三集』)

*「ゆう」注 のちのコンテンツで触れる予定ですが、六車氏は、「戦犯」となった野田に配慮して、わざと曖昧な証言を行ったものと思われます。実際には六車は、野田のために「百人斬りの歌」をつくった、と伝えられます。また昭和13年1月1日には野田とともに30キロ離れた南京まで遊びに行っており、この時に「百人斬り競争」に関する何らかの会話を交わした可能性が高いものと考えられます。



これだけでは「この時」に六車がどのように「百人斬り競争」の話を聞いたのかよくわかりませんが、のちの秦郁彦インタビューとあわせると、状況がはっきりします。



秦郁彦氏「『いわゆる「百人斬り」事件の虚と実(二)』より


 その六車は、筆者へ「連隊本部で記者が野田をとり囲んでいるのを見た。ヒーローになってうらやましいと思った」と語り、吉田太計司少尉(第二大隊歩兵砲小隊長)は「十日か二週間おくれて新聞で見て"やっとるな"と思った。野田はスポーツ競技じゃないぞと連隊長に叱られたらしい」と回想した。

 (『政経研究』2006年2月P95)
  


どうやら六車は、「句容鎮付近」で「連隊本部へ命令受領」に行った際に、野田の記者会見の現場に出くわしたようです。これがおそらくは、第三報「句容にて」の取材現場だったものと思われます。



なお、六車の手記『惜春賦』を読むと、丹陽占領後の十二月四日に「聯隊長に呼び出されて」命令を受領した、との記述があります。


六車政次郎『惜春賦:わが青春の思い出』より


師団は丹陽付近に兵力を集結して尓後の攻撃を準備することになり、この夜聯隊は全州鎮(丹陽西七キロ)付近に、大隊は全州鎮西郊外の全州村に露営した。

 珍しいことに聯隊から、「兵力の集結と尓後の作戦準備のため、数日間の滞在を予測して宿泊設備を整えよ」という指示があったので、大隊は宿舎の準備・警戒部隊の配置・食糧徴発隊の派遣などの滞在準備にかかった。まだ具体的に南京攻略命令が出たわけではないが、ここで全軍が周到な準備を整えた上で、いよいよ最後の南京総攻撃を開始するものと推測された。(P370)

(中略)

十二月四日、朝から滞在準備や情報収集に奔走していた私は、正午過ぎに急遽聯隊長に呼び出されて、「緊急に兵力を集結せよ」と命ぜられた。警戒勤務部隊や食糧徴発隊など各所に派遣している部隊を慌てて呼び戻したり、弾薬・食糧の補給もそこそこに打ち切って部隊の集結を図っている最中の午後四時、次ぎのような聯隊要旨命令を受けた。

 「師団は南京に向い敵を追撃する。聯隊(第三大隊を欠く)は、前方に進出している師団追撃隊の指揮下に入るために行郷鎮に急行する。」(P371)



この十二月四日は「珍しく一日だけ進撃が止まった日」でもあり、六車が「野田の記者会見」を目撃したのはこの日である可能性があります。実際の記事は「五日」に「句容」から発信されていますので、その後の丹陽-句容戦の状況を加味して、第三報の、


「句容にて【五日】浅海、光本本社特派員発 南京を目ざす「百人斬り競争」の二青年将校、片桐部隊向井敏明、野田毅両少尉は句容入城にも最前線に立つて奮戦、入城直前までの成績は向井少尉は八十九名、野田少尉は七十八名といふ接戦となつた」

という記事になったとも考えられます。

*なお実際には、大隊は、「一二月五日に冨山部隊は句容付近で中国軍と戦闘、しかし本隊は句容城に入城せずに直前で右折し」湯水鎮へ向かった、ということです。笠原十九司氏は、「賈崗里鎮から五日のうちに記事を「句容発」として発信した可能性が一番高い。無線技師がいて送信機をもった新聞社の車があれば、可能であった」との推察を行っています。

また記事中「両少尉は句容入城にも最前線に立つて奮戦」の部分は、私見では記事の「粉飾」部分のようにも思われますが、笠原氏は、「「入城直前までの戦績」という書き方をしているのは、両少尉が句容に入城していれば実行したであろう城内掃蕩戦、残敵掃蕩戦には加わらなかったからである。「句容入城にも最前線に立って奮戦」という記述も、第一六師団の追撃隊として句容攻撃の最前線にいたと解せば、根拠のないことではない」との解釈を行っています。(以上、笠原十九司氏「「百人斬り競争」と南京事件」P155)


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3  紫金山麓での会見



これについては、同席した鈴木記者が、「結局、その場には向井少尉、野田少尉、浅海さん、ぼくの四人がいたことになりますな」という、明確な証言を行っています。




『週刊新潮』1972.7.29号記事


 南京へ向けて行軍中の各部隊の間を飛び回っているうちに、前から取材に当っている浅海記者に出あった。浅海記者からいろいろとレクチュアを受けたが、その中で、「今、向井、野田という二人の少尉が百人斬り競争をしているんだ。もし君が二人に会ったら、その後どうなったか、何人斬ったのか、聞いてくれ」といわれた。(P35)

 「そして記事にあるように、紫金山麓で二人の少尉に会ったんですよ。浅海さんもいっしょになり、結局、その場には向井少尉、野田少尉、浅海さん、ぼくの四人がいたことになりますな。あの紫金山はかなりの激戦でしたよ。その敵の抵抗もだんだん弱まって、頂上へと追い詰められていったんですよ。最後に一種の毒ガスである”赤筒”でいぶり出された敵を掃討していた時ですよ、二人の少尉に会ったのは・・・。そこで、あの記事の次第を話してくれたんです」

 ということは、〔紫金山麓にて、十二日浅海、鈴木両特派員発〕とある十二日か、記事中に出てくる十一日に会ったということなのだろう。とすると、「十二月二日負傷して十五日まで帰隊しなかつた」という向井少尉に対する富山隊長の証明書は”偽造アリバイ”ということにもなりかねないが、これも元の部下の生命を救うための窮余の一策だったのかも知れない。

 鈴木記者も、二人の少尉に会ったのは、その時限りである。「本人たちから、”向って来るヤツだけ斬った。決して逃げる敵は斬らなかった”という話を直接聞き、信頼して後方に送ったわけですよ。浅海さんとぼくの、どちらが直接執筆したかは忘れました。そりゃまあ、今になってあの記事見ると、よくこういう記事送れたなあとは思いますよ。まるで、ラグビーの試合のニュースみたいですから。ずいぶん興味本位な記事には違いありませんね。やはり従軍記者の生活というか、戦場心理みたいなことを説明しないと、なかなかわかりませんでしょうねえ。従軍記者の役割は、戦況報告と、そして日本の将兵たちがいかに勇ましく戦ったかを知らせることにあったんですよ。武勇伝的なものも含めて、ぼくらは戦場で”見たまま” ”聞いたまま”を記事にして送ったんです」

(P36)






鈴木記者はさらに、「記事はデッチ上げである」という主張に対しては、強い言葉で反発しています。



鈴木二郎『当時の従軍記者として』


 一体、昼夜を分たず、兵、或いは将校たちと戦野に起居し、銃弾をくぐりながらの従軍記者が、冗談にしろニュースのデッチ上げが出来るであろうか。私にはとてもそんな度胸はない。南京城の近く紫金山の麓で、彼我砲撃のさ中に"ゴール″迫った二人の将校から直接耳にした斬殺数の事は、今から三十九年前の事とはいえ忘れる事は出来ない。

(『ペンの陰謀』P356)




原告側は、「鈴木記者の同席」に対しては、鈴木証言のうち「赤筒の使用」などの明らかな記憶違いを持ち出して、証言自体が信じられない、と印象づける戦術をとりました。しかし鈴木記者が「野田、向井と会った」こと自体を「記憶違い」しているとは考えにくく、これはほとんど「強弁」の世界でしょう。

秦郁彦氏の「判定」が妥当なものであると思われます。



秦郁彦氏「『いわゆる「百人斬り」事件の虚と実(二)』より

一方、記者側から眺めると何度も二人の少尉に会っているという浅海はともかく、一度しか会っていない鈴木二郎が紫金山麓で二人に会ったと強調しているのは確度が高い。


 (『政経研究』2006年2月P91)
  






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ここまでのところを、改めて表にまとめておきましょう。


南京 紫金山麓 麒麟門 句容 丹陽 常州 無錫
新聞記事による会見地点 ○ ○ ○ ○
野田少尉の「戦果」 27人 13人 36人 25人
向井少尉の「戦果」 17人 3人 30人 56人
野田少尉による会見地点 ○ ○
佐藤カメラマンの同席 ○
六車少尉の目撃 ○
鈴木記者の同席 ○


野田は「無錫と麒麟門の二回だけ」と主張しましたが、実際には、「常州」「句容」「紫金山麓」の三回には、浅海記者以外に、少なくとも一人の「第三の証言者」が存在します。

野田、及び原告側の主張は崩れた、と考えていいでしょう。





(2009.12.13)

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 「百人斬り競争」―「アリバイ」は成立するか

(2)向井少尉の「負傷」

 
 

次のアリバイは、「当時向井は負傷して部隊を離脱しており、そもそも「百人斬り競争」などできるわけもなかった」とするものです。この「アリバイ」は、向井自身が、南京軍事法廷で主張しました。


 
向井少尉の答弁書(民国三十六年(昭和二十二年)十一月六日の検察庭における審問後に提出されたもの。)



丹陽の戦闘では、冨山大隊長の指揮から離れて、私は、別個に第十二中隊長の指揮に入り、丹陽の戦闘に参加して砲撃戦中に負傷した。すなわち丹陽郊外の戦闘中迫撃砲弾によって左膝頭部及び右手下膊部に盲貫弾片創を受け(昭和12年11月末ころ)、その後、第十二中隊とも離別し、看護班に収容された。

新聞記事には句容や常州においても戦闘を行い、かつ、百人斬りを続行したかのような記載があるが、事実においては、句容や常州においては全く戦闘がなく、丹陽以後、私は看護班において受傷部の治療中であった。昭和十二年十二月中旬頃、湯水東方砲兵学校において所属隊である冨山大隊に復帰した。冨山大隊は、引き続き砲兵学校に駐留していたが、昭和十三年一月八日、北支警備のため移動した。その間、私は、臥床し、治療に専念していた。

(『「百人斬り競争」裁判資料集』P159)




従って向井少尉にインタビューをしたかのような「第四報」は記者の「創作」である、というわけです。この「アリバイ」につき、冨山大隊長は、南京軍事法廷に「証明書」を提出、向井を支援しました。



 
冨山大隊長の「証明書」

①毎日新聞紙上記載ノ如キ『百人斬競争』ノ事実ナシ 

②大隊ハ昭和十二年十二月十二日 麒麟門東方二於テ行動ヲ中止シ 南京ニ入ル事ナク 湯水東方砲兵学校二集結ス 

③大隊将兵ハ昭和十二年十二月十三日カラ翌年一月八日マデ外出ヲ禁止セラレ 特ニ南京方面ニ外出セシメタルコトナシ 

④向井少尉ハ昭和十二年十二月二日丹陽郊外二於テ左膝頭部盲貫ヲ受ケ離隊 救護班二収容セラレ 昭和十二年十二月十五日湯水ニ於テ部隊ニ帰隊シ治療ス

(鈴木明『南京大虐殺のまぼろし』P91)




裁判の原告側も、この主張を忠実になぞります。


 
百人斬り裁判 原告側最終準備書面

向井少尉は丹陽で負傷して冨山大隊から離脱し、野田少尉は句容に入らず、また紫金山山頂にも行っておらず、東京日日新聞が報道した両少尉の経路は事実に反している。(P31)


(『「百人斬り訴訟」裁判記録集』)


 

しかしその後の情報も考え合わせると、このアリバイは、到底成立しない、と見るべきでしょう。以下、見ていきます。




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まず、「第四報」記者会見の現場に立ち会った、鈴木記者の証言です。



『週刊新潮』1972.7.29号記事


 南京へ向けて行軍中の各部隊の間を飛び回っているうちに、前から取材に当っている浅海記者に出あった。浅海記者からいろいろとレクチュアを受けたが、その中で、「今、向井、野田という二人の少尉が百人斬り競争をしているんだ。もし君が二人に会ったら、その後どうなったか、何人斬ったのか、聞いてくれ」といわれた。(P35)

 「そして記事にあるように、紫金山麓で二人の少尉に会ったんですよ。浅海さんもいっしょになり、結局、その場には向井少尉、野田少尉、浅海さん、ぼくの四人がいたことになりますな。あの紫金山はかなりの激戦でしたよ。その敵の抵抗もだんだん弱まって、頂上へと追い詰められていったんですよ。最後に一種の毒ガスである”赤筒”でいぶり出された敵を掃討していた時ですよ、二人の少尉に会ったのは・・・。そこで、あの記事の次第を話してくれたんです」

 (P36)





『週刊新潮』はこれに続けて、「十二月二日負傷して十五日まで帰隊しなかつた」という向井少尉に対する富山隊長の証明書は”偽造アリバイ”ということにもなりかねないが、これも元の部下の生命を救うための窮余の一策だったのかも知れない」とコメントしています。


秦郁彦氏も、鈴木証言は「確度が高い」と評価しています。



秦郁彦氏「『いわゆる「百人斬り」事件の虚と実(二)』より

 
 一方、記者側から眺めると何度も二人の少尉に会っているという浅海はともかく、一度しか会っていない鈴木二郎が紫金山麓で二人に会ったと強調しているのは確度が高い。

 しかも『週刊斬潮』への証言だと、鈴木は以前から浅海に百人斬り競争の話を聞かされ、「もし君が二人に会ったら、その後どうなったか、何人斬ったのか、聞いてくれ」と頼まれたあと「紫金山麓で二人の少尉に会ったんですよ。浅海さんもいっしょになり・・・」と語っていた。(P91)

 それに第四報で主役として発言していたのは向井のほうで、野田は「おいおれは百五だが貴様は?」の片言だけである。もし向井が不在ならば、主役を野田に振りあてるのが自然だろう。

 (『政経研究』2006年2月 P91-P92)
  





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この問題に関して裁判で取り上げられたのが、向井少尉の直属の部下であった田中金平氏の手記です。



田中金平『第三歩兵砲小隊は斯く戦う」  


連隊長片桐大佐
大隊長冨山少佐
小隊長向井少尉

(中略)

十一月二十一日-二十六日 無錫附近の戦斗に参加

常熟よりクリークを利用して 大発にて進む。敵の迎撃を受け展開。人力で舟を曳行前進する。射撃開始直後 第一分隊砲側に迫撃砲弾炸裂し 砲は破損 分隊長山田金治郎伍長、四番砲手山添銀治郎上等兵、五番砲手橋本徳太郎上等兵 戦死。爾後南京入城まで第二分隊の砲一門で戦う。


十一月二十七日-三十日 常州附近の戦斗


十二月一日-三日 丹陽附近の戦闘

無錫駅を出て 鉄路沿いに人力搬送で急進する。


十二月四日 句容附近の戦斗

丹陽を占領して 初めて予備隊となり 旅団長の指揮する草場挺身隊に編入され 句容より左第一線を 湯水鎮西方より南京に向い迂回前進する。


十二月六日 湯水鎮附近の戦斗

至る所に 要害堅固なトーチカ陣地があり、湯水鎮前面の戦斗に於て師団長自ら野砲を指揮し 負傷されたとか 吾が前面にも各所にトーチカ陣地が張り回らされていたが 吾々の目的は 南京に向って錐揉み突入するにあり、冨山大隊長も 強い所は避けて通るのが戦法と迂回して進む。

お陰で犠牲は少ないものの 道程は三倍以上ともなり吾々砲部隊の苦労は並大抵のものではなく 徴発使役した水牛が 分解した砲や弾丸を 脊にしばって よく急坂難路を登り 大いに助かった。

紫金山山頂より 馬群高地正面へ展開する。


十二月九日-十二日 紫金山附近の戦斗。

馬群警官学校前台地に陣地侵入し、鉄条網で幾重にも守られた トーチカ陣地の台地に突入せんとする小銃部隊の支援射撃に砲門を開く。後方一千米の道路上に展開した野砲四十八門の一勢斉射と 敵の大口経砲の反撃は 将に壮絶。

この間 紫金山山頂より掃射と敵台地よりの十字砲火に五番砲手 安福三郎上等兵 腹部貫通銃創にて戦死。

警官学校台地の陥落により前進、忠霊廟 五重の塔と陣地を進め 夜に入り林森邸 の陣地攻撃 壮絶の夜戦に谷口重蔵一等兵戦死す。


十二月十三日 南京城内の掃蕩戦

中山門より砲兵営、玄武湖 玄武門へと掃蕩 引続き城外掃蕩


十二月十五日 南京入城式」

(『「百人斬り訴訟」裁判記録集』P141-P142)





ここには「向井小隊長の負傷」の記述は存在しません。

「直属上官の負傷、離脱」という大事件が書かれていないのは不自然ではないか。これに対して、原告側は一応は次のように反論してみせますが・・・。



百人斬り裁判 原告側控訴理由書

⑤田中金平の行軍記録(丁一三、原判決は行軍記録といっているが、厳密な意味でこれは行軍記録ではない。田中の何らかのメモをもとに、手を加えて編集して、昭和五十四年十一月に発行されたものである。正確には田中メモとでもいうべきである。以後「田中メモ」という)に、向井小隊長負傷の記載がないから、他に向井少尉が負傷したというような記録があったとしても、それらの記録と田中メモとを比較すると、負傷したという事実を認めるに足りないというが、そもそも田中メモには、戦死者の記録は多いが、戦傷者の記録は無いに等しい。

たとえば、昭和十二年十一月三日の記述に、「我が隊にも遂に犠牲者が出た。戦死 関田君 戦傷 中井七郎君佐橋君」とあるのみで、あとは戦死者の記録ばかりが続き、負傷者の記録は全く記述されていない。

昭和十三年五月十七日になって(このころは北支に転戦)はじめてまた戦傷者の記録が出る。その間(半年以上の期間)、戦死者がいるのに負傷者がいないということは考えられないのであるから負傷者が出ても田中メモに記述されなかったということである。

一般的に、戦死者と戦傷者との比率は一対三であるといわれている。つまり、一人の戦死者が出れば、三人の戦傷者が出るのである。

 同記録に負傷者の記載がなかったとしても、負傷の事実を否定する根拠にはなり得ないのである。

(『「百人斬り訴訟」裁判記録集』P204)


この説明は、一見して説得力を欠きます。

向井少尉は、部隊の指揮官でした。その負傷は、もし事実であれば、部隊にとって「大事件」でしょう。「戦傷者の記録は無いに等しい」から「向井負傷」記載がなくても不自然ではない、ということとは、次元の異なる話です。

笠原氏による反論です。



笠原十九司氏『「百人斬り競争」と南京事件』

向井少尉のアリバイ崩れる

 では、この向井少尉の「負傷入院」の信憑性について検討していこう。

南京軍事裁判において、冨山第三大隊長の「受傷証明書」まで提出した丹陽郊外における向井少尉の負傷入院が事実であったかどうかは、
田中金平「第三歩兵砲小隊は斯く戦う」(前出)にまったくその記述がないことからきわめて疑わしい。(P150)

同歩兵砲小隊はすでに無錫の手前の戦闘で第一分隊砲を失っており(本書、一一二頁)、もしも丹陽郊外で向井歩兵砲小隊長が負傷して丹陽臨時野戦病院に入院したとすれば、もはや歩兵砲小隊は戦闘部隊の体裁をなさなくなったはずである。にもかかわらず、田中の手記は小隊長の戦線離脱に一言も触れていない。(P150-P151)

これは、はなはだ奇異であるといわざるを得ない。事実、田中の手記には、一九三九年九月に同歩兵砲小隊が日本に帰還するまでの期間にわたり、同隊下士官クラスにいたるまで負傷、入院や指揮者の負傷による交代の事実などが丁寧に記録されている。

田中金平の記録はつづけて


「十二月四日 句容付近の戦斗

丹陽を占領して、初めて予備隊となり、旅団長の指揮する草場挺身隊に編入され、句容より左第一線を、湯水鎮西方より南京に向かい迂回前進する」


と書いており、記事にあるように、一二月三日午後には、追撃先発隊に編入され、句容にむけて丹陽を出発している。向井小隊長が負傷入院したのであれば、誰かが小隊長代理に就任しなければ戦闘行動はできないから、そのことが記録されたはずである。

 さらに本当に負傷入院したのであれば、病院の軍医が負傷・入院・治療証明書を発行し、本人も軍歴にかかわる重要なことなのでそれを大切に保管していたにちがいない。(P151)






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さらに向井自身、次のように語っていたと伝えられます。



「東京日日新聞」 1939.5.19付


戦死した競争相手に 「孫六」手向けの斬れ味

向井中尉 漢水戰線にあり

【漢水東方地区にて十八日西本特派員発】


実は向井中尉の念願は千人斬りださうで記者が「孫六は斬れますか」とはなしかけると朴訥な中尉は次の如く語った

「よく斬れます、ちよつと剣先がひつかゝりますが自信を持つてゐるから大丈夫です、出征以来病気もせずいつも第一線に立つて負傷せず不思議なやうです、長期戦に耐へ得るやうに体が出来てゐるのでせう、たゞ部下を死なして申訳ないと思つてゐます、それだけが残念です、

遺族の方々には悔みの手紙を出したのみで千人斬りがやれないので残念だ私は野田中尉と別れてから一人で約束の五百人斬りを果すため一生懸命やつてゐます、今日まで三百五人斬りました、部隊長が槍をもつてをられるので負けないやうに奮闘する決心です」

(七面、中下四段見出し)


「五百人斬り」云々はともかく、「出征以来病気もせずいつも第一線に立つて負傷せず不思議なやうです」と語っていることが注目されます。記者の「作文」である可能性も完全には否定しきれませんが、ともかくも「向井負傷説」にとっては不利な材料であることは間違いありません。





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「裁判」で語られたのはここまでですが、さらにその後の秦郁彦によるインタビューが、決定打となるでしょう。




秦郁彦氏「『いわゆる「百人斬り」事件の虚と実(二)』より

歩兵砲小隊の部下(第二分隊長)だった田中金平伍長は向井が負傷せず、南京占領まで戦ったと筆者に語り、分隊員の辻岩松、松田清治郎の両氏や松田利春中尉(第八中隊長)も同様の記憶である。

 (『政経研究』2006年2月 P91)
  


当の田中金平は、「向井が負傷せず」とはっきりと語っています。また他の隊員も、同じ証言を行っているようです。





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となると、「冨山大隊長の証明書」は、週刊新潮の記事通り、「偽造アリバイ」と見るべきでしょう。

原告側は、このように主張しますが・・・。

 
百人斬り裁判 原告側控訴理由書


 むしろ、一従軍者にすぎない私的な田中メモとは別に、軍事裁判所に提出された公的文書ないしそれに準ずる性格を有する冨山大隊長作成の証明文書(甲三三の一ないし三)によって(当時の事情を考えれば、偽物の証明書を提出すればなんらかの処罰や報復を覚悟しなければならない)、同少尉の負傷の事実は証明されているのである。

(『「百人斬り訴訟」裁判記録集』P204)





これは、誰が見てももはや「強弁」の域でしょう。冨山大隊長が「向井を救いたい」という強い動機を持っているのであれば、その真偽は、他の資料と照らし合わせつつ慎重に判定されなければなりません。

秦郁彦氏、笠原十九司氏の「判定」です。

秦郁彦氏「『いわゆる「百人斬り」事件の虚と実(二)』より

 元上官の富山が送ってきた証明書には、十二月二日丹陽で「左膝頭部及右手下ゼン部に(迫撃砲弾の)盲貫弾片創」を受け負傷して野戦病院に入院、十五日に部隊復帰となっていた。だが、証明書が届く前の答弁書(十一月六日付)で向井は「十一月末頃」に負傷、十二月中旬に復帰と陳述していた。しかし判決は富山の証明書を信用できないと判断したのか、無視している。

 たしかに本人がウロ覚えなのに、元上官が十年前の日付を正確に記憶しているのは不自然だ。戦闘詳報なり類似の公文書(たとえば兵籍)に記入されていれば、富山はその写しを添付して届けたはずである。現在でも向井が所属した連隊と大隊の戦闘詳報は未発見だが、死傷者の氏名と日付を記載している歩兵第九連隊歩兵砲隊の戦闘日誌にも向井の名は見当らない。兵籍にも記入がない。

 かれこれ考え合わせると、富山の証明書は旧部下を枚うために作った偽証の可能性が高いと思われる。

 
 (『政経研究』2006年2月 P91)
  




笠原十九司氏『「百人斬り競争」と南京事件』より


 このように丹陽での負傷入院、戦線離脱のアリバイ説はほとんど根拠を持たない粗末なものと断ぜざるを得ない。冨山第三大隊長の「受傷証明書」が南京軍事裁判で向井少尉のアリバイの主張を援護するための「創りごと」であったことは見え見えである。(P151-P152)

 






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結論としては、次の秦郁彦氏の「結び」が妥当なものでしょう。



秦郁彦氏「『いわゆる「百人斬り」事件の虚と実(二)』より


こうして見てくると、負傷入院を口実とする向井のアリバイは崩れたと結論してもよさそうだ。

 (『政経研究』2006年2月 P92)
  



*なお裁判では、旅団司令部の通信班長だった犬飼聡一郎氏の、「犬飼は、このとき、冨山大隊から無線で戦況を聞いており、向井少尉が負傷したことも聞いた」という趣旨の証言が提示されました(『百人斬り裁判資料集』P143、東京地裁判決より)。真偽は不明ですが、事実だとすれば、入院しない程度の負傷をしていたことは考えられます。


(2009.12.13)

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「百人斬り競争」―「アリバイ」は成立するか

(3)「副官」は戦わないか?

 
 

次の「アリバイ」は、他の任務を抱えて多忙な大隊副官や歩兵砲小隊長に、「百人斬り競争」などするヒマがあるわけがない、というものです。


まずは野田少尉の主張です。



野田少尉の民國36年(昭和22年)11月15日付け答辮書


「私は、昭和12年9月から昭和13年2月まで、冨山大隊の副官にして常に冨山大隊長の側近にあって、戦闘の間は作戦命令の作成、上下への連絡下達、上級指揮官への戦闘要報の報告等を、行軍露営の間は、行軍露営命令の作成下達、露営地の先行偵察、露営地の配宿、警戒警備線の実地踏査、弾薬、糧秣の補充及び指示、次期戦闘の準備等で忙しく、百人斬りのようなばかげたことをなし得るはずがない。」

(『「百人斬り競争」裁判資料集』P158-P159)




この主張は、70年代初期論争の中で、山本七平氏に引き継がれました。



山本七平『私の中の日本軍』(上)


確かに二人は将校だが、少尉というのはいわば将校社会の初年兵であり、特に野田少尉は大隊副官である。副官は部隊長から特に命ぜられない限り絶対に単独行動がないといってもよい職務で、文字通り「形影相伴う」如くに部隊長と一体となって行動するのが普通である。もちろん前にのべたように、大隊副官が大隊長を放り出して、他中隊の小隊長と私的盟約を結んで兵を動かしたり戦闘行為をするなどということはありえない。(P284)



そして「裁判」では、原告側は、この主張を補強すべく、何件かの「陳述書」を提出してきました。




 
百人斬り裁判 原告側最終準備書面

(二)理論的理由-日本陸軍の組織として「百人斬り競争」が可能か(甲八九、九九、一〇〇、一〇一、一〇二、一一三)

 野田少尉は陸軍士官学校(四十九期)を卒業した大隊副官であり、向井少尉は幹部候補生から少尉になった歩兵砲の小隊長である。大隊副官と歩兵砲の小隊長がそれぞれの任務を放り出して、どちらが先に中国兵を百人斬るかなどという競争をすること自体がナンセンスであり、作り事なのである。

 元防衛研究所戦史部主任研究官の原剛氏は、両少尉の任務について次のとおり説明する(甲一一三)。




「当時の両少尉の職務は、野田少尉が第三大隊副官、向井少尉が第三歩兵砲の小隊長であった。

大隊には、参謀が置かれていないため、大隊副官が、大隊本部の業務を統括整理して大隊長を補佐するのであり、『軍隊内務書』(昭和九年軍令弟九号)の第九項および第四二項に記されているように、その主要な業務は、命令・通報・ 報告などの起案・授受・伝達である。

戦時にあっては『作戦命令』の起案・伝達、『戦闘要報』『戦闘詳報』など報告書の起案、『陣中日誌』の記録、隣接大隊や指揮下中隊間の各種の調整など、極めて重要かつ多忙なものである。さらに『日日命令』を起案・伝達して大隊の日常業務を律するのである。(中略)

 このように多忙な大隊副官は、第一線の白兵戦で戦ったり、捕虜を捕獲したりする余裕も可能性もほとんどないのである。稀に、敗残兵などが大隊本部を襲うことがあっても、大隊本部要員が応戦するのであって、大隊副官一人が戦うわけではない。従って、新聞記事が報じるように、大隊副官の野田少尉が、十数日間に百五人、一日平均八人の敵兵を新ることは、不可能なことであると判断される。

 歩兵砲は、敵の重火器を撲滅もしくは制圧して第一線歩兵の戦闘を支援するもので(昭和十二年『歩兵操典草案』第四三項)、当時第三歩兵砲小隊長は、大隊長の指揮下にあった唯一の火力支援部隊であった。

 小隊長は、第一線歩兵中隊の戦闘を支援するため、小隊の進路・陣地・射撃目標・観測所・弾薬車の位置などを偵察し、これらを適時命令・指示し、戦闘間は一般の戦況及び射撃の効果を観察して適切な射撃指揮をし、戦況に応じて陣地を推進して歩兵の突撃を妨害する重火器などを撲滅もしくは制圧するのである。

 このように、第一線歩兵中隊に対して密接な火力支援を行う歩兵砲の小隊長が、火力支援任務を放棄して第一線の白兵戦に参加することなどはありえないことである。砲が全部破壊されるか、弾薬を使い果たしてしまわないかぎり、本来の火力支援をするのが歩兵砲の使命だからである」。



 支那事変当時、すでに陸軍は大組織であり、南京攻略戦は近代組織戦であり、大隊副官と歩兵砲の小隊長にはそれぞれの重要な任務があり、大隊副官が大隊長のそばを離れて突撃し、歩兵砲の小隊長が火力支援の指揮官としての任務を放擲して、軍刀で中国兵を斬る競争をするいうことは考えられないことなのである。
 
このことは、支那事変(日中戦争)あるいは大東亜戦争(太平洋戦争)に参戦した元陸軍の軍人で、「百人斬り競争」があり得ると考えている将兵がいないことからも明らかである(甲一四二)。


(『「百人斬り訴訟」裁判記録集』 P50-P51)





桑原真一『陳述書』(甲第六八号証)


そもそも歩兵砲の兵隊の場合、小銃で戦闘することは殆どないので、弾薬を運ぶ時などは原則として小銃などは後方の馬の所におきます。歩兵砲の将校は、戦闘が始まると双眼鏡で弾着を確認しなければならないので、軍刀を抜刀する必要もありませんし、機会もありません。また歩兵砲の小隊長は第一線歩兵部隊よりかなり後方に位置するものですから、歩兵砲の小隊長の向井少尉が軍刀で、任務を離れて「百人斬り」をするなどということはありえないことなのです。

 次に、野田少尉は大隊副官ですが、大隊副官というのは大隊長のそばにいて、常に大隊長の率いる各中隊の戦闘の状況を把握して適時大隊長に報告し、状況の変化に応じ、大隊長の手足となって行動しなければなりません。

 したがって、戦闘中大隊副官は、絶えず戦闘全般をつぶさに承知し、時には大隊長に意見具申等をなし、命令の原案の作成や伝達の仕事を行うのです。さらに戦闘後は、各隊より報告を受け、戦闘詳報の記載など副官として繁雑な業務があります。副官が大隊長をないがしろにして「百人斬り」に興ずるような閑な時間は全くありえないと思います。

(中支那派遣軍第一五師団歩兵第六〇連隊第二機関銃中隊歩兵砲小隊)

(笠原十九司氏『「百人斬り競争」と南京事件』P52)





 
中山隆志『陳述書』(甲第八九号証)


歩兵砲小隊長 主要任務は、敵の重火器を撲滅あるいは制圧し、第一線歩兵の戦闘に協力することである。小隊長は通常二門をもって同一目標を射撃し、第一線歩兵の攻撃前進、突撃、陣内の攻撃を通じ、射撃のための陣地を推進して敵重火器を射撃する。(中略)射撃はすべて小隊長の号令により実施する(「歩兵操典草案」昭和一二年五月五日)。このような歩兵砲小隊長が小隊の射撃指揮をせずに、白兵戦に加入するのは敵が突入してきたなど、真に危急の場合のみである。

大隊副官 当時の歩兵大隊には、副大隊長も幕僚もなく、大隊本部にいる将校は、大隊長と一名の副官だけであった。副官の任務は大隊本部の事務整理及び取締りに任ずる。主たる日常業務としては命令、諸達、通報、報告その他文書の起案、発送、受領伝達であり、戦闘間も陣中日誌や戦闘詳報の作成責任がある(「軍隊内務書」昭和九年一〇月八日)。

大隊長の唯一身近にいる将校として、大隊長を補佐、補助することが当然求められる。そのような職分にあり、部下を持たない副官が、白兵戦に加入するのは、大隊本部が敵に襲われ、あるいは隊長以下敵に突入するような真に危急の場合だけである。

(笠原十九司氏『「百人斬り競争」と南京事件』P53)


要約すれば、「副官」や「歩兵砲小隊長」の任務は「軍隊内務書」や「歩兵操典」で定められており、その定められた範囲だけで多忙を極めたはずである。従って特殊な場合を除き、白兵戦に参加できるわけがない、従って記事のような「百人斬り」はありえない、ということになるでしょう。



ただし原剛氏や中山隆志氏は、それぞれの分野で業績を挙げている本職の研究者だけあって、言い回しは慎重です。


原剛氏は、「このように多忙な大隊副官は、第一線の白兵戦で戦ったり、捕虜を捕獲したりする余裕も可能性もほとんどないのである。・・・従って、新聞記事が報じるように、大隊副官の野田少尉が、十数日間に百五人、一日平均八人の敵兵を新ることは、不可能なことであると判断される」と、「白兵戦」や「捕虜を捕獲」する可能性の否定に、議論を限定しています。

また中山隆志氏も、「副官が、白兵戦に加入するのは、大隊本部が敵に襲われ、あるいは隊長以下敵に突入するような真に危急の場合だけ」と、「白兵戦」の可能性を否定するのみです。

いずれも、「捕らえた捕虜を殺害」することまで否定するものではありません。


本多氏側の主張は、記事のように白兵戦で「百人」を斬るというのは「常識的には無理な話」というものでした。そして志々目氏の証言などをもとに、実態は「捕虜殺害競争」であったのであろう、と推察しています。

原告側は著名な研究者の名を並べて「演出」を試みましたが、実際には、原氏、中山氏の陳述のように、「白兵戦による百人斬り」の可能性のみを否定してみせても、本多氏側は何の痛痒も感じません。




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これに対して笠原氏は、「軍隊内務書」が適用される場面は「常時に兵営で訓練や演習などそれぞれの勤務」への従事であり、「したがってこれは、陣中勤務すなわち戦場における職務を規定したものではない」と主張します。

そして、戦時において適用されるのは「作戦要務令」であり、これは「全編を通じ、全軍の諸隊がこぞって積極的に行動すべきことを要求し、状況判断によっては積極的に任務を達成すべき方策を定めるよう要求している」と指摘しています。(『「百人斬り競争」と南京事件』P55)




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しかし最もわかりやすいのは、「副官」が戦場において実際にどのように行動していたかを確認することでしょう。




ここで登場するのが、歩兵第九連隊第一大隊副官であった六車政次郎少尉です。

六車氏は、『惜春賦:わが青春の思い出』と題する回想録を残しています。そして野田少尉らが「百人斬り競争」を行っていたと伝えられる「南京追撃戦」の時期に、数々の「白兵戦」を経験しています。


六車政次郎『惜春賦:わが青春の思い出』より


3.江渓鎮の攻撃

激烈な市街戦 十一月二十四日から三日間にわたって激闘が続いた無錫の主陣地帯に対する大隊の攻撃について、大隊の陣中日誌には次のように記されている。

 『自十一月二十四日-至十一月二十六日、別冊無錫付近戦闘詳報による 』(P357)
 
この戦闘詳報がないので究明な記述は出来ないが、鮮明な記憶をスポット的につづることにする。

 大隊は二十四日夜明けと共に東部江渓橋鎮の攻撃を開始した。師団砲兵は行動困難なこの方面に進出していなかったので大隊の独力攻撃となった。敵は必死の抵抗をしたが、幸いに部落前にクリークがなかったことも幸いして、午後まだ日の高い内に第一線の両中隊が部落に突入し、大隊本部も第一中隊と共に突入した。

従来の戦闘では、通常日本軍が突撃すると敵は素早く退却し、敵陣内で白兵戦を交えることは希であったが、この敵は大隊が突入しても部落を放棄せず、部落内で執拗な市街戦が続いた。突撃の中でも市街戦はフラッシュが連発するように、突発的、瞬間的な格闘場面の連続であるので、幾つかの個々の場面は鮮明に覚えているのに、この日の戦闘経過の流れを詳しくは思い出せない。

 軍刀や銃剣を振りかざしてあたかも忠臣蔵の討ち入りのように、「居るか!」「居らんぞ!」など声を掛けながら村内を進む。出合い頭に銃剣を構えた敵兵とぶつかる。中には軍服を脱ぎ捨てて逃げようとする敵兵や、降伏のそぶりをしながら隙をみて反撃してくる敵兵もある。そんな時には頭で考える前に軍刀を振り降ろしていた。
(P358)




六車政次郎『惜春賦:わが青春の思い出』より


隘路出口高地の争奪 

九日未明から前進を再開した。日が昇ると両側に聳える空山や湯山の石灰岩の青白い岩肌が朝日に映えてきらきらと輝き、神経をビリビリと刺激した。追撃隊主力のいる南方の山中や、聯隊主力が進出中の北方の山地では激しい砲声が聞こえていた。

両側の高地から見下ろしのこの谷間の街道を、姿の見えない敵からいつ集中砲火を受けるかも知れない状況下で、まるで実弾射撃の標的になったような気持ちで前進した。

 日の出後間もない午前八時頃湯山の西端に出た途端、進路をふさぐように横たわっている小丘陵(地図上の歩兵学校)から突然一斉射撃を受けた。地形的に見て凹地の真ん中に在るこのような小丘陵に本格的な防禦陣地のある筈がない。付近の陣地帯から逃げ出した敵が退却の時間を稼ぐために急遽占領した即席の陣地であろうと判断した青柳大隊長は直ちに攻撃命令を下した。

 私は一瞬、豊臣秀吉の山崎合戦の天王山の遭遇戦を想起し、拙速でよい早く上に登った方が勝ちだと感じた。とっさに馬から飛び下りて、雨あられのように飛んで来る敵弾に構わず、第一線の中隊と競うように一目散に走り、息もつかずに斜面を駆け上がった。(P379)

気が付くと、後から本道上を突進して来たらしい十数台の戦車が右下の道路から山頂の敵に対して一斉射撃を始めていた。たまたま湯水鎮から突進してきた戦車隊が、独力攻撃中のわが大隊を発見して自発的に協力してくれたのである(注記二参照)。(P379-P380)

私が第一線の中隊と共に山頂に駆け上がった時には、敵兵はまだ散兵壕で射撃をしていた。ほんの今掘り始めたばかりの浅い壕である。立ち上がって刃向かう者もあり、慌てて逃げ出す者もあり、逃げ遅れて死んだ振りをする者もあったが、武器を捨てて哀れみを乞う者はいなかった。さすが蒋介石ひざ元である。

私は向かって来る者は袈裟斬りに、伏せている者は刺突しながら山頂を走り回った。大隊は午前九時頃この高地を占領した。 (P380)







六車政次郎『惜春賦:わが青春の思い出』より

2.馬群西北高地の攻撃

中腹の機関銃陣地の奪取

(「ゆう」注 十二月十日)

 この時、我々斥候の真上の斜面中腹に隠れていた機関銃が突然火ぶたを切って、草に埋もれながら斜面をよじ登って来る大隊の側面に猛射を浴びせた。大隊のいる谷間から悲鳴のような叫び声が聞こえ、混乱している様子が手に取るように分かった。この機関銃は下から草に埋まって前進している大隊からは見えない。仮に見えても草深い登り斜面では射撃することも出来ない。(P386-P387)

 私は大隊本部に引き返すのを止めて先ずこの機関銃陣地を撲滅する決心をした。こちらは四人でしかも小銃は二丁しか無いので、隠密に接近して一挙に突入する外はない。目で部下に合図をし、無言で草の根を掻き分けて機関銃座の後ろに出た。興奮してわめき散らしている敵指揮官の声や、銃を操作する敵兵の荒い息使いまで手に取るように生々しく聞こえる。突入しようと思うがなかなか踏ん切りが付かない。

私は既に何回も突撃の経験があったが、集団の勢いに乗って突撃することが多かった。小人数でしかも独自の意志で、大勢の敵中に突入する決心がいかに難しいかということを痛感した。

 三人の部下が無言で私の顔を見ている。躊躇する私を、もう一人の私が「やれ!やれ!」とそそのかす。後は無我夢中で飛び出した。何人斬ったのか、何がどうなったのか夢中で分からない。側射機関銃が沈黙したので大隊は再び前進を起こし、我々は大隊本部に復帰した。(P387-P388)







六車少尉の活躍ぶりは、この時期にとどまりません。「戦闘詳報」などに、他の時期の記録も残されているようです。




笠原十九司氏『「百人斬り競争と」と南京事件』より


 「歩兵第九連隊第一大隊陣中日日誌」の「小範鎮付近戦闘詳報(自昭和一二年一〇月一日至昭和一二年一〇月二日)」に「本戦闘における武功特に抜群なる者 大隊副官陸軍少尉 六車政次郎」と記されており、大隊副官の六車が回想録のごとく活躍したことを裏付けている。

 さらに、『歩兵第九聯隊第一大隊 杞県附近戦闘詳報 昭和十三年自六月二日至六月三日於杞県』が残されており、その付録として「本戦闘において武功抜群なる者」として「大隊副官 陸軍歩兵中尉 六車政次郎」とあり、つぎのように記してある。



 
 東部林庄の敵頑強にして我が右第一戦中隊の戦闘進捗せざるにいたるや馬を馳せ、敵前百メートルの我が第一線に至り、敵情、地形、友軍の態勢を偵察して、薄暮攻撃を献策し、かつ自ら第一線に至りて戦場を馳駆して態勢を整理し、石川小隊、外村小隊を区処して配備につけ、かつ機関銃歩兵砲の射撃と突撃の関係を律して両小隊の突撃を指導す。突撃に当たりては両小隊とともに敵陣地に突入し、爾後の部落内掃蕩を区処せり。





 このとき六車は中尉に昇進しているが、ここに描かれた戦闘における奮闘ぶりからも、『惜春賦』に書かれたことが必ずしもいいかげんな手柄話やホラ話ではないことがわかる。最後の部落内掃蕩では、敗残兵や投降兵を日本刀で処刑した可能性もある。(P78)



 




このような記録を見ると、「軍隊内務書」などに書かれた「副官の任務」をもとに「副官が白兵戦に参加するはずはない」と主張することは、「実態」を見ない机上の空論であることがわかります。




秦郁彦氏もこのように指摘します。



秦郁彦『いわゆる「百人斬り」事件の虚と実(二)』より


 
 野田と陸士同期生の六車政次郎少尉(第一大隊副官)は野田の第三大隊と雁行しつつ南京へ向ったが、十二月八日の突撃では「向かって来る者は袈裟斬りに、伏せている者は刺突しながら山頂をかけまわった」とか「敵を斬った数も(野田よりも)俺の方が多い筈だとひそかに思った」と書いている。

大隊副官という任務は大隊長につききりで白兵戦に出る機会は乏しいはずと説く人は多いが、六車の戦記には、この種の白兵戦体験が頻出する。 (P95)

(『政経研究』2006年2月掲載)

 

「副官」だから戦うはずがない、というアリバイも、また成立しえません。



(2009.12.13)
http://www.geocities.jp/yu77799/nakajimakesago.html

中島今朝吾日記 12月13日


  

中島今朝吾日記 (第十六師団長・陸軍中将)
◇十二月十三日 天気晴朗

早朝20ⅰの将校斥候は中山門に入りて敵兵なきを発見し玆に南京は全く解放せられたりと知る

一、33ⅰは第一峯を下りて午前八時天文台を占領し次で各隊は逐次城壁に迫りたり 於玆砲兵をして万一に備へしめ歩兵工兵協同機堂(動)の上万全を帰(期)して徐々に城内の清掃に任ずべく処置す

 又昨日来佐々木支隊方向に於ては南京より脱出したる敵と鎮江方面より退却したる敗残兵とに会して進行遅延すると共に後方に相当の掩護兵を残置しあり

 下関に進出の時期を失するの憂あり 依りて33ⅰには速に大(太)平門に下りたる後主力を以て直に玄武湖東北側を経て旅団に追及するを命ず

(昨日既に一大隊を分派せり)

又前方を追及せんとする野砲軽榴一中隊を反転せしめて直に佐々木支隊を追及せしむ

一、騎兵聯隊は午後一時頃始めて下麒麟門に到着したれば直に佐々木支隊を追及せしむ

一、昼間に於ては敗残兵は仙鶴門附近より概して紫金山東側林道に進出して我後方部隊を騒擾せしめるものあり 依りて予備一中隊をして之を掃蕩せしめ紫金山西南南側は片桐部隊をして掃蕩せしむ

一、正午過20ⅰの先要(発)の大隊は城内に入りて掃蕩を開始す

 

○予は第九師団の先を争ふて入城せんとする当初よりの面白からざる心に不快を感じ居るものなれば 中山門よりの入城を止めて彼等百姓根性の奴に譲り、旁々下関方面の戦闘の進捗を指導する為め該方面に転進するに決し

 中沢大佐を草場少将の許に出し中山門方面の状況を確むると共に其後の処置を一任したる上出発することとしたる処 紫金山東方道路は敗残兵に遭遇する公算多く富貴山附近すら安全となれば此方面より転進するを可とするを以て之を待ちたるが

 午後一時中沢大佐の報告に依り大(太)平門は之を占領し富貴山の清掃に付いて此方面より転進するを可とする意見に同意し直に西山戦闘司令所に移転するに決す

 此日戦闘指導の為此地に躍進する為既に通信設備を完成しありたり

一、天文台附近の戦闘に於て工兵学校教官工兵少佐を捕へ彼が地雷の位置を知り居たることを承知したれば彼を尋問して全般の地雷布設位置を知らんとせしが、歩兵は既に之を斬殺せり、兵隊君にはかなわぬかなわぬ

一、斯くて西山郵便局に於て爾後処理中午後六時に達したれば今夜玆に宿営す

一、午後三時佐々木支隊は下関を占領すとの報あり

一、正午前後の敵爆撃機は南京市内を爆撃す

 

◎昨夜33ⅰが第一峯を占領するや軍司令官宮殿下より賞詞あり 酒一樽ウヰスキー三、果物を賜りたれば之を33ⅰと之に協力せし砲兵隊に分贈せり

一、一昨夜第一線各隊の奮闘に対し聊か謝意を表する為南京攻略後の祝酒として携行せし酒を第一に追送分配したり

一、本日正午高山剣士来着す 
  捕虜七名あり 直に試斬を為さしむ
  時恰も小生の刀も亦此時彼をして試斬せしめ頚二つを見込(事)斬りたり

一、午後司令部は躍進して西山の麓にある郵便局に移り此処にて事後処理を為す

一、閑を得て西山の古戦場を視察す

 東側に鉢巻したる散兵壕陣地にして概して応急施設に属す 之に依りて見れば支那側も南京迄が攻撃せらるるものとは考へあらざりしならん 後に至りて聞く処に依れば南京の電灯会社も十三日朝まで運行しありたりとも云ふ

一、陣地内に猟用12番の弾薬あり収集し帰る 銃を探したるも見当らず後兵キ(器)部員大中少佐が12番のブローニングを発見し呉たり

 之は近接防禦の為兵が携行したか 将又銃砲店主が自主的に戦線に参加したるか 何れにしても近迫戦に散弾を使用したる考案は予の天津、大連にて自衛用として猟銃を探したると相似たる点あり

一、夕刻附近の独立家屋(医者の別邸らしきもの)に宿泊す

 

◎捕虜掃蕩

一、十二日夜仙鶴門堯化門附近の砲兵及騎兵を夜襲して尽(甚)大の損害を与へたる頃は敵も亦相当の戦意を有したるが如きも其後漸次戦意を失ひ投降するに至れり

一、十二日夜湯水鎮附近にも敗残兵の衝突ありたりとて軍司令部衛兵、警備中隊が戦闘したりとて師団輜重の通行中、弾薬補給を要求せられたりと云ふ

一、宮殿下の御身辺を護衛するの必要を感じたるを以て参謀長は一-二中隊を増派せんとして之を軍参謀長に打合せしめたるに既に

*第九師団より歩兵一コ聯隊を出したりと云ふことを聞けり

己れの作戦地境内にはあらず又第九の隊は第十六の隊より近きにあらず 敗残兵に対する目的を以て歩兵一コ聯隊を派遣したる人の心の底は真に同情に値するものあり 依りて我方は手を引きたり

一、此日城内の掃蕩は大体佐々木部隊を以て作戦地境内の城門を監守せしめ 草葉部隊の二大隊を以て南京旧市より下関に向つて一方的圧迫を以て掃蕩せしむることとせり

一、然るに城内には殆んど敵兵を見ず唯第九師団の区域内に避難所なるものあり 老幼婦女多きも此内に便衣になりたる敗兵多きことは想察するに難からず

一、中央大学、外交部及陸軍部の建築内には支那軍の病院様のものあり 支那人は軍医も看病人も全部逃げたらしきも 一部の外人が居りて辛ふじて面倒を見あり

  出入禁止しある為物資に欠乏しあるが如く 何れ兵は自然に死して往くならん
  此建築を利用せるは恐くは外人(数人あり)と支那中央部要人との談合の結果なるべし
  依りて師団は 使用の目的あれば何れへなりと立除(退)くことを要求せり
  又日本軍が手当することは自軍の傷者多き為手がまわり兼ぬるとして断りたり

一、斯くて敗走する敵は大部分第十六師団の作戦地境内の森林村落地帯に出て又一方鎮江要塞より逃げ来るものありて到る処に捕虜を見到底 其始末に堪へざる程なり

一、大体捕虜はせぬ方針なれば片端より之を片付くることとなしたる(れ)共千五千一万の群集となれば之が武装を解除すること すら出来ず 唯彼等が全く戦意を失ひぞろぞろついて来るから安全なるものの之が一端掻(騒)擾せば始末に困るので

  部隊をトラツクにて増派して監視と誘導に任じ
  十三日夕はトラツクの大活動を要したりし 乍併戦勝直後のことなれば中々実行は敏速に出来ず 斯る処置は当初より予想だにせざりし処なれば参謀部は大多忙を極めたり

一、後に到りて知る処に依りて佐々木部隊丈にて処理せしもの約一万五千、大(太)平門に於ける守備の一中隊長が処理せしもの約一三〇〇其仙鶴門附近に集結したるもの約七八千あり尚続々投降し来る

一、此七八千人、之を片付くるには相当大なる壕を要し中々見当らず 一案としては百二百に分割したる後適当のけ(か)処に誘きて処理する予定なり

一、此敗残兵の後始末が概して第十六師団方面に多く、従つて師団は入城だ投宿だなど云ふ暇なくして東奔西走しつつあり

一、兵を掃蕩すると共に一方に危険なる地雷を発見し処理し又残棄兵キ(器)の収集も之を為さざるべからず兵キ(器)弾薬の如き相当額のものあるらし

 之が整理の為には爾後数日を要するならん

(「南京戦史資料集1」P216~220、または「南京戦史資料集」旧版P322~P326)
 


 
(2004.9.11)

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色ボケ爺がハッスル 柔道家にとって女性は性欲の吐け口? 強姦に暴力 柔道事故という名の殺人 公金の不正横行 柔道家には慰安婦が必要? ヤクザのケツもち弁護士 橋下さん 出番ですよ

セクハラ問題 全柔連・福田二朗理事、都柔連会長を辞任(13/05/25)


http://hukudazisou-sekuhara.seesaa.net/
▼福田理事わいせつ被害女性の年齢は?

理事のセクハラわいせつ事件で非難殺到の全日本柔道連盟。


その、わいせつ行為をした張本人たる全柔連理事の名は福田二朗。



なんと、この福田二朗



齢76だという。









では、一体、福田二朗からのセクハラ被害に遭った女性とは一体何歳なのだろうか?






この事件の被害者の個人情報は明らかにされていない。




当然と言えば当然だ。


なにしろ性的被害を受けた女性なのだから


被害者のプライバシーに配慮する必要がある。




だが、そうはいっても


ここまで日本中を騒がせている事件。






ある程度の情報は流れている。



なんと


福田二朗から、わいせつ被害を受けた女性の年齢。




30代だという。





76歳のジジイが30代の女性の体を触った?


娘より一回りは若い女性ではないか?


下手すりゃ孫の年代。





そんなに歳の離れた女性に対して理性で抑制できないほどの性欲を湧くとは・・・・



さすがは、柔道で鍛え上げた肉体と精神。


柔道をやっていない凡人にはとても真似できない。




この76という年齢のジジイ。



いったい何歳まで生きるつもりなのだろうか?

http://www.j-cast.com/tv/2013/05/27175904.html
全柔連わいせつ理事「反省の色なし」喜んでれば文句言わないでしょ。フッフッフ

力やお金の不祥事で揺れる全日本柔道連盟で、今度はわいせつ事件ときた。福田二朗理事(東京都柔道連盟会長)が酔って女子選手にキスをしたというのだが、これが1年半も前のことだ。なぜいまごろ明るみに出たのか。ここに連盟の体質があった。23日(2013年5月)に都内で「スポーツ団体のガバナンス」に関するシンポジウムで都内で開かれ、バルセロナ五輪の柔道銀メダリストの溝口紀子氏が「全国大会に出る選手から、全柔連理事に性的暴力を受けていると相談を受けた」と明かした。

1年半もなぜ問題にならなかったのか?被害女子選手に役員「言ってもムダ」

溝口氏に話はこうだ。2011年11月、柔道大会が終わったあとの打ち上げの帰り、地下鉄のエレベーターで福田理事が選手(30代)に抱きつきキスを迫った。駅のトイレに逃げ込んだ女性を「出てこい」と脅し、さらにタクシーで追うなどまでしたという。




2、3日後にすれ違いざまに「悪かった」「ごめんね」と声をかけ、「申しわけなかった」といったこともあったという。「被害者は『謝罪じゃないだろ』といっている」と溝口氏は話す。選手は都柔道連盟の役員などに相談したが、「やってもムダだから」と表立った対応はなかったという。

福田理事(77)はおととい(25日)会見で事実を認め、「酒を飲み過ぎたことでたまたまそういうことが(起きた)。自分のしたことなので辞任させていただきます」と話したが、「バカですからあまり深くは考えていなかった。長いこと悩んだ」などととりとめがない。「酒の上で、男だからパーッとなってキスしようとしたんじゃないかな。酔っぱらっててよくわかんないけど。(嫌がってたか質問されて)喜んでれば文句いわないでしょ。フッフッフ」

所太郎レポーターが「なぜ1年半も経ってから問題になったのか」と質問すると、福田氏は「全柔連のセクハラ対策部会が4月20日ころから開いた。風通しがあったから、そこにいったんじゃないかと」と答えた。女子選手に対しては「辞めた人間ですから関わりはもちたくない。会う機会があれば謝罪する」

全柔連は24日にこの問題で「特別調査チーム」を招集し、双方から聞き取りをして週内に処分案を出し、6月11日の理事会で決定するという。

女性理事ゼロでやりたい放題の無法競技団体

青木理(ジャーナリスト)「この会見を見て納得した人はひとりもいないと思う。風通しだとかひどいですよ」

石原良純(タレント)「2人はどういう関係なの?」

所「職場の上司と部下。それと選手と理事」

石原「二重の上司なんだ」

司会の羽鳥慎一「都の会長なので、役員にいってもムダだよといわれたといいますね」

調査チームの一員の北田典子さん(ソウル銅メダリスト)は「それは聞いてないが、解決できなかったのは問題です」という。

石原「女性の理事はいないのですか」

北田「いません」

石原「体質的なものを感じますね」

北田「それをやっていかないといけないんですね。個人ではなくて柔道界全体が意識を向上させないと」

赤江珠緒キャスターが珍しく「理事の会見は恥を知らない内容でした。感覚としてずれてる」と気色ばんだ。

北田「理事としての責任感に欠けてると感じますよね。1人ひとりの考え方が重要です」

あらためて、77歳でねえと思ってしまう。

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スブービオ柔術の逆襲か? 柔術界を長らく支配したグレイシー一族の門下生か? ハレックグレイシープロデュースMetamoris 2 Braulio Estima VS Rodolfo Vieira

Metamoris 2 Braulio Estima VS Rodolfo Vieira

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伝説のサンビスト ビクトル古賀

Koga.jpg

http://blog.goo.ne.jp/sinanodaimon/s/%B8%C5%B2%EC%C0%B5%B0%EC
NHKこころの時代・少年は荒野をめざした・古賀正一(1)

2011年09月06日 | こころの時代






[思考] ブログ村キーワード

 格闘技の世界では知らない人はいない。

 サンボの神様、ビクトル古賀

 本名は古賀正一(79)。1935年に満州国の北にあったこの方は、ハイラルという町で軍隊の防寒服を扱う仕事を営む父とロシア人の母との間に生まれました。



 ロシアの国技であり格闘技の「サンボ」のソ連スポーツマスターの称号をもつ元世界チャンピオン。



 関節技を主に、相手の組手や組みに来る姿勢を巧みに利用する独特なスタイルで相手を崩し制する通称古賀流と呼ばれる技の創始者です。







 NHK総合の日曜早朝に「こころの時代~宗教・人生~」という番組があります。時々問うブログでも印象深い番組を紹介していますが、6月4日に「少年は荒野をめざした」という古賀さんこころの軌跡を紹介されました。今朝はその話を書こうと思います。

 いまだからビクトル古賀と分かるのですが、番組を見るまでは古賀さんを全く知らなかった私です。わけのわからないおじいさんが何か言っている程度で録画しておき、最近観たところ、その人生の歩みに驚いてしまいました。

 戦争が生んだ悲劇、そのような視線で見ると第三者的な感慨に終始してしまいますが、自分がその場にある視線で、共にその軌跡を歩むと何か人生の歩みの底力(そこちから)を頂けたように思いました。

 古賀さんは敬虔なロシア正教に信者です。当時のハイラルはソ連革命を避け亡命したコサックの人々が多く住んでいました。





古賀さんの母クセニアさんの父はコサックの長老です。





 番組はニコライ堂の復活祭の風景から始まります。





 古賀さんの口から次の言葉が語られます。

 ゴスパチフアミールュ(神よ平安を与えたまえ)



【古賀さん】

 平安をくださいという言葉は、子どもの頃から言っている言葉で、今日(復活祭)ではあまり言っている人いませんでしたが、平安を祈るということは生きている人にも、亡くなった人にもいう祈りのことばですが、最初に覚えたロシア語ではないかと思います。



 コサックは何時も何でも「ありがとう、ありがとう」、僕もそうですがいつも感謝の気持ちがあります。

 自然に感謝、それからその日に感謝、そのほか束縛されない感謝・・・日本人もそうですよ。神仏を愛したり、月などを愛したり・・・非常に似ているところがあって好きですよ。

 両方の血が入って入ることを凄く自分に都合よくとっています。少し差別されたりからかわれたりいじめられたり・・・しょうがないですよ。

 ルスキー(ロシア人)と呼ばれても母がルスキーなんだから気にしないのです。

 自分は今でも樹木(き)とか草とか犬なんかを何となく日本語でしゃべるんですよ。知らない人が見れば「あいつは変だ」と思うかもしれませんが、何となく言葉が通じるのではという気がしてついしゃべってしまうのです。

 今日も風・雨が強かったけれど、牡丹の花が一輪咲いているんです。今日はパスカ(復活祭)だしきれいに咲いたよとお礼を言います。

 本当に子どもの頃から「ありがとう」、「ゴスパチフアミールュ」と今でも一日何十回もいう癖がついていますね・・・。

現在古賀さんは浦賀水道を臨む横須賀に住んでいます。

 古賀さんの母型の祖父はコサックの長老であることを話しましたが、ロシア皇帝時代は近衛兵として活躍された方で、古賀さんは学校に通う傍らこの祖父にコサックの伝統教育を受けたそうです。

 6歳になると馬に乗れなければならない義務があって馬とともに暮らしました。馬を蹄の掃除から大きな馬を相手にするのですから自然と馬の関節を利用して馬を言うなりに操る術を学びとっていたようで、それが将来のサンボの技になるわけです。

 コサックの人たちの多くは敬虔なロシア正教の信者で教会が生活の中心にありました。古賀さんは祖父や母に連れられて行っていた教会で洗礼を受け、76年間持ち続ける古賀さんの信仰の原点ここから始まります。

1945年8月9日、ソ連は突然満州国に攻め入ってきます。ソ連の共産革命を逃れてハイラルで平和に暮らしていたコサック人々にも不幸が訪れます。日本人ばかりがだけではなくコサックの人々もソ連軍にとっては敵です。



 大事なおじいさんは捕まり銃殺され、古賀さんは家族とはぐれてしまいます。そうです古賀さんは10歳で一人になってしまうのです。決意したことはお父さん故郷である福岡に変えることです。

 10歳で終戦。命からがら日本の故郷、古賀少年が、福岡まで引き揚げてきた話が始まります。

 このソ連軍侵攻で、実に引き揚げの過程で17万人の日本人が死亡・行方不明になります。想像を絶する満州から日本までの引き揚げ。何と1500キロの道をたった一人で歩いて日本へ帰る。



 どうして歩きなのか、引き揚げの日本人は古賀さんをなぜ、歩かねばならなかったかというと、古賀さんがハーフですが、ルスキー(ロシア人)だったからです。すなわち「露助」と蔑まれ、日本人の引き揚げ集団から入ることを拒否されたわけです。

 古賀さんの凄いところは、そんなことではめげない、コサックの血がそうさせない私にはそう見えました。数段で引き揚げなかったことが逆に、感染症への罹患を免れてることにもなったわけで何が幸いするか分かりません。

 番組は、途中での日本人虐殺の目撃などの話が続き、日本までの帰路をたどりますが今朝はここまでとして続きは後日書きたいと思います。

 気が狂わんばかりの大変な苦難です。しかも10歳の少年です。「少年は荒野をめざした」という題の意味が本当に理解できました。

 眼前で起こる事実、惨事どうしようもないことですが、それを後押ししたのが信仰でした。自然とともにあるコサックの敬虔な神の信仰でした。

テクニカルアドヴァイザー 古賀正一先生(ビクトル古賀)

●ビクトル古賀先生 サンボ・マスターの称号をもつ古賀正一氏


 

サンボの神様、ビクトル古賀

ビクトル古賀先生は今年75歳という高齢にもかかわらず、毎回素晴らしいサンボの技を披露し指導解説してくれます。
ビクトル古賀先生は1970年代に当時のソ連を中心に東欧諸国を転戦して歩き、43戦無敗の大記録を打ち立てました。試合で使い勝利をもたらした先生の技にはそれぞれの思い出とエピソードがあり、先生の解説入りでその技を指導再現していたただける事は、たいへん貴重な体験です。
古賀先生の動きを見ていますと、決して力に頼って相手を崩すことはしません。小さな円運動で相手を崩し相手を投げ、知らないうちに関節技や締め技が決まってしまうのです。
ビクトル古賀先生は、(秘密の自己防衛術)、(これがサンボだ)の著者です。先生から直接指導を受けた著名な日本の柔道家がたくさんいます。先生は日本の柔道の強化にもたいへん貢献され、日本にサンボを伝え普及させたパイオニアです。

毎月第一及び第三土曜日の午後4時より京浜急行汐入駅近くのダイエイショっパーズ5階読売文化センターに貴重な時間を割いて、古賀先生が指導に来てくれています。この機会にぜひ興味のある方は、見学に来てください。伝説のサンビスト、ビクトル古賀の神技を見る機会があるかもしれません。

ビクトル古賀先生 野外稽古での指導

ビクトル古賀先生 指導風景 1


ビクトル古賀 経歴

東海大学体育学部講師、国際レスリング連盟サンボ委員会委員、全日本サンボ連盟常務理事、同強化委員長、日本アマチュアレスリング連盟強化委員、柔道四段、相撲三段、ソ連スポーツマスター。

古賀先生は、1935年-昭和10年、旧満州現中国ハイラル市で、父仁吉、母キセニア(ロシア人)の長男として出生。ロシア人、日本人、中国人、蒙古人、トルコ人等の中で育ちました。
1945年-昭和20年、10歳で、終戦、弾丸二発を体に食いながらも、命からがら単身帰国します。

1954年-昭和29年、日本大学入学、レスリング部に籍を置き、本格的に取り組み、学生当時モスクワ世界選抜大会出場。以来25回ほどの海外遠征を経験。
1963年-昭和38年、二月日本アマレス協会はソ連のナショナルチームと四名のサンビストを招聘し、各地(横浜、前橋、神戸等)で対抗戦とデモンストレーションを繰り広げた。
これに協会役員として同行、ステパノフ、シュリッツ両選手と親交を深めサンボの魅力を感じ、早速渡辺利一郎先生に相談、我が国への導入、普及の前にまずソ連留学を思い立ちます。

1964年-昭和39年、バルカン遠征、そして各国転戦、諸外国の有能なレスラー、サンビスト、指導者等と友人関係を結ぶ。
1973年-昭和48年、第一回国際サンボ連盟設立記念ヨーロッパ選手権大会マンチェスターで68キロ級に優勝、独自のサンボを見出す。
1975年-昭和50年、三月全ソ連選手権大会バクー市に参加。ロシア共和国マイコプ市、全ソ連選抜チームと対戦、国際、国内、公式試合41勝無敗。
1975年-昭和50年12月、ソ連スポーツマスター受賞





●靭帯を破壊する関節技
関節の最大特徴は、骨と骨の連結面の間に、関節腔という空間があり、そのために両方の骨が相互の可動性を大きくしている点である。
つまり、関節腔が骨と骨をつなぎながらも、両方の骨を別々に自由に動かせ得る重要な役目を果たしているのである。その関節腔は関節包という結合組織の膜で完全に包まれていて、その中に滑液が入っており関節の潤滑油の役割を演じている。
そして関節包に癒着して関節を挟む両骨の間に靭帯という紐帯がある。これは骨と骨の結合を助ける役割と、関節運動の制御のためにあり、過度の運動を制御している。
格闘技における関節技が単に骨を痛めつける技術だと誤解されている。関節技とは、骨を痛めつけるものにあらず、靭帯という関節運動の制御装置の破壊である。
靭帯を伸ばしてしまうと、その回復は骨折よりも厄介で、手術を必要としたり、回復に長い時間を必要とします。
合気サンボの特徴は当身技で相手を崩し、そこから様々な関節技に入ることです。これが決まると相手は戦意をうしないます。不必要な打撃を与えずに相手を制することが出来るのです。


●古賀生成質疑応答
ビクトル古賀こと、「サンボの帝王」は旧ソ連(ロシア)の国技として近代に開発
されたサンボを日本へ根付かせた先駆者です。

古賀先生のコメント

人間は一番触れられていやなところは顔だと思います。それで、サンボやレスリングで組んだとき、相手の目線を下げるために、手で顔を撫でる,鼻を撫でるということをよくやります。
首が太くて強い人に首を捻っても簡単に抑えられない。でも、鼻をくりっとめくってやると、簡単に横向いてしまいます。
また、手を鎌のように使う技も習いました。自分は笹原さん(笹原正三氏、フリーレスリングの1956年メルボルン五輪金メダリスト)にいつもやられていたのです。
あの人の試合は、本当に指を口に突っ込んだり、色々やるんです。肘で助骨を折られたこともあります。それで組むときは、手首を鎌のように曲げて草を刈るように首を掻き落す。これをやられると、どうしても頭が下がってしまいます。それでもがんばっていると、首の後ろを手首の骨のところで、パンと叩かれる。これを何回かやられると、目の前がチカチカしてきて、見えなくなる。
そのときヒョイと首を捻られてしまうのです。これで私は何回もやられました。手を鎌のようにして使うことが分かったのです。彼もそれは秘密にしていました。僕はレスリングで あまり掴むことはしません。奥襟に手を引っ掛けて、相手にくっ付いている。手を伸ばして、掴むと肘を落とされて、体勢を崩してしまいますが、僕はふにゃっと力を抜いてるから、叩かれても、肘が曲がるだけで、相手に組み勝とうと考えたことがありません。組み手では相手の好きなように組んでやる。そうすると相手は喜んで、自分のペースで動いてきます。それが僕は面白い。そこをどう逆転するかと考えるのが僕のやり方です。

古賀先生が最初に学んだ武道は柔道でしたか。

古賀先生のコメント
僕が最初にやったのはレスリング。当時僕はニコライ堂の鐘突きをやっていました。ニコライ堂の下に中央大学のレスリング道場がありました。
ここで、八田先生(日本レスリング界の父)からレスリングを教わったのが最初。でも僕はコサックの村で生まれたから、子供の頃から馬の蹄鉄を替えたり羊を抱えて運ぶのが仕事でした。馬の膝の後ろをパシッと叩いて、曲げさせるコツや、羊を抱き上げるやり方などは自然に身についていました。それがレスリングをやるときにも役にたったかもしれません。

古賀先生がサンボを始めた理由は、やはりロシアの格闘技だったからですか。

古賀先生のコメント
八田先生にいわれたからです。当時はまだ柔道はサンボを敵視していた時代ですから、柔道界でサンボをやろうという流れはありませんでした。当時はレスリングをやっていましたが、練習する場所がないから渡辺一郎先生の横須賀の柔道道場や防衛大学の道場で、やっておりました。当時は色々な人と交流があったから、皆で柔道着を着て初段の部で試合に出たりしました。
レスリングの国際試合をやると、当時の日本人は手足が短くて、外国の選手から子供みたいだといわれました。でも足が短いから、外国人はなかなかタックルできない。足をとっても重心が低いものだから、足を取らせておいて、払腰で投げたりする。私も足を取らせて、かにバサミで倒したり、有利に試合ができたのです。日本人である程度体格があって、力に頼る人では外国の選手に勝てませんでした。
僕は子供の頃からコサックの村で育ったから下半身だけは遊牧民なんです。日本の選手のように小さく構えて、バッタのように飛び込んでタックルするような戦いはうまくできない。その代わり、懐に入って、足を取られてからが、僕の土俵。僕のレスリングはグニャグニャというか、相手に逆らわずに技を返していくのが得意でした。

足下を制する技術、その有効性は如何ですか。

古賀先生のコメント
タックルというとサンボでも色々な技がありますが、レスリングで僕がつけた三段ロケットという技を良く使いました。タックルを掛けていって、少しスピードを遅くやると相手が足を引いて失敗する。それで残った足に手を掛けて、鎖骨に引っ掛けて押すと相手は倒れる。それでまた逃げたら、逆の足に掛ける。また逃げたら、もう一つの反対の足に掛ける。三回繰り返せば大抵の相手は倒れてくれます。だから三段ロケット、こういう名前をつけるのが僕は昔から得意でした。
足を使うときは僕は足首と一緒に腰も武器にします。足首を掛けて、腰に力を入れて、振り子に使って倒す。例えば割り箸でやってみると、二本の指で、挟んでも折れないけれど、片一方の足を少し曲げてふりこに使うと簡単に折れます。普通にかにバサミをやっても簡単に倒れないけど、一方の足を曲げてふりこにすると力を入れなくても倒れる。僕はZ脚といっています。
相手に襟を取られたときも肘に手を掛けて、体重を乗せれば、力なんか使わないで、返せます。それを防いで、肘を引き込んできたら、手を伸ばして、帯に手を掛けていく。嫌がって、肘をつっぱたらまた肘に体重を掛けて関節をきめる。
僕はロシアの選手に肩車を掛けて途中で逃げられたことがあります。でもそこから新しい技を考えました。これはわざとゆっくり肩車を掛けにいって、相手に右足を引かせて逃げさせる。
すると相手は体重を掛けて、潰しに来るから左足を引き、相手を前に落として回転する。そのままきめれば相手は動けない。





●五人のロシア合気道家来日、そして横須賀の送別会
2009年11月29日土曜日、横須賀ダイエイショッパーズ読売文化センターでビクトル古賀先生とサンボの田中先生を迎えて、五人のロシア合気道家のためにサンボ教室を行いました。
合気道では学べないサンボの実践的で効果的な技に大変感銘しました。稽古後の交流会も大変盛り上がりました。


2009年11月30日(日曜日)午後6時より、横須賀の赤鬼というレストランで、ビクトル古賀先生、サンボの田中先生、合気道家の正木先生を招き、五人のロシアの合気道家のために盛大な送別会を行いました。
二週間の日本滞在の最後の日です。
滞在中、半分は武道稽古、半分は日本の文化歴史、地理を堪能するたびでした。伊豆半島と箱根の自然に触れ、鎌倉をはじめとする観光旅行も楽しみました。多くの新しい日本の友に囲まれ、沢山のよき思い出を持ち帰りました。
来年は、古賀先生を囲み、是非、ロシアで再会しましょうと意気投合しました。夢の実現に乾杯。


●ビクトル古賀先生 ロシア、サンクトペテルブルグの旅
将来の目標ですが、ビクトル古賀先生とロシアの合気サンボセミナーと日本文化の紹介の旅を予定しています。
今、ロシアは空前の日本ブームです。日本の武道、とロシアのサンボが融合して、日本人とロシア人が仲良く交流するときが来ました。
この夢の実現を私も、田中先生もルスタム道場長も望んでいます。



ビクトル古賀先生 脚だけで極める腕十字


ビクトル古賀先生 ショッパーズ稽古 腕十字


ビクトル古賀先生 膝蹴腕十字


ビクトル古賀先生の教室


ビクトル古賀先生 いぞり投げ指導


ビクトル古賀先生 封印された危険技


ビクトル古賀式 飛び腕十字固


ビクトル古賀先生 サンボ護身術 Sambo Master Victor Koga Self Defence pt 1


ビクトル古賀先生 肘での崩し


ビクトル古賀先生 ショッパーズ合気サンボ稽古


ビクトル古賀先生の試合の心得


ビクトル古賀先生 サンボ護身術 Sambo Master Victor Koga Self Defence pt 8


ビクトル古賀先生 引かれた時の肘落


ビクトル古賀先生 ビクトル投げ指導


ビクトル古賀先生 サンボ護身術 Sambo Master Victor Koga Self Defence pt 3


ビクトル古賀先生 サンボ護身術 Sambo Master Victor Koga Self Defence pt 5


ビクトル古賀先生 サンボ護身術 Sambo Master Victor Koga Self Defence pt 4


ビクトル古賀先生 小指の締めと脇の協調


ビクトル古賀先生 サンボ護身術 Sambo Master Victor Koga Self Defence pt 6


ビクトル古賀先生 安定した姿勢の指導


ビクトル古賀先生 サンボ護身術 Sambo Master Victor Koga Self Defence pt 7


ビクトル古賀先生 サンボ護身術 Sambo Master Victor Koga Self Defence pt 9


ビクトル古賀先生 サンボ護身術 Sambo Master Victor Koga Self Defence pt 2


脚を伸ばして防がれた時のアキレス腱固


Sambo technique demo at Culture Cenetr in Yokosuka by Victor Koga Sensei




矢倉投


Sambo technique Demo in the park of Yokosuka by Victor Koga Sensei


合気サンボ 谷落崩 いぞり投


合気サンボ ショッパーズ稽古前風景

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武術や護身術系格闘技の甘い幻想など吹き飛ばすキンボ・スライスのベアナックルファイト プライズファイト

kimbo Slice vs Afropuff & Big Mac


Kimbo Slice vs Adryan


Kimbo Slice vs The Bouncer


Kimbo Slice vs Chico


Kimbo Slice vs Dreads


Kimbo Slice Vs 'Big Dee' Byrd


Kimbo Slice vs Sean Gannon


http://miruhon.net/news/2008/09/post_389.html
キンボに勝った男 ショーン・“ザ・キャノン”・ギャノン

すっかり下火になっている日本の格闘技界を尻目に空前のブームを見せる全米の総合格闘技界。
その中で本家『UFC』に先んじて地上波TVを勝ち取った新興団体『エリートXC』のエースはなんと言ってもキンボ・スライスだ。

このキンボ・スライス、いかにも凶暴そうな筋骨隆々の黒人選手で、フロリダの地下ファイトで全勝(あくまで本人の申告)。ポルノ会社の用心棒をする傍ら自分の喧嘩、ストリート・ファイトのビデオをネットで配信して一躍有名になり、プロデビュー。タンク・アボットなど有名選手に勝利して現在『エリートXC』のエースとして君臨している。

次戦は日本でも御馴染みで、アメリカでは絶大な知名度を誇るケン・シャムロックとの一騎打ちが全米で放送される事が決定しており、更に、あのヒョードルとも戦うという噂まで出ている話題の選手だ。

いかにもワル、喧嘩屋という風貌が、競技化する総合格闘技の流れに逆行し魅力的なのであろう。

そんな今をときめくキンボ・スライスだが、彼に勝利した選手がいるのを知っているだろうか?
その男はショーン・“ザ・キャノン”・ギャノンという選手で、なんとボストンの現役警官だ。

canon.jpg

これは、キンボが自分の喧嘩をネットで公開し、俺に挑戦する奴がいれば誰とでも戦ってやるからかかってこい!と挑発した所、名乗り上げたのがこのボストンの現役警官で総合格闘技の経験もある”大砲”ギャノンだった。

したがって試合は何かの大会で組まれたのでは無く、どこかの体育館で仲間が集まって勝手に行った野試合だ。2003年9月に行われ、勿論、素手での殴りあい。
試合は、まさに喧嘩という感じで壮絶な殴り合いだったが、終盤は両者スタミナ切れでぐだぐだになり、体格にまさるギャノンが殴り勝ち、キンボが大の字になって終了。試合後、両者は病院に直行したらしい。

ただ、キンボ陣営は元々、ベアナックルで殴るだけの約束だったのにギャノンはギロチン・チョークや膝蹴りを使ったので無効だと抗議している。
しかし、正式な大会で組まれたものではなく、ルールに関してはお互いに別の主張をしてる喧嘩なので第三者には判断しかねる。

ちなみにこの試合もネットで公開され、現在でも大の字で倒れるキンボの姿が確認出来るので一見の価値があるだろう。

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原発事故が起こり近所にホットスポットが出来ても逃げない人たち 多数派同調バイアスと正常性バイアスの恐怖

http://www.bo-sai.co.jp/bias.htm
防災・危機管理心理学

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 防災・危機管理を進める上で心理学の視点を抜きにした対策やマニュアルは意味がありません。災害が発生したとき人間はどんな心理状態に陥り、とっさにどんな行動をとるのでしょうか?
 例えば、煙が充満しつつあるのになぜ避難しなかったのか、津波警報、洪水警報、避難勧告が発令されても多くの人々が避難しないのはなぜか。こうした緊急時における人間の心理を検証し、組み込まない限り実効性のある対策は困難であり「安全の死角」をなくすことはできないのです。私は数多く現地調査を実施してきて、突発災害や不測の事件・事故に巻き込まれた人たちに共通する興味深い結果を得ました。防災対策やマニュアル作成をするときにこうした心理学的防災・危機管理を活用し、被害軽減に役立てるべきと思考します。防災・危機管理アドバイザー山村武彦

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詳細は「人は皆「自分だけは死なない」と思っている」防災オンチの日本人(宝島社)をご参照ください

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韓国地下鉄火災事件における「多数派同調バイアス」と「正常性バイアス」
 2003年2月18日午前9時53分、通勤ラッシュが一段落したした韓国・大邱(テグ)市、中央路(チュアンノ)駅で地下鉄放火事件が発生しました。この事件で約200人の尊い人命が奪われてしまいました。事件後新聞などで公表された中に、地下鉄車内で乗客が出火後の状況を写した写真(左)がありました。煙が充満しつつある車内に乗客(10人くらい)が座席で押し黙って座っているという不思議な写真でした。
 それを見てまず「なぜ逃げようとしないのだろうか」と疑問に思いました。そして、これは「多数派同調バイアス」(majority synching bias)と「正常性バイアス」(Normalcy bias)によって非常呪縛(Emergency spell)に支配されてしまった結果であろうと思い至りました。
 バイアス(bias)というのは、心理学的には「偏見」「先入観」「思い込み」などと定義されています。「多数派同調バイアス」と「正常性バイアス」は認知バイアスの一部と認識されていますが、私は緊急時における「非常呪縛」(Emergency spell)とよんでいます。特に災害や事件などの非日常の状況が発生したときの「無思考状態」に陥ったときや、あれもこれもやらなければならないと思ったときに「優先すべき行動が混乱しわからなくなってしまう」ときなどに顕著に見られる現象です。煙が駅と車内に充満したとしたら、心の警報が鳴り響き、客観的には直ちに避難するなどの緊急行動をとると思うのが自然です。しかし、過去経験したことのない出来事が突然身の回りに出来したとき、その周囲に存在する多数の人の行動に左右されてしまうのです。それはその人が過去様々な局面で繰り返してきた行動パターンでもあるのです。どうして良いか分からない時、周囲の人と同じ行動を取ることで乗り越えてきた経験、つまり迷ったときは周囲の人の動きを探りながら同じ行動をとることが安全と考える「多数派同調バイアス」(集団同調性バイアス)という呪縛に支配されてしまうのです。
 こうした心理が同じ境遇に陥った乗客同士にも働いたものと考えられます。加えて、こんなことは起こるはずのない信じられない出来事と捉え、リアル(現実)ではなくヴァーチャル(仮想)ではないかという心理が働き、異常事態というスイッチが入らない状態、つまり「正常性バイアス」が働いてしまったものと思われます。ある番組で、この写真に写っていた人のうち助かった若者を探しその時の心理状況を聞いたところ「最初は、まさかこんな大変な火災が発生していたとは思わなかった」「みんながじっとしているので自分もじっとしていた」と話していました。まさに、正常性バイアス、多数派同調バイアスという非常呪縛に縛られた結果だったのです。「その後、誰かが火事だと言ったので、慌ててガラスを割って逃げて助かった、ほかの人のことは分からない」とのことでした。このように集団の場合ほど「非常呪縛」(Emergency spell)に陥りやすく逃げ遅れる可能性が高いのです。

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防災無線、非常放送の緊急メッセージは「非常呪縛」を解き、心の緊急スイッチを入れる内容に
 前述のように極限における「非常呪縛」(Emergency spell)が、逃げ遅れなどを引き起こし、多くの犠牲者を出しています。ですから大切なのは発災時「日常」から「非日常」、「平常」から「非常」、「通常」から「異常」へ心を切り替えさせることなのです。特別の力が働かない限り同じ運動を繰り返すという運動の「慣性の法則」がありますが、日常においても人は日常生活が平穏に継続する時空に棲んでいます。いわば「日常継続思考の法則」という慣性が働いています。ですから、突発的な出来事が起きたとしてもすぐには対応できないのです。何らかの力を外部から与える事によって、はじめて臨機応変の行動に移れるのです。
 発災時における防災無線、非常放送などに期待されるのは「リスク予兆認知バイアス」の非常呪縛から解放し、緊急事態スイッチをONにすることなのです。そして、リスクの早期「気づき」を促進するためには、実践的防災知識と意識付けが重要です。特に行政、マスコミ、企業は、従来の緊急メッセージ内容などを検証し早急に改善することが、犠牲者を軽減する大きな役割を果たすと思うのです。
従来型防災無線メッセージでは「正常性バイアス」や「非常呪縛」から解放されることはありません
 1981年10月31日午後9時3分ごろ、神奈川県平塚市の同報無線スピーカ45箇所から突然、ドイツ歌曲「野ばら」のメロディが流れた後、次のような市長メッセージが流れました「市民の皆さん、私は市長の石川です。先ほど内閣総理大臣から大規模地震の警戒宣言が発令されました。私の話を冷静に聞いてください。現在、本市では、警戒本部を設置して広報活動、いわゆるデマ対策や交通規制などの対策に全力を挙げております。市民の皆さんもぜひ協力してください。何と言っても市民一人一人の冷静な行動がこれからの対策の鍵となります。そこで、私から皆さんにぜひお願いしたいことがあります。第一は、ラジオ・テレビの放送や市の広報無線に注意して正確な情報を得ることです。そして、身の周りの安全を確かめてください。第二は、地震で最も恐ろしいのは、火災による被害です。火の使用を自粛してください。第三は、当座の飲料水、食料、医薬品などを確かめて、いつでも避難できるように準備してください。繰り返してお願いします。いろいろ不安はあろうかと思いますが、市としては、次々に情報をお送りしますので、皆さんあわてず冷静に行動してください」
 この誤報メッセージを無線で聞いたり人づてに聞いた市民は20.1%でした。昭和56年の平塚市人口は218,285人ですから、約4万人の市民が警戒宣言発令を知ったことになります。果たして市民はどんな行動をとったのでしょう。東京大学新聞研究所の平塚住民調査によれば、知った人のうち実際に警戒宣言発令を信じた人はたった3.9%(約1560人)であり、半信半疑の人は10.0%(約4,000人)で、残りの市民(約36,000人)は、全く無視したか信じなかったということでした。誤報とはいえ、相当な費用をかけて毎年訓練をし、広報活動をしてきたにもかかわらず、午後9時という時間帯にもかかわらず、聞かなかった人(聞こえなかった人)が80%というのも「防災無線」「警戒宣言伝達等」のあり方に課題を残しました。それより何より、市長メッセージを知った人の大部分が信じなかったということに注目すべきです。そして、信じた人でも、その60%以上は何もしなかったという惨憺たる有様だったのです。
 前述のメッセージ内容ではほとんどの市民の「緊急スイッチ」を入れることはできません。「非常呪縛」から解き放つこともできないのです。メッセージを聞いて感じるのは、まず長いこと。パニックにしないことだけを意識した内容に終始していること。これは、行政そのものが予知情報による「情報バイアス」「パニック過大評価バイアス」の「非常呪縛」に侵されていることの証明でしかないのです。
過去、こうした予知情報が流されると必ず社会パニックが起こるとマスコミは喧伝していましたが、予知情報でパニックなど決して起きはしないのです。起きもしないパニック対策、デマ対策を優先するあまり、毒にも薬にもならない内容になってしまったのです。これは、平塚市だけでなく、全国のどの市町村の防災無線メッセージにも共通する「防災の死角」なのです。

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川治プリンスホテル火災における「正常性バイアス」
 火災などが発生したときにも同じような事態が発生しました。1980年11月20日15時30分、栃木県川治温泉の「川治プリンスホテル」で火災が発生しました。ちょうど紅葉の季節でバスで紅葉狩りを楽しんだあとホテルに到着しました。東京の「A」「B」二つの老人会の人々は、それぞれの部屋でテーブルを囲みお茶を飲んで休んでいました。
 その時、突然火災報知器が鳴り響きました。しかし、「A」という団体の人たちは、こんな昼間に火災が起こるはずがない「誤報だろう」と、そのままお茶を飲んでいたようでした。この人たちはその後急激に充満してきた煙に巻かれ、テーブルの周囲で遺体で発見されるのです。一方、「B」という団体のリーダーは、ベルが鳴った直後「何があったのだろう」と言って「ちょっと様子を見てくる」と気軽に立ち上がって行きました。そして階段付近まで行くと煙が見えたので「これは大変だ」とすぐさま部屋に戻りみんなを煙の少ない階段を使って無事避難させることができました。このように「A」の人たちは「正常」から「異常」のスイッチが入らない状態「正常性バイアス呪縛」に侵されていたと思われ、「B」のリーダは「ベルの鳴動」イコール「異常」のスイッチが入り、「正常性バイアス」から解放され難を逃れることができたのです。「行楽」という「災害」と対極にある開放感の中で、緊急事態に遭遇するとは誰も思いません。自分たちが災害に巻き込まれるはずがないと思うことは当然です。しかし、それは希望や願望であって決して権利ではないのです。災害列島日本に住む以上、いつ、どこでどんな災害に襲われるか分からないのです、今の世の中で「絶対安全」などという神話はどこにもないのです。
 防災・危機管理対策や、緊急行動マニュアルを策定する場合「緊急行動心理」を充分考慮する必要があるのです。


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避難勧告発令の遅れを克服するための提案
 2004年9月29日、台風21号による土砂災害などで三重県宮川村では、6人が死亡1人が行方不明となった。宮川村をはじめ尾鷲など三重地方には前日から大雨洪水警報が発令されていました。大雨洪水警報発令の目安は「大雨によって重大な災害が起こるおそれがあると予想される場合で、1時間に40mm(延べ100mm)、3時間に80mm、24時間に150mmを超える場合」であるから、急傾斜地や洪水の恐れのある地域を持つ市町村は警戒態勢に入っていたはずである。その上三重県山間部には一時間降水量が100mmを超えた場合に出される「記録的短時間大雨情報」が出されました。その時の発表では一時間降水量は120mm/hと凄まじい豪雨とのことでした。これは、今この地域が記録的な集中豪雨に見舞われているというレッドカードです。このレッドカードが出されたら、土砂災害又は洪水が発生する可能性が極めて高いので、危険地域を特定し直ちに避難勧告か避難指示を出す必要があるのです。
 しかし、宮川村はその時点で避難勧告を出しませんでした。そして、さらに9時20分再び「121mm/hの記録的短時間大雨情報」を出されましたが、それでも避難勧告が出されず、宮川村から避難勧告が出されたのは10時30分でした。災害後現地を訪れた政府関係者は、避難勧告発令基準を見直す必要性を強調しています。私は、基準の問題もありますが、防災・危機管理意識と、行政や組織が陥った「正常性バイアス」や「非常呪縛」を解くことが重要だと思っています。それは全ての市町村などの防災マニュアル、地域防災計画に共通することですが、ほとんどが防災・危機管理専門職としての「危機管理監」を置いていないことに起因しています。災害が発生すると市町村は、地域防災計画に基づき「災害対策本部」を設置し、市町村長が本部長となる仕組みになっています。しかし、市町村長は哀しいかな防災・危機管理の専門家ではありません。臨機応変の適切な緊急対応など期待できない場合が多いのです。ましてや自らが「正常性バイアス」「非常呪縛」を解くことはできないと思います。災害国日本には日本に住む作法があるのです。住民の命を防災・危機管理の素人に任せるのではなく、経験を積み重ねた専門職を育成し緊急対応を任せるようにすべきです。そして、災害が発生してから対策本部を設置するのではなく「防災・危機管理対策室」を常設しておくことも大切です。

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防災対策が進まない理由のひとつに「認知不協和」
 行政は助成金などのインセンティブをつけて住宅の耐震化を推進していますが、一向に盛り上がらず住民が自ら耐震化を積極的に行おうとする傾向は見られません。その結果、せっかく準備した予算すら消化できない地方自治体が多いのが現実です。「近い将来大地震が発生すると思いますか」と聞くと、80%以上の人が「ハイ」と答えます。それなのに「なぜ耐震対策をしないか」と不思議に思います。そこには市民の隠された防災心理があります。「地震が発生する確率が高い」という認識と同時に「このままでは自宅が倒壊する恐れがある」それなのに「自分は何もしていない」とすると、そこに受け入れがたい矛盾が生じます。その矛盾を解決するためには自分に都合のよい言い訳を見つけます。「大地震が着たからといって、すべての家がつぶれるわけはない」「すべての場所が震度7になることもない」「阪神・淡路大震災のとき、古い家でも倒れなかったものもあった」「だから、たぶん自分の家は大丈夫」という風に、懸念を軽減するための魔法の言葉を都合よく捜し、それにすがって矛盾を解決し心の安らぎを得ようとするのです。これを心理学では「認知不協和」といいます。
 実際には矛盾(認知不協和)は何も解決されているわけでなく、とりあえず目先の不安を考えないようにするための方便を自らつくりだし心のバランスをとるのです。この何の根拠もない「安全の思い込み」がある限り、防災対策を必死で考えようとしないのです。こうした考え方を払拭させるためには、都合のよい思い込みを超える意識付け、インパクトのあるモチベーションを持たせることしかありません。今、行政や企業がコストとエネルギーを傾注しなければならないのは、市民や社員への意識啓発です。箱物やシステムを作るよりも、防波堤を高くすることよりも、まず一人ひとりの危機意識を目覚めさせ心の堤防を高くすることだと思います。

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小出裕章先生の矛盾 親が被曝すれば子供を守れないのですが… この点に関しては一切同意できません

http://kaleido11.blog111.fc2.com/blog-entry-2098.html
マインド・コントロール
小出裕章氏の放射能ダブルバインドから離脱せよ
20130521-1.jpg

2011年8月にドイツで開かれたビデオアート・フェスティバルに出されたスペインのアート集団 Luzinterruptus制作による“Radioactive Control”という作品。


ダブルバインドとは、法律で裁けない現代の呪術である

放射能被曝から自分と自分の家族を守るためには、いわゆる原発の専門家たちのダブルバインドから脱出しなければなりません。

逆に言えば、ダブルバインドに嵌められてしまうと無用な被曝をさせられる、ということです。

ダブルバインドについては、この記事の伏線として『ダブルバインドに翻弄され続ける安倍政権』に事例を挙げておきました。

個人、家族間、組織の間でもダブルバインドは存在します。

カルトは、このダブルバインドを使って信者の精神状態を拘束し、身動きができないようにしてしまうのです。そうなると、もうただの「お布施マシーン」になってしまいます。

企業の場合であれば、リストラしたい部下をターゲットにして、同時に達成できない指令を与え続けることによって、ダブルバインドに嵌めることかできます。

同時に達成することができない指令なのですから、その部下はやがて「仕事ができない社員」と周囲からみなされるようになります。

さらに、次から次へとダブルバインドに嵌めていけば、「アイツには仕事を任せられない」ということになって、地下室の「ショムニ」送りになってしまいます。

「仕事ができない」のは、むしろ部下の資質を見抜けない上司のほうなのですが、売り上げ第一主義の企業競争社会では、はじきとばされてしまうのです。

最近では、ダブルバインドが企業内の陰湿なパワハラに利用されているのです。

本文に進む前に、ダブルバインドについて、要点だけまとめておきます。

精神状態が拘束されて身動きが取れなくなること

社会学者・文化人類学者のグレゴリー・ベイトソン(Gregory Bateson, 1904-1980)は、不快な緊張感や不安感を生起させるコミュニケーション・パターンについて『ダブル・バインド理論(double bind theory)』を提唱した。

ダブル・バインドは『二重拘束』と翻訳されるように、二つの異なる内容のメッセージを受け取ることで精神状態が拘束されて身動きが取れなくなることを意味する。

ダブル・バインド状態(二重拘束状態)は、階層(レベル)の異なる二つ以上の矛盾したメッセージを受け取ることで発生するが、ダブル・バ インドが発生すると苦痛な混乱や緊張を感じて自由な意志決定が不可能になってしまう。

以上、『グレゴリー・ベイトソンのダブル・バインド理論(double bind theory)と芸術のユーモア』より抜粋。

「あなたのためだから」

「お前のために言ってるんだ。黙って聞け!」
という問答無用の強制-がそれである。

ダブルバインドから逃れる方法は一つしかない。
それは支配者から逃げることだ。
が、支配者は逃げられないように手を打つ。

以上、『パワハラにおけるダブルバインド(二重拘束)の構造』より抜粋。

無意識に子供追い詰めている母親

「グスグスしてないで、早くご飯を食べちゃいなさい」。
「食べ物をこぼさないでね、後片付けが大変だから」。

つい家事に忙しいと、母親はこのように言います。

子供は(たとえば幼稚園児)、急いで食べるとご飯をこぼすし、ご飯をこぼさないように食べると早く食べることができない。

子供はどちらも選べなくなって、泣くことによって「母ちゃんの言ってることはおかしいぞ」と訴える。

ここで母親は、矛盾した二つ以上の指令を取り消さないと、子供の精神に悪い影響を残す。

以上、『ダブルバインドに翻弄され続ける安倍政権』より抜粋。
ここで見落としてはならないのが、「ダブルバインドは、異なった階層の矛盾した二つ以上の指令(メッセージ)」でなければ成立しない、ということです。

事例として挙げた母親と幼い子供との関係ですが、支配者の母親が子供に、「ご飯を早く食べてね」と言いながら、同時に「ご飯をゆっくり食べてね」という指令を出した場合、子供はすぐに矛盾に気がつくので、「いったい、どっちなのさ」と母親に切り返すことができます。

これは「ご飯を食べるスピード」という同じ階層で、反対の指令を出しているので、支配者である母親も、自分の間違いにすぐ気がついて訂正します。

この場合は問題ありません。

問題となるのは、本来、それぞれ別の土俵で論じるべき事柄について、同時に指令を出すという場合です。

そもそも土俵が違うのに、そうした指令を出すのは支配者の側に決定的な問題があるのですが、指令を受ける側が未熟であると、それに気づくことなく真面目に受け取ってしまうのです。

そうして精神の混乱が始まり、最終的には「うつ」、「精神分裂」を引き起こすのです。

放射能被曝について、そうした事態が起こることを恐れています。

ダブルバインドを仕掛ける側に悪意があっても、それを証明するのは困難なので、法律で裁くことができません。
ダブルバインドは、現代の呪いです。

親が内部被曝していけば、子供を守れない

京都大学原子炉実験所の小出裕章助教は、各地の講演会で、「福島の子供を守り、福島の農業を守らなければならない」という指令と、「大人は汚染した食べ物を進んで食べなければならない」という指令を同時に出しています。

これは典型的なダブルバインドです。

小出氏は、福島第一原発の事故発生直後から、「子どもたちを少しでも被ばくから守ることが私たち大人の責任だと思います」と、各地の講演会や書籍、ラジオなどで繰り返し言ってきました。

ところが、最近は、どうも初期の頃とは違って、「(避難ができないのであれば)放射能と共生するしかない」という主張に変わってきています。

福島エートスの連中や霞ヶ関と永田町の原子力ムラに属する官僚と政治家たちは、大いに喜んでいることでしょう。

どんな主張をしようとも、責任を負う覚悟があるのであれば個人の自由なのですが、原子力ムラの人々の場合は、将来、何が起こっても、俺たちは絶対に責任を取らないぞ、と覚悟を決めながら、「放射能被害はなかった。内部被曝は心配ない」などと言い続け、風評被害の発信源になっています。

それは、原発を再稼動させ、新規原発を建設するためです。

こうした原子力ムラの原発推進派の主張は、誰でもデタラメだと分かるので、それに対して批判する自由も私たちにはあるのです。

しかし、小出氏の場合は少し違います。

彼の主張は、本来であれば、原発災害について相対する意見を持つ別の二人の人間が議論を戦わすべく内容です。

小出裕章という一人の人間が、対極にある意見を同時に言い、「そうすべきだ、そうするしかないのだ」という「指令」を出しています。

最初から、小出氏の言うことにこそ矛盾があるのに、彼を信じ込んでいる人々は、小出氏の主張にこそ「原発災害と向き合う上で、成熟した大人として取るべき態度だろう」と、勝手に思い込んでしまうのです。

放射性物質と共生する方法について

この動画を観て矛盾を感じない人は少ないでしょう。
矛盾を何も感じない人は、自分の命どころか、自分の子供の命も、家族の命も守ることはできないかもしれません。

「放射能はどんなに微量でも人体に有害だ」。
「子供は被曝から守らなければならない」。
「福島の農業を守るために、大人が進んで汚染された食品を食べるべきだ」。

「国家が破産しても、子供は避難させなければならない」。
「放射能ガレキは燃やしてはいけない」。

最初はこのように言っていたのですが、最近は、
「福島の子供を救うためには瓦礫を受け入れるしかないのです」 に変わってしまいました。

もう矛盾だらけで、議論しようにも議論ができないほどです。

食べれば、汗や尿、大便といった排泄物が出ます。
その排泄物の中には放射性物質が含まれているはずですから、トイレから下水に移動して、下水処理場で処理された後、川へ、そして海に流れ込みます。

その放射性物資は、塩水と反応を起こして川底や海底に沈殿します。
そこに棲息しているゴカイや藻を魚が食べます。
そして生物濃縮が起こって、結局、その魚は私たちの食卓に上がるのです。

すでに、「小出氏の言うことを信じて、大人は進んで汚染食品を食べ、放射能ガレキを燃やしたら、お子さんを守ることはできませんよ」と、2011年6月の『原発学者のメルトダウン』の中で警告しています。

まったく心配していたとおりのことが起こっているのです。

「子供を守るのは誰か?」。
親です。

その親が毎日、汚染食品を食べてガンなどの病気を発症すれば、子供を守れなくなります。

また、彼は常々「日本が破綻しても福島の人たちは救うべきだ」と言っています。
国家が破綻すれば、福島の人たちどころか、他の被爆地の人たちでさえ避難してもらうことは絶望的となります。巨大地震が起こっても、救助活動さえままならないでしょう。

私が、2011年初期の段階から小出氏の「ダブルバインド」を問題視しているのは、その子供が大きくなって自分で物事を深く考えることができるようになったとき、自分の父親や母親が進んで汚染食品を食べたことについて、感謝しないだろう、ということです。

むしろ逆で、「本気で俺を、私を放射能から守ろうとしていたのであれば、なぜ、汚染度の高い食品をわざわざ食べたのか。ガレキ焼却に反対して、危険な食品を食べることを拒絶して、国に抗議すべきだったのではないか」と、息子に、娘に言われるでしょう。

自分の親が、不正に対してそんな情けない態度であったと知れば、子供は失望するでしょう。

小出氏の主張の「大人は汚染食品を進んで食べるべき」、「ガレキは焼却するしかない」というのは、人間の尊厳を捨てろ、と言っていることと同じなのです。

ダブルバインドは、マインド・コントロールの一つの手口として使われるのですが、「マインド・コントロールと人間の尊厳」について、この記事ではこのように書いています。

…しかし、マインド・コントロールから脱出することは、肉親や伴侶、友人たちの本物の愛情、そして本人の心の中の核に「人としての誇り」がわずかでも残っていれば可能です。

だから、マインド・コントロールにかけようとする側は、人と人との間の愛を奪い、人としての尊厳を本人に気づかれないように取り上げてしまえばいいのです。

「放射能はごく微量でも危険だ。
だから子供は避難させるべきだ。
そして、大人は、今まで原発に無関心であった責任をとって汚染食品を食べるべきだ」。

こうしたダブルバインドに嵌められていることに、いつまでも気がつかずに、そこから脱出できないとなると、やがては、子と親の間の関係はゆがめられ、親は人間としての尊厳さえ失ってしまうのです。

小出氏がやろうとしているのは、自分が反原発運動をやっているときに、世間の人々は無関心だった。
その報いを受けるべきだ、ということです。

しかし、彼は3.11前は、論文もほとんど書いていないし、反原発活動家と言えるほどの活動もやっていません。

2011年3月、原発が水素爆発を起こした後、ラジオにほぼ毎日電話で出演して、私たちに原発や放射能について、多くの情報を与えてくれました。

そのたびに、「私は原発事故を防げなかった。私の敗北だ」と言っていました。
その反面、「私が生きているうちに、まさか原発事故が起きるとは思わなかった」とも言っているのです。

「自分の存命中に、日本で原発事故など起こらないと思っていた」のだから、「事故を防げなかった私の敗北だ」などと、悲壮感を漂わせながら良心の呵責に苛まれることはないのです。

主張とは逆に「福島の農業を守らない」小出氏

福島県以外の人々も、大量被曝しています。
現実に、放射能由来としか考えられない内部被曝の症状が出ている人々が関東でも大勢出てきました。

私のところにも、福島県の方々をはじめ、そうした人たちからもメールをいただいています。

そんな中でも「福島の農業を守るべき」と言う小出氏。

しかし、これは、いったいどういう意味なのでしょうか。

「小出裕章助教がホワイトフードの相談役に」。

ホワイトフードとは、子どもを放射能から守る全国ネットワークの森啓太郎氏が経営する北海道のネット通販です。

森啓太郎氏は、2011年9月13日、「責任ある大人が汚染食品を食べるべきか」というテーマで、小出氏と公開の対論を行った青年です。

対論では、森啓太郎氏が小出氏の「食べるしか選択肢はない」と、人々を追い込むような主張に真っ向から反対していたので、後々、これは議論に発展するだろうということから、『汚染食物は大人が責任を取って食べろ」という論理破綻』というタイトルでエントリーを上げておいたのです。

確か、小出裕章氏は、「それでも、大人は原発事故の責任を取って、汚染食品を食べるしかない」と主張してきたのでは?
そして、それは今でも講演会で言っていることなのでは?

「子供を救うことと、福島の農業を存続させること」。
そして、「福島の農業を存続させることと、大人が汚染された食品を食べること」。

これらの間には、まったく関係がないことは誰でも分かるでしょう。小出氏の言うことはデタラメです。

少なくとも、小出氏が、「福島の農業を救うべきだ」と本気で考えているのであれば、「福島を救うために、大人は汚染された食品を食べるべきだ」と、全国で触れ回ることは逆効果なのでは?

つまり、それは「京大の先生が、福島の食品は今でも汚染されている、と言っているよ」ということになるからです。

「福島の農業を救いたい」のであれば、なぜ福島の農家の相談役にならなかったのでしょう。

北海道のホワイトフードの森啓太郎氏は、小出氏との対論で、「大人であろうと、オジイチャンであろうと、汚染された食品を食べさせるのは断固反対だ」と、小出氏と対立していた農家の青年です。

彼は自分が主張していた通り、それを実践しているのです。

小出氏が北海道産の食品の広告塔になることは、彼の主張とまったく逆です。
それは、「福島産より北海道のより汚染度の低い食材を食べるべきだ」と言っていることと同じだからです。

3.11直後に出版された小出氏の著書、原発のウソ (扶桑社新書)は空前のベストセラーになりました。

ラジオのパーソナリティに、「嬉しいですか」と訊かれたとき、「原発事故が起こったから売れたのであって、事故が起こらなければ売れなかっただろう。そういう意味では嬉しくない」と語っていました。

その後、小出氏は、名義貸しによって、編集者が企画・編集した本を数十冊、出版しています。
だから、新刊が出るたびに、小出氏は「嬉しくない」のでしょう。

3.11直後は、すべての情報の出口が閉ざされていました。
敏感な何人かのブロガーからしか、福島第一原発の情報を取るしかなかったのです。

その際、小出氏の情報はブロガーたちを支えてくれたのです。
彼の功績は比較しようがないほど大きなものでした。

しかし、事故から2年。
小出氏が、今でも「汚染食品を食べるべきだ」という理由はいったいどこにあるのでしょう。

「大人は汚染された食品を食べるべきだ」という主張は、なにより原子力ムラを利するだけだろうし、それを真に受けて、一生懸命、放射能に汚染された食品を食べた人の中で、数年後、ガンや白血病、心筋梗塞などの障害が出た場合、小出氏の評価は180度変わるかもしれません。

「プルトニウムは飲んでも安全だ」と言った学者は確かにいましたが、私が本当に知りたいのは、「放射能汚染された食品を大人の責任として食べるべきだ」と主張している人間など、世界のどの原発推進派の学者の中でもただの一人もいないのに、そうした論理破綻している主張を今でも続けているのは、いったいどんな理由があるのだろうか、ということです。

※上記リンク先のブログの管理人さんの言ってることは正しいですが小出先生が福島県のものを食べろと言ったのには当然理由があります
たとえ我々日本人が食べなくとも途上国の貧しい人間たちに福島県の農産物が流れていくことはほぼ間違いないということです
日本人が食べられない放射能汚染された食物を途上国の人たちに食べさせるなど迷惑をかけるくらいなら我々日本人が責任をとって食べろ
と言っているのです
ただ たかしズム のたかしさんも言っていますが
どっちにしろ海に排泄物が流れるので一緒だという点は確かにその通りなんですよね…
食べるにしろ食べないにしろどっちにしろ海外に迷惑をかけるんですよ…
だったら食べないに越したことはことはないというのが私の結論です

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